spine
jacket

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NeST
終わらない物語

波野發作

弐佰圓堂



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 目 次


§ 1 境界線崩壊


§ 2 探し屋ゼロ


§ 3 丘の図書館


§ 4 迷子の羊達


§ 5 老婆と老人


あとがき

NeST

終わらない物語

Story1

The Angel's Egg

§ 1 境界線崩壊



 あの「境界線崩壊バウンダリーロスト」から今年で百年だというので、いろんなセレモニーが企画されているが、それが果たしてめでたいことなのか、そうでもないことなのか、よくわからない。このご時世なので、めでたいことだと考えている住人は多いようだが、わたし自身のことを考えるとそうそう喜んでもいられない状況ではある。

 我が世界ネストの住人であるゼロは、もともと皇帝陛下たる人物でもあったのだが、いつの間にかいろんなもんが混ざり合って、賞金稼ぎバウンティハンターになりさがってしまった。今日も人捜しやらモノ探しの依頼を探して盛り場をうろついている。やたらと警戒心が強く、疑り深い。小柄な体躯もあって、下から睨ねめ付けるようにジトっと見るので、他者からの印象は悪い。根は悪いヤツじゃないんだけど、人の弱みにつけこんだり、偽計を駆使するタイプの賞金稼ぎなので恨んでいるヤツは多い。市井の掲示板には美味しい依頼がまるでなかったので、がっかりしてアジトに帰ってきた。途中、ポケットの小銭でミルクとパンを正しい手続きで買った。ゼロはインフィニティに捕まって賞金稼ぎをするようになってから、コソ泥は卒業したのだ。彼の誓った「もうしません」は今でも続いている。

 相棒のインフィニティは元はロボットだが、今は人間の女である。わたしの気まぐれのせいでそんなことになってしまった。ロボットの頃は働き者だったらしいが、人間になってからはひどく怠け者で、ゼロが仕事で出かけていてもこいつは家で寝てばかりいる。しかも寝相がわるい。ただでさえベッドからはみ出しそうな長身なのに、長い髪と長い四肢を振り回して一晩中ぐるぐる回るものだから枕元のいろいろなものをなぎ倒して、部屋の中はしっちゃかめっちゃかになっていた。陽が昇って彼女が三回回ったところで、ゼロが鍵束をがちゃがちゃいわせて玄関のドアを開けた。

 2DKの〈アジト〉はゼロの管轄する整頓されたエリアと、インフィニティが無秩序に荒らすエリアとが一進一退を繰り返していた。今日のところは若干ゼロの優勢といったところで、キッチンからダイニングまでは片付いていた。リビングは少々荒れている。本来は共有スペースであるベッドルームはすでに諦めた。あっちはインフィニティの本拠地だ。片付けるのには骨が折れる。「仕事場が欲しいなあ」というのはゼロの口癖だが、こうも不景気が長いと、簡単に引っ越しもできない。この世界の通貨不足は深刻だ。ミルクをコップに二杯注ぎ、残りを冷蔵庫に収めた。パンは切ったが、焼かない。昨日トースターが壊れたからだ。

「おい、起きろデカブツ」
「うっさいな。うっさいな。うっさいな」
 インフィニティは顔を毛布にうずめて抵抗した。ゼロは強引に毛布を引きはがした。うぉーんとうなるインフィニティを無視して、毛布をベランダに干した。今日は久しぶりに日が射しているので、ダニ退治のチャンスだ。
「オマエ、さっさと起きないと朝飯抜きだぞ」
「朝ご飯はいらない……」
「ふざけんなさっさと食え」ゼロはベッドにだらしなく転がるインフィニティの腕を引っ張った。
「ぬーん」
 インフィニティはぐいっと腕を引き戻して、ゼロを後ろから抱えるようにして絡み付いた。
「おいばかこら」
「ワタシノネムリヲサマタゲルノハダレダ」
 首と足をぐいぐいと締め付けてくるので、抵抗をしてみるがすでに関節を決められていて、ゼロはもはや身動きができない。太ももをパンパンと叩きながら、
「やめろって。今日は仕事がないんだから部屋の片付けをするんだよ」
「ワタシノムネノマサグルノハダレダ」
「んなことしてねえよ。とにかく放してくれ」
「エッチしないの?」
 耳元に吐息がかかる。ゼロは一瞬迷ったが、今日はそんな場合ではない。それに、
「うるさいうるさい。そんなこと言ってどうせ乗ったところでジョークジョークで恥かかせようってだけだろバーロー」
「ニヒヒ。だんだんわかってきたね、少年」インフィニティが頭の上で囁く。
「もう少年じゃねえって言ってんだろ」
 インフィニティはゼロをはねのけてベッドの端まで後ずさると、口を隠しながら
「イ、嫌ァ……」と怯えてみせた。
「ド阿呆」
 ゼロはいつまでもふざけるインフィニティをベッドに残しリビングに戻った。

 タワーの中層階からは海と空の両方が見えた。風向きによっては下層階の異臭が漂ってくることもあるし、上層階からの落下物の危険もあるが、人口密度の高さと、可処分所得のバランスがいいので賞金稼ぎを続けるにはこのあたりの階層が便利だ。これは、しばらく仕事をやってみてわかったことではあるが、この階にたどり着いたときに、インフィニティが執拗にここに住みたがったのはそういう勘が働いたのかどうなのか。この女はどこに出しても恥ずかしくないほどのポンコツではあるが、そういう妙な勘が働くようで、ゼロは彼女がそういう状態になったときは素直に従うようにしていた。

 百年前に起こった境界線崩壊バウンダリーロストについてゼロやインフィニティが知っていることは少ない。かつてこの世界、あるいは無数に連なる次元世界は、幾重にも重なるレイヤー構造をしていた。虚構と現実には越えられない一線が引かれていたし、過去と未来も別々になっていた。君と僕と彼と彼女は別個の存在であったし、AさんとBさんは別人であった。それですべてはうまくいっていた。
 しかし、ある朝誰もが気づいた。それらはすべて思い込みに過ぎないと。最初に彼と彼女の境界線が崩壊して一つに混ざり合った。AさんとBさんも区別がつかなくなった。君と僕とが曖昧になったあたりで、誰もが諦めた。そして、虚構と現実の区別もつかなくなった。リアルの物語は、フィクションと融合し、新たな物語に移り変わった。君の物語と、僕の物語と、彼の物語と、彼女の物語の境界がなくなった。すべての存在は自由に行き来をして、語りあい、愛し合った。ヘブンというものがあるとすれば、それはこの世界のことだったし、ヘルというものがあるとしても、それはこの世界のことだ。
 ゼロはわたしが創造したが、インフィニティはわたしが創造した存在ではない。創造主に放り出されて迷子になっていたロボットをゼロが拾ってきたものだ。無機質な機械の体を生身の設定の変更して、新たな外観を与えた。ロボット時代はよく仕事をしたようだが、今はご覧の通りのグータラ女だ。大失敗だ。

 ゼロはわたしを知覚していない。インフィニティはなんとなくわかっているようで、たまにわたしに目配せなどをすることがある。しかし、おそらく彼女は自分の創造主を知覚できていない。ゼロがわたしを見ることができないようにだ。ただこのルールを元に考えると、わたしもまた誰かの創造物なのかもしれない。わたしには創造主が知覚できないのだから。
 境界線崩壊バウンダリーロストがどういう現象なのか、今となっては知ることは不可能だ。物理法則は破棄され、すべてが機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナの名のものとに創造し直されたからだ。それ以前とそれ以降では、世界の有り様は全く異なるのだ。

 ゼロがリビングの掃除を終えた頃、ようやくインフィニティが起きてきた。どっかりとダイニングテーブルの椅子に座ると、ほおづえをついてゼロを見つめた。ゼロはしばらく無視をして本棚の整理を続けていたが、遂には諦めてキッチンに入り、朝食の支度をはじめた。ゼロの後ろ姿を見ていたインフィニティが言った。
「たまごは?」
「あ? あるけど」
「シュガーは?」
「あるな。まだある」
「シロップ」
「ないな」
「バター」
「ない。マーガリンならある」
 ゼロは背中を向けたままパンを切っている。
「ねえ」
「……」
「ねえねえねえ」
「……………」
「ねえってばぁ」
 ゼロが動きを止めた。しばらく止まった後、諦めたように下からボウルとフライパンを取り出した。ご所望のフレンチトーストを作るのだ。
「やった♪」
「まったく」
 ぶつぶつ言いながら、たまごを割って砂糖とミルクを混ぜた。

 ゼロは、拾ってきた女神に頭が上がらないのだ。

§ 2 探し屋ゼロ



 朝食の前に2フロア上の市場の掲示板を見に行くのがゼロの日課だ。
 依頼は前日に組合が受け付けて、翌朝の開場と同時に貼り出されるからだ。
 だったら開場時間の午前四時に行けばいいのだが、そんな早起きする輩はそうそういないので、何年か続けているうちに普通に起きて朝飯の買い物の前に寄れば済むことがゼロにもわかってきた。ただし、朝食の後に行くとさすがに間に合っていない。
 掲示板に良い依頼がなければ、市場や下のフロアの〈盛り場〉を回って得意先を回ってご用聞きをしなければならないが、それは空振りも多い。できれば市場で見つけたいと思っていた。

 それに、今朝はたまごも買わないとならない。昨日使ってしまったからだ。
 先にたまご代以上になる仕事を確保してからの買い物にしておきたかったが、それだと売り切れてしまうので先にたまご屋に寄った。蓄えがないわけじゃないが、二日連続での赤字生活は気分が悪い。インフィニティはあの通り大らかであるが、ゼロは極端に几帳面で、仕事のノートの下半分は家計簿になっていた。そして、その日ごとに可能な限り赤字にならないように努めていたのである。

 市場へ向かう階段を上っていく。眼下には雲海が広がるいつもの光景だ。
 遠くに他のタワーが霞んで見える。今日は3つしか見えていないが、霞がなければ7つほど見える。
 よそのタワーに行ってみたいと思うこともあるが、飛んでいくのは大変だし、地上に降りて歩くのは骨だし時間がかかる。最上階では繋がっているらしいが、本当かどうかわからない。そもそも〈ガラスの天井〉を破らなければ上までは行けない。なによりゼロは今のタワーの生活に不服はなかった。インフィニティがいるからだ。

 無料のたまごか格安のたまごがあればいいなと思っていたが、たまご屋の店頭には今日のところはそのような出物はなかった。仕方がないので標準価格のたまごを一パック買った。たまごを切らすといやなので、キッチンのたまご専用ストッカーには常に在庫があるようにしていた。だから昨日のような予定外のフレンチトーストは嫌なのだ。フレンチトーストにするのは、たまごに余裕があるときだけなのだ。

 ゼロはシロップも買おうかと思ったが、さすがにそこまで赤字にするのは嫌だったので、今日のところはやめておいた。二日連続でフレンチトーストを要求することもないだろう。昨日二人で夜更かししたので、インフィニティは今日は昼まで起きてこないだろう。

 市場の中央広場に常設の掲示板がある。このフロアは全体が市場になっていて、広場はタワーの中でも中央部なので一日中日が当たらない。屋台が並んでごちゃごちゃしている中に、場違いな小洒落た意匠の噴水装置があり、その脇にスチール製の掲示板がいくつか据え付けられていた。

 いつもの「お探し依頼掲示板」を見ると、マグネットでメモが貼られていたが、すでに歯抜けがあった。ゼロが残った依頼を順に眺めていると、あるメモが目についた。

『天使のたまご探しています』

「なんだそれは」と思わず声を上げてしまった。隣のベテランっぽい探し屋がじろりとにらむ。ゼロは誰かに取られる前に手を伸ばして、天使のたまごのメモをはがした。

 メモの裏には依頼人の居所が書かれていたが、報酬は書いていなかった。そういう場合、報酬は金ではなくモノかコトで支払われることが多い。今回もその可能性が高い。できれば現金がありがたいのだが、金でない報酬は破格の価値があることが少なくないので、無視はできなかった。ゼロはひとまずこの依頼人に会ってみることにした。

 依頼人名の欄には「エアステンス」と書いてあった。居所のアドレスは市場から一つ上のフロアだ。上位のカスケードなので少し身分が高い人物なのかもしれない。階段からは少し離れているが、そこまで一時間はかからないだろう。たまごもあることだし、一度家に戻ってから出直すかとも考えたが、逆方向で面倒だったので、まずは話を聞くだけでもと、先に寄っていくことにした。

 それにしても、「天使のたまご」とはなんだろうか。天使というのはなんか赤ん坊に羽が生えたようなヤツだ。以前タワーの上の方を飛んでいるのを見た。あれはたまごで増えるんだったのか。そういえばこのたまごは何のたまごなんだろう。何かのたまごには違いないが、ニワトリだとは誰も言っていなかった。ひょっとしたらこれが天使のたまごかもしれない。だとすると、これを渡せば依頼は完了だ。実に手っ取り早い。

 エアステンスの家までは、途中にゲートがなかったので意外に早く着いた。表札は見あたらなかったが、扉に大きく「1」とサンセリフのゴシック体で書かれていた。呼び鈴もなかったので、ドアを三回ノックして、声をかけた。中から老婆の声がした。

「どちらさんで?」
「探し屋です。ゼロといいます。市場でメモを見たんですが」
「ああ」
「たまごの依頼の方ですよね?」
 ガチャガチャと音がして、扉が開いた。声の通りの老婆がのぞき込んだ。訝しんだ表情だったが、ゼロが差し出したメモを見ると相好を崩した。なかなかチャーミングな方だ。老婆は扉を開き、どうぞどうぞとゼロを招き入れた。

「朝食はお済みかしら?」
 エアステンスと名乗った老婆が聞いてきた。ゼロはお構いなく、と答え案内された窓際の席に腰掛けた。老婆の部屋はウッディな調度品で小綺麗にまとめられていて、住み心地が良さそうだった。戸棚には空き瓶がいくつも並べられていた。さまざまなかたち、さまざまな色。大きいもの小さいもの。窓の上の棚にも左右の棚にも飾られていた。

 エアステンスは紅茶を二杯入れ、片方をゼロに差し出した。礼を言ってひとくち飲むと、胃袋がふわっと暖まった。ひと心地ついたところでゼロは切り出した。
「依頼の件ですが、詳しくお話を聞かせてもらおうかと」
「ああ、そうね。手に入ったのかしら?」
「それは、これですか?」
 ゼロはエコバッグのたまごを一つ取り出して見せた。エアステンスは首を振って否定した。
「それは違うわね。それはニワトリのたまごよ」
 ニワトリのたまごだったのか。ゼロは一つ勉強になった。
「アヒルの可能性は?」
「さあ、どうかしら。少なくとも天使のたまごではないわ」
 そうですか。とゼロはニワトリらしいたまごを仕舞い込んだ。

「どういうたまごなのですか?」
 ゼロの問いかけに、エアステンスは、深く溜息をつきながら答えた。
「わからないのよ」
「わからない?」
「見たことはないの」
 なるほど。見たことがないのならわからない。当たり前だ。実のところ、見たことがないから探しているという依頼人は少なくない。そもそもこの世界では見たことのあるものを手に入れるのは簡単だ。欲しいと思っていれば、そのうち手に入る。買うにしろもらうにしろ、手には入る。探し屋に依頼をするのは、見たことがないか、急いでいるか、その両方かだ。

 ゼロは老婆の依頼を引き受けることにした。もちろん報酬次第だが。
「わかりました。報酬はなんですか?」
「なにがいいのかしら」
「そうですね。現金がありがたいんですが、相場は普通のたまごなら二十ギーガぐらいです」
〈ギーガ〉はこの塔の通貨単位だ。ただし、
「天使のたまごがどんなものかわからないので見積のしようがないんですよね」
「お金はあまりないのよ。もうずっとこうしてここで暮らしているものだから、働いていないの」
 そうだろうな、とゼロは思った。それはこの部屋に来たときから予想していた。
「で、あれば何かモノか、コトでということになりますけれど」
 ゼロは部屋の調度品とか、なにかしてくれるとか、そういうことだと補足した。
「なにをすればいいの?」
 そうですねえ。コトの交渉が一番難しいのだけれど、この世界では貨幣なんかよりよほど価値がある。ゼロはエアステンスのキッチンを見て、思いついた。
「では、何かレシピを教えてください。美味しい料理のレシピです」
「あら、それはよかった。お安い御用よ」
 老婆はほっとした表情をした。ゼロも喜んだ。美味しいたまご料理のレシピでも聞き出せれば、インフィニティに食べさせてあげられるからだ。

「おわかりだと思いますが」
 ゼロはひと言つけ加えた。
「ボクに教えたレシピは、忘れてしまいますよ?」
「もちろん、いいわ。たくさん知っているから」
 この世界では、情報は複製できないのだ。

§ 3 丘の図書館



 エアステンスの依頼は、とくに期限を設けられたわけじゃないので、すぐにとりかかる必要はなかったのだが、他に仕事があるわけじゃないし、このまま天使のたまごを探し始めることにした。

 たまごもあるし、一度うちに帰ろうかとも思ったが、「図書館」はこのすぐ上のフロアで、しかも階段に近いものだから、そのまま立ち寄って調べ物まで先に済ませてしまおうとゼロは考えた。

 とにかく今のところは、天使のたまごというものがどんなものなのかまるでわからない。大きいのか小さいのか。硬いのか、軟らかいのか、白いのか、どうなのか。
 天使はたまごを生むのか。天使とはどのようなものなのか。
 赤ん坊に羽根が生えたようなものだというイメージはあるが、それが果たして正しいのかまるで自信がなかった。そもそもたまごは、この殻のあるたまごと同じたまごなのか。いろいろと考えてはみたが、答えを知らないゼロがいくら考えても無駄なことだ。ひとまず考えることをやめて、早く図書館に行くべきだった。

「図書館」という名前の語源は、図書、つまり本を集めておいておく家のことだ。昔そういう施設が街ごとにあったらしい。本というのは、物語や意見を紙に書いて束ねておくもののことだ。そういうものをたくさんあつめて、読ませたり、貸したり、返すように催促したり、倉庫に仕舞ったり、また出してきたり、古くなったら捨てたり配ったりする場所のことだ。今とはだいぶ違う。

 この図書館に本というものはない。人がいるだけだ。図書館員たちは日長一日お茶を飲みながらぼんやりひなたぼっこをして、客が戻ってくるのを待っている。ゼロのような利用者は。彼らから情報を借りる。借りて、返す。借りた情報は、貸した方は忘れてしまうのだから、返さないといけない。必要に応じて、情報を取り出したり、戻したり、する。

 もしも、利用者が図書館で図書館員から情報を借りて、借りたまま死んでしまったとしたら。
 その情報は永久にこの世界から失われるのだ。
 きれいさっぱり消えてしまって、以降、誰も知りえないことになる。
 過去に消えてしまった情報があるのか、ないのか。それはわからない。
 消えてしまった情報は誰も知らないのだし、知ってるならまだ消えていない。

 今日の図書館は丘の草地にあった。前に来たときはもっと東の神殿にあったのだけど。めいめい好き勝手に敷物を敷いて座っている。丘のてっぺんは見えているけれど、裏側がわからないのでどのぐらい図書館員が来ているのかわからない。

 天使のたまごについて誰か知っているといいのだがなあと、ゼロは思っていた。
 当然誰も知らない可能性だってある。
 現にゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲムについて調べたときは、五十人ほどに聞いて回ったが、誰一人として知らなかった。その時はちょうど貸し出されていたからだ。翌月に行ったら三人めでわかった。情報が返却されていたからだ。そういうこともある。

 ゼロは経験上、情報があるときはだいたい七人めぐらいまでで情報に行き当たるが、情報がないときは何人に聞いてもわからないので、最大でも十人までしか聞かないことにしていた。過去十一人以上に聞いて、情報に行き当たったことは一度しかない。たまたま、三十人めに情報が返却されたときに出くわしたというだけだ。
 今日は多くても五人ぐらいにしておこうと思っていた。

 まず、メガネで細身の箱形の男に声をかけた。名前はヴィブルといった。
「こんにちわ」
「やあ、いらっしゃい。図書館へようこそ。返却かい?」
「いえ、今は何も借りていません」
「貸し出しか」
 急に偉そうな態度に変わるが、それは仕様だ。ぼくは立ったままでお辞儀をして、
「リファレンスをお願いします」
と、頼んだ。これは儀礼プロトコルだ。
「いいとも。なんについてだね」
「天使のたまごを探しています」
「天使はたまごを生まない」
 箱形はそう断言した。そして続けた。
「なので、天使の生んだたまごというたまごは存在しないと思われる。そもそも天使は何も生まない、生み出すのは神だ。神はいろいろ生む。ただし育てない。育てるのは人の仕事だ。神が生んだものを人が育てる。天使は人が育てたものを、神の元に戻すのが仕事だ。天使についてもっと知りたいか?」
「天使についての情報はいらないなあ」
「そうか。では他をあたってくれ」
「ありがとうございました」
 ゼロはリファレンスを終了した。
 箱形は満足げに微笑んで手を振った。

 天使はたまごを生まないということがわかった。これは確定情報だ。
 貸し出される情報、つまり「複製できない情報」とはそれらに関するする「全ての情報」である。リファレンスや検索の残滓はゼロが忘れない限りしばらくは残る。ただし、その場で聞いていないことはわからない、ということだ。

 ゼロはとなりにフリルの少女がいたので同じことを聞いてみたが、天使のたまごは知らなかった。少女はキャロルといった。たまごも知らなかったので、一つ取り出してみせてあげると目をキラキラさせて喜んだ。欲しいとねだられたが断った。こどもにたべものをあげてはいけないからだ。

 少し歩いてみて、白髪のエプロンの女と目があった。ゼロが話しかけると、エプロンの女はマダム・オワという名だった。天使のたまごについてはまるで知らなかったが、手足の生えたたまごが塀の上から落ちて割れた逸話なら知っていると言った。それは、ゼロの知っているたまごとだいぶ違うが、たまごにもいろいろあるらしい。

 四人めの図書館員は、苔が生えた石の男だった。名をマシモスといった。図書館員には必ずそれぞれに名前がある。この世界は名前のないものは存在できないから当然といえば当然だが、「図書館員」という名前の人物はいないのだ。
「リファレンスをお願いします」ゼロはマシモスにお辞儀をした。
「ああ、座りたまえ」
「はい」ゼロは言われるままに靴を脱いで茣蓙ござに座り込んだ。
「調べものかい?」
「はい、天使のたまごを探しています」
 苔男はふむ、とあごに手をやって、しばらく考えてから言った。
「たまごとは、生物の増殖の手段としての卵か、それとも食材のことか」
「天使はたまごを生まないそうなので、どちらも違うようです」
「で、あれば概念としてのたまごということかもしれない」
「概念ですか。コンセプト?」
「ノーだ。アブストラクションの方だ」
 抽象概念とはどういうことだろう。ゼロはその言葉の意味を知らなかった。

「それはどんなたまごですか?」
「たまご的な存在とでもいえばいいのかな」
「的な?」
「芸人のたまごと言うだろ。金のたまごという言葉もあるな、これらはたまごではない。人だ。そして、芸人でも金でもない。二つが組み合わせることで、違うものに変質する。金のたまごというのは、Auのことではなく、マネーを生む存在という意味だ。これから稼ぎそうだなあという所属芸人についてそのように言う。搾取側の言葉だ。そしてそれは投資対象でもある」
 なるほど。ゼロのような賞金稼ぎには「駆け出し」はあっても「たまご」ということはないのでよくはわからないが、職業クラスによってはそういう段階を踏むこともあるだろう。

「つまり、天使のたまごとは、天使の候補生のようなものであると」
「そのような可能性を内包していると私は考える」
「情報はありますか?」
「これは私の推理にすぎない。情報としては持っていない」
「ありがとうございました」
 ゼロがリファレンスを終了すると、苔の男マシモスはふたたび沈黙した。苔がしゃべっていたのか、男がしゃべっていたのか、果たしてどちらだったのだろうか。

 天使の候補生という可能性はおもしろかった。で、あれば最初の箱形から天使の情報を借りるのが早道だ。ゼロは今来た道を戻って箱形のところに行った。箱形のヴィブルは先刻と同じように陽を浴びてぼんやりとしていた。

「こんにちは。ヴィブルさん」
「やあ、天使のたまごの人。返却するものはなかったよね」
「はい、貸し出しをお願いします」
「天使について?」
 そうだ。この図書館員は天使のことなら知っているからだ。ゼロはとりあえず天使の成り立ちについて調べることにしたのだった。
「そうです。お願いできますか」
「いいとも。貸し出し期限は一週間だよ」
「大丈夫です。たぶんすぐ返します」
「検索にしとけば?」
 基本的に図書館員は貸し出しを渋る。消失インフォロスのリスクは負いたくないからだろう。
「そうですね。天使ってどうやってなるんですか?」
「天使は最初から天使だ。何かが天使になるわけではない」
「ずっと天使?」
「いや、堕天すると悪魔になるな」
「天使は悪魔のたまごということ?」
「面白い発想だが、そう言い方はあまりされていないな。そもそも目的としていなければたまごとは言わないのではないか」
 それもそうか、とゼロは思った。他にもいくつか聞いてみたが、天使の候補生としての天使のたまごの可能性は否定された。これでは情報を借りても仕方がない。検索を終了して、ヴィブルと別れた。

 気がつけばだいぶ日が昇ってきていた。やはり一旦家に戻って出直そうかと、ゼロは考えた。あのねぼすけインフィニティもそろそろ起きてくるだろう。
 ただ、現金収入の得られない仕事はできるだけ早く済ませてしまいたくもあった。明日までかかってしまうと、二日分の赤字になるからだ。それは面白くない。出直してくると余分な時間もかかってしまうし。あと一人誰かに話を聞いて、それでだめなら他の方法を考えよう。とゼロは決めた。

 ヴィブルのシートの後ろ側(丘の頂上に近い方)に、犬のような顔の図書館員がいた。目が合ったので話しかけると、名はガードッグといった。
「お前さん、天使のたまごを探しているのか?」
「え、はい、そうです」
「すまんな。さっき話が聞こえてしまったのだ」
「何か知っていますか」
「知っている」
 おっと、とゼロは喜んだ。ゼロを気にかけていたので、こっちを見ていたということか。図書館員はそういうところがある。リファレンスを申し込むまで図書館員から話かけることはないが、聞こえてきた会話に興味を持つこことはある。そして興味を持つときはなんらかの情報を持っていることが多い。情報が情報を呼ぶということだ。情報の方から、それを求めるものへと近寄ってくることは、実際によくある。

「リファレンスをお願いします」
「いいとも」
「天使のたまごとはなんですか?」
「あれは、物語のタイトルだ。たまごそのものでも概念でもない」
 そういうことだったのか。ゼロはその可能性は考えていなかった。
「ここで借りられますか?」
「すまないが、ここにあるのは書誌情報ビブリオグラフィだけだ」
 それは借りても仕方がない。
「どこで借りられますか?」
「書誌情報には書かれていない」
 参ったな、とゼロは思った。図書館にあればそれで済んだのが。又貸しはできないから、エアステンスをここに連れてくる必要はあるが、それでゼロの仕事は完了のはずだったのだ。

「誰かが調べた補足情報はある」
「教えてください」
「この物語は、持ち主がいない」
「それは古いからですか?」
「いや、手続きの問題で、当初から持ち主が曖昧だったようだ」
迷子文献ストレイシープ?」
「そういうことだな」
 で、あればそれは探し屋の仕事だ。図書館にもう用はない。ゼロはリファレンスを終了した。そこで、一つの可能性について思い当たった。

「あ、ガードッグさん、一つ聞いてもいいですか?」
「なにかね」
「天使のたまごについて、前に誰か聞きにきましたか?」
「きたよ」
「お婆さんでしたか?」
「そうだよ。知り合いか?」
「いえ、まあ、そんなところです」
 ゼロは礼を言って、図書館をあとにした。

 つまり、ここまではエアステンスが自分でたどっていたということだ。
 迷子文献ストレイシープであれば、探し屋でなければ見つけようがない。だから掲示板に依頼を出したのだ。もう少し考えれば、その可能性が発想できたはずなのに。ゼロは無駄な時間を過ごしてしまったことを悔いた。まだまだ経験が足りていないようだ。

 問題は、天使のたまごがどちらの街にあるかということだ。つまりガッデン・ストレージから行くか、ヴェニスンから行くか、だ。
 少し考えて、ゼロは、まずガッデン・ストレージに向かうことに決めた。

§ 4 迷子の羊達



 ガッデン・ストレージは市場マーケットの一つ下のフロアにある、喫茶店街だ。境界線崩壊バウンダリーロスト以前は、本屋街というものだったらしいが、現実と虚構の境界線が崩れ去ったときに、その実態を失った。残ったのは、悠久の時が流れる、何軒ものコーヒーショップだけだった。

 天使のたまごが迷子文献ストレイシープであると判明したとき、ゼロは二つの選択肢を思い浮かべた。「本」であれば、ここガッデン・ストレージにある可能性が高い。それ以外であれば、ヴェニスンの方だ。

 境界線崩壊バウンダリーロスト以前は、すべての物語は作者のものだった。そういう取り決めがあったからだ。しかし、それは生きているうちだけで、死んでしまうと百年後には誰のものでもなくなる。

 多くの場合、書いた人や考えた人が持ち主になるのだが、約束事でそうはならない場合がある。「書かせた人」や「丸ごと買い取った人」がいた場合、書いた人たちのものにはならない。そして、中には誰のものか誰も知らないものがある。書いた人はもちろん、その持ち主すらよくわかっていないものだ。

 境界線崩壊バウンダリーロストによって「第四の壁」が完全に消失したとき、大半の物語は、作者と融合した。持ち主がもういないとはっきりしているものは、完全に野生化ピュアディスカードした。しかし、持ち主がわからないものは迷子文献ストレイシープになったのである。

 ゼロがガッデン・ストレージに来るのはしばらくぶりだった。ひとまずいつもの喫茶店で聞き込みをしよう。ちょうどランチの前で、店が開きはじめている。インフィニティのことが脳裏をよぎったが、まあ自分がいなくても勝手にやってくれるだろうと、ゼロは思った。

「やあおやじさん」
「おや、チビ助。探し物かい?」
「オレはずっとチビ助なのかい」とカウンターに座りながらゼロは笑った。最初に来たときはそうだったかもしれないが、今ではおやじさんと大差ないぐらいには成長しているのだ。足だって床に付く。インフィニティには、まだ追いつかないが。

「コーヒーでいいのかい?」店主のクロンプが聞いてきた。そういえば朝食がまだだった。
「トーストはある?」
「あるよ」
「小倉?」
「あるある」
「セットで」
「あいよ」

 セットにすると少し安くなる上に、6Pチーズがひとつ付く。
 クロンプがトレイに一式を載せて出した。コーヒーをひと口飲んで、小倉トーストにかじりつく。伝統の味。この味がなかなか家で出せないのだなあ。ゼロはうなりながら堪能した。

 とりあえず食べるだけ食べたところで、クロンプに聞いた。昼がすぎて客が増える前に用を済ませてしまうべきだ。
「おやじさん、天使のたまごって知ってるかい?」
「ん? 図書館には行ってきたのだよな」
「もちろん」
「この辺にいそう?」
「かもしれない」
 うーん。とクロンプは唸って。
「うちには来てないな」
「知ってはいるってこと?」
「いや、そういうわけじゃない。うちの客にはいない」
「そっか」
 一軒目の聞き込みで事が済むとは思っていなかったが、クロンプの情報網はこの街でも一二を争う。今回は苦労しそうだ。なにか手掛かりでもあればいいのだが、とゼロは思った。どんな姿なのか、顔はあるのか、そういうこのが一切わからない探しのものは難しい。聞きようがないし、答えようもないからだ。ずばり本人を知っている場合しか、明確な答えを出すことができない。

 コーヒーを飲み終えると、徐々に客が増えはじめたので、代金を支払って店を出た。クロンプは常連客が来たら聞いておくから、帰りに寄れと言ってくれた。セットを頼んだから気前がいいのだな。たぶん。

 表通りに出ると、この街の奇妙さが際立つ。東西に走るメインストリートの両脇に建物が並んでいるのだが、北側には食べ物の店ばかりが並び、南側には空っぽの暗闇を抱えた建物がずらりと立ち並んでいる。
 ゼロは、北側の店は陽当たりがいいので、客足が伸びるから栄えて、南側の店は北向きになっているから廃れたのだと思っていた。そうインフィニティに言ったら、それは違うのだと。かつて、その南側の店は光に満ちていたのだが、境界線崩壊バウンダリーロストですべて抜け出してしまい、何も残らなかったのだそうだ。見たのかと聞いたら、見たと。インフィニティの寂しそうな表情に耐えきれず、それ以上は聞けなかった。

 だから、この街に来るときは、いつもゼロ一人で来ることにしていた。

 五軒目の喫茶店で、天使のたまごを知っているという常連客に会えた。ファクチュアルというその男は、そいつは上品そうな老婆だと言った。それはたぶん違う。ゼロは依頼者エアステンスの外観をできるかぎり説明した。ファクチュアルは、なるほど確かにその老婆に似ている、しかし、天使のたまごもまた、その説明通りのものだと言った。

 エアステンスは自分を探している? どうしてそんなことになるのか、ゼロには皆目見当がつかなかった。もう少し探してみて、夕方までに見つからなかったら、一度エアステンスに会おう。そして、それはあなた自身ではないのかと聞こう、と思った。

 他に有力な話は聞けず、ガッデン・ストレージでの聞き込みはもう一巡したので、最後にまたクロンプの店に寄った。クロンプが嬉しそうな顔で手招きした。
「チビ助よろこべ。知ってる客がいたぞ」
「ほんとですか!」
「おうとも。ホレ」
 クロンプはゼロに一枚の紙切れを渡した。
 絵が二つ描いてあった。ギザギザした十字架のようなものと、ワニのような乗り物だった。乗り物に見えたのは、たくさんの車輪があるように見えるからで、これは動物かもしれない。乗り物のようなワニである可能性もあるということだ。

「ヴェニスンの裏路地にその赤いワニ戦車が置いてあるんだが、そこにいる爺さんが天使のたまごを探しているらしいんだ」
「探している?」
「そうだ。もう長いこと探し続けているらしい。その十字架みたいなのは、そいつが持ってるのだと」
「そいつが天使のたまごではない?」
「そりゃわからん。とりあえず行ってみたらどうだ」
「ありがとうおやっさん」
 ゼロは礼に、クッキーを二枚買って、店をあとにした。

 ヴェニスンは隣の街だからそう遠くはない。まだ陽は高い。間に合いそうだ。
 ゼロは深淵の街ガッデン・ストレージをあとにした。ここはいつも心を覗かれているようで、落ち着かないのだ。

§ 5 老婆と老人



 すべての事象の境目が曖昧になる終末的現象、境界線崩壊バウンダリーロストが始まったのは百年前のことだが、現時点でもそれが終わったわけではない。自他の境界が無くなるところから始まった境界線崩壊バウンダリーロストは、徐々にいろいろなものの境目を破壊してきた。最も大きな変化をもたらした崩壊は、現実と虚構の境界が崩れ去ったときではあったが、それでもまだ多くの人々が正気を保っていた。何を正気と呼ぶべきかは、今となってはどうでもいいことではあるが。

 あと、どれほどの境界線が残っているのかはわからないが、生き残っている学者と死に損ないの博士たちによって、最後に訪れるのは有と無との境界線崩壊バウンダリーロストだと言われている。

 過去に済んだもののうち、生と死の境界線崩壊バウンダリーロストはとくに注目されていたが、実際には大したことは起こらなかった。生きているんだか、死んでいるんだかよくわからないような連中が世界には多すぎたからだ。ただ、猫の箱は無意味になった。

 ゼロが橋を渡りヴェニスンに入ると、とたんに周囲が賑やかになった。ここは世界の中でもとびきり栄えた街だ。境界線崩壊バウンダリーロストで世界のほとんどのものは価値を失ったが、ここにあるものはまだまだ人々に求められた。全てを忘れ、誰からも忘れられて消え去るその日まで、人々は死ぬほどヒマだからだ。

 ヴェニスンには物語の語り部が多く集まって、新たな物語と交換したり、時には売買なども行った。語り部の上演は複製にはあたらないので、上演したからといって、忘れることはない。複製は、語り部がその物語を他の語り部に譲り渡すときに行われる儀式である。大通りでは今日も多くの演者達が、語り部の言葉に合わせて芝居を演じていた。

 メイド服でチラシを配る少女に赤いワニ戦車を見たことがないか聞いたが、なかなかわかる少女に出会えなかった。彼女らはあまり路地裏には入らないらしい。ゼロは、十人までメイド服に聞いたところであきらめて、案内所に行くことにした。案内所は有料だからあまり使いたくないないのだが、仕方がない。

「知らん」
 案内所の元メイド服の老婆は、赤いワニ戦車を知らなかった。知らなくても知っていても、料金は発生する。泣く泣くたまごを一つ渡して、案内所を出ようとしたところで、老婆が言った。
「赤いワニ戦車は知らないが、他のことは知っているかもしれないぞ」
 それはそうかもしれないが、これ以上たまごを使うわけにもいかない。インフィニティに食べさせる分がなくなってしまう。
「たまごはもう渡せないけど」
「こいつの使い方を教えなよ、兄さん」
「知らんのかい、婆さん」
「婆さん言うな。孫はおらん」
「そうかい、姐さん」
「そうさ。わしらは料理などせんからの」
 メイド服はみんなだいたいそうだ。少し考えて、ゼロはレシピを一つ譲り渡すことにした。ポーチド・エッグでいいだろう。あれはインフィニティがあまり喜ばなかったから、もう作らない。

「たまご料理の方法を一つ教えよう。それでいいかい?」
「いいともさ」
「天使のたまごは知ってるかい?」
「知らん」
「何も知らんのかババァ」
「まあ待て。天使のたまごは知らないが、天使のたまごを探しているやつのことならわかるぞ」
 ゼロは出ていこうとした足を止めた。

「どうせ、老女だろ。知ってるよ、俺の依頼人だ」
「老女? 違うぞ少年。男の老人だ。十字架みたいな武器を背負ってる」
「なんだって?」
 元メイドの老婆は、手をヒラヒラさせて、ポーチド・エッグのレシピを要求した。ゼロはレシピと引き換えに、天使のたまごを探しているという老人の手掛かりを得た。

 ヴェニスンの路地裏はいろいろと難しいことになっているというのは、広く知られていることだが、過去と現在の境界線が崩壊してからは、一層複雑なことになってしまった。今後さらに現在と未来、過去と未来の境界線もなくなってくると、さらに混沌カオスが悪化することは想像に難くない。

 メイド老婆の指定した路地に、言われたとおりの手順で入ると、デカい十字架の老人はすぐに見つかった。老人は、
「すまないが……、天使のたまごは探していない」
と言った。ゼロはあんのババァと思ったが、「知らない」とは言わなかったことに気づいた。
「探していないとはどういうことだ」
「ああ。そうだ探してはいない」
「探す必要がないのか?」
「探す必要がない」
「たまごを持っているからか?」
 老人は、しばらく黙っていたが、それからゆっくりと言った。

「壊してしまったのだ」
「どういうことだ?」
「わしは天使のたまごの中身を知ろうとして、それで壊してしまった」
「たまごは孵かえらなかったのか」
「わからない。わしはもう待つことができなかったのだ」
「中身はなんだったんだ?」
 老人は答えなかった。何も答えずに立ち去ろうとした。
「帰らないのか?」
「もうかえらない」
 老人が自分について言ったのか、たまごについて言ったのか、ゼロにはわからなかった。
 老人はもう振り返りもせず、戦車に乗り込んで去っていった。彼のワニ戦車は薄汚れて真っ黒になっていた。なるほど、赤で探しても見つからないわけだ。

 ゼロは、エアステンスのところに戻って、老人のことを話した。エアステンスはゼロに礼を言い、代金としてパン・プディングのレシピを教えた。
 エアステンスは、いずれまた掲示板にメモを出すのだろう。迷子文献のこの二人が生き続けるために必要なことは、お互いに探し探され続けることしかない。再会し、物語が終焉を迎えるとき、二人は誰に知られることもなくきれいさっぱり消えてなくなるのだ。ゼロが彼女らを覚えていてあげることはできないのだから。

 ゼロが家に着く頃、ちょうど街灯が点灯した。リビングは暗いままで、夜の帳に飲み込まれようとしていた。明かりを点けて、たまごを冷蔵庫にしまったところで、寝室からインフィニティが下着姿でずるりと起き出してきた。

「いってらっしゃい。今日は早いんだね」
「もう夕方だぞ」
 インフィニティはえ? と時計を見て外を見たが、とぼけて
ご冗談をノーキディン」とおどけた。
「冗談じゃない。腹に聞いてみな」
 あー、確かに。とつぶやいて、そのままソファにぼふんと沈み込んだ。

「ゼロぉ、おなかすいた」
「知ってる」
「パンとたまごあるの?」
「ある」
「砂糖は?」
「ある」
「シロップは?」
「ないが、いらないぞ」
「そうなの?」
 ゼロはフライパンの代わりにミルクパンを取り出した。インフィニティはだまってゼロを見守ることにした。今日は新しい食べ物に巡り会えそうな予感がしたからだ。

「わらわはまんぞくじゃ」
 ミルクパンにいっぱいのパン・プディングを平らげて、インフィニティは満足げに腹をぽんぽんと叩いた。
「さようでございますか姫様。ようございましたね」
 ゼロは棒読みで応えた。

「ゼロぉ」
「なんだよ」
「好きよ」
「知ってる」
 ゼロは、とりあえず今日のところは黒字ということにしておいた。
 まあまあ、いい日だったからだ。

つづく

あとがき

 カクヨムや@なろうは無限連載が可能という話を聞いて、じゃあちょっとやってみようというのがこの物語の発端だ。だから副題に「終わらない物語」とつけた。

 とりあえずカクヨムで1話目ができ上がったのでBCCKSに移植してみた。
 BCCKSは表紙があるので、ビジュアル的に面白い。

 NeSTとは入れ子になった世界のことだ。
 そもそも我々が暮らすこの世界も入れ子状態になっている。
 ものの価値は正しくレイヤーにはならず、互いが互いを内包しあって複雑に絡み合ってできているのだ。

 この物語はこれからもう少し未来の、もう少し高次元のできごとを描いたものだ。

 境界線崩壊(バウンダリーロスト)という世界を冒す病が、常識を徐々に蝕んでいく。そんなイカれた世界に暮らすヒーローとヒロインたちののん気な物語が、このNeSTだ。

 テキトーなノリでテキトーにだらだら書き続けられたらいいなと思っている。

 この物語に完結はない。
 全ての物語は必ず別の物語にリンクし、相互に影響しあい、形を変えていく。
 物語は終わらないのだ。

波野發作

NeST 終わらない物語 Story:1 The Angel's Egg

2016年5月30日 発行 初版

著  者:波野發作
発  行:弐佰圓堂
表紙イラスト:ateliersommerland / 123RF 写真素材

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波野發作

東京生まれ、信州育ち。作家を志して上京後、製本所や出版社のアルバイト、編集プロダクション勤務および印刷会社営業を経て、フリーライター&フリー編集者に。本屋横丁およびバンクハウスを設立後、2014年のマガジン航の企画でペンネームを決め、作家活動を25年ぶりに再開する。実用書の執筆などで生計を立てつつ、波野發作としてインディーズ出版(セルパブ)での活動も力を入れている。デビュー作は「ストラタジェム;ニードレスリーフ」。他に「オルガニゼイション」シリーズ、「カブラヤキ」。

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