西洋風ファンタジー。
エリカの婚約者であり、辺境を跋扈する魔物から人々を守る『黒剣隊』の長、リトは、予想に反して美人な優男だった。婚約者リトの言動に戸惑いつつも、静かな愛を募らせるエリカだが、リトの責務と、帝国内の陰謀が、二人を翻弄する。
※ストリエ掲載作品のテキスト版です。
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美人、だ。
それが、エリカが、婚約者であるリトと初めて顔を合わせた時の、偽らざる感想、だった。
屋敷の玄関前に準備された箱型の馬車に乗る前に、おもむろに、屋敷を振り返り見る。灰色の壁を這って伸びる、学者であったという父がこの街を差配する伯である母に贈ったという蔓薔薇が、初夏の日差しに薄紅色の花を揺らしていた。
「準備は、良いですかな、エリカお嬢様」
背後から聞こえてきた、家令のダリオの声に、振り向くことなく頷く。視線を西に向けると、街を囲む城壁の向こうに、丘と言うには険しすぎる山々と、一カ所だけ大きく空いている山々の切れ目が見えた。この場所からもはっきりと見える、その丘の更に西には、誰も住まない平原が広がっている。あの丘の向こうは、平原は、どのようなところ、だったのだろう? 婚約者であるリトが生まれ育ったという場所に、エリカは想いを馳せた。しかしそれでも、昨夜から胸の中でくすぶっている戸惑いは、消えない。何故自分は、これから、生まれ育った街からずっと東に離れたこの帝国の首都にまで赴かなければならないのだろうか? しかも、……知らない男の人と、一緒に。戸惑う心のままもう一度、屋敷の壁に咲く蔓薔薇に目を移したエリカの口から漏れたのは、溜息だった。
昨夜、リトと顔を合わせてすぐ、エリカは、この西の辺境地帯を差配するシーリュス伯でもある母から、リトと一緒に帝都に行くよう指示された。
「別に問題ないでしょう? 婚約者なんだから」
ある意味理不尽な、その言葉とともに。
大陸の東西南北を大きく支配し続けている帝国の最高責任者『帝』は代々にわたり、帝国の西の端に位置する丘向こうの平原を開拓しようと試みた。しかし長年の努力も空しく、人々は平原に潜む凶悪な魔物達に屈した。開拓を諦め、平原から引き上げるよう、人々に命が下されたのが、昨年の秋。そして半年以上かけて、動くことができる人々は皆、魔物が跋扈する平原から撤退した。平原に移住した人々を守り、また平原の魔物が丘を越え、帝国の他の領域に害を為さないよう監視する、帝国の西を守る『黒銀騎士団』の一支隊『黒剣隊』の隊長であったリトは、帝の命を無事に果たしたことを報告する為にシーリュス伯である母の許を訪れ、そして更なる任務として、この広大な帝国を統治する帝への報告の為、帝都へと向かうことになっていた。しかしながら。リトは、丘の向こうの平原しか、知らない。母の甥、エリカの従兄でもあるリトが、無知が故に帝都で無礼なことをしてしまい、恥をかいてはいけないから。母の言葉に、エリカは最終的に頷く他、なかった。
「リト殿は、もうすぐいらっしゃるでしょう」
戸惑いが苛立ちに変わる直前に、再びのダリオの声が聞こえてくる。
「馬車の用意はできておりますから、先に乗りますか、エリカお嬢様」
「ええ」
ダリオが浮かべている僅かな微笑みに、頷く。とにかく、エリカは自分の地位に応じた使命を果たすだけ。それだけだ。エリカは一人頷くと、馬車の後部に設えられた入り口に足を掛けた。
と。
「遅くなって済まない」
涼やかな声に、足が止まる。振り向くと、昨日と同じ美人が、エリカのすぐ後ろに立っていた。いや、昨日と全く同じではない。平原の厳しい生活ですっかり汚れてしまったマントを羽織っていた昨日とは打って変わり、今日は、おそらくエリカの母が用意したのであろう、黒銀騎士団の色であるすっきりとした灰色の上着を身に着けている。そして。リトの肩に留まっている飾りマントに、エリカは「あ」と言い掛けた口を何とか閉じた。少し斜めになっている縫い跡は、見間違いようがない。母に言われて、エリカが渋々、縫ったもの。あまりにも下手だとエリカ自身も感じ、誰にも分からないところに隠したはずなのに。そんな下手な出来のものを、こんな美人に身に着けさせるなんて。頬が熱くなるのを感じ、エリカは、自分と背格好が変わらないリトの前に立ち尽くした。
「さ、行きましょう」
そのエリカの前に、先に馬車に乗ったリトの小さな手が差し出される。エリカは何とか、その手を掴んで馬車の座席に腰掛けた。その隣に、リトも座る。だが。全く自然な動作で、リトはエリカから身を離し、馬車の背凭れの方へ身を預けた。
「え?」
リトの動作に、正直戸惑う。
しかしその戸惑いが顔に出る前に、馬車に乗り込んだダリオがリトの向かいの席に座り、馬車は滑るように走り出した。
エリカが暮らしていた、帝国の西の端にある街から、帝国の真ん中に位置する帝都までは、馬車で五日ほど掛かる。そして。一日目も二日目も三日目も四日目も、リトのエリカに対する態度は最初の時と全く変わらなかった。もちろん、馬車の乗り降りには手を貸してくれるし、街道沿いの宿に泊まる際には、エリカの荷物を部屋に運んでくれたり、食事時に料理を取り分けてくれたりは、してくれている。だが、それでも、……敬して遠ざけられているような感じは、確かに、する。
やはり、親が――エリカの父もリトの母も既に亡くなっているので、この場合はエリカの母一人が――強引に決めた婚約者だからだろうか? それとも、エリカが美人ではなかったから、期待外れだったと思っているのだろうか? いつまでも若くて美人だと街では評判になっているエリカの母の、エリカにとっては腹立たしい顔を脳裏に浮かべ、エリカは馬車で喋っているリトと家令のダリオに分からないように小さく息を吐いた。エリカは父似で、従兄のリトはエリカの母と同じくらい美人だったという伯母、リトの前の『黒剣隊』の隊長だったというリトの母に似た。ただ、それだけのこと。それでも。森や田園の風景が珍しいのか、飽きずに馬車の外を眺めるリトの横顔に胸の痛みを覚え、エリカはそっと俯いた。
「平原を開拓していた人々は皆、平原を脱出したはずですが」
そのエリカの耳に、ダリオと話すリトの涼やかな声が入ってくる。
「平原の魔物が帝国のこちら側に入ってこないよう、『黒剣隊』は平原と帝国を守る為に必要だと思うのです」
「しかし陛下は、必要無いと仰ってますね。帝国の西側を守る『黒銀騎士団』だけで十分だと」
「ええ。……ですが」
ダリオの言葉に、リトが沈んだ声を返す。
「それでも、魔物の扱いに長けた『黒剣隊』を解散させるのは、勿体無いことだと思います」
「それを、陛下への目通りが叶った時に申し上げれば良いのですよ、リト殿」
「はい。そうします」
僅かに頷いたリトに、ダリオが微笑む。そしてダリオは、馬車の屋根の上で二頭立ての馬を操っている御者に馬車を止めるよう命じた。
「もうそろそろ、帝都が見えてくるはずですよ」
ダリオの言葉に、リトの後から馬車を降りる。
「うわぁ……!」
目の前に開けた光景に、エリカは思わず感嘆の声を上げた。
森のずっと向こう、低くなった場所に見えるのは、大河の両岸に所狭しと立ち並ぶ黄みがかった建物群。狭い平地に小さくごちゃごちゃと建てられたものもあれば、丘の上や中腹に建つ、中庭が見える優雅なものもある。本や人の噂で聞いた市場広場らしきものや競技場らしきものも、まだ遠くにあるはずなのに、僅かな靄に霞むだけで意外にはっきりと見ることができた。
「あれが、帝都です」
何も言えないリトとエリカに、ダリオがそう、説明する。話には聞いていたが、これほどとは。エリカはただただじっと、低地に広がる巨大な街を見つめた。
その時。エリカの横で、エリカと同じように街に見とれていたはずのリトが、ついと動く。
「なっ!」
馬車の屋根の上に座っていた御者が驚きの声を発する前に、御者に襲いかかろうとしていた影をリトは腰の剣で叩き切っていた。
「魔物? こんなところに?」
何時に無い戸惑いの声を上げたダリオがエリカの腕を強く掴む。
「お嬢様は馬車の中へ!」
リトが叩き切った、森の中から湧き出すように出てくる闇よりも深い影におののく前に、エリカはダリオに誘導されるように馬車の影に隠れた。と、その時。
「なっ!」
ダリオの絶句に、振り向く前に馬車の扉に掛けてあった弩を掴む。狙いを定める前に、エリカは弩の引き金を引いた。エリカの放った矢が、馬車の影でエリカとダリオを襲おうとした影の勢いを弱める。
「エリカ!」
そして間髪入れず、リトの剣が影を一閃で消し去った。
「エリカ! 大丈夫?」
剣を掴んだままのリトの手が、エリカの、弩を握ったままの手に触れる。初めて感じた、その手の小ささと温かさに、エリカははっと心の中で息を吐いた。これまでも何度か、エリカはリトの手に触れては、いた。だが。この温かさは、知らなかった。
「だ、大丈夫?」
「え、ええ……」
戸惑いを覚え、リトの手をそっと振り解く。胸の鼓動を、エリカは抑えることができなかった。
怪我をした御者の代わりに、リトが御者席に座る。
「道なりにまっすぐ進めばすぐ帝都ですから」
馬を扱ったことが無いというリトに懸念を示したダリオに微笑むと、エリカは身軽に馬車の屋根によじ登り、リトの横に座った。
「……怪我は、無い?」
馬車が動き始めてすぐ、もう一度、リトが、確かめるようにエリカの右手に触れる。しかし今度はすぐに、リトはエリカから身を離した。心が、捩れるように痛む。やはりリトは、エリカのことをやっかいな婚約者だと思っているのだろうか? エリカの悲しさは、しかしすぐに晴れた。
「……す、済まない」
俯いたリトの、耳まで真っ赤にした横顔に、驚く。
「と、砦は、男所帯だったから、その、女の子、には、どう接したら良いのか分からなくて、その」
馬車を操ろうとぎこちなく腕を動かしたリトが、少しだけエリカの方をみる。もう一度、エリカの右手に重ねられたリトの左手は、小さく、そして手袋を付けていても分かるほど固かった。『黒剣隊』の隊長だったのだから当然だとしても、この手は、美人の顔からは想像もつかない、荒れた手だ。それでも、どこか、温かい。右手の上に重ねられたままのリトの左手に、エリカは自分の左手をそっと重ねた。
「一つだけ、聞いていい?」
そのエリカの耳に、前を向いて慎重に馬車を御すリトの声が響く。
「弓は、どこで?」
「西の街の警備隊に混じって」
エリカの答えに、リトは驚いた横顔をエリカに見せた。
平原に跋扈する魔物から人々を守る『黒剣隊』。その長と婚約を結んだと母から告げられる前から、『黒剣隊』はエリカの憧れだった。いつか平原に赴き、『黒剣隊』の一員になりたい。その想いから、エリカは母やダリオの目を盗んでは、街の男の子たちに混じって弓や短剣の稽古を受けた。武術を習うのは、お転婆だと言われ続けていたエリカの性に合っていた。女子に剣は扱えないと言っていた街の警備隊所属の武術の師匠は、剣の技まではエリカに教えてくれなかったが、それでも、エリカが弓と短剣を操る技を習得するのを許してくれた。
「そうか」
再び前を向いて馬車を操るリトの横顔が、微笑む。無言のまま、強く握られた手が感じる温かさに、エリカは戸惑いながらも小さな笑みを零した。
帝都に到着して三日後。リトが帝都を訪れた主目的である、帝への目通り――帝は病に伏していた為、実際は摂政として帝国を統治する皇太子に、平原の現状と人々の撤退状況を説明した――は、あっけないほど無事に終わった。
「……」
だがリトの表情は晴れない。
「そなたの意見は了解した」
そのリトの、沈んでいても端正な横顔を見つめながら、エリカはリトの付き添いでともに立った、帝の宮殿の謁見の間の光景を思い起こした。
「しかしこちらにはこちらの考えがある。元老院とも協議するから、しばらく帝都に留まっているように」
平原には、『黒剣隊』が拠り所としていた砦には戻らないように。摂政皇太子テオは確かにそう、リトに申し渡した。それが、リトが落ち込んでいる理由。
「戻るな、なんて……。魔物の跋扈を、皇太子殿下は放っておくつもりなのだろうか?」
小さく呟かれたリトの言葉で、帝都近くの森でエリカ達を襲った重苦しい影の姿が不意に、エリカの脳裏を過ぎる。
〈あんな恐ろしいものを、野放しにしておくなんて〉
正直なところ、エリカはリトの心配に賛同していた。
「しかし命は命ですよ、リト殿」
そのエリカとリトを窘めるように、リトから首尾を聞いた家令ダリオが気遣わしげな声を出す。
「せっかくですから、しばらく帝都で休まれてはどうでしょうか」
平原では、跋扈する魔物達との対峙で身も心も安まる暇が無かったでしょう。ダリオの言葉に、リトは素直に頷いた。
「あ、だったら」
しかしまだ落ち込んで見えるリトに元気になってもらおうと、エリカも言葉を紡ぐ。内容は、エリカがずっと望んでいたこと。
「私に、剣の技、教えて」
「エリカお嬢様!」
「分かった」
叱る口調のダリオの後で、リトが頬を緩める。そのことが、エリカをほっとさせていた。
次の日。
「これ」
リトがエリカに渡してくれたのは、本物の剣。
「稽古に、使って」
そしてその重い剣をエリカに持たせたまま、リトは、細木を敷き詰めた廊下の床にエリカを立たせた。
「右利きだから、床の木の線に沿って右足を出して。左足は、右足と直角に。……そう、それが、基本の形」
そしておもむろに、剣の技の習得に必要だという足捌きの説明を始める。
「前に進むときも、後ろに下がるときも、避けるときも、最終的にはこの足の形に戻るようにして。それが、無意識でできるように」
「分かったわ」
剣は重く、そしてその剣を構えて動かしながらのリトの要求は、意外に難しい。それでもどうにか、エリカはリトの声の通りに身体を動かした。
「足の訓練は、少しずつでも良いから毎日やって」
そう言ったリトが、次にエリカの前に示したのは、きっちりと詰め物をした胴着と、頭巾のようなもの。
「次はこれを着て」
言われるままに、エリカは分厚い胴着と、頭だけでなく顔をも覆うこれも分厚い頭巾を身に着けた。頭巾から出ているのは、目と口だけ。息苦しさを感じ、エリカは持っていた剣を下ろした。
「やっぱり少し、暑い?」
そのエリカの耳に、リトの心配そうな声が響く。
「でも、……どこも、傷付いてほしくないから」
続いてのリトの言葉に、エリカの心臓は急に早鐘を打ち始めた。これは、……私の為? エリカが次に感じたのは、嬉しさ。
ダリオが持ってきた、動物の膀胱を膨らませたものを棒状に縫った布に詰めたという、ふにゃふにゃな模擬剣を構えたリトが、エリカに微笑む。
「どこからでも、攻撃して良いよ」
その言葉が終わるやいなや、エリカは床を蹴り、リトに肉薄した。剣の技は知らないが、短剣の技は、知っている。しかしリトは、僅かな動作でエリカの身体から離れると、ぎょっとするエリカに横殴りの容赦無い攻撃を叩き込んだ。
「いっ……!」
「だっ、大丈夫?」
一瞬、声を無くしたリトが、リトに叩かれた左腕を押さえて呻くエリカにその手を伸ばす。
「やっぱり、私では、剣の技を教えるのは……」
「大丈夫」
眉を曇らせたリトに、エリカは微笑んだ。
リトは、手加減ができない。魔物相手に手加減すれば、命が幾つあっても足りない。そのことに思い至り、エリカは心の中でふふっと笑った。
午後からは、二人で街に出る。
「帝都には様々な人々が暮らしています。それを知ることも、騎士として、また『黒剣隊』の長として必要なことでしょう」
思慮深いダリオの言葉に従い、エリカとリトは帝都の図書館まで、ダリオに教わったとおりの道を辿った。
〈それにしても、……たくさんの人がいるわ〉
広いがごみごみした通りを、リトと離れないように気をつけて歩く。エリカ達が滞在している、帝都の西端に位置する、母であるシーリュス伯の持ち物である小さいが美しい屋敷の側には似たような規模の屋敷が並んでいたが、そこから一歩、帝都の中心部へ歩を進めると、少なくとも四階建て以上に見える、石の基礎の上に木で雑多に建てられたごみごみとした住宅が並ぶ通りになる。そして更に中心部へ向かうと、帝都を縦断する、街に物資を運ぶ船が行き交う大河と、その両岸に所狭しと建てられた、やはり石と木の建物があった。帝都の北側には、帝が暮らす宮殿が建つ丘があり、その周りには広大な庭園と、公や元老と呼ばれる大貴族達の屋敷が盛大に広がっている。ごみごみとした通りと大貴族達の屋敷の間には、市が開かれる広場や商店の建ち並ぶ大通り、そして闘技場や戦車競技場がある。それら全てと、その雑多な街を歩く様々な人々を目にし、エリカは驚きと戸惑いで口も利けないほどだった。朝方に開かれるという市は既に閉まっているが、広場を歩く人々が騒がしいのはおそらく、闘技場で行われる試合への期待に興奮しているからだろう。本で読んだり、話に聞いたりしていた帝都の様子よりはずっと、騒々しくて、雑多で、……面白さも感じる。エリカ達が滞在する屋敷の更に西側、帝都の境を成す深い川の傍にある、羊たちが草を食み、子供達が白詰草で花冠を作って遊んでいた牧草地の光景と合わせ、エリカは帝都の光景をしっかりと脳裏に刻みつけた。
「えっと、図書館へは、広場から、闘技場とは反対の道に行く、と、確かダリオさんは言っていた、けど」
人でごった返す広場を、リトが大きく見回す。そのリトの顔色は心なしか、少し悪いように見えた。
「大丈夫?」
「あ、うん。……人に、酔っただけ。平原にも、砦にも、こんなにたくさんの人は、いなかったから」
だが、リトの袖を引っ張ってのエリカの問いに、リトは心配ないと言うようにエリカに向かって微笑んで見せた。
「図書館には、世界のことが書かれた本がたくさんあると、ダリオさんは言っていたね」
「ええ」
道を探しながらのリトの言葉に、静かに頷く。
「でも、お父様の本は、そこには無いの」
「え?」
続いてのエリカの言葉に、リトは意外そうな顔をした。
「でも、エリカの父上は、帝国でも名が知られた学者だったと」
「書物も書簡も、全部『黒剣隊』の砦に保管してあるんだって、お母様が」
「えっ?」
驚いたリトに、エリカは思わず微笑んだ。
エリカの父は、帝都の西方に位置する、丘と呼ぶにはあまりにも峻険な山々の向こうに広がる平原に生息する動植物を調査することを自身の使命としていた。エリカはそう、母から聞いていた。平原に跋扈する魔物を制し人々を守る役割を担っていた『黒剣隊』とは旧知の仲で、その縁で、『黒剣隊』を支援し、平原に一番近い『西の街』を差配するシーリュス伯家の娘であるエリカの母と結婚した。それが、エリカが母から聞いた、父の全て。平原を跋扈する魔物のことを憂慮していた時の帝とも、父は親交を深めていたという。
「そう言えば、砦の地下に、たくさんの書物が残されていたな」
不意に響いた、リトの言葉に、はっと顔を上げる。
「砦からの撤退を急かされていたから持ち出すことはできなかったけど、きっとその中に、エリカの父上が書いたものもあるはずだ」
砦に戻ることができたら、一緒に探そう。リトの言葉に、エリカはこくんと頷いた。
と。脇腹の辺りに感じた、微かな気配に、身を捩る。エリカの左腕が掴んだのは、細い毛むくじゃらの腕。その腕に握られた、殆ど何も入っていない、腰につけていた自分の財布に、エリカははっと息を吐いた。
〈掏摸って、本当にいたんだ〉
「はっ、放せっ!」
その毛むくじゃらの腕を持つ、窶れたように見える男が、エリカに向かって罵声を吐く。
「ちょっと腕が当たっただけだろうがっ!」
「では、君の手にあるその財布は?」
庇うように、エリカの前に立ったリトの言葉に、男は口を閉ざした。次の瞬間。
「優男風情がっ!」
男の身体がリトの方へ飛び上がる。しかしリトは一瞬で、男の身体を地面に伸した。
〈うわっ、やっぱり瞬殺……〉
騒ぎに集まってきた人々の、どことなく好奇に満ちた視線に、思わず下を向いてしまう。やはりリトは、……手加減ができない。
次の日も、剣術の稽古の後で、図書館に行く。
帰り道は、おそらく人が少ないと予想される、帝の宮殿が建つ北側の丘の麓をぐるりと回ることを、リトとエリカは選択した。
「帝都は、色々な『顔』を持っているんだね」
貴族階級が暮らす大邸宅と、その間に見える草地に、エリカの横を歩くリトが微笑む。確かに、リトの言う通り、この場所は、宮殿の南側に広がる喧噪に満ちた街とは打って変わった、静けさに満ちた場所だった。
と。
「……?」
その静けさを破る、争うような声に、身構える。
「あれは」
遠くを見たリトの視線を追うと、貴族屋敷の間に広がる草地の広場に、何人かの人影が、見えた。皆、紫色の飾りマントを留めた白色の服を身に着けている。帝直属の近衛騎士、紫金騎士団の服装だ。リトとともに皇太子殿下に目通りした時の、金釦のついた派手に見える制服が天井の高い謁見の間にずらりと並んだ光景を、エリカは少しの滑稽さとともに思い出した。
「紫金騎士団と、……黒銀騎士団の人もいる」
リトの指摘に、もう一度、大きく動く人影を注意深く見つめる。確かに、紫色のマントの中に一人だけ、リトと同じ黒の飾りマントを身に着けた人物が混じっている。
「剣の稽古をしているようだけど、……動きがあまり良くないな」
確かに、騎士達の動きは的確だし、特に真ん中にいる大柄な人物の、剣を振り下ろす素早さは群を抜いている。だが、攻撃を避けたり、避けた後で再び踏み込んだりする時の足の動きは、……下手だ。リトの指示通り、毎朝無意識に動かすことができるまで足捌きの練習をしているエリカには、リトの言葉がすぐに理解できた。
「帝都では、無用な争いは起こさない方が良いでしょう」
街中で掏摸を叩きのめしたことを耳にしたらしいダリオの言葉を、思い出す。エリカ達は何もしていないが、何もなくても難癖をつけてくる輩はどこにでもいる。騎士達からついと目を逸らし、別の道を探し始めたリトに、エリカはこくんと頷いた。
その時。
「やあ、リトじゃないか」
紫金騎士団に混じっていた黒マントの青年が、リトとエリカの方に手を振るのが見える。仕方が無いと言うように唇を横に伸ばしたリトの横顔を見、エリカもリトの後ろから騎士達の方へと歩を進めた。
「黒銀騎士団の長、シアノ殿だ」
黒銀騎士団は、帝都の西方を守ることが職務。その長が何故、この帝都で紫金騎士団と一緒に剣の稽古をしているのだろう? 首を傾げたリトに、エリカも首を傾げた。その間に、黒銀騎士団の長、シアノは、どことなく頼りなげな雰囲気を漂わせた笑顔で、リトの方へ握手の手を伸ばしてくる。
「久し振りだな、リト。平原のことで、陛下に報告に来たのか」
「はい」
リトにとっては、シアノは、同じ黒銀騎士団の上司にあたる。だから、というわけではないのだろうが、リトはシアノに小さく頭を下げ、そして一歩、後ろに下がった。
「謁見の間で見たぞ、そいつ」
そのシアノの横から横柄な声が割って入る。暑い初夏の日差しにも拘わらず、紫色の、分厚く見えるマントを羽織っている。先程エリカが見た、素早く剣を操っていた騎士だ。そのことに気付くよりも早く、庇うようなリトの腕がエリカの前に伸びた。
「平原の魔物を剣一つで退治してきた『黒剣隊』の長だと言うじゃないか」
「ラウル殿」
紫のマントを羽織る、リトを馬鹿にしたような傲慢な物言いの騎士に、びくっと震えたシアノが一歩下がって場所を譲る。そして。
「えっ!」
何の前触れもなく、ラウルと呼ばれた騎士は、リトに向かって手の中の大剣を目にも留まらぬ早さで振り下ろした。
「リトっ!」
しかしエリカが叫ぶ前に、リトは揺れるような動作でその必殺に見えた刃をかわす。そして。リトはラウルの方へ一歩踏み込むと、その小さな拳をラウルの腹へとめりこませた。
「うぐっ……!」
一声呻いたラウルが、草地の地面に頽れる。
「あ……」
「ら、ラウル殿っ!」
やはりリトは、……手加減ができない。身震いを示したシアノと、顔色を変えてラウルを助け起こしたリトを見つめ、エリカは息を吐いて微笑んだ。
その、次の日。
エリカとリトは、帝の宮殿が建つ丘の北西部へと向かっていた。
「……全く。無用な争いは避けてくださいと、あれほど申し上げましたのに」
リトから昨日の一部始終を聞き、呆れた顔をしたダリオの声が、脳裏に響く。先に攻撃を仕掛けたのは、向こうだ。そう言ったエリカを、ダリオは頷くだけで制した。
「ラウル殿は、帝の近衛騎士でもある『紫金騎士団』の団長。帝の従兄弟でもあるオルディナバ公の長子なのですよ」
帝の覚えもめでたい公の機嫌を損ねてしまっては、リトの願いである「できるだけ早く平原に戻る」という希望が理不尽な理由で潰されるおそれがある。あくまで冷静なダリオの言葉に、エリカは頷くしかなかった。そのダリオの助言で、エリカはリトとともに、帝の宮殿がある丘の麓にあるオルディナバ公の屋敷に向かっていた。
「ここ、かな?」
丘の北西部。どこまでも続くように見えた塀の中にやっと、金属製の門を見つける。巨大なその門の真ん中に描かれている紋章は、帝のみが身に着けることができる『輝く太陽』に、一重の薔薇を重ねたもの。ダリオの説明と同じものだ。
「ここ、だね」
意を決したように頷いたリトが、冷たい門を押し広げる。重い音を立てて開いた、その門の向こうに見えたのは。
「綺麗……」
目にしたものに、思わず、感嘆の声を上げる。
エリカとリトの目の前に広がったのは、無数の薔薇、白い薔薇、黄色い薔薇、薄い赤から濃い赤まで様々な赤色を見せる薔薇。紫や黒や緑の薔薇も、遠くに見える。
「すごい数の薔薇だね」
むせかえるような甘い香りが苦手なのか、端正な顔を少しだけ歪めたリトが、それでもエリカと同じ感嘆の声を上げる。
「しかし屋敷はどこだろう?」
薔薇しか見えない周囲を見回したリトに、この屋敷を訪れた理由を思い出したエリカもきょろきょろと辺りを見回した。
と。
「そこにいるのはどなた?」
明るい声とともに、白いドレスを着た、エリカと同い年くらいの少女が薔薇の間から姿を現す。
「……あら」
その少女は、リトを見て大きく笑った。
「確か昨日、お兄様を殴って気絶させてた人」
昨日は気付かなかったが、どうやらこの少女も、紫金騎士団の稽古をエリカ達とは別の場所で見学していたらしい。
「お兄様を打ち負かすことができる人、初めて見たわ」
あのお兄様が為す術もなく気絶するなんて、可笑しい。リトとエリカの前で大きく笑い続ける少女に、エリカはほっと胸を撫で下ろした。少なくとも、ラウルを『兄』と呼ぶこの少女は、怒っていない。
「私、ブランカ。あなた方は」
「あ、リトと言います」
「エリカです」
そして。笑いながら薔薇園の奥の方へ向かう、ブランカという名の少女の手招きに、一瞬躊躇う。ここへ来た目的は、ラウルに謝ること。だが。
「放っておいて良いわよ、お兄様のことなんて」
あっけからんとしたブランカの言葉に、躊躇いが消える。
「いつも『自分が一番だ』って思っている人なんだから、一度鼻っ柱をヘし折ってやった方が良いのよ」
続くブランカの声に、エリカはリトの手を取った。
「行きましょう」
「え、……でも」
「お兄様だったら、今、宮殿だから」
蔓薔薇で作ったアーチの向こうから響く言葉に、仕方が無いという顔をしたリトの小さな手を、エリカはそっと、握った。
そしてブランカの先導で、見事な薔薇園の中を歩く。エリカの父がエリカの母に贈ったという蔓薔薇は見当たらなかったが、母が中庭に植えていたものと同じ花の形をした薔薇が幾本も、エリカの瞳に優しく映った。
「紋章にも使われているくらい、この薔薇園は、オルディナバ公家の誇りなのよ」
そのエリカの耳に、ブランカの明るい声が響く。
「最近は、皇帝陛下も気に入っているみたい。お父様が時々、従者に言いつけて切り花を多量に宮殿へ持って行っているのよ」
香りが強い薔薇の側に来た所為か再び端正な顔を歪めたリトに、エリカは思わず微笑んだ。
と。
「客人の案内ご苦労、ブランカ」
横柄な声が、空間に割って入る。顔を上げると、昨日リトが腹を殴ったラウルの、上背のある傲慢な姿が、エリカとリトの前にあった。
「あらお兄様、いつお帰りに」
「さっきだ」
妹であるブランカの言葉にそう答えるなり、ラウルがリトの前に立つ。
〈何を……!〉
エリカが身構えるより先に、ラウルはリトの小さな背をその大きな手で軽く叩いた。
「悪かったな。昨日はいきなり剣を振り回して」
何度もリトの背を叩くラウルの声は、意外にも、屈託の欠片も感じられない。怒って、いない。エリカは大きく息を吐いた。
「しかし、さすが、シアノよりも黒銀騎士団長に向いていると言われているだけのことはある」
「いえ、ラウル殿」
そのエリカの目の前で、ラウルに誉められたリトが首を横に振る。
「シアノ殿は、私より立派な騎士団長ですよ」
リトも所属する、帝国西方を守護する黒銀騎士団の長、シアノは、帝の血筋に連なる大貴族の息子であると聞いている。大貴族というだけで騎士団長の位を手に入れた、実力を伴わない人物だとも。確かエリカの母も、シアノの無能さをしばしば貶していた。だが。……母は、剣の技も人をまとめる術も卓越したリトが黒銀騎士団の長になるべきだという意見にも、難色を示していた。
「リトは、『黒剣隊』の隊長として自由に振る舞っていた方が実力を発揮できるわ」
前に母が呟いていた言葉が、エリカの脳裏を過ぎる。確かに、リトは、剣を持って戦っている方が、美しく見える。背の高いラウルに肩を叩かれ、困ったように微笑むリトに、エリカも何故か、困ったような心持ちになった。
と。
「そうだ」
リトから離れたラウルが、不意に、エリカの前に立つ。
「美しい人に、この花を」
そう言って、ラウルがエリカに差し出したのは、濃い赤色の、すっきりとした姿をした一輪の薔薇、だった。
ベッドの横の腰棚の上に置かれた、小さな花瓶に挿された薔薇を、寝起きの瞳でぼうっと見つめる。
〈この花、いつまで保つのかしら?〉
取り留めもなくそんなことを思いながら、エリカはおもむろに、ベッドの上に上半身を起こした。
ラウルがエリカに、この、濃赤色の薔薇をくれてから、十日余り。その間に、ラウルは二度、エリカを婚約者のリトとともに、ラウルの父オルディナバ公が主催する昼食会に招いてくれていた。そして昨夜は、晩餐会にも。
「オルディナバ公経由での人脈を作っておけば、リト殿も早めに平原へ戻ることができるかもしれませんね」
思慮深い家令ダリオの助言に背を押される形でラウルの招待を受けたエリカだったが、やはり、公の豪奢な屋敷にも、そこに集う華麗な人々にも、どこか気後れを感じてしまう。ラウルの妹であるブランカとは何故か気が合い、特に薔薇に関するお喋りに花が咲くのだが、他の、エリカと同年齢くらいに見える女性達の、衣装や化粧や高位の男性達に関する話は、エリカには正直ばかばかしく思えた。西の街に暮らしていた頃から、取り留めのない話をするよりも、野山を駆け回る方がエリカの性に合っていた。街や、その周りに広がる町や村や森や平原のこと。季節が変わるごとに変化する空や風や花のこと。そういうことを話している方が、エリカは好きだった。そう、……リトと、一緒にいるときのように。リトの方も、豪奢な人々が集う昼食会や晩餐会は苦手であるようだ。リトより上背のある男達の自慢げな笑いを静かに聞いているだけのリトの、穏やかに見えて誰にも分からないほど微かに眉を顰めた表情を思い出し、エリカはふふっと笑った。
もう一度、ベッド側の、咲き誇ったままの薔薇に目を留める。
〈お母様にこの薔薇を見せたら、何て言うかしら?〉
きっと、エリカの父が母に贈った、西の街のシーリュス伯の屋敷を飾る蔓薔薇の方が綺麗だと言うだろう。ある意味強引な母の顔を思い出し、エリカは再びふふっと笑った。母の強引さに呆れることは多いが、それでも、女手一つで、シーリュス伯という、西の街やその周辺を守護する職務の長をこなしている母に、エリカは特別な想いを抱いていた。
〈ブランカに頼めば、これと同じ薔薇の苗を、西の街に帰るときの母のお土産にできるかしら?〉
いつまでもその美しい姿を保っている、濃赤色の花弁を、エリカはずっと見つめ続けていた。
と。
「いつまで寝ているつもりですか?」
聞こえてきたダリオの、静かな怒りに満ちた声に、はっと薔薇から目を離す。
「昨日夜遅かったのは認めます。ですが、そんなにだらだらしていて良いのですか、エリカお嬢様?」
「あ、……はい」
どんなときでも常に、きちんと、規則正しく生活すること。母とダリオに毎日言われている言葉が脳裏を過ぎる。こんな、少し気怠いときこそ、リトに剣術を教えてもらってすっきりしよう。エリカは一息でベッドから飛び起きると、ダリオを部屋から追い出して素早く普段着に着替えた。
だが。
「あ、れ?」
屋敷のどこにも、リトが、居ない。昨日の疲れで、まだ眠っているのだろうか? しかしリトの部屋を覗いても、きちんと整えられたベッドが見えるだけ。やはり、リトは、どこにも居ない。
「リトは?」
食堂を整えていたダリオに、尋ねる。
「知りませんよ」
ダリオの返答は、どことなく怒りと呆れを含んでいた。
「婚約者がいるにも拘わらず、他の男性からもらった花をうっとりと眺めている女性に、愛想を尽かしたのかもしれませんね」
「えっ……!」
あの薔薇に、ラウルのことなど重ねてはいない。ただ、綺麗だから、飾っているだけ。ダリオにそう抗議しようとしたエリカは、しかしダリオの咎めるような視線に押し黙った。あの薔薇は綺麗だから、部屋に飾っている。だが、リトからみたらどうだろうか? もしエリカがリトだったら、ダリオの言う通り、他の男の人からもらった花に目が眩んでいる軽薄な女性だと、判断する。なおもエリカを呆れるように見つめるダリオに、エリカはうなだれて息を吐いた。リトに、悪いことをしてしまった。しかし、あの綺麗な薔薇を、捨てるのは、惜しい。だから。
「オルディナバ公の屋敷に行ってくる」
顔を上げて、ダリオにそう言う。
「勘違いしないで。ブランカに薔薇を返しに行くだけだから」
そしてエリカは、呆れと怒りをありありと顔に浮かべたダリオに背を向けた。
「わざわざ返しに来なくても」
薔薇園で、エリカが差し出した薔薇を受け取ったブランカの呆れ声に、少しだけ微笑んで、俯く。綺麗な薔薇は惜しいが、リトの方が、大事。それが、エリカの偽らざる想い。
「そんなにリトさんのことが好きなんだ」
「う、うん……」
茶化すようなブランカの言葉に、頬が熱くなるのを感じる。
「確かに、あのお兄様を打ち負かせる人だもんねぇ」
続くブランカの言葉に、エリカはこくんと頷いた。だが。
「本当に、素敵よねぇ。背は低いし、華奢で全然強そうには見えないけど、物静かで、美人で」
続くブランカの言葉に、息が止まる。
「お兄様や他の騎士達みたいにがさつじゃないし、実は狙ってる女友達も多いのよ」
「えっ……!」
リトは、私の婚約者、なのに。その言葉を、辛うじて飲み込む。リトとエリカの婚約を決めたのは、何事も強引なエリカの母。リトがエリカ以外を選ぶのであれば、エリカは異を唱える立場には、無い。でも。周りが急に暗くなった気がして、エリカは上着の裾をぎゅっと握った。
「でも、リトさんはエリカさん一筋みたいね」
そのエリカの耳に、あくまで明るいブランカの声が響く。
「昨日の晩餐会で、友達の一人がリトさんに告白したみたいだけど、『婚約者がいるから』ってリトさん断ったみたい」
「そ、そう……」
そのブランカが紡ぐ言葉に、エリカは心からほっと、胸を撫で下ろした。
そのままブランカと薔薇のことで話し込んでしまったエリカが帰路についたのは、既に日がだいぶん傾いている頃。
「急いで、帰らなくちゃ」
屋敷に戻っているであろうリトが、心配しているかもしれない。急いていた足が、さらに急く。近道である、帝都の西の境界線となっている川沿いの小道を、エリカの足はステップを踏むように走っていた。
と。エリカが歩く道の横、川の方に一段低くなった石の多い場所に、白いものを見つける。
「何かしら?」
好奇心のままに川原の方に下りたエリカが見たのは、川原に散乱する、踏みにじられた白詰草。そして。その少し先の、流れる水の中にある岩に引っかかっている黒いものに、エリカの息は止まった。あの、流れの間に見え隠れする、斜めになった縫い跡は、知っている。エリカが縫って、リトが常に身に着けている、飾りマント!
「リト!」
滔々と流れる川に、叫ぶ。
帝都の防御を兼ねているこの川は、時々堆積物を掘り出して水深を深くしていると、図書館の本にあった。平原の、荒野の生活しか知らないリトは、泳ぐことができただろうか? 不吉な予感が胸を押し潰すのをどうにか振り切り、エリカは下流へと走った。この川は、下流で、帝都を縦断する大河に合流する。船も往来するその大河まで流されてしまっていたら。もう一度、脳裏を過ぎった不吉な考えを、エリカは首を強く振って振り落とした。
と。川が大河に合流する手前の、大きく蛇行する場所にできた大きめの川原に、人だかりを認める。まさか。整わない息のまま、エリカは人混みをかき分けた。
「リトっ!」
人混みの真ん中に横たわっていた人物に、全身の力が抜ける。砂よりも石の多い川原に、エリカは膝から頽れた。
「リト……」
身動き一つしないリトの髪は頬に張り付き、あちこちに斬られたような跡が見える灰色の服は泥と血で汚れている。だが、……息は、ある。
「良かったぁ」
頬を流れ落ちる涙を、エリカは止めることができなかった。
川原に集まっていた人々の手を借りて、怪我で動けないリトをエリカの屋敷に運び込む。
「命には別状ありませんが、かなり手酷く殴られていますね。……矢傷も、あります」
医術の心得もあるダリオを手伝いながらリトの怪我の酷さを見、エリカは唇を噛みしめた。
『黒剣隊』の長として辣腕を振るっていたリトの実力は、まだ短い間しかリトと接していないエリカもしっかりと分かっている。帝都に向かう森の中でいきなり現れた魔物を退治したり、難癖を付けてきた紫金騎士団の長ラウルを一瞬で気絶させたりしたリトの武術を間近で見ているのだから、当然。そのリトに、ここまでの怪我を負わせたのは、いったい何者? ダリオが見つけた、リトが握っていた金色の釦に、エリカはすぐに答えを出した。
〈まさか、……ラウル、が?〉
昼食会や晩餐会で見た、屈託の全く見えないラウルの笑顔が、脳裏を過ぎる。まさかとは思うが、屈辱を晴らす為に、数を頼んでリトに不意打ちを仕掛けるよう、ラウルが自身の部下達に命じたのなら、……悲しい。
そして。
「リト……」
ダリオの手当が良かったのか、月明かりが降り注ぐ部屋で静かに眠るリトの、怪我の熱に浮かされた額に冷たい手ぬぐいを置く。リトが川原にいた理由は、おそらく、川原に近い牧草地に咲く白詰草を摘む為。ラウルから渡された薔薇に喜ぶエリカを見て、自分も花を贈ろうと思ったのだろう。川原に散乱した、踏みにじられた白い小さな花々を思い出し、エリカは俯いてリトの、少しだけ歪んだ端正な顔を見つめた。
「ごめんね、リト」
小さな声が、響く。
その時。
「……え?」
不意の人の気配に、顔を上げる。立ち上がってリトを庇うより早く、暗い色をした影はエリカを突き飛ばし、青く濡れた短刀を眠るリトの胸に振り下ろした。
「だめっ!」
叫ぶ前に、無意識の動作で凶客を突き飛ばす。左手に走る痛みに構わず、エリカは西の街での武術訓練で培った大声を出した。
「ダリオっ! 来てっ!」
次の瞬間。再びエリカとリトに襲いかかろうとした暗い影が、力を無くして床に頽れる。その影の後ろにいたのは、どことなく不敵な笑みを浮かべた、リトよりもさらに小柄な青年。
「誰だっ!」
エリカの叫び声が聞こえたのだろう、素早く駆けつけてくれたダリオが、青年の襟を強く掴む。
「大丈夫です、ダリオさん」
騒ぎで意識を取り戻したのであろう、穏やかなリトの声に、エリカはほっと胸を撫で下ろした。
「こいつは、『軽業師』のパキト。『黒剣隊』の、私の部下です」
「やっぱりここにも来てましたか、刺客」
ダリオが襟を離す前に、リトがパキトと呼んだ青年は床に頽れた暗い色の服をまとった影に唾を吐く。
「しかも毒を塗った短刀ときたもんだ」
「リト殿が、誰かに狙われているというのですか?」
「隊長だけじゃない」
パキトに鋭い視線を向けたダリオに、パキトは深刻な言葉を吐いた。
「『黒剣隊』全員が狙われている」
「何だと!」
怒りの色を帯びたリトの声が、辺りの空気を震わせた。
「俺が知っているだけでも、数人、刺客の手に落ちてますぜ、隊長」
「そんな……」
唇を噛みしめるリトを、エリカは呆然と見つめた。
「と、すると、ここも危ない。そういうことですね」
パキトの言葉を数瞬で噛み砕いたダリオが、頷く。
「すぐに逃げる支度をします。夜明け前にはここを発ちましょう」
「お願いします」
エリカ達に素早く背を向けたダリオに、リトは小さく頭を下げた。そして。
「……パキト」
ダリオが部屋を去ってすぐに、リトがエリカの左手を掴んで引き寄せる。
「解毒剤はあるか?」
「もちろん、持ってますぜ」
「いつものことながら、用意が良いな」
引き寄せたエリカの掌に唇を這わせたリトに、エリカの全身は硬直した。
「な……」
叫ぶことも、エリカの左手首を掴むリトの熱い手を振り解くことも、できない。
「じっとしてて」
そのエリカの耳に、エリカの掌から唇を放し、近くの盥に何かを吐き出したリトの穏やかな声が響いた。
「毒を吸い出しているだけだから」
そう、言われてみれば。刺客を止めたときに感じた左手の痛みが、痺れるように熱くなっている。パキトから受け取った乾いた草のようなものを噛んで柔らかくし、エリカの掌に押しつけるリトが、どこかぼうっとして見える。
「手が震えてますぜ、隊長。包帯、自分が巻きましょうか?」
「いや、いい。私が巻く」
おそらく毒の所為だろう。胸が痛くなるほど、鼓動が早い。エリカの左手に、リトの怪我の治療に使った包帯の残りを巻くリトの、熱の所為で震える手を、エリカはただ呆然と、見つめ続けていた。
走る馬車から見える、深い森の木々の色に、ほっと息を吐く。
リトが吸い出しきれなかった毒が全身を蝕んでいる所為か、身体は怠い。しかし、帝都は、既に遠くなっている。エリカ達が戻る西の街も安全とはいえないかもしれないが、それでも、ここまでは、誰も、リトを害そうとしているもの達は、現れてはいない。そのことが、エリカを心底ほっとさせていた。
「大丈夫?」
不意に、熱い手が、エリカの手に触れる。隣に座る、リトの、まだ癒えていない怪我からの熱が、エリカの背を震わせた。
「まだ、熱があるね」
肩に凭れてもいいよ。リトの申し出に、小さく首を横に振る。リトの方が、怪我は酷い。リトの方こそ、ちゃんと休んでいないといけないのに。それでも、再びエリカの腕を引いたリトに、今度はエリカは逆らわなかった。
そっと、リトの肩に頭を置く。華奢な身体つきからは意外に思えるほど、リトの肩は筋肉質で固く、そして灰色の服越しに伝わってくる熱は、心地が良かった。
「怪我、大丈夫?」
うとうとするエリカの耳に入ってくる、リトの気遣わしげな声も、快い。気怠げにこくんと頷くと、膝に置いたエリカの、包帯が巻かれた左手に、リトの熱い手が重なった。
「自分が、こんなに嫉妬深いとは、思わなかった」
独り言のような、リトの声が、静かな空間に響く。リトのその言葉が、エリカには意外に、そして嬉しく響いた。
リトの肩に凭れたまま、そっと目を閉じる。
「しかし。……誰が、『黒剣隊』の隊員達を」
確かに、そうだ。リトの唸りを、エリカは自身のこととして聞いていた。『黒剣隊』は、魔物から人々を守る為の隊。それ以外の職務は無かったはず。職務が故に命を狙われるのではないとすれば、一体何が原因なのか? 分からない。心の奥底でそっと、エリカは首を横に振った。
と。
街道脇の小道を滑らかに動いていた馬車が、急に止まる。
「何事だ?」
眠りかけたエリカの身体を庇うように支えたリトが、エリカから離れて馬車を降りる、その後ろ姿に、エリカははっと目を覚ました。
「森の中に、誰かが倒れてるようですぜ、隊長」
そのエリカの耳に、馬車の屋根の上で襲撃者を見張っていたパキトの声が入ってくる。馬車のカーテンを開き、パキトが示す先に目を凝らすと、確かに、森の木々では無い色が、見えた。
怪我があるのに、それでも俊敏なリトの背を追って、エリカも馬車から降りる。
「お嬢様!」
家令ダリオの制止を聞きながら、エリカは馬車備え付けの弩を手にし、リトとパキトの後を追った。
すぐに、リトの足が止まる。パキトが抱き起こしたのは大柄な、しかしまだ少年の顔をした青年だった。
「チコ? チコなのか?」
少年の顔を見たリトが、驚きの声を上げる。
「『黒剣隊』の見習い騎士だったやつだ」
事情が飲み込めないエリカに、パキトがそう、説明してくれた。
「確か、『黒剣隊』の他の奴らと一緒に西方の森を開拓しているという近況報告があったが」
パキトの言葉を聞きながら、エリカは、チコの肩を揺するリトを見つめていた。
「……た、隊長!」
リトの気付けに、少年が目を覚ます。
「隊長! すぐ来てください!」
そしてチコという名の少年はすぐに立ち上がり、森の奥を示した。
「いきなり、変な奴らが、農場に!」
「分かった」
おそらく、パキトが言っていた、『黒剣隊』を襲う輩だろう。リトの冷静な呟きに、エリカもこくんと頷いた。おそらく、卑怯な手段でリトを襲った奴らと、同じ奴ら。だから。少年の後を追って走る二人の後を、エリカも全速力で走った。
だが。
森を抜けたエリカが最初に見たのは、呆然と立ち尽くす大柄な影。その影の足下には、首をはねられた無惨な遺体が、あった。
「アーロンさん……」
おそらく、チコと一緒にこの森で暮らしていたのであろう、小さく動かない背を、チコが撫でる、その痛ましい姿を、エリカは見つめることしかできなかった。
「ダメだ」
そのエリカの耳に、おそらく開拓地を一通り見て回ってきたのであろうパキトの歪んだ声が響く。
「みなやられちまってる」
そのパキトの後ろから現れたリトの、肩を落とした姿に、エリカの胸は痛んだ。
「どんな奴らが襲ってきたか、分かるか、チコ?」
それでも冷静な、リトの言葉が、響く。
「分からない」
リトの言葉に、座り込んだチコは首を大きく横に振った。
「みな、顔を隠していた」
「そうか」
チコの言葉に俯いたリトが、不意に顔を上げる。
「どうしたの?」
エリカの言葉に、リトは首を傾げてから答えた。
「薔薇の匂いがする」
「え?」
リトの言葉に、辺りを見回す。しかし見えるのは、開拓途中のまだ荒れた土地と、倒れそうな荒ら家、そして倒れている人々だけ。土と血の、胸が悪くなるような匂いはするが、薔薇の香りは。
「とにかく、ぼうっとしている暇は無い」
エリカが首を傾げるより先に、リトの声が響く。
「我々も早く、ここから立ち去らなければ」
後から来たダリオも手伝って、殺された人々をできるだけ丁寧に急いで葬り、再び馬車に乗り込む。チコの怪我に響かないよう、それでも急いで馬車を走らせた為か、エリカが生まれ育った西の街まで辿り着くのにそこまで時間は掛からなかった。
夜の帳が降りた頃、西の街を守る城壁に辿り着く。城門は既に閉じられた後だったが、幸い、城壁の門を守る警備隊員は、エリカの武術の師匠。何も聞かれることなくすぐに、エリカ達の乗った馬車は城門を潜り抜けることができた。
「街に何か、変わったことは?」
門を通り過ぎる際、ダリオが師匠にそう尋ねる。
「いや。特に何も。……黒銀騎士団の団長が友人を連れて来て騒いでたくらいか」
師匠の回答に、エリカの横にいたリトがほっと息を吐いた。
「ここはまだ、安全だな。……今のところは」
「油断大敵ですよ」
リトの声が聞こえたのか、馬車の屋根で馬車を操るダリオの注意喚起が戻ってくる。しかしながら。
〈ここは、お母様の街。お母様がいる限り、何も悪いことは起こりっこない〉
普段の葛藤を忘れ、重要な場面では常に正しく辣腕を振るっていた母を思い出す。その街に、戻ってきた。リトの横で、エリカも安堵の息を吐いた。
だが。
シーリュス伯の屋敷の門前で、異変に気付く。
「蔓薔薇が!」
馬車から門を見上げたエリカの口から出たのは、悲鳴だった。
学者であった父がこの街を差配する伯である母に贈った、屋敷を守るように壁を伝っていたはずの薔薇が、すべて無惨に枯れてしまっている。
「根本が、切られているな」
護衛についていた馬車の屋根から身軽に地面に降り立った『軽業師』パキトが、門脇の花壇に鋭い目を向けた。
「こんなことをする人がいるなんて」
震えるチコの声を背に、無言のリトに続いて馬車を降りる。屋敷に入った瞬間、エリカは我が目を疑った。
「こ、れ……」
母が綺麗に整えていた中庭も、部屋も、嵐が通り過ぎた後のようにすっかり荒らされている。そして。部屋の奥に見えた、小さな影に、エリカは足を震わせながら近づいた。
「エリカっ! 行っちゃダメだっ!」
いつになく強く、エリカの腕を掴むリトの手を、強引に振り解く。そしてエリカは、家令ダリオが抱き起こした、物言わぬ母のそばに、そっと膝をついた。
「どう、して……」
床に広がった暗い染みに、絶句する。母は、……殺された。でも、誰に? そこまで考えたエリカの身体は、しかし小さな手によって母から引き剥がされた。
「きゃっ!」
「ここも、危険だ」
冷静なリトの声に、手足をばたつかせて抵抗する。
「逃げるよ」
「いやっ!」
母を追いて、逃げるわけにはいかない。エリカを抱き上げたリトの身体をところ構わず叩く。しかしエリカの渾身の抵抗に、リトはびくともしなかった。
「リト殿」
そのエリカの耳に、ダリオの、冷静な声が響く。
「ここは私が何とかします。リト殿は、……エリカお嬢様を頼みます」
「いやっ! 放してっ!」
『黒銀騎士団』なら、この街の抜け道を知っているはずです。ダリオの言葉に頷いたリトを感じ、がむしゃらに抵抗する。しかし次の瞬間、甘い匂いが鼻をくすぐると同時に、エリカの意識は急速に、暗い方へと落ちて、いった。
はたと、目覚める。
雲一つ無い青い空と、どこまでも続く草も疎らな大地が、目覚めたエリカを出迎えた。エリカのそばで俯く、リトの、母に似た横顔も。
「済まない、エリカ」
エリカが目覚めたことにすぐに気付いたリトが、エリカに頭を下げる。
「手荒なまねをして」
「……ううん」
母が誰に殺されたにせよ、エリカに危険が及ばないよう、ダリオはエリカをリトに託し、そしてエリカを託されたリトは、ダリオに応える為に、おそらくパキトが持っていた気を失わせる毒をエリカに嗅がせた。ただ、それだけのこと。冷静にそう考え、エリカはリトに首を横に振ってみせた。そのエリカの頬を、涙が伝い落ちる。リトが差し出したハンカチで、エリカは涙を拭いた。
そしておもむろに、辺りを見回す。
「ここが、平原?」
小さな声で尋ねると、リトはこくんと頷いた。
「そう。……そしてあれが、『黒剣隊』の砦」
二人が隠れている小さな窪みの向こうを、リトが指し示す。リトの指の遙か向こうには確かに、小さな灰色の固まりが見えた。
「無人になったのを良いことに、誰かが占領しているらしい」
だから、パキトとチコを偵察に立たせ、リトはエリカのそばについている。リトの説明に、エリカは小さく頷いた。
と。
「隊長」
二人の前に、大柄な影が立つ。
「隊長しか知らない抜け道は、誰も見張っていないようでしたよ」
パキトの観察では、砦に籠もっている奴らの人数もたかが知れているとのことです。リトの部下の一人、チコの言葉に、リトは微笑んで立ち上がった。
「じゃあ、行こうか」
そしてエリカの方へ華奢な手を伸ばす。
その手を掴まずに、エリカは身軽に立ち上がった。
エリカ達が休んでいた窪み近くの、荒野に佇む岩影に設えられた小さな入り口から、地下道へと降りる。荒れた平原は乾いていたが、ここは、少し湿っぽい。人一人が通るのがやっとの通路を、エリカはリトの背を見つめながら進んだ。
「出口はまだですか、隊長?」
時々天井に頭をぶつけているらしいチコの声が、狭い通路に情けなく響く。
「しっ、静かに」
その通路を身軽に通り抜けるリトは、ぼやくチコに宥めるような視線を向けた。
「もう少し、だから」
リトの言葉通り、しばらく進むと、少し錆びた取っ手を持つ木製の扉が見えてくる。その取っ手を少しだけ斜めにひねると、扉はすぐに開き、天井の高い空間が現れた。
「ここは……」
その空間の端に無造作に積み上げられた、本や書類らしきものに、目を見張る。
「ここに戻って来れて良かったよ」
空間を見回し、リトは安堵の息を吐いた。
「撤退を急かされたから、砦にあった本も書類も整理できなくて、ここに置きっぱなしにしたんだ」
と、すると。前にリトが話していた、父が遺した本も、ここにあるかもしれない。期待に、胸が膨らむ。しかし、今は、それよりも。もう一つの扉に耳を澄ませたリトが、頷いて先程と同じように取っ手を斜めに捻る。扉の先には、急な階段。そして階段の先には、リトのもう一人の部下であるパキトが笑みを浮かべていた。
「遅いですぜ、隊長」
ニヤリと笑うパキトにリトも口の端を上げる。
「どうやらここにいるのは、盗賊ではないようですぜ」
階段を登るエリカの耳に、パキトの、小さいがよく通る声が響いた。
「では、誰が?」
「隊長の部屋に行けば分かりますさ」
「分かった」
口の端を上げたままのパキトに、リトは真顔で頷く。そして。不意に、リトは腰に挿した短剣をエリカの手の上に置いた。
「一応の用心。悪いけど、ここでは、自分の身は自分で守って」
「もちろん」
リトの短剣は、エリカが西の街で訓練に使っていた短剣よりもどっしりとしている。しかしリトの小さい手に合わせているのであろう、柄は、エリカの手にしっくりとはまる。これなら、使える。剣を抜き、砦を守る周壁に設えられた塔の最上階に位置するという隊長室への階段を一つ飛ばしで登るリトの背を見つめながら、エリカもパキト達に遅れないよう、身軽に階段を登った。
そして。
「……なんだ」
突然の訪問者に驚いた、最上階の部屋でくつろいでいた髭面の男に剣の切っ先を向けたリトが、剣を下ろして肩を竦める。
「盗賊かと思ったら、ウーゴじゃないか」
どうやら、砦を占領していたのは、リトの部下達だったらしい。リトの顔を見るなり、ウーゴという名の男は、座っていた安楽椅子から飛び降りてリトに向かって平伏した。
「何故ここに? やっぱり殺されそうになったからか?」
「はい……」
平伏した男の目からこぼれた涙が、床を濡らす。ウーゴも、この場所に潜んでいる他の者達も皆、元『黒剣隊』の一員。隊の解散後、帝国のあちこちに散らばり、新しい生活を始めたが、隊の仲間が理不尽に殺されたという噂を聞き、逃げてきた者達。
「まさか、隊長も?」
リトの袖から覗く、解けかけた包帯に、顔を上げたウーゴが目を丸くする。
「まあ、そういうことだ」
「そんな……」
「それでも、今のところは無事だ」
絶句するウーゴに、リトは小さく頷く。そして。
「我々を脅かしている原因が見つかるまで、ここにいた方が良いな」
それで、良い? はっきりとした言葉の次に呟かれた、エリカに対する小さな言葉に、エリカもはっきりと、承諾の頷きを返した。
「たっ、隊長っ!」
何時に無く急いたチコの声が、緊張感に満ちた砦の中庭に響く。
「……キカ?」
その声で、隊員に剣の技を教える為の模擬剣を下ろしたリトが、チコの背中でぐったりしている影を認めて声を上げた。
「キカじゃないか。どうしたんだ?」
「砦と丘との間をパトロールしてたら、草陰で倒れてた」
武術訓練に加わっていたパキトの問いに、チコが答える。まだ少年にしか見えない、チコの後ろの小さな影に、武術訓練に加わっていたエリカは大きく息を吐いた。おそらく、キカという名のこの少年も、エリカの婚約者であるリト達と同じ『黒剣隊』の一員。そして。……命を狙われ、這々の体でここまで逃げてきた。
「とりあえず降ろして」
中庭の隅の長椅子に素早く自分のマントを敷いたリトに頷いたチコがそっと、キカの小さな身体を長椅子の上に乗せる。
「大丈夫か?」
パキトが持って来た水をリトが飲ませると、小さな影はゆっくりと瞼を上げ、そして見開いた目をぱちぱちさせながら周りを見回した。
「た、隊長……。みんなも……」
「無事で良かった」
リトの服を掴んで泣くキカの髪を、リトが優しく撫でる。しかしすぐに、キカはリトの服から手を離した。
「どうした?」
「丘の麓に、帝国の騎士達が集結しています。……大勢」
唇を噛みしめたキカの言葉に、砦の中庭にいた隊員達の顔色が変わる。
「やはり、来たか」
その中で、隊長であるリトだけが一人、冷静に頷いた。
「しかし意外に遅かったですね」
そのリトに、パキトが、普段通りの軽口を叩く。
「ま、遅かれ早かれ、だ」
そう言うと、リトは中庭に隊員全員を集めるよう、パキトに指示した。
母が何者かに殺され、リト達とともにエリカがこの砦に隠れてから、既に一つの季節が過ぎていた。その間に、帝国を統治する帝によって解散させられ、帝国の各地に身を寄せていた『黒剣隊』の隊員達は三々五々、自分の身を守る為に、この、『黒剣隊』の拠り所であった、平原を開拓する人々を跋扈する魔物から守る為の砦に戻ってきていた。
だが、既に暗殺者の手に掛かってしまった者もいる所為か、今の段階で、砦に隠れている人数は少ない。頑丈な砦があるとはいえ、少人数で、多勢と戦って大丈夫なのだろうか。次々と集まってくる、様々な年代や身体つきの人々を見つめてから、エリカは同じように集まってくる隊員達を見つめるリトの、端正だが青みが増した横顔を見つめた。
「やっぱり、逃げるが勝ち、ですか?」
そのエリカの横で、パキトがリトに尋ねる。
「最終的にはそうするしかないだろう。食料無しで冬は越せない。……だが」
小さな声が、エリカの耳に響いた。
「何故我々が命を狙われなければならないのか、その理由を確かめる必要がある」
砦の防御強化を行う為、にわかに忙しなくなった砦とリトを見やってから、そっと地下へ続く階段を下りる。
砦に来てからというもの、リトは本当に、生き生きとしている。やはりリトはこの砦と『黒剣隊』の隊長である方が性に合っているのだろう。武術訓練中や、砦の周壁を昼夜となく見回る時の厳しい顔の中にも、帝都では見なかった頬の赤さがある。ほっとする想いと、少しの寂しさを感じながら、エリカは地下室の一室、春にリトが砦を撤退する際、持ち出せなかった雑多な書類や書物を適当に突っ込んだという部屋に入った。書類や書物が無造作に積まれたこの部屋に入り、整理を兼ねて、学者であった父が書いたものを探すことが、砦に暮らすエリカの日課になっている。
エリカの他に、リトも、時折この部屋に入っているらしい。リトの母、前の隊長が残した手紙類の整理が進んでいることを見て取ると、エリカは壁際の、天窓からの光が僅かに降り注ぐ机に座り、時々掃除をしているのに何故かすぐに埃っぽくなってしまう本立てから、羊皮紙を糸で綴じ合わせただけの本を取り出した。砦に辿り着いて二、三日後、母に対する悲しみを紛らわせる為にこの部屋の整理を始めたエリカが最初に見つけた、父が書いた書物。帝国の様々な場所にある伝説や伝承から魔物を分類したという、本。
「その本は、前に母から見せてもらったことがある」
この本をリトに見せたとき、リトは確かにそう、言った。
「魔物のことが詳しく書いてあるから、魔物を退治する方法を練る時にかなり役に立った」
もしも砦から逃げるのであれば、この本は絶対に持って行こう。そう思いながら、エリカはめくりにくい本の頁に手を置いた。何回か読んでいるから、父の筆跡も、書いてある内容も、ほぼ頭の中に入っている。
帝国やその周辺の伝説を総合すると、魔物はほぼ三種類に分けることができる。天空や地下深くに棲む、『神』に近い力を持つという『天魔』、普通の動植物と同じように地に暮らすが、普通の動植物よりも力を持った『地魔』、そして、何らかの理由により魔の力を持つ人間『人魔』。平原を跋扈する魔物は、ほぼ地魔、しかも他の地では類を見ない、人を襲う好戦的な種が多い。あくまで淡々と書かれた文章に、エリカの口から出てきたのは、溜息だった。
リトが魔物を退治する光景を、この砦に隠れ住むようになってから何度も目にした。狼や鴉の姿をしたもの、巨大な分厚いマントのようにエリカ達の上に覆い被さろうとしてきたもの、それらの、闇より暗い色をしたもの達を、リトは、『黒剣隊』達の弓矢や投槍による後方支援の手を借りながら、剣一つで制していた。弓矢や投槍だけでは、魔物を退治することができない。それが、エリカが砦で知ったこと。弓矢や投槍で弱らせることができたとしても、最終的に剣でその影を一閃しない限り、魔物はその力を取り戻す。だからリトは、最前線で剣を振るう。そして。平原を跋扈する魔物が常に発している瘴気が、特に最前線で戦う者達の命を縮めていることも、エリカはこの砦に来て初めて、知った。魔物を退治した後、倒れて熱を出すリトを、エリカは何度も看病している。リトと同じように最前線で魔物と対峙していた前の隊長、リトの母は、リトがまだ幼い頃に病気で亡くなっている。
〈リトには、……死んでほしくない〉
それが、エリカの本音。しかし自分にリトを止める力が無いことを、エリカは既に理解していた。
「自分の身は、自分で守って」
そう言って、リトがエリカに自分の短剣を渡した、その理由も。容赦の無い魔物達の襲撃を最前線で留めるリトには、エリカまで庇う余裕はない。それが、エリカには悲しかった。だが。
「しょげない、エリカ!」
自分で、自分を鼓舞する。自分の身は、自分で守れば良い。
もしかしたら、エリカの父が、平原に跋扈する魔物を制する、命を縮めなくても良い方法をどこかにメモしているかもしれない。それを、捜し当てれば。意を決するように頷いてから、エリカは本立ての横の積まれた羊皮紙に手を伸ばした。
「うーん。……あ」
めくっていた羊皮紙の間に、父の筆跡を見つける。引っ張り出したその紙には、帝国創立以前から西の地に伝わっているという、とある天魔に関する伝説が書かれていた。地魔を従える能力を持つが、怒りっぽく、人の血を媒介に人に取り憑く、魔物。その弱点が薔薇の香気らしいという行に、エリカは思わず微笑んだ。
と。
「……あの」
甲高い声に、はっと振り向く。
「こ、こんにちは、エリカさん」
地下室の入り口に、細い影が立っているのが見えた。リトが介抱していた、キカという名の少年だ。
〈どうしたのかしら?〉
『黒剣隊』の隊員達は、帝国騎士団の襲撃に備えて準備で忙しいはずなのに。心の中で首を傾げる。
「た、隊長に、言われました。え、エリカさんを手伝ってここの書類を整理してほしいと」
平原で生まれ育ち、しかし平原から撤退する際に親族全てを病と魔物の襲撃によって失ってしまったキカは、『黒剣隊』の前の隊長であるリトの母に拾われた。そして、身体が弱過ぎて戦うことができないキカに、リトの母は読み書きと計算を教えた。
「平原から撤退する際も、隊長が持たせてくれた推薦状のおかげで、上級学校に通えることになったんです。……けど」
帝都東の、閑静な学園都市の名を挙げたキカが、唇を震わせる。おそらくその街で、命を狙われ、自分の身を守り、学友達や学問の師匠達に迷惑をかけないように、キカはこの砦に逃げてきたのだろう。エリカが頷くと、キカはにっこりと笑い、リトの母が書いた書状の山の方へ手を伸ばした。
「前の隊長の字だ。懐かしいです」
小さく呟かれたキカの言葉に、羊皮紙をめくる作業に戻ったエリカも思わず微笑む。
「うわっ、皇帝陛下が砦を訪れた時の書類もある。結構長く滞在していたみたい」
と。
「……何、これ?」
不意に変わったキカの口調に、エリカは再び顔を上げ、キカの方を見た。
「これは、……読めない」
そのエリカに、キカが、小さな羊皮紙を見せる。
「何て書いてあるんでしょうか?」
その羊皮紙をエリカに手渡すと、キカは元の作業に戻った。
キカに渡された羊皮紙を眺め、小さく微笑む。この文字は、知っている。……母に教えてもらった、秘密の文章を書くときの、鏡文字。冷たい床に倒れていた母の、血の気の無い顔を思い出し、エリカは首を強く横に振った。そして再び、手の中の羊皮紙を見つめる。
〈……えっ?〉
解読した、その羊皮紙の内容に、エリカの全身は硬直した。
エリカの手の中にあるのは、熱烈で直截なラブレター。まだキスすらしていないエリカには衝撃過ぎる内容のもの。しかしそれだけで、身体が硬直したわけではない。もう一度、エリカは確かめるように、手紙の宛先と、差出人を見つめた。間違いない。これは、……エリカの父から、リトの母に宛てた、もの! と、すると。文面の露骨さから、ある考えに思い至る。まさかとは、思うけど。……リトとエリカが異母兄妹ということは、ないのだろうか?
「どうしました?」
キカの声で、我に返る。
「な、何でも、ない」
何とか取り繕い、エリカはキカに笑顔を見せた。
「なら、良いのですが」
対してキカの表情は冴えない。
「どうしたの?」
その顔色が気になり、尋ねる。まさか、鏡文字で書かれていない、エリカの父からリトの母への露骨な手紙があったのだろうか? エリカの危惧は、しかし幸いなことに、外れた。
「はい……」
エリカの問いに、キカが俯き、部屋の隅を指差す。
「あの辺りから、なんか、呻り声が聞こえて、きてて」
「呻り声?」
思わず、首を傾げる。エリカの耳には、そんな声は、聞こえない。
エリカの父の本が置かれた机を離れ、キカが指差した場所へ行ってみる。身を屈め、陰に目を凝らすと、更に地下へと続くらしい、床に嵌め込まれた扉を引き開ける為の、輪になった金属製の取っ手が見えた。しかしキカの言う『呻り声』は、聞こえない。
「この下に、何かあるのかしら?」
怯え続けるキカの方を振り向き、エリカは再び、首を傾げた。
その日の、夕方。
エリカはリトとともに、再び書物が積まれた地下に降り立った。
「キカが怯えてたのは、ここから呻り声が聞こえてたから、なのか?」
やはり『呻り声』は聞こえていないのであろう、首を傾げたリトの質問に、小さく頷く。昼間ここで見つけ、ポケットにしまってしまった例の手紙が重く感じ、エリカは俯いてリトから目を逸らした。
エリカとリトが異母兄妹かもしれないということを、母は知っていたのだろうか? おそらく、知らない。知っていたら、母はエリカとリトを婚約させない。ダリオは、知っているだろうか? もしまたダリオに逢えることがあれば、その時に、聞いてみるのが一番良いのだろう。もしダリオが事実を知っていれば、全てははっきりする。悩むのは、それからだ。そう考え、エリカは自分の思考を心の奥底に押し込んだ。
「この取っ手、……開けられるのか?」
悩むエリカの前で、リトが、エリカが昼間見つけた輪の形をした取っ手に手を掛ける。床に隠されていた扉は、リトの力だけで意外に簡単に開いた。
「……階段?」
リトの後ろから、開いた暗い空間を覗き込む。更に地下へと続く石造りの螺旋階段が、リトが手にした蝋燭の小さな明かりに揺れていた。
「下りてみよう」
躊躇い無く、階段に足を置くリトの後ろを、そろそろと付いて行く。
螺旋階段を下りた前にあったのは、何も無い、がらんとした、意外に広々とした空間。いや、一つだけ、何かがある。
「これ、は」
部屋の中央まで歩いたリトが、首を傾げる。
「剣?」
確かに、部屋の中央の床に、錆びた剣が殆ど柄まで突き刺さっているのが見えた。
「でも、何故、こんなところに刺さっている?」
その剣の柄に、リトが腕を伸ばす。リトの小さな指の先で、錆びた金属がぼろぼろと床にこぼれ落ちた。
「特に何も、なさそうだな」
エリカの方を向いたリトの言葉に、頷く。
「帰ろう」
だが。
エリカの方に差し出された、リトの手を、エリカは掴むことができなかった。
次の日。
砦の周壁に設えられた、盾壁や狭間胸壁で守られた頑丈な歩廊に上がったエリカが見たものは、砦を囲む色とりどりの旗とマント。
「……すっげぇ」
盾壁の矢狭間に顔を突っ込んだチコの声が、砦の皆の思考を代弁する。
「色、全部揃ってる」
確かに、帝の近衛騎士である紫金騎士団の紫色と、この平原を含む帝国西方を守る黒銀騎士団の黒色のみならず、帝国南方、海原に浮かぶ島嶼部を守護する赤銅騎士団の赤色も、帝国北方、雪の多い山岳地帯を守護する白鉄騎士団の白色も、帝国東方、豊かな草原と穀倉地帯を守護する蒼鉛騎士団の青色も、矢狭間の細い隙間からでもはっきりと見える。帝国北方と東方は、最近、帝国外からの多大な侵入や圧力に曝されていると聞いているが、そのような時に、このような多勢を、この小さな砦を下す為だけに集めるとは。帝国は本気で、この砦を、『黒剣隊』を潰そうとしている。背中の震えを感じ、エリカは思わず、すぐ横にいたリトの腕を掴んだ。
「どうします?」
そのエリカの耳に、パキトの、普段通りの声が響く。
「やっぱり逃げますか?」
「逃げても、……おそらく皆殺しにされるだけだろう」
エリカの懸念と同じ言葉を、リトは小さく呟いた。
「じゃあ、戦うんですか?」
急いたチコの言葉に、リトが笑う。
「その前に、……我々が命を狙われる理由を、糺しておきたい」
そのリトの視線を追うと、騎士達の固まりから離れ、砦の正門の前に立つ馬に乗った二つの影が見えた。一つは、紫のマント。そしてもう一つは、黒のマントを羽織っている。
「平原側には、騎士はいないな」
リト達の方へ走り来た隊員の一人、ウーゴに、リトが尋ねる。
「いないでしょうね。誰だって、魔物に殺されたくないでしょうし」
ウーゴが頷くより先に、パキトの軽い声が響いた。確かに、騎士達は、砦の、丘に面した側半分しか取り囲んでいない。平原に面した側は、遠目でも、普段通りの荒野が、見えるのみ。魔物の出現は、殆どが平原側。丘と砦との間に魔物が現れることは、ほぼ無い。
「では」
パキトに頷いたリトが、鋭い声で指示を出す。
「パキトの隊は、ウーゴの隊と入れ替わりに魔物を見張れ。ウーゴの隊は夕方まで休め。チコの隊は、ここで騎士達を見張れ。ただし動く時を見極めろ」
「じゃ、じゃあ……」
全身を震わせるキカの肩を、チコが叩く。
「攻撃されたら……!」
「そのときは遠慮無く矢を射掛けろ」
「では」
頷いて去るパキトの背を確かめたリトが、エリカに向かって左手を差し出す。
「これからあの騎士達に逢うけど、エリカも、来る?」
切迫した状況にはそぐわない、リトの言葉と動作に、エリカはふっと肩の力を抜いた。
「もちろん」
『黒剣隊』の庇護者であった母、シーリュス伯の娘として、隊員達を脅かすものの原因を知る必要がある。リトの手を取ることなく、エリカはリトの後ろから周壁の階段を降りた。
「鉄格子は降ろしておけ。扉を開けろ」
扉の装置を操る隊員達に、リトがそう、指示する。すぐに、金属で補強した重い木製の正門扉は、錆びたような音を立てて開いた。
下りたままの鉄格子の向こうにいたのは。
「ラウル!」
言葉を、飲み込む。使者に立っていたのは、黒銀騎士団の団長シアノと、紫金騎士団の団長ラウル。
「へ、陛下の命に背いて、と、砦に戻るなど、ご、言語道断っ!」
リトとエリカを認めたシアノが、つっかえながらも口上を紡ぐ。
「い、今からでも、とっ、投降すれば、は、反逆者としての、しょ、処刑だけは、ま、免れる、からっ!」
その、どことなく頼りなげな声を、エリカはリトの後ろで、ラウルとシアノを見つめながら聞いていた。
リトの上司であるシアノが、使者に立つのは分かる。だが何故、ラウルも? おそらく、シアノと仲が良いからだろう。エリカはそう、考えた。あるいは、帝の代理たる皇太子殿下の命に背いたリトに皇太子殿下が直々に制裁を下すことを示す為に、近衛騎士の長であるラウルが使者に立っているのかもしれない。
「シアノ殿、ラウル殿」
震えが止まらないエリカの前で、リトが、馬上の二人に向かって一礼する。そして。
「皇太子殿下の、帝の命に背き、砦に戻ってしまったことに対する非は認めます。……しかしながら」
二人を強く睨み、リトはおもむろに口を開いた。
「なぜ『黒剣隊』の隊員達が、我々の仲間が、理不尽にその命を狙われるのか、その理由が分からない限り、我々はここを明け渡すわけにはいきません」
リトの言葉は滑らかで、そして誰にも口を挟めないほどに、強かった。
「我々の命を狙う理由、そして、ここにいるエリカの母、シーリュス伯を弑した犯人が判明し次第、我々はここを去りましょう」
しばらく、無音の時が流れる。
「分かった」
それだけ言うと、紫金騎士団の長ラウルは馬を返した。
「らっ、ラウル殿!」
置いて行かれた形の黒銀騎士団長シアノが、情けない声を出してラウルの後を追う。正門を閉めるよう指示を出したリトを、エリカは呆然と見つめていた。
「これで、後は向こう次第だな」
リトの言葉で、呪縛が解ける。
「何とか皆、無事に生き延びることができればいいけど」
再び考えるような顔になったリトに、エリカはこくんと、頷いた。
一日、砦を囲んだ騎士達は、何もしてこなかった。
「静かですね」
夕方、様子を見る為に再び砦の周壁に登ったエリカに、青白い顔のままのキカがそう、声をかけてきた。
「このまま、僕達のこと、放って置いてくれたらいいのに」
「それは多分、無いな」
聞こえてきたリトの、砦を巡って防御を確かめてきたのであろう、汗で髪が貼り付いた額を見つめ、エリカはキカと同時に頷いた。
「逃げる算段は、しておいた方がいい」
そのエリカの耳に、リトの、砦警備の隊員達に向かう声が響く。
「普段通り、強大な魔物が砦を襲ってきた時と同じ方法だ。覚えているな」
「はい」
エリカも、この砦に来て最初に、リトから、歩廊の周壁や中庭、そしてリトが執務に使っていたというエリカの居室にある地下への抜け道について教えられた。小さな砦を飲み込んでしまうような巨大な魔物が現れたときには、魔物の手が及ばない地下に潜って難を逃れることも。
「自分が助かることを、第一に考えろ。生き延びて、人々を守ることこそが、『黒剣隊』の責務。それを、……忘れないように」
一時の逃走は、恥ではない。無力な人々を守れなくなることこそ、『黒剣隊』にとっての恥。リトの言葉を、エリカは温かく聞いていた。
リトと兄妹でも、構わない。ふと、そう思う。ずっと、リトの側にいることさえ、できれば。そう思い、エリカはそっと、リトの小さな背を見つめた。
そして、夜。
眠れないエリカは、再び、砦の周壁に登った。
「エリカ?」
魔物は夜、現れることが多いという。無人の平原を油断無く見つめていたリトが、エリカを認めて声を上げる。
「ちゃんと寝ておかないと、体力が保たない。騎士達に動きがあったら、素早く逃げなければならないんだから」
心配顔のリトに、エリカは小さく首を横に振った。そしてそのまま、リトの横に立ち、狭間胸壁の向こうに見える平原を見つめる。動くものの無い、どこまでも平らな土地は、ただ冷たく、エリカの前に佇んでいた。
「今日は魔物、来ませんね」
そのエリカの耳に、チコの声が響く。振り向くと、チコとキカが、投げる為の細い槍をしっかりと掴んで立っているのが、見えた。パキトの姿は見えない。おそらく騎士達が陣取っている丘側の盾壁を守っているのだろう。
「油断は禁物」
楽観的な声のチコを、リトが制する。
「不意に現れるのが……」
その時。重苦しい気配が、エリカを覆う。
「あっ!」
振り向くより先に、何時の間に現れたのであろう、砦の周壁の倍以上ありそうな高い闇の壁が、エリカの視界に映った。
「エリカっ!」
突然のことに呆然としてしまったエリカの手が、強く引っ張られる。
「キカっ! エリカを頼むっ!」
たちまちにして、エリカの身体は、リト経由でキカの前にあった。その横では、チコとリトが、備え付けの投槍を次々とどす黒い壁に投げつけているのが見える。
「行きましょう、エリカさん!」
中庭に下りる梯子に足をかけたキカに続き、エリカも梯子に手を掛けた。次の瞬間。
「え……?」
エリカの身体が、冷たいものに包まれる。あっという間に、エリカの視界は真っ暗に覆われた。
「エリカっ!」
だがすぐに、小さな手がエリカを掴んでくれる。リト、だ。冷たく柔らかい、魔物の暗闇に絡め捕られるのを感じながら、エリカはリトの手の、温かい方へと腕を伸ばした。
「エリカっ!」
エリカを抱き締めたリトの、もう片方の手に握られた剣が、エリカを絡め取っていた影を叩き斬る。影の壁に剣を突き立て、落下速度を弱めることによって、リトとエリカは無事に、砦の外の地面に着地した。
「砦の壁に背を当てて、そこにいて!」
エリカから腕を放したリトが、迫り来る魔物のどす黒い壁に鋭い剣を突き立てる。リトを、手伝わなければ。地面に落ちていた投槍を掴むと、エリカは魔物の、リトから離れた部分にその槍を落ちている分だけ次々と、投げた。
「エリカさん!」
まだ避難していないのであろうチコの声とともに、弓と矢筒が足下に落ちてくる。
「私は大丈夫! チコは避難して!」
頭上にそう叫ぶなり、エリカは狙うことなく次々と、魔物に向かって矢を放った。
夜明けの光が、平原を照らす。
光とともに、強大な魔物は、跡形も無くその姿を消した。
「良かったぁ……」
胸を撫で下ろし、まだ呆然とエリカの前に背を向けて立つリトの方へと飛ぶように走る。次の瞬間、近づいたエリカを、リトは横へ突き飛ばした。
「え……?」
倒れたエリカが、次に目にしたのは、エリカの足下に倒れたリトの、身動き一つしない姿。そのリトの背に刺さっていた複数の矢に、エリカの全身は震えた。……この矢は、どこから?
「……あっ!」
砦を見上げ、声を上げる。いつの間にか、砦の周壁は、騎士団の色とりどりの旗で埋め尽くされていた。
「な、なんで……」
リトが魔物にてこずっている間に、騎士団連合が砦を奪った。それだけは、分かる。しかし、どうやって? リトは魔物と戦っていたとはいえ、丘に面した側は、リトが信頼しているパキトの隊が守っていたはずだ。周壁自体も、意外に頑丈に作ってあった。なのに、何故? エリカの疑問は、悲しく解けた。砦の、平原側の門が、重々しく開く。そこから出てきたのは、ラウルと、……パキト。
「これで、良いか?」
パキトが静かにラウルを見上げる。そのパキトを、エリカは強く睨んだ。
「これで、約束通り、サリナは解放してくれるんだろうな」
震える声のパキトに、ラウルは小さく頷いたように、見えた。次の瞬間。
「えっ!」
ラウルの剣が、無造作に動く。次にエリカが目にしたのは、肩から胸を深く切り裂かれ、地面に尻餅をついたパキトの、無惨な血の赤。
「ふん」
呆然とラウルを見上げ、そして仰向けに倒れたパキトに、ラウルが鼻を鳴らす。そして。パキトの血に濡れた剣を、ラウルはエリカと、身動き一つしないリトの方へと向けた。
震えよりも先に、視界が真っ黒に染まる。
冷たい荒野が、エリカの身体を抱き留めた。
はっと、目覚める。
見たことが無い暗い天井が、霞んだエリカの視界に映った。
「リトっ!」
叫んで起き上がり、辺りを見回す。どうやら、エリカは地下室のようなところに閉じ籠められているらしい。天井に近いところに開けられた細い窓から降り注ぐ月光に揺れる草の影と、地下特有の湿った壁、そして天窓の向かいにある、ぴったりと閉じられた金属製の扉から、そう判断する。そして、この閉じられた空間にいるのは、エリカのみ。
「リト……」
とりあえず、今のところ、エリカは無事だ。しかし、リトは? エリカのすぐ傍で、身動き一つせず横たわっていたリトの姿が、エリカの脳裏を不吉に過ぎった。いや、リトが、……死んでしまうなんて。そんなことは、あり得ない。横たえられていた簡素なベッドの上で、エリカは激しく首を横に振った。だが、しかし。エリカと、倒れているリトを笑って見下ろしていたラウルに突きつけられた、パキトの血に染まった刃の色を、思い出す。あの場所で、リトがラウルに殺されていないとしても、リトは反逆者の汚名を着せられている。帝国では、反逆を企てた者は、それが未遂であろうと既遂であろうと、帝都にある闘技場で死ぬまで、猛獣や剣闘士と闘わされる運命。おそらくリトも、生きて捕らえられたとしても、……もう二度と、逢えない。頬を伝い落ちる涙に、エリカはもう一度強く、首を横に振った。
「そんな弱気でどうする、エリカ!」
複数の魔物を剣一つで倒す技を持っているのだ。闘技場に放り込まれても、あのリトならきっと、生き延びる。だから、エリカは。……なるべく早くここから脱出して、リトを助ける。そう。そうすることが、最善。確かめるように、エリカは強く、頷いた。
と。その時。ぴったりと閉じられていた金属製の扉が、重い音を立てて開く。その向こうにいたのは、小さな盆を持った、まだ幼い感じがする、やせた少女。その少女が持つ盆の上に乗った皿から漂う美味しそうな匂いに、エリカのお腹ははしたなくぐうと鳴った。
とにかく、腹が減っては何とやら、だ。食事があるのなら、ありがたく頂こう。やせた少女がベッド側の腰棚に置いてくれた盆に、エリカはこくんと頷いた。
次の瞬間。エリカの目の前で、少女の足がふらつく。
「あ、危ないっ!」
一息でベッドから立つと、エリカは倒れそうになった少女を支えた。
「大丈夫?」
腕から伝わる、少女の肉の無さに、はっと胸を突かれる。
〈この子、食べさせてもらってないんだわ〉
扉向こうに見える、おそらく見張りらしい男がこちらを向いていないことを目だけで確かめると、エリカは盆の上の小さなパンを一つ、少女の手の中に滑り込ませた。
「……?」
「いいから、ここで食べちゃいなさい」
不釣り合いなほど大きな目でエリカを見つめた少女に、にっこりと笑う。少女が口に入れたパンを咀嚼するまで、エリカは見張りから少女を庇うように、少女の身体を支えていた。
その、次の日。
〈うーん、この案だと、やっぱり見張りを殴らないとダメだなぁ……〉
どうすればここから脱出できるかをあれこれ考えていたエリカの耳に、金属扉が開く重い音が響く。振り向くと、昨夜食事を持って来てくれた少女が、湯気の立つ手桶を抱えているのが、見えた。
「これ、は?」
正直、驚く。
「……」
昨晩と同様に無言で、少女は手桶と盥、そして着替えを地下室へと運び込む。おそらく、エリカをここに閉じ籠めた者の命令で、少女は動いているらしい。渡された着替えの、これまでに触ったことのない柔らかさに、エリカは思わず息を吐いた。
〈これ、絶対絹地だよね。しかも東方の、高級品〉
とにかく、湯浴みができるのなら、久し振りにさっぱりするのも良いかもしれない。汚れた姿のままでは、脱出時に怪しまれるおそれもある。見張りに湯浴みを覗かれないよう、金属扉がきちんと閉まっていることを確認してから、エリカはおもむろに汚れの溜まった服を脱いだ。
〈……あ〉
脱いだ服のポケットに入れっぱなしだった、砦の地下室で見つけた例の手紙に気付く。エリカの父からリトの母に贈られたらしい、秘密の恋文。この手紙のことも、きちんと確かめなくては。心の痛みを覚えながら、エリカは着替えのポケットにその手紙を隠した。
用意された盥に、その身を沈める。少女が水で調整してくれたお湯は、丁度良い温かさ。久し振りの心地良さに、エリカはうっとりと微笑んだ。
と。
背中を擦ってくれた少女が、エリカの正面に来る。その少女の、湯気で身体に貼り付いた服に小さく光る膨らみを見つけ、エリカは好奇心から尋ねた。
「それは、何?」
「……」
エリカの問いに、少女の頬が赤くなる。だが、少女が胸元から取り出してエリカに見せてくれたペンダントに刻まれた文字に、エリカの背は一瞬で緊張した。
『パキトとサリナ 永遠に結ばれる』
〈パキト……!〉
裏切り者。その言葉を、どうにか飲み込む。リトを、『黒剣隊』を裏切り、ラウルに殺された青年の歪んだ顔が、エリカの脳裏を過ぎった。同時に思い出したのは、パキトの最期の言葉。もしかして、この子が、パキトが助けようとしていた、少女? おそらく絶対、そうに違いない。と、すると。ここは、まさか。少女のペンダントから、もう一つの推測を導き出す。この地下室は、ラウルの、オルディナバ公の屋敷内、なのか? ならば。ラウルに何度か招待されているから、屋敷の内部は大体頭に入っている。見張りさえ何とかすれば、脱出できるかもしれない。心の中で、エリカはこくんと頷いた。だが。
〈この子は、……どうしよう?〉
エリカの着替えを手伝ってくれている、無言の少女を、じっと見つめる。確かに、パキトの行為は許せない。しかし、この少女に、……罪は無い。一緒に逃げることができるならば、連れて行きたい。それが、エリカの正直な想い、だった。
その日の夜。
強い風の音に、はっと目覚める。
ベッドに横たわったまま天窓を見上げると、暗い夜空を過ぎる黒い雲が、どこか不吉に、エリカの瞳に映った。嵐が、来るのだろう。それとももう既に、来ているのか。
不意に響く、金属扉の開く音に、はっと振り向く。扉の向こうにいたのは、サリナという名のあの少女。見張りの姿は、見当たらない。逃げるチャンスだ。おそらく風の音に怯えているのであろう、震えながらエリカの方に走り寄ってきたサリナの腕を掴むと、エリカは扉の方へ走った。
と、その時。強い揺れと衝撃、そして轟音が、部屋全体を襲う。
「きゃあっ!」
思わぬことに叫びつつ、それでもエリカはサリナを庇うように、金属扉の影に身を伏せた。
全てが静まるまで、長い時間が掛かる。静寂が完全に戻ってから、エリカは恐る恐る、金属扉の影から顔を出し、辺りを窺った。
「……あ」
もうもうと上がる土煙を、見透かすように見つめる。先程の轟音はこれであろう、地下室の、天窓があった壁が一部崩れ、外への階段になっているのが、見える。ここから脱出すれば、屋敷を彷徨うよりも捕まる可能性は低くなる。口の端を上げると、エリカはまだ震えているサリナの腕を強く引いた。
サリナとともに、崩れた壁をよじ登る。
久し振りの外は、夜だというのに明るかった。
「どうしたのかしら?」
ぐるりと見回す前に、焦げた匂いで原因を知る。街の方が赤くなっている。火事だ。しかも大規模の。エリカと同じ方向を見つめ、おののくサリナの冷たい腕を、そっと掴み直す。赤くなった空の間に、煙とは違う暗い影も見える。あれは、もしかして。平原でリトが退治した影の色を、エリカはまざまざと思い出した。と、すると。一瞬で、心を決める。火事にしろ、魔物にしろ、とにかく今は、……逃げなければ。
突っ立ったままのサリナの腕を引き、炎が見えるのとは逆の方向へ走る。確か、ラウルの屋敷には、薔薇園の方にも門があったはず。リトとともに迷い込んだ、その思い出を振り切ると、エリカは薔薇の匂いがする方へサリナを引っ張った。裸足の足に、地面が冷たく当たる。しかし痛さに顔をしかめている時間は無い。とにかく、逃げなければ。
と。
不意に横から現れた、闇より暗い影に、サリナを突き飛ばしてから地面に転がる。飛びかかってきたどす黒い影を、エリカは落ちていた鋤で突くように叩き、影が怯む隙に再びサリナの腕を掴んだ。
そのまま、秋になっても咲き誇る薔薇園へ、二人で突っ込む。幸い、魔物らしき黒い影は薔薇園の前で止まり、炎の方へくるりと向きを変えた。
〈もしかして、あの魔物は薔薇が苦手なのかしら?〉
その魔物の行動に、ふと、そんなことを考える。もしも、そうであるならば、しばらくの間ここに隠れているのも一つの手だ。しかし魔物からは逃れることができるとしても、炎がここまで延びてくれば、薔薇はすぐに燃えてしまう。やはり逃げた方が良い。エリカは再び、震えるサリナの腕を掴んだ。
その時。
「誰かいるのか?」
聞こえるはずのない声に、全身が震える。
「リトっ!」
叫ぶなり、エリカは目の前の影に抱きついた。
「無事だったのっ?」
「ああ」
おそらく火事を避けてここまで来たのだろう、煤に汚れて、それでもまだ美人に見える顔に、ほっと息を吐く。
「怪我は、無さそうだな」
やはり、ラウルの屋敷にいたのか。リトの言葉に驚きを覚え、エリカはリトを見つめた。
「どうして、それを?」
「説明は後」
とにかく、帝都から脱出しないと。リトの言葉にもう一度頷いてから、エリカは手近の薔薇を思い切りよくむしり取り、自分とサリナ、そしてリトの服のポケットに突っ込んだ。
「持って行こう。魔物が、嫌ってた」
「分かった」
街が燃える、その煙が、この辺りまで濃く漂ってきている。薔薇園の向こうに見えた裏口に、エリカはリトに続いて飛び込んだ。
走り通しで、帝都西端の河原まで辿り着く。
河に掛かった橋は、避難民でごった返していた。
「北にも、橋があったはず」
必死に橋を渡ろうとする人の多さに唇を噛むエリカの耳に、あくまで冷静なリトの声が響く。
「急ごう」
エリカの手を掴んだリトの、久し振りの温かさに、エリカはこくんと頷いた。
その時。帝都の中心部から、いきなり、津波のようなどす黒い影が橋の方へ伸びる。エリカが見つめる一瞬で、影は橋を渡ろうとしていた人々の半数を、その影の中に飲み込んだ。
「うわっ!」
「逃げろっ!」
算を乱した人々が、エリカ達の方へ突進してくる。しかしリトの素早さは、全ての人を超越していた。
「エリカ!」
エリカの腰に腕を回すやいなや、リトは強く地面を蹴り、人が少ない河原の端へ飛ぶ。バランス良く、河に落ちないようにエリカとサリナを支えるリトに、頷くことしかできない。そして。リトのその行動で不意に目の前に現れた巨大な影に、エリカの全身は一瞬、硬直した。その影の一部が、エリカとサリナの間をすり抜ける。その風圧で破けた、サリナの服からこぼれ落ちた薔薇の花びらに影が怯むのを、エリカは安堵とともに見た。やはり、推測は正しかった。魔物を避け、河を渡ることができれば、帝都から脱出できる。
だが。
「二人は、ここにいて!」
河原の端にエリカとサリナをしゃがませたリトが、落ちていた大剣を拾う。裂帛の気合いとともに影の方へその刃を向けたリトを、エリカは止めることができなかった。魔物を制し、人々を守ることが、リトを長とする『黒剣隊』の役目。だから今、エリカにできることは。
「サリナ、ここにいて」
服を裂かれたときに皮膚をも傷付いたのであろう、僅かな血に濡れたサリナを河原の草影にしゃがませてから、ポケットの中の薔薇の花を半分、サリナに渡す。そしてエリカは、丁度落ちていた槍に残りの半分の薔薇の花を、着ていた絹服の裾を破いて縛り付けると、勢いを付けて、リトが対峙している大きな影の、リトから十分離れた場所へその槍を投げつけた。
エリカが投げた槍を食らった影が、大きく震えるのが見える。次にエリカが目にしたのは、よじれた影を横に真っ二つにした、リトの姿。
「リト!」
混乱する人混みを掻き分け、倒れかけたリトへと駆け寄る。幸い、リトに怪我は見当たらない。良かった。リトの華奢な身体を支えながら、エリカはほっと息を吐いた。
だが。
「この、影。……まさか」
地面に尻餅をついたリトが指し示す方向を見、息が止まる。いつの間にか、影は収縮し、恰幅の良い人間の姿になっていた。その影が指に填めていた指輪が、途切れた雲から覗く月明かりに光る。その指輪の紋章は、輝く太陽。……帝のみが身に着けることができる、紋章。
「……サリナの怪我は、軽そうだな」
怪我と疲れで気を失っているサリナを確かめたリトの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。乾いた落ち葉の上に座ったまま、エリカは振り向き、やっとの思いで逃げ出すことができた帝都の方をちらりと見やった。火事と魔物の騒動から一夜明け、太陽が高い位置に来ていてもまだ、街のあちこちから煙が上がっている。木々の隙間から見えた光景から、エリカはそっと、視線を外した。
「エリカは、怪我は無い?」
そのエリカの耳に、リトの、いつになく気遣わしげな声が響く。
「ええ、大丈夫」
そのリトにエリカは笑顔を作って見せた。疲れは、ある。しかし怪我は、していない。リトの方も、魔物相手にあれだけ暴れたにも拘わらず、少し青ざめた顔色の他は特に怪我もなさそうだ。もう一度リトを見上げ、エリカは再度、胸を撫で下ろした。
「本当に?」
そのエリカに、念を押すように、リトがエリカの手を取る。
〈……どうしたのかしら?〉
エリカは思わず首を傾げた。
「そ、その、ラウルに、何か、されたと、いう、ことは……」
そのエリカの前で、頬を赤くしたリトがエリカから目を逸らす。あることに思い至り、エリカははっと、自分が着ている絹服を見つめた。昨日、サリナがこの服と湯浴み用のお湯を持ってきた理由は、もしかすると。
「だっ、大丈夫っ」
声が、上擦る。
「何も、されてないからっ!」
「良かった。……エリカが大丈夫なら、良いんだ」
エリカの言葉に、リトが静かに微笑んでくれたのが、エリカには嬉しかった。
「ところで」
そのリトに、尋ねる。
「何故私が、ラウルの、オルディナバ公の屋敷にいるって分かったの?」
砦でパキトが裏切り、ラウルがエリカ達に刃を向けた時には、リトは矢傷で意識を失っていたはずなのに。エリカの問いに、リトは再び頬を赤くした。
「前に、ダリオさんに言われたから。……ラウル殿が、エリカを狙ってるって」
「はいっ?」
エリカに血塗られた刃を向けた、ラウルの残酷な笑みが、脳裏を過ぎる。あのラウルが、エリカを? 震えが、エリカの全身を支配した。
「ま、それも、今は終わったこと」
そう言いながら、リトは、気を失っているサリナを背負い、エリカに右手を差し出した。
「行こう。……帝都を、離れなければ」
「ええ」
混乱に助けられる形で、咎められることなく帝都を脱出することはできた。だがリトは、大勢の人々の目の前で、魔物と化していた時の帝を屠っている。魔物の跋扈から人々を守ることがリトの職務とはいえ、忠誠を誓うべき帝を弑したことについては必ず、重い罪に問われるだろう。それまでに、少なくともサリナは、比較的安全な、エリカが生まれ育った西の街に連れて行った方が良い。そこまで考え、エリカはリトの手を取らずに一息で立ち上がった。エリカの母、シーリュス伯が亡くなった今、西の街がどうなっているかは、分からない。しかし万が一、家令であるダリオが何らかの理不尽な理由で街から去っていたとしても、エリカに武術を教えてくれた街の警備隊所属の師匠と、エリカと一緒に武術を習った警備隊の人々がいる。エリカとリトは無理でも、サリナだけなら、匿ってもらえるだろう。
「『黒剣隊』の仲間達のことも、ちゃんと無事か、確かめないと」
「ええ」
落ち葉に隠れた木の根に足を取られながら、それでもリトに遅れまいと、エリカはリトが背負うサリナの背をしっかりと、見つめた。
と。
「誰だっ!」
不意の気配に、リトが叫ぶ。その叫びに呼応するかのように、リトとエリカの周りを五、六人の男達が取り囲んだ。服装は質素だが、持っている槍の穂先は鋭い。盗賊だろうか? エリカは思わず身構えた。だが。
「帝都からの避難者だな」
唇を引き結んだリトの鼻先に槍を突きつけた、年長の男性が、大きく叫ぶ。
「我々の村を迂回して去るのなら、何もしない」
「えっ?」
この深い森の中に、村があったとは。思わぬことにきょとんとしてしまう。
「何があった?」
一方、冷静な顔色のリトは、槍の穂先から年長の男の方へ視線を向けた。
「け、怪我をした避難者が、魔物化したんだっ!」
そのリトの問いに答えたのは、リトの横で槍を構えていた若者。
「お、お嬢様が怪我の治療に当たっていたのに、そのお嬢様を……」
「殺したの?」
思わず叫んだエリカに、若者は首を横に振った。
「ま、まだ、生きてる、けど……」
「村の賢者が言うには、魔物化した人間に怪我をさせられた者も、遅かれ早かれ魔物と化してしまうらしい」
若者の言葉を補足したのは、リトの前にいた年長の男性。
「そうか」
村人達の言葉に、リトが押し黙る。
「分かった」
こくんと頷いたリトが、エリカの方へ手を伸ばした。
「どちらへ行けば、君達の村を迂回して西の街に行ける?」
そして年長の男に尋ねる。
「あ、あっちだ」
「ありがとう」
年長の男が示した方へ、リトはエリカを手招きした。
「行こう」
立ち去るリトとエリカに、男達が道を空ける。
「……そうだ」
その男達に、リトは思い出したような声を上げた。
「君達の村に、薔薇はあるか?」
「お、お嬢様が、好きで、育てて……」
「じゃあそれを、怪我人と、お嬢様に、持たせて」
リトの考えに思い至り、エリカは村人達に微笑んでみせた。
「多分、魔物除けになるから」
森の中にある村々を避け、迂回に迂回を重ねて西へ向かう。それでも、意外に早く、木々の向こうに西の街の周壁が朧気に見えて来、エリカはほっと息を吐いた。
「大丈夫?」
そのエリカを、時折意識を取り戻すがまだ動けないサリナを背負って歩くリトが気遣う。
「大丈夫」
サリナを背負い、更に村々や人々、獣達の気配を確認しながら歩くリトの気苦労は並大抵のものではなかったはずなのに。だからこそ、リトを労うように、エリカは殊更笑顔を作った。
「案外早く着いたな」
リトの方も、目の前の景色に明らかにほっとしているようだ。
「助かったよ。エリカが森の食物について詳しくて」
「そ、そんな……」
エリカに微笑みを見せるリトに、エリカは頬が上気するのを感じた。森が多い帝国西方だから、森の動植物について知ることは、当然のこと。それでも、エリカの父が西の街に遺していた、勉強用の植物の本を熟読しておいて良かった。リトの為に森で採取した栗や茸の、火を通せば意外においしく食べることができたその味を思い出し、エリカはリトに微笑みを返した。
と、その時。
「ううっ……」
リトの背にいたサリナが、苦しげに呻く。次の瞬間、サリナを覆ったどす黒い影に、エリカははっと身構えた。これは、帝都を襲った魔物の色。もう少しだというのに。しかしエリカが唇を噛む前に、異変を察知したリトはサリナを背から滑り落とし、森で採取してあった気を失わせる毒草をサリナの口に押し込んだ。
「ううっ……」
呻くサリナが、ゆっくりと静かになる。その時になって初めてエリカは、リトの右腕から血が滲んでいることに気付いた。おそらくサリナが暴れたときに怪我をしたのだろう。手当をしなければ。
「リト!」
エリカは一息で、リトの横に立った。だが。
「来るんじゃない!」
その声とともに、リトはエリカを突き飛ばす。
「な、なんで……」
そのリトの行動に驚愕しつつ顔を上げたエリカは、リトの身体右半分を覆うどす黒い影に目を瞬かせた。まさか、リトも、魔物化を?
「……」
唇を噛みしめたリトが、帝都で拾いずっと身に着けていた腰の剣を抜く。何をするつもりなのだろうか? リトの意図を即座に見抜いたエリカは、リトの、剣を持つ腕に飛びついた。
「ダメっ!」
力尽くで、リトから剣をもぎ取る。その剣を遠くに投げ捨て、エリカはリトの、暗い影に覆われた右腕をぎゅっと掴んだ。
「魔物化してしまったら、私は、君を」
「大丈夫」
エリカを引き剥がそうとするリトに、無理に笑顔を作る。
「西の街には必ず、薔薇がある」
この森には、野生の薔薇は自生していない。だが、エリカの母、西の街を差配していたシーリュス伯が薔薇好きであったからだろう、西の街では至る所に、エリカの母が寄付した薔薇の苗が根付いている。父が母に贈った蔓薔薇は無くなってしまったが、西の街に行けばきっと、魔物化を抑えることができる薔薇の花が咲いている。
「薔薇の花、取ってくる。だから、それまで、……死なないで」
エリカの言葉に、リトが頷いたのが、見える。
「分かった。……でも」
「分かってる」
エリカはぎゅっと唇を噛みしめると、リトが安心する言葉を紡ぎ出した。
「もし私が戻る前に、リトが魔物になっていたら、私が、……退治する」
「ありがとう」
そして。リトの返事を聞く前に、エリカはリトから身を離し、転がるように、西の街の周壁へと向かった。
森を駆け下り、西の街に辿り着く。
正門には紫色のマントが見えたので、エリカは裏門までぐるりと迂回した。
〈ここには、彼らがいませんように〉
その願いとともに顔を上げたエリカは、視線の向こうに見知った姿を認めて息を呑んだ。あれは……!
「チコ! キカ!」
リトの部下、『黒剣隊』の年若い隊員の名を呼ぶ。
「エリカさん!」
すぐに、チコとキカの懐かしい顔が、エリカのすぐ前に現れた。
「エリカさん、無事だったのっ! 良かったぁ」
「隊長は? 一緒なのか?」
「お願い、リトを助けて!」
キカとチコに、叫ぶ。
「分かった」
エリカの話を聞いた、警備隊の一員でもあるエリカの師匠が、エリカの話に戸惑うキカとチコに的確な指示を出した。
「キカは、ダリオさんのところへ行って薔薇を集めろ! チコは、俺と一緒にリトのところへ」
「分かりました」
「承知!」
とにかく、ぐずぐずしてはいられない。エリカはくるりと踵を返すと、リトが倒れている森の中へ、チコと師匠を案内した。
「気分はどうです?」
「……大丈夫です」
気遣わしげなダリオの声に、リトが気怠げに頷くのが見える。
〈良かったぁ〉
部屋に漂う薔薇の香りで思い出したラウルのことを頭から振り落とすと、エリカはリトを見つめ、ほっと胸を撫で下ろした。
幸いなことに、エリカがチコと師匠を連れてリトが倒れる場所に戻った時には、リトはまだ完全に魔物と化してはいなかった。それでも意識を失ってしまっていたリトと、リトが意識を失わせたサリナを、エリカ達は裏門経由でシーリュス伯の、キカから話を聞いたダリオが用意した、秋に咲く薔薇の花を集めた部屋へ運び込んだ。
「正門は紫金騎士団の奴らがおざなりに守ってるけど、あいつら裏門までは面倒くさがって警備隊に任せっきりなんだよなぁ」
隊長の無事な姿を見て笑顔を見せたチコが、軽口を叩く。
「まあ、だからこそ、隊長を無事にここに連れて来れたわけだし、紫金騎士団様々、ってことで」
恋人であるサリナを人質に取られたパキトの裏切りで砦が騎士団連合の手に渡った時、魔物の襲撃により普段通り地下に隠れていた『黒剣隊』の面々の殆どは隠された地下通路を通り抜けることで死の刃を逃れた。そして西の街でシーリュス伯の代理をしている家令ダリオの協力により、隊員達は西の街とその周辺に難を逃れている。生き残りの隊員達を紫金騎士団と黒銀騎士団が合同で探してはいるが、どうもやる気が無いらしく、チコとキカが西の街の警備隊の一員となっていても誰も全く気付いていないらしい。
〈何の為に、彼らはこの街にいるのかしら?〉
チコの説明に可笑しさを感じ、エリカは久し振りに笑い声を出した。
「それはともかく」
そのエリカの耳に、ダリオの、重い声が響く。
「とりあえず薔薇の香気で魔物化を抑えることはできていますが、……やはりこれは、一時的なものでしょうな」
「ええ」
ダリオの声に、エリカは唸って頷いた。冬になれば、薔薇は咲かなくなる。それまでに、別の方法を考えなければ。しかしながら。
〈方法……〉
砦の地下室、エリカの父の本があった場所を思い出しながら、呻く。あの場所に行けば、魔物化を抑える、あるいは魔物化を解く術が見つかるかもしれない。だが。
「砦、なくなっちゃった、から……」
しょげたキカの声に、エリカも俯く。平原にあった、『黒剣隊』の拠り所であった砦は、騎士団連合に占領されたその日のうちに、帝お抱えの魔導師によって破壊された。破壊されたのが地上部だけならば、あの地下室は残っているかもしれないが、そこへ至る抜け道の方が、潰れているかもしれない。地下室への道を見つけ、エリカの父が書いた解決法を見つける前に、リトが魔物と化してしまうかもしれない。それは、嫌だ。エリカは大きく首を横に振った。
と、その時。
「エリカお嬢様」
不意にダリオが、エリカの前に膝をつく。
「お嬢様のお父上が、今際の際に遺された言葉があります」
「えっ?」
「『もしも帝都で魔物が暴れるのなら、その解決方法はエリカが持っている』と」
「え……?」
思わぬダリオの言葉に、絶句する。
〈私が、持っているの? ……でも、何を?〉
しかしこれ以上のことはダリオも知らないらしく、エリカの視線にダリオは唇を噛みしめて首を横に振った。
〈私が、持っているもの、って?〉
キカとチコの視線を感じながら、首を捻る。母からは、色々なものをもらった。しかし父からもらったものは、思い当たらない。父は何を言いたかったのだろう? エリカはもう一度、うーんと唸った。
その時。
「……」
意識を取り戻した、薔薇の香気が効いているのか魔物化の気配が無くなっているサリナが、エリカを指差す。
「どうしたの?」
エリカが尋ねても、サリナはエリカを指差したままだった。
「何か、あるのかな?」
キカの言葉に首を捻る。
「なるほど」
不意に、それまで黙っていたリトが、エリカの腕を掴んだ。
「エリカの身体に、秘密が隠されている。そういうことだね」
「……」
リトの問いに、サリナが今度ははっきりと頷く。しかしエリカの身体のどこに秘密があるというのだろうか? 再び首を傾げたエリカは、次の瞬間、はっとしてサリナを見た。
「もしかして、私の、背中に、何かあるの?」
「……」
エリカの問いにサリナが頷く。間違いない。湯浴みをするエリカをサリナは見ている。その時に、エリカの背中にあった『秘密』に気付いたのだろう。おそらく、湯浴みをしないと分からない秘密に。
「エリカの背中に、何があったの?」
エリカの腕を掴んだまま、リトが優しく、サリナに問う。しかしサリナは下を向いて首を横に振った。
「やっぱり、直接見ないと分からないか」
リトの声に、鼓動が不意に早くなる。裸に、ならないといけない。羞恥心がエリカの身体を強ばらせた。
「私が、確かめる」
そのエリカの耳に、リトの、いつになく強い言葉が響く。
「こ、婚約者、だから、せ、背中だけなら、み、見ても、だ、大丈夫だろう」
暗闇でも十分に分かるほど顔を赤らめたリトに、全身の強ばりは見事に解けた。
「そんなに念を押さなくても」
「女の人の裸を許可無く見るのはいけないことですよね、隊長」
「……」
その隊長に半ば呆れた顔をしたチコとキカ、そして二人の言葉に声を失ったリトに、エリカは思わず微笑んだ。
ダリオとチコが、お湯と盥を用意してくれる。
久し振りの、エリカの私室で、エリカは静かに服を脱いだ。
「湯加減は、これで、だ、大丈夫、だと」
リトが調節してくれた盥の湯に、リトに背を向けて裸身を浸す。
「あ……」
しばらくもしないうちに、エリカの背中のすぐ近くでリトが小さく叫ぶ声が聞こえた。
「背中に、うっすらと字が彫られている」
背中に感じるリトの熱い息にくすぐったさを感じ、エリカは思わず振り向いた。
「ダメ」
そのエリカを、横を向いたリトが制する。
「背中は見るけど、前は、……結婚するまで誰にも見せないで」
あくまでまじめなリトの声に、エリカは思わず笑みをこぼした。
「この文字は……薬草?」
再びリトに背を向けたエリカの背に、リトの息が吹きかかる。エリカ自身の鼓動と、エリカの背に刻まれた文字をリトが蝋板に書き留める、筆記具が蝋の下の板を引っかく音の他は、何も聞こえてこない。
〈だ、大丈夫かしら?〉
その静けさに心配を覚え、振り向く。エリカの瞳に映ったのは、蝋板に屈み込むリトの身体を再び覆い始めたどす黒い影。
「リト!」
「大丈夫だから、エリカ」
思わず叫んだエリカを、リトはエリカから目を逸らしながらそれでも冷静な声で制した。
「背中の文字は全て写したから、ちゃんと身体を拭いて服を来てから、ダリオさんを呼んで来て」
盥を飛び出したエリカの腕を掴んだリトの、冷たくなった手に、エリカは頷くことしかできなかった。
〈リト、大丈夫みたい。……良かったぁ〉
客間に寝かせたリトの、規則正しくなった息遣いに、ほっと胸を撫で下ろす。
リトが書き写した、エリカの背中に隠されていた薬草の調合方法は、魔物化に対して有効だったようだ。夜中だというのに薬草を揃え、薬を調合してくれたダリオとキカに、エリカは心の中で感謝した。
そのキカは、既に屋敷内にいない。魔物化を抑える薬の調合方法を知るや否や、まだ夜だというのにチコと一緒に東の学園都市へと旅立ったのだ。
「この調合結果を学園都市のお師匠様に見せて、できるだけ早く、有効かどうか検討してもらう」
帝都周辺では、魔物化に苦しむ人々や、魔物化した人々に大切な人を襲われて苦しむ人々が数多く発生している。だからこそ、できるだけ早く、有効な手段を人々に伝える必要がある。
「人々を魔物の跋扈から守るのが、『黒剣隊』の責務だから」
学園都市へ向かいたいとエリカとダリオに伝えた時の、キカの真剣な眼差しをまざまざと思い出す。その眼差しは、隊長であるリトと、帝都でエリカを置いて、帝が化した魔物と対峙したリトと、同じだ。僅かな心の痛みを、エリカはそっと払い落とした。仕方が無い。それが、……リトだ。
と。
「エリカお嬢様」
リトが眠る客間の扉が、静かに少しだけ開く。
「少しだけ、こちらへ」
「……?」
いつにないダリオの口調に、エリカは首を傾げながら、眠るリトを置いてダリオの後から廊下へと出た。
「これを」
客間の扉をしっかりと閉めてから、ダリオが小さな羊皮紙の巻物をエリカに手渡す。
「母上様が保管していた手紙類の中から、見つかったものです」
月明かりの下で、広げた羊皮紙に書かれた文字を見つめる。この文字は、知っている。いまだにポケットの中に入っている、エリカの父がリトの母に贈った恋文と同じ筆跡の、鏡文字で書かれた手紙。その手紙に残っていた、封印用の蝋に押された紋章に、エリカの息は、一瞬、止まった。一部欠けてはいるが、この紋章は確かに、輝く太陽を模したもの。時の帝のみが身に着けることができる、紋章。手紙の最後にある署名も、確かに、帝の名になっている。そして。手紙の文面を、読み解く。そこには、リトの母への気遣いに満ちた文章が刻まれていた。リトの母が砦で産み落とした息子、すなわちリトが、自分の子供であることを認めるという、文章も。と、すると。
「リトの、お父様は」
エリカの前で、ダリオが頷く。
では、エリカが持っている、エリカの父がリトの母に贈った恋文の正体は。
「陛下はしばしば、お嬢様のお父上を訪ねてあの砦を訪れていたようです」
そしてその砦で『黒剣隊』を束ねていた前の長、すなわちリトの母に、帝は恋心を抱いた。その恋心のままに、帝はエリカの父の名を借りて恋文をリトの母に贈り、リトの母はその愛を秘密に受け入れた。その結果が、リト。
「そう、だったんだ」
エリカの疑問を解くダリオの言葉に、頷く。リトとエリカは、兄妹ではなかった。婚約者のままで、大丈夫なんだ。心からの安堵が、エリカの全身を温かくしていた。その安堵に比べれば、リトの父が帝であることは、エリカにとっては些細なことに過ぎなかった。
温かい心のまま、リトの看病に戻る。
エリカが部屋を離れたのは、ほんの僅かな間。それでも、リトの息遣いが規則正しいままであったことに、エリカはほっと胸を撫で下ろした。
その時。
「エリカ」
不意にリトが、エリカの手を掴む。そしてリトは、思いがけないことをエリカに言った。
「一緒に、平原に、あの砦に行ってほしい」
「えっ?」
リトの言葉に、正直戸惑う。リトは何故、既に破壊された砦に、エリカとともに向かおうとしているのだろうか? エリカの疑問は、すぐに解けた。
「魔物化を完全に抑えるには、あの砦に行く必要があるんだ。……私と、君が」
「えっ?」
「君の父上と私の父上が呼び出した魔物の封じ方が、君の背に、魔物化を抑える薬の作り方と一緒に書いてあった」
「え……」
リトの言葉に、絶句する。と、すると、リトは、……自身の父親を、既に知っていた!
「亡くなる直前に、母が話してくれた」
エリカの戸惑いに、リトが微笑む。そして。
「帝都で、帝が魔物化した原因は、……おそらく私にある」
続くリトの言葉が、エリカの胸を悲しくさせる。
「君の父上と私の父上が呼び出した天魔を封じた剣に、私が触ってしまったから」
「そんな……」
リトの父、すなわち時の帝と、エリカの父は、平原に跋扈する地魔の力を弱める為に、伝説にあった天魔を地下から呼び出した。しかし呼び出された天魔は怒りのままに帝を呪い、魔物化した帝はオルディナバ公が栽培する薔薇の香気で何とか平静を保っていた。しかしながら、天魔を封印した、砦の奥底の部屋にリトとエリカが入り、封印を壊してしまったが故に、封印されていた天魔が力を持ち、薔薇の香気では帝の魔物化を抑えることができなくなったしまった。そしてその為に、帝は魔物と化し、帝都を破壊した。推測を含むリトの言葉に、エリカは思わず首を横に振った。リトは、何も悪くない。だが。
「『黒剣隊』の仲間に暗殺の手が伸びたのも、おそらく、砦に封印されている魔物の所為で隊員達が魔物化するおそれがあると、判断が下されたのだろう」
リトの言葉が、エリカの口を塞ぐ。
「私の所為で、人々が苦しんでいるのなら、私は、自分の行いでその苦しみを解かないといけない。それが、……騎士としての私の責務」
帝と、エリカの父が呼び出した天魔を再封印する為には、呼び出した時に使った、二人に近しい者の血が必要。エリカの背にそう刻まれていたと話すリトの淀みない言葉に、エリカは心が冷たくなるのを感じた。ここにいる、帝とエリカの父に近しい者は、……リトと、エリカ。
「……分かった」
ゆっくりと、リトに頷く。エリカの力では、リトを止めることはできない。ならば、……どこまでも、リトと一緒に行く。
「ありがとう」
微笑んでベッドから起きあがり、エリカの腕を掴み直したリトに、エリカも静かな微笑みを返した。
幸いなことに、リトが砦中の書物や書簡を詰め込んだ地下室へと続く抜け道は破壊されてはいなかった。
何事もなく、件の地下室へと辿り着く。地下室の床に隠された螺旋階段を、リトとエリカは押し黙ったまま、下った。すぐに、中央に錆びた剣が突き刺さる、がらんとした部屋が視界に映る。あの錆びた剣を抜いて、リトとエリカの血を塗った剣を刺し直せば、再封印できる。リトと確かめた、魔物再封印の方法を思い返す。ゆっくりと、エリカはリトの背を見つめながら、錆びた剣が刺さる部屋の中央へと向かった。
「行くよ」
ぼろぼろになっている柄に手を掛けたリトが、エリカに頷く。リトのもう片方の手には、既にエリカとリトの血に濡れた剣が握られている。
「……!」
無声の気合いとともに、ぼろぼろの剣をリトが抜き取る。次の瞬間。広い部屋は、重くどす黒い影に踏み潰された。
「リトっ!」
息苦しさを覚えながら、それでも、見えなくなってしまったリトに声を掛ける。もしかしたら、リトは、魔物の瘴気に当てられて倒れてしまったのでは? 不安感に苛まれながら、それでもエリカは、布に包んで持って来た、西の街に咲いていた薔薇の花びらを形の無い影に投げつけ、そしてリトからもらった短剣を怯んだ黒色に突き刺した。
「エリカっ!」
その動作で、少しだけ、影の圧力が外れる。エリカが次に目にしたのは、その僅かな隙を突いて部屋の床に血に濡れた新しい剣を突き刺す、リトの姿。
「リトっ!」
薄れ始めた影をかき分け、床に頽れたリトを抱き起こす。怪我は、見えない。しかし顔に血の気が無い。平原の魔物を倒した後と同じだ。震えを覚えながら、エリカはリトの耳に唇を近づけて叫んだ。
「リトっ!」
「……エリカ」
小さな声が、エリカをほっとさせる。
「魔物は、うまく、封じられた?」
「ええ、……多分」
「良かっ、た……」
エリカの腕の中で、リトが意識を失う。そのリトを助ける余裕は、リトと同じく魔物の瘴気に体力を奪われてしまっていたエリカには、残されていなかった。
はっと、目覚める。
狭い空間が、戸惑うエリカを出迎えた。
「ここ、は?」
戸惑いつつも、何とか、狭い空間で上半身を起こす。闇に目を凝らす前に、乾いた空気に混じる独特な匂いが、エリカに今いる場所を知らせた。ここは、……地下墓所だ。西の街の地下に広がる、死者達が眠る場所。街の少年達に混じって武術を習っていた幼い頃、肝試しで何度かここに足を踏み入れたことがあるから、独特な匂いだけで、エリカには自分が今いる場所が判別できた。しかしなぜ、この場所に、生者であるエリカが? やっと闇に慣れてきた瞳が目にした物に、エリカは思わず叫び声を上げた。
「えっ……!」
エリカが横たわっていたのは、まだ削り面も新しい、棺。そしてエリカの横には、これもまだ新しく見える、大きめの棺が、蓋が閉じた状態で置かれていた。釘が打たれていない、荒削りだと触って分かるその棺の蓋を、一息でずらし開ける。まだ新しい、その棺の中に、眠っていたのは。
「リトっ!」
叫んで、リトの華奢な肩を揺する。掴んだリトの、身体の冷たさに、エリカの心は一瞬で、凍った。まさか、リト、が……! いや、そんなことは。リトの方へと身を伸ばし、エリカはその両手でリトの肩をもう一度掴んだ。
と。
「きゃっ!」
バランスを崩し、リトが眠っている棺の中へ頭から落ちる。
「ううっ……」
「何をしているのですっ! エリカお嬢様っ!」
小さく呻いたリトの声と、お転婆だった幼いエリカを叱る時と同じダリオの声が、エリカの耳に同時に響いた。
「リト殿にこれ以上怪我をさせては!」
ダリオに助け起こされたエリカの視線の下で、再び呻いたリトが身体を少しだけ捩る。
〈生きてた。……良かったぁ〉
そのリトの姿に、エリカは安堵の息を吐いた。
「魔物の瘴気にかなり当てられているようですね、リト殿は」
そのエリカを地下墓所の冷たい床に座らせたダリオが、言葉を紡ぐ。リトとエリカが消えてすぐ、二人が行く場所は平原の砦跡だけだということに即座に気付いたダリオは、西の街に隠れている『黒剣隊』の人々とともに平原へと向かった。地下に続く隠された道を探すのに手間取り、それでも何とか地下深くの、魔物を封印した部屋まで辿り着き、倒れている二人を救出した。その上で、『黒剣隊』の隊員で動けない者を潜ませていた、黒銀騎士団だけが知っている地下の抜け道にも通じているこの地下墓所に、ダリオは二人を隠した。
「全く。……私達に一言、相談していただければ」
「ごめんなさい」
久し振りに見る、ダリオのつり上がった瞳に、素直に謝る。
「しかし、サリナに憑いていた魔物の気配は、すっかり消えてしまっています。……リト殿の推測は、正しかったのでしょう」
エリカが目覚めるより先に、少しだけ意識を取り戻したリトから聞いた経緯と、その証拠となる、砦の書物部屋でかき集めたエリカの父が記した書簡や書物とを、帝都を統治する皇太子の許へと送った。ダリオの言葉に、エリカは静かに頷いた。
「帝都は混乱が続いていると聞いていますが、皇太子殿下は聡明な方。すぐに、リト殿の嫌疑も晴れるでしょう」
「良かった」
ダリオの言葉に、胸を撫で下ろす。だが。
「しかし、しばらくはここに潜んでいてください」
不意に変わった、ダリオの声の調子に、エリカは頷きながらも首を傾げた。
「どうしたの?」
「紫金騎士団が、街をうろついています。……リト殿を探しているようです」
ダリオの返答に、唇が強張る。魔物化した皇帝を、人々を助ける為とはいえ、弑したのは、リトと、……エリカだ。命令を無視し、平原の砦に戻ったのも、理不尽に殺されそうになっていた仲間を助ける、為。
パキトを無造作に殺した時の、ラウルの顔が、不意に脳裏に浮かぶ。ラウルなら、リトやエリカが持つ理由を総無視して、良心の痛みすら感じないだろう。
「分かった」
だから。ダリオに向かって、大きく首を縦に振る。
「しばらく大人しくしているわ」
「サリナに、この場所を伝えてあります。後で食べ物を届けてくれるでしょう」
その言葉を残し、ダリオはエリカに背を向けた。
その時。唐突に響いた騒音に、はっと身構える。
「あなた達は!」
先程とは打って変わったダリオの緊迫した声が、不意に明るくなった空間に響いた。
微かな薔薇の香りが、エリカをはっとさせる。エリカを庇うように立ったダリオの向こうに見えたのは、複数の紫色のマント。いや、黒のマントも一つだけ見える。
「まさか、黒銀騎士団のみが知る、街を守る為の抜け道を余所者に教えたのではないでしょうな、シアノ様」
その、唯一の黒マントの持ち主、黒銀騎士団の団長であるシアノに、ダリオは怒りに満ちた声を上げた。
「へ、陛下に反逆した者を捕らえる為だっ!」
そのシアノの、震える声が、エリカの耳に響く。
「り、リトを、こっ、こちらに渡してもらおうっ!」
「ダメっ!」
「断ります」
リトが眠る棺を庇うように立ち上がったエリカの耳に、あくまで冷静なダリオの声が響く。だが、次の瞬間、ダリオの身体がくの字に曲がった。
「ダリオ!」
腹を押さえて倒れたダリオの向こうを、きっと睨む。
「そんな顔では、美人が台無しだよ、エリカ」
そのエリカの怒りを総無視した、ラウルの声と言葉に、エリカはさらにきつく、ラウルと、ラウルと並ぶシアノを睨んだ。
「さあ、俺と一緒に、帝都に戻るんだ」
しかしエリカの怒りを、やはりラウルの方は毛ほども思っていないらしい。虫酸が走るような言葉とともに、ラウルはエリカにその汚い手を差し出した。答えは、もちろん。
「いやよっ! あなたなんかには、従わないっ!」
強い声で、エリカの肩を掴もうとしたラウルの手をはねのける。エリカに触って良いのは、リトだけだ。ラウルなど、側にいるだけで嫌悪しか感じない。
「そんなに、そのちびが好きなのか?」
リトが眠る棺の方へと唾を吐いたラウルが、侮蔑の言葉を吐く。
「『黒剣隊』も、こいつも、暗殺するよう、皇太子殿下から紫金騎士団宛てに命令が出てるんだぞっ」
ラウルに続く、シアノの言葉に、エリカの全身は怒りに染まった。
「じゃあ、帝都でリトを襲ったのは、やっぱりあなた達なのね! チコの農場を襲撃したのも!」
「そうさ」
全身の熱さに震えるエリカの鼻先に、ラウルの、パキトを殺した切っ先が突きつけられる。
「どいてくれ、エリカ。俺は、おまえまで殺したくない」
「いやよっ!」
エリカを払い退け、眠り続けるリトの身体へと剣を振り下ろしたラウルに、エリカは床に手を突いた反動を利用して横から飛びかかった。続いて感じたのは、左肩から胸にかけての熱い痛み。
「なっ、何故だっ!」
痛みと痺れに、冷たい床に尻餅をついたエリカの眼前に、ラウルの、血に濡れた剣が光る。
「俺と結婚すれば、帝国の大貴族になれるんだぞっ! 途方も無いほど贅沢な暮らしができるんだぞっ! こんなちびと一緒に汚れた辺境で這い回るように暮らさなくても良いんだぞっ! なのに、何故、母子で俺を拒絶するっ!」
喚き散らすラウルの言葉に、エリカははっと、ラウルを見上げた。
「まさか、あなたが、……お母様を」
「仕方無かったんだ」
エリカの推測を裏付けたのは、シアノ。
「ラウルの申し出を、シーリュス伯が一瞬で撥ね付けたから、ラウルが怒ってしまって、その……」
「なっ!」
先程よりも強い怒りが、全身を支配する。エリカはがむしゃらに、エリカに刃を向けるラウルの胸に飛び込んだ。もちろん、エリカの攻撃は、ラウルに簡単にかわされる。横に突き飛ばされ、地下墓所の土壁に背中を打ち付けたエリカが呻くより先に、ラウルの死の刃が下りてきた。
「……!」
思わず、目を閉じる。だが、……予想していた痛みは、来なかった。
そろそろと目を開けて、瞠目する。
「リトっ!」
魔物に体力を奪われ、気を失っていたはずのリトが、エリカに向けられた刃をその小さな両手で留めている。震えの無いリトの小さな背中を、エリカはただ呆然と見つめた。次の瞬間。ラウルの刃を撥ね除けたリトが、ラウルに肉薄する。リトが繰り出した必殺の拳は、しかし、ラウルが掴んで前に引き出したシアノの腹にめり込んだ。そして。
「リトっ!」
気絶したシアノが倒れるより先に、ラウルの横から現れた槍がリトの身体を貫く。
「リトっ!」
エリカの前に仰向けに倒れたリトの、灰色の服を濡らす黒い血に、エリカの唇はわなわなと震えた。
「帝都で侮辱した仕返しだ」
動かないリトの胸に、ラウルが剣を振り下ろす。
「そこまでだっ」
しかしラウルの剣がリトを貫く前に、威圧する声が全てを止めた。
「皇太子殿下!」
ぎくしゃくと、シアノが冷たい床に膝をつく。
「事情は全て聞かせてもらった」
エリカとラウルとの間に立った摂政皇太子テオは、エリカとリトを穏やかに見やり、そしていまだに剣を納めないラウルをその支配者の瞳で鋭く睨んだ。
「シーリュス伯殺害の下手人として、ラウルとシアノ、二人の騎士位を剥奪する」
「は、い……?」
「そんな……」
皇太子の言葉にうなだれるシアノと、まだ事情が飲み込めていない顔をしたラウルを、皇太子の部下達が拘束する。引きずられるように元凶が去って行く様を、エリカはただ呆然と、見つめていた。
「……」
「大丈夫、サリナ」
おそらく皇太子の一行をここまで連れてきてくれたのであろうサリナの、曇った顔に、頷く。
「済まなかった。今回のことは、私にも責任がある。……帝国を守る為とはいえ、不確かな情報で、罪無き者達を犠牲にしてしまった」
遠くに響く摂政皇太子テオの声にほっと胸を撫で下ろすより先に、身動き一つしないリトを庇うように、エリカは冷たい床に頽れた。
物憂げに、瞼を上げる。
「あ……」
この天井は、知っている。月明かりにぼうっと霞む木目に、微笑む。エリカ自身の部屋の、天井。そこまで認識するなり、エリカはがばっとベッドから飛び起きた。
「リトっ!」
ラウルに斬られた傷の痛みが、全身を駆け巡る。しかしその痛みを総無視して、エリカは辺りを見回した。エリカ自身は、無事だ。でも、リトは? 地下墓所の床に倒れ伏し、身動き一つしなかったリトと、床に広がった血の色が脳裏を過ぎる。身体よりも、心が、痛い。シーツをぎゅっと握りしめ、エリカはもう一度、月明かりに照らされた誰も居ない部屋を見回した。
と。
「……エリカ?」
扉が開く音とともに、エリカの耳に涼やかな声が響く。
「リ、リトっ!」
エリカの横にふわりと立ったリトに、エリカは上擦った声を上げた。
「ダメだよ」
そのエリカを、リトが優しくベッドに横たえる。
「怪我、酷いんだから。ちゃんと寝てないと治らない」
柔らかい枕に埋まったエリカの額にリトが置いてくれる、冷たく湿った手ぬぐいが、エリカには心地良かった。
「……リト」
髪を撫でてくれるリトの手に、眠りに引き込まれそうになる。
「リト、怪我、大丈夫?」
それでも何とか、エリカはリトにそれだけ尋ねた。
「もちろん」
エリカに微笑む、リトに、頷いて目を閉じる。
「ラウルとシアノは帝都に連行されたし、皇太子殿下の誤解も解けたから、『黒剣隊』にはもう、危害は及ばない。サリナも、パキトの無念を晴らせたと思うし、……叔母上の無念も、晴らせたと思う」
聞こえてくる、冷静で涼やかなリトの声も、快い。だが。
「ちゃんと眠って、ちゃんと食事をして、ダリオさんの言うことをちゃんと聞いていたら、ちゃんと元気になるから、ね」
うとうととし始めたエリカの耳に響いた、リトの声に、エリカは再び跳ね起き、エリカに背を向けたリトの左腕をぎゅっと掴んだ。
「エリカ?」
掴んだリトの腕は、エリカの頬よりも熱い。
「どこへ、行くの?」
その熱に、既に答えを知っている質問を、エリカはした。
「平原に、戻るんでしょ? ……私も、連れて行って!」
次期の帝である摂政皇太子テオが持っていた誤解が解け、『黒剣隊』の隊員達の身の安全は確保された。だからこそ、リトは、今度こそ、……自分の責務を果たそうとするだろう。直感のままのエリカの言葉に、リトは再びエリカの方を向き、ただ静かに、微笑んだ。
「連れて行くわけには、いかないんだ」
そしてエリカを諭すように、言葉を紡ぐ。
「あそこでは、私は君を守ることができない」
「守らなくていい」
そのリトの言葉を遮り、エリカはリトを掴む手に力を込めた。
「私が、あなたを守る」
「えっ?」
「だから、私はあなたと一緒に行く。どこにでも、どこまでも」
決然としたエリカの言葉に、リトの頬が、月明かりでも分かるほどに赤くなる。そして。
「ありがとう」
微笑んだリトが、エリカの腕を掴んで強く引く。いつの間にか、エリカの身体は、リトの腕の中にあった。美人だと、常に思っていた、リトの顔が、エリカの目と鼻の先にある。そのことに初めて気付き、エリカは胸の鼓動を止めることができなかった。
リトの唇が、エリカの唇に重なる。
月明かりだけが、二人の前途を祝福していた。
2016年8月13日 発行 初版
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へっぽこ物書き。