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jacket

旅のとびら

Kazumi Sato

目 次



Door1: 夕暮れの空へ~アーグラー(インド)

Door2: 冬のピクニック~ゴッドランドからファーロ(スウェーデン)

Door3: 波のむこう~ザンジバル島(タンザニア)

Door4: マンハッタンの内と外~ニューヨーク(アメリカ)

Door5: 恋をした国~ダルエスサラムからセレンゲティ(タンザニア)

Door6: 街になじめない時~フィレンツェ(イタリア)

Door7: 森に溶けてゆくもの~ベンメリア(カンボジア)

Door8: 小さな白い村で~カルタヒマ(スペイン)

Door9: 雨の中、旅ははじまる~バンコク(タイ)

Door10: 砂と星のあいだで~サハラ砂漠(モロッコ)

Door11: ゆめみる力~ハバナ(キューバ)

Door12: 好きなところへ行けばいい~リスボン(ポルトガル)

Door13: その国を好きになる予感~キングストン(ジャマイカ)

Door14: 予知とノスタルジア~ライムキー(ジャマイカ)

Door15: ロマンチックをつくるもの~モンテゴベイ(ジャマイカ)

Door16: 色のあいまに~パリ(フランス)

Door17: ある夜のメッセージ~ミコノス島(ギリシャ)

Door18: 旅の終わりに~オアフ島(アメリカ)

Door19: おばちゃんって素敵~ロサンゼルス(アメリカ)

Door20: 扉をひらく~プラハ(チェコ)

Door21: 霧の中の村と自由~オベンティック(メキシコ)

Door22: 初めてなのに懐かしい街~ウイーン(オーストリア)

Door23: いろんな時間が寄り添う風景~カッパドキア、パムッカレ(トルコ)

旅先で、心に残っている夕方がいくつかある。
たとえば、インドの小さな町、アーグラーの安宿の屋上で。
来たばかりの町にまだ馴染めない上に、昼間の40度を超える暑さによる疲れを感じながら、夕日がゆらゆら、濃さと容積を増しながら落ちていく様子を眺めていた。

タージマハルは、離れた所から見下ろすと、建物というより、巨大な置物といった趣き。
宇宙のどこかから、インドの田舎町に持ってきて、ドーンと置いたような、唐突な印象だった。

それでも、白い輪郭が、夕焼けのマーブル模様に映える様子はとても綺麗で、愛した妃のために、ここまで作らずにいられなかった一人の男性の気持ちを感じた。
それは、クレイジーな自己満足だったのかもしれないけれど、どうにかして、妃への想いを形にして、いつまでもとっておきたかったという、純粋さも混ざっていたのだろう。

どこの国でも、古い建築物や、遺跡など、昔の人が作ったものが今も残っている。
それを見ていると、少しだけ切ない気持ちになる。
今はいない人達の感情を想像すると、現在の私達とそんなに変わらない気がすること。
建物は私達がいなくなった後もきっと残り、別の世代の人達もそれを見ること。
そしていつかは全部なくなる時が来ること。
そういうのがいっぺんに押し寄せてきてしまう。

タイムトラベルができたら、と旅の途中で何度も思った。
そうすれば、旅先の選択は無限になるのになって。
だけど、できないから味わえる切なさや、想像できる楽しさもあるのかもしれない。
頭の中は自由でいられるから。

鳥が輪を描いて飛び立ち、山の木々の中に太陽がぽとりと落下した後、ピンクオレンジの空に、放射状のブルーが差し込んだ。
そして溶け合い、夜の色に深まっていく。
風がそよぎ、いろんな国の旅人が思い思いに夕涼みをしていた。
町のディテールが闇に沈み、三日月と星と青白く浮かぶタージマハル。

昔から今まで、どれだけたくさんの人が、これとほとんど変わらない風景を見ただろう。
その時何を考えていたのだろう。
未来に暮らす人達も、今いる私達のことを想像したりするのだろうか。
そんなことを思っていると、時間を超えて、果てしなく、空に吸い込まれそうになった。

スウェーデンのゴットランドという島に滞在した時のこと。
この島を訪れたのは、一緒に旅をしていた友達の、知り合いの初老夫婦の家にショートステイさせてもらうためだった。
友達と夫婦とは、何年も前に、お互いタイを旅行中に出会ったのだそう。
住む場所の距離や年の差を超えて、初めて会うとは思えない、しっくりくる人と出会うってすごく嬉しい。
本当は誰にでもそういう相手が、すぐそばにも、見知らぬ国にも、世界中にたくさんいるんだろう。

わたしがゴットランドに着いたのは11月で、毎日3時頃には日が暮れ始め、日中の空も渦巻くような雲に覆われていた。
苔むした丘に立つと、たくさんの三角屋根や廃墟を囲む古い城壁、その向こうに切り立った崖と暗い色の海が見下ろせる。
夏になると、白夜が続き、町のあちこちにバラの花が咲き、ビーチは観光客でいっぱいになるらしい。

夏なら出かけるところがたくさんあるのにねと言いながら、ある日夫婦はドライブに連れて行ってくれた。
ゴットランドの北部にある、ファーロという島を目指して、森の中を、北に進む。
ファーロは、昔ゴットランドと陸続きだったようだが、現在は分離しているので、車ごと船に乗り、ほんの少しだけ海を渡る。
ファーロに上陸し、更に車を走らせると、湖畔の空き地にテーブルと椅子を見つけた。
そこで車を停めて、ピクニックをすることに。

海から吹きつける強風の中、ポットに入れて持ってきたあったかいコーヒーとパンを持ち出して。
寒くて寒くて、笑っちゃうほど寒くて、5分間くらいの超スピーディーなピクニック。
座ってなんかいられず、みんな立ったまま、歩きながらコーヒー飲んだり、パンを齧ったり。
あっという間に後片付けして、車に戻った。
幻のような時間だった。
それから来た道をゴットランドに戻った。

旅するまで名前も知らなかった、北欧の小さな島を、優しくキュートな夫婦と友達と一緒にドライブ。
友達がタイで二人に出会ったことが、こんな時間につながっていて、そこに自分も混ぜてもらっていることの幸せを感じていたら、突然、森の茂みからもこもこした羊が現れ、車の前を横切った。
その後次から次へと羊が・・・
羊飼いの姿は見えなかった。この子達は、どこから来て、どこへ行くのだろう。
車を停め、森の奥に、一列に並んで消えていく羊達を見送った。

自分の心の中と、車窓の風景の境目がぼやけていくような、誰かの夢の中にまぎれこんだような、そんな不思議な気持ちになったことを、今も時々思い出す。

タンザニアの離島、ザンジバルは、もう一度行ってみたい場所のひとつだ。
ビーチはいろんな国で立ち寄った中でも、ダントツに美しく、町並はイスラムの繊細な装飾と、アフリカらしいワイルドさが混ざっていて、どこもかしこもエキゾチックだった。
今も書きながら、思い出すと、すぐにでも行きたくなってくる。
そんなザンジバルでは、楽しい思い出がいくつもあるけれど、今回はちょっと残念だった話を。

島をぶらぶらしていると、いろんなミニツアーに誘われる。
ウミガメ達が住む島まで舟で出かけようとか、町の中のイスラムの遺跡を見に行こうとか。
どれも魅力的だったけれど、私達は、イルカと一緒に泳ぐというツアーに行くことに。

ボロボロの車に乗せてもらい、ここならイルカも暮らしているのも納得できる、それはそれは綺麗な海辺に着いた。
シュノーケルなど渡され、説明もないまま、海に浮かぶボートまで水の中、速歩きするよう言われた。
足もとには岩や巨大ウニがたくさん転がっていて、痛いったらない。
カメラを持っていたので、転ばないように気をつけながら、イルカと泳げる期待でどうにかボートに乗り込む。

そこからボートを漕いでいくのだけれど、岸から想像以上に遠ざかっていく。
ぎょっとするような高波の中、更にどんどん沖に進む。
私はそれまでダイビングの経験は一度もなく、この時点でシュノーケルの使い方もよく分かっていなかった。
前日に出会った女の子からは、イルカと泳ごうとして、溺れ、救助されたという話も聞いていた。

激しく揺れるボートの上で、添乗していたアフリカ人が指さす方向を見ると、イルカがジャンプしていた。何頭も、次々に。
いつでも見られる訳ではないようなので、運が良かったのだろう。
さあ、飛び込んでと言われ、海に慣れている友達はすぐに飛び込みイルカに向かっていった。

私も、呼吸の仕方もわからないままシュノーケルをくわえ、海に入ってみた。
私の手はボートにがっしりとつかまったままで、どうしても離せなかった。
この波の中、行って戻って来ることが全然イメージできなかった。
相当迷ったけれど、結局私はボートにしがみついたままで、様子を見ていたアフリカ人に、引っ張り上げられ、「泳げないのに海に入るな」と叱られた。
その後は、一気に船酔いに襲われ、きらめく海水に、どぼどぼ嘔吐した。

初めてダイビングするには、ハードルが高すぎたから、手を離さなくてよかったのだとは思う。
だけど、思い出したのは、幼稚園に入るよりも前、祖母に連れられ、町のプールを見に行った時のこと。
小学生達が楽しそうに泳いでいるのを見下ろし、「もっとおねえちゃんになったら、あんな風に泳げるね」と祖母が言った瞬間、私はプールに飛び込んだ。
服を着たまま、足も届かない深い水中に。
その後の記憶はないのだけれど、飛び込む瞬間の迷いのない勢いだけを体が覚えている。

日常の中でも、中途半端にためらい、前に進めなくなる時がある。
そんな時、必死に船にしがみついていた自分を思い出して、苦笑してしまう。
手を離すか、船に戻るか、決めなくちゃ。
溺れることが予想できなかった子供の頃の私には、勇気すら必要なかった。
周りに守られている自覚もなく、無条件に安心していた。
それは少し羨ましいけれど、おとなになった私だって、少しの準備と勇気さえあれば、飛び込めるはず。
もがく自分の後ろには、キラキラ広がる南国の海。
たくさんのイルカがジャンプしていたことを思い出してみたい。

ニューヨークを訪れるのは、2度目だった。
空港で最初に声をかけてきた、タクシードライバーはインド人で、この街が多国籍だったことを思い出す。
イエローキャブは断って、結局旅行者達の乗り合いタクシーに便乗した。
乗る時に宿の住所を聞かれ、順番に降ろしてもらいながら、マンハッタンを北上する。

前日はストックホルムの旧市街で過ごしていた。
これまで数か月過ごしたヨーロッパのムードから一転して、雑多な熱気のあふれる街に。
いろんな人種、階層、思想、時間、が色とりどりに編み合わさって、街を作っている。
ストリートが1本違えば、暮らす人の種類が変わる。
シビアに住み分けがされているのかもしれないけれど、旅人として、そのカラフルさを眺められるのは楽しい。

どの街角でも、誰かが誰かと話しているし、車のクラクション、飲食店で食器をがちゃがちゃ洗う音、道行く人の鼻歌だったり、車窓からこぼれる音楽。いろんな角度からいろんな音が降り注いでくる。

洗練された大都会だけれど、裏通りでは、焦げた鍋を磨いて使うような、ほつれたセーターを繕って着るような、そんないなたい雰囲気も同居している。
どこに焦点を合わせるかによって、ひとつの街がいくつもの世界を見せてくれる。
この街でなら、どんな格好をしたって浮くことも、目立つこともないだろう。
ただ、馴染んで、街のパーツの一つになってしまう。
とても気楽で、すこしさみしい。

タクシーの乗客は次々に降ろされ、残りは私達だけとなった。
通りを歩く人達は、気づけば黒人がほとんどになって、この辺りからハーレムだなと思った頃、ホテルに到着した。

どこの町でも、ホテルに着いて一番最初にするのは、最寄のスーパーマーケットを教えてもらうこと。
この日は、もう日も落ち始めていたので、暗くなる前に夕食の材料を買いにでかけた。
小さなスーパーで、夕飯時の地元のお客さん達が食材を選んでいた。
店を出れば、それぞれの生活があるけれど、今はみんな単純に夕ごはんのことを考えているんだと思うと、ほほえましい気持ちになった。

日本にいる時より、しみじみ考えてしまったのは、スーパーにいる人達から滲み出る生活感に懐かしさを感じたからかもしれない。
わたしは日本にいる時、一人暮らしをしているから、スーパーのレジに並んだ時、カゴの中身が貧弱で、家族分の食料や日用品を買いこむ姿を見ると、生活感の厚みに圧倒されることがある。
だけど、その時は家族連れだけじゃなくて、一人分の買い物をしている人からも、それなりのスケールの生活スタイルが感じられて、なんだかいいなあと思えた。

疲れたかんじのお母さんは少しめんどくさそうに、カゴに食材をほおりこんで、だけど、子どもに突っつかれたらにっこり笑ったり。
すっごくスタイル良くておしゃれな男の子が、そばのおばさんとおしゃべりしながら野菜選んでいたり。
そういうなんてことのない風景が、映画のワンシーンのように見えて、自分が旅人の目線になっていることに気付いた。


翌朝は、フェリーに乗ってスタテン島に自由の女神を見に行くことに。
おのぼりさん気分を楽しんだ後、フェリーに乗ってマンハッタンに戻っていく時。
離れた場所からマンハッタンを眺めて、わたしは少しぎょっとした。
まるでプラモデルのような街並。オモチャにしか見えなくて、そこに人の気配は全く感じられなかった。
あの中に本当はたくさんの肉体と、様々な感情がひしめきあっていることが想像できなくて戸惑った。
ある日突然消えてなくなってしまっても不思議ではないような印象。

これまでどんな島を離れる時にもこんな風に感じたことはなかったので、どうしてなのだろうと思った。
視界が隙間なく高層ビルだから?
人の手で作られた、土や緑の混ざらない風景は、離れて見るとこんなにもキッチュで、危うく見えるものなのか。
マンハッタンの風景は、儚いもの独特の魅力を放っていて、刹那的な美しさを感じた。

そして、漠然と、未来の都市というのは、もしかしたら高層ビル街とはかけ離れたものになっているのかもしれない、という思いが頭をよぎった。
摩天楼が、今でいう田舎じみたものになっているかもしれない。
未来の都市は、小な村や集落みたいなものが寄り集まっていたり、建物や道路が自然(植物や石や河川などと)もっと混ざり合っているかもしれない。高層ビル街とセントラルパークのように二極化された街ではなくて。

建物も四角く長い箱形のものばかりではなく、平屋や様々な素材のいろいろな形のものがあるかもしれない。
道も舗装された道だけではなくて、でこぼこしたりくねくねした道を選ぶこともできるかもしれない。
それでいて、それは、現代の田舎町の風景とも全く違うものなのではないか。
私は、ビルの立ち並ぶ風景も、高層ビルの窓から眺める風景も結構好きだけれど、そういうものがいつかレトロに感じられたり、懐古趣味になるのかもしれない。

本当のところは勿論分からない。
数百年後も、マンハッタンはますます、ビル街が進化しているのかもしれないし、世界中で、どんどん高層ビル街が作られている最中にこんなことを書いても笑われてしまうかもしれないけれど。
だけど、張り子のようなマンハッタンを眺めていると、世界中がこんな景色になったところで、それはそんなに長く続くものではないだろうなあと思わずにはいられなかった。

フェリーはバッテリーパークの埠頭に戻った。
カモメと飛行機の飛び交う青空。黒人の青年がトランペットを吹いていた。
チャイナタウンを目指して歩きだすと、人々の生活感の溢れるニューヨークの街。
人の体温が全く感じられなかった、風景の中に、実際にはたくさんの人が生きていて、さっき見たばかりの風景が嘘のように思えた。

南アフリカのヨハネスブルグの空港に着いたら、周囲の黒人達はレザーのコートに、ニット帽といったいでたち。
アフリカにも冬があるということを、すっかり忘れていたので、前日までの灼熱のインドとのギャップに驚いた。

空港の中はひっきりなしに清掃され、すみずみまでピカピカしていた。
アフリカの豊かさを謳った、お洒落なショップも並んでいて、洗練された雰囲気だけれど、空港から一歩外に出れば、世界で一番治安が悪いとも言われるヨハネスブルグの街。
ワールドカップ開催を間近に控え、周囲に広がるスラム街を無理やり取り壊しているというニュースも見たことがあり、少し複雑な感情を持った。

タンザニアに向かう飛行機が離陸し、外を眺めると、ほんの一瞬、都市のような風景が見えた。と思ったら、窓の下はすぐにまっ茶色になった。それから延々と続く、ひたすら茶色い景色。
山脈は見えるのだけれど、表面に緑がないので、輪郭が剥き出しになっている。
初めて見る異質な風景に、まるで別の星を見下ろしているような気分になった。

タンザニアの首都、ダルエスサラムは、想像していたよりも都会だったけれど、たくさんの人から治安の悪さについて聞いていたので、昼間の大通を歩く時ですら、びくびくしていた。
アフリカの人には陽気なイメージを抱いていたけれど、スーパ-ハイテンションなインド人達と過ごした後だったので、街の人々は落ち着いていてクールに感じられた。

でも、ダルエスサラムから、次の街に行くため長距離バスに乗ってみると、周りの座席のおばちゃん達はみんな優しく気を配ってくれて、少しづつ気持ちがなごみ始めた。
乗車の途中、草むらで降ろされ、みんなわらわらと外に出る。
わたしの背丈ほどもある草の生い茂る原っぱのあちこちで乗客がトイレタイム。お互い顔だけ見合ってたり。
なんともおおらかだけれど、バスに戻ると、人数確認もないまま即出発。のんびりしていたら、草原に放置されてしまいそうだ。

そうして着いた町では、ホテルにチェックインして、ポシェットだけ持って外に出ようとしたら、ホテルマンに全力で止められた。
どんなに小さな荷物でも、持って出ると危険だから、手ぶらで行きなさいとのこと。
ポケットに小銭だけ入れて外に出てみたものの、何メートルも先からも、たくさんの視線を感じて落ち着かない。
出歩く気もなくなって、ホテルのそばに立ったまま、町行く人を眺めることにした。

眺めている内に、わたしは、地元の女性達のファッションに釘付けになってしまった。
みんな、カンガと呼ばれる大胆な色使いのプリント生地を身にまとっている。
おばちゃん達はビッグな体にゆったりと、若い女性はスリムな体にぴったり巻きつけて。
巻き方のバリエーションやアレンジも様々で、上下布をまとっている人もいれば、フリースやジーンズに合わせている人もいる。

個性的に着こなして、頭に大きなかごや小包を乗せて歩いている姿が格好良くて、一人一人を写真に撮りたくなったけれど、とてもカメラを出せる状況ではなかった。
虫よけのリストバンドをしているだけで、遠くからも人が集まり、たちまち囲まれてしまったツーリストの姿を見ていたし、携帯電話にも人が群がっていた。
その時のわたしには、バスの車窓から撮るのが精一杯だった。

この時に限らず、旅の間、本当に撮りたかった風景は写真には残っていないものが多い。
車窓から流れる一瞬に目に焼き付いた村の風景や、ジャマイカのスラム街、砂漠の星空・・・

形に残せなかったことを残念にも思うけれど、日本に戻って生活している中、ふとしたはずみで、いろいろな風景がよみがえる瞬間があって、自分の中にたくさんの風景が積もっていることに気付く。
撮らないことで、一層残るものもあるのだなと思う。
そしてそれらが、また旅に出てみたいとか、文章で伝えたいというふうに気持ちを揺さぶっているようにも思う。

実際に行くまで、わたしはサファリにそれほど期待をしていなかった。イメージが貧困すぎて、日本のサファリパークを大きくしたようなものしか考えられていなかったので。

ダルエスサラムからバスで10時間もかけて到着した中継地点の街から、サファリ地帯まで、更に車で8時間くらいかかるという。
ボロボロの日本製のワゴン車に乗り込み、でこぼこの道を揺られながらドライブがスタート。
バスから見た風景も同じだったけれど、基本的に茶色い草原がひたすら続き、アフリカは茶色いというイメージがわたしの中でますます育っていった。

けれど、このドライブにわたしはだんだん夢中になってしまった。
時々、派手な布をまとった人々がぽつんぽつんと現れ、その姿が風景に映えてとても美しい。
岩や木々も、ひとつひとつが個性的で、これまでアジアで見てきたものともまるで違う。

そして、ここからサファリの区域に入ると言われた場所も、これまでドライブしてきた道のりの続きといった様子で、見渡す限り草原が続いているだけだった。
掴みどころのなさに、ぼんやりしている私に、ドライバーが指を差すので見たところ、車のすぐ脇に、3匹の雌ライオンがくっついて寝そべっていた。
その姿は、まるで大きな猫といったかんじで、ほのぼのとしていてかわいらしかった。
その後に見た駝鳥は、その大きさにも驚いたけれど、突然車の正面にしゃがみこみ、砂で羽繕いを始めた姿があまりに愛らしくて見とれてしまった。

動物達がみんな、動物園で見るものと筋肉のつきかたも違うし、動作がいきいきとしていて、彼らの世界にどんどん引き込まれていった。
もっと動物がそこらじゅうにいる風景を想像していたのだけれど、実際には広大な草原の中に時々ちらりと現れるくらいだ。驚くほど視力の優れたドライバーが、わたしには点にも見えない、遥か先の草陰に潜む動物を発見しては、連れていってくれる。

象ひとつとっても、耳をぱたぱたさせながら、泥浴びをしている姿、群れから離れ、気が触れた様子で車に向かって来る巨大象、まだうまく鼻を使えないあどけない子象や、100頭ほどの集団などいろんなシチュエーションを見ることができた。

それ以外にも、猛スピードで走るイノシシや、ヒヒの親子や、インパラの群れ。しまうまと一緒に行動するヌー達。
しまうまを離れたところから狙うライオン。葉っぱを食べ続けるキリン達。木の上の豹やカバの群れ。まだまだたくさんの動物の姿を見た。
こんな動物達が野生で暮らすアフリカってすごい土地だと思わずにはいられなかった。
サファリの中だけではなく、例えばゴミ箱を漁りに、わたしの肩くらいの身長の巨大鳥がのしのし歩いてやってきたり(日本ならせいぜいカラスだろう)、ホテルの庭には体半分が青で半分が赤い謎のトカゲがいたり、車の下に一抱えくらいある大きなモルモットのような生き物が隠れていたり、なんというか、スケールが違う。

アフリカの植物にも、わたしはとても心惹かれた。
大きくて斬新なデザインの、まるでオブジェのような存在感の植物があちこちに生えていた。
下半分は木、上半分はサボテンのような不思議な植物が赤やピンクの花を咲かせていたり、ソーセージのような実を鈴なりにぶら下げている木だとか。
自然って本当に奇抜だなあと感心してしまった。

行ってみるまで、アフリカの風景や人に対して、漠然と、素朴さや原始的なイメージを想像していて、実際そういう一面はあったのだけれど、同時に、驚くほど洗練されて、現代アートが目指す先のような印象も持った。

空間と動植物のバランスも、まるで計算されているかのように感じたし、夕方ショッキングピンクの夕日が沈む真ん中に、木の下に佇む象の親子のシルエットが浮かんでいるのを見ていると、舞台を眺めているような感覚に陥った。
自分の中で、自然に対しての新しいイメージが更新された感じがした。

翌日は、クレーターの中にできたサファリを探索し、そこでは動植物以上に、地形そのもののダイナミックさに感動した。
青みがかった山にかこまれた巨大クレーター。干上がった湖の塩分が彼方に真っ白なラインを引いていた。
そこから、また数時間のドライブをして、空港に送ってもらうことに。

草原の中に、時々マサイ族のような姿が見える。動物と同じくらいちらほらと、たまにしか出会わない。
茶色い風景の中、わたしには決して着こなせない色の服を着た人達が佇んでいる。
日本にいたら、みんな振り向いてしまうだろうけれど、ここでは、動植物と同じくらいにさりげない。
ユニークな植物も車窓から通りすぎていく。

それを眺めていたら、車が進むにつれ、なんだか胸が苦しくなってきた。
なんだろう、この気持ち?旅を始めてから初めての感じだ。胸がきゅんとする。
ああそっか、これは恋だ、と気付いた。
どうやらタンザニアに恋してしまったらしい。
手の届かない高嶺の花に片想いの気分。
こんなに、キュートでセクシーでユーモラスな、味わい深い土地から離れたくないなあ。
シンプルだけど刺激的で、それでいておおらかで。

そんな切ない気持ちを抱えつつ、途中で寄った土産物屋ではしっかり値切ってしまい、
女子のタフさを実感したのだけれど、
でも、その後行ったどこの国でもこんな気持にはならず、この旅一度きりの恋だったなあと
思い出したら、少ししみじみしてしまう。

7ヶ月旅をしていると、息切れしてしまう時期もあった。
たとえば、イタリアに滞在していた頃。
アジア、アフリカと、目まぐるしい日々を抜け、ヨーロッパに入り、最初の頃は、その落ち着いた雰囲気に癒され、それまでとは違う文化や風景を楽しんでいたのだけれど、イタリアのフィレンツェに入った頃、徐々に気持が重たくなってきてしまった。

真夏で気温は高く、どこに行っても人だかりができている。
アジアではもっと暑く、いつも人に囲まれていたはずなのに、なぜかその頃よりも疲れやすくなっていた。
朝起きて、何を見に行くか考えることが、わくわくすることだったのに、次第に面倒に感じるようになってきていた。

とりあえず、近くの教会に行ってみたりするものの、重厚な内装に圧倒はされるけれど、その時のわたしにはくどすぎた。旅を始めてから、あまりにもたくさんの教会を見て、おなかがいっぱいになってしまい、感受性も鈍くなっていたように思う。

考えてみると、どこの国でも、ガイドブックに載っている観光地のほとんどは、お城(や権力者の作った建物)か、教会(又は宗教にまつわる建物)なのだ。
キリストにもブッダにも特別な思い入れのない私だけれど、いろんな国を回り、この二人が何千年たった今でも、こんなにも多くの人に影響を与えていることを考えると、ものすごく不思議な気がしてきた。

気を取り直して、美術館に入ってみたら、その混み具合と、余りの展示品の多さにくらくらした。
人にもまれながら、大量の石膏像や、写実的な宗教画を見てゆく。
教会の内装を見た時にも感じたけれど、昔の人の物にかける時間や技術、費用が、現代のわたしの感覚からすると、度を超えている。

これから先、再びこのようなものを作ることのできる時代が来ることはあるのだろうか。
これだけのものを作り、これだけのものに普通に囲まれていた時代の人間を想像すると、その濃さに圧倒される。
コンピュータも工事機具もない時代の人々は、体や頭の使い切り方が現代人とは比べものにならなかっただろう。
当時の人達が、現代のわたし達を見たら、まるで透明人間のように感じるのではないだろうか。

たくさんの展示品を心で消化できないまま、外に出てみるけれど、街の中は街の中で、そこらじゅう古い建物でいっぱいだ。
わたしは、古いものは好きな方だけれど、この時はさすがに街並の古さが重く感じられ、こたえてきた。
体力や気力がないと、太刀打ちできないと思えた。
普段軽いものに慣れすぎているのかもしれない。

現代作られている建物で、数百年後も残っているものがどれだけあるだろう。
こんなにも普及しているコンピュータも永遠ではないだろうから、今の時代のデータが見られない時代も来るだろう。
その時代でも、もしかしたらこのイタリアの街並や美術館の作品は残っているかもしれない。

そんなことを考えていると、なんだか街を抜け出したくなり、川沿いに向かい、橋を渡る。
建物や喧騒から離れると、途端に空気が変わって、気持ちがほどけた。
前日、夜景を眺めに行った丘の上の広場を目指す。
これまでで一番馴染めなかった街なのに、見下ろす景色は、不思議とこれまで見た中で一番美しいと思った。

なんともいえない華やかさと品があって、普段出てこない「高貴」という言葉が頭に浮かんだ。
離れてみると、近寄りがたかったドゥオモや教会に、特に心が惹かれる。
私はあの古い建物たちが嫌いな訳ではなくて、今はこれくらい距離を置かないと味わえないんだなと思った。
階段に腰掛けて、日が沈むまでそこで過ごすことにした。

旅の間何度も思ったことだけれど、わたしは、街のような人間が作ったものと、山や海、空の色が変化していく様子などを同時に眺めることがとても好きなんだなあと感じた。
朝焼けだとか夕暮れの様子をただぼんやり眺めて過ごすことが、一番落ち着く。

この時も、日が落ちかける頃には、少しづつフィレンツェに馴染めそうな気分になった。
それで、日が沈み切る前に丘を降り、街に戻って、橋の上から夕焼けを見ながら、ジェラードを食べようと思った。

初夏のカンボジアは、日差しが透き通り、そこらじゅうにあるこんもりとした緑や、水辺をきらめかせていて、どこもかしこも瑞々しかった。
森の合い間には、小さな集落が現われ、色とりどりの睡蓮の咲く沼、そのそばには高床式の簡素な家がいくつか並び、木陰のハンモックで昼寝をする人や、すっぽんぽんで水を浴びる子ども達、牛を連れたお年寄りなどが立ち現われては、消えて行く。

原始的とも言えるくらいの、シンプルな光景。
無意識に、自然に寄り添った、人々の営みの様子。
思いだすだけでも、どうしてこんなに気持ちがなごむのだろうと思う。

カンボジアといえば、行ってみるまでは、地雷、国民の大量虐殺からまだ年月の浅い国、乏しい知識から、深い影差す国をイメージしていた。
それは真実には違いなく、アンコールワットのガイドさんも、カンボジアには今も犯罪、特に性犯罪や人身売買の問題が蔓延していると話をしていた。

それを脇において、カンボジアの村の風景を眺めて心惹かれるのは、観光客の甘い視点だからと言われても仕方ないだろう。
だからといって、私の感じたみずみずしい美しさや、のどかさが、カンボジアのうわべということではなくて、それが本質ではないのかとも思う。

わたしにとっては、思い返しても心惹かれる風景に、何の価値も見出さない人たちがいるということ。
豊かな緑に地雷を埋め、そこで穏やかに暮らす人々を殺したり傷つけることを、なんとも思わない人たちがいるということ。
そのことを考えると、さすがに、絶望的な気持ちになってしまう。

それは世界中のあちこちで思ったことだ。
対抗するには、わたしは本当に無知で無力だとも感じた。
けれど、その土地の闇の部分を知ることだけではなく、本来の美しさや良さを感じ、伝えることにも意味がない訳ではないと、今は思う。

でこぼこ道を走り続けて、辿りついたベンメリアの入り口となる村。
数年前まで地雷の撤去作業が行われていたため、まだ、観光地化されてから日が浅く、観光客もほとんど見かけず、のどかな印象だった。
睡蓮の沼を眺めながら森を進む。

木陰では牛が歩いていたり、黄色い蝶が飛び交っていたり、子どもが佇んでいたり、童話の挿絵のような風景が続く。
その奥で、目の前に現れたのは、ばらばらに崩壊した古代の石造りの寺院だった。

遺跡全体が、ガジュマルなど、熱帯樹の密林に覆われ、森に飲み込まれているといった風情。
意思があるかのようにぐねぐねと伸長した木の根が、石壁に絡みつき、じわじわと浸食を進めている。

絡みついた熱帯樹の倒木により、崩れた石はひんやりと苔むしたまま、うず高く積み重なっている。
地上は歩くこともできない状態であるため、遺跡を見学するには、回廊の屋根に上り、縁をつたってゆっくりと歩くしかない。
回廊を覗き込むと、真っ暗な中、崩壊した屋根の隙間から光が射していた。

数百年も昔に、人間が作った壮大な寺院。
それが今、森の中に溶けていく姿を見ると、空しさや切なさではなく安心感のようなものを感じた。

人間に計ることのできる時間よりも、もっと大きな時間の流れに包まれているような、その場所に残るいろんな人の思いや歴史も、すべて森が葬ってくれようとしているような、そんな場所のように感じられた。
今後ベンメリアも他の遺跡と同じように、修復が進められるのかなと思う。
人の手で甦るものもあれば、その陰に消えてしまうものもあるのだろう。

崩れた石や柱にまたがったり、回廊を走り回って遊んでいた子供たち。
お金をちょうだいと後を着いてきた子供たちに、してあげられることは少ない。
それでも、頭やほっぺたをぐりぐり撫でたり、ハグすると、照れて笑い出すし、手持ちの折り紙で折り方を教えてあげると、お金をねだることは忘れ、すっかり夢中になって覚えていた。

いまだ葬り切れない、生々しい痛みがそこらじゅうに残る国。
それでも、カンボジアと聞くと、わたしの頭に浮かぶのは、神秘的なほどみずみずしい森と、その中にすべてを委ねたように朽ち果てていく、美しい遺跡。
そしてあっさりとして明るい人々の面影ばかりだ。

旅を振り返ると、取り立てて大きな出来事が起こった訳ではなく、思い出しても掴みどころのないような時間なのに、なぜか忘れられない日々というのがある。
たとえば、スペインのカルタヒマという、インターネットで今検索してみても、ほとんど情報も出てこないような小さな村で過ごした二日間について書いてみようと思う。

ガイドブックに載っていた、ロンダという町に立ち寄りたいと思い、その近辺で宿泊する場所を検索していた際、見つけた宿の住所が、カルタヒマだった。
宿のマネージャーであるボッツという男性にメールしたところ、やりとりの感じも良かったため、カルタヒマの場所をきちんと確認することもせずに、予約することを決めてしまった。

ロンダは小さな町だけれど、崖からの景観が観光スポットになっているため、それなりに観光客が集まっていた。
ボッツが送迎に来てくれることになっていたが、待ち合わせ場所に行ってもそれらしい雰囲気の人が見当たらない。
と思っていたところに近づいてきたのは、ぱっと見て、「この人は絶対に違うだろう」と思っていた、長髪にサングラス、痩身に黒の皮パン、黒いシャツの胸をはだけた、ロッカー風の男性だった。

彼がボッツであり、その宿の支配人兼料理人兼ハウスキーパー兼運転手だということが分かり、ちょっと驚きながら車について行った。
もう一人宿泊客を待つと言う。
そこにバスが停まって、一人の東洋人の男の子が降車し、あたりをきょろきょろ見回していた。
ボッツが声をかけると、その子が宿泊者の韓国人でソンという名前だった。
"nice to meet you"とあいさつすると、「はじめまして」という返事が。
韓国語に加えて、英語、スペイン語、日本語、アラビア語の5か国語を話すことができるらしい。

わたし達と、ボッツとソン。険しい山道をぐるぐる回りながら、宿を目指す。
ロンダに滞在する予定だったけれど、想像していた以上にカルタヒマまでは距離があり、宿からロンダまで観光をしに出かけるという選択肢は、その時点で捨てざるを得ないなと思った。

そしてたどり着いたのは山に囲まれた小さな村だった。
歩いてすぐに一周してしまえる。
真夏の日差しの下、立ち並ぶ家はすべて真白で、村全体が陽光を浴びてまぶしかった。
シエスタ(昼寝のための休息時間)の時間帯だからなのか、通りを歩く人も見かけず、物音も聞こえない。

その中の一軒がボッツの家であり、今夜わたしたちが宿泊する宿だった。
ボッツが自分で内装を手がけたという、モロッコ風のリビングは涼しくて、居心地がよかった。
ボッツの入れてくれたお茶を飲みつつ、ソンに話しかけてみる。
「どうしてここに来たの?」
「・・・分かりません・・・。ロンダに・・・。・・・でもここは、好きですね。」
少し、途方に暮れたように答える彼。わたしたちと全く同じ心境だ。
とりあえず、郷に従って、わたしたちもシエスタをすることにして、各自の部屋で夕方まで眠った。

目が覚めたら、ボッツが上半身裸で、頭にバンダナという、やけにワイルドないでたちでディナーを作ってくれていた。
彼の料理の腕前はなかなかで、やさしい味の家庭料理は、外食に疲れていたわたしたちにはとてもありがたかった。
「日本人に、スペイン料理はtoo much だと思うから、あっさりめにしたよ。多かったら残してね。」
と気遣いの言葉も。

食後は、家の屋上に上がった。
サマータイムのシーズンだったので、まだ空がほんのり明るく、ちょうど日暮れ時。
ロンダで買いこんできたお酒やおつまみを広げ、のんびりと話していると、あまりに自然で、久しぶりに、札幌で友達と飲んでいるかのような気楽さを感じた。
けれど、あたりを見渡すと、切り立った山並に囲まれた、白い村にいることを思い出す。

ソンは、ドラえもんののび太をふっくらさせたようなルックスで、喋り方のテンションは低く、一見、ぼおっとしているようにも見える。
けれど、世界一周旅行の経験もあり、学校の先生にもなって、タンザニアのザンジバル島で暮らしたり、アルゼンチンで彼女と一緒にタンゴを習ったりしたこともあり、今はリビアの会社で働いているという。
私よりも年下なのに、余りに経験豊富で、頭脳明晰。話題もつきない上、話上手。

日が落ちる頃、ボッツがやってきて、照明を消し、かわりにキャンドルを灯してくれた
空に見える星の数が増える。
ソンとはすっかり仲良くなって、夜遅くまで夜空の下、話し込んだ。

すっかり夜更かししたので、翌朝はゆっくり起きて朝ごはん。
ソンがカフェに行こうと言う。
昨夜、村に一軒だけカフェがあるのを見つけたのだ。
「お茶しましょう・・・他にすることないですから・・・」
全くその通りなので、三人で外に出たが、シエスタのせいなのかカフェは閉まっていた。

せっかく外に出たので、村を散歩してみる。
近所の教会に入ってみると、まだ新築独特の匂いのする、小ぎれいな内装だった。
掃除をしていたおばちゃんに、ソンがスペイン語で話しかけると、内部をライトアップしてくれ、像をひとつづつ説明してくれた。
それをソンは日本語に通訳してくれる。

表に出ると、今度は道端で集ってるおじちゃん達のお喋りの輪に入り、すっかり馴染んでいる様子のソン。
おじちゃん達に食べられる木の実のようなものをもらい、散歩を続けるが、
どんなにゆっくり歩いても、30分もかからず、部屋に戻る。
「・・・トランプでもしましょうか。」
ソンがボッツからトランプを借りてきて、なんとなくゲームを始める。
この旅最初で最後のトランプの出番だった。
この時、ボッツからトランプを使ったマジックを伝授されたのだが、残念ながら、全く思い出せない。

その後、ボッツの勧めで、この村の入り口にある村民プールを見に行く。
屋外の10メートルくらいの小さいけれど清潔そうなプールで、地元の男の子たちが泳いでいる。
カメラを向けると、意識してみんなザブンザブンと飛び込みを始めた。

真夏日の太陽のもと、レンズ越しに水しぶきが乱反射するのを眺めていると、プールの情景が次第にスローモーションのように感じられ始め、なんだかぼんやりしてきた。
そもそもこの村がどこなのかもよく分かっていないし、ここで何をしているのだろうと思うと、なんだか可笑しかった。

私たちはカルタヒマに2泊する予定だったため、この日、ロンダに戻るソンとはお別れ。
この村になぜ来たのかもお互いよく分からないままだったけれど、一緒に過ごせてよかったと名残を惜しんだ。
入れ替わりに今夜はアメリカ人とドイツ人の二組のカップルがやってきた。
こんなに辺鄙な場所なのに、毎晩予約が埋まっているようなのだ。

前日はボッツとあまり話せなかったので、いろいろ聞いてみたいと思っていた。
彼は絶対に元ロッカーだろうとふんでいたので、軽く音楽の話題を振ってみると、目をキラキラさせ始め、パンクの歴史に関わる分厚い写真集を取り出して来た。
昔ロンドンの大学に通っていて、パンクスだったらしい。
その後、インドだとかあちこち旅をして、5年前まではアムステルダムに住んでいたと言う。
その経歴は、彼の醸し出すムードにぴったりで、腑に落ちたけれど、それにしても、「何で今この村に住んでいるの?」と聞いてみたところ、「分からない・・・でも居心地がいい。」と苦笑しながら首を横に振る。

シャイで放浪気質、変わり者だけれど、自立していて優しいボッツ。
彼がこの村に宿を作っていなければ、私たちもソンも、カップル達もこの村に来ることはなかっただろうし、出会うこともなかっただろう。
恥ずかしがるボッツにお願いして、ボッツが昔所属していたパンクバンドの映像を見せてもらう。
モノクロの画面の中で、多分30年近く前の、ボッツが頭を振りながら、マイクにがなりたてていた。
マイクにしがみつく彼は、ずいぶん若かったけれど、今と変わらず、どこかあてどなく、ナイーブな印象だった。

日差しを浴びて静まりかえった、白昼夢のような風景と、浮世離れしているボッツの宿。
旅の中でもさらに非日常的な印象の時間だったように思うのと同時に、いまだに身近にも思えてしまうのは、暮らす場所の距離や生活スタイルとは関係なく、ボッツやソンに、どこか共鳴するところがあって、近所の友達のような親しみやすさを感じたからだろう。

流れの中で、ほんの一瞬だけ交差し、楽しかった印象だけ残してまたどこか、お互いの道を行くということ。
いろんな町に、会いたい人がいるということ。
そのことだけでも、充分幸せなことなのだと分かってはいるけれど。
思いを馳せるのと同じスピードで体を移動させ、会いたい人に気軽にふらっと会いに行けたらどんなにいいだろうと思わずにはいられない。

旅をしていて思い出したことのひとつは、わたしは雨が好きだったということだ。
子どもの頃は、雨音が聞こえると、家の中にいても窓を開けて雨が降る様子を眺めたり、表に出て、濡れる葉っぱやかたつむりで遊んだりしていた。
雨があがった後のいつもと違う空の色や、雲の流れを眺めること。洗い流されたような空気の中、水たまりを覗き込んだり、木々からこぼれる雫を観察すること。
そういうことがとても好きだったのに、ほとんど忘れかけてしまっていた。

私たちの旅はタイのバンコクから始まった。
私にとっては初めての東南アジアだったけれど、あまり不安がなかったのは、友達の友達、バンコクで暮らす日本人の男子が、空港まで迎えに来てくれて、現地のことをいろいろ教えてくれたおかげだ。

ガイドブックを読んでいる時には、想像していなかったけれど、タクシーに乗ろうとして、行き先を告げたら、平気で断られたり、場所を理解してもらえなかったりするし、宿のそばまで行っても、最終的にどの建物なのかも分からない。

確かに、細い道は入り組んでいるし、建物と建物がどこで分かれているのかすら、ぱっと見ただけでは判別できない。
宿に辿り着くのが、こんなに面倒なことだとは思ってもみなかった。

彼のおかげで、どうにか宿には到着した。
バンコクなんて、宿はそこらじゅうにあるのだから、現地に行ってから決めればいいとも考えたけれど、念のため初日の宿だけは日本から予約しておいたのだ。
最初だから冷房もついた、少しいい宿(といっても1泊1,000円くらいだけれど)。
チェックインしたはいいけれど、間違えて独房のような部屋(おそらくスタッフルーム)にたどり着いて、唖然としたり。

正しい部屋についても、独房部屋とそれほど大差なかった。
ベッドはそれなりに清潔そうだから安心したけれど、バスルームを開けると、人ひとりがやっと入れるくらいの空間で、トイレの便器の真上にシャワーがついているという、日本では見たことのない造り。

バックパックを開けてものを取り出し、また閉めてパックセーフ(バックパックを施錠するための金属でできた網状のカバー)を掛けて、鍵をしめるという作業をしただけで、汗だく。
この後は、500円以内の宿に移らなくてはならないことも考えると、この先バックパッカー生活を続けられるのだろうかと、早くも自信がなくなってきた。

とりあえず外に出たら気が晴れるだろうと思い、出ようとした途端に大雨の音。
また、バックパックを開けて傘を出すのか・・・面倒くさいなあと思いながら、傘を取り出し、表に出る。

目にしたのは、空のタガがはずれたのかなと思うくらい、帯のようになって降り注ぐ雨。
札幌でこんな雨を見ることはまずない。
流れる水のむこうに風景を眺めていると、建物や木々が、色とりどりのセロファンでできているように感じられた。

その内に、雨の勢いは落ち着き、傘を差して歩いてみる。
軒下で雨宿りする人たちは、誰もあたふたせずに、ゆっくり雨が止むのを待っている。
道路も木々もお店も空もすっかり洗い流されて、色が冴え冴えとしている。

次第に、日が傾き始め、色の濃さを増した日差しが濡れた通りを包み込む。
更に日が暮れると、街頭やネオンの光が水をふくんだ空気に滲み出し、水たまりに写って、ゆらめき始める。

すべてが水をふくんですこし容積を増して、輪郭が少し溶け合っているような、どことなくトロリとした風景。
その中にいると、自分が今タイにいる、アジアにいるということが妙に実感できた。

そしてそれはなんとなく浮足立つようなわくわくするような感覚だった。
そのまま乗ったタクシーの窓からは虹が環を描いているのが見えた。
このあたりでは毎日のことなのかもしれないけれど、旅の初日に幸先がいいなあと嬉しくなった。

札幌にいると、気候や地形的な印象からか、普段自分がアジアにいる、という感覚があまりないのだけれど、時たま、夏の夕方に雨が降り、路上に車のヘッドライトや、飲み屋のネオンがゆらめき、信号の色が空に滲んでいる様子などに、はっと東南アジアの色や匂いが重なる時がある。

そんな時、仕事帰りで疲れかけている時でも、自分の中で何かの熱をとりもどすような、訳もなく何か楽しいことが起こりそうな、自分が旅の始まりにいるような気持ちになって、少しときめく。

美しい絵本や映像などを見て、ファンタジックだと感じることがあるけれど、旅をしていると、ファンタジックな光景というのは、幻想や夢の中だけではなく、現実にあちこちに存在するものだということを改めて知った。
とりわけ、モロッコは、地形や自然そのものにも、幻想的な印象を持った国だ。

前々から行ってみたい国だったので、日本にいる時から、下調べを重ね、「車を3日間貸切り、町から砂漠へ行き、アトラス山脈を越えて、別の町へ行く」という、わたしたちにしては贅沢なプランを予約していた。

出発の朝、それまで滞在していたモロッコの古都、フェズにドライバーが迎えに来てくれた。
“I’m crazy!”が口癖の彼に連れられ、砂漠に向かう途中あちこちに立ち寄る。
大きな猿がたくさん暮らしている木立や、羊飼いの集まる川辺。
砂地に棒と毛布で作った簡易テントで、果物を売る小さなマーケットにも。
そこで買ってもらって、サボテンの実を初めて食べた。

ドライブの途中、どこまでも黄土色のなだらかな丘が広がっているように思っていたところに、突然、吸い込まれるようなコバルトブルーの湖が現れたことは、特に印象的だった。
この地形のダイナミックさは、やっぱりアフリカだなあと感じたけれど、タンザニアで見た景色とはまた違った雰囲気で、なんとなくおとぎ話の中の景色のように思えた。

例えば、箒にまたがった魔法使いが空を飛んでいるのが似合ってしまいそうな。
途中、街並も現れるけれど、町の入口には大抵大きな門があり、その奥に並ぶ建物は、屋根と壁の境目もなく、すべて肌色の土でできており、ドアだけは綺麗な色で魔術的な模様が描かれている。
そこに人の生活感を感じるというよりは、見慣れない、不思議な印象を受ける。
だんだん、モロッコという国をドライブしているというより、星の上をドライブしているという感覚になってきた。

朝からドライブを続け、夕方に砂漠近くで一度車を降りると、間近からドライヤーで吹きつけられているような熱風を浴びた。
そのあたりになると、建物もなくなり、植物も殆ど生えてはおらず、ただ茶色い土の上をひたすら走ることになる。

水平線に、淡いオレンジの夕日が落ち始めた時、遠くに肌色のなだらかな丘のようなものが見え始めたと思ったら、それが砂漠だった。
砂漠というのは徐々に始まるのではなく、こんなに唐突に現れるものだと初めて知った。

夕日に包まれ、あたたかみのある肌色に染まった砂漠は、離れて見ると、大きな生きもののようにも、なだらかな曲線を描くオブジェのようにも、はだかの人が横たわっているようにも見えた。

砂漠のふもとまで行き、モロッコ式ミントティーを飲みながら夕暮れを味わう。
目の前には砂漠のすそ。
波打つ砂に夜の色が染み込み始める。
砂漠そのものが、こんなに美しいなんて知らなかった。

やがてあたりは暗くなり、砂漠も暗闇に沈み込む。
足場も見えず、進む道も分からないので、ドライバーと、夕暮れに知り合ったモロッコの男性の後について、砂漠を登ってみる。
一歩一歩、まだ温かい砂に足が飲みこまれる。
闇の中、砂丘のところどころは光の加減で青白く浮かび、影の部分は暗闇に溶けていた。

ふもとのベルベル人のテントに灯りがともり、音楽が聞こえ始め、誘われるように砂漠をくだる。
西洋人の旅人の女の子のバースデイパーティーが開かれていたので、仲間にいれてもらう。
ランプの灯りのもとで、みんな輪になって、ふるまわれたミントティーやケーキをいただく。
アラビアンな服を着たベルベル人の楽団に合わせて、ぐるぐる踊りだす人達。
夜が更けてゆく。

友達とふたりパーティーの輪を抜け、暗く静まりかえった砂漠に上り、横たわってみた。
宝石箱をひっくりかえしたかのように、天球一面に瞬く星屑。
天の川の粒子も気が遠くなりそうなくらい細かく、きらきら輝いている。
ひとつひとつが異なった輝き方。星の砂場のよう。
流れ星も次から次に現れる。
昼間も、普段は見えなくても、いつでもこれだけたくさんの星に囲まれているんだと改めて思った。

自然は、素朴さだけではなく、こんなに眩しいくらいきらびやかな世界も用意してくれている。
それも、こんな砂と空しかないところに。
それは選ばれた誰かのためにではない。
そのほんのかけらだけでも、表現したり所有したくなって、どこの国でも、歴代の王達は、贅を尽くして、お城や庭園を作ったり、宝飾品を集めたのかもしれない。
旅の途中に見たものを思い出して、そんな風に思った。

ほんの少し部屋で眠り、夜が明ける前に青白い砂の上に戻ると、深海の底にいるような気分になった。
空が少しづつ白んでくる中、らくだに乗って、砂漠を登る。
青いゆったりとした服を着たベルベル人の男性が誘導してくれ、砂の丘にしゃがむ。

夜が明けて、砂にアラビア語で書いてくれたわたしたちの名前が、あたたかなオレンジに染まっていくのを穏やかな気持ちでずっと眺めていた。

南の国特有の強い日差しと、それが生み出す、日向と日陰のコントラストが際立つ風景に、心が惹かれる。
その中に古びた建物や、ひなびた街並があると、更に惹きつけられてしまう。

キューバは、映画や写真集で見る限り、まさにそんな風景の国だった。
いつか行ってみたいとは思っていたけれど、なんとなく手の届かない国のようにも思っていたから、到着した時はなんだか夢心地だった。

実際、来てみて、まず驚いたのは、建物のあまりの古さだ。
趣があるというのをとうに通り越して、朽ち果てかけている。
通りを走る車は、昔の映画でしか見かけないような古いアメ車ばかりだし、
スーパーらしき所に入ったら、歯ブラシ1本、電池が3個・・・というようなディスプレイがされていた。

これが灰色の空に覆われていたり、建物も灰色の石造りであれば、鬱々した印象になりそうだけれど、すべてはあっけらかんと抜けるような青空のもと。
建物の色は、あちこち剥げ落ちてはいるもののカラフル。
その上、あちこちの街角やお店からは、サルサが流れてくる。
キューバの人達は、国から最低限度の生活物資や食糧は支給されているから、嗜好品さえ求めなければ、食べていけないという目には遭わない。

すれ違う人々は、ふっきれたように、からりと明るく、子どもからお年寄りまで、なんだか楽しそうだ。
物欲がない訳ではないと思うけれど、あからさまに物足りなさそうな顔をした人は見かけなかった。
大部分の人の間では、なにかで埋め合わされて、ぎりぎり辻褄が合っているのではないだろうか。

物に頼れない分、自分で何かを生みだすしかない。音楽だったり、ユーモアのある会話だったり、ダンスだったり、文学だったり、スポーツだったり、思想や革命の夢だったり。
最低限の生活は保障されていることが前提となって、物を持たないことや深い諦念と引き換えに、健康やあかるさが生まれているのだろう。

それは、ほんとうに奇跡的な危ういバランスで、ほんの少しでも政情が変われば、たちまち何もかも変わってしまいそうだと思った。
実際、特に、若者の間では、国に対する不満が高まり、熱を帯びているらしい。
当然のことだと思いながらも、わたしも、満たされすぎないことによって生み出すことができるものの可能性について、もう少し考えてみた方がいいのかもしれないと感じた。

キューバでは、一般民家の間借りをしていた。
滞在数日目の夕方、昼寝をしていたら、友達に起こされ、ダイニングに行くと、わたしに向かって、「happy birthday!!」

その家のパパもママもおばあちゃんも娘も小さな息子も、みんな集まってくれていた。
旅の途中、11月末のキューバで迎えた誕生日。
友達が、キューバではほとんど見かけない、ケーキを探して、用意してくれていた。

あざやかなピンクの土台に白いクリームとバラのデコレーション。
全く洗練されていないし、スポンジはかさかさ。食べると砂糖がじゃりじゃりしたけれど、なんだか夢のあるケーキだなあと思った。

そんな夢は、日本では昭和の途中あたりに置いてけぼりで、今では成り立たないだろう。
それを懐かしいなあと思うけれど、かといって、そこに戻らなくても、新しい夢はたくさん見られるはずなのにと思う。
物に満たされているのに、日本人が、キューバ人より元気なく見えるのは現実で、それを単純に、物が多すぎるせいにはしたくない。

それらの物も、もとはといえば豊かな生活を夢見る気持ちから生まれたはずだけれど、夢見る方向性にあまりにバリエーションがなかったために、物質以外にも、足りていないものがたくさんあることを見過ごしてしまい、バランスが悪くなってしまったのだろう。
足りないものが何なのか探り、満たしていくために、想像する方向性はまだまだいくらでもあると思うのだ。

一家は、キューバでは比較的裕福な家庭だと思うのだけれど、ケーキなんて滅多に食べることはないようで、おばあちゃんも夫婦も子どもも、みんな嬉しそうに食べていた。

翌朝、パパが部屋をノックして、新聞紙にくるんだピンクのグラジオラスの花をプレゼントしてくれた。
朝からわざわざ外に出て、花を買い、届けてくれた気持ちを思うと温かい気持ちになった。
旅の間、いつも、こんなふうなやさしい人の気持ちに支えられ、守られていたように思う。

それにしても、一年前には、自分がまさかキューバで誕生日を迎えることがあるなんて想像もしていなかったから、これからも、自分の想像を超える面白いできごとがたくさん起こるかもしれないなと、なんだか未来に夢が持てた。
心に残る誕生日だった。

土地の起伏が多くて、海を見下ろせる港町。
世界のあちこちにあるけれど、どこでも似たような空気感と趣を感じるのは、海を越えて渡ってくる異国の風と、それに乗ってやってくる文化のかけらのせいだろうか。

坂を登ると眼下に広がる風景に行き止まりがなく、海と空がつながりどこまでも広がっていく。
晴れた日は、その様子に心が伸びやかになり、空が曇りはじめると、その色が海にも映り、取り残されたような少し不安な気持ちになる。

大学時代暮らした小樽がそんな街だったからか、旅行で行った函館や長崎にも、同じような雰囲気があり、なじみやすく感じた。
そして、ポルトガルの首都リスボン。

アジア、アフリカと、目まぐるしい日々を過ごしてきて、やっとヨーロッパ。
リスボンの街を歩く人達の小ぎれいな格好を見て、自分の姿に愕然とした。
破れた箇所を何度も繕い、手洗いを重ねて色あせた、ぼろぼろのワンピースに、日本の百均で買い、3ヶ月間毎日履き続けたビーチサンダル。
趣ある石畳の街角で、それはひどく浮いているのを感じ、とり急ぎ靴屋でサンダルを購入した。

休日には、泥棒市と呼ばれる蚤の市まで歩いたり、スーパーで知り合った日本人の女の子と、教会を見に行った帰り道、人気店に並んでエッグタルトを食べたり。
夜もワインやお菓子を買いこんで、飲みながらずっとおしゃべり。
久し振りに、日本にいた頃の感覚がよみがえってきた。

街を歩いても、人に群らがれることもないし、お店では値札の金額通りに買い物ができる。
カメラや財布を取り出す時にドキドキしなくても大丈夫。
レストランのテーブルに蠅の大群がやってくることもないし、トイレにペーパーを流せるのが何より嬉しい。
(アジア、アフリカとずっと私たちは、どこに行くにも自分用のトイレットペーパーを持ち歩き、トイレに流すことはできないため、宿でもごみ袋に捨てなくてはならなかった。)

ポルトガル滞在最終日、夜にバスでスペインに向かう予定だったため、日中は最後の市内観光を楽しむ時間があった。
宿の近所で目をつけていた、ポルトガル家庭料理屋に向かう。
ポルトガル語は勿論、手書きの英語メニューもまるで解読できないけれど、当てずっぽうで頼んだランチは、気取らない味で、じんわり沁みた。

心地よく重たくなったおなかをこなそうと、のどかな昼下がりの坂道をくだる。
タイルの模様が美しい建物の壁。風にはためく洗濯物。
窓から下を見下ろす猫たち。
階段にこしかけて煙草をくゆらすおじいちゃん。
犬を連れたエプロン姿の奥さん。
路地の奥でいわしを焼いているおじさんと香ばしい煙の匂い。
ひとつひとつの光景に流れる時間があまりに穏やかで、馴染みやすい。
日本のあちこちでもこれと同じような情景を見たことがあるように思った。

通りには、小さなレコード屋や書店も立ち並び、若い人も年取った人もふらりと立ち寄って、お気に入りを見つけて買っていく。
マニアックな品揃えの店にも、辛気臭さはなく、風通しが良い。

眠たくなるような日差しのもと、いろんな場所と季節の記憶が重なり合って、一瞬自分がどこにいるのか分からないような気分になる。
この同じ時間にインドのガンジス川に向かう通りでは今も人だかりができているのだろうか、アフリカのサバンナでは象の群れが歩いているのだろうか、ベトナムの交差点ではひっきりなしにバイクが・・・などと旅してきた国の風景が頭をよぎり、世界のカラフルさを改めて考えずにはいられなかった。

更に歩いていくと、廃墟となった、灰色の石造りの教会が現れる。
1755年の大地震によって、崩壊したままの姿。
飛行機雲が幾筋も交わる青空のもと、輪郭だけとなった姿を晒している様子は、なんだか清々しかった。
教会に登り、つながる展望台へと向かう。
そこからは、リスボンの街並を見下ろすことができる。
いくつもの煉瓦色の瓦屋根が続き、その端は、輝きを放つ海と空に溶けている。
眺めていると、気持ちがどこまでも広がって行く気がする。

いつでも、すぐに来られる気がするのにな・・・
日本で生活していた時、旅することは、どうしてあんなに大変だったのだろう。
どこも全部つながっているのに。
通信技術は驚くほど発達して、リアルタイムで、遠く離れた人と会話をしたり、異国の風景を画像で見ることもできる。
それなのに、実際に体を移動させるには、どうしてあんなにお金がかかったり、面倒な手続きが必要なのだろう。

だけど、その時、お金や時間の問題云々を超えて、もっと直感的に、旅することはそんなに難しいことではないし、行きたい所へ行って構わないんだという思いが、こみあげてきた。
いろんな言い訳をしそうになる時もあるけれど、あの時リスボンで思ったことが本当のことなのだと、今も思う。

ジャマイカと聞いてなにを思い浮かべるだろうか。
レゲエ、カリブ海、ゲットー(スラム街)、ジャークチキン、マリファナ、治安の悪さ・・・
わたしが日本にいた時に連想できたのはこれくらいのもので、心惹かれるというよりは、むしろなんだか怖いなあと思っていた。
日本にも、ジャマイカの音楽、文化などにはまっている人はたくさんいて、
彼らを見ていると、ジャマイカの雰囲気はなんとなく分かるような気がしていたものの、自分にとってそれはそこまで魅力的には感じられなかった。

空港から出ると、真夏。もわっとした空気に包まれ、古いレゲエの流れる車に乗りこみ、宿を目指す。
これまでしばらく冬の季節の国々にいたので、体がびっくりしている。
車窓を過ぎて行く風景は想像していたよりもほのぼのとしていた。
動物の絵がペインティングされた、家の壁の前で子ども達が遊んでいたり、手持ち無沙汰な感じの、ドレッドに髭の男性がたたずんでいたり。

辿り着いた宿は、高級住宅街の中、鉄のフェンスで覆われ、何重にも大きな南京錠がかかっていて、その、ものものしさは、能天気な南国のムードにそぐわない緊張感を与えていた。
実際、ジャマイカの治安は非常に悪くて、昼夜問わず犯罪に巻き込まれる可能性は高い。

こんなにものんびりとして暖かな空気の中、宿から出たらリラックスすることはできないというのが、もどかしく、所在なかった。
とはいえ、食べるものもないし、お金もおろさなくてはならないし、宿の中でじっとしている訳にもいかない。
教えてもらったローカルなショッピングモールまで、とりあえずタクシーで出かけた。

始終緊張していたけれど、銀行のお姉さんはかわいい上に優しいし、フードコートには気になるメニューがいろいろある。
ジャマイカにはお弁当屋さんがたくさんあるのも印象的だった。
あれこれ迷って、山羊のカレーを注文した。
思ったようなくせもなく、おいしく食べながら、少し前に誰かから聞いた話を思い出す。

ジャマイカの森をバスで走っていると、時々横切る山羊を轢いてしまうことがある。
そうすると、たちまち、近所の人々が集まってきて、あっという間にその場で山羊をさばき、肉も内臓も、跡形もなく持ち帰ってしまうという話。

食後、まわりの席を見まわすと、ひとりのおばちゃんが上をむいて、口をぽっかり空けたまま、ぐうぐう眠っていた。
そこに、くすくす笑いながら近寄ってくる食べ物屋の店員達。
何をするのかなと思って見ていると、一人の店員がはちみつのチューブを取り出し、おばちゃんの口に思いっきり絞り始めた。
それでもびくともせず眠り続けるおばちゃん。
そこにいる人達と一緒になって、いっぱい笑った。

タクシーで帰る途中、運転手が「見てみろ」と指差す方を見てみると、家の前に座る警備員・・・と思ったら等身大の警備員の人形。
「why?」と聞くと、「security!」と言って笑う。

あかるい日差しによく似合う、のどかでかわいい人たち。
これらは極めて多面的なジャマイカの風景のひとかけらにすぎないけれど、初日にそういうものに出会えたのは幸せだったなと思う。

朝起きて、リビングに行くと、宿で働く夫婦の罵り合う声が聞こえる。
「お金くれないと、生活できないんだよ!ご飯食べさせないわよ!」
ジャマイカ人の旦那と、日本から嫁いだ奥さん。
小学生の娘はガムを噛み噛み、パソコンでゲームを続けている。

今日は旦那が車で、キングストンからすぐに行けるライムキーという小島にいく波止場まで、送ってくれることになっていたのだ。
ずんぐりした体に、蛍光グリーンのTシャツを着た、人は悪くなさそうだが、極めて軽い感じの男。

運転はめちゃくちゃだし、妻がいないことをいいことに、車窓から、道行くギャルをナンパしている。
どうしてわざわざジャマイカまで来てこの男と結婚したかなーと思うし、実際喧嘩が絶えない2人だけれど、数週間前に二人目の赤ちゃんが産まれたばかりで、夫婦ってミステリアスで面白い。

波止場には、ガタイのいい漁師達がたむろしていて、その中の一人がボートで島まで連れて行ってくれた。
透き通ったカリブ海にぽっかり浮かぶ小さな島。

着いてみたら、そこには私たち以外誰もいなくて、貸切状態だった。
ぬるくなる前に、買ってきたレッドストライプを飲んでは、海に浮かび、上がっては飲んで海を眺め。
温まった海水に友達と浸かり、なんだか温泉にいるようだねと話す。
体からいろいろなものが抜けていく感じがした。

ここまで旅はあっという間だった。
この先、キューバ、メキシコ、LA、ハワイと南国を巡って、旅は終わり。
その後は真冬の札幌で、日常生活が再開する。
とっくに30歳も過ぎて、無職無収入、古い安アパートで、同居人もいない生活からの再スタート。

だけどその時、透き通った浅瀬にひたっていると、太陽がちょうど真上に昇り、波間にきらきらした三角がいくつも映り始めた。
それが、自分の方に押し寄せてくるのを見ていると、ただ幸せな気分で、これからもいろいろあるだろうけれど、きっと楽しいこともいくつも起こるんだろうなと、なんの疑問もなく、自然にそう思えた。

海から上がり、眩しい光の中、友達と一緒に、セルフタイマーで記念写真を撮った。

実際旅を終えて、札幌に戻ってきたけれど、新しい仕事を探し、再就職したり、引越をしたり、日々いろんな人と、出会いや別れを重ねているわけで、実は旅の気分との明確な境目はない。

毎日泊まる場所を考えたり、明日はどこにいるか分からないといったことはないから、旅の時より安定感があるとは思うけれど、震災などを見てしまうと、それも錯覚の上になりたっているだけかもしれない。
どちらにしても、旅の後も、楽しいことはいくつも自分を通りすぎていくし、それは今だにジャマイカの海で見た風景に重なる。

宿に戻り、ぞんぶんに昼寝をして、庭のハンモックにゆられてみた。
ちょっと車を飛ばして、天国のような美しい海に行って、ただぼおっとして、風通しと日当たりの良い部屋で昼寝。
旅をしていると、そんなことを何回も体験して、これがあたりまえのように思えてくるけれど、日本に帰ったら、ただそれだけのことが、滅多にできないことだったということを思い出す。

洗濯物がたなびき、離れた場所には、生まれたばかりの赤ちゃんをゆらす奥さんの姿が見える。
ラジオから流れるゆるいレゲエ。
少しづつ夕方に向かう空。

そこにいると、子どもの頃、夏休みにおばあちゃんの家にいた時の気分になった。
日本を離れて、こんな遠くのジャマイカ人の家で、と思ったら不思議だったけれど、雲の様子が変わっていくのや、南国の植物の大きな葉っぱが風に揺れる様子を眺めていると、押入れから出てきた、色褪せた写真を見ているような懐かしさを感じ、あたたかなものに包まれているような気分になって、いつまでもここでこうしていたいなと思った。

ある国を思い浮かべる時、そこで出会った人や出来事よりも先に、その国特有のムードが浮かんでくる。
形あるものではなくて、日差しや湿度、路上に漂う匂いや、空の色などが交わりあってつくられる空気感。
同時に、頭の中に流れ出す、その土地固有の音楽。
ジャマイカでは、もちろん、レゲエ。

キングストンから、リゾート地のモンテゴベイに移っても、治安の悪さは相変わらずだった。
もらった地図を見ながら目的のビーチを探すが、そこに行くまでも、同じような美しい浜辺がたくさんある。
でも、ひとつ間違えると、昼間でも殺傷事件が絶えないスポットだから、注意するようにと言われ、緊張した。

帰りに寄ったケンタッキー(ジャマイカ名物のジャークチキンに対抗するからか、ジャマイカのケンタッキーが妙においしいと聞いていたので)
の店内ですら、警官がうろうろしていた。

歩いていた通りの八百屋の角を曲がったら、ゲットーにつながる。
街の中に立ち入り禁止地区を抱えて生活するってどんな感じなのだろう。
日本でも、地域によっては立ち寄りがたい場所というのがそれなりにあると思うけれど、私の暮らす札幌では殆ど意識する必要がない。

ドライバーに”never go!”と言われたその地域を、車窓からほんの一瞬覗き見た。
物騒な雰囲気だと思っていたメインストリートが平和に思えるくらいの殺伐感。
道端の人の目が鋭すぎる。

だけど、わたしはその地域に行ってみたいなあと心から思った。
どうしてこんなにもスラム街に心惹かれるのだろう。
整備された場所よりも、雑多で混沌としている場所に自然と気持ちが吸い寄せられる。

危険な目に遭いたい訳ではないし、そういう場所に暮らす人をかわいそうと思う訳でもない。
わたしの知らない生きる術を持ってる人たちや、わたしが暮らす中では決して見ることのない種類のきれいなものや、感動的な瞬間がたくさん埋もれていることが、自然と分かるからだと思う。
けれど、興味だけで、それを覗き見る勇気も図太さもわたしにはない。

世界中のいろんな国の階層を、世界中の人が数日づつ全部体験できたらいいのにと思う。
世界中が平等で格差がなくなることを願えばいいのかもしれないけれど、わたしはそれよりも、全部体験したいと思ってしまう。
王様みたいな生活も、ゲットーでの暮らしも。

メインストリートを行きかう人々を眺めながら、それにしても、恰好良い人が多いなあと感心した。
ぼろぼろの服を着ているけれど、身のこなしがスマートでなんだか洒落ているし、ひとりひとりに独自の雰囲気も感じられる。
それを見ていると、日本でもジャマイカに夢中になる人が多いのが分かる気がした。

普通の日本人にはどうやっても身につかないだろう、身体の使い方と、ナチュラルなムード。
そんな人達が集まれば、自然といろんな隙間や流れが生まれて、簡単にロマンスが始まるだろうと思った。

宿のドライバーに連れて行ってもらった、極めてローカルなダンスホールは、照明もほとんどなく、ただの暗い小屋だった。
スロウテンポのオールディーズに合わせ、地元の人たちがラフな格好でリラックスして踊っていた。
それを眺めながら、そうか、この人たちの頭の中ではいつもこういう音楽が流れているんだ、と思った。

ジャマイカに来てから、車の中でも、ラジオからも、スーパーマーケットでも、どこでも流れてくるレゲエ。
曲調やテンポは様々でも、共通する感じ・・・
熱い曲でもどこか抑制されていて余裕がある感じだったり、刹那的できらきらした浮遊感だったり。
生まれた時から、そんな音楽に浸って生活すれば、あの独特のムードが身につくのも分かる気がした。

同じものを見たり、同じ体験をしても、BGMが違うと随分違った印象になる。
キューバだって、サルサではない音楽が流れていたら、もっと痛々しい印象だったかもしれないし、ジャマイカで演歌のような湿度高めな音楽が流れていたら、人々の身のこなしもかわってきていただろう。
そのことを実感してから、日常生活でも、何か違和感を感じたり、気持ちが晴れない時、実際に聴く音楽はもちろん、脳内で流れる音楽も意識してみるようになった。

買ってもらった、ラムとクリームの入った強いお酒をおかわりしながら、甘かったりしゃがれてたりする歌声に合わせて揺れていたら、歌詞はわからないけれど、ビーチの美しさも、小さな闘いが繰り広げられているかもしれないゲットーも、通りを歩く人々のたくましい生活も、山奥の畑にいたドレッドのラスタマン達も、すべて音楽の中に含まれているのが伝わってきた。

そしてそれらの美しいものや深刻なものをミックスして、ジャマイカンミュージックの魔法をかけると、不思議なことに、暗い小屋でも、殺伐としたストリートでも、ただただロマンチックな世界が生まれるんだなあとぼんやり思った。

元旦の朝、札幌から、実家のある旭川に向かうJRの車窓の外は、灰色の空から降り続ける雪、チャコールグレーの木立、墨絵のようにかすむ家並が延々と続き、色のない世界に来てしまったかのようだった。
モノトーンの風景を見続けている内に、思い出した感覚があった。
パリで過ごした時に感じたことだ。

パリに着いた時、それまでいたスペインの晩夏から、急に初冬の空気に変わり、空も曇っていたせいか、気持ちがワントーン沈んだ気がした。
そして、自分がバックパッカーであることが、少し嫌になってしまった。
もっと、身綺麗に、身軽に、もう少しお金も持って来たかった。
覚悟はしていたけれど、想像以上に物価が高かったので。

アジア、アフリカと金銭感覚が抑えられた上、モロッコでヨーロッパの列車のフリーチケットを盗まれ、これから続く旅の生活費に危機感を抱いていたところだったので、お金を使うことにとても臆病になっていた。
特に飲食店の値段に腰がひけてしまい、カフェですらウインドウ越しに眺めるだけで、スーパーで買ったバゲット、にんじん、トマト、フルーツ、チョコ、サラミを常備し、ワイン(は安いので)と一緒に、少しづつ齧って栄養をとる毎日を繰り返していた。

そんな状況の中、パリを楽しむには、あちこちを散歩し続けるほかなかった。
蚤の市を眺め、モンマルトルの丘に登って街を見渡し、橋を渡って、ステンドグラスの美しい教会を見に行き。
チャイナタウンで妙になごみ、点心の安さにはしゃいで、道端で頬張り。
美しい墓地をさまよい歩き、シャンゼリゼ通りの有名なお菓子屋で、場違いさを感じながら、綺麗な色のマカロンを一つだけ買って食べ歩き。

こうやって書き出してみると、結構楽しんでいるように思うけれど、当時は、なんだか毎日あてどなかった。
それでも、舞台がパリだと、貧乏は貧乏なりに、それなりの雰囲気が出るというか、味わい深さがあるような気がした。
これがもし、東京や、ヨーロッパでも違う都市だったら、更に侘しい気持ちになったように思う。
この違いはなんなんだろうと考えたけれどしばらく分からなかった。

そして、ある夕暮れから夜にかけて、友達と二人、エッフェル塔を目指し、セーヌ川沿いを散歩することにした。
パリの空は、朝明けと夕暮れ、ブルーとピンクの二層に染まる。
夕暮れの場合、その後は溶け合い、パープルがかった夜空の色に落ち着いていく。
川面を観光客船が行き交い、その波紋が街灯に反射する。
船のライトは、並木道の木の葉を照らし、その影が、通りに並ぶ大きな石造りの建物の壁に、幻燈のようにゆらめきながら映る。

昼間とは全く違うムード。
これだけきっちり夜が始まると、大人の世界が育つだろうなあと感じた。
大人の世界って何なのかはしばらく、よく分からなかったけれど。
日本だったら、もっとライトアップしたりして、この影の濃淡も消えてしまうだろうなあと思いながら、暗くなった川面に、さらに深い色の模様が揺れるのを眺めていた。

その内にふと、パリの持つ大人っぽさというのは、例えば、この川面のような黒から白の、夕暮れの空のようなブルーからピンクの、グラデーションの途中にある、曖昧な色を楽しんだり、微妙なトーンの違いを見分けてを楽しむようなことなのかもしれないと思った。
実際の色についてはもちろん、感情、状況、関係性、思想なども。

白黒が明確な状態や、ブルーだとかピンクだとか、はっきり言える状況は、実は本当に稀なことで、ほとんどは、その間にある、奥深いグレーゾーンや、青紫だとか、パープルピンクのような、微妙なトーンの途中に、漂っているはずだ。
その中にいる時は、もどかしかったり、はっきりさせたいと思ったりもするけれど、果てしない階調があるからこそ、ニュアンスが醸し出される。

パリの人達は、自然にそのことを分かって、曖昧なものを曖昧なまま楽しむことを知っているような気がした。
複雑さや面倒くささを敢えて楽しむというか。
それが独特のシニカルなユーモア感覚や大人っぽさにつながっているのかもしれない。
ふと、昔見てもさっぱり理解できなかった、いくつかのフランス映画を思い出した。

対照的に、旅の後半に行ったキューバやメキシコでは、強烈な日差しのもとにすべてが曝され、くっきりと鮮やかな原色と、影だけが際立ち、中間のトーンはすべて白く飛んでしまっていた。
そのきっぱりとした、南国特有の感覚も大好きなのだけれど。

それでも、それだけでは物足りなく感じ、ややこしい色味を味わいたくなる時もある。
逆に、白黒つかない状況(たいていのことがそうなのだけれど)に苛々しそうになった時は、グレーのない世界なんてどんなに味気ないだろうと考えるようにもなった。
微妙なトーンの中に漂うということは、人生の中で、寄り道のような、贅沢な時間なのかもしれない。

どうしたっていつかは、空の色が混ざり合い、黒くまとまっていくように、はっきりした色にたどり着くのだから。

ユディに出会ったのは、アテネからミコノス島に向かう船の中だった。
隣に座った彼は、30代のアジアの人のようだったけれど、どこの国の人なのかは分からなかった。
デジタル一眼レフのレンズを外し、丹念にレンズの埃をとったり、磨いたりと、手入れに余念がない。
ずいぶん丁寧に手入れをしているなあと思って見ていたら、わたしのコンパクトカメラを見て、汚れ具合に驚いたようで、ついでに掃除してくれた。

それから、売店でコーヒーとクッキーを買ってきてくれて、なんとなく話を始めた。
インドネシアからやってきて一人旅の途中で、これからミコノス島に行くと言う。
これまでに撮った写真も次々と見せてくれるのだが、ものすごい量だった。
港に停まるたびにデッキに出て、また大量の写真を撮ってきては、レンズをすべて分解し、クリーニング。
あまりの熱意に驚きながら、相当なカメラオタクなんだな・・・と思っていた。

島に着いて、わたしと友達はあらかじめ予約していた、宿の送迎車に向かった。
そこにバックパックをかついだ彼が走ってきて、宿の場所も確認せず、
「まだ部屋空いてる?僕もそこに泊まるよ。」と言った。
3人で宿にチェックインし、後で、夕日と風車が見える広場で落ち合おうということに。

宿のある高台から、海を見下ろしながらぐるりと降りていく。
白い壁にカラフルな屋根の、おもちゃのような家が並ぶ。
パステルオレンジの夕日を浴びた風車のそばで、あたたかな色に染まっていく海を眺める。
こう書くとのどかな印象を受けるだろうが、実際には強風が吹き荒れていて、凍えそうだった。

冷え切っていたら、待ち合わせ時刻よりかなり遅れてユディが登場した。
彼は着くなり、話もせずに、夕日が沈んでいく海の写真をパシャパシャ写し始めた。
かがんだり、立ち上がったり、いろんな角度から。
これは生粋のカメラ小僧だなと思いながら、日も暮れてきたのでそばに行ってみるが、もう相当数の写真を撮ったはずなのに、まだベストショットを狙って撮り続けている。

更に、わたし達に、立ち位置を細かく指定して、撮影を始めた。
三脚を持っていないことを悔しがりながらも、あちこち場所を移動し、撮りまくっている。
わたしと友達は寒さに震えながら、その様子をただ見ていた。
案の定、日が落ち切る瞬間まで撮り切り、日没の瞬間、彼は写真を撮るのをやめ、わたしたちにむかって、”I'm hungry!!!''と叫んだ。
えっ、ユディが写真撮ってるのをずっと待ってたのに・・・なにこの人、勝手すぎるとあきれたが、彼はまたもやカメラを抱え、日没後の海を撮りつづけていた。

しばらくして、やっと浜辺を離れ、ミコノスタウンの中に移動することに。
タウン内でも、撮影は続き、なぜそれを?というようなものですら、鬼気迫る真剣さでパシャパシャ。
すれ違う人にも、笑顔で声をかけ、すかさずパシャ。
撮られた人も雰囲気につられて、みんな笑顔に。
窓からの景色を撮りたいだけのために、カフェに入れてもらったり、相当強引なのに、そのゴーイングマイウェイの貫きっぷりがだんだん清々しく思え始めた。

その後、彼はわたしたちに、ギリシャでよく見かけるピタサンドや串焼きをごちそうしてくれ、クレープ屋に連れて行ってくれた。
友達が、「北海道に来たら、家に泊めてあげるよ」と言ったら、ユディは、「インドネシアに来たら、泊めてあげる。家に6部屋あって、1部屋づつ全部バスルームもついているから。あ、ビルもあるからそっちでもいいし」と言い始め、どういうこと?と思って、聞いてみたら、ユディは私と同じ年で、自分の会社を持つ、億万長者の実業家だった。
写真を見せてもらったら、立派な家の中で、女優のような奥さんと、3人の子供と一緒に笑う彼の姿があった。

「ごめん、ただの写真にクレイジーな貧乏パッカーだと思ってた。」私は思わず謝った。
ついさっきも、商店でチョコレートを買おうとしていた彼に、
「こっちのチョコの方が数十セント安いよ」と、彼にとっては本当にどうでもよかったであろうアドバイスなどしていたのだ。

彼は、「写真はただの趣味だよ。それに、旅行中は僕はただのパッカーだよ。」と笑い、「それに、めちゃくちゃ一生懸命働ければ、誰だってそのくらいは稼げるよ。僕はものすごい努力して、働いたよ。写真だって同じ。1枚のベストショットを撮るために、僕は同じスポットを何枚でも撮る。みんなに君はラッキーだって言われるけど、ラッキーなんてない。努力するだけだよ。」
「僕は偶然なんてないと思ってる。君たちに会ったのも運命だと考えているし、出会いを大切にするんだ。」
「笑顔と、ありがとう、こんにちは、ごめんなさいって言葉を、みんなもっとふんだんに使うべきだ」など、社長らしい言葉をたくさん連ねる。

でもその言葉が上すべりしないくらい、ユディのエネルギーには圧倒された。
7か国語も話せるし、日本語も教えたら次々に覚える。
そして、あきれるを通り越して、若干引き込まれそうになるマイペースさ。
彼の言葉通り、確かに彼くらいのひたむきさと情熱を持って日々行動すれば、誰でも社長くらいにはなれるのかもしれないけれど、それを実行できる人がどのくらいいるのだろう。
少なくともわたしは、彼の言葉を聞いた時、そこまで頑張ってまで、億万長者になりたいと思う情熱はないな・・・と感じた。

それでも、今でも彼の言葉や、エネルギッシュさと冷静さを併せ持つ人となりを覚えているし、怠けたくなった時に自然と思い出したりもする。
億万長者になりたいかどうかは別としても、彼の言ってることはシンプルで、きっと本当のことなのだと思うから。

小路の隅々まで作りこまれ、浮世離れた美しいミコノスタウン。
夕闇に浮かび上がる教会の白壁の曲線。
三日月と、耳のそばで鳴っているような波の音。
遠くにぼんやり見える風車のシルエット。
何組もの、上品で洗練されたゲイカップルとすれ違って挨拶をかわし、自分の隣には、インドネシアの富豪。
日本で暮らす時には決して思い浮かばなかったシチュエーションだけれど、この時は何の違和感もなかった。

ほんの少し思い切って外に出てみれば、様々な世界と交錯できる可能性があることを思い出すと、やっぱりまた旅に出たくなる。

旅の最後をハワイにすることだけは、最初から決めていた。
途中いろいろなことがあっても、最終的にハワイに辿り着くことを思えば頑張れるような気がした。

7ヶ月弱、およそ20か国巡った後にやって来た、初めてのハワイ。
空港に着いただけで、気持がリラックスしたことに驚いた。
外に出てみると、どこからともなく、花のような甘い匂いが漂ってきて、光と風にふんわり包みこまれる。
ほんとに、こういう場所だったんだ・・・と、ちょっと感動した。

ハワイに全く興味がなかった人でも、一度行くと、みんな好きになって帰ってくる秘密が分かった。
お店や、食べるものや、暮らす人を見る前に、ただその場所にいるだけで心地良くなってしまう。
リラックスするために絶妙に計算して作られたかのような空気感は、なんだか魔法がかっていると思った。

その反面、わたしの内面はハワイにそぐわない暗さだった。
わたしにはやっぱり旅は向いてないのではないかと、旅の終わりにそんな結論?と突っ込まずにはいられないような気持ちになっていたのだ。

旅をするにつれて、日本で生活してた時には水面下に押し留められていた、自分の嫌な部分や弱い部分が、どんどん曝されて、自分のことが相当嫌いになっていた。
旅をしている方が、日本で働いて生活しているよりストレスフルなことにも気付いていた。

私は人と関わることが嫌いな訳ではないけれど、毎日毎日新しい人と出会い、コミュニケーションをとったり、常に次の移動先に向けて、計画を立てたり、手配をしたり、毎日の宿泊所を考えたりする、そういった旅の醍醐味とも言える事柄に疲れて、これが旅なのだとしたら、わたしはそんなに好きではないかもしれないと思ってしまった。

毎日帰る場所があって、一人で気ままに暮らし、働いた分だけお給料をもらい、気心知れた人達と関わり、どこかに出かけなくても別に罪悪感を感じることもない生活。
そんな日々の方が自分には楽しめるような気がした。
そのことにもがっかりしたし、それにもかかわらず、もうこれで旅が終わってしまうのが残念でたまらない気持ちもあって、心の中がもやもやし続けていた。

和やかで爽やかな日差しのもと、自分の内面のそぐわなさが影のように際立って、今の自分は全然ハワイにふさわしくないなあと落ち込むくらいだった。

とはいえ、ハワイにまで来て、引きこもっていた訳ではなくて、どんよりとした気持ちを奮い立たせては、ダイヤモンドヘッドに登り、眼下の海のきらめきに感動したり、リムジンやディナークルーズ船にも乗り、文字通り天国のようなビーチで泳ぎ、アロハシャツやリゾートワンピースも買い込み、朝から大きなマーケットを見て回ったり、ノースショアで海亀を見たり、ご利益があるという大きなパワーストーンに抱きついたり、パイナップル畑を観光したり、クリスマスを控えてどこもかしこもキラキラのアラモアナを巡ったり、ひなびて味わい深いチャイナタウンを散歩したりもしていた。

この頃に撮った写真を見ると、すっかり日焼けして、笑顔で浮かれた格好をして、どう見ても楽しそうなので、自分のことながら驚き、人ってやっぱり見た目では分からないんだなあと他人事のように思ってしまった。
記憶がすり替えられそうになるくらいで、自分があんなに鬱々としていたことを忘れそうにもなっていた。
確かに、暗かったのはわたしの感情だけで、客観的には楽しそうなことしか存在しなかった。
考えてみれば、当然逆のパターンもある訳で、人の気持ちはややこしいなあと思う。

旅の最後に、わたしはハワイの植物がたくさん見られる所に行ってみたいと思った。
海の美しさだけでなく、違う側面を見てみたかったのと、ホテルの庭や道端に咲いている花に心惹かれたので、野生に咲く姿も見てみたいなあと思ったのだ。
大学の植物園(ということにはなっているが、実際には山)を巡るツアーに申込みをした。

山や森(特に南国の)に行くと、いつも、自然ってこういうものだったなあとはっとさせられる。
都会で、公園や庭に整えられた植木や、小奇麗にアレンジされた花々を見て、和んだ気持ちになるけれど、それとは全く別の世界。

古い巨木に、蔦や苔がまとわりつき、お互いを吸い取り合うかのように共存している。
あちこちに、真赤だったり、つやつやとした白い肉厚の花弁をもつ、色っぽい形状の花が咲いていて、その艶めかしさにドキッとする。
生々しく、エネルギッシュなのに、清浄で静か。
ここで、もし自分が死んでも、朽ち果てて行く体を養分にして、こんな植物達が生い茂っていくのだろうなあと、自然に想像できて、それがそんなに怖いことに思えなかった。
草木も花も、ひとつひとつがまとう空気がなんだか気高くて、もしこれらを植物園ではない山の中で見つけたとしても、簡単に手折って持って帰るような気持ちにはなれなさそうだなと思った。

山の途中で、ここは特別な場所です、とガイドに案内された所があった。
多分、神聖な、とかそういう意味だったと思うのだけれど、残念ながら、ガイドの英語が少ししか理解できなかった。
虹の谷間と呼ばれたその場所は、なにがあるわけでもないのだけれど、遠くに見える山のかたち、目の前で風にそよぐ葉っぱ、いろんなトーンの谷間の緑、揺れる赤い花。
それらの調和が夢のようで、眺めていると、音楽を聴いているような感覚になった。
自分の気持ちの欠けている部分がほんの少し満ちるような。

夕方、ワイキキビーチに行って一人でサンセットを眺めながら、わたしはきっといつかまたハワイに来よう、その時、きっと今のことを懐かしく思うだろうと思った。
世界中たくさんの国を巡って、おもしろいもの、きれいなものをたくさん見た後でハワイにやって来て。
同じ境遇の人を見たら、心から羨ましいと思ってしまいそうな立場の自分が、こんなにも暗く鬱屈した気持ちでいて、それは全部自分のせいだと思い知っていたことを。

3年経った今、わたしはあの時旅に行って良かったと素直に思えるようになったし、旅したことで得たものは果てしない。
昔よりも、日常を楽しめるようになってきているということは、旅も楽しめるようになってきているということだと思うから、いつか、またハワイに行く時はどんな旅をしているのか、楽しみにしていよう。

ロサンゼルスに到着した日は、雨がしとしと降っていて、ロスに抱いていた、からっとした青空のイメージとは全然違ったけれど、しばらく、太陽の照りつける中南米を旅した後だったので、逆に気持が落ち着いた。

予約した宿は、リトルトーキョーと呼ばれる地域にあり、周りは日本語の看板がたくさんあった。
スーパーに行けば、納豆やお茶漬けのもとなど普通に売っているし、日本食レストランも並んでいる。
入ってみたら、従業員の日本語の私語が聞こえてきて、久しぶりの感覚を懐かしく思った。

宿の支配人は、年配の台湾人女性で、日本語がぺらぺら。
自分のことを「おばちゃん」と呼ぶ。
宿に着いたら、早速スーパーや安い食堂の地図を描いてくれ、部屋にいると、おまんじゅうを持ってきてくれた。
気持ちがじわじわとなごむ。

旅の間、居心地の良い宿も、悪い宿も何十か所も泊まったけれど、居心地の良い宿だと思った所には、必ずそれを支える女性がいたなあと思う。
しっかり者だけれど、程よく適当。親切でおおらか。鷹揚さのある、懐の大きな女性達。
いろいろな国でそんな女性達に、安心感を与えてもらった。

朝起きて、キッチンでごはんを食べていると、おばちゃんが現れ、
「今日、飲茶食べに行く?」とお誘いが。
午前中に郵便局に行く以外、特に予定もなかったので、「行く」と即答。
お昼になると、おばちゃんは、レセプションのボードに「2:30には帰ります」と書き、
一緒にバスを乗り継ぎ、チャイナタウンへ。

リトルトーキョーが日本だった以上に、チャイナタウンは中国だった。
これまでいろんな国のチャイナタウンに行った。
パリ、キューバ、ペルー、ハワイ、ニューヨーク・・・
どんな街でも、その一角を、中国色に染め上げ、異次元の空間を作り出すパワーには圧倒された。
同時に、漂うアジアのムードや中華料理に救われもしたし、独特のエキゾチックなムードに魅了された。

おばちゃんは行きつけらしい、いなたい雰囲気のチャイニーズデリに入り、点心など数種類買う。
どれも、とてもおいしそうだし、本当に安い。
それを、近所の別の飲茶屋へ持って行って食べるらしい。
2件目の店にも、おいしそうなものがいっぱいで、おばちゃんはさっさとお気に入りを注文してくれた。
海老餃子、しゅうまい、湯葉で何かを巻いて揚げたもの、中華まんなど。

席は地元の年配の人で埋まっている。
わたしたちと相席していたのは、ベトナム人のおじいちゃんで、飲茶につける醤油や、袋に入ったラズベリーを分けてくれた。
おばちゃんは、固くて気に入らなかった点心をおじいちゃんにあげていた。
おなかがぱんぱんになったところで、「春巻もたべたいわー」と更に追加しに行くおばちゃん。
春巻だけじゃなく、エッグタルトも持って戻ってくる。
おまけに、大きなちまきと、揚げたお餅のようなものを、わたし達の分もテイクアウトしてくれた。

その後、おばちゃんの好きなチャイニーズスーパーに。
なんだか分からない、漢方薬らしき根っこや、木の実がどっさり売られている。
おばちゃんは、勝手につまんで、「食べてごらん」と言う。
いいの?と聞くと、「いいのよー。いっつもおばちゃん買ってんだからー」とのこと。

近所のお店にもちょこちょこ立ち寄る。
商品の9割がバンブーの花屋や、とてもロスだとは思えない、昭和感溢れるレトロなケーキ屋。
本当は、お気に入りのタピオカジュース屋に連れて行こうとしていたらしいが、残念ながら休みだった。

もう1件大きなチャイニーズスーパーに寄り、中華料理の食材の豊富さに驚く。
見たことのない野菜や、調味料。
肉売り場では、豚の鼻だけが山盛になっていたり、売られ方に度肝を抜かれる。
魚売り場の床では、落ちたナマズがばちゃばちゃ跳ねていた。
おばちゃんは、漬物用に何株もの野菜や、重たい調味料の瓶、何ケースものチョコレートなど、ここぞとばかりにどんどん買い込む。
勿論それらの荷物を持ち運ぶのはわたしと友達。

更に、山盛りの洋服すべて、1~2ドルで安売りしている店をのぞき、デリに寄って、夕食用の野菜炒めなども買い、宿に戻ると、もう夕方。
「親切なおばちゃんねー。夕方まで案内してあげた!」と言っていたが、一番満喫していたのもおばちゃんだ。
買ったまんじゅうや点心など分けてもらい、部屋に戻ったわたしたちは、夜まで昼寝してしまった。
アメリカに来たとは思えない1日だったけれど、あの時の点心は、旅しながらいろいろおいしいものを食べた中で、今でも記憶に残っている。

そして、改めておばちゃんの力ってすごいなあと思わされた。
日本では、いかにおばちゃんぽくならないかが、30~40代くらいの女性の大きなテーマになっているような気がして、それに共感しない訳ではないけれど、おばちゃんのいない世の中なんて、どんなにぎすぎすするだろうとも思う。

旅の間、世界を支えているのは、世界中のおばちゃん達だと思うことが何度もあった。
多少の悪いニュースは右から左に聞き流し、マイペースで楽観的。
時々お節介だったり、図々しかったりもするけれど、憎めなくて、何より生活する力と知恵に溢れたおばちゃん達。
いい年して、いまだに、ままごとみたいな生活してるなと、時々思ってしまう自分には、なんだかまぶしく感じられるし、おばちゃんの魅力をもっと追求してみたくなる。

子どもの頃、空想癖が激しかった。
日常世界から、御伽の世界を開く扉は無限にあり、それを開くことは本当に簡単なことだった。
目の前にあるものならなんでも、例えば小石や葉っぱ、封筒の切手、お菓子や果物。
近所の小道やお気に入りの木。
ありふれたものを眺めているだけで、次から次に物語のしっぽが湧き出て
そこからストーリーが膨らんだ。

その感覚は、目の前のものを通して、どこかは分からないけれど、別の世界にすっと入り込んでいくような感じで、大人になるにつれ、自然と薄まってきたのだけれど、いまだに、ふとしたはずみによみがえる時がある。

10年以上前、初めてチェコの古いアニメーション映画を、いくつか見た時、自分の感じていた、別の世界のイメージを形にしてくれているような印象を受けて、感動した。
かわいいものや、綺麗なものと、シニカルなもの、残酷なものをないまぜにして、ユーモアで包んだファンタジー。
奇妙だけれど、軽やかで、美しい世界。
チェコに行けば、その世界につながれるようなものがたくさんあるような予感がして、いつか訪れてみたいと願っていた。

実際にチェコの首都プラハに来たところ、思っていたよりずっと、観光地化が進んでいて、街並は美しいけれど、均一化されてしまっている印象を受けた。
何を売っているのか、目指しているのか、分からないような店や、使途不明な空き地、猥雑感漂う小路・・・
そういうぽっかりとした隙間のような場所が、都市から淘汰されて消えていってしまうのは、なんだかつまらないと思ってしまう。

多分、プラハの街には、ここまでツーリスティックになる前には、そういう場所やものがたくさんあったのだろうなあと感じられた。
プラハに限らず、世界中の近代化した街で感じたことではあるけれど。

少し残念に思いながら、街を散策していたら、プラハの風景には、それでもなんだか少しミステリアスな、独特な空気感があるように感じ始めた。
昼間なのに、妙に静かな通りに漂う、何かの気配のようなもの、角をひとつ曲がれば、別世界が始まりそうな気持ちがしたり、景色のどこかに何かが仕掛けられていそうな、ざわざわするような、奇妙な雰囲気。

初冬の冷たく澄んだ空気の中、紅葉の彩りが反射する、川向こうに佇むお城と、雲が濃く陰影を落としている空に、ぽっかり浮かぶ飛行船とを眺めていたら、木々のシルエットすら意味ありげに見えてきて、シュルレアリスムの絵の中に迷い込んでいるような気持ちになってきた。

そんな気持ちで、一人歩いていたら、川岸のベンチに、見覚えのある男の子がぽつんと座っていた。
ウイーンから、プラハに移動する時同じバスに乗っていた、韓国人の旅人、ムチン。
わたしを見ると、すっと立ち上がって、話しかけてきてくれた。
日本のTVドラマが好きで、見ている内に、日本語を話せるようになったそう。
一緒に橋を渡り、目的地を決めないまま歩きながら、喋り続けた。

テレビ番組の話、恋の話、食べ物の話などしていると、外国人と話している気がしない。
けれど、北朝鮮についての思いや、懲役時代の話を聞くと、同年代の日本人は持つことのない感情や体験を持っているんだなあと新鮮に感じた。
「本気で攻めてくるなんて、誰も思ってないけど、一応防備のために徴役しなきゃいけないから、みんな北朝鮮のことをめんどくさい存在だと思ってる」
「懲役中のストイックな生活を続け、訓練を受けていると、原始的な欲求が高まって求めるものもシンプルになる。」
「食べ物や、家族に会えるという賞を掲げられると、みんな死にもの狂いで、それを得ようと頑張る。」
「懲役に行くまでは、みんな大学生活も適当に過ごしているけれど、懲役から戻ってきたら、途端に真面目になる人が多い。懲役は本当に特殊な環境での体験だと思う」

体が冷え切ったので、途中カフェで暖まり、夕陽が落ちて夜景の美しい橋を戻り、夕食の時間になったけれど、2人ともお金がないので、ファーストフード店でビールを飲みながら、他愛もない話を続けた。
明るい照明のもと、ピザなどつまんでいると、昼間感じたシュールな世界がどんどん遠ざかっていくのを感じた。

プラハは、期待していた街とは少し違ったけれど、歩けば歩くほど、別の世界に引き込まれていくような感覚になっていた最中に、ふらりと男の子と再会したときの、あの感じが印象に残っていて、地味かもしれないけれど、懐かしい思い出になっている。
そして、あの国から、幻想的なアニメーションや、文学が生まれた理由が、ほんの少しだけど、肌で分かったように思う。

メキシコについて思い出す時は、たいていターコイズブルーの空の下の光景が浮かぶ。
雑多で、物と人とが溢れる市場や、鮮やかな色の壁画、装飾的な教会、月のピラミッドの遺跡。
始終、視覚を通して、脳裏をざわめかせられた国という印象がある。
けれど、今回は、その中で少し色合いの違う思い出について書こうと思う。

メキシコの北部にある街、サンクリストバルデラスカサスにやってきたのは、その周囲にある、少数民族の暮らす村々を見てみたいと思っていたからだ。
広場にいると、村々から山を越えて、虹を思わせる色彩の衣装を身にまとい、黒くて長い髪を編んだ女性達が現れ、布に包んだ民芸品を地面に広げて売り始める。

通りには、民芸品を扱う土産物屋もたくさん並んでいて、わくわくしながら、一軒一軒覗いていく中、わたしは気になるものを見つけた。
カラフルな絵本の挿絵のような絵が、ポストカードやノートになって売られているのだけれど、描かれている人達が、みんな覆面のようなものをつけているのだ。
ファンタジックな色使いや、構図に惹かれただけに、この人たちはなんなのだろうと思った。

他の旅行者やお店の人に聞いたところ、それはサパティスタ(民族解放軍)と呼ばれる、ゲリラ組織の人々で、メキシコ政府から、先住民族の権利を守るために結成されたということが分かった。
それでも、温かみのある絵と、ゲリラという言葉が結びつかなくて、わたしの中ではぴんとこないままだった。

数日後の朝、宿で出会った日本人たちが、ゲリラの暮らす村に行くという話をしていた。
もっとも、オベンティックという名前のその村に入るには、村民(ゲリラ)の面接があり、最近行った人達は面接が通らず、中に入ることはできなかったということだった。

一緒に行かない?と誘われたけれど、何も知識のない私が、好奇心だけで行ってもいい場所なのか、ほんの少しためらいを感じた。
けれど、旅している間に、まずは行ってみて、後から調べてもいいのかもしれない、順番はどちらでも構わないはずと思うようになっていたし、あの絵のことを思い出したので、行ってみることにした。

その日はメキシコ滞在中、珍しく空は厚い雲で覆われ、視界の見通しも悪かった。
もやのかかった山の中、ガードレールもない、ぐねぐねの道を、タクシードライバーはスピードをあげて走る。
1時間半くらいたった頃、霧深い路上に門のような柱が現れ、そこに、目と口にだけ穴の開いた、黒い覆面をつけた門番が立っていた。
タクシーから降り、門番の後について村へ入る。

次に現れたのは子どものサパティスタだった。
門番を見たときから思っていたことだけれど、サパティスタの覆面は、想像していたものと結構違う。
ニット帽の目鼻をくりぬいたようなもので、素朴であたたかみがあり、てっぺんにカラフルなぼんぼん飾りがついていたり、なんだかポップなのだ。
子どもに関しては、かわいらしいとすら思ってしまった。
大人も穴からのぞく視線がやわらかく、攻撃的な雰囲気はない。

それでも、入り口付近の小屋に連れて行かれ、覆面集団に囲まれた時はさすがに緊張した。
ラッキーなことに、連れの1人が、少しスペイン語を話すことができたので、面接は殆ど彼に託された。

わたしは、サパティスタ達は、自分たちのことを他国の人に知ってほしいのか、それとも知られたくないのを尋ねてもらったところ、彼らは、自分たちの存在を世界中の人に知ってほしいとのことだった。
それなら、村を見せてもらえたら、日本に戻ってから、みんなに伝えるということを、壁に貼ってあった世界地図を指さしたり、身振り手振りで、みんなで一生懸命伝えた。

覆面集団は頷いたり、思案しているようだったけれど、とりあえず第1面接はパスしたらしく、二つ目の小屋に連れて行かれた。
そこでもまた質問等された結果、どういう具合なのか、私たちは村に入ることを許可された。

住民の写真以外であれば何でも撮影して良いと言われ、後は、誰かが付き添うわけでもなく、村内を自由に散策することができた。
無人の教室や、庭に建つ簡素な十字架、外にはためく洗濯物・・・
生活の端々は感じられるのだけれど、人の姿はほとんど見ることがなかった。

その代わりに目をひいたのは、ありとあらゆる建物にほどこされた、カラフルなペイントだ。
この村に支援にやってくる世界中のアーティスト達が描いたらしい様々なペイントが、水分を含んだ空気の中、より冴え冴えと映えていた。
自由と平和を求めるメッセージが込められたペイントの中で暮らす人々の気持ちを思った。

ぐるりと村を廻ったあと、体も冷えたし、おなかもすいたので、何か食べるものを探したところ、一軒の商店がみつかり、店番のおばあさんもいた。
売っていたカップヌードルにお湯を入れてもらい、みんなでその場で食べた。
この場所で出会った見慣れた容器に、違和感と同時に、少し安堵も感じた。

結局この村に行ったからと行って、その村人と殆ど触れ合うこともなかったため、わたしはサパティスタがどういう活動をしているのかよく分からなかった。
帰国して、サパティスタを含め、もともと興味のあった世界の少数民族について調べたり、考えることは増えたし、思うことはいろいろあるけれど、それについて書くのは別の機会にしたい。

日本で暮らしていると、外国に行くことも許されているし、肉体的には自由かもしれないけれど、例えば山奥で暮らす少数民族の方が、よほど自由な想像力や、感性を持っているように思うことが度々あった。

支配や洗脳によってではなく、一人一人がありのまま、複雑なまま生きても、なおかつ調和のとれた世界というのはきっとあるはずだと思うけれど、果てしなく感じる。
それに近づくためにできることというのは、自分と人との違いをどれだけ活かし合えるかということなのかなとも思うし、できることをすぐやるスピーディーさと、変化が目に見えなくても、待ち続けるような、大きな時間の捉え方との両方が必要なのだとも思う。

中欧から北欧にかけて旅したのが秋だったので、帰国して、札幌で秋を迎えるたびに、そのあたりのことを思い出して旅に出たくなる。
気候風土が札幌と似ているからかもしれない。
日ごとに冷たさを増す空気の中で、澄んだ日差しのもと、空や色鮮やかな木々がガラス細工のように見える感じや、曇りの日のグレイの空気に映える銀杏の並木道。

中欧の街、ウイーンは、ハンガリーからチェコに行く際の通過ポイントとしか考えていなくて、滞在期間も3日間しかとっておらず、着いてみるまで、それほど期待を持っていなかった。

けれど、ウィーンの街を歩いていると、なんだかとても落ち着いた。
そして、不思議と懐かしい感じがした。
自分の小学生時代を思い出すのだ。
どうしてなんだろうと考えたところ、いくつか理由が思いあたった。

ひとつは、自分が小学生の頃、ピアノを習っていて、毎日ピアノの練習をしたり、何人もの音楽家の伝記を読んだり、時々クラシックのコンサートに連れられて行ったりしていたのだけれど、当時読んだり聞いたりしながら頭に浮かべていたヨーロッパのイメージや歴史などが、ウイーンの風景と同調したということ。

もうひとつは、小学生の頃、映画「サウンドオブミュージック」が好きで、何度も繰り返し見た風景が刷り込まれていること。
そして、シェーブルン宮殿の庭を歩いていた時には、目の前に広がっている景色が、小学生の頃読んだ、ベルばらや、ヨーロッパを舞台にした、少女マンガに描かれた風景そのものだということに気付いた。

もっと些細なことで言えば、子どものころ、家にあった母親のお菓子のレシピ本に載っていた、ザッハトルテ(ウイーンの名物のケーキ)が気になって、繰り返し写真や説明文を見ては、それが売られている見知らぬ街を想像していたというのも思い当った。

おかしな言い方かもしれないけれど、昭和時代のわたしが憧れたヨーロッパ。
母親のお菓子の本に載っていた、不思議な名前のケーキや、マンガや音楽家たちの伝記の中に出てくるお城や森。
当時、山に囲まれた田舎町の小さな家で暮らしていた私にとって、それらはあまりに遠く、きらきらしたものたちだったけれど、今目の前にあって、食べたり触ったりできることは、感動というより、やっぱり懐かしいと言う方がしっくりときた。
子どもの頃のわたしは、何度もウイーンに空想旅行していたのだろう。

ウイーンでは、それ以外にも、心に残っているできごとがいくつかある。
仲良くなった、韓国や中国の女の子たちとオペラ鑑賞に行ったこともその一つだ。
日本でオペラと言えば、敷居の高いイメージがあるけれど、オペラハウスにはぴんきりの席が用意されていて、立ち見席であれば、6ユーロ(当時800円前後)で見ることができた。
ただし、開場数時間前に行き、手すりにハンカチを結んで、場所とりをしておく必要があるし、開場したら、終演まで3時間くらい立ちっぱなしとなる。

それでも、豪奢な会場にドレスアップした人達が続々と集まってくる様子は、日本では触れたことのない世界だったので、観察しているだけで楽しめた。
開幕し、オーケストラの演奏が始まった瞬間はちょっと鳥肌がたった。
あまりの音響の良さと、完成度の高さに、目の前で生演奏されていると思えないほどだったので。

席のモニターに英語で説明が出てくるのだけど、スピードに追い付けず、ストーリーはほとんど誤解していたように思うけれど、楽器の音と歌声に聞き惚れ、衣装や舞台に見とれ続けて、思っていたよりも面白かった。
そして、日本に戻ったら、いつか歌舞伎や能を見にいこうかなあと初めて思った。
(まだ機会がありませんが)

他にも、タイ人の家族と一緒に美術館へ行ったり、そこで、好きな画家エゴンシーレの原画をたくさん見ることができて感動したり、教会で、厳かなミサを見て胸を打たれたり、気に入ったカフェに毎日通ったり、束の間の滞在だったけれど、思い出をたくさん作ることができた。

初めての街で、ずっと忘れていた自分とつながったような不思議な感覚。
昔の自分に、時を超えて、「ウィーンに来れたよ、すてきな街だよ」と、エアメイルを送りたくなるようなそんな気持ちになった。

トルコについて、伝えようとすると、直接目で見たものだけではなく、その奥に漂う知らないはずの時間や、人々の面影が浮かんできて、何から言葉にすればいいのか迷う内に、輪郭が、ぼやけて掴みどころがなくなってしまう。

東洋と西洋の交差点に、長い年月をかけ、様々な民族が行き交い、残していったものたち。
それらは円熟し、西も東もふわりと包み込むような、おおらかさをたたえていた。
色彩豊かな国でもあったけれど、アジアやメキシコのごったがえす原色とは違い、ほんの少しだけ色褪せた写真の中のような、独特の柔らかな諧調がたゆたい、その中にいると、不思議と懐かしさを感じる瞬間が幾度もあった。

街から離れると、自然が形作った、奇抜な世界を目の当たりにした。
例えば、想像以上の広域に渡って、不思議な形の岩が立ち並ぶカッパドキア。
まるで違う星に来てしまったかのような、突拍子もない風景の中にいても、それらはのどかな日差しや風にそよぐ草原、おだやかな空に囲まれ、すぐ傍には、人々のゆったりとした生活が息づいているのを感じ、見たことのない景色にびっくりするというよりは、ほっとするような気持ちになり、なごんだ。

周辺の村では、奇岩の中や洞窟を住居としている人々が、子どもの頃から見慣れた景色として、特別なことだと意識もしていないように、ただ淡々と生活をしていた。
空には洗濯物がはためき、奇岩の立ち並ぶ道端では、女性達はしゃがみこんで井戸端会議、子ども達は枝を振り回しながら、猫を追いかけ、遊んでいたり。

夕暮れのローズバレー(奇岩の連なる渓谷)を観光した時には、巨大に絞り出されたような形の岩が連立している光景に圧倒されたこと以上に、辺りの草原が、夕日に染まって風に揺れ、空に雲が流れ、そこに気球がやってきたり、岩肌は夕日のもと、何層ものピンクに染め分けられ、休憩に出されたミントティーはいい匂いを漂わせながら、コップの中で冷めていく・・・
そんな風景と自分の五感や気持ちが溶け合い、境目がなくなっていくような感覚が心地よかった。
そして、時間が流れて行く様子をきれいだなあと思った。

パムッカレの石灰棚の景観も印象に残っている。
見渡す限り、白いバター飴のような質感の、自然に作られた石灰の受皿が、棚田状に積み重なった、丘陵地帯。
受け皿一つ一つに鉱水が溜まり、真昼の青空が映りこんで、水色に輝く。
夕暮れにはその中に、落下していく太陽が反射し、更にきらきらまたたく。
登っていくと、幻想的な石灰棚の下には、西日の差し込む村が広がり、木々や家があたたかな色に照らされていて、神秘的な白い丘と、のどかな生活風景が、違和感なく寄り添っている様子に心をうたれた。

更に登ると草原が広がり、古代都市の跡地があった。
その中の円形競技場跡に腰かけていると、古代の人々の暮らした遺跡、鉱水がゆっくりと形作った石灰棚、古代の人々が暮らしていた頃と、殆ど同じかもしれない草原の草木、現在の人々が暮らす村、そのすべての上に広がる空・・・
それぞれに流れる、スピードの異なった時間が交差しているのを感じて、大きなものに繋がっているような安心感と、この一瞬をとても儚く思う、切ない気持ちの両方を感じた。

エキセントリックな自然と、のどかな生活風景が寄り添い、いろんな時間軸が共存していたトルコの風景を思い出すと、日常と旅の境目というのは、自分が思い込んでいるよりもずっと薄くて柔らかいものなのかもしれないと感じる。
日常というのが、自分で括った時間枠だとしたら、そのすぐ周りには、いくつもの異なった時計が回転している。

旅をするには、自分とは違う時間軸にほんの少し思いを馳せるだけで足りるのかもしれないし、そうすることで、心がほどけて、視野が広がる。
物理的に移動できない時でも、心だけはどこまでも旅できると思うのだ。
逆にどんなに離れた場所に行っても、そこと自分の日常はつながっているのだと思う。
どんな状況にいても、その感覚を忘れないでいたい。

友人とふたり、7か月間で21か国を巡った旅の途中、
近づいては遠ざかっていったいろんなにおいや音、色、あたたかさとつめたさ。

いつでも思い出すわけでなないけれど、帰国してから7年近く経った今でも、日常の一瞬と重なるように、よみがえることがあります。
そして、忘れたと思っていたような些細なエピソードや心模様が目の前に立ち現われます。
自分の中に閉じたり開いたりする旅の扉がいくつもできたのでしょう。

扉を閉めて、あれから流れた年月のことを思うと、出会った人達が、その後どんな毎日を暮らしているのだろうとか、当時の風景はどのように変化したのだろうなどと考えるのですが、扉を開いた瞬間は、あのままの街角や海辺に、あの時の自分がそのまま佇んでいるように感じるのです。


この本を手にしてくださったどなたかが、今すぐ思い通りの場所に行けなかったとしても、心はどこまでも自由に馳せられることを思い出してくださったり、ちょっと旅してみようかななんて感じてくださったら、こんなに嬉しいことはありません。

忘れてしまいそうになる時もあるのですが、
わたしも一日一日を旅の途中だと感じながら、暮らしていきたいと思います。
  
2016年12月11日 
佐藤かづみ
http://www.kazumisatoo.com/

旅の途中に出会った家族と。アルベロベッロ(南イタリア)で。

旅のとびら

2016年12月11日 発行 初版

著  者:佐藤 かづみ
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