知らずに受け継いだ資質と、隠された秘密を巡り、異界の住民との関わりから翻弄される遠山トーコとその友人達。本編エピソードの幕間を綴る番外編。
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街から離れ、街灯が途切れたその場を照らすのは月の光だけだったが、今はそれも厚い雲に阻まれ、明かりと呼べるものは他に何もなく、そこは夜空と地面の境目も解らない。
立ち止まった門杜が、その暗く狭い坂道の先にあるものを見上げていると、ふいに背後から照らした強い光が彼の影を林に投げかけ、同時にけたたましくクラクションが鳴り響いた。慌てて道の端に避ける彼の傍を、濁った重低音の拍動を漏らしながらSUVが走りぬけると狭い道を塞ぐように止まり、若い男女三人が口々に喋りながら降りて来るのが見えた。
「おう、ラッキー。誰も居ないぜ」
「ここ、ほんとに出るってホント? こわーい」
「気がはえーよ。出るのはほら、この上のボロい家だってば」
男の一人が、車のライトが照らす小道の先を塞ぐように横切る鎖を指差した。
ライトやスマートフォンの明かりを片手に、鎖を乗り越えようとする男女に、門杜が後ろから恐る恐る声をかけた。
「なあ君達、そこに入るのは止したほうが良いんじゃないか?」
「はあ?」
男が振り向いてライトを門杜に向けた。掛けている黒縁メガネのレンズに光が反射し、眼鏡の奥の門杜の眠そうな目が眩しげに一層細くなる。ライトの光は男の視線と共に、門杜のくたびれた靴のつま先から型崩れしたビジネススーツ、それに眠たげで出世や成功、勝利などという言葉とは縁遠そうな顔を往復した。
「何だよおっさん。ここの持ち主かよ?」
「いや、違うけど、ここは……」
「違うんならほっとけよ。じゃあな」
男は吐き捨てるように言うと、鎖を乗り越えた。二人の男女も、彼の後に続く。
「あー、行っちゃったか……しょうがないな」
取り残された門杜は、ため息を付き、渋々と彼等の後を追って坂を登り始めた。
舗装はされているものの、ヒビ割れた路面から雑草が生え、荒れ果てた雑木林が両側に生い茂る、暗く狭い上り坂を登った三人の目の前に、雲間から差し込んだ月明かりで、錆びた鉄の門扉の先にある雑草の茂みと、その奥にある朽ちかけた洋館建ての屋敷の輪郭が夜空を背景に浮かび上がった。
「ここ?」
「おう、なんでもあの家で一家心中があって、それからそこの家族が出るんだってよ」
「それだけじゃなくて、ここは昔、殺された着物着た女の死体が捨てられてたとか聞いたぜ。それから血染めの着物着た女の幽霊が出るんだってさ」
男二人は、連れている女を怖がらせようと、わざと声を落として話した。
フラッシュライトの光に照らされて作り出される陰影が、時に人の姿に見えたり、何かが近づいてくるように映る。
「あそこ! 何かいる」
「見間違いだよ。怖がりだな」
悲鳴に似た声を上げて腕にしがみつく女に、男の一人がニヤニヤ笑いながらうそぶいた。
「けどよ……何だか、ほんとに気味悪いな」
連れの男が言った時、風が吹き、樹の枝が擦れる音とともに、風鳴りとも呻き声ともつかぬ微かな音が聞こえ、三人は息を呑んで固まった。
「な……なんの音だよ?」
音に、草を踏みしめるような音が加わり、それは彼等を取り囲み、次第に近づいて来るかのように、大きくなってゆく。
「ねえ……なんか来るよ」
女が絞りだすような声で囁いた時、彼等が持っている明かりが一斉に消え、そこは闇に包まれた。
「!」
そこにいる誰もが凍りついたように固まった途端、その場がぼんやりと照らされ、人の形をしたものが上から降りてくると、三人の目前に立ち塞がった。
二つの鋭い眼が彼等を見据えた。
「うわおああああ!」
三人は動物めいた悲鳴を同時に上げて、来た道を転げるように駆け下りていった。
門杜が飛び退いた傍を、三人の男女が調子外れな和音を発しながら駆け下り、我先に車に飛び乗ると、全速でその大柄なSUVを後退させていった。
何かに擦れたりぶつけたりする音と共に揺れながら遠ざかるヘッドライトを見送った門杜が、ずれたメガネをかけ直しながら向き直ると、体の輝きを収めながら、彼女、“トウコ”が小首を傾げて立っていた。ゆるやかに弧を描きながら二つに分けて編むように束ねられた金属線めいた長い髪と、計算尽くで形作られたとしか思えない絶妙なプロポーションの裸身にまとう、羽衣を思わせる薄衣がそよ風になびき、その度に残り火のような微かな光を放っている。
「怖がらせるつもりはなかったのだがな」
「ホントに失礼だよね。憑かれるとこ助けてあげたのにあんなに怖がるなんて」
形の美しい寒色の唇を微かに尖らせ、どこかネコ科の生き物を連想させる瞳で遠ざかるヘッドライトを見やる“トウコ”に、門杜は笑って相槌を打った。
「ここか? カドモリが気になる場所というのは」
「うん。最近、ここで見たり憑かれたりする人が続出して、何日か前にはテレビの取材まで入っちゃった。元々ただの心霊スポットだったんだけど、誰かが手を加えたみたいでね。身体抜け出して見に来たら吸い込まれそうになったから、起きてる時に見とこうと思って、ついでに君も誘ったんだ」
門杜は“トウコ”に説明しながらメガネを外し、“トウコ”の隣りに立って廃墟を見つめた。
「ああ、こんなになってんのか。もうじき鈍感な人でもバッチリ見えちゃうなこりゃ。どう思う? 君の家の近所だし、気にならない?」
先程までの冴えない会社員といった印象とは程遠い、精悍な表情を見せる門杜の目には、廃墟を中心にゆっくりと渦を巻く黒い霧のようなものが見える。それは普通の者には見る事が出来ないものだったが、時折動物や恐ろしげな形相をした人の姿を垣間見せ、その度に瘴気に似た煙を周りに散らしている。
その煙の一本が“トウコ”に向かって伸びてきたかと思うと、その手前であっさりと蒸発した。
「近付かなければ無害だろう」素っ気なく“トウコ”は答えた。
「だと簡単なんだけど、何だか成長しててね。このまま放っておくわけにもいかないよ」
「憶えておこう。用はそれだけだな」
門杜の言葉に、“トウコ”は頷くと宙に浮かんだ。
「ああ、そうだ。ちょっと」
宙にとどまって見返す“トウコ”に、門杜は思いつくままに言った。
「それ、その格好。こういう所に来るときは、着物の方が断然似合うと思うよ」
門杜の言葉に、“トウコ”は微かに首を傾げるだけで、何も言わずそのまま夜空へ飛び去った。
午後の強い陽射しと蝉しぐれが溢れる中で、公園の傍にある公民館に併設された図書館の前で、遠山トーコはこちらへ向けて歩いてくる背の高いワンピース姿の少女を見つけ、まつ毛の長い目を見開くと桜の花びらを思わせる唇をほころばせて手を振った。
トーコに気付いた黒崎エリは、手を上げて指先をひらひらとさせて応え、微笑んだ。
「トーコも来たのー?」
「あんまり暑いから涼みに来ちゃった」エリに訊かれたトーコは頷いた後、笑って答えた。
「目当てはそっちかー、って私もそうなんだけどねー。私の部屋エアコン効かなくてすごく暑いんだー。あ、そうだー。自由研究のレポート、もう書けたー?」
「あ、まだ何もしてないや」
「一緒に書くー?」
「うん」
トーコは大きく頷いた。
「それじゃあ、ついでに何書くか決めよー」
二人が通う高校の夏休みも半ばを過ぎ、ようやくトーコはエリと共に、夏休み明けに提出する宿題に取り掛かる気になったようだった。
二人が話しながら建物の中に入ろうとした時、背後でバイクが止まる音が聞こえた。
その、連続した破裂音と薄い金属が叩かれるような音が共振しあった騒々しいエンジン音にトーコとエリが振り向くと、小さなバイクに跨り、ジーンズにTシャツを着て白いフルフェイスのヘルメットを被った小柄なライダーが手を振った。
「誰?」
「さあ……」
「よお、遠山、黒崎」
首を傾げているトーコとエリをそれぞれの苗字で呼んだライダーは、エンジンを止め、フルフェイスのミラーシールドを上げ、見覚えのある同級生の顔を覗かせた。
「花村君」
「どうしたのーそれー?」
トーコとエリは口々にそう言いながら彼、花村に歩み寄った。
「免許とったのー?」
「おう!」
花村は嬉しそうにジーンズのポケットから真新しい原付の運転免許証を取り出して二人の目の前に突き出した。
「へえー、すごいー。けど、先生に許可もらったー?」
「黙ってりゃわかりゃしなーい。それよりどうよ? このマシン、ウルフってんだぞ。カッコいいだろう? フルチューンしてるのをオクで見つけたんだ」
花村はおもむろに乗ってきたバイクを指し示した。
「けどそれ、なんだか煙一杯出てたしパリパリ変な音してたよー。壊れてるんじゃないのー?」
小柄な花村は、自分よりも遥かに背が高いエリに見下ろされる形で言われ、ムッとした。
「何言ってんだよ黒崎。壊れてんじゃねーよ。煙はツーストだから。音はチャンバーのせい。これ付けたらパワーが上がるの。それにこっちのビッグキャブとファンネルで完璧なんだからな。速いんだぜ」
花村の説明に、エリは首を傾げただけだった。一方トーコは二人の会話は全く耳に入っていない。
「遠山、何見てんだよ。まさかバイクに興味あるの?」
花村は、バイクを食い入る様に見ているトーコに尋ねた。
「この前大きなバイクの後ろに乗せてもらって、小さいのなら私にも乗れるかな? って思って」
トーコが頷いて答えると、エリが嬉しそうに声を上げた。
「あー、トーコもなのー? 私も最近ちょっと、思ってるんだー。フジサワさんみたいに乗れたらカッコいいよねー」
二人のその言葉に、花村はあからさまに驚いて目を見開いた。
「マジかっ!? お前らがバイクに興味あるなんて、なんかもの凄く意外。て言うか、その、フジサワさんて、誰?」
「ああ、えっと」
「この女の人ー」
説明に迷っているトーコの傍らから、エリがスマートフォンに映る画像を花村に見せた。
「それからなんだっけ? こんなバイクに乗ってるのー」
「はあー、綺麗なお姉さんと……うおっ、ビモータDB8! すげえ」
花村は、エリがスクロールさせたスマートフォンの画面に映る、香港のアクション映画に出てくる女優を思わせる美女と、イタリア製の工芸品ともうたわれるスーパースポーツバイクを齧り付くようにして見つめた。
「俺も大型取って、いつかハヤブサに乗ってやる」
花村の呟きに、トーコが尋ねた。
「はやぶさって、漢字ではやぶさ、って書いてある大きな黒いバイク?」
「そりゃ黒いのもあるけど、へえ、遠山、ハヤブサ知ってんだ?」
珍しげに問う花村に、トーコは頷いた。
「後ろに乗せてもらったの。なんだか空飛んでるみたいだった」
その時、花村のジーンズのポケットから、携帯電話の着信音が聞こえた。
「あの感じな」
花村が仲間を見つけたように大きく頷いて笑いながら、電話を取り出して耳に当てた。
「遠藤、なに? ああ、そこなら知ってる。今晩? マジ? いいじゃん。やろうぜ」
彼は上機嫌で電話を切り、トーコとエリを見て尋ねた。
「なあ、今晩、肝試ししない?」
花村から出た、肝試しという言葉に、トーコはギョッとなって固まった。
「きもだめしー? いつー? どこでー?」
「今晩十一時。裏山の林ん中にある廃墟な。東野にも声掛けといてよ」
花村はエリの問いに答え、それからトーコを見てニッと笑った。
「あそこ、ほんとに出るんだってよ。遠山、もちろん来るよな?」
トーコはエリの後ろにしがみついて隠れながら、ブンブンと音を立てそうな勢いで首を横に振り、声を上げた。
「だめだめだめだめ私はパス! 絶対に行かないから!」
「遠山、お前ほんとに怖がりだな。そんな事でどうすんだよ。待ってるからな!」
花村はトーコのうろたえ様にゲラゲラ笑い、ヘルメットを被るとキーを捻り、おもむろにバイクを押し始めた。
「何してるのー?」
「押しがけ! こいつレース用だから!」
尋ねるエリに花村はそう言い残してキックペダルが外されたバイクを押して小走りに離れていったが、クラッチを繋ぐタイミングでアクセルを開けすぎてプラグをかぶらせたのか、ポスポスという気の抜けた音をさせるだけでエンジンが目覚める気配はなかった。
「押すの手伝おうかー?」
「大丈夫だよ! これくらい!」
延々とバイクを押す花村に、後ろからエリが声をかけたが花村は首を横に振り、ムキになってバイクを押しながら去っていった。トーコとエリの視界から消えた後、ようやくエンジン音が聞こえた。
「私、行かないから」
既に姿が見えなくなった相手に念押したトーコは、エリの後に続いて図書館へ入っていった。
図書館に入ったトーコとエリは、空調の効いた静かな室内を、足音を忍ばせるようにして横切り、並んで郷土史の書架の前に立った。
「何書くの?」
「んー、近代史、大正昭和あたりの事かなー」
トーコとエリは囁きあいながら、大判の年鑑が並ぶ中に出来た隙間を見て、首を傾げた。
「あー、おんなじこと考えてる人がいるかもー」
「なに? どうしたの?」
「大正と昭和の年代の本が抜けてるのー」
「あ、こっちも、ちょうど同じ頃のがないよ」
トーコは年代別に並べられた写真集の背表紙に張られた番号が抜けた隙間を見て言った。
「じゃあ、もう一つの方で行こうかー」エリが呟く。
「もう一つの方って?」
「この辺に昔から伝わる妖怪や幽霊の話ー」
「そんなの止そうよ」
「えー? だめー? どうしてー? 面白いのにー」
目を見開いて首を横に振るトーコに、エリはわざとそう言った。
『行かない』
太陽が西に傾く頃、図書館を出てトーコと別れて家に帰る道すがら、エリが東野サトミに電話で花村の話をすると、サトミは即答した。
「ああ、やっぱりー」
サトミの予想通りの反応に、エリは笑いながら頷いた。
『お化けや幽霊なんて、わざわざ見に行く気になれないわよ。第一、いくら廃墟ったって真夜中に他所ん家に忍びこむなんてどうかしてるわ。他人がやるのは勝手だけど。で? あんたは?』
「んー、私もやめとくー。夜遅いし、ちょっと遠いもんねー」
『トーコは?』
「トーコが肝試しに行く、なんて言ったら世界が終わると思うよー」
『そりゃそうだわ』エリの言い様にサトミは笑った。
その時、西日の陽射しが陰り、湿り気を帯びた風がエリの頬をなでた。
「あー、なんだか急に涼しくなって来たー」
『さっきからゲリラ豪雨の警報でてるし、家からだと真っ黒い雨雲見えるよ。そろそろ来るんじゃないの?』
「えー!? ほんとー? 傘持ってないのにー」
『ちょっと待って。今どこ?』
「公園とこ、あー、やばいー」
エリは強くなる風に思わず風上を見やり、裏山に纏わり付きながら自分に向って降りてくる灰色の雨雲を見て、声を上げて駆け出した。
エリの頬に水滴が弾けたかと思うと雷鳴が轟き、風で横降りになった大粒の雨がエリの視界を瞬く間に覆い、通りの向こうが白く霞んだ。
エリは近くのシャッターが閉まった商店の狭い軒下に飛び込んだ。エリが立つ軒先の道路は排水が追いつかず、みるみるうちに深い水溜りが広がってゆく。
ため息混じりに雨雲を見上げるエリに、水をかき分ける音が聞こえたかと思うと、一台の車が、猛スピードでその水溜りを走りぬけ、水柱が上がった。
「ひゃあっ!」
逃げ場のないエリをまるで狙い撃ちするように、頭の天辺からつま先まで水が降り注がれた。
雨宿りの意義を失ったエリは、水しぶきを浴びせて走り去る車と雨雲に呪詛の言葉を吐くと、シャワーのように降り注ぐ雨の中を歩きだし、やがてホラー映画に出てくる井戸から這い上がってきた亡霊のような姿になって家にたどり着いた。
玄関に入ったエリは、顔に張り付いた長い髪をかきあげてワンピースの裾を絞り、足元に広がってゆく水たまりにため息をついたところで、見慣れぬサンダルに目を留めた。上がり框の傍に、天然の宝石とスワロフスキーのビーズがちりばめられた、見るからに手の込んだ作りのサンダルが揃えて置かれている。
「おねえまた新しいの買ったんだー。うわー高そー」
エリはそのサンダルを眺めて呟き、靴と靴下を脱いで濡れた足で家へ上がり、廊下に水を滴らせながら風呂場へと歩いて行った。
風呂場からは微かに湯が波打つ音が聞こえる。
脱衣場に入ると、ふと、香の香りがした。
「おねえ、ごめーん、出てよー。私、雨に濡れちゃったからシャワー浴びたいのー」
エリはその香りの好さに周りを見回し、脱衣カゴに艶やかな女物の下着とともに入れられた、サマードレスを見つけて両手でつまみ上げて広げ、香の香りとつやのあるシルクの手触り、アクセントの細かい刺繍やラインストーンの輝きに目を見開いた。
ドレスをカゴに戻したエリは、濡れて冷たく身体に張り付くワンピースと下着に我慢できなくなり、引き剥がすように脱いで洗濯機にそのまま放りみ、浴室と隔てているすりガラスの引き戸を開けた。
「ちょっとおねえ、聞いてるのー? 私……!」
エリはその場で固まった。
湯船には姉ではなく、マネキン人形が浸かっているように見えた。
しかし、その見とれるほどに美しく精密なマネキンに見えた少女は、おもむろに目を開けると彼女を見て微笑んだ。
「ごめんなさいまちがえました」エリはうわずった声で、ほとんど意味をなさない言葉と共に、慌てて戸を閉めた。
湯が波打つ音が聞こえ、引き戸が開けられた。
「私、もう終わります。どうぞ。すごい雨ですね」
美術の彫刻を思わせる顔がそこから覗くと、その艶のある唇が微笑み、甘い声音の日本語が聞こえた。
「お、恐れ入ります」
ようやくエリがそう答えたとき、脱衣場の戸がノックされた。
「ラクシュミ、バスタオル置いとくわね」
姉のユリの声が聞こえ、引き戸が開けられた。
「あんただったの? 玄関からここまで水浸しよ。磯女が来たかと思ったわ」
エリを見たユリは眉をひそめて言い、ラクシュミという少女に微笑んだ。
「ごめんね驚いた? この磯女になってるのは妹のエリ。エリ、この娘はラクシュミよ。ドリエレの宣伝で見たことあるでしょ?」
ユリの言葉を聞いて、エリは改めて彼女を見た。
ドリエレの略称で知られる、ドリーム・エレムという高級コスメティックブランドが、今年の春から展開している日本向けのコマーシャルに登場する印象的な姿と横顔が、エリの目の前の少女と重なった。
ラクシュミは束の間首を傾げ、それからにっこりと笑って、エリの手を取って握手をした。
「よろしく、エリ」
「こ、こちらこそー。黒崎エリですー」
エリはしどろもどろに苗字まで名乗ってお辞儀をした。
「ほらほらおどき、そんなとこでぼーっと突っ立ってたら、ラクシュミが出られないじゃないの」
ユリに言われたエリが慌てて狭い脱衣場の壁に張り付いた。ラクシュミは微笑みながら彼女に会釈をすると、横をすり抜け、ユリから受け取ったタオルを体に巻き付け、風呂場を出た。
「いそおんな、何ですか?」
「ああ、日本の妖怪よ……」
ユリとラクシュミは話をしながら脱衣場を出ていった。エリは呆然としたままそれを見送ると、ようやく思い出したように洗濯機のスイッチを入れ、風呂場に入っていった。
シャワーを浴びていると、引き戸が開く音が聞こえ、すりガラス越しにユリの姿が映った。
「エリ、あの娘、しばらく家に泊まるからね」
「うん」
ガラス戸越しに聞こえるユリの声に、エリはボディシャンプーをスポンジで泡立てながら頷いた。
「トーコちゃんとサトミちゃん以外、誰に訊かれてもあの子の正体、絶対にばらしちゃダメよ」
「うん」
「あんた、明日登校日だったわよね」
「うん」
「だったらラクシュミに制服貸して、学校案内してあげてちょうだい」
「うん、いいよー」エリは身体と髪を洗いながら頷いた。
「出たら廊下の水、忘れずに拭いとくのよ」
「わかってるよー」
「それから」ユリが戸を開け、顔を覗かせた。
「何ー?」
エリはシャワーを浴びながらうるさげに答えた。
「さっきから洗濯機、ずっとゴトゴト文句言ってるけど」
「はー? そんなこと知らな……あっ!!!」
エリは慌てて脱衣場の洗濯機に飛びついて蓋を開けると、脱いだワンピースごと洗ってしまったスマートフォンを水の底から取り出して、無反応な画面を見てうぅ、と呻き声を上げた。
街灯がきらめく街を見下ろす丘稜に沿ったその遊歩道に、一組の男女が忽然と現れた。
ほんの数秒前まで、丘一面を見渡せるその場のどこにも存在していなかった二人は、斜面に居並ぶ墓標の列を見下ろしている。かつてはほとんど人の往来がない獣道のようなその細い道は、数十年前に幅が広げられると共に舗装整備され、同時に周辺の雑木林は切り開かれ、広い公園墓地へとその風景を大きく変えている。
「ここにいるの?」
女が男に尋ねると、男は小さなタブレットを取り出して、その画面を見て頷いた。
「あの時と同じ周期で繋がる道を全て試したんだ。もうここしか残っていない……かすかに痕跡がある。あの娘がここに来たのは間違いない」
男はポケットから、ゴルフに使うティーに似た形のピンを取り出すと、足元の地面に突き刺した。ピンの頭に数字が浮かび、点滅するとピンそのものが姿を消した。
「道が繋がっている時間はあまりない。行こう」
二人は見知らぬ国の言葉を交わすと街の方へと歩き出した。
いつもよりもずっと早い時間に、トーコは一度目を覚ました。
しかし、目を開けるほんの一瞬前まで見ていた夢に現れた祖母の笑顔を忘れまいとその一場面を繰り返し思い描いているうちに、ま再びどろみ、次に目を覚ましたのは登校時間の間際だった。
「!」
慌ててトーコは飛び起き、学校の制服に着替え、朝食もそこそこに家を出て、近くの交差点でサトミと合流した。
「サトミごめん! 遅くなっちゃった!」
信号の所で待っている小柄な少女に駆け寄ったトーコは、大げさに謝り、一緒に歩き出した。
「どうしたのトーコ、何かあったの?」
「おばあちゃんが夢に出てきて、フレンチトースト作ってくれたから、目が覚めなかった」
答えるトーコに、サトミは納得したように頷いた。
「なるほどね。あんた、いつもこの時期はおばあちゃんの夢見たって言うよね」
「うん、あと、誕生日には必ず出てくるよ」
「出てくる、って……」
トーコの言い様にサトミが笑い、それから二人は道の向こうから渡ってくるエリを見つけて手をふり、そのまま首を傾げた。
「おはよー。紹介するねー。この人はおねえの友達のラクシュミ。ラクシュミ、こっちはサトミ、こっちはトーコ」
エリの紹介に、トーコとサトミは、一瞬固まり、その後慌ててエリの傍らで微笑む異国の美少女に、たどたどしく挨拶と自己紹介をした。
「よろしく」
「あ、はい」
ラクシュミがが差し出す手をトーコがおずおず握り返した。
「ラクシュミって、ドリエレのラクシュミとおんなじ名前なんだね」
トーコの言葉にエリが頷き、口元に人差し指を当てながら小声で言った。
「うん、て言うか、あのラクシュミ本人だよー。だけどこのことは絶対内緒ねー」
サトミとトーコは目を見開き、それから納得したように頷いた。
「ねえ、その服は?」
「日本の学校へ制服着て行ってみたかったんです」
ラクシュミの答えにサトミは、ああ、そうなんだ、と言ってラクシュミを見上げ、エリと見比べた。
身長はエリと同じほどながら、その整ったプロポーションと華やかな顔立ちのせいで、普段着ていて見慣れている何の変哲もないブラウスとスカートの制服が、まるで別の国の学校の制服かコスプレのような印象を与える。
「結局どんな服も、上にのってる顔と身体の比率でカッコが変わっちゃうわけね」サトミはラクシュミを見上げて呟いた。
「ほんと、おんなじ制服着てるように見えないよ」トーコが感心したように頷く。
「サトミも、制服似合ってて素敵です。サトミは学年スキップでしょう? とっても賢いのですね」
ラクシュミは小さな姪か妹でも褒めるように、にこにこと笑ってサトミに言った。ラクシュミとエリの身長は共に百八十センチ近くあり、反面サトミは一番背が低く百五十センチにぎりぎり届かない上に、どことなく幼い印象を与える顔立ちのせいで、ともすると年下に見られることが多い。背が高く化粧映えする顔立ちのエリを長女に見立て、トーコを真ん中の次女に据えれば、誰が見てもサトミは何の違和感もなく三姉妹の末妹に収まる。
「この娘、絶対に私の歳、勘違いしてるよね?」
トーコにサトミが耳打ちすると、トーコはサトミを指さしてラクシュミに尋ねた。
「この娘、歳いくつに見え……」
サトミがトーコの口を押さえた。
「そんなこと聞かなくても良いってば。て言うか、多分あまり日本語通じないし」
「じゅう、さんさいくらい?」ラクシュミが微笑んで答えた。
「サトミ、十三歳だって」トーコは面白がって笑った。
「はいはい聞こえました。ほら行くよ。遅刻しちゃう」
サトミは不機嫌そうに口を尖らせ、歩き始めた。
「あ、そうだー。サトミもトーコも、家に着物とか浴衣あるー?」
唐突にエリが尋ねると、ふたりは首を傾げて答えた。
「浴衣はあるけど、着物はどうかな? 探せばあるかも」
「私も。それで?」
「ラクシュミが着物着て写真撮りたいって言うから、じゃあ家にたくさんあるから、みんなで好きなの着て写そう、っておねえが言ったんだけどー。もしも自分家にあればそれがいいかなーって」
エリの言葉にサトミは楽しげに応じた。
「そういう事なら探して持ってくわよ」
「私も。で、いつ?」
「じゃあ明日の朝八時ねー。うちの近所に田宮さんて言う古い写真館があるでしょー。あそこのおじさん、着物姿撮るの上手いからって、おねえが頼んだって言ってたー。そこねー」
「ああ、どうせなら、そのまま浴衣着て夜に花火はどう? 花火は好き?」
サトミに問われ、ラクシュミは微笑んで頷いた。
「はい、大好きです」
話をしながら校門のところまで来たトーコ達は、連れ添っている客のせいでこれ以上はないと思われるほどに廻りの視線を集めている事に気がつかない。
「先生に見学の許可もらってくるねー」
校舎に入った所で、エリはラクシュミと周りの視線を引き連れて、職員室へと歩いて行った。
トーコとサトミが職員室の前で待っていると、どこからともなく北村マキが現れて二人の隣に並んだ。
「ねえ、あの人誰?」
「ああ、エリの友達。夏休みだから日本に遊びに来たんだって」
マキの問いにサトミがすました顔で答えた。サトミもトーコも、エリから彼女の正体を聞かされたが、同時に口止めもされている。
「やっぱ外国の美人は格が違うわ。って……遠山、なに固まってんの?」
マキはそう言って笑うとトーコを見て首をかしげた。
「え? 呼んだ?」
奇妙に間が空いたトーコの反応に、マキは呆れたように笑った。
「遠山、最近どこか壊れてないか? 一度診てもらいな」
口の悪い友人はそう言い残して歩いていった。
「ねえサトミ、私どこか壊れてる?」
トーコがサトミに尋ねた。
「トーコはそれが普通。シャッキリしてたらそっちの方が危ない」
サトミがそう言って、自分の言い様の妙に一人で笑っていると、トーコの肩に掛けたカバンから、電話の着信音が聞こえた。
「?」
トーコはその音に慌ててカバンからフリスクのケースほどの小さな携帯電話を取り出し、ディスプレイを見て首を傾げた。
「え? 誰?」
見知らぬ発信者の電話番号に、トーコが躊躇していると電話は鳴り止んだ。
「どうしたの?」
「知らない番号。切れちゃった」
「用があるならまた掛けてくるし、留守電にしといて知ってる人ならかけ直せば?」
「あ、そうだね。……それって、どうやるの?」
「もう、貸しなって」
携帯電話の設定メニューを見ておろおろするトーコを見かねたサトミが手を出し、代わりに設定していると、職員室からエリとラクシュミが出てきた。
「じゃあ、学校の中、案内するねー」
エリがラクシュミを連れて校内を案内してゆく後ろに、サトミとトーコが加わった。
廊下を歩いていると、数人の生徒が前に回って、携帯電話のカメラを向けた。
「ちょっと、それは」
エリが慌てて止めようとすると、ラクシュミは笑って前に出てピースサインをしてみせた。
「日本では、こうですよね?」
微笑むラクシュミに、エリが耳元で尋ねた。
「ていうか、いいのー?」
「だいじょーぶ。私はもう日本にいない事になってますから」
ラクシュミはエリに笑って囁き、もう一度レンズに向いてピースサインをしながら微笑んだ。
その後のホームルームに参加し、部活動の様子などを一通り見学したラクシュミは、エリ達三人と学校を出た。
表通りに出たところでサトミはラクシュミを見上げて尋ねた。
「お昼過ぎちゃったな。どこかで何か食べようか。えーと、ラクシュミ、何か食べたいものある?」
「サトミはなにが好きですか?」
「そうだなあ、いつもなら手っ取り早くピザとかハンバーガーとか……でもラクシュミはきっとそんなの食べないよね?」
サトミが言うと、エリがラクシュミに尋ねた。
「食べちゃいけない物ってあるー? アレルギーとか、決まりとかー」
「果物、米、野菜はだいじょーぶ、さかなもお肉も、少しなら平気」
「あ、そうだ。そばにしようかな。皆様、豪華な小地庵などはいかがでしょうか?」
サトミがそう言って三人を見ると、トーコは頷き、エリはラクシュミに説明した。
「おそば! 美味しくて好きです」
ラクシュミは笑って頷いた。
少し歩いた所で四人は和風の古びた看板が上がっている小さな店に入っていった。
昼を過ぎた時間帯のせいで、店内はさほど混みあってはいないが、それでもテーブルのあちこちに会社員やタクシーの運転手を思わせる年配の男達が座り、蕎麦をすすっている。蕎麦屋と言うよりも大衆食堂と言った趣の煤けた店は、壁に貼られたビールや日本酒の古いポスターに混じって、演歌歌手やタレントの色紙やサインが入れられたポラロイド写真が飾られている。そこはトーコ達のような年頃の娘には場違いに思える雰囲気に満ちていた。
いらっしゃい、という威勢のいい声を聞きながら、サトミは三人を引き連れて店の奥に進み、空いているテーブルについた。
「おお三人娘か、久しぶり」
作務衣に前掛け姿の禿頭の主人が四人の前に現れて笑った。
「今日はどうした? すごいな、外国の友達か?」
彼はラクシュミを見てそう言うと、ハロー、ウエルカム、とカタカナそのままの発音で話しかけて笑った。
「おじさん、天ざる四つ」
「よし、普通のざる四つだな」サトミの注文を、店の主は勝手に換えた。
「またそんな事言って、おじさんてんぷら揚げるの面倒くさいんじゃないの?」
「そんなことないぞ、でも若いうちは無駄な贅沢せずに、ざるにしとけ」
「じゃあ任せるから大事なお客様から文句の出ないの作ってよ」サトミは眉をひそめて苦笑した。
「あいよ」
彼は奥に引っ込んでいった。
「ここのおじさん、私達の注文勝手に決めるんだ」
サトミはラクシュミに説明した。
随分と待たされて、せいろに載せられた蕎麦とつけ汁、それにおろし器とわさびが運ばれてきた。
ラクシュミは箸を器用に使ってふたすじほど蕎麦を取るとだし汁に浸してから口に運んだ。
「美味しい」
彼女は笑った後、気に入ったのか、色々とエリに尋ねながら食べ始めた。
いつの間にか客はトーコ達だけになり、主人がテーブルの脇に来ると、ラクシュミに尋ねた。
「どうだ、うまいか? アー、ユー、デリシャス?」
ラクシュミは、にこにこと笑って頷くと、とっても美味しいです、と答えた。
「おじさんが言うと、なんか怪しいよ」サトミが笑った。
店の中にはテレビが点けられており、バラエティ番組が流れている。
映像がコマーシャルに変わり、星空が映された。
「お」
主人が待っていたかのように、画面を見た。
星空は天の川に変わり、オーバーラップして銀とクリスタルの髪飾りとネックレスを身に付けた少女の横顔が現れた。その横顔は彫りが深く、瞳の色と共色の額のビンディーが青く輝き、見る者に荘厳な印象を与える。
「おじさん、何見てんの?」
サトミがそう言いながらテレビの画面を見て、思わず箸を止めた。
画面に映る美少女は紛れもなく目の前で蕎麦を食べているラクシュミだった。
「この化粧品の宣伝、なんか好きでな。前に一度だけ見た桜のやつも良いけど、今やってるこの女神様みたいな女の子なんか、小汚い人間の食べ物なんか絶対に口にしないんじゃないかって気がしてな」
そう言いながら、彼の目は画面を食い入るように見ている。
トーコもサトミも改めて画面の中の少女と目の前の彼女を見比べた。
「そう言えばお嬢ちゃん、よく似てるなあ。て言うか俺、外人の区別つかないんだけどな」
主人はラクシュミに言うと、上機嫌で店の奥に引っ込んでいった。
「ばれるかと思ったー」
エリがふう、と息を吐きだした。
「私は外では、私にとても似ている別の人と思われるから、大丈夫」
ラクシュミが小声で言って微笑んだ。
「おじさん、ほんとの事知ったらなんていうかな?」
トーコが思わずサトミに耳打ちした。
「まず一年はエンドレス自慢話だね、きっと」サトミは肩をすくめた。
テレビのコマーシャルが終わり、再びバラエティ番組のスタジオが映った。
『さて、今のCMでも話題のラクシュミというモデルさん、プロモーションでアジア各地を訪問していて、先週、香港から日本へ来ていたんですが、昨日の朝、羽田空港からひっそりと飛び立って行きました。番組冒頭でお伝えしたその時の映像をもう一度ご覧ください』
画面が切り替わり、空港のターミナルビルを歩くラクシュミと、その後深い紫色にドリームエレムのロゴが描かれた小型ジェット機に乗り込んだ彼女が窓から手を降る姿、それにその飛行機が離陸する様子を、携帯電話のカメラや望遠レンズで捉えた映像が流れた。
「一体どうやったの?」
思わず問うサトミに、ラクシュミは微笑んで答えた。
「あれは私のダブル……カゲムシャです。スクープしたカメラマンも実はドリーム・エレムのスタッフで顔を後から私のに貼り替えているのです」
「うーわ、もうニュースなんか信じられないわ」
サトミは苦笑いした。
それからラクシュミは、店の壁に貼り付けてあるインスタント写真を見て、エリに尋ねた。
「あの写真は何ですか?」
「ああー、あれはこのお店に来てここのお蕎麦が気に入った有名人の写真ー。普通のお客さんも混じってるけどねー」
「じゃあ私も撮ってもらえますか?」
「え? いいの?」
ラクシュミの言葉にエリが驚いたように確かめると、彼女は微笑んで頷いた。
四人が食べ終わったところでエリは、主人を呼んだ。
「おじさーん、いつも使ってるポラロイド持ってきてよー。外国の友達がおじさんと一緒に記念写真撮りたいんだってー」
「おう」
店の奥から主人が、使い込まれたインスタントカメラを持って現れた。
「お蕎麦がとってもおいしかったです」
「おお、そーかそーか」
ラクシュミの言葉に主人はでれでれとした様子で笑うと、ラクシュミの隣に立ってカメラをテーブル越しにサトミに差し出した。
「奇麗にとれよ」
「おじさんなんか奇麗に撮っても……」
「俺じゃなくてこの娘!」
「ああ、それなら納得」
サトミはファインダーを覗いた。
「二枚撮るよ」
サトミがシャッターに指をかけると、ラクシュミは笑って、主人の腕を取って寄り添った。
フラッシュが瞬き、カメラから印画紙が吐き出されてきた。
「おじさん、でれでれしてないで口閉じて目開けてよ」
「いちいちうるさいやつだな」
主人がむきになって細い目を見開くと、サトミは笑って二回目のシャッターを押した。
「貸しな。四人揃ってるとこ撮ってやる」
主人は笑ってサトミからカメラを取り、四人を並ばせてシャッターを押した。
吐き出された印画紙をテーブルに並べて、印画紙に画像がぼんやりと現れてくる間、エリが鞄の中をから細い蛍光マーカーを何本か取り出して並べた。
「どっちの写真にするー?」
エリがラクシュミに尋ねると、彼女は写真を見比べて、一枚を手に取ると、これをおくります、と言って笑い、並べられたマーカーのひとつを持って何か書き込み始めた。
「じゃあおじさんはこっち。サインして」
サトミはそう言って主人に写真とマーカーを差し出した。
「サインだって? ようし、任せろ」
主人はマーカーを手に取ったものの、束の間考えてから店の奥に戻り、油性の筆ペンをもって現れた。
彼は写真の余白に自分の名前と日付を書くとラクシュミに差し出し、ラクシュミがサインをした写真と交換した。
「これ、なんて書いてあるんだい?」
ヒンディー語で書かれた文字に、主人は首を捻った。
「私の名前、シュリーといいます」ラクシュミはそう言って微笑んだ。
「シュリーちゃんか。綺麗でかわいいなあ。でもこんな写真、家には持って帰れねえな。おかあと娘にどやされる」
主人はそう言って写真を手に取ると、拝むようにお辞儀をして笑った。
その写真は後にラップでカバーされ、店の目立たないところに飾られることになる。しかし、もしも彼女の正体を知っていたなら店の壁の一等地に貼られる事は間違いなかった。
「ごちそうさまでした」
ラクシュミは主人に合掌すると微笑んだ。
「またおいで」主人は相好を崩した。
四人が店を出て通りを歩いていると、背後から騒々しい排気音を立てて、バイクが近づいてきた。
サトミがその耳障りな音に眉をひそめて振り向くと、バイクは四人の隣りに並んだ所で止まり、乗っていた花村がヘルメットのシールドを上げて手を振った。
「誰?」
「花村君」
「ハナピー?」
トーコに教えられ、サトミは目を丸くして花村とバイクを見比べた。花村は学校の制服を着てバイクの後ろに薄いカバンを縛り付けている。
「あんた、バイクで学校に来てたの?」サトミは眉をひそめた。
「まさか。見つかったらボッシュートされるもん。駅の駐輪場に隠しといた」
「て言うか、それ、うるさいからエンジン切りなよ」
サトミに言われてようやく花村はエンジンを止め、ヘルメットを取った。
「それより、昨日なんで来なかったんだよ。待ってたんだぞ」
「あー、返事できなくてごめーん。ケータイ、服と一緒に洗っちゃって使えなくなったのー」
「いきなり真夜中の肝試しに誘われたって、行けるわけ無いじゃん」
エリが花村に謝り、サトミが答える様子を、横で聞いていたラクシュミが尋ねた。
「きもだめし、何ですか?」
「夜にほんとにお化けや幽霊が出そうな怖い所を見に行って、怖がらない人が勝ちっていうゲーム、みたいな感じかなー」
ラクシュミは束の間考えて頷き、問いかけた。
「ああ、解りました。それはどこですか?」
「ほら、あの山、あの近くに人が住んでない壊れかけた大きな家があるのー。ほんとに幽霊が出るんだってー」
エリが指さした方向をラクシュミが見る横で、サトミが花村に尋ねた。
「で? どうだったの?」
花村は、首を横に振った。
「俺と遠藤しか来なくてつまらないから、入らずに帰っちゃったよ」
「怖くて入れなかったんだ?」
「ちげーよ!」
サトミの茶々に花村はムキになって言い、思いついたように言った。
「そうだ。今から見に行かね?」
「何を?」
「その廃墟」
「はあ?」
花村の言葉に、サトミは眉をひそめた。
「この暑いのに、のこのこ町外れのあんなとこまで歩いて行けないわよ。第一昼間に行っても肝試しにならないでしょうが」
「じゃあ今晩」
「だーめ。そもそも他所の家に忍び込もうってのがどうかしてんの。何考えてんのよ」
サトミがまくし立てるように言うと、花村が反撃した。
「へへー、お前が言うか。この前入っちゃいけないトンネル入って埋まりかけたの誰だよ」
ほんの数週間前、サトミがトーコとエリの三人で、半分崩れて廃止されたトンネルにほんの好奇心で入り込んだところで再びトンネルが崩れ、危うく生き埋めになりかけた事を花村が指摘した。
「それは」
「ほら見ろ」
サトミがしどろもどろになると、花村は笑った。
「じゃあさー、間を取って夕方、外から見るだけ。それなら私行ってもいいよー?」
エリが横から言うと、花村は大きく頷き、トーコを見た。
「いいわよ! 行ったげる」
後退りしかけたトーコの腕を掴んで引き寄せながら、サトミが言った。
トーコ達四人はその後、エリが水没させた電話機をショップに預けるのに付き合って、携帯電話のショップに一緒に立ち寄ってから馴染みの喫茶店へと赴いた。
テツコは店に訪れたトーコ達に手を振るとラクシュミを見て微笑みかけ、三人に尋ねた。
「新しい友達?」
「おねえの友達でー、今は私達とも友達ー、ラクシュミっていいますー」
トーコ達三人が頻繁に訪れる喫茶店の女主人に、エリはそう言って彼女を紹介した。
「始めまして、よろしく」ラクシュミは胸の前で合掌して微笑んだ。
「こんにちは。私はテツコ、よろしく。“貴方に平安を”」
テツコが胸の前で合掌してそう答えると、ラクシュミは嬉しそうに微笑んで、“そして貴方にも平安を”と応じた。
“ヒンディーを話せるのですか?”
“少しだけ”
ラクシュミが尋ねると、テツコはそう答えて微笑んだ。
「テツコさん、インドの言葉、しゃべれるの?」
サトミが目を丸くして尋ねた。
「挨拶だけよ。それに実際にインドへ行くと、都会だと英語の方が通じやすいんだって」
テツコはそう言って笑った。
「私の国にはいろんな言葉があるから英語を使う人、多いです」
ラクシュミは説明した。
「何にしましょうか?」
「アイスチャイを四つ」
テツコがカウンターに掛けた四人に改めて注文を聞くと、サトミが応じた。
本場の人に気に入ってもらえるかしら、と言いながら、テツコは茶葉の入った缶を棚から取り出した。
「スパイスのお好みは?」テツコは尋ねた。
「おまかせします」
テツコは頷くと小さな鍋に水を注いで粗目を入れ、茶葉に少しの生姜とシナモンを加えて火にかけながら言った。
「そう言えば、私にヒンディー語教えてくれた人も、ラクシュミって言う人よ」
「インドではたくさんある名前です」ラクシュミは笑った。
テツコはポットで濃く煮出した紅茶に牛乳を注ぎ込み、タイミングを見計らって他のスパイスを加えて鍋を火から離した。
湯気の立つチャイを、砕いた氷が入れられたグラスに茶こしを通して注ぎ分けた後、軽くかき混ぜてからストローとともに四人の前に差し出してから、彼女はもう一度ラクシュミを見つめ、首をかしげた。
「最近どこかで会わなかった? て言うより、よく見かける気がするんだけど」
「ああ、もしかしたらそれで」ラクシュミは微笑んでカウンターの脇に置いてある小さなテレビを指さした。
テツコはテレビを見た後、考え込むようにもう一度彼女を見た。
「この顔でしょう?」ラクシュミは横を向いて自分の顔を指さした。
「そうそう、この横顔……あ」テツコは目を丸くした。
「あのラクシュミなの?」
ラクシュミは笑って頷きながら、でも秘密、と言って人さし指を唇に当てた。
「三人とおんなじ制服着てるから、交換留学生かと思っちゃった」テツコは笑った。
「一度着てみたかったのです」
ラクシュミはにこにこと笑い、テツコの入れたチャイを一口飲んだ後、目を見開いた。
「とても美味しいです」
「そう? 嬉しい。日本語は誰に習ったの?」
「小さな頃、隣に日本の人がいて友達で先生だったのです」
「あ、そう言えばほら、シュリーっていうのは、本名?」サトミが見上げて尋ねた。
「ほんみょう?」
ラクシュミはエリに意味を聞くと、答えた。
「ラクシュミがほんとの名前、でもシュリーも同じです」
「ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の奥さんがラクシュミと言って、シュリーとも呼ばれるのよ。ほら、駅前のカレー屋さんの大きな看板に、像の神様と一緒に描いてあるでしょ」
「あれがそうなんですかー?」
「ちなみにラクシュミは日本だと吉祥天ていう仏様になって伝わってきてるのよ」
テツコがそう付け加えると、サトミはへえ、と声を上げた。
「だから私は時々シュリーという名前を使います」
ラクシュミはそう答えた後、ふいに黙り込んだ。
そのまま彼女は両手で耳を塞ぐようにすると、目を閉じて表情を固くした。
「どうかしたの?」
テツコが心配そうに尋ねると、ラクシュミは、そのまま僅かに頷いた後、息をゆっくり吐いて、目を開けた。
「時々こうなります。みみなり、なんですけど、それから目が、見えるものにヒビが入って、それで頭が痛くなります」
「片頭痛かなー。大丈夫ー? お医者さんとか、お薬とかいらないー?」
「大丈夫。だけど外には出られません」
心配そうに覗き込むエリに、ラクシュミはそう答えながら微かに眉をひそめて額に手をやった。
「痛くなってきたの?」
「少し」テツコの言葉に、彼女は頷いて、すぐに顔をしかめた。
「しばらくこっちで休んで行くと良いわ。いらっしゃい」
テツコは、カウンターから出るとラクシュミの手を取って、店の奥に彼女を案内していった。
「なんだかとっても痛そう」
「すぐに治ると良いけどー」心配そうに言うトーコにエリは頷いた。
「あの痛さ、じっとしててもちょっと動くだけで頭バクバクするんだよね」サトミは身に覚えがあるのか、まるで自分がそうなったように眉をひそめた。
店の奥から戻ったテツコが三人に、ちょっと待っててね、と言いながら、戸棚を開けてそこから香炉と香を取り出した。
小さく折った香にサイフォンのトーチで火をつけると香炉にいれ、店の奥にそれを持って引っ込んでいった。
「良い匂い」心地よい香りにトーコは思わず微笑んだ。
「あ、この香りー」
エリは、その香りに、記憶を呼び覚まされた。
「どうかしたの?」
「んー、これ、昨日家でしてた香りに少し似てるんだけどー」トーコの問いにエリは答えた。
「それでねー、昨日のはラクシュミのつけてた香水か何かだって思うんだけどー、この香りは、ヒミカさんの香りだなーって思い出したのー」
エリの言葉は、今まで何度かこの店で会っているヒミカという名の女性客が残してゆく香りと、見るからに美しく気品に満ちた姿をサトミとトーコに思い出させた。
「エリ、トーコ聞いてないから」
サトミの声を聞いて、トーコを見たエリは肩をすくめた。
トーコは、時間が止まってしまったかのように、心地よげに目を閉じたまま固まっている。
テツコが奥から戻ってくると、じっとしているトーコを見て微かに首をかしげた。
「トーコの中身は今お出かけ中でーす」
エリが言うとトーコが隣で心地よさそうに息を吸い込み微笑んだ。
「ほんとだ。これ、ヒミカさんの香り」
「あのお香ー、なんて言うんですかー?」
「それが解らないのよ。だけどこんな時によく効くの」テツコは答えて微笑んだ。
サトミが思い出したように時計を見て立ち上がった。
「さあてと、めんどくさいけど、そろそろ行こうかな」
「あー、そうだねー」
「ああ、エリは良いわよ。ラクシュミと一緒にいて。ほら、トーコ、行くよ」
サトミがトーコの腕を引くと、トーコは首を横に振りながらカウンターにしがみついた。
「わ、私もエリとラクシュミ待ってるから、サトミは行っていいよ」
「何言ってんの。早く来な」
サトミはカウンターにしがみつくトーコを引き剥がしてテツコに手をひらひらと振ると、トーコを引きずるように店を出て行った。
「どうしたの?」
「あー、友達と約束しちゃったんですー。胆試しするってー」
「肝試しって、まだ明るいわよ」
エリの説明に、テツコは首を傾げた。
カーテンが閉じられたその部屋が、今のラクシュミにはそこが恐怖から隠れるための唯一の場所となっていた。
彼女は、両手で耳を塞ぐようにして頭を抱え、目を固く閉じたまま息を潜めるようにしてソファーベッドの上で、胎児のように体を小さく折り曲げて横たわっている。
時折起こる、耳鳴りから始まるその痛みとともに沸き上がる幻視と感触は、不安と恐怖をかき立てるものばかりで、小さな頃に初めてそれが訪れたとき、彼女は半狂乱になって周囲の者達を驚かせた。
その時は、ひどい頭痛とともに、親しくしていた隣人親子が旅先で強盗に襲われて殺されていく様を見せつけられ、死んでいく者の恐怖と痛みに襲われた。痛みが去った後も、その感覚はしばらく消えず、ようやく忘れかけたころ、今度はそれが現実に起きたことを知らされ、彼女は打ちひしがれた。
それから今まで、耳鳴りと頭痛を伴って訪れるその“使者”は、ビルの倒壊を告げ、津波の到来を告げ、あるいは飛行機の墜落や列車の衝突を告げ、そしてまたある時は自分の身に降りかかる災厄を告げた。やがてその、そのまま永久に続くように思われる痛みと感触は、代わりにそれが現実となるまでの不安と恐怖を置いて去っていく。
痛みと目の前に浮かぶ光景に、彼女は不安と恐怖に呑み込まれつつあった。
爆発して倒壊するビル。
赤く焼けこげたような曇り空。
それは雲ではなく、立ちこめた煙だった。
人が焼かれる臭いと、悲鳴や泣声。
そして、空に浮かぶ沢山の……。
ふと、香の心地よい香りと共に、横たわる彼女の身体に柔らかく暖かい毛の感触が触れ、その途端に彼女は現実に引き戻された。
彼女が目を開けると、目の前に小さな猫がたたずんでいた。それはまるで彼女を癒し護るような瞳で彼女を見つめると、ゆっくりと体を彼女に添わせるようにして寝そべった。
ラクシュミはその黒白の、小さいが心強い味方の体をそっと撫でると微笑んだ。
痛みが和らいだラクシュミを、眠気とともに今度は別の光景が包み込んだが、彼女はそれに驚きこそ感じたが恐怖は無かった。
トーコは時折立ち止まり、後ろからサトミにつっ突かれて渋々歩き出すということを繰り返しながら、町外れまでやって来た。
「ねえサトミ、なんでずっと後ろにいるの?」
「あんたが逃げ出さないためよ。ほら、早く行って済ませないと日が暮れてほんとに怖くなるよ」
「そうか! それもそうだよね」
サトミの指摘に目を見開いて頷き、トーコは俄然早く歩き始めた。
狭い坂道を半ば駆け上がるように登り、立入禁止の鎖が横切っている前まで来ると立ち止まり、息を弾ませながら後ろから付いて来たサトミに向き直った。
「さあ着いたよ。ね! 帰ろ」
「まだよ。ハナピー待たないと」
サトミの返事に、トーコは悲嘆の声を上げた。
「ええええー? 良いじゃないの、先に来たんだし、もう見たんだし」
「私は見てないし」
トーコの言葉を聞き流しながら、サトミは立入禁止の鎖の先に見える雑木林と朽ちかけた廃屋を見た。
太陽が山の向うに隠れたせいで、影になったその場所は既に薄暗く、そよぐ風が予想外に冷たく感じられる。
「ああ、これはほんとに出そうだわ。私でもざわざわするし……何か坂の上から降りてくる感じがする」
「怖いこと言わないでよ」
「あ!」
大声を上げたサトミの隣でトーコがしゃがみこみ、固く目をつぶり耳を両手で塞いだ。
「ウソ、冗談!」
笑い出したサトミにトーコが涙目で抗議しているところへ、花村がバイクに乗って現れた。
「あれ? 黒崎は? あと、あのめっちゃ綺麗な外人の娘は?」
花村は周りを見回した。
「エリとあの娘なら用事が出来て来られないって」
「ああ……そうなんだ」
サトミが言うと、花村はつまらなさそうに応じた。
「残念でした。じゃ、私達帰るから」
サトミの言葉に花村が慌ててヘルメットを取りながら言った。
「ちょっ、俺今来たとこなのにもう帰るのかよ。なあ、ちょっと入ってみない? ほら、まだ明るいし、怖くもなんともねえよ。上の廃墟見るだけなら良いだろ? ちょっと見るだけ、な?」
「行かないよね? サトミ」
食い下がる花村と、今にも泣きそうな顔で首を横に振るトーコを見比べたサトミは坂の上を見た。
「しょうがないな。ちょっとだけよ」
「そう来なくちゃ。遠山も来いよ」
「私はいいよ。ここで待ってるから」
「そう? いいけど、一人で大丈夫? なにかあっても誰もいないわよ」
サトミはトーコにそう告げて花村のバイクの脇に提げていたカバンを置き、並んで鎖を跨いで越え、坂道を上がりはじめた。
一人残ったトーコが不安げに周りを見回していると、傍にある樹の枝が風にそよいで音を立てた。
トーコはぎょっとして固まり、恐恐と音のした方を見て、音の正体を確かめようとした途端、空から叫び声に似たカラスの鳴き声が聞こえ、身をすくめた。
「待って、私も行く!」
トーコは二人の後を追って駈け出した。
涙目で追いかけて来るトーコの声に、サトミと花村が顔を見合わせた。
「ね? 来たでしょ」
勝ち誇ったように笑うサトミに、花村が納得したように頷いた。
坂を登り、洋館建ての廃屋を囲む塀の錆びた鉄門の前で、三人は立ち止まった。美しい青から茜色のグラデーションに染まる夕刻の空と、鬱蒼と茂った雑木に覆われ廃屋の邪な印象の対比が、サトミを真顔にさせた。
「マジに出そうだわこれ」
「ねえ、もう帰ろうよ」
小柄なサトミの背中にしがみついているトーコが、絞りだすような声で言った。
「な? これ、夜来るともっと……」
花村が言いかけた時、坂の下の方から、スピーカーを通した声が聞こえた。
『そこの学生服の三人、降りて来なさい。そこは立ち入り禁止です』
三人が振り向くと、坂の下に停めてある花村のバイクの後ろに小さなパトカーが停まり、警官が二人並んで見上げているのが見えた。
「うお、やべえ」
花村が声を上げて、坂を駆け下り始め、トーコはホッとした顔でサトミと並んで後に続いた。
花村が坂を降りると、警官の一人が彼のバイクの前に立ち、手招きをした。
「このバイクは君のか? ちょっと免許証を見せて」
花村は神妙な顔で免許証を差し出した。
トーコとサトミは彼の横に並び、もう一人の警官から注意された後、そそくさとその場を離れた。
「ちぇっ、これからだったのに」
解放された花村が、バイクを押してトーコとサトミの前に来て舌打ちした。警官を乗せたパトカーは当分その場から動く気配がない。
「やっぱ、行くなら夜だな」
「あんたまだ行く気? 夜だって、きっとおまわりさん見に来るわよ」
「いない時に来りゃいいじゃん。じゃな」
サトミの指摘に花村は自信に満ちて答えると、ヘルメットを被ってバイクにまたがり、惰性で坂道を降りていった。
「あー、怖かった……」
カバンを抱きかかえて安堵の言葉を漏らすトーコに、先に歩き出したサトミは笑った。
「あんたも少しは免疫つけなきゃね」
「免疫はともかく、サトミがここにトーコを連れてきた成果はあった」
「!」
不意にトーコの声が変わり、サトミはぎょっとなって振り向いた。
トーコの服を着た全くの別人がそこにいる。ショートボブの栗色だった髪は銀色の艶を放ち緩やかに波打ちながら背中まで伸び、サトミを見返す虹色に反射する瞳が、見る者に猫科の動物を連想させた。
「なによ急に?! なんか近くにいるの?」サトミは周りを見回し、身構えた。
「脅威はない。心配は無用だ」
「ああ、それなら良いけど。で、成果って何?」
「トーコを通じてあの場の反応を確認したかったが、トーコは自発的には来ないからな。サトミに無理やり連れて来られてちょうど良かった」
彼女“トウコ”は、サトミに答えると宙に浮かんだ。
「……それはどういたしまして」
飛び去る“トウコ”に、サトミは苦笑を滲ませて呟いた。
エリはテツコの店で、ラクシュミが起きてくるまでの間、テツコにレコードをかけてもらいながら、その個性豊かなジャケットを眺めていた。
「これなんか、まんまポスターみたいに飾れそー」エリは、その中の一枚を取り上げて笑った。
「昔のレコードのジャケットって、写真や手描きのイラストが多いし大きいからから、見てても面白いでしょ?」
テツコはそう言うと、そのジャケットをイーゼルの上に置いた。
いつの間にか黒白の子猫がエリの足下に来て、彼女の顔を見上げていた。
「あー、クツシター、いたのー? トーコもう帰っちゃったよー」
エリはそう言いながらその猫を抱き上げた。
クツシタは抱き上げられると、そのまま彼女のブラウスのボタンやネクタイに、爪を立てては噛みついて弄び始めた。
「それはだめー、歯形がついちゃうよー。こっちこっちー」エリはそう言いながら、にこにこと笑ってその猫の顔前でストローの包み紙を振って誘っている。
ラクシュミが、店の奥から顔を出した。
「あ、ラクシュミ、だいじょうぶー?」
「もう大丈夫。痛くありません。テツコさん、感謝します」
エリが尋ねると、彼女は微笑んで頷き、テツコに合掌してお辞儀をした。
「サトミとトーコは?」
「あー、二人で肝試しの場所を見に行ったのー。昼間話してた男子と約束してたでしょー?」
「エリは行かなくて良かったのですか?」
「んー、私はいいのー。あ、ラクシュミはもしかして行きたかったー?」
「少し見たかったですが、ほんとに怖いのは嫌なので、止めておきます」
ラクシュミは首を横に振って肩をすくめ笑った。
「じゃあ帰ろうかー」
「はい」
二人はテツコとクツシタに手を降って店を出た。
街中の雑踏に混じって、銀髪の男女が歩いてゆく。その背の高さと顔立ちから一目で外国からの訪問者だと判るその二人に、関心をよせる者は誰一人いない。街をゆく人々にその二人の姿は、見えてはいても、全く認識されていなかった。
上空から見つめる“トウコ”を除けば。
二人の様子を小首を傾げて見つめる“トウコ”に、電話の着信音が聞こえた。彼女は、肩に掛けたカバンからトーコの携帯電話を取り出し、ディスプレイの番号を見もせずに耳に当て、尋ねた。
「カドモリ、朝も掛けてきたようだが、トーコに電話を掛けても無駄だろう?」
電話の向こうで眠そうな門杜の声がした。
『そこが問題なんだな。起きてて身体を抜け出せない時に君と話すには、直接会うか電話しか無いんだけど、大抵君はいないからね。まあ、それは置いといて……』
「明け方ここに現れた二人の事なら脅威はない。放置しておけばいい」
『放っといていいのかい? 誰で何をしに来たのかも解らないんだよ』
「どちらも把握している。じきに諦めて帰るだろう」
“トウコ”は、抑揚のない言葉で告げると電話を切った。
エリの家へ帰る道すがら、茜色から藍色に染まる空を見上げていたラクシュミは唐突にエリに尋ねた。
「トーコは“ドゥルガー”にはならないですよね?」
「はあー?」
エリは頓狂な声を上げた。
「ああ、なんでもありません」ラクシュミは思い直したように肩をすくめた。
「ラクシュミ、その、どぅ……るがあ? ってなにー?」
「“ドゥルガー”と言うのは、“神話”の“シヴァの妃”で“悪魔ドゥルガー”を」
「あ、ごめんーちょっと待ってー。今テツコさんに訊いてみるからー」
エリは彼女のヒンドゥーの名の発音のほとんどが聞き取れずに慌ててそう言うと、ショップから貸し出された携帯電話をポケットから取りだしてキーを幾つか押した後、耳に当てた。
「あ、テツコさん? エリですけどー」
『あら、どうかしたの?』
「今ラクシュミと話してたんですけど、インドの言葉がわからなくて、教えてもらえますかー?」
『いいわよ。彼女にかわって』電話の向こうの声は微笑んだ。
エリは電話をラクシュミに差し出した。
「もしもし、テツコさん」ラクシュミは、エリにならってそう言った後続けた。
「“ドゥルガー”をエリに教えて下さい」
『“パールヴァティーのドゥルガー”?』
「はい、それです」
『わかったわ。エリちゃんに代わって』
ラクシュミは、エリに電話を返した。
『分からなかったのは、ドゥルガーのこと?』
「そう、それですー」
『ドゥルガーっていうのは、インドの神話に出てくる女神の一人なのよ。シヴァっていう神様のお妃のパールヴァティーっていう女神の化身なんだけど、魔神アスラや悪魔のドゥルガーを倒したっていう、戦いの女神のことよ。怒ってぶちきれるとカーリーって言う破壊神を生み出したりもするんだけどね』
エリは、テツコの説明を聞いて、思わず目を見開いてラクシュミの顔を見つめた。
「わかりましたありがとうございます……」エリは茫然としてそれだけ言うと電話を切った。
彼女は困惑した表情で、ラクシュミに何か言おうと口を開きかけたとき、手に持っている携帯電話が鳴った。
「!」
聞き慣れない着信音に驚いたエリは、ラクシュミに、ちょっと待ってね、と言ってから手に持った電話を耳に当てた。
『エリ、あんた今どこよ』電話のむこうからユリの声が聞こえた。
「今ー? テツコさんとこから帰る途中だけどー」
『ラクシュミは?』
「一緒にいるよー」
『なにやってんのよ。早く帰ってきな』
電話はそう言うなり、切れた。
エリはふう、とため息をついて、ラクシュミを見た。
「おねえが、早く帰ってこいってー」
二人は歩き始めた。
「ラクシュミ、さっきの話だけどー、どうしてトーコがドゥルガーって言ったのー?」
「それは」ラクシュミは言葉を探しているようだった。
「私は、頭が痛くなると、なぜか未来の事が見えてしまいます。信じてもらえますか?」
ラクシュミはエリを見つめた。
「うん、おねえだって変な物見えるしー、私もこの前幽霊、ていうか神様みたいなのに会っちゃったから、そういうのもあると思うよー」
エリが頷くと、ラクシュミは少し安心したように息を吐きだした。
「テツコさんのお店で頭が痛いとき、どの未来か解らない、おかしなものを見てしまいました」
「おかしいってー?」
「最初は、ただ街が燃えていて、沢山の人が逃げてゆくのが見えました。沢山人も死んで、空には見た事もない大きな船が沢山浮かんで攻めてくるのです」
「大きな船?」
「翼がない空を飛ぶ船です」
「んー……、それでー?」
「とても怖くて苦しかったのですけど、テツコさんが燃やしたお香の香りがして、目を開けると私の横に猫がいて、それで眠くなって、続きを見ました。トーコがドゥルガーになって、その船を次々に落としてゆくのです」
「うーん」エリは眉をひそめ、思わず空を仰いだ。
「あり得ないですよね? トーコがドゥルガーに変わること」
ラクシュミは自分に言い聞かせるように言って微かに首をかしげ、続けた。
「私がドゥルガーと思ったのは、私の知っている中で一番近いと思うものがドゥルガーだからです。それにこの前、私はドゥルガーを見たのです」
「見たのー?」
エリは目を見開いた。
「日本に来る時、私が乗っていた飛行機が、事故に遭ったのですが、その時に外を飛んでいるのを見たのです。私はそれをドゥルガーに間違いないと思いました」
そこでラクシュミはエリの表情を見て、息を吐きだして笑った。
「やっぱり私の見えるもの、色々とおかしいですね」
ラクシュミはエリの表情を見て、エリの困った顔の理由が、自分の見た光景の非常識さから来るせいだと思っていた。
一方エリは、ラクシュミの見たものは十分にあり得る光景のうえ、なによりも“ドゥルガー”という例えのあまりの“ハマり方”に、どう反応するべきか迷っていた。
ラクシュミを乗せた旅客機を、誰が墜落から救ったのかを、エリは知っている。
それはトーコの裏の顔とも言える、異世界から現れた“トウコ”と名乗る存在が行ったことだった。
エリとサトミの幼なじみのトーコは十六歳の誕生日に、祖母から受け継いだ、本人も知らない遺伝的な資質を持つがゆえに、太平洋戦争末期に端を発する奇怪で陰惨な謀略に巻き込まれ、異世界の種族が創りだした人工生命体と否応なく融合させられてしまった。
トーコの心と身体を破壊する事で無理やり組み込まれたその生命体は、時にトーコを保護するためや、トーコ自身の潜在的な欲求によって顕在化し、一度それが現ればトーコを全く別の姿形、人格すら変貌させ、敵対する脅威と見なしたものを、それが何であろうと圧倒的な攻撃力で破壊し尽くす。そして、事が終わるとトーコはその生命体によってその記憶を隠蔽改ざんされ、まるで何事もなかったかのように元に戻る。
トーコが変貌する状況に幾度となく居合わせたエリとサトミもまた、それらに関わる様々な記憶をその度に忘れ、時には別の記憶にすり替えられていたが、ある事件をきっかけに記憶の隠蔽作用が綻んだ事から、逆に日常のトーコには事実を隠す形で、“トウコ”と自ら名乗るその生命体と深く関わり合うことになったのだった。
「そんなことないよー。私にはわかんないけど、きっと何か意味はあるんだと思うよー」
エリは、ようやくそれだけ言って頷いてみせた。
トーコは、くしゃみを立て続けにした。
「誰か噂してるのかな?」
「埃のせいよ。マスクをなさい」
鼻をぐずぐず言わせるトーコに、ティッシュの箱を差し出した母は苦笑して言った。
家に帰る早々、トーコは母とともに、和室の押し入れにしまい込まれた着物を探しだすべく、その手前にある物を次々と取り出して横に積み上げていた。
「確かここにしまってたはずよ。ああ、これこれ」
母が衣装ケースを取り出そうとして何気なくトーコを見ると、彼女は口と目を半開きにしたまま固まっていた。
「何よトーコ、ほら」
母が、トーコの背中を軽くたたくと、トーコは、くしゅん、とくしゃみをした。
「ありがと。出そうで出なかったの」
トーコは涙目で言うとティッシュを鼻に当てた。
母は、笑いながら衣装ケースを押入れから引っ張り出すと、そのケースの蓋を開け、中から、たとう紙に包まれた着物と帯を取り出して楽しげに広げた。
「トーコ、もうこの振袖いけるかもよ?」
「それ、お母さんの?」
「そうよ。元はお祖母ちゃんのだけどね。私は着物なんかに興味なかったから成人式の時しか着なかったの」母は笑った。
「お祖母ちゃんが若い頃着てたの?」
「実はお祖母ちゃんもあまり着なかったそうだけど……うん、いいわね。似合うわ」
母は答えながら着物を広げ、トーコの身体にあてがって頷き、微笑んだ。
「明日着ていい?」
トーコはその振り袖の、色鮮やかな桜と蝶をあしらった柄に目を輝かせた。
「もちろんいいけど、これ、あわせだからきっと暑いわよお。お正月まで待てば?」
「がまんする」くしゅん、とトーコはくしゃみで弾みをつけて答えた。
「じゃあ頑張って。それと浴衣ね。あと何がいるかな? それよりトーコ、着付けと髪どうするの?」
「写真館のおばさんと、そこの隣の美容室の先生がやってくれるんだって」
「すごいじゃない。本格的ね」
本人よりもわくわくとした様子で、トーコの母は笑った。
母は押し入れに積まれたアルバムをどかし、その奥にある、帯留めやかんざしなどの小物が入った箱を取り出した。
「お祖母ちゃんが着てた写真、残ってないの?」
横に置かれたアルバムを手に取って開きながらトーコが尋ねた。
「さあ、見たことないわね。ああ、でもお祖父ちゃんが描いた絵があったかも。今度物置掃除する時、探してみようか」
「うん」
母の話を聞きながら、トーコが何気なくアルバムをめくっていると、母の若いころの写真が並ぶページの一枚の写真の裏から、もう一枚写真がはみ出していた。
トーコがその隠されていた写真を引っ張りだすと、気付いた母が声を上げ、手を伸ばした。
「あ! それは」
「え!? なになに?」
トーコが母の手をかわしながら写真を見て目を見開いた。
「……ついにバレちゃったか」母がため息混じりに笑った。
トーコはまじまじと写真と母を見比べ、尋ねた。
「お母さん、バイクに乗ってたの?」
写真には派手な革ツナギを着てフルフェイスのヘルメットを持ち、ゼッケンを付けたフルカウルのバイクに寄りかかっている若い母が写っている。
「お父さんに会う前の事よ。結婚する時に、その写真だけ残して後は全部処分しちゃったの」
「ええ? なんで? お父さんにダメって言われたの?」
「んーん。お父さんはそんな事言わなかったわよ」母は首を横に振って微笑んだ。
「なぜかしら。あの時はそうした方がいい、って思ったの。今思うと、そこまでしなくても良かったかも、って思うけど」
母は写真を覗き込んで懐かしそうに笑った。
「これ、なんていうバイク?」
「いったいどうしたの? バイクに興味あるの?」
トーコの問いに、母は目を丸くして驚き、どこか嬉しそうに問い返した。
門杜は夜の人気のない公園墓地の遊歩道に来ると、二人の異邦人が現れた場所に立ち、周りを見回し、メガネを外してしゃがみ込み、彼等が地面に刺しているピンのあたりに手をかざし、眉をひそめた。
「これは……当然僕じゃ触れないか」
彼は路側帯から下の土手に降りると、何を思ったかその場に寝そべった。
「あの娘に聞いても二人が何してるのか教えてくれそうもないしな。本格的に見てみるか」
門杜は呟きながら携帯電話を取り出してアラームをセットすると、そのまま目を閉じた。
目を閉じた門杜に、別の視界が広がった。
丘の上の道は狭く、公園墓地は消滅している。
視界を遮る高い木々はなく、丘の向こうの夜空には雲が低く立ちこめ、赤黒く照らされている。それは雲ではなく、焼夷弾によって燃える街から立ち上る煙だった。
地上からは、何本かの光の条が上空を照らしている。時折その赤黒い夜空に、ささやかな花火のような閃光が瞬き、時間差を伴って炸裂音が耳に届く。
その瞬きの遥か上空からは、航空機の爆音と共に、警報音に混じった遠雷にも似た音が聞える。
「戦時中か……ん、これはもしかして」
門杜は、ふと湧き上がった答えを確かめるように周りを見回し、それを見つけた。
白く大きな塊を抱きかかえた背の高い長髪の青年と、痩せた青年が対峙している。
門杜が見ていると、長髪の青年が抱きかかえていた白い塊を、困惑する痩せた青年の身体に預けた。
塊に見えたものは、白い布にくるまれた銀髪の少女だった。
門杜はその時に起きた事、その三人の事、そしてそれらが現在にどのような形で現れているかを知っていた。
「ああ、間違いないな……あの二人はこの娘の……」
門杜がつぶやくと同時に、どこからかアラーム音が聞こえた。
「あの娘、どうりでつれない素振りをするわけだ……わざわざ辛い思いをさせるより、わからないまま帰すほうがいいか……」
門杜は、寝言を思わせる独り言を呟きながら携帯電話のアラームを止め、眠たげに目を開けるとメガネをかけ、ディスプレイの時刻と周りの暗い景色を確かめてから身体を起こした。
「とは言っても、さて、どうしたものかな。あの娘の言うとおり、諦めるまで放っておくほうがいいのか……人の親としてはそれも可哀想な気がするなあ」
門杜はふう、と息を吐き出すと立ち上がり、何気なく周りに見える墓石の列を見やり、その中を歩き始めた。そこは門杜にとっては、雑多な人々が行き来する町中の気配と大して変わりがない。
幸せな気配、不満を訴える気配、寂しげに誰かを待つ雰囲気。
居並ぶ墓から発する気配の間を縫うように歩いていると、その中の一つの気配に、門杜は引きつけられ、そこに立つ墓石を見て立ち止まり、ふと表情を緩めた。
「ああ、そうですね。ちょっとお節介ですが、そうしましょうか」
門杜はそれに話しかけるように呟くと頷き、再び歩き出した。
朝の光が差し込む古びた写真館の奥で、店の歴史とともに齢を重ねた主、田宮は店のドアが開かれる音に、分解したレンズを磨く手を止め、顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
田宮は老眼鏡を額に乗せながら半ば条件反射でそう言ってから、口を半開きで固まらせ目を見開いた。
目の前に、ひと目で見知らぬ国の者だと判る姿の、背の高い銀髪の男女二人が立っている。
「少々お尋ねしてもよろしいですか?」
男が流暢に話しかけた。
「ええ、ああ、どうなさいました?」
一呼吸ほどの間を開け、田宮は立ち上がって答えたものの、田宮の視線は女の方に引き寄せられる。
「この町で、この少女を見かけたことはありませんか?」
男はそう言ってタブレットを取り出し、画面に映る写真を見せた。
田宮は、写真を覗きこんだところで思わず眼鏡をかけ直した。
画像には、質素な服を着た十五、六歳の銀髪の美少女が映っている。もし微笑めば眩しく光輝くであろうその美少女は、口元を一文字に引き締めて不安と緊張を滲ませており、画面の隅には隣に立っている人物のカーキ色の軍服の袖と赤い腕章の一部が写り込んでいる。
「はい、ああ……でも」
田宮が言い淀んでいると、ショーケースを覗き込んでいた女が不意に声を上げ、田宮を呼んだ。
「この写真を、よく見せていただけませんか?」
「……ああ、そこに並んでいる写真ですね? どれですか?」
田宮は奇妙に間を開けて答えるとドアの脇にあるショーケースまで行き、その扉を開けた。
「それです」
「ああ……、これですね」
女が指し示すと、田宮は先程よりもさらに間をおいた後に頷き、ショーケースに手を伸ばして小さな写真立てを取り出し、カウンターに置いた。
その、古い額の中の変色したモノクロ写真には、着物を着た若い女の肖像が収められている。田宮の目には、先ほど見せられた画像に映る少女も、この額の写真に写る者も写した歳と髪の色が違うだけで同じ人物に思えた。
セピア色に変色した写真を、女と共に食い入るように見つめていた男が、その中に写る肖像を指さして尋ねた。
「この娘の事、何かご存知ですか? この写真を撮ったのは誰ですか?」
「この人は私の友人の奥さんの若い頃で、写真を撮ったのは私です」
「今はどこにいますか?」
「もう何年も前に、亡くなりましたよ」
田宮の答を聞いた途端、二人の表情は固まり、それから悲しみのそれへと溶けるように変化した。
「本当に? 間違いないのですか?」
見るからに動揺している二人の様子に、田宮は見かねて尋ねた。
「もしかして、この人を探していたんですか?」
「ええ、その、行方がわからない私達の娘なのです」
女のその言葉に、田宮は怪訝な顔をした。
「お嬢さん? だったら間違いなく人違いです。この写真、撮ったのは終戦から何年も経ってなくて、私がまだ学生の頃ですからね。もう何十年も大昔の事ですよ」
「あ、ああ、そうなのですね」
二人はお互いに顔を見合わせた後、頷きあったが、表情は明るくならなかった。
「そう思ったのも道理だ。この写真の人は、さっきの女の子とあまりにそっくりだったんで私も驚いたくらいですし、あなたもどこか似ていらっしゃる」田宮は慰めるように言って、彼女を見た。
田宮の言葉に、女は田宮の目を覗きこむように見つめて告げた。
「お話ありがとうございます。私達が出て行ったら、今ここで起きたことは忘れて下さい」
田宮は呆けたような顔で頷いた。
店のドアが閉まる音に田宮は我に返り、カウンターに置かれた写真立てを見て首を傾げた。
「なんでこれを出したんだっけ? ありゃりゃ、やばいな。おいらもついに来ちまったかな」
田宮が呟きながら写真立てを手に取り、ふと蘇って来た若い頃の記憶に、目を細めた時、店の奥から田宮を呼ぶ声が聞こえた。
写真館から出てきた二人は沈黙したままあてどなく歩き、やがて公園に差し掛かった所にあるベンチに力なく座り込んだ。
「あの娘が死んでしまっていたなんて……こんな所で」
涙声で囁く女の傍らで男は潤んだ瞳で首を横に振った。
「私は信じていたんだ。私達が奴等の作った牢獄から開放されたように、娘も救い出され、逃げ延びて元気で暮らせているとね……なのに……微かな痕跡を辿ってここへ来たら……もっと早く突き止めていれば……」
男はそこで大きなため息をついた。
男に寄り添っている女が小さなメダルを取り出して、愛おしげに撫でている。
「持っていたのかい?」
男が問うと女は頷いた。
「これはあの娘の物だもの。これがないとあの娘は帰れないでしょ?……だけど、もう……いらなくなったわね」
メダルに滴が弾けた。
この町で果たすべき目的を全て失い、何も出来ずにただぼんやりする二人の耳に、小さな子供の楽しげな笑い声が届いた。
公園に沿った道を、小さな女の子を連れた夫婦が、親子で他愛もない話をしながら歩いている。
その親子の笑い声につられて顔を上げ、三人が幸せそうに歩いて行く様子をぼんやりと涙目で追った二人は、その親子とすれ違った少女の横顔を見て、思わず立ち上がった。
大きな手提げ袋を両手に持ったトーコは公園の横を通って、エリの家から少し離れたところにある、古びた洋館建ての写真館の前に来ていた。
看板には、“田宮写真館”という日焼けして薄くなった文字が見えた。
ショーウインドーには写真が何点か飾られているが、最近撮られたようなものはなく、ほとんどが何年、あるいは何十年も前に撮られたような写真が額に入れられている。
トーコは、ウインドーの隣にある木製の扉を開けておずおずと中を覗き込んだ。
「おはようございまーす」彼女は呼びかけた。
しばらくすると、奥から田宮が現れた。
「はい、ああ、いらっしゃい」
赤いベストを着て額に眼鏡を載せた白髪の老人は、トーコの顔を見て微笑んだ。
「あの、今日こちらで友達と写真を撮ることになっているんですけど」
「遠山さんちのお孫さんだよね?」
「はい?」
「ああごめん。もうお祖母ちゃんいなかったんだよなあ」
彼、田宮はそう言って頭を掻くと、もう一度彼女を見て笑った。
「大きくなったなあ。若い頃のお祖母ちゃんに似てて、とっても素敵な美人さんだ」
田宮はトーコを奥へ案内すると、ドアを指さした。
「ここから先は男子禁制だからね。もうみんな揃って用意始めてるよ」
彼はトーコにそう言うと微笑み、廊下を戻っていった。
ドアを開けると、無国籍な雰囲気に髪を結い上げてケープを羽織ったエリと、いつもは編んでいたり束ねていたりする髪を長く伸ばしたサトミがトーコを迎え入れながら、紙袋を覗き込んで笑った。
「着物、あったんだ」
「うん」トーコは頷いた。
「トーコちゃん、こっちこっち」
襦袢姿のユリがトーコを呼んだ。
トーコが言われるままにユリのところに来ると、品の良さそうな老女が隣に立った。
「ここの奥方様。富士子さん」珍しくユリが真面目に紹介した。
「今日はよろしくお願いしますね」彼女はそう言うと、シルクタオルを脇に並べた。
トーコは彼女に言われるままに和服用の下着に着替え、今度は鏡の前の椅子に案内されてそれに掛けた。
一方では、ユリがサトミに着付けを教え、エリは一人で帯の結び方を模索していた。
「エリ、着物自分で着れるの?」トーコの問いにエリは手を止めて頷き、再び帯と対峙した。
「そりゃエリもユリ姉さんも着物着慣れてるもの。浴衣の帯だって私達みたいにはめ込みじゃない本式だよ」サトミが言った。
隣ではラクシュミが、ぽっちゃりとした中年の女性に髪を結われている。
時折首をかしげながら髪を結い上げる彼女に、ラクシュミは鏡越しに尋ねた。
「どうかしましたか? 私の髪、変ですか?」
「まさか。そうじゃなくて、シュリーちゃん、ドリエレのモデルさんにそっくりだから」
「あのコマーシャルのモデルですね? 日本へ着いてからずっと言われてて、とても嬉しいです」
ラクシュミは笑うと、隣のトーコと目をあわせてウインクして見せた。
「黒崎さんちのお姉さんがモデルだから、てっきりシュリーちゃんもそうかと思ったわ。はい、出来上がり。ミセス富士子に着せてもらってね」
彼女はそう言うと、トーコの後に立った。
「たしか遠山さんちの娘さんよね。トーコちゃん、だったかな?」
「はい」トーコは頷いた。
「今日は五人も奇麗な娘がそろってて嬉しいわ。長いこと美容師やってても、これだけ美人が揃うことって滅多に無いのよ。ほら、うちの店、通りから離れてるし、もう古いから若い娘のお客少ないし、来るのは昔からのおなじみさんばかりでしょう? おばさん向けのパーマと白髪染ばっかり上手くなってく自分が怖いわ。だから今日は張りきってるんだから」
彼女はトーコの髪に櫛を通しながら、そう言って豪快に笑った。
「それにしても、ここでこんな写真撮るの何年ぶりかなあ。昔はよくこうやって着付けの手伝いに来たんだけど。今は写真もデジカメだし、スタジオ撮りなんてしなくなっちゃったもんね。お見合い写真なんかほとんど絶滅したし、結婚式の前撮りだっておしゃれで新しい所とかカフェでやっちゃうんだもの」
「うちはおしゃれでも新しくもなくてごめんなさいね」富士子がラクシュミに着物の着付けをしながら茶々を入れた。
「あら富士子夫人に聞こえてたわ」彼女は舌を出した。
「良いわよ事実だから」夫人は笑うと、ユリを見た。
「でもユリちゃん、なんでまたこんな終わったボロい写真館のポンコツのカメラマンで写真撮る気になったの? モデルさんだったら、玄人の上手な人沢山知ってるでしょうに」
ユリはサトミに着付けを教える手を止め、この写真館の歴史を主人とともに支えてきた女性を見て微笑んだ。
「おばさま御夫婦よりも和服撮るのが上手な人いないもの」
「あら嬉しい。これだからこの仕事止められないわ」彼女は笑った。
トーコは、ショートボブの髪に螺鈿細工の花があしらわれた銀の髪留めでアクセントをつけ、メイクをしてもらうと、ラクシュミの着付けを終えた夫人の所に立った。
「これトシエ姉さんの振袖だわ」トーコの振袖を広げて見た老女は、十代に若返ったような表情で笑った。
「お祖母ちゃんがこれ着てたの、見たことあるんですか?」
トーコは思わず尋ねた。
「もちろんよ。まるで振袖を着た西洋人形みたいだったわ。西洋人形に振袖って似合わないような気がするでしょ? でもトシエ姉さんはとっても似合ってたのよ。あら、もしかしてそれも」彼女はトーコの腰のくびれにシルクタオルを巻く手を止めて、トーコの胸元に輝くペンダントを見つけ、微笑んだ。
「思えばトシエ姉さんて、どこか外国の人だったのかもしれないわね。髪の色なんか、いつも染めてるのが惜しいくらい、すごくきれいな銀色だったのよ。でもこうして見ると、あなたもトシエ姉さんに負けないくらい奇麗だわ。トシエ姉さんは少し陰があったけど、あなたは明るいし、目が似てて、まつ毛も長いもの。もてるでしょ?」
富士子の言葉にトーコは思わず首を大きく横に振って笑った。
「全然」
「トーコちゃんまでそんな事言うの? もしかしてここにいる娘みんな宝の持ち腐れじゃないの」富士子にトーコの帯を手渡しながら、ぽっちゃりした美容師は大げさに言った。
「心配しなくてもそのうちに極上の男が現れるわよ」老女はトーコの手を華やかな柄の袖に通しながら笑った。
「はーい、サトミちゃん出来あがリー。富士子おばさま、手直しお願いします」
ユリの声に、サトミを見たエリがはしゃいだ。
「サトミー、そのまんま黙ってると、家にあるいちまさんみたいー。かわいいよー」
「いちまさん?」
「市松人形のことー。ねーおねえ、家の仏間に飾ってるいちまさん、このサトミにそっくりだよねー?」
「ああ、あの化石みたいなマックの隣に飾ってるいちまさん? ほんとだ。どっかで見たことあるなーって思ってたとこだったわ」
「それ、喜んでいいの? ていうかエリ、黙ってると、ってなに?」サトミは口をとがらせた。
「ユリちゃん、流行りの花魁スタイルなんかはしないの?」
「それはもちろん後で。それ用の派手なのが別にあるから」
富士子が問うと、ユリは笑ってそう答えた。
それから一時間ほど経ったころ、本振り袖を着たラクシュミとユリ、それにトーコ達の五人は、それぞれが艶やかな着物に身を包み、控室からスタジオへと移動した。
古さを隠せない木造のスタジオの中は、太古のクーラーが唸りをあげて、夏の陽射しと照明の発熱で急上昇しようとする室温に抗っている。
「おお、素晴らしいね。まるで孔雀園に来たみたいだ」スタジオに入ってきた五人を見て田宮は大げさに声を上げた。彼は五人を見た後、背景のスクリーンの色を選んでつり下げると、キャスターがついた頑丈な三脚に据えられた、蛇腹が付いた時代掛かって見える大判カメラの後に立った。
「試し撮りするから、そこへ並んで」田宮はカメラを覗き込んでからスクリーンの前を手で指し示した。
五人がいそいそとスクリーンの前に立ち、富士子に立ち位置を決められながら、袖や衿を整えていく様を、田宮がカメラ越しに覗き込み、三脚の高さを上げながら尋ねた。
「どんな感じがいい?」
「みんなに好きな着物着てもらいながら、家族写真ぽいのと、後は一人づつの肖像。引きと寄りで、後はおじさまの好きなスタイルで撮ってもらおうかな」
「あら大仕事ね」照明を調整した富士子が、トーコの前で露出計をかざしながら笑った。
「久しぶりにフルコース食べる気分だ。じゃあ小手調べに一枚いってみようかな」
彼はインスタント写真のパックをカメラに取り付けてレリーズを繋いだ。
ストロボが瞬いた。
「うん」彼はインスタント写真のパックから印画紙を引きだしながら頷くと笑って、画像がまだ充分に現れていない印画紙をベストのポケットに入れ、大版のポジフィルムが装填されたパックと取り替えた。
「この感じじゃあ小細工はいらないね。じゃあ、本番とまいりましょう。笑って」
田宮はそのまま三回ほどシャッターを切ると、五人に微笑んだ。
「はーい、じゃあ次はちょっと寄って行こうか」
彼はそう言って三脚のキャスターのブレーキを外して前に寄せた。
「ひな壇無しで集合写真が撮れて楽でしょ?」ユリが笑った。
その後再びストロボが数回焚かれ、今度はフィルムを交換して一人づつの艶姿を写真に収めた後、休憩と軽食をはさんでからは、ユリが持ち込んだ着物をそれぞれが好みで選び、流行の着方と髪型に替えての撮影をした。
「お疲れさまでした」
丸一日近くカメラを覗いていた田宮は、最後のフィルムを巻き上げながら嬉しそうにお辞儀をした。
「撮影、すごく早いし写すのも少ないのですね」
ラクシュミが少し驚いたように言った。
「おいらは貧乏性だから宣伝専門の山本なんとかっていう若いのみたいに、フィルムを湯水のように使ったり、デジカメでパチパチ数打ちゃ当たるみたいな撮り方は出来ないからね。それになんてったって被写体が良いから、絵にするのが簡単だった」
田宮はカメラを片付けながら、微かに己の腕に対する自信を覗かせて微笑んだ。
「暑かったでしょう? こちらで着替えて、冷たいものでもいかが?」
富士子はトーコ達を控室へと導いていった。
スタジオに残ったユリが、田宮に話しかけた。
「おじ様、ごくろうさまでした」
田宮は腰を叩きながら頷いて笑った。
「どういたしまして。久しぶりに写真屋らしい気分を味わえた。外国のお客様に黒崎家自慢の着物は気に入っていただけたのかな?」
「もちろん」
「あの娘は、かなり名の知れたモデルさんのようだね。最近テレビで見る顔だ」田宮は眼鏡を額に載せ、ユリを見た。
「ここに来てることは今は秘密にしててね。でも、なんでわかったの?」ユリは田宮に尋ねた。
「長く写真撮ってるとね。ユリちゃんじゃないけどオーラみたいなのが判るんだ。それにあんな美人は一目見ると忘れない。けど今日は他にも驚いたことがあった」
「なあに?」
「遠山さんちのお孫……お嬢ちゃん、お祖母ちゃんにそっくりでね。昔写真撮った時のこと思いだしたよ。ショーケースに飾ってる一番古いの、あれがそうなんだけどね」
「その事、トーコちゃんに話してあげて。きっと喜ぶわ」
ユリは笑った。
「そうだ。ついでにあの写真も焼き直そう。原版探さなくちゃ。ああっ!」
だしぬけに声を上げた田宮に、ユリは怪訝な顔をした。
「ごめん、驚かせたね。いや、今驚いたのはおいらなんだけどさ」
田宮は笑った。
「どうしたの?」
「いえね、思い出したんだよ。何年か前においら、ちょっとした大病を患っちまって、川向こうの富竹さんとこに長い事入院してたんだ。もう後は死ぬしかない、って所まで行ったんだけどさ。その頃に、今のあの娘にそっくりな娘が夢枕に立ったんだ」
「それで?」
ユリは興味を持ったのか、続きを促した。
「その時はトシエさんがあの世から迎えに来てくれたのかと思ったんだけど、向こうもこっちも連れ合いがいるんだから、それは無いよな。そりゃあ来てくれりや嬉しいけどもさ。実際その娘に違うって言われたよ」
そこで田宮はその事をもっと詳しく思い出そうとしたのか、一息ついた。
「その後色々話をしたんだ。今となっちゃあ忘れた事も多いんだけどさ。まだおいらは寿命じゃないとか、人は死ぬのが怖いけど、いざ死んじゃったらどうって事無いから大丈夫だとか、そんな話をしてくれたんだ。それで最後に、その娘から伝言を頼まれて、目が覚めたら、サトミちゃんだっけ? あの娘みたいな娘がいてね。その娘に伝言を伝えたら、その娘すぐに部屋を出てっちゃったんだ。まあそのあたりも夢の中だと思うんだけどね、あんまりそっくりだった事思い出して、驚いたんだよ」
「その話、面白いわね」
ユリは微笑んだ。
「長生きすると色々面白い事があるね」
田宮はそう言って笑うと、保管庫に入っていった。
トーコ達は着物を脱ぐと、富士子に言われるままに脱いだ着物を衣紋掛けにかけて部屋の中に干し、腰のくびれに巻かれて驚くほど汗を吸っているシルクタオルを解いて浴衣に着替え、広間に移ったところでようやくくつろいだ。
「ひゃー、暑かった」サトミが声を上げると何気なくトーコの顔を見て、物珍しげにそのまま見つめた。
「どうかしたの?」
トーコが尋ねると、サトミはエリを呼んだ。
「ねえエリ、最近トーコの顔、ちょっと変わってきてない?」
「えー? そうー? どれどれー」
エリはしげしげとトーコの顔を見た。
「ほんとだー。たしかに」
「え? ほんとに? どんな感じ? 毎日鏡見てるけどわかんなかった」
トーコは手近にあった鏡を手に取り自分の顔を眺め、首をかしげた。
「どこを見てるんだか」
サトミは苦笑いして言った後、エリと顔を見あわせた。
やがて部屋のドアが開けられ、盆に麦茶の注がれたグラスを載せて富士子と田宮が入ってきた。
「おや、今度は浴衣かい? 後でスナップ撮らせてもらってもいいかな?」田宮は楽しげに尋ねた。
「皆さんお似合いよ。シュリーさんもとても良く似合ってるわ」
富士子は微笑んて麦茶を配った。
「トーコちゃん」
「はい」
田宮が、手に持っていた写真立てをトーコに差し出した。
「大昔にお祖母ちゃんの着物姿を撮ったことがあってね。ショーケースにずっと飾ってあったんだ」
手渡された写真立ての色あせたモノクロ写真には、トーコが先程まで着ていた振袖を装った美しい女性が佇んでいる。
「おいらがここで写真撮るの任された最初の客だったんだけどさ。お祖母ちゃん、あんまり奇麗なんで、指が震えたよ」
「そうそう、それでピントは私が合わせたんですものね」
主人の言葉に、夫人が笑った。
「ああ、ほんとだー。こうして見るとトーコってお祖母ちゃんにそっくりー」
「おばあちゃんの方がずーっと外人さんっぽい美人だけどね。でも、もしかしたらトーコもこうなるかもよ」
食い入るように写真を見るトーコの横から覗き込みながら、エリとサトミが口々に言った。
「この時は遠山の旦那と一緒に来たんだ。折角旦那も一緒に来たのに、旦那の方は絶対にカメラの前に立たないんだ。どうせなら二人並んで撮ってればいい婚礼写真になってたのに」
田宮は懐かしむように話した。
「きっとトーコのお祖母ちゃん、美人で有名だったんだろうねー」
エリが言うと、富士子は少し首をかしげた。
「ところがそんなに知れ渡ってなかったのよ。トシエ姉さん、あの頃は滅多に外に出なかったし、会って話をよくしたのは病院で知りあった私くらいだったから」
「遠山の旦那、まるで宝物隠すみたいにしてたからな。落ちてきた天女を誘拐して、取り返されないように隠してる、なんて言われてたよ」
「そう言ったのはあなただけですよ」夫人が指摘した。
「そうかい。おいらもなかなか上手いこと言ったもんだな」
「それにそもそもトシエ姉さんの写真を撮りたい、って言ったのはあなたです。遠山さんに絵を描く資料にもなるとかなんとか上手いこと言って、焚き付けてたじゃないですか」
「なんでそんな事まで憶えてるんだい」
田宮は苦笑いすると、トーコに言った。
「この写真の原板も見つかったから、今日撮ったのと一緒に焼いておくよ。出来上がったら取りにおいで」
「ありがとうございます」
トーコは、お辞儀をして嬉しそうに笑った。
時折まばゆく瞬く火花が鮮やかな青からオレンジ色へと移り変わりながら、彼女達の姿を闇から切り取るように照らしている。
「まだある?」
サトミの声にエリは、袋の中に残った色とりどりに彩色された紙筒を取りだして彼女に手渡した。
「大きいのはこれでおしまいー」
「沢山買い込んだわりにはあっという間に終わっちゃったな」
サトミが大きな筒の先を火にかざしながら言った。
エリが何気なくサトミの手に持っている花火のラベルを見た。
「サトミーそれー、十二連発って書いてるよー。打ち上げじゃないのー?」
「えっ? うそ!? 先に言ってよ!」
エリののんびりとした声に、サトミは悲鳴に似た声を上げながら慌ててそれをロウソクの炎から離したが、時遅くその筒先からは黄色い火花が迸り始めていた。
「ひゃあ!」
彼女は思わずその花火を投げ捨てた。
「どうして確かめないのよー!」
「そっちこそ!」
エリとサトミの言い争いは、そこですぐに途切れた。
転がった花火の先からふたりとトーコ達に向けて、ぱんぱんと言う弾けた音とともに火の玉が次々に飛び出し、それどころではなくなったのだった。
「ひゃあ!」
「やだ!」
四人は耳を塞ぎながら悲鳴と笑い声を交互に上げながらその場を右往左往して、火の玉を打ち出すたびに気まぐれに向きを変える花火から逃げ惑った。
「ごめん、みんな大丈夫?」
ようやく花火が消えたところで、息を弾ませながらサトミが尋ねた。
「あーびっくりしたー」
「でも面白かったです」
「じゃあもう一回やるー?」
「いえ、それはもういいです」
エリとトーコは頷きながらラクシュミと顔を見あわせてそう言い、げらげらと笑った。
「ずっと見ていたのですか?」
花火に夢中なトーコの様子を公園の街灯と木の影からうかがっていた銀髪の男女は、不意に背後から呼びかけられ、驚いて振り向いた。
「誰だ君は? 何の用だ?」
身構える銀髪の男の前に立つ黒縁メガネの男、門杜は、両手の平を出して見せ、まあまあ落ち着いて、と言って彼をなだめた。
「僕は、ああ、門杜といいます。見ての通りここの住民です……まあ平均的な住民とは違いますが。実はあなた方をずっと見ていました」
門杜はメガネを外し、真顔になった。
「あなた方お二人が探しているお嬢さんの件で、知っている事をお話しましょう」
門杜の言葉に、二人は目を見開いた。
「あなた方と引き離されたお嬢さんは、ある人体実験によって体と心を酷く傷つけられ、救い出された時には記憶の殆ど全てを失い、体の寿命も大きく縮めてしまっていました。この世界とはまるで違う人々との混血種族で、僕達よりもずっと長生きなあなた方からすると、お嬢さんが急激に衰弱して老い、私達ほどしか生きられなかった事は、大変辛い事と思います」
「傷ついた娘をなぜこんな所に連れて来たんだ? 私達のところへ連れ帰ってくれれば、治療も出来たんじゃないのか?」
男の言葉には、不信感と怒り、後悔が混ざり合っていた。
「お嬢さんを救い出した者の話では、あなた方とお嬢さん双方を追手の目から逸らすために、あなた方の里に赴くことも、あなた方と接触する事のどちらも出来なかったそうです。それにお嬢さんの傷は肉体にとどまらずにとても深く、あなた方の里へ渡ろうにも、その時に掛る負担に耐えられない状態に陥っており、体の傷を塞ぐだけしか出来なかったようです」
門杜が答えると、男は、自分に言い聞かせるように頷いた。
「それで、ここへ来てから娘はどうなったのですか?」
女の問いに、門杜は頷き、間を置いて答えた。
「救い出されたお嬢さんは、ここで一人の青年に託されました。彼は身体を悪くして体調を酷く崩したことで当時の兵役を免除されて、この近くの病院に入院していたのですが、外出中に、お嬢さんを救出した者と接触したことで、お嬢さんを託され、病院に連れて帰ったのです。お嬢さんは自分の記憶をほとんど失い言葉すら話せず、体中に火傷をしたような傷あとが現れていたせいで、周りの者や医師からは、空襲か何かの火災に巻き込まれて大やけどを追い、その時のショックで記憶も言葉も失くしたのだろう、と思われたようです。そのままお嬢さんはそれまでの事も自分の事も全て忘れたまま、青年の入っている病院で療養するのですが、ここの言葉を覚えてゆくに従ってその青年と次第に親しくなり、青年が退院する時には、身寄りの無いお嬢さんを彼が引き取る形で家に連れて帰ったのです。その数年後にお嬢さんは彼と結婚して、それからさらに十年以上経て一人の女の子を授かりました。お嬢さんはその娘と青年の三人で暮らし、やがて女の子も成長して一人の男性と出会い、結婚し、彼女もまた一人の女の子を産みます。お嬢さんは、その孫娘、あの娘をとても愛して可愛がっていました。それにあの娘もとてもおばあちゃん子でお嬢さんから片時も離れなかったようですよ。お嬢さんが亡くなられた時の、あの娘の悲しみ様ったらなかったとか」
門杜はそこで、花火に照らされ楽しそうに笑うトーコを見やった。
「こうして見ていると、隔世遺伝なのか、それ以上の何かのせいなのかは解りませんが、あの娘はとてもお嬢さんに似て見えます」
門杜の話をじっと聞いていた女が、ぽつりぽつりと囁くように話し始めた。
「私は、娘が死んだことを知ってから、娘は酷く辛い思いをしていたのだろうと思っていました。……何も知らない土地へ連れて来られ、見知らぬ者達に囲まれ、傷ついた体に苦しみながら、絶望して暮らし、死んでしまったのだろう、と……、でも、そうではなかったのですね?」
二人がトーコを慈しむように見つめるのを見やり、門杜は告げた。
「お嬢さんが歩んだ人生は、あなた方ご両親が望んだものでも、ましてや彼女自身が望んだものではありませんでした。とても酷く辛い目にあったことに変わりはありません。ただ、ここへ来てからお嬢さんが出会ったもの、作り上げたもの、残したものを見ると、けっして辛いだけで過ごしたわけではないと僕は思います」
門杜の言葉に女は穏やかに頷き、涙目で微笑んだ。
「ねえ、まだ残ってる?」
「うん、最後は線香花火ねー」
エリは三人にその小さな花火を分けると、自分も一本取り、近くにともされたロウソクの炎にその穂先をかざした。
ロウソクによって生み出されたその花は束の間明るく瞬き、細やかながら鮮やかに火花を散らせると小さな光の玉に姿を変え、時折産毛のような火花をチリチリという音とともに吐き出していたかと思うと、やがてそのまま小さく萎れるようにして消えていった。
「あー!」
「どうしたのよ?」
トーコが声を上げて浴衣の袖を泣きそうな顔で見せた。
ほのかなロウソクの炎に照らされた桜の花柄に花火の飛び火が作った小さな焦げ穴が出来ている。
「どうしよう」
「それ、さっきのが当ったの?」
サトミが真顔になって尋ねるとトーコは首を横に振った。
「じゃなくて、今の線香花火でやっちゃったの」
エリがしげしげと焦げ穴を見つめた後、頷いてトーコを見た。
「直せるかもー。後で母様に聞いてあげるー」
トーコはエリの言葉にわずかながら安心したように頷いた。
「さあ、撤収撤収」
サトミは水の入ったバケツに花火の燃えかすを放り込み、ロウソクの火を消した。
「忘れ物ないねー?」
エリは小さなライトを取り出して点けると周りを照らした。
四人は花火を楽しんだ広場を離れた。
「なんだかこのまま家に帰るの惜しいわ。このままエリんちに泊まっちゃおうかな」
サトミが言うとトーコが“賛成”と言って手を上げた。
「で、どうなの? エリ、いい?」
「うん、家は全然だいじょーぶだけどー。サトミとトーコは大丈夫なのー?」
「平気平気」
サトミは笑ってスマートフォンを取り出してメールを打ち始めた。
「わたしも家に電話しとく。あれ? ケータイは?」
トーコは立ち止まり、慌てて袖の中や懐を探った。
「もしかして持って来てないんじゃないの? ちょっと呼んでみるから待ってて」
サトミは持っているスマートフォンの画面に、トーコの携帯電話の番号を呼び出した。
呼び出し音がスピーカーから流れるだけで、トーコの端末の着信音は聞こえない。
「この辺にはないわね」
サトミが呟いたその時、呼び出し音が途切れた。
「! もしもし?」
サトミは慌てて電話を耳に当てた。
「ああ、こんばんわ。ちょっと待って下さい。替わります」
サトミは電話から聞こえる声に答え、トーコに電話を差し出した。
「はい……」
『トーコ? リビングにケータイ置きっぱなしだったわよ』
電話の向こうから、トーコの母の声がして、トーコは目を丸くした。
「よかった、そうだったんだ。それよりも、今晩エリの家に泊まってもいい?」
『エリちゃんやお家の人が、いいって言うのなら構わないけど、迷惑かけちゃダメよ。それから明日の朝はお墓参りに行くんだから、早く帰ってくるのよ』
「はーい」
トーコは通話を切ると、気恥ずかしそうにサトミにスマートフォンを返した。
「やっぱり」
サトミは笑いながらそれを袂に入れ、歩き出した。
後に続こうと歩き出したトーコの視界の隅に、人影が見えたような気がして、トーコはその方向を見た。
そこには街灯の明かりがあるだけで、誰も立っていない。
「どうしたのー?」
首を傾げるトーコにエリが尋ねた。
「あそこに誰かいたように見えたんだけど、気のせいみたい」
「ふーん」
トーコの答えに、エリとサトミは顔を見合わせ、それから同じことを思いついたのか、意地悪そうに微笑んで頷きあい、声を落とした。
「トーコ、それってもしかして……」
「ゆーれいかもー」
トーコは目を見開くと同時にエリにしがみついた。
「ウソでしたー」
「もう」
サトミとエリが声を上げて笑うと、トーコは涙目で二人から離れ、ラクシュミに寄り添った。
四人は揃ってエリの家の門をくぐった。
家に上がるなりエリが四人を居間に連れてゆくと、そこでは浴衣姿のユリと両親がテレビを見てくつろいでいた。
「おじゃましまーす」
サトミとトーコは声をそろえて挨拶とお辞儀をした。
「おかえりなさい、花火はいかがでしたか?」
エリの母が品の良い声で四人に尋ねた。
「とても楽しかったです」
ラクシュミがそう答えて微笑んだ。
「おねえも来ればよかったのにー」
「私はあんなやぶ蚊が出るところでじっとしてられないの」
エリの言葉にユリはそう答え、象眼が施された大きな座卓に置かれた塗り物の鉢から、せんべいを取ってバリバリと音を立てて頬張ると、美味しいわよ食べる? と言ってその菓子鉢を四人の前に差し出した。
「母様ー、トーコが浴衣焦しちゃったのー。直せるかなー、ちょっと見てあげてー」
エリが言うと、母はトーコを手招きした。
「これなんですけど」トーコが袖の焦げ穴を見せた。
「心配ありませんわよ。トーコさん、これくらいなら直せますから。よろしければ後で預からせて下さい」
「ありがとうございます」
トーコはようやく安心したように微笑むと丁寧に頭を下げて礼を言った。
「それから、トーコとサトミ、泊まって行くってー」
エリが母にそう言うと、甚兵衛姿でテレビを見ていたエリの父が振り向いて四人を促した。
「じゃあみんな座ってゆっくりなさい」
「テレビなにやってるのー?」
エリがテレビの画面を見て尋ねた。
「“怪奇特番、恐怖の心霊スポットを行く”だそうだ。馬鹿だねほんとに」
エリの父が顎の短いひげを引っ張りながら言った。
「あー! それ忘れてたー」エリが声を上げて画面を覗き込んだ。
テレビの画面の隅にはおどろおどろしい書体のタイトルが小さく映り、ロウソクの炎がちらちらと揺れている。
トーコはサトミとエリの間に挟まれる形で座ったが、視線は微妙にテレビの画面とは違う方向を向いていた。
「今何やってるのー?」
「心霊スポット突撃レポート。解説してるぬらりひょんの馬鹿っぷりが笑えるわよ」ユリが笑いながら答えた。
『ほら、写真のそこにも』
テレビから、巷ではかなり名の知られている霊能者の甲高い声が聞こえて、ユリは画面を指さして声を上げて笑った。
「ほらね? 笑えるでしょ?」
「て言うか、こういうの見て笑うのおねえだけー」エリは口をとがらせた。
「ユリさんが一緒だと、どんなお化けが出る番組も怖くなくなりますものね」エリの母はそう言って笑うと立ち上がり、冷たいお茶をお入れしますね、と四人に告げて居間を出ていった。
「それで今の、何がおかしかったんですか?」サトミが尋ねた。
「ああ、あのぬらりひょんのバカさと周りの取り巻きが可笑しいのよ」
「ぬらりひょん? 取り巻き?」
サトミが首をかしげると、ユリは頷いてテレビに映る件の霊能者の周りをなぞるように指さした。
「これがぬらりひょんね。で、こことここ、一杯連れてるでしょ? お金大好きな天狗と変にストイックな聖人風のキツネと女子アナしか見てない色ボケの猿」
「そうですか」画面に映るものしか見えないサトミは力なく頷いた。
「ほんとにそう見えるのか? ユリ」
座卓の向こうでユリの父が疑わしげに言った。
「んー、ほんとは近いイメージを当て込んだだけ。だってその方が解りやすいし簡単でしょ?」
ユリは父に答えてから口を少しとがらせた。
やがてテレビの画面はコマーシャルになり、エリの父がおもむろに立ち上がるや台所へ行き、大きな盆にエリとその友達のための四つの大きなグラスに注がれた麦茶とビールの樽、それにジョッキを三つ載せて戻って来た。
彼はラクシュミとトーコ、それにサトミとエリの前に麦茶を置いた。
「いただきます」
四人はそれぞれお辞儀をするとグラスに口を付けた。
彼はそれを見届けると、ビールの樽の栓を緩め、三つのジョッキにそれぞれ注ぐと、酒の肴を小皿に盛って戻って来たエリの母とユリの前に置いた。
コマーシャルが終わり、再び画面におどろおどろしい書体のタイトルが踊った。
タイトルがフェードアウトするとともに何処かの地方都市の風景画像を背景に件の霊能者がレポーターの女性と並んで解説を始めた。
その場所の特定が出来ない様に、時折カットインされる看板や標識にはモザイクがかけられている。
それを見たエリは首をかしげ、サトミは眉をひそめ、ユリは声を上げて笑った。
「テレビ屋さんもよっぽどネタ切れなのね。ついにこんなとこまで来たか」ユリが呆れたように笑う。
「なにこれ、この近くじゃないの。もしかしてあの廃虚?」
「えー? やっぱりそうなのー?」
サトミの言葉にエリが確かめるように尋ねた。
「何ですか?」ラクシュミは二人の話している内容がまるで掴めなかった。
「エリ、説明してあげて」
ユリはそう言うなり、ビールジョッキを口に持っていった。
「昨日話してた肝試しの所ー。見た人も一杯いるし変なことも起こるんだってー。あー、サトミは昨日行ったんだっけー? どうだったー?」
「なんにも。まあ、まだ夕方だったし。中には入ってないからわかんないけど」
サトミが答え、隣でトーコが同意するように頷いた。
「おねえ、あそこ、ほんとにいるのー?」
エリが不思議そうに問い掛けるとユリはジョッキに口を付けたまま、んー、と言って頷き、ジョッキを座卓に置いて彼女を見返した。
「いるわよ。けど肝試しって何?」
「そこで肝試しするって誘われたのー」
「遊び半分でいくのは止しなさい」
「どうしてー?」
「うっかり目が合っちゃったら最後ストーカーみたいなのが一ダースくらいくっ憑いちゃうんだから」
「ええー? ほんとにー!?」エリは目を丸くした。
「エリにもここにいる友達にも、ひどい事は起きやしないよ」
エリの父が口を挟んだ。
「あそこは中途半端に見えるとか聞こえるとか、なにか縁があるとか、そういう奴が近づくとひどい目に遭うが、ここにいる娘にはそんなのはいないからな。それにあそこのは世間で言う浮游霊だの自縛霊だのと言うのとはちょっと違う」
「見えたりするんですか?」
したり顔で語る彼にサトミが尋ねると、彼は首を大きく横に振って笑った。
「見えたら今頃出演料と依頼料で大儲けしてる」
「なーんだ。じゃあなんでわかるんですか?」
「見えなくてもわかるものはわかる。ああ、そうだ。えーと、トーコちゃん?」
「サトミです」
「あ、そうそう、サトミちゃんだった。サトミちゃんはあの世のものとか、変な物を見る力がどうして自分にないと思うか?」
「さあ」彼女は肩をすくめた。
「見えなくても良いからに決まってるだろ?」彼は笑った。
ふたりの話を聞きながらエリは、姉の性格は間違いなく目の前の父親譲りだろう、と頭の隅でちらりと考え、苦笑をかみ殺した。
「たとえばユリみたいに人が見えないものが見えるのは、ユリはそれをこの世界にいる間に見てなにかを知って行かなくちゃいけないからだ。逆に見えない者は、見えない事の良さと悪さを知るためかもしれないぞ。それに見えない、っていう人だって、意識に上らないだけで実際はちゃんと見えてるのかもしれないんだよ。だとしたら、感じる、憑かれる、取り殺される、自分が死んだ後動けない、それなりの理由や仕組みがあるはずなんだ。祓う人祓われる人、導く者導かれる者、お互いに話や価値観が合う者同士が存在しているから成り立つし、幽霊と人間の間だってそうなんだよ。何しろ幽霊だって元は人間だからね。同じようなもんだ。そうだよな? サトミちゃん、じゃないトーコちゃん」
反応しないトーコは両脇にいるサトミとエリから肘でつつかれた。
「は? 私ですか?」トーコは僅かな沈黙の後、驚いたように答えて目を丸くした。
「ごめんなさい。聞いてませんでした」トーコは謝った。
「いいのいいの。父様のウンチクは独言みたいなものなんだから。放っとけばそのうち静かになるからね」エリの父が口を開きかけたとき、ユリがそう言って笑い、ジョッキに残っているビールを飲み干した。
いつの間にかテレビの画面はエンディングのテロップを流している。
「結局テレビ見れなかったー」エリが口をとがらせた。
「それで、エリのお父さん、何の話してたの?」
トーコがそう尋ね、エリとサトミ、それにユリまでが声を上げて笑った。
ユリが樽に残ったビールの泡をジョッキに注ぎ入れながら言った。
「だいじょーぶよ、この中で父様の話をわかってるのは誰もいないから。そもそも話してた本人だって怪しいものよ。ねえ、母様」
「この人のお話は、閃きに赴くままですものね」
エリの母は困ったように微笑んだ。
エリは、自分の部屋の隣の和室の襖を開け、サトミとトーコをそこに招いた。
「先にお布団敷いちゃおーかー」エリが押し入れの襖を開けた。
「畳に布団なんてなんだか旅館みたい」サトミが楽しげに言った。
「ふたりとも、いつもベッドー?」
エリの問いにトーコとサトミは頷き、押し入れから布団を出して畳の上に敷いた。
「私もこっちに敷いちゃおー。場所空けといてねー」エリがそう言いながら自分の部屋へ布団を取りに戻っていった。
がたん、という大きな音とともに突然窓の網戸が揺れた。
「なに?」
サトミとトーコがぎょっとして窓を見やると、爛々と輝く瞳が網戸越しに彼女達を見返していた。
「あ、ちびくろだ」
トーコが嬉しそうに窓に近寄って網戸を開けると、その大きな黒猫は彼女を見上げるなり「んぎゃあ」と鳴いて部屋の中へと飛び込んできた。
「こいつ、玄関の戸、自分で開けるんだよ」
「ほんとに?」サトミの言葉にトーコは目を丸くしながらも嬉しそうに聞き返した。
「この前セミくわえたまま、前脚でこう、ガラって開けて家に入ってくの見た」
「開けてくのは良いんだけどー、閉めてくの憶えてくれないんだー。ていうかちびくろー、お前重いんだから網戸に張り付いたら壊れるー」
布団を抱えて部屋に戻って来たエリが、そう言いながらその黒猫の尻尾をつま先で邪魔そうにつつくと、猫は彼女を見上げた後、そ知らぬ顔でその場に長々と寝そべった。
「そこじゃまー」
エリが抱えていた布団をそのまま猫にかぶせると、猫はもぞもぞと布団の下から這いだして迷惑げな顔でエリを見上げた後、のしのしとトーコの布団の上にあがりその場に寝そべった。
「わざとやってる」トーコに撫でられ、目を細めてごろごろとのどを鳴らし始めた大きな黒猫を見てサトミが笑った。
バスタオルを体と頭に巻いたラクシュミが鴨居をくぐるようにして顔を覗かせた。
「お風呂、終わりました。どうぞ」
「うん、ありがとー」
エリが頷くとラクシュミは、部屋の中に敷いてある布団を見た後三人に尋ねた。
「私もここで寝てもいいですか?」
三人は顔を見あわせると大きく頷いて笑った。
「狭いかもよ。それでもよかったら大歓迎」サトミが言った。
「じゃあ私も布団を持ってきます」彼女は笑って浴衣を羽織ると客間に自分の布団を取りに行った。
「サトミとトーコは先にお風呂使ってねー」エリはそう言い残してラクシュミの後について行った。
ラクシュミとともにエリが布団を抱えて部屋に戻って来ると、トーコの姿はなかった。
「エリ、ちょっとこれ見てみなよ」
ラクシュミと肩を寄せ合うようにしてスマートフォンの画面を覗き込んでいたサトミがそれをエリに見せて手招きした。
「なにしてんのー?」
「ハナピーからリンクが送られてきてさ。見てみたら、あの廃墟から実況してるの」
後ろから画面を覗き込むエリにサトミが説明した。
「えー? 行っちゃったんだー」
懐中電灯に照らされた画面の中は暗いが、今にも崩れそうなコンクリートの建物が緑色がかって映っている。
『みんな見えるかー? おーい』
電話のスピーカーから花村の声が聞こえ、画面が動き、ハンズフリーマイクを掛けた花村とともに手を振る遠藤の顔が映った。
「コメ送っちゃえ“見てるよー”」面白がってサトミは画面のキーボードに親指を滑らせた。
『それじゃあこれから、幽霊が出るって噂の廃墟に入ってくからな。電気消してみてると雰囲気でるから、みんなそうしろよ』
画面の中は僅かに振れながら前へ進んでいく。
『電気消したか?』
「消したよ、と」サトミの書き込みとは裏腹に部屋の中は明るい。
『さっきのテレビじゃここまでしか映してなかったけど、ほんとにすごいのはこの先なんだ』
画面に映る風景がぎこちなく動き、マイクがガサゴソとこすれる音を拾った後、声がした。
『この建物の奥、中庭があんだけど、そこにはいくつも生首が浮かんでて睨み返してくるってよ。あと着物を着た女幽霊が出るとか。見ちまった奴は呪われてまともに出てこられないって言うんだ』
声は周りの静寂に合わせるかのように囁くような声だが、どこかうわずっている。
「で?」
『我々はそれを映すことが出来るのかってことで』
サトミは眉をひそめて“おばか”と口を動かした。
画面は雑木林を映している。
「トーコ、早く出てこないかなー」
エリが呟くと、ラクシュミが立ち上がった。
「見てきます」
「ほっとけばじきに出てくるわよ」
「部屋にブラシを取りに行きますからそのついでに」
サトミにラクシュミは微笑んで部屋を出た。客間に立ち寄って自分の荷物からヘアブラシを取り、風呂場へと向かった。
脱衣場の入り口で軽くドアをノックして、僅かに引き戸を開け、中を覗いた彼女は怪訝な表情をした。
「トーコ?」
風呂場の明かりはついているものの、人が入っているような音は聞こえない。
「トーコ、エリとサトミが早く出てきて欲しいと言ってます」
ラクシュミは脱衣場の籠にあるトーコの浴衣と下着を見た後、風呂場の引き戸を僅かに開けて中を覗いて首をかしげた。
「どうかしたの? 忘れ物?」
背後からユリの声が聞こえ、彼女は振り向いた。
「いえ、そうじゃなくて、トーコを呼びに来たのですが、いないのです」
ユリは微かに首をかしげながら脱衣場に入ってくるとラクシュミの開けた戸の隙間から中を覗いて納得したように頷いた。
「ああ、たぶん大丈夫。きっと何処かへ出かけただけ。そのうちに帰ってくるわ」
「出かけた? 裸で?」
「それも大丈夫」
ラクシュミが驚いたようにユリを見返すと、彼女は笑って首を横に振った。
その時、ひゃあ、というエリの裏返った声が聞こえた。
ラクシュミとユリは顔を見あわせると、エリ達がいる部屋へと向かった。
部屋の真ん中でエリがサトミにしがみついたまま、スマートフォンの画面を凝視している。その傍らではちびくろが毛を逆立ててエリを見上げていた。
ユリは、眉をひそめてつかつかと歩み寄るとサトミの手に握られたスマートフォンを取り上げ画面を見もせずに電源を切った。
「あー、おねえー、なにすんのよー」
声を震わせながらエリが抗議した。
「それはこっちのセリフよ。変なとこずっと見てるとうつされちゃうんだからね」
ユリは、まるで風邪が感染するように言うと眉をひそめ、エリの背後をちらちらと見た後、息を吐きだした。
「ま、いいか。あんたに何がくっ憑いてたって、私にはかんけーないものね。あ、サトミちゃんは大丈夫だからね。じゃあおやすみー」
「ええ? ちょっとおねえー、それってどういう意味ー?」
「さあねー」
ユリはうろたえて尋ねるエリにそう言い残してスマートフォンをサトミに返すと、尻尾の毛をたぬきのように逆立ててエリの背後を見入るちびくろを抱え上げ、すたすたと部屋を出ていった。
エリは恐々と部屋の中を見回すと、サトミにしがみつくように寄り添った。
「サトミー、何か見えたー?」
サトミは首を横に振った。「あんたは? 何か見たの?」
「たぶん……気のせい」
エリは首を横に振って答えたものの、サトミにしがみついた。
「ちょっと、暑いんだから少し離れてよ」
「やだよサトミー、離れないでよー」
サトミは、エリから無理やり離れようと身をよじり彼女の手を振りほどくと、そのふたりのやりとりを不思議そうに見るラクシュミを見上げて尋ねた。
「トーコは?」
「トーコがいません」
「いない?」
ラクシュミの答えに、サトミとエリは声をそろえて聞き返した。
「そうです。お風呂にいません。ユカタも着替えもあるのにいないのです。ユリに尋ねると、出かけたけどすぐ帰ると言われたのですが……何処へ出かけたのでしょうか?」
ラクシュミの言葉にサトミとエリは顔を見あわせて、何か思い至ったように目を見開いた。
「見間違いじゃないの? 湯に浸かってて見えなかったとか」サトミが言うと、エリも頷いた。
「でも」
「じゃあ見て来ようか」
サトミはエリの腕をはらって立ち上がった。
「私もいくー」エリもあわてて、サトミの腕に掴まり直しながら立ち上がった。
「もう、ラクシュミといればいいじゃん」
「私もいきますから、三人で行きましょう」
ラクシュミは、微笑んでサトミの脇に並んだ。彼女は特に怖がっているわけではなく、トーコがいなかったことをもう一度確かめたいようだった。
サトミは呆れたように首を横に振りながら、ふたりを引き連れて廊下を歩いていった。
脱衣場の前に立ち、サトミは耳をそばだてた。
中に人がいる気配はなかった。
おもむろにサトミは脱衣場に入るとそのまま風呂場との間を隔てているすりガラスの引き戸を開けた。
「ほんとだ。いないや」
サトミがようやく納得したように言った。
「浴衣がありません」
ラクシュミが脱衣カゴを見て首を傾げた。
「まったくトーコったらしょうがないなー」サトミは平然と言い、そのまま着ている浴衣の帯を解き始めた。
「いったいどうすんのサトミー?」
驚いたように尋ねるエリにサトミは答えた。
「いないんなら私が入ってもいいでしょ? エリのお家の人、まだなんだから待たせるの悪いじゃないの」
「あー、それもそうよねー」
エリはサトミとラクシュミを見比べて取り繕うように笑うと自分も帯を解いた。
「エリ、なんであんたも脱ぐわけ?」
「だってー、一人でお風呂入るの怖いんだものー。こんな時髪洗ってると後に誰か立ってそうな気しないー?」
エリの言葉にサトミは彼女の顔をまじまじと見上げた。
「まさかトイレまでついて来いって言わないわよね?」
「んー、ドアのとこまででいいー」
「それはトーコにたのみな」サトミは呆れたように首を振った。
ふいに闇に包まれ、花村は身動きすらできずに息を殺したままあたりの気配をうかがった。雑木林に蠢く影をスマートフォンの画面ごしに見た途端、次の瞬間には懐中電灯とスマートフォンの電源が同時に切れた。
「おい、今の見たよな?」花村は、凍りついたように身じろぎも出来ないまま、ようやく隣に声をかけた。
「すげえや、血だらけの鎧武者の幽霊なんてよ」
遠藤は強がっているのか、笑っているような声を上げた。
「よろい?」花村は声を上げた。
「でっかい犬だろあれは」
「花村お前何見てんだよ。そんなのいなかったってば」
せわしなくライトのスイッチを弄っていた花村を遠藤が小突いた。
「ライト、どうしたんだよ」
「急に切れたんだよ。球切れかも」
「LEDでそりゃありえねって」
目がようやく闇に慣れ、鬱蒼とした木々の輪郭がようやく判別できるようになったころ、花村は、周りを見渡した。
「そろそろ帰らねえか?」花村はスマートフォンをポケットに入れた。
「あ、花村怖くなったろ? さっきまで調子のいい事言ってたくせに」
「びっくりしたけど、怖かねえよ」
そう言いながらも二人は何かに取り囲まれる気配と視線、それに足音すら聞こえるような感覚に捕らわれた。
「なあ遠藤、周りになんかいるような気しねえか?」
「お、おう」
それは、彼等の怖さに比例するように数が増え、距離を詰めてくるように思える。
「おい、あれ」
遠藤の絞り出すような声が聞こえたが、言葉になっていたのはそこまでだった。
黒い影がまわりを取り囲んだ。
暗闇に蠢く揺らぎに見えるその影は、次第にその形をあらわにしながら近寄って来る。
二人はつい数分前に口にした強がりなどは忘れ、同時に呻くような声を上げながら数歩後ずさった。
その直後。
不意に上から青白く光るものが視界に降りて来た。
それはどう見ても着物を着た女の形をしている。
その途端、二人は転がるようにしてその場から駆け出した。
「お」
数歩駈け出した所で花村は脛を何かにぶつけ、上下の感覚が消失した。思わず伸ばした手と顔に固い何かがぶつかり、そのまま体が回転すると同時に土と草が体に覆いかぶさった。
慌ててそのまま立とうとする彼の足全体がしびれ、手のひらと額は熱くなり、海水を思わせる辛さと金気が口の中に広がった。立てなくなった彼から、遠藤が草を蹴る足音と何かにぶつかる音が重なりながらが遠ざかっていく。
「置いてくなよ遠藤!」
花村は半ば涙声になりながら彼を呼び、這うようにもがいた。
背後からはひたひたとそれが迫る気配がして、ぼんやりと彼の周りが照らされた。
怖いもの見たさなのか、花村はちらっと振り向いたものの、それの正体を確かめることも出来ずに体を丸くして両手で頭を覆ってその場にうずくまった。
「ハナムラ」
ふいに名前を呼ばれ、花村は固く閉じていた目を開けた。
目の前に、青白く光る着物の裾から透けて見える華奢な足が見えた。
「それともハナピーと呼ばれるほうが良いか?」
そのあまりに場違いともとれる声と言葉に、花村は声の聞こえた方向を見上げた。
青白く光る、透けるように薄い着物を着た少女が裸足で立っている。
彼女はここで人を脅かすために立っていたのか。だとすれば青白く光って見えるのは蓄光色の着物とホディメークのせいにちがいない。
花村は半ば強引にそう思い込むと、声を荒げてまくし立てた。
「驚かすな馬鹿! おかげでこっちは転んで怪我したんだぞ! どうしてくれるんだよ!」
目の前の少女は困惑したように小首をかしげた。美しく整った顔に、虹色に反射する銀色の髪がまとわりつく。
彼女、“トウコ”は、彼に手を伸ばした。
花村は一瞬体を強ばらせた。
「怖がらせてしまったな」
困ったように囁く彼女の手が体に触れた途端、花村のしびれと熱感は急速に消えていった。
「ハナピーの身体は修復した」
“トウコ”はそう言い、彼の手を引いて立ち上がらせた。
花村は彼女の思いのほか強い力に戸惑いながら、まるで釣り上げられるように立ち上がると、周りを見回した。
黒く蠢く影は、やはり幻覚ではなかった。
それは巨大な犬に見えたかと思うと、今度は血まみれの落ち武者の集団に姿を変えた。
「ひ」
花村が引きつったような声を漏らした。
「あれらはお前が怖いと思うものの姿と感情を増幅しているだけだ」
“トウコ”は言い、数歩進み出た。
その途端、彼女に気圧されるようにその影は退いた。
「脅かすつもりはない」
“トウコ”のその声は、まるで己の非礼を詫びているようだった。
「お前そのかっこ、何のコスかわからないけどよ! 誰かを脅かすつもりでここに立ってたんじゃないのかよ? じゃあ聞くけど一体何の用があってここに来たんだ?」
花村は怒りさめやらぬ様子でまくしたてた。
「ハナピーに言ったのではない」“トウコ”はそう告げてから沈黙して当りの気配を探った。
取り囲んでいる闇全体が、密度を上げたように、より深くなる。
ふたりの目前で闇が人の形をとりつつある。
“トウコ”の隣に立つ花村の身体が、ふいに揺れた。
「誰ぞ?」花村の口が、吐息とともに搾り出すように小さく声を発した。
“トウコ”は、微かに首をかしげ、目前の影を見た。
「私に意思を伝えるために、人の身体に割り込み操る必要はない」
「然り。されどはるか古よりすでに人の形をなさぬ我ら、よりあわせたる意志を形に成す為、この地に暮らす者の言葉を借りるのが我らの習いしこと。して、何用ぞ? 我に仇をなすのか?」
花村のその呟きに“トウコ”は首を微かに横に振った。
「ここを中心に周辺が汚染されつつある。それを除去するために来た」
「我らを淀み汚れと見るか?」
彼の問いに、“トウコ”は首を横に振った。
「本来ならここは、この周辺全体にとって必要不可欠な場所だと解っている。だが、今ここは何者かが組み込んだ異物によって、望まぬものに形を変えつつある」
「働きに障りがあると申すのか」
彼の言葉に“トウコ”は頷いた。
「この一帯に巧妙に寄生し、ここに流れ込む力を取り込み、肥大しようとしている。時間とともにこの依り代全体を蝕み、この一帯の力の流れを変えてしまうだろう」
「いかにする?」
「その異物を取り除き、同時に途絶えていた回路を再接続する。そのために今ここにある物の一部を破壊消滅させる」
「我を正すために、この依り代を滅すると?」
浮き足立つように黒い影が“トウコ”に詰め寄った。
「元に戻し、この一帯の働きを理に沿ったものとするためだ。許されよ」
“トウコ”は進み出ると、手を黒い影に差し出した。
手のひらが影に触れると、白い光の波紋が広がった。
「おお、そうであったのか」
闇が形作った人型の気配が、穏やかなものに変化した。
「我らに集って来る瑣末で幼いものを我らの正体と見誤り、いたずらに恐れ滅しようと試みるような痴れ者ではないのだな」
“トウコ”は頷いた。
「互いに仇なす理由はない。事を成せば、すぐにこの調子者を連れてこの場を離れることを約束しよう」
「良きに」
花村から放たれたその言葉を聞くや、“トウコ”はおもむろに右手を掲げた。手のひらに光の玉が出現して、はじかれたように上昇すると上空で花火のような瞬きとともに分裂し、一方は近くの山の中腹に落ち、一方は東に飛び去り、そして残りは廃墟に向けて急角度で降り注いだ。廃墟の屋根を貫通し、窓から閃光が漏れ、あたりを照らした。
「これであの場との回路が再接続された。時が少し必要だが、象徴とされた形が崩れた後に、本来の機能を回復するだろう」
「久方ぶりに話が出来る者と出会えて楽しかったぞ、異界の尊。共にある其方の主にも伝えよ」
彼の言葉に、“トウコ”は頷いた。
その時、沈黙した花村が微かにうめき、寝ぼけたようにまわりを見回し、ため息ともうめき声とも付かない音を発した。
「あれ? なに?」ぼんやりと呟く花村の腕が引っ張られた。
“トウコ”が花村の腕を引いて、彼が歩いてきた道を戻り始めた。
「ハナピーは、今後ここには近づかないほうが良さそうだ。ここは思いのほか場が強い。既にハナピーの不可視の身体には帯磁が進行している」
「たいじ、ってなんだよ」
「ハナピーがより理解しやすい言葉だと“取り憑かれた”になる」
「幽霊に取り憑かれた? うそだろ」
花村は血の気が失せた顔をした。
「なあ、それでいったい俺に何が憑いてるんだ? 呪われるの? 俺」
「心配は無用だ」
立ち止まった彼女の掌がふいに花村の額に当てられた。
「今消磁を施した。残っている影響は数日もすれば消える。だが……」
彼女の言葉がそこで途切れ、花村は思わず目を見開いた。
「だが、ってなんだよ?」
「ハナピーには、少々学習が必要だな」
「ハナピーハナピー言うな! てか、そもそも誰が俺の事ハナピーって言ったわけ?」
「共通の友人だ」見知らぬ者にあだ名で呼ばれることに気を悪くした花村に、彼女は平然と答えた。
怖さを紛らわせるためか、花村は自分の交友関係に目の前の少女との接点があるかを考え始めた。
「共通の友人? 誰? 南山? いやあいつにこんな知り合いはいないし、大久保なら自慢してくるよな絶対……、ていうかお前誰? 何者? あ、もしかして黒崎とか東野の友達か?」
「何故そう思う?」“トウコ”は花村との会話を楽しんでいるようだった。
「そいつら、あと遠山って娘といつも一緒にいて、黒崎はお姉さんがモデルやってて、自分らも手伝いでモデルみたいな事やっててさ……お前みたいに綺麗な友達もいるかもって……」
花村は月明かりに照らされた彼女の横顔と、着物から微かに透けて見える艶やかな抑揚を描く裸身に目を吸い寄せられて黙りこんだ。
無言になった花村を連れて中庭から離れ、廃虚の壁伝いに歩き、錆びた鉄の門扉をくぐり抜けた所で、“トウコ”は彼を見て小首を傾げた。
「もう怖くはなくなったようだが、どうした?」
「あ、ああ、なんでもねえよ」
花村しどろもどろになってポケットを探り、スマートフォンを取り出すとボタンを押し、ディスプレイが点くのを確かめた。
「お、直った。さっきまで点かなくて撮れなかったんだ」彼はスマートフォンのカメラを呼び出し、レンズを彼女に向けた。
「て言うか、お前、めっちゃ美人なのな。一枚撮らせて。明日黒崎や遠山に見せて訊くから」
花村がディスプレイを覗いた途端、彼の脇を風が吹き抜け、同時に彼女の姿と気配が消えた。
「えっ?」
彼は慌てて周りを見回したが、今まで隣を歩いていた少女の姿はどこにも見えなかった。
「残念だが写るつもりはない」
何処からか彼女の声が聞こえ、花村はたまらず悲鳴に似た声を上げてそこから駆け出した。
彼には空を見上げて上空を遠ざかる青白い光を見る余裕などは到底なかったが、たとえそれを見たとしても、彼の取る行動が全く同じであろうことは間違いなかった。
花村が坂を駆け降りていった直後、廃墟が音を立てて倒壊した。
憶えのある気配を感じ、ユリは網戸を開けて上を見上げた。
「あらトーコちゃん、おかえり」
開かれた窓から直接部屋の中に降り立った“トウコ”にユリはそう言って、網戸を閉めた。
「その着物いつもと違ってて素敵。どうしたの?」
「この姿であの幽霊屋敷に行く事を勧められたが、そこに居合わせたトーコの友人には酷く怖がられてしまった」
「そのカッコであそこに行ってたの? 誰にオススメされたのか知らないけど、そりゃハマり過ぎよ」
ユリがケラケラと笑う様を“トウコ”は小首を傾げて見つめた。
「はい、これ。お風呂場に忘れてたわよ。で、どうしたの? あの廃虚、奇麗さっぱり吹き飛ばしに行ってたとか?」ユリはトーコの浴衣を差し出し、興味深げに尋ねた。
「吹き飛ばしはしない」
“トウコ”はユリが差し出した浴衣を裸身に羽織り、話を続けた。
「私はあの場にいるものから害を受けたわけではないからな。うまく機能するように調整しただけだ。あの場はユリの親父殿の言う通り、ただ単に残留意識で汚染されている場ではない。人が認識する周期を超えた視点で見ると、本来あの場はこの一帯にとって浄化装置のような働きをする、不可視の領域の生態系には必要な歪みだ。問題になる幽霊や祟りといった事象はこれからも起こるが、それは人間が働きかけることで生じる反作用に過ぎない。あの場に対する人間が出来る対策は、ユリの言う通り、ひどい目に遭いたくなければ近づかない、敬意を払う、というのが最上の手段ということになる」
「なるほど。障らぬトーコちゃんに祟りなしってのと同じね」ユリは笑って頷いた。
その時、ドアがノックされ、ラクシュミの声が聞こえた。
その途端“トウコ”は目を閉じ、そのままソファーに寄りかかるように身を沈めた。
ユリは、浴衣を羽織ってソファーで寝息を立てるトーコを見て、ドアを開けてラクシュミを部屋に招き入れた。
「トーコ、いつからここに?」
ラクシュミが驚いた顔でソファーのトーコを見た。
「随分前からいるわよ。起こすの可哀想だからほっといてるの」
ユリの言葉を聞きながら、ラクシュミはトーコの寝顔を見つめ、ふと、思いついたようにユリを見た。
「ユリ、ちょっと教えて下さい」
「なに?」
「私は、ここに来てから、不思議なものを感じました」
「そう? なに?」
ユリは目新しいアクセサリーを見つけたような表情で尋ねた。
「トーコは、とても大人しくて可愛らしい人なのですが、なぜか姿がドゥルガーに変わるところが思い浮かぶのです。ドゥルガーは神話の神様で、悪魔を滅ぼすとても強くて、時にはカーリーに姿を変える恐ろしい神様なのです。それが不思議で解らない」
「私や他の娘はどんなふうに感じるの?」
ラクシュミは首を横に振った。
「他の人達はそんなものは見えません。トーコがドゥルガーに変わるのは、未来を見たり感じる時と同じなので、トーコの未来の姿かもしれませんが、それはあり得ないことでしょう?」
「面白いわね」
「やっぱり、おかしいことですか?」
「可笑しくはないわよ。そうね、私には、ラクシュミが白くて飾りが一杯ついた象がいつも一緒にいるのが見えるの。エリは三味線の先生で、サトミちゃんはインテリな昔の男子学生が見える。それで、トーコちゃんは小ちゃい頃、外国の、って言っても、日本じゃない所ってだけの意味だけど、髪の色とかメーキャップが派手な女の子が見えてた。今その女の子はアクセサリーが増えて、顔のメイクは豪華さを増したわ。これ、おもしろいでしょ?」
ユリの言葉に、ラクシュミは頷いた。
「ああ、その面白さ、ですね」
「そうよ」
ユリは微笑んだ。
「たしかにラクシュミは未来に起こりそうな事を見るけど、そのイメージの見え方は色々でしょ? 具体的なイメージの方が強く残るけど、それがそのまま起こらずに別の形で起きる、けれどなんとなく見えてたイメージは合ってた、みたいな事があるんじゃないの?」
ユリのその言葉に、ラクシュミは納得したように微笑んだ。
「ああ、確かにそういうことかもしれません」
「そりゃあもちろん、私的にはトーコちゃんがほんとに神様の化身で、その強い神様に姿が変わっちゃう、というのが好きだけどね」
「それは、ありえないです」
ユリがいたずらっぽく言うと、ラクシュミは、笑って首を横に振り、天井を見上げ、それからユリを見て尋ねた。
「それで、私の白い象、今もいるのですか?」
ラクシュミが尋ねると、ユリは彼女の後ろを見上げて笑った。
「この部屋に入りきれなくて、身体を縮こまらせてるわよ」
その時、トーコが起き上がり、眠そうな目をこすって二人を見た。
「ごめんなさい。あんまり気持ちよくて寝てました」
網戸から涼やかな風が吹き込んできた。
早朝に家に帰ったトーコは服を着替えると、両親に連れられて祖父母の墓がある近くの丘の公園墓地に訪れていた。
数十年前に丘の稜線に沿った道の整備と共に作られた広い公園墓地には、盆に入ったこの時期にしか訪れない、仏事などに無頓着なトーコと両親のような家族連れや、逆に日課のように訪れている者が行き来している。
墓所の簡単な掃除と手入れをして、花と線香を手向け、トーコは両親にならって両手を合わせた。
「これでうちのお盆の行事は終わったな」
父は晴れ晴れとした様子で、蝉の声が大きくなり始めた遊歩道を歩き出した。
「君のお父さんとお母さんが、最初に出会った所って、この辺て言ってたっけ?」
前を並んで歩く両親の会話に、トーコは目を見開いた。
「そうなの?」
トーコの問いに、前を歩く母は振り向いて頷いた。
「そうよ。夜にここで倒れてるお祖母ちゃんをお祖父ちゃんが見つけて、自分の入ってた病院に連れて帰ったの。終戦の年のちょうど今頃じゃなかったかしら」
「おばあちゃんて、夜にこんなお墓がいっぱいある所でお祖父ちゃんに助けてもらったの?」
「昔はお墓じゃなかったわよ……あ」笑って答えた母が、ふいに立ち止まった。
「どうしたの?」
「お花入れてたバケツ忘れちゃった」
「取って来る。先に行ってて」
トーコは両親に手をひらひらと振って、小走りに引き返した。
遊歩道を戻ったトーコは、祖父母の墓の前で背の高い銀髪の男女の二人連れが並んで立っているのが見え、足を止めた。
二人と目が合い、トーコはおずおずと会釈をした。
「これは貴方のご家族のお墓?」
そう優しく問いかける銀髪の女に、トーコはふと身近な者に持つ親しみを感じた。
「はい、祖父母のお墓です。あの……なにか?」
「やっぱりそうなのね。貴方は……そう、貴方のお祖母様の若い頃にとても良く似ているもの」
微笑む女に、トーコは目を見開いた。
「祖母を御存知なんですか?」
トーコの問いに頷く女の瞳が潤んだ。
「ええ、私達は貴方のお祖母様に会いに来たのよ。……けれど、来るのが少し遅かったわ。会ってたくさん話をしたかった……」
「あの、大丈夫ですか?」
戸惑うトーコに、女は息を吐き出し、泣き笑いを見せて頷いた。
「お祖母様には会えなかったけれど、ご家族のあなたと会えてとても嬉しいわ」
「そうだ。ここで待ってて下さい。今、父と母を呼んで来ます。駐車場に……」
「待って」
駆け出そうとしたトーコの手を彼女が握った。
「私達はもう帰らないといけないの。貴方のご両親とは次に会った時にゆっくりとお話をするわ。だから行かないで」
立ち止まったトーコを、彼女が引き寄せて抱きしめた。
「あの……」
驚き、戸惑うトーコに、彼女が告げた。
「私達には、娘がいたの。もし生きていれば、きっと今のあなたにそっくり……“ああ……こうしていると、まるで……あの娘が帰って来たみたい”」
トーコの耳元で囁かれる彼女の涙声は、途中から見知らぬ国の言葉になったが、その囁きの元になった深い嘆きと哀しみ、それにそれらを癒やそうとする別の感情の波が一緒になって伝わった。トーコは彼女に腕を回して優しく抱きとめると腕を広げ、傍らに佇む男も招き入れた。
「驚かせてごめんなさいね」
耳元に囁きかけ、意を決したように離れて頬の涙を拭う彼女に、トーコはただ無言で微笑み、頷いた。
「貴方のお名前は?」
「私は、トーコといいます。名前は祖母がつけてくれたんですよ」
「そう。トーコ、素敵なお名前ね」
女は微笑んで頷いた。
その時、男が女の手を引いた。
「もう時間だ。行かないと」
手を引かれた女はその力に抗うように留まり、トーコの手の平に小さなメダルを乗せて握らせた。
「トーコ、これは娘が持っていた私達家族の証なの。これを持っていて」
「え? でも」
「あなたに持っていてほしいの。“あなたは……私達の曾孫……家族だもの”」
女は見知らぬ言葉混じりに微笑み、もう一度トーコを抱きしめ、男と共に遊歩道を足早に立ち去っていった。
「あの」
トーコが二人の後を追おうとした時、後ろから声が聞こえた。
「トーコ、バケツはあったの?」
「!」
母の声にトーコが振り向き、もう一度二人の方を見た時、そこには誰もいなかった。
「どうしたの?」
「ああ、お母さん、今ね……」
「あら、どなたかお参りしてくださったのね」
首を傾げるトーコと墓を見比べた母は、新しい花が供えられているのを見つけた。
「うん……」
トーコは何故か曖昧になった記憶に首を傾げながら、手に持っていたメダルを無意識にハーフパンツのポケットに入れた。
バケツを持った母と並んで歩き出したトーコは、ふと思いついたことを尋ねた。
「ねえ、お祖母ちゃんのお父さんとお母さんて、どんな人だったのかな?」
「そうね。一度会ってみたかったわ。もしかしたらどこか外国の絶世の美男美女だったかもしれないものね」
母はトーコにそう答えて笑った。
午後になって、トーコは再びエリとサトミ、それにユリとラクシュミとも合流して、テツコの店を訪れた。
「こんにちは」
「あらいらっしゃい。みんなお揃いで」テツコが笑って手を上げた。
「テツコさん、その服、すごく綺麗。一体どこのですか?」
テツコが着ている涼しげな色の、体の輪郭を浮かび上がらせる細身な民族衣装を見てトーコが目を輝かせて尋ねた。
「ああ、これはアオザイ。整理してたらこういうのが色々と出てきたから久しぶりに着てみたの。腕とかお腹とかがはち切れずに着れて今安心してるところ」
テツコはそれから紗の小紋に麻帯を組み合わせている着物姿のラクシュミを見て微笑んだ。
「その着物、とても似合ってるわね」
「ありがとうございます。昨日、色々と着せてもらったのですが、その中からこれを頂いたのです。嬉しくて今日はユリのお母さんに教えてもらって、一人で着ました」
ラクシュミは嬉しそうに、くるりと廻って見せた。
「何着ても綺麗よね。私なんかがインドのサリー着ても、きっと似合わないもん」
サトミが言うと、ラクシュミは笑って首を横に振った。
「そんなことないです。きっと似合いますよ。持って来れば良かったです。着せてあげるのに」
「サリーもあるわよ。着てみる?」
思いがけずテツコが言った。
「ええーっ? ほんとですかー? 着ます着ますー」
サトミを差し置いてエリが手を上げ、ラクシュミが笑った。
「じゃあラクシュミに本場の着方教えてもらわなくちゃ。ユリごめん、ちょっと店番してて」
テツコは四人を店の奥へ案内していった。
富竹はテツコの店に、アスファルトからの強烈な照り返しと西日から文字通り逃げ込もうとしていた。
「あ」
富竹はドアを開けて店に入った途端、固まった。
カウンターの奥には、テツコではなく、ユリが獲物を待ち構える猫のような目つきで富竹を見返したからだった。
「ほらほら、入ったらドア閉める。暑いんだから」
ユリに言われ、富竹はのろのろとドアを閉じた。
「テツコさんは?」
「今は手を離せないから私が店番、文句ある?」
ユリがそう言って微笑むと、富竹は店の外を振り向き見て束の間躊躇し、それから決心したようにテーブル席に掛けた。
「丁度良かった。店番お願い」
富竹の返事も聞かずに、ユリは店の奥へと消えた。
取り残された形の富竹は、はあ、と溜息を付き、カウンター席に座り直した。
三十分近くして、廊下の奥から出て来たテツコが、富竹を見た。
「店番してくれてたのね、ありがとう。お客さんは?」
「誰もお見えになりませんでしたよ」
そう言ってから富竹は、アオザイを着たテツコをまじまじと見つめ、それからサリーを着たサトミとエリ、それにテツコのアオザイの色違いを着たトーコが、着物姿のラクシュミと携帯電話で写真を撮りあってはしゃぎながら店の奥から出て来るのと、その後ろから絢爛なタイの舞踊衣装姿のユリが現れるのを見て、富竹は目を丸くしてテツコに尋ねた。
「エスニックパブにでもするんですか?」
「なにそれ? 行ったことあるの?」
「は? ああ、あの、一度……、いやそうじゃなくて僕が聞きたいのは。なんでここにいるみんな、民族衣装着てるんですか?」
「そんなの着たいからに決まってるじゃないの」
「そりゃあユリさんの勝手ですけどね。いったいどこでそんなキンキラな衣装探してきたんですか?」
「どれも私のだけど」
テツコのその予想外の言葉に、富竹は声を上げた。
「えええっ!? 全部テツコさんのですか?」
「何そんなに驚いてるの? 昔スフィアでアジアウィークやったときの衣装じゃないの」
「ああ、そうか。そう言えば大昔にやりましたっけ」富竹は頭を掻いた。
「大昔って言うな」
かつてスフィアというクラブで、人気DJだったテツコは富竹をにらみ、それから声を上げて笑った。
「そんなことより太鼓持ち、私達の記念写真撮ってちょうだい」
富竹の事を太鼓持ちと呼ぶユリは、携帯電話を彼に差し出した。
「いいですよ」
富竹は携帯電話を受け取ると、店の中を見回し、壁の一面を指して手招きした。
「そこが良いですね。さあ、並んで下さい」
富竹は皆を並ばせると、数枚の写真を撮った。
「私のもいいですか?」
ラクシュミが自分の携帯電話を差し出すと、富竹は微笑んで頷いた。
ラクシュミの携帯電話で続けて写真を撮り終わった途端、その携帯電話はメールの着信を告げた。
「あ、なんだかいやな予感がします」
ラクシュミは苦笑いしながら、メールを表示させ、最新のメールを見て、小さなため息をついた。
「どうしたの?」
ユリの問いに、ラクシュミは微笑んで答えた。
「急に香港に逆戻りになりました。今夜のプロモーションが急に決まったそうです。すぐに飛行機が待ってる空港に行かないと」
「それは大変。送ったげるわよ」ユリは微笑んだ。
「ラクシュミ、もう行っちゃうのー?」
話を聞いたエリが寂しそうに尋ねた。
「はい、でもすぐに会えるかもしれません。仕事で戻って来ますから」
「ほんとに?」
トーコが問うと、ラクシュミは頷いた。
「エリ、サトミ、トーコ、とても楽しかったです。三人も友達が増えてとても嬉しいです」
トーコ達とラクシュミはお互いに抱き合った。
「それじゃあまた」
ラクシュミは三人から名残惜し気に離れると、ユリの濃紺のマセラティに乗り込んた。
トーコ達三人に手を振って見送られ、マセラティは走りだした。
ラクシュミは後ろを向いて手を振り返した。
「家に寄って荷物載せて、と。それで? どこの空港から飛ぶの?」
「ああ、この空港です。遠いですか?」
シートに座り直したラクシュミは、ユリに携帯電話のディスプレイに映る地図を見せた。
「全然、高速に乗って、ものの三十分あれば着いちゃうわよ。でもそこ、小ちゃい地方の空港だけど、いいの?」
「向こうから指定して来たので、大丈夫と思います」
「そう」
ユリは頷いた。
ラクシュミを乗せたユリのマセラティは、高速道に上がるとそれを待ちかねていたようにその速度を上げた。
ラクシュミの荷物を取りにユリの家に立ち寄っただけなので、助手席のラクシュミは着物のまま、運転しているユリはタイの民族舞踊の衣装そのままだった。
「そう言えばラクシュミ、折角日本に遊びに来たのに、私の家の近所しか見られなかったんじゃないの?」
「そんな事はありません。ユリの街に着くまで、新幹線と電車に色々乗って、とても楽しかった」
「電車乗り継いで来たの? 私にはマジ無理」
ラクシュミの説明に、ユリは笑った。
追い越し車線に陣取って、周りの車が止まって見えるような速度で高速道路を走り抜けたユリのマセラティは、やがてその小さな地方空港に到着した。
「ユリの車、ノゾミみたいでした。凄く速い」
ラクシュミはそう言って笑いながら車を降り、荷物を持ってユリと並んでターミナルビルへ向かって歩き始めた。
「あ」
ターミナルビルの玄関の前で二人は同時に声を上げた。
ドアの前に、間島が立っていた。
彼は二人を見つけて軽く会釈をして微笑んだ。
「ラクシュミ、待っていましたよ。黒崎さんも、お元気でしたか?」
「ご無沙汰してます」
ユリは手を振った。
「その着物、良くお似合いです」
間島はラクシュミの着物姿をほめ、ユリを見て、貴方も、と言って微笑んだ。
「わざわざドリーム・エレムのCEO自らがラクシュミをこんな所へ迎えに来たのですか?」
「出張の経由地が香港なのでちょうどいいのです。それにここは人目が少なくてラクシュミをあまり見られずにすみます」
ユリの問いに、間島はそう答え、歩き出した。
「それでは参りましょうか。黒崎さんも飛行機の所までご一緒にどうぞ」
間島はターミナルビルには入らず、通路を歩きだした。
通路の先にあるゲートに来ると警備員が、ユリの舞踊衣装姿をまじまじと見ながら彼女に許可証を手渡した。
ゲートを潜った先は駐機場になっており、小型機やヘリコプターが夕日に照らされて羽根を休めている。
その中に一際目立つ小型ジェット機が見えた。その、一見黒を思わせる深い紫色にラインストーンをちりばめたような光輝くアクセントを付けた、ドリームエレムのブランドカラーに彩られたG500が、乗降扉を開けて待機している。
「飛行機はそれです」
間島が指し示すと、ユリは笑った。
「指差さなくても一目瞭然ですよ」
飛行機の前で、ラクシュミはユリに抱きついた。
「また遊びに行ってもいいですか?」
「もちろん」
ラクシュミが手を振りながら機内に入り、続いて間島が乗り込むとエンジンが始動し、ドアが閉じられた。地上の誘導員に促されてユリがそこから退くと、その飛行機は滑走路へ向けて動き出した。
ドリームエレムの広告塔と化しているG500は、ラクシュミと間島を乗せて、夕日を機体に煌めかせながら飛び立って行った。
真夜中を過ぎた住宅街は、家々から漏れる明かりがまばらになり、行来する者がない道を街灯と月明かりが道を煌々と照らしているだけだった。
時計の秒針が時を刻む音しか聞こえない、月明かりが差し込む二階の自室のベッドで寝息を立てていたトーコは、寝ぼけたようにもぞもぞと起きだし、おぼつかない足取りで窓に近づいた。
のろのろと手探りで網戸を開けたその場で、トーコは再び眠り込もうとするように、身体をぐらつかせ、危うい所で立ち直った。
同時に月明かりが投げかける彼女の影の形が変わった。窓から吹き込む風に、緩やかに波打つ銀色の髪が揺れ、金属を思わせる煌めきを放つ。身体を包む淡い光で、部屋の中がぼんやりと照らされた。
彼女、“トウコ”はしなやかな足取りで窓から出て屋根の上に立ち、そこから水面に向けて浮上するダイバーのように夜空に向けて上昇した。
『今呼ぼうと思ってたんだ。あっちの世界から何かが迷い込んで来たんだけど、なんとも物騒な気配がしててね。穏便に追い返せるかな?』
“トウコ”の聴覚に囁きかけるように門杜の声が聞こえる。
「それは相手次第だ」
“トウコ”が素っ気なく囁き返すと、門杜が苦笑いする気配が伝わった。
『ところで、あの廃虚、うまく片付けたね。見たかったよ』
「カドモリは、それどころではなかったようだな」
『まあね。あの二人が帰るまで目が離せなくて。だけど、その甲斐はあったと思うよ』
「墓地公園でトーコが二人と接触したのは計算外だったがな」
『うん……確かに……予想外だったね』
「あれはカドモリの仕業だろう?」
その言葉に門杜が沈黙すると“トウコ”の口元は、微かに笑みの形を見せた。
「ありがとう、とトーコが言っている」
“トウコ”は速度を一段と上げた。
彼女の身体に、バレエのチュチュのようなベイパーコーンが現れ、月明かりに反射して白く輝いた。
セッション:エクストラ 了
遠山トーコ
十六歳の誕生日に、本人も知らない遺伝的な資質から、ある者の謀略に巻き込まれ、異世界の種族が創りだした人工生命体“ti:ti:”と無理やり融合させられる。日常では朗らかで優柔不断な怖がり。
“トウコ”
トーコと融合した人工生命体が作り出した人工人格。トーコから変貌したその姿は、青白い肌の現実離れした美貌とプロポーション、金属線を思わせる虹色に反射する髪を持つ。その能力は計り知れず、一説には月を破壊するほどの力を秘めているとされる。トーコやその周辺を脅かす脅威に対しては徹底的な破壊も厭わない。
東野サトミ
トーコの幼馴染の同級生。学年一小柄で童顔。黙って立っていれば中学生に見えるが早口で喧嘩っ早い。電子機器や機械に詳しい一面も。
黒崎エリ
トーコの幼馴染で、サトミとトーコの三人でいつも一緒にいる。長身で化粧映えする美少女。おっとりとした性格で話し方もゆっくり。オカルトや妖怪が好き。
黒崎ユリ
エリの歳の離れた姉。エリと同じく長身。職業はモデル。先天的に幽霊や妖怪などが見えることから、霊感モデルのあだ名を持つ。傍若無人。
テツコ
トーコ達三人が頻繁に通う音楽喫茶“ムジカ”の主。かつてはクラブで人気DJだった経歴の持ち主。
門杜
体外離脱の特技を持つ、“トウコ”と関わり、時に行動を共にする異能力者。外見は冴えない中年サラリーマン。その能力を知る一部の者からは「エドガー・ケイシーのパチモノ」とも呼ばれている。
2016年7月1日 発行 初版
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