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この本はタチヨミ版です。
変わりたかった。
10代の頃、自分を変える勇気を持ちたかった。自立したかった。気持ちが強くなりたかった。しかし、なかなか変われなかった。変わらないことが楽だから動かなかった。悩んだ。弱い自分との闘いだった。脱皮したい、自分で考え、選択し、自力で前に進む人生を送りたい。どうしたら自立できるのか。
出した答えは、誰も甘えさせてくれない場所へ独りで行くことであった。未知の世界へ自分を放り込み、独りになって自分を創ることが解決策だと考えた。その場所で多くの失敗を重ね、常に自分にとって厳しい道を選択するよう自分に強いることが必要だと分かった。しかし、そこへ飛び込むには勇気を必要とした。それは、自分にはないものだった。それ故、その場所選びに極端さを求めた。極端なことでなければ、そうそう簡単には自分を変えることはできないと知っていた。極端な世界を作り出し、そこへ身体ごとぶつかっていく。逃げる余地のない、そんな世界へ入り込んでしまえばいいと強く思った。
その場所を必死に探した。依存し根っから甘えていた両親の元から、そしてすぐに救いを求め迷惑を掛け続けた友人たちから自立するためにはどうすべきで、それができる場所はどこか。極端さとは何か。考え抜いた挙げ句、シンプルにこの国から一度出る考えに行き着いた。そして、大学卒業後に海外留学する道を選んだ。場所は、子供の頃から憧れたアメリカだった。そこで過ごしたのは約2年間、後半は日本人が自分ただ一人の環境下で生活し、有り丈の恥をかき数え切れないほどの失敗を重ね、最後は旅行の専門学校を卒業することができた。23歳にして大きな、おおきな「はじめてのおつかい」だった。
帰国後、変化があった。自分に自信が付いていた。自分にはできるという根拠のない思いが息づいていた。希望だった旅行会社に就職し、「自分を変えたいのなら、独りで海外に行くべきだ」という自らの体験に基づく価値観を持ちながら、22年間仕事を通じてそのメッセージを発信し続けてきた。「一人でも多くの日本人に世界を見てもらいたい」と願い、より良い旅の提供に貢献しようと邁進した。
そして、心の底からの本当の夢に行き着いた。どうしても人生後半は、自分の名前で勝負したくなり独立することを決めた。本当に心の底から好きなことを仕事とし、その一点に打ち込み生きることを選んだ。アメリカでの2年間は、そのための勇気、大企業のサラリーマンという比較的安定した立場を差し出す勇気を与えてくれた。今、自分の成すべきことを強く自覚して生きている。今まで生きてきて感じた自分の喜びや愛を、文章にして表現することに狂うと決心した。
「変わる勇気を持ちたいのなら、一度、本当に独りになるべきだ。独りになって自分を創る作業をする。独りになって、自分と向き合う。その際、全ての自分を受け入れなければならない。特に、弱い自分、情けない自分、恥ずかしい自分を、それも本当の自分だと容認する。独りになることは勇気の要ることである。強くなければ、独りにはなれない。よって、そのために周りに甘えることのできない場所を作り出し、そこへ飛び込んでいくことが大事になる。そこで、何度も挑戦し続けて得た小さな成功体験を重ね、揺るがぬ自信を養い自分の軸ができれば、厳しい道を選ぶ勇気が持てる。そして、その勇気で人生に変化をもたらし己の夢を叶えよう。共に自立・独立し、高い志を持って生きよう」。
これを伝え、仲間に共感してもらうことが私の今の使命だ。そして、一人でも多くの方のお役に立ち、この日本を元気にする原動力となること、それこそが私の本望である。
初めまして、私は、太田智久といいます。現在、49歳です。26歳で初めて就職した旅行会社に48歳まで勤めた後に退職し、電子書籍作家として独立しました(家庭の事情で、いったん再就職しながらの執筆活動を考えましたが、結果的に完全に独立の形を取りました)。これが初めての書籍ということになります。
学生時代、親や世間に依存し、甘え、自分で物事を選択することに自信がなく、いつも流されて生きていました。このままでは自分は駄目になる、自分が無くなってしまうという恐れがだんだん膨らんでいくのですが、その居心地の良い楽な場所から抜け出す勇気が持てず、もがき苦しみました。自立したい、強くなりたい、信念を持って生きていきたいと思えば思うほど、空回りし続けました。
そんな中、自分は誰も助けてくれない場所で独りになる必要があると思い立ちました。目の前の分岐点をどちらに行くか自分の判断で選び、自力で進んで行くという、まさに自分を創る場所探しを懸命に行いました。その結果、大学卒業後にアメリカに留学することを決めました。親と2つの約束をして。①アメリカ人と一緒に住む、②何か結果を出す。最終的に2つの約束は守られましたが(②は旅行の専門学校卒業)、留学1年目のマサチューセッツ州ボストンでの英語学校生活は、アメリカ人とは住むものの、日中は常に日本人と一緒に行動を共にし、日本人社会にどっぷり浸かるという矛盾したものになっていました。全く英語を理解できず、専門学校に通う自信は生まれません。以前の日本と同じように、自分から逃げる生活を続けていたのです。
2年間で合計2度一人泣き(号泣でした)をすることになりましたが、1回目はちょうどボストンでの1年が経過した頃でした。自分の不甲斐なさに嫌気が差し、自分の部屋で泥酔、一人号泣しているところを外国人のルームメイトが気付き声を掛けてくれました。下手な英語で全てをさらけ出し、自分の本音をぶつけ、何とかしなければもう後はないという気持ちで必死に打ち明けました。そこで、どこか違う場所、アメリカでもいよいよ日本人がいない所に移動するしかないと覚悟を決めました。
友人の母親(アメリカ人)に相談し、当時日本人が少ないと教えてもらったアリゾナ州ツーソンに一人で行くことにしました。いよいよ2年目は、生活圏内に日本人は私一人という日常が始まりました。望み通り自分で全てを行わなければならず、本当の意味で自立の場を手に入れることができました。
しかし、通う専門学校で専攻したツーリズムの授業に付いていくことがなかなかできず、後半とうとう登校拒否になる等、相変わらず弱さ大露呈の日々でした。最後まで自分の弱さと闘う生活の中でしたが、何とか周りの多くのアメリカ人に支えていただき、最後は2度目の号泣を経て、卒業試験(スピーチ等)に合格し日本に帰ってくることができました。
前述の通り、私はこの約2年の体験から、後の人生における大事な場面で必要となるたくさんの勇気を授かりました。何かを選択するとき、自分にとって厳しい道、困難な方法を選ぶことができるようになったのです。今こうして会社を辞め、独立するという自分にとって大きな選択をする勇気も元はと言えば、アメリカでのこの自立体験が与えてくれたのだと信じています。
私は、この本を通して、人は変われるという事実をお伝えしたいのです。自分の体験が、それは真実であることを教えてくれました。未知の世界に飛び込むこと、自分の場合は、言葉が全く通じず知人も無く、誰も助けてくれない場所で丸裸になり全てにぶつかっていくこと、そして、多くの失敗を重ねる経験を積むことが大事だと教えられたのです。全裸の剥き出しの自分をさらけ出すことが、自立への近道だということを知りました。私は、あなたに伝えたい。「自分は変わりたい。変わる勇気を持ちたい!」そう強く望んでいるあなたへ、「人は変われます!」と強く。
「それができないから苦しんでいるんだ!」という声が聞こえてきそうですが、大丈夫です。これからご紹介する私の赤裸々な失敗事例の数々、情けない姿をお読みいただければ、これなら自分にもできるし、もっとうまくやれると思っていただけるはずです。私のアメリカ留学体験記、お付き合いいただければ幸いです。とはいえ、約27年前の出来事です。強烈な体験だったとはいえ、記憶が定かではない箇所もあろうかと思います。そこは、ご容赦いただきたく思います。しかし、アメリカが私に勇気を与えてくれたことだけは、確かな事実としてここに強くお伝えします。
今、私の目標は、心の底からの本当の夢に挑戦する勇気を持ちたいと強く望む仲間たちへ応援歌を送り、自立・独立を促し、一人でも多くの方が勇気を持てるよう、そのきっかけ作りのお役に立つことです。そして、ダイレクトに自分の思いをお伝えするために、サラリーマンを辞め電子書籍作家になる道を選びました。「勇気を持って自立・独立し、お互いに自分の本当の夢を叶えよう!」と伝え続けたいからです。自立・独立した人間は活力に富んでいます。そういう方が多くなればなるほど、国も強くなります。私は、日本をもっと元気にしたいと強く思います。私は、これからもアメリカ留学が私に授けてくれた「自分をさらけ出す勇気」を持って生きていきます。そして、私はあなたの背中を押したい。「勇気を持ちたい」と強く思っていらっしゃるあなたの背中を。
最後に、本文に入る前に一つお伝えしておかねばならないことがあります。それは、留学費用負担の事実についてです。私は当時、語学留学を斡旋してもらった会社に対し、費用である200万円の返済ローンを組むことを勝手に決め渡米しました。また、現地にて、日本での貯金も含めお金が続かない状況にでもなったならば、学校の休暇中に隠れてアルバイトをして何とかやりくりしようと安易に考えました。なぜなら、自分にとって大事なのは、独りになることだったからです。一刻も早くアメリカに行って独りになり、たくさんの恥をかくことを最優先したため安直としか言いようのない計画になったのです。
しかし、私の知らないところで両親がその会社に連絡しローンの解約をしています。私がアメリカに行ってからすぐのことだったと後から聞かされました。子供が異国で働くことで、学業を疎かにし、道を踏み外す危険性を排除することが目的にあったということです。結果、私は、アルバイトを探す必要がなく生活を続けることができました。約2年間という留学費用の大部分は、最終的に両親が負担してくれたのです。親の援助を受けた上で、偉そうに「自立」を促す内容について書き綴ることにあらかじめお断りを入れさせていただきたく思います。その上でお読みいただけるのであれば誠に幸いです。
この本は、「人生で本当の夢に挑戦するために勇気を持ちたい」と願う仲間への応援歌です。一度しかないこの人生。一緒に変わり続けませんか、勇気を持って。
私たちは、必ずできます。
平成27年6月
太田 智久
↓太田智久のブログアドレス
http://ameblo.jp/tomohisa-ota/
レールの上を、ただ安全・安定の中、あまり考えるということもせず、ただお気楽に歩み続けているだけでした。両親が敷いてくれた真っすぐで綺麗に整えられたそのレールの上を、自分では何一つ決めることも選ぶこともせず、ましてや、その脇へ出てみる勇気を持つことなど及びもしない腑抜けな10代でした。
大学に入っても、卒業後の自分の進路を決められず、そのまま5年を迎えました(授業に出ずに全く勉強もしなかった結果、1年の時に留年しています)。当時、数少ないながら自信を持って言えたことは、自分を大嫌いだということです。「自己嫌悪」の日々でした。自立したい。大きな選択を自分自身ですることのできる勇気を持ちたい。自分にとって厳しい選択ができる男になりたい。強くなりたい。でも、それができない。これからの人生どう過ごせばいいのか、不安が不安を呼びました。しかし、そこから抜け出す勇気はありませんでした。
就職を考えたときに、漠然と頭に浮かんだ職業は旅行業でした。旅行は好きでした。友人と国内の小旅行を重ねていました。しかし、仕事としてやっていく勇気も自信もありません。これも親に敷いてもらったサラリーマン人生というレールに乗ろうとしているだけでした。小旅行を繰り返してきただけの自分に、人様に旅行を勧める仕事などできるものなのかと疑う気持ちでいっぱいでした。
自分の軸というものを作るために何か極端なことをする必要性を感じ始めていました。就職への焦りやこの先の人生への不安がそうさせたのだと思います。焦る日々を重ねるごとに「こうなったら、未知の世界へ自分を放り込まなければならない。それしか道はない。そこで、一つ一つ自分で迷い、悩みながら選択と失敗を繰り返すことで自立するんだ!」と考えるようになったのです。これは、友人たちの影響も大きかったと思います。
当時、ご多分に漏れず、大学の友人たちと連日朝まで人生について語り合いました。生きること・夢・愛について何度も激論を交わしました。「愛は与えるほど中身を増す」というのは私の持論でした。愛されようとしてはならない、愛せば愛される。ただ、相手を愛せばいい。そうすることで、愛はどんどん中身を増していく。見返りも求めず、ただ愛することが美しいと力説することに熱くなりました。自分に何の規制もせず、傷つくことも辞さず、相手の嫌なところも含めて愛することができれば本物だと思ったものです。そして、軸のない私でも、この愛することを論じることには自信がありました。愛は、人に限界を超えさせることのできる唯一の行為であると確信していました。
価値観は多様です。この日々の友人達との哲学会議は激論に沸き、時に紛糾しました。お互いにぶつかり合い、時に励まし合い、時に感激の涙を流し合いました。そのかけがえのない時間の中で、私は、自分の枠からいよいよ飛び出したいと強く思うようになっていきました。当たり前とされていること、世間の常識、自分を取り巻く環境や規制、友人・知人そして両親という全ての枠組みの外に出て自由に動きたい、独りになって自分の限界に挑戦したいと望みました。そして、その挑戦がずっと渇望してきた勇気を自分に与えてくれるに違いないと信じました。
そう考えると、なぜか大変ワクワクしました。誰も助けてくれない場所に自分を放り込み、そこでもがき前進することは、私に生きている実感を今以上に強く持たせてくれるに違いないと心躍らせました。自分の挑戦心が躍動し始めたのを感じたのです。本来、自分という人間は、自分をさらけ出し丸裸で生きることを求めていたのではないかと再認識したのもこの時期です。
本の影響も強くありました。友人の一人から、ジャーナリストで小説家の落合信彦さんの存在を教えてもらい『ただ栄光のためでなく』(集英社文庫)を読みました。私は、大好きな坂本龍馬の生き方に通ずるものを強く感じました。志を持ち、人の役に立つ事を成す。決して諦めず勇気を持って挑戦し続けること。これこそが生きる意味だと痛感しました。「私も脱藩したい、脱藩して自分を創りたい、強くなりたい。海外へ行こう。言葉が通じず、人に甘えられない場所、ぎりぎりの自分をさらけ出すしか受け入れてもらえない場所へ行こう。厳しい選択をし続けなければ、きっと前には進めない世界へ自分を放り込むしかない。海外に一人で行こう」
海外留学が自分のすべきこと、自分を創る作業だと定めました。どこの国に行くかは既に頭にありました。アメリカです。子供の頃から憧れがあり、自分の中で海外といえばアメリカ、行くならアメリカと決め込んでいる節がありました。アメリカに行くことを考え始めると未知の世界への不安と期待でワクワクしてきました。そうなると早く実行したくなり、ある日、留学斡旋をしている大手の会社を探し出し、即日予約を入れ足早にそこへ向かいました。大きなアメリカ地図が張ってあるその会社の一つの部屋で、担当者の方のアメリカ話に対し耳を大きくして聞き入りました。アメリカの知識が何もない自分、英語も全く話せない自分の存在は無視しました。ただ行きたい、それだけでした。
タチヨミ版はここまでとなります。
2016年7月23日 発行 初版
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