肉の擦れる音が聞こえる
<新作読み切り・小説>
角部屋の家賃が、中部屋より安く設定されている物件には、何かあるかもしれない。
僕が住んでいる部屋は一階の角部屋で、他の部屋より若干間取りが広く、窓も多い。それなのに中部屋より五千円も家賃が安かったから、こんな掘り出し物件はそうそうない! と喜び、急いで契約した。風呂・トイレも別だし、コンロも二口。ロフトが付いていて、押入れもあるから収納に生活スペースが奪われる心配もない。何故こんなに良い部屋なのに中部屋より家賃が安いのか、不動産屋に聞いたところ、北側の窓が役に立たないから、とのことだった。開けてみると、なるほど。目の前に塀が立っていて光が入ってこないのだ。でも開けておけば換気はできるし、塀との隙間が十五センチ程度しかないから空き巣が入って来る心配もない。僕はこれをむしろ利点だと考えた。今思えば、もっとよく確認しておくべきだったと思う。北側の窓が、どう役に立たないのか。
「顔が挟まってる?」
入居してから一か月。僕は心身共に疲弊しきり、遂に大学で唯一の友人であるマサトに愚痴を漏らしていた。昼休みの学食は賑やかで、日替わりのランチも美味しかったが、僕の心は暗く沈んでいる。ここのところ、一日もまともに睡眠を取れていない。原因は、例の窓にあった。
「あくまで噂だけどね……近所の人たちが話してるのが聞こえちゃったんだよ」
曰く、4丁目のアパートの北側に立つ古い塀には、女の霊が憑りついている。
曰く、そのアパートの五号室にはかつて口の聞けない女が住んでいた。
曰く、その女は出先で鍵を失くし、仕方なくいつも開けっ放しにしている北側の窓から家に入ろうと、壁と塀の間に身体を突っ込んだ。女は細身だったこともあって何とか隙間に入り込むことができたのだが、実はその隙間、奥に向かっていくにつれて段々と狭くなっていた。建物に対して、塀が斜めに設けられていたのだ。そうとは気付かず無理矢理押し進んだ女は、遂に窓の寸前で完全に身動きが取れなくなってしまったらしい。道から見える場所ではないし、誰かが覗き込むこともない。口がきけないから、助けを呼ぶこともできず、カバンの携帯電話にも手が届かない。女は静かに窓へ向かって手を伸ばし続け、両耳をゴリゴリと削りながら必死に窓へ辿り着こうともがいた。
アパートの住人から異臭がすると通報があったのは、2か月後。警察が臭いを辿ってその隙間を覗き込むと、腐った女の死体が挟まっていたのだという。
「だけどもっと怖いのはここからで、警察がその死体を隙間から抜こうと引っ張った時、顔の両脇の傷が膿んでグズグズだったからか顔が剥がれて落ちちゃったんだって。で、その落ちた顔はまだ見つかってないって話」
「……目の前で落としたのにか?」
「そう、まるで消えたみたいに、何度探しても見つからないんだよ。でも夜中、アパートの前を通ると隙間から音が聞こえてくるんだって。ざりゅっ、ざりゅっ、て。まるで蜜柑をすり潰してるみたいな音が」
「うおぉ、気持ちわりぃ……」
「見た人はいないらしいけどね。でも、確かに音は聞こえるんだ。夜になると、窓の方から。怖くて寝られないよ。カーテンあるのがせめてもの救いだね」
怪奇現象を体験したのは生まれて初めてのことで、対処のしようがなかった。事故物件じゃないかと不動産屋に抗議も行ったが、事故があってから十年以上経つ上、一度でも誰かが住んだ場合は告知義務がなくなり、あの部屋はもう四人も入居者が入った後なのだという。
貯金をほとんど使い果たすことになるが、引っ越すしかない。そう話すと、マサトは思いもよらぬ提案をしてきた。
「じゃあさ、お前とりあえず一週間くらい俺んちに住めよ。俺は逆にお前んちに住むから」
無鉄砲で怖い物知らずな彼は、理不尽な教授に噛みつくことも少なくない。僕はそんなことがある度に内心冷や汗をかいていたのだけれど、この時ばかりはそんなマサトが友人で良かったと感じた。
「俺ほんと霊感とかないし音も聞こえないかもだけど、できたらやっつけてお前が安心して住めるようにしてやるよ」
ちょっと幽霊とか、見てみたい気もするしな。そう言って笑うマサトの顔はあまりにも頼もしくて、僕は少しだけ泣きそうになった。
その日、全ての講義が終わった後、僕たちはまず大学から近いマサトの家へ向かった。マサトも僕と同じように一人暮らしだが、家賃を全額親が支払ってくれているのでそこそこ良いマンションの一室で優雅に暮らせている。対して僕は家賃全額自己負担のため、低家賃の古アパート。申し訳ない気分だ。さておき、一週間分の衣類と食料をバッグに詰めた僕たちは、次にそこから二駅先にある僕のアパートへ行き、同じように一週間分の衣類と食料をバッグに詰めた。それ以外は、お互い家にある物を使って良いというルールにしてある。そんなこんなで、それぞれが荷物をまとめ終わり、合鍵を渡し合う頃にはもう日が暮れて辺りも暗くなっていた。
「本当にごめんな、マサト」
「良いって。むしろ楽しみだよ俺は。そっちこそ、セレブの暮らしを満喫しろよ」
そう言ってイヒヒ、とマサトは笑った。ありがとう、何かあったらすぐ言ってくれよな。僕はそう返し、後ろ髪を引かれる思いでアパートを立ち去った。じゅり、ず、ずるず……あの隙間から聞こえてくる肉々しい音を、なるべく聞かないようにしながら。
翌日、マサトは何事もなかったかのように大学へやって来た。聞くと、異音もしなかったし割と快適に過ごしていたらしい。大学へ向かう途中の商店街が気になったから帰ったら探索したいとも言っていた。楽しんでいるようで良かった。僕はといえば、せっかく環境が変わったのに心配と罪悪感で結局寝付けなかったから。今夜はぐっすり眠れそうだ。
翌々日もマサトはケロリとしていた。だが、その次の日から段々と遅刻が増え始め、6日後には遂に来なくなってしまった。だが、心配してメールをすると単なる風邪とのことだ。もちろん、風邪だから安心、というわけでもない。一人暮らしの者にとって風邪は大敵だ。いくら具合が悪くても自分が料理をしなければならないし、風邪薬やスポーツドリンクなんかも自分で買いに出かけなければならない。
ひとまず僕は、薬は見舞いついでに自分が買っていくから安静にしていろと伝え、電車で一週間ぶりの我が家へと向かうのだった。
ピン、ポーン。
三度目のチャイム。マサトは出ない。寝ているのだろうか、僕はマサトに渡した物とは別の鍵で部屋に入ることにした。
「お邪魔します……というよりただいま、か?」
靴を脱ぎ、キッチンを抜けて居間へ入る。だが、マサトは見当たらない。
「マサトー?」
梯子を上ってロフトに上がるも、やはりマサトはいない。丁度出かけてしまったのだろうか。安静にしていろと言ったのに。
どん! どんどん!
突然、窓の外から壁を叩くような音が響き出す。
どん、どんどんどん!
僕は思わず肩を震わせた。あの恐ろしい噂話が脳裏をよぎる。だが、違う。時刻は午後七時を回っているが、これはあの奇怪な音ではない。僕は警戒しつつもロフトから降り、恐る恐る窓へ近付いた。すると、外からマサトの声が聞こえてくるのが分かった。
「マサト?」
カーテンが風で揺らぐ。窓は開け放たれていた。外へ呼びかけると、すぐに声が返って来る。
「おお、来てくれたか! わりぃ、驚かそうと思って隠れたら動けなくなっちまって! 焦ったー」
それは紛れもないマサトの声だった。なんだよ、と冷や汗を拭うと同時に、情けない気持ちにもなる。マサトは勇敢にもこの部屋で代わりに暮らしてくれているというのに、僕ときたら。そんな思いを吹き飛ばすように、強がって明るく声をかける。
「ばっか、寝てろって言ったろー?」
窓から顔を出し、右を見ると、マヌケな姿で壁に挟まってもがく友人の後ろ姿が見えた。それを見て、つい吹き出す。実際、噂の幽霊もこんなもんかもな、と。
「ほらマサト、手ぇ貸すからしっかりしろ!」
気付いたのは、マサトの肩を掴んで引き寄せたときだった。こちらに倒れこみ、しがみついてきたマサトの頭には、紫と深緑に変色した、女の顔が張り付いていたのだ。眼球は干からびて窪み、口は片側が破れて、両耳がない。鼻は腐って取れている。顔面の周りには、引き千切ったようにギザギザと波打つ肉と皮のヒダ。今にもめくれそうなその隙間からは、剥き出しの筋肉が見えていた。あまりにも逸脱した光景に僕はそれを払いのけることすら忘れ、ただ目を見開き、そして――
「ほンと、ワりぃナァ」
――地面の方から発せられる、マサトの声を聴いた。
〈了〉
このままここにいたら、また泣いてしまいそうだった。
<学内発表作品・小説>
〈エピローグ三日前〉
ぼうっと黒板の数式を眺めながら、桐野先生のことを考える。女性らしい長くて艶のある髪、白くて雪みたいな肌、頬に落ちる睫毛の影、たまにする耳に髪をかける仕草――その全部が、好きだ。
先生のことを考えていると、いつも胸が苦しくなって、ああもうこんなに苦しくなるなら考えなきゃいいのに、とか思うけれど、でもやっぱり考えちゃうから私はいつでも苦しい。
この胸の内を先生に打ち明けたくて仕方なかった。先生を好きになるのも、女の子が女の人を好きになるのも、どっちもいけないことだって分かっている。だけど、言えないまま引っ越すのは嫌だ。普通じゃない、それでも本物の恋心を伝えられないまま会えなくなるのは、嫌だ。
「気を付け、礼」と、日直の良く通る声が静かな教室に響いた。
恋煩いに頭を占拠されている間に、授業は終わりを迎えていたらしい。よぼよぼの松崎先生は、使うわけでもないのにいつも持ってくる大きな定規を片手に教室を出ていく。火曜の数学が終わったということは、この後に待っているのは昼休みだ。
「優希、お昼食べよ?」
不意に後ろから声を掛けられて「ゔぇっ」と思わず情けない声がでる。振り返ると友人の咲子がお弁当箱をぶら下げて立っていた。
「どしたの、変な声だして」
私は恥ずかしくなって俯いた。
「別に……なんでもでもないよ、うん。お昼なんだけどさ、私、音楽室行くから。みんなと食べてて?」
これから音楽室へ行く予定があったので、咲子には申し訳ないけれど断った。先生にピアノを教えてもらう約束を、先週の音楽の時間にしてもらったのだ。私は様々な理由をつけては先生に会いに行っている。今日で何回目か分からないけれど、週に一、二回はこうしていた。
「あー、碧ちゃんピアノ上手だからねぇ。じゃ、頑張ってね」
咲子は先生のことを気軽に名前で呼ぶ。彼女の誰にでも親しくできる性格が少し羨ましかった。先生のこと、私だってそうやって呼んでもいいのだけれど、なんというか恐れ多いような気恥ずかしいようなで呼べていない。この調子だと告白なんて夢のまた夢だろうな、と思い、溜息が漏れた。
「うん、じゃあまた後で」
机の横に掛けたスクールバッグを取って教室を後にした。ひんやりとしたリノリウムの床を鳴らしながら特別棟を目指す。徐々に生徒たちの喧騒は薄れ、音楽室近くに着いたころにはなんの音も聞こえないくらいだった。
特別棟の隅が音楽室で、私にとっての憩いの場だ。廊下の窓ガラスを通過した陽射しが、埃をきらきらと照らしている。なんだかそれが幻想的に思えた。
ドアノブへと手を掛け、薄緑色に塗られた扉を開ける。
開放的な空間が広がっていて、その一番奥には大きなグランドピアノが一台。黒く艶のある表面に反射した光が少し眩しい。
ああ、今日はどんな話をしようか。そうやって先生と過ごす時間のことを考えていると、自然と胸が高鳴った。
カーテンを揺らしながら迷い込んできた穏やかな風が、私の頬を撫でてゆく。目を瞑ってゆっくり伸びをしていると、心地の良さからかあくびが漏れた。
こんなに素敵な部屋を独り占めできるのはすごく幸せなことだけれど、それも今日を含めて三日しかない。先生と一緒にいられるのも、それまで……。胸の高鳴りが、不安のそれと入れ替わる。
そういえば引っ越すこと、桐野先生にまだ言ってなかった。告白どころじゃないじゃん、私――と、情けない自分がつくづく嫌になる。
先生はまだ来ていなかったから、お弁当箱を適当な椅子の上に置いてトイレへと向かった。後ろで二つに結っている髪が、ちゃんと左右均等にできているか気になって仕方がない。教室では特に気にしていないけれど、先生に会うのだから話は別だ。私はいつだって好きな人の前ではベストコンディションでいたいのだ。
洗面台の鏡に向かい合う。おさげに眼鏡、まるでクラスの委員長か、あるいは吹奏楽部にでも入ってそうな(実際は委員長ではないし、文芸部だ)少女が一人立っていた。奥二重でぱっとしない目元を赤いフレームが縁取っていて、その真ん中に焦げ茶色の瞳がある。この少し大きめな黒目がお気に入りだ。
お気に入りなのはそれだけで、あとはそんなに好きじゃない。例えば眉――微妙に形の違う不恰好なそれを見るたびに、自分でやるんじゃなかったと後悔する。あとは、おでこのニキビ。なにかに腹でも立てているみたいに赤くなっていて、触ると少しだけ痛んだ。毎晩アクネスを塗ってはみているが、一向に良くなる気配はない。指のお腹でさすると、やっぱりちょっとだけ痛かった。
ささっと髪を整えて、セーラー服のリボンを直して、スカートをほんの少し短くして準備完了。背筋を伸ばしてトイレを後にする。
音楽室に戻ると先生はすでにピアノの前に座っていた。先生の黒い髪と白いワンピースが鍵盤みたいで、やっぱり先生は音楽教師が一番似合うな、と思った。
窓から入ってきた初夏の風に先生の毛先がなびく。その姿を見た私の体温は、たぶん一度くらい上がったはずだ。体の内側から熱が込み上げてくる。
「あ、白崎さん、来ていたのね」
先生の柔らかな声は、まるで胸の中の不安を解きほぐしてくれるかのように優しかった。
「はい、少しお手洗いに」
できるだけ自然に、なるべくいつも通りに。私は先生の傍に椅子を持って来て腰を下ろした。ふわり、と良い香りが宙に舞う。
「白崎さんは、どんな曲が弾きたいのかしら」
細くてしなやかな指先で鍵盤を撫でながら、先生は私に聞いた。
実のところ私には音楽の経験が一切なくて、ただ単に先生と一緒にいる時間が欲しかっただけだった。なんて答えるか少し迷ったけれど、正直に言うことにする。
「えっと……思い付きで教えて欲しいなんて言っただけで、その、私、一度もピアノを弾いたことなくって……」
話していると徐々に唇が震えてきて、最後までちゃんと言葉を発せていたか自分でもよく分からなかった。私がそういうと、先生は意外そうな顔をした後に、そっと目を伏せて微笑んだ。
「そっか。じゃあ、どうしようか」
小指で高い音を鳴らしながら、先生は小首を傾げた。私たちの間に吹いた風が、その音符を乗せて反対側の窓から抜けてゆく。
「いきなり弾くのは難しいと思うので、えっと、できれば先生になにか曲を弾いてもらいたい……です」
先生は静かに頷き、「この曲はどう?」と、ピアノを弾き始めた。
その曲は、私でも知っている有名な曲だった。たぶん、ショパンの「別れの曲」。タイトルが頭に浮かんだ瞬間、心臓が握られたように苦しくなった。別れ、今はそんな言葉を聞きたくなかった。
私は下唇をきゅっと噛みながら、先生の腕に手を添えた。私の手よりも少し冷たかった。
「どうしたの?」
「……私、ショパンなら他の曲がいいなって」
「あれ、あんまりこの曲は好きじゃなかったかな」
そう言うと先生は別の曲を弾き始める。「ノクターン第二番」、同じくショパンの曲で、きっと誰もが一度は聞いたことのある曲だった。心地の良い音階が耳朶を包み、さっきまでの気持ちがゆっくりと、まるで煙を吹き払うかのようにしてなくなった。
先生が音楽を奏でる姿は芸術そのものだといつも思う。私が先生を好きになった理由の一つでもあるし、たぶん誰だって演奏する先生を見たら好きになるはずだ。
先生の息遣いは流れる旋律を歌うみたいで、私の視線は思わずその口元に吸い寄せられる。時折見える白い八重歯が綺麗だった。
そっと先生の方へ椅子を寄せる。すると先生は私を見て、柔らかに笑ってくれた。この時間が永遠に続けば良いのに――。
けれど、そんなふうに願っても時間はあっという間に過ぎてゆき、ノクターン第二番は温かな音を残して教室の空気に滲んで消えた。
「上手です、先生」
「そう? ありがとう、白崎さん」
目尻に掛かっていた前髪を手で直しながら、先生はそう言った。
「お弁当、一緒に食べましょうよ」
出入り口から対角線上に位置する教員室兼準備室のドアを指さすと、先生は椅子から立ち上がり歩き始める。私もそれに倣い、自分のお弁当箱を取ってきて教員室へと続いた。
――教科書、譜面台、弦の切れたアコースティックギター。教員室はいろいろな音楽関係のもので溢れている。先生はその一番奥の席に座ると、脇に置いてあるパイプ椅子をちょいちょいと指さした。それはいつも私が使っている椅子だった。
「ここ、静かでしょう?」
アイボリーのカーテンが風に揺らめくたび、薄暗い部屋に光が差し込んだ。
「静か、ですね。……先生は私がいないときもここで昼休みを過ごすんですか?」
私がそう聞くと、卵焼きを一口かじってから先生は、
「そうなの。だから白崎さんがいると賑やかで楽しいわ」
と、答えた。
自分の頬がみるみるうちに熱くなっていくのを感じる。
私にとって先生は、魔法使いみたいな存在だった。先生の何気ない一言が私を楽しい気分にさせ、先生に会えると思うだけでなんでもない景色に色彩が宿った。今だってそうで、先生の言葉で私は生を実感できている。だからこそ、離れるのが嫌で仕方がない。だけれど、それは覆ることのない事実で、先生にだって伝えなくてはいけないことなのだ。そうでないと、本心を告げるどころか、お別れの挨拶だってできないのだから。
「先生、あの――」
私は引っ越しの話を切り出そうと思ったけれど、どうしても続きの言葉が出てこなかった。そこで私は方向転換をして「先生の卵焼き、美味しそうですね」なんて関係のないことを口にする。
「ありがとう、一つ食べてみる?」
鈴を転がしたような声色で先生は笑うと、小さく切り分けてくれた卵焼きを私の口元に運んだ。恐る恐る顔を前に出し、そっと口で受け取る。唇に、舌に、優しい味が広がった。その卵焼きはとても甘くて、お母さんの作るものとは全然違った。
「美味しい……です、先生。すごく、すごく……」
「良かった。……って、白崎さん? 大丈夫?」
先生の心配そうな顔を見て初めて、自分の頬を伝う涙に気が付く。
あれだけ我慢しようとしていたのに、気付かないうちに泣いていたらしかった。
「先生……」と、気の抜けた声が漏れる。
少しだけ考えるような素振りをしてから、先生は私を抱きしめてくれた。温かな感触をセーラー服越しに感じる。恥ずかしいけれど、涙は全然止まらなくて、切なくて、苦しくて、私は先生にしがみついて泣いた。背中をさすってくれていた手がすっと離れ、今度は優しく頭を撫でてくれた。先生の白いワンピースに涙で透明な染みを作ってしまうのが申し訳ないような、一方で嬉しいような。
「先生、知ってるよ」
先生は私の耳元でささやいた。
「白崎さんが、引っ越しちゃうの」
私はなにも言わず、先生の服に透明な染みを作り続けた。
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僕の視る世界において彼女はとても異質だった。
<新作読み切り・小説>
リズム感のない鼻唄を歌う女性が目の前を横切った。
星形のピアスを揺らし、爽やかな柑橘類の香水を漂わせる彼女は上機嫌に小さくステップを踏んでいる。あまり着飾った服装でも奇抜な髪型でもない。むしろ、服装は英単語と白いうさぎが描かれたパーカー、髪型はボサボサの黒いショートヘアだ。
僕が気になったものは形容しがたいものだった。
歩いている最中に段差に気がつかずに踏み込んでしまってバランスを崩しそうになる。あの感覚に近い。
思わぬところに自分の障害があり、気持ちが悪い方向へと跳ね上がる。
普段の僕なら怖がるところだが、今回ばかりは訳が分からないが故に疑問が浮かんだ。
――この人、人間っぽくないな。
だが、その割に馴染み過ぎている。それに視線を落とすと手にはレジ袋が握られていて、ネギがちょこんとはみ出している。大学のキャンパス内でネギかよ。
彼女は間違いなく生きている。
違和感に首を傾げつつ、その背中を見つめていると彼女の右肩に黒いなにかがあった。
文字通り、よく分からない黒いモノだ。手のように見えるが、一定の輪郭を保っていない。だが、普通の人には視えないだろう。
その黒いモノは女性の肩に触れるかどうかギリギリのところで漂っている。本人は気がついていないのか、そのまま部室棟がある方へ向かって歩みを進めて行く。声をかけるかどうか、一瞬迷った末に脳裏によぎるお節介という言葉を振り払って口を開いた。
「あの、」
ぴたり、と黒いモノが止まる。しかし、彼女はその声に気がつくことなく、控えめに言って非常に下手くそな鼻唄を歌いながら遠ざかっていく。
「あの!」
声を張る。引っ越してきてから一人暮らしであまり使ってなかった声帯のせいで震えるような声を出してしまった。
だが、そのおかげか黒いモノはすっと霧が晴れるように消えて、代わりに女性が振り返って花が咲いたような笑顔で返答した。
「ん? なにか用でもあった?」
僕が抱いていた第一印象とはがらりと違う。美人だが、何故か笑顔が似合わない。違和感を覚えるというか、仕草がえらく人間くさい。
よく彼女のことを見てみれば、普通の女子大学生ということではなさそうだ。
星形のピアスは六芒星であり、首元に下げられたアクセサリーはタリスマンの『ダビデの星』だった。ヨーロッパでよく用いられる魔術道具の一つであり、お守りのようなものだ。
――ああ、マズい。
彼女はこちら側の世界にどっぷり浸かった人間だ。
こちら側、といっても僕自身も深く踏み込んだ人間ではない。ただ、人とは違って少しおかしなモノが視えてしまうということだけだ。本当に関わりたくない。
声をかけてしまったことに後悔しつつ、手早く退散しようと決めたが遅かった。
猫を連想させる浅葱色の瞳がふっと和らいだ。
「ああ、なるほど。キミ、心配してくれたんだ?」
理解し、理解された。この女性はいとも簡単に『人には視えないそういうなにか』を肯定した上で口を開いた。
「けど、あんな同情すらされないモノにちょっかい出されるほどヤワな人間じゃないよ」
この人も一般的な言葉を用いれば、霊感があるということなのだろう。
「すみません。お節介でしたね」
「いいのいいの。同じように視えるお仲間さんに会うのは滅多にないから」
屈託ない笑顔を向けられる。それが作り物のようで妙にゾッとする。
「キミ、新入生だよね?」
「はあ」
「学部は?」
「文学部です」
「サークルは決めた?」
「いえ、まだ」
「よし、今から新歓があるから行こう!」
そう言いながら彼女は持っていたレジ袋を見せてきた。えらく上機嫌でお気に入りのオモチャを見つけた子供のように、無理やり僕の手を引いてリズム感のない鼻唄を歌う彼女はとても嬉しそうにステップを踏む。
拒否権は元からないようだ。
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少年は、灯る光の暖かさを知る
<新作読み切り・小説>
ここは、一体どこだろう。気がつくと僕は知らない場所にいた。まだ陽が沈むような時間じゃなかったはずなのに、空には数々の星が広がり、輝きを競い合うかのように瞬いている。その煌めきのなか薄く細い三日月が、見守るようにぼんやりと優しく、青白い光をはなっていた。周りは樹ばかりで、森にいるのだということはわかるが、これがどこまで続いているのかはさっぱりわからない。それなりに深い森にいるのか、遠くの方は霧がたちこめていて先が見えないのだ。こうして見ると、なんだか外国のお伽話や絵本に出てきそうな幻想的な森である。樹々は細い葉を互いに揺すり、針葉樹独特のさやさやと慎ましげな音を立てていた。訳がわからない。僕は確か学校にいて……。あれ、学校でなにしてたんだっけ? 思い出せない。つい先ほどのことのはずなのに。なんだか記憶がゆらゆらと揺れてハッキリとしない。なんでだろう。僕はなんだか怖くなって自分の腕をぎゅうと抱きしめた。まるで自分が霞になってしまったような、そんな感覚。自分の感覚ですら曖昧になって、そのまま空気に溶けてしまいそうだ。なんだか頭の中かぐちゃぐちゃで、なにも考えられそうにない。僕はこんがらがった頭を抱えてその場に蹲まる。その時カチャンという音を聞いて、自分の足もとに何かがあることに気づいた。それは小さく、頼りないが確かな光を灯しているランタンだった。四角いガラスの筒に、黒い金属で作られた三角屋根と火の灯る台座、それに持ち手の輪っかが付けられただけの簡素なランタン。ガラスは歪み、中の炎がぐにゃりと曲がって見えるし、持ち手を持ってみれば金属が擦れ合うキィキィという音が聞こえてくるオンボロ具合だが、なぜかすごく大切なモノに思えた。この暗い暗い夜の森の中にたった一つの仄かな灯りを見ていると、どこか寂しくなるが、心は不思議と凪いだ。なんでだろう。分からないことだらけなのに、また分からないことが増えてしまった。とりあえずこの灯りをなくさないように、とランタンをしっかりと握る。多少なりと落ち着きを取り戻した頭で、ここでずっとこうしている訳にもいくまいという結論を出した僕は、ひとまず辺りを歩いてみることにした。霧で先がみえない森を進むなんて、遭難しそうだとも考えたが、現状がもう遭難しているようなものだと思い直して足を踏み出す。そもそも、ここにいる本人の僕でさえ今の状況をよく分かっていない以上、助けも期待できそうにない。僕が助かるにはこの森を抜けて、誰か人なり家屋なりを見つけないとダメなのだ。その思いだけで深い森の中を必死に歩く。夜の森を歩いたことのない僕の足取りはいくらか、いやそれなりに覚束ないものだったが、手に持ったランタンのお陰で派手に転ぶことはなかった。
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君は恋というものを、何も分かっちゃいないんだ。
<新作読み切り・小説>
「恋とは何なのか、という疑問は、人類が古来よりぶつかり続けてきた普遍的なテーマだ。人はいつだって、誰だって、国籍性別問わず恋という至極抽象的であり絶対的な問題に頭を悩ませ続けてきた。にもかかわらず、いまだにその問題に対して明確な答えというものは出ておらず、今日に至るまで恋愛的価値観の完全なる共有というものはできていないんだ」
「ちょっと待ってくれ」
「そもそも、恋愛というものは、人間の雄が雌を、雌が雄を欲する本能的欲求であると生物学的観点からは説明できるが、それは完全な答えにはなりえない」
「いいから、ちょっと待ってくれ」
「その説明を肯定してしまったら、ホモセクシャルやレズビアン、バイセクシャルなどといった概念を根本から否定してしまうことになるからだ。彼らだって真剣に相手を愛し、それを言語的にまたは行動的に表現し証明している。僕に言わせればそれを恋愛ではない、歪んでいるなどと頭ごなしに否定することはナンセンスだ。それを言ってしまったら同じように言葉や行動で証明できる異性間での恋愛も歪んでいることになってしまう。異性間の恋愛が正しく、同性間の恋愛は間違っているなどと決定付けるものは何一つなく、宗教的、もしくは感情的理由によってその差異を勝手に生み出しこじつけているだけに過ぎないんだ」
「分かった、一旦落ち着こう」
目の前の椅子に座る筋肉質な男が、僕の目の前に両手を突き出して僕の話を無理矢理せき止めた。
せっかく勢いに乗ってきたところだというのに、急に水を差されて僕は軽く苛立ちを覚えたが、訳が分からないと言う風な顔をしている彼を見て、ああ、少しやり過ぎたか、と己の言動を少しだけ反省した。
「何だい」
「いや、お前は何を言っているんだ」
ひどくゆっくりと僕に問いかける彼を一瞥し、僕は冷めかけているラーメンに箸を一口啜った。特に美味くもない麺を咀嚼しながら、店内を見渡す。
古ぼけたラーメン屋の店内は、あちこちにガタが来ており、客は僕たち以外には誰もいない。この味ではそれも仕方ないと思うが、それにしても昼時のこの時間帯にこれだけ客が来ないような店が何故つぶれないのか不思議でならない。
大将は先程からカウンターの内側で煙草を吸いながら、テレビの落語を見ている。時折汚く禿散らかした頭をぺしぺしと叩きながら、猫背の体をさらに折り曲げて睨みつけるような目つきでテレビを見るそのさまはなかなかに滑稽だ。
僕は一通り咀嚼し終えた麺を飲み込んでから、テーブルに置いてあったコップを摑んで中身の水を一口飲んだ。
爽やかな冷たさが、先程の無機質な味を口内から洗い流してくれる。
コップを置いて、ふう、と一息ついてから僕は彼の質問に答えた。
「何って、気味の質問に答えてあげているんじゃないか」
当たり前のことを答えただけなのに、彼は何故か、重い溜め息をこぼし、頭を抱えて髪を掻き毟った。
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◆澪標 二〇一六年八月号 ランディングページ
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言葉はツールだ
<新作読み切り・詩>
あなたは私の影を大きくする。
水たまりは後ろに伸び私の身長よりもはるかに大きく。
もう手紙もキーホルダーもないのに。
影からあなたの笑顔が足を引く。
やけに笑うときはいつも涼しい風が吹いている。
この瞳も捨てようか。
嘘。
ただ毛布がほしい。目の前を真っ暗にしてくれる、全身を覆う毛布が。
私があなたを見ようとして空を見上げたとき、あなたはどこを見ていただろう。
一緒に窓の外へ出たいと思っていただろうか。
振り返り振り返り、あなたはみぞおちを抉る。
その先に見つけた埋められない谷。
大地だ。世界じゃない。私はあなたのもとを歩いたのだ。
もっと話してあげればよかった。思えば、君はいつも苦笑いだった。(やめてくれ!)
私は気付かない。あなたが人からモノになっていることに。
名札を更新し続け、装飾品を増やしていく。するとあなたは海の向こうだ。
一番遠くへ行ってしまった。ああ、君はずっといたのに!
心の終着点を知らない自分が悲しい。
あなたの手は冷たかった。でもそれは錯覚。深い谷に吹く幻想だ。
ついに私はあなたに触れることはできなかった。
いつのまにか谷へ落ちていたらしい。
今でもあなたを思い出すんだ。引きずってなんていない。もう君は、もう一人の私だった。
傘の向こう側が最近見えなくて困っている。見上げることはしないし、下は水たまりだ。
真っ暗でね、なんにもわからないんだ。あのときはどうかしてたって、言うのが楽でね。
でも私はね、みじめなようで素敵な今なんだ。
装飾品は少なくなって遊び心はわからないことが多いけれど、欠けたものはない。
求めすぎるなよ。不敵でいろよ。傘を忘れたら瞳はもっていかれるんだ。
私はどこを歩いているんだろう。森、雲、線路……
笑うときはいつも傘の中。自分の笑顔を私は知らない。海に囲まれ、今日もいる。
去り際「おつかれ」と手を挙げて汗にじます我照らすヘッドライト
道陰に潜む成長と後悔タイムマシン探す東口
納豆の食べ方考察する孫の小言も聞こえぬ絡み糸
笑顔が好きだったと言い続け笑顔しか知らないことを思い知る
むっつり文学青年恋文が秘密兵器だとほくそ笑んで
記された一つひとつの文字すくい我の血肉混ぜ込むこころみ
最後の夏はまだ来ない
<新作読み切り・小説>
梅雨も明け、夏の日差しが日に日に強くなっていった。
人と妖が共存するこの島国で、陰陽師として古都の役所に勤める青年、久賀三琴は上司である鷹林から言われた内容をオウム返ししていた。
「有給……ですか?」
「うん」
菩薩のような笑みのまま鷹林は頷いた。三琴は呆気に取られながらも、何故と尋ねる。
「三琴君、こっちに来てからちゃんと取ってないでしょ? 働き者なのはいいけど、そろそろ一度息抜きすると良い」
「ですが……!」
「いや……建前的にはこう言ってるけど正直な所人事から迫られてねー……ちゃんと職員に足らせているのか、って先日怒られてしまったんだよ。だから来週から順番で取っていこうと思っていてね」
「それで俺が一番手、という事ですか?」
「うん。うちは皆働き者で優秀だけど、組織としてはそういう調整も仕事のうちだから」
組織として。そう言われてしまうと真面目な三琴は反論ができなかった。自分は前線で働く陰陽師の一人だが、同時に役所という組織を構成する職員の一人だ。ならば所属するにあたり、同僚の手を煩わせてはいけない。
「分かりました」
了承の意を伝えれば鷹林は安堵の表情を浮かべた。
「ありがとう。じゃあ明日までに日にちを決めて教えてくれ」
「かしこまりました」
三琴は一礼し、鷹林の元から離れる。
さて、有給を取るのは良いが何をしよう。
三琴は東の帝都から西の古都へ転勤してまだ数ヶ月。古都には帝都にはなく、未だに触れていない文化が多いのでどこから触れてみようか悩んでいた。
「あいつらに聞いてみるか」
三琴の脳裏に浮かんだのは二つの顔。古都に移ってから何かと交流がある呉服店の双子の店主たちだ。彼らなら何かいい案を提案してくれるかもしれない。雑務が終わったら上がれるから、帰り際に寄ってみようと三琴は思った。
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始まりは雨と雪の出会いから
<新作連載作品・小説>
駅はひどく混雑していた。時刻は十八時。今朝から絶え間なく降り続ける雨の影響か、普段は自動車を使用するであろサラリーマンや自転車を漕ぐ学生も、いそいそと駅構内に赴いていく。梅雨時には珍しくはない光景だ。例に漏れず、空哉も傘をたたみながら改札へと流れ込んだ。
十八時十二分発の上り電車に乗り、席を確保して一心地つく空哉は、ふと電車内に目を向けた。イヤホンを耳につけ自らの世界に入り込み席に座る若い男性。女子高生たちは吊革に掴まりながら友達と大声で話す。疲れからか、サラリーマンやOLは眠りこける。スマホをいじるか本の世界へ逃避するのはどの年代でも共通であるようだ。
狭い空間に世間というものが凝縮されているように、空哉は感じた。なぜなら、席の前で辛そうに足を震えさせる老婦人を無視しているのだから。いや、存在すら気づいていないのかもしれない。それほどまでに、無関心だった。
「おばあさん」
老婦の肩を叩き空哉は努めて親しげに声をかける。老婦は、はい、と気の抜けたような返事をした。
「ここ、どうぞ」
空哉は笑みを浮かべ席を立つ。老婦は感謝を述べ座る。空哉は少し気分が良くなり、鼻歌を歌う。
四、五分間電車に揺られ、駅から徒歩七分ほどで空哉は家に到着する。二十年以上前に建てられた自宅は古めかしく、一見すると所々の塗装が剥げ汚らしい印象を与える。されど、よく細部を確認すれば掃除や修理が行き届いていて、まさに生きている家だった。
空哉はやや建て付けの悪い玄関扉を開ける。屋内に入ると同時に、ドアがばたんっ、と閉まった。
「ただいま」
空哉が気持ち強めの声を出すと、とんとんというような軽い足音が響いた。それは徐々に空哉に近づき、目の前に来ると止まった。足音の主は白のワンピースに、赤いカーディガンを羽織った少女だ。
「おかえりなさい」
小川のせせらぎのような、澄んだ声だった。どことなく優しげな声音に空哉の頬は緩む。
「ただいま、雪鬼」
返事をもらった雪鬼は照れたようにはにかむ。やや赤みを帯びた白い肌に、腰のあたりまで伸ばした雪のように白く艶のある髪。紅い大きな瞳はずっとのぞき込むと、なんだか吸い込まれそうになる。できのいい人形のような、作りものめいた顔に快活な表情を浮かべている。空哉よりも頭一つ分小さく華奢な身体は、抱きしめるとそのまま折れてしまいそうだ。
雪鬼は、はい、とタオルを差し出す。傘を差すのが下手な空哉は肩の部分が濡れていた。タオルを受け取り、空哉はびしょ濡れの身体を拭く。
ふと、空哉は、なんだかなぁ、といった微妙な心境となる。灰色のもやのようなものが空哉の頭にこびりついて離れない。年頃の男女が同棲というのはいかがなものか、という爺臭い悩みだ。それに加え、雪鬼に家事や自分の世話をさせているのに、そこはかとなく後腐れがある。雪鬼がそれを自発的に、かつ嬉嬉として引き受けているから、いいとは言えないので余計に始末に悪い。最初は一時的にただ住まわせるつもりだったのに、なぜこんなことに、と自問する。
そういえば、と空哉は思い出す。あの日も雨だった、と。
『雪と空と』を引き続きお読みになりたい場合は、『澪標』二〇一六年八月号を各電子書籍ストアにてお買い求め下さい。
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ほしかったもの
<新作読み切り・小説>
つぶらなひとみの男がいました。男は大人なのだけれど、ずっとひとりでいたのでほとんど何も知りませんでした。
男はある日、くらしていた山を出て行きました。おとこにはそこを出て行く必要があったのです。
彼はどうしても、町に出て、知らなければいけないことがありました。人と接したことのない彼は、人と接して、愛というものを知らなければなりませんでした。
「星が、町だと見えないなあ」
愛は、本当に幼い頃、彼のお父さんが彼に教えたものでした。その意味も、どうやってするものなのか、食べ物なのか、なんなのかもお父さんは教えてくれませんでした。
彼が町で暮らし始めてしばらく経ちました。町は、山と違って空がきれいじゃありません。たてもののあかりで星の光が消えてしまって、空は真っ黒な色をしてます。
ある日、彼がその日の仕事を終えて家に帰ると、家の前にねずみいろをした猫が座っていました。猫は、眠たそうな目で彼を見上げました。
「いやな顔だな」
ねこはふてぶてしく言いました。
「きみはねむそうだね」
「そりゃそうだ、僕たちはきっと眠たい生き物なんだ」
ねこは眠そうに目を細めます。その緑色に光る目が、山で見ていた星みたいで、彼はうれしくなりました。
「きみはそんなに眠いのに、こんなところで何をしているの?」
「ひなたぼっこをしてたんだ。ここはよく日が差して気持ちがよかった。もう夜になってしまったけれど」
「ひなたぼっこって何?」
「したことないのかい? きみは大人のくせに何も知らないんだな。ひなたぼっこ、ってのはこう、体を横にして……」
ぼくはしたことがない、と彼は首をかしげました。そして、あることを思いついて猫にききました。
「愛って、きみは知ってる?」
「愛? そりゃ知ってるとも。でも、それは教えない」
「なんでだよ。いじわる」
「いじわるでいいのさ」
家に入ることも忘れた彼と猫を、月が照らしました。もうすっかり夜になって、空気が冷たくなっていました。
「ネリー」
唐突に現れたその声がそう言いました。その声は、女の子のものでした。
見ると、猫の少し後ろに、女の子が立っています。
「ネリー、こんなところにいたの!」
ネリーは抵抗もせずに、かけてきた女の子にだきかかえられます。
「きみは猫なのに、そんなにのろまなのか」
そういうと、おんなのこのうでの中でネリーはこちらを気だるそうににらみました。
「ごめんなさい、この子が悪いことをしませんでしたか」
「ううん、しませんよ。僕たち、楽しくおはなししてました」
「そう」
女の子は猫の目を覗き込んで、その額にキスをしました。それがなんだかふしぎで、男はまた首をかしげてしまいます。
「さようなら」と言って女の子が路地をかけて町へ行くのを静かに見送ると、彼は家に入り、自分だけのためのご飯を作りました。ご飯は、彼が好きなものだけが入っています。
そして、彼は自分の好きな本を読み、好きな時に寝ます。彼は自由でした。町には、彼の友達がいません。彼には毎日の仕事と、ひとりで過ごす休みの日があるだけです。
次の日、好きな時間に起きた彼は、また自分の好きな食事を作ります。その日は仕事はおやすみで、ひとりっきりの彼はぼんやりとしているばかりでした。
食事を終えた彼は町に行きました。日が高くのぼった町は気持ちが良くて、彼は少しの間、家の前で目を閉じていました。彼の家のある、ほとんど誰も住んでいない道を歩いて、彼は町の広場にたどりつきました。広場にはたくさんの人がいます。さんさんと差す光の中で、たくさんの家族や友達が遊んでいます。ボールで遊ぶ人、おとうさんとおかあさんと手をつないで歩く子供、ギターを弾く旅人。そんな人たちを見て、彼はなんだか嬉しくなって笑ってしまうのですが、それがなぜなのかもわかりません。
そのままぼんやりと歩いていると、ねこのネリーを見つけました。ネリーはやっぱり疲れた様子で、ひだまりの中で横になっています。彼はねこに挨拶もせず手を伸ばしました。そうすると、ねこはやっぱり嫌がるのでした。
「なんだ、きみか」
「こんにちは、ネリー」
「よく覚えていたね」
ネリーはあくびをして歩き出します。彼もそれについていきました。
「今日は、お母さんは?」
「おかあさんじゃない。リリーだよ」
「リリーは?」
「買い物だよ。もうそろそろ僕たちを見つける」
そう言っていると、ネリーがこちらにかけてきました。その腕に、いくつかの果物がかかえられていました。
「あ! こんにちは!」
「こんにちは!」
男とリリーは挨拶を交わします。男が笑うと、リリーはいそがしく走ってきて息が切れているのを恥ずかしがりました。
それから二人と一匹で街を歩きました。その間にいろんなことを話しました。
「きみは、なんていう名前なの?」
と、ネリーが彼に聞くと、
「ぼくは、名前はないよ?」と彼は言うのでした。
「「えー!?」」
ネリーとリリーは二人しておどろいて飛び上がってしまいます。名前のない人なんて、あったことがなかったのです。
「なんで!? お父さんとおかあさんは名前をつけなかったの?」
「うん。ぼくは山の中で生まれて育ったんだけれど、ぼくが小さい頃にお父さんもお母さんもどこかに行っちゃった」
彼のおかあさんは気づいたらいなくなっていて、お父さんもある朝になったらちいさい彼をおいてどこかへ行ってしまいました。彼は、ふたりの顔を思い出すことさえできなくなってしまいました。
「さみしくないの?」
優しいリリーの胸はいたくなってしまいました。
「さみしさも、わからない。動物たちと一緒に暮らしていたけれど、彼らは、狩りをして、食べて、寝るだけだった。ぼくは動物じゃないから、家族になれなかった」
「友達はいないの?」
「うん、いない」
「なら、友達になりましょう」
「僕も」ネリーもそう言ってくれました。
そう言って、リリーと彼は握手をして、ネリーは彼の腕に飛び込みました。リリーとネリーは、彼の初めての友達でした。
二人とさようならをして家に帰ると、彼はなんだか体が寒くなるような、胸の奥がしびれるような感じがしました。それはさみしいというきもちなのだけれど、彼にはそれが何なのかわかりません。ただ、くるしくて、いたくて、彼は泣いてしまいます。泣いても泣いても理由がわからなくて、いつの間にか朝が来ました。それでようやく泣き止んだ彼は支度をして、仕事に出かけます。
仕事場に着くと、彼は重いものを運びます。何度も何度も、同じようなものを右端から左端まで運びます。それはつまらなくて疲れる作業だけれど、昨日までの彼はそんなこともかんじなくて、全く辛くなかったのです。でも、今日はそれがつまらなくて、つらくて、リリーとネリーに会いたくなっていました。
その日、仕事が終わると、彼は広場に行って、リリーとネリーを探しました。どこにいるかもわからないけれど、歩き回っていると、ひとりといっぴきは今日も仲良く散歩していました。
「リリー、ネリー」
呼びかけると、リリーとネリーは笑いました。それが嬉しくて、彼が泣いてしまったので、ひとりといっぴきは慌ててその涙を拭って彼を慰めました。
「いったいどうしたっていうんだ、君」
「わからない、でも、なんだかつらい」
「もう大丈夫だよ」
二人がそう言って頭を撫でたり抱きしめてくれたりすると、彼はいつものぼんやりとした顔に戻ることができました。
「昨日、帰ったら、胸が痛い感じがして、泣いちゃった。きみたちに手を振って家に帰ったら、もうダメだった」
ポロポロと泣く彼を見て、リリーは彼がその気持ちの名前を知らないことに気がつきました。
「それがね、寂しいって言う気持ちなんだよ」
「さみしい?」
「うん。一人ぼっちだと、人はさみしいの。胸が痛くなって、寒くなって、誰かに会いたくなったでしょ?」
「うん、会いたかった」
子供のように泣きじゃくる彼の足に、ネリーは爪を立てずに優しく触れました。
「こんなこと言うのはなんだか嫌だけれど、昨日、君とさよならしたあと、僕も同じ気持ちだった。だから、僕たちは毎日会おう」
それが嬉しくって彼は声をあげて泣きました。それから、リリーとネリーを家に呼んで、夕飯を作りました。彼は二人の好きなものを聞き、それで温かいシチューを作りました。初めて誰かのために作ったご飯でした。
誰かの為に何かをするということが、そんなにも心をあたたかくするものだと、彼はその日、初めて知りました。食べ終わってから楽しくおしゃべりした後、彼はひとりと一匹を町の広場まで送りました。ねずみいろのネリーは夜の中にすぽっ、と溶けてしまいそうで、お別れをする前まで抱きしめていました。
リリーがそれを見て、笑って小さい子みたい、と言いました。リリーが言ったとおり、彼は大人になれていなかったのだけれど、それさえも彼にはわかりません。それを教えてくれる人は、誰もいなかったからです。
その日も帰ってから寂しさは感じたけれど、昨日よりずっと大丈夫でした。明日、またリリーとネリーに会えるとわかっていたからです。
次の日、彼はいつもと同じ時間に目が覚めました。寒い朝でした。もうすぐ冬が来ると、彼は知りました。
ひとつ、おかしいことがありました。部屋が、まっくろなのです。彼は何度も目をこすって見直したのですが、部屋は真っ黒なままです。
部屋の隅っこから黒くてぼんやりとした手がすぅ、っと伸びてきて、彼にあいさつしました。その手は気味が悪くて、真っ黒な部屋にいまにも部屋に溶け込んでしまいそうです。
「おはよう」
彼は何も言えずに、膝を抱えました。それが何かはわからないけれど、胸が痛くて、怖くて仕方なかったからです。
「私は、お前のさみしさだ。お前があまりにも寂しがるから、その気持ちがお前から溢れて、私になってしまった」
「そんな、嘘だ」
「嘘じゃない」
「だって、うそだよ。ぼくはきのう、幸せだったんだ」
「そう、お前は幸せだった。しかし、その幸せが、寂しさを強くしたんだ。この前からこの部屋に溜まったさみしさに、一度、お前は友達とわかれたあとにため息をついたね。それが、私を生み出したんだ」
「そんな、だって今日もぼくはリリーとネリーに会えるのに」
「それがなくなるのが、お前は怖いだろう。そうなった時のさみしさがわかるだろう。だから、私は生まれたんだ。それにお前は名前も持たない。そんなはっきりとしないお前より、私のほうがよっぽどしっかりしているんだ」
彼は部屋を出ようとしました。でも、すべてが真っ黒だから、ドアがどこにあるかわかりません。それに、どこを触っても部屋はふわふわとして、胸の痛くなる時に似た感じがするのです。きっと、寂しさに触った感じがあるなら、こんな感じなのでしょう。
「お前は、ずっと寂しかったんだ。なんでおとうさんもおかあさんもいないのか、わからなくて、考えていただろう。山を出て、この町のこどもだちのおとうさんとおかあさんをみただろう。それがお前は羨ましくて、さみしかったんだ」
さみしさのお化けが意地悪なことをいって、彼は死んでしまいそうなほど寒くなります。
「動物たちとも家族になれなくて、寒い山の中で震えていただろう」
彼が壁を叩くと、そこが凹んで彼の腕を飲み込んでしまいました。そのまま彼はずぶりずぶりと、そこに沈んで、ついに自分も真っ黒になってしまいました。
何も見えなくなって、彼はおとうさんのことを思い出しました。なぜいなくなってしまったのかわからないお父さん。なぜ、愛だけを教えてくれたのかわからないおとうさん。一度もあったことのないおかあさん。一度でも抱きしめてくれたことがあったのかなぁ。
寂しくなった彼は真っ黒になって、どんどん溶けてしまいます。そうして目を閉じようとしたその時、灰色のものがちょっとだけ見えました。
ネリーでした。その灰色の顔がその中にぽっかりと浮かんで、その星のような目で彼を見つめているのです。
「きみは、もう大丈夫だよ」
ネリーの親しみのある声を聞くと、少しだけ体が温かくなって、気持ちが落ち着きました。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。ぼくと、リリーがいるからね。ねえ、ぼくを抱きしめてくれ」
真っ黒になった腕でネリーを抱き寄せると、まわりの全てのものが灰色になって、それから少しずつ色を取り戻していきます。
「ねえ、お化けさん、お前はなぜこんなことをするんだい?」
ネリーが聞くと、意地悪なお化けは答えます。
「こいつのためさ。こいつが溶けてしまえば、何もなくなってしまえば、寂しくはないんだ」
お化けはまた彼を抱きしめて真っ黒にとかそうとします。ネリーは声をひときわ大きくした。
「それでも、ぼくは彼がいなくなったらさみしいんだ! 嫌なんだ!」
それを聞くと、彼の心が温められて、満たされていきます。お化けはだんだんうっすらとしてきて、声も小さくなりました。
「リリー」
呼ぶと、暗い部屋のドアを開けてリリーが入ってきました。
「そうだよ。もうさみしくなんてさせないんだから。それに、さみしいなんて気持ちに負けちゃだめなのよ」
リリーが彼の手を引っ張って、家の外へと引きずっていきます。それをさみしさのお化けは嫌がるのでした。彼の体にからみついて、家の中に引き戻そうとするのです。
「お前がいなくちゃダメなんだ。さみしいんだ」
彼の心から出てきたお化けも、本当はさみしくて仕方なかったのです。だから、一人しかいない彼にくっついていたのです。
「本当に誰かといなきゃいけないのはお前じゃなくて、彼だよ」
そう言って、ネリーはその黒い体を引っかきました。ぷつんと切れた黒いからだが、家のすみへと引っ込んでいきます。そうして、二人と一匹は家の外に出ました。
外はとてもいい天気でした。温かくて、お日様が綺麗で、そこらから子供達とその家族の声が聞こえてきます。
涙もでなくなってしまった彼はぼんやりと立っていました。まるで、リリーとネリーと出会う前の彼に戻ってしまったようでした。
「ごめん、ありがとう」
彼がそう言うと、二人を首を振るのでした。
「そう言ってくれるのはうれしいんだけれど、こうしてあげるのはあたりまえのことなんだよ」
「なんで?」
「愛してるから」
リリーはなに食わぬ顔でそう言います。
「愛?」
「そう、君が知りたがっていたものだよ」
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「時期を、見誤るな」
<新作連載作品・小説>
女子生徒の涙の告白を受け入れた男は、放課後先輩である熊谷からある話を聞いてしまう。彼の話は、男をより深いところへ突き落す無情なる宣告であった。
第一話「魔窟」
澪標 二○一五年七月号
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第二話「理由」
澪標 二○一五年八月号
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第三話「受信」
澪標 二○一五年九月号
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第四話「決断」
みおつくし 二〇一五年十月号
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第五話「悪友」
みおつくし 二〇一五年十一月号
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第六話「悪夢」
みおつくし 二〇一五年十二月号
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第七話「隣人」
澪標 二〇一六年一月号
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第八話「視線」
みおつくし 二〇一六年二月号
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第九話「鈍痛」
澪標 二○一六年準備三月号
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第十話「濁流」
澪標 二○一六年四月号
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第十一話「質問」
澪標 二○一六年準備五月号
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第十二話「無情」
澪標 二○一六年六月号
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冷たく、乾いた風が僕の頬を不愛想に撫でて過ぎ去ってゆく。
十一月も半ばにさしかかって、いよいよ迫ってきた本格的な冬に僕は憂鬱とした気持ちを隠せない。隠す気もない。クリスマスやらなにやら、イベントに浮足立つ学生たちを見るのは、ほほえましい反面、それらを楽しめない人間としてのジェラシーのようなものも感じてしまう。きっと教師としては駄目なのだろうが、僕だって一人の人間なのだ。そう言った黒い感情をひっそりと抱くことくらい大目に見てほしい。
「くそ、寒いな」
職員用の出入り口から外に出た瞬間、熊谷さんは忌々しそうに悪態をついて、両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んだ。いつもならば恋人からもらったという愛用の手袋を着用するのだが、先日別れた折に捨ててしまったらしい。酒の席で悪酔いしながら語っていた。
「そうですね。もうあっという間に冬ですからね。今年も、もうすぐ終わりますよ」
「ああ、もうそんな時期か。めんどくせえな」
とりあえず、当たり障りのない話題をと思い、ゆっくりと歩きながら、季節の話題をあげてみれば、熊谷さんの口から、僕などではお話にもならないような黒い感情が漏れ出てきた。
「そんなこと言わずに、いいじゃないですか年越し」
「お前は一年の担任だからそんな能天気なことが言えんだよ。こちとら受験に、まだ進路の決まってない連中の進路相談、決める気のない奴への説教、就職組には面接対策の相談にものってやらなきゃいけねえし、本当にめんどくせえよ」
億劫そうに語る熊谷さんの発言も、態度も、教師にあるまじきものなのだろうが、ここまで潔くやられてしまうと不思議なことに怒る気も、咎める気も失せてしまう。
僕は喉まで出かかった反論の言葉をぐっと飲み込んで、一歩大きく歩幅を伸ばして熊谷さんの左隣に並んだ。
「熊谷さんって、そんな性格なのに何で生徒に人気なんでしょうかね」
以前から感じていた疑問だ。
こんなめんどくさがりな性格の熊谷さんだが、何故か生徒にすごく受けが良く、人気がある。これは他の職員たちの間でも不思議がられていて、様々な推論と仮説が飛び交っている。
ちなみに、わざわざ生徒には、と限定したのは理由がある。理由といってもたいしたものではないが、熊谷さんは生徒に人気がある反面、何故か職員にはあまり人気がないのだ。もちろん好意的に思っている職員もいるが、多くの職員、特に古株の先生には覚えがよろしくない。これに関しては向こうの気持ちも分からなくはない。
おおよそ、熊谷さんは不満や文句を抱え込むといったことはせず、垂れ流しにしてしまうたちなのだ。感じた瞬間、思った瞬間口に出してしまう。そしてそれは先輩職員に対しても同じであり、そんな所業を、頭の固い方々が面白く思うはずもなく、古株の職員の方、年配の職員の方、そういった方々に着いて回る職員の方にとって、熊谷さんは非常に煙たい存在となっているのだ。
夜の空気に、僕と熊谷さんの足音が溶けてゆく。
もうすぐ北側の門が見えてくる。
熊谷さんは、鼻の頭を人差し指で二回こすってから、苦いものを食べたような顔をして口を開いた。
「あいつらは、まだガキなんだよ。大人ぶっていようが、いっちょまえになんか悩んでいようが、ガキはガキだ。あの年代のガキにまともに人を見る目なんかあるわけがない。だから、親しみやすいだの、接しやすいだの、そんなしょうもない理由で俺に寄ってくるんだよ」
「そんな言い方はないんじゃないですか」
「元木のこともそうだろう」
急に出てきた名前に僕はぴたりと足を止めた。
ちょうど門の目の前で、熊谷さんは塗装のはげかけている年季の入った門に触れると、力いっぱい右に引っ張った。
重厚な音を響かせながら、門が開く。なんだかその音が、僕の内側にある脆い何かを壊しそうな気がして、僕は思わずコートの裾をぎゅっと握った。
「あんな、綺麗ごとと建前を並べてるだけの薄っぺらい奴に懐いちまうのも、あいつらがまだ未熟で人を見る目が十分に育ってねえからだ。俺や元木みたいな奴じゃなく、今うざったがって、嫌がっているようなおっさん連中こそ、本当は尊敬するべき人間なんだって、今のあいつらには気付くことができない。それはしょうがないことで、責めるべきことじゃない。だけど、元木の野郎は、あいつらのそこに付け込んでやがる」
熊谷さんが、一歩門の外に出て、こちらを振り返える。
その顔は、気怠そうでもあり、怒っているようでもあり、また泣きそうな顔にも見えた。
「なあ、小林」
「何ですか」
「お前、なにをしようとしてるんだ」
突然の、熊谷さんの問いかけは、傍から見ればきっと訳の分からないものだろう。だが僕にははっきりと、熊谷さんの意図が伝わってきた。そして、今の熊谷さんの顔は責める顔でも、憐れむような顔でもない。心配している顔なのだと、気付いた。
「必要な、ことなんです」
「本当に、必要なことなのか」
「はい」
「危ないことだろう」
「はい」
「お前が、やる必要があるのか」
「僕じゃなきゃ、意味がないんです」
なるべく、熊谷さんの顔を見て、熊谷さんの目を見て、ハッキリと答える。
熊谷さんは、しばらく黙ったままさっきと同じように、鼻の頭を人差し指でこすっている。
やがて、深く息を吐くと、くるりと前を向いた。
「まあ、別に俺に面倒がかからねえんなら、何やってもいいけどよ、一つだけ覚えとけ」
「何ですか」
また歩き出した、熊谷さんのついて行こうと、門の外に出た瞬間、熊谷さんがもう一度こちらを振り向いてきた。やけに滑らかな動作で振り向いてきたので、まるで妖怪の類のような、そんな不気味さを感じてしまった。
「時期を、見誤るなよ」
「時期、ですか」
「そう、時期だよ。タイミングって言ってもいいが。物事ってのは時期が一番大事なんだよ。なんか抜けているようなずさんな計画でも時期が良ければ成功することもある。逆にどんなに入念に準備した計画でも、時期が悪ければ失敗することがる。だから、お前も時期を見誤るようなことはするなよ。みっともねえから」
「はあ」
なんだか、思っていたことと大きくかけ離れたことを言われたせいか、僕の口から意図せず、緩い返事が漏れ出た。
熊谷さんは不満そうに口を歪めたあと、くるりと前を向いてしまった。
「門、閉めとけよ」
そう言って、熊谷さんはすたすたと歩いてしまう。
僕は、熊谷さんの言うとおりに、気が抜けた体をなんとか動かして門を閉めた。
重厚な音が、また、僕の内側を激しく揺らした。
〈続く〉
<新作描き下ろし・イラスト>
こんにちは。そして、本誌を最後までお読み頂き、ありがとうございます。
電子雑誌『澪標』編集長、二三竣輔です。
近頃、急に夏らしくなりましたね。本当にいきなり季節ががらりと変わったように感じて参ってしまいます。
さて、話は変わりますが、この度この編集後記の場を借りて少しだけ告知をさせていただきたいと思います(本当はいけないことなのですが、少しだけ目を瞑っていただけたらと思います)。
実はこの度、我々身を尽くす会は八月夏のコミックマーケットに出店することが決定しました!
今回で、我々の即売会参加は六回目となります。直接読者の方々と触れ合いお話をして、頒布をするというのは、とても緊張しますし大変ですが、とても貴重な体験であり、ありがたいものを得る尊い機会だと個人的には思っております。そんな機会を六回も持てていることに密かに感動を覚えつつも、ここまで頑張ってこれたことに感慨深い思いも感じてしまいます。
なんだか年寄り臭いですかね(笑)。
今回のコミックマーケットは諸事情により私は販売メンバーにはおりません(散々偉そうなことを言っといてごめんなさい)。ですが、小桜さんはじめ、売り子メンバーの皆さんも気合十分です!
あとは当日に向けての準備を万全にするだけなのですが、これが意外と大変です。私よりも、小桜さんの方がずっと大変なので、弱音を吐くつもりは毛頭ありませんが。
とにもかくにも、私は小桜さんや他の皆さんと共に準備に励みつつ、澪標の本を少しでも多くの人に見てもらえるように祈るばかりです。
皆様も、ご来場の際は是非遊びに来てくださいね(二三竣輔 初の単独短編集『転・点・天』もコミックマーケットで頒布する予定ですので、こちらもどうぞよろしくお願いします)。
平成二十八年 盛夏
二三竣輔
◆『澪標』二○一五年四月号 小桜店子(編・著) 二丹菜刹那(著) 尋隆(著) 高町空子(著) 藤井カスカ(著) 篠田らら(著) 青空つばめ(著) 朝霧(著・表紙イラスト) あちゃびげんぼ(著) 吉田勝(表紙撮影)
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◆『澪標』二○一五年六月号 小桜店子(編・著) 藤井カスカ(著) 二三竣輔(著) 青空つばめ(著) 二丹菜刹那(著) 古布遊歩(著) 矢木詠子(著) 松葉クラフト(著) 朝霧(イラスト) 逸茂五九郎(著) 篠田らら(著) 櫻野智彰(著) ひよこ鍋(著・表紙イラスト) 咲田芽子(著) 尋隆(著)
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◆『澪標』二○一五年七月号 小桜店子(編・著) 青空つばめ(著) 逸茂五九郎(著) 松葉クラフト(著) 篠田らら(著) 南波裕司(著) ZOMA(著) 藤井カスカ(著) 尋隆(著) 二丹菜刹那(著) 高町空子(著) 毒蛇のあけみ(著) 二三竣輔(著) タリーズ(表紙イラスト)
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◆『澪標』二○一五年八月号 小桜店子(編) 朝霧(著) 三角定規(著) 二三竣輔(著) ヨシ(著) 二丹菜刹那(著) 海風音(著) ひよこ鍋(著・表紙イラスト) コスミ・N・タークァン(著) 篠田らら(著) 青空つばめ(著) 藤原翔(著)
◆『澪標』二○一五年八月号 ランディングページ
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◆『澪標』二○一五年九月号 小桜店子(編) 高町空子(著) 二三竣輔(著) 尋隆(著) 二丹菜刹那(著) ひよこ鍋(著) テトラ(著) 朝霧(表紙イラスト) 吉田勝(表紙撮影)
◆『澪標』二○一五年九月号 ランディングページ
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◆『みおつくし』二○一五年十月号 小桜店子(編) 青空つばめ(著) 尋隆(著) 二三竣輔(著) 二丹菜刹那(著) ZOMA(表紙撮影)
◆『みおつくし』二○一五年十月号 ランディングページ
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◆『みおつくし』二○一五年十一月号 小桜店子(編) 二三竣輔(著) 青空つばめ(著) 松葉クラフト(著) 二丹菜刹那(著) 三枝智(表紙撮影)
◆『みおつくし』二○一五年十一月号 ランディングページ
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◆『みおつくし』二○一五年十二月号 小桜店子(編) 尋隆(著・表紙撮影) 二三竣輔(著) ヨシ(著) 二丹菜刹那(著)
◆『みおつくし』二○一五年十二月号 ランディングページ
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◆『澪標』二○一六年一月号 二三竣輔(編・著) 小桜店子(編) 風理(著) 志野きき(著) 肉馬鈴薯(著) コスミ・N・タークァン(著) CO2(イラスト) 大久保智一(著) やっさん(著) 味玉(著) k氏(表紙イラスト) 野秋智(表紙撮影)
◆『澪標』二○一六年一月号 ランディングページ
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◆『みおつくし』二○一六年二月号 二三竣輔(編・著) 小桜店子(編) 野秋智(著) 松葉クラフト(著) 二丹菜刹那(著) タリーズ(表紙イラスト)
◆『みおつくし』二○一六年二月号 ランディングページ
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◆『澪標』二○一六年準備三月号 二三竣輔(編・著) 小桜店子(編) 蘭泥(著) 味玉(著) 志野きき(著) 877(著) 藤井カスカ(著) 橋爪朝寿(著) ハルキ(イラスト) 風理(著) コスミ・N・タークァン(著) やっさん(著) タリーズ(表紙イラスト)
◆『澪標』二○一六年準備三月号 ランディングページ
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◆『澪標』二○一六年四月号 二三竣輔(編・著) 小桜店子(編) 蘭泥(著) 味玉(著) 志野きき(著) 877(著) 藤井カスカ(著) 橋爪朝寿(著) ハルキ(イラスト) 風理(著) コスミ・N・タークァン(著) やっさん(著) タリーズ(表紙イラスト)
◆『澪標』二○一六年四月号 ランディングページ
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◆『澪標』二○一六年準備五月号 二三竣輔(編・著) 小桜店子(編) 味玉(著) 尾野十(著) やっさん(著) 橋爪朝寿(著) 大久保智一(著) 青空つばめ(著) 志野きき(著) ハルキ(表紙イラスト)
◆『澪標』二○一六年準備五月号 ランディングページ
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◆『澪標』二○一六年六月号 二三竣輔(編・著) 小桜店子(編) 尋隆(著) 味玉(著) 尾野十(著) やっさん(著) 橋爪朝寿(著) 大久保智一(著) 青空つばめ(著) 志野きき(著) 肉馬鈴薯(著) ハルキ(表紙イラスト)
◆『澪標』二○一六年六月号 ランディングページ
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◆『別冊澪標』七夕号 小桜店子(編) 柊藤花(著) 青空つばめ(著) 藤井カスカ(著・イラスト) 二丹菜刹那(著) 篠田らら(著) 二三竣輔(著) 尋隆(表紙イラスト)
◆『別冊澪標』七夕号 ランディングページ
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◆『別冊澪標』クリスマス号 小桜店子(編) ひよこ鍋(著) 尋隆(著) 二三竣輔(著) 青空つばめ(著) おふぃう(表紙イラスト)
◆『別冊澪標』クリスマス号 ランディングページ
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◆『みおつくし』総集編 小桜店子(編) 二三竣輔(編・著) 青空つばめ(著) 尋隆(著) 松葉クラフト(著) 野秋智(著) タリーズ(表紙イラスト)
◆『みおつくし』総集編 ランディングページ
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◆『春夏秋冬』鈴原鈴(著) 爽燕(著) 藤井カスカ(著) 小桜店子(編・著)
◆『春夏秋冬』ランディングページ
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2015年7月24日 発行 初版
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