この本はタチヨミ版です。
難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ
みをつくしてや 恋ひわたるべき
<澪標 2016年01月号 掲載>
叶わない恋だ、と好きになった日、痛感した。
初めて彼を見たとき、左手の薬指に指輪が光っていた。生徒にからかわれるのが恥ずかしかったのか、次の日にはもう彼は指輪を外して教壇に立っていて、多分みんなもうそんなこと忘れているけれど、私はしっかりと覚えていた。
骨ばった細長い指にはめられたばかりのまだ馴染んでいない指輪、右手首のぴかぴかした腕時計、結び方が少しだけぎこちないネクタイ、教師にしては長すぎる前髪、「結城一馬です」と自己紹介したあとの、ふにゃり、と笑ったあの猫みたいな笑顔。
私が彼と出会ったときに印象的だったのは、そんなことだった。
結城先生の声は優しくて耳触りが良くて、聞いていて眠りそうになる。お世辞にも教師に向いているとは言い難いうえに、先生は甘いから、寝ている生徒を怒ったりはしない。結果としてみんなのなかに「先生の授業は寝れる」なんて共通意識ができてしまって、先生の授業は始まりこそ勢いがいいものの、開始十分で眠気に満ちた、ふんわりした空間になる。教科が古典だから、なおさら呪文みたいに感じて寝てしまうんだろう。
板書を終えて振り向いたとき、先生は困ったように笑う。笑ったあと、私と目が合う。まじめに授業を聞いているのは私を含めた数人だけだから、べつに特別なことではない。
でも、普段先生に向かって好きだとか付き合ってよとか冗談三割本気七割で言う短いスカートの女の子たちは、こんな顔を知らないだろう。
彼女たちに勝てるものはなにひとつないけれど、でも、先生の表情なら、私のほうが知っている。
「佐和白」
「はい」
「悪いんだけど、これ、準備室まで持ってきてくれるか」
「はい」
先生は、なにか用事があるといつも私を指名してくれる。
席を立って、教卓に集められた四十一人分の問題冊子を持った。ゴールデンウィークの宿題として連休前に配られた薄いテキストは一番後ろに答えが載っていた。どれくらいの生徒がきちんと解いたのだろうか。かくいう私も、ほとんど答えを写したのだけれど。
「いつも悪いな」
「いえ、暇なので」
「佐和白はちゃんと授業聞いてくれるから、ついな」
私が先生の授業をまじめに受けるのは、よく見られたいからだった。まじめに授業を受ける数人のうちのひとり、と認識してほしかった。寝ている人たちよりも、少しでもいい印象を持ってもらいたい。そんな、無粋な感情からだった。
「でも、数学は苦手なので寝ちゃいます」
「そうか。俺も数学は苦手だったなあ」
「でも先生になってるじゃないですか」
「うん、だから数学なんてできなくても大丈夫だよ」
他愛もない話をしながら準備室まで歩いていると、すれ違う女の子たちがみんな、先生の腕にすり寄る。シャツのボタンをふたつ外して、だらしなくぶら下がったリボンの隙間から、下着がちらちらと見えていた。この手の女の子たちの下着は大体ゼブラ柄だったりヒョウ柄だったりするのがここ最近の不思議だった。この謎の法則に名前を付けたい。
揃いも揃って髪の毛を茶色く染めてパーマをかけて、爪は凶器になりそうなくらい長く、ピンクやら紫やらオレンジやらに彩られている。片手にはシャネルの香水の形をしたケースにはめられたiPhoneが窮屈そうにしていて、終始ピロリン、と鳴ってはLINEの通知で画面を埋め尽くしていた。だぼっとしたカーディガンを着ていて、スカートはカーディガンの裾から少しだけ顔をのぞかせていた。スカートから伸びた細い足は白く、女の私でさえ、そのやわらかそうな太ももにどきまぎした。
先生とこうやって歩いているときに、こんな女の子たちと遭遇するのが、一番つらかった。
短くて太い足を隠すような膝丈のスカート、学校指定のセーターはぴったり自分に合ったサイズ、シャツのボタンは一番上まで留めて、丸く切り揃えた爪、ポケットのなかの鳴らない裸のiPhone。なんとふてぶてしいことだろう、と、自分でも思う。
でも、私は自分を可愛く見せる術も知らないし、仮に変身しても、こんなに巧みに言葉は出てこない。今だって、先生が出してくれる話題に返事するだけで精一杯だ。
そんな私を、女の子たちはその場にいないものとして扱っていた。女の子たちがいる間、私は空気だ。
廊下で反響する高い声、LINEの通知音、笑いながら手を叩く音。
「先、行きますね」
私が先生に頼まれたのは先生の話し相手になることではない。このテキストを、準備室まできっちり運ぶことだ。
私は階段を小走りに上って、のぼりきったときには、息が上がっていた。階段をのぼった先はとても静かで、先生の机にテキストを置いて、鉢合わないように遠回りして教室に帰った。
私が先生を好きになったのは高校二年の秋だった。
修学旅行の二日目でちょうど生理がきてしまって、生理痛がひどい私はホテルでおとなしく寝ていることになった。友達はたくさん写真撮ってくるね、と嫌な顔一つせずに応じてくれた。この二日目は班別で市内を自由散策する予定で、私はそれをすごく楽しみにしていたのだけれど、この痛みにはどうしても勝てなかった。
養護教員の青井先生のところへ駆け込むと、先生は残念だな、と言いながら「G組、佐和白花菜、ホテルで休養」と手元のファイルに記入して、カイロを渡してくれた。
青井先生は男性で、私は最初、少しだけ嫌だなと思った。でも、毎月ひどい顔をして保健室にやってくる私を見て、何も言わずに何時間でも休ませてくれて、すぐにその気持ちはなくなった。その代わり、ズルでサボりにいくとしつこく怒られた。たくさん話もしてくれて、私の恋愛相談なんかもよくのってくれた。クラスのあの子が気になるんだけど、というと、俺もそいつ気になってたんだよね、なんて言ったりもした。保健室の常連はもうみんな知っていることなのだけれど、青井先生は同性愛者で、男の子が気になっているというのはあながち冗談ではない。でも、ちゃんと恋人はいるらしくて、私にはよく分からなかったし、分からなくていいなと思った。
とにかく、良い先生だった。だからこのときも青井先生は、またなにかあればすぐ電話しろよ、と優しく言ってくれた。
布団に包まっていると携帯が震えて、見てみると友達からのLINEだった。私を気遣う文面で、ありがとう。少し落ち着いたよ、とだけ返事して、また布団をかぶる。
朝よりは気分が落ち着いた分、なんでこんな日に、という気持ちがこみ上げてきて、少し涙が出た。すごく楽しみにしていたのに。何度も計画を立てたのに。なんで今日なの。
鼻をすすって、飲み物を買いに行こうと起き上がったところで、部屋のチャイムがピンポーン、と間抜けに響いた。青井先生がなにか持ってきてくれたのかも、と思いながら、ドアを開けた。青井先生なら慰めてくれる。
でも、ドアを開けた先にいたのは青井先生ではなかった。
「ひどい顔してるぞ、大丈夫か」
「……結城先生」
「青井先生から佐和白が体調悪くて部屋で寝てるって聞いてさ、そういや朝飯のときいなかったなと思って。なんも食べてないだろ? コンビニのだけど、おにぎり買ってきた。あと水とかいるかなって」
そういう結城先生の手にはコンビニの袋が下げられていた。
「ありがとう、ございます」
「目、赤いぞ。大丈夫か?」
「べつに、なんでもないです」
慌てて目尻の涙を拭って、袋を受け取ろうと手を伸ばした。こんな顔を見られるのが恥ずかしいと、そう思った。青井先生なら平気なのに、結城先生に見られるのだけは耐えられなかった。
「あんまり無理しないで、なんかあったら言えよ。と思ったけど、青井先生の方が頼りになるか」
「それは否定できないです」
「まあそうだよな。うん、青井先生を頼りなさい」
「はい」
「それじゃ、またな。夕飯の頃には出て来れるといいな」
「頑張ります」
結局、気持ち悪いもお腹が痛いのも治らなかったけれど、先生のくれたおにぎりは、なぜだか食べられた。私の大好きなツナマヨ味だった。
次の日なんとか回復して、三日目、四日目と無事に修学旅行の日程に参加できた。友達から二日目の話をたくさん聞いて、私も行ったみたいな気持ちになれた。
結城先生にお礼を言いたかったけれど相変わらず先生は人気で、また学校に戻ったらお礼を言おう、と決めた。
「佐和白」
「はい」
「ノート、お願いできるか?」
「はい」
修学旅行が終わって数日、中間試験が近い時だった。私はまた、提出物の運搬係に指名された。準備室へ行く途中で修学旅行の話になって、私はやっと先生に話を切り出すことができた。
「二日目のおにぎり、ありがとうございました」
「ああ、気にするな。三日目からは参加できて良かったよ」
「はい」
やっとお礼を言えてほっとしていたら、バタバタと騒がしい足音がした。
「一馬くん!」
どこからそんな声出てるの、と言わんばかりの甘ったるい声が響いて、私は条件反射のように逃げ出した。角を曲がっても、声はいつまでも私の耳に聞こえてくる。
「修学旅行の二日目なんでいなかったの? 眼鏡橋にいるよって言ってたのに!」
「ああ、ごめんな、ホテルで青井先生とちょっと話してて」
「それ職務怠慢だよ一馬君!」
「よくそんな言葉知ってるな」
階段を駆け上がって廊下を歩いて、ようやく声は聞こえなくなった。だけど、先生の言葉だけが耳の奥で繰り返されていた。
淡い期待が胸をかすめて、そんなわけはない、と自分に言い聞かせた。
絶対に、私のためなんかじゃない。
そんなことをするほどの価値を、私は持っていない。
「佐和白、大丈夫か?」
「え、あっ、はい」
頭のなかでぐるぐる考えているうちに足は止まっていて、準備室にノートを置いて逃げる前に先生に追いつかれてしまっていた。
名前を呼ばれて我に返って、自分が準備室の目の前まで来ていたことに気付いた。
「いつもありがとうな」
「いえ、大丈夫です。これくらい」
先生に、確認する勇気はなかった。聞けるはずもなかった。「あの日、私のためにホテルにいてくれたんですか?」なんて、どんな女の子なら聞けるというんだ。髪を茶色く染めて、大きなメンズサイズのカーディガンを着て、短いスカートを履けば、聞けるようになるんだろうか。
私は淡い期待を拭えないまま、その感情を抱いたまま、準備室を出ていった。
高校三年生にあがっても、この気持ちが消えることはなかった。むしろ月日が重なるにつれて、どんどん膨らんでいった。担任が先生じゃないと知った瞬間、私は絶望したし、でも古典の担当が先生だと分かったとき、嬉しくて涙が出そうだった。
気が付けば先生を目で追って、授業中、目が合うだけでその日は一日幸せだった。
青井先生にだけそのことを相談したけれど、「人のものを奪うのも、なかなか楽しいもんだよ」なんて笑って、案の定参考にはならなかった。
「そんなこと考えてないし、そもそも私にはそんな魅力ないです」
「いや佐和白は可愛い。僕が言うんだから間違いないね。なんでそんなに自分を卑下してるんだよ」
「先生に群がる女の子たちみたいじゃないからです」
「それが可愛いって誰が決めつけたんだよ。結城に好みのタイプでも聞いたの?」
青井先生はそう鋭く私の心に踏み入ってきて、私は自分の殻を守るのに必死だった。
「佐和白、好きならちゃんと堂々としてろよ。逃げるな。可愛くないとか言うなら、可愛くなれ。可愛くなろうとする女の子ほど、可愛いもんはないから」
この人は、よく人の心を傷付ける。言われたくないことを言ってくる。メンタルケアとか、本当にできない人だと思う。
だけど、青井先生に話した後は、不思議と力が湧いてくる。ハッとして、自分がなにをしてこなかったのか、なにをするべきなのか、明確になる。
私は、逃げていたのか。他の女の子たちからも、自分からも、きっと、先生からも。
「来週までに変わってこい」
「それは無理でしょ」
「大丈夫、お前ならできるよ。佐和白、可愛いからね」
この人は、欲しい言葉も言ってくれる。私が結城先生に出会っていなければ、私はこの少し適当で誠実な保健医の青井直人を好きになっていただろう。
「まあミラクルが起きるとしたら、文化祭だな」
「いやだからミラクル起こす気はないってば」
青井先生はそう言って、笑顔で親指を立てた。たまに言動が古臭いんだよなあ。
それからいろいろ調べて、少しずつ変わる努力を始めた。友達には驚かれないために好きな人ができたことだけ伝えた。生まれて初めてダイエットをして、スカートの丈を少しだけ短くした。髪を染めたらほかの女の子たちと同じなってしまうから、代わりにトリートメントしたりヘアオイルを塗ったりと綺麗にして、毎朝ストレートアイロンで整えてから家を出るようにした。
高校二年の冬の私に、教えてあげたい。私だって、少しは変われたよ。
「ほら僕の言った通りじゃん。可愛くなったよ」
「可愛くなったつもりはありませんけどね」
「なんでそういうこと言うかな」
「見た目と一緒に中身までついてくるとは限らないですから」
「ほかの女子とは違う、佐和白らしい感じになってるよ」
青井先生は私を純粋に褒めてくれて、こっそり嬉しかった。
「試験にならないかなあ」
早くテスト期間になってほしかった。テストが近付けばノートの提出がある。ノートを運ぶ時間が唯一、私が先生と話せる時間。
「あと二週間もないじゃん。頑張れ」
「うん、頑張る」
青井先生は私を励まして、あとは言動だな、とぼやいた。聞こえてるから、それ。
その二週間はあっという間にきたのだけれど、ちょうどノートを提出する授業のときに、私は学校を休んでしまった。月に一回くる、憎らしいような、ありがたいような、でもできれば避けて通りたい生理のせいだった。
今日は先生の授業があるからどうしても行きたかったのに、動けないくらい痛くて、お母さんにも心配をされた。休みなさい、と言われて、それに抵抗できるほどの気力はその時の私にはなかった。
次の日学校へ行ったけど先生の授業はなくて、というか明日からテストだから、昨日の授業がテスト前の最後の授業だったのだ。
唯一先生と話せる貴重な時間を、自分からダメにしてしまった。
ひどく落ち込んで、少し変わった自分の姿に先生がどんな反応をしてくれるか、楽しみにしていたことに気付いた。
その日は一日気分が下がる一方で、しかも明日からテストで、明日なんてくるな、と憂鬱になっていた。
「あ、佐和白」
帰りのホームルームを終えて、帰ろうと立ち上がったところで担任の先生に呼び止められた。
「お前、昨日休んだろ」
「はい」
「結城先生がな、テスト終わるまでにノート出したらそれ成績につけてくれるらしいぞ。お前、指定校狙ってるんだから出しといた方がいいんじゃないか。結城先生もなんかそんな感じのこと言ってたぞ」
「分かりました。ありがとうございます」
また、期待が胸をかすめる。
少し前に指定校推薦を狙っていることを、私は先生に言っていた。私の成績は可も不可もないから、三年の成績でなんとかしたいんです、と話した。
でも、先生は教師として当たり前のことをしているだけだ。きっと私がまじめに授業を受けるから、なにか救済処置をしようと思ってくれたのだ。
期待するな。何も、期待するな。どうせ違うのだから、期待する分だけ、つらくなる。
そう自分に言い聞かせた。
ノートは結局、古典のテストがあった日にこっそり準備室に置いて帰った。別に会いたくなかったわけではなくて、ちょうど先生がいなかったのだ。
スカートを短くして髪を手入れしたって、私は先生に確認することなんてできないんだ。
見た目ばかり変えたって、結局、私自身はなにも変わっていない。
六月のある水曜日の一時間目、先生はなにか小さな箱を持って授業にやってきた。梅雨明け直前の、朝からずっと強く雨が降っていた日だった。みんなびしょ濡れで登校したから、教室に雨の匂いが残っていた。
「このクラスは他と比べて少し進みが早いから、今日はちょっとお休みというか、授業とは関係ないことをやろうと思って」
そう言いながら私達に見せてくれたのは「百人一首」だった。
「百人一首っていうのは、その名の通りで百人の歌人の和歌を一人一首ずつ選んでつくった歌集のことなんだ。そのなかでも、藤原定家が京都の小倉山の山荘で選んだと言われている百人一首のことを小倉百人一首って言って、これが今でいう一般的な百人一首になってる」
小さな箱から百人一首の札を出して、私たちに見せてくれる。
「百首載せたプリントを作ったから、どれか好きな歌とかあれば覚えて損はないと思うぞ」
いつもは寝ている人もみんな起きて、配られたプリントを眺めた。プリントには漢数字がふられて、その下に和歌がかいてあり、さらにその下に歌人の名前が記されていた。
中学生の時にも覚えさせられたなあと思いながら、そのほとんどを覚えていない自分に驚いた。たしかほら、春過ぎて……あれ、なんだっけ。
「先生はどれが好きなんですかー?」
「え、俺? 俺は……そうだなあ」
普段はぐっすり寝ているはずの生徒にそう話をふられて、先生はプリントを見ながら少し考えた。それから、
「五十番かなあ」と答えた。
それを聞いて、クラス中の女の子がその番号に印をつけだした。私もこっそりつけて、意味を調べる。
「先生って結構ロマンチストなんだあ」
どれが好きなの? と聞いた生徒が私と同じように意味を調べたのか、にやにやしていた。
「中学のとき覚えさせられたなー」
「あ、私もー」
口々に中学時代の文句とか、これ素敵とか、こんな意味あったんだとか生徒が言って、私は初めて、古典の授業で先生と目が合わなかった。
授業が終わってから、もう一度プリントを眺めた。湿気を多く含んだ机に置かれたプリントは机と同じように湿気を吸い取って、しっとりとしていた。消しゴムをかけたら、紙の繊維がぼろぼろ、と出てきそうだ。
たしかにどれも素敵で、意味もロマンチックだった。でも私が一番心に響いたのは八十八番の、「難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 身を尽くしてや恋ひわたるべき」という和歌だった。
難波の入江に生えている、芦を刈った根のひと節ほどの短い一夜でしたが、わたしはこれからこの身をつくして、あなたに恋しなければならないのでしょうか。
私のことかと、一瞬どきりとした。
ここでいう一夜はきっともっと激しい意味合いなのだろうけど、あの日のことをずっと心の隅に置きながら、私は日を重ねるごとに先生のことを好きになっていく。それこそ、身を尽くすような想いで。
夏と一緒に期末試験が近付いて、長袖のシャツを半袖のシャツに変えた。六月の湿気を残したまま、太陽がやたらと私を照り付けて、じりじり焦げていくのを少しずつ感じていた。日焼け止めを買わなくてはならない。
「佐和白」
「はい」
相変わらずの授業を終えて、先生の優しい声が私を呼んだ。先生の声は授業でいつも聞いているし、私のことを呼ぶのなんて授業中にはよくある。でも、これは特別だった。
「ノート、頼めるか」
「はい」
このときを、ずっと待ち望んでいた。
「今日も暑いな」
「そうですね。半袖のシャツ出しました」
「あー、俺も明日から半袖にしようかなあ」
「先生の半袖見たことないです」
「俺、半袖似合わないんだよねえ」
「じゃあ夏は大変ですね」
いつも変わらないトーンで会話をして、途中、他の女の子にも遭遇したけれど、私は逃げずにその場にいた。
「先生、ノート」
「ああそうだよな、悪いけどまた後でな」
少し怖かったけれど勇気を出して先生にそう声をかければ、先生はあっさりと女の子を引きはがして歩き出した。女の子に少し睨まれたけれど、そんなことより、先生が私の声に反応してくれたことが嬉しかった。
もっと早く、こうしていればよかった。
初めて、教室から準備室まで一緒に歩いた。いつも私が逃げていたからだった。夢のような時間だった。たかが五分もかかっていない。けれど私にとってはこの先、一生しまっておきたいような思い出になった。
「いま開けるからな」
先生は手がいっぱいの私に優しくそう言って、準備室の扉を開けてくれた。ありがとうございます、と言いながら中に入って、先生の机にノートを置く。
「いつもありがとうな」
「いえ、あの、暇なので大丈夫、です」
修学旅行のことも、ノートのことも、言いたかった。でも、それはどうしても言葉にならなかった。
「俺はこのあと空いてるから良いけど、佐和白は授業あるだろ。早く戻りなさい」
黙ったまま立つ私に先生はまた優しく声をかけて、椅子に腰掛けた。ギシ、と鳴った。
さっき女の子と先生を引き離したときの勇気はどこへいったんだ。
「あの、」
「ん?」
「あの……」
「どうした?」
「……やっぱり大丈夫です。失礼しました」
逃げるように準備室を出て行って、階段を駆け下りて、保健室に飛び込んだ。
「なんだ佐和白か、どうしたんだ?」
ドアを勢いよく開けたから、青井先生がびっくりして振り返った。
「文化祭」
「は?」
「ミラクル起こすなら、文化祭って言ったの、青井先生だよ」
「うん」
「ミラクルの起こし方、教えてください」
もう私には、これしかない。
いいか、結城はここに来てからずっと文化祭の校門の後片付けをしてる。文化祭の日に出す、あの大きい門な。僕含めほかの先生数人と一緒にやってるけど、最後、倉庫にそれをしまうのは結城の仕事だ。生徒はみんな後夜祭にいっているから教師しかいない。この倉庫っていうのが体育館の裏の倉庫なんだけど、大体十七時くらいに校門に来い。全員で撤去作業をした後はもう全部結城に任せているから、その時間ならあいつはひとりでいるはずだ。そこで手伝えば、結城のことだから飲み物くらい奢ってくれるだろうし、自然と二人きりになれるぞ。
夏休み前、青井先生に教えてもらった。この言葉を忘れずに夏休みを過ごし、文化祭の準備をした。不自然にならないように何度もシミュレーションをして、なんて言うかも考えた。
「佐和白みたいな子はさ、なにかに頼らないと勇気が出ないんだよ」
「はあ」
「それが変わった自分自身だったり、文化祭みたいな特別な雰囲気だったりするわけ。なにかに力を借りて勇気を出せるようになるっていうことが、ミラクルってこと。普段のお前じゃ、そんなの無理でしょ。でもそうやってなにかに頼ったって、力を借りたって、最後は全部お前に委ねられているんだよ。あくまで手伝いまでしかしてくれないからね」
「つまり?」
「結局は、自分次第ってこと」
青井先生の話はたまに回りくどい。話がうやむやになる前に、話の本質を確認する必要がある。長い話を聞くのは嫌いじゃないけれど、少しだけ面倒だなとは思う。
「応援してるよ」
背中を押された。
文化祭二日目。
「先生、手伝います」
十七時頃。
「おー、佐和白。ありがとうな。でも後夜祭行かなくていいのか?」
校門。
「大丈夫です。あんまり興味ないので。向こうから先生が一人でなんかやってるの見えて、来てみました」
何度も心の中で考えた台詞を口にした。その言葉はとてもなめらかに出てきて、違和感なく先生の鼓膜に届いたはずだ。
「そうか、助かるよ。じゃあこれ、体育館の裏の倉庫まで運ぶの手伝ってくれるか」
「はい」
「あ、素手だと怪我するかもしれないから、これ」
先生はそう言いながらジャージのポケットに手を突っ込んで、軍手を取り出した。私に向かって投げて、上手くキャッチするとナイス、と笑った。
そのまま木材の山のなかから私が運べそうな軽いものを見繕って、渡してくれた。
「佐和白にはいつも運んでもらってるな」
「暇なので大丈夫です」
「お前はいつもそれだな」
先生はまた笑ったけれど、私はそれよりも、佐和白ではなくお前、と呼ばれたことに胸が高鳴った。
どんな生徒に対しても、名字でしか呼ばないのに。男の子でも女の子でも、生徒のことを名字以外で呼ぶ先生なんて見たことなかった。
私しか知らない、先生だ。
「なんか飲み物買ってやるよ、なにがいい?」
三十分もせずに運び終えて、先生はまたポケットに手を入れた。小銭が入っているんだろう。チャリン、と特有の音がする。
「……MATCH」
「一番高いやつじゃん」
「青春の味なので」
学校の自動販売機のなかで一番高い、ペットボトルのMATCHをリクエストした。先生はまあいいけどさ、なんて言いながらジュースを買ってくれて、自分用にブラックの缶コーヒーを買っていた。
立ちっぱなしもなんだから、と準備室に移動して、お互い椅子に腰掛けた。
ふう、と一息ついてペットボトルと開けると、先生が缶を開ける音とちょうど重なった。
「タイミングどんかぶりだな」
「私も思いました」
笑いながらお互い喉を潤して、なにを話すわけでもなくぼーっとしていた。
遠くを見つめながら、いまここで言わなきゃ一生言えない、と私は自分を奮い立たせていた。
「……あの」
「ん?」
「いきなり言うのもあれなんですけど」
「なんだ、どうした」
青春の味の力を借りる。
甘酸っぱいレモンの味が、まだ口の中に残っている。
「高二の修学旅行のときのおにぎりの話なんですけど」
「おお、なんだ急に。懐かしいな」
「あの日、すごく楽しみにしていたから行けなくなったの悲しくて。でも、先生がおにぎりくれて、なんか元気になれました。もう一回、ありがとうございました。……あとその日、先生一日ホテルにいたって聞いて……本当は行かなきゃいけない場所あったのに、って」
私のために、残ってくれたんですか?
この一言が、どうしても口から出ない。喉まで出ているのに。わ、と言ってしまえば、続けて言葉を出せるのに。
口の中のレモン味はもうなくなっていて、誰かに、何かに力を貸してほしかった。助けてほしかった。でも今ここにあるのは右手に握りしめたペットボトルと、自分自身だけだ。もうこの味の力は借りてしまった。そうしたら、もう、
「わ、たしの……ために、残ってくれたんですか?」
思っていたよりも声が震えていて、動揺した。恥ずかしくなった。こんなの、先生が好きだって言っているようなものだ。逃げ出したい。今すぐ走り出せば、その答えを聞かずに、私は傷付かずに済む。走れ、逃げろ、私。
でも、体は動かなかった。
「自分の受け持ちの生徒がつらそうにしていたら、そりゃ残るよ。佐和白、本当につらそうだったから。ホテルにいる間、青井先生と話しているのも楽しかったし」
先生はなんてことない、という顔で答えた。
私は静かに深呼吸して、続けた。
「それから中間のとき、ノート提出があったのに休んじゃったのに、担任にノート出すよう伝言してくれたのも、助かりました。ありがとうございます」
「ああ、あのときのか。そんなわざわざ言うようなことじゃないぞ」
そう言ってコーヒーを飲んで、ふう、と一息ついた。
私もペットボトルの封を開けて、一口だけ、口に含む。微炭酸がしゅわしゅわとはじけて、そのまま喉を通過した。乾いた喉に炭酸の刺激が染みた。
「先生」
「ん?」
炭酸が通ったあとの喉からは自然と声が出て、もう、助けも力もいらなかった。
「私、先生のことが好きなんです。その修学旅行のときから。絶対そんなことないのに、私のためにホテルにいてくれたんじゃないかとか、私が三年の成績にかけてるって言ったの覚えてくれているんじゃないかとか……。迷惑だって分かっています。みんなは忘れているけど、先生が結婚しているっていうのも私は覚えています。でも、好きになっちゃったんです。毎日先生を見かけて、幸せな気持ちになれる自分がいるんです。ノート運ぶの頼まれるの、すごく嬉しいんです。先生に少しでも良く見てもらえるように、たくさん努力したんです」
自分の心のうちを吐露して、先生の顔を見た。
先生は授業中、板書し終えて振り返ったときみたいな、あの困った笑顔をしていて、私は胸が痛くなった。そんな顔をさせてしまうことくらい分かっていたのに、胸の奥がすごく苦しくなった。
「叶わないし困らせるだけだって知っています。すみません。ジュース、ごちそうさまでした」
これ以上ここにいたら、泣いてしまう気がした。泣いたら、もっと先生を困らせてしまう。泣くまいと必死に堪えながらそう言って、私は準備室を出ていこうと立ち上がる。
いいんだ。私はちゃんと、自分の言葉で自分の気持ちを伝えた。その事実だけで、私にはもう十分だ。
「佐和白は、逃げ足が速いな」
「え?」
先生の横を駆けていこうとすると、先生が言った。予想外の言葉に足が止まる。
「ノート運んでもらっているとき、俺いつも話しかけられるだろ?」
「……はい」
「あれ、いつも佐和白に申し訳なかったんだ。休み時間削って付き合ってくれるのに、俺のせいで、って。だから佐和白に頼むべきじゃないんじゃないかって思ってたんだ。逃げ足速いから、いつもノート置いてすぐいなくなっちゃうだろ」
「……はい」
「お前がそうやって努力してくれたことは嬉しいし、そんな風に言ってもらえて俺は幸せだよ。佐和白の気持ちには答えてやれないし、たしかに困ったけど、お前が謝る理由にはならないよ」
先生は優しい声でそう言って、私の頭を撫でた。
「教師として俺ができるのは、佐和白の残り数か月の高校生活を充実させることくらいだ。だからこれからも、ノート頼んでいいか。ノートだけじゃなくて、俺の手伝い」
「……やります」
震えた声で返事すれば、先生は軽く、だけどたしかに、私の肩を抱いてくれた。
胸の奥が苦しいくらいに痛い。息ができなくなりそうだ。
「ありがとうな」
聞いたこともないくらいやわらかい声色に、私はもう限界だった。堪えていた涙があふれ出して、嗚咽をあげながら泣いた。
「あーあ泣くなよ困るだろ」
「ごめ、なさ、」
私の言葉はもう言葉にならなくて、高校生にもなってこんなに泣くことがあるのかと少しだけおかしかった。先生の手が私を引き寄せて、私は先生の胸のなかで泣いていた。ジャージを濡らしてしまうことに申し訳なさを感じながら、でも、すごく、幸せだった。
先生って、こんな匂いがするんだ。こんなに手が大きいんだ。
その事実に幸せを感じながら、静かに押し寄せてくる悲しみの波に、私は抵抗できなかった。幸せな分、その悲しみは何百倍にも膨れ上がっていた。
「ジャージ、すみません」
しばらくして私は泣き止んで、名残惜しかったけれど、先生から離れた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて下を向きながら言ったら、先生は気にするな、とティッシュを渡してくれた。
涙と一緒に、幸せと悲しみは体外へ出ていったようだった。
私の胸のなかはさっぱりと空っぽになっていて、不思議な充実感と、少しの喪失感があった。これが失恋なんだな、と思った。
ティッシュをありがたく受け取って、顔をいくらかマシにした。
「そろそろ後夜祭が終わるから、早く帰らないとその真っ赤な目を見られながら帰ることになるぞ」
そう言った先生の笑顔は、とってもお茶目だった。
また私しか知らない先生が、増えた。
「先生の授業で覚えた和歌があります」
「おお、なんだ?」
先生は少し嬉しそうに目を輝かせる。
「難波江の、蘆のかりねのひとよゆゑ……身を尽くしてや、恋ひわたるべき」
「なんだ百人一首か」
その落胆ぶりがなんだか面白くて、私は思わず声を出して笑った。先生も段々面白くなったのか一緒になって笑って、ふたりでしばらくお腹を抱えて笑った。いま思えば、なんであんなに笑っていたのか分からない。
「この和歌はなんだか他人事じゃなくて」
まるで私の気持ちを代弁しているような、そんな詠。
「ずっと、私が思っていたことなんです」
そして多分、これからも思うことだ。
〈了〉
タチヨミ版はここまでとなります。
2016年8月4日 発行 初版
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