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それまで何度も同じようなことはあったのだけど、そのときも僕の頭上で街灯は突然消えた。傘を傾け、僕はじっとその街灯を見つめた。それから周囲にある街灯も見た。それらは当然のことに点灯したままだった。舌打ちをして、僕はふたたび明かりを消した街灯を見あげた。
こういうのを僕は何度も経験してる。なんの前触れもなく、いかにも消えそうな徴候もなく、突然街灯が消えるというのに何度もぶちあたってきた。回数は憶えてないけど︵そんな記録をとっておくわけもないから当然だ)、たぶんこの三年で七、八回はあったはずだ。となると、年に二回以上あったということになる。弱く首を振り、僕はしばらくそのことの意味を考えてみた。それだけ重なるってことは因果関係が想定できる――と思ったのだ。つまり、僕の接近と電球が切れることにはなんらかの関係があるというわけだ。
雨はしとしと降っていた。周囲の街灯からたどり着いた明かりはビニール傘を輝かせていた。無数についている細かな水滴がそれぞれ鈍く輝いているのだ。
あらゆるものがそうであるように電球にも寿命がある。いつかは消えるはずの運命を負っているわけだ――そう考えながら僕は目にはいる限りの街灯を数えてみた。だいたい七本くらいある。都内全域であれば、何万本、いや、何十万本もの街灯があるはずだ。そのうちの幾つかには寿命を迎えそうな電球がついていることになる。七分の一というのが実際にあった割合だから、仮に都内に七十万本の街灯があったとして、そのうちの十万本はいつ消えてもおかしくない状態ということだ。
そこまで考えて、﹁いや、ほんとうにそうか?」と僕は言った。もちろん独りごとだ。雨の降る十一時過ぎの細い道には誰もいなく、スピードをあげた車がたまに通り過ぎていくだけだった。ふたたび僕は明かりを消した街灯を仰ぎ見た。ちょっとした手違いで消えただけで、すぐに点くこともあるかもしれない――そう考えてみた。しかし、小さな虫の死骸が溜まっている歪曲したガラス面は暗いままだった。傘を傾けすぎたせいで雨が顔にあたった。見ひらいていた目にも入ってきた。
きっと区役所から委託を受けた業者が電球の定期交換をしてるのだろう。そういう仕組みになってなければ、もっとたくさんの明かりを消した街灯が存在してるはずだ。逆にいえば、そうなってないのを思うと、やはりいま消えたのは若々しい現役世代のものだったに違いない。それが突然消えたのだ。そして問題はそういったタイミングに僕が出会いすぎているということだ。
そんな馬鹿げたことを考えながら雨の中に突っ立っていたのには、また別の理由があった。帰りたくなかったのだ。あと数十歩いくだけで僕の住むマンションはある。雨も強くなってきたようだし、僕は腹を空かせてもいた。街灯について考えてたって腹が膨らむわけじゃないのもわかっていた。それでも僕は部屋に戻りたくなかった。だから、その日も残業して、なるべく遅く帰ってきたのだ。
すこし前まではまったくの逆だった。残業すべきときだって定時に会社を出るようにしていた。帰るのが楽しくてしょうがなかったのだ。僕の部屋は二階にあるので通りから窓がみえる。カーテン越しに明かりを洩らすその窓を眺めるだけで僕はうれしくなったものだ。だから、いかようなストレスを抱えていようとも笑み崩した顔でチャイムを鳴らした。ドアがひらく瞬間を待ち遠しいと思ったことだってそれまでにはなかった。
ガチャッと音をたててドアはひらく。﹁お帰りなさい」と言ってくるのは非常に愛らしい顔をした女の子だった。鷺沢萌子という名で、正確な年齢はわからないものの、たぶん二十五、六くらいだったと思う。
﹁はい」と彼女は両手を伸ばし、鞄を受け取ってくれた。それから目を閉じ、唇をすこしだけ尖らせた。いつもそうやってキスをせがんでくるのだ。
﹁今日も一日ご苦労様でした。晩ご飯はハンバーグよ」
彼女は上目づかいに僕を見て、毎晩のようにそう言ってきた。
﹁そうか。いやぁ、お腹が空いてしょうがないんだよ」などと僕はこたえたものだった。彼女はスーツを脱がしてもくれたし、着替えも用意しておいてくれた。まったく至れり尽くせりだった。しかしながら︵その頃はあまり気にしてなかったものの)、すこしだけ違和感はあった。﹁お料理って好きなの」と言っていた彼女がつくるのはカレーかハンバーグのみだった。しかも、具材は日によって変わったにせよカレーの味つけはほぼ同じだったし、ハンバーグに関してはクローンばりにまったく同じものが出てきた。つまり、彼女とともに過ごしていた期間︵それは九日間だった)、僕は夕飯にカレーかハンバーグのみ食べていたことになる。ときにはカレーのかかったハンバーグというパターンさえあった。
﹁じゃ、シャワー浴びちゃって。私は先に使わせてもらったから」
彼女はそのように言ってきた。それも毎晩のことだった。僕は彼女とはじめて顔を合わせた日︵合コンで知りあった)に寝てから、一度もセックスをしてなかった。それどころか、彼女の裸を見たことすらなかった。﹁恥ずかしいから」などと言って、彼女は着替えるところも見せなかったのだ。一緒のベッドに寝ていても、僕が求めると﹁ちょっと今日は駄目なの。ごめんなさい」と言ってきた。それだって毎晩同じセリフだった。
あとから思えば、すこし︵というか、だいぶん)おかしな部分はあったのだ。それでも僕は﹁明日こそ」と思いながら眠りについた。そして、足早に帰ってきてはカレーかハンバーグを食べた。ひとりでシャワーを浴び、悶々としながら眠った。そういうのを九日間繰り返していた。それは、﹁私って子供の頃から結婚願望が強かったの」という彼女の言葉を信じたからだった。僕だって﹁子供の頃から」ではなかったものの結婚願望は強まっていた。三十三歳になるのだ。そうなってあたりまえだ。
きっとその結婚願望が目を曇らせていたのだろう、まるで天使――と彼女の顔を見つめながら僕はカレーもしくはハンバーグを食べつづけた。十歳くらい年の離れた天使のような子と結婚できるのだ、少々の違和感なんて気にする方がおかしいと思うようにしていた。だって、僕たちは一緒に暮らしはじめていたのだ。結婚は確定したのも同然と思っていた。そうならない理由が見あたらないくらいだった。
しかし、そうはならなかった。
街灯が突然消えた日よりすこし前︵忘れもしない。それは七月八日だった――呪われた日だ)、僕は明かりの洩れる窓をしばし眺め、満面に笑みを浮かべてチャイムを鳴らした。でも、彼女がドアを開けることはなかった。何度かチャイムを鳴らしてから僕は急に不安になった。その原因は拡散していた。幾つか思いあたることがあったのだ。見ないようにしていただけで、それはきちんと僕の中にあった。
ドアに耳をあて、僕は内部の様子を窺った。自分の部屋だっていうのになにしてんだ? とは思っていた。だけど、しょうがない。音はまったくというくらいしていなかった。モーターが動いているようなくぐもった音しか聞こえてこなかった。僕はもう一度だけチャイムを鳴らし、クリーム色のドアをじっと見つめた。それから何日かぶりに自ら鍵をまわし、ドアをひらいた。
雨は強くなっていた。ボツボツボツと音をたてて傘にあたった。街灯は消えたままだった。ちょっとした手違いなどではなく、ほんとうに電球が切れてしまったのだろう。僕はもう一度舌打ちをし、コンビニでビールとカップラーメンを買い、マンションへと歩いていった。
ただ、その途中で立ちどまり、また別の街灯を見あげた。そういえば鷺沢萌子とはじめて会った幾日か前にも街灯が消えたっけな――と思い出したのだ。日付までは憶えてないけれど、確かにそういうことがあった。
いったいこれはどういうことなのだろう? 僕からなにかが放出されていて、それが電球に影響を及ぼしたとでもいうのだろうか? 電磁波的なものかもしれない――そう思って、僕はすぐに首を振った。僕はとくに電磁波に詳しいわけじゃないのだ。人間からそんなのが放出するかなんてことも知らないし、それで電球が切れるのかもわからない。
部屋にたどりつき、明かりをつけると僕は溜息をついた。部屋はまだ荒れたままだった。七月八日、あの呪われた日に見たのとほぼ同じ状態だった。服はあちこちに散らばっていたし、小物の類いは至る場所に転がっていた。鷺沢萌子と名乗っていた二十五、六の女は金目の物をあらかた持ちだし消えていた。鍋︵フィスラーのけっこういい物だった)や食器︵ロイヤルコペンハーゲンのも含まれていた)も持っていかれてたのだ。炊飯器や電子レンジまでなくなっていた︵だから、僕はカップラーメンを食べるしかないわけだ)。そういった意味ではあたりまえのことに通帳や印鑑、キャッシュカードも盗られていた。本棚のとある場所に隠しておいたメインバンクのものだけは無事だったからよかったけれど、七十五万八千円が引き出されていた。九日間かけてあの女は僕から様々な情報を聞きだしたってわけだ。暗証番号もそこから割り出したに違いない。はじめからそういうつもりで近づいてきたプロなのだ。
そして、プロらしく自分に結びつくようなものは一切残していなかった。警察に通報はしなかったけれど︵そんなこと誰にも言いたくなかったのだ)、きっと毛筋一本、指紋一つも残していないはずだ。ただ、唯一残していったものがあった。それは二人でカレーあるいはハンバーグを食べていたダイニングテーブルに置いてあった。一枚の紙切れであり、それも僕のノートから引き千切られたものだった。僕はそいつを手に取り、ひとりで泣いたものだ。
そこには﹃バーカ!!』と書いてあった。
◇◆◇
街灯が突然消えた雨の日から十日後に僕はまた合コンに誘われた。その話を持ってきたのは同期の小林という、いかにも押し出しの強そうな、そして実際にも強引なところのある男だった。営業二課に所属していて︵ちなみに僕は営業一課所属だ)、次の人事では課長補佐くらいにはなれるだろうと囁かれている人物でもある。
僕は前回の相手はどういう集団だったのか彼に聞き糺したことがある。鷺沢萌子が消えた直後のことだった。
﹁どういう集団? あれ? 言ってなかったっけ? ほら、けっこう前に俺がつきあってた子いたろ? ネイリストの」
﹁ああ」と僕は言っておいた。ただ、あまりよくは憶えてなかった。小林はちょくちょく﹃彼女』が変わるのでいちいち憶えるのも面倒なのだ。
﹁その友達がいたんだよ、あの中に。ほら、ちょっと派手目の、顔はそこそこって感じの。――憶えちゃいないか。なにしろお前はずっと一人に集中してたもんな。あの子とはうまくいったんだろ? 佐々木は最近浮ついてて、やるべき仕事も投げだして帰るって評判だぞ」
小林は僕の背中を張り飛ばすようにして笑った。顔をそむけさせ、僕は奥歯を噛みしめた。泣きそうな気分になっていたのだ。
﹁ま、そのちょっと派手目な子が集めてきたんだよ。あの子は飲み屋でバイトしてんだけど、その店の同僚と、その友達とか言ってたっけな。っていうか、自己紹介みたいのはしただろ? お前、それすら聴いてなかったのか? いや、ほんとたいした集中力だな。あの子しか目に入ってなかったってことだもんな。でも、それがどうかしたのか?」
﹁いや、別になんでもないよ」
僕は弱々しく首を振った。あまり手がかりになりそうもないのがわかったからだ。
今度の合コンは小林によると﹁佐々木メイン」で行われるとのことだった。つまり、僕が中心ということだ。
﹁この前のあれ、駄目になっちまったんだろ?」
小林はそう切りだしてきた。僕たちは社食を出るところだった。昼休みは終わり、エレベーターで十二階まで上がることになる。
﹁浮かれてた佐々木が落ちこんだ佐々木になったって聴いたぜ。いまは仕事に打ちこみすぎてて鬼気迫るものがあるってな」
﹁いや、別に、そんなことは」とだけ僕は言っておいた。
﹁いいじゃねえか、隠さなくたって」
肩を正拳で叩くと小林は豪快に笑ってみせた。僕は叩かれた部分を手で押さえた。まあまあ痛かったのだ。
﹁ま、振られることだってあるさ。俺なんてしょっちゅうだ。そんなに落ちこむなよ」
いくらお前だって鍋や電子レンジまで持ち逃げされたら落ちこむだろうよ――僕はそう思っていた。だけど、そんなこと言えない。恥ずかしくて言えるわけもない。小林の横顔を見つめ、唇を歪めるだけにしておいた。
﹁そういうわけで、次のは佐々木メインで組んだってわけさ。もちろん行くだろ? 全員がお前好みになるよう頼んであるんだぜ。もう、よりどりみどりってヤツだ」
こういった人間にはままあることだけど、小林は地声が大きい。エレベーターホールにいた全員に聞こえ渡る声でしゃべっていた。なんの話かもわかるはずだった。これだって恥ずかしいことだ。
﹁楽しみにしといてくれよ。ちょっとばかり時間がかかるかもしれねえけどな。なにしろ、お前好みの子だけを選りすぐらなきゃならねえからさ」
もういいから――と思いながら僕はエレベーターの階数表示を見つめた。ふと小林の方を向くと、彼はなにやら難しそうな顔つきをさせていた。
﹁どうした?」
﹁いや、」
そう言って小林はじっと見つめてきた。それから、僕の全身に視線を這わせた。
﹁不思議だよな。まったく不思議だ」
かなりひそめさせた声を小林は出した。
﹁は?」
﹁モテないはずないんだけどな。お前のことだよ。タッパもあるし、金だってそこそこは持ってるだろ? ギャンブルはしねえし、女遊びもしねえんだから貯まる一方だもんな。それに、顔だってまあまあだ。それなのになんでいつも振られちまうんだ?」
エレベーターのドアがひらいた。僕たちは押されるようにして乗りこんだ。二十人は入れるものだけど、ぎゅうぎゅうになった。
﹁なあ、なんでなんだ?」
小林は耳許に囁いてきた。ほんとしつこい性格なのだ。
﹁そんなの知るかよ。こっちが教えてもらいたいくらいだ」
僕も小声でこたえた。前に立っていた女の子は首をすこし動かして僕たちを見た。
﹁ま、そうだろうけどよ。だけど、ほんと不思議だよな。モテないはずがないんだよ。――ん? お前、呪われてんじゃねえか?」
激しくうんざりした気分に僕はなった。あの件について教えてないのだからしょうがないけれど、どうしてこうまで人の気持ちを逆撫でするようなことが言えるのだろう?
﹁まったくそうとしか思えないよな。うん、思えない」
僕はぶつぶつ呟いてる小林を無視することに決めた。エレベーターは各階止まりで、ドアがひらくたびに人が減っていった。五、六人になったところで僕は﹁ん?」と思った。じっと見つめられているような気がしたのだ。不自然にみえないよう僕は首を動かした。逆側の隅に女の子がいて、僕を見ているようだった。
﹁な?」
小林がジャケットの裾を引っ張った。最大限にひそめた声で耳打ちをしてもきた。
﹁あの子だってお前を見つめてるぜ。モテる男のつらいとこだな。熱い視線ってヤツだ」
僕は睨みつけることで小林を黙らせた。それからもう一度不自然にならないよう気をつけながら隅にいる子を見た。黒くて長めのスカートに白いブラウス、これまた黒いカーディガン、靴も踵のない黒いもの。銀縁の眼鏡をかけていて、その奥にある瞳は僕の方へブレることなく向けられていた。うつむき加減になっているから、顔まではよくわからない。あらゆる特徴を消しこもうとしているような印象というのがわかるだけだ。しかし、その子がどういうつもりでそんなふうにしてるかは別にして、消すことのできない特徴を持っているのは確かだった。背がえらく高いのだ。僕は一八三センチある。それでも彼女の視線は仰角になっていなかった。僕はまた﹁ん?」と思った。彼女の視線が向かう先は顔じゃないようだった。左肩辺りを見ているのだ。もしくは、そのすこし上に視線は向けられていた。
エレベーターがとまった。十二階だ。僕と小林はそこで降りた。ドアが閉まる間際に僕は振り向いた。そのとき彼女は首をすこしだけ上げた。頬にかかっていた髪は払われ、すこしだけ顔が見えた。それでも視線は僕の左肩へと向けられていた。ドアは完全に閉じられた。
﹁な、あんな子いたか?」
僕はドアを見つめたまま言った。
﹁ん? ああ、さっきお前に熱い視線を送ってたのか? 確かに見かけない子だったな。でも、むちゃくちゃ地味だったし、気づかなかっただけかもしれないぜ」
﹁あんなに背が高いのに?」
小林は目を上へ向けた。きっと思い出そうと試みたのだろう︵彼の頭の中には女子社員のリストが埋めこまれているのだ)。しかし、諦めたように首を振った。
﹁いや、やっぱりわからないな。思い出せない。もしかしたら新しく入った派遣かもしれねえしな。――だけど、いまので自信がついたろ? お前はモテるんだよ。その要素は持ってる。だから、次の合コンにも出た方がいい。うん、こりゃ決まりだな。そうだろ?」
大声でそう言いながら小林はトイレへ入っていった。
ところで、僕には気になることがもうひとつあった。それは、犬についてだ。
まあ、とりたててどうという話でもないのだけど、なんとなく犬に見つめられることが多いように思えるのだ。街中を二人連れだって歩いていても、散歩中の犬に出会すと僕だけを見ていたりする。三人で歩いているときも、もっと大勢であっても同じだった。犬は首をあげて僕を見る。吠えたりはしない。ただ、なにか言いたそうな顔をして見つめるだけだ。
そのことが気になりはじめたのは人に指摘されたからだった。それもひとりふたりからではない。それだって記録をとってないから正確ではないけど、おおよそ五、六人から言われたことがある。はじめに言ってきたのは五年前に別れた彼女だった。念のため書いておくと、彼女は現実離れした物の見方をするようなタイプじゃなかった。どちらかというと僕よりシビアに現実を見ていたのだと思う。だから、僕たちは別れることになったのだ。
﹁ほら、また犬が見てるわよ」
公園を歩いているときに彼女はそう言ってきた。
﹁私のことなんか見向きもしないのに、じっとあなたを見てるわ」
﹁は?」と僕は言った。﹁犬が見てる? なんのことだ?」
﹁気づいてなかったの? あなた、よく犬に見つめられてるのよ。さっきだって通り過ぎた犬がずっと見てたわ。その前にもあった。今日だけで何匹の犬が見つめてたかわからないくらいよ」
﹁そうなのか?」
僕は彼女が示した方を見た。確かに柴犬が首を傾げながら僕を見つめていた。飼い主が引き綱をぴんと張って連れていこうとしてるのに足を踏んばって動こうとしなかった。
﹁美早紀のことを見てるのかもしれないだろ? こっちは見てるけど俺を見てるとは限らないじゃないか」
﹁ううん、違う。あれはあなたを見てるのよ」
まあ、それでも別にかまわないけど――とそのときの僕は思った。犬に見られたからといってとくに困ることはないのだ。ただ、それ以降よくそういう指摘を受けることになった。鷺沢萌子だって同じように言ってきたことがある。
﹁なんか、あの子︵ポメラニアンのことだ)ずっとあなたを見てるわね」
それは雨の降る夜中にビールを買いに行ったときのことだった。飼い主を待っていたのだろう、そのポメラニアンは明るい店内の方を見ていた。しかし、僕たちが近づいていくと顔をあげた。彼女の言ったように僕だけを見ているようだった。
﹁なんで? 私の方はまったく見ようとしない。見えないのかな?」
鷺沢萌子は腰をかがめ、ポメラニアンに近寄っていった。しかし、邪魔な遮蔽物があらわれたとばかりにポメラニアンは首を伸ばして僕を見つづけた。それでも近づくと激しく吠えはじめた。歯を剥き、毛を逆立て、興奮のためかくるくると回転もしていた。
﹁なによ、この子、私のことが嫌いなの?」
彼女が諦めて離れるとポメラニアンは吠えるのをやめた。首を伸ばし、さっきまでの興奮を忘れたかのように僕をじっと見た。
――と、まあ、それだけのことではあるけれど、だいたいいつもこのように僕は犬に見つめられることになった。いや、そういうのはよくあることで僕にしか起こらないことではないのだろう。なぜか犬に見つめられると感じている人は多いのかもしれない。しかし、気にはなる。
街灯が突然消えるなんてのを何度も経験してる身にとっては、このこと――犬に見つめられるというのも、なんらかの因果関係の内に含まれているのではないかと考えてしまうものだ。たとえば電磁波が僕から放出されていて、それは電球にも影響をあたえ、犬もそれを気にしてしまうとか。まあ、電磁波に詳しくない僕がそう考えるのに根拠はまったくない。ただ、どのようなことであれ自分の身のまわりに起こる現象に説明をあたえたいと思うのは人間の性のようなものなのだ。そして、僕はその性向が人よりも強いのかもしれない。
部屋はまだ荒れ放題になっていた。僕には片づけをする気力も残ってなかったのだ。持ち出された物たち――鍋や炊飯器や電子レンジ、それにコーヒーメーカーもだ――を新たに買いに行きたいと思っていたけれど、それも億劫だった。あるいは、心的な外傷のせいで動けなかったのかもしれない。騙されたショックが大きすぎて、その瞬間から立ちどまったままになっていたのだ。僕は仕事に打ちこんでいた。小林が言っていたように﹁鬼気迫る」勢いで仕事に励んだ。残業だって毎日していた。気がつくと部署内に残ってるのは僕だけということもあった。
その日もひとりで残っていた。疲れ果てた僕は背筋を思いっきり伸ばしてから立ちあがり、帰り支度をした。嫌だと思っていても帰らないわけにはいかないのだ。まあ、いずれは立ちなおることになるだろう。あんな女のことは忘れ去り、部屋も元通りにし、それまでのペースを取り戻すのだ――なんてことを考えながらエレベーターを待っていた。
ドアがひらくと、この前の女の子がいた。僕の左肩すこし上を見つめていた子だ。乗っていたのは彼女ひとりだけだった。操作パネルの前に身を縮めるようにしていて、頬にかかる髪が顔を隠していた。ただ、僕を見て身体を強張らせたのはわかった。
﹁お疲れさまです」
僕はそう言っておいた。彼女の怯え様︵たぶんそうなんだろう)を訝しみはしたけれど気にしないようにした。
﹁お、お、お疲れさまです」と彼女も言った。全体的に震えてるような声だった。それに、語尾までたどりつく前に消え去ってしまうほどの小ささだった。僕は操作パネルを覗きこんだ。①になっていた。それを確認したかっただけなのだけど、彼女は身体をさらに強張らせた。髪は長く素直で、それが顔を半分以上ほど見えなくしていた。細いフレームの銀縁眼鏡をかけていて、化粧をしているかはわからなかった。まあ、していたとしても薄くだけなのだろう。服装はこの前と一緒か、変わったところがあっても気づけない程度だった。紺色の小振りなバッグを腕にかけているのだけが違うくらいで、あとは白か黒に覆いつくされていた。背はおそろしく高く、きっと一七五センチはあるに違いなかった。線も細く、スカートから伸びた脚は僕の腕ほどしかなかった。
無音に近い状態でエレベーターは動きつづけた。⑩に行き、⑨に進み、⑧へと降りた。そのあいだ誰も乗りこんでこなかった。⑥の表示がオレンジ色に変わったとき、彼女は突然声をあげた。操作パネルの方を向いたままでだった。
﹁あっ、あっ、あの、」
﹁はい?」と僕は言った。それでも彼女はこっちを見ようとしなかった。
﹁い、いえ、」と彼女。﹁す、す、すみません。な、なんでもないんです」
④の表示がつき、③になった。僕はゆっくりと首をまわした。緊張が伝染したような気分だった。首筋は嫌な音をたてた。
﹁あっ、あの、」と彼女はまた言った。
﹁はい?」と僕。そのときエレベーターは地上に着いた。僕たちは降りてから向かいあった。ただ、彼女はうつむいていた。
﹁なにかご用でも?」
僕はそう訊いてみた。小林の言ったこと――﹁熱い視線」が頭をよぎった。しかし、この子の視線は左肩すこし上方に向けられていたんだと思いなおした。
﹁あっ、あっ、あの、さ、さ、佐々木さんで、よっ、よ、よろしいんですよね?」
さらに頭を下へ向けながら彼女は言った。僕は彼女のつむじ辺りを見ながら︵どうしてもそうなってしまうのだ)、顔をしかめさせた。なぜ名前を知ってるんだ? と思っていたのだ。
﹁ええ、佐々木ですけど?」
﹁あっ、あの、」
彼女は勢いよく頭をあげた。頬にかかった髪が後ろへと流れ、顔全体がやっとのことであらわれた。だけど、一瞬だった。すぐにうつむいてしまった。
﹁わ、わ、私、お、お伝え、し、し、しなければ、な、な、ならないことが、ごっ、ご、ございまして――」
ございまして? と僕は思った。すごい言葉づかいをする子だな。
﹁なんです?」
﹁い、い、いえ、あ、あまり、こ、ここでは、」
そう言って彼女は周囲を窺うようにした。警備員が立哨してるだけで他には誰もいなかった。受付にも人はいなく、隅の方は薄暗くなっていた。僕は時計を見た。ま、十一時にもなればそうなるよな。だけど、この子はなにを僕にお伝えしなければならないんだ?
﹁あの、失礼かもしれませんが、あなた、お名前は?」
彼女はまた勢いよく頭をあげ、僕をまじまじと見た。そのおかげで顔をしっかり見ることができた。眼鏡の度が相当きついようで目はそのものより大きく見えるのだろう。しかし、もともと大きそうだった。鼻は高く、薄く、筋が通っていた。痩せてるせいか顎はV字になっていて、頬にはもうすこし膨らみがあった方がいいけれど、全体的には整った顔立ちといえた。化粧も薄くしているようだ。
﹁あっ、い、いえ、す、すみません。な、な、名乗りも、し、しないで、こ、こんなこと、い、い、言うなんて。そ、その、わ、私、すっ、す、すこしだけ、きっ、き、緊張して、い、いたものでして、」
僕はわかりにくいように溜息をついた。名前を聞くだけでだけでどれだけ時間をとるんだよ――と思いながらだ。そもそも僕はこういうタイプが好きじゃない。はっきりものを言えない人間を見るとそれだけで苛々してしまうのだ。
﹁で、お名前は?」
﹁あっ、ほ、ほんと、す、すみません。な、な、名前でしたね。わ、私は、しっ、しっ、篠崎、篠崎カミラと、も、申します」
どうして自分の名前でどもる? と思い、僕はさらに苛々した。しかし、フルネームを聞いて﹁は?」と思った。篠崎カミラ?
﹁ハーフ?」と僕は訊いた。いや、まあ、きっとそうなんだろう。そう考えれば背がえらく高いのもわかる。顔立ちだってそういう感じに思えた。
﹁い、い、いえ、ク、クォーターです。そ、そ、祖母が、ア、ア、アゼルバイジャン人でして」
アゼルバイジャン人? と思い、僕はその辺で疑問を持つのはやめることにした。いちいちそんなのに引っかかっていたら夜が明けてしまう。
﹁それで、その篠崎さんが僕に伝えたいことってなに?」
彼女はまた顔を伏せた。
﹁ひ、ひ、非常に、じゅ、じゅ、重要な、こ、ことなんです。さ、佐々木さんにとって、す、す、すごく重要なこと。で、で、でも、こ、こ、ここで話すのは、は、憚られる、よ、よ、ような、こ、ことなんです」
﹁重要なこと?」
僕はすこし大きな声を出した。彼女は顔を伏せたままうなずくようにした。それから、そっと首をあげて僕の左肩辺りを見つめた。
﹁そう、重要なことです。聴いておいた方がいいこと。佐々木さんの今後に関することなんです」
そのときだけ彼女はどもらなかった。僕は目を細めた。彼女の瞳には光が入ったようだった。その輝く瞳で僕の左肩すこし上方を見つめていた。ただ、このときの僕は疲れ果てていた。遅くまで残業していたのもあるし、この一連のやりとりでも疲れていた。それに、ほぼ初対面の子がそんな重要なことなんて知るわけないとも思った。
﹁悪いけど、今日は疲れてるんだ。またにしてくれないかな。機会があったら」
彼女は目を激しく瞬かせながら僕を見ていた︵視線は顔に移っていた)。それから、唇を噛み、またうつむいた。
﹁そ、そうですか。で、で、でも、き、き、聴いた方が、い、い、いいですよ。わ、私は、しっ、しっ、知ってるんです。さ、佐々木さんに、お、起こったことも、こ、こ、これから、お、お、起きることも」
疑問に思うことはたくさんあったけど僕は首を振ってそれらを吹き飛ばし、謎のアゼルバイジャン系クォーター篠崎カミラを残したまま会社を出た。足早に駅へと向かいながら、宗教の勧誘とかかな? くらいに思っていた。
翌日は朝から営業先に直行だった。考えていたのより早く身体があいたので僕は小林と待ちあわせて昼食を一緒にとることにした。訊きたいこと――というか、話したいことがあったのだ。僕たちは新宿三丁目ら辺の飲食店が建ち並ぶ細い路地にいた。一時半を過ぎていたけれど、そこには似たような身なりの者がたくさん出ていた。営業の人間は十二時きっかりに食事をするという習慣がない。そうしたくてもできないのだ。一時半なんてのはまだマシな方だった。
﹁なに食う?」
小林は扇子で顔をあおぎながら看板を眺めていった。
﹁俺はムカつくことがあったから食って発散したい気分なんだ。そうだな、米がいい。米を思いっきり食いたい。それに肉っぽいのがいいな。――お、ここにしないか? ﹃実家のカレー』って書いてあんぞ。お袋の味っぽいカレーってことだろ? いいねぇ。俺はそういうのが食いたいんだ」
僕は顔をしかめさせた。
﹁いや、カレーはなしだ」
﹁じゃ、こっちにしようぜ。肉汁たっぷりハンバーグだとよ。ビーフ100%、つなぎ無し。その割にゃ安い。うん、ここにしようぜ。俺の食いたいもんばかりが揃ってる。こりゃ、待ちかまえてたんだろうな。あのくそハゲジジイに嫌味言われたのも織りこみ済みだったってわけだ。今日はこの店で厄払いするようにできてたんだ。な、ここでいいだろ?」
﹁駄目だね。ハンバーグも却下だ。名前も聞きたくない」
﹁なんでよ?」
しばらく僕は考えた。ほんとうのことは言いたくなかった。言うくらいならこの場で腹を切ったっていい。ただ、小林はハンバーグが肉汁を垂らしている看板を見つめつづけていた。
﹁トラウマになってんだよ。カレーとハンバーグは俺のトラウマなんだ」
﹁カレーとハンバーグがトラウマになってる? なんだそりゃ。お前、ちょっと前まではがつがつ食ってたろ?」
﹁まあ、ちょっと前まではそうだった。でも、いまは違う。とにかく他を探すぞ」
﹁ふうん」
小林は名残惜しそうに看板を見つめていたけれど、﹁待てよ」というような表情をさせた。それから、にんまりと顔を歪めさせた。
﹁なるほど」
﹁なにが﹃なるほど』なんだよ」
﹁いや、ま、それを言っちまったらお前さんが傷つくってもんだ。そうなんだろ? ん?」
僕はしばらくニヤけた顔を見つめ、﹁ふんっ」と鼻を鳴らした。
けっきょく僕たちは中華料理屋に入った。小林は〈青椒肉絲定食〉にし、僕は〈牛肉の八角炒め定食〉というのにした。料理は驚くほどのスピードで提供された。涼しい店内は混みあっていて、厨房から怒号のような中国語の応酬が聞こえていた。
﹁で、話したいことってのはなんなんだ?」
小林は大振りな茶碗にこれでもかと盛られたご飯を愛おしそうに眺めていた。深くうなずいてすらいた。
﹁この前、俺を見つめてた子いたろ?」
﹁ああ、いたな。えらく地味な子。でも、ありゃ、お前のタイプじゃないだろ?」
﹁まあね」
僕は肉を噛みながらこたえた。味は悪くないけれど茴香の香りがきつ過ぎた。とはいえ、カレーやハンバーグよりかは断然こっちの方がいい。
﹁だけど、そういう話じゃないんだ。それに、あれは俺を見つめてたんじゃない。なにか違うもんを見てたんだ。実際、あの子の視線は――」と僕は左肩を指した。﹁この辺に向けられてた」
﹁なんだそりゃ。なんでそんなとこ見るんだよ」
﹁わからないよ、そんなの。でも、とにかくあれは俺を見てたんじゃない。あの後、エレベーターで二人きりになったんだ。そんときも肩の上を見てた。で、話しかけられた。しかも、なぜか俺の名前を知ってた」
﹁ふうん」
小林はうなりつつ箸の先を舐めた。なにか考えてるような顔つきはしてたけど、なにも考えてないのはわかっていた。こういう表情のときはたいていそうなのだ。
﹁でもよ、その子はお前の名前を知ってたんだろ? そりゃ、お前に興味があるってことだよな。だって、うちの会社にゃ、アホかってくらい社員がいるじゃねえか。ま、ほとんど使えない連中だけど、とりあえず頭数だけは揃ってるもんな。そん中で名前を知ってるってのは、つまり興味があるってことだろ? ありゃ、お前の麗しい顔を見つめてたんだよ。肩じゃない。だいいち肩を見つめる理由が思いつかない。違うか?」
一息にそう言うと小林は青椒肉絲を流し込むかのようにして食べた。
﹁で、なに話したんだ? 話しただけじゃなく食っちまったんじゃねえのか? お前は意外に手が早いからな。そのくせ長くつづかねえんだよな。――ん? お前、セックスがありえないくらい下手なんじゃねえか? それか持ち物がシメジくらいしかないとかな」
水を注ぎにきたホール係の女の子は小林が言ったのを聞いて僕を見つめ、それから目を下へと向けていった。僕は激しくうんざりした。
﹁手なんか出さないよ。ああいうのはタイプじゃない。――いや、そういう話じゃないんだって」
﹁じゃ、どういう話なんだよ」
僕は考えこんでしまった。これはどういう話なんだ? とだ。そう考えているとなんとなくの違和感を持ってることに気づいた。全体的になにかがおかしいのだ。突然消える街灯、なぜか見つめてくる犬、それに左肩を見つめる女まで出てきた。しかも、その女は﹁重要なこと」を伝えたいと言ってきた。僕になにが起こったか、そしてなにが起こるのか知ってると。――まったく、なにがなんだかわからない。
小林は皿にのったのを全部たいらげると冷たい中国茶を一息にあおった。それから、顔を近づけて僕を見てきた。
﹁なんなんだよ、その顔は。パッとしねえぞ。まったくパッとしねえ。――で、お前も名前くらいは訊いたんだろ?」
﹁ん? ああ、篠崎カミラっていうらしい」
﹁カミラ? ハーフか?」
﹁いや、クォーターだってよ。お祖母さんがアゼルバイジャン人なんだってさ」
小林は顔をしかめさせ、首を弱く振った。
﹁その辺のことはもういいや。なんだか疲れてきた。よくわからないけどむちゃくちゃ疲れた。それで、なにを言われたんだ?」
僕も話してるうちに疲れてしまった。妙な感じの疲れ方だった。自分が経験したことの内部に理解しがたいことが存在してるように思えたのだ。それまで普通だと考えていたことが在り方はそのままに有り様を変えてしまったような感じだった。
﹁なに固まってるんだよ。ほれ、なに言われたんだ? そのカミラちゃんに」
﹁なんだかよくわからないんだけど、重要なことってのを伝えたいって言ってきた。面倒だから聞かなかったけどね」
﹁ふむ」
小林は爪楊枝を使いながら目を上へ向けていた。これはほんとうに考えてるときにする表情だ。
﹁重要な話っていったら、そりゃ愛の告白だろ? それ以外になにがあるってんだ?」
爪楊枝をふたつに折ると、小林は決めつけるようにそう言った。僕はいろんなことを諦めた。人選を誤ったのだ。こういう混みあった話をする相手として彼は適当な人物じゃない。そんなのわかりきったことだったのに僕はまたしても失敗したわけだ。考えてることを察してか、小林は鼻の先を指でこすりながらこう言い添えた。
﹁うん、ま、その、なんだ、――まとめるとだな、アゼルバイジャン系クォーターのカミラちゃんはなぜかお前の名前を知ってた。で、重要な話ってのをしようとした。お前はそれを聞かなかった。ま、なんとなく気持ちはわかるけどな。それで、その不思議なカミラちゃんは俺たちよりも上の階の住人ってことだよな? 十三階か十四階っていうと総務か秘書だろ? ああいうタイプは秘書にいねえから、つまりは総務ってことになるな。――よし、同期会を急遽執り行おう。そうなりゃ、清水も来るだろ? そんとき訊こうぜ。カミラちゃんがどういう子かってのと、どうしてお前をつけ狙うかってのをな。それでいいんだろ?」
◇◆◇
僕は部屋の片づけをはじめた。それは被害状況を克明にしていく作業でもあった。ああ、あのジッポライターも盗られたんだな――などと思いながらの片づけだ。そのライターは五年前までつきあってた彼女︵犬に見つめられてると指摘してきた子だ)から貰ったものだった。煙草はやめたのでもう使わないものだけど、それでも思い出の品だったのだ。そのちょっと後に半年ばかりつきあった子から貰ったネックレスもなくなっていた。まあ、それだって趣味に合わないから使ってなかったけど、盗られたと思うと悲しいものだ。
休日には集中して片づけをした。そうしなくてはならないくらい部屋は散らかっていた。朝からはじめ、コンビニの弁当を食べてからもずっとつづけた。三時くらいには疲れ果て、ちゃんとしたコーヒーを飲みたい気分になった。ただ、コーヒーメーカーもなくなっていた。1/3ほど整理のついた部屋を眺め、僕は腕組みをした。溜息は自動的に洩れた。コーヒーを飲まない限りはもう動けない――と思った。こんな馬鹿げた、なおかつ悲しい作業をつづけるには燃料が切れてしまったのだ。
適当に文庫本を取ると︵それも床に放ってあったものだ)、僕は十五分ほど行ったところにある喫茶店へ向かった。なにもその日のうちに全部片づけなきゃならないわけじゃないのだ。ゆっくりやっていけばいい。きっとこれは犯した過ちにたいする罰であり、すこしずつ解消していくしかないのだろう――なんてふうに考えながら歩いていると、子供の頃に読んだ話を思い出した。なにかの罰で大きな岩を押し運ぶよう命じられた男の話だ。その男は急な斜面の頂上まで岩を運ばなければならない。しかし、運び終えたと思った先から岩はもとの位置まで転がり落ちていく。何度も何度も、未来永劫にわたって、その男は大きな岩を運びつづける。それに終わりはない。なにしろ神罰だから。ま、それに比べたら僕にあたえられた罰はずいぶん軽いものだ。不本意ながら持ち物も以前より減っているわけだし、いつかは終わる。
ちなみに、喫茶店にたどり着くまでのあいだ僕は三匹の犬に出会した。散歩中のが二匹――黒いレトリバーと名前を知らない正面から見ると薄っぺらい大型の犬だ。その二匹ともが僕をじっと見つめ、飼い主を困らせていた。もう一匹は雑種の白い犬で、門扉の隙間から鼻を出し、やはり僕をじっと見た。首を傾げ、なにか言いたそうな表情をしていた。
僕は落ち着かない気分になった。見えないなにかがくっついていて、それを犬たちは見てるんじゃないか? などと思って首や肩の辺りを気にしながら歩いた。馬鹿らしいけど、そうでなかったらなぜ犬たちは僕をじっと見つめるんだ? ほんと理解できないことばかりが起こってる。僕は理解できないことに取り囲まれているのだ。
喫茶店は混んでいた。僕はカウンターの空いていた席に座り、深煎りのコーヒーを頼んだ。それから、持ってきた本を開いた――﹃ワインズバーグ・オハイオ』だった。学生の頃に一度読んだだけの古ぼけた文庫本で、まだ持ってるとも思ってなかったものだ。適当にページを捲り、僕はコーヒーを飲みつつ、それを読んだ。ただ、思考はあらぬ方へと進んでいった。突然消える街灯、なぜか見つめてくる犬、篠崎カミラが伝えたかったこと。当然のことに鷺沢萌子のことも頭に浮かんだ。あの天使のような顔。寝顔だって愛くるしかった。僕は悶々と過ごした九日間に幾度もその寝顔を見つめたものだ。あんなことをしでかすとは思えない顔をして彼女は眠っていた。
僕は本を閉じた。なにかやむを得ない事情があって、結果的に騙すことになったんじゃないか? と考えてみた。たとえば父親がたちの悪い借金を拵え、ヤクザに拉致されてるとか。あるいは母親が不治の病なのかもしれない。緊急手術が必要だけど、それには七十五万もの金が必要だ。それをいったん借りただけというのもありえる。――いや、それじゃ﹃バーカ!!』の説明がつかない。鍋や食器まで持ちだした理由にもならない。僕はコーヒーを飲み、組みあわせた手に顎をのせた。泣きたい気分になっていた。確かに馬鹿ですよ、と思った。素性も知らない女を部屋に住まわせ、電子レンジまで持ち逃げされたんだから馬鹿には違いない。だけど、僕だっていろいろ訊いてはいたのだ。どこの出身かとか、親兄弟のこと、それまでどこでどのように暮らしていて、いまはどういう状況なのかなどをだ。鷺沢萌子はそれらに全部きちんとこたえた。朗々と淀みなくこたえたのだ。そして、﹁ちょっと困った状態なの」と言ってきた。
﹁ルームメイトがいるんだけど、その子が男関係で揉めちゃって、すごくナーバスになってるの。前に勤めてたお店の子なんだけどね、彼女、自殺未遂までしちゃったのよ。相手の男がたちの悪い奴で、私たちのマンションを見張ってるみたいなの。だから、その子も別の友達んとこに身を隠してるってわけ。私もそこに戻りたくないの。もし、ストーカー男に捕まって﹃彼女の居所を教えろ』みたいなことになったら大変でしょ? そういうわけで、私、帰るとこがないのよ」
コーヒーをちびちびと飲みながら、僕は鷺沢萌子が語ったことを洗いなおしてみた。その上で、瑕疵はない――と思った。ありそうな話だ。まあ、少々ドラマチック過ぎるとは思うけど、納得できる。そして、あのときの僕は完全に納得してしまったわけだ。
﹁じゃ、うちに来るか?」と僕は言った。ホテルのベッドで僕たちは話していた。二人とも裸で、さらさらした布団にくるまっていた。
﹁そんな、悪いわ。だって、私たちさっき会ったばかりじゃない」
鷺沢萌子はそのように言ってきた。
﹁悪いことなんてないよ。そうしてくれた方がうれしいんだ」
僕は天使のような顔を見つめた。彼女も同じように僕を見つめていた。僕たちはそれから唇をあわせた。
﹁ありがと」
唇を離す瞬間に、鷺沢萌子はそう囁いた。
いまとなってはその名前だってほんとうのものかわからない。出身が秋田だというのも、父親が水産加工の工場を経営してるというのも、大学生の妹がいるというのも、アパレルの店員をしていたというのも全部嘘なのだろう。だから、ストーカー男につきまとわれているルームメイトだって存在しないのだろうし、彼女には帰る場所もちゃんとあったのだ。鍋や皿や炊飯器は売り払い、僕のことを﹁バーカ!!」と思いながら札束を数えているのだ。
なんだか本格的に泣きたくなってきた。僕は天井を見つめながら首を弱く振った。部屋に戻り、片づけを再開しよう。心的な外傷にとらわれていては駄目だ。立ちなおるのだ。よし、小林がセッティングしつつある合コンに行こう。そこで新たな天使を見つけてやるんだ――そのように僕は考えた。その思いが強すぎたのだろう、カウンターから店員が教えてくれるまで声をかけられていることに気づかなかった。僕は振り向いた。それから首を思いっきり上げた。そこには篠崎カミラが立っていた。
﹁あっ、あっ、あの、」と彼女は言った︵たぶんずっとそう言っていたのだろう)。
﹁篠崎さん?」
僕はそう言ってから辺りを見渡した。彼女は﹁そうです。私は篠崎カミラです」とでもいうように激しくうなずいていた。あとをつけられているんじゃないか? と僕は思った。この店で会社の人間と出会したことなんて一度もなかったのだ。
﹁あっ、あっ、あの、わ、私、び、び、びっくりしました。だ、だって、さ、佐々木さんが、い、いるって、い、いままで、き、き、気づかなかった、も、ものですから」
﹁ってことは、君は前からここにいたの?」
僕はそう訊いた。彼女はまたもや激しくうなずいた。
﹁そ、そ、そうなんです。も、もう、か、帰るとこなんです。きょ、今日は、せ、せ、先生と、いっ、い、一緒で、」
レジスターのある方を見て、僕は気づかれぬように溜息をついた。そこには黒い幅広の帽子をかぶった少し太めの女が立っていた。着ている服も上下ともに黒で、黒い長財布まで手にしていた。全身黒ずくめというだけでもたんまり存在感があるのに、その女は長い︵へそ辺りまで伸びるほどの)ネックレスをじゃらじゃらと何本もかけていた。まったくいかにもな人物だ。宗教的な、あるいはスピリチュアルな臭いがぷんぷんとしてくる。僕に見られてるのに気づいたのだろう、その女は唇の両端をあげて笑顔に近いものをつくった。ただそれは一瞬のことで、すぐ真顔になった。目を細めさせてもいた。僕を――いや、僕を透過した先を見てるような目つきだった。
﹁あっ、あっ、あの、さ、佐々木さん、こ、この前の、お、お話、で、で、できれば、は、早いうちに、お、お時間を、つ、つくって、も、もらえませんか? と、とても、じゅ、重要な、こ、ことなんです。ほっ、ほ、ほんとうに、じゅ、重要なんです」
篠崎カミラは覆いかぶさるようにしながら話しかけてきた。ただ、その声はか細く、弱く流れるBGMにすらかき消されてしまうほどのものだった。僕は彼女が話してるあいだずっと黒ずくめの女を見ていた。
﹁カミラ!」
女は地響きするような声をあげた。呼ばれた方はびくんと身体を強張らせ首をそちらへ向けた。
﹁来なさい! 帰るわよ!」
﹁あっ、あの、さ、佐々木さん、」
僕は肩をすくめさせ、﹁呼ばれてるよ」とだけ言った。篠崎カミラは背筋を伸ばし︵そうなると急に巨大化してみえた)、唇を引き締めさせた。それから遠慮がちに、しかし、しっかりとわかるように溜息を洩らした。
彼女たちが店を出ると僕はぬるくなったコーヒーを口にした。いったいなんだったんだ? 偶然なのだろうけど、よりによって篠崎カミラがあらわれるとは。それに、妙な連れまでいたし、それを﹃先生』と呼んでいた。まったくわけがわからない。理解しがたいことが増えすぎているのだ。
僕もほどなくそこを出た。立ちなおろうとしていたのをふいにされた気分だった。あのえらく背の高い女はどうしてこうまで﹁重要なこと」ってのを伝えようとするんだろう? だいいち、それはどんなことなんだ? 僕は渋面をつくり、首を振った。気になることが多すぎて片づけする気は失せていた。目に見えないわかりにくい疑念の他にも気になることがあったのだ。それは篠崎カミラから受けた印象に原因があるようだった。しかし、そっちはすぐに解消された。僕は立ちどまって、意味もなく振り返った。――そうか、彼女、眼鏡をかけてなかったな、と思った。
◇◆◇
合コンは三週間後の金曜に決まったようだ。僕は行くとも行かないとも言ってなかったのに、話だけは進んでいるようだった。
﹁もうヤバいぞ。今度のはほんとにヤバい。佐々木シフトで組んでるからな、お前が来ないとはじまらないようになってる」
小林はそんな感じに言ってきた。
﹁この前も言ったよな? 全員がお前好みなんだぜ。完全にストライクゾーンだ。どこに振っても当たるようにできてる。ま、こりゃ、いわば接待だな。接待合コンだ」
あまりにもしつこいので僕はうんざりしはじめていた。それに、小林がどういうふうに僕の好みを考えてるかもわからないのだ。一応だけ、確認のため僕はこう訊いてみた。
﹁それで、俺のタイプってのはどういうのだ?」
﹁そりゃ、派手目で、こう、メイクもばっちりって感じの、それでいて乗り切れてないような、ちょっと田舎くさい子だろ? ああ、あと、すこし馬鹿っぽいってのもあるな。背は低く、年は若い。二十代じゃなきゃ駄目だ。これは絶対だ。違うか?」
小林は躊躇することなくすらすらとこたえた。まあ、確かに要約すればそういうことになるのだろう。ただ、引っかかりはする。
﹁じゃ、今度の合コンは全員そういうのが来るってことか? 派手目だけど乗り切れてない、田舎っぽくて馬鹿っぽい、小柄な二十代ってことか?」
僕はあえてそう言うことで気づきの呼び水をあたえたつもりだった。そんな女の子がタイプってなると僕自身も頭の悪い人間みたいじゃないか――と思ったからだ。しかし、小林はこともなげにこう言った。
﹁ん? ああ、その通りだよ。全員が派手目で馬鹿っぽい二十代だ」
僕は手で額を覆うようにした。遠回しに言ったって通じる相手でないのはわかってるのに、どうして似たような過ちを繰り返してしまうのだろう。でも、諦めるしかない。暗澹たる顔つきをさせてるのにも気づかないのだから、まったく話にならない。
﹁五人来る。そのうちのひとりは、ほれ、この前んときと同じ子だ。俺が昔つきあってたネイリストの友達だよ。そいつにオーダーしといた。若くて、ちっこい、派手目な子がいいってな」
﹁ちょっと待て」
小林がしゃべってるのを遮って、僕は手をあげた。
﹁この前のときと同じ子が来るってのか?」
﹁え? ああ、そうだけど?」
手をあげたまま僕はしばらく考えた。これを話してたのは同期で集まって飲んでいたときで、僕たちは安いチェーン店の居酒屋にいた。ちょっと前に小林が﹁急遽執り行う」と言っていた同期会が実現したのだ。つまり、これは篠崎カミラについて同じ部署であろう清水に訊くためのものだった。ただ、発案者である小林はそのことを忘れてるようだった。実際、妙に酸っぱいレモンサワーを飲みながら、僕たちはかれこれ一時間ばかり下らない話しかしてなかった。
﹁なんだよ。どうした? おい、まさかあの子を狙ってんじゃないだろうな。ありゃ、よしといた方がいい。顔があまりよろしくないだろ? お前はもっと上を狙える人間のはずだ」
小林が喚くようにしゃべっているあいだ僕は手をあげつづけていた。﹁すこし黙っててくれ」と示したつもりだ。僕が考えていたのは、であれば鷺沢萌子のことも聴けるんじゃないか? ということだった。小林言うところの﹁顔があまりよろしくない子」と鷺沢萌子とにはなんらかの繋がりがあるはずだ。もしかしたら彼女がいまどこにいるか知ってるかもしれない。
﹁なんだよ、固まっちまってよ。――ん? そうだ、思い出した。清水、お前に訊きたいことがあったんだっけ」
僕が沈思黙考してるあいだに小林は本来の目的を思い出したようだった。もしくは、どこまでも僕を酒の肴にしようという肚づもりがあるかだろう。
﹁ん?」
﹁いや、お前の部署に新しい女の子が入ってないか? 背がえらく高くて、やけに地味な子だよ」
﹁ああ、あの子な」
清水はちょっと顔をしかめさせた。
﹁ふた月ばかり前に来たんだ。よくは知らないけど、どうも縁故採用らしい」
﹁縁故採用? 偉いさんの子供とか親戚とかか?」
﹁だから、知らないんだよ。ちょっと前まで別の会社のやはり総務にいたんだそうだ。だけど、本人がああだろ? あまり自分のこと話さないんだよ。話しかけても﹃はい』と﹃いいえ』くらいしか言わないしな。ああいうのはめずらしいよな、最近」
それまで別種の下らない話をしていた二人も顔を向けてきた。﹁めずらしいってなにが?」と広報部の望月が訊いた。清水は面倒そうにこたえた。
﹁なんて言うのかなぁ。ま、簡単にいえば暗いんだよ。いつもどんよりしてる。さっき小林も言ってたけど、背がえらく高いんだ。佐々木とそこまで変わらないんじゃないか? ま、それくらいでかいんだ。しかも、クォーターらしいんだ。それなのにってのも変だけど、まあ暗いんだ。こう、髪がいつも頬にかかっててさ、たいがいはうつむいてる。目を合わそうともしないし、ずっとひとりでいるよ。昼休みもぷいっとどっかに行っちゃうしな。うちの女子どもも持て余してる。いや、入ってから間もないから、そのうち馴れるかもしれないけどな、お互いに」
清水が口を閉ざすと、なんのためかもわからない沈黙が訪れた。僕たちは互いを見あった。篠崎カミラを知っている三人︵僕、小林、清水だ)は背中を震わすようにした。知らない二人はそれを見て首をすくめさせた。
﹁それって怖い話とかじゃないよな? その子は実在してるんだろ? お前たちにだけ見えてるってわけじゃなく」
望月は真顔でそう言ってきた。
﹁まさか。っていうか、お前たちの方こそあんな背の高い女を見たことないなんておかしいぜ。目立つはずだけどな。エレベーターで出会してみろよ、たいがいの人間より頭ひとつ分は出てる」
それでも二人は見たことがないと言った。僕は椅子に背をあて、吐き捨てるように私見を述べた。
﹁存在感が薄いんだよ。背が高いのを気にして目立たないようにしてるんだ。だから、気づかなかったんじゃないか?」
﹁ああ、そういう感じするな。隠れるようにしてるもんな。――だけど、なんであの子の話になったんだっけ?」
小林は身体を大きく揺すらせ緊張していたのを振り切ると、にんまりと笑った。
﹁その子が佐々木を狙ってんだよ。この前もずっとこいつを見つめてた。そのあとで﹃重要な話』があるって言われたらしい。ま、こいつはああいう地味過ぎる子が嫌いだから聞かなかったみたいだけどよ」
﹁ふうん」
声を合わせるようにして三人は僕の顔を見た。
﹁佐々木こそ目立つもんな。背はうちの会社で一番高いだろ? それに、顔もそこそこだ。それでどうしてモテないか不思議だ。――ん? いや、この前、彼女ができたんじゃなかったっけ? そういう噂を聞いたぜ。佐々木が妙に浮かれてる。仕事もしないで帰るって」
﹁やめとけよ」
ニヤけた顔を崩さずに小林は身体を前へ出した。
﹁かわいそうだろ。こいつ、また振られたんだよ。で、カレーもハンバーグも食べられなくなっちまったんだ。それくらい傷ついてるんだよ」
僕は小林の後頭部を思いっきり張った。他の三人は﹁カレーもハンバーグも食べられない」というのがものの譬えなのか実際にそうなのか解せないといった顔をしていた。
﹁だけど、ほんとに不思議だよ」
清水は腕組みをしながら、また違う顔つきで僕を見つめた。もういいから――と僕は思っていたけれど、しょうがない。この手の話︵僕がどうしてモテないかについての話題だ)は同期で集まったときの定番だった。なぜかはわからないけど、だいたいいつもその話になるのだ。
﹁どうしてこうまでモテないか不思議だ。モテる要素はたくさんあるのにな。ごくたまに彼女みたいのができても長くつづかないしよ。うん、まったく不思議だ」
﹁こいつは呪われてるんだよ。モテない呪いをかけられてる。もしくはセックスがありえないくらい下手かだな。でも、大丈夫だ。今度の合コンこそ呪いが解けるきっかけになる。この俺がそうさせてやる。セックスの方は――ま、そっちは自分でなんとかしとけ。風俗にでも通いつめるんだな」
小林はそう言ってレモンサワーを一息にあおった。けっきょくその話に戻るのだ。
それからもぐだぐだと下らない話がつづいた。そのほぼすべては愚痴や陰口みたいなものだ。上司どもは﹁あのデブ」だの﹁ハゲ野郎」と呼ばれ、それでも誰について言ってるかすぐにわかった。
﹁そういやぁ、小林んとこのハゲ、あいつの頭の上だけ蛍光灯がよく切れないか?」
清水がそう言ってきた。
﹁ああ、確かにそうだな。ありゃ、いったいなんなんだろうな。下手すると月一くらいで切れてる気がするぜ。ハゲてるから反射してんかな? で、熱を持った蛍光灯が切れるってことなんじゃねえか?」
そのやりとりを聞いていると街灯が頭に浮かんできた。突然消えた街灯のことだ。
﹁うちでも困ってんだよ。付け替えるくらいは幾らだってするけど、あのハゲ、最近それに腹たててるんだ。この前なんかは﹃わざとすぐ切れるのつけてるんだろ』なんて言ってきた。被害妄想だよ。そんなふうに考えるからハゲちまうんだ」
きっと僕は気づかぬうちに身を乗り出していたのだろう、小林が訝しそうな顔をさせた。
﹁なんだ、お前、ハゲの頭上の蛍光灯が切れる理由を知ってるのか?」
そんなの知るわけもない――と僕は思った。知らないし、知りたくもない。ただ、特定の人物と電球なり蛍光灯なりが切れることに特別な結びつきがあるか興味があるだけだ。
﹁いや、そういうことってあるんだなって思って」
僕はそうとだけ言っておいた。自分の身に起きてることを言いたてる気にはなれなかった。
﹁あるらしいぜ」
経理部の沼田が得意げな表情を浮かべて口を挟んできた。そういうタイプの人間なのだ。
﹁﹃パウリ効果』っていうんだけど、ある特定の人間が近づくだけで機械が壊れることがあるらしい。パウリってのも人名だ。そいつが近づくだけでいろんな機械が壊れちまったんだな。だから、営業二課のハゲもその手の人間なのかもしれない」
﹁ほう」
僕以外の三人は口を揃えてそう言った。ただ、微妙な顔つきになっていた。そういうことを話してたんじゃないんだよ――とでも思っていたのだろう。落としどころはそこじゃないのだ。
﹁沼田はさすがに学者だ。なんでも知ってる」
小林はうつむきながら小さくそう言った。僕だけは真剣にその話を聴いていた。﹃パウリ』って名前も胸に刻んでおいた。あとで調べとこうと考えていたからだ。
◇◆◇
部屋はだいぶ整理がついてきた。大きなものは然るべき場所に収まったし、床に散乱していた小物はキッチンボウルにまとめてテーブルに置くようにした。あとは必要なもの︵炊飯器や電子レンジ、コーヒーメーカーなどだ)を買いなおせばいい。ただ、買いに行くとなると休日しかない。だから、平日の夜は細々と小物の整理をするしかなかった。
コンビニ弁当の夕食を済ませると僕はラグマットにあぐらをかき、小物の整理に勤しんだ。こういう機会だから要るものを選別し、不要なのは捨ててしまおうと考えたのだ。ただ、そうしていると、ふと不思議な感覚をつかまされることになった。︽無いことの証明》とでもいうべき問題が浮かびあがってきたのだ。
在るものは在る。当然のことにそれはわかる。しかし、失われてしまった可能性のあるものはよくわからない。探せばまだどこかに転がってるかもしれないのだ。棚の裏側に潜ってしまったということだってあるだろう。探し出せないだけで、それは部屋のどこかに存在してるかもしれないのだ。さらにいうと、在ったはずだけど記憶にくっきりと残ってない物というのもある。それらの不在を証明するのは困難だった。そういった存在があやふやな物たちは失われたのかもしれないし、はじめから無かったとも考えられる。
実際にもその整理の過程で﹁こんなのを持ってたんだ」という発見があった。誰かに貰ってたけどそのままにしておいた物たち︵たとえばオパールの嵌まったネクタイピンなんかだ)は自分でもその存在があやふやだった。そういった見つけたことで存在を認識する物というのもある。それらはずっと部屋にあったにもかかわらず僕の念頭に浮かばなかった物たちだった。
記憶をたどり、僕は在ったはずの物たちを思い出そうとした。キッチンボウルに入っておらず棚にも残ってない、しかし、確かに在ったはずの物たち。それらは鷺沢萌子が持っていったのかもしれないし、僕が捨てていたのかもしれない。すべての持ち物をリストアップして、捨てるときに二重線で消しこみを入れるとかしておけばよかった――僕はそう思うことになった。そうしておけば︽無いことの証明》も簡単だったはずだ。
そんなことを考えながら作業していたので整理には時間がかかった。長期戦になると覚悟して僕は日に一時間だけ作業するようにした。あまり根をつめてもつまらない思いに煩わされるだけだ。ゆっくりと時間をかけてやればいい。僕にあたえられた罰は未来永劫つづくようなものではないのだ。
まあ、そんな感じにゆっくりではあるけれど確実に僕の生活はかつてのペースを取り戻しつつあった。六月二十七日︵鷺沢萌子に出会う前日だ)までとほぼ変わらないルーチンを組めるようになっていた。変わったことといえば自炊をしなくなったこと︵できないというのがより正しい表現だけど)、小物の整理に一時間使うようになったことくらいだった。ただ、それだっていつかは収まるはずだった。もうすこしで安逸な日々を取り戻せるはずだったのだ。しかし、運命は僕を落ち着かせてくれなかった。
七月最後の火曜日のことだった。会社を出ようとしていると走り寄ってくる影が目に入ってきた。ロビーは吹き抜けになっていて、そこここに大きな鉢植えが置いてある。たぶんその後ろに隠れていたのだろう、僕は自動ドアがひらく直前までそれに気づけなかった。そして、気づいたときには激しくうんざりした。背の高さでそれが誰かわかったからだ。
﹁あっ、あっ、あの、」
篠崎カミラは白いブラウスにこれといって特徴のない黒スカート、細いフレームの銀縁眼鏡といったいつもの格好で僕の前に立ちふさがった。胸に紺と白のクラッチバッグを押しあてるようにしていて、腕はそのためにクロスしていた。
﹁なに?」とだけ僕は言った。そのまま彼女の横を通り、外に出た。
﹁あっ、あの、」と呼びかけながら篠崎カミラは追いかけてきた。僕は歩くのが速い。営業職を何年かつづけてると嫌でもそうなってしまうものだ。ただ、篠崎カミラはすぐに追いついた。
﹁ちょ、ちょ、ちょっとだけ、お、お、お話させて、く、ください。こ、こ、これは、じゅ、重要なことなんです。さ、さ、佐々木さん、あ、あ、あなたにとって、と、と、とても、じゅ、重要なことなんです」
僕は立ちどまった。篠崎カミラは惰性で二、三歩先へ行ったけれど、振り向いて僕を見た。頬には髪がかかり、首は前へ伸びていた。猫背になってるのだ。
﹁宗教とかでしょ?」
溜息まじりに僕はそう言った。
﹁そういうの必要ないんだ。自分のことは自分で決められる。なにかにすがりたいとか思わないんだよ。だから、君の言う﹃重要なこと』ってのにも興味がない」
すぐ横を人が通り過ぎていった。僕は冷静に自分のおかれている状況を考えてみた。えらく背の高い男女が歩道の真ん中に突っ立っているわけだ。それで、まわりの人たちは迂回するように歩いてる。僕は脇に寄った。篠崎カミラも隣に立った。
﹁しゅ、宗教の、か、か、勧誘なんかじゃ、な、ないんです」
﹁じゃあ、なに?」
﹁あっ、あっ、あの、こ、こ、これは、ひっ、ひ、非常に、び、微妙な、も、問題でして、だ、だから、み、み、道端で、いっ、言うような、こ、ことでは、な、なく。で、で、ですから、」
僕は首をぐるりとまわした。ワンセンテンスの文章を言うのにどれだけ時間をかけてるんだよ――と思っていた。しかも、まだ前段しか言えてないじゃないか。
﹁悪いけど、そんなに暇じゃないんだ。用事があるならすっと言ってくれないか?」
そのように僕は言った。そう、これから帰ってキッチンボウルに向かわなければならないのだ。
﹁すっ、すみません!」
篠崎カミラは風が巻き起こるほどの勢いで頭を下げた。長い髪はすべて下方への線となり、見えるのはつむじだけになった。
﹁で、なに? 宗教じゃないならなんなの?」
同じくらいの勢いで頭を上げると篠崎カミラは考えているような顔つきになった。どう切りだしたら僕がきちんと聴くか考えていたのだろう。唾を飲むような表情をしたあとで彼女はこう言ってきた。
﹁あっ、あっ、あの、ご、ご、合コンに、い、い、行かれる、つ、つもりですか?」
﹁はあ?」
大きな声を出してから僕は口を押さえた。通り過ぎる人に笑顔を見せ、なんでもないんですよというアピールをしておいた。ただ、頭の中はせわしなく動いていた。なんでそんなことまで知ってるんだ? 顔を覗きこむようにしてる篠崎カミラを見つめながら、そう考えていた。――いや、そういえばはじめて見かけたとき小林がそのことを喚いてたな。それで知ってるんだ。僕はそう考えるようにした。しかし、篠崎カミラはつづけてこう言った。
﹁ぜ、ぜ、前回の、ご、合コンで、さ、さ、佐々木さんは、あ、ある、じょ、女性と、しっ、し、知りあいましたね。そ、そ、その、じょ、女性とは、し、し、しばらく、いっ、い、一緒に、く、暮らして、ま、ましたよね。で、で、でも、」
僕は彼女の腕をつかんだ。自然と手が伸びていたのだ。篠崎カミラは身体を強張らせた。顔は急激に赤くなっていった。
﹁あっ、あっ、あの、そっ、そっ、その、」
﹁なんでそんなことまで知ってる?」
自分の声に僕は驚いた。それまで出したことのないようなものだったのだ。低くうなるような声だった。どうかしてる――自分でもそう思っていた。ただ、やめることはできなかった。
﹁おい、なんでそんなことまで知ってるんだよ」
通り過ぎる人たちに見られているのに気づいた。よくとられても痴話喧嘩、悪くするとDV的な感じに思われるかもしれない。僕は手を離し、すこし歩いた。ちょっと行くと皇居の堀に着く。どうせなにも言わなくてもついてくるだろうし、人気のないところで話した方がいいだろうと思ったのだ。
﹁それで、どうしてそんなことまで知ってる? ――いや、ちょっと待ってくれ」
僕は堀端に並ぶ石製の柵に腰をおろした。歩道から内側に凹んでいる場所だ。たまにランナーが通り過ぎていくだけで人通りはなかった。僕は大きく脚をひらいた。そのあいだに篠崎カミラは立っていた。じっと見あげてると、先程までとはすこしだけ印象が違うように感じられた。大きな爆弾を投げつけたことでイニシアティブを握ったとでも考えているのだろう。
﹁さっきのつづきを聴かせてくれ。僕は前回の合コンである女性と会い、しばらく一緒に暮らした。君はそう言った。そのあとで、でもって言ったよな。でもなんだっていうんだ?」
﹁そ、そ、その女性は、い、い、いなくなってしまった。そ、そ、そうですよね? さ、さ、佐々木さんは、い、い、幾つかの、た、大切なものを、な、な、なくしてしまった。も、も、持ち逃げ、さ、されたんです」
髪がくちゃくちゃになるくらい僕は頭を掻きまわした。意味がわからない。どうしてこの女は誰にも言ってないことを知ってるんだ? ――ああ、そうかと僕は思った。この女は鷺沢萌子とつながってるんだ。
﹁わ、わ、私は、そ、その、じょ、女性と、か、か、関わりは、な、ないですよ」
僕は深く長い息を吐きだした。それから、ゆっくりと首を振った。
﹁どうして僕が考えたことまでわかる? 君はいったいなんなんだ?」
篠崎カミラはうつむいた。僕は疲れ果ててしまった。理解できることはまったくなかった。風が弱く吹き、柳の枝をつけ根まで揺らした。その奥を鮮やかな黄色いウェアのランナーが走り去っていった。
﹁わ、私にも、よ、よ、よくわからない、こ、ことが、あ、あるんです」
うつむいたままで篠崎カミラはか細い声を出した。
﹁わ、わかってることも、あ、あります。わ、わ、私は、む、昔から、い、い、いろんなものが、み、見えるんです。ほっ、ほ、他の人には、みっ、見えない、も、ものが、み、み、見えるんです」
僕はずっと目を瞬いていた。自分の意思ではそれを止められなかった。
﹁それで僕に起こったことも、考えてることも見えたっていうのか?」
篠崎カミラは急に顔を上げ、なおかつその顔を近づけさせてきた。
﹁し、し、し、信じて、い、い、いただけます?」
後ろへのけ反りながら僕は首を振った。
﹁いや、信じられるわけがない」
﹁そう、」
ふたたび彼女はうつむいた。ただ、じっと僕を見つめてはいた。
﹁そうですか」
﹁ただ、もしほんとうに君がそういったのを見たってなら、他にもなにかないのか? 僕のまわりで起こったことで他に見えたことは?」
篠崎カミラは髪を耳にかけ、唇を半月状にゆるませた。僕はその顔に起こる変化を見つづけていた。痙攣したようになっていた瞼は動きを止めた。そのときに僕が感じた心の動きは自分でも不思議なものだった。
﹁あります。街灯が突然消えましたよね?」
彼女はそう言った。ここはどもらないんだ――と僕は思った。いや、そんなのはどうだっていい。
﹁ああ、あった」
篠崎カミラは深くうなずいた。それから、またどもりはじめた。
﹁そ、それは、つ、ついこのあいだ、あっ、あっ、あったことです。で、でも、それ以前にもあった。さっ、さっき言った、じょ、女性と、で、出会う前にも、あっ、あったはずです」
﹁その通りだ。どうしてそんなことまでわかるんだ?」
﹁わ、私にも、よ、よ、よくわからないんです。こ、こ、こんなに、ひ、ひとりの人のことが、み、み、見えるなんて、い、いままでなかったことですので。で、で、でも、さ、佐々木さんのことは、みょ、妙にはっきり、わ、わかるんです。だ、だ、だから、ど、どうしても、おっ、お、お伝えしなくてはと、お、思って」
ずっと気になっていたことや最近あったことを僕は考えてみた。それから、静めた声でこう訊いてみた。
﹁はじめて会ったとき僕の左肩を――そのちょっと上辺りを見てたよね? もしかして、なにかいる?」
篠崎カミラはゆっくりうなずいた。
﹁え、ええ。い、い、います。す、すごいのが。そ、そ、それが、さ、佐々木さんを、わ、わ、悪い方へ、つ、連れて行こうと、し、し、してるんです」
﹁街灯を消したのもそいつってわけか?」
﹁い、い、いえ、そ、それは違います。が、街灯が消えるのは、け、警告です。さ、佐々木さんを、み、見守っている、しゅ、守護霊様が、そ、そ、そうやって、け、警告を、し、してくださって、い、いるんです」
守護霊様ね――と僕は思った。それから、左肩を見た。ここに﹁すごいの」がいるってわけか。そいつが僕を悪い方へ連れて行こうとしてる?
﹁しっ、信じて、く、く、くださいます?」
僕は篠崎カミラを見つめた。腕になにかを巻きつけたランナーがやってきて僕たちの近くで足をとめた。風が吹いた。柳は揺れ、さやさやと音をたてた。
﹁いや、」と僕は言った。﹁やっぱり信じられない」
﹁そう、ですか」
﹁だって、そうだろ? 君には見えることがある。僕を含めた大多数の人間に見えないものが君には見える。そういうことだよな? 実際、誰にも言ってないことを君は言いあてた。ただな、そんなことがあるはずない。理解できないんだよ。――いや、君があの女とつながりがなさそうなのもわかってはいるんだ。なにしろ、タイプが真逆すぎるほど違ってるもんな。だから、変に疑ってるわけじゃないよ。ただ、どうしてそんなことがわかったか理解できない。街灯のことまでになるとまったくわけがわからなくなる。肩になにかいるってのも信じられない。だって、僕には見えないんだからな。信じられるわけもない」
﹁で、でも、か、か、感じることは、あ、あるはずです。そ、そ、その感じることに、し、し、従っていれば、わ、わ、悪い方へ、み、み、導かれることも、な、な、なくなるんです。し、し、信じてください。わ、わ、私は、さ、佐々木さんが、し、し、心配なだけなんです」
篠崎カミラはにじり寄ってきた。興奮しているのだろう、首のつけ根まで赤くなっていた。僕はその圧力に押されてのけ反った。
﹁わかった。わかったから。いや、何度も言うようで悪いけど、僕は君が言ったことを全面的に信じてるわけじゃない。ただ、心配してくれてるのだけはわかった。で、つまりは、このあとも僕には悪いことが起こるってことか?」
﹁そ、そ、そうなんです」
そのように言った彼女の顔は至近にまで迫っていた。これ以上のけ反ったら落ちてしまう――そう思いながら僕は後ろをちらと見た。すこしばかり地面があるものの、その先は堀だ。
﹁具体的にわかるのか? なにが起こるかって」
﹁そ、そ、それは、わ、私にも、は、はっきりとは、わ、わ、わからないんです。た、た、ただ、せ、先生が、おっ、おっ、仰るには、じょ、女性関係で、ま、ま、また、な、なにか、わ、わ、悪いことが、お、起こると」
または余計だよ、と僕は思った。先生ってのはあのいかにもなおばちゃんだろ? 一瞬見ただけでそんなことまでわかるってのか? ああ、そういえば妙な目つきでこっちを見てたな。それで見えたってわけか――そんなふうに考えているあいだも僕はのけ反りつづけていた。篠崎カミラの顔はそのか細い息が吹きかかるくらい近くにあった。
﹁わ、わ、私にわかるのは、さ、佐々木さんに、よ、よ、よくないことが、お、お、起こると、い、いうことだけで。だ、だ、だけど、そ、それは前のときよりも、ずっ、ず、ずっとよくない、こ、ことなんです。も、もっと、ずっ、ずっとよくないこと」
いまの状況だってあまり芳しからぬものだけどね――そう僕は思っていた。そのとき、妙なことが起こった。左肩をつかまれたように思えたのだ。しかも、背後からだ。もちろんそこには誰もいないはずだった。僕はもう一度背後を見ようとした。その瞬間にそれは僕を引っ張った。このままではほんとに真っ逆さまだ。そう考えているあいだもそれは僕を後ろへ倒そうとしていた。きっと僕は﹁うわぁ!」とか﹁わおう!」なんてふうに無様な声をあげていたと思う︵あまりよく憶えてないのだ)。腕を前へと伸ばし、ひらいていた脚をぎゅっと閉じもした。そうなると腕は篠崎カミラの背中へまわり、脚もふくらはぎ辺りを挟むことになった。つまるところ僕は彼女に抱きつくことによってその難を逃れたというわけだ。
﹁ほら、」
篠崎カミラは僕の耳許に囁いた。いや、ほらって――と僕は思った。
﹁あ、危ないでしょう? こ、こ、こうやって、わ、悪い霊は、さ、佐々木さんを、く、く、苦しめようと、し、し、しているんです」
ランナーは立ち去るときに抱擁を交わす僕たちを見ていった。いや、誤解なんです。これは事故というか――と僕は言いたかった。誰にでもいいから言い訳したかったのだ。
﹁だ、だ、だから、ご、合コンに、い、い、行くのは、や、やめた方が、い、いいですよ。そっ、そ、それが、わ、私の、お、お、お伝えしたかった、こ、こ、ことなんです」
篠崎カミラは耳許でそう言いつづけた。吐息は耳にかかっていた。非常に女性らしい香りを嗅ぐことにもなった。鷺沢萌子がいなくなってから久しぶりに嗅ぐ種類の香りだ。僕は身体を前へ押し出すようにすると絡めていた腕も脚も離した。それから、立ちあがって堀の方を窺った。確認するまでもなくそこには誰もいなかった。
﹁もう帰る」
僕は首を弱く振りながら歩きだした。なににたいしてかは定かでないものの腹がたっていた。まったく好みでないどころかむしろ苛々させられる女に抱きついてしまった腹立ちなのかもしれない。あるいは、理解できないことにたいしてだった可能性もある。理解できなくとも存在してるなにかへの怖れが僕を激しく混乱させたのだ。
駅へ向かう僕の横を篠崎カミラは歩いた。足早なのはまったく苦にならないようだった。顔はすこし晴れやかにみえた。頬は薄く染まっていたし、口角もあがっていた。
﹁なんでそんな顔してる?」
僕はさっさと歩きながら、そう訊いた。
﹁お、お、お伝え、し、したかったことを、い、い、言えたので」
篠崎カミラは微笑んでいた。たまに覗きこんでもきた。溜息を深くつき僕は立ちどまった。腹立ちを発散したくなったのだ。
﹁じゃ、僕にも言いたいことがある。君に言いたかったことだ。姿勢は良くしてた方がいい。背が高いのを気にしてるんだろ? だけど、どんなに取り繕うとしたってそんなのごまかせるわけがない。だったら、堂々としてた方がいい。あと、髪はまとめた方がいいね。すくなくとも頬にいつもかかっていて顔が隠れてるってのはよくない。眼鏡も換えるかコンタクトにした方がいい。この前、喫茶店で会ったときは眼鏡してなかったろ? その方が断然よかった。化粧もちゃんとした方がいいね。いまのじゃ薄すぎるよ。もうちょっとは濃くていい。いいか? もっと自信を持つんだ。声も大きくしてね。そうしてればどんなブスだってそれなりにみえる。うつむいて顔を隠してたら美人だってブスにみえるんだ。いい? わかる?」
﹁はっ、はい!」
篠崎カミラは目を瞠り、顎を引き、驚いたような顔をしていた。もちろん僕は嫌味を言ったつもりだった。しかし、彼女の表情を見ていると自信がなくなってきた。篠崎カミラは慌てたようにクラッチバッグからヘアゴムを取り出し、髪をまとめた。それから、急き込むようにこう言った。
﹁あっ、あっ、あの、こっ、こ、これで、い、いいでしょうか?」
﹁え? ああ、そうだね」
僕はそうこたえざるをえなかった。
﹁あっ、ありがとう、ご、ございます!」
風が巻き起こるくらいの勢いで篠崎カミラは頭を下げた。そのつむじを見ながら僕はそっと溜息を洩らした。
その翌日、僕はさらにうんざりすることになった。駅前で篠崎カミラが待ちかまえていたのだ。彼女は姿勢良く立っていて、眼鏡もかけておらず、髪は高いところでまとめていた。僕の姿を確認すると姿勢を崩さぬよう慎重に近づいてきた。とってつけたような笑顔を浮かべてもいた。まるで広告の写真みたいな固まった表情だった。
僕はぷいっと横を向き、足早に立ち去った。機嫌が悪かったのだ。それに、気分も最悪だった。堀端で経験したことは部屋に戻りひとりきりになると深刻な怖れを感じさせた。髪を洗うときも可能な限り薄目を開けながらシャンプーを使ったほどだった。テレビの音量だって普段より大きくしたし、ビールもいつもより二缶多く飲んだ。それでも落ち着かなかったので料理用のワインにまで手をつけたのだ。べろんべろんになった上で、もちろん明かりはつけたまま寝た。そんなこんなで僕の気分は最悪だった。吐き気まではしないけど、二日酔いの一歩手前くらいにはなっていた。こんなのは何年ぶりかのことだった。苛つく女だけじゃなく誰であっても避けたいくらいだ。しかし、篠崎カミラは追いかけてきた。
﹁あっ、あっ、あの、」
﹁なに?」
﹁こ、こ、これで、い、い、いいでしょうか? そ、その、き、昨日、さ、佐々木さんに、お、お、教えて、い、いただいた、とっ、通りに、し、し、してきました」
僕は首の辺りを掻いた。嫌味が通じない人間っているんだな――と考えていた。深刻な怖れが馬鹿らしくなってもきた。歩きながら僕は彼女の顔を見た。化粧もばっちりしている。ただ、ばっちりし過ぎてる。アイメイクがきついし、チークのつけどころがいまいちだ。だいいち服装に合ってない。
﹁化粧が濃いよ。顔だけ派手になってる」
﹁そ、そうでしたか。じっ、じ、実は、は、母に、て、て、手伝って、も、もらったので」
だからか――と僕は思った。年齢にも合ってないのだ。
﹁そういう雑誌あるでしょ。メイクの仕方が載ってるの。なんとか系メイクとか書いてあるヤツだよ。それを見て勉強したら?」
僕たちは猛然たる勢いで会社に向かっていた。逃げ切りたいと思ってる僕のペースがそうさせていたのだ。しかし、背が高いだけあって篠崎カミラも同じ歩幅で進める。
﹁わ、私は、な、な、なに系なんでしょう?」
﹁知らないよ、そんなの」
知るわけもない。というか、考えたくもない。僕たちは同じ勢いのまま社内に入っていった。エレベーター前には人が溜まっていた。まいったな――と僕は思った。こんな女と同伴出社みたいに思われるのは嫌だ。僕はゆっくり気づかれぬように篠崎カミラから離れていった。ただ、向こうも静かに動いて横にぴったりとくっついてきた。
﹁え?」と声がした。﹁えぇ! 篠崎さん?」
群がる人を掻き分けるようにして出てきた女の子は僕たちの前で首をかなり仰角にさせた。
﹁びっくり! すごい! かわいい!」
篠崎カミラはうつむきそうになったけれど、ちらっと僕を見てから胸を張った。
﹁そ、そ、そんなことは」
か細くそう言うと、篠崎カミラは喉の調整をするかのような間をあけた。そして、比較的大きな声でこう言った。
﹁さ、さ、佐々木さんに、おっ、お、教えて、い、いただいたんです」
﹁へえ。ふうん」
女の子は僕たちを交互に見あげた。どちらかというとこっちの子の方が僕のタイプだ。だから、変な誤解はしないで欲しい――そう僕は願った。しかし、過剰な反応をするわけにはいかない。こういう場合、印象に残るような行動は控えておくべきなのだ。女の子は意味深そうな目つきをさせていた。僕は可能な限りの無表情で押し通すことにした。しばらくそうしていると、女の子は﹁それじゃ、お邪魔なようだから」といった感じに背中をみせた。
どうせそうなるだろうと思ってたけど小林からラインが来た。僕は出先でそれを見た。
﹃大事件が起こったようだな。詳しく聴かせろよ。いつもの店で待ってるぜ』
﹃これといって事件なんて起きてない。それに、いつもの店ってどこのことだよ』
僕はそのように書いて送った。間髪入れずに返信があった。
﹃︽monkey's paw》だ。いつものって言えばそこに決まってる。それと、隠し事はするな。俺にはすべてお見通しなんだ』
それはスルーしておいた。面倒になったのだ。しかし、二分もしないうちにまたメッセージが入った。
﹃忘れてた。八時な。八時にいつもの店で会おう』
小林が指定した︽monkey's paw》というのは会社の近くにあるシガーバーで、地下にある非常に落ち着いた雰囲気の店だった。僕と小林はそこに二度ほど入ったことがあった。一度目は迷い込んだかのようにして入り、かなり場違いなことをした。二度目は長くつきあってた彼女に振られた小林を慰めようと僕が連れていった。二人でふっかりしたソファに並び、コイーバを燻らせながらなんだかよくわからない高い酒を飲んだ。そのとき小林はこう言った。
﹁な、これから﹃いつもの店』って言ったら、ここにしようぜ。なんか格好良くねえか? 女の子と一緒のときにさ、﹃じゃ、いつもの店にでも行くか』って言うんだ。それで、ここに来る。女の子はどう思う? ﹃きゃっ、こんな素敵なとこにいつも来てるなんて格好いいわ』って思うだろ? こりゃ、モテるぞ」
﹁お前な、昨日振られたばかりなんだろ? よくそんなふうに考えられるな」
僕は青白いけむりを眺めながらそう言った。二人とも前を見ていたので小林の表情はわからなかった。
﹁こういうときだから言ってるんだ。俺は後ろは見ない。――うん、いいな。俺は後ろは見ない。定年退職したら、そういうタイトルの小説を書こう。そしたら、お前、読んでくれるか?」
﹁もちろん。読んでやってもいい」
﹁そうか。ありがとう、助かるよ」
――という心温まるエピソードを僕はすっかり忘れていた。まあ、忘れてもおかしくないくらいそれ以降の小林はいろんな女の子と遊びまわるようになったのだ。
その日は僕が先に着いていた。店は空いていて、磨きあげられたガラスが三メーターほどつづくカウンター席には僕しか腰かけていなかった。糊のきいた白シャツに蝶タイ姿のバーテンダーは無表情に若干の微笑をつけ加えたような顔つきで立っていた。その背後には縦に四段あるガラス製の棚が設えてあった。僕は華奢なグラスに注がれたビールを飲みながら、そこに並ばれているボトルを眺めていた。
﹁待たせたな」
小林は僕の背中を軽く張ると隣に座った。
﹁帰り際にハゲにつかまっちまったんだ。あのハゲ、なに言ってんかわからねえんだよ。まったく要領を得ない」
バーテンダーが音もなく近づき目顔でオーダーを訊いてきた。︽monkey's paw》では誰も大声を出さない。そういうルールになってるのだ。
﹁とりあえずは連れと一緒で。ああ、あとサーモンとタマネギの料理みたいのあったでしょ?」
﹁〈スモークサーモンのケッパー風味〉でしょうか?」と低い声のバーテンダー。
﹁ああ、それ。それもお願いします」
頼んだものがくると小林はにんまり歪ませた顔をナプキンで覆った。それから僕の背中を三度ほど叩いた。
﹁なんだよ」
﹁しらばっくれるなよ。ラインで送っといたろ。俺にはすべてお見通しなんだぜ」
ビールを飲み、遠慮がちに﹁ぷはぁ」と言ってから小林はスマホを取りだし、それを弄りながら話した。
﹁えらい変わり様だったそうだな。――ええと、これはメールで来てたよな。あった、これだ。﹃まるで別人だった』と、ほれ、書いてあるだろ?」
小林は画面を見せつけてきた。あまりにも近くに持ってきたので僕は手で払うようにした。
﹁それからな、――ええと、これもメールだったよな。利香ちゃんからだから―― あった、これだ」
ふたたび見せてきた画面にはこう書いてあった。﹃佐々木さんとお似合いだった︵笑)』
﹁こういうのもあったな。ちょっと待ってろ」
いや、待つ理由もないんだけど――と思いながら僕はピスタチオを頬張り、残っていたビールで流しこんだ。画面は目の前にきた。
﹃あの二人、デキてるの? だったらマジで笑えるんだけど』
僕はバーテンダーを呼び、目についたボトルを適当に指さした。
﹁あちら? あれをショットで? かしこまりました」とバリトンボイス。
﹁すごい反響だろ? 注目の的だ」
小林はまた三度ほど背中を叩いてきた。
﹁感想は? それをみんなに送ってやるぜ」
﹁絵文字の意味がわからない」と僕はこたえた。見せられたメールにはふんだんに絵文字が使われていたのだ。
﹁どうしてウサギの絵文字なんだ? それになんの意味がある? 文面とちぐはぐすぎるだろ。それに、︵笑)ってのも気にいらない。笑える要素なんてそもそもないし、仮にあったとしても笑うタイミングくらい自分で決められる」
﹁そうむくれるなよ。ラインで来てるのもあるんだぜ。見るか?」
﹁見なくていい。いや、見たくもない」
僕は首を弱く振った。そのときに新しい酒がきた。
﹁〈ラフロイグ カスクストレングス〉です。香りがすこしきつめですよ」
バリトンボイスでそう言うとバーテンダーは口角を二ミリほど上げた。酒を口にして僕は顔をしかめさせた。香りがきついのは飲む前からわかった。嗅いだことのない匂いだ。味も表現するのが難しいものだった。単純に美味しいとは言えない。
﹁面白い味でしょう。香りも面白い。飲み馴れないと不思議な感じを抱かせる味です。しかし、飲みつけるとやめられなくなる。それは若干特殊な環境で造られたものなんです。わかりますか?」
チェイサーで舌先を湿らせると僕はもう一度それを口に含んだ。
﹁理解しようと思わずに感じてください。酒なんてそんなものですからね。ヒントをひとつ。塩です」
舌に触れる感覚と鼻を通り抜ける香りは確かに塩っ気を感じさせた。誘導されたからかもしれないけど、これは塩の香りに違いない。それも、海の。僕はうなずいてみせた。バーテンダーもうなずき、その場を去った。
﹁なんなんだよ、いまのは。どれ、俺にも飲ませてくれ。俺も感じてみたい」
僕はグラスを渡した。口に含むなり小林は眉をひそめた。それから、口をあけ変な顔をした。なんとなくわかってはいたけど、こいつには微妙な物事を感じとることなんてできないのだ。
僕たちはソファの方へ移動した。適当に酒を選び、葉巻も適当に頼んだ。バーテンダーが穴開け機みたいので吸い口をつくってくれて、火もつけてくれた。二人でそれを咥えてる絵はなかなかのものだった。まるで千万単位の取引をしてるかのようだ。しかし、実際はこういう会話がなされていた。
﹁さて、充分になぶったから俺の気は済んだ。それで、なにがあったか聴かせろよ。どうして篠崎カミラと同伴出社した? もうヤッちまったのか?」
﹁そんなんじゃないよ。駅の前で待ち伏せされてただけだ」
﹁じゃ、どうして待ち伏せされるようなことになった? なにもなけりゃ、そんなふうにならないはずだ。――おい、隠し事はするなよ。それとも恥ずかしくて言えないのか?」
僕は葉巻の先を見つめた。オレンジ色にみえる火が燻っていた。丁寧に何層にも巻かれた葉っぱの先は短くなっているはずだった。ただ、見ている限りではわからない。ゆっくり過ぎて短い間では変化を感得できないのだ。
﹁恥ずかしがってるわけじゃない。いや、まあ、恥ずかしい部分はあるけどな。どうしてあんな奴と関わるようになってしまったんだろう?」
小林は僕の腕を軽く叩き、顔を向けさせた。そのくせ、うつむいて顔を見せないようにしていた。クレーンでつかむようにロックグラスを取ると一口そこから舐め、悲しそうな声を出した。
﹁俺がここでお前に慰められたときのことを憶えてるか? 愛しい友梨香と別れた次の日のことだった。あれはキツかった。ほんと死ぬくらいキツかった。でも、そのおかげでいいこともあった。俺はほんとに嬉しかったんだぜ。あんときゃ、お前の方から誘ってくれたよな? それが嬉しかったんだ。あの日、俺たちはなにがあっても互いに隠し事はしないって誓いあったよな? そうだろ?」
﹁そうだったか?」
﹁そうだったんだよ。俺たちはそう誓いあったんだ。お前のことを無二の親友だと思うようになったのは、あの晩からだった。な? 俺たちは親友だよな? それなのにお前は隠し事をしてる。篠崎カミラとヤッたってのに教えてくれない。それが俺には悲しいんだよ」
僕はしばらく小林の様子を窺っていた。小林は背中をまるめ、ちびちびと酒を舐めていた。出している声には自分でそうと言ったように悲しみが感じられた。ただ、そんなフェイクが通用するわけもない。
﹁いい加減にしろよ。もし、ほんとうに俺たちが親友だっていうなら、これ以上はなぶるな」
小林はくいっと顔を向けてきた。悲しみなんて微塵も浮かべていなかった。むしろ楽しくて仕方ないといった顔つきだった。
﹁だって、篠崎カミラは﹃佐々木さんにいろいろ教えてもらった』って言ってたんだろ? 俺はそう聴いてるぜ。それはつまり手取り足取りいろんなことを教えられたってことだろ? それで突然女っぽくなったっていやあ、」
そこまで言って小林は下卑た笑い顔をつくった。瞳だけは上へ向いていた。きっと僕が手取り足取りいろんなことを篠崎カミラに教えてる図を思い描いていたのだろう。ほんと迷惑な話だ。
﹁うん、こたえはひとつだ。長つづきはしないものの手だけは早いお前。それに、いろいろ教えてもらって女っぽくなった篠崎カミラ。この材料じゃそうとしか考えられない」
﹁そこまで女っぽくなってないよ。厚化粧して、背筋伸ばしてるだけだ」
﹁そうなのか? ほんとそれだけ?」
﹁そうだよ。見ればわかる。どうせ見てないんだろ?」
葉巻を咥え、盛大にけむりを吐きだしてから小林はうなずいた。
﹁ああ、見てないよ」
﹁なんで見てないのを自慢げに言う。お前は噂だけ聞いたってことだよな? その噂にだって尾鰭がついてるんだ。なんでもないことを騒いでるだけなんだよ。それをお前がまた大きくしようっていうのか? なあ、俺たちはほんとにどうともなってないんだ。昨日の帰りに待ち伏せされて﹃重要な話』ってのを無理矢理聞かされただけだ。そんとき、あまりにも苛々したから嫌味を言ったんだよ。化粧をきちんとした方がいいとか、背が高いのを気にするな、猫背じゃ駄目だってな。そしたら、今朝になって﹃これでいいですか?』って訊いてきた。そう訊くために待ち伏せてたんだ」
そう言ってるあいだに僕はだんだん腹がたってきた。しかし、怒りだけを感じたのではなかった。左肩を見つめながら昨夜のことを考えていた。僕はここをつかまれ、後ろへ引っ張られた。﹁すごいの」がいると篠崎カミラは言っていた。突然消える街灯は警告だとも。
僕は喉を湿らす程度の酒を口に入れた。怖ろしくはあるけど、篠崎カミラが絡むとそれが薄まるような気がした。安心できるわけじゃない。むしろ不安になるくらいだ。だけど、あのえらく地味で間の抜けた女は恐怖をそのまま感じさせない力を持っているように思えたのだ。
﹁なんなんだよ。なんで肩なんか見てる? ――ああ、篠崎カミラになにか言われたんだな? ﹃重要な話』ってのを聞かされたって言ってたもんな。で、そりゃなんだったんだ?」
僕はふたたび考えた。どう言えばいいかわからなかったのだ。すべて話せば長くなるし、こいつにはきっと理解できないだろう。でも、それもしょうがない。僕だって理解できてるわけじゃないのだ。すべてどころかほんの一部も理解できていない。
﹁合コンに行くなと言われた」
前後にあったことは切り落とし、僕はそうとだけ言った。
﹁合コンに行くな? それって、お前、」
小林は複雑な表情――おかしいのか不満なのかわからない顔つきをさせた。それから、なにかを諦めたかのような首の振り方をした。
﹁なんだかそれだけ聴くと、やっぱりお前たちのあいだにはなにかあるように思えるな。ま、お前は嫌がってるようだが、篠崎カミラの方はお前のことが好きなんじゃねえか? そうとしか思えない。じゃなけりゃ、そんなこと言うか?」
﹁言う場合もある。ごく特殊な状況であればそういうこともありえる」
﹁特殊な状況ねぇ。でも、どうする気なんだよ。お前好みの女がわんさと来るんだぜ。まさか行かないなんて言いださねえだろうな?」
僕は葉巻を燻らしながらうなった。行かないと言ったら、小林はこう思うことだろう――篠崎カミラに行くなと言われたもんだから、こいつはそれに従った。つまり、あの二人にはやはりなにかある。そう思ったら小林のことだ、こういう結論を捻り出すに違いない――あの二人はデキてる。すでにヤッちまったんだ。
一緒に出社しただけで︵しかも、それだって事故みたいなものだったのに)下らない噂が飛びかうことになったのだ。小林が発信する誤った結論はものすごく大きな尾鰭がついて活発に飛びまわることになるはずだ。それは手に取るようにわかった。だから、僕はこうこたえた。
﹁もちろん行くよ。行かない理由がない」
駅に着いたのは十二時近くだった。長いエスカレーターから降りると僕は深い溜息を洩らした。疲れ果てていたのだ。二日酔い一歩手前まできていたところに強い酒を重ね、なおかつ葉巻まで喫ったものだからくらくらした。それでいて意識はいやにはっきりしていた。脳の芯部が覚醒してるのがわかった。僕はまっすぐマンションに向かった。そのあいだ何度も左肩を見た。もちろんそこになにかいるとも思えなかった。見えないし、触れられている感覚もない。それでもなんとなく気になっていた。
マンションの手前にはワンボックスカーが停まっていた。街灯の真下にあるものだから白い車体は薄く黄色に染まってみえた。僕はなにげなくサイドウインドウを見た。そこには滲んだ自分が映っていた。光の加減か車内は見えず、歪み滲んだ顔が見えるだけだった。僕は目を細めた。視線はどうしても左肩のすこし上に向かった。そこになにかがいて僕を悪い方へ連れていこうとしてるってわけだ――そう考えてみた。そのとき、なにかが弾けるような音が微かに聞こえた。僕は街灯を見あげた。それは消えていた。
﹁マジか」
大きな蛾が急に消えた明かりを探し求めるように飛んでいた。トラックが近づいてきて道幅の狭くなる手前で減速した。そこからそろそろと進み、広くなったところでスピードをあげた。僕はずっと街灯を見あげていた。鷺沢萌子と出会う前にも街灯は消えた。彼女がいなくなった直後にもだ。そしてまた突然に消えた。僕は眉をひそめた。と同時に、無数の虫が身体中を這いずりまわってるような気分になった。足許からそれらは入りこみ、太腿をのぼり、腹や背中を這いずって首へとあがってきた。僕は身震いをし、前後にある街灯を確認した。その道はゆるやかなカーブになっている。街灯もそれに沿って並んでいた。僕はひとつの街灯を見つめた。煌々と明かりを洩らしているけれど、この前消えたのはあれだ。そして、その前に消えたのは先にあるあれだった。――いや、待てよと僕は思った。ってことはマンションに近づいてきてるってことだ。
僕は自分の部屋を見た。誰もいない部屋は当然のことに暗かった。腕を組み、僕はその場に固まったようになった。このまま部屋に戻っていいかわからなかったのだ。サイドウインドウには歪み滲んだ像が見えた。僕は鞄から手帳とペンを取り、マンションの入口︵そこには短い階段がある)に腰をおろすと電話をかけた。
﹁ああ、清水、遅い時間に悪いな。――いや、たいしたことじゃないんだけど、その、訊きたいことがあって」
できる限りの平静を装って僕はそのように言った。
﹁ん? 別にかまわないよ。まだ起きてる時間だから。だけど、いったいどうしたんだ?」と清水の声。それは分厚い壁を挟んだ先からするように弱く聞こえた。
﹁篠崎カミラの電話番号ってわかるか?」
こんなこと訊いたら先々どんな噂がたつのだろう――と思いはした。しかし、そんなこと考えてる場合じゃない。
﹁あ?」と清水の声。﹁ああ、いや、わかるよ。わかるはずだ。ちょっと待っててくれ」
電話の向こうからは赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。清水は一昨年結婚し、三ヵ月前に子供が生まれたばかりなのだ。僕はその泣き声を聞きながら待った。自分の置かれた馬鹿げた状況に比べると清水はしっかりと揺るぎないものを持っている。自分は――と思い、消えた街灯を見つめた。なにやってんだ? わけのわからないことになってる。
﹁ああ、あった。これだ。悪いな。書いてもらったのがあったんだけど、こっちから連絡することもないと思って適当なとこに挟んであった。――言うぞ、いいか?」
僕は手帳にそれを書いた。
﹁ありがとう。助かったよ」
﹁いや、別にこれくらいのこと」と清水。赤ん坊は泣きやんだようだ。電話の向こう側は静かになった。
﹁だけど、今日はまったく驚かされたよ。あの子の変わり様ったらなかったもんな。いつもは仕事の話をしてても目も合わせなかったし、――っていうか、ずっとうつむいてたのによ、今日はえらくハキハキしてた。女子どもとも楽しそうに話してたよ。ま、違和感はヤバいくらいあったけどな。あれ、お前のおかげっていうか、影響らしいな。まさか、」
﹁それ以上は言うな」
僕は清水の言葉を遮った。
﹁それに、電話番号を訊いたってのも忘れてくれ。この電話を切った瞬間に忘れるんだ。とくに小林には言うなよ。なにがあっても絶対に言うな」
﹁わかったよ、忘れる」
清水は笑いながらそう言ってくれた。僕たちは﹁おやすみ」を言いあって電話を切った。
コンビニでビールを買い、僕はふたたびマンションの前に座りこんだ。時計を見るともう一時近くになっていた。スマホの画面をじっと見つめ、僕はひとしきり悩んだ。女の子に電話をかけるにあたってこんなに思い悩むなんて中学んとき以来だな――と考えてみた。いや、そうじゃない。なにも好きな子に電話するってわけじゃないのだ。必要に迫られただけのことだ。
ごくごくとビールを飲んでから僕は電話をかけた。コール音が鳴ってるあいだ消えた街灯を見つめていた。知らない番号からじゃ出ないかな? それに、もう寝てるかもしれないしな。うん、あの女は十時には寝てる気がする。しかし、そう思ってるそばから意外に早く電話は繋がった。
﹁あっ、あっ、あの、」
電話でも同じ感じか――と僕は思った。違う出だしはないのかよ、とだ。
﹁遅くに悪いね。佐々木だ。わかる? 同じ会社の、営業一課の佐々木」
そう言った直後に篠崎カミラが発した言葉は簡単に表記できないものだった。それとは別になにかが倒れるような音も大きく聞こえた。ガシャーンという音だ。
﹁あっ、たっ、たいへん。――そっ、そ、その、さ、佐々木さんですか? あっ、あの、さ、佐々木さんで、い、い、いいんですよね?」
﹁君の言う﹃あの佐々木』ってのが、どの佐々木かはわからないけど、さっきも言ったように同じ会社の営業一課の佐々木だよ」
ふたたび表記しがたい音が聞こえてきた。なにかがぶつかったようなガツンという音もした。
﹁えっ、えっ、ええと、た、たいへん、も、も、申し訳ないのですが、そっ、そっ、その、かっ、か、かけ直しても、よ、よろしいでしょうか? ちょっ、ちょっと、すっ、す、すぐに、か、片づけなければ、な、ならないことが、お、お、起きて、し、しまいまして」
﹁いいよ。なんか重ね重ね悪いね」
﹁い、い、いえ、こ、こ、これは、わ、私が、わ、わ、悪いことですので。そっ、それでは、す、す、すぐに、か、かけ直します」
ビールを飲みながら僕は待った。想像できたけど篠崎カミラの﹁すぐ」というのはまったくあてにならなかった。すこしだけ考えてから僕は彼女の番号を登録しておいた。今後もこういうことが起こるかもしれないと思ったのだ。とはいえ、こういうことというのがどういうことなのかもわからない。ごく単純に考えることができるなら、街灯の電球が切れたというだけのことなのだ。それを気にしすぎてるともいえる。僕はスマホを見つめ、それからビールを買い足しにまたコンビニへ向かった。当初の酔いはすっかり醒めたし、いくら飲んでも酔わない気分だった。
電話が鳴った。
﹁あっ、あっ、あの、す、すみませんでした。た、た、たいへん、お、遅くなって、し、しまいまして」
﹁いや、こっちが突然かけたんだから気にしなくていい。それと、この番号は清水から聞いたんだ。急な用事ができたからね。かまわなかったろ?」
﹁は、はい。ぜ、ぜ、全然、も、問題ないです」
このやりとりのあいだに僕は落ち着いてきた。まあ、そうとう苛々もしていたけど、街灯が消えたショックからは立ちなおりかけていた。やはり篠崎カミラを通してしまうと恐怖は薄まるのだ。
﹁で、ど、ど、どういった、ご、ご、ご用件でしょう?」
篠崎カミラはそのように言ってきた。なんだかその筋の専門家に相談してるみたいだな――と僕は思った。でも、その通りなのかもしれない。なにしろ彼女は他の者に見えないものが見えるのだ。
﹁またあったんだ。街灯が突然消えた。それも僕のマンションの前でだ。君は言ってたろ? だいぶ前にも同じことがあったはずだって。それから、ついこのあいだ僕のもとから女がいなくなった直後にもあった。そして、さっきもあったんだ。それで思い出したことがある。いや、思いついたことと言った方がいいのかもしれないけど、とにかく、それはだんだん僕の部屋に近づいてきてる」
電話の向こう側からは息を深く吸う音が聞こえてきた。それきり無音になった。息づかいすら聞こえてこなかった。
﹁おい、どうしたんだよ。なにか言ってくれ。これはよくないことなのか?」
僕はちょっと大きな声を出していた。自然とそうなってしまったのだ。
﹁すこし黙っていてください」
そういう声が聞こえた。鋭い声だった。僕はスマホを耳から離した。驚いたのだ。篠崎カミラが出すとも思えないような声だった。ふたたび耳に押しつけると電話の向こうはやはり無音だった。僕はビールを飲み、街灯を見あげた。
﹁ふむ」と篠崎カミラの声がした。
﹁そうでしたか。なるほど」
いや、ひとりで納得しないで欲しいんだけど――と僕は思った。そんなふうにされるとかえって怖くなる。
﹁ううん、ちょっと違うかな? どうだろう? ――そうね、違うかも」
﹁あのぅ、」
僕は遠慮がちな声を出してみた。
﹁なにが違うの?」
﹁あっ、い、い、いえ、す、すみません。わ、私、ひ、ひとりで、か、考えこんで、し、しまって」
﹁うん、それはいいから、なにが違うの?」
﹁あっ、あの、ちょっ、ちょっとだけ、こ、こ、このまま、ま、待っていて、い、いただけませんか? わ、私ひとりで、は、判断するのは、き、危険な気がするので、せ、先生に、き、き、訊いてきます」
先生に? もう一時を過ぎてるというのに? 腕時計を見ながら僕はそう思った。電話の向こう側はまた無音になった。完全なる静寂だ。
スマホを耳に押しつけたまま、おおよそ十分くらい僕は待った。もういいから部屋に戻って寝ちゃおうかな。ビールを飲みながら、そう思っていた。恐怖はその程度まで薄まっていたのだ。というか、自分のしてることが馬鹿らしくなっていた。なんでもないことを騒ぎ立ててるだけに思えたのだ。しかし、燻りつづけている怖れはあった。なにしろ篠崎カミラは﹁危険な気がする」と言ったのだ。
﹁もしもし?」
野太い声が聞こえてきた。ん? と思い、僕はスマホの画面を見た。そこには︽篠崎カミラ》と出ていた。
﹁もしもし? 聞こえてるの?」
﹁ええ、聞こえてます」
僕はそう言ってから気づいた。
﹁ああ、もしかして﹃先生』ですか?」
﹁先生?」
声の主は鼻で笑うような音をさせた。
﹁まあ、そうね。そういうことでもあるわ。――で、また街灯が消えたんですって? それも、だんだんあなたの部屋に近づいてるって聞いたんだけど。あなたは怖くなって、カミラに電話をかけてきた。そういうことなんでしょ?」
﹁はい」と僕はこたえた。まわりに誰もいないというのに背筋を伸ばし、傾聴する姿勢をとった。﹃先生』という肩書きと威圧的な声に萎縮していたのだ。若干は馬鹿げてると思うけど、しょうがない。
﹁ま、その辺のことに関しては――こんな時間に電話をかけてきたってことよ。私は寝てるところを叩き起こされたんですからね。まったく、カミラにも困ったもんだわ。後先考えないんだから。まあ、それだけあなたを助けたいって気持ちが強いんでしょうけど」
﹁はあ」
僕は一応だけの相槌をうちつつ考えた。寝ていた? 篠崎カミラと同じ家で? もしかしたら篠崎カミラは内弟子みたいな生活をしてるのか?
﹁なに言ってるかわからなくなっちゃったわね。ごめんなさい。ま、あなたにはいろいろ言いたいことがあるけど、いまはやめておきましょう。で、街灯が消えたってことよね? あなたは怖くなった。でも、カミラから聴いてはいるんでしょ。それは守護霊様のなさったことよ。警告なの。悪い働きではないわ。いえ、悪い働きをする存在の力が強まってるのを報してくださってるの。思いあたることある?」
﹁はあ」と重ねて僕は言った。しかし、思いあたることなんてない。
﹁カミラにこれも言われてるでしょ。女に気をつけろって。そうよね? それでもあなたは逆の方へ行こうとしてるんじゃない?」
僕は目を瞬かせていた。それまで飲んだ酒の酔いが一気にまわってきた気分だった。確かに合コンへ行くと言ったな。篠崎カミラに行くなと言われたのに、そう宣言した。
﹁思いあたることがあったようね。それにたいする警告よ。気にしなくてもいいわ。すぐに悪いことが起こるってわけじゃないから」
﹁ということは、すぐじゃないけど悪いことが起こるってことですか?」
﹁そうねえ。直接見てないから絶対だとは言えないわ。一度お会いしたことあったわね? ほんの一瞬だけ。そのときに見えたことからしか判断できないのよ。あとはカミラからしつこいくらいに聴かされたことだけがあなたに関する情報なんだもの。こうやって声を聞いてるだけじゃ、きちんとしたことは言えないわ」
﹁はあ」
僕はまたもやそう言った。どういう仕組みになってるのかわからないのだからそうとしか言えなかった。
﹁だけど、わかってることもあるの。あなたにはひどく強い霊が憑いてるわ。その霊はあなたを悪い方向へ導こうとしてる。主に女性問題であらわれるようになってるはずよ。それについてだって思いあたることはあるでしょ? あなたはある女に騙されて、お金と幾つかの物を盗られた。そうよね? それは私に見えたことなの。カミラにはまだそこまではっきりとは見えないのよ。ま、あなたに関しては私以上に感じる部分があるようだけどね」
そこまで言うと﹃先生』はあからさまな溜息をついた。僕はもう﹁はあ」と言う気力もなかった。左肩を見つめ、顔をしかめさせた。
﹁切りないわね。いい? あなたもこうやってこんな時間に電話かけてくるくらいだから気になってはいるってことでしょう? だったら、一度でいいから私のもとに来なさい。しっかり見てあげるわ。きっとそうした方がいいわよ。じゃ、そういうことで私は寝るわよ。あとはカミラとしゃべりなさい」
﹁あっ、あの、」と僕は口走っていた。篠崎カミラと同じセリフを言うことになったわけだ。
﹁なに?」
﹁いえ、あの、ありがとうございました」
鼻で笑うような音をさせ、﹃先生』はこのようなことを言った。
﹁ま、カミラにとって大切な人なら、私にとってもそうなる可能性はあるものね。だったら、これくらいのことなんでもないわ」
は? と僕は思った。どういうことだ? そう考えてると、もうおなじみになった声が聞こえてきた。
﹁あっ、あっ、あの、」
﹁なんだよ」
僕はすこしぶっきらぼうな声を出していた。混乱させられた苛立ちを向けやすい相手で発散させたのだ。
﹁いっ、いえ、す、すこしは、お、お役に、た、たちましたか? わ、私だけでは、ちょっ、ちょっと、ふ、不安だったので、せ、先生に、お、起きてきて、も、もらったんです。か、か、かえって、び、びっくりさせて、し、しまったのでは、な、ないでしょうか?」
どもりつつしゃべる声を聴いているうちに僕はやはり落ち着いてきた。顔をごしごしと擦るようにしてから短く息を吐いた。
﹁ああ、いや、ありがとう。それに、悪かった。いまキツい言い方をしてたよな? ちょっと混乱してて、その、なんだ、」
﹁い、い、いえ、そ、そんなこと、な、な、ないです。わ、わ、私は、ま、ま、まったく、そ、そんなふうに、お、お、思いませんでしたから。そっ、そ、それに、こ、こ、こうやって、お、お電話、い、いただけて、う、う、嬉しかったんです。さ、さ、佐々木さんが、わ、私の、い、言ったことを、しっ、し、信じて、く、くださったって、こ、こ、ことですもの」
緊張のせいなのか興奮のためなのかはわからないけど篠崎カミラのどもり具合は激しくなっていた。だけど、僕は苛々しなかった。できることならずっと耳許でどもりつづけて欲しいとすら思った。その方が安心できる。しかし、もう二時近くになる。
﹁ん、よくわからないけど、きっと君の言ったことを信用しはじめてるんだろう。いや、もちろん全面的に信じてるわけじゃないけど」
﹁は、はい。そ、そ、それでも、か、か、かまいません」
﹁部屋に戻るよ。それでもう寝る。そうできる気がしてきた。ほんと助かった。ありがとう」
僕は電話を切った。消えた街灯を見つめながら肩をすくめ、マンションへ入った。いかなる悪意が取り囲んでいたって、そんなのは気にしなくたっていい――そのように思った。酔いがまわりはじめたからかもしれない。あるいは篠崎カミラの声がまだ耳の奥に残っていたからかもしれない。しかし、いずれにしても僕は守られている。二重三重に守られてる。そう思えた。
翌る日も篠崎カミラは待ちかまえていた。背筋を伸ばし、顎を引き、若干のぎこちなさは残していたけれど自然にみえる笑顔を浮かべていた。
﹁おっ、おはよう、ごっ、ごっ、ございます」
僕が前に立つと彼女は頭をぐいっと下げた。まだ動作には支障があるようだな――そう思いながら僕も軽くうなずくようにした。
﹁ああ、おはよう。昨日はありがとう。助かったよ」
﹁い、い、いえ、そ、そんな」
僕たちは足早に会社へ向かった。逃げ出したいとかではなく、いつものペースだ。篠崎カミラも歩幅を合わせて横を進んだ。
﹁そ、そ、それで、きょ、今日は、だ、だ、大丈夫でしょうか?」
﹁は? 大丈夫? なにが?」
﹁い、いえ、す、すみません。い、いまのじゃ、わ、わかりませんよね。あっ、あの、メ、メイクです。さ、佐々木さんに、お、お、教えて、い、いただいたので、き、き、昨日、ざ、雑誌を、な、な、何冊か買って、そ、そ、それで、」
僕は歩きながら彼女の顔を確認するように見た。
﹁ああ、いいんじゃない? 自然な感じにみえるよ」
﹁あっ、ありがとう、ご、ございます! ふっ、ふ、ふんわり、ナ、ナ、ナチュラル系と、い、い、いうのに、し、し、してみたんです」
吹き出しそうになったものの僕はポーカーフェイスを決めこんだ。﹃ふんわりナチュラル系』ね。いかにも雑誌に書かれてそうな言葉だ。でも、こいつの口から出てくると笑える。
﹁よ、よ、よかったです。ちょっ、ちょっと、ふ、不安だったんです。ま、ま、また、ち、違うって、い、い、言われたら、ど、どうしようかと、お、お、思って」
いや、別に君のコーディネーターになったわけじゃないから――などと考えつつ僕は足早に歩いた。ただ、篠崎カミラを見ているうちに気になることが出てきた。まあ、前から気になっていたけど、ところどころに修正が加わることでさらに気になったのだ。
﹁あとは服だな」と僕は言った。﹁地味すぎるよ。個性がない。まるでリクルートスーツだ」
﹁は、はあ。そ、そ、そうでしたか」
篠崎カミラは足早に歩きつつ自分の服を見た。それから周囲にいる女性を検分するかのように見つめた。
﹁じゃ、じゃあ、きょ、きょ、今日、し、仕事帰りに、か、か、買いに行きます」
素直なことで――と僕は思った。少々不安になるくらいの素直さだ。騙された僕が考えることじゃないけど、こんなんじゃ悪い男に騙されちゃうんじゃないだろうか? 横を見ると、篠崎カミラは口をひくひくと動かしていた。目はあちこちに向けられ、しかし、何秒かに一度は僕を見た。いったいなんなんだ? なにか言いたいことでもあるのか? そう訊こうとしたときに彼女は突然足をとめた。僕は惰性で何歩か先へ行った。
﹁あっ、あの、」
﹁ん? どうした?」
﹁い、いえ、」
篠崎カミラは首を振り、うつむきかげんになった。口許はひくひく動き、目は挙動不審かと思えるばかりに動きまわっていた。
﹁なんだよ。言いたいことがあるなら言えよ」
﹁は、は、はい。で、でも、や、やっぱり、」
僕はちらと腕時計を見て、溜息を洩らした。ほんと、まったくなんなんだよ。
﹁言いたいことがあるんだろ? だったら、すっと言ってくれ」
﹁す、すみません。あっ、あの、だ、だけど、こ、こんなこと、さ、さ、佐々木さんに、お、お願い、し、して、い、いいものか、」
首をぐるりとまわしてから僕は笑顔に似たようなものを用意した。苛々しはじめていたけど、昨日のこともあるしな――と思うようにした。そう、彼女には借りがあるのだ。
﹁お願い? どんなお願いだ?」
﹁い、いえ、ど、どんなって、そ、その、」
会社へ向かう集団は僕たちを避けるように歩いていった。僕はもう一度見せつけるかのように時計へ目を落とした。遅刻まではしないものの、これじゃ予定が狂ってしまう。なんでもいいから早く言ってくれよ。
﹁あっ、あの、さっ、さっきの、お、お話に、か、か、関することで、だ、だけど、こっ、こ、こういうのを、お、お願いするのは、や、やっぱり、」
深いところから息を吐き、僕は肩の力を抜いた。苛々したってしょうがない。ここはとにかくその﹁お願い」ってのを聞きだすんだ。その上で考えればいいだけの話だ。
﹁ま、昨日は世話になったしな。僕にできることならなんでもするぜ」
ただ、そう言った直後に僕は深く後悔した。﹁なんでも」ってのは言い過ぎかもしれない。篠崎カミラはさっと顔をあげた。頬はチークとかかわりなく薄く染まっていた。
﹁ほっ、ほっ、ほんとうですか? うっ、う、うれしいです。で、で、では、い、い、一緒に、デ、デ、デパートに、い、行ってください。ふっ、ふ、服を、み、見立てて、い、いただきたいんです」
﹁はあ?」
僕は自分でも驚くくらいの声をあげていた。通り過ぎた人間が振り返るほどの声だった。
﹁僕が君の服を選ぶってのか?」
﹁はっ、は、はい。そ、そうして、い、いただけたら、」
﹁いや、ちょっと待ってくれ」
そう言って僕は歩きだした。篠崎カミラは横にぴったりとついてきた。まるで競争してるかのように僕たちは会社へ向かっていった。
﹁なんでそういうことになるんだ? どうして僕が君の服を選ばなきゃならない?」
﹁で、でも、あ、あ、あとは、ふ、服だと、お、お、仰ったから」
﹁そうだけどさ。ま、確かにそうは言ったよ。だけど、こうなるのはおかしくないか?」
﹁こ、こんなこと、お、お、お願いするのは、こっ、こ、心苦しいのですが、で、でも、わ、私は、そ、そこまで、おっ、お、おかしいとは、お、思いません。そっ、そ、それに、じ、自分に、ど、ど、どんな服が、に、似合うのかも、よ、よく、わ、わからないので」
﹁そういうのも雑誌に載ってるだろ? ﹃ふんわりナチュラル系』の服とかにしときゃいいんだよ」
﹁だ、だ、だけど、わ、私、じ、じ、自信が、な、ないので」
えらく食い下がってくるな――そう思いながら僕は篠崎カミラをちらっと見た。まったく、ほんと自信なさそうな顔してるよ。
﹁そ、そ、それに、さ、さっき、さ、佐々木さんは、な、な、なんでも、し、してくれるって、」
立ちどまって僕は天を仰いだ。ほら、やっぱり言い過ぎたんだ。なんでこう軽く言っちゃうんだろう? 鷺沢萌子と暮らすことになったのだって、あまり考えずに口走った言葉が原因のひとつだったのだ︵まあ、それ以外にもたくさん原因はあったけど)。ん? ちょっと待てよ。ということは、これも悪い霊の仕業なのか? いや、そうじゃないはずだ。なにしろ篠崎カミラは僕をそっちから引き離してくれるはずの存在なんだ。
僕は猛烈に頭を掻いた。完璧にセットしていたのをくちゃくちゃにした。わけがわからなくなってきた。と同時に、篠崎カミラのことをどう見るようになっていたかがわかってうんざりもした。
﹁いや、でも、ほら、いつ仕事が終わるかわからないしさ。いったん出社したら、すぐに出なきゃならないんだよ。午後には池袋まで行くし、そこから直帰の予定なんだ」
﹁で、では、い、い、池袋の、デ、デパートにしましょう。そ、そ、それに、わ、私、ま、待つのなんて、へ、平気です。な、何時間でも、ま、待てます」
﹁そうなの? 三時間くらい待つかもしれないよ。デパートが閉まっちゃうかもしれない」
﹁そ、そうなったら、あ、あ、明日にします。で、で、でも、わ、私は待ちます。け、け、携帯電話の、ば、ば、番号は、わ、わかってるので、ず、ずっと、な、鳴るのを、お、お、お待ちしております」
くちゃくちゃになった髪を撫でつけ僕は溜息を洩らした。もうどうしようもない。こいつならきっと待ちつづけるだろう。今日だけごまかしても明日がある。明日もごまかせたところで明後日だってあるのだ。僕は弱々しく首を振りながらこう言った。
﹁わかったよ。じゃあ、そうしよう。それでいいんだろ?」
営業先を出たのは六時半だった。僕は新しくできた公園の近くまで行ってスマホを見た。ラインには長文のメッセージが幾つも来ていた。すべて小林からのものだ。
﹃おい、またまた大事件が勃発したらしいぞ。佐々木のアホが篠崎カミラと仲睦まじそうにしてたらしい。あいつ、あんな地味な女なんて嫌いだなんて抜かしてたクセにどういうつもりなんだ? ほんとはヤッちまったんじゃねえのか?』
あえて僕宛じゃないように書いたのだろう。まったく面倒な奴だ。他にはこんなのもあった。
﹃ああ、せっかく佐々木様に気に入って頂けるであろう女子どもをご用意したっていうのにな。佐々木様はもう新しい女に首ったけという噂で持ちきりになってる。きっと、私どものご提案なんかには見向きもして下さらないのだろうな』
僕は全部スルーした。どうせ無視したって次から次へと送ってくる気なんだろう。かまって欲しいだけなのだ。
空は曇っていた。僕は駅に向かいつつ考えた。篠崎カミラのことも無視したい。そもそもどうしてあんな女の服を選ばなきゃならないってんだ? 馬鹿げてる。まったく馬鹿げてる。人混みをすり抜けるように歩いていると雨が落ちてきた。間隔もまばらな弱い雨だった。しかし、周囲の人間はさも大事が起こったかのように動きだした。全体がひとつの意思を持ってるみたいに同じような動きをみせた。僕はそのまま歩きつづけ、信号待ちのときに電話をかけた。出なけりゃいいけどな――と思いながらだ。僕が電話をかけたというログは残る。だけど、篠崎カミラは出なかった。そういうふうになればいいのだ。しかし、かけた瞬間に電話は繋がった。
﹁あっ、あっ、あの、」
﹁早いな」
﹁は、はい。ず、ずっと、ま、ま、待っていたので」
﹁それで、どこにいるんだ?」
﹁わ、私ですか? い、い、いえ、そ、それが、わ、わからないんです」
﹁わからない?」
﹁は、はい。い、い、池袋って、あ、あまり、こ、来ないもので。で、でも、た、たくさん、ひ、人がいるところに、い、います」
そりゃそうだろうよ――と僕は思った。信号が変わった。僕は傘を避けるようにして歩いた。正面には池袋駅があった。
﹁駅の中でしょ? 東の方? それとも西?」
﹁そ、それも、わ、わからないんです。ジェ、JRの、か、改札を出て、ひ、ひ、人に、お、押されるように、あ、歩いてたら、ど、どこにいるか、わ、わからなくなりました」
﹁じゃあ、周囲を見まわして。なにか書いてあったりするだろ。目につくのを言ってみて」
﹁え、ええと、――あ、ああ、せ、せ、西武線って、か、書いてあるのが、みっ、見えます」
﹁わかった。じゃ、そのまま西武線の入口に向かって。その方が見つけやすいから。近くに行ったらまた電話するよ。わかった?」
﹁はっ、はい。あ、あ、ありがとう、ごっ、ございます」
雨はすこし強くなってきた。僕は駅の方へ駆けていった。舌打ちしたい気分だったけど、それはやめておいた。
西武線の改札に近づくとすぐに居所はわかった。まわりの人間より頭ひとつ分くらい抜けているからだ。向こうもすぐに僕がわかったようだった。目印になりやすい背の高さをしているとこういうふうになるものだ。
﹁き、き、来て、く、くださったんですね」
﹁まあね」
篠崎カミラは緊張した面持ちで僕を見つめた。僕も首を引いて彼女を見た。地味ではあるけれどクォーターだけあって顔のパーツにはそれぞれ主張がある。スタイルだって悪くないのだ。背が高く、華奢で、顔も小さい。化粧もちゃんとしてるから、はじめて見たときとは確かに別人のようになっていた。これでそれなりの格好をしたら、まあまあは見られるようになるかもしれない。――いや、なに考えてんだ? 僕は顔をそむけた。きっと会社から遠く離れた地で、しかも大勢の無関係な人たちの中にいるからそう思えたんだ。そうに違いない。
﹁さっさと行こう。そうだな、こっからだと西武に行った方がいいだろ」
﹁はっ、はい。お、お任せします。あっ、あの、ほっ、本日は、よ、よ、よろしく、おっ、お願い、い、いたします」
風が巻き起こるくらいの勢いで頭を下げた彼女をじろじろと見ていく者もいた。僕は首を軽く振り、歩きだした。どうせついてくるのはわかってるのだ。
デパートの女性フロアに足を踏み入れるなんてのは久しぶりのことだった。僕は書類がぎっしりと詰まった重たい鞄をぶら下げ、篠崎カミラのあとを歩いた。ここから先の主導権は向こうにある――と思っていた。まあ、そう考えるのが当然だろう。しかし、篠崎カミラはちらちらと売り場を見るだけで中に入ろうとしなかった。しまいにはフロアを一周し、もとの場所にまで戻ってしまった。
﹁なにしてんだよ。なんでちゃんと見ない」
僕は鞄を床に置き、腕を振った。指先は痺れたようになっていた。
﹁だ、だって、きょ、今日は、さ、佐々木さんが、え、え、選んで、く、くださるって、い、言うから」
﹁は? ほんとに僕が選ぶのか? 全部? こういうのって、たいていそっちが﹃これどう思う?』とか言ってくるもんじゃないか?」
﹁そ、そ、そうなんですか? し、知らなかったです」
いや、知ってる知らないの話じゃなく――と僕は思った。腕を組み、周囲を見渡した。ピンクや薄い黄色のひらひらした布がたくさん見えた。僕は細かくうなずき、重たい鞄を手にした。こんなことに時間を使うのは馬鹿げてる。さっさと決めさせて早く終わりにしよう。
﹁よし。じゃ、とにかく店に入ろう。そうしないことには始まらない。ってことは終わらないってことでもあるからな。ほれ、とりあえずはここにするぞ」
一周まわってるあいだに僕だってなにもしてなかったわけじゃない。篠崎カミラが着ても差し支えなさそうな服が置いてある店はチェックしておいた︵ここに入るのか? 入らないのかよ――と何度も思っていたのだ)。僕は手近な店にずんずん入っていって、手当たりしだいにお勧めしていった。
﹁これは? こういうのがいいんじゃないか?」
﹁そ、そうですか? だ、だけど、ちょっ、ちょっと、ま、前が、あ、あ、開きすぎてるように、お、思えるんですけど」
﹁そうでもないよ。会社に着ていってもおかしくないくらいだ。こんなの着てる奴はたくさんいるだろ?」
﹁そ、そうですけど。ううん、で、でも、わ、私には、あ、あまり、に、似合わなさそうに、お、思えます」
店員は微妙な笑顔をみせつつ近くに立っていた。僕たちの会話に割り込むのを困難に感じていたのだろう、手を中途半端にひらき、顔を左右に動かしつづけていた。
﹁ま、とにかく着てみなよ。それから決めりゃいい。――ね、店員さんもそう思うでしょ?」
﹁え? は、はい! きっとお似合いだと思いますよ。それにお仕事に着ていかれても大丈夫なものですし」
﹁ほら、店員さんもこう言ってる。試着させてもらえよ」
﹁わ、わかりました。じゃ、じゃあ、ちょっ、ちょっとだけ、い、いいですか?」
ちょっとだけいいですかってなんだよ――と思ったものの僕はうなずいてみせた。それから、試着室の外で溜息をついた。まったくなんて日だ。どうしてこんな目にあわなきゃならない? などと考えていると、すこし大仰な声が聞こえてきた。僕は顔をあげた。
﹁あら! まあ! よくお似合いで!」
﹁え、ええと、そ、そ、そうでしょうか?」
篠崎カミラは自分の姿を見て恥ずかしそうにうつむいた。ただ、目は僕の方へ向けていた。
﹁お似合いですよ! 背が高くていらっしゃるからでしょうね。まるでお客様に誂えたもののように似合ってます!」
接客がお上手なことで――と思いもしたけれど、確かに篠崎カミラ向けにつくられたかのようにぴったりと似合っていた。身体のラインが強調され、胸が意外にあることもわかった。華奢なわりにはけっこうな大きさだ。
﹁あっ、あの、」と声がした。
﹁え?」
﹁ど、ど、どうでしょう? あっ、あの、に、似合ってるんでしょうか?」
﹁ん? ああ、びっくりした。そこまで似合うとは思わなかった」
僕は素直な感想を宣べた。篠崎カミラはそれを聴くと背筋を正し、口許をほころばせた。顔は深紅に近くなっていて、同じ色は首から鎖骨辺りにまで広がっていった。胸元のスリットからは谷間も見えていた。ブラジャーは黒で、その一部だってわかった。
﹁あっ、ありがとう、ごっ、ございます」
店員はちょっとばかり妙な顔つきをさせた。この二人はどういう関係なんだろう? とでも思ったのだろう。しかし、すぐに商売っ気を取り戻したようだった。
﹁そうそう、それに良く合うネックレスがあるんです。こちらもお仕事につけていかれて大丈夫なものですよ」
﹁じゃ、じゃあ、そっ、それも、お、お、お願いします」
細い金のチェーンが首にかかるとさらに良くなったようにみえた。ただ、試着室から出てぺったんこな靴を履いた姿は残念さを感じさせた。
﹁あとは靴だな。ちょっとはヒールがあった方がいいよ。ここって靴も置いてあります?」
﹁ええ、ええ! ありますとも!」
ごく個人的な趣味によって僕はピンヒールのエレガントな靴を勧めた。それを履くと篠崎カミラの姿は完璧に近くなった。
﹁まあ! ほんとにモデルさんみたい!」
雨の降る平日だったからなのだろう店内に客は僕たちしかいなかった。篠崎カミラは﹁あっ、あの、そっ、その、」などと呟いていたものの、まんざらでもない顔つきで鏡に映る自分を見つめていた。
﹁さ、佐々木さん、ど、ど、どうでしょう? こっ、こ、これで、い、い、いいんでしょうか?」
﹁うん。いいっていうか、凄まじくいいよ。まったくの別人だ。いつもそうしてりゃいいんだよ」
﹁ほ、ほ、ほんとですか? じゃ、じゃあ、こ、これ、ぜ、全部、か、か、買います」
﹁え?」
僕はどうしてかわからないけど店員の方を向いた。店員も若干きょとんとしてるようだった。
﹁全部? それ全部買うの?」
﹁え、ええ。だ、だって、さ、佐々木さんが、い、い、いいって、お、仰ってるんですもの。あっ、あの、そっ、それで、ご、ご、ご相談なんですけど、」
最後の部分は店員に向かって言ったものだった。言われた方はまだきょとんとしていた。﹁ご相談」ってなに? とでも思っていたのだろう。
﹁は、はい。なんでございましょう?」
﹁あっ、あの、こ、これ、ぜ、全部、こ、ここで、き、着替えて、い、いってもいいですか?」
しばしの沈黙︵たぶん十秒ほどだったと思う)が挿しはさまれた。その後で店員は身体をぴくんと痙攣させたように揺するとスイッチをオンにした。
﹁ええ、ええ! もちろんです! では、タグとかを取っちゃいましょうね。ええと、その前にお会計を――」
﹁あ、は、はい。で、では、こ、これで、」
篠崎カミラは財布から見たことがない色のカードを取り出した。店員はそれを押し頂くようにして受けとった。きっとプラチナよりも上のものに違いない。こいつ、そうとうの金持ちだな。ああ、清水は縁故採用とか言ってたっけな。お嬢様ってことか――なんてことを考えているあいだ篠崎カミラは試着室に籠もった。カーテン越しにさっき着た服やネックレスが渡され、店員はそれまでよりも丁寧かつ慎重にそれらを扱っていた。僕はソファに腰をおろして、息を深く吐いた。カーテンの奥に下着姿の篠崎カミラがいるわけだ。そう考えるとすこし落ち着かない気分になった。いや、なに馬鹿なことを考えてる? あんな女が下着姿であろうと真っ裸であろうと関係無いことだ。うん、まったく関係無い。そう思うようにしていたものの身体の一部は反応しているようだった。
それからも篠崎カミラは何店かまわり、同じ行動を繰り返した。僕が勧めた服を試着し、店員に褒めそやされ、その場で購入するというのが何回かあった。当然のことに紙袋は増え、篠崎カミラはよろけるくらいになった。僕は仕方なくそのうちの幾つかを持ってやることにした。まあ、どうしたってそうせざるをえない。
﹁あっ、あっ、あの、ほ、ほ、本日は、ほ、ほんとうに、あ、ありがとう、ごっ、ございました」
頭を下げたときに篠崎カミラはほんとうによろけた。大きな紙袋を五つは持っていたのだ。これだってそうならざるをえないだろう。
﹁いいえ、どういたしまして」
僕は変身を遂げた彼女を眺めた。頭の先から靴まで見て、視線を胸元に向けた。そして、顔をごしごしと擦った。
﹁つ、つきましては、ゆ、夕食を、ご、ご馳走させて、い、い、いただけませんでしょうか?」
﹁いいよ。これはいわば昨日の礼だ。気をつかわなくたっていい」
僕は片手を挙げてそうこたえた。﹁つきましては」という誘われ方をされたのは初めてだったので少々面くらってもいた。
﹁で、でも、そ、そ、それじゃ、わ、私の、き、気が済みません。こ、こ、こういうとこって、う、う、上の方に、レ、レ、レストランが、あ、あるはずですよね?」
﹁まあ、あるだろうね。でも、」
そう言いかけてるうちに篠崎カミラはものすごく早足でエスカレーターに向かっていった。僕がついてくるのを当然と思っているようだった。まあ、荷物を持たされてるわけだから、ついていくしかないのだけど。
エスカレーターに乗ると篠崎カミラは満足そうな表情になった。﹁うむ、よくついてきたな」とばかりにうなずいてもいた。あまり気にしてなかったけど︵それ以外に気になることがたくさんあったからだ)、篠崎カミラにはけっこう強引なところがある。突然消える街灯や、肩の上にいる﹁すごいの」やらを考えるのに手一杯で思い至らなかっただけだ。この状況だってそうだもんな――などと思いながら僕は満足げな彼女の顔を見ていた。苛つかされる女だと思ってるのに、なぜか服を選ぶようになってるのだ。
そして、そう考えてると気になることがいろいろ出てきた。僕はこの子のことを知ってるようであり、しかし、知らない部分が多すぎる。だいいち年齢だって知らない。アゼルバイジャン人絡みのクォーターであり、いろんなものが見える、おそろしく素直で、けっこう強引な、かつては地味すぎた女の子というのがわかることのすべてだ。それ以外のことは知らないし、なおかつ、知らない部分は謎だらけに思えた。﹃先生』と呼ぶ女と同居してるのか? というのも謎のひとつだ。いろんなものが見えるというのだってどういうことかわからない。そもそも、それはほんとうのことなのか? いや、まあ、これまでのことを思えば信じられなくもない。なにしろ僕は堀端で謎の︽手》に引き落とされそうになったのだから。
僕たちは何度もエスカレーターを乗り継いだ。篠崎カミラはずっと満足そうな表情を浮かべている――と思っていたけれど、その視線は僕の左肩に向けられていた。
﹁なあ、左肩のすこし上を見つめるのはやめてくれないか。なんだかぞわぞわするだろ」
﹁あっ、す、す、すみません」
篠崎カミラはいつものごとくに頭を下げた。紙袋は激しく揺れ、歩き登ろうとしていた男にぶつかった。
﹁あっ、もっ、も、申し訳、ごっ、ございません」
そっちの対応にも彼女は頭を下げた。紙袋は動揺し、紐が捩れ、まわりはじめた。
﹁ちょっ、ちょっと落ち着け。落ち着くんだ」
怪訝そうに見つめていた男︵気持ちは痛いほどわかった)に軽く頭を下げながら僕は紙袋を手でおさえた。謎だらけなのは確かだけどミステリアスとはいえない。ただ、そういう部分も含めて特異な人間とはいえる。理解しがたい部分に溢れているのだ。エスカレーターを降りるところで篠崎カミラはやっと落ち着きを取り戻した。僕は﹁ほうっ」と溜息をついた。四、五階ほど昇っただけなのに長い旅をした気分になっていた。篠崎カミラはまた満足そうな表情をさせていた。しかし、目だけはすこし険しく、僕の左肩へ向かっていた。やっぱり気になることだらけだ。
僕たちはイタリア料理屋に入った。ホール係は荷物を見て金をしこたま持ってる人種と判断したのだろう、まあまあいい席に案内してくれた。時計を見ると八時半になるところだった。デパートの飲食店なんて十時くらいには閉店になるはずだ――そう思いながら僕はメニューをひらいた。あまり楽しいとはいえない会食ではあるけれど、それも一時間ちょっとのことだ。カップラーメンに比べれば確実に数段上のものが食えるわけだし、それについてはラッキーとも思えた。それに、この時間は篠崎カミラの謎を解明するために使える。
僕はビールを、篠崎カミラはグラスワインを頼んだ。それと〈カプレーゼ〉、〈エビとアボカドのブルスケッタ〉というのもオーダーした。よく冷えた飲み物はすぐにきた。僕たちは︵なんのためかもわからなかったけれど)とりあえず乾杯をし、それを口にした。
﹁で、この辺で一回きちんとしたまとめをしたいんだけど」
グラスをコースターに置くと、僕は背もたれによりかかった。
﹁ま、まとめ?」
篠崎カミラは姿勢良く座っていた。一口飲んだだけで耳たぶまで赤くなっていた。その目はやはり僕の左肩へ向けられていた。
﹁そう、まとめだ。ここのところ僕のまわりでは理解しがたいことが次々と起こってる。昨日のことだってそうだ。この前――ほら、僕が後ろに引っ張られたときのことだよ――それだって理解しがたい。それに、他にもいろいろある。まずは君のことだ。君はいったい何者なんだ?」
ワインを口にしてから篠崎カミラはうつむいた。髪をまとめているから前みたいに顔が見えなくなるということはなかった。それでも暗い印象が浮き上がってきた。
﹁な、何者かって、き、訊かれても、」
﹁でも、普通じゃない。そうだろ?」
篠崎カミラは急に顔をあげた。大きな目をさらに押し広げ僕を見つめた。
﹁ふ、普通です。わ、私は、ふ、普通の、に、人間です」
﹁そんなわけがない。普通の人間であれば、なんで肩ばかり見る。僕はこれまで誰からもそんなふうにされたことないんだぜ。そんなことをするのは君だけだ。それに、自分でも言ってたじゃないか。他の人には見えないものが見えるって。だろ? だから、普通じゃないんだよ」
そう言ってるあいだも彼女は僕をじっと見つめていた。僕も同じようにした。とくにその目を見ていた。それをやめることはできなかった。涙がふっとあらわれ、と思った瞬間に溢れ出てきたからだった。ホール係が〈カプレーゼ〉をサーブしたときにはハンカチを取り出し、僕の方を見ながらそれを頬にあてた。いや、ちょっと待ってくれ――と僕は思っていた。誤解されるだろ、とだ。これじゃ別れ話をしてるカップルみたいじゃないか。
﹁なんで泣く?」
ホール係が立ち去るのを待って、僕は訊いた。
﹁だ、だって、」
そうとだけ篠崎カミラはこたえた。声は震えていたし、肩も小刻みに揺れていた。
﹁悪かった」
僕は囁くようにそう言った。
﹁言い方がマズかったな。ほんとごめん。そういうつもりじゃなかったんだよ。君は普通だ。ごくあたりまえの人間だよ。石を投げれば当たるくらいそこら中にいるタイプだ」
篠崎カミラは睨みつけてきた。こういうこともできるんだな――と僕は思った。怒りという感情もちゃんと持ちあわせているのだ。
﹁ごめん。これも言い過ぎた」
僕は重ねて詫びた。頭もきちんと下げた。
﹁全面的に悪かった。な、だから泣くのはやめてくれよ。楽しく食事をしよう。つぎに気に障ることを言ったら僕を殴っていい。だから泣くのだけはやめてくれないか」
涙をきちんと押さえると篠崎カミラは笑顔をつくった。身体をテーブルに寄せてもきた。
﹁さ、佐々木さんを、な、殴るなんて、で、できません。そ、そ、そんなこと、」
﹁だろ? 僕も殴られたくはないから口を慎む。――で、聴かせてくれないか? 君のことを。どんなことだっていい。僕は理解したいんだよ。君のことを理解したい」
篠崎カミラは首を後ろへ引いた。口は半開きになり、頬は真っ赤になった。ハンカチをくちゃくちゃにしてもいた。しばらくそうしていたけれど気づいたのだろう、恥ずかしそうに膝の上へ置いた。
﹁あっ、あっ、あの、うっ、う、うれしいです。そ、そんなふうに、お、お、仰って、く、くださるなんて」
﹁あ?」
僕は彼女を見つめた。こんなに喜ばせるようなこと言ったっけな――と考えていた。篠崎カミラはナイフとフォークを手にし、〈カプレーゼ〉を取り分けはじめた。すこしうつむき、トマトとチーズを小皿にのせていた。そうなると胸が強調された。谷間と黒いブラジャーが目に入ってきた。
﹁わ、私、こ、こ、子供の頃から、ふ、ふ、普通じゃないって、い、言われてたんです」
﹁ん? ああ、そうなのか」
僕は胸元から目をそらした。それから、ビールを勢いよく飲んだ。なに考えてんだよ、まったく――と思っていた。
﹁よ、よく、か、か、からかわれても、い、いました。わ、私は、ご、ごく、ふ、普通のことを、い、言ってる、つ、つもりだったんですけど、そ、それが、ま、まわりの人には、わ、わ、わからないみたいで」
取り分けたのを僕の前に置くと篠崎カミラはトマトを口にした。僕は彼女の唇を見ていた。オリーブオイルがついた唇をだ。ホール係が音もなくやってきて料理をサーブした。
﹁じ、じ、自分にとって、あ、あ、あたりまえの、こ、ことが、ほ、他の人には、ま、ま、まったく、わ、わからないなんて、り、り、理解できなかったんです。わ、私に、み、見えることが、ど、どうして、み、みんなに見えないのか、ふ、ふ、不思議でした。だ、だけど、じゅ、じゅ、十歳の頃に、あ、諦めました。じ、じ、自分と、お、同じように、こ、こ、この世界が、み、見えない人たちと、しゃ、しゃべることなんて、な、ないと、お、思うように、な、なったんです」
料理を口に運びながら僕は彼女の唇をじっと見ていた。気づいたらそうしていたのだ。オイルに濡れた唇と、舌の先が平たく出てきてはそこをゆっくり舐める様をだ。篠崎カミラはつぎの料理も取り分けてくれた。うつむきかげんになり、フォークを丁寧に扱っていた。僕は非常に柔らかそうな彼女の胸を見つめた。それから、首を激しく振った。
﹁ど、ど、どうか、さ、されましたか?」
﹁いや、なんでもない。――僕はもう一杯飲むことにするよ。それに、なにか他にも頼んだ方がいいだろう」
僕はメニューをひらき、追加のものを頼んだ。二杯目のビールがくるとそれをぐいっと飲み、額を手で覆った。しっかりするんだ。どうしてこんな女をそういう目で見なきゃならない。それこそ呪われてるとしか思えないじゃないか。僕は軽く咳払いをして喉を調節させた。
﹁それで? それでどうなったんだ?」
﹁は、はい。そ、それから、わ、私は、あ、あまりしゃべらない子に、な、なりました。お、お友達も、で、できずに、ひ、ひ、一人でいるように、な、なったんです。も、もし、は、母が、た、助けてくれなかったら、わ、私は、が、学校にも、い、行かなかったかも、し、しれません。だ、だけど、わ、私が、と、と、登校したがらないのをみて、は、母が、い、言ってくれたんです。よ、よくわかるとです。あ、あなたの気持ちは、よ、よくわかると、い、言ってくれました。は、母も、わ、私と同じで、い、い、いえ、わ、私なんかとは、く、比べようも、な、ないくらい、い、い、いろんなものが、み、み、見える人なんです。ち、ち、小さい頃から、そ、そうだったようで、わ、私と、お、同じような、け、経験も、し、してたみたいなんです」
この辺りから僕は彼女の身体をそういう目で見ることがなくなった。話が理解できなくなってきたからだ。
﹁ちょっと待ってくれ」
僕は片手を挙げた。
﹁さっきから言ってる﹃はは』ってのはお母さんのことか? いや、まあ、そうなんだろうけど」
﹁は、はい。そ、そ、そうです。は、母は、わ、私にも、と、と、特別な力があるのだと、い、言ってくれました。そ、そ、それは、だ、誰もが持ってるものでは、な、ないのだと。そ、それを、り、り、理解してくれる、ひ、人は少ないけれど、は、は、恥ずかしがったり、か、隠したりする、ひ、必要はないのだとも、い、言ってくれました。い、い、いずれは、わ、私も、そ、そ、その力で、ひ、人を助けることに、な、なるだろう、そ、そ、それまでは、な、何事も、しゅ、修行だと、お、思いなさい。わ、私も――と、こ、こ、これは母のことですが――わ、私も、こ、子供の頃は、そ、そ、そうだったのだからと、い、い、言ってくれたんです」
二杯目のビールも飲み干して僕はホール係を呼んだ。謎はかえって深まった。母親もいわゆる﹃見える人』ってことか? あの時代錯誤的なメイクを施した母親が? いや、﹃先生』と一緒に暮らしてるんじゃないのか? 僕はまた片手を挙げ、つづきを話そうとしてる篠崎カミラを遮った。
﹁よくわからないんだけど、君のお母さんも﹃見える人』なのか? でも、君には﹃先生』ってのもいるよな? 昨日、僕としゃべった人だよ。そっちは﹃先生』なわけだから、当然そういうお人なわけだろ? ってなると君も含めて三人いるってことになる。ちょっと多すぎやしないか? いや、まあ、別にたくさんいたっていいけど、ちょっと複雑に思えるな」
篠崎カミラは椅子に背中をあてるようにした。顔には自然にみえる微笑が浮かんでいた。
﹁あっ、あの、そ、そ、その﹃先生』というのが、わ、私の、は、母なんです」
﹁はあ?」
僕は大きな声を出していた。すぐに口を押さえ、辺りを見渡した。
﹁す、すみません。わ、私、も、申し上げて、な、なかったですよね。じ、じ、実は、わ、私、た、たまに、は、母の手伝いを、す、す、することがあって、そ、そのときには﹃先生』と、よ、よ、呼ぶように、し、してるんです。さ、昨夜は、あ、ああいう、お、お話だったので、つ、つい﹃先生』と、い、言って、し、しまいましたが、そ、そ、それは、は、母のことなんです」
僕はまたもや手を挙げることになった。
﹁手伝いってのは、その、なんだ、霊視みたいなことか?」
そう言ってから僕は思い出した。
﹁ああ、喫茶店で会ったときはその帰りとかだったのか。だから、あのときも﹃先生』って呼んでたってこと?」
篠崎カミラはうなずいた。ホール係が料理を持ってきた。〈ラム肉のグリル バルサミコソース〉というやつだ。
﹁は、はい。そ、そうです。わ、私は、ま、まだ力が、き、き、きちんと、そ、そなわって、い、いないんですけど、た、たまに、て、手伝いを、た、頼まれることが、あ、あ、あるんです」
﹁どんなことをするの?」
﹁は、母が、み、み、見たことと、わ、私に見えたことを、す、す、すり合わせたりです。む、む、難しい、じょ、状態の方は、そ、それだけ、た、た、たくさんのものが、つ、つ、憑いてますから、ひ、一人で全部、み、見るのは大変なんです。つ、つ、憑いているもの同士の、ち、力関係を、み、見極めなくては、な、ならないので、は、母は、お、主に、い、一番強い霊を、わ、私は、そ、それ以外のを、み、見るように、し、しています」
﹁なるほど」
僕はラム肉を切った。こうやって話を聴いてるとだんだん信じられる気になってきた。この子は確かに見えているのだろう。僕の左肩に﹁すごいの」がいるってのも動かしがたい事実ってわけだ。しかし、とはいっても理解までには至らない。仕組みがわからないのだ。
﹁さ、佐々木さんは、ま、まだ、き、きちんとは、し、し、信じられない、み、みたいですね」
篠崎カミラは顔を近づけさせてきた。僕はラム肉を頬張りながら彼女を見つめた。
﹁いまのは僕の考えを見たってことか?」
﹁い、いえ、そ、そうじゃありません。わ、私は、ひ、ひ、人の、か、考えてることが、わ、わかるわけじゃ、な、ないんです」
﹁でも、この前は考えてたことをあてたぜ。僕を騙した女と君に関わりがあるんじゃないかってのを言いあてた」
さらに顔を近づけさせ、篠崎カミラはじっと見つめてきた。これから最も重要なことを言うといった感じの顔つきだった。僕は急いで口の中のものを飲みこんだ。
﹁あ、あのときは、わ、わかったんです。い、いえ、そ、そう、か、感じたんです。あ、あれは、わ、私にも、ふ、不思議なことでした。で、でも、は、母に、そ、そのことを、は、話したら――」
篠崎カミラの目は一度細められ、それから大きく広がっていった。泣いたあとだったからか、あるいは照明が映っているのか、その瞳は強く輝いてみえた。
﹁話したら?」
僕はつりこまれるように小声になっていた。尻がむず痒くなった気もした。いいものか悪いものかはわからないものの、なにかしらの予感があったのだろう。
﹁は、母は、あ、あなたにも、そ、そ、そのときが、き、きたのねと、い、言ってました。わ、私の、ち、力が、か、完全なものに、な、な、なるときがという、い、意味です」
﹁力が完全なものに? それはもっとよく見えるようになるってことか?」
﹁た、たぶん、そ、そ、そういうことだと、お、思います。わ、私にも、よ、よくは、わ、わかりませんが」
僕はゆっくり首を振った。やはり理解しがたいのだ。言われたことは理解できる。しかし、納得できない。ホール係が最後の料理を運んできた。〈テナガエビのトマトクリームパスタ〉だ。
﹁そろそろラストオーダーになりますが」
﹁じゃあ、もう一杯ビールを」
残っていたのを一口にあおると僕はグラスを渡した。
﹁それで、お母さんの言う﹃そのとき』ってのはなんなんだ?」
篠崎カミラは突然恥ずかしそうな表情になり、うつむいた。ただ、上目がちに僕を見てはいた。ん? と僕は思った。尻はまたむず痒くなっていた。
﹁あ、あ、あくまでも、は、は、母が、そ、そう言ってると、い、いうことなのですが、わ、私にも、そ、その、きっ、きっ、きっかけが、で、できたと、い、い、いうことらしいです。め、め、め、巡りあったと、い、いうことでも、あ、あ、あるようです。だ、だ、だけど、わ、私も、そ、そ、そ、そうじゃないかと、お、お、思っては、い、い、い、いたんです」
﹁はあ」と僕は言った。いや、溜息みたいにそれは洩れ出た。普段に増してどもってる篠崎カミラはやはり予感をあたえた。どちらかというと悪い方の予感だ。
﹁で、どうなったら君の力は完全になるんだ?」
ビールがやってきた。篠崎カミラはホール係が立ち去るのをしっかり見届けてから聞こえない程度の小声でこう言った。
﹁そっ、そ、その、お、お、男の人を、しっ、し、知ることで、そ、そ、そうなると、きっ、き、聴いて、い、います」
僕は危うくビールを吹き出すところだった。鼻はすこしツーンとした。
﹁は?」
僕は辺りを見まわした。篠崎カミラは完璧にうつむいてしまった。
﹁ええと、つまり、それは、」
思いっきり顔を近づけさせ、なおかつ囁くように僕は言った。
﹁ヤルってこと? いや、違うな。いまのは忘れてくれ」
篠崎カミラはすこし顔をあげた。ぽかんとした表情をしていた。
﹁ヤル?」
﹁いや、違うんだ。そうじゃない。つまり、君が言ったのは寝るってことか? そうすると君の力は完全になる?」
ということは、こいつは処女ってことか――そう思いながら僕は篠崎カミラをじっくり見つめた。黒いブラジャーの際にかがってあるレースが目にぐいぐいと入ってきた。
﹁そうだ、忘れてた」と僕は言った。篠崎カミラはさらにぽかんとした顔になった。
﹁ところで、君はいくつなんだ? それすら僕は知らなかったんだ」
﹁は、はい。に、に、二十七ですけど」
二十七歳にしていまだ処女か。いや、そんなのはどうだっていい。――いやいや、そうでもないぞ。
﹁あっ、あの、そ、それが、ど、どういう、」
僕は両手を前に出して振ってみせた。動揺しまくってるのはわかっていたけれど、どうにもできなかった。
﹁いや、それはいいんだ。確認したかっただけだから。でも、そんな話はさらに理解できないぞ。寝ると力が完全になるなんて」
﹁あっ、あの、す、す、すみません。そ、そ、その、寝るっていうのは、ね、眠るって、い、意味ですか? そ、そ、そうだったら、わ、私の、い、い、言ってるのとは――」
またも篠崎カミラは完璧にうつむいてしまった。その格好はやめてくれないかな――と僕は思っていた。目のやり場に困るからさ、とだ。それから、ん? と思った。いや、寝るってのはただ眠るってことじゃない。僕は椅子によりかかった。非常に疲れてしまったのだ。
﹁ふうっ」
僕は深く息を吐いた。篠崎カミラはびくっとしたように顔をあげた。瞳はすこし潤んでいるように見えた。僕は髪を掻きまわしながらこう言った。
﹁まどろっこしい言い方はやめよう。――その、なんだ、君が言ったのはつまりセックスするとってこと?」
篠崎カミラは潤んだ目のままでこくりとうなずいた。それはすぐにわかるんだ――と僕は思った。
当然のことに妙な空気が周囲を覆うことになった。僕は深く息を吐きだし、意味もなくうなずきつづけた。篠崎カミラはどういうわけか僕の目をじっと見ながら料理を取り分けていた。目をそらして、僕は天井を見あげた。きちんと理解できてはいないけれど、彼女の言ったことを要約するとこういうことになるのだろう。
・彼女の力はいまだ完全ではない
・その力はセックスすることで完全になる
・そして、その﹁きっかけ」が彼女には訪れた
より重要なことは、その﹁きっかけ」にある。文脈から読みとれること︵読みとりたくなんてなかったけど)から考えると、それは僕によってもたらされたってことなのだろう。いや、すくなくとも篠崎カミラはそう考えてるというわけだ。
﹁あのさ、」
顔を戻して僕は料理に手をつけた。パスタはのびきっていたし、ソースの表面は乾いていた。それをもそもそと口に含みながら目だけ上へあげた。あとをどうつづければいいかわからなかったのだ。篠崎カミラも食べづらそうにパスタを口に運んでいた。
﹁うん、あのさ、一般論として訊くことだけど、」
そう言ってから、一般論? と僕は思った。この話に一般化できることなんてあるのか?
﹁いや、一般論ってのもおかしいかもしれないけど、互いにその当事者じゃないという立場から話してみよう。ええと、そういった力を持ってる人はそれがどういうきっかけであっても、ある種の通過儀礼的なことを経験することで完全なる能力を得ることができる。そういうことでいいんだよな?」
もごもごと口を動かしながら篠崎カミラはうなずいた。僕はほっとした。この流れに乗ってくれたというわけだ。
﹁は、はい。い、い、一般的に、い、いえば、そ、そういうことで、い、いいと思います。ど、どういう、きっ、きっ、きっかけであれ」
ただ、﹁きっ、きっ、きっかけ」と言ったとき篠崎カミラは恥ずかしそうに頬を染めた。僕はすこしうんざりした。これじゃ隠語を使ってるのと変わらないじゃないか。
﹁それで、そのきっかけが他者を通じてもたらされる場合、その他者ってのは特定の人物じゃなきゃならないのか? これは、誰でもよかったりはしないのかって意味で訊いてるんだけど」
﹁そ、それは、わ、私にも、よ、よくわからないんです。ただ、は、母がそうだと、い、い、言ってるだけで。で、でも、は、母もそうだったと、い、言ってます。も、も、もともと、そ、祖母が、そ、そういう力を、も、持っていたんです。ア、ア、アゼルバイジャン人の、そ、祖母です。そ、祖母だけでなく、わ、私の家に、う、生まれる女の子は、だ、だいたい、そ、そ、その力を持って、い、いるんです。こ、こ、子供の頃は、か、感じるだけなんですけど、そ、その力は、せ、成長するに、し、したがって、つ、つ、強まっていきます」
そう言ってるあいだも篠崎カミラの頬は色を濃くしていった。目許はもとよりワインのせいで赤くなっていた。僕はフォークを持ったままその顔を見つめつづけていた。
﹁は、母の話と、い、いうだけですが、そ、その、は、母も、わ、私と変わらないくらいの、と、年のときに、ち、父に出会ったんです。だ、誰でも、い、いいのかは、わ、わかりません。で、で、でも、ち、父は、そ、その当時、ひ、ひどい状態に、あ、あったようです。は、母は、そ、そのことに、き、き、気づきました。そ、そのときの、ち、力を超えて、ち、父のおかれている、き、危機的状況が、わ、わかったそうです。た、ただ、ち、父は、は、はじめのうち、そ、それを、し、信じなかったそうです。し、しかし、じょ、状況がもっと、わ、わ、悪くなると、は、母を、た、頼らざるをえなく、な、な、なったんです。そ、そ、そして、」
僕はフォークを置くと手を挙げた。そうすることでつづきをしゃべるのをやめさせた。
﹁どこかで聴いたことがある話に思えてきたな」
篠崎カミラはうなずいた。
﹁わ、私も、そ、そう思います」
﹁それで、君のご両親は、」
そこまで言って僕は肩をすくめさせた。その先は言うまでもないことだ。
﹁ま、君が生まれたってことはそういうことだよな。それで、君のお母さんは力を完全なものにできたってわけだ。そのためにそうしたってわけじゃないよな?」
﹁まさか」
篠崎カミラは睨みつけるような目つきをさせた。
﹁は、母は、ち、父を、あ、あ、愛していました。そ、その、き、き、きっかけがなにであれ――い、いえ、こ、これは、さ、さっき、い、言っていた、きっ、きっ、きっかけでは、な、なく、」
自分の発言にうろたえたのか睨みつけるような目は急激に歪んだ。僕はすこしばかりうんざりした。しかし、こういうのにも馴れはじめていた。
﹁わかるよ。当然わかる」
﹁あっ、ありがとう、ごっ、ございます。と、と、とにかく、そ、そのきっかけが、な、なんであれ、は、母は、ち、父のことを、は、はじめから、あ、あ、愛してたんです。め、巡りあわせが、あ、あったということです。ち、父も母によって、す、救われ、は、母は父によって、そ、その力を、か、完全なものに、し、したんです。は、母はそれを、や、や、約束されたことだったと、い、言っています。そ、そうなることが、き、決まって、い、いたのだと」
篠崎カミラは最後の部分を強調するように言った。ホール係が皿を下げにきた。そのあいだ彼女はずっと僕を見すえていた。顔に浮かぶどのような変化も見逃さないといった具合にだ。
﹁仮に、」
ホール係が去ってから僕は身体をテーブルに押しつけた。
﹁君のお父さんがそういう選択をしなかったらどうなってたと思う?」
椅子に背をあて篠崎カミラは息を深く吐いた。それから、遠くなった距離を補うように目を細めた。睨んでいるのとは違う。ただ、その瞳には力があった。しっかりと芯を持った揺らぐことない力だ。
﹁か、考えたくは、あ、ありませんが、さ、さ、最悪な、じ、事態になっていたかも、し、しれません。そ、それは、ち、父にとってと、い、いうだけでは、あ、ありません。は、母にとってもです。ち、力がどうとかでも、な、ないんです。だ、だって、は、母は、ち、父を、あ、あ、愛して、い、いたんですもの」
﹁なるほど」
僕はそうとしか言えなかった。彼女の力強い瞳を見ながら、椅子にもたれかかった。ある部分においては脅迫にも似てる――と思っていた。いまのは彼女の両親のことでもあり、僕と篠崎カミラの話でもあるのだから。――いや、ちょっと待ってくれ。どうしてそうなるんだ? 僕はぬるくなったビールを飲んだ。これ以上この話をつづける気にはなれなかった。
会計を済ませ︵レアなクレジットカードの登場というわけだ)、僕たちはエレベーターで地上まで降りた。雨はまだ降っていた。篠崎カミラはタクシーで帰ると言った。まあ、荷物の多さを考えればそうせざるをえないだろう。
﹁あっ、あの、と、途中まで、い、い、一緒に、の、乗って、い、いきませんか?」
篠崎カミラはそう言ってきた。僕は﹁それにはおよばない」とこたえた。一緒に帰るのが嫌というわけではなかった。ただ、一人になりたかったのだ。一人でじっくりと考えたかった。タクシーがドアを開けた。篠崎カミラは大量の荷物を先に入れた。僕は一段高いところに立っていた。それでも彼女の顔は僕の胸辺りにあった。
﹁あっ、あの、」
﹁なに?」
﹁そ、その、ほ、本日は、い、いろいろと、あ、ありがとう、ごっ、ございました」
﹁いいよ、そんなの。それに、もとはといえばこれは昨日の礼だ。ま、美味いもんも食わせてもらったしね」
すこしのあいだ篠崎カミラはうつむいた。僕もつられて同じようにした。後ろにはタクシーを待つ客が並んでいた。
﹁ほら、早く乗れよ。あとがつかえてる」
ふっと首をあげ、篠崎カミラは僕の立っている段に足をかけた。顔には真剣そうな表情が浮かんでいた。そのまま僕の右頬に顔を寄せてきた。
﹁お家に戻ったら肩を見てください。左肩です」
囁くように彼女は言った。まったくどもらずにだ。
﹁は?」
﹁でも、大丈夫です。怖れることはありません。佐々木さんは守られています。私が守ってみせます」
マジかよ――と僕は思った。まあ、当然の反応だろう。なんで帰り際に地雷を仕掛けるようなことをする。こうやってじわじわと脅迫するつもりか? どうにもこうにもセックスしなけりゃならない状況に追いこもうってわけか? そう思いながら僕は雨の中へ消えていくタクシーを見送った。
帰りの電車でも僕は左肩をじっと見つめていた。トイレにでも入って見てやろうかと思いもしたけれど、それはそれで怖いからやめておいた。僕は雨が降る中を肩を気にしながら歩いた。街灯はマンションにたどりつくまで消えたりしなかった。まあ、そっちの方があたりまえではあるけれど、ビクビクしながら細い道を進むことになった。
あらかた片づけの済んだ部屋に入って僕がまずしたのは洗面台の前に立つことだった。それから思い直し、テレビをつけた。ボリュームを上げ、賑やかさを演出した。その上ですべての部屋の明かりをつけた。満を持して僕はワイシャツを脱ぎ、アンダーシャツを捲った。
﹁かんべんしてくれよ」
僕はそう呟くことになった。左肩には後ろから手をかけられたかのような痕がついていた。それは赤黒く濁った痣みたいにもみえた。﹁怖れることはない」なんて言われたって、これは怖いだろう。僕は鞄からスマホを取りだし、暗くなっている画面を見つめた。ボタンを押すとラインに幾件かメッセージが来てるのがわかった︵きっと小林からのに違いない)。僕はしばらくそのまま悩み、しかし、スマホをベッドに放った。篠崎カミラに説明を求めでもしたら、さらにドツボに嵌まりそうな気がする。意味不明なことの解明ができたとしたって、その代償が大きすぎる。
守られてるはずだ――僕はそう思うようにした。守護霊様ってのもいるわけだし、いますぐ最悪な事態にはならないだろう。信じるより他はない。そう考えてる時点で篠崎カミラの手中に落ちこんでいるようにも思えたけど、しょうがない。なにしろこれは僕にとって管轄外の出来事なのだ。
半目を開けたままで髪を洗い、歯を磨くときも鏡の前に立たないようにして僕はその恐怖をやり過ごすことにした。どうしようもなくなったら電話をすればいい。母親であり、﹃先生』でもある人物だっていることだしな。そう考えながら僕は明るい部屋でテレビの声を聞きつつ眠りについた。
◇◆◇
翌日も篠崎カミラは駅前にいた。僕たちは﹁おはよう」、﹁おっ、おはよう、ごっ、ございます」と挨拶を交わし、足早に会社へ向かった。新調した服は彼女によく似合っていた。背が高く、スタイルも悪くないので着映えがするのだろう。
﹁み、見ましたか? ひ、ひ、左肩」
しばらく歩いてから篠崎カミラはそう訊いてきた。
﹁もちろん。見ないわけにはいかないだろ。なんてったって自分の肩なんでね」
そうこたえながら僕はちらちらと彼女を見ていた。濃いブルーのワンピースは大股に歩くたびに生地を太腿に密着させた。きっと柔らかな素材だからだな――などと考え、僕はあくまでも服の方に意識を向けるようにした。そうしないと肉体に目がいってしまうからだ。ふむ、彼女の力を完全なものにするにはセックスが必要なんだな――なんてふうに思ってしまうのだ。実際にも僕の試みは幾度も失敗した。胸元はドレスコードぎりぎりにあいていたし、そこにはきめの整った肌が見えた。自分が選んだものなので当然だけど彼女の格好は僕の趣味に合っていた。どうあってもグッときてしまう。
﹁で、ど、どうでした?」
﹁え?」と言って僕は立ちどまった。聞き間違えをしていたのだ。僕には﹁で、どうですか?」と聞こえていた。
﹁いや、どうですかって言われても。その、なんだ、」
すこし汗ばんだ胸元に目を向け、僕はなんて言うべきか考えていた。うん、意外にあるんだな。手頃な大きさだ――などと考えていたけれど、そんなことは言えない。というか、言うべきでない。セクハラまがいのことだし、なんといっても爽やかな朝なのだ。
﹁あっ、あの、」
篠崎カミラは僕の視線をたどって頬を赤らめた。
﹁わ、私が、い、い、言ったのは、か、肩のことです。そ、その、ど、どうでしたかって、い、言ったのは、さ、佐々木さんの、か、肩のことです」
﹁ああ」
僕は口を覆って歩きだした。自分の顔も赤くなってるのがわかった。篠崎カミラは胸を張り気味にして横にぴったりついてきた。きっと自信を深めでもしたのだろう。
﹁どうもこうもないよ。昨日は部屋中の電気を全部つけて、テレビもつけっ放しにして寝た。髪を洗うときも目をあけてた。鏡は見ないようにしながらね」
﹁じゃ、じゃあ、や、やっぱり、」
﹁ああ、べったりついてた。まるで手形みたいのがね。っていうか、そうなってるってわかってたんじゃないのか?」
﹁い、いえ、そ、そこまでは。で、でも、き、昨日、タ、タクシーを、ま、待ってる、あ、あいだに、つ、つ、強い、ち、力を、か、か、感じたんです。も、ものすごく、つ、強い、ち、力を」
﹁ものすごく強い力ね」
篠崎カミラは目を細めて僕の左肩を見つめた。まるでそうするだけで痣のようなものが透過して見えるかのような目つきだった。僕は激しく落ち着かない気分になった。
﹁なあ、これってどういうことだ? 僕に憑いてる﹃すごいの』はなにをしようとしてる?」
そう言ってるときに僕は左肩を強くつかまれた。あまりにも時宜を得たタイミングだったので︵といっていいかはわからないけど)、僕は﹁んあっ!」と叫んでしまった。
﹁なんなんだよ、いまの﹃んあっ!』ってのは」
急いで振り向くと、小林のニヤけた顔があった。
﹁朝から聞くのにはそぐわねえ声だな。まるで背後から刺されたみてえだったぞ」
小林は僕をじっと見つめてから、篠崎カミラの方へ向きなおった。
﹁おはよう、カミラちゃん」
﹁あっ、あの、おっ、おはよう、ごっ、ございます」
﹁こうやっていつも二人仲良くご出勤かい? いやぁ、うらやましい限りだね。それに、」
身体を反らすようにして小林は篠崎カミラの全体をしげしげと眺めた。
﹁こんなかわいい子を連れての出勤となっちゃ、噂もたつわけだ。いや、ほんとびっくりだよ。こう言っちゃ悪いけど、見違えるってのはこういうのを言うんだろうな」
﹁い、いえ、あっ、あの、そ、そんな、」
僕はさっさと歩きだした。二人もついてきた。出勤途中なのだから、そうなって当然だ。
﹁カミラちゃん、あのな、俺はずっとこいつにラインしてたんだ。それなのにずっと無視してんだよ。ひどくないか? この親友たる俺にたいして無視を決めこむなんてな。昨日だって何件も送ってたってのによ、全部スルーだぜ。既読にもならないんだ。ほんとひどい奴だろ?」
﹁い、いえ、き、昨日に、か、か、関しましては、ふ、ふ、深い、わ、わけが、ごっ、ございまして、」
小林はその言葉遣いを訝しむような表情をしていた。それから、真顔で僕をじっと見つめた。
﹁深いわけか。ふむ。――ところで、カミラちゃん、俺のことは知ってる?」
﹁いっ、いえ、も、申し訳、ごっ、ございません。さ、佐々木さんと、な、仲がいい方だとは、ぞ、存じあげて、い、い、いるんですが、お、お、お名前までは」
﹁なるほど。こいつと仲がいいのは存じあげてくれてたんだな。でも、残念なことにちょっと認識が違うな。ただ仲がいいだけじゃない。さっきもさりげなくアピールしといたんだが俺はこいつの親友なんだよ。大親友だ」
﹁そ、そ、そうでしたか」
こういうやりとりが交わされているあいだ僕は黙々と歩きつづけていた。うんざりしてたのは言うまでもない。
﹁な? そうだよな? 俺たちは大親友だろ? それだってのに、お前って奴はよ。――っていうか、どうでもいいけどお前たち歩くのむちゃくちゃ速くねえか? こりゃ、競歩の練習とかじゃないよな?」
﹁いいから名乗れよ」と僕は言った。
﹁は?」
﹁お前はまだ名前を言ってない」
﹁ああ、そうだったっけ?」
突然歩みをとめて小林は内ポケットから名刺入れを取り出した。篠崎カミラも慌ててバッグを開けた。手帳を出し、そこに挟んであったのをつまみ取った。
﹁いや、申し訳ございません。私、営業二課の小林と申します。以後、お見知りおきいただけると幸いです」
﹁あっ、あの、わ、私は、そ、そ、総務の、し、し、篠崎カミラと、も、申します」
自分たちが働く会社を目の前にして、どうして名刺交換なんてするんだよ――と僕が思ったのも当然のことだろう。他の者たちもそういう目で彼らを見ていた。
﹁いやぁ、あの子、面白いな」
十二階で降りると小林はそう言った。篠崎カミラはエレベーターのドアが閉まる間際まで何度も頭を下げていたのだ。
﹁からかうにはだろ?」
﹁ま、そうだけど、面白いことに変わりない。それに、えらく美人さんになったじゃねえか。厚化粧して背筋伸ばしてるだけって言ってたけど、なかなかのもんだぞ。着てるもんだってお前がいかにも好きそうなのだったしな」
僕たちは連れだってトイレに行き、並んで用を足した。自ら﹃大親友』と名乗るだけあって、僕がどんな服を好むのかも知ってるわけだ。まあ、かといって小林が指摘した好みのタイプが全面的に正しいことにはならないけど。
﹁ああやって、だんだんお前好みになってくってわけだな」
腰を軽く振ってから小林はチャックを閉めた。手をしっかりと洗い、ハンカチで丁寧に水気を取った。意外と神経質な部分を持ちあわせているのだ。
﹁な、マジでヤッちまったんじゃねえだろうな? あの変わり様はちょっと異常だぜ。大きなきっかけがなかったら、ああはならないはずだ」
きっかけ? と僕は思った。あまり聞きたくない言葉だ。僕も手を洗った。そうなると目の前に鏡があらわれることになる。なるべく見ないようにしていたけど僕は嫌な気分になった。どうしたって左肩に目がいってしまうのだ。
﹁何度も言ってるけど俺はヤッてない」
﹁ほんとか? ありゃ、――うーん、そうだな、三十手前まで処女だった女が突然男の味を知ったってくらいの変わり様だ。どうにもこうにもその男に好きでいてもらいたくって、なり振り構わず昔の自分を捨てたって感じだぜ」
僕は首を曲げて小林を見つめた。思いついたことを言ってるようにしかみえないけど、その一部はあたってる。篠崎カミラは三十手前にして処女なわけだから。
﹁なんなんだよ、その顔は。えらく深刻ぶった顔してんぞ。――で、さっきカミラちゃんが言ってた﹃深いわけ』ってのはなんだ?」
トイレから出ると僕たちは廊下の端に向かった。そこには自動販売機がある。缶コーヒーを買って、僕たちはその場で飲んだ。小さな窓からは強い陽射しが洩れこんでいた。きっと今日も暑くなるのだろう――そう思いながら僕は外を眺めた。足許にはモップが突っこまれた青いポリバケツがあった。
﹁教えろよ。どんな﹃深いわけ』があるってんだ?」
﹁なにもないよ。あの女がおおげさに言ってるだけだ。さっきしゃべってそれはわかったろ? 言葉遣いが変なんだよ。あれもそういうのの一部だ」
﹁ほんとか? マジでほんと?」
掃除のおばちゃんが腰を屈めて近づいてきた。僕は身体を反らすようにした。小林はモップの入ったバケツを渡してあげた。たとえ何歳であろうと女には優しい奴なのだ。
﹁マジでほんとだよ」
ちょっと頬を染めたおばちゃんが階段室に入っていくのを見届けてから僕はそうこたえた。だけど、小林は疑わしそうな表情を浮かべていた。
﹁マジで、マジにほんとか?」
僕は大声で叫び出したい気分になった。いっそのこと諸肌脱いで謎の痣を見せてやろうか――そう思いもしたけれど面倒になった。﹁お前が知りたがってる﹃深いわけ』ってのはこれのことだよ」とか言ったところでこいつに理解できるわけもない。僕にだって説明できることはないのだ。
﹁ああ。マジで、マジにほんとうだ。俺は篠崎カミラとヤッちゃいないし、﹃深いわけ』なんてのは存在しない。あの女が変わったのは雑誌で勉強したからだ。﹃ふんわりナチュラル系』のメイクにしたんだよ。自分でそう言ってた。服もそういうので見たんだろ。ただそれだけのことだ」
﹁ふむ。――じゃあ、そういうことでいいだろう」
そう言って小林は空き缶をゴミ箱に放った。金属のぶつかりあうカツンという音が鈍く聞こえた。
﹁ところでさ、」
僕はこれ見よがしに腕時計を見た。つられて小林も同じようにした。
﹁おっ、やべえ。こんな時間になってたのか。俺は資料持ったらすぐに出なきゃならないんだった。つづきは後で話そう。ああ、それとライン見ろよ。で、丁寧な返事を寄越せ。俺はずっと待ってたんだからな」
小林は喚くようにそう言うと走っていった。僕はゴミ箱に空き缶を突っこんだ。どうしてあんなにしつこいんだ? どうせなんとかして合コンに誘おうとしてるんだろ? それがうまくいきそうにないのでしつこく絡んでくるのだ。ん? と僕は思った。ということは、あいつは﹃悪の手先』みたいなものか? 悪い方へ導こうとしてるのだからそうも考えられるわけだ。――いや、馬鹿らしい。あんな間の抜けた﹃悪の手先』なんているわけがない。それに、だいいち﹃悪の手先』ってなんなんだよ。そんなことを考えながら僕は仕事にとりかかった。
◇◆◇
部屋の片づけは最終段階にさしかかっていた。小物もそのあらかたが元の場所に収まり、認識のあやふやだった物だけがキッチンボウルに残っていた。あとはそれらの処分を考えるだけだ。要らない物はゴミ箱に向かうことになるわけだけど、僕はそれを後回しにして日曜日にデパートへ行き、鍋や皿を買った。いい鍋があれば米だって炊けるだろうと考え、炊飯器は買わずにおいた。電子レンジも必要だったけど、それだってもっとよく吟味したかった。どうせ買うならいいものにしたかったし、予算の問題もあった。一気に揃えたら大変なことになってしまうと思ったのだ。
久しぶりにパスタでもつくって食べようと考え、スーパーマーケットで挽肉と茄子も買った。こういうのはいいものだ。過不足なく働き、休日には無心に料理をつくる。ビールを飲みつつ、きちんとしたものを食べる。それこそが人間らしい生活なのだ。カップラーメンもけっして悪くはないけれど、あんなものばかり食ってたら便秘になってしまう。
部屋に戻ると、ほぼすべてが以前と同じようになった様を眺めて僕は深くうなずいた。鷺沢萌子の影はかなり薄まり、あの手痛い失敗もほんのすこしは笑えることに変わっていた。まあ、そのだいたいはいまだ思い出したくないものだけど、どこかしらに笑える部分はある。新しいピカピカした鍋たち︵キャセロールと寸胴だ)を見つめながら僕はそう考えていた。もしかしたら篠崎カミラがそれをもたらしたのかもしれない――とも思った。きっと、あの女は恐怖だけでなく悲しみも消し去る力を持ってるのだ。
はあ? なに考えてんだ?
僕はごしごしと鍋を洗った。ちょっと魔が差したな、と思った。そもそもなんであんな女のことを考えなきゃならない? もし仮に﹁すごいの」ってのが僕に憑いていたとしても、まさかとり殺されるわけじゃないだろう。﹁最悪の事態」とか言ってたのも脅しに違いない。そんなのに屈して一生のことを決めるなんて馬鹿げてる。そりゃ、結婚はしたいけど、相手はちゃんと選びたい。電子レンジを買うのよりきちんと吟味すべきなのだ。
シンクに水が流れる音を聞きながら僕は思いきり溜息をついた。気づくと思考は篠崎カミラを中心にまわってる。その時点で負けたような気分だった。消える街灯やなぜか見つめてくる犬や左肩に突然できた謎の痣を忘れ去り、ごく冷静に考えることができるなら僕はわけのわからないことを一方的に言われてるだけなのだ。
キャセロール鍋にオリーブオイルとニンニクを入れると僕は挽肉を炒めはじめた。寸胴には水を張り、火にかけた。茄子を輪切りにしたところで﹁あ」と思った。パルメザンチーズを忘れていたのだ。挽肉の色が変わったところで僕はガスをとめた。
外に出ると日はもう暮れかかっていた。細い通りは青の混じったオレンジ色に染まり、電柱や街灯の縦に伸びる線は黒ずんでみえた。僕はパーカに半ズボンといった格好で財布だけを持ち、足早に進んだ。比較的大きな道にぶつかるところには信号がある。そこに雑種の犬がいて、僕があらわれた瞬間に首をくいっと向けてきた。信号が変わり、飼い主が渡ろうとしても犬は動こうとしなかった。引き綱を思いっきり引っ張られても顔をあげ、なにか言いたそうな目をずっと向けていた。僕は通り過ぎてしばらく後に振り返った。けっこう離れたからだろうか、犬はさっきの行動を忘れたかのようにスチャスチャと歩いていた。
パルメザンチーズを見つけ、レジに並ぶと前には学生らしい女の子がわちゃわちゃとしゃべっていた。カゴには大きなペットボトルが三本も入っていて、スナック菓子の袋も五つほどあった。会計が終わったあとで一人が﹁あっ!」と叫んだ。
﹁ね、すごくない? お釣りが777だよ!」
﹁ほんとだ! なんかラッキー!」
﹁だよね。こりゃ、いいことがあるんだわ。――ああ、そう、思い出した。昨日もすごいの見たんだ。車のナンバーがね、全部七だったの。これは絶対になにかあるわ」
女の子たちはそう言いながら出ていった。僕は剥き出しになった四本の脚を眺めながら軽く首を振った。それはお前たちがたまたま千二百二十三円の買い物をして千円札を二枚出したからだよ――と思っていた。車のナンバーだって同じこと。そういうのはよくある。すべては説明できることなのだ。
﹁ハイ、六百六十六円ノオ返シデス」
コンビニの店員︵バングラデシュとかインドとかの出身っぽかった)がそう言ってきた。僕は渡された小銭とレシートをしばし見つめた。666? こりゃ、悪い数字じゃないのか?
﹁ドウカシマシタカ?」
店員はカウンターから身を乗り出すようにした。後ろにはでっぷりと太った男が身体を小刻みに揺らしつつ、邪魔そうに僕を見つめていた。
﹁いや、なんでもない」
僕もコンビニを出た。うん、これだって説明はつく。パルメザンチーズが三百三十四円だったってだけのことなんだ。千円札で払えばどうしたってそういう釣りになるもんな。そう考えるようにして僕はレシートをポケットに突っこみ、すでに日の暮れた暗い道を戻っていった。
ただ、そのすぐ後に説明のつかないことが起こった。マンションに着いた瞬間に入口の電球がパシンっと小さい音をたてて消えたのだ。三つ並んでいるその真ん中だった。僕は首を垂直にあげた。つまり、電球は僕の頭上で切れたということだ。振り返って、僕は目にはいる限りの街灯を確認した。そうする理由もとくにないのだけどそうしていた。街灯の方は無事なようだった。左肩を気にしながら僕は階段をのぼった。﹁マジかよ」と思いながらだ。
部屋に入ると僕はまずテレビをつけ、ボリュームをあげた。内容なんかはなんでもいいからとにかく賑やかそうなチャンネルにし、笑い声を部屋に満たした。それからキッチンに立ち、ふたたびガスをつけた。茄子は切り口の色をすこし変え、種の部分を色濃くさせていた。それを見つめていると部屋中の明かりがふっと消えた。当然のことにテレビから洩れる笑い声も失せた。ただガスの燃える火が青く輝いてみえるだけになった。
﹁もうやめてくれよ」
僕は呟くようにそう言っていた。汗がわっと噴き出し、それは急速に冷えていった。身体中が鳥肌に覆われているのがわかった。ガスを弱め、僕は大きな窓の方へ行った。外には明かりが見えた。ってことは、この一帯が停電したってわけじゃないのだろう。ブレーカーも確認したけれどいつもの位置にあるようだった。
ちょっと怖くもあったけど僕はドアを開けてみた。そこは明るすぎるくらいだった。この部屋だけ電気が通らなくなったってことか? そう考えてるときにふっと明るくなった。テレビもつき、笑い声がけたたましく聞こえてきた。僕はその瞬間にスマホを探した。また消えるような予感があったのだ。ガスもとめ、窓の近くに寄った。どうする? 篠崎カミラに助けを求めるべきなのか? 僕は左肩を見た。Tシャツを伸ばすようにして内側を覗いた。鳥肌はさらにでこぼこさを増した。手のような形の痣はすこし移動したようにみえた。あるいは、中指にあたる部分が伸びたように思えた。それは心臓がある辺りへ伸びてきてるようだった。
明かりがちかちかしだした。すべての部屋の電灯がまちまちに明滅した。テレビは妙な音をたて、ぷっつりと消えた。迷ってる場合じゃない。僕は電話をかけた。繋がるまでのあいだに明かりは安定した。それまでにあったことが嘘だったみたいに部屋はいつもの状態に戻った。
﹁あっ、あっ、あの、さ、佐々木さん、どっ、どっ、どうかされましたか?」
その声が聞こえてくると僕は肺の奥から息を長く吐き出した。すこしだけにせよ緊張は弱まり、鳥肌もすーっと消えていった。
﹁どうかされてるんだよ。まったくヤバい状況だ」
﹁そっ、そ、それで、どっ、どのような、」
﹁部屋全体が変なんだ。突然明かりが消えて、しかも僕の部屋のだけが消えて、さっきはちかちかしてた。マンションに入るときにはそこの電球も切れた。なあ、これも守護霊様がやってるのか? どうもそうは思えない。だいいち怖すぎるだろ」
﹁そ、そうですね。え、え、ええと、そ、それで、い、いまは?」
﹁ついてる。君に電話をかけようとしたら普通になった。だけど、マジで怖すぎる。この前までは街灯だったろ? それがだんだんに近づいてきた。で、今度は部屋だ。これは君の言う﹃すごいの』が近くまで来てるってことなのか?」
﹁い、いえ、」と言って篠崎カミラはすこし間をあけた。
﹁そ、そ、それは、や、やって、く、くるのではなく、い、いつも、さ、佐々木さんに、つ、つ、憑いてますから」
僕はテレビをつけ、ボリュームをすこし下げた。さらっと嫌なことを言うな――と思っていた。いつも憑いてるってな。
﹁ああ、そうだ。それで思い出した。痣も変な感じなんだ。あまりちゃんと見てないけど形が変わったように思える。伸びてるんだよ。指みたいなのがちょっと伸びたようなんだ。それは僕の心臓へ向かってるようにもみえる。これって、」
そう言ってるときに電話の向こう側から息を強く吸いこむような音が聞こえてきた。その後は無音になった。
﹁おい! 黙らないでくれよ。さらに怖くなっちゃうだろ。な、これってどういうことなんだ?」
﹁あっ、す、す、すみません。だ、だけど、そ、そ、それは、ちょっ、ちょっと、わ、私だけの、は、判断では、」
﹁お母さんは? お母さんはいないのか?」
﹁は、はい。い、い、いまはいません。も、も、もうすこしで、も、戻って、く、くるとは、お、思うんですけど」
﹁そうか。いないのか」
僕は椅子に腰をおろした。身体中の力が抜けてしまったようだった。
﹁なんでこんなことになった? 僕がなにをしたっていうんだ? どこか悪いとこがあるなら改めるよ。どんなことだってする。だから、もうこういうのはやめてくれないか」
ふいに僕は泣いていた。涙は頬を伝わって床に落ちた。
﹁さ、佐々木さん、で、で、でも、だ、大丈夫です。わ、私が、さ、佐々木さんを、ま、ま、守ります」
﹁だけど、君の力は完全じゃないんだろ? どうやって守ってくれるっていうんだ」
﹁そ、そ、それはそうですけど、――あっ、あの、ちょっ、ちょっとだけ、い、いま、じ、時間をください。す、すこし、だ、黙りますけど、は、は、話しかけないでいて、も、もらえますか?」
﹁わかった」
僕は部屋中に目を向けた。テレビの後ろは子供なら入れる程度にあいている。そこになにかが潜んでるように思えた。そこだけじゃない。テーブルの下にだって潜みこむスペースはある。クロゼットだってそうだ。まったく音のしないスマホを耳にあてながら僕は額に手を添えた。なにが起こってるのかわからない。理解するための手がかりすらない。僕はテレビを見つめた。画面には初老の夫婦が毛のふさふさした大型犬を連れ散歩している映像が流れていた。健康食品のCMらしかった。僕は目を細め、身体をすこし震わせた。犬がこっちを向いたように思えたのだ。黒い瞳がちらっと僕を憐れむように見たのを感じた。
﹁わ、わ、わかりました」という声が聞こえてきた。
﹁は?」
﹁い、いえ、こ、こ、これは、ちょっ、ちょっ、直感のような、も、ものなんですが、」
﹁で、なに?」
﹁あっ、あの、も、も、もしかしたら、ま、ま、間違ってると、い、い、いうことも、あ、あるかも、し、しれないのですけど、」
﹁うん、で?」
極力苛々しないよう僕は呼吸を整えた。胸に手をあて、呼気をコントロールした。
﹁さ、佐々木さんの、お、お部屋に、な、なにか、ち、ち、小さい、キ、キラキラした、ほ、ほ、宝石みたいなものが、あ、ありませんか?」
﹁小さくてキラキラした宝石みたいなもの?」
﹁そっ、そ、そうです。きっ、きっ、きっと、お、お近くに、あ、あると思います。お、お、思いあたる、も、ものは、あっ、ありませんか? そ、その、え、ええと、な、なんて、い、言ったら、――あっ、ああ、そ、そう、ひ、ひ、ひとつの、い、色でなく、い、幾つかの、ま、ま、まだらに、み、見える、よ、ような、ほ、ほ、宝石みたいな、」
﹁それで、それがなんだっていうんだ?」
僕がそう言った瞬間に明かりはまた明滅しだした。さっきよりもゆっくりと消え、もったりつくようになった。
﹁おい、また電気がちかちかしはじめたぞ。これはどういうことだ?」
﹁ね、ね、念が、つ、強まってるんです。わ、私が、か、か、考えてたのは、ぜ、ぜ、全然、ち、違ってたかも、し、しれません」
それだってなに言ってるかわからないよ――と僕は思った。テレビは無軌道にチャンネルを変えはじめた。天井の方からはパシンっという音も聞こえた。電球が切れたときと似た音だった。
﹁とにかく、そのいろんな色にみえる宝石みたいのがなんだっていうんだよ」
﹁そ、そ、それを、さ、探して、く、ください。そ、それは、き、き、きっと、さ、佐々木さんの、た、助けに、な、なるものの、は、はずですから」
ん? と思い、僕は一直線にキッチンボウルへ向かった。それはあった。オパールの嵌まったネクタイピンだ。それを手にすると、明かりはふたたび安定した。
﹁ふうっ」
僕は床にへたり込んだ。なんだかよくわからないけど助かったんだろう――と思った。
﹁どっ、どうですか? み、見つかりましたか?」
﹁ああ、見つかった。で、明かりもきちんとついた。これのおかげってことか?」
﹁た、たぶん、そ、そうです。わ、私にも、よ、よくは、わ、わかりませんが、そ、そ、そういうものが、み、み、見えたんです。さ、佐々木さんを、お、お、お助け、し、しなきゃと、お、思っていたら、み、み、見えてきたんです」
﹁それで、これから僕はどうしたらいい?」
そう言ってから僕は頭を掻きまわした。完璧に篠崎カミラのペースになってる。だけど、これはしょうがないことだ。
﹁と、と、とりあえずは、そ、それを、は、肌身離さず、も、持っていて、く、ください。き、き、きっと、しゅ、守護霊様と、か、か、関わりが、あ、あるはずの、も、ものですから」
﹁これが?」
僕は古めかしいネクタイピンを眺めた。いつから部屋にあったのかもわからないものだってのにか?
﹁え、ええと、と、ところで、そ、そ、それは、な、なんですか?」
﹁ああ、そこまではわからないのか。ネクタイピンだよ。オパールの嵌まったネクタイピンだ。だけど、これを肌身離さずってもなぁ」
﹁で、でも、は、離さない、ほ、方が、い、いいですよ。あ、あとで、は、母が、も、戻ったら、き、聞いておきます。そ、それで、お、お電話、い、い、いたします」
﹁わかった。ありがとう」
﹁い、い、いえ、そ、そ、そんな。あっ、あの、も、もし、ふ、ふ、不安に思うことが、あっ、あったら、い、いつでも、お、お電話、し、し、してください。わ、私は、す、す、すぐ、で、出られるように、し、しておきますので」
僕は重ねて礼を言った。それから、部屋中をぐるりと見渡した。もちろんまだ怖かったけど、すこしは落ち着いてきた。やはりそれは篠崎カミラのおかげなのだろう。念のため部屋をすべて見てまわってから僕はネクタイピンを握ったままシャワーを浴び、ビールを飲みつつパスタを食べた。そのあいだずっと篠崎カミラのことを考えていた。恐怖を紛らすためでもあったけど、それだけではなかった。彼女の全体、大きな目、薄く高い鼻、鋭角な顎、唇、それにしゃべり声。それらはしっかりと僕の中にあった。なにひとつ欠けた部分なく存在していた。
遅い時間に電話があったときには僕はほぼいつもの状態に戻っていた。彼女はこう言った。
﹁あっ、あの、は、母が、い、言うには、や、やはり、ね、ね、念が、つ、つ、強まってる、み、みたいです。で、でも、そ、そ、その、ネ、ネクタイピンは、さ、佐々木さんを、ま、ま、守る、も、もののようですから、あ、あ、安心しても、い、い、いいだろうとも、い、言ってました」
﹁わかった。あれからはなにも起きてないし、僕もだいぶ落ち着いたよ。君のおかげだ」
﹁い、い、いえ、そ、その、あ、ありがとう、ごっ、ございます。そ、そ、それでですね、は、母は、こ、こうも、い、言ってました。い、い、一度で、い、いいから、み、み、見てもらいに、き、きなさい、と」
﹁そうだな」と僕はこたえた。
﹁そうしてもらった方がいいかもしれない。理解できないことが多すぎるからね。一度きちんと教えてもらった方がいいんだろう。ま、明日にでも相談するよ。今日はもう遅いしね。ほんと、いろいろありがとう」
僕たちは﹁おやすみ」、﹁おっ、おっ、おやすみなさい」と言いあって電話を切った。スマホの画面には︽篠崎カミラ》と出ていた。僕はそれを見つめながら、理解なんてほんとは必要ないのかもな――と思った。
◇◆◇
翌日の朝、僕はそれまでと違ったうんざりさを感じることになった。
﹁こういうのって、まるで高校生みたいじゃねえか? 仲良しでご通学って感じだ。カミラちゃんもそう思うだろ?」
﹁は、はい。そ、そ、そうですね」
小林は顔の半分を笑ったものにしていた。しかし、もう半分︵僕のいる側だ)は口許をヒクヒクさせて苛つきをあらわしていた。器用なことのできる顔なのだ。篠崎カミラは背筋を正して足早に進んだ。というか僕のペースに合わせていたので三人して競歩ばりに会社へ向かっていた。
﹁あっ、あの、そ、それで、さ、佐々木さん、」
﹁ん?」
﹁き、昨日、お、お、お話、し、したことなんですが、」
僕は顔を向けた。ただ、小林が邪魔で彼女の顔は一部しか見えなかった。
﹁話したことってどれだよ。いろいろ話したろ?」
篠崎カミラが﹁あっ、あっ、」と言ってるあいだに小林は﹁ふうん」とうなった。
﹁日曜にいろいろ話したのか。会って? それとも電話?」
﹁あっ、あの、で、で、電話でです」
﹁そう。いいねえ。俺なんかしつこくラインしてるのに全部シカトだぜ。こいつはカミラちゃんみたいなかわい子ちゃんにだけ愛想良くするんだよな。大親友は無視するってのにな」
僕は軽く首を振った。しつこくしてるのがわかってるとは驚きだった。
﹁あのな、先週来たのは全部目を通したし、まとめて返事しといたろ」
﹁まあな。でも、全部短いのだったぜ。俺は短篇小説くらい書いて送ったってのによ。カミラちゃん、こいつは冷たい奴なんだよ。あんまり仲良くし過ぎない方がいいぜ。傷つくことになるからな」
お前は乙女か――と僕は思った。なんでそんなことで傷ついてるんだよ。それに、合コンに誘うだけのことで短篇小説くらい書いてくるのがおかしいんだ。っていうか、話がまったく進まないじゃないか。
﹁で、」と僕は言った。溜息は自然と洩れてきた。
﹁なんの話だっけ?」
﹁あっ、す、す、すみません。え、ええと、は、母と、お、お、お会いになった、ほ、方が、い、いいという、お、お話です」
﹁お母さんに会う?」
小林は急に立ちどまった。僕と篠崎カミラは数歩先に行ってから振り返った。いや、この場合はそのまま歩きつづけるべきだったのかもしれない。
﹁どうしたんだよ」
﹁お前、カミラちゃんのお母さんに会うのか? そこまで話が進んでるってことか?」
僕は頭を掻きまわした。なんでこうたびたび髪のセットを崩さなければならないのだろう? 最近こういうのが多すぎる。
﹁そこまでってなんだよ」
﹁なんだって言われてもな。でも、もうそういう段階までいってるってことだろ?」
﹁あのな、そういう話じゃないんだ」
﹁じゃ、どういう話なんだよ」
小林は大股に近づいてきて僕の腰に手をまわしてきた。
﹁ほら、言えよ。なんでカミラちゃんのお母さんと会うんだ?」
﹁相談したいことがあるんだよ。彼女のお母さんは相談を受ける仕事をしてるんだ」
﹁相談? なんの?」
僕は篠崎カミラの顔を窺った。その表情はどっちつかずのものだった。
﹁ちょっとしたことだよ。けっこう重要で、だけど、ちょっとしたことだ」
﹁なんだそりゃ。まるでうちのハゲと一緒だな。まったく要領を得ねえ。でもよ、きっかけがどうであれ、そうやって親御さんと会ったりしたら、」
そうとまで言ってから小林は怪訝そうな顔をさせた。篠崎カミラが頬を赤らめてうつむいていたからだ。きっと﹁きっかけ」という言葉に反応したのだろう。僕は深く息を吐きながら首を何度も振った。
トイレで髪をセットし直してるあいだ、小林は壁に背中を押しあて後ろに立っていた。鏡にはその仏頂面が映りこんでいた。
﹁で、」と言って、小林はしばらく黙った。
﹁なんだよ」
﹁いや。っていうか、その格好はなんなんだ? なんで変な感じに腰を屈めてる?」
曖昧な表情で僕はそれをやり過ごした。できる限り鏡に肩が入りこまないようにしていたのだ。
﹁ま、いいや。で、ほんとに行かないってのか? お前好みの子がわんさと来るってのによ。他の連中は行く気満々なんだぜ。もちろん、俺だってそうだ」
﹁ああ」とだけ僕はこたえた。
﹁それは、その、カミラちゃんとつきあうって決めたからか?」
僕は毛先を弄りながら小林の目を見た。
﹁まあ、別にそれならそれでいいんだぜ。お前にちゃんと彼女ができるってならな。ただよ、お前はそう言わないだろ? なんで隠すんだよ」
﹁隠してるわけじゃないよ。それに、つきあうって決めたわけじゃない」
﹁ほんとかよ。合コンには行かない、毎日カミラちゃんと通勤してる。日曜にも連絡取りあってる。まわりから見りゃ、つきあってるも同然だぜ」
髪をセットし直すと僕は姿勢を戻して肩をすくめた。もういいかげんこういう話が繰り返されるのにはうんざりしていた。それこそ呪われてるとしか思えない。僕はネクタイに手をかけ、それをはずしはじめた。
﹁おい、なんなんだよ。どうした?」
小林は一瞬だけドアの方を見た。僕はその前でネクタイを取り、シャツのボタンをはずした。
﹁いや、その、なんだってんだ? まさか突然そっち系になったってんじゃねえだろうな。俺は嫌だよ。お前は親友だが、俺にそっちの趣味はない」
そりゃわかってるよ――と僕は思っていた。それで両刀だったら完全な病気だ。シャツのボタンをはずし終えると僕はアンダーシャツを腹から捲ってみせた。
﹁はあ?」と叫んで、小林は黙った。
﹁わかるか? 手みたいに見えるだろ?」
﹁ああ、そう見えるな。でも、こりゃなんなんだ?」
﹁俺にもわからないよ。突然こんなのができたんだ」
僕は服をもとに戻した。自分でもちらっと見たけれど、中指にあたる部分はまた伸びているようだった。
﹁これについて篠崎カミラの母親に相談しに行くんだ。彼女の母親ってのはそういうのの専門家なんだよ」
﹁そういうのってのは、つまり、そういうヤツのか?」
﹁ああ。そういうヤツのだ。ここのところ俺のまわりでは理解しがたいことがつづいてる。昨日はさらにひどかった。意味のわからないことがたてつづけに起こった。放置しといたらマズいことになるかもしれない」
﹁マズいことってなんだよ」
低い天井を見あげるようにしてから僕は溜息まじりに言った。
﹁きっと俺は死ぬんだろう。篠崎カミラは﹃最悪の事態』って言ってたけど、そりゃそういうことだろ?」
小林は瞼を激しく瞬いていた。にわかには信じられないのだろう。まあ、そうであるのが正常だ。身震いするようにしてから小林は僕を見つめた。
﹁で、カミラちゃんのお母さんはお前を助けてくれるってのか?」
﹁わからない。でも、死ぬにしたって意味もわからずに死ぬのは嫌だ。俺は理解したいんだよ。なにが俺にこうしてるのかを。それを聴いてから判断したい。もしかしたら、それがきっかけになって――」
僕はそう言いながら篠崎カミラのことを考えていた。いつのまにか僕の中に居場所をつくりこんでいた不思議な女についてをだ。そうなったのは外側に起こった幾つかのことを原因にしたようにも思えたし、そうでないようにも思えた。こうなることが決まっていたかにも考えられた。篠崎カミラの言い様では﹁巡りあわせがあった」ということになるのだろう。しかし、いずれにしても彼女は僕の中にきちんと存在していた。僕は小林を見つめながらこんなことを言っていた。自分でもわけがわからないまま言葉だけが出ていった。
﹁いや、きっかけはもう至ってる。あとはそれを俺が受け容れるかどうかってだけだ。そして、たぶんその準備はできていたんだ。――これは、お前のことを親友だって思ってるから言ってることなんだぜ。自分が混乱してるのはよくわかってる。それでもお前にだから話してるんだ。俺の言ってることわかるか?」
小林は口を半開きにしながら首を振った。
﹁まったくわからない。わからないけど、――うん、でも、わかった。お前は混乱してるんだな? ま、そんなのが突然できたら混乱もするよな。だけど、カミラちゃんのお母さんに会えばなにかわかるかもしれないってんだろ? よし、とにかく会ってこいよ。で、なにかわかったら俺にも教えてくれ。絶対にだぜ」
僕はネクタイをきちんと締めなおした。それから小林の肩を軽く叩いてこう言った。
﹁ああ、教えてやる。絶対に」
その瞬間から僕は大きく変化をした。身に起こってることからすると適当な表現ではないのだろうけど﹃憑きものが落ちた』のだ。もちろん、それでも理解しがたいことは依然僕を取り囲んだままだった。しかし、僕には見えたことがあったのだ。――いや、これも適当な表現でないのかもしれない。僕が理解できていることは非常に少ないのだ。無いに等しいくらい少ない。しかし、ひとつだけはっきりしたことがある。﹁きっかけ」というのはセックスの隠語などではなく、僕と篠崎カミラとの関係が発展するにせよ解消されるにせよ、その岐路に至ったことを示しているのだ。まあ、僕と篠崎カミラとの関係と考えると引っかかる部分はある。ただ、分岐点に至ったというのは確かだった。行動としては彼女の﹃先生』でもある母親に会うというのが求められていることだった。昼休みになると僕は篠崎カミラに電話をかけ、屋上で待ち合わせた。
﹁あっ、あっ、あの、」
篠崎カミラは後ろから声をかけてきた。僕はフェンスに手をかけ、周囲を見渡していた。日は強く照っていたけれど、ときおり風が吹き抜けていったので暑すぎるということはなかった。日陰になったところには灰皿があって、幾人かが煙草を喫いながらこっちを見ていた。背のえらく高い僕たちは目立っていたと思う。だけど、そんなのもどうだってよくなっていた。
﹁悪いね。呼び出しちゃって」と僕は言った。篠崎カミラは隣に立った。
﹁い、い、いえ。そ、そ、そんな」
﹁で、朝の話をつづけよう。小林がいたからまったくできなかったもんな」
﹁は、はい。で、でも、あ、あ、あの方は、と、と、とても、い、いいお友達ですね。わ、私は、そ、そ、そう思います」
﹁そうか? まあ、そうなのかもな。それで、君のお母さんに会うって話なんだけどさ、そういう場合っていくらくらいかかるんだ?」
僕は首を曲げた。篠崎カミラもこっちを見ていた。髪が風に流され、顔がはっきりと見えた。
﹁い、い、いくらくらいって、そ、その、お、お、お金の、こ、ことですか?」
﹁もちろん。君のお母さんはそれが仕事なんだろ?」
篠崎カミラは非常に穏やかな表情を浮かべた。唇は半月状になり、目許はゆるんだ。乱れた髪を耳にかけながら彼女はこう言った。
﹁さ、佐々木さんからは、き、き、きっと、お、お金は、い、いただかないと、お、思います」
﹁なんで?」
僕がそう訊くと篠崎カミラは頬を赤らめた。すこしうつむきかげんにもなった。
﹁な、なんでと、おっ、仰られると、そ、そ、その、こ、困りますが、た、たぶん、い、要らないと、い、言うはずです」
﹁でも、そういうわけにもいかないだろ? それに、こっちは用意しとかなきゃならないんだ。だいたいでいいから知っときたいんだよ」
篠崎カミラは瞳を上へ向けた。そのまましばらく固まったかのようになった。それから、こくりとうなずいた。
﹁そ、その、つ、つ、通常であれば、さ、三万円、く、くらいから、ご、ご相談の、な、内容によっては、じゅ、十万円、く、くらいでしょうか。た、ただ、と、とくに、き、決めては、な、ないようです。あ、相手の方を、み、見て、き、決めて、い、いるようです」
﹁なるほど」と僕は言った。三万ならいいけど、十万ってのはキツいな。電子レンジやらを買わなければならない身にとっては痛い出費だ。
﹁で、でも、と、と、とにかく、き、訊いてみます。ひ、ひ、日取りのことも、あ、あるので。そ、そ、その、は、母は、け、けっこう、い、忙しい人ですから」
日取りって――と僕は思っていた。お見合いするってわけじゃないんだから、とだ。
その日の夜に電話がかかってきた。つぎの土曜であれば大丈夫とのことだった。
﹁土曜か。別に問題はないけど、それまでもつんだろうな? その前に最悪の事態ってことにはならないのか?」
﹁は、はい。た、たぶんですけど、だ、大丈夫だろうとの、こ、ことです。き、きちんと、み、見てないので、あ、あくまでも、た、たぶんということですが」
心強いことで――そう思いながら僕は左肩を手で押さえた。だけど、そう信じるより他無いのだろう。
﹁あっ、あの、わ、私も、そ、そう思うんです。きょ、今日、さ、佐々木さんに、お、お会い、す、するまでは、し、し、心配だったのですが、き、きっと、ま、まだ、だ、大丈夫に、お、思えます」
はあ、そうですか。っていうか、言い方をもうちょっと気にして欲しいよな。﹁まだ大丈夫」ってな。だけど、それだってしょうがない。僕は実際的な話をすることで気を紛らすことにした。
﹁で、代金は? お母さんはなんて言ってた?」
﹁あっ、そ、そ、そのことですが、は、母に、き、訊いたら、わ、笑うだけで、こ、こたえて、く、くれませんでした。き、き、きっと、さ、佐々木さんから、お、お金を、い、いただく、つ、つもりが、な、ないのでしょう」
僕はもう﹁なんで?」と訊くのをやめておいた。面倒になったのだ。とりあえず十万用意しときゃいいか。現金払いになるだろうからおろしといた方がいいだろう。クレジット利用可とも思えないし――そう決めると僕は金の話をやめて、どこに行けばいいか尋ねた。
﹁あっ、は、はい。そ、それが、あっ、あの、じ、自宅で、お、お会いしたいと、い、言っておりました。わ、私の、お、お家と、い、いうことです」
﹁君の家? いつもそこでやってるのか?」
﹁い、いえ、あ、あまり、というか、ほ、ほとんど、そ、そういうことは、な、ないんですが、で、でも、は、母が、そ、そう、い、言ってますので」
なんだか気詰まりだな――と僕は思った。しかし、そういうことであれば手土産でも持っていった方がよさそうだ。
﹁ま、いいや。で、君の家はどこにある?」
﹁しょ、しょ、松濤です」
﹁松濤? 渋谷の?」
﹁え、ええ。し、し、渋谷区、しょ、松濤です」
僕は顎の辺りを猛烈に掻いた。本格的な金持ちじゃないか。十万持っていくのが嫌になるな。それに、手土産だってきちんとしたのを用意した方がよさそうだ。僕は天井を見あげながら当日の行動をスケジューリングした。とりあえず渋谷まで行って、そこで高級そうなものを買い、それから、――ああ、スーツで行った方がいいのかな? そう考えてるうちに舌打ちしたくなってきた。これじゃ、なんだかほんとにお見合いみたいじゃないか。
﹁そ、それでですね、う、家は、え、え、駅から、す、すこし、は、離れたところに、あ、あるので、お、お迎えに、あ、あ、あがります」
﹁ん? ああ、そうなの? そりゃ助かるな」
僕は舌打ちしたいのを必死でこらえ、無理に明るい声を出しておいた。
しかし、迎えにきていた篠崎カミラを見つけたとき僕はわからないように舌打ちをした。彼女自身より横に立ってる人物が問題だった。でっぷりした腹が前に突き出てる背の低い初老の男――どう見ても父親だろう――が面白くもないといった表情を浮かべていたのだ。
﹁あっ、あの、ほ、ほ、本日は、よ、ようこそ、い、い、いらっしゃいました」
いや、まだ駅前までだけど、と僕は思った。篠崎カミラは僕が見立てた服を着ていて、メイクもしっかり施していた。長い髪をきれいに編み込んでもいて、美容室に行ったであろうことがすぐにわかった。隣に立つ男は僕を上から下まで四往復するくらい眺め、唇を歪めさせた。顔全体は柔和に見えなくもないけど、口だけには不満があらわれていた。
﹁それで、こちらは?」
﹁え? あっ、すっ、す、すみません。わ、忘れてました」
﹁忘れてた?」
初老の男は甲高い声で叫んだ。
﹁ひどいよ、カミラちゃん。それはひどい」
﹁ご、ごめんね、パ、パパ。――あっ、あの、ち、父です。で、こ、こちらは、さ、佐々木さん」
僕たちは頭を下げあった。どうして父親を紹介されてるのかは謎だったけど、これもしょうがない。
﹁初めまして。カミラさんと同じ会社の佐々木と申します。本日はお世話になります。それに、申し訳ございません。お父さんにまで出てきていただけるなんて」
﹁お父さん?」
篠崎カミラの父は呟くようにそう言って、もう一度僕を上から下まで眺めた。僕はうんざりした。いや、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ。だって、他に呼びようがないじゃないか。父親はまだ口の中でぶつぶつ言ってるようだった。きっと﹁君にお父さんなんて呼ばれる筋合いはない」とか言っていたのだろう。
﹁ほ、ほら、パパ、く、車を、だ、出してきて。そ、そのために、き、来てもらったんだから」
父親はピカピカに磨かれたベンツをまわしてきた。後部座席に僕と篠崎カミラが座ると、ルームミラー越しに不満げな目を向けた。
﹁ああ、そうだ」
僕はその視線から逃れるように手土産を渡した。
﹁これ、つまらないものだけど、お世話になるから」
﹁そっ、そんな、き、気をつかう、こ、ことなんて、な、ないんですよ。――ほ、ほら、パ、パパ、さ、佐々木さんから、こ、これ、い、いただいたの」
﹁ああ、」と父親。娘に向けた視線はでれっとしていた。目尻をこれ以上は落ちないであろうラインまで下げていて、口許もゆるみきっていた。
﹁気をつかわせて済まなかったね」
しかし、そう言ったとき表情は一変した。もうそういうのはいいから――と僕は思っていた。そっちがどういうつもりかは知らないけど、僕はあんたの奥さんに相談しに行くとこなの。いわば、お客ってことだ。金だって用意してある。それも十万も。
﹁で、佐々木くんの出身はどこ?」
﹁出身ですか? 埼玉ですけど」
﹁ご兄弟はいるの?」
﹁ええ、弟が一人」
﹁ということは長男? そうかぁ、長男なんだね」
いったいそれがなんだっていうんだよ。こりゃ、完璧に勘違いしてるな。いや、まあ、もしかしたらそういう展開になるかもしれないけれど――そう思いながら僕は篠崎カミラを見た。彼女は胸を張り、手を脚の上に重ねあわせ、ずっと前方を見ていた。はじめて会ったときから比べたらまさに別人だ。好みのタイプでないのは確かだけど悪くない。どころか、こうなってみるとかなりの美人だ。
﹁長男なんだってよ、カミラちゃん」
父親はでれっとした声でそう報告した。僕は表情を変えずに腹の内で舌打ちした。
﹁そ、そうなんですね。し、知らなかったです」
篠崎カミラは首を曲げて僕を見た。正面からだとさらに美人にみえた。頬がもうすこしふっくらしてればもっといい。僕たちは何秒間か見つめあっていた。
﹁う、うんっ!」
わざとらしい咳払いが聞こえてきた。僕は額を手で覆いながら無音の舌打ちを五回ほど繰り返した。そうこうしてるうちにベンツは高い塀に囲まれた家に入っていった。いや、お屋敷といった方がいいかもしれない。一部しかわからなかったけれど、二百坪はあるようだった。横に長い洋館にはフランス窓があって、その前は色とりどりの花が咲く広い庭になっていた。僕はしばらく周囲を見渡した。圧倒的だ。固定資産税だけでも気の遠くなる額を払ってるに違いない。
三メートルはあるかと思える木製の玄関扉の前に母親は立っていた。前に見たのと変わらぬ黒いぞろっとした服装で、やはり長いネックレスをじゃらじゃらとぶら下げていた。
﹁ようこそ、いらっしゃいました」
母親は口角をあげ、笑顔に似たような表情をつくった。ただ、それ以外の部分は固まってしまったみたいに動かなかった。目は刺し貫くように僕を見ていた。僕は頭を下げ、﹁お世話になります」と言った。
通されたのは応接室とでもいうようなところだった。窓からは白くて大きなユリが咲いているのが見えた。古くはあるけれど清潔そうなグリーンの布張りソファと同じ色のひとり掛けソファが二脚あった。床には厚めの絨毯が敷いてあり、背の低いテーブルが置いてあった。窓は開かれ自然の風が通っていた。篠崎カミラは銀の盆にコーヒーとケーキをのせてあらわれた。それをテーブルに置くと彼女は長いソファに母親と並んで座った。僕はそれまでの時間を落ち着かなく過ごした。母親に見られているのはわかっていたけれど、部屋の端にある観葉植物を眺める振りをしていた。右の方からも視線を感じていたので︵父親からのものだ)、そっちも向きたくなかったのだ。
﹁普段はここは使わないの」
威圧的な声を母親は出した。目は僕全体に這っていたけれど、それでも見られているという感じを強くはあたえなかった︵父親の視線の方が気になるくらいだった)。きっと僕を見ているのではないのだろう。周囲にいるものを見ているのだ。
﹁あなただけ特別ってわけ。その理由はカミラから聴いてるんでしょう?」
﹁ええ、聴いてはいます」
僕は迷った末にそのようにこたえた。
﹁でも、今日はそのことで来たつもりじゃないんです」
﹁では、なんのために来たの?」
﹁僕は理解したいんです。そのために来ました」
母親は顔全体を歪めるようにした。そうすると細かな皺が中央部分から放射状にあらわれた。
﹁いいこたえね。そうあって然るべきだわ。――では、私があなたに理解をあたえましょう。いま、あなたの前には幾つかの道がある。ただし、あなたの目はきちんとそれを認識していない。いずれかを選ばなくてはならないことはわかってるわね? だけど、何叉路に立たされているかもわかっていないの」
﹁それを教えて下さるってわけですか?」
僕がそう訊くと、母親は真顔になった。それから、ゆっくりと首を振った。ネックレスがじゃらじゃらと揺れた。
﹁違うわ。私にできるのはあなたがどういう状況にいるかを教えてあげることだけ。選ぶのは、もちろんあなたよ。ま、カミラのことがあるから私にも希望はあるわ。あなたを導きたいと思ってるってことよ。でもね、押しつけられても納得できないでしょ? あなたにはそういう部分がある。状況に流されやすいところもあるけど、きちんとした芯を持ってる人のようだわ。理解しないと前へ進めないといった方がいいかしら?」
母親は言い終えるとうなずくようにした。僕は背筋を伸ばした。その目を見つめながらこう訊いてみた。
﹁いまのは僕からなにかを読みとったってことですか? 僕の考えてることがわかるんですか?」
﹁そうじゃないわ。まだ私はなにもしていない。――そうね、これも普段は言わないことだけど特別に教えてあげる。こうやって私みたいな人間の前に座るとたいていの人は緊張するものよ。いろんな表情を浮かべるし、様々な動作をするの。自分では気づけていないだけでね。それを観察してるのよ。それだけでもわかることはたくさんあるわ」
目を細めさせ、母親は手を膝の上で組みあわせた。口許だけがぐっと歪んだ。
﹁あなたは怖れた。それで、ここまでやってきた。やむを得ずにね。だけど、あなたは萎縮していない。それは表情がまったく変わらないのを見ればわかることよ。手だってずっと組みあわせたままだわ。緊張してるけど動揺はしていないってことね。あなたは強い意志を持っている。それに、理解したいって言ったのはあなただわ。私はそれを違う言い方に変えただけ」
僕は肩をすくめさせた。それで﹁わかりましたよ」と言ったつもりだった。
﹁まだあるわ。カミラからあなたのことは聴いてたしね。それはもう事細かく聴かされたものよ。だから、最初にお目にかかったとき、すこしきちんと見てみたの。一瞬だけでもその気になれば見えることはあるの。あなたは悪い女に騙された。お金も大切なものも持っていかれた。その女と一緒に暮らしたのだって状況に流されたからでしょ? そして、カミラが真実を伝えようとしても、あなたは信じきることができなかった。理解できないと言っていた。いい? こうやって事前の情報と観察だけでも、これくらいのことはわかるの。でも、私の言ったことはすべてあたっていたでしょう?」
父親は﹁悪い女に騙された」というところで身体を激しく動かしたようだった。見ていなかったけれど音でわかった。なにやらぶつぶつ言ってるのも聞こえていた。僕はそれを無視した。篠崎カミラも母親も気にしていないようだった。
﹁たぶんそういうところが僕にはあるんでしょう。理解しがたいことでも、なんとか理解しようとするところが。カミラさんからはじめて聴かされたときにはまったく信じられませんでしたしね。ただ、僕もだんだん信じるようになってきてるんです。そうなるくらい様々なことがありましたから。だけど、納得がいかない。とにかく、僕は理解したいんです。自分の置かれた状況をきちんと理解したい。それから先のことはあとで考えます」
﹁わかったわ」
母親はそう言った。それは宣告するような響きを持っていた。彼女はひらいた手を胸の前でぴったりと合わせた。指先を唇にあて、首を下げた。なにか言ってるようだったけど、意味のある言葉としては耳に入ってこなかった。僕は篠崎カミラを見た。それから父親も見た。彼は不満そうな表情で見返してきたものの、目の前で起こってることには関心を持っていないようだった。
﹁うむ」と母親はうなった。
﹁そうだったのね。――いえ、あなたじゃないわ。嘘はおよしなさい。私にはわかってるのよ。――そう、わかるわ。――ん? いや、そういうことなの?」
僕は母親の方へ首を向けた。自然と眉間に皺が寄っていった。まあ、それだって当然の反応といえるだろう。彼女は僕を見すえながら一人でしゃべっているのだ。
﹁――ああ、あなたね。――で、なにが言いたいの? なにをしようとしてるの?」
篠崎カミラを見ると、立てた人差し指で口の前を押さえていた。﹁静かに」と示してるわけだ。もとより僕はなにか言おうとも思ってなかった。言うべきこともない。
﹁――そう、そうだったの。――いえ、わかるわ。――そうね。あなたもわかってはいるんでしょう? ――そう。気持ちだけはわかるわ。――もう止められなくなってるのね?」
どれくらいそうしていたかはわからないけれど、母親は急に身体から力を抜いた。手を離し、首をあげ、天井を見つめた。放心したように息を吐いてもいた。そのあいだ誰もなにも言わなかった。息が整ったのか、母親は首を戻した。顔には表情が浮かんでいなかった。
﹁わかったわ。だいたいのことはわかった。あなたに憑いてる霊は怖ろしく強い念を持ってる。それはいわゆる生き霊よ。その霊はあなたを独り占めしようとしてるの。その霊が呼び寄せたのも幾つか憑いてるわね。ま、そっちはさほど強い力を持ってないけど、それでも良いことではないわ。ただ、あなたの守護霊様はかなり強い存在よ。そのため、あなたは最悪の事態にまで至らなかったのよ。――そう、いまもちゃんと身につけてるわね。そのネクタイピンがキーよ。それには守護霊様の念が籠もってるわ。ずっと離さないようにしなさい。で、逆にいうと、それくらい生き霊の力は強いってことよ。独り占めにするためだったら、あなたの死も厭わないつもりらしいわ」
母親はなにかに気づいたといった表情をさせた。しゃべるのをやめると、顎を反らし、唇を引き締めさせた。
﹁まだ信じられないといった顔をしてるわね」
﹁まあ、そうですね」と僕はこたえた。
﹁それはすべてあなたの言ったことだ。僕の言葉じゃない。一方的に伝えられたって信じられるわけもない」
﹁面白い人ね。気にいったわ」
首を曲げ、母親は篠崎カミラを見た。二人はなにも言わずにしばらく見つめあった。それだって僕には理解できない行動だった。
﹁街灯が突然消えたでしょ? 夜中に私が叩き起こされたときもそうだったじゃない。あのときだけじゃなく何度か同じことを経験してるはずよ。あと、あなたは犬によく見つめられるでしょう? そのことに気づいたのは、ある人物から指摘されたからよね?」
僕はうなずいた。それから、﹁ええ、確かに」とこたえた。正直なところ驚いていた。それだって誰にも言ってなかったことなのだ。
﹁だけど、その頃はそうでもなかったはずよ」
﹁は?」と僕は言った。﹁どういうことですか?」
﹁あなたはそう指摘されて、それを素直に信じていただけなの。その頃のあなたに生き霊は憑いてなかったのよ。憑いてるはずもなかったの。犬に見つめられたとしてもそれは偶然のこと。でも、後になってそれ以外の人からも同じように言われたわね? 犬がなぜかあなただけを見ていると。そのときには確かにあなたを――いえ、あなたに憑いてるものを見ていたの。より正確に言えば、犬たちはあなたを見つめるよう仕向けられていたってことね」
母親は背中をソファに押しあてるようにした。ハンカチ︵それも黒だった)を取りだし額にあてた。風が部屋を通り抜けていった。窓の外では白いユリが弱く揺れていた。
﹁意味がわかりません。もっとわかるように言ってくれませんか?」
僕がそう言うと、右の方からソファの軋む音が聞こえてきた。母親は首を大儀そうに動かした。僕もそっちを見てみた。父親は上体を前へ倒し、こっちを覗きこむようにしていた。
﹁犬たちが、」
母親の声が鐘の様に鳴り響いた。彼女は夫を無視するように決めたようだった。僕もふたたび彼女に向きなおった。
﹁そう、犬たちが見つめてくるというのは、あなたに思い出して欲しいと生き霊が念じているからよ。そして、あなたは思い出した。誰にそう指摘されたのがはじめてだったかを。五年前? それくらいにあなたは恋人と別れてるわね? その恋人の生き霊があなたに取り憑いてるの。ずっとあなたと共にいるの。自分のことを思い出して欲しくて犬たちに見つめさせているの。ほら、思い出して、私のことをきちんと思い出して――そう言ってるわ。いまもそう言ってるのよ。左肩の上にいるわ。顔を密着させるようにしてあなたを見てる。ずっと囁いてもいるわ。思い出して。私のことを思い出すのってね」
僕はそっと左肩を見た。首を曲げきることはできなかった。彼女の顔は浮かんでいた。忘れるわけもない。しかし、いや、待てよ――と思った。
﹁信じられない」と僕は言った。
﹁だって、別れたのは向こうから言ってきたからですよ。僕は別れたくなかったんだ。突然、一方的に切りだされたんです。それなのに、――いや、そんなわけがない」
右側からまたソファの軋む音がした。僕は鋭くそちらを見た。父親と目が合った。なぜかわからないけれど彼は腹をたてているようだった。
﹁たとえそうだったとしても彼女の念はあなたにとどまってるわ。そして、あなたを他の女にとられたくないと思いつづけているの」
﹁信じられません。僕に起こったことの説明としては一応筋が通ってるんでしょう。だけど、信じられない」
母親は顔全体を歪めさせた。わかりづらいけど彼女なりの笑顔なのだろう。僕はそう思うようにした。
﹁いいわ。いまの時点のあなたがそう思うのも当然なのかもしれないしね。でも、まだつづきがあるのよ。私の見たことが信じられるかどうかは全部聴いてから判断すればいいんじゃない? ――ねえ、私はお祓いができるわけじゃないの。あんなのは全部インチキなのよ。私みたいな人間にできるのは、ただ見るってことだけ。あとのことはその人たちの問題なの。この場合は、あなたがなにを選びとるかってことよ。でもね、あなたがより正しい方向を選びさえすれば、それで問題は解決するのよ。そういうものなの。あなたには強い力が必要だわ。あなたを守ることができる強い力が。いえ、これじゃ誘導することになるわね。ありのままを見て、判断しなさい。納得してから動くの。そのためにもすべて聴いた方がいいと思わない? あなたは理解したいんでしょ?」
僕は目だけ動かしてまわりの物を見た。テーブルに置かれたままのコーヒーとケーキ、深い色をした木製のドア、厳めしいキャビネット。それから、母親の方へ目をうつし、慎重にうなずいてみせた。
﹁そう、それでいいわ。まずは知ることよ。あなたは重大な選択をしようとしてる。そのための判断材料を求めてる。そうなんでしょう? それをあたえられるのは私だけだわ。信じるか信じないかはあとで考えなさい。あなた自身がそう言ったようにね。じゃ、つづきを言うわよ。さっきも言ったけど、あなたはすこし前に女に騙されたわね? それについては面白い――あなたにそう思えるかは別にしてだけど、まあ、面白いことがあったのよ」
母親は顔の歪め方を強めた。やはり笑顔ということなのだろう。
﹁鷺沢萌子。そういう名前の女だったわね? ま、そんな明らかに偽名だってわかる女に騙されるってのは問題があるけど、」
そこまで言ったときに母親は顔をしかめさせた。右側からは一際大きくソファの軋む音が聞こえてきた。
﹁僕は反対だな! やっぱりどうしても反対だ!」
父親は突然喚きだした。立ちあがり、手を握りしめ、顔を赤くしていた。はあ? と僕は思った。このおっさん、なにを言ってるんだ?
﹁あなたは黙ってなさい!」
ぴしゃりと決めつけるように母親は鋭い声をあげた。
﹁いや、黙ってるなんてできないよ!」
父親は短い手をブンブンと振りまわしながら喚きつづけた。
﹁僕は反対だ! こんな男じゃ、カミラちゃんがかわいそうだ。そうだろ? 君はそう思わないのか?」
﹁あなただって似たようなものだったでしょ? そんな偉そうに人のこと言えるの?」
﹁いや、ソフィア、そういうことじゃないだろ。それに、なにもそんな昔のことを」
ソフィア? 僕は母親の顔をまじまじと見た。篠崎ソフィアってことか。アゼルバイジャン人を母に持つ、ハーフの篠崎ソフィア。まあ、確かに彫りの深い顔をしてるよな。そう考えてるあいだも篠崎夫妻の喧嘩はつづいていた。
﹁あなたの方がもっとたちの悪い女に騙されてたじゃない。吉原雪乃、名前だって偽名っぽいってことでは変わらないわ。あなた、あの女にいくら貢いだと思ってるの? もう忘れたわけ? 忘れるわけないわね。この前、寝言で言ってたわよ。﹃雪乃! 雪乃! 僕を――』ってね。あれはなに? なんて言ってたの? ﹃僕を見捨てないでくれ!』とでも?」
﹁い、いや、そ、そんな。――なあ、なんでこんな話になるんだよ。カミラちゃんだって聴いてるんだぞ。それに、ほら、この人だって困ってる」
﹁あなたが!」
そう叫んで、篠崎ソフィアは立ちあがった。
﹁あなたがそうさせたんでしょう? いい? これは大切なお話なの。あなたの大切なカミラの将来がかかってるのよ。もう一度だけ言うわ。あなたは黙ってなさい。いい? わかった?」
父親は首をすくめながら、ひらいた両手を小さく挙げた。降参したと示したのだろう。ただ、顔の赤味は収まらなかった。僕をさっと見て、ゆっくりと落ちこむように腰をおろした。母親はそっと娘の方へ手を伸ばした。篠崎カミラは笑顔で父親のもとへ行った。横にしゃがみこみ、脚を軽くさすってあげていた。
﹁この人は理解したいと言ってるの。きちんと理解したいと。そのためにはすべてを目の前に出してあげた方がいいわ。これはきっと私たちのためにもなるのよ。カミラはわかってるわ。私たちの娘は様々なことを知ってるの。この人――佐々木さんだって覚悟を持ってここに来てるのよ。それこそ自分の昔を思い出しなさい。あの頃のあなたに比べたらずいぶんと立派な姿勢だわ。理解してから選びとろうというのですからね」
﹁わかったよ」
父親は細かく何度もうなずいていた。娘の頭に手を添え、髪を撫でながらだった。心温まる父娘の絵というところだ。しかし、それには違いないけれど僕は激しくうんざりした。
﹁つづきを話すわね」
母親はソファに腰を据えるとハンカチで額をおさえた。
﹁あなたを騙した女の話だったわね。生き霊にとって、その女の登場は誤算だったのよ。彼女――これは生き霊の方よ――その彼女が呼び寄せた低級な霊がやったことだわ。でも、彼女の方もあなたがそれで女性不信になるならいいって考えたのね。その部分では一応の成功は得たってことなんでしょう。だけど、その女はライターも持っていったでしょ? 生き霊となってる彼女があなたにあげたライターよ。それには強い念が籠もっていたの。つまり、そのライターが部屋にあることで彼女は大きく力を及ぼすことができたの。媒介をしてたってことよ。そういうのはよくあることだわ。――ああ、ついでと言ったら怒られるかもしれないけど、そのネクタイピンも同じよ。それはお祖父さんからの形見分けとして貰ったもののはずよ。あなたの守護霊様はそのお祖父さんだわ。ずっとあなたを見守ってくださってるわよ。非常に強い力でね」
僕はなんとなく辺りを見渡した。父親は不味いものを口に含んでるような顔をしていた。篠崎カミラはその脚をさすりながら僕をじっと見つめていた。瞳には以前に感じたのと同じ力強いなにものかがあった。
﹁もし、それがほんとうだったとして、どうして彼女はそんなに僕のことを思いつづけてるんですか?」
そう訊いた声はかすれていて弱々しかった。自分の声じゃないみたいだった。母親はすこしだけ躊躇するような表情をつくった。娘の方へ目を向け、それから目をつむった。
﹁彼女はあなたと別れてほどなくひどい病気に罹ったわ。もう四年も入院してるの。そこでずっとあなたのことを考えてる。山崎美早紀さん――そういうお名前よね? 彼女は自分の命がもうもたないことを知ってるわ。思い出すことといえば、あなたのことばかり。別れたのを後悔してるのよ。でも、もう生きられないのを知ってるから、あなたを頼ろうとはしてないわ。あなたがどんな性格かよくわかってるんでしょうね。連絡すれば、あなたは彼女のもとに行くでしょう? それじゃいけないって思ってるのよ」
そこで母親は目をあけた。顔を前へ出し、強く僕を見つめた。
﹁ただし、そういう思いが彼女を生き霊にしてるわ。理屈でわかっていても感情は押しとどめられないの。あなたの周囲から女を排除したいと願ってるし、自分が死ぬときにはあなたにも一緒に死んでもらいたいとさえ思ってるのよ」
僕は篠崎カミラの方へ顔を向けた。彼女は深くうなずいてみせた。僕は目を閉じた。その瞬間に涙が一気に溢れ出た。美早紀の名前を耳にしたときから涙は用意されていた。僕は手をかたく握り、歯を食いしばった。腹の奥には強張りができていた。口からはうなるような声が洩れた。と同時に、無性に腹がたった。なににたいする怒りかはわからなかった。しかし、それを押しとどめることはできなかった。
﹁たとえいまの話がほんとうだったとしても、」
僕は静かに目をあけた。涙はまた溢れ出た。頬を流れ、顎をつたって落ちていった。
﹁それで、僕のまわりに起こっていたことが説明できても、やっぱり信じられない。僕には見えないことなんだ」
母親は人差し指を立て、それを向けてきた。
﹁肩に痣ができてるはずよ。それは後ろからあなたをつかんでる手の形になってるでしょ? あなたには目に見えることまで起こってるの。それは非常に危険な徴候だわ」
﹁ライターがなくなったことで彼女の力は弱まったんじゃないんですか? これは、いまあなたが言ったことだ。矛盾してますよね? それなのにどうして変な痣ができるんです? これは美早紀の手なんかじゃない。僕がどこかにぶつけたかしたんだ。ただそれだけのはずだ」
大きくかぶりを振って母親はさらに指先を前へ突き出した。
﹁あなたは理解したかったんじゃないの? 自分の身に起こってることを――そのほんとうの意味をあなたは曲げようとしてるのよ。あなたは受容しなくちゃならないわ。ありのままの事実をありのままに受けとらなければならないの。もしそうできないなら、もっとひどい状況に陥ってしまうわ。これは可能性の話じゃないのよ。そうなるの。そうなってしまうの。――あまり言いたくないことだけど、その子はもうそろそろ死ぬのよ。自分でもそうとわかっているの。だから、最期の力を振りしぼってあなたを連れていこうとしてるの」
﹁それだってあなたがそう言ってるというだけのことだ。僕に彼女の姿は見えないし、理解できない。いや、話として理解できても納得はできない」
篠崎カミラは立ちあがった。母親は顔を僕の方へ向けながら手だけ挙げた。﹁黙ってなさい」と示したのだろう。
﹁あくまでも目に見えないことは理解できないと言うつもりなのね?」
僕はうなずいた。目はずっと母親に向けていた。
﹁いいでしょう。では、すこし違うことを話すわ。理解してもらえるといいんだけど」
母親は身体の力を抜いた。ソファに背中を押しつけ、手を腹の前で組みあわせた。
﹁いい? あなたが見てるものは、あなたの目に映っているものだわ。目でとらえ、脳で判断し、記憶とすり合わせて、たとえば、あれを木だと判断する。でも、それはあなたの目よ。私のではないわ。あなたの脳も私のとは違う。記憶だってもちろんそうでしょう?」
僕は彼女が指した観葉植物を見た。よくわからないことを言われてるな――と思っていた。怒りは急速に萎み、悲しみだけがひりひりと残った。僕はかすれた声でこう言った。
﹁それでも木は木だ。僕が見ても、あなたが見ても木であることに変わりはない」
﹁ほんとうにそうかしら?」
母親は顔全体を歪めさせた。それから、自分が座っているソファを指した。
﹁これは何色?」
﹁緑ですね」
﹁そう、緑と呼ばれる色に見えるわね。でも、なぜあなたはこれを緑と思ったのかしら? この色はあなたの外にあるの? それとも記憶にあるものとすり合わせて、これを緑と判断したの? これを緑と認識できない人もいるわ。それに、緑と認識しても、それはあなたが見ている色と完全には一致しない可能性もあるのよ。私たちは画一的な網膜を持ってるわけじゃないし、記憶だって違う。ひとつの言葉であらわされる概念だって、ほんとうは様々にグラデーションしてるものだしね。ひとつであることなんてありえないのよ。ところで、いま風がこの部屋を通り抜けていってるわね? あそこにはユリが咲いてる。私にはわからないけど、もしかしたらあのユリの香りはこの部屋に漂ってるのかもしれないわ。あなたはユリの香りを感じる?」
僕は窓の方を見た。白いユリは風に弱く揺れていた。ただ、香りは感じられなかった。僕はゆっくり首を振った。
﹁もし、ここに犬がいたならユリの香りを嗅いでいたかもしれないわね。私やあなたにとって感じられない程度の香りであっても、それに気づくものもいるわ。人間の中にだってきっといるはずよ。いい? 自分の感覚で捉えられないからといって、それが無いわけじゃないのよ。中にはそれに気づくものもいるの。あなたは五年近くずっと犬に見つめられていたわ。犬たちはなにを見てたの? あなたが気づけなかったものを見てたのよ。あなたの感覚では捉えられない存在を見つめていたの」
篠崎カミラは腰をおろした。胸を張り、肩を反らすようにしていた。その表情は複雑にみえた。僕の感じた悲しみに影響を受けているのはわかった。怖れや危惧も持っているようだった。僕はじっと彼女を見つめた。彼女も見つめ返してきた。僕は激しく首を振った。違う――と思ったのだ。幾つもの感情を同時に持っていたとしても、彼女の芯には揺らぐことのないものがある。確信めいたものを彼女は持っているのだ。そして、それは僕に受容を促すものだった。母親は僕たちを交互に見てから話しはじめた。
﹁自分を中心に据えてるとそういうことにも気づけないわ。私たちは不確かな世界に生きてるの。抽象的なものがこの世界には溢れてるのよ。言葉だってそう。私たちはありのままの世界を見ることができなくなってるの。すべてを抽象的な概念に落とし込んでるからよ。いい? このソファの色はこのソファの色なの。緑なんかじゃないわ。あの木だって、そんなひとつの言葉では言いあらわせないはずの存在なの。私たちが便宜的にそう言い慣わしているだけ。さっきはああ言ったけれど、ユリの香りを感じる犬もいれば、そうでない犬だっているでしょう。だけど、それが正しい世界なのよ。あらゆるものは個別的なものであり、不確かなものでもあるの。ありのままを見なければならないわ。この世界は本来的には複雑なものなのよ。それを見ないようにしてる方が危険だわ。――ねえ、私はあなたと比べてより良くものが見えるわけじゃないのよ。カミラだってそうなの。もちろん生まれ持ったものが私たちにはあるわ。でもね、これは誰もが持ってるはずの力なのよ。私たちはただ見ないようにしていないだけ。見ないってことができないよう生まれついたの。そして、ありのままの世界をありのままに見ようとしてるだけなの」
僕は片手を挙げた。ちょっと待ってくださいと示したつもりだ。そのままで考えた。目は篠崎カミラへ向けていた。
﹁それで、あなたは様々なものが見えるってわけですか? すべてのことを理解できると? ――いえ、もう疑ってはいません。だって、彼女の名前もその通りだし、きっと彼女はそういう状態になっているんでしょう。そのことは、こう、ひどく――」
母親は僕が言い淀んでるあいだに話しだした。その声は優しさに満ちたものだった。
﹁すべてを理解できるなんて、そんなおこがましいことは言わないわ。ただ、実際に起こってることに目をつむり――いい? 見えたことだって人は見ないようにできるものよ。あなたがさっきそうしたようにね。でも、それじゃいけないのよ。きちんと見つめることが必要なんだわ。あなたは理解したいと言った。私はすこしだけあなたより見えることがあるわ。だから、見えたことを伝えたの。あなたなら理解できるはずよ。求めてたからできるはずなの。時間はかかるかもしれないけど、ありのままの世界を見て、それを理解できるようにもなれるわ」
僕はそれまでに起きたことを違う視点から見ようと試みた。ありのままを見ようとしたのだ。それはひどくつらいことだった。怖ろしくもあった。そのものというのはなんとグロテスクで、禍々しいものなんだろう――そう思った。僕はそういうものから目をそらしつづけてきたのだ。
ただ、あの街灯が突然消えた雨の日からなにかが変わりはじめていた。それは徐々にではあるけれど僕に到達すべき地点を教えこもうとしていたに違いない。もちろん、それを導いたのは篠崎カミラだ。
﹁わかりました。いや、簡単にわかったなんて言えないんでしょうけど、理解するきっかけだけは手にすることができたように思えます。ありがとうございました」
母親は顔全体を歪めさせた――それまでよりも激しくだ。
﹁それでいいのよ。ううん、それくらいでいいわ。ところで、どう? あなたはなにを選びとるつもり? いまの時点でのこたえだけでもいいわ。聴かせてちょうだい」
僕は背筋を伸ばし、スーツの襟を正した。
﹁カミラさんに訊きたいことがあるんですけど、いいですか?」
﹁もちろん。どんなことでも訊いてあげて」
篠崎カミラはうつむいた。でも、思いなおしたのか、顔をあげて僕を見つめてきた。緊張しているのはわかった。だけど、それは僕だって同じだった。
﹁この前、一般論を話したよな? そのとき君はお母さんとお父さんのことを話してくれた。お二人がどのように出会い、どうやって結ばれたかという話だった」
﹁は、はい」
﹁そのときに君はこう言った。そのきっかけがなんであれ、お母さんはお父さんのことをはじめから愛していたと。そうだったよな?」
右側からソファの軋む音が聞こえてきた。ただ、誰もそれを気にとめていないようだった。篠崎カミラはさらに緊張を強め、気が遠くなってるようにすらみえた。きっとこの話がどう進むのかわかったのだろう。あるいは、僕の言おうとしていることが見えたのかもしれない。
﹁それで、僕が訊きたいことっていうのは、――その、なんだ、」
僕は口を手で覆った。うろたえているのは自分でもよくわかっていた。鏡を見たい心境だった。
﹁君もきっかけがなんであれ、――その、僕のことを」
そうとまで言えた。ただ、その後がつづかなかった。声がうまく出なかったのだ。篠崎カミラは両親を順に見た。顔は青白くなっていた。しかし、口許にはごく自然な笑みを浮かべていた。彼女は喉元に手をあてるようにすると、こう言った。
﹁はっ、はい。あっ、あの、あっ、あっ、愛しています」
右側のソファは一際強く軋み、そのすぐ後になにかがゆっくりと潰されていくような音がつづいた。母親は素早く手を伸ばし、立ちあがろうとした娘を制した。
﹁いいのよ、いいの。この人は混乱してるだけ。じきに収まるわ。それも、あっという間によ。いつだってそうじゃない。あなたが決めたことを駄目だって言うようなパパじゃないでしょ?」
母親はまじまじと僕を見つめてきた。
﹁それで、あなたはどうなの? 私たちのかわいい娘を受け容れる準備はできているの?」
僕は髪がくちゃくちゃになるまで頭を掻きまわした。僕だって混乱していたのだ。落ち着くための時間が必要だった。篠崎カミラはソファに背中を押しあて、放心したようになっていた。
﹁その、」と僕は言って、深く息を吐いた。
﹁正直なところ僕も混乱してるんです。ただ、お母さんにこうしてお会いすることを選んだ時点で既に進むべき道を選んでいたように思います」
﹁つまり?」
母親は威圧的な声を出した。右側からはぶつぶつ言ってるのが聞こえてきた。
﹁つまり、僕もカミラさんを愛してるのだと思います。いつのまにかそうなっていたのだと」
篠崎カミラの身体は痙攣したかのように震えた。放心状態は終わり、手を意味もなく、また意味がわからないくらい動かしていた。
﹁カミラ! ちょっと落ち着きなさい。――あなた! あなたもよ!」
父親は﹁ふんっ!」と言って立ちあがったようだった。それから、背後をうろつきまわるような音が聞こえてきた。﹁いや、」とか﹁ふうむ」などと呟いているのも耳に入ってきた。母親は顔全体を歪めさせ、夫の行動を見つめていた︵目が左右に動くのでそれがわかった)。しばらく︵たぶん十分ほど)父親は同じ行動をつづけた。僕と篠崎カミラはそのあいだずっと見つめあっていた。そうしていると、彼女と出会ってからのことが頭に浮かびあがってきた。自分の心の動き、彼女の著しい変化、そしてまたそれによって引き起こされた心の動き。それらはごちゃっとしていたものの細部まではっきりとわかった。いつのまにかこの子のことが好きになっていたんだな――そう僕は思った。そして、それは突如として確信に変わったのだ。きっと彼女の持つ確信が僕にも行き渡ってきたのだろう。
﹁ちょっと失礼」
父親は僕の横を素早く通り抜け、妻と娘のあいだに腰をおろした。赤黒くなった顔をずいっと前へ出し、太腿の上へ肘をおいた。
﹁君、ほんとにカミラのことを愛してるのか? 一時の気の迷いとかじゃなく――その、なんだ、自分に起こってることの恐怖から逃れるためにそう言ってるんじゃないだろうな?」
﹁あら、あなたは気の迷いとか恐怖のせいで私と結婚したっていうの?」
母親が茶化すように言った。父親はさらに顔を赤黒くさせた。
﹁君はすこし黙っててくれ。これだけはどうしても訊いておきたいんだ。――さあ、こたえてくれ。君はほんとうにカミラを愛してるのか? これからもずっと私のかわいい娘を愛しつづけていくのか?」
﹁はい」と僕はこたえた。それにつづくべき言葉もすらすらと出てきた。
﹁カミラさんを愛しています。ずっと、これからも愛していきます」
父親はしばらく僕を見すえていた。瞬きすらしなかった。それから、ソファに深く座りなおし腕を組んだ。
﹁ふむ、そうか。そういうことならいいだろう。よろしくお願いする」
﹁父親らしいことができてよかったじゃない。大丈夫よ、この子たちは大丈夫。私にはわかるの。これは約束されたことだったのよ。そう、私にはこうなるってわかってたわ。――カミラ、おめでとう。あなたもやっと運命の人に巡りあったのね」
篠崎カミラは何度も深くうなずき、しまいには泣きだした。
﹁もうひとつ訊かせてください」と僕は言った。ふと思いついたことがあったのだ。
﹁なに?」
﹁カミラさんも言ってましたけど、僕たちはこうなるように決まっていたんですか? その、つまり、運命みたいなものはあるのかってことなんですが」
母親はゆっくりと首を振り、唇をすぼませた。
﹁そうじゃないわ。すべてがかっちりと決まってるなんてことはないのよ。だけど、誰かの行動がまわりへ影響を及ぼすってことは普通にあることだわ。そうでしょ? すべてはつながっているの。自分に起こったことを考えてみなさい。あなたのしたことが誰かに影響をあたえ、それが跳ね返ってあなたが変わるってこともあったはずよ。それのみで存在してるものなんてないの。すべてはつながっていて、私たちはその関係性の中で動いてるの。後から考えるとまるで決まってたように思えるってだけよ」
﹁はあ」と僕はこたえておいた。もうちょっとわかりやすく言ってくれないかな――と思ってはいた。ただ、こういうのにもいずれは馴れていくのだろう。
﹁ああ、あともうひとつだけ。僕には仲のいい友人がいるんですが、その男はずっと合コンに誘ってくるんです。それって、もしかして僕を悪い方へ向かわせようとしてるってことですか?」
﹁ちょっと待って」
そう言って母親は真顔になった。僕の周囲十センチほどへ目をぐるりと向け、口の内でなにかを呟いていた。すこしのあいだ目をつむり、それを開けたときには唇を激しく歪ませた。
﹁大丈夫よ。そうじゃないわ。その人はあなたをほんとうに気にかけてるの。少々、絡みすぎるくらいに。そうでしょう? それは幼児性のあらわれ。あなたのことが好きなだけよ。だけど、その人がそんなふうにしつこくしたから、あなたはここに来るようになったのよ。街灯が消えて電話をしてきたときのことを思い出してみなさい。そうなったきっかけのひとつはそのお友達があたえてくれたってことになるでしょう? それのみで存在してるものがないってのはそういうことよ」
僕は深々と頭を下げた。それから、篠崎カミラの隣に立った。彼女はハンカチをおろして見あげてきた。うん、好みのタイプだ。いや、非常にいい。きっと僕たちに生まれる娘も美しく、いろんなものが見えるようになるのだろう。そして、むちゃくちゃ背が高くなるに違いない。
﹁あっ、あっ、あの、」と篠崎カミラは言った。でも、それしか言えないようだった。僕は彼女の髪を撫で、こう言った。
﹁もう泣くなよ。せっかくの﹃ふんわりナチュラル系』メイクが台無しになる」
◇◆◇
営業先へ向かう前に僕は喫茶店に入り、深煎りのコーヒーを頼んだ。首の汗を拭ってから、しばらく窓の外を眺め、スマホを取りだした。
﹃八時にいつもの店で待ってる。話があるんだ』
そう書いて小林に送った。すぐに返事がきた。
﹃あの話か?』
僕はそれを見て首を微かに振った。妙な表情をしたクマのスタンプがついていたからだ。悲しそうにも腹をたててるようにもみえるクマだった。僕にはそれの意味がよくわからなかった。
﹃あの話だ』とだけ書いて僕は送った。
いつものように︽monkey's paw》は静かだった。小林は先に着いていた。ふっかりしたソファに座り、葉巻を咥えていた。
﹁待ったか?」
﹁ああ、えらく待った。短い小説なら全部読み切るくらい待ったぜ」
にんまりと笑いながら小林はそう言った。僕は隣に座った。ソファの横には小振りなテーブルがあり、前は大きくひらけていた。一段高くなったところは通路になっていて、それと並行に設えてあるカウンターにはしこたま金を持ってそうな男が三人座っていた。奥に見える棚は光り輝いていた。ボトルに明かりが反射して、煌めいているのだ。
﹁それ、」
小林は僕の胸辺りを葉巻で指した。
﹁前も気になってたけど、どうしたんだ? そうとう年代物のネクタイピンじゃねえか」
僕はネクタイを持ちあげた。オパールは天井から落ちる光に色を変えていた。何色とも言えない色だ。ありのままの、そして、そのとき限りの色をしていた。
﹁ああ、これにも長い話があるんだ。これから話すよ」
﹁そうか」
小林が手を挙げるとバーテンダーが音もなく近づいてきた。僕は適当に酒を頼み、葉巻もお勧めのものにした。二人で葉巻を燻らせながら、強い酒を舐めた。僕は土曜にあったことから話した。そうなると当然のことにそれ以前にあったことも話さざるをえなかった。突然消える街灯、なぜか見つめてくる犬、五年前に別れた彼女がいまも病室で僕を思い出しつづけているということ。それと、篠崎カミラがなぜ肩を見つめていたか、そして、それからの顛末。もちろん鷺沢萌子と名乗る女に騙されたことも話した。それで僕はカレーとハンバーグが食べられなくなったのだと。話してるあいだ僕たちはずっと前を向いていた。互いを見るということはなかった。
﹁ふむ」と小林は言った。
﹁信じられるか?」
そこで僕たちは向きあった。意外なことに小林は真剣そうな顔つきをさせていた。にんまりと笑ってはなかった。
﹁信じられるわけもない」
小林は灰を落とし、短くなった葉巻の先を見つめた。
﹁ただ、お前の身にそういうことがあったっていうなら、その通りなんだろう。話としちゃ信じられる部分は微塵もないが、俺はお前のことを信用してる。なにしろ大親友だもんな」
カウンターの方からグラスの擦りあう音が聞こえてきた。それ以外は薄く流れる曲がわかるだけだった。
﹁ありがとう」と僕は言った。
﹁ありがたがられることもない。不満に思ってることもあるんだ。なんで俺に言わない? どうして教えてくれなかった?」
﹁お前に言ったら、なにかしてくれたのか?」
﹁いや、まさか。なにができるってんだ。俺はカミラちゃんじゃないんだぜ」
バーテンダーが近づいてきて追加のオーダーはないかと目顔で訊いてきた。僕たちはまた適当に酒を頼んだ。バーテンダーが立ち去ると僕はこう言った。
﹁悪かったよ。それについては謝る。でも、さすがに恥ずかしいだろ? とくに騙されて鍋や炊飯器まで盗まれたなんて言いたくなかったんだよ」
﹁それに関しちゃ、言ってくれれば俺にもできることがあった。この前、地元の友達が結婚したんだ。二次会のビンゴで俺は炊飯器が当たった。まあ、どうして炊飯器なんだよとは思ったぜ。でも、とにかくそれが当たったんだ。だけどな、俺はすこし前に新しいの買っちまってたんだよ。前のが壊れたんだ。つまりは、一個余計にあるってことだ」
﹁それ、まだあるのか?」
小林は仏頂面をしながらも、﹁ある」と言った。
﹁じゃあ、くれ。鍋で炊こうと思ったんだけど面倒なんだよ。炊きたてのご飯を食べたいって思ってたとこなんだ」
それにはこたえず、小林は前を向いたまま葉巻を燻らせていた。
﹁で、カミラちゃんと結婚するってことか?」
﹁まあ、そういうことになるな。どうもそうなるようになってたみたいだ」
﹁はっ!」
小林は鼻で笑い、酒で口を湿らせた。
﹁他人事みたいな言い方をするな。これはお前にあったことだろ? それに、これからずっとつづいていくことでもある。違うか?」
﹁ま、そうだけどな」
身体ごと動かして小林は僕に向きあった。僕も同じようにした。腕を背もたれにかけ、しばらく互いを見あった。けむりがそのあいだで渦巻いていた。
﹁恥ずかしがることはない。けっきょくお前はカミラちゃんのことが好きなんだろ? いつのまにか好きになってたんだ」
小林の顔はだんだんと笑み崩れていった。きっと僕の表情からなにかを読みとったのだろう。
﹁そう思うか?」
僕はそう訊いた。小林は葉巻を持った手を面倒そうに振った。
﹁違うってのか?」
﹁いや、たぶん、きっとそうなんだろう」
小林の顔は急激に歪みだした。と思う間もなく声をあげて笑った。片手を腹にあて、身を捩らせるようにしていた。金をしこたま持ってそうな三人組は訝しそうな表情で振り返った。バーテンダーもちらと僕たちの方を見た。それから、うつむいてグラスを磨きだした。首をゆっくりと振りながらだった。
﹁じゃ、それでいいんじゃないか? きっかけがなんであれ、お前がそれでいいと思ってるなら充分だろ? 俺が信じられるかなんてのはどうだっていいことだ。違うか? ――なあ、お前にはいろんなことがあった。信じられないようないろんなことがだ。それでお前は混乱してたんだろ? この前そう言ってたもんな。その混乱をカミラちゃんがほぐしてくれたってわけだ。そういうときに男と女ってのは結びついちゃうもんだ。そして、実際、お前とカミラちゃんはそうやって結びついたってことだろ」
笑いながら小林はそう言った。なんでそんなに笑えるかは理解しがたかった。どういう経緯があったにせよ﹃大親友』が結婚することに関しての反応としては異常だ。過剰であり、異常だ。ひとしきり笑ってから小林はチェイサーを一息に飲み干し、目の端を指先で押さえた。涙を流すほど笑っていたのだ。
﹁炊飯器は婚約祝いでお前にやるよ。結婚祝いには、――そうだな、電子レンジを贈ってやる。最新式のヤツをな。新婚生活にばっちり合うのをやるよ」
﹁ありがとう、助かるよ」
僕は首を振りながらそう言っておいた。
駅に着いたのは十二時過ぎだった。小雨が降り出していたけれど僕は傘を持ってなかった。弱く風も吹いていて、雨はまっすぐには落ちてこなかった。右往左往してるように風に流された。濡れるのはわかっていたけど僕はゆっくり歩いた。土曜にあったことを思い出しながらだ。
――あの後、父親は急に機嫌を良くしたようだった。帰ると言ったのに︵正直なところほんとうに帰りたかった)、彼は﹁寿司をとる」と言いだした。そうなるときかないたちのようで、すぐに電話をかけた。そして、ほどなく大きな桶に入った大量の寿司が届けられた。篠崎ソフィア・カミラ母娘はキッチンに行き、それ以外の料理を︵これまた大量に)持ってきた。それはまるで僕が受容するのを前もって知っていたかのような手の込んだ料理だった。父親は﹁とっておきの酒」というのを厳ついキャビネットから取り出し、持ち重みのするカットグラスも用意して﹁飲んでくれ。絶対に美味いから」と強要してきた。まあ、確かにその酒は美味かった。寿司も上等なものだったし、篠崎母娘の手料理もそうとうのものだった。
﹁あっ、あっ、あの、そ、それは、わ、私が、つ、つくったんです。い、いえ、は、母に、す、す、すこしだけ、て、手伝って、も、もらいましたけど。ど、ど、どうです? お、お口に、あ、あ、合いますか?」
篠崎カミラは顔を赤くさせながらそう訊いてきた。僕がこたえようとしていると父親がたたみかけるように口を挟んできた。
﹁そりゃ、決まってるよ。カミラちゃんがつくったんだ、美味いに決まってる。もし、口に合わないなんて言うようなら、」
母親は笑いながら父親の腕を引っ張った。
﹁あなた、そんな威圧的に言うのやめて。佐々木さんはうちのお婿さんに――いえ、私たちの息子になるんですからね」
その声だって充分に威圧的だよ――と思っていたものの僕は微笑を浮かべてやり過ごした。問題はこの夫婦︵ソフィアの言い様では僕の両親にもなるわけだ)がなにも言わせてくれないということだった。その後もなにか言おうとするたびに二人の掛けあいがはじまるといったパターンが繰り返された。何回かそれを経験してから僕は諦めた。言いたいことはすでに言い尽くしていたから、まあ、不都合はなかった。
父親は早々に酔い潰れ、ソファに横になるといびきをかきはじめた。篠崎カミラはタオルケットを持ってきて、父親の腹の上にそれをかけた。ソフィアは顔全体を歪めさせながら眠りこんでいる夫を見つめていた。
﹁ほんと、この人は成長しないわ。私とはじめて会った頃と変わらない。臆病で、そのくせ自分を大きく見せようとして。まったく、成長しない人だわ。でもね、今日の臆病さは娘がかわいいあまりに出てきたものなのよ。この人はほんとにカミラを愛しているの。――佐々木さん、あなたはきっとこの人より成長できるわ。あなたは怖れを自分の力で克服しようとした。理解することで立ち向かおうとした。そうしていれば怖れなんてとるに足らないものになるわ。それにね、ありのままを見るようにしてれば怖れることもなくなるものよ。すべてはなるようになってるの。私たちはなるようにしかなれない存在なのよ。ありのままの世界をありのままに見て、選ぶべきものをつかむのよ。そうしていれば幸せになれるわ。このまま、ずっとそうやってカミラと幸せになってちょうだい」
僕はだいぶん酔っていたのでソフィアの言ったことを半分も理解してなかったかもしれない。彼女はそれ以外にもたくさんのことをしゃべりつづけていたのだ。僕は疲労と酔いからくる眠気に襲われながら、ろれつの回らない声でこうとだけこたえた。
﹁はい、そうします。カミラさんと幸せになります」
雨はやはり僕を濡らした。街灯が照らす中を僕は歩き、そのひとつの下で立ちどまった。ああ、こいつだったな――そう思いながら、じっと見た。これが突然消えたのだ。それがあったのも雨の降る夜のことだった。まあ、他にも消えた街灯はあったけど、こいつが消えてから僕と篠崎カミラの関係ははじまったのだ。
僕はしばらく街灯を見つめていた。それから、ちょっと念を送ってみようと眉間に力をこめてみた。それで消えでもしたら怖いかもしれない――そんなふうに思ったのだ。いや、馬鹿げてる。ありのままを見るのだ。霊的な力にせよ、電磁波にせよ、僕たちの周囲には関知しえない力が働いている。そういった力がどう影響するかの説明はそれができる人間に任せるべきだ。僕はありのままを見て、そこから選びとるべきものをつかみさえすればいい。それだけのことなのだ。
雨は僕を濡らしつづけた。顔をあげていたものだから目にも入ってきた。肩をすくめ、手で顔を拭うと僕はマンションへ向かった。ただ、入口の階段に足をかけたときに、ん? と思った。誰かに見られている気がしたのだ。街灯の途切れた薄暗い隙間から投げかけられる視線を感じた。僕は振り返り、左右に首を巡らせた。目にはいる限りの街灯を確認した。アスファルトは黒く濡れ、そこに明かりがぽつんぽつんと落ちていた。うん、問題ない。いつも通りだ。なにごともない日常の景色。きっと僕は守られているに違いない。二重三重に守られている。
ふと思いついて、僕は垂直に首をあげた。マンションの入口に三つ並んだ明かりも元に戻っていた。それを見ていると笑えてきた。
そうだよな、と僕は思った。もし、街灯の電球が切れたとしたって、いつかは付け替えられるに決まってる。何十万本もの街灯がすべて消え、あらゆる道々が暗闇に覆われたとしても気にすることはない。どうせ、誰かがまた明かりをつけるのだ。
2018年9月30日 発行 初版 ver.3-8
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けっこう、いろんな感じのものを書いております。 まあ、だいたいは馬鹿な感じのものが多いですが、深刻っぽいのもあります。 順次、こちらで公開していきますね。 ↓ブログもご覧ください↓ http://ameblo.jp/kiyoharu-satou/