第三話 渡り鳥と不法な越境
第四話 亡命と異教徒の運命
生き倒れになっていた珠洲と美濃をスミンと名乗る少年とその兄弟たちが助けてくれた。日本語であるもののそこは京都とは思えず、また二人は不思議な力を手にしていることにも気づく。出稼ぎに行っていた両親が死亡したと知らされ絶望感の漂っていた彼らに二人はその力を暴露、叔父セォンチョルの元に不法らしい移動を開始、その過程で珠洲は自分たちを拘束しようとしてきた兵員たちを殺害してしまう。その日の二人の夢の中にスミンたちの死亡した母イェョンヂャが現れ、そこが北朝鮮と中国吉林省であることなどを告げられる。一方その頃スミンの姉グヮンヒが人民軍兵員らに拘束され、トラックでどこかに連行されてしまっていた…。
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「スミンくん……」
珠洲と美濃は恐る恐る目を開けた。
その先で、スミンが呆然とした表情で立っていた。
「――」
二人は訝しんで月輪熊のいた方に首を向けた。その先で熊は何時の間にか頭から大量の血を流して地面に倒れていた。
「……え……なんで……?」
その言葉を聞いたスミンは二人以上に驚いた。
「なんでって……、二人が、やったんだよ……、覚えてないの……?」
「え……?」
二人には彼の言っていたことが理解できなかった。
「ピストルで、頭を打ち抜いて……、その……」
スミンは珠洲のスカートのポケットに目を落とした。
「え……?」
彼の話によると、熊がスミンとミヂャに飛びかかる寸前に、珠洲のスカートのポケットの中から放たれた二本の青緑色の光が、熊の頭部を直撃して倒したということだった。
「え……」
珠洲がポケットに手を入れると、そこにボールペンが入っていた。彼女はそれを取り出して恐る恐る見つめた。美濃もズボンのポケットからボールペンを取り出した。
「珠洲ちゃん……、これは……」
「うん……、昨日、川にいたときも、美濃くんは不思議な体験をしたって……」
「うん……、あのとき、僕は、川の向こう側に行きたいって思った……、そしたら、いつの間にか川の向こう側にいたんだ……」
「……私も……。さっきスミンくんとミヂャちゃんを探したいと思った……、そしたら、こんなに離れてたのに、二人の気配を感じた……」
「……じゃあ、珠洲ちゃんは今、二人を助けたいって思った……?」
「あ……、うん……」
珠洲はこくりと小さく首を縦に振った。
「……やっぱり……」
「……うん……、きっと、このペンには、想いを叶える力みたいなものがあるんだと思う……。多分、なんでも叶えてくれるってわけじゃないみたいだけど……」
「……そうだよね……。でも、このペンは一体何なんだろう……」
美濃は疑問を口にした。
「あの、珠洲ちゃん、美濃くん……?」
「えっ……?」
二人に、不意にミヂャが呼びかけた。
「……帰ろう……」
「あ……、うん……」
二人は頭を切り替えてミヂャの言葉に従った。
「はは、ありがとう、珠洲ちゃん、美濃くん」
そのとき、スミンが二人に笑顔を向けて礼を言った。
「え……」
二人はそれを見て少し戸惑った。
*
帰途、スミンとミヂャはずっと黙ったまま歩いていた。
珠洲と美濃は、何度か前を歩いている二人の方にチラと目を向けては、すぐにそれを返した。ボールペンのことや、自分たちの身に起こったことを話すべきかどうか迷ったが、なかなか言い出せなかった。
ただ、スミンは自然に、二人が自分たちを救ってくれたことへの謝意を感じていた。
(珠洲ちゃんと美濃くんもあの時泣いていた……でも逃げなかった……。泣かない代わりに、逃げる人だっている……あるいは、悪の味方になる人も。そういう人のことを強い人と言い、泣く代わりに逃げない二人のような人のことを弱い人という人もいる……。僕と正反対なのかな……)
とはいえ彼は彼で、二人が沈黙しているのを見てなかなかあらためての謝意を表せなかった。結局、四人とも帰りの道中はずっと黙ったままだった。
「ただいまー」
「お姉ちゃんー!」
家に着くや否や、リョンミンがミヂャに飛び付いてきた。
「え……? あ……大丈夫だよ、リョンミン、お姉ちゃんたちは何ともないよ」
「……でも、何で僕たちが熊に襲われたって知ってるの……?」
ミヂャとスミンは、リョンミンが自分たちの身を心配してくれていたのだろうと思った。
「お父さんと、お母さんが死んだって……」
「――え?」
リョンミンの頭を撫でるミヂャの手が止まった。スミンと珠洲、美濃も自分の耳を疑った。
そしていつの間にか、リョンミンの背後にグヮンヒの姿があった。彼女の目も涙で濡れていた。
「さっき、合作所の人が知らせにやって来て……、お父さんとお母さんは、一ヶ月前に保安省の人に捕まったって……。理由はよく判らないんだけど、なんか、軍の人に怪我をさせたって……」
「そんな……」
ミヂャが顔を引きつらせた。
「そんなこと、する筈が……! 大体、保安省に捕まったんだったら、そのときにうちに連絡が来る筈だよ!」
スミンは叫んだ。
「なんか、合作所の方で手違いがあって、連絡できなかったって……」
グヮンヒが低い声で言った。
「え……?」
スミンは息を詰まらせた。一方グヮンヒは、堪え切れず粒状に涙を散らした。
「それで……、二人とも、先日、保安省の拘置所で、衰弱死したって……」
「……そんな……」
やがてスミンとミヂャの瞳からも、勝手に涙がこぼれ始めた。
*
夕陽が家の縁側に当たっていた。
「……これから、どうしよう……」
落ち着きを取り戻したスミンが、やがて重い口を開けた。
「……闇市で……物乞いするとか……」
グヮンヒが呟いた。
スミンも項垂れました。絶望的な空気が全員を包んだ。
「あの……」
ミヂャがそれを破った。
「イェンビェンの、セォンチョル叔父さんの所に行けないかな……」
「え……」
「それは無理だよ……、国を出るまでの間に、承認番号地域があるし……、あそこを通るには許可がいるのに、子どもだけで、それも四人で行くなんて……、きっとすぐに捕まって、労働鍛錬隊送りだよ」
「え……国……?」
美濃はスミンが言った『国』という言葉に違和感を覚えた。
「え……」
労働鍛錬隊と聞いたミヂャは震え上がった。
「あ、あの……」
珠洲が声を上げた。
「珠洲ちゃん……?」
「移動するんだったら、このペンで、何とかなるかもしれない……」
珠洲はボールペンをぎゅっと握り締めた。
「えっ……?」
「このペン……持っている人は、多分、見えている所までくらいなら、一瞬で行けるんだ……。イェンビェンって地名は、僕たちは聞いたことがないけど、二人で交代しながら、一人ずつ、順番に背負っていけば、二日もあれば、全員を送ることができると思う……。それと、人の居場所も、どこにいてもすぐに判ることができるから、他の人が、自由に移動することもできるんだ……」
四人は美濃の話を狐に摘まれたような顔で聞いていた。やがて、ミヂャが恐る恐る口を開けた。
「珠洲ちゃん、美濃くん……、あなたたちは、一体何者なの……?」
「え……」
珠洲は美濃の方に顔を向けた。美濃も珠洲の目を見ながら頷いた。
「……ごめん、私たちも、なんでこんな力を授かったのかは、よく判らないんだ……でも……、もう、隠したくないから言うね」
「え……?」
スミンたちは珠洲の言葉にさらに驚かされた。
*
「……では、全部で何キロあるのですか……?」
翌朝、ミエョンの闇市の一角で、中年の男性がグヮンヒに尋ねた。
「四キロです。一キロ六〇〇ウェォンですよ」
彼女の布製のリュックサックが小さく揺れた。
「高いですね……、全部まとめて買うから、五〇〇ウェォン程度にしてくれませんか?」
続いて、男性に連れ添っていた中年の女性がグヮンヒに訊いた。
「うーん……、なら、五五〇ウェォンでどうですか? インフレが収まっていないので、これが限界ですが……」
グヮンヒが提案した。
「わかりました、それでいきましょう。えーと、一キロ五五〇ウェォンだから……」
「二二〇〇ウェォンよ」
「ああ……」
男性は首から提げた財布の中から何冊かの札束を取り出すと、そわそわした様子でそれを数えて、そのうちの何枚かをグヮンヒに手渡した。彼女はそれを数えた後、トウモロコシの粉を彼が持っていたリュックに移し替えた。
*
「チョンス市?」
合作所の窓口で統計員が声を上げた。
「はい……、家族全員で行きたいのですが」
グヮンヒは彼に申し出た。
「残念ながら……、食糧を調達するという目的で、通行カードを発給することはできないのですが……。建前上、必要な食糧は全て合作所が賄っていることになっていますので」
「……、それは判っています。ですが、それでもお願いしたいのです」
彼女はポケットから先ほど闇市で買ったタバコのうち二箱を取り出すと、それをさっとテーブルの上に置いた。
「あ……、失礼しました……えーと、ヘォ・グヮンヒさん……親戚の弔事でしたね」
統計員は慌ててタバコをしまった。
「はい……」
「保安省の方には、私がお伝えしておきましょう……。明日、もう一度来てください。全員のカードを用意しておきますから」
「はい、宜しくお願いします」
グヮンヒは彼に軽く頭を下げると、合作所から退出した。
*
その翌日、朝日がヘォ家の屋根を照らしていた。
珠洲は少量のトウモロコシの粉を入れたベージュのリュックサックを手にした。
「それと……これも持って行って……」
「え……?」
グヮンヒは、二箱のタバコを珠洲と美濃に差し出した。
「もし、何かあったら、これを言付けに使って……。六箱買って、うち二つは、通行カードと引き換えになったんだけど……」
二人はタバコを手に取った。
「多いね……トウモロコシ四キロで六箱って」
スミンがグヮンヒに訊いた。
「まとめて買うって言ったら、一箱おまけしてもらったんだ……」
スミンに答えると、グヮンヒは再び珠洲と美濃の方に顔を向けた。
「……」
少しの間、全員が沈黙した。
「あの……、じゃあ、そろそろ……」
美濃がその沈黙を破った。
「え……、あ、そだね……、リョンミン」
美濃はリョンミンを背負った。
「もう……、この家に帰ってくることってないんだよね……」
ミヂャは名残惜しそうに家の玄関を眺めた。
「うん……。でも……この扉を離れないと、僕たちに明日はないよ……」
スミンが彼女を宥めた。
「うん……」
「また……すぐに代わるね」
珠洲は美濃に言った。
「あ……うん……」
「私たちも、ちょっとずつ、後から行くね。通行カードがあるから、チョンス市までは問題ないんだ……。どっちにしろ、そこから先は行っちゃだめなんだけど……」
グヮンヒが珠洲と美濃に言った。
「はい……」
「リョンミン……、珠洲お姉ちゃんと、美濃お兄ちゃんの言うことをよく聞いて、いい子にしてなきゃ駄目だよ」
「うん」
リョンミンはこくりと頷きました。
「ミヂャちゃん……、大丈夫……、リョンミンくんは、私が、イェンビェンに送ってくるから……。少しの間だけ待ってて……、半日で戻ってくるから」
珠洲はミヂャを励ました。
「うん……」
ミヂャは不安を押し隠して頷いた。
*
山中の一本道で、ある空中の一点が薄い緑色に激しく発光し始めた。そして、その光の中から珠洲の姿が現れた。すぐに彼女は自分の前方数百メートルほど先を凝視した。すると、彼女の姿は再び薄い緑色の光に包まれ、そして、その光ごと消滅した。
その次の瞬間、珠洲が凝視したその数百メートルほど先の地点の空中の一点に薄い緑色の光が出現した。そしてその中から珠洲の姿が現れた。続いて、珠洲の隣にも薄い緑色の光が現れ、その光の中からリョンミンを背負った美濃が現れた。珠洲は再び自分の前方を凝視した。そのようにして、二人はペンの力を使った短距離の瞬間移動を繰り返していった。
珠洲、美濃と、美濃に背負われていたリョンミンの視点からは、それは、あたかも止まったまま、周囲の全ての景色が変わり続けているようにも見えた。リョンミンは目を白黒させながらそれを眺め続けた。
「リョンミンくん……」
「……?」
美濃は首を少し曲げた。
「大丈夫……? 気持ち悪くならない……?」
リョンミンは小さく頷いた。
*
美濃の先を行く珠洲は、しばらく進むと、ボールペンの力を使った連続移動のジャンプを止めた。同時に彼女の周囲の景色の変化も止まった。
その直後に、珠洲の気配を辿って、リョンミンを背負った美濃もその場所にジャンプしてきた。
三人のいる道の遠方に遮断棒が下りていた。その手前に、保安員と、迷彩服を着て、古めかしい半自動の歩兵銃を持った憲兵の姿があった。
「え……?」
リョンミンはきょとんとした表情で珠洲の顔を見た。
「グヮンヒさんが言ってた……保衛部っていう秘密警察がいて、途中に、幾つか哨所を置いているって……。あれだよね……」
「うん……。全然融通が効かないから、絶対に見つかっちゃ駄目だって……。どうしよう……、回り道する……?」
「うん……」
珠洲、美濃とリョンミンは道を逸れて山の中に入った。
その直後に、背後からバタバタという音がした。
(えっ――?)
びくっとして二人は振り返った。その先で、数羽のツバメが木々の間を飛翔していた。
物乞いをするくらいしか――。
直後に、美濃の脳裏に自嘲するグヮンヒの顔が蘇った。
「美濃……お兄ちゃん……?」
立ち止まったまま、美濃の表情を、リョンミンが心配そうに窺った。
「……あ……ごめん……。珠洲ちゃん……、確か、スミンくんたちは、物乞いのことを、渡り鳥とも呼んでるんだっけ……?」
「あ……うん……」
「でも……みんなには、空を飛ぶための羽もないね……」
「え……」
美濃はそう呟きながら項垂れた。
「……あの、美濃くん……」
程無くして珠洲の口が開いた。
「……?」
「私たちが、みんなの羽になることはできないかな……」
「え……?」
珠洲は少し頬を赤らめた。
「……。……そうだね……」
美濃は小さく頷いた。
*
トゥメォン川の水面が日光を反射させていた。川幅は中流程度で、水流には多少の勢いがあった。
岸辺の潜伏哨所には、国境警備隊の隊員が一人いた。
珠洲ら三人は、草むらの中から彼の背中を見つめていた。警備隊員の方は、珠洲たちの存在に気付いていなかった。
「この川を越えればいいんだよね……?」
珠洲はリョンミンに聞いた。
「うん……。警備隊員の人たちには、絶対捕まっちゃだめだよ」
リョンミンは答えた。
「わかった……」
「どうかな……、いけそう……?」
「……水に浸かると瞬間移動ができなくなるかもしれないから、一回のジャンプで対岸まで行かないといけないと思うんだけど……、ぎりぎりかな……」
リョンミンは美濃の顔を不安そうに見つめた。美濃は少し迷ってから再び口を開けた。
「うん……行ってみる……。でも……リョンミンくん……、もし、ジャンプが届かなくて、川の中だったとしても、危ないから背中から降りちゃ駄目だよ」
「え……うん……」
リョンミンは頷いた。
美濃は胸の前でボールペンを発光させた。
「これは……柄から出るのかな」
一方、珠洲もボールペンのペン先を握り、柄の部分を構えて、いつでもその先から、熊を倒したときに出たのと同じ攻撃用の光を放てるように気持ちを集中させた。
「それじゃ……行くよ……」
すぐに、その場所から美濃とリョンミンの姿が消えた。
その後、一旦川の此岸すれすれの所に二人の姿が出現した。
「……届いて……!」
美濃は足を一歩前に出した。
それは、そこにはなかった筈の別の砂利を踏んだ。
そして、彼岸の水際に、光に包まれて、美濃と、彼に背負われたリョンミンの姿が出現した。
「……!」
美濃は即座に前方を凝視した。再び二人の体は同じ色の光に包まれ、そして、それごとその場所から消失した。
一方、トゥメォン川の流れは相変わらず急なままだった。
立哨中の警備隊員は、時折目線を変えながらずっとその音を聞いていた。
*
イェンビェン地区の郊外に、朱色の屋根が数棟ほど連なっている所があった。
トゥメォン川を渡った直後から、美濃に変わって珠洲がリョンミンを背負っていた。三人はその建物の中の母屋と思しき棟の前でジャンプを止めた。
そこはリョンミンの叔父に当たるセォンチョルの経営している農家だったが、珠洲と美濃は、リョンミンと、彼を連れてきた自分たちのことをどうセォンチョルに説明するべきか悩んだ。
「……わっ……」
リョンミンは、二人が悩んでいることを気にもせずに、勢いよく母屋の入口を開けた。
「行こう、珠洲お姉ちゃん、美濃お兄ちゃん」
「あ……、うん……」
二人は緊張しながらリョンミンの後に続いて行った。
*
幾つかのゆで卵が手籠の中に入れられていた。
「あれ……? リョンミン……くん?」
それを土間のテーブルの上に置いた、眼鏡をかけた青年が振り返った。
「こんにちは、セォンチョル叔父さん」
リョンミンははにかみながら彼に挨拶をした。
「こんにちは……、どうして……、それに……」
セォンチョルと呼ばれたその男性は、不思議そうに珠洲と美濃の方に目を向けた。
「あ……、あっ、あの……」
珠洲は意を決して事情を打ち明け始めた。
*
セォンチョルは息を詰まらせた。
珠洲と美濃は、黙ったまま彼の瞳をじっと見つめた。
「そんな……兄さんたちが……」
やがてセォンチョルは自分の額を押さえた。
「あの……、それで……」
「ああ……、わかっています……。この子たちですね」
「はい……」
「大丈夫です……、安心してください、兄さんの子どもたちは、僕がなんとかします」
セォンチョルは自分の気を落ち着かせてから、真剣な表情で言い切った。珠洲と美濃は小さくため息をついた。
「珠洲お姉ちゃん……、美濃お兄ちゃん……」
リョンミンは嬉しそうに二人の方に顔を向けた。
「うん……」
二人とも笑顔を彼に向けた。
*
山中の一本道に沿って、珠洲と美濃のジャンプによる光が連続して発光していく現象が起こっていた。一方で、それと同じ道の数キロ先を、軍用の軽トラックが進んでいた。荷台には若干の木材が積まれていた他に、十数名程度の人々が、各々の荷物を抱えて乗り込んでいた。
「……?」
そのトラックのエンジン音を聞いて、道を歩いていたスミンは振り返った。
「来た……」
スミンの隣を歩いていたグヮンヒは二、三歩トラックに歩み寄ると、タバコの箱を持った手をグルグルと振り回し始めた。
「……すみません……! 停まってください……! 停まってください……!」
彼女は何度か叫んだが、トラックは無視して傍らを通過した。
「停まってください……、うーん……」
グヮンヒは叫ぶことを止めた。
「五台目かな……、なかなか、停まってくれないね……」
ミヂャが苦笑した。
「まあ……、たまにはいるかもしれないよ、停まる車も」
グヮンヒもそれに吊られて苦笑した。
「あれ……?」
スミンは何かの気配を感じて背後を振り返った。その先で、薄い緑色の光が激しく発光していた。それはすぐに人の形になった。そして、やや遅れて、もう一つ別の光も発光し始めた。
「珠洲ちゃん……! 美濃くん!」
ミヂャが嬉しそうに叫んだ。
「お待たせ……。セォンチョルさん、来てもいいって……。リョンミンくんも無事だよ」
珠洲も笑顔で吉報を告げた。
「そっか……、よかった……」
「で……、それと……」
「え?」
美濃は背負っていたリュックサックを前に持ってくると、その中に手を突っ込んだ。
「これ……、ご飯と、ゆで卵……。今日中に会ってくるって言ったら、セォンチョルさんが用意してくれたんだ……、一人一箱ずつで、あと、生米もあるよ」
「えっ……、卵……?」
「卵……って、私たちが食べていいの……?」
三人は驚いて聞き返した。
「え……? あ……、うん、いいんだよ」
珠洲はにっこりと笑った。
「本当……? 凄いよ! 珠洲ちゃん、美濃くん、ありがとう……!」
「え……うん……」
無邪気に興奮するミヂャの勢いに押されて珠洲と美濃は赤面した。
「うん……二人とも、ありがとう……、イェンビェンは、豊かな所みたいだね」
グヮンヒも穏やかな表情で二人に礼を述べた。
「え……あ、はい……」
二人は赤面してグヮンヒから目を逸らしたまま返事をした。
*
野草が風に揺られていた。
「……あ、あの、そろそろ……」
食事を終えて、珠洲が切り出した。
「あ……、うん……。次は、ミヂャだね……」
グヮンヒはそれに答えた。リョンミンが出発した直前のと同じように若干の間が生まれた。
「それじゃあ、ミヂャ……」
それからしばらくして、グヮンヒはリュックを背負った珠洲と、ミヂャを背負った美濃に声をかけた。三人は顔を上げた。
「その……気をつけてね」
「はい……」
美濃は真剣な面持ちで答えた。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん……、明日、イェンビェンで待ってるね」
ミヂャは元気よくグヮンヒを励ました。
「うん……また明日」
グヮンヒはスミンに言った。
「また明日」
ミヂャはそれに笑って答えた。
やがて、三人の体は薄い緑色の光に包まれ始めた。光が完全に彼らを包んですぐに、光ごと三人の姿はその場所から消えた。そして、光の粒だけがその場に散らばった。
*
トゥメォン川の流れは相変わらず速めだった。
その土手に現れた珠洲は、ちらりと左の方に目をやった。リョンミンと一緒に通過したときと殆ど同じ場所に、一人の警備隊員が立哨していた。
「……行こう……」
「うん」
珠洲の傍にいたミヂャは、さらにその傍にいた美濃の背中に乗りかかった。
やがてその二人の姿は光に包まれて消えた。一旦、川岸ぎりぎりの所にその姿が出現して、またすぐに消えた。
そして、その直後にミヂャを背負った美濃はイェンビェンの地を踏んだ。彼はペンの力による空間のジャンプを数度繰り返しながら一気に土手を駆け登った。
「わっ?」
その次のジャンプの際に、美濃は足元にあった小石に躓いて転んだ。
「いたた……」
美濃はミヂャの下敷きになった。
「ごめん……大丈夫?」
「あ、うん……、大丈夫……、……?」
美濃は自分の背中が軽くなるのを感じた。同時に、カチャカチャと複数の足音が近付いてくるのが聞こえた。
顔を上げると、目の前に一本の歩兵銃があった。
(え――)
いつの間にか、倒れている美濃の前後に二人の軍人がいた。
対岸からその様子を窺っていた珠洲の顔からも血の気がなくなった。
「嫌―! 離してー!」
突然ミヂャが声を上げた。美濃が驚いて首を背後に向けると、彼女はさらに三人の別の軍人の手の中で必死にもがいていた。
「おい! お前も来い!」
美濃を取り囲んでいた兵士のうちの一人が美濃に向かって怒鳴った。美濃にはその言葉ははっきりとした日本語で伝わった。
彼は美濃の左腕を掴んで無理やり立たせた。そして、もう一人の兵士が美濃に歩み寄ってきた。
「――」
美濃は怯えながら彼を睨んだ。
「うわあっ!」
その直後に、飛来してきた薄い緑色の光が彼の左肩を貫通して、彼は悲鳴を上げた。
「――!」
美濃の腕を掴んでいた兵士は息を呑んだ。
「なっ……、うっ……」
そのすぐ後に、美濃を掴んでいた兵士も倒れた。
そしてその背後で、珠洲が、ボールペンのペン先を握った手を自分の胸の前に翳していた。
「珠洲ちゃん……!」
美濃は叫んだ。
「き……貴様……!」
ミヂャを掴んでいた兵士のうちの一人が慌てて歩兵銃に手をかけた。
しかし、彼が銃口を向けた先から珠洲の姿は消えていた。続いて、激しい光と共に、その場所よりも数メートル程右斜め前に再び珠洲の姿が出現した。
「なっ……いつの間に……」
珠洲には体の部位を選んでいる余裕がなかった。兵士らの体を自分の目に入れる度に、戸惑うことなく、撃て、と心の中で叫んだ。その度に、ボールペンの柄の小さなくぼみの部分から薄い緑色の光が飛び出した。それは、照準を合わせていなくとも、彼女の目に入った兵士らの体に向かって高速で飛来した。
そして、五人いた兵士たちはその光の直撃を受け、みな倒れた。
その後に、珠洲は改めて周囲を見渡した。兵士のうちの二人は、頭に攻撃を受けて即死していた。珠洲は徐々に際限のない恐怖に襲われ始めた。
「……あ……、ああ……」
「珠洲ちゃん……?」
その瞳から涙が零れ出しているのを見て、美濃は驚いた。
「……私、人を殺しちゃった……」
「……! ……。……ごめん珠洲ちゃん……」
少しの間言葉を失ってから、美濃は珠洲に詫びた。
*
夕焼けが平原の中の、朱色の屋根の養鶏場を照らしていた。
「そういうわけで、こちらが、今日から、この家で暮らすことになった僕の兄さんの子どもたちです……。それで、こちらが、今家で働いてくれている従業員の方々です」
その隣の母屋の部屋の中で、ミヂャ、リョンミン、珠洲と美濃の前に、十代後半くらいの少女二人と、少年が一人並んでいた。
「はじめまして、私、ヘォ・ミヂャといいます」
ミヂャは軽く頭を下げて、昼間あれほど怖い思いをしたにも関わらず、何事もなかったかのように元気よく挨拶した。珠洲と美濃は心配そうに彼女の表情を見つめた。
「ヘォ・リョンミンです……」
続いてリョンミンがはにかみながら挨拶した。
「始めまして……こちらの養鶏場でお世話になっている、バェク・ミョンイルです、宜しくお願いします」
従業員の少年が爽やかに答えた。
「あ……私は、ノ・ウェォンヒといいます……宜しくお願いします」
続いて、その隣にいた少女が顔を赤らめながら挨拶をした。
「……」
一方、もう一人の少女は黙ったままだった。
「アェファ……? どうしたんだい?」
「……?」
ミヂャには、彼女の機嫌がよくないように見えた。
「あ……」
彼女はセォンチョルに促されて彼の方に振り向いた。
「あの、セォンチョルさん、この人たちって……」
「えっ……?」
セォンチョルは笑顔で聞き返した。
「……、いえ、何でもありません……。その……、ガン・アェファです、宜しく……」
彼女はミヂャに手を差し出した。
「あと……グヮンヒさんと、スミンくんも、明日には到着できるそうです……。それと……」
セォンチョルは一度珠洲の方に向いた。
「紹介が遅れました……、今回、彼女たちを支援して下さっている方々です、私も、お二人にはとても感謝しています……」
「えっ……、あっ、いえ、その……はじめまして、朝霧珠洲です、宜しくお願いします」
「あ……茨木美濃です……」
珠洲と美濃は緊張しながら自己紹介を始めた。
その間に、ミヂャは改めて養鶏場の従業員たちの顔を見つめた。アェファが、やはり何か不満を抱いているように見えた。ただ、それが何かはわからなかったので、ミヂャは首を傾げた。
*
月が母屋を照らしていた。
その寝室に二人分の布団が敷かれており、ウェォンヒとアェファは、足をそこに入れて上体を起こしていた。
「なんか……賑やかになりそうだね」
ウェォンヒは嬉しそうにアェファに話しかけた。
アェファは俯いたまま黙っていた。
「ミヂャちゃんとか、可愛いよね……。私、仲良くなれるかな……」
ウェォンヒは続けた。アェファはそれに反応しなかった。
「アェファは誰が一番可愛いと思う?」
「……? どうかしたの、アェファ?」
アェファがずっと黙っているのを不思議に思ってウェォンヒは尋ねた。
「……そんな嬉しいことじゃないでしょ!」
アェファは初めてウォェンヒの方を向くと、突然声を上げた。
「えっ……」
ウォンヒはびっくりして硬直した。
「……、何でもない」
やがてアェファはウェォンヒから目を逸らすと、布団の中に潜り込んだ。
*
珠洲と美濃は夢を見ていた。
また、真っ暗な闇の中を歩いていた。ただ、自分の姿だけははっきりと見えた。
やがて、二人は歩みを止めた。前方で、昨夜も夢の中で出会った女性が、俯きながら立っていた。
「あ、あの……」
「え……?」
「すみません……、こんなことになってしまうなんて……」
彼女は珠洲と美濃を呼び止めて、突然詫びた。
「え……」
「私はアン・エョンヂャといいます、ヘォ家の……スミンたちの母です……」
「え……」
彼女は自分の名前を告げた。再び上げたその顔は、確かにスミンやミヂャのそれと似ていた。二人は少しの間沈黙した。
「私は……、お二人に、お話しないといけないことがあります……」
やがて彼女は話を始めた。
*
夜間に、荷台に大勢の人を乗せた軍用トラックが、山道の途中で停まった。
「ありがとう―」
そこから降りたスミンが運転手に礼を述べてから、すぐにそれは発車した。
「途中で道が逸れちゃったね……チョンス市に向かうつもりだったのに……」
その傍らで、スミンと共にトラックから降りたグヮンヒが言った。
「まあ……しょうがないよ……、何もない所だけど、この辺りももうかなり承認番号地域に近くなっているはずだし」
「まあ……そうだね」
グヮンヒは自分のリュックからビニール袋のシートを取り出した。
「適当に……その辺で寝よう……。スミン……、リュックは手放しちゃだめだよ」
「わかった……あれ……?」
そのとき、スミンは自動車の近付いてくる音を聞いた。
「戻ってきたのかな……?」
彼は奇妙に感じて道路に出た。
まもなく、二人が乗せてもらったのとは別の、幌付きのトラックが彼らの前を通り過ぎた。
「あれ……」
「どうしたの?」
「珍しいな……、幌を付けているのが通ったよ……」
「へえ……」
グヮンヒはスミンの説明に相槌を打った。
*
「さっき……山の中に子どもの乞食がいたようだが……」
「本当か?」
幌をつけたトラックを運転していた軍人が聞き返した。
「ああ」
助手席にいた、もう一人の軍人が返事をした。
やがて、そのトラックは一度道から逸れるとUターンをした。
「最近は警備が激しくなって、トゥメォン川の対岸に現れる人も減っているらしいな……」
「ああ……それで、紹介屋の商売も上手くいってないらしい」
「なるほど…まあ、外貨を欲しがっている将校を買収する奴がいるくらいだからな」
「まあ……買収される方も、どうかと思うがな」
「ああ……」
二人はニッと笑みを浮かべ合った。
*
「まず…お二人がいるところは、既に日本ではありません……、ミエョンは、朝鮮民主主義人民共和国の里です。そして、今、お二人が目指しているイェンビェンは、中華自民共和国、吉林(ヂーリン)省の延辺(イェンビェン)朝鮮族自治州です。
英子(イェョンヂャ)と名乗った女性は珠洲と美濃に話し始めた。
「え……」
「朝鮮……?」
二人は彼女の言葉に驚かされた。
「今から約一ヶ月前……、四月一八日、闇市で買ったニッケルの乾電池をリュックに詰めて、朝鮮の江原(カンウェォン)道の安辺(アンビェョン)郡に、私と、私の夫許明成(ヘォミョンセォン)は、何度目かの買出しに出かけました……。そしてその帰り、四月一九日、トウモロコシの粉を入れたリュックを抱えて、村外れの道路でトラックを待っていたときに……私たちは、野盗と化した数名の兵士たちに襲撃されました……」
「――」
英子の話を聞きながら、珠洲と美濃は息を呑んだ。
「私たちは必死で抵抗しました……。その際に、夫は負傷し……、また、私は、兵士たちの携帯していたナイフで、彼らのうちの一人の腹部を刺してしまいました……。この国の法律では、たとえ、それが正当防衛であっても、兵士に手を出すことは許されていません……。私たちはすぐにトラックに乗せられ、郡の保安省の拘置所に連行されました……。そこで、出された食事は茹でたトウモロコシが一日に数十粒程でした……。だから私たち夫婦はすぐに栄養失調になりました……。その間、私はずっと子どもたちのことを考えていました……。会いたい、それが叶わないのなら、誰かに、彼らを救って欲しいと……そう願い続けました……。そして、入所させられてから一ヶ月が過ぎ、気付いたときには、既に私は……」
珠洲と美濃は沈黙した。
「……私には、生きて、やりたいことがありました……それはいいのですが、そのことを、私は強く願いすぎてしまいました……。本当は、生きているうちに、出来なかったことを悔やんでも仕方が無い、と諦めないといけなかったのですが……。結局、一時的に、世界で誰よりも強く、世界の平和を願ったあなた方のいる場所が、二週間前のあの国、朝鮮に移り変わってしまいました……。あなた方をあのブラックホールの中に引き摺り込んだ、あの骸骨は私です……。一方で……、私の中に、私は知らないうちにとんでもないことをしている、と気付いたもう一人の私がいました……。それが、今の私のこの姿です。あの骸骨はもう出てきません……。私は、何度も、あなた方を日本に帰そうと試みましたが、失敗しました……。結局、私ができたことは、あなた方が朝鮮や中国にいる間は、日本語ではない言葉をあなた方の頭に日本語として伝わるようにできたことと、それから、その装置を用意できたことくらいでした……」
「え……」
二人はポケットからボールペンを取り出してそれを見つめた。英子は続けた。
「ですが……、それの機能は、あなた方のどんな願いをも叶えるというわけではありません……」
珠洲は再び頭を上げた。
「……私には、これが精一杯でした……。私は、私自身の怨霊の力を完全に消し去ることはできませんでした……。おそらく、私の子どもたちの安全が今よりももう少し保障されるか、或いは、死んでしまったりするまでは、あなた方が、元にいた時間の、元にいた場所に戻ることは難しいでしょう……。本当にすみません……」
「あの……」
美濃は英子に再び呼びかけた。彼女は顔を上げた。
「大丈夫……、大丈夫ですよ……」
「私たちが朝鮮にやってきたのは、確かに、自分の意思じゃないです……。でも、みんなを助けようと思ったのは、私たちの意思です……。私たちが、自分で助けたいと思ったから、助けているんです……。ちょっと信じがたいですが、マンガでいうところの、ハイファンタジーではなく、ローファンタジーなんですね」
珠洲が言った。
「え……、ですが……、それでは、あなた方を重大な危険に晒すことになります……、それに……、もはや、彼らに平穏な日々を与えることなど難しいのでは……」
英子は再び項垂れた。
「いえ……、大丈夫……、安心してください……」
珠洲はじっと英子を見つめつつ言った。英子は再び顔を上げた。
「みんなは……、私たちが、必ず守ります……。この力があってもなくても、できることをきっと……」
珠洲は淡々と、しかし毅然とした口調で言った。英子はそれに驚いた。
「国は関係ない、って言いながら、こういうときには動かない、というのも変ですし……。動いても大丈夫な相手にだけ動いて、本当に危ない相手には動かないというわけにも」
美濃も苦笑して言った。
「――、……申し訳ありません……、それでは……、せめて、その装置を持っている人ができることを説明させてください……」
「え……」
二人はボールペンを取り出すと、改めてそれをまじまじと見つめた。
「その装置は……本来、それを持っている人の願いを何でも叶えることを目的にしてできたものです……。ですが、私の未熟により、結局は、あくまでもその願いを叶えるための補助をする程度の機能しかついていません……。叶えることのできる具体的な願いそのものが限られ、また、その範囲も限られています……」
「はい……」
「その願いは三つあります……。まず、見えている範囲で、瞬間的に移動をすることです。人の視力は六〇〇メートル先のものまで見ることができると言われています。但し、着地点の安全を考えると実際に飛べるのは一回につき七、八〇メートルくらいだと思います。次の着地点を確認してから飛ぶので、実際の移動速度は時速一〇〇から一三〇キロくらいを目安に考えてください。次に、人を探すことです……。探したい人のことを強く思うと、その人のいる方角、その人と自分との距離とを概ね把握することができます……。もっとも、その人がどんな状態でいるのかとか、どんな気持ちなのか、といったことまではわからないです……」
「はい……」
「そして……、最後に、何かを攻撃をすることです……。秒速七〇から八〇メートルくらいの速さで、金属と同じ程度の硬さの光の弾が柄の部分にあるくぼみから発射し、丁度ピストルの弾などと同じくらいの殺傷力があり、射撃の能力に関係なく、見えている範囲でなら、心の中で狙ったものなら何でも撃つことができます、ペンのくぼみがどの方向を向いているかは関係ないです……。必要なときには、この力を使うこともあるかと思います……。殺傷能力がなく、相手の攻撃意思だけをなくすという形態は、私の霊力では用意できませんでした……。というのも、人の意思を強制的に変えることは、人に外傷を与えることよりもその者の人権を奪うからです。ここまでが、そのペンを持っている人に与えられる力の全てです……。本当に申し訳ありません……こんなことになってしまって……」
そこまで言うと、英子は再び頷いた。
「……あ、あの……」
二人は彼女を慰めようとしたが、何の言葉もかけられなかった。
*
光姫(グヮンヒ)は地面にビニールシートを敷いた。
「あ……、お姉ちゃん……、僕、ちょっとトイレに……」
「え……あ、わかった、なるべくシートから離れてね」
「うん」
秀民(スミン)は茂みを掻き分けて奥の方へと入っていった。
頭上では月が皓々と照っていた。光姫はそれをぼうっと眺めた。
そこにトラックの近付いてくる音が聞こえた。彼女は首を下ろした。
キキッとブレーキの音がした。
「――!」
光姫は慌ててシートを畳むと、茂みの奥の方に進んだ。そして、必死に草むらを掻き分けた。
その腕を誰かが掴んだ。
「ああっ!」
彼女の腕は強く引っ張られた。
「ちょっ……やめて! 離してよ!」
光姫を取り押さえたのは一人の兵士だった。
「お姉ちゃん!」
秀民が草むらから飛び出てきた。
「おいっ! そっちも捕まえろ!」
「わっ……、な、何だよ!」
光姫を取り押さえたのとは別の兵士が秀民に近付いた。
「うるさい! 大人しくしろ!」
二人はもみ合いになった。
「嫌! やめて! 離してっ!」
光姫は叫びながら抵抗し続けた。しかし、どうしても兵士の腕から逃れることはできなかった。
「この……!」
「いてっ!」
秀民は自分を捕らえようとしている兵士の腕を噛んだ。
「おい! もういい! いくぞ!」
「待って……! お姉ちゃんを放して!」
「うるさい!」
光姫に駆け寄ろうとするのを、彼を捕らえようとした兵士が思い切り跳ね飛ばした。
「嫌! ちょっと、何をするの!」
「うるさい! こっちに来い!」
二人の兵士のうちのひとりがトラックの運転席に飛び乗り、もう一人が光姫を手際よく幌のついた荷台に積み込むと、自分も荷台に飛び乗った。
「お姉ちゃん……、待ってー!」
秀民は道路に飛び出し、トラックの荷台に両手をかけようとした。同時にトラックは動き出した。
「ああっ!」
秀民は荷台を掴み損ねた。
「停まって!」
秀民も駆け出したが、トラックは凄まじい勢いで加速し始めた。
「やめて! 降ろしてよ! 降ろし……んんっ!」
荷台の中にいた兵士は、慣れた手つきで光姫を後ろ手に縛り、口に猿轡を噛ませた。
「これで二九万ウェォン……。将校の年収の約半分にはなるな……。どっちが副業だかわからんな」
やがて、彼は満足げに笑みを浮かべた。
近付けない――。
一方、秀民の足は緩やかに停まっていった。
「停まって……、停まってよ……」
次第に頭が下がると共に、拳に力が入っていった。
「何だよ……何なんだよこれ……」
そして、彼は呟きながら立ち止まった。
翌朝、五月二一日の水曜日、龍民(リョンミン)と舞子(ミヂャ)は、明一(ミョンイル)、元姫(ウェォンヒ)に連れられて、一つずつ、飼料を入れた金属の桶を持って鳥小屋の中に入った。
「あ……ごめん、龍民くん、そっちの戸を閉めてくれる……?」
「え……うん」
龍民は全員が入った戸を閉めた。
「鶏が逃げるから、開けた戸は、一つずつ閉めながら入っていくんだ」
明一は説明しながら鶏のいる小屋の戸を開けた。
「それから……掃除をやるときは、全部の鳥をそっちの部屋に入れてから水を撒くんだよ」
「うん」
龍民は頷いた。その後ろで、元姫と舞子が立ち話をしていた。
「へえ……じゃあ、二人は、咸鏡南(はんぎょんなむ)道から来たんだ……」
「あ……はい……」
「あ……そういや、あの、何ていったっけ、ほら……」
元姫は舞子に尋ねた。
「えっと……珠洲ちゃんと、美濃くんのことですか……?」
「そう……二人はどこに……?」
「えっと……今、秀民お兄ちゃんを迎えに行ってくれてるんです」
舞子は嬉しそうに、落ち着いた声で言いました。
「そう……」
元姫も微笑した。
「あれ? いないといえば……」
直後に、二人の会話を聞いていた明一素っ頓狂な声を上げた。
「え?」
「愛花(アェファ)の姿も見えないよ?」
「あれ? そういえば……」
元姫も首を傾げた。
*
愛花は奥の鳥小屋の隅からしばらく舞子たちの様子を窺っていた。
やがて彼女はそこから抜け出すと、敷地の外に向かった。母屋の角を曲がると急にペースを落とし、そわそわと落ち着かない様子で周囲を見渡した。
「あれ……? 愛花、何をしているんだい? こんな所で」
「えっ?」
不意に、そこを通りかかった成哲(セォンチョル)に声をかけられ、愛花は意表を突かれた。
「いえ……、何でもありません……」
愛花は彼から目を逸らして言った。
「そうか……、丁度よかった、なら、飼料庫の掃除をやっておいてくれないかな? 朝からですまないんだが……」
「あ……はい、わかりました」
愛花は渋々承諾した。
「ありがとう」
成哲は彼女に礼を述べると、機嫌よさそうに去って行った。一方、その後ろ姿を見送る愛花の姿は曇っていた。
*
山の中の舗装の道に沿って、薄い緑色の光が現れていく現象が発生していた。やがて、ある時点を最後にその発光現象が止まると共に、その光の中から珠洲の姿が現れた。
「えっと……こっちの方……、あと、五〇〇メートルくらい……」
珠洲は前方に注目した。道はその先でカーブしていた。
「あれを曲がったところくらいかな……」
やがて、彼女の体は薄い緑色の光に包まれ、そしてその光ごと消えた。
「――」
道を進んでいた秀民は、突然自分のすぐ眼前に現れた珠洲の姿に気付いて顔を上げた。そして、無言のまま珠洲に抱きついた。
「えっ……、あっ、あ、あの……」
珠洲は秀民の腕の中でうろたえた。珠洲の隣にいた美濃も驚いた。
「珠洲ちゃん……」
珠洲は秀民に名前を呼ばれて顔を赤らめた。
「あ、そうだ、えっと、あ、あの、光姫さんは……? 私は、秀民くんの気配を辿ってきたから……。その、姿が見えないみたいだけど……」
「連れて行かれちゃった……」
「えっ――」
秀民の言葉を聞いた珠洲と美濃の瞳は一気に縮んだ。また、秀民の腕が震え出し始めた。
「昨日、二人の兵士がやって来て……!」
「……」
「珠洲ちゃん、美濃くん……」
秀民は再び二人に呼びかけた。
「ごめん……何度も本当にごめん……、お姉ちゃんを助けて、お姉ちゃんを……」
その手に力が入った。
「……大丈夫……」
珠洲はなるべく前向きに考えようとした。
「大丈夫……、光姫さんは、私が助ける……。大丈夫……、すぐに会えるよ……、多分、近くの保安省にいるはずだから……、居場所だって、すぐに判るんだし……」
珠洲は秀民の腕から離れると、静かに目を閉じた。そして、光姫のイメージを浮かべて、そこに自分の意識を集中させた。
ただ、一方で珠洲は秀民の証言も気になった。
なんで、光姫さんは、保安員じゃなくて、兵隊たちに連れていかれたんだろう――。
「――!」
そのすぐ後に、珠洲は再びその瞳を縮ませた。
「……?」
秀民は不安そうに彼女の瞳を見つめた。
「どう……したの……? まさか、お姉ちゃんはもう……」
「大丈夫……」
珠洲は愕然としながらも答えた。
それを聞いた秀民は溜息を吐いて、少し落ち着きを取り戻した。
「よかった……どこに……」
美濃が尋ねた。
「こっち……西の方……」
珠洲は震える指でその方角を指しながら呟いた。秀民は再度溜息を吐いた。
「だいたい……九00キロくらい……」
「えっ……」
秀民と美濃は息を呑んだ。
「軍の人たちは、任務で光姫さんを連れて行ったわけじゃないんだ……、多分、中国のブローカーの請負いをやってたんだ……」
「あ……ああ……」
秀民は悲しみのあまり空を仰いだ。そして、その直後に驚いた。今度は珠洲が無言で秀民に抱きついていた。
「大丈夫……、大丈夫だよ……」
「うん……僕たちが行く……、そして、光姫さんを連れて戻ってくる……」
「うん……」
珠洲もそれに頷いた。
「珠洲ちゃん……、美濃くん……」
「秀民くん……、今は、秀民くんを運ばせて……、ひとまず、延辺まで行こう……」
美濃が提案した。
「え……うん……」
秀民はそれに頷いた。
*
図們(トゥメォン)川を目にするのは、珠洲と美濃にとっては三度目だった。
「……」
川岸で秀民を背負いながら、美濃は珠洲の顔を見た。
「あ……大丈夫……、しょうがないよ、護衛するのは……」
珠洲はボールペンを胸の前で掲げながら笑顔を作った。
「ごめん……足元には、注意するね」
美濃は詫びた。
やがて、美濃と秀民の体は薄い緑色の光に包まれ始めた。
そして、二人は一気に川を飛び越え、対岸の土手を駆け登った。
その後に珠洲が続いた。
川からある程度離れた所まで来たとき、ようやく、珠洲と美濃は溜息を吐いた。
「……よかった……、この辺りまで離れれば、ひとまず、安心だね……」
秀民は自分を背負う美濃の顔の方に目をやった。彼の表情は落ち着いていた。
秀民は顔を戻した。
「あのさ、美濃くん……」
そして、少し間を空けて、口を開けた。
「え……?」
「僕……本当はまだ、自分の考えていることを、全部話していないんだ……」
「え……」
「ごめん……。実は……、僕、延辺に来たことに、まだ少し不安を感じているんだ……。嬉しいけど、でも、ここで暮らすのも、本当に安全なのかなって、そんな思いも、実はしてるんだ……」
「……」
「お母さんから聞いた話なんだけど……、五〇年くらい前には、中国の国内でも大きな戦争があって……、朝鮮から中国に移り住んでいた人たちは、みんなスパイ扱いされて……、ただ、移り住んでいたという理由だけで……、なんでも、頭を斧で割られたり、顔に針金を通されたりして、酷い迫害を受けたって……」
「……」
美濃は青褪めた表情でペンによるジャンプを繰り返した。秀民は頭を擡げた。
二人はそのまましばらく沈黙し続けた。
「……あの、秀民くん……」
やがて、美濃は口を開けた。
「え……」
「多分、そんなことはないと思うんだけど……、もし、僕たちが、光姫さんを探しに行っている間に、みんなの身に何か起こったら、そのときには……」
「……」
秀民は美濃の話を黙って聞いた。
*
「……」
成哲の養鶏場の母屋で、成哲と龍民は殆ど同時に息を呑んだ。秀民も肩を落としていた。
「そんな……」
舞子が声を上げた。
「また、明日会おうって言ったのに……」
「……舞子ちゃん……」
珠洲は舞子に歩み寄った。
「大丈夫……、私が、今から迎えに行ってくるから」
「えっ……」
舞子は再び声を詰まらせた。彼女は、自分たちがまた、珠洲と美濃に負担をかけさせようとしていることに気付かされた。
「美濃くん……、みんなのこと、お願い……」
「うん……大丈夫……」
珠洲と美濃は互いの顔を見つめ合った。
「朝霧……さん……、待ってください……」
「えっ……」
「元姫の身分証をお渡しします……、もし、公安に見つかったときはそれを提示してください……。それと、お金もお渡しします……、私は何もできなくて……申し訳ありません……」
成哲は次第に自分の頭を擡げていった。
「あの……珠洲ちゃん……」
今度は秀民が珠洲に呼びかけた。
「ありがとう……、でも、その、無理はしないで……」
「え……、あ、うん、大丈夫……、多分、二、三日くらいで帰ってくるね」
時折目を伏せながら、珠洲は秀民を励ました。
*
平原の一本道に沿って、緑色の光が発光していく現象が連続して発生していた。
ベージュのリュックサックを背負った珠洲は、グヮンヒの居場所の捜索をしながらジャンプを繰り返していた。
「西に……一一〇〇キロくらい……」
同時に、手にしていた、セォンチョルから貰った地図をちらりと眺めた。
「河北(ヘォーベイ)省の、唐山(タンシャン)地級市の辺り……、今もまだ、移動してるんだ……」
――珠洲ちゃん……。
その直後に、光姫が笑顔で自分に呼びかける姿が脳裏に浮かんだ。
「え……あ、あれ……」
ジャンプをする先の目標を捕らえ続けていた珠洲の瞳が、徐々に曇り始めた。彼女はジャンプをするのを止めて立ち止まると、袖で目元を拭いた。
*
翌日、二三日、木曜日の朝、成哲の家の養鶏場の一角で、一羽の鶏が走り回っていた。
「おーい、待ってー!」
秀民はモップを持ちながらそれを追い、徐々に、他の鶏のいる隣の小屋の入り口の方に追い詰めていった。
「さあ、ここに入って」
そして、その一羽の鶏を隣の小屋に入れると入り口を閉め、軽く息を吐いた。
「終わりましたー、これで全部ですか?」
「あー、うん、ありがとう」
養鶏場の入り口近くから明一が礼を言った。
「もう終わろう」
「はい」
秀民も出口に向かった。彼が養鶏場を出た後で、明一は戸を閉めると、そこに鍵を掛けた。
「あれ……、そっちも終わったの……?」
そのとき、元姫の声が聞こえた。
「え……」
明一が振り向くと、元姫の他に、美濃、龍民、成哲の四人がいつの間にか自分の背後にいた。
「あ……、うん、そっちの掃除も終わったの?」
「うん……ってあれ? 明一くんたちって、愛花と一緒じゃなかった?」
「えっ……? 愛花ちゃんと一緒じゃなかったの?」
「うん……」
「あれ……どこに行ったんだろう……? 昨日もいなかったし」
「えっ……、あ、いや、昨日は、私が倉庫の掃除を頼んだんだよ」
成哲が弁護した。
「そうなんですか……、でも、何か、最近、愛花って、様子がおかしいような……」
明一が首を傾げました。
「そうかなあ……?」
成哲が聞き返した。
「気のせいかなあ……元姫は、どう思う? 愛花に変わったことかなかった?」
「えっ……?」
――そんなにめでたいことじゃないでしょ!
明一に尋ねられた直後、元姫の脳裏に、二日前の、愛花の叫んでいる姿が蘇った。
「えっと……、……、あ、あの……」
元姫は戸惑い、そして、明一の質問に答えようとした。
「あ……」
直後に明一が声を上げました。元姫が振り返ると、そこに愛花がいた。
「愛花……どこに行ってたの……?」
「あ……、いや……、私、別に……」
成哲も不思議そうに彼女を見つめた。
「あ、あの……」
成哲の表情を見て、愛花は震え出した。
「そんな顔で、私を見ないでください……、私が悪かったんです、この人たちが来たから、だから……」
愛花は涙を流し始めた。
「だから、私は公安へ……」
「えっ……」
彼女の言葉を聞いて、その場にいた全員が同時に息を呑んだ。
「どういうことだよ、愛花、龍民くんたちを殺したいの?」
明一が怒鳴った。
「だって……、だって、何も気付いてないのは、元姫たちの方じゃない……! この人たちがやって来たら、私たちの居場所はなくなるんだよ!」
愛花は泣きながら叫んだ。
「えっ……、それは、どういう……」
明一は再び息を詰まらせ、そして尋ねた。
「この人たちは、成哲さんにとってとても大切な人で……、だから、絶対に追い出せないんだ。でも、私は知ってるんだ……こんな小さな養鶏場じゃ、こんな大勢の人を雇いきれないって……」
「……」
明一は息を詰まらせた。
「そしたら、このまま行ったら、多分、私たちの居られる場所はなくなるんだ……、だから、私……」
愛花の目から大粒の涙が零れ出した。
「愛花……」
成哲が左手をゆっくりと上げた。
「!」
愛花は自分が叩かれると思って目を瞑った。
ところが、何の衝撃も来なかった。その代わりに、肩に腕の感触があった。愛花は恐る恐る目を開けた。
「えっ……! あ、あの……」
成哲は愛花を抱きしめていた。彼女の頬が赤くなった。
「愛花……大丈夫だよ……」
成哲は彼女の頭を撫でた。
「……確かに……、愛花の指摘には間違いない……、でも……私は君たちとも一緒にいたい……。だから、卵を少し売って、養鶏場を拡張することを考えていたんだ……。私は兄さんの子どもたちも、そして……君たちも、追い出したくない……」
「……」
そこまで聞いて、愛花も彼を強く抱きしめた。
「成哲さん、ごめんなさい、私……、ごめんなさい……」
彼女は泣き崩れた。
「でも……」
元姫が呟いた。
「公安に知らせたっていうことは……」
「中国には産児制限があるから、中国の国籍を取ることは難しいんだ……バレなきゃいいんだけど、公安に通報してしまった以上、いつかバレる……」
明一が言った。
「え……」
舞子と秀民は不安そうな面持ちになった。
「あの……」
やがて、美濃が口を開けた。
「韓国……、朝鮮じゃない方に行けないかな……」
「えっ……」
その言葉に全員が驚いた。
「リスクは大きいけど……ここだって公安にマークされるんなら、バレたら終わりだし同じようなものじゃなないかと……」
「あ……うん……それしかないかも……」
少し経って、元姫が呟いた。
*
その日の昼前に、美濃、秀民、舞子、龍民の四人は延辺朝鮮族自治区の中心、延吉(イェンヂー)駅にいた。ホールのように巨大な待合室を抜け、改札を出ると、そこに一一時四五分発の快速、K二一六号列車があった。客車は深緑色で、一両の長さが二五メートル程あり、全長では五〇〇メートル程あった。四人はその威容に圧倒された。
「明日も……列車に乗るんだよね?」
舞子が秀民に尋ねた。
「うん……、全部で三日間、二五〇〇キロくらいかけて、モンゴルまで行くんだ……、そこで保護してもらえれば、南朝鮮……韓国の方に行けるよ」
「うん……」
舞子は不安を抱えながらも頷いた。一方美濃は養鶏場を出発したときのことを思い出していた。
*
「私も、君たちと一緒に行こう……」
美濃たちがモンゴルに旅立つ数時間前に、成哲は彼らに提案していた。
「えっ……でも、それじゃ養鶏場の方は……」
そのとき舞子が聞いた。
「大丈夫……、三人とも、少しの間留守を頼むよ」
「あ……はい……」
「はい……」
愛花を含めた三人の従業員たちは返事をした。
「待ってください、成哲さん」
秀民が言った。
「秀民くん……?」
「成哲さんには、ここに残って、お願いしたいことがあるんです……。僕たちがいなくなった後、この家から、僕たちがいたという証拠を残して欲しいんです……、主である成哲さんがいないと、公安が来たときに、なかなか信じてもらえないだろうから……」
「えっ……」
「でも、それじゃ、子どもたちだけでモンゴルまで行くことに……」
元姫は躊躇した。
「ううん……大丈夫です……」
美濃が丁寧に、そして毅然とした口調で言った。
明一はちらと成哲の顔を窺った。彼はしばらく俯いていたが、やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……、わかった……」
手を伸ばし、しゃがみながら、舞子と龍民を抱きしめた。
「済まない……、私は、きっと会いに行く……、だから、三人とも……必ず韓国に行ってくれ……」
成哲はか細い声で言った。一方、美濃はそんな彼を気難しそうな表情で見つめていた。
*
「おーい、美濃くーん、行くよー!」
その数時間後に、舞子は、秀民、龍民と共に列車のデッキから美濃を呼んだ。
「え……あ……」
美濃もデッキに乗った。そして、四人は客室内に入っていった。
程無く機関車が発車した。
エンジンの音が上がり、屋根から大量の煤煙が吐き出された。続けて、連結器からドン!と大きな音がして、機関車は客車を牽引し始めた。そして、それはすぐに延吉の駅のホームから離れてぐんぐんと加速して行った。
「朝鮮人……」
秀民は景色を眺めながら呟いた。
「え? 何か言った?」
緑色の、手すりの無い簡素な革張りの座席の向かい側に座っていた舞子が明るい声で聞いた。その隣にいる龍民も元気そうに見えました。
「いや……何でもないよ……」
秀民は笑いながら答えた。
「そう……?」
舞子は首を傾げた。
「うん……」
秀民は再び車外に目を向けた。
*
翌二三日の朝の天気は雨だった。他の列車が事故を起こしたらしく、一時間程前からK二一六号列車は北京からおよそ二〇〇キロ離れた唐山地級市の市内で停止していた。
座席で一晩を過ごしていたため、美濃ら四人は昨晩はあまり眠れていなかった。
「あの……、お腹すかない……?」
舞子が龍民に聞いた。
「うん……でも……、食堂車も人で一杯だったし、北京に着くまで待つしか……」
「うん……」
舞子と龍民は項垂れた。朝から食事にありつけていなかったので、四人とも空腹だった。
「あの……、だったら、ペンで移動して、近くの町まで行ってきてもいいかな……、多分、一時間くらいで帰って来れそうだし、列車が動き出したのなら、それを追って、北京に向かえばいいから」
美濃が提案した。
「え、でも……」
舞子と秀民は、美濃に負担を掛けさせることを恐れて躊躇した。
「あ、大丈夫……それに、僕もお腹空いてるし」
美濃は笑いながら二人に答えた。
*
数十分後、美濃は折畳み式の傘をさしたままペンの力を借りて列車から十数キロ程度離れた唐山地級市の中心、路北(ルーベイ)区に向かって森の中を進んでいた。その途中、道からやや離れたところに灰色のコンクリートの壁で囲まれた一帯があり、その中に一本の煙突が聳え立っていた。
*
「……あそこに上れば、町が見えるかな……」
美濃はその煙突の天辺を凝視した。約一秒後に、その天辺に彼の姿が現れた。
「あれかな……」
美濃の目線の先に、山に囲まれた路北区の町並みがあった。続いて美濃は足元の地上を凝視した。程無くして彼の姿は薄い緑色の光に包まれた。
彼は煙突のある施設の中を徒歩で進んだ。そこは何かの工場のようだった。薄汚れた壁でできた角を曲がると、そこにまた別の、二階建てのコンクリート製の建物があった。その建物の一階には、一箇所だけ鉄格子つきの窓があった。
美濃は所在もなくその前を通り過ぎようとした。すると、そこから若い女性の咽び泣く声が聞こえてきた。
「え……?」
彼は足を止めてその窓の中を覗いた。端の方で、薄汚れたピンクの衣服を着た一人の女性が膝を抱えていた。
部屋は壁も床もコンクリートがむき出しになっていて、奥に入り口がある以外は何もなかった。
「あの……、どうしたんですか……?」
「……?」
二〇歳前後に見えるその女性は顔を上げた。いつの間にか、自分の前に一人の少年が立っているのを見て彼女は驚いた。
「あの、あなたは……」
「え……、あ、僕は美濃……」
美濃ははにかみながら答えた。
「あ……、私は林史文(リンシーウェォン)です……。いつの間に……?」
「え……、あ……すみません……。その、泣いている人の声が聞こえたので……」
美濃が言うや否や、史文と名乗った女性は目に涙を浮かべた。
「清英(ヂンイン)が、清英が……」
「え……」
「すみません……清英が……、友達が、殺されるかもしれないんです……」
「え……それはどういう……」
今度は美濃が彼女の言葉に驚いた。
「あ……ごめんなさい……。私たちは、地下教会の信者だったので……」
「地下……教会……あ……すみません、僕はこの国の人じゃないので……」
『この国の人じゃない』という言葉を聞いた瞬間から、彼女の表情は和らいだように見えた。
「こちらこそ、すみません……。私はキリスト教徒で、清英はシスターなのですが、私たちの教会である聖路北(シェォンルーベイ)教会は、今から一年程前に、突然市の政府から非合法とされて、所謂地下教会になってしまったんです……」
「えっ……なんで……」
「理由はよくは判らないんです……ただ、噂では、教会の代表を務めておられた神父様は、元々、献金の額のことで市長と揉めておられたそうで……、昨年、市長とお会いしたときに、何かさらにご機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのではないかといわれています……。それで、教会の主な関係者とその家族は全員逮捕されてしまいました。孤児だった清英も……、私の父も軍の将校だったのですが、一応信徒だったので、すぐに連行され……、それで、神父様も、私の家族も、みんな刑務所で拷問にかけられて、死んでしまいました……」
「えっ……」
美濃はあまりの悲惨さに言葉も出なかった。
「そして……一週間ほど前に私たちはここに連れてこられ、さっき、清英だけがどこかに連れて行かれてしまって……一人にされたら、何をされるかわからないのに……」
そこまで話して、史文は黙り込んだ。
*
十分ほど後に、美濃はペンの力を使ってその工場の敷地内を一気に駆け抜けた。そして、一番東にあった平屋の棟の前で止まった。
「……東に二〇〇メートル……、この辺かな……」
先ほどの部屋で、彼は史文にペンを使ってもらい、清英の大まかな居場所を聞き出していた。彼は試しにその建物のドアを開けてみた。
は薄暗い廊下が続いていた。前に進もうとしたとき、突然、廊下に面していたドアから二人の白衣を着た男性が出てきた。美濃は慌てて近くにあった本棚に身を隠した。
「……やっと一段落したな……」
「ああ……、全く、今回も苦労させられるな……」
二人の男性は美濃の姿には気付かずにその場所でタバコを吸い始めた。
「だが……これでようやく納期に間に合わせることができるはずだ……お客さんにも、満足していただけるだろうな……」
「しかし……今回はいつにも増して納期が短かったな……予め用意しておくことはできないのか?」
「仕方ないだろう……、発注を受けてから、オーダーメイドで作るのが基本なのだから」
「それに……また誰か、気が狂って倒れた奴がいるそうじゃないか。なんとかならないのかね、この職場の環境は」
(何の話だろう……清英さんはここにはいないのかな……)
二人の会話を盗み聞きしていた美濃はその場から離れようとした。
「それも仕方ないだろう……、何しろ、うちは人の内臓を扱っているのだから」
――。
その言葉を聞いた途端、美濃は瞳を縮ませ、そして一気に本棚の陰から飛び出してきた。
「おい……誰だお前は、……うわっ!」
美濃は二人の男性にペンによる狙撃を実行した。光の矢を男性たちの腰と肩にそれぞれ命中し、彼らはその場に倒れた。
そして、美濃は二人の出てきた部屋の戸を勢いよく開けた。
その部屋の中には二つほどの大型の棚があり、そこには幾つもの手術用の器具が置かれていた。そして、中央のベッドの上には一人の若い女性の遺体の一部が置かれていた。
「――」
美濃はそれを見て愕然とした。一方、部屋の左奥から白衣を着た一人の老人が唖然とした表情で彼の方を見ていた。
「……誰だ……? ここには関係のない者は入って来れない筈だが……」
美濃は無言のまま彼のいる方にペンを向け、そして心の中で“撃て”と叫んだ。
「――!」
次の瞬間、老人の左後ろの壁に掛かっていた電話の受話器に光の弾が直撃した。それを横目でちらりと見た老人の方が今度は愕然とした。
「……作業を続けてください……清英さんの心臓を無駄にしないで……。それと、僕がここに来たことは、秘密にしてください……」
美濃は淡々と、しかし強い意志を持って老人に告げた。
「……、……!」
老人は愕然としたままだった。次の瞬間、美濃の姿は薄い緑色の光に包まれ、そしてその場所から消えた。その光景を見た老人はさらに自分の目を疑った。
*
膝を押さえながら腰を下ろし、ぼうっと下を向いていた史文の前に、薄い緑色の光が出現した。彼女は顔を上げた。
「美濃……くん……?」
やがて光の中から美濃が姿を現し、代わりにその光は消滅していった。
「史文さん……すみません、すぐにこれを持って、僕を背負ってください……、そして、窓の外を見つめてください……」
美濃は史文にペンを差し出した。彼女はきょとんとした表情のままそれを受け取った。
*
数分後、その工場の敷地内から外れた森の中に、薄緑色の光が現れた。
「……この辺りで大丈夫だと思います……、ありがとうございました……」
美濃は史文の背から降りた。史文は無言のまま美濃にペンを返した。
「……あの……よく聞いてください……、清英さんは、既に亡くなられていました……」
「え……あ……ああ……」
それを聞いた史文は、目から大粒の涙を流しながらその場にしゃがんだ。美濃はとても居た堪れない気持ちになったが、それでも、彼女に掛けられる言葉を見つけられなかった。
2016年8月13日 発行 初版
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