【あらすじ】
第五話 告発と寒村の実態 (無料)
第六話 看護とひとときの休暇 (無料)
第七話 小さな失態と二人の思い
珠洲たちと光姫との距離が900km以上離れていることが判明、彼女は人民軍に不法侵入で逮捕されたのではなく人身売買された可能性が濃厚となった。光姫を追い珠洲は中国国内を移動、また公安に発見される恐れの高くなった秀民たちも美濃とともにモンゴル経由で韓国への亡命に乗り出す。その過程で珠洲と美濃はそれぞれ汚職や臓器売買などの実態に遭遇する。珠洲は山東省の村の「共有財産」と化していた光姫を救出、添い寝、シャワー、衣装替えなどで彼女を看護する。一方秀民たちは国境防衛隊に摘発に遭い、美濃も手違いから珠洲のスカートに履き替えていたことを失念し撃退に失敗、さらに彼らは延吉からバラバラの行き先のトラックに乗せられ…。
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同じ日の午後、珠洲は光姫を探して中国、河北省滄州(ツァンヂョウ)地級市の山道を南下していた。
(昨日から、光姫さんの位置はずっと五〇〇キロくらい先の所で止まってる……あれ……?)
程無くして彼女は里に出た。
(あ……ここからまた人里だから、なるべく人目につかないようにしないと……)
珠洲はきょろきょろと周囲を見渡した。すると、自分の右側の遠方に、高い堀に囲まれた二階建ての殺風景なビルを見つけた。その二階の窓からは、一人の中年の男性がこちらを見ていた。
「……」
珠洲はその男性と目が合った。次の瞬間、珠洲は彼の傍らに出現した。
「あ……」
「えっ……?」
その男性は驚きの声を上げた。
「やっちゃった……」
珠洲は自嘲した。
「……ええと、あの、すみません、道を間違えて……その……ごめんなさい……、お邪魔しました……」
「いらっしゃい」
「え……?」
珠洲は驚いて彼を見上げた。ボロボロのTシャツを纏った、左腕の無いその初老の男性は、突然珠洲が現れたにも関わらず落ち着きを取り戻していた。
「何の興味を抱いたのかは知らないが……、珍しいね、この私に客人とは」
「え……」
珠洲は彼の言葉を聞いて、改めて室内を見渡した。そこにはベッド以外は何も置かれていなかった。
「ここは……独房……?」
「せっかくだから、私の話を聞いていってもらえないかな……。あ、勘違いしないでほしい……、こんな部屋にいるが、私は犯罪なんかしていないぞ」
「え……」
珠洲は彼の言葉を疑った。
「はは……お嬢ちゃんが疑うのも無理はない……」
珠洲には彼が寂しそうにしているように見えた。
「私は高光石(ガオグヮンシー)という……、かつて、滄州地級市の建設委員会に勤務していた者だ……」
光石と名乗ったその男性は目を窓の外に向けた。
*
その日から二年前のある日、河北省公安局の局長室から一人の男性が退出していった。一方その部屋の中では、二人の公安員が話をしていた。
「……で、今の男、高は何と?」
「はあ……、それが、彼の上司である、地級市建設委員会主任の李良星(リーリャンシン)が、業者から賄賂を受け取っていると……」
「えっ……、それは内部告発じゃないのか……」
上役の公安員が、部下の話を遮って聞き直した。
「はい……」
「しかもお前は今、李良星と言ったな……、間違いないのか?」
「はい、間違いありません」
「そうか……」
上役の公安員は少しの間思案した。
「わかった……、だが、これは大きな問題になりそうだから、私の方で対処しよう」
彼は憮然とした表情で言い放った。
*
その数日後、共産党の河北省委員会の書記執務室のドアをノックする者がいた。
「どうぞ」
中から呼ばれて、彼は入室した。
「おや……公安局の政治委員ではないか、何かあったのかね」
椅子に腰掛けていた河北省書記、張起高(チャンチーガオ)が彼に問いかけた。
「はい……実は、数日前に私どものところに告発がありまして……」
政治委員は薄ら笑いを浮かべながら言った。
「告発?」
「はい……、滄州地級市の建設委員会の主任の収賄についてです」
「ほう……」
書記は目を細めた。政治委員は続けた。
「地級市の問題であるにも関わらず、彼はわざわざ省の公安局に告げに来たようですね……」
「なるほど……、地級市の公安では頼りない、それどころかその主任が、地級市の書記と結託していて、自分に報復してくる恐れもある、ということか……」
高は政治委員と同様不敵な笑みを浮かべた。
「わかった……。よく知らせてくれた、感謝するよ」
そして彼に礼を述べた。
*
数日後、私は地級市の政府に呼び出された……。愚かにも、私はそこに行ってしまった……。そして、すぐに拘束され、この拘置所に連行され……、値切った結果、命の代わりに、移動の自由と、この左腕を支払わされることになった……」
「……」
再び今、滄州地級市の独房の中で、高は珠洲に、過去に自分の身に起こったことを話していた。
「あの……一つだけ、お伺いしてもいいですか……?」
やがて、ずっと沈黙していた珠洲が口を開けた。
「ん……?」
「滄州地級市には、あなたの他にも大勢の幹部がいるはずですが……どうしてあなたは、他の幹部たちと同じように、不正に対して見てみぬふりをしようとは思わなかったのですか……?」
「ああ……」
高は少し黙り込んだ。
「確かに君の言う通りだな……」
彼は悲しげに、しかし同時に少し誇らしげにも見える表情をしながら言った。
「……あの……、ここから出ませんか……」
珠洲は問いかけた。
「えっ……?」
高には珠洲の言葉が理解できなかった。
「あの……、これを握ってください……」
珠洲はいつものボールペンを彼に差し出した。
「それで……あの……片手で少し大変かもしれませんが、私を背負ってもらえないでしょうか……」
「え……ああ……」
「それから……窓の外……あの塀の向こうをじっと見つめて、願ってください……。ここから出たいと……、強く願ってください……」
「わかった、やってみよう……」
光石は不思議に思いながらも珠洲に言われた通りのことをした。まもなく、光石が珠洲の体を支えながら握っていたペンが光を放ち始めて、そしてその光は二人の体を包み込んだ。やがて、 二人の姿はその光ごと消失した。
その直後に、光石は息を呑んだ。自分の体は拘置所の外にあった。
珠洲は彼の背から下りた。
「これは……妖怪の仕業か……」
光石は愕然としながら目の前の風景を眺めた。やがて彼は珠洲の前で深々と頭を下げた。
「……すまないが……あなたに頼みたいことがある……。私を、北京の国家信訪局に連れて行ってもらえないだろうか……」
「え……?」
珠洲は彼の言葉に驚いた。
*
その日の夕方、北京市にある国家信訪局の前は、地方での訴訟をあてにできないがために、中央政府への直訴を目的に上京してきた大勢の人々でごった返していた。
(本当に、片手で私を支えて北京まで来た……)
珠洲は光石の体力と気力に敬服した。
「本当にありがとう、何とお礼を言えばいいのか……」
「あ、いえ……」
光石は珠洲に礼を述べた。珠洲は彼の爽々とした表情を観てさらに驚かされた。
「あの……もう一つだけ、聞いてもいいでしょうか……」
珠洲は言った。
「この国で、国が人々にしてあげられることというのは限られています……、訴えを聞いてもらえるかどうかは判らないはず……、それなのに、光石さんはどうしてここまでして……」
「それは……申し訳ない、それは、私にもわからないんだ……」
「え……」
「ただ、私は、生きている限り、自分にできることはできるだけやりたいと思っている……、それは言えるかもしれない……」
「……」
光石は述懐しながら自嘲した。
*
その翌日、二四日の土曜日の夜、週に一回しか運行されない、モンゴルの首都、ウランバートル行きの特別快速K二三号列車が、モンゴルとの国境地帯に広がっているゴビ砂漠の真っ只中を走っていた。そして、そのはるか前方には町の明かりが見えていた。
やがて、二〇時四〇分頃に、K二三号列車は中国とモンゴルの国境の町であったエレンハオトの駅に到着した。
比較的多くの乗客が下りたが、その中に、美濃、秀民、舞子、龍民の四人も混じっていた。彼らは駅の改札口を抜けると、コンコースの中を進んだ。
「着きましたな……」
舞子が言った。
「そうですな……」
秀民が相槌を打った。
「着いた……のはいいんですが、えっと、私たちはここからどうすればいいんでしょうか……?」
舞子は照れくさそうに聞いた。
「あ……えっと、砂漠の国境を越えて、モンゴルのザミンウデ市まで行くんだ」
それを傍らで聞いていた美濃が恥ずかしがりながら説明した。
「え……、国境……?」
「でも……美濃お兄ちゃん、国境を越えるのには。パスポートが……」
龍民が不安そうに聞いた。
「うん……だから、不法入国するしかないんだ、ちょっと待って、今地図で調べるから……」
美濃は苦笑しながらコンコースの隅に向かった。
「はは……」
その様子を見た秀民と舞子も苦笑した。
「わっ……」
その直後に美濃は小さな声を上げた。
「あっ……」
彼のズボンに水がかかっており、その前で、紙コップを持った小さな男の子が茫然と立っていた。
「……ごめんなさい……」
「……あ……、いや、大丈夫……、怪我とかしなかった……?」
「うん……、ごめんなさい……」
その男の子は美濃に再度詫びると、そのまま立ち去っていった。
「美濃くん……、大丈夫……?」
「あ……うん……」
その後美濃の元に秀民、舞子らが寄ってきた。
「というか……、今の、スリとかじゃない……?」
「ううん……、それも大丈夫……お金もちゃんとあるし、それより、ズボンが濡れちゃったから着替えないと……あれ……?」
「どうしたの……?」
美濃はリュックの中を漁りながら首を傾げた。
「ズボンがない……代わりに、珠洲ちゃんのスカートが入ってる……」
彼はリュックから、後ろに小さなポケットのついた厚手の紺色のスカートを取り出した。
「え……それって、元姫さんが珠洲ちゃんにあげた子ども用のやつ……?」
秀民が聞いた。
「うん……多分、明一さんがくれた替えのズボンは、珠洲ちゃんのリュックの中かな……」
美濃は苦笑した。
*
月が、どこまでも続いているとすら思えてくる砂漠を優しく照らしていた。四人はその下を進んだ。美濃はやむを得ずリュックの中に入っていた紺色のスカートを穿き、そのポケットの中にペンを入れていた。
「凄い所だね、ここ……」
舞子が苦笑した。
「まあ……なるべく町から離れた方がいいからね……、きっと、もうすぐモンゴルに着くよ……」
前を歩いていた秀民が舞子を励ました。
「うん……」
龍民と舞子は引き続き美濃と秀民の後を追った。
*
やがて、砂漠に吹く風が次第に強くなっていった。美濃は腕を額の前に当てた。砂が全身に当たって、視界は極端に悪くなっていた。
「お兄ちゃんー……」
龍民が声を上げた。美濃が後ろから振り向いた。
「二人とも、待ってよー」
舞子も美濃と秀民を呼んだ。秀民は立ち止まって周囲を見渡した。丁度、右の遠くの方に木造の小屋が建てられているのが目に付いた。
「あそこに小屋がある……、みんな、あそこまで頑張ろう……!」
「え……小屋……?」
「どこ……?」
「あそこに……」
秀民は再度振り向くと、龍民の右腕を掴んだ。
「……」
一方、美濃も舞子の右腕を掴んで引っ張った。
「え……」
舞子の頬は次第に赤く染まっていった。
やがて、四人はどうにかその小屋に辿り着いた。美濃は入り口を開けて中の様子を窺った。
ボロボロだったが、砂嵐を防ぐには十分だった。そこには、一角に飼料用の藁が積まれている意外は何も置かれていなかった。四人はその藁の上に腰を下ろした。
一方、鍬を持った一人の農民が、四人がその小屋に入り込むのを目撃していた。彼はすぐにその場を立ち去っていった。
*
やがて砂嵐は治まった。四人はその小屋の中の藁の上で眠りについていた。
月が夜の砂漠を明るく照らし続けていた。
突然、小屋の外でガタッという音がした。秀民はその音で目を覚ました。
「……? 気のせい……?」
彼は再び目を閉じようとした。
その直後、一気にドアが開き、一人の農民と、五、六名ほどの、軍服を着た男性たちが小屋の中に乱入してきた。
「国境防衛隊だ! 大人しくしろ!」
「――!」
秀民は慌てて上体を起こした。
「みんな! 起きて……! 龍民も起きて……!」
「えっ……わっ!」
三人はすぐに目を覚ました。
「逃げるな……!」
一方、防衛隊員たちは四人の前に立ちはだかった。彼らの脇には一人の中年の農民の姿があった。
「通報の通りだ……、やはりまた、砂漠を越えて越境しようとする朝鮮人たちだな……!」
「おい! 静かにしろ……!」
隊員たちは口々に叫んだ。秀民は舞子と龍民の腕を掴んだまま、農民の脇を通り抜けた。
「わーっ!」
「――!」
秀民は二人を掴んでいる腕に重みを感じた。同時に、後ろから舞子の叫び声が聞こえた。
「嫌ー! やめてー!」
「うるさい!」
舞子、龍民の二人は隊員たちと揉み合いになっていた。
「やめて……! ……!」
美濃は慌てて自分の太ももの辺りに手を下ろしたが、そこにあるはずのポケットはなかった。 彼は、とっさに、ズボンから珠洲のスカートに穿き替えたことを思い出した。
その直後に、美濃の右腕を防衛隊員のうちの一人が掴み、そのまま美濃を床に押し倒した。
「みんなを離して……!」
秀民は素早く戻ると、隊員たちに体当たりをしようとした。
「おい……! お前もだ! 大人しくしろ!」
「何するの……!」
しかし、彼も別の隊員によって腕を掴まれた。
彼は必死に抵抗した。
「おい! 手錠だ……! 手錠を持って来い!」
秀民を取り押さえていた隊員が叫ぶと、すぐに別の隊員が手錠を四つ持って来た。
「――!」
彼は素早く秀民を後ろ手にさせてそれを両腕にかけ、美濃がされているのと同じように秀民を地面に押し倒した。一方、美濃の両腕にも後ろ手に手錠がかけられた。
さらに、隊員たちのうちの二人は美濃が背負っていたリュックを漁り始めた。
「おおっ! 見ろ! 一〇〇〇塊(クヮイ)くらいは入っているぞ!」
隊員のうちの一人が封筒を取り出し、その中身を見て言った。
「そのうちの五〇〇塊は本当に入っていた分にしておけ! 残りの五〇〇塊で、パーティでもしよう!」
「よし……、こっちに来い!」
隊員たちは四人を引き摺った。
「何をするの……!」
「離して……!」
四人は必死にもがいたが、大人の力の前にどうすることもできなかった。
「乗れ!」
「やめてよ!」
龍民は小屋の外に停めてあった幌付きのトラックの荷台に放り込まれた。
「わっ!」
舞子がその上に落ちてきた。美濃と秀民もその隣に放り込まれた。
「下ろして……!」
トラックにはすぐにエンジンがかけられた。
「下ろしてよ……!」
入り口が閉められて、荷台は真っ暗になった。そしてトラックは動き出した。
「――」
四人の顔は見る見るうちに蒼くなっていった。
「秀民くん――、ポケットのボールペンをとって……」
暗闇の中で美濃が秀民に頼んだ。
「暗くて……手錠だと落としてどこかにやっちゃいそう……ゴメン……ここじゃどうしようもない……」
秀民はペンを借りるのを諦めた。
*
小さな町の中に木造の小さな駅舎があった。
既に陽が落ちて視界が悪かったため、珠洲は、徒歩でその駅前の広場までやってきた。そこに、一台の黄色いタクシーが停まっていた。
「すみません……」
中で、ドライバーと思しき中年の男性が眠っていたので、珠洲は呼びかけてみた。
「……」
ドライバーはそれには反応しなかった。
「あの、すみません……」
珠洲が再度頼むとドライバーは目を覚ました。そしてだるそうに目を開けた。
「あの……ここから東営(ドンイン)駅までお願いします……一〇〇塊出しますから……」
珠洲は相場と思しき額を提示した。
「は……? 馬鹿野郎! あそこまでなら一八〇塊だ……! こんな田舎だというのに……!」
ドライバーは剣幕顔をしながら値を吊り上げた。
(あ……やっぱりそうするのが普通なんだ……。あえて冷たくするしかないのかな……)
「じゃ……、いいです、列車を待ちますから」
珠洲は残念そうな表情をしながら言った。
「ええい! わかった! 一四〇塊にしてやる、さっさと乗れ!」
ドライバーはまた怒鳴った。
「一〇〇塊でお願いします」
「ふざけるな!」
珠洲はまた残念な表情をしながら、その場から立ち去ろうとした。その直後にタクシーの後部座席のドアが開いた。
「ええい! 一〇〇塊だ! 乗れ!」
ドライバーは窓から顔を出して怒鳴った。
珠洲が乗り込むとすぐにタクシーは急発進し、小さな町の中を暴走し始めた。
しばらくしてもドライバーの機嫌はいっこうに収まらなかった。一方、珠洲は疲れが溜まっていたのかそのままうとうとと眠気に襲われ始めた。
*
深夜にとりたてて急なブレーキがかかった。
「……」
珠洲は自分が眠りについていたことに気付いた。
「おい! 起きろ!」
ドライバーが前の席から身を乗り出していた。
「金だ! 金を出せ!」
外は真っ暗で、森の中のようだった。珠洲はボールペンに意識を集中してみた。
「あれ……あと一〇〇キロくらい……さっきより遠くなってる……?」
「早くしろ! 金を出せ!」
ドライバーは血走った目で怒鳴った。
「え……」
珠洲は訝しんだ。
「一八〇〇塊出せ……!」
「え……?」
珠洲は、ドライバーが最初から東営駅に行く意志がなかったということに気付いた。
その直後に、下り坂だったためか、車がひとりでに動き出した。ドライバーは慌ててブレーキを強く踏んだ。
「……!」
「おい……あっ!」
ドライバーは再び後部座席に目を向けた。そこに珠洲の姿はなく、また、ドアが開けっ放しになっていた。
*
草々の間を小さなスニーカーが跳ねた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
珠洲は闇の木々の間を必死で駆け抜けた。
やがて登り坂の途中で立ち止まった。
「ハァ……ハァ……」
そして肩で息をした。次第に呼吸が安定してくると、改めて周囲を見渡した。
「真っ暗……ペンは使えないかも……」
そこは殆ど何も見えない山の中だった。
「え……」
直後にその瞳孔が縮んだ。
珠洲の背後に巨大な黒い影が迫っていた。彼女は振り向かずに走り出そうとした。
「ああっ!」
突然、首の左後ろの辺りに激痛が走った。珠洲はまっすぐに地面に倒れ込んだ。
「……?」
彼女は自分に意識があることに気付いた。すぐに背後に視線を移した。
そこでは、先ほどのタクシードライバーが、右手に木の棒を握り締めて、ふらつきながら立っていた。
珠洲は怯えながら腕を立てようとした。
ドライバーは体勢を立て直すと、珠洲に二撃目を加えようと棒を振り上げた。
「――」
直後にその頭部を一筋の光が直撃し、彼は倒れた。
「……」
また一人人を殺したことで、彼女は深い懺悔の念にとらわれた。やがて、その目から自然と涙が毀れだした。
*
翌二五日、月曜日の朝の空は晴れていた。
延辺から直線距離で一一〇〇キロ以上離れた、山東(シャンドン)省東営地級市のとある農村の土蔵から、一人の、二〇代くらいの痩せた男性が出てきた。
「……あれだ……」
珠洲は後方の小屋の陰から彼の様子を窺っていた。
その男性は木製の入口に取り付けられた鍵をかけると、すぐにその場を離れていった。珠洲はそれを確認次第そこに駆け寄った。そして、鍵を外してドアを開け、室内に踏み込んだ。
その奥のベッドの上に、横たわっている一人の少女の姿があった。
「――」
珠洲は少女のもとに近付いた。彼女は手と足とをそれぞれ布で縛られていた。
「――! ……もうやめてください……、許してください……!」
それは光姫の声だった。彼女は珠洲の足音を聞いて、すぐに嘆願し始めた。
「違う……、違います、私です、珠洲です……!」
「え……!」
光姫は息を呑んだ。そして、ゆっくりと珠洲の顔を見上げた。
「あ……嘘……」
「光姫さん……」
珠洲はなおも怯える光姫に呼びかけた。
「え……」
やがて光姫の瞳から涙が零れ出した。
珠洲は彼女の手足を縛っていた布を解いた。すると、光姫は珠洲を抱きながら泣いた。
「ごめんなさい……私、遅かったです……。ごめんなさい……」
珠洲は詫びた。
「珠洲ちゃん……」
「え……」
やがて光姫はか細い声で珠洲の名前を呼んだ。
「いいんだ……いいんだよ……、気にしないで……」
「……」
光姫の、珠洲を抱く肩に力が入った。
「私を助けたいって思ってここまで来てくれた……それだけで、私は凄く嬉しいから……」
珠洲はその言葉を聞いて震えた。
「ごめんなさい……」
やがて、再度詫びた。
その直後に、二人は入口のドアが開く音を聞いた。
「――!」
誰かの足音が近付いてきた。そして、いつの間にか、珠洲の背後に先ほどこの小屋から出たはずの男性が立っていた。
「――」
光姫は彼の姿を見ただけで再び震え始めた。
「おいっ! お前! ここで何をしている……!」
男性は怒鳴った。
珠洲はゆっくりと背後を振り返った。
そこに男性の腹部がありた。珠洲は切なそうにそれから目を逸らした。
「ぐわっ!」
バン! と音がして、その直後に男性は肩から血を流して倒れ込んだ。
「――」
光姫はその光景に驚かされた。
「……行こう……」
珠洲は切なそうな表情をしながら光姫に言った。
「え……あ、うん……」
光姫は頷いた。珠洲は彼女の手を握って、小屋の入り口の方に向かった。
「――」
入り口を出てすぐに、二人の黒瞳が縮んだ。
小屋の外には十数名ほどの村の若い男性たちが押し寄せていた。
珠洲は光姫の顔を見た。彼女の表情は蒼ざめていた。珠洲は彼女の手をぎゅっと強く握り締めながら、男性たちの方を見つめた。
「あの……これはいったいどういうことですか……」
集まっていた村人たちの何人かは、珠洲の呼びかけを聞いてにやりと笑った。
やがて、彼らのうちの一人が一歩前に出た。
「いいだろう……話してやろう……」
彼は目線を自分の左の方に逸らした。
「この村では、将来を担う子どもたちが不足している……その娘は、私たちにとっての共有財産なのだ……」
「えっ……」
珠洲は息を呑んだ。そして恐る恐る光姫の方を向いた。彼女はじっと俯いていた。
それを見て珠洲もゆっくりと頭を下げていった。
「そう……ですか……」
珠洲は言った。村人たちは互いに笑みを浮かべ合った。
「でも……」
「ん……?」
「光姫さんは人です。財産じゃありません」
珠洲の目には涙が溜まっていた。
「何……」
村人たちは不快そうな目つきでじりじりと二人に近付いていった。
一方、珠洲もゆっくりとボールペンを持つ手を上げていった。
光姫は珠洲に手を引かれながらずっと俯いていた。やがて、珠洲のボールペンは薄い緑色の光を放ち始めた。
「光姫さん……、走ります……」
珠洲は囁いた。
「うわっ!」
その直後に、バン! と音がして、二人を取り囲んでいた村人のうちの一人が仰向けに倒れた。
「おおっ?」
「何だ? どうした?」
男性たちは慌てた。その隙をぬって、珠洲は光姫の手を引いて土蔵の前から駆け出した。
「何っ!」
「逃げたぞ! 追え!」
二人は必死に走った。村人たちはすぐにその後を追った。
珠洲は走りながら背後を振り返った。村人たちとの間には数十メートルくらいの距離があった。
一方、前方に一軒の農家があった。
「光姫さん……!」
「あ……うん……」
二人は農家の角を右に曲がった。
「おい! あそこを曲がったぞ!」
「すぐに捕まえろ! ん……?」
村人らもすぐにその角に近付いた。直後に、その影から緑色の光が放たれているのが見えた。
「ここだ!」
彼らはその角を曲がると、すぐに足を止めた。珠洲と光姫の姿はそこにはなかった。
「……?」
「どこに行った?」
「そう遠くへは行っていまい、探せ!」
村人たちは口々に喚きあった後に、その場所から散らばった。
*
その農家のあった場所から数キロほど離れた農道を、珠洲と光姫は歩いていた。
少し進むと路傍に丸太が転がっていた。珠洲は光姫にそこに座るよう勧めた。
「この辺まで来れば、大丈夫だと思います……」
珠洲は光姫に言った。光姫は俯いたままだった。
珠洲はやがて彼女から目を逸らした。その下で、道に生えていた草花が風に揺られていた。
「珠洲ちゃん……」
光姫は顔を下に向けたまま呟いた。
「いいんだ……」
「え……」
「だって、不法入国してるのは私の方なんだから……。でも……そうするしかなかったから……」
「……」
珠洲は光姫に何か言おうとしましたが諦めた。
朝日が大地を照らしていた。その中から、一本の、深緑色の列車が走ってきた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
苦しげな呼吸が聞こえた。
二六日、火曜日の朝、中国国鉄の普通二五九八号列車の車内で、珠洲は目を覚ました。
その隣に座っていた光姫は顔を紅潮させながら必死に息をしていた。
「……? すみません……」
珠洲は不思議に思って光姫の額に手を当てた。
「熱い……」
光姫は熱を出していた。珠洲はすぐに席を立つと、列車の車内にあった給湯室まで行き、手にしていた水筒にお湯を入れた。
そして、客室に戻るとリュックから風邪薬の小瓶を取り出し、そのうちの二錠を手の上に出した。
「光姫さん……」
光姫はうっすらと目を開けた。
「あの、これ……」
珠洲はお湯と薬を差し出した。光姫はそれを受け取って飲んだ。
「ありがとう……」
光姫は荒く息をしながら言うと、再び目を閉じた。
珠洲は薬と水筒をリュックに戻した後に、着ていたジャケットを脱いで、彼女の肩に掛けた。
「あと二時間くらいで、北京に着きます……、もう少しだけ、頑張ってください、そこで休みましょう……」
「うん……」
光姫は小さく声を出した。
*
普通二五九八列車は朝の平原を走り、朝の六時三五分頃に、北京西駅に着いた。
駅舎は地下三階、地上が十階以上あり、高さが一〇〇メートル程もある巨大な建物だった。
「凄いね……」
駅舎の前で、自分の服の上に珠洲の蜜柑色のジャケットを着ていた光姫は呟いた。
「……はい……」
「こんな大きい建物、私見たことない……。日本にもこんなビルがたくさんあるの……?」
「え……、あ、はい……」
珠洲は頷いた。
*
駅からさほど離れていない蓮花池(レンファーチー)通りの路地を入ってすぐのところに、小さなホテルがあった。
「……え……?」
フロントにいた二人の、若い男性の従業員が溜息を吐いた。
「……」
珠洲は彼らの目をじっと見つめた。
「……」
従業員らも珠洲の目を見た。
「……。盧元姫さんと、姜愛花さんですね、畏まりました」
やがて、二人の身分証を手にしていた方の従業員がニコリと笑って言った。
「えっ……」
もう一人の従業員は小さな声を上げた。また少しの間があった。
身分証を手にしていた従業員と珠洲は互いに目を合わせた。
「はい……」
程無く、珠洲は小さな声で返事をした。
*
「今の二人……とくに、あの小さい方はどうみても身分証のまた貸しに見えるが……なんでオーケーしたんだ?」
「え……ああ……」
珠洲と光姫が離れた直後に、二人の従業員は会話を始めた。
「あの身分証……、住所が延辺朝鮮族自治区になっていたんだ……」
「え……」
二人の応対をした方の従業員は、深刻そうな表情で言った。それを聞いていたもう一人の従業員は再び息を呑んだ。
「きっといろいろ事情があるんだろう……、俺たちが知らない方がいいような」
「あ……ああ」
もう一人の方の従業員は俯いた。
*
ホテルの室内には、ベッドやバス、トイレの他、テレビや冷蔵庫などが置かれていた。光姫はそのベッドに横になった。珠洲はその隣のベッドから上体を起こして、光姫の肩に上布団をかけた。
「あの……いいの……? 私なんかがこんなところに着ちゃって……」
光姫は不安そうに珠洲に尋ねた。
「あ……その……私の行きの分の交通費が殆どかかっていないから、お金は大丈夫だと思います……」
珠洲は言いながら隣のベッドの布団の中に体を沈めようとした。
「珠洲ちゃん……ありがとう……」
光姫がか細い声で言った。それを聞いた珠洲は居た堪れない思いにかられた。
「あの……やっぱり、私もそっちに行っていいですか……」
珠洲は俯き、少し頬を赤らめつつ言った。
「え……」
光姫は珠洲の顔を見た。
「うん、いいよ」
彼女は続けた。
「……。……、では、お、お邪魔します……」
珠洲は引き続き赤い顔でもそもそと光姫の方のベッドに体を寄せた。
*
翌二七日の水曜日、珠洲たちの泊まっているホテルは朝日に照らされていた。ホテルの傍にあった蓮花池通りはいつものように人や車でごった返していた。
光姫は窓際に座ってぼうっとその様子を眺めていた。
「んん……」
やがて珠洲は目を覚まし、上体を起こした。
「あ……ごめん、起こしちゃって……。人の多さも、車も、建物も、どれも私が始めてみるものばっかりで……」
光姫は珠洲に言った。
「あ……よかったら、今日、この町を歩いてみませんか……?」
珠洲の提案に光姫は驚いた。
「えっ……いいの……?」
「はい…どっちにしろ、光姫さんの着替えとかも、買いに行かないといけないので……それと、その前にシャワー室に行きましょう」
「え……?」
光姫は不安そうな顔になった。
*
二人は服を脱いでシャワー室に入った。シャワーの管は直接壁に固定されていた。
「これは……もしかしたら、水しか出てこないかも……光姫さん、少し離れていてください……」
珠洲は苦笑いをしながらパイプの栓を捻った。
シャワーからは、最初は水が出てきたが、その温度は次第に上昇していった。
「よかった……」
珠洲は安堵した。
「それじゃ、こっちを向いてください……」
「え……ひゃっ……」
珠洲は光姫の全身を石鹸で洗い始めました。
「あ……泡……?」
「あ……今度は向こうを向いてください」
「え……はい……」
光姫は珠洲に言われるままに反転した。一方、珠洲は手ぬぐいをフックにかけ、直接石鹸を自分の手につけた。
「あの……これは……」
光姫が不安そうな声で聞いた。
「あ……大丈夫です、後で全部洗い流しますから……もう一度、向こうを向いてください……」
「あ……はい……」
珠洲は光姫の髪を洗い始めた。やがてその手が止まった。
「とりあえずオーケーかな」
いつの間にか、珠洲の体も泡まみれになっていた。
「今から流しますから、目を瞑っていてください」
「あ……うん……」
光姫は力なく言って目を閉じた。珠洲は光姫の体を少し前に導いて、シャワーでその頭部の泡を洗い流した。
*
やがて、珠洲と光姫はホテルを後にして、蓮花池通りとは反対の方角の裏路地を進んだ。人気は殆どなかった。昨日と同じように、光姫が珠洲のジャケットを着ていて、珠洲の上半身は白のTシャツだった。
「えっと……地図によると、こっちに地下鉄の駅があるらしいです」
「地下鉄……?」
光姫は珠洲に手を引かれたまま疑問を口にした。
「列車が地面の下を走っているんです……。……?」
その前方で、四,五名ほどの若者がたむろしていた。珠洲と光姫はその前を通り過ぎようとした。
「待て!」
突然若者のうちの一人が、二人の前に立ちはだかって呼びかけた。
「え……」
二人は足を止めた。若者たちはわらわらとやってきて、二人を壁の前で取り囲んだ。
「あの……」
「お前たち……随分と小奇麗な格好をしているが……」
「どこから来た? この国の者か?」
「え……」
二人は質問をされることに疑問を感じた。
「私は許光姫です……朝鮮の者です」
「私は朝霧珠洲……日本人です」
「そうか……やはりこの国の者ではないのだな……」
「日本人か……なら、金も多く持っているよな?」
二人の回答を聞いて、若者たちはにやりと笑いながら言い合った。
「覚悟はいいな……」
別の一人が目を血走らせながら言った。
「す……珠洲ちゃん……」
光姫は珠洲に寄り添おうとした。
「どうなんだ! おい!」
さらに別の一人が、珠洲と光姫の顔の間に勢いよく手を挟み、そのまま壁につけた。
珠洲は残念そうな顔をしながら、ゆっくりとボールペンを持った腕を自分の顔の前に上げた。
「ううっ!」
直後、壁に手をつけていた若者は、右肩から血を流して倒れ込んだ。
「な……?」
若者たちはどよめきあった。
「光姫さん……、逃げます……!」
珠洲は光姫の手を引いて走り出した。
「くそ……! 待ちやがれ……!」
「追え……悪魔の申し子、日本人を許すな……!」
彼らは口々に叫びながら珠洲たちの後を追い始めた。二人は時折後ろを振り返りながら路地を走り続けた。
*
「ハァ……ハァ……ハァ……」
『軍事博物館前』と書かれていた地下鉄の入り口の前に立って、光姫は一人で激しく息をしていた。
「ハァ……ハァ……」
次第にその呼吸が収まってきた。
「あれ……珠洲ちゃん……? あ……」
やがて、珠洲が光姫に追いついた。
「珠洲ちゃん……大丈夫……?」
「……だ、大丈夫……ハァ……ハァ……」
珠洲は荒い呼吸のまま答えた。やがて顔をあげると、地下鉄の駅の看板を見た。
「あ……、ここから地下に下りるんです」
「え……」
珠洲はハンカチで額から流れている汗を拭うと、ぽかんとしている光姫の手を引いて階段を下り始めた。
*
やがて二人は、液晶式の地下鉄の自動券売機の前まで来た。珠洲はその液晶のボタンを押して、四塊を入れた。すると切符が二枚出てきた。
「はい……これ、切符です……」
「あ、ありがとう」
光姫は珍しそうに切符を眺めた。
*
広告の殆どないすっきりとした地下鉄の車内はガラガラだった。二人はプラスチック製の座席に腰掛けていた。
光姫は落ち着かない様子で車内をきょろきょろと見渡した。珠洲はそんな光姫の様子を眺めていた。
「あの……よかったら、上を歩いてみませんか……?」
「えっ……」
珠洲は光姫に提案した。光姫の表情に少しずつ明るさが増していった。
*
珠洲は薄目を開けて太陽を仰ぎ見た。
「いい天気ですね……」
「うん……」
気温も、湿度も散歩をするには最適だった。二人は西単(シータン)駅の出口を出て、道路の両側に立ち並ぶビル群を見ながら長安(チャンアン)街を東に進んだ。
「光姫さんって、走るのが速いんですね……」
珠洲が聞いた。
「えっ……あ、ああ……珠洲ちゃんは……? 運動するのは得意……?」
「え……私は……するのは好きなんですが……能力の方は全然駄目なんです」
「えっ……」
「この間は、サッカーの試合のときに、ボールを蹴ろうとして、代わりに靴を飛ばしたりしましたし……」
「え……フフフ」
光姫は珠洲の言ったことに思わず吹き出した。
「……、……フフフ」
珠洲は少し頬を赤らめましたが、やがて笑い始めた。
「フフフフ……」
それにつられて光姫もさらに笑った。
*
長安街をさらに進むと、王府井(ワンフーチン)街との交差点に出くわした。その角にはショッピングモールへの入り口があった。
光姫は唖然とした表情でそれを見つめていた。
「それじゃあ……ここに入ってみます」
珠洲は光姫の手を引いてその中に入った。
少しして、二人はそのショッピングモールの中でカジュアルショップを見つけると、その店の試着室に入った。
「こんな感じかな……」
「……」
やがて珠洲は光姫に、試着室の鏡の前に立ってもらった。光姫は薄い黄色のワンピースの上に、白のTシャツを羽織ながら戸惑った。
「……もしかして、合わないですか……」
珠洲は不安そうに光姫の姿を見つめた。
「あっ……ううん、そうじゃないの」
光姫ははっと珠洲の方に目を向けた。
「ただ……その……私、嬉しくて、それで、あの……珠洲ちゃん、ありがとう……」
光姫は小さく頭を下げて礼を言った。
「あ……いえ……」
珠洲は照れながら少し嬉しそうに光姫から目を逸らした。
*
「お待たせしました」
ファーストフードの店内の座席に座っていた光姫は珠洲の声を聞いて振り返った。珠洲はその座席の前にあったテーブルの上に二人分のハンバーガーとポテト、コーラを並べた。光姫はまじまじとそれらを見つめた。
「あんまり栄養は取れないですが、軽めでもいいかなと思って……」
珠洲はそれらを眺めながら苦笑した。
「そうなの?」
「ええ……とりあえず、戴きます」
珠洲は手を合わせた。光姫もその後に続けて手を合わせた。
「え……?」
そして、ハンバーガーを一口かじると光姫は目を白黒させた。
「おいしいよ、これ……」
「あ……まあ……」
「うん……こっちは……」
光姫は続いてコーラについていたストローを口に咥えた。
「!」
光姫の表情は一転した。
「えっ……フフ……」
それを見ていた珠洲はおかしくなって思わず吹き出した。
「もーっ」
「すいません……。でも、光姫さんだって、さっき私を笑ったじゃないですか……フフ……」
「あー、フフフ……」
今度は光姫が珠洲につられて少しの間笑った。
「あ……珠洲ちゃん……」
やがて光姫が珠洲の名前を呼んだ。いつの間にかその表情は少し寂しげになっていた。
「その……ここにあるものは、どれも、私が始めて目にするものばかりで……、みんな初めての経験で……。珠洲ちゃんと美濃くんがいなかったら、私、殺されてたかもしれないのに……、だから……あの、珠洲ちゃん、ありがとう……」
「えっ……あ、いえ、その……どういたしまして……」
光姫の言葉を聞いて珠洲は頬を紅潮させた。
*
その日の深夜二三時八分に、珠洲と光姫を乗せた延吉行きの快速K九五号列車が北京の駅を出発した。その座席車の車内で、珠洲と光姫は寝ていた。
*
翌二八日、木曜日の朝、一台の幌つきのトラックが、凄まじいスピードでゴビ砂漠を突っ切っていた。真っ暗なその荷台に、後ろ手に手錠をされた美濃、秀民、舞子、龍民の四人の他五名ほどの朝鮮人が幌を背にして肩を寄せ合っていた。
「どうしよう……秀民くん、ポケットの中にあるペンを取れる……?」
「ここじゃ揺れるし、暗くて落としてしまいそう……トラックから下りてからならなんとか……」
秀民は美濃に言った。
やがてそのトラックは延吉の拘置施設に入った。敷地内には三台ほどのトラックが用意され、また、大勢の兵士たちが慌しく動いていた。その中の一人は美濃たちを乗せたトラックを発見すると、すぐにそれに近付いていった。
「……!」
突然美濃たちは大きく上体を揺らされた。三人を乗せたトラックは乱暴に停車し、運転手が下りた。
「おい……どこの部隊だ……?」
彼に近付いてきた兵士が聞いた。
「二連(エレン)ですが……どうかしましたか?」
運転手はその質問を訝しんだ。
「護送人員の追加の報告は受けていないぞ」
「そんなことはないはずですが……」
「どこかで連絡ミスがあったのか……? おかしいな……、トラックはもうどれも満員なんだ」
兵士は困惑した。
「はあ……少しずつ分けて乗せれば……何とかなりませんか?」
「うーん……」
運転手の提案を聞いて、兵士は少しの間思案した。
*
「わっ……」
舞子は既に大勢の朝鮮人らで一杯だった幌つきの軍用トラックに乗せられた。
「痛っ……!」
その上から龍民が倒れ込んできた。
「ちょっと……! どういうことだよ!」
その外で秀民が四、五人の兵士に詰め寄っていた。
「舞子と龍民を返して!」
「うるさい! ごちゃごちゃ言うな!」
兵士のうちの一人が、手にしていた小銃を振り回した。
「舞子ちゃんと龍民くんをどうするつもりですか……」
美濃が聞いた。
「心配はいらない……」
別の兵士が美濃の疑問に答えた。
「トラックがどれも一杯なのでな……、お前たち四人をそれぞれ別のトラックに乗せるだけだ……北山(プクサン)の保衛部で、また一緒になれる。さあ、お前はこっちだ」
「……」
秀民は渋々兵士らの指示に従った。
*
一方、その拘置所の事務室の中で、一本の電話が鳴っていた。
「はい……延吉の拘置所です」
一人の事務員がその受話器を取った。
「はい……はい……。え……あ、少しお待ちください」
彼は口から受話器を離して自分の背後を振り返った。
「主任……北山郡の保衛部が、回す予定の護送車の数が多いから、一部を会寧(ホエリェェョン)と清津に回してくれないかと言っています」
「そうか……、仕方がない、わかったと言っておいてくれ」
事務室の奥の机に向かっていたその主任は電話からの要求に渋々応じた。
「まあ……今日はローラー摘発があって一斉に送還するんだ……多少のドタバタは仕方ないだろう……」
「そうですね……」
事務員は再び受話器を口に当てた。
*
やがて、数台のトラックが、数珠繋ぎになって拘置施設から出て行った。舞子と龍民は同じトラックに乗っていたが、美濃と秀民はそれぞれ別のトラックにいた。
そして、その車列は出発してから程無くして二つに分かれた。
しばらくして、秀民の乗っているトラックの幌の中で、一人の越境者が、その傍らにいた別の越境者に声を掛けた。
「そういえば……お前、会寧郡の出身だと言っていたな」
「……、……ああ……」
「良かったじゃないか、少しでも故郷に近くなって」
「ああ……ありがとう」
声をかけられた方は寂しげに笑いながら、声をかけた方に礼を述べた。それを聞いていた秀民はその会話に疑問を感じた。
「あ……あの……」
「……?」
秀民は二人に声を掛けた。
「このトラックって、北山に向かっているのではないのですか……?」
越境者らは一度互いに顔を合わせた。
「いや、違うぞ」
「えっ……」
「私らは、さっき兵士らの会話を盗み聞きしてな……、北山から会寧と、清津行きに変わった車があるそうだ……、この車もそうだろう……」
「嘘……」
彼らは秀民の顔が一気に蒼ざめていったのを見て驚いた。
「じゃあ……まさか、舞子も、龍民も、美濃くんにも、もう会えない……?」
秀民は呟いた。
*
「おい! 何であんなに前のやつとの差が開いているんだ!」
「うるさい! あいつが早すぎるんだよ!」
一方、そのトラックの運転室では、運転手と助手とが怒鳴りあっていた。
「わっ……」
その荷台でしゃがんでいた秀民は倒れ込んだ。トラックはそのまま物凄いスピードで、川沿いの、見通しの悪い急カーブに差しかかった。
「くそっ!」
運転手はスピードを殆ど落とさずに、乱暴にそのハンドルを左に切った。
「おい! 前っ!」
カーブを曲がった直後に急な右カーブがあった。さらにその先には川があった。
「あーっ!」
運転室にいた二人は同時に叫んだ。
「おおっ!」
「うわっ!」
トラックの荷台が大きく傾き、中にいた越境者たちはどよめき合った。
「……!」
秀民はぎゅっと目を瞑った。トラックはそのまま川に転落した。
*
北山の町外れにあった保衛部の薄暗い拘置室の中で、舞子と龍民は茫然としていた。
「そんな……行き先が変わったって……」
鉄格子で囲まれたその拘置室の中には、二人の他にも十数名の越境者たちがいた。
「じゃあ、お兄ちゃんと美濃お兄ちゃんは……? 私たちのすぐ後ろの車だったじゃない……!」
一瞬、舞子と龍民に対峙していた二人の保衛部員の眉毛がピクリと動いた。
「その車は……会寧に向かう途中、事故で、川に転落した」
「え……?」
舞子は自分の耳を疑った。
「聞いている話では……乗っていた殆どが、重傷で病院に搬送されたということだ……」
「え……」
「もういいだろう……、おい、行くぞ」
「あ……ああ」
保衛部員らは足早に拘置室から退出すると、その入り口に鍵をかけた。
*
成哲は涙を流す光姫の肩をそっと抱いた。
珠洲と光姫は、その日、列車を乗り継いで成哲の家に辿り着いていた。珠洲は光姫の様子を見てほっとした後、すぐに真剣な面持ちになった。
「あの……それで、美濃くんと秀民くんたちが亡命したというのは……」
「あ……はい……」
成哲は光姫の肩に手を当てたまま、珠洲の方に体を向けた。
「韓国を目指していると思うんですが……日数から考えると、おそらくゴビ砂漠の二連市の辺りでしょう……」
「あ……わかりました……。ちょっと待ってください……、このペンで探してみます……」
珠洲はボールペンを強く握りながら目を閉じました。
「あれ……南にいる……」
「え……じゃあもう、四人は韓国に……?」
「いえ……五〇キロくらいしか離れていないです……」
「えっ……じゃあ……」
成哲も光姫も絶句した。成哲の家から南に五〇キロ離れたところは、朝鮮の領内の可能性が大きかったためだった。
「……、……私のせいです……」
やがて珠洲は肩を震わせながら言った。
「いつだって居場所を探すことはできました……」
「とんでもないです……朝霧さん、それに茨木さんにはよくやってくれたと思っています……朝鮮の領内に連れて行かれてしまったのでは、もうどうすることも……」
「いえ……、今から行ってきて、救出します……」
光姫と成哲は珠洲の気迫に驚かされた。
その数時間後、清津市郊外の丘の上で、空中の一部が突然薄い緑色に発光し、珠洲が姿を現した。
(あそこかな……)
珠洲は少しの間徒歩で移動した。
一方、彼女の後ろの草むらの中に、二人の人民軍の兵士が潜んでいた。
「おい……そういえば、知っているか? 国境近くに現れる、子どものスパイの話は」
「ええ……知ってますよ。なんでも日本人だとか……まったく情けない……わが軍はあんな噂が出回るところまできたとかと思うと」
「おい……その言い方は、他ではあまりするなよ」
一方の兵士は慌ててもう一方の兵士に注意した。
「あ……はい……」
もう一方の兵士は少し蒼ざめた面持ちで返事をした。
「ん……? あ、あれを見ろ」
「はい……?」
一方の兵士は前の方を指差した。その先に珠洲がいた。
「子ども……ですね」
「随分と身なりがいい……幹部の子弟だろうか……」
「にしても……こんなところを一人で出歩くとは、命知らずですね……」
「そうだな……、今は軍人が野盗と化していることも多いというのに」
二人の兵士はほくそ笑んだあと、勢いよく草むらから飛び出した。
「――!」
兵士のうちの一人が手にしていた拳銃で珠洲の後頭部を殴った。ゴン、と鈍い音がして、珠洲はその場に倒れ込んだ。また、珠洲が手にしていたボールペンは地面に投げ出された。
すぐに二人の兵士は珠洲の背負っていたリュックの中を漁り始めた。
「お、財布があった」
兵士のうちの一人は珠洲の財布を広げてみた。その中には日本の小銭や、日本語で書かれた病院の診察券が入っていた。
「……これは……」
兵士のうちの一人はぴくりと眉毛を動かした。
*
「珠洲ちゃん……、珠洲ちゃん……」
美濃に名前を呼ばれて、珠洲は目を覚ました。
「え……あ、あれ……?」
珠洲は、自分と美濃の腕と膝が、背中合わせにコンクリート製の拘置所内の一室の椅子に縛り付けられていることに気付かされた。その部屋には二人とその椅子以外には何もなかった。
「え……美濃くん……? これは……何で……」
「ここは清津の拘置所……多分、同じ日本人だって判ったから、一緒にされたんだと思う」
美濃は言った。
「あれ……ボールペンがない……、さっき殴られたときに落としたのかな……」
「えっ……。わかった……、あの、僕が今履いてるスカートの後ろのポケットの中にボールペンが入ってるんだけど、ポケットの生地が厚いみたいで発動しないんだ……、珠洲ちゃんの手で取れないかな……」
美濃は申し訳なさそうに言った。
「え……あ、ちょっと待って」
珠洲は椅子に縛り付けられている自分の手を持ち上げようとした。
「もう少し上……」
「う……ううん……」
珠洲は腰を震わせながら左の指を少しだけ持ち上げた。指は少しずつ美濃のスカートのポケットの中に入っていった。
「あ……あった……、そのまま、そのまま……」
そして、人差し指と中指でそこに入っていたボールペンを取り出そうとした。
「あっ……」
そのとき、珠洲の手元が一瞬震えた。そこに挟んでいたボールペンは床に転がり落ちた。
二人は必死に足を伸ばしましたが、ボールペンには届きませんでした。
「ごめん、珠洲ちゃん、僕……」
美濃は珠洲の方を向いた。珠洲の顔も蒼くなっていた。
「ううん……私のせい……、痙攣して……。持てるペンが一本もなくなっちゃって……ごめん……もし私のせいで、美濃くんが死んだら……」
「僕だって嫌だよ……、もしも、僕のせいで珠洲ちゃんが死んだら……」
やがて、自然に二人の目から涙がこぼれ出始めた。
*
清津市の集落の一つを見下ろす丘に、珠洲のボールペンが転がっていた。やがて、ガサガサと草の摺れる音がして、そのボールペンに近付く者がいた。
*
清津市の保衛部の中の、珠洲と美濃が入れられている拘置所の部屋のドアノブが回転した。
「――!」
二人は硬直した。ドアからは三人の保衛部員が入室してきて、二人を取り囲んだ。
「まったく……勘弁してほしいものだね」
その中の一人の保衛部員は溜息を吐きながらゆっくりと腰を折って珠洲と目線を合わせた。そして、ポケットの中から珠洲の診察券を取り出した。
「このカードは君の持ち物の中に入っていたものだ……、君たちは、これについて何を我々に語ってくれるというのかね?」
珠洲と美濃は沈黙した。
「まさか……何も語ってくれないというのではあるまい」
彼は再度溜息を吐いて腰を立て直した。二人はなおも沈黙を続けた。
「何とか言わんかぁ!」
直後、鞭を持っていた保衛部員が、それで思い切り床を打った。
「――!」
二人は黙ったまま怯えた。
珠洲に診察券を見せた保衛部員はまた溜息を吐いた。
「うむ……仕方がないようだ……、おい、やれ」
彼は鞭を持っていた保衛部員に命令すると、二、三歩後ずさりした。
「はっ」
鞭を持っていた保衛部員は彼に返事をすると、それを高く振り上げた。
「――!」
珠洲と美濃は目を瞑った。
「うわっ!」
「ああっ!」
室内から殆ど同時に二つの叫び声が聞こえた。
「……?」
その声を発したのは珠洲と美濃ではなく、二人の保衛部員の方だった。珠洲と美濃は恐る恐る目を開けた。
その足元で、二人の保衛部員が倒れ込んでいた。
「ぐっ……」
その直後に、入口の方から薄い緑色の光が発せられると共に、残っていたもう一人の保衛部員が、うめき声を発してその場に倒れた。そして、その傍らに秀民がいた。
「秀民くん……?」
二人は同時に驚きの声を上げた。秀民は二人の傍らに寄った。
「え……何で……」
「僕の乗せられていた護送車はね、川に落ちちゃったんだ……」
秀民は二人を縛っていたロープを解きながら言った。
「それで……たまたま無傷で済んだから、少なくとも、舞子と龍民がいる北山に向かおうと思って……そして、この近くの丘で、これを拾ったんだ……」
秀民は珠洲のボールペンを彼女に示した。
「これは……珠洲ちゃんに返すね」
「うん……ありがとう……」
「秀民くん……、舞子ちゃんと、龍民くんは、必ず僕らが助け出すね」
美濃は秀民に言った。
「私も……」
「うん、やろう……」
三人はお互いの顔を見合わせた。
*
舞子と龍民は中庭に面した北山の拘置所の一室の中でしゃがんで俯いていた。その傍らの空間が突然光り始めた。舞子が顔を上げると、いつの間にかそこに珠洲、美濃と美濃に背負われた秀民がいた。
「えっ……?」
舞子は大きく目を見開かせた。
「み、みんな……」
「しっ、静かにして……」
秀民が舞子に言った。
「あの……あんたらは……」
そのとき、舞子の背後から男性の声がした。
「え……」
「あ……」
珠洲たちは改めて拘置所の中を見渡した。そこには、舞子、龍民の他にも、全部で十数名ほどの越境者たちがいた。
「美濃くん、この部屋は……」
「うん……入口を開けるしかない……」
珠洲と美濃は頷き合った。
「あの……皆さん、今から、この部屋に掛けられている鍵を壊します……、ここから逃げるのも、皆さんの自由です……」
「えっ……?」
越境者たちはどよめき合った。
すぐに、美濃はペンの力を借りて拘置室の外にジャンプした。そして、そこに掛けられていた金属製の鍵にペンの頭先を当て、立て続けに三回ほど発砲した。すると、ガン、という音がして鍵は壊れた。美濃はそのドアを勢いよく開けた。
「おおっ?」
「な、何だ……?」
そこに四名ほどの保衛部員らが慌てて駆け寄って来た。
「――!」
美濃は彼らに向かって発砲した。拘置室の中からわらわらと越境者たちが出てきた。彼らの全員が拘置室から出たことを確認すると、美濃は彼らの後ろについた。
「脱走者だ!」
「玄関の方だ! 追え!」
「一人も逃がすな!」
その直後に、大勢の保衛部員らが越境者たちの後ろに続いてやってきた。
「あっ……!」
越境者たちの先頭にいた珠洲は、彼らに向かって発砲した。
「うっ……」
「ああっ……」
保衛部員たちは次々と倒れていった。
「珠洲ちゃん……」
その後に、舞子が珠洲のもとに駆け寄ってきた。
「あ……舞子ちゃん……!」
二人は手を取り合って駆け出した。
「畜生……待て……!待たないと撃つぞ……!」
追跡する保衛部員たちは拳銃を取り出して発砲し始めた。
「――!」
その弾線のうちの一つは珠洲と美濃のすぐ脇を通過した。
「あそこの茂みまで、頑張って……!」
「うん……!」
一方その数メートルほど傍を、美濃、秀民と龍民が駆けていた。
「あっ」
龍民の叫ぶ声がした。美濃が振り返ると、龍民は転んで地面に倒れていた。
「ごめん、美濃くん、龍民をお願い!」
「うん……!」
美濃は秀民に言われたとおり、倒れていた龍民の元に駆け寄った。
「大丈夫……、石に躓いただけだから」
龍民は自力で起き上がろうとした。美濃は一瞬安堵すると、龍民を担ぎ起こし、そのままペンの力を使って近くにあった草むらの中に逃げ込んだ。
すぐに、その場所に珠洲と舞子もやってきた。
「あれ……秀民くんは……?」
美濃は周囲を見渡した。
「ああっ!」
草むらの中で背後を振り返った舞子が叫んだ。四人がいる草むらの中ところから二百メートルほど離れたところで、秀民は大量の血を流して倒れていた。また、そのさらに後方からは、数名の保衛部員らが駆けて来ていた。
「――!」
珠洲と美濃はペンの力を借りて秀民の足元に飛んだ。そして、彼に近付いて来ていた保衛部員たちに向かって発砲した。
保衛部員たちは次々と被弾して倒れた。次いで、二人は背後を振り返った。
「え……?」
いつの間にか、舞子と龍民も秀民の傍らでしゃがんでいた。そして、舞子は珠洲と美濃の目をみつめ、ゆっくりと立ち上がりながら呟いた。
「……死んでる……」
「え……」
弾は秀民の頭部を貫通していた。
「嘘……」
珠洲と美濃は息を呑んだ。
「――!」
「おい! あそこだ!」
「いたぞ! 追え!」
直後、舞子は珠洲と美濃の後方に数名の保衛部員らが現れたのを見つけた。
珠洲と美濃はその場に座り込もうとしていた。舞子はその二人の肩に手をかけた。
「珠洲ちゃん……、美濃くん……」
「え……」
「……、走ろう……」
舞子は目に涙を溜めながら言った。
「……、美濃くん……」
「珠洲ちゃん……」
珠洲と美濃も、顔を赤らめながらも互いの手を取り合った。舞子も珠洲の手を取った。そして、四人は秀民の遺体のある場所から足早に走り去った。
*
五月二三日の土曜日、珠洲、美濃、光姫、舞子、龍民の五人は、瀋陽市にある韓国大使館の物陰に隠れていた。
「……一回じゃ無理かも……、途中で、一度姿を見せないといけないかもしれない……。本当はこの方法は危ないんですが……他に思いつきませんでした……」
美濃は大使館の門の様子を窺いながら言った。
「それじゃ一人ずつ行きましょう……なるべく見つからないように……」
珠洲の提案に四人は頷いた。そして、美濃が光姫を背負った。
「うん、わかった……それじゃ、行くね……」
美濃はボールペンを額の前に翳した。その直後に、美濃と光姫の姿は闇に包まれ、珠洲、舞子、龍民の前から消えた。
さらにその直後に、二人の姿は大使館の前に出現した。
「な……」
「何だ! 貴様らは……」
大使館を警護していた武装警官らは慌てて二人に駆け寄ったが、二人はそのまま大使館の敷地に入った。美濃は光姫を背中から降ろした。
「ここで、ちょっと待っててください……」
「う、うん……」
美濃は光姫に頼むとその場から離れた。
一方珠洲も美濃と光姫の様子を見て見て安堵した。
「それじゃ、龍民くんも行こう……」
「うん……」
珠洲は龍民を背負った。
「二人とも、気をつけて……」
舞子は珠洲と龍民を気遣った。
「うん……」
珠洲は舞子に軽く会釈すると、すぐに美濃が一度ジャンプしたところと同じ地点に向かってジャンプをした。
「こら……! 待て!」
今度は武装警官らはすぐに出てきて珠洲の左上を掴んだ。
「えっ……ちょっ……」
「わっ……何っ……」
珠洲と龍民は彼らともみ合いになった。
「あっ……」
大使館の敷地内にいた美濃はその様子を見て声を上げた。
「あ……」
舞子は驚き、一時たじろいだ後に、意を決して物陰から飛び出した。
「離して……!」
「この……! こいつら、大人しくしろ……!」
「わああっ!」
そのとき、珠洲を掴んでいた武装警官に舞子が体当たりした。また、殆ど同時に、龍民を取り押さえようとしていた武装警官にジャンプしてきた美濃が体当たりした。
「……舞子ちゃん……!」
「龍民くん……!」
珠洲は舞子を担いだ。また、美濃は龍民を背負った。
武装警官らは一斉に四人に飛びかかろうとした。
「……!」
すぐに四人の体は薄い緑色の光に包まれ、そして、その光ごとその場所から消えた。
「なっ……?」
「消えた……?」
武装警官らは驚きの声を上げた。
「あ……」
光姫は大使館の敷地内で、舞子と龍民が入ってきたことに気付いて小さな声をあげた。舞子はそれを聞いて光姫の方を振り向いた。
「え……」
「えっと……もしかして、終わった……?」
光姫は呟いた。
「え……」
それを聞いた他の三人は息を呑んだ。
「……」
光姫は少しの間その場に立ち尽くした。
「……舞子、龍民……」
そして、二人に抱きついた。彼女の瞳から涙がこぼれ出た。
「あ、あれ……珠洲お姉ちゃん……?」
やがて、龍民が声を上げた。珠洲と美濃の体はいつの間にか薄い緑色の光に包まれていた。そして、それは徐々に濃くなりつつあった。
「珠洲ちゃん……、ペン使ってる……?」
美濃は珠洲に尋ねた。
「え……ううん……」
珠洲は首を振った。
「あ……多分……」
光姫は珠洲の方を向いた。
「……私たちの役目が終わったんだと思う……、ちょっと、急だけど」
珠洲は言った。自然と彼女の目から涙が毀れ出た。
「だめだよ! 珠洲お姉ちゃん……、美濃お兄ちゃん……! 秀民お兄ちゃんもいなくなっちゃったのに、二人まで……」
龍民は珠洲に飛びついた。
「龍民くん……大丈夫……。確かに、これからも何が起きるか判らないけど……でも、私たちのいるこの韓国の大使館の中は、多分、今までよりは安全なところのはずだから……」
珠洲が話している間にも、珠洲と美濃とを包んだ光の色はどんどん濃くなっていった。
「あの、珠洲ちゃん、美濃くん……」
「……?」
舞子が声を上げた。
「私たちの国で、助けが必要なのは、私だけじゃないんだ……、北山の保衛部で見たように、祖国を捨てないといけない人は、まだ大勢いるんだ……。だから、日本の人に知らせて……、私たちのことを……!」
「舞子ちゃん……」
珠洲も目に涙を浮かべながら舞子に呼びかけた。
「わかった……伝える……。でも、もしかしたら、私の国のみんなに伝えることは無理かもしれない……、それでも、私は忘れない……舞子ちゃんたちのことを……」
「僕も……忘れない……」
美濃も舞子に言った。
「みんな、さようなら……」
「さようなら……」
珠洲、美濃と光姫、舞子、龍民とは会釈し合った。
その直後に珠洲と美濃の全身は完全に光に覆われ、そしてその光ごとその場所から消えた。
*
珠洲と美濃は真っ暗な闇の中を歩いていた。二人の姿だけははっきりと見えた。その上方から光の球体が飛んできた。
「……?」
それはやがて英子の姿に変わった。そして、徐々に消えていった。
「あ……英子さん……」
「お二人とも、本当にありがとうございました……、まもなく私の意思は消滅します。それと同時に、お二人は元居た時間の、元居た場所に戻れます……」
「いえ……、私たちは何も……」
「秀民くんを助けることができなかったので……」
「いいえ……、秀民の霊魂はすでに消えています……何の悔いもなかったからでしょう……」
英子は言った。
「そうですか……」
珠洲と美濃はまた少し目に涙を浮かべた。
「ええ……それでは、さようなら……」
「さようなら」
珠洲と美濃は殆ど同時に英子に別れの挨拶をした。その直後に、英子の体は完全に消えた。
*
「……」
珠洲は自分の目を開けた。
「あれ……」
珠洲は、自分が公衆便所の洋式便座に腰掛けていることに気付くと、若干顔を赤らめた。そして洗面台で手を洗い、白いハンカチで手を拭きながら公衆便所の外に出た。
そこは京都の新京極蛸薬師の交差点だった。珠洲と殆ど同時に美濃も男性便所から出てきた。
「あ……美濃くん……」
珠洲は顔を紅潮させた。
「珠洲ちゃん……」
彼女を見て美濃も顔を紅潮させた。珠洲はハンカチをポケットにしまおうとした。
「あ、あれ……?」
そして、そこに一本のボールペンが入ってきたことに気付くと、それを取り出した。
「ええっ……?」
美濃も慌てて短パンのポケットに手を突っ込んだ。そして珠洲のそれと同じボールペンを取り出した。
「え……」
珠洲と美濃はそれを見て驚き合った。
「あっ……いたいた」
そのとき、耐が二人の元に駆け寄ってきた。司も彼女の後ろにいた。
「なんだ……、二人とも、トイレに行ってたんだ……」
「探したよ……」
「え……」
珠洲は二人の姿を見て少し泣きそうになった。
「耐ちゃん、司くん……、あの、僕たちを探すのに、どれくらいかかった……?」
美濃が二人に聞いた。
「え……多分、五分か十分くらいだけど……?」
耐は不思議そうな表情をしながら答えた。
「え……」
それを聞いた珠洲と美濃は、ボールペンを胸の辺りに翳したまま、互いに目を合わせた。
「二人とも……?」
司も二人のその様子を不思議そうに見つめた。
「え……あ……アハハハ……」
美濃は司の声に気付くと、自然と笑い始めた。
「フフ……フフフ……」
珠洲もそれにつられて笑い始めた。ただ、二人の目には涙が浮かんでいた。
「へ……?」
耐と司はきょとんとした表情で二人を見た。
「あ……、ごめんね、勝手に盛り上がっちゃって……」
「あの……司くん、耐ちゃん……、ごめん、今日は僕と珠洲ちゃんの二人だけになりたい……ちょっと、話したいことが沢山あって……」
美濃は恐る恐る司と耐に言った。
「あ、私も……」
珠洲も二人に言った。
「あ……そうなんだ……」
「なんか……大変そうだね……」
「うん……ごめん……。また明日……」
珠洲は耐と司に別れの挨拶をした。
「また明日……」
耐と司も珠洲と美濃に挨拶をした。
「それじゃ、行こう……」
珠洲は美濃に言った。
「うん……」
美濃も明るく答えた。
そして、珠洲と美濃は新京極通りのアーケード街を南に下っていった。
2016年8月13日 発行 初版
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※ アイコンの上半分の拾い物のイラストはつばさちゃんっぽいですが、小説の珠洲ちゃんの外見イメージにも近いです。