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木を伐る

佐藤清春

SKKT



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 また、はじまった――と私は思った。私はりんいているところだった。子供のひとりはキッチンの椅子に座っていた。もうひとりは夫が膝に抱いていた。夫と義母ははは食事が終わると居間に行き、すぐにその話をはじめた。彼女の部屋の窓を覆う、木の話だ。
「まったく、あの木にはうんざりだよ」と義母は言った。
 その声は甲高く、キッチンにまで聞こえてきた。あるいは、私にも聞かせようとしているのかもしれない――私はそう思った。
「あれのおかげで私の部屋は朝が来たのもわからない。昼の日中でも薄暗くて、一年中湿っぽくて、まったくカビでも生えてきそうさ。私はね、あんな部屋に住むのはこんりんざいごめんだよ。あの木が私のちゃんとした生活の邪魔をしてる限りはね」
「ああ」とだけ夫は言った。それから、テレビのチャンネルをかえた。野球からニュースへ、ニュースから野球へ。
「だいたいね、あんなとこに木が植わってること自体がおかしいのさ。なんだってあんな馬鹿なとこに木が植わってるんだろうね。こういうことはきちんとしとくべきだったんだよ。不動産屋に文句を言うのがいいと思うね、私は。向こうにはこういうのを説明する義務があった。そうだろう? それとも、そういう話はあったのかい? それで、あんたたちは私をあそこに押しこんだのかい?」
「よしてくれよ、押しこんだなんて言うのは」と夫の声。彼は疲れていて、苛々していた。声だけでもそれは充分に伝わってきた。
「そりゃあ、あんたたちの部屋は二階で、さぞかし過ごしやすいだろうけどね。私の部屋は地獄だよ」
「だったら、二階に住むかい?」
「なに言ってるんだい、私の膝が悪いのを知っていて。私が立ったり座ったりするのもつらいって、あんた、知ってるだろ? 階段なんか上がれやしないよ。それでなくたって、ここの階段はやけに急じゃないか。あれだっておかしいのさ」
 私は林檎を持っていって二人の間に置いた。夫は私の顔を見た。彼はそうとう参っていた。ここに越してからずっと義母の部屋のことは彼を悩ましてきたのだ。でも、私はこの話にくわわりたくなかった。これは彼ら親子の問題なのだ。自分には関係ない話なんだと思うようにしていた。
「さあ、林檎が剥けたわよ。こっちにいらっしゃい」
 私は息子に声をかけた。息子は首を曲げて、父親を見た。まるでここから離れていいか指示を待っているような表情をしていた。息子はなにか行動を起こすたびに、周囲の大人たちの顔色をうかがうようにする。こういう環境のせいでそうなってしまったのかもしれない。
「あっちに行くか?」
 夫は、私を見たままでそう言った。きっと、息子がいる方が幾分落ち着くのだろう、余計なこと言うなよといった顔をしていた。でも、私は息子をこの二人の問題に巻きこんで欲しくないのだ。
「ここにいるよ、僕」
 息子はそう言って、林檎に手を伸ばした。私がキッチンに向かうと、義母はまた話しはじめた。
「とにかくね、あの部屋にこれ以上住むのは嫌なんだよ。あの馬鹿げた木があるうちはね。風が強い日には夜中じゅうざわざわいって眠れやしないんだ。それに、あんなとこに木があるってのは方角からいってもおかしいって話だよ。住む人の寿命を縮めるってね、そういう家相らしいよ。そんなふうに建てるなんて、そもそもの初めっからおかしいのさ」
「変なこと言わないでくれよ」
 私は娘の横で林檎を食べた。娘は絵を描いていた。お人形さんのような人物が四人と、遠近感のないお家だ。
「あら、上手に描けたわね」と私は言った。
 だけど、そのほとんどは赤で描かれていた。こういうのも環境のせいかもしれない、と私は思った。なにかで読んだことがあるのだ。描く絵に、その子供のストレスがあらわれるというのを。私には、娘の絵がそういったものにみえた。
「私だって、そんな馬鹿なこと信じちゃいないよ」と義母の甲高い声。娘は手を休めて居間の方を見た。
「でもね、実際のところ、あんな陰気な部屋にいたらほんとうに病気になっちゃうよ。――このことはまだ黙っていようかと思ってたんだけどね、最近、息切れがするんだよ。ちょっと歩くだけで激しく息があがるんだ。心臓がね、こう、どきどきして苦しくなるんだよ。もう私も長いことないのかもしれない。そう思うくらいつらいんだ。もちろん、家相がどうのなんて言いたかないよ。だけど、なにが起こるかなんてわかりっこないんだからね」
 娘はクレヨンを持ったまま居間の方を見ていた。私は他の色よりもひどく減っている赤いクレヨンが気になって仕方なかった。




 私たちがこの家に住みはじめて、半年が過ぎようとしていた。
 私と夫は結婚して六年目で、それまでは都内のマンションに夫婦と子供の四人で暮らしていた。夫は建設会社の営業職をしており、朝から晩までよく働いた。私の方は結婚するまでアパレルメーカーの広報担当をしていた。お互いの友人の紹介で私たちは引きあわされ、そして結婚することになった。もちろん、私は夫のことを愛していたし、夫も私を愛してくれていた。私は彼よりもふたつ年上で、結婚したときは三十歳だった。
 義母はまだ若いうちに私の夫の父親と死別し、その後、再婚をした。彼女にとっての二番目の夫はけっこうな財産家だったらしく、その間には二人の息子ができた。しかし、彼らが成長して後に、彼女は突然離婚した。原因はわからない。そのとき、私と夫は結婚間際だった。自分の母親が離婚することになったと話したとき、彼はこのように言った。
「ま、俺には関係無いことだけどな」
「でも、あなたのお母さんのことでしょう?」
 私はそのとき、そう言った。
「まあね。だけど、それでもやっぱり関係無いよ。前にも言ったよな? 俺の母親はちょっと変わってるんだ。こんなこと言いたくないけど、でも、そうなんだ。どうしてあの年になって離婚なんてするんだか」
 私はそれまでに一度しか義母に会っていなかった。結婚の了承をというよりは、その事実の報告といったくらいの会食で二時間ばかり一緒にいただけだ。普段は快活で地声の大きい夫が、母親の前だとまったく別人のようになるのが私には不思議だった。義母の方はいやに派手目な服を着て、明るくよくしゃべる方といった印象だった。
「この人なの。あなたが結婚するのは」
 義母は私をじっと見つめて、そう言った。でも、それ以降は自分の話しかしなかった。いかに自分が苦労してきたか――はじめの夫との死別、幼い息子を連れての再婚、それからのしんさん。話しかけるというのではなく、あくまでも自分の物語を語っているというしゃべり方に私は違和感を持った。それでも、つとめて笑顔で彼女の話を聴いた。だって、私が結婚するのは彼女の息子の方で、いかに彼女が変わり者(と、一度会っただけで私も思った)であろうとも、さほど関係がないと考えていたのだ。
「なにがあっても、あの母親と一緒に暮らすことにはならないから」
 夫はその会食のあとにそう言ってきた。言い訳じみたようにそれは聞こえたけれど、その頃の私はとくに気にもしていなかった。私はこの人を愛しているのだし、であれば、そのお母さんも愛せるはずと思っていたのだ。深く関わらなければ愛すべき人物にも思えたし、そもそもたいがいの人はどこか変わった部分を持っているものだ――と考えてもいた。
 それからも私は義母とあまり顔を合わせなかった。結婚式のときと、子供が生まれたときくらいだった。夫の弟たちとも私はほとんど会ったことがなかった。私にも弟がいるけれど、その関係はまあ良好であって、夫と私の弟はふた月に一度ほどのペースで釣りに出かけたりしている。夫は私の弟をまるでほんとうの弟のようにかわいがってくれていた。そのぶん、どうして自分の弟たちと疎遠なのかは不思議だった。
 去年の夏まで、義母は二番目の息子夫婦と暮らしていた。夫は積極的に彼らと関わろうとしていなかった。弟たちの方も連絡事項があるとき、それも重大なことがあったときにだけ夫に言ってくるくらいだった。

 だから、義母と暮らしている方の弟が私たちのマンションを訪ねてきたのには非常に重大な用件があったというわけだ。弱りきって苦りきったようなその弟は、私たちに向かいあうなりこう言ってきた。
「もう無理なんだよ。もうあの人と暮らすのは無理だ。というか、出て行っちまったんだよ、すでに。なにが気に入らないのか、身の回りの物だけまとめてさ」
「出て行った? どういうことだ?」
 夫はそう言って、私の顔を見つめた。
「勝手にアパート借りてさ、今はそこに住んでんだよ、母さん」
「いつから?」
「もうふた月にはなるな。暑い盛りに出てったから。で、家賃はこっち持ちなんだ。――なあ、わかるだろ? 俺だってそれほど稼ぎがいいわけじゃない。子供だって生まれるんだ。余計な出費なんて出せないんだよ」
 彼はおおげさな身振りをしながら、そう言った。感情が言葉だけではあらわしきれず、やむなく手が動いてしまうといった感じにそれはみえた。夫は前屈みになり、テーブルの上で手を握りあわせていた。目をつむってもいた。まるで、そうしていれば痛いことが気づかぬうちに過ぎ去ると考えている子供のようだった。私は夫の握りあわされた手に自分のを重ねた。その手は硬く、そして冷たかった。
「それに、たまに戻ってきちゃ文句を言ってくるんだ。もう俺たちには手に負えない。カミさんはこのままじゃノイローゼになっちまうよ。なあ、兄さんは長男なんだぜ。なんとかしてくれよ」
 その、なんとかしてくれというのが、つまりは私たちが義母と暮らすことになった理由だった。当然のことだけど、私たちは何度も話しあった。夫は二人の弟と頻繁に連絡を取りあうようにもなった。そして、よく私に謝ってきた。しかし、謝るというのは、義母と暮らす決断をしているようにも思えた。
 ちょうど――といっていいのかはわからないけれど、その頃の私たちには様々なことが起こってもいた。変化のきざしみたいなものは、かたちはすこしずつ違うものの確かにあったのだ。そのすこし前(春頃のことだ)から、私たちは家の購入を考えていた。子供もある程度は大きくなっていたのでマンションは手狭に感じられたし、家賃だって馬鹿にならない。それに、夫は自分の家を持つことに強い憧れのようなものを抱いているようだった。私だって自分たちの家を持つのに反対する理由はなかった。ただ、もちろん、それは私たち四人で住む家ということだ。
 私の方には以前勤めていた会社から戻って来てくれという誘いがあった。子供に手がかからなくなったら働きに出たいと考えていたので、それは魅力的な提案だった。それに、六年もブランクがあるというのに声をかけられたことを誇らしく思ってもいた。
 夫は私が仕事に戻りたいと考えているのを知っていた。だから、それを私の説得に使うことができた。あるとき、夫はこう言ってきた。
「君が働きに出るっていうなら、子供たちの面倒は誰がみるんだい?」
「まあ、それは考えなくちゃならないわね」
 私はそうこたえた。
「仮に、ほんと仮にだよ、オフクロと一緒に住むようになるなら、その問題はクリアできるというわけだ」
 夫は軽い感じにそう言ってきた。幾つかある選択肢の中から適当にそのひとつを出してみた――という具合にだ。でも、そうじゃないのが私にはわかった。夫の方でもわかっているはずのことだ。
「ねえ、あなたはどう考えてるの?」
 私は夫を正面から見て、そう訊いてみた。
「なにが?」
「お義母さんと住むことよ。子供たちの面倒をみてもらえるなら、私は働きにいけるわ。それはわかってる。でも、これってそんな単純なことじゃないと思うの。だって、誰かと一緒に住むのってそういうことでしょ? ベビーシッターを雇うのとは違うのよ。私たちに家族が増えるということだわ」
「なにが言いたいんだよ」
 夫は、私の視線を外して、そう言った。
「あなたに、お義母さんと一緒に暮らす覚悟があるのかってことよ」
「覚悟? 覚悟だって?」
 あまり深入りすると夫は不機嫌になった。彼はこのことを真剣に考えていない――と私は思った。時間が過ぎ、結果が訪れるのをただ手をつかねて見ているだけなのだ。一番の当事者なのに、とも私は思っていた。最終的には自分の身に降りかかることなのに深刻になるのを怖れている。いろいろと話しあっているのに、最も重要なことが抜け落ちているのは、つまるところそういうことなのだ。しかし、私も同じだったのかもしれない。夫が不機嫌になると、私はしゃべるのをやめた。テーブルの上に置いてあるものを意味もなく片づけようとした。
「悪かった。この話はもうやめにしよう」
 夫は突然にそう言ってきた。私の肩に両腕をのせ、額をあててきた。夫の息が私の顔にあたった。それが私にはわかった。私も夫の背中に腕をまわし、軽く背中をさすった。そうやって、私たちはこの問題を先送りにしていった。




 子供たちを寝かしつけて階下に降りると、居間には誰もいなかった。つけっ放しのテレビは増水した川のニュースを流していた。どこか西の方に大雨が降って、川が決壊し、幾人かの死者が出ていた。そのニュースだ。画面の下には知らない人の名前と年齢とがあらわれた。私はテレビを消そうと手を伸ばした。でも、茶色く濁ったほんりゅうが大きく映しだされると、それをじっと見てしまった。空は暗く灰色で、雨が降っていた。画面を通してだと、それはシャープペンシルの芯のようにみえた。とてもあんな大水をよんだものにはみえなかった。こんなささやかなものが、これほどの力を持ち、これだけの破壊をもたらすとは思えなかった。しかし、確かに川は増水し、様々なものをみこんでいったのだ。私は座って、その濁流を見つめていた。
 テーブルの上には、食べ残しの林檎がひとつ入った透明なボウルがあった。私はテレビの画面を見つめながら、しだいに自分の目がその変色した林檎に向かっているのに気づいた。ニュースは切り落とされたかのように終わり、スポーツの話題に変わった。健康そうな二人組が満面の笑顔であらわれ、「今日の劇的な試合」について話しはじめた。私はスイッチを切った。ボウルを手にキッチンへ向かうと、そこでもしばらく手にしたものを眺めた。林檎には年老いた者の顔にできるのと同じような染みができていた。切り口は乾き、やはりのようなものが一面に浮かんでいた。私はそれを持て余し、どうすべきか迷った。
「なにしてんだ?」
 風呂からあがった夫が近づいてきて、隣に立った。
「これ、どうしようかと思って」
「ああ、残しちゃったんだな」
 夫は興味なさそうに言った。タオルで髪を拭きながら、私と同じように変色した林檎を眺めた。私は彼の顔を見なかった。なんとなく、そうしたくなかったのだ。
「捨てちまえばいいだろ、そんなの」
 夫はそう言った。その声は不機嫌そうで私はすこしびくっとした。夫は私のお尻に手を添えてきた。それから、耳許で囁くようにこう言った。
「シャワー浴びてこいよ」
 私は身体を動かして夫の手を離そうとした。しかし、身体をよじらせるのに合わせて夫の手も動いた。撫でまわしたりはしないけれど、ぴったりとお尻のかたちにそって手をつけていた。
「先に行ってるからな」
 夫はそう言って、私の側を離れた。私はゴミ箱を開けると、そこに変色した林檎を放って蓋を閉めた。

 私がベッドに入るまでのあいだ、夫は横になって煙草を喫っていた。義母のことも、木についてもなにも言わなかった。まるで、そんなことは自分の問題として存在していないかのように振るまっていた。でも、苛々しているのはわかった。私が横になると、彼は脚をからみつかせ、胸をまさぐってきた。
「ほら」と夫は言った。ほら――と。
「いやよ」
 私はそう言って、胸におかれた夫の手を握った。
「ちょっと気分がわるいのよ」
「そうかい」と夫は言って、でも、さらに身体を寄せてきた。彼は義母と衝突すると、どういうわけか私としたがった。
「やめてよ」私はすこし強く言った。「ほんとにしたくないのよ」
 夫は「そうかよ」と言って離れた。端の方へ身体を動かし、背中を向けた。夫のたてる鼻息は不満そうに聞こえた。私はなにか言った方がいいかもと思った。でも、なんて言えばいいかわからなかった。身体は硬くなっていた。じきに夫の息は眠ったときのものに変わっていった。私はその音の変化を聞いていた。そして、夫が眠ったあとに身体の強張りがとれたのを感じた。
 その夜、私は夢を見た。細かな雨が降りつづき、それが集まり、大きな流れになっていく夢だった。ニュースで見たのとはすこしだけ違っていた。しかし、濁流は川の岸を崩しながらすごい勢いで流れていた。増水した川は様々なものを呑みこみ、浮かばせてもいた。そのうちの幾つかは私の見知ったものだった。とうの昔に忘れ去ったはずのものたち。そういうものが浮かんでいた。私は川岸に立ち、それを見ているのだ。なんであんなものが流されているのだろう――と私は思った。それで、身体を濁流に近づけた。そのときに私の足許は崩れ落ち、私をもその流れの中に呑みこんだ。
 夢の中で気がついた私は仰向けになっていた。力がまったく入らず、大きく両手を広げたままでいた。身体の半分以上は川に浸かっていた。ただ、私を覆うそれは水とは思えなかった。――泥だ。粘性がある、重たい泥。その泥はあたたかく、私はしだいにそのあたたかな泥に埋もれていった。しかし、不思議と怖くはなかった。口にも鼻にもそのあたたかな泥は入ってきたけれど、私はそれを受け容れた。諦めたのではなかった。ある意味、私はそれを喜んで受け容れたのだ。そして、私は頭まで泥に浸かった。目よりも上に泥があがるとき、私は空を見あげた。嘘のように空は青かった。私にその運命をもたらしたはずの雨はもう降っていなかった。それまでに見たこともないような澄みきった青空。私はそれを最後に見て、あたたかな泥に完全に埋もれた。




 仕事の忙しさは、私に充足感をあたえてくれていた。
 ブランクがあったぶん私の立ち位置は以前のものと違っていた。それでも私には人脈があったし、会社がそれを求めているのも了解していた。会社にいるほとんどの時間を私は打ち合わせにつかっていた。出版社の知り合いに連絡をとり、社内の企画部と話しあい、上長から裁可を受ける。同期で入社した男たちは皆ある程度のポストに就いていて、そういうのには正直悔しい部分があったものの、仕方ないことだと思うようにしていた。
 以前の私は会社でのつきあいも欠かさなかったけれど、子供がいて、その面倒を義母がみているのを考えると早く帰らざるをえなかった。基本的に家事は私がやり、義母はなにもしない。子供たちの世話をするだけというのが、とくにそう話しあった結果というわけでなく、我が家の決まり事になっていた。
「でも、よかったんじゃない? こうやって仕事にも戻れたんだし」
 ランチをよく一緒に行く同僚はそう言った。彼女はひとつ年上で結婚もしておらず、だから――というわけではないかもしれないけど――ずっと仕事をつづけていた。彼女は経理部の人間で、しっかり者の美人だ。どうして彼女が結婚しないのかはわからない。
「旦那さんも優しいんでしょ? 二人のかわいい子供もいて、会社からは頼りにされている。素晴らしいことじゃない。六年もあいだがあるのに声がかかるなんて、あまりないことよ」
「そうね」と私はこたえておいた。
 私たちは以前からよく行っていた簡単なフレンチを食べさせる店にいた。彼女はよくしゃべった。そして、いろいろな質問もしてきた。私の生活、夫のこと、子供たちのこと、そして義母のこと。たぶん、彼女もとくに興味があって訊いているわけではないのだろう。これもブランクがあったぶん、共通の話題が乏しかっただけなのだ。ただ、私はそういうのにうんざりしていた。
「で、姑さんとはどうなのよ? 突然一緒に住むことになったわけでしょ。やっぱり、あるわけ? テレビとかでやってるいざこざみたいのは」
「まさか。あんなのはないわよ」と私は言った。それから、口許を紙ナプキンで拭いた。
「ま、ちょっとくらいはあるけど、子供たちの面倒をみてもらってるんだから、こっちとしては感謝するしかないわ」
「そうよね。そうでなきゃ仕事に戻れなかったんだしね」
 私は食欲をなくしていた。プレートにはまだ半分ほどラムの香草焼きが残っていた。つけあわせのサラダもあらかた残っていた。私はテーブルの上で手を組みあわせ、店の外を見た。根掘り葉掘り訊かれることに苛々していたのは確かだけど、それだけではなかったのかもしれない。質問にこたえることで、私の中にあった不確定なものたちが意味を持つようになっていく気がしたのだろう。自分で意義づけをしていなかったことを、しっかりと見すえることは苦痛だった。
 私は目を細めた。陽射しが強く、街路樹のイチョウはその葉をしおらせていた。緑色はくすみ、それが風に弱く揺れていた。大きな木――と私は思った。そして、そのことにも苛々した。
「どうしたの? なにを見てるの?」
 彼女は笑いながらそう言ってきた。
「木よ。あの木」
 彼女は振り向いて、しばらく外を眺めていた。
「木って、あれ? 街路樹のこと?」
「そう。大きな木よね。風が吹いて、枝が揺れてるわ。葉はきっとざわざわいってるんでしょう」
 私はそのように言っていた。目をテーブルに戻し、フォークを手に取った。しかし、食べようとはしなかった。プレートの上のものたちをじっと見つめていた。肉のその切り口からは赤い血が滲みでているようだった。私にはそれはなにか異様なものにみえた。さっきまで口にしていたものなのに、それは既に性質を変えてしまったように思えた。
「あの木がどうかした?」
 彼女は顔を戻し、覗きこむように私を見た。それから、私がじっと見つめているプレートの上のものたちに目を落とした。
「ただの木じゃないの。なにかあるのかと思ったわ」
「そうね。ただの木に違いないわ」
 私は首を弱く振りながら、そうこたえた。彼女は顔をさらに近づけさせ、小声でこう言ってきた。
「あなた、大丈夫? どうしちゃったのよ」
 その表情は、ほんとうに私がどうかしてると思っているものにみえた。
「どうもしてないわ」
 私はフォークを静かに置いた。窓の外をふたたび見た。
 たとえ私がどうかしていたとしても、この人に理解できるわけがない――そう思っていた。




 その日も義母は木の話を持ちだした。
「ほんと、うんざりさせられるよ」
 彼女は甲高い声でそう言った。
「なんで毎日あんな馬鹿げた木のことで、こんな気分にならなきゃいけないんだい。昨日の夜も私はきちんと眠れなかった。あの木のせいでさ」
 夫は腕組みをして目をつむっていた。顔は赤黒くなっていた。Tシャツから突き出た腕には強い力がこもっているのがわかった。子供は二人ともキッチンの椅子に座り、そこから居間の方を窺っていた。目を忙しなく動かして、落ち着かない様子だった。私は洗い物をしながら、たまに子供たちを見ていた。
「どうしろっていうんだよ」と夫が言った。
「どうもこうもないよ。あの木をってくれさえすればいいのさ」
「あの木を? あんな太い木をかい? どうやって?」
「そんなこと私にはわからないよ。あんたが伐れないってなら、人に頼めばいいだろ」
「人に頼む?」
 夫の声は、それまでに聞いたことがない音として私の耳に届いた。私は自分が怖れを抱いているのがわかった。しかし、その怖れがどんなもので、どこからもたらされるのかはわからなかった。既に忘れられた過去の記憶がそうさせているのかもしれない――私はそう思った。なぜ、そんなふうに考えたのかもわからなかった。ただ、忘れているはずのことがどこかにまだ残っていて、それが怖れの原因になっているような気がしたのだ。私は子供たちを強く抱きしめたくなった。そうすることで自分の怖れを弱めたくなった。
「それにどれだけの金がかかると思ってるんだい?」と夫の声。「いいかい、母さん、俺たちにそんな余裕はないんだよ。ここのローンだってあるんだ。子供たちだってこれからもっと金がかかる。木を伐るなんてことに出せる金なんてまったくないんだ」
 それからしばらくは誰の声も聞こえなくなった。まるで誰も彼もが死んでしまったかのように家の中は静まった。私は子供たちを見た。彼らは背筋を伸ばし、手をテーブルの上においたまま固まっていた。私の手許では蛇口から水が流れていた。それはボウルに入り、そこから溢れていった。しばらくその様を見ていた私は水をとめると手を拭いて、子供たちのもとへ行った。
「それじゃあ、あんたたちは私にずっとあんな部屋に住みつづけろっていうんかい」
 義母の声がした。しかし、その声は甲高いものではなかった。震えるような、すっと消え去るようなものだった。私は子供たちの背中に手を添えた。娘は振り向いて私を見あげた。その表情は硬くなっていて、感情が強く渦巻いているのがわかった。その感情をどう表現していいものか、このまだ幼い娘は知らないのだ。
「さ、お風呂に入りましょう」
 私は子供たちにそう言った。つとめて明るい声を出そうとした。でも、自分の声がどのように子供たちに聞こえるのか不安になった。娘は同じ表情のままで軽くうなずいた。息子は居間の方を見たまま動こうとしなかった。
「こんなに具合が悪くなってるっていうのに、毎日眠れもしないで苦しんでるっていうのに、あんたたちは私のことを放っておこうっていうんかい」
 義母はハンカチを取り出して目許にあてていた。ほんとうに泣いているのかはわからなかった。しかし、いずれにしても、そんな姿を子供たちに見て欲しくなかった。私はじっと夫を見た。彼の赤黒くなった顔だって子供たちに見せたくなかった。怒りに覆われ自制心を失っている父親の姿――そんなのは私自身見たくもない。かたく組まれた夫の腕は、その力強さを家庭を壊す方向に使おうとしているようだった。
 夫は私に見られているのに気づくと、目を合わせてきた。そして、ゆっくりと、「そういうことじゃないよ」と言った。
「いいや、そういうことさ。あんたたちは、このあわれな年寄りを薄暗い部屋に押し込んで、自分たちだけ遊んで暮らそうと思ってるのさ。子供たちを押しつけて、のうのうと楽しくね。――ああ、誰も私のことなんか気にかけてくれないんだ。私が病気になってもかまわないって思ってるんだ」
 義母がそう言っているあいだも夫は私を見つめていた。彼の表情は私に理解してもらいたいと訴えているようにみえた。でも、私はなにを理解すればいいのかわからなかった。
「さ、お風呂に入るの」
 娘は椅子から降り、弟を引っ張った。そう、あなたたちはこんなのを見てなくていいの――と私は思った。できれば口に出して言ってやりたかった。息子はやっとのことで椅子から降りようとした。
 そのとき、一際大きい夫の声がした。
「違うって言ってるだろ!」
 私たちはキッチンに立ちすくんだ。子供たちはまるでむちで打たれたかのように身体を強張らせ、居間の方を見た。
「何度言ったらわかるんだ! 母さん、ここに住んでいたいならすこしくらい我慢してくれよ。なんなんだよ、あんな木のことなんて。そりゃ、すこしくらいは薄暗いだろうさ。風が吹けば音だってするだろう。でも、それがなんだっていうんだよ!」
 私は夫を見た。彼はまったく人が変わったようにみえた。どこかで会ったことがある人――でも、思いだすことのできない人のようにみえた。記憶のどこかに同じような経験があり、それを夢を見るかのように目の前に出されている。そういう感じがした。娘は私の服をつかみ、息子は脚に抱きついてきた。義母の声が、それこそあわれな様子で聞こえてきた。
「どこにいっても邪魔者にされて、私はもう死んでしまいたいよ」
 私は子供たちの耳をふさいでやりたかった。そして、できることなら自分の耳もふさいでもらいたかった。


 夫はベッドの上に座りこみ、背中をまるめていた。もう一時間もそのかっこうのまま動かず、なにも言わなかった。私は天井を見つめていた。眠れるはずがなかった。風が出ていて、それは窓枠を揺らす音として聞こえていた。義母の部屋の窓を覆う木はざわざわと鳴っているのだろう。目をつむり、私はそれを想像してみた。大きな木が風に吹かれ、葉をざわつかせている様を。
「思うんだけどな」と夫が言った。呟くような言い方だった。
「あの人はすこしおかしくなってるんだろう。自分の母親をこんなふうに言うのは嫌だけど、でも、たぶん、そうなんだ。イカレてるんだよ」
 私は黙っていた。なんてこたえればいいかわかるはずもなかった。夫を見ると、彼はまだ同じ体勢のままだった。私を見てもいなかった。
「木が問題じゃないと思うんだ。なにか不満を言いたいだけなんだよ。昔からそうだったんだ。なにかが気にくわないのさ。なにかが、ね。しじゅう文句ばっかり言って、かまってもらいたいだけなんだ」
 風は強まっていた。そのうちに雨が窓を叩く音も聞こえてきた。そういえば、誰かが今日は夜から天気が荒れると言っていた――私は夫を見ながら、そう考えていた。でも、誰が言ったのか思い出せなかった。ニュースで言っていたのかもしれない。会社で聞いたのかもしれない。背中をまるめた夫の姿は誰かに似ているように思えた。何度も見たことがある人物――私の父親なのかもしれない。しかし、その確信はなかった。私の記憶はあいまいになっていた。その曖昧さが、怖れを抱かせているのかもしれない。
 私は弱く首を振った。しっかりしたものが私には必要なのだ。揺らがないもの。確信を持たせてくれるもの。かつてはそういったものを私も持っていた。しかし、今はどうだろう? 私は曖昧なものに囲まれている。そして、自分自身も曖昧になってきている。 
「なんか言ってくれよ」
 夫は、私の顔を見た。しかし、その目は、やはり私に確信をあたえてくれなかった。
「このまま、あの人と暮らしていていいのかな? 俺にはわからないんだ。このままじゃいけないとは思うよ。でも、じゃあ、どうすればいい? あの人は俺の母親だ。それだけは変えられないことだ。イカレてたとしても、どうにも俺の母親であることに変わりない」
 私は起きあがり、夫の肩に手をおいた。それがどういう意味を持つのかも私にはわからなかった。だけど、そうするしかないのだ。
「そうね」と私は言った。「あなたがどう考えていても、あの人があなたの母親であることに違いないわ」
 私は自分がなにを考え、それをどうこの人に伝えようとしているか不安になった。雨は窓にあたった。私は川を思った。記憶にある川の光景を思い浮かべていた。川面に雨があたり、それはすこしずつ水嵩を増していく。穏やかな流れは、じきに急になる。
「とにかく、今はお義母さんの不満をとってあげましょうよ」
 私はそう言っていた。
「あの木が邪魔だっていうなら、枝を払ってあげるだけでもいいわ。なにかしてあげるべきなんじゃない? そうやって邪魔なものを全部なくしてあげればいいのよ」
「そうかな?」と夫は言った。「やっぱり、そうするしかないかな」

 夫はそれから私を求めてきた。私はなにも考えずに身体を横たえ、彼のしたいままにまかせた。――いや、なにかは考えていたのだと思う。でも、それらはつかむ前に手をすり抜けるように消えていった。雨の降る音がずっと聞こえていた。夫の息づかいの方が近くに聞こえるはずなのに、私の耳に入るのは雨の音だけだった。
 夫は寝てしまった。私は横になったまま目をあけていた。自分が空っぽになったのがわかった。私の中にあるはずのものは、いつの間にか無くなってしまった。風は辺りをざわつかせ、雨は激しく降っていた。外側にあるものたちは関知できるのに、私の中には私自身すら無くなってしまった――そう考えても、悲しくもならなかった。

 朝には、雨も風もやんでいた。

 私は早くに起き、掃除をはじめた。外は嵐の名残ですさんでいた。晴れて雲ひとつない空だったけれど、痛んだ葉が落ちたのだろう玄関の前には濡れた落ち葉が幾つもあった。私はそれらを掃き清め、ちりとりに入れていった。その間中、私は妙な音を聞いていた。ギー、ギーと音がする。ギー、ギーとだ。辺りを見渡してもそんな音がするものはなかった。私はちりとりを片手に家の裏手に向かった。そこに行くまでにも落ち葉はあった。私はそれを全部片づけていった。ギー、ギーという音はずっと聞こえていた。
 裏手にまわると、そこには義母の部屋を覆う木がある。私は妙な音がそちらから聞こえてくるのを知った。そして、家の角を曲がるときには私にはわかっていた――音の正体も、それを誰がたてているのかもだ。その音は、木を伐っている音だ。のこをひき、皮を切り、その内側の柔らかい部分を削りとっていく音だ。

木を伐る

2016年8月31日 発行 初版 ver.2-10

著  者:佐藤清春
発  行:SKKT

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佐藤清春

けっこう、いろんな感じのものを書いております。 まあ、だいたいは馬鹿な感じのものが多いですが、深刻っぽいのもあります。 順次、こちらで公開していきますね。 ブログもご覧ください→ http://ameblo.jp/kiyoharu-satou/

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