齊官英雄待望の掌編小説集「人生の時の瞬」、いよいよ上梓!
これは、大都会に生きる人々の人生における危機の瞬間や愛とその不在、或は、都会の孤独や忍び寄る過去の重みなど、人生の時の時を鮮やかに描いた孤独と喪失に彩られた稀有な物語である。
この物語には、細やかなドラマを生きている人間、歴史と切り離されて生きている人々、現在においても尚その過去を生きている人たち、等が居る。彼等は皆、優しさと畏怖の感覚を持った郷愁の捉われ人なのである。
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この本はタチヨミ版です。
齊官英雄の掌編小説集「人生の時の瞬」。
これは、大都会に生きる人々の人生における危機の瞬間や愛とその不在、或は、都会の孤独や忍び寄る過去の重みなど、人生の時の時を鮮やかに描いた孤独と喪失に彩られた稀有な物語である。
第一話「見果てぬ夢」
昔の夢を今も忘れられずに居る画学生だった男と女
第二話「踊り子」
キャバクラのダンサーと石原裕次郎になり損ねた男との恋
第三話「酒場で拾った与太話」
常連中の常連客達による酒場での取って置きの与太話
第四話「男の中の男」
毎年の誕生日が来る度に必ず二人の「男の中の男」を追想する男
第五話「同窓の誼」
自分の夫が嘗て同級生の恋人だったのでないかと苦悩する若い妻
第六話「再びの共生」
別れた妻が心筋梗塞を患って植物人間と化したのを機に再び彼女と共生した男
第七話「哀惜の譜」
嘗ての恋人が自分の子を始末し、彼女が早逝したことを知って悔恨に涙する事業部長
第八話「回り道」
婚約者の事故死で奈落の底に落ち乍らも、嘗ての恋人に再会して真実の気持に気づく女
第九話「老女優」
週に二回、シティホテルで昼食を摂る有名な老女優の過去
第十話「大晦日の夜」
大晦日の晩は必ず妻と語り合う男
第十一話 「ボクサー崩れ」
女の為に警察の犬となった男とカトリック信者の女歌手との恋
この物語には、細やかなドラマを生きている人間、歴史と切り離されて生きている人々、現在においても尚その過去を生きている人たち、等が居る。彼等は皆、優しさと畏怖の感覚を持った郷愁の捉われ人なのである。
(一)
夏のバカンスの最後の日、日高達夫は一カ月だけ借りたビーチ・ハウスでひとり横たわって、海の音に聴き入っていた。シーツは砂でざらついていたし、口中には荒れた前夜の名残が粘つくように残っていたが、日高は身じろぎ一つもしなかった。
彼はじっと耳を澄まして、波は砂浜のどの辺りまで寄せて砕けているのだろうか、と考えていた。
車のドアが三回、バシンと鳴る音がした。砂利道を行き交う車の音も聞こえる。
子供たちが家に入って来る気配がした。男の子の甲高い声と、何かを強請っている女の子のキンキン声。眼を閉じて静かに横たわっていると、今度は妻がキッチンに入って来る気配がした。網戸がパタンと閉まる音に続いて、人間の声と言うよりは、その影のような話声が聞こえる。やがて、網戸が勢いよく閉まり、その余韻が消えると、再び、虚ろに吠える波の音が大きくなった。
明日の朝になったら都内の自分の事務所に出向いて、これまでいつも休暇明けにしてきたことをしようと、と彼は思った。
先ず、馴染みの喫茶店でブラック・コーヒーとデニッシュ・パンの遅い朝食を摂る。それから、魔法瓶にコーヒーを入れて貰い、古びた魔法瓶から漏れるコーヒーでバッグの底を濡らしながら事務所に着く。空いている方の手でドアの鍵を開け、魔法瓶をテーブルに置いてライトを点ける。そして、コーヒーを飲み、その日最初の煙草を一服喫ってから仕事に取り掛かる。そう言う習慣だけはどんなことが有っても崩したくはない。
彼の仕事は、色々な広告代理店の依頼に応じて、組絵を考案したり、イラストを描いたり、それらにコピーをつけたり、時として、版下を作ったりもすることだった。近頃では映画の絵コンテ作りやCMソングの作詞まで手掛けるようになっている。然も、マルチプルに才能が有り腕も良い方だった。仕事が速くセンスに溢れ、仕上がり度が高くて概ね好評だった。彼はずっと昔、画家になることを夢見て美大に通ったことが有ったのだ。
ざらざらしたベッドに独り横たわりながら、その夢をチラッと思い出した。キャンバスに描いた厚塗りの手触りや、ワックスとカゼイン膠で筋目をつける効果のことを思い返しながら、彼は煙草に手を延ばし、一本をじっくり吹かして、古い夢を頭から追い出した。
やや有って、家の中に戻ってきた妻が寝室のドアを開けた。打ち寄せる波の音が大きく響き渡った。
「わたしたち、行くから」
日高は黙って居た。
「行くわ、って言っているのよ」
「今週中に電話するよ」
「それだけ?子供たちにサヨナラは言わないの?」
「ああ、良いよ」
さっと背中を向けるなり妻は出て行った。
日高は、彼女と知り合った頃のことを思い出そうとした。
初めて会った日が、どうしても思い出せない。当時流行っていた唄や、漠然とした社会の状況も憶えているのだが、彼女と初めて会ったのが何処で、いつだったのか、どうしても思い出せない。それはどうでも良いことでもあるし、どうでも良くないことでもある。彼は又、タバコに火を点けて、暫く、吹かした。
妻と子供たちが出発する音は聞きたくなかった。
日高の頭の中には、怒りと憎悪で歪んだ前夜の妻の顔が大写しになっていた。
彼女の怒りは、前日、子供達と一緒に浜辺で昼食を摂った時から徐々に醗酵していたのだった。
その時、近くにビキニ姿のグラマラスな若い娘が居た。日高は彼女をじっと眼を凝らして見つめ、頭の中の画用紙にスケッチを試みた。見えない木炭が彼女の腰からヒップの双丘にかけての三角の線を描き、思い切った弧を描いて、信じられない程に成熟したヒップの線を捉えた。彼女の肌は小麦色に輝き、オレンジ色のビキニが鮮やかに映えていた。小さめのバストとは対照的なヒップは、ボウリングの球を半分に割って二つに並べたようだった。彼女自身、自分のそう言う容姿を完全に意識して動いていた。きっとダンサーか運動選手だろう、と彼は思った。
「いやらしいったら有りゃしないわね、その眼つき」
妻の声が冷ややかに言った。
日高が答えた。
「否、俺はいつも冷静な眼で女性の肉体を見ているんだ」
彼は説明した。
「何遍も言っているじゃないか。俺は画家になる教育を受けたことが有るんだ。肉体と言うものを美学的に見る癖がついているんだよ。肉体と言うもののプロポーションや面や量感と言うものを俺は観るんだ。それに、俺は見るだけで変な行為に及ぶ訳じゃない。俺にとって女性は画廊の絵みたいなものだ。俺は芸術家だったんだ、忘れたのか?」
「あきれた芸術家も在ったもんだわ」
フン、と鼻を鳴らして子供たちの手を取ると、妻は浜辺を遠ざかって行った。
その場に残った日高は、魔法瓶に入れて来たウイスキーのロックを呑みながら、もうあいつと暮らすのはうんざりだ、とつくづく思った。
俺は自分の生き方を変えてまで、あいつを幸せにしてやろうとした。俺は見果てぬ夢を捨てて、下らない仕事を熟して来た。それも皆、あいつを食わせてやる為だった。家庭を作り、子供を育て、この湘南の海で夏のバカンスを楽しむ為だった。それが、ちょっとセクシーな若い女の身体を眺めたからと言って、ああまで毒づかれるとは・・・・・。
風が冷たくなったとき、日高は立ち上がった。妻は戻って来なかった。
毛布と子供たちのサンダル、それに魔法瓶を抱えると彼は砂丘の間を通り抜けてビーチ・ハウスに戻った。
あの若い女性は影も形も無かった。彼女は、地下鉄や街角や劇場のロビー、或いはデパートやコーヒー・パーラーなどで彼が見かける他の幾多の女性たちと同じだった。ただ其処に現れ、彼の眼に貪られて消えて行っただけだった。
その晩、日高は調理の当番だったので、ビーフ・シチューを作ることにした。このバカンスの間は、夕食は妻と交替で作る約束になっていた。
彼はキッチンで、牛肉とポテトとセロリと人参を切り刻んだ。玉ねぎの皮を剥いて、ウイスキーを一口呑んだ。相変わらずの冷たい沈黙を守って妻が戻って来たが、子供たちの賑やかな話声に日高の怒りは和らげられた。
彼はひたすら料理に精を出した。シチューにスパイスを加え、ピカソの奔放な絵具の使い方や、眼に着くもの全てをコラージュにしてしまう天才のことを考え乍ら、独自の味付けをした。シチューは絵やコラージュに似ていた。どんな材料でも使えるのである。
子供達がテーブルに就き、やがて妻も席に着いた。日高がシチューを各自の皿によそって食事が始まった。皆、黙々と食べた。妻はかなり時間をかけて噛んでいた。
やがて、ボイルド・ホットドックを食べ終わった子供たちはリビングへ移って行った。
と、妻がつと立ち上がり、皿を持ってキッチンに歩み寄ると、シチューを流し台の排水口に放り捨てた。
「あなたの料理はあなたの性格と同じで、やたらと淡泊なのよ」
言い捨てるなり日高の脇を通り抜けて、キッチンからポーチへ、そして、日高の人生の圏外へ去って行ったのだった。
車のドアがバタンと閉まる音がする。諍い合う子供たちの声も波の音に掻き消されて微かにしか聞こえない。エンジンが唸り、タイヤが小石を撥ね上げて、車は走り去った。
日高はふう~と煙草の煙を吐き出した。白い壁を後ろにふんわりと浮かんだ紫煙の輪を眺めながら、今、あいつは何を考えているのだろう、と思った。子供たちを後部シートに座らせ、怒りに眼を引き攣らせてハンドルを握りながら、高速道路を飛ばしている彼女の姿が脳裏に浮かんだ。すると、嘗て二人で鳥取へドライブ旅行をした時の記憶が、ぎらつく真夏の太陽に炙られて砂丘を突っ切って旅した記憶が、蘇えった。
あの旅の途中、日高は何とか妻に自分を理解して貰おうと努めた。当時は未だ子供も生まれていなかった。車を運転しながら彼はしきりに話し掛けたのだが、妻は眼前に広がる風景に眼を据えて真面に聞こうとはしなかった。
この俺と言う男はどういう人間か、せめてそれだけでも理解して欲しい、と彼は思った。
俺はお前に、この俺と言う人間を丸ごと預けよう、その俺を受け止めることが出来たら、お前も俺にお前と言う人間を丸ごと預けてくれないか、俺はお前の肉体とではなく、お前という人間と寝たいのだ・・・・・。
が、妻は彼をチラッと見ただけで、直ぐに話題を日常生活のあれこれに切り替えてしまった。それは、そんな話は今更何もしたくないの、という彼女の意思表示だった。それっきり、温泉宿に着くまで、彼女は口を利かなかった。
日高はゆっくりとベッドから起き上がった。茹だるような暑さの外を窓から見遣りながらひげを剃った。去年の夏季休暇には何をしていたのだろう、来年の夏季休暇には何をしているだろう、と考えた。冷蔵庫を開けるとウイスキーの小瓶の最後の一本が入っていた。ストレートで一口呑んで、口中を漱いだ。それから、ごみ類を全部大きな青いビニール袋に入れて外に出た。少し離れた所で、隣のハウスの夫妻がワゴン車に荷物を積み込んでいるところだった。ごみ袋をポストの隣にある大きな鉄網の収納庫に入れて、家の中へ引き返した。ラジオからロックン・ロールが流れている。道路を行き交う車の数が増えつつあった。
スーツケースに荷物を詰め、窓とドアに施錠して、鍵を管理人に返しに行く。外へ出ると焼けつくような暑熱で朝靄は消えていた。
車を運転しながら、東京へ戻ったら直ぐにマンションを捜さなければ、と日高は思った。養育費や慰謝料を払わなければならないから、あまり家賃の高い所は無理だな、出来れば渋谷辺りにしておこうか・・・・・。そして、ベッドとテーブルと椅子を買う。これまで妻と一緒に買い揃えて来たものを、また最初から揃えて行かなくてはならない。トースター、ナイフ、フォーク、箸、カップ、皿、テレビ、ステレオなど、など、など・・・・・。それらが整うまでは友人の山崎の処で世話になろう。彼も離婚して独り暮らしの身だ。きっと解ってくれるだろう。
MGが一台、小柄なボディーに不敵な表情を漲らせて追い越して行った。助手席には、黄色いスカーフで髪をきっちり巻いたあのグラマラスな女性が座っていた。ハンドルを握っているのは、頬にも顎にも髭を生やした中年の男だった。日高は、見る見る遠ざかって行く車の後姿に手を振って別れを告げた。
(二)
上の二人の子供を学校に送り出すと、奈津子はキッチンの大きなテーブルの前に座って、朝刊紙の第一面に目を走らせた。出て行った筈の子供達が、いつまでもズキズキと疼く歯痛のように未だ心にしがみ付いている。見えない子供たちが奈津子に触れ、縋りついて、彼女の掛け替えの無い朝の一時にまで割り込んで来る。下の子がイチゴ・ジャムを零して行ったらしく、新聞を持ち上げようとすると、食卓にへばり付いていた。零れたジャムは粘ついてしつこいところが子供に似ている。違いが有るとすれば、子供は濡れた布巾でさっと拭い去ることは出来ない、という点だろう。奈津子は息を止めて、上の部屋で眠っている末の子が泣き出す瞬間を待ち構えた。
記事を読もうとするのだが、活字が左右に流れて一向に焦点を結ばない。
フランス南部ニースでのテロ事件。大統領が言明したところでは。スポークスマンは本日記者会見で。軍のクーデターに怯えるトルコ。それらの記事の内容がすんなりとは頭に入って来ない。殺戮にせよ災厄にせよ、余りにも規模が大き過ぎて、活字の背後の現実が遠く霞んでしまう。一時に八十人もの人間が轢き殺される情景など、もはや想像出来ないし、クーデターがどういうものかも正確に思い描くことが出来ない。
何かの抜け殻のようにぐったりと椅子に凭れかかって、奈津子は壁を見つめた。
奈津子はふと、昔観た映画のことを思い出した。「パリの日本人」。
画家を夢見て独りパリにやって来た十八歳の日本の少女。言葉も解らず、価値観も異なり、習慣や感覚の相違に翻弄されながらも、絵を描くことで大人の女性へと成長して行くハートフル・ストーリー。あの映画を観てから一年というもの、映画の中のヒロインを真似て、せっせと自分の部屋で画架に向かって励んだものだった。あの映画は確か渋谷のアート・シアターで観たのだ。あれは何年だったろうか?美大で絵を学んでいた頃だったから、もう十五、六年も前の筈だ。一緒に観に行ったのは、当時、交際していた同級の日高達夫だった。確か、友人の部屋でドンチャン騒ぎのパーティーをやった時に紹介されて交際い始めたのだった。彼は後に自動車のフェンダーやダッシュボードをデザインしたらしい。あの頃もデザインやイラストは上手かったが、絵は下手な男だった。
上の階で末の子の泣き声がした。此方に来て構ってくれと執拗にせがむ甲高い声。思わず身体が強張り腰の辺りが疼き始めたが、もう一度新聞の紙面に眼を凝らした。
もしあの子を無視出来れば、泣き止むまで放っておくことが出来れば、無造作に引っ叩いて黙らせることが出来れば、ひょっとして、今の暮らしにも耐えられるかも知れない。
奈津子は、昔、ピカソの展覧会を見た後で自分の描いた絵を思い出そうとした。
あれは誰もが抽象表現派になりたいと憧れた冬だった。土日には彼方此方の展開会や画廊に通い、月曜日には皆こぞって、黒と白の大胆な図柄の絵を描き出すのだが、水曜日にはまた意気消沈してしまうのが常だった。
明るい陽光の差し込む広い邸宅のキッチンにじっと座り込んだまま、奈津子は、今の暮らしを白い布で覆ってしまえないものかと、と思った。
無関心の鎧はやはり綻びた。奈津子は二階に上がった。
子供のおむつを取り外し、身体を拭き、細い脚にパウダーを振りかけてから、じっと見つめた。これ以上してやれることは無いのに、未だ何かをせがんでいる。
彼女は、ぎゅっと抱き竦めて黙らせよう、と抱え上げた。生後七か月のその子を身籠った夜も、いつもと変わらぬ義務と責任の味気無い交わりだった。
子供を抱えて、複製画とポスターの掲げられた階段を降り乍ら、奈津子はまた家を出ることを考えた。その時の手順はもう何度も頭の中に諳んじて在る。樫のテーブルに夫宛の手紙を書き残し、子供たちを実家に預け、衣類をスーツケースに詰めて玄関から出る。その練習を頭の中で繰り返す時の彼女は、いつも二十二歳で、行く先は何時もパリだった。パリに着いたらソルボンヌでフランス語を学び、午後には存分に絵を描く・・・・・。
テレピン油やリンシード油の臭いを彼女は思い出した。キャンバスにパレット・ナイフで勢い良く絵具を塗りたくる時の感触を思い出した。誰もが抽象表現派に手を染めるようになる前の年、彼女はどんなに個性的な絵を描くことが出来たか・・・・・。
「パリの日本人」に出て来たヒロインのアパートメントの内部を奈津子は思い出した。
画架は北側の隅の窓の前に立ててあった。それに、煙突に置かれた植木鉢、鳩、ヒロインの野球帽、「天国への階段」と言う歌・・・・・。
だが、奈津子はパリに行かずじまいに終わり、代わりに結婚したのだった。
電話が鳴った。母からだった。
「子供達は元気?偶にはうちにも顔を見せなさいよ。旦那さんは忙しいの?万事順調に行っているのね?」
ええ、と奈津子は嘘を吐いた。
「順調よ。全て上手く行っているわ。もう最高。何もかも順調よ、順調なのよ・・・・・」
受話器を置いて、まだ自分にしがみ付いている赤子に気付いた時、彼女は泣き出した。
やっぱり駄目、家出なんて出来っこない。
夫がいかにも弁護士風のあの深刻な顔で空っぽの洋服ダンスを見詰める様や、犬小屋に容れられた犬を引き出すように子供たちを実家に受け取りに行くところを想像すると、とても耐えられなかった。やっぱり此処に座って、夫や子供たちの帰りを待つしかない。
奈津子はレンジに歩み寄ると、赤ん坊の為の哺乳瓶を温め始めた。
暫くして、赤ん坊をベビー・サークルに入れると、また新聞を開いて、天気予報の欄をじっと見つめた。東京の温度は二十五度、晴れ。明日にでも夜具を虫干ししてみよう、と彼女は思った。
(三)
日高達夫が地下鉄渋谷駅の階段を上がって道玄坂通りに歩を踏み出すと、陰気な小雨が止むことなく降っていた。
日高は買い物が嫌いだった。品物を選ばなければならないのが嫌だった。金やクレジットカードをやり取りするのが面倒だったし、店員の慇懃な態度も嫌だった。
彼は総合書店のショウ・ウインドウを覗き込んだ。
と、偶然、地下鉄の階段を上がって来た彼女の姿が眼に入った。
鳩尾の辺りで何かが疼いた。と同時に、恋の終わりの惨めさを噛み締めていた夜の記憶が甦った。あの夜、日高は、雪の降り頻る街を、肩を窄めて彷徨ったのだった。
今、彼女は赤い傘を少し上に傾げて歩いて来る。久方振りに見る彼女の顔は肉がついてやや丸味を帯びているし、眼尻にも小さな皺が見て取れるようである。が、歩き方は以前と変わらなかった。多くの長身の女性と同じように、僅かに上体を前に傾げた独特の姿勢である。頭にはスカーフを巻き、昔と同じように、何か考え事に耽って居るかのような真面目な表情を浮かべて、雨を避けつつ店舗の軒の下を歩きながら、彼女は真直ぐに日高の方へ向かって来た。
「奈津子・・・・・」
静かに声をかけると、彼女は顔を上げて此方を見た。不審そうに目を細く眇めている。細長い瓜実顔。
ジーン・パンツを履いていなくても、Tシャツを着ていなくても、彼女には俺と判るだろうか、と日高は思った。
暫しの後、彼女の眼がぱっと輝いた。
「日高さん!」
「やあ、久し振りだな」
嬉しさと同時に、何となく子供に還ったような気恥しさを、彼は覚えた。
「驚いたわ、達夫さんじゃないの。こんな所で何をしているの?」
「百貨店に行くところなんだ、家具を買いにね。今度、この近くにマンションを借りたものだから」
「まあ、良いわね。あなたが成功して独立したって話は、私も風の便りに聞いていたわ」
「なあに、所詮、仕事は仕事さ。他の仕事と変わりが有る訳じゃない。君はこれから何処へ?」
「子供服の専門店へ行くところなの。うちの子の洋服を買いに、ね」
「じゃ、コーヒーでも一杯付き合わないか?」
一瞬、彼女は躊躇って、思案顔をした。
が、直ぐに応諾の返事をした。
「ええ、良いわ」
日高は奈津子の右側に立ち、彼女から折り畳みの小さな傘を受け取って雨の中に踏み出した。確かこの通りを曲がった処に小さなレストランが在った筈だ、其処へ向かうことにしよう。
奈津子が緊張して身体を縮じ込ませている気配が感じとれる。彼はなるべく身体が触れないように注意した。
彼女は俺と同じ歳だから、今、三十六歳になっている筈だな、と日高は思った。最後に逢ったのは、お互いが二十四歳の時だった。ということは、これまで過ごして来た人生の、丁度、三分の一を隔てて再会したことになる。
「君は今、何処に住んでいるんだい?」
「世田谷の等々力よ。五年前にそこの家を買ったの。今じゃ三人の子供の母親なのよ、わたし」
「男の子?それとも女の子?」
「全部女なの」
奈津子が恥ずかしそうに笑った。
「一番下が未だ七カ月でね」
「ほう、可愛いだろうな。然し、そんな乳飲み子が居るんじゃ外出は大変だろうな?」
「ええ、でも、今日は実家の両親が来てくれているし、夫も早く帰って来る予定なの。あなたの方は?」
「男の子と女の子、一人ずつだ」
「じゃあ、奥さん、きっと満足でしょうね、両方のお子さんで」
「女房とは別れたんだ」
「まあ」
彼女は傘の下から日高を見上げた。
「ごめんなさい、わたし、知らなかったものだから」
二人は黙って次の通りの角を曲がった。が、彼の記憶に有ったレストランは消えていた。
丁度、五、六軒先に在るコーヒー・ショップの看板が眼に入ったので、彼は奈津子と一緒に少し歩調を速めて其方の方へ足を進めた。
そのコーヒー・ショップは洒落た店だった。
中央に二階へ続く螺旋状の階段が有り、壁もテーブルもカウンターもシックな木彫のデザインで、静かなクラシックの楽曲が流れていた。
時刻は午後四時を少し過ぎたところで、客は疎らだった。
コーヒーを二つとイングリッシュ・マフィンを二つ頼んでから、日高は訊ねた。
「で、石原君は元気にしているのか?」
「石原君?」
彼女は戸惑いの色を浮かべて、弄るように日高の顔を見返した。
「ああ、石原旭君のことね。さあ、どうして居るのかしら、知らないわ、わたし・・・」
「じゃ、君は彼と結婚したんじゃなかったのか?」
「当り前じゃないの。嫌ね・・・」
奈津子は笑い出した。
「彼とはあれっ切り逢ってないわよ、あなたが私の前から消えてしまった時以来、一度も」
日高の鳩尾の辺りで又しても何かが疼いた。
「あの頃、あの人は、私とあなたの仲が上手く行っていないんじゃないか、といろいろ心配してくれていたのよ。私はもっともっと絵を描き続けたかったし、画家になる夢も捨て切れずにいたし・・・・・あなたは絵を続けるかイラストや組絵の方に転身するかで迷って悩んでいたし」
「・・・・・・・」
「あなたが私の前から去って以来、あの人とは会っていないわ。会う必要も無くなってしまったし、ね」
あの深夜、日高は、道端に停めた車の中で石原と並んで座っている奈津子を目撃し、傷心、嫉妬、ある種の崩壊感などが渾然となって沈殿した心を抱えて、寒い雪の街を欝々と彷徨い、彼女の前から消えたのだった。
「わたし、そろそろ行かなければ」
奈津子が静かに言った。
「こうして、思いがけずお会い出来て、とても嬉しかったわ。わたしね、あなたはきっといつか名を上げるに違いないと、ずうっと思っていたのよ」
日高はおずおずと笑った。
「あのぉ、君。出来たらこれからも時々逢えないだろうか、何処かで一杯飲るとかして、さ」
言った途端、彼は後悔していた。
彼女の顔は無表情になり、それから、眼を細く眇めて言った。
「日高さん、わたしには夫も居るし子供も居るの。わたしは一家の主婦の身なのよ」
「ああ、そうだね。そうだったね。済まなかった、ごめん!」
奈津子は微笑して立ち上がり、戸口に歩み寄って忽ち人混みの中へ呑み込まれて行った。
日高は長い時間をかけてコーヒーを啜りながら座っていた。
やがて、やおら雨の中に踏み出すと渋谷駅に向かって歩き出した。少し雨脚が強まっているようだった。
駅前のフラワー・ショップの前を通り過ぎようとして、ふと、足を止めた。花が雨に濡れないように店員が店の中へ運び入れていた。片づけるのさえ、前面には一番背の低い明るい色の花を置くようだった。流石にプロの仕業だな、と彼は思った。
そうだ、俺にも色彩が必要だ、緑の森、オレンジ色の海、紺碧の空・・・・・。
それから、忠犬ハチ公の像をチラッと見やって駅のエントランスへ入り、其処で別れた妻に電話を架けた。
「子供たちに会いたいんだ、今から直ぐそっちに行くよ」
「止めてよ、そんな。第一、今日は面会日じゃないでしょう」
「面会日じゃなくても、会いたいんだよ」
「あの子たちが面食らうだけよ。お願いだから、止めて」
「なら、電話に出してくれよ、話したいんだ!」
「子供たちは話したがらないわ!」
「お前は俺と話したがらない。俺の血を分けた子供達も俺と話したがらない。一体、どういうことだ?」
「お前、と言う呼び方は止めて頂戴!二人はもう他人なんだから、お前呼ばわりされる筋合いは無いわ」
「解ったよ。俺は子供達と話したいんだ」
「ねえ、どうかしたの、あなた?」
「どうもしないよ、至って順調だ~な」
「仕事が上手く行ってないの?」
タチヨミ版はここまでとなります。
2016年8月25日 発行 初版
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