北上鋼一と北上冬湖。幼馴染の二人が6年ぶりに出会ったことで、物語は動きだした。
一族に受け継がれてきた特殊な力『道しるべ』をもった二人は、不思議な出来事にかかわっていく。
ジュブナイル伝奇シリーズ「白亜色の涙」第1巻の無料お試し版。
序章「白亜色の涙」
第1話「再会」を収録。
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それは正視できないほどおぞましく。
目が離せなくなるほど美しかった。
闇に飲み込まれ、底知れぬ深淵に沈む教室。
窓から差し込む満ちきった真円の、蜂蜜を溶かし込んだような琥珀色の光のもと。
セーラー服を着ているのに、まるで博物館に飾られている古風な日本人形のように思える少女は、左眼を覆う眼帯を音もなく外した。
﹁鋼一。そろそろ﹃泣く』わ」
感情があるのか無いのか。ぼやけた表情のまま、少女は宣言する。
その隣でしなやかにたたずむ少年が、穏かな笑みを浮かべて頷いた。
少女がゆっくりと瞼を上げる。
思わず悲鳴をあげたくなった。いや、きっと音になっていないだけで叫んでいたのだろう。
左眼にはあるはずのものがなく。赤黒く捩れて皺のよった肉に縁取られた、空虚な闇が口をあけていた。
今の今まで感じることのなかった臭いがゆっくりと鼻を刺激する。
腐った卵。澱んだドブ川。一ヶ月も放って置かれ半ば融けた肉。
押さえられない。何も入っていなかった胃袋は、酸っぱい液を口内へと押し上げる。
﹁美由紀ちゃん。吐いてもいいんだよ。これからもっと酷くなる」
鋼一と呼ばれた少年は、苦笑してそう言った。
﹁だ、大丈夫……」
無理していることを隠し切れない。きっと二人は分かってる。しかし、美由紀は甘えるわけにはいかなかった。
お願いしたのは自分なのだから。
﹁うん。でもホントに我慢することないからね? ……じゃ、頼むよ、冬湖」
少女はただ右目を微かに動かして、少年を静かに見つめた。
次の瞬間、左の眼窩に何かが見え始めた。
ぷつり、ぷつりと。張り詰めた袋に針で開けた小さな穴から漏れ出るように。
小さな雫が一つまた一つと数を増し。徐々に集まり、連なり、盛り上がり。
ついに堤を押し破って、ゆっくりと頬を伝った。
涙といえば、確かに涙なのだろう。
目より流れる液ならなんでもいいと言うのなら。
でもそれは、美由紀が見る限り。
いや、きっと誰であっても断言するに違いない。
あまりにも濃密な粘り具合。白く濁ったその色。独特の強烈な臭い。
ああ、間違えようがない。
それはまさに。他にたとえ様がなく、完璧に。
膿と呼ばれるものだった。
吐いた。
耐えられなかった。
崩れるようにしゃがみこみ、四つん這いになってしきりに腹を波打たせた。
涙がとめどもなく流れ、鼻水が止まらない。
臭いはますます強く。胃の逆転した蠕動は途切れることなく続く。
それでも美由紀は、胃液と鼻水と涙であご下まで濡らしながら、顔を上げた。
見届けることが自分の責任だと思ったから。
何度でも言おう。
それは、正視できないほどおぞましく。
目が離せなくなるほど、美しかった。
凍りつくような月明かりに包まれて。
少年は少女のおとがいに軽く指を添えると唇を頬によせ、腐った白濁液を喉を鳴らして飲んでいた。
まるで腐敗した恋人の死体を抱きしめるかのように。
それはどうしようもなく穢れているのに、どこまでも深く真摯な想いを込めた、この上なく純粋なキス。
どれほどの間、心を奪われていたのだろう。
気がつけば冬湖は元通り眼帯をはめていて、鋼一は胸あたりを押さえつつ全ての元凶となったモノを眺めていた。
白い菊の一輪挿しが飾ってある、薄汚れた机。
﹁どう? 鋼一」
﹁うん、馴染んできた。見えるよ」
鋼一は何度か瞬きをすると美由紀に近づき、ハンカチを差し出し告げた。
﹁お待たせ、美由紀ちゃん。始めるよ」
﹁お、お願い。どうかお願い。お姉ちゃんを、お姉ちゃんを助けて!」
ハンカチよりも鋼一の手にすがり握り締め、美由紀は何度も頭を下げる。
﹁美由紀、大丈夫。落ち着いて」
不思議なと言うより、不気味な左眼を持つ少女は煙るような微笑を浮かべて囁く。
﹁私たちは、そのためにここに呼ばれたのだから」
冬湖の声は、まさしくその名の通り、真冬の湖面を思わせる冷たく厳粛な、それでいてどこまでも美しい波紋を伴って、美由紀の心を鎮めていった。
これ、畳の匂いかな? と少年は思った。
庭に面している障子は開け放たれているから思いこみかもしれない。しかし、外からくる金木犀の芳香よりも強く感じられる。
少年は軽く深呼吸して、あまり経験のない香りを楽しんでいた。
学生服を着て薄手の座布団に正座しているその姿は、一本芯が通っていながら自然なしなやかさがある。
髪の毛のように細い鉄線を編み込んで作られた鞭のよう。見た目の柔軟さからは思いもつかない強靱さをにじませていた。
そんな年に似合わぬ雰囲気を持つ少年の前には、着物姿の女性が負けず劣らず美しく正座している。
床の間に飾られた純朴な水墨画の掛け軸が彼女のバックを飾り、不思議な風情を醸し出していた。桜色の薄い座布団には皺一つなく、本当に人が座っているのか疑わしくすら思える。
そこまで考えた少年は、相手の口端がかすかに動いていることに気がついた。
何かを促している。
少年はどうも散漫な自身の意識を引き戻して、女性をまっすぐに見つめると穏やかな声を発した。
﹁今日からお世話になります。鋼一と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
女性は柔らかに微笑みながら満足そうに頷く。
﹁ようこそ北上家へ。本日より貴方の義母となります、春菜です。よき母となるよう努力いたしますから、貴方もよき息子、よき北上の男子となるよう努められますよう」
畏まった挨拶を交わしお互いを見つめ合った後、二人は急に表情を崩した。続いて響きわたった笑い声につられるように、庭に咲くキンモクセイの花が香りを強くする。
鋼一は足を崩しあぐらをかいた。さすがに着物姿では真似するわけにもいかない春菜は正座のままで唇をとがらせて見せる。
その様が以前から知っている姿のままだったので、鋼一は笑いを納め感慨深げに言った。
﹁春菜さんを義母さんと呼ぶことになるなんてね」
﹁やめてよ、鋼ちゃん。確かに戸籍上は母になっちゃったけど、あんたに﹃かあさん』って呼ばれたら一気に白髪が生えてきそうだわ」
わざとらしく髪に手櫛を入れる春菜は、昨日別れを告げた実母とはまるでイメージが重ならない。やはり母と言うよりは姉のようだ。
鋼一はこれからの生活に慣れるまでかなり努力が必要だろうな、とどこか他人事のように考えた。
髪をすく手を止めた春菜は、静かに鋼一を見つめて語りかける。
﹁しかし、まさか鋼ちゃんに﹃出た』なんてねぇ……」
﹁春菜さん、それ何回目だよ。そりゃ、僕だってホントにあるとは思ってなかったからびっくりしたけどさ」
呆れたようにつっこみを入れる少年に、今日お腹を痛めることもなく母となった女性は神妙に頷き返した。
﹁分家とはいえ北上の姓を許されている私の家でも今のところいないからね。遠縁になればなるほど、血は薄まるから可能性も低いのよ」
﹁なんか怖い言い方だなぁ。まさか本家では近親婚とかしてないよね? マンガなんかでよくある設定みたいに」
﹁……今はないって聞いてるわ」
﹁今は、って。……やめとく。これ以上聞くとマジ洒落にならない気がする」
本気で引きかけている鋼一を前に、春菜も少しひきつった微笑みを浮かべる。
二人にしてみれば北上本家の過去を暴いたところで何の利益もないし、藪をつついて蛇でも出てきたらそれこそショックが大きすぎる。これでも一応、血縁なのだから。
﹁さわらぬ神に祟りなし」
﹁北﹃カミ』本家だけに、まさしく読んで字のごとく、ねぇ」
今後ことあるごとに本家が絡んでくるのは明白であったから、二人共にあまりいい気持ちではなかった。今まで関わりがほとんどなかった鋼一は不安も感覚的なものにすぎないが、春菜の方は分家なだけにこれからの展開も具体的に予測がつく。
鋼ちゃん、苦労するわね。
春菜はため息をつきながら心の中でつぶやいた。
﹃道しるべ』が現れてしまった以上、本家は絶対に彼を放ってはおかない。すでに北上の姓を受けてしまったし、もはや考えても始まらないことではあるのだが。
それは鋼一の方が理解しているらしく、困ったように頭を掻きつつ別の話を切り出した。
﹁それで、春菜さん。もう荷物は届いてるって聞いてますけど、僕の部屋はどこですか?」
現実的でもっともな問いに、春菜は慌てたように瞬きして頷く。
﹁あ、ああ。そうね、そうだった。今案内させるわ。もうすぐ来るはずだから」
﹁へ? 来るって誰が?」
曖昧な返答に間の抜けた反応を示した、その瞬間。
﹁……久しぶり」
開け放たれた障子の向こう。縁側に突如として人の気配と声が立ちのぼった。
鋼一が反射的に顔を向けると、セーラー服に身を包んだ少女が逆光の中に立っている。
彼女もまた少年にとっては旧知の間柄だったのだが、覚えている人物像とはかなり印象が違っていた。
﹁……えーっと」
﹁もう忘れたの?」
少女が感情を見せない口調で問いかけてくる。春菜も面白そうに伺っている様子が伝わってきて、鋼一は妙に焦った。
静かに深呼吸して、改めて少女を見る。
肩を覆いさらに背にもかかるだろう豊かな髪は、背後の陽光を透かして黒水晶を思わせた。
日本人離れした小さな顔に描かれる眉目は、高名な画家が渾身の筆致で表現したと言っても間違いではないほど素晴らしい形と配置で存在している。表情がまるで無いので極上の日本人形のようだったけれど。
しかし、その底に存在感があった。
例えるなら厳寒の湖。透明で分厚い氷の下で、蠢く冷たく鮮烈な水流。見ているだけで引きずり込まれそうに深く透き通った淵。
そのイメージが記憶を揺さぶり、鋼一の中に一つの名前を浮かび上がらせた。
﹁冬湖、か」
﹁当たり。久しぶりね、鋼一」
ほんの少しだけ煙るような笑みを浮かべた少女。その顔を見た時、鋼一の中でやっと過去と現在がつながった気がした。
﹁変わったなぁ。一瞬、誰かわからなかった」
素直な鋼一の呟きに、冬湖は笑みを消して反論する。
﹁うそつき。一瞬どころか、私が肯定するまで自信なかったくせに」
人形のように無機質な感情が薄い声色なのに、言葉そのものは親友にでも語りかけるような親しさがにじみ出ている。
鋼一もまた幼い日に立ち戻ったように軽口で応えた。
﹁ばれたか。いや、でも無理だって。最後に会ったのは小学四年の頃だろ。六年も経っているんだから、それだけ綺麗になったら分からないって」
﹁お世辞で誤魔化さないで。そういう鋼一は全然変わってないじゃない。私だけそんなに変わるわけないでしょう」
﹁……素で言ってるのか、嫌みで言ってるのか。どっちだ、今の」
﹁?」
冬湖が首を傾げた時、ついに我慢できなくなったのか春菜が笑い声をあげた。微妙に憮然としたままの鋼一を尻目に少女へと声をかける。
﹁眺めてると飽きないからもったいないけれど、冬湖、鋼ちゃんを部屋に案内してくれる? あなたが暇ならこの周辺も教えてあげて」
﹁ええ。そのつもり」
うなづく冬湖と春菜の会話に違和感を覚えた少年は、慌てて口を挟んだ。
﹁案内、って部屋はともかく、周りの地理も? 冬湖は春菜さん家にはよく遊びに来るのか?」
返る言葉に悪い予感が的中する。
﹁遊びに来るもなにも、私はここに下宿してる」
﹁あれ? 言ってなかったっけ? 北上本家から通える高校が無いものだから、冬湖をあずかっているのよ」
﹁……ってことは一緒に住むってこと?」
鋼一のかすれた一言に春菜は意味深な笑みを浮かべた。今一人の当事者は特に意識することもなく頷いてみせる。
状況が分かってしまった不幸な少年は、もう割り切るしか術がないことに気がついていた。
もともと養子縁組を受け入れた時点で、彼が抱く常識が通用しない世界に片足突っ込んだのは明白だったし、覚悟もしていた。あとは今この場の感情をうまく処理するだけのことだった。
まあ、慣れるしかないか。
なかば無理矢理自身を納得させた鋼一は、母となった女性と幼馴染に、軽く頭を下げた。
﹁じゃ、頼むよ、冬湖」
﹁ん、まかせて」
軽く応対して背を向ける冬湖。長い黒髪が少年の視界を流れる。鋼一は慌てて立ち上がり、その後を追いかけた。
﹁……変わらないわね、二人とも」
残った春菜は小さく笑みを浮かべつつ、そっと胸を押さえる。
﹃道しるべ』を持つ二人の行く末を案じて。
夕日に照らされて、小さな校舎はオレンジ色に染まっている。
生徒数に比べると無駄に広いと思われる校庭にはかけ声が響きわたり、それなりに活気があった。
﹁あぶない!」
叫びに反射的に目を向けた鋼一はそのまま首を傾けた。
耳をかすめるようにサッカーボールが通り過ぎる。打撃音から後ろの植木に直撃した様子が分かったが、気にする間もなく冷や汗が吹き出た。
﹁悪い悪い! 足元が狂ったんだ。当たらなくて良かった」
大急ぎで駆けつけてきた体育服姿の男子生徒が盛大に頭を下げた。服のラインは赤だから同じ一年生だろう。しかし、クラス内では見た覚えがなかった。
﹁びっくりした。焦った」
﹁いや、本当に悪かった。でも、いい反射神経してるなぁ。まだ部活決めてないんだろ、転校生。サッカーやらないか?」
謝罪から一転して勧誘に入る同級生に、鋼一は目を大きく見開く。なかなかいい根性をしているらしい。
﹁いや、部活はまだちょっと検討中なんだ。誘ってもらって悪いけど」
﹁そっか、もしやる気があるなら頼むぜ。なにしろ生徒数少ないからなかなか部員がなー」
﹁それ、転入当日にもクラスメイトからいわれたよ」
なにしろ一学年に二クラスしかない。サッカーのような集団球技は勧誘に熱心にならざるを得ないだろう。男子生徒は人好きする笑顔を浮かべた。
﹁オレ、笹原友紀。よろしくな」
﹁北川、じゃなくって北上鋼一。よろしく」
﹁知ってるよ。転校生は珍しいし。あの北上の従兄だからなぁ。やべ! じゃあまたな!」
グラウンドから呼び声が聞こえる。友紀はあわててボールを取りにいくと、すれ違いざま手をふって別れを告げた。
同級生の背を見送って、鋼一は小さなため息をつく。
高校一年の秋から転校。時期が微妙なだけに気苦労は多かったが、今のところ順調な滑り出しだった。
新しい学校もそれなりに楽しんでいる。人数が少ない上に地元中学からそのまま入学する生徒が大半だから、人付き合いも難しそうだと覚悟していたのだけれど、皆思いのほか気さくだった。特に問題はない。
一つだけ気になる点を除いて。
﹁またあったの?」
﹁ああ、今日はサッカーボールが飛んできた。明日は何かな」
自室でくつろいでいた鋼一は、訪ねてきた冬湖に恒例となってしまった報告をした。
この一週間、毎日必ず身の危険を感じる出来事が起きている。
例えば、登校中に石が飛んできたり、集団で階段を下りていると背中を押されたり、など。
命に関わるとまでは言わないがそれなりに怪我しそうなレベルの事故が、まるで定期購読した新聞のように毎日欠かさず届いている。もちろん契約した覚えなどない。
﹁これっていじめかなぁ。でも普通、転入初日からするか?」
手にしていた雑誌を半ば機械的にめくりながら、ぼやく鋼一の声にあまり危機感はない。対する冬湖も相変わらず無表情で、何を考えているか分からなかった。
座布団に正座して話を聞いている冬湖はなぜか桜色のジャージ姿で、純正日本人形のような容姿とギャップが激しかった。鋼一は、そういえば昔も部屋着はジャージだったなと、小学校低学年の記憶を掘り出して納得する。
﹁大丈夫?」
どうやら一応は心配しているらしい。表情から感情は読み取りにくかったが、声にはかすかな配慮を感じる。
鋼一は雑誌を閉じると、苦笑いを浮かべた。
﹁うん、まぁ今のところは。ヤバい時は迷わず﹃道しるべ』を使うつもりだし、大丈夫だよ」
﹁……そう。ならいい」
少年の言葉を聞いて冬湖は静かに頷く。そっけない答えだけれど安心した様子だったので、鋼一は表情を軽くした。
﹁それよりさ。結構有名人なんだな、冬湖。従兄だってだけでなんだか一目置かれている感じなんだけれど、一学期なにかやったのか?」
﹁なにもしてない」
﹁そうか? 男子がお前の事、やたら聞きたがるんだけど」
見た目はまさに和風美少女だけれど、この無表情、このそっけなさではあまりもてないだろうと思っていた鋼一は、クラスメイトの反応に少々驚いていたのだった。
目下、自分を襲う謎の事故よりも、そちらの方がよほど興味がある。
﹁何かしゃべったの?」
﹁……いや、なんにも」
ほんの少し目を細めて見つめる従妹から、名前が示す通り冷たい水を浴びせられたような感覚を覚えた鋼一は口を閉じるしかなかった。
﹁そう。これからもそのままでお願い」
お願いって言い方じゃないよなぁ、と思いながら、鋼一は頭を上下にふる。冬湖はただ無表情に従兄を見つめていた。内心はやはり読み取れない。
そもそも話すも何も、鋼一が知っている冬湖は小学四年生の時まで。それ以降は会うどころか、電話一本手紙一通、もちろんメールもやり取りしていない。しゃべりようが無いのだけれど、クラスメイト達にはそんな言い訳は通じそうになかった。そのくらい鬼気迫る問いかけだったのだ。
﹁……明日は疲れそうだな」
﹁事故には気をつけて。本当に必要な時には使うのよ」
﹁え。あ、うん。そうする」
疲れる理由が全然違う! と心の中で叫びつつ、鋼一はふと思った。
転校初日からいじめられるとしたら、考えられる原因は一つだけ。
冬湖。
冬湖の従兄だということだけは、転入初日に知れ渡った。その時から同級生はおろか、先輩達からも声をかけられている。
今のところは直接なにか言われた訳ではないし、むしろ﹃あの北上冬湖の従兄なら』と受け入れてもらっているのだから、良い影響しかない。
しかし。
歓迎の裏で嫉妬している奴がいるのだろうか。自分を邪魔だと思っている男でもいるのだろうか。
あらためて従妹を見てみる。
美しい艶やかな黒髪と、高名な画家がセンスの全てを尽くしたかのような絶妙に配置された顔のパーツ。
本来ならこうやって同じ部屋にいるだけで緊張する程のきれいな少女。小学校時代に遊んだ従妹という関係がなかったら、鋼一だって見惚れてしまうだろう。
これだけの美少女で、しかも一学期に何か目立つことをしたせいで全校生徒に一目置かれている。そんな冬湖と従兄で、一つ屋根の下で暮らしている自分。
あ、ヤバい。確かにいじめの原因になるな。この状況。
鋼一が頭を抱え始めると、冬湖は不思議そうに首を傾げた。
﹁なんとなく原因に見当がついた。ちょっと明日から探ってみるよ」
﹁……本当? 何か手伝うことある?」
﹁いい。いや、むしろ何もしないでください。お願いします」
懇願に近い従兄の物言いに、ますます不思議そうに眉を寄せる冬湖。
どうやら明日あたり、なにか結果がでそうだ。どんなことになるにしても出来る限り穏便に済ませたい。﹃道しるべ』もなるべく使いたくない。
そう考えながら、ため息をつく鋼一。
もちろん、現実は甘くはなかった。
見上げると視野に入る全てが凪いだ海のように広く淡く澄み渡っていた。光の元はその中心に座していて、今日も地上にあるものを分け隔てなく照らしている。
校舎の玄関から出て少し歩いただけで、抜けきらない夏の残滓がまとわりついてきた。衣替えはまだ早すぎるよな、と鋼一は上着のボタンを外す。
手には包みを携えて校庭の端にある林へとゆっくり向かう。教室でクラスメイトと食べるのもいいけれど、今日は一人になりたかった。少し前に目をつけていた木陰のベンチでランチタイムの予定だ。
﹁……さあ、チャンスだ。何がくるかな?」
緊張を紛らわせるために呟く。
今日はまだ事故に遭っていない。鋼一はあえて状況を作り出すつもりだった。
昨晩いろいろと考えてみたが、予想通り冬湖との関係が事故の原因だとしても、どうやって犯人を捜すべきか思いつかなかった。
そもそも鋼一は周りの人はみんな気さくだと認識していた。今までしっぽの先すら見せていないということになる。まだ会っていない人間まで範囲に含めると全校生徒が対象となってしまう。各学年二クラスしかない廃校寸前の高校でも、隠れようとしている人物一人を探すには充分多い。
だいたい一人なのか、複数なのか。校内の人間だけなのかすらはっきり分からない。対象範囲が広がっていけば、最終的に探し出せたとしてもとにかく手間がかかりすぎる。
結局、発想を変えるしかなかった。
こちらから動いて突き止められそうもないなら、相手に行動させて隙を作らせればいい。自分を使ったおとり捜査だ。
おとり捜査なんていうとかっこいい刑事ドラマのようだけれど、実際はそんな名案ではないことを鋼一は自覚している。おとり捜査自体が他に方法が無いときに用いられる下策だし、なにより今回は犯人の標的をおとりにするのだから。
それはおとりではなく生け贄だよなぁ、と自分自身につっこみを入れた。
相手も別に本物の刑事事件のような大事にしようとしている訳ではなさそうだし、鋼一としては直接話をするきっかけを作りたいだけだ。それでも襲われる危険性はあったから、やっぱりいい作戦とは思えない。自分の頭の悪さが恨めしかった。
校庭を取り囲むように植えられた木々の合間に笹が群生している。どうやら林の中には人の手がほとんど入っていないようだ。
マムシでも出てきそうだな、と足下に気を配りながら小道に進むと、入り口に﹃芸術の杜』と書かれた標識があった理由が分かる。
所々に人物や鳥などを象った石のオブジェが飾られていた。吹きさらしで放っておかれているのだろう、苔むしている。美術品としての価値は分からなかったが、その風情は林と一体になっていて、まるで古い遺跡のような雰囲気があった。
何となく眺めながら歩いていくと、雑草や笹が途切れた小さな空き地にベンチが二つ設置されている。
木漏れ日が微かな白い霞を漂わせながら差し込んで、地面に映る葉陰がわずかに揺らめく。周りの緑がほんのりと光を帯びていて、草木の中でその一ヶ所だけが柔らかに浮かび上がる様に見えた。
少し浮世離れした光景が気に入って、一度ゆっくりしてみたいなと思っていた場所だ。
しかし今日に限ってその場には、鋼一が想定していなかった存在がいた。
﹁……なんでいるかな、冬湖」
長い黒髪を後ろで束ねた従妹が、ベンチを一つ占領している。膝の上にとき色のランチクロスを広げ、小さな弁当箱を開いていた。
﹁お昼ご飯」
﹁見れば分かる。そうか、いつも昼休みになると姿を見なかったけど、ここにいたのかぁ」
クラスが違うせいか、まだ冬湖の学生生活を熟知しているとは言い難い鋼一には予測できなかった事態だ。
もし犯人が本当に鋼一に嫉妬して事件を起こしているのなら、まるで待ち合わせでもしていたかのようなこの状況はまさに火に油。火薬庫の隣で花火しているようなものだ。いつ犯人の悪意が爆発するか分からない。
穏便に話をしたいから冬湖の協力を拒んだのに、これではまったく意味が無い。
﹁あー。……じゃあね」
あわててきびすを返す鋼一に、冬湖は首を傾げながら呼びかけた。
﹁お弁当食べにきたんでしょ。そっちのベンチに座ったら。時間が無くなるわ」
﹁いや、散歩してただけ。邪魔しちゃ悪いから行くよ」
﹁私が鋼一を邪魔にする? そんなことする訳がない」
鋼一の答えを一蹴し、もう一つのベンチを指さす従妹の言葉。
こんな事なら自分の懸念をしっかり伝えておくべきだったと後悔したが、完全に後の祭りだった。ここで断ると事故とは別の危険が待ち受けている。これから少なくても二年と半年は同じ家に住むのだから。
鋼一は渋々冬湖と向かい合わせに座った。ため息をつきながら草色の包みを解く。弁当箱を開き、ゆっくり箸を進めるが味がほとんど分からない。心の中で作ってくれた春菜に頭を下げた。
そんな従兄に、冬湖は囁くように語りかける。
﹁ここ、きっと鋼一も気に入ると思ってた」
口にものを入れているので視線で説明を促した鋼一が見たのは、木漏れ日の中で淡く微笑む従妹の姿だった。
頭の奥で何かがはじける微かな音が聞こえた気がする。そして唐突に思い出した。ご飯を飲み込み、あたりを見渡す。
﹁ああ、そういえば似てる」
﹁そう。よく遊んだ場所」
小学生の頃、長期休みには北上本家に挨拶に行くことが多かった。
今住んでいる所よりもさらに田舎で山奥で、携帯の電波が届くか怪しいような場所だったが、その分自然は豊かだった。危険だからと範囲は決まっていたけれど、集まった親戚同士で森に、川に、山に遊びにいったものだ。
特にお気に入りだったのが、本家屋敷から少し離れた鎮守の杜の中。北上家の氏神が祀られている社の近くにある空き地。ちょうどこの場のように、木漏れ日に照らされた別世界のような広場だった。
﹁……鋼一が来なくなって、私もあまり行かなくなった」
﹁そっか。俺も行きたかったんだけど……」
子供だったから親の決定には逆らえなかったし、鋼一もあの頃を思い出すとあまりいい気がしないので、言葉を濁すしかない。
何となく黙ってしまった二人の耳に、予鈴の音が届いた。空になった弁当箱を包むと校舎へ歩き出す。口をつぐんだまま。
鋼一は先に行く従妹の後ろ姿を見ながら、考えに沈んだ。
結局何も起こらなかった。一回隙を見せた位では釣れないということなのだろう。それも予測の範疇ではあったが、先を考えると少々がっかりした。嫌なことはなるべく早く終わらせたい。
気落ちしつつ玄関先についた鋼一は、いきなり後から背中を叩かれた。
﹁おっす、北上。って名字で呼ぶとどっちか分かりにくいな。コーイチでいいか?」
﹁ああ、構わないけど、叩く前にまず呼んでほしいな、笹原」
昨日、サッカーボールを浴びせた友紀がにこやかに立っていた。人懐っこい雰囲気そのままの言動で、鋼一もつられて親しげに言葉を交わす。
﹁それでどうだ。うちに入る気になったか」
﹁昨日の今日で決心がつく訳ないだろ。もう少し考えさせてくれよ」
﹁ボールをかわした反射神経をもってるとは思えない優柔不断さだなぁ」
﹁なにげにひどい言い方するな。入る気なくす」
﹁うわ、冗談冗談。待ってる待ってる」
鋼一としては友紀も犯人候補だ。なにしろ今までの事故の中で唯一はっきりとした実行犯なのだから。しかしこうもあっけらかんとされると、無関係かもしれないと思いたくなる。
﹁鋼一、先に行くわよ。笹原君も急いで」
冬湖が待ちきれずに小走りになる。予鈴がなってからもう五分は経過していた。それほど余裕がない。
鋼一も友紀も遅刻してはかなわないと、少女の背を追いかけようとした時、頭上から叫び声が降ってきた。
﹁危ない! 冬湖ちゃん!」
危険を告げる声に反射的に自分の事かと思った鋼一は、後手に回ってしまった。続く名前に振り切るような勢いで顔を向けると、呼ばれて足を止めてしまった冬湖のすぐ上に何かが落ちてくるのが見えた。
何も考えられなかった。当然のようにふるった。
瞬間、冬湖の頭に直撃するはずだった植木鉢はくだけ散った。
まるでテニスラケットで真横にフルスイングされたかのように、直角に曲がって校舎の壁にぶつかって。
後には微かに残り香が漂う。ばらまかれた土が辺りに振りまいたものとはまったく違う香り。
それは確かに血の臭いだった。
鋼一に初めて﹃道しるべ』が現れた時、母は驚喜し父は顔を歪めた。
父母共に北上家の遠縁だったが﹃道しるべ』に関する口伝えの内容は真逆だったらしい。思えば父は常に北上本家に対して懐疑的だった。
父母は機会がある度に話し合っていた。二人とも基本的に穏やかで理性的な性格で良かったと鋼一は思う。なにしろ議論は完全な平行線で、落としどころが見えなかったからだ。結局、本人の意思を尊重することになった。
だから鋼一は告げた。北上本家に従うと。自分が争いの種だとはっきり分かっていたからだ。
鋼一が見る限り父母はお互いを愛していたし、この話題以外で喧嘩するようなことはない。むしろ子である自分が呆れる程、仲睦まじい夫婦だった。
そんな父母がなぜあんなに沈んだ顔で話し合わなければならないのか。まるで離婚調停中の別居夫婦のようだ。普段の姿を知っているだけに見ていられない。
本家についた所で本当の意味で親子の絆がきれるわけではない。母は本家への傾倒が激しいから言い伝えに逆らうのは辛いだろう。父はきっと耐えられるし理解してくれる。
そう伝えたとき、喜んでいいのか迷う母の隣で父は静かに頷いた。たぶんこうなると予測していたのだと思う。
ただ、父は何かを噛み締めるように重々しく告げた。
﹁いいか、鋼一。惑わされるなよ。﹃道しるべ』とは名ばかりだ」
いまだに意味は分からない。でも、忘れてはいけない言葉だと感じている。
﹁だ、大丈夫か、北上!」
その場に立ったままの冬湖へ友紀が駆け寄る。鋼一は左手で右手首を支え、素早くズボンのポケットに差し入れた。
上を確認すると三階のベランダで身を乗り出した女生徒と視線があった。慌てて身を翻し、見えなくなる。あの階は三年生のクラスだ。顔も覚えた。
狙って落としたのか、本当の事故かまだ判断はつかない。しかし少なくとも冬湖が危険にさらされたのは事実だ。
どういうことだろう。狙いは自分じゃなかったのか。それともただの偶然か。
答えが出るはずもない自問自答に心乱されながら、現場へ顔を向けると冬湖が冷静な目で見つめていた。
﹃道しるべ』を使ったことが分かったのだろう。
別に許可を得るようなものじゃないし、昨晩も必要なら使えと念押ししたのは冬湖なのだから気後れする事はないはずだった。しかしなぜかばつが悪い。
緊張しながら駆けつけた鋼一にたいして冬湖は表情はないまま、かすかに気遣いを声色にのせて言った。
﹁大丈夫?」
﹁え。いや、それはこっちの台詞だろ。怪我なかったか?」
﹁私は大丈夫」
意味は通じたがそれは二人の間だけだった。隣に友紀がいる以上詳しい話はできない。
﹁とにかく冬湖は念のため保健室にいけよ。破片とか髪についているかもしれないし」
﹁そうだな。鋼一の言う通りだ。先生には俺から話しておくよ」
﹁大げさ。心配性」
﹁何でもいいから、行ってこい」
押し問答しているうちに、本鈴が鳴り響く。とりあえずこの場から動こうとした三人の前に飛び出してきた影があった。
﹁と、とと冬湖ちゃん、大丈夫だった? ごめん、ホントにごめんなさい!」
駆け下りてきたのか、荒く息を吐きながら繰り返し頭を下げるのは、先ほど鋼一が覚えた植木鉢投下事件の容疑者だった。セミロングの髪を振り乱し眼鏡が落ちかける程、全身で混乱振りを示している。
﹁ちょっとお天道様に当てようとしたら、手を滑らせちゃって。下見たら人いるし、もうヤバいって大声上げて、固まっちゃって。えっと慌てて降りてきたんだけど、冬湖ちゃん大丈夫? なんともない?」
﹁私は見ての通り大丈夫ですから、とりあえず落ち着きましょう。和恵先輩」
どうやら二人は知り合いらしい。普段無愛想な冬湖が、ほんの少しだが慌てているようだった。
﹁もうなんともありませんから、先輩も授業に戻って……」
﹁そういう訳にはいかないわ! 下手すりゃ殺人犯になっちゃうところだったんだから。まずは保健室に行きましょう、そうしましょう!」
﹁……あの」
凄いものを目の当たりにしていると鋼一はうなった。あの冬湖がなす術無く保健室に連行されていく。
今は知らないが小学校の頃、冬湖は一度決めたらてこでも動かない頑固なところがあった。だから何かあると折れるのは鋼一の方で、よく一人で決めては先に行ってしまう冬湖の後を追いかけたものだ。
昔の印象が強かったし、再会した後も内面はそう変わっていないように思っていたのだが、上には上がいるらしい。
なかば口を開いて二人を見送った男達は、気を取り直して周りを見渡した。
﹁おい、鋼一。俺たちも行こう。ここの掃除はとりあえず後回しだ」
﹁あ、ああ。先生にも言っておかないと、完全に遅刻だし」
﹁って、どうしたんだ、その手」
友紀が目を見開いて鋼一の右腕を指差す。まずい! と思ったが遅かった。
差し込んでいたはずの右手がポケットからこぼれ落ち、力なく垂れ下がっている。学生服の袖口より見える手は指先まで赤黒く変色していた。まるで壊疽したかように。
実際、手どころか右腕全体の感覚がない。だからポケットから出てしまったことすら気がつかなかったのだ。
何も考えずに﹃道しるべ』を使ったせいだ。ただでさえまだ馴れてないのに、慌てて力を出してしまった。コントロールすればこれほどひどくはならなかったはずなのに。
﹁なんだか分からないけど、お前も保健室行ったら? それどう見ても平気じゃないぞ。先生には言っておいてやる」
﹁そうだな。そうする。悪いけど頼むよ」
見られてしまった以上、保健室に行ったほうが自然だ。それに今はその方が好都合だった。
先に階段の方へ走り出した友紀の背を見送りながら、鋼一は肩を落とす。
転校早々に失敗してしまった自分自身に呆れる。まだ現象と結果が結びついていないから単なる持病だとごまかせたが、十日もしないうちにこれでは先が思いやられた。
右腕を動かそうと試みるけれど、一ミリたりとも反応しない。
北上本家では﹃赤手』と名付けられている﹃道しるべ』。言ってみれば念動力のようなもので、視界に入る場所ならどこにでも届く右手の延長だ。
そう聞けばとても便利に思えるけれど、実際は副作用が半端ない。使った後は無理なことをした代償のように本物の右手が利かなくなる。うまく加減すれば早く回復するけれど、今回はなりふり構わず用いたから、一瞬だったのに右腕全体がもっていかれた。たぶん今日一日はこのままだ。
冬湖が心配したのはこの副作用。使った様子を見て、程度が予想できたのだろう。﹃道しるべ』はどれもまさに超能力だけれど必ず副作用がある、と北上本家の人が言っていた。
﹁本当、父さんの言う通りだよ。これでいったい何の﹃道しるべ』になるのやら」
保健室に向かいながら、鋼一はぼやいた。こんな﹃道しるべ』よりも、冬湖をも巻き込み始めた悪意への指針が欲しい。
しかし進展はあった。先ほどの事故を思い返しながらそう考える。得たヒントを次に繫げる為にも保健室へ行かなければならない。
目的地についた鋼一は、大きく深呼吸をしてから扉をノックした。
﹁どうぞ」
冬湖の声が聞こえた。鋼一はひと呼吸置いてからドアをスライドさせる。
保健室には二人しかいなかった。丸イスに座っている冬湖の髪を手に、破片が絡み付いていないか熱心に探している和恵。
壁にぶつかった植木鉢はかなり豪快に飛散したから長く豊かな髪に降り掛かっていてもおかしくない。後から怪我の原因にでもなったら大変だ。
﹁鋼一、どうしたの。まさかサボリ?」
髪をしっかり押さえられているので動けない冬湖は、視線だけ向けて確認する。
﹁いや、笹原に右手を見られちゃってさ」
﹁えっと、冬湖ちゃんの従兄の鋼一君だよね。怪我でもしてるの?」
反応したのは和恵の方だった。顔を上げて鋼一の右手を確認し息をのむ。
﹁ちょ、ちょっと! それ大丈夫なの? 痛くないの? どうする、どうしたらいいの!」
当然の反応だろう。腐って落ちそうな程赤黒く変色しているのだから。先ほどの友紀の場合は当の鋼一が平然としていたからそれほど心配していなかったようだが、普通だったら即病院行きを訴えてもおかしくない。
﹁先輩。大丈夫ですから」
鋼一は少し困った風に眉を寄せて、笑って誤摩化した。隠したのは右手ではなく内心。
目を白黒させ眼鏡を落としそうな程しきりに頷く和恵を窺いながら考える。
どうにも駆け引きは苦手なのだ。単純過ぎると自覚はあるけれど、直接聞いた方が早い気がする。
心定めた鋼一はまっすぐ和恵を見て、それこそ何の装飾もなく問いかけた。
﹁なんで俺や冬湖を襲ったんですか」
和恵は何を言われたか分からないようだった。
﹁あの、一体どういう事なのか。確かに冬湖ちゃんを危ない目にあわせてしまったけど、本当にわざとじゃなかったし。もちろん悪いと思っているけど、でも」
﹁本当に冬湖を襲ったのはわざとじゃないんですか?」
﹁本当に本当! 冬湖ちゃんを襲う気なんてなかったわ!」
﹁なるほど。じゃ、実は俺に落とす気だったってことですね」
﹁何それ。いいかがりにも程があるよ。何を根拠にそんなことを言うの!」
﹁根拠となるのかどうか、わからないのですけど」
鋼一はいったん口を閉ざして、もう一度植木鉢が落ちてきたシーンを思い返して確認しながら続ける。
﹁なんであの瞬間、下にいたのが冬湖だって分かったのかな、と思いまして」
急に水中へ沈み込んだように静けさが辺りを覆った。
あの瞬間、確かに鋼一は聞いたのだ。﹃危ない! 冬湖ちゃん!』と。
確信をもって言える。最近事故にあってばかりだったから危険を告げられると意識は自分に向く。あの名前を聞かなかったら冬湖が危ないと判断できなかった。﹃道しるべ』だって間に合わなかったに違いない。
植木鉢を取り落とし、下を見たら人がいた。危険を叫ぶまでは分かる。でもなぜ名前を言えるのか。真下にいる人物の頭のてっぺんだけ見て瞬間的に名前が出るだろうか。
考えられるのは始めから誰が下にいるのか把握していた場合だ。
しかし、もしただ植木鉢の整理をしていただけだとしたら、ベランダの真下にいる人物をいちいち確認などするだろうか。人がいるかどうか程度ならともかく。
仮に人の存在を確認していたとするなら、自分だったら植木鉢を落としそうな場所で持たない様に心がけると思う。
そうすると想像できるのは一つの光景。
ベランダから鋼一と冬湖が歩いてくるのを眺めていて、下を通る時にわざわざ植木鉢を手すりの外側に出して待っていた。
誤算は本当に手が滑ってしまったこと。鋼一が来た時に落とすつもりだったのに、タイミングがずれた。だから慌てて危険を知らせた。
名前付きで。
﹁推理というよりはただの想像ですけど、どうでしょう先輩」
説明終わった鋼一は相手の様子を見守った。
和恵は、ずれてしまった眼鏡を両手で直し、再び冬湖の髪を撫でると肩をすくめた。
﹁そこまで分かっていて、最後は直球でくる。頭は悪くないのに素直な性格ね。冬湖ちゃんから聞いた通りだわ」
なんの悪気も見せずに笑いかけてくる三年生に、鋼一の方が寒気を覚えた。
今回の植木鉢は当たりどころが悪ければ死んでしまってもおかしくない。今までの事故まがいの行為とは比べ物にならない危険度だ。それをまったく意に介していない。
﹁……理由を聞いてもいいですか」
緊張をたたえて絞り出すように問うと、和恵は目を見開いてから冬湖の方を見た。後輩が頷くと嘆くように天を向いてぼやく。
﹁本当に何も聞いてないんだね。うわ、それじゃわたしただの暴力犯って思われてるの? なんだかちょっとショック」
﹁あの、待って下さい先輩。っていうか、待て冬湖、どういう事だよ」
二人の様子から、否応無しに嫌な予感が背筋を駆け上がってきた。鋼一は従妹を睨む。
そういえばさっきから全然動じていない。いくら無表情でも反応がなさ過ぎた。
案の定、頭を下げる冬湖。
﹁鋼一、ごめんなさい」
﹁ああ、冬湖ちゃんを責めないでね。何をしていたのかは教えていないし、わたしの事は黙っておいてってお願いしたんだから」
後ろからかばうように冬湖を抱きしめる和恵。されるがままの従妹。
この姿。この親しさ。この言動。
鋼一は探していた最後のピースが見つかったように思い、同時に捩じり上げるような痛みを胃の辺りに感じ始めた。
聞きたくないけれど、無視できない。
﹁あの、先輩。お名前なんておっしゃるんですか。もちろんフルネームでお願いします」
﹁やっぱり鋼一君、頭いい。うんうん、前途有望ね」
予想を上回る点数を取った教え子をほめる家庭教師のごとき笑顔で、女生徒は名乗った。
﹁わたし北丘和恵。二人のサポート役ってところかな。これからよろしくね」
その名字は知っていた。鋼一の元の家、北川と同じく北上の遠い分家の一つだ。しかし、見知った顔ではない。本家に挨拶に行っていた子供のとき、同じような立場の親戚には一通り会っているはずだけれど。
﹁昔、お会いしたことありましたっけ」
﹁ふふ、それは秘密です」
謎めいた笑顔でかわされた鋼一は、今度こそ力が抜けてしゃがみ込んだ。友紀から事情を聞いた教師が確認に来るまで、ずっとそのまま。
﹁ようこそ、伝承研究会へ」
和恵は大手を広げて招き入れた。古い本のにおいが鼻先に触れる。
そこは社会科資料室に付属している小さな書庫で、面積のほとんどは書棚で占められていた。長机を囲むようにパイプイスが四つあって、かろうじて読書ができる程度のスペースしかない。
窓の外からは遠く生徒のかけ声が聞こえてくる。あの中には懸命にボールを追う友紀の姿があるだろう。
今日も誘いをスルーしてしまったことに少しだけ罪悪感を覚える鋼一だったが、まだ右腕も動かないし、とにもかくにも確認しなくてはならない。
﹁ま、会員はわたしと冬湖ちゃんしかいないから、同好会扱いだけどね」
イスを勧めてくる和恵は終始にこやかだ。だからこそどうも居心地が悪い。
緊張を隠せない鋼一の横を流れるような足取りで通り抜け、一席陣取る冬湖。鋼一にしてみれば和恵に対するのと同じくらい問い質したいことがあるのだが、従妹は相も変わらず無表情を貫いている。
﹁えっと。まずは謝らせて。鋼一君、いろいろ危険なことしてごめんなさい」
それぞれの席に落ち着いた途端、和恵は真っ先に頭を下げた。とっさに言葉が見つからず黙り込む鋼一にひたすら言葉を続ける。
﹁今のあなたがどんな人なのか知りたかったし﹃道しるべ』も確認するつもりだったの。一応、北上の婆様から聞いてはいたけれど、実際に見たことなかったからね。でも鋼一君、全然動じないんだもの。全部﹃道しるべ』を使わずに対処しちゃうし」
﹁これでも長年、剣道をしていましたから」
﹁それも聞いていたけどね。だから思い切ってもう少し危険なことを仕掛けてみようと思ったの」
﹁それで植木鉢、ですか。確かに僕の﹃道しるべ』なら問題ありませんけど、仮に反応できなかったら洒落にならないと思いますよ」
﹁北上本家から話が通っているなら鋼一君も薄々察しがついているだろうと思っていたから。……ドラマの悪役気分で調子に乗りすぎて。それに手を滑らせて冬湖ちゃんを巻き込んじゃったし。本当にごめんなさい」
先ほどまでの妙な明るさは鳴りを潜め、肩を落とす。そこで初めて鋼一は気がついた。和恵の表情がこわばっている事を。
そうか、先輩も緊張していたのか。
考えてみればその気もないのに大怪我させてしまう所だったのだ。普通なら気が動転してもおかしくない。いや、だからこそ事故直後に慌てて駆け下りてきたのだろう。あのうろたえぶりは演技ではなかったようだ。
やっと和恵が普通の人に思えてきた鋼一は、苦笑いを浮かべて妥協した。
﹁もういいです。冬湖も僕も怪我はありませんし。これからは襲ったりしないですよね」
今度こそ眼鏡が落ちると思う程に頭を振って肯定の意を示す先輩に、鋼一もまた頷いて応える。和恵はやっと素直な笑顔を浮かべた。
﹁よかった。許してもらえなかったらどうしようかと思った」
いそいそと眼鏡の位置をなおす先輩を見て、鋼一も胸を撫で下ろす。
この一週間悩んできたけれど、どうやら転校早々いじめだの、冬湖をめぐって修羅場だの、想像するに恐ろしい事態は避けられたようだった。
青春的なイベントは望む所だが、それはまず穏やかな日常があってこそ。一から十まで波瀾万丈なんて、これっぽっちも求めていない鋼一である。
ただでさえ﹃道しるべ』やら、北上本家やら、世間一般の常識から足を踏み外している。だからこそ平穏な毎日はできる限り大切にしたかった。
﹁では、鋼一君は知らないみたいだから、改めて北上本家からの指示を伝えるね」
ほら、きた。と鋼一は思った。
こうなることが分かっていたから、穏やかな日常は宝物なのだ。
和恵は姿勢を正し,唇を引き締め二人を見渡した。
﹁北上本家にはね、昔から裏家業があるの。一族に超能力を持つ者が現れるようになってからずっとね」
鋼一は思わず唸りたくなった。衝撃の事実だったのではなく、予想通りだったからだ。
子供の頃から不思議に思っていた。あんな山奥のお屋敷に、いかにも立派な高級外国車が何台も停まっているのを見てきたから。
少年の反応に、和恵も唇をゆがめる。
﹁まぁ、いろいろあるらしくて、わたしも今回のお役目以外のことは聞いていないわ。真っ黒な仕事なんてあったら関わりたくないしね」
﹁で、僕に﹃道しるべ』が出たから、そういう仕事をしなくてはいけない、と」
﹁そういうこと。どんな﹃道しるべ』かでお役目が決まる訳だけど、鋼一君の﹃赤手』はもろに念動力でしょ。で、ちょうど人がいなかったお役目がぴったりらしくてね」
もう嫌な予感しかしない。
鋼一がやるせなくあさっての方向を見ると、冬湖の視線が絡まってきた。
なんだろう。あの無表情な冬湖が、ほんのりと優しげな眼差しを注いでいる気がする。
﹁それに冬湖ちゃんの﹃道しるべ』と正反対で、相性がいいだろうって婆様が判断したみたいでね。二人で組んで欲しいんだって」
その言葉に静かに頷く冬湖は、やはりどことなく嬉しそうだった。
道連れができたって思ってるのかな、と鋼一は少々やさぐれた感想を抱く。
﹁冬湖の﹃道しるべ』ってどんなものなんですか?」
﹁それも聞いてないの?」
﹁はい。﹃薬師』って呼ばれているとは聞きましたが、百聞は一見にしかずだ、と」
﹁あ〜。﹃道しるべ』は副作用が大きいし、簡単に実演できないからねぇ」
どうやら和恵もはっきり教えてくれないらしい。それとも言葉では説明し難いのだろうか。
鋼一は今確認することを諦め、わざと話を反らせた。
﹁なるほど。だから先輩も僕の﹃道しるべ』を確認するためにあんな無茶をしたわけですね?」
﹁あ、あはは。本当に反省しているから、許して」
﹁……で、そのお役目ってなんですか」
ここまで来ると聞かないわけにはいかない。そもそも北上家に従い姓を変えた時からある程度は覚悟していた。
単刀直入な質問にまたもや家庭教師のような表情で頷く和恵は、北上家的には当然で、一般的には明らかに斜め上な答えを返した。
曰く。
﹁妖怪退治、って言うとちょっと語弊があるけど、要するに怪奇事件担当ね」
ゆっくり十数える程度の沈黙の後、鋼一は完全に座った目をして呟いた。
﹁はい。薮をつついて蛇どころかお化けが出てきました」
﹁鋼一、それ面白くない」
﹁洒落にならない。ホント、触らぬ北カミ家に祟りなし」
﹁洒落にはならないけど、駄洒落にはなるのね」
﹁戻っておいで、鋼一君。ちゃんとフォローするからね〜」
従妹の静かなツッコミと先輩の呼びかけに反応せず、ひたすら呟く鋼一は、すでに目の下にくまをたたえていた。
﹃道しるべ』の副作用ではない。たぶん、きっと。
その日、帰宅した鋼一は無言で夕食をとった後、自室にこもってしまった。
気持ちに折り合いをつけるための最後の儀式、ささやかな抵抗。
意味はなくても必要なことはあるのだろう。
こうして意思とは関係なく鋼一は巻き込まれていくことになる。
﹃道しるべ』に導かれるままに、冬湖と二人で。
白亜色の涙 第一話﹁再会」 了
第二話﹁水の檻」へ続く
2017年2月3日 [初版2016年10月18日] 発行 第2版
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記事を書く傍らで、小説執筆を趣味としてきました。
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