spine
jacket

シナモンカプチーノ

葵月さとい

シナモンカプチーノ

葵月さとい

目次

 地球には重力と引力がある。
 人間は生まれてからずっと、地に足をつけて生活をしている。
 ある程度の体積の物質であれば簡単に持ち上げることだって出来るし、オリンピック選手の様に鍛えぬいた肉体があれば、鉄の塊だって放り投げる事だってできる。
 しかしミスズは今、夜の闇に包まれた部屋の中――シングルベッドの上で押し潰されるような圧倒的な重力を感じていた。
 頭が割れるように痛い。
 頭から目の奥、そこから神経で繋がれた身体が痛みで強張っている。
 内臓がグルグルと掻き回されているようで、気持ち悪い。腹の奥からこみあげてくるものを宥めるように、何度も唾を飲み込んだ。
 幼いころから、疲れが溜まるとひどい頭痛に悩まされることが多かった。
 夕方の十七時を回った頃、ミスズは職場にいた。関東を中心に展開しているアパレル会社の東京本社で働くミスズは、同僚達と十二月にあるイベントの打ち合わせをしていた。
 この時から既に、身体が不調を訴えていた。
 二十時過ぎ、会社出て昼夜を問わず人で溢れている電車に飛び乗る。
 九月の未だ消えない熱の残る季節には、まずあり得ない寒気を感じ、ずきずきと痛みはじめた頭に、呼吸が浅くなる。
 冷たい汗が背中を伝っていき、この数か月で少し細くなった身体がぶるりと震える。
 三十歳を跨いでから体力の衰えを感じて、いろいろと気をつかっているつもりだったが、ここ一週間ほど睡眠時間を削って仕事をしていた。それがいけなかったのだろう。
 ――明日は、どこにも行かないで寝よう。絶対に寝よう。
 幸いなことに、明日は公休の予定だった。
 電車を降りてから、重い身体を引きずるように歩き、なんとか二階建てのアパートにたどり着く。
 扉に備え付けられたキーパッドにパスワードを打ち込み、鍵を開け中に入る。
 玄関に連なって、そこは六畳の簡素なキッチンスペースになっていた。
 ミスズは流し台に備え付けられている小さな引き出しを開けた。
 たしか鎮痛剤をここにしまっておいたはずだ。
 しかし見つけた鎮痛剤の箱の中身は空っぽ。頭痛なんかで死ぬわけじゃない、そう分かっているのに、薬が無かったという小さな絶望が、ミスズの足元をぐらつかせる。
 降り積もった疲れを閉じ込めた肉体は、心までも蝕んでいくようだった。
 もうこのまま寝てしまおう、ミスズは溜息をつきながらベッドルームに向かう。
 倒れこむようにリネンに顔を埋めると、いつも使用しているアロマオイルの香りがして、強張っていた身体と心が緩んでいく。
 薄い壁の向こうから、隣に住んでいる男女の談笑が聞こえてくる。
 普段なら人の気配を感じることで、なんとなくホッとすることもあったが、今はこの薄い壁を境に「天国」と「地獄」がくっきりと分かれているようだと、ミスズは思った。
 沢渡ミスズ。三十二歳。
 ミスズはひとりだった。隣のカップルのように、心を砕くほど好きだと思える人もいない。家族もいない。孤独だけが、ぴったりと張り付くようにミスズの心の中に存在していた。
 頭が痛い。吐き気もする。
 睡眠不足にもかかわらず、微睡みはなかなか訪れてはくれない。
 ――いっそ、気を失ってしまえばいいのに。
 ミスズは滲む目頭を隠すように、枕に顔をうずめた。



 冷たいフローリングを叩く、アイフォンの振動音にミスズは少し微睡んでいた意識を取り戻す。
 起き上がると、こめかみの辺りがズキリと鈍く痛む。
 ゆっくりとベッドから降りて、床に置いたままだったアイフォンを手に取る。
 時刻は二十二時二十五分。
 ディスプレイには「優子」という文字が浮かび上がっている。
 優子は学生の時からの親友だった。
 だが今は住んでいる場所も離れているし、社会人になってからは会う回数も少なくなっていった。
 そうしているうちに、優子は大学時代に交流のあった青年と結婚し、子供が産まれた。
 家庭と仕事を両立して忙しく生活しているのが解っていたから、連絡はSNSでの短いやりとりが中心になる。
 ただ、本当に寂しいときだけ、誰かの声が聴きたくなった時だけ、ミスズは優子に連絡をしていた。
 ――でも、優子のほうから連絡がくるなんて、めずらしいわね…
 振動がとまり、不在着信と表示が切り替わる。
 ベッドに腰掛けて、ミスズは優子に電話をかける。
『ミスズちゃん?』
「久しぶりね、優子」
『あれ? もしかして元気ない?』
「……よく分かったわね」
 柔らかい声音が耳朶に届き、変わらぬ親友の様子にミスズは微笑んだ。
「いつもの頭痛で…でも、きっと寝れば治るから」
『大丈夫? 薬は飲んだの?』
「それが、ちょうど切らしてしまってたの……」
『それじゃあ、辛いよね? いつもミスズちゃん辛そうにしてたもん』
 優子の声が心配そうに震えた。
 いつもそうだった。
 学生の頃から、優子は名前の通りに優しいと評判の女子で、他人の痛みに対してはとくに同情する子だった。ミスズの体調が良くない時、いつも心配してくれていた事を思い出す。
 心配させると分かっていながら本心を打ち明けてしまう、そんな不思議な魅力が彼女にはあった。
「寝てれば治るわよ。それより、優子こそ何かあったの?」
『実は、今度東京でジュエリー展を開催することになったの…』
 優子の職業はジュエリーデザイナーだった。
 いつか、オーダー会を兼ねた個展を開くのが夢だと昔から言っていた。ジュエリー展をするということは、ついにその夢が叶うという事だ。
「ずっと念願だったものね。本当におめでとう、優子」
『ありがとうミスズちゃん…』
 電話越しに優子はとても嬉しそうに笑った。
『でも、ごめんね。具合悪い時に…』
「体調良くなったら、また連絡するわね。日程とかも聞きたいし…」
『うん! せっかく東京でやるから、ミスズちゃんにも来て欲しいよ』
「わかったわ。それじゃあ…」
『うん、お大事にね』
 電話をきった後、ミスズは再びベッドに横になる。
 隣の住人の談笑も、もう聞こえてこない。
 相変わらずの頭痛に、早く眠ってしまおうとミスズが目を閉じようとしたとき、左手に握ったままのアイフォンが再び着信を告げる。
 優子からだった。ミスズは横になったまま、アイフォンを耳に押し付ける。
『もしもしミスズちゃん?』
「うん、どうしたの?」
 寝ころんだままミスズは応える。
『ミスズちゃん、ご飯食べた?』
「ご飯? 食べてないけど…」
『じゃあ、何か軽く食べるものと、薬を持っていくねっ』
「持っていくって…、東京にいるわけじゃないでしょ?」
 優子が住んでいるのは東京からだいぶ離れている。電車を乗り継いで二時間はかかる距離だ。
『そう。だからシンちゃんに持って行ってもらうね』
「シンちゃんて……」
 ミスズの脳裏に浮かび上がる記憶。
『ミスズちゃん、一度会ったことあるよね』
「役者の、紀村真治(きむらしんじ)…」
『そうそう、でも最近は活動してないみたいだけど。さっきバイト終わったみたいだから、ミスズちゃんのウチに向かってもらうね!』
 ミスズは違う意味で頭痛がした。
 ――忘れてた。優子は困っている人を放っておけないタイプだった。
 おまけに、行動力もあるのが彼女の特徴だ。
 役者の紀村真治。優子の遠い親戚。
 ミスズは一度会ったことがあると言っても、ほんの数秒間、挨拶程度に顔を合わせただけだった。向こうだって覚えているかどうかも怪しい。
「でも、もう夜も遅いし、シンちゃ…紀村さんにも迷惑だよ」
『大丈夫だよ。困ったときはお互いさまだよ。それにね、ミスズちゃん…』
「え? なに…?」
『離れていても、辛いときは助けになるからね』
 それ以上、ミスズは何も言えなくなった。優子は「他に必要なものがあったら、シンちゃんに頼んでね」と言って、電話をきった。そのあとすぐにLINEで、紀村真治の番号が貼り付けられたメッセージが届く。
 ――おかしなことになった気がする…けど、まあいいわ。
 ミスズは目を閉じた。真治が来るのは時間的にまだ先だろう。住所が分かったとしても、小さなアパートだし、暗がりのなかでは見つけづらいだろう。
 枕に顔を埋めて浅い呼吸をつきながら、ミスズは三年前に会った真治の姿をぼんやりと思い出す。
 顔や姿をはっきりと覚えているわけではなかったが、ただ一つだけ、鮮やかに残っている記憶があった。
 ――すごくいい声だった……
 記憶の淵をたどっているうちに、ミスズは眠りにおちていった。



 静寂に包まれているアパートの部屋に響くインターホンの音は、ミスズを眠りから覚醒させるには充分だった。
 いつの間にか眠っていたことに驚きながら、アイフォンを手に取る。
 時刻は二十三時三十分。そしてディスプレイには、不在着信で登録のない番号が表示されていたが、きっと真治からだろう。
 ミスズは崩れてしまった髪の毛を掻きあげながら、立ち上がった。
「ほんとに、来たのね……」
 疑っていたわけではなかった。ただ、もし来なかったとしても驚きはしなかっただろう。
 着替えをしていなくて良かった。白のブイネックになっているシフォンブラウスと、テーパードパンツ。寝転がっていた割に皺はあまり寄っていなくて、ミスズは安堵する。
 息を詰めて玄関まで行くと、扉越しに人の気配がした。
 回転式の小さな鍵を回して、ゆっくりと扉をあける。
 すうっと夏の終わりを感じさせる、冷たさを孕んだ空気が隙間から入ってきて、ミスズの長い髪がふわりと舞い上がる。
 視界に飛び込んできたのは、黒い瞳――
 戸惑いと不安を含んだ黒い瞳に、ミスズ自身が映しだされているのが見えた。
 ――まるで、夜空のような色…
 しっとりとしたその輝きに思わず見惚れる。しかしその刹那、ミスズは重力も引力も無い浮遊感を覚えて、気が付くとその場に崩れおちていた。
「大丈夫ですか!」
 肩越しに叫ぶ声が聞こえた。
「病院にいきますか?」
「病院?」
 ミスズは首を振った。
「寝てれば治るわ……よくあること、だから」
 たいしたことじゃない、とミスズは応える。
 ひんやりとした床に手をついて、重力に抗うように立ち上がろうとするが、足元がふらつく。
「じゃあ、横になりましょう。俺につかまってください――」
 真治は、ミスズの身体に腕をまわした。シフォンブラウス越しに体温を感じる。
 ――熱い。
 右肩に触れた真治の手のひらが熱くて、そこからじんわりとミスズの身体に熱がひろがっていく。
 近づいた真治の衣服から、かすかにコーヒーの香りがした。
「ごめんなさい……」
 ミスズは真治に支えられながらベッドルームに向かい、しわくちゃになったリネンに身体を預ける。
「薬は持ってきました。薬の前に何か食べたほうが良いと思うけど」
「今、何か食べたら吐いてしまいそうだから、薬があれば…」
 ミスズはベッドの上で目を閉じた。
 ガサガサとビニールの袋をいじる音がしたあと、真治はベッドのそばにやってきた。
「ミスズさん、少しだけ口開けて?」
 耳元で囁くような声がして、ミスズはどきりとする。
 言われるまま、口紅もとうに落ち切った血色の悪い唇をひらくと、それは口内に滑るように落ちてきた。
 ――冷たい。
 舌の上で柔らかく溶け落ちていき、シャリとした細かい氷が喉を潤して、甘い香りが広がっていく。
 バニラアイスだ。
「冷たくて、おいしい…」
 こくりと飲み込んでからミスズは言う。
「良かった…俺も具合悪いときこれなら食べれたから。はい、もうひとくち」
 再びミスズが口を開くと、食べやすい量のバニラアイスが落ちてくる。
 真治の柔らかで少しだけ厚みのある声音と、バニラアイスの甘さと、そばに感じる静かな気配は、どれも自分への労りに満ちていて、ミスズはなんだかくすぐったいような気持ちになった。
「じゃあ、薬を飲んで、ゆっくり休んでください」
「ありがとう…」
 真治が用意してくれた薬を飲んで暫くすると、ミスズは微睡んでいくのを感じた。
 すぐそばで「おやすみなさい」という真治の声が聞こえた気がした。



 ――いつもと同じ毎日を繰り返しているだけだった。
 それでも、広大な宇宙の中で惑星同士がいつしか近づき衝突してしまうように、繰り返している毎日にも、何かふとした出来事が起こることがある。
 今がその時なのかもしれない、そうミスズは暖かな寝具に包まれながら思った。
 少し前に目は覚めていたが、瞼は閉じたまま。昨夜の体調不良が嘘のように身体が軽くなっているのが分かる。
 ふと蘇る、身体に触れた体温。優しさに溢れた声。バニラアイスの冷たさ。
 ミスズは身体を起こした。
 キッチンのほうから物音がする。
 ――まさか、
 ミスズの鼓動が少しだけ早くなる。ガチャリと今度ははっきりと音がした。
 ミスズはダイニングルームに続く扉をゆっくり開けた。
 見慣れた部屋に紀村真治の後ろ姿を見つける。淡いブルーのシャツに、黒のコットンパンツ。足が細いせいか、実際より身長が高く見える。
 昨夜は具合が悪くてそれどころではなかったが、さすが役者というだけあってスタイルもいいし、顔だちも良い。
 年齢は確か二十五、六くらいだったか――
 短く切り揃えている茶髪は前髪だけが少し長くて、頰にかかるように片側に流してある。骨ばった顎のラインがくっきりとした曲線を描いていて、美しいその造形にお世辞では無く、かっこいい男だとミスズは思った。
 視線を感じたのか、ハッと真治が振り向く。
 ミスズの姿を捉えて、バツのわるそうな表情をしながら「おはようございます」と真治は言った。
「あの、ユウ姉が心配だから泊まれって…。非常識だから無理って言ったんだけど…」
 真治は目を伏せて言った。最後のほうは小さな呟きとなって消える。
 ミスズは笑う。いかにも優子が言いそうな言葉だった。
「迷惑かけてごめんなさいね。こんな狭いキッチンとダイニングだし、寝るにも寝れなかったでしょ?」
「いえ…あの、それより具合はどうですか?」
「おかげさまで、もう大丈夫。薬が効いたみたい」
「良かった――」
 安堵したように微笑む真治に、ミスズは目を細める。
 ――なんだか、不思議な光景だわ
 特に飾り気もないこの簡素な部屋が、真治という存在を得て、昨日までには無かった温度に満ちている。
「ミスズさん、お腹すいてませんか?」
 そういえば…とミスズはお腹に手をあてる。昨日は薬を飲むためにバニラアイスしか口にしていなかった。
「そうね、結構すいてるわ」
「じつは、昨夜食べるかと思ってサンドイッチを買っていて、良かったら食べませんか?」
「嬉しいわ。せっかくだし…一緒に食べましょう。コーヒーでも淹れるわ。あ、その前に顔を洗ってきてもいいかしら」
「じゃあ、俺が淹れますよ」
「そう? じゃ、そこのコーヒーマシン使って。必要そうなのは全部棚の中にあるから」
 ミスズはそう言い残して、洗面台に向かう。
 鏡にうつった自分の顔を見て、ミスズは少し驚く。
 化粧は落ちきっていて、年相応の少しくすんだ肌色はいつも通り、それでもやはり、いつもの自分とはどこか違うのだ。
 きゅっと上がった口角は、どこか嬉しそうな表情だし、柔らかく下がっている目尻のせいか、いつもより女っぽく見えた。
 こんな自分を見たのは久しぶりだ。
 ――東京にきてから、はじめてかもしれない。
 三年前に転勤で引っ越してきて、平日は仕事、休日もひとりで過ごすことが多かった。
 家族はミスズにはいない。信頼できる友達もそばにいなかった。
 それでも、一人でなんとかなっていた。
 そう、例えば具合が悪くても、自分のことは自分で面倒みれていた。
 孤独感は影のようにいつでも心にはりついていたが、誰かを希求するほどの情熱は少しずつ失われていった。
 東京に来る前に別れた恋人は、ミスズのことを「どこか遠くを見ている女」と言った。付きあった期間はそんなに長くないのに、私の何がわかるのだろう、そう思っていた。
 しかし今になって、その通りかもしれない…とミスズは思った。
 東京にきてからも、その前も、すれ違うたくさんの人間と同じ時間軸を生きながら、自分の存在だけが切り取られて、孤独という別空間にのまれていくような感覚さえした。
 だからだろうか。突然、日常に飛び込んできた真治の存在は、独りでいたミスズを少しだけ変容させたのかもしれない。
 ――誰かと一緒に朝食を食べるなんていつぶりかしら…
 着替えをして化粧水をたっぷりと肌になじませてから、真治のところに向かうと、キッチンからコーヒーの香りがした。
「ちょうど出来たところだよ」
 見るとダイニングに置かれた小さな丸いテーブルの中央に、カットされたサンドイッチが真っ白な皿にきれいに盛り付けられている。そして並んでいる二つのコーヒーカップ。
「すごい。慣れてるのね」
「ただ切っただけです。でも、まあ……自炊はしてるし、あと喫茶店でバイトしてるし、こういうの好きなんだと思う」
「そうだったの」とミスズは頷きながら、床のクッションの上に腰を降ろす。
 喫茶店でバイトをしてるのは初耳だった。
 時々、優子が真治の話をしていた。真治の父親はどこかの会社の社長をしていること。家庭を顧みない人だから、母親は家をでていき、それきり連絡がとれないこと。次第に家に帰らなくなった父親のかわりに、真治は父親の愛人に世話をしてもらっていたこと。それから、役者になるという夢があるということ。
 実は同じ歳の可愛い彼女がいることも優子から聞いていた。
 ミスズが真治と顔を合わせたのは一度きりだったが、身の上話を聞いていたせいか、他人よりも近い距離に真治という存在を置いていた。
 真治もまた、自分のことを優子から聞いてるのかもしれない。
「いただきます」
 両手を合わせたあと、ミスズはコーヒーの入ったカップを手に取る。
 それから、湯気と共に立ち上る香りを胸いっぱいに吸い込む。
「あれ? いつもと違うような……」
 カップのふちに唇をつけ、一口飲む。
 芳ばしい苦みと、それを包むように広がる柔らかな甘さ、これは――
「もしかして、シナモンが入ってる?」
「正解です。シナモンシュガーをいれてみました」
 テーブルを挟んだ向かい側で、真治もカップに口をつけた。
 シナモンシュガーなんて買っておいたかしら――ミスズは頭の片隅で思いながら、またカップを口に運ぶ。
「ちなみになんですけど、俺のバイトしてる喫茶店のマスターが淹れるシナモンカプチーノは、ほんとに美味いからオススメです」
「あら、それは是非行ってみたいわ」
 他愛の無い会話。
 そしてコーヒーのあたたかさが、ミスズの空腹の身体に染みわたっていく。
 朝の陽ざしが少しずつ強さを増していき、レースのカーテンの隙間から真っ白な光が差し込んでくる。
 コーヒーの香りと、陽だまりに包まれた穏やかな時間が、ミスズと真治の間に流れていた。



 ――人生は何が起こるかわからない。
 真治は思う。
 自分で例えるなら、割と裕福な家庭に生まれたものの、両親の仲がうまくいかず、母親が家出をしたまま戻ってこないとか、何日も何日も疲れるまで玄関先で母親の帰りを待つ幼い自分が、風邪をひいて倒れ、その時に助けてくれたのが、父親が通うスナックで密かに関係を持っていた愛人の女性だったこととか。
 それに――唯一、身内と呼べる遠い親戚の優子からバイト終わりに連絡がきたかと思えば、一度しか会ったことのないミスズの看病を頼まれるとか。
 ――まるで、引力のようだ。
 標識の無い人生のなかで、もたらされた出会いによって、真治のつま先は吸い寄せられるように歩みを変えることになる。
 そしてあの夜、ミスズの姿を見て感じたことがある。
 神経をすり減らして、疲れきって、青ざめて、崩れ落ちて、でもそれが常だと立ち上がろうとするミスズのように、全力で生きてみたら何かが変わって、きっと何か新しい道が見えてくるかもしれない。
 真治は行動することにした。
 役者として生きるという夢に、もう一度、真剣に向き合おうと決めた。
 まだ夏の熱が燻る昼間の人ごみの中を真治は歩く。
 二年振りくらいにこの場所を歩いているのに、不思議と懐かしさは感じなかった。
 時刻は十三時を過ぎようとしていて、ランチ帰りの会社員達とすれ違う。その中には真治と同じくらいの年齢の青年が、スーツを着て足早に歩いている。
 こういう時、真治は想像してしまう。
 ――もしあのまま、親父といたら、俺もあの人達と同じような毎日を過ごしていたかもしれない。
 そこまで考えたあと、すぐに頭を振る。
 ――ない、俺には夢があるから。
 真治の夢。それは役者として生きることだった。一度は役者として舞台にあがり、充実した日々を送っていたが、長くは続かなかった。所属していた事務所との契約がきれて、フリーとして活動することになったのだ。
 契約の延長はなかった。
 それはつまり、解雇ということだ。
 歯車が錆びて動かなくなったように、真治は立ち止ってしまった。
 生計を立てるために喫茶店でバイトをして、役者としての感覚を維持するために、演劇のワークショップに参加していた。
 その縁でいくつかの舞台にあがることにもなった。
 当然のように、後ろ盾を失った真治は、台詞も出番も少ない脇役が多かった。不思議と満たされない感情が真治のなかで膨らんでいく。
 脇役でも舞台に上がることが出来れば良いと思っていた。
 だけどあの頃――事務所に所属して活動していたときは、仲間と一緒に舞台をつくっていた。
 演出家とも、何度も話をしながら芝居をつくっていった。自分も舞台を構成する一つの歯車のように、関わり、動き、経験の全てをつぎこんだつもりだ。
 だからだろうか……
 頭を下げるようにして上がった舞台の上で、真治はあらかじめ設定されて動く、単調で、規則的で、誰でも良かったような演技しかできなかった。そして、事実そんな自分に賛辞をくれる者など、誰もいなかった。
 舞台の上の自分を待っていてくれる者はいないと、真治は痛感させられた。
 夢に対して押し潰されるような、切迫したものを抱えるようになっていた一方で、誰にも求められず冷めていく自分にも気付いていた。
 赤信号の交差点で足を止める。目的地が間近にせまっていた。
 今日は事務所で同期だった海原ミナトと、喫茶店で会う約束をしていた。
 俳優、海原ミナト――彼は同期のなかで唯一成功した役者だった。
 彼のブログには、現在も新しい舞台稽古に忙しい毎日を送っている様子が綴られており、仕事の充実ぶりが窺えた。
 真治は事務所との契約がきれてから、ミナトに連絡をしていなかった。次に会うときは、自分が役者として胸をはれるようになってから、そう決めていたからだ。
 しかしそう思っていた気持ちも、成功しているミナトを羨む気持ちも、通り過ぎていった景色のように少しずつ失われていった。
 いつの間にか、夢があまりにも遠くのものになっていった。
 ――でも、このままえは終われないんだ。
 信号が青にかわる。立ち止っていた人の群れが一斉に一歩を踏み出す。
 真治もすれ違う他人の肩にぶつかりながら、歩き始めた。



 約束の時間より早く着いたが、喫茶店に入るとすぐにミナトの姿を見つけた。
 ミナトも真治に気づき、くわえタバコのまま手を振ってくる。
 ――少し、痩せたか? いや……
 久しぶりに会ったミナトは少し日焼けをしていて、ブログの写真では分からなかったが、チェックの半袖シャツからのぞく腕は鍛えられたしなやかさがあって、以前より引き締まって見える。
 もともとミナトは、がっちりとした体格のため、舞台の上でも引き立つ容姿だ。くりっとした瞳は印象的で、笑うと目尻が下がりセクシーさが増すから、女性のファンも多かった。
「ひさしぶり紀村。ああ、彼女元気してる?」
「久しぶりの挨拶がそれかよ……」
 真治は苦笑いしながらソファに腰をおろす。
 ミナトと一緒に、事務所の近くのこの喫茶店によく足を運んでいたことを思い出し、ふと懐かしくなる。
 真治はアイスコーヒーを注文した。
 向かい側に座るミナトは、ぐしゃぐしゃとタバコの火を揉み消した。
 相変わらずタバコを吸う量は多そうだ。
「ミナトは、最近どう?」
「ん? ああ、そうだな……まずまず忙しくやってるよ」
「だよな。ブログ見てて、ちょっと羨ましくなるよ……」
「お前、事務所からいなくなって、今どうしてんの?」
「喫茶店でバイトしてる……」
「は?」
 ミナトの見開いた目が真治を捉える。
 ――なんだ? そんなに驚くことか?
「お前、この業界で見かけなくなったから、てっきりどっかに就職したのかと思ってたんだけどな」
 ミナトはそう言ってから、またテーブルの上に置いていたタバコに手を伸ばす。
 真治もちょうど運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけた。
 沈黙が続き、二人の間には店内で流れているジャズの音色と、ミナトが吐き出した白い煙が漂う。
「俺さ――」
 アイスコーヒーのグラスをテーブルに置いて、真治はミナトと向き合うように姿勢を正した。
「俺さ、まだ諦めてないんだ。役者になるってこと」
 真治の言った言葉は、決意のような、誓いのような響きを帯びていた。
 漂っていた白い煙が、ゆらりと揺れて消えていく。
 ミナトは吸い欠けのタバコを、今度は静かに灰皿に押し付けた。
「おまえ、俺にそれを言うために呼び出したのかよ」
 責めるような口調だった。
 真治はテーブルの下で組んでいた指先をかたくした。
 これから自分が何を言おうとしているか、ミナトは分ったんだろう、そう思った。
 怒ったような表情のミナトを前に真治は俯く。瞬きした瞼の裏で、何故かミスズの姿が蘇った。
 青ざめた顔色、疲れ果てて、倒れて、それでも立ち上がろうとする姿。
 それから、穏やかにコーヒーを飲みながら、微笑む姿。
 ――そう、人生いつどこで何が起こるか分からない。
 もう後戻りは出来ないと、真治は口を開いた。
「そうだよ。俺はもう一度、役者として舞台に上がりたいって思ってる。だから…ミナトにこんなこと頼むのはおかしいって分かってるけど、もしプロで活動していく役者を探してるとかオーディションとか、情報があったら教えて欲しいんだ」
 つまり、ミナトのかかわりのある業界関係者に、自分を紹介して欲しいというお願いをするために、真治はここに来た。
 握りこんでいた手のひらに熱がこもって、じんわりと汗が滲んでいく。
 店内で流れている音楽や、周りの客の話し声の中で、真治はミナトの気配にだけ意識が向かう。
 ミナトは、長く長く、ゆっくりと呼吸をした。
 こういう癖があるのを真治は知っていた。リラックスしようとする時にミナトはゆっくりと息を吐く。そして言った。
「悪いけど――今は、そういう情報はないな」
「そっか。ごめん……」
「謝るなよ」
 ミナトは笑った。そして、またタバコの箱に手をのばす。
「でも、お前にそんなこと言われるなんてな。お前はいい役者だと俺は思ってたよ。同じ舞台にいつか立ちたいとも思ってた…」
「そうだな」
 どこか遠くを見るように、ミナトの瞳が細くなる。
「いろんな奴がやめてくのを俺は見てきたよ。役者の仕事だけでメシ食っていけるわけじゃないし、俺も覚悟してる。稼げなくなったらキッパリ辞めて実家に帰るわ」
 ミナトの実家が農家だという事を、真治は思い出す。
「だから紀村、お前も執着しすぎるなよ。さゆりちゃんだって心配すんだろ」
 さゆりは真治の彼女だった。飲み会でミナトが連れてきた女友達の親友、それがさゆりだった。
「心配はさせないようにしてるんだけどな……」
「それでも、オンナってのは付き合ってれば将来のことを考えるだろ。例えば、結婚とかさ――」
「結婚か…。今のところ、そういう話は出てないけど、俺も一応考えてはいるよ」
「そうなのか? どっちにしろ泣かせるなよ。さゆりちゃんのこと」
 そこまで言ってから、ミナトは立ち上がった。
「帰るのか?」
「ああ、これからまた稽古だ」
「ごめんな。忙しい時に呼び出して」
「いや。お前の気持ちは分かったから、何かあったら連絡するよ」
「頼む…」
「じゃあな」
 ひらりと手を振って、ミナトが去っていく。
 真治はソファの背もたれに体重を預けて、息をついた。
 ――駄目だったな。
 何かあったら連絡するとミナトは言ったが、表情を見て、真治はなんとなく連絡は来ないだろうと思った。
 それでも、自分の気持ちを言葉にしたからか、ほんの少しだけ心の中が軽くなる。
 ――また、ここからはじめよう。
 真治は、氷が解けて薄くなったアイスコーヒーを飲みほして、立ち上がった。



 強くなってきた陽射しをカーテンを閉めて遮ると、ミスズは出かける準備をはじめた。
 小さなクローゼットの前に立つ。手に取ったのは先週買ったばかりのボルドーのフレアスカート。
 それはミスズが働いている会社の製品で「絶対ミスズさんに似合いますよ」というスタッフの提案もあり、購入することにしたものだった。
 スカートを身に着けると、トップスには白のシフォンの半袖ブラウスに腕を通す。
 ――靴はどうしようかしら。サンダルじゃ夏っぽいし。
 そのまま玄関に向かい、備え付けられている靴箱の中を眺めてから、ベージュのエナメルパンプスを取り出す。つま先が少し開いていているデザインで、ボルドーのスカートにも合いそうだと、ミスズは一人で頷いた。
 今日の休日の予定はあらかじめ決めていた。
 真治がバイトをしている喫茶店に行くことだった。
 体調不良でお世話になったお返しにと、昨日の仕事帰りに閉店間際のデパートに滑り込み、菓子折りを購入しておいた。
 身支度が整うと、菓子折りが入った少し大きめの紙袋を片手にアパートを出る。
 車一台分くらいの小さな道を少し歩いていくと、街路樹が並ぶ大きな通りに出た。
 じりっとする太陽の熱を宥めるように、爽やかな風が吹いてくる。街路樹の葉が擦れ合い、サワサワと心地よい音を立てている。
 舞い上がる髪を手で抑えながら、ミスズは駅までの景色を楽しむようにゆっくりと歩いた。
 公園から飛び出してきた野良猫と目があったり、老年夫婦に道を尋ねられて簡単な地図を書いてあげたり、すれ違う駆け足のサラリーマンの肩にぶつかったりもした。
 東京にきてから過ごす三度目の秋。いつの間にかミスズはこの場所での暮らしにも慣れてきていた。
 地下鉄の駅へと続く階段が見えてくる。
 ミスズは改札までいくと、まず路線の確認をした。
 ――ここからだと、三十分もかからなそうね。
 通勤では使わない路線。
 住み慣れてきた場所と、今まで知ることもなかった場所。
 新しい関わりから生まれた行動が、さらに何かの変容をもたらすような、そんな予感がミスズを満たしていった。


 真治がバイトしている喫茶店は駅から十分ほど歩いた場所にあった。商店街からも少し離れた場所にあり、人通りも落ち着いていて静かだ。
「喫茶店 NOTTE」と書かれている看板の前でミスズは足をとめた。
 真っ白な外装の、二階建ての喫茶店だった。
 小さな扉を開けると、全身が強いコーヒーの香りに包まれる。
 テーブルがいくつか並んでいて、カウンター席の前にサイフォンが並べられている。透明な丸いガラスの中でゆらゆら揺れる液体から、白い湯気がいくつも立ちのぼっては消えていく。
「いらっしゃいませ」 
 ミスズが顔を上げると、笑顔の五十代くらいの男性と目が合った。
 ――この人が、マスターかしら?
 年齢的にも間違いなさそうだ。
 真治がいないか、店内やカウンターの中にいる他の店員を見ていると「二階へどうぞ」と声をかけられた。
 ――もしかして、お休みだったかしら。
 ミスズは言われた通り、螺旋状になっている階段を使って二階へと向かう。
 真治を探すのに気を取られてよく見ていなかったが、二階の店内の雰囲気が、一階とまるで違っていた。
 一階では二十代くらいの若者が会話を楽しんでいたり、カウンター席でノートパソコンに向かうサラリーマンの姿があった気がする。
 しかし、二階ではゆったりとした曲調のピアノの音色が響き渡り、コーヒの香りに混じって、ツンと年季の入った紙のにおいがする。
 見ると大きな本棚が二つほどあり、そこにはたくさんの書籍が詰められていた。
 一人がけのソファと、落ち着いた濃い色調のテーブルが程よい間隔をあけて並べてあり、目に入る客のほとんどが読書をしながら、ゆったりと過ぎていく時間を満喫している様子が窺えた。
 ――なるほどね。一階と二階で客層がわかれてる。これなら落ち着けるわね。
 ミスズは窓際の席へと腰を降ろす。
 外にはちょうど色づきはじめた銀杏の木が見えた。景色も良い。
「いらっしゃいませ。こちらメニューになっております」
 水の入ったグラスを持って、さきほどのマスターらしき男性がやってきた。
 ミスズはメニューを受け取り、順番に見ていく。
 コーヒーに紅茶、それぞれに銘柄が記載されている。
 あれ、とミスズは首を傾げる。
「もしかして、メニューに載っていないもので、注文できるものがあったりしますか?」
 ミスズが聞くと、男は目元の皺を深くし、柔和な笑みで頷いた。
「ええ……そうですね。何かリクエストがございますか?」
「では、シナモンカプチーノをお願いできますか?」
「おや。珍しい注文ですね」
 柔和なその表情に、いたずらっ子のような笑みが混じった。
 間違いなくこの人がマスターだと、ミスズは確信する。
「ええ。マスターの淹れるシナモンカプチーノが美味しいと聞いたものですから。今日は、紀村真治さんはいますか?」
「スタッフのお知り合いの方でしたか。失礼致しました」
 マスターは納得したように頷いたあと、頭を少し下げた。
「申し訳ございません。紀村は本日お休みを頂戴しております」
「そうでしたか。実は、先日お世話になったものですから。ではこれを…良かったら皆さんで」
 ミスズはそう言って、持ってきた紙袋をマスターに手渡す。
「せっかく来て頂いたのに申し訳ありません。失礼ですが…お名前を伺っても?」
「ええ、沢渡ミスズと言います」
「沢渡様ですね。かしこまりました。ご注文のシナモンカプチーノ、少々お待ちくださいませ」
 去っていくマスターの後ろ姿を見送って、ミスズはソファに深く腰掛ける。
 真治に会えなかった事は少し残念だが、また足を運ぶ機会もあるだろう。
 そして真治の言っていたとおり、マスターの淹れたシナモンカプチーノは癖になりそうなくらい、美味しかった。



 真治がミナトに会ってからちょうど一週間がたった。
「なにかあれば連絡する」と言っていたミナトからの連絡は、やはり来なかった。
 ――期待してたわけじゃないんだけどな。
 それでも、気付けば溜息を吐いていることが増えていた。
 ――だけど、今日だけは忘れよう。
 まだ夏が燻っていた。ネットでチェックした今日の最高気温は三十二度、最低気温は二十四度。
 真治はグレーのタンクトップの上に、真っ白なリネン素材のシャツを羽織ると、エアコンの電源を切る。
 真治にとって今日は特別な日だった。
 九月十九日。
 真治の彼女――橘さゆり(たちばな さゆり)の二十五歳の誕生日だった。
 三年前からこの日はただの九月十九日ではなく、大切な人を祝う一日として過ごしていた。
 橘さゆり――艶やかな黒髪が似合う、古風というよりは可憐で、料理上手なしっかり者の女性だと真治は思っている。
 事務所との契約がきれた時も、多くを追求せずにそばに居てくれたことは、真治にとっては大きな心の支えになった。
 さゆりは実家暮らしだから、よく真治の住むアパートに遊びにくる。一緒に料理をして食べたり、映画を観たり、週末は泊まっていくことも多かった。
 出会って付き合うようになってから三年半。関係は良好だ。
 バイトも今日は休みにしてもらった。さゆりは派遣社員で、休みが取れなかったから、仕事が終わったら待ち合わせをして、一緒に食事にいく予定になっている。
 まだ昼だから、時間には余裕がある。
 真治はコンビニに行くため、パンツのポケットに柔らかくなった革の財布をしまって立ち上がる。テーブルに置いていたアイフォンを手に取ろうとした時、短い着信が響いた。
 それは、さゆりからのLINEだった。
 ――珍しいな。この時間に。ああ、昼休みか…
 真治はすぐにLINEのトーク画面をひらく。
 真っ黒な文字が飛び出すようにあらわれて、真治の瞳には、さゆりからの言葉だけが映る。
 短い内容だった。
 けれども真治は、何度も、何度も、浮かび上がった文字を目で追った。
 周りに流れている生温くなってきた空気や、外から響く雑音も、今の真治の耳には入らなかった。
 さゆりからの言葉、それは別れを告げる言葉だった。


 真治君。ごめんなさい。
 色々考えましたが、今日は会えません。
 真治君とのこれからに自信が持てなくなりました。
 別れよう……



 窓の向こうの陽ざしが落ち着き始めた時刻になって、ようやく真治は深い呼吸をした。何度、さゆりからのメッセージを読み返しただろう。
 真治は力の抜けきった身体をベッドに投げだし、さゆりと過ごした時間を思い出していた。
   じっとりと背中にかいていた汗もすでに冷えきって、羽織っていたシャツには細かい皺ががいくつも寄っている。
   嬉しい時も、悲しい時も、時間は立ち止まる事を許さない。
   さゆりへの返事を悩んでいた。にわかには受け入れ難い別れの言葉に、真治はさゆりと過ごした時間の中に理由を見出そうとしていた。しかし、
 ――さゆりは今、どんな気持ちでいるだろう。
 自分の誕生日に別れようと言ったのだ。
 少し前から悩んでいたに違いない。しかし、そんな素振りは微塵も感じなかった。
 喧嘩をしたわけでもない。
 もし不安にさせていたのなら、謝って話し合うべきだと思った。
 けれど、さゆりの言う「これから」に、もし「結婚」ということが含まれているのだとしたら……
 ――俺とじゃ、幸せになれないって思ったんだよな。
 真治の指先が震えた。
 自分という存在が否定されたようでショックだった。たとえ和解したとしても、一度でも自分を否定された事実は傷となり、残る気がした。
 同時に心の中のもう一人の自分が、仕方がない事なのだと、声をあげている。
 ――だって俺は何も持っていないんだから……
   さゆりだって、それは知っていたはずだ。
   なのに今更、自信が無くなったとか、たちの悪い冗談かと一瞬思ったが、さゆりはそんな冗談を言うとは思えない。
 だからこそ、もう終わりなのだと、真治は理解した。
 アイフォンを手に取る。
「わかった。今まで有難う」
 そう一言だけ、真治はさゆりへ返信をする。
 彼女と過ごした時間のすべてが今は夢のように思えた。
 もうさゆりの声も、笑顔も、柔らかい身体を抱きしめることさへも叶わない。
 目を閉じた先の真っ暗な闇に落ちていきそうな、深い失望に真治は身を任せていた。
 ――そっか。俺、ひとりになったんだな。
 孤独、という二文字が頭をかすめる。
 しかも今夜はさゆりを祝うためにレストランとホテルを予約していた。
 いまさら、キャンセルにしてはお店にも迷惑がかかるだろう。
 ――誰かを誘って…って、誰もいないじゃないか。
 真治は虚しさで胸が詰まる。
 恥ずかしいが思い切り泣きたい気分だった。
 ――どうせ、独りなんだ。
 目頭がじんわりと熱くなったところで、アイフォンが短い着信を告げた。
 一瞬、さゆりからだと思ったが違った。
 相手はミスズだった。


 夕方の新宿はターミナル駅らしく、多くの人々が行き交い吸い込まれるように、どこかへ消えていく。
 真治は遠目でもすぐにミスズの姿を見つけることができた。
 デパートのエントランスの真っ白な光の中に、浮かび上がるように佇むミスズ。
 ボルドーのスカートを身に着けていて、大人びた美しさが際立っている。
 ミスズから「喫茶店に行きましたがお休みだったので、また伺います」とメールが届いたあと、真治はすぐにミスズに電話をかけていた。
 迷いは無かったように思う。
「もし、これから時間空いてたら、俺と食事に行ってくれませんか?」
 誰かに話を聞いて欲しかったのかもしれない。
 ミスズには隠す必要も無いと、何故か自然にそう思えた。
 簡単に事情を話すと、ミスズはすぐに承諾してくれた。
 ほんの少しだけ、胸の痛みが和らいだ気がした。
 ――まさか、こんな形でまた会うことになるとは。
「おつかれさま、真治くん」
 真治の姿に気付いて、小さく手を振りながらミスズが近づいてくる。
「休みの日に、わざわざ付き合ってもらってすみません…」
「気にしないで。困ったときはお互いさまよ…と、優子が言っていたわ」
 申し訳なさそうに謝る真治に、ミスズは穏やかに微笑んだ。
「予約している店まで少し歩きます」と告げると、ミスズは「大丈夫」と頷く。
 ――こういうとき、何を話せばいいんだろうな。
 真治とミスズは夕日で赤く染まる新宿の街を歩く。向かってくる人ごみを避けながらミスズを見ると、真治の左側に距離を保ちながら歩いている。
 ふと気付く。
 ――ミスズさん、さゆりより歩くの早いな。
 スカートからのぞくスラリと伸びた足、そしてベージュの艶やかなパンプス。安定したリズムのように軽くヒールを鳴らして、真治の歩幅に合わせて付いてくる。
 さゆりはヒールの高い靴を履くと歩みが遅くなり、真治の後ろを追いかけるように付いてくることがあった。
 真治は視線を上にずらしていく。
 ボルドーのスカートに薄い生地の真っ白なブラウス。胸元のふくらみ、透明感のある細い首筋。そして、前を見据える瞳。
 ――さゆりは、どうだったんだろう。
 自分の後ろを歩いていたとき、どんな表情をしていたんだろう。どんな気持ちで自分の背中を追っていただろう。
 考えているとミスズと目が合い、真治は俯くように視線をそらした。
「真治くん。やっぱり元気ないわね…」
「…ごめん。顔に出てるよね」
 真治は苦笑いした。さゆりの事ばかりを考えている。
「別に謝らなくても。無理しなくていいわよ。だってここは舞台の上じゃないんだもの……」
 さらりと言ったミスズの言葉に、真治は息をのむ。
 ――ここは、舞台の上じゃない。そうだけど、いや、そうじゃなくて……
 今、一瞬、何かを理解した気がした。けれどそれが何だったのか分からなくて、もどかしい。
 真治の鼓動が早くなる。
 不思議だった。
 さゆりは真治が役者になる事を、真治の夢だと応援してくれていた。
 だが、今、隣を歩いているミスズは決定的に違うのだ。
「そうか…」
 ひとつの答えにたどり着く。
「ミスズさんは、俺のことを役者だと思ってくれてるんだね…」
「……?」
 首を傾げるミスズを見ながら、冷たかった指先に熱が灯るのを感じた。
 ――たった一人。俺を役者だと思っている人がいる。
 真っ暗だった心に小さな光がうまれた気がした。




「ご予約の紀村様ですね。今日は、お誕生日おめでとうございます」
 深々とウェイターに頭を下げられたミスズを見て、真治はいたたまれない気持ちになる。
 ミスズは「ええ、有難うございます」と笑顔で応えている。
「ごめんね……」
 真治はそっと小さな声でミスズに謝ると、ミスズは「大丈夫よ」と笑った。
 案内されたテーブル席には雪原を思わせるような、真っ白なクロスが敷かれており、テーブルの中央には小さなフラワーアレンジメントと共に「お誕生おめでとうございます」と書かれたカードが添えられていた。
「素敵なお店ね。あまりこういう所、来たことないわ」
「俺もだよ…特別な日だったから」
「彼女思いなのね。女性は嬉しいと思うわ…誕生日は特別なのよ。こんなふうにお祝いされるのは憧れだわ」
 ミスズは楽しそうにフラワーアレンジメントを眺めている。
 その後もウェイターがワインをグラスに注ぐ緊張を孕んだ動作に目を見張ったり、運ばれてくる料理の繊細な見た目の美しさに感激しながら、食事をしていた。
 食欲のわかない真治は、ワインで料理を飲み下しながら、ミスズを誘って良かったと思った。




店を出ると、秋の気配が濃厚に感じられる冷たい風が吹いていて、アルコールで火照った頬を心地よく冷ましてくれた。
 真治とミスズは、まばらになった夜の街を歩いていた。
「本当に、ごちそうになって良かったの?」
「当然だよ。付き合ってもらったのは俺のほうだし」
「それだけじゃないわ。ホテルだって…」
 ミスズの足取りが少し重くなっていた。
「いや、それこそミスズさんに泊まってもらったほうがいいよ。仕事で疲れてるでしょ。ホテルまで送ったら俺は帰るから、ゆっくり休んで」
 さゆりと一緒に過ごすはずだったホテルに向かって二人は歩いていた。
 真治はチェックインを済ませたら帰るつもりでいた。
 ミスズと一緒に泊まることはできない。まして真治は自分一人で泊まることを想像した時、ひどく憂鬱な気分になった。きっと一晩中、さゆりのことを考えてしまうだろう。
 だったら、ミスズに泊まってもらうほうが良いと思えた。
 普通のビジネスホテルだったらまだ良かったのかもしれない。
   しかし真治が予約していたのは、少し値の張るシティホテルで、それを聞いたミスズは、さっきから申し訳なさそうにしている。
「やっぱり私……」
「あ、ホテル見えてきた。本当は、あのホテルの中のレストランで食事したかったんだけど、予約取れなかったんだ…」
「え…ああ、あの有名なシェフがいる店ね。知ってるわ、テレビにも出てたし……」
「うん、さゆりが…元彼女が行ってみたいって言ってたんだ」
 元彼女、そう口にするだけで、真治の心は一気に重苦しくなる。
 ホテルに隣接されているレストランは、ガラス張りで店内の様子が外からよく見える。
 予約が取れないというのも頷けるほど、テーブルの席はほぼ客で埋め尽くされていた。
「でも、さっきのお店も雰囲気も良かったし、料理もすごく美味しかったわよ」
「そうだね、」
 確かに美味しかった、そう真治は続けようとしたが、不意に視界の隅に飛び込んできた光景に足を止めた。真治の息をのむ音だけがミスズの鼓膜に伝わった。
「さ…ゆり?」
 レストランから出てきた男女に目を凝らした瞬間、真治は凍りついた。
 二人とも真治のよく知る人物だった。
 少し背が低くて、ほっそりとしていて、綺麗な黒髪。花がふんわりと薫るような優しい笑顔のさゆりと、真治が憧れて、追いかけ続けている場所にずっと立ち続けている、役者のミナト。
 ――さゆり、どうしてミナトと……
 さゆりは真っ白なワンピースを身に着けていて、ミナトと手を繋いで笑っていた。
 誰が見ても恋人同士の空気がそこにはあった。
「真治くん、まさかとは思うけど……」
 察しただろうミスズが、真治の視線の先を見つめて言う。
「そうか……」
 真治の声が震えた。さっきまで心地よいと思えた風が今は震えるほどに冷たい。
「さゆりは、ミナトを選んだんだな…」
 目の前の事実が真治に突き刺さる。
 胸が痛い。痛くて痛くて、堪らなかった。
「むこうも真治くんに気付いたみたいよ……」
 ミスズが言った。
 さゆりとミナトは、真治の姿を見つけて、繋いでいた手を離して青ざめている。
「真治君…」
 呟いたさゆりと目が合った。
 さっきまで笑っていたのに、今は真治を見て泣きそうな顔をする。
 庇うようにミナトが前に進み出た。
 その様子を見ながら、真治はただ立ち尽くしていた。
 ――なんだ、これ。
 ――これじゃ、まるで俺が悪者みたいじゃないか。
 さっき飲んだアルコールとは違う気持ち悪さが全身を巡っていく。目の前が暗くなって、気が遠くなる。
 自分の存在も抱えている夢も、全てが砕けていくようだ……そう思ったとき、真治は背中に体温を感じた。
 宥めるように、労わるように、ゆっくりと温かさが広がっていく。
 それはミスズの小さな手のひらだった。
「ミスズさん……?」
「真治くん、どうするの?」
「どうするって…」
 この状況だ。一秒でも早くこの場から立ち去りたい。だが、思うように足が動かない。
 ミスズが撫でていた手のひらを止めた。
「大丈夫よ」
 ミスズが力強く言った。
「大丈夫。きっと、あなたならうまく演れるわ――」
 暗闇の中で、ミスズの瞳は夜空に浮かぶ星のように輝いて見えた。嘘も迷いも見えない瞳だった。それは手を伸ばしても届かない遠くの輝きでは無くて、旅人の足元を照らす灯火のような輝き。
「ミスズさんは、本当に…俺のことを役者だと思ってるんだね…」
 導かれるように真治は一歩を踏み出した。自分でも驚くほど簡単に身体は動いてくれた。
 ――さゆりが泣いている。
 近づいてくる真治に、ミナトは覚悟を決めたような表情で見据えた。
 真治は二人の前まで進み、足を止めた。
「真治君…ごめんなさい…わたし……」
 さゆりの声が掠れて震えている。
「いや、俺が悪かったんだよな。悩ませてしまってごめん……」
 真治はそう言って、さゆりに頭を下げた。
「ミナトはいい奴だよ。きっと、さゆりを大切にしてくれる」
「俺は、」
 ずっと黙ったままのミナトが口を開いた。
「俺は、謝らない。俺だって…本気なんだ!」
 言い放ったミナトの言葉が真治の胸に刺さる。
「いいよ、謝らなくて」
 真治は力無く笑った。
 ――これで、本当に終わりにしよう。
「さゆり、今まで有難う。それからお誕生日おめでとう」
 真治は歩き出した。
 舞台から降りる瞬間を思い出す。
 もう、自分の出番は終わりだ。
 身体が震えそうになって、真治はぐっと奥歯を噛みしめる。
 ――これで、良かったよな?
 歩きながら、隣にあったはずのミスズの気配が無いことに気付いて、真治は振り向く。
 冷たい風に煽られる髪を左手で抑えて、さゆりとミナトの前に、ミスズは立っていた。
 ボルドーのスカートの裾がゆらゆらと揺らめいていている。
 ミスズが何かを話している。
 風に紛れたミスズの声は途切れ途切れだったが、真治の耳にも届いてくる。
「あなた達は、これからもお互いのことを想いあって、慰めあって、幸せに過ごしていくんでしょうね。でも…」
 真治は息をのむ。
 ミスズの目から涙が零れていた。
「でも…真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと……心の中で泣くんだと思うわ…」
 ミスズの言葉は、真治から許され安堵した二人の表情を一瞬で凍りつかせた。
    ――ミスズさん……
 真治の胸に、熱いものがこみ上げて来る。
「これ、使って……」
 歩いてきたミスズにハンカチを差し出すと「何故?」という表情をしながら手を伸ばす。
 手のひらに落ちた透明な雫を見て、ミスズは驚いた。
 どうやら、自分が泣いているという事に気がついて無かったらしい。
「なんか…俺よりミスズさんのほうが、役者みたいだったよ」
 真治が笑いながら言うと「聞いていたの?」と、目元だけでなく、頬も赤らめるミスズ。
「でもミスズさんが言ってくれた言葉、嬉しかったよ。ありがとう…」
 ミスズがさゆりとミナトに言った言葉は、怒る事も悲しむ事も出来なかった真治にとって、確かな慰めとなった。
「ああ、なんだか、マスターの淹れたシナモンカプチーノが飲みたい気分だな」
 ミスズが落ち着くのを待ちながら、真治は小さく呟いた。





 十月に入ると、冷んやりとした空気の漂う朝が増えてきた。
 またこの季節がやってきたのだと、ミスズは朝の通勤時、街路樹を見上げて思う。夏の間は青々としていた大きな葉が、今ではくすんで色を失いつつあった。
 少しだけ、憂鬱な気分になる。
 ――真治くんはどうしているかしら。
 あの夜――ミスズと真治は豪華すぎるホテルの部屋で、明け方になるまで話をしていた。
「マスターのシナモンカプチーノは、さすがに飲みにいけないけど…」
 ミスズはそう言って、ホテルのルームサービスで二つコーヒーを注文した。
 関節照明の柔らかい薄明りの部屋にコーヒーの香りが満ちていく。
「俺は、さゆりとずっと一緒にいたいと思ってた」
 ぽつりと真治は言い、それから自分の思いをひとつずつ紐解くように、過去を語り始めた。
 紀村真治は、ミスズも名前だけならよく聞く、会社の社長の息子だった。社長である父親は、当時付き合っていた女性が、妊娠したのをきっかけに結婚。真治が産まれた。
 しかし、父親は他にも関係を持つ女性がいた。
 夫婦関係は破綻し、真治が小学二年の時に母親は姿を消した。
 当時も仕事の忙しかった父親は、真治の面倒を充分にみることは出来なかった。
 真治はひとりの時間を持て余し、寂しさから、幾日も玄関先で母親の帰りを待っていた。
 しかし、それは叶うことは無かった。
 それどころか体調を崩して倒れていたところを発見され、病院に運ばれた。
 この時、真治を見つけ、お世話してくれたのは父親の愛人の女性だった。
 未だ母親がいなくなった現実も受け止めきれないまま、真治はその女性と二人で生活することになったのだと言う。
「それから、父親とは一度も会ってない…」
「なんかドラマみたいな出来事ね…」
 ミスズがそう素直な感想を口にすると、真治は意外そうな表情をする。
「あまり、驚かないんだね…」
「実は、優子からすこし聞いていたの。ごめんなさい……」
 ミスズは親友の優子から真治のことは聞いていた。ただ、実際に本人の口から語られると、多少の衝撃はある。
「おしゃべりだなユウ姉は。さゆりは、かなり驚いてた…」
「きっとあの子は、父親がいて、母親がいて、幸せな家庭で育ったのでしょうね…」
 ミスズは真治の元彼女の姿を思い出す。ほとんど泣いている様子しか見てないが、顔だちや身に着けた服の印象もあり、柔らかく女性らしい雰囲気をまとい、浮ついたところは無かったように思う。
「さゆりが初めてだったんだ。誰かに自分のことを話したのは。幸せになろうって言ってくれた…」
「優しい子なのね…」
「だから、さゆりとずっと一緒にいたいと思ってた」
 そう言った真治は、泣きそうになるのを堪えているように見えて、ミスズは胸が痛くなる。
 ――明日も明後日も、この先もずっと、心の中で泣く…か。
 ミスズは、さゆりとミナトに言った言葉を思い出す。
 初対面の相手に対して、無関係で事情も分からない自分が、失礼なことを言ってしまったという自覚はあった。だけど、悔しさのような、怒りのような感情に抗うことができず言ってしまった。
 後悔はしていない。むしろ後悔しているとしたら「うまく演れる」と真治に言ってしまったことだ。
 自分の感情に蓋をしたまま、真治はさゆりとミナトを祝福した。
 その姿を見てミスズは罪悪感が芽生えた。そうさせてしまったのは自分かもしれないと思ったら、真治の悲しみを訴えずにはいられなくなって、気が付いたら二人の前に立っていた。
 言ったことは間違いでは無いはずだ。
 朝、目が覚めたとき、食事をしている時、街中で目の前にカップルが歩いているとき、もしかしたら夢の中でも、きっと真治はさゆりのことを思い出してしまうだろう。
 痛みや悲しみは心の中にぴったりと張り付いたまま。
 ――自分の幸せを優先した人たちは、残された人の痛みなんて分からないのよ。
 考えているとまた目頭が熱くなってきて、ミスズはコーヒーカップに口をつけた。
 気付くと、ツインベッドのひとつに座っていた真治は、いつの間にか横になり目を閉じている。
 やがて穏やかな呼吸が聞こえてきた。
 ミスズは静かにホテルの部屋を出た。
 それから真治とは会っていない。会う理由も無いからだ。
 ただ、真治の心が少しでも早く晴れることを、ミスズは願っていた。



 ――あの人の言うとおりだ。
 目が覚めたら、泣いていたようで頬がひりつく。
 さゆりは溜息を吐こうとして、それを飲みこんだ。溜息を吐ける立場ではないのだ。
 ――真治君を傷つけたのは、私なんだから。
「ごめんさい…ごめんなさい…」
 寝ても覚めても、さゆりは何度も謝罪を口にしていた。
 今日は、憂鬱な気分のまま仕事にいき、案の定小さなミスで上司に怒られて、落ち込みながら帰宅し、休んでいたらいつの間にか眠っていた。
 家族もとっくに寝ている時間だ。
 しんと静まり帰った部屋の中で、自分の掠れた声だけが響く。
 起き上がり、バッグの中にいれていたスマホを取り出す。
 ミナトから「おやすみ」とメッセージが届いていた。
 さゆりは胸の痛みを堪えるように唇をかんだ。
『真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと…あなた達の事を思い出して、心の中で泣くのよ』
 真治の隣にいた知らない女の人が言ったとおりだと、さゆりは思った。
 誕生日の日、偶然、真治に会った。
 彼は傷ついた顔をしていた。顔は笑っていたけど、言葉は優しかったけれど、さゆりには真治が傷ついているのがよく分かった。
 これまで真治と重ねてきた時間が深いものだと実感させられた。
 真治を傷つけてしまったことに罪悪感を覚える。
「好き…好きなのに、ごめんなさい…」
 けれど、ミナトから告白され、その手を取ったことをさゆりは後悔していない。
 理由はある。
 いつが始まりだったのか――
 さゆりは真治との未来を想像できなくなっていた。
 真治をはじめて見たのは舞台の上だった。
 さゆりの学生時代からの親友は、ミナトの知人でもある。
「同じ事務所のやつの舞台、面白いから見にきなよ」とミナトから誘われた事がきっかけで、予定のあいていたさゆりは、親友と共に小さな劇場へと足を運んだ。
 舞台の上の真治は輝いていて、さゆりは自分が恋に落ちるのを自覚した。
 親友に頼み込んで、ミナトに真治を連れてきてもらい、緊張しながら会った日のことは今でも鮮明に覚えている。
 それから何度か二人で会って、さゆりは初めて自分から告白をした。
 かなり必死だったと思う。
 晴れて恋人同士になってからは、夢のように楽しい時間だった。
 初めて名前を呼んでくれた時のこと、緑が綺麗な公園で手を繋いで歩いた時のこと、キスをした時の熱い感触や、優しい声音、さゆりは真治のことを深く愛するようになった。
 付き合いはじめて何ヵ月か経ったとき、真治がそれまで頑なに話そうとしなかった自分の生い立ちについて語ってくれた。
 自分を信頼してくれたことは嬉しかったが、真治の孤独な人生を想像し、さゆりは泣いた。
 泣きながら、絶対この人と幸せになろうと誓った。
 けれど、真治が事務所との契約がきれて、役者として活動できなくなってからだ。
 少しずつ何かが変化していったように思う。
 真治が変わったわけではない。それは、さゆりの心の中で起きていた。
 真治との未来に幸せな自分を描けなくなったのだ。
 役者という職業を諦めていない真治は、喫茶店でバイトをしながら生活していた。
 このまま真治と結婚したらどうなるのだろう。
 結婚して、子供が生まれて――子供が生まれれば、さゆりはしばらく働けないだろう。
 経済面はどうするんだろう。
 真治はそこまで考えているのだろうか。
 積もっていく将来への不安は、日ごとに真治への不信感へ変わっていった。 
 ――私の事、本当に想ってくれているのかな?
 そんな事を考えるようになってから、うまくやっている周りが羨ましく見えた。
 親友に相談をすると「焦っても仕方がない」と言われた。
 そんな時だった。ミナトに再会したのは。
 親友と飲んでいるところに、ミナトがやってきたのだ。
 別に浮気をしているわけでは無いから、真治には言わなかったけれど、ミナトが自分に好意を持ってくれてる事は何となく気付いた。
 どうして平凡な自分が、役者としてファンを多く持つミナトに好かれるのか疑問だった。
 真治と会う時間が減っていき、ミナトと会う回数が多くなっていった。
 ミナトはいつでも優しかった。いや、真治も優しい。
 違いがあるとすれば、ミナトはどっしりと地中に根をはる幹のように揺るぎない大きな愛情を持っていて、反面、真治の優しさは、木の葉のような風に吹かれて揺れる、とても繊細な気遣いに満ちている。
 ミナトの優しさに甘えるように、さゆりは胸の内にあった真治との関係、未来に対する不安を吐露した。
 いつも穏やかに笑っているミナトが、この時は真剣な目をして、さゆりの話す事柄をひとつひとつ噛みしめるように聞いてくれた。
 そして、ついにミナトに告白された。
「紀村はいい奴だよ。でも…俺はさゆりちゃんを不安になんかさせない。俺を選んでくれないかな?」
 すぐに返事はできなかったし、ミナトも待ってくれると言った。
「さゆりちゃんの誕生日、俺に祝わせてくれないかな? 夜、いつものカフェの前で待ってる。紀村じゃなく俺を選んでくれるなら、来て欲しい……」
 そうミナトに言われて、さゆりは悩んだ。
 悩むくらい、もうミナトに心が傾いていた。
 ――真治君のことは好き。
 ――でも、真治君と一緒にいて幸せになれる自信がない。
 結局、誕生日の当日、真治に別れを告げた。
 どうなるか不安だったが、真治がそれを受け入れてくれた事にさゆりは安堵する。
 仕事を終えて、いったん家に帰ると、母親が誕生日だからと真っ白なワンピースをプレゼントしてくれた。
「着ていきなさい、お父さんと一緒に選んだのよ」
 さゆりは父と母が自分のために一緒に買い物している姿を想像し、嬉しくなった。
 もう秋の始めだというのに真っ白なワンピースを纏い、さゆりは急いで待ち合わせ場所のカフェに向かう。
 ミナトは少し俯いて立っていた。
 すぐに気付いてくれなくて、さゆりは少し緊張しながらミナトの名前を呼んだ。
 ミナトが顔をあげる。視線が絡まって二人の距離が縮まる。
 これまでの想いが一気に弾けたように、気付くとミナトに強く抱きしめられていた。
 肌に馴染みすぎた真治とは違う体温に、さゆりの身体が熱くなる。
「絶対に幸せにする…」
 耳元で囁かれた言葉に、さゆりの頭の中は、一瞬で今を飛び越えて未来の自分の姿を想像する。
 ――この人となら大丈夫……
 満ち足りた気分だった。この時までは。
「さ…ゆり?」
 レストランを出て、ミナトと手を繋いで歩いていると真治の声が聞こえた。
 まさかと、さゆりは自分の耳を疑ったが、驚いた表情の真治が目の前にいた。
 すぐにミナトが庇うように、さゆりの前に立つ。
 ミナトの肩越しに、呆然と立ち尽くす真治と目が合った。
 真治の目がさゆりに問いかけていた。「どうして?」と。
 完全に光を無くした瞳が、ただこちらを見ていた。
 さゆりは、はじめて罪の意識でいっぱいになる。
 ――私、真治君の未来の事なんて考えてなかった。自分の事だけしか考えてなかった。
「ごめん…な、さい…」
 胸が詰まって苦しくて、上手く言葉が出なかった。
 そんな自分を前に、真治は笑いながら「今まで有難う」と、そう言った。
 ミナトに「大丈夫か?」と肩を抱かれ、さゆりは何とか頷いた。
 ミナトも少し青い顔色をしていた。
 その時、再び声をかけられた。自分より年上の知らない女の人だった。
 追い打ちをかけるように言われる。
「あなた達は、これからもお互いのことを想いあって、慰めあって、幸せに過ごしていくんでしょうね……でも、」
 怒りを滲ませた瞳から、涙を零して、さゆりを見て言った。
「でも真治くんは、明日も明後日も、この先もずっと……心の中で泣くんだと思うわ…」
 とどめを刺されたと思った。
 さゆりの肩に添えられていたミナトの腕が、びくっと震えた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…」
 何度もさゆりは謝った。女の人が去ったあとも、しばらく言い続けた。
 それから毎日、仕事中でも心の中で謝罪する日々が続いている。
 ――真治君が毎日泣くのなら、私は毎日謝るしかない。
 ――真治君の幸せを毎日祈るしかない。
 孤独な真治を理解しながら、ミナトの手を取った自分に出来ることはそれくらいしかないと、さゆりは思った。
 再びベッドに横なり目を閉じて祈る。
 眠りの淵を漂いはじめた時、あの日、真治と一緒にいた女の人のことを思い出す。
 ――あの人も、孤独な人なんだ…
 ――だって真治君と同じ目をしていたもの。
 さゆりの閉じた瞼から、また涙が零れた。



 定時を一時間ほど回ったところで、ミスズは会社を出る。
 吹き抜ける風が冷たくて、ミスズは先週買ったばかりのコートの前ボタンをしっかりと閉じた。
 これから冬に向けて気温は下がる一方だろう。
 ――マフラーもそのうち必要になりそうね。
 涼しい首元が少し気になった。
 ミスズは電車を降りて改札を出ると足を止めた。少し迷ったあとアパートには向かわずに、暗くなった街を歩き始める。
 ここは都心から離れているせいか、まだ遅い時間ではないのに既にシャッターが降りている店が多く、人通りもまばらになっていた。
 たどり着いたのは四階建ての古いビル。ミスズは地下へ続く階段をゆっくりと降りた。
「ソラ」という名のバーがこのビルの地下にある。
 ミスズが東京に来たばかり頃、とくによく通っていた店だった。
 最近は仕事が忙しいこともあり、すっかり足が遠のいていたと、ふと思い出したのである。
 扉から控えめな優しい光が漏れていて、変わらない店の様子にミスズは安堵する。
「いらっしゃいませ~って、久しぶりじゃないっ、ミスズちゃん!」
 マスターの船岡ダイチだ。
 ミスズの来店に驚きと喜びが混じった表情で、カウンターから飛び出してくる。
「ダイチさん、なかなか来れなくてごめんね?」
「いいのいいの。さあ、座って!」
 ミスズはカウンターの席に腰をおろした。客は今の時間は少なく、ミスズの他にカウンター席に女性がひとり、テーブル席に一組だけだった。以前、会社の飲み会帰りに顔を出した時は、ほとんど席が埋まっている状況で驚いた事を覚えている。だから、なるべく仕事が早く終わった日にだけ行こうと決めていた。
 ミスズはカウンターに入るダイチの姿を見つめる。
 船岡ダイチ、歳は四十五歳。彫りが深い日本人離れしている顔立ちで、長身、服の上からでも分かるくらい筋肉質な身体つきをしている。
 しかし外見の男らしさに反して、喋ると何故か「オネエ系」になってしまうのが特徴で、お酒を飲みながらダイチとの会話を愉しみにくる女性客も多いらしい。
 実はミスズ自身、彼に憧れを抱いていた時期があった。
 恋に発展しなかったのは、ダイチに家族がいることを知ってしまったからだ。愛する妻がいて、子供もいる。来ていた他の客との会話で知ったことだった。
 ――ダイチさんのような人がそばにいたら、きっと幸せね。
 恋はしていないが、ダイチと会うたびに、どうしようもない精神的な渇きをミスズは覚えてしまう。
 誰かひとりでいい。
 自分にもそばにいてくれる人がいたら……そう思ってしまう。
「はい、おまたせ。どうせ夕飯食べてないんでしょ?」
 ダイチがカクテルの入ったグラスと、器からはみ出すくらいに野菜がのったサラダをミスズの前に置く。
「ちゃんと食べなきゃ、仕事もちゃんとできないんだよ~」
 そしていつの間に作ったのか、綺麗な三角形のおにぎりまで出てくる。
「ダイチさん、ここはバーだよね? 間違ってないよね?」
 ミスズがカクテルとサラダとおにぎりを交互に見ながら言うと、ダイチは「もちろん」と大きく頷く。
 バーと謳いながら、夕飯を食べていないミスズにダイチはいつもご飯を出してくれる。いつだったかは味噌汁が出てきて「ここは定食屋ですか?」とツッコミを入れた事もあった。
「まるで、お母さんみたいね……ふふ」
 カウンター席に座っていたミスズよりもさらに歳上の女性が、二人のやり取り見て面白そうに笑って言った。
「本当に…私、子供じゃないのに…」
 椅子ひとつぶん離れた距離で、ミスズも女性と顔を合わせて一緒に笑い、その心地よさに会話が弾む。
「佳菜子」と名乗った女性は、このバーの常連だとダイチが紹介してくれた。
 キャリアを積んだ女優のように、年齢さえも武器にしているような美しい女性だとミスズは思った。メイクもきっちりしているし、長い艶のある髪はきれいに巻かれ、背中に流してある。身につけている黒のノースリーブのブラウスは胸元が少し開いていて、彼女の肌の白さを際立たせていた。
 そんな女性がグラスを傾けている隣で、ミスズはダイチの作ったおにぎりを食べている。
 なんだかとても滑稽な姿だった。
 「私ね、先週で仕事を辞めたの…」
 前触れなく佳菜子は突然そう言った。
 それから「スナックでずっと働いてたの」と付け加える。
「そうだったんですか…」
「だからお世話になったお店に挨拶しに来ていたの…」
 佳菜子の目元が少し赤くなっていた。
 もしかしたら、結構長い時間飲んでいて、酔いもまわっているのかもしれない。
「ダイチさんにもお世話になったんですか?」
「ええ。お客がつかなくて困った時は、いつもダイチさんに頼ってたわ…」
「懐かしいね~」
 ダイチがビールの入ったグラスを片手に目を細める。
 二人が見つめあい笑う姿は、長い時間を共に過ごしてきたことを物語っているようだった。
「それで、仕事をやめて、これからどうされるんですか?」
「結婚して、彼について海外に住むことになっているの」
 佳菜子は細い左手の薬指に光る指輪を見せてくれた。
「素敵ですね…」

 幸せそうに笑う彼女は、さらに美しく見える。
「どこで知り合った方だったんですか?」
「もちろんお店よ。偶然だったのよ。彼とは同級生だったの……」
「すごいですね…それが結婚に繋がるなんて」
「ふふ、あなたには誰かいないの?」
「いえ…残念ながら」
「そうなの。もったいないわね…貴女、私なんかより、ずっとしっかりしてそうなのに」
 ミスズは苦笑いしながら、首を横に振った。たとえ結婚しても、その後うまくいくという保証はないのだ。
 ミスズはふと真治の身の上話を思い出す。
 佳菜子はスナックで働いていたと言った。
「実は、人を探しているのですが…」
「突然ね、誰を?」
「佳菜子さんの働いていた世界の方ですが……」
 ミスズがそう言うと、佳菜子は興味を持ったように身を乗り出した。
「私に分かるかしら?」
「もしかしたら…。名前は児玉ミナホさん」
「本名かしら? 私、源氏名しか分からないわ…」
「そうですか…」
「他に何か……特徴とかはあるかしら?」
「他に…。実はその方は、不倫相手の子供を育てていたらしくて…」
 不倫相手の子供とは真治のことだった。
 ホテルで真治の身の上を聞いたときに、話にでてきたのが「児玉ミナホ」さん。真治の父親の愛人だった女性で、真治を育ててくれた恩人とも言うべき人。
 真治は会いたいけど、居場所が分からないと言っていたことをミスズは思い出した。
「不倫ね。確かにいろんな事情を抱えて働いてる子は多いけれど。私の知り合いにはいないわ」
 簡単に見つかると思ってはいないが、やはり難しそうだとミスズは項垂れた。
「昔、一緒に住んでいた家にも行ってみたそうなのですが、そこにはもう誰も住んでいなかったようで…」
「そうだったの…」
 ミスズは残っていたカクテルを飲み干して、空になったグラスを見つめる。
『いつか、役者の夢を応援してくれたミナホさんに、舞台に立つ姿を見て欲しい』
 そう言った真治の瞳はただ純粋で、幸せを願わずにはいられなかった。
 ――できることなら、逢わせてあげたい。
「ミスズちゃん、実は…」
 佳菜子が口を開いた。
「私ね、来週には海外に発つことが決まっているの」
 先週仕事を辞めて、来週には海外に行くのかとミスズは驚いた。 
「そうだったんですか…」
「だから、あまり力になれそうにないけど、出来るだけ探してみるわ…!」
 佳奈子は力強く頷いた。
「ありがとうございます、佳菜子さん」
「縁があれば、きっと会えるわ…。それに、日本で最後に私にできることが見つかった気がするの」
 佳菜子が立ち上がる。
「さっそく、元職場に言ってくることにするわ。何か分かったら連絡するから」
「気をつけて、いってらっしゃい!」
 ダイチと共に、佳菜子を見送る。
 凛とした後姿がミスズの目に焼きついた。







 秋晴れと呼ぶのに相応しい日だった。青い空には雲が数えるしかなく澄みきっていて、ミスズは何度も高い空を見上げていた。
 佳菜子から連絡がきた日、ミスズはすぐに真治の働く喫茶店に向かった。
 シナモンカプチーノを運んできた真治に、ミナホの居場所が分かったと告げると、真治はかなり驚いていた。
「会いにいかないの?」
「会いたいよ。けど、結婚しているミナホさんのところに今更行って、迷惑なんじゃないかって思えてきて…」
「そんな事は無いと思うけど…、でも、確かに会ってみなきゃ分からないわね…」
 真治は、そうだね、と頷いた。
 児玉ミナホ、真治の育ての親のような存在。彼女は今、結婚し子供もいるらしかった。
「私も着いていってもいい?」
「ミスズさんも?」
「ええ、じつは行きたい場所があるの……」
 このやりとり数週間後、ミスズは真治と、ミナホのいる神奈川の小さな街にいた。
 静けさが漂う無人駅を降りて、二人はゆっくりと歩く。
 秋晴れの空、海が近いのだろう、吹いてくる風に潮の香りが混ざっている。
 ミスズは隣を歩く真治の様子を窺う。 
 ――緊張しているようね。
 駅を降りてから会話の数が極端に減っていた。
 無理もない。真治が最後にミナホに会ったのは五年前。
「真治くん、ええと…コンビニ寄ってもいいかしら。トイレ行きたくなっちゃった…」
「俺も。緊張してきたからかな」
「やっぱりまだ不安?」
「ちょっとだけ。いまさら会いにいって迷惑なんじゃないかっていうのもあるんだけど。それ以上に…」
 真治は空を仰いで言う。眉を寄せた表情が少しだけ泣きそうに見えた。
「俺と親父がさんざん迷惑をかけて…それで、ミナホさんが今幸せじゃなかったら、きっと俺自身が耐えられなくなりそうで…」
 きっと大丈夫よ、とミスズはすぐに答えられなかった。
 真実は実際に見てみなければ分からないから。
「そうね。そしたらどうするか、その時になったら考えればいいわ…」
 結局ミスズはそう答えた。
 下り坂をゆっくり降りていくと行くと、見慣れたコンビニの看板が目に入って、二人は自然とそちらに足を向ける。
 また会話が途切れてしまった。
 ――なんだか、声が聞きたい……
 何度も繰り返し会話をしてきたのに、無性に真治の声が聞きたくなってミスズが会話の糸口を探していると、甲高い泣き声がした。
 ちょうど目指していたコンビニの前。広々とした駐車スペースに、ベビーカーを押している女性がいた。歳は四十代くらいだろうか。泣き声はベビーカーに乗っている子供のものだろう。
「どうしたのかしら。オムツなの?」
 ベビーカーを押していた女性がしゃがむ。同時に、ぴたりと真治の足が止まった。
 もしかして…と、ミスズは予感する。
「ミナホさんだ…」
 真治がぽつりと呟く。 
「あの人がミナホさん? 間違いない?」
 ミスズが問いかけると真治はすぐに頷き返す。
 あの夜、さゆりとミナトにも遭遇したことといい、真治はなにか引き寄せる力があるのではないかと、ミスズはつい思ってしまう。
 じっくりと観察するようにミナホを見る。
 中年とはいえ、綺麗な人だった。薄化粧で長い髪はひとつに束ねられている。足首まで隠れる丈のワンピースを着ていて、ベビーカーの中の我が子に向ける瞳は、慈しみに満ちていた。
 しかし、真治は動かない。
 決心がついていなかったのかもしれない。
「真治くん、いかないの?」
「元気そうな顔見れただけで…もう…」
「せっかくここまで来たのに。分かった…私が行ってくるわ」
「ちょっと待って!」 
 踏み出したミスズの手首を、真治は強く握ってとどめた。
 真治の手が冷たい。
「大丈夫よ。ちょっと様子をみてくるだけ。真治くんの事は言わないから」
 ゆっくりと安心させるように、真治の手をほどくとミスズは歩きだす。
 手首に残った冷たさが真治の心の内を表しているようで切なくなった。打ち消すように笑顔をつくり、ミナホに歩み寄る。
「赤ちゃん、かわいいですね。何歳なんですか?」
 ミナホに怪しく思われないようにと、自分に言い聞かせながら、ミスズは声をかけた。 
「もうすぐ一歳なんですよ…、急に泣き出してしまって…」
 慌てながらも、初対面のミスズに微笑む表情のミナホは母親らしい包容力が感じられた。
 直感的にミスズは思う。
 きっと真治のことも、自分の子供のように愛していたのではないか。
 こんな風に、慈しみをこめた眼差しを向けていたのではないか。
「お子さんは一人目ですか?」
 ミスズは聞いた。直球な質問だったかもしれない。ミナホがきょとんとした表情をする。
 しかし、すぐに「そうよ」と答えが返ってきた。
「そう…ですか…」
「実際に産んだのはこの子だけよ…」
 ミナホの言葉に、ミスズの鼓動が早くなる。 
「なんて言ったらいいのかしら…」
 ベビーカーの中の我が子を見ていたミナホの瞳が、切なそうに揺れた気がした。
「私の一方的な思いかもしれないけれど、もうひとり、息子のように思っている子がいるわ…」
 ミスズは今すぐに振り向いて、真治を呼びたくなるのを必死で堪えた。
 ――真治くん、あなたは確かに愛されているわ。
 胸が熱くなる。
「もうひとつ、変なことを聞いても良いですか?」
「変なこと?」
「今、幸せですか?」
 それは真治が一番気にしている事だった。 
 ミナホは笑った。笑って言った。
「ええ、私はずっと幸せよ。 あら、泣き止んだみたい、じゃあね…」
 ミナホがベビーカーを押して歩き出そうとする。
 ――このままでいいの?
 ミスズは今度こそ振り返って真治を見た。視線がぶつかって、ミスズは伝わるようにと祈りながら、真治に強く頷いた。
「ミナホさん!」
 真治が叫んだ。その声を聞いたミナホが足を止める。
 信じられないと奇跡を見るような眼差しで、走ってくる真治の姿を捉える。
「真治? 本当に真治なのっ…?」
 ミナホはベビーカーを置いて駆け寄り、真治を抱きしめた。
「ミナホさんごめん。俺…」
「なぜ謝るの? ああ、また会えるなんて……すごく嬉しい」
 ミナホは涙を流し、真治との再会を喜んでいる。
 ミスズは二人の姿を、取り残されたままのベビーカーの側で見ていた。
「誰かに愛されるって、本当に素敵なことね……」
 ミスズがそう呟くと、祝福するように愛くるしい表情の赤ちゃんが、嬉しそうに声をあげた。



 ミナホの住んでいるマンションに、真治とミスズは訪れていた。
 何も知らないふりをして近づいたミスズに対して、ミナホはただ「真治を連れてきてくれて有難う」と言った。
 コーヒーを飲みながら、離れていた時間の、積もる話に花がさく。
「迷惑だなんて…そんな事あるわけないじゃない。もう…親の心子知らずって、このことを言うのかしら…」
 ミナホが目元に皺を寄せて、嬉しそうに言う。
「夫も真治がきたと伝えたら喜ぶわ…」
「俺のこと話したの?」
「ええ。それから…貴方の父親とも数年前に一度だけ話したわ」
「!」
「再婚したらしいわよ。あなた謝りたいと言っていたわ」
「今更すぎなんだけど…」
「そうよね、それは私が言ってやったわ…」
「本当に謝るべきは、俺よりミナホさんになんだよ。俺も、親父も…」
「逆よ……むしろ私の存在が、貴方たち家族を引き離してしまった。なんてお詫びをしたらいいか……」
「その事は、もういいよ。ミナホさんこそ気にしないで」
 ミスズは二人の会話を聞きながら、大きなガラスの向こうの空を眺めた。
 来るときは真っ青だった空が、一日の終わりを告げるように赤く染まりはじめていた。
 まだまだ二人の話は尽きそうに無かった。
 小さなバッグ引き寄せてミスズは立ち上がる。
「ミスズさん…?」
「お邪魔しました。私…そろそろお暇しようと思います」
「あら、もうこんな時間なってたのね」 
「真治くんはゆっくりしていったら?   せっかく来たんだもの…」
 ミスズは言ったが、真治も上着に袖を通しながら立ち上がった。
「ごめんねミスズさん、行きたい場所があったんだよね?」
「でも、私…」
「そうよ、一緒に行きなさい。こんな可愛い女性をひとりで帰すような男に育てた覚えはないわよ」
「あはは、なにそれ。そうだ……報告があるんだ」
 そう言った真治の黒い瞳が、いつもより輝いて見える。
「俺ね、来月のクリスマスの日、舞台に上がれることになったんだ」
「……!」 
「真治、良かったわね!」
 それは嬉しい報告だった。
 実は真治のもとにミナトから連絡があった。
 ミナトの知り合いが主催する舞台で、出演するはずの役者が怪我で出れなくなり、代役を急遽探すことになったらしい。
 そこでミナトが真治を推薦した。罪滅ぼしのつもりだったのかもしれない。
「ミスズさんも良かったら、観にきてよ…」
「もちろん。絶対に行くわ……」
 ミスズは笑顔でこたえた。
 真治がまた舞台に上がる。
 止まったままの真治の時間が動き出したように思えた。
 ――良かったね、真治くん…
 真治の幸せを祝福する一方で、ミスズは心の中に孤独という影がくっきりと浮かび上がるのを感じていた。



 陽が沈んでいく。
 潮風がさらに冷たさを孕んで吹き抜けていく。
 ミナホに「また二人でいらっしゃい」と見送られ、真治はミスズの後ろについて歩き始めた。
「私少し遠回りして帰るから、真治くんは先に帰っても、」
「せっかくだし、一緒に行くよ」
 真治がそう言うと、ミスズは少し困ったような顔をしたが、それ以上何も言わなかった。
 ――俺と一緒じゃ行きづらい場所なのか?
 さきほどからミスズの様子がおかしい気がする。
「ミスズさんはよくこの街に来てるの?」
「そうね。年に一回、毎年必ずこの日にきているの…」
 年に一回、ますます謎だった。
 ミスズの浮かない表情に、真治は何故か胸騒ぎがする。
 ――ミスズさんは、どこに向かってるんだろう。
 二人は無言のまま、車道に沿った長く続く歩道をひたすら歩いた。
 どれくらいの時間、歩き続けただろう。海が近くにあるようで波の音がきこえてくる。 
 まだ完全に陽は落ちていないが、天頂は濃い群青色に染まり、小さな星がチカチカと輝いている。
 ミスズは小さなバス停のそばの古びたベンチに腰をおろした。真治も隣に座る。
「ここから、バスに乗って駅にいけるから大丈夫よ…」 
 やっと口を開いたミスズの言葉に真治は頷く。
 真治は暗くなっていく空を見上げていた。
 ただ、隣にいるミスズの様子がいつもと違う。翳りを帯びた表情、虚ろに見える瞳。
 ――バスが来た。
 駅行きと表示されたバスが目の前に停まった。学校帰りの生徒を数人乗せている。
 しかしミスズは動かなかった。当然、真治もミスズの隣で座ったまま。
 停車していたバスは行ってしまう。
 ミスズは座ったまま目を伏せて、たまに人の気配がすると顔をあげて観察している。
 明らかにおかしい、と真治は思った。
 ――バスで何処かに向かうわけじゃなさそうだし…誰かを待ってる?
 年に一度、ここで会う約束をしている人物がいるのだろうか。だが先程から垣間見えるミスズの様子は、何かに怯えるような、心細さすら感じさせる危うさがあった。
「ミスズさんは…誰かを待ってるんですか?」
 真治は聞いた。
 ミスズが今、何を考えているのか、何に心を痛めているのか、理由が知りたかった。
 しかしミスズは小さく笑っただけで、何も言わない。
 真治はもどかしく思った。 
「俺はミスズさんのこと何も知らないよね。今さらだけどさ……」
「私は何故か、真治くんの事を知ることになってしまったわね…」
 やっとミスズの声が聞けたと、真治は安堵する。 
 ミスズが立ち上がった。そしてバス停のそばにひとつだけある古びた自動販売機の前に立つ。
 どこか憂いを帯びた表情で、真治を見つめると静かに口を開く。
「ここのバス停には、昔…この自動販売機の隣にコインロッカーがあったの…」
 ミスズの声が震えた。
「だけどね、ある出来事があって撤去されたの……」
「ある出来事…?」
 瞬間、真治は嫌な予感がした。 
 それに反してミスズはいつもと同じく、いや、いつも以上にゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そのコインロッカーに、三十二年前の今日…産まれたばかりの赤ちゃんが捨てられていたの。そう…それが私――」
 ――ミスズさんが…この場所に捨てられていた…
 真治は言葉を失う。
 自動販売機しかないバス停。
 ここにあったはずのコインロッカーの面影はなにひとつ無かった。
 ただただ冷たい風が吹き抜けている。
 真治は想像する。
 寒い季節に、このバス停のベンチで何時間も佇むミスズを。たったひとりで、心もとない様子で何時間もベンチに佇む、今よりも幼い姿のミスズを……
 それは真治が小学生の頃、玄関先で母親の帰りを待っていた時と似ていた。
「毎年…、ミスズさんはここに来てるって、言ってたよね?」
 真治の声が震えた。寒さのせいでは無かった。
 ミスズは「そうよ」と頷く。 
「最初はね、私を捨てた人が来るかもしれないって思ってた…けど、会えなかった。もちろん、とっくの昔に諦めてるけど……」
 それは嘘だと真治は思った。さっきも通り過ぎる人の顔をミスズは目を凝らして見ていた。きっと自分に似た面影を探していたのだと、今なら分かる。
「ごめんなさい、こんな話…するつもりじゃ無かったんだけど」
「いえ…」
 真治は頭を振る。
 ミスズが「聞いてくれてありがとう」と言った。その微笑む姿が儚く見えて、真治は胸が絞られるように苦しくなった。
 ――さっき、俺とミナホさんをどんな気持ちで見ていたのだろう
 親子のような関係の自分たちを見て、羨ましかったかもしれない。得られない温もりが欲しいと願ってしまったかもしれない。自分は孤独なのだと思わせてしまったかもしれない。
 ミスズと重ねた短い時間を真治は思い出す。自分の心に寄り添ってくれた、本当は孤独だったミスズの優しさを思い出す。
 ――俺が、ミスズさんのためにできることは…
「ミスズさん、来年も俺と一緒にこの場所に来よう…」
 真治は言った。
「もしミスズさんを置いていった人がきたら、今度は俺がミスズさんの気持ちを伝えるよ…」
「真治、くん…」
 ミスズの声がくぐもっていく。
 真治は呼吸を整えて、ミスズをしっかりと見た。
 そして――

「どうして、独りにしたんですか――
本当は、ずっとずっと独りで…寂しかったんだ…!」

 風に紛れて消えてしまわないように、真治は強く叫んだ。
 ただ一つだけ、自分にできること。それはミスズの孤独に寄り添うことだけ。
「そう…私は…ずっとずっと寂しかったの……」 
 涙とともに零れたミスズの呟きは、ずっと抑えていた心の声だった。
「最初から、ずっと独りだった……だれも、いなかった……」
 真治は自動販売機の前に立ちつくすミスズの隣にいき、溢れてくるミスズの涙を、冷たくなった指先で何度も拭った。ほんの少しでも良い。ミスズの孤独な魂が癒されるように。
「もう独りじゃないよ。俺がミスズさんの気持ち、ちゃんと分かってるから……」
 いつの間にか、駅にいくバスが止まっていた。
 真治はミスズの手をひいて、バスに乗り込んだ。


 今年の冬は暖かいらしい。そう聞いていた。
 しかし、十二月入ると吐いた息は白くて身体の芯からじんわりと寒さが広がっていく。
 最近はバイトと舞台稽古に忙しくて、部屋にいる時間が短く、帰宅してからすぐにエアコンをつけてもすぐに温まらない。
 寒さを気にしないように、真治はパソコンの電源を入れた。
 古い型のノートパソコン。
 三年ぶりに真治は自身のブログのページを開いた。役者としての仕事が無くなってから、ブログに書くことは無くなっていた。
 だから、今さら舞台への出演の告知をブログでしたところで、見る者はほとんどいないだろう。
 十二月のクリスマスにある舞台への出演の話は、急遽決まったものだった。
 推薦してくれたミナトに、真治は感謝している。
 大手プロダクションがスポンサーについている公演で、真治はチャンスだと思って引き受ける事にした。
 ――絶対に成功させる……
「もう一度、ここから始めるんだ…」
 そう呟いた時、ブログの記事にコメントが届いているのを見つける。
 日付は当然、三年以上前だった。
 広告かもしれないと思いながら、真治はコメントが書かれたページを開く。
 それは広告では無かった。 

「はじめまして。先日、友達と一緒に観に行きました。舞台なんて今まで見たことなかったから楽しかったです。それに紀村さんの声、演技にとても感動しました。また紀村さんの舞台観に行きます」――ミスズ

「これって…」
 最後の、「ミスズ」という名前。
 真治の胸が熱くなる。
「ミスズさん…待っててくれる人が俺にはちゃんといたんだね。ありがとう」
 瞼の奥に残っているあの日のバス停での記憶。
 ミナホと会えて幸せを感じた最良の日は、ミスズの秘密を知る日でもあった。
 三年前に届けられたメッセージ、どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。
 ――それでも、またミスズさんと会えた。
 まるで奇跡のような巡り合わせを真治は感じた。
 部屋がようやく暖まってきた。
 パソコンのキーボードを打つ指先が、なんだか熱い気がした。



 十二月二十四日と二十五日。
 劇団「のらいぬ」の旗揚げ公演。
 舞台の演目は「悲しみの世界と喜びの世界」。
 人間の住む世界とは別の世界――その世界は四つに切り取られている。
「喜びの世界」「哀しみの世界」「裏切りの世界」「怠惰の世界」。
 そして、それぞれの世界には王が居て支配することで、四つの世界は均衡が保たれている。
 人間の世界から迷い込んでしまった主人公は元の世界に戻るために、それぞれの世界の王に会いに行くというストーリーだ。
 真治の役は準主役、哀しみの世界を支配する王の役だった。
 物語のキーワードにも繋がる重要な人物。
「喜びの世界」の女王が抱える孤独と、「哀しみの世界」の王が望む平和、世界の要素とは裏腹の王自身が抱える悩みを知った主人公が、和解の為に奮闘し、結果として四つの世界が統合されるという話。
 真治はバイトの時間を調整してもらいながら、舞台稽古に心地よい緊張を感じていた。
 ――待ってくれている人がいる。
 それだけで、無名に近い真治は何を言われようと頑張れた。
 舞台初日は大盛況で終わった。
 公演後、会場のロビーで出演者たちが、関係者やファンと交流している。
 真治のもとに、ミナホとその夫が駆けつけてきた。
「はい、これ。ミスズちゃんからよ」
 ミナホから手渡されたのは大きな花束。しかし、本人がいない。
「わざわざ観に来てくれて有難う。その……ミスズさんは?」
「なんだか体調が悪いみたいで。先に帰るって言ってたわ。すごく良かったって真治に伝えてって…」
「そっか…うん、有難う」
 真治は頷いた。
「じゃあ、私たちも帰るわね。良いクリスマスを!」
 一番に感想を聞きたかったミスズに会えなかった事に、真治は内心落胆する。
 ――それにしても、体調が悪いって……
 再会したあの夜のことを真治は思い出す。
 ――大丈夫かな、ミスズさん。
 ロビーに飾られているクリスマスツリーを見ながら、真治はミスズの事ばかり考えていた。


 身体は重いが、心は満たされていた。
 疲労が溜まった身体が安らぐ場所を求めている。
 真治の舞台を観たあと、ミスズはすぐに帰宅をした。明日も仕事がある。
 年末のこの時期は、年始の準備にも追われて、クリスマスの華やかさとは無縁の日々を過ごしてきていた。
 でも今年は違う。
 真治の姿を見るためにスケジュールを一週間分前倒しですすめて、なんとか今日は午後から休みを取った。
 エアコンのスイッチをいれて、そのままベッドに倒れるようにして身体を沈めた。
 目を閉じた暗闇の向こうに、真治の姿が鮮明に蘇る。
 何年か前に初めて観たあの舞台の景色と重なって、ミスズは高揚感に夢見心地のまま、ベッドで目を閉じて眠りが訪れるのを待っていた。
 部屋にインターホンが響いた。
 アパートに訪ねてくる人なんてほとんどいないから、静かな部屋に甲高く響くそれにミスズは緊張する。
 なるべく足音を立てないように玄関に向かい、小さな覗き穴から外を見る。
 そこに立っていたのは、真治だった。
「真治くん!」
 驚くのと同時に、身体が勝手にドアをあけていた
「ミスズさん…」
「どうして…。え、と、お疲れ様…」
「具合は? 体調悪いって聞いたから」
 まさか、心配してきてくれたのだろうか。
「そうね。良くはないけど、そんなに深刻でもないわ……」
「良かった…」
 妙な沈黙が続いて、ミスズは「寒いから入ったら」と真治を招き入れた。
「コーヒーにする? それともお茶がいい?」
「俺がやるよ。ミスズさん体調悪いでしょ……」
 真治が狭いキッチンに立つ。
 ――なんだか、懐かしい気がする。
 ミスズは真治の後ろ姿を見ながらそう思った。
「ミスズさん、ブログ見たよ…」
「ブログ……?」
 ミスズは意味が分からないと首を傾げたが、暫くして思い出す。
「そういえば、そんな事もあったわね…」
 忘れていた思い出に、恥ずかしくなってミスズは俯向いた。
「嬉しかったんだ」
 二つのカップを手にやってきた真治が言った。
「本当は、誰も待ってくれてないって思ってたから、本当に嬉しかったし、頑張れた…」
 テーブルの上に静かにカップを置く。
「ミスズさんだけが、ずっと俺の事を役者として見てくれてた。今日まで、ずっと待たせててごめん。」
「真治くん……」
「感想、聞かせてくれないかな?」
 真治がミスズの言葉を待つ。ミスズはついさっき観た舞台の上の真治の姿をまた思いだす。
「すごく、素敵だったわ。言葉にならないほど。舞台の上の貴方はとても輝いていたし、それに…」
 ミスズはそこで少し躊躇った。
「それに……?」
「それに…あの瞬間、私は寂しくなかったの…」
 そこまで言って、ミスズは恥ずかしくなる。
「良かった…そう言ってもらえて…」
 反面、真治は安堵したように息を吐いた。
 ミスズはカップを手のひらで包んだ。少し熱い……
 ――あの時と同じ、シナモンの香りがする。
 あれから喫茶店に行くたびにシナモンカプチーノを注文するようになっていた。
 そのたびに真治との時間を思い出す。きっとそれは、これからも同じだろう。
 苦くて、甘くて、心をほぐすシナモンの香り。
 ――だけど、多分もうこれできっと最後だ…
 ミスズは思う。今日の舞台を観て確信した。
 真治はきっと役者として、さらに上に行くだろう。たくさんの舞台に立ち、たくさんのファンに応援され、活躍し役者として輝いていくだろう。もうバイトなんかしなくても生活していけるようになるかもしれない。
 ――そうしたら、私は。
「ミスズさん、今、何を考えているの?」
 声がしてハッと顔を上げると、真治の黒い瞳とぶつかった。
 腕が伸びてきて、真治の指先がミスズの頬に触れる。
 いつの間にかミスズは泣いていた。
 真治が溢れ出ていた涙を、何度も何度も優しく拭う。
「真治くん……」
 胸が熱い。熱くて苦しくて、身体が震えた。
「ミスズさん、大丈夫だよ。ひとりぼっちになんかしないよ…」
 真治はそう言って微笑んだあと、ミスズを優しく抱きしめた。
 耳元で真治の柔らかな声が響く。
「さっき、変なこと想像してたでしょ? 俺はここにいるんだよ。ミスズさんのそばにいる…」
「なんで、分かるの……?」
「分かるよ。俺も、ずっとひとりぼっちだったから…」
 真治はそのまま、少し乱れていたミスズの髪を梳くように優しく撫でる。
「でも気がついたらミスズさんがいた。俺を待ってくれてる人がいて幸せだって思った。いや…幸せにしたいって思ったんだ」
 真治は抱きしめていた腕をほどくと、ミスズの瞳を見つめる。
 ミスズは真治の瞳の中に映る自分を見つける。
 真治が言った。
「好きだよ。ミスズさん、ずっと一緒に歩いていこう……」
 ミスズの瞳から新たな涙が溢れた。
 ぴったりと張り付いてた重苦しい感情が解けていく。
 ミスズは静かに、そして何度も頷く。
 真治がそんなミスズを見て、また抱き寄せる。
「ミスズさん、明日も連絡する」
 ミスズは頷く。
「明後日も連絡するから、だから…」
「わかったわ……」
 やっとミスズは、そう答えた。
 自分の鼓動も、真治の鼓動もシナモンの香りのように、今は心地よく感じる。
「だから、もう独りで泣かないでね…」
 その言葉にミスズはまた涙を零しながら頷いた。



シナモンカプチーノ

2016年11月14日 発行 初版

著  者:葵月さとい
発  行:

bb_B_00147413
bcck: http://bccks.jp/bcck/00147413/info
user: http://bccks.jp/user/139439
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket