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この本はタチヨミ版です。
俺、御手洗圭一は今、人生何度目かの恐怖におののいていた。
念願の桐陵大学に入学してからはや三年。夏は暑く冬は寒いこの安アパートで、それなりに悠々自適な生活を送ってきたはずだった。
それがどうだ。今こうしている間にも、着々と身の危険が迫っている。それも逃げようも隠れようもないとびっきりのやつだ。
触れるのもおぞましいが放置しておくのも気がひける『それ』は、ベランダの物干しにかろうじてひっかかり、強烈な存在感を放っていた。蛍光ピンクの生地に、蛍光ブルーのアクセント。そこに蛍光イエローでハートが描かれているなんて、どんな色彩センスのもとにデザインされたんだろう。そして更に強烈なのは、ハートの中心にでかでかと印字されているアルファベットだった。
『 I am a gay 』
アイ・アム・ア・ゲイ。和訳するまでもない。その文言が燦然と輝いているのは、限りなくビキニに近い布面積のボクサーブリーフの、ちょうどケツにあたる部分であった。よろしくない。これは大変よろしくない。
――もしこれがスケスケの女ものTバックだったら、そうでなくても清楚で可愛らしい白レースのショーツだったら、全力でフラグを回収しに行くというのに!
いくらそうやって歯噛みしようとも、目の前の現実は変わらない。待ち構えているのは、フラグはフラグでも即死確実のヤバイやつだ。ここは一階。このアパートは二階建て。落とし主と落とした先はどちらの視点から見ても明白である。
上階の住人は、確か――瀬戸内、瀬川……違う。確か、瀬ヶ谷といったか。下の名前までは覚えていないが、確か男だったはずだ。あちらが越してきた時に確認して、落胆した覚えがある。
だったらなおさら、コレをどうする? 何の痕跡も残さず捨て去るか? いや、むしろ保管していると思われたら立ち直れない。
居留守をするにも限界がある。素知らぬふりをするか? いや、『あれ』の持ち主と顔を合わせた時点でゲームオーバーだ。
黒髪短髪にさっぱりとしたしょうゆ顔。さらにラグビー部で鍛えあげた肉体を持ち合わせた俺は、とにもかくにも男にモテてしまう。
大学入学以来、一部の圧倒的な支持によりミスター桐陵三連覇を果たすも、ラブレターをよこすのは揃いも揃っていかつい野郎どもばかり。
通学電車の中で痴漢してくるのも男だ。さらにそいつをふん捕まえて「大丈夫だった?」なんて爽やかスマイルを決める男が現れたかと思ったら、そいつもなんやかんやでホテルに連れ込もうとしてくる。
高校時代に部室で「お前、いいケツしてんな……」と先輩に下半身をまさぐられた時は、本気で「人生終わった」と思ったものだ。
恋人いない歴=年齢。純潔と童貞を守り抜くことができたのは奇跡としか言いようのないあれやそれを経て、俺は学んだのだ。男――とくにゲイには近寄るべからず! ただのひとときも、隙を見せることなかれ!
その瞬間だった。
ピンポーン、と響き渡るインターホン。俺は、とっさに全身を硬直させて息を殺した。
数秒の間をおいて、再び鳴り響く間の抜けた電子音。
「すいませーん」
聞こえてきたのは男の声だ。少し高めだが、おそらく同世代の男だろう。
「上の階のもんですけどー」
俺は緊張に全身を強張らせ、必死に息を殺す。
あんな変態を絵に描いたようなパンツを履いているのだ。相手は恐らくガチムチで、見るからにソレ系の男だろう。何が何でも、絶対に顔を合わせてはいけない。
現在の時刻は朝の八時をまわったところだ。今をやりすごせば、とりあえず夕方まではなんとか持ちこたえられる。
「っれー? おかしいな……」
ドアの外に居ると思われる訪問者は、案の定困惑しているようだ。そうそうその調子! あとは階段に向かってUターンしてくれればオッケー!
ガッツポーズをとった左ひじが、カラーボックスの上に鎮座していたボックスティッシュに触れる。ガタン、ガコン、バタン。ティッシュ箱は隣にあったヘアワックスのケースを巻き込みながら、床の上へと派手に落下した。もちろん、それ相応の物音をたてながら。
「あ、なんだいるじゃん。もっしもーし!」
……残念ながら、訪問者には居留守がばれてしまったようだ。盛大に歯噛みしながら、数秒ためらった後、どうしようもなくなって玄関向かう。大丈夫、大丈夫だ。単に落し物を渡すだけ。しかも男同士。何の問題がある? いや無いだろ!
さっきまでとは百八十度方向転換した思考で自らを励ましながら、いよいよ意を決して玄関のノブに手をかける。
「――はい……」
「あ、よかった! 朝からすんません!」
にこやかな微笑みと共に彼を待っていたのは、意外や意外。俺よりも頭一つくらい小柄な細身の青年だった。
茶色くて長めの髪、カジュアルだけれど清潔感のある服装。年は一つか二つくらい下に見える。
――向かい合っていると鼻先をくすぐる、フルーツのような香りは香水だろうか。
整った顔立ちをしていて、ちょっとオシャレで、でも決してとっつきにくくない。キャンパスにいれば真っ先に女子から連絡先を聞かれるタイプの、いわゆるイケメンだった。
切れ長なこげ茶色の瞳を細めて、青年は至ってフレンドリーに話しかけてくる。
「おれ、上の階に住んでる瀬ヶ谷です。んで、たぶん洗濯物落としちゃって」
笑うと少しだけ下がる目尻が、気恥ずかしそうに赤らんでいた。あがった口角から僅かに覗く白い歯が何かに似てると思ったらアレだ。美容院で出されるから無理矢理ページをめくるファッション誌の、読者モデルとかなんとか、そういうやつ。
「申し訳ないんですけど、ベランダ見てもらっていいっすか?」
「あ、ああ……」
面食らいながらも、俺は玄関を後にし、ベランダから『例のブツ』を運んできた。
手に取ったそれは少しひんやりとしていたが、おおかた乾いている。何だ、こうしてみれば、ただの洗濯物じゃないか。だから大丈夫、大丈夫、と自己暗示をかけながら、ひきつった顔で玄関へと戻る。
「あー、そうそう! よかった~! ちゃんとあって!」
戻ってきた俺の持っている『それ』を見るなり、彼は大袈裟に安堵の息をついてみせた。このパンツが戻ってきたことがそんなに嬉しいのかと理解に苦しむが、それはそれ。とにかく今は一刻も早く、この状況をなんとかしたい。
「すんません! 本当に有難うございました」
にこにこと微笑む青年に、「はぁ……」と曖昧な返事をする。
「おにーさん、いかついから怖いひとかと思ったけど、全然そんなことなかったっすね」
青年はそう言って、人懐っこい顔でにかっと笑った。まるで嵐の後の晴天みたいな笑顔だ。
「――あっ!」
不意にそんな声をあげるから、今度は何かと思ったら、上半身を乗り出して玄関先のキャビネットを覗き込んでいる。彼が身動ぎした拍子に、例のいい香りもふわりと揺れた。
「こいつ、おれも好き! かわいいっすよね!」
そう言って彼が指さしたのは、不細工な顔をした猫のマスコットだ。以前訪ねてきた妹に押し付けられたのだが、妙に愛着が湧いて未だに捨てられずにいる。
「――意外と可愛いもん好きなんだ?」
からかうような視線に心臓が逸って、うまく答えることができなかった。
「や、」とか「別に」とかもごもご言っているこちらに再び微笑みかけて、彼は人懐っこく質問を続ける。
「大学生?」
視線はまっすぐにこちらを向いていた。語尾が上がっていることから、かろうじてそれが質問であるとわかったので、こくりと頷く。
途端に、再びにぱっと笑顔を浮かべながら彼は言った。
「おれ、桐陵の二年。環境学部。瀬ヶ谷涼介。涼介、って呼んで下さい!」
そう言ったきり黙ってこちらを見上げてくるのは、無言の催促というやつだろうか。
「……俺は三年。経済学部の御手洗圭一」
じっとこちらを見つめる瞳に耐えかねてそう言うと、満足したように破顔する。
「そっか! じゃ、『圭一さん』って呼びます!」
なんでいきなり下の名前なんだよ、と心の中でツッコミつつ、それを決して不快には思っていない自分に驚いた。
ずかずかと自分の領域に入り込まれるのは好きじゃない。しかし、そんな俺に嫌悪感ひとつ感じさせることなくこうやって振る舞うことができるのは、もはやひとつの才能ではないだろうか。
「――今日一限だから時間無いけど、今度何かお礼しますね!」
そしてくるりと踵を返す青年。しかし、何かを思い出したのか、「あ!」と声をあげてこちらを振り返った。
「あの……」
少し視線を伏せてから、上目づかいでこちらを見上げてくる人懐っこい瞳。
「『これ』、おれと圭一さんのヒミツ。ね?」
片手に例のパンツを掲げながら、そしてもう片方の手は、人差し指をたてて唇の前に。そして極めつけはアイドルばりのウインクだ。今時そういうの、テレビでもやる? っていうくらいの。
「じゃあ、また!」
彼はにこやかな微笑みと共に、俺の前から姿を消した。カンカンカン、と響き渡る軽快な足音。残されたのは、ぽかんと口を開けたまま、呆気にとられて立ち尽くす一人の男……つまり俺。
『おれと圭一さんのヒミツ。ね?』
悪戯っぽく囁く声が、何度も何度も頭の中でリフレインする。
今までの人生で、男の媚びるような仕草なんて何度も見てきた。それこそうんざりするくらいに。そして俺は、そういうことをしてくる奴を、ことごとく嫌っていた、はずなのに。
先程の青年には、そういった嫌悪を感じなかった。
なんというか、すごくナチュラルな仕草だったのだ。媚びているとか、そういうわけではなくて、友人相手に少しふざけているみたいな。
(――いい匂い、だったな)
香水やコロンの類はあまり好きではないけれど、主張しすぎない、爽やかな香りだった。それを思い出すのと同時に、彼の人好きのする笑顔が鮮明に蘇ってくる。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年7月22日 発行 第2版
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これまで別名義で二次創作をメインに活動していたが、今作で商業デビュー。
生活感あふれる、チャーミーグリーンの香りが漂ってくるようなエロを好む。