「信じらんねえ。最悪だわ…。本当、悪魔だよ、アンタ」近親相姦の末、酷い裏切りをされた兄に復讐する弟の話。
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*
なんでこんな事に――。
孝弘は茫然と隣の男をみていた。部屋には脱ぎ捨てた衣服が散らばっている。
ファスナーの開いたビジネスバックには男の社員証が、
『カルエバイオサイレンス社ニューヨーク支所 小野哉太』
名前と顔写真をこちらに向け、取り出し口から垂れていた。
容姿は昔とだいぶ変わった。心臓を射貫くような冷徹な目つきと端正な顔だちは、今でも健在だが。顔の輪郭はもっとシャープで細くなり、猫毛のツーブロックヘアは小奇麗で男らしい印象。不良時代の尖った面影は消えてしまったが、左耳に光るダイヤのピアスが、彼が血を分けた双子の弟で間違いないと語っている。
(駄目だ。こんなこと、あってはならない)
おのれの罪深さに孝弘は震えた。冷めた室内は、ため息さえ白く濁る。
窓辺からはもう朝日が漏れ出している。とうとう一睡もできないまま、朝を迎えそうだ。
――双子の兄弟に何があったのか。全ては七年前に遡る。
二〇〇九年四月。孝弘は高校三年生になった。
中高一貫の男子校だから、ほとんど代わり映えはしない。中学二年から歴任の生徒会長も今年度で五期。だから春になると立候補と選挙活動で忙しくなるが、そんな国家官僚のような生活もいい加減慣れてしまった。
うれしい変化もあった。今年度のクラス変えで、柚木と同じ学級になった。名前は有川柚木。孝弘の唯一の親友だ。
ショートホームルーム五分前、ようやく駆け込んできた柚木の姿に、孝弘は目を疑った。全身がずぶ濡れだ。
「あ、孝弘、おはよう」
「柚木。それ、どうしたのですか」
「水たまりで転んじゃってさ」
「……転んだ、んですか?」
「うん。やだよな、新学期早々はずかしいよ」
そう笑う左目には異様な形をした青アザが浮かんでいる。濃い墨色のそれは、まだ肌に馴染んではいない。つまり、アザができて時間が浅いということだ。
「顔は、どうしたのですか」
「へんな転び方しちゃって」
「……転んで?」
「そ。俺の顔、そんなにひどい?」
――何かがおかしい。
「はい、すごく、まるで……」
「まるで?」
たかが転んだくらいで、あんなにくっきりと痕が残るはずない。
「思い切り殴られたみたいです」
柚木はしばらく押し黙ると「ふうん」と小さくつぶやき。
「そりゃ困ったね」
くしゃりと口だけ笑いながら前髪をぬぐった。袖口と髪の先からポタリポタリと水滴が垂れる。
「柚木」
「うん?」
「何か、あったのではないですか?」
一瞬、表情が暗くかげる。しかし寸刻を待たずして。
「んーん、本当に何でもないから」
パッと笑顔に戻ると席順の確認に行ってしまった。
クラスメイトたちも驚いた様子でずぶぬれの柚木を取り囲んでいる。
明るくてだれにでも好かれる彼に限ってまさかとは思うが、何らかのトラブルを抱えているかもしれない。しばらく気にかけた方がよさそうだ。
「たーかーひーろー」
二時限目の待ち時間になると、じゃれつくように柚木がそばに寄ってきた。よかった、髪もだいぶ乾いてる。左目は、あいかわらず痛そうだけど。
「あーあ。俺、哉太とクラス別々になっちまったよ」
いつもの事だが、距離が近い。椅子を横並びにしてくっつかれると、手や太ももが当たって気が気じゃなくなる。それよりふいに出た名前に、心臓はザワリと跳ねていたが。
「そういえば、哉太と同級でしたね」
「うん。一、二年と同クラ。孝弘がいないとほとんど話してくれなかったけどね」
「そうなんですか」
「うんそう。でも寂しいな。今年こそ三人そろって同クラがよかった」
「……そうですね」
意に反した相槌だからか、思った以上にそっけない。
「哉太、もう登校してるかな」
哉太、哉太。さっきからそればっかりだ。
「分かりません。ただ、今日は朝から遊ぶ予定があるみたいです。リビングで、だれかと話をしていました。終日登校しないかもしれませんね」
「そっか」
柚木はつまらなそうに窓の外に視線を投げた。瞬間、言葉にならない敗北感が孝弘を襲った。
おなじ細胞を持っているのに。
一卵性の双生児で、僕と哉太はなぜこうも違うのだろう。柚木はいつも哉太を選ぶ。
逆に、僕を選ばない理由はなぜなのか。
……考えたくない。
思考の先には、いつも自己嫌悪が待っている。だから今日も疑問符に蓋をして、気付かなかったことにする。
それが自尊心を守れる、唯一の方法だから。
「……ふう」
個室トイレの中まで、三時限目の始業チャイムが流れてくる。孝弘は困ったなあ、と股間の膨らみを睨むが、残念ながら興奮が収まる様子は無い。
(さっきの距離は、近すぎた)
胸の奥が熱い。柚木の感触を思い返すだけで動悸が速まり、中心部がますます硬直した。
(早く、収まってくれ……頼むから)
ジンジンとせり上がる男としての興奮を、慰める方法なら知っている。
ただ、それをしたくない。
今この場で自慰に頼るという方法が、どうしても受け入れられない。
そうなると、認めざるを得ないからだ。
――柚木に恋をしていることを。
「あーあ、今日も一日だりかった」
帰り道、柚木がふああっと欠伸をする。左目のアザは相変わらずだが、乾いてサラサラと揺れる頭髪は、いつも通り清々しい。のんべんと大口を開けている横顔に、孝弘はほっと安堵する。
心配のしすぎだったのかもしれない。本当に、ただ道端で転んだだけなら、それでいいのだ。
柚木がどこかで傷つけられてさえいなければ。彼が幸せなら、それでいい。
「腹減ったなあ、今日の夕飯なんだろ」
「柚木、さっきお弁当を食べたばかりですよ?」
「だあってカレーパン二個じゃ足んないよ。育ちざかりだもん」
そういえば、今日は弁当じゃなかった。柚木が口いっぱいにパンを頬張っていたのを思い出し、つい口元が緩む。
「ふふ。我が家は今夜、カレーです。赤ワインで一晩煮込んだ絶品の味ですよ。良かったら食べに来ますか?」
「ちえ。昼にカレーパン食ってなけりゃなあ」
と口を尖らせる柚木は、先月もおすそ分けした『一晩煮込みカレー』の味を思い出しているようだ。
「孝弘って家庭的で料理も上手いし、秀才だし優しいし、完璧だよね」
「……僕がですか?」
「女子が放っとかなさそう」
「全然、そんなことないですよ」
ふうん、と上目遣いでこちらを見る。異性からの視線より、だんぜん緊張する。
「哉太と比べたら、僕なんて……」
「哉太は、彼女をとっかえひっかえしてるね」
「そうなんですか?」
「うん。彼女かどうか知んないけど。大体いつ見てもハーレム作ってる」
哉太らしいですね、と笑顔を作りながら、心のなかに闇が落ちる。
「僕と違って格好いいですからね、哉太は」
「はは、僕と違ってなんて、双子なのに変な言い方」
二人の容姿は、それほどに違いすぎている。
「……違いますよ。全然。双子っていうだけで、あとは何一つ、似ていません」
「そうかなあ」
よく似ていると言われたのは子供時代の話。
中学に入った頃から哉太は日増しに垢抜け、最近は双子どころか兄弟とも気付かれない。
最初は髪の色。茶色が金髪になり、白に近い銀色の時もあった。髪型も変わった。ウルフ、マッシュ、ボディパーマ。哉太が髪型を変えると似たような格好をした人が街中に溢れた。声もでかい。いつもヘッドホンで何か聴いている。だからなのか、声がでかい。
若いうちは哉太のような『恐そうだけど格好いい男子』に惹かれるものなのか。柚木のいう通り、女友達が多いのは確か。その倍くらい男友達も多いけれど。
つまりは、人気者。
「孝弘も格好いいと思うよ。俺の勝手な見解だけどさ」
「ありがとう」
気を遣ってくれたのだろうが、柚木の言葉は空気よりも簡単に孝弘の心からすり抜けていった。その自信の無さが、すでに猫背な姿勢に現れている。
自分には勉強しか取り柄がない。友達も多くないし、哉太のようにだれとでも話せる能力も、そんなスキンシップスキルも持ち合わせていない。
気の合う人とだけ仲良くできれば十分。新たな価値観に触れようとすると、必ず摩擦が生じる。そんなの、ストレスでしかない。
余計なことで波風を立てたくないし目立ちたくもない。哉太みたいに、注目の矢面に立たされるなど、まっぴらごめんだ。
こんな卑屈な兄を、哉太も嫌っているだろう。だから自分がいると部屋に閉じこもるのかな……なんて。どれだけ陰湿な考え方だろう。孝弘は自らを皮肉って笑った。
「柚木が、哉太に惹かれる理由もわかります」
「――うん?」
「いえ、なんでもないですよ」
(哉太は僕とはちがう)
『ねえ、孝弘。俺ね、さいきん哉太を見てると、ドキドキして頭がぼーっとするんだ。おかしいかな』
(哉太と僕は、違う)
『大丈夫。思春期ではよくあることだと、保健の先生が言っていました』
『そう……なのかなあ』
人気者で格好良くて、時代に取り残されていない、普通の男子。
皮肉だろうが、その『違い』が唯一の救いでもあった。
哉太は間違いなくノーマル、異性を好む普通の男子だ。
だから柚木だけは……。
柚木の心だけは、僕から奪うことはできない。
僕と哉太は『違う』のだから。
*
孝弘の願いが崩壊するまで、時間はかからなかった。
「哉太、好きな人がいるみたい」
ある日の昼休み、柚木がポツリとつぶやいた。
「そうですか。まったく話は聞きませんが」
「本人が言ってた。たまたま廊下で聞いちゃったんだ。哉太、ずっと片思いしてる人がいるんだって」
「そう、なんですか」
相手はどんな人だろう。別の意味で興味を抱いた。
もし哉太の恋が実ったら、柚木も諦めがつくだろうと。
その日の夜。珍しく哉太が部屋にいた。
部屋のドアは開けっ放しで、耳にイヤホンをつけ部屋着でダラダラと寝そべっている。目線に気付いたのか訝しげな顔がこちらに向いた。
「何か用」
廊下から様子を伺った矢先のこと。孝弘はぎくりと身を強張らせた。
「あ……。ええと。そっちに行ってもいいですか」
「何で」
哉太はまぶたを軽く開け、イヤホンの片耳をはずす。
「ええと……話がしたいからです」
「だれと」
片方の目だけこじあけたしかめっ面で聞き返される。皆、この顔が怖いのだ。
「哉太とです」
「どして」
イヤホンを取り払い、哉太がベッドを起き上がる。
「どうしてって……」
言葉に詰まる。普段ほとんど会話もなく、さしたる理由も話題もない。この際「好きな人」の話をストレートに出せばいいが、踏みこんだ事は聞きづらい。
こういう他人行儀な距離感が、二人の間には常にある。兄弟という一番身近な存在のはずなのに。
思い過ごしかもしれないが、孝弘がリビングにくると哉太は決まって部屋にいってしまうし、高校生になってから起床時間や登校や下校の時間も、一度もかぶったことがない。だからか、哉太の前では変に気遣って萎縮する。決して嫌いなわけではない。こちらから歩みよる方法が分からないだけだ。
「ま、いいよ。入れば」
困り果てた様子をみかねたのか、思いのほかすんなりと入室の許可がおりる。
「あー、ドア閉めて。あとかぎもかけといて」
「かぎまで? 何故ですか」
「いいだろ別に」
目も合わせずそれだけ言うと、視線は再び雑誌にそれる。
「……分かりました」
やはり僕は……哉太に嫌われてるのかもしれない。
「こっちくれば」
「あ、はい」
孝弘は「おじゃまします」と言ってベッドに腰を下ろす。
「髪伸びた?」
哉太は壁にもたれかかり胡坐をかいた。
「はい、少し。目の辺りが邪魔なので、そろそろ切ろうかと」
「そのままでいんじゃね」
「いや。でも放っておいたら」
「アンタの顔、回りからみえんくなるし」
「……あ、はい。ずっと伸ばせば、そう、なりますね」
哉太は、僕の顔が周囲にみえないほうがいいと思っているのだろうか。
なぜ。
僕は、そこまで醜い顔だろうか。
「そういやなんか話があるんだっけ」
「……」
「なあ」
「……」
「なあって」
「あ、は、はい、そうです」
声に驚いてパッと顔をあげる。
どこかでみたの事ある、だけどまったく印象の異なる奇麗な顔立ちの少年が、間近で顔を覗き込んでいる。
軽いクセのある猫毛がふんわりなびき、孝弘と同じくチラチラと目元を隠している。最近の髪型は哉太にしてはクラシックで、ショートボブを軽めにした感じ。やんちゃだけど愛嬌がある。
脱色のせいか重みがなく、その奥の茶褐色の目には色気すら漂っている。
きちんと手入れされた眉も凛々しくて格好いい。ほほ笑んだ感じの口角も、無愛想な彼にはちょうどいいニュアンスだ。
まるで非の打ちどころのない美貌を前にその場に固まる。
彼は本当に、同じ細胞で作られた人間なのだろうか。
「何、そんなにみつめてどうしたの」
前髪をすくわれる。その先で、哉太もじっと孝弘をみていた。
少しもおくしない強いまなざし。ブラウンクリスタルの輝きに吸い込まれそうだ。
「哉太は……好きな人がいますか」
気付けば自然と声が出ていた。
「いるよ」
数秒してイエスと答えがくる。
「それは、だれですか」
いるんだ。本当に、好きな人が。
「何。話ってそれ?」
「はい」
「何で」
「興味があるからです。哉太の好きな人に」
ふーん、と軽い相槌。
「それ知ってどうすんの」
その問いに、孝弘はまばたき一つせず答えた。
「哉太の恋を、応援したいです」
柚木の顔がちらついた。
弟の恋路の先に、幸せな未来がみえた。哉太さえいなくなれば、柚木はきっと僕を……。
「言ってもアンタどうせ信じねーし」
「どういう意味ですか」
「意味なんかねえよ。まんま。信じねーつってるだけ」
「僕は信じます。哉太の言うことなら」
「引かれんのやだし」
「引く? ああ。興ざめするという事ですね。大丈夫です。事前にある程度の目星は付けていますから」
チラリと部屋の隅に目をやる。裸の女性が表紙をかざる成人雑誌がそこに折り重なっている。
察するに巨乳好き。あとは人妻。だとしたら保健医か担任の女教師が候補に近いかもしれない。
「ふはっ。目星とか絶対無理だから」
「哉太。無理という言葉は挑戦した者だけが使えるものですよ」
「あっそ」
面倒くさそうな返答だ。すこしうるさかったか。
しばらく続く沈黙。その間鋭い目がひたすら突き刺さる。
「そんなに知りたいの」
「知りたいです」
「後悔すると思うけど」
「心配にはおよびません」
「いや、絶対すると思うよ」
「大丈夫です」
「世の中知らない方が幸せな事もあるんだぜ」
「大丈夫です」
「……あっそ」
刹那。ぐっと両肩をつかんだ哉太は「いいぜ、教えてやるよ」と少し笑った。
「は」
返事を言い切る前に、孝弘の声は途絶えていた。
哉太の唇が、同じ場所にかぶりついてきたからだ。
「――ん、ん……っ!? ん―ッ、ンンッ!」
後ろに身を引こうとするが。お見通しだと言わんばかりに頭の後ろに手を回され、動きが封じられる。キスは一向に終わりそうにない。
それどころか表面を舐められ、かたくなに閉ざした唇を割り開こうとさえしている。
これは、これは、一体どういうことだ。
思考はずっと騒乱状態、状況すらのみこめない。
呼吸が続かず、苦しさで唸り声をあげ、どうにか逃げようと身をよじる。
それがいけなかった。あえなくバランスを崩し、背中側に重心が傾いてしまった。哉太に唇を奪われたまま、仰向けに転がったのだ。
すかさず哉太が太ももの間に身をねじこんだ。
「っは、……っなた、かなた」
どうしよう。押し倒された。
上から体重をかけて圧し掛かられたせいで、今度は身動きひとつも取れなくなった。暴れすぎて息も続かず、あまりの苦しさから口を開ける。
にゅるり。
途端、生ぬるい感触のそれが、無防備に開けた唇のなかに押し入る。
滑りをもって絡み合う感触の生々しさにおもわず顔をしかめた。
口づけは終わらない。次は丁寧に歯型をたどり、すべてをむさぼりつくす熱と勢いで、じっとりねっとり舐めまわすのだ。
「う……、ふ……っう」
状況の整理もつかぬまま、気付けば実の弟のもたらすキスの甘さに意識を奪われていた。
逃げれば逃げるほど哉太の舌に追われた。行き場をなくしたそこに唾液が絡まる。熱っぽく甘美なキスの味にはふっと溜息が繰りかえし漏れる。
「――っふう」
ようやく唇を解放された頃には腰が抜け、茫然とベッドに横たわっていた。
「アンタ、こういうの初めて?」
放心している孝弘をよそに、哉太は飄々とした様子。
「な、んでこんな事を」
「だから信じねえって言っただろ」
「信じないってそんな……っ。だって、だって僕たちは」
「兄弟だよな。だから何って感じだけど」
「だっ!?」
「俺は最初にきっちり言ったよ。引かれんのが嫌だから言わないって。まあ結局バラしたけど」
たしかに、哉太の答えなら何でも信じると言った。そして決して引かないとも約束した。
孝弘にも秘密がある。
家族や兄弟、だれにも打ち明けられない。同性愛者だという、今後の人生に大きく関わる重大な秘密だ。
自らも禁秘を持っているからこそ、哉太の気持ちはきっと理解できると思っていたのに。
「どうして、どうして僕なんですか、哉太――」
孝弘は混乱していた。
予想なんかどこも当てはまらない。哉太の思いの先に自分がいるなど考えもしなかった。
「知らね。ただアンタが好きなだけ」
言っとくけどライクじゃないよ。ちゃんとラブの方。
「ラ、ラブ」
LOVE。つまり、愛。愛しているということ。
愛している。
哉太が、僕を。
実の兄である、僕のことを。
「そんな地獄に落とされたみたいな顔すんじゃねえよ」
「だ、だって」
「俺さ、高校卒業したら海外に留学することに決めてんだ。結構長い期間。だから、そのうちアンタともお別れ」
「……え」
「それまでに一度くらい言っといてもいいかなって思っただけ」
突然の告白が煩いくらいこだまする。
哉太が、留学する。遠い所へ行ってしまう。僕を置いて。柚木を置いて。
「そんな顔すんなよ。最初から期待なんかしてねーし」
「僕は……」
「ん?」
「僕は、哉太に嫌われていると思ってた」
「避けてたしね。アンタをみてると、いろいろ暴走しそうでやばかったし」
「僕なんかが兄弟で、君はきっと嫌な思いをしてるんだろうって、ずっとそう思って」
「はあ? なんでそうなんの」
「哉太みたいに器用にできないから。顔もパッとしないし、哉太みたいに格好よくもない。だから僕が兄としているだけで迷惑かけてるってずっと――」
「思うわけねーじゃん。バッカじゃねーの。あんたが消えたら俺が泣くわ」
「哉太…、ごめんなさい。僕は、本当にひどいことを考えてました」
「泣くなよ」
哉太の舌がペロリと唇を舐める。
「しょっぱいね。さっきは甘かったのに」
やがてそれはキスへと変わる。孝弘のそれを丁寧に愛撫し、必要不可欠な存在を植え付ける。優しく前髪をぬぐい、頬を撫で。思いもよらぬ新たな感触がめばえる。
「あんたは何も考えなくていい」
「哉太、僕は」
戸惑いつつ、服のシワに指を絡める。
「側にいてくれたらそれだけでいいから」
柚木も哉太も、みんなが遠くへいってしまう。
当たり前の日常が消えてしまう。それが怖い。怖くて寂しくてたまらない。
だから、おもわず哉太の気持ちにしがみついてしまったのだろうか。
「俺が日本にいる間だけでいいからさ、何も言わず受け止めてくれたら。そんだけで十分」
「―――は、い」
あの日の哉太の顔が忘れられない。
幸せと後悔、天国と地獄を同時にかみしめている、そんな顔をしていたからだ。
*
あの日からほぼ毎日、哉太に抱かれた。
周囲はおろか、両親には決して知られてはならない関係を結んだのだ。実の弟と。
忘れもしない。四月十五日。
哉太が、左耳にダイヤのピアスを付けて帰った日だ。
二人が重なるのは、決まって真夜中だった。
ようやく家中がシンと寝静まったころ。合い鍵片手に哉太がしのびこんでくる。
いつもウトウトと微睡みはじめる頃だった。
ふいに首筋にキスをされ、その甘さと熱の訪れに、決まってからだはブルリと震えた。
セックスがはじまると哉太が上から覆いかぶさり、孝弘を生まれた姿に戻す。
少しずつ素肌が露にされるのは恥ずかしくてたまらなかったが、明かりがないおかげで我慢できた。
ついで、愛おしそうに全身くまなく、哉太の口づけが降ってくる。
耳の下と乳輪は特に敏感に開発されてしまい。毎晩、漏れそうになる声を我慢するだけで必死だった。
からだが一つにつながる頃。
孝弘の全身は蜂蜜のようにすっかり蕩け、ただ内壁を出入りする肉棒の圧迫に、気持ちいい、と感嘆の溜息を漏らすだけだった。
激しく貫かれると、頭の中が真っ白になった。
哉太や自分自身、なにもかもが消えていきそうな感覚。果てない絶頂は何度も訪れた。
哉太もいっそう関係におぼれていった。
深夜でなくても部屋に呼ばれ、何時間もかけてキスをされる日もあった。
リビングでくつろいでいると、急に帰宅した哉太に部屋まで連れこまれ、腰が立たなくなるほど愛された日もあった。
しかし哉太の変化に対極するように、孝弘はしだいに二人の関係に不安を感じるようになった。
柚木への気持ちは変わらない。
だけど、哉太への劣等感が、いまは特別な感情に変化しつつあることも悟っていた。
いけないことだと思った。
決して受け入れてはならない感情だと思った。
そして今になってようやく気付いたのだ。自らの過ちに。
どんな理由だろうと、哉太の打ち明けた気持ちを、決して受け止めてはいけなかったと。
「なあ」
今夜もまた、リビングのソファでくつろいでいると哉太に呼ばれた。
隣にドサリと荷物をおろしながら、哉太はいとも自然に腕を巻きつけた。制服から外の匂いがする。
さっきまで仲間と呼ぶ彼らといたんだろう。たばこや排気ガスのしみついた、ツンと鼻につく独特の臭いだ。
「アンタ、もう風呂入った?」
素肌にふきかかる吐息が焼けつくように熱く、一瞬変な声がでそうになる。
「あ、はい。今日はもう、夕方には」
「ふん」
「……」
振り向くと目と鼻の先に、似ても似つかない、あまりにも整った弟の顔がある。
ブラウンクリスタルの奇麗な目は、いつもと同じく甘ったるい視線をこちらに投げる。あと一歩、近寄れば唇が触れてしまうだろう至近距離から。
「いますぐしたいんだけど」
いい?
耳元で行為をねだられ、心臓が引っかかれたように波打つ。
最近は哉太に触れられると、いやまして変な気分に苛まれた。みつめられると恥ずかしくなり。触れられると決まって胸の奥がチクリと甘く疼いた。
それが何か分からない。ただ、実の弟に対して、決して抱いてはいけない感情とだけは理解していた。
「哉太。僕は――」
「ん?」
「……」
後ろのカウンターキッチンでは、珍しく両親が晩酌をしている。普段すれ違いの生活だから、積もる話もあるのだろう。兄弟の異様な雰囲気にどちらも気付いていない。
「こいよ。大切に抱いてやるから」
「……っ」
胸が痛い。哉太を思うとてつもなく苦しくて、胸に腕を抉りこませ、心臓を直接引っ掻きたくなる。
心を開いてから、一緒にすごす時間が楽しくて仕方なかった。哉太はいろいろな事を知っていた。モルモット実験の手順、人口眼球の作り方、相手の思考を覗く、科学的な読心術。夢物語に近い内容も多かったが、明け方まで話は途切れず、セックスの後の二人は兄弟というより親友に近かった。似てはなくても双子。話してみれば興味を惹かれる内容も共通しているし、笑いのツボも同じ。哉太との時間は、なくてはならない物になった。時間はいつも、またたく間に過ぎてしまう。
もっと一緒にいたい。哉太といると楽しくてしょうがない。
もっともっと、哉太といたい。
(――いや……、駄目だ)
これ以上の感情を抱いちゃいけない。じゃないと本当にいつか、道を踏み外してしまいそうで怖い。
心の中で声と声がぶつかり合っている。あってはならない関係に夢中になりすぎている孝弘が、自身に発した警告だろうか。仲が親密になるほど距離を置けと脳裏の声は強くなった。
「は……、い」
だけど結局、拒否できない弱い自分が勝ってしまうのだ。
*
部屋に入ると、後ろ手にかぎをしめた哉太が抱きついて来た。
「っ、哉太……」
背中や腰のあたりをくまなくなでながら、匂いのしみこんだベッドに倒される。
「いい匂いすんね。いつもだけど」
首にキスをされ、ゾクゾクと背中から全身がしなる。この時の自分は、いつも苦しそうに顔をゆがめていると哉太が言っていた。
元来、感情を表に出すことが得意な方じゃない。そんな自分が、哉太と二人きりの時は無防備にすべてをさらけ出そうとする。
その理由が怖いほど理解できるから、みてみぬふりをしてしまう。同時に消えないで欲しいと渇望する、身勝手な自分もいる。
「――っふ」
気を許すと、信じられない声が口から漏れる。声を抑えようと口元に伸ばした腕もつかまれ、それごとシーツの上に倒される。哉太の触れた場所がジンジンと波打ってすごく痛い。
「俺さ、将来医学博士になりたいんだよね」
ボタンを外し切ったシャツが左右に捲られる。日光をあまり好まないせいか、不健康で雪のように白い身がさらされた。
「――博士、ですか。哉太に向いてそうです」
「ふふ」
途端。頭を下げたかと思えば、乳輪にかぶりつかれ。
「……っあ」
あめでも舐めるように、ペロペロと舌先で執拗に先端をはじかれると、すぐに頭がぼうっと揺れる。孝弘はあっという間に恍惚に身をゆだねた。
「ねえ。人間の魂って分子でできてると思う」
「え? んぁっ……」
言い終わらぬうちに先端を前歯で甘噛みされ、つむぎ出そうとした言葉がいやらしく裏返る。
下半身は、すでにジクジクとした昂りを持て余している。
仕方ない。抱きしめられた時点で、すぐ反応していた。
繰り返しキスをされるうち、興奮は絶頂まで上り詰めていき。下着の中は、すでにカウパーでぬれそぼっていた。
「わ、分かり、ません――あっ、」
哉太……。
「もし存在するモノすべてに定義があるなら、俺はその方程式が欲しい。それさえあれば――」
いつか、アンタの心も手に入れられる気がする。
唇が肌をなでる。乳輪に舌先をひっかけ、ブルリと弾かせながら。
いい匂いがすると言った首元に顔をよせると、触れるか触れないかの優しいタッチで、繰り返し愛撫のような口づけを与えた。
「う……、んあ」
淡い感触に素肌はおののくようにしなり、まろやかな感触が、やがて皮膚全体を桜色に染めていく。全身はとろけてしまったように甘く、哉太の口付けに歓喜している。
いつしか苦しそうに呼吸を乱し、行為に陶酔する自分がいた。
「なあ。俺の事好きか」
苦しい。
吸っても吸っても、酸素が肺まで届かない。胸に吐き出したい言葉を詰め込んでるせいだ。
「なわけねえか」シーツに倒した腕をもちあげ、指先ひとつひとつに口づけながら、哉太は寂しそうに目を細めて少し笑った。
哉太……。
気付けばブラウンクリスタルの瞳をじっと覗き込んでいた。
言葉は出ない。どうしてか涙がじわりと込み上げた。茶褐色で大きな孝弘の瞳をいっぱいに潤し、気付いてはいけない思いを伝えんとする。それは、瞬きすると同時に目尻からポロポロとこぼれ落ちてしまった。
「哉太。それ、苦手です――あっ、」
涙は愛撫のせいだ。
「どうせ俺が留学したら、今までのことも奇麗さっぱりなかったことにされるんだろうな」
「そんな。し、ません」
無意識にそれを否定する。なぜかにらまれてしまった。
「するよ。アンタみたいな無自覚天然な悪魔は。そうやってだれにでも優しくヘラヘラ笑って勘違いさせんだよ」
まあ、分かってて誘われた俺も俺だけど、と最後にボソリとそうぼやく。
「なっ、どういう意味ですかそれは」
まさか悪魔よばわりされるなんて。
思わず手を振りほどいてぎっとにらむが。
「ていうか俺の他にセフレ作ったりしてねえだろうな。セックスってだれとでもしていい事じゃねえんだぜ。分かってる?」
あらぬ疑いまでかけられたあげく、またもにらみかえされてしまった。
「言われなくても分かってます」
はっ。それもまた軽く鼻で笑い飛ばされる。
「どうだか。俺が最初の男ってのも実はうそだったりして」
「そ、そんなうそ、つくわけないでしょう!」
「あそ。そういうやつにかぎって」
「哉太! 僕だっていい加減怒りますよ」
怒りにかまけて振り上げた右手がつかまれる。抵抗したが、適うはずもない。何度か押し合った後、再びシーツの上に横たえられた。
「じゃあ、マジで分かってて俺に抱かれてんのか、アンタ」
打って変わって神妙な面持ちで問われた。握られた右手首が痛い。哉太の視線が、声が、その感覚をさらに強くさせる。
どう返答すればいいか分からず、思わずうつむいてしまった。
孝弘。静かに名前を呼ばれる。そして髪の毛ごしに額へキスが落とされた。唇が肌に触れた瞬間、全身の血液がぶわりと沸き立つ。
「孝弘。留学から戻ってからも、俺と関係を続ける気持ちはあるか」
「……」
正直、分からなかった。この先を考えるのが怖かっただけかもしれない。
哉太が言ったことを否定しながら、内心は自認していたからだ。
「分かり、ません。ただ……」
哉太が遠くに行ってしまうのは嫌です。ずっと一緒にいたいです。と言うと哉太はうれしそうに笑った。
「んじゃ、二年間浮気せずに待ってろよ」
あと半年もすれば、哉太は遠くにいってしまう。空をつかむばかりで現実味のない未来が、突然すぐそこに迫っているような気がした。
「戻ったらどっかで部屋を借りて、一緒に住もうな」
前髪をかきあげ、今度は素肌にキスを落とされる。
またもブルリと震える。ついばむ程度の口付けだったが、忘れかけていた昂りを取り戻すには十分だった。
「――もしかしてもう濡れてんの」
ようやく異変に気付いたのか、ルームウエアの前を手で握りこみながら問われる。
「あ。は、い」
どうしよう。淫乱みたいで恥ずかしい。
「出していい?」
「……っ」
下着のなかでぐっしょりぬれそぼった有り様を思うと、恥ずかしさで息が止まりかけたが。そこは、さっきよりも強く張っている。先にかけてジンジンと焼けつく熱も、収まるどころかいっそう強くなり。このままの状態で我慢できるはずもなかった。
「は、い」
うつむいて首を縦に振った直後。下着ごとひざ下まで一気に引き下ろされた。
「ん、う」
ばちんっ。ほとんど触った形跡のない、奇麗な男の象徴が、勢いつけて腹に当たる。同時に
カウパーがヨダレのように糸をのばし、太ももにへばりついた。
「あ……、いや」
「すっげ。キスだけでこんなに感じたんだ」
哉太はうれしそうにふう、と息をもらすと、ぷっくりと育った尖りを親指でこね。
「あっあ、く……っ」
いまだ朱色の消えない純情な膨らみが、踊り狂ったようにジンジンとはれ上がる。
自慰の時でさえ、こんなにはならない。いつも哉太とこうする時だけだ。哉太の触れた時だけ、僕は頭の中まで何もかもおかしくなってしまう。
「あっ、哉太……。で、出そう、出……っ」
「ん。イキそう? いいよ、イッちゃいなよ」
親指を鈴口にあてがい、残りの指が竿を上下にかわいがる。
もう、それだけで、我慢できなくなる。
細胞のすべてが下半身に集中し、モヤモヤとしたわだかまりが、瞬間、突き抜けるような快感に変わるのだ。
「あっぁ、ッ――」
「ありがとな、俺の気持ち、受け止めてくれて」
哉太がふう、と耳たぶにかぶりついた瞬間。
快感のすべてが放出する。
直後。哉太は着ていたシャツを勢いよく頭から脱ぎ捨てた。
*
『近親相姦』
それが、二人の行為をあらわす言葉だ。
このままじゃいけない。だけど、もう前のようには戻れない。
戻ることができない。
ならば二年間、哉太の帰りを待っていていいのだろうか。
これが正しい道なのか。
弟と肉体関係を続けることが? ならば柚木のことは? 柚木への気持ちはどうなってしまうんだ。
哉太の留学があと一週間と迫った今になっても、孝弘はいまだに悩んでいた。
柚木は、その後周囲に目立って不審ない動きはない。
放課後は用事があるからと、一緒に帰宅できない日が多くなっていたけれど。
あの日のようにアザや水に濡れた格好で登校することはなく、やはり心配しすぎだったと安心しきっていた。
もっとも最近は、哉太と行動をともにすることが多くなり、気が回らなかっただけかもしれないのだが。
――それは、小雪の舞うようなある冬の日のことだった。
柚木と正門前でまた明日とあいさつをして数分後、とつぜん柚木から着信が入った。
「柚木」
『孝弘……っ』
どうしたのだろう。柚木の様子がおかしい。
電話の向こうで泣いている。すすり泣くように声を擦り切らせて。
「柚木、どうしたんですか」
『孝弘、助けて。俺、もう耐えらんない』
受話口から小さくかすれた声が漏れる。震えているのか、言葉の端々が極端に揺れていた。
『もうやだ。家に帰りたくない。怖えよお』
柚木は言ったのだ。強がりな彼からは想像もつかない、あまりに衰弱した声色で、助けてと。
「柚木、どこにいるんですか」
『近くの……公園』
血相を変えて駆けつけた先に、子供みたいになきじゃくる柚木がいた。
顔色は青白く、数分前の彼からは想像もつかないくらい覇気がない。
足元はみるからにおぼつかなく、そのうちからだごと地面に叩き付けられてしまいそうだった。
「ごめん……。俺、他に相談できるやつがいなくて――」
柚木は虐待されていた。相手は昨年再婚した義理の父親だ。
ゲイであることを知られてから、虐待は性的なものへ変わってしまった。
行為はさらにエスカレートし、最近は義父の知り合いだという男たちが入れ替わり家にやって来るのだと言った。
こんなこと、もちろん母親に相談ができるはずがない。自分の息子が多数の男に犯されてるなんて。絶対に言えるわけがない。
柚木が、彼らに一体なにをされたのか。孝弘は最後まで聞くことができなかった。手足の震えが止まらなくなり、持って行き場のない怒りの感情に、心臓は切り刻まれたような鮮烈な痛みに何度も襲われた。
それ以上に自分が許せなかった。これまでの身勝手さが心の底から申し訳なく、何度も心の中で詫びた。
柚木が暴力に耐え、それでも必死に生きようと歯を食いしばっているとき。自分は、柚木の思い人を寝取ろうとしていた。あまつさえ実の弟の哉太のことを。
寂しかったからと。ちっぽけで身勝手な理由で、柚木にとって唯一の大切な人を奪おうとしてしまった。
「柚木、ごめんなさい――」
君が必死に発していたSOSに気付いてあげられなくて、本当にごめんなさい。
「孝弘がなんで謝るの。謝るのはこっちだし。迷惑ばっかでごめんね」
「違うんです僕は」
何も知らなかったとはいえ、君の大切な人を、奪おうとしていた。
あまり身勝手な自分自身にとめどない怒りを覚えるなか。孝弘は、ようやくある決断を下したのだ。
*
その日は雪の吹きすさぶ、とにかく寒い一日だった。
卒業式をあさってに控えたその日。
孝弘は出先から哉太に電話をかけた。
「哉太。もう全部、終わりにしましょう」
ただそれだけ。ポツリとつげる。
僕はもう、哉太の帰りを待つことはできません、と。
『………え?』
電話口に聞こえる哉太の声は、少し震えていた。
『待てよ、なあ。それ別れるってことかよ』
言葉が出ない。
なにより孝宏自身が、現実を受け止めきれていなかった。
『ていうか待って。急にどうした。何かあった』
そして孝宏は最後にうそをついた。取り返しのつかない、大きなうそだ。
「何か……ですか。理由を教えましょうか? これは最初から全て、僕の計画した罠です」
『ーーは?』
「僕はずっと、哉太がうらやましかった。きみのような人間になりたかった。だけどどんなに追いかけても、きみはいつも手の届かない先を歩いていた。自由に好きな事をしていつもキラキラ輝いていて、哉太の回りには仲間がたくさんいる。僕の好きな人も、そんな哉太に好意を持っていました。それが何より許せなかった」
『……何言ってんのあんた』
「あるとき、哉太の気持ちを知って、僕は哉太の気持ちを利用しようと考えました。理由は単純です。君が……、嫌いだったから」
電話の向こうは鎮まったきり返事がない。呼吸音さえ感じない、長い長い沈黙が続いていた。
「一度でいいいから、きみがひどく落胆した姿がみたかった。僕が常に感じているような絶望を、哉太にも味わせてみたかった。それで思いついたんです。気持ちを受け入れるフリをして、きみを誘惑して、最後にこっぴどく裏切ってやろうって」
これで哉太に嫌われる。哉太は僕から離れていく。好きになったことすら後悔したくなるくらい、僕を侮蔑するだろう。
「いま、電話の向こうで君がどんな顔をしているか。思い浮かべただけで、僕は笑いが止まらなくなる」
絶望をかみしめながら、ひとり思い返していた。哉太と心から触れあえた、わずか一年間のできごとを。息をひそめ、抱きあって眠った夜のこと。どうでもいい話ばかりして一夜を明かした日のこと。学校の帰りに隠れて手をつないで歩いたこと。
「計画はすべて完璧でした。きみは何一つ疑わず、僕を抱いてくれた。好きだと言ってくれた。あまつさえ、この身におぼれてくれた。君はいま、どんな気持ちかな。僕に裏切られて、どんな顔をしてそこにいるのかな。想像するだけで、処女を奪われたくやしさも報われる」
『アンタ……自分が何言ってるか分かってんのか』
「ええ。何度でも言えますよ。僕は哉太のことなんか」
――愛してない。
哉太は言葉にならない何かを、ため息みたくボソリと吐き出した。
『じゃあ……、最初から俺をもてあそぶつもりだったのかよ。俺が夢中になってる姿をみて、心の中で笑ってたのかよ』
「そうですよ。君の姿はとても、滑稽だった」
のどの奥でこみあげる衝動を、かみ殺す。
違う。僕は、哉太に抱かれて――。
本当は、
本当は、
『――信じらんねえ。最低だわ。本当悪魔だよ、アンタ。マジでどうかしてる』
電話口の声はひどく震えていた。
それは拷問のように孝弘の鼓膜をいたぶり、同時に胸のなかに消えない傷あとをのこした。電波はすぐに切れた。ブツリと乱暴に。
「う……っ。グスっ。ひっ……かなた……」
兄弟の愛の結末は悲惨だった。孝弘は柚木へのつぐないの為、哉太との決別を決めた。そしてこの先何があっても、絶対に柚木を守ると心に誓った。
結果として哉太と孝弘、二人の心をズタズタに切り裂いてしまった。
七年後。
報復という名の悪魔に取りつかれた哉太と再開する日が来るなど、考えもしないで。
*
――双子の決別から七年後の二〇一六年、二月二日。
この日、バックネイチャー誌(日本の研究所が非公式で発刊している学術雑誌のこと)にある研究論文が掲載された。
―日本の研究者が惚れ薬の開発に成功―
名前は『reverse』。
だが市場には全く出回っておらず、現物をみた人間ですら皆無にひとしい。ゆえに、新薬が現存するかは未確認である。
二カ月後。この新薬の販売独占権をねらい、各製薬会社は極秘のプロジェクトチームを発足させた。
【媚薬】
狭義には催淫剤と呼ばれ勃起不全の治療に使われる薬を言い、広義には性欲を高める薬、恋愛感情を起こさせるような薬を言う。惚れ薬とも称される。
しかし効果はあくまで相手の性的な興奮を煽るのみ。相手の恋愛感情を自在に操るまでは不可能とされている。
だれもが一度は考えたことがあるはずだ。「この世に本当に惚れ薬が存在するとしたら、どんな相手でも絶対に落とすことができるんじゃないか」と。
そのもしもが現実になったとき、人々は何を望むだろうか。
高嶺の花の美女たちを思い通りに操ってみたい。
元彼をひれ伏せたい。
毎日べつの女を抱きたい。
親友の恋人を奪いたい。
――『彼』の願いは、常に一貫していた。
双子の兄、その人だけを愛していた。兄に愛されたいと常に願っていた。
あるとき彼のねがいは思いもよらずかなってしまう。
ささいなきっかけで、血を分けた実の兄と性的関係を持つようになった。
兄と愛し合う日々は、想像以上に幸福で甘美な味だった。反面、彼は自我と道徳心のはざまで追いつめられた。
常に世の中の全ての人間から後ろ指をさされている気がした。毎夜毎晩その罪を上塗りし、孤独感と罪悪感に精神は押しつぶされていった。しかし腕の中で喘ぐ兄のすがたは、全ての苦悩を忘れさせてくれた。気の遠くなる絶望の世界で、その瞬間だけは深く強い幸福に包まれた。
罪悪感は偏った恋愛観をつくりあげ、やがて異常な執着心へと変貌した。彼はますます兄との関係におぼれた。細胞が、魂が、肉体が訴える。俺はもう、この人なしでは生きていけないと。
受け入れてくれた兄が愛しくてたまらなく、ただ一心に慈しみ愛し続けた。
――しかし。名残雪の吹きすさぶ三月のある日。
彼の恋はあっけなくも簡単に終わりを迎えた。
突然だった。
『もう全部、終わりにしたい』と兄は告げた。
他に大切な人がいると言われた。
本当は愛してなんかいない。からだを許したのは、恋敵の君が邪魔だったから。好きな人から君を寝取りたかっただけだと。
そう言われてようやく、兄にいいように利用されていた事を知った。
彼は兄の前から姿を消した。
――やがて月日は流れ、遠い異国の地で、彼は大人になった。
いまだ兄を許す気持ちはなかったが、あきらめもできずにいた。
どこに居ようと変わらず、一途に兄だけを思っていた。しかし、それが二度とかなわぬことは分かっていた。
人間の業を知り。裏切りを知り。
彼はもっと孤独になった。無情な現実に、次第に精神も追い詰められた。
そのうち兄を憎み恨むようになった。
好きにならなければよかった。何度も後悔した。
だがどうしても嫌いになれなかった。好きだった。どうしようもなく好きだった。
ついに彼の心は狂ってしまった。
いつしか人生の目的さえ変わり。
報復のため、日々を持て余すようになった。
もう一度兄の心を手に入れたい。その方法を模索する為だけに生きる日々が続いた。
何年も何年も何年も何年も……。
やがて執念は、思いがけない形で実を結ぶ。
――それは兄に裏切られて実に七年後、二○一六年二月某日のこと。
彼の起こした奇跡と同月同日のこの日は、奇しくも世界中の科学者が禁断としてきた『惚れ薬』が世に出るバースデーとなった。
惚れ薬の名は『reverse』。
脳の視床下部のうち、快楽中枢のみをマヒさせることで、人間の感情記憶を自在に操作させる、世界に唯一の惚れ薬だ。あくまでうわさだが、新薬開発までの臨床実験で幾多のホームレスが犠牲になったとささやかれている。
新薬の開発にひたすら人生をつぎ込んだ彼は、気付けば一○○年に一人の天才ドクターと呼ばれるようになっていた。
男の名は木瀬哉太。単身アメリカへ留学後は、母方の旧姓『小野』の名を語ってきた。もしや、この先兄に行方を探されたときを想定した小さな抵抗だった。
ともあれ。七年におよぶ策謀に、ようやく終止符が打たれようとしている。
時がきたのだ。
裏切りと絶望をもたらした双子の兄、孝弘に報復するその時が。
あの人を再び手にいれる――……否。
足元へひざまずかせ、自らの過ちを心から後悔させてやる好機が訪れたのだ。
ゆっくりじっくり気付かない所から追いつめ、逃げ場を失ったその瞬間――あの人の自我も精神も自尊心も。あの美しい身から溢れるもの全てを捕えてやる。
自覚すればいい。この先もう二度と、アンタは俺という存在から逃げられないことを。
禁断レポート1双子の兄弟と親友の三角関係の行方は――?
禁断レポート2哉太が行方不明になって7年。孝弘は奇妙なプロジェクトに巻き込まれ。
禁断レポート3何年経とうと、兄の犯した罪は消えない。哉太の復讐劇が始まる。
大嫌い彼氏(前編)事故で記憶喪失の蘭の前に現れたのは、大嫌いな幼馴染。
大嫌い彼氏(中編)この男が恋人とか認めない!しかし、山内は献身的に蘭に尽くそうとしてきて。
書名 禁断レポート1(お試し版)
著者名 新矢イチ
電子版製作 2017年2月3日 初版〔2016年2月11日発行〕分より加筆・修正
発行所 壱屋books
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2016年2月11日 発行 初版
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