大都会・・・・・。
出逢い、ときめき、夢中、愛。倦怠、亀裂、失望、別離。思い出、追憶・・・・・。
イルミネーションの海が奏でる甘く切ない十二の旋律・・・・・。
確かにこの街で、二人は愛し合った・・・・・。
───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
(一)
漸く帰って来た、という思いで関西空港に着いた時には、疲労が骨の髄まで浸み込んでいた。シリアからトルコへ陸路を車で突っ走り、空路でイスタンブールからフランクフルト、成田を経て関空に戻って来た。二十四時間以上を要した帰程は心身ともにきついものだった。
事務所のアシスタントには乗り継ぎの成田で、迎えにくる必要は無い、とメールを送っていたのだが、これは失敗だったかな、と向田毅は思った。仕方なくポーターを雇ってカメラケースをタクシーまで運んで貰った。
関空から京都鴨川畔のマンションに向かう間も、彼はずっと、うつらうつらしていた。浅い眠りの合間にも頭に割り込んで来るのは、二ヶ月半に及ぶ取材の間に目撃した映像の断片だった。
収束の気配すら見えないまま、五年目に突入したシリア内戦。
これまでの死亡者は二十万人、負傷者は百万人、国内外で避難生活を送っている人数は一千万人以上。シリアは現在、国家として崩壊寸前であり、世界で最も人道危機が深刻な場所となっていた。
内戦による暴力。
感染症や慢性疾患の蔓延。
身体中ノミやヤダニに刺されて皮膚炎を起こしている子供達。道に転がる活発な男の子のものとみられる小さな手足。校舎の四分の一が破損して五十%に激減した基礎就学率。未就学児童の数は三百万人。
多くの農民が逃げ出して疲弊した農地や損傷した用水路に綿工場、農業機械、貯蔵設備。
深刻な食糧難。高騰した食料価格。
内戦によって観光客は遠のき、壊滅状態にある観光業。
石油産業は壊滅し、生産量は以前の微々たる量に戻ってしまった。その結果、世界中の石油価格を押し上げる原因となっている。
半分以下にまで落ち込んだ実質GDP。
医療従事者の半分が国外に流出して約七割が閉鎖された医療機関。
甚大な被害を受けた世界遺産。危機遺産に指定されたものも幾つか有る。
内戦前と比べて二十年以上も短くなった平均寿命。
信教の自由が脅かされている宗教的少数派のキリスト教徒。
ISILに代表される過激派の台頭。
裁判所、刑務所、警察署などを設置して実質的な統治を始めたクルド民主統一党。
二千二百万人の人口の内、家族や友人を亡くして家を追われ故郷を失った難民の数は一千万人。シリアは世界最大の難民発生国である。
停戦など無きに等しく、街も住民もいつ銃撃されるかわからない状態に在り、その上、イスラム国やクルド人勢力も独自の動きを見せて対立構図は三つ巴、四つ巴の状態になっている。
それら全ての光景を毅はカメラに収めて来た。頭の中には未だその時々の光景が蠢いていて、生命と形を吹き込んでくれと訴えている。この現実を、この惨状を世界の隅々へ知らせてくれと叫んでいる。
マンションに着くと毅はカメラケースを運ぶ為の手押し車を初老の管理人に貸して貰った。管理人は郵便物のいっぱい入った箱も渡してくれた。
二月半振りに自分の部屋に入った毅は荷物を床に置き、郵便物をテーブルに放り投げて、寝室に向かった。文字通りくたくたになっていた彼は疲労に圧倒されて、その侭、夢も見ない深い眠りに落ちて行った。
目が覚めたのは翌日の十一時前だった。
ひげを剃り、シャワーを浴び、服を着替えて、コーヒーを煎れた。それをゆっくり啜りながら、窓の下に拡がる秋の清澄な光に洗われている街をのんびりと見渡した。
それから徐に郵便物に眼を通し始めた。
請求書の類、雑誌やダイレクトメールの類、嘗てアフガニスタン戦争を一緒に取材した友人からのハガキや金沢に住んでいる姉からの手紙も有った。姉からのそれは、いつもの如く、彼の独り身の生活を気遣う内容のものだった。
次に手に取ったのは清水坂のホテルの封筒だった。住所と宛名の筆致は思い切りの良い大胆なもので見紛うことのないものだった。
「奈緒美!」
思わず声が漏れた。
毅は暫く封筒に目を凝らして椅子に身を沈めた。
奈緒美・・・・・。
京都に来ているのか・・・・・。
ゆっくりと封を開けて、ホテル備え付けの便箋に書かれた文面に目を走らせた。
「毅さん」と言う書き出しでそれは始まっていた。
「わたし、十日ほど、テレビの取材で京都に居るの。是非お会いしたいんだけど・・・・・。奈緒美」
素っ気無いほど簡潔で飾り気が無かった。
毅は先ず封筒の消印を、継いで腕時計の日付に眼を走らせた。
あと二日は京都に居る筈だ。二日間か・・・・・。
最後に会ってから何年くらい経ったのだろう?五年か?六年か?そう、あの時、荷物を纏め二度と帰って来ない心算で東京の彼女に別れを告げてから、既に六年が経ったのだ。
だが、奈緒美と馴れ初めてからの歳月を数えればもう十五、六年になる筈だ。
十五年前、二〇〇一年九月十一日、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、その損害の甚大さでアメリカ合衆国を含む世界各国に大きな衝撃を与えた。NATOは直ぐにこのテロ攻撃に対して集団的自衛権を発動し、アメリカ政府によって、それまでに数度に亘ってアメリカに対するテロを行って来たウサマ・ビン=ラーディンとアルカーイダにこの事件の首謀者の嫌疑がかけられた。
アルカーイダはオサマ・ビン=ラーディンが率いる反米・反イスラエルのテロネットワーク。アラビア語で「基地」を意味する。アフガニスタンに侵攻したソ連軍と戦ったアラブの義勇兵など多くの組織が合体して、一九九〇年代にアフガニスタンで結成され、成長した。今回のアメリカ同時多発テロばかりでなく一九九八年のケニアとタンザニアでの米国大使館爆破事件など、数多くのテロにかかわっており、メンバーや支持者は欧米のイスラム教徒にも広がって、世界四十五カ国に散らばっている。反米という理念を共有する様々な組織がゆるやかに連合した運動というのが実態であった。
アフガニスタンの九割を実効支配していたタリバン政権は、数度に渡る国連安保理決議によってビン=ラーディンとアルカーイダの引渡しを要求されていたが、拒否し続けて来た。NATOは攻撃によってタリバン政権を転覆させる必要を認め、十月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を開始した。
タリバン政権が崩壊し、反タリバン勢力である北部同盟が首都カブールを制圧する二日前・・・・・。
アメリカ軍兵士は眼を血走らせて容赦なく空爆を繰り返した。
敵の戦闘部隊を叩くだけでなく、港や油田や工場、住宅地や商業地を破壊して敵の士気を喪失させようとした。爆弾投下だけでなく時にはロケット弾やミサイルも駆使して攻撃した。住民たちは恐怖の眼を見開き、顔を引きつらせて自分の心臓の音を聴きながら、右往左往して逃げ惑った。
どの記者もカンダハールの街中を走り回り、至る所で砲声が殷々と響いていた。
タリバンは多民族が共存する大都市カブールの風土に馴染まず、本拠地カンダハールに住み続けて其処から首都カブールの省庁に指令を下していたのである。
色んな噂やデマが街には飛び交っていた。
記者もカメラマンも事実と真実を追って一片たりとも逃すまいと駆け巡った。
奈緒美は如何にも若者らしく、怖いもの知らずで、有能だった。
彼女は剣道二段、スポーツ万能で体力気力共に頑丈だった。小学生の頃から、新聞記者のように、人の知らないことを誰かに伝える仕事をしたいと思っていたので、大学の仏文科を卒業すると同時に通信社へ入社した。直ぐに社内の海外留学制度に応募して試験にパスし、フランスのパリ総局に派遣された。その後、パキスタンのイスラマバードに居たところを今回のアメリカ同時多発テロ事件でアフガニスタンへ回されて来たのである。
仕事は国内と違わず時間的に極めて不規則なものであったし、限られた人数で国々の動向を伝えなければならず、現地の報道のチェックやインタビューなどの直接取材と言った基本的な仕事だけでも大変な量になった。米国や欧州など日本との時差の大きい国では昼夜が逆になることもあり、早朝や深夜の勤務も避けられない上に出張取材も多く、健康管理も大事な能力の一つであった。
奈緒美は記者に求められる幅広い知識、取材力、思考力といった能力を既に備えている上に高い語学力を持っていた。彼女は日本語、仏語、英語を話せるトライリンガルだったのである。そして特筆すべきは、大学時代にミスキャンパスに選ばれたほどの美貌の持ち主でもあった。
毅は大学の生物学の授業でアフリカの狩猟民族に大いなる興味を覚え、全く現地の知識もないまま旅行者としてピグミー族に会う為に、アフリカのコンゴ民主共和国を訪れた。しかし、当時はルワンダ紛争のまっただ中で、ルワンダの少年兵に襲撃された彼は、カメラを含めた私物の全てを差し出すことで何とか死を免れた。帰国後、周囲の人々に、その被害と少年兵がいる現実を説明したが、誰にも理解してもらえなかったことから、その場の状況を伝えられるカメラの必要性を痛感して特派員カメラマンになることを決意した。大学一年生の時から世界の各地へ取材に出向き、映像を一秒幾らで売るフリーランスのカメラマンとなって既に二十年を超える。
彼はどんな時でも両手を挙げて不測の事態に対応出来るよう、ポケットが一杯付いているカメラマンベストを着込んで、細かい物は全てそのポケットに収納している。真っ暗な中でもバッテリーやフィルムを交換出来るように、小型カメラ、バッテリー、フィルム、ノート、ペンなどどれをどのポケットに入れるかを全て決めてある。
仕事は常に死と隣り合わせで命を落とす危険も多い。過酷で劣悪な環境に加え、睡眠不足や空腹や飢え、更に神経を削るようなストレスに耐えるサバイバル能力を持ち、二十四時間危機感を保持し、自らの身の上に起こるリスクを減らす努力を常に怠らず、加えて、目の前で起こっている事実を冷静に客観的に伝えることができる能力が要求される。
同時に、その地域の人びとの言語、習慣、歴史、民族性などを理解し敬意を払い、学ぼうとする意欲も求められる。冷静で客観的でありながら、何よりもその根底には強い正義感、不公正に対する憎しみという、一見アンビバレンスな要素を持ち合わせていなければ出来ない、謂わば、特殊な仕事であった。
毅が話すのは主に英語である。日本語やアラビア語で話す時もあるが、ゆっくりゆっくり英語で話してコミュニケーションを取るのが彼のやり方であった。無論、此処カンダハールに入ってからはアフガン語であるダリ―語やパシュトー語で対応することも多くなってはいたが。
毅が一番力を入れて来たのは、戦禍の子供達を撮ることであり、それは、戦争の一番の犠牲者は子供達であることを多くの人に知って貰いたい故であった。
「この侭では危険だ。一旦引き上げた方が良い!」
毅が勧めると奈緒美は拒んだ。
「でも、この眼で見たいのよ。タリバンが崩壊する最後の瞬間を、この眼で確認したいの!」
「空爆しているアメリカ兵士は血気に逸った若者なんだぞ。歴戦の指揮官に率いられた精鋭なんだ。住民だろうと記者だろうと知っちゃいない。無差別に攻撃して来るだけだ。直ぐに殺されるぞ」
「でも・・・・・」
「生きて帰るのが俺達の使命だ。そうしなければ戦場の悲惨さを誰にも伝えられんぞ!」
「仕方ないわ。一か八かやってみるわ!」
「そうか・・・・・」
「・・・・・」
「よし、判った。なら俺も同道するよ。二人で最後を見極めて事実と真実をしっかり掴もう」
「うん、有難う。心強いわ!」
その晩、毅と奈緒美はホテルの上階の一室で共に過ごした。
サーチライトの灯が窓を掠めた。遠くで炸裂する砲火が見えた。戦闘機やヘリコプターの爆音が聞こえた。何処かで機銃掃射の銃声も聞こえた。
二人は初めて目の当たりに体験する現実の戦争に異常に緊張し高揚し、心と身体の奥底から強く突き動かされて、激しく互いの肉体を貪った。それは、与え尽くし合い、奪い尽くし合うほど激しいものだった。
翌朝、毅は奈緒美を車に乗せて大混乱に陥っている街路を走り抜け、カンダハールを脱出した。
「何するのよ、最後まで見届けるのよ!」
怒って泣き叫ぶ彼女を閉鎖間際の大使館に避難させた。奈緒美は最後のヘリコプターに間に合い、無事に戦地を脱出したのだった。
最後の瞬間、彼女は叫んだ。
「東京で待っているわ!写真を見ただけで記事が書けるほどのものを撮って来てね!」
翌日、アルカーイダは霧散し、ウサマ・ビン=ラーディンは逃亡して戦闘は終わった。
十五年前、それが発端だった。
毅は受話器を取り上げた。
(二)
レストランの仄暗い灯の下で見る奈緒美は記憶に有るよりはずっと美貌だった。
瓜実顔に感じの良い小さめの唇。間隔の開いた円らな黒い瞳。微笑むと出来る片笑窪は整った顔立ちを際立たせている。その美貌に毅は己の心の始末が悪いほどに見惚れた。
無論、その美貌はジャーナリストとしての奈緒美に幸いしたが、反面、彼女の足を引っ張るものでもあった。年配の記者や老練な編集者には、これほどの美人が記者としての実力を具えているとは信じられなかったのである。奈緒美は自らの美貌に打ち克つ為に、同僚たちの何倍も働かなければならなかった。東京で一緒に暮らしていた頃、彼女は毅に語ったものである。
「早く歳を取って老け顔になりたいわ。そうすれば、誰もが皆、私の実力を容姿と切り離して評価してくれるだろうから」
今、テーブル越しに奈緒美を見つめながら、そういう日は決して来ないだろう、と毅は思った。
「京都も変わったわねぇ。以前と比べて、何だか、何方を観ても外国人ばかりだわ」
「否、その外人観光客を当て込んで、万事、金銭が掛かるようになった、と言った方が正確だな」
「今、取材班を組んで観光都市京都のこれまでとは違う新しい魅力を取材しているところなの。この番組一本の取材で二ヶ月分のギャラを使い切りそうだわ」
「以前、観光と芸能の仕事だけはしたくない、と言ったことがあったよな」
「まだ若かったのよ、あの頃は」
奈緒美は続けて言った。
「あなただって、ファッション写真だけは撮りたくない、って言っていたじゃないの」
「あれは喰う為に仕方なくやったことだ。でも、もう三年前に止めたよ」
「知っているわ。名の知れたあなたが何かの雑誌で語っているのを読んだから。あなたの為にはその方が良かった、と喜んでいたのよ、わたし」
気まずい瞬間が生まれた。奈緒美はどう続けて良いのか迷っているようだった。
毅は他人行儀な口調で言った。
「俺の身を案じてくれて、有難う。そう言えば良いのかな、こういう場合」
可能な限り簡潔な言葉を探し出そうとでもするかのように、奈緒美はスプーンでコーヒーを掻き混ぜた。
「戦争や戦場や戦闘員や・・・地震や原発や・・・惨禍の人々やその土地を・・・報道する・・・それがあなたの生き方なのね」
毅は微笑を浮かべた。
「ああ、それが俺の生き方だよ。危険な場所に身を置いて、埃まみれ、塵塗れ、泥まみれになっている」
奈緒美は小さく笑った。
毅はつづけた。
「君だってそうだったじゃないか。然も、あんなに有能だった。あの当時の君くらい有能な記者はそうザラには居なかったぜ」
毅は眼を逸らして他の客を眺め、目に留まったウエイターを呼び止めてコーヒーのお代わりを頼んだ。
「記者の仕事って好きだったなぁ、わたし」
「今だってその気になれば出来るじゃないか」
奈緒美はまた話題を替えた。
「ねえ、シリアのこと、話して」
毅は話し出した。
直向きに此方を見詰める癖が彼女にはまだ残っているようだった。それは、今この瞬間、彼女の為に存在するのはこの自分だけだ、と思わせるくらいだった。以前はそうして見詰められるのが好きだったが、今、毅は当惑していた。
彼は優しい口調で言った。
「君もシリアを取材すれば良かったのに。絶対興奮したと思うよ。何と言ったってアメリカ同時多発テロ以来の大変動なんだから」
「そりゃ私も行きたかったわ」
「今からでも遅くはないぜ。行って来れば良いのに」
「駄目なのよ。上の連中が・・・・・」
奈緒美は後の言葉を吞み込んだ。一瞬何処か遠くを見るような眼をしたが、また現実に戻って、自分の今の仕事を説明し始めた。
ニュース番組のキャスターをしている彼女は、毎日スタジオに座って、テレプロンプターの掲げるニュースを読まなければならない。
「遠く離れて自分たちとは直接関わりの無い激動するシリアのニュースなどに、一般の日本人はあまり興味を持っていないようなの。破壊された街や家、転がる死体、惨たらしい戦場、そんな悍ましいものを見たくないのよ、平和な日本人は。旅やファッションやグルメやお笑いのような毒にも薬にもならないものが観たいのよ、きっと。そんなものはシリア関係のニュースには決して登場しないからね。だから、この京都に派遣されたってわけ」
「此処だったら、その毒にも薬にもならないものが一杯在るってことか・・・。外国人を始め観光客だらけで生粋の京都人が殆ど居ない、気品も風情も情緒も地に落ちたこの京都に何を観ようって言うんだ?」
「ええ。でも、替わりに観光客の落とすお金が溢れるほどに入って来るじゃない。お金には関心が有るんですもの、視聴者は」
毅は笑った。
低く笑いながら、同時に、アフガニスタンの戦地で危険に晒されながらも必死に抵抗した時の奈緒美を思い出していた。あの時、奈緒美は泣き叫びながら残ろうとしたのだった、絶対に最後まで見届けるんだ、と言って。あの時の取材では、それこそ数え切れないくらいの死体や惨たらしい惨禍を目撃したのだが・・・。
毅は言った。
「でも、なんとかシリアに行ってみるべきだよ。行かないとこの先の歴史的瞬間を見逃すことになるかも知れないぞ」
「わたしはこの侭、あなたを見逃す方が辛いの」
「今更、そんなことは言わないでくれよ。俺は歳を取り過ぎたよ。そう言うゲームはもう出来ないよ」
「ゲームとは違うと思うけど、これは」
「否、違わないよ。ただ、あの時、俺たちは別々のルールでゲームをしていたんだな、きっと」
長い沈黙が続いた。
他の客の話声が聞こえて来る。カップがカチンと皿に触れる音も、幾つかの言葉の切れ端も、愉しげに笑いだす声も、聞こえて来る。
低い声で奈緒美が言った。
「悪かったわ、ご免なさい、毅さん。此処に来たらあなたを怒らせることだけはしたくない、と思っていたの・・・・・。真実に私、もう随分前からあなたに逢いたかったのよ」
それには答えず毅は勘定を頼んだ。
絶品のフレンチと芳醇な白ワインの後に、蕩ける甘味デザートと香しい渋苦のコーヒーを飲食して、二人は立ち上がった。
勘定は毅がカードで支払った。
外に出乍ら、彼は囁いた。
「俺も会いたかったよ、君に」
(三)
人が溢れかえる五条坂の交差点から清水坂の細い道を通って、ホテルに足を向けた。ひんやりとした秋の夜気が二人を包み込む。毅は奈緒美の肩を抱くことも手を握ることもしなかった。
観光バスが離合するのがやっとという道幅の両側には、民芸品店、工芸品店、八つ橋店、菓子店、陶磁器店、刃物店、仏具店、扇子店、陶人形店、茶店、漬物店、七味唐辛子店、食事処、喫茶店、地酒店、焼饅頭店、土産物店、和装小物店等々、夥しい店々が軒を連ねている。
「この辺り、わたし、大好き。量販店やモール街やショッピングセンターには無い個性的な小さな専門店やお土産屋さんが沢山在って、昔の日本の街ってこんなんじゃ無かったのかな、って気がするの」
毅は清水坂の麓を侵食しているコンビニやスーパーを指し示して言った。
「今や簡便さと気忙しさの世の中だからね。時間と金と効率が全てを支配していて、専門の小売店が個性的にやって行ける余地なんか段々無くなりつつあるのさ」
「東京と同じね」
「いや、爆買いに象徴される消費に頼って、自らの生産性や創造性や建設性を忘れてしまった此方の方がもっと酷いよ」
二人はぎこちなく坂下の角に立っていた。
奈緒美がホテルに至る坂道の通りを見上げて何か言おうとした。
「そう言えば、あの時・・・・・」
「止そう、昔の話は。もう過ぎたことじゃないか。遠い昔の物語だよ」
だが、毅の脳裏には、嘗て東京神田の同じような坂下で、雨に濡れながら腕を組んでいた自分たち二人の姿が蘇っていた。あの時、肌まで沁み通って来る雨をもものともせず、靴を踏みしめて、二人は神田の書店街を抜け、坂の上のホテルに通じる長い道を登って行ったものだった。
アフガニスタンの取材から帰って来る毅を奈緒美は心待ちしていた。殺戮と死の凄絶な戦争の呪縛から心身を解き放つ為に二人は求め合った。
あの日のことは忘れられない。
蠅のたかる死体の散乱するカンダハールの街から遥か遠く離れた雨の東京で・・・・・二人は丸二日間ホテルに閉じ籠った。そして、様々な誓いを交わし、将来を語り合った。笑い合った。食事を摂った。愛し合った。耳を聾する空爆の爆音から遠く離れた東京の一角で・・・。
毅は身体を前に進めることが出来なくなった。両手をポケットに突込んだまま立ち止まって、彼は話の継歩を捜した。
「ご主人はどうして居るんだい?」
「別れたわ、あの人とは」
毅はまじまじと奈緒美の顔を見た。
「悪かった。俺はてっきり・・・・・。でも、彼はとても良くしてくれる、って君は言いていたじゃないか」
「ええ、そう。でも、私が彼を辛く苦しめたの、結果的には」
奈緒美は眼を逸らした。
不意に風が立って、店の前の幟がはためいた。
「あの人の紹介と引き立てで私はテレビ界に入り、スターになった」
「その美貌が大いに役立ったと言うわけだ」
「皮肉は言わないで」
奈緒美は続けた。
「でも、それが返ってあの人の辛苦の基になったのよ。スターキャスターを妻に持つと言う境遇があの人には重荷になったのね。或る時、突然に転職して・・・。それから次々と職を変えるようになった、それをみんな私の所為にして。世間の誰もが私のヒモの如くにあの人を見るようになった。それが決定的だったみたい。いつしか酒に溺れるようになって、とうとう或る日、荷物を纏めて出て行ってしまったの」
「優しそうな男だったのに、な」
東京で初めてその男に会った時のことを思い出しながら、毅は自分の思いとは裏腹なことを言った。
熱っぽい、野望に燃えるような眼をした若々しい顔の男だった。その夜のパーティーで奈緒美に付き纏って離れない彼を観て、何かしら危ういもの、自分たち二人の将来を脅かすような気配を感じたことを毅は憶えている。その男はプロデューサーだと言って、奈緒美に、テレビ界で仕事をしてみないか、としつこく誘った。これほど美人で有能で勤勉な女性なら成功間違い無しだ、と口説いたのである。
眼の前を通り過ぎるタクシーを見ながら奈緒美が言った。
「優しそうではあっても、優しくはなかったわ」
「君だってそうだった」
「ええ、私もそうだった」
すると、毅の頭にアフリカの取材から三週間ぶりに戻った日の記憶が甦った。
羽田空港からタクシーを飛ばして二人のマンションに駆け戻ると、奈緒美の持ち物が一切合切消えていた。衣類や化粧品から、タオルやティーポットまで全て消えていた。彼女の本も書棚から引き抜かれて、跡には歯の抜けた櫛のように隙間が出来ていた。その時も呆気無いほど簡潔な書置きが残っていた。
翌日、毅は友人から奈緒美の番号を聞き出して電話した。
慎重に言葉を選び、逸る感情を抑えて彼女と話した。
「戻って来てくれないか」
「ご免なさい。わたし、思い切ってこうするしかなかったの。わたしにとってはとても重要な選択なの。一生で一番重要な選択かも知れない。わたしがあの人に巡り合った、と言うか、あの人が私を見つけてくれたのかも知れないけど、これを機会に新しい道に進んでみたいのよ。新しい仕事を始める心算なの、テレビの世界で自分を試してみようと思って」
「顔や姿の映るテレビの方が君の美貌を引き立たせると言うのか?」
彼女はそれには答えずに、続けた。
「ご免なさいね、真実に。もしかすると、わたし、間違った選択をしているのかも知れないけど、でも、兎に角やってみなきゃ、間違っているかどうかも判らないしね」
要するに、そう言うことだった。
一方的で突然の別離。受話器を置いた時、毅は、奈緒美が去って行く・・・・・、もう東京には居られないな、と思った。奈緒美が新しい男、あの熱っぽい貪欲そうな眼をした下らない男とこの街に、然も、そう遠くも無い目と鼻の先に、住んでいるのを知りながら、此処に住み続けることなど出来っこない。毅は生まれ育った故郷の京都に戻って活動の拠点を関西に移した。それ以後、唯の一言も奈緒美と話さなかったし、それっきり、今日まで逢うことも無かった。
「でも・・・・・」
あれから何年も経った中秋のこの夜、京都清水道の坂下で奈緒美は言った。
「わたしは天から罰を受けたわ。あなたに冷たくしたあの日の罰を。だって、あなたと言うかけがいの無い人を失ったんですもの」
毅が何か言おうとした時、突然、雨が降り始めた。
初めは小降りだったのが、直ぐに篠突くような本降りに変わった。溢れかえっていた観光客は蜘蛛の子を蹴散らすようにタクシーに乗り込んだり、店々に入り込んだりして、忽ち街路から姿を消した。
タチヨミ版はここまでとなります。
2016年12月21日 発行 初版
bb_B_00147753
bcck: http://bccks.jp/bcck/00147753/info
user: http://bccks.jp/user/136836
format:#002y
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
小説家
経営コンサルタント