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  この本はタチヨミ版です。

 目 次


作品紹介


好きになりたくない


リクエスト募集のお知らせ


あとがき


別作品のサンプル添付のお知らせ


奥付

作品紹介

(登場人物)

佐藤蘭(主人公)
ある日事故の後遺症で過去三年間の記憶をなくす。その間、大嫌いな幼馴染と恋人同士になっていた。

山内俳里(彼氏)
蘭の彼氏で幼馴染。素行の悪さが祟り、小学五年で絶交される。その後、恋人として新たな関係を築くも、傲慢さが故に破局。現在蘭に過去を隠して同棲中。

仁科兄妹
双子で蘭たちと共通の友人。妹は何かと二人の世話を焼いている。

好きになりたくない

 佐藤蘭。健全な高校二年生。
 好きな物は映画、彼女、少女漫画を読むこととエッチなこと。
 嫌いな物(奴)は、元幼なじみの山内俳里。通称ハイジ。
 顔は良いけど、他は最低な性悪男。大っ嫌いな天敵だ。
 ある日事故に遭い目を覚ますと、その大嫌いな山内と恋人同士になっていた。
 不慮の事故でエッチまでしちゃったけれど、蘭はまだまだ納得いかない。だってやっぱり嫌いなんだもん! そんな二人の第二章。



 蘭は夢をみていた。思い出したくもない嫌な夢だ。泣きたいくらい山内に恋をしていた、過去の夢──。



 八月の半ば。蒸し返すような熱帯夜で、その日も寝室は扇風機が一台のみ稼働していた。
(俳里、いつ起きるだろう)
 穏やかな寝息の聞こえる真下で、蘭はずり下ろしたハーフパンツから、力ない男根を取り出した。
 両手で包みこんだそれもじっとり汗ばんでいたが、気にせず愛おしそうに口づける。鈴口からぺろぺろと舐める。次第に硬度を増すと、喉を鳴らして奥まで誘導した。
『ん……っ。んむっ……、は、ん……んっ』
 たっぷりと唾液を絡めて、舌を転がすように舐めずる。しゃぶる。穏やかな息づかいと相反して、それはジワリジワリとそそり立つ。
 ──初めての夜這い。
 バイト中に届いたメッセージが原因だった。

『暑いからしばらく別々に寝よ』

 付き合いだして、はや一年。最近になって、山内の態度が妙に冷たくなった。少し前から、些細な『違和感』は感じていたけれど……。
 どんなに暑くても、去年は一緒に寝ていたのに。どうして急に?
 久々のメッセージに胸を高鳴らせていたのに。読んですぐ絶望。もう営業スマイルも出来そうにない。
(俺、なんかした?)
 自慢の恋人でいようと努力してきたつもりだ。
 料理も毎日ルックパットを見て勉強しながら作っている。メニューだって、山内が『これ美味いじゃん』といったものを優先的に作っている。
 エッチの時に不快にならないよう、ムダ毛のお手入れもきちんとやっているし、山内が『この子ボーイッシュで可愛いな』と言っていた雑誌のモデルと同じ髪形にしたりもした。
 しかし頑張れば頑張るほど、態度が冷たくなっていく。
 何か、怒らせるようなことをしただろうか。悩んでいた矢先に、追い打ちをかけるようにそのメッセージは届いた。
(このままじゃ俺、俳里に捨てられちゃう)
 言いつくせない不安が蘭の胸に重くのしかかる。
(嫌だ、別れたくない。嫌だ……。だって俺、もう俳里なしじゃ生きていけない)
 いつからこんなに好きになってしまったんだろう。最初はこんなんじゃなかった。むしろ蘭は追われていた方で、半ば強引な形で始まった関係だった。
 男だし、もともと大嫌いな幼なじみだし。好きになるわけないと思っていたのに。
「う……っ」
 グスリと鼻を鳴らし、今は懐かしい当時の記憶を思い出す。
 最初はセフレのような関係だった。『こんなやつ好きになるわけない』と思っていたし、今までの仕返しに、適当に遊んで捨ててやろう、位の軽い気持ちだった。
 しかし。一週間、二週間、一月と過ごすほど、居心地が良くなってしまった。
 いつしか仲たがいしていた事も忘れ、山内と遊ぶことも多くなった。中学は別々だったから、近くのゲーセンで待ち合わせして遊んだ。
 休日はカラオケに行って買い物をして、スタバから山内の家に直行。部屋で雑誌を読みながらゴロゴロ。
 いつだれの新曲が出るだとか、このベースの着てる服が欲しいとか、ゲームの攻略方法とか、話してるうちに目が合って。言葉もなくキスをして。押し倒されて、服を脱がされて。リードされるままエッチして……。

 ちょっと遊んでやるつもりだった。千夏がいたけれど、浮気だとも思っていなかった。ただの復讐のつもりだったから。
 けれど、自身さえ気付かぬうちに山内に溺れてしまった。
 いつしか会えない日は、青空がよどんでみえた。ほんのちょっとでいい。アイツの声が聞きたいと思った。
見つめられると、胸が熱くなってドキドキして、もうどうにでもなれって思った。
『お前さ、今でも先輩らとセフレ続けてんの?』
 ある時、ずっと気になってた事を思いきって聞いてみた。
『何で。お前がいるのにするわけねえじゃん。まあ、隣は相変わらず寂しいけどな?』
『ふーん』
(そっか。今は俺としかエッチしてないんだ。……良かった)
『なに。俺のこと少しは興味持ってくれた?』
『……別に。そういうので聞いたんじゃないから』
 本当はあのとき、蘭はもう自分の気持ちに気付いていた。
 毎日会いたいと思う理由を。傍にいるだけで、胸が焦がれる衝動を。もう、自分以外のだれとも体を重ねて欲しくないと思う、その訳を。
 居心地がいいと思っていた体温は、いつの間にか無くてはならないものになっていた。
 独占したい。傍にいてほしい。
 この気持ちを、いまさら取り消すことなんて無理だった。

 それから二週間。登下校は相変わらず山内と一緒で、その日も橙色の通学路を肩を並べて歩いていた。何を話してたっけ。くだらないことばかりで、あまり覚えていない。
『……ねえ、あの時のお前の言葉、今でも信じていいの?』
『なに?』
『だから! 俺のこと好きって……、あーもうやだっ。やっぱやめた』
『そこまで言って止めないでよ。ちょう気になるんだけど』
 何やってんだ俺。
 今さらどうにもならない状況に追い込んでおいて、そうなってしまったことにすら後悔。困り果てて頭をわしゃわしゃ掻くその姿を、山内は瞬きもせず隣で見つめていた。
『そんなん、全然、すげえ好きだし。最近は普通に友達っぽい態度とってるけど。お前の事、一度も諦めたことないから』
『……それ、本気?』
 蘭は尚も問い詰める。本気で真剣に、山内の気持ちに変わりはないのかと。
『当たり前だろ』
『んなこと言って、遊びとか』
『なわけねえだろ!』
 即座に捲し立てるような返答。しばらく二人の間に重苦しい沈黙が流れる。ほんの数秒程度だったが、ひどく長く感じた。
『……別れてきた』
『え?』
 独り言みたく蘭はポツリと言った。
『昨日、千夏と別れてきた』
 なんだって? 山内が呆けた顔で言った。
(聞き返すな!)
 緊張とこっぱずかしさで動悸はバクバク跳ね上がり、握りしめた拳はじっとり汗が滲んでいる。顔が熱い。くそ、恥ずい……。と思ったら、山内はもっとすごい顔。両目を見開き、時間が止まったかのように静止。足だけは変わらずアスファルトを踏みしめていて、なんとも滑稽だと思った。
『俺が女扱いされるのはまだ不服っつか慣れねーけど。ヤるときなんかこっぱずかしいし……っ。でも、そんなん差し引いても、山内じゃなきゃ、やなんだよ、色々……』
 そっぽを向いたまま、唇を尖らせてそう一言。多分いま、耳が真っ赤だ。
『蘭』
 とうとうその場に立ち止まる。
『な、んだよ』
 声がうわずる。そして、絶対変な顔してる。
 山内の横長い三白眼は、そこに蘭を閉じ込めたまま。
 何で山内。何で男。なんでコイツだったんだ。
 いろいろな言い訳を捜しながら、照れ隠しをせずに話を聞いてくれる所も、らしいなと思ったり。多分、馬が合うというか、お互いちょっとロマンチストなんだろう。そのちょっとの価値観の差が、山内はよく似ているから心地いいのだ。
 自然と距離が近くなる。顔と顔が、次第に引き寄せられる。二人にだけ存在する引力があるかのように。
 唇に柔らかさを感じた時、蘭は自ずと両手を首に絡ませた。
『ありがとう』
『……俺こそ』
『おう。そういう所もすごい好き』
『……」
『マジで好き』
『分かったから』
 山内の気持ちは、もう痛いほど伝わっていた。
『なあ、俺達、きちんと付き合おう』
『……いいよ』
 周囲の目を気にしつつ、たくさんキスをして。飽きるほど好きだと言われた。
 お互いの肩に頭をもたげ抱きあい、この優しさも、安心感も、今日から俺のものだと、密やかに幸せをかみしめる。
 想いが通じ合ったこの日は、もしかしたら、蘭が一番幸せだった日なのかもしれない。

『……っふ、ん……っぅんん……』
 あれからもうすぐ二年。見違えるほど冷たくなってしまった彼氏の下腹部に顔をうずめ、ようやく勃起も様になったそれを慰める自分がいる。
(俺たち、どうしたらあの頃に戻れるんだろう。どうすれば、俳里はもう一度振り向いてくれるんだろう)
 本当は、こんな自分がみじめで仕方ない。
 楽しかったあの頃を懐かしむうち、ジワリジワリと熱いものが込み上げてくる。
『……っに、してんのお前』
『は、いり……っ』
 目を覚ました山内は、いかにも迷惑そうに、寝込みを襲う蘭の姿を見下している。
『俺、疲れてるんだけど』
 ついで放たれた冷たい言葉に、鼻の奥がツンと痛くなる。
 押し黙っていると、今度はため息。
『そんなにヤリたいの?』
(違う……)
 どうしたんだよ? って聞いてほしかった。前みたいに、興味をもって欲しくて……。
『……いいよ。早く服脱げよ』
 無造作に頭を持たれ、口からズルリと勃起が抜け出た。
『あ……っ』
『さっさとヤッて寝たいから、早くしてくれない?』
『は、いり……っ』
『セックスしたいんだろ』
 サイドボードから取り出したコンドームを取り付けながら、目も合わせずにふてぶてしく言う。
『う……っ』
 とうとう、蘭のつぶらな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
 Tシャツ一枚に下半身だけ剥きだして、四つん這いになった蘭の体を、感情の知れない分身が貫く。
 何度も、何度も。

『あっ……っう……グスッ……うっうう……』
 生理的な快感はあった。抜けては挿さるたび繰りかえし。でも全然気持ち良くない。ただ体が前後に揺れるだけ。
『蘭……っ』
 山内は、ときおり名前を呼びながら腰を穿った。今思えば、その言葉のなかに、彼なりの想いが隠されていたのかもしれない。
 だけど、あの時あの瞬間、蘭の胸に駆け巡っていたものは、深い喪失感、ただそれだけだった。



 朝。天気のいい朝だ
 秋分の日の今日は、まだまだ夏日の模様。やたら蒸し暑い。
「うーん」
 蘭はもぞつきながら片目を開ける。
 窮屈だと思ったら、また山内に抱きしめられている。
 ベッドに来んなって言うのに、起きたらいつもこの状態。しかしなぜだろう。今日はやたらムカムカする。
「チッ」
 よくわからないが、この顔を見るだけで、はらわたが煮えくり返るほど怒りを覚える。
 ただでさえ、ここ数日は体の異変に悩まされて機嫌が悪いのに。
 原因は一週間前。千夏に催淫剤を乱用された揚げ句、頭がおかしくなって山内とエッチしてしまった、あの悲劇のこと。
 あの日から山内に触れられると……。
「おわっ!」
 突然ほわんと山内の手が尻に触れた。おかげで『催淫剤の悲劇』は、いったん記憶からなりを潜めた。
 にしても、眠ってるわりには、やけに動きが意図的である。
 尻であると認識しているかのような指の動き。
 きゅっと引き締まった双丘を揉みしだくように、指先がうごめく。
「くっそ、勝手に人のケツ触んなよ変態!」
 今日はそこに原因不明の怒りも加わっている。発散先を探してガツガツとふとももを蹴りつけるうち、
「……ったいんだよ猿コラ」
 まぶたをしっかり閉じた山内が唸った。
(こいつ、やっぱりタヌキ寝入りしてたんじゃねーか!)
「お前、卑怯だぞ! 寝てるフリしやがって、このムッツリ野郎!」
「は? 今起きたんだよ」
 嘘つけ! と蘭が吠える。
 ようやく開いた三白眼は、寝起きにしてはらんらんと輝いている。
「お前って、寝てるときだけ素直だよな」
「けっ、今だって十分素直だろ。お前なんか嫌いだって面と向かって教えてやってんだから」
「はっ」
 こっちはこっちで、蘭の毛嫌いに耐えうる免疫ができた様子。
「お前、夜泣きしてたんだよ。俺が来たら両手だしてすがってきてさ。まーかわいいかったなあ」
「嘘つけ! 俺がお前にすがるわけねーし!」
「すがってた。てかキスもした」
「はあ!?
「それに、お前もしっかり反応してたし。ああ、今もか」
 確かにむっくり出っ張っているその尖端を、布越しにツイ、と撫でられる。
「やっ! やめろ! もういい起きる!」
「やだね。お前に拒否られまくって、こっちは爆発寸前なんだから」
 奇妙な猫なで声を発すると、首の少し後ろを甘がみされる。
「あほ! やめろ変態!」
 さらにハーフパンツの隙間から、起っきしたナニを直に触られ。
「もしかして感じた?」
「ち、違う……っ」
 正直なところ、あの日以降、山内に触られると妙な気分になってしまう。
 それが嫌で、ここ一週間はずっと避け続けている。が、逃げるにも限界があって、大体は好き勝手に触られるのがオチだ。
 そういえば入浴中、勝手に山内が押し入ってきたりもした(その後ぶっとばしたが)。
 あの日から事あるごとに、奴の魔の手が迫っている。
 不本意なのは、それに若干、体が反応している事。
(まあ、だからって、それをやすやすと受け入れる俺じゃないんだけど)
「あー、休日の朝からバイトとかうぜえ」
「お前が入れたんだろ。てかもう一時間もないじゃん」
「よし、サボるか」
 実際すっぽかすとどうなるか、先週でよく分かったはずなのに。山内は「続きやるぞ」とハーフパンツに手をかける。
 蘭はとっさに叫んでいた。
「あっ、万里兄ちゃんから着信きた!」
「──え」
 目に見えて分かりやすく、山内は硬直する。
「なわけねーだろバーカ」
 蘭はへへんっと笑い、思い切りベッドの下へ突き飛ばした。



 悪夢のような出来事から一週間。現在の状況が少しずつ見えてきた。
 学校から徒歩十五分圏内にあるアパート『緑丘ハイツA』が、二人の住処。高校進学時から同居している愛の巣らしい。
 ボロがつく小汚いアパートで、内装もシンプルな一LDK。
 簡素ながらも、一応の調理器具がそろったキッチンに、ソファと小さなテーブル、それにテレビ台の簡素なリビングルーム。一応十二畳はあるらしい。
 玄関から入ってすぐの小部屋は寝室。育ちざかりの男二人が暮らすには、少々窮屈ではある。
 本当はいますぐ家に帰りたいんだけど、母親がやたら協力的で帰れない。
『喧嘩した位で家に戻りたいなんて言わないのよ。ほら、ハイジくんが待ってるんだから早く自分の家に帰りなさい』
 蘭の家族が二人の関係を受け入れたのには、ある理由があった。
 それは、高校進学を機に二人で自立していきたいと、家族に打ち明けたときの話。
『俺は蘭と、一生をともにするつもりでいます。本気です。お願いします。蘭を、俺に守らせてください』
 山内は一切ごまかしもなく、蘭の両親の前で二人の現状を悠然と告げ、頭を下げた。
『格好よかったわよ、あの時のハイジくん。俺には蘭しかいないって、私たちの目をみてはっきり言ってくれたんだから』
(ゲロ)
 将来を見据えた(らしい)言葉に、両親も二人を応援することに決めたという。
 事実を知るうち、疑問も沸いた。
 自分の記憶が、あまりに都合のいい所でぶった切られてる気がする。
 なんで最後の記憶が中学二年の八月三十一日なんだ? 山内と再会したのが、その二週間後の夏祭り。つまり、再会してから付き合うまでの記憶だけが、奇麗さっぱり消えている状態。

 どうして再会前のことしか覚えてないんだろう?
 それとも、再会後の記憶を覚えていたくなかった?
 山内と付き合っていた記憶を消し去りたかった?
 じゃあその理由は?
「うーん……」
 理由が見当たらない。
 やはり考えすぎなのか。
 記憶をなくす前は、山内にぞっこんだったらしいし。
 母親の言うとおりなら、『記憶を消してまで嫌いになりたい』理由なんて、存在しないはず。
 それに山内の証言もある。
(アイツいわく、俺のことをめちゃくちゃ溺愛してたらしいし)
「分っかんねーな……」
「何がそんなに分かんねえんだよ、クソガキ」
 と、そのとき後頭部にバシンっと衝撃。
「てっ!」
「おまえ、さっさと働けよ、時給下げるぞコラ」
 憎たらしい山内のそれとよく似た声。蘭もはっと我にかえり、辺りを見回した。
 そこには五百六十八円と表示されたレジと、袋に入れかけのおにぎり。目の前に客とおぼしき男性が立っている。
「あ、あれ……?」
 さらに右手に箸、左手にお手拭き。某大手コンビニチェーンの青と白のストライプ柄のユニフォーム姿でぼーっとしている蘭を、どうしたものかと見つめていた。
「どうもすいません。まだ不慣れな新人なもので」
 きょとんとしてるうちに後頭部を押され、ほぼ強制的に頭を下げさせられた。
 直後、背後からレンジの温め終了を知らせる軽やかなメロディが流れる。
 すると蘭の頭を抑えつけていた手がぱっと離れ、手際よく商品を袋に詰め始める。
「飲み物は別にしておきますね。いつもありがとうございます」
 目線は三十センチ上。キリリと引き締まった口角を印象よく持ち上げたソムリエスーツ姿の男性が、完膚なき営業スマイルで「ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ」と頭を下げる。
 やはり声のトーンや言い回しが、山内とよく似ている。巻き舌口調は特にそうだ。
「お前、俺に頭下げさせやがってコノヤロウ……!」
 無事接客が終わるや、ぎろりと睨みをきかせる男は、唐突にトーンダウンした悪魔のような低音でささやいた。
 今まで以上にこき使ってやるからな。覚悟しとけよ、と最後に付け加えて。
(げっ)
 ほぼ同時に現実へ戻ったが、時すでに遅し。
 その男は某大手コンビニチェーン店のオーナーであり、山内の実の兄でもある。ちなみにくだんの千夏事件で、繰り返し着信履歴を残していたのも、この男。
 山内万里。十四も年上の三十一歳。通称万里兄ちゃん。蘭が最悪だと豪語する山内の性格を、二重、三重にも複雑に捻じった暴君。
 そういえば昔、万里の名前を『やーい、バンビ、バンビ!』とあざけったばかりに、よくよく虐められたものだ。
 しかしながら、彼の経営するこの店こそ、二人のバイト先であって。つまり、最悪なことにかの暴君バンビ兄ちゃんが、蘭たちの直属の上司ということになる。
「ばーか。仕事中に妄想してんなよ」
「あてっ」
 ヒュンと補充用のジャーナルが飛んできた。隣のレジで一部始終をみていた山内が、それを投げつけたのだ。
(コノヤロウ……!)
「お前、横にいたなら手伝えや!」
「こっちだってお前のせいで客さばくのに必死だったし」
「嘘つけ! お前、そこで欠伸してたじゃねーか!」
 それを拾い、至近距離でぶん投げる。山内はいとも容易く片手で受け止めた。
「お前と違って余裕だからな。てか、何考えてたんだよ猿」
 再びジャーナルが宙を舞う。丸いレシートの塊は、ぽこんと肩にぶつかった
「てえなあ! 何考えてようが俺の勝手だから!」
「ふん。どうせ俺の事考えてたんだろ」
 ふたたび拾って投げ返した丸い塊は、山内の手の中に吸い込まれていった。
「違うわ!」
「分かりやすいんだよ」
「違うし!」
「俺のこと意識してるクセに」
「ばっかじゃねーの! 意識なんかしてねーわ」
 ひゅんひゅんと二人の間を飛び交うジャーナルは、蘭の頭や肩にぶつかっては山内の手に戻っていく。
 大人二人が移動するだけでも難儀な狭い空間で、実に奇妙なキャッチボールが繰り広げられていた。
「てめえらいい加減にしろよド阿呆が」
 もちろん、そんな高校生二人のお馬鹿なやりとりを、バイト仲間から『鬼軍曹』とまで定評される万里が黙って見過ごすはずが無い。
 さっきと比べようがないほど、強烈な巻き舌で迫りくる。
「佐藤! お前、十八時まで残業しろ」
「ええ? 何で俺だけ!? やだよ、せっかくの休みがバイトでつぶれちゃうじゃんか」
「仕方ねえな。俺も残ってやるよ」
 普段は五分たりともサービス残業を許さない山内が、今日にかぎって珍しい。
「いや、お前は定時で上がれ」
「残業代いらないから、俺も残るって」
「いや。お前は帰れ」
 万里がピシャリと突き返すように言うと、山内は反抗的な目を向けた。
「あのさ、そこまであんたに指図される筋合いねえんだけど」
「ド阿呆が。お前がアレを甘やかしてるせいで、いつまでたっても仕事覚えやしねえ」
「別に甘やかしてないだろ」
「フン。これだからガキは困るんだよ」
「は?」
「いいから帰れ」
 一気に場の空気が悪くなる。
 事態をさらに悪化させたのは、万里の次の一言だ。
「そういうな、自分の事しか考えねー所が甘いってんだよガキ」
「あのさ、俺が残って迷惑かかんのかよ」
「だから俺が迷惑だつってんだろ」
 売り言葉に買い言葉。お互い人差し指を突き立てて、図体のでかい男二人が罵り合う。
「はあ!? 意味わかんねーわ。頭イカれてるんじゃねーの」
「ガキが」
「オッサンのくせに」
 ここまで来ると、ただの兄弟喧嘩だ。
「いいか、ここは俺の店だ。だれをどう教育するかは俺が決める」
 嫌なら辞めろよ。俺は全然かまわないから。挑発と思える言葉がとぶ。
 高校生の二人が、一日三~四時間の勤務で月にウン万円を稼げる仕事など、他にない。コンビニ経営としても破格の給料に違いないが、身内という事で、実は他のバイトより優遇されている。これでは辞めたくても辞められるはずがない。
「今日付けで二人そろって辞めるか?」
「俺は、佐藤の残業には賛成ですね。辞められるのは断固反対ですけど」
 最悪な空気を一蹴する、さわやかな声が聞こえた。そこにバイト仲間の滝がいる。
 今日は十四時から夕方までのシフト入りらしく、爽やかに「おはようございます」とあいさつ。さらに蘭に向けて、にっこりほほ笑んだ。
「あ、おはよ」
「おはよう佐藤。髪、寝癖ついてるよ」
「え、どこ?」
「ここかな」
 後頭部に手をあて、髪を触る。
 今日もシトラス系のさわやかな匂いが漂う。愛用するハンドクリームの香りらしい。
 身長は百七十五センチくらい。細身でこげ茶のストレートヘアが特徴だ。
 学年は一つ上の高校三年。自宅は隣町にあるが、店から近場の男子校に通っている。
 世話好きなのか、何かと蘭の仕事を手伝ってくれる『良い奴』。
「蘭、こっち来い」
 と思っていたら突然腕を引かれ、豪快に胸元にダイブ。
「なんだよ!」
「お前、本当最近フラフラしすぎ。自重しろよ」
「なにがだよ」
「いいから、こっち来とけ」
 このとき蘭は知る由もなかった。山内と滝が、ひそかに互いを睨み合っていたことに。
 時刻は十四時前。さっきまでそこにいたはずの万里は、なにやら携帯で話しこんでいて、次第に込み入る店の賑わいに気付いていない。シフト交代まであと一時間、蘭も山内もインしたばかりの滝も、食後のコーヒーを求めるサラリーマンの列をさばくのに必死だった。結局残業の話は、うやむやのうちに終了してしまった。



 昔から山内兄弟を知る蘭は、二人の仲の悪さを理解しているつもりだ。
 歳こそひと回り離れているが、二人は非常に似かよった要素でできている。
 身長はともに百八十センチ強。しし座のA型で誕生日も一週間違い。万里が八月八日で山内が八月十五日だ。
 目つきの悪さも遺伝のようで、山内の横に長い三白眼を、もう少し切れ長にして黒目を小さくすれば、万里のそれになる。
 しぐさやルックス、口癖までダブる二人は、本当によく似ている。
 どちらもさして異性に興味がなく、短気で口が悪い。そのくせ、周囲に対する愛想だけは抜群。腹黒い野心家な所も同じだ。
 それゆえ、対抗意識も強いのだろう。
 そんな山内が、兄が経営するコンビニエンスストアでアルバイトをしているのは、結構な驚きだった。
『クソバンビ』『クソバンビ』『クソバンビ』『クソバンビ』……。
 あの日、携帯に数分単位で残された着信履歴の羅列をみて、最初は何事かと青ざめた蘭である。
 まさか自分たちが万里の店でアルバイトをしていて、しかもシフトをすっぽかして千夏に媚薬を盛られ、山内とにゃんにゃんしていたなんて。その時はまったく知る由もない事実だった。


 結局、残業の話は本当だった。
 悪夢のような時間はみっちり三時間半。
 ついさっきまで真後ろに万里がつき、レジ打ちに接客に、言葉遣いから挨拶のひとつまで、口うるさく指導された。フランチャイズといえど、企業の定めたルールは存在する。『どこへ行っても変わらないブランドクオリティ』を提供できなければ、色々と問題になるのだとか。
 バレなきゃいいんじゃない? という訳にもいかず、この業界には『スーパーバイザー』なる企業のお目付け役が存在し、不定期に各店舗を見回って、違反はないかチェックしているという。
 ああ出ればこう、という訳だ。

 バイト終了まで残り十五分。
 こんな安い時給でやってらんねえ、と一息ついていた所。隣で一部始終をみていた滝が「おつかれ」と声をかけてきた。
「佐藤、今日は大変だったね。よかったら、どうぞ」
 こっそり手渡されたそれは、栄養ドリンクだ。
「あれ、これってすっげー高いやつじゃねえ?」
 たしか、今月の推奨品。炎のイラストに『やる気漲る!』と黒文字がデカデカと印字された、いかにもサラリーマン受けを狙ったパッケージだ。ちなみに一本六百円。
 これは本部が勝手に売り上げ目標を設定していて、在庫に関係なく週に一ケース納品される。
『コンビニはこういうのが一番やっかいなんだよな。うちじゃ売れる見込みもねーのに販促しなきゃなんねーし。キャンペーンで力抜いてると、SVに目付けられるからな。そうなると後でもっと面倒なんだよなあ』
 と、さっき万里がぼやいていたから、蘭もよく覚えていた。
 陳列場所のおかげか数本売れていたが、こんなのよく買うなーと内心思いながらレジを打っていた。
「疲れに効くって書いてたから買ってみた」
 滝はニコニコしながら、それを手渡してくる。
「まあ、最初はみんなあんなもんだよ。慣れるまで大変だろうけど、頑張れよ」
 ポンポンとあやすように頭を撫でられると、張りつめていた糸がプツンと切れ、いろいろな感情があふれ出してくる。
「うう……、たきぃ」
 思わず肩口に頭をもたげて甘えてしまった。
(こいつ、いいやつだな)
 年上なのに(万里と違って)タメ口でも怒らないし、何より(万里と違って)優しい。
「俺も、佐藤がいるから頑張れるし。辞めないでよ、マジで寂しいから」
 心身ともに衰弱しきっていた蘭にとって、まさに癒やしのオンパレードである。もっと言ってと蘭は内心、甘い言葉を催促する。
「滝はさあ、なんでこの店でバイトしてんの?」
「俺? んー。何でだろう」
「お前くらい真面目で仕事できたら、ぶっちゃけもっといい所あるだろ」
 なによりここは、悪徳バンビの巣窟である。『つべこべ言わず、俺の命令に従え』なんて、独裁主義も甚だしい。
 それに、ポンコツ呼ばわりされる蘭と違って、何でもそつなくこなせる滝なら、きっとどこへ行っても即戦力になるはずだ。
「うーん……」
 肩口にもたれかかる小生意気な後輩の頭をヨシヨシと撫でながら、何やら考え込んでいる様子。しばらくして、おもむろに口を開いた。
「強いて言うなら、好きな子が働いてるから、かな」
「好きな子?」
「そ」
 蘭の目は途端に輝きを取り戻した。
「へー。なんか、意外だった」
「そう?」
「そういうのに興味なさそうだと思ったから」
「俺ってそんな風に見える?」
 見える。あっけらかんと答えると、滝は肩を落とした仕草を見せる。
「そっか……」
「すげー偏差値の高い大学とか狙ってそうだし? バイトの間に塾に通って、夜はずっと勉強してる感じ」
 あと数カ月もすれば受験シーズンがやってくる。ただでさえ三年生は大変だろう。こんなにシフトを入れて大丈夫なのかと、逆に心配なくらいだ。
「佐藤は美化しすぎ。そんな事ないよ。俺、卒業したらこのまま就職しようと思ってるし」
「そうなの?」
「うん。実をいうと、万里さんに『卒業したらうちに来ないか』って誘われてるんだよね」
 え、と固まること数秒。
「うち? うちって、もしかしてこの店のこと?」
「そう、この店。まだ詳しくは言えないんだけど、しばらくは万里さんの補佐的な役割になるかな」
「やめとけよ絶対後悔するって」
 幼い頃から万里の人間像をよく知っている蘭は、一片の躊躇もなく言い切った。
 滝は、少し困った様子で笑う。しばらくして真顔に戻り、再び蘭をじっと見つめた。
「佐藤は、最近どう? 山内とはうまくいってる?」
「は? 山内?」
「万里さんから聞いたけど、アイツと付き合ってることも忘れちゃったんだって?」
「ああ……、うん、そう。ていうか、上手くいくわけないよね。俺、アイツのせいで毎日が最悪だから」
 滝の口から山内の名前が出て動揺した。口ぶりからして、二人の関係を知っている様子。
 滝と話すようになったのは、ここ数日のこと。一週間前は今と真逆で、目が合うどころか会話もなかった。「おはようございます」と「お疲れ様でした」の規則的な挨拶のみ。だからてっきり、プライベートな付き合いはなかったんだろうと思っていたのだけど。
「はは、最悪か。佐藤の口からそんな言葉を聞く日がくるとは思わなかった」
「なあ……。滝ってさ、もしかして記憶なくす前から俺と仲よかった?」
 いくらバイトの同僚とはいえ、こんなこと、そうそう話せるもんじゃない。記憶をなくす前、滝とは親密な仲だったのだろうか。
 でも最初のよそよそしい態度を考えると、そうでもないような……。
 滝は俯いて表情を曇らせている。やるせないというか、感情を無理やり押し殺してる感じ。何か言いたそうだが、真一文字に締めた口は、それを頑なに拒否しているようにも見えた。
「……佐藤はさ、突然記憶をなくして、何も分からずここに居るわけでしょ」
「うん?」
「目が覚めたらさ、嫌いな男と付き合ってる事になってて。普通に考えてあり得ない現実をさ、どうして受け入れようと思えたの?」
「何でって……そんなの──」
 そういえば何でだろう。
 腰の痛みとか、仁科妹に話を聞かされたり、山内の告白だったり、親の証言だったり。
「分かんねえよ、そんなの。気付いたらこうなってたから、それで……」
 滝は何が言いたいんだろう。もしかして、記憶喪失の原因に何か心当たりがあるのだろうか。
「じゃあさ、本当は佐藤は俺と付き合ってたんだって言ったら? 信じてくれるの?」
「──え?」
 思いもよらない言葉に眉をひそめる。滝はカウンターに隠れるようにして手を握ってくる。
「滝……?」
「佐藤の好きな人が、俺だったとしたら──」
「なわけねえだろ」
 とつぜんカウンターの向こうから声がした。
「勝手に事実すり替えてんじゃねーよ腹黒」
 振り向くより早く首根っこを掴まれ、ぐえっと変な声。
「ちょ、うえ、ぐえっ」
 声の主はおかまいなしに、蘭をレジカウンターから引っ張り出そうとする。
 こんなことをするあほったれがだれかなんて、考えなくてもわかる。
「や、まうぢ……っ」
 見上げれば、やはりだ。横に長い三白眼は、ギロリと滝を睨んでいる。
「悪いけど、コイツは俺のモノだから。勝手に触んないでくれる。前も言ったと思うけど」
「おま……っ、なん、ぐ、ぐるじ……」
「てめえ猿コラ、ニヤついてんじゃねえぞ! モノに釣られやがって、卑しい奴だな」
 三時間も前に店を出た山内が、どうしてこの時間に店にいるんだ。しかも勝手に触るなとか、ニヤつくなとか、モノに釣られてとか、まるで千夏の時みたいに、どこかから覗いていたとしか思えない鮮明な発言だ。
「俺には寄るな触るなつっといて、滝にはこれかよ、なあ」
 自称恋人は、どうやら滝との仲にご立腹の様子。たしかに、相手が山内なら即座に跳ねのけていた。
 この一週間、蘭の刺々しい態度に辛酸を嘗めてきたからこそ、カウンターの下でまったりする二人が余計に頭にきた模様。
「な、なん……っごご……っ」
(お前こそ何でこんな時間に店にいんだよボケ!)
「ふん。ずっと待ってたからに決まってんだろうが」
 山内は見事な読唇術で切り返す。この男、やはりどこかから蘭を見張っていたようだ。
「は……っぐあっ……ふげっ」
(勝手なことしてんじゃねーよタコ!)
 離せとガツガツ脚を蹴っていると、たちまち鬼の形相に変化していく。
「お前、マジでいい加減にしろよ!」
「じゃあ、その手を離してあげればいいだろ」
 そう二人の間に割り込んだのは滝だ。
「佐藤が苦しそうにしてるの、見て分からない?」
「あんたには関係ないだろ」
「ていうか、マジですごい毛嫌いされてるんだね。そこまで拒否されたら、俺なら立ち直れないかも」
 カウンターを挟んで滝と山内が、なぜか火花を散らし合っている。数時間前と同じ状況。そこに、今回は蘭も加勢した。そうだそうだ、離せとばかりに、山内の脚に蹴りを入れる。
「ってえなあ猿!」
 山内がチッと舌を鳴らして腕を引いた。蘭の華奢な体は人形のように反転し、されるがまま、背中からレジカウンターにぶつかる。
 ──静寂。
 ──静寂。
 ──長い長い静寂。
 滝も、蘭も、山内も、だれの声も聴こえない。耳に流れるのは、軽快なジェイポップのBGMだけ。
 声が出せない。やめろ、とか。馬鹿野郎、とか。叫ぼうにも出せないのだ。
「う……っんんっ──」
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 至近距離に、ギラギラ光る三白眼。その奥には、円柱の蛍光灯がこうこうと光る天井があって……。
(何だこれ。なんなんだよ)
 どうにか頭を整理しようとするが、思考回路は滅茶苦茶のパニック状態。
 しばらくして唇に触れる感触がジンジン熱くなる。ようやく、キスされているせいだと実感する。
「お、ま……やっ……」
 カウンターに押し倒された状態。上から体重をかけられ、強引に自由を奪い取る。
「やだっ……やめ、」
 まさか滝にのっかって挑発したくらいで、ここまで暴走するなんて。
(客、いま客きたらどうすんだよ)
 コンビニで店員が、客とおぼしき若い男に襲われている。これは間違いなく通報される。もしくは万里の耳に入って想像を絶する怒りを買うか。悪ノリがすぎた奴なら、写真も撮られてSNSで見世物にされるかもしれない。
 いや、それよりも、もっと深刻な事がひとつある。
「……っなせよ……!」
(やだ……、滝が、滝がいるのに……!)
 そう、ここにはすでに第三者、滝という名の目撃者がいるのだ。
 ようやく打ち解けて来たバイト仲間。差し入れをくれ、労いの言葉をかけてくれ、「一緒にがんばろうね」なんて熱い友情を膨らませていた所。あろうことかその滝に、この有様を見られている。
「やだ……、はな、せ……っ」
 無我夢中で暴れるが、ビクともしない。
 強引に押し入った吐息が、蘭の嬌声に執拗に絡まる。やめろと声を上げれば、喉の奥まで舌が入り込んできた。
「ん──っ、ん、ン……」
 同じ男なら、理解できるはずだ。
 無様に組み敷かれる姿を男友達に見られて、蘭がどんなにか屈辱を味わっているかって事くらい。
「……っかやろう……っ」
 と振りかぶった視界に、とうとう滝の顔が映り込んだ。
 蘭を見ていた。目を泳がせながら、複雑な表情で。
 形のいい唇を真一文字に結び、片時も視線をそらすことなく、山内にいいように扱われる蘭を見ている。
「う……っ」
 ほんの数十秒の出来事。だけど実際は、その何倍も長く感じた。
(ああ、終わった)
 力がぬける。あまりのショックで闘争心すら失ってしまった。抵抗をやめた途端、唇も開放される。
 涙目で睨んだ先に、性悪男の勝ち誇った顔。
「お前、マジで最っ低……っ」
 もう、屈辱でしかない。
「最低? おまえが全部悪いんだろが」
 こっち向けと顎をしゃくられる。嫌が応にも視線を合わされ。
「お前、俺の恋人だろ」
「だれがお前なんかと」
「俺のモノだろ」
「違うわ!!
 思い切り突き飛ばすと、手あたり次第に備品を投げつける。
「てめ、蘭!!
 もう、どうだっていい。滝に見られようが、人が来ようが、知ったこっちゃない。ただ、この男だけは許せない。何があっても、絶対絶対絶対に許せない。
「お前なんか、山内なんか、大っ嫌いだ馬鹿野郎!!
 接客が不可能なほど、カウンター内を滅茶苦茶に荒らし、一目散に店を飛び出した。



(蘭のやつ、タイムカードも押さず出て行きやがった)
 モヤモヤと煮え切らない気持ちを噛み潰しながら、山内はついさっき蘭が出て行った自動ドアの前で舌打ちする。すぐに追いかけるべきだったろうか。しかし、出る杭はさっさと打っておかねば。滝のように図々しい相手であれば、なおさらだ。
 まあ、蘭に手を出すなと釘をさした所で、予想通りの返答しか得られなかった訳だが。
『佐藤にかかわるな? そんな事、山内に言われる筋合いないね。だれを選ぶかなんて、佐藤が決める事だろ。悪いけど少しでも望みがあるなら、俺は絶対諦めたりしないから』
 真っ向から喧嘩をふっかけてくるあたり、また蘭に手を伸ばす可能性は否めない。しばらくはバイトの度に気が抜けそうもないと唇をかんだ。
「クソ、蘭のアホが……!」
 滝はかつて蘭に横恋慕していた。
 バイトを始めた動機も、レジにいた蘭に一目ぼれしたからだとか。ちなみにすべて、当時の蘭から又聞きした情報だ。
『俺、ちゃんと断ったから。俺の好きな人は俳里くんだけだって、滝くんにはっきり言ったからね?』
 あの時、蘭の話にもっと耳を傾けていればよかった。滝のことは驚いたが、内心は自惚うぬぼれていたし。
 どんな恋敵が現れようと、蘭は絶対に心変わりしないという、根拠のない自信もあった。実際そうだったし。
 まさかその数カ月後、蘭が三年間の記憶を全て失い、これまでと打って変わって山内を毛嫌いし、あげく滝とよろしくやってるなんて。そんな未来、だれが想定できるだろう。
「はあ……くそっ」
 この一週間、山内なりに素行を改めてきたつもりだ。
 蘭の目をみて会話するようになった。乱雑だが、一応の家事もこなすようになった。
 暴言も吐かなくなったし、自分なりに大切にしている。
 しかし蘭のほうは、「好きだ」と言えば「俺は嫌いなんだよバーカ!」とつっけんどんな態度のまま。
 飯は一応平らげるが、相変わらず「くそまずい」と駄目出しの連発。それに、蘭と同じベッドで寝てようものなら、「どっか行けや!」と牙をむかれる毎日。
 みじんも変化のない、最悪な日々が現状維持で続いているのだ。
 いくら山内の精神力が強靭きょうじんといえど、さすがに堪える。
 蘭はほんとうに本気で、山内を嫌がっている。それを滝にまで見透かされたのがしゃくで、つい暴走してしまった。
 その結果、見るも無残な惨敗。蘭には半切れで嫌がられ、あげく「お前なんか大っ嫌いだ」とまで言われた。
なによりあの顔。本気でキスを嫌がる蘭の顔。思い出すだけでヘコむ。
「……はあ、もう」
(このままだと、マジで滝に奪われる)
 不安はますます膨らむばかり。
 『俳里、待って……!』と後を追ってきた、あの頃の蘭とは違う。心の隅っこに残っていた、『慢心』や『奢り』を排除しなければ、本当に心を入れ替えて蘭に尽くしていかねば、本気で滝に負ける。蘭を獲られてしまう。
(あのアホ……、ヘラヘラ笑いながら滝に手を握られやがって)
 どうすれば良かったんだろうか。どうすれば、気持ちを引きとめられるんだろうか。拒絶されるたび、ただ愛おしさだけが募っていく。
「なんでだよ。蘭のことすっげえ好きなのに、全然気持ちが通じねえ……」
 まさに八方ふさがりな状況に、山内は完全に追い詰められていた。



 山内が悶々と頭を抱えていたそのころ。一足先に帰宅した蘭も同じく、ある現象に頭を悩ませていた。
 体の火照りが治まらない。唇もジンジンと熱く、山内の感触が、そこから離れようとしない。
(どうしよう。俺、すっげえムラムラしてるんですけど!)
「山内のタコ! ボケナス! くそ、くっそ!」
 何度唇をぬぐえど、さきほどの記憶が脳裏でリピートを繰り返す。
 ちょっとカサついた山内の唇。高圧的で執拗に自由を奪った、あの唇。
 憎たらしいはずなのに、心臓がやたらドキドキしている。気が付けば、山内のことばかり……。
「あー、もうやだ……!」
 ブツブツそしりながら、一目散に服を脱ぎ捨て風呂場へ直行する。蘭の核心部分は、隆々と直立していた。
「マジかよ……もうヤベえじゃん」
 亀頭から、はやくも体液がぷっくりと滲んでいる。
 山内のやつが、変なことするから。
 山内のせいで……こんな目に。
「う……っ」
 前回は媚薬を盛られたせいで、男でもいけたと言い訳ができた。
 だけど今日は、しらふでキスをされ、この反応なのだから。大嫌いな天敵に。大嫌いな幼馴染に。
 この屈辱を、山内にだけは知られたくない。だからプライドを捨てて、自慰で処理しようとしている起立したそれを握りこむ。、竿から頭へ、ゆっくりとした動きでマスターベーションを始めた。
 裸の女の子……じゃなく、強引に唇を重ねる山内の映像が浮かぶ。
「おえ……っ」
 早く忘れろと頭を振るが、記憶に刻まれた映像はなかなか消えない。
 唇が滴に濡れるたび、感触が戻ってくる。ゾクゾクする。
「やだ違う!」
(これじゃまるで、山内に欲情してるみたいじゃんか……!)
 蘭は心の中で吠える。
「くっそ、消えろ……!」
 目眩すら感じる程の激しい葛藤が、理性をぐちゃぐちゃにしていく。
 絶対に認めたくない。男のプライドにかけて認める訳にはいかない。
(俺、女の子が好きだもん。千夏のことはもうあきらめたけど、でも、山内なんかより女の子の方が断然ッ……!)
 言い訳するように、必死で女体を想像する。友達の家で観たアダルト動画。エッチなお姉さんたちの、みだらな姿。
(そ、そうだ。あの頃は必死にチンコ擦ってたじゃんか俺! 思い出せ、あの下半身猿だった時代を思い出すんだ!)
 山内と入れ替わり、おっぱいや秘部をあらわにさせた裸体がぽんぽん浮かぶ。
 蘭の股間は、とたんにしゅんと力をなくして項垂れた。
「えっ、うそ……? やだやだやだ、すっげえムラムラしてんのに……っ」
 当人までが青ざめるほど、みるまに萎える哀れな息子。
 一刻もはやく抜きたくて、頭がおかしくなるほど苦しいのに、うまくいかない。どんなエッチな妄想を思い描いても興奮できない。
 ボディソープを塗りたくった手で、懸命に手を動かしてみる。
 ──そのとき、玄関の方から音がした。
 ついで数秒とまたず、浴室のドアが勢いよく開く。
「へえ。こんな時間から風呂かよ。さっさと一人で帰りやがって、いい気なもんだな」
 突如侵入したのは、言うまでもなく山内である。
 蘭はあおざめ、硬直する。幸いドアに背を向けて立っているため、奴が変な気を起こさない限りは、
「おい」
 山内がずいと足を踏み込んできた。蘭は思いきり湯船のなかへダイブした。湯船が高潮のようにはね、向こうの壁までばしゃんと飛び散る。
「うわ! てめ……っ何すんだよ!」
「テメーが勝手に入ってくるから悪いんだろ! 出てけよ!」
 ばちゃばちゃお湯を飛ばして威嚇する。「猿コラ……!」山内はすごく怖い顔をしてにらんできたが、関係ない。
 こっちは必死なのだ。とにかく股間の惨状だけは気付かれてたまるかと。
「うわ、湯釜が泡だらけじゃねーか! お前、一回出ろ」
 袖をまくった山内が、とうとう服を着たまま風呂場に侵入した。
「な、なななんで……っや、やだし! 俺が上がってからにしろよ」
 これぞ野生の勘というのか。思いもしなかった行動の連発で頭はパニック状態。
「は? アホか。こんな汚い風呂入ってたら雑菌にやられて死ぬぞお前」
「そんなんで死ぬか!」ばしゃんと湯を散らせば。「死ななくても病気になる」飛び跳ねる水滴を右腕でガードしながらチッと山内が舌打ち。
 靴下をぬぎ、ボディータオルを拾い上げ。下半身の火種となった男は、どんどん近付いてくる。
「ほら、お前顔も真っ赤じゃねーか」
「早よ出ろ」風呂釜ににゅっと顔を覗かせ、脇に手をやると、軽々と湯船から抱き上げた。
 ザバーッと持ち上がる蘭の裸体。
 山内の視線は股間の位置で見事にとまった。
 アンダーヘアが手入れされ、茂みすらないそこから、元気を取り戻した桃色の棒がにょきっと伸びている。
「蘭……風呂場でなにしてたんだよ」
 バンザイの体制では、隠すことさえできない。自分の体をこんなにした諸悪の根源に、その一切を見られてしまった。言うに堪えない屈辱とはまさにこの事。
「俺の事は拒絶するくせに……、マジむかつくわお前」
 湯船に浮いたボディソープと股間の膨らみを見て、山内は勝手に想像を膨らませた様子。視線も口調も冷ややかだ。
「俺だってやりたくてやってんじゃねーよ! 大体お前が」
「は? また俺のせい? そうやって何でも俺にあてつけんのな」
「うるせーわ! 俺が今どんな気持ちで」
「はっ。気持ちってなんだよ」
 股間を一瞥。罵るような口調で吐き捨てる。
「山内、マジでこれ以上喋んな」
「何それ。滝とはよろしくやっといて。マジ自己中すぎんだよお前」
「──は?」
「今のお前ってマジ最低。いい加減にしろよ、下半身サル」
(こいつ……、俺の気持ちも知らないで)
「お前、マジで嫌い。大嫌い!! さっさと離せよバカ野郎!」
 もう喚くしかなかった。言える訳ない。お前にキスされたせいでこうなってるんだなんて。
「この変態野郎!」「お前のせいで俺の人生はめちゃくちゃなんだよ!」「離せよ! お前なんか大っ嫌いだ!!
 もうどうでもなれと、言いたい放題に叫びまくる。山内は蘭を抱えたまま、黙々と脱衣所に連れ出した。
「……そんなに俺が嫌いかよ」
「だからそう言ってんだろ!」
 蘭がそう怒鳴ると同時に、頭にバスタオルが降ってきた。
「……あっそ」
 他にはなにも言わず、ガチャンと風呂場のドアが閉まった。



 あれから時刻は二十三時をすぎたころ。
 ひとり寂しく食事をすませ、山内はだれもいないリビングのソファにゴロンと横になった。蘭はというと、寝室に閉じこもって一向に出てこない。ドアの前に置いていた食事は空になっている。今夜はメニューを変更してハンバーグ。前よりは上達していると思うし、少しは喜んでくれただろうか。一向に部屋から出てこないあたり、その望みも薄そうだが。
「……はあ」
 いつもは窮屈にさえ感じる十二畳のリビングは、今日はやけにだだ広くて。
 つけたままのバラエティ番組をボーっと見ていると、今となっては懐かしいあの頃を思い出してしまう。
 そういえば、あの頃は何もしなくても暖かい夕食がテーブルに並んでたな。当たり前に蘭が食器を片づけて、山内はいつもソファでくつろぐだけだった。
 洗濯物も、いつだって奇麗にシワをのばして畳まれたものが仕舞われていた。最近フローリングが埃っぽいけど、あれも蘭のおかげで、いつもピカピカだったんだな……。
 知らなかった。
「家事って、こんな大変なんだ」
 二年も同棲して、今頃こんなセリフが出るあたり、とことん駄目な男だと思う。
 精神年齢が十四歳の蘭には、家事をする概念そのものがないから、全てを山内が引き受けざるを得なかった。
 だが、その期間にしてまだ一週間。
 時間にして一六八時間。過ぎさった日々と比べると、瞬く間にすぎない。
 バイトに行って、帰ったら夕飯を作り、空き時間に掃除をして洗濯して、風呂の後は勉強。気付いたら爆睡。そして翌朝六時には起床し弁当を作り、合間に蘭を起こして身支度をしなければ……。
 かつてないほど、毎日が壮絶に過ぎていく。反して一日は妙に長く感じた。しかし充足感はなく、二十四時間ではぜんぜん足りない。こんなハードスケジュールを、蘭は笑顔で毎日こなしていたのだ。テストも課題もたくさんあっただろうに、彼は愚痴をひとつも言わず、すべてを完璧にこなしていた。
 今さらながら、頭が下がる。
「あー、あの頃が懐かしい」
 いつもなら、この時間になると蘭の方から「俳里くーん」と寄ってきたものだ。
 あの頃はその応対すら面倒臭くて、眠いだの、テレビを観終ってからにしろだの、いつも難癖をつけて避けていた。今思えば、蘭に対して申し訳なく、とても貴重な時間だったとすら思う。それも全て、『後悔先に立たず』であるが。
「あー、つらい」
 ソファーに寝そべると目元に手をやり、風呂場の出来事を思い出す。
 口喧嘩の末に先に帰宅した蘭は、あろうことか、隠れるようにして性処理を行っていた。
(あんなに溜まってるくせに、俺はとことん拒絶すんだな、アイツ)
 それとも、自分が相手だと勃たないとでもいうのか。
(そういや、また『お前なんか大嫌いだ』って言われた。なんか、時間がたつほど嫌われていってる気がするんだけど)
 ──最悪だ。



「今日は厄日だわ」
 まだ午前の授業が終わったばかりなのに、妹はすでに疲れ切っていた。
 元凶はあの二人。蘭と山内。
 まずは山内が、朝一番にクラスに乗り込んできた。何やらヘコんでいる様子で、一限目が始まってもクラスへ戻ろうとしない。
「あー、辛い。また蘭に浮気された。信じらんねえアイツ。彼氏の前で男に手握らせるか、フツー」
 隣の席を陣取って、口にするのはそればっかり。
「ちょっとハイジ、さっさと自分のクラスに戻りなさいよ! 田中くんが困ってるじゃないの!」
「あ、別に大丈夫っすよ」
 坊主頭の田中は教科書をもって別の席に移動していく。
「田中くん、ごめん、マジでごめんね! もうハイジ! アンタ本当に邪魔!」
「愚痴くらい吐かせてよ。他に言えるやついないんだから」
(この自己中、自滅しろ!!
 なんでも昨日、バイト先で蘭といざこざがあったらしい。蘭を狙ってる男がいるとかどうとか。そういえば、前に一度だけ蘭から聞いたことがあった。バイト先で、同僚のナントカくんに告られたとかどうとか……。
「はあ。俺昨日からすっげえ欲求不満。マジでなんなのアイツ。人の心をもてあそびやがって」
「蘭に直接いえばいいでしょ」
「言って逆ギレされたからここでぼやいてんだろ」
 蘭のアホ。猿。本当なに考えてんだあの馬鹿。はあ、もう死にそう。アイツ見てるだけで頭おかしくなる。
 余りにうるさかったので、途中で強制的に追いだしてやった。
 ようやく周囲が静かになったと思いきや、二時限目の空き時間に、今度は蘭が教室にやってきた。
「なあ、山内しらねー?」
 どうも山内を捜している様子。
「知らないわよ」
「ふーん」
 蘭もまた、田中の席に座った。
 ほんの小一時間前までハイジがそこに座っていたことは、話すと面倒だったのであえて伏せておいた。
 蘭の方は終始落ち着きがない様子で、窓から廊下側を見渡している。
「どこ行ったんだよアイツ」
「何?」
「うん、なんでもない」
「何か用事だったの?」
 とりあえず要件を聞いてみることにする。
 蘭は面白くなさそうに、くしゅんと顔をしかめて「何でもない」と言った。
「じゃあ何で探してんのよ?」
「探してるわけじゃないけど……、昨日ちょっと」
「何よ?」
「別に……」
「あーっもう、はっきりしなさいよ! ハイジに会いたいの、どうなの!?
 気になることはズバリ、ストレートに尋ねる性分の妹である。
「だ、だから会いたいとかじゃなくて!」
 蘭は目に見えて動揺し、言い訳ばかり繰り返す。
「アイツなんか、居ても居なくてもどっちでもいいって思ってるし。ただ、昨日のこと、ちょっと言い過ぎたかなって思っただけで……、その」
(はっきり言えや!)
 そこまで出かかった怒りの声は、蘭の携帯の着信音で掻き消されることとなった。
「ふぁい……。うん? ああ、滝?」
(タキ?)
 その名前に瞬時に耳が反応した。
 確か蘭の言っていた『ナントカくん』も、そんな名字だった気がする。
「んーん。俺こそ昨日は変なとこ見せちゃってごめんな。本当気にしないで、ていうか忘れて。……え? あ、うん。俺も来週の土日はシフト入ってる」
 隣で蘭の話を聞きながら、もしやビンゴかもしれないと妹は思う。
「滝は? ……あー、それじゃ俺らと入れ替わりなんだ」
 その憶測が正解なら、タキは山内にとって恋敵となる相手。
 その男と蘭が仲良く携帯で話をしている。
「え、土曜日? いいけど……遊ぶの、俺と?」
(……タキが蘭を遊びに誘ったわ)
 何食わぬ顔で頬づえをつきながら、内心耳をダンボにさせて話に聞き入る。
 かつて蘭に告白したやつ。しかもバイト先で揉め事があったとかいう昨日の今日でのお誘い。
 これは……、いまだに蘭を狙ってきてるとしか思えない行動だ。
「え、泊まりで?」
「……」
(ちょっと、まさかのお泊まり!? タキってもしかしてかなりの肉食なんじゃ……)
 当の蘭はアホみたいにヘラヘラ笑って会話しているが、返事次第では、本当の浮気になりかねない。
「……あー、いいよ」
「え!?
 妹はようやく山内が悩む意味を少し理解した。


「ちょっと蘭、アンタ少しは自分の立場を考えなさい」
「何が」
「何がじゃないわよ! アンタ、ハイジの彼氏でしょ。彼氏を放って他の男と外泊するってどうなの?」
「なんで? 滝は友達だよ? それにアイツ、すっげえいいやつだよ」
 蘭は一生懸命にタキのいい人アピールをはじめる。
「仕事だっていろいろ手伝ってくれるし。俺が失敗するたび励ましてくれるし、俺なんかいつもバイトの悩み聞いてもらっててさ」
(それはアンタの事が好きだからよ!)
 今度こそ心の声を叫びたい衝動にかられた。しかし、悔しいかな妹はまたもや我慢した。
 滝と蘭の過去を話となれば、おのずと山内と蘭の過去にも触れてしまう。
 実は山内が、蘭の気持ちも顧みない最低な彼氏だったと知れば、逆効果になりかねない。
(私が余計なことを口走って二人の関係をかき回すより、そっと見守っておいた方が無難だわ)
 それに、あの山内が絶対に承諾するはずがない。何としても食い止めるはずだ。
 結論、むやみに動かず、二人を見守ることで決着する。
(それにしても、面倒くさいことになったわね)
 教室を出ていく蘭の背中を見送りながら、ため息は尽きることがない。
 蘭はまだ周囲を見回している。と、階段のおどり場付近で動きが止まった。
「あ」
 のっそり階段を下りるあの巨体、山内だ。
 蘭に気付くや、表情を変えて近寄っていく。チラチラ目くばせなんかして。あの山内が珍しい、蘭の機嫌を伺っている様子。
 二人は何やら話をしている。と思いきや、蘭が急にそっぽを向いて走り去ってしまった。
(やだもう、あいつらを見てると苛々する)
「もう、何でもいいから、さっさとくっつきなさいよ!」
 妹の声は、またも始業チャイムの音色に掻き消されてしまった。



 別に泊まる位いいよな、友達なんだし。五時限めの休み時間、蘭は着信履歴を眺め考える。
 滝と遊ぶことになった。来週の土曜に。その日は朝から正午までバイトだ。
 その日滝は早朝に割り当てられていて、終わったら迎えにいくから、そのままご飯でも食べに行こうよと誘われた。
 そう言われると、まあ、こっちには特に断る理由もないわけで。
『いいよ』
『じゃあ決まりだね。土曜はそのまま泊まって帰りなよ。その方が時間も気にせず遊べるし』
『え、泊まり?』
 そこまで帰りが遅くなると想定してなかっただけに、少し驚いた。
『駄目かな?』
『うーん』
『やっぱ山内に聞いてみないと無理かな』
 一応付き合ってるんだよね?
 その一言で、山内の顔が脳裏にポンと浮かんだ。
『は? 泊まり? ふざけんなよ猿!』
 えらそうに彼氏面したアイツはきっと憤慨するに違いない。
『あー、いいよ』
 ムカついてつい、軽くその場のノリで、土曜日は滝の家に泊まることになってしまった。

「別に、悪いことしてるわけじゃないし」
 そう。ただ友達の家にお泊まりするだけのことだ。何も後ろめたいことなんてない。
 何も……。
『アンタさ、もっと彼氏としての自覚を持ちなさいよ! 相手が男だから大丈夫なんて油断しすぎよ。友情だってタガが外れることあるんだから』
「うーん」
 妹の忠告は、考え過ぎだと思うわけで。
『だってアンタとハイジだって、もともとは幼馴染だったんでしょう?』
 山内を例に出すから、交友関係までシビアに考えてしまうだけだ。あれが特殊な事例なだけ。普通に考えて、男友達と恋愛に発展する自体、ありえない。
(そもそもあの滝だぜ。いかにも女子にモテそうな、爽やか系代表の)
 いつもいい匂いがするし、だれかさんみたいにすぐ怒ったりしないし、穏やかで優しい。あんな男子がクラスにいたら、女子が放っとくわけがない。
『お馬鹿! もし本当にタキくんに狙われてたらどうすんの! 部屋に上がったら逃げ場が無くなるよ?』
(だって……)
 仕事も完璧で、彼目当ての客が来店するほど好感度も抜群の滝。まさに絵に描いたような王子様。どう考えても悪い人には見えない。
 それに、自分はどうだ。仕事は失敗してばっかり。万里には『お前は進歩がなさすぎる』と毎回怒られ、あげくお客さんにまで気を遣わせてしまう始末。
「……」
(ふっ。無いな)
 完璧な店のエースが、へなちょこバイトに好意を抱いている可能性は、限りなくゼロに近い。
「うん。ないない」
 こうして仁科妹の『タキくんホモ疑惑』は、あっけなく抹消されたのであった。


 今日も授業のあとにバイト。十六時から十八時までの三時間、山内とふたりっきりでレジに並ぶ。
 昨日喧嘩してからほとんど口をきいておらず、究極に気まずい。しかも今日に限って万里は外出中。競合店舗の見回りとかで、終日店を開けているのだ。

 客の入り具合も穏やかで、普段ほどピークタイムがやってこない。フライ商品のストック準備には、まだ早すぎるし。忙しいと売り場の手直しや商品出しに店内を動き回れるんだけど。数分おきにパラパラ来店はあるが、煙草とかコーヒーの注文ばっかり。
「なあ、今日の夕飯どうする?」
 とうとう立ち読み客すらいなくなり、無言でレジに並び数分が経過したころ。山内が話しかけてきた。
「別に、なんでもいいけど」
 気まずいので、正面向いたまま素っ気ない返事。
「……じゃ、鍋で」
「は、鍋? それ以外にしろよ」
「なんでもいいってお前が言ったんだろ」
「九月に鍋はおかしいだろ」
 ぽつりぽつりと話はじめると、いつもの言い合いが勃発。ああいえばこういうノリで、気付けば何もなかったように会話していた。
「じゃ最初から言えや」
 ぽこんと頭をはたかれる。
「んだよ!」
 と久方ぶりにケツにめがけてローキック。 なぜかちょっとだけ安心する。
「ってえな」
「俺、お前のおもちゃじゃないから」
「分かってるよ」
「ぜんっぜん分かってないんだよ!」
 自動ドアが開いて、サラリーマン風の男性が店に入ってくる。罵り合う二人を見てか、男性客はすぐさま出て行った。
「分かってたら普通人がいる前であんなことしないだろ!」
「あれは……、お前が」
 昨日のキス事件を出した途端、山内はうつむき加減に言葉を濁した。
「ほら出た、また開き直り。そうやって子供の頃から俺の足引っ張ってきたもんな、ハイジくんは」
「……なんだよ、その言い方」
「事実じゃんか。お前のせいでこっちは人生最悪なんだよ。昔っから俺の大事なものばっか奪ってきたくせに。好きとかどうとか言って、結局やってることは昔と変わんねーんだよ」
 言えば言うほど、山内の額に皺が寄る。
「あんな所見せられたら……、好きなんだから仕方ねーだろ」
「仕方ないってなんなの? お前には学習しようって考えが無いんだね。すっげー迷惑」
「そういう言い方ないだろ!」
 つかみかかる勢いで山内が詰め寄ってくる。応戦して胸ぐらを掴もうとするが、勢いに押され、逆に追いやられる。
「待てよ、だから職場だってここ」
「そういう蘭は、何も感じねえのかよ!?
「何が」
「今までの事を忘れてても、俺と一週間も同棲して、こんだけ一緒にいて、何とも思わねえのかよ?」
「思うわけないじゃん。何度言わせんの、俺、お前のこと大嫌いだから!」
 山内は呆然とした顔で離れていった。やっぱり仲直り……なんて、出来そうにない。
「……だよな、ねえよな。好かれてるとか、マジでねえわ」
 それから双方黙ったきり。店内は再び居心地の悪い静寂に支配された。


「佐藤、おはよ。今日はごきげん斜め?」
 交替時間になって、シフトインした滝がレジに入ってきた。
「あ……、滝。おはよ」
 滝は二人の微妙な空気に気付いているようで、隣でレジの担当者登録をしながら「大丈夫?」と目くばせする。「あ、おう」慌ててあやふやな返事。
「佐藤、そういえば明日も出勤だよね」
「おう」
 急な欠員が出て、丁度いいからと万里に無理やりシフトを入れられたのだ。
「俺も出勤。よろしくね」
「こちらこそ」
 滝はにっこりほほ笑み、顔を寄せると耳元でささやいた。
「来週のことも、明日話そうね」
「え……」
「おい、こいつ今何つった」
 隣で一部始終を見ていた山内は、昨日以上に戦々恐々とした様子。
「別に、何もねえわ」
 実は俺、来週滝と遊ぶんだ。しかも泊まりでね!
 頭のなかで繰り返し流れていた文言が、言うべき時に出てこない。
「あるだろ。さっき耳元で何かささやかれてただろお前」
 しかし山内はしつこく食い下がる。さっき蘭が、プレミアムアイスコーヒーの注文をホットコーヒーと取り違え、客の対応に追われていたときは、知らぬ存ぜぬの済ました顔で隣にいたくせに。
「何もないよ」
「嘘つけ。お前、俺に隠し事があるだろ、ぜったい」
「だから何もないって」
「佐藤、もしかして山内にまだ……」
 蘭はなぜかわっと大声をだし、強引に山内の腕を引っ張ってカウンターを抜け出した。


 帰り道、微妙な空気のまま、スーパーで食材を買って帰る。
 ガサガサ揺れる袋の中には、牛乳と玉ねぎと人参、鶏肉。そういえばコンソメも買っていた。
 今晩のメニューは鍋からシチューに変更か。山内の左手にぶらさがる買い物袋を見ながら考える。
「蘭」
 山内がふいに手を握ってきた。蘭は反射的にそれを振り払う。
「いいだろ、人少ねえし」
 と、またすぐに握られる。さっきよりもぎゅっと強く。
「やめろって」
 今度はバシンッと手の甲をはたいて跳ねのける。
「……ほんっと可愛くねえ」
「てめーは自分の立場をもっと考えろよ」
「は? 猿」
「ハゲ!」
「ああ!?
 二人は道端で互いを睨み合う。
「ほんっとコイツ」
「マジでお前」
 ムカつくんだよ!!
 ほぼ同時、絶妙な具合で二人の声が共鳴した。


 夕飯は予想どおりホワイトシチュー。
 ホワイトソースは焦げ付いていて、味がない。野菜はぶつ切りを優に超えた大きさで、その形も芸術性に富んでいる。その上煮込み不足で超硬い。スープはビックリするほどザラザラ、なのに水のようだ。
(うん。まずい)
 この安定の低クオリティ。
 キッチンで背中を丸めて悪戦苦闘していた姿は見ているが、あれだけ時間をかけて、なぜと言いたくなる出来栄えだ。
「残すなよ」
 そういう山内も、引きつり顔で食べている。
「ねえ、なんで『シチューの素』使わなかったんだよ」
「それはお前のこだわりだろ」
「は? 別にシチューにそこまでこだわってないし。普通に食べられりゃなんでも」
「なんでもない。悪かったな、大体こんな感じで作れるかなって思ったけど、俺には無理だったわ」
 山内はそう言って、黙々と飲み込み続ける。
 白いローテーブルが真ん中に一台だけの簡素なリビングルームで、バラエティ番組の賑やかな笑い声が響く。
(空気わる……)
「ねえ、俺って料理上手だったの?」
「すげー美味かった」
「シチューも?」
 山内は少し黙って「滅茶苦茶おいしかった」と言った。
「ふーん。人って変わるもんだね。今の俺じゃ全然想像つかねーや。飯も掃除も洗濯も、全部母ちゃんまかせだったから」
「……ごめん」
 俯いたまま、山内がポツリと声を漏らす。
「責めてるわけじゃないんだけど。俺も家事できないし」
「分かってる。そうじゃなくて、ごめん」
「何がだよ?」
 尋ねど、山内は答えようとしない。
「……俺にはもったいないくらい、最高の恋人だったよ、お前」
「悪かったな、今の俺は最悪で」
 スープを皿ごと一気に掻きこむ。
「ま、これはこれでいいんじゃない。自然の味で」
「ごめん、本当に」
「いいって言ってるだろ、もう……」
 食べ終える頃には、怒りも大分納まっていた。
 一週間前まで、二人はこの部屋でどんな風に暮らしていたのだろう。この歳で働きづめて、少ないお金で苦労して。それでも日々をともに歩んでいけることに、幸せを感じていたのだろうか。
「ふうー。ごっそさん。まず……と、まあまあだった、かな」
 山内俳里という男を好きになって、幸せだったのだろうか。もしそうなら、未来の自分に申し訳ないなと思う。
 その気持ちのかけらでも残っていたら、今日のシチューだって満面の笑顔で食べれたはずだから。


(そういや、ちっちゃい頃も何かと喧嘩してたよな、俺達)
 食事が終わり、ソファにもたれてぼーっとしながら、過去に想いを馳せる。山内は食器の後かたずけが終わって、さっき隣に座った所だ。懲りずに髪の毛を触ってくる。いつもはやめろと跳ねのけるけど、今夜は面倒くさくて。そのまま触らせておいた。
「蘭、寝てるの?」
 そういう事にしておこうかと、蘭はそっと目を伏せる。
 前髪がサラサラと揺れて、男の手でも、思ったより気持ちがいい。
(悪い所だけってわけでも、ないんだよな)
 大昔、山内が同じ幼稚園のタカシくんと大喧嘩したことがあった。最終的に山内がタカシくんを叩いて、先生に怒られていた。『蘭くん、蘭くんは、ぼくが悪くないって思うよね?』と聞かれて、『ぼくも俳里くんが悪いと思う』と答えたら、泣きながら叩いてきて。蘭も訳が分からなくって泣きじゃくって帰宅した。
 そうしたら翌日、山内が母親に付き添われ、家に謝りに来た。山内の手にはポケモンのカード。蘭が一番大事にしていたレアカードで、先日幼稚園で失くしてしまったものだった。
『タカシくん、このカードがどうしても欲しいって言うから……。でも、ぼく、それ蘭くんのでしょって言ったら怒ってね……』
 話を聞くと、タカシくんはレアカードが欲しくて、こっそり盗んでしまったという。それに気づいた山内は、口論の末、頭にきて叩いてしまったらしい。
『タカシくんが、これ、ぼくに返しにきてくれたの。蘭くん、ごめんね。ぼくのこと、嫌いにならないでね。ぼく、蘭くんが大好きだかりゃ……っ』
 あの頃の泣き顔を思い出すと、今でも吹き出しそうだ。でも、自分のためにタカシくんと喧嘩をして、泣いてまで大好きだと言われたことが無償に嬉しくて。それからは前よりももっと仲良しになった。
 泣いて、笑って、喧嘩して。思えば二人の関係って、昔っから変わってないのかもしれない。
 コツン、と頭に重み。みれば、山内がこくりこくりと頭を揺らして居眠りしている。
「もう、しょうがねえな」
 寝室からタオルケットを取り出してくる。蘭はまた山内の隣に戻り、お互いに掛け合うと、今度こそゆっくりと目を閉じた。



 一日すぎてまたバイトの時間。夕方のピークがようやく去った店内は、数分前とくらべてガランとしている。デザートコーナーにOL風の女性が一人と、立ち読み客が数人。
「佐藤」
 ぼーっとしていると、滝に呼ばれた。
「ん、なに?」
「なんかボーっとしてるなと思って」
一八時の売り上げ報告レシートを出しながらニコリと笑う。
「あー、ちょっと考え事」
 今日は覚悟していた割には万里の指導時間も少なく、のんびりと時間が過ぎている。深夜アルバイトの面接中で、業務のほとんどを滝に丸投げして事務所に籠っているのだ。
「今日はおもったより平和だとおもって」
「そうだね。レジも上手になってきてるし、余裕が出たんじゃないかな。そういや煙草の銘柄、番号で把握できてたね。偉い偉い」
「へへ。滝が教えてくれたからさ」
「それは佐藤の努力のたまものだよ」
 注文を受けるたび『この番号はこれ。こっちはロングタイプもあるから、ちゃんとお客さんに聞いてね』とさりげないフォローがなければ、覚えるまでもっと時間がかかったに違いない。
「いろいろとありがとね。俺、本当滝のおかげでなんとかなってる」
「ううん。それは佐藤が毎日頑張ってるからだよ。オーナーもきっと認めてくれてるよ」
(そうかなあ)
 蘭はこれまでの日々を思いだす。本気で鬱陶しそうに「いい加減仕事覚えろやポンコツ」と暴言を吐く万里の残像が浮かんだ。



  タチヨミ版はここまでとなります。


大嫌い彼氏(中編)

2017年3月1日 発行 初版

著  者:新矢イチ
発  行:壱屋books

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新矢イチ

自己中で我儘で一筋縄でいかない、だメンズたちの不器用で不憫な恋愛模様を書くのが好きです。 ボーイズラブ作品のみと、ジャンルは限られますが、どうぞご自由お立ち寄りくださいませ。

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