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ローマ皇帝ガリエヌス一 帝国過渡期の悲劇の改革皇帝

狭山真琴



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 目 次


はじめに

第一章 家系

第二章 ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治時代

第三章 インゲヌウスとレガリアヌスの簒奪

第四章 父ウァレリアヌス時代のキリスト教政策の相違とガリエヌスの「キリスト教公認勅答令」

第五章 皇帝ウァレリアヌスのペルシャ遠征と捕囚

参考文献


はじめに



 本書で取り上げる、皇帝ガリエヌスがその父ウァレリアヌスと共同皇帝として即位した時には、既にローマ帝国は、ユーフラテス、ドナウ、ラインの実に三面戦争を余儀なくされるという、大変厳しい状態に置かれていた。彼らが生きた三世紀は、一般に「軍人皇帝時代」と呼ばれ、あるいはしばしばこの時代を表現するものとして「三世紀の危機」とも冠される、ローマ帝国史の中でも、未曾有の混乱期であった。ほぼ半世紀の間で、正統帝・副帝だけでも、その数は二十八人を数え、更にそれに簒奪者達までをも含めると、その総数は五十人は下らないという有様であった。更に次々とササン朝ペルシャや蛮族などの外敵との戦い、あるいは簒奪者達との戦いや暗殺などにより、短期間で姿を消していく皇帝達。また、これらの数々の混乱や危機が関連し、経済的危機、疫病、自然災害などの問題も発生した。

 そしておそらく、ローマ帝国史の中で、最も困難な時代の皇帝であったと思われる、ガリエヌス。初めの父ウァレリアヌスとの共統治開始からの七年後に、まず、このウァレリアヌスが外敵のペルシャの捕虜になってしまうという、ガリエヌスにとっても、そしてローマ帝国にとっても、大変な不幸に直面させられる事になる。やがてそこから、堰を切ったかのように、次々と帝国各地で乱立する、簒奪者達。更にますます激しくなる、蛮族の侵入。
そしてガリエヌスは、ウァレリアヌスのペルシャ捕囚という、このような、思わぬ不測の事態により、唯一人の単独皇帝となり、このような数多くの内乱や蛮族などの外敵の侵入に悩まされる、まさに内憂外患の広大なローマ帝国の統治という重責が、彼一人の肩に担わされるのである。しかし、依然、帝国を巡る状況は厳しく、ローマ皇帝が外敵の捕虜になる、というこれまでのローマ帝国にとって前代未聞の、不名誉かっ衝撃的な出来事が発生する。
続いて、ついにはガリアでの簒奪者ポストゥムスによる「ガリア分離帝国」の出現、そしてそれに次いで、帝国東方での簒奪者ゼノビアの「パルミラ分離帝国」の出現という、ローマ帝国はまたもや未曾有の「帝国三分割」という事態に、遭遇するのである。

 だが、このような中でも、ガリエヌスはその勇敢で精力的な戦い振りで、上記の二人以外の、各地の簒奪者達の短期間での速やかな鎮圧や、これも精力的な蛮族の撃退を行っている。
そして在位期間は平均二・三年程といった感じの、あの三世紀の軍人皇帝時代では、最長といっていい、実に十五年という長期在位年数を保つのである。
ガリエヌスの、これらの努力はもう少し、正当に評価されて然るべきだと思われる。
しかし、長期に渡り、既に四世紀の歴史家達から近・現代の研究者達に至るまで、この皇帝ガリエヌスに対する多くの評価は、極めて低く、また厳しいものであった。
特にこの三世紀の皇帝達を扱った、代表的な歴史書である『ヒストリア・アウグスタ』での、その傾向は顕著である。この中での皇帝ガリエヌスは、その人格から戦績などに至るまでの数々の恣意的な歪曲、そして蛮族の侵入・反乱、そして自然災害の、その彼の治世下での、甚だしい水増し、そして戦績の減少・黙殺などの、情報操作傾向は言うに及ばず、それこそ、彼にまつわる、ありとあらゆる事柄が、その批判へと結びつけられている。

 しかし、そうした、数々の誹謗中傷・矮小化された中にあってさえ、無視しきれない、その彼の皇帝としての強い存在感。それは私に、大変に強い印象を与えるものであった。
そしてどうしてここまで、彼に対する不当な評価が行われているのかという疑問が、大きな執筆の契機となっている。そして判明してきた事であるが、これはやはり、ガリエヌスの治世中に、結果として、帝国三分割という事態を許してしまう事となった事、そしていわば、ガリエヌスの敵対者達である、イリリア人騎兵将軍皇帝達の系譜に連なる、コンスタンティヌス朝の皇帝達及び、更にその関係者の歴史家や教会著述家達による、しばしば、そのコンスタンティヌス朝称揚と喪対になっていると思われる、ガリエヌスに対する巧みな否定的プロパガンダなどに、大きく影響されているのではないかと思われる形跡が、見え隠れする。

 だが、そのガリエヌスに関連したコインの徹底的な調査を行ない、初めに本格的な皇帝ガリエヌスの復権の必要性を強く訴えた、近代の研究者アルフェルディに始まり、主に彼の治世中に布告されたと考えられている、既に十分に外敵の防衛に能力を発揮しなくなって久しいと思われる、元老院議員達をローマ軍団の要職から外し、そして更により実力のある、騎兵改革。彼が行なったとされる、これらの重要性が見直され、徐々に再評価が進められ始めている気配を感じる
そして私自身も研究を進めていく中でも、ガリエヌスというのは、当初考えていた以上に、有能かつ多方面にわたり、その様々な帝国維持のために、努力を試みていた皇帝であった事がわかった。短期間の各反乱鎮圧の他にも、ペルシャ皇帝シャープールの、帝国内部からの侵略の意図を挫くべく、当時のローマ帝国東方属州に多かったキリスト教徒に対しての、それまでの迫害政策から寛容政策に切り替えての懐柔。マルコマンニ族の王の娘との結婚を通して結んだ、そのマルコマンニ族との同盟や、年のバルカン半島での戦いで、降伏してきた大量のゲルマン騎兵の、ローマ軍団の主力へとなっていた、騎兵軍団の補強。自分の各肖像と共に、かつてのカエサルやアウグストゥスのように、数多くのコインを、その統治のための、巧みなプロパガンダに、用いていた事。

 やはり、あれだけ、混乱した、厳しい時代の中で、ガリエヌスが異例の長期統治期間を誇り、更に同じ三世紀の皇帝アレクサンデル・セウェルス以降では、たった一人だけ「即位十周年記念祭」までをも行なう事ができたのは、けして偶然の賜物ではなく、彼の様々な必死の努力の結果だったのだと思われる。そして数々の皇帝としての真摯な努力の形跡の他にも、私が彼に惹きつけられる理由としては、ガリエヌスは時代区分としては、彼以降のイリリア人軍人皇帝達と一括りにされて、共に同じ「軍人皇帝」に分類されてしまっているが。
だが、実際には一兵卒出身で、やはり、軍人という面しか見えてこない、彼以降の皇帝達とは違い、ギリシャ哲学を始めとしたギリシャ文化の愛好、演劇・文学への関心など、より様々な面が見受けられる事である。また、おそらく、こういった点も、私にとっては、ガリエヌス以降のイリリア人皇帝達に、関心が湧きずらい原因の一つとなっていると思われるのだが。
やはりその、彼らの統治期間の短さも、多分に関係しているとは思われるが、彼らはいずれもその素性や経歴がはっきりとせず、また妻子などの家族達についても、ほとんど不明である。
だが、ガリエヌスは、やはり、その名門ローマ貴族という出自も大きいのか、両親や妻子などについて、彼らよりも、いろいろと判明している、という事も、より私がこのガリエヌスの方について、関心を抱く理由の一つである。

 そして、やはり、こういった、明らかに一軍人出身の彼ら皇帝達と元老院階級出身のウァレリアヌスやガリエヌスなどの間には、大きな違いが見受けられる。
前者は彼らが簒奪に至った理由については、彼らのイリリア地方はその地理的関係から、防衛的・戦略的に重要な地域であった事から、最も多くの軍団基地を抱えていた。
またそれゆえに、最も激しく、蛮族の侵入に悩まされていた地域でもあり、彼らイリリア人達も、切実な愛郷心のようなものに、衝き動かされての部分も、あるのではあろうが。
しかし、それと同時に、彼らの簒奪には、その大きな野心に突き動かされての部分も、大きいだろう。確かにそれは当時のローマ帝国は、内乱の頻発とペルシャや蛮族の侵入など、あらゆる困難に直面していた。だがそれでも、大帝国の巨大な権力を握り、各地のローマ軍団に対して、一斉に号令するというのは、彼らにとっては、大変な魅力でもあったのであろう。
そんな彼らに対し、アエミリアヌスと戦って、皇帝としての権力を勝ち取った、ウァレリアヌス、そしてその息子のガリエヌスを見ていると、元老院階級に属する彼らは、彼ら個人の私利私欲からによるというよりも、専ら嘆かわしい現状にある、ローマへの、その憂国の思いと切実な危機からの脱出を目指す思いという、公共的な精神による、彼らの努力といったようなものを感じるのである。

 そして私は、ガリエヌスを、まだ、そういう気概と自覚を持ち合わせていた、名門ローマ貴族出身の、最後のローマ皇帝として、位置づけたいのである。
そして彼が行なった、その治世中でのローマ軍団の、様々な再編成は、それまで蛮族などの外敵の襲撃に後れを取り勝ちになっていくローマ軍の、迅速かつ効果的な外敵の撃退に、効力を発揮するようになった。その後も、コンスタンティヌス朝の皇帝達にも受け継がれ、やはり、危機克服の土台となったのである。










第一章 家系

 プブリウス・リキニウス・イグナティウス・ガリエヌスは、二一八年に、エトルリア系のローマの名門リキニウス家の出身の元老院議員で、二三〇年代に執政官を努めた、プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスとエグナティア・マリニアナの息子として、生まれた。
しかし、この三世紀の他の多くの皇帝達の例に洩れず、彼もその小・青年期・そして帝位に就く壮年期までの人生は、ほぼ不明である。
だが、彼の母と彼の母方の祖父の系譜については、ある程度の調査をする事ができる。
それは、現存しているコインの、伝承である。「ディーバ・マリニアナ」。
更に二五三年から二五四年頃の間までに、その時期を推定できる。ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治の初期に。 彼女は、この皇帝一族と関係があったに違いない。
彼女は、ほぼ間違いなく、ウァレリアヌスの妻だった。そしてマッテイングリーは、おそらく彼女が彼の帝位継承の前に、死んだようである事を指摘している。
確かに、かなりその可能性はある。彼らの継承の前に、死んだ女性の親類を神格化する事は、ローマ帝国皇帝の習慣であった。また、彼女がガリエヌスの母であった事は、明白なようである。

 元老院の記録は、我々にアラビアの軍団にいた、エグナティウス・ウィクトル・マリニアヌスを与える、そして、おそらくまた、モエシアの高官。彼がマリニアナの父であるならば、彼女のフルネームは、エグナティア・マリニアナだった、そして、これはガリエヌスの正式な名前で、家名のエグナティウスを説明する。この識別は、現在一般に認められている。更に、マリニアヌスは、二六八年の執政官だった。ガリエヌスの統治の最後の年。この推測は、このマリニアヌスがガリエヌスの三人目の息子であったという、もっともらしいものである。

 彼の二人の年長の息子。小ウァレリアヌとサロニヌス。ガリエヌスは、エグナティア・マリニアナの息子であった。エグナティウス・ウィクトル・マリニアヌスの孫で、マリニアヌスの父。二六八年の執政官。『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、一見、ガリエヌスの長男にも用いられる呼称の「小ウァレリアヌス」と呼んではいるものの、おそらくその伝記の内容から、実際には皇帝ウァレリアヌスの、より若い息子リキニウス・ウァレリアヌスについて。
(我々は、あまりに多くのウァレリアヌスが存在してるという事を知っている。
皇帝ウァレリアヌ。そして、ガリエヌスの弟で、彼のより若い息子。小ウァレリアヌス。 そして、彼の孫。ガリエヌスの長男。このウァレリアヌスも、「小ウァレリアヌス」と呼ばれた。)
 なお、この『ヒストリア・アウグスタ』は、四世紀末にラテン語で著された、ハドリアヌスからヌメリアヌスまでの皇帝伝記集だが、数多くのゴシップ、またしばしば事実の誤りも含んだ問題の多い内容であり、そのため以前から研究者達の間でも、その信憑性を巡る議論が絶えない。つくづく、ラテン語やギリシャ語の同時代史料の欠乏や碑文などの減少などの、この時代の史料の著しい減少が惜しまれるが、このような史料状況である事から、必ずしも良質な史料とは言えない、この『ヒストリア・アウグスタ』だが、この時代のローマ皇帝ガリエヌスについて研究する上で、便宜的にしばしば利用せざるを得ない事を断っておく。

 このように、この一家には、ウァレリアヌスの次男、つまりガリエヌスには弟になる、リキニウス・ウァレリアヌスという家族が、後一人いた。
そしてその夫婦の結婚式に、ガリエヌスが祝福の詩を贈ったのは、彼だと思われる。
ガリエヌスの死の後、彼の三男マリニアヌスとこの弟のリキニウス・ウァレリアヌスが、元老院の復讐によって死んだという事が、ゾナラスの歴史書に書かれている。

 ガリエヌスの弟リキニウス・ウァレリアヌス。その同父母の兄弟。
ただ、これに対し、ガイガーは、おそらく、この弟リキニウス・ウァレリアヌスの出生年が判明していない事などから、彼らが異母兄弟だった可能性を指摘している。
つまり、エグナティア・マリニアナは、実際にはガリエヌスの弟である、リキニウス・ウァレリアヌスの生母であり、ガリエヌスにとっては、継母だったのだとする。
それで、彼女の死後に行なわれたらしいその神格化は、彼女とガリエヌスとの和解を試みるものではなかったのか?と言うのである。

 そしてその事から、継母、つまりこの弟の実母とガリエヌスとの折り合いがあまり良くなかった可能性までをも想定し、それらも関連して、あまりこの弟とは仲が良くなかったため、皇帝の弟としての、公的な立場を、彼に一切与える事がないままだったのではないのか?としている。
しかし、現時点では、これはあくまでも、ガイガー個人の推測の域に、過ぎないのではないか?という印象の方が強い。このガリエヌスの弟については、少しいろいろと想像を、膨らませ過ぎではないのか?という気もする。そしてこれと関連して『ヒストリア・アウグスタ』が「二人のウァレリアヌスの生涯」の章で取り上げている、小ウァレリアヌスについての記述内容であるが。このように、ガリエヌスの長男である小ウァレリアヌスと同じ呼称で、呼ばれてはいるものの、前述のように、どうも実際には、これはガリエヌスの父皇帝ウァレリアヌスの「大ウァレリアヌス」に対する、その息子の小ウァレリアヌス、という意味で使われているようである。
 更に、この伝記の実際の内容からすると、この著者はこの小ウァレリアヌスというのは、ガリエヌスの弟のリキニウス・ウァレリアヌスの事だとして、混同して書いているようである。
そして実際にはこのガリエヌスの弟である、リキニウス・ウァレリアヌスの事を、指していると思われる、小ウァレリアヌスが、ガリエヌスとは違う女性から生まれたと書いている事から出た、彼らは異母兄弟だったとする、ガイガーの推測なのであろうか?

 だが、数多くの虚偽・誇張・創作、そして事実誤認など、信用できない記述が、何かと目立つ事で悪名高い『ヒストリア・アウグスタ』の情報であるし、この記述も、どこまで信用できるものか、かなり疑わしさが残る。そして彼らは異母兄弟だと書いているのも、唯一この『ヒストリア・アウグスタ』だけである。更にこのリキニウス・ウァレリアヌスについてだと思われる、小ウァレリアヌスについての記述である。「容姿は優れ、節度があり、年齢のわりに立派な教養があった。性格は非常に好ましく、兄弟たちに見られた放埓さはなかった。出征中の父親[大ウァレリアヌス]が、この子を副帝とした。また、カエレスティヌスが言うところでは、兄により皇帝とされた。小ウァレリアヌスについては、彼が高貴な生まれで、最高の教育を受け、惨めな殺され方をしたということを除いて、その生涯にほかに特筆すべきことは何もない。」

 そしてこの高貴な生まれというようなものも『ヒストリア・アウグスタ』が、やたらと好んで使う表現である。代表的なものとしては、マクリアヌスの長男小マクリアヌスの母は高貴な家の出であったとするものである。ちなみに、このマクリアヌスの妻で、小マクリアヌスの母についての詳細はわからず、小マクリアヌスが高貴な出自の母を持つという記述の信憑性も、疑わしい。また、これも創作人物であると思われる、ピソについて最初に触れている、ウァレンスを扱った章でのピソについての「ピソは、大変高貴なコンスルの家系に属する人であった。」という個所。更にこれも創作人物だと思われるケンソリヌスという人物も、コンスルを二度、近衛長官を二度、更に首都長官を三度に、プロコンスルを四度、コンスル格の職務を三度。プラエトル格の総督を二度、アエディリス格の職務を四度、クアエストル格の職務を三度務め、更にその上、ペルシャの使節やサルマティアへの使節を務めた、栄光ある家系であるとされている。
このように、この著者は、やたらと元老院議員家系の創作人物を登場させるのも、好きなようである。このように『ヒストリア・アウグスタ』を読んでいると、軍人の立場から、実力でコンスタンティヌス王朝を築いた、ディオクレティアヌスやコンスタンティヌスら皇帝達を称えているかに見えて、その実、所々、一種の高貴な血統崇拝とでも言うようなものを、感じてしまう時がある。

 だが、周知の通り、初めにイリリア人皇帝のきっかけを作った、クラウディウス・ゴティクスやアウレリアヌス、プロブスらの初期のイリリア人皇帝達、そして王朝創設後のディオクレティアヌスやコンスタンティヌスらなどは、いずれも出身は、一介の軍人であり、高貴な家系とは程遠い。そんな彼らとは、全く不釣り合いのように思える『ヒストリア・アウグスタ』のこうした頻繁な表現は、実際にはけして高貴ではない、コンスタンティヌス朝の皇帝達の、一種の劣等感の反映でもあるのか、とすら思えてくる。むしろ初めから自分達にはない、そうしたものに対する、どこか憧れのようなものでもあったのであろうか?その点で言えば、既にこの三世紀には、数少なくなっていた、古いローマの名門貴族リキニウス家の血を引いているガリエヌスも、紛れもなく、高貴な生まれであるはずだが。だが、このように、かなり高貴な血統であると思われる、ガリエヌスについては、ローマ帝国三分割という事態を許してしまった、無能な皇帝として、その存在を完全に否定できたのであろうが。

 とにかく、このリキニウス・ウァレリアヌスと思われる人物についての、こうした称賛の羅列の後、続いてすかさず、この『ヒストリア・アウグスタ』では恒例のガリエヌス批判と思われる「兄弟たちにみられた放埓さはなかった。」という一行が、差し挿まれている事からも、このリキニウス・ウァレリアヌスについても、やはりガリエヌスとは、その母親が違うという理由や、ガリエヌス本人ではない事だけを理由に、専らこういう、特にその根拠もないと思われる、好意的な記述ばかりがされているように思われる。これもその息子ガリエヌスのその酷評ぶりとは大変対照的に、極めて好意的に描かれている、その父ウァレリアヌスの場合と同様に。
このガリエヌスとリキニウス・ウァレリアヌスは、母親が違うというのも、著者によって、捏造された話なのではないだろうか?また、今度は愚兄賢弟という、これも賢父愚息と並ぶ、恒例のレトリックも、あるのかもしれない。更に他にも、ここまで、このリキニウス・ウァレリアヌスについて、何とも定型的かつ抽象的な感じの称賛を、一斉に並べ立てており、いかにも真実味のない空々しさを感じてしまう。

『ヒストリア・アウグスタ』のこういう傾向についての詳細は、今後の章でも改めて触れるとするが、クリス・スカーがその著作『ローマ皇帝歴代誌』の中での、クラウディウス・ゴティクスについての『ヒストリア・アウグスタ』の記述が、暗殺計画の首謀者として、暗殺実行後、帝位に就いている人物だというのに、全体的にあまりにもほめられ過ぎの皇帝であるとして、その「クラウディウス帝自身は、性格が真面目な事で知られていた」とか「稀有の純粋さ」などとという、これらの記述の羅列からは、どこか薄くベールをかけたような賛辞ばかりで、とてもこの実際のクラウディウスについて語っているとは思えず、逆にどこか空々しさや作為性などを感じさせると指摘しているのと、同様の印象を受ける。
どうやら、この著者にとっては、ポストゥムス、クラウディウス・ゴティクス、ゼノビアなど、基本的に多くの簒奪者達は、ガリエヌスに対する簒奪者であるという、それだけで、ガリエヌスより人品などが優れた人物に、ことごとく、変換されてしまうようである。
だが、その人物についての称賛の内容が、抽象的で上っ面な印象が拭いきれないのは、この『ヒストリア・アウグスタ』での各人物についての称賛に共通の傾向である。
そしてやはり、これはそれらの称賛的記述が、事実に基づいているというよりも、レトリックの一種として、使われている部分の方が、大きいからかもしれない。

 しかし、確かに、このようにガイガーも提示している疑問として、なぜこのリキニウス・ウァレリアヌスは、現皇帝の息子であり、更に現皇帝の弟という、普通に考えれば、有力な政治的立場にあると思われる人物であるのに、史実上には全く登場せず、その登場らしい登場といえば、唯一、元老院の命令により、ローマで幼い甥マリニアヌスと共に殺害された記述だけであるのか?という、同種の疑問は、これまで、ふと私も感じた事がない訳でもないが。
そしてあのように父と兄、そして甥達が、大変な苦労をしながら、共同で帝国の分割統治に当っていた状況だというのに、あまりにも歴史上に、その姿を現わさないため、そのため、このリキニウス・ウァレリアヌスというのは、よっぽど、使い物にならないような人物だったのだろうか?と思った事もある。

 そしてガリエヌスが異母弟と思われる、リキニウス・ウァレリアヌスとの不仲から、彼に一切の公的な立場を、付与しなかったのでは?との、前述のガイガーの指摘だが。
しかし、私にはそれこそ、仲が悪い弟の手でも、ぜひ借りたいくらいくらいの、当時の帝国の状況であったのではないのだろうか?と思われるのだが。むしろ、この危機をきっかけにして、それまで不仲の兄弟の和解が否応なく促され、一致団結してもいいくらいの、そのくらいの、大変な当時の帝国の危機的状況である。そしてガリエヌスは、前代未聞の帝国の一大事を前にして、それこそ、これも、いくら不和であったからとはいえ、皇后フルウィアの父で義父であるプラウティアヌスを殺害させたり、また弟ゲタの殺害もそうだが、アレクサンドリアの大虐殺など、このように、無思慮で粗暴なカラカラのように、それほど自分個人の好悪にばかり、こだわるような人物であったのであろうか?
また、カラカラとゲタの時とでは、かなり当時のローマ帝国の置かれていた状況も、違う。
確かに、帝国を巡る状況も、いろいろと切迫の度合いを増してきてはいるものの、コンモドゥス殺害後の、帝位継承を巡る事態の混乱も、比較的早い内に、強い個性とそれなりの問題解決能力を備えた、皇帝セプティミウス・セウェルスにより治まり、まだウァレリアヌスやガリエヌスが即位した時程、絶対的な危機的状況という程では、なかったように思う。

 ガリエヌスとリキニウス・ウァレリアヌスについて、弟を憎むあまりに、ついには自らの手で殺害までしているカラカラと、実の兄にこのように、理不尽に殺された、ゲタの兄弟に重ね合わせて考えるのは、やや無理があるのではないだろうか?そして上記のようなガイガーの推測も、リキニウス・ウァレリアヌスが、皇帝の次男で、皇帝の弟という、大変有力と思われる政治的立場にいながら、一切、それこそ、その最期の時くらいしか、歴史の表舞台に登場しない不思議さについて、何とか説明できるような理由を、こうして無理にでも、何とか探し出そうとしている印象も、強いのだが。
私はやはり、これは、何とも言いようのない、謎とするしかないように思う。
だから、この問題については、ガリエヌスについては、(それこそ、いろいろな方面について詳細に、その自身の想像なども、かなり膨らませ、彼の伝記を執筆している、ブレイでさえ)あまり具体的に追求しようとしない、研究者達の方が多いのだろう。そして実際にも、ガイガー以外では、これまでこの問題については、ゴルツとハルトマンが、わずかに追求しているくらいのようである。

 しかし、彼らでさえ、ガイガーに、この問題について、放置したままにしている、と批判されている。しかし、私は研究者ではなく、作家の立場なのだから、もう少し想像力を働かせてみてもいいのでは?と思われてしまうのかもしれないが。だが、一応、私も作家としての立場で、歴史を扱っている以上、あまり、むやみに憶測を働かせ過ぎるのも、どうかという気もするのである。時にはどうしてもわからない部分は、わからない、というままにしておく方が、むしろいいのではないかと思う事もあるのである。
とはいえ、敢えてこの謎の理由について、私なりに想像を働かせてみれば、単に、このリキニウス・ウァレリアヌスが、あまり頼りにならない人物であったとか、もしくは精神的か肉体的に、あまり健康ではなかっただけなのではないのか?とも思えるのだが。
もし、彼が病弱な人物だったとしたら、やはり、自邸に引きこもって静養している事の方が多いであろうし、よけい人々の関心も引きずらく、皇帝の息子の一人で弟とはいえ、尚更何らかの記録にも残りずらいだろうと思われるし。皇帝の弟という立場でありながら、ここまで一切、歴史の表面上に、その姿が現われてこないという事は、いい事も悪い事も、できないような人物だったという事なのではないだろうか?

 そして再び、ガリエヌスの家系自体についての考察に、話は戻るが。
祖父。それは、彼らの家名を説明している。エグナティウス、またはエグナティも。
古代ローマの名門一族だった。そしてこの名前は、エトルリア起源であると、しばしば言われている。時々サムニウム起源の。確かに、サムニウム戦争の英雄は、その名前が付いていた。
そのようなもの全てが、ずいぶん昔にそうであった。そうかもしれない名前。
他の文献学的な現象にも見られる。我々が見る。北のローマ、エトルリア、ウンブリア、ピケヌム、サムニウムの東を引き延ばす傾向があった。少なくとも。
バルビエーリは、いくつかのエグナティが、エグナティウス・ マリニアヌスに、そして、それゆえに、ガリエヌスに多分関するものであったであろう点に注意する。
例えば、エグナティウス・ルキリアヌスである。ゴルディアヌス三世と父ルキリウスの下のブリタニアの軍団。そしてエグナティウス・ウィクトル・ロリアヌスは、ゴルディアヌス三世とフィリップスの下で、高い役職を占めて、二五三年のウァレリアヌスとガリエヌス。

 更にガリエヌスを、これらの地域と繋ぐ理由が、彼の別の名前としてある。
特にエトルリアで。彼は、ピエタfaleri(faleri)のような伝承で、コインから現れるあだ名「ファレリウス」を運んだ。アルフェルディは考える。それは、時々、エトルリア人の都市と考えられていて、少なくとも、準エトルリア都市である、ローマから遠くないファレリイに、こんなにも言及する。しかしゲージ。ピケヌムで、falerioのために、このケースを理解する。
サムニウムの前に言及されるピケヌム、ウンブリア。
だが、ファレリイ。アルフォルディが、エグナティウスの名前が、特にこれらの地域で頻繁である、そして、ファレリイの都市がガリエヌスと彼の家族に栄誉を与える、碑文の例外的なかなりの数があると我々に話すのを好む、強い理由があるように、思われる。
ド・ブロワは彼を復原するものを引用する。それは、ファレリイ自体である。
そして、アウレリウス・ウィクトルは、洪水のような、夥しいエトルリア関連の痕跡から来ている、彼の継承に関し、ガリエヌスに言及している。

 だが我々は最後の家名から、ほとんど更なる光を得ない。
この語がそうである、ガリエヌスの謎。kajantoとデーンは、それの何も知らない。
プロソポグラフィーの作業は、それの二つの例を挙げるだけである。皇帝と彼の息子から離れて。しかし、ユスティニアヌスの史料によると。
アレクサンデル・セウェルスは、答書をガリエヌスと呼ばれている兵士に、かつて宛てている事。(なお『ヒストリア・アウグスタ』で、アフリカで簒奪者ケルスス(これも創作人物だと思われる。)を殺したという、皇帝ガリエヌスのいとこだとされている、創作人物だと思われる、ガリエナという人物は無視する。)『ヒストリア・アウグスタ』の著者の、はっきりとした発見。
またはおそらくgalienae augustaの伝承の後でわかる。これに関し、あるコインからの、誤った控えである。)彼はユニウス・ガリエヌスである。
それはおそらく、アウレリアヌスの統治に、多分年代を示されるだろう。
そして、教会を近くに一八七四年に見つかる象牙の二連祭壇画だけからわかる、不可解なガリエヌスconcessus騎士階級の上の、そして、元老院階級の男性と呼ばれるその中のサン・アントニオ。我々は、これらの人のどちらからも、援助を得ない。ロナルド・サイムによって、外国人と非ラテン人であると言われる。

 彼も最終的に、エトルリア、ウンブリアまたはサビニとピセンに着陸する、そして、最も大きな頻度のその地域が、オスコ-ウンブリア方言の北の地帯にあるような事を示すと言っている。若干の目的のために、サイムはアエミリアヌスで、そして、終了を括弧に入れる。
例えば、アエミリアヌスがアエミリウスに由来する。そしてガリエヌスがガルスに由来するとする事が、可能だろうか?

またおそらく、ギリシャ文化に精通していた、ガリエヌスの教養から推測して、彼は青年時代にギリシャへの留学経験があると思われる。そして彼が結婚した妻の、イウリア・コルネリア・サロニナについてであるが、これまでは彼女は二五八年から二六〇年の二年間の間、執政官を務めた元老院議員の、コルネリウス・サエクラリスの血縁者だと推定され、そして更にギリシャ系の名門ローマ貴族の女性だったと、考えられてきた。
しかし、近年の、研究者ガイガーの指摘によると、上記のガリエヌスと関わりの深い地域である、ファレリイからは、このサロニナとの関わりの深さも窺え、どうも実際には彼女も夫のガリエヌスと同じく、この地域の出身だった可能性の方が、高いようである。
この彼女の実際の出自についての詳細については、三巻の第二章の、皇后サロニナについての章で述べたいと思う。ガリエヌスとこの妻サロニナとの間には、ウァレリアヌス、サロニヌス、マリニアヌスという三人の息子が生まれた。
そしてガリエヌスのギリシャの文学及び学問などへの関心は、これから詳しく述べていく事になるが、サロニナも夫とギリシャ哲学など、ギリシャの文化についての関心を共有していたようであり、彼らの夫婦仲は良かったと思われる。

 おそらく、父ウァレリアヌスが執政官であった二十四歳頃のガリエヌスは、父や皇帝ゴルディアヌス三世と共に、対ペルシャ戦やその後は皇帝フィリップスやデキウスと共に、帝国西方各属州を防衛するための、蛮族との戦いに参加していたと思われる。

 マンニは、三世紀の皇帝を、軍の活動家と軍の受動者に分け、定義している。
最初のクラスの方に分類されるのは、デキウス、アエミリアヌス、二つめはガリエヌス、ガルスとウァレリアヌス。更に彼は、ウァレリアヌスが皇帝ガルスの交替を残念に思い、アエミリアヌスの交替の方は、歓迎していた事を示唆している。
また、注目される事は、この時期の皇帝達には、いずれも共通した点と関連性が見られる。
それは彼らはいずれも、エトルリア起源の家出身であるという事である。
ガルスは、もちろん有名な家名である。当初はおそらく、ガリア出身を意味していた。
もちろん、この三世紀に。そしてガルスは、ペルージャで生まれた。エトルリア人の都市。
更に彼の息子ウォルシアヌスの名前の一つは、ウェルドムニアヌスだった。
明らかにエトルリア系の名前。そして、このウォルシアヌスとL.・ペトロニウス・タウルス・ウォルシアヌスは、きっと関係がある。ガリエヌスの信頼する親友そして片腕。一体誰か?騎士階級の起源ではあるけれども。彼は法務官の公職を占拠した後に。二六一年の執政官と二六七年-二六八年の属州総督。そして、彼ら皇帝達とエトルリアの繋がりを示すものは、これが全てではない。デキウスの妻は、ヘレニア・クプレッセニア・ エトルスキラだった、そして、彼の息子ホスティリアヌスの名前の一つは、ペルペンナだった。このデキウスの妻のエトルスキラという名は、その名前の通り、エトルリア系の血を引いている事を表わし、ペルペンナも、エトルリアの名前である。それで、サイムに一致する事は、クプレッセニアである。
ゲージがピケヌムでキュプラの町から、その語源に見るのを好むけれども、皇帝デキウスを繋いでいる、見えないネットワークについての印象を与えている。そしてまたガルス。 互いによる、そして、地域によるウァレリアヌスとガリエヌス。エトルリア、ウンブリア、ピケナム。

 なお井上文則氏が『軍人皇帝時代の研究』の「終章 イリュリア人の興亡とローマ帝国の変容」で指摘しているように『ヒストリア・アウグスタ』によると、初めデキウスがウァレリアヌスを、監察官へと推薦したなど、このように彼らウァレリアヌスまでの皇帝達は、相互に緊密な関係を持ち、それぞれ先行する皇帝達によって、抜擢されていったというように書かれている。
こうした記述も、どこまで信用できるかは不明な点もあるものの、彼らとの間の、エトルリア出身という、その共通する繋がりを、こういう形で、暗示している可能性は、あると考えられる。
確かに、ガリエヌス以降の皇帝達が、いずれもイリリア人であり、また実際に、彼らのこの共通の出身及びそれから生じるネットワークが、後の彼らの皇帝即位への、大きな原動力になった事実から考えて、エトルリア系の血を引く、これらの皇帝達にも、同様の作用が働いていた可能性は、大いにあると考えられる。『ヒストリア・アウグスタ』の後の歴史家達も、後のイリリア人皇帝続出・外敵撃退への大きな原動力へと繋がっていく、彼らがいずれも同郷であるという点に、端を発する、彼らの緊密な関係以外にも、彼らの前の、この皇帝達の間にも、何らかの共通点を感じたのかもしれない。

第二章 ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治時代

 息子のガリエヌス同様、皇帝即位までの、このウァレリアヌスの経歴の詳細は不明だが、ゾシモスの『新ローマ史』や『ヒストリア・アウグスタ』の「三人のゴルディアヌスの生涯」によると、皇帝ゴルディアヌス三世の治世下では、彼は執政官になった元老院議員だったようである。
そして更にゾナラスの『歴史要略』によると、皇帝デキウスの治世下では、内政上の要職に就いていたようである。更にウァレリアヌスについては、井上文則氏も『軍人皇帝時代の研究』の「第一章 ガリエヌス勅令」をめぐって」・「第四章 パルミラの支配者オダエナトゥスの経歴」や「終章 イリリュア人の興亡とローマ帝国の変容」などの中で、ウァレリアヌスのその、常に政局の中心にあった人物ゆえの、当時の帝国の危機的状況に対する、切実な問題意識と憂慮。そしてひいてはそれが、当時、ササン朝ペルシャや数多くの蛮族達などの外敵の、相次ぐ侵入に悩まされていた、広大なローマ帝国を、たった一人の皇帝により、防衛する事の困難と限界をウァレリアヌスに悟らせた。

 更に続いてその事が、リキニウス王朝と言える、自分達一族の者を次々と共同皇帝に任命し、それぞれ、帝国西方の各属州の防衛に当たらせる、という、ウァレリアヌスによる、後のテトラルキアの創出へと繋がっていったという趣旨の指摘をしている。
この防衛負担の分担と同時に、こうする事でこれもペルシャや蛮族達の侵入と同時に、これもローマが度々悩まされていた、相次ぐ簒奪者達の出現をも防止する事を図った、テトラルキア。
このように、改めて当時のローマ帝国の元老院議員としての、ウァレリアヌスのその存在の重要性を指摘している。おそらく、ローマの名門元老院家系出身であると共に、実力をも兼ね備えた、元老院議員でもあったのであろう。

 また、既に第一章でも触れているように、『ヒストリア・アウグスタ』によると、初めデキウスがウァレリアヌスを、監察官へと推薦したとあり、このようにデキウスからウァレリアヌスまでの皇帝達は、相互に緊密な関係を持ち、それぞれ先行する皇帝達によって、抜擢されていったという記述が見られる。ウァレリアヌスが、例えば皇帝デキウスの治世下で要職に就く事になったのも、もちろん、ウァレリアヌス個人の有能さも大きいとは思われるが、やはり、彼らのその出身起源が同じエトルリアである事も、間接的に関係していたのかもしれない。

 二五一年にローマでは、皇帝デキウスが、属州モエシアのドナウ川下流に位置する、アブリットスのゴート族との戦いで、長男のヘレンニウス・エトルスクスと共に、戦死していた。
彼は外敵との戦いで死んだ、最初のローマ皇帝となってしまったのである。
こうしてデキウスとこれも帝位継承者になるはずだった息子も戦死という事態を受けて、すぐさま新皇帝として、トレボニアヌ・ガルスが選ばれた。

 そして彼は、デキウスの遺児のホスティリアヌスを養子とし、共同皇帝としている。
ガルスは元老院議員や執政官を務め、二五〇年からは上モエシア総督として、更にデキウスのドナウ川でのゴート族との戦いでは、指導的な立場にあった。
そしてこれは既に触れているように、このデキウス、ガルス、ウァレリアヌスはいずれも元老院議員であり、更にいずれもエトルリアに、その家の起源を持つという共通点もあり、地理的な繋がりもあった。そしてウァレリアヌスは皇帝のデキウスの下では、内政上の要職を務めていたという。おそらく、彼ら三人は、個人的にも、親しい関係であったと考えられる。

 まず、ガルスはデキウスの死後に、ゴート族と講和を結び、奪われた戦利品とローマ人捕虜はそのままゴート族が所有する事を認め、毎年、年金を払う事にも同意した。
二五二年には、ペルシャ王シャープール一世が、帝国東方諸属州へ、新たな侵略を開始した。
そしてバルバリッソス、アンティオキアと、ローマ帝国の属州シリア全土を侵略した。
その翌年には、シリアの大都市アンティオキアが、ペルシャに征服された。

 そもそも、二二四年に即位し、その二年後には、パルティア王国を滅ぼしている、ペルシャ皇帝アルダシール一世に始まる、この新生ペルシャ帝国、ササン朝ペルシャは、アケメネス朝の再興と旧領土の回復を目標に掲げ、積極的なローマ帝国への侵攻を繰り返すようになった。
そして、過去にローマ帝国とは、しばしば抗争を繰り返していたとはいえ、その一方では、他の東方の国々に対する、ローマ帝国との間の緩衝地帯のような役割も果たしていた、パルティア王国が滅ぼされた事により、ローマ帝国はこのササン朝ペルシャに対して、警戒心を強めていた。

 既にローマ皇帝アレクサンデル・セウェルスの時代から、このペルシャ皇帝アルダシール率いるペルシャ軍は、二三〇年にはローマ帝国の東方属州に攻め入り、ニシビスとカッラエを征服した。その時のローマ軍は、何とか勝利はしたものの、皇帝ゴルディアヌス三世の時の、二四一年には、今度はアルダシールの息子のシャープール一世のペルシャ軍が、再びローマ帝国の東方属州に侵攻し、二四四年のクテシフォンでの戦いでは、ローマ軍は敗北し、ゴルディアヌス三世は戦死している。更に皇帝フィリップス・アラブスには、屈辱的な条件での講和を結ばせている。
やがてついには、二六〇年のシャープール一世による、皇帝ウァレリアヌスの捕囚、という事態にまで至る事になるのである。そしてシャープール一世の死後の、帝位継承争いにより、弱体化していくまで、このように、ササン朝ペルシャは、度々、ローマ帝国を悩ませる事となる。

 更にドナウ川下流ではゴート族がガルスとの協定を破り、再びローマ領の略奪を開始した。
これに対して、皇帝ガルスが十分な対応ができないでいる中、上モエシア総督のアエミリウス・アエミリアヌスが、ゴート族を撃退した。そしてこの彼の功績によって、彼の軍団から、彼は皇帝として認められた。このような帝位の簒奪は、もはやこの三世紀には日常茶飯事となっていた。この簒奪の報せを受けた、ガルスと息子のウォルシアヌスは、やがてアエミリアス軍がイタリアに侵攻してくる事を予想し、急遽自軍を集結しようとし、ウァレリアヌスにも、直ちにラエティアとノリクム方面の軍隊を率いて、ローマに連れてくるように命令を出した。
そしておそらくウァレリアヌスは、二五三年の八月から、蛮族からのローマ領内防衛のために、ラエティアに駐屯していた。ドナウ川上流とライン川の流域に。

 だが、アエミリアヌス軍の侵攻は素早く、ガルス親子がローマから北五〇マイルのインテルムナに達した時、彼らはアエミリアヌス軍に倒された。
そしてガルスからの命令を受けたウァレリアヌスは、ローマを目指して、南へと向かっていたが、結局彼が到着する前に、このように、ガルスはアエミリアヌス軍に殺されてしまった。
皇帝ガルスの死の報せを聞いた、ウァレリアヌス軍の兵士達は、自分達の司令官のウァレリアヌスを皇帝と宣言して、ローマの方へ彼らの行進を続けた。

 そしてこの時のウァレリアヌスの心の中には、ガルスの救援に間に合わなかった無念さの他にも、新たな使命感が生まれていたのではないだろうか?
ほとんど絶え間なく、ローマ領土内に繰り返される、外敵の侵入、そして往々にしてそれらに呼応しての、簒奪の連続。更にその事により、より深まる、帝国内の混乱という、この果てしない悪循環を終わらせるのは、自らしかいない、そして、危機的状況に陥っている、ローマ帝国の平和の回復こそが、自分に課せられた役目であると。
そしてそれが、こうした自軍の兵士達の期待を受けての、アエミリアヌスと戦って、帝位を勝ち取るという決意へと、繋がったのではないだろうか。
なお、ウァレリアヌスはこの頃、アエミリアヌスとの戦いに備えて、自軍の増強のために、ヌミディアの第三アウグスタ軍団も、呼び寄せていたようである。

 そこで九月に、ウァレリアヌス軍とアエミリアヌス軍の戦いが開始される前に、アエミリアヌスはスポレートの近くで、自軍の兵士達に殺された。
そしてその間、おそらく、一時、ガリエヌスは、避難していなければならなかった。
アエミリウス・アエミリアヌスから、そして彼のイタリアの支持者達から逃れる事。
この時、ガリエヌスは、たぶん、一時、彼の母親エグナティア・マリニアナの故郷へと行っていた。エグナティ。ローマのテヴェレ川左岸の、ファレリイ・ノーヴィの北の領域に。
やがてその後に、ガリエヌスは、父ウァレリアヌスとの軍隊との合流を果たしたと考えられる。

 二五三年の十月二十二日に、ガリエヌスは父親のウァレリアヌスのローマ皇帝即位に従い、十月二十二日に、三十九歳で皇位資格者の「カエサル」、そしてウァレリアヌスの共同皇帝として任命される。またこれにより、妻のサロニナにも「アウグスタ」の称号が与えられた。
更にこの年に彼女は続いて、これまでこの称号を与えられているのは、皇帝マルクス・アウレリウスの妻の皇后ファウスティナだけである、「野営地の母」という称号も、与えられている。
このウァレリアヌスの皇帝即位に対し、直ちに元老院からの、承認が出された。
おそらく、特に当時の政治情勢の不安定さから。
二五三年のエジプトのパピルスの中の、九月二十八日と十月二十七日の間で初めて、ウァレリウヌスとガリエヌスの名前が現われてくる。だが残念ながら、この彼らの共同統治時代については、四世紀の各歴史書には、ほとんど何の記述も残されてはいない。
とりあえずわかる事は、当時の帝国の東西の属州の緊迫した情勢から、彼ら共同皇帝が皇帝即位就任早々に、それぞれ、帝国東方と帝国西方の各属州の防衛線を目指して、外敵のペルシャや蛮族達の襲撃から、各地域を防衛する戦いに、出発したという事くらいである。
そしてその内に開始されるようになった、二度布告された、ウァレリアヌスのキリスト教迫害政策が、わずかに判明しているのみである。

 ウァレリアヌスは、ペルシャ遠征のために、ライン川とドナウ川から、分遣隊を連れていった。二五四年にローマを発ち、蛮族やペルシャ軍の脅威に晒されていた、小アジアとローマ帝国東方属州とペルシャとの国境地帯へと向かう、ウァレリアヌス。そしてドナウ川のイリリア方面ヘの、ガリエヌス。ガリエヌスは、属州上モエシアにあるウィミナキウムを、ドナウ川境界の防衛の本拠地に設定した。

 だが、初めは皇帝ガルスの救援に向かうため、そして続いては、アエミリアヌスと戦うために、ラエティアとノリクム方面の防衛を担当していた、ウァレリアヌスは、これらドナウ川方面の防衛に当たっていた軍団を、いくつか連れて行ったため、こちら方面での防衛が手薄となり、この二五三年または二五四年の時期に、ドナウ川の地方で、彼らにその略奪を行う機会を与えた。そして実際に、この絶好の機会に、すかさずマルコマンニ族は、ローマ帝国の領土内で略奪をした。その他、おそらくゴート族。そして彼らはテッサロニケの前面へと、やって来た。
そして古代の文献史料は、この出来事について、非常にわずかな報告をする。
皮肉な事に、この時期のための、最も完全な史料として。ゾシモス。ドナウ川で、ゴート族は同時にゾシモスの説明の後に来る。
「ボランニ族。イリリアとイタリアへの、カーペン族やブルグント族。複数。
ドナウ川の、彼らの住処に沿って。熱心に、イタリアの一部やイリリアの各地を探し回り、その彼らの惨禍と荒廃をもたらした。抵抗にも、遭遇せず。
そして彼らが向かった所。ボランニ族は、ボスフォラス海峡の住民に対してさえ、略奪を行おうとさえ試みた。」

 

 だがアウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスも、ドナウ川でのガリエヌスの最初の防衛活動について、何も知らせないまま、ガリエヌスの単独統治開始の時期となった、二六〇年のインゲヌウスの皇帝宣言の時にだけ、ドナウ川での彼についての報告をしている。
しかし、コインは、それらに対して語る。これは明らかに、その事を示唆している。
それは最初から、ドナウ川方面のコイン鋳造所から発行された、ローマ帝国のコインだった。
ライン川でではなく。「VICTORIA GERMANICA ゲルマニアへの勝利」と「VICTORIAE AVGG ITERUM GERMANICAE 再びのゲルマニアへの勝利」(その捕虜を含む)の伝承による、いくつかのコイン。ドナウ川沿いでの、彼の勝利を示している。

 そしてそれに新たに、東方から一時帰還した、父ウァレリアヌスの勝利も、加わっていく事になる。ここで、おそらくウァレリアヌスは、帝国東部へ彼の方法で関与していた。
ギリシャ全土だけではなく。しかし、また、ドナウ地方での要塞強化のための処置。
また、ドナウ川地域におけるガリエヌスによる帝国の存在は、ドナウ方面から、黒海への蛮族達の海洋活動に関する、移動の理由であった可能性がある。
つまり、このドナウ川防衛線での、ガリエヌスの数々の、精力的な蛮族撃退の効果という事だろう。他方、また、これらの蛮族の一部は、ローマ帝国内の他の西方属州で、まだ略奪を行っていた。特に彼らのその活動範囲が、ウァレリアヌスのために、ドナウ軍団の部隊の分遣隊によって、減らされた時から。そしてローマとマルコマンニ族との同盟が、その時既に起こったかどうかに、関わらず。

 しかし、よりおそらく、これは260/1年頃の事だと思われる。そのドナウ川で発生した事は、ガリエヌスに接近する。ローマのコイン鋳造局。
255/7年にウィミナキウムで鋳造された、勝利のコイン:ガリエヌスの「GERMANICVS MAXIMUS ゲルマニアを征した偉大なる者(戦勝記念碑と捕虜)」と「VICTORIA GERMANICA ゲルマニアへの勝利」。そしてウァレリアヌスの「VICTORIA・PARTICA パルティカ軍団の勝利」のために。VICTORIA AVGG 皇帝の勝利(ウィクトリアと勝利の冠、そしてひざまずく捕虜)。「PAX AVGG 皇帝による平和」と「SALVS AVGG 皇帝による健康と安全」。
そしてローマで、ガリエヌスのゲルマン人への勝利が、再び言及される。
「VICTORIA AVGG ITERUM GERMANICA 皇帝による再びの勝利 」。
更に三度目のゲルマン人への勝利。「GERMANICVS MAXIMUS TERTIUS三度ゲルマニアを征した偉大なる者」(同様の戦勝記念碑)。 従って254/6年に、ドナウ川で達成される、ガリエヌスの勝利が、起こった。おそらく、マルコマンニ族に対して。更にクワディ族またはサルマティア族に対して。

 しかし、彼らは名前を挙げられない。おそらく、それらの蛮族の名前が、非指定のいくつかの碑文の中で、カーペン族またはlazygenまたはロクソラニ族に対して、その成功した活動が示される。ダキアからの碑文。そしてその証言によると、当時、第五マケドニア軍団により行われていた工事を、中断しなければならなかった。その戦いに、参加するために。
二五五年にその第二、または第三度目の、ウァレリアヌスとガリエヌスの、通常の執政官職就任が行われた。そして二五六年から二五七年までには、ドナウの境界の危機的状況が改善されていた。

 こうして二五六年の秋に、ペルシャからヨーロッパへと戻ったウァレリアヌス。
彼はその時に軍隊を連れてきた。また、この帝国東方からの、その年の秋の皇帝ウァレリアヌスの、新たな復帰の後、それらの分遣隊は、そのまま二五七年まで、ライン川に留まった。
おそらく、こうした再び両方揃った皇帝達は、二五七年の初めに、ローマで執政官職に就任した。そして新たにウァレリアヌスが、一度目のキリスト教迫害政策の勅令について発表した。
おそらく、二五六年の九月に。更にガリエヌスの長男の小ウァレリアヌスは、皇帝ウァレリアヌスに、新たにカエサルとして、指名された。
なおこのギリシャ語著者による『無名氏ディオの継承者』では、当時モエシアあるいはパンノニア総督で後にドナウ方面で簒奪をする、インゲヌウスが、近衛長官シルウァヌスのように、皇帝ガリエヌスから信頼されて、彼直々にこの小ウァレリアヌスの後見を、任されていたかのように書かれている。だが、この史料によると、必ずしも皇后サロニナの方は、彼の事を信頼してはいなかったという。
「インゲヌウスの顔は、皇帝ガリエヌスの妻を、不快にした。そして、彼女がウァレンティヌスに命令して、呼び出した後。彼女は、彼に言った。
「私は、あなたの心を知っています。私は皇帝とは反対である、あなたの意見を認めます。
しかし、私はインゲヌウスに関する、彼の意見は承認しません。
私にとっては、彼が非常に疑わしいので。しかし、私は皇帝に反して、行動することができません。しかし、あなたはその男性を、観察しています。」

 ちなみにこう言われたウァレンティヌスの方は、皇后への忠誠を誓ったという。
このように、この史料によると、皇后サロニナは、このウァレンティヌスという人物に対し、自分は息子の小ウァレリアヌスの後見役のインゲヌウスに対して、不信感を抱いていると告げている。そしてこのウァレンティヌスというのは、ゾシモスによると、当時のローマ軍団の代表的な騎兵軍団の一つであった、バタウィ族のリーダーかと思われる人物である。

 なおこの頃に、モエシアの属州全体に対する、ウァレリアヌスにより出された、特別な命令として、上パンノニアでの交通基盤の整備の碑文が残されている。
皇帝ウァレリアヌスが、蛮族の侵入により、破壊されたと思われる、橋や道の修復を行わせたという内容である。おそらく、この地方のこれらの橋や道の破壊は、この頃の、マルコマンニ族の略奪によるものだと思われる。

 それは当時のドナウ川の地域の、周囲の情勢を証明している。
そしてその明確な時期は確定できないとはいえ、(おそらく最も可能性の高い、二六一年)おそらく、この時期から、ガリエヌスは、なるべく兵力の消耗を避けたい事もあり、マルコマンニ族とは、戦って講和を結ぶのではなく、平和的な形での条件での、講和を検討していたと思われる。それが最終的には、二六一年頃の、マルコマンニ族の王アッタロスの娘ピパとの結婚による、マルコマンニ族との同盟締結及び、パンノニアの一部を割譲し、そこにマルコマンニ族を定住させる事。そしてその代わりに、マルコマンニ族は、ローマに兵力提供を行なうという事になる。

 二五七年の八月に、コローニャ・アグリッピネンシスの、二人のアウグストゥス。
おそらく、彼らは既に二五六年の秋から、そこにいた。その年までの、この属州への蛮族侵入による、ローマ帰還への妨害により。都市は、名誉職のタイトルとして、ウァレリアヌスとガリエヌスを得た。これは、それを示している。ここでそのウァレリアヌスは現在、ひとまず帝国の東部国境を沈静化させた後、ここ帝国中央での様子を見た。再びライン川国境上の、緊迫した状況を示す。特に、その前年から、このライン川の防衛線を守るライン川の分遣隊が、ウァレリアヌスのペルシャ遠征とドナウ川防衛のために割かれたため、ライン川の防衛が困難になっていたため。しかし、その秋には、またもや帝国東方の情勢が悪化したという、悪い報せに基づき、再びウァレリアヌスを、帝国東方のユーフラテス川の国境へと立ち去らせる。
二五八年五月に、ウァレリアヌスが、再びアンティオキアにいた事が示されている。
そしてそのウァレリアヌスの、こんなにも早まった出発を、計画させた出来事をも、意味している。

 ガリエヌスは、二五七年から、ライン川境界の防衛に専念した。
彼はコローニャ・アグリッピネンシスとウィミナキウムで彼のコインを発行した。
そして、フランク族とアラマンニ族と戦わなければならなかった。
その時の首都としての、コローニャ・アグリッピネンシスの選定は、その事を示している。
そしてアラマンニ族からの、より多くのその危険は、フランク族から明らかに始まった。
また、ゾナラスが語っている事。そして『ヒストリア・アウグスタ』が即位十周年記念祭で触れている、フランク族への勝利。このように、本来なら、ブリタニアに常駐しているはずの「第二〇ウィクトリア・ウァレリア軍団」の分遣隊までが、こちらのライン川方面に派遣されているという事は、この二五五年の間に、ライン川での危険が、急激に上昇していた事を表している。

 とはいえ、このように、ウァレリアヌスの東方遠征に従い、ライン川防衛のためのいくつかの軍団が同行していたための、当時のライン川防衛線での兵力不足にも関わらず、ガリエヌスはこうして、ブリタニア駐屯のローマ軍にも救援を要請しつつ、そして勝利している。
そしてそれは、フランク族に対する、ガリエヌスの迅速な勝利から来ているようである。
最初のケルンから発行された、コインの銘文である。

 更に彼の新たな本営地からの「RESTITVTOR GALLIARVM ガリエヌスによる回復」・「GERMANICVS MAX V 五回ゲルマニアを征した者」、または「VICTORIA GERMANICA ゲルマニアへの勝利」というコインの発行。ゾシモスは、以下の報告をする。
「ガリエヌスは見た。ゲルマン人が、激しくラインやケルトの住民を脅していた。
そのため、彼はその敵に、その身を晒し、それらの蛮族と戦うために移動した。
彼らはイタリアとイリリアとギリシャの領土を、略奪する事を意図していた。
一緒に地元の軍隊と司令官達。彼は移動しながら、ライン川で、部分的に敵の侵入を阻止し、個人的によく守った。しかしガリエヌスは、上記の膨大な数に対する、小さな力で対処しなければならなかった。彼は己が困難な立場にある事を発見し、その正しい発見をした。
危険の一部を、それによって減らす事。ゲルマン住民の王族と彼の合意で締結する。
そして、これは実際には、他の蛮族の侵入を防止した。ライン川の上を、何度も何度も彼らが移動する事を。」

 ゾシモスによると、ガリエヌスはその条約を締結した。
多分彼がインゲヌウスとの戦いのためにいたドナウ地方から、または続いての、二六〇年のアラマンニ族との戦いのため、今度はイタリアへと向かう前に。フランク族の王との間で結ばれた平和条約。この事は、ローマ側に若干の安心感をもたらした。
そしておそらく、その条件は、マルコマンニ族と締結した条約に類似していたと思われ、この中には、ライン川方面への侵入をしないための条件が含まれた。そしてこの出来事は、ポストゥムスの簒奪の前に、起こった事だろう。

 だがこの処置は、ライン川では効果的に働かなかった。フランク族の王は、ライン川の通過を、保護する事ができなかった。上ゲルマニアの防衛線は、ポストゥムスの簒奪によって断念された。こうしてガリエヌスは、ゲルマン人に対する、ローマの属州との間の緩衝地帯を作る事を考えていたのだった。専ら略奪を行なうのみであり、これら地域の所有に対しては、彼らゲルマン人が、ほとんど関心を持っていなかったため。
実際に、それら属州の土地の所有は、その時間までに、そのゲルマン人達を通して、起こらなかった。 属州ラエティアの防衛線での、多分、ローマ帝国の住民の目立った減少が、ゲルマン人の略奪のため、二五四年に既に起こっていただろう。
そして、それは明らかに多分実際に、そのウァレリアヌスの捕囚が引き金になって、二六四年になってから、アルプス山脈から略奪をしないという、ゲルマン人とローマとの平和条約が破棄される事になったと考えられる。再びアルプス山脈を、略奪のために横断する事。
しかし、その内にゲルマン人達は、これらの土地を征服する事への関心を示さなくなった。
これらの盗賊グループの制限された数は、これを示している。彼らだけが、迅速な戦利品を持っていた。

 二五六年のドナウ川からのガリエヌスの撤退後の期間に、スキュティア人が、黒海の西海岸や北海岸から来た。おそらくゴート族。彼らは略奪した。ゾシモスが報告しているように。黒海の西海岸からビザンティウムへまで。更にマルマラ海沿岸にあるカルケドン。ビテュニアや、エーゲ海の東海岸の他の都市。二五八年の前半に、ガリエヌスの長男の小ウァレリアヌスが、ドナウ地方で死去した。そして新たに次男のサロニヌスが、カエサルとされた。
しかし、新たな共同統治者のサロニヌスは、ライン川に父親のガリエヌスと同行し、ドナウ川方面には、派遣されなかった。

 ガリエヌスは、おそらく二六〇年の夏に、ライン川境界を、多数の軍隊に預けなければならなかった。その原因は、新たに発生した、インゲヌウスの簒奪の開始、またペルシャによる、ウァレリアヌスの決定的な捕囚の後の、属州イリリクムのフランク族。ガリアの後で、更に略奪を行なうために、ライン川を横断する事。

第三章 インゲヌウスとレガリアヌスの簒奪

 明らかに、その時ガリエヌスは、ガリアにいた。インゲヌウスの反乱までの間。
そしておそらくそのインゲヌウスの簒奪が起きたのは、皇帝ウァレリアヌスの捕囚の後。
二六〇年の夏。そこが問題となっている。その小ウァレリアヌスが死去した年が、二五八年だとする『ヒストリア・アウグスタ』。だが、この小ウァレリアヌスが死去した年については、珍しくこのように明確に書かれているからこそ、逆にその信憑性に対して、不審感を抱かせる役割を果たしている。そしてそれは、インゲヌウスの簒奪を通しての、小ウァレリアヌスの死として、結論付ける事もできる。『無名氏ディオの継承者』のエピソードから連想できそうな。
皇后サロニナの、長男の小ウァレリアヌスの後見役である、インゲヌウスへの不信感の表現。
こうした記述からも、そのような解釈を、証明する事ができそうである。
だが、この逸話自体の信憑性には、疑問の余地がある。そしてインゲヌウスにより、小ウァレリアヌスが殺害されたという記録もない以上、やはり、小ウァレリアヌスは、自然死の可能性の方が、高いだろう。更にこうして弟のサロニヌスが新たにカエサルとなった頃には、少なくとも、もう既に兄の小ウァレリアヌスは、死去していたという事だと思われる。この兄の早世に伴っての、弟サロニヌスのカエサル昇格だという事だろう。また、反乱者による、皇帝の長男の殺害となれば、こちらは歴史書にも記されている、コローニャ・アグリッピネンシスでの、ポストゥムスによる次男サロニヌスの殺害同様の、大事件であるので、歴史書に記録される可能性は高くなると考えられるし。

 そしてガリエヌスは、ドナウ方面でのインゲヌウスの簒奪発生後、直ちにライン川からドナウ川に駆けつけながら、この時に、ガリエヌスによって、ライン川の境界の防衛線は、おそらく、再構築されただろう。やがてヴィンディッシュ/上ゲルマニアの、軍団基地が補強された。
この地域の防衛の弱体化を、補うために適切な。また更に新たに、メディオラヌムでは、ローマ帝国のコイン鋳造局が創設された。おそらく改めて、ローマ皇帝の権威と支配力を、この地域で示すために。

 当時のインゲヌウスは、属州モエシアまたはパンノニアの総督として、多分在職していたのだろう。そして皇帝の息子の小ウァレリアヌスの死後は、それらの属州の軍団の総司令官。
ゾナラスと『ヒストリア・アウグスタ』の両方が、モエシア軍団について語る。
モエシア軍団が、インゲヌウスを皇帝として承認、そしてパンノニア軍団がそれに続いた。
それから、更にドナウ川下流の複数の軍団が、インゲヌウスの支配下にあった可能性がある。
このように、属州パンノニアと属州モエシアの諸軍団での、インゲヌウスの皇帝擁立となったのは、特にクワディ族の攻撃に対する彼の撃退と、ウァレリアヌスの捕囚によると思われる。サルマティア族。問題のロクソラニ族またはマルコマンニ族。また、インゲヌウスのローマ帝国への不信があったせいだろう。

 インゲヌウスと戦うために、ライン川からドナウ川に移動中、当時のガリエヌスは、ゲルマニアの分遣隊と共に来ていた。そしてイタリア。アフリカ及びブリタニア軍団。
更におそらく、第三アウグスタ軍団(上ゲルマニア)全体。
第二イタリカ軍団(ノリクム)と第三イタリカ軍団(ラエティア)が従っていた事が予想される。そして属州パンノニアの都市ポエトウィオ(Flavianus Aper)とシルミウム、またはマケドニアのリクニドゥスなどに配置されていた分遣隊は、当時のガリエヌスのローマ軍の、潜在的中心だった可能性がある。いずれも、帝国内の防衛の要衝である。
そしてインゲヌウスは、十分な数のコインの発行までは、できなかったようである。
彼は、そのために常に利用可能な、コイン鋳造所を持ってはいなかった。
このインゲヌウスとの戦いの時、ガリエヌスは騎兵隊を率いていった。
その間には、マウリ騎兵部隊も含む。アウレオルスはこの時の騎兵軍団の最高司令官として、インゲヌウスを倒すのに成功した。ムルサで。ゾナラスによると、シルミウムの近くで。おそらく、これらの二つの場所の間で。

 そしてガリエヌス軍は、勝利した。インゲヌウスは生き残った軍隊と共に逃げて、その後すぐに彼の配下に殺された。生き残ったインゲヌウスの軍団は、レガリアヌスの許へと逃げた。
このプブリウス・コルネリウス・レガリアヌスは、おそらく、上パンノニア総督を務めた。
彼の妻のスルピキア・ドゥリアンティラは、元老院議員家系の娘だった。
だがM. Jehneが疑う。レガリアヌスは既にこの時点で、敗北を喫していたとして。
そしてカルヌントゥム周辺が、彼の最後の避難所だったと想定される。
カルンヌトゥムの、第十四ジェミナ軍団以外にも、レガリアヌスの皇帝宣言に対する支持があった。インゲヌウスの敗残兵達によって。おそらく、サルマティア族やロクソラニ族からの、属州の境界防衛振りが支持を受けて。だが、僭称皇帝としての、彼の治世の期間はインゲヌウスとして同様に、短期間のものに終わった。

 ガリエヌスの軍隊に対する敗北は、すぐに起こった。カルンヌトゥムの近くで。
ダキア・第十三ガリエニアナ・ジェミナ軍団。その後、レガリアヌスはメディアムに移動した。
また、シルミウムというのは、虚偽の可能性が高い。レガリアヌスのその、決定的な敗北の場所として。そして明らかに、レガリアヌスは、ガリエヌスへの彼その敗北の後、インゲヌウスのように、自軍の配下によって殺された。そして二六〇年の末までには、その戦いは全て終了した。
レガリアヌスが倒された後、ドナウ方面の情勢は、驚くほど速く、再び沈静化した。
そしてガリエヌスは、次の年の彼の支配を、ドナウ境界に集中させた。
彼には、それを通して、それらのための、重要な軍隊が不足していた。ローマ帝国西方のガリア一帯で、勝ち誇るポストゥムスに対して、そしてローマ帝国東方属州国境を脅かす、ペルシャ軍に対しての。

 二六〇年の夏の、ペルシャ軍による、ウァレリアヌスの捕囚の報せは、モエシア軍団とパンノニア軍団の一部の、インゲヌウスへの支持を決定した。インゲヌウス。
属州モエシア地方の総督。その彼の皇帝宣言。おそらく緊張している、ドナウ外部の状況により、彼のこの行動に集まった支持。しかし、ガリエヌスは、上級騎兵達と一緒の軍隊と共に、ライン川地方から、ここに驚くほど速く駆けつけ、この二六〇年の秋に、インゲヌウスを破った。
そしてインゲヌウスは、ガリエヌス軍のアウレオルスに敗れ、敗走させられた後、自軍の兵士によって殺された。そして次なる簒奪者の、レガリアヌス。上パンノニア総督。
また、インゲヌウスに続いての、こうしたレガリアヌスの声望の高まりは、当時のドナウ川境界での危機的状況と関係していた。だが、レガリアヌスも、彼の皇帝僭称後に、迅速に駆けつけた、ガリエヌス軍に敗れた。おそらく、わずか数週間の皇帝僭称だった。

 そしてガリエヌスは、この勝利の後にも、続いては、これらの問題を重大に考慮しなければならなかった。二六一年の北イタリア方面への、アラマンニ族とユトゥンギ族の侵入に対して。
おそらく、ライン川の方向からの、二六〇年のガリエヌスと分遣隊の出発の後。
インゲヌウスと戦うために、適切な。その間の、アラマンニ族とユトゥンギ族の、ガリア南部とイタリアへの、より大きい略奪の時期の、より弱められた、その方面のローマ軍の防衛。

 そして数人の年代記関係者は、その時の状況について報告する。
アウレリウス・ウィクトルは、この後に続く出来事についての、その時間を言う。
いくつかの文学ソースで報告状況について。アウレリウス・ウィクトルは、その時の出来事について、こう語る。「このように予想以上に、それは上手くいった。そしてれは彼が与えた。彼の息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス。ゴート族により。妨害されないトラキア。マケドニア。アカイアと小アジアの隣接した地域。
しかしパルティアは、メソポタミアを侵略した。そして東方での簒奪や、女による支配が行われていた。アラマンニ族の軍隊。イタリアでのフランク族。彼らがガリアを荒廃させた後。スペインを占領した。そしてその都市タラゴナを荒廃させた。」
このように、その無能さを匂わせる、その負の文脈上での、ガリエヌスの次男でガリア方面の統治を任されていたサロニヌスについての言及は、結局、ガリアでのポストゥムスの領土の図に、戻って行くことができる。おそらく、これらの年代記は、彼の簒奪による、ガリア分離帝国の始まりの性質を、こうやってごまかしたかった。こうしてあくまでガリエヌス、そしてその息子のサロニヌスの無能さを主張する事により。

 そして『ヒストリア・アウグスタ』の「三〇人の僭称帝たちの生涯」での、帝国東方属州での簒奪。トレベリウスという名で述べられている、その実在に疑問が持たれる、イサウリアの司令官。またエウトロピウスが報じている。ガリエヌスがインゲヌウスとレガリアヌスを倒した後、更なる外敵からの攻撃を誘発させたとして。
「アラマンニ族はガリエヌスが見捨てたイタリアに侵入し、そこを荒廃させた。更にダキア。これはまた、かつてドナウ川の上に、トライアヌスによって、獲得されていた。それは失われた。ギリシャ。マケドニア。アカイアと小アジアは、ゴート族によって荒廃した。
サルマティア族とクワディ族によって、荒廃したパンノニア。ゲルマン人はスペインに侵攻し、そこの重要な都市タラゴナを征服した。そしてパルティアはメソポタミア、徐々にシリアの占有を主張した。」

 アウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスは、同様の内容である。
彼らはイタリアの前の、ガリアでのアラマンニ族による略奪も、そして更なる略奪の時期についても知っている。そしてオロシウスは、エウトロピスに対して、更に新しい情報を提供している。「ゲルマン人は到着した。その後。アルプス山脈を通して、そして全イタリアの上に進んでいった。ラウェンナへ。アラマンニ族も、ガリアやイタリアを横切って。
ギリシャ。マケドニア。ポントス、小アジアは、洪水とゴート族の相次ぐ侵略によって、荒廃を経験した。ドナウの向かいのダキアの場所は、永遠に失われた。
クワディ族とサルマティア族は、パンノニアを襲った。ライン川へのゲルマン人の襲撃。
そしてその完全な略奪の後。スペイン。強制的にパルティアは、メソポタミアを獲得した。更にシリアを略奪。チュートン族。アラマンニ族の、ラウェンナへの侵攻。ガリアからイタリアへとやってきた。唯一の攻撃。すなわちユトゥンギ族。アラマンニ族は、まだその時点で不明だった。」

 そしてその報告をしているのは、オロシウスのみである。
新たなゲルマン人襲撃者達についての言及。彼らのガリアからイタリアヘの接近。
彼らはアルプスを越えて、イタリアのラウェンナを目指して、東の方向へと進んでいったとして。従って、アウグスブルクの碑文の、ユトゥンギ族への勝利またはセノネス族についての言及。そしてヒエロニムスは、こう簡単に報告した。「ゲルマン人は、ラウェンナへとやってきた。」ゾシモスは、イタリアへのゲルマン人の略奪の時期について、書いている。
「ガリエヌスは、その合間だった。アルプスの向こう側の地域で、断固として持続した。ゲルマン人との戦いで忙しい。そのため元老院は、そうしなければならなかった。
ローマは極端な危険に、直面していた。兵士。その街にいた。そして武器で彼らは装備。平民の強力な男性達に、鎧を配布し、軍隊を与えた。これは、人数的に蛮族を突破した。そして敵は恐れて、ローマから撃退された。しかし、彼らに侵略された、ほぼイタリア全土。」

 この著者の主張は、オロシウスとヒエロニムスと一致している。
そのゲルマン人達は、中部イタリアにまで進んだ。彼らの滞在が、より長い時間、長引いたに違いないために。ゾシモスは、都市ローマの緊急軍の編成に言及して、同様にアルプス山脈を越えてのこの攻撃の時の、ガリエヌスの場所を指定する。その時、彼が他のゲルマン人と戦っていた場所。それはこのライン川両方、そしてフランク族との和解地域に対して、ドナウ川中部または下流添いの地域、そしてここ一帯での、インゲヌウスとレガリアヌスの簒奪、更にガリエヌスとそのゲルマン人達との戦いを意味していた。ガリエヌスのいるメディオラヌム、あるいは別の場所で、このアラマンニ族のグループは停止した。
 しかし、この最初のアラマンニ族の一団の侵略の失敗に基づき、その侵略は、またもう一つの別のグループについての、それでなければならない。
以後、また、オロシウスはガリアでの、アラマンニ族の行動について言及する。
そしてゾナラスは、年代順に最後の史料である。その二六〇年の彼らの攻撃を描いている。
「ウァレリアヌスの後、彼の息子のガリエヌスが、ローマ帝国の主人となった。
彼の父には、彼がいた。彼がペルシャ人に対する戦いへと、出発したので。
そして残された西方。そう彼ら自身に(蛮族)。
既に、イタリアやトラキアでの略奪の準備ができていた。
彼はアラマンニ族を破った。強いおよそ三〇万人の男性。
一〇〇〇〇人と一緒の、ミラノの戦いにおいて。その後に、彼はヘルリ族との戦いを行なった。スキュティア人とゴート族。そして、それらを征服した。また、彼はフランク族との戦いを、主導した。」

 

 

 ゾナラスはメディオラヌムでの、ガリエヌスとアラマンニ族との戦いに、言及している。
侵略者達はアグリ・デクマテスに、おそらく到着した。スイス西部とガリアやイタリア。二五三年から二五四年と同様の状況。ウァレリアヌスのペルシャ遠征のために、ゲルマニア西部の国境から、多くの軍隊が連れていかれ、それがゲルマン人の襲撃を誘発した。アウレリウス・ウィクトル。エウトロピウスとオロシウス。彼らの基本は、一致している。イタリアでのアラマンニ族による、全ての侵略に言及。しかし、その細部には違いがある。エウトロピウスは知っている。アラマンニ族のガリア侵略の前。移動していた。しかし、オロシウスは、二つの異なるグループについて語る。侵略されるイタリア。そしてゲルマン人と呼ばれる集団は、ラウェンナまで来たと述べる。それは、ヒエロニムスに賛成する。オロシウスとヒエロニムスは、同じ史料を使っている。あるいはオロシウスが、ヒエロニムスの記述を利用した。多分ヒエロニムスが間接的に利用したと思われる、その三世紀からの史料の情報の信憑性についての後退。明らかに異なる、二つの情報。

 しかし、既にその存在自体は失われてはいるが、おそらく『エンマン皇帝史』の中では、同時の蛮族達のイタリアへの、連続した襲撃について触れられている。そしてそれは、ユトゥンギ族についてだと思われる。しかし、それはその場所を移動させられる。 より正確な報告がなされないで。蛮族が北西の方角から、北イタリアへとやってきたとして。そしてまた他の、同様に言及している著者達からも、その場所はイタリアと呼ばれている。従って、この情報は、エウトロピウスとオロシウス、または『エンマン皇帝史』から来ているとしなければならない。
そしてオロシウスの、ゲルマン人についての報告は、確認される。ラエティアを通してのこれ。
アウグスブルクの、そのローマ軍の蛮族への勝利の碑文を通して。 その出来事は、ユトゥンギ族についてである。その情報はゾシモス、デクシッポスまたはニコマクス・ フラウィアヌスから多分来るだろう。ゾナラスも、この概要を利用。 その可能性の高い。そして『Leoquelle』の情報は、後退する。ゾシモスの述べる、その概要についての史料が、その内容の媒介となっている。

 従って、この時の蛮族達の襲撃については、こう考えられる。
おそらく、ユトゥンギ族がイタリアの後まで、同時に異なる方向から、ほぼ互いに独立して、侵入してきたので、まずガリア南部に侵入してきたのは、アラマンニ族である事。
だから、それぞれ別の方向から蛮族が侵入してきた事、そしてそれはアラマンニ族とユトゥンギ族の両方と考えられる。それらの道で、南方から侵入したのは、アラマンニ族のようである。西のアルプス山脈の上から彼らは、来た。そしてユトゥンギ族。そしてよりすぐに、これはアルプス山脈の東の、ラエティアの方から。きっと、ガリエヌスはその防衛を行っていた。シルミウムからの碑文が証明する。「アウグスタ軍団 アルゲントラーテ/上ゲルマニア、カストラ・レジーナから第三イタリカ軍団/ラエティアとラウリアクムから第二イタリカ軍団/ノリクムからのインゲヌウスの排除。アルゲントラーテ/上ゲルマニアに配置された第八アウグスタ軍団のウィクトリヌスが軍団コインを鋳造させた。ラエティア総督の第三イタリカ軍団により、ユトゥンギ族は成功しなかった。」アラマンニ族の一部は、ガリア南部を略奪した。そしてイタリアから、アルプス山脈を横断する、もう一つの蛮族。そのゲルマン人の一団は、ローマ帝国の領土内で冬を越した可能性がある。

 そしてそれは不明である。この時ガリエヌスが、ガリアから下イタリアにやってきたかどうか。インゲヌウスとレガリアヌスの、ドナウ地方での簒奪の前に。そして、おそらくこの二六〇年の夏以降発生していた、インゲヌウスとレガリアヌスの簒奪で手が離せない状態だったと思われる、ガリエヌスは、このフランク族との戦いを、ポストゥムスに最高司令官として一任した。
更におそらく、その後の皇帝ガリエヌスの到着は、ドナウ地方からの可能性が高い。
それからちょうどガリエヌスは、ドナウ方面で起きた、インゲヌウスとレガリアヌスの反乱を鎮圧し、今度はイタリアへと向かっていた。そしてメディオラヌムで、おそらく彼は次の年の二六一年の春かあるいは夏に、イタリアの分遣隊の常設軍団により、アラマンニ族に勝利した。ゾナラスは、その時の敵の数を強く誇張する。だがその時のガリエヌスの、アラマンニ族への勝利は、確かに重要だったに違いない。その後、アラマンニ族がガリエヌスの死後に、再びイタリアへの略奪を開始している事から。
しかし、依然として都市ローマには恐れがあった、そして蛮族に対して露出している、イタリア半島北部。これはそれらの年での、ガリエヌスの弱さを示している。何が起こったのかに関連して、二六一年の、アントニニアヌス銀貨の銘文。ここでの元老院の、ガリエヌスの勝利に対しての感謝の明示。(ガリエヌスと元老院。平和、第三アウグスタ軍団による勝利)
アラマンニ族やユトゥンギ族は、アペニン山脈の中央にまで進んでいた。
またガリア南部での、アラマンニ族の略奪。そして彼らの本拠地のアルプス北部への帰還途中での、ライン川流域の北部ゲルマニアで行なわれた、ローマ軍との戦い。
おそらくポストゥムス指揮下での。

 同時に、一つ以上のアラマンニ族。しかし、これらはそれぞれ独立していた集団だった。
おそらく中央アルプスの上で起こった、ゲルマン人の略奪。はっきりとオロシウスだけが、報告する。これらの侵略者は、ラウェンナから更に移動した。そして特に防衛準備をしていなかった、ローマの都市ヴェローナは恐怖に満ちて、おそらく損害を受けた。このオロシウスの記述は、一九九三年に発見される、アウグスブルクの勝利の碑文により、支持される。これがローマ軍の、南から接近してきた、ユトゥンギ族への勝利。


 おそらくそれぞれ、新たな蛮族の集団とこれらの構成要素の一つであった、セノネス族。
そしてこのユトゥンギ族の方は、二六一年の四月二十四日から二十五日に、アウグスタ・ウィンデリコルム(アウグスブルク)で、属州ラエティア総督のマルクス・シンプリキウス・ゲニアリス率いる、軍団に敗北したという内容である。マルクス・シンプリキウス・ゲニアリス。おそらくアラマンニ族とユトゥンギ族の、侵入危機のために、その騎士総督は起用された。
彼は二六〇年の四月に、属州ラエティア総督に、任用されている。そしてガリエヌスは明らかに遅れて、北部イタリアに来た。冬でも蛮族の戦利品や捕虜と一緒の、彼らのアルプス通過。
そしてポストゥムスとゲニアリスは、この数カ月間で、手を握っている可能性がある。
このアウグスブルクの銘文からは、それが読み取れる。

 253/4年と267/9年の、類似した出来事。そしてK・シュトローベルは、こう考えている。
この時のアラマンニ族による攻撃は、この期間中には時代錯誤であり、ガリエヌスは現実には、ラウェンナの前のメディオラヌムで、ユトゥンギ族を破った事。二五九年にユトゥンギ族は、ラエティア西部とスイスのアルプスの通過のために、道に来ていた。そうでなければ、アラマンニ族の方は、イタリアで越冬していた。そしてオロシウスは、出来事の倍増を実現している。
しかしガリエヌスの撃退による、戦利品や捕虜と牛を連れた、アラマンニ族の逃走、アウグスブルクの近く、ラエティア属州軍との戦い。
その敗北の後、それはしかし、考えずらい。このような長距離に渡って、略奪や囚人達のために、大きくて遅い荷車で脱出するのは難しい。

 従って、そのシュトローベルの指摘は正しい。明らかに、ガリエヌスは既にインゲヌウスに対して、ガリア南部(260/1年)への、アラマンニ族の移動の時に、戦闘中だった。このために、彼が最初のこの戦いからの離脱が、できなかった。そしてゾシモスは、そう書いている。その線に沿っている。「ガリエヌスは、その合間だった。アルプスの向こう側の地域で、断固として持続した。ゲルマン人との戦いで忙しい。」この総督の反乱における、考慮事項は、当時の軍隊の不足を示している。おそらくその時の、十分な国境防衛が行われていなかっただろう。
ラエティアに駐留していた、第三イタリカ軍団は、明らかに、この出来事に関与してはいなかった。それは明らかにこの期間中の、彼らの属州からの不在を示す。
その時彼らは、皇帝ガリエヌスといた。そして皇帝はその状況をドナウ川上流より、より静かであると、分類したに違いない。もしインゲヌウスとの戦いで、彼が撤退するならば、ラエティアの、少なくとも一つの大きな支持は、インゲヌウスに対して集まってしまう。これは、その事を示唆している。その後、年代順にインゲヌウスとレガリアヌスの簒奪、アラマンニ族とユトゥンギ族の略奪を配置する。

 従って、この時にドナウ川中部のガリエヌスは、決めた。そして二六〇年と二六一年に、よりすぐに後の年代学も証明している。ゾシモスが名前を挙げる、これらゲルマン人。それらはドナウ川中部の人々だった。二六一年についても語っている。その次にポストゥスの、執政官就任に言及した、碑文について説明する事ができた。二六〇年の春まで、それはポストゥムスのガリア分離帝国の始まりまで、何ヵ月も、まだ続いた。
ラエティア総督であるゲニアリスの、ポストゥムスとの結託の動機は、皇帝ガリエヌスの属州防衛優先順位の決定についての、失望ではないかと考えられる。二六〇年頃に起きた、ラエティアへのセノネス族やユトゥンギ族の侵入に対して、この属州には、その時撃退のための、十分な支援がされていなかった。ラエティアはユトゥンギ族とセノネス族の略奪に関連しているようである。

 多分、出来事の延期が、260/1年のそれについて提唱される。ウァレリアヌスの捕囚は、二六〇年の夏以降に、インゲヌウスの簒奪を引き起こした。そしてその頃ガリエヌスは、ポストゥムスに、フランク族との戦いを委任していた。更に、それは近衛長官シルウァヌスと共にであった可能性。ドナウ中部と下流の委任。次々と二六一年の初めまでに、ガリエヌスが次々と、インゲヌウスやレガリアヌスを敗北させた所。一方、その地域の境界の防衛が手薄になった事による、二六〇年後半の、アラマンニ族とユトゥンギ族の略奪。それによる、ブリタニアとの境界に位置する、ブレンネロ峠を越えて中部イタリアにまで侵入する、ユトゥンギ族。そしてアラマンニ族の集団の一部が、ガリア南部へ移動している間。 そしてその更にもう一つの集団が、アルプス山脈から北イタリアを横断する間。その時のローマに迫っていた危機は、見過ごされていた可能性がある。そして先に紹介したように、ゾシモスは、ローマにユトゥンギ族が侵入してきたために、他の戦いで手一杯だった皇帝ガリエヌスの代わりに、元老院が急遽軍隊を結集して、撃退したと伝えている。

 ローマ帝国の他地域での類似した蛮族の襲撃は、この危機の時代では、二五三年か二五四年、そして二六七年から二六九年だった。そしてイタリアにおいて、これら蛮族の種類は、異なる集団に分かれていた。また、彼らはそこで、冬の間を過ごした。そしてイタリアへと向かった。
だがユトゥンギ族は、皇帝ガリエヌスのローマ軍の接近を知り、後退した。そして彼らはそれらの略奪品と共に、北の方へと戻っていった。更にそれが晩冬の中での、彼らのアルプスの移動を説明する。また二六一年四月の、混成軍から成る、ラエティアの地元の総督ゲニアリスの軍隊による、セノネス族とアラマンニ族の撃退。その勝利の碑文は、この状況の回復の後、同じ年の九月に建てられた。 更にこの時期に、おそらく属州ラエティア総督のゲニアリスは、ローマ帝国中央政府の、こちらの地方への支援の欠如を感じ、ポストゥムスの仲間に加わった。このライン川での、二六〇年の九月の頃から。そしてその時、二六一年の夏に、ガリエヌスの軍隊によって破られるまで、アラマンニ族は、まだイタリアに残っていた。多分いくつかの集団が。

 その間の、騎兵将軍アウレオルス。これはセルディカ方面で、その年の夏または秋の、マクリアヌスヘの攻撃を行なった。アラマンニ族の一部。多分イタリアでの彼らは、これ以上は移動しなかっただろう。更にポストゥムスの指揮する、ライン川での艦隊の攻撃により、いくつかは戻される事になった、略奪品を持って逃げ去った。やがて川で発見された、彼らの戦利品の、その失われた一部。そしてユトゥンギ族は、おそらくガリエヌスの更なる統治の年の間、ローマ帝国からの、金銭の支払いのせいで、そのために更なる急襲を控えた。

第四章 父ウァレリアヌス時代のキリスト教政策の相違とガリエヌスの「キリスト教公認勅答令」

 これまでローマ帝国の、キリスト教徒に対する迫害は、度々行われてきた。
だが、そのいずれも、長期化・大規模なものにはならないままで、終わっている。
しかし、この三世紀に入ってから、相次ぐ蛮族の侵略や、強大化していく一方の、ササン朝ペルシャの脅威などが常態化してから、このような切迫した帝国の状況を如実に反映し、しだいに本格的なキリスト教迫害が、行われ始めるようになっていく。
当時のローマ人の宗教観については、こうアルフェルディが指摘している。
ローマ帝国自体は、基本的に宗教に対しては、寛容だった。また、このような傾向は、元々ローマが多神教の性質を帯びていた事にも由来している、もう一人の神、または既存の神のもう一つの名前など。そしてその多くは、重要ではない。宗教が好きなだけ野蛮な実行をしたか、ローマの国家主義に対する、抵抗があったかの点だけが、焦点にされるのみで。
そして、かつてユダヤ教徒がパレスティナで武装していた時でさえも、彼らの迫害が、帝国の至る所中で、起こる事はなかった。しかしそれでも時々は、彼らは激怒した群集の、犠牲者となる事があった。だが、キリスト教徒の場合だけは、特別なケースだった。彼らの帝国による公式な迫害は、これで三度目だった。

 彼らは、ローマ帝国の中で独特な存在であった。自分独自の生活様式を守り、そして、市場や数えきれない公共の法律に参加する事を、拒否した。その他にも、フォルム、法廷、バラック、劇場、公衆浴場または競技場などでも。そしてそれは、ローマ帝国皇帝の神性と共に、公式神の認知をも、意味していた。彼らの教義と集会は、ある程度隠されていた。それで、最初の紀元二世紀までのキリスト教徒。彼らは、一般的な疑いと嫌悪の対象だった。そして彼らは、便利なスケープゴートを提供した。それは、ローマの大火で彼らを非難するというアイデアを、思いついたネロによって。

 タキトゥスは彼らの罪の意識を疑うが、彼らが人類に対する憎悪のため、罰に値したと言う。不法な協会として技術的に不法入国者、そして、キリスト教の教会のように、キリスト教は注意されたようである。二世紀の皇帝は、キリスト教を違法だとする、はっきりとした境界線を示した。そして人々が当局の前に連れてこられて、自白させられるならば、彼らはキリスト教徒で、信仰を改めることを拒否した。自分がキリスト教徒ではなく、多神教を信仰している事を示す証拠としては、ローマ古来の神々を祀る祭壇の上の灰の上に、その持参した二、三粒の香料を落とす事で十分だとされていた。それを否定するならば、彼らはキリスト教徒だった。
しかし、この試みは、彼らが実際にそうであったという事を、本当に証明できる事ではなかった。そして、彼らは本格的に捜索される事には、なっていなかった。匿名でのキリスト教徒告発は、有効とはされなかった。個人が彼らを起訴する負担を、する気がないならば、彼らは放っておかれる事になっていた。

 このように二世紀には、迫害の行為のイニシアティブは、帝国中央政府よりも、むしろ一般人の暴徒から来る。しかし、またキリスト教の迫害には、三世紀初めから、しだいに変化が見られるようになっていく。キリスト教迫害のイニシアティブは、庶民の通りからやがて帝国の閣議室へと、移り始める。時代の自然と統治者の自然の変化がある。
例えば、皇帝マクシミヌスは司教を追放し始めた、しかし、これは彼の一般的な凶暴性の例と市民の公職の人々に対する、憎悪だけからである場合があった。
そして彼の統治は、どんな自信に満ちた推論でも、正当化するには、あまりに短かった。
しかし、皇帝デキウスは、最初の一般的な、帝国全土に広がる迫害を起こした。

 ガリエヌスがおよそ三十二歳の時に、それは始まった。迫害に対する、キリスト教の反応。数と配布のキリスト教の強さ。そして、デキウスとウァレリアヌスの迫害についての、我々の知識の出典。どのように、キリスト教徒は迫害に反応したのか?
帝国を獣に乗った女性と考えて、あまりに遠い時間なしに、その速やかな打倒を歓喜しながら楽しみにしていた、黙示録的な左翼がいた。支配者の接近で。しかし、これは異常なケースだった。公式の線は、教会が皇帝と帝国に、忠実だったという事である。
これまでにこれが偶像を崇拝する含みなしで、される事ができたくらい長く、彼らを祈りと嘆願で支える気がある。カルタゴの教父で神学者の、テルトゥリアヌスさえ、この姿勢を取る。
そして、それは、実態を推定するのが非常に難しい。三世紀中頃の帝国のキリスト教の人口の数と分布。しかし、若干の傾向については、言う事ができる。

 キリスト教は、最初、ローマ帝国の東方から始まった。都市部の。特に下層の、そして中流階級の宗教として。その強さは、強い東洋風の豊かな都市にあった。シリアとエジプト。アフリカで、また、キリスト教徒は、熱心な支持者を持った。そして西と北に帝国を横切り、その数は減少していく。それは、ギリシャで、そして、イタリアに、よりよく、見受けられない。
そしてそれらの外側の国際的な首都。それは、ガリアとスペインで、一部の転向者を持っている。特にギリシャまたは東洋の植民地があった所で。しかし、ほとんど浸透はしていない、かなりの数。それは、ブリタニアで、そして、バルカンとドナウの土地で、非常にわずかに代表される。ローマ軍と後の三世紀のローマ復活にとって、とても重要な。それは、まったくほとんど通らなかった。百姓ものの大きい大量。また。ずっと、帝国はほとんどそのままである。
しかし、重大なキリスト教の障害が、小アジアとアフリカであったかもしれない。

 とてもまた社会階級の反対側で、上流階級の中では、薄く透過されるだけだった。
しかし、一部の優秀な転向者がいた。終わりまで、異教で最も頑固なrearguardsは、ローマの上流階級で見つかった。そして、西の農民。この言葉の由来は、自分自身で『異教的で、異教徒の』用語に合う。重要な少数派でも、ほんの全てが馬丁などで、およそ二五〇年に、キリスト教徒をされる時は、そうである事がありえるだけである。
そしてその、好まれている予想は、四世紀の十年目の、コンスタンティヌス一世のキリスト教公認への、大々的な政策転換の時に、キリスト教徒が、帝国の人口のおよそ五分の一を数えたという事である。半世紀以上早く、彼らの数は、非常により少なかったに違いない。
三世紀の中頃には、30,000~50,000人のキリスト教徒が、ローマの都市にいたと、ブラウアーは見積もる。もしそうならば、そして、ほぼ100万であるローマの人口を取る事と、より大きなものの中間である、ローマのキリスト教徒の分布は、西に東とより小さい割合を中で釣り合わせる。

 デキウス(紀元二五〇年)のキリスト教迫害の時に、彼らを帝国の人口の20分の1と推定する事は、あまりはるかに、スタートを切らないかもしれない。
先程言ったように、非常により高いキリスト教徒の割合が、アフリカであっただろう。
当時のデキウスとウァレリアヌスのキリスト教迫害に関して、現存している、異教徒の史料がない事は、不運である。フィリップス・アラブスの統治時代に対応している『ヒストリア・アウグスタ』の部分。それが書かれるならば、デキウスとウァレリアヌスは、いなくなっている。
そして四、五世紀の異教徒で、潜在的異教徒の作家。アウレリウス・ウィクトル。そしてエウトロピウスとゾシモスは、この危険な話題を避けている。そして我々には、他には教会著述家と複雑な年代記が、後に残されている。
しかし、幸いにも、我々には、聖キプリアヌスと、彼の裁判の報告の大部分の手紙と、ディオニシュオスから発信されている、非常に現代の材料を取り入れる、エウセビウスの『教会史』がある。ディオニシュオスは、当時のアレクサンドレイアの、キリスト教司教である。
多数の殉教史がある、しかし、彼らの内容の多くの確実性は疑わしい。彼の皇位継承の時に、デキウスはキリスト教の問題に驚いていた。彼の前任者のフィリップス・アラブスには、キリスト教ヘの同情が、多分あっただろう。実際にも、彼はキリスト教徒であったと、時々みなされていた。この点については、後程更に詳しく述べていくが。
そしてゾナラスは、フィリップス・アラブスの、キリスト教ヘの同情と、迫害の理由を関連付けている。

 一方、キリスト教徒が多かった、東方属州出身の彼とは対照的に、デキウスは地理的にはバルカン半島の、そして、おそらく遺伝的に古い下イタリア出身であり、このどちらとの関係からも、有利に彼に、キリスト教徒の傾向を与えなかった。とにかく、彼は皇帝や帝国への忠誠を、帝国のあらゆる住民に要求すると、決心した。これはキリスト教徒だけを狙わなかった、しかし、彼らが皇帝の懸念の、主要な対象であったという事は、疑いがない。我々が見たように、
彼らは独特な人々だった。彼らはギリシャ・ローマ風の人生の通常の行路から、離れていた。
そして彼らは伝統的な敬虔な言葉と清浄を認める事を拒否した。彼らは、大衆の憎悪の、常に潜在的対象だった。また彼らは、時代の災害とその上、市民の義務に対する態度で非難された。
そして、特に兵役まで。せいぜい曖昧だった。あらゆる基本の集いで。そして政治的な。
二五〇年の一月に、キリスト教の司教ファビアヌスは逮捕され、死ぬまで投獄された。
そしてしばらくの間、彼の席は、空席のままにされた。それからその年の半ば頃に、一般的な命令は来た。職権は帝国中で、申し立てられた。あらゆる、生きている存在。

 皇帝デキウスは、二五〇年から、キリスト教徒ではないという事を証明した、証明書の発行を決定している。そしてその対象は、もはや聖職者に限らず、ローマ市民権所有者の全員だった。
カラカラの「アントニヌス勅令」以来、属州民もローマ市民権を持てるようになっており、東方で生まれたキリスト教は、東方の属州民の間に、より多く広まっていた。
紀元二五〇年に発令されたこの法律は、皇帝が一時期に集中して、断行したい場合に多用される、暫定措置法の形を採っていた。理由は、蛮族などの外敵から帝国を防衛して平和を取り戻すには、前線でその任務に直接当たる軍人達だけでは十分ではなく、ローマ帝国に住む民の、全員の協力が必要であるという事にあった。

 日頃キリスト教徒達は、彼らが住むローマ帝国は堕落した、悪の帝国であると教えられていたため、日々その勢いを増す、蛮族やペルシャに対し、この頃守勢に回っていたローマ皇帝にしてみれば、ローマ帝国という共同体内に住みながら、それを敵視する勢力に、なり得るからである。キリスト教徒ではないという「証明書」は、「リベルス」と呼ばれた、都市や町ごとに、証明書発行が仕事である、特別な委員会が設立される。そこに呼び出された市民達は、委員達が見ている前で、ローマ古来の神々の像に参拝し、その前で燻ぶっている灰の上に、持参した香料のかけらを落として、燃やすのである。その燃え上がる煙の中で、自分はキリスト教徒ではないと宣言する。そして確認調査もなく、これだけで証明書は発行された。

 しかし、これにキリスト教徒達は動揺した。これを巡り、キリスト教会は分裂し、例え死んでも、信仰は守り抜くべきだと主張する派と、妥協して外観だけ棄教を装う事で、神は許してくださると主張する派とに分かれたが、この時期、結局便宜的に、外観だけ棄教を装い、信仰を続けるという派の方が、優勢を占めたようである。この結果として、大量の棄教者を生み出した。
しかし、聖職者達となると、彼ら一般の信者のように、その外観だけ、棄教を装う事はできなかったらしく、呼び出される前に、彼らは亡命した。カルタゴの司教のキプリアヌスも、その一人だった。

 このように、国民は、これらの委任の一つに出向かなければならなくて、ローマの神々に対して行なう、犠牲の儀式の行為を、実行しなければならなかった。
この義務を果たした後に、彼/彼女は公式にキリスト教徒ではないという、証明書を出される。そして棄教の拒絶は、その死によって罰せられた、しかし、彼らのあらゆる努力は、最初の棄教の拒絶を克服して、こうした状況への迎合性をもたらさせられた。力または拷問を用いてさえ。
一部の専門家は、それを考慮する。少なくとも本当であるか、キリスト教徒の場合。一時的なキリストの放棄も、必要だった。

 帝国主導のキリスト教迫害。我々が見るように。
ウァレリアヌスが、この事については、彼の義務を果たした事を、我々はいっそう確信している事があり得る。ゾナラスによって。おそらく、彼はその、扇動と迫害の組織化で顕著だった。
彼はデキウスによって、高い重要性の、若干の行政のポストに任命された。それが、アルフェルディの意見である。


 この古代ローマの神々に捧げる、犠牲の儀式に対する、キリスト教徒達の、多くの拒絶と多くの忍耐が本当に終わりまであった。それを拒否した場合に起こる、その様々な脅威にも関わらず。拷問。亡命、または奴隷としての、鉱山での強制労働。そして、最後に、処刑される事すらもあった。しかし、多く。非常に多く。教会当局をうろたえさせるのに、十分だった。
初期のキリスト教迫害は、散発的だった。これは最初の世界的な攻撃だった。
そして多くのキリスト教徒は、これに倒れた。多くの人々は、犠牲の提供を犠牲にして、経験した。彼らの多くは、古代ローマの神々に、御神酒を注ぐか、香を差し出す事によって妥協した。
そしてその多くは、金銭ずくの帝国政府から、虚偽の証明書を買うより、彼らの小さな罪の意識を招いた。彼がそれを言う時、アルフェルディは正しいだろう。


 

 そしてデキウスが十年の間、キリスト教の教会に反対する、彼の運動を貫く事ができたなら。
もしかしたらそれは、ローマ帝国から消滅したかもしれない。しかし、二五一年の七月で。
一般的な犠牲の命令の一年後に。彼はゴート族との戦いで、ブルガリアの沼地に消えた。
そしてそれ以前にさえ、ゴート族の侵入に応ずるための準備は、キリスト教迫害に注ぐ、彼のエネルギーの多くを、削いだに違いない。ガルスは、けして本格的ではない、ためらいがちな方向だけで、彼の前任者の方針を続けたようである。彼の統治の、その不機嫌な惰性に特有の。
連続した二人の司教は追放されて、亡命中に死んだ。ある種の命令は、一般的な神への犠牲の、儀式参加のためにされた。流行を避けることを願った、他の者達の間に。
しかし、儀式に不参加のキリスト教徒が捜されて、罰された範囲は、まったく明白ではない。
デキウスの一般的な犠牲の儀式の順序が、繰り返されたかどうかは、疑わしい。それはそうだった。もちろん、キリスト教徒を罰するために、必ずしもこうした事は必要ではない。一般的な法律でも十分である。デキウスの迫害の特色があった。犠牲の儀式参加に対する、拒絶の処罰でではなく。

 しかし、帝国全部の住民の一般的な実験の強制において、非常にこの問題を解決する事は、キプリアヌスの手紙の、いくつかに依拠する。これについての事実がどうであれ、若干の殉教が、疑う余地なくガルスの治世下の、アフリカにあった。しかし、その彼自身も、間もなく、一掃されようとしていた。そしてウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治の最初の数年の間、キリスト教に対して、凪のような状態が見られる事は明らかである。キリスト教徒は、分裂のために、その高い潜在性で、彼らのエネルギーを、棄教の興味深い問題へと向けていた。進行中の状況の問題、そしてそれは。全くならば。デキウスの迫害の間、経過した人々は、折り目に再び入れられかねる。しかしその凪にも似た状態の理由は、明白ではない。

 従って二六二年から。おそらく地方の上流階級だろう、そして、説教者としての優れた経歴を持って、そしてそのような背景の証拠を、彼の転換の前に主唱しない。
アレクサンドレイアの司教ディオニュシオスは、そのような背景の証拠を示していない。
そのような場面は、間違いなく、帝国中で起こった。少なくとも、そこである場合はいつでも、十分なキリスト教徒の認定は、徹底的な調査を正当化する事になっていた。キプリアヌスの同僚の多くは、彼より穏やかに扱われなかった。奴隷として鉱山で死ぬまで働かされるか、そして、数年間の懲役刑に、少し処される事。それは、死刑への等価物としての法律によって、そして、多くの被告にとっては、更に悪い事に考えられていた。彼らは共同墓地の集会と集会の禁止令を越えた。司教ステファヌスは命令の公表の時間について、ローマで死んだ。彼は迫害されたかもしれないが、迫害されなかったかもしれない。それらが、共同墓地と集会の禁止について、規則に逆らったローマにもあった。普通の一般人並びに聖職者。そして、それに応じて、苦しんだ。

 皇帝ウァレリアヌスの布告した、二五八年の第二の命令は、はるかにより厳しかった、そして今度は、没収のモチーフは、紛れもなく、著名人である。それは、キプリアヌスの書簡の一つに、まとめられている。彼は、同僚の一人に書いている。abbirgermanicianaの司教。彼はそうした。彼は言う。ローマからの最近の、信頼できる情報。
皇帝ウァレリアヌスが二五七年に布告した、キリスト教徒についての命令である。
ウァレリアヌスは、以下の準備を含んでいる集会に、答書を送った。
一キリスト教のあらゆる祭儀・ 集会を行なった、司教、聖職者と助祭は、告訴なしでも逮捕。
そして即座に処刑か、追放される事になっている。同時に一般信徒も墓地への出入・集会開催が死刑をもって禁じる。

二 キリスト教徒の元老院議員。上流階級。そして、ローマの騎士は彼らの階級を失う事になり、資産の没収で苦しむ事になる。しかし、これでもなおこの後も、キリスト教に固執するならば、彼らは処刑される事になる。

三 既婚女性のキリスト教徒は、財産没収と追放に苦しむ事になる。

三 帝国の各家庭の使用人。キリスト教徒を明言したか、それを命令の後のそれと明言した場合、資産の没収に苦しみ、そして、帝国の地所に労役に行かせられる。

 ウァレリアヌス。その執筆者は言う。属州の総督に議会草案に、これらの指示を彼のメッセージに付け加えた。アフリカのキリスト教徒は、彼らの到着を待つ事ができる。
更に、八月の始めに、司教シクストゥスが四人の助祭とローマの墓地で首を切られたと、彼は報告している。全く、死刑宣告と資産の喪失のために、総督は毎日存在していた。
そしてキプリアヌスは、同胞に死の入口について、あくまで神を信頼して不変であるように勧めている。キリストの兵士は、破壊しないで戴冠する。

 我々の目的のために、この答書についての、いくつかのものは、注目に値する。
その明らかな特徴は別として。最初のウァレリアヌスは、遠征中に元老院と通信していた。明らかに、東方から。第二に、彼だけは名前を挙げられる。それは、何が政府の側近グループで起きているかについてわかっていた、キプリアヌスである。彼はもう一人の皇帝ガリエヌスを、このキリスト教徒に対する血の指示の、少しの本当の責任も持つと、考えてはいなかった。三番目に、法律は表される事になっている。これは、法律で最も厳粛な形である。

 三世紀には、皇帝は、元老院の許可を求めるために気にする事なく、命令をしばしば出した。威厳のある集会が思い切った行動のした表示が、我々が知らない、それ自身の、メンバーに向けたもの。控え目な信者が煩わされてないままにされて、もう一度四番目に、彼らの恩恵は、墓地についての規則と最初の命令で落ち着いた集会である。しかし、注目されたのは聖職者だけでなく、一般人の著名な男性と女性も含むように、増やされる。次。しかし、それははっきりとそれ程、明記されない。
ローマの殉教史は一般人を含み、その中には女性も含んでいる。そして彼女達の間には、元老院議員アステリウスの娘もいた。この既婚の女性の殉教者は、ガリアかスペイン出身と報告されている。ブリタニアでは、聖アルバンと他の二人が出ている。ユリウスとアーロン。カエレオンで実行されたと言われている。そして、もしそうならばどうか彼らの殉教は、ウァレリアヌスの統治下のものとされる事になっているが、これは疑わしい面がある。

 キリスト教迫害は、特にキリスト教徒が多かった、帝国東方属州の小アジアやシリアとパレスティナなどで、盛んに行なわれた。なお、このウァレリアヌスのキリスト教迫害政策について、中心となって実行していたのは、フルウィウス・マクリアヌスだった。このマクリアヌスは、ほぼ間違いなく騎士であり、決して元老院議員ではなかった。
『ヒストリア・アウグスタ』は、彼がウァレリアヌスの将軍達の中で、一番の将軍であったと言っている。だが、これもいつもの、この『ヒストリア・アウグスタ』特有の、特に簒奪者達についての、著しい誇張的表現と思われ、これは信用できないものだろう。
実際には彼は、直接戦いには参加せず、帝国東方のシリア方面の財務長官とウァレリアヌス軍の、兵站担当係の職務を兼ねていたようである。そしてマクリアヌスは、ウァレリアヌスのペルシャ遠征の際には、遠征軍の後方支援を担当していた。更に二六〇年の、ウァレリアヌスのペルシャによる捕囚後は、シリアで息子の小マクリアヌスと共に、簒奪を行なった。数ヶ月の間、おそらく彼は帝国東部地方の、効率的な統治者だった。その能力において、彼はウァレリアヌスの、反キリスト教の政策を進めた。

 しかし、そのキリスト教迫害の規則正しい実行は、ペルシャとゴート族侵入によって、かなり妨げられたに違いない。だがウァレリアヌスとマクリアヌスは、該当地域にあって、間違いなく、そのキリスト教迫害の進展の、気がかりな監督を行なった。そして我々は、カエサレイアでの処刑について耳にする。リキアで、アンティオキアで。カッパドキアで。
だが時々、キリスト教徒は、自らの愚行で、彼ら自身の悲惨な運命を招いた。
例えばそれは、ランプを破壊した隠者レオのケースで、ローマ古来の神々を祀る、異教徒の寺院で灯っている、灯心を踏みつけた。このように、時々、キリスト教徒の彼らさえ、このように、より遺憾な振る舞いをしていた。他にも、侵入者に続いて、強盗と略奪を犯したキリスト教徒がいた悲しみで、聖グレゴリウスが記した記録、そして蛮族の軍隊に入った、何人かさえいた。
そしてこうした点は、豊田浩志氏も『キリスト教の興隆とローマ帝国』の中でも、指摘しているように、当時、キリスト教徒達の全員が、必ずしも従順で素行の正しい人々ばかり、とも言えなかったようである。

 帝国の東方属州エジプトにおいて、司教ディオニシュオスは、まだ最初の命令の彼の違反のために、亡命中だった。不思議な事に、彼は更に迫害行為をされたようではない。
しかし、彼は禁固の報告を受け取った。鞭打ち。拷問。禁固と処刑。だがガリエヌスが、このキリスト教徒の迫害の、少しの面でも、全く少しの活発な部分も担当したという提案が、どこにもないと再び強調する事は、望ましいようである。
アラマンニ族の侵入者クロクスに、そしてグレゴリウスに行われたとされる、それらは別として、殉教はガリアからは報告されなかった。全ては帝国の南または中央であった。ドナウの国境地域から遠く離れて。しかし、ガリエヌスがそこのいかなるキリスト教徒に関わる起訴とも、関係があったという証拠が、ない。それは総督と他の都会に住む、権力者の仕事だった。二五八年の八月に、司教シクストゥスの処刑は実行された。司教ディオニュシオスは、その彼の後継者である。

 二五九年の七月に、選ばれたと言われている。これはウァレリアヌスが二五九年に捕えられたという事を、証明するのに用いられた。二六〇年に、彼がまだ皇帝の帝位の上にいる間、司教の選任と任命が可能だった事は、ありそうもないと考えられる。しかし、これは必然的な結果ではない。そしてその選出は、秘密裏に行われたかもしれない。更にこの間の、アラマンニ族の侵入など、実際の蛮族侵入の災害は、キリスト教徒から、権力者の注意を逸らしたかもしれない。
そして公文書pontiticalisの、二五九年が二六〇年のための間違いであると、一部の権威は考えている。そしてウァレリアヌスの、キリスト教迫害の布告の中で、特に注目されるのは、二五八年に付け加えられた布告の中の、キリスト教徒対策としては初めての、資産没収の項目が導入された事である。つまり、この布告の中では、聖職者に限らず信徒を、しかもその中でも、裕福な信徒を明らかに対象にした、法律であった事がわかる。
オールアードは、あるギリシャの家族の物語を持っている。ローマとキリスト教への改宗者の、移住者。大きな富を備えている考え。これは、都会に住む総督が、注意に来た。最大の。
このギリシャ人は逮捕されて、皇帝自らによって、その豊富な財産の源について問いつめられた。結局、彼らは死刑を宣告されて、処刑された。

 これは、二五六年に起こったと言われている。明らかに、ウァレリアヌスはローマの敵に、帝国東方を残した、または、一時帰国の間。当時の帝国の、大変な困難が、ウァレリアヌスの迫害の動機付けをしている、その力の、財政的な説明についてある。
その迫害は、それぞれ二五七年と二五八年の、二度の連続命令によって起こされた。
そして、没収のモチーフ。国への資産の喪失が、死刑判決で自動的に後に続いた事は、本当である。それでも最初の命令。その命令は、二五七年の初期に、出されたに違いない。
それから、迫害は二五七年の始めに、始まったに違いない。我々は命令のコピーを、手に入れられなかった、だが、我々はアエミリアヌスの前に、ディオニュシオスと彼の同僚の外見の報告から、その条件を知っている。エジプトの前執政官。そして、カルタゴ司教のキプリアヌス。
アフリカ。アスパシウス・パテルヌス、植民地総督。それは、二つの部分で成っている。
最初の部分は、キリスト教の聖職者に宛てられていた。司教、聖職者、助祭。聖職者は、原則として、処刑されることになっていた。組織力と崇拝実行を弱めるために適切な。あるいは彼らは国外追放を受けるとして、犠牲に注文された。

 そして第二の部分は、一般のキリスト教徒に宛てられていた。彼らは共同墓地の敷地に入るか、公開の集会を開くのを禁止された。そしてその罰は死だった。しかし、それは常に信仰の取り消しによって、逃れる事ができた。そして明らかに、キリスト教徒は、彼らの共同墓地で集会をするのに、慣れていた。ローマにギャラリーと部屋があった地下墓地で。彼らの集団または彼らの教会が、この時に公的な組織としての存在を、少しも法的に認められていたとは考えられない。だがこれに関しては、以前から様々な論争の対象だった。マルタ・ソルディは、そう考える。逆説的に。ウァレリアヌスのキリスト教迫害命令は、教会を組織として初めて認めた。
それを禁止する事の現場でさえ。不法であると。しかし、やはり、ブレイやガイガーや、その他の研究者のように、やはり、二六〇年に、皇帝ガリエヌスによって、キリスト教の公認を行なった内容のものだと思われる「キリスト教公認勅答令」が出されるまでは、この時の教会は、法人ではあり得なかったとする見方が主流のようである。そして私も、これに同意したい。

 だが、そのキリスト教の共同墓地は特別なカテゴリーで、立っていただろう。
ローマ法は、埋葬の社会または委員会を、法人と認めた。しかし、キリスト教徒は、そのような大学を支配している規則を利用する事が、妥当であるとは考えなかった。例え彼らが、法的にそうする事ができたとしても。だが、埋葬地はreligiosaeに、そして、そのように私有財産の領域の外の物だった。それに対する直接的な証拠がない、しかし、キリスト教の墓地がこの主義の範囲内で来てはならなかった理由が、わからない。


 

 しかし明らかに、二五七年の命令は、その没収を含んでいた。または最も、没収でではなく。キリスト教徒の墓地の。それでも、最初の命令の主な目的が財産でなかった事は、かなり明白である。追放された聖職者の財産は、明らかに没収されなかった。とんでもない、全てのケースでは。キプリアヌス(命令の条件の下に、追放される)。彼の財産の享受を、保持したようである。共同墓地と集会の場所は、売却されたようではない。彼らの上に、第三者によって得られる、どんな権利についての、どんな言及なしででも、ガリエヌスの答書は、彼らへの賠償を指示している。墓地または集会で逮捕される忠実な支持者は、そして、概して、より高い収入グループの、代表であってはいけない。二五七年の命令の対象は、より少ない反社会的なグループとして、キリスト教徒を処分する事であったように、考えられる。

 それよりその方法はデキウスによって、そして、より少ない広告で採用した。
彼らがリーダーを奪われて、お互いに会う事を禁じられるならば、彼らが無名状態で、衰退していく事が望まれた。こうしてウァレリアヌスは、デキウスのキリスト教徒弾圧政策を、二年振りに復活させた。これで再び、ローマ市民権を持つものは、「リベルス」と呼ばれた。
そして彼らは全員、キリスト教徒ではない事を明記した、証明書も持たなければならない事になった。また、証明書を発行する特別委員会の活動も、再開された。

 しかし、皇帝ウァレリアヌスがこのような行動を再開した背景には、ローマ市民達の、キリスト教徒達に対する、大きな不満も、大いに関係していた。帝国が相次ぐ蛮族やペルシャの侵入などの、国難に遭遇しているというのに、帝国内に住み、ローマ市民権を持っていながら、自分達だけのコミュニティの中に閉じ込もって、そこから出ようとはせず、ローマ人としての公務も兵役も果たさず、ローマ市民権所有者としての義務を、果たそうとしない、彼らの姿勢を非難していたのである。しかも、皇帝カラカラが二一二年に出した「アントニヌス勅令」により、属州民にもローマ市民権が与えられた事から、大きくこの問題が表面化する事になった。
キリスト教徒には属州民が多く、しかし、それまでローマ市民権を与えられていなかった属州民は、ローマ市民にのみ課されていた公務も、兵役も免れていた。
だがこの「アントニヌス勅令」により、彼らキリスト教徒の属州民まで必然的に、公務と兵役の義務も課されるようになったため、キリスト教徒ではないローマ市民からすると、今や自分達もローマ市民なのになぜ、公務と兵役の義務を果たさないのかという非難が、属州民のキリスト教徒達に集中する。

 これに対し、主に属州民のキリスト教徒達は、キリストの教えがそれを許さないと言うだけであった。これに対してウァレリアヌスは、おそらく彼が強いローマの伝統主義者である事から、このようなキリスト教徒の態度を容認できず、迫害を開始したという説がある。
そしてまた、キリスト教の帝国全土での崇拝の実行により、帝国内の統一が不足する事は、ローマのために、神の恩恵を阻止する事になった。更に富裕層の中への、キリスト教の増加している広がり。最高のもので、そして皇帝の直接的な環境の周囲でも、それは旋回する。
従って、こうした状況を重く見た、皇帝ウァレリアヌスと彼の定番アドバイザーは、再びキリスト教徒達への迫害を、開始した。しかし、その内に、皇帝デキウスと同様に、またも外敵の侵入により、これも途中で実行を中断せざるを得なくなった。その頃、ペルシャ皇帝シャプール一世が、ペルシャ帝国の首都クテシフォンで、大軍を編成し始めていたのである。

 これまで、ウァレリアヌスのそのキリスト教迫害政策の主な動機の一つとして、決まって挙げられるのが、上記のような想像される理由の他には、経済的なものである。
ウァレリアヌスは、当時ローマ帝国が直面していた、内外の危機的状況を乗り切るための活動資金に不足し、そこで教会や信者が蓄積していた、莫大な財産に目を付け、更にその没収の実務担当者が、マクリアヌスだったとするものである。
だがこうした見方に対して、豊田浩志氏は、この説が妥当性を持つためには、教会などの財産没収が、相当広範囲に渡り、行なわれた事が実証されなければならないが、ほとんど知られていないと指摘する。つまリ、この経済的動機でも、当時のウァレリアヌスのキリスト教迫害の、主たる理由を説明するのには、不十分であるという事である。だが、ウァレリアヌスのキリスト教迫害について現存している第一次史料は、全てキリスト教側のものであり、しかもその大半は、殉教者伝的性質が強いものであり、その迫害の全容を明らかにするのは、なかなか困難である。

 更に、ウァレリアヌスのキリスト教迫害のその原因や動機に言及した史料は、唯一、エウセビオスの『教会史』第七巻第一〇章第二から九の箇所だけである。
そのため、このウァレリアヌスのキリスト教迫害の、具体的理由の解明も、同様である。そしてアレクサンドリアの司教ディオニュシオスは、これもエジプトの司教の一人であったと推測される、ヘルマモン宛ての書簡の一つの中で、我々にそのウァレリアヌスの、最初のキリスト教に対する態度について話す。ウァレリアヌスのキリスト教迫害の理由に言及した直接史料としては、唯一、エウセビオスの『教会史』第七巻第一〇章の第二~九節だけである。
この中の、当時のデキウスとウァレリアヌスの迫害の体験者であった、当時のアレクサンドリア司教ディオニュシオスの書簡が、この「ヘルマモン宛て書簡」である。
迫害について貴重な同時代の証言者であると言える。そしてこの書簡の受け取り人であるとされるヘルマモンとは、おそらくエジプトのいずれかの司教と推測される。書簡の日付は、二六二年であると推測される。  

 豊田氏はこれまで、それでなくとも詳細を欠く、キリスト教迫害について直接体験した人物の、しかも彼が富裕なアレクサンドレイア市民であり、十分な修辞学の教育も受けている教養人の教会人である事から、極めて史料的価値が高いと指摘している。
そして更に、このように十分注目する価値があると思われる史料であるのに、しかし、そのディオニュシオスのキリスト教迫害を止めさせた皇帝ガリエヌスについての、彼のその手放しの賛辞の調子にばかり、強く印象付けられた、これまでの研究者のように、この内容について細かい分析を加える前に、ほとんど信用できないと判断を下してしまうのも乱暴であるとし、その記述のされ方を注意して読み解いた結果、皇帝ウァレリアヌスのキリスト教に対する、姿勢の変遷について、興味深い、新たな見方を示している。

 ディオニュシオスはヘルマモン宛て書簡の中の第三節の中で、ウァレリアヌスの治世当初と思われる頃の、彼のキリスト教に対しての姿勢を、次のように述べている。
「両方がウァレリアヌスの時にあったことは驚きで、そしてそれらのうち、とくにはじめの方はこの場合そうで、彼が神の人々に対して温厚かつ友好的であったことを考えるべきである。彼以前の皇帝の誰一人として、彼のように彼らを処遇した者はいなかったし、公然とキリスト者であるといわれた人々でさえ、はじめ彼が彼らを受け入れた時そうだったほどではなかった。じつに彼の家全体が敬虔な人々で満ちあふれ、神の教会であった。しかし、教師でかつエジプトの魔術師たちのかい会堂長が、汚れなく信心深い人々を除き、殺害し迫害するようウァレリアヌスに勧めた。というのは、彼のじつに言語道断で忌み嫌うべき魔術の敵対者かつ妨害者だったからだ。(というのは、前からのことであるが、彼らは、そこにいてみているだけで、そしてただ息を吹きかけ言葉をかけるだけで、悪霊を追い払うことができるからである。)」

 これは一体、具体的には一体どのような事を、表わしているのだろうか?
この問題について、豊田浩志氏はかつてウァレリアヌスは、その統治初期には、皇帝直属の祭司団の一つとして、キリスト教祓魔師集団も、宮廷への参内を許していた可能性について、指摘している。ただ、この時のウァレリアヌスについて、更に「厳密な意味で教理研究者の段階以前であったのかもしれないが」とも述べている。そして更にこのキリスト教祓魔師集団というのは、実はキリスト教徒だったのではないかという説がある、皇帝フィリップス・アラブスの時代頃から、既に宮廷への参内を許されていた可能性についても、指摘している。

 例えば三世紀に入ると、キリスト教は明白に皇帝権力のすぐ間近に、その構成員を送り込むようになっている大きな変化が、見て取れるという。しかも時代的にこの三世紀前半には、親キリスト教皇帝の後には必ずといっていい程迫害皇帝が現われ、キリスト者が当時の政変による影響を、まともに受ける形で宮廷から排除されている様子に、注目している。その上、更に進んで三世紀半ばからは、当初キリスト教に好意的だった皇帝が、後になって迫害に転じる例が、顕著に認められるようになってきている事にも、引き続き注目している。

 更にガイガーも、ウァレリアヌスは、事実上の反キリスト教の法律について、単独で担当していた。宮廷でのキリスト教徒の数の増加も、発生する可能性があったためというように指摘し、更にウァレリアヌスは、初めは宮廷に、キリスト教徒達の出入りを許していたが、おそらく当時の宮廷での、キリスト教の古儀式派と皇帝との対立を中心として、ウァレリアヌスの、二五七年の二度目のキリスト教徒に対する、本格的な迫害政策勅令の布告及び、迫害の実施という展開に、繋がっていったと見ている。対策はキリスト教の人々の、巧妙な帳簿グループに対して、設計された。そしてその計画は、主に迫害のための、ローマ軍の人員不足と大幅に増加した、キリスト教徒の数のために、失敗している必要がある。

 更にその上、豊田氏の考察によると、おそらく皇帝達は、初め利用価値ありと判断してキリスト者を登用したが、登用されたキリスト者が支配層周辺の既成宗教勢力との対立や抗争に巻き込まれたり、皇帝の許容範囲を逸脱する行為をとったりした事により、結果として排除・粛清されてしまったと思える例に、しばしば出会う事。更にまた、帝国内でのキリスト者のあり方として、三世紀前半では単に個人的栄達による宮廷官僚とか医師の存在くらいであったものが、この三世紀半ば辺りから特定の集団を形成し宮廷内に存在し始めている気配。
また、これまで多くのキリスト教会著述者達からは、フィリップス・アラブスは、自身がキリスト教徒の皇帝だったとされているものの、こうした記述の信憑性に疑問を示す研究者達もいるものの、更に続けて、豊田氏はしかし、彼がキリスト教徒皇帝だったとしている、レオンティオスなどを完全に信用する事はできないものの、研究者アラードの「伝承は明確であった。それを記録している著述家達は、著しい異文を伴ってはいるが、確かに捏造はしていない。そして、全てが本当とは思えないが、それが誤りないし虚偽に基づいていると断言するには、非常に有力な証拠が必要であると思われるという見解を紹介し、これに同意を示している。
豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年、PP.152―157
 




そして、フィリップス・アラブスは、広義の意味で、やはり、キリスト教皇帝だったと判断するとの見解を、現わしている。更にその根拠としては、同時代の直接史料であるオリゲネス(=エウセビオス)史料とアンティオケイア伝承、更にアレクサンドレイア司教ディオニュシオスの証言を積極的に否定する根拠は何もない事、また、彼の出身地が既にキリスト教化が進行していた、アラビア州のトラコニティス地方であり、こうした地理的環境から、彼が既に幼児の頃から、洗礼を受けていた可能性すらある事。更に彼の諸政策は、確かに明確にキリスト教的とは言いがたいが、決して非キリスト教的でもなかった。むしろその時代背景を考慮するなら、彼は許された範囲で積極的に、親キリスト教的政策を実施していたとも考えられると総括している。
引き続き豊田氏は、既にこのフィリップス・アラブスについて、取り上げている章から、特に彼の後の皇帝のウァレリアヌスの治世下でも、上記のような、皇帝の身近にキリスト教関係者達が頻繁に出入りしている、かなりそのような気配が、感じ取れるとして注目している。

 特にこのウァレリアヌスの時がそうで、伝統的なローマの占卜である、腸卜に対抗する集団として、キリスト教祓魔師集団が宮廷に関わっていたと理解できるし、ディオクレティアヌスの時代には、宮廷内はもとより、行政軍事官僚群として、帝権の一翼を担うまでに成長していた様子さえ窺えると述べている。豊田氏の、この時期から、ローマ帝国とキリスト教、特に教会指導層との関わり方の大きな変化が見られるようになっているとし、その彼の見解は以下のようなものである。

 三世紀に入るとローマ帝国とキリスト教は、もはや迫害者と被迫害者といった、単純な段
階を脱していた事。その際、教会指導者層、特に首都ローマのローマ司教らは、その前の時代とは異なってすでにローマ帝国を頭から悪魔の化身として忌避せずに、むしろ積極的に関わりを持つ試みを繰り返し行なうようになっている。そしてその際に接近手段として利用されたのは、キリスト教の伝統的宗教活動であった悪魔祓いを行う祓魔術師集団であった事。
また帝国支配者層の側も、国家的難局を打開する一助として教会勢力を評価ないし利用する方向に向きつつあった。そしてそれが、一見この三世紀がキリスト教について「迫害」と「寛容」の混在とも見える様相を呈していた実態であるとしている。

 

 つまり、豊田浩志氏は、前章のフィリップス・アラブス治世下の頃からの帝国とキリスト教との関わりの変化の兆しについての考察も踏まえて、このディオニュシオスが暗に指摘する、当初は皇帝ウァレリアヌスのキリスト教についての態度の最初とその後からの変化について、こう見るべきではないかとしている。そして他にも、私が注目すべきだと思う箇所は、豊田氏もこの章の中で指摘している通り、フィリップス・アラブスは、欧米では同様に個別の研究もある、ガリエヌスやアウレリアヌスなどの他の軍人皇帝達と並んで、欧米でのその関心は、けして低くはないという点である。

以下の豊田氏の主張内容である。

 まず、彼が二四四年に皇帝になったのは、対ペルシャ戦争遂行のために、遠くローマを離れて親征中だったゴルディアヌス三世の不慮の死去によるものである。
ゴルディアヌスの死については、彼がローマ元老院に擁立された皇帝であった事、更にフィリップスがペルシャと屈辱的な講和を締結したとも伝えられ、そのいずれもが元老院勢力の神経を逆撫でする内容であり、そのため『ヒストリア・アウグスタ』を始めとする多くのギリシャ・ローマの歴史家達によって、ゴルディアヌスの死はフィリップスの陰謀によるという報告がなされてきた。ゴルディアヌスはペルシャ王シャープール一世軍との戦闘中に負った傷が元で、戦病死したのが真相であり、陰謀と考える必要はないと判断すると結論している。


 まず、ここで豊田氏がゴルディアヌス三世の死は、フィリップス・アラブスの陰謀によるものではないという見方を示しているのに、注目である。続いての彼の見解である。
「フィリップスの「建国記念祭」開催の意図は比較的簡単に推定可能である。
帝位着任以来、彼はたえず外敵との緊張関係を余儀なくされてきた。
しかも彼は、ほとんど彼一人の老練な軍事指揮能力だけで、各事態を収拾し成果を収めてきた。
例えばそのペルシャ戦争の、すばやい敗戦処理一つをとってみても、彼は優れた判断能力の持ち主であった事がわかる。また、内政面でも種々の施策を試み、帝都のみならず属州の民生安定にも腐心して評判も悪くなく、決して無策を決めこんでいた訳でもなかった。
ところが二四七年後半から、新たに国内の各所で簒奪の動きが蠢動し始め、彼は腹背に敵を持つ事になる。このような状況に追い込まれた彼にとって、まず帝都の住民、とりわけ元老院・騎士身分の一層の支持を確保する事が至上命令だった。
たまたまそこに「建国記念祭」がめぐってきた事は、彼にとって文字通り、千載一遇の好機であり、帝権が誰にあるのかを内外に誇示する格好の舞台であった。
だが、彼のその真剣な努力にも関わらず、衰退期に向かっていた時代の女神は、彼に幸運をもたらそうとはしなかった。これまでローマ帝国を護持してきた神々は、もはやその力を失いつつあった。新たに帝国隆盛を保証するにはいかなる神(々)を導入すべきか。まさにフィリップスは、自ら身を呈してその模索のただなかに位置していた。」
豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年、p.140―141
 

しかし、これも続けて、この個所の中で、豊田氏が指摘している点であるが、これまで日本のローマ帝国研究者達の間では、このフィリップス・アラブスについては、他の個別の軍人皇帝達同様に、まともなその評価の段階にすら、いまだに至っていないようである。
そしてこういった彼についての現状に関しては、いまだに日本のローマ帝国研究分野では、その前の時代に比べて、この時代全般に対する関心が、低い傾向である事が、大きく関係しているのだろう。

 それは確かに近年、日本でも井上文則氏の軍人皇帝時代の研究など、こうした状況が徐々に、改善されてきてはいる。とはいえ、この井上氏の研究も、各軍人皇帝達の詳細な個別研究というよりも、この三世紀の軍人皇帝時代全般の時代の分析、及びこの地方の出身皇帝が頻出するようになっていく、特にこのイリリア人達の、帝国において果たした役割についての研究、という要素の方が強い内容である。また、この井上氏なども翻訳に加わっている、ようやく邦訳が行なわれるようになった『ヒストリア・アウグスタ』からは、無能な上に、先代皇帝ゴルディアヌス三世の殺害にも、関わっている人物として、ガリエヌス同様、極めて否定的に評価されている、フィリップス・アラブスの姿しか、浮かび上がってこない。

 そしてなぜ、一見、ガリエヌスとは、直接的な関連はなさそうな、欧米ではフィリップス・アラブスは、三世紀の軍人皇帝達の中では、十分注目に値する皇帝として、むしろ積極的に評価されているようであると私が書くのか、その理由である。
それはこの章の中で豊田氏が指摘している通り、この皇帝フィリップス・アラブスが、帝国のキリスト教が徐々に浸透していく事にも、少なからず関わっているようである事の他にも、これまで主に帝国のキリスト教著述者達によって、彼はキリスト教徒であったという問題について、これまで疑問視する研究者達もいたものの、やはり、信憑性の高いものではないか?と再検討している事。

 更に、私はまずフィリップス・アラブスが、イリリア人軍人皇帝の血統に連なる、コンスタンティヌス大帝におもねった、過大な栄誉の付与や、これもそれと関連する、彼らイリリア系軍人皇帝達のみが、蛮族に対処できるとする、大々的なプロパガンダによる、その功績の過小評価という点において、やはり、これもイリリア人出身の皇帝ではない、ガリエヌスも、彼と同様の不遇な扱いを受けている皇帝ではないか?と感じるからである。このように私は、フィリップス・アラブスとガリエヌスについて、いずれもキリスト教に寛容傾向だったという事以外にも、この点においても、両者の間に共通点がある事を認めるからである。

 豊田氏のフィリップス・アラブスのこの点についての指摘は、以下の通り。
グレゴリーとヨークは、幾人かの異教著述家達が、コンスタンティヌスの父コンスタンティウスについて、その祖先が二六八年から二七〇年の皇帝クラウディウス=ゴティクスだと主張してし、その血統関係を賞賛し、更に興味深い点として、そのコンスタンティヌスの宿敵だったリキニウスの祖先はというと、これがフィリップス・アラブスになっている事。「そして約三年間の短期間帝国を支配したクラウディウス=ゴティクスは、実際には、決してキリスト教を好意的に扱った訳ではなかった。だがその彼をコンスタンティヌスは先祖と仰ぎ、一方彼のライバルのリキニウスの先祖は、キリスト者フィリップスと見なされていた。三二四年に、コンスタンティヌスがリキニウスに勝利した時、フィリップスは同時に最初のキリスト教皇帝の名誉を剥奪されたのではないか?また、フィリップスの対外勝利が不当に無視されているのも、彼の後継者であるイリリア系軍人皇帝達のみが蛮人に対処できるとする、プロパガンダと無関係ではないだろう。
更に『ヒストリア=アウグスタ』の中で、フラウィウス王朝が高唱され反フィリップス的傾向が濃厚に認められるのも、独裁専制君主コンスタンティヌスにおもねって歴史的事実を歪曲ないし無視しようとした異教側著述家たちの作為がそうさせたと、果たして言えないだろうか?」
豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』、南窓社、1994年 p.163
 

確かに、コンスタンティヌスの先祖はクラウディウス・ゴティクスであり、その敵対者のリキニウスの先祖がフィリップス・アラブスであるというのは、明らかにいずれも、全く史実的根拠のない事である。だがあまりにも、事実無根の結び付けであるがゆえに、かえって単なる記述の混同とも、取りずらいものを感じさせる。確かに、これは時の皇帝コンスタンティウスにおもねる余りの、彼らの行き過ぎた関連付け、というように、解釈できる。また、クラウディウス・ゴティクスがコンスタンティヌス大帝の先祖という記述は、実際に『ヒストリア・アウグスタ』の中にも、何度も出てくる。

 なお、これは本書のガリエヌスのギリシャ滞在についての「第十三章 ガリエヌスとギリシャとの関わり、哲学者プロティノスとの交流」でも、更に詳しく述べているが、やはり、これもイリリア人皇帝の系譜に連なる、皇帝ユリアヌスのその自身の著作の中での、ガリエヌスについての酷評からも、コンスタンティヌスら彼の先代皇帝達の、蛮族に対処できるのは自分達イリリア人皇帝のみであるとする、当時のキリスト教会著述家や『ヒストリア・アウグスタ』など異教歴史家達もこぞって追従した、こうした彼らの個人的心情及び政治的アピールについての点であるが。更に彼らコンスタンティヌス朝の皇帝達の、こういった傾向については、間接的に、彼らの後継者であるユリアヌスも、同様の要素を大いに受け継いでいる形跡が、明らかに見受けられるからである。もちろん、当時のローマ帝国の、キリスト教浸透の流れに抗い、ローマ古来の宗教の復活を目指していたらしい、このユリアヌスにとっては、彼のキリスト教寛容政策自体も、おそらく忌々しいものであったと思われ、それが自分の著作の中での「女装した兵士」という、辛辣な批評になって現われた、という可能性もあるではあろうが。

 しかし、やはり、彼のガリエヌスについての、こうした極めて否定的な記述には、このような一連の背景も、少なからず関連していた可能性もあると思われる。
皮肉にも実質的には、ウァレリアヌスやガリエヌス時代に、彼ら父子皇帝によって、既にその萌芽が見られる、帝国四分割体制や機動軍などの、統治・軍事政策の実質的な後継者とも言えると思われる、彼らイリリア人達による、コンスタンティヌス一世ら、コンスタンティヌス朝皇帝達であるが。だが、彼らのこの皇帝ガリエヌスに対する評価は、彼らと同時代の歴史家達などと同様に、かなり否定的なものであったことは、想像に難くない。彼らにとっては、皇帝ガリエヌスの存在など、その治世に、よりにもよって、帝国三分割を許してしまうなど、けしからん‼というような感じなのであろう。

 なお、ウァレリアヌスのキリスト教迫害について、その中心となって実行していた、フルウィウス・マクリアヌスだが。そしてこのディオニュシオスの「ヘルマモン宛て書簡」の中には、これはウァレリアヌスの下で、キリスト教迫害について、中心的な役割を果たしていたと思われる、マクリアヌスについて、仄めかしているのではないかと思われる記述がある。
「しかし、教師でかつエジプトの魔術師たちの会堂長が、汚れなく信心深い人々を除き、殺害し迫害するようウァレリアヌスに勧めた。というのは、彼の実に言語道断で忌み嫌うべき魔術の敵対者かつ妨害者だったからだ。(というのは、前からのことであるが、彼らは、そこにいて見ているだけで、そしてただ息を吹きかけ言葉をかけるだけで、悪霊を追い払うことができるからである。)さて彼は、ウァレリアヌスにみだらな奥義・忌むべきペテン・不吉ないけにえを執り行うよう勧めた。すなわち、哀れな少年の喉を切り裂き、不運な両親の子供たちを生贄にし、嬰児の内蔵を腑分けし、あたかもそれが幸運をもたらすかのごとく、神の被造物を切り刻むよう勧めたのだった」。

 まるで、こうした書き方を見ると、いかにも身の毛もよだつような、おぞましくて忌まわしい、邪悪な宗教ででもあるかのような書き振りだが、豊田氏はこの記述について、これはそのまま事実と考えるよりも、その儀式と思われるものの内容から、これは間接的に、エジプト魔術であり、また伝統的なローマの占卜でもあった、腸卜の事を、表しているのではないかと指摘している。しかし、いかに占いを行なうためとはいえ、このように生き物の肉体を切り裂くことで天意を探ろうとする、エジプトの魔術師達は、ただ息を吹きかけ言葉をかけるだけで事足りる、キリスト教祓魔師集団から見れば、とても容認しがたい存在であった。

 そしておそらく、彼らにこうした儀式を行なわせるのを、妨害しようとする行動に出た可能性が、考えられる。そして単なる祓いだけを目的とする、キリスト教祓魔師に比べ、未来を予知する腸卜師達の方が、為政者にとってより有益であると判断されたであろう事は、想像に難くない。更にそのような過程で、皇帝直属の祭司団内の勢力争いに破れたと思われる、こうしたキリスト教徒達の、宮廷からの追放へと繋がった可能性も考えられるという。

 

 更に他にも、このようにマクリアヌスには、その宗教的立場から、ウァレリアヌスのキリスト教迫害に加わる、積極的な理由が、元々あったのだとする、molthegenやオースト、bienert、アンダーソンらのマクリアヌスの、彼の宗教的立場についての考察もある。
そしてその理由として、これらの研究者達からも、当時エジプト総督であったマクリアヌスが、帝国内でも盛んに行なわれていたと考えられる、エジプトの占い師の行なう、エジプト魔術に、深い関心を抱いていたからではないかと考えられている。
更にガイガーも、マクリアヌスがキリスト教迫害に加わっていた理由としては、いまだにそういう可能性も、濃厚であると考えられている、と指摘している。
このように、マクリアヌスについては、彼と予想される、エジプトの秘教との関連性も、無視できない要素であるようである。また、更にこうした点については、ブレイも指摘しているように、正統な宗教は、あくまで自分達の信じるキリスト教である、という教会関係者達の意識も強く関係し、このような、異教徒、しかもどうやら、彼らの信仰するキリスト教とは、かなり毛色の違う感じの、エジプトの方の神秘的宗教に、傾倒していたらしいマクリアヌスについて、いかにも悪意ある感じの、否定的な記述となったのだろう。

 二六〇年六月の父ウァレリアヌスのペルシャ軍捕囚の報せを受けたガリエヌスは、おそらく二六〇年の七月頃に、キリスト教迫害中止命令を出させた。
この時、彼の父ウァレリアヌスが、彼らの共同の名前で築いたキリスト教迫害の、弾圧的な構造を分解する気持ちにさせられた、単独皇帝になってからのガリエヌス。ガリエヌスは、ウァレリアヌスの不幸のすぐ後、この方針を決定した。このキリスト教迫害をあきらめて。
しかし、この時のガリエヌスは、この法律の制定に関して、名ばかりだけであった可能性がある。なぜなら、父ウァレリアヌスの捕囚直後の、二六〇年の八月末と九月末に、帝国の西方属州と東方属州でそれぞれ、ポストゥムス、そして父のマクリアヌスと息子の小マクリアヌスとクイエトゥスの簒奪が発生し、ガリエヌスは同時に両属州の反乱鎮圧に、神経を使わなければならなかったからである。

 更にガリアの方ではポストゥムスにより、ガリエヌスの次男で当時コローニャ・アグリッピネンシス属州総督となっていたサロニヌス、そしてその後見役の近衛長官シルウァヌスまで殺害され、このポストゥムスへの対応には、しばらく悩まされる事となる。
そして東方から攻め上ってこようとする、マクリアヌス父子の方は、二六一年にドナウ流域のイリリクムで、ローマ軍の騎兵軍団隊長であった、アウレオルスにより撃退された。
これまで父のウァレリアヌスの迫害理由と共に、当時の乏しい史料からは、いまひとつ明確にはなっていない、この皇帝ガリエヌスの新たなキリスト教迫害停止の理由についても、これまで様々な議論が繰り広げられてきた。

 ブレイやガイガーは、このガリエヌスのキリスト教迫害停止については、これもこれまでその代表的な理由の一つとされた、東方属州で発生した、マクリアヌス父子の簒奪を阻止するためと強敵である、ペルシャ皇帝シャープール一世のキリスト教寛容政策により、帝国内のキリスト教徒が、ペルシャに走る危険を未然に阻止し、懐柔する必要からの、政治的理由を採っているようである。そしてこれらと同様の見方を採っている他の欧米の研究者や豊田氏のこうした見解に、私も同意する。また更に続けてブレイは、ウァレリアヌスのキリスト教迫害の原因や動機への言及及びガリエヌスの時代になってからの、一連のその政策転換について『ヒストリア・アウグスタ』などの、ラテン語、そしてその他のギリシャ語で書かれた各歴史書が、一切沈黙して言及していない事については、こう指摘する。「しかし、キリスト教迫害の終結のための感謝は、キリスト教の伝統において、彼の父が、その開始とその起訴にある、彼の名前の協会より少ない傑出を、引き受けるようだった。そしてコンスタンティヌスの時代に起こった、誰がキリスト教への賛辞への努力において、ガリエヌスは、明らかに相手より、上の札を出す事ができたのか。
コンスタンティヌスは、それを単に大目に見るだけでなく、支配的でもあるようにした。
更に、彼はクラウディウス・ゴティクスの系統を引くと思われた。ガリエヌスの後継者で、ガリエヌスに取って代わった人物。そしておそらく、四、五世紀の異教徒であるか、潜在的異教徒作家達。その中には『ヒストリア・アウグスタ』、そしてアウレリウス・ウィクトルとゾシモスなど。そしてこれら歴史書は、キリスト教の統治者の下で、ほとんどの場合、書かれている事。彼らはそれらについての言及を、避ける傾向がある。彼らは内心は賛成していた、三世紀の各皇帝達のキリスト教迫害を、非難したくはなかった。しかし、この時代にキリスト教を迫害した皇帝達に、記述の中で拍手を送る事は、安全ではなかったかもしれない。(おそらく、コンスタンティヌスの時代から、キリスト教が本格的な国家宗教として、扱われるようになったため。)従って、彼らはこの時代の皇帝達のキリスト教迫害について、無視している。彼らが皇帝ガリエヌスがキリスト教迫害を止めさせた事に対して、どんな信用でも、与えたという訳ではない。」

 つまり、アウレリウス・ウィクトルら異教作家達は本質的には、ウァレリアヌスなどのキリスト教迫害政策には賛成はしているものの、当時は既にコンスタンティヌス父子の時代に入り、キリスト教が公式に保護され、その宗教的地位も、浮上してきた時期であった。
そしておそらくそのために、三世紀の皇帝達の一連のキリスト教迫害には、触れようとしておらず、当然その後のガリエヌスのキリスト教迫害停止についても、同様に一切触れていないのだろうとブレイは見ているようである。確かにそうした可能性も、かなり考えられるのではないだろうか?

 特に中でも『ヒストリア・アウグスタ』は、ガリエヌスに対して、全体的に極めて、批判的・否定的傾向が強い歴史書である。また、このようにこの歴史書が一切、ガリエヌスのキリスト教公認について言及していない理由については、このように考察している。
おそらく、この著者が当時のガリエヌスのキリスト教迫害停止の正確な意図及び歴史的意義さえも、正確に認識していなかった可能性も、他の四世紀の同じ異教歴史家達と同様に、高いのではないだろうか。そしてこれも以下のブレイの意見によると、四世紀の教会著述家達は、ガリエヌスがキリスト教迫害を停止した、正確な意図を一切理解しておらず、またその意義も、一向に正当に評価しようとはせず、ただ、異教歴史家達が強調している、堕落した皇帝という、ガリエヌスについての、否定的な見方だけを引き継いだとする。

 ブレイの以下の、指摘である。
「そしてそれはおそらく、彼ら教会著述家達の不快感の、更なる原因だった。実証例の場合を除いて、同時期の教会著述家達は、ガリエヌスに興味を持っていない。
彼の命令に言及する時、彼らは冷笑的な姿勢を見せる。または最高に冷淡で、不承不承の言葉で。更に、ラテン語で書かれているそれらは、ガリエヌスに対して敵対的な伝統を受け継いだ。ラクタンティウスは『迫害者たちの死』の中で、それがウァレリアヌスが受けた罰の苦々しさに加えたと、言う事ができるだけである。しかし、彼には息子の皇帝がいた。それでも、彼は復讐者を見つけなかった。聖アンブロシウスは、共にウァレリアヌスとガリエヌスを、神の然るべき罰の対象とみなす。一つはウァレリアヌスの、その不名誉な捕囚により。更にその他は、その息子ガリエヌスの贅沢と悪徳を通して、世界の帝国を失う事によって。そして彼自身のラテン語翻訳の追加で飾られる、聖ヒエロニムスによる、エウセビウスの『年代記』。その「オリンピア紀」の、二五九年の下で。「ペルシャに捕囚にされたウァレリアヌス。そしてガリエヌスは、我々に平和を回復した。しかし、ガリエヌスが全ての好色に蕩かされている間、ゲルマン人がラウェンナまで来たという報せにより、彼は間もなく、それを追いかけた。」こうして彼が意図的に、数年後までに、日付を遅らせた出来事。そしてオロシウスは、彼ら全員の中で、最も不親切である。「ガリエヌス。」彼は言う。彼が『trepidasatistactione』で教会に平和を回復したように、神の判断と彼の仲間の悲惨な運命によって怖れた。彼の神への怯えから、行なわれた補償。しかし、処置はまだ十分ではなかった。聖者の血は、まだ報いられていなかった。それは、更なる復讐のために、世界から訪問した。それでバランスは、侵入と強奪によって、作られなければならかった。」「そしてその人物は、そのガリエヌスについてこう言う。「その顕著な審判によって怖れを抱いた、彼の父なる神への。」「そして我々への、回復された平和。」

 しかし、これは明らかに、この聖ヒエロニムスによって、創作されたフレーズである。
「しかし、それでも。彼自身の欲望または彼の父のもののため、それらであるかどうかに関わらず、神との戦い。数えきれない蛮族によって、ローマ世界が圧倒される事に、承伏しなければならなかった。」それは、そのシュンケロスとゾナラスを、驚かせているようである。
ギリシャの故キリスト教徒の書記は、一体誰だったのか、そして、誰がガリエヌスの元老院での肖像を、受け継がなかったか。たが、そのガリエヌスがキリスト教迫害を止める事に言及すると、わかってはいけなかった。シュンケロスは、ウァレリアヌスとマクリアヌスの上で、司教ディオニシュオスを再現する。ウァレリアヌスが、キリスト教徒の激しい迫害を開始したと、ゾナラスは単に述べる。オロシウスの冷笑は、迫害停止のための、ガリエヌスの動機の問題に、繋がっている。この上で多くが言われた事。」
以上のブレイの指摘である。また、このガリエヌスの反キリスト教の措置の廃止について、ヒエロニムスは簡単に報告するだけである。「ウァレリアヌスのペルシャ捕囚により、ガリエヌスが私達に平和を回復させた。」そして、オロシウス。「そしてガリエヌスは神の明確な審判に怯え。そしてそれにより、私の同胞達に憐れみの気持ちを起こし。その恐れから、償いとして、教会の平和を回復させた。」そして更にラクタンティウスのみが、この時のウァレリアヌス捕囚による、ガリエヌスの教会財産の返還について多少変更を加えて、その時のガリエヌスの名前さえも、記していない。

 こうした、父皇帝ウァレリアヌス捕囚後の、急激なキリスト教政策の転換は、こうしてガリエヌスが神の罰に怯えたせいだ、という事にさせるにしても、徹底的に、ガリエヌスがこのキリスト教迫害停止とこの教会財産返還に、直接関わっている皇帝であるという事にさえも、したくなかったからだろうか。そして上記のような、教会著述者達の冷淡で不公平な態度の理由についての、ブレイの考察であるが。しかしそれでもまだ、私の中では、こうした教会著述者達の、このキリスト教の迫害を本格的に終結させ、更にキリスト教の公認までを行なっている、この皇帝ガリエヌスについての、教会著述者達の否定的な記述には、その理由についての疑問が残る。
事実上、その治世において本格的にそれまでのキリスト教迫害を中止させ、なおかつ、コンスタンティヌス一世に先駆けて、キリスト教の公認を決定した皇帝であるガリエヌスは、彼ら教会著述家達から、むしろ感謝されてもいいくらいであると思うのだが。
だが『ヒストリア・アウグスタ』と大して変らない、その歪曲と悪意漲る筆致からも明らかに見て取れる、ガリエヌスについての、彼らのこの冷淡さや不公平さは、どうした事だろうか?

 どうもこのガリエヌスのキリスト教迫害中止及びそれに続く、キリスト教公認についてのその意義と功績を、正確に理解して感謝する事ができた教会著述家は、ガリエヌスと同時代人である、アレクサンドレイア司教ディオニュシオスくらいであったようである。
しかし、事実上、ガリエヌスがキリスト教公認をした、最初の皇帝であるという理解まではできなくとも、ガリエヌスがキリスト教迫害の停止をさせた事は、彼らディオニュシオス以降の教会著述家達も、認めざるを得ない、衆知の事実であるはずである。
だが、この事でさえ、彼らはキリスト教徒でもない皇帝ガリエヌスが、神キリストの罰により、父の皇帝ウァレリアヌスが敵のペルシャに捕らわれた事に、恐れをなしたからだと、的外れも甚だしい解釈を、しているのである。

 このように、彼の皇帝としての、キリスト教との関わりが正式に認められ、具体的に四世紀の歴史書の中でも、そのような認識の上で記述がされていない形跡が見られる。
そしてこのガリエヌスと同様に、そのキリスト教との関わりが、不当に無視されている傾向である三世紀の軍人皇帝が、他にもいる。しかもこちらの場合は、キリスト教迫害の停止や最初のキリスト教公認どころか、皇帝自らがキリスト教徒だったともされている、フィリップス・アラブスである。そしてなぜ、事実上、ローマ帝国における、最初のキリスト教公認皇帝としてもよいガリエヌスが、このように、教会著述家達からも、この事実を正確に認識されていないようであるのか探るためには、先になぜ、フィリップス・アラブスがこのような扱いを受けているのか?という点から、先に考察する事が必要だと思われる。

 この点に関しての、豊田浩志氏の意見である。この中で豊田氏は、確かに彼はその治世中に、目立って親キリスト教的な政策は取ってはいないものの、当時の様々な痕跡から総合的に判断して、これまで疑問視もされ続けてきた、教会著述家達が口々に仄めかす、皇帝フィリップス・アラブスはキリスト教皇帝だったという伝承は事実だと思われる。そして、やはり彼は、実際にも広義の意味で、キリスト教皇帝だったと認めていいのではないか?との見解を示している。
確かに自身の『教会史』の中で、エウセビオスはフィリップス・アラブスが最初のキリスト教皇帝であった事を思わせる記述をしていながらも、その三十数年後には、自著の「コンスタンティヌス大帝伝」などの中で、皇帝コンスタンティスヌを最初のキリスト教皇帝だったと言明している事実などもあるが、かといって、このエウセビオスが暗示している、実際にはフィリップス・アラブスが最初のキリスト教皇帝だったようである事を窺わせる記述の内容自体は、けして軽く扱われたり、否定されるようなものではないとしている。
そして、やはり、こういった形跡も、皇帝コンスタンティヌス一世が「大帝」にされていく過程で、彼らイリリア人軍人皇帝の系譜に連ならない、前任皇帝フィリップス・アラブスが、何かと不利な扱いを受けるようになっていった事の、現われではないか?というように、指摘している。豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年、PP.157―163

 つまり、豊田氏によると、果たして皇帝フィリップス・アラブスは本当にキリスト教皇帝であったのか否か?という問題について、様々な考察や検証を経た結果、改めて、同時代の直接史料であるオリゲネス(エウセビオス)史料、そしてアンティオケイア伝承、更にアレクサンドレイア司教ディオニュシオスの証言を、積極的に否定する根拠は、何もないという結論に達したという。そしてこれは私も既に指摘してきたように、『ヒストリア・アウグスタ』の中で、フィリップス・アラブスのその、カルピ族への勝利やペルシャとの講和条約の締結など、彼のそれなりの皇帝としての功績は不当に無視され、悪行の記述とその人格や日頃の様子への批判のみに終始し、また彼とキリスト教との関連についても、一切触れられていない。

 こうした反フィリップス傾向が濃厚に認められる傾向も、当時の独裁専制君主コンスタンティヌスに追随し、そうした歴史的事実を歪曲ないし無視しようとした異教著述家達の作為が、そうさせる事になったのだとは言えないだろうか?との問題提起をしている。
そしてその一方では、教会著述家達は、エウセビオスの「コンスタンティヌス大帝伝」などの執筆などにも見られる、コンスタンティヌス神話創設では彼ら異教著述家達と歩調を合わせる事になったものの、不必要に媚びずにすむ彼らの立場から、むしろフィリップス・アラブスのキリスト教皇帝の記事が、不用意に生き残る事となり得たのも当然といえば当然の事であったと述べている。

 また更に豊田氏は続けて、むしろこれまでの、フィリップス・アラブスを、実際にキリスト教皇帝だと認定するための定義付けの方が、あまりにも厳格過ぎたのではないのか?としているのである。そして三世紀の軍人皇帝時代という、厳しく不安定で複雑な時代の中で、当時の皇帝達が、何よりも当時の皇帝達の至上命題となっていた、政権維持のためには、利用できるものは、それこそ自身の信仰であるキリスト教だろうが、何であろうが、最大限に利用しようとするのは当然である。更に何よりも軍人であり、また帝国の諸問題の解決を求められていた政治家であったフィリップス・アラブスに対し、いかにも模範的なキリスト教皇帝像を求める方が、非現実的であり、あまり意味がないとしている。豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年、PP.164―166


確かに、同様の事は私も既にこの章で指摘しているが、豊田氏も触れているように、このフィリップス・アラブスも、『ヒストリア・アウグスタ』ではかなり否定的に扱われており、彼単独の名前での伝記さえも載せられていない上に、ゴルディアヌス三世だけではなく、その義父で後見役でもあったティメシウス殺害の疑いまでをも、かけられている。
そして更に私は、いずれも短命政権であった他の皇帝達の、デキウス、ガルス、アエミリアヌスなどと並んで、フィリップス・アラブス単独の伝記が存在していない事も、これらの皇帝達の同様の可能性も疑われる事と同じく、これは史料的な欠落というよりも、彼らについての独立した章が、あらかじめ書かれなかった可能性も、かなり高いのではないか?という印象も、感じている。このように、彼ら皇帝達の伝記が抜け落ちている事については、これは単なる史料的欠落なのか、あるいは初めから書かれなかったのかについては、実際に、現在でもいろいろと、議論があるようではあるが。しかし例えば、ガイガーの指摘の印象も、どうも故意に最初から、彼らの単独の伝記が、書かれなかった疑いも、かなり強いと見ているようにも感じる。

 そして、このように私も触れているように、ゴルディアヌス三世の死は、これはフィリップス・アラブスが、元老院に選ばれた皇帝ではなく、遠征軍に選ばれた皇帝であり、彼ら元老院が事後承認をせざるを得なかった時点で、既に元老院の不興を買っていたらしい事。
また、ローマにとっては屈辱的ともいえる条件で、ペルシャとの講和を結んだ事、これらいずれもが元老院の神経を逆撫でするものであり、その結果、多くのギリシャやローマの歴史家達による、ゴルディアヌス三世の死はフィリップス・アラブスの陰謀説だという報告がされるようになったと考えられる事。このように、ゴルディアヌス三世の死は陰謀ではなく、戦病死と考えられるようであるし、フィリップス・アラブスの、このティメシウス殺害も、信憑性は低いとされている。更に、彼のカルピ族に対する勝利や、ペルシャとの講和条約締結については、これらの歴史書の中で、一切触れられてはいない。

 そして『ヒストリア・アウグスタ』の中では、これもガリエヌスの即位十周年記念祭の時と同様、自分の個人的な楽しみのためだけに、ローマ建国一千年即位記念を、行なったように書かれている。フィリップス・アラブスは、暴君として、全く、悪い事しかしていないように、描かれている。しかし、彼のこの行動も、現代の研究では、ガリエヌスの即位十周年記念祭の場合と同じく、皇帝としての政権維持のための、政治的意図に基づいての事だと考えられている。
それから『ヒストリア・アウグスタ』やゾシモスの『新ローマ史』などは、フィリップス・アラブスについて卑賤な出と伝えているが、現在の研究者達の指摘によると、おそらくこれは古代人のアラブに対する偏見から生じたものに過ぎず、実際は富裕な階層の出であろうと見られているようである。ただ、ガリエヌスと交流のあった哲学者プロティノスの弟子ポルピュリオスが後に書いた『エネアデス』の中での、彼の師のプロティノス自身が語ったとされている自伝によると、ゴルディアヌス三世がメソポタミアで殺害された後、プロティノスは危うい所をやっとアンティオキアに逃れて助かったとされているので、当時からゴルディアヌス三世の死は、フィリップス・アラブスによる謀殺という根強い噂、もしくはあるいはこれは事実であった可能性も、あるのかもしれない。

 一軍人の立場から、その軍事的能力と強運により、皇帝にまで昇りつめるだけあって、例え実際にはフィリップス・アラブスが、ゴルディアヌス三世を謀殺してはいなかったにしても、あの人物なら、皇帝の謀殺さえやりかねないとの疑いが持たれてしまうくらいの、それなりに、アクの強い人物ではあったのではあろう。しかし、もし本当にフィリップス・アラブスによる、ゴルディアヌス三世の謀殺が事実であったにせよ、上述のように、その戦果が不当に無視されていたり、さも無能な暴君であるかのように描かれていたり、独立した伝記さえないなど、明らかに『ヒストリア・アウグスタ』の中での、フィリップス・アラブスの扱いが悪いのは、やはり、私にはこれは彼が、イリリア人皇帝の流れを汲まない皇帝である、という事が大きく関係していると思われる。どうも私がこれまで見てきた中でも『ヒストリア・アウグスタ』の中で、この三世紀の軍人皇帝達の内、イリリア人系軍人皇帝達は、手放しの称讃調で記述されている傾向なのに比べて、それ以外の軍人皇帝達は、フィリップス・アラブスやガリエヌスの描かれ方を見てもわかるように、明らかに扱いが悪いのである。また、彼のように単独の伝記が載せられていないばかりか、上記の彼以外の、同様の立場であるデキウス、ガルス、アエミリアヌスら三世紀の軍人皇帝達も、最初から、一切の関連記事さえも書かれていない疑いも、かなり強いと思われるし。

 それはたまに、彼らのようなイリリア系ではない軍人皇帝達でも、ゴルディアヌス三世やウァレリアヌスなど、好意的に書かれている事もあるが。しかしその場合でも、私には著者の狙いは、もっと別の所にあるような気がして、ならないのである。更に注目すべきは、極めて好意的に書かれている彼らに続いて、フィリップス・アラブス、そしてウァレリアヌスの方はガリエヌスと、すかさず、かなり否定的に描かれている皇帝達が、続く事である。
私はこうした記述の傾向は、善帝そして悪帝という、対比効果を狙っての記事配列だと考えられる。それから、やはり、イリリア人系軍人皇帝ではないのに、『ヒストリア・アウグスタ』の中で好意的に書かれている、その例外の軍人皇帝としては、他にタキトゥスがいるが、これは既に指摘もされているように、彼が過去の元老院議員で歴史家でもあった、タキトゥスの子孫と勘違いされて、好意的に書かれたのだろう。
更にこうした『ヒストリア・アウグスタ』の、この種の事実誤認も、枚挙に暇がない。
そして実際には、このタキトゥスは、軍務経験が豊かなタイプの元老院議員であった可能性は、かなり考えられるが、歴史家としても著名なタキトゥスとは、一切関係がないようである。

 そしてこの『ヒストリア・アウグスタ』のこうした点については、ガイガーの指摘にもあるように、ガリエヌスと並んで、かなり否定的に描かれている、カリヌスについては、ガリエヌスの時以上に、何かと下卑た感じの描写が満載であり、その性的な放縦さ、乱れた私生活の強調され具合は、ガリエヌス以上の、描かれ方かもしれない。例によって俳優、娼婦など、ガリエヌスについての批判と同様の言葉も見られるし「彼はリンゴとメロンの海の中を泳ぎまわり、ミラノから運ばせたバラの花びらを宴会場と寝室に撒き散らした。彼が使っていた浴室は、いつも地下室の空気より冷たくしてあった。しかも、浴槽は必ず雪で冷やされていた。」辺りのくだりなど、ガリエヌスの章での、その乱れた退廃的な生活を語る、同種の批判的描写の使い回しかと思う程である。やはり、これは彼がディオクレティアヌスのライバルであったため、貶められて、かなり否定的に描かれている可能性が高いのだろう。
更にまた、これらの数々の描写の特徴からもわかる通り、この『ヒストリア・アウグスタ』というのは、露骨にコンスタンティヌス朝側に立った、政治イデオロギー、プロパガンダの要素が、何かと感じられる歴史書である。

 そしてこのガリエヌスも、このフィリップス・アラブス同様『ヒストリア・アウグスタ』の中でも、大変に称讃されて描かれている、クラウディウスやアウレリアヌス、プロブス、そしてひいてはコンスタンティヌス大帝にも繋がる、イリリア人系軍人皇帝ではないという点では、共通している。更に前述のように、豊田氏がフィリップス・アラブスについて指摘している、同じような一連の背景により、彼も最初のキリスト教公認皇帝としての名誉を、後の皇帝コンスタンティヌス一世に、奪われてしまったという事ではないだろうか? 
なおこの点については、これから後の「第十三章 ガリエヌスとギリシャとの関わり、哲学者プロティノスとの交流」で、更に詳しく述べる事にするが、二九七年のコンスタンティヌス一世の父コンスタンティウス一世による、ガリア北部とブリタニア回復を祝って、典型的な堕落した無能な皇帝ガリエヌスの治世のひどさと比べ、いかにコンスタンティウスらの皇帝達及びその治世が素晴らしいかを賛美する、トリーアでの、ガリア出身の賛辞献呈者によって行なわれた『ラテン頌詞』の演説がある。

 そしてそのラテン頌詞などの中でも明らかな、これも同時にコンスタンティヌスや教会著述家関係者周辺で行なわれた、ガリエヌスの無能さを強調する事で、コンスタンティヌス朝を称讃する、プロパガンダもあり、余計にそういう流れとなったのではないかと考えられる。そして彼らのいずれも、皇帝ディオクレティアヌス以降の時代に活躍した、教会著述家達であり、やはり、こうした四世紀の教会著述家達の間でも、悪名高いネロやカリグラなどと並ぶ、典型的な堕落したローマ皇帝に、ガリエヌヌスは仕立て上げられてしまったのではないだろうか?
再び、本題は皇帝ガリエヌスとキリスト教公認の問題へと戻るが。このブレイが紹介している、この問題についての、これまでの研究者達の見解である。

 十九世紀と二〇世紀前半の、ローマ史研究の権威達。それまで彼らが『ヒストリア・ アウグスタ』の、愚かな皇帝としての、ガリエヌスの否定的な肖像を、無批判に受け入れていた事。そして彼の一連のこういう皇帝としての不真面目な態度を、その生来の無頓着さのためだとしていた傾向がある。そしてその怠慢、怠惰、無能さの。これらの特徴。それは、時々提案される。しかし、その後のオモとアルフェルディの業績を通しての、ガリエヌスのある程度の再評価の後、新たに他の説明が、必要になった。(特にアルフェルディは、ガリエヌスに関するコインの徹底的な調査を行ない、それまで『ヒストリア・アウグスタ』などで、大変否定的に描写されている姿がそのまま事実として受け入れられ、それまで極めて低く評価されていた、皇帝ガリエヌスについて「偉大な皇帝」として、初めて本格的な再評価の必要性を主張した、代表的な研究者でもある。)diesemhochbegabten名士。この新興宗教のキリスト教がローマの伝統に提示した、危険を認める事ができなかった。しかし、彼は、それ程純朴ではなかった。ローマの伝統との彼の関連。レギブスは言う。「彼が単なるキリスト教徒への同情だけから、行動したはずはないが、キリスト教徒だと思われる、サロニナの影響に、単に弱々しく屈したはずがない。」
 (現在ではガリエヌスの皇后サロニナが、キリスト教徒だったとの、確定はされていない。また豊田氏も、その可能性を指摘するのなら、むしろウァレリアヌスの妻のエグナティア・マリニアナの方にこそ、そうした可能性が、大いに考えられると指摘している。)
そしてマンニによれば「蛮族の侵入と略奪に直面した内部の治癒と政府が、キリスト教徒を忠実で誠実な国民に変化させる事ができるという、望みの必要のため」と、レギプスとマンニは、ガリエヌスのキリスト教徒迫害停止の理由付けをしている。
一方、これに対しアルフェルディは、ずっと印象的な説明をしている。
「帝国が外科医よりも、むしろ医者の方法によって、キリスト教の脅威から、最も保護される事ができるという結論に、ガリエヌスが達した、そして、効果的な下剤が知識人のための、プロティノスの原理であると、彼は考える。そして、彼の残りの生涯の間の、エレウシスの秘儀への参加。」。

彼らの、皇帝ガリエヌスのキリスト教寛容政策への、方針転換の理由についての考察について、ブレイはこう考えている。「このアルフェルディの刺激と興奮を与える意見を、若干の詳細で検討する。私の考えでは誤っているが。私が信条とガリエヌスの哲学の展望に、対処する理論。それは、私がガリエヌスを考えると、ここで言うのに十分である。彼は、新しくてファッショナブルな形而上学として、プロティノスの教えに、折衷主義者の関心だけがあった。全く、エレウシスの秘儀は、当時は独占的な貴族的な事だった。またド・ブロワは、以下の通りに、自分の意見を要約している。「私の結論は以下の通りである。彼が帝国で数々のトラブルの元を、少しでも和らげたかったので、ガリエヌスはウァレリアヌスのキリスト教徒への迫害に終止符を打った。帝国の東部でのマクリアヌスの簒奪への対応、そして彼ら東方属州のキリスト教徒がペルシャに亡命し、ペルシャ国民になってしまうのを、防ぎたかったため。そしてキリスト教徒の迫害は、彼の皇帝の地位の彼の概念からすると、力ずくで行なうのは、相応しくはなかった、そして、彼はキリスト教の神の復讐を恐れたのだろう。」

 そしてブレイはこれを受けて、こう続けている。「私は、レギブスに多く同意する。マンニとアルフェルディは、私も彼らの各々が言ったもののより、大きな部分とさえ一致しないと言った。そして、私は彼らとの違いを強調する。」。
続けてブレイは、更に自分のガリエヌスがキリスト教寛容政策に方針を転換した理由について、自分の意見をこう述べている。「私は、彼の皇帝の地位の、ガリエヌスの概念への彼の言及において、ド・ブロワに必ずしも続かない。彼自身の神々との同一化の強調とそのいろいろな神から享受した保護に、彼は言及している。識別。そして、祈り。コインの上で多彩な神に断言されていた事に対する、どんな本当の信頼よりも、むしろ大衆の忠誠を命じる、若干のカリスマ的なイメージのために、周りの必死の買い物を示唆する。しかし、これは、予測できる事である。彼が当時危険に晒されていた帝国に、平和と修復をもたらす事を望んだためという、ド・レギブスとド・ブロワに、私は同意する。蛮族によってもたらされる帝国の損害を修復し、将来の攻撃に対処する準備をするために、キリスト教徒を苦しめる事に費やすそれから、政府が彼らの精力を変更しなければならない、方針上の非常に正当な理由が、あった。強制的な一致の方針は、失敗した。調和した多様性の方針は、より良い運を持つかもしれない。」

 この皇帝ガリエヌスの単独統治時代に入ってからの、キリスト教迫害政策の大きな転換について、有力な証拠の一つとして注目されているのは、以下のエウセビオスの『教会史』の第七巻 十三章の以下の箇所である。「だが、その後まもなくウァレリアヌスが異邦人に捕えられると、彼の息子はより分別ある単独支配により、統治を行った。そしてただちに告示によって、我々に対する迫害を中止し、御言葉を司っている人々に、彼らの日々の務めを自由に果たしてよい旨、勅答令により指令した。それは以下のごときものだった。」
それから、エウセビオスはこの答書を陳列した。答書は、指示の申立て書または要請に対する返事で。この文書は、皇帝の慈悲に、帝国の大法官庁の製図で、より多くの信用をもたらす。
そして二六〇年のこの皇帝ガリエヌスの「キリスト教公認勅答令」により、キリスト教徒への迫害は、止められた。「インペラトルにしてカエサルのプブリウス=リキニウス=ガリエヌス、敬虔にして至福なるアウグストゥスは、ディオニュシオス、ピンナス、デメトリオス、そして他の司教たちに(答うる)。予は予の寛大さの慈愛を全世界に及ぼすため、宗教的礼拝の場所から(彼らは)退去すべき宣旨指令した。よって汝らもまた予の勅答令の写しを利用してよい。したがって何人も汝らに干渉しないだろう。汝らの権限で行使可能なこの件は、すでに以前より予に承認されてきたことである。よって経理事務局長アウレリウス=クイリニウスは、予が示した写しを遵守せねばならない。」

 ローマ帝国元首政下での勅法体系は大別して、「告示」、「裁決」、「勅答令」、「訓令」があった。このアウレリウス=クイリニウスという人物は、この勅答令の宛先人の一人である、ディオニシュオスがアレクサンドレイア司教である事から考えて、エジプト属州の地方官吏職と推定される。そしてこのガリエヌスのキリスト教迫害停止と共に、キリスト教を公認したとも取れる、この勅答令である。更にガリエヌスの出した、もう一つの勅法が存在している。それはアレクサンドリア司教ディオニュシオスら以外の、別の司教達に向けて宛てられ、コエメテリアを返還する事を認可している。しかし、エウセビオスが『教会史』の中で、この時ガリエヌスが出したとされる、これら一連の「ガリエヌス勅令」については、欧米研究間においてさえ、見解の一致、そして用語的確定にすら、至っていなかったという。この場合の要点は、エウセビオスの叙述の内容分析の際に問題となるのは、ガリエヌスが教会に宛てた勅法の種類と数を、どう把握するのかという点についてである。

 ここで豊田氏は、これまではまずガリエヌスによって「告示」が、次いでディオニュシオスら宛て「勅答令」が出され、また別の司教宛ての「勅法」もあったという見解であったと指摘する。そしてアンダーソンの更にkeresztesの見解を次々と検討・検証している。
「まずアンダーソンの二六〇年に発布されたのは、中段で暗示されている「勅答令」で、他にも下段で出てくる「訓令」などもあった。そして中段のディオニュシオスら宛て文書こそが「告示」そのものであった。そしてマクリアヌス、アエミリアヌスの反乱下で、ディオニュシオスが親ガリエヌス的政治的立場を維持したことについて報いるため、ガリエヌスは二六二年の段階で「告示」を発布したというものについてである。更に続いてはkeresztesの見解である。これによるとまず迫害中止の「告示」が出され、その後ただちに礼拝地返還命令の「勅答令」が出され、更に墓地返還を認めた勅法が存在し、その他にディオニュシオスら宛て勅答令もあったとするものである。まず、最初のアンダーソンの説についてであるが、確かにアレクサンドレイア司教ディオニュシオスは親ガリエヌス的傾向の持ち主ではあったが、だからといってその彼の態度や行動がガリエヌスに「告示」を出させる程に影響力があったとは、俄かに断定しがたいと疑問を示している。そして続いてkeresztesの説についてだが、一見極めて妥当と思える主張だが、これもエウゼビオスの叙述を詳細に検討すると、これすらも問題が残ると言わざるを得ないとしている。」豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』 南窓社、一九九四年、pp.231-235
 そして豊田氏は、以下の点に注目しながら、考察を進めている。 
エウセビオスの『教会史』第七巻第十三章」によると、ガリエヌスは父の捕囚後直ちに迫害中止の告示を示し、ついで信教の自由を認める勅答令を出した。これが司教団の陳情に対する「返書」だったのか、出先官憲先の「伺」に対する、「勅書」だったのかは、明らかではない。
そして続いて、中断で引用転載されているディオニュシオスら宛て勅答令は、決して宗教的自由を認めた先の勅答令そのものの転載ではなく、迫害中に没収された教会の宗教上の建造物返還に関するもの。(この場合は確実に司教団による陳情への返書)で、しかも明らかにそれはそれ以前にそれを許可した勅答令を踏まえて発布されたものである点。そして最後にエウセビオスは、他の司教達宛てに送付されたもう一つの勅法について触れている点。
これは内容的にはディオニュシオスら宛て勅答令と同様のものであり、教会専用墓地の返還を認可したもの。そして最も肝心な点である、ガリエヌスの単独治世中に、キリスト教は公認宗教団体になったのか?という点に、彼の論旨は移る。

 しかし、この点についてもやはり、これまでに研究者達による、様々な議論がある。
そしてこれまで、彼の時代にキリスト教が公認宗教団体になったという立場を示している研究者としては、マギファート、keresztes、メイソン、アルフェルディ、デフェッラレーリ、ソルディらなどがいる。そしてその根拠としては、こうした形で皇帝ガリエヌスは、教会に財産所有を認めているので、単に迫害中止という段階と考えられない、という点にある。
またガイガーも、エウセビオスも『教会史』の第七巻の十三章の中で引用している、ガリエヌスがキリスト教の迫害停止と信教の自由などを認める勅令を出した事について触れている「ヘルマモン宛て書簡」の内容を紹介した後、「ガリエヌスは、父親のこれまでの反キリスト教の政策を、ペルシャによる彼の捕囚後、見直した。おそらく、その勅令の形態について。非常にすぐに。おそらく二六〇年七月に。そしてもしそうであれば、これらの返還が、それまでのキリスト教徒の古い法的状況から、キリスト教の直接的または間接的な承認ヘと、大幅に変更された事に連結していた」と述べている。

 

 このガイガーも、やはり、上記の研究者達と同様の理由から、ガリエヌスの時代に、ローマ帝国のキリスト教政策が、大々的な変化を遂げたと見ているようである。

またブレイも、この彼ら研究者の見解について、少し紹介している。
 「キリスト教徒の情勢に、アレクサンドレイア司教ディオニュシオスが、最大の関心を持っているパピルスに、マンニは言及する。ガリエヌスの治世の終わりの後の二、三年以内に、皇帝アウレリアヌスは、アンティオキアの法定司教である、サモサタの異端的なパウロスの主張について判決を下して、ローマの司教によって、そして、イタリアに確立された規則その他によって、教会が管理されなければならないと定めている。彼らの決定が、追い立てられなければならないパウロスに対してあったと、見る。これが、果たしてキリスト教が「公認宗教」になった事を意味しているのか?一部の専門家は、それがされたと考える。アルフェルディは、それについて『完全な新しい出発』と言っている。『国の社会政策の完全な革命。』・『キリスト教の最初の合法化』。ガリエヌスが『キリスト教に、存在する法的権利を与えた』と、ソルディは考える。
旧反キリスト教の法律が廃止される、まさにその事によって、今後、国によって、または、民間の個人によって、キリスト教徒に罪を負わせるという方法は、もはや使われる事ができなかった。」

 しかしこうした見解は、これまでは全体的に少数派で、大部分の研究者は、ガリエヌスはデキウス、ウァレリアヌス以前の状況に戻しただけで、当時教会はまだなお未公認団体だったと考えられてきたという。その理由として挙げられてきたのは、カエサレイアの兵士マリノスの殉教だった。だがこれも解釈によって反論可能なものであり、ガイガーもこのマリノスのケースは、おそらく、殉教のためというより、軍規違反による処刑ではないか?と見ており、やはり、現在では、これは根拠としては、あまり有力なものではなくなってきているようである。
そこで豊田氏は更にド・ブロワの見解を紹介し、この問題についての、更なる検証を試みている。それによると、ガリエヌスが財産を返還したのは教会共同体の長としての司教にではなく、私的性格を持った葬儀組合の代表者としての彼らに対してであったとみなし、従って教会財産返還をもって公認された証とはならない、と主張するものである。
これに対して豊田氏の以下の指摘である。教会の宗教上の建造物の返還を認めた「勅答令」の内容を再確認した、ディオニュシオスら宛ての「勅答令」や教会専用墓地の返還を認めた別の司教ら宛ての「勅法」が何より司教団に宛てられているという事実は決して無視されてはならない。更に約十年後に、サモサタのパウロス問題で教会会議が当時皇帝となっていた、アウレリアヌスに対して提訴を行なうことができたという事実にも注目し、この事実程、教会の法的地位の確立を雄弁に物語っている例はないと述べている。」
 豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』 南窓社、1994年、PP.231―235



 また、これと関連して、ガイガーもこの点について、取り上げている。
 「エウセビオスは、キリスト教徒に与えられた、更に大きな自由として、テトラルキア時代の迫害の前の、数十年間のキリスト教の成功を説明している。兵士マリノスの殉教は、軍の規律の違反に起因している可能性の方が、より高いこれは、キリスト教についての直接的な公認、または少なくとも事実上の公認という、法的状況の大きな変化を、明確に物語っている。そしてより多くのポイントとしては、アウレリアヌス下での、サモサタのパウロスの裁判と三一一年のガレリウス勅令についての言い回しが記載されている事。「キリスト教徒についての訓戒」。
この文言が、後のキリスト教についての法的状況を、現行の迫害を開始する前に、再導入された。これはまた、カエサレイアのエウセビオスによって、補足されている。
ガレリウスは、唯一の古い状態が復元する時。これを意味する必要があった。キリスト教徒である告白は、以前に既に公然と認めるようになっていた事。
ガリエヌスの法律に、戻る事ができる。またラクタンティウスは、コンスタンティヌス一世の、キリスト教についての措置に関連して語る。「これは神聖な宗教の復活についての、始まりである」「restitutae」は、特定の状態の回復を指している。これは再びキリスト教の以前の、法的認識に関係する可能性があった。また、マクセンティウスに関して、ミレウィスのオプタトゥスが挙げている、キリスト教徒の自由。その回復。更にマクセンティウスが司教に、ガリエヌス同様に、教会の財産を返還するようになっている事。そしてローマの新しい司教の任命を指標として、二六〇年七月二十二日にガリエヌスが関係者と相談しなければならない事。既に予想されるローマの新しい司教の確立のための、十分な理由となっている。それが顕著である。」

 そして引き続き、豊田氏も、上記のような、この状況証拠が、この時キリスト教が公認宗教団体になった事を示しているとしている。また更に続く問題点として、ここでの問題は、教会を公認した何らかの法文書が出されたのか、そしてその場合、「告示」だったのか、教会に信教の自由を認めるという内容のように、勅答令だったのか、または事実上の黙認に過ぎなかったのかと、更に考察を進めている。そして豊田氏は、最終的には「勅答令」という形で公認を認めた法文書が発行されたと結論づけている。その根拠としては、なぜならばキリスト教の迫害中止令は、それだけでも存在し得るからである、そして厳密に言えば中止は「中断」であって、時期が到来すれば再開の可能性も秘めている。従って中止したからといって、直ちに没収した教会財産を返還する必然性は生じない点を指摘する。

 しかし現実にはそれらの返還を証明する法文書の数々が発布されている、そしてそのためには単なる「迫害中止」に留まらず、それ以上に「原状復帰」の法的処置が採られたと過程せざるを得ない。そしてそれが、教会に信教の自由を認めた、「勅答令」だった。更にこの事により、「黙認」の次元をはるかに越えた状況が教会の前途に開ける事となったと考察する。しかし、更に進んで、事の性格上このような場合には、「勅答令」よりも、「告示」という法形式が相応しいとの反問が可能である可能性についても検討し、しかし、それへの回答としては、ガリエヌスがキリスト教の公認を認めるにあたり、なぜ「告示」ではなくて「勅答令」という形を採用したのか?   

 この点については、おそらく、ガリエヌス個人の政治的思惑や、これとも密接に絡み合っていると思われる、当時の帝国を巡る諸情勢も、大いに関係していた可能性についても、指摘している。ガリエヌスが父皇帝ウァレリアヌスが行なっていたキリスト教迫害を彼のペルシャ捕囚後に中止させ、キリスト教公認の勅答令を出させた当時、彼にとっての最大の課題は、帝国の東西において時々刻々と進行しつつあった、各属州の総督達や将軍達などの人心離反の動きを可能な限り封じ込める事にあった点に、注目する。そしてそのために試みられた諸策の一つが、このガリエヌスのキリスト教の迫害中止と信教の自由の認可であったと見る。
そして元来が、おそらく反キリスト教的なマクリアヌスに、有効な打撃を与えるため。
更に宗教的に寛容なペルシャ王シャープール一世のシリア政策に対抗するため、更には帝国東部に領土的野心を持つ一人として、住民の中で大集団を形成していた教会を自らに結びつけるという、これら目的のためには、彼にとっては迫害中止・キリスト教公認は利にこそなれ、害にはならなかったとの見解を示している。更に続けて豊田氏は、上記で浮上してくる、なぜローマ皇帝として初めてガリエヌスがキリスト教を公認したにしても、それが「告示」ではなくて、「勅答令」という形が採られたのか?という点であるが。これに対して豊田浩志氏は「信教の自由の公布が「勅答令」という形にとどまったのは、おそらく元老院勢力に対する深謀遠慮の結果だった。」。つまり、このように「告示」ではなくて、「勅答令」という形を、敢えてガリエヌスが選んだのであり、まさにその点にこそ、当時のガリエヌスのこのキリスト教公認の背後に隠された、真の思惑が感じられるというのである。

 要するに、当時のガリエヌスにとっては、帝国東方属州での簒奪者マクリアヌスやペルシャ皇帝以外のライバル勢力としては、ローマの元老院勢力の存在もあり、おそらく彼らがそれまでのウァレリアヌスなどのキリスト教迫害路線から、ガリエヌスの単独統治時代になってから一転し、迫害を停止した上に、公認までするという、このキリスト教を巡る、一大政策転換に同調しがたいという事が、依然として大きな問題であった。キリスト教の信教の自由の公布が、こうした勅答令がという形に留まったのは、彼の元老院勢力に対する深謀遠慮の結果であった。
つまり、ガリエヌスがキリスト教をローマ帝国皇帝として、こうして初めて公認するのにも、勅答令という、いわばワンクッションを置いた形での、公認という形となったのは、おそらく「告示」という形では、元老院勢力に与える刺激が、強過ぎる事を配慮したためだという。そしてまた更に続けて豊田氏は「対マクリアヌス対策、対ペルシア対策、更には元老院対策が錯綜する中で編み出された巧知にたけた政策であった。」とこの時の、ガリエヌスのキリスト教対策を評価している。豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国 豊田浩志 南窓社 』 一九九四年、p.235 そして私もこれに同意を示したい。

 これら、各人の、ガリエヌスが単独皇帝になった直後に、それまでのキリスト教弾圧政策から、寛容政策に、方針を転換した理由についての議論を踏まえて、私が出した結論は、こうである。まず、キリスト教徒ではないガリエヌスが、ウァレリアヌスがペルシャの捕虜になった事を、キリストの神罰だと思って恐れたとは考えずらく、やはり、これはキリスト教徒であるオロシウスなどの、プロパガンダだろう。

 やはり、このように、皇帝ガリエヌスがキリスト教徒弾圧政策から、寛容と思える政策に切り替えたのは、先代皇帝達のデキウスやウァレリアヌスによるキリスト教弾圧を後悔したからや、慈悲心によるものというより、やはり、年々、一段と厳しさを増していく、帝国を取り巻く諸情勢に基づいた、政治的判断による所が、大きいと思われる。
実際にも、このガリエヌスが、事実上キリスト教を公認したと思われる時期は、二六〇年には皇帝ウァレリアヌスがペルシャの手に落ち、それまでの帝国の東方属州防衛が危機に晒される事となり、この頃、パルミラ出身の元老院議員オダエナトゥスには、更に東方での彼の軍事権限を拡大し、彼により一層の、東方属州防衛に、励んでもらわなければならない事になっていた。
そして更にガイガーによると、ガリエヌスはキリスト教への対応について、父であり、共同統治者のウァレリアヌスとは、必ずしも意見が一致していなかったとする。
そしてその考えられる理由としては、彼から見て、ウァレリアヌスのキリスト教迫害政策が、あまりにも、わずかな成果しか、もたらしていないように思えたため。
 そしてまた、このキリスト教迫害のために駆り出される兵力による、大変な兵力の不足などが背景にあったとする。また更に、これと関連した事情として、二六〇年から帝国の各属州で、数多くの簒奪が発生し、帝国のこれら多数の危険地帯で、はるかに緊急に、兵力が必要とされていた。そして帝国東方国境付近には、多くのキリスト教徒が住んでいた。更にこれに対する、シャープール一世の、宗教寛容政策に力を貸すような事をしてはいけなかった。
ウァレリアヌスのペルシャ遠征の失敗による、この決定。この失敗は一貫して、キリスト教の神への、ウァレリアヌスの介入に起因する。これについては、これ以上、更に同様の事態を誘発するべきではない。このウァレリアヌスのペルシャ遠征の失敗の原因は、彼のそのキリスト教迫害政策が原因だというのは、ウァレリアヌスのキリスト教徒迫害政策により、当時帝国の東方属州に多かった、キリスト教徒達の、ペルシャ遠征についての、あまり積極的な協力が得られなかった可能性を指摘しているのだと思われる。

 また確かに、例えば特に、遠方でのローマ軍の戦いの場合は、補給線の確保においての、現地の属州民達の協力は不可欠である。だが、ウァレリアヌスのキリスト教迫害により、こちらの東方属州にはキリスト教徒達が多く住んでいた事も関係し、兵糧として必要な、十分な食糧の提供が行なわれなかったという事も、あったのかもしれない。歴史書にある、当時のウァレリアヌスのペルシャ遠征軍が疫病と共に悩まされていたという、飢餓というのも、そうした事情が関係していた可能性が考えられる。
更になおも続けてガイガーは、このような事を指摘している。ガリエヌスが父ウァレリアヌスのキリスト教迫害政策から一変して、キリスト教迫害停止と公認に至ったのも、これらの予想が可能な、複数の理由の組み合わせがあった可能性があるとしている。更に、ガリエヌスはほとんどこれらのキリスト教徒に対して寛大な政策を取っている。これは彼の、他の宗教にも寛容な、新プラトン主義にも関係していた。確かに、こうガイガーが指摘する、いくつかの複合的な理由により、ガリエヌスの治世でのキリスト教政策の一大転換が起きた可能性はあると思われる。
そしてやはり、これまでに何人の研究者も指摘してきており、この豊田氏も改めてこう指摘しているように、迫害停止とキリスト教公認という一大政策転換に、ガリエヌスを導いたのは、何よりも、これら当時の、厳しく複雑な諸情勢が絡み合った末の、政治的動機に拠る所が、大きかったと考えられる。これと関連する、豊田氏の指摘である。
「ウァレリアヌス、ガッリエヌス父子は、対キリスト教政策において、一見きわめて対照的だった。しかしそれは、帝国東部支配権確保という共通目的の異なった現れ方に他ならなかった。
ウァレリアヌスはシリアに出陣して後に、更に強力な指令(いわゆる『第二勅令』)を発しているし、ガリエヌスは父の捕囚後の政治的混乱、とりわけ東部諸州でのそれを収束する一手段として、キリスト教寛容策による事態沈静を期待していた。すなわち、これらの事実は、キリスト教集団の動向が東部状勢を決するに足るものと、為政者に意識されていた証拠である。
優秀な機動部隊を擁し、巧みな懐柔政策で、帝国東方への勢力浸透を企てる、ペルシャと戦っていたウァレリアヌスにとって、キリスト教集団は、速やかに弾圧抹殺すべき組織であった。他方、当時マクリアヌス父子、更にはエジプト長官アエミリアヌスの簒奪に苦しんでいたガリエヌスにとって、教会は父帝の政策を大転換してさえも、味方にするに値する、頼もしい勢力だった。彼らを取り巻く諸情勢は、彼らに自己の世界観や宗教的信条に基づく行為を許す程の余裕を決して与えていなかった。政権確保こそが、彼らの至上命令であった。そしてその喪失は、すなわち彼らの死を意味していたのである。そんな彼らにとって、キリスト教政策は単なる宗教的領域の問題に留まらず、その内実はまさしく、こうした治力学に立脚した政策決定に他ならなかった。それは同時に、キリスト教勢力の、そのたくましい成長をも、物語っている。
教会は、この紀元三世紀半ばになって、ようやく同じ土俵の上で、曲がりなりにもローマ帝国に対峙する存在となっていた。」 豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年、PP.184-185

 この豊田氏の一連の指摘には、私も全面的に賛成である。
一見、キリスト教に対して極めて対照的な政策をとっているかに見える彼ら父子であるが、いずれにしても、その目指す所は、帝国の平和、特に当時不穏な度合いを増していた、帝国の東部諸属州の平和を守る事であり、この大きな目的については二人の意図は一致していた。

 ただ、このようにウァレリアヌスとガリエヌスが、キリスト教に対して対照的な政策をとる事になった背景には、先程のガイガーなどの指摘にもあるように、政治的理由が大きく関わっていたとはいえ、更に彼ら父子の、そのローマの伝統主義者、そして新プラトン主義者という、彼らそれぞれのその思想による、キリスト教に対する基本的な姿勢の違いも、いくらか関係していた可能性も、あるようである。

第五章 皇帝ウァレリアヌスのペルシャ遠征と捕囚

 これらの攻撃は、帝国領土の範囲の、四分の二からやって来た。北方から襲撃しているゴート族やその他の数多くの蛮族、そして、東方から襲撃してくるペルシャ。ゴート族攻撃の主な趣旨は、バルカン半島の東に向けられた。ギリシャと小アジア。東方の繁栄するローマ属州の不運な住民。現代のトルコ。当時のローマ帝国は、これら略奪者達の両方のセットのために苦しんだ。
毛皮を着た北方の蛮族と偉大なペルシャ皇帝の機甲騎兵隊。そしてギリシャ語ともしそうでなければ、人種の精神。そしてそれは出現して、アレクサンドロスの通路に続いて成功して、三世紀の間外側の攻撃を免れた。低く置かれた。ペルシャは、攻城器具を持っていた、しかし、ゲルマン人には、そういうものはなかった。

 そして、これらの都市が決心と常識できちんと守備を固められて、守られたならば。
彼らと彼らの中で避難を求めている周囲の地域の住民は、蛮族の襲撃の奔流による、浸水を逃れる事ができなければならなかった。しかし、当時残念な事に、これらの状況は、あまりにしばしば、不足していた。そのゴート族とペルシャの対象は、単に略奪だった。
この時代、ローマの領土の上で、蛮族達自身のための、国を準備するという考えが、まだゲルマン人にはなかった。同じ父母を持つ彼らの和解が国境地方にあった時、彼らは帝政によって、そこに故意に定住した。
アルダシール一世より興る、ササン朝ペルシャの皇帝達に関しては、彼らはかつてのアケメネス王朝の帝国を元に戻して、全てを取り戻す事について、時々語ってはいるが、自治領はキュロスまたはダリウスの支配を、その時だけ認めるに留まった。彼らはそれに新たに付加するか、組織する試みをしなかった。彼らが制圧した地。長くローマとの間の紛争地区であり、東方での継続した王制であった国の、アルメニアを除いて。同じ父母を持ち、ペルシャの単に同じくらいの、略奪品と共に、できるだけ早く帰り着く事を目的とする。人間と材料。奴隷並びに家畜と宝。
彼らが自分自身を輸送する事ができたか、彼らのために、輸送の犠牲者を強制する事ができたので。

 最初に、当時のゲルマン人について触れる。当時のエジプト副総督アエミリアヌスの撃退にも関わらず、バルカンの東海岸線の下の、新たなゴート族の下降が、共同統治時代の初期に、あったように見える。彼らはテッサロニケの壁から、嫌悪感を与えられた。しかし、彼らはアテネ人達が、都市の防壁を再建し始めたように、多くの警報を、ギリシャで引き起こした。この防壁は、三世紀早く、スッラの時代に破壊されていた。そしてペロポネソス人が、コリントの地峡の全域で、防壁を建設し始めた事が、言われている。しかし、現在しばらく、ヨーロッパ本土は、ゴート族からちょっとした、一時中断を持つ事になっていた。
その後、彼らは船でより簡単な経路を発見した。この地域の豊かで繁栄する、共構造単位の東方の諸都市への進路。詳細は、ブラウアーで、そして、更にアルフェルディにより、続ける事ができる。アルフェルディの年代順配列から、いくつかの点で出発した。
そしてその主要な古代の史料は、ゾシモスである。ボランニ族は、ロシアの南で生きている人々だった。

 古代ギリシャの植民都市「ボスポラス王国」の隣。現在ではクリミアとして、知られている地域。これらのローマ同盟国は、ボランニ族に船と水夫を雇わせる事を、彼らに脅されて行なわさせられた。これらの船でボランニ族は黒海を横断して、小アジアの沿岸の都市を急襲した。そして彼らは、ピテュスの都市を包囲した。だが都市は「successianus」と呼ばれている、ローマの有能な将軍によって、守られた。侵略者はかなりの損失で、不快感を与えられて、若干の無秩序のまま帰った。
「ウァレリアヌス。」ゾシモスは言う。彼により、その将軍successianusは、派遣された。ウァレリアヌスは彼を近衛長官にして、アンティオキアの回復について、彼に意見を聞いた。ウァレリアヌスはその時に、そして、そう、帝国東方に滞在していたに違いない。
我々が採用した年代順配列によって。これは、早くとも二五六年に、起こったに違いない。

 次の年、ボランニ族は、またボスフォラスの船で、ピテュスを再び襲撃した。この時までに、彼らはかなり大きな海軍を捕え、ガレー船を漕ぐ奴隷を入れておいた。彼らは、今度はギリシャのトラペズスを攻撃した。それは十分に守備隊を置かれた、しかし、兵士は不機嫌で反抗的だった。そして彼らは逃げた。侵入者達は、都市を奪い去った。散開して、そして、今度は田園地方を損なった、そして、その後盗品と捕虜を積んで、帰っていった。

 南ロシアのゴート族は、妬みで彼らの歓喜した隣人の帰還を観察した。彼らは彼らを真似ることを決心した、しかし、彼らは異なるコースを取った。彼らも、艦隊を手に入れた。彼らは黒海の西の海岸線の下に航海した、そして明らかに、土地に向けて行進した。だがビザンティウムは、城壁の後で安全だった、しかし、ゴート族は地元の漁師の船を乗っ取って、ボスフォラス側で、カルケドンの都市に、海峡の向こうへと航海した。もう一度、だがその兵士達は、彼ら現地の住民の信頼に対して不誠実だった。蛮族達と戦う事。
ゾシモスは言う。侵入して、打ち負かした。そこから、彼らはビテュニアの上に広がった
彼らは、都市の防衛を放棄した。そしてゴート族は、そこに。そしてそれら富裕な古代の東方の諸都市は、彼らの手に落ちた。例えば、ニコメディア、アパメア、プルサである。金持ちは、彼らの豊富な持ち物と共に、逃げる事ができた。だがこれら略奪を受けた、各都市の中間と下層階級は、死または奴隷にされるという運命の、罰金を払った。そしてゴート族はキュジコスまで進んだ、しかし、彼らは氾濫していた川によって、停止した。略奪品を積んだ荷車と船で、彼らはウクライナに戻った。彼らの略奪により、炎上しているニコメディアとニカイアを後にして。

 我々の年代記によれば、これらは二五八年または二五九年に、多分起こった事だろう。
だが不思議な事に、ウァレリアヌスの伝記の中での『ヒストリア・アウグスタ』の彼についての賛辞と対照をなす、当時のガリエヌスの皇帝としての活動の停止を、記述するために、ゾシモスのような、潜在異教徒の作家と『歴史要略』のゾナラスさえ、同様の言葉を使用している。
更にブレイは、その点については、このように指摘している。
「その著作の作成者が、尊敬すべき人物としてのイメージを、単に計画しようと努めるだけだったために。自堕落なガリエヌスを、際立たせるものとしての、高貴で皇帝の義務に忠実な父ウァレリアヌス。そしてこれに対する、無情で無関心な息子ガリエヌスとして。」
この彼の意見には、私も賛成である。基本的には、精力的に皇帝としてペルシャとの戦いに励んでいた皇帝といえ、現在ではペルシャに捕えられてしまった事から、ウァレリアヌスの皇帝としての全体的な評価は、高くはない。また、当時でもこの不運な皇帝に対して、同情も集まったではあろうが、同時にやはり、人々の目にはこの出来事は、大変な不名誉とも映ったはずである。
しかし『ヒストリア・アウグスタ』の「二人のウァレリアヌスの生涯」の中での、皇帝ウァレリアヌスについての記述は、終始その軟弱振りや放蕩に耽る堕落振りが、しばしば強調され、酷評されている息子のガリエヌスとは、非常に対照的に、あまりにも大仰な称賛の言葉ばかりが、一斉に並べ立てられ、私にはそこが逆に何か、不自然なものを感じる。

 そしてこれと同様の例は、他にもクラウディウス・ゴティクスやプロブスなどの、ガリエヌス以降のイリリア人軍人皇帝達や、後述するオダエナトゥスなどの章でも見られ、この『ヒストリア・アウグスタ』で、このように、数多くの称賛の言葉が並べ立てられている人物の記述には、注意が必要である。大抵はその前任者、しかもそのほぼ大半は、ガリエヌスを貶めるための、恒例のレトリックとして、しばしば用いられている形跡が濃厚だからである。
中でも一際、その大仰な称讃振りが目につく、クラウディウス・ゴティクスについては『ローマ皇帝歴代誌』のクリス・スカーも「さて、クラウディウス帝自身は、性格がまじめなことで知られていた。また、比類なき生涯を送り、稀有の純粋さを持っていたことでも有名だった。長身と、よく光る目をもった幅広の福々しい顔。そして、手指の力が非常に強く、しばしばこぶしの一撃で馬やラバの歯を叩き折った」という記述の一部を挙げて「クラウディウス二世帝のゲンコツによる偉業は、四世紀の伝記作家の予想に反し、現代の読者にはあまり感心されないだろう。実際、彼の伝記は薄くベールをかけたような賛辞ばかりで、クラウディウス本人の実態より、コンスタンティヌス帝の血縁だという説に影響されているようだ。」との見解を示している。

 確かに、実際のクラウディウス・ゴティクスは、皇帝ガリエヌス殺害犯人の一人であり、こうした謀略に手を染める事も、厭わないような人物であり、こんな彼に対して、真面目だとか、稀有の純粋さを持っていたなどと言われても、俄かには、納得し難い思いにさせられる。特に、この惰弱で無能な息子の皇帝ガリエヌスと勇敢で気高い父皇帝ウァレリアヌスという、偉大な父に対する、不肖な息子という対比のさせ方は、歴史記述においては格好の、そして代表的なレトリックである。

 当時、再びローマを発ち、帝国東方に進軍していたウァレリアヌスによって、こちらの小アジア方面の都市を蛮族達から守る戦いが、行われていた。
彼らが信用する事ができた将軍によって、十分にリードされた、少なくとも都市を守るための、小アジアでの十分な軍隊。その地の防衛のために、ウァレリアヌスにより、派遣された将軍succssianus。二五六年に、ゴート族は小アジア北西海岸で略奪を行なった。
そして小アジアの諸都市である、ビザンティウム、カルケドン、ビテュニアなどがその略奪の対象となった。ウァレリアヌスは、それらの諸都市を蛮族達からの略奪から防衛しなければならなかった。だが皇帝ウァレリアヌスは、無関心で不活発で、皇帝としての行動において、または元老院での職務にも、適しなかったと述べる、息子のガリエヌスの場合と同様に、これも事実とは異なると思われる、ウァレリアヌスについての、批判的な記述を『歴史要略』の著者ゾナラスはしている。そしてゾシモス。

 更にウァレリアヌスが行なったようである事は、ビザンティウムに、将軍フェリックスを送る事だった。明らかに帰りのゴート族による、ヨーロッパへの侵入を防ぐために。
このように、ウァレリアヌスは、ローマ帝国東方の、小アジア各地を荒らし回る、蛮族達を撃退しながら、やがてしだいにペルシャの方へと進軍していった。そして二五七年には、シリアのアンティオキアへと入った。更には続いてカッパドキアへ、彼自身の本部を移して、再び後退する。ゾシモスは言う。彼がその旅の間に通過したという、あらゆる都市。
ここでも、ローマ側の年代記と詳細については、議論があって、混乱している。しかし、ここでは、我々にはローマの敵のペルシャ側から提供される、その史料のヴァージョンの長所がある。
そのイスタフルの近くの、ナクシュ・イ・ルスタムの遺跡。古代のペルセポリスのあった場所。
そしてその場所の遺跡の中にある、ペルシャ皇帝シャープール一世の業績を記している碑文。『神君シャープールの業績録』。その碑文は二つのヴァージョンで。一つのパルティア語と一つのパフラヴィー語の二種類の言語で記されている。その碑文は一九三七年に発見された。そして更に一九三九年に、そのギリシャ語版が、同じ記念碑の上で発見された。このギリシャ版は、ホーニヒマンとマリクが『古典学ジャーナル』の中で翻訳している。そしてフランス語の翻訳は、ゲージにより繰り返される。

 ここでは、ローマ皇帝に対する、ペルシャ皇帝シャープール一世の勝利を記録している。
しかし、彼自身の言葉が、必ずしも信用されているという訳ではない。だがそのナクシュ・イ・ルスタムの『神君シャープールの業績録』の碑文はきっと、そのペルシャ皇帝の成功についての、その最大限の記述をしていると、しなければならない。彼はけしてその自分の功績を控えめに、言いそうではなかった。彼は言う。西方への三度の外征。最初の戦いにおいて、彼はローマ皇帝ゴルディアヌス三世に対して、勝っていた。そしてローマとの講和は、皇帝ゴルディアヌス三世の死の後、新たな皇帝フィリップス・ アラブスにより、結ばれた。そして第二の時点での、前回の皇帝は、名前を挙げられない。しかし、この碑文の中で、この時に獲得された町のリストは、アンティオキアの名前のように見える。第三は、二六〇年の夏の、ペルシャ軍とのエデッサの戦いにおいて、皇帝ウァレリアヌスが捕虜になった時である。そして、この戦いで獲得された都市のリストにおいて、アンティオキアの名前は再び現れる、しかし、ポターとそれに同意する。他の都市をとる、このアンティオキアの連語のため。そしてそれはキリキア、またはカッパドキアの全てである。それらがシャープールによって、三回略奪されたと考える、アルフェルディ。そして他の研究者。例えば、その襲撃が二回行なわれたと思う、ダウニー。

 彼がアンティオキアでの唯一の時間と考えた、シャープールのこの二回目の襲撃は、いつあったのか?そしてそれは皇帝ガルスの統治の間、起こったのかもしれない。そうアルフェルディとポターが考える。ゾシモスは、それがガルスの治世において、行われたという。そして、ポターとドジオンもアルフェルディも、そうしている。だが、彼は都市が三回襲撃されたと考えている。他方、アンミアヌスは、それがガリエヌスの統治の時期において、それが行なわれたと言っている。おそらく彼の父の捕囚の直後に、ダウニーとブラウアーは、二五六年にそれを置く。
その確実な年を確定するのは、不可能である。
とにかく、その後の、シャープール一世の侵略によって。
ペルシャ軍がウァレリアヌスを捕らえた後、ローマ帝国東方諸属州の、シリアやキリキア、カッパドキアなど三十七の都市は、シャープールの手に落ちた。それから彼は多くの略奪品を伴い、首都のクテシフォンに帰還していった。

 

 そしてその『神君シャープールの業績録』の碑文の中で、その時の戦績を語る、シャープール自身の言葉である。「シリアとシリアの近郊で、全てを燃やし、破壊し、略奪した。
この一つの遠征で、我々はローマ帝国の砦と町を征服した、アナータの町を攻囲し、 Birtha Arūpān を攻囲し、Birtha Asporakan、スラの町、バルバリッソス、Manbuk 、ヒエラポリス、アレッポ、Berroia、Qennisrin、アパメア、Rhephania、Zeugma、ウリマ、Gindaros、 Armenaza、セレウキア、アンティオキア、Cyrrhe、もう一つのセレウキア、アレクサンドレッタ、ニコポリス、シンザラ、ハマ、Rastan、Dikhor、Dolikhe、デュラ、Circusium、 Germanicia、バトナ、Khanar及びカッパドキアのサタラの町、ドマナ、Artangil、スイサ、シンダ、Phreataの合計三十七の町を取り囲んだ。三番目の遠征では、我々はカルラエとウルファ(エデッサ)を攻撃して、カルハエとエデッサを包囲していたが、皇帝ウァレリアヌスは、我らに対して進撃してきた。彼はゲルマン人、ラエティア、ノリクム、ダキア、パンノニア、モエシア、イストリア、スペイン、アフリカ、トラキア、ビテュニア、小アジア、パンフィリア、リカオニア、ガラティア、リキア、キリキア、カッパドキア、フリュギア、シリア、ポエニア、ユダヤ、アラビア、マウリタニア、ゲルマニア、ロードス、オスロエネ、メソポタミアから集めた七万人の軍隊が彼と一緒だった。そして我々には、 カルラエとエデッサを越えて、皇帝ウァレリアヌスと大きな戦いがあった。我々は我々自身の手で、皇帝ウァレリアヌスと他の者達、その軍隊の隊長、近衛兵の長官、元老院議員を捕えた。我々は全てを囚人とし、彼らをペルシャに強制送還した。 」

 そしてこうしてエデッサの戦いで、ペルシャ軍に捕らえられる前の、その頃のウァレリアヌスは、帝国の東方に到着していた。または後部で。これらの出来事。
更に彼のローマ軍は、ペルシャに対して、若干の局地的な成功を、収めていたように見える。
二五七年のコインは、その伝承の、parthica パルティカ軍団の二人乗り軽四輪戦車とrestitutor orientis 東方の回復」を運ぶ。
我々の年代順配列によれば、ウァレリアヌスのローマ軍の、ペルシャ軍への攻撃は二五九年に再開された、そしてその次の年にはウァレリアヌスは捕えられた。

 この独特で重大な出来事の、その詳細と結果。
我々が当時のローマ帝国の命運に関わる年として見る、この二五九年だという説を採る、そのレガリアヌスの反乱とアラマンニ族の侵入。並びに、ガリアでのポストゥムスの反乱。
そしてペルシャによる、ローマ皇帝の捕囚の報せ。フィッツは、この見方を採る。それはパピルスのpontificalisで与えられる、二五九年の七月に、新たな司教ディオニシュオスの選定と一致している、一部の著者によって提供される、ウァレリアヌス捕囚の年に、同意する。例えばアウレリウス・ ウィクトルである。彼はウァレリアヌスが、その統治の六年目で死んだとする。しかし、コインとエジプトのパピルスからの議論は、非常に魅力的なようである。
パピルスは、ウァレリアヌス統治時期の、二六〇年の八月二十八日付けである、そしてその名前がアレクサンドレイアで発行されていた彼のコインは、二六〇年の八月付けである。
二六〇年の九月において、オダエナトゥスが、簒奪者マクリアヌスとそのとどめをさす事は、アレクサンドレイアで認められていた。その仮説による二五九年のために、それを主張する人々によって、この困難な証拠は答えられる。

 だが、ウァレリアヌスは、その年に捕えられた。しかし、この事実は、公式には認められなかった。そして、彼はまだ皇帝として一年統治していた事と考えられた。この見解。
しかし、当時の史料にも、彼の父ウァレリアヌスの失踪に対しての、ガリエヌスの具体的な態度を述べる事ができない。どちら。我々が見えるように。それは皇帝ウァレリアヌスの、完全なその存在の否定の一つだった。または監禁の法律的な影響。捕虜になったローマ人は、彼の市民権だけではなく、自由な男性としての、彼の身分をも失った。彼は、法的には敵の奴隷だった。
おそらく、当時のウァレリアヌスは、奴隷と呼ばれるか、奴隷状態の有様に、なったのだろう。大々的にキリスト教迫害を行なっていた、この皇帝ウァレリアヌスの虜囚に、歓喜したキリスト教徒達が、こぞって書き立てた内容によってだけではなく。
そして実際に、非宗教的な著者によっても、当時の皇帝の置かれていた状態について、同様の事が書かれているからである。この『ヒストリア・アウグスタ』でさえ「奴隷」という単語を使っている。しかし、奴隷がローマ皇帝であり得る事は、考えられない。地球と天国の間の仲介者。
援助の受け手。国のカリスマの、生活の実施例。何者も所有する事ができなかった男性は、どのように、そのような存在でいる事ができたのか。彼のその背中の服さえなく。どのようにして、国の最高の位置を保つのか?

 ガリエヌスの態度が明らかとなるまで、多分、若干のイニシャルが、不確実にあったであろう。このように、それにも関わらず、ウァレリアヌスの名前は、彼がメソポタミアに、多分連れて行かれるだろう、五月あるいは六月以降の、八月のエジプトの文書またはコインの上であり得た。しかし、それから一年も、簒奪者のマクリアヌスは、過ごす事ができなかった。
彼が二六〇年の九月に、イリリクムのアウレオルスのローマ軍団と戦い、殺されたので、このマクリアヌスは、彼の息子達の名において帝国を奪う前に、実に一年間も持たなかった。
そして更に、彼はガリエヌスの名において、サモサタでのコインの問題に対して、責任があったに違いない、そして彼自身の反乱、二六〇年はクリストルによる、皇帝ウァレリアヌス捕囚の年として準備される。アルフェルディとポター。二五九年の出来事に戻る。
彼がカルハエとエデッサを攻撃した、そしてローマ皇帝ウァレリアヌスが、その彼に対して進軍してきたと、シャープール一世自身が、その碑文の中で言っている。その攻撃の趣旨について。それから。北のメソポタミアだった。
ウァレリアヌスは、ユーフラテス川の西の土地の上に、彼の本部をサモスタへ移したように見える。また、彼は若干の局地的成功を収めた。あるいは、彼自身がそうだったと主張している。
そのコインの伝承から「二人乗り軽四輪戦車parthica」は、二五九年に再び現れる。だがそれは、多くの重要性ではあり得ない。それは伝統的な史料では、発見されなかった。

 更にそしてそれが存在した。ペルシャ皇帝シャープール一世によって。
彼がメソポタミアまでの帝国の全ての四分の一から得られる、七〇〇〇〇人の軍隊のローマ軍を破った。そしてこの戦いにより、ローマ皇帝ウァレリアヌスが彼の手に落ちたという、エデッサの近くでの、ローマ軍とペルシャ軍との大きな戦い。法務官の総督。元老院議員と将軍。
だがローマ側の、史料の内容は異なっている。だがその事自体を疑う理由はない。
そのローマ軍の、ペルシャ軍への敗戦。当時のペルシャ遠征のローマ軍内で、発生した疫病に、そして彼らが飢えにより、苦しんでいたために。とにかく、エデッサでのローマ軍とペルシャ軍との戦いにより、ウァレリアヌス率いるローマ軍が敗れ、ペルシャ軍に捕らえられたというのは、このシャープール自身の語る、先程紹介した碑文の内容、そしてエウトロピウスの史料の両方で記述されているため、事実の可能性が高いと思われる。

 ゾナラスとシュンケロスによれば、それは非常に扇動的な属州だった。
そしてゾシモスは、そのどちらかを選ぶ事なく、起こった事についての、二つのヴァージョンを、与えている。最初によって。彼が大いに優れた軍隊に対して、渋々入った戦いにおいて、ウァレリアヌスは一人で捕虜になった。これは、エウトロピウスとゾナラスの『歴史要略』についての、簡潔な記述と一致する。また更に、ゾナラスによって与えられて、そして更にシュンケロスによって補われる、代わりの記事は、もっとずっと、センセーショナルである。
それによると、ウァレリアヌスは、彼自身がペルシャへと逃げたように、彼自身の軍の恐れにより、同様に自発的に味方から引き渡された。更にゾシモスは、更にもう一つの物語を持っている。そして、一体どちら。我々が見るように。彼はウァレリアヌスが、絶望的な様子にあったと言う。そして彼は自分の解放について、シャープールと金銭で交渉する事を決心した。
彼はその使者に金を提供させた。だがペルシャはその仲介者を扱う事を拒否して、使節を送り返した。

 これまで、この点で焦らすように折れる、ペトロス・パトリキオスの断片の一つで、ゾシモスの記述内容は支えられる。「シャープールは」。ゾシモスは、こう続ける。
彼は皇帝同士での、会談を要求した。そしてウァレリアヌスは、これに同意した。
わずかな従者と共に出席して、そして彼は信頼できないペルシャ皇帝によって、捕えられた。
更にその中には、それは、おそらく将軍successianusも、含まれていたという。
近衛長官。彼についての、詐欺と裏切りの告発。それについての、詳細はないままの。
それは数人の歴史書によって、確かめられる。それは『ヒストリア・ アウグスタ』で、そしてアウレリウス・ウィクトルによっても、作られる。更にこの時代から約三〇年またはとても後の、ローマ皇帝ガレリウス。彼に、当時のペルシャ皇帝ナルセスからの、和平の提案がなされた時の、反応。しかし、この時ガレリウスは、以前にペルシャが、詐欺によって、皇帝ウァレリアヌスを捕えた事に、怒ったという。

 更にシャープール一世は、ついにはローマ皇帝をも捕虜にする事に成功したとして、既にローマ軍に勝利したという自らの栄光に、顕著な増加として利用できる事が、あり得た。
そして二人の皇帝の会談の間の発作の物語が、真実であるならば、それはウァレリアヌスのローマ軍の降伏の物語が、どのように展開したかについて、説明する事ができる。
結局、ローマ皇帝ウァレリアヌスはペルシャ人と共に会談の少数の、選ばれた付き添い人と出発して、二度と戻る事はなかった。おそらく、ペルシャとの不成功の交戦が、ゾシモスによって記述される、この致命的な会談の前に、あっただろう。
更にベンソンは、挿入された『ヒストリア・アウグスタ』の中のその話について、我々にそれを話す。だが、それは現代の版には、含まれていない。そしてその版ではウァレリアヌスが、彼の信頼していた将校達の一人によって、致命的な会談への出席に、導かれた事が示唆される。そして後の研究者達によって、それはマクリアヌスだと推定される。

 更に、他にもそう思わせるかのような記述が、アレクサンドリアの司教ディオニシュオスの記録にも、存在している。エウセビウスの『教会史』によって、報告されているように。
ウァレリアヌスの方へ、マクリアヌスの方法に、言及する際に。
単語proemenosを使っている。その語は『刺激される』という事を意味する事ができる、そして、エウセビウスの現在のloeb版で、更にそのウァレリアヌスのキリスト教迫害について言及しながら。しかし、それは『裏切られる』事をも、意味しているとする事もできる。
エウセビオスは言う。彼は片足が不自由なため、直接戦いには参加せず、彼が軍の残りを受け持ち、サモサタに残った。そして歴史書の方では、クレドニウスという人物が、やって来た。
明らかに、彼もウァレリアヌスと一緒に連れて行かれた、ローマ軍の囚人の一人である。
シャープールによって。しかし、名目上の指示が、この部下からウァレリアヌスに、効果的に送られる。おそらく、ローマ皇帝解放のための、身代金を考慮したいという意欲を示し。
だがペルシャは、それに応じる事を拒否した。
そしてブレイやガイガーなどの研究者も、この時ウァレリアヌスを裏切り、陥れたのは、それまではキリスト教迫害について、それまで中心的任務を負っていたとされる、彼の信頼厚い、マクリアヌスであったとしている。

 更にガイガーは、ペルシャがウァレリアヌス率いるローマ軍に勝利した後、エデッサとカルハエの近くで、ペルシャは、それらの成功の後、ローマの東部属州である、シリア・コイレを略奪していた。そしてキリキアとカッパドキアでも。従って、当時の敗れたローマ軍の指導部は、マクリアヌスを買収した。更にマクリアヌスは、ペルシャ皇帝シャープール一世との間での、おそらく捕えられた、皇帝ウァレリアヌス解放のための身代金についての交渉に、失敗したとしている。 しかし、こうした記述は、エウセビオスの『教会史』の中で引用されている、ディオニュシオスの「ヘルマモン宛て書簡」の一部からの抜粋などの印象から、おそらく、こう推測されているもののようである。そして豊田氏は『キリスト教の興隆とローマ帝国』の「第四章 皇帝ウァレリアヌスとキリスト教迫害」の中で、この書簡の中で、結果的に皇帝ウァレリアヌスを、ペルシャに引き渡す原因を作った人物とは、マクリアヌスだとする事には、疑問を示している。
要するに、この書簡の内容は、いかにも予言書的な内容で、はなはだ暗示的・抽象的な表現のしかたをしている。更にウァレリアヌスの側近でありながら、ペルシャと内通し、ウァレリアヌスを裏切ったとされる、この人物はあくまで「その男」あるいは「教師で、かつ・・・・・・会堂町」というようにしか、表現されておらず、実際には一体誰であるのか、判然としない。
確かにディオニュシオスは、書簡の中で、この人物の裏切りにより、キリスト教迫害を行なわせたウァレリアヌスが、ペルシャ捕囚の神罰を受けたと述べている。だが確実に、マクリアヌスが、皇帝ウァレリアヌスに、キリスト教迫害の教唆をした人物及び、更にウァレリアヌスとシャープールとの会談時に、彼を裏切り、ローマ皇帝が捕囚の憂き目にあう原因を作った人物だと、認められるものはないとしている。

 豊田氏の最終的結論としては、書簡中の該当内容についての、エウセビオスの抜粋の方法の結果、かつてウァレリアヌスにキリスト教迫害を教唆し、更にその裏切りにより、ペルシャによる、このウァレリアヌス捕囚の原因を作ったとされている人物が、いかにもマクリアヌスであるかのような印象を、与える事になったのではないか?と考察している。
豊田浩志『キリスト教の興隆とローマ帝国』南窓社、1994年、PP.212―217
 
 このように、この部下のマクリアヌスの裏切りにより、ウァレリアヌスがペルシャの捕囚の不名誉にあう事になったという見方にも、疑問な点が残されている。
また実際にも、この時に肝心のマクリアヌスは、その場に居合わせてさえいなかった、可能性も高い。また井上文則氏も『ヒストリア・アウグスタ』では、彼が将軍の一人であったかのような書き方をしているが、実際にはおそらく当時マクリアヌスは、ペルシャ遠征軍の、後方支援に当っていたのだろうとしている。それから、このように、確かに『ヒストリア・アウグスタ』の中の記述そのままの状況で、ウァレリアヌスが捕らえられたのだとしたら。
もしそうなら、いくら、伝えられているように、ローマ軍隊内で突如疫病が流行し、不利な状況に陥り、しかたなく、ペルシャ軍に降伏するしかなくなっていたにしても、明らかな敵地で、ペルシャ側の言うがままに、少数の伴だけを連れて会談に応じたというウァレリアヌスも、あまりにも無用心過ぎる事に、ならないだろうか?

 このウァレリアヌスを陥れたのは、マクリアヌスではなかったにしても、やはり「ヘルマモン宛て書簡」の中でディオニュシオスが書いているように、誰か皇帝が信頼していた、他の部下の偽りの助言により、陥れられたと考える方が、自然ではないだろうか?
またあるいは、この時のウァレリアヌス及びローマ軍は、歴史書であるように、ローマ軍団の間での疫病の流行などにより、ペルシャ軍に敗れたとはいえ、敵であるペルシャに言われるがままの条件で、不承不承、小数の従者達だけを従えて、二人きりのペルシャ皇帝との会談に応じるしかないような、やはり、当時のローマ軍はそれ程、選択の余地もないような、逼迫した状況に置かれていた、という事だったのだろうか?

 おそらく、ウァレリアヌスがその死まで、ペルシャに囚われの身になるまでの詳しい経緯は、このように不明確ではあるが、いずれにせよ、彼とローマ軍の兵士達がエデッサの戦いでペルシャ軍に敗れて、捕らえられる事になった可能性は高いようである。
これはそう伝えている、エウトロピウスとペルシャ側の碑文史料である『神君シャ―プール業績録』との間で内容が一致しているため。

 これらの出来事は、春または初夏に、多分行われたであろう。
皇帝ウァレリアヌスがペルシャの奴隷になったという報せは、ローマ帝国中で瞬く間に、流布したに違いない。そしておそらく、帝国の伝統主義者達に、大きな狼狽をもたらした事。
更に属州の総督達の、その帝位簒奪への想像と更に同様の夢想を抱く将軍達。
そして、当時の逼迫したキリスト教徒達の歓喜。ラクタンティウスの言葉で、表される歓喜。

「神よ」彼は言う。「天国の敵が常に彼らの重大な不正の正当な報酬を受領するという事を、全ての将来の時代が知らなければならぬように、ウァレリアヌスの例を作られた。」
とはいえ、このラクタンティウスも、二五〇年頃にアフリカで生まれており、彼がキリスト教徒に改宗した後に書いた、この『迫害者達の死』の中のウァレリアヌスについての記述も、ずっと後になってから、書かれたものである。そして当時のガリエヌスはこの凶報を、このアルプスとドナウの間の一帯のどこかで、受けた事だろう。勝利の後遠くに、そして、広く広げられる、シャープールの侵略。略奪、荒廃、放火と人々の奴隷状態は、キリキアとカッパドキアを飲み込んだ。更に他の多くの有名な都市も、陥落した。タルスス、カエサレイア、ティアナなど。
これら全て。

 シャープールは、いかにも誇らしげにこう語る。
「我々は、三十六の都市を手に入れた。」
「カエサレイアは」、ゾナラスは言う。
特定の医者がペルシャの都市に入る手段を示す事に拷問された後、なんとか生きて彼を連れて行けという命令にも関わらず、逃げる事ができた、デモステネスと呼ばれている将軍によって、勇敢に守られた。

 しかし、誰がバリスタという名前で、歴史に残ったのか?
このバリスタは二六〇年に、父親のマクリアヌス、そしてその長男小マクリアヌスと共に、帝国東方属州である、シリアで簒奪を行なった、クイエトゥスの仲間だった。
だが、このバリスタは、ゾナラスの『歴史要略』によると、彼の名前はカリストゥスになっており、ラテン語では「投石器」という意味を持つ、このバリスタというのは、あだ名であった可能性がある。『ヒストリア・ アウグスタ』により。相変わらず、その内容が不正確な。

 そして更にその記述の中では、彼がウァレリアヌスの、近衛長官であったと言っている。
つまり、ウァレリアヌスを陥れる原因を作ったとされる人物。
しかし、その可能性は、ほとんどあり得ない。彼がペルシャとの会談の際に、部下の近衛長官の囚人を、連れて行ったと言う、そしてその実際の近衛長官というのは、帝国の西方属州に、この時に、一人の近衛長官としてあり得るだけだった。我々が照会した、ガリエヌスが属州の統治を任せた、次男のサロニヌスの後見役にもしている、近衛長官シルウァヌス。そして、東方のもう一人。しかし、二つの現状維持の公職が、東でも並行してあったと、仮定する理由がない。
おそらく、このバリスタは『ヒストリア・アウグスタ』の書いているように、正式にウァレリアヌスによって、任命された近衛長官ではなく、マクリアヌスの簒奪したシリア下での、新たな近衛長官になったのだろう。エデッサの戦いを逃れた、兵士の指揮官に選ばれた将軍として、ゾナラスは彼に注意をする。

 そのように、彼ははっきりと成功していた。土地中で略奪する際に軽率に逆猪だった、ペルシャ兵の多くは壊滅させられた、そして奪われた宝の多くと偉大なペルシャ皇帝の後宮の一部のメンバーは、ローマ軍の手に落ちた。本当に彼の所有において全ての獲得された、ローマの金を手渡す事によって、シャープールがエデッサで、安全な通行を駐屯軍から購入しなければならなかったと、我々はペトロス・パトリキオスから知る。 そしてバリスタは、ペルシャの客人の無秩序を利用する、ただ一人のリーダーではなかった。

 ここで我々は、初めて有名なオダエナトゥスに遭遇する。
パルミラ貴族。シリアとユーフラテスの間の、砂漠のオアシスのこの隊商都市は、品々の更なる東からの強い東風とヨーロッパへの移動のための倉庫として、最初の紀元二世紀に、裕福で有名となった。それはローマを宗主国とする、ローマの保護下でではあったが、かなりの程度の独立を享受していた。そしてオダエナトゥスは、パルミラの元老院議員だったとしばしば言われる。
しかし、彼は実質的に、ペルシャ軍の侵入の時点での、ローマ帝国東方属州の都市を、支配する支配者だった。この彼が『ヒストリア・アウグスタ』に姿を現わすのは、皇帝ウァレリアヌスが捕虜にされた後からである。

「さて、ウァレリアヌスはペルシアの地で老いていったが、パルミラ人オダエナトゥスは軍を集め、ローマ帝国をほぼ旧の状態に戻した。オダエナトゥスは、ペルシア王の財宝を奪い取り、財宝よりもパルティアの王たちが大事にしていた側室たちをも奪った。サポルは、バリスタとオダエナトゥスに対する恐れから、ローマの将軍たちをいっそう恐怖し、自分の王国へ急ぎ帰った。
こうして、とかくするうちに、ペルシア人との戦争は終わったのである。」
これはおそらく、二六〇年にローマ皇帝ウァレリアヌスがペルシャ軍により捕虜にされた後、首都のクテシフォンに帰還する途中での事かと思われる時の、記述であるが。
これによると、二六〇年の夏に、皇帝ウァレリアヌスが捕虜にされた後、兵を率いたオダエナトゥスが、このように、いずこからともなく、現われたかのように描かれ、クテシフォンに帰還するシャープールら、ペルシャ軍を追撃したという。

 このように、さながら、救世主めいた登場で、その雄姿を描写されているオダエナトゥスであるが。ただ、シャープール一世は、二六〇年に皇帝ウァレリアヌスを捕虜にした後、小アジアのキリキアにまで侵入し、その後、その年内には撤退したが、その帰途に、バリスタとオダエナトゥスの攻撃を受けている。つまり『ヒストリア・アウグスタ』の書くように、オダエナトゥス達の攻撃を受けて撤退した訳ではない。おそらくこれも、ガリエヌス以外の人物達の記述において、同様の傾向が数多く見られるように、その戦績の誇張の一つであろう

 なおペルシャ軍に捕らえられた後の、皇帝ウァレリアヌス以下のローマ軍の人々であるが。
おそらくローマ人の、その土木技術能力の高さが注目され、十分な職人と技術者になるとして、いろいろな種類の彼らのローマ人の捕虜は、ローマ人の公共物建築技術に注目され、ぺルシャのために、建造する作業のために、生き残ったという。ダムの建設と都市の建造を含む事。
イラク、スシアナとペルシャで。そしておそらくウァレリアヌスも、これらの生き残っている囚人の間にいた。それで彼は拝火教の寺院の、その幻想的な文明の中に消えた。
一つの報告によると、彼がナバテア王国で、悲しみの中で死んだとある。しかしゾシモスとゾナラスは、単に彼が監禁で人生を終えたという事を記録するだけである。ゾナラスが彼は捕らえた者達によって侮辱されて、叱責されたと加えているが。更にその彼の演説の一つにおいて、ウァレリアヌスが皇帝の服装で装ったままで、鎖に繋がれたと言った事が、エウセビウスによって報告される、

 しかし、ずっと不気味な物語が、その後の時代に、通用するようになった。
これはウァレリアヌスがシャープールが馬に乗る時の石の踏み台として、使われたという事である。そして更に、彼の死後にはその皮膚が剥がされて朱色に染められ、ペルシャの神殿に飾られ、ローマからの旅人への警告として、見せられたという。
まず第一に、二六〇年の夏の、シャープールの、この彼のローマ軍に対しての勝利が、ナクシュ・イ・ルスタムの遺跡の中での、五つのレリーフの中で祝われる原因になった。
これらのレリーフの光景はローマの衣装を着た人々、馬の背といろいろな姿で、偉大な皇帝を示している。他には時々、立っている、そのような人物が、存在している。
そして馬上のシャープールの側に、跪いているもう一人。時々、疲れ果てたような一人が、地面にいるローマ人の姿が、確認できる。そしてこのシャープールに対して、ローマ人の衣装を着た、跪いている姿の人物が、皇帝ウァレリアヌスの可能性は高い。
更におそらく、このように疲れ果てたような感じに見える人物は、他にもまだいる。
継続的に描かれている人物は、マリアデスであるとしばしばみなされた、しかし、ゲージはそれがsuccessianusである事を、かなりの最もらしさで示唆している。

 それから先程の、ローマからの旅人による、これらのレリーフの光景が、どのように、ウァレリアヌスの乗馬用の踏み台の物語や彼の死後に、その皮膚が剥がされてペルシャの神殿に飾られたなどの話を発生させたのかを予想する事が容易である。
シャープールの、虜囚になってからの皇帝ウァレリアヌスへのこれらの虐待的な扱いは、ラクタンティウスやオロシウスら、皇帝コンスタンティヌス一世の時代になってからの、キリスト教公認後に、これらキリスト教徒の著者が書いたものであり、現代の研究者達は、一様に信頼できない話として否定している。そして次のような、侮辱的なウァレリアヌスの扱いは、キリストの敵として迫害を行なったこの皇帝に対する、三世紀のキリスト教徒達の願望が、現実に転化していった例とする点でも、見解が一致している。また更に、ペルシャ皇帝シャープール一世は、有名な啓蒙君主でもあり、捕虜となったローマ皇帝ウァレリアヌスに対して、このように野蛮な扱いをする事は、なかったと考えられ、この点からも、捕虜になった後の彼の扱いは、事実とは信じ難い。実際には、ウァレリアヌスはその高齢もあり、絶望と屈辱の中、幽閉後、程なくして死去したと思われる。

 それにしても、この皇帝がペルシャに捕わる、との衝撃的な報せは、当時のローマ帝国中に大変な衝撃を与え、瞬く間に駆け巡ったと思われる。
当然、息子であり共同統治者であり、おそらく、ドナウ防衛線でこの報せを聞いたと思われる、皇帝ガリエヌスにとっても、このような形で大切な共同統治者であり、父である皇帝ウァレリアヌスを不意に失った事は、大変な衝撃を与えた事だと思われる。
また当然、そのかなりの人数は、先帝ウァレリアヌスによって抜擢されたと思われる、騎兵隊の将軍達も、すぐさま彼が皇帝ウァレリアヌス奪還のために、兵を率いてペルシャ遠征を行なう事を、期待していた事だろう。
しかし、ガリエヌスは父を救出するための遠征を、断念せざるを得なかった。
それは、このような行動に移る事を許さない、当時のあまりにも厳しい、軍事情勢からであった。おそらくこの、東方属州の防衛を担当していたローマ皇帝が、ペルシャ皇帝に捕えられたとの報せは、北方の蛮族達にもすぐに伝わったはずであり、これを機に、一段と彼らのローマ帝国襲撃が激しくなる事も、必至である。
ウァレリアヌスを救出するために、帝国東方のペルシャ遠征に向かうには、まずその前に、帝国西方が平和な状態である事が、必須条件であった。

 だがとても、当時のローマ帝国には、ペルシャに捕われた皇帝ウァレリアヌスを救出するために、東方に軍勢を送り出す余裕は、なくなっていたのである。おそらく、このような事情から、父皇帝ウァレリアヌスを見捨てるという判断を、どれ程の逡巡の末に、彼が決断したのかはわからないが、これ以降皇帝ウァレリアヌスの銀貨は、鋳造されなくなった。つまり、彼がペルシャに捕われた時から、こうして公的に、皇帝ウァレリアヌスの存在は、抹消されたという事である。もはや彼は存在しないのだから、彼がペルシャでまだ生存していようが、死んでいようが、今後一切ローマ帝国は関与しない、とこのような形で、皇帝ガリエヌスは表明したのである。
苦しいこじつけだが、それは彼とて、よく承知していたであろう。
父の皇帝ウァレリアヌスのペルシャ捕囚という事態に対する、こうした処置も、彼の苦悩の末の、決断だったのだろう。




参考文献

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利用年月日 2017年2月10日

John Bray 
Gallienus A Study in Reformist and Sexual Politics WakefieldPress 1998

Michael Gaiger  Gallienus   Peter Lang Verlag  2013

ローマ皇帝歴代誌 クリス・スカー 創元社 一九九八年
キリスト教の興隆とローマ帝国 豊田浩志 南窓社 一九九四年
軍人皇帝時代の研究 ローマ帝国の変容 井上文則 岩波書店 二〇〇八年
ローマ皇帝群像 3 京都大学学術出版会 二〇〇九年
エネアデス(抄)Ⅰ プロティノス 二〇〇七年 中央公論新社
教会史 上 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年
教会史 下 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年



ローマ皇帝ガリエヌス一 帝国過渡期の悲劇の改革皇帝

2017年2月10日 発行 初版

著  者:狭山真琴
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狭山真琴

古代ローマ帝国に、以前から関心を持っていて、趣味としてですが、自分なりに関連洋書なども読んで、研究しています。どちらかというと、ローマ帝国前期の方に関心があるのですが、皇帝ガリエヌスについては、例外的に、関心があります。 最近も、まだ未読ですが、ドイツの研究者による、比較的信頼性が高いと思われる史料の、貨幣と碑文を主にした、ガリエヌスについての再評価の研究本が発売されているようであり、再評価の気運が出てきているのか?と嬉しく思っています。

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