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ローマ皇帝ガリエヌス二 帝国過渡期の悲劇の改革皇帝

狭山真琴



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 目 次


第一章 マクリアヌスの簒奪と帝国東方属州防衛における、オダエナトゥスの起用

第二章 ポストゥムスの簒奪と「ガリア分離帝国」の出現

第三章 「堕落した女々しい暴君」という、ガリエヌスの悪評の原因と検証

第四章 コインや肖像などを用いた、様々なガリエヌスの皇帝としての、カリスマ性のプロパガンダ・演出

第五章 即位十周年記念祭

参考文献



第一章 マクリアヌスの簒奪と帝国東方属州防衛における、オダエナトゥスの起用

 二六〇年の末頃に、マクリアヌスら反乱者達が、ローマの都市と中央集権への直接の挑戦をしたので、一つの点において、この反乱はポストゥムスのそれよりも、ガリエヌスにとっては危険なものであった。フルウィウス・マクリアヌスは、かつて皇帝ウァレリアヌスの下で、キリスト教の迫害政策を実行していた。またウァレリアヌスのペルシャ遠征の際には、直接戦いには参加せず、後方支援を担当していたのだと推測される。
その彼がウァレリアヌス捕囚後の、外敵による、ローマ皇帝の捕囚、という皇帝の大幅な権威の失墜と帝国の混乱に乗じて、この時期に、その息子達と帝国東方属州のシリアで、簒奪をしたのである。

 マクリアヌスには、この小マクリアヌス(ティトウス・フルウィウス・ジュニウス・マクリアヌス)とティトウス・フルウィウス・クイエトゥスら、二人の息子がいた。
この二人はかつて先帝ウァレリアヌスにより、ローマ軍の護民官に任命されていた。
そしてマクリアヌスの皇帝宣言があった時、彼ら兄弟はたぶん、三十代であったと考えられる。
しかし、ブレイは、実際には彼らの父親のマクリアヌス自身が、皇帝を名乗ったとは考えていない。また、アルフェルディとバウアーも、当時彼自身が皇帝を宣言した事を、否定している。そして更に、パウリー・ヴィソワは、父親の方のマクリアヌスが皇帝として刻まれているコインは、偽造されたか、この地方の造幣局長の誤りであると指摘している。

 二人の帝位要求者は、帝国東方の至る所で、会釈されたという。
そしてアレクサンドレイアの鋳造所は、彼らの名前で二六〇年の九月に、コインを鋳造している。そして更にアンティオキアの鋳造所でも。更に、ヘラクレア・ポンティカ、ニカイアとビザンティウム方面でも。ゾナラスによれば、彼らが作った新政府は、ペルシャに対する戦いに、最初に取り組まなければならなかった。しかし、間もなくその問題は、バススとオダエナトゥス達に、残される事となった。そしてマクリアヌスら反乱軍はまず初めに、ローマに侵攻する事に決める。

 そしてそれはガリエヌスに対して、直接反乱を起こすよりも、よほども、効果的な決定だった。当時のガリエヌスは、ガリアでのポストゥムスの反乱の対応に、追われていた。
その間に、マクリアヌスは、自軍の増強を行なう事ができた。
しかし、再び、疲弊していた各地から絞り取られる請求書や諸々の徴収で、小アジアの住民は、彼らの軍隊の通過に、耐えなければならなかった。反乱軍。
中でも、この前景は、決して忘れられてはいけない。侵略軍はイタリア方面まで、抵抗なしに通過した。そしてその軍隊は、マクリアヌスと彼の年長の息子小マクリアヌスによって、率いられていた。後には、その間に東方属州を支配するために、部下のバススを残すに留めた。
明らかに、彼らはエメサの都市に、その本部を持っていた。

『ヒストリア・アウグスタ』によると、三万人の強力な兵力を持つ。
その軍隊はバルカン半島を横切った。そして実際には、ガリエヌスの命令を受けた、アウレオルス率いる、ローマ軍との決戦は、バルカン半島のドナウ流域のイリリクムで行なわれた。
そして『ヒストリア・アウグスタ』は、この時にアウレオルスを、不合理にも皇帝にしている。そしてそれは、実際の戦いの勝利を、彼の部下の一人のためとする。
ドミティアヌス。しかし、彼はおそらく無理やり、こうして過去のローマ皇帝ドミティアヌスと同様の名前を与えられ、かつ彼やその皇后のドミティラの血を引いているかのように、こじつけられている印象である。また、この人物ドミティアヌスのについての書かれ方には、パルミラの僭称女王ゼノビアの出自について、彼女は古代エジプト女王クレオパトラの子孫だとする、これもいつもの悪乗り的な筆致の、登場人物についての、大袈裟な家系の装飾を行っている傾向も、同様に見られる。そもそも「三〇人の僭称帝たちの生涯」のマクリアヌスの章の中で、アウレオルス配下だったとされる、この将軍ドミティアヌスなる人物の実在性自体も、疑わしい。

 これらの事から、やはり、この個所についての記述内容についての信憑性は、数段落ちると思われる。それよりは、ゾナラスの記述の方が、それよりはるかに、信頼できる報告を与えていると考えられる。やはり、その記述の中では、このアウレオルスの方に、この戦いの勝利の理由を認めているようである。またアルフェルディも、彼の史料の方が信用できると、適切に言っている。そしてゾナラスはアウレオルスが他の将軍と同じこの戦場に、送られたと言っている。
反乱軍は包囲された。捕虜達は彼らの忠誠に戻るよう、敵兵を説得する事を願って、主に助かった。結局。彼は言う。両側の上の兵士達は、互いに親族だった。
これはおそらく、各々の軍が他の軍の軍団からの、機動隊を多分含んでいたという意味だろうと思わせる。これらのアプローチのため、または、可能性によってあるかどうかに、関わらず。

 彼の標準は、旗手の簒奪者に奉仕して下がった。これは、降伏の印とされた。
そして他の旗手は、地面に彼らの旗を放り投げた。兵士達は、皇帝ガリエヌスのために、喝采した。今度は彼らが容赦を越えて罪を犯したのを、間違いなく恐れたパンノニアを除いて、マクリアヌスは見捨てられた。マクリアヌスと小マクリアヌスは、アウレオルス軍と戦い、倒された。
そしてマクリアヌスに従っていた兵士達は、降伏した。
おそらく、彼らは指揮官の血が、彼らの赦免を買うだろうと考えて。

 いずれにしても、マクリアヌスに従った兵士達は特赦されて、これからは、ガリエヌスに忠実なままだった。この戦いは、二六一年の春または初夏に起こった。
この逸話は、ニつのものを例示する。アウレオルスの司令官としての才能と新しい騎兵隊の効果が、作動状態になる最初。こうして二六一年の春に、イリリクムでアウレオルスの騎兵軍団によって、マクリアヌス父子は倒された。バルカン地方は、こうして再び彼らの帝国への忠誠に戻った。そして小アジアの都市のいくつかも、そうした。
しかし、元近衛長官としての、より若い簒奪者バリスタの支持は、エメサで根強いままだった。その時ガリエヌスは、新たに東方に軍を送らなかった。
彼の当時利用し得る全ての兵力は、ポストゥムスに対する戦争のために、抵当に入れられた。
その代わりに、勝ち誇って最初のペルシャの探検から、この時までに帰還したオダエナトゥスに、帝国の東方属州防衛を任せた。

 大体この時に、オダエナトゥスはガリエヌスの手から、多くの栄誉で最初のものを受けた。「ローマ人のドゥクス」の称号。皇帝ガリエヌスの名において、彼はエメサの簒奪者達の軍隊を悩ました。『無名氏ディオの継承者』によると、駐屯軍の市民が彼の入場を、最初は拒否した事。野蛮人の手に落ちるよりはむしろ、どんな運命ででも苦しみたいという、彼らの意欲を明言した事。もしそうならば、彼らには再考がすぐにあった。
ゾナラスによって。その意見を再び受け入れる。エメサの都市で、クイエトゥスと連携していた、近衛長官バリスタは、オダエナトゥスによって、その討伐が実行された。
マクリアヌスと小マクリアヌスの死亡後に、このエメサに、マクリアヌスの三男のクイエトゥスが逃げ込んでおり、ガリエヌスはオダエナトゥスの討伐軍を差し向けたのである。

 ゾナラスによると、オダエナトゥスによる煽動により、エメサの人々は、クイエトゥスを追いつめた。そして最後のとどめは、オダエナトゥスによってさされた。
そしてオダエナトゥスは、バリスタも倒した。
だがオダエナトゥスが、直接エジプトの管理者となる事は、けしてなかった。
その理由は、彼がエジプト人では、なかったからである。当時のエジプトの財務官は、シリアまたはメソポタミア出身でなくてはいけなかった。

 とにかく、アレクサンドレイアの都市は、この時の市民の激動によって引き裂かれた。
二六二年のこの混乱の時でも、そしてその時でも、オダエナトゥスは、直接エジプトの制御を、決してしなかった。その理由は、彼がエジプト人ではなかったからである。このような帝国東方属州の財政的当局者は、シリアまたはメソポタミア出身でなければならなかった。
そして、オダエナトゥスは、皇帝ガリエヌスの完全な許可なしに、ローマの高官を処刑する事ができなかった。アエミリアヌスの経歴の詳細は、彼がエジプトに赴任するまでに作られた、ジョーンズの碑文に記載されている。

 彼はガリアの三つの属州とオスティアの港の輸送管理官として、担当していた。
そして二五八年に、属州エジプト副総督になっていた。
この頃、まちがいなく、彼はマクリアヌスの仲間になっていた。
更にその上、おそらくこのアエミリアヌスも、ウァレリアヌスにより任命され、キリスト教の迫害を行なうように、委任されていた可能性もある。
二六一年の秋のマクリアヌスの死の後の、若干の時間の間に、彼は自分自身で皇帝を僭称したようである。コインが彼の名前によってではない、しかし、この皇帝僭称は『ヒストリア・アウグスタ』によってだけでなく、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』によっても証明される、そしてガリエヌスに対する反逆者として、ゾシモスによって言及される。
それ以外は、ほとんど未知のアントニヌスという名前で、彼は筆記のまちがいによって、隠されるかもしれない。よりおそらく、これははっきりしない「ルキウス・ユリウス・アウレリウス・スルピチウス・アントニヌス」への言及である。

 彼が書面で都市の他の地域の上で会衆と情報交換する事を強制されるように、都市が対立する派閥の間で身体的に割られたと、司教ディオニシュオスは、我々に話す。
通信が通じるという保証なしで。それはより簡単だった。彼は言った。
二つの党を分けた、アレクサンドレイアの大通りを横断する事により、帝国の西方に東から通る事。ガリエヌスの名において、継続的にコインを鋳造する事によって、支持はこれに与えられる。彼の支持者によって、コントロールされる都市の一部に、コインの鋳造所は位置していたに違いない。

 そしてその人物は明らかに、二五三から二五四年に、メソポタミアで出される彼の名前で、コインからわかるだけである。更に『ヒストリア・アウグスタ』は、兵士と奴隷間の紛争についての話を持つ。アエミリアヌスの邸が攻撃された暴動とガリエヌスに対する憎悪からの、エジプト軍の熱心な賛同による、彼の以降の簒奪の仮定は、それがよりたぶん、そのアエミリアヌスであると考えられる。アエミリアヌスは、その最も高い賭けのために、賭博をする事に決めた。

 ガリエヌスによって、アエミリアヌスに対して、その派遣されるオダエナトゥスによって、追い越される時、彼がインドに探検を準備する事について『ヒストリア・アウグスタ』の、不合理な状態を無視しよう。明らかに、ガリエヌスはアレクサンドレイアで、彼の味方なしではなかった。アレクサンドレイア司教ディオニュシオスは、ガリエヌスが、それまでの父ウァレリアヌスのキリスト教迫害政策から一転し、キリスト教公認の政策に転換している事などから、親ガリエヌス傾向の強い人物であった。更にこの司教の書簡は、侵入のそれらの日の凶悪で薄暗い背景の、もう一つの解説を提供している。内戦。力の競争相手が彼らの致命的なゲームを、最後までやった疫病と飢饉。彼は死体で一杯の、街の通りと港について、語っている。

 十四歳~八十歳の年齢からの、穀物失業手当の申込者の総数が、より幸せな日に、四〇と七〇の間でそのような申込者の数より、少なかったと我々に話す事で、彼は年齢の災害の影響を例示する。エジプトと北アフリカは、首都ローマの穀倉だった。
ガリエヌスは、ローマ帝国の大切な穀倉でもある、属州エジプトの制御が、敵対的な手の中に残るのを許す事ができなかった。彼はアエミリアヌスに対して、一人の将軍の、テオドトゥスを送った。我々は、彼が騎士起源の将校であったという事を、エジプト総督としての彼の以降の任命から知っている。アルフェルディが考えて、おそらく。彼は海軍司令官に、任命された。
なお、アルフェルディは、このマクリアヌスやアエミリアヌスの簒奪が起きた、この頃にガリエヌス率いるローマ軍とビザンティウムの反乱軍の間で、行なわれたとされている、ビザンティウムの戦いと、アエミリアヌスとの戦いを繋ぐ。しかし、これはあり得るかもしれない。

 その時、皇帝が自らエジプトまで進む必要は、なかった。その時将軍テオドトゥスは、その戦いで完全に勝っていた。そしてこの二六二年のテオドトゥスとの戦いで、アエミリアヌスは破られた。そして捕えられ、ローマのガリエヌスの許に送られた。彼は牢屋で処刑された。
テオドトゥスは、指定された彼の所の、エジプト総督だった。おそらくこの戦いは、テーベの近くで起こったのだろう。『ヒストリア・アウグスタ』は、この時テーベの兵士達が、ガリエヌスが派遣したローマ軍から、残酷に扱われたと言っている。
だが、このような皇帝ガリエヌスによる、間接的・直接的な兵士に対する残酷な仕打ちの話は、この次に紹介する、二六二年の、小アジア諸国へのゴート族侵入と同時期に起きていたと思われる、ビザンティウムでの、ガリエヌスと反乱軍との戦いの同様の話など、他にもいくつか見られ、かなりその信憑性は疑わしい。

 そしてこれから更に、そのビザンティウムでの反乱軍との戦いと同時期に発生した、二六二年の、小アジアへのゴート族侵入についてである。
小アジアでのドナウ地方の東ゲルマン人との戦いを二六〇年と二六八年の間に置く、ゲオルギオス・シュンケロス。そして『ヒストリア・アウグスタ』。続いてゾシモス。ヨハネス・ゾナラス。 そのおそらく、ガリエヌスが単独統治を開始してから二一六二年の、まず最初に起きた、その黒海へのゲルマン人の侵入。おそらくゴート族を通して。
まず『ヒストリア・アウグスタ』。
「スキュティア人が、同様にビテュニアを通り過ぎ、そこの都市を破壊した。
スキュティア人は荒廃させた。つまりゴート族の一部。小アジア。エフェソスのルナ神殿さえ。それは略奪されて、放火された。ほぼ同じ時に、ガリエヌスはビザンティウムの反乱軍を破った。ペルシャ(262/3年のオダエナトゥスの、メソポタミアへの出発の間)でのこれらの出来事の間に、スキュティア人は、カッパドキアに侵入した。
彼らはここの都市を征服し、長期間に渡って、様々な戦いを主導した後。
ビテュニアでも、それらを行なった。そしてこのような状況下で、兵士達はその考えを主張した。新しい皇帝を選出する事。ガリエヌス。彼を殺す事。」

 そして『ヒストリア・アウグスタ』は、その戦いをガリエヌスに対する、新たな批判の機会として使う。そこまでされる程、ガリエヌスから憎悪されていたとする都市、ビザンティウム。
この戦いにより、それら古い一族が、ほとんど見出せなくなるという程に。
そして彼により、降伏した時の、無防備な姿でいる所を虐殺されたという、降伏してきた兵士達。また、ヨハネス・ゾナラスも、そのビザンティウムでの反乱について報告する。
エフェソスのアルテミス神殿の破壊の描写に基づいて、その報告は二六二年に入れる事ができる。報告。カッシオドルスからの抜粋を表わす。
「彼(ガリエヌス)が自分自身を、あらゆる贅沢に捧げている間。レスパは集まった。
そしてVeducとThuruar。ゴート族のリーダー達。
出航して、小アジアの後で、ヘレスポントゥスの上に移動した。
そこで、彼らは多くの人口の多い都市を荒廃させて、エフェソスのルナ神殿に放火した。
彼らがビテュニアから追い出された後。彼らはカルケドンを破壊した。
その後に部分的に、コルネリウス・アウィトゥスにより、それは再建された。
それらの勝利の後、ゴート族は再び、ヘレスポントゥスを横切った。
略奪品を積んで。そして、同じ方法で戻っていった。
その上で、小アジアの後のそれは、来た。彼らがトロイアとエピロスで略奪した方法で。
ゴート族が小アジアを荒廃させた後。トラキアがそれらの残酷さに、さらされるならば。 」

 そしてシュンケロスから、入手可能な最高の情報。
直接的または間接的な、デクシッポスから得られるその情報。
「それから、再びスキュティア人が来た。そしてゴート族も、名前を挙げられる。
ポントス海からビテュニアに、そして小アジアとリディアの全体を通し、ニコメディアを征服した。ビテュニアの大きな都市とイオニアの都市を征服し、破壊した。
部分的に石壁があった。しかし、彼らはまたフリギアを攻撃した。荒廃するトロイア。カッパドキアとガラティア。しかし、オダエナトゥス。再びペルシャの首都クテシフォンを、包囲によって脅かしていた。だがそこから移動した。彼が小アジアでの損失を聞いた時。ヘラクレア・ ポンティカの後カッパドキアに。スキュティア人は敗北した。」

 更に後のゴート族司教ウルフィラ。 彼がその戦いについて、言及する(『エンマン皇帝史』の上で。なお『エンマン皇帝史』は、ローマ帝国の歴史上の建物という話題については、ほとんど扱っていないようである。ウルフィラの、二六二年と267/8のゴート族侵入についての、最も簡潔な言及。その他の情報源は、この問題については、簡単に焦点を当てている。
そしてこのウルフィラの短い報告によると、この侵略者達は、明らかにヘレスポントゥスから、船で来たという。更におそらく、彼らは当時のドナウ地方からの、ガリエヌスと多くのローマ軍団の正規軍の不在、そしてビザンティウム(イスタンブール)とその周辺の軍団が、駐留不十分な数であった事による恩恵を受けた。そしてこのために、ゴート族のボスフォラス海峡からの、小アジアへの移行を阻止する事ができなかった。彼らにより、ビテュニアと他の小アジアの場所は破壊され、多くの都市は略奪された。そしてエフェソスのアルテミス神殿も、彼らの犠牲になった。だが、これから詳しく述べるように、この神殿の破壊と消失は、当時発生した、大地震による可能性が高い。

 おそらく、この時に小アジアに侵入してきた、ゴート族の集団は、ガラティアとカッパドキアのような、小アジアの他の部分に到達した。
しかし、最終的にはこの小アジアで侵入者達は、ガリエヌスの派遣したローマ軍によって、停止させられた。そこで彼らゴート族は、決定的ではないが、敗北を喫した。
だが、彼らはトラキアの略奪からの帰り道を、妨害される事はなかった。
それは『ヒストリア・アウグスタ』の中で、ビザンティウムの反乱軍とその周辺について述べている時。おそらく最初は、ウァレリアヌスにより派遣されていた、将軍フェリックスにより。
だがこのゴート族の侵入に対し、ガリエヌスが対処しきれていないのを見て、この時点でビザンティウムの反乱軍は、彼らの反乱を決めた。
しかしおそらく皇帝ガリエヌスは、驚くべき事に、あの多忙な中、この地域にまで来て、このビザンティウムの反乱軍の動きを抑えた。それらの勢力が広がる前に。

 これらの出来事は『ヒストリア・アウグスタ』にも書かれている。
ただ、それはひどく、歪曲された方法で扱われているが。
おそらく、これら反乱軍は、マクリアヌスの味方の残党だった。そして当時のこの地域の防衛は、これらの出来事によって弱体化、そしてそのために、ゲルマン人は、そこまでの通り道を、容易に通過する事ができた。また更にこの時の、ビザンティウムの戦いについては、これらの史料での言及がある。

 その『ヒストリア・アウグスタ』が隠している出来事。
九世紀の史料の『Parastaseis syntomoi chronikai』、そして十四世紀のビザンティンの著者ゲオルギオス・コディノスの『Patria Konstantinoupoles』という、ビザンティン帝国時代の、多くの歴史的記念碑について記述している内容によると、ガリエヌスが二年の間、ビザンティウムの戦いを指揮していた時に、この場所に、小さな異教の寺院を建てさせたという。
だが、後に大帝コンスタンティヌスにより取り壊され、新たにその跡に、聖母教会を建てさせたという。そしてその場所は、七年間の長い間、大勢の歩哨に守られていた。

 やはり、こうした記述からも『ヒストリア・アウグスタ』の中では、ビザンティウムでの彼自身の行動については、至って雑に扱われ、更にビザンティウムの都市や兵士達への残虐行為の粉飾まで行われている、ビザンティウムでのガリエヌスであるが、こうした新たな二つの史料の記述からも、皇帝ガリエヌス自らが、反乱者達との戦いや、蛮族達の撃退に忙殺されている合間を縫って、積極的にこの戦いの指揮を執り、やがてビザンティウムの鎮圧を成功させた様子が伝わってくる。また、自軍の兵士達に命令して、まるで蛮族達並みに、さんざんにビザンティウムの都市を容赦なく破壊し尽くした所か、このように、彼は新たに異教の寺院の建設も行っており、これも改めて信用ならない『ヒストリア・アウグスタ』が伝えている、ガリエヌスの蛮行の記述である事がわかる。

 そしてこの『ヒストリア・アウグスタ』による、ガリエヌス指揮による、ビザンティウムでの反乱の鎮圧の功績についての、故意の黙殺というだけではなく、このガリエヌスの、ビザンティウムへの異教寺院の建設という話からも、改めて、発見できる事であるが。
同種の事例は、これまで既にいくつも見てきたようにこれまでにも何度も見てきた通り、どうも当時の皇帝ガリエヌスがその治世中において成し遂げている、キリスト教公認や当時の数々の精力的な反乱者達の鎮圧や蛮族達の撃退などの功績についての、後のコンスタンティヌス一世側による、その間接的・直接的な方法により、ことごとく、歪曲された上で消し去られている形跡が見られる形跡の、これも紛れもなく、その一つという印象であり、いかにも象徴的な話でもある。

 おそらく、ビザンティウムでの即時の反乱は、イリリクムでの、アウレオルスとの戦いによる、マクリアヌスの敗北の後に発生した。
二六一年の夏に、ガリエヌスはビザンティウムで反乱者達を包囲し、処罰した。
だが、先程も少し触れているように、このビザンティウムでの、ガリエヌスと反乱軍との戦いについても『ヒストリア・アウグスタ』の中で、その時のガリエヌスの処置の残酷さとして、これもいかにも批判がましく、以下のように書かれているが。
「ガリエヌスの治世の災厄は外にもあった。ビザンティウム人の都市は海戦で名高く、黒海の防壁であったが、この都市がガリエヌスの兵士たちによって誰も生き残らないほどひどく破壊されたのである。結局、ビザンティウムには、古い一族がほとんど見出せなくなってしまった。」「ガリエヌスはビザンティウムを罰するために進軍したことがあったが、城壁の中に受け入れられるとは考えられなかったので、[人命保護の約束をして]、翌日[市内に]受け入れられた。しかし、ガリエヌスは、約束を破って、丸腰の兵士を武装した兵士で取り囲んですべて殺したのである。」

 ビザンティウムでの、皇帝ガリエヌスのこうした蛮行により、ビザンティウムの人々はこの『ヒストリア・アウグスタ』の言う、その古い一族とやらを始めとして、根絶やしにされたかのような書き振りであるが。このガリエヌスによる、ビザンティウムの反乱者達による、その処罰の内容自体は、おそらく普通の処罰の方法であったとは思われるが、これも基本的に、数多くの反乱者達の方に好意的な『ヒストリア・アウグスタ』により、こうした形で、悪意の脚色と誇張が施されて描写されたのではないかと思われる。
そして一応『ヒストリア・アウグスタ』は、ガリエヌスによる、このビザンティウムの反乱という出来事の終わりを、遅くとも、その二六二年の九月に行なわれた、皇帝ガリエヌスの即位十周年記念祭の前の事として載せてはいるが。

 しかし実際には、ガリエヌスの指揮による、このビザンティウムの反乱の鎮圧は、おそらくそれより前の、二六一年に終了している。だが、依然としてその時期は、不明確なままである。
この『ヒストリア・アウグスタ』の報告が、信頼できるかどうかに関わらず。
だがその『ヒストリア・アウグスタ』の、即位十周年記念祭のゴート族の捕虜の参加は、間接的に、その事を表わしている。そうした表現により、おそらくこれも、その実際のガリエヌスの功績について、故意に減らそうとしている事。その即位十周年記念祭の行列の中の、偽られた、ゴート族の扮装をした人々として。そして実際には、もっと早期にガリエヌスがビザンティウムでの反乱を終了させる事ができて、次には少しでもそれらの場所に、個人的に滞在していたとすれば。おそらく、ガリエヌスのドナウ川上部や中部への滞在があった、彼の即位十周年前後に。
そのポストゥムスに対する戦いが、続行されていた時期の。

 そしてこの小アジアへの、ゲルマン人侵入は、おそらく唯一のガリエヌスの出発後に、発生していた。この二六二年の春から夏の、小アジアへのゴート族の侵入による戦いで、一部の将軍あるいはオダエナトゥスは忙しかった。そして多分この頃ガリエヌスは、既にビザンティウムヘ、その反乱軍との戦いの司令官として、アウレオルスまたはもう一人の将軍を派遣して、その反乱の鎮圧に、専念させていただろう。ガリエヌスがその前に発生していた、マクリアヌスとの戦いで、明らかに、不在だった時から。そしておそらくこれも、当時発生していた、北イタリアへの、アラマンニ族侵入のため。その間に、ゲルマン人は、北にヘレスポントゥスの上を、妨害されないまま、通り抜けて、自由に移動し、トラキア方面での略奪を続けていた。

 

 そして『ヒストリア・アウグスタ』は、そのガリエヌスの章の中で、歪曲してこれらの出来事を描写する、そして切断し、並びに増やす。
まず、ガリエヌスとサトゥルニヌスの執政官就任(二六四年)に対する年代の情報が、間違っている可能性がある。オダエナトゥスの、ローマ帝国東方属州防衛司令官の任命以来。
しかしこれを『ヒストリア・アウグスタ』では、同時期としている。
既にそれを260/2年に置く事。
「非常に烈しい地震と何日も闇が覆い、永久に続くかと思われた。また、雷鳴のような音が聞こえた。地球の混乱によって、多くの建物と住民が、それに飲み込まれた。
この災いは、小アジアの諸都市では非常にひどかった。しかし、ローマもリビアも地震で揺れた。」だが、この『ヒストリア・アウグスタ』がゴート族による略奪と放火のせいだとしている、このエフェソスのアルテミス神殿の最終的な破損は、当時に起きた、大地震による可能性の方が高い。

 二六二年(六月四日)、そして二六五年(九月十六日)に、実際に日食が計算された。
これにより『ヒストリア・アウグスタ』にある、二六二年の、ガリエヌスとルキウス・ムンミウス・ファウスティアヌスが執政官であった年に起きたという、この大地震と共に、日食の事を指していると思われる部分の記述は、信頼できるという事がわかった。
だが、エフェソスの研究をしている、Stefan Karwieseの一九八五年の研究によって、この『ヒストリア・アウグスタ』が、実際にはそれぞれ異なる時期に起きた、自然災害のその全てを、皇帝ガリエヌスの治世に起きた事として、これら各出来事の起きた時期を恣意的に操作して、一度に挿入しているらしい事が判明した。

 この問題についての、彼の指摘である。

 この『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、この二六二年のビザンティウムの包囲後の、その地域の軍事的弱さの後の、これもその同年に起きた、この大地震と小アジアへの、彼らゴート族の侵入という、例外的な状況を、これも恒例の、著者の故意による、いろいろな災難の水増し記述による、格好の皇帝ガリエヌス批判の材料として使用する事ができた。

 そしてエフェソスのアルテミス神殿の火災というのは、この時の大地震によって起こった可能性がある。おそらくこの神聖な空間は、大地震による倒壊によって消失した。
更にこの時に、こちらの地方で起こったと思われる大地震の、アルテミス神殿倒壊の混乱のどさくさに紛れて、神殿跡に侵入してきたと思われる、ゲルマン人達による、この侵入と神殿内の宝物の略奪は、もはや神殿の冒涜としては、見なされるべきではなかった。

 そのゴート族の出発との関係について、その方法の復元は導かれた。
この二六二年に起きた、ゴート族のカルケドンヘの侵入の例の、ヨハネス・ゾナラスの記載。
シュンケロス。これはオダエナトゥスの死と関連させる、その侵入である。
ガリエヌスの統治の最後の年に、この蛮族の侵入を置くならば。
そうする事で、彼は明らかに、この二六八年の次のゴート族の攻撃の波と、明らかに区別する。この二六二年の、小アジアへのゴート族侵入の後、その二六七年までは、この東部ゲルマン人達との重要な戦いは、起こっていたようではない。

 なお当時、マクリアヌスの勢力圏であったと思われる、アンティオキアやヘラクレア・ポンティカ、そしてニカイアと並んで、このビザンティウムでも、実際に、その息子達の名前のコインが発行されていた事などから考えてみても、この時、ビザンティウムでローマ軍と戦った兵士達は、マクリアヌス一味の残党であった可能性が高い。

 一つの可能性があってマイナーな例外で、アエミリアヌスは、彼の治世の、そのまさしくその終了の時の、簒奪者アウレオルスまでの、ガリエヌスの治世の最後の反逆者である。
これが「三〇人の僭称帝たちの生涯」という題名の『ヒストリア・ アウグスタ』の中での驚異的な内容を調べる、都合のいい時間で、あるようなのかもしれない。
玉位を握るとしていたガリエヌスに対して、全ての反乱軍と取引するとしている。
しかし、それは、こうするために、あまりにたくさんのナレーションを妨げる。
ガリエヌスの残りの治世に、どんな略奪も、帝国東方にはなかった。
そして、どんな更なるペルシャの侵入もなかった。そして疑いの余地なく、彼の治世の終わりに、ゴート族は小アジアに戻った。

 ここで我々はおそらく、初めは皇帝ウァレリアヌスによって帝国東方属州防衛として、起用され、後には息子の皇帝ガリエヌスによって、更に広範な東方地域の防衛担当を任されていたと思われる、このオダエナトゥスの初期の経歴に注意する。
セプティミウス・オダエナトゥスは、パルミラの支配者の家系だった。彼はセプティミウス・ハエラネスの後継者だった。
セプティミウス・オダエナトゥスは彼の長男。彼はハエラヌスの息子か兄弟、現在はオダエナトゥスの長男か孫ともされている。
彼は二五八年の前の、suffect執政官だった。

 オダエナトゥスは、侵略者のペルシャ軍が帝国東部属州に、最初に押し寄せた時、撃退した。
従って、彼はバリスタから、帰りのペルシャ軍の追撃を引き継いだ。後で我々が見たように。オダエナトゥスはアウレオルスとの戦いの敗北による、マクリアヌスと長男の小マクリアヌスの死亡の後、エメサに逃げ込んでいた、マクリアヌスのより若い息子のクイエトゥスとその仲間だった近衛長官のバリスタを処分した。
そして、詳細が明らかではない、そのペルシャへの攻撃を、彼は再開した。
だが、彼が帝国のためにメソポタミアを回復して、ニシビスとカルハエの要塞を奪還した事は、確かである。

 そして彼はペルシャ帝国の首都クテシフォンに、ペルシャ軍を追い続けた。更にペルシャ皇帝の妾と多くの略奪品と二度の多くを捕える事は、彼の首都で彼を称賛で囲ませた。おそらくオダエナトゥスの最初の戦いは、彼の率いるパルミラ軍と共に、主に行われたに違いない。弓兵隊と重装騎兵隊であった際立った特徴。

 こうしてローマの権威は、アラビアで回復したようである、そして、おそらく、アルメニアとユーフラテスの上のドゥラエウロポスの要塞は、再び塞がって上げた。
オロシウスとフェストゥスは、ロマンチックに、シリアの田舎者の軍について語る。
フェストゥスは、パルミラの一〇人隊長の地位に、オダエナトゥスを本当に格下げしている。後でもちろん、ローマ軍は、彼の支配を受けた。
彼がした全ての、これらの大きな事。少なくともクイエトゥスに対する、行動の時間までに。
ガリエヌスの当局で、そして彼の名前で、そして彼の代理として。

 彼がした全ての、これらの大きな事。増加した栄誉は、彼の上に置かれた。
まず第一に。明らかに、彼は「ローマ人のドゥクス」の称号を、与えられた。ローマの将軍。
ゾナラスとシュンケロスは、彼を『東の将軍(ストラテーゴス)』という。
シュンケロスのラテン翻訳者は、これを「東方のドゥクス」と翻訳している。

 これらの説明は、何かを後の使用に負っている。
オダエナトゥスの位置が後の「ドゥクス・limitis」のそれと一致したと、仮定されない。
『ヒストリア・アウグスタ』は、彼を皇帝と言っている。
どんな依存がこの点について『ヒストリア・アウグスタ』での、皇帝を表わす単語、または帝国の使用に置かれる事になっているか、または、彼らが本物であるならば、彼らの重要性が何であるかについて、わかっている事の判断が、難しい。

 その呼称は、皇帝はもちろん当初単に『将軍』という事を意味していた、しかし、三世紀までには、それは皇帝に対して、ほとんど独占的に使用された。
『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、デクシッポスのような史料により用いられる、いくらかのギリシャ語表現を誤訳したために、その誤解はあり得るかもしれない。
ンニが示唆して。
けしてオダエナトゥスは、彼自身の名前でコインを、鋳造はしなかった。
しかし『ヒストリア・アウグスタ』は、ガリエヌスが、彼の名誉のために彼の名前でコインを鋳造するように命令したと言っている。だが、これは、ほぼまちがいなく、偽りである。そのようなコインは、一切現存していない。

 とにかく、オダエナトゥスはその生前に、自分がローマ皇帝であるとは、けして主張しなかった。彼は常にガリエヌスを、自分よりも上位の権威者として認めていた。
そして『ヒストリア・アウグスタ』でさえ、これを与えている。
ガリエヌスが帝国の大国と「アウグストゥス」の称号で彼に、同様の権力を渡したと言う時、それは間違っている。そのような援助は、コインと銘文のその印を残す事ができる可能性があり得た。

 そして彼の死の後、彼の未亡人ゼノビアは、彼らの息子ウァバラトゥスを、ローマ皇帝と名乗らせた。彼のコインで最初の物の称号が、彼の父の称号の重複であると仮定された。
そのようなコインの上で「皇帝」の単語と月桂樹冠が刻まれている。
しかし、その仮定は、全く確実なようではない。
オダエナトゥスが皇帝の称号を与えられるならば、あるいは、それを引き受けた。
しかし、それは全く軍事的な面でのみの、重要性であっただろう。
彼がガリエヌスと競争して、自分自身を決して配置しなかったか、彼との平等な立場をさえ、主張しなかったと考えられる。

 この時の彼の称号は「ローマ人のドゥクスあるいは将軍」。この「インペラトル」は、または皇帝または軍隊の司令官を意味している。それで「全東方のコレクトル」は、ローマ帝国東方属州住民の管理の、一般的な監督を意味している。
アルフェルディとパウリー・ヴィソワの「greekepanorthotes」に記載の碑文から、それを受け入れる。

 結局、オダエナトゥスは、この称号を授与された。
だが他の属州総督と他の権力者は、オダエナトゥスに、取って代わられなかった。
彼に関連した各地域が、従っただけである。シリア、パレスティナ、メソポタミア、アラビア。等しく疑う余地なく、ローマ皇帝の私領であった、エジプトではない。

 しかし、ドナウ河防衛線と密接な関連があるため、防衛権としては西方に属する事になる、小アジアは疑わしいケースである。
アルフェルディは、彼の影響が及んだ地域の中には、小アジアが含まれていなかったと考えている。そして、そこはガリエヌスの直接の統治のままにされたとしているが、これに対しブレイはわからないとし、次のように続けている。
「我々がビテュニアの、ヘラクレア・ポンティカへの、ゴート族急襲に抵抗するために進んでいる、オダエナトゥスの姿がわかる、彼の人生の終わりに、ちょうど彼の管轄権がどのくらい、遥かに西から広がったか、正確に言う事が、私にはできるとは考えてはいない。」。

 確かにこの問題もそうであるが、また東方属州防衛を担当していたオダエナトゥスにとっては、彼の管轄外ではないか?と思われる、この小アジアでの軍事行動も、彼の自主的な軍事行動であったのか、それとも、皇帝ガリエヌスの命令を受けての、軍事行動であったのかも、判然としない所がある。しかし、彼が元老院議員であった事から考えると、やはり、普通に考えて、これは皇帝ガリエヌスの命令を受けての、軍事行動であったと考えるべきであろう。
なおこのオダエナトゥスの詳しい経歴とローマ帝国の中での、実際の地位や官職についての考察については、更にこれから後の章で、詳しく述べていきたい。

 彼は、実質的なパルミラ支配者としてのそれだと思われる「王の中の王」の称号を手に入れた。ペルシャ皇帝の、伝統的な肩書き。これらは、ローマの称号ではない、東洋人である、パルミラの中での称号だった。
オダエナトゥスにより、ガリエヌスの権威は守られた、そしてローマ帝国東部地方の安全は事実上守られた、そしてポストゥムスに対して、緊急に西の防衛のために、必要とされる軍隊とゲルマニアを、彼がまだ手放す事なく支配し、それは不安定なパワーバランスの上に、明らかに基づいた妥協だった。やがて、その時が来るかもしれない。そして、実際、それはやって来た。
パルミラがこのような名目上のパルミラの主権及び、ローマへの従属にも、より長く満足しなくなった時。しかし、まだその時は、来ていなかった。

 ペルシャへの勝利を祝い、二六三年または二六四年で、コインに刻まれた称号に、最大の「ペルシャクス ペルシャを征した者」を付けるのは、ガリエヌスにとって、十二分に正当な事だった。アンティオキアの鋳造所は「パクス 平和」のモットーで、二六四年に誠実で心からの安心を、コインとして支給する事ができた。確保される平和。
勤勉な住民が、都市の復興を始める事ができて、それを再開する事ができた、そのほとんど驚くべき反映で。

 マクリアヌスの反乱とガリエヌスの統治の終了の間の期間の、小アジアヘのゴート族侵入について。ゾナラスは、ペルシャに対する、オダエナトゥスの攻撃の成功から、オダエナトゥスの殺害と、アウレオルスの最終的な反乱までを、直結させている。
そしてゾシモスは、ウァレリアヌスとガリエヌス共同統治時代での、小アジアへのゴート族侵入について、非常に言わなければならない。また更に、ウァレリアヌスの虜囚の後、彼はイリリクムとイタリアへの蛮族侵入に言及する。これは、ロクソラニ族とアラマンニ族について、言及しなければならない。それから、彼はポストゥムスの反乱に対処する。
しかし、彼はマクリアヌスの反乱には、言及しない。

 彼はポストゥムスの簒奪から、ゴート族のギリシャのアテネの獲得まで、まっすぐ行く、しかし、それは二六七年に起こった。二六八年または二六九年。それから、彼は次のようにカードを配る。混乱している。オダエナトゥスの一生で。彼の殺害。最後のアウレオルスの反乱とガリエヌスの死。そしてシュンケロス。ウァレリアヌスの虜囚とオダエナトゥスの、最初のペルシャ撃退に対処した後に。小アジアへのゴート族急襲について話して、ニコメディアに言及する。
それから、彼はオダエナトゥスの、更なる勝利を検討する。
ヘラクレア・ポンティカへの行進。オダエナトゥスの殺害と、最終的なギリシャへのゴート族侵入とアウレオルスの反乱。なお、ガイガーの検証によると、二六六年から翌年の、オダエナトゥスのペルシャとの戦いについては、確証がなく、疑わしいとしている。


第二章 ポストゥムスの簒奪と「ガリア分離帝国」の出現

 三世紀の中でも、最も困難な時期だったのではと思われる、皇帝ガリエヌスの時代に、ローマ帝国各地で続出した、大勢の僭称皇帝達について『ヒストリア・アウグスタ』は、「三〇人の僭称帝たちの生涯」という題名で、彼らの列伝を載せているが、この三十人という人数は、著しい誇張である。実際には、皇帝ガリエヌスの治世を悩ませた彼ら僭称皇帝達は、これら約八人の名前が挙げられる。「インゲヌウス パンニノア及びモエシア総督」・「プブリウス・コルネリウス・レガリアヌス 同方面総督」・「フルウィウス・マクリアヌス」・「小マクリアヌス(ティトウス・フルウィウス・ジュニウス・マクリアヌス)と「クイエトゥス(ティトウス・フルウィウス・クイエトゥス)」・「ルキウス・ムシウス・アエミリアヌス エジプト副総督」・「アウレオルス」・「マルクス・カッシアヌス・ラティニウス・ポストゥムス」。

 そして特に、皇帝ウァレリアヌス捕囚の衝撃による、帝国中の強い動揺がいまだ収まらぬ時期であった、二六〇年から二六一年にかけての時期には、実に六人もの簒奪者が連鎖的に各属州で発生した。二六〇年の夏のペルシャでの皇帝捕囚後、シルミウムで軍団の兵士達に皇帝として擁立された、パンノニア及びモエシア総督のインゲヌウス、そしてモエシアでインゲヌウス軍を破った後、軍団の兵士達により擁立されたレガリアヌス、シリアで兵士達に擁立された、マクリアヌスと小マクリアヌス、クイエトゥス。そしてエメサでのマクリアヌスとクイエトゥスの死後に、皇帝宣言を行なった、ムシウス・アエミリアヌス。

 これらの数多くの、短期間に現われては消えていった、その多くは皇帝ガリエヌス配下の将軍達に討伐されるか、部下の反乱で殺害されるかしていた、皇帝僭称者達の、これら短期間の地方独立勢力の中で、最も成功したのは、下ゲルマニア総督であった、ポストゥムスが、ガリア地方の北西部に作った「ガリア分離帝国」である。この帝国は、十四年間存続した。

 だが、このガリアで反乱を起こしたポストゥムスが、当時下ゲルマニア総督であったという前提についても、ケーニッヒやエックなどは、ポストゥムスが総督であるとしているが、実際の彼の当時の役職について、確定的と言える程の証拠や根拠は、ないようである。
依然として、当時の彼が一軍人、騎士階級の出身であったという可能性も、残っている。
そして私自身の彼から受ける、全体的な印象からしても、ポストゥムスは総督というよりも、一軍人だった可能性の方が、高いように思われる。

 また、彼ら僭称皇帝達のこのような反乱の動きは、けしてガリア地方の明確にそのローマ帝国からの分離を目指す、愛国的な行動ではなかった。そしてこの時期相次いだ、僭称皇帝達は、合法的な称号として、ローマ皇帝だけに与えられる称号の「アウグストゥス」を名乗り、皇帝を気取った。彼らはガリア皇帝ではなく、ガリアのローマ皇帝だった。彼らは彼ら自身の議会を催し、彼ら自身の執政官まで任命した。そして彼らこれまでの簒奪者達は、イタリア本土に侵入し、ローマ皇帝としての権利を、主張する事はなかった。

 しかし、少なくともポストゥムスだけは、違う形跡が見られる。
おそらく彼は、最初の頃だけではあるが、全帝国のただ一人の皇帝になる野心を抱いて、そのための計画を立てた。ガリエヌスは二五八年から、二年前にドナウ防衛線方面に、自分の代理人を赴任させ、自分はライン防衛線に、向かった。次いでガリエヌスは、自分の次男のサロニヌスも副帝として、ゲルマニアのケルンに、近衛長官で後見人だったと思われる、シルウァヌスを付けて赴任させていた。そして今度は自らは、ドナウ防衛線の防衛に向かった。

 しかし、二六〇年の六月に、皇帝ウァレリアヌスがペルシャ皇帝シャープール一世の捕虜になるとの、前代末聞の不名誉かつ衝撃的な知らせは、ローマ帝国中を震撼させた。
更にこのローマ皇帝の権威の低下により、早くもこの年の秋には、パンノニアとモエシアの総督であったインゲヌウスが、シルミウムで兵士達に皇帝として擁立され、ローマ皇帝を僭称、だがムルサで間もなく、ガリエヌスの騎兵長官アウレオルスにより、この反乱は鎮圧され、インゲヌウスは殺害された。またやはりこの年の同時期に、ローマ帝国属州の防衛を担っていた、マクリアヌスとその息子達の小マクリアヌスやクイエトゥスが皇帝を僭称し、ガリエヌスに対して軍を進めたが敗れ、翌年にイリリクムで、アウレオルスに討たれていた。
しかし、この前後に起こった、二六〇年のポストゥムスの反乱も、帝国各属州での、一連のこのような不穏な動きに影響されての事であるのはまちがいなく、このような帝国の混乱と危機に、付け込んだものであった。それに、おそらく、とりわけ、ドナウ川のヘルリ族の大規模な侵入は、二六七年にガリア一帯の属州の破壊を、多分もたらしたであろう。
そしてこのガリア一帯への、ヘルリ族侵入のこの状況が、皇帝とイリリア人上級将校達の間で、長続きする、緊張の初まりだったと見る事ができる。
そして二六八年のメディオラヌムの前の年以降のこれは、致命的に拡大しなければならない。

 コローニャ・アグリッピネンシスから、若々しい皇帝の肖像が、発見されている。
エジプトのパピルスの上で、それは二六〇年の八月二十八日の最後に言及された、サロニヌス。下ゲルマニアから離れたエジプトでのそれは、ほぼ六週間は見積もられる。
九月にポストゥムスの簒奪と、全く調和して起こる事。
二六〇年八月二十九日の、エジプトで発行された、サロニヌスの新しいアレクサンドリアのコインがすなわち考慮されて、まだ始まる。

 おそらくこのシルウァヌスとサロニヌスの死は、ガリエヌスにとって大きな衝撃であり、またポストゥムスの反乱による、息子の殺害を防げなかった事は、痛恨の極みであったと思われる。彼は父皇帝ウァレリアヌスにより「アウグストゥス」に任命され、共同皇帝になった三年後の、二五八年にすでに、父の名を与えられた長男の小ウァレリアヌスを亡くしていた。
ただし、これは戦死や暗殺ではなくて、自然死だったようである。
当然、自分の大切な共同統治者であり、息子であったサロニヌスと大切な部下シルウァヌスを殺害されたガリエヌスは、ローマ帝国の権威を脅かす出来事でもある、この事件に対して、直ちにこの簒奪者のポストゥムスを倒そうとした。
ガリエヌスとこのポストゥムスとの間に、おそらく何度もの戦いが数年間の間、続いたのだろう。この間のガリエヌスの騎兵隊長アウレオルスの動きには、不明確な所がある。

 そもそも、二六〇年のポストゥムス反乱の、直接の発端は、共に皇帝ガリエヌスからライン川の防衛線の守備を任されていた、司令官ポストゥムスと皇帝ガリエヌスが「カエサル」として「コローニャ・アグリッピネンシス」の統治を任せていた、次男サロニヌスの後見役でもあった、近衛長官シルウァヌスとの間に、蛮族から奪い返した略奪品の処置を巡っての口論に、端を発していた。皇帝の息子プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスの後見役。シルウァヌス。彼の役職として、最も可能性の高いのは、ライン川国境の近衛長官、またはドゥクスである。いわば、帝国中央政府の代表であった、シルウァヌスは、ポストゥムス率いるローマ軍が、戦いで得た戦利品について、それを奪われた人々に返還すべきであると主張し、これに対してポストゥムスは、戦いに参加した兵士達に分配されるべきであるとし、互いに譲らなかった。

 その内にポストゥムスは、一旦はシルウァヌスに服従するポーズを取って見せ、兵士達に略奪品で現在は彼らの戦利品となっている品々を、彼らから取り上げ始めた。
しかし、あらかじめ、ポストゥムスから指示を受けていた彼らは、暴動を起こした。
とはいえ、この彼の簒奪自体は、以前からの用意周到な計画の元に、進められたものというより、突発的な要素の方が、強いものであろうとは想像されるとはいえ、しだいに軽視するようになっていったと思われる、皇帝ガリエヌスの命令に従い、日々、彼配下のガリア属州将軍として、ガリアに押し寄せてくる、蛮族撃退についての鬱憤と嫌気が蓄積されていったと思われる、ポストゥムスにとっては、このシルウァヌスとの争いは、皇帝ガリエヌスに対して反旗を翻す、ちょうどいいきっかけに、過ぎなかったのかもしれない。

 そしてポストゥムスの命令に従って、兵士達により、シルウァヌスが滞在していた、ケルンの都市を包囲した。やがて包囲から数週間が過ぎた。
そして、ローマ皇帝を宣言したポストゥムスの簒奪により、この地を統治していたサロニヌスとシルウァヌスが殺害された。ゾシモスはこう記す。
「市民達は要塞の門を開くと、シルウァヌスとサロニヌスを捕えると、ポストゥムスに引き渡し、二人はポストゥムスの軍隊によって殺害された。」
サロニヌスとシルウァヌス殺害からしばらく経った後、ポストゥムスは、彼自身の事は皇帝と宣言させた。その後、彼は信頼していた、ポレミウス・シルウィウスに、ヴィエンナでの権限を与えた。なお、ポストゥムスは地域的な関連があった事、その名前から、元々ガリア属州出身であった事がわかり、元々ポストゥムスがガリアを掌握しやすい、背景があったのだと思われる。そして当時ケルンの鋳造局は「アウグストゥス」という称号で、サロニヌスの名前が付いている「アントニニアヌス銀貨」を鋳造していた。

 これは、彼の周りに、サロニヌスへの忠誠を結集しようとした、シルウァヌスの、必死の行動であったに違いない。おそらく、現地で彼らはあまりにも少ない支持しか、得られなかったようである。そしてそれに彼がすぐにカエサルとしての、権威を維持できる場所は限定されてしまった。こうした、この属州での、帝国中央政府への支持の弱さ。そしてその事が、次々と押し寄せてくる蛮族達への目覚ましい数々の勝利で、はるかに信望を集めていたと思われる、有能な将軍ポストゥムスに、簒奪の隙を与える事となった。

 もしかしたら、このシルウァヌスは、その実直さくらいが取り柄の、おそらく圧倒的に、彼よりも軍人としては、蛮族撃退において、華々しい戦績を挙げていたのではないかと思われる、ポストゥムスと比べると、はるかに軍人としては、目立たない存在だったのかもしれない。
彼はその軍人としての能力を評価されて、というよりも、主にその、忠誠心の高さなどから、ガリエヌスにより、息子サロニヌスの補佐役として、抜擢されたのかもしれない。
各属州での総督や軍人達の簒奪が多発していた当時の状況を考えれば、大切な帝国の共同統治者でもあった、息子を託すのに、軍人としての有能さよりも、そういった人格的長所や、忠誠心の方が、優先されがちであったのかもしれない。

 一方、ポストゥムスからしてみれば、皇帝の信任厚く、サロニヌスの補佐役として、直々の任命を受けているというだけで、はるかに軍人としての能力は、自分より劣ると思われる、シルウァヌスの指示に、逐一従わなければならないという、不満もあったのかもしれない。
それにしても、サロニヌスの統治下にあったケルンの住民が、簒奪者ポストゥムス軍の攻撃の前に易々と降伏し、彼らがポストゥムスによって、確実に殺害される事がわかっていながら、ローマ皇帝ガリエヌスの代理・副帝と言ってもよい、次男サロニヌスと彼の後見人であるシルウァヌスを引き渡すなど、通常では考えられない事態であった。

 そして八月か九月の前に、そのポストゥムスの反乱は、おそらく、起こったはずがない。
その報せの広まりから、直ちにガリエヌスは、ドナウ川中部に、出発しなければならなかった。
更に帝国中央政府に対する、軽視の感覚は、この上で皇帝ガリエヌスの出発を通して、加わったと思われた。またライン川の軍隊は、ドナウ川方面の防衛とそして、ウァレリアヌスのペルシャ遠征のために、かなりの分遣隊を出さなければならなかった。
そしてフランク族の攻撃は、二五〇年の終わりから、引き起こされた可能性がある。

 当時のローマ帝国は、数多のゲルマン人の蛮族やササン朝ペルシャの侵入を受け、西方のライン、ドナウ、東方のユーフラテスの三面戦争を余儀なくされており、もはや、一人の皇帝の手に負える事態では、なくなっていた。このため、皇帝ウァレリアヌスは、自分達リキニウス一族の者を共同皇帝に任命し、防衛負担の分担を考案したのである。また、これはあらかじめ各方面の戦線に、皇帝を立てる事で、同時に皇位簒奪者の出現防止をも、図る狙いであったと思われる。
これは、各外敵の侵入が頻繁・深刻化し、本格的に帝国内の治安が脅かされ始めた、三世紀だからこそ生まれた、いわゆる帝国防衛分担政策であり、これは後の皇帝ディオクレティアヌスが敷いたテトラルキア体制を先取りした、画期的な新しい統治形態であった。

 

 このような事からも、この時代がローマ帝国の、本格的な統治形態の変化・転換を促した時代であった事がわかる。このような過程の中で、東方の防衛を受け持つ事となった、父皇帝ウァレリアヌスは東方へと向かい、一方西方の諸属州の防衛を受け持つ事となったガリエヌスは、ドナウ・ラインの二戦線を負担しなければならず、更なる共同皇帝を必要とした。
このため、ガリエヌスは自分の息子達も、ローマ皇帝ガリエヌスの代理として共同皇帝として、それぞれ彼自身の不在時の各防衛線に、彼らを配置させたのである。

 そしてこの時の、ポストゥムスの簒奪と関連した、このケルン住民達の行動は、ガリエヌスにとって、手痛い離反であっただろう。おそらく、彼は長男の小ウァレリアヌスに続き、次男のサロニヌスまでもこのような形で失った衝撃と悲しみの他にも、この出来事により、ペルシャによる、皇帝ウァレリアヌスの虜囚に続き、更なるローマ皇帝の権威失墜を、肌で感じた事だろう。
そのため、ガリアでのポストゥムスの皇帝宣言の知らせを聞いた皇帝ガリエヌスは、ポストゥムスを討伐するべく、ガリアへと向けて発った。

 こちらの地方での、自分の代理といってよい存在の、次男のサロニヌスと近衛長官で彼の後見役であったシルウァヌスを殺害し、反乱を起こしたポストゥムスに対し、若干の波乱の後、結局ガリエヌスは優勢を得た。しかし、二六五年に、その後ガリアの都市に立てこもる、ポストゥムスを包囲中に、ガリエヌスは背中に矢を受けて重傷を負い、ポストゥムス軍の追撃をあきらめ、退却しなければならなかった。そしてその後は、彼を本格的に討伐できる余裕ができるまで、ひとまずガリアは、そのままポストゥムスに支配させておくという、手詰まり状態になっていく。
そして、ガリアとの地理的な関係から、必然的にゲルマニア、スペインとブリテンなどの地方も、僭称皇帝ポストゥムスの手中に納まった。

 しかし、再び、これらの出来事とその順序と詳細は、混乱していく。
それらの出来事の順序は不確かで、学者間でも議論がある。
二六〇年後半のわずかな間に、東方の将軍マクリアヌスの反乱は、起こった。
それは二六一年の終わりまで続いた。不明確な箇所も多い、これら一連の出来事の中で、二六〇年の九月か十月に、ローマ帝国東部の属州のシリアの防衛を任されていた、マクリアヌスがその息子である小マクリアヌスの名において、ローマ皇帝僭称を行なったのは、確実である。
彼と彼のこの息子が、二六一年にローマに侵入するが、蛮族襲撃に備え、絶え間なくドナウ川方面やライン川方面の、防衛線の前線に貼りついていた、皇帝ガリエヌスに代わり、首都の防衛を任されていた、アウレオルスや他の将軍達に、バルカンで敗れた。

 そしてポストゥムスは二六一年半ばに、ラエティア総督のゲニアリスと結託。その彼の、ほとんど正規ではない軍隊が、二六一年四月のユトゥンギ族を破った。
ゲニアリスはライン川の陸軍から、アウグスブルクの勝利の碑文を持っていた。
ガリエヌスは多分ほぼ二六一年の夏に、アラマンニ族に対する、彼の勝利の後、ドナウ地方にいただろう。

 ポストゥムスは、彼の支配権の拡大へと繋がる、ゲニアリスの連帯の申し込みを受け入れた。
そしてガリエヌスは戻った。現在の所、ガリエヌスがポストゥムスに対して、何もできなかったため。一方ポストゥムスは、その事に成功した。帝国西方で、その勢力を伸長する事。
ガリアで二六一年から発見される、彼の碑文。ゲルマニア地方で。ブリタニアで。ラエティア、そして少なくとも、イベリア半島で。長い間、ラエティアは、彼のための領土として、宣言される。しかし、ポストゥムスはそのような試みを、慎んだ。彼のローマ帝国全体の支配に対する、請求を。そして二六一年の初めの、その最初の執政官呼称。ライン川東の直接のローマの防衛。
更にポストゥムスは、ガリエヌスのコインの、いくつかの種類を模倣した。

 ここで初めて、コインの正面に描かれた、支配者の記章として、アウレウスの複数形で、ローマのコインで兜が登場。また、ヘラクレスはこの文脈において、重要な役割を演じている。
この兜の使用は、軍事的に成功した支配者の「力」を強調するために使用された。
一方このVirtus 力は、ヘラクレスとマルスに関連している。
コインの正面の見つけた、そしてそれは、ガリエヌスとポストゥムスとの間に、更に起こった。初めての、それぞれの皇帝名との関係。(Virtus Gallieni(Faleri)/Postumi)。それぞれ、Virtus Augustusを同様に使用。支配者のそのVirtus 力は、そのポストゥムスの皇帝としての、一層の正当性の強調のために、ウァレリアヌスの運命を、記憶に留めて忘れないままで、いなければならなかった。更に現在の様々な歴史書の伝承の中での、その父についての運命の表現が、ガリエヌスに対する敵対的な表現に、利用する事ができたため。

 このように、ポストゥムスの強調する、ガリエヌスのそのVirtus 力の不足が、四世紀の各歴史書などで見られる、反ガリエヌスの伝承を助ける事となった。
またアレクサンドロス大王との結合は、彼のその半神半人の好みについての、役割を果たしている可能性がある。ヘリオスの266/7年。システィアの金色に塗られた、青銅。
それは伝承による兜として、正面でネメアの獅子の頭皮と、Galliennvs AVGガリエヌスを示す。
そして裏面では、パルダメントゥムと光線冠と世界の平和の伝承 ソルが表示される。
ポストゥムスは、類似したタイプを使用した。ポストゥムスの、ガリエヌスの攻撃を伴う。
そしてガリエヌスは同時に、更にソルに近づき、参照のその部分と予想される勝利を引き受けた。既にセウェルスの時代には、このようなタイプが造られていた。

 これは即位十周年記念祭の一部とポストゥムスとの戦いに、関連していた。
二六四年。ガリエヌスは彼のそのテーマを守るため、そして戦士と司令官としての、彼の能力を表現するために、ヘラクレスに接近する。彼の主題である帝国の防衛は、そのヘラクレスを説明的に表して、接近する。 ガリエヌスのヘラクレスとマルスをテーマにした、コインの減少は、彼の支配の安定化と他方ではその最終的な制限を指している。
そのポストゥムスの「ガリア分離帝国」の出現を許してしまう事になった事と、結果として、それがローマ帝国の防衛負担の分担となり、それが帝国の防衛に、ある程度の安定をもたらす結果となった事。そしてこの両方の神は、ライン川の国境上の兵士達の間で大きな役割を果たした。
ガリエヌスとポストゥムスの両方は、それぞれの神々との暗黙の類似性の表現を強調した。
特にガリエヌスは、地上の現実の多数の災害の後にも、変わらない彼の正統な皇帝としての、その支配の独立性を表現したかった。

『ヒストリア・アウグスタ』ホール版
「さて、ガリエヌスは、ポストゥムスに対して、アウレオルスと将軍のクラウディウスとともに戦争に向かった。なお、クラウディウスは、後に皇帝となり、われらが副帝コンスタンティウスの始祖となった。ポストゥムスは、ケルト人やフランク人から成る多くの補助軍に助けられながら、同僚帝であったウィクトリヌスとともに戦争に向ってきた。多くの戦闘が行なわれ、結果はさまざまであったが、最終的にはガリエヌス側が勝者となった。」
ガリエヌスとポストゥムス間での様々な場所での、戦争の出来事『ヒストリア・アウグスタ』なども、両者の間に二つ以上の戦争を含む、全ての曖昧さを残す事ができた。
しかし、その中で表現されている、歴史的出来事は不確かである、ゾナラスの表現にも、比較して矛盾がある。そしてその年代と戦いの数は、非常に論争の許となっている。

 まず266/7年に、二回目の戦いの、遅い年代について語る。
ガリアでのポストゥムスの共同支配者、そしておそらく同僚執政官としての、ウィクトリヌス。
「ポストゥムスが年長者として認められる時。ガリエヌスの手強い軍隊は、彼に対して召集された。そして、認識した。彼だけではない、軍事援助が必要であると。
しかし、別の支配者の支援が必要だった。彼はウィクトリヌスと呼ばれる。エネルギッシュな兵士。共同支配者として、またガリエヌスに対して、彼と戦った。」。
そして続いて『無名氏ディオの継承者』によると、ポストゥムスは『ヒストリア・アウグスタ』と同様に、無能な皇帝ガリエヌスとは違い、有能なポストゥムスが、その人望により、自然な形でガリアから、皇帝として選ばれたという事にしている。
そしてあくまでも、ガリエヌスとの戦いは拒絶する、同じローマ人とは戦いたくない、などと言う、優れた人物であるポストゥムス、という位置付けである。

 そして、これも『ヒストリア・アウグスタ』同様に、実際にはポストゥムスが、当時、副帝として、このガリアやライン方面の統治を任されていた、皇帝ガリエヌスの息子サロニヌスとその補佐役である、シルウァヌスを殺害し、簒奪した事には、一切触れられていない。
『ヒストリア・アウグスタ』は、いくつかの戦争の単調さを強調する。
明らかにガリエヌスの側のそれらで、移動分遣隊の部分が集まる事、そしてクラウディウス率いる、帝国の騎兵軍団と。そしてポストゥムス・ゲルマン人の側の。
フランク族の補助兵並びに多分軍隊は、属州ラエティアから、多分入ったのだろう。
ケルト人。例えば、ゲニアリスの逃れた支持者。ニコマクス・フラウィアヌスは、この情報の、最も見込みのある出典を表す。

 そしてやはりこの『無名氏ディオの継承者』の逸話の史実性は、疑わしい。
ガリエヌスと戦う事への、そのポストゥムスの拒絶を支持している。
そしておそらくこれも、既に述べたように、皇帝としての帝国の防衛任務を、一向に果たさない無能な皇帝ガリエヌスよりも、はるかに人望も実力も備えたポストゥムスが、自然にガリアで皇帝として擁立された、といういつもの論理である、反ガリエヌスの表現の現われである。
そのガリエヌスは、おそらく、皇帝として帝国国境外部の防衛を、怠ったとして。
その代わりに、ローマ人と戦うために適切な人物としての、ポストゥムス。
比較的ガリエヌスに友好的な感じの史料から。ガリエヌスのクレメンティア 寛容の表現。『無名氏ディオの継承者』の著者の可能性のある、ニコマクス・フラウィアヌス。
そしてゾナラスは、戦いの困難を強調する。容疑がかかっている、アウレオルスの早めの背信に、言及する。この報告は、ガリアでポストゥムスの包囲で、ガリエヌスの負傷の報告をしている『ヒストリア・アウグスタ』にも見られる。『Leoquelle』(おそらく、著者はペトロス・パトリキオス)。おそらく、ニコマクス・フラウィアヌスのこれと、繋がっている。
そしてこのゾナラスも、参照した可能性がある。

 このように、ガリエヌスがポストゥムスを包囲している最中に、受けた矢傷が原因で、包囲を中止したというのは『ヒストリア・アウグスタ』とゾナラスの述べる内容と共通だが、更にゾナラスは最初の戦いではガリエヌスは、ポストゥムスを破った。
敗れたポストゥムスは退却した。ガリエヌスは、アウレオルスに追撃を命令した。
しかし、アウレオルスは、故意にポストゥムスを、採石場に逃がしたという。
そうしておいて、彼は皇帝ガリエヌスには、ポストゥムスの追撃には失敗したと報告した。
そしてポストゥムスは、新しい軍隊を集めた。そのため再びガリエヌスは、彼に対して進軍した。更に続けて彼が逃げ込んだ街を、包囲した。
しかし、その間に皇帝ガリエヌスは、背中に矢を受け、包囲を中断しなければならなかったという。

 しかし、そのガリア奪還のための、その後のガリエヌスのあり得る試みは、除外される事になってはいない。『ヒストリア・アウグスタ』は、報告した。
彼は即位十周年記念祭の前の、既に二六二年八月に、ポストゥムスを破っている。
 そしてこの時の実際の指揮官は、アウレオルス。ガリエヌスではない。
それはすなわちマクリアヌスとの対立の、指揮官として、名を付けられる。
コインは軍隊の内容とガリアでの、ポストゥムスの独裁の始まりについて、語る。
iovi vltoriの銘文と同様の。ユピテルの報復 部分的に、金で縁取られた。
また、ヘラクレスの具体例と銘文に関連したマルスはVIRTVS AVGを好む、更にVIRTVS FALERIは、この方向を指し示す。返還の文字と共に、多く見られるGENIVS AVG(軍団旗と共に立っているゲニウス)も、ポストゥムスに対する戦いを、示している可能性がある。
そして特に以後、ガリエヌスによく用いられる、ヘラクレス。
伏せる獅子に、またがる皇帝。

 K・ディーツは、このテクストで『無名氏ディオの継承者』の証言をもたらす。
その描写の状態。ポストゥムスは、その通過の権利を所持していた。
同様にこれを示唆する、その属州ラエティアとの関連など。
アルプスの通過は、ガリエヌスの第三イタリカ軍団が、ラエティアに残っている事により、それに応じて、それを可能にした。ディーツが疑う。軍隊のこれらの部分は、その分遣隊メンバーのために恐れられている。従って、再びガリエヌスは彼を宣言し、アルプスを通過する事ができた。もしそうではない場合は、その成功の理由とアウグスブルクの勝利に関与、ラエティア地方の軍隊としての地位を、呼ばなければならないであろう。

 ポストゥムスは当初、自身の勝利を開催した。
しかし、その後、ライン川上での敗北の後、逃亡しなければならなかった。
そして別の敗北の後、彼は包囲された。おそらくガリエヌスは、実際には、矢によって、ガリアでのポストゥムスの包囲で『ヒストリア・アウグスタ』によると、この戦いで負傷した。
ポストゥムスは『ヒストリア・アウグスタ』によると、この出来事の後に、七年間君臨した。
そしてそれは、二六二年を、示唆しているゾナラスが記述している、ガリエヌスの最後の戦いでの負傷。

 ポストゥムスは戦争関連の「VIRTVS POSTVMI AVG」のようなデザインで、同期間のコインでもある。「VICTORIA AVG」または「FIDES MILITVM 兵士の忠誠」。
その結果としての「エテルニタスAVG。永遠」・「SPES PVBLICA。共和国の希望 」・「FELICITAS AVG 幸運」並びにLAETITIA AVG」は、そうだった。
「ROMAE AETERNAE 永遠のローマ」ならびに「ORIENS AVG」への言及は、全帝国に関する、ポストゥムスの力の主張と徴候である。これは最も理論的な推測である、その使用を発見した、ガリエヌスとの対決中で、なければならない。おそらく既に、二六一年から二六二年。
あるいは、遅くとも、二六六年から二六七年の間で。それはラエティアでなければならない、そしておそらくシスティアから。ガリエヌスの許において、再びそれらの地域の支配権は戻った。

 このラエティアは、現在はドイツ南部に当たるラエティアとローマとの間を、アルプス山脈をレージア峠で越える、クラウディア・アウグスタ街道によって結ばれていた。
このクラウディア・アウグスタ街道は、北イタリアとラエティア属州を結ぶローマ街道である。そしてかつて属州ラエティアや、属州ノリクムなどのローマ帝国の支配を完全なものとするための、軍用道路として敷設されたものである。そしてこの属州ラエティアは、上ゲルマニアの他にも、本国イタリアと接しており、いわばイタリアへの直通道路とでも言える場所であり、地理的・防衛的に大変に重要な地域だった。
だから、ガリエヌスが、ポストゥムスとの間に、何度も戦いを繰り広げてでも、何としてでも、ポストゥムスの手中から、奪還しなければいけない地域だったのである。

 そしてガリエヌスへの、そしてこの属州の速い返還のために、ポストゥムスとの早めの戦いが推定できる。二五三年から帝国の中心から発見された、ローマ皇帝ガリエヌスのコインの数が、二七五年までにはラエティアにおいての、ガリア皇帝ポストゥムスのコインの、四倍の数を数える。ポストゥムスは現在、南東国境上の、ラエティアの強力な軍隊によって、支援される必要があった。ガリエヌスの統治の終わりの時期、この属州はアウレオルスの責任地域に属していた。おそらくドゥクスとして。そして彼はこの国境を、ポストゥムスから、守らなければならなかった。ガリエヌスがドナウ属州で、アルプスの彼の支配を安定させた後。

 この軍事情勢の緩和を、コインとPAX VBIQVE 遍く平和の碑文として、示している。
そしてそれまでの討伐方針から変更された、ポストゥムスとの最終和解による別の試み。
既に二六五年には、ポストゥムスとの、いかなる戦いも、なかった事。
後半の日付の、重要な注意点は『ヒストリア・アウグスタ』の指標である。
ガリアでのウィクトリアヌスの、ポストゥムスの同僚執政官への就任。
そしてこうして二六七年の通常の、ガリエヌスの執政官職就任を、意味している可能性がある。おそらく、ガリエヌスは下ゲルマニアへ沿って、システィアから南岸のドナウ川へと向かっただろう。そして特に、それはアウレオルスの指揮下に、騎兵軍団を持っていった。

 最初の敗北の後、ガリエヌスは成功した。ポストゥムスと戦い、ガリアの都市を包囲する事に。しかし、これは二六二年の経緯に、言及していない。明らかに、ガリエヌスのポストゥムス討伐の動きは、始まっていた。しかし、その後アウレオルスに、ポストゥムスの追撃を命令している、メディオラヌムに都市の包囲の不成功が、導かれた。おそらく、皇帝の矢傷が理由により。包囲は中止される。その明確な年月を決定する事は、不可能である。
『ヒストリア・アウグスタ』またはゾナラスかを、優先する事となる。
だがこれらは、それぞれ異なる時間に、包囲を分類している。
ただ、ドナウ地方への、ヘルリ族の侵入の方が、ガリエヌスの、このポストゥムス包囲中止の、よりありそうな理由である事を意味している。

 おそらく、ガリエヌスの伴われたコインのシリーズは、それらに対応する物を、ポストゥムスのほぼ同期の、コインのシリーズで見つける。
それにおいて「conservatores 守護」の間のこれは、好評である。
ポストゥムスのコインは、更に二六六年またはよりすぐの、二六七年の戦いに対する、完勝のために語る。特にポストゥムスの自己描写は、この「INTERNVNTIVS DEORVM 神々の使者」として、表わされる。そうした事を通して、それはその後描写される、Mercurメルクリウスの役割に関して、それ自体で、神の特定の援助を宣言している。
「consensus deorum 神々の合意」により、彼が選択される事になったとする。
ガリエヌスに対しての、不幸な状況からポストゥムスを解放し、その候補として認識した。
更にこの既知の事実と徹底的にその「Felicitas 幸運」がもたらした勝利。

 そのポストゥムスの各コインから、その時点で考えられる。
ポストゥムスのその後の、こうした一連のコインの発行が、平和の達成を宣伝する。
コインは碑文HERCVLI AVGと弓とラクレスを示している。
更にこの時の、ヘラクレスへの、ポストゥムスの感謝からは、矢によるガリエヌスの負傷を考えさせる。そして当時の、帝国周辺の数々の厳しい情勢により、ガリエヌスが自らの手に残された領土の防衛に、徹底する事に決めた事により、ポストゥムスが相手から、反撃を受ける事はもうなかった。

 おそらく、二六七年の、ドナウ川へのヘルリ族の大規模な侵入は、属州ガリアの破壊を、もたらしただろう。彼ら蛮族の出発は、アウレオルスとクラウディウスのような、イリリア人上級将校達に、強制的に通過させられたことにより、起こった事だろう。
当時ドナウ地方からは、ポストゥムスに対する、新しい戦いのために、大規模な分遣隊が伴われ、防衛が手薄になっていた。そしてこの事が、ドナウ川下流での、この蛮族達の攻撃を引き起こしたと思われる。メディオラヌムの前の以降の年のこれは、致命的に拡大しなければならない。

『ヒストリア・アウグスタ』の声は、ゾナラスのそれに伴う。
アウレオルスによって、いいかげんに追跡される、ポストゥムス。
彼の最終的な成功のための機会として、それはおそらく、手の届く所にあった。
そしてガリエヌスは、その役割をアウレオルスに委任した。イタリア国境を、ポストゥムスの軍隊から守る事。その騎兵軍団を用いて。そしてアウレオルスの防衛の主な拠点は、北アルプス周辺だった。 そしてここから、アラマンニ族が観察された。

 更にこの任命は暗示している。それがこの頃からの、皇帝とイリリア人騎兵将軍達の間の不和の可能性を。アウレオルスは、東部防衛線地域での、ポストゥムスに対して向けた、イタリア方面の安全の回復という、特別な任務を負っていた。ラエティアを確保するために、イラー川からドナウ川の、東から南の安全の改善。このイラー川は、ドナウ川やライン川と並んで、当時のローマ軍の、重要な防衛拠点だった。

 そしてシスティアのコインからは、二六六年の、もう一つの戦いが、示されている。
そうした事でガリエヌスがおそらくパンノニアから、上ゲルマニアのドナウ川に沿って動く事から。ポストゥムスとの、二度の戦いがあった事。二六一年から二年の最初の期間。
むしろこの二六二年は、ガリエヌスのコイン及び『ヒストリア・アウグスタ』の両方に記載がある。ガリエヌスの「即位十周年記念祭」の中で、この戦いについて、言及されている。
その年代。その最初の戦いについて、語られている。
ポストゥムスが、皇帝ガリエヌスの息子サロニヌスの殺害によって、挑戦されていた事。
そしてガリエヌスの「即位十周年記念祭」の勝利の栄光の雰囲気をもたらす、この戦いは、少なくとも、ラエティアの回復という形での、軍事的成功をもたらしている必要がある。
更に二六六年には別の戦いを、システィアからのコインが示している。
ガリエヌスはおそらく、パンノニアから、ライン川の上ゲルマニアに移動した。

 しかし、ゲルマン人は二六二年から二六七年に、帝国での該当地域属州での軍隊の撤退により、ドナウ川と黒海沿岸地域への下降へと、触発された。
そして船で迫る、大勢の蛮族の乗組員達は、また属州で、より大規模な危険を引き起こす可能性のために。そのため、ガリエヌスは二六七年に、ポストゥムスに奪われた、ガリア一帯の領土奪還という、彼の努力を、たぶんあきらめなければならなかっただろう。
船でドナウ川方面の属州へと向かう蛮族。
ガリエヌスはおそらくドナウ方面ヘ戻って、アウレオルスを残していった。
そして彼は、たぶんその任務を、負っていただろう。イタリア防衛のために、ポストゥムスとの戦いを続行する事。

 しかし、最後にアウレオルスは、敵の方へと駆け寄った。
『ヒストリア・アウグスタ』によると、これは最初の戦いで起こった。
ゾナラスは、ガリア包囲中の、ポストゥムスとの戦いの最後に、矢でのガリエヌスの負傷を与えている。265/6年のポストゥムスのコインから考慮して、この事件を二六六年にはめ込む。
しかし『ヒストリア・アウグスタ』は、はっきりと明示する。
そのポストゥムスは、それらの出来事の七年後に、まだ勝利していた。
すると今度は、このガリエヌスとポストゥムスとの戦いは、二六二年の可能性が高くなる。

 ガリエヌスは、二六三年に即位十周年記念祭を、催している。
しかし、フリッツは『ヒストリア・アウグスタ』の中では、当時ポストゥムス包囲の際に、背中に重傷を負い、回復期にあったと思われる、患者の皇帝ガリエヌスには、これは不適当だとの疑問を示している。更に、フリッツは二六二年の間に、パンノニアにガリエヌスがいた証拠を、発見している。だがこれに対しブレイは、ガリエヌスとポストゥムスの戦いは、二六三年の終わりまでには、少なくとも終わっており、即位十年記念祭の直前に、ケルンでのポストゥムスとの戦いでの、ガリエヌスの負傷を置く事は、まちがっているのではないかとしている。

 何度目かのポストゥムスとの戦いの後に、ガリエヌスがやむなく選んだ対応は、ひとまずは、彼の方に帝国の首都ローマに進軍する様子がないのを見て取り、ドナウ戦線の問題を解決するまでの間、このポストゥムスの「ガリア分離帝国」の存在を、黙認する事だった。
つまり、結果として、ポストゥムスのガリア分離帝国が、蛮族の襲撃に対する防壁になる事に、注目したのであった。そしてこの観点からいけば、現在ガリア帝国皇帝を僭称している、ポストゥムスにしても、引き続き、彼がガリアを蛮族の襲撃から防衛するという役割を、果たしてくれるという事自体では、今までと変わりはないと判断したのである。

 これは大きな発想の転換であり、そして当時ライン国境の蛮族などの撃退に追われていた、ガリエヌスの苦渋の決断でもあった。ひとまず、ポストゥムスに殺された、息子サロニヌスの仇を討つという、彼個人の切望も、胸の奥深くに、飲み込まなければならなかった。
しかし、その地理的関係から、ポストゥムスのガリア帝国には、必然的に周辺のゲルマニア、ヒスパニアやブリタニアまでも含まれ、これらの領土までをもローマが手放す事を意味する。
ローマ帝国の領土が三分割されるという、いまだかつてない状態に、この時の帝国は陥ったのである。

 

 当然、この事態を結果として黙認する形となった、皇帝ガリエヌスのこの判断には、元老院からも前線の兵士達からも、猛烈な抗議の声が上がった。
しかし、一般的には大変に評判が良くなかったと思われる、この皇帝の対応だが、その後もポストゥムスのガリア分離帝国は、帝国が消滅するまでの十四年間に渡り、引き続きガリアへの蛮族襲撃を防ぐ、防壁の役割を担い続ける事となる。
ポストゥムス自身の統治は、やがて二六九年に、自分の軍隊の兵士達によって、彼が殺されるまでの、九年で終わる。

 なお「ガリア分離帝国」の存続時に、ポストゥムスが任命していた四人の執政官の名前は、ガリア人によって記録された。しかし、彼らについてのあまり正確な結論は、これらの人物について保存されている、乏しい詳細からは、導き出す事ができない。更に若干の彼らに関連した碑文は、抹消されたように見える。そしてこの碑文の抹消が行なわれたのが、ガリア分離帝国が消滅し、この一帯のローマ帝国の領土が回復された、後の統一の時期の後からなのは、疑いがない。
そして彼らの内の一人は、バススと呼ばれていた。これらの執政官が二人の異なる人物であるのならば、二五八年と二五九年の、または彼らの一方または両方による正規執政官であったバススと、彼は関係があったかもしれないが、または、なかったかもしれない。
そしてバスス・ポンポニウスは、または二七〇年の皇帝クラウディウスの治世下だった時の元老院議員で、たぶん二五八年と二五九年の執政官または彼らの一方または両方と同一人物であったのだろう。とにかく、誰であったとしても、彼はガリエヌスの死後に、元老院が彼に関する多くの銘文を消させた事とたぶん、同じケースとされているだろう。

 とにかく、このガリア分離帝国出現は、二六〇年の、皇帝ウァレリアヌスのペルシャ捕囚と並んで、帝国にとっては衝撃的な事件であった事だろう。
また、何よりガリエヌスにとっても、息子サロニヌスと後見のシルウァヌスを殺害された上に、現在のフランス一国と現在のドイツのいくつかの地域に相当する、かなり広大な帝国領土が離反し、ポストゥムスの支配下に入ってしまった事は、相当の痛恨事であった事だろう。
また、おそらくこの事は、ガリエヌスの同時代及びその後における、彼の評価において、致命的・決定的な打撃を及ぼす事ともなった。
ポストゥムスも声高にコインの中で強調している、ガリエヌスの「Virtus 力」の欠如。
ひいては『ヒストリア・アウグスタ』でも頻出する、その「女々しさ」批判。
そしてゼノビアのような女性の「雄々しさ」にすら劣るとする。

 更にそれらのガリエヌス批判の、具体的な形跡については、第八章などで詳しく述べていくが、メディオラヌムでガリエヌスを殺害して帝位に昇った、イリリア人騎兵将軍達の系譜に連なる、後のコンスタンティヌス朝の、コンスタンティヌス一世らの、歴代皇帝達にとっヒストリアては、このガリア分離帝国出現及びそれを許してしまう事となった皇帝ガリエヌスは、前王朝を批判し、そして自分達の功績を宣伝する、格好の批判材料となるものであった。

 実際にも、四世紀の歴史書の『ヒストリア・アウグスタ』などでの、ガリエヌスについての酷評や、その内容などからも顕著な、ガリエヌスの、その皇帝としての存在の軽視を、代表的なものとし、更に他にも、皇帝コンスタンティウス一世のために、後のガリア地方で、現地人によって行なわれた『ラテン頌詞』の演説など、彼らの様々な形でのプロパガンダに、その存在を存分に利用されている様子が見て取れる。また、このガリア分離帝国の出現は、彼ら皇帝以外にも、ガリエヌスの同時代の敵対者達である、ポストゥムスを始めとする、数々の簒奪者達の引き立て役としての役割を、ガリエヌスが割り振られてしまう事にも、繋がっていく事ともなった出来事であった。

 しかしこのガリア分離帝国として、ポストゥムスの掌中に収められた、ガリア一帯の離反により、結果、蛮族の襲撃、相次ぐ属州各地での簒奪などに対して、ガリエヌス単独で広大な帝国領土の防衛に、当たらなければならないという負担が、軽減されるという、皮肉な結果も、もたらす事ともなったが。だが私は、この「ガリア分離帝国」の出現というのも、ただの簒奪、独立地方政権の誕生としてだけ、捉えるのではなく、更にまた、別の見方も、できるのではないかとも思うのだが。これを後のパルミラ分離帝国出現とも併せて、改めて捉えて直して見ると、図らずも出現する事となったとはいえ、この三人による、地域分割防衛という形は、テトラルキアに近いと言えるのではないだろうか?

 確かに、おそらく当初はガリエヌス自身も、極めて由々しき事態であり、将来的には解消すべき、非常事態だと考えてはいたのであろうが。
更にもちろん、こうして簒奪を行なった、当のポストゥムスやゼノビア自身にも、自分達が行っているのが、かつてウァレリアヌスやガリエヌス、そしてその息子達などが行なっていたテトラルキアという分割防衛形態に、実は相当するものであるなどという、そんな意識自体は、毛頭なかったのではあろうが。

 だが、こうして、ポストゥムスのガリア分離帝国に相当する地域、そしてゼノビアのパルミラ分離帝国に相当する地域、そして正統帝ガリエヌスに残された、イタリア本土とアフリカ、そしてバルカン半島の地域。当時のローマ帝国の防衛は、こうして三人の人物によって、分担されて、行われていた事になるのである。
更に二六〇年に起きた、ウァレリアヌス捕囚後の帝国の大変な混乱は、これにより、ひとまず終息し、危うい均衡の上に成立しているものではあったが、こうして三人の人物により、帝国の防衛が分割された三地域で、各自分担された事により、帝国の情勢は、一定の安定性を見せる事になる。

 これらの事実から見れば、一時的に、帝国の防衛が、三地域に分割して行われるようになり、変則的かつ、更にこうして、それぞれの地域の防衛に携わる事になった人物達が、あくまでガリエヌスが認めた、正式な副帝ではなく、いずれも彼にとっては、敵対的立場にある人物達であった事などから、いろいろと問題を含んではいるものの、改めて、この時代における、テトラルキアの有効性というものが、証明されているとも言える。

 だが「ガリア分離帝国」や「パルミラ分離帝国」というのも、ローマ皇帝や帝国の威信の低下、そして当時の混乱した情勢から起こった、簒奪者達による、単なる簒奪事件、というだけではなく、ローマ帝国の新しい統治形態の予兆、というものも、垣間見られる現象でもあると思う。三世紀のローマ帝国は、とても、一人の皇帝だけでは、十分な防衛と統治が行えない時代に、突入していたのである。広大な帝国を外敵から防衛し、円滑に統治を行なう事を目的とし、最終的に、ディオクレティアヌスの時代になってから、四分割された各領土を、四人の皇帝によって統治する、という正式な、テトラルキアが開始される事になる。
今後のローマ帝国の、新たな基本的統治形態の誕生である。

 もちろんガリエヌスも、この帝国の三分割防衛状態は、あくまで一時的・非常事態的なものであり、将来的にはこうした事態の解消を、意図していたものとは思われるが。
だが、彼の中でも、これも一種のテトラルキアのようなものである、というような認識が、どこかにあった可能性もあるのではないだろうか?
それはポストゥムスの簒奪による、次男サロニヌスの殺害、というガリエヌス個人にとっても、極めて不幸な出来事であるのも確かだが。

 だがおそらく、ガリエヌスには、父ウァレリアヌスと共に、東方属州管理をオダエナトゥスに任せていた時から、自分達の担当する、そしてその頃は長男の小ウァレリアヌスの担当する地域を、こうして複数の人物によって統治する、ほぼテトラルキア形態という、困難な帝国統治の、より効率的かつ、たった一人の皇帝による、広大なローマ帝国全土の防衛の負担の分割、という意識は、持っていたと思われるし。そしてかつてサロニヌスやオダエナトゥスがその防衛を担当していた地域は、こうした簒奪という形でではあるが、これら地域の防衛が引き続き、ポストゥムスやゼノビア達により、行われるようになったと捉える事もできるのである。

第三章 「堕落した女々しい暴君」という、ガリエヌスの悪評の原因と検証

 これまで我々がアウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』、エウトロピウスの『建国以来のローマ史概略』、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』らの一連のラテン語史料と『ヒストリア・アウグスタ』で見たように、著者は皇帝ガリエヌスに、放蕩と激しい軽蔑を課している。
前者は、それ自体を二つの部分に、分けている。
まず初めは、飲酒のような男性特有の消費について。そしてまたは、彼が夜な夜な出没していたとする、居酒屋と売春宿。夜の徘徊など。
しかし、二つ目は、何らかの形での、彼の女々しさに、その理由を帰している。

 更にブレイによると、ガリエヌスについての記述には、上記のような特徴があるという。
「この『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、ラテン語の使い方が、とても豊富である、そして、後に英語がそれから借りた「L」で始まっている、全てのそれらの形容語句に、付けられる。もちろん、緩さを意味している他の表現もある。抑揚。非常にかなり。
『ヒストリア・アウグスタ』の中では女々しさという意味に、ほとんど流用されている言葉。」
ちょうどどんな非難が、この言葉によって意味されるはずなのか?
豊富の概念と浪費だけ。しかし、軟弱さと女々しさも。このラテン語史料の著者。
または、とにかく『ヒストリア・アウグスタ』は、ガリエヌスについて、両方の非難を作るつもりである。 特に彼について、性的な事柄についての非難を、もたらしている。
また大量で贅沢な衣装。家具。娯楽。その他、そして、後は専ら性的な非難に集中する。
そして彼のその女々しさへの、しかし、一般にも特定の参照で。
エウトロピウス、そして教会著述家のオロシウス、そして聖ヒエロニムス、しかし彼らはその詳細を伝えてはいない。彼らは、抽象的に、そのガリエヌスへの非難の理由を、好色に限定している。おそらく、そしてこの彼らの言葉の類似性から、後の二者は、エウトロピウスからの引用だと考えられる。

 そしてアウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』と伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』は、ガリエヌスについて、いずれもこの点について批判する。
ガリエヌスが妻に甘過ぎる事への、非難。更にアウレリウス・ウィクトルは、彼が彼の妻サロニナの影響とアッタロスの娘に対する恥ずべき愛情を、甘んじて受けたと言う。名前はピパ。
『皇帝史略』は語る。愛人の、そして、彼の妻サロニナの、そして、特定の妾ヘの多様な愛情に。ピパ。『ヒストリア・アウグスタ』は、この非難も作っている。
それが語る、ガリエヌス。彼が盲目的に愛するサロニナ、更にはこのピパは、蛮族の王の娘である。そして後者は、彼を全くくたくたに疲れさせ、彼を早い老年へと至らせたという。
また、これも『ヒストリア・アウグスタ』の、当時の僭称皇帝の一人、ポストゥムスの章の中では、ポストゥムスがガリアで喜んで、皇帝として受け入れられていた頃の事として「ガリエヌスは贅沢と売春宿で時を過ごし、蛮族の女との愛に身を焦がしていた。」と書かれている。

 このように、これまで見てきたように『皇帝史略』同様に、『ヒストリア・アウグスタ』も、他の妾と全体的に売春婦と大方の欲望についての言葉に、言及する。
特に売春宿への言及。ここでブレイも指摘している、そのガリエヌスについての『ヒストリア・アウグスタ』のこれらの逸話というのは、以下のような内容である。
「ガリエヌスの嘆かわしい趣向を次に記しておこう。ガリエヌスは、春にはバラの花でベッドを作った。また、果物で城を作った。ブドウの実を三年間保存し、冬の最中にメロンを人々に供した。青い無花果と木から取ったばかりの果実を常に季節はずれの時期に人々に出した。また、黄金のテーブルクロスをいつも広げていた。宝石や黄金でできた壷を作った。自分の毛に金粉を振りかけていた。しばしば、王冠を被って人前に現われた。普通は、皇帝はトガを着ているものであったのに、紫の外套をまとい、宝石と金の留め金をつけているガリエヌスの姿が、ローマ市では目撃された。彼は、黄金で装飾された紫色の男性用のトゥニカを、それも袖つきのものを身につけていた。宝石の散りばめられたベルトを使っていた。宝石で装飾された靴ひもで靴を留め、かかとの部分が覆われていないその軍靴を「ヘアネット」と呼んでいた。公衆の面前で宴会を催した。祝儀で民衆を飼い慣らし、元老院には贈り物を座ったままで配った。婦人たちを顧問会に呼んで、自分の手にキスをした者には、自らの名を刻んだアウレウス金貨を四枚与えた。」・「ガリエヌスは、前進後退に際して音楽を奏でるように命じ、たいてい、笛の音とともに進み出、オルガンの音とともにさがった。夏の日には六度も七度も入浴し、冬にも二度、三度入浴した。常に黄金の杯で酒を飲み、ガラスのそれで飲むことを拒み、「これは実に当然のことである」と言っていた。ブドウ酒を常に取り替え、一度の宴会で同じ種類のブドウ酒を二杯以上飲むことは決してなかった。ガリエヌスの食事用臥台にはたいてい妾が待っていた。
デザートの時には、いつも道化師や黙劇役者を呼んだ。自分の名のついた庭園へ行くときには、宮廷のすべての役人が彼につき従った。近衛長官たちやすべての行政長官たちもやって来て、宴会に出席し、皇帝とともに浴場に入った。しばしば女たちも入ることを許されたが、皇帝は美しい少女たちと、長官たちは醜い老婆といっしょに入った。そして、全土を失っていたのに、ガリエヌスは、よく冗談を言っていた。」
また、更に息子のサロニヌスの章では、ガリエヌスは夜には足しげく売春宿に通い、ポン引きや黙劇役者や俳優とともに時を過ごしたと伝えられている。

 まず、このようにローマ皇帝ガリエヌスというと、特にこの『ヒストリア・アウグスタ』の中では、柔弱で奢侈と快楽に耽る、どうしようもない、愚かな皇帝として、描かれている。
しかし、全体的に史実の上での彼の生涯と行動を追ってみれば、その受ける印象は、これとは全く逆のものである。ざっと彼が父ウァレリアヌスと共に、共同皇帝に就任してからも、まずは即位早々、父親のウァレリアヌスは東方のペルシャ遠征へと赴き、彼の方は二五四年にイリリクムの防衛線へと赴き、アラマンニ族との戦闘を行なっている。
二五六年には、ラインに、そして二五八年にはイリリクムヘ。二六〇年の夏の、ウァレリアヌスの捕囚後には、マクリアヌス、インゲヌウスとレガリアヌス、そしてポストゥムスと複数の簒奪者が同時期に出現している。そして彼らを討伐した後は、一息つく間もなく、これも二六〇年には、アラマンニ族の襲撃が起こり、直ちに北イタリアのミラノへと急行している。

 このようにガリエヌスは、ほとんどローマに帰還する事もなく、帝国内の各属州の防衛線から防衛線を、慌しく転戦して、回っているのである。
ガリエヌスが皇帝に即位してからまずは、その統治期間の約半分の年月だけを見ても、この忙しさである。そして二七〇年には、オダエナトゥスの暗殺後、その妻ゼノビアがパルミラ女王を僭称、更にエジプトまでをも、自分の領土化してしまう。厳密に言うと、これは彼の暗殺後の出来事であるが。しかし、既にゼノビアの、ローマからの離反とパルミラ以外の、その他のローマ帝国帝国東方諸属州の領土の侵略行為は、見られていたはずである。具体的なその経緯は、不明確ではあるが。だが少なくとも、クラウディウスの時には、ついに正式にローマからの離脱を表明し、既にアンカラの方にまで、その勢力を伸ばしている。もう二六八年頃には事実上「パルミラ分離帝国」と言えるものが、出現していたという事であろう。
そして彼の治世最後の災難と言える、バルカン半島へのヘルリ族の大侵入である。

 ガリエヌスは、このようにその治世の大半を、こうした絶え間なく続く、蛮族の襲撃と各属州の総督や将軍達の簒奪の対応に、追われ続けているのである。
 むしろ、こちらで蛮族の襲撃があれば、同時にこちらでは各地の属州総督や将軍達の反乱が勃発し、これらの鎮圧に、まさに息つく暇もない程、その生涯の大半を費やし、駆け回っている。
やはり、とても、居酒屋や売春宿や街などを夜な夜な徘徊したりなどという、このような怠惰な放蕩生活に耽っているような、余裕はないと思うのだが。

 そしてこれら『ヒストリア・アウグスタ』で、普段の皇帝ガリエヌスの生活振りとして批判されている、こういった一連の退廃的で贅沢で好色な様子を、アルフェルディも、これが「女々しい暴君」という、固定観念の全ての、正当な部分、退廃的で女々しい皇帝達という、それまでのローマの歴史書の中でも、しばしば見られる、暴君とされるローマ皇帝達についての、共通の固定観念だと指摘している。彼はスエトニウスが書く、カリグラの女々しい衣装と気質に、そして、タキトゥスが『同時代史』の中で紹介している、ピソの演説の中で、オトが女性の衣装を持っているという理由で非難されている理由に、大いに共通、そして関連する特徴として言及している。徘徊と身を着飾る事。

 確かに『ヒストリア・アウグスタ』自体が、このスエトニウスの『ローマ皇帝伝』に続くものとして、その記述スタイルを真似て執筆しているのは、既に知られている。
また実際にその詳しい内容自体も、特に暴君達のその批判内容が軟弱・放蕩・浪費、残忍、売春宿や居酒屋通いなどの深夜の徘徊など、『ヒストリア・アウグスタ』での、ガリエヌスの一連の暴君的な描写と重なる所が多い。また更に、そうした一連の記述内容についても、この『ヒストリア・アウグスタ』というのは、いろいろとその描写傾向に、影響を受けていると思われる『ローマ皇帝伝』の各記述内容に、その上、更に大幅にアクの強さとシュールな要素を付け加えた、とでも言おうか。そしてやはりこの『ヒストリア・アウグスタ』中の記述内容自体も、ガリエヌスについての、こうした私生活上での数々の不品行の箇所を含め、かなりこの『ローマ皇帝伝』を真似て執筆している部分が多い事が、改めて確認される。

 そして中でも特に『ヒストリア・アウグスタ』の中で批判されている、ガリエヌスがピパを溺愛するあまり、その髪の毛まで彼ら蛮族風に、金色に染めていたという逸話は、『ローマ皇帝列伝』中での、カリグラが上半身は裸の姿で、更に髪や髭はユピテルを真似て金色に染めていた、という逸話を基に、脚色されたものなのではないだろうか?
更にこれも、おそらくこのカリグラのような、奇矯な振る舞いに走る愚かな皇帝という、ガリエヌス批判のロジックの一端だろう。
ちなみにブレイやガイガーはこれらの記述について、これも『ヒストリア・アウグスタ』にある、彼がコロッススよりも大きな、太陽神の姿をした自分の象を作るように命令したという記述と並んで、これもこうした形で、彼が太陽神への崇拝を表わしたものではないか?と解釈しようとしているが。

 しかし私はちょっとこれは『ヒストリア・アウグスタ』の記述を、深読みし過ぎた解釈ではないかと思う。私にはこうした解釈は、あまり信じられないように思う。
それにそれでなくとも、飢饉や災害、度重なる蛮族の襲撃などにより、かなり厳しくなっていた国家の財政を、こうした巨大建築物をわざわざ作らせる事で、むやみに疲弊させるような事を、果たしてガリエヌスがするものであろうか?
私はこれまでのローマの歴史書などにもそうした記述がある、これまでの愚かな皇帝達のように、ガリエヌスは実際にも、そのような事を行なっていた皇帝であるとは、考えてはいない。
それに、皇帝になった当時、まだ二十代前半で、更にいかにもこの年代の若者が好みそうな、奇矯で派手な言動で、大衆をしばしば驚かせる事を好んだ、この若く思慮のない皇帝カリグラとは違い、既に分別盛りの中年皇帝であるガリエヌスが、いくら自分のその太陽神崇拝を表わすのに、ここまで大袈裟な形として、表現するであろうか?
という疑問が、私にはどうしても拭いきれないのだが。
それこそ、実際にこのような事をしたら、むしろ、大勢の顰蹙を買う危険性の方が、大いにあると思うのだが。

 

そもそも、そうしたガリエヌスの意図を、正確に理解してくれそうな人々の方が、なかなかいないのではないのかと考えられる。それに、ガリエヌスの治世中に、しばしば取られた、その反元老院的政策により、元老院との関係も、かなり悪かったようであるし、本来ならもっと思慮分別のある、落ち着いた言動が求められて然るべきの、壮年の皇帝がするべき事ではないと、また彼らからの無用の批判を呼び起こす火種にもなりかねない。それに、皇帝や元老院議員達は荘重な振る舞いが良いという、ローマ人の、特に元老院の伝統が、この三世紀に入ってからも、そうそう変わるとも思えない。

 とにかく、このように、ガリエヌスは特に『ヒストリア・アウグスタ』の中で、これまで暴君とされてきた各歴代皇帝達の、およそその、ありとあらゆる悪徳という悪徳を、一身に背負わされているかのような印象である。そして更にアルフェルディも『ヒストリア・アウグスタ』とユリアヌスが、その原典としては、おそらくスエトニウスの『ローマ皇帝伝』が予想される、こうした共通史料から、こうしたガリエヌスの姿についての、紋切り型と言える、堕落した暴君的な描写をしたに違いない事を示すと主張する。また更に続けて、ブレイはこのようにも指摘している。『ヒストリア・アウグスタ』の、ガリエヌスの即位十周年記念祭で見られたという、婦人用の黄金で刺繍された衣装という、つまりこのように女装をした剣闘士達の描写のイメージも、この著者が皇帝ガリエヌスを女性服装倒錯者であるかのように描いている気配がある。
更にユリアヌスの、こうしたガリエヌスについての、女々しさについての批判。
「女の衣装を纏った、女々しい男として表現される。華美に飾り立てる事とその行動。柔弱さ。そして数々の戦いの中で見られる、どんな彼の勇敢さでさえも取り除かれ、このように変えられた。 」

 ちなみにこのガリエヌスの即位十周年記念祭で見られたという、女装した剣闘士達という、奇妙な一団は、事実というより、ガイガーもこれも『ヒストリア・アウグスタ』の脚色の一つではないか?と見ているようだ。それから、その著作「皇帝たちについて」の中で、ガリエヌスについて『ヒストリア・アウグスタ』と同様の、女々しいという批判を行なっている、この皇帝ユリアヌスについてであるが。彼はクラウディウス・ゴティクスの子孫であると自称していた、皇帝コンスタンティウスの孫だった。そしてコンスタンティヌス大帝の甥。
更にこの、クラウディウス・ゴティクス。皇帝ガリエヌスの後継者。そして彼の兄弟の孫でさえもない、ガリエヌスとは全くの他人。それ所か、これも彼の次の皇帝となる、アウレリアヌスと共に、その皇帝ガリエヌスの謀殺に、関わったとされている、紛れもない、ガリエヌスの敵対者。

 そしてこのユリアヌスが「皇帝たち」の中で、ガリエヌスについて「女の衣装を纏った兵士」という表現で行なっている、『ヒストリア・アウグスタ』同様の、女々しさを表わす、批判的描写に繋がった可能性があると、以下の記述の中で指摘している、女々しいという、ガリエヌスについての批判についてだが。私が思うに、これは彼の家系の先代皇帝である、コンスタンティヌスの頃から、ずっと続いている、クラウディウス・ゴティクスに繋がる、イリリア人軍人皇帝の血統を自称し、それを誇るという、彼ら家系の伝統的プロパガンダの意図も絡んでの、このユリアヌスのこの表現に象徴される『ヒストリア・アウグスタ』同様の、ガリエヌスに対する、女々しい皇帝という、自分の著作の「皇帝たち」の中での、批判的記述に繋がったのだと考えられる。

 しかし、特に『ヒストリア・アウグスタ』の中で代表的なものとして見られる、ガリエヌスを巡る、こうした数々の批判的逸話は、既にアルフェルディなどの研究者達も指摘しているように、好色、贅沢、怠惰、惰弱、そして残忍と、あまりにも典型的な、愚かなローマ皇帝達のパターンを、ことごとく、踏襲しているのである。そしてこれら数々示される逸話の彼への非難理由の、その独自性のなさが、逆にこれは、あらかじめ、この皇帝ガリエヌスヘの非難を目的として、創作されたものではないのか?という、既に研究者達の中でも類似の指摘もあるように、同様の私の疑いも、かえって一層強めるのである。
更に上記の『ヒストリア・アウグスタ』の中で、ガリエヌスにいたとされている、具体的な多くのその妾達の名前も列挙されておらず、確かにこれも、ブレイの指摘するとおり、他の歴史書の中での同様の非難と同じく、あくまで抽象的な非難内容に留まっている事も、尚更そういった私の疑いを強くさせる。(個別の具体的な名前さえ、挙げられていれば、即信用できるというものでもないが。)やはり、私はこれらの一連のガリエヌス批判の逸話も、あまり信頼に値するような話ではないと思われる。

 また、彼について明らかに史実と認められる、精力的な蛮族撃退や属州各地の反乱の鎮圧、そして、いかにもローマの名門元老院家系の人物らしい、ギリシャ哲学を愛好や、当時の著名な哲学者プロティノスとの夫妻揃っての交流などから浮かび上がって来る、意欲的で教養ある人物像とは、激しい矛盾を生じている。それに、サロニナとピパにしても、これだけ四世紀の歴史家達から、『ヒストリア・アウグスタ』を初めとして、批判的にばかり書かれている皇帝ガリエヌスの妻なのだから、当然彼女達についても、元々良くは書かれていない可能性は、高いだろう。
事実、そういう傾向を感じさせる記述の一例として、既にマルコマンニ族と同盟を結ぶために行なわれた、ガリエヌスとピパとの結婚についての箇所でも触れているように、アウレリウス・ウィクトルや伝アウレリウス・ウィクトルの記述の中でも見られるように、やはりこのサロニナは、ピパと揃って、夫のガリエヌスを、腑抜けにさせていると書かれている。
そして彼ら、元老院に友好的でもある歴史家達は、そのガリエヌスのピパへの耽溺というのが、おそらく二六〇年頃に行なわれたと思われる、ガリエヌスとマルコマンニ族との、同盟の理由だとしている。

 伝アウレリウス・ウィクトル。
「その間にそれがあった。彼のその妻サロニナとゲルマン人の王の娘への恥ずべき愛情、名前はピパ、そして市民達の間には、これに対する気持ちの悪化と混乱が起きた。」
続いて伝アウレリウス・ウィクトル。
「彼は妻サロニナと妾の間で、自身をそれぞれの情熱への、犠牲にしていた。
そうだった。上パンノニアの一部の契約上の譲渡に対して。その彼女の父親による。マルコマンニ族の王。そしてその口実の下で。彼が彼女と結婚するために。そして手に入れた。彼女はピパと呼ばれていた。」

 しかし、やはりこれも、事実と言うよりも、典型的なこの四世紀の歴史家達の、反ガリエヌス伝承の一つかと思われる。そしてこうした記述も、これもマルコマンニ族を打ち破って同盟を結ぶのではなく、こういう形で同盟を結んだ事に対しての批判から、生まれた中傷的記述だろう。
そしてアウレリウス・ウイクトルや伝アウレリウス・ウィクトルの他に、ガリエヌスのそのピパへの耽溺を批判しているものとして、更に『ヒストリア・アウグスタ』でも、「ガリエヌスはピパラという名の蛮族王の娘を偏愛しており・・・・・・このため、いつも近従の者たちとともに髪の毛を金色に染めていた。」という記述がある。
このように全体的に、いつもの調子の、皇帝にふさわしからぬ、愚かな皇帝、ガリエヌスという批判に、終始している。

 また、ガリエヌスと彼女達について、批判的なニュアンスで扱っている事は共通しており、その内容の違いも、わずかなものでしかなく、明らかにこれも、その共通史料の存在を感じさせるものである。おそらく、その内容の脚色の、多少の違いくらいだろう。
出典となっているのは『エンマン皇帝史』辺りではないのだろうか?
更に皇后サロニナに対してさえ、ピパと並んでの、ガリエヌスのその、恥ずべき愛情などと書かれているくらいであるし。おそらく、ガリエヌスと関わりのある女性達という事で、彼女達まで、否定的な扱いを受けて書かれているのだと予想され、概して悪いようにしか書かれない傾向であるようであるし。そしてガリエヌスが、おそらく二六〇年から二六一年の間に、行なったと思われる、既にマルクス・アウレリウスの時代から、度々侵入を繰り返していた、マルコマンニ族の、その王アッタロスの娘ピパとの結婚及び属州パンノニアの一部を割譲し、そこに彼らマルコマンニ族定住の場所を提供するという事を条件に、マルコマンニ族との平和条約締結及び同盟に至った理由であるが。

 これは実際には、当時、帝国内外で蛮族の襲撃や簒奪が相次いで発生していた、厳しい状況の中、少しでも多くの兵力の無駄な消耗を避けるために、新たな兵力の消耗を招く、蛮族に勝利して降伏させてから、講和を結ぶという方法よりも、帝国内の一部を蛮族達の居住地域として割譲して、同盟を結んだ方が良いという、ガリエヌスの政治的判断によるものだろう。
そしてこの時、ガリエヌスには、属州パンノニア近隣に住む、ゲルマン人の王アッタロスからの、ローマ帝国の属州パンノニアの境界保護のために、戦って降伏させるという方法の他の、更なる手段が必要だった。ローマのこちらの土地の一部を割譲して彼らに提供し、そこに定住させるという。そして境界を守るという方法を、長期的な狙いにより、マルコマンニ族に提案した。

 おそらくガリエヌスは、二五七年の彼のライン川方面への到着後すぐに、フランク族の王との間にも、そのような同盟を結んでいた。そして多くの部隊は、既に東方のウァレリアヌスのペルシャ遠征に、従っていったため、ガリエヌスはますます、このような蛮族達の襲撃を止めさせるためには、外交的手段に頼らなければならなくなっていた。
更にローマ側としては、このマルコマンニ族との新たな同盟により、彼らマルコマンニ族のローマ軍ヘの兵力の提供を、受けられるようになった。
そしてやはり、こうした事から考えても、このガリエヌスの、マルコマンニ族の王アッタロスの娘ピパとの結婚は、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』が批判しているような、ガリエヌスのその、蛮族の王の娘ピパへの、盲目的な寵愛の余りの行動ではないだろう。
こうしてガリエヌスは、この二六〇年頃に、それまでローマ帝国属州内に、侵入をしていた、マルコマンニ族との講和条約として、マルコマンニ族の王アッタロスの娘ピパを妻にする事に決定した。とはいえ、一夫多妻制を認めていない、ローマ帝国の法律上では、彼女は妻ではなく、あくまで妾という扱いにはなるが。

 だが、ゲルマン人達からすれば、正妻は一人だけと、法律で定めているローマとは違い、一夫多妻制であり、彼らの感覚からすれば、皇帝ガリエヌスに既に皇后サロニナがいても、そこにこれもあくまでもガリエヌスの正式な妻の一人として、新たに王女ピパが嫁ぐという事なのであるから、彼女の父アッタロスからしても、自分の娘を、既に妻のいる皇帝ガリエヌスに嫁がせる事に、何の支障もなかったのだろう。
そして彼らマルコマンニ族は、それらの独立した場所に定住した。ローマのドナウ岸辺の、属州パンノニアの割譲された一部で。ガリエヌスは、おそらく、同盟により、提携された、この一つの国境を守るために、マルコマンニ族の王族を、精鋭騎兵部隊の司令官に任命した。

 更に考えられる、ガリエヌスによる、この新たな新兵募集の実際の理由。
それはおそらく、インゲヌウスとレガリアヌスの簒奪と関係していると思われる。
そしてマルコマンニ族は、ローマの支配に答えた。しかし、あくまで、自分達の王アッタロスという、独立した支配者の下で生きた。更に新たにローマ帝国領内に、土地を得て、自分達自身の軍団で戦った。おそらく、ピパはガリエヌスと結婚した。ローマとマルコマンニ族との、同盟の強化のために。そしてガリエヌスは、彼の機動軍とパンノニアでの権力基盤の維持のために、このピパとの結婚により、この精鋭部隊を手に入れた。
そして明らかに、このローマとマルコマンニ族との同盟は長く保たれた。

 更にアンミアヌスは、三八〇年の、ドナウ川沿いから黒海までの、ローマ帝国防衛線での、マルコマンニ族について語っている。そこでマルコマンニ騎兵隊は、ガリエヌスの死後から十八年後の二八六年になっても、ローマ軍団の精鋭騎兵部隊として活躍していた。
またパンノニアの入植者として。そしてこれはこの同盟が、彼ら双方にとっての、長期的に価値があることが判明したという事を物語っている。
更にガリエヌスは、その彼の戦略の権利を持っていた。騎兵としての、このマルコマンニ族の一部の名前は、予想される同盟の日付として、早くもその二六〇年に、現われている。
これら騎兵部隊の支持が、明らかにガリエヌスの時代から、ライン川で証明される時から。
以前に、彼がドナウ川でその時間を、蛮族撃退に費やしていた時ではなく。
そしてマルコマンニ族は、他の蛮族の一般兵士達とは対照的に、騎兵軍団として、騎兵と歩兵の組み合わせであった、ローマ帝国機動軍の上級部隊だった。
ローマの「文武官位録」は、パンノニアの軍隊と共に、それらを紹介している。
マルコマンニ族が、ガリエヌスとの同盟を通して、大きな利益を得たために。

 おそらく、また、彼らマルコマンニ族の軍隊は、二六〇年に、パンノニア・モエシア総督インゲヌウスの下で反乱を起こした、彼の支配下のパンノニア軍団に対し、十分に匹敵する力と考えられていた。そしてそれが顕著となったのは、二六八年の、皇帝ガリエヌス率いる、ローマ帝国の騎兵軍が、ネストスの戦いで、バルカン半島に侵入してきた、ヘルリ族の大軍を壊滅させた時である。そしてこのマルコマンニ族の場合と似たような、ゲルマン人騎兵のローマ軍ヘの編入としては、これもやはり、二六八年のこのネストス川での戦いで、ガリエヌスが勝利した後。
この時行なわれた、降伏したヘルリ族達の、ローマ軍への編入。
更に彼らの王の、ナウロバトスは、新たにローマ軍の士官として、執政官の官職と記章を得た。当時、更なる軍隊が、ローマ軍で、必要とされていたために。
そしてこのガリエヌスとマルコマンニ族との同盟を通じての、マルコマンニ族のゲルマン人騎兵の編入も、この二六八年のそれと同様の方針だと考えられる。

 またこの行動は、その徴候である。更なる軍隊が、緊急にローマの側で必要とされたために。
マルコマンニ騎兵による、帝国の防衛はそれ自体その事を証明している。
その原則。ゲルマン人の補助兵の採用。それは、このように有効だった。
このように、明らかに、マルコマンニ族は、ローマとの同盟を通して、ガリエヌスに忠誠を尽くした。このように、一見いい事ばかりであるかのような、このガリエヌスの蛮族の王の娘ピパとの結婚を通じた、マルコマンニ族との同盟であるが。
だが、このローマ帝国皇帝家の一員であるガリエヌスと、いわば従属国の王女、そして蛮族の娘であるピパとのこの結びつきは、ローマ人達の繊細な感情を傷つけた。そのため、おそらく皇帝ガリエヌスは、この結婚に対する、こうした人々の反発に対し、一夫多妻制である、そのゲルマン人の習慣を、気取らなければいけなかったと思われる。

 それからこのように、これら各歴史書では、一様に、ガリエヌスがこの蛮族の王アッタロスの娘ピパに溺れきっていたと批判しているが、私が見た所、実際の皇帝ガリエヌスは、既にこの三世紀には数少なくなっていた、ローマ元老院階級屈指の名門である、リキニウス家の出身であり、またガリエヌスも、まさにこの家系に、相応しいような人物であったようである。
彼のギリシャ哲学者プロティノスやポルピュリオスらなどとの、妻のサロニナも交えての交流などからもわかるように、洗練され、高い知性と教養を備えていた人物であった事が覗える。
果たしてこのような人物が、蛮族の娘という事で、無教養で、更におそらく、意志の疎通さえも、困難であったと思われる、蛮族の娘に、夢中になったりするものであろうか?
このような理由から、私はこの点に関して、かなり懐疑的である。

 またそもそも、ガリエヌスとピパに関しては、歴史家達の中には、この点は私と同様に、ガリエヌスが無教養な蛮族の娘であるピパの事を、到底、対等に扱うような存在とは、見なしていなかったのではという事から『ヒストリア・アウグスタ』で描写されている、彼の耽溺といった感じの、ピパへの寵愛というか、果たして実際に彼らの結婚そのものが行われたのか?という事自体についての、懐疑的な見方もある。だがブレイやガイガーなどは、実際に彼らの結婚が行われたと見ているようだ。だが特にガイガーは、ローマの「文武官位録」の中で、二六〇年からマルコマンニ族のゲルマン騎兵達が、ローマ帝国の機動軍として、他の蛮族達の場合のように、あくまで単なる一兵卒としてではなく、上級部隊の扱いで編入されている事を、有力な根拠として、彼らの結婚が、実際に行われたと考えているようである。

 確かに、明らかに他の蛮族の兵士達よりも、このマルコンニ族が優遇された扱いを受けているらしい事から考えても、パンノニアの一部を割譲し、そこにマルコマンニ族を定住させるという条件で同盟を結んだ皇帝ガリエヌスへの批判というだけではなく、実際に彼らの間で結婚まで行われた可能性も、かなり高いのではないだろうか?
とはいえ、実際にはガリエヌスにとっての彼女の存在は、対外的にはいろいろと多事多難であったとはいえ、個人的にはそれまで平穏であったと思われる、彼の家庭生活の中に突然入り込んだ、異分子、という所だったのではないだろうか?
むしろ彼としては、自分から積極的に望んだという訳でもなかった、蛮族の娘との結婚という、このような成り行きになった事に、困惑気味であり、彼女の存在を、持て余し気味であったのではないだろうか?だが、それでなくとも、数多の戦わねばならない相手を、当時抱えていた彼にとっては、これ以上、マルコマンニ族との戦いに時間を費やし、また相次ぐ帝国各地での簒奪や蛮族襲撃に備えて、少しでも兵力の消耗は避けねばならなかった。そして戦わずにこうした形で同盟を結び、更に彼らから軍事支援をも受ける事ができるというのなら、蛮族の娘との結婚も、止むを得ないと思ったのだろう。ピパとの結婚で、マルコマンニ族との講和が成立するのなら、という事で、この条件を呑んだのだろうが。

 しかし、ピパがゲルマン人の蛮族という事から考えると、彼女が仮にいくらかラテン語も話せたとしても、せいぜい、片言程度だったのではないか?と予想される。
そして自身も特に古い名門ローマ貴族である、リキニウス家出身であり、更に自分同様に教養も高い、皇后サロニナという妻を持っている、ガリエヌスからしてみれば、もし当時実際に、マルコマンニ族の蛮族の王の娘との間に、そういう話が持ち上がっていたとしたら、相当に受け入れ難いものであったであろう事は想像がつく。
だが、ローマの平和を守るためなら、どんなに気が進まない、ローマ人とはかなり文明度が劣る、無教養な蛮族の娘との結婚などの、個人的などんな屈辱でも、耐え忍ぶという、ガリエヌスの決断だったのかもしれない。

 このように、果たしてガリエヌス個人が、このアッタロスの娘ピパに対して、これも新たな妻の一人としての、形式的な尊重の気持ち以上の、彼女に対する愛情を、実際にどれ程感じていたのかは、疑問は残るものの、とにかく、ガリエヌスと彼女との結婚により、利益を得たマルコマンニ族の、こうしたかなりの戦力の協力を、得ることができ、このピパとの結婚は、それなりの利益はもたらした結婚だったといえる。この結婚に関しても、名誉よりも実を取った、ガリエヌスの決断と言えるのではないだろうか?

 また、その治世中、常に帝国各地での反乱者達や蛮族との戦いに追われ、ローマを離れる事が多かったガリエヌスである。彼が集中的にローマに滞在し、実際に彼女と過ごす事ができたと思われる期間も、ほとんどなかったであろうと予想される。
またこのような、絶えず蛮族との戦いなどに忙殺されている、ガリエヌスの生活から、通常はローマに残されている事の方が、多かったであろう、ピパの方にとっても、おそらく自分の父親程の年齢差の彼に、果たしてどれ程の愛情を抱く事ができたのか疑問が残る。
それにこうして、離れ離れに過ごす事が多かったガリエヌスは、彼女にとっても、夫とはいえ、遠い存在であったのではないだろうか?

 更にゾナラスの『歴史要略』によると、ガリエヌスが暗殺された最後の年に、皇后サロニナが、ガリエヌスの駐屯地にまで、同行していたと思われる記述があるが。
少なくとも、このピパが同様に、ガリエヌスの各属州の防衛線の駐屯地に、同行していたという記述はない。そしてついに子供という、もしかしたら、このように、何かと大きな隔たりを抱えていたと思われる二人を、強く結びつけるきっかけになる事ができたかもしれない存在にも、彼らはついに恵まれないままであった。なお皇后のサロニナと共に、このピパについての情報も、当時の混乱した帝国の諸情勢も、大いに関係していると思われる、史料の欠乏などからの理由と思われるが、ほとんどない。

 そもそも、ガリエヌスがこのような『ヒストリア・アウグスタ』の中で述べられている通りの、無能で自堕落な暴君だとするその記述内容が、説得力に欠け、かなり疑わしいと私が思う、これもその理由の一つであるが。そもそも、あのように厳しく、かつ複雑な情勢の中、このような無茶苦茶な放蕩生活に明け暮れ、皇帝としての責務を怠り続けているような皇帝が、十五年という、軍人皇帝達の中では、異例の長期統治期間を、維持できるものであろうか?
もちろん、このような不適格な皇帝で、激しい外敵達の攻撃を防ぎ続けられるかという事もだが、国内でも、例えその動機が憂国にしろ、野心の結果にせよ、誰かに暴君として倒されても、不思議ではないような、格好の口実を与えるだけだと思われるのだが。
それこそ、父ウァレリアヌスや自らが取り立てた、イリリア人騎兵隊の将軍達でさえ、万全の信頼を置けるとはいえず、いつ寝首をかかれるかわからないような、緊張に満ちた日々を、その治世の間、常に余儀なくされていたような、ガリエヌスである。
このような厳しく、かつ慌しい日々を送っていたガリエヌスにとっては、何回かのギリシャ滞在や、プロティノスとの対話の時くらいが、唯一の束の間の憩いの時間であったのではないだろうか?

 それから、更にまた私がこうしたガリエヌスについての、典型的な批判の逸話に、疑問を感じる、もう一つの理由である。『ヒストリア・アウグスタ』で、皇帝ガリエヌスについて頻繁に行なわれている、この「女々しい」という批判を巡る問題について、既に先程取り上げているように、更にブレイは注目すべき点として、以下の点について注目し、このように指摘している。
ガリエヌスの数々の放蕩に関しては、常に「L」の文字から始まる言葉でことごとく、表現されているという事である。この『ヒストリア・アウグスタ』の中での、ガリエヌスについてのこの批判の言葉の数々が、いずれも「L」の文字から始まっており、しかも、「Luxu-riosus」・「Luxuriosissimus」・「Luxuria」・「Lascivia」など、いずれも似たような意味の言葉である事。そしてどの言葉も、みなことごとく、淫乱さや無軌道さなどを表わすものである事を、指摘している。

 私はこれは、なかなか鋭い、ブレイの指摘ではないかと思うのだが。
おそらくこれはこの著者が言葉遊びとして、意図的にこのような書き方を、しているのではないだろうか?どうもその記述内容全体を通じて、何かと著者の不真面目さや悪乗り傾向のようなものも、濃厚に見られるこの『ヒストリア・アウグスタ』の作者なら、そうした可能性も、大いに考えられるように思うのだが。特に皇帝ガリエヌスの、奇行乱行の数々を記述している箇所の筆致の調子が、心なしか、一際嬉々としているようにも思える。どうせ、不明な事の多い時代の出来事であるのだから、適当に創作を交えて書いてしまっても、かまわないと思っていたのではないのか?そして実際にも、他にもレギリアヌス(レガリアヌス)について扱っている章でも、以下のような、同様の言葉遊びと思われる個所がある。

「レギリアヌスが皇帝になった経緯を紹介すれば、読者は驚くであろう。彼は、ある冗談がきっかけで、皇帝になったからである。兵士たちが彼とともに夕食をとっていた時、一人の将校代理が進み出て、次のように言った。「レギリアヌスの名がどこに由来すると思う?」。他の者がこれに続けて言った。「レグヌム(王政、王権、王国)から由来すると思う」。すると、傍に居た学者が、文法学者がするように、この単語を格変化させて言った。「レクス、レギス、レギ、レギリアヌス」。このレクスは王の意味で、この個所では、この単語を主格、属格、与格の順に変化させている。つまり、本来なら、レギの次には対格のレゲムが来る事になるが、冗談でレギリアヌスと変化させている。

 更にこの章のようなこうした言葉遊びは「ヒストリア・アウグスタ」の中では、他にもアレクサンデル・セウェルスや、サロニヌス・ガリエヌスについての章でも、同様に見られる。まず、アレクサンデル・セウェルスについての章である。「母マンマエアをとりわけ篤く敬い、ローマではパラティヌス宮殿にマンマエアの名を冠した離れをつくるほどであり―今では、無知な大衆が、そこを「マンマ[母]の家」と呼んでいる―、」。

 まず、このアレクサンデル・セウェルスの母の本名はママエアであり、当然その通りに記述すべき所であるが、ここでは「マンマの家」という言葉遊びにするために、わざと彼女の名をマンマエアと記述している。次はサロニヌス・ガリエヌスについての章である。
「彼らは、兵士の食事は、兵士たちが戦争に行く準備をすることから、パランディウムと呼ばれ、帯剣用ベルトをつけて行なわれるのであり、その証拠に、皇帝との食事に際しては、帯剣用ベルトをつけずに行なわれると言っています。」「準備をする」は、ラテン語ではパロであり、パランディウムと言葉遊びになっている。これに対して、普通の人の食事はプランディウムと呼ばれた。

 全体的に、このようなおふざけ傾向を濃厚に持つ『ヒストリア・アウグスタ』の、数多くの、しかもその中には、かなり荒唐無稽で馬鹿げた逸話も、しばしば含まれている、ガリエヌスについての章の記述内容の信憑性については、とりわけ、疑ってかからなければいけない必要が、あるのではないだろうか?またこの『ヒストリア・アウグスタ』というのは、その大半は、創作の可能性が濃厚な感じの、皇帝やその周囲の人物達の、ゴシップや突拍子もないような逸話の数々が、大半を占めているような内容であるし。そしてそれゆえに、後世の研究者達からも、その記述の信憑性に、数々の疑問が持たれやすい訳であるし。
それに、ガリエヌスについては、どうせローマ史上未曾有の、帝国三分割を許してしまった、不甲斐ない皇帝なのだから、このような書き方をしても、特に問題はないと、『ヒストリア・アウグスタ』の作者は、判断したのではないだろうか?

 またこうした各歴史書での、ガリエヌスについての一連の批判についての大きな特徴として、特に彼の性的な身持ちの悪さが強調された、批判のされ方をされているのは、やはり、こうした事が、皇帝にとっては、代表的な批判されるべき事柄だと、されていたからではないだろうか?また実際にも、こうしたステレオタイプの批判の方が、何かと有効である事が多い。
そしてその女々しさ・放蕩・奢侈と並んで、しばしば『ヒストリア・アウグスタ』がガリエヌスについて強調している、その他の性格描写の特徴としては、冷めた皮肉屋というイメージである。例えば以下の逸話の数々である。

「アカイアでは、将軍マルキアヌスの指揮下で、同じゴート人に対して戦いが行なわれた。ゴート人は、アカイア人によって打ち破られ、退却した。一方、スキュティア人、すなわちゴート人の一部はアシアを破壊した。エフェソスのルナ神の神殿は、略奪放火された。その神殿の名声は、人々によく知られていた。上に述べたようなことが起こっていた間、ガリエヌスは、恥を忍んで明らかにするならば、人々を襲った不幸について、まるで笑い事であるかのように、次のように語っていた。すなわち、ガリエヌスにエジプトが背いたことが知らされると、こう言ったと伝えられているのである。
「それがどうしたというのだ。エジプトの麻が無くなっても、どうということはないだろう?」。アシアが地震とスキュティア人の侵攻によって破壊されたのを知った時にも、「それがどうした。硝石が無くとも、どうということはないだろう?」と言っていた。ガリアが失われた時、ガリエヌスは笑って言ったと伝えられている。
「アトレバテス族のマントが国家を守ってくれるとでも言うのかね?」。かくして、世界のあらゆる部分について、それを失うたびに、まるで些細な害を被っただけであるかのように冗談を言っていた。」
「ガリエヌスは非常に機智に富んでおり、それを示す小話をここで差し挟むことを許されたい。ある時、巨大な雄牛が闘技場に送り込まれ、それを殺すための狩人が出てきたが、狩人は引き出されてきた雄牛を、一〇度殺すことを試みたにもかかわらず、できなかったことがあった。しかし、ガリエヌスは、この狩人に冠を送った。すると、「なぜ、あのような不適格な男に冠を送るのか?」と皆が文句を言った。これに対して、ガリエヌスは、伝令を通じて次のように答えた。「これほど何度も雄牛を仕留め損なうのはかえって難しいのだ」」

 更に他にも、クラウディウス・ゴティクスの傷ついたかかとを見て、ガリエヌスが嘲笑ったというような逸話などまで載せられているが、これもガリエヌス自身の、このような軽率な発言からも窺える愚かさが、人々の怒りと軽蔑を招いていたという事にでも、したいのであろうか?
中にはDr・E・Kランドやブレイなど『ヒストリア・アウグスタ』の中で見られる、ガリエヌスのこうした、冷めた皮肉屋とでもいうような性格を、事実と見る研究者もいるようではあるが。しかし、私はこうした、ガリエヌスの物事についての冷笑的な様子も、事実として捉えるより、やはりこれは著者の創作として、見るべきではないかと思うのだが。
そして結局はこうした、ガリエヌスの冷笑的な描写も、何事も真剣に受け取ろうとはしない、やはり最終的には、愚かで退廃した暴君という『ヒストリア・アウグスタ』が、ガリエヌスについて、盛んに強調したがるイメージへと、繋がっていくように思われる。

 だが哲学者プロティノスに傾倒し、事物の真理を追究しようとしたり、まさにその生涯のほとんどを、頻発する帝国各地の総督や将軍達の簒奪、そしてこれも絶え間なく帝国を襲う蛮族達の襲撃との戦いに費やし、帝国を維持するために、獅子奮迅の努力をし続けた、史実から浮かび上がる真摯なガリエヌスの姿には、甚だしくそぐわないものに、私の目には映るのだが。
そして実際にも、ポストゥムスの簒奪により、ガリアが彼の支配化に置かれた時、ガリエヌスは領土回復のために、ポストゥムスに二度戦いを挑んでおり、その時に放たれた矢で、傷を負いながら撤退しており、こうした『ヒストリア・アウグスタ』の記述とは、明らかに事実は異なっているのも、証明済みである。

 結局は基本的に、この『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、この皇帝ガリエヌスについては、ほとんど肯定的に書く気がないのだと判断しても、過言はないと思われる。
また、このガリエヌスの事を、ほとんど無価値な存在の皇帝として扱い、他の四世紀の歴史書同様、その全体的な筆致には、明らかに彼への甚だしい軽視が見られる。
例えば、ケクロピウスによるガリエヌス殺害について触れる時には、彼の事を「非常に不適切で恥ずべき者」とまで呼び、ついにしまいには、このガリエヌスの殺害も、完全な自業自得として、片付けている。

 それからこの点については、後の章で詳しく述べるが、これは著者の故意によるものか、偶然によるものなのかは、いまひとつ判然としないものの、いくつかのガリエヌスの軍功も、もしかしたら他の軍人皇帝達の列伝に、誤って挿入している可能性すら、あるようである。
そして更に、これら一連の放蕩贅沢話に加え、ガリエヌスの即位十周年記念祭の時に、周囲の人々の顔から顔を次々と見て回り、その不審な様子を人に見咎められた俳優が、父皇帝を探しているのだと言って、ウァレリアヌスを救出しにいかなかった事を暗に皮肉り、それを聞いたガリエヌスがこの俳優を焼き殺させたという話も含め、こういった極端な感じの逸話の数々は、おそらく、史実ではない可能性が高いと思われる。
この逸話自体も、ガリエヌスがペルシャに捕らえられた、父ウァレリアヌスを、当時の様々な厳しい軍事情勢から、救出に行くことができず、結果として見捨てる形となってしまった事に対する、あからさまな当てこすりだろう。そして更には、ペルシャに捕えられた自分の父親を見捨てたくせに、よく自分の即位十周年記念なんぞ祝えるな、とでも言うような、その冷ややかな視線から、作られたものなのではないだろうか?

 そしてこの残虐さというのも、ガリエヌスについての、その女々しさ、好色、怠惰、贅沢などと並んで、代表的な批判の言葉になっている。ガリエヌス自身についての章での、そうした彼の残虐さを表わす逸話としては、他にも、以下のような各逸話が紹介されている。
 「ガリエヌスは、大胆に、突発的に武勇を示すことがあり、時に侮辱を受けたことに激しく動かされることがあった。
ガリエヌスはビザンティウムを罰するために進軍したことがあったが、城壁の中に受け入れられるとは考えられなかったので、[人命保護の約束をして]、翌日[市内に]受け入れられた。しかし、ガリエヌスは、約束を破って、丸腰の兵士を武装した兵士で取り囲んですべて殺したのである。」。そしてある個所では、ガリエヌスはよく美しい少女達と浴場に入っていたと述べている後に、更にこう続く。
「これに対して、ガリエヌスは、兵士たちに対しては過酷であり、日に三〇〇〇人、四〇〇人もの兵士を殺していた。」
好色と残忍という、これら要素も、暴君の代表的な組み合わせである。

 そしてアウレオルスについての章での、以下の記述である。
「さて、ガリエヌスは救いようのないほど堕落していたが、しかし、必要に駆り立てられれば、迅速、勇敢で、気性は激しく、残酷になった。結局、インゲヌウスと会戦し、打ち破った。そして、インゲヌウスが殺された後、全モエシアの兵士と民間人に対して非常に苛烈に荒れ狂った。ガリエヌスの残酷さの爆発を免れたものは誰もいなかった。ガリエヌスは、あまりに苛烈、残忍であり、多くの諸都市で男を根絶やしにしたほどである。インゲヌウスは、[立て籠もっていた]都市が陥落すると、残酷な暴君に捕らわれることがないように、入水自殺したと伝えられている。」


 しかし、既にこの事には触れているように、この時実際にインゲヌウスと戦ったのは、ガリエヌスの部下である、イリリア人騎兵長官の、アウレオルスだったようである。
また、ガリエヌスの残酷さを恐れるあまりに自殺など、これも馬鹿げており、ゾナラスが『歴史要略』で伝える、逃亡中に部下に殺されたという、こちらの方が、大いにありそうであり、また信憑性も高いと思われる。そしてガリエヌスの残酷さを伝える、これらの逸話のいずれも、前述の父親のペルシャ捕囚を皮肉った俳優を焼き殺させた逸話と同様、ガリエヌスについての、これまでの数々の批判・否定的な記述と同様、初めから彼への中傷を目的として書かれているとしか思えず、とても事実だったとは思えない。また、その彼の治世中に度々発生した、数々の反乱や蛮族達などの外敵の襲撃などにより、特に慢性的な兵力不足に悩まされていたと思われるガリエヌスである。そんな彼にとって貴重な戦力であると思われる自軍の兵士達は、むしろ何よりも大切にしなければいけない存在だろう。当時、彼が置かれていた、そうした現実的な状況から考えてみても、ますます、こうした兵士達に対する残酷な仕打ちなど、よけいに信じがたい。

 また実際にも、これら『ヒストリア・アウグスタ』を中心とする歴史書の、明らかに見て取れる、こうした皇帝ガリエヌスについての扱いの、顕著な偏向特徴なども含め、この四世紀後半に記された、アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』・伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』、そしてエウトロピウスの『建国以来のローマ史概略』といった、これら一群のローマ史概略の歴史書については、あまり史料的価値は高くないとされている。
そしてこの混乱の三世紀の軍人皇帝時代については、残念ながら、同時代史料と呼べる文献史料が全くと言っていい程、残されてはいない。
また上記のように、皇帝ガリエヌスや三世紀に関する文献史料は、質・量共に劣悪な傾向であり、これらの史料状況から、十九世紀のアルフェルディやオモなどの研究者達が始めた、ガリエヌスの名誉回復のきっかけも、やはり主に碑文やこの時代でも全くその発行数が衰えていない、数多くのコインに拠る所が、大きいようである。
更にこのような三世紀についての、欠乏が激しい史料状況を反映し、皇帝ガリエヌスについて触れられているのも、この時代より後の時代の、四世紀やそれ以降の六世紀に成立した歴史書などばかりである。

 また前述の、『皇帝史』、『建国以来のローマ史概略』、『皇帝史略』の、これら一連のラテン語史料の内容も、その内容の簡略さや著しい類似性から、現在ではこれらの共通史料の存在が想定されており、それが『エンマン皇帝史』であると考えられている。
そしてこの、四世紀前半にラテン語で記されていると考えられている史料自体が、既に簡略で誤りも多いものであると考えられている。全体的に、皇帝ガリエヌスに対し、かなり批判的な傾向で、エウトロピウスの『建国以来のローマ史概略』の「ガリエヌスはごく若年で「アウグストゥス」に任じられたが、帝国のまつりごとを最初は見事に、その後はそこそこに、最後は悲惨に行なった」という記述などが代表的だが。

 このように、これら四世紀の多くの史料の中で、ガリエヌスはその皇帝即位初期は皇帝としての職務に励んだものの、その後は奢侈やマルコマンニ族の王アッタロスの娘ピパなどとの放蕩生活に溺れる、愚かで無能な皇帝として書かれているのである。
既に、これらの数々のこれらの史料的特徴から、特に皇帝ガリエヌスに関する記述を読む場合には、やはり、特にその際に、十分な注意を払って扱う事が必要である事が、よくわかる。

 更にこうした、三世紀を扱った史料についての状況や各文献史料についての特徴については、以下のように井上文則氏がざっと指摘している。その指摘によると、この三世紀を扱った代表的なラテン語の史書としては、まず、四世紀後半に記された、これら一群のローマ史概略が挙げられる。アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』、エウトロピウスの『建国以来のローマ史概略』、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』。そしてこれらの歴史書は、いずれも極めて簡略であるだけではなく、内容的に非常に類似しており、今日一般にその共通史料の存在が、想定されている。そしてその共通史料というのが、十九世紀のドイツの研究者アレクサンダー・エンマンが発見した、その彼の名を取って『エンマン皇帝史』と呼ばれるようになったものであり、四世紀前半にラテン語で著されたと考えられているが、これ自体が既に簡略で誤りも多いもののようである。そのため、これらローマ史略の史料的価値は、それ程高くない。

 続いてラテン語の歴史書として名を挙げられるのは、同じく四世紀末に著された『ヒストリア・アウグスタ』と呼ばれる、ハドリアヌスからヌメリアヌスまでの皇帝や簒奪帝達の伝記集である。この伝記集は分量的には相当長く、そしてスエトニウスに倣った記述スタイルで彼らの出自、経歴、内政、外征、そして私生活が饒舌に描かれている。しかし、この伝記集については、その著者の性格、成立年代、更には内容の信憑性を巡って、十九世紀のH・デッサウの研究以来、激しい論争の対象となっており、その史料的価値についてはかなりの疑問がある。
そして「ケンブリッジ古代史」第十二の中で、この伝記集の史料的価値に言及したJ・E・ドリンクウォーターに至っては、『ヒストリア・アウグスタ』は、デクシッポスなどの信頼できる原史料を利用したと考えられる部分を除いては、「アウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスを想像力で膨らましたものに過ぎず、たいていの場合無視すべきである」とまで言い切っている程である。

 このデクシッポスとは、三世紀のアテナイ人の歴史家で『編年史』や『ゴート史』を執筆している。そしてこのように、比較的、信憑性が高い史料とされている。
『編年史』は神話時代から二七〇年までの歴史を扱い、そして『ゴート史』は、二三八年からアウレリアヌスまでのローマ帝国とゴート人との戦争を記したとされているが、しかし、現在では、これも断片という形でしか、残っていない。
(とはいえ、このデクシッポスの歴史書については、これも『ローマ皇帝群像三巻』の中で、井上氏のこれらの歴史書の特徴に関する指摘によると、そもそも、このデクシッポス自体が、どれだけ信頼できる歴史家かというと、このデクシッポスも、ヘロディアヌスと同じく同時代人とはいえ、政権中枢に関わった人物ではなく、アテネでその生涯を送った人であるので、現実問題として、政治史の核心には迫り得なかったであろうとも、述べている。)

 

 次にギリシャ語の歴史書としては、こちらはラテン語の歴史書に比べてその成立年代は下るとはいえ、今日では失われた価値の高い歴史書を原史料として利用しており、その信頼性はずっと高いとされている。そしてゾシモスとゾナラスが、これを代表する。
ゾシモスは、最後の異教歴史家と呼ばれており、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスから四一〇年のゴート族による、ローマ市略奪直前までのローマ帝国史を反キリスト教的な立場から叙述している。そして『近代史』と題されたこの歴史書の成立年代は、五世紀末から六世紀初頭の間である。問題となる軍人皇帝時代の叙述に関しては、二七〇年以後は、四世紀の哲学者エウナピオスの歴史書を原史料として利用したようであるが、それ以前の原史料については論争がある。
デクシッポスを利用したとするのが一般的であるが、ビュデ版の校訂・翻訳者F・パシューは、全く不明だとしている。ゾナラスの歴史書『歴史要略』は、いわゆる世界年代記の一つで、天地創造から自身の生きた十二世紀までの歴史が記されている。
このゾナラスの歴史書についての研究に従えば、ゾナラスは軍人皇帝時代の叙述に際しては、主に、六世紀のペトロス・パトリキオスの歴史書に拠っており、そしてこのペトロスは四世紀末のローマの元老院議員ニコマクス・フラウィアヌスの著した『年代記』を利用したとされている。
ただし、フラウィアヌスの『年代記』は、碑文史料にその存在が言及されるだけであり、その内容は一切不明であるため、これを重視する見解には懐疑的な立場をとる学者も、特に英米圏では多い。

 このような上記の当時の一連の歴史書の特徴についての、井上文則氏の指摘にもあるように、この時代を扱ったラテン語歴史書では代表的な『ヒストリア・アウグスタ』も、その信憑性については、やはりいろいろな点から疑問が持たれ、これまでも何度もその信憑性を巡り、激しい議論が繰り広げられている。つまり、これら四世紀に成立した各歴史書は、いずれもその内容の信憑性については、それぞれ、かなり問題を孕んだ歴史書である。まず、この三世紀の軍人皇帝時代を扱った、代表的なラテン語歴史書である『ヒストリア・アウグスタ』についての、更にガイガーの以下の、その詳しい特徴についての指摘である。

『ヒストリア・アウグスタ』は、最も謎めいていて、奇天烈な古代の著作である。
そのため、現代の多くの研究者達からは、かなり取り扱いが、難しい史料とされている。
この作品は年代記の要素で、ハドリアヌスからヌメリアヌスまでの、ラテン語での三〇人の皇帝の伝記で構成されている。フィリップス・アラブス(244-249)。デキウス(249-251)。
トレボニウス・ガルス(251-253)、そして、 アエミリアヌス(253)。ウァレリアヌスとガリエヌス(253-260)からの時期、これら二人の皇帝達に関する、一つの非常に少ない部分だけは得られる。そして相変わらず、他の上記の皇帝達の伝記の部分は、これまで知られてはいない。
この分量の差は、故意に残されたのかどうか、またはその箇所の原典が失われたのかどうかに、関わらず。しかし、フィリップス・アラブスとデキウスについての伝記が、単独の章では見つからない事を思い出させる。多分、その分量の差は、著者をその責任から、免れさせた事だろう。それらについて、説明しなければならない事から。
そしてウァレリアヌスのような、模範的に見える支配者が、悲惨な最期を迎えるのを、大いに利用する事ができた方法。

 更にその内容の大部分は、共同統治者と簒奪者の伝記で占められている。
また、ペロポネソス戦争の後のアテネの「三十人政権」という状況に発想を得て、明らかな虚偽である、一時はこれら僭称者達によって帝国の政権が運営された事などもあるという記述まで含む「三〇人の僭称帝たちの生涯」という題名を付けた。
ガリエヌスが享楽に耽っている時に、しばしばその出現の年を示される簒奪者。
しかし、それらはしばしば誤りである。特にその内容について、あまり信頼できないものを感じさせるのに、この章は有効である。史料不足、そして、それから起こることがまた、伝記に対する影響で、主な皇帝達については、想像力の方が勝っている事が、おそらく、それら皇帝の後継者並びに失敗した簒奪者達の伝記についての、その低い信頼性の理由を表わしている。

 結果として『ヒストリア・アウグスタ』、それはディオクレティアヌスとコンスタンティヌス一世の時代までの間の、六人の著者によって、執筆されたと考えられている。
しかし、実際には単独の著者だとする意見もあり、この著者が複数か単独かという点については、まだ結論は出ていない。そしてこの中でガリエヌスの時代は、シラクサのトレベリウス・ポリオによって執筆される。多分歴史家アシニウス・ポリオからの派生。
しかし、それは文体の相互関係のように、原文のものに基づいて、実際はそれ自体に思われる。おそらく、その多数の時代錯誤的な表現から、おそらく、都市ローマの貴族と親しい、ある著者の著作が利用された。そして、四百年頃の歴史家により、多分、その著作は遡って使用されただろう。より昔の年代に基づいて、より信頼できると考えられているために適切な。
しかし、その年代記はそのように見えた。異なる時代の数人の著者説が、活発だった。
どんなに各伝記の分割と一致していなくても。従って、伝記は更なる介入の形跡が、発見された。

『ヒストリア・アウグスタ』は、時間的に多分明らかに、別々の段階が作成されただろう。
この間のアントニヌスから、セウェルスまでの時代の情報は、大多数は信頼に値するかに見える。この軍人皇帝の時代についての出来事についての描写。
だが、この時代についても、数多くの良いイメージの創作が、行なわれているように見える。
実際にその大部分は、創作された偽文書。頻繁な虚構の物語の創作と偽文書からの、これも頻繁な引用。著作はニコマクス一族の周辺で、執筆された。著者は明らかに、キリスト教古儀式派のようである。キリスト教に対するその著作の傾向は、大多数の研究者達の代表的な見方となっている。おそらく、著者は宗教的には寛容な年長の、古儀式派の元老院議員である。

 そしてガリアとこの著者との関連性を認める事は、現代の研究者達の賛同を得ている。
ポストゥムスがガリアを蛮族から防衛している姿を、ガリエヌスよりも、はるかに高く評価して書いている点など。著者は、原則として、彼らの経験に基づいた、年長の支配者を好んでいる。
そして当時の帝国の王朝に対する、その否定的な態度に関連させるものは、何でも形成する。
以後しばしば、帝国のための各簒奪者達の参加は、不適当である。
ガリエヌス、更にカリヌスは大変に否定的な評価をされた。両方のその支配者は、上級将校達の陰謀によって倒された。しかし、両方とも、外観は軍隊の反乱の振りを装って起きる。
そしてこれらの暗殺の計画者達は、この行動を正当化しなければならなかった。
そのために、ガリエヌスとコンスタンティヌス一世、そしてこの彼の先祖とされるクラウディウス・ゴティクスに対し、好ましくないガリエヌスのイメージが、ラテン語著者によって、提供された。そしてそれが、カリヌス、ディオクレティアヌスであるならば。
これは成功した支配者が、正当化されなければならなかったからである。

 そして彼らの敵対者達がそのために、こうした黒い伝承を創作し始めた。
例えばガリエヌスのビザンティウムの、兵士達の反乱についての、これも信憑性に疑問が残る、残酷な処置、その年代などを書き立てた。これらのはっきりとしたイデオロギー傾向にも関わらず、他にも予想される、この著者の歴史作品の目的。おそらく、この歴史書は、読者を楽しませる事を目的とした、古代の風刺作品。そのため、全体的な調子のその馬鹿らしさが保たれた。
その章の一部は、おそらく著者によって、同時代の支配者達のパロディを表わす。

 そしてこの史料は、典型的なウァレリアヌスとクラウディウスらについての、そのかなり好意的な評価とガリエヌスの評価との間に、決定的な差を付けている。
しかしまた、同様のそうした有効な例としての、オダエナトゥスとポストゥムス。
そして彼らに対して、著しく無能であるかのように、ガリエヌスはされた。
醜悪、そして頽廃的に描かれる。帝国が崩壊の危機に瀕しているという時に。
そして更に、ゼノビアのような、女性でさえ、彼より良い正体の人物として、表現されている。
それらの逸話においてガリエヌスは、多くの好ましくない特徴と関心を備えた皇帝として、考えられる。価値のない、放蕩に耽る支配者としての描写の様子が、見られる。
そして蛮族達の侵入の合間に、すかさず描写される、これも多くの注意を払って読むべき、これも捏造の可能性もある『同様に多発する、自然大災害』を得る。

『ヒストリア・アウグスタ』は、主に不変の外交問題を要求する。
これも、ひどく歪曲されているが。そしてそのガリエヌスの勝利と敗北については、大変に言及が少なく、ほとんど、捏造する事さえもしていない。そしてガリエヌスについては、数多くの否定的な記述が発生している。おそらく著者が親近感を感じているハドリアヌスについては、これ以上の否定的な表現が不可能であったため。後にテオドシウス一世によって、彼が再評価されるようになったため。そして新たな反皇帝姿勢の始まりとして利用される、ガリエヌスのアテネ滞在。同じ『ヒストリア・アウグスタ』での、ハドリアヌスのアテネ滞在の記述との類似性。
そしてその結果としての、ビザンティウムでのガリエヌスの、その無益な残虐行為として描写される。また特大規模の、破壊的な浪費家にされている。

 この三世紀の中頃についての記述のために、著者は『エンマン皇帝史』の伝承を使う。
そしてデクシッポスの『年代記』。更にサルデスのエウナピオス、大ニコマクス・フラウィアヌス、またはエウトロピウス。またガリエヌスへの批判については、著者はヒエロニムスの『年代記』の影響も、受けているようでもある。それらにおいて、この神父は攻撃する。
彼のニーズを使って、それにより整列する。醜聞的な視点で、ガリエヌスについて戯画的に描く。そして更に、全十二章の『ラテン頌詩』(最終的には、テオドシウス一世のために)の影響も、この『ヒストリア・アウグスタ』のガリエヌスの章のために、利用された。
ほぼガリエヌスの即位十周年記念祭についての描写で。 テオドシウス一世の謙虚さや質素さの強調を通しての、そのガリエヌスの贅沢さの、くっきりした仄めかしを通してだけではなく、マクリアヌスの簒奪。

 そしてここでこの名前が登場した、ヒエロニムスについての紹介をしておく。
ダルマティアのある神父ヒエロニムスは、三八二年から三八四年まで、法王ダマススの秘書官を務める。活発なベツヘレムの修道院長としての、三八六年からのその後。彼は四一九年から四二〇年に、そこで 死去した。彼の作品としては、カエサレイアのエウセビオスの『年代記』のラテン語の翻訳と改訂が存在する。また、『エンマン皇帝史』の伝統を含む、この年代記の作品。
『ヒストリア・アウグスタ』での批判をモデルとした、同様のガリエヌスについての批判。
その使い古された反皇帝の態度。ガリエヌスの統治の時代のそれにおいて、アラマンニ族についての考えは、まもなく扱われる。ゴート族。クワディ族。サルマティア人。ペルシャ人とフランク族。そしてキリスト教迫害の停止を思い出させる、メディオラヌムでのガリエヌスの最期。
それからこの『ヒエロニムス年代記』は、テオドシウス一世を通して、再評価された。
このガイガーの数々の指摘などにもよる通り、数多くの誤り、史実や人物などの意図的な歪曲・捏造、時代錯誤な数々の表現、内容の荒唐無稽さ、そして特にガリエヌスとそれに対する人物達の対比的描写において顕著である、その著者の人物の扱いの偏向・不公平振り。
これらは、既にこれまで数多く指摘されている『ヒストリア・アウグスタ』の問題点であり、その歴史書としての取り扱いには、十分な注意が必要とされるゆえんである。

 そして更に、やはり、この『ヒストリア・アウグスタ』や、その他のこれら四世紀及びそれ以降に成立した史料は、現王朝を称讃し、持ち上げるために、一切自分達イリリア人皇帝達の系譜に連ならない、前王朝の皇帝ガリエヌスを貶めて書く事を前提にして、執筆されている要素が強いようである。 また、何かとその内容に不真面目さや大袈裟さ、悪乗り傾向が目立つ事と、大いに関連しての事らしいが、上記のガイガーの指摘によると、そもそも、この『ヒストリア・アウグスタ』自体が、歴史書としての正確性などを意識して執筆されたものというよりも、どちらかというと、娯楽性を主としたもので、それ程元々真面目な目的により、執筆されたのではない可能性さえも、あるようである。そしてそうした著者の執筆意図の中でも、格好の道化に仕立て上げられているのは、やはり、何と言っても、皇帝ガリエヌスであろう。

 更に続いて他にも、この『ヒストリア・アウグスタ』と関連して注目される点としては、この『ヒストリア・アウグスタ』での、皇帝ガリエヌスについての数々の批判的な描写は、二九七年の夏と三一〇年の春に、匿名のガリア出身の人物により、皇帝コンスタンティウス一世とコンスタンティヌス一世に捧げられた、皇帝称賛の演説である『ラテン頌詞』の内容の影響を、かなり受けているようであるという事である。

 そして続いての、ガイガーのこの問題の『ラテン頌詞』についての、指摘である。
この全十二章のラテン頌詞において、ガリアでの賛辞演説献呈者の、トラヤヌスからコンスタンティヌス一世までについての、称讃が発見される。それぞれの君主の支配概念について、こうした公的な場を介して、君主のイデオロギーの立証とその強調。この八章は、全てこの匿名の賛辞者により、重要なテーマとして扱われた。この賛辞は二九七年の、財務官アレクトゥスのガリア北部とブリタニア簒奪からの、コンスタンティウス一世の回復の後の夏に、トリーアで捧げられた。

 そのために、この時高齢の演説者のこれは、この二九七年の状況を、三〇年前の、帝国の悪い状況と比較する。皇帝ガリエヌスの時代。そしてそれは現在の肯定的な状況に対しての、否定的な箔として用いられる。著者は、明らかに自身の経験も交えて、かつてのガリエヌスの時代とこの二九七年の安心した状況について、いかに現在が最悪の事態の後であるかを述べる。
更に続いてこの著者の語る、ガリエヌスの全時代での、三世紀半ばの領土の損失。
そしてガリエヌスによる損失と、その失われた領土について強調する。
更に今回のこのブリタニアの再度の征服が意味する事について。更にコンスタンティウス一世の、その偉大さを通して、それは強調される。

 この時に初めて、当時のその個人的な消息が不足している、皇帝ガリエヌスは、言及される。
おそらく、これらの原因になっていると思われる、当時のその彼の様々な窮地のために。
この時の最新のもので。それはまだ当時には、許されていた。従って、三〇〇年までに。
だが後に優勢となる、その否定的なガリエヌスのイメージが形成されるまでに、それを抑制する当時の「世論」が現存していたと考えられるための、彼に関する、多少肯定的な伝承の一部。
確かに、ガリエヌスに関する記述のその大半は、否定的なものばかりであるとはいえ、多少は彼に関する、肯定的な内容の記述が残されているのは、こうガイガーが指摘するような理由からだろうか。共同皇帝であった父ウァレリアヌスがペルシャによって捕らえられた事が、大きな引き金となり、その単独統治の治世中に、数々の反乱や蛮族の侵入に悩まされ、更には帝国三分割という事態にまで、至ってしまったとはいえ、国民達に、ある程度その善政が支持を受けていた事による、その世論の存在が抑止力となったがゆえの、そうした伝承が残る事が可能となった理由なのではないだろうか?

 そしてガリエヌス同様に、敵対者による殺害という形で失脚した、三〇七年に殺害された皇帝セウェルス・マクセンティウス・マクシミアヌスは、よりにもよって、彼と同様の運命を辿っている、おそらくガリエヌスの霊廟と考えられている場所に、おそらく意識的に埋葬された。
こうした説明は、いかにもありそうな事である。
失脚した皇帝は、こうして他の場所に葬られなければならなかった。そしてそれは、四世紀に『エンマン皇帝史』を通しての、ガリエヌスの否定的な描写のために、そうして片づけられた。また、クラウディウス・ゴティクスの、ガリエヌス殺害についての、明らかに積極的な関与は、賛辞献呈者により、極力抑えられる。

 三一〇年のコンスタンティヌス一世への賛辞の第六章は、三月一日の、即位五周年記念祭に、これもトリーアの宮殿で献呈された。ポストゥムスのガリア支配による、ガリエヌスについての否定的な伝承の出発点の可能性がある『ラテン頌詞』という名の、反ガリエヌス活動。
そしてその簒奪は、正当化されなければならなかった、そしてそのポストゥムスの八年間に渡る支配。更にこの仮定は、それらの事実によって強化される。
二九七年のトリーアで、ガリエヌスに対して否定的な心情が表わされているのは、この演説献呈者が、このガリア地域の住民だったからである。おそらく、実際にポストゥムスのガリア支配の経験をしている。また『エンマン皇帝史』が生み出されたと思われる場所は、一般的なガリア地域の中に含まれる場所であり、また地域的な伝統が受け継がれている場所である。ポストゥムスの支配していた時代の、表現についての構文。

 確かに、上記の通りにガイガーも指摘しているように、この『ラテン頌詞』は、各皇帝の業績を称え、彼らに対して、その賛辞の演説を捧げるという内容からもわかるように、極めて政治性の強い催し事である。つまり、二九七年のコンスタンティウス一世のブリタニアとガリア北部の奪還を称えて、この賛辞第八章を捧げた賛辞献呈者が、ガリア出身である上に、更にこのトリーアを含む下ゲルマニアは、紛れもなく、ポストゥムスが、ガリエヌスの次男で当時こちらの地方の統治に当っていた、サロニヌスを殺害し、ガリアと共にこの地方一帯を含む、ガリア分離帝国を築いている場所である。極めてポストゥムスの影響の、強い地域である。
そして更に『ヒストリア・アウグスタ』や、アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』、そして伝アウレリウス・ウィクトルの『歴史要略』の執筆に利用された可能性も高く、更に、これも何かとガリエヌスに対して、かなり批判的な『エンマン皇帝史』の著者も、おそらく、ガリア出身の人物であると考えられるとしている。

 確かにガリアと言えば、ガリエヌスに対して反乱を起こした、かつてのポストゥムスの勢力圏であった事以外にも、コンスタンティヌス一世など、コンスタンティヌス朝の皇帝達が、これもかつてはガリア分離帝国の一部であった、下ゲルマニアのトリーアと並んで、よく居住していた場所である。そして更にまた、これも同じ皇帝一族であり、ガリエヌスについて批判的に書いている、後の皇帝ユリアヌスの三五五年からの、カエサルとしての統治先でもあり、更に彼がここの属州民達から、絶大な支持を得ていた場所でもある。やはりガリア、そしてこの下ゲルマニア一帯は、ガリエヌスに対して、伝統的に敵対的な地域だった可能性が、高い場所だったという事だろう。

 そしてこの時、コンスタンティヌスはこの賛辞の中で、かつてガリエヌスも特に信仰していた、太陽神ソルのイメージで描かれ、更にこの時コンスタンティヌスは、キリストの幻影を見たとされている。「大帝コンスタンティヌス」の誕生である。また、彼がクラウディウス・ゴティクスの子孫であるという事が、帝国内に広く喧伝されるようになったのも、この頃からである。

 なお、ガイガーの上記のこの『ラテン頌詞』についての紹介の中に出てきた、ガリエヌスの霊廟と考えられているものについてであるが。ブレイも、皇帝ガリエヌスが埋葬された墓所について、以下のように取り上げている。
「三〇七年に、セウェルスが、ローマからやや南へと離れたトレス・タベルナエで殺害された後。以下の二つの史料の中での、記述がある。
「一つは、いわゆる『無名氏ヴァロワ』。(297年-337年について、同時代人によって書かれた同内容の、最初の編纂者H. ヴァロワの名を取って、名付けられた断片)。
セウェルスの遺体が、ローマから八マイル先の場所へと運ばれ、それまでガリエヌスの記念碑があった場所に、新たに塚が建てられて、埋葬されたと書いている。
そして伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』。こちらでは、それがローマから九マイル先のアッピア街道にある、ガリエヌスの墓に、埋葬されたと書かれている。」


 このように、皇帝ガリエヌスは、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』と『ヴァロワ抄録』によると、ローマから南方九マイル先のアッピア街道沿いの場所に、埋葬されたという。
これらの記録が示すこの距離で、ガリエヌスの墓所が、実際に発見された。
主に霊廟の未踏の残骸。そしておそらく、この建物が、ガリエヌスの墓だと考えられている。
また、三〇七年か三〇八年のどちらかに、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス二世の埋葬のために利用されたか、埋められた。それは、ローマから九マイル先の、アッピア街道の傍らに埋められたガリエヌスだった。この証言の形跡は、実際に発見された。その遺跡が、現在どんなに崩壊の危機に瀕しているとしても。 主に霊廟の未踏の残骸。
そしてこれら歴史書にも記述のある、ガリエヌスの墓所の、高い見込みがあるとして、ガリエヌスの墓所が含まれる領域が発掘された。更に三〇七年から三〇八年においても、同様に、皇帝セウェルスもこの場所に、埋められた。従って、これらの歴史書の情報は、信頼できるようである。

 つまり、セウェルスのような失脚した皇帝達は、けして代々のローマ皇帝の眠る、ハドリアヌス霊廟には葬られず、最もこうした侮蔑的な扱いに、相応しかった。更にこうして、死者の埋葬の必要を減らすためにも、便利な。こうして失脚した、そして形式としては立派な皇帝として扱われる人物が、こうした記念碑のある場所に埋められた。 また、これら二つの史料で示される、この墓についての距離の詳細の他に、しかしそれらはガリエヌスとの関連の、少しの更なる証明も与えない。皇帝ガリエヌスのその埋葬式は、おそらくこの都市の外で行われた。
レンガ造りのこの霊廟の周囲は、直径14,50から19メートルまでを示して、むしろ小さめである。おそらく最初は、もっと規模が大きな物であったのであろうが、時間の流れにより、減少した建築活動になっただろう。以前の高さは、知られてはいない。現在、それは11メートルに達する。霊廟内部の土台の周りの領域は、直径11,25メートル。丸みを帯びそして長方形の隙間並びに南西の方向からの入口。(3,80×1,20メーター、高さ5,50メーター。)

 元々は明らかに部分的には、地下の階を含む2.30メートル幅の広い廊下。四つの長方形の。3,90メーターは、近づきやすい広い隙間を測る。二つの互いに逆の入口による部屋。四つの分岐している主な通路から、できている部屋。周囲に、丸い形で2,90メーターの深さの隙間を計測する 「h」後部の壁。明らかに、新しい建築様式の最初の例は、この建物で見られる事になっている。それにとって代わられた古い塚。下部との接合。おそらく、二階建ての多角形の計画。長方形の隙間と教会堂などの東端に張り出した半円形または多角形の部分である、後陣による内部のもので。多くの地域と光による後陣で。遅くとも、テトラルキア時代末期まで残るタイプ。

 そしてブレイは、この霊廟らしき建物は、ガリエヌスを殺害して次の皇帝になった、クラウディウス・ゴティクスによる彼の神格化の、強い間接的な確証だとする。更にかつてはその証拠として、おそらく彼の墓の周囲には、彼の記念碑もあったのだろうと見ている。そしてそれはこの記念碑がまだその時まで建っていて、このほぼ四十年後の皇帝セウェルスの死まで、そのように定義可能だった彼の墓の周囲で、彼の記憶が思い出された時から「記録抹殺刑」が、実行できなかった事を示しているとしている。

 話は戻るが、こうして見ると、このかつてガリア分離帝国であったこれらの地域一帯を通じ、ポストゥムス→コンスタンティヌス朝の皇帝達と、やはり、皇帝ガリエヌスに対し、敵対的な人物達の長期間の支配の継続及びその結果。こうした継続的な、このラテン頌詞などの形を通じた、コンスタンティヌス一世及びその王朝を称えるための、皇帝ガリエヌス矮小化のための、一連のプロパガンダの構図が、明らかに浮かんでくる。そしてまた、ガイガーによると、現代の研究の中で指摘されている点として、更にその上、この『ヒストリア・アウグスタ』の著者自身も、やはり、ガリアに関係のある人物の可能性も、かなりあるようである。

 また、やはりこれもガイガーも指摘している通り、確かにこの著者がガリアに関係ある人物の可能性という指摘に大いに頷ける理由としては『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、ガリエヌスについて全体的に、非常に否定的に書いている傾向の他にも、更に頷ける理由として、特にこの皇帝の息子サロニヌスの殺害までを行ない、皇帝を僭称する簒奪者であるのに、専ら彼が蛮族からガリアを防衛する姿を、ガリエヌスよりも、遙かに高く評価して、書いている点である。
「ポストゥムスは七年間統治し、押し寄せてくるあらゆる蛮族からガリアを勇敢に護った。」
確かに以上の記述も、実際には歴然とした簒奪者である、ポストゥムスが、まるで英雄であるかのような扱いである。他の簒奪者達に対して同様、こんな無能な皇帝に対し、よほど有能な人物である、ポストゥムスのような人物がこうした行動を起こすのは、まるで至極正当な行為であるかのような、共感を寄せているかのようである。

 確かに、まるでガリエヌス以外の簒奪者達はことごとく、無能極まる彼よりも、はるかに優れた人物達ばかりであるかのように、実にわざとらしく、大仰にほめ称えて書いている中でも、特にウァレリアヌスや、そしてガリエヌスを暗殺して皇帝になった、クラウディウス・ゴティクス、更にオダエナトゥスやゼノビア、そしてポストゥムスなどの人物達が目立って、ガリエヌスのその『ヒストリア・アウグスタ』中での、ガリエヌスの無能振りを際立たせようと、殊更対比的に、かなり美化・誇張して描かれているようである印象は、私もしばしば感じている。
例えば、確かに皇帝ウァレリアヌスは、真面目で責任感の強い皇帝ではあったのだろうが。

また近年、井上文則氏のように、この皇帝ウァレリアヌスを、再評価するようになっている研究者もいるが。しかし、この『ヒストリア・アウグスタ』の中でのウァレリアヌスは、いかにも理想の皇帝化して、かなり美化されて書かれているという印象も強い。
また、そもそも、この『ヒストリア・アウグスタ』が真面目な歴史書として、執筆が始められた訳ではないらしい形跡もある事から考えても、この著者がウァレリアヌスを正当に評価しての、いかにも立派な皇帝であるかのような、その書き振りであるというよりも、やはり、こうする事で、何よりも、彼の息子のガリエヌスを貶めたいがために、その父親であるウァレリアヌスについての、こうしたかなり好意的でかつ大袈裟な記述に、繋がったのではないだろうか?
そしてウァレリアヌスのこういった描写が、これも典型的な暴君にされている息子ガリエヌスの、こちらは反対に、しばしば貶められている描写と対になっている印象も、拭いきれない。

 そもそも、この三世紀の軍人皇帝時代についての、同時代史料の大変な欠乏は、もはや衆知の事実であり、当然、この皇帝ウァレリアヌスに関した史料についても、この『ヒストリア・アウグスタ』の著者も、その章の執筆に当たり、当時何かと不足していた状況であった事も、容易に想像できる。本当にこの『ヒストリア・アウグスタ』の中で、ウァレリアヌスがしていたとされる、数々のその立派な言動が伝えられている史料も、本当に実在していたのか、かなり疑わしい。基本的に、ことごとくほめ称えられている、イリリア人軍人皇帝以外の皇帝達は、彼らと比べて、いくつかのケースを除き、フィリップス・アラブスやガリエヌスなど、扱いが悪い傾向に見られる。

 そしてイリリア人軍人皇帝以外の、例外的に良く書かれている軍人皇帝達の場合も、どこか必ず著者の、他の意図があって、そうしているだけではないか?というような疑いが、浮かび上がって来る。例えば、フィリップス・アラブスに対する、ゴルディアヌス三世、ガリエヌスに対する、ウァレリアヌス、といった感じに。これらいかにも無能な暴君とでもいうように描写されている、フィリップス・アラブスやガリエヌスに対し、ゴルディアヌス三世やウァレリアヌスら後者二人は、殊更その人格や教養や品行の良さなどが称讃されて、書かれているような印象を受ける。どうもこうした描写も、必ず著者の他の意図があって、そうしているだけではないかというような疑いが、浮かび上がってくる。

 また、暴君とされている、フィリップス・アラブスやガリエヌス、カリヌスなどの記述の調子と同じく、こうした皇帝達への称讃の内容も、いかにもステレオタイプという感じなのである。
著者はこうした対比的な描写をするのが、好きなようである。
本当にカリヌスの暴君振りを、これも饒舌気味に次から次へと列挙しているくだりでも、ガリエヌスについての類似の記述内容から、ほんのわずかに変えているだけで、後の大半の部分は、ほとんど使い回しているといってよい。まるで暴君の記述など、どれも同じ調子の記述で、事足りると言わんばかりである。この著者にとっての暴君とは、途方もない浪費家で、またやたらとバラの花びらを振りまいたり、やたらと果物を好んだりと、食べ物に執着したり、俳優や娼婦を傍らに侍らせていたり、性的にだらしがない事になっているようである。
要するに、その皇帝達の素晴らしさの描写も、愚行の描写も、いずれも大変に紋切り型なのである。

 また、この点については、既に指摘している事だが、再びここでも浮上してくるのが、果たして、三世紀の軍人皇帝達の内、単独の伝記が載っていない、デキウス、ガルス、アエミリアヌスらの伝記は、本当に単なる史料上の欠損であるのか?という問題である。
彼らは軍人皇帝時代の中でも、特に一年から二年と、いずれも大変短命な統治期間に終わった皇帝達ばかりであり、そしてこうした統治期間の短さが、そのままこの著者の、彼らの存在への軽視へと繋がり、例え多数の創作を交えてさえ、わざわざ独立した一章を割く必要性さえも、感じさせなかったという可能性は、果たしてなかったのであろうか?

 更にこの問題と関連して思い出させられるのが、この『ヒストリア・アウグスタ』が、その記述内容や傾向に関して、コンスタンティヌス朝の皇帝達の時代の、少なからぬ影響を受けている形跡が、しばしば見られるという点である。
そして確かにその統治期間の長さでは、コンスタンティヌス一世の子供達世代である、統治期間三年のコンスタンティヌス二世、統治期間四年のコンスタンティウス二世、そしてこれは統治期間三年であるユリアヌスを除き、その在位期間の短さが目立つ、三世紀の軍人皇帝達よりも、圧倒的にその長さを誇れるような、皇帝達ばかりである。

 その上更に私のこの疑問に続く、新たな疑問となっている事であるが、この『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、このウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治時代についても、記述の中で一切、触れていない事自体も、何か不自然さを感じさせる。
私はこれも、単なる史料の欠如という理由だけでは、どうにも説明が付かないように思う。それこそ、史料の有無など関係ない、荒唐無稽な創作の数々は、この著者お得意であるはずなのに、なぜかそうした創作という形でさえも、このウァレリアヌスらの共同統治時代については、このように一切記述していないのが、気にかかるのである。
また、更にこの私の疑問を強めるものとしては、わざわざ、ガリエヌスについての章で、以下の「ウァレリアヌスが捕らえられた後<ガリエヌスの伝記は、彼の人生が転落したこの災いから始めるのが適当であろう>、国家は動揺した。」

 ガリエヌスのような無能な皇帝は、彼の人生が転落した時から始めるのが適当であるなどと、このように、ウァレリアヌス父子の共同統治時代は抜かして、突然ウァレリアヌス捕囚後の、ガリエヌスの単独統治の記述に入る事について、わざわざ読者達の理解を、得ようとしているかのような書き方をしている事である。
私が思うに、これはおそらく、例えそれが純然たる創作上の都合であろうとも、あくまでこの『ヒストリア・アウグスタ』の中では、ウァレリアヌスは単独の彼の伝記の中でのみ、立派な皇帝であってもらわなくてはならず、息子との共同統治時代の記述をしてしまうと、著者なりの記述内容のバランスが取れなくて、都合が悪かったからではないのか?

 共同統治時代の父親のウァレリアヌスの方は賢く描いて、ひたすら、ガリエヌスについては、その愚行を羅列する事により、そうしたやり方をする事によってでも、優れた皇帝の父ウァレリアヌ、無能な息子の皇帝ガリエヌスという対比的な描き方をする事も、十分可能であると思うのだが。これはやはり、最初から皇帝ガリエヌスというと、その見るべき所、評価すべき所の一切ない、堕落していると思われる治世の様子ばかりを、ただただ描く事により、何よりもこの息子のガリエヌスの方を、徹底的に貶めるという意図の方が、強かったからではないだろうか?

 そしてこれと関連して、他にも私が気になる点としては、また、この『ヒストリア・アウグスタ』だけではなく、他のいずれの同時代の歴史書も、彼らの共同統治時代については、ほぼ沈黙している様子なのも、この時代の歴史書の大きな特徴である。
やはり、これはこれら四世紀の各歴史書の共通史料になっていると考えられている『エンマン皇帝史』が、そういう記述傾向であったからなのではないのか? 

 そして『ヒストリア・アウグスタ』の、上記のような、ガリエヌスと上記の各人物達について見られる、相当不公平さを感じる、この対比的な記述傾向については、私も「第五章 ウァレリアヌスのペルシャ遠征と捕囚」でも初めて言及しているし、更に他にも「第十四章 パルミラでの政変と僭称女王ゼノビアの「パルミラ分離帝国」の出現による、更なる帝国東方属州統治の困難」の章でも、詳しく述べている。更にこれは、『ヒストリア・アウグスタ』の中でのフィリップス・アラブスの扱いについて、豊田浩志氏も『キリスト教の興隆とローマ帝国』の「第三章 キリスト教皇帝フィリップス=アラプス」の中で指摘しているように、彼の対外勝利が、これも不当に無視されている事への指摘。そして反対にプロブスの、小アジアのイサウリア族やエジプトのブレンミアエ族との実際の戦争の指揮については、彼自身は行なっていなかったようであるらしいのに、この『ヒストリア・アウグスタ』の中では、さも、軍隊総司令官である彼自身の、その目覚しい指揮振りで、二つの戦争を共に勝利に導いたかのように、過大評価して書かれ過ぎていたりなど。

 やはり、こうした、明らかに史実と異なるこれらの記述傾向は、各皇帝達の軍事行動についても、正確に記述されていないという事を指しているのだろう。
また、このプロブスについては、その軍功についての、こうした水増し表現だけではなく、イリリア人軍人皇帝には、大変好意的な『ヒストリア・アウグスタ』のその傾向の例に洩れず、性格もさも真面目で善良で、そして人望もある人物であるかのように描かれているが。
しかし、同様の感じで、先帝ウァレリアヌスの息子であり、現皇帝のガリエヌスを殺害して帝位に就いている人物でありながら、真面目だの、稀有な純粋さだの、大変に称讃されて書かれ、アウレリアヌス同様に「神君」とまで奉られている、クラウディウエンス・ゴティクスだが。
だが、むしろ史実上から受ける彼の印象としては、そのアクの強さ、その大変強い上昇志向など、むしろこの時代を代表する、イリリア人軍人皇帝の一人と言ってよく『ヒストリア・アウグスタ』が褒め称えている彼の姿は、実像とは甚だしく、異なっていると言わざるを得ないのは、明らかである。

 更に、このプロブスについても、これまでも数多く目撃される、素人の目にも明らかな、もう、それこそ各人物達についての人格や軍功などについての大袈裟な脚色・捏造は当たり前という、その大変な偏向振り、不公平な描写傾向から考えてみても、果たしてこのプロブスについての、その人格描写についても、クラウディウス・ゴティクスなどのそれと同様、どこまで信用できるのか、相当疑わしい部分があると思うのだが。
更に、ブレイもこのプロブスについては、他の騎兵隊将軍達とは違い、彼だけは潔白だったとは限らないとしている。また、例え、実際にプロブスだけは、ガリエヌス殺害に関与していなかったにしても、皇帝殺害計画が着々と進められていく事を、黙認していたのは、まちがいないだろう。基本的には、皇帝ガリエヌスを除かなくてはだめだという、他のイリリア人騎兵隊将軍達と気持ちを同じくしていたと考えてよいだろう。

 そして例え計画の実行にまでは加わらずとも、彼らのガリエヌス暗殺計画に同意した背景には、彼のその純粋に国を憂える気持ち、もしくは彼の故郷を憂える気持ちだけがあったのか?というと、他のイリリア人騎兵隊将軍達同様に、大いに疑わしい。
プロブスがガリエヌス殺害計画の事は知っていながらも、彼が皇帝ガリエヌスの事を、積極的に救おうとまでもしていないのは事実である。
また、ローマの名門元老院階級身であるガリエヌスとは違い、自分と同じ階層である彼ら、元はたたき上げの軍人である将軍達が、次々と帝位に就くという事は、軍事能力にさえ優れていれば、自分にもその機会が与えられる可能性が、大いにあるという事である。
客観的に見れば、皇帝ガリエヌスの死は、明らかにこのプロブスにとっても、都合が良い事なのである。そしてこのプロブスも、自身の軍事能力についての自負は、十分に持っていたと思われるし。彼についても、現在の所、ガリエヌス殺害について、彼にとって不利になる証拠が、見つかっていないだけなのかもしれないし。
 やはり、このプロブスについても、その実像は不明とした方がいいのではないか。

 そして続いて、上記のように、クラウディウス・ゴティクスやプロブスなどのように、いかにも白々しい感じの人格者達に、祭り上げられている様子もなく、一見、もしかしたらこれは実像に近いのではないか?とも思わせるような、近寄りがたく、厳格な軍人皇帝といった感じの、アウレリアヌスの描かれ方についてであるが。
しかしこうした彼の姿とて、あるいは『ヒストリア・アウグスタ』の著者にとっての、一種の理想の一つであったのかもしれない。ストイックで厳格で有能な、軍人皇帝という。

 もしかしたら、このアウレリアヌスも、意外にだらしない所などがあったのかもしれないのに、単にそうした文献が残っていないだけとか、あるいは『ヒストリア・アウグスタ』の中で書かれていないだけなのかもしれない。信用に値するような、その実像についての史料が残っていないという点では、このアウレリアヌスも、この三世紀の他の軍人皇帝達と同様であるし。
更にこれだけ、各人物の誇張や矮小化、あるいは人物によっては、その存在自体無視という、大変に偏った描き方は当たり前の『ヒストリア・アウグスタ』の事である。
果たしてそんな中で、このアウレリアヌスだけ、等身大に描かれているものかといえば、大いに怪しいだろう。

 そしてこうガイガーも指摘しているように、こうした一連の『ヒストリア・アウグスタ』の著者の不公平な記述傾向は、確かに特にこの皇帝ガリエヌスについて、顕著である。
 当時発行された、数々のゲルマン人への勝利を表している、コインの銘文からも明らかな、ガリエヌスのライン川及びドナウ川境界をゲルマン人から守るための軍事行動の功績も、この『ヒストリア・アウグスタ』では、一切無視されて書かれていないのも、特徴的である。
しかし実際にはガリエヌスは、二五五年から二五八年の間に、ゲルマン人の撃退に成功して「ゲルマニクス・マクシムス」の称号を五回獲得し、二五七年には「ダキクス・マクシムス」の称号まで授与されている。

 

 また、このように、数々のその内容の偏向振りが明らかな、『ヒストリア・アウグスタ』よりはマシであり、まだ信頼性が高いとされている、アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』であるが。しかし、これとて、あくまでもこの『ヒストリア・アウグスタ』と比べてという、相対的な比較によるものでしかない。
更にこのアウレリウス・ウィクトルも、結局四世紀の異教歴史家であり、ガイガーなどの研究者の指摘にも、同様のそれが見られるように、やはり、このウィクトルの、この皇帝ガリエヌスについての印象及び評価も、かなり良くないようである。
もっとも『ヒストリア・アウグスタ』が、全体的にその記述の公平性や記述の正確性、また著者の真面目な執筆姿勢など、諸々の点で問題があり過ぎて、ひど過ぎるのだとも言えるが。
そしてこのアウレリウス・ウィクトルという歴史家についての、説明である。

 このセクストゥス・アウレリウス・ウィクトルは、三二〇年代に、北アフリカで生誕。
成人後は官職に就いたが、詳細は伝わらず、三六一年にはイリリクム統官区で財政業務に当っていた官吏達の長となっていたらしい。そしてこの年で、彼の帝国官僚としての人生は、終わりを迎えた。同年の夏に、ウィクトルは、ガリアで皇帝を称し、従兄弟であるコンスタンティウス二世と対決するべく、当時東上しつつあった、ユリアヌスにシルミウムで拝謁する機会に恵まれる。更に彼により、属州パンノニア・セクンダの総督に抜擢されたからである。
これにより、同時に彼が元老院議員としての席を手に入れた事も意味する。そして以上の経過を伝える歴史家アンミアヌス・マルケリヌスによれば、ウィクトルはこの上更に、自分の青銅像を建てる名誉まで、与えられたという。
そしてこのウィクトルに対する破格とも言える待遇の背景には、彼がこの直前に書き終えていた『皇帝史』に対する評価があったと伝えられている。

 彼の思想は教養皇帝絶対主義とでも、言うべきものである。
当然、彼の歴史書の内容も、こうした彼の思想が色濃く反映され、なおかつそうした自分の主張の正しさを訴えようとする種類のものであり、歴史書としての記述の正確さは二の次になっているようである。そして結局はこのウィクトルの『皇帝史』も、内容には誤りも多い上に『ヒストリア・アウグスタ』同様に、その歴史書としての評価は、けして高くはない。
更に、このアウレリウス・ウィクトルの歴史書『皇帝史』についての、ガイガーによる、以下の特徴の指摘である。

 セクストゥス・アウレリウス・ウィクトル。
360/1年にアウレリウス・ウィクトルは、彼の著作『de caesaribus 皇帝史』を完成させた。
それにおいて、アウグストゥスからコンスタンティウス二世までの、ローマの支配者の四十二章の伝記の描写をそれは、提供する。その内の三十三章は、ガリエヌスの統治についての詳述に、費やされている。その著作はタキトゥスとスエトニウスの伝統に立ち、時々説教好きな脱線を通して、軍人皇帝時代について叙述する。

 その時に、その特徴が現れている。その内容から、帝国の第一人者と起こっている軍隊の変化及び外交政策問題に、ほとんど理解がない著者であるという事が。
これらへの関心は、ウィクトルとのその地方の国内政策、行政と司法の方に、より強い関心と比べると、より劣っている。これらは著者の、定番である。
そして彼は公然とは、表明はしない。しかし、明らかに彼は異教徒の皇帝を好んでいる。
そのため、キリスト教に関しては、少しの言葉でも、一切言及はされない。
更に依然として、元老院が大きな役割を演じるべきだという、伝統的な元老院主義者。
そしてアウレリウス・ウィクトルは、批判的に元老院の経過を見るが。
しかし、元老院は依然として、帝国のその連続性の保証人であり、彼の軽蔑は、時々厳しいアナウンスをする。

 ウィクトルから見たローマ帝国は、マクシミヌス・トラクスからガリエヌスで、より悪いものの分岐点の発見とそしてその否定的な頂点を迎える。
優れた性格は、特にウィクトルの視点からは、支配者にとっては重要である。高い個人の道徳。元老院の名誉。努力。形成と文化。
そして良き国家の機能と正義の無効。また更に軍隊の役割についての、ウィクトルの全ての否定で、三世紀の軍隊が強く非難されているように、彼は最も高い位置から、耕作されていない、この田舎者達を見上げる。

 そして現代の研究においては、彼の著作の意味は、違う点から評価される。それは、非常に否定的な始まりに見られる、ガリエヌスの治世。
その明確に、その執筆における『エンマン皇帝史』の利用の暗示。
そしてその説明は、それを通して、目立って長くなる。
しかしより肯定的な、ガリエヌスのための情報を、伝える事も含まれる。
ガリエヌスのエネルギー、そして、予想外の軍隊の台頭が起こって著者を驚かせる。

 しかし、ウィクトルも主張する、ガリエヌスのその怠惰の間に、破壊される帝国の各属州、そして、ペルシャ人。それを通して、ますます勢いづく、ゴート族とフランク族。
まさに刻々と、崩壊へと向かっているかのような帝国の様子。
帝国で起こっている問題の上に、積み重ねられる、それらの論調は、また、二九七年のコンスタンティウス一世のための、『ラテン頌詞』の賛辞中の描写を、思い出させる。
そして明らかにこうした、その内容に、間接的な皇帝ガリエヌスについての批判を含む、叙述のその調子から『エンマン皇帝史』の内容が、反映されている事。

 またおそらく、皇帝ユリアヌスの、同様のそのガリエヌスについての否定的なイメージについては、この既知のアウレリウス・ウィクトルとそれを共有している。
そしてアウレリウス・ウィクトルの述べる、信憑性に疑いが持たれている、ガリエヌスの怠惰、そしてこれも批判的に捉えている、元老院議員を帝国の軍職から排除したとされる、その「ガリエヌス勅令」。

 しかし、ガリエヌスについてのこの彼の描写が厳しい理由は、確かにアウレリウス・ウィクトルの、その理解できる、ある努力においてでもある。
伝達される後継者のクラウディウスと皇帝ガリエヌス殺害の計画者、それは、ポジティブな色で仕事の写しの時間に普及している、コンスタンティヌス王朝と徹底的なガリエヌスの矮小化のために、彼のこの殺人者への釈明をも表現するために到着する。
そのためにも語られる。そしてその殺害計画者は、名前を挙げられる。
けしてクラウディウスの単独計画ではなく、共同での責任があるかのように、クラウディウスを示す事。

 これらは、ウィクトルの著作、そして『エンマン皇帝史』と未知の一つの伝承から取り上げられている。ウァレリアヌスの統治の始まりとその終わり、そしてガリエヌスの統治の始まりとその終わり。ガリエヌスのその単独統治の間の出来事で、ライン川のゲルマン人との戦い、並びにインゲヌウスとレガリアヌスとのそれについて語る。
そしてポストゥムス並びにアウレオルスの簒奪と二六八年のメディオラヌムの包囲を得る。
バルカン諸国での、ゲルマン人との戦い。そして他方、ガリエヌスの暗殺は、詳細に描写される。ガリエヌスの名ばかりの神格化と軍事ヘの元老院議員の除外への言及が。

 続いては、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』についてである。
いわゆる「libelluset de vita et moribus imperatorum breviatus ex libris sexti aurelii、皇帝達の法案と行動要約 著者 セクストゥス・アウレリウス・ウィクトル 皇帝アウグストゥスからテオドシウスまで」。非常に短い皇帝達の伝記。 それは、今日、こう呼ばれている『皇帝要略』。一般により適切な呼び名として「伝アウレリウス・ウィクトル」が使われる。この見聞の広い作品は、アウグストゥスからの時代から、テオドシウスの時代の三九五年まで、かろうじて全四十八章で、それらを取り扱う。この伝記作者の関心の、その文化的なものへの偏向と同時に、効果的に支配者と軍隊について記述する。そしてぼんやりとではあるが、窺える、元老院議員と元老院へと示される親しみ。皇帝の出自と彼らの最後は、描写される。

 また、長年の帝国統治と皇帝の交替については、定期的に知らされる。
しかし、ほとんど帝国統治についての、その詳細な図を作らない。
そして著者は、ウァレリアヌスについて、非常に批判的に見られる。
アウレリウス・ウィクトルのそれよりは、中立的に描写されているようにも見える、ガリエヌス。この匿名の著者は、また、同程度に、小ウァレリアヌスとサロニヌスについて知っていて、簒奪者にアエミリアヌスという名前を付けている。メディオラヌムでの、ウァレンス並びにアウレオルスによる、ガリエヌスの暗殺。

 マララス。ガリエヌス死後から五十年後の人物。
それが、皇帝がマルコマンニ族に、パンノニアの領土の一部を割譲し、そこへの彼らの定住を認めた事についての記述、そして早くもウァレリアヌスとガリエヌスの時代の対比的な描写。
またこの支配者の下のヘレニズム文化の意味について、この著者は知っていた。
そしてそのテンプレート的な表現。そして、主にラテン語史料はそうである。『エンマン皇帝史』。アウレリウス・ウィクトル。エウトロピウス並びに、更に未知の史料。
この著者は、明らかに文字通り引用している。しかし、その判断においては、しばしば、ギリシャの伝承に従っている事。ギリシャの史料の影響。著者デクシッポスの史料の脚色。
そして、明らかに皇帝グラティアヌスの時代までの史料。
事実、予想される。それは、しばしば大ニコマクス・フラウィアヌスの『年代記』をこの史料として見る。

 また、上記のガイガーの、このアウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』という歴史書についての特徴の中でも言及されている、アウレリウス・ウィクトルの基本的な政治・外交問題についての無理解・無関心傾向については、私も既に述べており、ここで改めて指摘したいが。
やはり、このような傾向のあるウィクトルが、ガリエヌスが行なった、キリスト教迫害停止や軍制改革の意義も、正確に理解及び評価していたとも、思えない。
また彼の信条である、その強い皇帝教養主義や、更にまた彼自身も元老院議員である点から考えても、騎士階級の軍人達を優遇し、ガリエヌスの一連の反元老院主義的政策も、良くは思っていなかった事だろう。

 そしてこのように、これら各歴史書の、政治や軍事などの、いわば帝国や皇帝の公的な面においての記述ですら、それ程信頼性が高くはないのであるから、当然皇帝の私的な部分、特に夫婦関係などについての記述の信憑性は、尚更怪しくなると言わざるを得ないだろう。
そしてまたやはり、顕著なその記述内容の類似性から、やはりこれも』エンマン皇帝史』という、共通史料を用いて執筆され、これもその違いはその内容の脚色度合いくらいではないか?とされている、伝アウレリウス・ウィクトルの『皇帝史略』についても、同様だろう。また、その史料源として想定されているものの一つは、これもかなり評判が悪く、その信頼性にかなり疑問符が付けられている『エンマン皇帝史』であるし。

 更にこうした傾向を持つウィクトルからしてみたら、ギリシャ古典などのギリシャ文化に精通していた、この皇帝ユリアヌスは、まさしく彼の理想に、合致する皇帝であったのだろう。
しかし、彼と同様にギリシャ文化を愛好し、また当代の著名な哲学者プロティノスと親しく交わり、当時としてはかなり教養のある皇帝だったと言っていい、ガリエヌスについては、しかし特に肯定的な記述がないようである気配から考えても、これは既に述べている事だが、このガリエヌスの方については、ユリアヌスと同じような教養ある皇帝としては、見なされなかったのだろう。

 またこの点については、こうしてガイガーも同様に指摘しているし、私も十分予想される事だが、ユリアヌスはガリエヌスに否定的なイメージを抱いているという点でも、このアウレリウス・ウィクトルに、彼のその教養皇帝主義・この異教皇帝への好感の他にも、かなり共感の感情を抱いていたのではないだろうか?そして更にこのガイガーの指摘によると、公式にもギリシャ語を使っていたユリアヌスは、自らも「皇帝たち」の中で女の衣装を纏った兵士として風刺している、ガリエヌスのイメージについては、元老院のラテン語歴史書『エンマン皇帝史』とアウレリウス・ウィクトルに影響を受けているという。
また、このユリアヌスによる「女々しさ」としての、ガリエヌスの特徴描写は、彼が皇后サロニナのために、ガリエヌスが彼女専用の「アウグスタ硬貨鋳造所」を創設したという、その信憑性には不明な所がある伝承の、おそらく、これも『エンマン皇帝史』の中の伝承から、ユリアヌスが見つけ、自分の「皇帝たち」の中にも挿入したと思われる、この逸話からも来ているようだ。
やはり、彼のイメージの中での、皇帝ガリエヌスというのは、軟弱なギリシャ文化好き、女装好きの女々しい男で、なおかつ妻に頭が上がらない、恐妻家の情けない男としてのそれだろう。

 それから、このガリエヌスが、その皇帝という身分に相応しくなく、居酒屋にたむろしていたというような、上記のアウレリウス・ウィクトルの記述に見られる、この「居酒屋」という言葉は、ガリエヌスが夜な夜な居酒屋をうろつき、ポン引きや黙劇役者や俳優たちともに時を過ごしたというように、『ヒストリア・アウグスタ』中にも、これと類似の記述が発見される。
おそらくこれらのこの事から、更にこの著者も、上記のガリエヌスのサロニナとピパへの過度な愛情について批判している、アウレリウス・ウィクトルと伝ウィクトルの類似記述内容と同じく、おそらく、『エンマン皇帝史』辺りではないかと想像される、共通史料を使って書いている可能性が、高いと考えられる。

 おそらくこの『ヒストリア・アウグスタ』の、このガリエヌスについての一連の記述は、上記のアウレリウス・ウィクトルの、ガリエヌスの居酒屋への出没という逸話に、更に脚色を加えたものだろう。そしてこの辺りが『ヒストリア・アウグスタ』の、代表的な批判的歴史家ドリンクウォーターから、この『ヒストリア・アウグスタ』は、アウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスを想像力で膨らましたものに過ぎず、たいていの場合は無視すべきである」と言われてしまうゆえんなのだろう。また、あるいはレイスナーの同様の『ヒストリア・アウグスタ』については、「後者は全ラテン文学中、あらゆる点で最も軽侮すべき駄作である」という批判にも、繋がっているのだろう。

 それからこの傾向はブレイやガイガーなどの研究者達も指摘している事だが、どうも『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、ガリエヌスについて語る時、彼を女よりも劣る男として、しばしば描写したいようである。確かに、この『ヒストリア・アウグスタ』の中でのガリエヌスについての記述には、「女々しい」というような表現及び批判は、頻繁に出てくる。また、男勝りのオダエナトゥスの妻ゼノビアについての、その過剰気味の称讃の中でも、この「女々しいガリエヌス」という表現との対比として、殊更彼女の勇ましさを強調している傾向である。

 例えば、このような、ゼノビアについての一連の表現である。
「妻であったゼノビアは、生き残った息子ヘレンニアヌスとティモラウスが幼かったので、自ら帝権を取って、女々しくもなく、女らしいやり方でもなく、長い期間、人々を支配した。実際、彼女はガリエヌスはもちろん―小娘でもガリエヌスよりもより良く統治できたであろう―、その他の多くの皇帝たちよりもより勇敢に、巧みに統治したのであった。」・「一方、ガリエヌスは、オダエナトゥスが殺されたのを知ると、遅蒔きながら父親の復讐のためにペルシアとの戦争を準備し、将軍のヘラクリアヌスを通じて兵士を徴発し、皇帝としての仕事を立派に果たそうとした。しかし、ペルシア人に向かって出発したヘラクリアヌスは、パルミラ人に打ち破られ、用意したすべての兵を失ってしまった。この時、ゼノビアはパルミラ人や多くの東方の人々を男のように指揮していたのであった。」(しかしガリエヌスの単独統治中には、ついにローマ軍にペルシャ遠征をさせてはおらず、このような事実は、なかったと思われる。)

 このような一連のゼノビアについての表現も、ゼノビアは女ながらも、男のくせに全く男らしくないガリエヌスよりも、よほど男らしいとでも、言いたげである。
言わば「女々しいガリエヌス」に対する「雄々しいゼノビア」とでも言うべきだろう。
ガリエヌスについての批判と、ゼノビアに対する称讃とも取れる、これら数々の記述は、常に一対なのである。またゼノビアについての最初の方の記述の箇所に見られる「小娘でもガリエヌスよりもより良く統治できたであろう」というのも、ローマ帝国皇帝に対して使うには、最大限の侮蔑的表現であると言える。そして更にブレイも『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、おそらくガリエヌスへの侮蔑を表わすために、実際には僭称「女王」であり、僭称皇帝ではない、この女性のゼノビアを、敢えて「三〇人の僭称帝たちの生涯」の列伝の中に、入れたのだろうという指摘をしている。

 確かに彼女のために、わざわざ一章までもを割かずとも、夫のオダエナトゥスの章に、そのままその後日譚のような感じで、約七年間の、彼の妻のゼノビアの一連の、帝国に対する反乱行動も、含めてもいいような気がする。また更にこうして、実際には女性の反乱者であるゼノビアまで、おそらくガリエヌスを貶める事を第一の目的として、こうして他の男性の僭称皇帝達と同列にして、列伝の中に加えている。『ヒストリア・アウグスタ』の中で、このゼノビアについて、わざわざ一章を割いてまで、その記述の真偽の程度は、はなはだ不明ながらも、それなりに詳細に書かれているのは、おそらく当時の大勢の僭称皇帝達に混じり、同様に反乱を起こした、唯一人の女という、物珍しさからというのも、あるのかもしれないが。

 そしてこれもローマ帝国に敵対していた反乱者の一人である、この彼女ですらも、創作までも交え、いろいろと持ち上げるような事さえしてまで、ここまで著者がガリエヌスを、さんざんにこき下ろして、書いている理由についてであるが。
こうした『ヒストリア・アウグスタ』の、ガリエヌスについての酷評には、ガリエヌスの軍制改革により、元老院議員達を軍隊の要職から外させた事も、いろいろと間接的に影響を与えているのかもしれないが。

 しかし他にも、結果として、これも当時の彼としては苦渋の選択ではあろうが、帝国内外の厳しい諸情勢から、とうとうペルシャに捕らわれた父ウァレリアヌス救出のための、ペルシャ遠征を行なわなかった事。そしてやはりまた、何よりもこれが大きいのでは?と考えられる、結果的に、帝国三分割を許してしまう事となった事。また、このような当時の厳しく複雑な情勢から、ガリエヌスの取った、実際には現実的で適切であったと思われる各対応が、ともすれば、彼以降の皇帝アウレリアヌスなどの鮮烈な印象を与える、一連の軍人皇帝達の戦功の中にあっては、一見煮え切らないような印象を与えがちである事が、大きく関係しているのだろう。

 しかし、何よりも注目すべき点として、彼より約百年程の、ローマ皇帝ユリアヌスの、ガリエヌスについての批判でも、その形跡が垣間見られるように、いわばガリエヌスにとっては、アウレリアヌスやクラウディウス・ゴティクスなどの、自分を暗殺する敵対者達のイリリア人皇帝達に、帝国の権力が渡ってしまう事となった。更にこの中からの、有名な専制君主コンスタンティヌス一世の登場により、彼におもねる異教歴史家達により、この皇帝神格化のために、いわば彼らイリリア人皇帝達とは敵対する立場であった、前任者皇帝ガリエヌスのこのような様々な酷評にと、繋がった部分が大きいのだろう。

 なおガリエヌスが『ヒストリア・アウグスタ』の中で「女々しい」と断じられ、しばしばこの点について非難されている理由については、既に私も指摘しているように、帝国三分割、そしてこれも心ならずもであろうが、ペルシャに捉えられた父ウァレリアヌスを救出しなかった事。
更におそらく、それまでのローマの歴史書の中にもよく見られる、女々しい暴君の姿を、そのままガリエヌスにも、元々全体的に、彼に対して大変に不公平で、偏見が強いようである、この著者の固定観念として当てはめ、そのままガリエヌスを批判している傾向が強いようである事。

 また、上記のように、そのいくつもの形跡については指摘してきたように、何よりも、度重なる蛮族達の完全な撃退に成功し、帝国を危機から救い出した、まさに雄々しく勇敢なコンスタンティヌス朝の皇帝達と、大々的にアピールしたい、コンスタンティウスなどの皇帝達自身。
そして異教歴史家、教会著述家達が一体となった結果の、この皇帝ガリエヌスについて語られる時の恒例の形容詞である「女々しさ」という表現に代表される、数々の大変に否定的な皇帝ガリエヌス像は、これら彼とは敵対的な立場の人物達による、プロパガンダの結果の産物だろう。

 そしてこのように、私がこうした『ヒストリア・アウグスタ』の著者の、ガリエヌスについての、その「女々しさ」などについての批判の信憑性に、かなり疑問を抱いている事は既に述べた。そしてこういった、いくつか考えられる理由の他にも、ブレイによると他にも彼が女々しいと、この著者に断定されるような理由が、あったのではないか?としている。
その理由とは、際立って新しく数多くの女神のコイン、もしくは女神のデザインを部分的に取り入れた、新たなデザインのコインを発行させている点である。
また、同様の見解はガイガーも示しており、その詳しい内容については、詳しくは第十三章で述べたい。そして更に彼はその理由として、彼の単独統治時代に発行したコインには、他の皇帝達の時と比べて、大変に女神を彫らせたコインが多くなっており、こうした事も、そうした批判に繋がったのではないのか?と推測している。

 この点については、更にこの今後の章で詳しく触れるが、確かに彼の単独統治時代に数々見られるコインは、他の皇帝の時代と比べて、目に見えて女神達のコインが多くなっているなど、明らかに彼の時代に、多くの神々を用いた、新たな形式のコインが、数多く発行され
とにかく何でも、このローマ皇帝ガリエヌスについて、女々しいと批判する事、そうさせた、おそらく何かが、彼と女性との比較を引き起こした、ガリエヌスの外観と動作についてあったという、何らかの証拠を持つ。女性与格(またはよりおそらくでなく、属格。)の、皇帝の名前によるコインの注目に値するシリーズである。このアウレウス金貨のシリーズは、ローマ帝国コインとして発行された。裏面の上に、皇帝の上部はある。通常通り髭のある。
そして普通の冠または月桂樹の花輪の代わりに、彼が当初葦の頂部のために採られた何かを着る事、持ってはいない、葉と茎のコーンの穂としてのそれは、アルフェルディと他の研究者達によって確認される。

 髪の結い方は、女性の特徴を持つように、その調査の結果、見える。
そして裏面は、伝承を伝える。Gallienae Augustae。しばしば裏面の疾走する二輪戦車で「遍く平和」と勝利をもたらす。そして度々の「皇帝の勝利」が、いろいろな特質で示される。
また時々、ガリエヌスは普通の軍の衣服を着て同様に、裏面に現れる。
類似した頭飾りと髪型で、しかし、男性主格の彼の名前で、皇帝を示している他のコインがある。Gallienus Augustus。アルフェルディも指摘する点。いくつかが同じ特徴で、システィアのコインから作る都市。 この頭飾りについての正確な解釈のために、これらのコインは、学者達を当惑させた。そして、ブレイは女神のその髪の結い方と頭飾りの識別を疑う、どんな理由でもわからないと指摘している。要するに、これはこうしてガリエヌスが、女神を模した姿であると言う。我々が使うならば、デメテルかペルセポネ。私が考える、より適切である。

 ギリシャの命名法。または、我々がラテン語を使うならば、ケレスまたはプロセルピナ。
ターイガーの異議にもかかわらず。私がエレウシスの秘儀に、コインをガリエヌスの開始と繋ぐ事を不安定に考える。私が彼の宗教的な意見に来る時、私は更に詳細に後でこれに言及する。
女神デメテルまたは彼女の実際の神の出現を持つ、崇拝者のある種の結合さえ、式典の最高潮の瞬間だった。ガリエヌスは、ある種の協会を、提案するつもりだったかもしれない。
または大いなる母との、同一視さえ。デメテル。有効性と恩恵の源。

 ブレイはこのように、ガリエヌスのその特徴的な女神のコインについて述べた後、更に象徴性の若干の種または王座の周囲で、畏怖と献身を集中させる神話の、必死の調査において、彼が自分自身を代表するというアイデアを、思いついたかもしれないと更に思うとしている。
エネルギーの男性の神の原則だけでない事として。ソルを好む。または、男性の神聖な救世主ヘラクレスでありたいと思う。またはアウグストゥスのような、政府の再創設者。
しかし、女神の豊かさを運ぶ人としても。豊穣と平和。

 そして既にガリエヌスの、こうした推測される、様々なその意図は、ガイガーなどの研究者達も認めている。また実際にガリエヌスが、アウグストゥスの黄金時代の再来をもたらす皇帝として、自分の存在を帝国内に強くアピールする意図があり、アウグストゥスを偉大な前任者の皇帝として意識していた事は、ガリエヌスのある時期の肖像に、彼と共通した様式が見られる事や、これも明らかにアウグストゥスの存在を強く意識した内容のコインも、発行させている事からも、明らかである。そして、更に続く、ガリエヌスと彼の女神を模したコインとの関わりについての指摘である。

「女性の髪の結い方をした、お馴染みの男性の髭の表面の辺り、そして、女性の名前。しかし、この実験は、人気がなかったようである。このシリーズは彼がミラノのコインから、それを発行するために、首都ローマを越えて、延長されないままだった。新しい機動軍と騎兵隊部隊の本部など。小麦-耳頭飾りのあるコインのシリーズとコレーの髪の結い方。または彼らの変種。
しかし、あくまでも男性主格の皇帝の名前で興味深い。
それは通常の帝国のコインの皇帝の頭部と伝承の間の、一種の中間のように見える、そして、全部のgallienae augustaeコインは中間の多様性に先行した。
そして、ローゼンバッハとターイガーも、そうする。皇帝の女神との同一化が、様々な方法で行なわれたというのは本当である。これはアルフェルディも、指摘している点として。
カリグラまたはネロ、そしてコンモドゥスにも見られる。
しかし、更にド・ブロワは、ガリエヌスがはっきりとした目的のために、帝国のコインを利用した、ただ一人の皇帝であったと、正確に強調している。
またローゼンバッハは、ガリエヌスが他の女神と、行動を共にしたと思う。
特に、彼は女神の特徴が、彼のものに似ていると言われている、ミネルウァのカメオを参照する。おそらくあご髭なしで。もしそうならば。
女神をガリエヌスのように見えさせる事は、まだ、ガリエヌスを女神のように見えさせる事とは、非常に異なるものである。女性の主義を持つ自分自身の、そのこのような一般の識別。」

 また、これはこのようにド・ブロワやブレイやガイガーなども、指摘しているように、彼がこういった女神のコインを、多く発行させるようになった理由としては、これら女神達が象徴する、豊かさや平和などのプラスのイメージを、帝国内に広くアピールする事を、目的としたものだったと思う。実際には、けして彼のその女々しさを、表わすものでは、なかったと思われる。
むしろ、実際には、ガリエヌスが行なったキリスト教対策や軍制改革などと並ぶ、当時ローマが直面していた、大きな難局克服のための、統治者としての、苦心の一つだったのではないかと思う。それに私は、これだけガリエヌスの単独統治時代に入ってからは、大幅に女神のコインを通して、これらのイメージが、頻繁にアピールされるようになったという事自体が、逆に当時の現実のローマを取り巻く、諸情勢の厳しさを、如実に物語るものでもあると思う。
だからこそ、かえってガリエヌスは、こうして女神達のコインを通して、平和や豊かさな
どのイメージを、頻繁に帝国内に向けて、アピールしなければならなかったのだろう。

 

そして改めて、ガイガーの、今度はこれらガリエヌスについて言及している、各歴史書全体の特徴についての指摘である。
「現代ではこの三世紀の軍人皇帝達について記している、その関連史料の大半は、既に失われているか、あるいはその断片だけが残されている状態である。
そして他の史料。特定の話題の章以外は、キリスト教徒と哲学者の文書。
皇帝ガリエヌスについては、それらの主題の傍らで、扱われているだけである。
ガリエヌスに関する最初の重要な歴史史料は、三六〇年頃から書かれた。
『ヒストリア・アウグスタ』・アウレリウス・ウィクトルの側に、その出来事に最も広範囲に。エウトロピウス。『伝アウレリウス・ウィクトル』。数人の関係者が、仮定される。
従属する、挙げられた史料の伝承がそうでなければならない、それらの ざっと四世紀の『エンマン皇帝史』。その時代から二世紀後の歴史家ニコマクス・フラウィアヌとビザンティン時代の史料の『 Leoquelle』と要略史料。 現代までの重要な史料の提供源であるデクシッポスは、ビザンティン時代の著者である。しかし、その他にもニコマクス・フラウィアヌスの著作も、利用された可能性。そしてこれらの各歴史書の執筆にも参考にされたと思われる、この『エンマン皇帝史』は、「ガリア分離帝国」の出現を、格好の口実とし、更に皇帝コンスタンティヌス一世の決定において、より否定的により多くの、ガリエヌスの統治していた同時代について、特別な表現を使い、そしてコンスタンティヌスの祖先として、ガリエヌスの暗殺者である、クラウディウス・ゴティクスに、関連付ける事。これらの理由による、否定的なガリエヌスのイメージの、喧伝の始まり。その間にこの『エンマン皇帝史』の内容は、後の時代の歴史家達のアウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスらにも影響を与えた。

 そしておそらく、フラウィアヌス・ニコマクスにも。『ヒストリア・アウグスタ』と『伝アウレリウス・ウィクトル』、ペトロス・パトリキオス/『無名氏ディオの継承者』も、影響されている。そしてこのペトロス・パトリキオスが『Leoquelle』を媒介にした可能性も、十分あり得る。ヨハネス・ゾナラス。 ゾシモス。そしてデクシッポス、あるいはサルデスのエウナピオスの歴史書に基づいて描かれる、その部分。明らかに肯定的なガリエヌスの伝承について、間接的にデクシッポスまたはキュメのエフォロスのようなギリシャ語史料が用いられた、ビザンティン時代の史料。

 このように、ガイガーによっても、これまで指摘されてきた、皇帝ガリエヌスとその治世について述べている、一連の各歴史書についての、以上の各特徴の指摘であるが。
やはり、これ程に、史実の各断片からでも、蛮族の襲撃の撃退や、簒奪者達の討伐に、奮戦した形跡が伝わってくる皇帝ガリエヌスが、こうまで各歴史書の中で否定的に書かれている理由については、やはり、ポストゥムスの「ガリア分離帝国」が、彼に対する格好の批判材料として使われた事。

 そしてこれも、既にこれまで見てきた限りでも、何かとその形跡が濃厚に感じられる、彼の敵であるイリリア人系軍人皇帝によって創設された王朝の、皇帝コンスタンティヌス一世が、自分達の王朝の正当性を強調するためのプロパガンダのために、数々の無能な暴君という、ガリエヌスの否定的なイメージ作りが、大々的に行なわれるようになっていったためだろう。そしてこのように、とにかく、この皇帝ガリエヌスについては、異教歴史家といい、教会著述家といい、ことごとく、彼が生きていた時代よりも後の四世紀の時代の、しかも敵対的な立場の人物達によってばかり、書かれているという事である。
そして更にそれぞれの歴史書が、密接に関連し合っているのである。

 いわば、ガリエヌスの敵対者であった、イリリア人系の皇帝達の創設した、コンスタンティヌスの時代の強い影響下にあった時代に、成立した歴史書ばかりなのである。
また、やはり、こうした背景も大いに関係し、皇帝コンスタンティウスやコンスタンティヌス一世の時代に入ってから、繰り返し、彼ら皇帝を称えるための、格好の引き立て役として、ガリエヌスは好色で残酷で無能な、悪名高い皇帝として、教会著述家や異教著述家達も一丸となった、大々的なプロパガンダに存分に利用されている形跡が、非常に明確に見られるという事である。
このため、実際のガリエヌスの姿を探る事が、大変に難しくなってしまっている。やはり、この『ヒストリア・アウグスタ』を中心として、文献史料の中で描かれる彼の姿については、信用のできない部分の方が多いと思われる。 更に、今回こうして『ヒストリア・アウグスタ』を中心とした、四世紀の歴史書の中での、皇帝ガリエヌスについての、誹謗中傷的記述の数々の真偽について考察しながら、私が改めて強く感じた事であるが。
ガリエヌスのギリシャ文化愛好といい、また他にもパントマイムなどの演劇を好んでいた事。そしてこのように、ガリエヌスがいかにして、帝国の直面している、数々の困難を乗り越えるかという事から、これもその一念から考案されたと思う、男神達を用いた新しいデザインのコインの他に、女神達を用いて新たなデザインのコインを発行させた事など、本当にこの『ヒストリア・アウグスタ』などの歴史書著者が、こうした彼にまつわる様々な事柄について、基本的に何でも否定的にしか、解釈しようとしない傾向である事も、よくわかる。

 しかし、そうした傾向は、その編纂までの経緯やその執筆の主目的なども大いに絡んで、この『ヒストリア・アウグスタ』が突出して、目立つ傾向であるだけであって、他の歴史書などの中でも、ガリエヌスについての、そうした傾向は似たようなものである。
そして基本的に、皇帝ガリエヌスについて言及している、一連の、四世紀またはそれ以降の歴史家達は、コンステンティヌス朝の皇帝達の、いわば、ほぼ御用歴史家と呼んでもいいような、歴史家達ばかりである。
また、しばしば、帝政になってからも、依然として共和制支持者であり続け、しばしば、自国ローマについての批判も行なっている事から、良心的知識人とも称される、歴史家タキトゥスや、形としては、ハドリアヌスの皇后サビーナとの親しい交流など、それなりに、皇帝やその関係者達の、身近に侍る立場であったとはいえ、やはり、共和制主義者であったと考えられ、皇帝達とある程度は距離を保っていた立場の、スエトニウスなどの歴史家とも違う。

 確かに、結果的にはその治世中に、ガリア方面やパルミラの離脱を、許してしまう事になったとはいえ、その精力的なガリエヌスの何回かは確実に成功している蛮族撃退や、これも、各地で相次いで発生した、簒奪者達の反乱の鎮圧の大半には成功している事。 
また何よりも、その治世のほとんど大半の部分を、外からは蛮族の襲撃に悩まされ、また内では相次ぐ簒奪者達の出現に悩まされ、その対応にほぼ休む間もなく、追われ続けるという、当時のガリエヌの大変な苦境には、全く目が向けられていない。
そして先程も言ったように、むしろ、客観的に見て見れば、ガリエヌスは簒奪者達の反乱の大半の鎮圧には、成功しているのである。
ただ、ガリア方面は、パリ、リヨン、アキテーヌ、シャンパーニュなど、現在のほぼフランス全土、またケルン、トリーアなどのいくつかのドイツの地方などを含み、このように、かなり含まれる範囲が広いため、どうしても、近・現代の研究者も含めて、この点について、ガリエヌスに対する見方が、厳しくなりがちなのであろうが。

 しかし、全体的な点で見て見れば、これも、ガリエヌスがその大変な努力により、帝国の領土損失を、何とかガリア方面とパルミラだけに留めたとは、考えられないだろうか?
だが、これら四世紀頃の歴史家達からは、専らこれらの点からばかり、まるでガリエヌスは完全な皇帝失格者でもあるかのように、それこそその皇帝としての姿や人間性や、ひいてはギリシャ文化や演劇の愛好などという、個人的嗜好の点に至るまで、何から何まで貶められて、批判されている。(それもことごとく、批判のための批判、中傷のための中傷を目的とした、おそらく虚偽の批判ばかりである。)

 こういった、ガリエヌスに対する、大変に厳しく冷淡で不公平な、彼らの記述傾向を見ていると、当時の歴史家達は、このガリエヌスについて皇帝として、それこそ、何か超人的な軍事能力でも、求めているように、思えてならないのだが。
事実上、このような、まさに混乱と危機の頂点にあった、多難な時期に、広大なローマ帝国を一人で統治しなければならなくなってしまった、ガリエヌスについて、彼らはそれこそ神がかり的な、問題解決能力(特にその軍事能力による)でも、要求しているのではないかと、考えざるを得ない。

 それは、確かに彼が圧倒的な軍事能力を備えていた皇帝であれば、もっとスムーズに解決できた問題も、数多かったとは思われるし、彼がそれを備えていなかった事が、蛮族などの外敵の襲撃については、守勢に回らざるを得なかった原因でもあろう。
だが、帝国の安全を保つ役割が求められるローマ皇帝といえど、歴代皇帝を見ていれば、必ずしも、傑出した軍事能力を備えてはいなかった皇帝達も、散見される。
しかし、そんな彼らも、他の様々な方法も合わせて、何とか帝国の平和を維持しているのである。

 そして、私もこのガリエヌスの自分のその軍事能力の不足を補い、他の形で帝国の平和を守ろうとした各方法について、これから詳しく述べていくつもりである。
既に第四章で述べた、ガリエヌスのキリスト教公認も、その一つであると思われるし。
そしてこうした、古代の歴史家達の偏見や一方的な断罪傾向は、様々な形で、現在の研究者や歴史家達のガリエヌス評価にも、受け継がれていると思われる。
十九世紀の研究者アルフェルディが、本格的にガリエヌスの復権の必要性を主張し始めて以来、そうした状態は、改善されてきているとは思うが。
また今後、この軍制改革については、後に詳しく述べていく事にするが、外敵達からの防戦一方を余儀なくされがちであったローマが、ついにアウレリアヌスの頃から、ついに反転攻勢に出始める事ができるようになったのも、元を辿れば、ウァレリアヌスやガリエヌスらが必死で進めていた、軍制改革、ローマ軍の構成の抜本的な再編成、という下地があったからこそだと考えられる。

 しかし、ついに、父のウァレリアヌス捕囚後には、更にガリエヌス自身によって進められたと思われる、これらの数々の軍制改革の意義も、ガリエヌスの時代以降のこれら歴史家達の中で誰一人として、それこそ、唯一、その歴史書の中で、この事について触れているウィクトルですら、正確な理解及び正当な評価を、ついに下す事ができないままだった。
また、こうした、ガリエヌス以降の軍人皇帝達が、蛮族達に対して、反撃に転ずる事ができるようになったのも、それまでにも、数々のローマ皇帝達を手こずらせている、東方の強敵であるササン朝ペルシャが、その頃から、ようやく弱体化してきたという、対外事情の変化も、忘れてはならないだろう。そしてこうした、ガリエヌスの同時代人ではない、多くの歴史家達が、時代が遠く隔だっているだけに、よけいに、当時ガリエヌスが置かれていた大変な苦境に対する客観的理解が、困難であるのも、容易に想像される。

 いわば、自分達の平和な時代しか、実際に知らないような、歴史家達ばかりなのである。ましてや、上記のような、コンスタンティヌス朝の政権下に生きていた人物達ばかりである。また、この点に関しては、コンスタンティヌス一世を、ひたすら偉大な皇帝、大帝と崇める、教会著述者達とて、同じようなものである。
私は、ガリエヌスについて、これまでの古代の歴史家達のように、専ら、その彼の単独統治時代の、ガリアとパルミラの領土損失ばかりの点からばかり、皇帝としての全体的な評価までをも下すのは、不当だと思われる。

第四章 コインや肖像などを用いた、様々なガリエヌスの皇帝としての、カリスマ性のプロパガンダ・演出

「敬虔さ」と「幸運」とは、ありふれたローマ帝国の、皇帝に対するほめ言葉である。
そして彼らのそれは、もはやほとんど公式称号の一部である。
ド・ブロワがガリエヌスとサロニナの事を「theophilestatos」と呼ぶ事によって、参照される碑文。多くの神々の、最愛の人。皇帝を守護者と世界の復興者として認める碑文である。これらは、彼らが強調したかったイメージの証拠である。けして彼ら自身の、個人的信条のためではない。

 しかし、それはそうである。二六二年のガリエヌスの即位十周年記念祭の時に、騎士のマルクス・アウレリウス・ウィクトルによって築かれた。エスクイリーナ門のアーチの碑文。
おそらく、ガリエヌスはこの言い回しについて相談された。
少なくとも、それが彼に不愉快でないと仮定するだけの正当な根拠が、きっとなければならなかった。ガリエヌスの凱旋門(ARCODI GALIENO)。
カルロ・ アルベルト通り(via Carlo Alberto)にそびえ立つのが、このガリエヌスの凱旋門である。元は三つあった門の一つで、セルウィウスの城壁のエスクイリーナ門を再建し直した物。現在はセルウィウスの城壁の一部と、凱旋門だけが残されている。
そしてブレイによると「このガリエヌスの即位記念十周年祭の時にローマで築かれた、ガリエヌスの凱旋門が、台無しにされたようには見えない、または、その銘文の抹消。
一体誰が、この記念碑とその建物の建設、そして碑文についての責任を負っていたのか?それは不可能である、それらの質問についての答え。」

 そして、彼はこのように言いつつも「もしサロニナが生き残るならば、きっと彼女がその事を理解して。この建物の保存のために融資し、それが破壊されないように、管理した。ガリエヌスの神格化の直接の確認が、碑文または他の著者の張り紙の形で現われないのは、不思議ではない。これまで見てきたように碑文。三世紀当時の、これらの枯渇と文献史料の嘆かわしい不足で、十分に気が付く。神格化は時代遅れになっていて、まもなく消えていく。」

 確かにもし、これが本当なら、この皇帝夫妻の感動的な話であるが、しかし少しこれは、ブレイの想像が、勝り過ぎているようにも思える。ガリエヌスの凱旋門が、その破壊と銘文抹消を免れたのは、偶然かもしれない。あるいは、たまたま、同時代の後の皇帝達が、そこまでさせる必要はないと思っただけなのかもしれない。
「最も慈悲深き皇帝ガリエヌスに。誰の征服された勇気が、彼の信仰心によって凌がれるか。そして、最も神聖な皇后サロニナに。アウレリウス・ウィクトル。騎士階級の男。」
ガリエヌスの信仰心についての言及は、そうである。そしておそらく何かこれ以外の、従来のそれぞれ皇帝と皇帝に適用される、最上級でできている事があり得た。
彼は「最も慈悲深い」である。彼女の神聖さについての賛辞。

 ローマ帝国皇帝にとって、コインは単なる交換の媒介物の以上だった。
それは、人々への宣伝の普及の媒体だった。ローマ帝国皇帝にとって、コインは単に物の交換の媒体物以上の、大変に重要な存在だった。それは、現代のポスターの代わりであった。そして新聞広告とテレビ出演の。それは、主にその時代のメッセージを運んだ。
そうする事ができなかった人々への、文字と図の中で。
キ多数の鋳造局により、特定の場所や人々の感情に、最大限に訴えかけるため、これら個々のメッセージは、変化に富んでいた可能性があり得る。

 しかし、無論コインは、皇帝と神と彼らとの関係について、人々が考える事を望んだものの証拠でもある。この当時のコインが持っていた意味は、ド・ ブロワにより、深く分析されている。それは、ポスターに代わった。新聞広告。ラジオ放送とテレビ出演。
それは、主題に時代のメッセージを運んだ。そうすることができなかった人々への語と絵の中で。そうする事ができなかった人々に、一つの絵の中で。多数の鋳造所のため、特定の場所と感情に最大に訴えるように、メッセージは変化に富む事があり得た。それゆえに、問題とタイプの大きな数と多様性。もちろん、コインは、皇帝が人々が神と彼らとの彼の関係について考える事を、望んだものの証拠である。

 彼がこれらについて、本当に考えたものでよりはむしろ。どちらが、皇帝のものの彼らの証明に限られているのか、神と一緒の関係。しかし、若干の概論は、序文として、提供されるかもしれない。また当然、コインは彼らへの、神の保護と後援を要求している。もちろん、これらの網は、広範囲に渡る信条をひきつける事を願い、これら神々の間に、広く投げかけられる。
そして彼らは、勝利を祝う。彼らは忠誠心を称賛するか、軍の忠誠を要求する。または彼らのいろいろなセクションまたは分遣隊の、そして時々、彼らは抽象的概念をも呼び覚ましている。勝利、美徳、信仰心、忠誠、保安、平和、大量、至福、豊穣、摂理、運、資産、永遠。
そして私達は、その人々の祈りを捧げられる神と皇帝との宗教的な地位に、より関心を抱く。また、その範囲は大変に幅広い。つまり「アウグストゥス」(神格化された現人神としての。)ヤヌス、セラピス、ユピテル、リーベル(ディオニュソス)、サターン、マルス、メルクリウス、ソル、ネプトゥヌス、アポロ、ウルカン、ユノー、ウェスタ、ウェヌス、ミネルウァ、ディアナ。

 そして皇后サロニナのコインには、類似したパターンがある。
互いに向き合っているガリエヌスとサロナニナの調査で、共同のメダルの上の「ピエタ・ファレリイ」が支配する点に、我々は注意するかもしれない。更に皇帝ガリエヌスには、この賛辞との精神的な関連がある。彼の母マリニアナと。しかし、我々は、祈られる神と皇帝の宗教的な地位に、より関心を持つ。また、その範囲は幅広い。我々はコインを、ヘラクレスに申し出ておく。サロニナのコインは、類似したパターンを持っている。伝承が「Felicitas」のような、適当な抽象概念を対象としてある。もう一つのコインが、オリエンスの伝説を運ぶ、ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治時代からある。彼女の上で礼拝される神の間で、コインはディアナである。そしてユノー、ウェヌス、ウェスタ、ケレス、そしてミネルウァ、更にむしろ驚くべき事にソル。

 古代ローマでは、この太陽神ソルは、しばしばギリシャの太陽神アポロンと同一視された。そしてユピテルと同じくらいに、篤い信仰を集めていた。 また更にもう一つのコインが、オリエンスの伝承を運ぶ。通常は太陽を意味する「オリエンス」。しかし、また、どちらが太陽神アポロンのイメージをもたらすか。これは、混合主義の提案に照らし、ある重要性を持つ事になるかもしれない。通常太陽を意味している「Oriens」。
更にこれら、サロニナのコインの男神への唯一の面白い変形は「デアエ・セゲティア」である。
セゲティアが、小麦とトウモロコシを司どる神であるという事であり、そしてこれらのコインがローマの都市に配給する際に、皇后によってかけられる利息を意味するという事である。
更にもう一つは、セゲティアがパンノニアのシチリアの、変形であるという事である。
そして、サロニナはどちらの地域とも、若干の関係があったという事である。
更にブレイは、自分のいくらか空想的である推測として、この他にもこのコインは、インゲヌウスとレガリアヌスの反乱鎮圧後に、このパンノニア地域を落ち着かせるために、この皇后サロニナのコインは、発行されたのではないか?としている。

 そしてそれらのコインは、この皇帝夫妻の二人の不幸な息子達の名前でも、発行された。
「小ウァレリアヌス」と「サロニヌス」。アマルティアのヤギ、幼児のユピテルを表わす単語「Io vi Crescenti」、または「Iovi Exorienti」の、コインがある。このアマルティアのヤギが、幼少のユピテルを養育したという伝説がある。
さらにもう一つのタイプは、Diinutritores(栄誉ある神)を持っている。
おそらく、ウェルギリウスの第四の田園詩を呼び起こし、皇子を黄金時代を取り戻す事になっている子供と同一視しているのだろう。そして彼らの死後、各々の皇子達を奉献しているコインもある。明らかに、これらのコインは、この王朝を神に準ずる家族として、讃えるという意向を示している。しかし、このガリエヌスのリキニウス王朝創設の試みは、ポストゥムスによる次男サロニヌスの殺害の後、断念されたようである。

 また、ガリエヌスの単独統治の間に発行されたコインだけでなく、共同統治の間の、彼の父ウァレリアヌスのコインにも、上記と同じ範囲の神々が発見できる。
これらのコインの場合、再びマルスを発見する。そしてユピテル、ソル、ディアナ、ウェヌス、ウェスタ、ウルカン、メルクリウス、ユノー、ネプトゥヌス。そして一人の新顔ヘラクレスをも、発見する事ができる。更に彼が共同統治期間において、一度だけ際立って崇拝されるのを、発見する事ができる。ポストゥムスは、非常に高く彼の地位を昇進させた。
そして彼はまたマルスも、ユピテル、ソルその他の神々も。
おそらく、ド・ブロワが指摘しているように、ガリエヌスとポストゥムスは、それぞれヘラクレスの守護を得ようとしていた。これらのコインの多くは、日付がない。いくらかのタイプは、他のわずかな変形だけである。

 ブレイは、ガリエヌスの単独統治の間の、彼が強く信仰していた神々の順位を、以下のように推測している。マルス、ユピテル、そしておそらく同程度としてアポロとディアナ。
マルスは、ガリエヌスと兵士達の間で、特に強く信仰されていた事が予測できる。
そしてユピテルは神々の帝王であり、自然にその承認を要求した事だろう。
このような凶悪な時代に、皇帝として統治する事は、強く勇気に頼らなければならなかった。
効率化と彼の軍隊の忠誠。ユピテルは神々の帝王で、自然に彼の承認を要求した。
しかし、ソルとヘラクレスは、より詳細な観察に値する。そしてローゼンバッハは、ガリエヌスは何よりも太陽神を崇拝し、彼はその守護を強く求めて、戦ったとしている。

 彼は射出冠の頻繁な使用に頼る。彼を太陽神として描写している計画された像。
その彼の長くアップにした髪の毛の胸部とそして上に向けた凝視。そして、コインの伝承のいくつかは、支配する。より遠くに。更に彼は、ポルピュリオスによって書かれた二冊の本に、強くその根拠を求めている。四世紀にマクロビウスとユリアヌスの作業で、彼らからの引用によって復元される「ソルとその図像」。この復元からの結論によると、全ての他の神々は、ソルの徴候またはそれからの放射物であるという事である。
でなければ、あくまでもこのソルの主権を前提とする、劣った力。
それゆえに、マルスへの言及。ユピテル。アポロ。
リーベルなどは、自分自身ソルへの、または、彼ら大臣への偽られた言及として、周知の事と見なされることになっている。しかしブレイはここで紹介している、ローゼンバッハの、ガリエヌスは他のどの神よりも、太陽神を一番に崇拝していたという説には、同様に不賛成を示すド・ブロワと共に、賛同できないとしている。
だが、以下のように、ガリエヌスが神々の中でも、かなりこの太陽神ソルに、特別な関心を抱いていたとは思うとしている。

「しかし、私は彼がソルに、特別の関心を抱いていたと思う。だが、もし彼の説のようだったとするならば、ポルピュリオスの本が、ガリエヌスの治世の間に書かれたという、または彼がそれらを読んだという証拠がない。 これまで見てきたように、その証拠がない。
どんなガリエヌスとプロティノスとの親交、またはそれと並べて置かれるガリエヌスとポルピュリオスとのどんな接触の機会の中でさえ。ユリアヌスとマクロビウス。
秘密は太陽神崇拝である。しかし明らかに、ガリエヌスはソルを、他の神と時々結びつけている。」

 そして『ヒストリア・アウグスタ』が、普段の皇帝ガリエヌスの姿として描写している「しばしば、王冠を被って人前に現われた。普通は、皇帝はトガを着ているものであったのに、紫の外套をまとい、宝石と金の留め金をつけているガリエヌスの姿が、ローマ市では目撃された。」という、これもいかにも、全体的に愚かな自己顕示欲がむやみに強く、また虚栄心も強いガリエヌスらしく、彼がこうした放射状の突起の付いた冠と紫色の外套という、これまでの皇帝達とは違う、こうした派手な感じの装いを始めたかのような書き振りであるが。
しかし、ブレイの指摘によると、どうやらこの形状の冠は、既にウェルギリウスの叙事詩の「アエネイド」に登場する王ラティヌス、そして共和制時代のユリウス・カエサル、そして皇帝アウグストゥスの姿として見られ、既に知られたものとなっており、けして目新しいものではないという。

 だが、おそらく、あくまでもローマ皇帝は、ローマ市民の中の第一人者であるという、有名な「市民冠」と呼ばれる月桂冠に象徴されるイメージが、大切にされていたせいか、あくまでも、それまでの皇帝のこうした姿のコインは、少なかったようである。
そしてそのせいもあってなのか、彼ら以降のこうした姿でのコインなどの報告は、特に歴史書の中などでは、言及されていない。だが、この軍人皇帝時代の、ウァレリアヌスの頃から、こうした皇帝の姿を刻ませたコインが、特に目立って見られるようになってくるという。
マッティングリーとシデナムは、各コインのタイプで、帝国の頭飾りの性質を明示する。それが放射状の冠か、月桂冠の花輪かどうかに関わらず。
そして更に続けてブレイは、ウァレリアヌスが、放射状の突起が付いた冠をかぶる、一〇〇以上のタイプを数えている。彼が明らかに支持する、彼の息子以上の数の、月桂樹の花輪。
もちろん、放射する形状の冠は、太陽の光線を呼び起こすはずだった。
最も少なく、太陽のイメージに関して、大きなものは神として崇める、そしてガリエヌスのコインは、マルスのような他の神も、賛美する。ユピテルとアポロ、並びにソル、しかし、ソルのタイプの、より大きな優勢がある。

 ブレイは、ガリエヌスの単独統治の八年間の場合のように、アウレリアヌスの統治の五年間で、多くとして六回、そのようなタイプを数えている。
そして更にアウレリアヌスにより用いられたソルの伝承は、最も一般的には「オリエンス・アウグスティ」である。そして、ガリエヌスのそれよりも用いられる「ソル・Invicto 無敵の」。しかし、アウレリアヌスのコインは、彼がソルから地球を受け取る事を示す。
ところが、ガリエヌスの方は、通常、もっと単純な、ソルのイメージを持っている
またはペガサス。または雄牛。その中で、共同統治時代の一つのケースが支配するけれども、その中でソルは、彼に花輪を手渡している。アウレリアヌスのコイン上の図柄のより多くは、彼にソルから世界を受け取る事を示すだけでなく、ソル自体の記述もしている。
「デウス・エト・ドミヌス」として。それは「神であり、支配者である者」という意味である。
その上、『ヒストリア・アウグスタ』によると、アウレリアヌスは、二七四年にローマに「最も素晴しい」太陽神殿を建設し、更にそれは、パルミラから略奪してきた数々の貴重品で飾られていたという。更に、アウレリアヌスは神が彼に帝位を授けた。
そして、神だけがそれを奪い去る事ができたと、考えていたようである。
しかし、このような同様の傾向は、何もガリエヌスについては報告されていない。
彼は、太陽神殿も、建設しなかった。

 しかし、なにぶんこの『ヒストリア・アウグスタ』の事なので、更にこのアウレリアヌスがパルミラへの勝利を祝い、太陽神殿を建てたというのも、ガリエヌスがコロッススよりも大きな、太陽神の姿をした自分の像を作るように命じたという話や、クラウディウス・ゴティクスのゴート人への勝利を元老院が称えて、巨大な彼の黄金の彫像を作らせたという話同様に、その信用性の程は、疑わしい部分もある。もしかしたら、このアウレリアヌスの太陽神殿の話も、彼のそのコインの絵柄からもわかる、彼の太陽神崇拝を、誇張して表現したものとして作られた、逸話なのかもしれない。また、このように、『ヒストリア・アウグスタ』の中では、大規模な建築物を建てさせたがる皇帝達が多く、これらはネロが黄金宮殿を建てさせ、更にその場所に三十六メートルの巨像コロッススを建てさせたという逸話からの、模倣とも考えられる。

 そして実際にも、ガリエヌスの類似の記述にも、明らかにこのネロについての記述と同様に「コロッスス」が、再び登場している。更にこれも同じく『ヒストリア・アウグスタ』の中での、ハドリアヌスに関する記述についても、同様にこのコロッススについての記述が見られる事。これらの事から考えるに、やはりこれらハドリアヌスやガリエヌスのコロッススについての記述、そしてクラウディウス・ゴティクスの黄金の彫像も、このアウレリアヌスの太陽神殿建設も、事実というより、いずれも『ローマ皇帝列伝』のネロの黄金宮殿とコロッススについての記述を真似して記述したものに、過ぎない可能性も、あるのではないだろうか?
これは第八章でも少し触れているように、ブレイやガイガーが指摘する、これはガリエヌスのその太陽神崇拝から発生している事だというよりも。そしてこれら各皇帝達が建造させたというものも、いずれも、現在その実在が、確認できないものばかりであるし。

 このように、このガリエヌスのコロッスス建造や、クラウディウス・ゴティクスの黄金の彫像建造。そしてこのアウレリアヌスの太陽神殿建造も、例によって、スウェトニウスの『ローマ皇帝列伝』にも類似したネロの逸話が見られ、その記述内容や描写についてのかなりの部分を、この歴史書に影響されているらしい『ヒストリア・アウグスタ』であってみれば、こうした私の推測も、それ程可能性のないものでも、ないように思われるのだが。
またこういった可能性があるという点から考えても、『ヒストリア・アウグスタ』の記述の、むしろ実際にはその基本的な部分についての、各皇帝達の私生活の描写やその内容についての、独自性のなさを、読み取るべきなのかもしれない。

 ガリエヌスはソルから、地球を受け取っては現われない。
そして彼はソルも帝国の主人として歓迎しないし、玉座の神の代表も、要求していない。
あくまで、ソルを守護神の一人としての扱いをしている。そして彼はソルのコインの上で、しばしばペガサスを連想したと考えられる。翼のある馬。それは彼の大事にしてきた、騎兵部隊の紋章だった。また更にその上、ガリエヌスが、自分自身を特定した事が示唆される。
これら神々と。デメテル。ゲニウス、ヘラクレス、ゼウス。ユピテルとソルは、この点について最も多く言及される。彼が「Gallienae Augustae」のコインで、豊かさの女性の原則と行動を共にしようとしたために。彼も自分自身のヘラクレスとの同一視を時々提案したと、考えられる。コインのいくらかは、ライオンの毛皮がもたれかかる、彼の胸部を示している。他には「Virtus 力」の伝承が載っている彼の伝統的な特質で、ヘラクレスを示している

 ブレイは、ガリエヌスがコインの中で、自分自身と神々を、同一視して表わしていたと指摘している。デメテル、ジェニウス、ヘラクレス、ゼウス。そしてユピテルとソルは、この点について、最も多く言及される。彼が「アウグストゥス・ガリエヌス」のコインで、女性の原則の豊かさと行動を、共にしようとしたために。そして彼も自分自身のヘラクレスとの同一視を、時々行なったと、している。彼のコインのいくつかは、ライオンの毛皮を胸まで纏った姿で、現わされている。彼はこの伝承が載せられている伝統的な特徴で、ヘラクレスを示している。
一回少なくとも類似した処置を、一度はマルスでも見る。時々。

 また、マルスによる、または、メルクリウスによる暗示された同一視にかけられる、ガリエヌス。ローマの守護神ゲニウス。我々が見たように。彼の個性の皇帝の神の保護者か神の面だった。しかし、ヘラクレスとゲニウスは、せいぜい半神だけである。マルスとメルクリウスは、本当に本格的である。下級の。不死の人。だが、彼らと同じになる試みは、暫定的で、散発的だった。しかし、ユピテルとソルは、最高の神である。彼らとの一体感の試みは、非常に大胆だった。ユピテルの場合の提案は、多分誤っているだろう。それは、ガリエヌスとアイギスを示している、メダルに基づいている。ガリエヌスは、ソルと同一視されたかったと考えられる。
しかし、この方向における彼のステップは、暫定的で曖昧だった。像。彼がそれを意味するならば。未発達のままだった。

 コインの上で、ソルはガリエヌスとは、明らかに別の存在である。彼はガリエヌスの『守護者または仲間』である。ガリエヌスは、ソルの特質で装わない。彼らが行く最も遠いものは、彼の右腕を上げて彼を示すことである。しばしば、ソルに与えられる姿勢。ソルが敗北に関してあるコインの上で。しかし、そこで、これらのコインの多くであるようにしない。アイデンティティの意味。意味されるならば。小麦と耳の先頭の-服装と髪の結い方によるコインの場合のように。女神の。しかし、男性主格の伝説Gallienus Augustus。
要するに、ガリエヌスが少なくともマイナーな神との、彼の同一視を仄めかすのも、嫌ではなかったと、ブレイは考えている、そして。不明瞭で用心深い習慣でさえ。最高の神と。
しかし、これらの提案は、あまり人気がない場合があった。
神に愛される者、または神の担当大臣としての皇帝は、自分自身を、神としての皇帝よりは、許容できるようになっていた。神聖な雰囲気は、まだ彼の周りを取り巻いていた。
しかし、それは彼の内面から発生するよりは、むしろ外部からによってであった。
彼の統治の最後の年に、新たな蛮族の侵入と、帝国内での相次ぐ反乱の緊張の下で。

 そして他にもガリエヌスは、新たに動物のコインと呼ばれているコインを、発行していた。
これらは、一連のコインだった。それぞれ神々の名前が付いている、彼らのシンボルとしての動物達。アポロ、ヘラクレス、ネプトゥヌス、ソル、リーベル、ユノー、メルクリウス。
そして、ガリエヌスは、帝国内の重要な属州または各場所で際立って崇拝されている、あらゆる神を取り入れるために、熱心にローマ帝国各地の信仰を調査した形跡が見られる。
例えばディアナ、この女神はパンノニアで、多数の人に崇拝されていた。
そしてイリリアではリーベルが、(あるいはギリシャでは、ディオニュソス)東方などではソルが。ソルのコインの一部に刻まれた雄牛は、疑う余地なく、ペルシャ方面で信仰されていたミトラ神を、連想させるはずだった。このように、彼と帝国に対する忠誠を強めるように、彼の地位のカリスマ的な側面を強化するために、ガリエヌスは一般的な外観と表現で努力する。
既に指摘しているように、彼の放射状の皇帝の冠は、彼の父ウァレリアヌスのコインでも多く見かけられ、またそれ以前の時代にも、時々目撃されていたようであり、けしてガリエヌスが始まりでは、なかったようである。

 そしてこのガリエヌスのこれまでの「市民冠」と呼ばれる皇帝の月桂冠とは異なる形状の、太陽を思わせる放射状の冠は、ブレイなどの何人かの研究者達も指摘しているように、太陽神の守護を願い、太陽神自身を表わしていたようである。だとすれば、やはり、ブレイなども指摘している通り、彼の父のウァレリアヌス自身も、息子のガリエヌス同様に、この太陽神を深く崇拝していた可能性が、かなり高いという事だろう。(そしてこれも『ヒストリア・アウグスタ』が、日頃皇帝ガリエヌがしていた装いの一つとして挙げている、紫の外套であるが。
しかし、これについても、マルクス・アウレリウスの師フロントが彼に宛てた手紙の中に、既に「皇帝の紫の外套」という記述が見受けられ、やはり、これも皇帝ガリエヌスが最初に着用し始めた訳ではなかったようである。おそらく、これはガリエヌスの事を、贅沢好きとでも、批判したかったという事だろう。そしてまたこれも、放射状の冠と同様に、信憑性の低い記述の一つだろう。また、更にこの後に続く「彼は、黄金で装飾された紫色の男性用のトゥニカを、それも袖つきのものを身に付けていた。」などという、一連のこれもいかにも贅沢な印象を与えるその衣装の描写も、同種の虚偽の、ガリエヌスの贅沢な衣装描写であろう。)

 

 それからこのように、初めは帝国東方出身である皇帝セプティミウス・セウェルスとユリア・ドムナによって、帝国に持ち込まれたと思われる、東方の太陽神信仰だが、本格的にローマ皇帝の一般的な外観として、取り入れさせたのは、ゴルディアヌス三世からのようである。
確かにゴルディアヌス三世のコインにも、こうした太陽冠とでも呼べる姿のものが、いくつか発見される。そしてその流れに続くものとして、ウァレリアヌスやガリエヌスの頃になってから、更にその絵柄のコインの登場が目立ってくる、太陽神をイメージしたと思われる、放射状の皇帝冠の出現も捉えられる。そしてガリエヌスが多くの神々の中でも、特にこの太陽神ソルを、篤く信仰していたらしい形跡については、以下のようにガイガーも、同様に指摘している。

 この古代イタリアに起源を持つ、太陽神ソルの光線冠は、既に共和制の時代から存在した、そしてローマの小型マントのパルダメントゥムの中でも称讃される。
またローマ皇帝の中でも、特にアポロ崇拝者として有名であり、しばしばそのイメージを、自身になぞらえる事も行なっていたアウグストゥスも、このソルをも、相対的な神としてアポロ同様に篤く信仰していた。ネロとハドリアヌスのような、そしてフラウィアヌス朝の下でも、黄金時代と不死のシンボルとしての確立したソルの存在はあった。またトラヤヌスの下で、彼は彼のアレクサンドロスの模倣を支持した。コンモドゥスの外見それ自体がソルに似ていた、そしてシンボルとして利用される、ソルとの連携の増加をもたらした。

 そしてセプティミウス・セウェルスの時代でも、明らかにソルは発見された。
帝国の新しいコインとして。光線冠の高められた権利。太陽神の特質が来たので、セウェルス王朝の間に、激しくその地位が上昇する。更に、パルダメントゥムの留め具として。
その神Pactor Orbis 世界に平和をもたらす者、初めて調停者として現われる、そして世界が待ち望んでいた存在。光線冠と月による、一組の君主の表現。特質 ソルとルナから。
王朝の永続性を意味するために、適切な。 また、息子はそのようなシンボルで演じられた。カラカラ統治下の。このように、ローマ帝国での本格的な東方の太陽神信仰は、最初は帝国東方の北アフリカとシリア属州の都市エメサの出身である、皇帝夫妻のセプティミウス・セウェルスとユリア・ドムナのために、起こった。特に皇后のユリア・ドムナは、シリアのエメサの太陽神を崇拝する祭司長、ユリウス・バシアヌスの娘だった。このような事から、こうしてローマにも、本格的な東方の太陽神崇拝が、もたらされるようになった。

 そしてユリア・ドムナの妹ユリア・マエサの孫であり、後の皇帝のエラガバルス。
こうして彼自身の名前にまで、用いられた太陽神。元々彼の本名はウィリウス・アウィトウス・バシアヌスといい、この名前も彼の司祭としての太陽崇拝と深い関わりのあるものである。
この導入を通して、アントニニアヌス銀貨が。そして、それは皇帝の支配特質に、ますます多くの要素を加えるようになった。だが皇帝エラガバルスは、少しの重要な分岐点も、代表しなかった。しかし、彼は初めて皇帝である自分の守護者として、ソルをもたらした。

 だがそれはやがてゴルディアヌス三世の下で創造される、重要なソルの役割。
そしてゴルディアヌス三世は、新しい時代の、予想される世界の回復者として発見される。
それは、初めて「Aeternitas 永遠」による、ソルとの合一になった。
そしてこの時代から、長く再び真似られる事になった、ゴルディアヌス三世の光線冠。
オリエンス・アウグストゥスに関連した、最初のコインの登場。
それで、それはソルを、ゴルディアヌス三世の新しい治世の保証人へとした。
世界はその輝きが海から現れる朝で、太陽神と合致する。
彼の治世の最後の年の間までには、ユピテルの代わりに、ソルがその支配の象徴に代わっていた。彼によって導入される、新しいコインのタイプ。
全ての軍隊のエネルギーより、上位の立場である、彼ら皇帝の存在を強調する。

 こうして帝国全体にとって、ソルの存在は重要となった。そしてS・ベーレンスは、こう考える。特にこのソルが、明らかに奨励されるようになった事。
帝位の幅広い正当性の根拠が入手できなかった場合、もしくは自分の何の後継者もいなかった場合に。(ベーレンスによると、ゴルディアヌス三世、カリヌス、クラウディウス・ゴティクス、アウレリアヌス、プロブス、皇帝ガリエヌス)しかし、むしろ、それらの目的を成功させるための表現に、このようなかつての支配者以来のローマの伝統を基準に、焦点を当てていた。(黄金の世紀。支配者と帝国の永遠)この論理は、十分な根拠があるようである。
そしてその様子の多様性を通じてもわかる、そのソルの総合的な使いやすさ、そしてそのもう一つの理由が、その使用の増加を示す。

 考慮されるウァレリアヌス一世、再びゴルディアヌス三世の後の最初の間のソル。
この太陽神のコインの大半は、ウァレリアヌスのために、253/60年の期間に、鋳造された。
そしてまちがいなく、これはウァレリアヌスによる、帝国の東方国境の強化に関連している。
ウァレリアヌスは、最初帝国の西方でもこの「Oriens Augg」を使用していた。
そして既にウァレリアヌスはアンティオキアとサモサタのソルを、強く自分に似せていた。更にこのソルの頻繁な使用は、アポロとディアナの使用と同じく、ウァレリアヌスの好みにも、一部起因していたのではないかという点について、検討の余地がある。

 そしてガリエヌスは二六〇年以降から、このソルに脚光を当てるようになった。
更に数量的に、このソルは共同統治の間よりも、ガリエヌスの単独統治となった二六〇年の後からしばらくして、頻繁後に現われるようになる。ペガサスとして、メディオラヌムから発行の、260 /1年の軍団コインが表示される。ソルのシンボルである動物。第一アデュトリクス軍団と第二アデュトリクス軍団の。これもメディオラヌムの軍団alacritati-vierfachaureus功績についてアピールする、即位十周年記念祭の機会に。その騎兵軍団の迅速さを称讃。Aeternitas AvgとAeternitati Avg。またセウェルス以来、頻繁に使われるようになった「Roma Aeterna 永遠のローマ」。そして高められた権限のままの姿のソル。救世主と世界の創造者としての印。更に左手で受け取る世界。現在のガリエヌスの下で。多くの場合は、それはガリエヌスの右手に集められている。カラカラのアントニニアヌス銀貨以来、特に豊富な造語であるadlocutioとadventus 到来のテーマが強化された。後援者と救世主としての役割の皇帝についての、太陽神の祝福に等しい可能性がある。彼らはまた、強さと癒しの力を表明し、お互いに支配者と神は接近した。
そしてこのジェスチャーは、皇帝とソルのための、標準のポーズになった。更に、それはAdventusで起こった。勝利。執政官就任または記念祭で。システィアのコイン鋳造所か262/3年からガリエヌスが新たに発行を開始させた、カラカラの「世界の支配者」の印を模造したコイン。
それは「月桂樹の花輪のある、より英雄的な裸体像、球体と回された槍。」、その格好をしたソル。世界。

 セウェルスからの、帝国のコインの上で。
あらかじめ神の前で約束された、皇帝と王朝の永遠性を表現している。
帝国と帝政、支配者の保証された勝利を治めた、神の授与式を通しての「Victoriola 勝利」に関連してから。システィアのソルについての考慮、この神に強化された点の合計とは、ドナウ川に彼の軍隊にガリエヌスが頼っていた事を説明したように。ドナウ軍団では「ヘリオス-アポロ」を崇拝していた。混合主義の太陽神の伝承。ガリエヌスのコインでのソルの最初の伝承の「Comiti avgvst」。267/8年。「Sol Avgvsti 」と「Soli Invicto 不敗の」。

 そしてマクリアヌス父子の簒奪に対して、初めて「ソル 不敗」の伝承が、260/1年に使用された。それまではこの「Invictus 不敗」の銘文は、セプティミウス・セウェルスの時代まで豊富なコインに使用され、ソル専用には使用されてはいなかった。人ではなくて、平和をテーマに、その時に翻訳されていた。神の援助の話題は、それでますます取り上げられ、そして、応じられた象徴性は、太陽による帝国の力である。
これは ウァレリアヌスの下で、既に初めて発見される。また、ソルとの関連のOriens avg。
皇帝セウェルスの頃から、知られている。それは、ガリエヌスの単独統治の間に、起こった。
多分コインのオダエナトゥスの、ペルシャ人に対する勝利に関する銘文から。再利用及びいくつかの重要性を獲得した。そして多分、彼は新しいものを開始しなければならない。
象徴されるソルを通して、その表現は伝播される。267/8年のConservatoresのシリーズにおいて、それもソルになる。ペガサスと牡牛に象徴される。ローマの、そしてシスティアの守護者と呼ばれる皇帝。

 ソルは、このように守護者と仲間として、ガリエヌスの治世の終わりまでに向かって対処した。以前には、「エテルニタス 永遠」のため革新者と保証人としての存在を、中心にしていた。(二六三年から二四四年の前に。)comesソルまたはソルAugustiが皇帝と神が共通の個人的なレベルの関係になったとする。神は皇帝の個人的な友人である事が強調された。そしてコンモドゥスの時代では、ヘラクレスだけがその存在に匹敵した。やがてこの概念は、プロブスの下で、その頂点に達した。そしてガリエヌスは、従って、他の神々よりも前面に、ソルの存在を使用した。神に近づく事により、自身の立場を改善するために。

 おそらく当時の帝国東方属州方面での、ゼノビアの侵攻などの不穏な情勢に、直接関係している。皇帝支配の正当性の強調が、その中心に立っていた。
更にこれらに皇帝個人の宗教的な選択が、ベーレンスの主張する通り、これらのプロセスの中で一役担ったと思われる。しかし、それらの連続性は、分野への横断的なアプローチを示している。M・ローゼンバッハの意見は、ポルピュリオスの、ソルについて書かれている事に照会する。ガリエヌスはその主要な神に、ソルを据えた。ガリエヌスのそのコイン・カタログについての熟考が、もたらした結論。結果、過度にではないが、神の中ではかなり頻繁な登場。

 近年の皇帝にとっては、重要な大勝利のために。そしてソルはガリエヌスによって、新しい話題のために、ちょうど導入された。おそらく、その以前からの、集中的な発展。そしてガイガーは、これらには、おそらく、ガリエヌスと当時の哲学者プロティノスとの交流との、相互的な影響も関係していると言う。彼の弟子であったポルピュリオスが「ソルとその図像」の中で、太陽神ソルの存在の絶対的な優位性を主張している事からもわかる通り。そしてこのように太陽が、三世紀の哲学者達により、中心的な存在として取り入れられたためともしている。
またはピタゴラスの教義により。

 そしてその後、支配者は光の光輝に囲まれた金粉を身に着けた。このソルとの一体化、この天国のような輝きを持つ支配者は、囲まれなければならない。また高められたソルの信頼性により、これは他の支配者達にも利用されていた。結局ガリエヌスも、試す事となる。
全てのコインのタイプの試験済みのガリエヌスの後も。彼の顔の特徴。Genio populi romani ゲニウス、デメテル。ヘラクレス。メルクリウス、そしてアウグストゥスと提携する事。
更にベーレンスは、またメディオラヌムからのアントニニアヌス銀貨を挙げる。コインの前面のガリエヌスに対してその背面に、同じ姿勢と同じ属性で示されるソルがある。そして両方とも、共に光線冠をかぶっている。その権利の所有と左手で世界を掲げ持つ。そしてそれは、必ずしも決められてない。 ガリエヌスはその身振りと属性でソルを表現するか、あるいはソル自体であるべきかどうか。

 更にこうしたソルの表現はまた、ガリエヌスの死の後も、帝国の表現として続き、アウレリアヌスの治世に、そのクライマックスを手渡した。多分ガリエヌスの下での、ソルの表現の発展との直接の連帯からのこれに、影響を受けているのだろう。そしてまた、プロブスの下で、更にコンスタンティヌス一世の時代まで、強く存在するソル。二六〇年までの使用、ウァレリアヌスの治世のこれにおいて、多数のセウェルス様式の表現が、コインに現れる。


 同じ王朝からこの補強された、皇帝達と皇后の権威の表現。反キリスト教の宗教政治を行なうウァレリアヌスは、それを示すために、ソルを使うようになった。しかし、そうした主張によるソルの使用を、ガリエヌスは、考えない。明らかに、それはキリスト教問題について、この二人の皇帝間での意見の相違があったのでないか?という疑問を表わしている。二六〇年のウァレリアヌのペルシャ捕囚により、その部分的な優先順が変えられた後。リキニウス王朝の子孫の提示は、完全にあきらめられた。しかし、皇后の方においては、そうではない。
皇帝のイデオロギーは、完全にガリエヌス自身に集中した。
また、彼はセウェルスの伝統と関連したコインのタイプを、提供している。
しかし、また、彼は自分のコインに、数多くの新しい特徴を与えた。そしてコインの話題は、より多様になった。 ガリエヌスは、このコインの非常に多くの表現を使った。
この危険な時代の始まりから、彼の治世の終わりまでの軍隊。特に分遣隊。
そして騎兵隊と近衛軍。それらの露骨な強調。そして皇帝ガリエヌスのリーダーシップの下で、倒される敵。皇帝と軍隊との間の、強く個人的な関係が表現された。更にこの点において、頻繁なヘラクレスとマルスの姿として示されている。

 現在皇帝は、盾と(部分的に担がれた)槍とパルダメントゥムで頻繁に表わされている。
二六〇年の前に既に、彼は時々、甲冑を着けた姿で表現された。
この皇帝のための兜は、これまでのローマのコインの中での、目新しさを表現した。
そしてガリエヌスは、ライオンの毛皮またはヘラクレスの棍棒のコインでアレクサンドロス大王やヘラクレスを、時々模倣した。そしてそれらは更なる、インフレについてのテーマでも、使用が必要だった、Virtus 力、Victoria 勝利またはFides 忠誠。
皇帝の力は、彼の軍隊の、そして、それによる「fides 忠誠」と「Victoria 勝利」を連れてきた。皇帝は「Invictus 不敗」を作り出し、また最終的には{Pa平和」を導いた。
また、伝承となって表れる、ガリエヌスの積極的な努力の影響、「Salus Italiaeイタリアの平和」または「restitutor galliarum ガリエヌスによる回復」。

 ガリエヌスの即位十周年記念祭の時に、メディオラヌムから発行された、軍団コインによって、軍隊の大規模な栄誉を提供するサービスが実施された。他にも特に、近衛軍と騎兵軍団のための名誉を載せている。「Iovi Vltori ユピテルの報復」は、二六一年にポストゥムスに対して向けられた。 多くの戦いの横に示されている、軍事的動機についての、ますます注目が、皇帝のための、一定の必要性を指摘している。そしてそれは、自身を特に兵士とし表わす事に傾いた。全ての簒奪について(防ぐために)。第一帝政様式の必要な誇らしげな岬、そして、それで帝国の保護を、もたらすために宣伝される。 即位十周年記念祭の単独統治の中心で、支配者と軍隊との関係が、多くの体現による平和の話題。メディオラヌムでも。ローマの重要性として近づく。
そして皇帝の力と軍隊は、それらで囲まれる事を可能にした。 提携された特質と似ている擬人法の表現の運と富 「Felicitas幸福」・「安全Securitas」・「Liberalitas 自由」・ 「Uberitas」・「幸福の女神 Laetitiaレティシア」と「豊穣の女神Abundantia アバンダンティア」。
彼の力を通して。「Providentia」・「Fortuna 幸運と能力」・「融和(手を伸ばすために)」。確保される皇帝の勝利。こうして彼は「Fundator Pacis 平和の創造者」と「Rector Orbis 世界の支配者」に変わった。責任がある、全てのそれらの本当に名を付けられた、前向きな影響による「Felicitas 幸福」のためにこれ。かつての「黄金時代」の全ての肯定的なものを、これらは担当していた。軍隊の話題は、ガリエヌスの統治末期に、再び目立ってくる。
また、その成長の最終段階での、Aeternitasの役割。これは、多くの場合、ソルとの結合として示された。皇帝の力は、厳しい時代にこそ、あるべきであった。それまではその位置は、基本的に脆弱に作られていた。

 しかし、これまでのコインを、異例の属性として流用する事によって。そしてガリエヌスは散発的に、王冠姿の最初の皇帝を表現した。また彼は特にメルクリウスに、集中的に接近した。
そしてデメテル。ヘラクレス、そして、最初の第一人者アウグストゥス。Deus 神として示されている。皇帝の守護者としての、神の名前は増加した。 神々は初回のみの凡例で、記載された。
だが、その内にそれら神々の図像は、彼らの象徴としての動物の姿に、置き換えられる。
また銘文においても、それは多数のガリエヌスの最上級の表現が、増やされた。
そしてその優れた特性は、神との彼の特別な関係を示した。従って、これは彼を促進した。
いくつかの点でゴルディアヌス三世は、ガリエヌスのための重要な出発点として、作用した。
これは、そのソルの表現においても、確かに真実である。この神は、既にウァレリアヌスの下で、再び顕著に目撃されると考えられていたが。
しかしガリエヌスは、以前のゴルディアヌスのソルのコインのタイブを特徴的に取り入れ、それらを更に改良した。「Sol・Invictus」・「Sol Comes」、更に「Sol Aug 」と「Sol conservator」、これら一部は非常に導入された、しばしばガリエヌスは、コインの中で右手を上げている。太陽神の祝福。この表現。また、彼は太陽神から、世界をしばしば与えられる。
おそらく、この多目的な神は、その時点で皇帝の正当性の基盤の欠如の補強と、特に皇帝としての新たな始まりを象徴していた。

 そして時々、それはハドリアヌスとアレクサンドロス大王に、関連した。
ガリエヌスの、しかし、ギリシャ愛好がコインで少なくとも、彼らのまれな傾向によって相対化されるという、実際的な趣旨。同様のそれは、古典考古学的な肖像の中での、皇帝の表情の発展でも発見される。特に二六〇年の前の時期に、同様によく、この様子の皇帝に会う。
若々しい特徴。一部は既にその時点で。しかし、特に単独統治時代。それは、より年長の姿のガリエヌスとなった。強力な。更にその印象的な、太い首と長い髪の表現(タイプ二)。
そしてタイプ三は、コインで新たに散発的に観察できるようになって。顔の割合は、再びより現実的である。 また髪は更に長くなる。その顔の特徴は、厳粛で硬い。

 こうしたガリエヌスの肖像の方にも、見られるようになっていく、その表現の変化は、やはり、情勢がより厳しくなればなる程、強力な指導者として、皇帝によりカリスマ性や逞しいイメージが必要とされるようになったからだろう。このように、注目すべきは、この皇帝ガリエヌスの単独統治時代になってから、こういった各神々の象徴の動物達を彫らせた、「動物のコイン」などもそうだが、彼の命令により、これまでにない、神々のデザインのコインが目立って、多種多様なものが発行されるようになっている事である。そして既に上記の通りの、既に帝国内では既にお馴染みである、主に信仰されていた神々についての、新たなデザインを創り出した事、そして中にはそれまでそれ程帝国内では、幅広く信仰されていなかった神々もコインの画像に含まれるようになった事は指摘した。

 しかも、そのデザインもやはりこれまでとは違った、独創的なデザインがしばしば見られ、更にかつては研究者達でさえ、こういったコインの図案をどう解釈すべきか、頭を悩ませたという、髭を生やした男性の姿をしていながら、頭飾りや髪型などは、女神のそれを思わせるなど、どうもガリエヌスが男神達とだけではなく、こうしたデザインを新たに創らせる事によって、彼が女神達との同一視をも、意図していたようである事である。

(ただ、前の章でも触れているように、やはりこうした既存のデザインとは大きく異なる、かなり独特のコインの図案は、当時あまり評判が良くなかったらしく、ついにローマ以降の場所では発行されないままで終わったようである。やはり、既にこのコインのデザイン自体が、当時のローマ人に、何か女々しい感じがすると、判断されたのかもしれない。
当時の帝国の危機を乗り越えるために、ガリエヌスが試した、ありとあらゆる新しい試みの努力の形跡の様子に、彼の当時の統治の苦心の程が窺われる。)

第五章 即位十周年記念祭

 二六二年の九月、(ラエティアでの戦いの勝利で、ローマで祝われる彼の即位十周年記念祭)。この記念祭はアレクサンデル・セウェルス以来、最初の十年の王座維持の記念だった。
ガリエヌスがこの二六二年に、こうして即位十周年記念祭を執り行った目的としては、豊田氏が、フィリップス・アラブスの「ローマ建国一千年記年祭」の目的について述べる、当時、国内の各所で簒奪の動きが蠢動し始め、このような状況の彼にとっては、帝都の住民、特に元老院・騎士身分の一層の支持を取り付ける必要性から、そして帝権が誰にあるのかを内外に誇示する絶好の機会という指摘。そしてこのガリエヌスの即位十周年記念祭の挙行も、これもガイガーなどが指摘しているように、帝国の安泰の大々的なアピールなど、同様の目的によるものであろう。

 特に二六〇年からのガリエヌスの単独統治開始以来、帝国内各地でほぼ同時に次々と発生した、蛮族の襲撃やこれも各属州で頻発した、総督や将軍達の反乱の対応への忙殺、そしてポストゥムスによる、二男サロニヌスの殺害など、苦難に満ちた、彼の皇帝としてのこれまでの年月であった。結果として帝国三分割は許してしまったといえ、何とか帝国の完全な崩壊にまでは至らず、ガリエヌスの数々の必死の努力により、この時、まだなおも、帝国は維持されていた。
ガリエヌスとしては、何とかこれら数々の困難を、帝国及び自分の治世は乗り越えたと、この機会に、ぜひこうした形で大々的に、アピールしておきたい所であったのだろう。
また、この記念祭の挙行自体と平行して、この年に、ローマに「ガリエヌスの凱旋門」も、建造させている。そしてそこには、皇帝ガリエヌスと皇后サロニナを称える銘文を刻ませている。

 そしてその行事は、帝国の安定性についての印象を、与えなければならなかった。
平和と繁栄の話題は、その時265/6年まで、コインの中心に立っていた。
アレクサンデル・セウェルスのそれから、実に三〇年振りの年に、ガリエヌスが行なわせた即位一十周年記念祭の様子については『ヒストリア・アウグスタ』の中に、以下の描写がある。
「ガリエヌスは、白尽の衣服を着た兵士たちと全民衆が先導する中、トガを身につけた元老院議員と騎士身分の者たちに囲まれて、カピトリウムに向かった。兵士らとともに、ほぼすべての人たちの奴隷や女たちもロウ松明や灯明をもって進んだ。彼らを一〇〇頭の白い牛が先導した。これらの牛の角は、黄金の鎖で結び合わされており、またその背には色とりどりの絹の布がかけられており、人目を引いていた。牛の両側には、白く輝く二〇〇頭の羊、当時ローマにいた一〇頭の象、婦人用の黄金で刺繍された衣装をまとい、行列にふさわしく飾られた一二〇〇人の剣闘士、また、さまざまな種類の二〇〇頭の飼い慣らされ、最大限飾り立てられた獣、そして、黙劇役者やあらゆる種類の役者を乗せた二輪馬車、さらに実戦用ではないグローブをつけた拳闘家たちが進んだ。すべての道化師がキュクロプス劇を演じ、びっくりするような芸を人々に見せた。全街路が、見せ物の喧騒と拍手でどよめいていた。皇帝自身は、すでに述べたように、元老院議員の間で、刺繍の施されたトガとシュロの葉の柄が描かれたトゥニカを着て、紫紅縞のトガを身にまとった全神官たちとともに、カピトリウムに向かっていた。その両側には、五〇〇本の黄金の槍、同業者組合とその他の一〇〇の旗、龍の絵柄の旗、諸神殿の神像とすべての軍団の旗が進んだ。さらに加えて、ゴート人やサルマティア人、フランク人、ペルシア人の扮装をした人々が、二〇〇人以上の集団ごとにまとめられて、引き立てられていった。」

『ヒストリア・アウグスタ』の中でのこの即位十周年記念祭についてのエキゾチックな報告は、実際のそれとは、大部分の異なる構成要素。帝国の執政官達の到着。剣闘士達の演技。勝利の瞬間並びにイシスの祝祭と他の宗教行列は、混ざる。ガイガーは『ヒストリア・アウグスタ』は、すかさず、この即位十周年記念祭についての記述の機会を使った。例によってこの著者の誤解に基づいた、ガリエヌスのギリシャ愛好傾向についての、批判的記述のためにと指摘している。またこの奇妙な女装の剣闘士達の記述は、ガリエヌス・アウグストゥス、 デメテルの穂のコインにも象徴される、ガリエヌスのエレウシスの秘儀の入信者の代表的役割をしていた事への、批判的仄めかしか?としている。

 確かにこの即位十周年記念祭についての記述の他の箇所でも、ペルシャ人の一団がまるで捕虜のように行列に混じって引き立てられていた時に、幾人かの役者達がペルシャ人に混じり、熱心に周囲をじろじろ見ながら、食い入るように人々の顔を調べ回っていた。
そしてある人からなぜそのような変わった事をするのかと尋ねられると、役者達は皇帝の父親を探しているのだと答えたという。そしてこの事がガリエヌスの耳に入ると、このような、ウァレリアヌスのペルシャ捕囚に対しての、皮肉な当てこすりと思われる事を言った役者達を、焼き殺させたと、例によってその信憑性が疑わしい逸話の紹介も、すかさず平行して行なっている。

 しかし、この頃のローマ人なら誰でも、皇帝ウァレリアヌスが二年前の、二六〇年のペルシャ捕囚により、消息不明になった事は既に知っているはずである。
ましてや、その皇帝の息子である現皇帝のガリエヌスの即位十周年記念祭の時に、そのような皮肉な当てこすりを恐れ気もなく、堂々とやるなどという、愚かな事をわざわざ敢えてするであろうか?これは既に前の章でも指摘しているように、やはりこれも、ウァレリアヌスのペルシャ捕囚に対する当てこすりから『ヒストリア・アウグスタ』の著者により、捏造された話だろう。

 こうして人々は多様な危険の時代に、この祝賀行事を催した。しかし、この行事についても、悪い光で現われさせるため。この『ヒストリア・アウグスタ』のこの箇所の記述についての、その失われた史料的なモデルは、紀元六十世紀の風刺詩人ユウェナリスから来る。そして更に『ヒストリア・アウグスタ』のガリエヌスの、この即位十周年記念祭の描写についての、本当の主要史料が、存在していなければならないとする、W・ハルトケの指摘。
しかし、これに関連した事として、アンミアヌスが、三五七年のローマでの、コンスタンティウス二世の凱旋について、報告していると思われる内容。
更にここでのペルシャ人の捕虜達の存在が、示されている。更におそらく、そこで示されたその他の民族達も、実は含まれているのかもしれない。しかし、二六〇年の夏まで、フランク族がガリエヌスと争って、ドナウ川北部に近付いている事。

 そして、二六二年にゴート族の襲撃が、小アジアとトラキアであったのは事実である。
しかし、これもガリエヌスの下した命令により、オダエナトゥスやその他の将軍達により、彼ら蛮族の、各地を略奪しながらの侵攻をこの小アジアで食い止める事に成功している。
この事は彼ら蛮族達に、それから五年は、この小アジア方面への再侵入を、起こさせない抑止にはなったようである。だが、これもこの『ヒストリア・アウグスタ』の著者の手にかかると、不当な扱いを受け、先程紹介したように、ガリエヌスが撃退した蛮族達と称して、実際はローマ人がそれらに扮した、ゴート族、サルマティア人、フランク族などの、偽りの蛮族達の捕虜達の行列、という、このような形での、彼のその功績の黙殺と歪曲が行われている。

 


 そしてこのような、彼よりよほど、声望のある人物として、各簒奪者達の名が挙げられ、こう書かれている。「愚かな男[ガリエヌス]は、この行列によってローマの人々を欺いていると信じていたが、実際には、ローマの人たちは皮肉たっぷりに、ある者はポストゥムスに、別の者はレガリアヌスに、また別の者はアウレオルスやアエミリアヌスに、また他の者はサトゥルニヌスに喝采の声を上げていたのである。サトゥルニヌスも、この時すでに皇帝になっていたといわれている。」そしてこのサトゥルニヌスというのも、創作人物らしい可能性がある。
とにかく、ガリエヌスの事を、こうして偽りの蛮族達への戦勝を誇る、愚かな皇帝という事にしたいのだろう。

 それから、ガリエヌスの即位十周年記念祭の中で見られたという、女装した剣闘士達という奇妙な光景や、これもここで問題になっている、ペルシャ人の捕虜達などの描写も含めて、これも『ヒストリア・アウグスタ』独自の記述ではなく、この後世の歴史書の、模倣の可能性があるようである。このように、即位十周年記念祭で発行されたコインを見てもわかる事だが、またこれは既にガリエヌスの発行させたコインについての章の中でも、指摘しているが、やはりこの行事の中でも、いわば帝国の平和と繁栄の時代の象徴ともなっている皇帝達の、アウグストゥスやハドリアヌスを強く意識し、できる事なら自分もローマ皇帝として、再び彼らのような時代をローマに戻したいとする強いガリエヌスの願いや決意、強い責任感が窺われる。
それから、既に述べている通り、残念ながら『ヒストリア・アウグスタ』の記述内容についての、そのお馴染みの信用ならなさから、これも恒例のその史料不足から、他の時代の史料から記述を引っ張ってくるなどの形跡から、この二六二年の九月に行なわれた、ガリエヌス即位十周年記念祭で、実際には具体的に、どのような内容の事が行なわれたのかは、不明のようである。
皇帝ガリエヌスにとって、重要な行事であったのは確かだろうが。
同種の嘆きは、これまでも何度も感じてきた事だが、つくづく、この時代の史料不足が、残念な限りである。

 それは、ローマの即位十周年記念祭とメディオラヌムのための珍しいコインだった。
複数のアウレウス金貨の、豊富なコインのシリーズ。そして更に、アントニニアヌス銀貨とメダルの発行adventusは、軍隊vi cos v p p による、アウレウス金貨のpm TRP iMPの銘文になる。即位十周年記念祭の伝承のコイン。vota decennalia 即位一周年記念祭奉納(正面右のウィクトリア)。votis x vota xまたはそれ、vota et xx(描写された、ほぼ全ての花輪)並びにspqr(ワシと花輪のライオン)と 至高の第一人者と元老院とローマの市民(花輪のある)を新しくしているのは、これまで知られている。そしてそれは、強調されなければならなかった。このアウグストゥスは、非常に長い統治期間を誇った。そしてこれは結果的に、神々が彼の治世に満足したからだとされた。このガリエヌスの即位十周年記念祭でも、多くの平和と繁栄の概念が、コインの中でも擬人化された。

 そして皇帝は彼の執政官の開始の時に、四頭立て戦車の姿か、あるいはマルスの姿で表現されている。銘文のCONSERVATOR EXERC(itus)軍隊の守護者、そしてアントニニアヌス銀貨のコインの裏側で後部で、リーベル・パテル(リーベル、または「解放の父」の頭部を示している。
皇帝によって、その外観が整列された。リーベル・パーテルは、ドナウ軍団の守護神の一人だった。主にインゲヌウスとレガリアヌスの簒奪を支える事となった、この軍団の。また、皇帝による、反抗的な軍隊に対する、帝国防衛の再確認のためである。更にそれぞれ彼ら分遣隊の、忠義を尽くして残った部隊のための、このリーベルへの賛辞の理由として推測可能である。

 そしてこの即位十周年記念祭において、ガリエヌスはdeus神の名を付けられた、最初の第一人者と提携したコインを鋳造させた。DEO AVGVSTO。皇帝アウグストゥス。このコインの裏側の肖像の外観を見ると、皇帝ガリエヌスが、皇帝アウグストゥスと提携したようである。
このイデオロギーの増加を通じて、帝国の伝統の中での、ガリエヌス自身を求めることができる。そして彼のその皇帝としての連続性が、保証される。父親のウァレリアヌスのペルシャ捕囚という不幸も、途中で発生したため、それをより強調する必要があった。同時に、彼は自分自身を新しい黄金時代のアウグストゥスの、伝統に入れた。そしてそれは今、降りかかってくるかもしれなかった。ガリエヌスは、このようにそれらの彼の敵を破り、以来、再び平和を求めていた。既にハドリアヌスとの同一視が、始まっていた。そしてそれを凌ぐ、ガリエヌスのその強さとして。また、銘文。ガリエヌスはMERCURIO AUGUSTO メルクリウス アウグストゥスと刻ませた。最初のローマの皇帝のために。「daminus noster 我々の支配者」と名を付けられる。
この前後関係に属す。また、この銘文は、即位十周年記念祭の時間に、goblを通し、コインの年代を強化する。

 また、この文脈で初めてガリエヌスの、メルクリウスへの接近が現わされている。
アポロと並んで、アウグストゥスが好んでいた神の一人。そしてガリエヌスの治世の中で、このメルクリウスは、平和を宣伝する神に、新たに昇格した。また、使者の杖と豊饒の角による「felicitas avg」の部分。黄金時代のシンボル。同じ時間からの更なるfelicitasの動機が見える、強く関係している最初の第一人者の上で。彼のことわざの「felicitas 幸福」は、そうだった。
悪い時は克服されて、平和が回復された宣言。FIDES MILITVM(軍隊の忠誠、victoriolaとして右に急いでいる二つのまたはローマ軍団の上級旗の円章付き軍旗のシグヌム)。
Genio Cohortum praetorianorum (ゲニウス近衛軍団と軍団の信頼。花輪。)und fidei praetorianorum vota x(三つの軍旗または軍旗を持ったゲニウス)und fides/fidei eqvitvm(騎兵隊の忠誠、花輪)と同様に、そして前後関係、「alacritati」の称讃。(ペガサス、ソルの象徴の動物、騎兵のその速度と関連する。)そしてガリエヌスの軍団全般についての「Gallienvs avg ob Fidem Reservatam (ガリエヌスに対する忠誠の維持、花輪)。それで軍隊では更にその異質性が、皇帝のために獲得されなければならなかった。Virtus Gallieni avg(皇帝ガリエヌスの力、不滅のヘラクレス)。paludamentum パルダメントゥム姿の aquilifer 旗持ち。同様の話題は、メディオラヌムのコイン鋳造所でも、使用されている。平和のテーマは、この軍隊のおかげで、満足させられる。Fides exerc viiiは、忠誠に関してその時に、彼ら兵士達は自分の司令官への忠誠を誓った。それから、アントニニアヌス銀貨は、尤もらしい贈り物として、メディオラヌムから発行された。

 また、オスティアの碑文。それはおそらく、元々は皇帝の彫像の土台としてあった。そしてそれは、即位十周年記念祭の儀式の前後関係と、分類する事ができる。「無敗の優れた皇帝(ガリエヌス)。ローマ帝国の保護と救いの全ての創設者。即位十周年記念における、全オスティア市民から奉献する。」この碑文は、M. クリストルの視点によると、これは皇帝の差し迫った環境の、典型的な話題と言葉を反映しているとする。そして神々の恩寵や調和そしてそれらにより、強く、繁栄するローマを強調する事。主に二六〇年から新たに発見される、ガリエヌスの努力により、部隊が全ての安全を導いた。そしてそれをガリエヌスは始めた。それは「invictus 不敗」に関連した表現を含む碑文に使用。これもおそらく上から指示された。今のような一般的な形容の使用。特にイタリアと北アフリカでは、そのための証拠がある。


















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教会史 下 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年



ローマ皇帝ガリエヌス二 帝国過渡期の悲劇の改革皇帝

2017年2月10日 発行 初版

著  者:狭山真琴
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狭山真琴

古代ローマ帝国に、以前から関心を持っていて、趣味としてですが、自分なりに関連洋書なども読んで、研究しています。どちらかというと、ローマ帝国前期の方に関心があるのですが、皇帝ガリエヌスについては、例外的に、関心があります。 最近も、まだ未読ですが、ドイツの研究者による、比較的信頼性が高いと思われる史料の、貨幣と碑文を主にした、ガリエヌスについての再評価の研究本が発売されているようであり、再評価の気運が出てきているのか?と嬉しく思っています。

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