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小田哲夫

edi-well出版



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  この本はタチヨミ版です。

序章 マルクスとの出会い

 どうして、世間とは、こうも棲みにくいところなのだろう。会社へ行っても、学校へ行っても、商店街へ行ってもどこへ行っても、僕の心はいつも虚しく、時間の流れに押し潰されてしまいそうになる。
 どうして、自分はこんなに弱い人間なのか。ときたま、僕は、いっそ死んでしまった方が良いのではないかと考える。しかし、例え、僕が死んだところで、そのことによって、社会が変わるわけでもなく、世界が変わるわけでもない。何にも変わることはないし、僕自身の問題も解決することはなく、その存在すら忘れさられてしまうだろう。この人生という大問題のこれぽっちも解決はしてくれない。かと言って、何も回避することさえもできやしない。
 今、分っていることと言えば、僕に残されたほんの一握りの家族や友人が悲しんでくれるだろうということだけだ。一番気がかりなのは、僕を支え信じてくれたみんなに迷惑をかけてしまうことになることである。
 結局、僕が死を選んだとしても、自己満足のオナニー以外の何物でもないことに落ち着き、結局は生きることに堕してしまうのだ。
 それなら、今のこの醜い現状とそれに対応しようと努力する自分の行為を拒否した方が良さそうだ。しからば、真に人間的であるということとは、現状に生きつつ、それらから自分を逃避させずに、不屈に人々の幸せを願っていくことなのか。
 逃げることは卑法なやり方だ。常に前を見つめて進まなければならない。明日への架け橋はそこからしか生まれてこないのだ。
 それにしても、このやるせなさはどこから来るのか。いくら観念的に頭の中だけで考えを巡らせても、実情の世界はそれを受け入れてはくれない。世間というところは、そんなに大きな器量は一切持ち合わせてはいない。
 そういう結論に至った時、僕は恋人にでも振られたような深い悲しみと絶望感を感じてしまう。
一体どうしたら、僕は僕らしく生きられるのだろう。頭だけ大きくて体が小さい人間のように、自分がとてもちぐはぐに思えてしまう。
 ところで、今年二十二歳になってしまった僕から言わせてもらうが、昔の僕は世間受けがとても良かった。「いい子やなぁ」「愛想のええ子やなぁ」「おとなしい子やなぁ」とその僕に対する世間の人たちの評判はすこぶる良かった。
 しかし、そう言われた時でさえも、例えそんな言葉を百万遍言われたとしても、僕は一向に嬉しくは無かった。
 それは、その言葉の裏には、僕が貧乏人の家に生まれて、卑屈な、それで従順な性格に見えただけだと思うからだ。真実の自分に対してかけられた言葉ではなく、上から目線の金持ちたちがよく言う、聞こえのよい上辺だけのリップサービスであることに僕は気が付いていたのだ。
 それで、僕は彼らの意識の中にある自分に対するイメージを、なんとか崩してやりたいということばかりを願っていたのだ。
 何故なんだって言われたら、ただそこから、本当の自分らしい人生が生きられるし、明日への希望が湧いてくるからだ。自己の中にある本当の自分、頭でっかちではなく、ちょうどいい自分の寸法にあった生き方ができるからだ。
 人間は自己の中の自己の言うとおりに生きなければならないのだろうか。真面目な人は真面目に、従順な人は従順に、活発な人は活発に、頭の良い人は頭が良いように、ユーモアのある人はユーモアのある人として生きなければ、世間からは、変人、奇人として見られてしまうのだろうか。
 とは言っても、貧乏人が社会の中で生きていこうとすれば、従順にならざるを得ない。猫をかぶったように良い人らしく、真面目に働かないと、社会は一人前の人間としては認めてくれない。
 一方、金持ちの人たちはというと、たぶん生まれたときから、そんな演技も必要なく、自分らしく生きられるに違いない。自己に忠実に生きられる環境がそろっているのだ。見栄を張る必要もないし、意地を張る必要もない。
 僕はというと、自己の殻にと閉じ籠もることなく、社会に心を開き、素直に生きていくべきだと思う。古い観念を捨てて、新しい社会の道を歩みつつ、現状の中で媚びることなく威張ることなく素直に生きたい。
 こんなことを胸に今日も、大学へと向かった。大学とは言っても、夜間の大学だ。私たち貧乏人が勉強をしたい、大学へ行きたいという願いを、自分自身の力で勝ち取れる方法が、昼間は働き夜は勉強するという、これまた、世間の奴らは「苦学生は大変やねぇ。よう頑張るわ」といつも言ってくる、あの苦学生である。しかし、世間の人たちが思うほど、苦労をした気もないし、頑張っている気もさらさらない。普通なのだ。自分にとっては当たり前のことなのだ。それをさも貧乏人は苦労するなぁと言わんばかりの顔をして、気の毒そうに言ってくる。それが、本当はムカつくし、いい加減にしてくれ、俺たちは、夜の大学でも、普通の大学として感じているし、十分エンジョイもしているのだ。知ったか振りをするのはやめてほしい。
 阪急淡路の駅は、三和銀行側の改札口から入るが、その前の道は、結構狭い上に、よく車が通り非常に危険である。慌てて渡ろうとするといきなり、乱暴な車が歩行車そっちのけで突っ込んでくる。思わず、後ずさりを余儀なくされる。よくもこんな狭い所に駅を作ったもんだ、客待ちのタクシーも駅舎にくっ付いて止まっている。わざわざこんな通行の邪魔になるところに止めなくてもええのと違うのかとボヤイテしまう。
 やっとのことで、改札口を通り、これまた狭い階段を降り、小さな売店を横目で見ながら暗い通路を三メートルほど行くとか北千里や京都方面行のホームへ上がる階段がある。そこをさらに奥の方へ進むと、別の階段がある。この階段を上がれば、梅田や天六方面へ向かう電車のホームがある。夕方のラッシュ時になると、この狭いホームは、大変危険な様相を呈する。梅田方面へと向かう電車から、天下茶屋など市営地下鉄に向かう電車に乗り換える乗客と、出口へ向かう乗客とが交差する隙間を縫うように、電車に乗り込まなければならないからだ。
 阪急電車は、他の電車に比べると、電車の雰囲気が良いとよくいわれる。もちろん木目調の内装や、高級スェード生地のシートなどは、高級感がある。宝塚線などの沿線はさぞかし乗客も高級なのだろう。その一方、こちらの堺筋線は、それほどでもなく、どちらかというと庶民やサラリーマンなどが多いように思える。それでも、長髪で、裾がほどけたジーンズを穿いた自分の姿はヒッピーにも見える。それで、時々は、自分が貧乏くさく、野暮ったく思われてはいないか、他人の目が気になる。それで少しは虚栄を張って、電車の中では、本当は普通の学生なんやというように主張して乗ることにしている。
 長柄橋から見える、夕暮れ時の淀川は奇麗である。葦の葉が茂り、十三大橋の向こうの方の空に沈んでいく夕日が、淀川の川面を照らし、土手を散歩する人々を赤く照らし、一幅の絵画を見ているような気分にさせてくれる。その余韻に浸っている間に、電車は地下へと潜り込んで行った。天六からは大阪市営地下鉄の領域に入る。阪急電車と相互乗り入れをしているのである。ホームの一番後ろの出口が大学に近いので、そちらの方向に向かって、ホームから上へ上がり、改札を出た後も、しばらく地下の通路をまっすぐ行くと、地上へ出てくる。地上に出ると雰囲気が一気に変わる。天六商店街から天七商店街へと続いており、居酒屋、スナック、パチンコ店、衣服店や喫茶店などが軒を連ねて並んでいる。しかし、天七商店街からは頭上のアーケードはなくなる、日本一長いと言われる天神橋商店街は一丁目から八丁目まで続くが、一丁目と七丁目と八丁目にはアーケードはない。
 その天七商店街を長柄橋方面へしばらく進み、大きな道路を右手の方へ進むと、三叉路にぶつかる。そこを左に曲がるとすぐに大学が見えてくる。その周辺には学生がよく立ち寄る学生街らしい喫茶店や古本店などが並んでいる。百年以上も前にできた大学である。校門も立派な石造りである。校舎も石造りの歴史と風格が漂う風貌である。この大学の過去の卒業生は、法曹界をはじめ各界で活躍され、多くの大阪商人などもこの大学の出身者が多い。昔はここがこの大学の中心的学舎であったが、今は、この学舎は夜間部に通う学生達が主に使っている。
 小田哲夫は、この大学をこの年の二年後に卒業して、サラリーマンとして四十年間働き続けこの春、定年退職した。三人の子供と妻との五人家族で、平平凡凡ながら、どうにかこうにか世間並みの生活ができ、四十年間生き延びてこられた。しかし、四十二年前あの時の自分が、なにかやり残したことがあるような、成し遂げなければならない使命があったと思う。それが、普通の生活を送ることにより見失ってしまったような、すっきりしない気持ちでいる。できることならば、あの時の自分に出会って、本当に何をしたかったのか、どういう人生を生きたかったのかをもう一度、その時の自分に問い質したいと思い、自宅の三階の子供部屋の奥深く眠っている四十二年前の日記を探すことにした。

 平成二十六年のそんな折も折、奇しくも、我が青春の汗と涙とが一杯詰まった天六学舎が取り壊されることになってしまった。この間、大学時代からの古くからの友人でありかつ親友でもある西田和男から電話がかかってきて、学舎が取り壊される前に皆で記念写真を撮りたいと私を誘ってきた。断る理由もなく、二つ返事で引き受けた。大体こういう時は、西田は発起人みたいなもので実質的な事務局は、小田が連絡役を任される。九月のシルバーウィークの終わりごろが良いということになった。今から二週間で、連絡できるとことはすべて連絡することにした。取敢えず、手は打つだけ打ったので、西田には申し訳ができる。あとは、何人集まるかだけだ。
 久しぶりの再会だった。何度か連絡を取り合っている学友もいれば、卒業後ほとんど連絡がなかった学友もいた。そういうことで、私たちは懐かしい天六学舎の門の前に集合することになった。何しろ、四十二年ぶりである。少し、不安を抱えて、門の前に着くと、門の向かい側のビルの前の植木を植えている花壇のコンクリートの枠の縁に座っている一人の頭の毛が薄くなった老人が目にとまった。もしや、ひょっとしたら学友の大引君かと思い、とりあえず、勇気を出して、近付いて聞いてみることにした。
「大引か?」
「おう、そうや」
「小田か?」
「そうや!」
「久し振りやなぁ。すっかり変わってしまったなぁ。」
「ああ」
「全然わからなかったよ」
 何と驚いたことに彼は、予想通り大引義男くんであった。
 すっかり容貌も変わっており、雰囲気も学生時代とは全く異なり、想像でき難いぐらいであった。学生時代は小柄だががっちりとした体格で、筋肉も鍛え上がれて、胸も厚かった。しかし、今目の前にいる大引は、小太りで、特に頭のてっぺんあたりの毛はほとんど無くなり残っている毛も白髪が大半であった。目の前にいるのが、あの元気で筋肉質の小宮山かと、私は不思議な感動を覚えた。
 その余韻に浸る間もないぐらいに、次から次へと学友達が集まってきた。皆、どの顔も笑みがこぼれ、久し振りの再会の喜びを全身で表わしていた。女性陣は、老けたとか、皺が増えたとか、お互いの風貌から話に入っていってから、近況やら家族やらについてあれこれ話がすぐに盛り上がっていた。一方、男どもと言えば、まず、頭も毛の多さや白髪が増えたかどうかという話題から入り、次第に学生時代の思い出について話はじめていた。
 ある程度時間が来たので、ぞろぞろと正門から学内の奥へと歩き始めた。警備員には、私たちが卒業生で、今回取り壊す前に最後に見ておきたいことを伝えた。すんなりと了解してもらえた。昔と殆ど同じ佇まいの学舎に同窓生から歓声が上った。
 体育会系の部室があった場所、堀田とよくバトミントンをした、部室前の中庭、休講の時によく学友と政治や哲学や文学などについてあれやこれや、駄弁りまくった喫茶店がある有隣館。野球部がキャッチボールをしていたマウンドとネット、掲示板があった中央の入口。どれもこれも懐かしく、もう一度あの昔に戻りたいと思った。
 取り壊される直前の、青春時代の思い出が一杯詰まった学園。できることならば、小田は一人で、この匂いや景色や雰囲気に溺れていたい気分であった。そして、四十二年前の自分と出会いたかった。しかし、次から次へと記念撮影をしなければならないために、そんな余裕はなかった。
 他の学友たちが、歓声を上げたり、思い出話に笑ったりする声が、学舎に跳ね返ってこだまして、聞こえてきた。小田はそのこだまを聞きながらも、四十二年前の自分を探していた。あの時の自分は、どうしてあれほど熱く、政治に関心を持ち、のめり込み、デモにも参加して機動隊とぶつかったのか。マルクス・エンゲェルスを勉強したことは、正しかったのか。
 フォークソングにはまり込み、「友よ」「今日の日はさようなら」「戦争を知らない子供たち」「遠い世界に」などをよく歌ったりした。しかし、卒業後は、ほとんど歌っていないのは何故なのか。下山良郎や南原浩一らとフォークソンググループ「白い羽根」を結成して、京都放送のアクションヤング大丸に出演して、歌を歌った時は、どういう心境だったのか。
 いくつもの疑問が生じてくる。できることならば一九七〇年代の自分に聞いてみたい。四十二年後の平成二十六年の今の私が、なすべきことはないのか。やり残したことはないのか。夢は叶ったのか。もし、今の私が死ぬ前にできることがあれば教えてほしい。

 ある程度、予定通りの撮影ができた。校舎のなかでも。正門でも参加者全員の記念写真が撮れた。これだけでも今日集まった甲斐はあった。大成功であった。しかし、小田の心だけは、冴えなかった。
 記念写真撮影も終わったところで、皆で、天六商店街を天四方面へと歩いた。この商店街も通学で、何度も通った道である。店は大分様変わりして、昔の焼肉の焼く匂いや、居酒屋から聞こえてくる歓声は聞こえない。そのようなべたべたの大阪らしい店は影をひそめ、洒落たファションやアクセサリー、携帯ショップなどが目立つ。途中、西田はカメラ屋に立ち寄り、本日中のプリントアウトと写真のデータをCDに落として欲しいと若い女性の店員に依頼した。二時間後に出来上がるらしい。それまで、あらかじめ予約していたJR天満駅前にある大手の居酒屋で、飲食会を持った。どの学友も四十二年前の学生時代に戻り、心がその時代に移ったかのように、青春時代の苦い思い出や苦労話も交えた会話に盛り上がったり、各グループごとに笑いが起きた。
 その盛り上がった宴会の場においても、小田は、一体、自分は、なんのためにあんなに苦労してまでも、夜の大学へと通い、そこで何を学び、どれだけ成長し、それが、その後の人生にどんな影響を与えたのかを知りたかった。しかし、昔話は面白おかしく語るだけの宴会の場でそれを求めるのは所詮無理なことであった。小田は、早く家に帰って、押入れの奥から見つけ出した四十二年前の日記を読みたいという気持ちで一杯であった。そして、青春時代の自分に会いたいという想いを抑えることができなくなっていた。しかし、その場は、面白い顔を取り繕って、仮面の男として振る舞った。学友たちは小田が、そんなことを考えていたとは、露にも思わなかっただろう。
 二時間が過ぎたので、西田が、先ほどプリントアウトを頼んだカメラ屋へ戻った。しばらくしてから戻ってきて、全員から飲食代と写真代との合計五千円を徴収しながら、写真とCDを配った。それぞれ、記念の写真を大事そうに仕舞い込んでから、解散することになった。これで、天六学舎取り壊し記念の同窓会は、終わった。また、やりたいという学友たちの声に小田は、気のない声で、そうやなぁとだけ答えておくことにした。
 急いで、家に辿り着いたら、すぐに、一九七〇年代の日記を置いてある三階の子供部屋へ駆け上がった。今は、子供がいないので、私が仕事部屋兼書斎として使用しているこの部屋にまだ置いている子供が使っていた机の本棚に、その日記は仕舞い込んでいた。いつかは読む機会があると思いながらも四十二年以上も一ページすら読んだことがない。何故、読まないまま今日まで放っておいたのかは、分からない。読む余裕がなかっただけなのか、それとも読むことを拒否していたのか、はたまた、読むことにより、自分が本当にしたかったことに気が付くのが、怖かったのか、歩むべき人生を誤ったことに気が付くのが怖かったのか。
 そんなことを考えながら、二冊あった、一冊目の日記を読み始めた。その日記は一九七一年の三月七日から始まっていた。その日記を読めば、私の学生時代の謎が解けるのだろうか。期待と不安とが入り混じった不思議な感じで読み始めた。一九七一年にタイムスリップしたかのような時間の谷間に、いきなり放り出されたような気がした。一九七一年の自分が確かにそこには、まだ生きていた。
 懐かしくもあるが、一抹の不安と恐怖を覚えながらページを開いた。四十二年前の自分が一ページ目に何を書いているのか、物凄く興味があった。一ページ目を読めば概ねそれ以後の展開も分るだろうと高を括っていたのだ。

 小田哲夫は、奈良県の南部の五条市の生まれである。とはいっても、本当は、吉野郡大塔村赤谷という十津川村の手前の村で昭和二十五年に生まれた。小学校卒業後、姉が五条高校へ進学するのを契機として、五条市に引っ越してきた。小田哲夫は五条中学に通うことになった。その後の平成の大合併で大塔村も五条市に組み込まれ、結局、五条市大塔町になってしまったため、自分の出生を語るとき、いつも吉野の山奥生まれと語ってきたが、それ以後は合併後の話も必要となり、説明するのにすこし手間がかかるので、その手間を省いて単に吉野出身とだけいうようににはしていた。
 ともかく、この五条市の中学校を卒業した後、小田哲夫は、今度は、吉野町にある高校に通う羽目になってしまった。これも語れば長くなるのだが、一言でいえば、家庭の経済状況で、高校を卒業すればすぐに就職できる高校を選んだためだ。通学時間が一時間半もかかり、本当につらい高校生生活であったが、その後、大学進学を決意し、周りがほとんど就職していく中で、受験勉強に没頭することになった。その大学受験を考え始めた時とほとんど同じぐらいの時に、小説家にもなりたいという気持ちが溢れてきた。それで、そのためには、まず日記を綴ることが一番と考え、その後、大学を卒業するまで日記を書き続けた。
 その日記が今目の前にある。先ほどからかなりの時間その日記を眺めるだけで、開くことには抵抗を感じていた。本当に四十二週間年前の赤裸々な自分の姿を見てもいいものか、それは思い出として、押入れの奥にしまっておいた方が良いのではないかと思えた。若い時のラブレターを読むのと同じで、それで時代が変わるわけではなく、自分という人生が変わるわけでもない。もし変わるようならば、それは大事件となる。そんなことを考えながらも、恐る恐る、ページを開いた。それは、大学一回生の終わりごろからのものであった。すなわち、一九七一年三月七日から始まっていた。丁度この年は、大阪に出てきてからまる一年目を迎えようとしていた時期でもある。

第1章 退職と儚い恋

 小説が書けない理由は何かと考え続けている。自分自身の思想が固まっておらず、その上、自分の文体も出来上がっていないからだと決めつけていた。私には、何の経験もなく、確立した個性がないのだ。しかし、どうも足りないのは、それだけではない、なにかもっと足りないものがあるはずだ。そんなことを考えながら、まず小説を書く上で、最初に決めなければならないのは、ロマンチシズムかリアリズムかの選択だ。今日それがはっきりしたような気がする。結論は、純粋なロマンチシズムである。これは当然の結果である。というのは、今、私は青春時代の真ん中にあり、空想性、いや夢想性に富み、その中でも純粋な愛に基づく「誠」が大好きだからだ。それなら、その系統の文学を追求すれば良い訳だ。しかし、それも一筋縄にはいかない。これは、私の浮気性、融通不断な性格のせいだろう。
 文体についても少し研究してみたが、夏目漱石風の漢字の多い文体がよいと思ってみたが、果たして、ロマンチシズムの自分の書こうとしている内容に合うのかよく分らない。
 今日は、朝から憂鬱なぐらいに積み上げられた住居届に関する仕事が、私を捕まえて離さなない。私の仕事は、公立小学校の事務職員である。
 人間とは、よくよく自己愛に溢れているように思える。私の学校の先生方ときたら、その書類に反対しているかのように、住居届を出そうとしない。ところが、その書類を提出した後の利益は当然欲しているのだが、その事実を素直に認めようとはしない。はぐらかそうとする。それがまた皮肉にも皮肉、自からその利益を放棄してもよいという風な格好をつけた態度を取ってくる。そして、その対応をすべて私に任せてくる。これは人間としてどうかなと思えてくる。
 今日は、そんな雑務に振り廻されて、昼過ぎまで時間を潰してしまった。そして、昼の一時半から始まる職員会議を避けるかのように、私は大阪府教育委員会三島地方出張所へと向かった。これは、会議で雑用を言い付けられて自分の時間がなくなるのを避けるためにとった行動といえる。
 夕方、三島地方出張所での仕事も一段落が付きかけたころ、大阪府庁に勤めている西田くんから電話がかかり、一緒に夕食でもしようということであった。待ち合わせ場所の大阪府庁のある天満橋駅へと向かった。駅は帰宅を急ぐサラリーマンと夜の街へ繰り出していくサラリーマンたちでざわめきごった返していた。そこへ大森がやって来た。三人揃った所で、近くマーチャンダイズビルの地下にある焼肉店へ入り込んだ。
 文明は発達したものだと私は思った。そこで初めて下に網を敷きその上に肉を置いて、その上から熱線を当てて肉を焼く方法を知ったのだ。大阪の方々には、当たり前でも、田舎者の私にはすべてが新鮮に見える。
 激しく音を立てて焼き肉が焼けるのを面白そうにじっと眺めていたら、肉が真っ黒に焼け焦げてしまった。焦げた肉もまた香ばしくて美味しい。次から次へと肉を焼きながら、私たち三人は、新たな革命組織づくりの話を始めた。それは、既成の組織ではなく自分たちで新たな組織を立ち上げようということである。その組織の名前は、「緑の会アビック支部」をつくることである。その名前の由来も意味合いもしらない。西田が思いついた名前らしい。私は名前はどちらでもよく、あまりこだわりはなかったので、批判はしなかった。
 いろいろ、組織の運営方法や立ち上げ方など、話したが、うまくまとまらなかった。それで、とにかく、組織の基礎作りをしようということで意見が一致したところで、解散となった。その帰路の地下鉄東梅田まで行きそこで阪急電車に乗り換え、淡路へ向かう電車の中で、昨夜来考えているロマンチシズムの小説を書くための自覚を促すために、いろいろ思索をした。
 淡路駅で降り、下宿へと向かう道の途中にある商店街の本屋で、何か自分の求める小説にヒントを与えてくれる本はないかと覗いてみた。「純愛記」という小説を見つけた医学博士の書いたものだ。しかし、私の求めるものではなかった。店仕舞いをし始めた店主に促されるようにその本屋を後にしたが、少し不満足に思い、裏通りの路地にある古本屋にも立ち寄った。夜も遅いので、店の主の顔色を伺いながら、恐る恐る、自分の求める本を探したが、結局見当たらなかった。
 しかし、こんなに遅くまで店を開けてくれていた店の主のためにも、自分のためにも、現在日本文学史を購入することにした。日本文学の中には、私の求めるロマンチシズムの小説はあるのかを見極めたかったからだ。下宿に帰るや否や、まず浪漫主義のページを捲ってみたが、見つからなかった。それで次には、その他の文学の中にはないのかを探ってみた。やはり日本の文学の中にはないと結論せざるを得なかった。それならは、外国の文学にはないのかを探ることにした。
 夜も更け十二時近くになったところで、私は、不意に思い出したのが、先ほどの浪漫主義の文学者のなかに堀辰雄という小説家がおり、「風立ちぬ」が主要作であることに気づき、その作品を少し読み始めてみた。なんだかその柔らかいタッチの文章の中に私の求める文学があるように思え、少し、気持ちが安らいできた。そして夜は休むことにした。

 小田哲夫はここまで読んで、はっとした。今の自分より一九七〇年代の自分の方が賢く、偉いように感じた。今の自分は、典型的な会社型人間として、生き続けてきただけのように思えた。あの理想や読んだ本の中身があまり記憶がない。なんと情けないのかと、歯ぎしりもしたいが、歯ぎしりする歯も少なくなって、うまくできない。絶望的な気持ちになりつつも、次の日記から一気にその年の春から夏までに書かれた日記を時間をかけてよみ耽った。
 昨夜考えた予定では、今日は大学の図書室へ行って、外国の浪漫主義について調べるつもりだった。ところが、朝早く大森から電話があり、本日午後から扇町公園で、インドネシア問題の集会があるから、西田と三人で参加しようということになった。それで図書室行きは諦めざるを得なくなった。扇町公園は三月の九日とはいえまだ寒く、身を氷らせるような寒さであった。その寒風の中、寒風にはためく夥しい数の赤い旗を眺めながら、二時間ほど、アジテーションをする声を聞き続けた。アジテーターのがなりたてるようなスピーカの音を聞きながら、そのやかましいような音が、かえって、反戦活動や革命運動に参加しているような、満足感を与えてくれる。自分が革命家になったような雰囲気を醸し出してくれるのが不思議であった。
 そうは言っても、実際のところは、寒さだけが堪えた集会となった。西田と大森はどうだったのか聞かなかった。聞くのが野暮に思えたからだ。それで何も聞かずに帰ることにした。しかし、ここまで来たのだから、図書室へ行かずに来た甲斐がないと思い直し、何か意義を見つけようとして、三人で、天六商店街の「館」という喫茶店へ入った。その店はその名前の通り、中世の館風に仕上げた建物で、なかなかの洒落た雰囲気を持っていた。西田はその店で、民主青年同盟的雄弁さを発揮した。同じ所に停滞して先に進まない西田の革命論に少し苛立ちを覚えた。
 西田の革命論は、「弁証法的唯物論」という物で、高橋庄治の著作などを参考にしているようだが、それほど弁証法に詳しくはなく、革命的というには甘いというぐらい、庶民的でサークル的な発想で、とにかくみんなで仲良く、労働者中心の体制を作ろうというものだ。しかしそのことを実現するためには、今は選挙しか方法がないという。かったるく覚える。革命を起こすなら、もっと打つべき手が他にもあるだろう。もちろん選挙も大事だと思うが、もっと若者らしく、過激に熱烈にやるべきことはないのか、なにか何十年先のことなど、遠い未来のことのようで、到底西田の悠長な話にはついていけなかった。
 そんな夢か何かわからない得体のしれない革命論を聞けば聞くほど、いや増して、私の求める、ロマンチシズム的ユートピアの方に興味が向う。西田はそんな私の心の中を知ってか知らないでかは分らないが、自分の論理だけが正論であるかの様に私に話してくる。あれやこれやと西田が知っている知識と理論のすべてを使って喋りまくってくる。私はもう全然何も頭に入らなくなっていた。
 「友をとも 話はずまぬ 浪漫主義」とかなんとか頭に思い浮かべながら、結局、社会主義や共産主義はリアリズムなのだと思った。私の求めるのは理想主義なのだ。浪漫主義なのだと心の中で叫んでいた。
 ロマンチシズムの美を追求してK大の図書室へ向かうことにした。今日は、誰にも邪魔されずに行けた。しかし、思ったほど結果は出なかった。分かったことといえば、私の求めるロマンチシズムはなかったということだけだ。
 いつものように、講義が行われていないK大の天六学舎は、なぜかもの寂しい影に包まれているようであった。だが、K大の図書室に行く通路だけが明かりが灯されていた。図書室では、「名詩訳集」を借りて出た。その本を帰りの電車の中で読んだ。時々電車のドアーに映る自分の姿が非常に物憂く感じられて、仕方がなかった。
 まっすぐに下宿には帰らず、途中にあるパチンコ屋に立ち寄ったので、下宿に辿り着いたのは十時過ぎであった。自分の探しているロマンチシズムが見当たらない悲しみと焦りが私を襲ってきた。でもふと寝ころんで考えたことがある。それは、人間性を万民に自覚させ発展させるとういうことである。その基盤に立った真の人間性に満ちた文学を求めるという方向である。すなわち、「山のあなたに」の『幸せ』に到達しようということである。
 そこで、私の文学は、ロマンチシズムではなくてはならない。リアリティな構成だが、その中身はロマンチシズムがある、そのような折衷とも思える手法である。あたかも、雪国の銀世界のなかにある一軒の山小屋の軒先から氷柱がぶら下がり、その氷柱が、太陽に照らされて一滴一滴時間をかけて雫を大地に落としていく。その雫が太陽を含んで映るとき、本物の金以上に光り輝く瞬間がある。その瞬間にきっと出会える。その雫のような美学が私の求める美学のような気がした。
 真の文学とは何か、それはその人の多角的な個性が発揮されて、文章として書きしたためられた芸術作品であるということか。
 最近私は、この個性を求めているのである。この個性を掴んだ時に、私の真の文学活動は始まるような気がする。少なくとも今はそう思える。
 昨夜は堀辰雄の「風立ちぬ」を一気に読み終えた。とはいっても精読ではなく斜めに流し読みしただけである。しかし、その文体や雰囲気は私を懐かしい気持ちにさせる何かがあった。恥ずかしながら、少し前に一度は少しさらりと読みかけてみたが、あまり何も感じなかったので、一旦中断していたのだ。それを昨夜は最後まで目を通したのである。
 その懐かしい気持ちが何であるのかは、良く分からないが、近世ヨーロッパ、特にスイス風の牧歌的な感じがした。文体は一センテンスが結構長いようだが、それが気にならないぐらい、流れるように読めて、読み易かった。これがプロの文体なのか、学ばねばならないと思った。
 美しい文体から、自然の風の騒ぐ音や、葉っぱと葉っぱが擦れるような音が聞こえてきそうで、それでいて、哀愁に満ちた文体である。そして、その自然のなかに、ちっぽけそうに見える一人の小さな人間の生命が、大きな純粋愛に包まれているように感じた。
 今日は、堀辰雄の別の作品も読んでみたいと思い、集英社の「堀辰雄集」を購入した。最初にその解説部分を読んでみたが、その中に、私は一大発見をした。それは、第一に、堀辰雄ですら、いやすべての作家に共通したことと言えるかもしれないが、世界中のいろいろと文学を渉猟したようなところがあることである。驚いたのは、堀辰雄の文学にあのラディゲが含まれていたことである。ラディゲと言えば、三島由紀夫を心酔させた作家である。そのラディゲを堀辰雄も読んで影響を受けていたということである。堀辰雄と三島由紀夫との接点は何なのか、ものすごく興味が湧いてきた。
 この関係性を明確にできれば、そこに何か自分の求める新しい文学が見えてきそうに思える。今の自分の悩みを解決してくれる何かが、その二人に影響を与えたラディゲその人が、私自身にも大きな影響を与えてくれるような気がした。

 心多く  個性解らず  ギターつまびく
 探すべく 捜し求めて  今日ラディゲのなぞを掴みぬ

 不安の蟠る中、煙草を買いに淡路駅構内の売店まで出かけて行った。その途中、独文を専攻している知人の中田直也にばったり出会った。二人でそのまま近くの商店街の喫茶店に立ち寄ることにした。二人で交わす雑談のなかで、彼に何かを慰められるような安心感を覚え、私の悩める心は一時的にも楽しい気持ちになった。
 悩みというのは、職場の辛さを告白し退職するかどうか―−実はもう退職をすることを決めていたが…。
 実は、昨日、吹田市教育委員会の課長から直々にとどまるように言われていて、すごく迷っていたのだ。
 それを知らない中田は、私の真剣な悩みに応えようと一生懸命話をしてくれたのだ。本当の辞める理由は、職場の辛さではない。学問と仕事、小説を書く時間が欲しいという悩みだ。そこで、仕事を軽くしてその時間を作りたかったのだ。
 中田は、自分が勤労学生である理由を、宿命であるという。よってその宿命の中で、不可能なことは不可能だから辞めるのは意味がないというのである。その宿命と向かい合い、勤労学生にならざるを得ないし、そんな環境でも公務員は最適の環境である。職場の皆んなも応援してくれるし、時間的にも他の職種、民間企業などに勤めている人たちよりはかなり優遇されているというのだ。彼も私も公務員なのだ。
 特に、私はその公務員の中でも最優遇されている好適の小学校の事務職員なのに、それを辞めるのは勿体ない、絶対辞めてはだめだと彼は言い張った。実際、アルバイトに切り替えて時間が増えたとしても、そう簡単には、この厳しい時代の社会の中で生きていくのは大変だ。だから、今の仕事を続けるのが一番と言ってくれた。
 しかし、今まで、誰に相談しても、みんな同じ理屈で私を説得してくる。それで、山田の理屈も同じなので、辟易するところだが、今日はなぜかあまり反発しようとは思わなかった。なぜか、不思議にも快く聞くことができた。
 とはいっても、不安とか葛藤とかは、一つが解決に近付けば、他の問題まで明るくなってくるような気がする。今私は、その明るさをもって、この日記を書いている。
 斜めに差し込む光が、私の部屋に春の匂いを運んでくれている。その眩しさが逆に私の寂しさを際立たせているように思える。思えば、昨年の今頃、私は奈良の田舎町の五条市から大阪市北部の東淀川区への旅たちに胸を膨らませていた。それと同時に一抹の不安と寂ししさも表裏一体で私の心にあった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


青春の悩みと闘争

2017年1月23日 発行 初版

著  者:小田哲夫
発  行:edi-well出版

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edi-well

税務関連を中心として執筆活動を展開。個人的にも小説を執筆。また、自称;個人出版社を立ち上げ出版したい人たちの手助けをしたい。AFP

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