───────────────────────
───────────────────────
『ヒストリア・アウグスタ』は、そう述べている。
ガリエヌスは詩と雄弁術で、そして、全ての芸術で有名だった。
彼が兄弟の息子の結婚を賛美していた時。我々は彼の一人の、弟の存在だけを知っている。
「プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス」。
しかし、既に第一章でも述べているように、このリキニウス・ウァレリアヌスについての、皇帝ウァレリアヌスの次男や皇帝ガリエヌスの弟としての、公的な立場としての、史料上での登場は一切なく、この人物についての詳細は、ほとんどわからない。
そしてこの時、彼ら新郎新婦に捧げられた、この詩は、『ヒストリア・アウグスタ』によると、皇帝ガリエヌス自身のものだとされている。
彼はギリシャ語で、そして、数日に渡り、ラテン語で彼ら自身の祝婚歌を暗唱していた、百人の詩人の貢献の間で、傑出していた彼によって作曲される婚礼の歌を復唱した。
おそらく祝祭がそうであったに違いない結婚式を、期待はずれに延ばされる。
それから、著者は三本の六歩格線を供給している。
「さあ、我が子らよ。心の奥深くに眠る情熱を揺り起こし、共に熱くなるがいい。お前達が交わす愛撫と甘い囁きには、鳩達とてかなわない。抱擁と口づけには、蔦も貝もかなわない。楽しくやるがいい。だが、用心のため、オイルランプを消してはいけない。夜、彼らは全てを見ている。だが、明日になれば何も覚えていない」。
これらの三本の行が、ラテン語のアンソロジーで表示される。若干の版で。更に二本の行も。
利用できるアンソロジーの全ての版において、詩はガリエヌスのものとされる。
ロナルド・サイム卿。しかし、彼は初めてこの一連の詩の著者についての懐疑論を、表した。
だが、ブレイはこれら五本の行の全部の詩を、ガリエヌスのものであると考えるとするのは、正当であると思うとしている。そしてこれから、この点についての詳細な彼の意見の紹介を、させてもらう。「サイムは若干の優雅さで、この詩の三本の行を正当に描く。同じ事は同様に、他の二行にも、言うことができる。」
ちなみにこの詩の中で使われているのは、ヘクサメトロスとは詩形の一つで、一行が六つ(hexa)の韻脚からなる、六脚韻の形式である。ヘクサメトロスという韻律は、ギリシャ文学の叙事詩の韻律である。この韻律で作られた代表的な詩は「英雄叙事詩」の「イーリアス」や「オデュッセイア」であるが、他にも「教訓詩」や「小叙事詩・牧歌詩」、「風刺詩」などに用いられた。
そして引き続き、ブレイはサイムの他に、この『ヒストリア・アウグスタ』中に引用されている詩が、ガリエヌス自身の作であるとする事に、懐疑的な見方を示す他の研究者として、ブラウアーが、この三本の行を、甘い柔弱さの典型的かつ、おそらく当時では、新しめの古典的な韻文と称すると紹介している。そして更に、自分はこうした意見にも、反対であるとしている。
「私は、これが不当であると思う。結局。詩は、新婚初夜の称賛である。詩の内容は、戦闘の際の聖歌でもなく、飲酒の時の合唱でもなく、新婚初夜の称賛である。
これらの行は本当に甘美である、しかし、私にはこれらについての、柔弱さは、何も見えない。おそらく、双方は彼らが何をしているかについて、見ることができる。
そして私はサイムが照会する、独立した証明を見つけることができなかった。
彼の懐疑論は、私が利用できる、少しの初期の当局によっても、分けられるようでないか、
「ラテン・アンソロジー」の三つの版の版によって、アデレードで相談することができまなかった。これらは、十八世紀のバーマン版の、一八三五年のマイヤーの修正で増大された版である。一八七〇年のriese版と一八九二年のbaehrens版。」
私は、もちろん元の写本にアクセスしなかった。
詩がそうである全三つの版で、彼自身が著作者という点に投げかけられる、いかなる疑いも、何でも単にガリエヌスのものとされないこと。各々は、私がそしての古写本。そしてそれは。
彼は言う。binetusによって十分に忠実に見受けられるようである。
二人の編纂者が同じ史料に、本当に言及するように。各々も、バーマンとマイヤーの版に、相互参照を与える。 彼のメモのマイヤーは、バーマンとヴェルンスドルファーの史料として与えて『ヒストリア・アウグスタ』のバージョンに言及する。しかし、彼も以下の重要な情報を提供する。彼は警句に匿名の詩を持っていて、前者を信頼して、全体を皇帝ガリエヌスの著作とした事は、確かにあり得る事だろう。だが私はガリエヌスが著者である事を否定するまでの、サイムなどの研究者達の『ヒストリア・アウグスタ』に対する不信の理由がわからない。
私が言ったように。その実際の著者を巡る問題は、そうだった。
私が知る。『ヒストリア・アウグスタ』(の中で、ガリエヌスの詩として紹介されている詩の、その実際の作者をガリエヌスと認める事についての、サイムの懐疑的な意見の本が、一九六八年に出版される前までは、一切問題にはされていない。詩がどこでもう一度単に、ガリエヌスのものとされるかは、「ケンブリッジ古代史」で、そして「オックスフォード本 ラテン韻文」で、当然の事と思われる。出典には、a.l711と全部の五本の行が、含まれる。
異なる最初の境界は、『ヒストリア・アウグスタ』から独立している、異なる出典と、少なくとも一つの出典を強く暗示している。「gallienus」の名前の表記の「galicus」または「galicius」の間違いとvossianusの古写本が、詩の作者を皇帝とした、彼の前に若干の出典を持っていたことを示唆するためのようである、皇帝ガリエヌス自身の作製した詩だとされている記述の真偽を巡っての、このようなブレイの見解である。
そして『ヒストリア・アウグスタ』の中での、こうした、ガリエヌスについての、弁論や詩作、あらゆる学芸に秀でていたとか、ガリエヌスが残しているとする、その数多くの詩や演説の原稿がある事を示唆する記述についてであるが。だがガイガーの、この点についての、この『ヒストリア・アウグスタ』の著者の、ガリエヌスについての記述の中で、彼のその演劇やギリシャ文化愛好などの嗜好についても、かなり否定的に取り扱っているような気配からも、私も以前からしばしば感じている、ガリエヌスの文弱とでもいうような、こういった批判の一端として、ユウェナリスに匹敵するほどの弁論家、傑出した詩人だったというこれらの記述も、やはりこれも批判の意図を持った著者により、あらかじめ創作された記述ではないか?というような指摘もある。
確かに、およそガリエヌスについて良く書く事など、めったにないとしてよい、彼については、否定的な記述で溢れている『ヒストリア・アウグスタ』であるから、この一連の彼の文学的才能についての記述も、そのまま、珍しくガリエヌスの才能を認めたがゆえの、こうした記述であるとは受け取れず、これも一種の批判の現われである可能性も、かなり高いと考えられる。
実際にも、一見、このように珍しく、ガリエヌスはこの点については否定できない事であるがとして、彼は弁論や詩作、そしてあらゆる学芸に秀でていたと肯定的に書くようでいて、結局はその彼の自作と称する前述の詩を紹介した後、すかさず、これまた「しかし、皇帝に求められることと、弁論家や詩人に望まれることとは別のことなのである。」という、そっけない一文が差し挟まれている。
更に、そもそも、ローマ皇帝というのは、帝国の領土防衛などの本来皇帝に求められるべきである、数々の責務だけ果たしておれば良いのだ、こんな文芸とかなどに、うつつを抜かしているものではないとでもいう調子である。これも私が『ヒストリア・アウグスタ』の記述を見ていて強く感じる事だが、どうもこの著者は、こうした文学・芸術全般に対する、ローマ皇帝の関心というものも、全体的に文弱と捉えているような感じである。更に、そのガリエヌスのギリシャ滞在などに象徴される、ギリシャ哲学への関心でさえも、あくまでも否定的にしか、捉えるつもりがないようであるし。そして、同様の指摘は上記のように、ブレイもしている通り、どうも全体的にこの著者は、皇帝が詩人などのように詩作をする事や、ガリエヌスがパントマイムや一般演劇などを好んでいた所も、否定的に捉えているようであるし。
またこの『ヒストリア・アウグスタ』と言えば、既に何人もの研究者達も指摘しているように、虚偽の演説や引用の、常習犯でもある。やはり『ヒストリア・アウグスタ』の中でガリエヌスの詩や弁論を引用するのは長くなりすぎるがとして、他のそれらの作品の引用は差し控えたというように書いているのも、元々、最初からそんなものなどは存在しておらず、とかく、ガリエヌスに関しては、投げやりな感じの記述が目立つ事からも、単にガリエヌスに関しては、わざわざ、架空ででも、その数多くの演説の原稿とか詩などを創作するのが、面倒だったというだけなのかもしれない。とはいえ、この婚礼の祝宴の席でガリエヌスが作ったという詩の典拠としては、vossianusの古写本という『ヒストリア・アウグスタ』とはまた別の、独立した史料も存在しているようであり、この詩が完全に彼の作品ではないとも否定しきれず、これが本当にガリエヌス自身の作品である可能性も、かなりあるのではないだろうか?
また、ブレイが推測しているように、本当に『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、ガリエヌスの多くの詩の著作を目にしながらも、この著者の一方的な価値基準から、それらを掲載しなかったのだとすれば、確かに本当に残念な事である。
そして更に、ブレイのこのガリエヌスの詩だとして紹介されている詩について、やはりこれは本人のものだと思うとする、以下の記述である。「それで、我々はこれらの五本の行から、ガリエヌスの言語技術を、審査する事を任せられる。これらはガリエヌスの作詩の、実力の証拠である。性的な行為の表現と陽気な楽しみの素朴な優雅さ。ギリシャ時代末期の恋愛小説。例えばロンゴスの『ダフニスとクロエ』『』やヘリオドロスのaethiopica(エチオピア物語)。三世紀に全盛だった。」彼がこう指摘しているように、ガリエヌスがギリシャ文学に、かなり関心が高かったようである気配は、感じられる。また文学好きな人物というのは、当人自身も、そうした才能に恵まれている事も、しばしばあるものである。しかし、果たして本当に、この詩が皇帝ガリエヌス自らが創作した詩であるのかについては、判断は難しい所がある。
そして、やはり、真っ先に疑われる事として、この詩も例によって『ヒストリア・アウグスタ』の著者自身の創作、という可能性であるが。
しかし、私はその可能性は、低いのではないかと思われる。このガリエヌスの詩だとして掲載されている作品は、既にブレイなども指摘しているように、ヘクサメトロスという、明らかにギリシャ詩固有の作法に則って、創作されており、ローマ人でもやはり、詩作を本業としている人物でもなければ、まず創作できないものである。とても特に、そういう教養があったとは思えない、このラテン語著者が独自に作るのは、まず不可能ではないかと思われる。
また、全体的な詩の感想としても、『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、適当に創作したと考えるにしては、優雅であり、出来が良過ぎるようにも思う。そしてこうした詩が作れる人物としては、かなりギリシャ文学についての教養が深かった人物であると想像され、やはりその作者は、ギリシャ文化に関心が深かった、皇帝ガリエヌス自身と考えるのも、上記のvossianusの古写本の存在と合わせて、それ程無理があるものではないと思うのだが。
それにこのように、とてもこの著者自身の創ったものとは考えずらい、巧みな詩について関連して感じた事であるが、全体的に、特にこの皇帝ガリエヌスに関しては、投げやりかつ、否定的な感じの記述が目立つ、この『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、その主な目的は他にあるにしても、わざわざ、例え空想上ででも、彼自作の詩と称する詩の創作まで、してやるものだろうか?という疑問も、ないでもない。
なおブレイはガリエヌスのこうした、深いギリシャ文化に対する関心から、彼が当時の代表的な古代ギリシャの文学作品である、ロンゴスの『ダフニスとクロエ』や、ヘリオドロスの『エチオピア物語』を読んでいたという証拠はないが、しかし、もし彼が読んでいないならば、彼の性格と感覚からすれば、むしろそちらの方が驚くべき事であり、彼がこれら一連の、三世紀の古代ギリシャ文学を読んでいた可能性は、十分あるとしている。
確かにガリエヌスがこれら当時の古代ギリシャの代表的な文学作品を読んでいたという確証はないが、彼がギリシャ哲学などと共に、やはりこうしたギリシャの文学作品も愛好していた可能性は高く、よって、ブレイも指摘するように、そのガリエヌスのギリシャ文化に対する興味・関心から考えて、当時これらの文学作品に目を通していても、不思議ではないと思われる。
そしてブレイはなおも続けて、こう述べている。
「私はしばしばガリエヌスの、それらとの関わりについて話した。私はそれについての彼の情熱」。それからこの『ヒストリア・アウグスタ』の中の記述からも予想される、ガリエヌスのパントマイムなどの演劇好きという点に関しては、何かとその信憑性に疑問が付きまとう、この『ヒストリア・アウグスタ』だけではなく、珍しく、他にも照合できる記録が残っている。
ガリエヌスのパントマイムなどの演劇愛好傾向は、他にもポストゥムスとの戦いに勝利した時に、皇帝ガリエヌスお気に入りの黙劇役者だったようである、ピラデスのパントマイム劇の上演を記念する、オスティアから発行されたコインの「gallienae augustae」の伝承の銘文からも、それはきちんと確認する事ができる。そしてこの銘文は、三つの断片から復元された。その中では、ピラデスを彼のその年齢の中では、一番のパントマイム役者と称している。そしてそれは彼が卓越したその技術によって、大勢の市民達の拍手に迎えられた、そして彼が二人の皇帝に、認められていたと語っている。
おそらく普通に考えて、この二人の皇帝とは、ガリエヌスとその父皇帝のウァレリアヌスだろう。そしてこのようにパントマイムなどの、演劇一般を愛好していた事が想像される皇帝ガリエヌスが、ブレイも指摘しているように、彫刻家達などと並んでこういった俳優達を保護していた可能性も、高いと考えられる。しかし、おそらく、このようにオスティアから発行されたコインの銘文からも明らかな、こうしたガリエヌスの、パントマイムなどの演劇好きが『ヒストリア・アウグスタ』の中での、おそらく著者の本意としては、彼が夜な夜な街をうろつき、ポン引きや黙劇役者や俳優達のような卑しい身分の者達と一緒に時間を過ごしていたという、批判的脚色に繋がり、ひいては、この著者による、更なるガリエヌスについての、批判の原因になったのではないかと考えられる。ローマ皇帝ともあろうものが、蛮族との戦いやポストゥムスに奪われた領土回復などよりも、こんな事にうつつを抜かして、けしからん‼という感じなのであろう。
そして『ヒストリア・アウグスタ』の中で、このように彼の演劇愛好に関しても、否定的に捉えられて書かれている点についてであるが。だが、これも、もしかしたら、この著者だけの個人的価値観から、来ているだけのものとは、言えないのかもしれない。これも既に述べているように、彼以降の時代、特にディオクレティアヌスらのコンスタンティヌス朝の時代に入ってから、目に見えて、その彫像などの表現水準が低下している事などからも窺える事だが、この『ヒストリア・アウグスタ』も成立した時期だと思われる、四世紀に入ってから、このように、それまでよりも、帝国の人々のこうした文学や芸術的な事に関する関心の低下が、この著者のこのような否定的な見方となって反映されている部分も、あるのではないだろうか?
そしてこれらのガリエヌスの演劇などに関する関心から考えて、更にガリエヌスは、絵画や版画などの造形美術の、有力な保護者でもあった可能性もある。実際に、アルフェルディなど、彼の時代には芸術面でも革新が見られる事から、やはり、これは他の軍人皇帝達に比べ、圧倒的にこうした芸術的な事に、関心や理解が深かったと思われる、皇帝ガリエヌスの影響によるものだと考えている研究者も、いるようである。そしてブレイもそのような認識の前提に立ち、ガリエヌスの時代の皇帝達の彫像についての意見と印象を、述べている。
「ガリエヌスは、造形芸術と視覚芸術の後援者だった。この時代の絵は失われた、しかし、その彫刻の気前がよい、豊富なサンプルは生き残る。肖像調査の形で、そして、石棺などの上のレリーフの形で。確かにおそらくこの皇帝ガリエヌスの時代に作製されたと推測される、ブレイの「Gallienus」の裏表紙にも用いられている、ローマのヴァチカン美術館所蔵の「哲学者達とムーサ達」と銘打った題名の石棺は、巻物を広げて中央に座す、哲学者の一人と思しき人物を始めとして、両側に居並ぶ他の哲学者達や女神のムーサ達各人物達の姿が、しぐさやその服の細かい襞に至るまで、大変写実的に描写されており、かなり美的水準の高い物である。第二の芸術と三世紀前半から四世紀後期の、古代のそしてた頃に作製された、皇帝達の彫像の「軍服姿のディオクレティアヌス帝と共治帝たち」。抱き合う二人のアウグストゥス、二人の皇帝達。顔は皆同一である。彼らは、概念化された統治者の顔である。けっして、彼ら個人の存在としてではなく。各々の統治者達は、その抱擁にも関わらず、その顔はじっと正面を見つめている。抱きしめられている同僚皇帝。頭に関しては、奇形という印象を思わせるくらいに短い。
全部の影響は、著しく不愉快である。そしてそうした特徴は、コンスタンティヌスのアーチでの姿で見つかる。すなわちとしてのコンスタンティヌスの姿として、そこに置かれる。
アーチに適用された、ハドリアヌスの時代から盗まれたメダルではない。二及び四世紀の間で対照。疲弊する。侵している野蛮性の文化と年代。
並置によって幸いにも例示する。見物人のコンスタンティヌス像は、不法占拠される。何かの塊のような。軍服、そして、生命感が死んだ表現。大きい頭と短い体で。彼らは、ちょうど壇と上部レベルの上の姿としての交換可能な、等しく従属する単位である。皇帝自身から離れて、誰の顔が除去されたのか。交換可能な等しい将校と統治者は、もはや一つの単位である。このコンスタンティヌスの彫像の途方もない上部は、より立派でより丁寧な形で、同じメッセージを発表している。それは、神に準じる理想の存在とされた完、全に左右対称の上部である。
それはそうだった。ロランジュが言うように。皇帝の神通力の表現力。個々の男性の肖像よりはむしろ。人体のそのような歪曲は、そうした。
ガリエヌスの年齢は、彫像形式の移行の年齢として現われる。その肖像の調査と石棺において、我々は古いものの生き残りと新しいものの事前警告を見る事ができる。
我々は、世紀半ばの現実主義の代表、更には正面のプレゼンテーションと、地域を来ることになっていたことのヒントをする人物で、一杯になっている事の、見本の例を見つける事ができる。
しかし、また、第三の要素がある。特徴的な何か、そして、前の時代の芸術の発達次の時代の芸術の前触れでもなく、敏速に動くこと。「ガリエヌス・ルネサンス」のタイトルを正当化する何か。それは、おそらく古典的ヘレニズムの標準への復帰と呼ぶ事ができる。というよりは、アントニヌス時代の新ヘレニズムに。 リアリズムは、より理想とされた概念に修正される。東洋の僧またはファラオのような神の統治者の、しかし、むしろ理想化されたギリシャの英雄アレクサンドロス大王。 (確かに現在ルーブル美術館所蔵の、おそらく単独皇帝となった頃と思われる、トーガ姿の端正な三十代頃のガリエヌスの正面像とそれ以降の彼の姿では、明らかに後年の方が不恰好で稚拙な感じの表現へと変化している。)
いわゆる「ガリエヌス・ルネサンス」というのは、古典的なヘレニズム様式への回帰とされている。というより、皇帝アントニヌ・ピウス時代の様式の影響を受けた、新ヘレニズム様式として。そしてその中でリアリズムは、より理想とされた概念に修正された。
ガリエヌスの肖像群は、彼自身を通してこれらの問題に光を投じるだけでなく、彫刻でその伝記の概要も提供してくれる。円盤型の。若干のケースでは、識別は論争中である、そして、年代順は解決されていない。通常この六つは、ガリエヌスの物であると定めたと叫ぶことのマッコールに認められたタイプによって、そして、彼の順序で伝えられるリストに、私はここで分ける。
彼は、最初の二つの調査をカピトリーノ州議事堂の博物館所蔵の物から開始した。他の写真が、アルフェルディにある。これらは、従来の肖像である。髪は短髪で、頭の上で下って平らになっている。またあご髭も短めでもある。表現は取り下げられて、抑制されている。
マッコールは、これはガリエヌスが共同統治を開始した頃の物だと結論付けた。ガリエヌスは用心深く、前の皇帝の様式に支配されている事に見せるだけで、満足していたのだという。マッコールは、ベルリン美術館とコペンハーゲンのニイ・カールスベルグ美術館所蔵の肖像を取り上げている。彼の情報によると、これらは二五六年から二六〇年にかけての物だという。顎髭はより巻き毛で、鋭く定められている。髪は正面より、より長くなっている。コペンハーゲンの方のガリエヌスの頭部は、一対の巨大な頭部の一つであり、他のもう一つはウァレリアヌスの上部であると確認された。
差し向かいになったウァレリアヌスとガリエヌスの上部で、更に二人の銀のメダルの写真も、紹介している。父の方のメダルは、ほとんど髭を綺麗に剃っているように見える。
そこの頭であるけれども、口髭のヒントは顎髭だ。メダルの一つにおいて、ガリエヌスは他の物より、若くてより明朗に見える。おそらく、彫刻家は彼に、より厳しい表情にするように命令されたのだろう。マッコールは、ルーブル美術館のガリエヌスの肖像は、彼が単独統治を開始した頃の物だと判断している。それは、上体を取り入れる。頭は、わずかに回されている。
巻毛は、よりふさふさとしている。表現されている表情は、誇り高くて、威圧的である。最も実際のガリエヌスをよく表現していると思われる肖像として、ローマ国立美術館(テルメ美術館)の胸像が挙げられる。その顔は端正であり、滑らかで皺がない。髪の毛は、より長い、そして巻毛はより固定されている。顎髭は、よりふさふさとしている。その頭部は、男性らしさを発散している。達成感による自尊心が、表わされている。そしてそれは彼の統治の半分の年までの、彼の勝利感を表わしていると考えられる。
更にマッコールのリストの中の、最後の二つのガリエヌスの肖像は、トルロニア美術館とニイ・カールスベルグ美術館の他の一つの肖像である。より厳しいこれらの表情。
より疲れ果てた感じの表情が・特徴的である。一見して、トルロニアにある、彼の頭部の写真の中の顔は、同じガリエヌスのそれとして、ほとんど認識する事ができない。
それは、より顔が短いようである。そしてより広くてより平らな。髪の房と顎髭のカールは、より慣例に従っている。明らかに、これを作った彫刻家は、テルメで調査をした男性ではない。四世紀の彫刻技術が、前もって示されているようである。主題が明らかに、ルーブル美術館の肖像と同じ主題であるが、正面の顎髭の並んだ様子にも、類似した処置が見られる。明らかに、これらの肖像は彼の治世が終了した彼の死後に、作られた物である。実際に、マッコールも、コペンハーゲンにある頭部は、ガリエヌスの死後に作られた作品であると判断している。アルフェルディが、ガリエヌスの肖像だと考えられるとしている、アテネのディオニュソス劇場で発見された、もう一つの頭部がある。歓喜の表情であり、ほとんど陶酔に近いそれである。髪は長くて、首の後ろの下で、肩までまっすぐに垂れている。
このアテネの頭部について、アルフェルディはこう言っている。この傑作から放射する霊界は、再び我々を彼の許へと連れて行く。
この判断が正しいならば、彼自身がこういう世界の中で見受けられるのを少なくとも許していた事に同意しなくてはならず、この彫刻の中でガリエヌスは秘儀の司祭である。
また、更にガリエヌスがセラピス神のように描写されている事を表わすかもしれないという説もある。この彫刻には、次の痕跡が見て取れる。三世紀半様式の継続とガリエヌス・ルネサンスの影響。この二つの彫刻は、一つはナポリに、そしてもう一つはバチカン美術館の、ブラッチョ・ヌオーヴォにある。アルフェルディは、これを「ブラッチョ・ヌオーヴォ」の胸像と呼び、代表的なガリエヌスの肖像と言っている。
しかし、もしそうならばそれは非常に若いガリエヌスでなければならない。
彼がウァレリアヌスと共に、共同皇帝に即位したのは、三十七歳の時である。
ベルリン美術館にある、ギリシャのメトロポリスから発見されたガリエヌスの頭部は、アテネで発見された頭部とローマ国立美術館にある、ガリエヌスの肖像のように見える。
それは滑らか、端正、皺がない。そして、わずかに理想化されている。
これらの表現には、ガリエヌス・ルネサンスの、ヘレニズム的特徴が現われている。
そして、トルロニアの頭部は、四世紀の特徴を前もって示している。メトロポリス劇場で発見された頭部は、ガリエヌスの物だとするアルフェルディの説に、疑義を抱くド・ブロワは、ガリエヌスの後の肖像の中に、凝った様子と古典主義を見ている。
更にその上、これは皇帝の壮大さを表わそうとしたものだとし、アウグストゥス時代から二世紀までの様式への回帰を、試みたものだとする。ハドリアヌスやアントニヌスの時代の様式までの。
これに対し、ブレイは、ブロワが指摘する通り、古典様式への回帰の痕跡が認められる事については合意するが、トルロニアとコペンハーゲンの二つの頭部については、そのような凝った痕跡は、かすかに認められる程度だとする。
しかし、更に続いて、それらの最後の肖像が皇帝を厳粛で、心配性の統治者として描写しようとする事には同意すると述べている。巨大な力の負担を、男らしく担う事を。そして更にブロワは、ガリエヌスの単独統治の治世半ば頃から彼のコインでの描かれ方が、明らかに変化しているという。
ブロワは、ローマの職人の流入が、ゴート族の侵入や二五〇年代の他の様々なローマ帝国内の危機の後から、ギリシャや小アジアから、更に西方の方にまで起こったと考えている。
これは、同様に、ローマ帝国の東方鋳造所で働いていた彫刻家やその他の彫刻家達についても同様で、そしておそらく、これらの職人達の一部は、ガリエヌスに対して反乱を起こした、ガリアの僭称皇帝ポストゥムスの鋳造途所で働いたのかもしれない。
そしてそれは、皇帝ガリエヌスの刻まれたコインといくぶん類似した、ポストゥムスのコインの事情として、そこで説明する事ができる。しかし、ポストゥムスは、彼自身を時々、ガリエヌスがこれまでしなかった、コインの正面上に刻ませた。このようなポストゥムスのコインの様式の変化は、けして彼自身が新たに作り出したというだけではなく、ガリエヌスの治世の間、彼の造形美術に対しての彼個人が与えた影響と後援により、様々な様式が生まれた事も大きく関係していると考えられる。
だが、特に古典的回帰とギリシャの英雄の表現の、現代美術に対する影響のためにも。いわゆる「ミネルウァ・メディカ神殿」。この神殿は、現在では二六〇年頃、ガリエヌスによって建設された浴室の区画の一部であると考えられている。」
また、二六五年にヴェローナをゴート族の侵攻から守るために、彼が建設させた「ガリエヌス城壁」と呼ばれる城壁もある。これは、やはりガリエヌス・ルネサンスと呼ばれる、大胆で新しい、当時の文化的状況を示している。なお、際立ってその表現形式が様式化していく、四世紀の皇帝達の描かれ方にも顕著なローマ美術の変化とくらべ、この三世紀のガリエヌスの統治時期は、リアルな表現様式が盛んだったという点であるが。
確かに、ガリエヌスの演劇やギリシャ文化など、芸術や文化への関心の高さから、こうした役者や彫刻家等の芸術家達への保護により、「ガリエヌス・ルネサンス」と呼べる、新様式の誕生を促進させた可能性は、かなり高く、この時代の皇帝達の肖像にも顕著に見られる、その表現の水準の高さも、そうした彼の姿勢を反映していたと考えられる。
しかし、こうしたブレイの指摘する、皇帝ガリエヌス自身の芸術的な事に対する関心が、大いに反映されたと考えられる、当時の彫像の表現能力の水準の高さだけではなく、更にガイガーによると、ガリエヌスはただこれらの皇帝の肖像を機械的に作らせていただけではなく、それぞれ同じガリエヌスの肖像でも、時期により、微妙にその様子が異なり、しかもそれは偶然ではなく、ガリエヌスがそれらがもたらす、政治的な演出効果を十分に意識した上での、彼の意図的な製作命令によるものだという。そして一連のガリエヌスの肖像は、大きく分けて、以下のような三種類のタイプに、分けられるという。
ガイガーは、ガリエヌスの一連の彫刻の種類を、時期によって、それぞれ違う特徴と製作意図が見られるとして、詳細に分析している。ガリエヌスの一連の肖像は、大別して、三つのタイプに分類され、それぞれ、その時その時の、具体的な彼の政治的な演出意図に基づき、製作されたものだという。まず、第一の彫像タイプ。三世紀半ば、肖像はますます様式化されていった。この発展は、徐々に第二世紀の終わりの、コンモドゥスの頃から始まっていた。アントニヌスとセプティミウス・セウェルスとカラカラは、部分的にも支配者な古典的な肖像のスタイルとは対照的に使用され、長い髪と膨大な髭。皇帝の肖像画は皇帝崇拝や信仰、表現の重要性を彼らの多様な機能のために保持した。彼らはそれを、特に帝国住民に対する、皇帝の手段である通信の役割としてのコインの憲法上の機能に、更に加えていた。
基本的には皇帝と彼のおなじみの、公式の帝国肖像画の種類の制度を承認していた。
皇帝の肖像の頭部はローマで製作され、関連する場所全てに届けられた。(総督の邸宅。軍団の駐屯地)。そう、これらは国民に対する、支配者のイメージを造ることができた。
それらの肖像による、皇帝崇拝を実行するたに。それは、典型的軍人皇帝の彫像との類似点で、カラカラに、既に部分的に見受けられた。また自然主義的な表現に向かう傾向が、優位を占めた。完全にではなく、しかし、徐々に古典様式要素は、抑えられていった。彼らの肖像画は、徐々に定型化した、刈り込んだ髪型へとなっていった。
そして老年期の時期。頻繁に顔をしかめる。兵士の服装や表情。重圧。努力。経験。これらに、パフォーマンスとエネルギーを見る。優位性。彼らはカラカラの後継者でもなく、それにも関わらず、依然として、これまでとは表現の異なる形式の可能性。
エラガバルスのような、若くて柔らかい特徴の支配者。そして更に続いて、アレクサンデル・セウェルスとゴルディアヌス三世。また硬い特徴として、マクシミヌス・トラクスのような兵士の皇帝。ただ、ゴルディアヌス三世は他の同じく若い皇帝達の中では、その表情のエネルギッシュさで、勝っているようである。そしてフィリップス・アラブスとデキウスの下で、この発展は継続された。そして、ゴルディアヌスの表現の傾向は、彼の青年の彫像の間に、激化している。セウェルス・アレクサンデルの様子にも、同様の影響が見られるが。デキウスの人相学に見られる表現力は、この時クライマックスに達していた。強化と表現の沈静化。
ウァレリアヌスとガリエヌスの下で、これらの傾向は、やや緩和された。だが軍人皇帝の最も短い治世傾向により、皇帝の肖像の宣伝とそれを届ける事は、より困難であった。
ガリエヌスの合計十五個の肖像にも、それが引き継がれている。最初の第一の肖像タイプは、非常に自然な様子のガリエヌスをもたらす。石のレリーフを思わせるような、ごつごつとした前任者達の肖像の代わりに、二五三年のウァレリアヌスとガリエヌスの頃から、
額と頬がかなり滑らかに表現されるようになっている。
そしてガリエヌスの髪とカールしたあご髭は、より現実的に、再び描写される。特徴は、静けさのようである。これも穏やかな表情が特徴的な、アレクサンデル・セウェルスの肖像との類似性。髪はやはりウァレリアヌスのように、短い。そして顔の下半分を覆うあご髭、そして初期の皇帝セプティミウス・セウェルスと同じ巻き毛の。目の一部が対称形で、調和的に形作られ、鼻は中くらいの長さに、明らかになっている。そして父と息子は、そのように表現された。
しばしば認識できるコインの上で。共に狭い口の、そしてより高い唇の端。ガリエヌスの肖像は柔らかく、あまり緊張した雰囲気は漂っていない。多分、それはより強く、この再び、いくらかよりくっきりした、古典様式との類似点によって、偉大な前任者に、関連していなければならないだろう。 また、帝国初期の第一人者に、関連しているもの。
特にユリウス・クラウディウス王朝。更にセウェルスのそれの仲介も、考えられる。
これはユリウス・クラウディウス朝に続くそれとして、この父と息子との関係などを通じた次の王朝の開設の意図のアピールの可能性。
確かに、当時の政情不安は相次ぐ帝位簒奪にある事を、既に見抜いていたと思われる、皇帝ウァレリアヌスは、息子と共に帝位継承を安定させるためと帝国防衛の負担軽減のためのテトラルキア体制の自分達による継続的な維持のために、新たに彼らのリキニウス王朝の創設を、意図していた形跡がある。更に、こうした彫像の表現という形でも、かつてのユリウス・クラウディウス朝に続くものとして、自分達の新たな王朝創設をアピールしていた可能性は、大いにあると思われる。だが、皇帝ウァレリアヌスの捕囚、この祖父と同名の、ガリエヌスの長男ウァレリアヌスの早世、ガリエヌスと次男サロニヌス、そして三男のマリニアヌスの殺害という悲運に襲われ、結局この試みは頓挫し、このリキニウス家は短命に終わった。
更に重要な動機を提供する、カラカラ以来の短毛の肖像画の種類とは対照的な、このような彼らの図像。そして二六〇年の前までにやって来る、更なるガリエヌスの肖像の発展。
ガリエヌスの単独統治の間に示された肖像。それで、既にとりわけ、髪はより長く見受けられた。タイプ一の肖像からタイプ二への、ガリエヌスのこの肖像の様子の変化は、おそらく二六〇年の、皇帝ウァレリアヌスの捕囚という出来事による、ガリエヌスの単独統治の始まりからの、皇帝の権威が消滅寸前の危機に晒されていた事が中心にある。こうした危機の発生により、本当の概念、独立したカリスマ性が考案された。
そしてこれまでの軍人皇帝のそれのように、個人的なエネルギーと自己主張、Virts 力の肖像への復帰が試された。比較的大量のこうした肖像の例が見られる、二六二年の即位十周年記念祭の時期に、このプレゼンテーションの時間的集大成を提供する。多分しかし執政官開始の、二六六年の時にも。ユリウス・クラウディウス王朝の参考は、肖像画で、コインのように、完全に放棄された。
その代わりに、新しい肖像の登場。 よりカリスマ的に見える。この強調されるようになった特徴の、最大の発展も、平行して、銘文の中でも発生した。そしてそれは、また、コインの中でも、カリスマ的になっていった。神々に近い要素が、皇帝を強化した。
Aeternitas永遠。支配者として選択される資質を超えて、彼の人間的側面を表現する必要があった。この皇帝ガリエヌスの統治最後の年には、この要素は、更に増加した。
以下の通り可能性は、古代アテネの全盛時代。これらのタイプの皇帝の例は、おそらくアレクサンドロス大王とハドリアヌスだった。一方、カラカラの肖像画に対して。平和の調停者としてのゴルディアヌス三世とセウェルス・アレクサンデルは、思われた。また、アウグストゥス。
deus 神の印としての最初の間の硬貨のガリエヌス。そして、彼のコインの話題は、しばしばアウグストゥスも、自分と同一視する事を好んでいた神の、メルクリウスと「felicitas 幸福」に合う。ガリエヌスによって再びもたらされるはずの、帝国のかつての黄金時代のこれを、示している。
そして今現在ではかなり古い様式化、そしてその肖像画はずんぐりとして長い姿のガリエヌスを示す。分厚い、そして明らかに効果的に垂れかかる髪の毛。この長い髪は既に、アレクサンドロス大王の下での、カリスマ的英雄の特徴だった。そしてこの表現は、非常に細かく組み合わされている。髭を示す、全てのカールを含む。より力強く見られる、首下。発展。そしてその類似性は、コインにまで及ぶ。頭から首下の節々。また、若干のコインと平行して。神との密接な関係として。小さく見える目。そして口は、厳めしい動きに見える。また、眉毛が一緒に描かれている。顔の特徴の組成は、もはや効果的な様子には見えない。額に一部、二つが垂直に、鼻の皺と横額の皺が表示される。耳は、部分的に覆われている。
これらは他の皇帝の彫像でも、行なわれている。しかし、こうした表現は、キリスト教の四・五世紀前の、ギリシャ美術の時からある。そしてこの事は、このタイプの肖像が、アレクサンドロス大王を参考にして、造られた可能性を提供する。
こうして様々な前任者を引用。王冠とゲニウスのポーズを示す。
ガリエヌスは自分の図像について、様々な起源や有益な蓄積が欲しかった。全く新しい、カリスマ的支配者である事を必要としていた。皇帝の個々の外観の表現は明らかに、複数の重大な役割を果たしてはいない。このタイプの八つの得られた部分は、ブリュッセルにある。ローマ。パリとラゴス、ポルトガル。これらとして。しかし、ガリエヌスが意図していたと思われる、平和な帝国の黄金時代の再来は、とうとう起こらなかった。
そして、267/8年のポストゥムスに対する、失敗した戦いの形での、皇帝を取り巻く状況。
更にドナウ地方のヘルリ族襲撃とアウレオルスの反乱は、この状況を大規模に、より悪化させた。そして第三番目、そして最後のタイプの肖像が作製されているようである。
この第三のタイプは、頭蓋骨の形状の変化が、体積測定―抽象的な形に向かって発生した。
この表現力豊かなもの。この効果的な表現は、古代後期の肖像画への途上ヘの、重要なステップを表した。人相の詳細を保持しながら、タイプ二の顔は、再び増加した。
顔正面の硬い表情は、再び戻った。途中で額の髪の分け目と髪の毛が長い辺に塗られ、以前よりも厚い。耳を覆い、自然にカットされた髭として表わされる。しかし、まるでかつらのような様子に見える。人相とマスクのように固められた髪が印象的な。鼻や唇だけは、個々の特徴のまま、斜め上方を見つめる強烈な視線。更にいくらかの活気が、与えられている。
そしてこの斜め上を凝視した姿の彫像は、ローマ国立美術館にある、代表的なガリエヌスの彫像である。このローマ国立美術館所蔵のガリエヌスの彫像は、ブレイの「Gallienus」の表紙にも、使われている。
タイプ一の肖像との、任意の類似性は、ほとんどない。
おそらく、更にこのタイプのディスプレイにより、タイプ二の型よりも、更に優れて帝国の権威を強化し、発現させるべきであった。精力的で現実的な様式形成と新たに、カリスマ的な見惚れるような雰囲気の彫像を導入した。このように、皇帝は神の雰囲気を手に入れた。
また、しかし、肖像タイプ三の変化が、完全に前任皇帝達の肖像の影響を、受けているという訳ではない。しかし、明らかに前任者の表現の創設に、基づいている。カラカラ。マクシミヌス・トラクス。フィリップス・アラブス。デキウス。これは一時的に、以前の時代への注目が起きたため。彼の帝国のローマとシスティア自体の鋳造局で、多く発行された皇帝ガリエヌスのこのタイプに類似。それらにおいて、彼は神を彼のconservatores 守護者と呼んだ。
ガリエヌスはコインと同じように、特定の戦略にも肖像画の彼のプレゼンテーションで試みるのではなく、持っている必要がある。彼の個人的なカリスマ性のために、異なる期間からの様々な古いものと新しい要素を組み合わせることにより、またローマ帝国全体をも強化する。
これにより、多くの場合、その突然の変化も説明できるかもしれない。
おそらくそれらの背後の概念は、非常に広い範囲から取り入れられていた、そして古代ギリシャ・ローマの祖先、そしてそれら全ての神々が皇帝のために集められた。
ガリエヌスは、肖像に重要な特徴を置いた。そしてこうした傾向は、帝国中期まで支配的だった。しかし、彼の直後の後継者クラウディウス・ゴティクスは、これらの表現形式を捨てた。
そしてテトラルキアの時代まで、彼らのこうした傾向が勝っていた。
ガリエヌスの頃からの皇帝の個人的な肖像画は、極端に様式化し、抽象化に向け、皇帝個人の存在が不在の状態が続いていく。しかし、あくまでもガリエヌスの肖像は、独立して発展した。
その仮定の強化。ガリエヌスの単独統治時代から見られる様式の肖像のそれ以降の時代からの減少、そして独自の発展も見られなくなっていく事。そして、また、その発展を説明する事ができる。 ガリエヌスの人相は、違って異なるコイン場所の、そして、それの時間に演じられるそれになった。それは始まる、見受けられる、まさしく若者である。その明らかに、公式と思われる肖像画は、最初は存在していなかった。彼の肖像は、ウォルシアヌスに似ている。トレボニアヌス・ガルスとこの息子の共同統治。その前面右側の脊椎骨の特徴は、最初から見る事ができる。
顔は長くて狭い。治世最初の薄い髭。その時期、ガリエヌスは常にそのように示されている。首の始まりは非常に狭い。しかし、二つ目の肖像では、その首はより強力になる。鼻は特徴的なままである。しかし、長くて細い。そして髪は、短く見える。口の中央で、角がより高くなっている唇。同じウィミナキウムの地方から発行されているコインのように、若々しい。
その後の、コローニャ・アグリッピネンシスの肖像では、より濃くて、いくらかより大きいあご髭が、見受けられる。また、二六〇年の前のメディオラヌムの、ガリエヌスのいくらか若い日々。後の単独統治時代の特徴。顔は、より大きくなる。そして首は、ほとんど、頭と同じくらいの厚さになっている。(フック)鼻は、より広くなる。ウェーブのかかった髪は全て額の上にかかり、首は長く、より強力に見える。そしてあごは、より顕著である。高い額。目・鼻・口の部分は、より間近で、ある程度近づく。皇帝の頭は、かなり大きくなる。あご髭は短い。
また、この肖像の頭部の発展も、タイプ二と平行して行なわれる。
タイプ三の肖像の頭部は、コインのそれと基本的に同じ様子に見える。
顔の割合は、程良く配置されている。そしてその視線は、一点を貫いているようである。更にガリエヌスのその髪は、より長く見える。ガリエヌスのその長めの髪とあご髭の組合せは、他の軍人皇帝時代の皇帝である、カリヌスとヌメリアヌスに、一部似ているようにも見える。
ハドリアヌスの髪型は、ガリエヌスよりもより長い。そして髭も、はるかに濃い。
ガリエヌスのようには、見えない。更に、その首下もハドリアヌスと同じ様子ではない。
二六〇年の前からの、現在のガリエヌスは新たにより広範囲で膨大なあご髭とより特徴的なあご。システィアのコイン鋳造局、そしてこれはローマに設立された。
ここでのガリエヌスは、多くの場合、険しい表情、特に密接なひげと、特に広い顔を持っている。そしてあまりに太い首と。今度は小アジアの鋳造所では、非常に重く表される。
かなり狭くて細い首は、二六一年前にもアンティオキアで、示される。
長い鼻。二六三年の再開後、ここで部分的に、多くの解剖学的に厚過ぎる長い首。より短くて、肉厚の鼻。目は小さく見える。口・鼻・目の部分も、狭い感覚で集まっている。しかし、まだ他の種類がある。それは若々しいガリエヌスを、思わせる。
そして私も既に二巻の第四章などで、ガリエヌスの単独統治時代になってから発行された多種多様なコインは、彼がこのコインをどのローマ皇帝達よりも明確な意図を持って、統治のために、帝国の人々に向けてのメッセージとしての側面と実際にこうした、多くの女神も含めた神々の守護を願った側面の二つがあったようであるという事は指摘したが。
そしてこうした一連の、時期により、明らかに様式が異なるガリエヌスの肖像も、これもこのように、統治のためのプロパガンダとして十分に意識して、利用していた事がわかる。
そしてこれらの肖像の中にも、彼が偉大な先達として強く意識していた、アレクサンドロス大王やアウグストゥス、そしてハドリアヌスのイメージが用いられている事も、わかる。
皇帝ガリエヌスにとっては、こうした彫像の肖像も、コインなどと並ぶ、帝国統治のために重要な、皇帝のイメージ演出のための道具でもあったのだろう。
それから私がガリエヌスのこれらを用いた宣伝戦略と関連して、思った事であるが。これらコインや彫像を用いた、彼の皇帝としての様々な演出であるが、これは既に前述した、彼のその演劇好きの性格も関連して、出てきた発想なのではないだろうか?
確かに統治者には、時には演出が必要とされる事がある。
古代の歴史家達は、ガリエヌスのこうした好みについては、そのギリシャ文化愛好と並んで、あくまでもこれも否定的にしか捉えようとしなかったが、こうした形で、帝国統治の中で彼のこうした嗜好が、役に立っていたようである。
ガリエヌスとイウリア・コルネリア・サロニナとの結婚。
そして彼女の登場する、いくつかのコインの中で、イオニアとリュキアの地名、そしてそれらとの関連で形容語句Chrysogoneが造り出されている。
また更におそらくアウグスタ・サロニナについての、アウグストゥス・ガリエヌスのそれと同時に、コインが発行された。ガリエヌスの皇后イウリア・コルネリア・サロニナの詳しい出自と出生年は、知られてはいない。彼ら夫婦には、三人の息子がいた。そして、サロニナの生年についての、ガイガーの考察である。彼がカエサルになった頃と推定される、コイン後部の長男の小ウァレリアヌス(プブリウス・リキニウス・コルネリウス・ウァレリアヌス)は、七歳くらいに思われる。従って、この長男の生年は二四六年から二五〇年頃。
ローマの上流階級女性は、早くに結婚していた。そしてこの長男の小ウァレリアヌスの出産が、サロニナ十八歳から二十歳の間であるならば。おそらく、彼女の生年は、二二六年から二三〇年頃である。従って、サロニナは夫のガリエヌスより、八歳から十歳くらい年下という事になる。確かにローマの上流階級の夫婦には、かなり年齢差のある夫婦も、珍しくなかったため、ガリエヌスとサロニナのこのくらいの年齢差は、妥当な年齢差ではないかと思われる。
そして次男のサロニヌス(プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス・ウァレリアヌス)。兄の小ウァレリアヌスの死去後、カエサルに。二四八年から二五二年頃誕生。
更にこれは、彼の母方から引き継がれる、その形容語句である。
おそらく、ちょうどそれと更に同時に、彼の父方の祖母あるいはその兄弟のリキニウス・ エグナティウス・ウィクトル・マリニアヌスの名前を取って、マリニアヌスと名付けられた。(リキニウス・エグナティウス)。更に、この二五八年の、再度のサロニナの出産に基づくと、予想される「Fecunditas 豊穣」のコイン。三男のマリニアヌスが、おそらく、この二五八年に誕生。
そしてもしかしたら、更にもう一人の息子も、ほぼ二六五年頃に生まれた。
更なる、サロニナのための、このFecunditasのコインが、その可能性を示している。
ガイガーはこの問題について、そこまで詳しく、自分の見解を述べてくれてはいないが、つまり、これは歴史書の中にある、三男のマリニアヌスが、三歳で二六八年に殺害されたというのは、歴史書の誤りの可能性も、あるという事だろう。
実際にはマリニアヌスは十歳で殺害され、そして三男のマリニアヌスと書かれているのは、二六五年に生まれた、名前すらも記されていない、彼の幼い弟であった可能性。
そして皇帝夫妻にとっては、四人目の息子であった可能性があるらしい。
いずれにしても、一人は早世、そして後はいずれも簒奪者、あるいは皇帝ガリエヌスの敵対者達により殺害と、皇帝夫妻の、ことごとく悲運の息子達である。
彼女のコインの写真は、小ウァレリアヌスとサロニヌスの、おおよその年齢を指し示す。また更にこの年は、この小ウァレリアヌスの死、つまり彼のカエサルとしての統治の終わりをも示す。そしてこの女性の出身家系については、複数の推測を成り立たせる。
理論は、まずそのサロニナという名前から始められる。
家族名サロニナとサロニヌス。すなわち広範囲に渡る、ダルマティア属州の港湾都市サロニナである。しかし、従って、それは必ずしも彼女がこの場所で、サロニナとして生まれる必要はない。だがおそらく、多分、彼女の先祖は、そこで生活していた。
執政官プブリウス・コルネリウス・サエクラリスは、サロニナから来た。
アルフェルディは、同じ姓に基づいて考察をする。また、家名のようなその都市のこれ。
しばしばこの場所に起源を持つ、サエクラリス。それと近い関係を示す、「サロニナ」として。父または兄弟の可能性さえ。この関係が、本当のこの地域との基盤に基づくならば。
皇后が元老院の上流階級の家族の、一員であるならば。
そのような起源は、いずれにしろ、夫のガリエヌスの自身の元老院の起源に基づき、とにかく同意される事になっている。従って、皇后サロニナの家系は、おそらくそこから推測する事が、可能である。 むしろ、信じられない事にではあるが。
その結果から、もう一つの説明ができる可能性。
皇后に関する、イオニアとリディアの地方から発行された、いくつかのコインから。
そして、ミュンスターバーグ宮殿にあったコインの、いくつかの形容語句から、ビテュニアからのサロニナの出自の可能性が示された。「クリューソゲネイア」。
この個人は、ボランニ族侵入の後に見られる。従って、この場所とサロニナの出身地との可能性は、低そうである。この基礎から、サロニナの小アジアのビテュニア起源は、推測できない。
J・ゲージは、宮殿のコインのDeae Segetiaeの伝承から、サロニナの家系に関して、システィアだと推測した。この都市が、以前にセゲスティケと呼ばれていた時から。
それは、そのコインに基づいて一つの事を結ぶ。システィアの都市の女神との関係。
グージは、イタリアがサロニナの祖先の地として、疑われると推測した。
既にそのセゲティア自体が、古代ローマの女神である。イタリアからの移民は、ドナウ地方に、大多数が定住した。 しかし。コローニャ・アグリッピネンシスのコインには、それ自体の、非常により多くの可能性がある。また、ファレリイ・ノーヴィからの起源。
確実に、夫のガリエヌスの生まれた町。そしてその推測は、十分可能である。
部分的に、特にしばしば栄誉の銘文が、特に賛成に互角になる時から、そこのサロニナは現われる。彼女は「Sanctissima Augusta 敬虔なる皇后」と「Mater Castrorumマ―テル・カストロルム(基地の母)」になる 。皇后はこの都市で、遥かに最も明らかに、その栄誉が称えられている。おそらく、その彼女の夫が来たのと同じ環境から。依然として、サロニナの出自は、不確実なままである。そして他にも、あるいは考えられる可能性。
既に、イタリアでいくらかの年月、彼女の家族が生活していたようである形跡から。
最も多くの尤もらしさは、ファレリイ・ノーヴィから、名を付けられた碑文のため、そこからの起源を所有している可能性。
つまり、どうやらそれまでの推測に反して、実際にはサロニナは、夫のガリエヌスと同じ出身地だった可能性が、高いようである。確かに、この場所とガリエヌス一族の関わりを示す証拠は、数多い。このサロニナに関してもそうだが、ガリエヌスに関するコインの銘文なども、数多く発見されている元老院の起源の上で、また、プロティノスの講義に対する彼女の関心は、それまで推測されていたように、彼女が小アジアのビテュニア地方起源の、ギリシャ系のローマ貴族の女性だったからというよりも、ローマの元老院家系の名門貴族の教養の高い女性としての、それだったようである。そしてこのようなギリシャ哲学などに対する、共通の関心に加えて、このように、彼らのその故郷すらも共通していたとすれば、途中、ガリエヌスが新たにマルコマンニ族の王アッタロスの娘ピパを、もう一人の妻として迎えようとも、ガリエヌスとサロニナの夫婦関係が、依然として円満だったらしい気配が感じられるのも、尚更充分に頷ける気持ちである。
大変に説得力のある、サロニナの本当の出身地の可能性がある場所についての、新たなガイガーの考察だと思うこのように、サロニナも夫のガリエヌスと同じく、ギリシャの文化やギリシャ哲学などの学問への、深い関心を共有していた。だが、このガリエヌスの皇后イウリア・コルネリア・サロニナについて書かれているのは、夫と共に後援者となっていたプロティノスの弟子のポルピュリオスの文章、そしてアウレリウス・ウィクトル。伝アウレリウス・ウィクトル、『ヒストリア・アウグスタ』、そして『無名氏ディオの継承者』、ヨハネス・ゾナラスの『歴史要略』らの史料に、わずかに記されているのみである。
そして前述のように、アウレリウス・ウィクトルと伝アウレリウス・ウィクトルでも、ガリエヌスは、この皇后サロニナとピパに対するだらしない態度を、批判されている。
そして、これら異なる歴史書でも、共通して示されているのは、こうした周囲の女性達に振り回されているとして非難されている、ガリエヌスである。
しかし、このそれぞれ異なる史料に記されている、この二つの逸話は、おそらくその内容の類似性から、その記述に当たり、共通史料が用いられたと考えられる。
更にこれらアウレリウス・ウィクトルの『皇帝史』と伝アウレリウス・ウィクトルの他に、エウトロピウスの『建国以来のローマ史概略』同様に、その記述内容が非常に簡略である事に加え、更にその記述内容の顕著な類似性から、やはり共通史料の存在が想定されている。またその他にも、フェストウス、ポレミウス・シルウィウスらの史料にも、同様の可能性が認められるという。そしてこれらの歴史書の共通史料として想定されているのが、既に言及している、四世紀前半にラテン語著者により記されたと考えられている、その内容は簡略かつ誤りも多いものであると考えられており、またガリエヌスに対して、敵対的な傾向があるようである『エンマン皇帝史』である。
この歴史書の実際の著者は、四世紀のキリスト教徒古儀式派の人物と考えられている。
そしてここでの焦点であるが、ユリアヌスも批判している形跡があり、このアウレリウス・ウィクトルや伝アウレリウス・ウィクトルなどで問題とされている、彼の過度の妻への愛情についてだが。しかし、既にこの二つの史料で触れられている、これも共通する感じの、二つの逸話については、ガイガーも、やはりおそらくこれらの逸話も、ガリエヌスに敵対的な『エンマン皇帝史』を共通史料として、ここでの同様に引用されたものだろうと指摘している。
そして続いての、彼の指摘である。非難されているガリエヌス。彼ら歴史家達の間での、彼の妻への愛情。そしてガリエヌスに対する、このサロニナの影響は、この時に、有害なものとして、定義されている事について。しかし、これらの史料の記述についての信憑性は、慎重に検証されなければならない。そしてこれらの逸話は、彼らがガリエヌスについて主張する、これまでにも何度も同様の主張が目撃されている、未熟な支配者のトポスと一致しており、従って、あまり真面目に受け取っては、いけないと考えられる。
そしてこのように述べている後で、ガイガーも、ここで紹介している『ヒストリア・アウグスタ』での、唯一の、皇后サロニナに関する逸話は、次のようなものである。
「また、ある者が本物の古代の宝石の代わりにガラスのまがい物を彼の妻に売ったことがあった。それが露見すると、妻はその者を罰することを望んだため、ガリエヌスは売り手を捕え、ライオンの入っている檻に投げ入れるように命じたことがあった。しかし、実際に檻に入っていたのは雄鶏であった。このこっけいな情景に皆が驚いていると、ガリエヌスは、伝令を通じて言わせた。「彼は詐欺をしたので、同じ目に遭わせたのだ。」この後、ガリエヌスは売り手を解放した。」しかし、これも大変にふざけた話であり、とても事実とは思えない。
この中で描かれる皇帝ガリエヌスは、皇帝というよりも、ふざけた道化とでも言うべき、趣である。また、サロニナもこの場面の中では、あくまでもガリエヌスの妻としか呼ばれておらず、その名前さえも出てこない。そしてガイガーも、この逸話について、同様に、この逸話は、信じがたく働くと指摘している。そして続いて、このように述べている。
おそらく、彼女が、そうした目的のために使われているとして。価値のないものとしての皇帝。そして、狂った支配者を代表する事。また更にブリンクマンなど、やはり、他にも『ヒストリア・アウグスタ』などの、サロニナに関する話は、虚構の可能性が高いと見る歴史家達もいるようである。
確かにこのように、これら四世紀の文献史料は、基本的に、その内容について、あまり信用できない部分が往々にしてある上に、その他の皇后サロニナに関する痕跡としては、いくらかの関連するコインや碑文が、他に残されている程度である。
だが、これまで何度も見てきた通り、『ヒストリア・アウグスタ』の中でも顕著な傾向であるが、ガリエヌスを貶めるために、彼より優れた人物と想定した人物と対比させる形で貶め、批判するというのは、当時よく行なわれていた、歴史書の記述方法の一つのようである。
既にそういった例は、父のウァレリアヌスとガリエヌス、オダエナトゥス・ゼノビア夫婦とガリエヌスなどについての対比的な記述で、確認できる。
また、これら歴史書の中で、このようにガリエヌスについて見られる批判の、女性に影響される、情けない皇帝というのも、それまでのローマの中での、伝統的な批判でもある。
長く政治の実権を握り続け、ついには息子と向かい合う形のコインまで刻ませる事までした、ネロの母アグリッピナ、そして皇后でもなく、また皇帝の母でもなく、本格的に国政に関与していたという訳ではないが、実の弟コンモドゥスを暗殺し、他の人物を皇帝に据えようとした姉のルチッラ。または淫乱な悪妻のメッサリナを制御できず、ついには再婚した妻アグリッピナに、毒殺されてしまったクラウディウスの例など。そして他にも、これも国政に口を出していた、エラガバルスの祖母のユリア・マエサと母ユリア・ソアエミス。
このようにこれまでのローマ史の中で、女性が皇帝に与える影響、特に国政にまで関与するケースというのは、ことごとく、悪しき前例として、記憶されているのである。
そして本当にサロニナは、ピパと共に、夫のガリエヌスを腰抜けにさせるような、悪い影響を与えていた妻だったのだろうか?
それからこれは全くの、私個人の想像になってはしまうが。
私はこのサロニナというのは、何となく物静かで控え目な女性像が連想される、ガリエヌスの母マリニアナと同じような、政治については一切口を挟まない、伝統的な古代ローマの女性で、あったのではないだろうか?典型的な古代ローマの、良き妻良き母であった彼女達の姿が、想像される。このガリエヌスの母マリニアナについては後に詳述するが、ガリエヌスはこの母の出身地であると思われる、ファレリイの防衛に特に力を注いでいたらしく、妻の出身地だからというのもあるではあろうが、更に彼のこの母への敬慕が感じられる。
厳しく威厳のある父ウァレリアヌスと優しく物静かな母マリニアナという、彼の両親の姿が、何となく浮かんで来る。
そしてこの皇后サロニナも、私が第九章で取り上げた、夫ガリエヌスの帝国統治のための、コインを使った戦略に、大いに協力していたようである。
それは一見、こうして、夫である皇帝が、統治のためには、妻である皇后の名前をコインなどの中で、大いに利用するのは、一見、当たり前のように思われるかもしれない。
また明確にサロニナ自身も、進んで夫ガリエヌスのそれに協力していたというような史料はないが、やはり、私はこの点については、サロニナ自身の、夫へのより積極的な協力の意志と姿勢を、読み取りたいと思う。
既に二六〇年のガリエヌスの単独統治の前から、それは用いられ始めている。
伝統的なテーマについての表現。それから、しかし、実際にも重要な動機。
特にしばしば、それは平和についてのテーマである。
その戦果との関連により、ガリエヌスによって行なわれる、その宣伝。
更にその上、そうしたコインは皇后サロニナの姿で、より頻繁に鋳造された。
皇帝自身の強い動機により、そして代わりに、二六〇年に、簒奪者ポストゥムスにより、次男のサロニヌスが殺害された時から、事実上、ガリエヌスがリキニウス王朝の創設を断念した可能性。女神ユノー(守護/皇后/アウグストゥス)、ウェヌス(母/勝利/幸運/アウグストゥス)と最も頻繁な女神は、皇后に関連した、家庭の女神ウェスタ(幸運)のままである。
ユノーは、保護として、その時にサロニナ個人の保護者に変わった。その役割。
これは、かつての皇后オタキリアの守護神。フィリップス・アラブスの妻からのそれを、サロニナに与えた。更に、この女神は、ガリエヌスのその統治時期の終わりまで、そのための補助として、サロニナの名前を付けられ、多くの守護者に変わる。
「Venvs Victrix 勝利者ウェヌス」への言及は、その彼女の年齢に基づいて、ガリエヌスのポストゥムスとの戦い並びに、即位一〇周年記念祭に、言及するかもしれない。
Gereri avgのように見える、アンティオキアのこれだけでなく「venvs avc ウェヌス・アウグストゥス」と「Ivno avg ユノー・アウグストゥス」は、皇帝を通して、神の個人の獲得の前後関係に、立っていなければならなかった。それぞれ初めて皇后のための「Diana Lvcifera ディアナ・光の運び手」・「Lvna Lvcifera ルナ・光の運び手」のように、見える。
例えば、システィアのコインは、伝統的にディアナを称賛しているドナウ軍団に、言及しなければならない。
この時に、ヘルリ族の襲撃を防いだ。また、皇后の豊かさを、与える事ができる。
そして更に彼女のルナのコインは、ガリエヌスのソルのコインと対応・関連して目撃され、これは皇帝夫婦一組の結婚の調和を象徴、並びに王朝の永遠を示さなければならない。
ガリエヌスの単独統治の間、ウィクトリアと力、彼の妻形のavgのために、皇帝に関するニュース。Virtvs Faleri。Victoria avg 並びにVictoria Gallieni avg 3。
ガリエヌスの単独統治の初め、そしてその終わりまで。このコインを用いたガリエヌスの政治的演出は、おそらくそれらコインを通じて、そうしなければならなかった。また更に、それら皇后による恩恵を受ける事。そして、それにより、軍隊での彼の地位は、強化される。
それはなる。そして「ピエタ」という新しい銘文として、皇后サロニナに名付けられる。
更にこの作品の大部分の内容は、おそらく部分的に、息子の出産に、起因している。
多分、この小品の可能性は、リキニウス王朝の基礎について参照させる。
皇后サロニナは、これらのコインの種類により、一層夫の皇帝ガリエヌスの側に立つ。
ユリア・ドムナからの、初めて皇后のための「ピエタ 寛容」のコインが発行されている。
「Fecvnditas 豊穣」の銘文は、サロニナの二六五年までの、四人目の息子の出生を、暗示している。そして、ガリエヌスはまたAbvndantiaを導いた。「Einer Avgvsta in Pace 皇帝の平和」や「Aeqvitas Pvblica/Aeterna 共和国の正義/ 」に。それだけではなく、この初めてのコインの「Felicitas Pvblica 幸福な共和国」。そしてこれらは、サロニナの最新のコインのように見える。やがて定期的となった図柄。
これはずいぶん昔にセウェルス家の一員の女性である、ユリア・ドムナのコインで、頻繁に用いられていたものである。この頃から、皇帝の手腕により、軍隊との調停の成功の最前線が、コインの中で示されるようになっている。逆にそれが、それからの皇后の表現に、影響を及ぼした事。 夫に与える影響の度合い。そうして皇后サロニナの地位は、それ以降、常に非公式となった。皇后は家庭的な人物として、宮廷との関係を決定して、少なくともその中での、レセプションの時間を、以前の皇后ユリア・ドムナ同様に、所有する事となった。
とはいえ、これから詳しく述べていくように、どうもおそらく、実際には皇后サロニナは、夫の皇帝ガリエヌス同様に、ほぼ、ドナウ川やライン川などの前線の野営地で、その大半の時間を、過ごしていたのではないかと思われる。彼女が皇后であったこの時代には、皇后ユリア・ドムナなどのように、宮廷で元老院議員達や、多くの文人や学者達などに囲まれ、優雅に談笑する皇后の姿は、もはや過去のものとなっていたようである。
そしてこのように、それまでよりは、サロニナのコインが公的・政治的な色合いが薄くなり、家庭の妻や母という役割の強調の方に、限定されるようになっていったようではあるとはいえ、ガリエヌスの単独統治時代の間、サロニナのコインの種類は、拡大した。
それは、特に共同皇帝であった父ウァレリアヌスがペルシャにより捕囚になった、二六〇年以降から、大きな危険に晒される事になった、ガリエヌスの皇帝としての正統性を支えるために、常に傍らで寄り添う役割を提供した。そしてこの皇后サロニナのための碑文は、特に注意を引くような大きな特色はない。こうして呼び出されたアウグスタは、その彼女の位置に従っている。
更にその彼女にまつわる「最も慈愛深い」というこの形容詞は、しばしば発見される。
おそらく、二六五年の三人目の息子マリニアヌスの出生は、この前後関係で、それを支持する。
ただ、ガイガーは碑文にある、皇后サロニナの「Mater Castrorum マーテル・カストロルム 野営地の母」の称号は、明らかにこの三人めの皇子出産という功績により、サロニナにこの称号が与えられているとしているが。しかし、この称号を与えられている皇后は、これまでの前任皇后達の中でも、極めて珍しい。他に数多くのローマ帝国の歴代皇后達の中でも、この称号を贈られているのは、皇帝マルクス・アウレリウスの妻である、皇后ファウスティナくらいである。そして彼女の夫のマルクス・アウレリウスも、ガリエヌス同様に、その治世の長い年月を蛮族との戦いに、費やさなければならなかったのである。
ファウスティナは、おそらく、ローマに戻らず、ずっとドナウ川の前線基地に行ったきりの、夫の事を気遣っての事だと思われるが、彼女も一七三年に、夫マルクス・アウレリウスの野営地を訪れ、そのまま野営地に留まっている。またおそらく、サロニナも彼女同様に、そこで、夫のガリエヌスや兵士達を、労わったりなどしていたのであろう。
そしてこの「野営地の母」というのは、夫の皇帝だけではなく、日々、各属州を守るために、激しい蛮族達との戦いに明け暮れている、自分達兵士の事も気遣い、労いの言葉などをかけてくれる、そうした皇后の姿に対する、兵士達の尊敬も込められての称号だろう。
どうもこれらの事から考えて、私はこの「野営地の母」というのは、皇后に対して、単に形式的に贈られたり、あるいは皇子の誕生というだけで、贈られる称号では、なかったように思われるのだが。更にガイガーも、当時の皇后サロニナは、おそらくローマにいる時だけではなく、あるいはガリエヌスの皇帝としての、帝国西方の各防衛線の駐屯地に滞在の間、彼女もまた彼女の夫ガリエヌスと共にいたと見ているようであるし。
それに、サロニナの三男のサロニヌス出産により、彼女がガリエヌスからこの称号を贈られたとするにしては、少し年代が遅いのも気になる。
そして私はこれは、サロニナがこの三男サロニヌスを出産した事により、この「マーテル・カストロルム」という称号を贈られたというより、これは既に彼女が夫ガリエヌスが、二五三年の秋の皇帝即位から早くもその翌年の二五四年に、上モエシアのウィミナキウムにある、ドナウ川防衛線の前線基地に向かった際に、既に皇后の彼女が、その夫の駐屯先を訪れ、しばらく留まった可能性及び、その事から彼女がこの称号を送られた事を、示しているのではないのか?と思うのだが。確かにローマの軍団基地、野営地は、床などの暖房施設も整い、更に他には浴場や病院や劇場までも完備しており、一般に古代の野営地と聞いて連想されるような、快適さとは程遠いような、いかにも殺風景な場所ではなかった。とは言っても、やはり、首都ローマでの、様々な快適さとは比較にならない。周囲を大勢のむさ苦しい兵士達に囲まれ、おそらく、日々の気晴らしとなるような各娯楽なども、乏しかったであろう。
だがサロニナは、義父ウァレリアヌスや夫ガリエヌスが皇帝即位早々に、それぞれ、帝国東方と西方の属州の防衛線へと赴き、外敵から必死でローマ帝国領土を防衛しようとしている、緊迫した状況を目の当たりにし、首都ローマで、皇后らしく、快適な生活をしているよりも、こうして夫ガリエヌスの傍らにいる事を選んだのであろう。そしてそんな皇后サロニナに対する、ガリエヌスの愛情と感謝の表われによる「アウグスタ」の称号に続いての、この「野営地の母」という、称号の贈与ではないだろうか?また、更にそんな皇后に対する、兵士達の敬意も、思わず伝わってくる。おそらく、皇后の彼女から兵士達に対しても、日々、蛮族の攻撃から、帝国西方のライン川やドナウ川方面の属州を守ってくれている事への感謝の言葉及び、彼らの苦労に対する労いの言葉なども、あった事だろう。そしてサロニナのその妻としての献身的な愛情、また、こんな厳しい時代にあっても、何とか夫婦で支えあって、困難を乗り切ろうとする、彼ら皇帝夫婦の愛情が伝わってくると同時に、当時のローマ帝国は、もはや、皇帝と皇后共に、首都ローマに安穏として、留まってはいられなくなっていた時代でもあるという事を改めて痛感させられる。
そしていくつかの都市から。B・ブリンクマンの識見によると、実際のサロニナのその栄誉は、部分的に、控え目に見られる。既に早くも、彼女の息子達の小ウァレリアヌスとサロニヌスが彼女の庇護下から離れてから。彼らが父の皇帝ガリエヌスに代わり、ドナウ川とライン川方面の統治に、当たるようになってから。そしてこれは、皇后の公的な影響力を減少させた。
しかし、サロニナはそれでもなお、依然として「Consorti Gallieni 共有者ガリエヌスと共に全ての平和」の箇所で、その姿を明示的に見出す事ができる。
「女主人」、または「我らが女主人」と呼ばれているサロニナは類似した、「支配者ガリエヌス」の神格化の許可の前後関係に、立っていなければならなかった。
彼は彼の妻のために、類似した行動で支えられた。
カリアの碑文において、また、この他に、サロニナは、さもなければ、カリア地方の伝統的な家名イウリアのコインと結びつけられる。なおもガイガーは、このカリア地方で発見された、皇后サロニナについての碑文について、この名前には、ガリエヌスのその中に込められた、良きアウグストゥスの時代を取り戻すという、誓いの意味があるのだろうと考察している。
それから、既にこれは私がそれまでの章でも、指摘している事であるが、ガリエヌスは当時、数々の困難に見舞われていた帝国の危機を何とか克服するため、それまでの皇帝達の治世よりも、目立って女神達のコインを、頻繁に発行させている意図についてであるが。
どうやら、これはこれら女神達が象徴する、豊かさや平和などのプラスのイメージを、帝国の人々に対して強く打ち出し、なおかつ、このように帝国内の、ギリシャ・ローマなどの神々総動員という感じで、ぜひとも、この自分に力を借して欲しいという、ガリエヌスの切実な気持ちの現われ。またこうする事で、帝国内の国民達の人心を引き付ける事を狙ったものであるようである事。
また更にこの彼の意図の延長線上として、妻の皇后サロニナに対しても、コインの中で女神達との同一化を求め、やはりこうした形で自分に協力してもらい、帝国の危機打開の助けを求めていたような気配がある。更にまた、皇后サロニナの姿が刻まれた、こうした一連のコインの画像やメッセージからは、そしてこうした間接的な形でではあるが、夫婦一致して、何とか未曾有の国難を乗りきろうとした、彼女の姿が、浮かんでくる。
また、この皇后サロニナを巡る、この逸話については、既に一巻の第三章の、インゲヌウスとレガリアヌスの簒奪についての個所でも触れているが、その他の皇后サロニナについての注目すべき事項としては『無名氏ディオの継承者』やゾシモスによると、当時ガリエヌスがインゲヌウスに、ドナウ方面の前線での、長男の小ウァレリアヌスの後見役を任せたが、これに対し皇后サロニナは、インゲヌウスに対し、不信感を抱いており、むしろバタウィ族のリーダーと推測される、ウァレンティヌスという人物の方を、信頼していたという逸話である。
そしてついには二六〇年に、インゲヌウスが反乱を起こすに至り、この皇后サロニナの疑惑は正当なものであったかのように、なりそうであるが。
しかし、このように、それこそ夫のガリエヌスよりもいち早く、そのインゲヌウスの信用の置けなさに気付いていたにも関わらず、サロニナは二六〇年に、インゲヌウスが反乱を起こす時までに、ウァレンティヌスに対して、だが皇帝の意向なので、自分にはどうにもできないというように述べるだけで、夫のガリエヌスに頼んで、息子の後見役から解任させる事までは、できなかったとされる。そしてブレイやガイガーも、この問題についての、皇后サロニナ、ひいては皇帝夫妻の無力さを、印象付けようとしている感じであるとし、これらの逸話の信憑性には、疑問が残る所もあると指摘している。
確かにこの長男の小ウァレリアヌスも、当時まだ若年であったと思われるので、次男サロニヌス同様に、後見役が付けられ、それが実際に、このインゲヌウスだった可能性もあるのではあろうが。しかし、この史料も、その内容の公平性や信憑性など、史料的に問題の多い四世紀及びそれ以降の歴史書に相当するものであるし。ましてや、特にこの『無名氏ディオの継承者』という歴史書などは、皇帝ガリエヌスについて記している、主要史料の四世紀史料よりも、更に後の、三世紀から、二百年から三百年も前の編纂史料である。以下のガイガーの指摘の中で、ほぼ同一人物と推定されている、「ペトロス・パトリキオス/無名氏ディオの継承者」についての説明である。
部分的に、意見の後これ、同一のいわゆる、カッシウス・ディオの継承者についての研究では、そうである。五〇〇年に、テッサロニケで誕生。
東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス一世の宮廷で、キリスト教徒の上級官吏として仕える。五三四年には、東ゴート王国の外交官。更に後にはペルシャの。
そして五三九年には、内務長官。五六五年に、コンスタンティノープルで死去。
少なくともコンスタンティウス二世までの皇帝の時代のそれ。
おそらく、その執筆に当たり、四世紀末のローマの元老議員ニコマクス・ フラウィアヌスの『年代記』を利用としたとされている。ペトロス自身の著作は、このもう一つの上に、ヨハネス・ゾナラスの歴史書の基礎を作った。たぶん、ペトロス・パトリキオスと『Leoquelle』は関係がある。別名『無名氏ディオの継承者』の断片(カッシウス・ディオの著作の、詳細な利用のため) 、ウァレリアヌスからコンスタンティヌス一世までの、ゾナラスのその報告内容の描写の著しい類似性を基本にした。ペトロス・パトリキオスの上のそれは、拠点を置く。
この匿名の歴史書は、主にパトリキオスと同等視される。そして少なくとも、執筆のために、彼はそれを利用した。フラウィアヌス・ニコマクスの『年代記』。
やはり、この成立年代のかなりの遅さなどから考えても、この史料の記述内容も、どこまで信用するべきなのか、その判断が難しい所がある。また実際に前述した、実際にインゲヌウスが、小ウァレリアヌスの後見をしていたにしても、皇后サロニナが以前から、この彼に不信感を覚え、それよりも彼女の方は、ゾシモスによると、バタウィ族のリーダーだという、ウァレンティヌスという人物の方を信用していたという逸話についてであるが。
だがこれも、このように妻の方は、賢明にも、後に簒奪をする事になる、このインゲヌウスが信用できない事はとっくに見抜いているのに、一向に気付かない、愚かな皇帝、といった感じに、『ヒストリア・アウグスタ』などでも度々見られる手法のように、これもすかさず、こうして他の人物を利用しての、ガリエヌスのその無能さを印象付けようとしている可能性も、あるのではないのか?という私の疑問も、拭いきれないのである。
特に、皇后サロニナはピパと同じく、『ヒストリア・アウグスタ』を初めとして、四世紀の各歴史書でしばしば否定的に書かれている、皇帝ガリエヌスの妻なのであるから、歴史家達から彼女自身も否定的に見られていたり、また、このように彼女の夫を批判するための道具として、間接的に用いられている可能性も、大いに考えられると思う。
更にここで、この『無名氏ディオの継承者』の著者だと想定されている、ペトロス・パトリキオスもその著作を利用したとされている、歴史家大ニコマクス・フラウィアヌスの方について、紹介する。大ニコマクス・フラウィアヌスの『年代記』からは、ただの一行も、提供されなかった。『エンマン皇帝史』の内容は、ガリエヌスの様子について伝える、直接的な証拠である、ローマの円柱台座の碑文とは正反対のものである。この著作は『皇帝史』を利用していると考えられる。三八三年までのこれ、または、多分その主要な部分は三八八年まで存在していただろう。彼の三九四年の死までに、ニコマクスは四世紀の最終四半期で、最も高い公職に就いていた。
その匿名の『Leoquelle』のための、そして、カッシウス・ ディオの著作の終了の後の『無名氏ディオの継承者』とペトロス・パトリキオスの著作、またゾナラス、エウナピウス-ゾシモス。
そして更に、多分アンミアヌスが使われただろうのと同じくらい『ヒストリア・アウグスタ』(デクシッポスの二七〇年の終りまでの)と伝アウレリウス・ウィクトルの著者に利用された可能性。アンミアヌスとの類似点。伝アウレリウス・ウィクトル。ゾシモス並びにゾナラスの利用した『leoquelle』、そして、その概念が再構成できるラテン語史料の存在の上で古英語の調査により、ニコマクスと『Leoquelle』の斉唱の可能性の否定。そしてニコマクスが四世紀の元老院の根拠のない伝承を、使っていたと予想される。
またおそらく部分的に『ラテン頌詞』の言い回しが利用され『エンマン皇帝史』とアウレリウス・ウィクトルの中での記述が、いくぶん緩和されて表現された。
しかし、それはかなり、ギリシャの伝統である、具体的な訂正と補足を行なった。
おそらくv. a. デクシッポス。それが組み入れられた。そしてそれが、多数の改善とより厳しい精度に繋がった事。ウァレリアヌス王朝の一族全体の正確な名前と地位を名付ける。
更にその上、ギリシャの史料も、使用されている。あるいは思わせぶりな、伝アウレリウス・ウィクトルの影響など。これにより、肯定的な評価がなされている、ガリエヌスとハドリアヌスのそのギリシャ愛好。伝アウレリウス・ウィクトルの、その伝統的な元老院尊重の態度。
しかし、この著者と同時代に成立したと思われる『ヒストリア・アウグスタ』などでさえ、かなり当時の絶対権力者コンスタンティヌス一世におもねって、この皇帝ガリエヌスについて、相当に歪曲して描いている形跡が、かなり窺われるのである。
ましてやこの時代の元老院議員ともなれば、どう考えても、ガリエヌスについて、全体的には、あまり肯定的に書いているとは、私には思えないのであるが。
そして実際、このペトロス・パトリキオスも利用したとされる、この大ニコマクス・フラウィアヌスの『年代記』自体が、これまでの章で私も取り上げている、ガイガーの指摘にもあるように『ヒストリア・アウグスタ』のその記述にも、反映されている形跡が見える、というか、この著者自体が大ニコマクス・フラウィアヌスと同一視される事もあるようであるし、やはりどうも全体的に、ガリエヌスについて、批判的な調子で扱っているような気配を感じる。
彼については『ヒストリア・アウグスタ』同様に、かなり否定的に書いている可能性の方が、かなり高いのではないだろうか?こうした立場の人物に、ガリエヌスに対して、果たしてどれ程中立的な視点が保てるかというと、難しい所であろう。また、このように、四世紀に成立した『ヒストリア・アウグスタ』も、更に二世紀も後、やはり、編纂が重ねられ、最終的に成立したと思われる、この六世紀の『年代記』と、ガリエヌスの時代の三世紀とはかなり隔たっている事から、その記述の信憑性には、やはり何かと疑問が残る。そしてこの他にも、皇帝ガリエヌスについて言及している、この四世紀の歴史家について紹介しておく。
アンミアヌス・マルケリヌスは、古代末期の優れた歴史家として有名である。
彼は三三〇年、アンティオキアの地方自治体関係者の、エリートの家に生まれた。
初めはコンスタンティウス二世とユリアヌスに、軍人として仕えていた。その後、歴史書の「Res Gestae これまでに成された事」を執筆する。ラテン語により執筆された。ほぼ三九五年に、完成させるまで。おそらく皇帝ネルウァの治世から、三七八年のハドリアノポリスの戦いまで。しかし、新たな詳しい内容の本については、十四から三十一冊までが残された。特徴が、その周囲には明らかに見られる。
その三世紀についての大半は、非常に簡略に取り扱われている。更にその描写は、とりわけ『エンマン皇帝史』の上で、そして大ニコマクス・フラウィアヌスの上に、基づいたと思われる。 そして五箇所での、ガリエヌスについての言及。常に否定的な前後関係で。
コンスタンティウス二世を称讃するための、そのための否定的な特徴描写のために使われる。
それを示すのに適切な。その残酷で悪名高いガリエヌスより、優れた皇帝として。
そしてそれは彼が既に知っていた事を示している、ガリエヌスへの支持について、そして、当時のとても厳しい軍事情勢の時代についての。既にコンスタンティウス一世に捧げられた、二九七年の『ラテン頌詞』の点で同様の何が認められる。それで、既にテトラルキア時代の中に存在している、ガリエヌスの統治について批判的な伝承の見解通りに取り扱う。
やはり、皇帝ガリエヌスについて書かれた、四世紀もしくはそれ以降の歴史書で、およそ『エンマン皇帝史』の中での、ガリエヌスについての批判的・否定的な扱いの影響を、受けていないものはないと言っていいような、状態のようである。そしてまた、やはり、これらの歴史家、教会著述家達共に、コンスタンティヌス朝の皇帝達との関わりが深い人物達ばかりであるし。
そして、異教歴史家の、アウレリウス・ウィクトルなども含めた、多くの歴史家達の一般的なガリエヌスについての、その大変に批判的な姿勢から併せて考えてみても、やはり、この皇后サロニナの、夫のガリエヌスをピパと揃って腑抜けにさせていた。そして人を見抜く目のない夫のガリエヌスとは違い、いち早く、息子の小ウァレリアヌスの後見役である、インゲヌウスの信用ならなさを見抜いていただの、こうした逸話も、事実であると見るより、私はこのように考えた方が良いのではないのだろうか?と思うのだが。
つまり、それよりも、『ヒストリア・アウグスタ』でも頻繁に見られる、ガリエヌスを貶めるための、他の人物達への、それこそ著者の創作人物達まで多数交えてまで行なっている、過大な称讃・もしくは、ガリエヌスよりも、有能な人物であると思わせる描写などの、典型的なガリエヌス批判の形式の、これもその一端として、捉えるべきなのではないだろうか?
その代表的な例としては、この点については私が、今後更に詳しく述べるが、下手な男ガリエヌスなどよりも、よほど勇ましくて雄々しいとして、彼を女よりも劣る男とし、こうして多分にガリエヌスを貶めるためのレトリックとして、ゼノビアのその女傑振りを声高に強調している『ヒストリア・アウグスタ』と同様の気配を、どうもこの『無名氏ディオの継承者』の、サロニナの逸話からも、私は感じてしまうのだが。そして私にはこの逸話も、珍しく、ガリエヌスの妻であるサロニナが公平に扱われている感じの記述というよりも、やはり『ヒストリア・アウグスタ』での、ガリエヌスとゼノビアとの対比的な描写の時と同様の、批判のロジックだと思われる。またこれと類似の指摘は、ブレイやガイガーの意見などにも見られるが、ガリエヌスが無能な統治者だから、このように他の人物達、特に敵対者の女性僭称者や妻などの女性達に、代わりにこうして、前面に出てくる機会を、与えてしまうのだというような、いつものパターンなのではないのか?と感じられるのだが。
またガリエヌスについての数々の記述と同様、この皇后サロニナについての、数少ない記述に関しても、私が特に十分な注意が必要だと感じる理由としては、既に彼女の夫ガリエヌスからして、四世紀の歴史家達による、何かと批判的な記述が非常に目立ち、当然その妻であるサロニナだけが、公平に扱われているとは考え難く、ガリエヌスに関わる女性というだけで、彼女達まで批判的に書かれている可能性も、高いと思われるからである。やはり、こうした予想される背景から考えてみても、一見、珍しくサロニナについて、公平に評価している、肯定的に書いているかのようにも見える、上記の記述などの、こうした場合にも、やはりその裏には、各著者の別の思惑、真の意図が隠されている可能性をも、考慮するべきではないだろうか。
そして実際にこうした、サロニナやピパについての一連の記述から、私が受ける印象としても、どうも、これらガリエヌス周辺の女性達は、その彼の無能さを印象付けるためだけに、専ら登場させられ、彼を批判するための、効果的な道具として、著者達に巧みに利用されているような気配を、頻繁に感じる。また私のこうした疑問を更に強める根拠として、それこそ皇后のサロニナでさえ、こうした四世紀の歴史書の中で、その存在について触れられる時は、独立した彼女個人に関する逸話としてではなく、常に夫のガリエヌスと一緒の話の中でばかりである、という事である。私も本来ならば、それでなくても、歴史書の記述の少ない皇后サロニナの、その彼女の賢明さを表わす逸話として、受け止めたい所なのであるが。
しかし、そう取るには、彼女が既にインゲヌウスの事を信用ならない人物として、不快感を感じているのにも関わらず、自分は皇帝には逆らえないとして、あくまで信頼する人物ウァレンティヌスに向かっての、そのインゲヌウスへの不信感及び、皇帝の決定に対する、その不満と懸念の吐露に留まり、結局インゲヌウスが簒奪を起こすまでの、彼の最終的な解任にまでは至らず、ガイガーの指摘にもあるように、彼女の事を無力な皇后としているようにも見える点も、気にかかる。
どうもその夫ガリエヌスの数々の歴史書の中での悪評を、その妻として同様に、かなり負わされてしまっていると考えられるサロニナの存在であるし、必ずしも、これらの逸話も、サロニナについて、本当に肯定的に捉えられて、書かれているのか?という疑問や、やはり、その傍らには夫ガリエヌスの、その無能さについての批判が、絶えず付きまとっている形跡が見られるのが、気にかかるのである。また、これはこの三巻の第一章でも指摘しているように、システィアの銘文からも実証された、ガリエヌスのその演劇好きが、これも『ヒストリア・アウグスタ』の著者の手にかかると、彼のこういった嗜好さえも、けして肯定的には受け止められず、たちまち、おそらく批判的な脚色を、大幅に加えられて描かれ、結局これも新たな批判の材料とされてしまっているような形跡から、更に思った事であるが。
やはり、およそ、その演劇好きであれ、何であれ、ガリエヌスに関する、ありとあらゆる事を、批判の種にしたい傾向が強いようである、当時のこうした歴史家達に目立つ感じのこうした傾向の、恒例のガリエヌスに対する、その皇帝としての無能さについての批判の一端として、このサロニナについての、一連の逸話も、捉えるべきではないだろうか?
そしてこの『ヒストリア・アウグスタ』などの歴史書での、ガリエヌスのサロニナに対する態度についての批判も、これももしかしたら、サロニナの名前でのコインが、数多く発行されている事が、こうした歴史家達に、マイナスに受け止められた結果なのかもしれない。
つまり、恐妻サロニナに頭が上がらない、情けない皇帝ガリエヌスという連想がされて、このように描かれるようになった可能性も、あるのかもしれない。更にもしかしたら、皇帝の母であるという立場を暈に着て、何かと出しゃばり、息子のネロが成人してからも、なかなか政治権力を手放そうとせず、ネロや元老議員達だけではなく、国民達からも嫌われ、ついにはローマ史上前代未聞の、初めてコインに息子のネロと向き合う己の姿まで彫らせ鋳造させた、かのアグリッピナのコインの存在にまで、彼らが思い至っていた可能性すら、あるかもしれない。
だがこの皇后サロニナについて触れている史料の中で、やはりかなり信頼性が高い当時の史料としては、夫妻が後援者になっていた哲学者プロティノスの弟子であり、彼と同じく皇帝夫妻の同時代人であったポルピュリオスが『エネアデス』の中でわずかに触れている、夫と共にギリシャの文化及び学問に、深い関心を寄せている、知的な皇后の姿である。
そしてこれまで見てきたように、その数々のコインや夫と連名の碑文などからの間からも垣間見えてくる、国家的難局に立ち向かう夫を必死で支えようとする、献身的で良き妻としての姿である。なお、彼女が夫から皇后や妻として、大変に愛され、尊重されていたようである事は、夫ガリエヌスの統治期間の間に発行されたコインが、このように、かなりの割合で皇后サロニナの名前と肖像で、発行されていた事からもわかる。
それから前述のように、ガリエヌスの典型的な批判理由の一つにされている、「女々しい」という批判も、どうも彼が生前このように、数多くの女神達のコインを発行させている事も、こうした批判の一つに繋がったのではないか?と思われる形跡があるが。
またこれと関連して、この皇后サロニナについてのコインが、数多く発行されている事から、後のユリアヌスの著作の中での、ガリエヌスについての女々しさ批判の理由の一つとなっているようである、その信憑性については怪しい部分がある、ガリエヌスが皇后サロニナ独自の、コイン鋳造所を創らせたという伝承も、サロニナに関するコインが数多く発行されている事から、逆に生まれた逸話だったのではないだろうか?
しかしこれは『ヒストリア・アウグスタ』やアウレリウス・ウィクトルなど、四世紀の歴史家達の歴史書が暗に匂わせているように、ガリエヌスが恐妻家だったとか、不甲斐ない夫だったからだというよりも、これも彼女のその出しゃばらない控え目さにより、夫ガリエヌスの愛情と敬意と尊重を、サロニナが得ていたからこその、ものだったのではないだろうか?
また、こうした、しばしば彼女のその肖像により、発行されている各コインなどを通じて、間接的にサロニナが、その妻としての愛情から、当時夫が直面していた、様々な苦境の克服への協力を表わす気持ちをも、表わされているのではないだろうか?
そしてガリエヌスが、ここまで皇后サロニナに対する、尊重の気持ちを表わしているのも、その背後にはこの妻サロニナの、夫への深い愛情と献身があったからこそだと考えられる。
またもしかすると、これまでの野営地の前線に留まる夫の皇帝の許を、最も頻繁に訪れ、かつ長期に留まり続けた皇后は、彼女だったのかもしれないのである。
それこそ、皇帝夫妻が一致団結こそしなければ、合計十五年も、何とか帝国を最終的な崩壊にまで至らせず、維持する事など、できなかったのではないだろうか?
なお二六八年の、夫のガリエヌス暗殺後の、皇后サロニナの消息については、詳しくは最終巻で述べたい。
ギリシャ文化へのガリエヌスの傾倒は、様々な点で証明されている。既にその片鱗は、彼の肖像に対するヘレニズム的な影響からも、覗える。更に、ギリシャ名またはそれとの繋がりを持つ人々の、高官への指名。執政官アルケシラオスなど。しかし、ガリエヌスについての碑文は、他の皇帝と同じく、三世紀半の特徴として、前二世紀までと比べて、非常に少ない。
しかし、そのわずかな痕跡からも、(当時のオクシリンコス・パピルス)など彼が太陽神アポロンを称え、オリンピア紀の三年目、四年毎に、アポロン神殿の託宣で有名な聖地デルポイで開催された、古代ギリシャ全土の祝典「ピュティア競技会」に、関心を持っていた事がわかる。
これは、その開催場所からもわかる通り、太陽神アポロンに捧げられる競技会である。
そしてこのガリエヌスのギリシャ滞在の時期については、ガイガーは、このように考えている。『ヒストリア・アウグスタ』によると、それはガリエヌスがアルコンになった年とゴート族の小アジア侵入と同時としている。しかし、それは当てにはならないだろう。
既にこれまで『ヒストリア・アウグスタ』の中で、我々が何度も見てきたように、著者は無情で無関心な皇帝の姿を仕上げるために、この災難を、ガリエヌスのこの不適当であるか、愚かである活動と同時期にさせる事により、出来事の年代順配列を混同する習慣を、また行なっている。アウレウス金貨の銘文「Felicitati Avg」に基づいて、その時期を推測している。そのコインの後部で、人が乗った船が描写されている。皇帝が、ドナウ川から船でギリシャを旅していた事。
この年代測定は、ガリエヌスの二六六年の七度目の執政官就任の、この次の開始時期に、二個の更なるアウレウス金貨との、非常なそのスタイルの類似性から生じる。
そして二六五年に鋳造されたのが示されている、コインのイノシシまたはペガサス。
これらは、いくつかのローマ軍団の紋章として、使われていた動物達である。
すなわち、このドナウ川防衛線の、属州パンノニア方面の内、第一アデュトリクス軍団と第二アデュトリクス軍団を、下パンノニアに配置。そして続いて第三イタリカ軍団を、属州ラエティアに、更に第一イタリカ軍団と第十一クラウディア軍団を、下モエシアに配置させる。
従って、引き続き、全てのドナウ軍団を防衛のために駐屯させて出発した。
また、この頃にポストゥムスに侵略された、パンノニアの奪還を果たしているため、おそらくガリエヌスのこのギリシャへの旅行は、その後だと考えられる。
そしてこの全三つのコインのタイプ上で、兜をかぶらず、そして軍服も着てはいない皇帝の姿と出会う。
『ヒストリア・アウグスタ』だけは、アテネへのガリエヌスの滞在を報告している。
この著者の情報は、デクシッポスのその情報についての信頼性を、後退させる。
この『ヒストリア・アウグスタ』の、このガリエヌスのギリシャ滞在についての情報は、信頼に値する。しかし、このガリエヌスのギリシャ滞在及びエレウシスの秘儀の参加などにも現われている、彼のギリシャ愛好も『ヒストリア・アウグスタ』では、このように書かれている。
ガリエヌスはアテネで、前述のアルコンに就任したが、その際にこのアルコン就任の時と同様の虚栄心から、更にそれだけでは満足せず、アテネ市民にまで登録され、ありとあらゆる祭儀に参加したがった。しかし、このような事は、ハドリアヌスが幸せの絶頂にあった時でもしなかったし、アントニヌスも平和の中にあったのにしなかった。そしてハドリアヌスとアントニヌスは、ギリシャの学芸に対する大変な熱意を持っており、その熱意は、立派な人々の判断でも、最も学識ある人々にほとんど引けを取らなかった。更に、ガリエヌスは、国事の方はまるで軽視していたのに、アレイオパゴスの会員に加えられる事を望んだ。」とこのように、これまた、ことごとく否定的な様子で書かれている。
更にその上、この彼のギリシャ愛好やそのギリシャ滞在について述べる箇所でも、国事の方はまるで顧みないのにと、すかさず付け加えて批判する事を忘れていないが、当時のガリエヌスのその治世中の、精力的な数々の蛮族撃退や、彼が行なった、帝国の現状の危機打開のための、数々の軍制改革などが無視されている、『ヒストリア・アウグスタ』お馴染みの嘘である。またハドリアヌスもマルクス・アウレリウスも、実際にはエレウシスの秘儀に参加する事などをしており、これも意図的な事実の歪曲かと思わせるような事を、ここでもまたしても行なっている。
またガイガーの指摘する所によると『ヒストリア・アウグスタ』の中に見られる、ガリエヌスのそのギリシャ文化愛好は、おそらくこの原史料とされた、デクシッポスの記述内容を、更に否定的なものに変えられて記述されたという。
確かにこのガリエヌスとギリシャとの関わりとの一連の記述からは、彼のギリシャ愛好を大変に否定的に捉えている事、そして更になぜガリエヌス同様にギリシャ文化を愛好していた皇帝達でも、ハドリアヌスやマルクス・アウレリウスのそれは大変に肯定的に捉え、評価している、著者の不公平な姿勢が窺える。更にこういう形としてだけ、そのガリエヌスのエレウシスでのデメテル崇拝が示される。これはコインによって、主に確認される。二六四年または二六五年のいずれかに、発生する可能性が高い。(『ヒストリア・アウグスタ』で示される、ガリエヌスの執政官就任の年代)。しかし、二六五年の方の可能性が、より高いようである。
だが『ヒストリア・アウグスタ』の中での、ガリエヌスの正確な執政官就任の年は、絶対には信頼できるものではない。まず、なぜならば、二六六年の初めに、ガリエヌスの六度目の執政官就任の際に、鋳造されたコインに、皇帝とエレウシスの秘儀。
特に、プロティノスの新プラトン主義により形成された層に対してなど。こうしてガリエヌスが、これをキリスト教の代わりにしたかった。」
このアルフェルディの仮説は、確かに理不尽である。
そしてそれとは正反対の見解を、表している。D・アームストロング。
彼は言う。ガリエヌスは、アテネとエレウシスに、独占的に宿泊している。
ドナウ地方の国境の防衛の強化。このようにアームストロングは、更なる考慮に値する解釈を提供する。しかし、あまりにも一次元的なままであり、従って、おそらく短絡的過ぎる。この三世紀に、エレウシスの秘儀に入信している、ただ一人の皇帝ガリエヌスの後。
一体誰が、エレウシスの秘儀に入信したか。支配者としてではなく、民間の一個人として。
新プラトン主義の哲学。ハドリアヌスの髭は、ガリエヌスのそれと類似している。
ガリエヌスは、その彼のギリシャ愛好の関心のために、また部分的に反元老院のポリシーで、この前任者に続いた。だが引き続いて、これもギリシャ文化愛好の皇帝として有名なユリアヌスは、そのギリシャ愛好の傾向にも関わらず、彼の著作の「皇帝たち」の中で、女の衣装を纏った兵士として、非常に否定的なガリエヌスの描写をしている。
皮肉な事に彼は、ガリエヌスのギリシャ愛好について、否定的に解釈する。
だがこのように、そのガリエヌスも造語で繰り返し、その時代への回帰を提唱した。
その「古き良き時代」を示すことができた。皇帝のアテネ滞在は、二六五年に設定される総括すると『ヒストリア・アウグスタ』などの、これらの記述などから、その内容は否定的なものにされているとはいえ、ガリエヌスのギリシャ文化への支持とこの問題の皇帝の、ギリシャでの独立した活動を証明している。
このように最終的に、このガリエヌスのアテネ滞在は、やはり二六五年と推定される。
二六一年と二六五年の、二回に渡る、ガリア分離帝国の僭称皇帝ポストゥムスとの戦いを行なった後、ポストゥムスとの妥協的和解という、戦略的撤退も終え、やっとガリエヌスにも、ある程度の時間的・精神的余裕が生まれたためであろう。
そして二六六年発行のコインが、この年からのガリエヌスの執政官就任を現わしている。
この年の、ガリエヌスのエレウシスの秘儀の入信を高い確立で示している。
これらのコインは、多くの場合、麦の穂の草冠のアウレウス金貨の複数形を、誤解させる。
その内のいくつかは、Galliena avgstaeの伝承を背負うものとする。
以来、コインのこのタイプは、ローマとシスティアで、同様に両方製造されている。
これらのコインの種類の、右側かあるいは裏に、勝利の王冠姿の皇帝が刻まれ、そして「vbiqve pax 遍く平和」または「victoria avg アウグストゥスの勝利」を知らせる。
アウレウス番号699で。goblの2000種類のコインの内の、この前部の組合せと後部の銘文「conservatori orbis vbique 世界の守護者による、遍く平和」を与える。
この三世紀の時代に、しだいに疑惑が持たれるようになっていった、皇帝の勝利を通じての、帝国の平和を達成するため、特にここで強調される。
この「世界の守護者」というのは、特にこの時代の碑文が強調してきた、皇帝の成功の重要な標語のようである。このコインの表側の画像、それぞれガリエヌスの左胸に直面。
視線はやや上向きに。また、トウモロコシの大耳はこの耳が、デメテルの象徴であるので、おそらく彼のアテネ滞在の折の、皇帝のエレウシスの秘儀入信に、この耳の後ろの通常の伝承Gallienvs Avg。おそらくこのデメテルへのアプローチは、このコインの象徴性が示す。
従って、このコインは、ガリエヌスの七度目の執政官就任の線上での、彼のローマへの帰還の前後関係に属す。また、デメテルと同一視された、ローマ神話の豊穣の女神ケレスのための象徴としての穂の冠は、詩人ホラティウスによって、言及されている。
そして三世紀の中での、現職皇帝であるガリエヌス、おそらく、その立場としては唯一の。これらの秘儀の手ほどきをされた。そして、これ程のデメテルの、そして、おそらく彼のアテネ滞在の時の、エレウシスの秘儀への、皇帝の入信のための、それによる穂のサイン。
ローマとシスティアから、それらの多くの種類のコインが、知られている。
また更に、これらのコインの種類が、広範囲に渡るようにならなければならなかった事。
事実。これらのコインは、その重量の中でも、最も重かった。そしてこの事が、更にその重要性を強調している。しかし、それはあまりにも遠くへと導く事。先程のアルフェルディの理論を、再開する事に。
「これは皇帝と新プラトン主義のエレウシスの秘儀との同盟の象徴である。そして、キリスト教と戦うために、そのような新しい帝国宗教を、作り出そうとした」という。
その時にアルフェルディは、このコインのタイプに、依拠して。
確かに、既に先程もガイガーも自身の見解も交えて紹介しているように、他の研究者達からも論破されているように、アルフェルディの、ガリエヌスがキリスト教へ対抗し得る国家的宗教として、エレウシスの秘儀を取り入れようとしたという見解は、大胆過ぎるように思われる。そしてこれら、女神達を扱ったコインの、速やかな、「Gallienvs AVG」の伝承の男性化。おそらく、これらの女神デメテルなど、その女神要素・女性性を強調したコインを受け取った人々の、このガリエヌスの着想について、これを単なる「女々しさ」としてしか解釈しない、その無理解と嘲りの反応が起きたため。
このガリエヌスのコインは、それまでのローマのコインの習慣に、著しく違反していた。そしてこれらのコインのタイプは、それまでのローマのコインの習慣に対して、特に著しく皇帝としてのガリエヌのイメージを、侵害した。それが指揮される支配者に、不利な証言をするために。
多分、当時彼は皇帝として不変であるべきはずの彼の位置が、危険に晒されていると、考えていたのだろう。通常以来、政治的に混沌とした時代の、唯一の支配者が危険を取るために、そのような意欲を示した。それは多くの異なる意見が、これらのコインに関連して浮上しているからである。そしてその説明のために、支配者である人間と神との性質を統一する意欲を示している。そしてその説明のために、支配者である人間と神との性質を統一する意欲を示している。
ソルの現われとしての、デメテル。一つの論理的に誤って、書かれた呼格。語呂合わせ。
神秘主義者の、精神的な新たな始まり。以来、セウェルス朝での「Corona obsidionalisまたはgraminea(これはローマ帝国の、敵に包囲された仲間の軍を、解放する事に成功した者に送られる軍事賞で、草冠として表現された。)集大成的発展以来、二六〇年からの、アラマンニ族への勝利を記念して、「Concordia 融和」は戻っていた。
そしてこれは、十分検討に値する考えである。皇后サロニナのためのそれらの使用に加えて、その女性の神々の象徴も、恐怖を克服する。そしてこれは、皇帝の神性から生じたものである。
現在。至る所での勝利による平和からしたがって、このような状態が発生している。
コインの解釈の最も見込みのある解決は、「gobl 2000」 からの、九度目のローマのコインの発掘による状況から。いくつかの神々の調整がある。
「Populi Romani 」。ローマの守護霊。そして自身のために、それらの特性を、ガリエヌスは主張した。更にまたこれも、同様のケースである可能性が高い。ガリエヌスはデメテルにも接近して、それらを求める。そしてこのデメデルとその娘のペルセポネにまつわる、エレウシスの秘儀入信は、特別な役割を果たす。上向きの視線についての、その説明は、天頂の太陽との関連である可能性がある。月と星。ソル。アポロとディアナが識別される、そして、ガリエヌスは顕著にこれら三つを考慮してコインを鋳造させた。おそらく彼は、これらの三人の神々の保護と助言の下で、そのようにしたかった。
また、それもアレクサンドロス大王の模倣であるとする事は、可能である。
男性的な伝承のコイン、女性的な形式の碑文、また、こう考えられる。
その作品の多くは、女性的な伝承の形を取った。そして市民達は、このメッセージを本当に誤解する。更にそれは、女性服装倒錯者としての皇帝ガリエヌスの『ヒストリア・アウグスタ』の記述にある、即位十周年記念祭で女装した剣闘士の行列や、皇帝ユリアヌスなどの描写をも、思い出させる。これらガリエヌスが発行させた女神のコインも、まだ明らかに、このユリアヌスが皇帝になっていた頃の、百年後までは、知られていた。
その結果、それは更に注意しなければならない。ガリエヌスは、ここで新たなコインの種類を、こうして試してみたかった。おそらく皇帝は、こうした神々の、仲介的な役割の一部としての主張をした。そしてこうした男性形と女性形両方の表現を用い、皇帝である自分の個人的な女神デメテルとして、強調したかった。そしてまた、こうした意図についても、語る事ができた。
しかしその百年後に、その皇帝ユリアヌスにより、ガリエヌスについての「女々しさ」として嘲られる、女の衣装を纏った兵士とそのギリシャ文化愛好。
だが、支配者を通しての、こうした多くの女神達の、より集中的な発行は、本質的にヘレニズム的であるか「悪い」ローマの皇帝として同一視する、それら市民達の疑惑のために、従って、相互に関連した。一方、こうした、数多くの女神のコインの鋳造の実行は、ヘレニズムでは普通だった。そのため、アレクサンドロス大王は、こうした事を行なうことができた。それによって、ガリエヌスのように、何ら醜聞を引き起こす事もなく。アルテミスに似せる事。
そしておそらく、このような女神への接近は、ガリエヌスは、ミネルウァの画像と浮き彫りとして実行した。そしてたぶん、このガリエヌス以降の皇帝達も、これらについて、まだ見る事は可能だった。
従って、ここでまたガリエヌスのギリシャ愛好についての表現である。
また、こうした紛らわしくも見える、一連のコインの表現が、それらの否定的な評価の重要な拠点だった。そして彼らの、そうした一連の取り上げ方によって、ガリエヌスの否定的な伝承の輪が発生した可能性。これは三一〇年から、コンスタンティヌス一世の祖先として、クラウディウス・ゴティクスが喧伝されるようになってからしだいに拡大し、やがては『ヒストリア・アウグスタ』での表現のそれへと繋がっていった。そしてこれもやはりギリシャ好きな皇帝として知られている、ネロのその「女々しさ」を凌ぐガリエヌス。その表現。
そして、このようなガイガーの指摘とも関連する私の想像だが。
やはり、ガリエヌスのこのギリシャでのエレウシスの秘儀の入信は、単に彼個人のそのギリシャ文化への強い愛好からなされたものというよりも、それだけではなく、別の重要な意味も、伴っていたのではないだろうか?この後にも、その内容などについても詳述する、このエレウシスの秘儀は、古来から大地の女神デメテルとその娘のペルセポネとの関わりが深い儀式である。
そしてこれも既に明らかになっている通り、このデメテルも、ガリエヌスがコインの中でも何度もその姿を刻ませている事からもわかる通り、彼の主要な信仰神の一人でもあった。
おそらくガリエヌスは、エレウシスの秘儀に入信する事で、よりデメテルからの強い守護そして一体化を、その目的の一つともしていたのではないだろうか?
このギリシャ滞在の時期に、ガリエヌスがエレウシスの秘儀入信やデメテルを象徴する、コインを発行させているのも、単に自分のギリシャ滞在を示すためだとも、思えない。
そしてそうした形跡からも、おそらく、こちらは完全に自分の嗜好から、こうしたエレウシスの秘儀入信を行なう事ができたのであろう、皇帝ハドリアヌスの時と、このガリエヌスが生きた三世紀との、帝国を取り巻く情勢の切迫度の違いも、改めて痛感させられる。
それから、やはり、ガイガーも、『ヒストリア・アウグスタ』の中での、ガリエヌスについての、これら一連の、何とも奇抜で大袈裟で批判的な逸話は、事実だというより、最初からガリエヌスを暴君として批判する事を前提として、創作された可能性が高いと以下のように、指摘している。「ガリエヌスはギリシャ文化と学問に、深い関心を示していた。『ヒストリア・アウグスタ』での、その関連する記述以来。疑問は、表現の真実性の程度後に発生する。アウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスは、この点については、簡潔にその形跡を示すだけである。
ギリシャについての、ガリエヌスの特定の関心との関係は、しかし、依然として不明なままである。『ヒストリア・アウグスタ』は、この皇帝ガリエヌスに対して、ことごとく、虚構の非難をするだけである。悪いもののトポスについての、皇帝はそうである。
そして、また、ここのガリエヌスに申し込む。この史料は、それらの事柄を捏造する。そして暴君として扱われる、ガリエヌス。 彼の変わった食習慣。バラの花をベッドとして使う、浪費。金と宝石の過度の趣味。 過度の無頓着さ。公共の場での、一緒の女性達との下品な接触。親不孝だとする批判。詩。女々しい衣類。そして彼が試みる、季節外れの時期に、果物を出す事。自軍の兵士に対する虐待。ポン引きや俳優などの悪い仲間達とつるみ、居酒屋や売春宿などの毎夜の徘徊。それは「良い皇帝」がそうでなければならない既定概念とは、正反対のものとして創られた、否定的な皇帝ガリエヌスの人物像。」
更にまた、その描写のしかたにも、やはりスエトニウスの『ローマ皇帝伝』との類似点も、感じているようである。更にこのように、ガイガーも指摘しているし、確かにそういった気配も、しばしば感じられる、ガリエヌスのギリシャ文化愛好も、これもまた『ヒストリア・アウグスタ』などで盛んに繰り返されている、ガリエヌスについての代表的な批判の「女々しさ」という評価に繋がった可能性は、ヴァイザーという研究者なども、指摘しているようである。
そしてやはりその際に、ガイガーも既に同様の指摘をしているように『ヒストリア・アウグスタ』の著者の中では、ローマ帝国の中で、これまでネロやドミティアヌスなどの評判の良くない皇帝達が、いずれもギリシャ好きだった事が、これもこの著者の中で、彼らと同じく暴君として扱われている、ガリエヌスのギリシャ愛好とも結び付けられ、このような女々しさの現われとして、否定的に書かれる事になったのではないだろうか?
それから、確かにガイガーも指摘している通り、このユリアヌスも、大変にギリシャ文化を愛好していた皇帝として知られ、自分と同じ嗜好を持つこのガリエヌスに、共感を抱いても、良いようなくらいであるが。しかし、考えてみれば、これも『キリスト教の興隆とローマ帝国』の中で、豊田浩志氏や、そしてこのガイガーなどもこのように類似の事を指摘している通り、コンスタンティウス父子の時代に『ヒストリア・アウグスタ』やキリスト教著述者達が、コンスタンティヌスの神格化に大きく加担している事から、必然的にフィリップス・アラブスやガリエヌスなど、彼らイリリア人皇帝の系譜に連ならない、軍人皇帝である彼ら前任皇帝達は貶められやすい事は、十分想像がつく。自分達の王朝の正当性を主張する為の、前王朝ヘの批判は、大変に効果的であり、これも世界各国の歴史の中で、よく見られる手法である。
更にガリエヌスについては、その治世中に、結果としてローマ帝国の三分割を許してしまったという、彼らからしたら、これまた格好の批判理由も備えている。
また彼らコンスタンティヌス朝の皇帝自身も、殊更に、帝国の危機を救えるのは、自分達、ガリエヌス以降のイリリア系軍人皇帝達のみであると強調している傾向が、やはり彼らと同じ家系出身の、この皇帝ユリアヌスにも確実に受け継がれ、それが彼のガリエヌスに対する、上記のような、否定的な表現として表わされ、図らずも、こうした形で垣間見えるのが興味深い。
彼のこの大変否定的なガリエヌスについての見方は、このような背景の他にも、ガリエヌスが、それまでのキリスト教迫害を本格的に終了させている事が、その彼の「背教者」という呼び名からもわかる通り、ローマ古来の宗教の復活を強く意図したユリアヌスにとっては、おそらく忌々しい事であったからという理由も、大いに関係していたと考えられるが。
また、これは私が二巻の第章でも指摘している点であるが、どうもこのガリエヌスに対して批判的な皇帝ユリアヌスがかつて統治していたのもガリア、そして簒奪者ポストゥムスの勢力圏であったのも、上下ゲルマニア、そしてスペインやブリタニアに加えて、こちらのガリア一帯。
更にガリエヌスにこれも、全体的に批判的である『エンマン皇帝史』、そしてこれも、ガリアとの関わりが指摘されている『ヒストリア・アウグスタ』の著者。
そして二九七年に、下ゲルマニアのトリーアで、コンスタンティウス一世に対して、ガリエヌスについては批判的な内容を含む『ラテン頌詞』の皇帝賛辞の演説を捧げている人物も、ガリア出身である事など、どうもこのガリア地方全体が、この下ゲルマニアなどと並んで、皇帝ガリエヌスに対して、伝統的に、敵対的な場所であり続けたようである。
このように、私も以前から皇帝ガリエヌスについての『ヒストリア・アウグスタ』やその他の歴史書、そしてユリアヌスの自分の著作の中での酷評傾向についての、その濃厚な、プロパガンダ要素を、薄々感じていたように、その理由については、やはりガイガーなどの各研究者達も、このように見ているようである。これらの皇帝ガリエヌス酷評の理由については、教会著述家同様、コンスタンティヌス大帝におもねる、これら四世紀の異教著述家が、まずコンスタンティヌス一世の祖先は、有名な軍人皇帝の一人、クラウディウス・ゴティクスだとする、経歴粉飾から始まり、偉大なコンスタンティヌス朝の血統だけが、ローマ帝国の危機を救えるのだと強調する、プロパガンダが大きく関係したものと見ているようである。
それにしても、コインの中の図柄を通して、皇帝としての威厳を保つ事と女神達のコインが伝える、ポジティブなメッセージを、このように帝国内の人々に届ける事を同時に行なおうとするだけでも、「女々しさ」と誤解され、早急に銘文の表示などの修正が施された形跡を見るにつけても、これも当時の元老院から大変な反発を買ったらしい、軍政改革に関してもそうだが、こうして帝国の危機を救うために、ガリエヌスが様々に試みた改革が、やはり、それまでと大きく違う事を実行しようとする時の大変さが窺われる。
こうしたガリエヌスの様々な試行錯誤、またこのように政治・軍事的にも大変不安定で困難な時代の、ローマ帝国統治者としての苦労が想像される。
また、彼のこの当時からだと思われる、「女々しさ」疑惑についても、政治的理由も大いに関わり、時代を経るに従い、ますます、悪意ある脚色が更に、加えられていくのである。
かつてアテネの支配者は、上記の「アルコン」という政務官だった。
これは、ペリクレスの時代から始められた、公務員である。しかし、それはアテネ民主制の期間の間に、その効果的権限は、徐々に低下していった。だが、全く内部の問題以外についての、不可欠な決定が帝国当局の手にあった時、その比較重要性は、再びローマ帝国支配の中で、復活した。結局、彼ら政務官の内の九人が、置かれる事になった。
彼らは、一年間在職した。三世紀までの主任「アルコン」は、「名祖のアルコン」と呼ばれていた。『ヒストリア・アウグスタ』が彼を「スムス・マギストラトス」と呼ぶ時から、ガリエヌスがこのアルコンの公職を、占拠したと考えられる。アルコンの正装は、銀梅花を頭部に飾り、神聖な紋章を付けた。そしてアルコン名祖の党が、アテナイ人であるならば、家族の法律と継承問題の管轄権を持った。そこでガリエヌスは自由質問の決定をする。遺産、結婚、持参金、そして未亡人の保護、そして孤児、そして狂人など保護を必要としているこれらの人々やその他の人々。
アレイオスパゴスは、古代のアテネ議会だった。アルコンは、特定の手続きを遵守の上で、それらの問題の議論に移った。ガリエヌスの時代までには、その機能は主に公式だった。
この時代のアレイオスパゴスのアルコン達でも、問題が宗教や殺人事件の場合は、いまだ若干の管轄権・裁判権を保持していたかもしれない。
そしてアルコンのそのような位置を受け入れたローマ皇帝は、代理により彼の事務所の責務を果たし、自分自身を大きな行事の公式の出席に、限定する。『ヒストリア・アウグスタ』は、ガリエヌスがローマ皇帝としての国事を全く軽蔑していた一方、アテネでアルコンとなった際に、同じ虚栄心から、アテネ市民に登録され、ハドリアヌスも、マルクス・アウレリウスも、しなかったのに、あらゆる祭儀に参加したいと望んだと書いている。
だが、ガリエヌスのアルコン就任に関しては、このように虚栄心からというより、かつての皇帝ハドリアヌスも、同様の意図を持っていた場合のように、彼のギリシャの後援者としての、積極的な気持ちと義務から行なったものであると思われる。
そしてこのガリエヌスのギリシャ滞在が予想される時期のローマ帝国内の情勢は、小康状態を保っていたとはいえ、常に多忙な彼の状況からして、実際にはアテネのあらゆる祭儀にまで参加する事は、不可能であったと思われる。おそらくこれも、前述のガイガーなども、その記述の信憑性を疑っているように、ガリエヌスがエレウシスの秘儀に入信している事が『ヒストリア・アウグスタ』の著者の悪意による誇張的表現、そして更にハドリアヌスやマルクス・アウレリウスのギリシャ文化愛好は肯定的に書いているのに対し、ガリエヌスの同様のそれは「女々しい」と見なす、こうした著者の偏見も手伝い、このように書かれたのではないのだろうか?
しかし、この『ヒストリア・アウグスタ』のこうした記述からは、おそらく彼がギリシャに滞在していた期間だけであろうが、ガリエヌスが自分でアテネ市民とアテネ当局者として、彼のいくらかの任務を果たしていた可能性が考えられる。そして更にブレイは、皇帝ガリエヌス自身が、アルコンとして審議に加わり、判決を下していたのだろうとしている。更に、これに関連して、ガリエヌスがアテネの一般市民議会を五〇〇から七〇〇に拡大した、いくつかの痕跡があるとしている。続いて、このように述べている。
「例えば、「エレウシスの秘儀」と彼の入信は、この独立した確証である。
かつてのエレウシスの神殿の囲いの中で発見された、大理石の二つの部分は、かなりの独創性で再建された、碑文の一部を成している。この再建の説明によれば、護民官の長年の尽力と、執政官へのガリエヌスの言及によると、グレン=ドールがこのように特定している、ローマ皇帝の答書を、碑文は記録している。ただし、必ずしもそうとは限らないが、彼の関心の始まりの現われとして。エレウシスの秘儀の規則的なコースを辿るならば、エレウシスで行列に参加し、そこで行なわれる盛大な祭典に加わる前に、彼はイリッサス川の土手で、四月に儀式の最初の手ほどきをされただろう。」
ガリエヌスはかつて皇帝ハドリアヌスやマルクス・アウレリウスなども入信していた、大変に審査が厳しく、まさにエリートしか入信できないものであった、ギリシャの秘儀である、この「エレウシスの秘儀」に入信していた。これは、入信者の死後の幸福を約束するというものである。しかし、その儀式の内容は、紀元三九六年のゴート族のアラリックによる、エレウシスの聖域の破壊によって永遠に失われてしまい、詳細についてはよくわかっていない。
しかし、わずかに残るその資料からは、その儀式が冥界に下った、大地の女神デメテルの娘で冥界の王ハデスの妃ペルセポネにより、死後の世界における幸福を保証するものであったようである。そして、この儀式が行われたのは年に二回、春の小密儀と秋の大密儀の二回だった。
大密儀は八日間に渡り行われ、最初の四日間はアテネ市の祭壇に供物を捧げる儀式を行い、五日目から密儀の参加者達はエレウシスの洞窟に向かい、そこの洞窟の中で行なわれる秘密の儀式に参加した。だが、この儀式自体がどのように執り行われたかは決して人に話してはならない事になっていたため、儀式の内容は謎のままである。
そしてブレイは、このガリエヌスのコインを彼の「エレウシスの秘儀」入信と分離する事ができないとしている。「主にエレウシスで崇拝される神は、デメテルだけではなかった。大いなる母。しかし、コレー=ペルセポネ、彼女の娘。捜し求める者と捜される者。または、私はそれは麦の穂とトウモロコシの種とさえ言うかもしれない。異教の方法で。
この神々は、お互いの影である。二元性がある。二人の女神の統一。また、種がトウモロコシの穂の親であり、またはトウモロコシの穂が種の親である。それゆえに、コインの女神がデメテルではないのか、ペルセポネであるかどうかは、私にとってはあまり重要な事ではないように思われる。ケレス、あるいはプロセルピナ。誰であろうとも、それは本当に呼び起こされている出生と豊穣の大きな女性の原則である。式典の一部として、我々も男性と女性の両方の入信者が、ケレーニイが指摘する、彼女の娘を探している役割で現われているのを、読み取った。
大火は燃え上がった。そして、「エシュロン」と呼ばれる道具で雷鳴が表現された。そして続いて、山頂での女神自身の出現。おそらくペルセポネとして、冥界から現われる。このコインを持ち出す事で、ガリエヌスが自分自身の神の女性の豊かさと再生の数字の同一視で実験していたと、考えられる。男性の神の救世主と一緒の場合の、他の例のように、保護者またはエネルギー大ができる、何のgallienusによるものでも、どんな昇進の唯一の証拠でもある。
そして、それは崇拝の自分自身の昇進ではない『eleusis』という語が現れるコインが、存在しない。新しいエレウシスの神殿がない。eleusinianの銘がエレウシス自体の外側にない、そして、人は非常にありふれた性格のあるようであるとわかった。
証拠が、多数にeleusinianismを教え込む、いかなる試みの全てにも、あるという訳ではない。」
それまで、この「エレウシスの秘儀」に、ローマ皇帝のクラウディウスやハドリアヌスが入信を希望するようになったため、アレクサンドリアでも入信できるように、プトレマイオスという人物が、試みた事があった。しかし、これらの試みは不成功に終わった。とうとう、アレクサンドリアでの「エレウシスの秘儀」入信が定着しなかった事の証拠として、三世紀のものとされている演説の一部を記録している、エジプトのオクシリンコスで発見されている「オクシリンコス・パピルス」の内容がある。その中で演説の話し手は「エレウシスの秘儀」の中で行なわれる儀式を、エジプトで実行する事は、女神デメテルに対する冒涜であると語っている。
入会は、そこで起こることができるだけだった。エレウシスは、誰も存在して欲しくなかった。
高位聖職者やアテネの上流階級のごく少数のグループから、入信者がやって来る傾向を、ローゼンバッハは示した。彼らは、世界中で「エレウシスの秘儀」の専門知識と難解な知識を、下位の神殿にまで広げたいと思ってはいなかったようだ。明らかに、全世界はエレウシスに来る事ができなかった。このように、「エレウシスの秘儀」は、自ずと入信者の選別も厳しくなり、アテネの上流階級などの、ごく少数のエリートしか入信できないものとなっていた。
そしてこのような高度な知識を理解する事ができた皇帝ガリエヌスも、当然高い知性の持ち主であった事が、想像される。『ヒストリア・アウグスタ』が、盛んに喧伝しようとしている、愚かな放蕩者の皇帝というイメージとは、これも明らかな矛盾を示している。
そしてこれは、そして前述のような、ガリエヌスのギリシャの文化に対する深い関心とも大いに関わってくるが、彼は妻の皇后サロニナと共に、ギリシャ哲学にも深い関心を寄せ、これも夫婦揃って、哲学者プロティノスの講義を、熱心に聴いていたという。
そして皇帝ガリエヌスが傾倒していた、哲学者プロティノスは、この三世紀を代表する、新プラトン学派の、偉大な哲学者であった。アルフェルディによると、この世紀で最も偉大な精神。
これは、プロティノスの主任副官弟子の、ポルピュリオスの言葉でもある。
このポルピュリオスも、師のプロティノスと並んで、ガリエヌスの治世までに生き残り、極めて少ない、当時の文書が残っている、彼と同時代の人物の一人である。
ここから、プロティノスが六十六歳で、皇帝クラウディウス治世二年目の(つまり、二七〇年)に死んだという事を、知る事ができる。このポルピュリオスが『エネアデス』の中で、プロティノス自身が語った事を基に、彼の簡略な伝記を書いている。
プロティノスは、およそ二〇四年に、エジプトで生まれた。彼は、二十八歳の頃に、アレクサンドリアの神秘主義哲学者アンモニオス・サッカスの下で哲学を学びに向かう。不思議なことに十分に。また、偉大なキリスト教の父と時折は、異教徒の教師により。古代エジプトの神学者オリゲネス。彼はプロティノスより、既に非常に年長であったけれども、あるいは彼らは、講義の劇場で会った事があるかもしれない。(しかし、紛らわしい事に、彼に関しては、もう一つの起源がある。アンモニオスの生徒だが、新プラトン主義者。)
それ以降、十一年間、このアンモニオスの下に留まり、研究に励んだ。
そして更にプロティノスは、三十九歳の時、当時ペルシャで行なわれている哲学とインドで盛んな哲学にも関心を持ち、これら東方の叡智を吸収する事を願い、二四一年のゴルディアヌス三世のペルシャ遠征の時に、その軍隊に身を投じ、共に同行した。
だが、二二四年に、ゴルディアヌス三世がメソポタミアで急死すると、プロティノスはそのトラブルに、巻き込まれてしまう。
なお、このゴルディアヌス三世の死については『ヒストリア・アウグスタ』などの古代の歴史書では、フィリップス・アラブスによる、謀殺とされている。
このゴルディアヌス三世の死が偶然にせよ、実際にもフィリップス・アラブスによる謀殺にせよ、なぜかこの時プロティノスは、命からがら、アンティオキアまで、逃れなければならない事になってしまったようである。フィリップス・アラブスから、睨まれた可能性が高いという事だろう。この点についてブレイは、おそらく、彼は皇帝ゴルディアヌスの友人であり、当時元老院と政府のアドバイザーも、務めていたと思われるとしている。もしかしたら、その可能性も、考えられるかもしれない。事実上、ゴルディアヌス三世の後任の皇帝として、新たに権力を握ったフィリップス・アラブスに、こうして目を付けられる程であるから、当時のプロティノスが、ゴルディアヌス三世とも、かなり親しい関係であった可能性は、あるだろう。
その後、このような事情から、しばらく首都ローマから遠く離れた所で身を潜めていたと思われるプロティノスだが、その後フィリップス・アラブスが皇帝として即位した後の、およそ四十歳くらいの時に、ローマに来て、そのまま滞在した。
やがてそれからローマで、プロティノスは哲学の講義を行なうようになったが、皇帝ガリエヌス即位の最初の年の二五三年まで、彼は何も著作を執筆しなかった。
そして新たに彼の新プラトン派の弟子のポルピュリオスが、皇帝ガリエヌスの治世十年目に、ギリシャから単身やって来た。師のプロティノスが五十九歳の間、彼はおよそ三十歳だった。
プロティノスは、彼に自分に協力する事と自分の作品の編集を委任した。
それぞれ異なる時期に執筆された論文やエッセイのかなり関連のない全集から、これらの作品は構成されている。ポルピュリオスは、九の六セットの中に、これらプロティノスの著作を配置した。それゆえに、これら作品集の題名は「九人組」を意味する『エネアデス』という題名が付けられた。そしてポルピュリオスは、導師の死の三十年以上後にまで、この作品集を公表しなかった。作品の配列順は年代ではなくて、テーマによってである。
ポルピュリオスは、このプロティノスの生涯について、多くの風変わりで細かい逸話を伝えている。「彼は、一切肉を食べなかった。彼は浴場に行かないで、自宅でマッサージを受けた。腸の病気にかかっていたが、彼は浣腸の使用を拒否した。彼はごくわずかな食物しか採らず、そして、睡眠時間は削る事ができた。彼は、自分自身を画家または彫刻家によって表わさせる事を拒否した。彼は、自分の執筆したものを、決して修正しなかった。彼は、ひどい書家だった。彼は、哲学と形而上学だけではなく、幾何学にも熟練していた。数学、整備士、光学と音楽、更には天文学にまで。」
プロティノスは、講義部屋の周りに自分の支持者と弟子の一団を集めた。
しかし、ギリシャの学者達だけは、ポルピュリオス自身は、あまり好きではなかった。
アメリウス、ロンギヌス、医師のエウストキオス、しかしまた地主達はゼトスとカストリクスが好きだった、そして彼ら学者達は、サビニリウスのような元老院議員を助ける事を、好んでいた。そしてサビニリウスは、ガリエヌス治世下の二六六年に、マルケルス・オロンティウス、またロガティアヌスと共に、執政官であった。プロティノスの穏やかな性格は、強く女性達に訴えかけた。彼女達の一部は、彼を深く愛していて、彼の世話をするのを手伝っていた。
ガリエヌスはいずれにしても、この哲学者の名声のため、更にギリシャの学者達とその弟子達のサークルの影響により、ローマにいたプロティノスと交流を持った。
しかし、その上この事に関しては、ポルピュリオスの記した「プロティノス伝」の次の箇所が、直接的な証拠を提示している。「さて皇帝ガリエヌスとその妻サロニナは、プロティノスをきわめて尊敬し、崇拝した。そこで彼は、彼らの友情にすがって、カンパニアにあったと言われるが壊滅してしまっている哲学者たちのある都市を再建するよう要請した。そして建設された暁には、その都市に周辺の地域を恵与し、住民はプラトンの法制を採用することとし、その都市の名称もプラトン市(プラトーノポリス)と定めるべきことを請うた。また彼自身も弟子たちを引き連れて、その都市に移住すると約束したのである。」
ちなみにちなみにこの「プラトーノポリス」とは、プラトンの理想国に倣ったものであると考えられている。これは紛れもなく、ガリエヌスの同時代人であるポルピュリオスが執筆した、貴重な記述ではあるが、しかしポルピュリオスのこの記述からは、師のプロティノスへの熱烈な崇拝の気持ちが漂っており、この内容も、ある程度は、差し引いて考える必要があるだろう。
ポルピュリオスが書いている通り、本当に皇帝ガリエヌスがカンパニアに、プロティノスの望んだ「プラトーノポリス」を建設する事を、約束したのか、確証はない。
しかし、ガリエヌスとその皇后サロニナが、夫婦共にプロティノスに相当傾倒していたらしい様子や、また実際にも、皇帝ガリエヌスが、プロティノスの有力な庇護者であったらしい事は、示されている。
ガリエヌスの知性についての、非常に具体的な話題は、彼とその哲学者プロティノスとの関係を示している。哲学者とギリシャ愛好の知人達、プロティノスの自伝でポルピュリオスは、ごく素っ気無く、皇帝夫妻に言及している。従って、プロティノスの哲学講義の聴講者のガリエヌスとサロニナは、そうだった。それは、アウレリウス・ウィクトルと呼ばれる。
更に、哲学者はカンパニアで、精神的なモデルの後で、この都市の再建の支持を皇帝ガリエヌスに求めた。彼が彼の支持者達と、共に行きたかった場所。また、その上に、若干の意見は、ポルピュリオスの著作で見つかる。そして研究において、このメッセージは、その上に、長い議論を引き起こした。間近で、ガリエヌスとプロティノスとの関係があった方法。
そして、この哲学者の皇帝ガリエヌスに対する、政治的影響力があったかどうかに関わらず。たぶん二四四年に、プロティノスがローマにやって来た際に、ガリエヌスの皇帝即位前に、既にガリエヌスとプロティノスは、会っていた。その後ガリエヌスは、おそらくより一般的な都市に、元老院議員として滞在していた。当時の軍人皇帝としては、稀な事に。
そのため、ポルピュリオスが『エネアデス』の中で、皇帝ガリエヌスの統治の第一年目の二五三年から、プロティノスは勧められて、折々の題材について著述を始めていたという記述が、ここで参照される。この彼らの早めの接触は、その説明でもある。
それは哲学の目的だった。彼の信奉者にとって、意味のある事だった。
またそれだけではなく、社会の中での、いくつかの不満を強調した。
また、学校の形成のための同じような考えを持つ理由の一つの、共同体での生活の理想の実現の提示を表す。田舎暮らしの理想化も、プロティノスにとって、重要な場所を占めていた。
三世紀にプロティノスら哲学者やその支持者達は、日常生活からの隠遁傾向を強めた。
そしてプロティノスが計画していたという、カンパニアに新しく設立し、支持者達と共に赴く、プラトンのモデルに従って生きるために位置する都市。だが宮廷関係者達により、このポルピュリオスの計画の実施は、阻止されたという。その計画の実現には、皇帝の助けが必要だった。
失敗の理由としては『エネアデス』の中で、その理由が部分的に引用されている。
ポルピュリオスは、以下のように書く。
「そしてわれらが哲学者のこの願望は、もし皇帝の側近の幾人かが、妬みか邪推かあるいはその他の卑劣な動機から、妨害しなかったならば、きわめて容易に実現したことであったろうに。」
このプロティノスの計画が拒否された事について、ポルピュリオスがこのように否定的に表現している。だがガイガーは、このプロティノスの計画が実現しなかった最大の理由としては、ポルピュリオスが述べているような、宮廷内の陰謀によるものというより、皇帝であるガリエヌスが積極的にこの計画を支持していたであろうにも関わらず、実現に至らなかった理由として、次のように考えている。これは何よりもガリエヌス自身、そして側近達が、少なからぬ元老院議員などの有力な支持者を持っていた、このプロティノスの計画として、古代ギリシャのプラトン的な共和制を理想とする、プラトーノポリスを建設する事により、帝国ローマに共和制の考えを広める事を危惧したために、阻止する事になったのではないのか?としている。
しかし私はこれは、少し穿ち過ぎた見方のような気が、しないでもないのだが。
そもそも、ガリエヌスがプロティノスのこのカンパーニアの計画の援助をするような様子を示したという、これはどこまで事実だったのか?という、疑問が改めて残る。
やはり、これはあくまでポルピュリオスの誇張的表現や、プロティノスのこのプラトーノポリス建設計画に、皇帝ガリエヌスが好意的な反応を示したというのも、あくまで社交辞令の域を越えるものではなかった可能性も、依然として残されていると思われる。
そしてガイガーの、このガリエヌスのギリシャ哲学に対しての、実際の関心の内容についての考察としては、以下の二人の研究者の見解を紹介している。
C.グランバレットとアルフェルディによると、こうしたガリエヌスのギリシャ哲学についての関心は、彼自身の個人的な関心としての他にも、おそらく、帝国の伝統的な状況の皇帝哲学者として有名な、五賢帝の一人のマルクス・アウレリウスが象徴する、当時平和と繁栄を誇っていた帝国の『古き良き時代』の皇帝として、こうした哲学者プロティノスとの交流などを通して、そのイメージ自体を統治のために欲しがっていたのだと見る。
それから、これはブレイも一通り指摘しているように、三世紀の高い表現水準を保っていたローマ皇帝達の肖像に比べて、四世紀に入ってから、宗教性や皇帝達の絶対的な神格化などばかりが強調され、表現水準が目に見える低下などの、ローマ帝国内における、芸術分野が衰退化。
これらはもちろん、多くの外敵の襲撃・元老院や軍隊の都合により頻繁にすげ替えられる、もしくは自身の僭称による、低い階層出身の皇帝達の頻出などによる、「三世紀の危機」と呼ばれる内憂外患で、それ所ではなくなっていく、帝国の事情にもよるであろうが。
しかし、他にも、これはやはり、それまでのローマエリート層出身ではない、つまり、概してこのような芸術に対する関心・理解が乏しい、ローマ帝国諸属州出身の、兵卒上りという、低い階層出身の軍人皇帝達が、相次ぐようになった事にもよるのだろう。
改めて、この時代の高い芸術水準を誇った彫刻などの芸術作品における、最大の保護者ガリエヌスの影響力と果たした役割の大きさが、想像される。
プロティノスなどとの交流や文化振興など、ガリエヌスは、生来の嗜好によるものからだけでなく、こうした事に熱心に関心を持つ事で、束の間の息抜き、厳しい内外の環境の中での、精神のバランスを保っていた面も、あるのだろう。
二六六年の、帝国の境界の国の短い観察をしよう。ガリエヌス統治の最後の年の侵入の、次の波の前に。大きな領土の損失に対する責任についての、ガリエヌスに対する告訴への特定の言及で。帝国西部。我々が見たように。この地方は、ガリア地方とゲルマニア地方の、実質的な支配者であったポストゥムスの、管理下だった。そしてガリエヌスの支配領域と領域の間の、国境の正確な線以外の、スペインとブリタニアは、描くのが簡単ではない。
一部の専門家は、東南ガリアの一部が、ガリエヌスに忠実なままだったと考えている。
だがこれに対する権限を、発見する事ができなかった。それは本来、信じがたくない。
しかし、それはそれら地域の漂流が、ガリアでのポストゥムス支配の終わりの後、始まるだけだった、帝国中部へあったという事である。どちら。
ブレイが採用した年代記配列によると、二六九年までは、それは起こらなかった。
そして、それゆえに、ガリエヌスの時刻以後。ポストゥムス。我々は後で見る。結局北イタリアでの彼の活動から。同時に、我々は二つの地域の間で、正確に北東の境界線を定める事ができない。しかし、我々は二六〇年頃に「アグリ・デクマテス」が帝国の中で、その所属に迷ったと言う事ができる。これは、ライン東岸とドナウの間の、帝国防衛線の一つの地域の名前である。
ドイツの「黒い森」を含む事。二本の川の間のコミュニケーションを短くするために、紀元一世紀の中で付加される。
我々は、二つの領域の間での交通については、多くを知らない。ガリエヌスのコインは、主に西方で、流通していたようである。どんな秘蔵コインででも、そして、ジブラルタルで、この秘蔵コインは、二六〇年と二六六年の間で彼の単独統治時代のコインの19,000個が存在している。しかし、これらの発見の理由を、スペインかブリタニアが、ガリエヌスの統治の間、その忠誠に戻ったからであると推測する事は、間違いである。二六三年の後に、ガリエヌスが帝国西方属州の、しばらくの間ポストゥムスの支配に、遅くとも黙って従ったという見方を、既に表した。ポストゥムスは、ラインの向こう側に、ゲルマン人を、効果的に撃退していた。
そして、十分な兵力と資金は、ガリエヌスのその単独統治中に発生した、こうした数多くの内乱において消費された。ガリエヌスがこれ以上、無駄に兵力を費やし、ポストゥムスの制圧の方へと、もうそれ以上進まなかったのは、ガリエヌスの恥というよりも、むしろその信頼に値する、とブレイはしている。ドナウに渡ろう、そして、バルカンに着陸する。ラエティア地方。
ノリクム、パンノニア、モエシア、ダキア。そしてこれらの属州が、アラマンニ族から、どれだけの被害を被ったかについて、我々は見た。マルコマンニ族。ロクソラニ族とゴート族。
そして内乱の結果に言及しない事。
しかし、二六二年の後、侵入と反乱はやがて治まり、彼らは戻っていったが、ガリエヌス治世の最後の年の最後の月は、危険なアウレオルスの再度の反乱で、ラエティアから軍隊を奪った。
そしてマルコマンニ族は、ローマの同盟国になった。我々が見たように。
パンノニアは、彼らの一部と共に、落ちついた。レガリアヌスの反乱鎮圧後、ロクソラニ族はガリエヌスによって、効果的に対処されたようである。
とにかく、我々はゴート族以外は、ガリエヌスの統治の残りの間、よりこれらの蛮族の侵入の、何も聞かない。それゆえに、その大災害の嘆願は、アウレリウス・ウィクトルによって物語られた。そしてエウトロピウス、オロシウス、そして聖ヒエロニムスにより。
しかし、彼らはきちんと彼らの述べる出来事の年代を示すか、彼らの言う出来事を適切に年代記の中で配置する事なく、これらの著者は、共同統治と単独統治の間の、全ての侵入を、混同している。そして我々は、この特徴に既に気がついた。順番に各属州に対処しよう。
必要に応じて、こうした四世紀の各史料の修辞的な誇張を、差し引く事。
まず、ラエティアから始める。大帝コンスタンティヌス称讃の著者は、多くの属州が、皇帝ガリエヌスの下で失われたと言う。しかしそれは、ほとんど全く偽りである。
間違いなく、それはアラマンニ族の流れに一時的に潜入した、しかし、騎士階級の総督は三世紀の後半から報告される、そしてアウレオルスが二六八年で彼の最終的な反乱の時に、ラエティアで軍団を統率したと、アウレリウス・ウィクトルは言う。最高でも、国境に沿った、土地の何枚かの細長い土地は、捨てられたかもしれない。またノリクムも、アラマンニ族のために、深刻に苦しんだ。しかし、二六〇年の後、段階的な復興があった、そして、おそらく、この属州はラエティア、またはパンノニアの方よりも、ひどく襲撃はされなかった。騎士階級の総督は、ガリエヌスの統治の間、三世紀後半でこれらのおそらく、彼らで占められた軍職のために宣誓する。
ノリクム内のウィルナムの都市。総督の地位。ちょうど現代のクラーゲンフルトの北。
その場所の勝利の女神の碑文は、パテルヌスとアルクケルスの執政職への言及によって、二六七年まで年代を示されている。このように、ノリクムは、ガリエヌスによって、防衛を怠られていなかった。
そして我々が見たように、上下の、二つのパンノニア地方。この地方は、蛮族の侵入者によってだけではなく、インゲヌウスとレガリアヌスの反乱によっても悩まされた。
ここでも、ラテン語の著者は、漠然として誇張された言語を、使用している。
一時的な侵略の代わりに、永久の損失の概念を、伝えることができる。
『迫害者たちの死』の中で、聖ヒエロニムスは言う。例えば、パンノニアがクワディ族とサルマティア人によって占められたと、聖ヒエロニムスは言う。それは損なわれた。
しかし、そこは彼ら蛮族達に、占領されてはいない。実際、最後の反乱の絶滅の後のガリエヌスは、損害を受けたこの属州を復興している。そして住民達も、そのために勤勉だった。
しかし、ダキアはまた異なる物語である。システィアの帝国鋳造局は、二六二年に設立されて、統治の間、作動が続けられた。おそらく、それはガリエヌスの命令によるものである。
フィッツが言うように。皇帝の彼自らが再建を、指示していた。
そして彼の単独統治中に、元老院の総督は、騎士階級者と取り替えられた。
その任務はこの地域の防衛の強化に関して、そしてドナウに沿った境界線の防衛力に関して、引き受けられた。更にソビアネの要塞も、新たに設立された。マクリアヌスの敗北の後の、二つのモエシアの管理は、進行したようである。ここは、トラヤヌスによって征服されて、ざっと現代のルーマニアとトランシルヴァニアと一致している、ドナウの中の属州だった。
ダキアはもちろん前方へ、フィリップス・アラブスの統治期から、バルカン半島へのゴート族侵入の、直接的な通り道に当たっていた。そのため、ここは繰り返し、荒廃したに違いない。
そしてそれは、アウレリアヌスと兵士によって、ようやく放棄された。
そして、ここの住民達は「ダキア」と名前を変えられる、モエシアの一つに移住した。
これは、二七一年に起こった。多くの事は明白である。しかし、この属州の正式な放棄は、アウレリアヌスによった。
しかし、ラテン語の著者は、それが実際に失われたのは、ガリエヌスの治世下だったと主張している。そして何度も何度も、我々はこの非難に遭遇している。
「ダキア・アミッサ」、またはそれに相当するもの。これらの非難は、不当である。
ガリエヌスは、皇帝フィリップス・アラブスとデキウスの治世下のゴート族侵入のために、または、彼の父と自分自身の共同統治の初めの侵入のためにさえ、責任がなかった。
アルフェルディにより紹介されている、属州の最後の現存している公式碑文は、二五六年と二五九年の間で落ちる。モエシア属州の州都ウィミナキウムの鋳造局は、二五六年の後に、コインを鋳造する事を止めた。(ちょうどダキアの外とドナウの南部で。)
しかし、それでも、まだガリエヌスは、それらの属州をあきらめなかった。
彼は、まだそこでそれらの属州の存在を、保持していた。だがその存在の正確な範囲は、明白ではない。しかし、それは、かなりの割合であると時々考えられている。そして、それは時々、最小にされる。
だが、我々が彼がドナウの向こう側に、彼らを片付けたと語られる時から、アウレリアヌスによる、その最終的な放棄の時に、ダキア属州の中に残っている、若干のローマ人またはローマ化された蛮族の住民がいたに違いない事は、理にかなっている。
私の中での最高の結論は、ガリエヌスが決して正式に、ダキアを放棄しないで、それを回復する事をあきらめず、ある種の公式の残りさえ、そこで維持しなかったという事である。
おそらく大部分はドナウに最も近い地域で。もし属州に対しての、帝国中央政府の通常の機能が動くのを、止めていなければ。本当に。彼が避けられない事に屈しなければならず、十年後までにアウレリアヌスによって、生じるここからの住民の避難に、前もって、対処しなければならなかったためそしてオダエナトゥスにより、この地方のローマと帝国の伝統的な防衛線は、実質上再確立された。ガリエヌスは、このオダエナトゥスのエネルギーと指揮能力に、信頼と感謝をしていた。先にマクリアヌスの反乱の章で、ブレイも述べているように、ちょうど「全東方のコレクトル」としての、実際の当時の彼の管轄権が、どれ程の遠い西にまで広がっていたのかについて、なかなか我々にはわからない。明らかに、それはキリキアで西から、小アジアにまで及んでいたのか、理解する事ができない。アルフェルディは、パルミラの勢力を減らす目的で、東方での彼の直接的な権限を再び主張するという、ガリエヌスによる決定の徴候を見る。
しかし、これらのサイン。オダエナトゥスの死の後の期間まで、全面的にないならば、主に関連がある。「しかし、ガリエヌスが彼のその人生の間、オダエナトゥスに対して、いかなる明らかに敵対的な方法も考えたと、私は思わない。」とブレイはしている。
確かに、現実問題として、度々帝国東方属州は、ササン朝ペルシャに脅かされており、オダエナトゥスの存在なくしては、当時の帝国の東方一帯の属州防衛は、立ち行かなくなっており、私もガリエヌスがオダエナトゥスの影響力を削ぐ事や、また、彼の排除を考えていたとは思わない。
ドナウの北部に永続的なローマ帝国の存在は、三世紀の第三四半期に、多分もはや可能ではなかっただろう。次は、東部帝国の方を振り返る。
なお、その前に、ここでこのガリエヌス治世下で、帝国東方属州防衛を担当していたと思われる、実際のオダエナトゥスの立場についての考察である。
井上文則氏は『軍人皇帝時代の研究』の「第四章 パルミラの支配者オダエナトゥスの経歴」の「第三節」の中で、直接この問題の解明を目的としたものではないが、オダエナトゥスが、二六一年に皇帝ウァレリアヌスが捕虜にされた後、ユーフラテス川の側でペルシャ軍を撃退した功績により、皇帝ガリエヌスにより「全東方のストラテーゴス(軍司令官に相当する。)」に任命された。そして更に、二六一年に東方属州で反乱を起こした、クイエトゥスと近衛長官バリスタを倒した功績のために、再び皇帝ガリエヌスから、今度は「全東方のストラテーゴス」に任じられている。そして井上氏は、この「全東方のストラテーゴス」の、この「全東方」の部分に注目し、この「全東方」とは帝国の東方属州だけを指すのではなく、最初に彼が任じられていた「東方のストラテーゴス」の「東方」とは、その指し示している範囲が違い、東方属州よりも更に管轄範囲が広いと見ている。
そしてその根拠として、しばしばその立場が類似しているとして、先行研究が比較してきた、皇帝フィリップス・アラブスの弟のユリウス・プリスクスが、当時「レクトル・オリエンティス」(東方の統括官)という官職に付いていた事に注目している。
当時のパピルス史料からは「メソポタミア総督にして、シリア総督代官」と記されており、ここから、この「東方の」とは、属州シリア・コエレと属州メソポタミアを指すと、その実際の範囲を指定している。そして、この事から考えて、初め「東方のストラテーゴス」として、帝国の東部属州一帯を任され、次いでオダエナトゥスは、問題の二六七年に、小アジアに侵入したゴート族を撃退すべく、ポントス地方のヘラクレイア市に向かっている事から判断して、この当時の彼の管轄区域は、それまでの東部属州のシリアやメソポタミアに加えて、この小アジア北部までもその管轄に含まれていたのだろうとしている。
確かに、これなら、帝国の東部属州を任されていたはずのオダエナトゥスが、なぜそれまでの彼の管轄外ではないのか?と考えられる、この小アジアまで軍事行動を展開していたのか、無理なく説明する事ができ、納得できる見解である。井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、1994年、PP.125―128
やはり、この二六七年の、オダエナトゥスの軍事行動は、彼個人が自由意志で行なったものというより、元老院議員として、そして軍司令官として皇帝ガリエヌスの命令を受けて、行なったものだったのだろう。更にまた、こうして考えれば、アルフェルディが指摘した、今や小アジアにまで、自らの勢力を拡大してきたオダエナトゥスに、ガリエヌスが警戒心を抱いたという指摘も、根拠が薄くなる。やはり、これら当時の状況から考えてみても、ガリエヌスがオダエナトゥスの、小アジア一帯での勢力伸張を恐れ、更なる勢力拡大の阻止や、オダエナトゥスの排除を試みたという可能性は低いと思われる。むしろ、ガリエヌスにとってのオダエナトゥスは、帝国内での各属州総督の反乱が頻発していた当時では、極めて貴重な、有能かつ忠実な部下だったと言える。
なお、二五一年頃に元老院議員になっていたと思われる、オダエナトゥスは、二七一年に建てられたパルミラの碑文から確認できる通り、当時「ホ・ランプロタトス・ヒュパティコス」と「全東方の再建者」と呼ばれていたとされている。
この「ホ・ ランプロタトス・ヒュパティコス」とは、ラテン語のクラリッシムス・コンスラリス(clarissimusconsularis)に対応するギリシャ語で、その内の「ランプロタトス」は、クラリッシムスに対応する「最も高貴な」を意味する元老院議員に与えられる決まりきった称号である。問題は、こちらの「ヒュパティコス=コンスラリス」の方である。
こちらには、通常「コンスル格の元老院議員」という訳語が当てられるが、このオダエナトゥスがヒュパティコスだったというのは、具体的にはどういう事を示しているのか、井上氏が「パルミラの支配者オダエナトゥスの経歴」中の「ヒュパティコスとは何か」の中で、解明を試みている。
しかし、現在その実際に意味している所については、現在解釈が対立しているとしている。ガウリコウスキーとミラーは、オダエナトゥスは、二五七年と二五八年に、皇帝ウァレリアヌスによって、東方属州の「属州シリア・フェニキア総督」に任命されたとしている。
しばらくは、この説が通説とされていたが、近年ではポターにより、異議が唱えられた。彼によると、ヒュパティコスとは属州総督を意味するのではなく、コンスル格徽章を与えられたという事を示しているとし。つまりオダエナトゥスは、ローマ帝国の制度の中で、正規の官職に就いていたというのではなく、単にコンスルの名誉称号を与えられていたに過ぎないという。
しかし、これに対してはロスから反論が出され、彼自身としては、ヒュパティコスの解釈については、属州シリア・フェニキア総督と解釈し、ハルトマンもこれを支持した。
そして現在、この両説が支持されている状態である。
これに対し、井上氏はオダエナトゥスを属州総督と見なす説に根強く反対する研究者達の、パルミラというローマの一都市の指導者が、例え当時元老院議員の身分を得ていたにせよ、属州総督に任命されるのは、ローマ史の常識的知識からは、あまりにも不自然であるという考えが、基本にあるのではないかとしている。
更に続けて、確かにミラーが指摘するように、オダエナトゥスの場合は、自分の出身地の総督には任ぜられないという、アウィディウス・カッシウスの反乱後に定められたとする規定が無視されているのは、奇妙であるとしている。
だがこれらの反対の根拠に対し、井上氏はしかし、もはやこのような常識的な考えは、皇帝ウァレリアヌスの治世には、すでに通用しなくなっていた事を、思い起こさなければならないとし、むしろウァレリアヌスの政策の革新性を、評価すべきだと、この人事の奇妙さよりも、このような、従来にはない人事を行なった、ウァレリアヌスの政策の革新性の方に、重点を置いた見方を示している。そして更に、このオダエナトゥスのケースを、彼が既に述べてきた、いわゆる皇帝ガリエヌスが布告したとされる「ガリエヌス勅令」によって生じたとされる、ローマ帝国の統治階層の交替が、実際には、もう少し早い、皇帝ウァレリアヌスの時代に端を発するのではないかとの自説を、補強するものではないかとして、述べている。
つまり、ウァレリアヌスは、既に伝統的な元老院議員登用の方針を帝国の過酷な軍事情勢の中で、放棄しつつあり、軍事的に有能な者をその出自に関わらず、必要な部署に大胆に登用し始め、この現象が、帝国の西部ではポストゥムスなどに認められる。
そして東方でのオダエナトゥスのケースも、この延長線上にあるのではないかとしている。
また、オダエナトゥスに関しては、これまでパルミラがシリアの砂漠地帯の防衛を、ローマの軍事力に代って担ってきたという歴史的事実から考慮するならば、むしろこれは自然な人選であったのではないかとすら思えてくるとも、している。
そして更に井上氏はこの、これまでのローマ帝国の人事の方法からすると、異例とも思えるこのオダエナトゥスの抜擢を、これを更に、もっと広く解釈すれば、オダエナトゥスが二五七年と二五八年に、属州シリア・フェニキア総督に任命されたのは、ウァレリアヌスが既にこの頃、息子ガリエヌスや孫のサロニヌスなど、一族の者を通じて開始していた、帝国防衛分担政策の一環だったのではないかという説にまで、展開している。
井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、PP.114―118
私は、ガリエヌスの騎兵改革の実態やオダエナトゥスの実際の経歴の復元に関しては、この井上文則氏の説に、基本的に賛同する立場として、こうして彼により、復元された、オダエナトゥスの実際の当時の経歴ローマ帝国内の軍人としての、彼の位置付けを、ここで紹介したいと思う。つまり、パルミラ出身の元老院議員であったオダエナトゥスは、まず二五七年から二五八年頃に、皇帝ウァレリアヌスにより、パルミラの属していた属州シリア・フェニキア総督として任命。そして更にペルシャにウァレリアヌスが捕えられた後は、その息子の皇帝ガリエヌスにより、シリア、メソポタミアに対する軍司令権を与えられ、二六一年には更にその軍司令権の及ぶ範囲を拡大され、ペルシア帝国に面したローマ帝国東方諸州属州全体の軍事を、統括する立場となった。そして今度は、これも当時彼が呼ばれていた、「王の中の王」と「全東方の再建者」という呼称についての、具体的な考察である。「全東方の再建者」という称号が、具体的には何を意味するかについては、これまで様々な議論が繰り返されてきた。「全東方の再建者」の方については、これまでカンティノーやガノーなどの説によると、前者はこれはラテン語で言う所の「レスティトゥル」、つまり、単なる名誉称号に過ぎないとし、これに対し後者はこれは「コレクトル」という、官職の事を示しているとされてきた。これまでの大勢は、カンティノーの言う所の、称号説を占めていた。
しかし、これに対しポターが強く官職説を主張したため、近年では論争の対象になっている。この問題については、主にポター、スウェイン、ハルトマンの間で議論が行なわれたが、これらを踏まえて、井上文則氏は『軍人皇帝時代の研究』の「第四章 パルミラの支配者オダエナトゥスの経歴」中の第二節で、部分的にスウェインの「オダエナトゥスの碑文は、そもそもオダエナトゥスを英雄視し、彼の在りし日の栄光を讃えるために、パルミラ人の将軍達が、ギリシャ語でのみ建てた碑文であったのだろう。そしてその碑文の「パルミラ的な」コンテクストから考えるならば、この「再建者」は、ローマやローマの制度とは、基本的に関係がないという箇所を支持し、これはスウェインが指摘したように、パルミラ人の建てた碑文の文言の背後に、何らかのローマ的制度の対応形を読み取ることに対しては、懐疑的にならざるを得ないとしている。
そしてその具体的な例として、オダエナトゥスに始まるパルミラの支配者層の建てた碑文の、表記のされ方を挙げて説明している。オダエナトゥスの死後間もなく建てられたと思われる、彼の息子ウァバラトゥスの称号や官職を表記した碑文には「元老院議員、王、コンスル、皇帝、ローマ人のドゥクス」とある。この中で述べられている称号や官職は、その一つ一つを取れば「ローマ人のドゥクス」以外は、ローマの伝統的な称号や官職である。
しかし、「元老院議員、王、コンスル、皇帝、ローマ人のドゥクス」というセットは、ローマ的な感覚からすれば、全くナンセンスなものである。そして井上氏は、これはおそらく、パルミラの指導者達が、このようなローマ的称号官職を羅列する事で、最強のローマ的支配者との印象を、人々に与えようとしたのではないだろうかとしている。
そして更に続けて、このような碑文を建てるパルミラの支配者層の碑文に、ローマ帝国の制度を読み取る事には、やはり、無理があるとし、「全東方の再建者」の意味を考える上で、この言葉が「王の中の王」の称号と並んでいる事に注目している。
ここに刻まれている「全東方の再建者」は、この「王の中の王」とセットで、オダエナトゥスが「オリエント世界」最高の支配者であった事を示すために、パルミラの支配者層が勝手に与えた称号に過ぎないのではないかとしており、つまりこれまで言われてきた、ローマ皇帝が彼の功績のために、与えたものではなかったのではないか?という指摘が、出されている。これも、説得力ある見解だと思う。井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、PP.119―124
アルフェルディとクリストルの、年代記配列の上で。それを採用する。
黒海の海岸の上のゴート族の海賊の急襲は、二六一年と二六七年の間で静まった。
それら小アジアの勤勉で不屈な民族達は、半島の生産性を、戻し始めていた。
しかし、二六七年と二六八年の出来事は、一時的に危険が静止しているだけだった事を、示す事だった。アルフェルディは、それに前もって対処する、ガリエヌスによる、その試みの証拠を見つける。彼はローマ帝国艦隊を、戦争体制と小アジアの海岸都市の強化に付ける事に言及する。
彼は、これに対する権限を挙げない。二五五年から二六〇年への年の恐ろしい経験の後、ずっと精力的な調合は、なされなければならなかった。地方の人口を保護して、中心軍まで十分な包囲機械なしで、攻城兵によって包囲に耐えるために、都市は帝国属州に入れられなければならなかった。またはその分遣隊。これらの都市救出のために、呼び出される事ができた。それは、必要な範囲にされたようには見えない。もしもオダエナトゥスが殺されていなければ、それは正しくそうである。そして、結局、彼は二六七年の侵入者を追い出す事が、できたかもしれない。
しかし、彼に対する信任は、海賊に直面した、各都市の見た目の無力さのために、ガリエヌスを必ずしも許す事ができない。
そしてシリアは、オダエナトゥスの盾の下で、安全だったようである。
アンティオキアは、それまでのペルシャによる包囲にも関わらず、大きな中心都市として復活していた。我々が二六一年と二六八年の間でその歴史の聞く全ては、サモサタの異端的な司教パウロスの活動に関して、教会著述家の史料から来る。しかし、彼の効果的宣誓証言は、パルミラに対する、アウレリアヌスの勝利を、待たなければならなかった。当時のエジプトは、アエミリアヌスの反乱から立ち直っていた。ガリエヌスの統治の残りの間、それについてbruchium・ブロックの、郊外の包囲に至ったアレクサンドレイアの反乱が、ガリエヌスの死の前に二六八年に起こったと、アルフェルディが明らかに思うと報告するために、注目すべき何も、ない。
しかし、これが証明されるとは思わない。そして北アフリカ。我々が見たように。彼らが効果的に扱われた、そしてその国境はおよそ二六〇年の後で平穏だったが、サハラの遊牧民の攻撃によって悩んだ。そしてこれは、シキリア(シチリア)の中で、その嫌疑のかかっている、この属州の反乱に対処する、便利な出来事である。
我々は『ヒストリア・アウグスタ』から、これらについて耳にする。
「結局、まるで全世界が陰謀を企んでそうなったかのように」。著者は言う。
更に続けて、こう述べる。「世界のあらゆる部分が動揺し、シキリアにおいては、かつての奴隷戦争のようなものが起こり、盗賊が横行した。が、これは何とか鎮圧された。」
そしてブレイは、これはおそらく、ガリエヌスの治世のその惨禍を増加させるために、おそらく以前のシチリアの中での、奴隷戦争の報告から盗まれた可能性がある、という指摘をしており、自分はこれは史実としては採らないとしている。確かに、まだ共和制時代だったローマでは、過去に二回、いずれもシチリアで奴隷戦争が起きており、例によって、これも『ヒストリア・アウグスタ』には付き物の、時代錯誤的な、過去の歴史的出来事を引っ張り出してきて、記述の中に逸話として挿入する、というパターンだと思われる。
また、更にガイガーも『ヒストリア・アウグスタ』の中で、このように漠然と書かれている、当時このシキリアでの奴隷戦争や盗賊などの横行についての記事に関しては「こうした当時のシチリア地方での、情勢不安の可能性については、歴史的には、ある程度は賛同される。だが、この事件自体についての、詳細な記録らしきものは、ほとんど残されてはいない。 」として、同様にその信憑性については、疑問を示している。
こうして結局は、ガリエヌスが、そのローマ帝国の、大きな領土の損失に対しての責任を、かなり免除される事ができると思われる。だが明らかに二六三年に「アグリ・デクマテス」は失われる事となった。正式に迷わないならば。帝国の本体から、危険で失敗している、漂流状態にあった。そして、二、三の比較的マイナーな国境地帯への対応が、同様にあったかもしれない。
しかし、それらについても、十分考慮されなければならない事、当時ガリエヌスが、ほとんど一人で立ち向かわなければならなかった、帝国統治の数々の困難について。
ローマ帝国自体の、そしてローマ帝国の文明全体のために、大きな大半のローマ世界を、何とか後の世代まで保持する事に、ガリエヌスがよく値したと考えられる。
二六七年に、皇帝ガリエヌスの治世に、新たに不穏な影を投げかける事になる、衝撃的な事件が起きた。そのアウレオルスの反乱。そしてこれまでペルシャ軍との戦いで、度々戦果を挙げていた事から、皇帝ガリエヌスから「東方のストラテーゴス」や「全東方のストラテーゴス」の称号を与えられ、それまでローマと良好な同盟関係にあった、当時「シリア砂漠の真珠」と称えられ、繁栄を誇っていた、通商都市パルミラの指導者で、ローマ帝国の東方司令官の地位にあった、オダエナトゥスの死。彼が二六七年に、ヘラクレア・ポンティカでゴート族を撃退した後の事だとされている、突如起こった甥との諍いからの殺害。しかも、オダエナゥスがいくらかの家族内の争いまたは、パルミラ内の争いの間により、その関係者によって殺されたという事には、疑いがない。
ゾナラスによると、ある日、オダエナトゥスは甥のマエオニウスと狩猟に出かけた。
しかし、オダエナトゥスが追いかけていた獲物を、マエオニウスが横取りして、仕留めてしまった。これは、不敬行為であったが、この時のオダエナトゥスは、ひとまず彼を叱責して済ませた。しかし、それにも関わらず、その後もマエオニウスは何度も同じ事をして、オダエナトゥスの面目を潰した。そしてついにこれに激怒したオダエナトゥスは、彼を馬から引きずりおろし、その後しばらく牢屋に入れたという。そしてこれに誇りを傷つけられ、恨みに思ったマエオニウスは、宴席でオダエナトゥスといとこであるその長男ヘロデスを殺害したという。
(ちなみにこのマエオニウスは『ヒストリア・アウグスタ』が記しているように、オダエナトゥスの従兄弟ではなく、甥としているのはゾナラスで、こちらの甥という見方を採るのが、一般的なようである。)
そしてシュンケロスとゾシモスは、更にその殺害の共謀者に、ゼノビアを加えている。
この時オダエナトゥスと共に殺害された長男ヘロデスは、彼女の実子ではなく、先妻の息子であり、この事件により、彼女の息子ウァバラトゥスが、父オダエナトゥスの地位を、そのまま引き継ぐ事ができる事になる。とにかくオダエナトゥスが殺害された事は、明白である。
この事件により、王と長男は死んだ。動機は、マエオニウスの、このように、自分の名誉を傷つけられた事による怒りか、あるいは妻のゼノビアも、その一団に加わっていたであろう陰謀により。
しかし、オダエナトゥスと長男ヘロデスの殺害は、本当に単なる、叔父オダエナトゥスとの諍いによる、マエオニウスの個人的な私怨によるものであったのだろうか?
彼が元々愚かで短慮な人物だったから、こんな感情的な怨恨が原因で、一族の統領であった叔父のオダエナトゥスといとこまで、殺害してしまったのだと結論付けるのは容易い。
しかし、当時のパルミラ内では、オダエナトゥスに代表される、ローマ帝国との同盟維持派と、おそらく、各地で僭称皇帝が相次ぐ、騒然とした当時の世情にも大いに影響された、ローマ帝国からの分離派との、水面下での対立があったのではないだろうか?
特に、夫のオダエナトゥス死後に、その未亡人のゼノビアが、処刑後、自らはパルミラ王国女王と称し、実子のウァバラトゥスにはローマ皇帝を名乗らせ、公然とローマに反旗を翻した事から考えても、オダエナトゥスの死により、ローマ帝国との同盟維持派の代表者を失った事により、パルミラは宗主国ローマ帝国との同盟という足枷から、自由になったとも言える。
更に、このオダエナトゥス父子殺害事件で、自分の継子である長男のヘロデスの死により、二男の息子ウァバラトゥスに、夫オダエナトゥスの後継者の地位が回ってきた事も、彼女にとっては、悪かろうはずがない。また、ゼノビアのオダエナトゥス死後の行動から考えると、オダエナトゥス生存時には、彼のローマとの同盟維持に、一応表面上は同意していたものの、内心は必ずしもこの夫の路線に賛同してはいなかった可能性も、考えられる。
やはり、夫の意図とは異なると思われる、このような行動を、夫オダエトナゥスの死により、意気消沈する所か、むしろ水を得た魚の如く、早速、自らの長男にはカエサルを名乗らせ、そして自分自らが実際の権力を握り、精力的にパルミラの最高権力者として振る舞い、エジプト征服に乗り出したゼノビアの、夫殺害関与の可能性が取り沙汰されるのも、無理はないと思われる。
そしてゼノビアが夫オダエナトゥスの後は、長男のヘロデスが継ぐ事で納得していた事を証明するような形跡も、特にない。夫の生存中には、賢明にも特に、自分の息子ウァバラトゥスの方の継承を求めるような事はせず、表面上は、とりあえず大人しくしていただけという可能性もある。ゼノビアが夫の長男で継子のヘロデスよりは、単純に実子のウァバラトゥスの方に、夫の跡目を継がせたいと思っていてもおかしくはないし、年少で実子のウァバラトゥスの方が、息子の補佐という名目により、直に自分がパルミラの権力を握ることができるし、また、何かと自分によるコントロールも、しやすいであろう。
このように一見不幸に見える、夫オダエナトゥスの殺害であるが、野心的で権力欲が強い、勝気な女性ゼノビアにとっては、必ずしも不都合な、一連の成り行きではなかったのである。
まず、夫の死はともかくとして、自分の息子のウァバラトゥスの強力な潜在的ライバルとなり得た長男ヘロデスは、自らの手を汚す事もないまま、マエオニウスが殺害してくれた。
そして、パルミラの統領であり、自らの夫であるオダエナトゥス殺害の首謀者達を処刑するという、正当性ある理由により、これまた夫の血縁者という事で、ウァバラトゥスのライバルになった可能性があるマエオニウスを処刑。
常に、これも野心的な古代エジプト女王クレオパトラ七世を意識し、後にはパルミラ女王を自称し、ローマに反逆するくらいの女性であるなら、自ら謀殺には関与していなかったとしても、これくらいのしたたかな計算が、働いていてもおかしくはないと思う。
また、夫殺害という事態も、ゼノビアの夫謀殺後の手際の良い、一連の事後処理から考えても、少なくとも、このオダエナトゥスの死は、彼女にとっては全くの不測の事態では、なかったのではないかと思う。また、私がマエオニウスが叔父との諍いから、オダエナトゥスと長男ヘロデスを殺害した動機を、単なる怨恨とするには疑問が残る理由として、彼がなぜ恨みのある叔父の殺害だけに飽き足らず、長男まで殺害させてしまったのかということである。
それは坊主憎けりゃ袈裟までのような、瞬間的な激しい憎悪に任せて、その息子までも殺害してしまったとか、こうした形で後々の禍根を断ったという可能性も、考えられなくもないが。
だが、オダエナトゥスの事実上の次期後継者と目されていたであろう、長男のヘロデスの方まで殺害してしまった事によって、更に、オダエナトゥス側の怒りと復讐心を、増幅させる可能性も高いと思われる。やはり、オダエナトゥス及びその長男ヘロデス、そしてマエオニウスとの間には、ローマ帝国を巡っての対応についての、激しい路線対立も、存在していたのではないだろうか? とすれば、潜在的にしても、ゼノビアも夫よりは、彼の甥のマエオニウスの主張に賛同していた可能性も考えられる。それは結果として、夫の敵になった人物でもあり、それまでも様々な理由により、公然と彼を支持した事は、なかったのかもしれないが。
しかし『ヒストリア・アウグスタ』でも、彼らが結託して、オダエナトゥスを殺害させたという記述もあり、やはりゼノビアが実際には、夫殺害にまでは加わっていなかったとしても、このマエオニウスの対ローマ姿勢という点では、何らかの共感を抱いていた可能性は、やはりあるのではないだろうか?
だからといって、私が必ずしもゼノビアが、必ずしもマエオニウス側であったとは確定できない理由としては、おそらく、ローマからの分離という主張では賛成だったかもしれないが、オダエナトゥスの次の後継者は、一体誰にするかという点で、両者の思惑に大きな食い違いが、生じていた可能性があるからである。ゼノビアは当然自分の息子の、ウァバラトゥスをと考えていた可能性も高いはずである。また彼女の中には、三世紀に入り騒然としてきた、帝国東方属州の防衛の一端を、これまで夫と共に担ってきた、という強い自負も、あったのではないだろうか?
それに、ゼノビアがこのマエオニウスと共謀し、夫のオダエナトゥスとその息子ヘロデスを謀殺する程の悪女でもなかったとしたら、やはり、夫を殺害した犯人とは、手は組めないと判断したことだろう。そして更に、ゾナラスの物語と『ヒストリア・アウグスタ』が、ブレイは妻ゼノビアの関与の他に、実はローマ皇帝ガリエヌスが、このオダエナトゥス殺害に関与していたという可能性を仄めかす、各歴史書の記述に対して、こう指摘している。
この傾向は特に『ヒストリア・アウグスタ』の方の著者に顕著だとして、これは典型的な古代の英雄として、オダエナトゥスを確立し、卑劣なガリエヌスとの対比を際立たせる効果を、狙ったものだというのである。
確かに、この『ヒストリア・アウグスタ』の中でのオダエナトゥスは、クラウディウスなどのガリエヌス以降の軍人皇帝達と並んで、全体的にほめられ過ぎて、書かれている印象が強い。
例えば「やがて、オダエナトゥスは、ウァレリアヌスの復讐のために、その息子が怠っていたペルシア人に対する戦争を仕掛けた。オダエナトゥスは、あっという間に、ニシビスとカラエを占領した。サトラップたちがローマに引き立てられてくると、ガリエヌスは、オダエナトゥスが勝利したにも関わらず、(自分のための)凱旋式を行なった。」という記述である。
二六三年に、ガリエヌスがコインに「ペルシャクス ペルシャを征した者」という銘を刻ませ、ペルシャに対する勝利を祝っている事実である。
しかし、むしろこうした事も、オダエナトゥスが、救世主さながら、独自の軍事行動を行ない、ペルシャ追撃を行ない、また気高く無欲な彼が、ガリエヌスにその名誉を譲ったというよりも、やはり彼はあくまで皇帝ガリエヌスの命により、彼の代理として、ペルシャの撃退を行なったことを、むしろ物語っていると言える。
そして特にこの「三〇人の僭称帝たちの生涯」のオダエナトゥスの章の、次の箇所などは、特筆すべき、彼への甚だしい称讃振りとなっている。「私は、神々が国家に対して怒っておられたと信じている。というも、ウァレリアヌスが殺された後、オダエナトゥスを生かしておかれなかったのであるから。オダエナトゥスは、妻のゼノビアとともに、すでに回復していた東方だけでなく、実に、全世界を再建する事ができたであろう。彼は、戦争においては果敢で、多くの著作家が書いているように、驚くほどよく狩猟を行なった事でも有名である。彼は、若い頃から、ライオンや、ヒョウ、クマ、その他の野生動物を捕らえることを、男の本分としてこれにいそしみ、森や山の中で生活し、炎天や驟雨など狩猟の楽しみに伴うあらゆる困苦に耐えた。それゆえ、オダエナトゥスは、ペルシア戦争では、太陽と砂塵にもちこたえた。妻もこれらの苦難に耐えた。多くの者の意見では、妻は夫よりもいっそう強かったという。彼女は、東方のすべての女性の中で、最も高貴で、コルネリウス・カピトリヌスが主張するところでは、最も美しかった。」この中では彼は、こうして、もし生きていれば、この世界の再建者となり得ただろうとまで、称賛されているのである。また、何かとその精悍さ・勇ましさを強調しており、反対に何かとその柔弱さ・放蕩振りを繰り返し『ヒストリア・アウグスタ』の中で、強調されているガリエヌスとは好対照である。また、元々砂漠の住人であるオダエナトゥスが、砂漠の暑さや砂塵に耐性が強いのは、おそらく当然だと思われるし、殊更取り上げて、ほめ称えるような事でもないと思われる。やはり、このオダエナトゥス殺害にはガリエヌスも関与していたとする記述には、確かにこのように古代の英雄・救世主然とした、オダエナトゥスの書かれ方から考えて、ブレイが指摘している、上記のような効果を狙っての記述の可能性も、あるのではないだろうか?
また、こうした過剰に思われる称賛は、彼だけには留まらず、その妻のゼノビアの方も、抽象的で過剰な称賛が行われていると感じる。
また他にも更に、このオダエナトゥスの絶賛的記述に続き「三〇人の僭称帝たちの生涯」の中での、ゼノビア自身を扱った章では、オダエナトゥスの章での時以上に、更に一層、ゼノビアについての賛辞的表現や記述が続いている。
また他にも更に、このオダエナトゥスの絶賛的記述に続き「三〇人の僭称帝たちの生涯」の中での、ゼノビア自身を扱った章では、オダエナトゥスの章での時以上に、更に一層、ゼノビアについての賛辞的表現や記述が続いている。まず、最初の方の代表的なものとしては、アウレリアヌスが本格的にパルミラ討伐に取りかかった最中に、ローマの元老院に宛てて出したとされている、以下のアウレリアヌスの手紙の中での、ゼノビアに対する大変な称讃とも、取れる内容である。「元老院議員諸君、ゼノビアを凱旋式に引きたててきたことで、男らしくない振る舞いをしたとして、私が非難している者たちは、この女がどのような者であり、物事を判断するのにどれほどの思慮があって、計画の遂行に際していかに守備よく、厳格さが要求される場合にはどれだけ苛烈であるかを知るならば、私を賞賛するのにやぶさかではなくなるであろう。オダエナトゥスは、ペルシア人に打ち勝ち、サポルを逃亡させて、クテシフォンにまで到達したが、それはこの女のゆえであったと私は言うことができる。さらに言えば、東方やエジプトの人々の間でも、この女は非常に恐れられており、アラビア人、サラケニ人、そしてアルメニア人も不穏な動きを示さないほどだ、とも言うことができる。この女は、自分と自分の子どもたちに東方の支配権を保つことで、ローマ国家にとって非常に有益なことをなしたと思うので、私は彼女を助命したのである。何事も気に食わないような者たちは、自分自身の言葉の毒は自分たちにだけ向けておけばよい。実際、この女に打ち勝ち、凱旋式に引き立ててきたことが適当ではないとするならば、いったいガリエヌスについて彼らはなんと言うつもりか。ゼノビアは、ガリエヌスを軽蔑し、彼よりもよく帝位を維持していたのである。神聖で、敬うべき将軍であった神君クラウディウスは、いったいどうであったのか。クラウディウスは、ゴート人への遠征にかかり切りであったため、ゼノビアが皇帝になるのを許したといわれているのである。そうして、クラウディウスは、彼女に帝国の東方国境を護らせる一方で、自身がなさねばならないことを慎重かつ思慮をもって成し遂げたのである。」
このように、何とこのアウレリアヌスでさえも、ガリエヌスのような、情けないローマ皇帝よりも、このゼノビアの事を認め、大いに評価していたとまで、されているのである。
また更に続いてアウレリアヌスは、この女であるとはいえ強敵のゼノビアを、かろうじて打ち破ったとまで、されているのである。しかし、このアウレリアヌスが元老院に宛てて出したとされる手紙の中の、最初の一文からして、何か既におかしい。例えばかつてカエサルやオクタウィアヌスが、ローマ軍の敗者となった、クレオパトラとの王位継承争いに敗れた、その妹のアルシノエや、更に他にも、マルクス・アントニウスとクレオパトラの娘の、クレオパトラ・セレネなどを、凱旋式で見世物として連行させている事は、ローマでの有名な勝者の慣習として認められており、敗者とはいえ、女性を凱旋式で引き回したとして、批判はされていない。
またこうした伝統的なローマの慣習が、この三世紀に、俄かに批判されるようになったとも思えない。本来なら、このようなアウレリアヌスの手紙の中での、元老院に対する、ゼノビアに対する称讃交じりの弁明など、必要ないはずである。また、アウレリアヌスはあくまで勝者として、こうして敗者のゼノビアを、その凱旋式で連行してきたという事であろうし、実際には『ヒストリア・アウグスタ』の彼の手紙とされるものの中であるように、ゼノビアを将軍であるかのように、凱旋式に連れてきていたとは思われない。
それにゼノビアのエジプト侵略というのは、明らかにローマ帝国に対する、本来の彼女の職務範囲内からの逸脱・反逆行為であり、ローマにとって非常に有益な事どころか反対である。またゼノビアの僭称した、パルミラ女王の地位及びパルミラ分離帝国の存在を、ガリエヌスやクラウディウス・ゴティクスらのローマ皇帝達が、正式に認めていた訳でもなく、当時の帝国内外の、続発する簒奪や、これもほとんど間断なく押し寄せる、蛮族達の襲撃という厳しい諸情勢から、妥協的に黙認していただけの事である。しかし、まるでこれではクラウディウス・ゴティクスが、ゼノビアのそのエジプトへの侵略・私物化までも含めて、彼女の帝国の東方支配を、正式に認めていたかのような書き方である。それに、敵とはいえ、一旦降伏すれば助命するというのも、ローマの伝統的な対応であり、別にアウレリアヌスもそうした理由から、ゼノビアを助命しただけだろう。しかし、このアウレリアヌスの口振りだと、いくらゼノビアは女とはいえ、あの女にも劣ると思われる、惰弱な皇帝ガリエヌスなどより、よほど恐るべき敵であるから、本来なら敗者とはいえ、女に対してこのような扱いをするのは、自分も好まないが、ゼノビアは並みの女ではなく、下手な男達よりも、よほど手強い敵であるから、どうか理解して欲しい、とでも言いたげである。
また、オダエナトゥスがペルシャ軍を、その首都クテシフォンにまで敗走させたのも、このゼノビアの存在ゆえとは、これも彼女についての称讃が、少し大袈裟過ぎはしないか?
そしてこれは私が「第五章 ウァレリアヌスのペルシャ遠征と捕囚」の個所でも指摘しているが、そもそも、まず、このような事実自体がない。確かに『ヒストリア・アウグスタ』のウァレリアヌスについての章でも、オダエナトゥスがペルシャ皇帝シャープールをバリスタと共に、首都クテシフォンへと敗走させたかのように書かれてはいるが。
だが、実際にはシャープールがキリキリアにまで侵入し、その後で撤退し、帰還している途中に、オダエトナゥスとバリスタの攻撃を受けており、オダエナトゥスやバリスタの攻撃によるものではない。そしてこの戦いには、ゼノビアも同行していたかとは思われるが、夫のオダエナトゥスでさえ、こうした誇張が行われているのであるから、この戦いにおいての、ゼノビア自身の具体的な働き振りは尚更不明である。
更にまた私には、このアウレリアヌスの手紙の中での「自分自身の言葉の毒は自分たちにだけ向けておけばよい。」という表現自体についても、何となく気にかかるのだが。
何だか、無骨な軍人皇帝のアウレリアヌスの手紙にしては、表現がどことなく、洒落ているというか、洗練され過ぎているような感じがするというか。
私にはもっと率直・直接的かつ簡潔な表現の方が、より彼のような皇帝には、相応しいと思われるのだが。やはり、私にはこれはアウレリアヌス自身の言葉というよりも、これは何やらずっと後の時代の歴史家が、好んで使うような、ひねった文章表現であるように、私は思われるのだが。そしてこのアウレリアヌスの手紙の内容などにも見られる、ゼノビアへの称讃的記述も、およそ『ヒストリア・アウグスタ』の中では常に、ガリエヌス以外の人物達への称讃は、著者自身による記述もしくはこのように、誰かの台詞を借りた直接的・間接的な、つまり何らかの形を借りた、ガリエヌスへの批判と対になってなされているパターンを、明らかに踏襲していると思われる。
確かにアウレリアヌスもゼノビアも、ガリエヌスに対して、軽蔑を感じていた可能性もあるが、実際に彼らがこのような内容の手紙や発言を残していたのかについては、疑問な点も残る。
そのアウレリアヌスの手紙の現物や、こうしたゼノビアの一連の発言についても、他に信頼に足る史料は、一切現存していない。そして更に、このガリエヌスが、女々しく堕落した無能な皇帝だから、それへの軽蔑により、僭称皇帝達が乱立したという、この「ガリエヌスに対する軽蔑ゆえに」というのも、この著者の、ウァレリアヌス捕囚後に、一斉に各地に乱立した、僭称皇帝達のこれら簒奪の理由を説明するに当たっての、お馴染みのロジックでもある。
そしてゼノビアの容姿や生活についての、詳しい記述の箇所である。
これによるとゼノビアは、どうやらギリシャ風の豪華な生活を好んでいたようである。
パルミラとギリシャとは、交易の中心地として繁栄を誇り、当時文化的には混合していた形跡があり、またゼノビアの率いていたパルミラ軍の指揮も、実際にはギリシャ人の将軍が行なっていたという。
そもそも、この彼女のゼノビアという名前自体が、ギリシャ語名であり、アラブの族長アル・ザッバの娘だった彼女の元々の名は、バット・ザバイという。また更に、彼女の夫のアラブ名はオダエナであり、息子の名前はワハバルラートである。オダエナトゥスとウァバラトゥスというのは、ローマ風の表記である。そしてこの「ワハバルラート」という名前には、「アルラートの神の賜物」という意味があり、更に彼は別にギリシャ名の「アテノドーロス」という名も持っていた。そしてこれは「アテナの賜物」という意味であり、パルミラ人の信仰していた神アルラートとギリシャ神話の女神アテナを融合させたものである。またパルミラのベル神殿などに見られる、長方形の建物と一斉に並んでいる柱廊などの建築様式は、明らかにギリシャ・ローマ式だが、その尖ったコーニスの部分は、明らかに東方のものである、このような建築様式。そしてパルミラの遺跡からも、パルミラ語の他にギリシャ語の碑文も、多数出土している。
ゼノビアが当時のこういった文化的背景の影響を受け、彼女が、実際にもギリシャ風の生活様式の方を好んでいた可能性は、十分にあると思われる。またゼノビア自身も、パルミラ女王に留まらず、「東方の女王」までをも自称している程であるので、実際に彼女が、昔の時代の東方の女王の、クレオパトラを気取っていた可能性も、あるだろう。ローマへ戦いを挑むという点でも、ゼノビアが彼女に対して共感のようなものを覚えていた可能性も、あると思われるし。
そしてゼノビアの容姿についての記述である。
「顔は褐色で、暗い色調であった。その黒い目は普通の人よりも輝いていた。尋常の人ではない精神力をもっており、容姿は信じがたいほど美しかった。歯はとても白く輝いていたので、多くの人が、それは歯ではなく、真珠であると思ったほどであった。」
大体、まるでこの著者が、このように実に饒舌に詳細に、ゼノビアのその容姿について、何かの伝聞という形によるというより、まるで彼自身が実際にゼノビアの容姿を見た事でもあるかのような書き振りをしている事自体も、やや引っかかる部分があるのだが。
そして、この「歯はとても白く輝いていたので、多くの人が、それは歯ではなく、真珠であると思ったほどであった。」という表現などは、いかにも大仰である。
またこのゼノビアの美しさについても、これも事実を反映した記述であるというよりは、私の先程の指摘の、このオダエナトゥス夫婦の英雄化の延長上の結果の、その妻ゼノビアが美女であるかのように思わせる記述の可能性も、考えられるのではないだろうか?
そしておそらくこれも、実在さえもしていない、著者の創作人物の可能性が高いと思われる、このコルネリウス・カピトリヌスという人物の口を借りて語られている、彼女は、東方のすべての女性の中で、最も高貴で、コルネリウス・カピトリヌスが主張するところでは、最も美しかった。」という記述と、この「容姿は信じがたいほど美しかった」という表現とは、その印象が重なるような部分も、あると思われるし。
ゼノビアに対しては、彼女の僭称の下、パルミラはエジプト一帯までをも含む、帝国にまで俄かに昇格したとはいえ、ゼノビア自身は、元々は帝国内の一隊商都市のローマの将軍の妻であり、当時に多発した、数多い反乱者の一人、という存在である事から、その彫像すらも残っていないし、小さなコインでは、彼女の詳細な容姿は、確認しようがない訳であるし。
従って、このゼノビアの一連の美女的な容姿の描写についても、この『ヒストリア・アウグスタ』によく見られる、典型的な記述形式の一端・修辞的表現ではないと、言い切れるものだろうか?どうも『ヒストリア・アウグスタ』ではその人物について、称讃したい意図がある場合は、その人物の容姿をとにかくほめ上げるというのも、時折垣間見られる傾向である。
例えばこの『ヒストリア・アウグスタ』の中でそれこそ神君とまで称えられている、クラウディウス・ゴティクスについての容姿の記述などはこうである。
「さて、クラウディウス帝自身は、性格がまじめなことで知られていた。また、比類なき生涯を送り、稀有の純粋さを持っていたことでも有名だった。長身と、よく光る目をもった幅広の福々しい顔。そして、手指の力が非常に強く、しばしばこぶしの一撃で馬やラバの歯を叩き折った」。
また、こちらは創作人物であるとは考えられるが、ケルススについての記述では、皇帝というものは、まず何よりも、風采が堂々としていなければならない、とでも言いたげな、この人物についての、以下の記述である。「この男は、アフリカに駐屯していた元将校で、当時は一私人として自分の農地で生活していたが、正義感と体格の良さのゆえに、皇帝にふさわしいとみなされたのであった。」逆にこの『ヒストリア・アウグスタ』の中で、さんざんに酷評されている、ガリエヌスについては、こうした容姿に関する、称讃的記述が皆無なのを見ても、そういう傾向はよくわかる。
これも容姿を称讃される記述がされている、前述のケルススは、また例によって、手を替え品を替え、ガリエヌスを貶める記述をする事に余念のない、この著者により、これもその目的のためだけに、おそらく登場させられたと思われる、これまた創作人物の可能性である可能性が高い、彼の従姉妹だとする、ガリエナという名の女に、殺されたという事にされている。
本当にこの『ヒストリア・アウグスタ』の著者の、その関連記述全体に漲る、ガリエヌスに対する悪意と侮蔑は、凄まじいものがある。
ここで再びゼノビアに、話を戻そう。そもそも、ゼノビアというと、その『ヒストリア・アウグスタ』中の、さながら、美しく勇ましい、東方のパルミラの女王とでもいうような、どうもこれもかなり誇張気味と思われる描写に、研究者も含めて、ついつい、幻惑されてしまいがちなのであろうか?通常、ゼノビアというと、どうも人々の中で、特に根拠もなく、三十代くらいの姿で、想像されやすいように、思われてならない。しかし、オダエナトゥスの妻なら、彼の暗殺後に、ついにパルミラでの最高権力者の地位に昇り、パルミラ女王を名乗り始めるようになった時には、夫のオダエナトゥスと同様に、既に四十代か五十代くらいには、なっていたと思われる。
だが、例えばフランスのアカデミズムの画家ブーグローの、ゼノビアを題材にしたと思われる絵画の中でも、かなり若い感じの美女として描かれている。
やはり、ゼノビアの当時の実際の年齢は、度外視されやすい傾向だという事だろう。
また、これは上記の、アウレリアヌスがゼノビアとの戦いの合間に、元老院に出した手紙として示されている、明らかにガリエヌス批判と対になって表されている、アウレリアヌスの言葉とされる、そのゼノビア称賛の内容とも重なるが。このアウレリアヌスとの戦いの敗北後に、ローマでの凱旋式で引き立てられてきた、ゼノビアに対して、アウレリアヌスが放った質問に対しては「私は勝利したあなたが皇帝であることは認めていますが、ガリエヌスやアウレオルス、その他の皇帝たちを、皇帝とはみなしていません。もし、地理的な条件が許せば、私とよく似たウィクトリアと、帝国を共同統治することを選んでいたでしょう」。
これも『ヒストリア・アウグスタ』恒例の表現パターンである、今度はこうしてこのゼノビアの口を借りて表わされている、不甲斐ない皇帝ガリエヌスに対する軽蔑である。
また更に、この場面でガリエヌスと同じように、ゼノビアの台詞の中で引き合いに出されている、ウィクトリアという人物も、例によって、実在が非常に疑わしい人物である。
そして『ヒストリア・アウグスタ』の皇帝ガリエヌスについての章でのこの箇所の、こうした記述なども、象徴的だろう。「同じ時、オダエトゥスは、自分の従兄弟の陰謀によって、共同皇帝としていた息子のヘロデスとともに殺されてしまった。妻であったゼノビアは、生き残った息子ヘレンニアヌスとティモラウスが幼かったので、自ら帝権を取って、女々しくもなく、女らしいやり方でもなく、長い期間、人々を支配した。実際、彼女はガリエヌスはもちろん―小娘でもガリエヌスよりもより良く統治できたであろう―、その他の多くの皇帝たちよりもより勇敢に、巧みに統治したのであった」。
また更に「小娘でもガリエヌスよりもより良く統治できたであろう」などとは、ローマ皇帝に対する、最大限とでも言える侮辱である。また、これと類似の表現は「女たちでさえ彼よりもよく統治したであろうほどであった。」など、他にも頻繁に見られる。やはり、そのために、こうして意図的に、ゼノビアの勇ましさを、特に強調しようとしている気配が、見られる。
つまりこのゼノビアも、ガリエヌスを貶めるために、殊更その女傑振りが強調され、称讃され、こうした形で『ヒストリア・アウグスタ』の著者に、間接的にその存在を、大いに利用されている可能性が、かなり感じられる。そもそも、私がこの『ヒストリア・アウグスタ』中でのゼノビアについての、数々の記述について度々感じる、元々の大きな疑問なのだが。
そもそも、このゼノビアに関する記述をしているこの著者、トレベリウス・ポリオは、果たして本心から、このゼノビアについての、大変な称讃をしているのであろうか?
確かに一見、この著者のゼノビアに関する一連の記述を見ていると、ローマに敵対した人物に対し、なぜここまで?と、訝しく思う程の称讃を、彼女に対して、惜しみなく、送っているかのようにも見える。そして果ては、ガリエヌスは男たちのみならず、女たちからも軽蔑されていたとまで言われている、ガリエヌスのその酷評振りとは、まことに対照的である。
しかし、それにしては、よく見ると、このゼノビアについては「女に許されている以上に長く、皇帝の地位に留まった。」・「この傲慢な女は」とか、あるいは「ゼノビアは、彼らの名の下で、実際には帝権を自分のものとし、女の分を超えて長く国家を支配した。」などというような表現が所々見受けられ、本当にこの著者は本心から、このゼノビアに対し、賛辞とも思えるものの数々を、その記述の中で、送っているのだろうか?と思わせる箇所がある。
またこれは、直接ゼノビア自体に関する記述ではないものの、他にもガリア分離帝国皇帝テトリクスの母だという、ウィクトリア、もしくはウィトルウィアについても「ガリエヌスのあのような生き様が、女すら記憶に値する存在にしてしまったからである。」というような書き方をしている。こうした筆致からも、この著者が実際には、女性達が政治や軍事の前面に出てくる事を、けして快くは思っていなかったのは、明らかである。
そしてこれと関連して、私が既に言及している『ヒストリア・アウグスタ』での、ガリエヌスについての頻繁な批判の言葉としては、大変よくこの「女々しさ」という表現が見られるという点、そしてその裏にはいつも、いわば、これに対するゼノビアの「雄々しさ」とでもいうような言葉が、絶えず付きまとっているようであるという、指摘もしている事でもあるのだが。
やはり私は、ゼノビアに関する一連の記述の信憑性について改めてこうして考察している上でも、何かとそのゼノビアの男らしさが連呼され、ガリエヌスの「女々しさ」と殊更対比させるような書き方をしているのも、大変に気にかかるのである。
本当にこのゼノビアに関しては、ほとんど常に、男のようにとか、男性の皇帝達並みにというような形容詞が、頻繁に用いられ、描写されているのである。
「王のような豪奢な生活を送った」・「ペルシアの王たちのように宴会を開いた。」・「しかし、一方で、ローマ皇帝のように」。
しかし、この場合、女王のような豪奢な生活を送った、でも良いはずだと思われるのに、あくまでもこの著者は、これらの場合に「王のように」という表現を用いている。
そしてまたここで、ゼノビアが頻繁に「王のような」とか「王のように」・「ローマ皇帝のように」という、王や皇帝という表現を付けて記述されている箇所からも、やはり、ガリエヌスに対する皮肉の色彩を、色濃く感じるのである。この『ヒストリア・アウグスタ』の中でのガリエヌスは、救いようもない程、愚かで堕落した無能な皇帝であり、あくまでも、皇帝失格の人物なのである。しかし、いくらゼノビアが勝気な女性であったとはいえ、本当に彼女がここまで何もかも、それこそ日頃から、戦いと知恵の女神アテナか、西洋のジャンヌ・ダルクのような軍装姿まで見せ、何かと男性の支配者達並みに振る舞い、およそ男性達だけが出入りを許されていたのではないかと思われる、ありとあらゆる場所にまで顔を出していたのかは、他に照合できる確実な史料もなく、疑問は残る。こういった記述も、何かと大袈裟な感じのこの著者特有の、誇張ではないのか?という疑問は、やはり残る。
もしかしたら『ヒストリア・アウグスタ』に見られる、ゼノビアについての称讃とも取れる著者の一連の記述は、本当に彼女の事を称讃しての事だというよりも、この著者の便宜的な、そして悪乗り、更に当時の史料不足を補うための、大幅な脚色目的が主体の、称讃だったのではないのか?私にはこれは一見、それこそ、何とも情けない、ガリエヌスのような男よりも、よほど男らしい、女の反逆者ゼノビアと、拍手喝采を送っているように見えて、実はこの著者の本意は、どうも別の所にあるように思われるのだが。
私には実際には、一見、手放しの称賛とも見える、こうしたゼノビアに関しての一連の表現の中には、それもこれも、全ては何もかも、不甲斐ない堕落した皇帝ガリエヌスの無能さゆえから、ついにはゼノビアなどという、こんな異国の女にさえ、こうして帝国の政治・軍事の場面に、しゃしゃり出てくる機会を与えてしまったのだという、この著者の侮蔑が、その背後に、強く潜んでいるように思えてならない。
そしてこの『ヒストリア・アウグスタ』というのが、何かと批判や問題点も多い、歴史書である事は、既に私もこれまでにも何度も、指摘してきている。また実際にも、井上文則氏も、以下のような指摘をしている。「この伝記集は、分量的には相当あり、トイプナー版で軍人皇帝の部分だけでも二五〇頁近くある。そして、そこにはスエトニウスに倣ったスタイルで彼らの出自、経歴、内政、外征、そして私生活が饒舌多彩に描かれている。しかしながら、この伝記集は、その著者の性格、成立年代、さらには内容の信憑性をめぐって、十九世紀の歴史家H・デッサウの研究以来、激しい論争の対象となっており、その史料的価値についてはかなりの疑問がある。『ケンブリッジ古代史』第一二巻(第二版)でこの伝記集の史料的価値に言及したJ・F・ドリンクウォーターに至っては、『ヒストリア・アウグスタ』は、デクシッポスなどの信頼できる原史料を利用したと考えられる部分を除いては、「アウレリウス・ウィクトルとエウトロピウスを想像力で膨らましたものに過ぎず、大抵の場合無視すべきである」とまで言い切っている程である。また更に、これも井上文則氏の別の書籍での『ヒストリア・アウグスタ』についての、再度の指摘である。
「次に、本所載の伝記が利用した原史料について簡単に触れておく。本書は、基本的には、オリジナルな調査に基づいた作品ではなく、既存の史料を著者が自由な、あるいは悪意ある筆で編纂したものにすぎないので―そして、これまでの分冊の解説で指摘されてきたように、その傾向は時代が下るにつれてはなはだしくなっていく―、その史料的価値は、著者がどのような原史料を利用したのかにかかっているといってよい。」「すでに指摘したように、後代になるに従って本書の史料的価値は減じ、創作が多く紛れ込むようになるが、それは本書の著者の嗜好が筆が進むにつれて露骨に表われてきたということ以上に、史料不足という根本的な制約を受けていたと考えられるとの指摘がある。
更に続けて、井上氏はこの『ヒストリア・アウグスタ』については、軍人皇帝時代の史料としてよりも、一種の歴史小説のような物として読む方が、多くの読者にとってはよいのかもしれないとまで述べている。そしてこの著者の悪意というのは、既に、特にガリエヌスに関する記述の中で、今までにも何度か、露骨に表われている。
ここでまた、ガリエヌスが、オダエナトゥス殺害に関わっていたという説に、話は戻るが。
すでに述べたように、その生前オダエナトゥスは、あくまで一貫して、ウァレリアヌスの頃から、元老院議員として、彼ら父子両皇帝に忠実に従い、かつ有能な頼もしい部下であり、確かに、ついにその生涯の間、妻ゼノビアのように、独自にコインを鋳造したり、「パルミラ王」を僭称したりするような事もなかった。また、その軍事行動も、あくまで元老院議員として、皇帝の命令を受けての範囲のものであり、ガリエヌスの皇帝としての権威を脅かすような事も、してはいない。また、父がペルシャの捕虜になった事により、より東方属州の防衛には気を配り、更なるオダエナトゥスとの緊密な協力が必要であったと思われる当時の状況から考えても、何一つオダエナトゥスを殺害させて、ガリエヌスが得るものはない。そして彼がオダエナトゥスの殺害に関与していたという、確証もない。このように、彼がオダエナトゥスを突然殺害させなければならない必然性は、あまり感じられない。
それならば、私はまだしも、彼の妻ゼノビアがオダエナトゥス殺害に関与していたという説の方が、説得力があると思われる。とにかく、具体的な真相ははっきりとしないが、オダエナトゥスが何らかのパルミラ内での陰謀により、暗殺された事は、確かなようである。
アンティオキアの、そして、小アジアの鋳造局は、残りの彼の統治の間はガリエヌスの名において、そして、その後のクラウディウスの名において、コインを鋳造し続けた。
クラウディウスの治世の終わりまで、まだゼノビアは独立した皇帝と「アウグストゥス」として、彼女の息子ウァバラトゥスの存在を主張しないで、本格的にエジプトを侵略してはいない。
それでも、アンティオキアの鋳造局は、少なくともゼノビアの夫の死後から、完全に彼女の勢力下にあった。本来ならば、皇帝ガリエヌスからゼノビアに求められていた役割は、夫の役割を引き継ぎ、息子と共に帝国東方属州の防衛に、専念する事であった。
しかし、実際に彼女が続いてした行動は、ローマ帝国の東方属州防衛の任蛮族討伐と各地での将軍達の反乱の対応に追われる、ローマ帝国の混乱に乗じ、一方的なパルミラのローマからの独立とパルミラが帝国に昇格した事の宣言。そして更にパルミラ女王を僭称、更にそれだけではなく、自分の生んだ息子のウァバラトゥスには「パルミラ王」と名乗らせた事であった。
これは、明らかな職務からの逸脱行為、宗主国ローマの支配に対する、公然たる挑戦であった。そしてその生前には、ついに彼女の夫オダエナトゥスがする事がなかった、自分や息子のコインの鋳造までさせている。また二六七年のオダエナトゥスの暗殺後の、ゼノビアの詳しい、その具体的な領土拡大の経緯は不明なものの、既にクラウディウスが皇帝となっていた二六九年には、正式にローマからの離脱を表明し、シリア近くのアンカラにまでその勢力を拡大し、二七〇年にはエジプトにまで、侵攻しているようである。
とにかく、二六七年のオダエナトゥスの死後からの、ゼノビアのローマ帝国東方属州での、こうした暴走が、ますます、皇帝ガリエヌスの立場を弱め、窮地に陥らせるようになっていった事は間違いない。一方、このようなパルミラに対する、この間のローマ帝国の対応としては、当面はパルミラ討伐にまで兵力を割く余裕がなかった事もあり、クラウディウスの病死もあり、しばらくはゼノビアの東方支配については、放置されておかれたが、アウレリアヌスの時になってから、ついにパルミラ遠征が行なわれた。
そしてシリアのアンティオキアでの、ローマ軍との戦いの時に、ゼノビアが特に具体的な根拠もなく、一方的に援軍を期待していた、かつて皇帝ウァレリアヌスを捕え、ローマ帝国中に衝撃を与えた、ペルシャ皇帝シャープール一世は、この時既に、この世の人ではなくなっていた。ローマと戦いを始めるに当たり、この程度の情報すら、自称パルミラ女王は、把握していなかったのである。結局、ゼノビア率いるパルミラ軍は、ローマ軍にエメサで大敗を喫する。
敗北後、ゼノビアはラクダで逃走を試みたが、ユーフラテス河方面を逃走中に、ローマ騎兵に捕えられた。
ゼノビアの、この戦いの直前に、もし素直にローマに降れば、彼女の全財産は没収されるが、ローマでの家族達との余生を保証し、パルミラの市民達にも、今後もローマが認めてきた諸権利を持ち続ける事を保証するという、という内容の書簡を送った皇帝アウレリアヌスに宛てた返事である。この中でゼノビアは、アウレリアヌスの帰順の勧めを断固として拒否し、更に虜囚の辱めを受けるよりは死を選んだ、エジプト女王クレオパトラの例を持ち出していた。
しかし皇帝アウレリアヌスにより、ゼノビアのこれまでの行動は、ローマに対する国家反逆罪に値する行為として裁判にかけられると、彼女はこれまでの態度を一変し、土壇場で自分の命惜しさに、今回の戦いの全責任を、全て臣下達に唆された事にしたのである。
ローマに戦いを挑んだクレオパトラに憧れ、日頃から強く意識していたらしいゼノビアは、このような死の危険に直面した時の振る舞いにおいては、クレオパトラに倣おうとはしなかったようである。彼女は自らの敗北を認め、死を選ぶよりも、こうして、あくまでも生に執着した。
そしてこうしてアウレリアヌス率いるローマ軍に敗れたゼノビアは、これも束の間帝国の混乱に乗じて、数年間の間独立勢力を誇っていた、ガリア帝国皇帝テトリクスと共に、鎖で繋がれて凱旋式の見世物として、ローマ市内を引き回された。
それから間もなく死んだとも、ローマ市内の別荘に幽閉された後に、ひっそりと数年後に死んだとも言われている。
なお息子のウァバラトゥスの方は、ローマとの戦いで戦死した。
二六〇年の皇帝ウァレリアヌス虜囚後の、ローマ帝国未曾有の混乱期に乗じ、ローマ帝国内の混乱に乗じて、急速に勢力拡大をしていった、ゼノビアのパルミラ分離帝国は、実質わずか七年でローマに滅ぼされた。こうして、ローマ軍の徹底的な破壊と略奪を受け、ほんの数年の間存在していたパルミラ分離帝国は、地上から消え去ったのである。
ローマの真意を見誤り、己の実力を過信し、不用意にローマを見くびったゼノビアは、そのあまりにも大きな代償を、こうした形で支払わされたのであった。
とにかく、『ヒストリア・アウグスタ』中で、このアウレリアヌスにとっての、ゼノビアの存在の、実際よりの強敵化が行われている気配を感じる。
そもそも、この『ヒストリア・アウグスタ』の記述内容自体が、何かと誇張的表現が、著しい傾向である。彼女と夫のオダエナトゥスも出てくる「三〇人の僭称帝たちの生涯」の、この三十人という人数自体が、既にかなりの誇張である。
当時の主要な簒奪者達として数えられるのは、以下のポストゥムス、レガリアヌス、インゲヌウス、マクリアヌス、小マクリアヌス、クイエトゥス、アエミリアヌス、アウレオルスらの約八人程である。そしてこの三〇人中には、この著者の創作人物と思われる人物も、多数混ざっている。当然、このゼノビアに関しても、何かとかなりその姿が、誇張されて描写されている部分も、あると思われる。しかし、実際のゼノビアは、このように、ついに本格的なパルミラ討伐に乗り出してきたアウレリアヌスの軍勢に、さんざんに打ち破られ、最初から来るはずもないペルシャの援軍を期待し、逃走を試みるも捕えられ、ローマでいざ裁判にかけられると、戦いの全責任は部下に押し付けて、責任逃れをしているのである。
また、多少は当初はアウレリアヌス率いるローマ軍を、手こずらせたようではあるものの、夫のオダエナトゥスが育て挙げた、パルミラ軍の指揮も、実際にはギリシャ人の将軍達に任せ、ゼノビア自らが指揮を執っていた訳ではないようである。夫オダエナトゥスと共にペルシャと戦っていた時、やはりさも最初から、まるでゼノビアが夫からその武勇を大いに買われ、部隊の指揮までも任されてでもいたような『ヒストリア・アウグスタ』の書き振りには、疑問が残る。
またその勇ましさについて、おそらくガリエヌスを貶めるための当てつけもあり『ヒストリア・アウグスタ』の中で、しばしば、漠然とした賛辞は送られているものの、具体的な当時のそのゼノビアの凄まじい戦い振りを記述している記録も、残ってはいない。
それこそ『ヒストリア・アウグスタ』の中では、ゼノビアは「最強の女」とまで称えられているが、こうした現実を見ると、これも彼女について、少し大袈裟な賛辞ではないのだろうか?
誇張が著しく、『ヒストリア・アウグスタ』がこうして創り上げている、いわば、武勇に優れた砂漠の女王伝説とでも呼ぶべき、ゼノビアに関する記述も、事実に近いものとして受け取るよりも、実際の戦闘の指揮は、配下のギリシャ人の将軍達が執っていた事から考えても、実際のゼノビアの姿としては、それなりにカリスマ性のある、神輿であった可能性すら、あるのではないだろうか?
そして『ヒストリア・アウグスタ』の中でのゼノビアに関しての一連の記述内容についても、ほぼ必ずガリエヌスを貶めている記述と対になっている、他の人物達について褒め称える記述の場合同様、彼女に関する数々の記述内容についての信憑性にも、私がいろいろと疑問を覚えている事は、すでに述べてきたが。どうも誇張されて書かれているのではないかと思われる、実際の彼女の軍事能力についての疑問や、彼女の容姿の美女的な描写もそうなのだが、他の私がゼノビアに関する記述について、何となく違和感を覚える箇所である。
『ヒストリア・アウグスタ』の著者が武勇や容姿などを称讃的に描写している他に、更にこのゼノビアについては、彼女は美しい上に貞淑であったとして、妊娠しようとする時でなければ、夫と関係を持つ事を、よく断っていたという。
しかし、やはりこのゼノビアについての、この箇所の称讃の記述についても、私はどこかそのほめ方が、おかしいような気がするのだが彼女は仮にもオダエナトゥスとは夫婦である訳だし、このような過度に禁欲的な感じのするこの慎み深さは、男勝りの気性の激しい猛女ゼノビアには、そぐわないような気がしてならないのだが。まるで無理やり、伝統的なローマ人の妻的、もしくはキリスト教徒の女性的な美徳を、この実際には、本当にそういうものを、持っていたのかどうか疑わしい、遠く離れた砂漠都市パルミラの女性である、ゼノビアにまで当てはめ、無理やり称賛しようとしているかのような。
なお、既に前述している通り、パルミラ側には、数年間の間、パルミラ女王を僭称した、このゼノビアについての記述がある、文献や関連物はほとんどなく、彼女に関する情報のほとんどは、ローマ皇帝達の方の記述内容についてさえ、これまでも既に明らかなように、しばしば、その信憑性については、疑問が持たれている、この『ヒストリア・アウグスタ』による記述に、専ら拠っている。このように『ヒストリア・アウグスタ』中に出てくる、皇帝及び僭称皇帝その他周辺人物達についての記述と同じく、このゼノビアについての記述内容の信憑性にも、いろいろと疑問が残る所である。やはり、結局は全ては『ヒストリア・アウグスタ』の著者の、ゼノビア強大化=ガリエヌス矮小化という図式に、集約されていくのではないのだろうか?
一見、アウレリアヌスの章での、軍人皇帝達の中でも、特に武勇に優れたアウレリアヌスとゼノビアとの対決という、三世紀のローマ帝国史の中の、ある意味でのクライマックスとでも言うべき、いかにも派手な感じのこの光景にばかり、読者達は関心を奪われがちであるが。しかし、この場合『ヒストリア・アウグスタ』内での、ゼノビアについての記述の信憑性の度合いについての注意と、こうした著者のレトリックの可能性にも、注意を払う必要があるのではないだろうか?そして、前述のように、この著者はその一方では、女のくせに、政治や軍事の前面にまで登場してきおって、とでも言いたげな、いくつかの表現も、時々ゼノビアに対して使っており、本当の意味で彼女の事を称讃しているとも思えない、そしてそんな著者が、どうしてここまでゼノビアに肩入れ・称讃でもしているかのような書き方を、何かとし続けているのか?
やはり、私の疑問は、どうしてもこの点に帰ってゆく。
どうも一連の記述を見ていると『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、特にこのガリエヌスとゼノビアの存在を、際立って対比的に描く事を、殊更好んでいるようである。
しかし、このように対比的に描くのならば、同じ男性同士であってもいいはずだと思われるのに、なぜわざわざ、この著者は、女性であり、現実にはとうとう、直接ガリエヌスと戦う事もなかったゼノビアを、そのガリエヌスの無能振りを表わす、格好の比較対象ででもあるかのように目を付け、こうして選んだのであろうか?また、これは二巻の「第三章「堕落した女々しい暴君」という、ガリエヌスの悪評の原因と検証」でも、既に少し触れているが、ブレイもなぜ僭称「皇帝」達の中に『ヒストリア・アウグスタ』は、実際には僭称「女王」である、女性のゼノビアを、わざわざ入れたのか?という点に注目し、この点について彼が指摘する、おそらく「女よりも劣る男」ガリエヌスという印象を与えるのに、女性であるゼノビアが、そのための格好の素材であったという、私も大いに同感する、こうした可能性とも、やはり大いに重なってくる。
そしてこの著者が、クラウディウス・ゴティクスと並んで、かなり好意的に描いているように思われるアウレリアヌスの章でさえも、彼とゼノビアのその実力を、正確に記述しようというよりも、こうして皇帝ガリエヌスに対するパルミラの反逆者、ゼノビアの存在を、実際以上に強大に描く事で、ガリエヌスを貶める目的の方が、優先されたという事なのではないのか?
私は『ヒストリア・アウグスタ』を見ていて、大変強く感じる事だが、この著者は歴史書にとっては重要ではないかと思われる、記述の正確性という部分には、何かとあまり注意を払わない姿勢のように、見受けられるし。このような著者の執筆傾向から考えても、当然『ヒストリア・アウグスタ』の中で、かなり印象的に描写されている、このゼノビアについての記述内容も、その分、相当の脚色が含まれている可能性も、疑うべきであろう。
やはり私は、実際にもアウレリアヌスが、このゼノビアの事を『ヒストリア・アウグスタ』で描写されているように、恐るべき敵とまで思っていたのかは、やはり疑問が残る。
また、後年ゼノビアは、パルミラの土地に新たにエジプトまでも加えた帝国を、東方に作りパルミラ女王を名乗ったものの、あくまでも元々の彼女の立場は、パルミラという隊商都市の一指導者の、ローマの将軍の一人の、オダエナトゥスの妻であり、更にローマ帝国史の中では、当時の数多い、皇帝僭称者の一人という存在になるため、尚更彼女に関する詳細は、上記の皇帝達以上に、不明確になりがちなのだろう。ゼノビアが勝気で男勝りの女性であった事は事実なのであろうが、どうやら彼女の存在が『ヒストリア・アウグスタ』の著者から、これまた、夫のオダエナトゥスと並んで、ガリエヌスを貶める、格好の存在として捉えられている気配が、かなり濃厚に見られる事。そしてこの点についても、私が既に述べているように、ガリエヌスを貶めるレトリックとして用いられている傾向が、かなり強いと考えられる、オダエナトゥスの、まるで典型的な古代の英雄然としたその描写。そして更に、おそらくその延長戦上としての、その妻ゼノビアの、同様のこちらはヒロイン化とでも言うべき、数々の称讃的描写。
そしてこうした推測される著者の記述姿勢により、ガリエヌスなどの下手な男よりは、よほど男らしくて勇ましく、その上更に美しくて貞淑などとする、実際にはけして本心からは、彼女のような女性を、称讃してはいなかったと思われる、この著者の手による、ゼノビアのここまでの、その存在の昇格となったのではないだろうか?そして、そのためにその彼女の存在が、実際以上に強大化されて書かれている可能性が、やはり、見過ごせないと思われる。
このように、何かと各人物の記述になどにおいても、誇張が目立つ『ヒストリア・アウグスタ』の記述の性質から考えても、当然、このゼノビアも、そうした大幅な誇張を交えた姿で描かれていると考えられ、従って、彼女についての描写も、ある程度、差し引いた方がいいだろう。
このように『ヒストリア・アウグスタ』の中では、皇帝ガリエヌスよりも、簒奪者達の方ばかりが、皆ことごとく称讃され、大幅に美化されて、描写される傾向が目立つ中でも、ことにウァレリアヌスやクラウディウス・ゴティクス、そしてこのオダエナトゥスやゼノビアが際立って、その傾向が強い、という印象についてであるが。
そしてやはり、以前からそうした印象を覚えていたのは、何も私だけではなく、詳しくは既にこれまでの章でも触れているが、彼らの描写についての、そうした印象は、他の研究者間でも、同様のようである。そして軍人皇帝時代に対する研究も、その圧倒的な史料の不足から、帝国の他の時代に比べて、その研究の進展も、遅れがちであるとはいえ、この『ヒストリア・アウグスタ』の中で描かれる、軍人皇帝達やその周辺人物の姿をそのまま無批判に、事実として捉えられる事は、戒められるようになってきている。
このような三世紀の軍人皇帝時代の研究事情から鑑みても、やはり、このゼノビアという、パルミラ分離帝国の僭称女王についての記述も、同様の注意を持って、慎重に取り扱われる必要が、あるのではないだろうか?特に、ゼノビアら簒奪著達の記述については、彼らに対しての、その仰々しい、それこそ、その功績から人格に至るまでの誇張的称賛、更にその中には、しばしば捏造すらも含まれている、著者の恒例の一連のレトリックに、惑わされぬよう、注意して読むべきだろう。
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
http://www.gnu.org/licenses/gfdl.html
Copyright (c) 2017-2018 Sayama Makoto Permission is granted to copy, distribute and/or modify this document under the terms of the GNU Free Documentation License, Version 1.2 or any later version published by the Free Software Foundation; with no Invariant Sections, no Front-Cover Texts, and no Back-Cover Texts. A copy of the license is included in the section entitled "GNU Free Documentation License".
利用情報
Wikipedia:Gallienus Bust
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Gallienus_bust.jpg
情報源
Wikipedia
http://en.wikipedia.org/
許可の取得方法
「Wikipedia:著作権」に基づき利用
http://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:Copyrights
利用年月日 2017年2月10日
John Bray
Gallienus A Study in Reformist and Sexual Politics WakefieldPress 1998
Michael Gaiger Gallienus Peter Lang Verlag 2013
ローマ皇帝歴代誌 クリス・スカー 創元社 一九九八年
キリスト教の興隆とローマ帝国 豊田浩志 南窓社 一九九四年
軍人皇帝時代の研究 ローマ帝国の変容 井上文則 岩波書店 二〇〇八年
ローマ皇帝群像 3 京都大学学術出版会 二〇〇九年
エネアデス(抄)Ⅰ プロティノス 二〇〇七年 中央公論新社
教会史 上 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年
教会史 下 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年
2017年2月10日 発行 初版
bb_B_00148387
bcck: http://bccks.jp/bcck/00148387/info
user: http://bccks.jp/user/125922
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
古代ローマ帝国に、以前から関心を持っていて、趣味としてですが、自分なりに関連洋書なども読んで、研究しています。どちらかというと、ローマ帝国前期の方に関心があるのですが、皇帝ガリエヌスについては、例外的に、関心があります。 最近も、まだ未読ですが、ドイツの研究者による、比較的信頼性が高いと思われる史料の、貨幣と碑文を主にした、ガリエヌスについての再評価の研究本が発売されているようであり、再評価の気運が出てきているのか?と嬉しく思っています。