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ローマ皇帝ガリエヌス四 帝国過渡期の悲劇の改革皇帝

狭山真琴



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 目 次


第一章 バルカン半島へのヘルリ族の大量侵入

第二章 「三世紀の危機」と経済問題

第三章 ガリエヌスの騎兵改革

第四章 イリリア人騎兵隊将軍達の陰謀とガリエヌス暗殺

参考文献

第一章 バルカン半島へのヘルリ族の大量侵入

 二六七年~二六九年には、バルカン半島は、多数のゴート族によって侵入された。
これが単発的な侵入か、あるいは継続的な大規模な侵入があったかどうかに関する論争。
それらの出来事の内の、どの出来事が、ガリエヌスの統治時代に発生している、あるいは彼の事実上の後継者クラウディウスの統治の時に、発生しているのか。
『ヒストリア・アウグスタ』により、若干の詳細で記述される。そしてゾシモスとゾナラス。
シュンケロス。これら歴史家の二人以上は、明らかに、同じ出来事に言及しているが、その前後関係については、一致していない。実際にこれらの戦いに参加して、蛮族の侵略者達が追い払われたという、アテネの都市の占領の際に、アテネ人指導者として、アテネ市民を組織したデクシッポスの、過去の該当文献の損失が、現在嘆かれている。このように、彼はまさに当時のゴート族戦争の参加者であり、実際に『編年史』の他に、文字通り『ゴート戦争史』という歴史書も、執筆している。しかし、その大半は、失われてしまっている状態である。彼の現存している歴史書の、その断片の一つは、我々にこの時の軍隊への、彼の演説であると自称する内容を、与えている。彼が考えた文書の時点の、何を言うべきだったかという、彼のその再現を、古典的な史書の伝統に従い、間違いなく、意味している演説。

 この時ローマ皇帝の艦隊が側にいて、アテネ人と共に防衛を行うと、彼は言う。
そしてこの正確さは、他の史料からも、確かめる事ができる。
だが残念な事に、彼はこの時の皇帝が誰か、具体的に明記してはいない。
とにかく、ローマ帝国の防衛は、おそらく、皇帝ガリエヌスの下で開始された。
そしてそれは最終的に成功して、やがてクラウディウスの下で、終結した。
更にそれから若干の段階で、アウレオルスの反乱は、ガリエヌスに、イタリアの事を思い出させた。そして彼は残りのローマ軍とゴート族戦争を、そのまま、将軍マルキアヌスの手に残した。しかし、その後アウレオルスを包囲中に、メディオラヌムで、ガリエヌスは命を失ったので、彼は決して、そのまま帰らなかった。だが、彼がバルカン半島を去る前に、複数の著者によって、関係がある出来事の内、どちらが起こって、そして、彼の出発の後のどちらが、史料源の意見の相違のため、明らかに確立される事ができないか。

 とにかく、二六七年~二六九年には、バルカン半島は、多数のゴート族やヘルリ族によって、侵入された。これが単発的な侵入か、あるいは一つの、大規模な継続的な侵入があったかどうかに関する論争。それらの出来事の内の、どの出来事が、ガリエヌスの統治時代に発生している、そしてまた、事実上の彼の後継者クラウディウスの統治の時に、発生しているのか。
黒海の海岸に侵入して、オダエナトゥスの軍隊の接近で、ヘラクレア・ポンティカから逃げたゴート族は、大規模な侵入の一部である場合があった。シュンケロスとゾナラスの報告から考えて、彼らは多分そうであったのだろう。彼ら自身独立して、予備のお祭り騒ぎに携わっている。
アテネ人達が都市を防壁で囲んだので、侵入者ヘルリ族達は、防璧から離れた後、彼らは都市の周辺で泊まった。これらの侵入。『ヒストリア・アウグスタ』により、若干の詳細で記述される。ゾシモスとゾナラス。シュンケロス。そして頻繁に、これらの歴史家の二人以上は、明らかに、同じ出来事に言及しているが、だが、その前後関係については、一致していない。
多分おそらく、シュンケロスと『ヒストリア・アウグスタ』によると、二六七年にゴート族が北の黒海周辺に近付いて、より小さな攻撃が起こる。彼らが押し寄せる、黒海の南海岸と次いで押し寄せられた、ヘラクレア・ポンティカ。「この間、オダエナトゥスは「ペルシャの王」と称された。 スキュタイ人が来た。そしてヘラクレアに到達し、自分の土地に戦利品を持ち帰った。
しかし、多くは、海戦で打ち破られたうえ、難破して死んだ。同じ時、オダエナトゥスは、自分の従兄弟の陰謀によって、共同皇帝としていた息子のヘロデスと共に殺されてしまった。」

『ヒストリア・アウグスタ』は、これらの出来事を、二六五年に入れている。
そしてその経過は更に、おそらく二六七年の末の、オダエナトゥスの死に、関連付けられている。それが他の出来事に見えるように。より大きな侵入を、切り離すこと。
それが実際には、存在するために。ゴート族はヘラクレア・ポンティカを征服した後、今度は彼らはビテュニアで略奪を行った。更にガラティアとカッパドキア。そして黒海のそれらの帰り道で、蛮族はローマ艦隊部隊によって攻撃されて、若干の損失を被った。そして伝えられるところでは、オダエナトゥスが、クテシフォン周辺でペルシャに勝利した後、今度はペルシャ人に対する、二度目の戦いの後、小アジアでの蛮族到着の報せにより、二六七年の春に、ヘラクレア・ポンティカに進軍し、その撃退に成功した。そしてそれから数カ月後の、彼のパルミラでの暗殺。

 このように考えられる。セプティミウス・オダエナトゥスが、既に二六二年にゴート族と戦うための、小アジアのヘラクレア・ポンティカへの到着は、上記の出来事として処理された、ゴート族侵入のコンテクストで行われた。オダエナトゥスがペルシャ人に対して、この頃、この戦争を指揮している時から。そして二六六年から翌年の、彼の二回のペルシャ戦争の確証は、ないようである。おそらく誤って、シュンケロスは、ゴート族の侵入とセプティミウス・オダエナトゥスの死とを、繋げているので、ゾシモスのような、彼と二回のペルシャとの戦いを、仮定しているのだろう。そして二六七年の間に、多分ポストゥムスとの戦いを中止して、急遽イタリアからバルカン半島に駆けつけた、ガリエヌス。それがその疑いの抱かれている、ゴート族の五〇〇隻の船による、北の黒海地域からの、海からの新しい攻撃ならば。
事前の攻撃より、大きい局面を装わなければならない。今度は、サルマティア人にも影響を与えた、ヘルリ族主導の侵入。おそらくその話はゴート族についてでは、ない。
そしてゾシモスは、続く、その他のこれらの出来事に言及する。
「スキュティア人は、ギリシャで最悪の災害をもたらし、更にはアテネを占領していた。彼ら。既にトラキアを占領していた。彼らはこの戦いで、ガリエヌスと勝負しようとしていた。この報せは、その対策にガリエヌスを悩ませた。(267/8年のアウレオルスの反乱。)そしてガリエヌスが、直ちにイタリアに行った後、マルキアヌスは、スキュティア人との戦いに向かった。非常に、経験豊かな兵士。派遣された・・この間、彼は自分の仕事をよく解決した・・・・」

 そして現在残存する、デクシッポスの断片。
「我々二〇〇〇人は、合流の軍隊が来るのを待っている。我々の場所は、堅固に要塞化されている。そして我々がそこから抜け出すと、彼らに損害を与えなければならない。
そしてそれらの場所において、我々は配置される小グループに分かれて、待ち伏せをしながら、攻撃する。彼らがそこを通過する時に。そして私は発見した。皇帝の艦隊が遠くからではなく、私達を救援しに来ること。それは最高である。我々が彼らと連合して、一緒に攻撃するならば。
更にそれを、私は信じている。その我々ギリシャ人に、勝利をもたらすこと。同じく、戦闘準備を示すこと。)。」

 この時デクシッポスは、アテネの市民兵達と共に、ローマ帝国の艦隊と彼らとの合同作戦の存在を確かめる。そしてゾナラスは、その大半の描写を移行させている。ヘルリ族達との戦いの事を。クラウディウスの統治下での出来事として。「それから、ヘルリ族と戦いを行なった。スキュティア人とゴート族。そしてそれらにより、征服された。蛮族は多くの地域を襲撃して、ついにテッサロニケに押し寄せた。しかし、彼らはこの都市から撃退されて、アテネの攻撃で捕虜にされた。クレオデーモス。アテネの。そしてそれらは成功した。逃走すること。彼が多くの人々を、海からの艦隊で攻撃して、それを殺すならば。そのため、蛮族の生き残りは、そこから逃げ出した」

 この戦いを、この時の司令官だとされる、アテネ人のクレオデーモスの下で、もっともらしく、導入する。しかし、この形容語句は、更にその二人目について、言及しなければならない。指揮官Panathenios。ゾナラスもさもなければ、少しここで混同して、クラウディウスの時に、その戦いの一部を設定する。最初のゴート族襲撃とする記事を、ガリエヌス単独統治下での二六〇年頃の事として、更に後はクラウディウスの治世下の、267/8年の攻撃に属する、後の時間のそれ。同様の誤りとして、ペトロス・パトリキオスとケドレヌス。ニコマクス・フラウィアヌスの可能性。または、おそらく、ほぼペトロス・パトリキオスも。他にもありそうな『Leoquelle』。また『ヒストリア・アウグスタ』は報告した。そうする事で、それはより歪曲される。
増やして、誤った年代順に、再編成される。無能なガリエヌスを表現するために適切な。
そして『ヒストリア・アウグスタ』の、このバルカン半島での戦いについての記述である。「運命のこの怒りを考える。ゴート族の一部による荒廃(またはスキュティア人。)
名前上記ゴートを解決した。トラキア、マケドニアを占領した。そしてテッサロニケを包囲。」。「アカイアでの戦いが、マルキアヌスの指揮の下で、これらの同じゴートに対して、起こった。アカイアに。これにより、彼らは戻って移動した。」。

「この間、スキュティア人が黒海を通って航海し、ドナウ川に入り、ローマ人の土地に多くの深刻な被害をもたらした。これを知ると、ガリエヌスは、ビザンティウム人のクレオダムスとアテナエウスに、諸都市を修繕し、城壁で囲むよう命じた。
ポントゥス地方で戦いが行なわれた。そして蛮族は、ビザンティウム人の将軍達によって、打ち破られた。また、ウェネリアスの指揮による、海の戦いにおいて、ゴート族は撃退された。ただし、ウェネリアヌス自身は軍人らしい最期を遂げた。
ゴート人は、続いてキュジコス、小アジア、続いてアカイア全土を荒らしたが、この時代に生きていた歴史家であったデクシッポスを将軍に頂いた、アテネ人によって打ち破られた。それゆえ、ゴート人は、エピルスを通って撤退し、マケドニアとモエシアを徘徊した。
この間、ガリエヌスは国家の災いになんら心を動かされなかったが、ゴート人がイリリクム中を荒らすようになると、駆けつけて、運良く多数のゴート人を殺した。このことを知ったスキュティア人は、荷馬車で障壁を作りつつ、ゲッサクス山を通って逃亡することを余儀なくされた。マクリアヌスは、全スキュティア人を、さまざまな結果で・・・・・・これらのことは全スキュティア人を反乱へと至らせた。」
なお、ゾナラスの『歴史要略』では、この時戦った将軍の名前については「アテネの人クレオデーモス」と伝えており、おそらく『ヒストリア・アウグスタ』の著者は、これを二人の人物と勘違いしていると思われる。

 年代順に誤った、最初の二つの引用をする『ヒストリア・アウグスタ』、これは再び、より侵略の印象を、二六二年に起こったとして、設定する。そしていくつかの他のラテン語の情報源。
おそらくほとんど『エンマン皇帝史』では、扱われていない話題。そして特にアウレリウス・ウィクトルにとっては、全く重要ではない。このように、バルカン半島についての、ゴート族やヘルリ族の侵入について、各歴史書の記述は混乱している。だが例によって、このヘルリ族のバルカン半島侵入についても、このアテネでの戦いで、バルカン半島からの、ヘルリ族撃退に主に活躍したのは、ビザンティウム人将軍のクレオダムスとアテナエウス、そしてウェネリアスであるとして、他の者に手柄を帰すような書き方である。一方、これに対して、皇帝ガリエヌス自身は、ほとんど何の働きも見せていないかのように、矮小化されて書かれている『ヒストリア・アウグスタ』の記述は、誤りである。実際には、この時アテネ市民軍の指揮をしていた、デクシッポスも書いているように、ヘルリ族による、アテネの占領は二六七年の夏に起こり、そしてこの時に、ローマ帝国の艦隊を率いて駆けつけ、デクシッポスの率いる、アテネの市民軍と共同で戦ったのは、ガリエヌスである。そしてこのバルカン半島での戦いの内容が、デクシッポスのそれとほぼ同じである事からも、この個所もほぼ、その執筆に当たり、このデクシッポスの内容を利用したのだろう。

 ヘルリ族は船で黒海西岸に沿って、略奪のために出没し、二六七年の夏には、ビザンティウムとクリュソポリスを占領した。更になおも蛮族は、海峡を突破しながら進んだ。ヘルリ族の最初の移動。そしてローマ帝国の艦隊によって、追跡される。キュジコスとエーゲ海諸島に対する、小アジアの西海岸に沿って。すぐに、彼らは古代ギリシャの都市、アカイアの方向に向かった。特にアテネ。そして近くの、ローマ帝国の艦隊からの支援を受けた、アテネの歴史家デクシッポスの率いるアテネ市民軍の、待ち伏せによる攻撃を通して、再び追い払われ、アッティカとアカイアから北へと移動した。この時、蛮族は明らかに、アテネから移動していた。
そして彼らは近くに待機していた、ローマ帝国の艦隊の支援を受けた、アテネの歴史家デクシッポスの指導部の下で成功、待伏せを通して、再び追い払われただけでなく、アッティカ北部とアカイア北部へと移った。明らかに、アテネから蛮族は、追い払われた。
しかし、その前に、ヘルリ族は諸都市を略奪して、荒廃を引き起こしていた。『無名氏ディオの継承者』の逸話とゾナラスは、それを示唆している。数世紀から怠られている、アテネの都市の城壁の修繕が行われる。ヘルリ族。海から試みられた、更なる彼らによる略奪の、妨害。
そしていくつかの中のヘルリ族の集団が、マケドニアの後で動かされる。エピルスとトラキア。 彼らが各々のケースで、それらの略奪を続けた所。そしてその後で多分、テッサロニケにも、押し寄せただろう。

 シュンケロスによると、おそらくこの時に、属州上モエシアにある、ネストス川の付近によって、彼らヘルリ族の内の三〇〇〇人は、皇帝ガリエヌス率いるローマ軍により、殺された。
更にこの戦いで降伏したヘルリ族王ナウロバトス達は、ローマ軍に編入された。
更にナウバトロスは執政官になり、その記章まで与えられたという。
そしてこの翌年に、再びこちらのバルカン半島に侵入してきた蛮族達とローマ軍との最終的な戦いの場は、これも再び、属州上モエシアのネストス川がある方角の、ナイッススとなった。
このナイッススで、ゴート族の大軍に対する、クラウディウスの大勝があった。
そしてこれによりクラウディウスは、元老院から「ゴティクス・マクシムス」という称号を与えられる事になった。これはゴート族に対する大勝利者という意味である。
そしてこの事から、クラウディウスの通称は「クラウディウス・ゴティクス」になった。

 ゾシモスだけが、こうしてクラウディウスがゴート族に勝利した場所に、名を付けている。
「ナイッスス」。現代のセルビアのニシュ。『ヒストリア・アウグスタ』とゾシモスは、バルカン半島侵入のための、この時の蛮族の連合船団が、三十二万人を数えたと言っている。
明らかに、彼らは共通史料から、この情報を得ている。しかし、おそらくそれは、敵の人数が著しく誇張されていると考えられる。二六九年の春に、ヘルリ族やゴート族の連合軍の、三十二万人の男性が、六〇〇〇隻の船でローマ帝国を襲った。黒海西岸を南下。しかし途中嵐に遭遇し、黒海西岸のいくつかの町のトミやマルキアノポリスに寄り道した後、ビザンティンとクリュソポリスを攻撃した。だがゴート族が帆船の操縦に不慣れだったために、マルマラ海の危険な海流で一部の船が壊れ、また一部はローマ海軍が撃破した。エーゲ海に出ると、いくつか分隊を派遣し、クレタ島やロードス島にまで略奪に向かった。

 本隊はテッサロニケとカッサンドレイアを包囲攻撃しようとしていたが、ローマの軍団が迫っているという知らせを受けて、バルカン半島内陸に退却した。更にその途中でも、略奪を行った。やがてゴート族達は、ナイッススの近くで北から進軍してきたローマ軍とぶつかった。
この戦いが行われたのはおそらく二六九年であり、激しい戦いとなった。両軍に多数の死者が出たが、その内にローマ側は一部の陣をわざと退却させ、それを追ってきた敵軍を、伏兵で取り囲むという戦法に出た。そしてゾシモスによると、この戦いにより、五万人のゴート人が死んだという。とはいえ、この人数にも、かなりの誇張が入っていると考えられるが、やはり、大軍だったのは間違いないだろう。こうしてローマ軍に敗れた、多くのゴート族は、なんとかマケドニア方面に逃走した。ローマ騎兵に追撃され、補給がままならないゴート族らは、次々に飢えのために荷物を運ぶ動物を死なせ、彼らも命を落としていった。ローマ軍は整然と彼らを追跡し、ハエムス山に追いつめ、そこでゴート族達に伝染病が広まった。一方的な戦いの後、更に一部は脱出したが、再び追撃された。蛮族達の捕虜は軍隊に編入されるか、コロヌスになった。
クレタ島やロードス島への攻撃に失敗した分隊も退却し、その多くが同様の末路をたどった。

 そしてシュンケロスの記述する、ガリエヌスのネストス川での戦い。三〇〇〇人の蛮族が、圧倒される。このシュンケロスが語る、ネストスでの戦いは、ゾシモスによって記述される、ナイッススの戦いであるはずがない。そして、それには少しの地理的場所による思案もない。
まず第一に、それらの場所の違いは、全く明瞭である。「nessus」は、明らかに、属州上モエシアを流れる、ネストス川の事である。マケドニアを、トラキアから切り離す川。そしてナイッススの方は、現代のセルビアのニシュである。これは、その最も近い点のネストス川から、およそ七〇マイルである。シュンケロスの言うその戦いは、ゾシモスの言う戦いであるはずがない。そして『ヒストリア・アウグスタ』などの歴史家達の、これらの戦いの配列の、故意の操作なども関係し、これまで混同される事があった、最初に起きた、ガリエヌスのネストスの戦いとクラウディウスのナイッススの戦いであるが。

 たぶん二六八年の春に、ガリエヌスと彼の軍隊は、ヘルリ族の連合の大軍に、ようやく、ネストス川での戦いに成功した。シュンケロスが記している、このネストス川での戦い。
「その時、またヘルリ族は黒海(アゾフ海)から五〇〇隻の船に乗って、ヘレスポントス、更にビザンティウムとクリュソポリスを征服した。そこで、彼らはその戦いから、黒海の河口へと、少し移動した。次の日に、海峡の上に順風を受けながら航海して、キュジコスに最初に移動した。それから、彼らはレムノス島とスキュロスを荒廃させた、そして。アッティカにやってきた。 彼らはアテネを征服した。アカイア、そしてコリントスとスパルタとアルゴスを焼き払い、荒廃させた。そしてアテネ人達に、いくつかの個所で待ち伏せされ、彼らの大部分が殺された。また、皇帝ガリエヌスは、ネストスで三〇〇〇人を殺した。ナウロバトス。ヘルリ族の王。彼は皇帝ガリエヌスによる、執政官の記章を与えられた。」ネストス川。マケドニアとトラキアの間の、国境にある川。ヘルリ族の主なグループに対する、決定的な勝利。

 この時期に発行されている「HERCVLES PROTECTOR ヘラクレスの守護」のコインは、その成功を示していると思われる。この後のクラウディウスの「ナイッススの戦い」の、蛮族達の侵入人数同様に、古代の歴史書にありがちな、誇張は入っているとは考えられるが、それでも、かなりの大軍ではあったのであろう事は予想される。そしてこれまでは、シュンケロスが記している、このガリエヌスのネストス川の戦いと、ゾシモスや『ヒストリア・アウグスタ』の記している、クラウディウスのナイッススの戦いが、混同されて考えられていた事があったが、これも、実際には別々の戦いだったようである。このように、バルカン半島に侵入した、ヘルリ族との戦いは、二六八年の夏までに、ガリエヌスによる、ネストスの大勝で、誇らしげに終了する事ができた。その戦いは、ガリエヌスのその指揮の下で、明らかに成功した。

 そしてガリエヌス率いるローマ軍の大勝で終わったこの戦いで、ヘルリ族の王の、ナウロバトスは降伏した。そしてこのヘルリ族の一団は、ローマ軍にすぐに編入された。ガリエヌスによる、新たな、精強なゲルマン人騎兵部隊の創設である。更にナウロバトスは、執政官の記章さえ得た。そしてガイガーの指摘であるが。このガリエヌスのこの処置は、示唆している。
皇帝による、侵略者達に対する最終的な勝利を強調し、同時に新たに、優秀なゲルマン人騎兵部隊を、必要としていたために。そして実際に、そのような決定も、必要だった。
アウレオルスに対して。その間に、皇帝ガリエヌスへの忠誠を放棄していた、彼のその勢力の拡大を、阻止するために。

 しかし、状況は、まだ沈静化されてはいなかった。特にガリエヌスがこの戦いの後に、イタリアヘ向かって、強い分遣隊と共に、迅速に撤退しなければならなかった時から。
今度はイタリアで、簒奪者アウレオルスと戦うために。ナウロバトスのグループが、帰順するとすぐに。そして皇帝が、バルカン半島での、更なるヘルリ族の集団との戦いにおける、最高司令官の役目を、将軍マルキアヌスに任せるならば。確かに、以前から、密かにポストゥムスと気脈を通じている様子など、何かと油断ならぬ気配を感じさせている、アウレオルスに対し、ガリエヌスが全面的に信頼していたとは考えずらく、アウレオルスの更なる勢力伸長の可能性に対し、何らかの対抗策を講じた可能性は、大いにある。またそのような背景から、アウレオルス対策の一環としての、こうしたガリエヌスの新たな、ゲルマン人騎兵部隊創設であった可能性も、大いに考えられると思われる。

 それから、こうしてこの二六八年の春に、ネストス川の戦いで、ガリエヌスのローマ軍に敗れて逃れた、ヘルリ族の残りはトラキア山に逃れた。そしてフィリッポポリスに、押し寄せた。
だが彼らは、帝国属州から撃退された。また、このヘルリ族撃退は、このマケドニアに配置されていた、第二パルティカ軍団(ローマ)と第三アウグスタ軍団(ヌミディア)の分遣隊によって行われた。しかし、これらの勝利は、決定的な成功ではなかった。
黒海地域から同様の、蛮族達の混合グループの、迅速な侵入の再現が示しているように。
この時はゴート族の主導の下による。今度は新皇帝クラウディウスの、その統治開始後すぐに。
現在の研究では、この時期の蛮族グループの各侵入は、それぞれ、ガリエヌスとクラウディウスの治世下で、起こったと考えられている。だが、それまでは、しばしば、ガリエヌス治世下での、一緒に一つの侵入として、捉えられてきた。だが、現在でこの見方は、反論されるようになったようである。

 このように、バルカン半島への、その侵入については、各歴史書により、その侵入の回数や年代は、混乱しているものの、最終的には、ガリエヌス治世下で、実際にあった侵入だったと考えられる、二六二年、そして266/7年並びに267/8年の、合計三度の、東部ゲルマン人の侵入についての意見。最初はゴート族による、二度の。そしてデクシッポスが記している、最後のヘルリ族の下での、最も大きな。だがガリエヌスは、当時の多くの他の問題のために、必要な注意を、これらの脅威に払うことができなかった。まず、二六〇年のシリアでの、マクリアヌスの簒奪の後の影響。そしてその事による、ビザンティウムの戦いでの、人員の消耗。おそらく二六一年の後半には、彼はこの問題に、対処しなければならなかった。続いて更に、ローマ軍団の長い不在が、おそらく、二六二年の、ゴート族の侵入を引き起こす事になったとして、注意を引く。
そして彼らのこの小アジア方面への侵入を、十分に押し留める事ができなかった。当時のドナウ軍団の一部が、ドナウ川上流に、ガリエヌスといたので。

 これもマクリアヌスの簒奪と同時期の二六〇年に、ガリアで簒奪をしたポストゥムスから、ラエティアを取り戻すために。そのために、本当の成功は、東部ゲルマン人に対して、起こらなかった。更に彼の基本的な意思決定の一部。二六八年に敗れた、ヘルリ族を、ガリエヌスの帝国軍隊の補助部隊として、新たに編入すること。このように、当時のガリエヌスが、ポストゥムスからラエティアを取り戻すための戦いに、兵力を割かれていたため、東部ゲルマン人に対して、決定的な勝利は収められなかったとはいえ、こうした、更なるローマ軍の増強。
そして更にこれも、新たな不安要因となりかねない、アウレオルスの勢力の拡大を防ぐために、こうしてその対抗手段として、新たなゲルマン騎兵部隊を創設したことは、積極的な対策として、評価すべきであると思われる。


第二章 「三世紀の危機」と経済問題

 経済や社会問題に対処したガリエヌスの他の決定に、これから言及する。
ガリエヌスは、経済学者ではなかった。そして、皇帝または他の人々も、経済担当大臣ではなかった。彼は、四世紀の節約の方への、容赦ない流れを止める事のできるような、何事もできなかった。より原始的で、ニ世紀の節約よりも、更に国家社会主義的な。
具体的に、彼が当時のローマ帝国の経済問題について、一体何をする事ができたか、知る事が、難しい。または他のどんな統治者達でも、できたであろう事。
この三世紀に入っての、数多くの外敵の侵入に直面しながら、かつてのローマ帝国の繁栄を回復する事。略奪。疫病と飢饉。これら疫病と飢饉の二つ以外を抑制するために、結局第三の、外敵の略奪が去る事を希望し、更に第四の方法としては、帝国の平和自体を回復する事により、間接的に、経済問題を治療するという事になっただろう。

 ガリエヌスの時代は、しばしば「三世紀の危機」という呼称を付けて、呼ばれている。
帝国の全く広く繁盛している地方でも、停滞はよりすぐに明らかに勝っていた。
あまりに多くの内部および外部問題が発生していた、その期間のローマ帝国。
そして少しの地域も、戦いから免れられるままでは、なかった。また自動的な皇帝の交替は、頻繁だった。更に失敗した、簒奪者達も。更にその上、外敵によるローマ皇帝の捕囚は、それまでのローマの歴史の中でも、これまでにない事だった。しかし、五賢帝の一人でもある、トラヤヌスでさえ、異なる同時期の反乱で、かなりより好ましい時代に、彼の治世の終了を平和の内に、終わらせる事に失敗した。そしてその困難は、遅くとも、これも五賢帝の一人である、マルクス・アウレリウスの時代には、明らかに表れ始めていた。

 そして帝国外部からの、蛮族達の略奪は増加していった。フランク族は、常に明らかに、ローマ帝国のライン川周辺を脅かした、そしてガリエヌスは、その防衛のために、最大の努力をした。更にその上、フランク族は、ガリアやライン川周辺で略奪を行ない、更にそれからイベリア半島ヘまでも、遠くその手を伸ばした。また260/61年には、アラマンニ族とユトゥンギ族が、ラエティアなどの、北イタリアを侵略した。南部ガリアを確かに占拠した時と同じ、アラマンニ族。アウグスブルクでの、そのわずか二日後の戦いによる、彼ら蛮族の敗北。
これにより、通常の属州住民の防衛は、民兵の形でなされなければならなかった。
確かに、それらの多くは死んだ。だが、更に北アフリカの帝国国境でも、先住民の不安。
エジプトの総督アエミリアヌスの反乱で、特にアレクサンドレイアでの、彼の反乱軍とガリエヌスのローマ軍との戦いが、いくらかの期間、行なわれた。
そしておそらく、ガリエヌスとポストゥムスとの間で、ラエティアとナルボネンシスを巡って、何度も戦いが繰り広げられた。ラエティアは、おそらく二六二年に、ガリエヌスによって取り戻された。そして266/7年において、新たな敵との戦いは、中部ガリアで起こった。
ドナウ川とバルカン地方も、ひどくマルコマンニ族の侵入によって、影響を受けた。
ゴート族。ヘルリ族。カーペン族。クワディ族とサルマティア族。これらの出来事は、おそらく、ローマ帝国の人口減少に、そして、より耕作されていない、不毛の土地へ、という状態に導いていった。

 そしてマルコマンニ族の略奪を止めさせるための、おそらく、ガリエヌスとその王アッタロスの娘ピパとの結婚による同盟と、その条件として、属州パンノニアの一部をマルコマンニ族に割譲して、そこに彼らを定住させる政策。また、インゲヌウスとレガリアヌスの影響を受けた、そのすぐ後の、マクリアヌスの同様の簒奪。これらの戦いの深刻化。各歴史書にも顕著な。
一体どのような方法で、帝国の市民達を守るのか。そしていち早く、蛮族の各属州襲撃に駆けつけるために、ローマ帝国の分遣隊または新しい、機動隊は、常に別の場所から、次から次へと移動しなければならなかったこと。これは高いコストだった。
また、ギリシャの方も、蛮族の侵入に、脅かされた。マケドニア並びに小アジア。
それまでは、どんな都市の城壁も、しばしば建っていなかった所。そして更にイタリア(後にアウレリアヌスによって、ローマヘの蛮族の侵入を阻止するために、広大な城壁が築かれた。)のその他のように、建てられなければならなかった。また、ほぼアテネ全域で。ゴート族は航海し、小アジアの西と北海岸で場所から、古典的なギリシャ並びに他の豊かな都市を略奪した。小アジア内部でさえ、黒海の上の攻撃の、最終地点だった。

 そして小アジアに駐屯している、騎兵部隊の不足が目立つ。二六九年の遠方の、ローマ帝国の小アジアの属州パンフィリア。そしてゴート族の侵入の影響を受けた、クレタとキプロス。
この時点で、ペルゲとパンフィリアは、その地理的場所にも関わらず繁栄した。
しかし、ガリエヌスによる、この地方の明確な新たな開発は、おそらく二六〇年のペルシャ軍の略奪の後の、特にギリシャのキリキア港の破壊と、関係があった。
これがより西の方への、この海港の置き換えへと至った。その隣接している地域の利益を、犠牲にしてでも。また更にイサウリアの後背地は、ペルシャの侵略から回復せず、常に不安定となった。この事は、ガリエヌスの時代の下での、おそらく架空の簒奪者についての、逸話として表現されている。また、二六〇年にペルシャは、カッパドキアと北シリアに侵入した。

 こうして帝国の軍隊の力への依存は、明らかに、セプティミウス・セウェルスの時代の間に上昇し、その王朝の終わりの後、頻繁な帝国外部や内部での対立を通して、更にそれ自体を増加させた。そして更に増やされる、軍隊の力の位置。更にそれは、更に多くの特権を付与され、一部は皇帝の権力さえ、奪われた。セプティミウス・セウェルスの時代から、兵士の年給の増額が行なわれ、また一兵卒でも、能力や実績により、それまでの百人隊長から、騎兵に昇格できる事が制度化された。更に他にも、ローマ兵は正式に結婚を許可されるようになり、その兵士のための結婚許可書まで、また各国境地方で独自のものが使用されていた。軍隊の力による、社会層が形成されていった。そして軍隊のためにかかる経費の、Donativen(皇帝から軍団に贈られた、感謝の寄付金)が、より多くの皇帝の、頻繁な交替によって、ますますその金額が上がっていった。そして他の分野への、投資の防止。同時に、皇帝を含む確立者達は、これまでのローマ帝国の過去のモデルに、しがみついていた。対策として、それまでの古い秩序を回復する必要があった。だが今度は、その事自体が、その数々の困難に貢献した。本当の変化を防止して、ガリエヌス、またはアウレリアヌスのような先駆者にも関わらず、ディオクレティアヌスに変化するまでの長い時間。

 ローマで、それはおそらく、ガリエヌスの単独統治後半頃から、新たに発見されるコインの問題。頻繁な蛮族などの外敵の侵入や疫病、自然災害などによる、経済状態の悪化による、コインの質の低下と共に、より増加した、コインの偽造。また、文字関連に見られる危機。
特に都市での碑文の数は、減少した。だが、パピルスには、特にその数の低下は認められていない、またその内容から、ほとんど、その地域の危機状態とは、関連付ける事はできない。
このように、明らかに、帝国の全ての地域が、その三世紀の危機的状況に関して、同じであるという訳ではなかった。経済的不安の兆候を示す前に、より多くの地域では、少なくとも、大きな衰退も見えてはいない。ローマ帝国の北アフリカの方は、比較的繁栄していた気配が見られる。ローマ帝国の、様々な危機の急上昇は、その頂点を、ガリエヌスの時代で示しているが、これらの地域の一部の繁栄により、この時代に、果たしてローマ帝国全域での、衰退が起こっていたのかとの、問題が提起された。そして碑文。三世紀の北アフリカ。
これらのコミュニティでは、その数がやや回復する。しかし、ローマ帝国の、大部分の地域では碑文は減少傾向だった。更に人口を激減させられた都市。未耕作の野原。減少する人口。古いコインは貯蔵され、ますます新たなお金の利用は減っていった。投資するのを渋る事。物々交換のお返し。戦争、病気。そしてペルシャでの皇帝ウァレリアヌスの監禁は、これらの現象の中で、最悪のものの、主要因だった

 他の原因は、食べさせなければならなかった政府による、戦争の緊急性への反応だった。
兵士に服を着させて、身支度をさせなければならなかった。その提供を求められる商品と部門が報いられなかった証明がないと、デキブスは指摘する。実際場合によっては発生する、その支払いの証拠。それは時々起こった疑いではない。その疑いもない。レギブスが意味するとして。
その不満と虐待の証拠は、当局の公平な取引に関する、encomiumsよりエジプトの砂からさらわれそうである。納税者。しかし、結局の所、パピルスからの圧倒的印象は、公式の抑圧と横暴の一つである。時代の混沌で小さな独立した農民。むしろ既に似合う事。全く消える傾向があった。国の要求の窮地の間で押し潰される。彼らは山賊にでもなるか、農場の譲渡を受け入れる、一部の偉大な地主の保護を求めた。準奴隷としての保有権に関する、コロヌスという小作人として、親交を深める元所有者を許し、彼と当局の圧力の間に立つ。
これらの偉大な地主は、部分的に、年をとった元老院の上流階級の残骸の、そして部分的に騎士階級で、主に軍団起源の、新しい上流階級。誰の財産。我々が見えたように。

 ガリエヌスによって進められた、そして元老院と着陸された地所の取得によって、彼らの経歴から帝位に就かせる傾向があったか。結局、にわか成金と老人は合併した。まさに十九世紀の英国上流階級と郷士階級が、お金と新しい新興実業家の結婚式の抱擁を受け入れた通りである。
しかし、その和解は、ガリエヌスの時間にまだ起こらなかった。
我々が見たように、いつ。依然として、支配階級の二つの部分の間の緊張は、強かった。
しかし、ガリエヌスは、彼の唯一の支配の間、通貨に起こった事に対する責任を、取らなければならない。アウグストゥスのシステムの下で。皇帝は、金と銀の帝国の通貨をコントロールした。青銅の部分。真鍮または銅。そして元老院によって、コントロールされた。

 だが小アジアにある、東方のギリシャの都市。そしてシリアとエジプトは、彼ら自身の通貨単位で、彼ら自身のコインを鋳造し続けた。若干の出来事が、ローマ総督にしたその他。これらの地方的問題は、大部分は茶色の金属だった。そして時折だけ銀の。銀貨はアウグストゥスのシステムでは、デナリウスだった。金貨はアウレウスだった。銅貨の四セステルティウスへの等価。
初期のローマ帝国の下でアウレウスが、二十五枚のデナリウスの価値があった事。他の金貨と銀貨は、これらの何分の一として、時々鋳造された。最初の二世紀の間、デナリウス銀貨の銀とアウレウス金貨の金の含有量は、減少した。三世紀のそれとは、非常に異なる規模ではあるが。そして非常に重大な、有害な結果もなく。コインの重量と薄さの変動は、ボーリンによって徹底的に調査された。私は、彼から主に後に続く事を、取った。アウグストゥスの下で、金のポンドに40からアウレウスを傾けられる、アウレウスの金属的な価値-5∥管轄下のアウレウス。
それは、その価値を維持した。技術的な非効率性のための重さの、個人のコインのバリエーションは別として。三世紀に。しかし、デナリウスの銀の含有量は、一九八年の後で、ネロの下の平均九五パーセントから、平均およそ五〇パーセントまで減少した。そしてこの下落の結果として、アウレウスの額面価格が同時に、または、まもなくその後二十五から五〇個の、デナリウスまで上がったと、ボーリンは考える。ガイウスがいくらか一世紀未満早く、同じ罰金のために、一万セステルスの金額を見積もった時、五〇枚のアウレウス金貨として罰金の額のおよそ二二〇を書いている、アレクサンデル・セウェルス時代の、法律専門家ウルピアヌスによって伝えられる数字に、その結論は主に基づいた。それはそうである。二五〇〇枚のデナリウス銀貨。
その前提は、結論を支持するために、明らかにわずかである。

 そしてそれは議論があった。しかし、ボーリンの推理は、堅実なように見える。カラカラは、新しいコインを鋳造した。「アントニニアヌス銀貨」。一般に認められた意見によって。デナリウス銀貨と平行して。結局、これはローマ帝国の、新たな標準貨幣になった。そして世紀が経ったので、通貨は離陸した。アントニニアヌス銀貨の平均的銀の含有量は、およそ50パーセントに沈んだ。更におよそ十-二〇パーセントにまで、そして5パーセントまで。ステージは手を伸ばした。ボーリンによって。もちろん260だけ。その後、それは更にまだ下がった。しかしでなく。ボーリンによって。gallienusの時間の4・9パーセント以下。彼の死の後、それは0.5パーセントまで下がった。しかし、広い変動が、そのコインの薄さにあった。後で、我々はそのいくらかの理由について調べる。最近、およそ30,000のアントニニアヌス銀貨を含んでいる、ジブラルタルで、分析は秘蔵のコインでできていた。ガリエヌスの時代からの、彼らの85パーセント。

 最新のコインは、二六六年から始まる。二六七年の大半のコインの薄さが、合金の一つのローマン体ポンドへの6スクループルの銀だけであったと、タイラーは言う。1.2パーセントの銀の内容であるどの製造。そのコインの薄さと同様に。それで、重さで。calluによれば、コインの平均重量は後で238~2.80gm30年で、4.4gmから落ちた。ド・ブロワは、二六〇年の258~2.52gm後にで、3.19gmから低下を与える。人がこれらの数字の間にた例えどんな選択をしても、ガリエヌスの単独統治時代の最近の年までのアントニニアヌス銀貨が卑金属になった事は、明らかである。漂白された銀、そして重量が足りない。
だがアウレウス金貨の運命は、それとは異なっていた。その純度は、明らかに影響を受けなかった。しかし、その重量は減少した。

 ド・ブロワは、二六六年にウァレリアヌスと1.24gm未満で我々に2.28gmの数字を与える。しかし、ボーリンに集められるテーブルは、重さ(ガリエヌスの金貨)の異常な変動を示す。ボーリンは言う。均一な集団を、作る事ができない。彼は、コインの二つのグループを孤立させる。一つのグループにおいて、2gmから6gm以上への他において、重さは0.7gmから4.8gmに渡る。著者によって集められる材料は、これらのバリエーションが、宗派の違いによって説明される事ができないという彼の結論を正当化するようである。宗派を区別する事が、不可能だったために。まったく、コインは首尾一貫した金融システムの、等しい価値の交換可能な単位として、少しの特定の場所も、持つ事ができず、その重量によって、地金の部分として、評価されたに違いない。アウレウスとアントニニアヌスのどんな関係でも、捨てられたに違いない。適切な出来事に金のメダル(ムルティプラ)を相応しい人に支給する、現代の習慣によって、これらの結論は補強される。これらは、メタリックを明らかに、持っているだけだった。

 インフレのこのようにある、古典的な形。通貨の低下。これはガリエヌスの下で、全盛だった。そしてその人は我々に、お金が流通貨幣だけである事をずっと以前に認めた。
また通貨はその質が下がるだけではなく、一方で増やされもした。ガリエヌスの下で、帝国のコイン鋳造局の数は、大いに増やされて、そしてこれらからどっと出てきた、お金の量だった。特に、コイン鋳造局は、軍隊が集中された地域で建てられた。多くはその交戦圏で、そして、ローマ軍の本部で出現した。ケルン、ミラノ、システィア、シルミウム、キュジコス。そして鋳造局は、ローマでだけではなく、アンティオキアとアレクサンドレイアのような巨大都市で長く、動いていた。ガリエヌスの時間には、帝国のコインを鋳造する、二十九の鋳造局があり、そして、クラウディウスの時間までには、これらが三十五までに、膨れ上がったとド・ブロワは我々に語る。calluは兵士のストライキの量が、二六六年と二七四の間で七回増えたと言う。
この硬貨方針とその影響の理由の方を向く前に、一つの更に注目に値する特徴は、言及されなければならない。

 秘蔵のジブラルタルのコインについての、タイラーの研究。ribyとビーチヘッド(総合する十分な材料を提供する)。我々がジブラルタルで見たように、秘蔵のコインは、ガリエヌスの時間から19,000のアントニニアヌス銀貨を含む年からの、彼らの内の15,000人は、可能性または無能の製品であるにはあまりに広くて、あまりに均一なコインの銀の内容における変化を、265-266年から示す。東方で使用するために意味されるコインは、銀の内容を西方を目的とするそれらより、かなり高くする。例えば共同統治の期間に。
アンティオキアは、ローマ体112部分と比較して、ポンドに八十四のアントニニアヌス銀貨を造り出した、そして、ガリエヌスの単独統治において、我々はコインの問題が、皇后サロニナとfecunditas(豊穣)の伝承のイメージを、持っているのを発見する。

 言い換えると、小アジアのコインは、もう50パーセントの銀を持っている。これは、慎重な方針が原因で生じなければならない。同様に、ミラノで鋳造されるコインの銀の含有量は、彼らのローマで対応する物の、それよりもかなり高い。軍団の資格に、そして皇帝に忠実で、彼の敵と帝国内で、そして帝国外で戦う事を兵士と彼らの将校達のために価値があるようにする必要と、コインと通貨政策を征服する強い傾向が、あった。ガリエヌスの通貨政策は、兵士の方へ、まったく東向きにされた。これは、フィールド力の後の鋳造所の基盤に、そして重量に対する政策に当てはまった。金の合金と含有量。銀と他のコイン。多数の鋳造所と明らかに、軍隊のより近くに彼らを移す事は、軍隊の支払いにおいて、より大きな効率化と迅速化に向かった。
輸送経費とおそらくよりすばらしい、安全対策の節減。お金が、もちろん必要だった。
定期的に軍隊に支払う事だけでなく。

 すぐに、そして、気前良く。しかし、また、食物に対する彼らの要求を提供する。
これらまで彼ら軍隊の衣類と飼料は、定期的な支給なしで、強制的な要求によってしか、供給されなかった。これらの正確な割合を測定する事は、不可能である。間違いなく、当時の貴金属の供給は、落ちていた。イベリアやブリタニアなどの鉱山は、戦争によって混乱していたに違いない。略奪、疫病と飢饉。ポストゥムスの簒奪後、これらローマ帝国の鉱山の一部は、ポストゥムスの「ガリア分離帝国」の支配下の領域に、位置していた。コインの恒常的な供給が、必要だった。そしてそれは提供された。もう一度、帝国を外部の攻撃から守る必要は、その他の考慮に優先するようになった。

 これと争うのは難しい。古代はその信用で生活しており、遠い世代に議案を可決する技法を、発見しなかった。実行可能な選択肢を提案するより、浪費する金融の公然たる非難を届ける事は、簡単である。コインの標準における変化は、簡単に説明される若干の例である。
明らかに、ローマで鋳造されるコインの多くは、民間集団を予定されていた。ミラノの中央軍の兵士は、より良いお金を得た。更に、ローマの帝国鋳造局労働者は、悪名高く、統制できなかった。不機嫌で不正な。アウレリアヌスが、彼らのコイン偽造を調べていた時。そしてガリエヌスの死後の五、または六年後に。彼らの起こした反乱。二六八年のガリエヌスの死後、特に銀貨の質が著しく低下し、経済そのものの信頼性が徐々に落ちてきていた。クラウディウスの死により、短期に終わったその統治の後、皇帝になったアウレリアヌスは、この状況を何とかするために、質の低下した古いコインを買い、銀の含有量が高い新たなコインを発行した。
だが、この処置が引き金になったのか、ローマのコイン鋳造局労働者達が反乱を起こした。
この反乱の指導者は、この鋳造局の管理者のフェリキシムスだった。
おそらく彼らが銀を着服し、コインの質を落としてもうけていた不正がばれたのだろう。
反乱者達はカエリウス丘に立てこもり、この戦いで七千人もの兵士が殺されたという。
この人数にも、誇張が入っているのかもしれないが。

 西方で使用するために意味されるお金と東方で使用するために意味されるお金の間で、タイラーによって注意される、バリエーションに関しては。彼が西方が東方と経済的に後ろに比較されたと指摘して、それは真実である。西方が帝国のお金を使う事の特権の、より高い変化を払わなければならなかった、そして、帝国の将来が小アジアとシリアの金持ちの都市に、その共構造単位の富の中核地帯で東にある事を、歴史が示す事になっていた事を、分化が実質的に意味した。
ブレイは、こう述べている。「ガリエヌスのその予見がそれにまで手を伸ばした、または彼が帝国のより消費できる部分として、帝国西方を犠牲にするという、いかなる意識的な決定もしたと、私は思わない。時代遅れの態度は、彼に起因していてはいけない。彼は首都を、ビザンティウムまたはニコメディアへ移す試みをしなかった。」実の所、インドから、そして、おそらく中国からさえ来ている贅沢品の取引のために、許容できるお金は、必要とされた。それまで、それらの取引は三世紀にまで生き残った。良いコイン。アウレウスで、本当におそらくあった。その目的のために必要とされる。しかし、他の影響は、よく仕事中でありえた。
更にブレイは続けてこう述べる。「オダエナトゥスはそうだった。我々は覚えている。「全東方のコレクトル」。当時のパルミラは、大きな商業都市だった。それは、この時に東洋までの隊商ルートをコントロールした。私は、彼が実行できる通貨を、強く支持したと思う。その目的が忠実で効果的な軍を生産する事になっている限り、また、私はド・ ブロワのそれに同意する。ガリエヌスの通貨政策は、成功だった。他の事においても、それはそうだった。」

 災害。間違いなく、それは多くの4分の1で、大変な困難を引き起こした。
greshamの法律は施行された。悪い金は利益を追い払った。
以前の金は新しいものより、高い価値を装った。金貨と金のメダルは、貯蔵されたか、彼らの地金価値のために溶かされたか、東方から贅沢品を買うか、金で表されて要求に国から、または、どこか他で応ずるのに用いられた。重さと薄さのアントニニアヌス銀貨のバリエーションは、商業的な混沌の傾向があった。ギリシャ都市と元老院の銅貨のお金は、アントニニアヌスに比較して価値で上がった、そして、前者を後者と交換するのを渋ることがあった。少なくとも公式率で。それゆえに、これらのブロンズの問題は制限されて、徐々に消える傾向があった。

 それでも、ガリエヌス時代のインフレの、その遅い影響は、驚くべきである。
価格が彼の死の後、成層圏に昇るだけだった事が、一般に認められているようである。
お金の経済の要素は、生き残った。二つがどのように両方とも市民と個人的な球で経済のタイプするかについて、galluは示す。お金、そして、同じく年貢。並んで存在した。
一方の上で、古参兵ヘのコインを手渡した。現物請求書。兵士のために現物割当てと当局。そして、個人的な契約において。また。同じく使用料と給料を。他の上で、いくつかはお金で課税する。古参兵ヘのコインへの交換に対する、いくらかの準備。お金の支払い。規則的で、兵士と当局への寄付金として時折の。そして、個人的な地域価格で。使用料。給料。罰金。

 更に二六〇年からのイベリア及びブリタニア鉱山の損失(おそらく、ポストゥムスの「ガリア分離帝国」の支配下に入ったため)を通しての、その状況になった。それらに貢献した事。
貴金属含有量(主に銀)の変動は、これまでのコインを減少させる。
それらの金属の価値は、ガリエヌスとクラウディウスの時代に、その最低値に達した。
同時に、これまで見られなかった、含有量で鋳造されたコインから金属値が悪化していく。反乱の多発による、頻繁な皇帝の交替、蛮族の襲撃、自然災害、疫病などの諸問題の影響により、悪化していく経済状態により、コインの金や銀の含有量が、目に見えて低下していくことになった。そのため、コインの金属含有量の、意図的なごまかしなどもの不正も、行われるようになっていく。

 そして実際に、前述のように、アウレリアヌスの時代になってから、ローマの帝国鋳造局の、大規模な不正が摘発されている。しかし、ガリエヌスの下での、価格のインフレは、これまで挙げられてきた、諸要因にも関わらず、直接的な発生は、まだ起きてはいなかった。
コインの質的な悪化が通常、彼の統治の間に、認識できなければならなかったが。
だがガリエヌス時代の金は、まだ投資価値があると考えられていた。
高いコンギリア 市民への下賜金は、異なる秘蔵調査の結果、そして兵士へのかなりの高さの寄付などから明らかになる。ガリエヌスは、二五〇年に二倍の金貨を、大盤振る舞いした。
物価の安定が、明らかにあった。

 一方、アンミアヌスは、他の伝承を手配する。「そのガリエヌスは、国庫の金を略奪した。」
おそらく、ガリエヌスに対して中傷的な、これも疑わしい、典型的なテトラルキア時代の伝承。
帝国の本部によって浮彫りされて、保証される価値は、従って重要である事がわかった。
貴金属含有量とその重量。標準重量。最も標準の部分は、まだコインの金属価値とは反対に、それらの購買力は過大評価されていた。しかし、これはそれらを意味している。
それはまだ、十分にローマ帝国の支配の将来に対する信頼だった。そうでなければ、このような経済システムが機能する事はできなかった。

 きっと、ガリエヌスがまだ生きている間に、インフレがその範囲から急上昇したならば、彼がそれについて、何かをしようとしただろう。しかし、確かに、彼が一貫して、十分で効果的な軍隊のメンテナンスを、どうする事ができたのかについては、わからない。
結局ディオクレティアヌスが商品とサービスのために、最高価格の命令で介入した時。
処方箋。多くの同時代の人の意見で。病気より悪かった。国境の上の平和。
彼らの範囲内の服従。経済の安定性が回復する前に、通貨の新しいシステムと税体系の再編が必要だった。インフレはその程度。課税に振り向こう。当時のローマ帝国には、予算が決してなかった。二世紀には、伝統的な税は、帝国の財務省または元老院の国庫に流れ込んだ。
これらが非常事態の時に、有効であるように、慎重な皇帝は節約した。飢饉。火。地震またはその種の他のもの。悩まされた地域の救出に来る、そして必要に応じて、税の未払い金を戻した。

 

 結局ディオクレティアヌスが商品とサービスのために、最高価格の命令で介入した時。
処方箋。多くの同時代の人の意見で。病気より悪かった。国境の上の平和。
彼らの範囲内の服従。経済の安定性が回復する前に、通貨の新しいシステムと税体系の再編が必要だった。インフレはその程度。課税に振り向こう。当時のローマ帝国には、予算が決してなかった。二世紀には、伝統的な税は、帝国の財務省または元老院の国庫に流れ込んだ。
これらが非常事態の時に、有効であるように、慎重な皇帝は節約した。飢饉。火。
地震またはその種の他のもの。悩まされた地域の救出に来る、そして必要に応じて、税の未払い金を戻した。しかし、一部の皇帝は浪費した、そしていくつかは、異常な支出の必要に直面した。戦争の時間の場合のように。税を増やす事の代わりに、そのようなケースで。または税を増やすだけでなく。彼らは、商品とサービスの強制的な要求と本当や想像上の犯罪で有罪と判決される人の、地所の没収に向かう傾向があった。時代で最高のものにおいてさえ、地方の公職を捜す必要のないサービスと支出またはそれらに、システムは依存した。彼らは、栄誉と名声で報いられた。

 主な直接税は、地租だった。それらは特定の属州の習慣によって、課された。そして、人頭税。イタリアは、直接課税から長く免除されていた。間接税があった。例えば相続税と解放税。五パーセントの各々。売上税があった。いろいろな種類の関税と料金が、商品の通路にあった。
当初、大部分のこれらの税は耕作されるが、三世紀までにした。集められる国それ自体彼らの最も多くの、または個人の責任を持つ地方議会または他の当局への仕事を委任された、支払われるべき額。しかし、若干の税は税関を好む、そして、料金は三世紀にまだ多分耕作されていただろう。元非市民田舎者に市民税に対する責任を広げる事だけではなく「アントニヌス勅令」の影響は、あった、しかし、全ての市民に、地方税に対する責任を広げる事。
三世紀の皇帝は、伝統的な税を概して増やさないで、その代わりの方法を、行った。みたように。商品とサービスの要求に。収税に対する個人の責任と通貨のインフレ。
それらの評価と収集の旧システムは、三世紀中頃の大災害で、しばしば破壊されたに違いない。
だが、ガリエヌスが頼る事を持ったかもしれない、少なくともニつの可能性がある成長税が、あった。第二は、もっともらしい、結論だけの問題である。最初は「黄金冠」についてである。

 属州が皇帝の勝利の称賛において、黄金冠を総督または他の将軍に提出する事が、ローマの共和制の時代に実行されていた事だった。だが徐々に、そうした習慣は、慣例となっていった。
そしてそれは狭い範囲から、他のイタリアの各都市にまで広げられて、少なくとも元老院議員に、そして、おそらく他の裕福な個人により、都市から行われた。
こうして、この黄金冠提供は、新皇帝の就任の慣例として、統治の始めに、その上、sinnigenが『特定の記念祭的な出来事』と言う事の上に皇帝によった。
公式の帝国の勝利は、確かにそのような出来事として、一部の皇帝が祝える事だった。
そしてカラカラは、この黄金冠を受けるために、意図的に勝利を作った事で、批判された。
現在、ガリエヌスのコインは、一連の勝利を祝っている。しかし、ブレイは私はガリエヌスがこのカラカラのように、黄金冠欲しさに、故意に勝利を作り出したとは、思わないとしている。
これは私も同感である。おそらく彼はそんな安っぽい虚栄心など、持ち合わせてはいなかった。
だが、ガリエヌスに対して、これも批判的なアウレリウス・ウィクトルは、この点に関して、疑いを示しているようである。

 ブレイは、更にこう述べる。「戦場の実際の勝利に、その勝利の番号を帰する事は、アルフェルディによって議論された、そして、フィッツによって、彼らが全ての属性について同意するという訳ではない、しかし、彼らのどちらも、ガリエヌスの現実の勝利に対する、いかなる疑いも表していない。私は適切な場所で、この話題を検討した、そして、私は私がそこで言ったことを繰り返さない。」ディオクレティアヌスとコンスタンティヌス一世によって導入された、課税の新しいシステムでは、この「黄金冠」は、資産に対する、五つの毎年の税金に変えられた。
他と同様ここでも、帝国の二人の偉大な再構築者は、それまでの、不規則で時折の実行を体系化して、規則正しくした。彼らも着陸した財産のために、元老院議員に対する特別な税金を導入した。「黄金冠」。おそらく、これも不規則な前例を持っていた。
予想される、当時の財政難から、ガリエヌスもこれらを利用した可能性が考えられる。
もう一つは元老院議員への付加税。そして蛮族達に襲われる都市と寺院。慈善の宗教的で文化的な資金と基礎。ガリエヌスが支持した、そしてけして彼が略奪してはいない都市と神殿。
彼はこれらに保護を与え、豊かにした。それは、アテネとファレリイなどについて言及するのに、十分である。また更に、これは私も第六章でも触れている、ビザンティウムでの戦いの時に、彼が建てさせたという、小さな異教の寺院など。
そして彼がその都市の守備を、再強化したヴェローナ。更に彼が支配者になったトラヤノポリス。また彼は教会の没収された財産を元に戻した、そして、その忠実な支持者達の。

 そしてブレイは、ガリエヌスの通貨政策について、以下のようにまとめている。
「ド・ブロワの再評価は、そうだった。効率を改善する事での、その影響と軍隊の忠誠は別として。ガリエヌスの通貨政策は、『災い』だった。それは、当時の彼の帝国の『より暗い側面の一つ』だった。この評価は、辛辣である。しかし、我々はそれにかなりの、真実を認めなければならない。私は、これに関して、二ポイントの擁護を、訴える事ができるだけである。

一 インフレによる最悪の結果は、彼の死の後まで現われなかった。

二 しかし、誰も、彼がそれらの問題について、当時、具体的に何をする事ができたかについては、提案する事ができない。金融システムの全ての再編の、国の財政的な構造。
そのために、この年代の絶望的な状況の中で、皇帝ガリエヌスの、これらの経済問題に対応する時間、機会、そしてそれらについての金融的な専門知識は、全く不足していた。
だがこうした経済学についての、専門的な知識を所有していないか、使用できないという事で、三世紀の皇帝達について、この問題についての対応についての、不満を言う事は、不当である。共構造単位の経験。現代の政府がインフレの危険を避けるか、消すのを可能にした管理の効率と洗練された判断が、当時の彼らには不足していたために。
とにかく、当時のローマ帝国の経済状態から判明している事としては、ガリエヌスの時代には、本格的なインフレの影響は、まだ発生はしていなかったようである。

第三章 ガリエヌスの騎兵改革

 二六〇年に、皇帝ウァレリアヌスがペルシャで消息を絶ち、おそらくガリエヌスの単独統治に入ってからまもなくと思われる時期に、ガリエヌスによる、伝統的な元老院の経歴の、思いきった変更をする。いわゆる「ガリエヌス勅令」である。そしてこの変化の正確な性質については、これまで熱心な議論が、度々繰り広げられてきた。しかし、この見解に反対する事を少し世論調査する事と、関連した帝国政府と管理の構造のいくらかの分析は、回避不能である。この変化についての我々の知識は、ほとんど完全に、二つの史料から来ている。確かな最初の場所として、アウレリウス・ウィクトルの、そして、第二の径路は、碑文の証拠を置く。

 まず、アウレリウス・ウィクトルについての記述を、考慮したい。関連した通路をラテン語史料とそれから彼らの私の翻訳で述べる。これについては、ブレイは独自に関連したラテン語史料と自分の翻訳で、述べるとしている。それが彼の殺害の報せを聞いた時、彼が元老院の見苦しく、感情的な反応に対処する時、彼のガリエヌスの統治報告の終了から、まず、第一のそれは来る。「彼は言う。そして、彼ら自身の命令に対する、彼の侮辱は、元老院議員を刺激した。ローマ世界に対する、一般的な害を越えてさえ。最初にガリエヌス。彼自身の無関心の結果の恐れのために。貴族達の最良者に命令権が渡されないように、勅令でもって元老院(議員)が軍事に携わる事、そして軍隊に近づく事を禁じた」。


 そしてニ回目の通過は、タキトゥスとプロブスの統治の、ウィクトルの処置終了後に来る。
ガリエヌスの後に、クラウディウスが続いたという注意で、この通路を始めなければならない。そしてクラウディウスの後の、アウレリアヌス。彼らの両方とも、騎兵隊長のイリリア人将である。伝統的な史料は、軍隊。彼らは皇帝アウレリアヌスの殺害に懲りた。そのため、次の皇帝の選択権を、元老院に与えた。元老院と軍隊の間で、何度かの意見の往復の間、約八ヵ月程の長い間隔の後。その結果元老院は、初老の元老院議員を選んだ。タキトゥス。彼は非常に短い期間、統治するだけだった。こうしてタキトゥスは、二七六年に即位したものの、その年の内に、小アジアでゴート族に勝利した後、カッパドキアのティアナで、例によって自軍の兵士により、殺害された。それから、帝国は通り抜けた。タキトゥスを。そしてフロリアヌスの兄弟の力による、もう一つの短い試みの後。更に、もう一人のドナウの兵士に。プロブス。
伝統的な物語によって。彼の後に、もう一人のイリリア人の兵士が続いた。カルス。
アウレリアヌスの死後の出来事の。そしてギボンは言う。
「タキトゥスの支配は、彼の人生と信条に値しなくなかった。元老院の偉人を多く使用。そして彼は著者としての、その国家議会と自分自身を主題と思っていた。彼は帝国の誇りが蒙った傷を癒やすために、法律を勉強した。市民の不一致。そして、軍隊が憲法に課した暴力。そして、それらを元に戻した。少なくとも。古代共和国のイメージ。それがアウグストゥスの方針とトラヤヌスとアントニヌスの長所によって、保たれたので。」

 だが現代の研究は、この感動的な光景に、重大な疑いを投げかける。
これまでの傾向では、この嫌疑のかかっている、この帝位空白期間の期間が、主にタキトゥスの支配期間で、混乱したという考えだったが、だがおそらく、ラテン語史料の伝える、「ガリエヌス勅令」を撤回するなどの、タキトゥスの下での、元老院の力の回復は、ほとんど全く架空である。なお、この三世紀の軍人皇帝時代の皇帝タキトゥスについては、現代のローマ帝国史研究では、過去の元老院議員で歴史家であるタキトゥスの子孫と書いた史料もあるが、これは信用できる話ではなく、このタキトゥスは、皇帝クラウディウスとクラウディウス・ゴティクスの場合と同じく、何も関係がない、ドナウの退役軍人であったという理解が、現在では一般的になっているようである。このタキトゥス即位の謎については、井上文則氏が、その著書の『軍人皇帝時代の研究』収録の、「第六章 タキトゥス帝即位の謎」で、詳しい解明を試みている。
それによると『ヒストリア・アウグスタ』による彼の最初の即位の拒否と元老院との演説の応酬も、おそらく創作であり、そして実際のタキトゥスの経歴は、パトリキ(貴族)系の元老院議員とは異なる、そして軍務経験が豊かな、プレブス(市民)系の元老院議員であった、可能性があると指摘している。そして元老院の候補者とはいえ、あくまでも軍隊の要請を受けた上で、元老院が選出した候補者であるとしている。

 そして引き続き、ガリエヌス勅令について、話が戻るが。大多数の現代の学者によって好まれるのは、第二の意味である。どれくらいこれまでに。我々は、タキトゥスの統治下でなく、しかし、ガリエヌスの統治下の事として、関心を持っている。アウレリウス・ウィクトルは、ニつの点を、それについて、明らかに言っている。「一 彼ら元老院議員が軍務経歴を歩む事、そして彼らが軍隊に近づく事を禁じた。二 彼がその命令によって、こうしたために。」

 最初の声明の正確な意味を巡り、かなりの論争がある、そして第ニについても、議論があった。アウレリウス・ウィクトルの「皇帝たち」以外は、残っている史料のいずれにも「ガリエヌス勅令」という、この重大で革命的な一歩が、言及されていないのは、奇妙であるとして。
全ての関連歴史書は、四世紀以降から始まる。行政機構が変わった時。全然、教会著述家が大いにそうではなかった、ギリシャの作家は、体質的な発生に過去のローマに対して関心を持たせた。そして我々の間に入る、ローマの作家。この「ガリエヌス勅令」についての、しばしば不完全な。そして、矛盾する解釈への主題。近年、三世紀にガリエヌスによって取られた、この処置に関する、かなりの学究的な議論において、元老院と騎士階級の経歴と将校についての、いくつかの分析が、あった。このテーマに関しての、主要な作品のリストは、以下のようなものである。例えばアルフェルディ、ド・ブロワ、マンニとド・レギブス、C.w.キーズ、「三世紀ローマ帝国の、騎士階級の上昇」、オモ、「ローマ元老院下の管理の特権帝国と彼らの逆平均動作段階的な」、バイネス、「ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの改革に関する、ニつのメモ」、シュタイン「ローマ騎士階級の爵位」、アンダーソン、「ディオレクティアヌスの地方組織の起源」、レンブラント、「セプティミウス・セウェルスからディオクレティアヌスまでの、ローマ元老院の構成」、ぺーターソン、「紀元三世紀の元老院と騎士階級の総督」、アルンハイム、「その後のローマ帝国の元老院階級」。

 もう一度、私は碑文の専門知識を否認する。再び私が試みる一度は、いろいろな見解をまとめて、私自身の意見を示そうと思う。更に、私の懸念が三世紀の七〇年めに公認の経歴を目指す者の利用のために、ハンドブックを再建する事になっているよりはむしろ、ガリエヌスの行動と、彼らの理由の一般的な影響と範囲についての印象を、与える事になっていると、私は強調する。
伝統的に、それらは元老院議員のために、予約されていた。または少なくともclarissimi。それで軍と共に。より高いポストの多くは、元老院階級のためにも、予約されていた。
そして軍団指揮官と。軍団長。それで軍の護民官のより高いクラスでも。
公認の経歴に乗り出す事。他の地位は、通常騎士階級に掴まれた。
補助軍隊。例えば。通常騎士階級の指揮官の下にあった。公式職歴に興味がある元老院の階級のそれらのメンバーがなければ、そして、彼らの多くは、そうではなかった。
彼らの財産に、住んでいるのを好む事。特に東方のもの。当時の将校の最も大きな報酬は、属州の総督職だった。

 初期の帝国の下で、そして、まだ三世紀の前半には、ローマ帝国の属州は「皇帝属州」と「元老院属州」に分けられた。帝国の防衛線に位置するがゆえに、軍団常駐の必要がある「皇帝属州」に対して、概して「元老院属州」は、内側に位置する事と属州化の歴史が長いという事もあり、平和な傾向があり、そこでの大規模な軍事行動は、通常期待される事に、なっていなかった。これら元老院属州の総督は、元老院議員だった。そして前行政長官から選ばれた。彼らの内の十人がいた三世紀目に早く、多くは前属州総督から選ばれる。ニ。アジアとアフリカ。前執政官の属州総督に支配される、執政官属州。そして、八人の法務官と前法務官によって支配される。当時は元老院議員によって統治される、二十六の皇帝属州が、存在していた。十四の執政官と十二の法務官。これらの総督は、適切な元老院の階級から皇帝によって任命された。しかし、更に二つの属州があった。エジプトとメソポタミア。そしてそれは、騎士階級の将校によって支配された。属州長官または総督。そのうえ、若干の他の小さな地域。

 一つの軍団だけがあった時、総督はそれに命じた。そして一つ以上があった時、総督は高級将校に対する、管理支配を行った。彼らは行政権と軍団の力を働かせた。
地方の都市と権威者の権利への主題。そしてその財源は、帝国の行政長官によって、別に与えられる傾向があった。もちろん、こういう事は広範で、一般的である。
元老院属州の総督で、選り抜きの見た目の独立した自由にも関わらず、皇帝は特定の総督が欲しいか、特定の志望者に反対するならば、彼が思い通りにやるだろうと、我々は確信する場合がある。彼らが通る傾向があって、更にますます多くの属州が、蛮族の攻撃を受けるようになったので、元老院の帝国のカテゴリーに。それは、それらの元老院議員によって、まだ政治的な野心を育てるための、ひどく大事にされた、階級内の公務員の選択よりも、むしろ軍団内での重要ポストの独占だった。ガリエヌスの時間まで、それらはむしろ少数派であった。
そしてこの皇帝ガリエヌスの下で、排他的に、元老院の軍隊内での地位が姿を消したという、一般的な合意があるようである。

 ここでは、ド・ブロワを引合いに出す。
「全ての役職。軍団長の、そしてトリブヌス・ラティクラウィウスのそれらを除いて。二六〇年より前に騎士団によって、既に持たれた。二六〇年の後で、しかし、どんな軍団長またはトリブヌス・ラティクラウィウスもなかった。従って、元老院議員は、軍団を指揮する、そして彼らの息子は後のポストの、いくらかの軍隊の経験を得る事ができる特権を失った。」

そして碑文の証拠で見つかる軍団の最後の元老院の使節は、ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治時代で起こる。彼らは騎士のプラエクトゥス軍団と取り替えられる。それから、軍人生活は上方を下から元老院のクラスから切り離される。
しかし、トップはどうか?本当の論争は、属州総督の軍事大国で、ガリエヌスの方針の影響の周囲で荒れ狂った。これに関してオモは、その彼の大胆で一貫した方針、という見方を採った。
ガリエヌスが市民で軍の力を働かせている騎士階級の総督の下で、全ての元老院属州を、帝国属州に変えたと、彼は考えた。彼はタキトゥスが現状を回復したと考えた。そしてプロブスは、いくらかの修正で回復を続けたとして。

 シリア・ポエニケは元老院の、そこ以外での、ガリエヌス統治時代の特定の証拠はない。
ノリクムは、二六〇年の前にすぐ元老院の使節によって、しかし、三世紀後半には、騎士の総督によって支配された。そしてジョーンズは、二六七年-二六八年まで変化の年代を示している。ラエティアは、二二一年と二九〇年の間で元老院議員から騎士に変わった。
ジョーンズは、ガリエヌスの下でマウレタニアとサルディニアのために、騎士の総督を持っている。ペーターソンは、アレクサンデル・セウェルスの下に元老院の属州総督を持ったマケドニアに言及する。二八二年から二八三年に、ゴルディアヌス三世と騎士の総督の下で、前執政官の総督代行をする騎士の行政長官。変更がガリエヌスの下で起こったかどうかに関わらず、我々には知る事の手段がない。注目すべきケースが、ガリエヌスの時間以後あるけれども。

 ルリウス・アドリウス・オウィニウス・パテルヌス。
アシアの総督として、しかし、公職の減少が少しながら役に立つために、自分自身選択をされた事としての碑文の記録が区分する人は誰でも。二六四年から二六六年からの都会に住む総督パテルヌス、または二六七年の執政官または二六八年の執政官であった人物であったパテルヌスと、彼が同一視される事になっているかどうかに関わらず、または、これらのどれでも続くかどうかに関わらず、三つは一と同一である、または、他のより多くは疑わしい質問である。
しかし、碑文は確かに、まだ多くによって元老院の属州の総督を選ぶ古い手順が、三世紀の後半に生き残った事を示すようである。そして騎士の属州総督として名前が判明しているのは、以下の人々である。まず、属州アラビア。ここは二六一年から二六二年に、元老院身分総督であったルフィヌスを最後として、以降の二六二年のユニウス・オリンプスから初めての交替となり、以後ディオクレティアヌ時代まで一貫して、騎士身分総督を受け入れた唯一の属州である。
そして属州ヌミディアは、二六二年頃まで在任していたと考えられる元老院身分総督C・ユリウス・フォルトゥナティアヌスを最後に、遅くとも二六七年にはテナギノ・プロブが騎士身分の属州総督として赴任している。更に、ガリエヌス時代において騎士身分総督が存在していた事が確認される属州としては、三世紀半ば頃の元老院身分総督を最後にして二六二年から二六八年頃に、騎士身分総督M・アウレリウス・アポリナリスが在任しており、属州トラキア、A ・ ウォコニウス・ゼノを受け入れている属州キリキア、 属州パンノニアでは、二六七年から二六八年に騎士身分独立代理官T・クレメンティウス・シルウィヌスが確認される。

 しかし、注意点として、これら総督のリストは不完全であり、あくまで当該時点で騎士身分の総督が在任していたという事が、示されているに過ぎないという事である。
いつから騎士身分の者が総督職に進出していたのか、その正確な時期を、これでは特定する事ができない。そして軍団の司令官職に関しては、属州総督よりも、更に碑文史料の状態が悪く、明らかになる点は、より少ない。だが、それからそのような属州総督によって備えられている力について、それはもちろん我々に何も語らない。これは、チェックである。
ヌミディアは、二六〇年の後で、この位置にあったかもしれない。
アフリカ(そのことを我々は見た)。そこは、独立軍団からなる司令部を、長く持っていた。
シリアとメソポタミアの軍は「全ローマ人のドゥクス」として、オダエナトゥスの管理を受けた。

 そしてガリエヌスが創設したとされる、新しい中央騎兵軍の発展。
主に様々な軍団から、そして、騎兵で通常ドナウ川の指揮官の下で率いられる、分遣隊によって確立された。属州の軍隊の重要性を、損なったに違いない。それから、ガリエヌスが元老院議員を全ての軍隊の集団から除外したために。将校の最高成績が最も低いものから。彼が特別な理由のために、その免除を与えた場合を除き。元老院の総督が特別な理由を除いて、属州で軍隊のいかなる制御も、もはやしなかったその手段。特別な彼に対する信用にせよ。軍隊の軍の重要でない事。または、さもなければ、結局、アウレリウス・ウィクトルによって。禁じられていた事とは、軍隊への加入権だけではなく、民兵としてでもそうだった。兵役。選択肢は、元老院の総督には調子でまだ市民で軍の力があったという事で、しかし、彼が特に信用された、または、属州が重要でない軍隊であった時以外は、彼が騎士の代理と実際取り替えられたという事であるかもしれない。言い換えると、そこのそれは、騎士の属州でより少しも、元老院のものの形式的三権分立ではなかった。そして、それはその命令の問題に、私を持ってくる。

 アウレリウス・ウィクトルは、皇帝ガリエヌスに対して、ひどく偏見があった。
彼はその皇帝ガリエヌスに対して敵対的な、その元老院の伝統によって、しっかりと捕らえられている。しかし、ガリエヌスが出したその勅令については、彼も無知だった。あるいは愚かか、不正直な。彼も他の四世紀の歴史家達同様に、ガリエヌスが出したこの勅令についての、その重要性や意義については、正確に理解してはいなかった。
とにかく、ウィクトルの述べている事によると、皇帝ガリエヌスは元老院の階級に対して軍職を閉ざして、元老院議員の総督職を奪うために法律を制定した。彼らの属州の軍隊に対する支配力を。いずれにせよ特定の個人に賛成した免除への主題。その上、彼は、表面上、彼らの代わりの働きをしている騎士と、元老老の総督を取り替える意向を示した。これらの処置の重要性の。彼らの最も制限された解釈に関してさえ。疑う余地なく。元老院議員によって、その明け渡された場所と彼らの子孫は、代わりに騎士によって満たされた、そして、あらゆる百人隊長は騎士になった。おそらく。しかし、これらについては議論がある。

 百人隊長の息子は、自動的に騎士となった。最も謙遜な起源の兵士達が、軍団では最高の軍司令部に、そして、最後に彼らが皇位に上がるために、経路は開かれた。何がこれらのステップの理由だったのか?それは単に軍の効率の追求だった。これにおいて、私はオモとド・ブロワに同意する。集団から上げられる兵士は、軍の経験が散発的でアマチュア傾向があった、そして彼らが財産で安逸または生産的な経営陣での生活を好まない限り、軍隊での経歴を歩む事を好む市民の傾向のために、階級として、ますます多くの抵抗を示していた、元老院議員より、良い将軍を作りそうだった。更に皇帝ウァレリアヌスの、嘆かわしい捕囚は、元老院貴族達の指揮能力の低下の痛切な例として、彼の息子ガリエヌスの心に存在したかもしれない。理由がない。本当に、騎士の総督に同様に財政を移す傾向が、あったであろう。間違いなく、彼は考えた。

 そして、正しく仮定。当時、帝国を蛮族から守る事の圧倒的必要性は、その他の考慮より、何よりも好まれなければならなかった。マンニは、階級を平等にするものとして、ガリエヌスの絵を描く。それ自身の目的のための、社会的な均一化の慎重な方針は、彼に起因しているとする事ができない。今世紀にガリエヌスの再評価を試み始めた研究者には、例えばオモが見える。そして更にマンニとアルフェルディは、彼のためにローマ的長所ならびに人文主義的なものを、要求する事を願っている。彼らは彼を大袈裟な同情者としぶしぶ彼らを生贄として捧げる事を、彼の階級の伝統と彼の先祖に以外に付けさせる。変える、国営必要性の、我々はこれの例を見た。
それで、現在の前後関係では、オモは言う。それを述べた後に、ドナウ軍は二つの情熱によって支配された。激しいローマ的愛国心と元老院に対する憎悪。

 しっかりとした方針は、これらの処置を要求した。ウィクトルの記述。
そのガリエヌスは、元老院議員を地方の命令を含む、軍のポストから除外したとされる。離れて特別な免除。そしてそれらの空白は、騎士階級によって埋められた。その時、彼らの前に、軍人生活が、彼等の才能に、広く通じているのを見る事ができた、どんな勤勉な兵卒にでも、公開されていた入場。そして更に、他のもう一つの元老院の機能は、ガリエヌスのために、多分損なわれただろう。財政的なもの。アウグストゥスの旧共和財務省の解決の下で。「国庫」。
これはまた、銅貨に対する権利を保持した、元老院の管理下のままだった。皇帝には、彼自身の財務省「皇帝公庫」があった。そして、元老院の金貨と銀貨の鋳造に関する権利。ローマ帝国の最初の二世紀半の間、元老院の特権は、この点で、徐々に侵害された。「国庫」に入っている収益とその管理に関して。このプロセスにおける、いくらかの最終的なステップが、ガリエヌスの下で起こったに違いないとして、オモは非常にもっともらしく、提案している。それがガリエヌスの下で、国庫が空にされたとして。ただ、オモの推測の根拠となっていると思われる、その国庫の事を記述している、このアンミアヌス・マルケリヌスも、元々、反ガリエヌス傾向の強い、四世紀の歴史家なので、この記述の信憑性にも疑問が残る。

 当時の銀貨の大きなインフレにより、銅貨はより人気があるようになった。そして、それゆえに、連続した皇帝は、銅のコインタイプの数と銅貨の通貨量を制限した。ガリエヌスはこのプロセスを速めるために、何かしたのかもしれない。しかし、銅貨に対する権利は、彼の死の後まで元老院から、完全には奪われなかった。まだ名目上、元老院の管理下にあった財源にも干渉して、それをローマの都市の市議会に、下げるのも助けた。蛮族侵入に対して、ローマ軍と戦略と戦術の一般的なシステムの構造で、ガリエヌスによって起こされる変化は、とても重要だった。

 彼はその時、ローマ軍の、大部分の改革をした。おそらく決定的な部分。三世紀中頃の危機とその維持を伴った、変化の危険性からの、古代社会の保全において。彼のその重要性の認識は、そのガリエヌスの方針の評価のためには必要あり、また間接的に、それゆえに、しばしば彼の人格と動機付けられる。しかし、その詳細はしばしばはっきりせず、度々議論される。
そして、重要な信頼は、まずコインの上に置かれなければならず、そして碑文史料の上に、より多くでなければならない。ド・ブロワ。そして彼らが参考にするアルフェルディ、アルトハイム、luttwakといろいろな専門記事と本。
ガリエヌスの軍隊再編の主要な特徴は、機動中央軍の創設だった。騎兵隊部隊の発展という指摘。軍団からの歩兵部隊と軍隊の補助部隊を作る事に更に頼る事。町と都市の防衛強化の活発なプログラム。我々は二世紀の防衛システムは、どうであったかについて見た。

 各々の属州でその後で蛮族に接している属州の、その周辺部に沿って、守備を固められた線を含む事。一つ以上の軍団と補助軍の量。そしていくつかの帝国属州国境地帯に対する、蛮族攻撃のストレスは、帝位を押収する試みに、同じ時間と属州の軍の構成の転換を指す。
結局、国境部隊のそれまでの防衛システムが、それらにに代えられたのを、我々はまた見た。
一連の強化された長所と強い騎兵隊構成要素を持つ、ローマ軍団。
そして、ガリエヌスが新しいシステムの導入において、重要な役割を果たしたのを、我々は見た。この新しいシステムの中核は、彼らの共同統治の年月の間に生まれたに違いない。
アウレオルスの新しい騎兵隊から、その部隊は二五八年のムルサでの、インゲヌウスの敗北において、主要な役割を果たした。彼がラインとドナウの上でその騎兵軍団を指揮した時、ガリエヌスはそれらの働きを、実験していたに違いない。

 そして古代の著者の内、それは彼が騎兵隊軍の制度を直接持っていたと信じる、ケドレヌスだけである、だが、その重要性は騎兵隊と騎兵隊将軍への、彼らの多くの言及と関連したコインへの言及において、更にゾシモスとゾナラスによって、十分に明らかに証明されている。
例えば、ガリエヌスのミラノの鋳造所から鋳造されたコインの上にも、現われている。
ド・ ブロワは、ゾシモスがガリエヌスがそこでの、彼の初の勝利を、指摘しているという。
その間にライン川を横切る事から、ゲルマン人を撃退する、移動分遣隊を、作った声明に対する権限として、挙げている。しかし、ゾシモスの言う、騎兵隊への特定の指示を、見つける事ができない。それらの使用により、ガリエヌスが一度にゲルマン人がラインを横切るのを防いだというような種類の報告をするゾシモスなどの報告から、ド・ブロワは、結論を得ていなければならない。これは確かに機動性を意味し、その顕著な機動性について、言及する事ができる。
しかし我々は、その構成についての、更に同じだけを知らない。

 この新しい騎兵隊部隊の組織と人数。部分的に間違いなく、伝統的に軍団と補助部隊として付けられる騎兵から、それは派遣部隊から構成されていた、しかし、隊員が特に入れられたと思わなければならない。その特徴的な要因は、ダルマティア騎兵部隊の構成要素だった。そしてムーア騎兵部隊とオスホエネス。このムーア騎兵部隊は、ゾナラスによっても、言及されている。
しかし、ダルマティア、そして西方に対する一般言語である事が、新しい騎兵隊部隊で最も特徴的な部分を、バルカン半島で作った事を、私は採る。
騎兵隊は、時々史料の中で、一般的に「ダルマティア騎兵隊」と呼ばれているようである。
「equits dalmatiae」。我々が騎兵隊将軍とその将来を想像したように、彼らの間には将来の皇帝クラウディウスとアウレリアヌスが見える。彼らは、この地域出身だった。
「ムーア」は、槍投げを専門とした。そして弓兵の「オスホエネス」。

 彼らは、おそらく最初は軽騎兵であっただろう。しかし、それら部隊の一部は、ペルシャ軍との戦いの後、かなり重武装化された。彼らは、重騎兵カタフラクトまたはclibanariiと呼ばれていた。最初の言葉、重装機甲部隊を意味する、そして、おそらく、第二のものは、clibanumの文字通りの意味は、オーブンであった。我々がローマを見たように、五〇〇〇人の男性の通常の強さとおよそ二〇万人を数えている補助の、およそ三〇の軍団から、ニ世紀の軍は通常構成されていた。つまり350,000の全てである。ディオクレティアヌスの下で、軍団の数は六〇だった、そして、補助力はそれに対応して増やされたと言われる、しかし、各々の軍団の男性の数は、減らされたに違いない。

 そしてブレイは、当時のローマ帝国が、七五万人の大軍を、支える事ができたと思わないとしている。ガリエヌスは、ニつのシステムの間に入る。彼の下での軍隊の人数の、どんな信頼できる推定でも、作る事は不可能である。新しい予備軍は既存の軍団と補助から、多くの分遣隊を含んだに違いない。しかし、彼らは効率の最小限のレベル以下に、流出する事ができなかった。
新たな新人は、少なくとも騎兵隊にも、直接連れて行かれなければならなかった。
ゲルマン人のいくらかの補充が、ガリエヌスの側にあったという事を、我々はまた知っている、帝国西部の地方は、もちろん二六〇年から、ポストゥムスの手の中だった。
一方、彼らからの新人募集は、ガリエヌスに与えられなかった。彼らの独立歩兵部隊は、ポストゥムスの反乱の前に、彼の軍に既に存在した。他方、彼はライン川方面の防衛のための弁論の責任から解任された。明らかに、彼らは増加したに違いない。そして実際にも、彼らが非常に増加したと、考えなければならない。騎兵隊部隊の数または各々または両方の男性の数。
ごくわずかな依存しか、文学的な史料の軍サイズの数字に置かれる事ができない、しかし、バルカン部隊の粘着力によって、四五〇〇〇人に増やされた三〇〇〇〇人の力で、マルキアヌスがヨーロッパを侵略したと『ヒストリア・アウグスタ』が言うのを、我々は見た。
追加は、若干のもっともらしさを加えるかもしれない、パンノニア軍団の三つを代表する事ができた。

 なんとかして偽の。この数字に。アウレオルスと戦って勝利を得た軍は、30,000未満をほとんどこの事から、含む事ができなかった。ガリエヌスは、イタリアに相当な軍隊を、その中で保持していたに違いない。ポストゥムスとアラマンニ族を見る、ラエティアとノリクム。
そして我々は、それがあったという事を知っている。あるいはマケドニアの軍またはウァレンスの下の、アカイアだった。我々が東に、そして、エジプトでアフリカと後ろのそれらの左の勢力を加えるならば。マクリアヌスが、名目上固執する事。我々は、二六五年の前半に、そのローマ帝国の処分で、軍隊の総数の推定に到達する事ができた。ポストゥムスの領域を除外する事。3~400,000で。しかし、全ては、推測である。これまで、ガリエヌスの軍を確立するために、ちょうど今既存の軍団と補助軍隊から機動部隊の使用に言及した。単語「vexillatio 分遣隊」の歴史は、パウリー・ヴィソワが発見している。

 当初、それは、特別な任務で送られる、若干のより大きな集団からの、軍隊の分遣隊を意味した。ガリエヌスの時間に。我々が見たように。当時、機動軍が主にそのような分遣隊から、よく構成されていた事は、一般的だった。後で「機動部隊」という語は、騎兵軍団の単位の専門的な意味をもたらした。しかし、それがガリエヌスの時間までに、起こったとは考えられない。
彼の下で、歩兵連隊並びに騎兵隊の機動部隊があった。機動部隊は、当初百人隊長であった、騎士によって命じられて、通常その前の兵卒。機動部隊のグループは、ドゥクスの指揮下に時々置かれた。もちろん二六一年前後の、命令の後。軍団は通常元老院の使節の代わりに、騎士の総督またはagenslegatiの指揮下にあった。

 だが、ガリエヌスの下で、分遣隊がその親単位との全ての関係を断つという訳ではなかった。しばしばそれら。それで我々はドナウとゲルマニアからの、緊急要請を受けた、ブリタニア軍団のように、同じ父母を持つ軍団からの、分遣隊の存在を辿る事ができた。ポストゥムスの反乱の後にさえ。それでも、分遣隊は彼らの新しい僚友との間に、新しい団体精神を得る傾向があった。分遣隊の指揮官が、分遣隊が付けられた全部の力の、指揮官になる傾向に、レギブスは注意した。ポストゥムスは、ライン川周辺を管理した。そしてペルシャとの国境には、オダエナトゥス。アフリカとエジプトの南の国境地帯は、比較的静かだった。しかし、ドナウ川の蛮族は、発見されなければならなかった。ガリエヌスは、属州放棄の感情とドナウ軍の側の憤慨の結果から、既に苦しんでいた。そしてミラノの騎兵軍団に加えて、彼はローマ帝国内部の、各属州防衛の要衝に「プラエポシトゥス」と呼ばれる司令官に率いさせる、独立歩兵部隊の分遣隊を配置した。イタリア半島がバルカン半島に加わる、アクィレイア。現代のオーストリアのポエトウィオ。ドナウ川のシルミウム。マケドニアのリクニドゥスなど。

 これらの分遣隊の損失は、他の防衛力をどこかで弱体化したに違いない。これら分遣隊の一部は、ヌミディアから、そしてイタリアから来た。しかし、二六七年―二六八年の新たなゴート族侵入撃退を含むには、不十分だったけれども、彼らはその目的にかなった。そしてドナウ軍団。彼らはガリエヌスの治世の最後まで、その後、忠義を尽くして、ガリエヌスのその要請に、間に合った。確かに、ガリエヌスは古い防備を復旧して、新しいものを築く際に活発だった。
それら該当する都市としての、マンニのリストは、それを強化した。ヴェローナ、ケルン、カルタゴ、ファレリイ、ミラノ、テッサロニケ、ドゥッガ。若干の町が両方の範囲である点に、注意される。ガリアまたはゲルマニアの都市の、ガリエヌスによるどんな強化でも、共同統治の間、起こったに違いない。二六〇年の後、これらはポストゥムスの手にあった。そしてその碑文の証拠が、多くの場合ある。

 例えば、我々はその碑文から、そのヴェローナを知っている。
「コローニア・アウグスタ・ヴェローナ・ノヴァ・ガリエニアナ」。この場所は、マルキアヌスの管理下で、二六五年に防衛が強化された。いくらか減らされている、古い周辺部。ミレトゥスは、二六一年に、防衛が強化された。しかし、ブレイは「コローニア・ガリエヌス」の称号を受けた、全ての町が蛮族に対する防衛として、ガリエヌスによって守備を固められたと推測する事が、合理的であるとは思わない。としている。例えば、ファレリイ(現チーヴィタ・カステッラーナ)はローマから、北にわずか二、三マイルの場所である。そして、どうやらガリエヌスはその場所との、強い感情的な接点が、あったようである。
おそらく、そこが、ウァレリアヌスとガリエヌスが皇帝に即位する前に、亡くなっていたと思われる、ガリエヌスの母の、エグナティア・マリニアナの家族と関係があったので。
この場所は、ローマ帝国の中の、エトルリアの都市であり、おそらく、ここでガリエヌスは生誕したと推測される。また、更にガリエヌスの妻の皇后サロニナも、この都市の出身であった可能性が高いようである。彼に多分その復原するものと、呼ばれているだろう権利を与えて、彼がそれに用いたどんな善行でも、蛮族による破壊の恐れからよりも、むしろこの原因から進行した。
それでも、ガリエヌスの活発な、各都市防衛強化プログラムを、疑う理由はない。
そして更にマンニのリストに、他の町の名前を、加える事ができた。

 新しい軍は、特別な例外は別として騎士の将校によって、完全に指揮された。いくらかの論争が、新任の軍団からなる、指揮官の許に関してある。軍団長。彼らの何人かは、百人隊長から選ばれたと思う。二回軍団の主要な百人隊長であった人々。そして他は、彼らの起源を軍団長とする。元老院の階級の上級将校の旧システムの下で、最も高い軍団からなる騎士の将校達。
しかし、それによって、多くの差が生じるとは思わない。ド・ブロワのように、新任の軍団からなる指揮官が両方の階級から来たと、思わなければならない事。

 プラエフェクトゥス・カストロルム 陣営隊長自体は、primipili 百人隊長から来た。我々が新任の騎士の指揮官の何人が騎兵であったか、そして、何人が集団から上げられる百人隊長であったか決定する事ができるならば、それは相当な重要性だろう。要するに規模。現代の社会学的ジャーゴンに関して。ブルジョワ的でプロレタリアの起源の。
我々は、これを決して知る事ができない、しかし、非常に多くが二つ目の階級の中にあった、そして集団に起源がある事と、最初の入隊で最も控え目なものは、最も高いポストの達成に対する障害でなかったと、我々は確信する事があり得る。

 将来の皇帝クラウディウスの経歴。アウレリアヌス、プロブス、そして、ディオクレティアヌス、更にポストゥムス、そしてアウレオルスはこれを証明するのに、十分である。
そして、准将の将軍相当にとって真実である事。大佐と少佐。彼らの多くの経歴は、学者によって調査された。その年齢は、際立った上への社会的機動性の一つだった。最もそれで、軍隊は暴走しない。後に、騎士と元老院の命令の一種の合併があった、しかし、まだ、帝国の存続時間の間底からトップまで、軍隊内を上がる事ができるままだった。
三世紀の帝国の軍隊の機能は、二倍だった。蛮族の侵入に対処して、それを略奪未遂にまで抑制する事。そしてガリエヌスの改革は、この最初の目的を達成する事に、驚く程成功すると判明した。

 地方での蛮族との戦いによる、デキウスのブルガリアの沼への沈没のような、どんな大災害も、またはウァレリアヌスが捕虜にされたような事も、なかった。外敵達からの、どんな身代金もない、または恐喝的な支払い要請もない、一世紀以上の間のガリエヌスから、ローマ軍は、蛮族を撃退する戦いを、決して失わなかった。これらの過程の、いくらかの負けた戦いにも関わらず、全ての外敵の侵入は、決定的に撃退された。もちろん、主なローマ軍が略奪者に追いつくには、かなりの時間がかかった。そして、その間に、多くの撃退がなされる事ができた。
しかし、三七八年のハドリアノポリスの、ゴート族によるヴァレンスの破滅的な敗北まで。ライン川またはドナウ川の向こうに、全ての侵入者を撃退して、時々川の上に彼らの後を追う事が、その強い騎兵隊構成要素を持った、新しいローマ軍にはできた。だが、三七八年だけ、ゴート族は騎兵隊戦術も採用した。

 この三世紀の地方の軍隊は、皇帝と帝国中央政府が属州の防衛を怠っていると憤慨し、彼らの指揮官に、王座をしっかり掴む事を強制する、しばしば、手早い意向を示した。だがガリエヌスの単独統治において、そのような事はなかった。皇帝の紫衣を強制する、軍隊のどんなケースも、存在しなかった。または軍隊からの皇帝宣言について、表面上は遠慮を示してみせる指揮官。例えば、デキウスのケースの場合のように。更にアエミリアヌスとおそらくレガリアヌス。パンノニア軍団。そして皇帝ガリエヌスが殺害されて、クラウディウスやアウレリアヌスらに、多額の金で買収されなければならなかった時、彼を慕う兵士達は怒っていて、反抗的だった。
彼らは彼の支持者と関係の迫害を止めるために仲裁した。しかし、もちろん、これらは一般の兵士達について話している。何も、将軍達の忠実度を確実にする事が、できなかった。

 アウレオルスは当時イタリア内に配置されるか、ラエティアに配置された。
当時バルカンにいた、ガリエヌスの、騎兵軍団の主力でではなく。それはそうである場合がある。しかし、それは彼を殺す策略を計画した、彼自身の参謀幕僚のイリリアの将軍だった。
そしてそれは、最後にガリエヌスに致命的な一撃をぶつけた、ダルマティアの将校だった。
しかし、これらはあくまで彼ら個々の将軍達の、反逆罪だった。
ガリエヌスが生きている限り、彼の命令の下で、軍隊の主力の忠誠が命じられていた。
彼は自分の騎兵隊部隊を誇りに思っていた、そして彼はそれを誇りに思う権利があった。
実際、それは帝国を救った。彼はペガサスの伝承のイメージで、コインを支持するかもしれない。alacritati。翼のある馬は、八年間の間彼の飛行を継続した。
しかし、それは結局は、彼を放り出した。

 ウァレリアヌスとガリエヌスの統治時代において、我々は『プロテクトル』という称号とそれを与えられた、数多くの将校を発見する。そしてこの「プロテクトル」の起源を巡る、数多くの論争が、これまでにある。この称号の発展とこの説明の重要性。
この称号は、ガリエヌスの時代より、明らかにわずかに先立つ、しかし、彼の下で、より上級の将校とローマの法務官の上で、そして、軍団の指揮官達の上に用いられて、一部の専門家によると、百人隊長の全体に、そしてより多くの高級将校達へと、更にその範囲を広げられたとしている。これらの論争の詳細に、またはnagyによって議論される、または、その中で、この称号をある状況に置く事は、全くの名誉職である事を意味しているのか?、それとも実体を伴う、名誉ある役職であったのか?そしてこのように、このプロテクトルというものについては、これまでその起源についての、様々な議論がされてきた。

 そもそも、最も基本的な問題である、プロテクトルというのは、称号か実際の官職かという論点だが、おそらく、官職の方が先行し、皇帝ウァレリアヌスとガリエヌスの頃から、称号としての「プロテクトル」が、官職としてのプロテクトルを参考にして、作り出された可能性があるようである。そして、おそらくウァレリアヌスとガリエヌスは、新たに編成した機動軍に一体感と忠誠心を持たせるために、プロテクトル称号をこれに属する百人隊長以上の軍人達に与え、そこから輩出する形で、彼らを属州総督やその他の重要な軍事ポストに就けていったのだと考えられる。つまり、皇帝達は機動軍の軍人、つまり自らの側近の軍人を、重要ポストに任命していた事になるのである。

 しかし、井上氏は『軍人皇帝時代の研究』の「ガリエヌス勅令」をめぐって」の中で、このような現象が、ウァレリアヌス時代に生じた要因を、彼らの軍事的能力に求めるだけでは、不十分であり、そして制度的には、常設の機動軍の出現が、一つの大前提となるが、これには更なる歴史的要因があったはずであるとしている。更にまたその要因を、彼の軍人皇帝時代についての、新しい視点といえる、結果として皇帝ウァレリアヌスが、後のディオクレティアヌスに、先駆けて行なう事になったとする、ウァレリアヌスの帝国防衛分担政策に、発見している。
この、皇帝ウァレリアヌスが、自分達一族の者、そしてパルミラというローマの一都市の指導者オダエナトゥスまでをも含み、当時実行していたとされる、各自を各地の防衛の要衝に配置し、帝国の防衛を分担させていた、この帝国防衛分担政策は、その厳しい軍事情勢から、皇帝が恒常的に首都ローマから離れ、アンティオキアやミラノやトリーアといった戦略的要地に、「軍」と共に、常駐する事を前提としていたものである。そしてこの政策の結果、皇帝と軍隊の関係が密接化し、その一方で、ローマに集う元老院議員達との関係は、希薄化していった。

 このように、この三世紀には、皇帝を取り巻く集団は、元老院議員から軍人へと変化していったのである。そして、これが統治階層の変化をもたらしていき、帝国の安全防衛が最重要となった、この時代において、皇帝達が彼らを必要とした以上に、この帝国防衛分担制作によってもたらされた、このような状況を利用し、自らの社会的地位の上昇を望んだ軍人達の強い意思があった事も、見逃してはならない。特に、後に「イリリア人皇帝」と称される程、この地方輩出の軍人皇帝達が相次いだ。イリリア地方は、伝統的に、貧しい地域であった。
そしてこのように、プロテクトル称号の騎士階級の軍人が頻出するのは、帝国防衛分担政策と機動軍との、密接な関連のためだったと考えられる。
このような背景から、プロテクトル称号を受けた騎士、つまり機動軍所属の軍人が、三世紀半ばに元老院議員に代わり、属州総督や軍司令官などに登用されるようになったのであった。結局問題の、皇帝ガリエヌスが実際に出したか否かが議論されている「ガリエヌス勅令」だが、それまでのローマ帝国の軍事制度上において、非常に画期的と思われる、ローマ帝国の元老院議員は「文武両道」を理想としており、その昇進のしかたとしては、行政職と軍事権の両方を織り交ぜながら、昇進していったのである。

 更に、属州総督のように、行政権と軍事権の両方を保持する官職もあった。
このため、ギボンなどは軍隊に関与しなくなれば、統治力も損なうものだとして、厳しく批判している、この皇帝ガリエヌスが、元老院議員達が、一切の軍務に関わる事を、禁止したという、「ガリエヌス勅令」についてだが、アルンハイムは、ガリエヌス時代以降にも、軍事権を持った元老院身分の総督が存在している事。また騎士身分総督による元老院身分総督の置き換えがランダムである事、そしてこれらが動かし難い事実であるとした上で「ガリエヌス勅令」の存在そのものを、否定している。また、更にサイムやキャメロンなどからも、同様の考えから、この勅令の存在を否定する意見が出されており、有力な説となっている。しかし、これが存在したとしている研究者達もいるのも、事実である。

 このように、現在この「ガリエヌス勅令」について、様々な議論がある事を踏まえた上で、井上氏は『軍人皇帝時代の研究』の中の、「ガリエヌス勅令」についての、最終的な結論だが、具体的にこのようなものが布告された形跡は、ついに認められず、この勅令の存在自体には、疑問を呈している。しかし、このようなはっきりとした勅令、システマティックな改革という形を取らず、半ば当時の軍事情勢の変化に促されたものであるにしても、また一面では当時の軍事的要請に従い、ウァレリアヌスの時から、積極的な属州総督・軍団長職などへの、登用が行なわれ、更に皇帝ガリエヌスの代でもこの路線が継承され続け、これが騎士階級の台頭を促す事になったという、見解を示している。つまり、騎士身分の興隆は、正確に言えば、ガリエヌスの時代ではなく、ウァレリアヌスの時代から始まったとする。
そして、ローマ帝国の騎士階級というのは、単に軍人を指すのではなく、特に皇帝セプティミウス・セウェルスの時代以降からは、元老院議員とほぼ変わらない、財務官僚などの社会的背景を持つ者から、ローマ軍の百人隊長クラスの軍人までが含まれるようになっており、やはり、このセウェルス時代から、しだいにこの騎士階級が影響力を、増してきたと考えられる。

 とはいえ、この時期はまだ、属州総督職や軍団司令官職は、元老院議員達の、ほぼ独占状態だった。しかし、皇帝ウァレリアヌスの時代から、これらの状況が決定的に変化し、これらの官職が騎士身分の者達に、続々と解放されていく事になる。
つまり、騎士身分の興隆は、正確に言えば、皇帝ガリエヌスの時代ではなく、皇帝ウァレリアヌスの時代から始まったとする。そして続いては、皇帝ウァレリアヌス時代以前の、皇帝セウェルス時代以後の騎士身分の実体についての検討である。特に騎士身分から皇帝になったマクリヌスとフィリップス、そして総督代行職就任者のケースを、取り上げる。

 マクリヌスは、皇帝カラカラの近衛長官であったが、二一七年に、カラカラを暗殺し、騎士身分の者として最初に帝位に就いた。ディオ・カッシウスによれば、彼は北アフリカの出身であり、法律に長け、その才でもって、有力者の助けを受けながら、騎士身分の「文官」の経歴を歩み、近衛長官にまで昇進している。ディオは、マクリヌスの出自の卑しさを強調しているが、マクリヌスが法律に長けていた事や、都市カエサレイアの出身であった事から考え合わせると、実際には彼は都市の富裕層の出身であった事が推定できる。そしてフィリップスもまた、マクリヌスと同様、近衛長官から皇帝になった人物である。
更にまた、このフィリップスについても、古代の史料はその出自の卑しさを強調するが、それは彼に前の皇帝ゴルディアヌス三世殺害の嫌疑がかけられた事や、その出身地であるアラビアに対する、古代人の偏見に由来しているに過ぎないものだと考えられ、現在では彼も実際には、地方の富裕層の出身であったというのが、通説となっている。しかし、彼が軍務経験を歩んだ証拠はない。続いては、三世紀前半に頻出し、来るべき騎士総督出現の前兆と考えられる、具体的な経歴が比較的判明している、八人の総督代行職就任者の名前を、以下に挙げる。まず、属州ダキア総督代行を努めたヘレンニウス・ゲメリヌスは、騎士勤務の一つである高級軍団将校職を務めた後、ダキア・アプレンシス区のプロクラトルになり、この職と兼任で総督代行職を務める。その名前から、イタリア出身である事がわかる。

 そして同じく属州ダキア総督代行となったウルピウス・ウィクトルも、騎士勤務を終えた後、いくつかのプロクラトル職を経て、総督代行職に就いている。また、これも同じく属州ダキア総督代行となった、属州リュキア・パンフィリア出身の、M・アウレリウス・トゥエシアヌスは、騎士勤務の後、東方諸属州の二〇分の一相続税のための六万セステルティウス担当官プロクラトルを経て、この属州ダキア総督代行になった。そしてこのトゥエシアヌスは、この後も経歴を重ね、最終的には元老院に編入され、執政官にまで到達した後、属州ガリア・ルグドネンシス総督にもなっている。最後の、同じく属州ダキア総督代行になっている、Q・アクシウス・アエリアヌスは、騎士勤務を経ずに、プロクラトル職に入り、その後総督代行を務めた。
属州ガリア・ルグドネンシス総督代行となった、M・アエディニウス・ユリアヌスは、前歴は明らかではないが、後に属州エジプト長官から近衛長官に就任。
そして更にこの騎士は、有名な「トリニーの大理石」碑文にその名を刻んでおり、元老院議員との親交が篤かった。L・ティティ二ウス・クロディアヌスも、やはり騎士勤務からその経歴を始め、属州エピルスなどの小属州の総督や属州下モエシアのプロクラトルなどを歴任した後、属州ヌミディア総督代行に就任している。
そしてその後、最終的には、属州エジプト長官にまで昇進したようである。
属州下モエシア総督代行であったC・ティティウス・シミリスの経歴は、百人隊長から明らかになるが、フルメンタリと呼ばれた秘密警察の長官や主席百人隊長などの純然たる軍務のみを経て、総督代行に就任している。

 最後は、皇帝ゴルディアヌス三世の近衛長官であり、義父であったティメシウスの経歴である。このティメシウスの経歴も、騎士勤務の一つである歩兵隊長から始まる。
その後ティメシウスは、極めて多数のプロクラトル職に就任している。
例えば、属州アラビアの総督代行二回に、属州シリア・パラエスティナのプロクラトル兼皇帝親征のための糧秣調達官、属州ベルギカ及び属州上下ゲルマニアの皇帝私財のためのプロクラトル兼属州下ゲルマニア総督代行などである。そしてこのティメシウスの社会的地位は、元老院議員の中でも名門であった皇帝ゴルディアヌス三世に、娘サビニアを嫁がせている事やゾシモスによるとその教養によって、よく知られていた人物であった事を、伝えられている事などから、元老院議員と大差なかったと考えられる。そして今度は、ウァレリアヌス時代末期とガリエヌス時代に台頭した、騎士身分の実体と経歴についてである。まず、ラエティア方面でガリエヌスに反旗を翻したアウレオルス、ガリア皇帝を僭称するポストゥムス、レガリアヌス、そしてガリエヌス殺害に名を連ねるクラウディウス、アウレリアヌスに加えて、ヘラクリアヌスやマルキアヌスなどである。しかし、これらの中で、具体的な経歴が判明している人物は、ほとんどいない。

 クラウディウスは、イリリア人で、ダルマティア地方出身で、帝位に就く直前は騎兵長官だった。アウレリアヌスも、クラウディウスと同様に、ドナウ川流域の属州出身の軍人だった。帝位に就く前は、騎兵軍の司令官だった。ヘラクリアヌスは、当時、ガリエヌスの近衛長官であり、その前歴としてはパルミラ遠征軍の将軍であったとの伝があるだけだが、おそらく前二者同様の軍人であったのだろう。この中で、唯一、具体的な経歴が碑文史料から判明している、貴重な例としては、マルキアヌスがいる。このマルキアヌスは、初めにプロテクトル兼近衛隊将校、そしてドゥクス、ストラテーラテースへと昇進している。これの経歴から見ても、彼が生粋の軍人であったのは、明白である。なお、プロテクトル兼近衛隊将校から昇進していく、この種の経歴を辿った軍人には、ウァレリアヌス時代のタウルス・ウォルシアヌス以後、数人が知られており、当時の一つの典型的な軍人の昇進スタイルであったようである。そして更に、属州総督や軍団長官になった者達である。まず、北イタリア出身で属州ヌミディア総督であったプロブスは、後の皇帝クラウディウス時代には、属州エジプト総督としてキュレナイカでマルマリタエ族と戦い、同時に海賊討伐も命じられ、最後には侵入してきたパルミラ軍と戦闘を行なっており、やはり、前歴は軍人であったと推定される。

 そしてプロブスも、ヘラクリアヌスの弟で属州トラキア総督のアポリナリスも、おそらく兄と同様の経歴を持つ軍人。この中で、プロクラトル型の官僚であったらしいのは、既に名前を挙げている、後に皇帝秘書官に転任している、ゼノ、P・アエリウス・アエリアヌスくらいである。第二アデュトリクス軍団長官であったP ・ アエリウス・アエリアヌスは、属州上パンノニア出身で、父親も軍人である。そして後年には、属州マウレタニア・カエサリエンシスの総督となっている。このように、セウェルス時代とウァレリアヌス時代以降の騎士身分の実体を比較してみると、その相違が明らかである。まず、ウァレリアヌス時代以前に台頭した騎士達は、シミリスを除き、ほぼ全員が騎士勤務からその経歴を開始し、その後プロクラトルとしての経歴を歩んだ、財務官僚的な騎士達であり、更に多くの者達が、元老院議員と社会的に何ら変わらない者達だった。一方これに対し、ガリエヌス時代に台頭した騎士身分の者達は、その大半が軍人であった。

 そして更に、ウァレリアヌス時代末期の騎士身分も、やはり軍人と推定されるものが過半を占めており、逆に財務官僚的な騎士は、マクリアヌスくらいだった。したがって、同じ三世紀に台頭した騎士身分と言っても、ウァレリアヌス時代を境に、騎士身分の社会的背景は全く変化してしまっていたのである。そしてこのようなウァレリアヌス時代から、特に著しくなる、軍人層の台頭は、なぜ起こったのだろうか。これは既に前述した、どうも官職としてのそれの方が、先に存在していたと思われる「プロテクトル」を参考に、後に作り出されたと考えられる、称号としての「プロテクトル」を、編成した自分達の機動軍の将校達に、忠誠心を持たせるために、皇帝ウァレリアヌスやガリエヌスが与えるようになり、またこのプロテクトル称号を与えられた、そしてそのほとんどは近衛隊将校であった、(そしてこの地位も、かつて元老院議員が、就いていたものである。)
 この軍人達から、それまで伝統的に、ほぼ元老院の独占状態であった、属州総督や軍団司令官を抜擢していくようになったのである。このような「プロテクトル」の変遷、そしてこれから詳しく述べる、この頃の皇帝達の権力基盤ともなっていった「機動軍」とも、密接な関わりがあったと考えられる。井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、PP.56―62

 

 そして更に以降も、井上文則氏の『軍人皇帝時代の研究』の「第三章 機動軍の形成」の、ローマ軍団の常設の機動軍が、三世紀半ばの、ウァレリアヌス帝期に形成されていた事を裏付けるための出発点として、皇帝ガリエヌスが行った、代表的な軍事改革とされている「騎兵軍改革」の実態についての考察を紹介する。

 この騎兵軍改革とは、皇帝ガリエヌスが内外の敵に迅速に対応するために、それまでの歩兵中心のローマ軍の伝統から離れ、機動力の高い騎兵を活用する方向で行なった、軍制改革の事を指し、この改革を通してガリエヌスは皇帝直属の中央騎兵軍を創設したとされてきた。
井上文則氏は、この章の中で、この騎兵軍改革を巡る、これまでの様々な議論とその主な争点について触れている。それによると、皇帝ガリエヌスによる騎兵軍改革を最初に主張したのは、前世紀初頭の研究者E・リッターリングである。
リッターリングは、「文武官位録」とゾシモス、ゾナラス、ケドレノスといったギリシャ語史料に基づきながら、ガリエヌスがダルマティア騎兵部隊、マウリ人騎兵部隊、プロモティ騎兵部隊、スクタリイ騎兵部隊といった、一連の新型の騎兵部隊を創設したと主張したのである。リッターリングによれば、これらの騎兵部隊は従来の「アラ(ala)」やアウクシリア(auxilia)と呼ばれた騎兵部隊とは全く異なり、「常に戦闘準備ができており、属州の駐屯地や旧部隊から切り離され、戦争のために大いに活用できる騎兵部隊」であった。
更に続けて彼は、これらの騎兵部隊は少なくとも皇帝ガリエヌスの下ではアウレオルスという一人の司令官に委ねられていたこと、また皇帝アウレリアヌスのパルミラ征服の後、解体されて、東方諸属州各地に配備されたとも論じたのである。

 なお、井上文則氏によると、リッターリングは、この新型騎兵部隊を一語では言い表わしていないため、本書ではR・サイムにならい、便宜的に独立騎兵部隊(the independent cavalry corps)と呼ぶ事にする。
 井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、PP.104―108


 ここで改めて、ガリエヌスが現在ガリエヌス勅令とされるものを、出すに至った理由についての検討であるが。これまでは、有力な根拠の一つとしては、元老院議員の軍事的無能に、その理由を求めるものである。だが、既に彼らの軍事的無能は、ガリエヌスと同じようにその治世の長い間を、蛮族との戦いに悩まされた、マルクス・アウレリウスの時代から、明らかになり始めており、この理由だけでは、その説明としては不十分である。ガリエヌス勅令についての、最終的な結論としては、この後に詳しく紹介していく、井上氏の、ガリエヌスの騎兵改革の実態についての、その考察の紹介をしてから改めて述べたいと思う。

そしておそらく、ガリエヌスがこうした勅令を出すに至った、更に他の理由としては、元老院議員達の間でも、皇帝ガリエヌスに対しての、反抗の気配が見られた事である。
有力な元老院議員達は、皇帝ガリエヌスに不信感を抱き、更にこれらグループと共に関係する、帝国の各公職者達の、よりひどい反乱の危険が判明した。おそらく、騎士団階級の地位の、軍団内の上昇により。ポストゥムス、マクリアヌス、インゲヌウス、レガリアヌスと、簒奪が連鎖的に続発した、短期間に連鎖的に簒奪が続発した、二六〇年の嵐のような年。
それらにより、おそらく更に有力な元老院議員からの、反皇帝の動きは、支えられた。
インゲヌウス、レガリアヌス、マクリアヌスなどへの支持という形として。
おそらく彼ら簒奪者は、元老院と各都市に、彼らの通信員と彼らの支持者を持っていた。
特にレガリアヌスの妻は、出自が良かった。このレガリアヌスの妻は、スルピキア・ドゥリアンティラという名の、元老院階級の女性である。また、インゲヌウスやマクリアヌスなどは、属州総督や属州の財務官僚という、ある程度の地位にあったようであり、これらの点から、元老院議員達とも、接近しやすかった事だろう。その上、マクリアヌスの、その明確に反キリスト教的な傾向も、元老院からの支持を受けやすかった事だと想像される。

 このように、ローマ名門貴族である、自分と同じ、元老院階級出身であるはずの、元老院議員達でさえ、皇帝ガリエヌスにとっては、全面的な信頼を置けるような存在では、なかったのである。確かに、ローマ皇帝と元老院との関係には、それまでも、しばしば緊張があった。
だが、ガリエヌスがその勅令により、その一切の軍隊の要職に、元老院議員が就く事を禁じた事により、既に実際には、日々、蛮族の襲撃阻止を行なう、各属州の防衛線での前線勤務の危険な生活よりも、首都ローマでの快適な生活を好んでいたはずの彼らではあるが。
だが、それまで自分達元老院議員に与えられていた、これらの特権だけは、変わらず保持して置くことを願っていた、彼ら元老院議員達からの、憎悪を招く結果となったため、ガリエヌスの時の、皇帝と元老院議員達との関係は、最も悪化していた事だろう。
彼らのそうした険悪な関係については、ガリエヌスの死後に行われた、その記録抹殺刑が、何よりも明確に物語っている。そしてこの決定が行なえるのは、元老院議員だけだからである。
他にも、これもガリエヌスがアウグストゥスと共に、その何かと困難な帝国統治に当たり、偉大な前任者として尊敬し、お手本にしていたと思われる、五賢帝の一人であり、これも生前、元老院との関係は、けして円満とはいえなかった、皇帝ハドリアヌスも、次の皇帝である、アントニヌス・ピウスが必死で神格化を求めなければ、危うく彼も、同様の記録抹殺刑に、処されていた所だったのである。

 帝国各属州管理の分野では、伝統的なエリート集団のメンバーは、まだその位置を見つけていた。特に元老院議員と騎士達の間から、より従来の抽出法により、彼らはむしろ法律能力を示す事ができた。しばしば組織の質問の、軍人の地位の上昇での間。
理論的なだけではない、その非常に実際的な経験がもたらした、金融分野での能力。
だが元老院は、長い間更に、大半のその力を失った。 特に専門的軍隊と分遣隊並びに、部隊の補強された意味を持つ、部隊の司令官に対する、要求以来、広域の機動性と部隊の柔軟性は、強く上昇した。従って将校はあらゆる意味で、より素早く、外敵の侵入場所に駆けつける事を要求された。そしてそれまでのローマ軍の伝統は、意味を失った。

 その代わりに、ガリエヌスはそれらの上級の職業軍人達に対して、新たにその信頼を置いた。
彼らには、その与えられた、多くの栄誉が見られる。例えば彼らヘの、プロテクトルへの、それらの頻繁な指名。明らかな。皇帝ガリエヌスの下での騎兵隊からの、新しい一つの型に関する情報は、このケドレヌスと『leoquelle』の記述で見つかる。騎兵軍団の指揮官の意味は、それぞれ異なる著者により、明白になる。 それでゾシモスによる、ダルマティアの騎兵軍団の司令官についての言及。更に、ヨハネス・アンティオケノスの、そのような同様の記載を見つける。
そして最終的にガリエヌスは、かつて自らがウァレリアヌスと共に取り立てた、このダルマティアの騎兵司令官達に、殺害された。またゾナラスは、それらの指揮官に言及する。
しかしアウレオルス。彼が非常に有能な男性であったので。それは、帝国の騎兵軍団のリーダーに、候補者に指名された。アウレオルス。騎兵軍団の、非常に有能な男性の司令官。後に反乱を起こす彼を、ミラノで包囲するガリエヌス。そしてこれもダルマティア騎兵司令官で、更にこれも後の皇帝ガリエヌス暗殺計画に加わる、アウレリアヌス。これらの伝承は、その彼らの立場の上昇の意味を示している。

 これらのイリリア人騎兵軍団が、二六八年のガリエヌスに対する陰謀で、重要な役割に含まれていた事が、注目に値する。そしてこれもその皇帝暗殺に加わり、遂に帝位簒奪、しかし、あくまで表面上は元老院からの正式な承認という形をとった、その実現に成功した、二六八年のクラウディウス即位に続いて、これもイリリア人騎兵隊指揮官のアウレリアヌスも、二年後に皇帝即位を実現した。そしておそらく、262/3年並びに267/8年のアウレオルスも、それを試した。
しかし、アウレオルスが、実際にはその指揮下に、全ての騎兵隊部隊を持っているという訳ではなかった。ガリエヌス治世下での、代表的な軍団である、ダルマティアとバタヴィ族の騎兵軍団。そしてこの発展の前兆は、皇帝トラヤヌスだった。
彼にとって、ダキア戦争のための時間の、この騎兵隊の構成は、カバーされる。
元老院のリーダーシップの下の、若干の数十年の間のそれは、一緒に存在していた。
しかしそれはまた再び、解体された。そして更にそれに新たに名を付けたのは、マルクス・アウレリウスである。彼の下での、著名な騎兵軍団将軍ウィンデックスは、そうだった。
そして新たに、ちょうどセプティミウス・セウェルスにより。この皇帝騎兵軍団。親衛騎馬部隊騎士。一九四年にその騎兵隊と共に、二〇〇〇人のペスケンニウス・ニゲル軍に対して勝つ。
更なる、彼ら騎兵軍団の発展。そして更に、彼らの後継者達の間での騎兵軍団の頻繁な利用は、続けられた。また二三五年の、マクシミヌス・トラクスを通しての、オスホエネスとマウリ騎兵軍団による成功が、挙げられる事になっている。

 従って、この移動分遣部隊の存在は、三世紀にとっては重要である。ローマ軍団の主力としての。本格的なガリエヌスのそのまでは、それまでの彼らは、あくまでそれまでのローマ軍団の主力であった、歩兵連隊のサポートとしての、騎兵部隊から構成されていた。そしてその多くの時間を、蛮族の襲撃からの、ライン川の防衛に費やす、ガリエヌス。従って256/60年に。ガリエヌスは実際に、蛮族達の移動とその横断を部分的に防いだ。ライン川周辺をできるだけよく、個人的に防衛した。そして特に騎兵隊についての話題。更についにそれ自体の、蛮族撃退における、その大変な効率性が正式に証明される。
ライン川下流に当たる、属州下ゲルマニアの、コローニャ・アグリッピネンシスの、帝国鋳造局のコインは、そのガリエヌスのゲルマン人への勝利を祝った。
多分これらの勝利で入るだろう軍隊は、新しい軍隊の最初の中核を代表した。
ようやく二五九年の後、彼のテストが存在した。
また、東方へのブリタニア・ゲルマニアの分遣隊。
ポストゥムスのガリアでの簒奪、あるいはマクリアヌスの帝国東方からの簒奪、そしてそのシルミウムでの敗北の後。

 その後に、そのような独立した、各分遣隊の軍団ができた。そして類似した軍団が、とりわけ、ドナウ地方のいくつかの場所に、存在した。
マウリとオスホエネスの上の命令から、騎兵は上級騎士の位置を前提とした。
例えば、トラヤヌス・ムキアヌス。
おそらく、それに続くように、騎兵の補強された継続的な利用は、その時既に予定された。
まず初めに、当時のライン川の危機的状況のために、彼ら騎兵部隊は持ち出され、それらの使用用途の拡大は熱中された。そしてそれ自体が、インゲヌウスの簒奪に対する、新しい軍団の創設という事を証明した。

 そしてマクリアヌス、またはゴート族に対する、二六八年のテッサロニケの防衛に。
属州総督としての、バタウィ族騎兵の軍団司令官。
二五九年において、明らかにまた、この騎兵軍団は、メディオラヌムで皇帝ガリエヌスの機動軍になっていた。
更にこれらの新しい軍団の創設は、ガリエヌスによるものと考えられる。
そしてこうした騎兵隊の存在は、より高い戦術的な機動性とその役割をもたらした。
通常、しかし、騎兵隊と一緒に歩兵連隊とそれ自体の隔壁が、上手く異議を唱える、補足し合うもの。

 おそらく通常は、軽武装の騎兵隊は、直接的な戦いには、より相応しくはなかった。
だがゾシモスが言及する、それらの対照的な存在の変化を明らかに、意味した。
それら自体の用途が、このようにしだいに発達していったために、こんなに適切な条件を備えた部隊として、より広範囲に適用されようになった。
その構成要素として「親衛騎馬部隊騎士」は、最初はそう名付けられる事になっている。
彼らはライン・ドナウ川地方から、そして帝国全体の国境地帯で勝利した。
そしてこうした近衛軍団は戦いの補助としてだけではなく、皇帝直属の軍団として機能した。

 更に重要な契機として、ポストゥムスの簒奪による「ガリア分離帝国」の出現。
そしてこれらの地域の損失は、その時イリリア人騎兵達の、その立場の上昇を促した。
その内に、皇帝セプティミウス・セウェルス時代の、親衛騎馬部隊騎士は、新たな騎兵隊部隊を通して負けた。
その騎兵軍団とstablesianiの、全く広範囲な騎兵隊部隊の形成は、ガリエヌスの時間に、確かに属している。
ダルマティア騎兵だけから、ドナウ地方の国境部隊の騎兵だけからは形成されない。
少なくとも「文武官位録」によって、九つの軍団を数えた。
プロモティ騎兵軍団とスクタリイ騎兵軍団など。イリリア人と東方人からの騎兵軍団。
これらの軍団は、おそらく一緒に、パルミラとエメサの弓兵隊から、ムーア人の騎兵とオスホエネスによるそれだけではなく、利用が開始された、東方の軍団になった。
そして彼らは皇帝セウェルス・アレクサンデルの下で、初めて言及される。
イリリア人騎兵軍団として。

 これらガリエヌス以来のローマ軍の中での、彼らイリリア人のその突出した重要性。
彼らは各五百人の分遣隊に、分けられていた。
更にディーツの指摘によると、バタウィ族騎兵軍団は、perfectissimusとバタウィ偵察騎兵隊に命じられた。
そしておそらくこれらは、ガリエヌスの、インゲヌウスとの戦いにおいて、両方共に、多分配置されただろう。
二七〇年の、ドナウ地方からの、そのトラヤヌス・ムキアヌスの碑文からの発見によると、彼ら騎兵軍団は、ゲルマニア方面での共通国境でのポストゥムスの簒奪時の戦いでも活躍したという。
更にこのバタウィ偵察騎兵軍団は、そのローマ軍の、テッサロニケでの、ヘルリ族との戦いでも、その存在が二六八年にも証明されている。

 そしてダルマティア騎兵部隊。更にマウリとプロモティ騎兵部隊は各々、四つのイリリアの東部国境で、アウレリアヌスの下の六つのコインによると、もっともらしくなった戦隊が配置されて、均一に割り当てられていた。
やがて帝位に対する、彼らイリリア人騎兵司令官達の野心の上昇は、この騎兵軍団の発展の不利な点として、増加するかもしれない。
しかし、この騎兵軍団の利用により、皇帝はこれまでより、より速く、明らかに自身や軍団が蛮族などの外敵との戦いに、駆けつける事ができるようになった。。
問題はそれ自体を配置する。
均一な最高司令部が、本当に名を付けられた軍団の上に、存在していたかどうかに関わらず。

 現にそのアウレオルスのために、主張されているように。
アウレリアヌスは、二六八年のメディオラヌムの、騎兵軍団司令官として現われる。
インゲヌウスやポストゥムスとの戦いの、全てより上に。
アウレオルスは、260/1年の、Stablesianiの司令官として在職した。
従って、彼のタイトルはおそらく、stabulensisで、その名を採って、名付けられる軍隊だった。
そしてアウレオルスは、緊急に、北イタリアまたはラエティアに配置された騎兵軍団の、指揮官に任命された。
イタリアとの国境を、ポストゥムスとおそらくアラマンニ族に対して防衛するために。
このメディオラヌムが、他方、アラマンニ族の潜在的な略奪の危機に晒されやすい場所の他にも、更にその上、このポストゥムスが、この南部国境の近くという、ローマ帝国全体の支配のための、ローマへの進軍のために、有利な地域にいたために。
そこの全ての南方の国境とその上のこの部隊の一部による、アルプス山脈からの北(ラエティア)のアウレオルスの騎兵軍団も、267/8年頃に、ガリエヌスにより、おそらく配置された。

 更にガリエヌスによる、以前からの、そのメディオラヌムの都市の防衛の強化が等しく、見られる。
皮肉な事に、二六八年のアウレオルスに対する、その時のガリエヌスの、より長い包囲により。
ほぼ同時に、そのコインの鋳造場所は、その重要な軍事的中心での、彼の再び勝利した意味を強調した。その都市はアクィレイアの側にある、防衛の中心として、機能を始めた。
多分、まさに南側のヴェローナが、アルプス山脈の終わる通り。
これを代表する、いくつかのアルプスの通路を示す、そして強くまた、メディオラヌムのような、各地がガリエヌスの下で、二六五年に強化される。
ガリエヌスの他の重要な軍事的中心は、分遣隊の配備場所としての、ポエトウィオだった。
おそらく、これはイタリア地方の保護のために。
ドナウ地方でのインゲヌウスやレガリアヌスの簒奪の反映として。

 そしておそらくこれも、二六〇年以降のガリエヌスのケルンへの保護(ポストゥムスの簒奪で、この場所の統治を任されていた、彼の次男のサロニヌスが殺害された場所)その262/3年の、システィアでのコイン。
それらは既に当時のウァレリアヌスの防衛の下の、ビザンティウムで、おそらく存在していた。またマケドニアのリクニドゥスで。
そして他にも、マケドニアとアカイアのなどの、バルカン諸国の保護には、第三エグナティア軍団を、交通点に配置した。
リクニドゥスの第二パルティカ軍団が、多分意味するであろう、その分遣隊の配備。
ドナウ川からの南に、配置された分遣隊(二六〇年までに訓練をされて、それまでのシステムに、おそらく取って代わるこれ)
ガリエヌスはそれらの地域の忠誠を得た、そして、どんな蛮族の襲撃も、ドナウ川中部では彼の統治の間、起こらなかった。
マルコマンニ族との同盟に、関係がある場所はどこでも。

 ポエトウィオにおいて、ダキア、ゲルマニアと第五マケドニカ軍団の分遣隊は、配置された。下モエシアからアクィンクムの分遣隊で、そしてシルミウムのゲルマニア軍団とブリタニア軍団に。
それらの軍団は、ゲルマニアでも配置されて、簒奪者インゲヌウスに対しても、おそらく、戦いを命じられた。
ドナウ川中部のそのガリエヌスは、ドナウ川下流とダキア属州の反対側に、優先権を与えた。
そしてポストゥムスの簒奪を通して、シルミウムに配置される軍団。
テッサロニケは、バタウィ族騎兵軍団により、二六八年または二六九年に守られた、従ってここから、そのような軍事的中心地の存在を表す事ができる。
従って、これら分遣隊は、このように帝国の各防衛の中心点に、それぞれ異なる軍団から配置された。

 そしてガリエヌスのローマ軍の中での主力だった、主にバルカン地方のイリリア人由来の騎兵将校達。彼が明らかに信用した人々。そしてプロテクトルのような、名誉職の称号の付与により、皇帝と彼ら上級将校達との関係を、強化しなければならない。
既にセプティミウス・セウェルスにより、始まった。そして更にこの発展は、ガリエヌスの下で、その最終的な結論に達した。こうして元老院議員のための、その職業コースは、変化した。
軍事のプロフエッショナルである兵士達は、分遣隊と騎兵隊の頻繁な必要性の、補強された使用による、新しい軍事的要請だった。早急に、蛮族達の集団を探し出す事。また、騎兵司令官の命令の下の軍団は、その時それを支持した。

 最初は、元老院の指揮官不在の、代表的な名前で。しかし、新任の指揮官の規則的な名前は、速く持ち出された。そしてこの処置は、実に効率的であることがわかった。
イリリア人の上級将校の部隊は、勇気を明らかに持っていた。しかし、彼らはそれらの軍隊を通して、その後、帝国の軍事情勢の回復の始まりを提供した。そして彼らはその時に、まだこうしたガリエヌスの手段に、部分的に頼っていた。また、ディオクレティアヌスとコンスタンティヌス一世も、まだある意味では、それに基づいていた。それまでの当時、のむしろそれまで融通のきかなかった国境防衛に対して柔軟に対応できる、移動分遣部隊の編成を通して回される軍団と騎兵部隊。そしてそれら分遣隊としての騎兵軍団は、メディオラヌムまたはシルミウムのような後背地、重要防衛拠点のこれらの場所に、配置された。増加する。数値的に減少した軍団が、より遠くの各属州国境に立つ間。侵略者と各分遣隊は、帝国の各地で戦った。
そしてそれは不明確である。分遣隊がガリエヌスの時間までに、既に独立しているように、なり始めたどうか。または部隊が何度も、それらの主な軍団に戻って、多分交替されただろうどうか。

 とにかく、ガリエヌスは、飛躍的に、そのローマ軍団の行動の速度を上げる事ができ、それを通してより簡単に、敵を驚かせる事ができた。stablesaniと初めにリッターリングが、その存在に注目して指摘した、プロモティ騎兵部隊とスクタリイ騎兵部隊は、おそらく確かに、ガリエヌスの下で新たに確立されて、これらでも代表的なものは、イリリア騎兵部隊。
そしてこうして、騎兵部隊と歩兵連隊が結合された事により、より迅速かつ効率的な、蛮族撃退のための成功は約束された。更にガリエヌスは、マルコマンニ族に、これ以上の略奪を止めさせるためと彼らマルコマンニ族の軍事援助を得る事を条件としての、同盟締結のためとはいえ、最初はゲルマン人の蛮族の王の娘を、おそらく最初は、その妻として迎え入れる事にためらった。
二六〇年までの、上パンノニアへの、マルコマンニ族の一団の受け入れ。そして彼らのローマ軍への編入。そして既に触れているように、歩兵中心の、これまでのローマ軍団の構成では、いつ、どこから侵入してくるのか、予想がつきずらく、またこの三世紀に入ってから、侵入が激しくなっていた数多くの蛮族達に対して、より迅速に、早急に対応する必要性を痛感したと思われる、皇帝ガリエヌスにより、おそらく創設されたと、一九〇三年にリッターリングが主張した、いわゆる、ガリエヌスの中央騎兵軍についてであるが。

 D.ホフマンと特にM・P・シュパイデルは「文武官位録」で名を付けられる、イリリア人により構成されているそれらを含む、全ての独立騎兵軍団の存在を指摘した。
彼ら射手とStablesianiの間で。この騎兵の上で、これまでの通常のローマ軍は後退する。ダルマティア騎兵軍団は、その時に最も多数のグループを代表したと思われた。
初めて、E .リッターリングにより、ガリエヌスは、一九〇三年に、新しい騎兵軍団の創設者に指名された。この騎兵軍団の存在自体に対する反論も、しばしばあったが。
一九〇三年のリッターリングの主張。彼は最初に、古代後期のローマ軍での、ダルマティア騎兵軍団の意味に、気が付いた。当初のイリリア人騎兵部隊のように、その形容語句のイリリアが注目される。すなわち、ダルマティア騎兵隊。マウリ。スクタリィとプロモティ。
リッターリングは、東方での、アウレリアヌスの下での、同時の軍団の再編に関して。
前に、これらの軍隊は、すでにコマの中にいた、クラウディウス戦争の名を付けられる。
だが騎兵としてのアウレオルスの名前のため、リッターリングは、この騎兵軍の創設者をガリエヌスとして認めた。そしてこの説は、一九六七年に、アルフェルディにより、広められる事になった。

 更にアルフェルディは、貨幣史料を用いて敷衍し、更にこのリッターリングの、騎兵軍創設の仮説を補強した。アルフェルディは、四つの独立騎兵部隊が二五八年に統一されて、中央騎兵軍(the central cavalry corps)を形成したと述べた後、皇帝ガリエヌス治世にミラノで討たれた騎兵(equites)を称える銘を刻する貨幣を根拠に、この中央騎兵軍がエクィテス(equites)という公式な名称を与えられていたこと、そして、それがミラノに本拠地を置き、皇帝に直属していたことを論じた。また、この中央騎兵軍はアウレオルスの後、続くクラウディウスからプロブスに至るイリリア人達の手に委ねられ、またこれまでこの存在が、彼らの帝位への足掛かりとなっていたので、これを脅威と見た皇帝ディオクレティアヌスが、解体したとも主張したのである。

 中央騎兵軍の創設に力点を置く、このアルフェルディの仮説は、D・ヴァン・ベルシェムやD・ホフマン、ザクサー、ファウム、サイモン、クリストル、ブリンクマン、ポターなどの、多くの研究者によって支持されることになった。なお、日本においても弓削達、高橋秀、市川雅俊らに同様の主張が見られる。その一方で、L・ドゥ=ブロワのように、中央騎兵軍は単に一時的に形成されたに過ぎず、当然、ミラノもまたその永続的な根拠地ではなかったとし、皇帝ガリエヌスの騎兵軍改革に対する過大評価を戒める研究者もいたが、中央騎兵軍の存在そのものについて疑念が抱かれることはなく、アルフェルディの仮説は通説と化していた。
しかし、このような状況の中、一九八〇年にH・ジーモンは、騎兵軍改革を考える際のキーパーソンとなっていたアウレオルスに関するギリシア語史料が批判に耐えない事、また貨幣史料の解釈に問題があることを論拠として、アルフェルディ以来の「ミラノに駐屯する皇帝直属の中央騎兵軍」の存在を否定した。また、一九八八年にも、ほぼ同様の論拠に基づきながら、ガリエヌスの騎兵軍改革を否定するM・シュプリンガーの論考が現れ、彼は騎兵軍改革の仮説を「学問的な作り話とまで言い切った。 以上の学説史を追っていくと、リッターリングからアルフェルディにかけて通説が形成されていく過程で、騎兵軍改革の重点が独立騎兵部隊の創設から中央騎兵部隊の創設へと移っていったことに気付かされる。

 リッターリングは、まず独立騎兵部隊の創設を説いたのであり、中央騎兵軍については簡単な言及をするに留まっていた。ところが、アルフェルディが中央騎兵軍に重点を置いたため、いつしかその強烈なイメージばかりが、一人歩きするようになったようである。
こうして、皇帝ガリエヌスの騎兵軍改革と言えば、皇帝直属の中央騎兵軍の創設ということになってしまった。このため、研究の現段階では大局的にはアルフェルディとジーモンにそれぞれ代表される中央騎兵軍肯定説と否定説が対立している。そして、このガリエヌスの騎兵軍改革を巡る、対立する両説の主要な争点は、中央騎兵軍に関してと思われる記述のあるギリシャ語史料についての評価、そしてより具体的には最初の中央騎兵軍司令官であったとされるアウレオルスの経歴を巡る問題に帰着する。そして以降から、アウレオルスの実際の経歴の復元を、井上文則氏が試みている。ゾナラスによれば、アウレオルスは初めダキアの牧童であったが、その後軍隊に入り、やがて近衛騎兵長官にまで出世した。そして二五八年のインゲヌウスの反乱の時には、ガリエヌスと共に戦陣に臨み、騎兵長官として大いに活躍し、更にニ六一年には、東方から攻め上ってくるマクリアヌス父子に抗するため、ガリエヌスによりドナウ方面へ派遣され、これを撃破した。ガリア分離帝国の僭称皇帝ポストゥムスとの戦いにおいても、アウレオルスは、ガリエヌスに付き従い、戦場ではポストゥムス追撃を任された。
だが、最終的にクラウディウスら他の騎兵隊隊長らと共謀し、皇帝ガリエヌスの暗殺計画を進行させ、ガリエヌス殺害において、主要な役割を果たした。
しかし、その後間もなく、仲間だったクラウディウスにより殺害された。
ゾシモスやゾナラスの記述をそのまま信じるならば、アウレオルスは二六八年には「全騎兵を率いていた」ことになるが、いずれの史料にも全騎兵を率いていたはずのアウレオルスを包囲するガリエヌス側の陣営にも騎兵部隊がいたことが記録されており、井上文則氏はジーモンが指摘したように、これらの記述をそのまま鵜呑みにすることは、できないとしている。

 すなわち、ゾナラスによれば、アウレリアヌスは騎兵を率いてガリエヌスの陣営に来ているし、ゾシモスによれば、ガリエヌスを殺害したのはダルマティア騎兵部隊の司令官だった。更にその上、アウレオルスが当時就いていた官職については、全く異なる伝承が伝えられていることを指摘している。ゾナラスに見える別伝によれば、簒奪の時、「アウレオルスはケルト人達の所で兵を率いていた」のであり、また、ラテン語で書かれたアウレリウス・ウィクトルの史書によれば、アウレオルスは「ラエティアの軍隊を率いていた」とあるからである。そのため、ジーモンはアウレオルスの簒奪時の官職については、二種類の伝承の内、ラエティア方面の軍を率いていたという伝承の方が当時の歴史的文脈に照らして信憑性が高いと結論づけているという。
そして、ギリシャ語史料に見られる「全騎兵を率いていた」との表現は、想定されるラテン語史料にあるdux omnium vexillationumという表現を三世紀の実情を知らない後世のギリシャ語史家が誤訳した結果であると解釈して、処理している。

 誤訳の原因は、vexillatioの意味の変化による。すなわち三世紀において分遣隊を意味していたvexillatioという語は、四世紀に入ると騎兵部隊を意味するようになっていたからである。
しかし、井上文則氏はジーモンの想定する「全分遣隊の司令官」という官職は他に類例もなく、説得力を欠くように思われるとしていて、続けて結局の所、ジーモンのように一方の伝承が正しく、他方の伝承が誤っているとするには、相当な無理をしなければならないのが明らか、そこで、断定的に一方を否定することができない以上、この二つの伝承を両立させる方向で考察を続けてみたいと述べている。

 井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、PP.98―103

 以下、彼はこう考察を続けている。
井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、pp.102-103
「まず、そもそもアウレオルスが「全騎兵を率いていた」とするギリシャ語史料はどのように解釈するべきなのであろうか。この言葉は、文字通りにとれば、ローマ帝国中の全ての騎兵を率いていたことになるが、この状態は常識的にも想像しにくく、実際、『ヒストリア・アウグスタ』「神君アウレリアヌス伝」の一節は、別の解釈が可能であることを示唆している。当該の箇所には、「帝見を握る前に、アウレリアヌスはクラウディウスの下で全騎兵を率いていた。というのも、騎兵の司令官たちはクラウディウスの命令なしに
無秩序に戦闘を行ったので、不興を買っていたからであった」とあり、この一節はクラウディウス帝の下に複数の騎兵部隊がいたが、それが勝手ばらばらに戦闘を行ったため、一人の指揮下に置かれ統一性を与えられた、と理解することができる。

 ここからは、問題のギリシア語表現だけでなく、中央騎兵軍そのものを考える際の重要な事実を二つ引き出すことができよう。第一に、アウレリアヌの率いていた全騎兵がもともとクラウディウス帝の直接指揮下にあった騎兵であること、もう一つは皇帝麾下の中央騎兵軍の司令官は、恒常的な役職ではなく、一時的、便宜的な役職であった可能性である。
第二点目の可能性は後段で考察をすることになるので、さしあたり脇に置いておくが、第一の事実からギリシア語史料を解釈することが許されるならば、「全騎兵を率いていた」とはあくまでも皇帝の麾下で、そしてそこにあった限りの全騎兵を率いていたということを意味することになる。ところが、アウレオルスが簒奪を行ったときには、ガリエヌスはバルカン半島でゴート族やヘルーリー族と交戦中であり、ミラノにはいなかったのであるから、ガリエヌスがいないところで、アウレオルスが皇帝麾下の全騎兵を率いていたはずがないのである。したがって、アウレオルスは、二六八年の段階では、中央騎兵軍の司令官ではなく、ラエティア方面の軍を率いていたと考えるベきであろう。
現存するギリシア語史料、あるいはその原史料は、大本の史料を操作した際に、誤って不適当な箇所にアウレオルスが「全騎兵を率いていた」とする表現を挿入したのではないだろうか。とするならば、いったい、いつアウレオルスは、皇帝の麾下で全騎兵を率いていたのであろうか。私は、それが二六五年に起こったガリエヌスの対ポストゥムス戦争のときではなかったかと推測している。すでに言及したように、ゾナラスによれば、アウレオルスは、二六五年の戦争の際にポストゥムス追撃をガリエヌスによって命じられているが、この任務は明らかに騎兵の司令官にふさわしい任務である。

 ところが、当該時点での官職名はゾナラスには記録されていない。おそらく、アウレオルスはインゲヌウスの反乱のときに騎兵長官としてガリエヌスの下で騎兵を率いていたので、その後昇進し、対ポストゥムス戦争のときに皇帝麾下の「全騎兵を率いていた」のであろう。
 アウレオルスの経歴に関わる史料を整合的に理解しようとするならば、結論的には次のように彼の経歴は復元できる。アウレオルスは、まず近衛騎兵長官に、続いて対インゲヌウス戦争のときには騎兵長官になり、さらに対ポストゥムス戦争時には全騎兵長官へと昇進していった。そして、この戦争終結の後、アウレオルスはその他に残されてポストゥムスのイタリア侵入を防ぐべくラエティア方面の軍勢を委ねられたのである、と。」

 以上のような考察を経た結果、井上文則氏は、騎兵軍改革の目的は中央騎兵軍の創設にあったのではなく、個々の独立騎兵部隊の創設にあったのであろう。と結輪付けている。
そして、おそらく、中央騎兵軍は、皇帝麾下にあった限りの独立騎兵部隊が一時的、便宜的にまとめられたものに過ぎず、組織的実態は備えていなかったのであろう。
なお、独立騎兵部隊の創設年代は、これがインゲヌウスの反乱のとき(二五八年)にアウレオルスに率いられて初出するので、それ以前であったと述べている。
また、更にこれらの独立騎兵部隊の意図が、固定した駐屯地や旧部隊から「独立」し、各戦場に自在に投入できる可能性の高い騎兵部隊の創設にあったということに疑いはないが、独立騎兵部隊の創設が三世紀の軍制全般において持った意味をより深く考えるためには、騎兵部隊創設に先行する形で、圧倒的に歩兵軍から構成される正規軍団の一部が解体されて、分遣隊として独立利用されるようになっている、当時の現象にも目を向けなければならいとして、この現象にも注目している。

 この機動軍に大きく関わっている、この「分遣隊」とは、本来は、何らかの軍事的要請から一時的にローマ軍の、正規軍団から編成される派遣部隊の事である。
元々、前期ローマ帝国においては、ほぼ全ての軍隊が専ら辺境属州の国境沿いに駐屯し、それを援護するための遊撃部隊は、帝国内地にほとんど存在していなかった。
従って、例えば、外敵の侵入を受けた地域の軍事力が不足である場合は、一時的に平穏な地域の軍団から、一部の兵士が選抜されて、分遣隊を編成し、援軍として派遣されていたのである。しかし、ローマ帝国の政情が不安定になる三世紀に入ると、この分遣隊が母軍団への帰還を果たさず、あるいは果たせず、独立した部隊として、利用されるようになっていく。
そして、特にガリエヌスの時代になってから、彼がこれら分遣隊を複数組み合わせ、帝国の各要衝に配置していた事は、先に述べた通りである。
そして、実際にはこの頃、騎兵部隊に先行する形で、圧倒的に歩兵軍から構成される正規軍団の一部が事実上解体され、分遣隊として独立利用されるようになってきている現象が、確認できる。そしてこのように時期的に歩兵の独立利用化が先行する以上、ウァレリアヌスとガリエヌスによる独立騎兵隊の創設は、歩兵部隊の独立利用化の一環として、騎兵部隊の独立利用化を図ったものである事となる。

 そしてこれらの、これまでになかった新しい軍団組織の編成こそが、恒常的な機動軍の形成に繋がっていったと考えられる。なぜならば、これらの戻るべき母軍団や駐屯地を持たない独立部隊が、皇帝の下にあって、直接の「軍」を構成していたのであるから、論理的に考えて、その「軍」が解散可能な、一時的に編成されたものではなく、恒常的性格を帯びた機動軍となっていたと想定できるからである。そして実際に、皇帝ガリエヌスの時代以降の三世紀後半のローマ帝国においては、このように新しく編成された歩兵軍と騎兵軍が組み合わされた、様々な規模の機動軍が編成されていた事が、確認できる。

 つまり、これまで皇帝ガリエヌスが創設したとされてきた「中央騎兵軍」というものの実体は、おそらく、皇帝靡下にあった限りの独立騎兵部隊が一時的、便宜的にまとめられていたものに過ぎず、組織的な実態は備えていなかったと考えられる。 
要するに、井上氏によると、騎兵軍改革の真の目的は、中央騎兵軍の創設にあったのではなく、個々の独立騎兵部隊の編成にあったのだろうと、指摘している。
そしてこれまで、皇帝ガリエヌスが単独で行なってきたと考えられる、この騎兵軍改革は、これが初めて史上に姿を表わすのは、二五八年に起きた、インゲヌウスの反乱の時に、アウレオルスに率いられての事なので、この事からおそらくこの独立騎兵部隊が創設されたのは、これ以前であると考えられる事から、おそらく、それ以前の皇帝ウァレリアヌスとガリエヌスの共同統治期に、彼ら二人により、それぞれ帝国の東方と西方で行なわれたと考えられる。

 井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、2008年、PP.104―108

 そしてこれも私も賛同する、井上氏のいよいよこれから機動軍、そしてその中でも最大の規模を誇った皇帝靡下の機動軍と、これが彼らの権力基盤となっていく過程についての、説明である。これまでの機動軍は、必要に応じ各地の軍団からの分遣隊から編成され、任務を終えれば解体され、これを構成していた分遣隊は母軍団に戻るという形を取り、その時限りの寄せ集め集団に過ぎなかった。しかし、ウァレリアヌスとガリエヌスの騎兵軍改革以降を通し創出された、独立騎兵部隊と独立歩兵部隊から編成されるようになり、常設化していった。
そしてこの事により、新たな皇帝の権力基盤の誕生と共に、このようにある程度機動軍のメンバーが固定化した事で、機動軍自体が一つの集団としての意思を持つ事へと繋がった。この結果、皇帝達は彼ら機動軍の意向を、配慮しなければならなくなった。

 要するに、当時の困難な軍事状況と、これまで帝国の憂慮される現状を観察する機会に恵まれたと思われる、ウァレリアヌスが目にしてきた、辺境属州の軍司令官が事ある毎に、靡下の軍により皇帝に擁立され、ローマに攻め上がって来る、そしてすぐに殺害され、また次にすげ替えられるという、悪循環を終結させる意図から、後のテトラルキア体制の前身と言える、帝国防衛分担政策を考え出したと思われる。その結果として、このような帝国の遠心化に伴い、皇帝と軍隊との関係の緊密化が生じる一方、ローマにいる元老院議員達との関係が希薄化していく。
つまり、皇帝の側近集団が、これまでの元老院議員から軍人達へと変化していったのである。要するに、当時のこれらの様々な要因により、この三世紀のローマ帝国の統治階層の変化を、もたらしたのである。そしてこの事は、それまで「プリンキパレス」級の下士官で、昇進の見込みは低かった官職としての「プロテクトル」から、皇帝達が軍人達の忠誠心を得るために、称号としての「プロテクトル」を、必要に応じ、側近の軍人達に与えていった。
この事は、官職としての「プロテクトル」自体の社会的上昇も、もたらした。
このプロテクトルが、様々な軍事的必要からウァレリアヌス時代から、急激に進んだ軍人の騎士階級の台頭と密接に絡んで、格段に昇進する契機を与えてくれるものとなったからである。
 また、もちろん、このような実体のない称号だけで軍人達の忠誠心を確保できる訳はなく、このため、皇帝ウァレリアヌスやガリエヌスは、実体のある、属州総督や軍団司令官などの、それまで元老院議員が占めていたこれら要職を、彼らに解放していく事になる。
これまで主張されてきた、皇帝ガリエヌスの騎兵改革の実体としては、この改革により創設されたと思われる、独立騎兵部隊が初めて登場する年代から考えて、おそらく、二五八年以前に、それぞれ東方と西方で、ウァレリアヌスとガリエヌスの両皇帝により、ほぼ同時に行なわれたものであったと考えられる。井上文則『軍人皇帝時代の研究』岩波書店、二〇〇八年、PP.85―90

 つまり、井上氏によると、これまでは皇帝ガリエヌス一人により、行なわれたものだと考えられていた、いわゆる、ガリエヌスの騎兵改革というのは、正確には「皇帝ウァレリアヌスと皇帝ガリエヌスの騎兵軍改革」と呼ぶ方が、この改革の実態に合致しているという指摘である。
また、中央騎兵軍の創設者ではなかったものの、息子のガリエヌスは、前述のように、諸般の軍事事情から、これら、効率的で機動性に富んだ、半ば常備軍としての分遣隊の効果的な利用を、していたようである。これで効率的な帝国各地の属州防衛が、可能になったのだろう。
従来の見解では、皇帝ガリエヌスが行なったとされている、騎兵改革とは、ガリエヌスが内外の敵に迅速に対応するために、それまでの歩兵中心のローマ軍の伝統から離れ、機動力の高い騎兵を活用する方向で、行った軍制改革の事であり、これによりガリエヌスは、皇帝直属の中央騎兵軍を創設したとされてきた。実際は、この軍制改革の真の狙いは、中央騎兵軍の創設ではなかったものの、それまでの歩兵中心のローマ軍の伝統を変更し、それぞれ歩兵部隊の独立利用化と騎兵部隊の独立利用化を狙い、結果としてこれまでのローマ軍よりは、遥かに柔軟にそして機敏に出動する事ができ、この改革が内外の敵に迅速に対応する事を目的として、行われたものである事では、同じだと考えられる。

 こうして考えると、従来から言われてきた、皇帝ガリエヌスが相次ぐ蛮族の襲撃に、効果的かつ迅速に対処するため、強力な中央騎兵軍を創設すると共に、より効果的に各防衛戦で、外敵を撃退するために、軍事能力に優れた側近の軍人達を、優先的にそれまで元老院議員が就くものとされてきた、軍団の要職の軍団司令官や近衛将校、軍事権も兼ねていた属州総督などに起用し、代わりにこれら全ての軍務から、元老院議員達を排除した、というような、このような具体的な形による、軍職からの彼らの排斥という事は、していなかったとしても。
だとしても、やはり、騎士階級の軍人達の台頭と、そしてその事による、皇帝ウァレリアヌスやガリエヌスにより、属州総督職や軍団司令官職が解放されていく事により、それまでほぼ彼らが占めていた、それまでの役職に対する、彼らの占める割合が狭められていったのは、事実であり、やはり、自分達の地位が脅かされていく、侵食されていくような気持ちは、拭えなかったのではないだろうか?事実として、属州では行政と軍職との分離が以前から進み、当時はポストゥムスやオクタウィアヌスの事例に認められるように、広域な軍司令権を付与された騎士身分の総督が重要な戦線に配置されるようになってきており、また皇帝達もほぼ常時、機動軍と共に最前線にあった。

 このため、元老院議員達が、実際に軍を率いる必要性は、格段に減少していたと考えられる。そしてこの、ガリエヌスが勅令を出し、元老院議員達を締め出す事にした理由であるが。
やはり、その大きな理由としては、当時、帝国の各属州国境で、大変に切迫し、苦しい戦いを余儀なくされていた帝国の軍事情勢が大きく関わった、よりこうした事態に迅速かつ適切に対応できる軍人達の登用の必然性、という理由だと考えられる。とはいえ、それまで元老院議員が就くのが伝統とされてきた、これらの軍事的要職が、自分達より身分の低かった、主に軍人層から成る方の、騎士階級に取って代わられていくのは、彼らにとっては、かなりの不満だったのではないだろうか?

 実際にも、私も既に述べているように、この「ガリエヌス勅令」により生じたと思われる、ガリエヌス死後の、元老院によって行われた「記録抹殺刑」のその実行からも、はっきりと見て取れる、皇帝ガリエヌスと彼らとの関係の相当の悪化。更に簒奪者達の背後には、しばしば、反皇帝の元老院議員達の、不穏な動きが仄見える事などから推測しても。やはり、相当の軋轢が彼らの間には、存在していたのではないだろうか?
更に、これも極めて象徴的であるが、ガリエヌスに関しては、その死後の神格化を拒否した上に、その遺体は、伝統的な皇帝のハドリアヌス霊廟にも埋葬するのを拒否し、おそらく当時は確実に存在していたと思われる、急遽アッピア街道沿いに設えられた、ガリエヌス専用の霊廟に葬るという、極めて冷淡で、場当たり的なものが強く感じられる処置を取っている。ガイガーの、やはりこれもライバルの、ディオクレティアヌスに敗れ、ガリエヌスと同じく『ヒストリア・アウグスタ』の中で、さんざんに酷評されている、カリヌスに対して行われている、同様の処置を挙げて、失脚した皇帝には、この程度の扱いが相応しいと見なされたこと。
そして更にその埋葬の手間を、極力省きたくもあったという指摘からも、こうした、数々の大変なガリエヌスの努力や功績に関しての、その敬意の欠片も感じられない処置は、おそらく、クラウディウスら、イリリア人騎兵将軍達の、同様の意向も、働いていたのであろうが。ガリエヌスに対し、相応の敬意を持って、その皇帝としての立場と努力に相応しく、皇帝廟に丁重に埋葬をしてやる理由は、元老院議員にも、また、ついに彼らの野心の最終地点である、皇帝となり、こちらは死後に、神君にまでなってしまう、クラウディウスを始めとした、イリリア人将軍達の、どちらにも、なかったのである。

 やはり、とても当時のガリエヌスと元老院の両者が良い関係だったとは思えない。
また、ほとんどローマに帰還する事もなく、軍人達と共に、帝国西方属州の各防衛線の最前線で、常に蛮族ら外敵の襲撃に備えていなればならなかった、皇帝ウァレリアヌスやガリエヌスと比べると、基本的に首都ローマにいた元老院議員達とでは、帝国の安全防衛について、果たしてそれまでの軍制のローマ軍で、これら外敵の襲撃を、適切に迅速に防ぎきれるのか、という危機意識についても、大きな隔たりがあったであろう事も、想像できる。

 とはいえ、このように、ついに取り立てた騎兵隊長ら軍人達によって、ガリエヌスから帝位を簒奪するという、悲劇的で皮肉な結果にはなっていくものの、彼ら父子が始めたこの手段路線は、当時の厳しい軍事情勢に即した、あの時期では最も現実的かつ合理的・効率的な改革・新たな人材登用の開発であり、結果としては局地的な帝国内の平和回復に留まり、ついに彼らの即位時には、大きな状況の好転はさせられなかったとはいえ、効果的な新たな帝国防衛体制である事が後々、認識され、以降の皇帝達にも継承されていく事となる。
更にこれも、こうしたウァレリアヌス父子の、これまでとは異なる、画期的な軍隊の人材登用方法が有効だった事は、引き続き、このウァレリアヌス時代に創設された、機動軍を活用し、蛮族達を撃退した、ディオクレティアヌスの時代にまで至る、後のイリリア人皇帝達続出の成り行きからも、証明されていると思う。またガイガーも、確かに目立ちずらいながらも、明らかに重要な、これらのガリエヌスの騎兵軍隊改革の功績について、改めて強調している。

 だがいまだにガイガーは、皇帝ガリエヌスによる、中央騎兵軍団の創設が、行なわれたのだと考えているようだが。しかし、これら従来の見解に対し、井上氏は、実際にはこのガリエヌスが行なったとされる、騎兵改革の実態については、これまでしばしば、リッターリングやアルフェルディらを中心として、強調されてきたように、中央騎兵軍の創設を意図したものというよりも、おそらく本来の目的としては、既にそれまでに先行して行なわれていたと思われる、ローマ軍の歩兵部隊の独立利用化と並んだ、騎兵部隊の、その独立利用化を狙ったものであるとしている。更にそれに続いて、おそらくゾナラスの、イリリア人気騎兵将軍アウレオルスについての、アウレオルスは全騎兵を率いていたという記述などから、初めにリッターリングが主張し始めた、中央騎兵軍団の存在を思わせる記述は、実際には、それら複数の騎兵部隊が皇帝の下に、一時的に集められていたという事だったのだろうと指摘し、実際には当時のローマ軍に、これまでガリエヌスによって創設されたと言われてきた、中央騎兵軍というものは、存在していなかったと考える立場ではあるが。

 とはいえ、それまでは一時的に平穏な地域の正規軍団から一時的に編成されて、分遣隊として援軍として派遣され、役目が済めば、元の母軍団へ帰還していたものが、三世紀の不安定な政情から、これら分遣隊が帰還できないまま、独立化し部隊となっていく。
そしてこれに注目したガリエヌスが、むしろこれら戻るべき母軍団や駐屯地を持たない分遣隊の特性を生かし、意識的に可動性の高い歩兵部隊、そして騎兵部隊として再編成し、これら複数の分遣隊を既に述べてきた通り、帝国内の防衛の要衝に派遣し、このように、半ば常備軍として利用されるようになっていく事。そして更に、これら独立性の高い、歩兵と騎兵で構成された、様々な規模の機動軍が編成されるようになっていた事。また、これらの帰還すべき母軍団や駐屯地を、初めから持たない独立部隊が皇帝の指揮下で軍を形成するのであるから、これが恒常的性質を帯びた機動軍の誕生にも、繋がっていった形跡がある事。また続けて、これも既に述べたように、ウァレリアヌスやガリエヌスの時代になってから、その皇帝直属の機動軍の将校と思われる人物達に、彼ら皇帝からプロテクトルの称号を与えられた者達が、頻出するようになっていく事。そしてこれにより、この機動軍にはより一層の一体感や恒常性が与えられるようになったと想像され、これにより、結果的にこれが皇帝達の強い権力基盤となり、またそれゆえに、機動軍の意向を配慮しなければならなくなっていく事、ひいてはその後のイリリア人将軍達の簒奪にまで、利用される程の、影響力を持つものになっていく事。

 これらの点から、井上氏はこのガリエヌスの騎兵改革の実態については、従来主張されていたような、中央騎兵軍の創設を意図した、それではなかったものの、ガリエヌスの下で、確かにこれら、一種の騎兵改革と呼べるものが行なわれ、その中では実際に、攻撃が予想しがたい蛮族の撃退には、大変に有効と思われる、これらこれまでのローマ軍よりも、はるかに機動性に富み、柔軟な形態の、新たなローマ軍の編成が可能となった。
更にこうした組み合わせによる、皇帝直属の機動軍だけではなく、おそらく、これもガリエヌスの時代に編成され始めるようになったと思われる、より小規模の機動軍も、皇帝以外の者に率いられ、帝国各地で任務に付いていたようである事などに注目しており、やはりこれらは、重要な注目すべき変化であると評価している。

 やはり、ガリエヌスの下で行われた、こうした騎兵改革、ローマ軍の再編成は、十分評価されるべき功績として、いいのではないかと思う。確かに、これらの主に、ガリエヌスの時代に入ってからの、ローマ軍の再編成かつ、その新たな軍隊活用方法による、その後のローマの軍事情勢の好転については、この三世紀の史料状態の劣悪さも反映して、具体的・明確な形としては、以降のローマ軍の蛮族などの、外敵撃退の効率の倍増については、実証する事はできない性質のものである。しかし、後のコンスタンティヌス朝の皇帝達にも、この歩兵の独立利用化と共に、初めはおそらく、ウァレリアヌス下で始められ、更にガリエヌスの下でそれが更に進められる事になったと考えられる、騎兵の独立利用化、そしてその結果としての歩兵と騎兵を組み合せた、複数の分遣隊の誕生、そして皇帝直属のそれが恒常性を帯びた機動軍へと発展してい事になる。更に、ガリエヌスの暗殺後、その帝位が、ディオクレティアヌスら、イリリア人皇帝達の手へと渡ってからも、依然として、この機動軍の形式が、継続的に利用され続けている事。そしてついに、ディオクレティアヌスの時代に入ってから、ローマ帝国の、本格的な危機からの脱出へと繋がった事。

 これらの事実から総合的・大局的に判断すれば、やはり、ガリエヌスのこうした、ローマ軍の外敵撃退能力の向上を図った、様々な努力が確実に時間の経過と共に、着実な成果をもたらしたと判断して良いと思われる。それはまず初めは、ガリエヌスの父皇帝ウァレリアヌスが、当時ローマ帝国が置かれていた厳しい軍事情勢を見据えて開始した、帝国内の各戦線に複数の皇帝を配置し、防衛の負担を分担させるテトラルキア、(これにより、各皇帝達が、辺境の属州で、直属の機動軍の軍人達と蛮族などの撃退のために、数多くの時間を過ごすようになり、これにより、彼らとの関係が密接化していくため。)そして特に一般に「イリリア地方」と称される、このラエティア、ノリクム、パンノニア、ダルマティア、モエシア、トラキア、ダキア地方には、ローマ帝国の重要な軍事拠点が集中していた事もあり、軍事能力に優れた軍人達が数多かった。
そしてそうした、イリリア人騎兵将校達を必然的に、次々と登用していった事が、ついには彼らイリリア人騎兵将軍達による、ガリエヌスの殺害、という事態にまで至る、いわば彼らの、簒奪ヘの足がかりを与える事にも、なっている側面もある。
しかし、これはガリエヌスの何とか帝国の晒されている危機を打開しようと試みた、必至の様々な軍隊改革の、いわば副作用とでも言うべきものだったのではないだろうか?

 確かに、こうした、ローマ軍の防衛形態や軍団構成の改革が、個人レベルとして見れば、父のウァレリアヌスやガリエヌス、そしてリキニウス一族全体の悲劇的な最後へと繋がる事へとなっていくが、やはり、大局的に見れば、やはり、ガリエヌスのこうした、何とかこうした蛮族などの外敵に、迅速かつ、効率的に対応できる方法はないものかと、しかも、ほぼ常時、数々の反乱や蛮族達の撃退への対応に追われるという状況の中、必死にその方法を模索する中で、考え出されたと思われる、この軍隊改革・再編の努力が、結果的にローマを、最大の危機から脱出へと導く、重要なきっかけを作る事に成功したと捉えて、いいのではないだろうか?
なぜならば、皇帝ディオクレティアヌスの時代になってからも、この機動軍が存在していた形跡が、確認できるからだ。また、クラウディウスやアウレリアヌス、プロブスらの後の軍人皇帝達の、蛮族に対する目覚しい戦功も、けして単に彼ら個人の軍事的能力だけに、帰せられるものではないと考えられる。おそらく、このような彼らの軍功の背景には、皇帝ウァレリアヌス・ガリエヌス時代に創設された、この常設の「機動軍」の活用も、大いに関係していたと考える。
そして、ウァレリアヌスやガリエヌス父子が敷いたこの路線は、ついに数十年後に、ローマ帝国を長き混迷から救い出す事になる、軍人皇帝ディオクレティアヌスの存在を、生み出す事となるのである。やはり、彼らのこの功績は、大きく評価されるべきものだと思う。

 ただ、ウァレリアヌスやガリエヌスが、切望していたと思われる、ローマ帝国の平和の回復、その最終的な実現を、彼ら旧来の元老院議員家系の皇帝達によってではなく、優れた軍事能力とその旺盛な野心と共に、やがて彼らのような、それまでのローマの伝統的な支配階級の皇帝達の存在を駆逐していく事となる、イリリア人達という、急速に台頭しつつあった、新興勢力の手に委ねなければならなくなる事が、彼らの悲劇であった。

第四章 イリリア人騎兵隊将軍達の陰謀とガリエヌス暗殺

 ヘルリ族は、皇帝ガリエヌスの不在と、当時のドナウ国境の守りが、手薄になっていた状況を利用した。その二六七年の内に、ドナウ川と小アジアのボスフォラスについて、海と陸への侵入へ。そしてギリシャとトラキアに出没する。更にビザンティウム。クリュソポリスとキュジコスを侵略した。当時のガリエヌスの、ポストゥムスとの戦いのために、おそらく、かなりの部分が皇帝に率いられていったと思われる、ドナウ軍、ローマの領土へのこの略奪の、前代未聞のこの強さの先に、それらのための、最も説得力のある説明が、存在しない事の共有を表す。
おそらく、彼はこの頃、バルカン半島に大挙して侵入し、ギリシャ本土にまで押し寄せた、ヘルリ族との戦いのために、それまでのイタリア方面防衛のための、ポストゥムスとの戦いを、アウレオルスを初めとした、他の人間達の手に任せて、急遽バルカン半島に向かう事を強制された。

 そして彼に後で知らされた事は、二六八年九月に起きた、イタリア北部でポストゥムスからイタリア方面を防衛する任務を担っていたはずの、アウレオルスの反乱だった。
更にその上我々は、このアウレオルスが有能ではあるが、何かと信用できない、騎兵隊の司令官である事を知っている。彼は各地の僭称皇帝達のインゲヌウスとマクリアヌスなどが倒されるのを、密かに待っていた。しかし、ガリエヌスがポストゥムスとの戦いで、ガリアの彼の許から去った時。あるいは、アウレオルスの、ガリエヌスに対する軽視が、最も高まっていたと思われる時。そしてこの間、ガリエヌスはアウレオルスが、新しい軍隊から逃れて、彼の勢力を拡大するのを、結果として許してしまう事になった。

 私達はアウレオルスが具体的には、その頃と二六七年の間に、何をしていたのかについては、知る事ができない。しかし、二六七年のヘルリ族のバルカン半島侵入の際に、彼が皇帝に随行していなかったのは、明らかである。その時、彼はもはや皇帝騎兵隊の、最高司令官の一員ではなかった。ゾナラスがアウレオルスの反乱の時に、彼が全ての騎兵隊の指揮官であるというのは、おそらく本当である。だがこのフレーズは、やや前期の彼の役割を、むしろ記述している。
私達が見たように、二六八年のガリエヌスのネストスの戦いでの、アウレオルスのダルマティア騎兵隊が、際立って果たした役割は、そこにはなかった。
だがクラウディウスの皇帝即位の前の、アウレオルスについての、いくらかの間の事を、ゾシモスによって語られる逸話から、私達は知る事ができる。クラウディウスが彼の帝位継承の前の、若干のステージにあった時、ゾナラスによって語られる逸話から、当時彼がヒュパティコスであったのを、我々は知っている。騎兵隊の指揮官。後で、二六八年の若干の時間。おそらく、クラウディウスが昇進したので。その後、騎兵隊の命令権は、アウレリアヌスへ移されたようである。彼は当時クラウディウスの下で、まだ役職を占拠していた。アウレリウス・ウィクトルは、その時アウレオルスが、ラエティアの軍隊司令官の一人であったと、語っている。
そして更に同じ章で、ガリエヌス暗殺の原因となっている出来事の、彼の第二の見解で、これはゾナラスのそれを支持している。アウレオルスがケルトで兵を統率し、その軍隊と共にイタリアに入ったと、彼が言う所の。そして三世紀のギリシャ語の、十二世紀の史料の許になっている、四世紀の文書。ラエティアは、ケルト語の土地のようだった。

 ガリエヌスは、バルカン半島に、騎兵隊の主力を自分と共に連れて行った。
しかし、その相当な部分は、依然としてメディオラヌムに、拠点を置いたままだった。
そしてブレイは、こう見ている。「単にアウレオルスに、ポストゥムスに対する番犬の役割を果たさせる事しか頭になく、彼のアウレオルスについての、以前からの疑惑については無関心なまま、ガリエヌスが彼の許から去ったとは、考えられない。
年老いた狼の同僚を、ポストゥムスの監視者に任命する事は、ガリエヌスにとっては、あまりにも愚か過ぎ、かつ非現実的な判断である。私は彼がラエティアで、アウレオルスに命令を与えたと思う。おそらく総督として。しかし、単に一般的な行政官としての総督の方と一緒の、アウレオルスのあくまでも一将軍としての存在としてという仮定で。
私はアウレリウス・ウィクトルが正しいと思う。」

 ゾナラスの代わりのヴァージョンによると、アラマンニ族は、クラウディウスの治世の初めに、イタリアに侵入した。その八年または九年前の、ガリエヌスによる、彼らの完全な敗北にも関わらず。ラエティアに配置される軍隊を彼らと一緒に連れて行く事により、アウレオルスが彼らのために道を開けたので。それからメディオラヌムに来た時、彼は彼の誘いに無関心な騎兵隊を、そこで説き伏せた。結局、彼はかつて全ての騎兵隊の司令官だった。そしてこれまで長い間、アウレオルス自身が、自分で帝国を要求していると思われていた。
しかし、アルフェルディの研究は、これがそうではないという事を、決定的に証明した。
彼はポストゥムスの代理役をしていた。それが、アウレオルスの支配下にあった時、メディオラヌムの鋳造所はコインを鋳造した。しかし、これらは彼の名前ではなく、ポストゥムスの名において作られた。彼の打ち破られた軍隊を再び終結する必死の努力において、彼の仕事の最後の日までは、彼は自分自身で、僭称皇帝を装ったようである。

 シデナムのリストは、十二種類のアントニニアヌス銀貨と、彼の破られた軍隊を集結する必死の努力においてある時、彼の仕事の最後の日までは、彼は自分自身で、帝位の紫を装ったようである。アウレオルスについてのその調査で、二つのコインのタイプ、更にそれとは対照的にポストゥムスが、メディオラヌムの鋳造所から発行している、アウレウス金貨と二〇種類のアントニニアヌス銀貨についての、マッティングリーとシデナムのリストがある。
当時、完全にまちがいなく、ガリエヌスが彼自身の手を、バルカン半島でのヘルリ族への対応で、一杯にしていたと思われた。そしてゼノビアの曖昧な態度は、帝国東方からの彼に対する支持を、ほとんど約束しなかった。更に既にポストゥムスがその帝国の半分を奪い取るためには、十分機が熟しているようだった。

 そして我々がもう少し密接に、アウレオルスの変化と動機付けを、調べる事ができるかどうか見てみよう。しかし、彼が創設した独立騎兵部隊を率い、二六〇年と二六一年に、マクリアヌスやインゲヌウスなどの反乱を、鎮圧した功績などからも、ガリエヌスは彼の軍事的能力を、認めざるを得ず、幾つかの不審な動きが見えるとはいえ、簡単に彼に代わり得る人物を、見出すのが難しい事は、理解していたのだろう。結局、猜疑心を抱き続け、十分な信頼までは置けないまでも、彼としてはアウレオルスを起用し続けるしか、なかったのではないだろうか。
とはいえ、けしてガリエヌスがこのような危険なアウレオルスに対し、何らの対策も講じなかった訳ではないらしいのは、二五八年のガリエヌスの、バルカン半島に侵入したヘルリ族の大軍をネストス川での戦いで破った後、降伏した、ヘルリ族の王ナウロバトス以下の、剽悍な大勢のゲルマン人騎兵達をローマ軍に編入し、アウレオルスに対する、防塁のような存在とするべく、こうして新たな騎兵軍団を創設している事からも明らかである。
おそらく、ローマ軍の騎兵隊部隊の命令権は、最初アウレオルスに授けられて、多分その後クラウディウスへと移されたのだろう。二六七年の間だけ、アウレオルスはラエティアで軍隊を担当していた。そしてもう一度、彼とポストゥムスは、互いに関係を結んだ。
アウレオルスは、南に行進した。そしてメディオラヌムの軍隊は、彼の媚に屈した。
更に彼はローマに行進する準備をしていた。しかし、彼は有名なローマ軍の「アラクリタス・アウグスティ」を、あてにする事ができなかった。

 ゾシモスが皇帝の下に、情勢の主要な方向を持つと言う人は誰でも。
それは後にわかるゾシモスから、通路の正しい解釈に関して場合によらなかった。
二六八年に、ガリエヌスがアウレオルス反乱の報せを聞くとすぐに、対ゴート族の司令官の地位を、マルキアヌスに手渡して、イタリアのメディオラヌムに向けて、すぐに出発したと、言うゾシモスを、信じない理由がない。彼は野戦軍のかなりの兵力を、彼らと一緒に連れて行ったに違いない。そして彼は前法務官で総督のヘラクリアヌスとクラウディウスを、連れていったのかもしれない。しかし、マルキアヌスと共に、ゴート族に対して、撃退活動を続ける事の後に、クラウディウスが残ったと『ヒストリア・アウグスタ』は、漠然と推測している。
『三〇人の僭称帝たちの生涯』のその内容は、確かに非常に慎重に、扱われなければならない。特にその引用がマクリアヌスとの戦いの前に、アウレルオルスの、その疑いがかかっている簒奪に、言及する時から。それでも、その簒奪の推測は可能なようである。
それはこの著者である。イリリア人騎兵隊将軍としての、西のアウレオルスの滞在に関する情報、それぞれイリリアにあった軍隊。そしてそれを説明するために、その時イリリア人騎兵軍団の存在は、彼の命令の下に集まっている。そしてその指揮官は、二六〇年の九月に、帝国東方属州のシリアで簒奪し、長男の小マクリアヌスと共に、ローマに向けて進撃してきたマクリアヌスに対し、ガリエヌスの命令で、バルカン半島のドナウ川流域のイリリクムで迎え撃つ準備をしていた、アウレオルスだった。二六七年のメディオラヌムでの、アウレオルスの簒奪の知らせは、時間と場所を移動させる。その指揮下での、イリリア軍の存在を説明する。

 その時アウレオルスは、このように、イリリクムでマクリアヌスに対する戦いの、指揮をしていた。従って『ヒストリア・アウグスタ』によって、その事実が混同された可能性がある。当時のアウレオルスの本部は、メディオラヌムではなくて、ラエティアにあった。
他の史料からの報告。アウレリウス・ウィクトルとシュンロスは両方とも、当時のアウレオルスが、ラエティアに駐屯していた事を知っている。
こうしてアウレオルスのアルプス北部の駐留は、間接的にゾナラスとSathasの概略によって確認された。彼らは北アルプスの旧ケルト領域に、おそらく駐留していた。シュンケロスの指摘。
アウレオルスはまた、おそらく両方利用可能な、分遣隊の介入の一部だった。

 しかし、当時のガリエヌスは、急いで軍団と共に、ドナウ方面の属州に、向かわなければならなかった。驚くべき、アウレオルスの裏切り。彼はポストゥムスと手を組み、更なる皇帝僭称に協力した。おそらくラエティアから。そしてメディオラヌムに、彼の軍隊を持っていた。
ここで、彼は特にポストゥムスのための、コイン鋳造所を持っていた。そして今や、ここまでもポストゥムスのその手中に落ちる恐れがある、ガリエヌスの帝国中央部。
とにかく、クラウディウスと並んで、ガリエヌス暗殺計画の首謀者の一人とされている、ヘラクリアヌスとアウレリアヌスは、皇帝ガリエヌスの死の前に、確実にメディオラヌムにいた。そして、これに対するいくらかの支持は、アウレリウス・ウィクトルの、曖昧な言葉から見つけられる。そしてゲロブは、当時執政官で彼の息子であった、三男マリニアヌスの統治を監督するために、ガリエヌスが二六八年の初期に、ローマにいたかもしれない事を、示唆している。
この含みは、多分、これがアウレオルスのエピソードが、その後すぐ後に続くので、このガリエヌスのローマ行きは、アウレオルスに対処するためであったという事だろう。
だがウィクトルは、彼の統治終了後の、ゴート族侵入には全く言及していない。
その始まりに対処する時、彼は一般的に、彼らに言及するだけである。

 ナイッススの戦いについて、そして『ヒストリア・アウグスタ』で報告される出来事の連続で、代わりにシュンケロスが言わなければならないもの。
二六七年に彼がヘルリ族との戦いのため、バルカン半島にいた間、その翌年に、ガリエヌスがアウレオルス反乱の報せを聞いた事を、認めるならば、彼はその道の途中で、アウレオルスに会っている。そしてガリエヌスとアウレオルスのその対決は、ポンティロロで行なわれた。実際には、現在「アウレオルス橋」と呼ばれている。ミラノから二・三マイル東の、アッダ川の上で。
この戦いにより、反乱軍は決定的に破られ、ミラノに追い返された。
そしてこの時ガリエヌスが包囲していた都市のメディオラヌムに、かつて「幸運なガリエヌスのメディオラヌム(ミラノの旧名)」という、皮肉な呼び名が付いていた。

 なお同じこの橋でアウレオルスは、それまでは仲間であった、クラウディウスに殺害されたという。その後クラウディウスは、アウレオルスのために、僭称帝に相応しい、慎ましい墓を建ててやり、そこには次のようなギリシャ語の銘文を刻ませたという。「僭称帝たちとの多くの戦闘を生き延び、幸運な勝利者となったクラウディウスは、アウレオルスにこの墓を死者に対する贈り物として捧げた。」しかし、これも『ヒストリア・アウグスタ』お得意の創作であろう。
なお、ゾシモスの『新ローマ史』とゾナラスによると、メディオラヌムでアウレオルスが降伏した後、クラウディウスの怒った護衛に、彼はすぐに殺されたという。

 そしてこの時のポンティロロの戦いで、アウレオルスを敗走させた後、ガリエヌスはアウレオルスをメディオラヌムで包囲したが、イリリア人騎兵将軍達の計画的な暗殺により、その途中で命を落とした。そして一体どれ程の時間が、アウレオルスの反乱とガリエヌスの最期の間に、過ぎていったのか?それに答える事は、不可能である。しかし、ブレイはクリストルの、この頃鋳造されていた、数々の僭称皇帝達のコインが、特にポストゥムスの名において、メディオラヌムを脅かしていたという説に、同意したいとしている。そしてそれは、少なくとも数ヶ月の間を示している。実際には、反乱の初めの正確な日付。それは、おそらく晩夏に起こったとしている。
そしておそらく、それは八月。それは、少なくとも、数カ月間の、占有を示すようである。

 その間、ポストゥムスが、彼の攻囲された副官アウレオルスの救出に来なかった事は、意外なようかもしれない。おそらく、彼はガリエヌスの最初の後影のために、物理的な危険を冒す事については、あまりにも用心深かったからだろう。そしてガリアでの彼自身の、反抗的な兵隊。そして彼らは、ガリエヌスの殺害から数ヵ月後の、翌年の二六九年に二、三ヶ月でポストゥムスを殺害する事になる。そのために、アウレオルスをイタリアに誘導するか、自分の本拠地に残すには、既に危険である可能性があった。またそれは、自分の副官でありながら、ついに自身が皇帝を僭称し、コインも鋳造させている、アウレオルスに対する憤慨も、あっただろう。

 とにかく暑い、イタリアの二六八年の夏の間の多くを通して、城壁内部に閉じ込められている、アウレオルスの反乱軍を鎮圧しようとしていた期間、城壁の外側で、ガリエヌスは野営をしていたのだろう。そして何とも言えない苦々しさと後悔が、彼の心を消費したに違いない。そのイリリア人騎兵軍団。メディオラヌムの主力軍。彼がそれらを集結させていた都市。
日頃から、彼が重用していた将軍達。そんな彼らに対して、今や敵意を抱かなければならなくなっていた。そしてメディオラヌムの鋳造所から流れ出しているコインは、その毎日の状況の悪化を示していたに違いない。各自にそれぞれ自分達のコインを鋳造させた、僭称皇帝達のほぼ全員は、ガリエヌスの騎兵隊の中で、大きな位置を占めていた。ポストゥムスは、リヨンとケルンで、彼の国内鋳造所から、そのような伝承を、コインに付けなかった。
以上のように、いわゆる動物の一連のコインが、その守護を広範囲に渡る神々に申し出ている、ローマの帝国鋳造所から、二六七年から二六八年のガリエヌスは、再びそれを鋳造させた。
彼または彼女の象徴的な動物と一緒の各々。各々の神または女神は、皇帝の守護者として、その守護を求められた。彼ら各々の大好きな神々を示す事によって、市民達の忠誠の広がりを呼び起こす、当時のガリエヌスの必死の試みだと思われる。
そして更に続けてブレイは、私自身はこの点に関しては懐疑的だが、その可能性すらあるかもしれないとしている。つまり、この決定により、彼の兵士の忠誠よりも、より多くのものを持っていると思われる、天からの支持を期待するため。
しかし、神々は将軍達と同様、真に彼にとって信頼できるものか、大いに疑わしいものだった。

 そして最後に最も見事な裏切りが、やって来ようとしていた。今度こそは救済がある事には、ならなかったのである。バルカン半島からのガリエヌスの出発と彼の死の間の、彼の軍隊の主要メンバー達の間での時間を、これから推測する。これ程大規模な陰謀は、三世紀のローマ帝国で頻発した、数々の反乱と簒奪の嘆かわしい歴史の中でさえ、類がなかった。更にそれは、けして一人の野心的な将軍の企てから、起こったのではなかった。ましてや、それは皇帝の権力の、強制的奪取だった。

 それとは対照的な、この皇帝ガリエヌス殺害の陰謀の主犯格の将軍達に対しての、反抗的な大勢の兵士達の喧騒。それ所か、この時彼ら一般兵士達は、この計画についての彼らの意見を、一切尋ねられなかった。そして、実際にもそうだった。兵士達は彼らが慕っていた、彼らの司令官、皇帝ガリエヌスのこの暗殺により、凄まじい怒りの方へ動かされ、暴動を起こしている。
このため、この殺害の陰謀に加わった、クラウディウスやアウレリアヌスら騎兵将軍達は、結局金銭を与えて、彼らをなだめなければならなかった。
そしてこうして自分達自身の手に、政府を掴み取り、やがて彼らの内の一人を、帝国の公職に選ぶ事は、むしろ、かつて皇帝ウァレリアヌスやガリエヌスらにより、このように、騎士階級から取り立てられた、彼ら騎兵軍団の上級将校達による、以前からの慎重な決定だった。そしてこれらの将軍達は、主にイリリア人だった。やがてこれ以降のローマ史の中で、元々はバルカンまたはドナウ由来を示すだけに過ぎなかった、その最も広い区別での言葉が、特定の意味を込めて、意識的に使用されるようになる事。実際にも、この時彼らの成功した革命は、明確にイリリア皇帝達の世紀の到来を告げた。これ以降、約一世紀後の、スペイン出身の皇帝テオドシウス一世の時代まで、明らかにこのイリリア起原ではない皇帝はいない。

 ガリエヌスを暗殺し、彼の後を襲ったクラウディウス、アウレリアヌス、そして以降も続く、イリリア人出身の皇帝となる、彼らイリリア人の上級将校達は、何よりもまずイリリア人であった。彼らにとって守るべきは自らの故郷であり、そしてそこを守るという事が、ひいてはローマ帝国全体をも、守るという事へと繋がっていたのである。そしてこの中で、史料の一つ以上に挙げられている、ガリエヌス暗殺計画の陰謀の個々のメンバーは、ヘラクリアヌスである。
しかし、そうした経験が我々に、そうした予想する事を教える。彼らの誰も、正確にその同じリストを、指定してはいない。ヘラクリアヌス、前法務官の総督。ほぼ彼ら全員が、現われている。クラウディウス、アウレリアヌス、マルキアヌス、そしてあともう一人の、ケクロピウス、彼らは全てダルマティア騎兵隊の司令官達だった。ゾシモスは、クラウディウスがこの行為に先立つ、将来の皇帝に選ばれたと言っている。主要な共謀者としての彼の最初のヴァージョンで、その上、最も一般に認められたアウレリウス・ウィクトルを読む際に、アウレリアヌスはゾナラスによって、名を付けられる。

 彼は、その時に騎兵隊の指揮官だった。陰謀の共謀がその成功にとって、不可欠だった参加者。兵士にとって容認するには、あまりに規律の、厳格な人物であると、後者が考えられていたので、将軍達がアウレリアヌスよりも、むしろクラウディウスに投票したと、一部の現代の作家は考えている。その提案は、信じがたくはない。しかし、アウレリアヌスはクラウディウスの短い治世の終わりの後の、大変な困難のない皇帝になった、しかし、古代の史料はそれを支持するために、引用されてはいない。そしてヘラクリアヌスと同等で、暗殺の実際の実行に携わっている、主要な共謀者として、それはマルキアヌスを主演させている。
だがこれは、あくまで皇帝クラウディウスを正統と認めるために、その著者の意図で『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、このドラマの中の主演男優として、彼をマルキアヌスに代えたという、大変説得力あるダメラウの意見に、信憑性を感じる。そしてこのマルキアヌスが、二六八年の、皇帝ガリエヌス殺害には関与していなかった事を示す、有利な事実も存在している。

 我々はアウレオルスの簒奪の報せを聞いたガリエヌスが、バルカン半島でのヘルリ族との戦いを中断し、直ちにイタリアの方に、取って返さなければならなくなった際に、そのヘルリ族との戦いを、そのままマルキアヌスに担当させたという事を知っている。そしてゲロブが紹介している碑文は、彼をストラテーラテースと呼ぶ。二六七年の、メディオラヌムでのアウレオルスの反乱を知ったガリエヌスは、イタリアに、バルカン軍のかなりの一部を、彼と一緒に連れていったに違いない、そして彼がその兵力のより多くを、更にその後呼び出した事は、ありそうである。
もちろん、ヘラクリアヌス。そしてクラウディウスとアウレリアヌスら全員は、メディオラヌムの近くで、その包囲の間、彼と一緒にいた。ゾナラスは、アウレリアヌスが彼と騎兵隊を連れてきたと言う。だが、かなりの軍は、彼の指揮下の許、そのままバルカン半島にいたままだったに違いない。そして我々は彼がその軍と共に、かなりの勝利を収めたという事を、知っている。
そしてこのマルキアヌスを、ガリエヌス暗殺の首謀者としているのも、この『ヒストリア・アウグスタ』だけである。

 そしてケクロピウスは『ヒストリア・アウグスタ』によって、ダルマティア騎兵の一味または司令官として、そして、実際の殺人者として確認されている。またはクラウディウスらにより。(名目上は六十四人の男性の。)アウレリアヌスとケクロピウスは、疑う余地なく、バルカン半島出身だった。しかし、マルキアヌスまたはヘラクリアヌスの出身については、何もわかってはいない。だが、皇帝ガリエヌス殺害に実際に関わったと思われる、四人または多くとも、五人の男性の名前を挙げる事は、氷山の頂を確認するだけである事である。
これら皇帝殺害に関わった人物達の正確な名前を、我々には知る手段がない。だが、それらのメンバーについての、いくらかの推測は許されている。将来の皇帝の一人プロブスは、二六八年に三十六歳で、多分軍団を統率していただろう。しかし、我々は彼の次の皇帝カルスの経歴について、ほとんど何も知らない。彼が多分、プロブスと同年齢か、あるいは少し年上で、彼と同様の経歴に続いたと、考えなければならない。彼らもこの計画に関与していた事は、あり得なくもない。だが彼らが実際に、そうであったという証拠がない。
しかし、プロブスが直接この陰謀に加わってはいないまでも、皇帝ガリエヌスにこの殺害計画を知らせないという、この皇帝殺害計画の、消極的な黙認の姿勢を取ったという可能性も、考えられるだろう。我々がゾシモスを受け入れるならば、それらの計画が立てられ始めた時?
そしてそれは、ガリエヌスがイタリアにいた時間にあった。その時に、アウレオルスは包囲の間、騎兵隊をメディオラヌムに率いていった。もしもゾシモスの事を信じるならば。

 皇帝ガリエヌスの治世に発生した、数々の帝国内の問題。アラマンニ族の襲撃。インゲヌウスの簒奪の解決。そしてレガリアヌスとマクリアヌスの簒奪。だがそのポストゥムスに対する、成功した戦いを実行して、オダエナトゥスがクテシフォンへ、ペルシャ人を追うのを奨励した。
それから変化が来たように、彼らには思われたに違いない。やがてポストゥムスの討伐は、中止された。こういう事は、バルカン半島への、新たな蛮族侵入の背景と合わせて、見なければならない。局地的な、これらの鎮圧。そしてポストゥムスの「ガリア分離帝国」の継続、ゼノビアの帝国東方での暴走、アウレオルスの反乱とイタリアへの脅威。
皇帝ガリエヌスが帝国の中心から取り除かれて、より力強い誰かと取り替えられなければならない頃だという結論に、騎兵隊の将軍達は達したに違いない。とはいえ、それは確かに、このように将軍達が、これらの諸問題を前にして、皇帝ガリエヌスの軍事力に、見切りを付けたという事もあるのだろうが。特に彼らの出身地であるイリリア地方は、戦略的・軍事的に極めて重要な場所に位置している事もあり、そのために、蛮族達の侵入も激しかった地域でもあり、彼らにも、なかなか切実な事情も、あったのではあろうが。

 イリリア地方は、当時の帝国内で経済的には貧困な地方であったのにも関わらす、ドナウ川から侵入してくるゲルマン人、そしてイラン系の民族達に対する軍事的に重要な防衛地点であった。更にその上、北イタリアのアクィレイアから小アジアのビザンテンィウムにまで至るローマ帝国東西を結ぶ軍用道路が走る戦略的要衝でもあった。当然、その軍事的重要性から、最も多くの軍団を抱えていた。そしてこれらの事もあってか、彼らイリリア人は、帝国全体の利害よりも、郷土の利害を第一に抱える郷土意識が強いという特徴も持っていた。また更に、皇帝殺害の陰謀の要因には、彼ら個人の野心も、大きく関与していたと思われる事も、見逃せないだろう。
もし、皇帝ガリエヌスを殺害してしまえば、その後は共に同じ社会階層出身である、彼らイリリア人騎兵隊長達の間で、帝位が順番に継承されていく成り行きとなるのは必然であり、もはや、完全に出自も出身も関係なく、軍功しだいで、誰でも皇帝になれる可能性が、目前に大きく開けているのである。このような彼らの野心にとって、今や最大の障害である、名門ローマ貴族の出自の皇帝である、ガリエヌスの存在さえ、葬り去れば。実際に、このガリエヌスで、初代皇帝アウグストゥスが開始した、それまでのローマ帝国の元首制は終了したとされている。

 ゾシモスによると、彼らはガリエヌスのイタリア出発の時に、この皇帝ガリエヌス暗殺計画について、相談をし始めた。しかし、その詳細に関しては、多くの意見の相違がある。
計画が以降の混乱と警戒で、ガリエヌスの驚きによって、容易に彼を殺害するチャンスが訪れるように、ミラノからアウレオルスの軍隊の突然の襲撃の、虚偽の報告を作る事であったと、全て我々に話す。これは、アウレオルスがこの計画に関係していたかどうかの問題を発生させる。
そして作家の何人かは、そうであったと言っている。シュンケロスとゾナラスの『歴史要略』は、本当にアウレオルス一人に、全部の非難を与えて、全く彼ら将軍達の方に、言及していない。シュンケロスは、ガリエヌスが、アウレオルスの裏切りにより、殺害されたとしている。
計画がアウレリアヌスのアドバイスに関して、急いで考案された結果として。
または一つの原稿の(我々が見たように)ヘラクリアヌス。

 これは、そのままに真実のはずがない。そのメロドラマ風の装飾は別として。
更にこの皇帝暗殺計画が突発的なものではなく、慎重に、考えられたものであった事は、明白である。ゾナラスの提案に、既に注意する。その共謀者。彼らの計画が明らかとなったとわかる事。この計画の遂行を促進した。ゾナラスは、更にもう一つの、以下の物語を紹介している。
この中で彼は当時、当時の夫ガリエヌスの駐屯先の軍隊の最前線に、おそらく皇后サロニナも、それまでのように、同行していたとしている。
「危険な状態に、皇后は陥った。彼女は夫と共にそこにいた。非常に少数の兵士しかいない、塹壕に残っていた。そして敵がこれを見た時。彼らは意図して、皇帝のテントを攻撃した。皇后を誘拐しようとして。しかし、一般兵士の一人が、テントの前に座っていた。
そして彼のサンダルを取り出し、それを繕っていた。そこで彼は、近づいてくる敵を見た時。彼は盾と短剣を押収し、襲撃者達が向かってくると非常に怒って攻撃した。皇帝の妻は救出された。」そしてブレイと同じくガイガーも、これはおそらく、二六八年のガリエヌスのメディオラヌム包囲、そしてサロニナの当時いたとされる野営地にも、新たな戦いと反乱の噂が瞬く間に広がっていたと思われる、その前後の出来事だろうとしている。更にこうした、前線の駐屯地での皇后の存在は、兵士達の忠誠心と闘志を高めた事だろうとしている。

 皇后はその戦闘中に、明らかに不十分に守られていた。アウレオルス。おそらくその、皇后誘拐の命令と関連していると思われる。彼の命令を受けた者達が、ガリエヌスの、そのほとんど放棄された野営地に侵入する。皇后を捕らえるために。しかしこの場面は、続いていない。
おそらくそれには、その攻撃が関係していた。ガリエヌスに対しての出発。皇帝に対する、その致命的な罠の周囲で。イリリア人将軍達による。おそらく、皇后サロニナの暗殺者または誘拐者は、実は同じ人物達によって派遣された。そしておそらく、アウレオルスの共謀者達。
ガリエヌスに関する、イリリア人将軍達の疑惑の黒いリストと『ヒストリア・アウグスタ』で描写される逸話の可能性がある。それから、今度は場面は、殺害予定の皇帝を、直接待ち伏せするために、再び開始される。そしてこの意欲的な兵士らによって、皇后サロニナが無事守られたという事は、おそらく、大部分の兵士達の間での、皇帝ガリエヌスと皇后サロニナの人気を示している。また、この記述は、既に私が十三章でも指摘しているように、二五四年に、その「アウグスタ」の称号と共に、皇后サロニナに贈られた「野営地の母」という称号がそれを示しているのと同様に、以前からサロニナが夫ガリエヌスの、ゲルマニア方面での、各境界の駐屯地に共にいた事をも示している。そしてこれはガイガーも指摘している点であるが、こうした、前線基地の皇帝のいる場所での皇后の存在は、ペルシャによる、共同皇帝ウァレリアヌスの捕囚後、絶えず揺らぎ続け、ためにそれこそ、様々な手段を用いて、その維持に苦心していたと思われる、彼女の夫ガリエヌスの皇帝としての、正統性を高める事もできた。

 この忠実な軍隊の態度とこちらは明らかに、簒奪者達である、外のイリリア人将軍達との対比。またこうした逸話はおそらく『無名氏ディオの継承者』を連想させ、また、従って、おそらく『Leoquelle』にも基づいている。おそらくペトロス・パトリキオス。おそらく、実際にもそうなっていたため、そのために、皇后と軍隊とのこうした強い関係が、構成されていた。こうした皇帝の野営地への、頻繁な皇后の訪問及び滞在は、兵士達の間に、彼らとの皇帝夫妻との間に、強い一体感や敬愛の気持ちを呼び起こすのに、有効であったと考えられるし、こうした皇后サロニナの存在が、皇帝ガリエヌスに対する反乱発生の、間接的な抑止力になっていた可能性も、考えられるのではないだろうか?またイリリア人騎兵将軍達により、皇帝ガリエヌスが謀殺された時にも、大勢の兵士達は激怒し、そんな彼らに対し、クラウディウスやアウレリアヌスが多額の金銭を与えてまで、必死でなだめなければならなかったたという逸話からもわかるように、とうとう、大勢の一般兵士達の気持ちは、皇帝と皇后から離れる事はなかったのである。

 そしてこれと同様の、皇后の皇帝の駐屯先の戦地への、訪問と一定期間の滞在のケースとしては、やはり、これもサロニナ同様に「野営地の母」としての称号を与えられていた、マルクス・アウレリウスの愛妻であった、皇后ファウスティナの例が、思い起こされる。
また、サロニナのこうした行動は、これもブレイも指摘しているように、サロニナの妻としての、その愛情と献身の延長線上での行動ででも、あったのだろう。歴代皇后達の中でも、確実に、各属州防衛線に駐屯している、夫の皇帝の許を訪問し、また滞在していたらしいのは、このマルクス・アウレリウスの皇后ファウスティナとガリエヌスの皇后サロニナだけである。
また、いずれもその夫であるマルクス・アウレリウスやガリエヌスらが、その彼らの治世の長い年月を、蛮族との戦いに明け暮れ、多事多難な治世であったというのも、共通している。

 こうした困難な治世であるからこそ、より皇后である彼女達が、夫を支えなければと思った結果の、前線基地にいる夫の訪問や滞在へと繋がったのではないだろうか。
そして皇后サロニナの夫の戦地への同行、そしておそらくアウレオルスの手の者によるかと思われる、その誘拐の企てからの救出についての、これらの説明が事実に基づいている場合。引用符で囲まれた通路を意味するかもしれない。皇后サロニナが、この反乱を生き延びた可能性。
そしてクラウディウスやアウレリアヌスら、イリリア人司令官達の前の大勢の兵士達は、この明らかな皇帝ガリエヌスの殺害についての、不当と不満について、激しく訴えている。
そしてどこにも、皇后サロニナの死は、明確に言及されてはいない。

 それから、彼女のその異例の、数多くのコインの中での、その頻繁な、皇后本人自身、そして夫の皇帝としばしば共に、対となって姿を現わしている形跡、そしてとてものんきに、皇帝が妻への愛情や夫婦仲の良さを単純に、こういう形で、アピールしているような時代ではなかった事を考えると、皇后サロニナの章でも述べているように、こうした間接的な形であるとはいえ、これは皇后サロニナの妻としての献身と帝国の困難な統治に当たる、夫ガリエヌスに対する、彼女の積極的な協力の現われであろう。そして垣間見える、彼女のこうした姿勢から考えれば、ガリエヌスの皇帝としての正統性の補強や、現地のローマ兵達の間での、皇帝と皇后に対する、忠誠心の高揚や効用も期待できる、皇后の戦地の夫の許への頻繁な訪問及び滞在も、十分予想できる事である。

 そして再び、ガリエヌスの暗殺についての経緯に、話は戻るが。ゾナラスが我々に、実際の暗殺の二つのヴァージョンを与える。そしてゾシモスは、このゾナラスの述べている、ガリエヌス暗殺の経緯とほぼ同じ物語を語る。特定の男性、ダルマティア騎兵隊の部隊の指揮官。
アウレオルスと彼の軍が接近しているとの報告が、ガリエヌスの夕食時に、告げられた。
そしてガリエヌスは彼の馬を求めて、外へ飛び出した。武装していないか、不十分に武装したままで。更に誰も護衛を伴わないまま。野営地で。やがて孤独で無防備な状態の彼は、殺害された。また『ヒストリア・アウグスタ』は、こう書いている。そのマルキアヌスとケクロピウスは、アウレオルスが接近していると、ガリエヌスに伝言した。すると、彼は、まるで戦いにあるように外へ飛び出し、彼を殺すように派遣された兵士達によって殺害された。『ヒストリア・アウグスタ』の著者は言う。彼はケクロピウスの武器で殺害された。彼はこれがミラノの近くで起こったと、付け加える。そしてアウレリアヌスが、ガリエヌスが敵が脱出したという見せかけに関して、嵐の夜に警備なしで、彼のテントが、罠にかけられる原因になったと、アウレリウス・ウィクトルは言っている。彼は暗闇の中で、突然向けられた武器に立ちすくんだ、そして彼の暗殺者は、特定される事ができなかった。全てのこれらのヴァージョンは、共通して、疑似発作のおとりを持っている。皇帝ガリエヌスの、十分な武器または護衛を、付けないままの出発。
そして、武器での以降の急送。おそらくは槍。誰かによって用いられた。アウレリウス・ウィクトルの。そして我々はケクロピウスと呼ばれている騎兵を、この時のダルマティア騎兵隊の一団の司令官と、特定する事ができる。

 そしてゾナラスが、その数人が提案したと言う代わりのヴァージョンは、彼がベッドから興奮して飛び出した。つまり、ヘラクリアヌスによって、ガリエヌスが起こされたという事である。これはヨハネス・アンティオケノスの史料と同じように、何かを持っている。彼はそのヘラクリアヌスについて言う。彼がダルマティアの騎兵の、司令官と言う人物は誰でも。夕食時に殺された。クラウディウス。彼は言う。アンティオキアのヨハネスとゾシモスは、動詞「aposphattei」を使っている。文字通り、これの不定詞は『喉を切る』というつもりである、しかし、単に『殺害する』つもりである事は、全般的になった、そしてどちらの著者も、文字通りの意味を約束しているつもりだったと、私は思わない。類似した見方は『歴史要略』で採られたように見える。関連した一節は、ダメラウに引用される。このヴァージョンは、ガリエヌスをヘラクリアヌスによって殺させておく。クラウディウス、それは言う。ヘラクリアヌスの同僚だった。明らかに、これはゾナラスの第二のヴァージョンである。これらの三つの史料は、共通して二つのものを持っている。殺害者の身元。ヘラクリアヌス。そして、犯罪の場所。テント内で。
古代ローマ史の研究者達は、ガリエヌスの直接の暗殺者としては、ケクロピウスを推定しており、ゾナラスの最初のヴァージョンに賛成している、そして私もそれを受け入れる。


 ブレイは、ほぼゾナラスの一つ目のヴァージョンの方を採用して、以下のようにガリエヌスの最後について考えている。「このガリエヌスの生命の最後の時間を、再建する方法である。彼は食事中に着席していた。朝食または昼の夕食での時であるのか、どちらなのか難しい。
偽りの報せが持ってこられた時、既に敵は接近していた。そして私はヘラクリアヌスが、この時の使者であったと思わなければならない。そしてそれは、ケクロピウスまたは正体不明の誰かでもあり得た。ガリエヌスは自分の馬の方に走って、彼の護衛を待つか、きちんと武装する事もないまま、走り去った。一般的な混乱では、彼は孤立して、ケクロピウスによって指揮される、一団のダルマティア騎兵隊によって囲まれる。彼らは、皇帝に対する尊敬の、慣習的な形を省略する。彼は彼らが一体何を望んでいるのかについて、彼らに尋ねた。すると彼らは「あなたの統治の終わりを!」と答えた。そしてガリエヌスは、彼の馬を急がせようとした。もしも馬が流れの端に進もうとしたならば、彼は逃げ延びたかもしれない。やがてついに、ガリエヌスは敵軍に追いつかれた。するとケクロピウスは、槍で彼を突き刺した。そしてガリエヌスは、地面に倒れ伏した。」

 なおガリエヌスの殺害の、差し迫った結果は、彼を慕う兵士達の側の激怒の、激しく、恐るべき爆発だった。このため、軍隊は将軍クラウディウスや、アウレリアヌス達によって、なだめられなければならなかった。そして、彼らを落ち着かせる方法として、二〇個のアウレウス金貨の分配の形を、各々の兵士に採った。これは非常にかなりの金額だった。これはその事を示唆している。帝国の金庫。そしてそれは三世紀には、皇帝に同行した。そしてこのクラウディウスの帝位継承の後、その貴重な金の供給は、かなり減少したに違いない。『ヒストリア・アウグスタ』が、この巨額の支払いについて、言わなければならないものを疑う必要がない。我々が見たように、それは軍隊から始まる事。おそらく、これが彼の神格化の手段になった。そして、第二に、将軍の使者が彼の継承の報せを、元老院に発表する、クラウディウスの手紙を運んでいる、フラミニア街道の下で、南へ速度を上げていた兵士をなだめる間、ミラノで野営地から数百マイルも離れた、ローマで保たれた公的な記録の制御を、それはしなかった。けしてガリエヌスに対して友好的ではないが、我々に対して詳細な報告の義務がある、アウレリウス・ウィクトル。自分自身がローマ帝国の伝統の支持者であり、元老院議員であった。そしてこれについては、ゾシモスも『新ローマ史』の中で、比較的詳しい報告をしている。それが『ヒストリア・アウグスタ』のそれとそのガリエヌスの死についての説明の類似性で、ゾシモスを示すことを報告する。結局はデクシッポスに、戻らなければならないこと。 短い情報が、ビザンティン帝国時代中期の著者ヨハネス・アンティオケノスとシュンケロスであるとわかる。

 アウレリウス・ウィクトル
「アウレオルス。ラエティアで軍団を指揮していた。去ることができた。そのような弛緩した指揮官の不注意に対する挑戦。彼は皇帝の称号を獲得し、ローマに対して進軍した。ガリエヌスは、橋で彼を打ち破った。これは彼によると、その名を採って付けられるようになった。ガリエヌスは、アウレオルスの立て篭もるミラノを包囲した。 そしてこの都市を、あらゆるタイプの攻城器具で攻撃する間。 彼に彼の運命を与えた。彼らはあらかじめ、その計画を立てていた、ガリエヌスのその転落。そして包囲を破った。彼はこっそり司令官と護民官に、一緒にガリエヌスの名前を尋ねた。このように彼の死、それを決定した。そしてその大きな秘密のリストは、壁とテーブルの下に隠された。だがそれが受取人によって、偶然発見され、それに対する恐ろしい疑惑を引き起こした。皇帝のその殺害を指示する。しかし、その暗殺計画は、共謀者の不注意のため、明るみに出た。したがって、アウレリアヌスの助言。彼の人気と名声は、軍隊の頂点に立っていた。偽造される、敵の計画の失敗。そして突然の混乱は、無愛想な任意の、わずかな皇帝の護衛兵達の間で、起こる。そして既に、彼は放たれた矢によって貫かれた。何者かの手により。
暗闇の中に、隠れたままの。」

 伝アウレリウス・ウィクトル
「ガリエヌスはアウレオルスに対して、進軍した。橋の近く。後にアウレオルス橋と呼ばれる。ガリエヌスはこの戦いに勝って、アウレオルスをミラノに追いつめた。彼はミラノを包囲した。そしてアウレオルスのリストによって、ガリエヌスは殺された。」

 ヨハネス・アンティオケノス
「ガリエヌスは弟のウァレリアヌス(リキニウス・ウァレリアヌス)と一緒に、ミラノの都市にいた所を、ダルマティア騎兵隊長によって殺された。それがヘラクリアヌスだった。クラウディウスと協力した、最も大胆な男の一人によって、テーブルに就いている時に、ガリエヌスは殺害された。」

 シュンケロス
「しかしアウレオルス。ローマ人の特定の、ケルトの指揮官。ガリエヌスを裏切り殺害。」
そして既にブレイも、ガリエヌス暗殺については、これが最も実態に近いのではとして採用している、既に紹介した、ゾナラスのガリエヌス殺害の顛末についての語っている内の、一つ目のヴァージョンである。その食事中に、敵の接近という偽りの報せにより、護衛も連れず、武装もしていないまま、ガリエヌスは突如馬に跨り、飛び出していった。そこを一団のダルマティア騎兵に取り囲まれ、ガリエヌスは馬を急がせ、その場から逃れようとしたが、一向に、怖気づいた馬が走り出そうとせず、ついにケクロピウスが投げた槍により、失血死という記述である。

 そしてガリエヌスは、その頃、それを余儀なくされていた。ポストゥムスに対して、正常に機能している必要があった、アウレオルスの、帝国の西部国境を防衛するための、ポストゥムスとアラマンニ族に対する攻撃を中断させる事。おそらく当時アウレオルスは「ドゥクス」の階級を持っていた。しかし、その時に、そのガリエヌスとアウレオルスを巡っては、前後関係を偽造する。その『ヒストリア・アウグスタ』の語る事。 更にこのゾナラスの最初のヴァージョンは、アウレリウス・ウィクトルの描写との関係を示す。ウィクトルと同じ源の伝承。ペトロス・ パトリキオスを利用できたゾナラス。そしてゾナラスのウィクトルと同じ伝承が、利用可能なペトロスによって、とりわけ仲介の立場に立っていた。ポストゥムスは、アウレオルスに失望した。
そしてアウレオルスは実際的な支援を、彼から与えられていなかった。おそらく彼が、チャネルの海岸で、フランク族の攻撃に、対処しなければならなかったので。二六八年のコインの、その大幅に減少した銀の含有量は、大幅に増加した軍事費を示している。更にそれによって、ポストゥムスは絶好の機会を逃した。彼の支配圏を拡大して、ガリエヌスのそれにまで広げる事。
また当時のポストゥムスの皇帝に対する、蜂起の証拠もある。これはその介入から、彼を妨げている可能性がある。

 更にまた、その特徴付けられたアウレオルスの、ドナウ地方での優れた戦いは、ガリエヌスの将軍マルキアヌスに与えた関連付けを急いでいる。かつてアウレオルスは、ドナウ川地域から迅速にも、ガリエヌスのイタリアでの騎兵軍団のトップにあった。だがメディオラヌムで、ガリエヌスによる撃退によって、アウレオルスは押し戻される。このようにガリエヌスは、相手方に対して、アウレオルス橋にちなんで名付けられ、アウレオルスとの戦いで勝利した。
そしてアウレオルスはこの戦いで敗北して、負傷した。しかし、アウレオルスはメディオラヌムに、撤退した。メディオラヌムは、おそらく長い期間に渡り、ガリエヌスと攻城器具により包囲された。そしてこの頃見られる、ガリエヌスのコインに見られる銘文。
「ガリエヌスによる、元老院のための自由の回復」・「ガリエヌスによる、元老院のための自由の復興」・「ガリエヌスによる健康の保全」。そしてこのアウレウス金貨の複数形は未完成であり、そのためこれは、この二六八年に作られた可能性が、最も高い。多分皇帝の再度の、執政官職就任計画のため。実際にも敵のアウレオルスからのローマの防衛に、こうして成功していたが。しかしガリエヌスは、二六九年に殺害。そのコインの鋳造終了がそれを提示。

 このように、メディオラヌムの包囲への、そして三つの、ガリエヌスの死についての伝承。
それはメディオラヌムの包囲とガリエヌスの三つの異なる史料の伝承の死を、区別することができる。そしてまず、アウレリウス・ウィクトルの詳細な説明が、最初に存在している。
第二に、ゾナラスの二つの部分で、非常に広範囲の報告。この主題のための、有用な情報を提供する。特に両方の伝承は、それらの表現のために、デクシッポスの伝承を使った。三番目に『エンマン皇帝史』からの補助使用としての、ラテン語史料。『エンマン皇帝史』の上でも、ガリエヌスの最後についての、その非常に不十分な表現のエウトロピウスは、後退した。そしてゾシモスは、クラウディウスとヘラクリアヌスを、この皇帝殺害計画の主な首謀者としている。そう『ヒストリア・アウグスタ』や、他のそれらの史料が、それらを置き換える。おそらくコンスタンティヌス一世に友好的な『エンマン皇帝史』を基本とした。マルキアヌスとクラウディウス。ガリエヌスの死による、大きな利益者。そしてクラウディウスは、コンスタンティヌス一世の祖先として、四世紀に伝えられるようになった。

 しかしゾシモスは完全に、アウレオルスの立てこもる、メディオラヌムの都市の包囲を省略し、既に皇帝の殺害を置く。そして疑惑のアウレオルスのリストの、唯一の供給源としての、アウレリウス・ウィクトルの説明。かつてガリエヌスが信頼していた将軍達の名前が記された、巧妙に制作された文書。そしてそれは、死のリストだった。更にアウレリアヌス主導の下で、ガリエヌスに対する陰謀へと繋がった事。これはおそらく、陰謀の倍増である。アウレリアヌスは二七五年に、死亡した。そしてこの『無名氏ディオの継承者』の著者を知っている可能性が高い、ゾナラスがある。更におそらく、ニコマクス・フラウィアヌスにも、関連している。その上、デクシッポスの反映も考えられる。

 そしておそらく、アウレオルスが計画した可能性がある、その試み。ガリエヌスの朝食時の、誘拐されそうになった皇后サロニナの、何とか兵士達に守られての、ほぼ成功した脱出が特に印象的である。そしてその時、ポストゥムスは、メディオラヌムのアウレオルスを援助しには、向かわなかった。ゾナラスは、皇帝ガリエヌス殺害事件の、二つの詳細なヴァージョンを提供している。これは主に最初のヴァージョン。それは豊かな逸話で飾られている、皇帝のその絶望的な状況。ゾナラスの記す、二番目のヴァージョンは、明解にその概要を、ゾシモスに基づいて作った。こうしてアウレオルスを、ガリエヌス殺害の実行犯にしようとした。メディオラヌムの都市の包囲は、ガリエヌスのために、不完全に進行した。その迅速な攻略は、可能ではなかった。
そして二六〇年までの、メディオラヌムの都市の防衛の強化は、その時の彼の不利に、効果があった。その結果、現在、ヘルリ族に対しての戦いのために、ドナウ川からの部隊から、かなりの兵力を、要求しなければならなかった。

 そうまた、その中には、アウレリアヌスの騎兵隊部隊も含む。現在、彼はガリエヌスのほとんど全ての騎兵軍団の、司令官だった。そしてここに集められた彼らが実際に、より容易に陰謀計画を実施する事ができるように。ガリエヌスに対する陰謀の司令官は、史料により、それぞれ異なる名前を付けられている。まず、アウレリウス・ウィクトルには、アウレリアヌスと呼ばれる。更に『ヒストリア・アウグスタ』では、ダルマティア騎兵軍団の将軍ケクロピウス。
更にビザンティン時代の史料の大部分は、前法務官ヘラクリアヌスと騎兵将軍クラウディウスとする。そして前記のゾシモスによる、実際の殺害を務めた、ダルマティア騎兵軍団の名前のない司令官。そしてヨハネス・アンティオケノスは殺害者として、ヘラクリアヌスを指定する。ゾナラスの最初のヴァージョンでのみ、特に彼の後の文脈でメディオラヌムの前に、アウレリアヌスと呼ばれている。そして直接の殺人者としては、ヘラクリアヌスとクラウディウスの二段階である。共犯者ヘラクリアヌス。更に直接的な不明の殺人者としては『ヒストリア・アウグスタ』とゾシモス、そしてアウレリウス・ウィクトルによると、ダルマティア騎兵の司令官ケクロピウスになる。更にゾナラスの第二のヴァージョンにおける、ヘラクリアヌス。
このダルマティア騎兵の司令官ケクロピウスは多分、実際にはアウレリアヌスである。
このケクロピウスの命名(アテネ)は、おそらく『ヒストリア・アウグスタ』の著者が、ガリエヌスのそのギリシャ文化とアテネ愛好を、嘲笑したかったからだろう。
そしてこの『ヒストリア・アウグスタ』と『歴史要略』の、二つの歴史書が報告している。死んだガリエヌス殺害の容疑者クラウディウスは、こうして皇帝ガリエヌス殺害の陰謀が実行されていた時、ティキヌムに駐留していた。だから、彼は明らかにこの陰謀には関与していないという形で伝えられる、このクラウディウスを残して。そしてそのクラウディウスが、当時実際にティキヌムにいた事。

 だが、その記述の信憑性は、ほとんど信頼できるようである。なぜなら、その後の出来事の制御が、既に彼自身にも、不可能となっているからである。だが、このクラウディウスのティキヌム滞在が、けして彼自身の、その潔白を証明する事とはならず、おそらく、ガリエヌス暗殺からクラウディウス即位までの、詳細な経緯についてのこの説明は、その後の時代の創作と、みなされなければならない。例えば彼のその即位が、瀕死の皇帝ガリエヌスが、そこからクラウディウスに、帝位の印を、彼の皇帝即位承認の証として送った事など。おそらく、これらの記述をする事により、コンスタンティヌス一世の祖先とされた、クラウディウス・ゴティクスの、無実を証明するものとしたかった。

 そしてアウレリウス・ウィクトルの参考史料は『エンマン皇帝史』だった。
それまでの大半の皇帝の殺害事件の時とは対照的に、それは軍隊に大きな不満を与えている事が示される。これはプロットの伸線によって。操作する事ができる。
ガイガーは、ガリエヌス暗殺計画の直接的首謀者としては、クラウディウスとアウレリアヌスが、総合的に見て、最も可能性が高いように思われるとしている。そして総合的に判断した結果、これには私も同感である。だがガイガーは『ヒストリア・アウグスタ』での、この陰謀へのマルキアヌスの加担については、ブレイと同様に、実際には彼は当時、バルカン半島でのヘルリ族との戦いに参加しており、明らかに記述との整合性がないため、このマルキアヌスの加担は、疑わしいと指摘している。確かに、これにも同意できる。そしてこれらの戦いは、このメディオラヌムの陰謀の前には、まだ終了していなかった。特に以来、マルキアヌスは『エンマン皇帝史』の伝承だけに、殺害首謀者として記載されている。これはクラウディウスを、皇帝殺害首謀者の汚名から、救済する事に関心があったため。そして前法務官ヘラクリアヌスの中心的な関与は、明らかと思われる。ほとんどの歴史書は、彼に言及している。また、彼らとその位置を表明した。そして彼らは偉大なコンスタンティヌス一世の、先祖という事にされている、皇帝クラウディウス・ゴティクスの名誉の保護を気にする。とにかく、クラウディウスやアウレリアヌスら、イリリア人騎兵将軍達が首謀者となり、ガリエヌスが暗殺された事自体は、明らかな事実である。

 こうして、二六八年の九月に、ミラノの野営地で、十五年間の間、ローマ帝国の平和を回復するため、相次ぐ属州総督達や将軍達の反乱、そして蛮族などの外敵の侵攻に立ち向かい、精力的に帝国中を奔走し続けた、皇帝ガリエヌスは死んだ。五十歳だった。
しかし、元老院は彼の神格化を拒否し、ガリエヌスは代々の皇帝が眠る、ハドリアヌス霊廟に葬られる事もなく、アッピア街道沿いに建てられたと思われる、霊廟に葬られた。
だが、形式的なクラウディウスのガリエヌス神格化の要請に対して、元老院が余儀なくされた、ガリエヌスの神格化。それが明らかにされた後、既に「記録抹殺刑」のいくつかの対策が完了していた。そしてそれらの形跡が、ガリエヌスに対する公式記録抹殺刑の、その強制の可能性について主張している。

 ローマの都市からの、単一の碑文は知られてはいない。しかし、皇帝の名前はファレリイ・ノーヴィやオスティア・アンティカで、明らかに大量の数が推測された。故人のいくつかの非常に印象的であった場合の、碑文の栄光。並びにアクィレイアとアクィンクムなどの、ローマ帝国内の重要な軍事拠点でも。これは陰謀の地理的位置の手によるもので、既にある可能性がある。
しかし、ほとんどの都市がある。ガリエヌスのナレーションを参照して、いくつかの碑文が知られている。そのような全ての指名が推測された。アフリカ属州の「アフリカ・プロコンスラリス」では、最も高いと推測される、彼の碑文の相対数である。小さいが特に重要ではない地域の、伝統的な合計数との比較。これらの事から、ガリエヌスの、短期間での公式記録抹殺刑は考えずらい。しかしファレリイのような、ガリエヌスにとって、特に重要な場所の一つは、明らかに、このような最初からの碑文抹消の予防措置を、施されていた事が発見できる。Thiburiscum Bure/アフリカ・プロコンスラリス、またはランバエシス/ヌミディアから。多くのガリエヌスに関する碑文。逆にクラウディウスにその前身のdivinisierungを所有し、それが主張された。
ついに、このガリエヌスの真の殺害者クラウディウスは、発見されないままだった。

 なおガリエヌス暗殺後の、家族達の運命についてだが。ラテン語史料によると、元老院はガリエヌスの死後、処刑場となっていた、公共の広場のゲモニアエの階段での、彼の家族とガリエヌスの支持者の処刑を命令したという。そしてウィクトルの物語は、ゾナラスによって確かめられた。彼は、ローマの元老院が、ガリエヌスの殺害について耳にした時、それが彼の弟と彼の息子を処刑したと言う。我々はそれをする事ができた、そしてその犠牲者の中のそれは、マリニアヌスだった。皇帝ガリエヌスの三男。そして、プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌス。しかし、彼がローマでは死ななかったという史料もある。ゾナラスとは違い。『ヒストリア・アウグスタ』は、そのように言う。ミラノの近くで、皇帝と同時に彼が処刑された事。
今度は、彼は一般的な合意が、ウァレリアヌスが決して皇帝であったかどうかに関しては、ないと言う。しかし、彼が生きている間、ガリエヌスが、彼の弟ウァレリアヌスを共同皇帝にしなかった事は確かである。そしてエウトロピウスも、ガリエヌスが彼の弟ウァレリアヌスとミラノで殺されたと言う。そしてゾシモスの、メンデルスゾーン版のメモによると、その著者の一冊の写本には、同じものと書かれていた。このように、ガリエヌスに関係するものが、全てローマから持ち去られなければならない事は、本質的にありそうである。
そして、効果的な力が元老院の手にあった所。そして、法務官の警備員で、おそらくあった。野戦軍の感情が、ガリエヌスに圧倒的に賛成だったミラノであった。このウァレリアヌスが、陰謀者達の包囲の、野営地に本当に存在するならば。しかし、共謀者達は、いまだにリキニウス王朝ヘの、忠誠の可能性がある焦点を抑えるために、皇帝ガリエヌスの弟として、同時に秘かに彼を片付ける事が、望ましいと考えたかもしれない。

 特に、上記のラテン語史料が記している、皇帝ガリエヌスの家族達や、皇帝ガリエヌスの支持者達が、ガリエヌス暗殺後に、殺害されたと思われる記述の、この記述内容の信憑性はともかく、彼らが同様に殺害された可能性は、考えられると思われる。そして皇后サロニナは、夫ガリエヌス殺害の二六八年に、やはり殺害された可能性も高いと考えられる事もあるようだが。
しかしブレイもガイガーも、皇后サロニナが殺されたのか、それとも生き延びたのかは、いずれもはっきりとはしないとしつつも、ゾナラスの記述によると、サロニナがこの二六八年に、夫ガリエヌスの駐屯地に同行していたと思われる記述を取り上げ、少なくとも、この時の護衛の兵士達に守られて、彼女が夫ガリエヌスの暗殺首謀者の、イリリア人騎兵隊長達の命令による襲撃を逃れ、生き延びていたのではないかとしている。またガイガーも、こうした記述の他にも、特に信頼性が高いと思われる史料には、皇后サロニナの死について、明確に記されてはいない事からも、夫ガリエヌスの殺害後も、サロニナが生き延びた可能性もあり得るとしている。

 特にブレイは、サロニナが生きていてくれた可能性に、希望を持ちたいとしているが。
しかし、もし仮に、夫ガリエヌスの暗殺後、サロニナが何とか生き長らえていたとしても、義父ウァレリアヌスは遠い異国の敵地で捕囚の身のまま死去、そして長男ウァレリアヌスの早世は偶然の不幸ではあるが、更にこれに続く二人の息子達のサロニヌスとマリニアヌスの死は、明らかに殺害である。またおそらく、当時ローマに唯一生存していた、一家の生き残りである、義弟リキニウス・ウァレリアヌスも殺害。そしてその治世中、絶えず、頻発する帝国内の簒奪者達や蛮族との戦いの中に、身を晒していた夫のガリエヌスは、義父や夫が取り立てた、イリリア人の騎兵隊長達に謀殺。更にその上、彼を憎悪していた元老院からは、ローマ皇帝にとっては、最も不名誉な処置である「記録抹殺刑」に処され、彼の神格化は取り消され、皇帝としての数々の業績を、葬り去られる事になってしまったのである。その上、かつて夫のガリエヌスに取り立ててもらいながら、夫を謀殺した暗殺者達の騎兵隊長達が、次々と帝位に登っていく様を、見届けなければならなかったのである。こんな風に、次々と自分の大切な人達を失い、ただ一人残されてしまったサロニナにとって、大変に悲しく辛い余生であったろう事は、想像に難くない。
彼女はこのように厳しい時代に、皇后になった事により、結果として、最後には、何もかもを失ってしまったとも言える。

 更にその上、夫ガリエヌスの死から、約三〇年後の二九七年には、トリーアで行なわれた
『ラテン頌詞』のガリア人演説者の行なう演説中で、コンスタンティヌス一世ら一連のこの王朝の皇帝ら、そしてこの演説の直接の称賛されている相手としては、コンスタンティウス一世のための、格好の引き立て役として、終始無能な暴君として徹底的に貶められ、こうしてその存在を、コンスタンティヌス王朝称賛のためのプロパガンダに、大いに利用されているのである。
なお、これもガリエヌスの妻の一人であった、ピパについでだが。彼女については、全く、その消息については伝えられてはいない。彼女もガリエヌスの妻であったが、皇帝ガリエヌスとの間に子もおらず、また彼女が蛮族の娘である事から、元老院などの、ガリエヌスの敵対する勢力からは、彼の家族とは、見なされず、彼女の寿命を、全うさせる事になったのかもしれない。
もしかしたら、ガリエヌス暗殺後に、マルコマンニ族の王である、父アッタロスの許に、帰されたのかもしれない。

 ガリエヌスの殺害後に、新たに皇帝に即位したクラウディウスは、完全に形式的な要請として、元老院にガリエヌスを神格化する事を、強要した。ガリエヌスから帝国を受け取って、従って、神格化された称号で、この前任者の地位を支えなければならなかったため。
ウィクトルの『皇帝史略』によると、確かに彼はそうした。しかし、確かにその評決は、しばしばあった。この物語を疑う正当な理由がない。だがウィクトルは、神のランクに加える報告の価値はないとする、この皇帝の登用についての、厳しいコメントを加えている。
そして、それについての、若干の間接的な確証がある。オスティアの若干の碑文からの、ガリエヌスの名前の、いくらかの抹消が、そうであったようであるというのは本当である。
ゾナラスの『歴史要略』。ガリエヌスの記念碑が、ローマから九マイルの、アッピア街道のガリエヌスの墓に設置されたという。これはその彼の神格化の強い、間接的な確証である。
それはその当時には、その記念碑がまだ建っていて、後の記録抹殺刑の「ダムナティオ・メモリアエ」が、まだ行われていなかった事を示している。即位十年記念祭の時に、ローマで築かれたガリエヌスのアーチが、台無しにされたようには見えない。しかし、結局その後「記録抹殺刑」が執行され、彼についての多くの碑文と共に、この記念碑も消し去られたのだろう。

 だがクラウディウスは、ガリエヌスの死後、彼よりわずか二年長く、生きるだけだった。彼は当時、アラマンニ族とゴート族との戦争に、心を奪われていた。そして彼の後継者は、ガリエヌスのメリットを、主張する事には、関心がなかった。ガリエヌスのクリエンテスには、もう一つの種類が、あった。より控え目な階級。このメンバーは彼の死で苦しみ、そしてクラウディウスには、彼らを引き続き保護しようという関心は、なかった。これらはキリスト教徒だった。ローマの都市のキリスト教徒の小さな迫害と、その隣接した近郊がそうであったようだ。この迫害が、エウセビウスの告発を逃れた事は本当である、そして、殉教者の公式記録に含まれる、それらの証拠は疑われた。公式記録は、遅れる場合があった。そして疑いは誇張されなかった。
どういったものかはわからないが、クラウディウスの下の迫害の物語の、四人の名前が、ゲオルギオス・ハマトルウスの、殉教者リストによって確認できる。十分にはっきりしている。

 クラウディウスはバルカンで、イタリアに北の蛮族のアラマンニ族に対して、彼の短い治世のほぼ全てを費やした。そして彼にとって、キリスト教徒の存在は、大きな重要性はなかった。
彼は元老院にそれが一種の名前負けの市議会として、伝統的にコントロールした地域で、人々を苦しめる事に対する、そのかなりの才能を楽しませておくだけで満足していた。それらリストの間に、グラティアヌスとフェリッシマの名前はあった。二六九年の八月に、彼らはファレリイで、殉教した。これまで我々が見たように、その町。彼の母や妻の故郷として、特にガリエヌスによって好ましく、特に彼にとっては、大切な場所であった。もしかしたら、異様に報復的で、知覚の鋭い元老院議員達は、意図的にその出来事を手配して、喜んだのかもしない。

 とにかく、相次ぐ帝国内の簒奪者や蛮族達との戦いに対し、英雄的なその奮闘振りを見せ、そして彼の治世になってからの、数多くの画期的な新たなデザインのコインや自身の肖像をも用いた、皇帝としてのカリスマ性の演出や、騎兵改革を中心とした、効果的な活用などの、精力的な新しい数々の試みを行なっている形跡。だが、ガリエヌスは彼を謀殺した、クラウディウスやアウレリアヌスら、イリリア人騎兵将軍達の系譜に連なる、コンスタンティヌスらの王朝に政権が移って以降、長い間ガリエヌスは、近代のローマ帝国研究者のアルフェルディが、初めに再評価の狼煙を上げるまで『ヒストリア・アウグスタ』を初めとした、コンスタンティヌス朝の皇帝達に追従する傾向が色濃い、四世紀の各歴史書や教会著述者達の描く、無能な暴君という、非常に矮小化・歪曲化された姿そのままとして、不当な評価と共に捉えられ続けてきた。

 だが実際の彼の皇帝としての姿は、それらとは大きく異なっていた。
まずガリエヌスは、様々な外敵との戦いに、しばしば後退を余儀なくされていた、当時のローマ軍の改革を、父ウァレリアヌスと決定した。そして、それは最初から明確・具体的な意図によってというより、半ば意図的、半ば当時の状況的変化に促されてのものではあるものの、いつ襲撃してくるかわからない蛮族対策に相応しい、できるだけ機動性に富み、効率的に動かせる、分遣隊を中心とした軍隊を創設していく。更に階級も生まれも不問にした、実力による軍司令部メンバーと兵士の選出。彼らは、イリリア人出身の将軍の継承と一世紀の間、蛮族とゲルマン人を退け続けた、イリリア人出身の皇帝の誕生、これらを可能にする土台を作り出し、そしてこれが、打ち続く外敵の襲来と内乱に悩まされていた、ローマ帝国を救出・帝国復興を成し遂げる、二〇数年後の皇帝ディオクレティアヌス誕生の道筋をも、拓く事になったのである。
そしてこの三世中頃以降、三七八年のハドリアノープルのゴート族大襲撃まで、ローマ帝国の鷲の紋章に追いついた、いかなる災いの繰り返しも、起こらなかった。

 一方、ペルシャの脅威は、帝国の東方で有能なパルミラの将軍オダエナトゥスを用いる事により、適切に対処された。そしてそれらの事が、可能になった。有能な指揮官の選択だけではない事によって。しかし、軍団の組織改革と軍の戦術の新しさによって。特に重騎兵部隊と中心野戦軍の設立。また、局地的な勝利に留まるとはいえ、ガリエヌスは十五年間の間、相次ぐ反乱者達と蛮族達の襲撃に悩まされながらも、崩壊の危機にあった当時の帝国の秩序を、ある程度回復する事に成功した。そして、ガリエヌスはローマ皇帝としては最後の、文化の保護者であった。
後のディオクレティアヌスの時代頃の彫像に明らかな、写実性・芸術性の低下した、形式的・宗教色が強まっていく傾向を見ても、ついにこの皇帝ガリエヌス以降、こちら方面に関心と理解が高い、文化の保護者としての皇帝が、存在しなくなってしまった事が、見て取れる。
これらが、今回の研究を通しての、私の中での、皇帝ガリエヌスの、ローマ皇帝としての位置付けである。各地からの蛮族の侵攻の激しさに、悩まされるようになっていた当時の帝国で、突発的な襲撃に対応できる、機動力に優れた騎兵達が、軍事的主導権を握るようになっていくのは、必然的な歴史の流れだったと考えられる。

あの時代に、皇帝ウァレリアヌスとガリエヌスの二人が機動軍に、軍事などにおいて、多くの権限を与えていくのは、あの時代のローマ帝国の状況から考えて現実的・ 合理的な判断であり、そして必然的な流れだったと考えられる。そして初めにウァレリアヌスが創設したと思われる、複数の皇帝を各前線に配置するという分割統治形態は、後の皇帝ディオクレティアヌスの考案した、テトラルキア(四分割統治)の先駆的な形と言ってよいものであり、ウァレリアヌス父子の軍制・統治改革が後の時代の統治・軍事形態に与えた影響は、大きいと思われる。

 なお、井上文則氏の近年の研究により、ガリエヌスのものと思われている騎兵改革は、すでにウァレリアヌスの治世の頃から始められていた形跡があり、この改革はガリエヌスが単独で行なったというより、父子により共同で行なわれたというのが、実態に近いようである。
しかし、父ウァレリアヌスの現実の状況に対応した、テトラルキアの先駆とも言える、統治形態・出自や出身を問わない、人材登用方法の革新性もさる事ながら、やはり、共同統治者である息子の彼がこの諸改革の重要性・緊急性に気づかず、もしも反対していれば、ウァレリアヌスも実行に移すのが、困難になっていたはずである。この時点で父と同じく、当時のローマ帝国が直面していた、数々の深刻な危機打開のためには、一刻も早い、大幅で抜本的な軍事・統治形態改革が必要であると直ちに悟り、父の改革に積極的に協力し、引き続き、その路線を継続した、ガリエヌスの見識も、同時に評価されるべきであると思われる。

 確かに、皇帝ウァレリアヌスはペルシャの捕囚にされるという、前例の無い事態に見舞われ、当時のローマ帝国は、正統皇帝ガリエヌスの依然統治下にある帝国内領土、そしてポストゥムスやゼノビアらのガリア分離帝国やパルミラ分離帝国に三分割され、崩壊の危機に直面していた。
しかし、皇帝ガリエヌスの統治下で、ついにそこまでには至らなかったのは、けして単なる偶然の幸運による結果ではなかった。彼の様々な政治面・軍事面の各施策など、各方面での死に物狂いの努力により、保たれたものだったのである。
短期間で帝国各地での総督や将軍達による、各簒奪を鎮圧、そして時には蛮族の娘との結婚も辞さず、更にそれにより、マルコマンニ族の騎兵達を数多く、ローマ軍の主力とすることに成功し、あるいはキリスト教の迫害政策から、この政策の失敗とこの路線を継続し続ける事の不利を悟り、直ちに公認へと政策を転換。こうして、彼は事実上の、初のキリスト教公認皇帝となった。そしてキリスト教徒の排除よりも、その取り込みを図り、日頃公言していた、その宗教寛容政策により、東方属州のキリスト教徒達の心を引き付ける事を狙うという、その帝国内部からの、ペルシャ皇帝シャープール一世の領土的野心を阻止、危険分子の誕生を阻止。
これらの事からも、そのしたたかで有能な統治者としての姿を、窺わせる。

 彼はこのように、まさに内憂外患ともいえる、大変に難しい時代の帝国の舵取りを、見事にやってのけている。また、彼以降のイリリア系軍人皇帝達の、病死したクラウディウスを除く、短命政権皇帝達、しかもその理由には暗殺も目立つ、アウレリアヌスの在位五年、プロブスの在位六年、カルスの在位一年、ヌメリアヌスのやはり一年、などと比べると、あのような簒奪と蛮族の襲撃が相次いだ、困難の時代にあって、在位十五年を記録した、ガリエヌスのその優れた統治能力は、明らかに証明されていると思う。一方、一介の軍人出身であった、イリリア人皇帝達には、ことごとく、短命皇帝が相次いでいる事から、彼らは個々の司令官としては有能であっても、為政者としての統治能力は、あまり持ち合わせてはいなかったという事がわかる。

 やはり、ガリエヌスは、この軍人皇帝時代の中では、大変に重要な皇帝であると言える。
また、とうとうガリエヌスの同時代にも、また以降の四世紀にも、そのように、彼の功績について、正当に認識されることがないままであったが、彼以降の軍人皇帝達が、それまで帝国が様々な外敵の攻撃から守りに立たされざるを得なかった状況から、一転して反撃に転じることができるようになったのも、それまでガリエヌスがこのように、何とか帝国を完全に崩壊させないよう、持ちこたえていたからこそである。だが、このような、数多くの危機に見舞われていた三世紀であるため、当然、当時の帝国内の各知識人達の中でも、帝国の行く末について悲観的な見方が、しばしば目立つようになっていく。キプリアヌスも、皇帝デキウスのゴート族との戦いによる戦死後の二五三年頃の、ローマ人の一般的な見解として、ローマ帝国の崩壊は目前に迫っているとの風評があった事を書き留めている。また、こうした見方は、当然異教の知識人達だけではなく、キリスト教徒側の著述家達の見解の中にも、同様に悲観的な傾向が見られるようになっていく。皇帝フィリップス・アラブスの治世の後に書かれた、コンモディアヌスの記述には、帝国の絶滅がごく間近に切迫している、そして具体的には皇帝ウァレリアヌスとガリエヌス治世下の七年目になるはずだと確信していた。確かにそれ以降も、帝国を巡る状況は、ますます厳しくなり、ついにはペルシャによる皇帝ウァレリアヌスの捕囚、そしてこれを受けて帝国各地に相次ぐ簒奪者達、そしてガリア分離帝国とパルミラ分離帝国による、ローマ帝国の領土三分割という事態の出現へと繋がっていった。たがしかし、コンモディアヌスが予測した、この二六〇年を過ぎても、なおもローマ帝国は崩壊へとは至らなかった。更にそれからも、依然として、存続し続けたのである。

 そして私は、このガリエヌスの治世下に、帝国三分割という事態が出現した事についても、既に「第八章「堕落した女々しい暴君」という、ガリエヌスの悪評の原因と検証」でも述べているように、これまでのように、ポストゥムスのガリア分離帝国、そして続いて、パルミラ分離帝国の出現により、皇帝ガリエヌスの支配下に残されたのは、イタリア、アフリカ、バルカン半島の、ローマ帝国中心部のみであったと、否定的にばかり捉えるよりも、こうして首都ローマを中心とした、いわば帝国の心臓ともいえる部分は、こうしたガリエヌスの数々の大変な努力により、無事死守されたと、むしろ肯定的に捉える方が、ガリエヌスについての、妥当な評価なのではないか?と私は思うのだが。そして彼が帝国のこれらの地域だけは、必死に守り抜かなければ、この時代に文字通り、跡形もなく、ローマ帝国は崩壊していたのではないだろうか?
また、ポストゥムスのガリア分離帝国とゼノビアのパルミラ分離帝国の、各簒奪に対しては、ローマ人に好まれていた、敵に勝利して反乱者を帰順させる、というやり方ではなく、当時の帝国の数々の厳しい軍事情勢を鑑みて、彼らとはひとまずの妥協的和解という対処を取ったのも、これもある意味では、名よりも実を取った、現実的で賢明な対応、と言えるかもしれない。
おそらく、ガリエヌスのこうした対応は、当時のローマ人達からは大変な不評であり、また現代から見ても、あまりすっきりとはしない印象を与える、解決法ではあるが。
しかし、ではガリエヌスが依然として、いかにも典型的なローマ皇帝らしく、あくまで、これら失われた領土を奪回する試みを続けていたなら、確かに当時の元老院議員や軍人達、国民受けは大変に良かったではあろうが、その事により、甚大な兵力を消耗し、絶え間ない、他の数々の外敵の侵入に、対応しきれなくなる危険性をも、同時に孕んでいた試みにもなっていた可能性もある。

 ガリエヌスのこうした、必ずしも武力による、外敵の制圧というやり方にこだわらない解決方法は、あくまで現実を直視し、現在の自分にできる事の限界を悟り、無理をしない、という事だったのではないだろうか?また、天才的な軍人とまでは言えない、自分の事をも、よく知っていたがゆえの、彼のこうした判断だった事だと思われる。
そして更にまた、このような混乱した時代の中での、偶発的なものによる変則的な事態としてであり、またガリエヌスとは、いずれも敵対する人物達との間に成立するという、皮肉かつ、いろいろと問題も多い形としての、それとはいえ、こうした、ローマ帝国中央とアフリカやバルカン半島を保有する正統帝ガリエヌス、ガリアを中心とした、帝国西方各属州を保有するポストゥムス、そしてパルミラやエジプトなどの、帝国東方各属州を保有するゼノビア。
こうしてしばらくの間、彼ら三人の人物達により、帝国の防衛が担われる、という形態は、これもテトラルキアに近い状態であると捉える事ができるのではないだろうか?
まず初めに、二七三年にアウレリアヌスのパルミラ遠征により「パルミラ分離帝国」に相当する地域が元通り、ローマ帝国に再統合されるまでは、この防衛形態は、数年間の間、それなりに、効率的に機能していたようである形跡が見られる。少なくとも、こうしてしだいにローマ軍が攻撃に転じ始め、本格的な帝国領土奪回の段階に入るまで、ローマ帝国各地がペルシャや蛮族達などの外敵に蹂躙されるという事態は、回避する事ができたのである。

 もっとも、こうした、ポストゥムスとゼノビアらの皇帝僭称者達とその分離帝国の出現が、ガリエヌスのその皇帝としての立場を弱める事となり、更にこの事が後のイリリア人騎兵将軍達による、ガリエヌス暗殺の遠因となった事は確かであり、何とも皮肉ではあるが、この正統帝ガリエヌス、そしてガリア僭称皇帝ポストゥムス、パルミラ僭称女王ゼノビアという鼎立状態は、おそらく初めウァレリアヌスが開始し、その後ガリエヌスがその方針を継承したと思われる、テトラルキア体制の有効性を、こうした形で間接的ながらも、証明する事にもなっていると思われる。この三世紀には、もはやローマ帝国は、一人の皇帝では、十分な防衛をする事が、困難な時代に突入していたのである。だがガリエヌスを暗殺して、その後帝位を次々と襲った、クラウディウス、アウレリアヌ、プロブスなどの、イリリア人騎兵将軍の皇帝達は、依然として、ローマ帝国は、基本的に一人の皇帝により統治されるべきという、それまでの観念に縛られていたようであるが。おそらく、これも半ば偶発的に、そして半ば必然的に出現した、一人の正統帝と二人の皇帝僭称者達により、数年間の間、このように分割されて担当された、ローマ帝国の防衛、このテトラルキアに似た事態、というのは、あくまでガリエヌス個人の皇帝としての無能さによる、一時的・変則的な事態に過ぎないという程度にしか、捉えていなかったのではあろうが。
そしておそらく、この数々の帝国内外の簒奪や蛮族襲撃に悩まされていた、この時代のローマ帝国にとっては、実に有効かつ効率的な防衛体制である事が図らずも判明した、このテトラルキアが皇帝達に、本格的に取り入れられるようになるまでには、その事実上の考案者は、ウァレリアヌスであると想像される、このテトラルキアという防衛体制の、その有効性に改めて気が付く、ディオクレティアヌスの出現まで、あと三十数年は待たねばならない事になる。

 そして私はこの皇帝ガリエヌスの数々の、精力的かつ、当時の帝国の現状を見据えての、現実に即した、適切と思われる、数々の対応といい、彼の事も十分、英雄と呼んでも、良いのではないかと思うのだが。密接な関わりを持つ事となった、これら皇帝直属の機動軍などの、皇帝達に対して、強い力を持つようになっていた、これら軍隊の無言の圧力、そして相次ぐ反乱や外敵の襲撃などから、これらに対して必要な、満足な兵力にも、なかなか恵まれないという、これらの数々の圧迫感や困難に悩まされながらも、その単独統治中に、ガリエヌスにより、かなり精力的に行われている、数々の鎮圧や蛮族の撃退。それは確かに凱旋式を行なったり、奪われた領土を完全に奪回するなどという、わかりやすいタイプの英雄では、ないかもしれないが。いわば、無冠の英雄とでも、呼ぶべきかもしれない。
本当に、その彼の意志の強さや勇気、責任感や意志の強さには驚ろかされる。
各歴史書が伝えるように、けして女々しく無能な暴君ではなかった、その彼の真実の姿。
またこれと同種の事は、ガイガーも総括として、最後の方で述べているが、ガリエヌスの、その軍人皇帝としては際立って長い治世の間、共同統治者であった、父ウァレリアヌスや息子達などが、いずれも悲運に見舞われ、次々とその周囲から去っていく中、そのガリエヌスの治世中に、次々と現われた、数多くの簒奪者達、蛮族、元老院、ササン朝ペルシャなどの、帝国内外の数多くの敵を相手に、事実上、彼が一人で渡り合っている事自体が、十分評価、称賛されるべきではないかと思う。これらの事実一つだけを取っても、十分、この皇帝ガリエヌスは、英雄と呼ばれるに相応しい存在なのではないだろうか?

 しかし、本来は帝国の苦難を救うために、父親のウァレリアヌスと共に、より現実に即した、合理的・現実的・効率的な統治・軍事体制を構築したはずだった、ガリエヌスにとっては、自分が抜擢した騎兵隊長たちによる殺害という、皮肉・悲劇的な成り行きになってしまう事になるが。だが、ここまで彼の生涯を追い続けて感じた印象だが、私はガリエヌスの死は、彼個人だけの能力・対応に帰せられるべきものというより、三世紀からこのように絶え間なくローマ帝国に襲い掛かる、外敵の脅威により、皇帝の選出方法・条件が大きく決定的な変貌を遂げる、帝国の激しい転換期に遭遇したことも大きく起因してのものではと思う。当時台頭していきつつあり、その後の時代の、紛れもなく新たな主役となっていく、軍人勢力に淘汰されていく事になる、滅びゆくローマ名門貴族としての、宿命的な悲劇ではなかったか?と思わずにはいられない。
一時は、おそらく、まだ彼らローマの名門出身という出自に、期待を寄せるような風潮もあり、このような背景も関係し、父ウァレリアヌスと彼を皇帝という最高の立場にまで、押し上げる事にはなったが、当時のローマ帝国を巡る、様々な軍事的事情から、急激に台頭しつつあった新興勢力の、属州出身の、純粋な軍人階級のイリリア系軍人達からは、その元老院議員階級という、旧勢力に属する血統ゆえに、彼らは排除される事となったのである。
こうして、新時代に対応していく統治・軍事形態の土台を作った役割を果たしながら、結局ガリエヌスは、父親のウァレリアヌスと同じく、自分達の改革の成果が現われるのを、自らの目で見届ける事ができない運命だったのではないだろうか?

 確かに、このような、それまでの元老院政治に代表されるような、かつての帝国とは決定的に手帝国が変貌を遂げる、過渡期に遭遇した皇帝という事では、父のウァレリアヌスもそうだろう。しかし、私は彼の時よりもより激しく、決定的な過渡期に直面することになったのが、この皇帝ガリエヌスだと思う。おそらく、ローマ帝国の最も困難な時代の皇帝であったと思われる、皇帝ガリエヌス。そしてその真摯で数々の精力的な簒奪者達や蛮族達との戦いを始めとした、様々な努力にも関わらず、なぜ彼の敵対者達により成立した王朝関係者の手になるものとはいえ、ここまでさんざんに、各歴史書などの中で、酷評されて描かれることになったのだろうか?
そしてそれはやはり、彼の単独統治時代に、帝国内での数多くの簒奪、そして更に他にもペルシャや蛮族達などの外敵達の侵入が相次いで発生している事、特にその治世中にガリア他こちら方面の西方所属州とパルミラ他、東方諸属州の領土の喪失が起きているためだろう。

 

 またこういう場合、ひたすら、その時の皇帝の、その無能さに原因を求めて厳しく批判する方が、はるかに効果的かつ容易だからであろう。そして私は、他にこうした理由も、大きいのではないかと思う理由だが。彼以降のイリリア人軍人皇帝達のクラウディウスやアウレリアヌスなどが、ガリエヌスよりも、華々しい感じの軍功を挙げているため、自然とガリエヌスに対するその評価が、厳しくなりやすいのだろう。やはり、こういう厳しい時代の皇帝というのは、何かとプロパガンダの格好の対象として、利用され易いのであろう。

 なお、最後に述べておきたいが、この点については私自身も、大変に残念には思うのだが、ガリエヌスについては皇帝としてだけではなく、彼個人という人物についても、もう少し掘り下げる事ができたら、とは思っていたのだが。しかし、この三世紀の軍人皇帝時代の史料状況の劣悪さを大きく反映して、このガリエヌスについて、触れている四世紀の歴史書の中でも代表的な『ヒストリア・アウグスタ』の内容は、どれも奇抜で荒唐無稽な逸話ばかりである。
しかも、その内容も、しばしば、史実の歪曲や誇張や捏造なども頻繁に行われており、またその記述の調子も、全体に不謹慎・逸脱・悪乗り傾向が、大変に目に付く、何かと問題多い記述傾向でもある。そして更にこの点についても、既に何度も私が指摘してきた通り、この『ヒストリア・アウグスタ』の、ガリエヌスについての、そのいかにもステレオタイプの、数々の暴君的描写が、スエトニウスの『ローマ皇帝伝』の描写、特に暴君達についての、その数々の不品行振りを表わす逸話の数々に、かなり影響を受けている形跡が、感じられるという事である。言わばこの『ヒストリア・アウグスタ』は、『ローマ皇帝伝』の、劣化版とでも言うべき内容である。

 また、この点については、そもそも、私もこれまでにも何度か指摘してきた通り、どう
やはり、この『ヒストリア・アウグスタ』自身が、ガリエヌスについての章については、彼の事を典型的な暴君だとして批判する事自体を、そもそもの目的として、執筆されている疑い自体も、かなり強いという事である。更にこの歴史書は、二九七年に、コンスタンティウス一世に対して『ラテン頌詞』という、ラテン語での皇帝賛辞の演説を捧げている、ガリアの人物のこの演説内容の、その強い、反ガリエヌス傾向の内容をも、かなり参考にしているようだからである。
そしてこの『ヒストリア・アウグスタ』以外の、四世紀もしくはそれ以降の、皇帝ガリエヌスについて述べている、歴史書などの著作物も、いずれも、伝統的にガリエヌスの敵対者といっていい、彼を殺害して皇帝になった、イリリア人騎兵将軍達の、クラウディウス・ゴティクスやアウレリアヌスらと同じイリリア人系皇帝である、コンスタンティヌス朝の皇帝達と、いずれも近しい関係の、歴史家や教会著述家達ばかりである。
つまり、現在皇帝ガリエヌス及びその治世について記述している著作の、そのほとんどは、このように、ガリエヌスとは敵対的な立場の人物達により、書かれた著作ばかりなのである。
そしてこうした、彼ら当時の皇帝達自らも、しばしば、大いに関係している、こうした伝統的プロパガンダの影響が、当時の各歴史書の中でのガリエヌスについての悪評に、濃厚に感じられるのである。しかも、更にその上、この三世紀の混乱の軍人皇帝時代の劣悪な史料事情も関係し、大半は、既にこの歴史書の内容自体がガリエヌスに敵対的な傾向の強い『エンマン皇帝史』を中心として、内容が相互に書き写されたり、その内容に多少の脚色を加えるくらいの程度で、辛うじてわずかに、その違いを見せる歴史書ばかりであり、だからこそ、よけいに、一連の各歴史書が、ほぼ、ガリエヌス批判一色で、塗り潰されてしまっているのだろう。

 また、そういった傾向に加えて、更に『ヒストリア・アウグスタ』などの著者が、他のこの四世紀の歴史家のアウレリウス・ウイクトルやゾシモス、ゾナラスなどと同様、ガリエヌスの生きた三世紀からはかなり後の、皇帝ディオクレティアヌスくらいの頃の歴史家であり、明らかに五賢帝の時代に生まれ、少なくともハドリアヌス帝の時代くらいまでは、これらの皇帝と同じ時代を生きた人物ではないという、かなりの弱みをも抱えている歴史書である。そして当時のこうした史料事情の影響をまともに受け、これらの各歴史書の大きな特徴として、全体的にかなりガリエヌスについて否定的であり、様々な形で、その彼の皇帝としての無能振りを、何かと強調する意図を、感じさせる内容のものばかりであるという事である。
このように、皇帝ガリエヌスは、後の時代の数々の歴史書などにより、大変な誹謗中傷に浸かっており、そのため、彼個人の実像に迫る事が、大変に困難になってしまっている。
しかし、実際のガリエヌスが、上記の一連の歴史書に描写されているような、エキセントリックで、しばしば自制心を欠く、放縦で堕落した無能な暴君ではなかったらしい事は、この時代の、文献史料の質・量共の最悪さを補うものとしての、同時代の数々のコインや碑文などの内容も踏まえた、これまでの私の数々の考察や、史実上での彼の姿との、これら史料との描写の間に、しばしば見られる、大きなギャップの指摘で、明らかになっていると思う。

 従って、このような、一連の史料傾向もあり、彼の個人的な部分について触れている箇所については、信頼の置けないと感じる部分の方が、多過ぎると判断した。おそらく、これらの各歴史書中での、ガリエヌス自身やその妻達についてなど、こうした彼に関する、個人的な逸話に関する内容こそ、歴史家が一番創作をしやすい部分でもあり、そのため、必然的に、しばしば信頼できない部分が、より大きくなると考えられるためである。そのため、これら歴史書の中でのガリエヌスについての記述について、私が参考にした度合いとしては、主に彼のその政治・軍事行動の部分に限定してのみの、便宜的利用という形に留まった事も、断っておきたい。こういった理由のために、残念ながら、最終的には、やはり、このガリエヌスの皇帝としての姿を中心に、捉えていくという形になってしまった事を、ここでこうして述べて、終わりにさせてもらおうと思う。


 

参考文献

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利用情報

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利用年月日 2017年2月10日

John Bray 
Gallienus A Study in Reformist and Sexual Politics WakefieldPress 1998

Michael Gaiger  Gallienus   Peter Lang Verlag  2013

ローマ皇帝歴代誌 クリス・スカー 創元社 一九九八年
キリスト教の興隆とローマ帝国 豊田浩志 南窓社 一九九四年
軍人皇帝時代の研究 ローマ帝国の変容 井上文則 岩波書店 二〇〇八年
ローマ皇帝群像 3 京都大学学術出版会 二〇〇九年
エネアデス(抄)Ⅰ プロティノス 二〇〇七年 中央公論新社
教会史 上 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年
教会史 下 エウセビオス 講談社学術文庫 二〇一〇年


ローマ皇帝ガリエヌス四 帝国過渡期の悲劇の改革皇帝

2017年2月10日 発行 初版

著  者:狭山真琴
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狭山真琴

古代ローマ帝国に、以前から関心を持っていて、趣味としてですが、自分なりに関連洋書なども読んで、研究しています。どちらかというと、ローマ帝国前期の方に関心があるのですが、皇帝ガリエヌスについては、例外的に、関心があります。 最近も、まだ未読ですが、ドイツの研究者による、比較的信頼性が高いと思われる史料の、貨幣と碑文を主にした、ガリエヌスについての再評価の研究本が発売されているようであり、再評価の気運が出てきているのか?と嬉しく思っています。

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