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カトリック円山教会の建堂80周年にあたって作成された記念誌です。

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カトリック円山教会
献堂80周年記念誌

 

カトリック円山教会 献堂80周年記念誌作成チーム



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 目 次


カトリック円山教会 沿革と歴代主任司祭


カトリック円山教会献堂80周年記念事業のテーマ「私たちの福音宣教」


「私たちの福音宣教」アンケート集計結果


「私たちの福音宣教」についての 分かち合い


80年を祝して!


円山教会 齢80才に寄せて思うこと


献堂80周年に寄せて


80周年!!!


祝辞


未来へ戻ろう…カトリック円山教会80周年


神に導かれて


円山教会での20年に亘る会計部長として


円山教会での思い出


心に留めること


「福音宣言」しませんか?


編集後記

カトリック円山教会 沿革と歴代主任司祭

沿革

 円山教会は、1934年(昭和9年)、札幌教区の初代教区長であるキノルド司教が現在地に教会建設用地を購入したことに始まります。 教会建築に先立って翌年に「北11条天主公教会桑園日曜学校」を近所の借家に開設し、当時北11条教会の主任司祭であったアウグスチノ神父が付近の子ども達を集めて勉強会を開いたのが宣教活動の始まりです。
 1937年に教会が献堂されて、初代主任司祭にアウグスチノ神父が就任されました。当時の信徒数は120人でした。現在の信徒数はおよそ900人ですが、主日のミサに集まっているのは約300人ぐらいになります。

1937年12月5日
 献堂式:日本26聖人を保護の聖人とする
1954年4月
 さゆり幼稚園 開園
1959年10月
 ドイツから購入した鐘の奉納
1975年8月
 教会バザー始まる(後に友愛バザーとなる)
1979年11月
 新聖堂完成、献堂式。
1987年11月
 教会創立50周年 感謝ミサと祝賀会
2010年11月
 教会大改修 完了

歴代主任司祭

初代(1937年~1956年)
 アウグスチノ・ティシュリンゲル 神父
2代(1956年~1967年)
 浅井 正三 神父
3代(1967年~1978年)
 荒木関 孝 神父
4代(1978年~1988年)
 地主 敏夫 神父(現 司教)
5代(1988年~1989年)
 太田 哲也 神父
6代(1989年~1998年)
 近藤 光彦 神父
7代(1998年~2003年)
 荒木関 巧 神父
8代(2003年~2004年)
 勝谷 太治 神父(現 司教)
9代(2004年~2005年)
 橋本 力 神父
10代(2005年~2010年)
 エミール・デュマス 神父
11代(2010年~2014年)
 上杉 昌弘 神父
12代(2014年~)
 ケン・スレイマン 神父

(以上、https://goo.gl/4F0gih より転載)

カトリック円山教会
献堂80周年記念事業のテーマ
「私たちの福音宣教」

教区100周年に向けての勝谷司教のお言葉からも、今私たちに最も求められていることは「私たち信徒が宣教司牧の中心的役割を担い、建物にこだわらず常に宣教している共同体を作っていくこと」ではないでしょうか。そして、来たる献堂100周年に向けてのステップになるのが今回の80周年であると、私たちは考えます。

「私たちの福音宣教」アンケート集計結果

・アンケートは、2016年8月1日から2016年9月30日まで、実施した。回答総数は31件。
・対象者は、実施期間中及びそれ以前に、円山教会に所属していた関係者。
・アンケート回答の回収は、アンケート用紙およびインターネット上のアンケートフォームを使い、回答者は匿名で回答した。
・アンケート内容は、以下の5項目。
① あなたは、カトリック円山教会と、どのような関係ですか?(選択式)
②あなたは、一般信徒が「福音宣教」をすることについて、どう思いますか?(選択式)
③あなた自身は、過去にどのような「福音宣教」をしましたか?(自由記述)
④あなた自身が「福音宣教」をする上で、何か困難なことはありますか?(自由記述)
⑤あなた自身は、今後、どのような「福音宣教」をしたいと思いますか?(自由記述)

あなた自身は、過去にどのような「福音宣教」をしましたか?

・福音宣教とは「イエスのみことばを世に宣べ伝えること」とあります。みことばを宣べ伝えることそのものの行為はなかなかできないものですが、いろいろな教会の活動が宣教ということにつながっているのなら微力ながらでも参加させていただいていると思いたいです。

・ある会合で私がクリスチャンであることから、「聖書と倫理」について話題提供をしたことがあります。これが唯一の私の宣教と勝手に思っています。

・学校で宗教を教えたり、希望者に洗礼の話をしたり、先生たちや保護者にに聖書の話をしました。

・橋本師が勧めていた「み言葉の分かち合い」を荒木関孝師を交えて行っていた。次週の聖書と典礼の福音を使用し、主体的に福音を繰り返し読み、各自の心に響いたことを吐露しあうことで一体感が生まれ、次週のミサが楽しみになった。Sr.ゴシカの勉強会でも、み言葉の分かち合いをしている。

・意識していない。カトリック信者である事を必要なときは話す。

・若い頃JOCのメンバーだったので月1回「カトリック青年労働者連盟」という新聞を大通で一般の人達に販売し、アピールした。

・福音宣教とは特別なことではなく日々の生活の中で優しくおだやかにを心することだと思います。

・お便りのなかにみことば入りのカードを入れて送ると言うくらいでしたね。直接的に出来ることで思いついたことでした。

・プロテスタントからカトリックへ改宗するとき、キリスト教へ興味を持っている方に一緒に教理の勉強へ通うお誘いをした。

・自分が信者であることを公言し、日常の生活や行動を通して、影響を与えられたらと考えてきた。

・知人・友人との雑談の中でも、「私はこう思う」「こうだった」と話すことにしています。宗教や信仰の話は、その場の雰囲気で判ると思います。

・現在入門講座の寄り添いをしています。

・消極的ながら信者としての生活が福音宣教であると思っていたが、幼児洗礼の我が子でさえも信仰を離れたかのよう、深い挫折感を味わっている。

・①洗礼を望む方がお恵みを戴かれるように、お手伝いした経験があります。②子供達がキリストへ関心が向くよう、聖書物語を楽しみともに祈りました。③老父母が抵抗なく共同体に馴染めるよう、ミサに同伴し共に祈りました。

・会話の中で、キリスト教や聖書の教えについて、お話しました。

・自覚はありませんが、関わりのある方が信仰を得た経験はあります。

・自分の母親に通信教育による入門をすすめ、受洗の御恵みを頂きました。

・周りの人にキリスト者であることを知ってもらう(教会でミサにあずかっていること、教会の活動にたずさわっていることなど)。

・キリスト教がとても善いものと感じているので、感心のありそうな友人達を教会に誘っている

・各地でのボランティア活動を通して

・日々の行いや会話の中で、神様のみ心にかなうようにと祈ってはおります。その中で未信者の方に興味を示されたら、自分なりにキリスト教の良さを熱弁したりすることもあります。

・「福音宣教」のとらえ方は一人一人違うのかもしれませんね。「どんな福音宣教をしたか」と言うよりは、イエス様からいただき、感じている「愛」を自分の周りの人にも伝えることが「福音宣教」だと感じています。職場や友達が辛そうな時、一言声をかける事だったり、悩める人の話をよく聴く事だったり。そんなたわいもない日常の中に神に介入して頂く、それが「福音宣教」だと思っています。日々の生活が福音宣教ですね♪

・信者になりなさいと強制的に言ったことはないが、復活祭、クリスマス等一般に知られていることについて、聖書にも出てくるように事実であると。イエス様の存在を信じること。

・神父様ではないので、福音宣教をしたことがありません。普通の信徒が出来ることも知りませんでした。具体的にどういうことが福音宣教なのかも、厳密には分かりません。

・友人に「泥棒だろうと人殺しだろうと、神様は全ての人を愛しているはずだ」と言ったことがあります。

・①教会のイベントがある時、友人を誘った。②信徒でない人に、『何故、洗礼を受けたのか、また何故、教会に行くようになったのか等』の質問に答えた。

あなた自身が「福音宣教」をする上で、何か困難なことはありますか?

・今後、神父様の不足から勉強会のような宣教活動を一信徒が行うにあたって、知識や信頼が備わっていなければ難しいことだと思います。 やはり、教えを説くことは神父様が行い、そのサポートを信徒が行うべきではないかと思います。

・特にありません。

・自分で希望する人たちに話をするのはしやすいけれど 授業だからということで話を聞いている生徒たちには特別に技術のいることなので難しいと感じました。

・橋本師の勧める7段階法による「み言葉の分かち合い」に理解のないと思われる司祭が「このみ言葉の分かち合いは札幌地区で承認されていないと信徒に話し、せっかくの信徒による分かち合いが中断されてしまったことがある。自分の教会の協働司祭が認めているものを臨時に来た司祭がつぶしていく体質に福音宣教の困難さを感じた。

・「福音宣教」をしようと意識した事がないのでない。しようと思ってする事ではないと思う。それが義務になれば信者でいる事が重くなる。

・知らない人達に話しかけるのは勇気のいることだった。

・人それぞれに生き方が違いますので、理解されるよりも理解することを常に心がけ忍耐強くゆっくり話し合っていくことだと思います。

・直接お話をすると言う場面というものに出会うということがなかったように思います。模索中ですね。

・カトリックと言うだけで嫌な顔をされたことがある。

・日本人は信仰や宗教に対して関心がうすい。又キリスト教は外国の宗教というイメージなので話題としづらい。

・年代が高くなってからの洗礼でした。周りの人は「なんで?」「何があったの?」これは日本独特なのかなと思います。

・自分の力不足

・人々が貧しかった時代は人々は謙虚に信仰を求めたように思うが、現代のように生活が豊かになると切なる気持ちで神を求めない風潮ができ上がっていて、その中での宣教は難しいと感ずる。

・カトリックの教えにまったく興味を示さない人、偏見を持つ人、カトリックとは正反対な価値観を持つ人等々、周りにはたくさんいますが、一人ひとりにどのようにアプローチできるかが課題です。

・キリスト教徒なので、キリスト者として利用されることが、多々あって大変だったし、これから、そういう利用者の方達を警戒しないと、日常生活に支障をきたす

・状況に合わせることが大切です。困難と思うときは一歩引くことです。

・自分の解釈でキリスト教を宣教する際に、教理と異なる事を伝えてしまい、逆にキリスト教に対して誤解をされる事を心配します。

・臆病な自分

・ミサ以外に神が人間をどんなに愛してくださっているか、気軽に話せる場があることを願っています。イエス様と無関係な茶飲み場は教会以外でもできるので、もっと霊的に深い場があると福音宣教につながると感じています。

・日本は、個々の信仰より、祖先から受け継がれているそれぞれの家の宗教が根付いていて、それが自分の宗教になっている感があり、深入り出来ないジレンマに陥る

・同じ信者の仲間で、間違った宣教?伝道?勧誘?をされたというケースで、誤解されている未信者の方に会うと悲しく思います。また、自分も気をつけようと思います。

・信者の方々とミサの後、信仰、神についてザックバランに話したいのですが、色々とお仕事があったり組織化された中でゆったりと信仰を分かち合うことが、なかなかできないことです。また、せっかく教会に行っているのに教会で信仰や神様の話を自分自身も切り出せないことです (*_*)

・普段、御ミサに与ることがあるくらいで専門知識がありませんから、どうやったら、非信徒の方々に受け入れやすいことが出来るかも分かりません。

・「宗教」と聞くとカルトや悪質な勧誘と混同する人の態度。

・福音宣教のトレーニングをする機会や、福音宣教の実践の分かち合いをする機会がないことです。

・『宗教』というだけで、カトリックも新興宗教も他の宗教もすべて同じと1くくりに思われてしまうところ。

・言葉だけでは伝えられないと思いました。

あなた自身は、今後、どのような「福音宣教」をしたいと思いますか?

・ことばで宣べ伝えることは難しいし、得意ではないので、教会の活動を通して、行動で示していければと思います。

・福音宣教とまではいかずとも、機会があれば、基本的な考え方を紹介してゆきたいと思います。たとえば「汝の敵を愛せよ」とはどのようなことなのか。

・イエス様が宣教の初めにヨハネから特別な推進力を頂いたように また私が晴佐久神父様の「福音宣言」を読んで宣教の熱を燃やしていただいたように 神様の福音を皆に知らせたいという熱い思いを誰かに伝えることが出来ればと思います。

・所属する教会の司祭をサポートし、福音宣教のお手伝いをしたいと思っている。求道者への福音宣教は神学校で勉強し、叙階された司祭がすべきで、平信徒が自分の考えで求道者を導けるほど自分たちのレベルは高くはない。例えば要理担当者要請講座の講師を引き受けて受講者に話ができる信徒がどれほどいるであろうか。司祭と同等な福音宣教は我々には不可能と考える。

・神様の話が必要な時には自然にできるとよい。

・信仰を求めて教会を訪ねて来た人達にやさしく接していきたい。

・福音宣教とは人生の生き方です。愛されることよりも愛することを、理解されるよりも理解することを、とにかく忍耐強く話し合ってお互いに許し合いの心で。これは何よりも一番大切なことと思います。

・自分がこれまでに教会に行けないでいた時期があったのですが、そのとき出逢ったのがFEBCというインターネット放送だったのですが、その放送を通して随分と救われた自分がいます。円山教会でも教会員の声を発信できるリンクが是非欲しいです。

・興味のある方があれば、できるだけ自然に…。

・やはり神父様がかつて日本にキリスト教をもたらした時代のように積極的に宣教すべきと思うが、私達も折にふれてキリスト教にふれていまは幸せであると言うことを宣伝したいと思う。

・今まで通り、できる事をする

・求道中の方々がキリストの十字架に示された神様のいつくしみに心を向け 生き方の道しるべになるように、静かに寄り添いたいと思います。

・信者獲得のために戸別訪問する宗教団体もあるが、戸別訪問を受けた方の迷惑を思うと、それは難しいと思う。戸別訪問をされてとても迷惑と感ずるのに、他者に同様のことはできないと思う。自分がされてイヤなことを他者にはできないということです。

・福音宣教とは教えを説くことではなく、キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛して「キリストの愛に触れていただく」ことだと思います。これは自我に閉ざされた私には大変難しいことですが、心をキリストに開いて祈ることで、少しずつ出来るようになるのではないかと思います。

・これまでと同じく自然体で。

・特にありません。自然体でします。

・今回のアンケートを契機にして、一般信徒が福音宣教する際の注意点など、講習会などを受ける機会が出来ればと期待しています。

・神様のみ旨に沿って、考えたり、行動したりできるように。

・今後も友人を教会に誘ったり、神を信じることで、自分や信者が変化したこと(明るくなったり、いやされたり~)を伝えたいです。

・自分自身の生きざま(愛と感謝、ボランティアの行動で)カトリック信者を理解してもらう、自分自身の生きる姿勢で・・・

・自己満足や押し付けの形ではなく、自分自身がもっと真理を学び、それを隠さず表すことで、私も「神さまの鉛筆」になれたら、と願っています。

・私は自分が洗礼受けた時の環境で「祈りの家庭集会」があり、その中で信仰に導かれました。ですから円山の様な大きな教会だからこそ、コアグループで祈ったり、聖書を分かち合ったり、自身を語り気持ちを聴き合う事ができたらなぁと、思います。聖職者が少なくなって行くこれからだからこそ、そのような事が重要になるのではないかと思います。

・今まで通り問いには誠意をもって答えて、無理強いはしない。

・今の時代、教えだけを広めようとしても、なかなか受け入れられないと思います。個人個人の困り事を手助けしてあげるなかで、教えとの繋がりを知って貰うのかな、と思います。

・自分は今病気を抱える身ですが、これを通じて神がどれほど支えになっているかを知ってほしいです。

・「神はあなたを愛していますよ」というメッセージを、全ての人に届けるための方法論を確立して、志を同じくする仲間を見つけ、一緒に実践したいです。

・今後も変わりなく、何かお誘いしやすいイベントがあったら、興味がある知人に声を掛け、教会に誘い続けていきたい。

「私たちの福音宣教」についての
 分かち合い

・2016年10月某日:札幌市内某所にて実施
・参加者:Aさん(40代女性、成人洗礼)
     Bさん(50代男性、幼児洗礼)
     Cさん(40代男性、幼児洗礼)
     Dさん(40代男性、幼児洗礼)

〜アンケート回答集計結果を読んでみて思ったこと〜

B:「信徒が福音宣教すべきでない」という意見が1つもなかったことに、安心した。良かったなと思った。

A:私もそう思った。昨年の勝谷司教の話を、みんなキチンと聞いていたのかもしれない。

D:思ったよりも「主体的に」という意見が多かった。もしかしたら、ある程度若い(第2バチカン公会議以降に成人している)世代の回答者が多いのかもしれない。

C:福音宣教を固く捉えている人が多いように思う。誰かに神の教えを伝えるとか、洗礼に導くとか、それを福音宣教だと感じている人が多いように思う。

B:「福音宣教」とは何か、という捉え方が、人によってずいぶん違う、いろいろな考え方がある。「お説教のようなことは、勉強しないとできない」という意見がいくつかあるが、それはその通りだと思う。「福音宣教」を「イエス様の言葉を伝えること」と捉えると、それは聖書の言葉を伝えることになるので、キチンと勉強しないと難しいが、マザーテレサが「宣教とは説教することではない。私たちの存在そのものです」と言っている。そう考えると、知識というより、気持ちの問題であるように思う。

D:多くの人が「福音宣教って何だろう?自分が過去にしたことの何が、福音宣教なんだろう?」と戸惑ったという印象を受ける。

A:私も、「何を書けばいいんだろう?」とちょっと戸惑った。

B:「福音宣教をしないといけないと思うと、重荷になる」という回答が「信仰を持つと、大変だよ」という知人の言葉に重なる。福音宣教ってそんな難しいことじゃないと思うが、そう勘違いしている人が多いように感じる。

C:福音宣教の意味の捉え方が、人によってバラバラだと思う。個人的には福音宣教はそんなに困難さを感じることや義務とかじゃないと思うが、これだけ混乱しているなら、キチンと福音宣教を定義したらいいんじゃないかと思う。信仰を証することが福音宣教ではないか。

D:福音宣教に困難さを感じたことはあるかという設問は、他の設問に比べて回答者一人々々の切実さが滲み出ているような気がする。「宗教の話を出すと嫌われる」という趣旨の回答も多い。

B:自分は幼児洗礼だが、成人洗礼の人に「信仰を持つと、大変だよ」と言われたことがある。そういう発想は意外だった。幼児洗礼の自分としては、教会は自分の家のような、あって当たり前という感覚なので、そういう成人洗礼の人が感じる大変さはなかなか気づけていないかもしれない。そういう点からも「人に寄り添う」ということが福音宣教かもしれないなと思う。

A:そういう成人洗礼の人の気持ちもわかるような気がする。社会生活の中では、たとえば人の悪口を言うこともあるけど、信仰に照らし合わせて考えると、「人の悪口なんか言っては良くない」と思うわけだし・・・

B:勝谷司教は「これからの信徒はミサに与っているだけではだめだ。外に向かっていかなくてはならない」とおっしゃっている。まさに福音宣教のことだと思う。それは必ずしも知識の問題ではなくて、気持ちの問題だと思うし、一言で言えば、人に優しくすることだと思う。

D:福音と道徳や倫理を混同している人が多いような気がする。福音は別に「いい人でありましょう」というメッセージではないのではないか。そういう、人間としての倫理や道徳的側面で苦しんでいる人が、それがキリスト者としての生き方に反しているかのように感じているように思えることが多い。


〜福音宣教や信仰について、信徒同士が分かち合う場が欲しい〜

B:「信徒同士で信仰の分かち合いをする場が少ない」という意見がいくつかあったが、その通りだと思う。昔だと家庭集会がそれに該当していたと思う。そのような信徒同士の分かち合いの機会があると、信徒の信仰が成長すると思う。

A:私も分かち合いの場は欲しいと思う。

C:福音について分かち合うような場がないから、福音宣教ができないのではないか。

D:司祭にならなくても福音宣教することができる、そういう場があるということがもっとはっきりすると、もっと多様な福音宣教が行われるようになると思う。

C:特に成人洗礼の人こそ福音宣教のエネルギーがあるはずなので、自由に参加して、福音宣教について自由に語る場があったらいいと思う。以前は司祭を交えて酒を飲みながら、ざっくばらんな語り合いの場を持ったこともある。そんなこともいいかもしれない。

B:かつては司祭も若かったので、そういう付き合いもできたのではないか。


〜教会での人間関係と新しい人の受け入れについて〜

B:教会での人間関係でつまずく人も多いような気がする。人間の集まりなので、お互い欠点だらけなのだし、問題があって当たり前なのだが、外で居場所を見つけられない人が安心できる居場所を求めてやってきて、ここでも居場所を見つけられない、そして離れていく、というような。そういう、教会に傷ついて離れてしまっている人のことがとても気になる。

A:人とあまり関わりたくないという感覚を持っている人もいると思う。

D:教会がいわゆる「理想郷」ではない、ということははっきりさせておきたい。人を誘うときに、そういう誤解を与えないような誘い方をしたいと思う。

C:カトリックがご利益宗教ではないことは、はっきりさせたほうがいいと思う。

A:新しく入ってきて、しばらくの間は、あまり構われないことが正直寂しいと感じたこともある。円山教会は人数が多いから、誰が誰だか分からない状況があるかもしれないけど。

C:円山教会はクローズドな集まりが多いので、気楽に誰でも参加できる、出入り自由な場があってもいいかもしれない。それにしても常にその場にいるキーパーソンは必要なのだけど。


〜カトリックとプロテスタント〜

A:プロテスタントはウェルカムな雰囲気が強く、カトリックはそれに比べると固い印象かもしれない。

B:プロテスタントの葬儀に出席したときに、一般信徒が説教しているのを見て、すごいなと思った。

C:妻がプロテスタントだったので、プロテスタントの教会にもよく行ったが、普段から良く祈っているし、祈りが定型文ではなくて、フリースタイル。

D:プロテスタントは平均年齢が若い印象がある。それが熱心さの原動力かもしれない。


〜その他〜

A:外に向かって宣教するのは難しい。まずは教会内を大切にすることかなと思う。

C:自分の生活を通して、福音が伝わっていけばいいかなと思う。

A:教会に初めてきた人に「教会に来て良かった」と思ってもらいたい。

二〇一五年 クリスマスミサ
二〇一六年 トラピスト巡礼

80年を祝して!

第4代主任司祭 (現 司教)
地主 敏夫


 円山教会創立80周年まことにお目出とうございます。私は今年86才になりましたが、出生は「札幌郡藻岩村大字円山」となっており、幼少時は北1条教会で洗礼を受け、母と電車で通っていました。小学校に入る頃は札幌市外円山町となり、小学1年生の終わり頃、円山教会が出来て、自転車で通っていました。小学2年生の頃、10名弱の仲間と共に、円山教会初の初聖体授与式に参加し、楽しい時期でした。

 私の司祭生活は、司教館本部勤務9年、ローマ留学8年の他は、円山教会の司牧約10年のみでした。円山教会に赴任して驚いたことは、教会の新改築の計画が進行中のことでしたが、信者たちの協力のお陰で、ほぼ完成し、ホッとしていた時、司教に任命されたことでした。

 私にとって円山は故郷でもあり、教会創立時の少年期を過ごし、司祭として司牧体験をさせていただいた唯一の教会でもありました。

 私の人生と重ね合わせて円山教会に親しみを感じると共に、一層の発展をお祈り申し上げます。

円山教会 齢80才に寄せて思うこと

第6代主任司祭(現 真駒内教会)
近藤 光彦


”神は、かつて預言者たちによって多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終りの時代には御子によってわたしたちに語られました”(ヘブライ書)

 思えば、神は現代では円山教会を通して、世に人々に語りかけ働きかけておられる。そして、2017年の今日、その円山教会の齢は80才!!その間には、80の苦もあり喜びもあり、その度に祝福も・・!!また避けて通れなかった歴史に揉まれたこともあったろうし、様々の歳月を重ねてきたかと思うと、主イエスの生涯に何かしら似ているようにも見えてくる。主イエスと共に生きていると言うことか。

 しかし、神は今日もなお、円山教会を通して語りかけ働きかけておられる。そして明日もまた語りかけ働きかけ働きかけられる・・!!

 今フトその昔学生時代にしばしば聞かされた言葉を思い出す。
”すべては、神の、より大いなる栄光のために!!”

 円山教会も更に齢を重ね、神の豊かな祝福もまた重ねられ、神の国の完成のその日、その時に向かって、力強い日々がありますようにと祈る!!

献堂80周年に寄せて

第8代主任司祭(現 札幌教区長、司教)
勝谷 太治


 献堂80周年おめでとうございます。円山教会80年の歴史の中で、私が主任司祭をしていたのはわずか一年にも満たない期間でした。荒木関巧神父の後任として赴任し、まだいろいろとやってみたい血気盛んな若い神父でした。代々教区の重鎮司祭が円山教会を担当していましたから、若い神父があれこれ始めようとしていることに、危なっかしい眼差しを向けられていることも感じていました。最初の一年は何も変えず、自分の考えを理解してもらうための場を持つことに努めました。そして、理解してもらえたことから始めていこうと考えていた矢先の次の任地への異動でした。ゴールデンウィーク後に赴任し翌年のゴールデンウィーク前に移動したので一年に満たない期間だったのです。

 そんな短い期間でしたが、強く印象づけられたことがあります。それについて転任の時、教会報に次のように書きました。「失礼ながら予想に反して円山教会の皆さんは保守的な体制を維持し続けてきたにもかかわらず、私のビジョンに対しては非常に敏感に反応してくださいました。一年という短い間でしたが、その間私が確信したことはこの教会はやると決めれば非常に速いテンポで改革を進められるということです。… そのための人材も豊富です」。

 時が経って立場は変わりましたが、あのとき提示したビジョンは今の私が教区に提示しているビジョンと全く同じです。そして時の流れはあの頃より遙かに速い速度で多くの事柄について変革と対応を迫って来ています。変えるべきものと、変えずに守っていくべきものを識別しながら私たちは新たな時代に向かっていかなければなりません。その中で、変えてはならぬ宣教への熱意、初代の主任司祭アウグスチノ神父が持っていた宣教の熱意を、円山の信徒一人一人が引き継いで行くことを心から願っています。

80周年!!!

第10代主任司祭 (現 米メリノール宣教会)
エミール・デュマス


80年の神様の素晴らしい恵みと祝福!!!
神様に感謝と賛美の歌をささげましょう。収穫の主に感謝いたしましょう。
彼の祝福と恵みのために。
神様の豊かな恵みと愛はカトリック円山教会共同体の上に雨のように注がれました。

80年の間ともに過ごした神父、修道者、信者たち、彼ら羊飼いに賛美と感謝を。
彼らは自分の愛を通してカトリック円山教会の兄弟姉妹たちを養いました。生まれた時、死ぬ時、結婚の時、病院の信者、一人ぼっちの信者、悲しみ深い信者のために祈りと存在を通して支援されてきました。

過ちのために、神様の赦しと、癒しの恵みをお願い致しましょう。
信仰の弱い信者に出会った時。
神様の豊かな恵みと愛を示さなかった時。
かわいそうな人々の存在を見なかった時。
また、お互いのための祈りを忘れた時。

聖霊の導きと賜物のために願いましょう。
これからも信仰の共同体を通し信仰の旅を続けながら、教会に来る人々に神様の慈しみの愛を分かち合いましょう。
私達は信じています。
全ての人間は聖なる者です。
人間の姿は神様に似ています。
全ての人間は神様の家族です。
私たちは、神様の愛する娘、息子達です。
創造主である神様は命の源、愛の源です。
私たちもイエス様の兄弟姉妹たちです。
彼の母親マリア様は、私達の母と同じです。
イエス様は私達にマリア様を私達の母として与えられました。
マリア様は私達の母です。

私はカトリック円山教会のメンバーとして神様に感謝します。
カトリック円山教会のメンバーは永遠です。
私達は本当に祝福された共同体です。

80 YEARS!!!!!!!

80 years of God’s amazing graces and blessings!

Let us sing praise and give thanks to God
the Lord of the harvest the Master of the vineyard
for all the blessings and graces
God’s merciful love has lavished upon
Maruyama’s Roman Catholic Faith Community.

Let us sing praise and give thanks to the priests,
religious and lay leaders who have pastored,
generously nourished and ministered God’s people
from birth to death and blessing marriages in between,
comforting the sick, the lonely, the sorrowful
through prayer and in silent presence.

Let us ask for forgiveness and healing
for the times we have failed to be faithful witnesses
of God’s merciful, healing, forgiving Love
for the times we failed to be present to others
for the times we failed to pray for and with each other.

Let us seek the guidance and support
the Gifts of the Holy Spirit
as we continue on our journey of faith as community
sharing with all we meet the healing power
of God’s merciful Love
seeing and believing that all we meet are sacred
we all are made in the image and likeness of God
all of us are members of God’s family
sons and daughters of the Creator and Source of all life and love
all of us sisters and brothers of Jesus
Who gave us His mother Mary to be our mother!

I sing praise and give thanks to God for being a member of
Maruyama’s Roman Catholic Faith Community.
Once a member always a member!
How blessed and graced we are!

Fr. Emile Dumas MM

祝辞

第11代主任司祭(現 東室蘭、登別教会主任)
上杉 昌弘


 皆様、お元気ですか。私は、3年前の2014年4月に円山教会から(山鼻、真駒内からも)室蘭に送り出していただきました。この間ほぼ毎週、教区事務所や会議のため札幌に来ていますが、なかなか皆様にお会いできていません。円山でご一緒にミサに与かったり、病床訪問していた方々の訃報を聞くたびに、また天国でお会いしましょうと祈りました。これからも神様の計らいで知りあい信仰の交わりに入った皆さんのことは忘れずに祈り続けます。離れていても同志です。皆様からの祈りにも支えられていることに感謝しています。

 円山教会も創立80年を迎えられたとのこと。お祝いと感謝を申し上げます。そして80分の4年の期間、円山教会に主任として働けたことを誇りに感じています。

 キリストがご自分の体である教会をペトロという人間の土台の上に建てられて2000年、日本に福音が伝えられて470年、北海道に教会ができて160年、札幌教区が東北5県(当時函館教区)から独立してから102年目、こうした歴史に思いをはせます。考えてみると円山教会の80年は、まだ始まったばかりの若い教会であることに気付きます。この80年は基礎が形成された時であり、100年を迎えるまで後20年は次のステップへの準備期間と捉えることができるのではないでしょうか。

 円山教会は、宣教師、修道者、信徒の皆さんのキリストから与えられたミッション遂行への努力により、道内で2番目の信徒数の多い教会に成長しました。しかし高齢と少子化、建物の老朽化と資産減少は円山教会とて他と同じように課題なのだと拝察いたします。しかしそのことに捕らわれ嘆いていては、神のご計画を見誤ることになると、地方の教会にいて一層強く感じています。逆境の時こそ神のより頼む信仰を奮い起こし、司教のモットーである「弱い時こそ強い」とのみ言葉を信じたいです。私たちの知恵と力で行うのではなく、主がなおこの道を進めておられることを実感して、ついて(従って)行きましょう。新たに創り出す、宣教の業に励みたいと思います。数字ではなく、一人一人を大切にする主の愛をこそ、ご一緒に心がけてまいりましょう。

未来へ戻ろう…カトリック円山教会80周年

第12代主任司祭 ケン・スレイマン


愛する兄弟姉妹たちへ

 私達の最愛の教会の80周年、おめでとうございます。私はこのお祝いの手紙を書いていて、二つの聖書の箇所を思い出しました。一つ目はモーセの箇所です。

 申命記32章7節では、「遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。」と書かれています。教会の80年の歴史を祝うことは、私達の命に関する人々の人生を示しています。彼らがしてきたこと、そして神が彼らを通して共同体を作った事。祝福は聖書全体を通して記されています。饗宴、過ぎ越しの祭り、祝祭、踊り、ろうそく、教会建築、歌、食べ物、断食、洗濯、服、洗礼などは、祝福が神の民の文化であることを示しています。

 ですので、この年に立ち止まり、感謝し、楽しみ、私達の教会を建てた聖ペトロが言った「生きた石」について考えることは、とてもふさわしいのです。

 ローマ帝国が豊かで権力があった時代、帝国は国民が安全で簡単に旅ができるように国全体に道路のシステムを作りました。このたくさんの良く出来た道路は、ヨーロッパ全土やアジアで、今でも見ることが出来ます。ローマ人は「マイルストン」(1マイルごとの印)を作った人々でもあります。それは、どのくらい旅をしてきたのか、次の街までどのくらい離れているのか、目的地に着くためにどの方向に曲がるべきかを人々に示しました。

 私達の80周年記念は、私達がどこまで来たのかよく考え、これからどこに行きたいのかをよく考えるための大切な「マイルストーン」だと思います。立ち止まって私達の歴史を振り返り、昔からの神父、信者達の犠牲を深く祈りましょう。そしてこの先の計画をたてましょう。従って、この記念の年は、これまでの偉大な信仰に感謝し、神様に新しい信仰とこれからの挑戦について聞く時です。

 私達の教区の歴史のマイルストーンを考えるために、私は来年2017年11月26日のパーティで披露するための映画を作ろうと思います。その映画は過去の記念品や過去の写真で作るので、みなさんにも協力をしていただきたいと思っています。私達のお祝いパーティを準備するのは、楽しいプロジェクトです!

 私がカトリック円山教会での生活の中で思うもう一つは、ダビデ王の「詩編」121章1節に書かれている、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。」という聖書の箇所です。

 私がこの美しい詩編を想像するのは、もちろん私達が円山、大倉山、そして他の札幌の山々のふもとに住んでいるからです。札幌の山々のふもとに住んでいるカトリック教区の私達は、札幌での生活について特別な考えを持っています。ある意味で、私達は札幌の他の教会より天国に近く、神様に近いところに住んでいます。

 多くの日本人は山歩きが大好きです。なぜなら、そこには美しい景色、平和な雰囲気、そしてさわやかなよい空気があるからです。ある意味では、「山」は私達の教区にとって霊的なシンボルです。それは神の山です。そして私達は山にいる神様の家族です。

 ですから、80周年のお祝いは過去についてですが、過去は、自分自身、誰なのか、どこから来たのか、未来に向かっていけるのかを教えてくれます。未来に帰ることは、今年のお祝いの良いスローガンです。

 この記念年は、私達に信仰の旅はおもしろみのないものではないと思い起こさせるべきです。それは、神様が私達に求めている、前向きな旅です。過去の旅を祝うことは、神がこれから私達を導いてくれる場所、そしてカトリック円山教会の新しい時代において私達に何ができるかを考えるための誘いです。お祝いで私たちは、犠牲を払い愛を持ってこの美しい教会の共同体を作り上げてくれた、開拓者、計画者、夢を持った人、神父、司教、先生、男性、女性、子供達など私達の前のカトリックのすべての人々に感謝しました。神様、喜び、愛、健康、共同体の精神のある今年の私達を祝福してください。

 どうもありがとうございました。私が神父になるために助けてくれたことに感謝します。私の人生で一番幸せな年でした。

2016年12月12日


Back to the Future….80 years of Catholic Maruyama Church

My dear brothers and sisters,

Congratulations on the 80th Birthday of our beloved church. Two pieces of scripture pop into my mind as I compose this congratulatory letter. The first is from Moses. In Deuteronomy chapter 32 verse 7 he writes, “Remember the days of old; consider the years long past; ask your father, and he will inform you; your elders, and they will tell you.” Celebrating our church’s 80 year history shows us the lives of people who are connected to our own lives. What they did and what God did through them to build our community. Celebration is marked throughout the Bible. Feasts, the Passover, festivals, dances, candles, church architecture, songs, food, fasting, washing, clothing, Baptism, etc show that celebrating is the culture of the people of God.

Therefore it is very appropriate for us to stop this year and give thanks and have some fun and spend some time thanking the “living stones” as St. Peter said who built our Church.
When the Roman Empire was rich and powerful it built a system of roads throughout the Empire to help unite it and make travel safe and easy for the citizens. Many of these well constructed roads still can be found all over Europe and in Asia. The Romans are also the ones who invented the “milestone,” which told people how far they had traveled and how far to the next city and which direction they should turn in the road to get to where they want to go.

I think our 80th year anniversary is an important ‘milestone’ for our community to ponder how far we have come and to ponder where we want to go to in the future. As we pause and look back at our church’s history let us prayerful consider the sacrifices of our priests and parishioners from long ago and make plans for that which lies ahead. Therefore this anniversary year is a time to thank the great Faith of those before us and to ask God for new Faith for the years and challenges ahead.

In order to recall the milestones of our parish’s history this year I will be composing a movie of the it which I will show at the party next year on November 26, 2017. I will need all of your cooperation to compose this movie made from photos of people from the past and from the memorabilia of the past. It will be a fun project for all of us to prepare a party to celebrate us!

The other scripture I often think of living at Catholic Maruyama Church is from the Psalm of King David, “My eyes look unto the hills to my God who is my help (Psalm121:1).” I think of this beautiful Psalm of course because we live at the base of Maruyama, Okurayama and the other majestic mountains in Sapporo. We Catholic parishioners living in the mountains of Sapporo have a unique perspective on life in Sapporo. In a way we are living closer to Heaven and closer to God than the rest of the churches in the city.

Many Japanese love walking in the mountains because of the beauty found there and the sense of peace and the good invigorating air found on the mountains. In a way the ‘mountain’ is the spiritual symbol of our parish; it is God’s mountain. And we are God’s family on his mountain.

So, celebrating this 80th anniversary is about the past, but the idea that the past can tell us about ourselves, who we are, where we have come from so we can move into the future. Back to the Future is a good slogan for this year’s celebration.

Our anniversary should remind us that the journey of Faith is not static; it is a forward journey which God calls us to. Celebrating the journey of the past is an invitation to consider where God is leading us in the future and what role each of us can play in this new era of our Catholic Maruyama Church. By celebrating we are saying thank you to all those Catholics who have gone before us, the pioneers, planners, dreamers, priests, bishops, teachers, men, women and children whose sacrifice and love are the foundations of our beautiful church community. May God bless us all this year with joy, love, health and a spirit of community.

Thank you all and thank you for helping me to be your pastor….it has been some of the happiest years of my life.


Father Ken Sleyman, pastor of Catholic Maruyama Church, December 12th 2016

二〇一六年 復活祭
二〇一六年 教会学校サマーキャンプ

神に導かれて

カトリック円山教会 工藤 由基子


 献堂80周年を迎え、おめでとうございます。円山の地に根を下ろし80年、歴史の重みに圧倒されます。

 私は、中学生の頃から円山に住み、教会の門柱に「天主公教会」と表示されていたことを覚えています。カトリック入信の動機は、たまたまご近所に信者の方が住まわれていたことと、カトリック系の学校で学んだことも一因です。学生時代に歴史を専攻したことで、世界の動静は、宗教なくして語れないと悟りました。宗教とは何か、カトリックやプロテスタント各教会に各々通ってみることにしました。

 幸いなことに友人の紹介で、カトリック公教要理を学ぶ機会を持ち、これだ!と確信しました。当時要理を教えて頂いた神父様のお導きに感謝です。仕事の関係や転居も多く、教会の所属も転々とし、やっと2013年に円山教会にお世話になり、現在に至っております。

 心のバックボーンは、神様はいつも私と共に歩いて下さること。あらゆる事態に遭遇しても神様ならどうなさるのか、私はどうすべきか。宗教と社会生活との様々な矛盾、自我と無我との葛藤など、いまだに心が揺れ動きます。

 教会での皆さまの活動や、お人柄を通して、福音宣教とは仕事の大小ではなく共同体として、歯車の一輪となって動くことだと、ようやく年を重ねて得た実感です。

円山教会での20年に亘る会計部長として

カトリック小野幌教会 大戸 勇三


 円山教会献堂80周年おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。私は1974年(41才)で荒木関孝神父様により受洗しました。転勤族でしたので1985年(52才)で札幌勤務となり円山教会へ戻って参りました。1986年か1987年より、故東洋達雄先輩、奥村力先輩の協力を得ながら20年有余の間、会計部長として重責を果たして来ました。時は第二バチカン公会議の浸透による信徒会活動の活性化や見直しが盛んになりかけて、NICEⅠ、第1回福音宣教推進全国会議「開かれた教会をめざして」として1987年開かれ、又1993年にはNICEⅡが開かれ、教会活動の見直しが図られました。

 この様な中で札幌地区でも教区財政問題の検討委員会が設置され、各小教区に対して意見が求められました。この時に荒木関巧神父様に提出した意見書の原稿が見つかりましたので、現在までも解決できない問題でもありますが、今でも通じる意見だと考えますので、円山教会での思い出として、発表したいと考えました。


「財政問題検討委員会の提案事項についての私見」


1.当委員会の提案と主旨に賛成する(教区会計の一本化案)

2.各小教区が(と云うより各信者一人一人が)「教会共同体」をどのように考えているかが問題解決の鍵となるのではないか。

3.各小教区が教会費その他名目で集金した金は小教区だけの資金であるとの考えから脱却しなければならないのではないか。

4.各小教区が教会会計とは別に信徒会会計とか建築資金積立会計等の会計を別途持っている事にも問題があるのでは。

5.当円山教会では、信徒会の活動はイコール教会活動そのものであるはずであり、数年前より信徒会会計を廃止し教会会計に一本化としました。

6.教会会計も複式簿記を採用し、毎月の収支も年度の収支も余剰金の積立状況も一見して把握出来る様になって居り、勘定科目も本部勘定に統一しましたので、決算も全く簡単であり3月の月例の繰上げが即決算資料となります。すべてがガラス張りで本部へ報告されて居り、小教区財政の一本化には、いつでも対応出来る状態にあります。

7.毎月の余剰金は当教会の営繕見込資金としてプールされて居り、これも本部へ報告されています。

8.今後、小教区財政の統一化により、これら余剰金もすべて本部に一括吸収されると云う事には、いささかの抵抗が無いと云えば嘘になりますが、「教会共同体」を考えたり、収支の合わない(赤字)の小教区の事を考え合わせると、止むを得ない当然の事とも思われます。

9.小教区会計の一本化と云う事は本部会計とも一体となって統合されるべきで、案外本部会計が抵抗勢力となるのではないかと懸念されます。なぜなら、統一化とは、ガラス張りでなければならず、本部財政の内容も公開せざるを得ないと思うからです。

10.地方財政委員会が開催され、毎年度の収支予算決算と各小教区の本部経費分担金の割り振りが決められますが、毎年小教区だけの予算では最終的に赤字となり、これは常に本部会計(別会計)より補充され補填されている現状であり、この別会計が全く不明です。

11.しかしながら教会の事柄は民主主義の多数決で決める事ではありませんし、すべては司祭、司教様の判断と神様の意向に従うのみである事も承知しています。2002年(以上)

(追伸)「事に当たって」

1.まず目的をはっきりさせること

2.次に各小教区の財政状況を正しく充分に把握すること。(収支が黒字なのか赤字なのか、教会会計以外の特別会計の有無とその内訳、内容)

3.本部の意向(本音)と指導力の発揮

4.これは一種の措置改革です。信徒個人の意識の改革も必要です。

5.本当に教区会計が逼迫しているのならば、はっきりと公表しPRすべきです。情報の公開とPRが必要です。


 こんな事を提案しました。巧神父様は笑ってその通りだと云ってくれました。ありがとう!感謝!

円山教会での思い出

カトリック小樽教会 秋野 波留夫


 本当に本当に感謝の気持ちで一杯です。僕は、円山教会で橋本神父様や、エミール神父様、上杉神父様、そしてケン神父様に大変お世話になりました。皆様にも心からの感謝を申し上げます。病に苦しんでいた僕を、助けてくれました。ありがとうございます。優しさと慰めと勇気と平和と何よりも愛を溢れんばかりに、神様の祝福のうちに恵みとして与えてくださいました。僕の中で、これほどの実りはありません。僕は、これからの道をしっかりと歩んで参ります。お祈りください。主の平和のうちに、全ての人たちが互いに愛し合い、神様を信じ続けることができますように。いつまでもいつまでも、僕は忘れません。またお会いしましょう。私たちの主イエスキリストがいつも私たちと共におられますように。父と子と聖霊の御名によって、アーメン、アレルヤ!

心に留めること

カトリック円山教会 小宮 由里子


 「神に目を向けること」、「神様を第一にすること」神父様の言葉を思い出し、立ち返ります。

 「教会は組織です。信仰とは別です。」もうお一人の神父様の言葉です。正しく理解出来ているだろうかと思い返します。

「福音宣言」しませんか?

カトリック円山教会 安部 尚登


 「福音宣言」は、6年間で541名に洗礼を授けた、日本のカトリック教会で最も有名な神父様の一人、東京教区の晴佐久昌英神父様が提唱している、福音宣教のあり方です。

 ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、晴佐久神父様のお母様は円山教会の出身であり、円山教会とは縁の深い神父様です。個人的には、青年時代にいろいろとお世話になり、結婚式の司式をしていただいた神父様でもあります。そして「福音宣言」は、カトリック円山教会献堂80周年記念事業のテーマ「私たちの福音宣教」と深い関係があります。そのような理由で、以下に晴佐久神父様の「福音宣言」について、思うことを書かせていただきます。

 「福音宣言」について、晴佐久神父様ご自身が同名の本を書いていらっしゃるので、ここで詳細には触れませんが、簡単に言えば、福音は説明したり解説したりするものではなく宣言するものなのだ、福音を宣言するのに何の資格も特別な能力も必要ない、あなたが福音を宣言すれば福音それ自体がちゃんと働く、だからみんな、もっと福音を宣言しよう、ということです。

 「私たちの福音宣教」についてのアンケート集計結果を見ると、半数近くの人が一般信徒も主体的に福音宣教すべきだと答えている一方で、「どうやって福音宣教したらいいのか、わからない」「一般信徒が福音宣教することなんて、できるんだろうか」という戸惑いの声が少なくありません。そんな私たちにとって、誰でも福音宣言できる、宣言すれば福音それ自体がちゃんと働くから、という晴佐久神父様の言葉は、大きな励ましになるのではないでしょうか。

 ところで福音は、どんな言葉で伝えればいいのでしょうか?宣言するって、どういうことでしょうか?かつて晴佐久神父様が赴任しておられたカトリック多摩教会のホームページ http://catholictama.org/ の冒頭には、以下のメッセージが掲載されています。

もうだいじょうぶ。ご安心ください。神さまはあなたを愛しています。

 不特定多数が閲覧するホームページにこのメッセージが掲載されているということは、福音は全ての人に、カトリックであるかどうか、神を信じているかいないか、その人がどんな悩みや苦しみを抱えているか、そういったことに一切関係なく、ありとあらゆる人に向けて発せられている、ということでしょう。また「神さまはあなたを愛しています」と、神の愛についてキッパリと断言しています。全ての人に及ぶ神の愛について、全ての人に、はっきりと伝えることが、福音宣言なのだと思います。

 そしてこのメッセージには、キリスト教やカトリックの知識がないと理解できない用語は、一切使われていません。誰にでも理解できるし、誰でも宣言できる、まさに、特別な勉強をしていない、一般信徒である「私たちの福音宣教」にピッタリなメッセージではないでしょうか。

 「ホームページに掲載するのは簡単だけど、一人一人が宣言するのは、難しいよ」という声が聞こえてきそうです。確かに、全ての人が、このままのメッセージを、全ての人に対して宣言するのは、難しいかもしれません。でも、少しだけ形を変えて、宣言するためのアプローチを工夫すれば、誰でも、誰にでも宣言できるのではないでしょうか。私には、そのためのアイデアがあります。

 私は、「私たちの福音宣教」として、この「福音宣言」を実践していきたいと思います。ご一緒に、福音宣言しませんか?そして晴佐久神父様から直接、福音宣言についてのお話を聞きたいと思いませんか?興味のある方は、メールフォーム https://goo.gl/forms/bu4Oo8hSmaHDFy4c2 から、安部尚登までご連絡下さい。

二〇一六年 友愛バザー

編集後記

 「献堂50周年以降、福音宣教の記録が作成されていないのは寂しい」という趣旨の投書を受けて、献堂80周年記念事業準備委員会が発足したのは、2015年4月でした。1年間の準備期間を経て、献堂80周年記念事業実行委員会と献堂80周年記念誌作成チームが発足し、約9ヶ月かけて、この記念誌は作成されました。

 献堂50周年記念誌の豪華さには比べるべくもありませんが、「私たちの福音宣教」というテーマを掲げ、自分たちだけで読むのではなく、インターネット上で不特定多数に公開することによって、文字通り「私たちの福音宣教」を実践するものとなったことは、過去の記念誌になかった特徴かと思います。

 ご協力いただいた多くの皆様、特に主任司祭のケン・スレイマン神父様と、作成チームの菊池伸さん、佐藤英子さん、杉本結衣さん、福田恵一さんに、厚く御礼申し上げます。


2017年1月29日
カトリック円山教会 献堂80周年記念誌作成チーム
安部 尚登

カトリック円山教会 献堂80周年記念誌

2017年1月29日 発行 初版

著  者:カトリック円山教会 有志
発  行:カトリック円山教会主任司祭 ケン・スレイマン
献堂80周年記念誌作成チーム

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カトリック円山教会の献堂80周年にあたって作成された記念誌です。

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