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この本はタチヨミ版です。
あんなふうにできたら、世の中きっともっとラクショーなんだろうなと思う。
失敗した。
「佐藤さんはお戻りですか?」
そんな電話が、すでに二件もかかってきてしまった。
折り返させますと言っても頑なに遠慮される。きっと言いにくい用件なのだろう。経理担当にかける電話はそういうものが多いと、私も知っている。それだから余計に、二度、三度と電話をさせるのが申し訳なくてたまらない。
恵子が席を立った直後に、私のパソコンは恵子からのメールを受信した。送信時間は12:15となっている。今から一時間ちょっと前のことだ。その後、一度も席に戻っていないところをみると、恵子は昼休みをとっているのだと思って間違いない。
佐藤恵子はフラッと席を立って、そのままほわんと休憩に行ってしまうようなタイプの女性だ。近くのコンビニでコーヒーを買って戻ってくるのを週に何回か見かける。そういう十五分くらいの外出でも一声かけられるということはない。コピーでも取りに行くような感じで席を立ち、外の空気をふんわりとまとって帰ってくる。
恵子の離席中にかかってくる電話は私がとる。午前中全く鳴らなかった電話でも、こんなときにばかり、たくさんかかってくるから不思議だ。
「今、席をはずしているんですけど、たぶんお昼だろうから、一時間くらいで戻ると思います」
多少のタイムラグがあるとしても一時間あれば戻るだろう。私はそう予測して案内した。
けれど、それが間違いだった。
13:30、まだ恵子の席は空っぽのままだ。一時間前に話をした相手から、きっちりと電話はかかってくる。
「すみません、まだ戻っていないようです」
電話口で頭を下げて一通りお詫びをし、電話を切った13:35、恵子は戻ってきた。
「営業の田中さんからお電話ありましたよ。渡辺さんと川上さんからも。かけ直してくださると言ってましたけど、二度ずつかけてもらってしまっているので……」
「はーい」
私が報告をし終わらないうちにかわいらしく返事をして、恵子は財布をしまったり、パソコンの省エネモードを解除したりした。
これでお役目御免。とにかく伝えることができて肩の荷がおりた私は私の仕事を進めるべく、パソコンに向かう。区切りのいいところまでやって私も昼食にでよう。
そうこうしているうちに、また恵子の席の電話がなった。電話をもらっていた三人のうちの誰かだろう。やっと話が進む、よかったね、などと思いながら私は仕事を続けていたけれど、呼び出し音はいっこうに止まない。
ハッとして顔を上げると、恵子がいなかった。ぎょっとして立ち上がりあたりを見渡す。出入り口付近に恵子の後ろ姿がある。手にはコップと歯磨き粉を持っているのが見えた。
私はがっくりと肩を落とし、電話を取る。
「すみません、佐藤、いったん戻ったのですが、すぐにまた席をはずしてしまいまして……」
またもや申し訳ない気持ちでいっぱいになって謝った。
「今日は立て込んでいるようなので折り返させます。ほんと、すみません」
結局、恵子が席に戻ったのは13:50だった。
「お疲れさまです、佐藤です」
何事もなかったかのように、恵子は電話をかける。謝ったりしないのか、細かいことが気になる私は自分の仕事に集中できなくなった。
14:00、私はやるせない気持ちを振り払うべく、駅前までランチを食べに出ることにした。昼時の混雑も一段落した店でハンバーグを注文する。
ところがどうして、なぜかハンバーグはでてくるまでに時間がかかった。そわそわして待つこと20分、ジュージューと豪快な音をあげながら鉄板の上に油を跳ねさせた、美味しそうなハンバーグがやっとでてきた。
ふだんだったら大喜びで跳ねを眺めるのだけれど、今日はそうはいかない。大急ぎで食べねば、会社に戻るのが遅くなってしまう。
端の方からなんとか切り分け、次々に口に押し込む。
「あつっ」
焼きたてのハンバーグから熱い肉汁が染みだしても、今は嬉しくなかった。味わっている余裕が全くない。
クリーミーで若干甘いマッシュポテトは少しずつなめるように食べたいけれど、今日はフォークですくえる限界量までたくさんすくって、口にいれる。ねっとりして飲み込むのに時間がかかるポテトは全く嬉しくなかった。
グラスの水を口に含み、とにかく食べて、お会計を済ませると、私は全力疾走して会社に戻った。15:00、私は昼休みの一時間ギリギリで席に戻った。
「遅くなってすみません」
近くの席に座る人たちにむかって声をかける。もちろん、その中には恵子もいる。たいていの人は小さく会釈を返してくれるけれど、恵子の背中は動かなかった。聞こえなかったのかもしれない。
しばらくして、ふと顔を上げると、コーヒーの紙カップを手に恵子が席につくところだった。またいつのまにか出かけていたらしい。
「佐藤さん、さっき電話がありましたよ」
経理主任が声をかけ、恵子はかわいらしく「はーい」と返事をして、悪びれる様子もない。
私はまた少しやるせない気持ちになる。
たぶん、私のこんな気持ちは恵子には届くまい。
期間限定。この言葉に弱い人は多いだろう。
かく言う私も、期間限定入手可能キャラクターが欲しくて、ここ数日、夜中までゲームをする日々が続いてかなり寝不足気味だ。
「今日は経理主任がお休みされることになりました。なにか急ぎがあれば佐藤さんに相談してください」
眠い目をこすりながら参加した朝礼で上司がそんなことを言った。
月末近くに主任が不在では、かなり大量の代理対応に追われてたいへんかも知れない。心配になって恵子の方に目をやると、席に座る恵子のうしろ姿がいつもと少し違って見えた。パソコンの画面こそ、なにか開いてはあるけれど、視線は完全にうつむいてしまっている。数字とにらめっこしているのだろうか。右手だけはかすかに動いているようだ。
「がんばって」
私は心の中でそっとエールを送ってから自分の仕事にとりかかった。
単純だけれどやたら枚数の多い資料を作成し、次々と出力を続ける。用紙はこまめに回収すべきだと、わかってはいるものの面倒で、労力節約とばかりにぜんぶを出し終えてから、まとめて取りに行く。
席に戻ろうとしてプリンターに背を向けると、偶然、恵子の手元のスマホが目に入った。見覚えのある画面に恵子が指を滑らせている。
私は自分の目を疑った。さすがにまさか、それはないだろう。なにごともなかったかのように歩いて、恵子の席を通り過ぎる。もしかしたら見間違えということだってあるじゃないか。
私は自分の席につくと斜め前方に見える恵子の背中をじーっと観察した。
頭はうなだれ、視線は完全に手元にある。よく見ると右手が細かな円を描くように小さく動き続けていた。
やはり、この手の動きは間違いない。私は確信した。これはデフォルメされたキャラクターをつなげていくパズルゲームをしているときの動きだ。私ももうずっとはまってプレイしているからわかる。
けれど、それを今ここでする? あからさま過ぎる。誰かに見られちゃうじゃないか。
私がそんなことを考えている間にも、恵子の席の近くを人が通りかかっている。誰かの足音を、人影を、察知する度にヒヤヒヤしてしまう。
恵子は可愛いものが好きだって言っていたし、あのキャラクターたちで遊びたいのはわかる。新しいキャラクターを集めたくなるのもわかる。もっと言えば私だって、できることならゲームをしていたい。でも、今はそれが許されない時間だ。
そうこうしていると、恵子の仲良しさんがやってきて、恵子のデスクをチラッと見た。よく恵子が一緒にランチに出かけている女性たちの内の一人だ。
「経理主任がお休みになっちゃって淋しいんでしょ」
仲良しさんは確かに恵子のデスクを見たはずなのに、ゲームのことにはまったく触れず、そんなことを言った。
「まーねー」
恵子は視線をあげ、可愛く返事をするものの、手元を隠す様子はまったくない。
ヒヤヒヤする私がおかしいのだろうか……。
心臓に悪いから、今日はもう早退したい。帰って、それこそなにも考えずにゲームをしていたい。
頭がすっかりおサボりしているところで、目の前のパソコンにポップアップが表示された。メールの受信を知らせているだけなのだけれど、サボっていることを注意されたみたいなタイミングにヒヤリとする。
メールは恵子の正面に座る、新人ちゃんからだった。
「恵子さんが朝からずっとゲームしててヒヤヒヤするんですけど。しかもすごくヘタだし」
そっか、ゲーム下手なのか……。
このフロアにある唯一のプリンターが恵子の席のすぐ先にあることもあって、このあたりは人がやって来やすい。印刷物を取りに来れば、自ずと恵子のデスクを目にすることになる。今も本部長が、まさにプリンターに向かって歩いている。
ああ、どうしよう、ぜったい見えちゃうよ。どうしようもないとわかりつつも、落ち着かない。
顔をあげるとメールをくれた新人ちゃんと視線があった。新人ちゃんもきっとおなじ気持ちなのだろう。私と新人ちゃんは、お互い諦めたように首を左右に振り合った。
そっか、恵子はゲーム下手なのか。
私語のメールは速攻削除するのが女子のたしなみだ。私は新人ちゃんからのメールをゴミ箱に入れながら考える。
あの期間限定キャラクター、そろそろ恵子はゲットできているのだろうか。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年2月吉日 発行 初版
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読んでくださった方に何かをお届けできるような、そんな作品を作りたいと思っています。よろしくお願いいたします。