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シナリオ・センター大阪校

〒532-0011
大阪府大阪市淀川区西中島4-3-22
新大阪長谷ビル7F

06-6304-9524
http://www.scenario-center.com/

 目 次 
 ふるえる影  紅玻(くれは) 
 ユーカリの夢 島ちゑ    
 夫人との文通 出雲弘紀   

     

ふるえる影
                                  紅玻(くれは)

 地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅は混雑していた。大阪市内を南北に貫くこの地下鉄は、多分、大阪を走るどの地下鉄よりも、本数も、利用客も多い。加えて、京阪電車の始発駅でもあるので、そこを行き交う人の数は半端ない。
 岸川菜緒はやっとの思いで階段を上がり、外に出た。目の前に北側に伸びた橋、そしてその下を流れる土佐堀川。濁った水は、朝陽を受けてきらきら輝いている。
 昨日までとうってかわって、空気が少しひんやりとしていた。だが晴天だ。雲ひとつない真っ青な空が広がっている。そしてアスファルトには、歩く人々の影がくっきりと浮かび上がっていた。
 影が長くなったな、と感じる。すっかり秋なのだ。
 季節の移り変わりを肌で感じ取りながら、菜緒は思った。今年、三十三歳になった。商社で働く彼女の収入は悪くない。人間関係にも仕事にもずいぶんと慣れた。だが、結婚もしておらず、その予定もない。だから菜緒がいる狭い世界の中では、少々生き辛い感覚を覚えていた。
 菜緒は橋を北側へと異動し、遊歩道に入った。いくつか並んだベンチをやり過ごし、三井住友銀行の本店が正面に見える辺りまで行くと、空いたベンチに座った。鞄から携帯電話を取り出す。着信記録も、メールの受信履歴もない。液晶画面いっぱいに広がる八部咲きの桜が、とても無機質なものに感じられた。
 だが、何も音沙汰がないのは、津森亮太がこの場所に確実にやってくるというしるしだ。
「おはよう」
 頭の上から声が降ってきた。
 見上げると、いつもと変わらない亮太の穏やかであどけない笑みがあった。彼は三歳上だが、もう少し若く見える。
「おはよう」
 菜緒も応える。
「待たせたかなあ?」
「大丈夫。私も、今、来たばっかりやから」
 奈緒の隣に腰を降ろしながら「相変わらず人が多いね」と、亮太は漏らした。
 初めて出会ったころも、彼は、よくそう言っていた。不満なのかなと思ったが、そうでもない。
「こんなにたくさんいると、自分も、際立った存在ではなくて、普通なんだと思えるよ」
 幾度となく聞いた言葉を、亮太はこの日も口にした。
「際立ってもないし、特別劣ってもない」
 ホッとしたように息を吐きながら、「ほら」と言って、ポケットから缶コーヒーを差し出した。
「え?」
「え? ダメだった?」
 奈緒の小さな驚きにこだまするように亮太が訪ねた。
「ううん。私も、ほら」
 今度は菜緒が鞄から缶コーヒーを出した。
 亮太はそれを手に取って、言った。
「あれ? おんなじだ」
 缶コーヒーの種類なんて、いったいどれほどあるのだろう。パッと思いつくものを浮かべただけでも相当な数になりそうだ。その中から、二人が全く同じものを選んで買ってきたことに、驚いたのだ。
 これまで特に、こうして会うときに必ず飲み物を用意してくるという習慣はなかった。時に自分が飲みたい、ペットボトルのものを買ってきたことはある。それを二人で分け合ったこともある。だが、こうして相手のものまでも買ってくるということは殆どなかったのだ。
 ステキな偶然――。
 亮太との出会いも、彼との仲が深まっていったのも、この小さな、ステキな偶然の積み重ねだったように思う。
 迷った末に、やはり買うと決めて立ち寄ったブックファーストで、最後の一冊を惜しいところで逃してしまった。それを菜緒の手より一瞬早くつかんだ手が、亮太のものだった。
 同じ会社の中にいる彼と、親しく口をきくようになったきっかけが、そんな出来事だった。
 彼には妻子がいた。早くに結婚して、当時、三十三歳を過ぎたばかりの亮太の娘は、すでに小学校二年生だった。
 大阪に家族を引き連れて転勤してきたばかりだと言っていた。
「それで、さあ」
 もじもじと亮太が口を開いた。
 微笑ましく感じていた菜緒の思い出が、そこで止まった。
「出発は、今夜やったよね」
「うん」
「ここでこうして会うんも、今日で、終わりやね」
「ごめん」
 菜緒は亮太の横顔を見た。
 なんで、謝るの?
 あなたは、私に謝らなければならないことを、したの?
 言葉を呑み込んだ。二人の貴重な思い出を、どろどろとした嫌なものに変えたくはなかったからだ。
「向こうに着いたら、メール、するよ」
 昨夜も、その前も、メールも電話もしてこなかったくせに?
「いいよ。無理しなくて」
「でも」
 菜緒は缶コーヒーのプルトップを引いて、ごくごくと飲んだ。
 亮太は、おどおどしながら、菜緒のそんな様子を見ている。
「これ」
 菜緒は自分が持ってきた缶コーヒーを飲み干すと、亮太が差し出したのと全く同じものを掴んだ。
「おんなじものばっかり、いらなかったよね?」
 恐る恐る問いかけてくる彼に、首を横に振ってみせる。
「これは、今日の思い出」
 缶コーヒーを膝の上で両手で握り締める。
 こんな日にまで、重なる偶然――。
「そっか」
 亮太が缶コーヒーを持った菜緒の手を握ってきた。
「メール、して」
「え?」
「たまに来て。ちょっと遠いけど」
「でも」
「大丈夫だよ。そのときは、なんとか時間、作るからさ」
 亮太は、また屈託のない笑みを浮かべた。
「行けないと思う」
 さらりと言ってから、菜緒は亮太の顔を見た。驚きの中に、安堵が見え隠れする。
「安心、した?」
「い、いや、まさか」
 動揺を隠せないでいる亮太が、少し滑稽に思えた。素直な性格なのか、考えていることが割りと顔に出る。そんな彼を愛しく思っていた。
「じゃ、じゃあ、俺が、会いにくるよ。どうせ、出張もあるから」
ああ、そういうことか。家族が住んでいない場所の方が自由に動けるとでも言いたいのか。でも――。
「楽しかったなあ」
「え?」
「こうして出勤前に、ちょこっと会って、ああ、今日も元気なんや、って確認できることが」
 亮太は、菜緒の真意を計りかねるように、息を殺している。
「会社の中でも会えるのに、そこでは他人」
 携帯電話が普及したおかげで、こうした秘密の関係を保つのが容易になった。が、一方で、秘密が白日のもとに晒されることも増えた。
「ほんの少しの時間やのに、この場所と、ここで会う時間は、私にはとても特別やった」
「俺にとっても、そうだよ」
「でも、もう、終わり」
「終わりにする必要なんて、ないよ」
「まだ、わからない?」
「え?」
 菜緒は立ち上がった。
「菜緒?」
 亮太は今日を最後に大阪から去っていく。転勤だ。だが、その理由は、娘の喘息のためだった。
 彼の娘の喘息はかなり深刻だった。そのことを責めるつもりはない。家族のことを考えることは当然のことだとは思う。
 菜緒は振り返り、真っ直ぐに亮太を見た。
「本当に、たくさんの思い出を、ありがとう」
 それからすぐに亮太に背を向けて、菜緒は歩き始めた。
 自分の影が長く伸びている。彼の影もベンチに腰掛けたまま長く伸びている。その頭の先にきたときに、踏んでやろうと思った。すると、影が動いた。踏んでやろうと思った頭の部分が、菜緒の影に近付いてくる。
 振り返る前に、背中を抱きしめられた。
「菜緒、俺は、思い出にしたくないんだ」
「もう、無理」
 背中に亮太の感触とぬくもりを感じて、涙が滲んだ。
 菜緒と亮太、二人の影の区別がつかなくなって、揺れている。
「もう、遅いの」
「なんでだよ」
「お嬢ちゃんが、喘息なのよね? だから、異動を願い出たんよね?」
 菜緒の首筋に埋めるようにしていた亮太の唇から、くぐもった声が漏れてきた。
「知ってたの……」
「言ってくれればよかったのに」
 亮太の腕に力が込められていく。
「言おうと思ったさ」
「待ってたのに、あの日」
「ごめん。どうしてもトラブって、連絡もできなかった。やっと電話したときには、つながらなかった」
「どうしても、話したいことがあったのに」 
 菜緒は涙声になっていた。
「今、話して」
「話したら、どうなるん?」
 そう言っても、亮太は、菜緒の体を離さなかった。
「もう。人に見られるとあかんから」
 菜緒が静かに言うと、ハッとしたように彼は、やっと腕の力を抜いた。
 歩き始めた菜緒の背中に、亮太は「なんだったの?」と、問いかけた。
 立ち止まって菜緒は、もう一度、亮太を振り返った。
「赤ちゃんが、できたの」
「え?」
 亮太は驚いているのだが、それ以外の感情が読み取れない。
 また、菜緒は歩き始めた。早く、亮太の頭の影まで行こうと思った。なのに全然うまくいかない。どんどん彼の影が伸びてくる。
「あいつの喘息がよくなって、小学校を出たら、離婚するつもりなんだ」
 何年も先の離婚話など、不倫の常套手段だと思った。
「それまでは離婚しない。そう約束したんだ」
 だから、なに?
「それまで、認知もできないかもしれないけど」
 そう言って亮太はついに菜緒に追いつき、目の前に立ちはだかった。
「予定が早くなったというか、順番が滅茶苦茶になったというか」
「なに、言うてるん」
 呆れてため息をつく菜緒の両肩をしっかりと掴んで、亮太は続けた。
「あと四年か、五年、待っていてくれないか?」
「は?」
 待たないから。待つ理由もないから。
「生んでくれないか? その子を」
「え?」
 菜緒は一瞬、呆然とした。
――なに、言うてるん?
 今さら。
「できるだけのことは、するよ」
「でも」
「俺も、会いたいよ、その子に」
「でも」
 菜緒は、下腹の辺りをぎゅうっと掴んだ。
 もう、遅い。もう、会われへん。
 ついに涙が頬を伝って落ちていった。
「ごめん」
 やっとのことでそれだけを言うと、菜緒はまた歩き始めた。
 濁った川の水がきらきらしている。足元を見ると、うなだれた亮太の長い影が見えた。視線を戻すと、たくさんの人たちが、御堂筋に面した多くのビルの中に吸い込まれていく。
 菜緒は、そんな日常の朝の景色をぼんやり眺めながら、病院の白い壁を思い出していた。
「ごめんね」
 麻酔から目が覚めたときに呟いた言葉を、もう一度、唇の中で反芻した。
「ちゃんと会えなくて、会わせてあげられなくて、ごめんね」
 下腹の奥に、命を引き裂かれたような痛みが残っているように感じて、菜緒はそこを押さえた。
 影が小刻みに震えている。そんな自分の影をみつめながら、何度も「ごめんね」を繰り返した。
                             終

ユーカリの夢                                         島ちゑ

「綺麗にきかざったあんたを競馬へつれてって大穴をあてるんだ、そしてあんたをもっともっと綺麗にしてやる、と決めたつぎの朝、おいらは馬車に撥ねられ死んじゃった、セラヴィ、セラヴィ、セラヴィ、それが人生さっ! ミャ、ミャ、ミャ、ミャ、ミャーン!」
 と燕尾服の黒猫のピエロのジョージがしっぽをくるりとまわして歌いおえ、アコーディオンを奏でる指をとめた。肢体すこやかにコケットカンカンを踊りおえた踊り子の桃のドレスの裾からは黒いレースのペティコートが花ひらいた。黒いレースのビスクドールのおさないユーカリは、おっ父のジョージのすりきれたシルクハットをさかさに、テントのまえのお客からお代をもらってまわった。メルシー、メルシーと膝をそろえてお辞儀するユーカリに、お客はお代をはず
んだ。ジョージはぴゅんぴゅん撥ねた黒髭にみえかくれする水色の泪の化粧のなかでユーカリにほほえんでいた。桃もふぅふぅ息をしてユーカリをみまもっていた。
 ジョージはふるさと越前の浜におとずれたテント芝居に魅せられ、ふるいならわしにがんじがらめになっている漁師の父を継がず、たくさんの人に夢を売る劇作家になることを自分にちかった。みたび目に浜におとずれたテント劇団に本を書かせてほしいと願いでて、旅についてきて本を書くならといわれ、ジョージは家をでた。ついてきた幼なじみの雪は旅すがらユーカリを生んだもののそのときに亡くなった。ユーカリをつれてジョージは本を書いてきたが飯は食えず、黒猫のピエロも演るようになった。コケットカンカンの桃は、もとはサーカスで空中ブランコの踊り子をしていた。或る日、手と手をとりあっていた恋人が落下し、かえらぬ人となった。あいかたをうしなった桃は宙ぶらりんのきもちのまま劇団の世話になり、いつかは世にしれた踊り子になるほのかな夢をもっていた。初秋の熱海の浜にすずやかな夜風が吹いた。テントにしつらえたちいさなベッドのなかでユーカリは寝つけず、ジョージと桃がささやく声を聴いていた。
「週あけはいよいよ、浅草だね」
「あいまにひとっ走りして、今、書いてる本を文芸協会に持ちこむ。女優の松井須磨子がいるんだ。桃だって浅草オペラにいけばいい」
「あたしは、あんたたちをみとどけたあとでいい。ね、どんなおはなしを書いてるの?」
「女の子が夢を叶えるおはなし。題名は、『ユーカリの夢』っていうのさ」
「ユーカリが聴けばよろこぶね」
 ユーカリはぱっちり眸をあけ、そして布団をきゅっとだきしめた。それからジョージはランプに火を燈して、原稿を書きつづけた。
「惚れてんだか、惚れてないんだか、セラヴィ」と桃は浜で夜風に吹かれ、くちづさんだ。
 あくる日ぐっすり眠っているジョージをテントにのこし、桃とユーカリは出店で魚や野菜をみつくろった。ジョージとはひとまわりほど年したの桃は、ユーカリの姉にみえてもおかしくない。魚の行商人が、姉妹で仲がいいねぇと声をかけた。あたし、おっ母にみえないんだね、と桃は鼻にクシャッと皺をよせ、ユーカリにほほえんだ。ユーカリは桃ねぇにおっ母になってほしいなぁと思い、桃のてのひらをにぎった。桃は恋人でもないジョージを心のたよりにしてここ
までなんとかこれた、芸をやっているというだけでまるで遊び女かのように女を玩具とも思わない男ばかりのなか、志のつよいジョージがまもってくれたからこそだ。自分のことはあとにして、いっしょけんめい尽くそうと、ユーカリのてのひらをにぎりかえした。そのとき地面がわれた。行商のテントがのきなみくずれ轟音がひびいた。桃はユーカリをだきしめた。とおくみるみる波がたかまった。逃げろぉ、丘へぇ、山へぇ、と男たちが叫んだ。
「浜に、この子のおっ父がいるんだよ!」
「浜は浜で、てんでんこじゃ、津波はみんな、てんでんこじゃ、早よぅ、早よぅ」
 と人にのみこまれ、桃とユーカリは丘へ丘へとおしあげられていった。
 ジョージは波にのまれた。
 大正十二年九月のことだった。

 桃はユーカリを越前の里へとどけることにした。ユーカリのおばぁが里にいることをジョージから聴いたことがあり、おばぁと棲むのが幸せにちがいないと、身よりのない桃は思った。旅芸人にまじり芸をした。お金をつくらないことにはユーカリをとどけられない。
桃は曾根崎心中のお初も演ればカルメンも踊った。原稿用紙ごとテントごと夢ごと波にのまれたジョージのぶんユーカリをまもり里にとどけなければと、そのころは夜なかに咳がとまらなくなり、かくれて薬草を煎じて呑んでいた桃は、それでも笑顔をつくろいけんめいにはたらいた。ユーカリは夜ごとテントで山中で、おっ父、と泣いた。越後獅子を舞っては、さかさの編み笠に、ビスクドールのオルゴールを舞っては、さかさのシルクハットにお代をあつめにまわったが、ユーカリからは笑顔がうせた。テントでいくども桃は男にねらわれそうになった。女ふたり旅だからって餌食にされたんじゃたまらないと、桃はテントに別れをつげた。それからは旅芸人の馬車にまじり、獣におびえ夜露をしのぎ、衣装道具と太鼓をしょいながら越前へと旅をつづけた。そのうちに桃はチャコールグレィのインバネスをはおい男装をすることにした。苔に目ばりを塗ってつくったつけ髭の桃をみて、ユーカリがはじめて笑った。
 のこりひとつ峠を越えれば海もまぢかというのに雪はふりつづけた。雪どけをまちながら田楽能舞の面うちのおじぃの庵にながらく世話になった。夜更けになると咳こむ桃に、これはよぅ効く薬草じゃとおじぃが煎じてすすめてくれて、ユーカリが桃の肩と背なかをぽんぽん叩いてくれて桃のきもちよさそうな横顔をのぞきこんだ。家族をしらない桃は、これが家族のぬくもりのようなものなのかもしれない、ユーカリをだきしめてはなさず、このぬくもりにしがみつくことができるものなら、と思ったりもした。ほし魚をいぶすいろりのまえで面をかむりメルシーとお辞儀するユーカリに、燈し火に頬を染めた仙人のようなおじぃがまぶたをほそめたりもしたが別
れをつげ、ようやく里についたのは初春のころだった。おばぁの家につくと、襖のすきまから臥せているおばぁがのぞけた。いぶかしげに遠縁のおじやんがでてきて、ふたりの道具をみやった。桃はいきさつをはなした。
「こども買いに売るなら、べつだでぇ」
 桃はピッとおじやんの面に唾をひっかけてやって、ユーカリの手をひいて走った。
 桃はユーカリをつれて里のようすをみてまわった。漁師の家のうらのわらぶきをのぞくと、おさないおなごがたくさん、うちよせる波の音とカモメの鳴き声にまざりとんとんとんとんと、はたで縞を織っていた。これならユーカリにもやれるかもしれない、桃はそう思い、
「綺麗だね。ユーカリも織ってみる?」
 とたずねるとユーカリは首をよこにふった。
「織るんだよ! おっ父の生まれ故郷で、かたぎになって、暮らすんだ!」
 遊び女のようにあんたを弄ばれるもんかとつい声をあらげた桃にユーカリは首をよこにふり、桃のてのひらをつよくにぎり、もぅ、いこうよぅ、とひっぱった。そのとき、ユーカリよりすこし年うえの男の子がわらぶきから駈けでてきて、泥まみれの道具をしょったふたりを、びっくりしたようにみつめた。ユーカリは少年にほほえんだ。少年は頬を赤らめとまどったが、すぐにあどけなくほほえみかえした。
「坊や、あたしは、ちょっと、お宮のご不浄へいってくるので、妹をみていてね」
 と、桃はその場を去った。ここでユーカリと別れられる、棄てるんだ、と桃は思ったものの、ちろちろゆれる楠の葉かげにかくれてようすをうかがった。
「あれは夢の縞っていぅんじゃ。よぉけの漁師が夢の縞でうるおぅとるんじゃ」
「綺麗だな」
「おっ父とおっ母にたのんじゃるから、いっしょに織るか」
「うん!」
 と眸をかがやかせてこたえたユーカリに、桃は、そうか、そうなんだね、今なら棄てられるんだね、と決めたがそこへ少年のおっ母らしき女があらわれてユーカリを一瞥し、少年を家のなかへどつきこみ、木戸をびしゃんとしめた。ユーカリはうつむいてしゃがみ、しばらくそのままでいたが、ようやくとぼとぼ歩きはじめた。浜から坂路をのぼりお武家通りへ、お武家通りから神社にたどりついたユーカリは、境内で膝をだいて坐りこみ、泪をぽとっとおとした。すると背からおなかへ燕尾服のような不思議なもようの黒ぶちの子猫が、燈籠から狛犬へ、ひょい、ひょいと、飛んではかくれてユーカリの泪を心配そうにのぞきこんだ。下駄の音を玉砂利にからから
ころころ、さがしたよぉと、桃が駈けよってきた。
「ね、いいことしょう、お風呂、はいろっ」
 と桃はしゃがんでユーカリをのぞきこんだ。浅水川の河原へいき、ふたりははだかになって水をかけあった。手ぬぐいでユーカリの体の垢をごしごしこすりながら、
「ごめんね、好きになった男の子のまえじゃ女の子はかがやいていたいね、もっと綺麗にしてやっていたらよかったのに、楽屋風呂にもながくはいってなかった。旅籠やどにもながくいけなかった。あたしにおっ母のかわりは、できなかったね」
 となんどもユーカリにあやまった。ユーカリはわけがわからず、こそばゆいよ、こそばゆいよと、きゃっきゃ笑った。そしてさっき店でみつけてきたあたらしいこどものひとえの着物を、桃はユーカリにきせた。
「よし、ついておいで」
 ふしぎそうにみあげるユーカリに、
「綺麗な夢の縞を織りたいんだろ?」
「織りたかない」
「さっきの坊やなら、まもってくれる」
「織りたかない、いっしょに、旅する」
 ユーカリは、別れたくない、おっ母とよばせて、おっ母とずっといっしょにいる、と体じゅうをふるわせて桃にしがみついて泣いた。桃はユーカリにしゃがみこんで空をみあげた。
「ユーカリは夢を織るんだ。あたしも夢を織る、ほら、あの橋をみてごらん」
 桃の指さした浅水川のむこうには、夕陽に染まり、朱色の大きな橋が架かっていた。
「おっ父も、夢を織っているんだよ、ほら、みえるでしょ?」
 橋のむこうの茜空で、燕尾服をきたジョージと黒猫の子猫が、
「『ユーカリの夢』、いざ、はじまり、はじまり」
 と両手をひろげてお辞儀をした。
「おっ父!」
 と、ユーカリの眸がきらきらかがやいた。
 桃はユーカリのてのひらをしっかりにぎった。
「さぁ、ユーカリ、かならず夢をもって生きるんだ! あたしもきっと、夢を叶える!」
 ふたりは橋をわたっていった。
                             終

夫人との文通                                         出雲弘紀

 私には夭折した友がいる。大学時代の友人で、何かにつけてミーハーの私とは対照的な沈思黙考の学究タイプだった。
 大学の友は、小中学校の友人と趣を異にする。地域に根差した幼馴染みというべき小中学校の級友と違い、学問的関心と思想を持って大学に進学してくる学生には誠実さと将来への確たるビジョンがあった。
 若者の特権として、映画館に足を運び、雀荘で卓を囲み、歌声喫茶で大声を張り上げ、合コンならぬ合ハイで他校の女子大生と語らうこともあったが、彼の下宿で講義の課題レポートを作成しながら時事問題に激論を飛ばすことも多かった。大学紛争の最中にあり、私は二十歳の青春を私なりに謳歌していた。
 私がサラリーマンになり、彼が公務員となって十年目、彼が突然この世を去った。若い妻と幼い息子が残された。それから、四十年近く、夫人との文通が続いている。
 季節の変わり目を告げるように届く手紙には、子供のためにも自分がしっかりしなければと、働き始めたことが綴られ、その後、息子が小学校に入学したこと、中学校を卒業し高校受験にパスしたこと、大学を卒業し入社の初月給でセーターをプレゼントされたことなどが達筆で記されていた。
 そして、直近の手紙は……パソコン通信のメールとなり、『息子夫婦と同居しました。二歳になった孫の腕白ぶりに手をやいています』と短文の中にも穏やかな生活がうかがいしれるものとなった。
 メールには追伸があり、『孫が斜視ぎみなのが少し気になります』と、関心事が孫に移ったことが読み取れる文章がつけられていた。
 そう言えば、友も斜視だったと思い至った。亡くなった友は歳を取らない。目に浮かぶのは、長髪でジーパン姿の彼だ。議論の際、私を正面からじっと見つめながら自説を説く彼だが、斜視のため視線が合わない。意見の対立はあったが、激昂して怒鳴り合うことがなかったのは、今にして思えば彼の斜視のせいだったと思えてならない。
 だから私は、『斜視も個性のひとつだと思う』と返信した。当人がもう少し大きくなって、気にするようなら、本人に納得させて手術すれば良い。今では危険性の少ない手術だと聞いている。私は、この考えに満足し次の便りを待つことにした。
 『宇宙遊星間旅行って絵本、ご存じですか』
 メールは唐突に始まっていた。そして、 『地元名産のそうめん、送りました』とあった。
 早速、児童図書館に出かけた。子供達が、グリーンの絨毯の上で、思い思いのスタイルで絵本を読んでいる。正座の苦手な私は、足を投げ出し壁に背をもたせかけて、絵本を読んだ。
 『チコはいつも望遠鏡を持っていた。もし、チコが斜視でなかったら、こんなにも望遠鏡を持ち歩いたりはしなかったであろう』で始まる話は、自分が斜視であることを気にして、他人に気づかれないように望遠鏡をのぞくことで片眼をかくす少女が、逆に望遠鏡から自分自身を見つめ直すことを教えられるところで終わっている。
 孫を膝に乗せて、絵本を読み聞かせる夫人の姿が目に浮かぶ。ふっと思いがけなく笑みがこぼれる。
「おじさん、その絵本、面白い?」
 気がつくと、両手で恐竜図鑑を抱えた幼児が、絵本を覗き込んでいる。
「おじさんは、思い出し笑いをしていたんだよ。良かったら、読んでみる?」
 頷く幼児の恐竜図鑑の上に、私は絵本を重ねてやった。
 礼状をメールでする訳にはいかない。私は普段より少し目を遠ざけながら、便箋に稚拙な字を綴ってゆく。
 『久しぶりに児童図書館に出かけました。小さな子供達の好奇心に溢れた瞳に出会うと思わず笑顔になります。推奨の絵本、読みました。お孫さんのこと、息子さん夫婦とよく相談するといいですね。今までは、あなた一人で何事も決めなければならなかったけれど、これからは、相談相手がたくさんいるじゃあないですか。
 また、この度は美味しいそうめんを頂き、ありがとうございました。季節のご…』
 と、そこまで書き、筆が止まった。
 パソコンで文字を打つようになり、漢字を随分忘れている。私は急いで国語辞典を引き『挨拶』の漢字を探した。目を辞典に近づけ、虫眼鏡で確認する。虫眼鏡の丸いレンズの中に拡大された『挨拶』の文字が現れる。見つめる私の目に『挨拶』と隣り合わせの『愛妻』の文字が飛び込んで来た。
 斜視で笑う友の顔が浮かんだ。
「お前の愛妻は、頑張っているぞ。立派に子どもを育てて、今は孫の将来に目を向けているぞ」
 私は、虫眼鏡の中の涙でぼやけた『愛妻』の文字を見つめていた。
                             終

第七回 ノースアジア大学文学賞 優秀賞受賞作品

分泌【第2号】

2015年5月22日 発行 第2版

著  者:シナリオ・センター大阪校 小説クラス
発  行:シナリオ・センター大阪校

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シナリオ・センター大阪校 小説クラス

シナリオ・センター大阪校は、創立41年目の、シナリオ作家や小説家を育成するための学校です!

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