spine
jacket

重ねてきた年月の中で
薄れることなく記憶に残っている、
人や出来事や言葉なんかを
忘れないように、忘れぬうちに
書いておこうという本です。

記憶の残りもの
人はそれを思い出という


なんてことない
ひとりぶんの思い出
一息つきたいときにでも
読んでみてもらえたらいいです。

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のこりもの

JUNC

JUNC出版



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 目 次

残言 怒らへんから言うてみ

残言 明日死んだらどうするん

残言 もうこれでこわくないで

残言 目ん玉を取り出して洗う手術

残言 クジャクは3時に羽をひらく

残言 まず自分から好きになれ

残言 あんたは私の分身やから

残事 花摘み少年と埋もれた棺桶

残事 50円玉貯金だるま涙

残事 人工すきっぱ

残事 青オニさんの皿

残言 年中笑顔

残言 怒らへんからキャプテン

残言 空気のようやな

残言 貸したノートの答え

残人 先輩という名の人々

残言 いつまでも部訓

残事 小学卒業から3cm

残言 近視と老眼のあいだ

残人 毛深い友人

残言 このままじゃ、死ぬよ

残言 腐ったらアカンで

残事 魔法メールと大量四つ葉

残考 遠近同違

残事 しょっぱい金髪星空骨折

残言   怒らへんから言うてみ

 これは幼い頃に、死ぬほど言われていた言葉。しかも決まって、優しさを全面に漂わせながら言ってくるから、100%怒られるってわかっているのについつい、もしかしたら怒られへんかもしれへんと甘い甘い考えのほうが勝ってしまい、本当のことを言ってしまう。主に、母と2人の姉が使用する言葉。私が何かを壊したときや、何かをなくしたときなど、犯してしまった罪を白状しないで耐えているときなどに使用される。姉2人が使用する場合、この言葉とセットで「誰にも言わへんから」という言葉も用いられる。その際、優しさに負けて私が自白した途端、「お母さぁ~ん、やっぱり、そうやったで~」と笑いながらの告げ口もセットになる。
 それにしても。大人になると、急に怒られなくなる。昔と同じようなことをしても、冷ややかな目で見られたり、静かな声で忠告されるくらいで、すーっと終わってしまう。大きな声を張り上げて、凄い怖い顔で怒られることはなくなる。そうなればそうなったで、無性に怒られたくなる。あんなにイヤだったのに。あんなに怖かったのに。怒られなくなる。さみしいような、そうでないような。

残言 明日死んだらどうするん

もうお腹いっぱいやから、これは明日食べることにするわ。そういうと必ず、父が耳元でこう言っていた。『明日死んだらどうするん。食べられへんど。今、食べとかへんかったら、知らんど』結果、私はずーっと、ぽっちゃりさんをキープしている。まあ、それだけが理由ではなく、食いしん坊だからということは、百の承知の助で自覚あり。欲を出さずに残しておけば、少しはスーッとした人に、なってたかもなと思う。ヘンゼルとグレーテルの魔女じゃないけど、父が言いたかったのは『たーんと太ったら食ってやるぞ。いひひ』じゃなく『出されたものは残さず食べろ』ということだったのかもしれない。ちょっと言い方が極端だけど。今思えば、結構、深い言葉だと思う。あの頃の父はただ、食べ物に対してだけの話をしていたのだと思うのだけど。何に対してもこの言葉を時々自問してみるっていうのは、いいことかもしれない。ずいぶん前からやり残してることや、もう明日でええわと思っていること。そんなことを、1日を終えようとするとき、この言葉が頭をかすめたら今日中にもうちょっとやっておこうかなとか、最悪明日死んでしまってもいいような状態にしておこうとか、そんな風になっていくんではないだろうか。日常の不真面目っぽかった部分がちょっぴり真面目になっていく感じ。いいかもしれない。ずっとぽっちゃりさんのいいわけ言葉かもと思っていたけど、こうして書いてみてちょっと見直した。そして父もちょっと見直してもいいかもと思い始めている。

残言 もうこれでこわくないで

幼い頃、姉と外で遊んでいたときのこと。しゃがみこんで道端でカマキリを見つけた姉が、カマキリ怖いやろ~怖いな~と言いながらも、しばらくは一緒に見ていて。ホンマやな、大きいしあのカマが怖いよな~と思っていたら、次の瞬間。姉がパッとカマキリのお腹を持って、ビックリしているカマキリのカマを、グッと掴んだかと思うとブチッブチッと千切り取ってしまった。うわぁ、なんてことをっ。口をアングリあけたまま放心状態になっている私に向かってニッコリ笑って姉が放った言葉。もうこれでこわくないで。あんたのほうが怖いよと姉には言えず、もう一生この人には逆らわないでおこうと決めながら、うんうん頷いていました。あのときは焦りました。夏になるといろんな怖い話を聞きますが、これが私の中で今でも1番怖い話です。姉の名誉のために言っておくと、姉が虫とか動物とか人間とかに対して、ああゆう行動に出たのは、後にも先にも、この1回だけです。普段はとても心優しい、なんでも言うことを聞いてくれる、ホントに優しい姉なんです。・・・あれ、しつこいですか?・・・ウソっぽいですか?いやいやホントに、怖い姉は、あのとき1回こっきりです。多分私のほうが虫には可哀想なことをしてます。(威張って言うことでもないですが)学校帰りにダンゴムシを両手いっぱい捕って帰ったり。アリの巣を掘って掘って、アリの卵をGETしたり。トンボを網で捕まえたときは、いつも頭がポロッと取れていたりしました。可哀想なことをしました、深く反省。

残言 目ん玉を取り出して洗う手術

下の姉が5歳のとき、目の手術をした。正確には「斜視弱視」を治す手術で、大人になった今では、3姉妹の中で手術をした姉だけがメガネをかけていないのだから、この手術は大成功だったのだろう。そのとき私は3歳で上の姉が6歳。誰かに「あの手術は目ん玉をいっぺん出してキレイに洗ってからまた戻す」と聞かされ、子ども心に下の姉は凄い経験をしたんだと尊敬した。かなり長い間そう信じていて、強烈な思い出だった。で。つい最近、上の姉にそんな話をしたら「ああ、目ん玉出すって、私が言った覚えがあるわ、そういえば」とサラッと言われた。こいつか、犯人は。とても忘れっぽい私でも、衝撃的だった出来事は、なかなか忘れなかったみたいだ。自分でフッと、一番古い記憶を思い出そうとしても、せいぜい幼稚園か1年生くらいのワンシーンがうっすら浮かぶ程度で。なかなか3歳の記憶は頭に浮かんではこない。しかし、この言葉をずっとずっと覚えていたということは、3歳の記憶が残っていたということで、よっぽど、姉と離れていたのが淋しかったに違いない。大変な想いをしたからこそ下の姉は、優しいのかもしれないな。上の姉も十分優しいです。優しいがゆえに上の姉は、この後もたびたびいろんなことをいらないところまで教えてくれる。サンタクロースの真実も、あっさり教えてくれたのは、この姉だったりする。「何でも知ってる物知りお姉ちゃん」を信じて疑わなかった妹の気持ちが、姉には一生わかるまい。

残言 クジャクは3時に羽をひらく

近場の小さな動物公園には、サル・シカ・ヤギ・クマ・水鳥などと並んで、クジャクがいる。幼い頃から親に何度も連れて行ってもらっているから、もう庭みたいなこの場所。そんなに何回も行っているのに、小学生の頃、クジャクがキレイな羽を広げていたのを初めて見た。大きかったので、すごく印象に残っていたのだと思う。1年ほどして見に行った時も、またクジャクが大きく羽を広げていた。
たぶん、そこで私は聞いたんだろうと思う、母に。「クジャクって、ずっと羽って広げとるん?」とかなんとか。そしたら、母は答えたんだと思う「ちゃうちゃう。今の時間だけ広げてるんやで。ずっとじゃないわ」と。そして私は時間を確かめようと時計を見たんだと思う。ちょうどお昼の3時だった。
だからだ。だからなのだ。だから私はそのとき「クジャクは3時に羽をひらく」と思い込んでしまったのである。
それ以来、クジャクの話が出ると、誰かれ構わず誇らしげに「クジャクは3時に羽をひらく」説を唱え、唱えれば唱えるほど、その説は進化を遂げ、とうとう「クジャクは3時にしか羽をひらかない」という結論にまで達してしまった。
なので、高校卒業した頃、他の動物園でクジャクを3時に見たとき、羽をひらかないクジャクに心底、驚いてしまった。それでも、その動物園のクジャクが、たまたま海外から来て間もないために時差で時間が狂っているんだ、可哀そうに…と同情しながら否定した。それでもまた違う動物園に行き、そこのクジャクも3時に羽をひらかないのを見たとき、ようやくクジャクは3時にこだわっていないことを知った。それでも近場の小さな動物公園のクジャクは、絶対今でもお昼の3時の時間厳守を続けているに違いないと信じて疑わなかった。
じゃあ、そこまで言うのなら確かめに行こうと、20歳の頃、友達と近場の小さな動物公園に出かけた。結果、クジャクは、時間を守らない、いつでも軽々しく羽をひらく、サービス満点のクジャクになってしまっていたのである。幼い頃の母のひと言から、ずっとずっと思い込んでいた「クジャクは3時に羽をひらく」説が、もろくも崩れ去った瞬間だった。
きっとクジャクは、はじめから3時にこだわってなんかいないし、いつでも軽々しく羽をひらいているわけでもないし、サービス精神でひらいているわけでもない。オスがメスに求愛している真剣勝負の羽ひらきなので、私がこんなに振り回されていたことなんかちっとも知ったこっちゃないし知りたくもないだろう。
が。こうゆう子どもの頃の豆知識的な話は、とっても信じてしまうし長引く傾向があるので、お母さんやお父さんは、くれぐれも注意しながら教えてあげてください。心からお願い申し上げる所存。
移動動物園に就職したことのある私は、就職する前に動物関係の専門学校にも通っていて、その頃、色んな動物園で飼育実習をさせてもらっていた。その中で、気を抜いて背中を見せると飛び蹴りしてくるクジャクにも会ったりした。何度か背中を見せてしまい、蹴りを入れられたけど、担当の飼育員さんに、クジャクの卵と抜け落ちた羽をいただき、蹴られたことなんて忘れて上機嫌で家に帰った記憶もあったりする。クジャクっていうのは、あの時期だけオスはキレイな羽を持ち広げてメスを誘惑し、その後すぐ、キレイな部分の羽は全部抜け落ち、その後、一年かけてキレイな羽を伸ばしていくっていう感じなので、考えてみたら、3時にだけなんて、開いてられないですよね。

残言 まず自分から好きになれ

小学生の頃、父に言われた言葉。子ども心に、すごく感動したことを今でも覚えている。しかし、どんな悩みを相談した時の答えなのかは、残念ながらよく覚えていない。この答えから想像すると、たぶんクラスで苦手な子がいるとかなんとか話したんだろう。そしてあまりにもいい答えをくれたから悩んでいたことも吹っ飛んでしまったのだ、きっと。そのときの言葉ががこれ。『自分がイヤやイヤやと思とったら、相手もきっとお前のことイヤになるわ。好きになってほしかったり仲よくなってほしかったら、まず自分から相手を好きにならんとアカンわ。その人のええとこ見つけて好きになったら段々相手もお前のこと好きになるはずやぞ』大人になった今でも、時々ふと思い出す。この言葉を聞いて以来、出逢った人はどんな人でも、その人のいいところを見つけてみることにしている。地球上でこんなに多くの人がいて、しかもこんなに長い歴史の中のこの時代にたまたま出逢う人って、なかなかすごい確率なんじゃないかと思うので。どの人もみんな、出逢うべくして出逢ってるんだなといつもそう思っています。仲よくなったり好きになったり。出逢ったみんなとそうなれば一番いいのだけど、最近は、イヤでも苦手でも、それはそれで、貴重な出逢いだなと思ってきたりしています。好きだけじゃ埋まらない部分も確かにあって、それを受け止めることも大事だなと最近は思っています。この父の言葉が私の中で進化して更にパワーアップしている、そんな気がする今日この頃です。

残言 あんたは私の分身やから

昔、母が私に言った言葉。
感動的な言葉ではあるんだけれど、その言葉を言われたシチュエーションがおかしい。今でも、私は階段で母の前を歩かない。歩いていて母が突然やってきてしまった時は、急いで上りきってしまう。なぜなら。母は容赦なく浣腸をしてくるのだ。
あくびもそうだ。決して母の隣りで大きな口を開けてはいけないのだ。なぜなら。母は容赦なく、あくび途中の私の口に、指を入れてくるのだ。2本どころの騒ぎじゃない。なんならグーで。グーの握り拳をすばやく入れてくるのだ。アガガガガガッてなって、あくびが最後まで出来ないままになる。あくびの不完全燃焼がどんなに中途半端で気持ち悪いことになるのか。きっと世界中で私しか知らないと思う。
とにかく、母にスキを見せてはいけない。のは、私だけなのだそうだ。姉達は一度もされたことはないという。母は私以外にはしないのだ。なぜなのだ。そう思って一度母に聞いたことがある。「なんでこんなことをするのか」と。
その答えが、この言葉。「あんたは私の分身やから、ええねん。それよりもそっちにスキがあるからアカンのや。気ぃ抜いとったらアカンで、ほんまに」てなことを言われ、やられる私にスキがありすぎるのが悪いのだという結論に達した。おかしい。
しかし。この言葉は私にとって、それからの人生において、とても心強い言葉となった。何かで落ち込んだ時、誰かともめた時、訳もなく寂しくなった時、ちょっと心細くなった時に、とても助かった。だって、私のことを自分の分身だと言ってくれている人がいるのだから。分身ってことは、自分の一部、もしくは、自分自身くらいのつもりで居てくれている人が居るってことだから。そう思うだけで、ずいぶん助かった。私には世界中で一人、絶対の味方が必ずついていてくれているっていうのは、元気百倍にも二百倍にもなる。何が起きてもやっていける。そう思わせてくれる、魔法の言葉だと、この言葉を思い出すたび、しみじみ思うのだ。

残事 花摘み少年と埋もれた棺桶

物心ついた時から小学三年生あたりまで、ずっと男の子とばかり遊んでいた。その中で一番近所の幼なじみは、毎日のように2人で遊んでいた。体が大きくて男の子みたいな私を、「あそぼ~。お花摘みに行こう」って誘いに来る幼なじみ♂。時にはライター拾って空き地の枯れ草にふざけて火をつけて火事寸前ってこともあったり。時には帽子かぶって、幼なじみ指導の下、沢田研二の「勝手にしやがれ」のフリのレッスンをしたり色々した。オセロも口笛もジャッキーチェンも教えてくれたのは全部、この幼なじみだ。小学3年の頃になると段々男の子と遊ばなくなり、全く話もしなくなった。中学に入ると不良に憧れていた幼なじみは、ガッツリソリを入れイカツク仕上がっていて。ああ、お花摘み少年だったのになーと遠い目をしたのを今でも覚えている。そんな幼なじみも含め、後2・3人ともよく遊んでいた。忍者ごっことかいって、背中に斜めがけ紐でおもちゃの刀を結んで、近所の家と家の間を駆け抜けたり。山の中に入って小川を見つけ、秘密基地のような感覚でいっていたりもした。積み上げられた土管の中をマイルームとして使っていたこともあるし、壊れかけの小屋で大人に内緒で捨て犬を飼っていたこともあった。1人が木登りして枝が折れ、骨折したこともあったな。色々あったけど、その中で1番記憶に残っているのが、空き家侵入事件だ。昔から誰も使っていない空き家があって、ちょうど入れそうないい高さに窓がある。ある日、その窓が壊れていることに気づき、5人でこっそり入ってみることした。各自そこらへんに落ちている棒を持ち窓から侵入。5人とも入ってしまうとみんな怖くて声が出なかった。なんとその家の中は、床に穴が開いていて、2段に太い木で区切ってあり、その木の上になんと棺桶のような入れ物が置かれてあったのだ。ほとんど何もしゃべらず5人とも慌てて外へ出た。外へ出てから、「あれは棺桶やったよな」「吸血鬼でも入ってるんかな」「いや、死体が入ってるんやで」「やばいんちゃう。犯人がおるんかも」「誰にも言わんほうがええで」とひそひそ声で話し、その場を去った。それから誰にも話さず5人の秘密になった。5年ほどして台風でその空き家が崩れた。ペシャンコになった空き家を見て、忘れていた棺桶のことを思い出し、「あの空き家の中には棺桶があったの知ってるか?」と母に聞いてみた。そしたら母はアハハハハッと笑ってこう言った。「あれは棺桶じゃないで。中には着なくなった服とかが入ってるんや。昔の家の物置みたいなもんや」えーっ!衝撃的な事実だった。ずっとコワゴワ秘密にしていた死体入ってる棺桶疑惑がバラバラと崩れて飛んでいってしまった。あの時の4人にこの事実を伝えなくちゃ!と思ったのだけど、5年も経ったその頃は、もう遊ぶことがなくなっていたから、伝えられなかった。彼らはきっと今でも秘密を抱えてるんだと思う。まあ、それはそれで、いい思い出になってることだろうから、まあいいか。

残事 50円玉貯金だるま涙

小学生の頃、私の家にはお小遣い制度がなかった。自分だけのお金っていうのは、正月のお年玉くらいのものだった。そんな頃、遊びの合間に誰かの家でジュースをもらったりするようになっていた。段々、自分の小遣いで駄菓子やジュースを買ったりして順番におごるようになった。とうとう私がおごらなくてはいけない順番が来た。どうしようかと悩んでいたら、家で50円玉ばかりを貯金しているだるまの貯金箱があるのを思い出した。手の届くところにあっただるまの穴から指を入れると50円玉が取れそうな感じだった。ダメだと思いながらも、200円分ぐらいの50円玉を盗んだ。みんなに何かをおごり、その場はうまくいった。何日かして、その中の1人のお母さんが私の家に乗り込んできた。私がおごったのを知ってしまって、小学生がそんなことしていいんですか!ってやってきたのだ。おごるのは私が最後だったから当然、その子もお小遣いでおごっていたのだが親は知らなかったのだ。自分の子も同じ事をしていたと知って帰ったけれど。その後「おごったお金はどうしたのか?」と聞かれ、50円玉貯金だるまからだと白状し怒られた。母に「これはどろぼうだ」と言われて反省した。その後、何日かして学校から帰ると、母が1人で泣いていた。父が単身赴任していた間に、娘がこんなことをしてしまったのだからだなと思った。親が泣いているのを、このとき生まれてはじめて見た。「親を泣かしちゃいけないな」小学生ながらに、強く心に響いた涙だった。

残事 人工すきっぱ

 私は父に似ている。足の形から照れ方まで全部似てるらしい。だからなのか、父の真似ばかりしていた。私が4歳の頃、父が突然、転職した。会社をやめ、働きながら、夜間の針灸の学校に通い始めた。単身大阪へ。そんな生活が3年間続いた。4歳といえば、物心がついた頃。そんな時期に、父は土日に帰ってくる人だった。そんな3年間を過ごしたからか、私は、父の真似をすることが格好いいと思っていた。車の運転時、窓枠に肘をついて、風を受けている父が、とても眩しくて。後ろの席から、前の窓に手を出したりしてみたり。初腕時計は、父と向かい合わせになって、自分の腕にしたから今でも、腕時計は右手に、必ずする。そんな真似の究極が「すきっぱ」。父の上の前歯は、真正面に隙間がある。3本抜けて2本しか生えてこなかった、その天然すきっぱに近づくべく「すきっぱ作ろう大作戦」を何年も、地道に決行した。つまようじを手に入れては、歯の間に挟んで。でも困ったことに、私の上の前歯は隙がなく、つまようじを受け入れなかった。だから「前歯でも下の歯をすきっぱ」に変更した。下の歯は上の歯より小さいので、少しずつ動いてくれたのだ。そんな風にして、私の前の下の歯は立派な、それはもう立派なすきっぱになった。今でもずっとすきっぱだ。もう永遠にすきっぱだ。何でこんなのが格好いいと思ったんだろう。鏡を見るたびに思う。ちなみに、現在の父は、入れ歯になり、すきっぱの「す」の字もない。なんだかとても、取り残された気分だ。

残事 青オニさんの皿

母の子育ての信条は、「九つまでは厳しく育てる」というものだった。ひとつ、ふたつと数えていって、九つまでは数え方に『つ』がつく。「十(とう)」からは『つ』が付かないからそこからは子どもの意思を尊重するみたいなそんな子育て論だと、大人になってから母に聞いた。ということだとしても、昔の母は、はっきり言ってとても厳しくて怖かった。父が転職したり、少林寺拳法の道院長なんかしていたりして、家にいないことが多かったので、余計に母は、『私が子供達をちゃんと育てなければ!』という気負いなんかもあったのかもしれない。幼くてあんまり覚えていないのだけれど、上の姉と母のバトルは、すごかったということはなんとなく覚えている。テレビばかり見て早く寝ない私達に怒って、ハサミでテレビから出ている線を無言で切ったり。下の姉と私が遊びに行って5時までに帰らなかったら、暗くなって帰ってきた2人となわとびを2本持って、近所の空き地に連れていき、空き地の左端にある柿の木に私を、右端のある桜の木に下の姉を、それぞれなわとびでくくりつけ、「外に居たいんなら居たらええ」と言って家に帰ってしまったこともあった。(ゆるく結んであったので、すぐほどいて家に帰りました)厳しくて怖かったけど、悪いのは、私達だったことは間違いはなかった。そんな中、私の中のおぼろげな記憶に、こんな出来事がある。学校もしくは幼稚園で、みんなでお皿に「絵を描こう」という時間があった。たぶん母の日が近かったから、私は母の絵を描こうと思いついていたことを覚えている。黙々とまじめに、お皿に母を描いていた。はずだった。ハッと気づくと、私がお皿に描いていた絵は、『青オニさん』だった。自分が描いたはずなのに、自分でも自分の絵にビックリした。その時、何を描いているかを見て回っていた先生が「それは何描いたの?」と問いかけてきたので、私は慌てて「青オニさんです」と答えていた。「上手に描けてるわ。あと、オニさんなら角と牙を描いたらいいんじゃない」と明確なアドバイスまでしてくれた。今さら、実はお母さんを描いていましたとは言えず。何日か経って、焼きあがったそのお絵かき皿は、青オニさんの皿になって家に届いた。そのときは母にはとても本当のことは言えず。大人になって、そのお皿が何かの拍子に壊れた。そのときやっと、真実を白状した。なんだか苦い思い出。ちなみに母は、あんなに厳しくて怖かったのが嘘みたいに、学生じゃなくなった頃から私達に本当の自分を見せるようになり。今では、ちょっと頑固だけど、基本、天然ボケ体質の。よく話を聞いてくれ、ブルーな時には笑い飛ばしてくれる、優しい母になっている。なっているというか、それが本当の母で、私達子供が、気づいてなかった部分だっただけだと、最近はよく思う。

残言 年中笑顔

小学6年生のとき学校にて。1年の抱負を教室の後ろに飾るっていうので書いた私の抱負。小学5年と6年は、先生が変わるだけで生徒はそのままのクラスで持ち上がりだった。小学5年から私の仲のよいグループは私を入れて4人。3人と遊ぶのがとても好きで学校にいるときはずっと一緒に過ごしていた。2年間も同じクラスでずっと遊んでいると、大体の性格がわかってくる。今思えば3人はきっとSだったんだろう。そして私はたぶんM。何もしても怒れない私の性格を知ってしまった3人は、私をからかうのが楽しくなってきたみたいで、何かっていうと、3対1で無理難題を言ってきたりしていた。ハンカチを3人で回して、最後にゴミ箱へとか。ノートの使っていないところに落書きとか。3人オンブっていうのもやったな。なんかイヤだなと思ったことがあったけど、仲間から外れるのがイヤだったし、何よりも3人といるのが好きだったんで、怒らずにヘラヘラ笑ってた。その中の1人は中学行っても同じクラス、部活も同じ、やっぱり一緒にいて楽しかった。同じ高校だったけど、クラスが違ってあまり会わなくなったり、高校卒業して進路が違っても、会えばダラダラ喋ったりする今でも気のいい友達の1人。28歳くらいに小学6年のクラス同窓会の幹事をした際、3人の中の1人に、欠席の知らせと一緒に「ゴメンナサイ手紙」をもらった。『あの頃はイジメてごめんなさい。あなたに合わす顔がないので欠席します』と書かれてあった。このとき初めて、「いじめられてたのか、やっぱり」と自覚した。高校まで一緒だった子は、行く行くといって喜んで同窓会に来てくれた。どっちも同じ時期に同じ思い出があるのに、対照的で興味深かった。一層のこと、あれはイジメてたんじゃないよと思ってくれれてたらいいのにと思った。今思えば、いじわるされてもヘラヘラと笑ってた私も悪い。イヤならイヤと言えばよかったんだ。と今は思う。いじわるした側にも嫌な思い出を残させてしまったなと反省しきり。ああ、あの子にも、同窓会で笑って会いたかった。その後、あの子には「気にしてないよ手紙」出しておいた。今度は会えるといいな。そんな小学高学年時代、掲げた抱負の言葉を、時々思い出しては、今こそ【年中笑顔】で臨まなければと思う。ヘラヘラじゃなくてね、本当に楽しい、心からの笑顔で。

残言 怒らへんからキャプテン

中学時代部活にて。キャプテン選出の時に私をキャプテンにした理由として言われた言葉。「サボっても言うこと聞かなくてもワガママ言っても絶対怒らなさそうだから、キャプテンにした」と言われたことがある。中学・高校と、部活は6年間、ソフトボール部。中学のチームは勝つことが奇跡のような、二十何点対ゼロが当たり前のチームでした。勝った記憶がないので、高校に入ってそれが未練で。一回だけでも勝利を味わいたいと早々に入部したことを覚えています。そんな勝ったことないソフトボール部のキャプテンになって、結局何もしなかったように思う。そりゃ負けるぜ!っていう練習ばかりで。高校の入ってからの練習量にビックリして腰が抜けそうになったほどです。だって、中学の練習は、寒かったらグランドに出ない、出てもおしくらまんんじゅうとかドッチとかして。最後に軽く、バッティングとノックをして終わりとかだった。暑くてもまた部室でダラダラして、結局30分ほど練習して終わりとかだった。顧問の先生も、最後にノックをしに出てくるだけだったので、その時間に合わせていた感じの部活でした。もっとも、そんな部活動になったのは、みんなの期待通り、何をしていても怒らない注意しないキャプテンがいたからだと思っています。でも、どうすることも出来なかった。怒らないんじゃなくて、怒れない。怒った時はカーッとなって、言葉を発する前に高ぶりすぎて泣いてしまうので、怒れないのです。今は少しは言葉が出るようになりましたけど。

残言 空気のようやな

小学時代は学級委員をしまくり児童会の書記にもなり、書記なのに何かを書くということはなく全校集会で司会をしていたりした。中学時代は部活のキャプテンをし、生徒副会長にもなり、結構目立つことばかりしていたにもかかわらず、【自己主張できない怒れない性格】を自覚するほどになってしまった。そんな教訓を得て、高校では極力、目立たないようにしようと心に誓った。故に。ある日、部活の仲間に「あんたはなんか空気のようやな」って言われた。その子はきっと褒め言葉で言ってくれたのだと思うのだけれど、私には結構こたえてしまった。

空気はなくてはならないものだけど、そこにあるのかないのかわからない存在でもあるってことで。
その頃から時々、私は人に見えていない存在なんじゃないのかとか、消えてしまっているんじゃないのかとか、不安になることが増えてきた。目立つのはよそうと言いながら、存在感は在りつづけたいって、全くもって矛盾した話だ。それでも、一緒にいて心地よい、何も言わなくても私のことをわかっていてくれる親友もちゃんといたりしたので、いいっちゃーいいのだけれど。

残言 貸したノートの答え

 小学高学年の、イジメだとかイジメじゃないとか、そんな友達関係に、友達は好きだったんだけど憂鬱になった時期があった。それをズルズル引きずって、高校時代まで友達についてグチグチグチと悩んでいた事実がある。広く浅く友達づきあいは出来るけど、深い友達、いわゆる親友と呼べる子がいないと、ずっと思っていたのだ。
 みんなは一体、どうやって友達を作っているんだろう。知り合い・友達・親友。その境界線はどこにあるんだろう。と、ずっと悩んでいた。親友がほしくて、でも「はいっ。今日から親友ね」とは言えず、どうしたもんだろうと、ずっと悶々としていた。そんなことを数学のノートの後ろのほうに、独り言のように書いていたことがあった。
 ある日、クラスメイトにノートを貸した。後ろのほうに書いたことなど当の本人もすっかり忘れていたのだけど。2日くらいでノートは帰ってきて、それから1ヶ月くらいしてから発見した。その自分だけの独り言悩み相談のページに答えが書いてあったのだ。高校に入ってもヘラヘラしていたので、「あんたは悩みなくてええな」と言われるタイプに仕上がっていたので、そのクラスメイトも、そのページを読んでかなりビックリしたらしい。「こんなこと悩んでるって知らんかったわ」という書き出しで、こう書かれてあった。「正しいか正しくないかはわからないけど、私は自分の基準で決めてるよ。自分が友達だと思ったら友達。親友だと思ったら親友。相手の気持ちなんか全部わからないんだし。でも自分がそう決めてその相手に接すると、たいてい向こうもちゃんと同じように思ってくれているよ」と。
 なんだそうなのか!と目からウロコな答えだった。みんな曖昧なところで判断していることや、互いの想いが態度に出てそれを感じ取って付き合い方が出来ていくんだと知った。それを知って以来、気構えていたのが楽になり、素直に気持ちが相手に伝わるようになり、こっちが何も言わなくても相手の方から「私は親友やって思ってるの、あんたわかってる?」みたいに言われ、あんなにほしかった親友が簡単にできた。というかそれまでに居たのに気づかないで過ごして悩んでいただけだったと気づいた。あのクラスメイトさまさまだ。その後、そのクラスメイトは、ノートの話は話題にせず、なんだか2人だけの秘密みたいになった。今でもあの子には感謝しきりだ。

残人 先輩という名の人々

中学生になると先輩ができる。その頃から人から何かを得たいとか自分にないものを見つけるとそれにすごく憧れたりする。と思うことの反面、社会に出て職場にはすでに先輩がいて、あの人には言われたくないとかいつか見返してやるとか反発したくなる反発先輩もいたりする。いろいろいるけど、みんな自分より経験豊富っていうのが悔しくもあり羨ましくもある。だってもうすでに2年働いている人のその2年分の経験はそこからスタートの自分には埋められないものだと思うから。追いつけないと気づいて落胆した経験もあったりもする。そんないろんなタイプの先輩のこと、すこし記してみようと思う。
中学の頃に出会った初先輩は、部活の憧れの先輩。私の入っていたひとつ上のソフトボール部の先輩。その人はすごく大またで走ったりするのだけれど、ゆっくりそうに見えて足は速い。なんでだ?と疑問に思ってるうちに、その先輩のマイペースなリズムに憧れるようになったのだ。人に合わせようとするばかりの自分にはない、揺るがない自分のリズムを持っている姿が輝いて見えたのだ。でも全く喋ったことはなかった。中学卒業してから今でも、ほとんど喋ったことがないけれど、いっぱい手紙を出して、返事もらったりなんかして、今でもすこしつながれている感じだ。初先輩は、いつまでも憧れの先輩のままなのだ。
社会人になって入った会社の先輩は、みんな強烈な個性に包まれた先輩達だった。移動動物園という特殊な会社に最初、1週間の実習期間があり、その後、この会社で働きたいと猛烈熱烈な手紙を送り就職した。その実習期間に1人いじわるな先輩がいた。反発先輩だ。「お前は、家も遠いし、運転も免許取りたてでヘタクソだし、女性だし。この仕事は向いてないと思うからやめておけ」と言われた。そう言われるとますます燃え上がるタイプなので、意地でもここで就職して、絶対あの反発先輩を追い抜かしてやる!とますますそこに就職したくなり、熱烈手紙を書いたのだった。無事就職してからもなかなか刺激的なことをさせられ言われ、なにくそって思いながら過ごした。やっと仕事を把握してきた頃、その反発先輩は退職した。とってもあっさり辞めてしまったので、なんだか気が抜けたのを今でも覚えている。でもあの反発先輩がいなかったら、あの場所で働いていなかったかもしれないとも思う。
反発先輩より刺激を受けた先輩が実はいる。こまか先輩だ。こまか先輩は細かい。会議でたぶん同じ意見を言っているのに、違う言い方で攻めてくるから、5分で終わる話が1時間くらいかかることもざらだった。移動動物園で幼稚園に行った際の日よけテントの組み立て方を永遠と語りだしてきて、準備が遅れてしまったこともある。しかし、こまか先輩には感謝している。取引相手に電話の一本もかけられなかった新人の頃から、実に細かく、社会人としてのノウハウを教えてもらった気がしている。「動物を乗せるトラックはマッチ箱だと思え!」「高速自動車道でバスに会うとバスガイドをチェックしろ!(これは仕事には関係なく、こまか先輩の趣味)」「道具一つ置く場所にも、すべてのものにはちゃんと意味がある!」「やることがいっぱいでどれからするか迷った時は優先順位を決めてしろ!」などなど、忘れられない名言が多い。その上、のちのち社長になったこまか先輩の、みんなの意見を聞く耳を持ってくれた運営に、とても感謝している。働いていて楽しかった。今はもうこまか先輩もその会社にはいないけど、今でも動物と関わって仕事をし続けていると聞いている。嬉しい話だ。
こまか先輩より、人生において影響を受けた先輩がいる。ハツラツ先輩だ。人見知りで知らない人ばかりの地元から離れた場所での社会人デビューだった私には、寮での共同生活はドキドキもので。寮に初めて行ったとき、満面の笑顔で出迎えてくれたのがハツラツ先輩だった。ハツラツ先輩はどんどん話してくれる。自分のことを色々。そんなことまで新参者の私に話してもいいのってことまで。そうなるとこっちも自分のことを話さないと悪いような気になってくる。作戦だ。これはハツラツ先輩の人とつながっていくための作戦だったのだ。自分をさらけ出して相手と仲良くなる。この方法でずいぶんと私の人見知りは治った。あと、私は幼い頃からすごく自分が好きじゃなかった。でも、ハツラツ先輩は自分で言うの「自分好き」って。そういっていい笑顔で笑っているハツラツ先輩はキラッキラに輝いていた。・・・ように私には見えたのだ。今もまだ、めちゃくちゃ自分を好きにはまだなれてはいないけれど、キライじゃなくてもいいかなとハツラツ先輩と会ってから思うようになった。そんな風にすっかり心を開かせてもらってからは、仕事もプライベートもずっと、金魚のフンのようにハツラツ先輩の後ろをついて回っていた。ハツラツ先輩のおかげで人生観が変わったと言っても過言ではない。こんなこともあった。動物園に新しく入ってきた子ザルの世話をした新人の頃、寂しさから体調を崩し死なせてしまったその子ザルのことですごく落ち込んでいた私に後ろからボソッと「背負ってる命は、あの子ザルだけじゃない。他のたくさんの動物の命預かってるんやで。その命にも目を向けなアカンで。子ザルの命をムダにせんようにせな。落ち込んでいるヒマはないで」とハツラツ先輩は言ってくれた。ハッとした。その言葉で動物と仕事をするってことへの心構えが出来たように思う。最近は全然会ってないけれど、離れていてもなんだか近くにいてくれている気がしている。「空はどこまでもつながっているから見上げたら、つながるよ、こっちの空にも、そっちの空にも」ってハツラツ先輩とメールのやり取りをした。そんな先輩。だから好きなんだな、ハツラツ先輩。

残言 いつまでも部訓

高校のソフトボール部は、心底楽しかった。ずっと、もうずっとこの時間が続けばいいとさえ思っていた。中学のソフトボール部とは全然違って、練習は厳しくて、盆と正月以外はずっと練習していたのだけどそう思う。中学時代はキャプテンで4番を打っていたけど、高校に入ってまず直されたのが右打ちから左打ちだった。右打ちは修正の仕様がないと言われるくらいひどいフォームだった。それでも中学時代勝ったことがな勝った私は、どうしても1度、勝ってみたかったので、勝てるなら何だってするという勢いだった。何人か辞めたり入ったりしたけど、最終的に私の学年は部員9人+マネージャー1人になった。ちょうどいい人数。ポジション争いもなく、毎日一緒だから連帯感も芽生えた。なんたって昼休みなんかも、違うクラスの子も連れだって、食堂の自動販売機のココアを飲みに行っていたのだから。授業が終わるのが待ち遠しいくらい、部活に行くのが楽しかった。練習メニューはキツかったけど、私の楽しみはノック。打つのは左打ちになっても苦手で、もっぱらバント専門だったのだけど。守備はセンター。何が楽しいかっていうと、転がってくるボールだけをただただ追っかける。何も考えなくていい時間が好きだったのだ。仲間内でも特に仲のよかった子は、ライト兼控えのピッチャー。中学時代はセンターと控えのキャッチャーをしていた私なので、練習キャッチャーをよくしていた。もうね、グローブ持って2人で向き合うと違う話をしてても、自然にキャッチボールがはじまっている関係で。その通じ合ってる感がとても好きだった。嬉しがって2人だけでおにぎり持参の朝練も何度かした。必要に駆られてするんじゃなくて自主的に練習できる、そんな習慣が身についたことは今でも役立っている。毎日汗まみれになって、やればやるだけ成果が出て。もうこれからどんな試練が起こっても、今より過酷なことはないだろうから乗り越えていけると思っていた。それくらいやり遂げた感があったし、やれば何でもできるんだっていう自信もついた頃だった。そんな高校ソフトボール部時代。自分達より強いチームの応援の仕方とか、練習の仕方とか、色々盗んでは試していた頃。あるチームが練習終わりに一塁線に一列に並んで、誰もいないグランドに向かって大きな声で校歌を歌っていた。格好よかった。もちろん速攻取り入れることにした。けれど校歌は歌わず、代わりに部訓をグランドに向かって言うことにした。みんなで格好いい言葉を見つけてきて、部訓を作った。それをキャプテンの「部訓!」っていう掛け声に続き、大声で言うのだ。「一つ、あいさつをする。一つ、仲よくする。一つ、他人に優しく自分に厳しく。一つ、耐えて勝つ。一つ、努力は必ず勝利につながる。一つ、今ここで全力を尽くす、人間の力に限界はない」言い終わりに、グランドに深く一礼して、部活終了。毎日毎日、ずっと続けた。この習慣も言葉も、私はすごく好きだった。社会人になっても、弱気になったら呪文のように唱えていた。そうすると力がわいてくるから不思議だ。いつまでもいつまでも心に残しておきたい言葉のひとつ。

残事 小学卒業から3cm

小学高学年の頃、体の大きな女の子だった、確か。横にも縦にも大きくて、身長は150cmだった。今だったら、150cmなんて高くもなんともないけれど、1980年代に小学生だった時代の、しかも兵庫県の田舎の小学校では、150cmといったら、後ろから2番目くらいの高さだったのだ。運動会では、そりゃもう1番前の4列に加わっていたものだ。友達はみんな見上げるように私を見て話すし、横に並んで歩いたら頭がひとつ飛び出していた。そんな小学高学年時代。あそこが私のピークだった。小学校を卒業したとたん、ピタッと身長が止まった。どんどん周りが大きくなってきて、気がついたら、高校の全校集会で、前ならえせずに、1番前で両手腰だったですから。で。20数年経った今、私の身長は153cm。すご~く調子のいいときは154cm。まあ平均的に、小学卒業以来3cmしか伸びていない身長ということになる。むむむ。背が高くなりたいとか、あんまり願望はないけれど、3cmしか伸びていないって思うと、なんだか全然成長できていないような気がして、いつも残念な気持ちになる。最近めっきり多くなった同窓会で、会う子会う子に必ず、「あれ?縮んだんちゃう?」って言われる。引きつき笑いを浮かべながら、「あははは。ちゃうちゃう。そっちが高なったんやろ~」って心で泣きながら突っ込み返すのが定番の行事となっているから悔しい限りだ。

残言 近視と老眼のあいだ

東京に住んでいるオジサン夫婦は、父の妹と母の弟が結婚した夫婦である。家が遠いのでめったに会わないけれど、父も母もどっちとも兄弟という、とても近しい関係なので、会うとなんだかホッとする。オジサンはとても静かで、30秒に1回は大爆笑を誘うオバサンは、とてもよく喋って明るい人だ。オバサンの話をいつも黙ってニコニコ笑顔で聞いて、最後にボソッと喋るオジサン。そんなオジサンは、なんでもわからないことを聞くと教えてくれる。壊れたものでも、東京からオジサンがやってきて帰っていくと、直っていることが多い。そっと直してくれているのだ。そんな物静かなオジサンが、1回、ボソッと、すごく面白いことを言った。母はよく「ああ見えて結構、面白いことを言うのよ」って言っていたけど、実際聞いたことがなかったので、言われた時、おじさんの顔を二度見してしまった。確かあれは、姉の結婚式に来た時だった。ゆっくりと座って休んでいたらオジサンがボソボソと話し出した。「目ってね。近視の人は近くしか見えないじゃない?年を取ると近くが見えにくくなって老眼鏡をかけるじゃない?その老眼になるちょうどそのとき、すごく目がよく見える瞬間が・・・あると思うんだよね」と言った。最初は「えっ」と思って二度見したけど、じっくり考えてみると、もしかしたら本当にそんな瞬間があるのかもしれないって、じわじわと、静かに説得力のあるオジサンの雰囲気に飲まれて、妙に納得してしまった。それから時々、本当にそうなら、その瞬間、どれだけ目がよく見えるようになるんだろうとか、私も近視だから年取って老眼になる手前で、めちゃくちゃ目のいい時期を体感できるかしれないとか、変な疑問や期待なんかが芽生えてきていた。そんなある日、メガネを買い換えることになってメガネ屋さんに行った際、店員さんに、【近視と老眼のあいだは目がよくなるんじゃないかというオジサンの一押し説】を聞いてみた。失笑された。店員さんはこう言ったのだ。「近視で悪くなっているのは、う~んと。言ってみれば故障している部位があるってことでして。老眼は、言ってしまえば、筋肉の衰えです。今まで引き締まっていた筋肉が、老化によって緩んできているってことです。なので、同じ目の中の話ですけど、全然違う部位の、全然違う現象の話なんで(失笑)だからですね~。目がよくなる瞬間っていうのは、あははっ、ないんですぅ」って実に丁寧に、わかりやすく教えてくれました。その日は、母と一緒に行って、2人してこの説を力説しまくっていたので、メガネ屋の店内では相当、おかしな親子に見えていたことでしょう。オジサン、残念ながら。そうゆうことでした。

残人 毛深い友人

私には毛深い友人がいる。幼い頃は、動物が苦手だった。家に飼っていた犬さえも、怖くて触れなかったのだ。しかしある日、家庭内お手伝い当番を決めることになったのだ。掃除機かけ・風呂掃除、そして犬の散歩。3姉妹で一発勝負じゃんけんが行われ、私が犬の散歩当番になってしまった。当時の愛犬は大人のメスのもこ。散歩の時間になったら、けたたましく吠えてくる。吠える=怒ってる』だと思い込んでいた私は、「なんでいつもいつも散歩になると怒るんだ?」とわからないやら怖いやらで、鎖を散歩用にチェンジするのに、毎回30分くらいかかっていた。長い棒で、もこの顔をむこうに向け、その隙に首輪付近の鎖を外す。そんなことを毎日毎日、変な汗を流しながらやっていた。なんだってこんなに怒られなくちゃいけないのと思って、犬の散歩の時間になると憂鬱だった。でもある日、発見してしまった。吠えているもこのしっぽがフル回転で振られていることを。そこで、気づいてしまった。あれはひょっとして、喜んでいるんじゃないかと。そう思った瞬間から『吠える=怒ってる』じゃなく『吠える=喜んでいる』もあるんだってことを知った。それからというもの、怖さはすっかりなくなってしまった。ワンワンっと勢いよく吠えた後のハァハァしているもこのキバが見える顔も、笑っているようにさえ見えてきた。頭も撫でられるようになり。「おはよう」なんて声をかけられるようになった。むこうは何にも変わっていない私の見方が変わっただけで。そう思ったら、もっと何か発見があるんじゃないかとか、犬以外の動物でも何か発見が出来るんじゃないかとか、そんな風に、とても興味がわいてきたのだ。それから代々途切れることなく常に犬を飼っていて、そのたびに、犬のことについてもわかってきたし、一匹一匹個性があることもわかってきた。その中でも、生まれたての頃にもらってきた犬、クマタロウは、私が小学6年生の頃から22歳くらいまでいつも一緒にいて弟のように思っていて、今でも時々思い出してはニコニコしてしまう私の毛深い友人である。ちくわが好きで、好きなものはすぐ、鼻血が出るほど穴を掘り隠してしまい、隠したことに満足して、二度と掘り返さない、舌が地面に付くぐらい長く、喜ぶとしっぽをクルクルと一回転させて回しまくる、そんな友人。1番最初に出来た、心を許せる毛深い友人だ。その後、中学生になると、TVで見た動物園の飼育係さんに憧れ、女ムツゴロウになるぞなんて決意を固める。しかし、犬しか深く知っていないので、他の動物のことも知ろうと、動物の専門学校に進む。専門学校では、自分で電話して飼育実習へ行ってもいいという特典があったので、いろんな動物園に、1人で実習に行った。泳げないカバのモモちゃんに大きい哺乳瓶でミルクをあげたこともある。赤ちゃんチンパンジーに大切な、全力で遊びまくってやる時間にも参加したこともある。ラクダやラマのいきなりツバ飛ばすぞ攻撃にも、孔雀はもちろん、鶴の後ろから飛び蹴りにも耐え。いろんな経験をさせてもらった。そのあと、移動動物園に就職した。そこに、ロバのテッチャンがいた。5、6頭いたロバの中でも気が強すぎて暴れん坊だったけれど、毎日毎日、朝の挨拶代わりに、鼻の下の長く伸びたロバの最も可愛い部分を、噛もうとしてくるテッチャンに負けずに、チョンチョンと触り続けていたら、ある日を境に、噛もうとして来なくなり、代わりに舌を出してじっとして、もっと触ってもいいよって顔を差し出してくれるようになった。テッチャンも、心が通った、毛深い友人の1人だ。もう1人、忘れられない友人がいる。ヤギのやおっちだ。やおっちは八尾さんちで育てられていたヤギ。移動動物園にずっといるベテランヤギとは違う、新入りヤギさん。移動動物園に入ってきた頃、まだ子どもヤギで、新入りだから餌をうまく食べることができなくて、なじめずにいたやおっち。そんな中、ボスヤギにスパルタのシゴキを受けているやおっちを、思わずかばって助けてしまったことがあった。浦島太郎の亀じゃないけど。鶴の恩返しの鶴じゃないけど。やおっちは私が助けたことを、ずっと覚えていた。それ以来、エサやりの時間も、掃除の時間も、移動動物園で幼稚園や保育所に行った時も、仕事を終わった帰り際でも、私の姿を見つけると、どんなに遠くにいても、スーッと近くに来て、体をすり寄せてきた。やおっちが大きくなってすっかり大人になっても、それはまったく変わることなく続けられ、それはやおっち自身が、死んでしまう直前まで続いた。忘れることの出来ない、大切な毛深い友人だ。こんなふうに、私には毛深い友人がいる。残念ながら毛深い友人は、人間の私よりも命が短い。今はもういないけれど、私の心の中には、今でもいてくれている、優しき友人なのだ。人間同士じゃなくても人間同士でも、同じ時間を過ごした仲間は、関係の作り方なんて違いはないのかもしれないなと思ったりしている。こんなふうに、今ではすっかり動物好きになってしまっている私だけれど。やっぱり、元をたどれば、もこのしっぽに気づかなかったら、私は今でも動物が苦手だったのかもしれないし、もっとたどれば、あの家庭内お手伝い当番のじゃんけんがなければ、犬の散歩当番に当たってなければ、こんなに動物にこだわった人生になっていなかったはずだし、毛深い友人に出会えていなかったはずだし。そう思うと、じゃんけん弱くてよかったなと思わなくもない。




残言 このままじゃ、死ぬよ

1999年7月31日、病院で言われた言葉。この日から、私の生活は180度変わった。今思えば、この日の1ヶ月ほど前から、体は赤信号を出していたように思う。移動動物園に就職して4年。春と秋のシーズンと呼ばれる、幼稚園・保育所を中心に、フル稼働の移動動物園行きまくり期間をすぎ、夏の林間学校の準備やらをやっている時期。小さな会社の中で4年働いているといえば色々任されてくる時期でもあり。8月から行く、移動動物園の北海道巡回の準備も合わせてやっている時期。自分のしたい仕事に就き、充実感もありつつ。いつも全力投球だったので、毎回シーズンが終わるたびに、声が出なくなったり微熱があったりしたのだけれど、自分なりに体調管理にも気を配って、休み以外はちゃんと三食取るように心がけていた。ところが、この時は、食欲が段々なくなってきて、水分ばっかり取っていた。(夏バテかな)と自分で解釈して、もっとちゃんと食べなきゃと、胃薬を飲んで、食べようとしていた。それでも、いつもよりは食欲が落ちていた。のにもかかわらず。ジーパンのボタンが閉められないくらい太ってきた。靴もなんだか履けない。なんとかジーパンを履いて仕事に行くも、正座が出来ないくらい足が太くなっていた。そして、病院へ行く1週間前から、林間学校を仕切るリーダーとして1週間担当することになった。25名の小学生を5班に分けて中学生から大学生のボランティアリーダーに指示をし、全体を仕切る役だ。3人の仕切りリーダーがいたけど、私が1番経験者だったので、仕切りリーダーのリーダーになった。しかし、体がだるくて、本当動けない。子ども達を6時に起こし、夜9時頃に寝かしてから、リーダーの反省会をし、その後、仕切りリーダーで次の日の段取りの確認をする。ようやく床につくのは12時を回っている。という1週間。それなりに楽しかったのだけれど、なんせ体がだるくて、最後の日には食べられなくなってしまった。お腹が痛み、吐き気が止まらず、腕や頭を押さえると、へこんだまま戻らなくなった。尿意があるのにほとんど尿が出なくなった。なんとか林間の子供達を親元に送り、林間は終わった。後片付けをして、会社に戻り、社長に無理言って次の日に病院に行くため、休みをもらった。なんか薬をもらったら、治ると思っていたのだ。朝8時頃から病院に行ったのに、診察してもらえたのが10時頃。診察室に入り、お医者さんに症状を話したら、「じゃあ、採血と尿検査をしておきましょう」と言われ、検査をしてまた1時間くらい待たされた。やっと診察に呼ばれ診察室に入ると、お医者さんの顔が検査前と明らかに違っていた。なんだか怖いのだ。そして、体全体でなんだか焦っているのだ。なんだ?なんだ?と、こっちも緊張していると、お医者さんは言った。「大学病院を紹介するから、今からすぐ行ってください。むこうで検査をして入院の手続きをしてください」えっ、なんだって?入院?「えっえっ。入院するんですか?今から?なんでです、なんで?」というと、簡単な病気の説明をしてくれた。「あなたの病気はネフローゼ症候群という腎臓の病気です。頭や手や足を押さえて戻らないのは、むくんで、体中に水が溜まっているからです。ズボンや靴が履けないのも、全部、出ないといけない水分が体中に溜まってむくんでいるからです」その瞬間まで、風邪くらいしか引いたことがなくて、入院なんてしたことのなかった私だったので、心底驚いてしまった。動揺しまくった私は、「明日も仕事があるので、とりあえず、会社に戻って相談してから、後日、その病院に行ってもいいですか?」なんて聞いていた。そしたらお医者さんの顔が、ますます怖い顔になって、「このままじゃ、死ぬよ。今すぐ入院して治療してもらわないと。この病院は小さくて、腎臓専門の医者がいないから、ちゃんと手続きをしておくから早く行きなさい」そう言って、大学病院までの地図と、紹介状を手渡された。死ぬって何?死ぬって誰が?その言葉で頭いっぱいになりながら、とりあえず、会社に電話して、家に電話して、自分で車を運転して、大学病院に向かった。会社も家族もビックリして慌てて駆けつけてくれた。とりあえず尿を出す薬、利尿剤をもらい、大学病院のベッドに横たわり寝続けた。少人数でフル回転で働いていた毎日だったので、時間を気にせずに眠れたのは久しぶりだった。なんだかしばらく入院しないといけないことはわかっていたので、紹介された大学病院よりもっと実家に近い病院に転院して。腎生検もして、最初に入院を告げられた日から2週間くらいして、ようやく治療方針が決まった。会社のことがすごく気になっていたけど、どうすることも出来ず、ただただ入院生活を続けた。飲み薬と点滴で何とか症状が治まってきていた。1日の尿の量と体重を毎日計り。あとは薬の副作用と戦いながら過ごした。最初の入院がなんと4ヶ月も続き、やっと出れた頃には冬だった。その頃には会社の迷惑になるからといって退社し、実家に帰った。退院して何ヶ月も経たないうちに再発してしまい、また入院。病気になって2年の間に6回も入退院を繰り返した。ネフローゼ症候群は、色んなタイプに分かれていて、重症の方から1年で治ってしまう人まで様々。しかし、腎臓病の中では比較的軽いほうの病気だと思われているらしい、この症候群。院長先生の回診の時にかけてくれる言葉はいつも「大丈夫。この病気はすぐ治るよ」という言葉。あれから、入院こそ免れているけれど、再発を繰り返し治っていないという事実がある。軽々しく見られているこの病気が可哀想になってしまう。すぐ治るのなら、治してくれ。再発した時なんかはいつもそう思ってしまう。まあ、先生に怒っても仕方がないのだけれど。再発をしたら、薬が増える。副腎皮質ホルモン剤、いわゆるステロイドという薬。普通、副腎皮質ホルモンというのは、自分のカラダの中から分泌し腎臓の働きを助けるのだけど、(それができなくなっていて腎臓周辺が炎症を起こし、この病気になっている)ステロイドを長期服用していたら、だんだんカラダが、補ってもらってるのをいいことに、自分で分泌しようとしなくなるのだそうで。なら、再発して腎臓の周りの糸球体が炎症を起こしたときだけドバっと使って、炎症が治まったらスパっと止めればいいのにと思うかもしれないけれども。この薬は厄介で。ドバっと使ってもいいけど、スパっと止めようとすると、余計に炎症がひどくなったり、腎臓本体を悪くしてしまう可能性があるのだ。だから何か月もかけて減らしていけなければならない薬というわけで。それに加え。その薬が、もうすぐなくなる頃になると、いつもカラダが思い出してしまう。あ、薬の効きめ、弱くなってるやんって。自分で出せないと思い込んでるカラダはまた、炎症起こしはじめる。というのが私のカラダで。その繰り返し再発を、気づけば10回以上もしている始末。そうなってくるともう、治るのを期待するんじゃなく、どうやって病気と一緒に生きていくか?が人生のテーマになってくる。未だに答えは見つからないけど、いつかうまい答えが見つかるといい。病気になるまで私は、『いつ死んでもいい』なんて思っていたのだけれど。実際、死を突きつけられたら、『ああ、ごめんなさい。まだ死にたくない、死にたくない』って心底思ってしまった。直面しないとわからないことってあんだなと思った。高校時代の部訓の中に「人間の力に限界はない」っていう言葉がある。病気になって限界があることを知った。しかし、そこで終わりというわけじゃない。体には確かに、限界があったかもしれないけれど、まだまだ。生きていくうえで、体だけに頼るばかりじゃなく、もっと他の方法があるよって、病気が教えてくれたような気もしている。それまでの生活と180度変わってしまったけれど、それまで使ってなかった180度違った私を、もったいないから使いなさいって教えてくれたのが、この病気だったのかもしれないって、最近はよく思う。2通りの人生に感謝していようと思う。
ちなみに。一番最新の再発は、2012年。それからは、なんとか薬を減らし続けている。社会に出て働くということが出来ないままかもしれないと思っていたけれど。ギリギリ30代の終わりの年に仕事を見つけた。薬はまだ飲んでいて、疲れると再発するかもという不安は常にあるけれど、1日の中の少しの時間を長い期間できるだけ長くつづけていきたいと思って、もう3年が過ぎた。病気になって20年が見えてきて、ようやく人並みに戻れるような気がしている。もうすぐだ。感謝。

残言 腐ったらアカンで

入院したての頃、同室のオバちゃんに、そっと耳元で言われた言葉。入院した頃の私は、体のだるさと、入院生活という今までとは別世界の生活に、戸惑うどころかむしろ興味津々で、ちょっとテンションが上がっていた。上の姉が看護師をしていたけど、実際どんな仕事をしているか知らなかったから、こんなことしてるんだーと看護師さん観察もしていた。看護師さんやお医者さんって質問したらなんでも答えてくれるのね。腎臓に注目したことがなかった私にとって、自分の病気を理解するためには、毎日回診に来てくれる担当医に質問して病気の謎を解き明かすのも入院生活の一つの楽しみになっていた。看護実習生も1人ついてくれた時期があったので、その人にも色々質問して、自分の病気を理解していった。それでも、どうしても不安になることや、それまでのような体を使った動物と関わる仕事が難しいということなんかは、看護師さんがじっくり話して聞かせてくれた。薬の副作用でベッドから起きないで過ごす日や、本も持つことができないくらい体がだるい日なんかもあった入院生活。そんな中、2年間に6回の入退院という長い入院生活の中で、比較的落ち込まずにのんびりとした気持ちで過ごせたのは、母の頻繁な面会と、同室のオバちゃんとの時間のおかげである。母は1週間に2、3回は必ず面会に来てくれた。明るくテンション高めで来てくれるから、ずいぶんと助かった。家を出て4年もまともに帰らなかった娘が、病気になって入院してしまったのだから、親の内心は不安だったに違いないのに。そんな影は一つも見せず、いつも笑顔で病室にやってきてくれた。今振り返っても感謝しても仕切れない話だ。入院した部屋は4人部屋。私は1回の入院で長い時は4ヶ月も居座っていたので、6回の入院で同室のオバちゃんは目まぐるしく変わっていった。ざっと数えても、30人くらい居たかな。そのすべてのオバちゃんと私は話をして、病気になった時の手続きの仕方とか、オバちゃんの知恵袋的な話とか、オバちゃん達の結婚した時のエピソードとか、色んな話を聞かせてもらった。1人を除いて(中学生の女の子と同室になったことがあった)みんな年上だったので、みんな親切で、自分の病気のほうが私より重症なのに、励ましてくれる人がほとんどだった。その中で、奇跡的に入院部屋の4人が1ヶ月以上同じ人達という時期があった。みんなで雑誌を回し読みしたり、みんなで同じTV番組を見て笑ったり、夕日が沈むのを黙ってみんなで眺めていたり、窓から見える場所に家が建つのを毎日のように眺め、とうとう家が完成した日には、自分達が建てたかのように喜んだりしていた。連帯感みたいなものが生まれて、寂しくなく過ごせた。
その中の1人のオバちゃんがある日、ふいに私の耳元にやってきて言った「腐ったらアカンで」と。何の前触れもなく、そんなことを言ったので、何のことだか、その時は全然わからなかったけど、後々、じわじわこの言葉は胸に響いてきた。その当時は、すぐに治る病気だと、なんだか強く思っていたのに、再発するたび病気を実感するたび、なかなか治らないんだという事実に向き合うことになった。そのたびに、この、オバちゃんの言葉を思い出すのだ。オバちゃんは長々と説明はしなかったけど、「腎臓の病気っていうのは、これから結構長く付き合っていかないといけない病気だから、腐らんと生きていかなアカンで」という意味を込めた言葉だったんだろうと、今になってみたら思う。ありがたいな、本当。そのオバちゃんは、同じ腎臓の病気だったけれど、はっきり言って私より重い病気だった。それなのに、飄々としていて、全然悩んでいるそぶりも見せなかった。そんなオバちゃんからもらった言葉、大切にしていかなくちゃと思っている。言葉というと、もうひとつ。退院してからこれからどうやって生きていけばいいのかなとあれこれ考えていた頃に、上の姉からポストカードをもらった。上の姉をはじめ、家族は私に励ましの言葉など言わない。言葉じゃなくて態度でさりげなく支えてくれている。そんなありがたい家族に囲まれながらも、退院してきてからも、家で何もしないで寝てばかりいなければならない自分に嫌気がさしていた頃、上の姉がこのポストカードをくれた。そのカードには「人生にムダなんてないのさ」という言葉と時計の絵が描いてあった。それを見た瞬間、なんだか心が軽くなった。(ああ、この寝てる時間もムダじゃないと言ってくれるんだ)って思うとホッとして涙が出た。それからずっと今でも、見えるところに、そのポストカードを貼っている。時々見ては、ムダじゃないんだなと確かめたりしているし、その言葉にばかり頼ってても仕方がないからムダにならないようなことをしなくちゃと思うようになった。感謝感謝だ。もうひとつ、言葉ではないけれど、入院中にあるオバちゃんにもらったものがある。そのオバちゃんは2週間くらい同室だった。オバちゃんが退院する時、私の腕にミサンガを結んでくれながらこう言った。「私の娘もあなたと同い年で、あなたと同じ名前なの。負けないでがんばってね。これは娘が作ったの。よかったらもらってね」と。その日から、ずっとミサンガをつけて過ごした。切れてしまってからも、ずっとブレスレットをつけるようになった。なんだかつけてないと不安になるのだ。10年経った頃まで、どちらかの手首には何かしらついていた。今は仕事をしているので、手首には毎日、腕時計がついているのだけれど、手首になにかついてると安心する。私の安定剤のひとつ。


残事 魔法メールと大量四つ葉

やっと入退院を繰り返さなくなって、パソコンを買った頃。布団に入ったまま、パソコンをいじり、世の中の情報を得ていた。こんなことばかりしていてもダメだよなーと思ってとりあえず、今の自分に出来ることをしようと手始めに、世界にまでつながっているこの小さな箱の中に、私の存在も示そうと、お金をかけずにHPを作ろうと決めた。それが別世界での第一の夢になった。HTMLを使えば作れることを知って、何日も何日も本とにらめっこしながら作った。それと平行して、いろんな人のブログを覗いて、時の流れを感じ取ったりしていた。あまりにも時間の流れのない自分の生活が不安で、完全に世の中に取り残されている気分だったのを、パソコンのおかげで脱することが出来たのだ。紙粘土でダルマを作ったり、絵を描いたものや詩を書いたものをHPに載せたりした。入院していた頃は、しんどくない日は時間つぶしに、スケッチブックに絵ばかり描いていた。看護師さんに「絶食中」とか「検査中」の札や、小児科の「クリスマス用の絵」なんかを頼まれて描いたりしたこともある。絵だけじゃなく実は学生の頃から、何かモヤモヤしたらこっそりと詩なんか書いたりしていた。それを入院していた頃に思い出して、心境なんかを詩にしてノートにビッシリ書いたりしていた。そんなものをせっかくだからとHPに載せていたのだ。HPが完成して、次は何をしようかと考えていたところ、昔の夢を思い出した。
本格的な夢は、中学2年の時にTVで見た動物園の飼育係さんが輝いて見えたこともあり、動物園の飼育係を掲げていて、移動動物園だったけど、念願だった夢を叶えることが出来ていた。じゃあ、他に夢はなかったのかと考えてみる。幼稚園の頃は幼稚園の先生、小学生の頃は小学校の先生。鉄砲のおもちゃがほしかったけど、女の子はそんなの持ってないと諭され、手に入れられなかったので、じゃあ、警察官にもなりたいとか、単純な夢はいっぱいあったけど。小説家とか絵本作家とか、そんなものも夢見たことがあったなと思い出した。そこで、次の夢が決まった。本を出そう!何年かかってもいいから、一生かけてでも、自分の本を出そうと心を決めた。
いろんなコンテストに、ポストカードとか絵本とか童話とか詩とか、色々出してみたけど、なかなかうまくいかない。100万くらいお金を出せば、本が出せますよと何回も言われたけれど、なんせ働いていないし、これ以上家族に負担をかけられないし、お金をかけずに、本を出すことを条件にすることにしていたから、そうそううまくはいかなかった。時間はたっぷりあるのだからと自分に言い聞かせてはいたものの、ちょっと心が折れそうになっていた時期もあった。
ちょうどそんなとき。いつも覗いていた人のHPが移転していた。ああ、もうやめてしまったのかなと残念に思っていたら、数日後、新しくHPができていた。事務所を移してリセットして新たに頑張っていくと書かれていた。その人とちょうど同い年だった私は、いつも何かに挑戦している姿に元気をもらっていた。なんだか私が出来ないことを代わりにやってくれているような気さえしていたのだ。そんな人が、また新たなことに挑戦していくというのだから、こんな嬉しいことはないと思った。その想いを是非とも、その人に届けたくて、HPからおもいきってメールを送った。見ず知らずの人からメールをもらって迷惑かなと思ったけど、遠いところから応援していることを伝えずにはいられず、ほとんど自己満足のために送信していた。それでかなり満足していた私の元に、数日後、返信が届いた。ビックリした。1人でドキドキしながら、返信メールを何度も読み返し、嬉しくて涙した。落ち着くために返事を1日寝かせてみた。次の日になっても、その返信メールが幻じゃないとわかって、またメールした。そしたらまた返事が返ってきた。そんな風に何回かメールのやり取りをさせてもらった。すごく遠くの人なのに、すごく近い存在になって、軽く頭がパニックを起こしていた。嬉しいパニックだから大歓迎で、変化のない日常が、劇的に変わった。嬉しがって長い長いメールを書いていた。興奮していた日々も段々と落ち着きを取り戻し、メールのやり取りは終わりを迎えた。その後、改めて読み返してみると、自分の夢である「本を出そうとしている話」もしていた。その人のほうが、何歩も前に進もうとしているのに、夢のまた夢の話なんかしている自分が恥ずかしくなって。本を出したいって願望だけじゃダメだから、具体的に何か始めなくちゃと強く思った。【1日1詩】を目標にして、書くことから始めることにした。1年くらい経って、結構たまった詩を、改めて出版社のコンテストに応募することにした。インターネットで、小さな出来たてホヤホヤの出版社のコンテストを見つけ、応募した。応募してから、何ヶ月か結果を待たなくてはいけない。その間に、たまたま出かけた祖母の家の近くの空き地で、四つ葉を見つけた。ひとつ見つけて嬉しがって、もっと見てたら、次々と四つ葉を見つけた。なんなら五つ葉も六つ葉も見つけた。すごいなーと大満足でいたら、数日後、コンテストの結果は、大賞だった。無料で本を出版してくれるというのだ。騙されてるんじゃないのと、周りの人は言っていたけど、タダだって言うんだから、いいじゃんと言って、ありがたく話を進めてもらった。本のデザインや絵は出版社の意向で進められ、簡単な校正をしてもらい、後は待つだけだった。半年くらい待って、出版社の方のおかげで、私の手元に出来上がった本が届いた。嬉しかったな。魔法のようなメールをもらってから、2年くらいの出来事だった。夢のようなことばかり起こって、本当に夢が叶った。ふりかえってみると、あの魔法メールがなければ、あの大量四つ葉がなければ、こうして本を出版できていなかったかもしれないとしみじみ思う。それから、出版した本を魔法メールの人に贈った。自分のことのように喜んでくれた。それから何ヶ月かして、その人に会うことも出来た。握手してありがとうって言うつもりで会いに行ったのに、緊張で何も喋ることが出来ず、記念写真だけ撮って帰ってきてしまった。次の年も会うことが出来たけど、やっぱりありがとうを言えずじまいだった。その後、約10年経った頃、また会える機会があったのだけど、想いが強すぎるとダメだな。感謝の言葉を発したら、泣いてしまいそうでダメだから、結局言えなかった。もう会えないかもしれないし、たぶん会えても言えないかもしれないから、この場で言っておこう。
「あなたのおかげで、夢を叶えることが出来ました。本当にありがとうございました」
たったこれだけなのに、言えなかった言葉。ずっと胸に残っている、言えなかった言葉。

残考 遠近同違

あえて遠くに。と思ったことがある。
誰も自分を知らない場所でイチから関係を築いてみたいという想いと、親元から離れないといつまでも一人前になれないんじゃないかという想いを、いわゆる思春期に抱いていた。「感覚だけで生きてんなー」と、よく言われる私なので、想いをさりげなく現実に変えていった。
まず。田舎なので、動物関係の学校が地元になかったということもあるけれど、高校を卒業してから、京都にある専門学校に行きはじめた。それまでは。物心ついた時から、周りの顔ぶれが変わらないままの環境にいたけれど、京都はマルっぽ、誰も知らない。いろんな県から集まってきた同世代の人達の中、共通点は動物好きということだけ。それでも、みんなスタート地点は同じだから、仲良くなるのに、そんなに時間はかからなかった。(でも、おもいきりが足りない私は、ひとり暮らしをしないで、京都まで4時間かけて2年間通ったんですけども)京都・大阪・福井・香川・徳島。いろんな県の友達が出来た。バカな話をして笑ったり、とめどなく動物との関わり方について語り合ったり、ひとり暮らしの子のところ集まってワイワイたのしかった。遠くに行くと、そのぶん広がる。って思ったことを覚えてる。
そのあと就職先は、大阪へ。会社の寮で生活をはじめた。がっつり親元を離れ、3ヶ月に1回くらいしか実家には帰らない日々が4年続いた。移動動物園をしている、小さな会社だったので、10人足らずの少人数で、朝から晩までみっちり生活を共にした、もちろん動物たちも、みっちり。
そうして。いろんな場所で、居場所を見つけていくたび、自分の世界が広がっていくのは感じたのだけれど、結局のところ、変わらない自分にも、実は、気づいてしまった。どんなに遠くに離れても、どんなに違う場所に身を置いても。そこに居る人たちの中での自分の立ち位置は、どこに行こうとも、元のまんまのところをキープしているのだ。
少しからかわれながらも、少し頼られ支えられ、結局のところ、そこを自ら、選んでいるのかもしれないと思うほど、どこに行っても、どの輪に入っても、そこに落ちつくのだな、私は。と、気づいた。それが嫌だと思った時期もあったけど、それは自分で選んでいるんだと思うと、妙に居心地がいいことにも気づいた。無理に変えようとしなくてもいいんだと、気づいたら、とても気持ちがラクになったのも覚えてる。
そのあとは結局、病と共に、親元に帰るのだけれど、離れていたぶん、ありがたみも鮮明になって、離れても離れなくても、一人前になるときはなるのは、また別の話なんだと気づいた。距離じゃないのだな。
病と共に実家に帰ってからは、「これ以上、極力、迷惑をかけるひとを増やさないで生きていこう」なんて思っていた。家族や友達以外、会わないし話もしない日々が続いたりした。それでも、人っていうのは、時間の流れにのって、いろんな出会いを経験する。入院先の人達、帰ってからの友達伝いの交流、手紙を通じての再会。そう、いろんな出会いが待っていた。
中でも。友人を介して、ホームページ作成をしている人のイラストを描いたりするお手伝いをさせてもらったのは、とても特殊な交流だった。お手伝いしたのは1年程だったように記憶しているのだけれど、その間も今現在も、その人には1度もお会いしたことがない。入退院を繰り返したあと、家で1日の大半を寝て過ごさねばならない日々に、ノートPCを購入し、布団の中でPCをいじっていた、そんな頃の話で。大阪の人だったので、お会いすることは叶わず。それでも私の事情を理解してくれて、見よう見まねで作っていた私のホームページに載せていた絵を気に入ってくれて、お手伝いをさせていただけることになったのだ。連絡はもっぱら、メールと電話。大半がメールだったけど、時々掛け合う電話は、用件だけじゃなく、たわいもない世間話をして、気がつけば1時間も2時間も経っていたこともあった。その頃の私には、家族や友人以外と話す機会が皆無だったので、とても新鮮で刺激的だった。遠くに居ても近くなる。そんな経験は初めてで、とてもたのしい時間だったことを覚えている。
そのあとは、アレコレ試行錯誤して、本を出版させてもらった際、いろんな人に宣伝を兼ねて、手紙を出した。ちょうどその頃、高校3年の担任の先生と同姓同名の人が引きこもりの役で出ているTVドラマが放送されていた。何年もご無沙汰していた先生だったけど、このタイミングはいいタイミングだと思って、先生にも手紙を出してみた。出してみたものの、先生っていうのはたくさんの生徒がいて、たぶん私の事は覚えてないだろうからと思っていたところ、返事が来た。とっても嬉しかったのを覚えている。今、○○高校に居るから、会いにおいでと誘ってくれたので、会いに行った。病院や買い物くらいしか、出かけることがなかった頃だったので、それをきっかけにして度々呼び出してくれる先生に感謝した。それがもう10年くらい前になるだろうか?それからずっと今でも、先生の呼び出しは続いていて、絵を描いたり、学校で使うチラシなんかのお手伝いをさせてもらっている。これも、ある意味、距離感の話だなと思う。時間軸の遠かった距離が縮まった感じ。おもしろい。
そのあとに出会った、もう1人、お会いしていないけれど近くに感じている人がいます。
東日本大震災の起きた年、私はもう一冊の詩集を出版してもらうことができました。関西に住んでいる私は、遠くでおきた大きな出来事に、何もできないでいました。その時ちょうどいいタイミングで、以前、本を出版してもらえた出版社が「800冊予約が取れれば、本、無料で出版できます」という企画をしていました。働けていなくて体力も伴わない私には、その企画はありがたかった。本が出せたら、その売り上げを寄付できる。そう思って、震災で心細くなっている方々に届けるような気持ちで書いていた詩を、本にしようと応募しました。連日、ブログやTwitterを更新して、予約をしてくれるように更新していました。
そしたら、メールが来たのです。「私もその想いに参加してもいいですか?」と。同じ出版社から本を出されている、静岡に住む、絵を描かれる人でした。その日から「挿絵を描けるだけ描きます、描けたら随時、メールで送ります」と連日、何枚も何枚も絵を送りつづけてくれました。予約がどうにかクリアして、無事に本が出版されました。出版社さんの意向で、私の絵も加え、どのページを開いても淋しくならないように、全ページ絵を入れてくれて、想いのたくさんつまった本に仕上がりました。予約してくれた方々の想いにも感謝して、少額ながら寄付もすることができました。いろんな人とつながって、素敵な時間がすごせました。ひとえに、賛同してくれ、ステキな絵をたくさん、どこの誰ともわからない私に届けてくれた、あの人に、とても感謝しています。まだ一度もお会いできていませんが、いつの日か、あの人の個展を観に行けるのをたのしみにしています。
こうして、改めて書き出してみると、遠いとか近いとか、実際の距離は、あんまり重要ではないのかもしれないなと思える。日々常に、会うべき人に会えている。そう思ってすごしていければ、会う人会う人、とてもたのしい時間がすごせそうだなと思っている。

残事 しょっぱい金髪星空骨折

2012年、夏。右足首骨折をした。2本の骨がポッキーンと綺麗に折れた。それは夜の8時頃、父と口ゲンカして、頭を冷やそうと外に飛び出して、裏山にある3、4mある、いつ見てもカラッカラのダムに、山肌を伝って登った。登ったときはうっすらと明るくて無事にダムの頂上に到着。コンクリートの上でゴロンと寝そべって、しばらく空を見上げてた。あふれる涙が出なくなるまで、結構光ってた星を眺めてた。その頃はちょうど、そこそこ体力がついてきていたけど、まだ働ける自信がなくて、そうしてるうちに、また再発して薬が増えていたり。老いはじめた父の手助けが過ぎて、ついつい小言が多くなって、父が不機嫌になる日が多くなっていた時期。母も65歳を過ぎ、病気なんかしなかった人なのに次々と病気が襲ってきていた時期。口ゲンカもイライラも多くなって、いつもより大きな声で互いに罵倒してしまった。私が病気になってから、ひとつ自分で決めていたことがあって。極力、人に迷惑をかけずに過ごしていこうということと、家族にはどうしても迷惑をかけてしまうから、かけてることを自覚しながら。もし、家族に「じゃま」だと言われたら、ここから居なくなることにしよう。なんて、決めながら過ごしてた。そしてこの日、「お前何様だ」からはじまって「ごちゃごちゃ言うなら、じゃまやから出ていけ」みたいな話になった。ああ、ついに来たか、消えなくちゃいけないかな。とか、星空を眺めながら思った。でもね、いざとなるとこれが、できないのね。「このままだと死ぬよ」と言われた時のように、じゃまだと言われても消えられないの。決意っていうのは、全然効き目がないなーって涙拭きながら思った。1時間くらいそうしていて、やっと涙が出なくなった頃、やっぱり家に帰ろうって思って立ち上がって、歩き出したとき、それは起こった。つるんっ。と足を踏み外し、左足を踏み外したのに、ダムの左側に落下しながら、右足で土の地面に着地した。イッターッッ!と思ってしばらく寝ころんだままだったけど、痛すぎるので、ゆっくり立ち上がってみたら、右足が地面につけない。で。足首から先がぷらんぷらんになってて、取れてしまいそう。こっわ!いった!とりあえず、腹ばいになって寝転んだ。立てたらぷらんぷらんするから、足を倒したまま、とりあえず、ほふく前進で、家まで帰った。土や草の上は、這いずってもあんまり痛くはないけど、家近くの道路は舗装されているので、スレてスレて、とても痛かった。家近くに辿り着くと、姉が捜しに来てくれていて、そのまま、病院まで連れて行ってくれた。レントゲンを見ると、見事に2本の骨が折れていて、「手術をしないと、まっすぐくっつかなくて、1ヶ月も経たないうちに歩けなくなりますよ」と言われた。なんせ心が腐りかけてた時だったので、手術しなくていいよと思っていたけど、姉達が段取りをしてくれて、ギブスをしてもらい、ネフローゼでお世話になってる病院に入院することにしてもらった。で、その頃、ちょうど私の髪の色はお試し金髪だった。白髪が生え始めて気になっていた私は、ひとつ実験をしてみようと思った。元々色素が多くて、真っ黒な髪の色だから余計に白髪が目立つ→脱色をして、周りの色を白に近づけたら、白髪が目立たなくなるんじゃないか!でも、1度、脱色しただけじゃ茶色くなるだけだから、灰色くらいにするには2度3度と脱色しないといけないな。という計画の、この頃ちょうど、2度目の脱色中。生涯初めてのキンキンの金髪期間だった。それが入院3ヶ月。退院までに看護師さんも患者さんも仲良くなったけど、入院時はその階は、にわかにざわつき、バイクでヤンチャした金髪の子が入院してきたという噂が飛び交っていたらしい、笑。そのあと、足の腫れが引いて、手術したのは1週間後。手術中、下半身麻酔だから、骨を色々してるドリルや何やらの音が聞こえるって説明を受け、ビビりまくっていた話が隣り部屋の人が聞きつけ、ヤンチャな子でも怖がるのかとざわつき、励ましに来てくれたこともあった。仲良くなってから、なんで骨折したのかと聞かれ「ダムで星を見ていて足を滑らせた」というと、何とロマンチックな理由なのと意外性で、面白がられた。そんなこんなで、3ヶ月が過ぎ、すっかり心もカラダも足も持ち直して退院した。父も私も穏やかに、また生活をはじめた。松葉杖で退院してきて、すこしの間、リハビリに通い、車の運転もできるようになった頃、姉達に背中を押され、仕事を始めた。1日のうちの短い時間だけど、もう丸3年つづけられている。今思えば、しょっぱい想い出も、いいきっかけだったのかなと思う。

のこりもの

2017年 発行 初版

著  者:JUNC
発  行:JUNC出版

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