シナリオ・センター大阪校
〒532-0011
大阪市淀川区西中島4-3-22
新大阪長谷ビル 7F
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道が細く伸びている。辺りは真っ白で明るい。目がつぶれそうな程だ。眩しくて目を閉じると、瞼の裏から闇が染み出て広がる。そのまま歩き続けていると、どこからか微かに声が聞こえた。はっとして目を開ける。目の中には闇が残るようだ。
足音が聞こえる。いつの間にかぴったりと寄り添うように。少し後ろからずっとついてくる。
見るとすぐ横に男がいた。息を吐けばかかるほどだ。だれだか確かめようとするけれど、うまくいかない。やがて男の歩みが少し速くなった。
「覚えてる?」男がようやくこちらに顔を向けて言った。左目の下の大きな黒子。わたしはすぐに分ったが黙っていた。すると男はさらにべったり寄り添うようについてくる。
わたしが黙ったまま歩き続けていると、焦れたのか今度は男は先を歩きはじめた。道はこの一本だけで、わたしはその後を行くしかない。辺りは日が落ちはじめて、空が青黒くなっていくようだった。
男は足を止めてわたしを見た。広がる闇のせいか青黒い顔をしている。唇はいっそう濃く青く、菖蒲の花弁を思わせた。男はけっしてこちらから目を離そうとせず、わたしの頭の中を覗くように見つめている。
道の先が次第に細くなり、ふっと切れている。闇の中を這うように一本の細く赤い川がそこを横切っている。突然、男が膝から崩れ落ち倒れた。自分でも気付かず支えようと腕をのばした瞬間、息を呑み思わず後ずさった。心臓の辺りがべったりと血に染まっていた。
「なに驚いてるの? お前がやったんだろ」男が言った。微かに微笑んでいる。逃げ出そうとしたその時、背後から腕が巻き付いて首を締め上げられた。死にものぐるいで腕から逃れようとするが、硬くてほどけない。
「ぼくの金は?」
「あっちの男に」息も切れぎれに答えた。
「全部?」わたしは黙っている。
「どうして?」
「……あっちの男のがいいから」
そう言えば男が傷つくことは分っていた。一瞬、男の腕から力が抜けた。わたしは肉を食いちぎらんばかりに噛み付き逃れた。舌に残る錆びた鉛の味。男の左手の内側に真っ赤な血が噴き出している。
「待ってろ、必ず」男は倒れた。目は大きく見開いて動かない。けれど微かに微笑んでいつまでもわたしを見つめていた。
目の前の糸のような赤い川を、すがるような思いで踏み越え、わたしは目が覚めた。
あの男を殺したのはもう一年も前なのに、刺した手応えが残っている。夢の中で噛んだ肉の感触もそのままで、思わず口をぬぐった。
傍らで男が寝息をたてている。わたしが選んだ男だ。どうしてこっちを選んだのかよく分らない。もう終ったことだ。眠る男に口づけて、わたしは自分の大きく膨らんだ腹をなでた。
幾度も激痛に耐え、そしてまた息んだ。これが最後だった。体中の力が抜け、赤ん坊の激しい泣き声が聞こえた。清潔な白い布に包まれた新しい生命にほっとしたのも束の間だった。真っ白な産着を覗いた瞬間、全身総毛立った。激しく泣く赤ん坊の左目の下には大きな黒子があり、小さな花弁のように開いた左の掌には赤黒い歯形が残っていた。気付くと赤ん坊は静かに微笑んでいた。
おわり
曲がりくねった細い山道は、生い茂る野草と巨大杉のせいで、真昼でも薄暗かった。
雲行きが怪しいな。前田は軽自動車のハンドルを握りなおした。視界が悪く、時速は十キロほどしか出せない。遠くで雷が唸りだし、フロントガラスに大きな雨粒が落ちてきた。
俺、ついてないわ。前田はため息をついた。
さっきまで気分は上上だった。高校時代の恩師が、集中豪雨に遭ったと聞き、土日を利用して支援物資を届けに出向いた。恩師はもちろん村の人々にも感謝され、英雄気取りで帰路についた。清々しい思いに浸りながら。
どうせ俺は天に嫌われている。来月いっぱいでリストラされるのもそのせいだわ。何が「まだ三十三だろ。どうにでもなる」だ。勝手に俺の人生狂わせやがって。いいわ、どんどん降れよ雨でも矢でも。
腹が減っているのもあって、前田はヤケをおこした。何か食べれば機嫌はおさまりそうだった。だがコンビニはもちろん、周囲には露店の一つもない。村からの道中も廃墟しかなく、飲食店が連なる国道に出るには、山を二つ越えねばならない。カーナビは、国道への到着を二時間後と表示している。
はぁ、二時間はないわ。腹減りすぎだろ。
ワイパーが動くたび、前田の舌打ちが響く。ニ十分程して、やっと道が開けだした。
路肩に人影が見える。割烹着を着た、肉づきの良い中年の女だった。
小雨の中、傘をささずに白い小型犬を抱えている。近くの住人なのか、衣服はそれほど濡れていなかった。
追い越し様、前田は女に声をかけた。
「すみません、この辺りで食事のできる所は」
女は右側を指した。道先の分岐点に古びた看板が立っている。文字は雨風で剥げていて、【不定休】【天然素材】しか読み取れない。
ラッキー、このおばさんが営んでる店だわ。
前田はわき道に車を止め、女の方へ寄った。
女は微笑んだ。慣れた笑みだった。
「この子は可哀想に、もう目が見えんのんよ」
何の前触れもなく、女が口走った。
マルチーズだろうか。目元は毛に覆われていてよく解らない。前田は、犬よりも、こんな山奥に住む冴えない中年女が、全ての指に高価な金や宝石の指輪をし、何重にも金の首飾りや腕輪をしているのに驚いた。かと思えば背中には、九つの目が描かれた妙なモノをぶらさげている。カニの甲羅に見えなくもない。
「スッポンの甲羅やわ、それ」見透かしたように、女が言った。
前田は気味が悪くなり、車に戻ろうかと思った。だが、空腹の上、都会で見かける田舎蕎麦屋に似た家屋と、畑にできている野菜や井戸を見ると気が変わり、女の後につづいた。
店は三席カウンターがあるだけだった。壁の棚には瓶詰めの保存食が沢山並んでいる。山菜、木の実の蜂蜜漬け、酢大豆に酢ごぼう。前田は嬉しくなった。素朴ながらに手が込んでいる。良いことをしたからだろうか。やっぱ天は俺の味方だわ。と、前田は思った。
山の幸の瓶詰め以外にも、年季の入った茶色い壺が並ぶ棚があった。
ぬか漬けや手作り味噌に違いない。前田の期待は膨らんだ。
女はカウンターの中に入ると、指輪をすべて外し、流し台の隅へ無造作に置いた。
「ここら辺って、廃墟ばっかっスよね」
「みんな居らんようになった。トウビョウモチもオサキモチも、みんな絶えてしもうた」女はあたりまえのように答えた。
「は? なんスかそれ、ナンとかモチって」
「ええ歳して知らんとはな。代々ツキモノ持っとる家のことよ、まぁ、ツキモノ筋言うたらイヌガミが有名やわな。嫉妬や恨みで人に憑りついて酷い悪さする、あのツキモノよ」
唖然とする前田を尻目に、女はつづけた。
「トウビョウ言うたらミミズ位の蛇でな。それに憑かれたら呪い殺される。かなわんから、ほれ、これ邪視言うて、魔よけつけとるんよ」
女は、スッポンの甲羅に描かれた九つの目を見せると、黄色い歯を見せて笑った。
タイミングよく前田の腹が大きく鳴った。女は「ふっ」と、低い声を出すと、錆びた収穫バサミを持って畑へと向かった。
あんな奇妙な話、興味ないわ。と、前田は思った。目の前には、女の外した指輪が転がっている。手を伸ばせば届く距離だ。
一つ盗んでやろうか。女に指輪の行方を聞かれても、シラを切り通して車に乗れば楽勝、余裕で逃げ切れる。それなら二つでも大丈夫だろう。「今、はずみで落して」とか言って、女が探している間にダッシュするのも有りだわ。それなら三つ、いや、全部いけそうだわ。
前田が指輪に手を伸ばした時だった。いつの間にか背後に女が立っていた。即座に前田は手を引っ込めようとしたが、女が前田の後ろ髪を鷲掴みにする方がはやかった。前田は「違うんです」と言いたかったが、乾いた喉音が鳴っているにすぎなかった。すぐに金属製の尖った何かの先端が、前田の視界に入るやいなや、背筋から足先に冷たい痺れが走った。ほぼ同時に、感じたことのない強烈な熱さが目元を襲ってきた。
やめろ、目が燃える。
数秒後。前田は、土間でのた打ち回る自分と同じ服を着た白髪の男を見た。両目を押さえた手先がぴくぴくしている。水晶体が映しているのは、まぎれもない前田自身だった。
次に見えたのは、収穫バサミを持つ女の手と小ぶりの茶色い漬物壷だった。女は、血のついたハサミの刃先で、壷の丸い蓋を開けた。
急に視界が暗くなった。そう長くない時を経て、徐々に暗闇の中の視界が広がった。
半透明の球が蠢いている。殆どが黒で、茶、灰色、少量だが青と緑もいる。小指の爪位の大きさで、我先にと向かってきた。
「ジャシ様よぉ、喜んでもうとりますか。ほうですか、犬の眼とは違いますか。新入りのしろまなこ食うたら、またちぃと我慢して下されや。ジャシ様絶やすわけにはいかんしな」
女の言葉は、土間で息絶えた前田にも、まなこだらけの壷にも届かなかった。
おわり
その大根は女の形をしていた。
半年前に妻に先立たれ、この家に独り残された私にとっての生きがいは、妻が遺していった、この家庭菜園を手入れする事だけだった。
他の野菜に紛れて顔を出した大根は日に日に大きさを増していき、いよいよ畑から引き抜くと、その勢いで大根を抱きかかえたまま尻餅を着いてしまう程だった。
そして、土に埋まっていた部分を見ると中央より少し上のところ、左右に腕のような根っこが生えており、その間に二つの膨らみがある。女の乳房のようにも見える。下へいくと先端が人の足のように二本に分かれて、すっと伸びていた。太腿に当たる辺りが、白くふっくらとしており、後ろへ回して見ると、太腿から繋がる二つの膨らみが、真ん中に影をつくり、艶やかな尻のように見えた。
私はその姿形に軽く吹き出して笑った。初めのうちは写真を撮って、社内の部下達に見せようかなどと考えていたが、眺めているうちに、目の前の大根が妻の生まれ変わりのように思えてきた。
私がその身体から丁寧に土を洗い流してやると、透き通るような白い肌が露わになった。タオルで水気を吸い、ベッドに座らせた。ちょこんと佇むその姿がなんとも愛くるしかった。
その日から私は毎晩、彼女を抱いてベッドに横たわるようになった。
ひんやりとして滑らかな抱き心地は私をほうっと安心させ、これまでの眠りにつくまでの困難さが嘘であるかのように、あっという間に深い眠りへと誘うのだった。
そんなある日、会社の者たちと酒を呑む機会があり、私は久しぶりに酔ってしまった。記憶も曖昧なまま、なんとか自宅に辿り着き、そのままベッドに倒れこんだ。
その夜、私は女性と交わる夢を見た。相手は元気だった頃の妻のようでもあったし、また他の誰かのようでもあった。
朝、目覚めると大根は酷くくたびれたように私の腕の中で横たわっていた。私は慌てて流し台に彼女を連れて行き、汚れを洗い流し、足の部分を水に浸して置いたまま、会社へと向かった。
帰宅すると、一人娘が大学の休暇を利用して里帰りしてきていた。そして、テーブルの上に大根の煮つけが用意されていた。
「変わった形の大根が獲れたのね。穴も空いてたし、萎び始めていたから使ったよ」
娘は旨そうに煮つけを平らげた。
私は箸を付ける事が出来なかった。
しばらく経つと娘は気分が悪いと言って嘔吐を繰り返し、下腹部に手を当てた。
つわりか?
私の大根を勝手に食うからだ。
おわり
君のいない人生なんて考えられない。
君がいない世界なんて俺にとっては死と同じだ。それが夫のプロポーズだった。
あれから50年後の夫が目の前にいる。
私は夫をじっと見つめた。
皺とシミだらけの垂れ下がった皮膚。
ところどころから飛び出し、その役割を忘れてしまった白い毛髪。
それらはもう夫のものではなく、枯れた山やひび割れた大地のように見え、その中に私がひとり、目的もなく彷徨っているように思える。
「おい、君、何を見ている。うちの家内はどうした!」
私は、私がこの男の妻であることをすべての言い訳にして、その言い訳だけに従い、それ以上深く考えることをやめたのはもう随分前のことだ。この男の妻であるという一点だけで、私は私の犠牲から身を守っている。だが、一番前に置いた偽の意識だけに従うことは、死を意味していた。
「君、聞いてるのか?」
今朝のテーブルには夫が大好きな食事のメニューが並んでいる。豚の生姜焼き。ブリの照り焼き。辛いカレーライス。ねぎの入った納豆。薄いビーフカツ。甘いたまごやき。キムチ鍋。そしてハンバーグ。昨夜は一睡もせずに、徹夜でこれらの食事を拵えた。
「それに君、この朝食はなんなんだ? お手伝いじゃ話にならん。うちのやつはどこにいった。うちの家内を呼びたまえ」
君のいない人生なんて考えられない。
君がいない世界なんて俺にとっては死と同じだ。
君のいない人生なんて考えられない。
君がいない世界なんて俺にとっては死と同じだ。
「何をぶつぶつ言っている。家内は! 家内はどこなんだ!」
「あなたの言う通りにしてあげる」
私は包丁を手に取り、夫を刺した。
「君、何をする!」
何度も何度も、包丁を刺した。
枯れた山が赤く咲いて、ひび割れた大地が赤く濡れた。血のしぶきが、テーブルの上の料理に降りかかる。
私の顎から滴るのは、汗ではなく真っ赤な血だ。
蝉の声が聞こえてきた。
テレビからは笑い声が聞こえてくる。
カーテンをあけると、夏の真っ白な光が台所を支配して、その光の中に、赤くて小さい夫の姿が消えていった。
君のいない人生なんて考えられない。
君がいない世界なんて俺にとっては死と同じだ。
私は、私の返事もまた、覚えている。
あなたのいない人生なんて、私にとっても死と同じ。
偽の意識だけに従うことは、死を意味している。でも偽の意識だけに従っていると、それが本当になってしまう。
また、蝉の声がやんだ。
おわり
るんっるるっる、るんっるるっる、るんっるるっる、るんっるるっる、ひょぅ、ひょぅ! ゆるんでたわんだ五弦がシンバルンにあわせ舞曲を奏でる森の真夜中、梟と蝙蝠が乱舞してる。るんっるるっる、るんっるるっる、ほぉぅ、ほぉぅ! 怖い、追わないで! と耳を塞ぎ森を駈け戻り泣き濡れ眠っていたら、ベッドの隅にアネモネが影のような哀しみを湛え、膝を組んで佇んでいた。ほそぉい螺旋のシガァからはまぁるい煙が勾玉になってゆく。黒いスモック、黒いビロゥドのサルエルパンツに先のぴゅぅんと翻ったパープルの靴をはいたアネモネは、眸は澄んで鼻すじはノォブル、透明な桜貝色の唇をしてて、ブルーグレィの絹の髪がさらさらさらさらくるんでる。アネモネは魔法の綴れ織りに乗ってやってくるわたしの美少年。涼やかに翳る眸でシーツの窪みを視つめ、恋に、人生に、愛に、駄目なわたしの髪をアネモネは撫でてくれ、わたしはふたたび眠りにまどろんでゆく……
竈では砂鉄色のエプロンをした鷲鼻のお婆さんが大きな水甕を頭に乗せて腰をまげて運んでた。アネモネとわかれたのは満月のむこうの煉瓦づくりの娼館。一緒に死のうって約束したのにアネモネだけが死んだ。それからずっとアネモネはわたしの傍にやってくるようになった。でも、こなかったときがながぁいあいだ、あった…… 真夜中に梟と蝙蝠が狂舞してヒースが靡くこの丘で独りはもう厭と思ってたら部屋に恋人がくるようになった。わたしは色とりどりの花びらをまいにち食卓に並べた。それでも足りなくてそこかしこに花びらを敷きつめた。赤、青、カシス、ヴァガンディ、ミルク色…… そして綺麗になりたくて薔薇色の口紅は減っていった。るんっるるっる、るんっるるっる、ひょぅ、ひょぅ! 薔薇色の女に紅は要らないはずのに、そのあいだアネモネはどこにいたのと、わたしは捜すどころかあらわれるなっと弓矢を構え、壁のなか? 鏡のなか? 独り寂しく蝋石で円を描いてた? お願いアネモネ、でてきて、と叫んだ時にはずいぶん時が経っていて、――駄目だよ、花びらは僕、と綴れ織りに乗ってやはりあらわれたアネモネはわたしを睨んだ。あなたは少年のままだけれど、わたしはもうお婆さんなのよと言うと、駄目なんだよ、僕が花びらさ――、とくぐもった自惚れ鏡のなかでくるり振りむいた厚化粧のお爺さんの男娼は、アネモネ? それともわたし? はみでた口紅が哭いている。るるるるる……
おわり
墓所と聞けばホラーなイメージを浮かべる人もあるだろうが、故人の足跡を偲べる格好の場所であることはあまり知られていない。
斯く言う私は、その足跡を訪ねる墓参人の一人である。その日も私は、阿部野図書館の三階通路の窓から西に隣接する阿倍野霊園を見下ろしていた。東西四百メートル、南北百七十メートルに及ぶこの墓地には、著名な人物の墓石がいくつもある。
墓の立つ敷地は一定ではなく、大まかには六つに区画割りされている。霊園に一歩足を踏み入れると、さまざまな宗派の墓碑があり、形状は多種多様で、見ていて飽きない。
霊園の上空を掠めるように高速道路が走り、その向こうには高層のマンション群と、今春オープンしたばかりの超大型商業施設キューズモールが見えている。
大阪商工会議所初代会頭の五代友厚、第七代大阪市長関一、東洋紡績初代社長山辺丈夫など政界・財界の人物の墓碑に接した後、私は興味津々でその人物の伝記を読んだ。
大阪毎日新聞の販路拡張のため『相撲・歌舞伎人気投票』を実施し大人気を呼んだ仕掛け人桐原捨三や「何をなされても、見る度々に花が増してくるとは、妙なお人じゃ」のセリフが評判だった二代目中村雀右衛門の墓を見つけた時は、嬉しさの余り、帰宅すると直ぐにインターネットを駆使して人物情報を入手したものだ。
『万巻の書を読み、万里の道を行く』
借受けた書籍の詰まった重いカバンを持ち直すと私は、座右の銘を口ずさみながら図書館を後にした。
暖かい春の日差しが私を包む。霊園の中はさながら私のテーマパークである。入場を拒まれることもなく、入場料を取られるでもなく、気ままに好きなだけ、この大都会の中に取り残されたように息づいている神秘的な空間に身を置くことが、還暦を迎えた私には心地良かった。
足跡を知った人の墓石の前を通る時は、必ず手を合わせる。知人の墓を素通りすることはない。知人は既に四十四人。一週間に一人は知り合いになって行く。
一通り知人に挨拶を済ました私は、霊園の奥まった一角に足を向けた。青空を背景に飛行機雲が伸びている。雲に気を引かれた私は、足元の小石に躓き、態勢を整えるように足を踏ん張った。目の前に真新しい墓石がある。
墓碑銘を見て私は、目を疑った。
「私の…墓石…」
園内の桜の木々から散ったのか、私の目の前に桜の花びらが雪のように舞った。
「私も友の仲間入りか…」
花霞の中で、私はしっかりと四十五人目の知人を見つけたと思った。
おわり
一月の土曜日の雨の夜、東山ドライブウェイを車で走っていた。外は強い雨が落ちていた。休日出勤にも関わらず、残業もこなし、醍醐の自宅へ戻る所だった。深夜の二時を過ぎた頃、将軍塚への分岐路あたりで、人影を見た。バックミラーを覗くと、丁度明かりの下を髪の長い女が傘も持たずに歩いているようだった。もしかして、車がエンストでもして、困っているのかもしれない。他人事ながら、少し心配にもなって、右足は自然にブレーキを踏んだ。
積みっ放しだった傘をひっつかんで車を降り、笑顔を心掛けて声を掛けると、相手は果たして若い女性だった、しかも色白の可憐な。灯光の加減かもしれないが、病的な程の白さの肌だった。
「どうなさいました? 下まで送りましょうか?」
俺がそう声をかけると、女性は、薄く微笑んだ。そして頷いた。俺はこんな綺麗な女性と少しの間でも、ドライブができるかと思うと、心が弾んだ。もちろん何も期待なんかしていないけれど、綺麗な女性と同席できるのは、やはり男として、うれしく思うものだ。
その瞬間、一陣の寒風が吹き抜けた。
俺は傘が持って行かれそうになって、強く柄を握った。女性が近づいてきたので、傘にいれてやる。
女を助手席に乗せて、車を走らせた。右に左にカーブしているアスファルトの山道をひた走る。雨脚は強く、屋根で派手な音を立てている。対向車は一台もない。
ふと、女性が腕を上げ、左側を指差した。ぽっかりと開いた黒い道が、そちらに伸びている。
「そっちですか?」
俺がそう訊ねると、女は微笑んで頷く。真っ白な微笑だった。
こんな道があっただろうかと記憶をたぐるが思い出せず、そちらにエンストした車でもあるのかと思って、とりあえずハンドルをきった。
薄暗い山道に車を走らせた。見通しが悪くてあまりスピードはだせない。常夜灯は一定間隔であるが、あまりその役を担っていなかった。
なにげなく女性の方を見た。視線に気づいた女は、俺の方を振り向く。と、その瞬間、女性の唇の端から、血が伝い落ちた。
俺は驚いた。
と、その瞬間、車の正面側の視界に大きな影が入った。
俺は必死で急ブレーキを踏んだ。
派手な悲鳴音をタイヤが立てた。
思わず瞑ってしまっていた瞼を、恐る恐る開けた。
視界には、俺の車の数センチ先に、停車している車の後部があった。軽自動車だった。ふと助手席に視線を滑らせると、女の姿はなかった。
俺は慌てて車を降り、前の車の前方へ回り込んでみた。
軽自動車の前部は滅茶苦茶に壊れていた。どうやらここで事故を起こしたようだった。雨音に混じって赤ん坊の泣き声が車の中から聞こえていた。運転席には、顔中血だらけの若い女性がぐったりとしていた……先程俺の車の助手席に乗せた女だった。
携帯電話で慌てて救急車を呼んだ。
後部座席のチャイルドシートに、激しく泣きじゃくっている赤ん坊がいた。俺はどうしたらよいかわからず、右往左往しながら救急車を待った。女の脈をみたが、おそらく、もう死んでいた。赤ん坊はとりあえず暖房の効いた俺の車に移動させた。
ようやく救急車が到着して、救命士が赤ん坊と女性を車の中に搬入した。警察も到着し、パトライトを輝かせている車の中で、俺は警官に事の次第を説明した。
救急車が走り去るときに、「ありがとう」という女性のささやきを聞いた。警官にも聞こえたか訊ねたが、警官は小首を傾げるだけだった。
〈了〉
緑おいしげる庭にたつ煉瓦づくりの一軒家をあなたの銀幕に投じてほしい。万華鏡のさきにこころなしみとおせるような丸い小さな映像がゆらゆらゆらゆら陽炎にくるまれた大きな丸になってゆき、やがて靄にかかり凪がれゆく雲間とともにやがて靄は晴れゆき、ほらフェイドインしてくるでしょう? かろやかなやさしいピアノの音色が聴こえてくる。わたしとワルツを踊ってください。あなたとは夢のなかでは幸せな瞳をかわしあい人生を謳歌するように手と手をとりあい踊ったけれども実際はいちども踊ったこともないなんて。なんてこの世は哀しいのでしょう。でも哀しみなんてぬぐいましょう。木漏れ陽のなかであなたの瞳をさがしましょう。いくら木漏れ陽がスピードをあげてわたしから逃げようとも、わたしはあなたの瞳をさがして木々の枝っ子がゆく手をはばむでこぼこの坂路をワルツを踊るようにくるくるくるくる希望にみちて駈けてゆく。お砂糖がお塩になろうとも、お婆さんがでこぼこ路でころんで可愛いおちょぼ口でちょっとばかり哂おうとも、お昼間のお月さまがウィンクして季節なんてのんびりすてやった風鈴がちりりんちりりん狂舞しようとも、心やさしい詩人の青年が瞳のおくの泪を繊細な指で掬いとろうとしてくれようとも、わたしは希望にみちて駈けてゆく。でもそしてこのやさしい幸せにみちたピアノの音色とはうらはらなお話をしてみるわ。どうかあなたの心が痛むなら銀幕をとじて。でもどうか…… ほら可愛い小さな枝っ子の可愛い小さな木の葉はそよ風にたなびき、なまあたたかい木漏れ陽にゆらゆらゆらゆら囁いて万華鏡のむこうにセザンヌの世界がひろがってゆく。そして庭のむこうにはロマンティックな小さな離れのあずま家がたっていて、そのあずま家は八角形のアールデコの形をしていて小窓にのぞくドレープの淡いブルーのカーテンには処々に黄色くくすんでぬぐいされない小さな深い染みがある。小窓からは怠惰に乱雑に部屋中に吊るされた古いドレスやスカーフや着物や帯、民族衣装のサリーにはげた緑や紫のベルベットのリボンといった雑多で移り気な衣裳たち、茶ばんだちっぽけな埃まみれのフランス人形、日本人形、クーニャンドールのオルゴール、彼女たちは踊りも歌も囁きもお洒落もわすれ
はて、その傍らには淋しそうに放りだされたインカやら中近東やら、でどこのわからない模様のタペストリーが。どうやら離れの住人は掃除もなにもかもを放棄した怠惰どころか心の病んでいる娘のよう。日がないちにちソファによこたわる娘のはげた薄桃色のペディキュアの足の指だけが母屋の主のおぼろげな視界にあるかないかのように。小窓の娘が眠るでもなく眠っているように薄桃色の足の指と指とをするりするりゆるやかにさすりはじめると母屋の主も胃のうえあたりへ掌の体温をおくりはじめる。母屋の主はもう若くはない男でもう若くはない肥った妻がいて、妻は今しがた陽気にそして威圧的に「じゃよろしく」と男につげて離れてくらす子どもたちへの食べ物を両の二の腕にいっぱいさげてでていった。おくの妻の部屋から籠のおうむ鸚鵡のお爺さんが「じゃよろしく」とひくい声で念をおす。今はもうなにもかもをすっかりみてはいないこの男の胃の痛みが増しやがてこの男が亡くなりこの男の瞳の光が完全に失せようと緑は残りそよ風はたなびく。やさしい幸せにみちたピアノの音色よ。めくるめくロンドをくりひろげる木洩れ陽よ。可愛らしい小さな枝っ子たちよ。可愛らしいお婆さん? 心やさしい詩人? うすずみ薄墨の底にしずむものたちよ……
紗江子は、田辺といるといつからこんなにイライラするようになったのか、とぼんやり考えていた。自分勝手でわがままで、さっきも全く空気も読めず、プロポーズまがいの言葉を、さも紗江子が喜ぶようなテンションで言ってきた。
「何か調子良くないから今日。帰ろう」
はっきりと返事をしなかった紗江子の真意を測ろうともせず、田辺は少し考えてから自慢の愛車に乗り込んで、「気分がてらに少しドライブでもしていこう」とほほ笑んだ。
が、どこに行くつもりだったのかわからないが、田辺は道に迷い山道に入っていった。首をしきりにかしげながらも進む田辺だったが、道はだんだんと狭くなっていく。不安げな紗江子がふと車窓に目を遣ると、停車している一台の車とすれ違う。さらに、真っ暗になっていく道をしばらく走っていると、またもやさきほどと同じ車とすれ違う。
同じ道を走っているのか、いや、一本道だったはず。
よく見ると、車の中では女がうずくまっている。紗江子が目を凝らしてみると、女は血だらけだった。
「ねえ、あの人何かしんどそうなんだけど。助けにいこうよ」
「何で? 何で助けなきゃいけないの?」
「何で? って……だってさ―」
「関係ないよ、僕達には」
紗江子の中で田辺に対する何かが切れた。
「何で? って……関係なくても、あんなの見て助けないなんておかしいでしょ? そういうところが嫌なのよ、あなたの! ……もう嫌だ、別れよう」
「別れるくらいだった死んでやる。僕たちはずっと一緒なんだから」
「え?」紗江子が田辺を見ると、明らかに目つきが変わっていた。
―ー暴走した車が、幾度か蛇行を繰り返し壁に激突した。
噴煙をあげる車の中、しばらくして、紗江子が目を覚ました。一体何が起こったのか。ミラーに映る自分の顔は血だらけに…… 一瞬のデジャブ。
すると、一台の車が通り過ぎた。車のナンバーが目に飛び込んでくる。それは自分の誕生日だった。田辺がこの車を買った時、自慢げに話してくれた言葉を思い出す。
「どうしても君の誕生日にしたくてさ」
スローモーションのように、車内の人間が目に飛び込んできた。
それは、自分と同じ年かっこうの女…いや、心配げな表情でこちらの車内を覗きこんでいる自分。ウソ、そんなはず……次第に意識がもうろうとする中、通り過ぎた車が山道を蛇行する様子が目に入る。
まさか……田辺が意識を取り戻す。言ったろ? 君とはずっと一緒だって。田辺の言葉を、紗江子は霞んでいく意識の中で耳にした。そして、再びの衝突音が―ー
ドアに蝶がとまっていた。通勤電車はすいていた。
小豆色の斑紋がある黄土色した羽根を水平に拡げている。このかたちは蛾ではないのだろうか。蝶は微動だもしない。時々振動で羽根を揺らしている。死んでいるのかもしれない。朝日に照らされた姿は理科室で見たスライドのように透き通って輝いている。
『コレクター』と『とべない沈黙』と言うタイトルの蝶が出てくる映画を思い出した。
少年が幻の蝶を追い求める映像が脳裡をよぎる。映画の少年はどんな蝶を手に入れようとしたのだろうか。蝶は採集され標本になって台紙にピンで刺されたのだろうか。
そういえばこれまで羽根を閉じた蝶の標本を見たことはなかった。ドアに張りついた蝶は無理やり羽根を拡げられピンで突き刺された無残な死体に見えた。
何故か笑いが込み上げてきた。憐れなやつだ。どれほど自由に大空を羽ばたいても、やがては取っ捕まって張り付けられる運命なのに……。
覗きこむように蝶を見ていたせいか首がまがったままもとにもどらない。有名なテレビタレントの首や手首の振り回す仕種を見ているうちにいつのまにかその癖が乗り移ってしまったのだ。
身体にあるくびと名のつく部所は血流が留まりやすい。だからくるくるまわしたりマッサージしてやると血の巡りがよくなって疲れた部分がほぐれる。悦楽にひたれるのだ。
ふと昨晩抱いた女のことを思いだした。彼女には腰のくびれがなかった。バランスボールの上でヨガをするように女の身体の上に乗っかった。
私にはくびれがないから疲れないのよと言った。だから、疲れたあなたには、私を快楽で征服させることが出来ない。彼女を見れば手も足も彼女の言うようにくびれがない。あせった視線の先に、彼女の乳首があった。
あった、あったぞ!歓声を上げ、勝ち誇ったように、乳首を揉み解してやった。
その瞬間目を覚ました。ガタン、と同時にブレーキ音がして電車は停車した。
思わず手を伸ばしたが、ドアが開くと同時に蝶はまるで会社へ向かうサラリーマンのように、いそいそと空へ飛び立って行った。乳首の形をした斑紋の羽根を拡げて……
十一月下旬の夜半、久保章宗は小型車を運転して京都府と奈良県の境辺りの山の中を走っていた。
翌日には祖父の十三回忌が営まれる。久保家は奈良の山村に室町時代から続く家で、村の中で最も古く、明治時代からは久保家の当主が村長を務めてきた。久保家の長男である章宗はどんな理由があっても参列しないわけにはいかない。
章宗は京都にあるゲーム機の会社の試作部で働いている。その日も日付が変わるまで、会社にいた。毎晩、深夜に会社の寮でコンビニ弁当を食べ、寮の風呂に入ってすぐ寝るという日々が続いている。それでも、子供の頃からゲーム好きだった章宗は、新しいゲーム機を開発するという今の仕事が辛いと思ったことがない。
車は漆黒の闇を走っている。月明かりで山の稜線だけが何となく見分けられる。カーナビによれば、章宗の実家の氏神である須佐神社の横を通過しているはずであるが、暗闇の中、道の両側に何があるかまったくわからない。
あちこちから犬の遠吠えが聞こえる。この辺りに人家はほとんどないはずだから、野犬だろうかと章宗は思った。車に乗っているからいいようなものの、こんなところは怖くて歩けない。しかし章宗の実家もここと大して変わらない。山を背に周囲は休耕田ばかりの一軒家である。大学から実家を離れ京都に出てよかったと改めて思う。
その時、章宗の鼓動が急に早まった。そして突然、どうしようもない衝動にかられて大声で叫んだ。章宗の耳に、周りの犬たちの遠吠えと寸分違わぬ声が聞こえた。章宗はいったい自分に何が起こったのだろうと不安に駆られた。吠えたいという衝動はなおも章宗を突き動かしている。よほど緊張感を保たなくては理性を失いそうな恐怖があった。
章宗はハンドルを握る手を見て驚いた。うっすらと白い毛が生え、指が縮んで来ている。
「犬」
章宗の脳裏に子供の頃、祖母から聞いた言い伝えが蘇った。
室町幕府が衰えた戦乱の頃、久保家の娘が、近くの山に住むマタギの猟犬に攫われ犯された。戻ってきた娘は身ごもっていた。久保家の当主は氏神の社を新たに造営し、獣の血が子孫に現れないことを祈願した。
娘は無事に男の子を生んだ。氏神の庇護の下に生きるため、久保家の当主はこの地を離れてはならないと代々伝えられてきたが、進歩的な章宗の両親は意に介さなかった。
小型車は大きく左右に揺れ、ついに山道を外れ、横転を繰り返しながら崖を落ちた。大破した車体の隙間から、一匹の白い犬が狂ったように激しく唸り声を上げながら走り去った。
始発駅から乗る私はいつものようにまどろんでいた。次の駅はどっと乗客が乗り込んでくる。
その日、二人掛けの私の隣にどっかりわかい女が座った。
サングラスをかけ、帽子からはみ出た前髪が、くたびれて見えた。強い香水と同時に濃厚な汗の匂いが私の鼻をへしまげた。女はもぞもぞしだした。今度はソースの匂いだ。
女は食べ始めた。ちらっと横目で様子を探ってみた。女はヤキソバパンにかぶりついていた。唇の端からソバがはみ出ていた。匂いは口の中の昨晩の酒と混じりあって、私はむせた。
女はひとつゲップをするとしずかになった。微かな寝息をたてている。電車が揺れるたびに女の頭が私の顔に当たりそうになる。私に寄りかかる寸前、反射的にひょろっとすり抜ける。嵐に遭遇した首の折れたカカシみたいに。離れては近づきを繰り返す。
ブーメラン♪ブーメラン♪ア~
外れそうで外れないサングラス。朝の匂いに夜の女の匂いが振り撒かれる。
そういえば、しばらく女との触れ合いはないなぁ。
あの時、女は私の夢をこわすつもり、と怒り、帰りの電車で女は眠った。酔っていたからなのか……。
目覚めない女はどんな夢を見ているのだろう。夜を引きずるように快速電車は私の臭覚を突っ走った。
名医として名をはせている脳外科医の野村義三は、今日も研究室に閉じこもって思索にふけっていた。野村には大きな野心があった。だが彼の野心を実現するための時間はそう多くはなかった。六十五歳という年齢が彼を焦らせていた。彼の野心とは脳の移植を人体で行う事である。彼は自問自答した。
<人間とは、即ち脳である。人格も感性も善も悪もすべては脳の働きによるものである。脳には大宇宙に匹敵するような神秘的な不可思議が詰まっている。脳は神の領域である。人間が脳に手を加えることは神への冒涜ではないか。だが、わたしは神への冒涜といわれてもやりとげたい。たとえ火あぶりの刑に処せられても、なしとげたい。歴史に名を残したい。自由に切りきざむことができる生きている人体が欲しい……>
そんなある日、野村に吉報が届いた。死刑囚がけいれんを起こして病院に運ばれて来たのである。T大学付属病院の院長は治療は野村に一任すると言ったのである。けいれんは脳の疾患による疑いが強いというのである。野村は千載一遇のチャンスととらえた。死刑囚はまだ三十五歳である。罪状は強姦、窃盗、殺人である。犯行は残虐で更正の可能性はなしと見なされて死刑となった非道の犯罪者である。死刑囚を前にして野村は野心を燃やす鬼畜と化した。だが、移植には、もう一人生きている人体が必要だった。もはや医者としての良心を失った野村は、娘の雪江を第二の人体にすることにした。
野村は、三十歳の雪江を研究室に呼び出し、言葉たくみに睡眠薬で眠らせた。雪江の頭を切り開き脳を取り出し、死刑囚の脳と入れ替えた。鬼気迫る形相で移植を終えて、野村は雪江にささやいた。
<さあ、雪江、お前は生まれ変わるんだよ。お前は別の人間になるんだよ。雪江、パパを喜ばせておくれ。別の人間に生まれ変わっておくれ。お前は親孝行な娘だ。母さんもあの世で喜んでいるよ>
麻酔から覚めた雪江は別人に変わっていた。獣のような目つきで辺りを見回し野村に襲いかかり手術室から逃亡した。瀕死の重傷を負った野村は手術室で発見され一命をとりとめた。駆けつけた警官は死刑囚の犯行だと決めつけてその場で射殺した。
雪江が逃走してから残虐な犯罪が頻発し社会を震撼させた。警察に非難が集中したが雪江をとらえることはできなかった。犯罪のあまりのむごたらしさから犯人は粗暴な男との思い込みが強かったからである。犯行は切り裂きジャックを思わせる猟奇的な犯行だった。妊婦を襲い腹を割き胎児を取り出して妊婦の口に突っ込んだり、若い女性を天井から逆さ釣りにして体中をナイフで突き刺し頭の皮を剥いだりした。雪江の最後の犯行は、高層マンションの一室だった。
『女』の雪江はどこへ行っても怪しまれることはなかった。部屋に押し入るのも簡単だった。チャイムを押して<ガス漏れの点検に来ました>と言うだけでよかった。雪江は部屋に押し入り、いきなり主婦に斬りつけた。血まみれになりながらも必死に抵抗する主婦を後ろ手にして手錠をかけ、目玉をえぐり、頬を切り裂き、耳を切り落とし、指の爪につまようじを突っ込んでグリグリと動かし、苦悶する様をみてにんまりとする雪江であった。だが、犯行後、雪江は涙を流し叫んだ。悲痛な叫びだった。
「私は・・私は、どうなっていくのよ、私を死なせて、お願い」
防犯カメラにはマンションに入っていく雪江が写っていたが警察は見逃していた。雪江が『女』だからである。だが、専従班の刑事が幾つかの犯行現場の防犯カメラに雪江の姿があったことに気づいた。警察にビデオを見せられた野村は一部始終を告白した。
野村の告白によりサウナに張り込んでいた婦人警官から雪江発見の一報が入り警察と野村が急行した。雪江と対峙した野村はつぶやいた。
「神よ、万物創造の神よ、罪は我にあり、許されざる者は我なり」
野村は刑事から与えられた銃で雪江を射殺した。そしてすぐさま自分のこめかみを撃ち抜いた。息絶える雪江は消え入るような声でつぶやいた。
「ありがとうパパ、これで楽になれるわ・・・」
一筋の涙がキラリと光った。
【おわり】
“ギーガコキグラガガ”
「何を怒ってるんだ。三ヶ月も君をほったらかしにしたからか……。脳梗塞になってしまったんだ。ちっとは同情しろよ」
“ガキュギュギュキョ”
「おいおい、わめくな。ランドセル背負った小学生たちが吃驚して、怖がってるじゃないか。黄色い旗を持ったおばさんが俺のこと睨みつけてるだろ……、もう直ぐ川沿いになる。会社までもうちょっとだ。がんばれ……」
“ガガガギョゴギャゴキュゴ”
「うるさいよ全く。俺だって嫌だぜ。後遺症でしゃべれなくなっちまった。二親とも身体悪いし、親父なんか、今度また転院するんだ。筆談で医者とやりあわなきゃならない。もともと人付き合いが苦手なのに、嫌だなぁ」
◇
“キュキュキュキュルルー”
「今日は一日雨か。一週間は長いよ……、係長からこれやっといてくれ、とか言われて、パソコンで入力するだろ。あいつ、ちろちろ横目で俺のこと監視してやがるんだ。サボってないツーの。俺のことで上の奴らに何か言われてるんだ……、以前の俺なら、何か言いたいことあるのかって言ってると思うけど……、そんなことないか。言えないよな……、生活かかってんだ」
“シュシュシュレシュシュシャー”
「今日は大人しいよなぁ……、いつも強気の君も雨じゃブレーキの利きが悪い分声も出ないってわけだ。俺って、もともと口数が多かったわけじゃないけど、三ヶ月間全く人と話さなかった。いや、話せなかったんだ」
“シュレシュキュ”
「ごめんごめん。君とは話してるんだ。例外だよ……、やっと川沿いの道に来たよ。いるいる、ほらあっちにもこっちにも。亀だよ亀。一度なんか数えてみたんだ。九六匹もいるんだ。もう一寸で遅刻しそうになったよ。こいつら、会話してるのかなぁ。なにか、積み重なっちゃったりして、可笑しいよなぁ……」
“キュルキュルキュルル”
「笑うなよ……。俺、変なこと言った。ははっ、確かに可笑しいよ。いゃだ、俺、涙が出てきちやったよ……」
「今日も、いい天気ね」
ママが窓を開けてくれる。わたしの顔をやさしく風が撫でていった。暖かい匂いを胸一杯に吸い込む。ママが言ったとおりにいい天気のようだ。鳥の囀りさえ、わたしに話しかけてくるようだ。わたしは目の前に広がる光景を想像する。きれいに澄んだ世界。まだ、一度も見たことのない世界をこの瞳で見ることが、今一番叶えたい夢だ。
廊下を走ってくる音がする。ドアが開き、ママの声がわたしに話
しかけてくる。
「もう少しで、目が見えるようになるからね!」
どうやら、病院の先生との話がついたとのことらしい。ママは上機嫌に話しかけてくる。手術をして、わたしの視力を回復させるようだ。どうも、その先生とママは旧知の間柄だそうだ。
手術が決まると日々は猛スピードで進んでいき、あっという間に手術を終え、わたしは病室のベッドの上にいた。先生が目を覆っている包帯を丁寧に外していく。目の前が光に溢れ、何も見えない。しかし、感覚がだんだんとはっきりしてくると、白い天井が目に映った。つぎにわたしは細く伸びた白い腕を透かしてみた。青白い血管が目に飛び込んでくる。上体を起こし、窓に映ったわたしの姿をはじめてみた。あまりの喜びにわたしは声が出なかった。そうだ、お礼を言わないと、わたしは振り返る。
そこに居たはずのママと先生の姿がどこにも見えなくなっていた。部屋の外で、ママと先生の声が聞こえてくる。その声は、まるで恋人達が愛を語っているようだ。そして、わたしに聞かれたくない話をしているようではないか……二人の様子を確かめたくて必死に身体を動かそうとも自由に動かない。足が動かない。腕を伸ばそうとしても動かない。眼球だけはしっかりと動いているのが分かるが、首も動かないので、白い天井を見つめるしかなかった。ちがう、こんなのわたしが望んだ世界じゃない……必死に声を出すが、誰にも気がついてもらえない。ママが先生と入ってきた。二人は仲良く話しているみたいだった。動けないわたしを見て、笑っているに違い
ない。わたしには確かめる術もない。自然と、涙が出てくる。先生が慌てたようにママに話しかけていた。
「混乱してるんだろう」と、先生が気分を落ち着かせるためのクスリをわたしに飲ましてくれた。
「つぎ、目が覚めたときには、素晴らしい世界がまっているよ。安心して眠りなさい」
先生は優しい声でわたしに話しかけてくれた。それが効いたのか、わたしの意識は既に遠くなっていた。
目が覚めると、わたしの周りは闇が広がっていた。ママがわたしの手を握ってくれていたようだ。その手は暖かくしっかりと握られていた。わたしはママの顔を見ようと、必死に顔を覗き込むがママの顔が見えず、黒い影にしか見えない。わたしは体を起こし、周囲を見た。世界が白と黒の二色になっていた。そう、黒く見えたものはママだけじゃなかったのだ。窓の外に広がる景色も何もかも黒く映り、青かった空は白くなっていた。わたしは両腕を見た。白い腕には血管が黒く浮き出ていた。それを見てわたしの目がおかしいことに気がついてしまったのだ。これはどうにかしないとと思うと、いてもたってもいられなかった。わたしは、自分の指で眼球を取り
出そうとしていた。突然の奇行にママは驚いて、わたしを羽交い絞めにして取り押さえる。わたしが落ち着いたフリをするとママは先生を呼んだ。でも、先生を呼ぶのが遅かったのだ、なぜなら、わたしは眼球を一つむしりとっていたのだから。これで、元の生活に戻れるのだとしたら、安い代償じゃないか……。
2017年2月1日 発行 第2版
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