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魂が 自由に 成長する 生き方

平川博達

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  この本はタチヨミ版です。

ー心が、魂が自由に成長する生き方ーついて

 まず考えてほしいのです。
 

 1 あなた「ご自身」は、どう思われますか。
   日本人として、いまでも、心が充たされていますか。


 きっと、他人事ではなったはずです。
 ひとを「いじめている」ものは、相手の肉体のいのちだけでなく、魂をも抹殺しようとしているからです。


 それほどに、「いじめ」というものは、悪質なものですが、
 つまり「いじめ」は、他人だけではなく、

 善良なひとにしても、日本では、いじめるようにもなる、というではありませんか。

 もちろん、「いじめ」を受けて、自殺するひとは、ほとんが「いいひと」なのですが、自殺することで、「悪い」人になってしまうこともある、というではありませんか。


 自殺者がでると、やはり、どの家族でも、自分の首を絞めることにもなってしまうはずですが、いかがでしょうか。

 親の心でさえ、魂でさえ、酸欠状態にしてしまうなら、どうなってしまうのでしょうか。
 自殺者は、自分の「体」だけを殺したつもりでも、自分の魂が死んでしまえば、家族のその後の   人生は、なるのでしょうか。


 いずにしても、悪人になってまえば、どうでしょうか。いつも、弱い「いいひと」を、ターゲットにしてきたのなら、

 「悪人」になってしまえば、いつの時代でも、善人を犠牲にして、生きていた、というではありませんか。

 もちろん、悪人が悪人を食べることことも、もちろんありますが、
 悪人には栄養などありませんので、生きるために、善人でも、「いじめる」ようになってしまえば、どうなるのでしょうか。


 悪人にとっては、「いじめるこそ」が、悪人の食事でもあった、というではありませんか。


 ふしぎなことに、日本人は、もともと、善人であったはずなのに、それでも、「いじめ」を止めなかったというではありませんか。
 「みてみぬ」をフリをしてきた、というではありませんか。
 どうしてでしょうか。

 心が、魂が日々成長していた人なら、勤勉であり、勤勉な人であれば、人を傷つけるヒマもなく、日々、忙しかったはずですが、
 日本人の勤勉さにしても、やはり、「問題」があったようです。心からの自由を知ることもなかったはずです。
 勤勉ではなく、働くことも、勉強も「きらい」な悪人なら、やはり、ほかの人から「食料」を奪うほかなくなったはずではありませんかー。


 心が空腹になれば、こんどは、だれかをいじめることで、「息抜き」をするーー
 悪人というものは、やはり、自立も自活もできなったのでしょうか。ーーー。
 だから「善人」を「食い物」にする日本人も多くなったのでしようか。



 2 なぜ、日本では、勤勉な善人が、
   「いじめ」を見てみぬフリをしてきたのでしようか。


 それゆえに、「いじめ」られても、ほとんどのひとは


 「ぼくはいじめられている」
 と、大声を出しても、なぜか、教育者でも、學校の先先も、日本では、「見てみぬ」フリをしまうことも多かった、というではありませんか。 


 しかし、やはり、いつまでもガマンしてはいけなかったはずです。
 自分の心も、魂も、肉体も、自分で守らなけれは、だれも守ってもくれないーーー

 それでも、自分の力では無理だ、と思っても、自殺する前に、大声で、親にも「社会」にも、最後の勇気をふりしぼって、知らせなければならなかったはずです。


 「コソドロ」のようなものは、
 「ドロボー」
 と声を出されることが「いちばん」いやだったはずです。

 それゆえに、死ぬ覚悟があるのなら、死ぬまえに、大声を上げてほしかったわけです。


 日本人は、勤勉な人ml

のも、自分で自分の魂の成長を止めているひとが多くなっていった、というではありませんか。

 
 そうして
 哀しいことに、魂の成長が止まっているときには、
 学校の勉強ができていたひとでも、いわゆる一流会社の上司になったひとでも、こんどは、「いじめ」をはじめてきた、というではありませんか。

 勝ち組を自称してきたものにしても、魂の成長など忘れて、ただの競争に明け暮れしていた。というではありませんか。


 また、負け組といわれてきたひとにしても、新しい道を発見するほどに、勤勉ではなかった、というではありませんか。
 それゆえに、「いじめ」は日本では永遠になくならなった、ともいわれてきましたが、
 教育委員にしても、文部省の官僚にしても、総理大臣にしても、ノーベル賞をもらったひとでも、日本人は、魂が成長が止まって久しかった、というではありませんか。


 だから、それゆえに、競争によって勝ち組を目指してきたのでしようか。「いじめる」側にまわっていたのでしょうか。
 しかし、今こそ。はっきり言いたいのです。
 日本人でも、魂が成長しているときだけ、「自由」になります、と、そのようにもたしかに、いわれれてきました。
 しかし、魂の成長に、勝ち負けが問題ではありませんでした。

 人間としての「つつしみ」を覚え、その「つつしみ」が、そのうち、蛍のように自家発電を起すひとになって、魂が、成長も始めていたなら、どうでしょうか。

 「いじめ」から自分を守ろうとすれば、日本では、もはや「自家発電」すること以外に道がありませんでした。


 この本は、そういう、自家発電に必要な、「心の栄養」に付いて書いていますので、とくに、自殺したくなったりするときには、とくに、最後まで、読んでいただければ、幸いです。


第一章 だれにとっても、
    つまり、ひとの魂ほどに 大切なものはなかったはずです。


 1 おもえば、たしかに、私たち日本人にしても、
   「がけっぶち」に立たされたこともありました。


 しかし、あるときの、
 ユダが出て行ったあとのことでした。
 イエスさまの言葉として、聖書には、次にように、書かれていました。


  「今や人の子(イエス本人のこと)は栄光を受けた。
   神もまた人の子によって栄光をお受けになった。」(一三-三一)

 これこそが、ほんとうの不思議な「奇跡」となりました。
 ユダに裏切られれたことで、そのときが、実はイエスさまと神の「栄光」のてきでもあった、というではありませんか。


 しかも、イエスさまは、やはり、

 「わたしは、これから、新しいいましめを、あなたたちに与えます。
  
 それゆえに、はっきりといいます。

 ー互いに愛し合いなさい。

  わたしがあなたがたを愛したように、
  あなたがたも互いに愛し合いなさい。

  もし愛し合うなら、あなたがたがわたしの弟子となります。

  すべての人が認めるようになります。」(一三-三四~三五)


 再度いいます。

 ーあなたがたは愛するものになれば、

  おたがいの足を洗うようになれば、

 生まれや、家柄、そして社会的にも上位にあるからといって、弱いものを支配してはいけない。
 むしろ、弱いものの「足」を洗ってあげなさい。
 罪人を見下げてはいけない。
 弱い人を、見捨ててもいけない。
 その罪を清めるもの、許すものとなりなさい。

 
 いわれました。

 そうして、イエスさまは、ユダが、イエスさまを裏切ることになったあとの、最後の晩餐のメーセージまで、その後の遺言として、残してくださいました。

 たしかに、ユダは、愛し合つもあう世界から、自分の意志によって出て行ったわけですが、
 そして天国がもし、愛し合う世界であれば、ユダは、そういう世界を自らの意志で捨てたわけですが、なぜか、むしろ、キリストの弟子たちには、そのこきこそが、救いの初めでもあった、というではありませんか。


 2 それゆえに、
   人間は平等となり、
   だれにも自由意志は与えられていた、というではありませんか。



 天地創造の神もキリストも、太陽のように、分け隔てなく光を与えていますが、太陽の光を嫌って、ネオンの光を求める。
 そういう自由もまた、だれにもあったようでした。

 いずれにしても、ネオンを選べば、どうなりますか。
 自分の意志で、太陽のような光に充ちた天国を嫌ったのですから、当然、そういう天国に入ってはいなかったはずです。

 ユダは、キリストを裏切った後、後悔したのですが、それでも、自分の意志で、元の仲間の世界に戻ることはしないで、首をつって死んでいます。

 
 そういうことでした、
 私たちは、だれでも、「話せばわかる」と思っているようですが、そういう「思い」へのこれは挑戦のではずでしたが、みなさんはどう思われますか。
 私自身の体験から言えば、分からない人というのは、「話せば話すほど」わからなくなるようです。数学の問題を解く場合、説明してくれればくれるほど、わかなくなることもあるのです。
 「ヘ理屈の世界」にいる人だけではなく、まじめに理屈をいうひとにも、理屈では通じないこともあるのです。


 人間というものは、理屈だけの世界に生きているわけではないからです。
 人間にも、自由意志というものがあって、わかりたくない、という世界を選ぶこともあるということです。

 それぞれが別の自由意志とそれぞれの理屈の世界に生きている、ということですが、いかがでしょうか。

 つまり理性にも、人間界の「ことば」もあれば、天上の霊的な理性もある、ということでした。
 
 人間の「ことば」もあれば、神の「ことば」もある、というわけですが、いかがでしょうか。


 ところが、イエスさまは、そのふたつの「ことば」を同時に話していた、というではありませんか。

 それゆえに、イエスさまは、生前は、だれからも、理解してもらえませんでした。
 弟子にしても、イエスさまの「ことば」を理解したものは、ひとりもいませんでした。
イエスさまが殺されて、復活して、そのあと、イエスさまから、約束の聖霊をもらったあとで、初めて、イエスさまこそが、キリスト、神の子であった、ということを、弟子たちもまた、知った、ということでした。


 そのときの「聖霊」とは、神の霊でした。

 つまり神のことばを「理解」したいとおもえば、神の心(霊)を受けるほかなかったわけです。
生まれながらに持っている人間の心では、理性でも、イエスさまの心も「ことば」も理解できない。
 神の心、神の「ことば」を理解しようと思えば、神の心 神の理性をもらうほかなった、いうことでした。 

 つまり、生まれながらの人間の心というものは、聖霊という神の心を受けるまでは、天地創造の神の心も、キリストの心も、理解できない、ということ。

 それゆえに、日本人もまた、日本的な心では、キリストを理解することが難しいので、日本では、世界に類を見ないほどに、キリストを理解できない、神の「ことば」を理解できない、秘境の国であった、というひともいますが、いかがでしょうか。



  タチヨミ版はここまでとなります。


心が 自由に 成長する 生き方について

2017年2月24日 発行 初版

著  者:平川博達
発  行:yoshikawa-shimon-nobuyuki出版

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現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

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