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この本はタチヨミ版です。
1997年、8月のある日曜日、東京・上野動物園。猛烈な陽射しをものともせずに、夏休みの子どもたちが歓声をあげなら走りまわる。ゾウの展示の前で立ち止まり、ずっと見続けている家族連れ。隣のニホンザルのサル山の前で、毛づくろいしているサルの真似をしてふざけ合っている高校生のカップル。解説員のテーブルの前でアジアゾウの習性について質問をするポニーテールの女の子。そういった人たちを見ていて、みんな動物園が好きなんだなと思う。ある意味では、動物が好きともいえるのだろう。
ぼく自身、動物園が好きである。正確に言えば、少なくとも子どもの頃、動物園には目がなかった。毎週のように両親や祖父に地元の動物園に連れていってほしいと頼み、実際に訪れると、お気に入りのゾウやカバやキリンの展示に向って子どもなりの猛スピードでダッシュした。いま目の前で走り回っている子どもたちのなかの一人だったのだ。
長ずるにあたって、少しずつ動物園の持つ意味が変わってきた。動物園が好きかと聞かれればきっと今でも「好きだ」と答える。しかし、そう答えた時に、心にわきあがるなにかフクザツな気持ち。いつのまにかぼくにとって動物園は、動物を見ることができる楽しい場所から、それだけではすまない多くの問題を抱えた場所になっていた。
上野動物園に来るのは久しぶりだ。おそらく小学生の遠足以来、一度も訪れていない。当時はパンダに代表される珍獣展示が全盛をきわめた時代で、動物園の入口を入ってすぐのパンダ舎の前には長蛇の列ができていた。ぼくの中の上野動物園はこの時代の姿で凍り付いたままだ。
パンダ舎はいつか見た姿のままたたずんでいた。かつて子どもたちのスターだったカンカンとランランはとうの昔に亡くなり、いまではトントンとリンリンが同じ建物に住んでいる。もう人の列はなく、すんなりと中に入って彼らの姿を見ることができた。珍獣をたてまつって大騒ぎするような雰囲気は、今はもう動物園の側にも人々の側にもない。おそらくそれは良いことなのだろうと感じる。
引き続いて「ゴリラとトラの森」を訪ねる。つい最近鳴り物入りでオープンしたばかりの展示だ。絶滅を心配されるスマトラトラが、木々や草が多く植えられた自然に近い環境のなかで飼われている。小川と池が配され、トラたちはそのかたわらの木蔭で横になってあたりをうかがっていた。実に「絵になる」光景だった。
「こわい! こっちに飛びかかってきそう」と誰かかが言った。
われわれとトラとを隔てるのはガラス一枚だけ。トラは実に威圧感のある視線を投げかける。かつて多くの動物園で、トラは檻の中や、堀に隔てられたコンクリートの「舞台」の上で飼われていた。捕らわれの身にはちがいないにしても、それに比べたら、ずいぶん待遇が改善された。
ゴリラの場合、展示の改善だけではなく、別の面でも配慮がなされている。かつて、単独か、オスとメスのペアで飼われることが多かったのに、ここでは「群れ飼育」が試みられているのだ。野生のゴリラはシルバーバックと呼ばれる優位のオスを中心にメスと子どもからなる群れをつくるのが普通だ。しかし日本の動物園では、スペースの都合からせいぜいオス、メス一頭ずつでしか飼われなかった。これは日本でゴリラの繁殖の事例がきわめて少ないひとつの原因とされている。現在、この展示では、一頭のシルバーバックと8頭のメスからなる群れが暮らしている。繁殖もここではうまくいくのではないかと期待を集めているという。
さらに園内を散策する。
ホッキョクグマの前で足を止めた。人々と堀で仕切られたコンクリートの「舞台」。背後は北極のイメージで白と水色に塗られたものが色あせている。おそらく20数年前のままの展示だ。そのなかのホッキョクグマも昔から変らない行動をとっている。
そいつは、幾段にもなっているコンクリートの「舞台」の最上段を歩いていた。細長い通路のようになった場所をきっかり15歩で歩ききり、16歩目を空中に投げるような仕草をした後で反転、逆側の際まで同じく15歩で歩く。行ったり来たりを延々と繰り返す。
やはりどこか心が痛む。野生のホッキョクグマはこんな行動を繰り返したりしない。本来の棲息地から引き離され、本能に刻み込まれた行動(この場合は狩りのために遠距離を歩き抜くこと?)をとることが妨げられていることからおこる「イライラ行動」なのだ。
すぐ近くにいるマレーグマ、ヒグマ、ツキノワグマも似たようなものだ。ホッキョクグマよりも狭い展示のなかで行ったり来たり反復行動を繰り返したり、すべての気力を失ってしまったかのようにだらりと横になっていたり。ツキノワグマはストレスが原因なのか、腰の部分の毛が抜けて地肌が露出していた。
野生動物を飼うということがいったいどういうことなのか、あらためて考えさせられる。野生動物は棲息地から引き離した瞬間に野生動物ではなくなる。それでも彼らを動物園に連れてきて人間に見せる意義というのはなんなのだろう。動物園を好きであると言明しつつ、動物園の存在を正当化するのが難しく感じる瞬間もある。
しかし、こんなクマたちの前でも、動物が好きで興奮した子どもたちが走り回る。彼らははたしてここでなにを感じ、なにを学んで帰るのだろうか、とふと思った。それは、自分がかつて動物園でなにを得たかという問いでもあるかもしれず、単純にはシロ、クロをつけられないことがここに絡まり合っている。
数日後、ぼくは渡米することになっていた。アメリカ・ニューヨークに1年間滞在し、コロンビア大学ジャーナリズム大学院の研究員として自由な研究を行なう。その際に、アメリカ各地の動物園についての取材を活動のひとつの軸に据えたいと考えていた。
なぜ、アメリカの動物園か。その答は単純だ。以前、旅行者としてアメリカの動物園をいくつか訪れた際、彼らは日本の動物園よりもはるかに根源的に、過激に変化しようとしているのではないかと感じた。展示手法、環境教育、動物の繁殖への取り組みなど、その努力はちょっと訪ねただけの旅行者の目にも明らだった。動物の福祉、アニマルライツ、ディープ・エコロジーなど、さまざな考え方を持つ個人、団体から激しい批判、非難にさらされ、ここ数十年の間、たえず変り続けなければならなかった事情も洩れ聞いている。
ぼくは人間が野生動物を飼うという営みがいったい何なのかを知りたい。動物園というものが、人間にとって、野生動物の側にとって、それぞれ何を意味するのか知りたい。きっと動物園をめぐるフクザツな気持ちを言語化していく作業がそのことの答にもなる。そんな期待を漠然といだいていたのだ。
木蔭で子どもたちが飛び跳ねる。さっきから父親のウィリーは立木によりかかり、午睡をしている。その巨体の近くには、いくぶん小柄なメスたちが横になったり、芝をちぎって口に運んだり、思い思いのやり方で時間をすごしている。
ふと、歓声があがる。まだ一歳そこそこのウィリーの子どもが、倒木によじ登り、バランスをとりながら立ち上がったのはいいのだが、すぐに足をすべらせて転げ落ちそうになる。ユーモラスな仕草に思わず声をあげたのは、やはりこっちも人間の子どもたちだった。
隠し堀を隔てて、ゴリラの家族と人間の家族が相対している。ゴリラの子どもたちは囲みの中を跳ねまわり、人間の子どもたちそれを見て大喜びだ。
立木によりかかっていたウィリーは巨体を震わせながら、腰をゆっくりとあげて、倒木で遊ぶ自分の子どものほうにむかって歩き始めた。
「ウィリー!」と誰かが囲みの外から叫ぶ。彼は気にしない。
背後から別の子どもがすごい勢いで走ってきて、彼の体にまとわりつく。ふと背中が見えた。銀色の体毛が腰を中心に肩までを覆っている。シルバーバック、ゴリラの群れを率いるオスをそう呼ぶ。堂々たる体躯、力に満ち悠々とした身のこなし。野生のゴリラを映像でみているような錯覚をおぼえる。
ウィリーは拳を地面につけながら、すべるような動作で斜面を上がる。やがて、小高い丘にたつと、両の拳を持ち上げて、胸をたたいた。少し離れた別の丘に若いオスゴリラの姿をみとめたのだ。堀で区切られてそこまで行けないのはわかっている。しかし、これはそういう問題ではない。
オレはここにいる!
背筋を伸ばし、今にも咆哮せんばかりの様子で力強く胸をたたき続ける。
どよめき、そして称賛の声が人々の口からもれる。
芝と木々に満たされた囲みの中とその外側で、それぞれの午後が過ぎていく。
ウィリーは三歳の時に孤児になった。アフリカの森で母親に育てられていたのを、動物園で展示するために捕獲されたのだ。その際に、群れの成獣たちは母親をふくめ全員殺された。ゴリラの群れの絆は強く、子どもを捕獲するためには母ゴリラも、最も手ごわいシルバーバックもすべて殺さなければならないというのがセオリーだった。
1961年、彼はアトランタ動物園にやってきて、霊長類のコレクションの一部として、霊長類館に収容された。コンクリートの床に、鉄の立棒で仕切られた、当時としては標準的な牢獄タイプの住み処だった。そこでともに暮らすパートナーもなく、実に27年間、空を見ることもなく過ごした。
88年にできた新しい展示に移ってからは、彼をめぐる状況は大きく変化した。天国と地獄の差といってもよい。彼は今、アメリカでも最先端と評価される広々とした屋外の空間に、メスたちと一緒に群れで飼育されている。隣接するエリアには別の群れが三つも飼われていて(つまり全部で四つの群れ)、彼は個体としても、群れとしても、孤独な存在ではなくなった。
生涯の大部分を「牢獄」のなかで暮らしたゴリラがはたして、シルバーバックとして群れを率い、子孫を残すことができるのか、当初、多くの人が疑問視した。しかし、彼は悲観的な予想を吹き払うかのように、自分の初めての群れを堂々と率い、さらにこれまでに5頭もの子どもを設け、飼育下のオスのゴリラとして、二世誕生の最年長記録を樹立してしまうのだ。
彼はジョージア州でもっとも有名で人気のある動物であると同時に、動物園の再生の物語のシンボルになった。もっとも、彼にとってはそんなことはどうでもいい。以前よりはずっとよくなった身の回りの環境と、護るべきメスと子どもたちがいる。それが一番大切なことなのだ(ウィリーBは、2000年2月、41歳で永眠)。
空港から地下鉄で都心に出て、そこからバスに乗る。炎天下、エアコンをフル稼働させている。20分ほど揺られてようやくたどりついた。アトランタ動物園は、グラント公園という緑豊かな公園のなかにあった。
アメリカの動物園について情報を集め、なにがしかの理解をしようとした時、海図さえ持たずに小舟で漕ぎ出したような気分になってしまった。取材拠点のニューヨーク市にあるブロンクス動物園は、アメリカを代表する大動物園であり、さまざまな面で評価が高い。当然、取材上の軸となるべき存在だったのだが、最初からここにアプローチするのは少々敷居が高い。というより、組織が複雑すぎ、また、活動も多岐に渡りすぎており、取材対象がしぼりにくかった。
まず、もっと小規模で、活動内容も平均的な園をまず訪ねてみたい。そう考えていたところ、「発見」したのがここだった。ジョージア州アトランタ動物園。「発見」のポイントは、ここが80年代にはアメリカ最悪と名ざしされたいわく付きの動物園だということだ。それが、現在も生き残り、それだけではなく時にはアメリカのベスト10動物園に名を連ねるまでになった。
「最悪」というレッテルを貼られてから、およそ15年間の歴史が知りたかった。最悪が最良のうちのひとつに変るまでの急激な変化の歴史を。だから、ニューヨークからの日帰りの強行軍で園長に会いにやってきた。
「施設が古く、動物たちがあまりにも狭いスペースに暮らしている。それに加えて、適切な世話を受けておらず、多くの動物たちがストレスにさいなまれ神経症的な異常行動を見せている……それが当時のこの動物園の実情だった。70年代から変り始めていたこの国の動物園のなかで、その改革の波に乗り遅れ、いまだに施設も、飼育技術も、スタッフの意識も50年代、60年代のままだったんだ……」
猛烈な気温と湿気のためにエアコンがフル稼働する執務室で彼は記憶をまさぐるようにゆっくりとした口調で話す。彼の名前はテリー・メープル、アトランタ動物園の名物園長だ。太めの立派な体格とひげ面、派手なパフォーマンスで常に人の目をひく。1984年以来アトランタ動物園を率い、次々とふりかかる問題を解決してきた辣腕ぶりも高く評価されている。
この日、ぼくたちの話題は、84年当時ジョージア工科大学で霊長類の行動の専門家として教職にあった彼が、動物園の園長に転身する原因になったある事件をめぐっていた。メープル園長が言うように、当時のアトランタ動物園は「1950年代の動物園がそのままのかたちで80年代に残っている」ような所だった。だから、ある意味でそれは起るべくして起った。
発端は動物福祉団体からの非難だった。北米で最大手の動物福祉団体、合衆国人道協会が調査した全米373の動物園のなかで最悪のもののひとつとしてアトランタ動物園を選んだのである。理由はメープル園長がみずから総括したように、施設の古さ、動物のケアの不十分、モラルの低さなどだった。人道協会はこういった動物園を閉鎖すべきとまで主張していた。
この「最悪」の動物園の発表をメディアは大きなスキャンダルとして捉え、アトランタ動物園の悪名は全米にとどろいた。調査報道の華やかなりし時代、各地からリポーターが集まって、すでに評判が地に落ちた動物園のさらなる落度を嗅ぎ回った。
「当時でも、爬虫類の繁殖に関しては評価が高かったんだが、それ以外はすべてにおいて水準からほど遠かった。霊長類の死亡率なども高かった……スキャンダルの種ならいくらだってあった」
具体的には、ニューヨークのブロンクス動物園から繁殖のために借りていたモナモンキーが繁殖に成功しないのみならず、実は人知れず死んでいたこと(ブロンクス動物園はただちにほかの貸し出し動物をすべて返却することを求めた)。病気になり農場で療養中のはずだったメスのアジアゾウがノースカロライナのサーカスで死んだこと。施設の老朽化でコディアックヒグマが展示と人々を隔てる堀にしょっちゅう落ちてしまうこと。動物園のメンテナンス要員が動物園のウサギを家に持帰り食べていたこと(この真偽はいまもさだかではない)、などが挙げられる。これらはすべてリポーターたちによって「スッパ抜かれ」、紙面を賑わした。
さらに悪いことに、北米の動物園・水族館が加盟するAAZPA(American Association of Zoological Parks and Aquariums; 現AZA)の会員資格を取り消されてしまった。これは、AAZPAを構成するほかの動物園や水族館が、アトランタに対して「きみのところは動物園を名乗る資格がない」という宣告をしたということだ。英語ではメナジェリー(Menagerie)という言葉があって、動物を狭い檻にいれて充分な飼育上の配慮をせずただ人に見せるだけの施設のことを指す。日本語で言うなら、「見せ物小屋」に近い。とにかくこの時点で、アトランタ動物園は、アトランタ・メナジェリーと公に認定されたことになる。
大学教授だったテリー・メープルが、辞任した園長の正式な後任が決まるまでの間の暫定園長として陣頭指揮をまかされたのにはいくつかの理由がある。まず、彼が地元で大いに尊敬される名門ジョージア工科大学の教授だったこと。大学教授とはいえ飼育下の霊長類の行動研究を通じて動物園と密接な関係を持っていたこと。そして、もっとも大切なことだが、彼は動物行動学者として、アトランタ動物園の悲惨な飼育環境を改善するための知識を持っていると考えられたことだ。実際、専門の類人猿について、彼はこれまでにも動物園に飼育環境の改善を示唆する発言を繰返し行なってきた。動物園の批判者と見なされることも多かった。
「正直いって、最初は『なぜ?』と思った。それまで私はマネジメントの経験などなにひとつなかった。動物園について研究対象として多少は知っているとはいえ、実際の運営についてはまったくの素人だ。要請を受けたことは誇りに思ったが、自分に動物園長ができるなんて思わなかった。ちょうど大学の夏休みが始まる直前でその先3カ月まるまる予定がなかったから、その間だけのつもりで受け入れたんだ。すると意外にも動物園のマネジメントが性にあっていることを発見した。暫定のはずが正式な園長になり、15年近くたった今もこうやって園長をやっているんだがね」そう言って相好を崩した。
50年代のメナジェリーから一挙に90年代のベストへ、ふつうの動物園が数十年かけてゆっくりと行なってきた変化が、ここではわずか15年に圧縮されている。そのすべてにメープル園長は関わっていることになる。
アトランタ動物園は、面積にして1・6平方キロのこの国にしては比較的小さな動物園だ。この数字は上野動物園よりもやや大きい程度である。もともと1889年に町にやってきたサーカスが、ライオンやサルを残していったのがきっかけになって動物園が設立された。歴史だけをみるとアメリカでも最古参だ。ちなみにアメリカ最古の動物園はニューヨークのセントラルパーク動物園(1864年)、シカゴのリンカーンパーク動物園(1869年)あたりということになっている。
しかし、歴史の長さのわりには、アトランタ動物園はいつの時代にもパッとしなかった。「動物園はただ漫然とあるだけで、その歴史のなかで一度としてビジョンというものを持ったことがなかった」とメープル園長は言う。
彼が陣頭指揮をとり始めた頃の問題点を整理すると、まず、施設・展示手法の古さと動物に与えられるスペースの狭さ、獣医による適切な健康ケアの欠如、飼育・展示されることによる心理的ストレスを減らす努力の欠如、希少種の繁殖に熱心ではないこと、飼育している動物の科学研究がほとんどなされていないこと、教育プログラムがおざなりであること……などが挙げられる。つまり、動物園のすべてということだ。
今後どのような方向にアトランタ動物園を導いたらよいか。難問だったはずなのだが、意外にもメープル園長に迷いはなかった。
「まわりを見ればいくらだってお手本はあった。ビジョンは簡単に描けた。問題はそれを実現する手段たったんだ」
では、ビジョンとはいったいどんなものなのか。
「動物園は自然保護の拠点になるべきだ。動物にきちんとしたケアを提供した上で、飼育下繁殖、科学研究に力をそそぎたい。同時に環境教育の拠点とならなければならない」
これらは、現在の動物園の基本原理とでもいうべきもので、AZA(アメリカ動物園水族館協会)の規約にも、参加園館が遵守すべき理念としてうたわれている。全世界的にも、国際保護連合(IUCN)が1980年に発表した「世界環境保全戦略」のなかで、動物園は「種の保護」と「環境教育」を行なうべしと述べられている。
「当初、私たちにはふたつ選択肢があった。ひとつめはこのようなひどい動物園はいっそ閉鎖してしまうこと。もうひとつは、園を存続させ、改革のビジョンを実現するために運動を展開すること……」
前者の選択肢は極論に聞こえるが、北米では決して突飛なことではない。最近では、カナダのバンクーバーのスタンレーパーク動物園が、住民投票の結果、閉鎖された。動物たちは、アメリカ、カナダの動物園に散り、引き取り手のなかった老齢のホッキョクグマは数年後にひっそりと息を引き取った。
しかし、アトランタはそれを選択しなかった。むしろ、一流の動物園として再生すべく、構造改革に着手すべきと判断したのである。
アトランタ動物園の惨状の最大の原因は、スポンサーである行政が園をお荷物として扱ってきたことによる。動物園の運営についての理解がなく、人員的にも、予算的にもお粗末な状態が続いていた。メープル園長が最初に手をつけようとしたのは、この部分だ。市から安定した援助を得る約束をとりつけ、さらに組織としては市から独立する。日本でいう第三セクターのような形で、アトランタ動物園協会が運営にあたる。入園料などの特典を武器に個人会員、家族会員をつのり、会費収入を市からの援助と共に、収入の柱にすえる。現在では5万人の会員を持つ大規模な動物園協会に成長し、動物園の安定した運営に寄与している。協会による動物園の運営はアメリカの常套手段で、ちなみに最大手のサンディエゴ動物園協会(サンディエゴ動物園とサンディエゴ動物園サファリパークを運営)は23万人、ニューヨークの野生動物保護協会(通称WCS、ブロンクス動物園など4つの動物園と1つの水族館を運営)は10万人の会員を誇っている。アトランタはこれらに次ぐ第三位だ。
寄付大国であるこの国では、裕福な個人、企業からの寄付は、動物園の大きな財源だ。市からの援助、協会の会費収入が、通常の動物園のランニングコストに充てられるとすると、大口の寄付は新しい展示や施設の建設に使われる。というより、ある展示や施設の「企画」を気に入った企業等が、冠スポンサーとして、建設費を負担するのである。メープル園長はこの面でもすばらしいセールスマンぶりを発揮し、次々と新しい展示、施設のためのスポンサーを見つけていった。
個々の点についてみてみよう。
施設や展示手法について、メープル園長がめざしたのは「ランドスケープ・イマージョン」(風景に浸しこむ、という意味)だった。これは次章で詳述するが、簡単にいえば野生の棲息地を人工的につくりだし、そのなかで動物を飼い、展示するという考え方だ。動物だけを展示するのではなく、生態系を展示すると言ってもいい。このことは現代のアメリカの動物園の「見せ方」のパラダイムと言ってよい。
84年当時のアトランタは原則的に「分類学による展示」を採用していた。ネコ科はネコ科、クマ科はクマ科、霊長類は霊長類でそれぞれひとまとめにされて同じ建物に収容されていた。このこと自体は悪いことではないかもしれないが、個々の動物のスペースは狭く、床はコンクリート。動物の個々のニーズではなく、掃除するのに便利であるとか、人間側の都合で設計されたものだった。
新生アトランタ動物園は次々と展示の改革に取り組んでいくのだが、そのなかでも88年にオープンした「フォード自動車によるアフリカの熱帯雨林」は、10年後もアメリカで最高のゴリラの展示と言われている。動物行動学者として類人猿の行動を研究してきたメープル園長の知識と動物園のデザインがみごとに調和したひとつの「作品」として評価されている。シルバーバックのウィリー・Bはこの展示の成功で、アトランタ動物園の変容を象徴する動物になった。
動物たちの健康のケアは、この動物園がもっとも厳しく批判された分野だ。84年の時点で、専従の獣医がおらず、スタッフの数も園長以下わずか30人。とても、1000個体もの動物の面倒をみる体制ではなかった。優秀な即戦力を全米から集めることが必要になってきた。
「スタッフの問題はある意味では一番難しかった」とメープル園長は言う。悪名高いワースト動物園でAAZPAからも除名されたようなところに、まともな動物園人がわざわざ転職してやってくるなどということは普通は有り得ないからだ。
しかし、メープル園長はそれを可能にしてしまった。人徳なのか、それとも彼の示したビジョンに共鳴したのか、全国の有名動物園から、知る人ぞ知る優秀な人材が続々と馳せ参じるのである。サンフランシスコ動物園から獣医としてリタ・マクナマラ、フィラデルフィア動物園からジェネラル・キューレーター(飼育部長)としてディートリッヒ・シャーフ、サウスカロライナ州のリバーバンクス動物園から哺乳類のキューレーター(飼育課長)としてトニー・ベッチオ、といったふうに。
こういった新しい管理職たちは、アトランタの飼育動物のケアを全米の平均以上の水準に押し上げた。80年代的な専門家集団としての動物園の形がようやく出来はじめた。
さらに動物の身体的な健康に加えて精神的な健康のケアも考慮されるようになる。これはメープル園長のそもそもの専門分野だ。彼は展示の設計段階から動物の行動を考えにいれることで、動物たちが限られた空間のなかで刺激に満ちた生活をできるように工夫した。これは「エンリッチメント」(後の章で詳述)と呼ばれる動物園界全体の「運動」の一環である。
飼育下繁殖については、アトランタ動物園はSSP「種の保存計画」(Species Survival Plans)の熱心な参加者になった。SSPは、アメリカ、カナダ、メキシコの動物園が参加している、園館の枠を超えた繁殖計画で、1981年から実施されている。飼育下の動物たちをひとつの個体群にみたて、遺伝の多様性をできるだけ保存しつつ繁殖させることが目的だ。参加すると、その時点で対象の動物は一種の共有財産とみなされ、繁殖のための貸し借りなどを頻繁に行なう必要が出てくる。アトランタの場合、ゴリラ、アフリカゾウ、アフリカライオン、オラウンウータン、スマトラトラなど全部で14種が対象種になっている。
「動物園は研究の場でもなければならない」とメープル園長は言う。「わたし自身、動物園を研究の場としてきた。動物園は研究者に門戸を開くべきなんだ。また、それとは別に動物園が野生生物の棲息地にまで出かけていって、その保護のための研究をするのも大切なことだと信じている」
彼は「環境行動研究センター」(Conservation Action Research Center)という組織を作り、研究の拠点に据えた。棲息地保護であろうが、動物園で飼育されている動物の研究であろうが、また、動物園でもっとも普通に見られる種の研究(つまり、人間!)であろうが、およそ研究と呼ばれるものはすべてこの組織が管轄する。
その研究は、動物行動学である場合もあれば、尿や血液の中のホルモンの研究である場合もあれば、訪れた人々の行動パターンの研究の場合もある。基本的には、動物のケアや繁殖テクニックに寄与する内容のものが多い。94年度の研究報告を見せてもらったら、「ゴリラ成獣の屋外と獣舎内での行動の比較」(園長みずからの研究)、「飼育下のマンドリルとドリルの行動と繁殖」(学生の博士論文のための研究)、「アトランタ動物園を訪れた人々の絶滅危惧動物に対する態度と知識の評価」(モアハウス大学の研究者による研究)など、40ほどの現在進行形の研究が記載されていた。
一方、野生の棲息地の研究としては、「ケニア・タナ川のアカコロブス、マンガベイの分布と保護の必要性」といったケニアの霊長類に関するもの、「ジョージアの湿地帯のアメリカワニの巣をめぐる生態学」など地元の野生動物にかかわるもの、「ガラパゴス諸島の自然とエコ・ツーリズム」といった自然の経済価値をさぐるものなどが挙げられている。
このような研究をしたら、今度はそれをまとめ発表しなければならない。科学の意義は情報の共有にある。研究して発表しないなら、それはなにもしないのと同じだ。だから、アトランタ動物園の名前がクレジットされた科学論文の数は年に最低でも10本程度には達し、科学論文を多く発表する動物園のベスト10にランクされている。
さらに、これはメープル園長が「言いだしっぺ」になって動物園による動物研究を扱う専門誌を発行するのに成功した。「動物園生物学」(Zoo Biology)がそれで、彼は創刊後7年間編集長をつとめた。以前、こういった研究は、行動なら動物行動学、ホルモンなら動物の生理学など、それぞれ別の分野の専門誌などに発表されるのが常だった。動物園における動物研究を扱う専門誌が必要だと感じていたのはメープル園長だけではなく、彼のアイデアはAZA(旧AAZPA改称後の名称)のお墨付きをもらう形で専門出版社に引きとられて実現したのだ。
以上のようなことを話した後で、「わたしたちがしてきたことは、ある意味ではアメリカの動物園ではもはや常識となりつつあることばかりなんだよ」と言う。この15年間で達成したことは、「偉業」でもなんでもなく、ただ追い付くべきものに追い付いただけなのだ、と。
すでにAZA(旧AAZPA)にも復帰が認められ、それどころか、この国のベスト動物園のひとつに数えられることもある。また、AZAの年次総会や動物園飼育係協会の総会のホストになったり、動物園の倫理問題について、動物園人とその批判者であるアニマルライツ側が意見を擦り合わせるワークショップを開くなど(その内容はスミソニアン協会が発行した 「方舟の倫理」(Ethics on the Ark)という本にまとめられた)、動物園界の公の仕事にもきわめて熱心だ。サンディエゴやニューヨーク・ブロンクスのような指導的な存在とはいえないかもしれないが、誰もが一目を置く存在感を持っている。
そして、メープル園長自身はやはり科学者らしく、動物園が関わっていく飼育下繁殖や保全生物学の研究、棲息地の保護といったことに今後の動物園の進むべき道をみる。
「今後は今までの枠をさらに超えて進むべきなんだ。研究機関として、自然保護機関として、動物園の中だけでなく、外にも出て行くべきだろう。われわれは実際に動物を扱うやり方で他の人にない知識を持っている専門家なんだから」
メープル園長との対話を終えた後で、園内を散策した。暑くてとても散策などいう状況ではなかったのだが、それでも園内にはたくさんの親子連れがやってきていて、ギラギラ照りつける太陽をものともせずに動物たちを見つめていた。
「フォード自動車によるアフリカの熱帯雨林」は予想以上の出来栄えだった。決して大きくはない動物園の敷地の実に10%が使われているだけあって、広々とした空間がまず印象的だ。2万6000トンの土を入れて、3500本の木々を植えたというが、たしかに敷地は起伏に富み、そこここに木々がある。地面はすべて青々とした草に覆われており、ゴリラたちはそれを引きちぎって食べることができる。地形はなだからな斜面になっていて、彼らは人間よりも「上」に位置している。そのことが彼らの体の大きさと動きのダイナミックさを際立たせていた。同時に四つの群れを飼うことができるのも、おそらく世界でも例のないことだ。
ほかの展示にも目を見張るものが多い。
アフリカゾウたちは、赤い土にまみれながら遊ぶ。地面が赤土で敷き詰められていて、寝転がって体をこすりつけるのが楽しいらしい。しわになった体の隅々まで見事なまでに真っ赤に染まっており、「アカゾウ」という新種の動物を発見してしまったような気分になった。
オランウータンは、人間が使うハンモックのようなものの上で昼寝をきめこんでいた。樹上性のこの類人猿のニーズを満たすために、展示のなかには彼らが地面に下りずあちこち移動するための人工の樹木の間をロープが張りめぐらされている。オスとメスは別々に飼われていて、その仕切り部分には、メスと子どもだけが通り抜けられるサイズの通路が開いている。野生の状態を模して、メスが必要な時だけ生殖のためにオスに近付くことができるようになっているのだ。
ケニアのマサイ・マラ保護区を真似たというアフリカのサバンナ展示では、ちょっと高くなった岩場の上からライオンが獲物動物のガゼルを見下ろしていた。獲物との間には隠し掘があって、狩りをするわけにはいかない。そのことがかえってフラストレーションにならないかという心配をしてしまったが、とりあえず、時々、顔を上げてはあたりを見回し、百獣の王らしき風情を保っている。
概して動物たちの状態はとてもよいように見える。限られた空間を大胆に使って、動物たちの固有のニーズにも応えようとしている姿勢が感じられた。すでにぼくは日本では見たことのないような動物園を体験しているのだ。
ほんの数時間の見学だったが、それだけでも面白いこと、考えてみたいことがたくさん発見できた。展示の問題、動物たちのケアにかかわること、種の保存や棲息地保護、動物園をめぐる倫理のこと。ぱっと思い付くだけでも、こんなことを挙げられる。後に取材が進むに従って、興味関心はさらに広がっていったけれど、ぼくは基本的にこのようなことを動物園を訪ねながら学び、考えていくことになる。
夕方、ニューヨークへの飛行機に乗った。落雷によって空港機能が6時間ほど麻痺し、結局深夜になって自宅に戻った。アトランタへの日帰り旅行で知ったこと、体験したことの多様さに、その夜は頭がくらくらしていた。
注1・この章は、当時、北米での動物園改革の「プレビュー」のような位置づけになっている。テリー・メープル氏は伝説的な園長の一人だが、Zoo biologyの創刊者だったことに感じいる動物園関係者が多かった。彼がアトランタ時代に書いた書籍”Zoo Man”はベストセラーになった。
注2・テリー・メープル氏は、2003年、18年勤務したアトランタ動物園を去った。その後、大学教授に戻ったものの、動物園の園長やコンサルタントを務めることもあり、アカデミズムと動物園をつなぐ役割を果たしてきた。
かつて駐在員として東京に住んでいたことのある知日派ジャーナリスト夫妻が、ぼくが動物園について調べていることを知って言った。
「上野にいったことがあるが、あれはひどい。施設が古く、牢屋みたいな展示も多い。それにくらべてニューヨークのブロンクスはすばらしい。自然な環境のなかで動物たちが暮らしいてる」
彼が東京にいた時期は90年代のはじめ頃だから、その頃の上野について彼は言っている。もっとも、彼は今訪れてもおそらく同じことを言うだろう。
また、コロンビア大学哲学科の客員研究員であるドイツ人の言語哲学者は、2歳の子を連れてブロンクス動物園に行ってきた翌日に興奮した口調でこう言った。
「いやあ、おもしろかった。あの動物園の展示はみんな舞台みたいだね。棲息地のように見える舞台をつくってそこに動物を置くんだ。おまけに、彼らはそれが舞台だということを隠したがっている。動物と人間の間にある堀をわざと見えないように配置したりして、動物との間に障壁がなにもないように見せたがる。実に興味深い」
さらに、生まれてこの方ニューヨークに住んでいるブルックリン子が、4歳の子どもをつれてイタリアに旅行した時の話。
「息子はローマの動物園が気にいっちゃったのよ。動物たちを檻の中で飼っていてわたしとしてはとても不愉快な場所だったんだけど、息子にはブロンクスよりもローマのほうが良かったの。なぜって鉄格子を挟んですぐ近くでライオンやトラを見られるから。ブロンクスみたいに動物を双眼鏡で見なければわからないようなとこなんて、子どもにはもの足りないのね……」
ぼくにはこの三人の知人の動物園をめぐる体験がそれぞれとても興味深く感じられる。動物園と人々の第一の接点というのは、展示を通じてだ。それがどのように人に伝わり、解釈されるのかという点において。
そもそも動物園の展示手法というのはどのようにあるべきなのだろうか。あるいは、どうあるべきと考えられているのか。そのあたりのことが知りたい。まずはニューヨークのブロンクス動物園を訪ねてみよう。
ニューヨーク市の中心部マンハッタン島からハーレム川をわたると、市内で唯一大陸と地続きになっているブロンクスだ。その中央部にあるのが、全米で最高峰、世界でも屈指との評価の高いブロンクス動物園。97年から98年にかけてニューヨークに滞在したぼくは、この動物園に数十回足を運んだ。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年3月21日 発行 初版
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