spine
jacket

───────────────────────



春薔薇妃は氷雪の王に溺れる

沙布らぶ

共幻令嬢文庫



───────────────────────




  この本はタチヨミ版です。

 目 次

プロローグ

第一章 白雪の王

第二章 春薔薇を捧ぐ

第三章 二人の宝物

第四章 策謀と希望

エピローグ

あとがき

プロローグ


「舞踏会は退屈よ」
 星のように夜を照らすシャンデリアも、眠たくなるような管弦の音も、エレオノーラはあまり好きではない。
 今日ばかりはいつものように城の中を走り回ることもできなければ、侍女たちの間をくるくると回って歩くこともできないのだ。
 年の離れた二人の姉たちも、今日ばかりは彼女と遊んではくれない。
 アトネリア王国第三王女――エレオノーラは、そんな家族のそばをこっそりと抜け出して中庭に出た。
(綺麗なドレスや宝石は、べつに嫌じゃないけど……)
 十一歳になったばかりのエレオノーラには、舞踏会の楽しみがわからない。
 おとなしく体を揺らすだけのダンスよりは、もっとみんなで楽しい話をして盛り上がればいいのに。
 すんと鼻を鳴らして中庭に出ると、蒼い星の光が薄暗い庭園を照らしだしていた。普段は夜に庭へ出ることなど許されないので、エレオノーラは興味深げに辺りを見て回る。
 楽団の奏でるセレナーデが、夜風に乗ってエレオノーラの体を包み込むようだった。けれど彼女は音が引き留めるのもかまわず、そっと庭に足を踏み入れる。
 昼と比べて別世界のようではあるが、さほど広さはない庭だ。そよぐ夜風の香りを胸一杯に吸い込むと、隅の方でかさりと音がした。
「……誰?」
 返事はない。だが代わりに、小さくくぐもったような声が聞こえてきた。苦しげなその声に、思わず言葉がこぼれる。
「どうしたの? あなた、おなかが痛いの?」
 うずくまっていたのは、銀髪の少年だった。年はエレオノーラよりも少し年上だろう。
 荒い呼吸を繰り返している彼に駆け寄ったエレオノーラは、誰か人を呼ぼうと周囲を見回す。だが、誰もが絢爛な宴に夢中で、二人のことなど気にもとめていない。
 世界で二人きり、取り残されたような気分になって、エレオノーラは彼の体に触れた。びくりと跳ね上がったそれは、尋常ではないほどに震えている。
「ねえ、どうしたの!? 人を呼んだ方がいい? どこが痛いの?」
 右手で胸の辺りを押さえ地面の上でうずくまっていた少年は、深く息を吐きながらゆっくりと顔を上げた。やや蒼白ではあるが、顔立ちは非常に美しい。彫像めいたその顔には、痛苦と絶望がありありと浮かんでいた。
 銀髪の下の青い瞳が、一度閉じられてゆっくり開かれる。
「ッ……人、が――来るまで。側にいて、ここにいてくれ……」
 やっとの事で吐き出されたであろう言葉に、エレオノーラは力強く頷いてこわばっていた彼の右手をとった。
 汗をかいているのに、体温はちっとも高くなかった。それまで震えていた彼の左手は、彼女の両手を挟むように強く握りしめてくる。
 きつく握られた手に爪を立てられても、不思議と痛くはなかった。ただ、目の前で苦しんでいる彼を救いたい。強く手を握りながら、エレオノーラはそれだけを祈っていた。
「いくな……頼む。どこにもいかないでくれ。誰か、人が来るまでここに……一人は、嫌なんだ……」
 切実なその声に、エレオノーラは何度も彼に声をかけ続けた。
「大丈夫よ。あなたから離れたりしないわ……どこが痛いの? 頭? それともお胸?」
 冷たい彼の手を握りしめたまま、エレオノーラは何度も「大丈夫」と繰り返した。自分よりも背が高いであろう少年の体は、今は震えて小さくなるばかりだった。
「母様――ごめんなさい……もう、痛いって言わないから……ごめんなさい……」
 うわごとのようになにかを呟いている少年の体を抱きしめようと、エレオノーラはそっと結んでいた手を離した。一瞬だけ少年が不安そうな顔をしたが、小さな体が少年の体を抱きしめると、その表情は少し穏やかになる。そうすることでどれだけ彼の痛みが和らぐかはわからなかったが、次第に少年の呼吸は整いはじめた。
 氷のようだった肌にはわずかに温かみが戻り、エレオノーラは体を離してもう一度両手で彼の手を包み込む。
「大丈夫? 寒くはない?」
「あぁ……寒くはない。人が多くて暑いから、ここに逃げてきたんだ」
 照れ隠しなのか、右手をエレオノーラの手から抜き取った少年は煩わしげに髪をかき上げた。長く細い指先は家族の誰のものとも違う。
 少年はエレオノーラの手を撫でながら、小さく息を吐いた。
「誰にも見られたくなかったんだ。――でも、ありがとう。なんでだか知らないけど、すごく気分が楽になった。お前、アトネリアの末姫だろう?」
 少年は自らをイザークと名乗った。その名はエレオノーラとて教養として知っている。北の大国、ベルーフの王太子だ。
 男性にしては白い肌の色は、北の大地に与えられたものだった
「イザーク? それで、お医者様は呼ばなくてもいいの? 今はいいかもしれないけど、またああなったら……」
「医者を呼んだってどうにもならない。どうせ、僕はすぐに死ぬんだ。大人になっても、僕は長くなんか生きられない」
 心なしか、絡め合った指先が震えている。髪と同じ銀色のまつげを揺らしながら、イザークは吐き捨てるように呟いた。
「死ぬ……?」
 するとイザークは、自ら着ていた服の袖をまくり上げ、肘の辺りを見せてくれる。
 それは、彼の白い腕に巻き付いた青黒い茨だった。刺青のような痣が、巻き付くように彼の腕に絡まっている。
「そうだ。僕は死ぬ。この茨は、腕だけじゃなくて体じゅうに広がってるんだ……きっといつか、僕はこの茨に殺される」
 そう言ってイザークは人の目がないことを確かめ、服の裾をそっと上げてくれた。雪白の色をした腹部には、先ほど見たものと同じおどろおどろしい茨が絡みついている。
 肌にはところどころ、かきむしったような赤い線が走っていた。痛みに耐えるために、彼が自分の体を引っ掻いたのだろう。痛ましげなそれに、エレオノーラはなにも言葉を発することができなかった。
「触っても、いい?」
「ああ。べつに、触れられて痛いわけじゃない。僕の父上にも、同じ痣があるんだ。……僕のとは違って、父上はもう指先までこいつにやられてる」
 まるで、その痣自体が成長するかのような言い方だ。まだ白い自分の手のひらを見つめながら悔しそうに唇を噛むイザークの痣に、エレオノーラはそっと手を乗せた。
「……不思議だな。お前と一緒にいると、あんまり体が痛まないんだ」
 とくとくと規則的に繰り返す脈動に、先ほどとは打って変わって穏やかな彼の声が重なる。
「なあ、お前は――」
「王子! あぁ、ここにいらっしゃったのですか――おぉ、これはこれはエレオノーラ姫も!」
 遠くからやってきた声に、彼の声はあっという間にかき消された。繋いだままだった手はイザークからゆっくりと解かれ、彼はそれきりなにも言わなかった。
 けれど後日、舞踏会の礼と共に届いたエレオノーラ宛の手紙には簡素な文面と共にたった一言、彼自身の言葉が記されていた。
 ――ありがとう。あの時手を繋いでいてくれて。
 それはエレオノーラに、ある大きな決意をさせるには十分な言葉だった。

第一章 白雪の王


「お父様、失礼いたします!」
「おぉ、エレオノーラ。どうしたんだい」
 アトネリア王国、国王執務室。
 本来幾重にも警備されているはずのその部屋に乗り込んできた少女は、肩で息をしながらキッと部屋の主を見つめた。
 少女の名はエレオノーラ・ジーナ・アトネリア。大国に囲まれたこの小さな国の、三番目の王女である。
「お父様、ベルーフ王国の国王陛下が妃を探していると聞いたのですが」
 きらきらと翡翠色の瞳を輝かせたエレオノーラは、執務をおこなう父にずいっと距離を詰めた。周囲では補佐官たちがやれやれといった顔をしているが、彼女の父である国王オデッセウスはことごとく娘に弱い。
「ああ、その件か。いや、西方の雄であるカジージャ帝国の姫君が選ばれると噂だったんだがな。イザーク王は……その、なにかと噂がつきまとっているだろう。それが不吉だと、カジージャの皇女が縁談を断ったらしい。今はカジージャもなにかと大変な時期なんだがな……」
 その話はエレオノーラも聞き及んでいた。だからこそ、今日彼女は父に詰め寄っているのだ。
「お父様、娘の一生のお願いです! 私をイザークに――ベルーフ王国に嫁がせてください!」
「だ、だめだ! 私がなんのために大臣たちの話を断ったと……」
「断った? やっぱり、私にも輿入れの話があったんですね、お父様?」
 豊かな口ひげをひくつかせたオデッセウスは、一度助けを求めるように補佐官の方を見た。
 助けを求められた補佐官たちは、皆諦めたように首を横に振るだけである。
 オデッセウスはなんとも言えない表情でもう一度エレオノーラに視線を移した。
「お父様、また私の縁談を蹴ったの? もう姉妹の中で嫁いでいないのは私だけなのよ?」
「待ちなさいエレオノーラ、お前はまだ子供じゃないか。十八歳になったばかりだし、第一ベルーフはとても寒いぞ?」
「ベルーフが寒いのなんて知ってるわ。お父様、いい加減にして!」
 声を上げた
「ジュリエットお姉様もカミーユお姉様も、十八歳の頃にはすでに嫁いでいたじゃない」
 背に流した豊かな金髪を揺らし、エレオノーラはさらに父へ詰め寄った。
(姉様たちと違って、私だけお母様みたいに豊満なお体はしていないけど……それにしたって、お父様ったらひどすぎるわ……小さい頃私がイザークと文通をしていたのだって、知ってるくせに)
「し、しかしだな……これは国同士の大切な話なのだ。いくら私のかわいいエレオノーラの話でも、簡単に聞き届けるわけには……」
 資源に恵まれ、平和ではあるが国土が小さいアトネリアが大国であるベルーフの庇護下に入るという話は、この国にとって願ってもいないことだろう。エレオノーラが輿入れをすれば解決する話だ。
(けど、お父様が首を縦に振らない限りは……)
 娘かわいさに、オデッセウスはこの話をなかったことにしようとしている。
 だが、エレオノーラにだって大きな理由があった。もう何年も心に秘めていた、強く揺るぎない想いだ。
「エレオノーラ、お前にはせめて自由な恋愛をさせてやりたいとだな……」
「私の意思でイザークと結婚したいって言ってるの。この心は自由よ。誰にも強制させられたわけじゃない」
 エレオノーラの真剣なまなざしに、父は一瞬だけ気圧されたようだった。
「それにお姉様たちだって、結婚してとても幸せになさってるわ。お願い、お父様。私、イザークを死なせたくないの」
 大国の王の死――突拍子もないように思えた言葉には、計り知れないほどの思いがこもっていた。それを聞いたオデッセウスはじっと娘の顔を見つめ、やがて深い息を吐く。
 父もまた、王族として噂を聞いたことはあったのだろう。北海の覇者と謳われるベルーフに息づくという、むごたらしい伝説だ。
 オデッセウス王はきつく目を閉じた。左手を挙げて補佐官たちを下がらせると、静かになった室内でゆっくりと首を振る。
「ベルーフに伝わる伝説は有名だ。私も何度も聞いたことがあるし――現に、彼の国の歴代の王は皆若くして……それも、まるで絞め殺されたかのように死んでいるというではないか」
 公式に病死と発表されても、その話はあまりに有名だった。
 早死にしたベルーフの王たちは、皆凄絶な苦悶の表情を浮かべて事切れている。それも、なにかに首を絞められたように窒息しているというのだ。
「私は、お前に幸せになってほしい。かわいいエレオノーラ、お前に悲しんでほしくはないんだ」
「大丈夫よ。イザークは死なないわ。ぜったいに、私が死なせない。お願いお父様……私、イザークを救いたい。彼のためならどんなこともするから……彼を、死なせたくないの」
 自分に縋り、痛みに耐えているイザークの姿。それは何年経っても忘れられず、時折夢に見てはエレオノーラを苦しませた。
 幼少の頃だけではあるが、イザークとの文通や交流があるたびにエレオノーラの中で彼を救いたいという思いは次第に強くなっていったのだ。
 大人になってからも彼のことを話に聞くたびに、どうしたら彼の苦痛を取り除いてあげられるのかという思いが、次第に胸の中で大きくなっていった。
(ぜったいに、私が助けるわ)
 決意をにじませたエレオノーラの言葉に、オデッセウスは国王としてではなく、父として問うた。
「私のかわいいエレオノーラ。それで、お前に後悔はないんだな?」
「えぇ、後悔なんてしないわ」
 力強い言葉に、父は諦めたように息を吐いた。こういう頑固なところは父にも母にも似てしまったらしい。
「お前には勝てんよ、エレオノーラ。……使者を送るとしよう」
「あ、ありがとうございます、お父様!」
 娘の熱意に負けたオデッセウス王の申し出により、エレオノーラのベルーフ輿入れはあっさりと決定されてしまった。
 アトネリアから北国へ向かう花嫁道中には多くの国民が押し寄せ、彼女自身も驚くほどに大きな賑わいを見せた。
 だが、ベルーフの国境を越えた辺りからその様相は大きく変わってしまった。
 豪奢な馬車を見る人々の目は、夭逝ようせいする運命にある王に嫁ぐ少女を哀れんでいる。
 冷ややかな人々の視線に晒されるのが怖くて、エレオノーラは馬車を降りるまで大きく窓を開けることはしなかった。
 やがて式場に馬車が到着すると、純白のドレスを着たエレオノーラはベルーフ側が用意した侍女のエリシャと共に外に出た。
「さぁ、エレオノーラ様。こちらでございますわ!」
「――綺麗。こ、ここで結婚式が? 寺院っていうより、お城みたいね」
 白雪の大寺院。海外からの賓客たちを待ちかまえるその場所は、荘厳ではあるが包み込むような優しさは感じられない。
 東方の寺院様式と西方の大聖堂の様式が混ざり合った大寺院には、祝福を与える女神や高名な賢人たちの絵画が並べられている。普段は祈りを捧げる人々のために解放されたそこは、今日は新たな王妃のためだけの舞台だった。
 列席する人々も、ベルーフの貴族やアトネリアの高官、周囲の国々の大使たちなど、大陸中の国々の代表たちだ。誰もが皆、大国の主とその妻のために集っている。
 聖人たちや天使の像が見守るその場所に足を踏み入れると、エレオノーラは自分の足が震えているのに気づいた。
(緊張するなっていう方が無理よ……)
 意識をすると、目がくらんでしまいそうだった。
 深紅の絨毯が敷かれた道を歩き出すと、後ろの方からエリシャが確かめるように囁いた。
「陛下がお待ちですわ。参りましょう」
 ヴェールをかぶせられた視界は安定せず、足も震えているせいでなかなか前に進まない。
 それでも侍女たちが後ろでトレーンを持ち上げているから立ち止まることもできず、エレオノーラは一人で長い道を歩かねばならなかった。
 寺院の最奥、多数の列席者の向こうには、すでに鮮やかな銀色の髪が見えている。
(あれが、イザーク)
 まっすぐに彼を目指して歩くと、自然と視線が上がった。視線の先にイザークがいる。そう思うだけで、じっとりとこちらを見つめてくるベルーフ貴族たちの視線も、はらはらした表情でこちらをうかがうアトネリア大使たちの視線もはねのけられるような気がした。



  タチヨミ版はここまでとなります。


春薔薇妃は氷雪の王に溺れる

2017年7月25日 発行 初版

著  者:沙布らぶ
発  行:株式会社共幻社

bb_B_00149773
bcck: http://bccks.jp/bcck/00149773/info
user: http://bccks.jp/user/135034
format:#002y

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket