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——きっとこれは、日本人の血に刻まれているDNAのせいに違いない…
瑞波(みずなみ)神社の境内に続く石階段に腰をおろし、未道果歩(みどう かほ)は思った。
彼女の頭上には、暗闇を仄かに染める赤い提灯が、ぽつぽつと等間隔にぶらさがっている。
それは毎年、夏の終わり。神社の例大祭が近付いた時期にだけ取り付けられていた。
瑞波神社の入り口にそびえる大きな鳥居、そこから伸びた石階段、さらに神様が鎮座する境内までの道のりが、赤提灯によって淡く照らしだされている。
果歩はこのぼんやりとした赤い灯火が好きだった。
好きになったのは小学生の頃。
当時住んでいた、家の近くにあった小さな神社。そこにも年の暮れから正月の間だけ、赤提灯が灯されていた。
新雪を纏い、夜の静寂の中に佇む神社を、赤くて柔らかい光が包んでいる——
その光景を初めて見た時、幼い果歩は「別世界に来てしまったのか?」と目を奪われた。
それくらい赤い灯火で照らされた世界は幻想的で、とても厳かな空気に満ちていた。
逃げてもすぐに追いかけてくるような、消えない辛い現実も、何故かその瞬間は忘れていた。
ただただ「世界と自分がここに在るのだ」という感覚だけが、胸のなかに残った。
果歩は歳を重ねて、二十六歳になった今でも、赤提灯の光に特別なものを感じる。
真っ暗な闇の中で灯る光はあたたかくて癒されるし、風情がある。
そして不思議と胸が締め付けられるような懐かしさを感じて、ここに留まりたいという思いに駆られるのだ。
「提灯」は電気の無い時代からあるものだし、きっと受け継がれてきた先祖の血が、闇を照らす優しい光に反応しているのだろう——そう果歩は思う。
よく東京生まれ東京育ちの若者が、綺麗な山間の景色をみて「まるでおばあちゃんの家みたい」と故郷を想起させるのも、そのせいかもしれない。
もっとも果歩は地方の、それもかなり田舎の出身だから、都会の若者すべてがそうとは言い切れなかったが。
赤提灯を仰ぎ見ながら、果歩は深くゆっくりと息を吐いた。
呼吸とともに、肌の表面に纏わりついていた緊張が、はがれ落ちていく。
——誰もいないし…いいよね?
人通りが無いのををいいことに、果歩は赤提灯を眺めながら休憩することにした。
今日も残業をこなし、疲れた足で電車に飛び乗り、自宅のある最寄り駅に着いた頃には、夜の十一時をまわっていた。
さっきコンビニで買った缶ビールをあけ、渇いていた喉に流し込む。
季節は夏の終わりだったが、東京は未だ暑い日が続いた。
果歩は履いていたパンプスを脱ぎ、冷たい石階段で熱を持った両足を休めながら、ビールを飲む。
半分以上飲み干したところで、ふと今日の出来事が、頭を掠めた。
果歩は、都内にある百貨店に勤めている。
担当しているのは主に家庭用品を取り扱っているフロアで、就職してから五年が経つ。
小柄な体型と、派手さの無い顔立ちから「年齢の割に落ち着いて見える」と周りからはよく言われていた。
それなりにメイクをすれば印象は変わるが、ファッションフロアの担当でも無いため、簡素な制服に合うように、色味を抑えたメイクをして売り場に立っている。
『落ち着いて見える』自分の容姿を、果歩はラッキーな事だと思っていた。
毎日、さまざまな人達がこの百貨店にやってくる。お得意様もいれば、はじめて足を踏み入れる人もいるし、最近では外国人の客も増えている。
そのような環境で接客をする果歩は「落ち着いて見える」という事を、裏を返せば「信頼されやすい見た目」と、捉えていた。
おかげで大きなクレームを貰うこともなく、ここまでやって来れている。
プライベートはさておき、仕事に関しては順調だった。いや、順調なはずだった——
現在、果歩を悩ませている事がある。
今年に入ってから、果歩は新入社員の指導を任される事になった。
それが原因で、指導方法について上司から注意を受ける事が多くなったのだ。
「今日も色々、言われちゃったな…私…」
果歩は、赤提灯の下で溜息をつく。
今日、果歩は遅番で出勤し、上司に挨拶をするなり注意を受けた。
「どうして新人は、教えたことができないの? 教えた事が出来ないのは、教え方が悪いからだよね。 違うかしら?」
果歩は反論できなかった。
教えたことができないのは、教え方が悪いからだ。コミュニュケーションの主導権は受け取る側にある。だから、伝わるように教えなければならない——
何度も言われる言葉だった。
「もうちょっと新人の立場になって指導してくれる?」
それから上司は最後に必ずこう言うのだ。
「未道さん、あなたは人の気持ちが全然分からないのよ……」
その言葉は針でつかれたような痛みを、果歩の胸に残した。
果歩はただ「はい」と頷き、新入社員の近藤英恵(こんどう はなえ)のもとへ向かった。
近藤は意欲もあり、勤務姿勢も真面目な新入社員だった。
近藤の特徴として、教えた事を覚えるために、一人で見直し、自分に落とし込むという時間が必要な子でもあった。
果歩は見守るような気持ちで彼女に接していた。
着実に仕事も覚えているし、任せられる業務も増えてきた。
ただ、覚えるまでのスピードが、上司にとっては遅いだけのこと…
果歩も指導する立場として、自分が未熟なことを理解していたから、はじめは上司から指摘されるまま教えていたが、それでは近藤はうまくいかなかった。
だから、自分なりに近藤をよく見て、指導の仕方を変えたつもりだ。
——それなのに。
モヤモヤが果歩の中で渦巻いていた。
『人の気持ちが分からない』
何度も言われる言葉。
その言葉を反芻しながら、果歩は今日も来店されたお客に対して心を砕いていた。
人の気持ちが分からない自分が、人の事を考えて仕事をする。
大きな矛盾のかたまりのようだ——そう果歩は思った。
お金稼ぐための仕事だから、褒められることが無くても良いと思っていた。
けれど、いつの頃からか、心が力を失ったように、うまく笑えていない自分に気付く。
「私、このままで良いのかな……」
ぼんやりと暗闇に浮かぶ赤提灯をみて、果歩は無性に泣きたくなった。
胸に詰まっていたものが込みあげてきて、目頭が熱をもつ。
赤い光が淡く、柔らかく滲んで見えた。
——せめて、打ち明けられる誰かがいたら良かったのに。
大学が一緒だった友人たちも皆、それぞれの環境で頑張っている。
果歩の愚痴にもきっと付き合ってくれるだろう。けれど環境の違う友人が、理解に苦しむ愚痴を聞かされるのは迷惑ではないだろうか。
職場に相談相手がいれば一番良かったのかもしれない。
しかし、そのような相手が果歩の身近にはいなかった。
胸が詰まるような閉塞感。
濃く、重く、溜まっていくだけの感情。
それは傷跡のように、果歩の中に未だ消えずに残っている、哀しみの記憶さへも引きずりだしてくる。
——あの頃と同じみたい…
周囲の視線。
ささやきのように耳に滑りこんでくる自分の噂話。
かたい机と、冷たい椅子に座り、毎日を必死に耐えるように過ごしていた幼い頃の日々。
けれど、今と違って、あの頃の果歩には「拠り所」があった。
そこは瑞波神社よりも、もっと小さくて古びた佇まいの神社——赤提灯が大好きになったあの神社。
自分の本当の気持ちを声に出すことができた、唯一の場所。
果歩の声を聞いていたのは、姿も見えぬ神様だけだろう。
「あの場所にまた、行きたいな……」
果歩は流れてきた涙を、指先で拭った。
瞼の裏に懐かしい景色を思い浮かべながら、溢れてくる感情をアルコールで宥めようとした。
しかし、その時——
「そこで、何をしてるんですか?」
背後から男の声がして、果歩は驚いて声を上げそうになる。
——もしかして、神社の人!
ここは、神社の境内に向かう途中の、石階段だ。
後ろから声がしたから、神社のほうから来たのだろう。この時間に参拝者などいないし、神社の関係者である可能性が高い。
不審がられるのはマズイ。
「ごめんなさい! もう行きますから!」
ビールを片手に、果歩は脱いだパンプスを急いで履いた。
そして振り向く。
「あれ?」
「……あ」
声が重なった。
淡い光の中に浮かぶように立っていた男は、果歩のよく知る人物だった。
——斉藤直紀(さいとう なおき)。
彼は半年前まで果歩と同じ百貨店で働いていていて、担当するフロアは違ったが、何かと面倒を見てくれる先輩社員だった。歳は三十代前半と聞いた事がある。
直紀は半年前に退職をしていた。
果歩は直紀の退職を知った時に、気軽に話せる人がいなくなると、残念な気持ちになった事を思い出す。
まさかこんな場所で再会するとは…
「久しぶりだね。しかし驚いたな…未道さんがこんな神聖な場所で、酒を飲んでるなんて…」
「す、すみません…」
「いいよ。別に、怒ってるわけじゃないし…」
直紀の視線に、果歩は頰が熱くなった。
もしかしたら今は自分が、赤提灯のようになっているかもしれない。
ごまかすように苦笑いを浮かべて、果歩は直紀を見上げた。
最後に会った時より、短く切り揃えられた髪の毛。ネクタイをしていないワイシャツ姿。
顎から耳の下までのびた骨格のラインがくっきりと浮き出ていて、なんだか少し痩せたような気がする。
——だけど、直紀さん全然変わってないな…
親しみやすさを感じる軽やかな口調や、会話をする相手の目をしっかり捉えるところや、近付くと分かる爽やかバーベナの香りまでもが変わっていない。
果歩よりだいぶ歳上だが、直紀はそれを意識せずに会話できる相手だった。
だからこうして会えた事を、自然に嬉しいと思った。
「私のウチ、この近くなんです。疲れてちょっと休憩してて…。あ、せっかくだし直紀さんも一緒にどうですか?」
果歩はビールの入ったコンビニの袋を、直紀に差し出す。
直紀は苦笑いを浮かべながらも「じゃあ、もらおうかな」と手を伸ばした。
二人は並んで石階段に座り、久しぶりの再会を祝って乾杯する。
「そういえば、直紀さんはどうしてここに?」
「あれ、言ってなかったっけ? ここが今の俺の職場なんだ…」
「ええ! それじゃ、神社で働いてるって事ですか!」
「そういう事になるね…」
果歩は驚く。
直紀がこれまで長く勤めていた百貨店を退職すると知った時、理由までは聞かなかった。
仕事ができて人脈もある直紀の事だから、きっと別な会社から引き抜きか何かがあったのだろうと、勝手に思っていた。
直紀は丁寧に説明してくれた。
瑞波神社の宮司は、実は直紀の父親だということ。
直紀は百貨店で働くかたわら、神社の仕事も手伝っていたこと。
神社の仕事は多岐に渡ること——
「まあ、実際に継ぐのは兄貴なんだけど。俺も本格的に経営を手伝うことになったんだ」
「そうだったんですか…」
「うん。まだまだ勉強中だけどね。——それより、」
直紀が飲み終えたビールの缶を、脇に置く。
「未道さん、最近どう…?」
「最近…ですか…」
果歩の顔色が曇る。
「俺の勘違いかもしれないけど、未道さん、さっき泣いてたように見えたから。俺で良かったら聞くよ?」
「直紀さん…」
赤い光を帯びた瞳が、真摯に果歩を捉えていた。
バーベナの香りまでもが、一瞬濃く漂う。
——直紀さんになら…
元同僚である直紀になら、打ち明けられる気がした。
「私…その…ちゃんとやってるつもりなんだけど…」
「うん」
「全然、上手くいかなくて…」
「うん…」
「毎日怒られてばっか…だし……」
「そうなの?」
果歩は俯いた。急に恥ずかしくて、惨めな気分になった。
毎日怒られているのは真実だった。
毎日毎日、上司からお小言ばかりもらっている。
終いには「人の気持ちが分からない」と、そういう人間だと思われている。
上司の言葉が果歩の精神的な体力を奪っていく。
——でも、もし、上司の言うことのほうが正解だったら…?
直紀も、本心では果歩の事をそう思っていたのだとしたら。
果歩は口を噤んでしまう。
「未道さんが何に悩んでいるか分からないけど…」
急に黙りこんでしまった果歩に、直紀が口を開いた。
「いつも真面目にちゃんとやってるよね。担当は違ったけど、いつも笑顔で一生懸命にお客さんと話してる未道さんを見て、この子は心配いらないなって思ってたよ…」
「直紀さん……」
「大丈夫。きっと解ってくれる人もいるよ」
果歩は胸が詰まる思いがした。
直紀が、自分の仕事に対する姿勢や、頑張る姿を認めてくれている。
沈んでいた気持ちが少しだけ持ち上がる気がした。
「もう俺は見てあげれないけど、応援してるよ…」
「はい。ありがとうございます…」
「俺も、今の職場で頑張るからさっ」
直紀はそう言っていつものように笑った。
けれどその瞳の奥に、何かを抱えているような、言葉には出来ない複雑な色が浮かんでいた。
——直紀さんもきっと色々大変なんだ……
——悩みのない人なんて、いないもんね……
夜の静けさが二人を包んでいた。
果歩は風に揺れる赤提灯を仰ぎ見た。
——ああ。やっぱり私はこの光が好き。
暖かくて、じんわりと心の中に、心地よい熱が広がっていくようだ。
それは幼い頃の「拠り所」だった場所で感じた、安らぎにも似ていた。
近所にあった小さな鳥居の、小さなお社の神社。
——あの神社は今、どうなってるのかな……
——また、行きたいな。
赤提灯の光に懐かしい面影を重ねていると、直紀が立ち上がった。
「ご馳走さま。もう遅いしアパートまで送るよ…」
「はい」
果歩は頷いて立ち上がった。
休憩したおかげだろう。疲労が和らいでいた。
果歩は、直紀と共に、赤提灯に照らされた石階段をゆっくりと降りていった。
果歩が地元に帰るのは、三年振りの事だった。
東京から新幹線で二時間。そこからさらに、バスで二時間半。
正真正銘——、田舎と呼ぶに相応しい街だった。
大きな商業施設どころか、スタバもマクドナルドも無い。
映画館も無ければ、ゲーセンなどの娯楽施設も無いのだ。
そのかわり、山と綺麗な海が、自慢の街だった。
そんな街で、果歩は高校を卒業するまで生きてきた。
しかし長い時間を過ごしたにも拘らず、生まれ育った街への愛着を抱くことは無かった。
帰郷をしようと思ったのは、たった一人の肉親である母親——奈穂美(なおみ)の存在があったからだ。
奈穂美は愛情深く、離れた場所にいる果歩のことを、いつも気にかけていた。
電話やメールの最後に「たまには顔を見せにきなさい」と言われ、さすがに何年も帰っていない事に、罪悪感を覚えはじめていた。
そして、もうひとつ——
果歩の背中を押したのは、記憶の中の、よく通っていた神社の存在。
幼い頃に住んでいた家のそばにあった、小さな鳥居の小さなお社の神社。
最後にあの神社に行ったのは中学生の時で、もう十年以上前のことになる。
果歩は、瑞波神社の赤提灯の下で過ごしたあの日から、遠い地にある神社の存在に思いを馳せるようになっていた。
——確か、蛇の神様の神社だった……
記憶の中にある思い出の神社に行くこと、それも帰郷をする目的のひとつだった。
二連休の一日目。
早起きした甲斐もあり、果歩が故郷に辿り着いたのは、正午を回った頃。
バスから降りると、濃い潮の香りが混じった冷たい風が頬を撫でる。
思い切り空気を吸い込むと、喉の奥が微かにひりつく。
それは海風が吹く街の、独特な感覚だった。
——とうとう、帰ってきてしまった……
秋の潮風を全身に浴びながら、果歩は駅前の風景に目をこらす。
小さなJR線の駅舎と、その隣には鉄道のさらに小さな駅舎。
三台しかとまっていないタクシー乗り場と、ぽつんと佇んでいる「駅前食堂」と看板がさがった店。
食堂の並びにあるのは、銀行と、ガソリンスタンドと、この街で一番大きいビジネスホテル。
昼過ぎだというのに、車は走っているが歩いている者はほとんどいなかった。
——何も変わってないな…
ひとまず、宿泊するホテルに果歩は向かうことにした。
寂れた街並みを眺めながら歩く。
駅を中心に広がる商店街は飲食店を除いて、ほとんどシャッターで閉め切られている。
変わっていないどころか、よく見ると三年前に訪れた時より、さらに荒んでいるように思えた。
老朽化が進む建物。人の出入りが無い廃屋。
——五年後、十年後、この街はどうなってしまうのだろう…
このまま朽ちていくしか無いのだろうか。
まるでオアシスを飲み込んで広がっていく砂漠のようだと、果歩は想像する。
果歩にとってこの街は息苦しい世界の象徴で、逃げるように飛び出した場所だったが、あまりにも東京との違いを目の当たりにすると、感傷的になる。
文明も文化も進化している今の時代で、明らかに取り残されているのだ。
地域を活性させるような政策もきっとあるのかもしれないが、実を結ぶ日は来るのだろうか。
ホテルに着くと、果歩はチェックインまでの時間を、ラウンジでコーヒーを飲みながら過ごした。
フロントマンと客との、方言と訛りのきいた会話が耳に飛び込んできて、懐かしさがこみあげてくる。
東京は、地方の人が集まってはいるが、ここまで訛りのある会話を耳にすることは、ほとんど無かった。
——私も昔は、こんなふうに話してたんだろうな……
東京に行ったばかりの頃は、言葉の遣い方を妙に気にしていた。
ただ、周りも東京出身の者だけでは無かったから、初めて会う者同士で「方言」が会話のネタにもなることもよくあった。
それでも東京の暮らしに慣れ、働き始める頃には、すっかり独特の訛りは消えていた。
チェックインを済ませると、果歩は思い出の——あの神社に向かって歩き出した。
ホテルからはやや遠かったが、果歩はゆっくりと景色を楽しみながら歩いて行こうと決めていた。
田舎では車を持っている者が多く、歩いて五分もかからない場所に行くにも車を使う。歩いている人間は稀だった。
季節は十月に入ったばかり。
国道の脇の、狭い歩道を進みながら、果歩は手つかずの美しい自然の景色に目を凝らす。
右手側には溜息を吐きたくなるほどに、鮮やかな紅葉の山々が連なっている。
左手側には、稲刈りの終わった田んぼが広がっている。
天気が良かったこともあり、遠くの山脈までもが色付き、豊かな自然を感じさせた。
傾き始めた太陽の陽射しが山の斜面を照らし、影になっている部分とのコントラストは、果歩の目に映る自然を、さらにきらめかせている。
空には鳥達が群れをなして飛んでいる姿と、地上からは、小さな虫達の声や気配が空気を震わせ、響き渡っている。
「なんて、美しいんだろう……」
数々の命がひしめきあって存在している。
果歩はそう思うだけで、全身の神経が反応して鳥肌が立った。
目の前の莫大な生命の存在に共鳴するように、身体の細胞のひとつひとつが震えているような気がする。
たくさんの生命の中に、もうひとつの命ある存在として、自分が今——ここにいる。
いや、自分という存在すらも溶けて、この世界の一部になっている、そんな気すらした。
しかし…。
立ち止まっていた果歩のそばを、一台の車が追い越していく。
助手席に乗っていた男が振り向き、果歩をジロリと見た。
その視線に、気持ちが一気に暗転する。
——こんなにも美しい場所なのに、こんなにも世界や自然は、穏やかに自分達を包んでくれているのに、どうしてここに住む人間は、他人の行動ばかりを見るのだろう。
——だから、ここは嫌なんだ。
果歩は俯いた。
俯いたまま、ひたすら狭い歩道を歩いた。
不愉快な気分を霧散させるように、歩道に転がる小石を軽く蹴ってみれば、小学生の頃の自分を思いだした。
学校の帰り道。
近所に住んでいた幼馴染のメグミちゃんと、交代で小石を蹴って、家までの持て余すような時間を潰した。
学校からはメグミちゃんの家のほうが近くて、「また明日ね」とバイバイした後、果歩はそのまま家に続く道の途中にある、小さな神社に立ち寄る。
赤い鳥居をくぐると、一人分の幅しかない細い石階段が、山の斜面に沿って上へと続いていた。
誰が作ったか分からない石階段は、一段ごとに高さが違っていて、果歩はいつもドキドキしながらそれを登った。
登りきった先には、木で造られた小さなお社があった。
果歩はその小さなお社の前で、学校で配られたプリントを敷き、そこに座る。
それから駄菓子屋で買ったキャラメルや、大きな飴玉を舐めながら、今日あった出来事を順番に話していく。それが果歩の習慣だった。
神様は何も答えてはくれないが、果歩は喋り続けた。
実は答えてくれないのでは無く、自分には神様の声が聴こえないだけなんだと、何故かそう思っていた。
子供ながらに抱えてしまった想いの数々を、神様という存在に吐露することで、精神的なバランスを保てていたのだと、今なら解る。
果歩の父親と母親の関係が良く無いことを、クラス中が知っていた。
職員室でも噂になっていた。
居心地の悪い毎日の中で、湧き上がっては心の中に溜まっていく気持ちを、果歩は神様にただただ喋り続けて、時には思い切り泣いた。
そして日が暮れる頃には、スッキリとした気分になり、果歩は神社を後にする。
しかしそんな日々も、中学にあがると無くなった。
両親の離婚——
果歩は母親と共に、小さなアパートに引っ越す事になった。
父親も消えるように、どこかへ行ってしまった。
最後に神社に行ったのもその時だった。
引っ越しの報告をして、それから今に至るまで訪れる機会が無かった。
——もうすぐだ……
果歩は、国道の脇に伸びていた小道に入る。
目的地が近づいていてきてきて、自然と足早になる。
「ここは、熊谷さんの家……」
神社のそばには、当時から一軒の平屋が建っていた。
そこは小学生の頃、果歩によくお菓子をくれた、熊谷さん夫婦が住んでいた家だった。
庭だった場所が、現在は荒れ果てていた。
雑草が伸び放題で、ゴミが転がっているのも見えた。
なにより人の住んでる気配がまるで無かった。
——熊谷さんは、もう……
たぶん、もう熊谷さんはいないだろう。その当時でも、かなり老齢だった。
果歩は胸が痛くなる。
人の死を考えると、途方もない気持ちになる。
誰もが産まれて死を迎えるのは宿命だ。
しかし、その抗えないものに対して、時に絶望のようなものを覚えてしまう。
——私は、私達はいったい、何のために生まれてきたのだろう……
そう思わずにはいられなかった。
そのまま「熊谷さんの家」を通り過ぎたところで、ついに神社の鳥居が視界にはいる。
果歩は立ち止まり、そして一瞬、息をのむ。
記憶よりはるかに小さくて、錆びれた棒のような鳥居。
赤く塗られていたはずの鳥居は長い月日を感じさせるように禿げており、茶色のようなグレーのような色になっている。
鳥居の向こうには、やっと一人歩けるくらいの幅しか無い石階段が連なっている。
ところどころ石が割れていて、荒廃が進んでいるのが窺えた。
果歩は慎重に、足元を見ながら登り始めた。
一段、一段と登るたびに、あの頃の自分に戻っていくような気がして不思議だった。
——私、帰ってきたんだ……
果歩の鼓動が早くなる。
あと三段。
二段……
踏み外さないように、最後まで足元をしっかり見ながら、果歩は登る。
そして、ついに右足が柔らかい土の感触を得る。
夕陽が木々の間から差し込み、果歩は眩しい光から逃れるように、顔を上げた。
見つめた先には、あの小さなお社があるはずだった。
しかしそこにいたのは、一人の男。
全身、黒い服を纏っている。
風に揺れる髪の毛までもが、漆黒で——
「……!」
驚いた果歩は一歩後ずさる。
しかしすぐに、その行動を後悔した。
後ろには今しがた登りきった石階段があり、果歩の身体が後ろに傾いた。
——落ちる!
足場を失った身体が宙に投げ出される。
「危ない!」
瞬間、漆黒の塊のように見えた男が駆け寄り、果歩の腕をつかんで思い切り引っ張った。
引き戻された反動で、崩れ落ちるように、果歩は地面に倒れた。
——死ぬかと思った……
落下の危機を脱して、果歩は地面に膝をついたまま、荒く呼吸を繰り返す。
まさか此処に人がいるとは思わなかった。
顔を上げて男を見る。
果歩と、さほど変わらない年齢に見える男——彼もまた驚いた表情をしていた。
切れ長い目を見開いて、果歩を見下ろしている。
「あの……」
果歩が口を開くと、男も我に返ったように言う。
「驚かせてしまって、すみませんでした……、ええと、キミは?」
「未道果歩と言います。以前、この近くに住んでいて、懐かしくて…」
そこまで言って、果歩は男の視線に気づく。
男は、果歩を見ていた。
切れ長い目を大きく見開いたまま、瞬きひとつせず、無感情な黒い瞳で……
——なに、この人、こわい…
果歩は背筋を震わせた。
それは、隠しておきたい内側のもの全てを視ているかのような、異様な眼差しだった。
「あまり、見ないで……」
果歩は細い声で、そう訴えた。
すると男は慌てて視線をそらし、「ごめん」と謝罪する。
「その…転んだから、手も服も汚れてしまったな、と思って…」
男の横顔に、薄っすら赤みがさしていくのが分かった。
果歩は自分の身体を見た。
確かに胸の下のあたりや、膝に土が付いている。
土が付いたところを手で拭おうとしたが、指先までもが汚れていることに気づく。
——怪我してないだけ、マシだよね……
あのまま落ちていたら、ただじゃ済まなかっただろう。
もし、こんな人口密度のない田舎街じゃ、怪我して倒れていても誰にも気付かれないかもしれない。
服は汚れてしまったが、気にすることはない。
もともと一泊する予定だったから、ホテルに帰れば着替えだってある。
日が暮れれば、まして目立たないはずだ。
「大丈夫です…。それより、助けてくれて有難うございました。」
「うん。なら、僕の家がすぐそばにあるから、手を洗っていくといいよ…」
「すぐそば?」
「そう。ここからでも見えるよ……」
男が指差した先を、果歩は見る。
この神社を降りた先には、熊谷さんの家。
その隣の白い壁の家は、確か伊藤さんという夫婦が住んでいる家。
男が示したのは、伊藤さんの家の隣、一軒の木造住宅。
「いつの間にか家が建ってたのね…」
懐かしい風景の中に新しいものを見つけて、果歩は時の流れを感じた。
果歩が中学になって、ここを離れてからこの男は引っ越してきたのだろう。
自分と年齢が近ければ、同じ学校だった可能性はあるが、見覚えが無かった。
——それにこの人、全然訛ってないし…
出身はこの街では無いのかもしれないと、果歩は思う。
「それじゃあ、行こうか…」
「ちょっと待って! せっかく来たんだもの…」
そこで、ようやく果歩はお社に目を向けた。
ここに来るために、果歩は帰郷したのだ。
小さくて、今の果歩の身長の半分くらいしかない、本当に小さくて寂れている神様のお社。
果歩は小さなお社の前に進みでる。
汚れていた指先は、とりあえずハンカチで拭った。
一礼。
二礼。
果歩は両手をきれいに合わせる。
幼いあの頃、参拝の仕方など分からなかった。
ただただ小さなお社の前に座り込んで、今日あった出来事を順番に話していく。
お小遣いの中から一円玉を賽銭にしたり、お小遣いの残りが少なくなった時は、飴玉や、給食の残りの蜜柑を置いてみたりもした。
ちゃんとした参拝の仕方を知ったのは、つい最近だった。
テレビでパワースポット特集をしていたが、その内容の中に「正しい参拝のやり方」というのがあった。
果歩は心の中で神様に話しかける。
『神様…神様…お久しぶりです、果歩です。覚えていますか?』
『ずっと昔に、毎日お話ししにきていた果歩です……
覚えてくれてたら嬉しいな——』
『あの時はごめんなさい。
ちゃんとしたお参りの仕方を知らなかったんです』
果歩は幼い頃のように、神様に向かって語りかけていた。
『私は今、東京で仕事をしています。最近はあまり上手くいってないけど…
あ、お母さんも元気でこの街で暮らしているんですよ』
『ちなみに、私はまだ結婚していません。彼氏も今はいなくて…
それに、もしかしたら私は…ここに来ていたあの頃と、
何も変わっていないのかもしれません——』
果歩は胸の内を吐露していく。
大人になって、社会人になって自立し、経験を積んで、確かに強くなった部分もある。
しかし果歩の心は、今でも頼りなくて不安定だ。
周りの環境や人間達の視線に心を痛めて、どこかに逃げ出したくなる。
安心できる場所に行きたくて、思い出のこの場所にまで来てしまった。
『私は、これからどうしたら良いのかな…?』
果歩の祈る姿を男が見つめていた。
その黒い瞳が微かに揺らいでいた。
『神様、また会いにくるね……』
果歩は最後に深く、深くお辞儀をした。
いざ神様のところにきたら、単純なことばかりしか言えなかったが、それでも果歩の心は霧が晴れたようにスッキリとしていた。
「じゃあ、行こうか…」
「はい…」
離れがたく感じる気持ちを「またいつでも来れるんだから」と言い聞かせて、果歩は男の後に続く。
でこぼこな石階段を、慎重な足取りで降りていく。
「そういえば、あなたの名前は…?」
果歩は男の背中に問いかける。
「神林早人(かみばやし はやと)」
「神林…ここらへんだと、珍しい苗字かも…」
「そうだね。僕の両親はここの産まれじゃないから。」
神林早人の言葉に、果歩は納得する。
——やっぱり、出身はここじゃ無いんだ。
果歩は石階段を降りきったところで、再び錆び付いた鳥居を見上げた。
「ここは蛇の神様だったわね……」
「そう、此処は蛇を祀った…巳橋(みはし)神社だ。」
早人は頷いた。
それから何度も繰り返し聞いた物語を語るように、滑らかな口調で言う。
「その昔、川で溺れていた村人の子供を、気まぐれで助けた蛇がいた。
その子供と子供の親は蛇に感謝して、
ここに粗末だけど…その当時にしては立派なお社を建てて祀ったんだ。
人々祈りから、やがて蛇は力を得て、神という存在になった…」
「え…?」
「どう、驚いた?」
早人が目を細めて果歩を見る。
「驚いた…」
果歩は素直にそう言った。
「全然知りませんでした…少しショックです。」
「ショック?」
「はい。ずっとそばにいてくれた神様のこと、私は何も知らなかったんだなって…おかしいかもしれないけど…」
「おかしくは無いけど…、でも…」
「でも?」
早人は少し考えたあと、フッと笑う。
「やっぱり、おかしいと思ってるじゃないですか!」
「ごめん、ごめん…」
それから早人は、果歩には聞こえない小さな声で「おかしいんじゃなくて、嬉しいんだ」と、そう呟いた。
玄関をあけると、ツンと線香の匂いがした。
「さあ、上がって…」
そう言って早人は奥へと消えていく。
果歩も慌ててスニーカーを脱いで、きちんと揃える。
「お邪魔します……」
静まりかえった室内で、果歩の細い声が響いた。
立ち尽くしていると、早人が片手にタオルを持ってやってくる。
「こっちが洗面所だよ」
「ああ、はい…」
早人の後ろについて、果歩は歩く。
アパート暮らしが長いせいか、こういう一軒家はやはり広く感じる。
ちらりと目に入ったリビングには、大きめのソファやテーブルがある。
レースが施された真っ白なカーテンや、壁にかけられた絵画。
全身黒ずくめの早人の趣味とも思えないから、きっと家族の誰かの手によるものだろう。
整然としていて綺麗だ。けれど、
——でも、なんかおかしい……
果歩は違和感を覚える。
温度を感じないのだ。
人が動き回って、生活をしている感じがしない。
ソファもテーブルもひっそりと、時が止まってしまったかのように佇んでいる。
「タオル使って。あ、シャワー浴びる?」
案内された洗面所には、男物の衣服が入ったカゴが、洗濯機のそばに置いてあった。
無彩色の衣服が、カゴの中で丸まっている。一目でそれが早人のものであると分かる。
——早人さん以外の存在が、感じられない…?
「もしかして、一人暮らしなの?」
「ん? ああ、そうだよ。両親はだいぶ前に交通事故で死んだんだ…」
洗面所の蛇口をひねり、湯温を指先で確認しながら早人は言った。
ツンとした線香の香りが、一瞬だけ濃厚になった気がした。
余計な事を聞いてしまったと、果歩は後悔した。
「変なこと聞いて、ごめんなさい……」
果歩は早人の背に謝罪した。
この田舎に住んでいて、他人に家庭事情を詮索されるのが死ぬほど嫌だったのに、自分は何をやっているのだろう。
——私も、同じことしてるじゃん…
「何も気にする事はないよ…」
しょぼくれる果歩に早人は言った。
「本当はオレも、一緒に死ぬはずだったんだから……」
「そんな……」
果歩は返事に困った。なんと言っていいか分からなかった。
そんな果歩の様子を見ながら、早人は「うん。君なら良いか…」と呟く。
そして早人は、真っ直ぐに果歩を見て言った。
「未道果歩、信じるか信じないかはキミ次第だ——
オレの半分は神林早人で、もう半分は蛇神の魂でできている…」
——突然、なにを。……冗談?
困惑する果歩に、早人は話を続ける。
「オレの両親は交通事故で死んだと言ったよね? 実はオレも同じ事故に遭っていたんだ。だけどその時、両親が巳橋神社の蛇神に祈ったんだ、「息子だけは助けてくれ」ってね。その祈りを叶えるように、蛇神は自分の肉体を捨てて、オレの身体に入りこんだんだ…。目覚めた時にオレは、神林早人であるのと同時に、蛇神でもあった……」
俄かには信じ難い早人の話しを聞きながら、果歩は、彼の姿を目に留める。
真っ黒だが、艶めいている短い髪の毛。青白く思えるほど、透明感のある肌色。
華奢とはいわないが、細っそりとした身体付き——だが、果歩よりも大きく、男を感じさせる骨ばった肩。そこから、すらりと伸びている腕、足もしっかりある。
どこからどう見ても、普通の人間としてしか見えなかった。
しかし、その刹那——果歩はぞくりと粟立つ。
早人の瞳だ。
黒い瞳が、果歩の双眸を射抜くように、ギラリと光る。
蛇だ——、果歩の中の何かが、そう囁いた。
「本当のこと…なの?」
跳ねる鼓動を抑えて、果歩が問うと、早人は「そうだよ」と微笑んだ。
開いた唇の隙間から真っ赤な舌先がのぞいて、果歩は早人に蛇の姿を重ねた。
「どうして…? どうして、私にそんなこと言うの?」
「理由か…難しいな。どうしてだろう…」
早人は答えを探すように沈黙する。
果歩は早人の言葉を待った。
陽が山裾に隠れはじめたのだろう、室内は薄暗くなり、早人の顔が翳りを帯びていく。
「多分……誰かに、オレの存在を知って欲しかったんだと思う…」
早人がぽつりと零した。
「蛇神の記憶を持つオレは、同時に人間としての感覚も感情もあるから。きっと誰かに、こんな中途半端な存在である僕を知って欲しかったんだと思う。キミは昔、よく巳橋神社に来てくれていたよね?」
果歩は頷く。
——そう、毎日、逃げるようにあの場所に行っていた…
「早人としてキミに会ったことは無かったけど、蛇神は覚えているよ。幼いキミが語りかけてくれた事を。すぐに君だと気付けなかったよ、魂を視るまではね。そのせいで、さっきはキミを怖がらせてしまったけど……」
早人はそう言って笑った。
その言葉に嘘は感じられなかった。
むしろ表情は笑っているのに、声に宿った切なげな響きが、真実を語っているようにしか思えなかった。
幼かったあの頃。寂しくて、苦しくて、何かに助けを求めるようにして辿り着いた、巳橋神社。
その神様が、今、目の前にいる——。
「未道果歩、またキミに会えて嬉しいよ……」
早人が言った。
その眼差しが慈しみに満ちていて、果歩の胸が熱くなる。
奇跡だと思った。それに、
——私のこと、ちゃんと憶えていてくれた…!
それが、何より嬉しかった。
神様に自分の声はちゃんと届いていたのだ。
そして果歩は言った。
ずっと前から思っていた、神様にいちばん伝えたかった事を。
「神様。私と、ずっと一緒にいてくれて、有難う……」
「どういたしまして……」
漆黒の瞳が、優しく果歩を見つめていた。
果歩は、早人の家を後にして、いったんホテルに戻る。
それから汚れてしまった服を着替え、母親の住むマンションに向かっていた。
母親——奈穂美に会うのも三年振りになるのは言うまでもない。
果歩の家族は、奈穂美だけだ。兄弟はいない。
両親は、果歩が小学校を卒業した年に離婚。
父親の行方は今も分からないが、会いたいとも思わなかった。
果歩は奈穂美と共に、古いが、二人で住むには十分な広さのアパートへと引っ越した。
それから地元の中学と高校を卒業して、東京の短大に入学した。
奈穂美はそのまま地元での就職を望んでいるようだったが、強くは言わなかった。
果歩がバイトをして、東京に出るための準備をしているのを、傍で見ていたせいかもしれない。
奈穂美を一人きりにすることに、躊躇いが無かったわけではない。
——ただ、どうしてもこの街に馴染めない……
全てが狭くて、小さくて、住んでいる人々の考え方すら閉じているこの街にいると、頭がおかしくなりそうだった。
世の中はどんどん進化している。
その全てを否定する世界があるというなら、まさにそれがこの街なのではないか——
だから、果歩はこの街を出ることをまず目標に生きていた。
いづれ戻らなければいけない時がくるまで、自由になろうとした。
東京での暮らし始めて新しい人間関係を築き、そして就職し、自立をした。
仕事も続けていけそうだった。
そのような折の出来事——
「お母さんね、再婚しようかと思ってるの…」
電話越しの奈穂美の声は、どこか弾んでいて嬉しそうだった。
果歩ははじめは驚いたものの、相手の男の身元や職業がしっかりしている事を知って、奈穂美の再婚を祝福した。
そして奈穂美は果歩と二人で暮らしていたアパートから、再婚相手の男性——健一(けんいち)のマンションに引っ越し、新しい生活を始めた。
奈穂美に新しい伴侶が出来たことに、果歩は安堵する。
しかし、嬉しく思う気持ちの反面、果歩のなかに喪失感がうまれた。
——私の帰る場所はもう無いんだ…
生まれ育った家にも、アパートにも家族はいない。
奈穂美からの電話やメールの回数も減った。
果歩はじわじわと、孤独を感じるようになっていった。
それなのに「たまには顔を見せにきなさい」という奈穂美の言葉は嬉しかったが、一度芽生えた孤独はなかなか拭う事は出来なかった。
結局、仕事が忙しいと言い訳をしているうちに三年が経ってしまった。
忙しいのは嘘ではない。
百貨店で働いているのだ。一般企業と違い、盆も正月も無いのが当たり前だった。
けれど、それだけじゃない。
自分の幸せを見つけた奈穂美を、どこか遠くの存在になってしまったのだと思ってしまうのが、怖かった。
もともと、最初に家を飛び出したのは自分だというのに…
——でも、今ならきっと大丈夫…
果歩は一人で頷く。
『またキミに会えて嬉しいよ……』
さっき、早人がくれた言葉が、果歩の心を温めてくれていた。
蛇神の記憶で自分を知ってくれた早人が「会えて嬉しい」 と言ってくれたのだ。
居場所を見失っていた果歩にとって、それはひとつの希望のように、胸のなかを温かく満たしてくれた。
久しぶりに会った奈穂美は、新しい伴侶を得てやはり幸せそうに見えた。
「健一さんはまだ帰ってこないの?」
果歩はダイニングテーブルの椅子に座り、夕飯の支度をする奈穂美の背中に声をかける。
「少し遅くなるって言ってたわ…」
「そうなんだ…」
奈穂美の再婚相手——健一はこの街の役場で働いている。
歳は奈穂美の五つ下で、五十二歳。健一もバツイチだった。
このマンションはもともと健一が住んでいた場所だった。二人で暮らすには十分な広さだ。
果歩はぐるりと部屋を見渡す。
自分が東京で住んでいる小さなアパートと違って、ここには奈穂美と健一が積み重ねてきた時間が、温かさとなって感じられる。
ふと、早人の家を思い出す。
まるで時が止まってしまったかのように、冷たさが降り積っていた部屋。
——早人さんは、ひとりで寂しくないのかな…
そう考えていた果歩の表情に、何を見出したのか「これからは、ここが貴方の家なんだから遠慮せずに来なさい」と奈穂美が言った。
「ただいま…」
健一が帰ってきた。
「おかえりなさい。」
手を止めた奈穂美が、玄関に出迎えに行く。
果歩も、やや緊張した面持ちで立ち上がる。
健一が姿を見せた。
まず目に入ったのは、もしゃっとした短い頭髪。
細くて黒い髪の毛が、絡まりあい束をつくっているが、残念なことに頭皮が透けて見えるくらい薄かった。
それから、がっちりとした体躯。
小綺麗な熊のようだ、そう果歩は思った。
「あの、お邪魔してます…」
「いえいえ、こちらこそお母さんにはいつもお世話になっております。」
訛りの入った口調で健一は言うと、深々と果歩にお辞儀をする。
果歩も慌てて頭を下げた。
そんな二人の様子を、笑いながら奈穂美が見ている。
「じゃあ、ご飯にしましょう。果歩、並べるの手伝って…」
「うん。」
奈穂美は嬉しそうな様子だった。
そんな母の表情を見て、ようやく奈穂美は幸せを掴んだのだのだと、果歩は思った。
「いつでも自分の家だと思って、遠慮せずに来ていいんだよ。」
夕飯を食べてマンションを後にする果歩に、奈穂美と同じような台詞を、健一が言った。
「そうよ、泊まっていったら良いのに…」
「次に来た時はそうするよ…」
果歩はそう答えて、奈穂美と健一に別れを告げる。
ホテルまでの道のりを、果歩はゆっくりと歩いた。
空を仰げば、東京では見えない星々たちが煌めいている。
等間隔に並んである淡い街灯が、アスファルトを照らし、果歩の影だけをくっきりと浮かび上がらせる。
懐かしい景色。
思い出の場所。
健一に寄り添う、奈穂美の幸せそうに笑う姿——
明日の今頃は、東京のアパートで過ごす自分を想像して、果歩は少し感傷的になる。
「私は、ひとりぼっちなんだな…」
立ち止まって呟いてみる。
呟きは夜の闇にしっくりと馴染んで消えていく。
吹きぬける風は冷たさを孕んでいて、果歩はアウターのポケットに手を入れた。
すると、指先に硬いものが触れた。
——そういえば、早人さんにお守りだと言って渡されたのに、ポケットに入れっぱなしだったな…
果歩はポケットからそれを取り出す。
「これって…」
果歩は軽い既視感を覚えた。
——私、これ知ってる…
果歩の手の上で輝いているのは、小さくて雫の形になっている透明なクリスタル。
頭の片隅に浮かんだものを果歩は必死で手繰り寄せる。
——確か……
『これ修学旅行で買ってきたの…』
『ずっと私のこと忘れないでね、神様…』
——思い出した!
これは、果歩が小学校の修学旅行で、京都に行った時に買ったものだ。
間違いない。
あの時、確か二つ買ったはずだ。
ひとつは自分に。もうひとつは巳橋神社の神様に。
すっかり忘れていた。
「早人さん……」
果歩は、半分が蛇神である男の名を呟いた。
彼は蛇神の魂と、記憶を持っていた。
手の上のクリスタルの輝きが温かくて、果歩はそれをぎゅっと握りしめた。
東京も秋の気配に満ちた、冷たい風が吹くようになった。
果歩は以前と変わらぬ毎日を、生活のために働く日々を過ごしていた。
それでも、帰郷したときに起きた、奇跡のような出来事を思い出したり、疲れた時は早人から受けとったクリスタルを眺めていると、不思議と癒された。
最近、職場で「ある噂」が流れはじめた。
それは果歩の悩みの種でもあった、上司が退職するという噂だった。
基本的に他人の噂には耳を貸さない果歩だったが、今回ばかりは気になって仕方が無かった。
もし今の上司がいなくなれば精神的には楽になれるかもしれない。しかし今の上司がいなくなったとして、それで自分は満足なのだろうか、そう考えてしまう。
このところ上司は忙しいのか、売り場にいる時間が減り、そのぶん果歩もお小言をもらう事が無くなった。
落ち込むことが減り、果歩は伸び伸びと仕事に集中できていたが、反面、放って置かれているような気もした。
そうやって日々を過ごしていたある日、果歩は上司から「話があるので、ミーティングルームに来てください」と呼び出しをうけた。
昼休みが終わると、果歩はミーティングルームに向かう。
わざわざミーティングルームを使うのは、売り場では話せない事なのだろう。
——もしかしたら、噂は本当で、退職の事を言われるのかな…
果歩は、ミーティングルームの前で一呼吸おき、扉をノックをする。
「はい、どうぞ。」
扉の向こうから、くぐもった上司の声がした。
「失礼いたします。」
果歩はゆっくりと扉を開けて中に入る。
「悪いわね、急にきてもらって……」
「いえ…」
上司に促され、応接用のソファに果歩は腰掛ける。
「さっそくだけど…未道さん、あなたも働き始めて五年になるわね…」
「はい…」
「今後のキャリアアップについて、あなたはどう考えているの?」
「どう考えて……、ですか?」
上司の唐突なその問いに、言葉が詰まる。
果歩の困惑した表情に、上司は微かに苛立ちを含んだ視線を投げてきた。
果歩は俯いた。
上司は構わず話しを続ける。
「来年度からね、社歴のある社員は、異動願いや役職にあがるために、試験制度が設けられることになったのよ。」
「私も対象になるって事ですか?」
「そうね…」
上司は頷いた。
話の行方が見えてきた気がした。
それから上司の熱がこもった説明が続き、果歩はまるで他人事のように、その話を聞いていた。
要は、望めば誰もが「上」を目指せるのだ。
試験を通れば道が開かれるというもの。
「もし結婚して子供が産まれても、育児休暇の延長もあるし、女性のキャリアアップを会社が支援してくれるのよ。」
——結婚、か…。
果歩も結婚を考えても良い歳だ。
もし、そういう相手と出会うことがあれば、結婚しても良いと思っている。
息苦しい田舎抜け出して、東京で就職し働いて自立して、結婚をして……
——その前に、私はキャリアアップをのぞんでいるのかな。
では、自分は未来に何を求めているのだろう。
——私はただ幸せになりたい……
誰もが言う漠然とした思いしか浮かばなかった。
では自分がどうなっていたら幸せなのか。
やりたい事をすれば、幸せになれるのか。
いや、そうじゃない…果歩は思った。
どこかの企業の偉い人が、幸せについて語っていた。
「幸せ」とは心身共に健康であり、よい人間関係を作れていて、社会のお役に立つこと。
——なら、私に出来ることは何だろう…
キャリアアップをする事で、満たされるのか。
やりがいは見つかるかもしれない。
でも社会の為にとか、誰かの為にとか、はっきりとしたものが果歩の中には見当たらなかった。
あるのは、安定を求めながら息苦しさに耐えるような日々と、形は分からないが、自分は「何か」を希求しているのだという思い。
「少し、考えさせてください……」
果歩は言った。
「ええ、そうね。時期がきたらまた話しましょう」
上司との話はそれで終わった。
果歩は一日を終え、帰途につく。
赤提灯の撤去された夜の街は、何だかつまらない景色にしか見えなかった。
瑞波神社の前で、果歩は立ち止まった。
蛍光灯ような白い光を放つ御神灯が、境内に続く石階段を挟むかたちで立っている。
果歩は、遠い地の巳橋神社を思う。
巳橋神社に御神灯は無かった。
だから夜は闇に埋もれるように、その姿が見えなくなる。
『神様も、夜は寝るのかな?』
そんな事を、幼い頃の果歩は奈穂美に聞いて、笑われたのを思い出す。
アパートの前まで来ると、俯いて立っている人影に目を映った。
果歩は「まさか」と息をのむ。
細い身体つき。
夜の暗闇に紛れてしまうような黒い服に、黒い髪。
人影は俯いていた顔を持ち上げて、果歩を見る。
漆黒の切れ長い瞳、そして、それとは対照的に透き通るように浮かび上がる、白い顔。
幻かもしれないと、果歩は瞬きをする。
しかし影は、薄く笑みを浮かべながら、果歩のもとに歩いて来る。
「良かった。ちゃんと会えたね…」
巳橋神社の蛇神——神林早人がそこには立っていた。
驚きつつ、果歩は早人に駆け寄る。
「どうして、私がいる場所が分かったの?」
「君に渡したお守り。もとは君からもらったものだけど、あれには蛇神の力がこめられているから。その力を辿ってここまで来たんだ。」
「やっぱり、覚えててくれたんですね……」
嬉しさに胸が熱くなる。
幼い頃に巳橋神社の神様に捧げたクリスタル。
果歩は暫くの間、それを忘れていたというのに、やはり蛇神は覚えていてくれたのだ。
「はい。これ出雲土産ね。」
早人は、手に持っていた大きめの紙袋を、果歩に差し出す。
「出雲?」
「うん。ほら、出雲は神在月だからね。でも…オレは人間だし、蛇神も、元はただの蛇だから、他の神と同じようにはいかないんだけど……」
——すごい…!
神社にあまり詳しくない果歩でも知っている。
神無月には日本の神々が出雲に集うのだ。
そのため、出雲では旧暦の十月を神在月と呼ぶ。
日本の全ての神々が集合するのだ。
どれくらいの規模だろうか。
考えただけで、果歩はわくわくする。
「それで未道果歩。君は悩み事を抱えているみたいだけど?」
早人の言葉に、果歩はどきりとした。
どうして解るのだろう……
「話してごらん? 実はオレは人間として生きていくために、占い師をしている。」
「占い師…!」
「半分神で、半分が人間のオレにできる職業としては、なかなか良いと思わないかい?」
——確かに、神様にアドバイスもらえたら、すごく心強いよね……
幼いあの頃、話しを聞いてくれるだけでも随分助けられていた。
でも……
「気持ちはとても嬉しいです。だけど、今は自分で考えてみます…」
果歩は自分がどうしたいのか、まず自分の心と向き合ってみなくてはいけない気がした。
相談するなら、それからでも良いかもしれない。
早人は、果歩の返答に満足そうに頷いた。
その眼差しに心が温かくなる。
しかし、果歩はふと気づく。
——なんだか、早人さん具合悪い? 疲れてるのかな?
初めて会った時よりも、早人の顔が青ざめて見えた気がした。
でも、暗闇のせいかもしれない。
「果歩、キミは…キミ自身が思っている以上に、ちゃんとしているよ…」
「…え?」
早人の言葉に、果歩は驚く。
「オレは人間として生活してるから分かる。キミは幼い頃から、抗えない、どうしようもない現実にも向き合ってきた。ひとつひとつ…痛む心を抱えたまま、ただ前を見て生きてきた…」
早人が目を細めて、眩しそうに果歩を見つめる。
「あの街から逃げたと思っているようだけど、キミにはそれが必要な事だったんだ、きっと。未来が不安になることもあるだろう。でも、きっとキミなら、ちゃんと向き合って生きていける……」
「早人さん…」
身体の中から、熱いなにかが込み上げてくる。
瞼も熱を持ち、涙がじんわりと滲む。
「それにね果歩。疲れたときは、休みを取って帰ってくればいい。キミを待つ者はいるんだから…」
早人はそう言うと、果歩の頬に指先で触れた。
その指はひんやりとしていて、果歩の肌に、心地よい感触をもたらす。
そのまま伝ってきた涙を優しく拭うと、早人は微笑んだ。
いつの間にか、果歩の心のなかのモヤモヤが消し飛んでいた。
「早人さん…ありが…」
しかし、果歩の言葉は続かなかった。
ふらりと早人の身体が傾いて、倒れていく。
「大丈夫ですかっ!」
——やっぱり、体調が良くないんだ!
咄嗟に、果歩は自分の身を寄せて、早人を受け止める。
耳元で「早く戻らないと」と、呟いたのが聞こえた。
意識の底で、彼は覚醒した。
今の自分は意識のみだというのに、何故か神経が尖ったように全身を貫き、一本の細長い…蛇の身体でいた頃を思い出させた。
——懐かしい。
人間の身体に魂を宿してから、この感覚を思い出すことは久しく無かった。
もとはただの蛇だった。
——いや、蛇だが、人間の言葉が理解出来ていた。
意識の底で身体をくねらせながら、蛇神は「はじまり」を思い出す。
秋の長雨がやっと終わりを告げた日、蛇は寝床にしていた巣から食糧求めて這い出した。
すると、幼子が氾濫した川で溺れているのが目に留まった。
両手でもがきながら、必死に「助けて」と叫んでいるが、すぐに濁流に飲み込まれ沈んでいくのが想像できた。
——やれやれ……
蛇は思った。
——無理そうだったら見捨てるからな…
するりと濁流に身を滑らせて、器用に泳ぎ幼子のもとまでいくと、自分の長い胴体を幼子の身体に巻きつけた。
意識を失ってしまった幼子の身体は予想以上に重く、助けてやろうとした事を少しばかり後悔した。
川岸まで時間をかけて何とか辿り着く。
幼子が溺れた事に気付いた人間達が、駆け寄ってくる。
蛇はすぐに身を隠して様子を見る事にした。
幼子は意識をすぐに失った事で、大量に水を飲んでいないことが幸いし、息を吹き返した。
蛇の救出劇を目にした幼子の親が、蛇が寝床にしていた巣に、酒や食料を置いていくようになった。
やがて寒さの際立つ季節を迎えて、蛇は眠りについた。
——目がさめる頃には、もうオレの事など覚えてはいまい……
そう思いながらも、なかなか面白い一年だったと、蛇は笑いながら眠りについた。
まだ土が硬く冷たい春。
蛇は眠りから覚めたが、すぐには動けなかった。
——もう少し眠るか……
再び微睡みに落ちた。
それから、完全に眠りから覚めた頃、久しぶりに巣から出た。
すると、そこに人間がいた。
人間は蛇を見て言った。
『神様だ! 神様がお目覚めになられた!』
——神様? オレが?
思わずとぐろを巻いて、己の身体を確認する。
——どこからどう見ても、ただの蛇ではないか。
未だに叫んでいる人間を放っておき、蛇はそのまま村を散歩する事にした。
柔らかい土が、身体にしっとりと馴染み、芽生えてきた草の匂いを含んだ空気を、思い切り吸い込む。
そのまま散歩を愉しんでいると、驚くべき現実に蛇は遭遇した。
長雨の後の、川で溺れていた幼子の親が、山の斜面を削り、そのてっぺんに小さな社を建てていた。
蛇は近くの草むらに潜み、様子を伺っていると、あの時の幼子がやってきて、社の前で手を合わせて言ったのだ。
『助けてくれてありがとうございます。蛇のかみさま——』
幼子は、確かに「かみさま」と言った。
——かみさま、神様…か。
幼子が去ってから、蛇は一人で小さな社の回りをぐるりと這う。
誰もいないのに、そこからは、あらゆる声が聴こえてきた。
悲しみや、悩みや、感謝や、畏怖や、人間たちの願いの声が聴こえてきた。
蛇はしばらくそこから動けなかった。
身体が熱かった。
身体の中心が人間の声を聴くと、ぎしりと痛んだ。
そこではじめて、蛇は悟った。
——そうか、オレは人間達によって神にされたのだな。
——オレは神なのだな……
時は進む。
蛇神を祀った社は、「巳橋神社」と名付けられていた。
蛇神が見て回れるだけの世界も、時と共に、少しずつ変容していく。
あの時の幼子は成長し、大人になり、やがて死んだ。
幼子が残した子供——またその血を継いだ、何代もの子孫の誕生と死を、蛇神は見送った。
少しずつ、村から出ていくものが増えているようだった。
「都会」と呼ばれる所に、仕事を探しにいくのだという。
あの幼子の子孫で、巳橋神社の管理をしていた熊谷照史(くまがい てるふみ)の子供もまた、都会に行ってしまった。
照史も老いには逆らえず、曲がってしまった腰をさすりながら、社にやってくる。
『わたしの代で、終わりになるかもしれません…』
何度も修繕を重ねた社の前で、照史が申し訳無さそうに呟くのを、蛇神は何度も聴いた。
その度に、自分の声は聞こえる事は無いと分かっていたが、蛇神は照史に言った。
『もう、良い。恩返しはしてもらった。』
『祀るものがいなければ、もうこの身体も長くは持つまい。共に、果てよう…』
それから季節は二度巡った。
冬眠から覚めると、新しい声が聴こえた。
それは少女のものだった。
巳橋神社の近くに住んでいる少女で、学校の帰りに、ほぼ毎日のように社に通うようになっていた。
薄い紙切れを地面に敷いて、日が暮れるまで話しかけてくる。
願い事をするわけではなかった。
ただ、その日に感じた事を語って聞かせてくれた。
楽しかったこと。
給食で好物が出たこと、明日の献立には苦手なグリーンピースの入ったカレーが出ること。
昨晩、酒に酔った父親が、母親に暴力を振るっていたこと。
自分はただ恐くて震えて泣いていたこと。
学校の先生も、クラスメイトも大嫌いなこと。
蛇神はただ頷いて聴いていた。
「未道果歩」という名の少女には、胸の内を話せる者がいないようだった。
幼い心を痛めるような、哀しく辛い出来事があった日でも、社の前で話しをして、日が暮れる時間になると必ず『また明日ね』と、笑顔で帰っていく。
だから蛇神はいつも答える。
——またおいで。ちゃんとお前の気持ちを聞いてやるから……
少女の話を聞く日々を過ごしながら、数年が経った頃、少女は引っ越しをすることになった。
両親が離縁し、母親とともに家を出るというのだ。
——暴力な男から解放されて良かったな、果歩……
そう安堵する。
しかし、同時に寂しくも感じた。
——お前に会えるのが、最近じゃ、唯一の楽しみだったんだがな。
蛇神は苦笑する。
照史も入院してしまったことで、もう蛇神に会いに来る者は、誰もいなくなった。
未道果歩が巳橋神社を訪れなくなった年の秋だった。
照史が蛇神のもとへやってきた。
真っ白な、玉のような姿で——
命の灯火が尽きたのだと、蛇神はすぐに理解した。
——照史、世話になったな。お前の身体で冬越えは辛かろう…逝くには良い時期だ。
——ゆっくりと眠れ。
蛇神は照史の魂を見送る。
それと同時に、自分の身体から、力が失われていくのを感じた。
「まあ、もとはただの蛇だからな…」
蛇神はひとりごちる。
あとどれくらい留まれるだろうか。
この世から離れるのは別に良いが、ひとつだけ気がかりな事があった。
——新しい場所でうまくやっているだろうか…
それは少女——未道果歩の事だった。
引っ越した先で、心を許せる友人がいれば良いが。
——孤独なままでは、人間は生きるのが辛かろう……
『また会いにくるね』
最後にそう言って去っていった、少女の後ろ姿を思い出す。
次に来る時は、もしかしたら…もう自分はいないかもしれない。
——どうか、幸せになっておくれ。
蛇神は願った。
また春が来て、蛇神はぼんやりと静かな社の前に佇んでいた。
すると、ある家族がやってきた。
中年の男女と、その子供——細い体つきの男児がひとり。
「荒れ放題になってるけど、ここの神様は大切にされてきたんだろうね。ほら見てごらん早人。ここが神様のお家だよ。何度も修繕された跡があるよ。」
父親の男が言った。
それを受けて、男児が声を上げる。
「ここに神様がいるの? すごいね!」
その言葉に蛇神が目を細める。
遠い昔、まだ自分が神でなかった頃に助けた幼子の姿を、男児に重ねる。
「そうね。じゃあ早人、これからお世話になる神様にちゃんと挨拶しなきゃね。」
「はーい。」
親子揃って手を合わせる姿は、幸せに満ちていて、蛇神の身体がじんわりと温かくなる。
「神林」と名乗った一家は、社の近くの土地に家を建てて引っ越してきた。
信心深い性質なのか、神林一家は、定期的に巳橋神社に足を運び、社の掃除をしていく。
——珍しい者もいるものだな……
そう思いながら、古いが…小綺麗にされた社の前で蛇神が寝ていると、不意に声が聴こえた。
『神様、神様、お願いです!』
切迫した声に、びくりと身体が震えるのがわかった。
『神様どうか、どうか…、この子だけでもお助けください!』
『ああ神様、お願い——!』
それは間違いなく、神林の者の声だった。
蛇神は無意識に、魂だけの姿になり、蛇の身体を飛び出していた。
魂になると、驚くほどに自分の身が軽いことに驚く。
神林の必死な声に導かれるまま、蛇神の魂は飛ぶ。
そして、ある光景を目の当たりにする。
——事故か…!
狭い道路で、トラックと乗用車が重なり合っている。
衝突したのだろう。乗用車が無惨にぐしゃりと潰れているのが視えた。
そして蛇神は理解する。
乗用車の中には、神林一家の姿があった。
血を流し、既に生き絶えている。
いや——
まだ生きている。一人だけ。
早人の魂だけが、まだ肉体にかろうじて留まっていた。
『お願いします蛇神様!』
『早人を助けてください——!』
父親と母親の魂が、縋るように蛇神の魂に訴えてくる。
迷いは無かった。
ただ、救えるかどうかは分からなかった。
蛇神は早人の中に潜り込んだ。
そこで早人の魂と出会った。
早人の魂は父親と母親のもとに行きたそうに震えていた。
早人の恐怖の感情が伝わってくる。
触れると早人のこれまでの記憶の奔流が、蛇神の魂に流れ込んでくる。
もしかしたら早人にも、自分の全てが伝わっているかもしれない。
『神林早人。お前は生きるのだ——!』
蛇神はそう叫び、早人の魂に、身体に自分の力を注いだ。
目覚めたと同時に、全身を貫くような激痛がはしり、意識が遠くなる。
周りがやけに騒しい。
変な夢を見ていた気もする。
ぼやけた視界の先には、よく知る「手」が見えた。
ただ、それは鮮血で真っ赤に染まっていた。
頭の中が真っ白になる。
——お母さん…? 父さん…は?
——いや、そうではなくて……
——早人は生きているのか…?
——僕は…一体……、
——オレは…一体……
蛇神の力により命を繋いだ神林早人は、同時に、巳橋神社の蛇神の記憶を共有した。
また蛇神も、早人の心の底を知ることになる。
だが、蛇神はもとには戻れなかった。
力のほとんどを使い、「その時」が来るまで、眠るように早人の身体の中に留まっていた。
二つの魂の邂逅は、新たな命の始まりのようだった。
翌日になっても、早人の体調は戻らなかった。
昨晩、果歩は意識が朦朧としている早人をひきづるように、自分のアパートに連れてきた。
救急車を呼ぼうか迷っていると、早人に「病気ではないから」と止められた。
果歩は一晩中、早人の傍から離れられなかった。
明け方くらいに、静かな呼吸の早人が心配になって名前を呼ぶと、早人は震える果歩の手を握ってくれた。
「心配しなくて大丈夫だよ。ちょっと昔の夢を見ていたんだ…」
それだけ言って、早人はまた眠りにおちていった。
——早人さん…大丈夫だよね?
祈るような気持ちで、果歩は早人の手に自分の手を重ねる。
夜明け。
陽が昇り、カーテン越しに室内が明るくなっていく。
時計を見て、果歩は立ち上がった。
今日も仕事だ。
休みたい気持ちでいっぱいだったが、欠勤してシフトに穴をあけては迷惑がかかる。
仕方なく早人をアパートに置いたまま、仕事に向かう事にした。
ベッドの上から早人が「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。
不安な気持ちを抱えたまま、果歩は一日を過ごした。
一睡もしていないのに、神経が張り詰めているせいか、眠くなることはなかった。
定時になると、果歩はすぐに帰路につく。
暗くなった街を、小走りで進む。
アパートの前までくると、自分の部屋の窓から灯りがもれているのが見えた。
果歩は、早人の無事に安堵する。
——そうだよね。神様だけど一応は人間だし、ただの風邪かもしれないよね。
きっと、部屋に着いたら「おかえり」と言って迎えてくれるに違いない。
想像すると、自然と口元が緩んだ。
——でも、「早く戻らないと」って、どういう意味なんだろう…?
昨日、早人が呟いていた言葉が、妙にひっかかっていた。
部屋の前まで行くと、中から音がした。
それに声も聞こえてくる。
男の声。早人の声では無かった。
それに、女の声も聞こえる。
——え? 女の人?
果歩は急いで、アパートのドアを開けた。
「果歩。おかえり……」
早人がキッチンに立っていた。
「早人さん…これは…」
果歩は息をのむ。
早人の元気そうな姿に安堵するが、それよりも、早人の向こう側——キッチンから見える奥の部屋に、果歩の知らない男女がいた。
どちらも果歩より歳下の、若い男女だった。
大学生くらいに見える。
他人の家だというのに寛いだ様子の男女は、帰ってきた果歩に向かって「おかえり〜」と手を振ってくる。
——誰? 早人さんの知り合い?
呆然と立ち尽くす果歩に、早人が言った。
「ごめんね。果歩に承諾も得ず入れてしまって…ダメだと言ったんだけど…」
「早人さんの、お知り合いですか?」
「うん。出雲で仲良くなったんだ…」
「とにかく、早人さんは休んでください。あとは私がやりますから…」
とりあえず果歩は、リビングに向かう。
見慣れたリビングのテーブルには、お菓子やらビールの缶などが雑多に置かれ、宅飲みの有り様になっている。
「はじめまして…」
果歩はそう言いながら、家主の許可無く、リビングで寛ぐ男女に目を向けた。
まず男のほう——どこにでもいそうな青年に見える。
明るいブラウンに染められた短い髪を、左側に撫で付けるようなヘアスタイルで、黒い縁のメガネをかけている。
ただ——薄いくちびるの端が妙に釣り上がっていて、不気味な印象を果歩に与えた。
「俺はカズキ。勝手に入ってごめんね〜」
ニヤリと笑いながらカズキと名乗った男が、果歩に謝罪する。
「あたしの事はマリモって呼んでね。勝手に入ってごめんなさいっ。」
カズキの隣にいた、もう一人の女も続いて口を開く。
マリモは、果歩から見ても可愛らしい容姿をしていた。
座っていても分かるくらい、身体の線は細くて、スラリと手足が伸びている。
顔が小さくて鼻が高くて、ファッション誌に出ているモデルのようだった。
しかし果歩はマリモの瞳を見て、ぞくりと神経が粟立つ。
——瞳が…!
マリモの瞳が、一瞬だったが金色に光った。
果歩は、頭に痺れるような痛みを感じて、膝をおる。
——この人達、普通じゃないんだ…!
直感的に果歩はそう感じた。
毛足の長いカーペットにしゃがみこんだままの果歩に、カズキとマリモは意地悪く笑ったまま、視線を投げてくる。
「二人とも、果歩にそれ以上何かしたら、オレが許さないよ。」
やってきた早人が冷たく言い放つと、二人は渋い顔をした。
果歩は早人の横顔を見上げた。
——やっぱり、まだ顔色が良くない。
立ち上がれるくらいには回復したようだが、まだ本調子では無さそうだ。
無理をすれば、また倒れてしまうかもしれない。
——それなのに…!
果歩は、マリモとカズキを見て言った。
「あなた達が何者でも構わない、けど、体調の悪い早人さんには迷惑かけないでよ。もう帰ってください!」
しかし、訴えも虚しく、マリモとカズキは今度は何とも言えない複雑な表情で、果歩を見つめてくる。
「果歩、心配かけてごめんね…」
早人が果歩のそばに腰を降ろしながら言った。
「二人は、オレを助けにきてくれたんだ……」
「どういうことですか?」
「まあ、色々とね……」
果歩の問いに、早人が言葉を濁す。
——早人さん、何か隠してる?
「もう! ぶっちゃけちゃえば良いのに!」
「そうそう! 早人の正体は知ってるんだろ?」
「早人にとって、果歩ちゃんは特別なんじゃなかったの!」
マリモとカズキが喚く。
「事情を…聞かせてくれませんか…?」
——何か、私で力になれることがあるなら言って欲しい…
しかし早人は黙ったまま、ただ頭を振った。
それが少しショックで、果歩はそれ以上何も言えなくなった。
その様子に、とうとうマリモが痺れをきらした。
「じゃあマリモが言うからね! 早人はね、」
「やめろ! 果歩には関係無いことだ!」
早人がマリモの言葉を遮る。
——私には関係無い…?
果歩は、胸がズキリと痛むのを感じた。
確かに自分と早人は住んでいる世界も、もしかしたら見えている世界も違うのかもしれない。
だけど早人は、蛇神の魂を持っていて、果歩に会えて嬉しいと言ってくれた。
果歩の事を憶えていてくれて、こうして会いにもきてくれた。
胸の痛みの理由がわかった気がした。
——そう、もう関係無くなんてない!
——早人さんは、私にとっては大切な人なんだ…!
今度はカズキが口を開いた。
「俺たちには分かるんだ、」
「それ以上は言うな!」
早人が止めようとする。
だが、カズキが言い放つ。
「早人は、もうすぐ消えるんだ——」
果歩は一瞬聞き間違いをしたと思った。
確認するように早人を見ると、早人はそっと目を伏せた。
——もうすぐ、消える…?
不安が肌の表面を這いあがってくる。
倒れた時の早人の姿が脳裏をよぎる。
「蛇神の力はもう底をついている。だから、早人はもうすぐ消えるんだ…」
カズキの言葉に、マリモも肯定するように頷く。
「本当の、ことなんですか? 早人さん…」
「…本当のことだよ、未道果歩、」
早人の漆黒の瞳が、静かに揺れたのがわかった。
——そんな、どうして……
果歩の心の声に答えるように、早人が真実を語る。
「キミも知ってる通り、この身体には二つの魂が宿っている。そして…早人の命を繋ぎとめていた蛇神の力が尽きてしまいそうなんだ。そうなるとこの身体は持たないだろうね…巳橋神社の様子は知っているだろう? もともと人間に望まれて神になった蛇神は、必要とされなければ、存在する意味は無いからね。」
既に覚悟を決めているのかのような口調だった。
「なんとか、なんとかならないんですか…?」
「それが出来るなら、もうやってるだろ。」
カズキが苦い顔をして言う。
マリモも頷いた。
「そうよ。強いて方法があるとしたら「合祀」かしら……」
——合祀。
初めて聞く言葉だった。
「合祀なら、蛇神の信仰を集められるかもしれないけど、」
「巳橋神社は小さなお社で宮司もいないし、合祀してくれる神社なんて、簡単に見つからないし…」
確かにひとつの神様が、色んな場所で祀られている。
それなら、巳橋神社の蛇神を祀る神社が、他にもあれば良いということか。
——それなら、何とかできるかもしれない!
果歩は思い出す。
赤提灯の下で再会した、直紀の存在を。
直紀は瑞波神社で働いている。
——もしかしたら、直紀さんなら何とかしてくれるかもしれない!
それで、早人が消えずにいてくれるのなら。
「私、ちょっと出掛けてきます…」
果歩は静かに立ち上がって、上着に袖を通す。
「果歩、もう夜も遅いから、明日にしたほうがいい…」
「いえ、大丈夫です。早人さんは先に休んでいてください。」
果歩はそれだけ言ってアパートを出た。
——神社にいて! 直紀さん!
直紀が瑞波神社にいることを願いながら、果歩は走った。
呼吸が荒く、胸が苦しくなる。
それでも果歩は走った。
早人が消える——そう聞いた時、果歩は絶望のようなものを覚えた。
それと同時に、縋るようにして訪れていた巳橋神社にいる、幼い自分の姿が目に浮かんだ。
——あの場所が無くなってしまったら、私は……
瑞波神社の前まできて、果歩は足を止めた。
さすがに石階段は、走って上がることは出来そうになかった。
でも今は、肉体の辛さより、心が痛くて痛くて堪らなかった。
石階段を登りきると、お社から少し離れたところにある社務所に向かった。
——お願い、まだ居ますように…
社務所の裏口の玄関の前に立ち、インターホンを二回押す。
少しの沈黙のあと、中から中年の男が出てきたが、それは直紀では無かった。
果歩の顔を見て「どうしましたか?」と気遣うように尋ねてくる。
「あの…直紀さん、斉藤直紀さんは、いらっしゃいませんか…?」
果歩の声は掠れていたが、ちゃんと男の耳には届いたようで「分かりました。少しお待ちください」と言って中に入っていく。
——良かった。まだ、いるんだ。
果歩は安堵した。
「未道さんどうしたの! 大丈夫?」
直紀の心配そうな声がして果歩は顔をあげた。
そのまま縋るように、直紀に訴える。
「お願いがあるんです! 直紀さんに助けて欲しくて…!」
直紀の腕を掴んで、必死に叫んだ。
「分かったから、落ち着いて未道さん! まず…中へ入ろう…」
直紀は取り乱している果歩の肩に触れ、それからゆっくりと、社務所の中へと誘導する。
そこは広い和室になっていた。
直紀はまず座布団を敷き、そこへ果歩を座らせる。
「まず深呼吸して。ちゃんと話しは聞くから…」
果歩は頷き、ゆっくりと呼吸をした。
自分でも取り乱している事を理解していたが、どうにもならなかった。
そんな様子の果歩に対して、落ち着いて対処しようしてくれる直紀の存在が、有難いと思った。
「あの、信じてもらえないかもしれないけど…」
「うん…」
「神様がいるの、蛇の神様…」
「蛇の神…?」
直紀の顔色が変わった。
果歩は説明した。
幼い頃に通っていた巳橋神社。
帰郷したときに出会った、神林早人という存在。
彼が実は蛇神の助けで生きていること。
そして、もうじき蛇神が消えるかもしれないということ。
消えないためには「合祀」という手段があること。
「なるほど。合祀か…」
直紀が納得したように頷いた。
話しながら、果歩は少しずつ落ち着きを取り戻してきていた。
——直紀さんがいてくれて良かった…
信じてくれているかどうかは分からないが、少なくとも直紀は、真剣に果歩の話を聞いてくれている。
直紀は少し考えるように視線を彷徨わせたあと「合祀には手続きが必要だ」と言った。
「まず神社庁へ話しをしてみて。それから巳橋神社の宮司から、」
「待って直紀さん! すぐには出来ないの?」
「ごめん。簡単な話じゃないんだ…手順がいる…」
「そんな…」
目の前が暗くなる。
それでは間に合わないかもしれない。
それにどう考えても、果歩が一人で動いてどうにかなる事でも無さそうだ。
きっと早人も、マリモとカズキも、こうなる事を理解したうえで「消える」と言ったに違いない。
「私、私、どうしたら…」
「未道さん……」
こみ上げてくるものを抑えられず、果歩の瞳から涙があふれた。
シャララ…
シャララ…
その時、瑞波神社の境内の鈴の音が聞こえた。
直紀が顔を上げる。
シャララ…
シャララ…
また鈴の音が響く。
今度は先ほどよりも大きく響いた。
果歩は立ち上がった。
「未道さん?」
「——呼んでる…」
何故だか果歩はそう思った。
「早人さんが私を呼んでる。行かなくちゃ…」
ふらりと立ち上がった果歩のあとを、慌てて直紀が追う。
果歩は社務所を出て、鈴の音の余韻が残る境内に向かう。
そこに早人がいた。
暗闇の中で、境内に向かって何かを話している。
「早人さん!」
早人がゆっくりとこちらを見る。
「果歩、迎えにきたよ…」
それから早人は、果歩を追ってきた直紀に目を向ける。
瞬間——直紀は何故か背筋が痺れるのを感じた。
さらに、早人の後ろから、浮き出るように二人の若い男女が現れる。
マリモとカズキだ。
直紀は、完全に動けなくなっていた。
冷や汗が背中を伝っていくのが分かる。
——神だ…!
人間の姿をしているが、直紀は迷いなく、そう思った。
そのまま膝を降り、冷たい地面に両手をついて平伏す。
「そんなに畏まらなくていいよ」と早人が声をかける。
「オレは確かに蛇神の魂を持っているが、所詮…人間なんだ。ここの神の足元にも及ばない…」
早人の背後から、マリモとカズキが直紀をじっと見つめている。
二人の双眸が夜の闇の中で、不思議な光を放っていた。
「果歩が世話をかけたね。…できれば、これからも相談相手になってくれたら嬉しいよ…」
早人の言葉に、直紀は一言も発する事が出来なかった。
身近であるはずの神という存在に、これほど畏怖を覚えた事は今までに、一度も無かった。
「さあ、皆…帰ろうか…」
早人は果歩の手を取って、歩き出した。
マリモとカズキもその後に付いてくる。
「まったく、アナタも無茶するわね〜」
「ほんと、まさか神社に知り合いがいるって、聞いてなかったしさあ…」
「びっくりしたんだからね、もう〜」
瑞波神社の石段を降りきったところで、マリモとカズキが文句を言い始めた。
「ごめんなさい…」
果歩は項垂れた。
結局、みんなに迷惑をかけてしまった。
特に直紀には、後でちゃんと謝罪しなければいけない。
「じゃあ早人、明日の朝、迎えにくるからな。」
アパートの前まで来ると、カズキが言った。
「じゃあね〜」とマリモも隣で手を振っている。
早人は頷くと、二人は一緒に去っていく。
「迎えって…?」
マリモとカズキの後ろ姿を見送ったあと、果歩は聞いた。
「明日帰るんだ。二人が送ってくれると言ってくれて、甘えることにした。ここで最期をむかえるわけにはいかないしね…」
最期…その言葉に果歩は哀しくなる。
それに、早人からそんな言葉を聞きたくは無かった。
「あの二人とは、出雲で会ってオレを心配して追いかけてきてくれて。案の定、倒れてしまったオレに力を分けてくれて。二人とも人間の身体を持つ不可思議な存在だけど「お前のほうがよっぽど不可思議だ」って笑われたよ。」
早人の笑顔がひどく儚げに見えて、果歩は胸が痛んだ
「本当に、もうすぐ消えてしまうんですか…?」
「うん……それが明日なのか、一年後になるのかは分からないけど。でも蛇神の力が弱くなっているから。それに、オレはもうじき冬眠する…」
「冬眠?」
それは、どういう事なのか分からなくて、果歩は首を傾げる。
「もともと、ただの蛇だったって言うのもあるのかもしれないけど、蛇神は、冬の間は眠りについて自分の身体を守っていた。だからなのか、オレも冬の間はほとんど眠っているんだ。でも、今回はこのまま目覚めないかもしれない……」
果歩は、ぐったりとベッドで眠っていた早人の姿を思い出す。
確かにあの時、一瞬だったが、早人の呼吸があまりに静かで心配になった。
冬眠といっても、早人の身体は人間だ。
目が覚めなければ、確実に死に近づく。
「最後にキミにもう一度会いたいと思ったんだ…。だから、もう心残りは無いよ…」
果歩はやるせない気持ちになった。
自分が消えることを知りながら、今という時間を過ごしている早人が、あまりにも悲しすぎると思った。
早人の人生は何だったのだろう。
家族を亡くし、蛇神の魂を宿し、人間の中で生きて、そして消えるなんて……
胸が引き裂かれるように、苦しい。
「蛇神はね、力を失っていく日々の中で、ただひたすら君の幸せを願っていた。だから安心したよ。さっき神社にいた男…」
直紀のことだろう。
「彼なら、キミを幸せにしてくれるんじゃないかな……」
早人のその言葉に、一瞬、果歩の頭の中が真っ白になる。
それから突き上げてくる衝動に身を任せ、繋がれていた手を解くと、そのまま早人の胸にぶつかるように縋り付いた。
「早人さんは、なにも分かってない! 私の事を見てたクセになにも分かってないよ!」
「果歩…」
「私がどんな想いで神社に通っていたか! あの場所がどんなに私にとって特別だったか! あそこで過ごす時間にどんなに癒されたのか! 早人さんがくれた言葉がどんなに嬉しかったのか! だから…貴方がいなくなったら、私がどれだけ哀しいのか…わかって、ないよ…」
果歩は唇をかんだ。
抑えようとしても、涙は次から次へと溢れてくる。
「果歩、悲しませてごめん…」
「お願い、消えないで…」
「ごめん……」
早人は震える果歩の背中を、そっと抱き寄せる。
——ああ、なんて言えばいいのか…
——この気持ちはきっと「愛しい」と言うんだろうね…
——そうだろ? 蛇神……
翌朝。
約束通りに迎えにきたマリモとカズキと一緒に、早人は帰っていった。
多くの言葉を交わすことは無かった。
ただ果歩は早人に、お守りの「クリスタル」を託した。
「これは、私の想いと、願いが詰まったものだから。眠るときも、絶対離さないで持っていてください。」
「分かったよ…」
早人が頷いた。
そして、最後に果歩は言った。
「春になったら、会いにいきます。」
早人はただ頷いて、去っていった。
まだ寒さの残る雪解けの季節。
東京にいる頃より、ずっと季節の生彩さを、今は感じるようになった。
太陽の香りが強くなってきて、新しい命を感じさせるように、柔らかな土から植物の芽が顔を出す。
果歩は仕事をやめて、故郷へと帰ってきた。
五年も勤めた会社を止めることに、躊躇いが無かったわけではないが、自分の中であっさりとその決断はくだされた。
四月も半分が過ぎた。
果歩はこの日、早朝に目覚めた。
キッチンでは、奈穂美が朝食の準備をしている。
健一はまだ起きていないようだ。
「おはよう、お母さん。」
「あら、おはよう。今日はずいぶん早いのね…」
「うん。ちょっと出掛けようと思って。」
「そう…」
奈穂美に挨拶をした後、果歩は洗面所に向かう。
そして顔を洗ったあと、再び自室に戻って髪を溶かし、メイクをする。
鏡に映った自分の表情に、緊張が漂っているのが見えた。
『春になったら、会いにいきます。』
今日、果歩は、巳橋神社に行くことを決めていた。
雪がちらつく日も無くなり、もうすぐ桜も咲く季節。
そろそろだ…、そう果歩は思った。
昨晩はほとんど眠れなかった。
ただただ、自分の力ではどうにもならないモノに対して、自分の願いが僅かでも触れることができればと、それだけを祈っていた。
あの日——早人と最後に会ったあの日。
果歩は決意した。
強く生きていくことを。
たったひとつだけ、自分が居たいと思える場所に、手をのばすことを。
そして、もしそれが叶わなくても、強く生きて行くことを決めた。
だから、仕事を辞めたことにも後悔は無かった。
今年に入り、果歩は奈穂美と健一のもとに身を寄せた。
二人が快く受け入れてくれたことに、今でも感謝している。
身支度を整えて、リビングに行くと、ちょうど健一が起きてきていた。
「おはようございます、健一さん」
「果歩ちゃん、おはよう。今日は早起きだね。」
それから、三人で食卓につく。
「果歩ちゃん、出掛けるって聞いたけど、どこに行くんだい?」
「うん。今日は神社に行ってくる。」
「まあ…」
奈穂美が「何故?」と言いたげな表情で、果歩を見る。
「送っていこうか?」
「大丈夫です。歩いていくから。」
「そうか……」
健一は少し残念そうだった。
その様子に奈穂美が笑う。
「健一さん、東京の子はよく歩くのよ。こっちは車社会でしょ、東京は違うのよ。ダイエットのために一駅前で降りて歩いたりするのよねぇ」
奈穂美はテレビで見ただろう情報を話していく。
健一はうんうん、と頷いたあと「東京ってすげえな…」と呟く。
本当にこの二人は相性が良いのだと、果歩は微笑ましく思った。
「夕飯前には帰ってくるんだよ。」
「まあ健一さん、果歩はもう子供じゃないのに…」
「だって…なんか心配するだろ。女の子がひとりで夜歩いてたら危険だろ。」
「でも夕飯前は早いんじゃないかしら…ねえ、果歩?」
「…あの、私、二人に言わなくちゃいけない事があって、」
二人が目を丸くする。
果歩は箸を置いて、二人を交互に見つめた。
この日が来たら、話そうと決めていたことがあった。
「私、近いうちにここを出て行こうって思ってる。」
奈穂美と、健一の手が止まった。
「私ね、一緒にいたい人がいるの…」
「彼氏?」
奈穂美が聞く。
「そうじゃないけど…私にとって大切な人。その人の為に仕事も辞めて帰ってきたの」
二人には初めて語る、仕事を辞めた理由。
突然にそれを告げられた奈穂美と健一は、困惑している様子だった。
少しの沈黙の後、健一が言った。
「もしその人と一緒に住むというのなら…一度紹介しなさい。」
「そうね。それが良いわ。」
「果歩ちゃんが選んだ人だから、大丈夫だろうと思ってはいるけど…実際に顔を合わせて、話してみないと判断できない事もある。」
奈穂美が、何度も何度も頷いた。
健一が「父親」のように見えた瞬間だった。
「ありがとう健一さん、お母さん。でも、でもね…もしもダメだったら…」
——もし、早人さんが目覚めなかったら……
果歩の胸がぎしりと痛む。
もし早人と二度と会えなくなったしても、強く生きていこうと決めたのに、やっぱり絶望的な気持ちになるのは、早人の存在が大きなものだからに違いない。
「もしダメだったら、しばらく立ち直れそうにないから…そしたらもう少しここにいても良い?」
奈穂美と健一は大きく頷いた。
「いつまでもいて良いんだよ、果歩ちゃん!」
「果歩、私が言うのも変だけど、良い男は他にもいるわよ!」
励ますように二人に言われて果歩は笑った。
笑いながら、泣いていた。
真実は告げれない。
けれど、温かな居場所がある事に、果歩は心の中で感謝した。
果歩は歩く。
迷いなく。
一歩ずつ、自分の願いをこめて、踏みしめるように。
早人がちゃんと生きて、目覚めている事だけを願って歩く。
目的地が近づくと、果歩は駆け出していた。
鼓動が痛いくらいに全身に響く。
——神様、
——早人さん、
——お願い…生きていて!
祈りながら、まばらな高さの石階段を登る。
早人がいたら。
いや、もし早人がいなかったら…
そう考えるだけで、恐怖に足が竦んでしまいそうだった。
滲んでいく涙を何度も拭いながら、果歩は石階段を登りきった。
緩やかな春風が吹き抜け、果歩の髪の毛を揺らし、通り過ぎていく。
冬の間に、たくさん降った雪に埋もれただろう、巳橋神社の小さなお社の前。
——そこに、早人は立っていた。
果歩は立ち尽くした。幻かと思った。
自分の願望が見せている幻なのかもしれないと。
「こっちへおいで。また転んだら大変だよ…」
しかし、優しい声が返ってくる。
低くて、凛とした、早人の「声」だった。
——生きていてくれた!
果歩の中にあった恐怖や哀しみが溶けて、安堵と喜びが一気に溢れだす。
もう、何もかもが報われた気分だった。
「早人さん…!」
駆け寄って、感情のまま、早人の胸に飛びついた。
すると背中に強い腕の感触がして、間違いなく現実なのだと、果歩は嬉しくなる。
「良かった…、本当に……」
果歩の頬を熱い涙が伝う。
「今朝からずっとキミの声が聴こえてた…、だから、もしかしたらと思ったんだ…」
耳元で早人の声がする。
触れた身体から、温もりが伝わってきて、満たされていく。
果歩は泣いた。声を上げて、早人の胸のなかで泣いた。
「オレもどうなるか分からなかったんだ。年々、目覚めるのが遅くなっていたから。でも微睡みの中で蛇神に言われたんだ…」
「蛇神様に…?」
「そう、『生きろ!』ってね——」
早人は腕をといた。かわりに果歩の涙で濡れている顔を、愛しそうに見つめる。
「果歩、キミの想いがオレを繋ぎとめてくれたんだ。有難う……」
果歩はただ、強く首を振った。
早人は果歩に手のひらを差し出す。
そこにあったのは、果歩が願いをこめて早人に渡した「クリスタル」だった。
「蛇神に言われて気付いたんだ。ずっと前から…事故に遭ったあの日から、オレは生きることを拒んでいたんだって…だから蛇神は、オレの魂を繋ぎ止めるために、ずっと一緒にいてくれたんだって…」
早人の目にも涙が浮かんでいた。
蛇神と早人の間に、何があったかは分からない。
けれど、早人の中の蛇神は確かに、早人の事を守っていてくれたのだ。
「果歩、オレは生きるよ——。たとえ、これから何があったとしても…」
——私と、同じだ。
いや、同じだったというべきか。
果歩は「もし早人が消えていたら」と考えていた。
でも、もうそんな不安は抱かなくてもいい。
「早人さん、私は、ここに居たいです…」
果歩は真っ直ぐに早人を見て言った。
早人も同じ気持ちでいていると、今は信じている。
「私にとって、蛇神様も、早人さんも大切な人なんです。だから、私はここに居たい…ここがきっと、私が一番、還りたいと思う場所だから……」
そして、もっと伝えたい事がある。
「私は、早人さんと生きていきたい…。好きです、早人さんのことが…」
果歩の告白に、早人が切れ長い瞳を大きく見開いた。
陽だまりが、優しく二人を満たしていく。
「オレも、キミの事が愛しいよ——」
そして、早人は微笑みをたたえて、果歩に言う。
「では、未道果歩。蛇神の嫁にくるかい——?」
早人の眼差しは優しかったが、一瞬、蛇のように鋭く光ったのは、気のせいでは無いだろう。
早人の中には蛇神がいる。
果歩の大好きな神様がいる。
そして、果歩を必要としてくれて、果歩のありのままを愛してくれる早人が、目の前にはいる。
果歩は大きく頷いた。
それから、巳橋神社の小さなお社の前に立つ。
果歩は、あらかじめ用意していた小銭を置く。
一礼。
二礼。
両手を丁寧に合わせる。
そして心の中で神様に話しかける。
その声はきっと、今、目の前にいる早人にも聞こえるはずだ。
『神様、神様……
私を、早人さんに会わせてくれて、有難うございます』
『私は、これから巳橋神社を守っていきます。
そう決めて、帰ってきました。』
『どうか、どうか、見守っていてください』
『そして……
早人さんとずっと一緒にいれたらいいな……』
深くお辞儀をして、果歩は早人に向きなおる。
綻ぶように二人は笑った。
そして、今度は早人が、果歩の身体を抱き寄せて言った。
「その願い、生きて、叶えると約束するよ——」
お互いの温もりが溶け合い、じんわりと心が温かくなっていく。
木漏れ日が二人を照らし、祝福を告げているかのようだった。
遠くから、声がした。
若い男女の声だった。
聞き覚えのあるそれに、早人と果歩は驚いて顔を見合わせる。
「まさか、とは思いますけど…」
「ああ、多分、間違いなく、マリモとカズキだ…」
早人が苦い顔をしていた。
「何か、あったんですか?」
「実は連絡があって…マリモとカズキが、この街へ引っ越してくるらしい…」
「ええ! なんでまた…」
「巳橋神社の隣に、縁結びの神様を祀るとか、なんとか…」
もしそれが本当なら、ずいぶんと大胆な計画だ。
思わず、果歩はふきだした。
「あの二人らしいですね…」
「まったくだよ…」
果歩は早人と一緒に、ゆっくりと石階段を降りる。
騒がしい毎日が…それでも温かくて、安らぎに満ちた日々が、これから始まるのだ…そう思った。
終
2017年4月28日 発行 初版
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葵月さといです。 誰かの心にそっと寄り添えるような文章を書きたくて、ずっと小説を書いていました。 良かったら、読んでみてください。 アメブロやってます⬇︎ http://ameblo.jp/satoi-moon-story