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THEORY

白井 朝香

湘南清涼庵



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   一  見知らぬ女


 鳥居早生子さおこは三十二歳になった。今年は誕生日を一緒に過ごす男がいなかった。三ヶ月前には四歳年下の彼氏がいたが、早生子より十歳若い女に目移りした。その男、衣笠宗一そういちが彼女を愛してると言ったから、その場で別れを告げた。
 自分を見ていない男は切るに限る。不毛な恋をする気はない。だが、すぐに気持ちは入れ替えられない。落ち込むこともあるし泣くこともある。部屋中のモノを投げたくなることだってある。それでも、平気な顔をするのは年上の女のささやかなプライド。
 二十二歳なんて若いだけで何の旨みもないのに、それでも男は若い女が好きなんだよね。ハリのある滑らかな肌以外に褒めるものがあるの? 喉元まで出掛かった言葉をぐっと堪えて、
「それじゃサヨナラ。楽しかったわ。」
と背を向けた。
 本当はサヨナラなんて言いたくない。あなたが好きなのよ。だけど、十も年下の女の子には見た目では勝てないの。女の若さに目が眩んだあなたともこれで終わり。お幸せに。
 なのに、宗一は変わらず早生子に電話してきた。
「言ったじゃん、早生子さんが嫌いになった訳じゃないって。俺、早生子さんのこと人間として好きだよ。」
 その言葉にどれだけ傷つくか、彼は気がつかない―――。
 宗一が電話してくれば早生子は話につきあった。二人で食事もした。でも、それだけ。過去の男にはココロもカラダも開かない。それが彼女のやり方なのだ。
 ファイリングという専門性があるかないか定かでない職種の派遣社員の早生子の仕事に未来はない。派遣の停年と囁かれる三十五歳まであと三年だ。今の会社か次の会社で打ち止めになるだろう。それでも早生子に結婚する気はない。それよりも厄年を無事に乗り切るほうが大事おおごとなのだ。早く今年が終わればいい。
 金曜の夜、突然携帯が鳴った。表示されたのは知らない番号だった。早生子は一瞬迷ったが電話に出た。
「はい。」
「…。」
少しの間無言であった。
「もしもし。」
「あの、鳥居早生子さんですか。」
「そうです。」
戸惑ったような言い方の若い女の声であった。聞き覚えはなかったが、閃くものがあった。
「どちら様でいらっしゃいますか。」
「わたし、神山美咲と言います。宗一…衣笠さんの。」
やはり宗一の女だ。いつか来ると思っていた。
「突然ですけど、明日会ってくれませんか。」
会って下さいませんかとか、会って頂けませんかと言えないのかと舌打ちしたい気持ちを抑えて、早生子は美咲と名乗った女に言葉を返した。
「本当に突然ね。」
「ダメですか。」
「駄目とは言ってないわ。でも、私はあなたを存じ上げないのにお目にかかれるかしら。」
「待ち合わせしてくれれば大丈夫です。」
「私の特徴を申し上げましょうか。」
「会ってくれるなら、宗一さんと行きます。」
「彼は関係ないでしょう。」
「どうして。」
「彼が会いたがってるの?」
「違います。」
「だったら彼を巻き込むべきではないわ。」
「彼、彼って言わないで。宗一さんはわたしの恋人なのよ。」
「他に第三者の男性をどう呼べばいいの。」
美咲は黙ってしまった。無言のまま時間が過ぎる。腹立たしい。それでも、努めて静かに話す。
「日曜の午後なら時間が取れますから、場所と時間を指定してちょうだい。」
美咲は後でもう一度かけると言って電話を切った。わたしの恋人なのよ、と言った美咲の声がよみがえった。自分が横からさらって行ったくせに。
 おおかた宗一が無造作に置いておいた手帳でも見て動転したのだろう。あの男のやりそうなことだ。相変わらず女の扱いが下手らしい。
 もう始まっちゃったんだ。俺と彼女のことを考えてくれよ。俺、同時に二人の女は抱けないんだ。早生子さんが好きだよ。でも、彼女を愛してるんだ。
 あの夜の宗一の言葉を思い出した。
 ダークグレーの地に白いピンストライプのピークドラペルのダブルジャケットと膝上の台形スカートのスーツ。薄いブルーのコットンセーター。ケサランパサランのAntique Roseの口紅。黒の八センチヒールのパンプス。胸元で揺れるガーネット。
 美咲が指定したのは宗一が住む下北沢の喫茶店だった。その店は駅近くのビルの二階にあった。陽が差し込み明るい窓際の席で早生子が待っていると、美咲が宗一と時間通りに現れた。
「こんにちは。」
美咲が何も言わないので、仕方なく微笑みかける。宗一の表情は硬かった。帰り際に呼んでくれと言い残して彼は店を出て行った。
 宗一が帰った後、暫く沈黙が続いた。じれったい。自分が呼びつけておいて、何を言うかも考えていないのかと思うと早生子はため息をつきたくなった。
「早生子さんの香水、何ていうんですか。」
「私、香水は使わないのだけれど。」
「ウソ。今も匂うわ。」
「ああ、これ。お香の移り香だわ。嫌い?」
「同じ匂いのハンカチを見つけました。」
「どこで。」
「宗一さんの部屋で。」
「そう。」
美咲は自分がいないときに早生子が宗一のアパートを訪ねていると考えているようだった。なるほど、手帳に残された携帯番号と匂いの移ったハンカチは疑いを持つに足る証拠になる。だが、早生子は宗一の住所もアパートの場所も知らない。
「もう会わないでください。」
「誰と。」
「宗一さんに決まってるじゃない。」
「筋違い。」
ローズピンクに彩られた早生子の唇からゆっくりと言葉が美咲に向けられる。美咲が早生子に浴びせる言葉が何一つ彼女に響かない。早生子は動じない。
「直接本人に仰ったらいかが。」
「なんで。」
「誰と会うかを決めるのは彼の意思でしょう。他人がどうこう言う問題ではないと私は考えるけれど、違うかしら。」
「じゃあ、あなたは?」
「私? 私はいつでも彼と会うわ。」
「ひどい。」
「何がひどいの。友達に会うのに許可はいらないでしょう。」
「身体の関係があった人と友達なんて有り得ない。」
 早生子は美咲を見つめた。瞳に涙をためている。握りしめた手が今にも震え出しそうだ。この世に男と女がいる限り、何かの拍子や成り行きで身体を重ねる可能性があることを知らず、それが人生を左右するような大きな出来事でないことも知らない、二十二歳。

 知らないまま結婚するのは是か否か、早生子は考えたことがあった。好きになった男と結婚すればそれなりに幸福ではあるだろう。けれど、快楽を分け合った男と別れることがどれだけ自分の心と身体を引き裂くかを知らない女は、いつか人生という階段でつまづく。今、目の前にいるこの若い女のように。
「今でも続いてるのね。」
「彼に確かめたら。」
「確かめた。もうあなたとはしてないって言ってた。」
「それなら問題はないでしょう?」
「信じられない。」
「彼を信じないなら、彼もあなたを信じないわよ。」
「わたしたちの仲を引き裂いて面白いですか。」
「引き裂いてなんていないじゃない。」
「引き裂いてる。」
「美咲さん、あなた一体何が気に食わないの? 私が彼と会うことが気に食わないの? 彼と友達なのが気に食わないの? それとも、彼に異性の友人がいる事実が嫌なの?」
「全部よ、全部。わたしには宗一さんを独占する権利があるのよ。なのにあなたに邪魔されて…。」
「あなたにも男の子の友達がいるでしょう。その友達に会うのにあなたはいちいち彼女の許可をもらうの?」
「もらわないわ、友達だもの。」
「同じ事よ。」
「違う。早生子さんみたいに身体の関係があった友達なんていない。」
「たまたま寝るチャンスがなかっただけよ。」
「違う。あなたはどうして……。」
美咲の瞳から涙が零れた。
「泣くなら閉ざされた空間の中で泣きなさい。」
涙が武器になるのは男の前だけだ。女はいくら目の前で泣かれても平気なのだ。
「宗一さんはあなたを好きだって言ってた。」
「女としてではなくて、人間としてだって言っていたでしょう?」
「わたしはイヤ。たとえ女性としてではなくても、宗一さんがわたし以外の女性を好きでいるなんてイヤ。いつも傍にいてすべてを独占していたい。」
「すればいいじゃない、結婚でも何でもして。」
「いいんですか、わたしが宗一さんと結婚しても。」
「嫌だと言ったら彼と別れるの?」
「まさか。なんで私が宗一さんと別れなきゃいけないのよ。」
「だったら、そんなことを口にするものではなくてよ。」
 早生子はテーブルに置かれたコーヒーを一口飲んだ。彼氏は自分のもの、自分だけのもの。だから、他の女を見ないで欲しい。恐らく多くの女が一度はそう考える。しかし、男と女しかいないこの世の中でそれは不可能だといずれは気づく。儚い夢でも独占したがるのは女のごうか。
 恋人を独占できないと早生子が知ったのはいつだっただろう。覚えていないということは相当前なのかもしれない。自分が彼氏の一番なのは今現在のことでしかない。明日は二番どころかランク外になる可能性だってある。
 美咲はそれきり黙り込んでしまった。
「彼を呼びましょう、そろそろ。」
 早生子は宗一に電話した。彼の携帯番号は既に電話帳から削除したが、指が覚えている。慣れた手つきが更に美咲を不安にさせた。宗一は早生子とは単なる友達だと言った。だが、真実なのだろうか。二人して口裏を合わせてはいないだろうか。彼を疑いもしなかったけれど、もし示し合わせていたとしたら、自分が宗一の部屋にいるとき、早生子から宗一に何の連絡がなくても不思議はない。
 美咲は自分だけが宗一の恋人だと思っていた。二人で出掛け、彼のアパートへ通い、掃除し、洗濯し、食事の準備をするのが楽しかった。他の女が出入りしている様子など微塵も感じなかった。彼に過去に女がいなかったとは思わなかったが、現在は自分だけだと信じていた。それが当たり前だと思っていた。幸福だった。それが、たった一枚のハンカチで崩れてしまった。
 テーブルの上に置き忘れられた、美咲の知らない匂いのする白いハンカチ。手帳に書き止められた携帯番号。鳥居早生子という名前。
 この人、誰? 宗一さんと一体どんな関係? 不安が美咲を包み込み押しつぶしそうになった。確かめなきゃ。どんな女なのか会って確かめなくちゃいけない。恋人のことを全部把握しておくのはわたしの義務だもの。
 美咲は三十を過ぎた独身の女を想像できなかった。結婚できなかった負け組のオバサンぐらいに考えていた。しかし、自分の前に座る早生子は自分と同類の女だった。
 丁寧な言葉遣い。自信ある態度。デザイナーズブランドを着こなすセンス。手入れの行き届いた長い髪。ポイントを押さえたメイク。とびきりの美人ではないが、さり気なく自分を魅力的に見せることの出来る女。それが大人の女性というものなのか。
 宗一が早生子の何を手離せなくて友達だと言い張るのかわからない。美咲は屈辱に似た感情に包まれる。
 後から後から溢れ出る涙を手の甲で拭う美咲に早生子は薄い生成りの木綿のハンカチを差し出した。
「この匂いは塗香ずこうと言うのよ。」
「塗香って?」
早生子はバッグから小さな木製の入れ物を取り出し、指先で叩いて少量の粉状の香をハンカチに落とした。
「本来は身体を清める為に振り掛けるものだけれど、私はこうしてハンカチに落としているの。」
「…。」
 美咲にとっては忌々しいだけの臭いがふわっと拡がった。その臭いが自分に移るのが嫌で彼女はハンカチに触れなかった。
「私にとっては匂いでも、あなたにとっては恐らく臭いだわね。」
「…。」
 ドアを開けて宗一が店に入って来るのが見えた。
「話、終わった?」
「私はこれで失礼するわ。美咲さんをちゃんと送って行ってね。」
早生子は宗一に向かってそう言って伝票を持って立ち上がり、店を出て行った。

   二  寄り道


 渋谷の街が繁華街から住宅街に変わったあたりに早生子の行きつけのBARはある。
 彼女はいつものようにカウンターの右端の椅子に腰掛けた。彼女を見知ったフロア係の若い男が近づいた。
「いらっしゃいませ。」
「こんにちは。」
「今日はお早いですね。」
「たまには陽の高いうちから飲みたいのよ。」
「バレンシアで宜しいですか。」
「ええ。」
彼女がいつも初めにオーダーするカクテルも覚えている。かといって無駄口を叩くわけでなく、オーダーしたカクテルをすっと置いて去っていく。近づき過ぎない距離感が早生子には好ましかった。
 店内には静かにジャズが流れていた。ほとんどの客が一人で、思い思いに酒を楽しんでいる。駅から遠いにも拘らずこの店に人が集まるのはこうして一人静かにグラスを傾けられるからだ。
 早生子は長い息を吐いた。疲れた。猜疑心から生じた誤解を解くのは骨が折れる。自分の男に関わる女は全て敵だと言わんばかりの若い女は総じて聞く耳を持たない。名前を言えば誰もが知っている有名大学を卒業し、やはり名前を出せば誰もが知っている一部上場企業に勤める宗一が何故美咲のような女とつきあうのだろうか。
 未練ではない。
 宗一にとっては自分も美咲も同じ位置づけだったのかと考えると、早生子自身の格が下がるように思えて来る。女の一人ぐらいうまく操縦してほしい。今までに女の扱い方を教えてくれる優しい女と縁がなかったのだろうか。或いは大学や会社のブランドに惹かれた女ばかりが近づいて来たのだろうか。それ故、相手が自分のペースに合わせてくれたのだろうか。宗一はそうやって持ち上げられても不思議ではない経歴なのだ。
 カウンターの向こうでシェーカーを振るバーテンダーに早生子は空のグラスを見せた。
 バレンシアのグラスが置かれたのとほぼ同時に彼女の隣に男が座った。
「早生子さん。」
聞き覚えのある声、宗一だ。
「やっぱりここだったのか。」
「送って来たの、彼女。」
「うん。」
宗一はジンライムをオーダーした。
「ついててあげなくていいの?」
「…。疲れた。二股掛けられるのは嫌だって言って聞かないんだ。」
「今も私があなたと寝ていると思い込んでたから。」
「どうしてかなぁ。」
「今頃手首切ってるかもしれなくてよ。」
「脅かさないでくれ。」
「思いつめたら女は何でもするものよ。それが愛する男の為なら特に。」
「勘弁してよ。」
「私に言ってもどうにもならない。」
「早生子さんは冷静だったらしいね。」
「堪忍袋の緒が切れてたわよ。だけど、コドモ相手に怒ったって何の解決にもならないじゃない。店で言い合いにになったら迷惑になるだけでしょ。」
「流石だね。」
「大人の常識ですよ。」
「それで寄り道してるのか。」
「私は一人で飲むのも好きだから。」
「こんな時間から?」
「そう。」
「早生子さんいくつだっけ。」
「三十二。」
「数えで三十三か。厄年ですか。」
「その通り。今年は人間関係でトラブルばかり。」
「…荷物検査されたんだ。」
唐突に宗一が話し始めた。
「俺が仕事でいない間に手帳を見られた。」
「部屋の合鍵を渡したんでしょ。」
「うん。」
「それじゃ仕方ないわね。」
「どうして。」
「男から合鍵を渡されたら、女はすべてを許されたと思うわよ。あなたがいない間にいくらでも入れるし、何でも出来る。」
「そういうもん?」
「そうよ。だから、あなたは鈍感だっていうの。見られて困るものは置いておかないのがは基本でしょ。」
「俺、益々女がわからなくなってきた。」
わからなくなったんじゃなくて、あなたはもともとわかってないのよ、何も。美咲が誤解した理由も早生子が身を引いた理由も。
「そういえば、早生子さん、髪型が変わってる。今気がついた。」
「暑かったからアップにしたのよ。」
「さっきと何か違うと思ったんだ。」
「そう。」
早生子は微笑んだ。違うのはヘアスタイルだけじゃないのよ。
「そろそろ帰るわ。明日は仕事だから。じゃね。」
彼女は立ち上がり一人で店を出て行った。

 宗一はグラスに残るジンライムを喉に流し込んだ。
「早生子さん。」
彼女を追って走った宗一はアルコールが身体中に回ってふらついた。
「どうしたの。」
「走ったら一気に回った。あぁ、目が回る。」
彼は肩で呼吸し、塀に寄りかかってようやく立っていた。
「電話すればよかったのに。何の為にケータイ持ってるの。」
「そうだった…。」
宗一は項垂れて座り込んだ。
「歩ける?」
「少しなら。」
「この先の公園へ行くわよ。他人様の家の前じゃ迷惑だわ。」
「…。」
「ほら、立って。」
早生子は宗一の腕を取って促した。彼女はノロノロ歩く宗一の腕を引っ張って近くの小さな公園に連れて行くとベンチに座らせ、自分は隣のベンチに座った。
「世界が回ってる~」
座っているのがつらくて、宗一はベンチに横になり足を投げ出した。
「しばらく風に吹かれてるのね。身体が冷えれば酔いも醒める。」
反応がないと思ったら眠っていた。思わず早生子の口からため息が漏れた。これでは帰るに帰れない。
 秋の日は釣瓶落としと言われる通り、あっという間に陽が沈む。早生子は今いる公園の場所を確認してタクシーを呼んだ。
「帰るわよ。」
「どこへ。」
「何言ってるの、あなたの部屋に決まってるでしょ。早く乗って。」
「早生子さんも来て。」
「美咲さんが来てたらどうするつもり? 修羅場はイヤよ、私。」
早生子がドライバーに下北沢までと告げたら逆に下北沢のどの辺か尋ねられ、彼女は宗一に訊いた。
「住所か目印になるものは?」
「知ってるじゃん。」
「知らないわ。あなたからは携帯の番号か聞いてない。」
「そうだっけ。」
宗一は首を傾げつつ小田急の東北沢駅寄りの中学校までとドライバーに答えた。
「じゃあね。」
早生子は宗一に向かって小さく手を振って車から離れた。彼を乗せたタクシーが黄昏の街の中へ消えていった。
 その夜も宗一は電話して来た。
「どうしたの。」
「別に用はないんだけど、酔いが醒めちゃってさ。」
「暇つぶし?」
「そんなことないよ。ちょっと声が聞きたくなっただけ。」
「相手が違うでしょ。」
「たまには違う女の声も聞きたいんだ。」
「だから誤解されるのよ。」
「…。話は違うんだけど、俺、住所言わなかったっけ。」
「ええ。聞いてないわ。」
「ずっと言ったと思ってた。だから、早生子さんは来たくないんだと思ってた。」
「誰かと間違えたんじゃない?」
「…。早生子さんと初めて会ったとき、俺、マジで誰ともつきあってなかったんだ。」
「そう。」
「だから、間違えてはいないと思う。」
「別にいいのよ。携帯番号がわかれば連絡出来るから。」
「知ってほしいんだ。」
 早生子は宗一の携帯番号しか知らない。教えられない限り尋ねない。場所を知っていても訪ねることのない場合は特に。
「美咲さんが鍵を持っている部屋の場所を聞いても行けないもの。」
宗一は黙ってしまった。カランとグラスの中で氷の融ける音がした。
「そっか…。確かにそうだよね。」
「鉢合わせたら大事件よ。」
「うん。」
「それじゃ、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
電話を切って早生子は時計を見上げた。十二時になろうとしていた。彼女は携帯の電源を落とした。これから先はひとりだけの時間。誰にも邪魔されない自分だけのひとときだ。
 宗一は迷っている。勘違いした美咲への想いがグラグラと形を変えながら揺れる。早生子に対する誤解で更に揺れる。早生子の口から溜め息が漏れた。

   三  まぼろし


 宗一の勤務先はフレックスタイムを導入している。だが、毎日のように残業になるので、朝早く出社してもコアタイム間際に出社しても退社時間はそれほど変わらない。彼は定時に出社しなければならない日以外は遅めに出社することが多かった。ラッシュが終わり電車がすいているだけでも随分楽に感じる。
 彼は中途半端に終わってしまった昨夜の早生子との会話が気になり、駅までの道で早生子の携帯に電話した。何回か掛けたが、その度に電源が入っていないか電波の届かないところにあるためにかからないというアナウンスが繰り返された。仕方なく諦め、そのまま電車に乗った。
 珍しく早い時間に仕事の区切りがついた宗一は早生子を食事に誘おうと再び携帯に電話した。朝と同じで女声のアナウンスが入った。また電源が入ってないのか、と彼はイラついた。時々早生子はこうして掴らなくなることがある。
 だが、アナウンスされる内容が朝とは違った。
『おかけになった番号は現在使われておりません。』
どういうことだ? 宗一はもう一度かけ直した。しかし、流れる声は同じ台詞を繰り返すばかりであった。
 宗一は渋谷で途中下車して早生子が良く行くBARへ向かった。無意識のうちに早足になっていた。
 店内にはいつものように静かにジャズが流れている。カウンターの右から二番目の席に座った宗一はジンライムをオーダーした。
「ダッファンは如何ですか。」
 いつかの若いフロア係の男がカクテルばかりを飲む宗一に勧めた。
「何だっけ、それ。」
「ポテトの固め焼きでございます。」
「もらうよ。」
「味がついておりますのでこのままお召し上がり頂けます。」
白シャツの上に黒いベストを着た男が宗一の前に白い皿とフォークやナイフを入れたバスケットを置いた。
 宗一が店にいる間に早生子が来ることはなかった。彼は部屋を訪ねてみようと思い立ち店を出た。渋谷駅方向へ歩きながら電車の時刻を確かめたが、そのとき初めて早生子が何処に住んでいるのか知らないことに気がついた。
 場所がわからないなら固定電話の局番から推量しようとした。では、彼女の固定電話の番号は? 彼は彼女と出会ってからの会話を思い出そうとした。だが、思い出せなかった。当然である。早生子は住んでいる場所の話をしたことがなかったからだ。だから、俺の住所も知らなかったのか。宗一はようやく腑に落ちた。
 それよりも今は早生子の居場所である。彼女は中学・高校とテニス部だった。しかし、強豪校ではなく目立つ記録はない。その校名も出て来ない。
 住所。
 固定電話番号。
 出身校。
 勤務先。
それらの何も宗一は知らなかった。彼女を抱いた感触ははっきりと覚えているのに。何故だろう。何故早生子は自身について何も語らなかったのだろう。
 宗一が住所を告げうとしたとき、美咲が鍵を持っている部屋の場所を聞いても行けないからと、やんわりと拒否された。
 もっと早く気がつくべきだった。早生子の何を知り何を知らないのか明らかにしておくべきだった。なのに、彼女が自分を受け止めてくれることに安心して考えようとしなかった。
 だけど。
 なんでだよ。なんで何も言ってくれないんだ。
 なんで何も言わないで消えちまったんだよ。
 宗一は諦められなかった。曜日を変え、時間を変え、早生子と訪れた店を巡った。しかし、彼女の姿を見かけることは一度もなかった。
 ある夜、宗一が帰宅するとリビングのテーブルの上に白い封筒が乗っていた。美咲からであった。
『宗一さん、随分考えましたが、私はやっぱり他の女性と会う人とつきあうことは出来ません。あなたは今も早生子さんが好きなのでしょう? 例えそれが女性としてではなくても、私はイヤなんです。カギを返しますね。ドアポストに入れます。どこかでわたしを見かけても声をかけないで下さい。さよなら。お幸せに。美咲』
 読み終えた宗一は天を仰いで大きなため息を洩らした。どうしてこんなことになってしまったのか。早生子を探すうちに美咲まで失ってしまった。あれほど愛しているのは美咲だけだと言ったのに、美咲は信じなかった。

 瞬く間に時間が過ぎた。
 宗一は新しいプロジェクトに関わり出張することが増えた。彼が担当する浜松の事業所では女性の社員がアシスタントについた。
「衣笠さんは静岡のご出身なんですか。」
「はい。」
「私もなんです。静岡市内ですか。」
「そうですよ。」
「それならB高校かしら。」
その女性・徳井沙妃は宗一の出身校を当てた。
「何でわかったんですか。」
「あら、当たっちゃった? テキトーに言っただけなのに。」
「…。」
「そんな不思議そうな顔しないで下さい。静岡市内で一番偏差値の高い高校を言ってみただけです。」
「そうなんだ。」
「部活は?」
「サッカー部。これでも市大会で優勝したんですよ。」
「C中学ですね。」
沙紀は間髪を入れずに答えた。これまた正解である。
「えっ。」
「ふふっ、また当たったみたいですね。」
「…。どうして。」
「だって一年違いですもん。私のひとつ上の代でサッカー部が市大会で優勝したのはC中だって知ってます。衣笠さん、ガード甘いなあ。中学がわかれば校区からご実家を探すの簡単なんですから。」
「そんな怖いことしないで下さい。」
「よく知らない相手に自分の経歴をしゃべっちゃダメです。個人情報が丸見えになりますよ。」
「…。」
「なんなら大学も当ててみましょうか。」
「いや、もういいです。」
宗一はほとんど本気だった。
「冗談です。でも、気をつけてくださいね。外部の人に情報を握られたら厄介なことになりかねませんから。」
 沙紀が微笑んでいたので宗一も合わせて笑顔を作ったが、背中を冷めたい汗が流れた。彼は世間話のつもりで話したことが個人情報に繋がる等と考えたことはなかった。しかし、言われてみれば年齢と部活の記録を辿って出身中学がわかれば実家を突き止めることが可能だ。もしも相手がそのつもりならいくらでも悪用できる。脅しのネタには困らない。ストーカー行為だって出来る。
 宗一はふと早生子を思い出した。早生子は自分のことを何も言わずに去って行った。それは自分がどこの誰かを探られない為だったのだろうか。そして、二度と会わないという彼女の決意を表しているのかもしれない。だとしたら、彼女を探し出したところで喜ばれないだろう。自分の何が早生子にそう思わせたのかわからない。しかし、もう尋ねることは出来ない。手の届かないところへ行ってしまった。それが彼女のやり方だったのだ。
 東京駅の新幹線改札口を出たところで、宗一は聞き覚えのある香の匂いを聞いた。早生子がいつもハンカチに落としていたあの香だ。ハッとした。早生子が近くにいる。
 宗一は辺りを見回した。が、それらしき人はいなかった。彼は香の匂いを求めて通路を足早に歩いた。宵の口の駅構内は混雑していて行き交う人の顔を確認することは出来なかった。
 早生子を思い出す度に痛む胸を抱えて宗一は本社に戻るべく山手線に乗った。あと幾日、夜を越えたら彼女に会えるだろうか、と考えながら。

THEORY

2017年4月28日 発行 初版

著  者:白井 朝香
発  行:湘南清涼庵

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白井 朝香

小説家
随筆家

湘南の海と犬とスポーツが好き。

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