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12冊の本の話

哀愁亭

百町書林



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友情は片方がもう片方にこう言った瞬間から生まれる。
『え?君も?僕だけかと思っていたよ』 ― C・S・ルイス

目次

霧のむこうはどっち?  「霧のむこうのふしぎな町」のこと

ごぞんじなかろうと思うが、私は学校ネズミなんだ  「放課後の時間割」のこと

魔法ってものはな、そうやっておこるのさ  「魔法使いのチョコレート・ケーキ」のこと

こんなのおとぎ話だよ  「みどりのゆび」のこと

強さや賢さよりも大切なもの  「龍の子太郎」のこと

特別なジグソーパズル  「飛ぶ教室」のこと

「むかし式の家出」なんて絶対できないわ  「クローディアの秘密」のこと

たった一人の僕と、僕たちの中の僕  「ぼくがぼくであること」のこと

強くなることは、かっこいいことじゃない  「太陽の戦士」のこと

時は、花なり  「モモ」のこと

ドラゴンと戦う勇気  「ホビットの冒険」のこと

あたし、心配なんてしてないわ。心配はおきたときすればいいのよ。  「魔女の宅急便」のこと

「霧のむこうのふしぎな町」 
柏葉幸子著 
講談社青い鳥文庫

霧のむこうはどっち?

「霧のむこうのふしぎな町」のこと

リナはお父さんにすすめられて、夏休みを「霧の谷」ですごすことにしました。

リナは、はじめて、たった一人で夏休みを家からはなれてすごすことになったのです。

ところが、なんとかたどりついたその町は、ちょっと普通とはちがっていて、普通とはちょっとちがう人たちがくらしていました。

霧の谷につくと、下宿先のピコットおばあさんは言います。

「自分の生活費は自分ではたらいてかせぐんだ」

リナは霧の谷にいる間、自分でお金をかせがないといけなくなったのです。

そうしてリナは、とまどいながらも、霧の谷にあるいろいろなお店ではたらくことになるのでした。

――――――――――――――

ふしぎ、という言葉が僕は好きなんだ。

ふしぎな町、ふしぎな人、ふしぎなケーキ……、ふしぎ、と言うと、なんだか楽しそうな、わくわくする感じがするから。

でも、変、って言いかえるとどうだろう? なんだかいけないことのような、まちがっているような、そんな気がするよね。

変な町、変な人、変なケーキ……、変な町には住みたくないし、変な人には会いたくないし、変なケーキは食べたくないもの。

ふしぎも、変も、どちらもふつうとはちょっと変わってるということ。なのに言葉がちがうだけで、わくわくしたり、いやな感じになったりする。

それって、ふしぎだし、へんだよね。

リナはちょっと太った女の子。でも太った、というと、なんだかいけないことのような気がする。

ちょっと太っているのは、リナがおいしいものが好きだからなんだ。

だからリナはおいしいものが好きな女の子、って言いかえたら、こんどはわくわくする感じになるだろう?

おいしいものが好きな女の子と、ちょっと太った女の子、はどちらもリナが食べることが好き、という同じことなんだよ。

リナは自分が太っていることを気にしている。自分の短所だと思っているんだね。

でも、同じ理由で、リナは下宿先に住むジョンとなかよくなるんだ。

コックさんであるジョンから見れば、リナがおいしいものが好きだ、ということはリナの長所なんだから。

ということは、長所と短所は、ほんとうはどっちも同じことだってこと。ただ見方がちがうだけでね。

それは霧の谷の人たちも同じ。彼らは変な人たちかもしれない。でもそのかわりに、ちょっとふしぎな、わくわくする人たちでもある。

君も自分の長所と短所についてちょっと考えてみてほしい。

よく考えてみたら、ほんとうはどっちも同じことだったりするんじゃないかな。

どこにも短所がない、なんて人はいないよね。ということは、どこにも長所がない、なんて人もいないってことなんだから。


さて、最後にクイズ。「霧のむこうのふしぎな町」ってどこにあるのだと思う?

正解は、どこでもないし、どこでもある。

霧の谷はこちらの世界から見たら、霧のむこうにあるんだ。でも、霧の谷から見たら、こちらの世界の方が「霧のむこうのふしぎな町」になる。

ちょっとおかしなことでも、それを「変だ」なんて思わずに「ふしぎだな」と思うみたいに、だれかの短所よりも長所の方を見ることができるようになること。

それができれば、だれでも霧のむこうに行けるようになるんだと僕は思う。

だって君が今いるこの場所だって、「霧のむこうのふしぎな町」なんだからね。

「放課後の時間割」 
岡田淳著 
偕成社文庫

ごぞんじなかろうと思うが、私は学校ネズミなんだ

「放課後の時間割」のこと

ある日、図工の先生は一ぴきのネズミとであいます。そのネズミは白衣をきていて、それに、なんと人間の言葉をはなすのです。

そのネズミによると、野には野ネズミがいるように、ドブにはドブネズミがいるように、学校には学校ネズミがいるそうです。

学校ネズミは図工の先生に、彼らのあいだでかたりつがれてきた物語をはなしはじめるのでした。

――――――――――――――

なにかこまったことがあったとき、みんなえらい人に相談しにいくよね。りっぱな先生とか、そういう人に。

そうするとりっぱな先生は

「ふむふむ、なるほど。そういうときはね、こうすればよいのだよ」

なんて、りっぱなことを言ってくれるので、

「あー、よかった。さすがたいしたものだ」

と言いながら、みんなでそうしてみようとするのだけれど、そういうのはきまってうまくいかなかったりするものなんだ。

これが空想ならおもしろいお話かもしれないけれど、現実だったらこまったこと。

えらい人やりっぱな人の話というのは、おしつけがましくて迷惑で、なによりもとにかく退屈なものだからね。

まるで学校の勉強みたいに。

だけど僕たちはだれでも成長すると、りっぱな話をしなければいけないような、そんな気になってしまうんだ。こまったことにね。

つまり、おもしろいことよりも、ちゃんとしたことを言わないといけない気がする。

でも残念ながら、ちゃんとした話というのはおもしろくないので、これまたこまったものなんだね。

つまらないけれどちゃんとした話をがまんして聞くのがおとなだったりするから、さらにまた、こまったことだね。

ということで、おとなになるとみんなつまらない話をするようになり、つまらない話をみんながまんしてきくようになるんだ。

とまあ、こんなにこまったことはないのだけれど、そのことをりっぱな先生に相談しにいくと、やっぱりそこでつまらない話をされるのでさらにさらにこまってしまうので、これはもう、本当に本当にこまったことなんだね。


さて、この本に書いてあることは、どこかへんてこな話ばかり。

だってこれは、ネズミたちの話なんだから。ネズミたちから見た、僕たち人間の話なのだから。

とてもおもしろいかわりに、とてもへんてこな話ばかりなので、それはそれでやっぱり、こまったことかもしれない。

だってやっぱり、みんながへんてこだったら、それもまたこまるからね。

君の学校にも、もしかしたら学校ネズミがいるかもしれない。

彼らはみんなが帰ったあと、いったいどんなへんてこな話をしているのだと思う?

人間のこどもたちは、つまらないべんきょうばっかりして、ほんとにこまったものだなあ、なんて、もしかしたら、そんなことかもしれないよ。

「魔法使いのチョコレート・ケーキ」 
マーガレット・マーヒー著 
福音館文庫

魔法ってものはな、そうやっておこるのさ

「魔法使いのチョコレート・ケーキ」のこと

あるところに魔法使いがいました。彼はあまり腕のよくない魔法使いなので、町の人たちから悪い魔法使いだと思われていました。

腕のよくない、というのは、彼はよくいる魔法使いのように火を自由自在にあやつったり、空を飛んだりすることができなかったからです。

そのかわり、彼はチョコレート・ケーキをつくることが得意でした。そこで彼は、チョコレート・ケーキをつくって町の人びとをお茶に招待しました。そうして町の人たちとなかよくなれるように。

ところが町の人たちはだれも来てくれません。「悪い魔法使いのつくったチョコレート・ケーキなんて」と、みんな思っていたからです。

しかたがないので彼はリンゴの木を植えて、その木の下で一人でお茶会をすることにしました。

そのとき魔法使いはふと思いつくのです。「そうだ、この木にちょっと肥料でもやろうか」と。

でも、ふつうに肥料をあげたらおもしろくありませんね。

そこで彼は肥料の粉でケーキをつくることにしました。そしてそれを木にやって、「もう一ぱい、つぎますかな?」なんて言いながら水をやるのです。

そうすると、たった一人でお茶会をしているのに、木といっしょにお茶会をしているような、そんな気分になれるのです。

たった一人のさびしいお茶会も、そうすれば楽しいお茶会になるのでした。

――――――――――――――

魔法、というのはふしぎなこと、現実ばなれしたことだよね。ということは、魔法が使える人というのはどういう人のことだと思う?

おれはね、現実をちゃんとわかっている、なにが不思議でなにが不思議じゃないか、ちゃんと知っている人のことなんだ。

この本のさいごのお話で、幽霊の女の子とであう男の子が出てくるのだけれど、幽霊の女の子はこう言うんだね。

「かんじんなのは、あのひとが、幽霊を見ても、それが幽霊だとわかるかどうかってことだわね」

もしも幽霊と出会っても、それが幽霊だとわからなかったら、幽霊と出会ったことにはならないよね。

魔法もそれと同じ。魔法使いや魔女になれる人は、それがちゃんと魔法だってわかってないといけないってこと。

だから魔法使いというのは、おじいさんやおばあさんばかりなんだよ。


この本にはいろいろなふしぎな話、たのしい話、ちょっとかなしい話があり、いろいろな魔法使いや魔女が出てくる。

魔法使いのお話や魔法のお話というのはたくさんあるけれど、僕はこのチョコレート・ケーキをつくるのが得意な魔法使いと、彼の魔法がいちばん好きなんだ。

なぜなら、彼こそが「本当の魔法使い」だとおもうから。

木に肥料をやり水をやる、というのはあたりまえの、ふつうのこと。

でも肥料の粉でケーキをつくり、「お茶でもそうぞ」と言いながら水をやるだけで、そのあたりまえのことがとても楽しいことになる。

そういうちょっとした、あたりまえだけど楽しいことは、だれだってまねしたくなるから、どんどんどんどん、やがて世界中に広がってゆくんだ。

僕はね、こういうのを、「本当の魔法」と言うのだと思う。

こういうことができる人が、「本当の魔法使い」なんだってね。

だってそれはとてもふしぎなことだとおもわないかな? だれでもできることなのに、だれでもやれば楽しいことなのに、だれもやっていないことを見つけることができるなんて。


本当の魔法使いは、火を自由自在にあやつったり、空を飛んだりするわけじゃないんだ。

だってそんなことは、本当のふしぎなんかじゃないからね。

だから僕は思うんだよ。君もそうやってあたりまえのふつうのことを、ちょっとした工夫で楽しいことにすることができれば、まだおじいさんやおばあさんじゃなくたって、魔法使いになれるかもしれないって。

でも「そんなの嘘だよ。そんなのは本物の魔法使いじゃないよ」って、君は言うかもしれない。

そう、この物語に出てくる魔法使いも、町の人たちにそう思われていたんだよ。

それが本当のことかどうか、その答えは君がこの本を読んでたしかめてみてほしいな。

「みどりのゆび」 
モーリス・ドリュオン著 
岩波少年文庫

こんなのおとぎ話だよ

「みどりのゆび」のこと

チトという男の子がいました。チトはふしぎな親指を持っていて、その親指でなにかにふれると、それがどんなところでも、花や、木や、草が生えてくるのです。

チトは刑務所や、病院や、動物園にたくさんの草花を咲かせます。そして町中に花があふれるようになりました。

ある日、チトはおとうさんが兵器を作って売っている人だと知ります。もしもその兵器がなければ、戦争は起こらないかもしれません。

そこでチトはふしぎな親指を使って、戦争を止めようとするのでした。

――――――――――――――

「星の王子さま」と同じように、この物語は子どもの目から見た大人のバカな様子をえがいたものなんだ。

子どもの方が賢くて、大人の方がバカだ、というと、なんだかへんな風に聞こえるかもしれない。でも、残念ながらこれは本当のことのこともあるんだよ。

大人になるということは賢くなってゆくことのように思うかもしれないけれど、大人たちの中には、その賢さとひきかえに、なにかを失ってしまう人がいる。

だからこういう物語があるというのは、とても大事なことなんだ。

なぜなら、大人の人がこの物語を読んだら、その失ったものに気づくことができるかもしれないし、子どもたちはこの物語を読んで、子どもだからできることに気づいてくれるかもしれないからね。

大人の人はよく、「ここは子どもなんかの出る幕じゃない」なんてえらそうに言うものだけど、そんなのは大まちがいなことが多いんだ。

子どもでも、やってはいけないことと、やらなくてはいけないことが分かる子がいるし、大人でもそれが分かっていない人が多いのだから。

そしてなにかこまったことがあった時、いちばん大変な思いをするのは決まって子どもたちなのに、大人の人たちはこまったときに限ってその子どもたちの声を聞こうとしない。おかしいよね。

政治のこともそう、お金のこともそう、戦争のこともそう。

大人の人たちは「まだ子どもにはわからないから」なんて言うけれど、本当は大人の人たちがいちばんわかっていないんだ。だからしつこく聞くと怒るんだよ。君も怒られたことがあるかもしれないね。

でもね、しかたがないんだよ。大人の人たちがわからないことは、子どもたちが自分たちで答えを見つけるしかないんだから。

たとえばチトのようにふしぎな力を持っていなくても、戦争を止めることができるのは子どもたちにしかできないのかもしれない。

そんなことを言うとね、きっと大人の人たちはこう言うんだ。「こんなのおとぎ話だよ」って。

でも、おとぎ話の方が実は本当で、本当らしいことの方が実はおとぎ話なんだよ。

大人になるということは、おとぎ話をバカにするようになることではないんだ。大人になるということは、おとぎ話のようなことができるようになる、ということなのだから。

なぜなら、本当に当たり前のことだけど、おとぎ話の方が楽しいし、わくわくするし、みんな幸せになるからね。

でも、なぜか多くの大人の人たちは、おとぎ話を本当のことにしようとしない。子どもたちにはおとぎ話をするのに、大人になったらそれを信じちゃいけないって思うんだ。おとぎ話を信じないのが大人なんだって。

だったらはじめからそんな話、しなければいいのにね。

ね、大人ってバカだと君も思うだろう?

「龍の子太郎」 
松谷みよ子著 
講談社青い鳥文庫

強さや賢さよりも大切なもの

「龍の子太郎」のこと

太郎という男の子がいました。太郎には龍のうろこのようなあざがあったので、「龍の子太郎」とよばれていました。

太郎にはお父さんとお母さんがいないので、おばあさんと二人で暮らしていました。

おばあさんは言います。「お前のお母さんは、龍になってしまった。お母さんはお前が強く、賢い子になって会いにきてくれるのを待っている」と。

太郎はいつの日か、強く、賢くなったら、お母さんに会いに行こうと心に決めます。

そんなある日、太郎はあやという女の子と出会います。太郎とあやはとても仲良くなりますが、鬼があらわれてあやをさらっていってしまいます。

そこで太郎はあやを助けるため、旅に出るのです。

――――――――――――――

強くなりたい、賢くなりたい、というのは、みんな思うことだよね。

でも、強くなる、賢くなる、ってどういうことだと思う?

ただ強いというだけなら、鬼だって強いし、鬼だって賢いかもしれない。

だったら、鬼よりも強くなることが、鬼よりも賢くなることが、強くなることや賢くなることなのかな?

僕はね、強さや賢さには二種類あると思うんだ。

一つは誰かに勝てる、という強さや賢さ。でもね、そういう強さや賢さは、誰かをバカにしたり、誰かをだませるようになることと同じだったりする。

強くなることや賢くなることで、まるで鬼のようになってしまうことがあるんだよ。

じゃあ、どういう人が鬼のようになってしまうんだろう。鬼はどこからやってくるのだと思う? どこか遠い国から?

僕は思うんだ。鬼はきっと、いちばん近いところからやってくるんだって。いちばん近いところ、というのは、つまり僕たち一人ひとりの心の中。

つまり、気をつけていないと僕も鬼になってしまうかもしれないし、君も鬼になってしまうかもしれないってこと。

君がケンカに強ければ、君はいばった鬼になるかもしれない。君が勉強をよくできるのなら、君はずるい鬼になってしまうかもしれない。

鬼よりも強くなれば、鬼よりも賢くなれば、鬼を退治することができるようになるかもしれないけど、でも、その人は鬼よりも強い鬼なのかもしれないし、鬼よりも賢い鬼なのかもしれない。

もしも鬼よりも強くなったとしても、自分がその鬼よりも強い鬼なのだとしたら、意味がないよね。

龍の子太郎のお母さんが龍になってしまったように、だれだって人間じゃないものになってしまうかもしれないんだ。たとえば鬼とか、龍とか。

でも、太郎はどれだけ強くなっても、どれだけ賢くなっても、鬼にもならないし、龍になったりもしなかった。

どうしてだと思う?

それは心の中に、強くなることよりも、賢くなることよりも大事なものをもっていたからなんだよ。

その大事なものって、なんだと思う?

その答えは、この物語の中にある。だって龍の子太郎の冒険は、それを見つけることだったんだからね。

「飛ぶ教室」
エーリヒ・ケストナー著 
岩波少年文庫

特別なジグソーパズル

「飛ぶ教室」のこと

ドイツのある学校に五人の少年たちがいました。

作家になりたい夢をもっているジョーニー、正義感が強くて絵が上手なマルティン、弱虫でおくびょうなウーリー、ケンカが強くていつもお腹をすかしているマッツ、そして、いつもむずかしい本を読んでいるゼバスチアン。

彼らは学校の寮で暮らしていました。時には上級生や、ほかの学校の生徒たちとケンカをしたり、いたずらをして先生にしかられたり。

もちろん楽しくくらしてはいるけれど、それぞれ人に言えないような悩みもあったり。

これは、そんな彼らのあるクリスマスの物語です。

――――――――――――――

この物語にはとても長い前置きがあるんだ。あまりに長いので、なかなか少年たちの話が始まらないくらいにね。

でも、この前置きはちゃんと読んでほしい。そこには、とても大事なことがたくさん書いてあるのだから。

それに、作者の気持ちがたくさん詰まっているから、きっとその気持ちが伝わるだろうと思うんだ。

その前置きで、作者はこう言うんだ。

「かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません!」

ただ勇気があるだけじゃダメなんだよ、ただ賢いだけじゃダメなんだよ、ということ。

それってどういうことだと思う?

それは、君が誰かのためにできることはなにかを考えなさい、ということ。

たとえば、大人が子どもたちにしてやれることがあるよね。でも、同じように、子どもたちが大人にしてやれることもあるはず。

先生が生徒たちにしてやれることがあるのと同じように、生徒たちが先生にしてやれることもあるんじゃないかな。

友達どうし、おたがいになにかをしてもらったりしてあげたりするのと同じようにね。

子どもだからとか、生徒だからとか、勉強ができないからとか、ケンカが弱いからとか、びんぼうだからとか、なにか問題があった時、そういう、自分は○○だから、っていういいわけを僕たちはよくしてしまうもの。

誰かに対しても、自分に対してもね。

でもそういう態度は、賢さのある勇気でも、勇気ある賢さでもないんだ。

勇気をもつということは、自分の強さを知ること。賢くなるということは、自分の弱さを知るということ。

そしてまた、勇気をもつということは、誰かの強さを知るということでもあり、賢くなるということは、だれかの弱さを知ることでもある。

自分にはほかの人にはない強さがあり、ほかの人にはない弱さがあるよね。ということは、ほかの人には自分にはない強さがあり、自分にはない弱さがあるということ。

まるで、ジグソーパズルみたいにね。

つまり、みんなそれぞれ、特別な形をしたジグソーパズルのピースなんだよ。

でも、だからと言って、自分はこの形なんだからこれでいいんだ、だれかが合わせてくれたらいいんだ、ということではないんだ。

それぞれの特別な形のジグソーパズルを、どうやったらきれいに組み合わせられるかな、ということが大事なのだから。

君というジグソーパズルは、君の強さの証なんだ。

そして君が自分で少し向きを変えてみたら、誰かのピースとぴったり合うかもしれない。それを知ることが、君の賢さなんだ。

だれかが少し向きを変えて、君のピースに合わせようとしてくれているかもしれない。だとしたらそれは、そのだれかの勇気と賢さなんだ。

そうやってそれぞれが自分の勇気と賢さを使えば、一枚の大きな絵ができあがる。

ジグソーパズルのピースだけだと、どんな絵になるか、わからなくても、たくさん組み合わされば、その絵がどんな絵かわかるようにね。

この物語は、そんな風にしてできあがった一枚の絵のようなものなのだと、僕は思うんだ。

「クローディアの秘密」 
E.L.カニグズバーグ著 
岩波少年文庫

「むかし式の家出」なんて絶対できないわ

「クローディアの秘密」のこと

小学六年生の少女クローディアはある計画をねっていました。それは兄弟の中で一番お金持ちの弟ジェイミーをさそって家出をすること。

クローディアは家庭での不公平な待遇(「お姉ちゃんだからがまんしなさい!」みたいなね)や、同じことのくりかえしの毎日に、あきあきしていたのです。

でも、クローディアは「むかし式の家出」なんて絶対できないわ、と思いました。クローディアは不便なこととか、不潔なことにはとてもたえられないのです。

だから彼女は、どこかに逃げ込むことにしました。どこか大きな場所、気持ちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所。

そこでクローディアはジェイミーをつれて、メトロポリタン美術館という大きな美術館に家出をするのです。

――――――――――――――

「家出」をすること、もしかすると君も、そんなことを考えたことがあるかもしれないね。

もし考えたことがないとしたら、これから考えることがあるかもしれない。

「家出」というのはとても深刻な問題なんだよ。ちょっと「おでかけ」するのとは違うのだからね。

「家出」と「おでかけ」の違い、それは「家出」の場合、帰る理由が必要だ、ということ。

なぜ「家出」をするのか、ということについては、たいした理由なんて必要ないのかもしれない。でも、もしも家出をして、運よく誰にも見つかることがなかったとして、どこかでそれを終わらせて家に帰るとき、そこにはなにか大きな理由が必要となるんだ。

なぜなら、もしもなんの理由なしに帰ったとしたら、それは「家出」ではなく「おでかけ」になってしまうから。

クローディアはこう言うんだ。

「でもそれじゃ、ちがったところがないの。天使のことについてはっきり知りもしないで、うちに帰れば、あたしたち、もとのあたしたちになっちゃうのよ。あたしはもとのまんまで帰るために家出したんじゃないの。」

クローディアが見つけた家出を終わらせる理由、それが「クローディアの秘密」だったんだ。


自分の中に秘密を持つこと、それは家族という場所や学校という場所の中で自分が自分であるという理由を見つけることでもある。

なぜなら、君が君だけの秘密を持っているということは、君がお父さんでもお母さんでもなく、学校の先生でもクラスメイトでもない、ということだから。

「家出」の「家」というのは、お父さんやお母さんのいるところ。でも、僕たちが生きていくうえで「家」と呼べる場所はきっと一つだけじゃなくて、いくつも増やしていくことができる。

「おかえり」と言ってくれる人がいるところ、たとえ血がつながっていなくとも、たまにしか訪れることがなくても、あるいは誰も「おかえり」と言ってくれる人がいなかったとしても、その場所に戻った時に「帰ってきた」と感じられる場所があれば、そこは「家」なんじゃないかな。


クローディアとジェイミーが家出をして手に入れたもの、それは「秘密」だけではないんだ。

それは新しい家族、新しい「家」、新しい場所。


僕たちが誰でも一度は「家出」を考える理由、それはもしかしたら、最初の「家」があらかじめ用意されているからかもしれない。

実行するにしろしないにしろ、そうして考えることで僕たちは「家」を本当の意味での「家」にすることができる。家族の一員でありながら、同時にたった一人の存在である自分として。

そして僕たちは学校だったり、職場だったり、趣味の場だったり、そういうほかの場所にも「家」をつくっていくんだよ。いろんな人に「おかえり」と言ったり、言ってもらったりして。

なぜなら、僕たちは誰でも、孤独に生きる存在なのだから。

孤独だからこそ、ひとりで生きていくことはできないのだからね。

「ぼくがぼくであること」 
山中恒著 
岩波少年文庫

たった一人の僕と、僕たちの中の僕

「ぼくがぼくであること」のこと

秀一は小学六年生の勉強が苦手な男の子です。

家族はみんな優秀で、お母さんからはいつもしかられて、そんな家がいやになって、秀一は家出をします。

ひき逃げ殺人事件に遭遇したり、夏代という少女と出会って恋をしたり、そんな様々な経験をして、秀一は家へ帰ります。

家出の経験は秀一を少し大人にし、秀一が少し大人になることで、秀一の家族もまた少しずつ変わってゆくことになるのです。

――――――――――――――

大きくなったら、今よりもたくさんのことができるようになる。もしかしたら、君はそんなことを思っているかもしれない。

だとしたら、半分は正解だけど、半分は間違い。

今よりも成長したら、確かに今よりもできるようになることは増える。でも、それ以上に増えることがある。

それは、やらなければいけないことと、やらなければいけないのにできないこと。

だから君は成長するにつれて、あれができない、これができないといって思い悩むことになる。

そこで、「でもこれが自分なのだからこれでいいんだ」と思うこともできる。まあ、きっと、最後にはそう思うしかなくなる。

でもその前に、そういうことになってしまう世の中の仕組みについて、ちょっと考えてみるのもいいかもしれない。

君はこれまで、「君たちはみな一人一人が特別な存在なんだよ」と言われてきたと思う。僕もこの本のどこかでそんなことを言ったような気がするからね。

でも、君は知っているよね。たとえば、勉強が苦手でも、学校に行ったら勉強をしなきゃいけないし、運動が苦手だったとしても、体育の時間には運動をしないといけないってことを。

自分が苦手だと思うことがあったとしても、現実にはそれを避けて通るわけにはいかないんだ。

なぜなら、僕たちは自分という特別なたった一人の存在であるのと同時に、家族の一員だったり、クラスの中の一人だったりするのだから。

つまり、大勢の中の一人として僕たちには役割が与えられていて、その役割は僕たちが自分で決めることができるものではないということ。

自分の役割について自覚できるようになった時、その与えられた役割と、本当の自分との間で、苦手なこと、できないこと、やりたくないことが増えていく。

このことは、大人になっても変わらないよ。むしろ、大人になればなるほど増えていく。

僕たちは、自分が生まれようと思って生まれてきたわけではないよね。僕たちが自分でお父さんやお母さんや兄弟たちを選んで生まれてきたのではなく、生まれてきたらもうそこに彼らがいたんだ。

僕たちが生まれてきたとき、学校はすでにそこにあって、学校に行かなければいけないことになっていたし、学校に行ったら先生や、クラスメイトはあらかじめ決められているんだ。

にもかかわらず、僕たちは家族の中の一人として、クラスメイトとして、学校の生徒として、社会の一員として、やらなければいけないことがあって、それができなかったら誰かから責められたり、バカにされたりする。

それはおかしなことだと思うかもしれない。

でも、みんなそうなのだから仕方がない、というのもまた事実。

どちらにしろ、君はこれからやらなければいけないけれどできないことを、少しでもできるようになってゆくしかない。それでもできないことに関しては、誰かから責められたり、バカにされたりする覚悟で生きていくしかない。

それが、君が君であること。君が君である覚悟。

君が君として特別な存在であると同時に、君は社会の一員であるということ。そんな矛盾した二つのことを自分の心の中で整理しなければいけないし、その心の整理は君が自分でやるしかないんだ。

その心の整理ができている人ほど、もしかしたら誰かに対して優しくなれるのかもしれない。

なぜなら、君以外の誰かもまた、同じ矛盾を抱えているのだから。

君が君であることは、誰かもまた誰かである、ということでもあるのだからね。

「太陽の戦士」 
ローズマリ・サトクリフ著 
岩波少年文庫

強くなることは、かっこいいことじゃない

「太陽の戦士」のこと

はるか昔、まだ機械もなかった頃。イギリスのある村に、ドレムという男の子が住んでいました。

ドレムは片腕が不自由だったので、おじいさんから一人前の戦士にはなれないと言われます。

戦士になるには仲間たちの前でオオカミを殺さなければいけません。それができると戦士として認められ、もしできなかった場合は、村から出ていかなけれならないのです。

ドレムは仲間たちとともに修行の日を終え、オオカミ殺しに向います。

しかしドレムはオオカミ殺しに失敗してしまい、村から追い出されてしまうのです。

ドレムはいったい、どうなってしまうのでしょうか。

――――――――――――――

もしも、君が生きていくうえで、どこかに自分の居場所がちゃんと用意されている、なんてことを思っているのだとしたら、それは大間違いなんだよ。

だってよっぽど運がよくない限り、誰も人のためにわざわざ席を空けておいてはくれないんだからね。

自分の居場所をつくるには、自分でなんとかするしかないんだよ。たとえば、自分の力をまわりに証明するとかしてね。

この物語の中で、主人公のドレムは片腕が不自由なのにもかかわらず、仲間の中での自分の居場所をつくっていく。

同じように僕たちも、学校に入学するために、学校の中のテストで、就職するための試験で、仕事の中で、という風に、ずっと死ぬまで自分の居場所をつくるための戦いをくりかえしていかなくてはいけないんだ。

そう考えたら、なんだかうんざりしてしまうかもしれないね。

でもね、それはただ辛いばかりではないんだ。

だって、死ぬまで続くということは、どこかで結果が出るわけじゃないということでもあるんだから。

いつも、どんな時でも、そこはまだ戦いの途中。生きている限り、どこかで負けが決まってしまうことはないのだからね。


君はもしかしたら、「強い人」をかっこいいと思うかもしれない。

でもその人は、かっこいいと思われるまでは、ずっとずっとかっこ悪かったってことは、忘れちゃいけない。

なぜなら、強くなるということは、人から笑われたり、バカにされたりという、かっこ悪いことの繰り返しの先にやってくる結果なのだから。

最初からなんでもできる人なんていないし、なかなか上達しないことだってあるんだからね。

人は人の弱さを笑うもの。でも、そうして笑ったところで自分が強くなるわけではないんだ。

そのことを知っている人は、人を笑ったりバカにするよりも、自分が笑われたりバカにされたりすることを選ぶんだよ。そうやって強くなることをね。

だから、もしも今かっこ悪いのならば、それは強くかっこいい自分へつながる道の上にいるということ。

ドレムが憧れる戦士タロアは、こう言うんだ。「道はある――まわり道もあれば、ぬける道もあるし、こえていく道もな」と。

大切なことは、道の上に立ち、歩き始めること。それがどんな道であろうとも。

自分が自分の道の上をちゃんと歩き続けている、そう思えるのなら、誰に何を言われたところで、気にすることはないんだよ。

失敗することも、失敗しても何度もチャレンジすることも、かっこいいことじゃないかもしれないけれど、そういうことを繰り返した人だけが、本当に強い人、かっこいい人になれるのだから。

「モモ」 
ミヒャエル・エンデ著 
岩波少年文庫

時は、花なり

「モモ」のこと

とある町の外れの円形競技場跡に、一人の少女が住んでいました。

彼女の名前はモモ。彼女には家族もなく、どこから来たのかも分かりません。

モモはまだ子どもなのに、たった一人で暮らしていました。困ったことがあれば、町の誰かが助けてくれたからです。

もちろん、モモも何かをしてもらってばかりではありません。彼女もまた、町の人々の役に立っていたのです。

といっても彼女にはお金もなければ知恵もありません。ただ、彼女はありあまる時間を持っているだけ。

そして(これが何より大切なことですが)モモはその時間を誰かのために使うことを、少しも「もったいない」とか、「ムダだ」なんて思わないのでした。

だから町の人々は困ったことがあるとモモのところへ行きます。

するとモモは何も言わず、ずっと話を聞いてくれるのです。

そうすると不思議なことに、モモが何も言わなくても、だれもが問題を自分で解決することができるのでした。


さて、そんな町にある日、あやしげな男たちがあらわれます。

彼らは灰色の顔をして灰色のスーツ、口には葉巻をくわえていました。

男たちは町の人々に言います。

「あなたたちはまったく時間をムダにしている! なんてもったいない! さあ、みなさん、われら時間貯蓄銀行へあなたの時間をおあずけください! 時は金なりですぞ!」

そんな彼らにすっかり説得されてしまった町の人々は、みんな時間を節約し、そのかわりに豊かな生活を手に入れてゆきます。

だけど、時間を倹約しているのにも関わらず、むしろそうすればするほど、人々はいっそう忙しくなっていくようです。

なぜなら、時間貯蓄銀行の男たちは、人々が節約した時間をすっかりうばっていたからです。

これではいけない! モモは亀のカシオペイアとともに、時間を管理するマイスター・ホラの元に向かうのでした。

――――――――――――――

「時は、金なり」という言葉を聞いたことがあるかな?

お金持ちになりたければ、時間がお金であることを知りなさい。

そういう意味の言葉なんだ。

この物語の作者ミヒャエル・エンデは、「でも、そうじゃないんじゃないかな」て、この物語で言おうとしてるんだ。


時間がお金のようなものであるならば、時間をためることもできるはず。そしてそれを運用する(上手に使って増やすこと)こともね。

だけど世の中には時間を節約する方法はたくさんあるのに、そうして生まれたはずの「余った時間」の使い方については、誰も教えてくれないよね。

それどころか、誰もがみんな、時間を節約すればするほど、もっと忙しくなっていくものなんだ。

まるで時間を節約しているというよりも、むしろ時間をうばわれているみたいにね。

もしも時間がお金なのだとしたら、自分の時間は自分のためだけに使うのが一番いいよね。人のために時間を使うなんて、もったいないよね。

そして、誰かの時間をうばう人が、一番賢い人、ということになってしまう。


でもね、この物語の作者は「そうじゃないよ」と言っているんだ。

でも、そうじゃないとしたら、時間とは一体どのようなものだと思う?

モモはマイスター・ホラの元で「時間」を見るんだ。そして、思わずこう言う。

「あたし、ちっとも知らなかった。人間の時間があんなに……」――ぴったりすることばをさがしましたが、見つかりません。しかたなく、こうむすびました――「あんなに大きいなんて」

モモは片手に一輪の花を持って、みんなの時間をうばった灰色の男たちを追跡する。

それはモモの花。モモの、自分だけの時間の象徴としてね。

どうしてモモは花を持って男たちを追っかけるんだろう? それはね、作者がこう言いたかったからなのかもしれない。

「時間は、お金じゃないよ。花なんだよ」って。


花が咲くためには、肥やしがいるよね。

そして花に肥やしをやれば、その肥やしはやがてなくなってしまう。すぎさった時間がもうとりもどせないように。

その肥やしはどこかに消えてなくなったのではなく、花の中に栄養となって残っているんだ。

もちろん、肥やしだけたくさん持っていても仕方のないこと。花を育てるには、土が必要だね。

でも、それだけじゃない。

肥やしと土があっても、花は、それだけでは咲くことはできない。

太陽の光とか、水も必要だよね。

つまり、花が咲くためには、肥やしとか、土とか、太陽とか、水とか、そういう、どこか外の世界から与えてもらういろんな力がなければいけないんだ。

時間というのがもしも花のようなものだとしたら、どうだろう?

花が外からのいろんな力を与えられることできれいな花を咲かせることができるように、だれかに優しい言葉をかけてもらったり、だれかに何かをしてもらったり、そういうことがあってこそ、君のもっている時間は「思い出」という花を咲かせるのだとしたら。


時間はだれにとっても同じだけど、その同じ時間の中で、僕たちは花を咲かせることもできるし、花を枯らすこともできてしまう。


君の時間は、一体なんのためにあるのだと思う?

上手に使うため? それとも、いっぱいためるため?

そうじゃないよね。きっと、こういうことのためにあるんだと思うよ。

それは楽しい思い出という花を咲かせるためにあるんだって。自分のためだったり、誰かのためにね。

ホビットの冒険 上下 
J.R.R.トールキン著
岩波文庫

ドラゴンと戦う勇気

「ホビットの冒険」のこと

中つ国という不思議な世界に、ホビット庄という村がありました。そこには「ホビット」という、大人でも身長が120センチほどしかないような、そんな小人たちがのんびりとくらしていました。

そのホビット庄にある大きな家、袋小路屋敷の主人ビルボ・バギンズのところに、ある日魔法使いのガンダルフが訪れます。

ホビットというのはみんなのんびりすることが好きなのです。冒険とか、イチかバチかとか、そんなのは大っ嫌いです。だからビルボもそう思っていました。

ところが、ガンダルフにそそのかされてしまい、ビルボは十三人のドワーフ小人たちと、はるか西のかなた、はなれ山に向かうことになります。

なぜなら、かつてはなれ山にあったドワーフたちの王国が、恐ろしいドラゴンのスマウグによって滅ぼされてしまい、その宝の数々も奪われてしまったからです。

十三人のドワーフとビルボ、合わせて十四人の小人たちは、はたして無事はなれ山にたどりつき、スマウグをうちやぶることができるのでしょうか――。

――――――――――――――

君はもしかしたら、ドラゴンのようなモンスターと戦うゲームをしたことがあるかもしれない。

そういうゲームって、強いモンスターと戦うためにはレベルを上げないといけないよね。

でも、この物語はちがうんだ。

ビルボも、ドワーフたちも、この物語の中では決して、ドラゴンを倒せるくらいに強くなることはできない。だって、彼らはどんなに強くなったって、小人なのだから。

だからこの物語は、ゲームで言えばずっとレベルが上がらないゲームみたいなもの。ずっとレベルが上がらないのに、どんどん強い敵があらわれて戦わないといけない、そんなゲームなんだ。

「そんなゲーム、つまらないよ!」って、そう思うかもしれない。

でもね。僕はもしかしたらこの物語の方が、ゲームよりもずっと現実に近いんじゃないかって思ってるんだ。


君はきっと、大きくなったら今よりももっと強く、賢くなる。それが成長するってことだよね。

だけど、覚えておいた方がいい。きっと君はこの先いつだって、まだじゅうぶんな強さじゃないときや、まだじゅうぶんな賢さじゃないままで、現実と向き合わないといけないってことを。

現実ってね、結構そんなことの連続なんだよ。残念ながら。


君は多分この先、ホビットやドワーフが弱い小人でしかないのに強いドラゴンを戦わないといけないような、そんな戦いを、学校を卒業して大人になったらしないといけなくなる。

もちろん、それはずっとずっと先のことだろうけれど。

君のまわりにいる大人たちの誰ひとりとして、自分がじゅうぶんに強いと思っている人なんていない。自分がじゅうぶんに賢いと思っている人なんて、誰もいないんだ。

つまり、大人はみんな小人のような気持ちで、働いたり、生活したりしているってこと。

この世界の大きさに比べたら、自分なんて、本当にちっぽけな存在なんだからね。


でも、それでも僕たちは、大人も子どもも、みんなその、自分よりも大きな世界と立ち向かっていかないといけないんだよ。この物語の中でホビットやドワーフがドラゴンに立ち向かうのと同じように。


勇気とか、生きる力というのは、そういうことだと思う。

そして、そういう勇気をもつことは、強くなることや賢くなることよりももっと大切なことだと、僕は思う。

そういう勇気をもっていれば、ホビットだってドラゴンと戦って勝つことができるかもしれない――とっても運が良ければ、だけどね。

それが、この本を君にすすめる理由。

だから、もしもこんなに長い話を読むなんて無理! なんて思うとしたら、最初からあきらめたりしないで、最後までこの物語を読みきってほしいな。

ホビットやドワーフのような小人がドラゴンを倒すために旅に出るように、君もこの物語という旅を最後まで終わらせることが、きっとできるはず。

そしてもしも無事に旅を終えることができたら、多分その時は、少しくらいレベルが上がってるかもしれないからね。

「魔女の宅急便」 
角野栄子著 
福音館文庫

あたし、心配なんてしてないわ。心配はおきたときすればいいのよ。

「魔女の宅急便」のこと

十三才になった魔女のキキは、生まれ育った村を離れて旅立ちました。魔女はみんな、十三才になったらそうやって独り立ちするものなのです。

コリコという町で暮らすことにしたキキは、グーチョキパン屋というパン屋さんの物置を借りて暮らし始めます。

そしてこの町でキキが暮らすために始めた仕事、それが宅急便だったのでした。

――――――――――――――

なにか新しいことを始める時、そういう時って期待に胸がふくらむ一方、不安で胸がはちきれそうになったりするよね。

僕はなにか新しいことに挑戦するとき、決まって読み返したくなる本があるんだ。それがこの、「魔女の宅急便」。

この物語はアニメにもなっているから、知っている人も多いかも知れない。

キキは十三才の女の子らしく、都会にあこがれていた少女だったんだよ。だけどそうして選んだコリコの町は、確かに便利で、おしゃれな町だったのだけれど、でもその一方でその町は都会だからこその冷たさも持っているんだ。

もちろん、そんな町でも心の温かい人もたくさんいるのだけれどね。おソノさんのように。


僕がこの本が好きなのは、自分の中でずっと大切にしておきたい言葉が、この作品の中にはたくさん入っているから。

たとえば、なにかを始めようと思っても、どこか不安なときは、こんな言葉。

「あたし、心配なんてしてないわ。心配はおきたときすればいいのよ。今は、贈りもののふたをあけるときみたいにわくわくしてるわ」

なにかを始めてみて、思ったとおりに行かなかったり、孤独を感じたりしたら、この言葉。

「あたしね、もうすこしこの町にいようかと思ってるの。思ったようには歓迎されなかったけど、パン屋のおばさん、あたしのこと気にいってくれたでしょ。もしかしたら、もうひとりか、ふたり、気にいってくれる人がいるかもしれない、そう思わない?」

始めたことがうまくいって、つい天狗になりそうだったらご用心。誰かに嫌われちゃうかもしれないからね。そんなときにはこの言葉。

「下手になったらすかれるなんて、おかしなこと。かあさんもここまでは気がつかなかったみたい」

そうしてなにか夢中になっているうちに、気がつくと新しく始めたことはいつの間にか当たり前のことになってゆく。成長するってそういうこと。そんな風に自分が成長していることに気づいたら、ジジのこんな言葉もいいね。

「まあまあ、上等じゃないの」

十三才は人生のうちでたった一度しか訪れない。でもね、なにか新しいことを始めるときって、いくつになってもみんな十三才のときの、あの不安と期待で胸がいっぱいになっていたことを思い出すものなんだよ。

だからこの本は僕にとってとても大切な本。きっとこれから先も、一番大切なことはこの本の中に書いてあるような、そんな気がしているんだ。

12冊の本の話

2017年5月5日 発行 初版

著  者:哀愁亭
発  行:百町書林

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