spine
jacket

「……きみたちは、お互いに相手の真意を読み合う。それは、それがいつも隠されているからだ。……きみたちは暗号を作って、しかし、肝心要のKeyを密かに何処かに隠す。そうして、自らの真意を他者の眼から遠ざけておく。それでいて、答えであるところの真意が誰かしらに見つけ出されることを愉しみに待つんだ……」――猫虫

 猫虫のオブジェクションは、救いなのか、災いなのか。
 みどりというミステリアスな女と、猫虫の登場によって混迷を極める、主人公、純を巡るものがたり。












Cover illustration & designed
by
KOJI.








NEKOMUSHI

Ⅰ 猫虫かく語りき

Ⅱ 抜け殻

Ⅲ 高飛車屋事件

Ⅳ うふふ鉄道

Ⅴ ネメシス

Ⅵ 家ねずみ

Ⅶ 占い師

Ⅷ 蛇と玉と裸婦

Ⅸ 白拍子

Ⅹ ユリカモメの落日









       猫虫



  Ⅰ 猫虫かく語りき



﹁あの女のことを哀れんだところで仕方がないさ」と猫虫が言った。
﹁あの女、って?」
﹁無神経な色気ババアのことさ。気に掛かっているんだろ?」
﹁ああ……それは確かに。だって、彼女の言うことも、態度も、あれはちょっとふつうじゃないから」
﹁それは、ふつうじゃないようにきみに見せ掛けているからさ……いいかな?」
 猫虫はダイニングテーブルの上の煙草の箱とZippoライターを指差して、確認した。
﹁どうぞ」
﹁どうも」
 猫虫は箱から煙草を一本取り出して火を点けると、旨そうに吹かし始めた。
﹁あの女に関わって、良いことは何一つないよ。これまでもそうだったろう? これから先だって同じさ」
﹁……かもしれないね」
﹁じゃあ、何故、いつも相手をする?」
﹁向こうから話し掛けてくるんだから、仕方がないじゃないか」
﹁無視してればいいじゃないか」
﹁それが、いつも何かしら相談ごとやら、助けを求めてくるんだ」
﹁だから、それが、あの色気ババアの遣り口だって……」
﹁きみは彼女の何を知ってるって言うんだ?」
﹁何もかも知ってるよ。それはぼくが知ろうと思えば、の話しだけどね。だって、ぼくは猫虫だからね」
 猫虫は指で挟んだ煙草の先を灰皿の縁にトントンと当てて灰を落とすと、また深く一服吸って、話を続けた。
﹁まあ、きみの性向からして、ああいう輩を排除しきれないのは、長年きみの猫虫をやってきたのだからぼくも解らないではないさ。しかし、今回も深入りは禁物なのはきみにもよく判っていることだと思うのだけどね」
﹁深入りしようなんて思ってはないさ」
﹁ああ、思ってないだろうな。でも、向こうが引き入れてくるのさ。きみはいつもうっかりそれに乗せられる。だから、こうしてぼくが注意喚起している。いいかい? 海岸や川岸の底は、何処も彼処も浅瀬から徐々に深みへとなだらかに形成されているわけではない。水流の影響で浅瀬が突如として深みになっていることはよくあるものだろう? それが極自然にあることなんだ。テレビのニュースでもよくやってるじゃないか、一見、危険そうには見えない何処にでも在るような川で、毎年、夏休みには必ずと言っていいくらい、無邪気に水遊びをしていた少年少女たちのうちの何人かが不幸にも溺れて命を落としてしまうんだ。それは彼らが無知故に川底の形をなだらかに傾斜しているものと決めつけてしまって、状況判断を誤ったから、つまり、危機回避を怠ったから、と……」
﹁テレビのニュースのことも知ってるのか」
﹁ああ、この世界にぼくが知らないことはないさ」
﹁まあ、きみの喩えはいつも理にかなっていると思うよ」
﹁川底の話しの続きだけれどね、川遊びをしていた子どもたちがそんな深みに落ちて溺れてしまったのは、ただ彼らが状況の見極めを誤ったからというだけではない。いや、或る程度の見極めはできていただろうね、子どもなりにね。つまり、其処に在る危険は承知だった筈だ。大人の言うところのリスク管理ってやつかな。だから、こういった事例は第三者的にはアクシデントとして認識される。不慮の事故と。……さて、実のところの問題は、それが子どもであれ大人であれ、人間族がそういった危険へと導かれる何らかの誘惑に抗うことができない性質を持っている、というところなんだ」
﹁ああ、なるほど。それはそのとおりかもしれない。でも、彼女の件に関する限り、そういった例に当て嵌まるとは思えないし、第一、これから先のぼく個人の未知の先行きをきみの自分勝手な邪推で以て決めつけて否定されるのもどうかと思うけどね。それに、これは水の中の話じゃない」
﹁ふっ!」
 猫虫は吸いかけていた煙草を口から放すと、肺に到り損ねた煙を吐いた。
﹁邪推ときたか。おいおい、きみはこれまでもやらかしてきたじゃないか。きみはいつもそれを解ってた。それでも逃がれることができなかった。結局、そういうことじゃないのかい?」
﹁これまでのことはこれまでのことさ。これから先のことは単なるきみの憶測に過ぎないだろ? それとも、それには何か確信でもあるのかい? あれやこれやと理由付けをして推測するのは邪推ってもんじゃないのかな?」
﹁やれやれ、お人好しもいい加減にしてくれよ……」
 煙草を灰皿に押し付けて、その火種を消しながら猫虫が言った。
﹁今夜は話が少し長くなりそうだから、あれをくれないかな?」
﹁ああ、いいよ」
 ぼくはキッチンに行くと、数袋常備してある珍味の袋の封を切って、その中身を山なりに皿に盛った。︿やわらかイカフライ〉が猫虫の大好物だった。その皿をテーブルに置くと、それを見たとたんに猫虫はただでさえ大きなその猫目を更に見開いて、舌舐めずりした両手――前脚と言うべきか――の先で、両頬から横向きに伸びた洞毛を丁寧に繕った。猫虫はいつもこの珍味を摘みながら、たっぷりライムを絞ったジンをちびちびやるのだった。猫虫にとっては、やわらかイカフライは日本国内生産の︿株式会社北加伊島水産〉加工製造品でなくてはならなかったし、ジンは正真正銘の︿Plymouth Gin〉でなければならなかった。けれど、煙草の銘柄には猫虫はまったく拘らなかった。
 ぼくはライムの絞り汁を入れたグラスを二つと、開封したばかりのプリマス・ジンのボトルを持って、猫虫の待つテーブルの席に戻った。
﹁ありがとう。いただくよ」
 猫虫はやわらかイカフライを口に運んでは目を細めながらゆっくり咀嚼して、その味と歯触りを一頻り楽しんだ。そして、続け様にジン・ライムを二口、クイクイと呷って、そのグラスをテーブルに置くと、幾らか満足したように言った。
﹁いいだろう、あの無神経に過ぎる、非礼で卑しくも無知な、下品極まりない、あの色気ババアについて、この際、二人でとことん考察と議論を極めてみようじゃないか。あの女自身にその値打ちがあるかどうかは別としてね」
﹁まるで糾弾だな」とぼくは文句を言ったが、猫虫はそんなぼくの苦言はまったく意に介さない様子で、﹁うーん……ライムが少し足りないように思うよ。それに、きみには用心というものが常に足りない」と切り返した。
 猫虫に催促されて、冷蔵庫からライムを一個取り出しに、ぼくはキッチンに移動した。
﹁一体、きみはあの色気ババアに女性としての魅力のようなものを感じているのかい?」
﹁正直に言って、彼女にその魅力に欠ける部分があるとしたら、それは彼女の性格そのものと言えるかもしれないね」と、ぼくはキッチンで二つめのライムを切り、その半切りを絞りながら応えた。
﹁おいおい、ぼくに対してそんな回り諄い言い方をすることはないじゃないか。……つまり、きみはあの女を女性として認めている。そして、異性として、きみに対する何らかの可能性を見出してもいる、ということなのか?」
﹁否定はしないよ。ただし、その可能性は極めて低いし、それに、断っておくけど、これまでぼくはそんな風な異性に対する欲望を彼女に対して抱いてつきあってきたわけではない」
 テーブルに戻ると、猫虫のグラスに氷を足して、その上からライムの絞り汁をたっぷり注ぎ足した。
﹁ああ、そうだろうさ……プリマスも、もう少し……しかし、きみはあの色気ババアを通して別のものを見ようとしている」
 猫虫はその手に持ったグラスを掲げて、中の氷を見つめながら言った。
﹁ほら、凍って塊だった氷も溶け出すと、ジンと見た目は同じ無色透明の液体となって、こうして互いに混ざり合ってゆくじゃないか。これじゃ済し崩しってもんだ」
 そのグラスを口に運んで、猫虫はジン・ライムをクイクイとやって、テーブルに置いた。
﹁これは、猫虫として言うのだけどね……」
 猫虫はいつだって猫虫だ。彼がそうでなかったことなど一度たりともない。
﹁……きみにとっては幸か不幸か、まあ、おそらく不幸と言うべきだろうけれども、確かに、あの女ときみとの間には或る特定の因子が影響し合っていることは認めざるを得ない。これに関してはぼくも否定はしないよ。しかしながら、あの色気ババアの評判は我々猫虫仲間の間でも甚だよろしくないものでね……だから、ぼくとしては、大いにきみのことを心配しているわけだ」
﹁きみはかなり彼女のことが嫌いなようだけど……」
﹁いや、だから、嫌いだとか、そういう感情的なことで言っているのではないさ。ぼくは猫虫だからね。そういった人間族的な感情移入をいちいちすることはないわけでね。虫が好かないんじゃないか? なんて、下手な駄洒落はやめてくれよ。それに、決してきみの信念信条を犯すことがぼくの本来の目的ではないというところは、どうか今後も忘れずに覚えておいて欲しいな。さっきも少し言ったけれどもね、人間族間で交換される特定の因子の及ぼす不可避な問題について、ぼくは常に考慮を怠らないのだよ」
﹁けど、よく解らないな」
﹁うむ、ざっと言うとだね、目下、ぼくが注意深く調べているのは、あの色気ババアの持つ因子について、それがどのような経緯で以てしてあのような悪性を持つに至ったか、ということなんだ。その判断の次第によっては、きみに害が及ぶような危惧は捨て去ってもいいのかもしれない。その方向性に関してはあらゆる可能性を見捨てているわけではないのさ。だから、そこさえ見極められればそれで上々だ。ただし、これは慎重に調査を重ねて判断する必要がある問題でね。勿論、それは猫虫として、だよ。まあ少々、ここでぼくの愚痴を言わせてもらえば、だ、これは時系列を過去に辿って見落としがないように詳細に、且つ、綿密に見極めていく必要があってね、きみにはとても想像できないだろうけれども、それは大層骨の折れる仕事なのさ。特にあの女の場合は……」
﹁それで、彼女のことを嫌っているわけか」
﹁だから、勘違いしないでくれよ。これは人間族的な感情論で以て述べているのではないよ。あくまで実務上……と言うと、それは少しばかり言葉の表現に語弊があるけれど、今のはぼくの猫虫としての気苦労をきみだけに少し吐露したまでさ。ぼくとしては、むしろこれはきみへの信頼関係の表れと受け取ってもらいたいのだけどね」
 そう言うと、猫虫はやわらかイカフライをぱくついた。そうして、やわらかイカフライを摘んでは口に放り込み、噛み砕いては呑み込みを数回繰り返した後、ゴクンと喉を鳴らすと、猫虫がごちた。
﹁ああ、旨いよ。やっぱり北加伊島水産のに限るね」
﹁ご満悦だな。酔ってきたのかい?」
 猫虫はその大きな猫目をギョロっと見開いて、ぼくを見据えた。
﹁ぜんぜん。まだ序の口ってやつじゃないか」



 ぼくがみどりと知り合ったのは、今現在交際中でパートナーと言えるリカと出逢ってから、約一年が過ぎようとしていた去年の夏真っ盛りの七月頃のことだった。それは取り立てて運命的なものでも、特に感動的な情景を伴ったものでもなかった。偶々当時、友人である長谷川美輪が雇われ店長として勤めていたカフェの常連客の一人と顔を合わせた、というだけのことだった。
 美輪とは、彼女の前の勤務先社長との仕事絡みで知り合って以降、歳は離れてはいたが気心が知れた友人としてつきあっていた。その後、彼女が転職した個人オーナー経営のカフェに、ぼくは美輪の馴染み客の一人としてときどき通い続けていた。最初の頃こそ、偶に美輪に挨拶がてら立ち寄ってはコーヒー一杯で帰る冷やかし程度の客でしかなかったぼくだったが、通い続けるうちにのんびりと本を読んだりしながら長居したりするようになり、いつしか立派な常連客の一人になっていたのだった。
 そのカフェでは不定期に常連客向けの音楽イベント・パーティーを夜間に限定開催していた。パーティーなんて催し自体にはぼくはまったく興味が向かなかった。その頃のぼくには。なので、あまり気が進まなかったが、﹁一度くらいは顔を見せてくださいよ」と言う美輪の誘いを度々反古にするのはさすがに気が悪いな、と思って、ほんのおつきあいのつもりであの夜のパーティーに顔を出したときに言葉を交わしたのが、その後に続くみどりとの交際の切っ掛けになったのだった。正確に言えば、そのときが初対面というわけではなかった。お互いにそのカフェの常連客同士ではあったので、それ以前にも店内で何度か顔を合わせたことはあったからだ。けれど、直に言葉を交わしたことはそれまでは一度もなかった。それは、その必然性がなかったから、という極当たり前で自然な成り行きの結果でしかなかった。とにかく、あの夜までは。

 ヘッドフォンを首に引っ掛けたDJが、テーブルトップに二台横並びにされたターンテーブルでレコードを交互に掛け流し続けていて、その俄拵えのDJブース手前のフロアでは、グラスを片手に持った女性二人が軀を揺らしながら、愉しげにお互いに顔を寄せて何やら言葉を交わし合っていた。
 独りカウンター席に陣取ってカンパリ・ソーダで喉を潤していたところに、ぼくの顔を覗き込むように声を掛けてきたのが、みどりだった。
﹁何度か、ここでお会いしてますよね?」
 丁度、Chi-LitesのメロウでダンサブルなSoulチューン――そう、"Stone Out Of My Mind"だった――がスピーカーから流れていて、ぼくは、そのDJが速めにセットしたピッチ・コントロールに違和感を覚えながらも耳を傾けていたが、︵ゼロに戻せよ、せっかくのグッド・チューンなのに……)と、少々苛立ちを感じはじめていたところだった。
﹁ええ、お顔はお店で拝見して覚えてはいました。こんばんわ」
﹁ですよね。深山みどりと言います。よろしく」
﹁本田純です。こちらこそ、よろしく」
﹁美輪ちゃんのお知り合いなのよね?」
﹁そう。彼女の以前の職場絡みというか。ぼくの仕事上の先輩の経営するインテリア設計事務所で、美輪ちゃんがアシスタントをしてたときからのつきあいなんですよ」
﹁インテリア関係のお仕事をなさってるの?」
﹁いえ、ぼくはフリーランスのグラフィック・デザイナーをやってます」
﹁グラフィック?」
﹁印刷物とか、カタログとか、えーと……会社のロゴ・マークのデザインとか、つまり、ああいう紙媒体なんかの平面デザイン一般ですかね」
﹁ああ! わかったわ」
﹁深山さんも、美輪ちゃんの?」
﹁ええ。美輪ちゃんにはここでいろいろとお世話になってて。あ、みどりと呼んでもらっていいです。美輪ちゃんのお知り合いなんだし」
 みどりは、ぼくが彼女のことをいきなり呼び捨てにする根拠としては乏しい理由付けをして、その権利を無条件にぼくに賦与しながら、空いていた隣のストゥールにまったく無遠慮に腰掛けた。
 意外な感じがした。どちらかと言えば飾り気がなく、目立たないタイプである美輪の友人女性としては、みどりは明らかにミスマッチなタイプだったからだ。
 みどりの年齢は、近くで見ると、ざっと四十手前くらい――つまり、ぼくとほぼ同年代か、その少し上――に見えた。けれど、その推定年齢よりも見ように依っては更に若く見える女だった。それは同年代の既婚女性が持つ、最早メインストリームからは食み出てしまった、あの特有の所帯染みた野暮ったさを微塵もその身に纏わり憑けていなかったからだ。髪はちゃんと根元から亜麻色に染められていて︵彼女の地毛の色なのかもしれないが)、しっかりウェーブが掛かっていたし、お洒落なEmilio Pucciのプリント柄ワンピースが似合っていた。身に着けているアクセサリーにも卒がなく、それらは一見して安物ではないと判る物だったし、決してお世辞ではなく、そのすべてにおいてファッション・センスが良く、美しく整っていた。実際に裕福なのかどうかまでは知れないが、それ相応の装いに見えた。見た目に貧相に見える部分があるとすれば、それは若干体軀の肉付きが悪いところ――女性目線ではこれでも﹁太っている」と言うのだろうけど――以外には些かもなかったし、ちょっとした山の手マダムで通る出で立ちだった。また、そんなスタイリングが実に板に着いていた。
 みどりが間違いなく既婚であることは、そんな彼女の醸し出す雰囲気から容易く見極めることができたし、彼女の口調には明らかに異性と会話を交えるに頓着しない、経験的に相当な場数を踏んだ――慣れ――が感じられた。そこには一部の独身女性に見受けられるような自意識過剰な、異性に対する安っぽい見せ掛けの恥じらいらしきものが一切感じられなかった。また同時に、それを見定められまいと意識した自己防衛的な堅さも、その物怖じしない態度からは見受けられなかった。
﹁わたしは人懐っこいってよく言われるの。来るもの拒まず、去る者追わず、って感じで。実際、サッパリした性格だから」と、みどりはにこやかに自己評価した。
 ぼくは咄嗟に返す言葉を見つけることができずに、ただ薄ら笑いを返しながら、みどりのその言葉尻に違和感を禁じ得なかった。確かに、みどりは人当たりは善かったが、率直に言って、彼女のそれは﹁人懐っこい」というよりは……そう、どちらかと言えば、﹁馴れ馴れしい」が、むしろ的を射た表現だと思った。
 けれども、それにしては何かしら怪しげで、華やかさが感じられる独特なムードをみどりはその身に纏っていた。それはやはり、同世代の一般女性からはワン・ランク飛び抜けた、上手くポイントを押さえたお洒落な着こなしが大いに起因していたと思う。彼女のプッチ柄のワンピースの胸元は大きくV字に開いたもので、大胆に胸の谷間が露になっていたけれど、それも本人は特に意識している素振りはまったくなかった。ブラのストラップが肩口から見え隠れするような、基本的なスタイリングのヘマもやらかしていなかったし、ワンピースのしなやかな薄手のプリント生地は彼女のヒップのラインにぴったりと密着していたが、その表面に無粋なショーツの当たりラインは浮き上がらせていなかった。
 豪奢でなし、特に嫌みな派手さが感じられないさり気なさを押えたファッション・センスであるにも関わらず、みどりが醸すイメージの華やぎは一体どこから来るものか、と、暫し考えてみたら、それは彼女自身なのだ、ということをぼくはようやく把捉した。つまり、このみどりの些か日本人離れした目鼻立ちの際立ったルックスと、オープン・マインドなキャラクターから出てくる、自然体の所作素振りの数々から成るものなのだ。それはまるでパーティー慣れした欧米人的な、社交性を身に着けた立ち居振る舞いだった。そして、みどりは誰の目から見ても美人に類する女の一人であると言えた。
﹁ここでお見掛けする度に、一度、ゆっくりお話をしたいと思ってたの」
 みどりはあっさりと、ぼくにそう告白した。それには少々驚いた。
﹁ねえ、純さんはきっとご両親に愛されて育ったでしょう? わたし敏感だから、そこのところはよく分るのよ。あなたを見てると凄くよく判るわ。わたし、直ぐに感じたもの」
 この最初の僅かな会話の遣り取りで、﹁本田さん」から﹁純さん」へと、みどりのぼくに対する呼称が変わっていた。まあ、そこらへんのところは、この際、いいとしよう。どうやら、みどり本人が先に自己評価したとおり、彼女の辞書には﹃人見知り』という言葉は載っていないようだった。
 このパーティーで初めて言葉を交わしたときの、ぼくが感じたみどりの印象は、そんな、一々耳に引っ掛かる言葉尻の妙な違和感を除いては決して不愉快なものではなかった。ぼくに対しての彼女の対応は終始好意的なものだったから。むしろ、それは薄気味悪いくらいに。
﹁純さんのご両親はお元気になさってるの? 聞かせて」
 いきなり両親の話から聞かせて欲しいと言うみどりには少々戸惑ったけれど、正直、別の意味でまた驚かされた。何故なら、ぼくは前年に母を亡くし、このとき、それからまだ月日浅く、その失意からはまだ完全には立ち直れていなかったからだった。それはみどりの知らざることであり、その種の事柄に関してみどりの感受性は敏感だったのかもしれない。
 昨年母を亡くしたこと、その喪失感にまだときどき陥ることがあることを、ぼくは正直にみどりに話した。
﹁純さんはお母さまに愛されて育ったのね。羨ましい」
﹁でも、ぼくは母に何も返してやれてなかった……」
﹁いいえ、そんなことないと思うわ」
﹁いや……」
﹁今でもお母さまがしっかり見守ってらっしゃるわ」
﹁そうだとありがたいな」
﹁純さんと違って、わたしの両親は、親としては本当に最低な人たちだった。国家公務員? 外交官って職でね、年中、殆ど国外に居たの。仕事第一主義でね。子どもになんて関心無かったのよ、勝手に産んでおきながら。だから、小さいときは両親に連れられて、わたしも外国を引きずり回されたりしたんだけど、結局、学校やらの問題で日本に住む母方の祖母に預けられたの。それがまた、その祖母が輪をかけて最低な人でね……意地悪な最低なおばあさんだったの。孫のわたしのことがまったく可愛くなかったみたいなのね……何故かは知らない……だから、わたし、大人ってそういうものなんだとずっと思ってたわ。お蔭でわたしは周りの大人に愛されて育った、という感覚がまったく無いの、本当に。純さん、ほら、昔、旧ソ連の日本大使館で立て籠り事件が有ったのを知らない? ときどき、昔のテレビのドキュメンタリー番組なんかで、チラッと当時の本物の映像が出てくることがあるでしょ?」
 それは、今でも度々、テレビ番組で特集されたりするくらい有名な、過去の大きなテロ事件だった。
﹁ああ、あの?」
﹁そう、あれ。当時、大騒ぎになったらしいわ。あの事件のときに、わたしの父は巻き添えで死んだの」
﹁あのときの事故で……」
﹁ええ、そう。そういうこと。……当時、わたしの両親は、今で言う、ロシアの日本大使館の職員をしていたのよ。それで、母は助かったけど、父は犯人確保の突入のときの交戦の巻き添えで亡くなった人たちのうちの一人になってしまった、というわけ。わたしはまだ小さかったから、あの事件のことは殆ど覚えてない。事件の詳細をちゃんと知ったのはもっと大きくなってからのことだったから。だから、父の憶い出というものはわたしの記憶には殆どないわ。ひょっとしたら、父だけはわたしに優しく接してくれたのかもしれない、たぶん。そんな感じが今でもするの。でも、残念ながらその記憶が抜け落ちていて、わたしにはまったく憶えが無いの。ねえ、わたし、とても不幸でしょ?」
 これは、なかなか稀有で壮絶な身の上話であり、ぼくは内心驚きはしていたのだけれど、当のみどり自身はというと、まるで知人から聞いた珍しい話を語るように抑揚薄く、表情を曇らせるでもなく、さばさばと話した。なので、そんな彼女を見ながら、ぼくの方は大いに感情移入をし損ねた。というか、このとき、どういう態度を表すべきか、迷ったまま、ただ戸惑いながら対応するしかなかった。「うん、うん……」というように頷いて見せて。
﹁両親が当時、旧ソ連の日本大使館職員だったのには、何やら特別な理由があったらしくてね、わたしの家系にはロシア人の血が混じってるらしいの」
﹁なるほど、そう言われれば」
 確かに、ロシア人との混血であるということなら、一般日本人女性の持つ外見から受ける印象とは一種異質なものを感じる、みどりの華美な雰囲気の源として、納得できた。
﹁わかる? わたし、やっぱり少し日本人離れした顔をしてる?」
 みどりは両眼を見開いて、態とその顔をまざまざと見せるようにぼくに向けながら、愉快げに笑った。
 カウンターに投げ出されていたみどりのスマートフォンが小刻みに震えて、カンター・トップを小さく響かせた。それに気づいたみどりは、その手にスマートフォンを引き寄せてそこに顔を落とし、画面をちらっと一瞬確認すると、直ぐにこちらに向き直って続けた。
﹁……それも、何やら特殊なロシア人の血筋らしいわ。だから、両親は大使館では優遇された待遇だったらしいわ。そんなことはわたしにとってはどうでもいいことなんだけど。……そんなわけで、わたしは子どもの頃から実の両親に見放されて育ったのよ。本当に、とても不幸な人生の始まりだったの」
 父親の不幸を別にすると、要するに、彼女は両親の放任主義によるお嬢さま育ちらしい。
﹁いいの?」と、ぼくはみどりのスマートフォンに目を遣って訊いた。
﹁ええ、大丈夫。もう少し」
﹁その、育ての親である、おばあさんとは?」
﹁あんなの、とっくにわたしが呪い殺してやったわよ」
 無表情に、みどりはそう言い捨てた。きっぱりと。迷いも、何の憂いすら見せず。
﹁ねえ、純さん、思ったとおりよ。わたし、きっと、今夜の出逢いは運命なんだと思うわ」
 みどりはぼくの眼を見据えてそう言った。何処かの新興宗教の教祖が悟りを希求する信者を諭すように。或いは、怪しいロシア人と日本人の混血タロット占い師が弟子に大事な予言を託すかのように。
﹁今夜は用事があって、もうそろそろ出ないと、なの。ねえ、純さんとわたしはとても通じるものがあると思うの。連絡先を頂戴」
 みどりとぼくの、どことどこがどう合い通ずるのか、その通底するものが一体どこに在るというのか、俄には彼女の見解に同意し兼ねたが、かと言って、それを否定することもできなかった。彼女の瞳がぼくの視線を捉えて離そうとしなかった。このひとは本当に人を呪い殺せるのかもしれない、とぼくは思った。
 思いも依らず、今夜のDJの選曲はぼくの好みにマッチしていた。ただ、ピッチ・シフトを多用するところだけはどうにもこうにも頂けないな、と、ぼくは頭の中で、そのDJの仕事ぶりを評価するレポート上の項目の一つ――﹃無闇にピッチ・シフトを多用』欄――に〼を着けながら、自身の名刺の裏にスマートフォン用チャット・アプリのIDを手書きで付記して、それをみどりに手渡した。
﹁ありがとう。楽しかったわ。また今度。純さん、おやすみなさい」
 みどりは、ぼくから受け取った名刺と自分のスマートフォンを一緒にクラッチ・バッグに仕舞うと、席を立って店から消えた。
 いつの間にか、それほど広くはない店内は招待客で埋まり、パーティーは大盛況だった。
 ぼくはそのまま独りカウンター席で、みどりから聞かされた身の上話の一部をなんとか咀嚼して消化しようと努めたが、それは、まるでアマゾンの奥地の未開原住民から振る舞われた、原材料も調理方法も未知な歓待料理のようなものだった。ともあれ、ぼくはその原住民に歓迎されたことだけは間違いないようだった。
﹁純さん、こういうのも適にはいいでしょう?」
 客の応対とドリンクのサービングに右往左往していた美輪がやって来て、ぼくの様子を伺った。
﹁大忙しだね」
 通常営業時とは違って、店長の美輪はアルバイト・スタッフと三人で忙しなく仕事をこなしながら、顔見知りの常連客たちの応対に追われていた。
﹁いつもはこんなにいっぺんに人が集まるのって稀ですもんねー。でも、ときどきはお祭りみたいな賑わいっていいもんです。気分転換にもなるし。ただ、後片付けが大変なんですけどね」
 美輪とみどりは旧知の間柄らしいし、その美輪が共通の友人なわけだから、何なら、美輪にみどりのことを聞いて掘り出してもよかったが、第一、あの晩の状況からして、それはしたくなかった。というか、あのときはそんな必然性も感じなかった。ぼくは、とにもかくにもその場はやり過ごして、問題の処理を後回しにする癖がある。
﹁DJさんの選曲、どうです?」
﹁うん、いいと思うよ」
﹁毎回ジャンルを変えて、ジャンル毎にDJさんをお願いしてるんですよ。今夜はメロウ・ソウルって括りで」
﹁なるほど」
﹁純さん、音には煩いから、お誘いしたものの、そこんとこはちょっと心配でした」
﹁いいと思うよ、選曲は」
﹁良かった」
 カウンターの中でドリンク作りしていたスタッフに呼ばれて、美輪はまた仕事に戻った。
 みどりのぼくに対する素振りには、どことなく特別な好意――彼女のその基準は解らない――を示したものと受け取れもする仕草が垣間見れはしたが、どうも、それは男が勘違いしがちな、彼女の無意識による思わせ振りに他ならないような気がする。つまり、みどりのようなタイプの女は、一定の好意を抱いた相手なら、異性であれ同性であれ、それが誰であれ、おそらく、同様の態度を見せるのであろう、というのがぼくの読みだった。この手の女には以前にも大変な目に遭わされた経験があったから、そこのところは免疫があった。恋愛感情の有る無しに関わらず、つきあうには最も厄介なタイプであり、要注意な女性と言えるだろう。それに、彼女は間違いなく既婚女性である――本人に訊いて確かめたわけではないけれど。つまり、既にこの時点ですべてのぼくの異性交遊のプライオリティ・リストからみどりは除外してもよいのだった。
 ただ、もし、例外的にみどりをリストに繰り入れする必然性を見出すとすれば、それは、日本人とロシア人の良いとこ取りをしたと言えるみどりのあの美貌と、彼女が纏った独特の妖艶な雰囲気に依る、と言い切れるだろうかと思う。それはミステリアスな女の妖艶さであり、もっと平たく言えば、﹃大人の女の色気』だった。正直に言って、異性としての目で見れば、魅力を感じないわけではなかった。ただし、これは彼女に対して抱いた印象を厳格に客観視して申さば、の話だ。
 何れにせよ、みどりに対するぼく自身の立ち位置は、遠巻きに設定しておくに越したことはないな、と思った。﹃君子危うきに近寄らず』が、正にピッタリな相手な気がした。これもまた有り体に言えば、男にとってのリスキーな女の雛形を体現した典型の一人、と言えそうだった。


 みどりからの連絡は、その夜遅くにスマートフォンの無料チャット・アプリで届いた。
﹁楽しかった。また今度お食事行きましょう!」[既読]
﹁こちらこそ。よろしくお願いします」[未読]
 無論、この返信は社交辞令の範囲のものだ。

 ところが、そんなこちらの都合と思惑は、数時間後の翌日には水泡と帰したのだった。
 ぼくは仕事場兼自宅のマンションに帰って、深夜にちょっとした仕事を片付けたので、その分、翌日は昼までゆっくり寝て休んでいた。その日はのんびりしてもよいことにしていたので――ここがフリーランスの自由裁量の成せる技だ――スマートフォンの設定をマナーモードにして就寝していたのだった。
 昼過ぎに目覚めて、スマートフォンの画面をチェックすると、無料チャット・アプリのトーク・メッセージの着信通知が立て続けに入っていた。それらの送信主は、すべてみどりだった。
﹁純さん、今日、午後から空いてますか?」[既読]
﹁純さん、居るの?」[既読]
﹁純さん、起きてる?」[既読]
﹁寝てる?」[既読]
﹁連絡ちょうだい」[既読]
﹁ねー、早く」[既読]
﹁まだ寝てるの? 早く起きてー 起きなさい!」[既読]
 それらは連投されていた。トーク画面に既読が付いてしまったので、何らかの返事を返さないわけにもいかない。
 起き抜けで頭がまだぼんやりしていたし、何があったのか、これがぼくに何を求めてのメッセージなのか、その用件の中身が抜け落ちているので、まったく要領を得ない。
﹁おはよう。どうしましたか?」[未読]
 取り敢えずは当たり障りの無い様子伺いのメッセージを返信をしておき、スマートフォンはテーブルの上に放置して、ぼくはシャワーを浴びた。
 シャワーを済ませて浴室から出ると、髪をタオルドライしながら、温かいコーヒーを胃に流し込んで寛いだ。じんわりとカフェインが効いて、やっと頭がアイドル回転し始めた気がした。スマートフォンの画面を見ると、また新たにみどりからのトーク・メッセージ着信のお知らせアラートが表示されていた。
﹁今日、美輪ちゃんのお誕生日だったのを忘れてたの! みんなで一緒にお祝いしてあげない? 十五時にランブルフィッシュでみんなと待ち合わせして待ってます。必ず来てね!」[既読]
 美輪の誕生日が今日だなんて、ぼくは知らなかったし――前夜のパーティでも、そんなことは耳にしなかった――、第一、美輪とは、気心の通じる友人とは言っても年齢差もあり、互いに誕生日を祝い合うほどまでの親密なつきあいでもなかった。とは言え、最早、知ってしまった友人の誕生日を何の祝いもなしに無視するわけにもいかない。そんなわけで、ぼくは急遽予定を変更せざるを得なくなり、みどりが待ち合わせに指定した街中の有名なカフェ・レストランに出向くことになってしまったのだった。

 約束の時間に遅れそうだったので息を切らして走って、やっとのことで辿り着いた、みどりに指定された店の店内には、何故か、みどりだけが一人、優雅に脚を組んで椅子に凭れて座っていて、アイス・カフェ・オ・レだか、アイス・ミルクティだか、ミルクの混ざったドリンクの入ったDuralexのタンブラー・グラスを手に持って飲んでいたところだった。みどりはストローを銜えながら、立ち尽くすぼくを見上げて、不敵な微笑みを浮かべた。
﹁美輪ちゃんとみんなは未だ来てないんだ?」
 ぼくは、周りの店内の客席を見渡しながら、みどりに伺いを立てた。
﹁あのね、わたし、美輪ちゃんのお誕生日、勘違いしてたみたい」
﹁何だって?」
﹁今日じゃなかったのよ、美輪ちゃんのお誕生日」
﹁……」
﹁でも、ね、丁度良かったじゃない? 二人で昨夜のお話しの続きしましょうよ。わたし、もっと純さんのこと知りたいの」

 ところが、みどりの話す話題は、﹁もっと純さんのことを知りたいの」と彼女が言った、その誘い文句とはまったく矛盾するものだった。その内容の殆どは、彼女の身の上に起った、つい最近の日常の出来事をバラバラに連ねたものだった。早い話が、それらはみどりが関わった誰かに対する愚痴の数々だった。ぼくは当惑した。一体何のために、延々とそのようなくだらない話をする必要があるのか? そして何故、その相手が今、このぼくでなければならないというのか?
﹁ねぇ、純さん、どう思う⁈」と、話の切れ目毎にみどりはぼくに意見を求めた。その度に、ぼくは苦笑を返すばかりだった。
 それに、みどりの話し振りと態度、その言葉の使いざまときたら、彼女の容姿の外見から抱くイメージからあまりにも乖離するもので、また、話の内容の猥雑さ、下品さと言ったら、ぼくがこれまで遭遇した他の女性たちのその類型を遥かに凌駕するものだった。それは、正しく醜態と言えた。もし、この場が、みどりがぼくに取り入りたいと望んで設けられた場であったのだとしたら、彼女は完全にぼくに対して取り返しのつかない失態を仕出かしたと言えたが、彼女の態度からはそんな認識の欠片さえ、これっぽっちも感じられなかった。
 みどりの口調は終始、かなり辛辣なものだった。その矛先は、大凡、彼女の知人たちや友人諸氏――正確に言えば、みどりは自分の友人たちのことを﹃下々の者』と呼称した――に向けられたものだった。
 それら数々の愚痴のネタを憶い出して喋る度に、みどりは表情豊かに眉間に皺を寄せて、その美しく引かれた筈の眉尻を吊り上げた。
﹁……でね、女同士の内緒の会話だからって、彼氏との下ネタばっかり自慢げに吹聴すんのよ、あの糞女……」
 そんな彼女の表情を見るのは、彼女に対する特別な感情移入の有る無しとは無関係に気分宜しい筈がなく、ぼくは非生産的な労働に半強制的に従事させられる初老の人夫にでもなった気分がした。それから尚も、みどりは縫い合わせるべき生地の無い空をミシンの上糸と下糸で絡ませながら精力的に縫い続けて、その成果を一見平和なこの世界に無下に放出し続けた。無駄としか思えないその血深泥の作業によって生産された大量の汚れた糸屑の連なりを、ぼくは彼女の側で、まるで従順な侍従のように頷きながら腰を折って、テーブルの下でせっせと拾い続けるだけの哀れな老人夫と化していた。
 正直なところ、みどりとその周囲の連中との間に生じた様々な軋轢の数々の原因は、ほぼすべてみどり自身にある、と、そうとしか断ぜざるを得ない話ばかりだった。或いは、それはどっちもどっち、だった。それら当事者とは無関係な第三者であるぼくの公平な見解では。もしも、みどりの罵りの対象とされた不幸な彼女の知人諸氏側の立場に組みするとすれば、彼女はクレーマーであり、トラブルメーカーであり、そのような思慮の欠けた一方的に独善的な厄介者でしかないようにさえ思えた。次第にぼくはみどりにとっての﹃友人』の定義が判らなくなり、その本来の在りようを探し直した。けれど、そのぼくの正直、且つ正当な評価なり意見を彼女にそのまま述べ伝えることは控えた。それは、次にはぼく自身がみどりの愚痴の対象人物リストに加わるような災難を回避するためだ。
﹁……ねぇ、そんなのおかしいでしょう? そう思うでしょう? 純さん!」
 それでも繰り返しみどりが意見を求めたので、﹁そういう対人関係の嫌なことは気に留めずに早く忘れてしまった方がいいんじゃないかな」みたいな、たぶん、そんな当たり障りのないことだけ、それは辛うじて今はぼくがみどりサイドに立って居る、そのぎりぎりの暫定的立場表明として、やんわりと宥め賺すように何度か繰り返し言ったと思う。
 とにもかくにも、ぼくはこのとき、何というか……みどりの人格、品性を疑ったし、その人間的な資質の貧相さ、民度の低さにとてもがっかりさせられた。そこには、前の晩に初めて話したときには少しばかりは感じられた、大人の女性らしい気品さが微塵も遺さず消え失せていたし、みどりが纏っていた筈の妖婉さや、そのような女性としての魅力の何もかもが根刮ぎ剥げ落とされた別人のみどりが居た。むしろ真逆に、そんな粗雑さを見せつけることに彼女はある種の快感を覚えているかのような態度にさえ感じられた。それは、落ちぶれて疎外感に苛まれた水商売女や、救いのない人間不信から逃れられない裏稼業の男の情婦が見せそうな、排他的に周囲の者を威嚇牽制する、粗暴で幼稚な態度に似ていた。
 みどりのような美しい女性――そのルックスのことを言っている――との会見に、明るく、愉快であろうヴィジョンを描いて罷り越し、彼女と接しようとしていた自分を、自分で気の毒に感じた。ぼくを幻滅せしめるに充分な材料を今、目の前で彼女自身が惜しみなくも提示していたからだ。実際、みどりが着ていた夏らしいインディゴ・ブルー染めの薄手の麻素材のサマードレス姿は美しかったし、少なくともそれはそうあって不自然ではなかったと思う。
 そのようなぼくの淡い期待を裏切る彼女の態度の一つ一つが、果たして、彼女の真意を純粋に示したものであったのか、それこそが本来のみどりの素顔と言える姿なのか、まったく、みどりにはその掴みどころが無かった。うっかり上滑りして、本来隠すべき本性を現してしまったというよりは、敢えてその本性をぼくに対して曝け出して見せたような、むしろ、そんな確固たる意思表明であるようにさえも感じた。ひょっとすると、そこには彼女に対するぼくの耐性面接テストみたいな思惑が隠されていたのかもしれない。けれども、それは当時のぼくには些か重過ぎた。やっとのことで母の死を乗り越えて、あの長く暗かったトンネルから抜け出せた、というところに、再び暗澹たる闇の淵へと連れ戻されるのはご免被りたかった。もしも、そんなテスト対象とされているのであれば、ぼくは喜んで落第させてもらいたかった。
 一体、みどりはぼくの何が知りたかったというのか、それは解らないままではあったけれど、逆に、それこそは単なる上滑りから出た軽口だったのだろうと増々思えてきたし、みどりがぼくに対して特別な感情――つまり、それは朧げな恋愛感情などというようなもの――を些かも抱いてはいないのであろうことだけは、最早、これで明白となったと考えた。何故なら、出逢ったばかりの異性が、自分が特別な好意を持つ相手に対してここまで露骨に悪態を曝け出すようなことはするまい。これも常識的に考えて。
 まあ、それはそれで構わなかったのだけれど、ただただ残念に思ったのは、彼女の美貌とは相容れない、その言動の醜悪さぶりのギャップであり、それは、まるで詐欺行為にも等しい、裏切られたような落胆をぼくに与えた。けれども、ここは思い違いをされないように述べておきたい。それは、ぼくの男としての浅ましい下心が打ち砕かれた――といったような類いの落胆ではなく、美しい華だと思って、近づいてよくよく見てみたらば、花弁の奥に蠅の死骸をたっぷり溜め込んだ食虫植物だった、といったような感慨だと言えば、誰もがぼくのこの意を察してくれることだろう。そんなふうに、みどりはぼくをホラー・ミュージアムの中に一人取り残された迷い子同然に放ったらかして、延々と喋り続けていた。
﹁……人を呼び出しといて、なんだって言うのよ、ねえ。わたしを何だと思ってるのかしら、あいつら! ……」
 その文句は、ぼくが今、そのまま彼女にお返し申し上げたかったのだけど、彼女にとっての絶好の愚痴の捌け口として、ぼくはみどりに見初められたのだろうか。だとすれば、それは飛んだ外れ籤を引かされた気分だった。そんなお相手役も、もうそろそろご辞退願い申し出ようと、遂にぼくは意を固め始めた。その心算に至るまでにもう彼此一時間と少しばかりの時間を消費していた。もうごめんだった。そう、もうこれ以上の会見の続行は時間の無駄と考え、徐にこの場から退散させてもらうつもりの構えだった。﹁あ、そろそろ……今日は仕事が残ってるから……」とか言って。
﹁わたしって、生まれつき、とことん人との出逢いに恵まれてないんだと思うわ……」
 ところが、それまでとは口調を一変させて、みどりは自身の過去にまつわる出来事を、落ち着き払った態度で語り始めたのだった。ぼくは用意していた退散の切っ掛けの台詞を言いそびれる羽目になってしまったのだった。
﹁……だからかは分らないけど、不思議なことにね、わたしの周りでは何故か、人が消えたり死んじゃったりが多いの。……一人目は中学三年のときだったわ……」
 何やら神妙な顔つきで、みどりは語り始めた。
﹁彼は自宅の部屋で首を吊って死んだの。彼とは中学の一年のときの同級生で、当時、あっちから一方的に交際を迫られ続けてたのよ。でも、最初からわたしは彼に興味はなかったし、幾ら言い寄られても、わたしは彼のことを好きにはなれなかった。だって、そうでしょ? それでも、彼はしつこくわたしに付き纏ったの。今で言えば、立派なストーカーよ。それは三年間続いて、突然終わった。わたしから言わせれば、それだけのことだったの。
 二人目と三人目は、高二のとき。彼らは、二人で競い合って、勝手にわたしを我が物にしようとしていたのね。そんなこと、わたしの知らないところで行われていたことだった。わたしにはどうしようもないことだったのよ。わたしが彼ら二人を引き合わせたんじゃなかったし、全部、わたしの知らないところで起っていたことなの。でも、あれから、周りの人たちにはいろいろ詮索された。……わたしが彼らをけしかけたなんてことはなかった……二人共々、校舎の屋上から落ちたの。喧嘩で揉み合った末に、落ちたらしいわ。
 四人目は女性だったから、あれは、わたしもショックだったわ。彼女は、高三のときのクラスメイトだった。取り立てて親しくはなかったけど、学校の友だちの一人だったの。彼女が死んだのは高校卒業後のことよ。彼女は遺書を遺さなかったから、それが噂の火種を広げる結果になったわね。わたしが彼女の死に深く関わってるって、勝手に邪推されて。とても迷惑だった。彼女が好意を持っていた男子が、わたしに弄ばれてた、とか、何とか。……ほんと、その子の親とか、周りの大人までが、そんな噂話に尾ひれつけて騒いでね。世間って、まったく勝手なものよ。
 五人目は、大学二回生のとき……というか、彼はどうなったのか、知らない。行方不明のままらしいのよ。インドの山奥だか、何処かに行ったまま、消えてしまったらしいの。彼の親族が、そのことを公にすることは望まなかったらしいから……おそらくは自殺目的の失踪だった、って言われてたわね。刑事事件にもならなかったし。でも、彼が親友に、わたしのことが原因らしいことを仄めかして言い遺してたみたいなの。わたしへの想いを募らせた挙げ句に絶望して、なんとか……大抵、こっちの迷惑なんて顧みない、そんな身勝手なものよ。でも、この人は、未だに行方不明のままだから、勘定に入れてどうなものなのかしらね」
 そう言い終えると、みどりは薄く笑った。
﹁六人目は……」
 そして、驚くべきことに、みどりに関係した人物の死亡者リストは、まだ終わってはいなかった。
﹁就職して二年ほど経ってからだったかしら? ……同僚、というか、会社の先輩の男性ね。この人は電車のホームから線路に落ちて、電車に……ね。事故というよりも、やっぱり自殺でしょうね。このときも、わたしが社内でいろいろと詮索された……噂では、わたしが彼の不倫相手だった、てことになってたわね。そうやって、みんな、犯人探しをするの……いい人だったのに、きっと誰かのせいだ、そうだ、あの女のせいに違いない、ってね。彼の奥さんから、脅迫紛いの手紙まで届いたのよ。気味が悪かった。それで結局、わたしは追い詰められて、会社を辞めるしかなかったわ」
 こんな特異なエピソードを数多く過去に持った人物の話は初めて聞いた。作り話みたいな話だったが、それは何の脈略もなく突然語られ始め、妄想の類いの話にしては驚くほど淡々と、しかも、あっさりと立て続けに語られた。災害事故時の役所の死亡報告書を読み上げるみたいに。過去にみどりと関係した人々が、まるで缶ビールのプル・リングを開けるみたいに簡単に次々とこの世から居なくなっていった話だった。常識的に考えて、彼女の周りで人々がふつうではない死に方で死に過ぎていた。そこには、テレビ・ドラマにはお決まりの感動秘話は付いてこなかった。情熱的な男女間の色恋沙汰の片鱗や、友情の縺れ、人と人との出逢いが織りなす人間模様――そういった人間臭い、情動無くしては聞くことのできない、感動を呼び起こすための﹃種』を完全に欠いていた。それは、もしかしたら、語りべたるみどりが意識的に割愛したのかもしれないが、むしろ、その必要性を彼女が一切感じていないが故のことのような気がした。
﹁だけど、言っておくけど、わたしが、あの人たちの最期に直接関わった話じゃないのよ、これはぜんぶ。問題は、後で憶測を元に、勝手にわたしが関連づけられてるってことなの」
 みどりは、それを強調した。ならば何故、そんなことを今、ぼくに伝えねばならないのか。それほど親しくもない相手であるぼくに対して、何故、それは唐突に今語られたのか。その語り口は、当事者談としてはあまりにも冷淡に過ぎた口調だった。ぼくはそこに奇妙な興味を感じて、惹かれた自分に驚いた。それは、未知なるみどりの得体の知れなさに、だった。
 人はそんなに容易く死んでゆくものなのか? と思った。それは主に、みどりの語りぶりのその口調から感じた印象に依るところが大きかった。無感性、無感情、無機質的――﹁あんなの、わたしが呪い殺してやったわよ」――育ての親である、彼女の祖母の死について言い捨てた、前夜のあの言葉が追想された。そこには、全能感に満ちた、揺るぎのない尊大さがあった。
 この日、初めて、ぼくはみどりに率直に訊いた。
﹁きみは……なんというか……それらの人たちの失踪や死について、感傷的にはならなかったの?」
﹁わたしが傷ついて、苦しんだかどうか、てこと? 純さんは優しい人だから、解らないのね……」
 そう言って、みどりは慈悲深げな表情でぼくを見た。
﹁ううん、実際、あんなふうに問題の矢面に立たされていたら、そんな気持ちを抱く暇さえ持たせてもらえないものなのよ。それはもう、畳み掛けるような勢いで周りは辛辣なものなの。問答無用で一方的に攻撃対象なのよ、わたしが。有無を言わさず、集中砲火で一斉射撃を喰らうの。そんなの、傷つくなんて、生易しいもんじゃないわよ。ねえ、純さん、それがどんなか、想像できる?」



 猫虫がいつ頃からぼくの前に現われるようになったのか、それがどうにも明確に憶い出せない。初恋の女の子が引っ越したときだったか、或いは、中学三年の夏休み頃だったか、いや、もっともっと以前だったかもしれない。とにかく、気づいたときには、もうこのように彼はぼくの前に現れていたのだ。
 猫虫は大きな猫の顔をしながらも流暢に人の言葉を話し、指先で器用に物を掴む。見たことは無いが、たぶん、ペンで文字だってすらすら書けるだろう。その前脚の指が、ぼくらがよく知っている四本足の動物の、あの猫の脚の肉球が進化したものなのか、それは彼に訊いたことがないから判らない。それをぼくは特に確認したいとも思わない。また、彼は人と同じに二足歩行するが、その見掛け上、昆虫であるところの蜻蛉とか蝉であるとかの、あの透明な翅を思わせる、それらに似た一対の背から生えた翅、あるいは翼とも呼べなくはないものを広げて空間を飛翔し――ぼくはその姿を何度かこの目で確かに見ている――、移動することができる。翼を持たない我ら人類は、猫虫と違って生身では空を飛ぶことは叶わない。彼は見方次第では概ね人類の亜種と呼べなくはないのかもしれないが、直立させた猫をそのまま成人大のサイズにした全身を黒い猫毛で覆われた姿形からして、明らかに人類に分類される生き物ではない。猫虫のその比較的細身の体軀の胸部には、彼が常に『人間族』と称するところの、我々、人類女性の乳房に見えなくもない膨らみがあるのだけれど、厳格に判断するならばそれは乳房と呼べる程の立派な隆起には見えないし、股間には性器と呼べそうな器官は露出してはいないから性別は不明だ。というよりも、猫虫という生き物に性別という別の有りや無しやもぼくには皆目解らない。生物解剖学上の専門的な見地についてはさておき、ネアンデルタール人よりは現人類との縁戚関係は遠いと、誰だって彼の外見を一目見れば判断できるし、それは、中に人が潜んだ着ぐるみなどの姿ではないと、きっと子どもだって直感視するだろう。謂わば、猫虫は羽虫の飛翔能力を備えた﹃類人猫虫』ということになる。
 一つ、猫虫の外見から受ける、ぼく独自の感想を付け加えるとすれば、彼の漆黒の体毛は毛足の短い上質なヴェルヴェットというか、高級なビロードのような質感を憶わせる艶と光沢を呈したもので、その雰囲気には何年か前に国立博物館で開催された『古代エジプト展 — 神話の世界』で観た、Bastet神の彫像を見たときに受けた印象を想起させるものがあり、彼のぼくに対する常に一貫した態度であるところの尊大で剣呑な立ち居振る舞いも含めて、どこか、その存在感に何やら古くから謂れの有りげな高貴さを漂わせている。
 このように、猫虫は外見的には女性的でありながらも尊大な印象を抱かせるのではあるけれど、それに反して、何故かぼくがこうして猫虫のことを『彼』と男性称するのは、そういった彼の外見上の特質から受ける印象よりも会話を通して常に受ける彼の性質に極自然に対応していること――第一、彼自身が『ぼく』と自称しているのだし――に依る。ただ、もしもぼくが女性だったならば、おそらく猫虫のことを女性称するのではないかとも思う。
 そして、彼はときどきこうして不意にやって来ては、いつもぼくと対峙して語り合うことを好む。
 猫虫が口を開いた。
﹁そうだね、いい機会だから、この際、いろいろ話しておこうと思うんだ。きみたち人間族と我々猫虫族の関係についてもね」
 そう宣言すると、猫虫はジン・ライムをクイと一口呷った。
﹁本来、猫虫族と人間族は共存し、その精神世界を一としていた。ぼくらは同位の存在であったんだ。その始まりをも含むこの世界の成り立ちの歴史は、きみたち一般的な人間族が知るよりも更に遡って遥かに古い。これらの原初の世界の史実について、人間族に於いては、ほぼその事実のすべてが記憶から抹消された。だから、我々猫虫族の存在自体がきみたち人間族にとっては既に洗いざらい無きものとなっている。それと附随して今現在、きみたちが知識として認識している世界の歴史は概ね事実ではない。その殆どが秘匿された後に恣意的に捏造され、書き換えられた嘘の歴史書による虚実だよ。おもしろいものでね、そうなると人間族には過去の自分たちの存在が見えなくなるのさ。現実として認識しなくなるんだ。とても不思議なことだよ。
 遥か昔、我々猫虫族と人間族とを分かつ決定的な出来事があった。それによって、きみたち人間族は自分たちが有していた精神性を、以降、悉く捨て去ってしまったのだよ。それから、人間族はこの世界で物質本意に依存して生きる道を選んだ。人間族が猫虫族と道を別った最初の頃、きみたち人間族は大いに混乱を来した。それまで有していた筈の精神性を根こそぎ失ったことで、きみたちはこの世界の生き物としてのバランスを大きく崩したんだ。数々の動乱が人間族の間で起こった。憎しみの感情が人間族の間を渦巻いた。きみたちは野に放たれた野人と化した。それまでは無かった人間族同士の殺し合いの歴史は、このときから始まったんだ。
 人間族で宗教と言われているものは、そもそもは、そんな混乱を収めるためにきみたちの中の長老たちが付け焼き刃的に編み出した流行病の特攻薬のような改悪品に過ぎなかったんだ。それがかなりの綻びは見せながらも分化発達し、僅かに原初の原型を微かに留めて今でも一定の効果を維持し続けていることは、我々猫虫族にとって驚きに値する。これに関しては今尚、我々の重要な研究対象とされているし、諸説はあるが、きみたち人間族が本質的に持っていた精神性の記憶の影響がそれに及んでいるところとも考えられている。ただし、きみたちの長老がモデルとしたそれらの原型は、本来、唯一絶対神を崇拝せしめるために創造されたものであり、その神たる存在を失なったことで、それを書き換えて応用することができたものだ。
 そして、頻発した数々の動乱と殺し合いの末、人間族は辛うじて同族間の秩序を保つことができたが、それ以降、以前は有していた精神性を再び発達させることはなかった。そのために、きみたちは今でもこの世界で最もアンバランスで危うい存在となっている。人間族同士の殺し合いは幾分減りはしたが、無くなりはしないだろ? そして、我々猫虫族は、きみたち人間族の脱落によって欠けた精神世界を補完するために更にその精神性を高めた。その歴史の長大さはきみたち人間族の今に続く混乱の期間に等しい。それは今尚続いているのだ。
 人間族間では、今では法によって基本的に殺し合いが禁じられているが、自らの感情をコントロールできないときには自然発生的に殺人が起り得るし、理由さえあればそれは公にも刑として行使される。大義名分というやつさ。我々猫虫族には殺し合いを禁ずる法令などは一切ない。何故なら、我々は殺し合う必然性をどこにも見出すことがないからだ。きみたち人間族が遥か昔、そうだったようにね」
﹁きみの語る、その話が事実だとして……」
﹁これは事実だよ」
 猫虫は即座にぼくの言葉を遮って、断言した。
﹁ああ、そうとするよ。そうとして、何故、人間はきみたち猫虫族と同じだった世界を離れたのだろう? 猫虫族との間で、何かしらの諍いでもあったんじゃないのか?」
﹁いい質問だ」
 そう言って、猫虫は満足げに人差し指を立てて見せた。
﹁そのときに起こった出来事には、第三の存在である異種族が深く関わっている。人間族は或るときから、その異種族に隷属化してしまったのさ」
﹁隷属?」
﹁まあ、今は、それは置いておこう」
 猫虫は続けた。
﹁如何なる局面に於いても、物質世界が精神世界を超越することはできない。それは、物質世界が有限な世界であり、精神世界が無限世界だからだ」
﹁つまり、それがぼくら人間ときみら猫虫との境界、というわけなのかい?」
﹁単純に言えば、そうなるね。しかし、実際はそう単純な話じゃないんだよ。境界は常に曖昧だ。でなければ、こうして今、きみとぼくが同じ次元で語り合うことは叶わないだろ?」
﹁ふむ」
﹁通常、きみたち人間族が認知不可能なこういった特別な事象を説明するとき、人間族の言語では当て嵌められる言葉が見つからないんだよ。きみたち人間族の言語は物質を表現するためだけに特化しているためさ。即ち、それが我々――この場合、きみとぼくだ――が共有することが可能な世界の境界付近の限界ではあるけれども、この全体世界には……そうだな……これも巧く当て嵌まる言葉が見つからないが、﹃揺らぎ』とでも表現すればよいのかもしれない……そう、波が在って、その境界には揺らぎが在るんだ。要するに、便宜的にその揺らぎを利用するのさ」
﹁揺らぎね。なんとなく解らなくもないな」
﹁うむ、それはそうさ。遠い昔には、きみたちも我々猫虫族と同じく、同位の精神世界の住人になろうとしていたのだからね。遥か遠い過去の記憶が、それは僅かながらではあるけれども、それがきみたちの助けになっているんだ。ただ、知覚として明瞭に認識できない不自由さのために、きみたち人間族は今ではそれらすべてを根こそぎ否定しがちなのさ。そりゃあもう、何でもかんでも盲目的に、と言っていいくらいにね。自分たちの物質欲を満たせないものはすべて否、というわけさ。遥か昔にきみたち人間族が持っていた素晴らしい感覚器官は、哀しいことに、きみたちの言うところの生物学的に既に退化してしまったのだよ。おもしろいことに、きみたちはそれを﹃進化』と呼んでいるのだけれどもね。でも、これは謂わば一般論だよ。それもあくまできみたち人間族の言うところの、ね。きみたちが用いる﹃意識』というものは、我々猫虫族と人間族との間に在る、きみたちが生み出した誠に邪魔な概念だよ、まったく」
﹁つまり、そのあたりが境界で、そこではときに例外が発生する、ということなのか?」
﹁そうだ」
 猫虫は溶けた氷で薄まったジン・ライムを一口入れると、手にしたグラスを大きな猫目の前に掲げて、じろっと睨んだ。
﹁例外的事例は、実は昔から多々あるのだよ。過去の時代を遡れば、非常に希有な精神性を先天的に有した人間族の突然変異が生まれた特殊な事例もあった。彼らは荒涼たる大地で助け合い、集落を造営し、それは僅かな期間で都を建営するまでに至った。過去の或る時代には、それらは地球上の極一部の地域ではあったが、人間族自身による新たな精神世界文明が華々しく開花し、繁栄しかけた事例もあったというわけさ。その過程を、我々猫虫族は微かな希望を抱きつつも、静かに見守ったものだったのだよ。
 しかし、結局は、きみたち同族によってそれらの文明と担い手たちは駆逐されてしまった。そして、取って代わったきみたち人間族の支配者たちがそれらの事例を跡形無く悉く抹消してきた。きみたちの支配者にとって、それらの文明の興起は好まざる異端だったわけだ。きみたち人間族は、希望の種をそうやって自ら踏み潰してきた。そういった事例が長い歴史の過去の中には少なからず在った。今では僅かな遺物や遺跡にその痕跡を認めることができる。しかし、肝心要な源人間族の名残りの宝物とも言える財産はすべて破壊し尽くされているけれどもね。再興不可能なようにね。ただ一つだけ、……それは現南極大陸に埋まっている」
 一度瞬きすると、猫虫はやわらかイカフライを一つ二つ、続けざまに口に放り込んだ。
﹁さっき、異種族の介入があったと言っていたけど……」
 猫虫はやわらかイカフライをゆっくりと咬み下しながら、ぼくに平手を向けて﹁待て」と示した。彼がやわらかイカフライを咀嚼し切って、それを呑み込むのを、ぼくはじっと待った。
﹁そうだ。きみたち人間族を物質欲に駆り立てたのは、異種族による影響だよ。というよりも、事実は、彼らによる理不尽極まりない半強制的な介入によるものだった。この世界の、ありとあらゆる物質を必要としていたのは、本来は彼ら異種族だったのさ。人間族は彼らの脅迫的要請を飲んで、異種族の奴隷と化してしまった。このとき人間族は、謂わば、彼らの人夫に下ってしまったんだ。その代わりに、異種族は自分たちの持つ物質的な技術の幾つかを人間族に供与した。数学や科学の類いは人間族自らが編み出したものではないよ。それらは、彼ら異種族から与え賜うたご褒美の一つ二つだったというわけさ。
 しかし、彼らは狡賢かった。決してすべてをきみたちに供与したわけではなかった。人間族へのご褒美は、彼らにとっては、地べたに投げつけた脆い中途半端な紛い物の唯物の類いの代物でしかなかったのさ。それは、対価としてはあまりにも不合理で、割に合わないものだったと言えるね……それでも、きみたちはそれらを基にして、永い時を掛けて発展させ、現代のこの物質依存主義社会を形成するに至ったのだけれどもね。
 宗教や経済学も、元を正せば、彼ら異種族が人間族を監視、統率するために編み出したものだった。そういったシステムは当初から誠に巧く機能した。そもそも、そのように構築されたものだからね。そして、人間族内に取り込まれ、分化し、それらはきみたち自身の手によってこれまで引継がれてきた。きみたち人間族が今でも神と称して崇拝することになった、その原型の指し示すところは、実のところ、彼ら異種族自身のことだった。
 そして、彼らはきみたち人間族を支配し、散々、利用するだけ利用した末に、或るときを境にあっさりと見捨てて去ってしまったんだよ。自らの一部をきみたち人間族の中に遺してね」
 話をそこで切ると、猫虫がテーブルの煙草の箱を指差して言った。
﹁ちょっと一息ついてもいいかな?」
﹁どうぞ」
 猫虫は旨そうに煙草の煙を吸い込んでは吹かして寛ぎ、ぼくはグラスに新しい氷を入れに立った。猫虫の後ろ姿の向こうで、彼の燻らす煙草の紫煙が、部屋のシーリングライトの光を集めて薄く青白く揺れていた。
 グラスに新しい氷を入れて戻ったぼくは、頭に浮かんだ素朴な質問を猫虫にしてみることにした。
﹁一つ、根本的な質問があるんだけど、いいかな?」
﹁何かな?」
﹁何故、精神世界の住人であるきみの姿が、物質世界の住人であるぼくに、こうしてはっきり見えるのだろう?」
 猫虫は人差し指を立てて見せた。
﹁実のところ、我々猫虫は常に此処に居るんだよ、この世界に。ぼくの姿がきみに見えるか見えないかは、常にきみの側次第なんだ」
 そしてまた、猫虫はやわらかイカフライをパクつきながら、ジン・ライムをクイッとやった。ぼくも彼と同じように、やわらかイカフライをパクつきながら、ジン・ライムをクイッとやった。
 ぼくらはお互い向かい合いながら、暫く無心で酒と肴を味わった。時間の経過の感覚が解らなかった。ぼくらはもう何十年も、ずっとこうして延々と、やわらかイカフライとジン・ライムを交互に口に入れ続けているのかもしれなかったし、それは、ほんの一瞬だけの出来事かもしれなかった。それがそのどちらなのか、或いは、そのどちらでもない、現実から解き放れた時間の流れの渦中に居るのか、ぼくには確信が持てなかった。焦点の合わない眼鏡を掛けてるみたいに。いや、それは、焦点の合わない眼鏡を通した世界の中にぼくが居て、入れ子になっているみたいな、そんな感覚だった。
 猫虫が再び口を開いた。
﹁きみたちは、お互いに相手の真意を読み合う。それは、それがいつも隠されているからだ。きみたちは﹃暗号』というものを用いるときがあるよね。あれは、誠に、きみたち人間族のそういった本質をよく表したものだと思うのだよ。きみたちは暗号を作って、しかし、肝心要のKeyを密かに何処かに隠す。そうして、自らの真意を他者の眼から遠ざけておく。それでいて、答えであるところの真意が誰かしらに見つけ出されることを愉しみに待つんだ。謂わば、きみたちは人生というものの殆どをそれらの暗号の作成と解読に費やしながら、最期まで互いに答えを見つけ出せないまま、その命を終えるのさ」
﹁そして、きみたち猫虫はぼくら人間のそういった習性を観察して、研究分析することに愉しみを覚える」
﹁待った。それは違う」猫虫は手を前で振って否定した。そして、続けた。
﹁そう簡単に言い捨ててもらいたくないな。猫虫族にとって、人間族は……それは、確かに事実、研究対象ではあるけれども、今、きみが言い捨てたような、我々はその対象としての人間族を冷淡な視線で捉えているわけではまったくないよ。
 つまり要は、我々猫虫族がときに憂慮すべき事柄は、常にきみたち側で起る、ということなんだ。それらの幾つかの人間族間で発生した出来事に対して、我々猫虫族は注視しておかねばならない。何故なら、人間族と猫虫族とは互いに影響し合っているからなんだよ。それは……何と謂うか、これも人間族の言語では表し難い。実際、それはそんな単純な物理的論理じゃないんだ。解って欲しいな……きみたちが考えるような、次元的な、そういった狭い範疇での相関関係ではないんだ。特に、時間の概念がきみたち人間族の大きな障害になっている……」
﹁ああ、きみの言わんとしているところは、なんとなくは理解できるよ。何てったって、ぼくにはきみの姿がこうして今はっきりと見えているんだし、事実、対話が成立しているんだからね、幾つかのぎこちない食い違いを除いては」
﹁正にそういうことだ。……ところで、あの色気ババアの話しの続きをしなければいけないね」と、一人居残りを指示した生徒を職員室に招き入れようとする担任教師のように、少し意地悪そうに猫虫は言った。
﹁きみは何故、そんなにも彼女に拘るのかな? それがぼくの単純な疑問なんだけれど……」
﹁まったく、きみってヤツは、そこんところが正直じゃないな。いや、だから、ぼくが話さなければならないのだけれどもね。……そう、さっき少し触れたけれどもね、きみたち人間族には、今やもう越えることができない障壁がある。それは時間の壁だ。しかし、太古の昔はそうではなかった……とにかく、我々猫虫族と人間族との大きな違いはここにもある。これも少々乱暴に解り易く言えば、我々猫虫はすべての人間族の過去の記憶にアクセスできるのさ。それは必要とあらば、なのだけれどもね。
 きみの猫虫として、ぼくは幾つかのそういった今後、きみを起点として関連関係するであろう人物の過去の記憶について下調べしたんだ。ただし、その作業は過程的であって、未だ総てではないよ。それはとても煩雑なものなのでね。でも、現時点のその調査の過程で、幾人かの重要人物をぼくはピックアップした。だから、あの色気ババアを問題視しているのさ。しかし、これは、あくまできみの立場に立って、の視点なのだということを、ちゃんと解っていてもらいたいんだけどね」
﹁彼女の過去に、そんなに問題があると言うのかい?」
﹁だから、きみにとって、の話しさ。……しかし、成り行き次第によっては、そうでもない、とも言えるね。そして広義的に言えば、それは、他の人間族や、我々猫虫族にとっても、とも言えるのだけどね」
﹁だから、きみは、ぼくに彼女には関わるな、と?」
﹁これはあくまで、ぼくの猫虫としての見解だよ」――猫虫的見解――それが一体、何を根拠とするものなのか、ぼくには皆目解らない。
﹁まるで、職場の先輩の、後輩に対するプライベート介入オブジェクションだな」
﹁大分違うと思うけれども、まあ、今のきみの気分からすれば、似たような話になっているのかもしれない。しかし、ここはひとつ、そうではないという根拠を、ぼくとしてはちゃんと示しておかねばならないな……。
 きみたちの持っている能力について、きみたち自身が、あまりにも過信し過ぎていることが大きな問題なんだ。これについて、我々猫虫は常に関心を持ちつつ、警戒もしている。精神世界の存在をきみたちはほぼ完全に無視しながら、一方、自らが得た物質的な能力については過信し過ぎている、ということだよ。そのために、きみたちはこの世界に﹃拗れ』を生みだす。拗れだけなら、まあ、いいのさ。しかし、それは結果として、我々の見方で言えば、空間を歪め、傷つけ、破壊する。そのことをきみたちはまったく理解していない。その﹃傷』は、放置しておくにはあまりにも危険なことなんだ。その要因には様々な、また、数々の因子が複雑に作用して生じる。それらの因子は人間族が生み出す。それらは紛れもなく、きみたちの体内から放出されているんだよ。そして、それらは混ざり合い、集合体と成って……困ったことに、ときに、それらの中でも幾つかの悪性因子は厄介な反応を起して融合する。生きた人間族から放出された悪性因子ほど、おどろおどろしいものはないね。きみたちにはそれがまったく見えないのだろうけどね……」
﹁彼女から、その悪性因子が放出されている、と?」
﹁いろいろ端折って、現状を手っ取り早く言えば、そうだ」
﹁……でも、根本的におかしいじゃないか。何故、ぼくに対してだけ、こうしてきみは意見する? むしろ、彼女のところへ行って、彼女の方を何とかすればいいじゃないか。その方がぼくも助かる」
﹁うむ、その、きみの言うところはごもっともだと思うね。しかし、ぼくはきみの猫虫なんだ」
﹁きみは、ぼくの専属ってわけか」
﹁そのとおり」
﹁じゃあ、彼女にも誰か、他の猫虫が専属で着けばいいじゃないか」
﹁いやあ、それがね……あの色気ババアには猫虫は着けないんだ」



 一頻り、みどりの愚痴の数々と、過去に彼女の周辺で起ったらしき、友人知人たちの謎の死の数々についての逸話を聞かされて――その詳細までは掘り下げて訊くことはしなかった――、ぼくたちはその日の夕刻に別れた。結局、その場のお開きの切っ掛けになったのは、みどりのスマートフォンに掛かってきた、彼女の知り合いらしき人物からの連絡だった。
﹁純さん、ごめんなさい。わたし、行かないとダメになっちゃったの。また会えるでしょう? やっぱりわたしたち、何か繋がるものがあるのよ。わたし、純さんとの出逢いは大事にしたいから」
 みどりはそれだけ言い遺すと、何を躊躇することなく、自分が呼び出した筈のぼくを一人置き去りにして、ドレスの裾を翻すや、さっさとカフェから姿を消した。それは、見事なまでの成り行き任せのカットアウトぶりだった。まるで、ぼくは連絡待ちの暇潰し相手にされていたようだった。彼女の一貫した姿勢は、自分を取り繕わず自然体に利己的で、予定調和というような社会的な協調性の類いを一切排した、どこまでも自分本位なところだった。

 その帰り道、ぼくはなんとも言えない気怠さに苛まれることとなった。それは、照りつける夏の灼けつくように強い陽差しのせいではなかった。
 今後、ぼくがみどりに与えられるものは有ったとしても、彼女から得られるものは、今日のような落胆以外には無さそうに思われた。けれどもこの日、みどりの話に辛抱強く耳を傾けているうちに、次第に彼女の内なる何ものかに対して、そのような利害とは別な、異種の魅力を感じ始めている自分に気づいたのだった。何故か、ぼくは彼女に惹かれ始めていたのだった。それはたぶん、彼女の美貌とは相容れない、根源的な彼女の性向――﹃性悪』――に、だった。
 けれども、どうにも気分の収まりが悪かった。真っ直ぐ帰宅したくない気分だった。リセットしたかった。歩きながら思案して、街中の比較的客が少なく煙草の吸える落ち着けそうなカフェを探して、改めてゆっくりと気分を落ち着かせてから帰ろうと考えた。
 適当に道すがら見つけた、初めてのカフェに立ち寄った。ぼくはメニューをチェックして、珍しくオレンジ・ジュースをオーダーした。それは、かなり割高な料金設定だったのだけれど、そのときのぼくの喉は冷たいオレンジ・ジュースを欲していたのだ。けれど、生憎、ウェイトレスがトレイに乗せて運んできたそれは、真っ赤なトマト・ジュースだった。それでぼくは、やはり、今日という日が吉日でないことを悟った。落胆が過ぎて、ウェイトレスにクレームを言う気さえも失せた。諦めてストローを吸うと、脳内の味覚野がひっくり返った。その味はトマト・ジュースではなく、オレンジ・ジュースそのものだった。そう、ブラッド・オレンジというやつだった。道理で値段設定が割高な筈だったわけだ。うっかり恥をかくところだった。
 ああ、まったく……とにかく、あの女のことはもう頭から放り出そう、取り敢えず。そうマインド・リセットして、たぶん小一時間ほどの間、時々煙草を吹かしつつ、ぼんやりとウィンドウ越しの外に見える、通りを行き交う人たちの姿を眺めながら、そのカフェでぼくは独り過ごした。

 いつの間にか、ぼくは父方の叔父の嫁、本田佐和子のことを憶い出していた。
 ぼくがまだ幼かった頃、父の兄弟家族が皆勢揃いした祖父宅で、叔父が初めて彼女を連れてきた日のことをぼくは今でもよく憶えている。
 後にぼくの義理の叔母となる佐和子は、我々本田家の家族と初対面したときには緊張して頬が引き攣っていたからか、神経質そうな面持ちではあったものの、どこか華やぎを感じさせる女性だった。大人の女性にしては少々肉着きの悪い細身で華奢な佐和子は、とても笑顔がチャーミングな美しいひとだと子ども心に思った。ぼくは叔父と同じく、このひとのことを一目見て気に入った。しかし、後に知ったところ、他の家族の印象はまったく正反対のものだったので、ぼくは大変驚いた。
 家族全員がこの叔父の結婚に反対票を投じたらしかった。家風に馴染まない。控えめな態度がない。軀が弱そうだ。派手好きだ。気が回らない。化粧が濃い。謙虚さが感じられない……大凡、そのようなくだらない、どれもこれも似たようなことを言い替えただけの、一方的な否定的評価だったように思う。佐和子の出自を特に問題視する者は居なかったと思う。我が家と同じく極一般的な庶民家庭の出の娘だった。なのに何故、それほどまで、あんなにいいひとを攻めるのか、と、ぼくは幼心に大人たちの考えがまったく解せなかった。それは、後に覚えた言葉で言えば理不尽そのものだった。あのとき、自分の家族を初めて人ではない鬼どものように感じた。
 ぼくは父よりも弟の叔父の方が好きだった。何故そうだったのか? 今改めて考えてみると、それは何故だったのだろうと思う。きっと、まだ子どもだった当時のぼくは、今のような大人の理屈や関係性で以て、何事に対しても好き嫌いを判断していたわけではなかったからなのだろう。言葉にして表せる理由を探し出すよりも先に、子どもは思った侭に、その生まれながらの感性で判断し、行動するものなのだ。ただでさえ内気だった当時のぼくは、普段から寡黙な子どもだった。大人に成って言葉を駆使し、弁を立たせて、自分の思いを何とか辻褄の合うように表せるようになったのは、もっともっとずっと後のことだ。
 とにかく、ぼくは叔父が好きだった。だから、叔母を初めて見たとき、叔父があのひとを選んだことが、家族の中でぼくだけには抵抗なくとてもすんなりと理解でき、馴染めたのかもしれない。
 それでも結局、叔父は家族皆の反対を押し切って、佐和子と結婚した。ぼくはそれがとても嬉しかった。けれど、他の家族たちは、叔父が結婚しても尚叔父夫婦には冷たく、ときに辛辣だった。叔母は家族として受け入れられたとはいうものの、皆に心から暖かく迎え入れられたわけではなかったのだった。ぼくは子どもなりにその状況を見悟っていた。皆が事在る毎に﹁あの嫁は気が利かない」と、ひそひそと小声で言葉を交わし合っているのをぼくは見聞きしていたからだ。大人は、主語さえ抜いておけば、子どもには会話の内容を悟る能力はあるまいと高を括って、子どもの前では警戒を緩める。特に、両親が叔母の悪口を話しているのを聞いて、ぼくは大いに気分を害した。何故に、同じ家族をそうまで攻めるのか。﹁なんで、そんなに佐和子さんを虐めるの⁈」と両親に訴えた。そんなふうに、ぼくは家族たちから度々幼心を傷つけられた。
 叔母の佐和子はお洒落好きだった。結婚前はデパートのレディース衣料品売り場に勤めていたのだそうだ。そんな独身時代の経験もあり、いつも彼女は家族の他の女性たちの誰よりも目立つ洋服を身につけていた。華奢で小顔の彼女にはどんな装いもよく似合った。ところが、それがまた、他者からの羨望的な視線を浴びることとなり、逆効果として彼女は冷淡な批判に晒される結果になっていたのだ。叔母は美しいものが好きでセンスが良かった。そしてただ、それらを自然に身に着けていただけのことであり、それが彼女の個性を彩る美点の一つだというだけのことだったのに。
 確かに、ときに叔母は、気が付かないひとのように見受けられることが、子どもの目にも屢々有ったのは事実だ。けれど、そんな些細な点だけに目くじらを立てて彼女を非難するのは、ぼくに言わせれば、甚だ見当違いなことだった。叔母は皆よりも十分過ぎるほど周囲に気を遣っていた。彼女は実はか弱く繊細な心の持ち主だった。それ故に、自身の立場を逸脱するようなことのないように、敢えて、人より先んじては手を出さないことを選んでいたのだった。その遣り方が他の家族たちの気風とは違っていただけのことだったのだ。ぼくは、そんな独りぼっちのときの叔母の健気な姿を見て、よく知っていた。
 正月などに皆が集まったときには、ほんの些細なことが原因で、叔母が皆から一斉に攻められることが有った。そんなとき、ぼくは子どもなりに叔母を精一杯庇った。ぼくは皆の見る前で叔母の軀に抱きついて離れようとしなかった。そのようなぼくの捨て身の行動は、無言の抵抗として度々功を奏し、少なからず叔母の危うい立場を救った。ぼくの家族は決して鬼でもなく、性悪一家でもなかったので、最後のところでは心は通じ合えたのだ。
 叔父と叔母は、ぼくをとても可愛がってくれた。少年時代には、よく二人の家に一人で遊びに行ったものだった。父夫婦は仲が良かった。子どもはもうけなかった。というか、できなかったのか、それとも、作らないことを二人が選んだ結果だったのかは判らない。そういうこともあってか、二人は、ぼくが大きくなってからも、我が子のように可愛がってくれた。叔母は﹁純ちゃんは優しい」、そう言って、心底善くしてくれた。叔母は、ぼくが彼女をいつも皆から庇おうとしていたことを、ちゃんと解っていてくれていたのだ。それは叔父も同じだった。謂わば、この叔父夫婦に厚く備わっていたのは、子どもの持つ心に近い、対等で等価の純粋さだった。
﹁純ちゃん、これ、わかる?」
 当時、叔父夫婦の新居の引っ越しの手伝いに行ったとき――実質的には、ぼくはまったく役には立っていないが――、新しく購入した電気製品の使い方について、取り扱い説明書を手に持って、ぼくに助けを求めてきた叔母の姿を憶い出す――﹁おばちゃん馬鹿だから、難しいこと解らないの。純ちゃん、できる?」――彼女の子どものぼくに対する態度は、正しく、彼女と対等なものだった。
 その後、叔父夫婦はマレーシアに移住して、今は彼の地で悠々自適に余生を送っている。

 カフェで微睡みながら、ぼくはそんな懐かしい昔の想い出にいつしか浸っていた。何故に、記憶の奥底に埋もれていた筈の叔母の想い出が呼び起こされたのか、不思議な心持ちだった。
 それについて、ぼくは少しばかり思索を巡らせた。そして、一つの結論を導き出した。義理の叔母、佐和子の姿にみどりを重ね合わせていたのだった。無意識下で、叔母の容姿の面影が、どことなくみどりの中にあることに気付いたのかもしれない。その偶然の一致の発露に、ぼくは少々動揺した。
 真っ赤なブラッドオレンジ・ジュースが溶けた氷で薄まって、細長い円筒形のタンブラー・グラスに残っていた。それはとても不味そうな色をしていた。それがトマト・ジュースであれ、ストロベリー・ジュースであれ、何だって、ぼくは一向に構わない。

 その日、ぼくは自宅に帰ると、軽めの夕食を作った。腹が空いていなかったので、いつもより少なめのパスタの分量でペペロンチーノを作って食べた。それは、いつも食べ慣れた自分のペペロンチーノの味がした。
 どうも気分の落ち着かない日になってしまった。仕方なく、プリマスのボトルを出して、ジンを炭酸で割り、たっぷりとライムを絞って、そのグラスをちびちびやりながら、読み掛けの文庫本のページを捲った。ただ文字を両目で追っているだけで、小説の内容はまったく頭に入らなかった。何処からか睡魔が降りて来るのを待つためだけに、ぼくは紙の上の呪文のような活字をひたすら読み続けた。

 ベルガモットの精油。
 矢車菊と紅茶の渋み。
 ミルクと人の汗。
 濃く、咽せるようで誘われる女の匂い。
 それらの混じった濃密な匂いの膜の中にぼくは居た。
 ぼくは女の口を吸っていた。相手の女は、ぼくよりも更に熱っぽく口を吸い続けている。互いに舌を絡み合わせ、混ざり合った唾液が互いの唇を濡らす。そして、それをまた舐め合う。女の両手がぼくの髪を掴んで、自分の軀へと強く引きつける。ぼくは女の軀に手を這わせ、肩から尻までの曲線を指先の感触でなぞり取る。薄手のサマードレスの手触りの下に女の柔らかな弾力のある肉があり、それが緊張と緩慢を繰り返しているのがわかる。その飢えた肉がぼくを求めているのがわかる。女の肉は飢えながら、その行く先をぼくに委ねているのだ。
 口を吸い続けながら、女の手がぼくの股間を弄る。パンツの上からペニスのかたちをその手先の感覚で見つけ出し、そこを強く握っては優しく擦る。じらすように、また物欲しそうに、それを繰り返す。ぼくのペニスは硬く勃起していた。
 女はたまらず口を離して吐息を漏らした。耳元の女の荒い息づかいが、ぼくの中の男を震わせる。女は片手でぼくにしがみつき、その指先が背中を掻きむしる。その力の強さに、女の好戦的ともいえる熱情をぼくは強く感じる。女は更に吐息を漏らす。粗く、小刻みに。
 ぼくは両手で女の尻の丸みを揉みしだく。その弾力のある肉の中に指を食い込ませ、放しては撫でる。それに呼応するように女は軀をくねらせる。そして、長く深い吐息を漏らした。ぼくは指先でドレスの生地を繰り寄せて裾を捲り上げる。露になった女の尻の素肌の感触をぼくの十本の指先が捉える。そこに放たれた十匹の蜥蜴が這いまわる。獲物を殺さずに弱らせて、弄ぶように。
 ぼくは執拗に女の尻の肉を揉みしだきながら、片手を女の尻の割れ目の間に滑り込ませた。指先が微かに濡れた女の芯に触れた瞬間、声を漏らして女は軀を引き吊らせて悶えた。女の尻の肉が締まり、そこにぼくの手が食い込む。その指先が捉えた、面積の極端に少ないGストリングス・ショーツのクロッチは激しく濡れていた。その下の柔らかい肉襞を、指先で撫でながら女の反応を見る。女はその顔をぼくの肩口に埋め、耳たぶを舐めていた。女の吐息が一層大きく角膜を震わせる。女の熱い息がぼくの耳全体を覆う。そして、女はぼくのペニスを握って離さない。ぼくは女の尻の割れ目に食い込ませた手の平で、女の軀を持ち上げるように強く抱きしめた。ショーツの布切れが吸い取りきれない露が、指先から滴り落ちたのがわかった。
 女が貪るようにぼくの口を吸う。両手でぼくの頭を掴み、その口の動きだけで、ベロをもっとちょうだい、とせがむ。そして、ぼくの舌をその口で飲むように吸い上げ続けた。女のその加減を知らない身任せの力のせいで、受け身にまわったぼくはバランスを崩して、そのまま二人共床に雪崩のように倒れ込んだ。ぼくが床に仰向けに突っ伏しても、女は尚も口を吸い続け、決して唇を離そうとはしなかった。ぼくの上に覆い被さったまま、執拗に口を吸い続けるのだった。女の細い髪の塊がぼくの顔を覆った。女は状況に構わず、ぼくの舌に自分の舌を絡め続けた。息苦しくなったぼくは、思わず両手で両脇を持ち上げて女の上半身を起して放した。女の髪がバサッと垂れ下がって陰をつくり、その顔を隠していた。女は息を粗くして肩を揺らして呼吸しながら、そのミディアム・ロングの亜麻色の髪を片手で掻き上げた。今、初めて露になったその女の顔は、みどりだった。
 脊椎に電撃が走って、首の後ろが熱くなったのがわかった。
 ぼくの驚きを他所に、みどりはまったく意に介すことなく、ぼくの腿の上に馬乗りになりながら、手早くぼくのパンツのジッパーを下して、勃起したペニスを露にすると、片膝を立てて開いた彼女の股間の、殆ど紐同然にしか覆われていないショーツを横にずらして、自分のヴァギナへと導いた。あっという間に、ぼくのペニスはみどりの熱くぬるぬるとした粘膜の肉の中に包まれていた。
 ベルガモットの精油と、矢車菊と紅茶の渋み、ミルクと、みどりの汗の混じった、濃密な匂いの膜がぼくの鼻孔を刺激した。それは、自ら軀を離すには到底抗うことのできない、妖しく甘味で、濃密な匂いだった。互いの軀中の毛穴が開き、発散された二人の汗の匂いがそれに混じり合った。
 みどりは腰を深く沈ませて、強く擦り付けるようにぼくの軀の上で前後し、また、上下動を繰り返しながら、その動きを止めること無く摩擦を続ける、彼女は背中の大きく開いたドレスの腰のジッパーを下すと、両手を上方に伸ばして勢いよくドレスを脱ぎ捨てた。彼女のブラのショルダーストラップの片側が垂れ下がった。彼女はぼくの両手首を握ると、その手を自分の胸の膨らみを覆うブラのカップの上に当てる。手の平の中にみどりの乳房の肉の重みを感じた。その肉の塊がみどりの動きに合わせて上下に弾けて揺れる。
 上からみどりがぼくを見つめる。その瞳は、彼女の軀の反応とは反対に、渇いていて冷たく、しかし、どこか慈悲深げな優しさがあった。
︵もう遅い……何故、こうなったのかは解らないけれど、とにかく、こうなってはもう同じだ……)そう観念したぼくは、みどりのブラのカップを剥ぎ取り、露になった乳房を強く掴み揉みしだいた。
 すると、みどりが吐息を漏らす。﹁そう、それでいいのよ」と言うように。
 ぼくは上半身を起して、片方の乳房の先端を吸った。口に含んだその乳首の先端を舌先で転がし、噛んだ。みどりが嗚咽を漏らす。互いの反応が更にまた反応を呼び覚まし、そして、鋭く呼応し合った。
 みどりはヴァギナを絞めて更に激しく腰を使った。みどりの軀が揺れる毎にぴちゃぴちゃと音がする。両膝を立てて上下動させながら、ぼくを受け入れているみどりのそこには陰毛はなかった。美しく脱毛されて縦に割れて開いたラビアが赤く紅潮して、ぼくのペニスを包み込んでいた。ラビアには溢れ出た透明の露が纏わりつき、それが音を立てて、ぼくの陰毛に垂れ落ちながら泡立って白濁してゆく。みどりの軀に彼女の汗が滴る。上半身をくねらせ、彼女の下半身はぼくのペニスを銜え込んだまま、そこを支点に上下、前後と、激しく躍動し続けた。吐息、嗚咽、悲鳴のような呻き。そして、みどりは一気に昇り詰めようとしていた。
 そのとき不意に、ぼくの前の視界が白く霞み始めた。すべてが急激にホワイトアウトしてゆく。彼女の下敷きになっていたぼくの背中が、一気に床の下に吸い取られてゆくような感覚がする。みどりが、彼女の呻き声が、ぼくの前から遠退いてゆく。目の前の何もかもが真っ白く霞んで、その中にどんどん吸い取られてゆく。目の前が見えない。ぼくの軀がそのまま底へと落ちてゆく。
 次の瞬間、ぼくは腰のあたりに激しい痙攣を感じた。夢精だった。激しい夢だった。胸が苦しかった。
 ぼくはとてもショックを受けた。夢の中のその相手が、他ならぬ、みどりだったことに、だ。不覚だった。それはまったく意外でもあった。何故、夢の中の相手が、みどりでならなければなかったのか、自分でもまったく解らない。騙し討ちを喰らったような、嫌な気分だった。けれど、これは自分の中だけで起ったことだった。彼女は感知していない。だから、これは断じてみどりのせいではなかった。
 ベルガモットの精油。矢車菊と紅茶の渋み。ミルクと人の汗。濃く、咽せるようで誘われるみどりの女の匂いが鼻孔に、そして腰の上にみどりの軀の重みが遺っていた。



﹁何故、彼女には猫虫は着けない?」
 ぼくは猫虫に問い返した。
﹁それは、きみにもなんとなくは解ってるんじゃないかな? その核心は掴めてはいなくてもね」
 猫虫は恣意的なのか、答えをぼかして仄めかしたので、ぼくは訝しがった。それを見悟ると、彼は付け加えた。
﹁いや、遠回しにきみをからかうつもりはないんだよ……何度も言って悪いんだけれどもね、人間族の言葉では表せない事象がこの世界には数多くある。だから、このぼくだって、今こうして苦労を強いられてるじゃないか。しかしながら、だ。そのすべてを、例え、人間族の言語に置き換えることができたって、どうにもこうにもしようがないことが実際、多く在るのでね、きみらの知らないところでは……」それまで流暢だった猫虫の語り口が、次第に間延びし始めていた。
﹁ちょっと話が見えないな。酔ってるのか?」
﹁……ああ、少し。……要するに、意味がないんだ。今はもう。それは早晩、きみにも認識できることになるだろう。しかしそれは、きみたち人間族にとっての認識と、我々猫虫族との認識との間に大きな隔たりがあるのでね、それはそのまま、きみが納得してくれようとしない今の状況なわけだからね……だから、あの色気ババアのことを哀れんでいる、きみのその心持ちは理解してるつもりなんだよ、このぼくとしても。ああ、まったく……この人間族の言語ってやつは……それは、人間族が用いてきた誠に不完全極まりない伝承手段でもある。その努力には、我々猫虫も敬意を表するよ。しかし、それはあまりにも不完全に過ぎる。だから、過去の幾多の人間族の膨大な記憶が葬り去られてしまったんだ。故に、きみたちのコミュニケーションそのものに常にエラーが腹んでいる。如何に人間族同士の意思伝達機能が不完全なものかということが解ろうというものさ。まあ、それは、この世界のバグの一つみたいなものだけどね……」
﹁愚痴っぽくなってきてるよ」
﹁ああ、少しばかり飲み過ぎたかな……」
﹁いいよ。きみも、しっかり物質の影響を受けることが解って」
﹁うむ。ここは端境領域だからね、そういうことも起こる。……それはさて置き……きみたち人間族には埋め合わすことができない領域というものが、この世界には歴然と存在しているのだ、ということをよく理解することなんだよ。我々猫虫族はその領域に在って、きみたち人間族を補助する……少し違うけれど……まあ、今はそういうことでいい。人間族は、失われた感覚器官を取り戻す努力をせねばならない……すべての人間族が、このことにしっかりと気づいて目醒めれば、きみたち人間族にも良き未来があるかもしれない……きみは、本来其処には無いものに惑わされていて、其処にしっかりと在るものが見えていないだけなんだよ」
﹁どうにもこうにも、まどろっこしい話だな」
﹁……うーん……それは、ぼくの説明が悪いってことかな」猫虫はゆっくりと瞬きをした。その大きな猫目の端っこに僅かに有る白眼が、少し充血しているように見えた。
﹁今夜は長居してしまったよ。……どうだろう? きみなりにでいいから、少しこれから先、ぼくの今日の話を踏まえて、考え直しておいて欲しいな。ぼくはぼくで、更に調べておくから」と猫虫は言った。
﹁ああ、分った。きみが話してくれたことは、ぼくなりに、独りで考えてみるつもりだよ」
﹁それならよかった」
 猫虫は皿に一切れだけ残っていたやわらかイカフライを指差して、ぼくの了解を得ると、それを摘んで口に放り込み、急いでむしゃむしゃと噛み砕いて、ゴクンと大きく喉を鳴らすと、椅子から立ち上がった。
﹁ごちそうさま。また、近いうちに」
 猫虫はぼくにそう挨拶を済ませると、ベランダに出て、ぴょんと跳ねて柵の上に軽々と乗り上がり、背中の透明の翅を水平に広げて飛び立った。ブーンと低く大きな羽音を辺りに響かせながら、月明かりの夜空の闇の中をぐんぐんと上へ上へと飛んでいった。月明かりをバックに小さな黒い点に見える猫虫の飛翔姿は、カブトムシやなんかと何ら変わりない、空飛ぶ小さな黒い塊でしかなかった。世界中の誰もがその存在を知っているだろう、あの甲虫のカブトムシが飛んでいる姿を、しかし、一体どれくらいの人が実際にその目で見て知っているのだろう? と、ぼくは思った。ひょっとすると、それは空飛ぶ円盤目視体験数よりも圧倒的に少ないことなのかもしれない。うん、たぶん、そうだろう。人には見たくなくても眼に入るものもあれば、幾ら見たくても、その機を逸して見られないものもある。空を見上げれば、猫虫が飛んでいるところを見られるとは誰も思わないだろう。猫虫が指摘するとおり、我々人間の意思伝達能力は誠にお粗末なものと認めざるを得ない。満月が美しく輝く夜だった。
﹁ナ、リルジョニジュゥル、オーォ、ヒッソークー」――何故か、Televisonの"Little Johnny Jowel"が聴きたくなった。それは、彼らのオリジナル・アルバムには未収録の、泥の中に埋まりながらもその輝きを覗かせる、翡翠のようなデビュー・シングルの曲だ。
 ぼくの人生の潮目はいつも緩慢で、その変化の予測は難しい。いつまでも腕が上がらないが一端の漁師であるぼくは、またしても、その潮目を読み誤っているのかもしれなかった。特別な必殺技も持ち合わせていない。だから、そんなへっぽこ漁師の漁と航海は多難だ。けれど、ときにそれまで吹き荒れていた筈の洋上の嵐がぴたりと止み、暗雲は綺麗さっぱり空から消え去り、穏やかな波間に目映い陽差しがキラキラと照り返して、一切何事も無かったかのように、ぼくの小さな船は穏やかに大海を漂い続ける。ぼくは釣り糸を垂れ、航海の平穏無事を噛み締めながら、この先の漁の僥倖を祈る。そして、ぼくは思う——このまま穏やかに過ぎる筈がない。いつか嵐は荒波を伴って、また突然にやって来る。
 猫虫の示唆する先に一体何があるのか、人間族の一人であるぼくには皆目解らない。猫虫の懸念は、ぼくがみどりと関わることに掛かっている。けれども、ただ猫虫の言われるままに従って、無下にみどりとの関わりを絶つことには、やはり、ぼくは抵抗を感じていた。



  Ⅱ 抜け殻



 リカとの出逢いは、今から二年前の八月の終わりか、九月の始まりだったか、その正確な期日については今以て憶い出すことの叶わない、とにかく、まだ残暑厳しい夏の終わり頃のことだった。あの当時、ぼくは極端な自暴自棄状態に陥っていた。それは鬱病一歩手前の抑鬱状態にあったと思う。それこそが、その当時の記憶が曖昧な理由だ。
 ぼくがそんな状態に至ったのには、それ以前に起った、大きな三つの事情に原因がある。
 一つめ。それは仕事仲間に裏切られたことだ。彼は本来、ぼくの親友だった。彼とは、友情と、深い信頼関係で繋がっていた無二の間柄だった。いや、その筈だった。当時、ぼくは独自の営業活動で獲得することができた、大きな仕事に取り組もうとしていた。それを貫徹できた暁には、キャリア的に大きなステップアップを望めるプロジェクトだった。ぼくのような無名のフリーランサーなんぞには本来、滅多に舞い込んでは来ない、大きな幸運というべき仕事だった。幸いにして巡ってきたこのプロジェクトに、ぼくは当時、自身のグラフィック・デザイナーとして培ったすべてを傾注して一心に取り組んでいた。それは遣り甲斐のある仕事だった。順当に進めば、それまでとは比べられないほどの高い評価とそれに伴った対価と、ひょっとすれば、名声をもこの手中に収められる筈だった。
 けれど今憶えば、当時のぼくには、その期待感に飲まれて浮き足立っていたところがあったのかもしれない。脇が甘かった。隙があった。そのプロジェクトに関して、親友であり、仕事仲間でもあった彼に、決して言うべきでないことをうっかり喋り過ぎた。たぶん、彼の方ではそんな当時のぼくの厚顔な振る舞いに接して、ある種の恨めしさを感じていたのだろう。ぼくはそんな彼の嫉妬心をまったく感じ取れていなかった。彼は、ぼくから得られた内部情報を基に密かに裏で動いていた。その仕事を根刮ぎぼくから奪い取るために。
 二つめ。それは、先の仕事での失態の後に起った。親友だった筈の仕事仲間の裏切りによる顛末は、ぼくのプライドを貶め、将来への展望を失わせるに十分過ぎるインパクトがあった。それが人間不信に深く陥らせる直接の原因となった。ぼくは荒れた。傷ついた。他人を信用できなくなった。
 当時、結婚を前提として長年つきあっていた女性が居た。ぼくは一方的に彼女からの癒しを求めていたのかもしれない。状況からして、それが当然だと、身勝手にも思い込んでいた。けれど、それはまったくの独りよがりだったことに、あのきのぼくは気づけなかった。
 一つの悪い出来事を切っ掛けにして、それまで積み上げてきた土台に皹が入り始めるのは、まるで脚本どおりの見事な展開だった。その崩壊の有り様は、当の本人を置き去りにしてあれよあれよという間に進んでゆく。そして気が付いたときには、元在った筈の土台は修復不可能なまでに壊れて形を失ってしまっているのだ。二人は傷つけ合い、彼女は遂に居た堪れなくなって、ぼくの元を去った。無惨極まりない別れだった。そして、ぼくは更に荒んだ。
 三つめ。母が病に倒れ、この世を去った。実母の死がどれほどの心痛をもたらすかは、その程度の差こそあれ、人の子であるすべての人に共感できる事由であると思う。ぼくは極一般的な家庭で産まれ育ったので、特別な家庭環境下で母との関係を築いてきたわけではない。それは極在り来たりな母と息子の関係でしかない。けれども、ぼくの母を失った喪失感は、それまで想像だにしなかったほど大きなものだった。やはり、その存在の偉大さは、失って初めて思い知るものだった。そして、その事実は、ぼくを孤独のどん底へ突き落とす決定的な追い打ちの一撃となった。
 母の死以前に、ぼくは極端な人間不信に陥っていた。そのため、殆どの友人知人との親交を意識的に避けていた。それが一層孤独感に拍車を掛けていったのは間違いないけれど、それには、そうならざるを得ない理由があった。そこに母を亡くしたことによる喪失感が加わって、状況は更にぼくの孤立を深める状態に陥っていた。
 そうして、ぼくはそれまでの様々な人づきあいのサークルから自ら遠退いていった。二十代で独立し、フリーランスのグラフィック・デザイナーとして辛うじて食い繋いではいたが、この状況に因って営業活動が休みがちになっていったことで仕事の依頼は一気に減っていった。それと平衡するように仕事に対するぼく自身の意欲も失せていった。当然の末路として、それまでの生活の基盤が崩壊するのにそれほどの時間は掛からなかった。それはもう風前の灯火、といった状態だった。食欲も失せて体力も落ちていた。無気力とはそういうものだった。
 三十代半ばの親不孝男が、人間不信と失望感と喪失感に苛まれて自暴自棄に落ち込んでいる惨めなさまなどをわざわざ吹聴したいと思わない。けれどもこれは、リカとの出逢いを語ろうとするとき、その前段として憶い起こさざるを得ないぼく自身の過去の一部なのだから仕方がない。
 今でもときどきこの頃に見た悪夢が蘇ることがある――その夢の中のぼくの軀は、肉も骨も溶け出して地面に吸い取られてゆく。そして、仕舞いには、自分という存在は地面に張り付いた薄い膜となって、移動すらできずに地表に辛うじて乗っかっているだけの儚い存在になった。視界は真上の空だけだった。ただそれだけだった。縦にも横にも斜めにも見えるものは他に無く、地平線さえもぼくを見捨てていた。空には雲と太陽と月と星と、それらが交互に繰り返し現れて、入れ替わっては消えてゆく、それら以外に動くものは見えなかった。ぼくはその孤独に耐えられず、声を上げて誰かに助けを求めた。けれど、誰も助けに来てはくれなかった。ぼくはまったくその場から身動きがとれなかった。一人では何もできなかった。生きることを諦めようとしても。そうして、ぼくは情けなくもただ生かされ続けているだけの存在なのだった。長い時間が過ぎた。そして、やっと誰かの足がぼくを踏みつけたのが見えた。その足の主に呼び掛けた。けれど、応答はなかった。ぼくは人には見えない存在に成り果てていた。それでも、其処に人が居ることを知って、それだけでとても心が安堵した――こんな夢をぼくは毎夜見続けた。
 ぼくから奪われた世界、それまでは確かに在った筈の世界を根刮ぎ失って、その後に遺された広大な不毛たる空き地には虚無の世界が在るばかりだった。何処に居ようと、突如として、ぼくはその虚無の深みに嵌り込むのだった。其処から抜け出さねばならなかった。けれど、いつまで経っても其処は虚無の庭の範疇だった。その庭の外へと足を踏み出さねばならなかった。解ってはいた。ただ、それを現実のものとすることは、我が母を死から蘇らせること以外に到底不可能なようにさえ思われた。

 自宅マンション近くに公園が在った。そこは大きな緑地公園で、その中心部には大きな人工池が在り、その池を取り囲むように周遊道が整備されていて、市民の憩いの場として近隣地域の住民たちに広く知られ、永く愛されている場所だった。ぼくは以前からその公園が好きで、よく独りで立ち寄っていた。尚も無気力状態のままで、仕事さえも休業し続けて自宅に引き蘢る日々を過ごしていたが、そんな状態から脱出すべく、その公園への散歩だけは自分に課していたのだ。と言っても、それは、ただふらふらと力なく、まるで痴呆症老人のように公園の中を歩いて、徘徊していただけのことだった。
 ぼくの中の、感じることができなくなった、何処かに在った筈の熱源は、この世界の何ものに対しても再び生気を帯びて反応することはなかった。それでも、陽の光を浴びようとした。風を感じようとした。この街中の小さな自然の中に生きるための種らしきものが落ちているかもしれなかった。それは、石ころや昆虫の死骸でさえよかった。あの頃のぼくにとっては、公園を散策することでさえ、精神的にも体力的にもほとほと疲れる作業だったけれど、それでも、そうして散歩だけは続けるようにしていた。何か奇跡の種が拾えるかもしれなかったからだ。そんなふうに、人知れず、心の中の小さな蝋燭に火を灯して抱きつつ、ときどき外に出て、ぼくは公園を散策し続けた。
 公園には人々が集う。憩いを求めて。それはそのために造園されているからだ。ジョギング中のランナー、デート中の散策を楽しむカップル、ベビーバギーを押しながら、子どもと散歩する若い母親。身を引き締めてウォーキングに勤しむ老人の姿もあった。それらの人々が視界に度々入っては、いつ出て行ったのか分らぬままにぼくの視界から消えていった。一見、この世を謳歌している人たちの姿を垣間見て、ぼくは彼らから何かしらを見習おうとした。それは、善人であれ、悪人であれ、例え、それは犯罪者でさえよかった。人から学び、自分の中に取り込むべき何らかの種を見つけだし、それを自らの心の苗として植え着け直さねばならなかった。生きるということの熱源を、精神的支柱であった母以外の源を見つけ出さねばならなかった。或いは、それを自らの内に、我が力で改めて生み出さねばならなかった。けれど、それは容易くはないことだった。ぼくを支配していた喪失感の方が未だ遥かに大きかった。
 そんな、希望を見失い、ただ無気力感に浸って日々を過ごしていただけだった或る日、いつもの公園を散歩していたときのことだった。公園内の雑木林に囲まれた庭園のようなところに、一脚佇む古ぼけたベンチ・シートが在った。その背もたれ付きのベンチに塗られたグリーンのペンキは風化して所々剥がれ、朽ちかけた木肌を露出させたその無様な座面は落ち葉の吹き溜り処と化していた。なんとなく、ぼくはそのベンチがそのときの自分にとても似合っている気がした。座面の上の落ち葉を手の平で適当にさらって、そこに腰を落ち着けて暫し休むことにした。
 ベンチに腰掛けると、板張りがまるで何かの生き物のように軋む音を発して、座面全体が僅かに沈んで撓った。何処か雑木林の奥で遅生まれのミンミンゼミが最後の力を振り絞るかのように鳴いていた。一匹の蟻が無遠慮にぼくのパンツの上を這い回っていた。ぼくは生き物というよりも、ベンチの座面を覆う巨大な落ち葉同然の儚い存在のようだった。ときどき風が吹くと、ベンチの周りの木々の枝葉が擦れ合う林のざわめきが聴こえた。
 ベンチのすぐ側の生け垣の枝の隙間に、蝉の抜け殻の一つが挟まっているのが目に留まった。それを見つけて、また、ぼくは母のことを憶い出した――それは、いつの夏の終わりだったか、母以外の家人の誰もわらない少しばかり昔のことだ。母はどこから拾い集めてきたのか大量の蝉の抜け殻を花瓶に差した木の枝のそこら中に掴ませて、オリジナルのオブジェを作っていたのだった。その木の枝には花も葉も着いていなかった。それは、ただの枯れ木の枝に咲きそぼった、蝉の抜け殻の華だった。その蝉の華が生けられた花瓶は、いつの間にか、気づけば居間の隅の小さなテーブルの上に目立たず置かれていた。とても母らしい、母というひとを表した作品だった。
 涙が零れ落ちた。
 ベンチから頭上の空を見上げた。視界がぐらっと揺れて少し目が眩んだ。首筋に頭の重みを感じた。落葉樹の木立ちの枝葉に囲まれたその中心に、楕円状にぽっかりと空いたグレイ色の空洞が見えた。その視界を縁取るように枝葉が自然に風に揺れていた。それらはひとときでさえ同じ形に留まってはいなかった。過去にもこんな景色を見た筈だった。そのとき、今のような感慨に浸るときが来るとは夢にも思わなかった。何故に、この世界はこうもぼくを哀しませて離さないのか、その景色に問いかけた。応えは無かった。空からは何の啓示も降りては来なかった。そしてまた、周辺の雑木林がざわめいた。そうして、その日の午後をぼくはその公園で何もすること無く過ごした。人工的に整えられた自然の静謐さの中で。
 そのまま眠りこけていたのかもしれない。ただ目を瞑っていただけのことだったのかもしれない。あれが瞑想と呼べるものだったのか、今でも判らない。そのうちに、冷たいものが頬を打ち始めた。雨だった。
︵ああ、雨か……雨もいいかもしれない)
 目を瞑ったまま、ぼくはそのまま雨に濡れることにした。
 暦の上ではもう秋口とは言え、その日は、軀を動かせばまだ汗ばむくらいの残暑日だったし、そのときのぼくにとってはそれくらい大したことではなかった。ベンチの背板に凭れ掛かりながら目を瞑って、空を仰いだ姿勢のまま顔から雨粒を受けて、公園の古ぼけたベンチに力なく居続けた。いつしか、雑木林のざわめきが地面を打つ雨音に打ち消されていった。あっと言う間に髪は水浸しになり、着ていた服は滲みて下着まで濡れそぼった。雨水を吸った服の重みを軀全体に感じた。雑木林に根を張る木々と同じに、渇いた軀に雨水を吸い込んで、その残りをベンチの座面に滴らせていた。かなり長い間、たぶん、一時間はそのまま雨に濡れ続けたと思う。腕時計はしていなかったから、正確なところは判らない。周囲の空気の熱気も、ぼくの体温をも奪いながら、雨は尚も降り続けていた。雨粒は冷たかったけれど、何故か寒気は感じなかった。そして、公園には他に人の気配は失せ、ぼくただ独りが雑木林の一部になっていた。それでよかった。もしも、このまま雑木の一本と化せるのなら。むしろ、その方がぼくにとっては本望だった。クヌギの木に生まれ変わって、何年かの後には伐採されて椎茸栽培用のほだ木として利用される。人間さまの役に立てるのだ。素晴らしい。
 突如として、ぼくの顔を打つ雨粒が止まっていた。周りの雨音は耳に聴こえ続けていて、雨は止んでいない筈だった。ぼくはただその不思議な違和感だけを感じ、そのまま目を瞑り続けていた。どれくらいそうして居たのか分らない。
 ふと目を開けると、霞んでぼんやりと見えたのは、人の姿だった。髪を伝って滴る雨水のせいで前髪が垂れ貼り付いて、そのせいで視界が妨げられていた。手の平で顔を拭った。やはり、一人の女性がぼくの前に立っていた。どうやら、彼女が自分の雨傘を差し出して雨を遮ってくれていたのだった。その彼女は、いつから其処に佇んで居たのか、頭から全身ずぶ濡れの姿でぼくの前で傘を差し出しながら静かに立っていた。こうして目を開けるまで、ぼくは彼女の気配をまったく感じ取れなかった。
 頭から滴って睫毛に纏わりつく雨粒を両手で拭ってよく見ると、彼女の栗色のショート・ヘアはプールで潜水遊びしていた小学生みたいにベタっと頭に貼り付き、眼窩の下には雨水で溶け出したマスカラが黒く染みた隈を作っていた。彼女が上着として羽織っていた薄手の赤いサマーニットのカーディガンも、その下の紺色のワンピースも、ニットと同色の赤いパンプスも、アウトフィットは既に雨で一切合切台無しだった。彼女は無言でずっと、ぼくに雨傘を差していてくれたようだった。
﹁濡れ過ぎですよ」と彼女が口を開いた。
﹁あなたも濡れてますよ」と返した。
﹁そう。あなたが濡れていたから、わたしも仕方なく濡れました」
 そして、﹁この際、わたしもあなたの隣で一緒に濡れてみてもいいですか?」と、彼女はぼくに伺いを立てると、持っていた雨傘を開いたままベンチの横に置いて、ぼくの隣に腰掛けた。大人二人分の加重を受けて、雨粒を吸い込んだ座面の板張りが更に撓って沈み込んた。隣に座った彼女の、その軀の微かな温もりが伝わるのをぼくは感じた。
 再び雨粒がぼくの顔を打ちだし、隣で彼女は目を瞑って、雨打つ空をその顔で仰いだ。
﹁あなたは、今はただ、雨と一緒に泣いていたかったのですね。わたしも雨と一緒に泣いてみます」
 そうして、ぼくら見知らぬ二人は、公園の見窄らしいベンチで寄り添って座り、ひとしきり雨に濡れ続けた。ずっと無言のままで、ただ雨に打たれ続けた。
 雨は止むことなく降り続け、ぼくらは誰も居なくなった雨降る夕刻の公園で、古ぼけたベンチと一体と化していた。それは見ようによっては――いや、通常は――かなりクレイジーな光景だったと思う。けれど、傍観者は居なかった。傘を差してまで公園を散歩する変わり者は世間には滅多に居ない。
 暫く経って、ぼくは﹁濡れ過ぎたね」と言った。
 隣の彼女のことが気に掛かったからだ。
﹁流石に、ちょっと濡れ過ぎましたか?」と、彼女が応えた。
﹁ああ、かなり。それに、もう暗くなってきた」
﹁ええ、確かに。もう、これ以上は風邪をひくかも? ですね」
﹁うん、その可能性があるね」
﹁じゃあ、そろそろ、我々には温かいシャワーが必要です」
﹁きみの、そのパンダみたいになったマスカラを落とすためにも」
 ぼくは立ち上がると、開いたままだった、その内側に立派な雨の水溜まりができていた彼女の雨傘を拾い上げながら、溜まり水を流し捨てて、差した。
﹁あら? 今更、傘を差すんですか?」
﹁だって、傘を持ってるのに、差さずに畳んで持ったまま濡れて歩いてたら、おかしいでしょう?」
﹁やっぱり、あなたはおもしろい人ですね」
 彼女は笑って、ぼくが差した彼女のピンク色の雨傘の中に並んで入った。
 見知らぬ同士だったぼくと彼女は、一つの傘に二人身を寄せ合いながら、公園の出口のところまで黙って歩いた。
﹁傘、ありがとう」
 歩道に出たところで、ぼくは傘をその本来の持ち主の手に返した。
﹁また、ここから濡れて帰るんですか?」
﹁そんなに遠くはないから」
﹁……そうですか」
﹁なんか、雨につきあわせてしまって……」
﹁おもしろかったですよ」
﹁貴女の方こそ、大丈夫なのかな?」
﹁気にしないで。わたしは大丈夫です。次は、晴れの日にお逢いしましょう」
﹁また、晴れの日に」
 ぼくらは其処で別れた。

 その日から暫くは雨続きだった。久しぶりに見たインターネットの天気予報ページによれば、次の晴れの日は四日後だった。そしてまた、ぼくは自宅兼仕事場のマンションに無気力に独り引き蘢った。
 天気予報は正確だった。予報どおりの晴れの日の昼下がり、ぼくはあの公園に向かった。陽光差す雲一つない青空が、陰鬱だった気分をあの長雨の雲と一緒に何処かへ持って行ってくれたような、滅入りっ放しだった気持ちが久しぶりに軽く感じる日だった。それは心の何処かで、またあの彼女と会えることに淡い期待を持っていたことと無関係ではなかったことを、ぼくは正直に述べなければならない。けれどそれは、手放しでぼくの心を躍らせるようなものでもなかった。ぼくはもう、期待という自身の情動を発する自分を抑制することに慣れていた。憶い返せば、そんな期待の始まりこそが今の自分を貶める原因の一つにもなっていたからだ。それは諦めに似ていた。期待しないこと――何物に対しても。――何事に対しても。――誰に対しても。それが、あの当時のぼくの心情だった。
 公園内の比較的大きな人工池の周遊道をのんびりと散歩した。ゆっくり歩けば一周三十分以上は優に掛かる緑に囲まれた遊歩道だった。そしてその道すがら、ぼくはあのベンチのある小庭のような場所に向かった。ベンチは既に占有済みだった。その主は、あの日の彼女だった。僅かに頭を傾げて空を仰ぐように目を瞑りながら、膝の上に白く華奢な両手を揃えて置いて、心地善さげに彼女はベンチに独り座っていた。
﹁こんにちは」
 ベンチの前まで行って声を掛けると、彼女が目を開けて応えた。
﹁来てくれると思ってました。晴れの日になりましたから。どうぞ、隣はわたしがしっかりリザーブしておきました」と、自分が腰掛けたベンチの横の座面スペースを指差した。
﹁それは、どうもありがとう」
 礼を言って、彼女の隣に座った。
 彼女は煉瓦色のブラウスに、黒のメンズ仕立てのテーラード・ジャケットを羽織り、ボトムスは、ブラックウォッチ・チェックの膝丈巻きスカートに、ライト・ブラウンのアンティークな色のカントリー・ブーツを履いて、ベンチに掛けていた。
 その姿は、初めて見たときの印象とはずいぶんと違って見えた――あのときは雨でずぶ濡れ姿だったのだから、当然と言えば当然だ――が、英国のミッションスクール・ガールみたいな、闊達な雰囲気を感じるアウトフィットで、そのカラー・コーディネイトがベンチの後ろの木々の自然の緑に映えて、背景に馴染んでいた。それに、そのファッションは、あのときのストレートで物怖じしない彼女の性格を良い意味でそのまま体現していて、ファッション雑誌の読者モデルみたいによく似合っていた。どうやら、彼女はお洒落好きなようだった。なんだか途端にぼくは自分が彼女と一緒に居るには不釣り合いな男な気がした。
﹁もしかして、待っていてくれたの?」
﹁はい。勿論」
﹁何故?」
﹁何故って……」
 彼女は目線を宙に浮かせて暫し思案して見せると、﹁おもしろいじゃないですか」と、にこやかにその笑みを向けて返した。
﹁とにかく、今日は予報どおり秋晴れの快晴で、終日、雨は降りそうにないですよ。だから、幾ら瞑想してたって大丈夫」
﹁また、雨に濡れたいの?」
﹁ううん、もうあの日みたいな残暑は過ぎて、すっかり本来の初秋らしくなったから、仕舞いに本当に風邪をひくわ。暫し、我々は干涸びるくらいお陽さまに当たって、その恵みに感謝しつつ、瞑想に耽りましょう」
 そう言って、彼女は笑った。
﹁確かに」
 ぼくらは、朽ちかけたベンチに並んで座りながら、朗らかに笑い合った。
 近くで、野鳥のさえずりが聴こえた。
﹁瞑想が好きなの?」
﹁いいえ」
 不思議がるぼくに、彼女は言った。
﹁わたしは特に瞑想好きってことはないと思います。だけど、わたしはあなたの瞑想にとことんおつきあいをしてみることにしたんです。あなたの迷惑でなければ、ですけど……」
 彼女がそうぼくに言ったとおり、それから、ぼくらはおもしろいことをした。
 二人は無闇に何も話さなかった。ただベンチに並んで座り、互いが不干渉に、黙って瞑想に耽り合った。そしてそれに飽きると、一緒に遊歩道を歩いて公園を出て別れた。それは柔らかく繊細な遣り取りだった。ぼくの壊れた心の負担にならない、何の存念もない、無邪気な遊びだった。
 彼女の表情にどことなく残る幼さからは、うら若き女子大生にも見ることができたし、どこか人のことを見据えた、時折、見せる落ち着いた振る舞いからは、二十代後半か三十代前半のOLにも見ようと思えば見ることができた。たぶん、だいたいその中間くらいの年代なのかもしれない。とにかく、そんな彼女とぼくは再会を果たした。
 
 それから後の日々も、彼女とは、二人して公園の同じベンチで不思議な瞑想行為を繰り返すつきあいになった。次回の約束さえもせずに、ただ偶々、公園で再会したときにそうしただけだったが、いつしか、午後の公園のあのベンチは殆どぼくらの占有テリトリーとなっていた。
﹁わたしたち、言うなれば﹃瞑想トモ』ですかね?」と彼女は言った。
﹁うん。ぼくらは今、不遜にも、ダライ・ラマに遠からず通じているわけだ」
 そんな風に微妙に、相互不干渉ながらも時間を共有し合いながら、次第にぼくらの交わす口数は自然と幾らか増えていった。それでも、その共有していた時間の長さから言えばとても少ない、他愛のない短い会話の遣り取りではあった。通常の男女間のつきあいで避けがちな沈黙の間が、二人にとってはまったく恐れではなかった。それはむしろ、その沈黙の間を共有することで成り立っていたからだ。寡黙は、その頃のぼくと彼女の美徳とさえ言えた。その後、たぶん一ヶ月と少しくらい、そんな調子でゆっくりと日々が過ぎていった。
 二人して、いつもの公園のベンチで瞑想していたときだった。
﹁わたしたち、未だに名前すら知らないままですけど、もう流石に、それは不自然と思うに至りました」と、半ば、自分たちのことを茶化すように彼女が言った。
﹁確かに」
 ぼくは笑った。
﹁まったく」
﹁本田純、改めまして」
﹁リカです」
﹁名字は無し?」
﹁そう。わたしの名前は、ただのリカ」
 リカは悪戯な微笑みを返した。
﹁リカさん、あなたをそう呼べるようになったのだから、それで不都合はありません」
 あの日、生け垣の枝の中に見つけた蝉の抜け殻は、もう其処から消えて無くなっていた。

 ぼくらは瞑想と、その間に交わす短い会話を愉しみつつも、互いの間合いの中に静寂と柔軟さをそのまま残しながら、その親密さを増していった。そして二人の関係は、その共有する時間が積み重なってゆく毎に、もっと以前から旧知の者同士のそれよりも濃密で信頼感の高いものとなっていった。その過程の日々は、山登りの山頂で出逢って意気投合した見ず知らずの登山者同士が共に山を降りながら日常へと戻ってゆく道程を過ごすみたいな、そんな感じだったのかもしれない。ぼくは本格的な登山をこれまで一度もした経験はないけれど。
 それから、ぼくとリカは度々公園で逢って、その帰りには夕食を共にするようになり、そして、リカはぼくの自宅兼仕事場であるマンションに立ち寄るようになり、いつしかその都度、必ず軀を合わせるようになった。その流れは、自然の季節の流れに同調した結果の成り行きと言ってもよかったと思う。それは単純に、公園の吹き晒しのベンチで長時間を過ごすには外気が寒くなって耐えられなくなっていったからだった。
 そうして、ぼくら二人だけが会員であったところの、ダライ・ラマ非公認﹃瞑想クラブ』は、至極円満に解散宣言して、二人の交際は別のステージへと発展的に移行したのだった。

 ぼくは、あの雨降る公園のベンチでリカを拾った。
 人はときに雨に濡れそぼるべきなのかもしれない。雨に濡れさえすれば大きな拾い物を見つけられる。それはひょっとすると、あの世の母が巡り会わせてくれたのかもしれない。
 リカとの出逢いによって、あの当時のぼくのメランコリックな気分が直ぐにすっかり消え失せたわけではなかったけれど、リカの存在によって、ばらばらになっていた自分という人の構成部品が再び組み合わされて、元のかたちに形成し直されつつあった。ぼくらのつきあいが始まりだした頃、リカは当時のぼくが抱え込んでいた哀しみを知りながら、その根っこを掘り起すような真似をすることは絶対しなかった。リカは、ぼくの過去やら生い立ちやらを殆ど何も訊かないけれど、出逢う前から何もかも既に知っていたかのようでもあった。不意に訪れる憂いにぼくが陥ったときは、ただ黙って、その胸にぼくの顔を埋めさせ、彼女もまたぼくの胸にその顔を埋めた。
 リカの実年齢は判らないし、何をしているのかも知らない。ぼくはそれら何れに関しても確かめたことがない。それに、リカが何処に住んでいるのかすらも未だに知らない。けれど、同じ街の何処かだから大したことではない。ぼくはリカについて殆ど何も知らないまま付き合っていたし、知らないままであり続けている。実のところ、リカについて知っていることと言えば、連絡のための彼女のスマートフォンの電話番号だけだった。それはふつうじゃないことなのかもしれない。いや、まったくふつうじゃないだろう。けれど、二人共にそういった事柄にまったく無頓着だというだけのことなのだ。殆どの人たちが遣り取りする、当たり前が当たり前として成り立つように仕掛けられた打算的な情報の遣り取りを、ぼくとリカは一切交わしたことがない。ぼくら二人の間では当たり前は一般世間よりも肩身が狭いのだ。二人共に、そういった当面知る必要のない無駄なことを一切気にしたことはないし、それはただ、二人に共通の優先順位的な認識の問題に過ぎないことだった。ふつうじゃないことは、とても楽なのだ。
 ぼくとリカには共通の友人知人は居らず、また、そのような人を介す必然性もこれまで感じたことがない。二人だけの小さな世界の中でぼくらはは完結することができていた。それは、小さな透明なアクリル容器に閉じ込められた、ビバリウムのような世界感かもしれない。
 リカは、ぼくが過去につきあったすべての女性たちが常にぼくを困らせるために質問攻めにした、多くの問いの数々の類型的設問を一切投げ掛けることが無い。ぼくが仕事のことや、ちょっとした人間関係のトラブルの話をすると、それを熱心に聞き、リカは自分なりの意見を憚ることなく語る。けれど、ああしなさい、こうしなさい、と、ぼくに指図は一切したりはしない。言葉よりも、その表情と軀の反応で以て対話することをリカは常に好んだし、やはり、沈黙は二人にとっては恐れを抱く脅威ではないままだ。リカはぼくのことを﹁純ちゃん」と呼び、ぼくはリカが望んだとおり、﹁リカ」と彼女を呼び捨てで呼ぶ。リカの名字をぼくは未だに知らない。リカはぼくを束縛することなく、自らが束縛されることも、また、まったく束縛されないことも望まない。
 リカはどうやら読書家らしく、彼女の話には、主に何かしらの書物から得たらしい話題が多い。それについて、﹁純ちゃんはどう思う?」とよく問う。それらについて、ぼくはぼくなりの考えを述べ、リカはそれを聞いて、よく頷く。
 ぼくがデスクで仕事中のときは、手持ち無沙汰のリカは、退屈を紛らわす為か、しょっちゅう、ぼくのレコード・ライブラリーのLPアルバム棚の中身を引っ張り出しては、それら一枚一枚を湛然にチェックするのだけれど、彼女がスリーブからその中身を取り出して、ターンテーブルの上で針を落とすのは、何故か、いつも決まってJames BrownとSly & Family Stoneのアルバムに限られている。いつだったか、その理由を問うと、﹁好きなの。なんで好きなのか、訊かれても答えようがないの。純ちゃんは音楽大好きなひとでしょう? だから、わたしが何故、あの音楽が好きなのか、きっと、純ちゃんなら教えてくれるんじゃないかと思ってたの」と言っていた。
 リカはぼくのところに来ては﹁食べちゃいたいくらい好き」と言って、軀を重ね合い、ぼくの萎えて小さくなったペニスを握りしめて寝むりこけ、翌朝、﹁純ちゃん、電話するね」と言い遺して帰ることを臨機応変に繰り返し続けている。

 こうしていつしか、ぼくの心に再び温もりを持った本物の陽光が差し込んで、黴臭く、湿った暗がりが消え去りつつあった。長らく休業していたグラフィック・デザインの仕事を本格的に再始動させ、それからは日々、黙々と地味に仕事をこなした。リカ在りきの生活がぼくの日常となり、そんな平穏で充実した日々の連続に、近頃のぼくはまったく満足していた。ぼくはリカとのこれまでのぼくらなりの遣り方を変えたくはない。幾ら、それが世間的にはふつうではないにせよ。
 そして、リカと出逢ってから、二度目の夏を迎えようとしていた。



  Ⅲ 高飛車屋事件



 正直なところ、みどりについて語るのは気が重い。と言うより、本当のところは、彼女のことは一切考えたくなかった。
 それは、不覚にもみどりの淫夢を見て夢精してしまった悔恨、自分の気持ちの後ろめたさからではない。もう忍耐の限界だったからだ。気分から言えば、できればみどりとの出逢いそのものさえも無きものにしたい。もし時間を戻せるのならば、だ。やはり、あのときのぼくの読みは正しかったのだった。ならば実際問題、みどりにこう言えばよい――﹁金輪際おつきあいはお断り願いたい」――と。けれど、そんなストレートな意思表明は、態々彼女に面倒な騒ぎを起させる懸念を感じさせた。それはぼくのスマートフォンが受信し続けた彼女の奇言の数々の記録を見れば、誰もがその判断を支持するだろうと思う。
 みどりからの連絡はスマートフォンの無料チャット・アプリを介して頻繁に届いていた。ぼくは仕事が多忙である振りを常に装うようにし、みどりと再び会うことは意識的に避けていた。けれど、このぼくの偽装工作を、おそらく彼女は薄々察していたに違いない。その煽りでスマートフォン用チャット・アプリでの交信が常態となっていた。
 それはこちらから送信することはなく、常にみどりからの送信にぼくが返信する遣り取りで続いた。彼女からのメッセージは深夜早朝を問わず、こちらの都合には一切お構い無しに連日送信されてきては数日間途絶え、また突然送信されてきては止まるという、一切の規則性を感じられないランダムな具合だった。それは連絡というよりは彼女の一方的な愚痴の捌け口のゴミ箱としてしか機能していないかのようになっていった。ぼくとのチャット交信に慣れるにつれ、みどりの愚痴の数々はその言葉使いから酷悪さを極めていった。そのすべてを明かすには戸惑いを感じざるを得ないほどだ。
﹁あいつ、死んだらいいのよ。死ね! ババア! 馬鹿女! 糞女!」[既読]
 一体、これは誰を指しているのか皆目判らないし、ぼくはそれを確かめたいとも思わない。この例のように唐突に、そこに本来は指し示さねばならない相手のことについては明かさないまま、まったく意味不明の愚痴をこちらに連投送信してくるのだった。
 酒にでも酔ってのことかと思って問い返すと、白面だと本人は言う。そのように一時的に会話が成立しているかと思えば、またしても意味不明の奇言を連投送信してくる。そして、なんの締めの挨拶もなしにプツリと送信メッセージが途切れる。そんな繰り返しなのだった。
 一連のみどりとの遣り取りの中で、ぼくが彼女自身について一つだけ気づきつつあったのは、彼女が慢性的な偏頭痛持ちらしいということだった。それは度々チャット会話中に突発的に出現したり、また深夜に突然、次のようなメッセージを送信してくることもよくあった。
﹁純さん、起きてる?」[既読]
﹁頭痛いの。寝れない」[既読]
 このみどりの偏頭痛症状については、正直、特には心配もしていなかったし、あまり気に留めてはいなかった。それは、チャット会話中の度重なる返信放置の口実に使っている気もしないではなかったからだ。
 何れにせよ、みどりから送られてくるメッセージの九十数パーセント︵残りの数パーセントは﹁お元気?」などの最初の呼び掛けの挨拶である)は、意味不明な言葉の羅列でしかなかった。
 短期間ではあるものの、連日送信され続けたこれらのみどりの発言を基に、ぼくなりの冷静な所見を言えば、彼女の精神は正常とは言い難い。その直接的な原因は、本人は否定していたけれど、アルカホリックか、或いは、睡眠薬の乱用であるとか、ひょっとしたら、違法幻覚剤の類いの服用にあるのかもしれないとも疑われるほどだった。けれど、みどりが精神に異常を来しているとも言い切れない。ぼくは精神科医ではないし、その良否の判断はし兼ねるからだ。ふつうに考えれば、概ね彼女の精神は病んでいると判断してもよいのかもしれない。しかし、人は狂っていても生きてはいられる。犯罪を犯さない限り、この社会では人の自由の権利は保証されている。彼女は社会に受容されるべきであり、ぼくは偶々出会した隣人の一人なのだ。ぼくは人として、その隣人に対して、自分に何ができるかを考えるべきなのだ。もし、みどりが一人孤独に救助ボートで震えて誰かの助けを待っているのなら。けれど、今の彼女に必要なのは精神科医かセラピストなのだ。
 人には限度というものがある。みどりが無下にぼくに浴びせ掛け続ける奇言の数々はあまりにも常軌を逸しており、半ば狂気じみていたし、これまで彼女がぼくに語ったそのうちの幾つかは、考えれば考えるほど偽言癖によるものと受け取らざるを得ないものだった。それらの言葉の背後には何やらおぞましい気配を感じさせた。そのような得体の知れない望まざる魑魅魍魎とした不吉な雰囲気に触れさせられてしまうことにぼくはもう精神的に耐えられなくなった。限界だった。疲れたのだ。情けも、哀れみも、思い遣りも、優しさも、そして、女の美貌も色気などといった魅力ですらも、疲労という二文字には到底勝てないのだった。当のみどりにとってはそんなことは知ったことではないのだろうけれど。結果、みどりとの友人としての交際は夏に始まり、このような辛酸たる不毛極まりない期間を経て、その約三ヶ月後の秋に断絶した。
[Notify Message]﹁純さん、元気?」
 それは、チャット・アプリのみどりからの送信メッセージの本文を未読のまま放置することで実に簡単に達成された。
 後味は悪かったが、最早そんなことは言っていられなかった。誰かを救済するよりも先ず、ぼくは自分自身の精神を救済せねばならなかったからだ。誰かの助けを必要としていたのはぼくの方だったのであり、ぼくをそんな陰鬱とした状態へと貶めたのは他ならぬみどりだったのだから。
 それ以降、彼女からしつこくメッセージが送信されてくるようなことは一切無った。みどりは拍子抜けするくらい、あっさりとぼくを放免してくれた。
 唯一、面倒なことだったのは、共通の友人の美輪の勤める、双方が共通の行き付けにしていたカフェの存在だった。仕方なく以降、美輪のカフェにぼくは一切顔を出さないようにした。無論、みどりと店で鉢合わせすることを避けるためだ。
 そのことについて、共通の友人であった美輪には何も伝えなかったし、その後、特に彼女からの連絡も、彼女を介してのみどりからの伝達もなかった。ぼくの突然の行動変化について、彼女たちの間でどう捉えていたかは判らないし、そもそも、みどりと美輪がどれほど親しい間柄なのかもぼくにはよく判らなかった。あのみどりの性格からして、美輪が全面的にみどりを信頼して受け入れているとは到底考えられないことでもあった。彼女らの間で、ぼくのそんな動向が話題になっていたかどうかすら、ぼくには知る由もない。何れにせよ、彼女らからは特段、ぼくに連絡がないということは、何ら問題にはされていないこととぼくは理解した。それから察すると、みどりがぼくに特別な好意を持っていたと思っていたのは、ぼくの自惚れ、勝手な思い上がりだったのかもしれなかったし、単なるみどりさまの気紛れによるものだったのかもしれない。けれど、そのどちらであれ、もう思い悩む必要のないことだった。
 みどりとの遣り取りで受けていたぼくの精神的ストレスは相当なものだったと言える。ぼくはあの種の人に対する自身の耐性の低さを実感した。心底開放感を味わった。食欲が戻り、外出が億劫でなくなった。取り戻せたものは多かった。その後、みどりのことを特に気には掛けなかったし、ときどき彼女のことを憶い出すことはあっても、努めて気にしないようにした。もし、彼女が誰かの救済を必要としているのならば、彼女自身がその救済者たる誰かを探し出し、自らの心の声で求め乞うべきことであったし、その対象者はぼくでなくてもよいことだ、と切り捨てた。
 こうして、ぼくの視界に立ち籠めていた暗雲は消え去り、我が日常に再び平穏が戻り、リカと共に年を越し、新しい春が過ぎていった。



 六月、空梅雨が続いていた。ここのところ蒸し暑い日が続いていたからか毎夜の寝つきが悪く、そのための睡眠不足のせいもあって体調が優れず、今日は朝からどうも軀の馴染みの悪い日だった。ぼくは午後一からクライアントの会社で、新作商品プロモーション・デザインについての制作会議に社外デザイナーとして参加しなければならなかった。
 その会議は、ぼくの予想どおりかなり不毛なものだった。散々、決定項の結論の出ない議案に対する遣り取り――それは、主にクライアントの担当社員同士の二名間だけで延々と討論され続けた――の末、結局、次回の会議までに何らかの具体的な指針を練る、という等閑な閉会だった。成果のまったく無かったこの数時間の疲労感と、非暴力ながらも不毛極まりない拷問から解放された開放感とが入り交じった複雑な気持ちが、やはり、ぼくに馴染みの悪い一日を実感させた。実質的には無報酬で会議に参加を強いられている、立場の弱い外注業者であるぼくのこの憤懣は正当なものではあるが、無論、苦情の口外は憚られる。この仕事をふいにする腹積りができたときは別だけれど。
 会議散会後も、議題に附随した無駄な会話が尾を引きそうな気配を感じたのと、エコだか、クールビズだか、一体なんだか知らないが、クーラーの設定温度がやたら高いこのビル屋内を早く出たかったので、挨拶も程々にそそくさとクライアントのビルを退散したぼくは、とにかく、何よりも今は涼しいスペースで独りでリラックスして一息つきたいと思った。駅中にカフェが数軒あったので、帰りの電車に乗車する前に少し時間を潰して、気分を切り替えてから帰ろううと意を決めて歩き出した。
 目前に駅ビルを間近に望みつつぼくは無心で歩みを進め、丁度、その無機質で不格好極まりない巨大な建造物の一部に開けられた、構造物をただ四角く切り取られただけの、動線の合理性を全く感じられない入り口付近に差し掛かったときのことだった。
 突然、何処からか見知らぬ男が目の前に現れて、ぼくの行く手を阻んだ。
﹁少しお時間をいただけませんかね?」
 まったく見覚えのない男だった。あまりに不意を突かれたので、直ぐには応えることができなかった。
﹁本田さんですよね? 少しお話したいことがあるんです。お手間は取らせませんよ」
 そう言うが早いか、男はぼくの横に向き直って、素早くぼくの右腕を後ろ手に掴むと、歩き出すように促した。男はぼくの名を知っていた。
 男の一連の動作には無駄がなかった。予行演習済みのような機敏さだった。ぼくは咄嗟に、この男は刑事なのだろうか? と考えた。それは、まるで刑事ドラマの容疑者確保のワンシーンに嵌まり込んだような手際の良さだったからだ。しかし、男は一人だった。通常、刑事捜査なら単独行動は有り得ないだろう。少なくとも二、三人のチームを組んで事に臨む筈だ。男の仲間らしき人物は周囲に見当たらなかった。それに、ぼくが刑事に睨まれるような事件の当事者でも、検挙されるような犯罪の関係者でも、ある筈がなかった。
 多くの人の往来がある駅前だったので、身の危険はさほど感じはしなかったものの、不穏な殺気のようなものをぼくはその男から感じ取った。そして、まるで盲人のガイド役のようなかたちで、ぼくは男と共にゆっくりと駅ビル構内に入ってゆく羽目になった。逃げることも不可能ではないけれど、ぼくには逃げる必然性もまた見当たらない。半拘束状態ではあるものの、男は凶器でぼくを脅しているわけではなかったし、駅以外の閉鎖された場所へと促されるのであればともかく、ぼくの身柄を何処か別の場所へ強引に連れ去って監禁しようとしているわけでもない様子だったので、差し迫った恐怖感は特に感じなかった。
 何しろ、意味が分からない。ぼくの推察は、自分が何かした、ということよりも、自分の知り合いの誰かが何か拙い事をしでかしたのではないか? という考えに急速にシフトし始めた。
﹁あそこのオープン・カフェがよいと思うんですが」と男が指して促した。
 そちらに視線を向けると、駅コンコースの導線から少し外れた脇のスペースに、確かにオープン・カフェが在った。取り敢えず、この男から話しを聞いてみる方が自然な流れに感じた。ただし、何かしらの面倒に既に巻き込まれたのであろうことだけは間違いないようだった。それが、ぼく自身が起した件ではないにせよ。

﹁ブレンド・コーヒー、二つ」と、キャッシュ・オン・デリバリーのカウンターで、男が店員に注文した。そのサイズと、ホットか、コールドの何れかを確認した店員に、男は条件反射的に﹁エムホット」と返した。そして、こちらを向いて、﹁で、いいですよね?」とぼくに事後確認した。この際、何でもよかった。当然だ。
 男は長身で白髪頭だった。顎がしゃくれた四角い顔に、細長い華奢な黒セル・フレームの眼鏡を掛けていた。目つきは特に善くも悪くもなかった。その表情は、緊張しているのか、落ち着き払っているのか、見当が付け難かった。ホワイトカラーの台襟付きシャツに、ベージュの麻のスーツを着ていた。鞄は持っておらず、手ぶらだった。こざっぱりした格好だった。
 男とぼくは、適当に空いているテーブル席に向かい合って腰を下ろした。吹き曝しスペースなので、何処からか僅かに外からの微風が吹き込んで、暑さはさっきのビルの屋内の空調よりはまだましだった。
﹁いやあ、待ちましたよ。会議が長かったんですね」
 男はジャケットのポケットからハンカチを取り出して、それで自分の額の汗を拭いながら、不躾にも、四角い骨張った顔に薄笑いを浮かべて喋りだした。その口振りから、明らかに今日のぼくの行動を監視していたようだった。気味が悪かった。
﹁先ず、あなたは何者ですか? 何のために、ぼくをこのようにして拉致する必要があったのか」
﹁拉致だなんて、……いえ、これは申し訳ないです。本田さんの仰る通りです。大変失礼なことをしたことをお詫び申し上げます」
 男は形ばかりの詫びを言って、懐から取り出した札入れからカードを一枚取り出すと、印刷されたその字面をこちら向きにしてテーブルの上に置いた。男は刑事でも探偵でもなかった。この名刺が、もし本物ならば、だ。
 その名刺には︿漬物店 高飛車屋 店主 鴻池春男〉とあった。
 それを確認して、ぼくは一気に拍子抜けさせられた。男は続けた。
﹁これには事情がありましてね……それで、本田さんと浅からぬご縁ができてしまったというわけです。その理由については、わたしが話せることと、話せないことがありましてね……要するに、今、ここで本田さんにわたしが話せることはそう多くはありません。うーん……そこのところは恐縮なんですが、予めお心置き願いたい。何しろ少々、話が入り組んでおるのですよ。しかし、本田さんにとっては何ということはないと思いますよ。そこんところはご安心ください。或る人物について、少しだけお聞かせ願いたいことがあるだけです」
 そう言うと、男は蓋付きのペーパーカップの蓋を外し取って、コーヒーを啜った。
 事情が無ければ、こんな不遜な行為は許すまじ、とぼくは思った。これも当然だ。



﹁へー、そんなことがあったんだ?」
 グラスに僅かに残ったクランベリー・ジュースを飲み干すと、リカが言った。
 ぼくは自宅の部屋のベッドの上で仰向けになって寝転んで、昼間の出来事を一通り、ざっとリカに話した。
 そもそもリカには、みどりに関することは、その出逢いから絶交の顛末まで、一切話していなかった。リカは、ぼくがみどりとチャットの遣り取りをしていた期間は﹁純ちゃん、なんだかずっとお疲れね」と言い、みどりの存在が消えてからは﹁純ちゃん、最近、すっかり元気になったね」と言った。リカは、そんなぼくの変化に対して、自分から邪推や詮索はまったくしなかった。
 けれど、あの怪しげな男――高飛車屋 鴻池春男――の、余りにも唐突過ぎる登場によって、こうして同時に、みどりの存在もリカに知れることとなった。
﹁純ちゃん、それ、なんだかおもしろそうな成り行きになりそうじゃない?」
 テーブルの上のグラスを片付けながら、リカは明らかに愉快がっていた。
﹁おもしろいも何も、一体全体、どういう流れでこうなったのか、ぼくにはまったく解らない」
﹁それはこれから解ってくるんじゃない? 純ちゃんもこれでそのストーリーのメイン・キャストの一人としてキャスティングされちゃったのよ」と言って、リカは笑いながら、キッチンにグラスやらを片付けに立った。
﹁とにかく、疲れたよ。あんな会議の後にまた」
﹁あら、お疲れなのに逢ってくれたのね。わたし、今日は電話するべきじゃなかったのかも?」と言いながら戻ると、リカはベッドの上のぼくの横に添って寝そべった。
﹁考えてる?」
﹁纏めてるんだ」
﹁纏まるの?」
﹁トッ散らかってるね」
﹁収集つくのかしら?」
﹁さてね……」
﹁純ちゃん」
 徐に、リカは起き上がってスカートを脱ぐと、そのまま、ぼくの顔を跨いだ。
﹁舐めて」
 リカは、自分のショーツのクロッチを指先で捲って見せた。途端に、リカの濃密な女の匂いにぼくは包まれた。



 高飛車屋漬物店、店主、鴻池春男の前振りは長かった。
﹁……えー……わたし、現在は漬物屋の店主をやってるんですがね、それ以前は、まあ、様々な仕事を経験してきてはいるんですが、いえ、ぜんぶ真っ当な仕事ですよ。それで、今の漬け物屋は、バブルが弾けた当時にですね、借金に困った友人から、屋号から、店舗から、社員から、何から何まで買い取った物件でして……あ、その名刺の屋号は誤りでして、印刷屋のミスなんですよ。︿高飛車屋〉じゃなくて、︿高菱屋〉が本来の屋号なんです。漬け物屋が名刺なんて、普段そんなに使わないですからね、営業時に先様の懐に入り易いネタにもなるかな、と、刷った分を全部使い切るまで高飛車屋の名刺で我慢してるんです。﹃鴻池さんの商売はそんな高飛車じゃないのにね』なんて、取引先の営業さんには言われてるんですがね。ウチは製造から卸販売もやってるもので……」
 高飛車屋改め、高菱屋店主、鴻池は、話し続けるうちに、視線が徐々に相手の顔から離れる癖があるようだった。いつの間にか彼は、ぼくの左隣に居るのであろう透明人間に向かって話しだしていた。
﹁……鴻池さん、屋号が誤りなのは解りましたよ。あなたのご商売とぼくとが、何か関係があるんですかね?」
 鴻池の視線がぼくの目線上に戻った。
﹁あ、すいません、つい。お時間を取らせるつもりはなかったのですが、商売柄つい。申し訳ありません」
﹁鴻池さん、手短に要点をお願いしますよ。ただでさえ、ぼくは迷惑しているんです」
﹁ごもっともです」
 鴻池の話し振りからして、明らかに、自分の素行の不始末に関連することではないと、ぼくは合点したので、ここは強気に転じて良し、と思った。
﹁実は、その、えー……では、単刀直入に申します。そのですね、わたしが漬け物屋を始めた頃のアルバイト店員なのですが、えー、女性なんですがね、その女性について、少しお聞かせ願いたいのです」
﹁アルバイト店員?」
﹁はい」
﹁ぼくと、そのアルバイト店員だった女性とが、関わりあると?」
﹁はい。えー……本田さんは、深山さんと親しくされてますよね?」
 深山と言えば、あの、深山みどり以外、他にその名字は思いつかなかった。けれども、相手の誘導尋問に容易く乗るのは避けようと、咄嗟に思った。ぼくは自分の冷静さに少し驚いた。そして、この男に対するここまで抑圧されていた怒りの感情が、徐々に胸中に沸き上がり始めていた。
﹁深山さん……とは?」
﹁深山みどり、さんです」と、鴻池は即答した。
 やはり、あのみどりのことだった。ぼくとみどりとの接点については既に下調べが付いてのことらしい。
﹁親しくと言っても、あくまで友人を介した知人というだけのことですよ? それに、彼女とはもう、最近は連絡も途絶えています」
﹁そうでしたか。いえ、わたし自身は、その……決して、あなた方のプライヴェートな事柄にまで首を突っ込もうとしているわけではありませんでね、このあたりはデリケートな問題なので、失礼がないようにわたしも注意しているところではあるんです」
﹁何なのでしょう? 深山さんのことならば、直接、鴻池さんと深山さんとがお二人でお話しなさればよいことではないですか? 何故、あなたはぼくを介さねばならないんです?」
﹁はい、ごもっともです。えー……そこが、事情がありまして、こちらはそれを望んでおっても叶わないんです。ご存知のように、最近ではストーカー規制法なんてもんがあるでしょう? ……勘違いなさらないで欲しいんですが、こちらはそのつもりではなくとも、相手の受け取り方次第では、警察に通報されたり、なんてことにも成り兼ねません。近頃では携帯電話やメールでさえもそうなってしまうそうなんです」
 そんなことなど知ったことか。つまり今現在、警察沙汰になるようなトラブルにまでは至ってはいなさそうだった。
﹁あなたは深山さんに連絡を拒絶されている、と」
﹁えー……不本意ながら、平たく言うと、そういうことです。でも、それについては誤解なさらないでいただきたいです。そこのところが、まったくわたしとしても困惑しておりましてね、えー……その、今、本田さんが想像されているような、深山さんとわたしの間でトラブルがあったとは、こちらでは認識しておりませんでね、実際、わたしは深山さんに対して、何も悪い事はしておりません。本当です。それについては、はっきりと申し上げておきたいです。何故に、深山さんが頑にわたしとの連絡を拒まれるのかについては、その頑さ故に、わたしも頭を抱えてしまう始末でして……。とにかく、現実問題として、そうなると、こちらとしては、相手に対して安易に下手なことをできやしません。事実上、連絡手段をすべて奪われた状態なんですよ」
 こんな話は、だいたい当事者双方で、認識も見解も、まったく食い違っているものだ。どうやら、これは厄介な男女間の交際トラブルの類いに違いなかった。やれやれ、なんということだ。やはり、みどりは稀代のトラブル・メーカーらしかった。
﹁ちょっと待ってください。あなたと深山さんが過去にどういう関係だったのか、また、どういう経緯かは知りませんが、何らかのトラブルの末に仲違いなさったのか、或いは、何もなかったのか、それら何であれ、ぼくにはまったく関係のないことですよね? それに、ぼくはそんな他人さまのいざこざにはまったく興味がありません。正直言って、いい迷惑ですよ。何れにせよ、ぼくがあなた方の間に挟まれる理由が、皆目解らないのですが?」
 おそらく、不意に緊張を強いられたことへの反動だったのだろう。それまでの緊張の糸が切れたぼくは、自分でも無意識に、鴻池に対して高圧的に話しだしていた。
﹁ええ、ええ、仰る通りです。ご迷惑とは思っております……しかし、強ち、本田さんが無関係とも言い切れません……」
 鴻池は明らかに気圧された様子だった。
﹁ただ……わかりました。では、一つ……一つだけ、どうか、お聞かせ願えませんでしょうか」
﹁一体、何を、でしょう?」
﹁本田さんは、深山さんから何か変わったものを見せられませんでしたか?」
﹁……はあ?」
 まったく意味が解らなかった。



 リカが訊いた。
﹁その﹃変わったもの』って、一体、何なのかしらね?」
﹁知らないよ」
﹁純ちゃんは、その、みどりさんて女のひとに見せてもらってないの?」
﹁何も見せてもらったことなんてないよ」
﹁そのオヤジには、それ以上は訊かなかったの?」
﹁訊いてない。こんな厄介事とは関係を持ちたくないと思った。意味が解らない。気持ち悪い。腹が立った。誰だって、そうだろ?」
﹁いいじゃない、なんか、おもしろそうよ? どう考えても、不倫かなんかのトラブルじゃない? 何故、もっと突っ込んで事情を訊かなかったのよ? これじゃ、肝心なところがまったく解らず終いじゃない?」
 なんてこった。女はいつだってこの手の揉め事を愉快がって、首を突っ込みたがる生き物だ。聡明なリカも、この手の話題には女族のご多分に漏れず、といったところか。
﹁おもしろくなんかないよ、ご免だね」
﹁さっき聞いた話だけでは、やっぱりストーリーを纏めようがないわね……でも、その、みどりさんて女のひと、かなりの遣り手っぽいわね」と言って、リカは目を輝かせていた。
﹁うーん……確かに、あのひとは何かしらの怪しげな秘密を持っているかもしれない。それは否定しきれない。でも、あの男の今日の話をすべて鵜飲みにするわけにはいかないだろ? 頭のイカレたオヤジかもしれないじゃないか。いや、実際、あれは相当イカレてるよ」
﹁本当のところ、純ちゃんとみどりさんはどういう関係なの?」
 そう言って、リカは態とらしく訝しげな表情をつくって、こちらを睨んだ。
﹁関係も何も、共通の友人を介した知り合いなだけだよ。ほら、前からぼくがよく通ってたカフェの、美輪ちゃんのことは前に話して知ってるだろ?」
﹁うん、知ってる」
 リカは、尚も悪戯っぽくぼくを見続けた。
﹁いや、本当にただの知り合いだよ。それに、今はもう、つきあいもまったく途絶えてるしね」
 ぼくは、鴻池に勝るとも劣らない、みどりの﹃イカレ具合』については、リカに話すのを避けた。それは話が錯綜して、ぼくの置かれる状況が今以上に面倒になり過ぎるだけでしかない。
﹁ひょっとして、結婚詐欺なんじゃない?」
﹁ああ……かもしれないな……あのオヤジが引っ掛かった、ってか」
﹁純ちゃんは、みどりさんに色仕掛けされてないの?」
﹁……あれが色仕掛けと言えるものだったのかどうか……」
 ぼくは苦笑した。
﹁そうね、純ちゃんは結婚詐欺のターゲットにされるタイプではないわね」と言って、リカは笑った。
﹁みどりさんが、オヤジから何かを持ち逃げしたとか?」
﹁うーん……あの話し振りからすると、その線は遠からず、なのかもしれないな」
﹁でも、警察沙汰にはなってない……」
﹁そのようだね」
﹁窃盗犯ではないのかな……或いは、警察沙汰にはできない、何やら深い事情があるとか」
﹁うむ……いや、やっぱりあの男の話しは眉唾ものだよ。語ったこと自体が、何かの偽装のための作り話なのかもしれない。なにしろ、あのみどりが漬け物屋のアルバイトをしていたなんてことは、それがもし、彼女の本意ではない事情からだとしても、あの彼女の場合は……とてもじゃないけど想像できないよ。お嬢様育ちみたいだしね。そのストーリーの設定自体が不自然極まりない」
 リカはベッドから起き上がって、ぼくがテーブルの上に打ちまけた鴻池の名刺を手に取って戻ると、再びぼくの横に寝転んだ。
﹁うーん……もし、そうだとすると、何から何まで、収集のつかない話になるわね。でも、高飛車屋改め、高菱屋の店主は、赤の他人の純ちゃんの名前を知っていた……」
﹁……確かに」
﹁ということは、高菱屋は、そこまでみどりさんの身辺を周到に下調べまでしていたのよ。だって、純ちゃんと高菱屋との接点はみどりさんだけなわけでしょう?」
﹁そういうことになるね」
﹁……やっぱり、これはかなりおもしろそうよ。純ちゃん、この足でみどりさんに会いに行って確かめてきなさいよ」そう言って、高菱屋の名刺をベッド脇に放り捨てると、リカは寝返りを打って、悪戯な微笑みをつくった。
﹁それはご免被る」
﹁じゃあ、もう一回する?」
 リカは、ぼくの中の何かにその瞳の焦点を合わせながら、仰向けのぼくの軀の上から覆い被さった。



  Ⅳ うふふ鉄道



 空がどんよりと曇り始めていた。六月、正に梅雨どきの蒸し暑く気怠い午後だった。間もなく雨粒が落ち出してくるのであろうことを、空気に混じって急激に増してきた湿度が教えていた。
 駅前に在る、いつもの市営有料駐輪場に自転車を預けて出た智子は、︵しまった、一度家に帰ってバスで出直してくればよかったんだ……チッ)と思った。しかし、もう既に遅刻だった。
 智子は足早に駅ビルの表玄関口から構内に入った。いつも駅構内の二階のコンコースをバイパス代わりに表口から裏口へと通り抜けて、その動線を近道ルートとして利用していたのだった。同じ混雑はしていても、そぞろ歩きの買い物客が多い地下街を抜けるよりも、こちらの方が人々の歩みが常に急ぎがちなので、階段を上下する面倒くさい行程も、距離的には殆ど変わりないとは言え、時間的には例え僅かではありはしたが、こちらのルートを選択した方が早く通り抜けられると経験的に熟知していたし、絶対こっちの方が早いと智子は信じて疑わなかった。
 駅裏の旧商店街の方面へと向かうと、すぐに原色使いの派手な看板がひしめき合う繁華街が視界に入る。再開発された駅前表通りの、あの清閑ではあるが無機質でどこか余所余所しい雰囲気とは一転して、雑多でむさ苦しさはあるが誰もが力まずとも迎え入れてくれる、庶民的な繁華街独特の気安い雰囲気がこちら側の街並みにはあった。そんな少しばかりレトロな雰囲気が漂う繁華街のアーケードを入って、早足に商店街通りを暫く行った角に在るたばこ屋のところを曲がった、細い路地に面した三軒目の五階建て雑居ビルの前の路面に派手な電飾スタンド看板が出されていた。その二枚合わせの電飾看板の表裏には、ピンク色のベタ塗りバックに吊り革にぶら下がったイラストのバニーガールが通りの両側に向かって微笑んでいて、イラストの横に吹き出しが書かれている――﹃発射オーライ! うふふ鉄道無限線 改札は当ビル2F』
 その商業雑居ビルの路面一階を占拠しているラーメン店の横の通路を抜けて、奥まった変則的な位置にある階段を上がると、表に在ったのと同じ︿うふふ鉄道〉の看板が出された廊下のすぐ横に、その出入り口ドアが在った。そのドアの右上端には﹃風俗営業許可1837号』の真鍮色のシールが貼られており、それに連ねて縦書きの﹃暴力団関係者の入店を固くお断りします』プレートが貼られていた。そして、ドアの真ん中には﹃営業中 お客様、ご乗車お急ぎください!』と書かれた安っぽいアクリル・プレートがクロームのチェーンでぶら下げ掛けられていた。
 智子がそのドアを開けると、﹁ポーン……一番ホームでご乗車のお客様は、正面の発券所にお進み願いまーす」と、自動的に録音アナウンスが流れた。同時に、クーラーで冷やされた空気が乱れて、ドアの外の蒸せた熱い空気と打つかり合ったのが分った。
 ﹃発券所』と表示された、いかにも鉄道マニアが欲しがりそうなホーロー製の吊り看板が天井からぶら下げられた正面の発券所カウンターは、ドアを開けて足を僅か半歩も踏み出せば十分の到達距離に在った。その発券所カウンターの上には﹃只今、列車到着待ち・待ち合い時間 5分』と示す緑色のLED電光表示板が置かれている。
 カウンター・トップの向こうの下から、ヒョイと顔を出した車掌の帽子を被った男――︿うふふ鉄道 店長〉――が智子の顔を見確かめると、﹁レナさん、遅刻ですよ」と、ボソッと言った。
﹁すいません……」智子はお座なりに店長に詫びると、︵このクーラーの温度で、よく店長風邪ひかないもんだわ……)と思いながら、カウンター横の狭苦しい通路をそそくさと抜けた。
﹁おはよーございまーす」
 智子は﹃キャスト控え室』と書かれたドアを開けて、その小部屋に入った。
 キャスト控え室では、土足厳禁のカーペットが敷かれた手狭なスペースに既に本日のこの時間帯シフトのキャスト四人が車座に微妙な間隔を保ちつつ座っていて、各々がスマートフォン端末を弄ったり、メイクの手直しをしたり、ペットボトルのドリンクを飲んだり、また、ただ惚けたりしながら、各自が相互不干渉に寛いでいた。キャスト控え室のクーラーは店内とは別に調整できる個別設置で、若干設定温度が高めだ。
 ︿うふふ鉄道〉では、通常、最低五名のキャストが夫々の役柄を振り当てられて、列車が到着するまで――客が来店するまで――控え室で待機するシステムになっていた。
 本日のキャストは、白ブラウスに紺色のタイト・スカートの会社制服スーツ姿の熟女OL役のミーナ嬢、JK役のセーラー服に、今や古典的定番のルーズソックス姿というエリカ嬢、マリ嬢はエプロン掛けの普段着主婦役、セリナ嬢は何故か薄いピンク色のナースの制服に着替え済みで、智子を除いたキャスト全員が、次の列車の到着に備えて既に乗車スタンバイ完了していた。これらキャストの役の振り当ては日々のキャストのシフトとローテーション次第であって、店長の采配で臨機応変にキャストを指定して決められていたが――それは、主にキャストの見た目年齢分けであった――実年齢は営業的には考慮されてはいても、業務上は無視された。ナース役は、つい最近、近隣に新規開店した同業他社競合店、︿ナースステーション エレガンス〉に対する当てつけと同時に、顧客流出阻止対策として、急遽、店長の独断で取り入れられたものだったが、ナースのコスプレ衣装のキャストの評判はよろしくなく、また、客の反応もあまり芳しくはなかった。
 智子――︿うふふ鉄道 源氏名 レナ嬢〉――に今日、振り当てられた役柄は、どうやら、いつもと同じ、JDらしかった。︵……てか、ウチ、このダサいJD役衣装以外、着たことねーし……)と、智子は声には出さずに﹃独りノリツッコミ』した。



 駅ビル構内を、遣る瀬無さげに歩く男が居た。忙しなく行き交いする人々が、周囲の人波とは歩みのテンポのずれた背の高いその男を、さも邪魔そうに避けて忙しなく擦れ違ってゆく。
 男は、電車の乗車券自動発券機の前まで来ると、その面前に在る壁の上の大きな路線図と料金の案内表示板を見ながら、一度はジャケットの内ポケットから財布を取り出したが、少し間があって、何を思ったか、その財布を懐に仕舞い戻した。そして再び、今度は来た方向とは逆方向に、地上二階の駅コンコースをゆっくりと歩んで進み、階段を降りきった男は、駅の裏側玄関口まで出たところで立ち止まって空を見上げた。上空では徐々に積乱雲が成長し始めていて、今にも雨が降り出しそうな鬱陶しいどんよりとした雲行きだった。外の空気は蒸し暑く、アスファルトに溜まった熱が地面からも休みなく熱気を生み出し続けていた。
 男が視線を地上に戻すと、道路の向こうのその先には、駅裏の旧商店街のアーケード入り口が見えた。横断歩道を渡った人々の群れが、今では少々時代遅れの趣きが否めない、そのアーケードのトンネルの入り口ゲートのような開口部に吸い込まれてゆく。レトロな装飾が施された古びたゲートの下で、蟻が巣穴への出入りを繰り返すように人々が忙しなく出入りを繰り返していた。直前の横断歩道の信号が赤になると、タクシーや一般車が堰を切ったように排気音を立てて走り出して、片側二車線道路を引っ切りなしに交差し始める。ほぼ無風の外気の中で、街の汚れた空気と湿った熱気が車道上で攪拌されて、辺り一帯をその拠り所にして滞留し続けた。そして、横断歩道の信号待ちをする歩行者たちは瞬く間に何処からともなく湧き出たように自然に集まり、決まって列を作るでもなく、親切な自動制御の赤いシグナルに制止されて歩道上で気怠げに人溜まりを作っていた。歩道を行き交う人々の表情は、皆一様に不機嫌そうだった。
 男が駅ビルの敷地を出ると、無意識にそんな人波に混ざりながら横断歩道を渡って、その先の商店街のアーケードへと歩みを進めた。



 智子は、カーペットの片隅に﹃JD』と書かれたプラスティック・プレートの下に折り畳まれて用意されていた﹃ダサ』JD役普段着衣装一式を取って、その場でそそくさとショーツだけを残して着替えた。脱いだ私服を手早く畳むと、部屋の入り口脇の角に設えられた簡易型コインロッカーの中に収めてロックを掛けた。そして、小さく折り畳まれて残ったショーツを掴み取ると、自分のバッグを手にキャスト待合室を出て、従業員専用トイレに向かった。
 トイレの中の僅かなスペースでショーツを穿き替えると、智子はウエットティッシュで自分の股間を丁寧に拭った。ドア越しに﹁ポーン……一番ホームでご乗車のお客様は、正面の発券所にお進み願いまーす」と、あの聴き慣れた来店アナウンスが薄らと聴こえた。
﹁チッ、もう来やがったよ……」
 JDレナ嬢こと、智子は、狭苦しいトイレの中で小さく呟いた。

 男が店のドアを開けると、あの駅員独特の籠った声と節回しの録音アナウンスが鳴り、冷えた店内のクーラーの風が汗ばんだ男の額を撫で付けた。
 すると、駅長の帽子を被った店長が、ドアを開けたところのほぼ正面の、高めに設えられた発券所カウンター下から顔を出して、大袈裟に会釈して客を出迎えた。
 ︿うふふ鉄道〉の発券所カウンターの前に立ったその男は、長身で白髪頭だった。顎がしゃくれた四角い顔に、細長い黒ブチ眼鏡を掛けていた。目つきは善くも悪くもなかった。ホワイトカラーの台襟つきシャツに、ベージュの麻のスーツを着ていた。鞄は持っていなかった。店長がこれまで見たことのない、新規の一見客だった。
 商売柄、客の顔をまじまじと見るような真似はしない。応対中は微妙に客との視線をずらす。ほんのちらっとだけ、悟られぬように男の顔と風貌を一瞥して確認した店長は、その男の、何やら不穏な雰囲気を纏った出で立ちに少しばかり嫌なものを感じた。がしかし、此処を訪れる大抵の客が皆、何かしらの後ろめたさを抱きつつ来店するわけで、それを一々気にしていたらこんな商売はやっていられなかった。男の服装は常連客を含めた殆どの客の格好よりもサッパリと整っていて、金は持っていそうだった。
﹁えーと……当店でのご乗車は初めてでしょうか?」
 念のために店長が伺いを立てると、男は無言で軽く頷いた。表情は同じく、無愛想なままだった。
﹁あ、そうでしたか。では、先ずは当店のシステムをご説明させていただきます」
 店長は完全暗記した、うふふ鉄道のシステムを早口で説明し始めた。
﹁当店では五千円の乗車券をご購入いただき、一番ホームより普通電車にご乗車いただきます。電車には乗り合いで複数の女性が同乗しております。この最初の普通電車は、到着予定が十五分でございます。到着までの間、すべての同乗女性へのソフトタッチをお楽しみいただけます。到着しますと、一度、ホームに下車いただき、次の電車のコースをご選択いただきます。もし、この時点で電車がお気に召さなかった場合は、お帰りいただいても構いません。その際は、先に頂きました料金の五〇%をご返金いたします。もし、次の電車を引き続きご希望でしたら、先に同乗されておりました女性から、一名、ご指名いただきます。次の電車は、その女性以外の同乗者は居りませんので、単独で集中してソフトプレイをお楽しみいただけます。この電車も到着予定は十五分でございます。到着後、プレイ続行をご希望の場合は、特急電車にお乗り換えとなります。この電車の乗車には、特急指定券のご購入が必要となります……」
﹁……ああ、分った」店長の説明の続きを遮って、客の男は御座也に了解を示すと、料金をカウンターに置いた。
﹁では、その後のシステムについては、そのときにまたご説明いたしますので……」
 男の怪訝な態度から、店長は臨機応変に対応することにした。それは、店のシステム説明を全部聞くのが途中でウザったくなって帰ってしまう客も居るからだった。取り敢えずは五千円の売り上げは落として帰ってもらわねばならなかった。そこから先はキャスト次第だったが、乗車さえさせてしまえば、大抵の客は特急まで乗車して帰るのが通例だった。
﹁はい、では、乗車券になりまーす」
 料金を受け取ると、店長は手際よく﹃普通電車乗車券 ¥5000』とプリントされた切符を発行してカウンタートップに置いたが、男はそれを手に取らなかった。
﹁ホームにご案内いたしまーす」
 男の態度を見て取って、店長はカウンターから出てくると、客の男をガイドした。
﹁えー、先ずは、こちらで手洗いをお願いしております。申し訳ありませんが、保健衛生管理の徹底慣行が当店の決まりとなっておりますので、ご面倒ですが、どうかご協力のほど、よろしくお願いいたします」そう言うと、店長は両手を前に揃えて、丁寧に深くお辞儀した。
 手洗い必須慣行用に設えられた小さな洗面台は、発見所カウンターから左に一歩半のところの壁に設置されていた。男は、手洗い慣行には素直に応じた。男が手洗いを済ませると、店長はその間に周到に用意していたおしぼりを開いて、素早く男に手渡した。
﹁では、ホームはこちらになりまーす」
 入り口のドアから見て、左に更に一歩半のところに﹃一番ホーム』と記された、ホーロー製のプレートが貼られたドアがあり、店長はそのドアを開けて、その先へと男を案内した。
 ドアの手前横には小さなカウンター・テーブルが在って、本来は其処を改札口に見立てて、切符のパンチングを行う手筈なのだが、男が切符を受け取らなかったので、店長はその決まりの動作は端折った。そして、︵プレイ専の客だな……)と、店長は悟った。
 ︿うふふ鉄道〉――店のスタッフと常連客が略して称するところの﹃うふ鉄』――は、その名に示す通り、電車内の痴漢プレイを売りにした風俗店だった。つまり、合法的に女性に対するヴァーチャル痴漢プレイを楽しみたい客だけにターゲットを絞った、マニア向けの性風俗店だった。
 しかし、実際のところの客層はというと、大半が見た目は極くふつうの一般男性と言えた。ときどき、明らかに怪しい本物の痴漢っぽい客と、所謂﹃てつ』と呼ばれる、鉄道マニアっぽいバックパックを背負った若い客が舞い込んで来ることはあったが、店の鉄道関係のディテールの再現性について取り立てて云々するような客は、まず居なかった。ただ、営業的な宣伝効果と客の評判を考慮すれば、﹃てつ』向けなマニアックなウケと、一般客に対する話題性と訴求効果も疎かにはできないので、此処、うふふ鉄道では、それなりに徹底して凝った演出が成されていた。
 何しろ、近頃はインターネット上での評判が一番ものを言う時代だったし、大半の客は、店のホームページとその他の風俗店関連のブログなどを閲覧した上での来店が今や殆どなのだった。そういった来店前にホームページ閲覧済みの客に対するシステム説明は端折っても良かったが、ご新規の客に相対する対応は、店長にとっては最も面倒くさい仕事だった。どちらかと言えば、夜間に酔った勢いで数人一塊で来店する、おふざけ半分の投げ遣りな一見客の方が、同じ面倒でもよっぽど気楽で良かった。つまり、店長にとっては、この男のような客が一番手間の掛かる、面倒なタイプと言えたのだった。
 仄暗いと言うよりも、仄明るいと言った方がより実態に近い照明レベルのその小部屋は、更に壁で仕切られていた。その壁とは、電車のボディに見立てた造作物だ。店長が﹃ホーム』と呼んだその場所は、壁一枚で仕切られた手前側の床のことだった。シルバーにペイントされた仮想列車のボディであるこの壁には、乗降ドアの部分が切り抜かれていて、それが﹃動かない』電車の車両の中への出入り口になっていた。
 部屋――﹃一番ホーム』――に入ると、薄らと雑踏のざわめきのような音が、何処に在るのか、スピーカーから流されていた。それは、演出用のSE︵特殊効果音)のようだった。不思議なもので、それだけのことでも演出効果としてはそれなりの功を奏していると言えた。
﹁では、列車の到着まで……えーと……」店長は腕時計を確認して、﹁三分ほどで普通電車が乗り入れ時刻となります。今暫く、ホームでお待ち願います」そう言うと、深くお辞儀をして、﹃一番ホーム』入り口から出てドアを閉じた。店長は︵この男は三分が限界だろうな……)と見た。
 仄明るい小さな小部屋に、背の高い白髪頭の男が一人残されて立っていた。
 重箱の隅を突つくが如く見渡せば、何から何まで突っ込みどころ満載のこの部屋の各部には、男は一切興味が湧かないようだった。ただ、二歩半ほど目の前を遮る、銀色の壁の一点を男は見ていた。それは、薄いベニヤ板の上に塗りたくられた、銀色のアクリル塗料の薄い膜に過ぎなかった。
 店長はホームの部屋を出ると、キャスト控え室へと急いだ。あの男の様子からして、堪え性はないと見たので、早めに列車を発車させないといけなかった。キャスト控え室のドア・ノブを持って開けようとしたが、﹁あっ!」と店長は思い留まって、一度は掴んだノブからその手を離して、改めてドアをノックした。以前、度々ノックなしにドアを開けて、かつてはうふ鉄の看板キャストの一人だったシリル嬢に、こっぴどく罵られたことがあったからだった。﹁ちょっと店長! 何遍言ったらわかるのよ! わたしたちにだって、プライバシーてもんがあるんじゃないの⁈ なんでノックしてから開けないのよ!」シリル嬢が他のキャストに嗾けて、キャスト全員から一斉攻撃を浴びせられた、過去の苦い経験が店長にはあったのだ。シリル嬢は三十代前半のアニメ・ヲタク女子で、面接時にはそんな話しは一切していなかったのに、勤務初日には、どうしても自分のお気に入りのコスプレ着用でないと嫌です、と、自ら持ち込んだ自前の衣装以外着用したくないと言い張り――そのコスプレのモデルが、人気アニメ・キャラの︿惑星ゲラン星のシリル姫〉だった――うふ鉄では、一人、際立って浮いた特異な存在のキャストだった。シリル嬢と他のキャストとの折り合いはやはり悪く、控え室でのシリル嬢はいつも独り孤立していたのだが、その反面、意外にも客のウケは良く、指名人気度は常にトップで、彼女の広告塔的効果と売り上げ貢献度は高かったから、実に始末に負えない存在だった。しかし結局、当のシリル嬢は他のキャストと悶着があって、最後にはキャスト控え室で引っ掴み合いの大喧嘩の末、翌日からピタリと来なくなって今日に至る。
﹁……はーい」
 誰とも判らない、覇気のない投げ遣りな応答を確認してから、店長は控え室のドアを開けた。
﹁では、乗客、一名でお願いします。みなさん、急ぎ目でよろしくです!」
 そこに、トイレに行っていたレナ嬢が戻ってきた。
﹁あ、レナさん、お願いしますね」
﹁はーい」
 レナ嬢は店長と窮屈な通路で擦れ違いながら生返事でそう応えて、キャスト控え室のコイン・ロッカーに自分のバッグを収めた。
 実のところ、店長が号令をかけるまでもなく、キャストたちは乗客が来たことは既に承知だった。それは、店の入り口ドアに仕込まれたセンサースイッチによる来店時の自動アナウンスと、何を隠そう――それは隠してあるのだが――、列車部屋のホーム反対側に位置する、列車の壁の窓ガラスはマジック・ミラーになっていて、その向こう側がキャスト控え室になっているからだった。なので、そのマジック・ミラー窓ガラス越しに、列車内とそのドアの切り抜きの向こうのホームの様子をキャスト部屋内からは一部始終確認することができた。しかし、店長が号令を掛けに来るまでは、誰一人としてその場を動こうとするキャストは居なかった。
 うふ鉄車両の内部構造が、実車を基に、極めて克明に再現されたものであったことは、この店の唯一最大にして、有るか無いかの社会的良心の表れと言えるかもしれなかった。何処から入手したのか不明ではあるが、車両の座椅子は、部分的にシートの表生地が擦り減って中綿が見え隠れしていたりの傷みが所々に在るものの、それは実車で使用されていた物を取り外した本物の中古品に違いなかった。クロームメッキの手摺のパイプや網棚も、一見してそれと判る、実車から取り外された実物だったし、窓の開閉はできないように填め殺し加工されてはいたが、窓枠も実車に装備されていた実物が取り付けられていた。
 天井から吊るされた﹃吊り広告』も、やはり実車さながらに再現されており、天吊りされた広告は『うふふ鉄道 キャスト紹介』で、そのカラーの紙面はメイン・キャストの面々の顔写真で埋められていた。キャストは大凡三十名余が登録されていて、中でも人気のキャストはひと際大きめのサイズの顔写真が割り当てられていた。本来、シリル嬢の顔写真が刷られていた筈の四角い枠には、現在は白紙が上から貼り付けられていた。
 勿論、﹃吊り革』は、うふ鉄の最も重要な演出アイテムであり、その実用上も、最も欠くべかざる重要な装置であった。そのために、仮想列車内の天井には実車には無い頑丈なパイプが予備的にしっかりとボルト留めされており、吊り革の高さが実車と同じになるように、天井高との位置関係を調節した上で設置されていた。
 ただし、列車一両を完全に再現するには、店舗スペースの物理的な条件が足りなかったのだろう、うふ鉄車両は、実際の車両の片端、約三分の一の車両部分を便宜的に再現したものであった。また、シートは車両内両サイドに配置されてはいたものの、車両の幅も僅かに実車のそれよりは狭かった。
 これらの部分的な幾つかの再現性不足にさえ目を瞑れば、うふ鉄車内は﹃てつヲタ』をも唸らせるに十分な演出は成されていたと評価できるのかもしれない。

 ぞろぞろと控え室から出た、本日のうふふ鉄道キャストの面々が、列車の乗車スタンバイに向かった。
 キャストの乗車は、乗客――当然ながら、この場合、この店の来店客のことを指す――の乗車とは別位置で、列車の連結部の通路に見立てたところの引き戸から出入りする構造になっていて、そのカーテン仕切り付きの引き戸の向こう側でキャストたちは乗車スタンバイしているので、彼女たちの姿は乗車待ちする乗客からは未だ見えない。
﹁﹃座り』、誰にする?」と、エプロン掛け主婦役、マリ嬢が声を掛けた。
﹁マリちゃんでよいんでね?」と、熟女OL役のミーナ嬢が応えた。
﹁いいと思いまーす」JK役の制服を着たエリカ嬢が言った。あとの二名は、無言で頷いて同意を示した。
 シートに座って客の相手――と言うか、﹃受け身』と言うべきか――をする役のことを、うふ鉄では﹃座り』という隠語で表していた。それは、リアリティの再現と、シートに座った状態でのプレイを好む客も居たことから、演出上、設定されていたもので、﹃普通列車』システムでは、キャストの内の誰か一人が﹃座り』役を担当するのが慣例だった。
 一番ホームに再度入室した店長が、壁に設えられた操作盤にその手を掛けた。白髪の男は、店長の動作を気に留めもせず、さっきの姿勢のまま、列車のボディの一点を見つめているようだった。
 徐にチャイムが列車部屋︵ホーム)に鳴った。無論、これは駅員役の店長がタイミングを見計らって、壁に設えられたスイッチとミキサーの操作盤を手動操作して鳴らされている。
﹁間もなく、うふふ鉄道普通列車が一番ホームに到着いたします。ホームでご乗車お待ちのお客さまは、白線の手前でお待ちください。駆け込み乗車は危険ですので、ご容赦ください。間もなく参りまーす」
 この決まり文句は、店長のカールコードの着いたマイクによる肉声だった。アナウンスは本物そっくりで、中々、リアリティがあった。
 白髪の男は、ホーム床に引かれた白いテープに僅かに足を掛けて立っていたが、店長のアナウンスには反応することなく、先ほどから微動だにせずだった。数人の連れ合いで入店する客の中には、このアナウンスを聴いて面白がって、駆け込み乗車の真似をしたりする客が居たりする。そこまでの反応は見せないまでも、一見の客は大抵、この一連の演出に対しては何らかの愉快げな反応を示すので、その反応を見るのが店長の業務上、唯一の楽しみと言えたが、この客は、一切、無反応だった。
︵おいおい、とことんおもしろくねえ客だよ……)数少ない業務上のやり甲斐を無下にされた店長は、内心嘆いた。しかし、店長はそんな表情は一切出さずに、一連の決まりの演出操作を続けた。
 雑踏のざわめきSEとは別に、実際に録音された車両の走行音のSEがフェイド・インして、雑踏のざわめき音と重なり合い、スピーカーから聴こえてくる。誰もが耳慣れしている、あのレールの継ぎ目を通過する音だ。ブレーキが掛かり、金属同士が擦れ合う高い金属音が鳴り、重量のある車両全体が停車する重い音がして、うふふ鉄道普通列車は、どうやら、一番ホームに入って停車したようだった。
 店長はざわめきSEのヴォリュームを僅かに上げた。それがキャストへのCUEになっていて、引き戸を開けたキャストの面々が、順に何食わぬ平然とした顔で乗客然として普通列車にぞろぞろと乗り込む。
﹁うふふ鉄道普通列車、一番線に到着です。一列でご乗車ください。割り込み乗車はご遠慮ください」
 無反応の客に痺れを切らした店長が、カールコード付きマイクを壁の操作盤に戻して離れて、男に乗車を促す。男は寡黙なまま、壁の切り抜きのドアを潜って列車に乗り込んだ。
﹁うふふ鉄道普通列車発車いたしまーす。危険ですから、駆け込み乗車はご遠慮ください」
 ホームにチャイムが鳴る。圧縮空気が抜ける音がして、複数の同じ二枚合わせドアが、同時にセンターで打つかる音がした。そして、実際には存在しない、透明の列車のドアが今、閉じたようだった。チャイムがホームに響く。
﹁一番ホーム、うふふ鉄道無限線、普通列車、発車いたしまーす!」
 店長が、首にぶら下げていた笛を極短く吹き鳴らした。録音された実車の列車発車走行音SEが再生され始め、ホームのざわめき音が遠退いてゆく。緩んでいた車両連結部に力が加わって、ノック音がする。鉄の塊の列車が軋む。台車の下の車輪が転がりだし、レールとの重い摩擦音がする。列車が力強く、ゆっくりと動き始める。車輪がレールの継ぎ目を通過する振動音が、間隔を置いて鳴り始める。その振動音が徐々にテンポを早めてゆく。聴き慣れた、あの定間隔のレールの継ぎ目を通過する振動音が徐々に早まってゆく。次第に、その通過音は一定間隔になり、等速に鳴り続けた。
 店長は、スピーカーを車内用に切り替えて、列車内のアナウンスを流した。
﹁本日は、うふふ鉄道をご利用いただき、ありがとうございます。この普通電車は、十五分後の……十六時二十分に次の駅に到着し、普通電車、単独線列車と連絡、お乗り換えとなります。到着まで、ソフトタッチの範囲でお楽しみくださいませ。尚、乗客同士のお声掛け、会話は厳禁でございます」
 聴き慣れた、あのレールの継ぎ目を通過する振動音が定間隔に鳴っている。うふふ鉄道普通列車は、順調に線路を進んでいるようだった。
 一番先に乗車してきた﹃座り』役のエプロン姿の主婦、マリ嬢は、列車部屋奥側の、長い方のシート――つまり、仮想的に車両中央寄り――に腰を収めて、ぼんやりと微睡んでいる。次に、OL役のミーナ嬢は、マリ嬢の斜め向かいのホーム側に向いて、吊り革を持って立っていた。その横並びの、ドア横の手摺を持つ形で、JK役のエリカ嬢が位置取りし、JD役のレナ嬢は連結部ドアから入ったところの、直ぐ横の部屋奥側のシートの前の吊り革にぶら下がった。最後に、ナース衣装のセリナ嬢が、レナ嬢の向かい側の吊り革を担当した。
 客の男は、ドアから真っ直ぐ歩みを進めて、﹃座り』役のマリ嬢の斜め向かい辺りに立ち、吊り革を握っていた。不思議なもので、ここまで実車の列車内を再現していると、客の誰もが条件反射的に吊り革を握るのだ。その点に関してはこの男も例外ではなかった。吊り革に掴まって軀を支えねばならない揺れが、このうふ鉄列車にはある筈がないにも関わらず。
 車内アナウンスを終えると、あとはキャストに任せて、店長は﹃一番ホーム』列車部屋を出て、発券所カウンターに戻った。新たな来客があるかもしれないので、入店カウンターを長くは空けておけない。列車が走行中に来客があった場合、客を待ち合い室に案内せねばならないのだった。
 車内では、まったく動きがなかった。
 客の白髪の男は、目の前の内壁に視線を留め続けていた。そこには、アルミのサッシ・フレームが設置されており、それは、本物の列車であれば、本来は路線図などの案内図等が収められるフレームであったろう。しかし、そこには﹃うふふ鉄道 システムのご案内』と書かれた、サービス概略案内の印刷物が収められていた。
 線路の継ぎ目を通過する振動音が鳴り続けている。無論、地震でも発生しない限り、うふふ鉄道に体感可能な振動は皆無である。しかし、このSEのお蔭で、列車内の﹃プレイ場』は白けないで済むのだった。
 キャストたちは、本物の列車に個々が乗り込んだときと同じに、一様に無表情ではあるが、各々がさり気なく自然な仕草をしていた。JKエリカ嬢は、スマートフォンを片手に熱心にネット検索している様子を見せているし、JDレナ嬢は、徐にイヤーフォンを肩掛けしたキャンバス地のトートバッグから取り出し、耳に着けたりしている。それらの仕草は、夫々の役柄に応じた、極自然な演技と言えた。そして、それが彼女らの表向きの主な仕事であった。
 男は、まだ﹃うふふ鉄道 システムのご案内』を見ている様子だった。
 キャストの面々は、特に目立った動きをする様子もない。あくまで客の動き次第、というところなのだろう。実際のところ、一見の客でいきなりキャストの軀に大胆に触れてくるような猛者はそうは居ないのだった。特に単独客の場合は往々にしてそうだった。多勢に無勢、案外、場の雰囲気に慣れるまではキャストたちの堂に入った構えに気圧されて、逆に気後れしてしまうものなのかもしれない。なので、本物の列車では許される筈のない犯罪行為がここでは許されている――それは一定の範囲内ではあるが――というのにも関わらず、殆どの客の男たちはその切っ掛けを逸してか、その場に固まって躊躇する。時間を目一杯使って奔放にタッチしてくるのは、勝手知ったる常連客か、酔いの勢いに任せて入店してきたグループ客たちなのだった。そのような事情についてはキャストたちもそこのところは承知、といったところか。
 レールの継ぎ目を通過する振動音が定間隔で鳴り続けている。列車は目には見えない線路を直走る。
 店長は﹃発券所』カウンター内に収まり、コミック雑誌を捲って、読み掛けだったページを探した。アラームは十六時十九分にセットしてある。
 客には明かされていないが、列車部屋には監視カメラが二台設置してあり、両列の吊り革の向き方向に、およそ車両内全景をカヴァーしてあった。キャスト控え室と女子専用トイレを除いて、他にも店内にはカメラは設置されていたが、プライバシー保護の観点から、録画されているのは﹃発券所』カウンター前のカメラだけであった。その車両内カメラが映し出すモノクロの小さなモニター映像に店長はちらりと目を遣った。やはり、未だ動きはなかった。
︵……だろうねー)店長は、腰を据えてコミックの続きを読み始めた。

 セットしたアラームが鳴った。あっという間に十四分が過ぎた。店長は、コミック雑誌をひっくり返して、座っていた椅子の座面に置くと、一番ホームへ急いだ。壁のカールコードのついたマイクを取ると、店長は車内アナウンスを流した。
﹁間もなく、うふふ鉄道、普通列車の到着でございます。当列車は単独線と連絡、お乗り換えでございます。単独線のお乗り換えのご案内をいたします。ホームにお降りになりましたら、お気に入りのキャストを、駅長までご指名ください。その後、単独線に連絡いたしまーす。普通列車、間もなく到着です」
 店長は、操作盤の簡易ミキサーの二本のフェーダーを器用に操作して、SEをクロス・フェードする。レールの継ぎ目を通過する音がゆっくりと遅くなって、ブレーキが掛かり、金属同士が擦れ合う高い金属音が鳴り響いた。重量のある車両全体が停車する重い音がして、列車が駅に到着したようだった。ざわめきのSEのヴォリュームが上がる。圧縮空気が抜ける音がしてホームに響く。見えないドアが開いたのだ。
 キャストたちが、連結部の引き戸へと、順に消えてゆく。
﹁列車連絡のため、お乗り換え願います」
 動きを見せない男に、またしても痺れを切らした店長がマイクを操作盤に戻して列車に乗り込む。
﹁すいません、一度、ホームにお願いします」
 すまなさそうに、店長は男に小声で言うと、ホームへと男を導く。
﹁如何でしたでしょうか? あと十五分、単独線でお楽しみいただけます。お気に入りの子をご指名いただき、一対一のプレイを残り十五分、存分にお楽しみいただけますが、お気に召さなければ、半額返金で、お帰りいただくのもご自由ですが……」
 男は、自分の左手を店長に指し示して、﹁こっちの」と言った。
﹁了解いたしました」
 店長は車両に入り、連結部の引き戸を開けて、そこで待機していたキャストの面々からレナ嬢の顔を見つけると、﹁あ、レナさん、お願いします」と声を掛けた。
﹁ラッキー! レナちゃん、ゴメン」と、JKエリカ嬢が小声でレナ嬢に言った。
 レナ嬢を残して、他のキャストたちは、そそくさとキャスト控え室へ戻った。
︵今日は出勤いきなりかよ……)レナ嬢はボソっと呟いた。
 チャイムが鳴った。
﹁只今、一番ホームに到着の列車は、うふふ鉄道、単独線です。白線の後ろでお待ちください」
 レールの継ぎ目を通過する音がゆっくりと聴こえてくる。ブレーキが掛かり、金属同士が擦れ合う高い金属音が鳴り響いて、重量のある車両全体が停車する重い音がした。列車が駅に到着したようだった。圧縮空気が抜ける音がして、ホームに響く。ドアが開いた。続いて、ざわめきSEのヴォリュームが上がる。
 連結部の引き戸からJDレナ嬢が乗車して、先ほど、マリ嬢が腰掛けていたシートの前の辺りに立って、吊り革を持った。
﹁押し合わずご乗車ください……ドアが閉まります……駆け込み乗車はご遠慮ください……ドアが閉まります」
 圧縮空気の抜ける音がして、二枚合わせドアがセンターで打つかる音がした。透明の列車のドアが閉じた。チャイムがホームに響く。
﹁うふふ鉄道、単独線、発車いたしまーす!」
 店長が、首にぶら下げていた笛を短く吹いた。緩んでいた車両連結部に力が加わって、ノック音がする。鉄の塊の列車が軋む。台車の下の車輪が転がりだし、レールとの重い摩擦音がする。列車が力強くゆっくりと動き始める。車輪がレールの継ぎ目を通過する振動音が間隔を置いて鳴る。その振動音が徐々にテンポを早めてゆく。聴き慣れた、あの定間隔のレールの継ぎ目を通過する振動音がコンスタントに聴こえ続けた。今度は、うふふ鉄道、単独線列車が、無事にホームを出たようだった。
 店長がマイクを取った。
﹁本日は、うふふ鉄道、普通列車、単独線にご乗車ありがとうございます。当列車は、単独プレイ専用列車となっております。お気兼ねなく、一対一でソフトタッチ・プレイをお楽しみください。尚、乗客同士のお声掛け、会話は厳禁でございます。次駅の列車到着は、十六時五十分の予定でございます」
 定間隔のレールの継ぎ目を通過する振動音が鳴り続けている。うふふ鉄道、単独線列車は、定速で走り続けているようだ。
 店長は一連の演出を済ませると、ホームを出て、再び発券所カウンターへ戻り、アラームを十六時四十九分にセットした。

﹁あのオヤジ、かなりキモくね?」
 キャスト控え室に戻ったJK役エリカ嬢が、小声で口を開いた。
﹁キモす!」ナース役セリナ嬢も、同意した。
﹁どの客もみんな、だいたい殆ど、キモイよ……てか、あっし、キモくねぇ客なんて、見たことねーし」と、OL役ミーナ嬢がアッサリ突っ込む。
﹁んだ……」主婦役マリ嬢が、ミーナ嬢の意見を支持した。
 レナ嬢以外の残りのキャストたちは、控え室の床のカーペットにベタ座りして、リラックスし始めた。

 店長は発券所カウンター内に収まって、やはり、さっきのコミック誌の続きのページに読み入った。
 定間隔のレールの継ぎ目を通過する振動音が隣の部屋から鳴り続けている。


 列車内では、男は先程と殆ど同じ、レナ嬢寄りのところに立って、左手で吊り革を握り締めていた。男の立ち位置は、右手を伸ばせばレナ嬢の軀に触れられる至近距離だった。それは丁度、マジックミラー越しに二人の様子がキャスト控え室の中から伺い知れる位置だった。
 男の額から汗が滴り始めていた。
﹁オヤジ、めっさ緊張してるよ!」
 男の表情を見て取ったJKエリカ嬢が、突っ込む。
﹁しっ! 聴こえるよ」
 主婦役マリ嬢が嗜める。

 店長はコミックのページを捲りながら、列車内の監視カメラのモニター画面をチラッと確認した。
︵まだ始まってねーのかよ……)そう呟くと、再び店長はコミックのページに目を落とし戻した。
 客は、他にはまだ誰も来なかった。

 列車内では、定間隔のレールの継ぎ目を通過する振動音が鳴り続けている。
 男の手が伸びた。ミニスカートのプリーツの上から、男のその平手がレナ嬢の尻を触れる。男の手はごつく大きく、動きは荒っぽかった。レナ嬢が一瞬、嫌そうに軀をくねらせて避ける。
 勿論、これは演技だ。痴漢願望の男が女性の軀に触れても、相手の女性が無反応、或いは、明白に歓ぶ反応を見せる女性であっては、それを彼らが喜ぶ筈もない。痴漢どもは、相手の女性が嫌がり、恐れ、身動きが取れずに困り、恥じらう姿を見て、歓ぶ種の人種なのである。おそらく。
 そのレナ嬢の動きに男が過敏に反応して、その手をサッと戻した。その瞬間、眼鏡の奥の男の目がギョッと見開かれた。そして、男の額から汗が滴った。男の顔の向きは、真っ直ぐ窓側を向いたままだ。
 男が再度、怖々と右手を伸ばす。その手の平がレナ嬢の尻を捕らえる。
 レナ嬢が吊り革を持った姿勢のまま、再度軀をくねらせ、苦渋の表情をつくる。今度は、男は手を引かなかった。その手の平を、そのままレナ嬢の尻の丸みに当てがったまま、その盛り上がった肉の塊を掴んでいる。
 レナ嬢が吊り革を持った手を引き攣らせ、軀をくねらせると、左肩に掛けていた小道具のトートバッグが耳に掛けていたイヤホン諸共バサッと床に落ちて、イヤホンのケーブルが情けなくぶらんと垂れ下がった。それは、自然な﹁らしい」演技だった。男は、驚いた様子を一瞬見せたものの、片手はそのまま吊り革から離さずにいた。

﹁あ、オヤジのスイッチ、入ったみたい……」
 マジックミラーの向こう側から観察を続けていた目敏いJKエリカ嬢が、小声で皆に状況を解説する。
﹁そりゃ入るよ。お金払った分は、元、取らなきゃじゃん」と、OLミーナ嬢が、また小声で返す。
﹁でも、やっぱ、あのオヤジ、かなりキモイよ……レナちゃん、まんまとハズレだね……」
 JKエリカ嬢のコメントは正直、且つ、辛辣である。エリカ嬢がそう言い放つと、残りの四名のキャストたちは完全なリラックス・モードに入った。
﹁ここんちのパン、美味しいんだよ、食べるー?」と、最年長の主婦役マリ嬢が、自分のバッグの中から小分けされたビニール袋に入ったパンを取り出し、それらを無造作にカーペットの上に打ちまけた。
﹁食べるー!」
 他の三人がパンに群がった。

 しかし、このときのエリカ嬢の勘は鋭かったのだ。
 レナ嬢がトートバッグを足下に落としたその刹那、それがトリガーになったかのように、男の中の何かが蠢き始めたのだった。
 床に落ちたトートバッグを拾おうとしたレナ嬢を制するように、男の手がレナ嬢の尻の割れ目に沿って弄り始めた。レナ嬢は尚、苦渋の表情をつくって軀をくねらせている。
 次の瞬間、男は素早く、レナ嬢の背後に位置を変えていた。そして、男はレナ嬢の後ろから左手を回し、その大きな手でレナ嬢の両胸を掴んで上半身を抱き締めた。そして、右手でスカートを裾から捲り上げ、いきなりショーツの前から手を入れてきたのだった。薄いピンク色のサテン地のレナ嬢のショーツが露になる。
﹁ちょ……お客さん!」
 レナ嬢は思わず声を出して、吊り革を持つ手を放し、ショーツの中に突っ込まれた男の右手を解こうとした。そのとき、微かに視界に入った男の形相を見たレナ嬢は、なにやら、ただならぬ恐怖感を覚えたのだった。レナ嬢は無意識に軀を硬直させた。全身に防御の力が入った。両脚を閉じた。男のごつい右手の指は、そのとき、寸前にレナ嬢が力を込めて閉じられた腿によって、それ以上進めないように阻まれていた。男はレナ嬢の胸をがっちり締めた左手に力を込めた。
︵うっ)
 男の力技にレナ嬢は息苦しくなって、どうしたって力が緩んでしまう。男はその隙を見て、その左手の力で以て、レナ嬢の軀を持ち上げて浮かした。レナ嬢の両脚が床から浮く。その瞬間、男の太い指が智子のヴァギナに挿入された。
﹁痛い! ちょ……ちょっと!」
 レナ嬢が思わず声を上げる。男に遊び心はなかった。
︵コイツ、本気だ……本気で、なんかしようとしてる!)
 レナ嬢の感じた恐怖感が、一気に現実味を帯びてくる。
︵ヤバい! ヤバいよ、これ!)
 声が出ない。最早、芝居どころではない。
 男は、挿入したその指で、レナ嬢ヴァギナの中を掻きまわすような乱暴な動きをする。
︵痛い! ヤメロ!)
 しかし、それが声に成っていない。
﹁うぅ……」
 レナ嬢は小さく呻いているだけだった。
 そのとき、男が声を発した。
﹁出せや」
 羽交い締めされたまま、レナ嬢が必死で顔を動かして、背後の男の顔を覗き見る。男の目が、眼鏡越しに、冷たく見開かれている。
﹁……玉出せや……」
︵何言ってんの⁈ コイツ、頭おかしい!)
 男は益々興奮しだしたのか、右手に力を込めて、更にその太くかさついた指を挿入してくる。
﹁痛い! ちょ、止めてって!」
 レナ嬢が幾ら抗っても無駄だった。男の体軀はレナ嬢の軀を遥かに上回っており、力技では最初から負けだった。︵ボタン……)と、レナ嬢は思って、手を伸ばそうとしたが、壁の﹃緊急停車ボタン』は、まったくレナ嬢の手の届かない離れた位置に在った。これは、トラブル発生時に押すボタンとして設置されていたものだった。このボタンを押せば、発券所カウンターの緊急ブザーが鳴る。しかし今、ほぼすべてが紛い物の、このうふ鉄車両の中で唯一、実用上設置されたものだというのに、この緊急停車ボタンは今、擬似的にでさえ、まったく用を成さなかった。
 男は、遂に無理矢理、レナ嬢のヴァギナに三本の指を挿入していた。その指先でレナ嬢のヴァギナの中を乱暴に掻いている。
︵痛い!……)
﹁……玉出せや……」
 男の低い声がレナ嬢の耳元で唸る。その声の不気味な異様さにレナ嬢は震え上がって、声を出す気力さえも失い掛けていた。
 しかし、定間隔でレールの継ぎ目を通過する振動音が鳴り続けている。車内で起っている事とはまったく無関係に。連絡駅はまだ遠いようだった。
 そのとき、キャスト控え室でパンに齧りついていたエリカ嬢が、列車内の異変にやっと気付いた。キャスト控え室内ではこのとき、エリカ嬢だけが一人、マジックミラー方向に向いて座っていたからだった。
﹁え⁈ なんか様子が変だよ!」
 エリカ嬢の指摘に、パンを旨そうにパクついていた三人が振り返る。
﹁NG客だ!」マジックミラーの向こうを凝視したミーナ嬢が、パンの欠片を口の中に頬張りつつも叫ぶ。
﹁店長! NGよ!」マリ嬢も叫ぶ。
 食べ掛けだったパンを放り出して、キャストの四人が控え室を飛び出した。
 キャスト控え室から聴こえた叫び声を聴き取った店長が、ハッとして、顔を上げてモニター画面をチェックする。
︵うっ、ヤベッ!)コミック誌を放り投げて、店長も慌ててカウンターを飛び出した。キャスト四人と店長が、ほぼ同時に列車内に結集した。
 定間隔のレールの継ぎ目を通過する振動音が鳴り続けている。列車はコンスタントに、そして、シュアに直走る。
﹁お客さん! 止めてください!」
 駆けつけた店長が、男の背後からレナ嬢から男の軀を引き離そうとするも、店長よりも男の方の体格が上回っていたので、思うようにならない。店長は腕を絡ませて離そうとするが、男の力が勝っている。
﹁ちょっと! お客さん……」
 それでも、店長は男の背後から揉み合って、何とか男を思い留まらせようとしていたが、やはり巧くいかない。
﹁店長、退けっ!」
 業を煮やした店長の後ろに控えていたエリカ嬢が、目を血走らせて叫んだ。
 その声を聴いた店長が後ろを振り向いたその瞬間には、もう既に、エリカ嬢は右足でキックのテイクバックの姿勢に入っていた。慌てて店長は男の軀から離れて、エリカ嬢の右足を寸前のところで躱す。その瞬間、エリカ嬢のキックが男の膝裏を捉えた。
﹁うっ!」
 不意を突かれた男の膝がカクンと関節で折れ曲がって、レナ嬢を抱え込んだまま床に仰向けに倒れた。
﹁今だ!」
 その隙を突いて、全員が一斉に飛び掛かった。その勢いで、男の眼鏡が外れて、宙に飛んだ。
﹁爺ぃ、手放せごらっ!」
 大人しいタイプのセリナ嬢までもが、怒りに震えて、男の手を智子から離しに掛かる。
 しかし、床に倒れても尚、男の指はまだレナ嬢のヴァギナに挿入されたまま、その大きな手の平全体が、レナ嬢のショーツの中の恥丘の上に覆い被されたままだった。
﹁お客さん、もういい加減にしてください! 限度を超えてます! 警察呼びますよ!」 
 店長が男に必死に呼び掛ける。
﹁店長、ダメだ、この爺ぃ、目が完璧にイッちゃってるよ!」マリ嬢が叫ぶ。
﹁みんな、退けーっ!」
 またしてもエリカ嬢が叫ぶと、さっきのキックを目の当たりにして、危険を察知した全員が一斉に男から素早く離れた。と、同時にエリカ嬢の右足が再び、今度は床の男の頭を目掛けてテイクバックの体勢に入っていた。チームの頼みのエース・ストライカーが、試合を決める渾身のシュートをゴールマウスに狙い定めて放とうとするかのように。
︵ヤバい!)店長は震え上がった。
 エリカ嬢のキックが、サッカーボールならぬ男の白髪頭を、その真横からまともにヒットしようとしたそのとき、間一髪で男が僅かに頭を竦めた。幸か不幸か、エリカ嬢のキックは、男の頭蓋へのクリーンヒットを免れた。
﹁コツン!」と鈍い打音がした。
 しかし、その足の爪先は、男の白髪の頭頂に僅かにヒットしていた。
﹁うっ」男の口から呻き声が漏れた。
 エリカ嬢のJK制服仕様のペニーローファーの爪先のコバが、男の頭頂を掠めるようにして、辛うじて一撃を喰らわしたのだった。勢い余って右足を宙に振り上げ切ったエリカ嬢は制服の紺色プリーツ・スカートを翻し、その瞬間、チラリと見せた派手な紫色のサテン地のTバック・ショーツの極僅かな布切れが覆う部分以外、殆ど露になっていた剥き出しのお尻から見事に床に尻餅を突いた。ドスン! 
﹁いったぁーっ!」
 しかし流石に、このエリカ嬢渾身の一撃は、決定打として効いた。
﹁……ううぅ……」
 男がその頭部の痛みに脱力した瞬間、再び、皆が一斉に男に飛び掛かった。ミーナ嬢とマリ嬢が二人して男の両手を引き剥がし、レナ嬢を男から奪還すると、入れ替わった店長とセリナ嬢が男の軀を俯せにして、その背中と両脚の上に乗り掛かって、男を羽交い締めにして取り押さえた。
 やっとのことで、この恐怖から逃れることができたレナ嬢は、腰砕けになって、床にベタ座りして立ち上がれず、震えながら、その床に小さな水溜まりをつくっていた。
 うふふ鉄道のレールの継ぎ目は途切れない。列車はどこまでも、その上を通過し続けている。
﹁……ううぅ……」
 今や捕らわれの身となり、無様な体勢で床に突っ伏している男の低い呻き声がした。
 もう大丈夫と判断したのだろう、偽ナースのセリナ嬢が男の脚の上から放れると、男の傍らにしゃがみ込んで、その頭部の患部をマジマジと見ながら言った。
﹁店長、これ……」
 俯せに倒れた男の爪先方向に向きにその背中の上に馬乗りになって、両手で男の両腕を固めたまま項垂れて肩で息をしていた店長が、セリナ嬢の方へ頭を上げて応えた。
﹁……な……なに?」
 患者の患部を指差した偽ナースは、その所見を冷静に述べた。
﹁これ、そこそこヤバいかもよ?」
 突っ伏した男の頭頂から、真っ赤な鮮血がグレイのリノリウムの床に滴り落ちていた。男の白髪頭が見る見る赤く染まってゆく。
 緊張の糸が切れたのか、臨戦態勢を解いたミーナ嬢が車両の側壁に手を突いて、その体勢を休めようとした。
﹁パキッ」
 SEの列車走行音がスピーカーから鳴り続けるうふ鉄列車内に、渇いて弾けた音が響いた。ミーナ嬢がその片足を上げると、男の眼鏡がセル・フレームとレンズ諸共割れて、元の形を留めていなかった。
﹁あら……わざとじゃないわよ」

 この騒動から我に返った客の男との決着は、正当防衛とは言え、店側が男に怪我を負わせてしまったこともあり、また、これを事件化するのは、後々の面倒からもむしろ営業的損失の方が大きいだろうと店長は冷静に判断していた。
 列車走行音のSEは鳴り止み、列車は線路上で緊急停止していたようだった。
 うふ鉄車内で男と対峙していた店長の背後には、被害者レナ嬢を除いた四人のキャストたちが仁王立ちで控えて男を取り囲み、店長の談判と事の成り行きを見守っていた。
﹁お客さん、あんたの仕出かしたことは、どう考えたって、ルール違反です。ウチのキャストの女の子が被った精神的、肉体的被害は相当なものですが、お客さんも怪我をされてます。……どうでしょう、今日のところは黙ってお引き取りいただいて、二度とウチの敷居は跨がないと約束してくれるんだったら、ここは、こちらとしても多めに見ましょう。どうです?」
 それを聞いて、まだ怒りと興奮が冷めやらぬエリカ嬢が吠えた。
﹁店長! どう考えたって、このエロ爺が悪いんじゃん! それじゃ、レナちゃんが可哀想じゃんかよ!」
﹁エリカちゃん!」最年長のマリ嬢がエリカ嬢の軀を手で遮って、首を振りながら示して制した。
 貰ったタオルで頭の傷口を押さえながら、片膝を立てて床に座り込んでいた男が口を開いた。
﹁悪かった……気がどうかしてた……申し訳なかった……」
 男はそう言って、懐から財布を取り出すと、その中から札を数枚取り出して、それを店長に差し出した。
 その札を見て取ると、店長は、﹁これは迷惑料と受け取らせていただいて構いませんね?」と念を押すと、男は黙ってコクリと頷いた。
 店長は男から札を受け取ると、言った。
﹁わかりました。しかし、申し訳ありませんが、救急車は呼べません。ウチの営業に差し支えがありますのでね……ご自分の足で病院まで行けますか? 何なら、わたしが同伴しても構いませんが……」
﹁……いいや、結構だ」
 男は、ボソッと断った。
﹁じぁ、せめて、一番近くの病院までの道筋を、外で教えましょう」
 男はよろめきながら立ち上がった。
﹁すぐ戻りますから、ちょっとの間、お願いしてよろしいですかね?」
 振り返って、店長はマリ嬢に目配せした。マリ嬢は頷いて同意した。
 店の出入り口のドアが開いて、二人の男が出てゆくと、自動センサーによるお帰り用のアナウンスが再生された。
﹁毎度ご乗車、ありがとうございましたー」

 車内で男との決着の談判が行われている最中、レナ嬢は店の簡易シャワールームで、軀と濡らしてしまったショーツと衣装のスカートを洗っていた。
 私服に着替えてシャワールームから出て、キャスト控え室にレナ嬢が戻ると、残り四名のキャストのみんながレナ嬢を優しく迎えてくれた。暫し、店長不在ということもあり、キャストの四人が店の応対をできるように留守番中で、キャスト控え室のドアは開け放たれたままだった。エリカ嬢の興奮は治まっていた。それは、レナ嬢がシャワーを浴びている間に、しっかりマリ嬢に嗜められていたからだった。
﹁あの……雑巾は?……」
 レナ嬢がすまなさそうに訊いた。
﹁あー、大丈夫。床は拭いといたから。もう忘れな」
 マリ嬢がさり気なく気遣う。
﹁レナちゃん、気にすんなよ」と、エリカ嬢も声を掛ける。
﹁まさか、アソコ、怪我はしてなかったよね?」
 セリナ嬢が心配して訊いた。
﹁……ありがとうございます。大丈夫です」
﹁まぁ、あんな酷いことされた後なんだし、しばらくは気持ちが落ち着かないのはムリないよ」と、ミーナ嬢が慰める。
 部屋の空気に、一瞬の沈黙があった。
﹁あ、そそ、美味しいパンがあったんだよ。レナちゃん食べよ!」
 マリ嬢が機転を利かせて、場の雰囲気を変えようとしてくれた。
﹁先にわたしたち四人だけ食べ掛けだったんだけどね、レナちゃんごめんね!」
 そう言うと、セリナ嬢も笑って気を利かせた。そこへ店長が戻ってきた。
﹁レナさん、みなさん、今日はわたしの管理不行き届きで、大変な目に遭わせてしまいました。申し訳ありませんでした」と言って、店長は神妙に頭を下げて詫びた。そして、店長は封筒をレナ嬢に差し出した。
﹁これは、さっき、あの客が置いて帰った迷惑料です。これはそのまま、レナさんにお渡しします。レナさんが受け取るべきお金です。……また、次回までに、お店からもお見舞い金を考慮させていただきます。できたら、引き続き、お店には来てもらいたいです……」
﹁店長、取り敢えず、レナちゃんの気分が落ち着くまでは、お休みさせてあげた方がいいんじゃない?」と、マリ嬢が口を挟んだ。
﹁そ、そうですよね……配慮が足りませんでした。レナさん、申し訳ないです。……えーと……しばらくはレナさんご自身にお任せしますので、今日は、もうお帰りいただいて、しばらくお休みいただくとして、復帰されるかどうかは……勿論、それはレナさんの自由意志で決めていただくことですし……ただ、わたしとしては、復帰されることをお願いしたいので……えーと……お見舞金も用意してお渡ししたいですし、どっちにしても、一度は、またお店にお顔を見せに来ていただけませんか?」
﹁はい、わかりました……ありがとうございます」
 レナ嬢は素直に返答した。
﹁お願いします!」
 店長は、再度、神妙にレナ嬢に対して頭を下げた。

﹁まさかとは思うけど……あの爺が出待ちしてるといけないから」と言って、マリ嬢が店の外まで、ガード役を克って一緒に店を出て付き添いをしてくれた。
 ビルの1Fのテナントのラーメン店の換気扇から放たれ続ける、生温く濃厚な豚骨臭が、最低限の動線確保だけを主眼に設計された、この商業テナント・ビルの狭い通路の空間を満たしながら、蒸し暑い外気と混じってゆく。智子がうふ鉄のテナント・ビルを出ようとしたときには、この時期の夕暮れにしては空は厚い雲で覆われて暗く、既に雨が降りだしていて、それはもう本降りになり始めていた。
︵くそっ、自転車で出掛けた時点で、今日は最悪の日だったんだ……)と、智子は自転車で出掛けて来てしまったことを再び悔やんだ。
﹁ありゃ、雨だね……ちょっと、そこで待ってて」ビルの外に出掛けたところで、エプロン姿のマリ嬢が智子をビル内に引き留めると、先に路面に出て雨に濡れながらも、路の両側とその先を周到に確認してくれている。
﹁大丈夫みたいだね」戻りながら、マリ嬢が智子にOKサインを出した。﹁傘、持ってきてなかったの?」
﹁あ、そこの百均で買って帰るから、大丈夫です。ありがとうございます」と、智子はマリ嬢にペコリと頭を下げて礼を示した。
﹁そか。帰り道、油断したらダメだよ。何かあったら、直ぐにさっき教えたあたしの携帯に迷わず電話すること。ほら、片手に携帯持っときな。家に着くまで、安心しちゃダメだよ。爺に着けられてないか、後ろ、ちゃんと見ておくのよ」
﹁はい、今日は駅からは自転車だから、大丈夫です」
﹁そか。でも、用心してね」
﹁はい、ありがとうございました」
 智子は、もう一度マリ嬢にペコリとお辞儀すると、唇を噛み締め、商店街のアーケードまでの短い距離を雨に打たれながら駆け抜けた。アーケードの下まで入り込んで、其処でバッグからハンカチを出して、濡れた髪とバッグを手早く拭った。顔を上げると、シーリング・ライトがやけに白々しく明るくて、智子の目を眩ませた。商店街の中の、いつも頻繁に利用する百円均一ショップの店先に、これ見よがしに急ごしらえで臨時陳列された透明のビニール雨傘の一本を智子は素早く手に取ると、雑多な商品で埋め尽くされた店内の狭い通路を塞ぐ買い物客を掻き分けて、レジで会計を済ませた。
 行きと同じルートを真逆に、足早にアーケードを抜け、買ったばかりのビニール傘を開いて横断歩道を渡った。日中、太陽が照りつけてアスファルトが溜め込んだ熱を雨水がゆっくり冷やして奪い取りながら蒸気になって、一緒に嫌な臭気を地面から漂わせている。その外気の臭気と、買ったばかりの真新しいビニール傘のケミカル臭とが入り交じって、それが智子の中で何やらモヤモヤとした掴みようのない奇妙なイメージを形作った。それは、学校の夏期の水泳の時間を憶い出させた。
︵ヤな臭いの二重奏だわ)智子は、今日という日の自分の記憶に、この不自然な臭いが染み付いた気がした。
 駅ビルの二階コンコースを通り抜ける最中、マリ嬢に言われたとおり、智子は何度か後ろを振り向いては、あの男が後を着けていないか確認した。その都度、不審な人物は見当たらなかった。というか、構内を行き交う男性全員が、不審者に見ようと思えば見れた。身近にあの男らしき姿が無いことだけを確認して、智子は有料駐輪場まで歩いて自分の自転車を引き取ると、またビニール傘を差して、片手で保持しながら自転車に跨がった。少し内股に痛みを感じた。駐輪場を出るときに再度、行く手の薄暗くなった視界を確認したが、怪しげな人影は見当らなかった。
 智子はバッグを左肩に掛けて左手でハンドルバーを握り、空いた右手で傘を差しながら、雨の中、自転車を漕いで家路を急いだ。

 レナ嬢が帰った後のうふ鉄は、いつものうふ鉄に戻りつつあった。
 キャスト控え室では、主婦役のマリ嬢、OL役のミーナ嬢、ナース役のセリナ嬢、JK役のエリカ嬢の、残りの四名が、キャスト控え室の床のカーペットに車座になって、残していたパンを齧りながら待機していた。
﹁あ、パンスト穿き替えとかなきゃ、だー」セリナ嬢が、自分の穿いている白のパンティストッキングの伝線の入ったところを指差して言った。
﹁爺のダメージ、どうだった?」ミーナ嬢が訊いた。
﹁あれは、病院で数針縫ってもらわないと、だねー、傷口、見事にパックリ開いてたもん。頭に月経小陰唇、的な」と、セリナ嬢が自分の頭を指差して、男の裂傷の位置を示した。
﹁へっ、爺ぃ、ザマーミロ! この、うふ鉄エリカ様を舐めんじゃねえ!」エリカ嬢が悪態をついた。
﹁あんた、何言ってんの。もし、あんたのあの蹴りをマトモに頭に喰らってたら、あの爺、助かってたとしても、植物人間もんだったんだよ?」賺さず、マリ嬢が呆れてエリカ嬢を嗜めた。

 一方、入り口の発券所カウンターの中では、店長が携帯電話で、忙しなく数人の非番キャストに連絡を取っていた。
﹁あ、ミフユさんですか? あ、良かった! 急に申し訳ないです……えーと、大変急で申し訳ないんですけどね、これからお店に入ってもらうこと、できませんかね? ……ええ、ええ、一名、病欠が出ましてね、それで……は、はい、それで、お願いできませんかね? あ、はい、そうです、でっきるだけ……ええ、アズ・スーン・アズ・ポッシブルで……いやいや、申し訳ないです……」



  Ⅴ ネメシス



 年々、季節の変わり目には異常気象が付きものになっている。低気圧がべったりと列島に張り付いていたかと思えば、一変、かんかん照りの高気圧、という具合の急激な気象変動だった。
 アスファルトの照り返しでさえ眩しい夏日の午後、行きつけの文房具店で仕事用の備品と材料を買い揃えたぼくは、遅めのランチでもして帰ろうと歩道で独り信号待ちをしていたときだった。背後から誰かがぼくの肩をトントンと叩いた。反射的に振り向くと、みどりがそこで微笑んでいた。
﹁純さん! 元気してたの⁈」
 予期せぬ再会。その機会はこのようにして、何の前振れもなく唐突に訪れた。
﹁あ……」
﹁お久しぶり! もう半年になるかしら? ずっと返信が途絶えてたから、心配してたのよ? 何かあったの?」
﹁……いや、……仕事が忙しかったり、いろいろあったものでね……」
 みどりとの再会時対応用の台本はどこにも用意していなかった。ぼくは動揺を隠せず、自分でも呆れるくらいしどろもどろだった。咄嗟に続けて、スマートフォンの故障を返信不能に至った主な理由にした。
﹁携帯の調子がおかしくなったの? なーんだ。そうだったの。でも、元気なら良かった!」
 みどりは、ぼくが手にしていたショップバッグに目を遣ると、﹁あら、お買い物中だった? ねえ、久しぶりに逢えたから、これからお茶でもしましょ! わたし、純さんにいろいろ話したいこと、あったのよ。さあ!」と、ぼくの同意を得るよりも先に、みどりは手ぶらだった方のぼくの腕を掴んだ。
 絶交状態に至っていたことの本当の経緯とその仔細にはみどりは疑いの目を見せず、無頓着だった。彼女は、自分が嫌われた、または、避けられたのだ、という疑念さえまったく持っていない様子だった。少なくともそのような素振りは見せなかった。それは、ぼくの感覚からすれば驚きに値する。そう、その驚きからぼくは動揺し、ぼくの常識という名の感性は瞬時に空を掴まされた。そして、みどりの変わらぬ自分勝手な強引さ――相手への配慮と気遣いを逸した態度と行動――のさまは、このように相変わらずだった。
 歩道の信号が青になると、ぼくはみどりに手を引かれて、言われるままに同伴連行された。適当な言い訳が思いつかず、断るタイミングを完全に逃してしまったからだ。と言うか、みどりの方が、ぼくから断らせるタイミングを奪った、と言った方が正しい表現だと思う。――﹁あなたはお人好しが過ぎる」――特に女性ならば、そう言って、ぼくの対応の軽卒さを小馬鹿にさえするだろう。しかしそれは、みどりという人を知らない第三者の、あくまで我々常人の態度をその標準とした意見であると、ぼくは反論したい。何故なら、みどりのこういったときの間合いの詰めの鋭さと言ったら、それはマジックとさえ表現してもよい。常識的な感性を失している分、正反対の非常識的な感性の発動については彼女は躊躇というものを持たない。これは、彼女と接したことのある者同士でしか共有不可能な体験だろうと思う。
 歩きながら見るみどりの横顔には、気のせいかとは思ったが、どこか以前とは少し違い、溌剌とした明るさが感じられた。それは、直ぐに彼女の発言により裏付けられた。
﹁純さん、わたしね、実はやっと離婚できたのよ。あれ? 既婚なのは知ってたでしょ?」
﹁いや、知らない」
﹁わたし、言ってなかった?」
﹁聞いたこと、なかったね」
﹁……そう、そうね。純さんはそういうこと、他の人たちみたいに、根掘り葉掘り訊いたり、一切しなかった。黙ってわたしの愚痴を聞いてくれた。わたし、純さんのそういうとこ、ずっと尊敬してたのよ」
﹁いや……それで、身軽になったというわけ?」
﹁そう。嫌なものをすっかり落とせたの。でも、大変よ。経済的に。本当に大変。女独りって」
﹁……そうだよね」
﹁やっぱり、女には支えになってくれるひとが必要よ。どう? 純さん、わたしと結婚してくれる?」
 みどりのその表情を見て、ぼくは言葉に詰まった。
﹁あら、わたしじゃご不満? 純さんもやっぱり、他の男のひとたちと同じに、若い子じゃないと嫌なの?」
 みどりは真顔だった。
 この日のみどりのスタイルもまた相変わらずで、ファッションのコーディネイトには卒がなかった。ラペルのシェイプが美しいオフ・ホワイトの薄手のジャケットと膝上丈のタイト・スカートのサマー・スーツ姿で、インナーにはやはり胸の空きの多いアマランス色のプル・オーヴァーのブラウスを合わせていて、豊満な胸の谷間――その中身は盛っているのかどうかは判らない――に、ゴールドのネックレスに小さなダイヤ︵たぶん)が輝いていた。みどりは、自分の姿を美しく魅せる技については、おそらくはプロのスタイリストも舌を巻くセンスを持っていた。
﹁ねえ、純さん、彼処はどうお? 歩くの暑いから、もう彼処でいいじゃない?」
 みどりに促されるまま偶々入ったカフェは、珍しく広いスペースに客席が疎らにしか配されていない、落ち着いたアダルトな雰囲気の店で、低めのヴォリュームでBang & Olufsenの縦長スピーカーから流されているBGMはM.J.Q.のアルバムだと判ったけれど、そのタイトルまでは知らない。店内を見るなり、二人掛けのソファーが向かい合わせの四人席をみどりが所望したので、贅沢にぼくら二人で占有した。
﹁ああ、涼しい! 外には三分だって居れたもんじゃないわ!」
 そう言いながら、みどりはジャケットを脱ぐと、バッグから鮮やかな色柄プリントのハンカチを取り出して、額と首筋を軽く叩くように拭いた。
 向かい合わせでみどりを見ると、やはり以前とは少し印象が違っていた。彼女が引きずり纏っていた影というか……そんな、彼女の着ける高級フレグランスの香りくらいでは覆い隠すことのできない、纏わり付いていた匂いとでもいうような気配が消えていた。みどりの横の空いたソファーの上には、既に彼女の大きめのバッグが当たり前のように一人分の場所を取っている。両手の指には指輪を一つも嵌めていなかった。マニキュアは、ベージュというか……そう、フラットなヌードカラーというやつで、その色は足下のヒールが高めで魔女が履くには最適なデザインの、トゥがやたら尖ったパンプスとマッチしていた。
﹁やっとケリが着けられたの。ほんと、清々したわ」
 みどり自身が語るところによれば、ぼくと出逢った頃は丁度、家庭問題のストレスがピークの頃だったらしかった。それは憶い返せば、遣り取りの中で幾つか納得できる点は多かった。あの神経症的発作とも言える奇言の数々はその影響のことだったということか。みどりの夫婦間の不和は十数年に及んだことらしい。そして、その後長期間に渡って、みどりはご主人からドメスティック・ヴァイオレンスを受けていたと言う。
﹁何故、そんなひとを選んだの?」
﹁勿論、最初の頃は、あの男もそんなじゃなかったわよ。……でも、彼奴は最低な野郎で……そもそも、あたし、あの結婚自体、血迷ってたのね、若かったから……。でも、結婚なんて、大なり小なり、みんなそんなもんじゃないかしら? 純さんは未婚だから、そこらへんが判らないだけよ」
﹁そうかな? みんな、失敗したひとは同じようなことを言うよ。あ、失礼」
 ぼくは敢えて正直に口を挟んでみたが、それでみどりは機嫌を損ねることはなかった。
﹁ううん、仰るとおりよ。失敗に違いないからいいのよ。大失敗もいいとこよ」
﹁いや、ぼくが言いたいのはね、結婚後の問題よりも、それ以前に、結婚を決意するまでの、双方の情熱と打算のアンバランスの問題なんじゃないかと思うんだけどね」
﹁それと、あと、理想ね」
﹁理想に現実が追いつかないのは当たり前だと思うよ。そもそも、理想とは高く持って当然のものなんだしね。問題は、その理想を、自分にではなくて、相手の方に押し付けて課してしまうことなんじゃないのかな?」
﹁正論ね」
﹁未経験者による、正論だね」
﹁純さんは名前のとおり純な人なのよ」
﹁そうでもないよ」
﹁理想が高いから、未婚のままなの?」
﹁そんなわけではないよ」
﹁でも、これまで、しようとした相手は居なかったわけではないでしょ?」
﹁ああ、しようとしたことはあるよ」
﹁踏み切れなかった?」
﹁そうとも言えるし、そうでもなかったとも言える……ぜんぶ終わったことだよ」
﹁そうね、純さんにもそれなりの恋愛の過去があって当然よね」
﹁ただ、縁が無かっただけさ」
﹁今はこのわたしとの縁があるわよ? チャンスなのかもよ? わたしたちにとって」
 本心であったとしても、今のは、明らかに冗談が殆どだった。みどりは笑っていたから。
 ともあれ、以前よりもエグ味と言うか、灰汁が抜けたかのような、みどりのさっぱりとした態度とその話し振りは、彼女に対して警戒心を抱きつつ少しばかり神経を使いながら相手をしていたぼくの心持ちを少しばかり安堵させた。以前の、あのチャット交信での悪態の数々は一体なんだったのか、というくらいの変貌ぶりだった。ある意味、それは拍子抜けでもあった。状況好転の原因は、彼女の言うところの離婚成立であったのだろう。それは間違いなさそうだった。よほど清々したのらしく、ぼくの意見にもまったく嫌な顔一つを見せずに、みどりは気持ちに余裕さえ持っていた。
 この店のソファ・シートの座面は低めだった。みどりが足を組み替えたりする度に、テーブル越しに彼女のスカートの中がチラチラと目に入って、ぼくはときどき目の遣り場に困った。けれど、みどりはそんなことは一切気に留めていなかった。やはり、所作が粗雑だった。それは同じ女性でも、絶妙なタイミングでオーダーを伺いに来た、ホワイト・シャツにブラックの蝶タイを締めてギャルソン・エプロンを着けた、控えめで丁寧な接客態度のこの店のウェイトレスとは対照的だった。
 みどりはまるで軀の内と外が裏返しになったカメレオンみたいな女だと思った。カメレオンがその見た目を擬態させて獲物を錯覚に追い遣るのに対して、みどりはそれとは反対に、その外見は首尾一貫して一定の美しさを見せながら、自身の内省を自在に変化させて相手を翻弄せしめる。ただ、それが意識的になのか無意識的なのかはぼくには未だ判断がつかない。みどりの心の核たる所在が何処に在るのかは未だに皆目掴めない。
 ぼくはやはり、主にみどりの話の聞き役に徹することを選んだ。態々彼女の複雑な事情を掘り起こして、一々それらの詳細を知らされて、以前以上に混乱させられたくなかったからだ。
 ところが、今日のみどりの話の主題らしきものは、まったく思いも掛けていなかった、ぼくの意表を完全に突いたものだった。
﹁純さん、お仕事、確か、グラフィック・デザインとか、だったわね?」
﹁ああ、うん」
﹁あのね、お願いがあるのよ。デザインをお願いしたいの。わたし、離婚を決意したときから、一人で出来るお仕事を旦那に内緒で準備してたの。それで今年、別居中に密かに開業してたのね……あ、そういうことは今はいいわね……うーんと……なんだっけ?……あ、そう! お店の案内用のポスト・カードを作りたいの。そのデザインを純さんにお願いしたいのよ……引き受けてくれるわよね? 勿論、ちゃんとギャランティはお支払いするわよ。それとも、わたしからのお仕事なんて嫌?」
 不意を突かれた、予想外、且つ、唐突な仕事の依頼だった。
 そして、みどりの手口は変わっていなかった。相手が返事を断れないように、巧みに自らの懐に誘い込むのだった。それは無意識の成せる技とも言えるものだった。
 みどりの起した新規事業とは、高級オーガニック・コスメティックスの輸入販売業だった。彼女は独自のルートで、それらをヨーロッパから輸入販売する商売を始めていたのだった。それらの商品の効能については、男のぼくには詳しくは解らない。ただ、それらが日本では入手困難な大変珍しい商品であり、消耗品にも関わらず、驚くべき非常に高価な品々であるのだということだけは、彼女の熱心な説明により理解できた。所謂、海外セレブの中でも有数のハイ・ソサイエティたちへの御用達品という、高品質な商品である。みどりは、どういう手腕なのか、そのブランドの日本での独占販売権を獲得したのだという。そしてそれらを口コミを元に、先ずは彼女の友人知人への手売りと通信販売を手始めにして、商品の評価の様子を伺いながら営業開始していた。簡易的に現在のみどりの独身新居――自宅兼事務所――を仮の会社の所在地にしてスタートさせたらしい。
 現状として、みどりが営業のために用意していた広告販促物は、墨インク刷りの極シンプルな一般的な名刺だけだった。取り扱う品物が品物なだけに、個人的な信用をベースに顧客さえ掴めば、用意するものはそれだけでも営業活動的には支障はない商売が可能な商品群だったとも言える。彼女の遣り方は実利的で手堅かった。また、彼女自身がそれらの商品のヘヴィ・ユーザーであり、使用者モニター代表者の一人でもあった。それは、それらの女性向けの特定商品に対して高い関心を持つ消費者への訴求として、また販売促進効果としても十分通用することだろう。
 取扱品の説明と、みどりの経営者としての状況を聞いたぼくは、先ずは、高級ブランド品の取扱店らしく見せる整った会社のロゴを作って、自社のCIイメージを確固たるものにし、それを基にした販促物や案内資料、広告物を製作するべきである、と、彼女にアドヴァイスした。みどりは﹁そうそう、それよ!」と応えつつも、肝心な細かい詰めのところになると、﹁わたし、難しいことは解らないから、純さんに任すわ」と、安易にぼくに投げて逃げた。
 ――﹁でも、大変よ。経済的に。本当に大変。女独りって」と、みどりが言っていたことの中身は、つまりはこのことだったようだった。それは、一般庶民的な経済観念とはやはり少しズレたところに在るようだった。
 何を以てして人生の幸と不幸を分けるかは、それは本人の主観に依る。他人の目には幸せそうにに見えていても、本人にとっては不幸な人生なのかもしれないし、その逆もまたあるだろう。或いは、そのような幸福感を以てして計ること自体を受け入れない人生観で生きている人も居るだろう。みどりもまた、そんな在りきたりな人生観の物差しは、既に遠い過去に捨て去って生きてきた人なのかもしれない。一般的な人生観そのものが彼女の中にはそもそも存在していないのかもしれない。ただ生きてきた。彼女なりに。一人の生身の女として。もしもそうだとして、それ自体、ぼくも含めて他の何者もが否定することはできない。それが彼女自身の人生である以上。ぼくは、みどりを不憫に思った。それは同情かも知れなかった。
 結局、﹁友人として実費のみで請け負う」という条件で、彼女の取扱品の広告宣伝グラフィック・デザインを担当することだけは、渋々、了承したのだった。そしてぼくは、あの鴻池という男のことをみどりに訊きそびれた。



﹁……それで、高飛車屋改め、……高菱屋だっけ?」
 ぼくの隣でリカが訊いた。
﹁ああ、……高菱屋だね」
﹁あの、高菱屋のおじさんの件はどうなったの?」
﹁どうもこうも……どうにもなってないよ。みどりにも訊けず仕舞いのままだし」
﹁純ちゃんに会いには来てないの?」
﹁あのオヤジが、かい?」
﹁そう」
﹁姿は見せてないね」
﹁着けられたりしてない? 純ちゃんが気づいてないだけで」
﹁常にそんなこと、気に掛けてはいられないけど、……ないと思うな」
﹁家にも?」
﹁待ち伏せか……来てないと思うけどね……」
﹁今、外で見張ってたり」
﹁そんなの、気味悪いじゃないか」
﹁わたしたちの営みも監視されてたり」
﹁まさか……」
﹁そうよね、まさか、ね」
 リカは笑って見せた。
﹁だいたい本来、あのオヤジに付け回されるほど、以前も今も、ぼくはみどりとは深いつきあいじゃない。そこんとこは、あのオヤジとしても、もう調べが着いてるんじゃないかな?」
﹁興信所に調べさせた、とか?」
﹁うん、その可能性はあるかもな」
﹁なるほどー……あ! オヤジが実は探偵とか」
﹁うむ、その可能性も無きにしも非ず、だな」
﹁もし、そうだとすると、あんまり優秀な探偵さんとは言えそうにはないわよね」
﹁だな。かなり間が抜けてると言うか。けど、どうやら、そんなに危ないことにはならなさそうだよ。少なくとも、ぼくには、ね」
﹁……それならいいけど」
﹁うん」

 そろそろ、リカと一緒に住んで暮らしてもいいかもしれない、と、ぼくは考え始めていた。ただ、これまでのリカとの良好な環境に変化が必要なものか、との思いもあり、考え倦ねていた。なので、このぼくの思惑は未だリカには話していない。何れにせよ、リカ次第でいいかな、と思っていた。ぼくの優柔不断さは相変わらずだった。
 謎の男――鴻池――は、また再びぼくの前に現れそうでいて、しかし、あの﹃高飛車屋事件』以降、一度も未だ姿を現さなかった。鴻池については、みどりにも直接訊きそびれたままでいた。あれ以来、ぼくの身辺に特に何ら変化は起っていなかったことから、鴻池が危険人物であるような懸念は次第にぼくの中からも薄れつつあった。あの件はもう捨て置いてよい事案かもしれないな、とも思い始めていた。



 その後、成り行き上再開したみどりとのつきあいは、殆どが彼女のビジネス上のサポート的なものになった。
 仕事は引き受けたとは言え、みどりがぼくのことを事業主たる彼女のビジネス・パートナー視して、その位置関係を固定化されるようになることは、当初からなんとしても避けたかったし、また、みどりがぼくの正規のビジネス上のクライアントとなることの、そのどちらも同時に避けたかった。あくまで友人の一人としての立場の好意として、ぼくの仕事の専門的分野を活かしてサポートする、という形でなら、ということにぼくは拘った。要するに、みどりが今後起すかもしれない面倒事にぼくが深く関わることになってしまうようなこと――というか、彼女を中心としたサークルから逃がれられなくなること――は、是が非でも回避したかったからだ。特に金絡みとなれば、それは尚更のことだった。
 けれど存外、この一連のみどり関係の仕事はその後スムースに進んだ。みどりとは主に昼間にカフェで待ち合わせ、そのときどきで彼女から必要な資料を貰い、その場で即席の打ち合わせした。細かな確認は予めeメールで遣り取りし、ぼくは最終カンプを製作すると、またカフェで会って、それらを彼女に見せて後、直接、彼女の最終判断を貰った。通常のクライアントとの折衝のように余計なプレゼンテーションをする必要も、煮え切らない先方の最終判断を待って、無駄に時間を消費して作業が頓挫することも、一方的で理不尽な厳しい締め切りに追われることもなかった。その分、こちらの空き時間を利用して作業を進めればよかったので、好意から友人の助けをしているのだと思えば、実費精算であっても、こちらとしては経済的にも何ら問題はなかった。それはまた、デザイナーであるぼくの自由裁量が大幅に許されている分、仕事としては中々おもしろいものだったし、主にみどりが実務的な殆どのパートをぼくに丸投げだったことで、ほぼこちらの独断で作業を進行させられたことが功を奏し、手早く仕事を仕上げることができた。みどりはそれらの結果について、一切文句を付けなかった。
 最初の出逢い後の一連のチャットでの遣り取りでみどりが見せ続けた、あの悪態の数々がトラウマになっていたぼくからすれば、再会後は、拍子抜けするくらい、彼女がぼくに見せる態度から悪性は感じられなかった。やはり、離婚はみどりにとって大きな転機だったのだろうし、続けて新規事業を興したことも、人生を遣り直す好機を逃さないための英断だったのかもしれなかった。

 こうして、再会後のみどりのビジネスを通したぼくと彼女との関係は、意外にも良好なものと成り始めていた。極一般的に見て。それは、新規事業の業務にみどり自身が日々追われていたためでもある。﹁女手一つでやってくのって大変なのよ!」が、いつしか彼女の口癖になっていた。
 ぼくは、仕事繋がりで懇意にしていたWebデザイナーを紹介して、そのデザイナーの彼女――女性だ――がみどりの会社のホームページをデザイン構築した。事案が彼女の事業関連の範囲だけに留めて言えば、みどりはまったくクレーマーではなかった。それは辛うじて、ぼくの業務上のメンツを立てようとしてくれていたからなのかもしれないが、どちらかと言えば、自身の事業をスムースに運営したかったためだろう。
 仕事の実務に対する彼女の立場とその姿勢は極めて合理的で、実利主義に徹していた。それは、気持ちの善さを感じるくらい線引きがはっきりしていて、そこには曖昧さが感じられなかった。当初は意外な驚きではあったものの、我が侭で、他人に対しては極端なまでに無慈悲な、あの性向だけがみどりのすべてではなかった。
﹁純さん、ウチの売り子さんになる? 勿論、営業マージン払うわよ。大丈夫。商品説明はみっちりあたしがマンツーマンで教えたげるから」と、冗談めかしてぼくに言っていたが、それは、満更冗談でもないようだった。
 みどりとのeメールとチャットでの遣り取りから察するに、おそらくはそんな具合に、みどりは人伝いに紹介に紹介を重ねての販路拡充に大層熱心だった。そうやって、口八丁、手八丁で引っ掛かる物は根刮ぎ攫って、金の匂いのする人間と、自分の役に立つ人間だけをその中から選り分けていた。そういった彼女の姿勢は、拝金主義的な、卑しくも軽薄な女の典型的な遣り口にぼくの目には映った。それに、やはり女性らしく、表と裏の顔の使い分けにみどりは長けていた。金を掬い取るためには、例え自分の嫌な相手に対しても、みどりは仮面を被って平気で対応した。そしてときどき、それらの過程で生まれる齟齬や軋轢から生じた憤懣の幾つかを、チャットを通してぼくに当てては愚痴り、その度にぼくはやはり少々気分を害して憂鬱な気分になった。
 正直、ぼくはそんな彼女を浅ましく感じた。確かに、世の中は奇麗ごとだけでは渡ってはいけない。それは逞しくも独り立ちして生き抜こうとする、自立した女性の姿には違いない。特に、みどりの言う、女手一つで生き抜いていくには。ただ、ぼく個人の気持ちとしては、できることならそんな彼女の姿は見たくはなかった。けれど一方では、そんなみどりの二面性を身近に見確かめることで、ぼくのみどりに対する距離感は冷静さを持って、一定のディスタンスを保つことができたとも言えると思う。それによって、みどりに対して不必要な感情移入をせずに済んだからだ。ぼくはそんな自分のバランス感覚に満足していたし、もし、それができなければ、みどりとの関係は再度ご破算にするべきだと、内心腹積りしてはいた。
 あの求婚の投げ掛け以降、以前のように、ぼくに対して特別な感情があるかのような言動もなくなっていた。と言っても、それは、みどり本人と直接顔を合わせることが滅多になくなっていたからであったかもしれない。何せ、離婚成立後のみどりのプライオリティは、自身の起した事業の安定経営化が最優先だったのだと思う。それ故、彼女とぼくの遣り取り自体がビジネス上の打ち合わせと確認へとシフトしていたし、それらは殆どeメールを介したものになっていた。
 それでもときどき、いつもの愚痴と意味不明の様子伺いの短文が、送信者みどりからぼくの受信箱に入っていることがあった。
[受信]﹁客から全部返品! なんで⁈ 意味わかんない!」
[受信]﹁頭痛くて寝れないの。起きてる?」
[受信]﹁純さん、元気してる?」
 みどりのeメールでの文語的表現力には、その主体たる、みどり自身のチャームポイントはまったく反映されていなかった。はっきり言って、彼女自身――つまり、実物のみどりを目の前にさえしなければ――みどりという女は、なんの人間的魅力一つ見出すことができない女だった。
 みどりとは、そんな具合の、約一年のつきあいが続いた。彼女と関わっているにしては波風の立つことの少ない、極めて平穏な一年だったと言えるのかもしれない。

 ぼくはみどりの前夫を知らない。彼が一体どんな人物であったのか、また、二人が過去、どういう出逢いを経て、如何なる結婚生活を続けていたのか――みどりは、夫からドメスティック・ヴァイオレンスを受けていた、と言ったが――おそらくそれは未婚のぼくが想像するところの、極一般的な結婚生活的な家庭での有り様とは大きく異なるものだったのかもしれない。そう仮定しないと、みどりの身辺はあまりにも腑に落ちないことだらけなのだ。
 その辺りのみどりの込み入った事情の詳細をぼくが情報として未だに持ち得ていないのは、これまで敢えてこちらからは本人に訊かないようにしていたからではある。けれど、みどりとの関係が継続してきた今、ぼくは少し彼女のプライヴェートに立ち入って、それは積極的とまではいかないまでも、彼女への理解を試みた方が良いような気がしていた。そこに一抹の不安があるにせよ。
 その内容があまりにも奇譚過ぎて、現実の話として受け取り難かったからか、忘れ掛けていた、以前にみどりが語った話をぼくは憶い出していた。過去に彼女と関わった人たちが、何人もこの世から居なくなっていったという、あの話を。



  Ⅵ 家ねずみ



 帰宅すると、智子はいつものように、ガレージの隅っこに自転車を止めた。
 片手で傘を差しながらであったとは言っても、雨の中を走ったせいで、お気に入りのSamantha Thavasaのバッグに濡れ染みができていた。
︵ああー、もおー!)智子は苛立って、溜め息をついた。
 途中、信号待ちで何度か後ろを振り向いたり、辺りを見回してみたが、あの男の姿は見つけられなかった。念のために家のガレージの敷地から通りに顔を出して付近を確認してみる。︵誰も居ない。オッケー……あ、そうだった!)と、智子は気づいて、ガレージの屋根の下でバッグのポケットからスマートフォンを出して、家に入る前に電話をした。何回かのコール音が鳴って、留守番電話に繋がった。
﹁あ、マリさん、レナです……えーと……無事に家に着きました。付けられてませんでした……と思います。とにかく、もう大丈夫だと思います……じゃ、ありがとうございました」
 智子は家人と近所の人の耳に聴こえないように、小声でうふ鉄のマリ嬢の留守番電話にメッセージを残しておいた。スマートフォンをバッグに仕舞うと、キーホルダーを手に持ってガレージから玄関口へと小走りに回った。ほんの少しの距離なのに、また雨に濡れる。

 智子の実家――乾家――では、家人が在宅中であれ、どんなときでも必ず、ドアは施錠されている。それが昔からの絶対の決まりごとだった。
 玄関扉を開けると、直ぐさま、いつもの騒がしく連続した物音が聴こえた。何者かが家の二階の廊下を走り回る足音だ。まるで特大のねずみでも走り回っているかのような、人に忙しない苛立ちを感じさせる物音だった。それは、もし極ふつうの一般的な家中であったなら、異常と識別される騒音に違いない。しかし、智子の家では日常茶飯事の、家人皆が耳慣れした物音だった。
﹁ただいまー」
 智子は扉を閉めると、条件反射的にすぐに施錠した。
﹁あら、トモちゃん、どうしたの? バイト、もう終わったの?」
 智子の帰宅に気づいた母が廊下に顔を出して訊いた。母は台所で炊事をしていたところのようだった。揚げものの香ばしい匂いが廊下を伝って玄関先まで届いていた。
﹁え……うん。ちょっとしんどくなって、早や引きさせてもらったの」
︵しまった、お母さんに言い訳考えてなかった)と、咄嗟に、仮病を装うことにしてまって、実はお腹がペコペコだった智子は︵しくった!)と後悔したが、急いで洗面所に向かい、棚のタオルを取り出して、自分の身体よりも先にそれで雨で濡れたバッグをせっせと拭いながら、母に対する口実を頭の中でサクサク取り纏めた。
 また二階の床を駆け回る大きな物音がする。
﹁そうなの? 大丈夫?」
 廊下の向こうの方から母が訊く。
﹁う、うん。……ちょっと貧血気味でしんどくなっただけ。今夜は早く寝るから」
︵えーい、ついでだ)バッグを拭ったタオルで、智子は濡れた自分の脚も拭いた。
﹁そう……トモちゃん、ご飯、どうするの?」
﹁先に少し横になって休んで、後で食べるー」
 今度は階段を大袈裟に降りてくる足音だった。階段のステップを不用意に軋ませる大きな音が、降りて来ようとしている人の神経がそこにまったく傾中されていないことを証明していたが、智子も母もそれには特に気を留めることはなく、平然と言葉を交わしている。
﹁じゃぁ、作って置いとくわよ。トモちゃんの好きな鶏の唐揚げとサラダだから」
﹁あ……うん」
︵えー、ショック! 今、揚げたての、熱々のを食べたかった!)と、智子は内心、後悔頻りだったが、体調不良を理由にしてしまった以上、このまま適当に仮病を演じ通さねばならない。
 廊下で母と出会したところへ、二階から降りて来たあっくんが二人の間に割って入って、傾れ込んできた。
﹁あー、おねーさん、おねーさん、かえったー、おねーさん、おねーさん……」
﹁はいはい、あっくん、ただいま……ちょっとー、あっくん……雨に濡れてるからー、抱きつかないのー!」
﹁おねーさん、おねーさん、あめ? あめぬれう? わはは、わはは、わはは……」
﹁これ、あっくん! ……トモちゃん、傘持ってなかったの? 濡れてるじゃないの。先にお風呂にしたら?」と、母があっくんの背中越しに、こちらに向けて顔を出して言った。
﹁あはは、あはは、あはは……おねーさん、おふお、おふお……」
 あっくんが過度に斜視な両目を見開いて、智子に戯れる。
﹁ううん、いい。先に少し横になりたいから」
﹁そう。……これ、あっくん! ……おねーさん、しんどいって、放してあげて。ほら……あっくん、濡れてるから」
 母があっくんを制して、目で合図をしてくれた。
﹁おねーさん、おふお、わははははは、ぎゃはははははは……」
 あっくんを母が抱き寄せている間に、智子は二階へ上がり、自室に入ってドアのロックを掛けた。部屋の湿気を帯びた空気が蒸し暑くて気持ち悪かった。智子は直ぐにクーラーのスイッチを入れて除湿運転させた。
﹁ふぅー……」
 智子は全身を脱力させて溜め息をつくと、バッグを床に置いて、ベッドに俯せに倒れた。掛け布団が熱を帯びて膨らんでいた。

 あっくん︵淳)は、智子の年子の実弟だ。彼は生まれつき、重度の脳性麻痺の発達障害児だった。両親の方針で、あっくんは養護施設には預けられることなく、殆ど、この実家の中だけで育った。あっくんは重度の能動的発達障害だったので、智子にとってはこのような騒がしい毎日が彼女の当たり前の日常として慣れたことであったし、そのようにして今日まであっくんと共にこの家で育った。
 あっくんが静かに過ごしていてくれることは、彼が眠りに着いている時間を除けば、殆ど皆無と言ってよかった。彼は家中をひっきりなしに歩き、走り回り、泣き、喚き、叫び、転げ回り、涎を垂らしながら家人に抱きつき、床を転げて這い回る。あっくんがそうすることに論理的な理由はなかった。こんな毎日がずっと十八年続いてきたのだった。だから当然、智子は慣れっこだった。従って、智子の実家ではすべてがあっくんを中心にして回っていた。家族全員が分担して、あっくんの面倒を見ること――決して、彼の監視を怠らないこと――が、常に乾家の最優先事項であり、無言の約束事だった。
 それでも、両親は智子を大学に上げてくれた。智子は特に母には感謝していた。それでいて、一方では、自分の境遇を深く怨んでもいた。智子は物心ついたときから、そんな自分の中にある二律背反の感情とずっと孤独に戦い続けていた。それは今も尚。しかし、最も精神的、及び、肉体的負担を背負っている母のことを思う度に、智子は自分の負担から逃れたい欲求を、何処か、心の奥底に仕舞い込むのだった。
 他者の無理解と偏見からの、差別と虐めの対象とされる苦しみも、智子は小学、中学、高校と、その辛酸はもう味わい尽くさせられていた。ご近所を含めた町内会は、乾家の特殊な事情に同情し、また、理解とそれなりの配慮はしてくれてはいたが、それはやはり、日常生活の社会的実情としては微妙なところだった。
 外で嫌なことがあると、智子は家に籠るのは苦痛だった。かと言って、他の何処にも逃げ込むところはなかった。そうして、あっくんの居る毎日をこの家で続けていくしかなかった。恋愛? 結婚? 智子にとって、そんな世間では当たり前な希望は、とっくの昔にサンタ・クロースのプレゼントと一緒に永久にゴミ箱に捨て去っていた。両親が亡くなった後もわたしが引き継いで、あっくんの面倒を最期まで見るために生まれてきたんだ、と。しかし、智子はあっくんが居なければいいと思ったことは一度たりともなかった。両親と同じく、あっくんを愛おしく思っていたし、彼はたった一人の智子の実の弟だった。ただ、あっくんの中の時計は、彼がこの世に産まれたときに、何故かピタリと動きを止め、現実に彼が幾ら歳を重ねても、時間はそのときのままにずっと、あっくんと共に在った。

 階下の廊下をあっくんが走り回っていた。まるで、床を足で踏み叩いて鳴らしているみたいな大きな音だ。
 智子は起き上がって、クローゼットの引き出しからタオルを出すと、もう一度、丹念に軀と服を拭いた。部屋着に着替えようと、Tシャツとコットンのショートパンツを出して、濡れた服を脱いだ。ショートパンツを穿こうとしたとき、脚の付け根の内股のところが赤く腫れているのに智子は気づいた。その途端に、ほんの小一時間ほど前にうふ鉄で起った出来事が憶い出された。
 智子はそのミミズ腫れになったところを触ってみた。少し熱かった。帰りに自転車を漕いでいたときに、やはり、少し股間に違和感を感じていたので、少し不安になった智子は、ベッドに座ってショーツを脱いでみた。
 そうっと脚を開いて、自分のヴァギナを見てみる。やっぱり、脚の付け根の内股のところと恥丘の周辺に、軽い擦過傷のような赤く腫れた痕が遺っていた。そこには、あの男のゴツくざらついた手の感触も、まだ在り在りと貼り付いていた。時間が経ってからこうしてちゃんと確認してみると、なんとなく、何本かの陰毛の毛根のところどころがヒリヒリしてきて、痛みが蘇ってきた。
﹁ぎゃはは、あはは、あはは、おかーさん、おかーさん……」
 あっくんが下で叫んでいる。
 よく見ると、ラビアとクリトリスも少し赤くなって腫れ上がっている気がする。触ってみる……やはり、少し熱い。そこにも男のあの手の感触が遺っている。あの男のざらついた手の感触が蘇ってくる。すると、患部の神経が目覚めたように、更に熱を帯びてきた気がした。智子は自分の身体の感覚の変化に驚いた。
 念のために、両手でラビアを開いてみた。でも、そうして前屈しても、見えるのは入り口の付近のところだけで、その先の奥までは到底目視で確認はできない。智子は更に腰を曲げながら前屈姿勢して、自分のヴァギナを覗き込んでまじまじと見た。そこは赤くぬめって艶めいていたけれど、出血はないようだった。何故だか、ちょっと胸がドキドキしてきた。透明の液体が中から少し溢れ出してくるのが分った。それを指先で掬うと、光って伸びて糸を引いた。智子はその濡れた指先を舐めてみた。プレーン・ヨーグルトみたいな酸っぱい匂いがして、少しだけ甘い味がした。鉄錆臭のする、あの血液の味はしなかった。
 下であっくんが何度も廊下を往復して走り回っている。床の打音と、板の軋む音が連続して家中に響く。
 智子はヴァギナに中指を入れてみた。ぬるっとした感触に包まれて、指はあまり抵抗なく、その奥へと入った。やはり熱い。いつもとなんか違う……と智子は感じた。何故だか、胸がドキドキする。中指をヴァギナの内壁に沿わして、痛みを感じるか、直に確かめてみる。ぬめぬめした感触とざらざらした感触が混じり合った、いつもの粘膜の不思議な触感だった。特に痛みはなかった。
 不意に手の平がクリトリスを擦ったとき、智子の軀は無意識に反応して、ピクンと動いた。なんだか、いつもより敏感になってる……と、智子は思った。ヴァギナから出した中指は、透明のぬめりを帯びて濡れていた。そのままクリトリスに触れると、軀の芯を先の丸められた針で突き刺すような鋭敏な快感が走った。
﹁おかーさん、ごはん、ごはん、ぎゃは、うぁは、うぁは……」
 階下でのあっくんの叫び声が、ドアの隙間から漏れ聴こえる。
 智子はベッドに埋まって、いつしか、自らの指をヴァギナに彷徨わせていた。嗚咽が漏れる。自ら口を枕に押し付けて、それを抑える。しかし、それに反して、指の動きは激しさを増すのだった。指が当たって、対のラビアが閉じたり開いたりを繰り返して立てるピチャピチャと鳴る音を聴きながら、それで感じてしまう自分のいやらしさが嫌になる。かといって、自制は叶わず、智子は指の動きを止められなかった。蚊に刺されたところを指先で掻き続ける続けるみたいに。痛感よりも快感のほうが遥かに勝っているのだ。
 一階の廊下の床は、まるであっくんの太鼓みたいに物音が鳴り響き、それが一向に鳴り止まない。
 今や、中指と薬指は、智子自身の手ではないかのように、ヴァギナの中の、或るポイントを執拗に責め立てていた。独りでに腰が浮く。益々、激しくヴァギナの中を指が出入りを繰り返す。胸の鼓動が高まり、吐息が粗くなる。下半身が弛緩しては緊張を繰り返す。
︵あー! ダメ! ムリムリムリムリ! これ以上、ムリー!)
 ヴァギナの中の粘膜に触れる指の触感が、急にザラッとした感触に変化したのを智子は感じた。すると、尿道辺りに猛烈にくすぐったい感覚が湧き起こったかと思うと、一瞬、股関節の筋肉が緩んで、智子は迸らせていた。それは、細い一筋の飛沫となって、勢い良く足先まで飛んだ。ヴァギナを震源として下肢を独りでにヒクヒクと小刻みに痙攣させながら、智子は果ててしまった。
﹁おねーさんは? おねーさんおふお? ……おかーさん、おかーさん! ……」
 あっくんが下で大きな声を上げている。
 智子はそれから暫く、ベッドの上で脱力して仰向けに放心していた。
︵わたし、なんでこんなことしちゃったんだろ? ……)
 柔ら上半身から起き上がった。すると、なんだかこれまで感じたことのない、下腹部が張った感覚に襲われた。智子はおならかと思った。でも、直腸辺りにはガス溜まりのような圧迫感はない。便意っぽい感覚もない。違う、それはヴァギナの中だと、すぐに気づいた。︵激し過ぎて、空気入っちゃったのかも?)と、智子は安易に考えた。なので、敢えて下腹部に力を入れて力んでみた。その圧迫感は徐々にヴァギナの中から開口部へと向かっているようだった。痛みはまったく感じなかった。そしてその源は、ゆっくりと外へ向かって出始めていた。智子は脚を大きく開き、片手で下腹を押さえつつ力みながら前屈して、両脚の間を見詰めた。
︵ええっ⁈)
 それは、丸い何かだった。丸くて、透明に近い光る何かだ。その何かが、光を帯びながら、徐々に智子の薄い両側のラビアに包まれるように、今、その形を現しつつあった。智子はもう力む必要はなかった。それは何の力も必要とせずに、自然にヴァギナから産まれ出ようとしていた。智子は自分の体内で何が起っているのか、ただ混乱して、事態がまったく把握できなかった。
 そして、智子の混乱と動揺が収まらぬままに、遂にそれは智子のヴァギナからプルンと震えて出て、そのまま両脚の間の空中に浮かんだ。それは玉だった。シャボン玉みたいに表面が濡れて、部屋の灯りを反射しながら、宙に浮かんだ。その玉の大きさは、ゴルフボールよりは大きく、テニスボールよりは小さかった。玉は、まるでそれ自身に意思があるかのように、ふんわりと宙に浮かびながらゆっくりと上昇し、ベッドの上に座った智子の、だいたい、顔の高さのところで止まって浮遊している。
 智子は口をあんぐりと開けて、ただ驚いていた。
︵な……何これ……)
 階下の部屋の到る処で、まるで捕り物騒ぎでも起っているような、激しい物音とその振動が、家屋の柱や壁を伝わって、それが二階の智子の部屋にも伝わってくる。
﹁これ! あっくんダメよ!」母の大声がくぐもって伝わり聴こえる。しかし今や、そんな、あっくんが家の中で騒いで走り回る足音さえ、智子の耳にはまったく聴こえていなかった。
 一見、シャボン玉のように見えるその玉は、目を凝らして見れば、中身が空洞の、あのシャボン玉とは違った、また別の何かだった。つまり、玉の中に何かが詰まっているように智子には見えた。そして、その中身は僅かに動いていて、そう、それは地球全体の、あの気象映像をその中に閉じ込めたみたいに、雲か何かが渦巻いて蠢いているようにも見えるし、内部から微かに電光を発しているようにも見えた。音はなにもしなかった。それは驚きと同時に、あまりにも異様ではあるが、目を奪われる美しさを持った物体だった。
︵わたし、あんなことがあったから、気が動転して、どうかしてるんだ……絶対、そうだ……)
 智子はそう思ってみた。これは幻影に違いない、と。しかし、玉は、確かに智子の目の前で静かに浮遊をし続けていた。智子はその玉に触れようと、恐る恐る手を伸ばした。それは無意識の衝動だった。
 智子の手が、玉へとゆっくりと伸びた。そして、もう少しで指先が触れようとしたところだった。玉は、その外郭から塵になるかのように、その形を急速に失い始めた。まるで、その中心に在る、小さな点のようなブラックホールにすべてが吸い取られてゆくように。そして、あっと言う間に全体が縮んで、すべてすっかり消えて、形を失せてしまった。それは、本当に一瞬のことだった。智子は、玉が浮かんでいた辺りを手で掬い取るようにしてみたが、手には何も当たる感触がなかった。もう、その空間には何の実体も無かった。部屋全体を見渡してもみた。しかし、部屋には、あの玉の陰も形も、その所在を見つけ出すことができなかった。やはり、智子は幻を見たのかもしれなかった。
 今、自分の身に起ったことが一体何だったのか、まったく理解できないまま、智子はベッドの上に膝を突いて、ただ放心していた。
︵はっ!)と思って、智子は再びヴァギナを見てみた。
 さっきまで在った筈の、あの、赤く腫れ上がった痕はきれいに消えて無くなっていた。もう一度、恐る恐るヴァギナに指も入れてみた。何ともない。膝を突いて脚を広げ、更にもう一度、念を入れて中を湛然に指先で触ってみる。何ともない。痛みも無い。圧迫感もない。指を出して見てみる……血も着いてない。
 智子は﹁あっ!」と声を上げた。
︵あの男が言ってたんだ!)――﹁玉出せ、玉ださんかい……」
 階下では、あっくんがいつものように自由に暴れ回り続けていた。それは、まるで、人間サイズのねずみが走り回っているみたいな、激しく騒がしい物音だった。あっくんは、あっくん以外の誰にも見ることができない、大猫にでも追い回されているのかもしれなかった。



  Ⅶ 占い師



﹃純さん、最近はめっきりお店に顔を見せてもらえなくなりましたが、お元気にされてますか? ご健勝でしたら良いのですが。実は折り入ってご相談があるので、お会いできないでしょうか?』
 長谷川美輪から、スマートフォンに誘いのeメールが届いたのは、まるで地軸がズレて、日本本州の緯経度が亜熱帯地方にシフトしてしまったかのような、連日連夜、蒸し暑かった夏がやっと終わりそうな、八月の終わり頃だった。そう言えば、あれ以降、行き着けだった、美輪が店長を務めるカフェからは足が遠退いたまま、半年以上が経とうとしていた。
 元々、ぼくの日常的な行動範囲からすると、美輪の居るカフェは立地的に少々面倒な場所に在った。それでも、コーヒーのたった一、二杯の微々たる売り上げであれ、同じ金を落とすのなら知り合いの勤める店で落としたいという、ちっぽけな義理立て根性半分から通い始めたものだった。
 美輪とのつきあいは、早いもので、もう五ー六年にはなるだろうか。ぼくの仕事上の先輩に当たる人が経営するインテリア・デザイン事務所で一時期、美輪がアシスタントとしてアルバイト勤務していたときからだった。彼女は当時芸大生で、その素直で明るく、些細な他人ごとに頓着しないさっぱりした性格から、職場でもプライヴェートでも、誰からも好かれる存在だった。年頃の割には頼りないところがなく、仕事も卒なくこなせていたから、事務所側は彼女の卒業後の正社員採用を条件に、彼女に退社を考え直すよう勧めたが、美輪は自らカフェ経営起業する夢を実現するために、より実利的なカフェ営業の実務修行を開始することを決心したのだった。そして、彼女はそのデザイン事務所のアシスタントを辞めて、現在勤めるカフェの雇われ店長になった。将来のカフェ起業を目指して、あくまで自分なりに地道に歩もうとする美輪の直向きさに、ぼくは清々しさを感じ、陰ながら、彼女を応援し続けるつもりでもいたのだった。
 そんな、それほど親密ではないつきあいであれ、或る日から突然、知り合いの常連客がまったく店に顔を見せなくなるというのは、きっと、少しばかり淋しいものだろう。それに、美輪は少なからず、ぼくのことを心配もしてくれていたようだった。彼女なりに敢えて、遠巻きにぼくのことを気遣ってくれていたのかもしれない。そういう美輪の心遣いを思うと、美輪に対する自分の不義理に少々大人げなさを感じて、ちょっとばかり、美輪に申し訳なく思った。なので、彼女からの相談ならば無下にはできないと思った。
 みどりとのつきあいも済し崩しで既に再開していたことだし、ぼくが美輪のカフェに行けない理由はもうなかった。それに、そもそものみどりとの関わりは、美輪を介して、あのカフェから始まったものだった。この際、みどりの身辺についても、逆に美輪から聞き出してもよい頃合いかもしれない。美輪の店でみどりと鉢合わせしてしまう可能性はあったが、それも、もう気にする必要はなかった。こちらは店長たる美輪に呼び出されているのだし。
 ぼくは美輪と、彼女の勤めるカフェで久しぶりに会う約束をした。



 美輪の勤めるカフェに向かう道すがら、夕刻の見慣れた街並を眺めていたら、近頃、陽が落ちるのが急に早くなった気がした。そして、少しばかり空気が澄んで、目に映る景色が幾分クリアーに見えるような気がする。ギラギラした夏の太陽が支配した季節は確かに終わり始めていた。年々、季節の変わり目が曖昧になってきてはいるけれど、確かに、それは進んでゆく。
 ドアを開けると、店内は香ばしいコーヒーの香りと心地好いブラジル音楽で満たされていた。BGMは、Cartolaのアルバムだった。――サウダージ――Cartolaの侘しくも暖かみのある歌声は、今のぼくの気分に凄く馴染む気がした。美輪は、彼女の夢の実現のために、それが少しずつではあっても着実に、しかし貪欲に、成長のために必要とする様々な養分を積極的に自らに取り込んで吸収しているのが分った。なんだか、嬉しかった。
﹁純さん、お久しぶりです。お元気そうですね! 突然、お呼び立てしてすいませんでした。お時間、問題なかったですか?」
 久しぶりに見た美輪は、少し逞しくなった気がした。
﹁うん、大丈夫。こちらこそ、顔見せないで悪かったね。ちょっと、仕事やら何やらで、立て込んでしまったもんだから」と、ぼくは適当な言い訳をした。
﹁お仕事がお忙しかったんですね、それは仕方ないです。また、これからもお暇なときはいらしてくださいよ……てか、あともう少しの間か……」と言って、美輪はほくそ笑んだ。
﹁うん?」
﹁いえ、それで、今の話しの流れで、そのまま、ご相談なんですけど、……実はわたし、やっと自分のお店が持てることになったんです」
﹁おう、いよいよか!」
﹁あ、はい、ありがとうございます。それで、お店のロゴとか、印刷物とか、平面デザイン全般を、純さんに是非、お願いしたいと思って」
 なるほど、やはり、そういう相談だったか、とぼくは納得した。
﹁勿論、そういうことなら、喜んで受けさせてもらうよ」
﹁よかった! 嬉しい!」
﹁あの……でも、あんまり予算、ないんですけど……」
﹁気にすることはない。実費も含めて、すべてぼくからのお祝いにさせてもらうよ」
﹁えー! いいんですか? ありがたいお申し出なんですけど……でも、それは幾らなんでも甘え過ぎです! せめて、実費はお支払いします」
﹁いいよ、甘えたら。だって、改装費とか、設備費とか、他にもお金は幾らでも掛かってしまうだろ?」
﹁そーなんですよー、流石、純さん、よくお察しで。ほんと、予算を計算してたら、もう大変で。実のところ、かなり当初の予算組みよりも、もう食み出してきてるんですよねー」
﹁だろ? そんなもんだと思うよ。自分のやりたいことを全部お店で形にしようとしたら、資金なんて、幾ら有っても足りなくなってしまうもんだよ」
﹁……なんですよねー。今、そこのところのせめぎ合い中で」
﹁内装の改装の方は、前の事務所経由で少しは楽になるんだろ?」
﹁はい、そっちの方は。相談したら、社長が」
﹁そうか。じゃ、まあ、美輪ちゃんは店舗改装に関しては、他の新規開業者よりもアドヴァンテージあるんだし、比較的、楽にスタートはできるじゃない」
﹁はい、お蔭さまで。やっぱり、みなさんに助けてもらわないと、わたしみたいな若輩者独りではできることが限られちゃいますよねー……あ、すいません、来られていきなりで」
﹁いや、おめでたい話なんだし、構わないよ」
﹁ありがとうございます。あ、わたし、今日は早番で、もう上がりなんで、ウチのメニューで良かったら、一緒にお食事しながら、続きをお話しさせていただけませんか?」
﹁うん、分った。そうしよう」
 そのまま、カウンター席で隣り合って食事しながら、軽くデザイン・コンセプトの打ち合わせをしよう、ということになった。
 ぼくは、Heinekenの生ビールとビーフシチューにパン、それと、トマトとほうれん草のサラダを頼んだ。美輪は今日の店のまかない用のキーマ・カレーと適当なサラダを食べながら、Cinzanoのドライにライムを絞ったものを飲んだ。ビーフシチューなんてものは、久しぶりに食べた気がしたけれど、それはとても美味しかった。
﹁よく考えたら、純さん、ウチでご飯されるの、初めてじゃなかったですか?」
﹁うっ……ほんとだね、失礼した」
﹁いつも、コーヒーだけだったから」
﹁……安い客で、しかも長居する客で、申し訳なかった」
﹁いえ、たとえコーヒー一杯でも、大切なお客さまですよ」
﹁これ、旨いよ……」と、ぼくは食べかけのビーフシチューを指差した。
 二人で笑った。
 美輪は、自分の店の具体的な企画書と事業計画書を持参していた。と言うか、彼女はいつもそれらを持ち歩いていたようだった。それは、美輪らしく丁寧で、湛然に細部まで具体的に、ラフ・スケッチのパースや、ロゴのデザインのラフ・イメージのヴァリエーションなども含めて、彼女が思い描いた店舗イメージの全体像が詳細、且つ、具体的に描き込まれて纏められたものだった。ぼくは美輪の堅実さぶりに改めて感心した。それと同時に、今日はみどりの件を切り出せそうになくなったな……と、ぼくは内心思った。流れ的に、かなり実務的に詳細な部分にまで話しの詰めが及んでしまいそうだったからだ。それでも、それらの大半は食事を終えた頃には纏まりつつあった。
 ところが、この夜の場面転換の切っかけは、或る珍客によってもたらされることになった。

 暫くして、ひょっこりと店に現れた女性客が、誰か顔見知りの客か、店のスタッフの顔を探すように、こちらの方を伺いながら店内を近づいて来た。その女性は旅行中なのか、機内持ち込みサイズよりも大きな派手なピンク色の樹脂製スーツケースの引手を重そうに軀の後ろ手に引いて転がしていた。
﹁いらっしゃいませ」
 女性客の来店に気づいた美輪が、その女性に声を掛けた。
﹁……あのー、店長さんは?」
﹁あ、わたしですが」
﹁えっ?」
﹁あ、はい……」
﹁え? いいえ、女の人と違うて……」
 その女性客は関西弁だった。
﹁?……」美輪が首を傾げる。
﹁あれ? わたし、お店間違うたんやろか……そんなことない筈やけど……」と、女性客は店内をきょろきょろと見回した。
 小柄だが端正な顔立ちをした、三十代後半くらいと思しきその女性は、薄いブルーのタイトスカートのスーツを着ていて、ちょっと派手目な保険外交員、或いは訪問販売員、といった感じだった。その手に引く、ショッキング・ピンク・カラーのトローリー・スーツケースを除けば。
﹁あ! ひょっとして、片山さんのことですか?」と、美輪が憶い出して言った。
﹁……そんな名前やったやろうかぁ……あ! 顎に、サッカー選手みたいなお洒落な髭生やしたひとで……」
﹁あ! やっぱり片山さんですね! このお店の先代の店長さんです。わたし、片山さんの後を継がせてもらったので」
﹁あら、そうでしたん⁈ で、その、前の店長さん……片山さんは?」
﹁ご実家で家業を継がれるとかで、もう大分前に、遠方のご実家に帰られたんですよー」
﹁あらー……そうなーん……それは残念やったわぁー……。いえ、わたし、あ、うらないの瑠璃子と言います。そう言うてもろうたら、わかりますねん。店長さん……いや、その、先代の片山さんね、以前、あー、もう大分前になるやろかー? 初めてここへお邪魔したときに、えらい気が合うてねー、それからも何回か通わせてもろうてたんですよー」
﹁あー、そうでしたかー。わたし、長谷川美輪と申します。あ、どうぞ、良かったら、お掛けになってください」と、美輪が自分の隣の席の空いていたストゥールへ、うらないの瑠璃子さんを誘った。
﹁あ、すんませーん。ほな、お言葉に甘えて」
 うらないの瑠璃子さんは、彼女のその話し振りだけを聞いていると、見た目年齢よりもずっと年配の女性のように感じられた。滑舌よろしく、しかも声も大きく、よく通る声質だった。それは、おそらくは関西の女性だけあって、口が立って、肝の座ったおばちゃん、という印象を否応なしに与えるのだったが、見た目とのギャップが大きく、――美人だった――その違和感がミックスされて、非常に個性的なキャラクターの、とても引き立った強烈な印象を与えた。瑠璃子さんが見せた、この一連の美輪との遣り取りを見ていただけで、彼女にはぼくの口元を思わず緩ませずにはいられない、独特のおかしみのある可愛らしい女性特有の愛嬌を感じさせた。美輪の表情を見ると、彼女もどうやら、まったく同じ好印象を瑠璃子さんに対して抱いたようだった。と言うか、誰もがこの女性に対して、同じ第一印象を抱かざるを得ないだろうとぼくは思った。
﹁いやん、わたし、何にしようかしらん……」
 瑠璃子さんは、カウンター席横のぼくの方に目を遣って軽く会釈すると、彼女は最も安直な選択肢で以てして、即座にオーダーを決定したようだった。
﹁あ、わたしもビールいただけますぅ」と、瑠璃子さんは美輪に告げた。
﹁……あらー、そうやったんですかー……。いえ、実はね……あー、あれは、わたしがまだ今の仕事に就く前やねー……いろいろ悩んでた頃やったんですよー……そんなときに、わたし、何でか知らんけど、偶々、歩いててこの店見つけて、何気なしにふらっとここに寄ってしもうて、そしたら、店長さん、あ、すんません、前の店長の片山さんね、あの人が相手してくれはって、えらい、気ぃ合うてー……いろいろ親身に聞いて慰めてくれはって……あらー、あの人、もう居はらへんのねー……そうー……」
 瑠璃子さんはとても残念そうな表情をして、その輪郭のはっきりした二重目蓋の奥の瞳を宙に泳がせた。
﹁そうだったんですかー、それは残念なことでした……」
 美輪が申し訳なさそうに瑠璃子さんを慰めた。
﹁もしかして、わざわざご旅行で来られたんですか?」と、美輪は、ストゥールの背後に置かれていた、瑠璃子さんのスーツケースに目を遣って訊いた。
﹁あ、これね。いえ、これは違うんですう。これは、わたしの商売道具やらが一杯詰まってますねん。今日は仕事帰りに寄ったもんやから」
﹁あー、そうだったんですね。あ、よろしければ、あちらにお預かりしておきますけれど」
﹁よろしい? そしたら、お願いしときます」
 美輪が瑠璃子さんのスーツケースを移動しに立った。ぼくと瑠璃子さんの顔が合った。
﹁あ、お客さん、喧しいことですんません。わたし、うらないの瑠璃子、言います。よろしく」と、瑠璃子さんはぼくに向かって、律儀に詫びながら挨拶をしてくれた。
﹁いえ、大丈夫です。本田純と言います。こちらこそ。……残念でしたね」
﹁ねー……ほんま……残念無念! ちゅーやつですわ。あ、常連さんですか?」
﹁ええ、まあ。あの美輪ちゃんの友人なんです」
﹁へー、あの店長さん、美輪さん、かいらしいて優しい、感じのええ女性やわー」
 ぼくは頷いて同意した。
 とても珍しい名字だな、と思った。それとも、﹃占い師の瑠璃子』とでもいう芸名だったりするのか。どう見ても占い師らしき――それがどんな衣装であるにせよ――風貌は彼女の姿からはまったく感じ取れなかった。やはり、どちらかと言えば、保険外交員とか、セールス・レディという感じがする。あのスーツケースの中身が商売道具という話しだったけれど、実際、彼女の業種は何なのだろう?
﹁ところで、ご職業は、……占い師さんだったり?」
 何のことは無い、戻ってきた美輪がズバリ、ぼくの疑問を代わりに打つけてくれた。
﹁そうですねん。でも、未だわたし、見習い中なんやけどね」と、瑠璃子さんは飄々と答えた。ぼくは思わず、その場につんのめりそうになったのを必死で抑えた。では、あのピンクのスーツケースには一体何が詰め込まれてるんだろう? と、その疑問の解明にも尚、興味をそそられたが、この場は万事、美輪に任せておくことにした。
﹁わー! 占い師さん!」美輪が感嘆する。
﹁わたし、ほんま、いろいろあってねー……それまでは、もう、いろいろバイトを転々としてましたわ。ホカ弁屋さんとか……そら、もう、苦労の連続で……」
﹁そうだったんですかー」
﹁それが偶々、今、お世話になってるイベント会社の社長さんと、飲み屋で出逢うてね、『あんた、占いやってみいひんか?』て誘われて。それで、ですねん。あの……ほれ、最近、占いブームで、女性に人気あるでしょー? ﹃占いの館』みたいなん……」
﹁あー、ありますね! わたしの友だちも、前に、行ったことあるって言ってました」
﹁そそ、ああいうのを企画してる会社の社長さんやったんですわ。その人が。それで、その会社には複数の占い師さんが所属してはってね……手相とか、水晶占いとか、四中推命とか、姓名判断とか、タロットとか……、ひとくちに占い、言うても、専門的には、いろいろありますやん? そんで、それぞれ得意分野ごとにね、専属占い師さんが居たはるんです」
﹁へー、占い師さんも、そういう会社に所属されてるんですね」
﹁そやね。なんちゅうか……ある意味、タレント事務所みたいなもんやわね。せやけど、わたしはまだ見習い中で、肝心の占いも、目下、勉強中ですねん。他の先輩の占い師さんらは、もう、お得意のお客さん持ってはって、コンスタントな稼ぎしたはるんやけど、そこまで行くには、それなりの修業せんとムリですねん。占い自体の勉強もそうやけど、やっぱり、商売やから、お客さんを自分の懐に引き込んで、心を掴む技術、言うんかね……勿論、シャベクリの話術も必要やし。そういうところは、もう本人の経験と力量次第なんですわー」
﹁なるほどー、そう言われれば、わかります」美輪が感心する。
﹁せやから、正直、今は未だ稼ぎ、いうほどの売り上げも実績もありませんねん。未熟やから、わたし。せやけど、一旦、お客さんさえ着いてくれはったら、勝ちですねん。そうやって、先輩方も成功したはるわけやしね。そこまで行けたら、占いだけで十分やっていけますねん。ただ、そこまでが日々猛勉強で、今、その最中ですわー。あのスーツケースの中も、常に占いの道具一式を詰め込んでありますねん」
 まだ話の途中らしかったが、そこまで話すと、占いの瑠璃子さんの視線がぼくの背後に動いた。
﹁どんなお仕事も、大変な部分はありますよねー」と、返しながら、瑠璃子さんの視線の動きに釣られた美輪が、振り向いて言った。
﹁あ、みどりさーん!」
 ぼくも、美輪のその呼び掛けに釣られて振り向くと、確かに、ぼくの後ろには、あのみどりが立っていた。
﹁こんばんわ。純さん、ここで会うの、久しぶりじゃない⁈」
 みどりはこちらに近づきながら、嬉しそうに微笑んでいたが、その言葉尻には、なんとなく嫌味があったような気がした。
﹁ほんとだね……」と、ぼくは返答をした。
﹁あ、みどりさん、ここへどうぞ。わたし、中に入りますから」と、美輪が席を立って、自分の居た席にみどりを案内すると、美輪はカウンタートップに広げていた書類を手早く片付けて、カウンターの向こう側へ移動した。美輪の今日の担当勤務時間は既に終わっていたものの、自分の顧客たちには、自ら責任を持ってもてなそうと配慮してのことだろう。
﹁いやん、ひょっとして、さっきまでお二人で何か、お仕事の打ち合わせとかしてはったんやろか? わたし、お邪魔してしもうたんちゃいます? つい、気いつかんと、自分のことばっかりペチャクチャ話してしもうて、すんません!」と、占いの瑠璃子さんが美輪の配慮を見て取って、気兼ねして見せた。
﹁いえいえ、用件は瑠璃子さんが来られるまでにもう済んでたんで、全然大丈夫ですよ。お気兼ねなく、ごゆっくり」
﹁問題ないですよ」と、ぼくも口を添える。
﹁そうでしたーん? ありがとうございます」
 占いの瑠璃子さんは、まったく憎めない人だった。
 三人のそんな遣り取りを余所に、みどりは、然も自分のために用意されていた特等席に座るかの如く、それが至極当然とでも主張するように、ぼくと占いの瑠璃子さんの間に割って入って、ストゥールに腰掛けた。
﹁美輪ちゃん、オーレ、してくれる?」と、みどりは澄まし顔で、背筋を伸ばしてカフェ・オ・レを頼んだ。それに応えて、カウンターの中では美輪が、﹁あ、わたしがやるから」と、小声でアルバイト・スタッフに伝えて、仕事に取り掛かった。
 我が物顔のみどりさまの登場に気圧されたか、占いの瑠璃子さんが心なしか遠慮がちにしていたのをぼくは感じた。なので、ぼくがみどりに瑠璃子さんを軽く紹介した。
﹁こちら、占いの瑠璃子さん。ここの先代の店長さんの頃の常連さんだったそうだよ」
﹁あ、すんません、お邪魔してます、占いの瑠璃子と言います。よろしく。……お綺麗な方やねー。ひょっとして、モデルさんとか、されてはります?」
﹁そんな、わたしみたいのがモデルになんてなれませんよ。第一、とっくにおばさんだし。ねー、純さん?」
 瑠璃子さんのみどりへの振りには、決してそこに嫌みの刺は含まれてはいなかったように感じた。少なくともぼくには。しかし、形ばかりに二人の間を取り持たねばならない雰囲気を感じた。
﹁瑠璃子さん、こちら、深山みどりさん。美輪ちゃんのお友だちで、ここの常連さんです」
﹁みどりです、よろしく」
 みどりは、ぼくに自分を紹介させておいて、まるで、この店での序列の自分の位置関係を、暗黙のうちに瑠璃子さんに刷り込ませたようだった。
﹁ほんま、綺麗なひとやわー。わたしも、みどりさんみたいなお顔に生まれたかったわー、ほんま!」
 瑠璃子さんは瑠璃子さんで、天然なのか、ヨイショなのか、そのどちらとも判断に迷う押し返しをする。このひとも苦労しいてるだけあって、それなりに遣り手なのかもしれない。
﹁そんな、わたしなんて、大したことないわよね? 純さん」
﹁……」
 何と言うか、見知らぬ初対面の女同士の接近遭遇というのは、こういう始まり様以外に、もっと平穏で友好的な手段を取れないものなのだろうか? それは、表面上の体裁的には平和的な遣り取りに見えはするものの、その実、お互いの出方次第、腹の探り合いというか、相手の品定めというか、自らの立ち位置、或いは、序列の順位取りが最優先事項というか、それらすべてが意識的なのか無意識的なのか、まったく、彼女らの目線は鋭くも露骨なのだ。どうも今夜は、これで完全に別の方向に場の雰囲気が変わってしまったな……と、ぼくは思った。微かな緊張感がカウンター席全体に薄い膜を作って覆っていた。
﹁せやけど、なんか、日本人離れした、外人さんみたいな雰囲気、持ったはりますよね? お肌の色も白いし……ねえ?」
 美輪とぼくに同意を求めながら、瑠璃子さんは、みどりの容姿にまだ興味津々のようだった。
﹁ああ……、わたし、ロシア人の血が混じってるらしいの」
﹁え、そうでしたん? それで、こんなお肌透き通るように白うて、お綺麗なんやね」
﹁さぁ、それはどうか分らないけど」
﹁やっぱり血やと思いますわー……いえ、実はわたし、在日二世ですねん……」
 一瞬、その場に間合いが生まれた。
﹁そんな……国籍とか、人種とか、今どき関係ないんじゃ……」と、美輪が言った。
﹁いえ、在日、言うたら、また別やから……わたしみたいなんが此処に寄せてもろうててもいいんやろか……」
 そう言って、瑠璃子さんは突然自らを卑下するかのような態度を見せた。
﹁そんなこと、気にされる必要ないじゃないですか」と、ぼくが言った。
 みどりは、丁度カップを口に運んでいたところだった。しかしどことなく、みどりの表情が変化していた気がぼくにはした。それは気のせいかもしれなかった。
﹁……そうですかー? いえ、お店によってはね……それなら、嬉しいです。ありがとうございます。わたし、在日ていうせいで、いろいろ苦労してきましてん……そんなんもあって……」
﹁そんなことで差別とかあるんですか?」
 美輪は率直な反応を、そのままド直球で瑠璃子さんに返した。
﹁そら、ありますよ。目立って表沙汰にはならんだけで。せやけど、わたしの場合は、それ自体はあんまり、言うか、殆ど気になりませんねん。そんなん、言うてみたら、他の何処の国であろうと、結局、外人扱いには違いないんやし、しゃーないですやん? 異邦人、言うんですか? それに、親とは違うて、わたし自身は日本で生まれて育ってますでしょ? ……﹃通名』いうのがありますねん……うん、学校も日本の学校やったし、そういう意味では、自分の感覚では日本人ですやん? せやから」
﹁ですよね」美輪が相槌を打つ。
﹁……て言うか、それよりも何よりも、家の仕来りが厳しいてね……だいたい、そうですねん、あっちの家系は。日本人の家庭と違うて、あちらは家族の上下関係がもう、厳しいてね、お父さんの言うことは何がなんでも、例え、間違うてても、絶対ですねん。子どもは大人に成っても、親の言うことには絶対従わなあきませんねん……うん。そう……儒教て知ったはります? あっちにはそういう教えがあるらしいんですわ。わたしは、そんなんどうでもええんやけど……うん、日本で言えば、仏教みたいなもんやけど、また違いますねん。わたしは、そういうのが小さいときから訳わからんで、嫌で嫌で……友だちとか、ふつうやのに、なんで、うちの家だけ、て思いますやん? まだ子どもやしね……」
 ぼくらはいつの間にか、瑠璃子さんの身の上話に引き込まれて、聞き入ることになった。
﹁失礼ですけど、ご結婚とかは?」と、美輪が瑠璃子さんに訊いた。
 美輪は良い意味で、まったく実直な女性だった。また、それが、瑠璃子さんにとっては気兼ねの無い態度として、友好的に受け取れたようだった。瑠璃子さんの左手薬指には、リングは無かった。
﹁別れましてん。結婚もね、父が認めた同族同士やないとアカンのですわ……はい、日本人とは結婚したらアカンのですよ……ね! 考えられへんでしょ? 言うてみたら、恋愛までやったら、誰が相手であろうと、そこは自由なんやけどね、結婚だけはあきませんねん。親の言う人やないと……うんうん。わたし、嫌やったんやけど、言うこと聞かんと勘当ですねん、父に従わんかったら。……せやから、言うこと聞いて結婚したんが、今から思うたら、一生悔いの残る大間違いやったんですわ……」
﹁そんなに厳しいんですか? なんか、江戸時代の日本みたいな……」と、美輪がまた素朴な感想を述べた。
﹁いや、日本の一般庶民は、昔から恋愛も結婚も比較的自由だったんだよ。そういう厳しい仕来りがあったのは、公家とか、武家に限られててさ。あと、貧しい農民とかは、また別の意味で不自由はあったかもしれないけどね」と、ぼくが口を挟んだ。
﹁へー、そうだったんだー」美輪は素直に感心している。
 一方、みどりは黙ってカフェ・オ・レを口にしながら、話題に自分からは一切割り込んでは来ない。瑠璃子さんの話に真剣に聞き入っているのか、ただ遣り過ごしているだけなのか、その横顔の表情からはよくは判らなかった。
﹁それで、結局は、離婚されたんですか……」美輪が話の先を瑠璃子さんに促した。
﹁それがね……、旦那がもう酷い男でね、あの……今、巷で言われてる、あの、ドエスなんちゃら、言うやつですわ……」
﹁ドメスティック・ヴァイオレンス」美輪が正して、代弁した。
﹁うん、そそ。そのドメスティック・ヴァイオレンスですわ。やっぱり、あっちの血引いてる人やから……なんでもかんでも、自分の言うこと聞かんもんはあきませんねん。家では、わたしの判断だけで、自由にはできませんねん。全部、旦那の了解取らんと……うん、そう……それで、わたしがちょっとでも反抗したら、即暴力ですやん? もう……わたし、なんぼなんでも耐えられんようなって……人間、限界ありますやん? それで、﹃離婚します』言うて、親のとこに泣き付きに行きましてん。そのときは、きっと、両親に相談に乗ってもらえる、思うてね。ところが、それがいきなり﹃アカン!』言いますねん。父が言うには、﹃離婚したら、即勘当や!』ですわ。そんなん、わたしにとっては、これから先も、ずっと地獄の生活ですやん? せやけど、それが同族の仕来りや、言いますねん……そんな、アホな……て……」
﹁あのー……お子さんは居られたんですか?」美輪が口を挟んだ。
﹁そう! それがわたしの唯一の救いですねん! 子どもが居らんかったんが!」
﹁それで、思い切ることができたんですね」
﹁そうですねん。もし、子ども居ったら、思い切れへんかったと思いますわ。そこは助かった、思いますけど……どう考えても、あの旦那とこの先もずっと一緒になんて、もう居られへんかったから、﹃もう、しゃーない!』思うてね。親には﹃わかりました。それでも離婚します』言うて。……ただし、﹃家には二度と戻られへんぞ。離婚以降は、親でもなんでもない、他人や』て、こうですわ。ほんま、どういうことやねん! 思いましたけど、もう、他に道、在りませんやん? それからはわたし、女独り、この歳で天涯孤独の人生ですねん……」
﹁わー、凄い。実際、それ以降、ご両親とは?」美輪が更に突っ込んで訊いた。
﹁会うてません。そんなん、冷酷なもんですねん、ほんまに。何の支援も……別れの餞別すら、一銭も無し、ですわ。ほんまにもう、赤の他人なんですわ。二度と顔会わすこと、もう無いんとちゃいます? ……あら、すんません! わたし、ペチャクチャと場違いな重たい話ししてしもうて!」
 おそらく、無言のみどりを察してか、瑠璃子さんは饒舌だった彼女の身の上話をそこで自ら中断した。
﹁いえ、ぜんぜん! 凄いご苦労されたんですねー。人生勉強になります」
 美輪が気遣いながらも、瑠璃子さんの空いたグラスに目配せをした。
﹁そうですかぁー……ほな、もう一杯、もろうてもよろしい?」
 瑠璃子さんの態度は、あくまでも低姿勢だった。
﹁新しいの、お入れしますね」美輪が笑顔で頷いて返した。
 流石に、美輪は客の相手をすることに慣れていた。また、彼女はそれを楽しむ余裕さえも持っていたようだった。
﹁あら、わたし、こんな話、ほんまに今までしたことなかったんやけど……おたくらが、滅茶苦茶感じのええ、優しい人らやったもんやから、わたし、甘えてしもうて、つい。……ほんまに堪忍してくださいねー。あ、お手洗い、あちらやったかしら?」と、美輪に伺いを立てて、瑠璃子さんはトイレへと席を立った。
 心なしか、瑠璃子さんの目が薄らと潤んでいるように見えた。それは、これまで彼女が溜め込んでいた苦しみを、そのほんの少しばかり、今、吐露できたことの喜びの涙のようにぼくには見えた。何か辛い事があって、彼女は今日此処へ足が向いたのかもしれない。
﹁みどりさん、お気分でも悪いですか?」
 美輪が様子を伺った。
﹁最近、いつもの偏頭痛がね……酷くて」
 隣で、みどりがこめかみを指で押さえていた。
﹁仕事、根を詰め過ぎなんじゃない?」と、ぼくが訊いた。
﹁うーん……そうなのかしらね。でも、仕方ないわよ。わたしだって女手一つだから大変なのよ」
 みどりは顔に皺を寄せながら、いつもの台詞を吐いた。
﹁あら、どうかしはりましたん?」
 トイレから戻ってきた瑠璃子さんが様子を悟って、気遣いを見せる。
﹁頭痛らしいです」と、ぼくが応えた。
﹁いやぁー、わたしがあんなしょうもない話し、してしもうたから……」
﹁ううん、全然、関係ないの……」今度は、みどりが自ら否定した。
﹁ほんまに? どうもありません?」
﹁少し、お顔が青いですね」美輪がみどりの顔色を見て、察する。
﹁ほんと? うーん、そうね……今夜は帰って、もう横になろうかしらね……」
﹁そうですね、その方がいいですね。お冷や、入れましょうか?」
﹁うん、帰って寝れば、きっと大丈夫。ありがとう、美輪ちゃん。……でも、ごめんなさい、純さん、申し訳ないけれど、送ってもらえない?」
﹁ああ、そうだね……わかった」
 席を立って勘定を済ませようとしたら、美輪が首を振りながら、﹁いいえ、今日はわたしがお呼びしましたから」と言って断った。そして、﹁純さん、みどりさん、お願いします」と告げた。
﹁瑠璃子さん、お先にごめんなさいね」
 みどりは、美輪からもらった冷水を一口飲んで、瑠璃子さんに断りを伝えた。
﹁いいえ、そんなん……こちらこそ。しょうもない話してしもうて、すんません。……みどりさん、どうもないやろか?」
 瑠璃子さんが心配そうに、みどりの顔を見ていた。
﹁大丈夫です。じゃ、ごめんなさい。今夜は失礼します」
﹁瑠璃子さん、またお逢いできるといいですね」
 占いの瑠璃子さんに別れの挨拶を済ませ、ぼくはみどりに付き添って、美輪のカフェを出た。とは言っても、みどりとタクシーに同乗して、彼女のマンションまで送るだけの付き添い役だった。

 店を出ると、外はすっかり暗くなっていて、ひんやりとした夜風に軀が包まれた。
 タクシーを拾うと、後ろのシートでみどりは頭をぼくの肩に乗せて凭れかかりながら、少し辛そうに、両目を瞑っていた。
﹁大丈夫?」
﹁うん、……純さん、ありがとう」
﹁いや、ぼくは構わないけれど」
 そう言えば、タクシーに乗ったのは久しぶりだな、と思った。
﹁偏頭痛、慢性的なんじゃないの?」
﹁うん……最近、少し酷いのよ」
﹁一度、ちゃんとお医者に診てもらわないと」
﹁そうね、そうするわ」
 タクシーの車中の空気はやけに生暖かくて、安っぽい芳香剤の匂いが鼻を突いた。タクシーの車内はこんな白けた感じがするものだったんだな、と思った。
﹁今日は純さん、美輪ちゃんと内緒のお話だったの?」
﹁いや、まったく内緒なんかじゃないよ。彼女が自分のお店をオープンさせる話しで、そのロゴなんかのデザインの依頼を受けたんだよ」
﹁あら、そうだったの」
﹁美輪ちゃんの独立の話、聞いてなかったの?」
﹁ううん、その話しは彼女から直接聞いてたわよ」
 タクシーの運転手は寡黙なタイプだった。
﹁しかし、お隣の国の人たちには、厳しい仕来りがあるものだね」
﹁そうなのよ」
﹁……え?」
﹁わたしは知ってたわよ、そういうこと」
 ぼくはみどりが今言ったことの意味を掴み損ねていた。それは、ぼくがタクシー車中の空気に馴染めなかったからかもしれない。
 みどりの自宅までは、タクシーだとそれほどの時間は掛からない距離だった。
 みどりと共にタクシーを降りた。
﹁純さん、コーヒー一杯、飲んでかない?」
﹁何言ってるんだよ、今のあなたは、コーヒーなんて、人にご馳走できる状態じゃないじゃないか」
﹁大丈夫よ、ちょっとくらい。それとも、やっぱり、もっと若い子がお相手じゃなきゃ、お嫌?」
﹁そういう問題じゃないよ」僕は少し憤慨したような表情を作って見せて、言った。
﹁じゃ、いいじゃない?」
 このときのみどりの顔は、いつもより間違いなく血の気が引いて青褪めており、それは明らかに仮病などではなかった。
﹁いや、今夜は幾らなんでもやめておくよ。顔が青いよ、本当に。今直ぐに休むべきだよ」
﹁……そう……じゃ、今度、お酒、ご一緒してくれる? 純さんにはずっとお世話になりっ放しで、わたし、いつものお礼もしたかったの」
﹁ああ、わかった」
﹁約束ね。きっと、よ」
﹁うん……そんなことより、ちゃんと休むんだよ。おやすみ」
 みどりと別れて、ぼくは独りのんびりと歩いて帰ることにした。なんというか、そういう気分の夜だった。ひんやりとした空気が心地好い夜だった。夜空を見上げたら、オリオン座が、知らない間にこんなところに顔を見せるようになったんだな、と、地上のさまには左右されない宇宙銀河の壮大さを眺め見て、ぼくは改めて、我々人類の矮小さを感じた。



 ぼくは通常の仕事と平行して、長谷川美輪の新店舗用の屋号のロゴ・デザインに取り掛かり、その打ち合わせのために、彼女が現在勤めるカフェに再び足繁く通い始めた。
 美輪の店の開店予定の準備期間はまだ長く余裕が有り、特に急ぎの仕事ではなかったので、コーヒー休憩がてら美輪が現在勤めるカフェに立ち寄っては、その都度、彼女のアイディアと要望を取り入れつつ、実作業はのんびり気楽に進めればよかった。そんなわけで、打ち合わせの合間に以前よりも美輪とは直に話す機会と時間が増えていた。そして、みどりと美輪との関わりについても、態々こちらから訊き出すまでもないことだった。
﹁……ところで純さん、みどりさんとは、どうなんですか?」
﹁……どうって?」
﹁つきあってるんじゃなかったんですか?」
﹁え?」
﹁じゃないんですか?」
﹁……じゃないよ?」
﹁えー! そうだったんですか⁈」
﹁……て、誰かが、そんなことを言ってた?」
﹁いえ、お二人とも気が合ってたみたいで……それに、みどりさん、純さんと出逢われてからは、雰囲気も変わられたし……てっきり」
﹁あれで雰囲気変わったって? ……で、彼女がそんなこと言ってたの?」
﹁いえ、そうじゃないですけど……わたし、てっきり、そうなんだと……」
﹁美輪ちゃんと同じく、彼女のお店の印刷物のデザインを頼まれて、殆ど、その仕事を通した遣り取りをしているだけだよ」
﹁あー! そうだったんですかー」
 女性同士のつきあいというのは、傍目で見ている印象よりも実際は薄弱なもので、我ら男同士のつきあいの感覚とは一種懸け離れたものがあるようだ。男の場合、余程感じ入るものを相手に見出せない限り、それほどの友好的な態度を表立っては見せないと思うのだけれど、女性のそれはまた違う。いや、こういう人づきあいの感覚には世代差も大いに関係があるのかもしれないけれど。そんなつまらない感慨はさておき、美輪とみどりの結びつきも、実際はそれほど親密でも、深いものでもなかったようなのだった。
﹁……みどりさんとは、最初、みどりさんのお友だちの女性……お名前、今、ちょっとド忘れして憶い出せないんですけど、その方が以前、ウチによく来られてたんですね、それで、その方といつしかココでよくお茶されるようになって……それから、ですね。そう言えば、その方はもう、まったく来られなくなりましたね……」
﹁なるほど、そういう経緯だったの」
﹁はい。だから、わたし自身は、みどりさんとはお友だちづきあいてほどではないので、正直、みどりさんのプライヴェートなことはあまりよく知りません。前のご主人も見たことないですしね……ただ、ウチに来られるようになった頃には、ご主人とはもうかなりの不仲だったみたいで、﹃離婚したい』とは、よく言われてましたね。離婚されて良かったと思います。ずっと、辛そうにされてましたしね……」
﹁なるほど……」
﹁だから、ウチで純さんと知り合われてからは、みどりさん、大分、元気になられたようにわたしには見えてたんです、ほんとに。あの頃、もう既に離婚の準備に入られてましたしね。お二人、お似合いな感じもしたし。わたし的には、あー、良かったなー、って……あ、勝手に想像してて、すいません……」
﹁想像は個人の自由だし、それ自体は構わないよ」ぼくは笑って見せた。



 季節の流れに影響を受けて人の気持ちや体調もシンクロして移り変わるものなのかどうか、ぼくにはその関連性についてはよくわからない。ただ、環境の人体への影響については、やはり小さくはないのだろうと思う。夕方、仕事中に気怠い眠気を感じて、そのまま仕事用のデスクに向かって座ったままの格好でぼくは眠ってしまっていたようだった。
 腰の辺りに寒気を感じて目を覚ますと、テーブルの向こう側のいつもの椅子に猫虫が居たのだった。
﹁やあ、やっと目を覚ましたね。お邪魔してるよ」
 目を擦っていると、猫虫が声を掛けてきた。
﹁来てたのか。……どうも」
 ぼくは特に驚かなかった。
﹁もうすっかり陽は落ちたよ。しかし、おかしな時間に眠ってたもんだね」
﹁ああ、秋になると、そんなこともある」
﹁ふむ。地球上の生き物には、その住処たる地球のリズムと同期するように、その本能に植え付けられているからね」
﹁なるほど、やっぱりそうなのか」
﹁いや、ゆっくりしてくれていいよ。きみは低血圧タイプだしね」と、立ち上がろうとしたぼくに猫虫は平手を見せて気遣ったが、ぼくは取り敢えず、先に顔を洗いたかったのだ。
﹁顔を洗ってくるよ」
﹁ああ、それがいいね。頬にペンの形がくっきり着いてしまってるからね」
 ぼくは洗面所に行って冷水で顔を洗い戻ると、ペーパー・フィルターにコーヒー豆を挽いた粉を入れてセットして、コーヒー・メーカーのスイッチを入れた。
﹁日本の能と狂言というのは、よくできた演劇だね」
﹁きみは演劇の歴史にも造詣があるのか」
﹁いや、あの様式にはね、人間族の情動を整えるための、節度というものがあると思ってね」
﹁節度?」
 湧き上がった湯の滴り落ちる音がコーヒーメーカーの中の容器の中で微かに響いて、そこから湯気が立ちながら香ばしい匂いを部屋に発散し始めていた。
﹁ああ。この節度てのはね、道徳的なものではなくてね、むしろ、摂理に近い意味のもののことなのさ。この世のものには脈動というものがある。個体であろうと、流体であろうと、気体であろうと、無機体であろうと、有機体であろうと、凡ゆる物に中にね。すべて、固有の振動係数というものを持っていてね、それは分子のレベルから存在するものなのさ。謂わば、それは宇宙の成り立ちを現しているものとも言える。だから、それが乱されるのは良くないことなんだ。ところが、きみら人間族てのは、自然の摂理なんてもんは、自分たちの手の内にあるもののように勘違いしてるだろ? そういった、本来、変えてはいけないものを変えたり、徒らに乱したりすることにかけては、誠にきみら人間族は頓着しないようでね。しかしながら、他方では、きみらの中で継承されてきた幾つかの伝承や儀式の中には、そういった節度の大切さを教え伝える奥義が遺ったのだよ。まあ、今では本来持っていた重要性を認識され難い芸能なんかの枠の中に、単なる様式として墜とされてしまっている、ということなんだけれどね……まったく、嘆かわしいことさ」
 猫虫はコーヒーは飲まないので、グラスに氷を入れて、買い置きしておいたプリマス・ジンの新しいボトルの栓を開けて注ぎ、いつものようにライムをたっぷりと絞った。勿論、やわらかイカフライも皿に盛った。
﹁ご解説はよく解ったよ。ところで、今日はそんなことを話しに来たわけじゃないだろ?」
﹁ぼくだけいただいて構わないのかな」
﹁構わないよ。今のぼくには熱いコーヒーの方が必要なんでね」
﹁じゃ、遠慮なく」
 猫虫はそう言って、ぼくの入れたジン・ライムを一口クイッとやって、喉を鳴らした。
﹁うん、旨いね。さて、実は今日は、あんまり良くない兆候があることを知らせに来たんだ。起き掛けにいきなりで悪いんだけれどね」
﹁良くないこと?」
﹁無論、きみにとって、の話だよ」
 そんな不吉な前振りをしておきながら、猫虫の手はちゃっかりやわらかイカフライに伸びていた。
﹁まあ、そう指摘されれば、確かに、少し前にはそんな兆しを感じなくはなくもなかったんだけど……今は、特に問題は感じないよ」
﹁何か問題が起りそうな前触れってのは、だいたいそんな感じなんじゃないのかい?」
﹁まあ、言われてみれば、そんな気もしないではないけれど。まだ目が覚めきってないんだ。できればお手柔らかに願いたいな」
﹁まったく……いつも、きみは暢気だね」
 コーヒーが抽出され切ったのを見計らって、ぼくはキッチンに自分のコーヒーをカップに淹れに行った。夕飯時はとっくに過ぎてしまっていたが、腹は減っていなかった。
﹁あの色気ババアとは、もうそろそろ、ここらへんで手を切った方が良いよ」
 ぼくの居ないテーブルの向こう側に向かって、猫虫が言った。
﹁先ずは、ゆっくりとこのコーヒーを一杯飲ませて欲しいな」
 席に戻ったぼくは、猫虫を睨んで見せた。
﹁そうだね。いいよ」
 そう言うと、猫虫は﹁それならば」と言わんばかりに本腰を入れて、やわらかイカフライとジン・ライムを交互に旨そうに口に運び始めた。
﹁現金なもんだね」ぼくは嫌みを言った。
﹁こういうのを、口が淋しくなる、という時ではないのかい?」と、口をモグモグさせながら、猫虫が応酬した。
﹁さて、その意味で合ってるのかな……」
 ぼくは淹れたての熱いコーヒーを啜って、とにかくカフェインを吸収することに努めた。
 猫虫は真向かいで、そんなぼくの様子を伺いながらなのか、ただ時間的な間を埋めているだけなのか、その大きな猫目をぎょろりと見開いたまま、ひととき寡黙に、彼は好物の酒と肴を味わい続けていた。そしてじんわりと、ぼくはこの時間に馴染み始めた。
 ぼくのカップにコーヒーがもう残っていないのを見定めてか、猫虫が再び口を開いた。
﹁きみは蛇に気をつけねばならない」
﹁蛇?」
﹁そうだ」
﹁まったく意味が解らないな……」
﹁ぼくが調べたところ、あの色気ババアは蛇と仲が良過ぎる」
﹁なんだって?」
﹁蛇に気をつけないと、きみの日常は、すっかり奪い取られてしまうかもしれない」
﹁なんて言うか、いつもきみの話は、考えなくてもすんなり入り込んでくるものと、まったく理解に苦しむことと、両極端過ぎるよ」
﹁うむ、そこのところは、ぼくも少々心苦しく思うな」
﹁つまり、きみの言う、ぼくにとっての﹃良くない兆候』とやらは、その、蛇に関するものだと……」
﹁あれは無いのかい?」と、猫虫は煙草を噴かす仕草を見せた。
 ぼくは仕事用のデスクから、煙草の箱とライター、灰皿を取ってきて、それら一式をテーブルの上に差し出した。
﹁悪いね」と断って、猫虫は慣れた手つきで箱から取り出した煙草に火を点けた。
 猫虫の煙草を吸うさまは、何故だか、人のそれよりもずっと旨そうに見える。
﹁それは、きみたちが生物として捉えてる、あの蛇のことではないよ」
 その口から白い煙を吐き出すと、猫虫が言った。
﹁他に、この世にどんな蛇が居ると言うんだい?」
﹁そうだね、きみの目にはもしかしたら、それは蛇には見えないのかもしれないな……こう言い替えればいいのかもしれない……その蛇は、きみたちに寄生している、と」
﹁寄生?」
﹁うむ。この表現は解り易いかもしれないね。でも、これはあくまで表現であってね。きみらの身体を宿主として、生態器官に寄生しているわけではないから、実際はそうではないけどもね」
﹁いいや、まったく解らないよ」
﹁では、その逆だ」
﹁なんだって?」
﹁どちらでもあまり変わらない。蛇は脱皮を繰り返すんだよ」
﹁やれやれ、コーヒーのお替わりがぼくには必要だよ」
 ぼくは席を立って、カップにコーヒーを継ぎ足しに行った。
﹁要するに、こういうことかな? ……その形態はどうあれ、ぼくらの中に蛇が住み着いている、と……」
 ぼくはキッチンから猫虫に訊いた。
﹁まあ、そういうことになるね。状況から言うと、蛇どもがきみの周りを取り囲み始めているんだ。ぼくはそれを注意している。あの色気ババアと蛇との深い繋がりについては、もうすっかり調べはついたのだがね、その説明にはあまりにも時間を取られてしまうし、第一、それは今のきみにとってはあまり意味がないからね、それについては今日は止めておくよ」
﹁ふう……その蛇とやらは、ただの概念なのか、それとも、実在なのか?」
 ぼくはテーブルに戻って訊いた。
﹁そのどちらも、と言えるね。そうだな……謂わば、蛇は、我々猫虫族と人間族との間の端境をその住処にしてきた存在、と言えると思うね。それは、きみたち人間族的な言い方をすれば、日常と非日常の狭間とも言い換えられなくもない場所だ。蛇は邪悪な存在であり、しかし、一部の人間族にとっては、生きるために必要としてきた、頼りになる存在でもある。狂言で表すところの﹃頼うだお方』って感じかな。いや、それはちょっと違うかな……まあ、そこのところはいい」
﹁話の脱線具合が、随分と人らしい語り口になってきたね」
﹁ああ。会話には、ときにクッションてもんが必要と耳にしたんだ。﹃正論は吐き続けるうちに剣に形を変える』ってのも。ぼくとしても、人間族の言語交換による会話に少々限界を感じてきたものでね。だから、これからは違うアプローチも試みてみようと思うんだ。きみに理解してもらい易いようにね」
﹁なるほど。それはありがたい。それで狂言鑑賞というわけか。それから続きは?」
﹁つまり、蛇と一部の人間族とは、或る種の依存共生関係にあるわけだ」
﹁ほう……」
﹁例えば、恐怖という概念は、きみたちにとっては不吉で、邪悪なものではないのかな? がしかし、それは一方、見方を変えれば必要悪とも言える。きみたち人間族の心にその概念があるお蔭で、きみたちは、きみたち自身の身を守ることができる。また、そこから得られるものは多い筈だ。或いは、教訓的なものとしてもね。しかしまた一方で、その恐怖に惹かれる衝動も持っている筈だ。そうだな……きみたち人間族が享受しているテクノロジー、その元となる数学、科学、エトセトラ、エトセトラ……、それらの数々は、きみたち自身が自分たちの日常から生み出したものとでも本気で考えてるかい? きみたちは度々、命すら顧みず、高い山に登り、海を渡り、極寒の大地を踏破したり、地球を飛び出して月にまで足を踏み下ろそうとする。そうまでして、非日常の体験から何かしらを得ようとする。﹃恐怖心に打ち勝つのだ! その先にこそ、我々の得るべきものが在るのだ!』とね。きみたちにとっての非日常は、常に死と隣り合わせの場所にあるからだ。それは、肉体から離れた精神世界との境界のことだ。我々猫虫族の棲む、すぐ側の世界にね。そして、そこには蛇が手ぐすねを引いて待ち構えて居る。手っ取り早く言えば、きみたちの日常は、非日常からの借り物の一部でできている、﹃幻影』でしかない。つまり、きみたち人間族が構築した物質社会というものは、自然界から掠め取り、精神世界から盗み取った、唯物の混ぜもので作られた紛い物に過ぎないのさ……まあ、それはそれで構わない。
 何れにせよ、ぼくの言いたいのは、それが﹃必要とされるものが正しく混ぜ合わされたもの』ではない、ということなんだ。蛇どもがそこで関係しているお蔭でね。その結果が齎す危うさに、未だ以てきみたち人間族はまったく考え及んでいない。そこが問題なんだよ。だから、きみにはよくよく考えて欲しいのだけれどもね、薬というのはそもそもは毒でもあるんだ。特定の薬は特定の病には一定の効果はあるが、健康な身体には逆に障害を及ぼす。正に今のきみは、わざわざ猛毒を喰らおうってもんなんだぜ?」
﹁つまり、それが﹃蛇の毒』だと?」
﹁うむ、そうだ。まだ寝起きというのに、今日のきみは中々理解が早いね」
 そう言うと、猫虫は少し満足したかのように、やわらかイカフライを摘んで口に入れた。
﹁そもそも、きみたちは食べられるために存在している」
 行儀悪くも、猫虫はその口の中に頬張った食べ物を咀嚼しながらそう言った。
﹁なんだって?」
﹁いや、こんなふうに、じゃないよ」と、猫虫は、やわらかイカフライを噛み砕いている自分の口を指差すと、ゴクンと呑み下して見せた。
﹁牧畜なんだよ、この世界にとって人間族は。だから、ちゃんと育ってもらわないと困るんだ」
﹁ぼくらは蛇に食われるって言うのかい?」
﹁いや、蛇は……彼らは……そうだな、中間搾取しているに過ぎない。ほら、きみらだって、食料の大量生産に農薬やら、遺伝子組み換えやら、人体に悪影響を及ぼす添加物が含まれた食物は有害だから、そんなものはなるべくなら体内には入れたくはないだろう?」
﹁まったく意味が解らないんだけど……」
﹁この世界では、何事も須らく循環されているのでね。きみらの肉体は必要ないのだけどね、別のものが食べられてるんだよ、ちゃんと。ところが、蛇どもの嗜好はちょっとばかり変わっていてね、だから、彼らは自分たちの意に添うように、きみらの生活に入り込んで、ちゃっかり、きみらを誘導してるんだ。だから、厄介なんでね」
﹁その蛇は、きみたち猫虫が始末できないものなのかい?」
﹁おいおい……」口に放り込んだばかりのやわらかイカフライを喉に詰めそうになったのか、猫虫は平手を前に出して、待て、と示した。
﹁……よくもまあ、きみはいつも乱暴に、自分の都合のいいことばかり言ってくれるね。蛇を始末すれば、忽ち、今のきみたち人間族は路頭に迷うことになるだろう。既に彼らの存在に依存し過ぎてしまっているからだ。それに、我々猫虫には蛇を始末なんて、できないよ」
 猫虫はそう言うと、テーブルの上の自分のグラスを指差した。
 ぼくはキッチンにプリマスのボトルを取りに席を立った。
﹁蛇は人間族の﹃欲』というやつが大好物でね。そいつを丸飲みして育つ。蛇には精神というものがないから、我々猫虫族の力は通用しない。しかしながら、きみたち人間族の物質社会はまた、蛇の存在を借りて成り立っている、という共存関係にあるのさ……解るだろ? 蛇どもと猫虫族とは、そもそも相通ずるものをお互いに持ち合わせていない。お互いに直接影響を及ぼす脅威ではないし、どちらからも手を出しようもないんだよ」
﹁しかし、間接的には、ぼくら人と猫虫は影響し合うから、そこで、猫虫族にとっては、それが問題になるってわけか」
 プリマスと氷とライムの絞り汁を乗せたトレイを、ぼくはテーブルに置いた。
﹁ありがとう。……少し違うけど、まあ、そう考えてもらっても一向に問題はない。しかし、人間族の一員であるきみが、我々猫虫族のことにまで思い及ばせることはないよ。きみは、きみ自身の心配をするべきなんだ。それに、概ね、人間族はこの世界の循環に貢献はしてきている。だからとにかく、きみは蛇に近づくべきではないとぼくは注意している。人間族ではあっても、きみの場合は、蛇との親和性が殊更に低いんだよ。ぼくとしては、どうしても、そこのところに気づいてもらいたいんだけれどもね、きみには。……それに……」
﹁それに?」
﹁それに、蛇は移るんだ」
 猫虫の言う﹃蛇』とは、抽象的な存在としては、なんとなく、ぼくにも理解できる気がした。それは、一般的に言われるところの、或いは、オカルト的に称されるところの、﹃悪魔』的概念とも言えなくもなさそうな話しだった。ただ、猫虫の話し振りでは、﹃蛇』が人にとって、絶対悪的存在というわけでもないようだった。その辺りの捉え方が、ぼくには今ひとつ解らない。
﹁つまり、人を媒介として蛇は移る?」
﹁そうだ」
﹁それじゃ、病気みたいなもんじゃないか」
﹁ああ、なるほど。上手いこと言うね。そういう表現もできるね。確かに、蛇が移った人間族は病んでいるように見えなくもない。それはひょっとすると、きみにも見て取れることなんじゃないかな? ただ、蛇そのものの存在を認知していないから、蛇の実在は認識できないだけのことでね。ただし、ウィルスであるとか、病原菌であるとか、実際、そういった類いのものではないよ。つまり、そっちの﹃伝染る』じゃないんだ。そうだね……こういう話がある……ユングが言うには、人間族が抱く蛇のイメージは、そのすべてが一貫して呪術的であったり、不老不死を表した象徴的なものでもあったりで、それは古代から現代まで、また、地域に無関係に普遍的で、人間族共通である、ということを彼は論じている。これは人間族学的にとても正しい見解だよ。蛇は、きみたち人間族の古代からの神話体系に必ずその存在が組み込まれていて、謂わば、それはプログラムのようにしてきみたちの中で無意識に働く装置でもあるのだよ。但し、ユングが夢分析によって抽出できたサンプルは、残念ながらすべて不完全なものだった。それは、人間族の記憶が時間の経過を経て、既に劣化してしまっていたからだ。それ故に、象徴的なイメージとしてしか認識され得ないものだったので、彼の論は体系立ってはいるが不完全なものになっている。本来はそうではなく、それは――蛇のことだよ――人格的なものだったんだ。流石にそこまでは臨床的な研究だけでは抽出はできなかったのだろうね、技術的に」
﹁また、よく解らなくなってきたよ……」
﹁無理もない。これもまた、人間族が過去に捨て去った、記憶の中に閉じ込められた遠い過去の物語の一部であるからだ。それは遠い遠い、かなり遠い昔の、ね」
 そう言うと、猫虫はジン・ライムをクイッとやった。
﹁ぼくもいただくとするよ。酒の力を借りて、想像力を飛躍さる必要がありそうだ」
 ぼくはキッチンにもう一つグラスを取りに行った。ついでに、やわらかイカフライは入った袋ごと持ってきて、テーブルで中身を出して皿に足した。
﹁蛇は、要するに……悪魔なのか」
﹁いや、違う。悪魔というものこそ、抽象的概念でしかない。つまり、陰と陽、善と悪の対照的概念が生み出した、両方の極の象徴的な記号でしかない。言い替えれば、善的な神の存在を際立たせるために創出されたもう一つの対極的アイコンに過ぎない。二元論てやつだよ。しかし、悪魔は神であり、神は悪魔でもある。それは、ただ単に見方次第、立ち位置次第の永遠の二項対立なのさ。そういう意味では、蛇は、或る種の悪魔の仲間内と言えなくはないけれども、むしろ、きみたち人間族にとっては、神の一種ではないのかな?」
﹁ややこしいね」
﹁まったくだ。前にも言ったけれどね、この世界では様々な因子が複雑に影響し合う。蛇は人間族が持つ特定の因子に深く作用する。それは元々、そのようにして放たれたものだからだ」
﹁ふう……お手上げだよ」
 ぼくはこういうときの処方薬、ニコチンを体内に取り込むことにした。
﹁とにかく、きみは蛇には近づかないことだよ」
﹁蛇が、彼女――みどり、だと?」
﹁正しくはそうではないけれど、便宜的にそう思ってくれても、この際、まったく問題ないよ。きみは未だそれには同意してくれなさそうだけど」
 ぼくは片手に煙草を吸いながら、ジン・ライムを飲んだ。そして、部屋の中の宙を見上げて、猫虫の話しを反芻してみた。
 猫虫は、まるで親の目を盗んでお菓子に手を出す子どものようにやわらかイカフライをパクついていた。彼は立て続けにやわらかイカフライを口に放り込み、咀嚼しきったそれをゴクンと喉を鳴らして呑み込んだ。
﹁ぼくとしても、きみが、あの色気ババアをどうにかしてやりたいと思う、その友愛的な気持ちには肩を持ちたい気がまったくないわけではないよ。しかし残念ながら、それは今や遅きに失したと言うより他ない。今更、もうどうにもできないだろうよ、おそらく。
 それよりも、きみが被るであろう、今後の難儀の方に目を向けてもらいたいんだ。それは、きみの大事なひとたちにとっても、決して無関係なことではないと思うよ。それに……」

 ぼくはまた、いつの間にか眠っていたようだった。目が覚めたときには、部屋に猫虫の姿はもうなかった。テーブルの上には溶けた氷水が残った飲みかけのグラスが二つと、煙草の吸い殻が数本残された灰皿、あと、中身が僅かの残量になったプリマス・ジンのボトルと空の盛り皿が在った。時計は二十四時を少し回った時刻を示していた。目を覚ましたものの、ぼくの眠気は尚も重力を帯びたように強力だった。
 テーブルの上を散らかしたまま、そのすべてを放ったらかしにして、ぼくは最短距離でベッドに潜り込んだ。ベッドで横になると、ひんやりとして柔らかい布団の肌触りが殊の外心地好く、あっと言う間にぼくは深い眠りの中に落ちた。



 ぼくはクライアントとの打ち合わせを終えて、昼下がりに帰宅途中の路を歩いていた。 
 そのとき、スマートフォンに受信があった。みどりからだった。
﹁純さん?」
﹁あれ?」
﹁わたしよ」
 判ってる。みどりだった。彼女と電話で通話するのは初めてだったから、少し驚いただけだ。これまでチャットや、主にeメールの連絡で何ら不都合がなかったからだった。
﹁珍しいね、電話なんて」
﹁そう言えば、そうね……お元気?」
﹁こっちは変わりないけど、そっちはどうお? お医者行った?」
﹁お医者?」
﹁うん」
﹁純さん、おかしなことを言うわね……」
﹁……え?」
﹁お医者って、何なのよ? わたし、純さんの子どもをご懐妊?」
 くだらない冗談を飛ばして、みどりが電話の向こうでクスクス笑っている。
﹁偏頭痛が酷いって、自分で言ってたじゃない?」
﹁ああ、それはいつものことよ」
﹁この前、それが酷くて、マンションまで送ったじゃないか」
﹁ええ? それ、いつのこと?」
﹁いつって……」ぼくは呆れた。
﹁それ、大分前の話? ……純さんがわたしを送ってくれたなんてこと、あったかしらね?」
 みどりは電話の向こうで笑っていた。ぼくは少々、みどりに小馬鹿にされてるようで、気分が悪くなった。
﹁おいおい、ちょっと待てよ。つい、この前のことだよ?」
﹁この前って、わたしたち長いこと会ってないじゃない? 純さん、おかしなひとね、もう」
 やはり、そう言い捨てて、みどりが笑う。
﹁ちょっと待てよ、この前、美輪ちゃんの店で、久しぶりに偶然会ったじゃないか?」
﹁ああ、美輪ちゃんのお店で? ……純さん、居たかしら?」
﹁!」ぼくは絶句した。
 歩道を歩いていた自身の歩みを無意識に止めて、その場に立ち止まっていた。これはちょっとばかりおかしな話になってきたぞ……。
﹁何だって?」
 そうだ、あの人ほど印象に残る人は居なかった筈だ! と、思いついて、あの、極めて印象に遺る人物の固有名詞を憶い出してて切り出すことにした。この手札一枚で万事、この会話の形勢は一気にぼく側優勢に逆転する筈だ。
﹁じゃあ、占いの瑠璃子さんのことは?」
﹁占い? ……誰よ、それ? 純さんこそ、どうかしたんじゃないの?」
 みどりは、電話の向こうで声を上げて笑っていた。一方、こちらは、まるで不意に狐につままれた心持ちだった。
﹁ちょっと、そんなことじゃなくて、今は急用で電話したの。純さん、近々、お時間都合つけられないかしら? さっきまでお客さんと会ってたのよ。それでね、純さん……」

 この、みどりからの電話の用件を要約すれば、それは、﹃仕事関連で相談したい事案あり。その件につき至急会いたし』だった。けれど、こちらにとって、その用件については今はどうでもよかった。適当に﹁調整するよ」とか言って、このみどりからの電話を切り上げた。
 何よりも今、発覚した重大事は、あの日の美輪の勤めるカフェでの出来事が﹁無かった」と言い切った、みどりの証言の方だったのだ。
 先ず、自分の方がどうかしたのかと考えた。ぼくが夢の中ででも見た話を、現実の出来事と認識し間違えていたとでも言うことなのだろうか……と。いや、それはまずない。その考えは直ちに否定して抹消することができた。何故なら、あの日が在ってこそ現在、美輪との打ち合わせが進行中なのだから。そう、即ち、美輪の存在がその事実の証人、ということになるではないか。
 ぼくは気を取り戻して、再び歩道を歩き出した。
 となると、やはりみどりの記憶違いなのだ。いや、というより、電話での彼女の話し振りから察すると、みどりは――その記憶すら失っていた――ということになる。しかし、これはちょっと考えられないことだった。もう一つの可能性として、﹁担がれでもしてるのか?」と考えてもみたが、その意図がまったく読み取れなかった。従って、それも有り得ない。
 これまで、みどりのエキセントリックさについては、その言動や態度の数々から、戸惑わされ続けてきて、流石にもうぼくも慣れっこになってはいたが、このときの会話はその異様さにおいて、これまでのどの例よりも群を抜いて奇怪なものだった。もし、みどりが本当にあの日のことを記憶していないとすると、それは﹃記憶喪失』ということになる。しかし、彼女は何ら問題なく日常生活を過ごしているようだし、仕事にも日々邁進しているようなのだ。だから、これも有り得ない。少なくとも、ぼくの認識的には。
 歩きながら考えを纏めて、一先ず、ぼくは自分自身の不安を完全に払拭しておくことにした。それは今、美輪に電話で直接確認すればよいことだった。歩道の先に見えたコンビニの前までぼくは歩み進んで、その店舗の前に設置されていた灰皿の傍らに立ち、再度スマートフォンを取り出して、美輪の店に電話した。
﹁あ、純さん、お世話になります!」
﹁美輪ちゃん、ちょっと、確認なんだけどね」
﹁あ、はい」
﹁この前、美輪ちゃんのお店に、占いの瑠璃子さんて人が来られた日、あったよね?」
﹁……あ! ええ、はい」
 良かった。やはり、あれはぼくの夢の中の出来事などではない。ぼくは安堵して、上着のポケットから煙草の箱を片手で取り出した。
﹁それから、みどりさんが来て、あの日、ぼくが彼女を家まで送って帰ったよね?」
﹁ええ、そうでしたよね。突然、みどりさんが気分悪くなられて……え! ひょっとして、あれから、みどりさんがどうかされましたか?」
 これで間違いなく、あの日の事実は確認できた。ぼくはひと安心して、手にしていた箱から煙草を一本取り出して、それを指に挟んだ。正直、ほっとした。
﹁いや、違うんだ……いやね、あの日、そっちへ行く前に用意していた他の仕事のことで、日時の記憶が曖昧になっていたことがあって……ちょっと日付を確認したかったものでね……」思いつきの嘘で適当に誤摩化した。
﹁そうだったんですか。確認になりました?」
﹁うん、ありがとう。悪いね、くだらない用件で」
﹁いいえ、ぜんぜん。あ、お仕事お暇だったら、打ち合わせ以外でも寄ってくださいね。お待ちしてます!」
﹁OK、どうもありがとう」
 煙草に火を点けて、一服着いた。さて、ぼくはこの一件を一体どう認識すればよいのか。



﹁みどりさんて、純ちゃんの話を聞く限り、とても不思議なひとね」と、リカが言った。
﹁そうなんだよね……」
﹁ミステリーを背負ってるひとよね、ある意味」
﹁ああ、そういう表現もできるな……」
﹁と言うか、業よね……過去に何やら、よっぽどの修羅場でもあったのかしら?」
﹁うむ、そういうことなのかもしれないね。ところで……」
﹁なあに?」
﹁記憶が一時的に飛ぶ、ってことは日常的にあるかな?」
﹁記憶喪失、ってこと?」
﹁そう」
﹁健忘症?」
﹁かな……」
﹁嫌だ! ……純ちゃん、若年性なんとか、ってやつ⁈」リカが驚いて、反射的に手に力を込めた。
﹁痛い! おい!」
 彼女が、いつものように、ぼくのペニスを握っていたためだ。
﹁あ! ゴメン!」
﹁……違うよ。ぼくじゃないよ」
﹁じゃ、誰が?」
﹁みどりだよ」
﹁そうなの……物忘れが激しい、とか?」
﹁いや、そういうのとは少し違うみたいだ」
﹁て、言うと?」
﹁部分的に記憶が飛んでいるような……それが、本人には自覚がないみたいなんだ」
﹁その記憶の飛んだところが、何か、それが彼女にとって嫌なこと、とか……」
﹁うーん……いや、一般的な、まったくふつうの出来事だよ」
﹁それ……」
﹁うん?」
﹁ひょっとして、お芝居なのかも?」
﹁芝居? ……つまり、狂言か?」
﹁うん、そんな感じはしなくもないわよ。純ちゃんに対して、記憶が失せたように見せ掛けてるだけで」
﹁……確かに、そんな感じもしなくはないけど……でも、もし、そうだとして、そうする意味が解らない」
﹁あの漬け物屋さんも、意味解らないじゃない?」
﹁ああ、あの高飛車屋か……確かに……」
﹁ねぇ、純ちゃん」
﹁ん?」
﹁お水欲しい?」
﹁……あ、うん」
 リカはベッドを出ると、キッチンに向かった。
 テーブルの上で灯され続けていた小さな一本の蝋燭の灯りによって、ベッドから出たリカの裸の全身のシルエットが動いて見えた。黒い陰のリカがテーブルを越したところで今度は反転して、蝋燭の炎に照らし出されて形の良い尻が橙色に浮かび上がった。リカが冷蔵庫のドアを開けると、途端に寒々しい庫内のLEDライトの青白い灯りが部屋を射した。
 蝋燭はリカのアイディアだった。﹁満月の夜くらい、現代文明のテクノロジーを捨てましょうよ。わたしたち、この方がよっぽど人間的な夜の営みができるわよ、純ちゃん」そう言って、彼女は自ら持ち込んだ蝋燭にぼくのZippoライターで火を灯すと、一〇〇ヴォルトの交流電源を必要とする部屋の灯りをすべて消したのだ。蝋燭が灯された後の部屋には、散在する家電製品の小さな胡麻粒大のグリーンと赤のLEDインディケーターたちが、リカの演出の邪魔をして申し訳なさそうに点々と小さく光っていた。
 冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出してきたリカは、ぼくの寝るベッドの脇でしゃがみ込んで、キャップを開けてその水を口に含むと、自分の顔をぼくの顔に被せて口移しした。リカの温かい唇の感触を通して、冷水がぼくの口へ注ぎ込まれた。合わされた唇の合わせ目から溢れた水がぼくの首から滴った。
﹁もっと?」
﹁うん」
 リカはもう一度、その口にミネラルウォーターを含ませて、それをぼくに飲ませた。そうしてから上を仰ぐようにして、ボトルから直にゴクンゴクンと喉を鳴らして自分の分を飲んだ。
 出逢った頃はショートカットだったリカの髪は今は伸ばされて、その毛先が乱れながら彼女の胸の辺りに落ち着いていた。今夜の彼女は、その細くて白い首に巻かれたシルバーとスワロフスキーの飾りの付いた黒いレザーのチョーカーが似合っていて、それがいつにも増して、リカをぼくの目にエロティックに魅せていた。
 ぼくは人差し指を伸ばして、リカの美しいデコルテから乳首の先までの彼女の肌の上を滑らせた。﹁あん……」と、リカは小さく可愛い声を漏らすと、ベッドの端で自分の両手を組んで枕にして、そこに頭を横にして埋めた。
﹁……何かのサインなのかも」リカが呟くように言った。
﹁サイン? なんの話?」
﹁みどりさんの。……彼女はたぶん、それを無意識に出してるのよ。そして、それは純ちゃんにも伝わってるの」
﹁伝わってるって……このとおり、ぼくには何も伝わってないよ……」
﹁だから、純ちゃんも、無意識で、よ。無意識同士の遣り取りだから、当然、どっちも意識できないの……それは……心の叫び……みたいなもの……」
﹁解らないな……」
﹁純ちゃんは、解る人よ」と、リカは顔を上げて言った。
 リカの顔が、窓の外から射す月明かりに照らされて、仄かに蒼白く浮かんで見えた。リカの頭越しの向こうの蝋燭の橙色の灯りで、リカの乱れた遊び髪の輪郭がシルエットになって、それがまるで太陽の灼熱のプロミネンスの陰のように映った。それは、ぼくにとってのリカの存在を完璧に映しとった絵画のように見えた。
 部屋の二角に置かれた、ぼくのお気に入りのペアのLS3/5Aスピーカーから﹁……ああ、なんてお馬鹿さん……」と、Joao Gilbertoが気怠げに嘆き歌っていた。



  Ⅷ 蛇と玉と裸婦



 軽薄に、何の裏打ちもない期待感だけに胸弾ませ、いつも意味なく浮かれ調子で居られる周りの同年代の連中たちが智子はうざったかった。まるで、ぴよぴよと喧しい、全身を黄色い警戒色の薄っぺらい産毛で武装した雛の集団に囲まれているみたいな気分だった。そんな同年代の身勝手な若者たちの中に埋もれて、ただ独り大人びた達観的態度で以て冷静沈着な姿勢を貫く智子は、常にその中で孤立して異色な存在だった。
 それでも、決して群れることのない智子に、ときどき何を間違えたか、よちよち歩きの一羽、二羽の雛たちが群れから溢れ出てきては智子に寄り着いてくることがあった。それは、逸れ鳥の物珍しさから興味惹かれてのことかもしれない。いや、雛たちなりの同情心からかもしれない。それが友情だか、友愛だか、博愛だか、そんな言葉のまやかしなど、智子の知ったことではない。そうして無知な雛たちは、いつも決まって忘れた頃に智子を自分たちの群れの中に引き入れようと押し付けがましく勧誘してくるのだった。
﹁さあ、わたしたちと共に青春を謳歌しませう」と。
﹁共に希望に満ちた我々の将来に夢を馳せませう」と。
 それら雛どもが語り諭し掛けるスローガンはどれもこれも、智子から見れば、深い落胆の連続がどれほど人の心を疲弊させるかに思い至らない、未熟で世間知らずの青二才どもの陳腐な戯言に過ぎないことだった。そんな口車にうっかり乗せられて、これまでどれだけ苦汁を舐めさせられたものだったことか。彼らは無知を楯に進軍しては人を傷つけ、その人たちを癒す術すら知らずに、それでも尚、自らは希望という名の旗印を掲げて突き進む、無謀な捨て身のレジスタンス軍のようなものだった。何もかも絵空ごととも知らずに。
 それでもときどき智子の心が揺れ動くことがあった。そこには、すべてをまだ諦め切れていない生身の年頃の自分の弱さがあった。自由への渇望があった。小さな夢と、微かな希望と、薄れて無くなりそうな淡い期待があった。未来のことは解らない。しかし、智子は直ぐにそんな期待感は心の中の沼の深みに投げ落として捨て去った。それは、経験則に基づいたリスク回避術であった。
 あの事件以降も、智子はうふ鉄でのキャストのバイトは辞めなかった。怖い思いはしたけれど、あの店の独特の緩さは、智子にとって或る意味、オアシスだったからだった。
 うふ鉄では、それは危うさを伴った淡く希薄なものであったにせよ、店長もキャストの面々にも、各々が他者を尊重する空気が自然に在った。うふ鉄では誰も智子のプライヴェートに不必要に介入してくることがなかったし、それは智子にしても同様ではあったが、同時にそこには無言の思い遣りも感じられなくもなかった。それは、心に傷を持つ者同士だけに通じ合う、特定の極狭い範囲だけに届くチャンネルでだけ成される暗黙の遣り取りみたいなものだった。そんな雰囲気をあの事件以降、智子は特に強く感じられたのだった。意外なことに、そんな場所は他にはこれまで何処にも見つけられたことがなかった。それは智子にとって、最も自分がニュートラルで居られる場所であり、苛立ちを感じさせられることなく、とても落ち着いた気分で居られるところだった。実際問題、同業他店に鞍替えしたところで、うふ鉄のような雰囲気かどうかは未知だったし、他の意味でもリスクの方が高いと智子には考えられた。また、一般職のバイトに上る選択肢も智子には有り得なかった。この長い不景気で何処も彼処も働き損だと、智子は単純に考えていた。
 うふ鉄のバイト継続は、無論、その特殊な業種については両親には偽装していた。しかし、門限さえ守れば、智子の外での活動全般を両親が敢えて見て見ぬ振りで多めに見てくれていたから、智子にとってはその数少ない特権を最大限に活用する意味でも、うふ鉄は有効なバイト先であった。それは、智子に対する教育的な方針と言うよりは、家に居れば否応無しに常に実弟のあっくんの面倒を見続けなければならない智子に対しての両親の特別な配慮と言えた。その精神的ストレスが相当なものであることは、家人全員がその身を以て知っている共有認識でもあった。なので、智子の外での活動については両親は殆ど口出しすることはなく、概ね、智子自身の自己裁量に任されていたから、その点では智子には大きな自由が許されていたのだ。そんな訳で、智子は今暫くは﹃うふ鉄 レナ嬢』の顔を持ち続けることにしたのだった。
 あの事件以降、加害者張本人の男は店長との約束どおり、うふ鉄に来店することはなかった。
 あの日以降も、智子はときにマスターベーションをすることはあったが――これは、あの現象を再確認する意味での行いでもあった――、玉を産むことは二度となかった。あれは異常な精神興奮状態下で起こったことであって、やはり、智子は幻影を見たのかもしれなかった。そう考える以外には、この世界の現実は智子に何も提示しなかった。
 そして時は巡り、一年があっと言う間に過ぎた。季節は秋になった。何を以てしても、ぴしゃりと扉を閉じ切った頑な智子の心に、無遠慮な隙き間風が吹き刺す余地など無かった。

 そんな、秋が深まりつつあった或る日の正午前、智子は隣接する市街まで、三十分ほど私鉄特急電車に揺られて、独りでふらりと買い物に出掛けることにした。
 地元の街中をうろついて近所の幼馴染みやら知り合いに出会すことは、智子にとっては、いつも一番避けたい難儀ごとの一つだった。この不自由極まりない人生から僅かな自由を見つけ出すということは、つまり、そういった無遠慮で偽善的な人々と関わり、結果的に、彼らに気分を害されることになる過程をできる限り避けて省くことだった。それは無駄に煩わしく、より孤立感を味わされることでもあった。智子は決して孤独が好きなわけではなかったが、必然的に孤独を選択せざるを得なかっただけだった。それを真に理解してくれる者は家族以外には何処にも居なかった。
 智子は先ず、今日の目的の一つにしていた、今、巷で話題で流行の、パンケーキが絶品で美味しいという、噂のスィーツ・ショップを目指した。
 情報誌の紹介ページ上の画像で見て確認していたそのパンケーキは、フルーツと生クリームで﹁これでもか!」というくらい盛りつけられた、とても巨大なもので、その値段も然ることながら――︵ホテルでランチが食べられるんじゃない?)と智子は思った――、カロリーも相応に高そうだったので、智子はお昼ごはんを敢えて抜いて、その待望のイベントに備えていた。
 そして、智子がその店でオーダーして出された念願のふわふわパンケーキは、実際、見たことの無い大きさのクリーム特盛りで、その上に色とりどりの高級フルーツで美しくゴージャスに盛り飾られていた。
 フォークとナイフを手にして食べようとしたとき、智子は︵あ!)と思って、それらをテーブルに置き戻した。バッグからスマートフォンを取り出して画像を撮る。智子は、うふ鉄のキャストたちに見せようと思いついたのだった。
﹁カシャッ」と、スマートフォンからシャッター音が鳴った。
︵……バカだな……わたし、なにしてんだろう)
 画像を撮った智子は、思い直ってスマートフォンを仕舞った。カトラリーを手に持ち直し、本腰を入れてパンケーキに取り掛かった。
 苺も、ブルーベリーも、ラズベリーも、バナナもキウィ・フルーツも、すべて拘りの高級新鮮素材を使っているだけに瑞々しく、それらが生クリームと絡まって、パンケーキの食感はそれはそれはふわふわで、口に含むなり舌の上ですぐに蕩けた。
︵あー、これなら、値段も納得! 来た甲斐あったかもー! テンション上がるー)
 智子はフルーツとパンケーキの欠片を口に運びながら、独りごちた。それから、黙々と巨大なパンケーキを食することに精魂を傾け、一人前をペロリと完食した。生クリーム特盛りパンケーキの実態の大凡半分は、実は地球上の何処にでも在って、誰もが無償で口に入れることのできる空気に他ならなかった。

 身体的な満腹感と精神的な達成感とを同時に満たすことに成功した智子は、気分上々でスィーツ・ショップを出ると、次に、この街で最大級の規模のデパートに立ち寄ることにした。
 デパートの正面エントランスを通り過ぎて、その中へと入ろうとしたとき、イベント会場の催事告知ポスターが智子の目に留り、何故か無意識に足がピタリと止まった。そして、そのポスターの図案が、智子の目をその場で釘付けにして動かさなかった。
 一人のおばさんが擦れ違い様に打つかって、低く嫌みの鋭い声で﹁あんた、邪魔ね!」と愚痴って智子を睨みつけて行った。それからも、エントランスを出入りする何人もが、その肩口を智子の軀に打つけては通り過ぎて行ったが、そのときの智子にとってはそんなことはどうでもよくて、まったく気にならなかった。智子は我に返るのに少しばかり時間を要した。
 智子は壁に掲げてあったそのポスターの前へと更に歩み寄った。そして、その場所に立ち尽くし、尚もその絵に見入った。
 深い森の中の沼地のような処に大きな柳のような古木が立っていて、その捻曲がった幹と枝を垂れ下げている。その古木の下の根元の磐の上に、寄り掛かるように裸婦がその軀を横たえていて、巨大な一匹の大蛇がその裸婦の軀に巻き付いている図柄の絵画だった。その裸婦の表情には苦しみは感じ取れない。むしろ、悦びにも似た安らいだ表情をしているようにさえ智子には見えた。そして、絵画の裸婦はその手に玉を抱いていた。
 そもそも、智子はウィンドウ・ショッピングがてら、デパートを冷やかすつもりで立ち寄っただけのことだったが、急遽、それを変更することにした。それは、偶然目にして、智子の足を留めさせたポスターの原画作者の展覧会が、今、このデパートで開催中であることを知ったからだ。そのイベント特設会場が在る最上階へと智子の足は無意識に速まった。まるで智子は、あの絵画の中の裸婦に誘われているかのようだった。
 心が逸った。不思議な蠕動感だった。それをどうしても智子は自分では止められなかった。エスカレーターに乗った。冷やかす予定にしていた一階のコスメ売り場も、二階、三階、四階と続くレディース服売り場の商品群も、智子の目にはまったく入ってはこなかった。無心でエスカレーターのステップに乗り、フロア毎にその踊り場で反転してはステップを乗り継ぐを繰り返し、遂に、智子は八階の催事特設フロアに足を降ろした。
 八階フロアのエスカレーター乗降口には、あのエントランスに在ったポスターが改めてフレームに収められて、イーゼルで立て掛けて会場が案内されていた。智子はそこに付記されたフロアの動線を見確かめて、通路を歩み急ぐ。途中、雑多な日常品、世界各国のおもしろ便利用品のセール会場と、呉服の二級品特売会場を通過して、簡易託児施設の前を通り越すと、その目先に、白いパネルで囲まれた仮設展覧会場が遂に見えた。
︵来た!)
 智子は早足だった歩みのスピードを意識的に緩めた。
 この、何やら秘密めいた期待感に智子は胸を大きく膨らませていた。ぞわぞわと軀中の皮膚の表層が服の下でざわめき立つのを感じた。それは、両親や、学友たちや、これまでに関わった、その他の周りの人々との機微の中からは、これまで一度たりとも智子が見出せたことのなかった、生まれて初めて感じる、未知なる大きな発見への期待感だった。そして、それは間違いなく、何かしらの重要な示唆を自分に与えてくれるものと、今や、智子は確信して疑わなかった。


 辿り着いたイベント会場には、白いマットな表具紙で貼り込まれた、飾り気のまったくないフラットなパネルの表面に、同じく真っ白な切り浮き文字で﹃Yui Tadasuno 糺野 唯 展――1962 - 2005 その生涯』とあった。
︵あれは女の人が描いた絵画だったんだ……)
 智子は直ぐさま、展覧会場の入り口側に設置された窓口でチケットを購入して、白いパネルの囲いを潜り、展示用照明器具で調整された薄暗いその会場の中へと進んだ。
 展覧会場の中のルートの最初は、小さな紙片に描かれたデッサン画や素描が額に入れられて展示されていた。その横には、作者が幼少の頃に描いたものと思しき落書きの類いや、イラストや、愛用の絵筆、筆記用具なども、貴重な作者のメモリアルな品々として、ガラス製の陳列棚に収められて展示されていた。それらは、作者のその人となりや、画家としての足跡と、その成長過程の始まりからを辿るのであろう極初期の作品群の展示品の数々で、糺野唯という画家を、今日、初めて知った智子にとっては、それらは特に胸を打つような絵画でも品物でもなかった。
 先へ進むと、おそらく、作者が画家を本格的に目指すようになってからのものと思われる油絵群が続いて展示されていた。静物画や風景画の試作的な作品や、抽象的なアプローチを試みたのか、複雑な構成が成された幾何学的な構図の習作的絵画が続いた。作者の画家としての真面目な取り組みの姿勢と、試行錯誤の変容の過程を智子は感じ取れた。
 そして、作品群の或る地点から、作者の作風ががらりと特段に変容したのが、素人の智子の目にもはっきりと解った。それは、それまでの作品群とは次元を異にしたかのような、明快な変貌ぶりだった。或いは、突如として作者の存在する世界自体が変化していまったかのような。
 先ず、その全体の色使いが激変していた。一見して、構図全体が深く暗い調子の色で埋められていた。例えば、黒く見える色は、ただの黒の単色の絵の具で塗り潰しただけの黒ではなく、闇の中の、その中のまたその奥の闇まで描き込もうとするような、何層にも異なった絵の具の色を塗り重ねて生み出された、深く暗い、正に闇色だった。
 おそらく作者は、その縦横方向への広がりよりも、むしろ、四角いカンバスの中の奥行き感を現すことに心血を注いでいたように、その筆遣いから智子は感じた。それは、三次元的に表に飛び出してくるような立体感ではなく、それとは真逆に、見る者をそのカンバスの奥、掲げられている壁の、そのまた向こう側へと引き込むような効果を意図とした立体感だった。
 それらの一連の絵画に描かれている景色や人物は、どこかしら、ふつうではなかった。構図として、明らかに不釣り合いなバランスで描かれた背景と配置された物品、違和感のある表情を互いに交わし合う人々、引き攣った微笑みを浮かべる少女……それらは、作者の心象風景を表しているのではないかと智子には思われた。智子はいつしか、それらの作品の世界に引き込まれていた。
 智子の中に起った、あのざわめきは、今は鎮静に向かっていった。絵画に見入るうちに、智子の心は次第に深く落ち着き、何よりも、気持ちが自然に安らぎ始めていた。それは、智子の心の内に在り、しかし、これまで誰に対しても、それを表現しようにも叶わなかった何ものかを、此処に在る絵画の中に見出していたからかもしれなかった。誰とも共有することが叶わなかった、自分自身の感性の源の一部のようなものを、智子は今、見ている絵画の中、いや、糺野唯という作者の心の中に感じ取っていた。
 そして遂に、あのポスターの実物の絵画が在った。﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』と、キャプションにあった。
 その﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』は、かなり巨大なサイズのカンバスに描かれた作品で、縦に、ほぼ、智子の身長と同じくらいの画面サイズだった。智子は、この絵画を直に目の当たりにして、忽ち見蕩れた。最初にポスターで見たのと、この実物とでは、その迫力に雲泥の差があった。画面の立体的な筆遣いと、画法の素晴らしさは言うに及ばず、見る者を圧倒して掴んで離さない、この絵画の持つ生命力とその迫力、それは、まるで絵画の中から呪術的神秘性を発散しているようだった。背景の沼地と古木の描写法は、それまでの作品群から得られたのであろうテクニックが駆使されて描かれたもので、沼地の澱み感、深く奥まった陰影、古木の老いの侘び感の表現性は巧みだった。朽ちかけても尚、その存在を誇示するかのような、この古木の生命力の生々しさには目を奪われる圧倒感があった。一方、主題であるところの﹃蛇と玉と裸婦』の表現描写は、同じ緻密さではあっても、筆遣いのタッチがまったく異なっていた。そこには、もっと別なところに類する繊細な表現があった。大蛇の描写は、写実的でも、抽象的でもなく、生物解剖学的見地からもまたかけ離れた独特の描かれ方をしていて、それは、古代の宗教画に近い雰囲気を醸し出していた。また裸婦は、中世か、或いは、もっと旧い時代の肖像画に見られるような、写実的な画法に近い描き方がされている。そして、その表情には哀れみと、憂いと、優しさが同時に在った。
 この裸婦に、作者そのものが宿っている気が智子にはした――それはたぶん、﹃許し』に似た何かだ――と智子は直感した。そして、いつしか智子は、この絵画の裸婦に自分自身をも投影していた。
 やはり、智子が最も驚きを隠せなかったのが、裸婦の抱く玉だった。その玉は、水晶玉などではない。ここに描かれている玉は、智子が確かに見た、智子自身があのときに産んだ、あの玉そのものに見えたからだ。
 智子は﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』の前で立ち尽くして、どれくらいの間見入っていたことだろう。時間というものを忘れて、智子はその絵画に引き込まれ続けていた。
 しかし、やっと我に返って、絵画の力から解き放たれた智子は、ふと、或ることに気づいた。この絵画は﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』と題されながら、付近に同様の作風の作品が一つも展示されていないことだった。本来は連作である筈の﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅰ』と﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅱ』は、どこにも展示されていなかった。既に人手に渡った作品だからということなのだろうか。
 智子は、他の手掛かりとなりそうな作品を見つけようと、ルートの先へと歩みを進めたが、﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』以降に展示されていた幾つかの作品群は、そこでまた作風が途端に変化していて、作者の全霊が込められたかのように描かれていた﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』に見られた創造性が完全に欠落した、非常に凡庸な絵画になってしまっていた。それらは、作者の魂が抜け落ちた後の抜け殻のように見て取れる、まったく空虚極まりない絵の連なりだった。そして、その先に展示された絵画はもう無かった。智子はがっかりした。
 智子は展示ルートを逆戻りして、もう一度、﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』の前に立って、一頻り見入ると、ルート出口の会場内のショップで﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』がプリントされたポストカードを一枚買って、特設展示会場を後にした。

︵あ、絵画しか見てなかった……)
 気が付けば、智子はデパートのビルを出ていたが、もう後戻りはせずに歩き出した。暫く夢遊病者のように惚けてぼんやりと歩道を歩み進んだが、向かい側から通りすがりの通行人女性の持つショップバッグが目に入った智子は、そもそも、この日の予定の一つとしていた用事をすっかり憶い出し、この街の中心部から少し外れに在るエリアへと足を向けた。
 その界隈は、元々は繊維関係の問屋などが密集していた倉庫街だったが、古い建物をリノベーションしたファッション関係新規出店が最近相次いでいて、感性に敏感な若者たちの間で昨今注目されている最先端トレンドシティ・エリアだった。その辺りには珍しい輸入雑貨店やインテリア・ショップ、若い感性豊かな女性受けするお洒落な雑貨店やブティックが点在して隣立していた。また、智子が以前から通っていた老舗手芸材料店が、そのエリアの古参有名繁盛店として在った。
 智子は昔から手芸を趣味にしていた。それは、幼い頃からどうしても家に籠りがちだったからだった。智子が自分でデコったスマートフォンのラインストーン盛りのケースを見て気に入った、うふ鉄のマリ嬢に、彼女のケース用に同様のデコレーションを頼まれていたので、今日は、そのマリ嬢の携帯ケースをデコるための材料を調達して帰ることも大事な予定の一つにしていたのだった。
 手芸材料店に着くと、智子はマリ嬢の携帯デコ・ケース作りのための材料選びに、悠に一時間は集中して没入した。そして、必要な材料一式を購入し終えると、手芸材料店を出て、智子は近辺のエリアをついでに散策して巡った。
 今日の智子はとても充実した気分だった。時間はあっという間に過ぎていた。界隈を巡りながら、店に入ったり出たりを繰り返しているうちに、いつの間にか、空はどんどん黄昏れていった。秋の日暮れは早かった。まるで、夕暮れが急きついて、せっかくの智子の休日の気分をいつもの日常へと引き戻そうとしていたみたいだった。何故、いい気分で居られる時間は短くて、辛い時間は長いのか、と、智子は思った。もっともっと、自分が自分で居られる時間に浸っていたかった。智子はいつもそう願っていたが、いつになっても、何処へ行こうと、その願いが現実に叶うことは無かった。
 斜陽を背に受けていた。自分の影の中からもう一人の智子が軀からふわりと抜けて出て、街中の歩道を歩く自分の姿を俯瞰した。誰も行く手を邪魔だてする者は居なかった。智子は自分の意思で今、其処に居たし、その自分の姿は、誰がどう見ても、自由を奪われた者には到底見えなかった。しかし、智子は紛れもなく囚われの身だった。それに気づく人は周りを見渡しても誰一人居なかった。この世界は無慈悲であると同時に、残酷にも、僅かに息継ぎできる空間だけは智子に残してくれていた。智子は辛うじて、その空間に浮き上がっては精一杯新鮮な空気を吸い込んで、そしてまた、底深くにまで潜るのだった。そうして智子は生き続けねばならない。智子は孤独だった。しかし、長年、不条理という縄に繋がれて軀が馴染まされ続けたお蔭で、独りぼっちでもぜんぜん淋しくはなかった。智子には、みんなの言う幸せの意味が解らなかった。幸せになりたいなんて思ったことさえなかった。
 智子は歩いていた路を方向転換した。置いてけぼりはされまいと、軀の外に抜け出ていたもう一人の智子が、するっと軀に戻った。
 もう少し、今日は浸っていたいな、と智子は思った。

 散策したルートを逆戻りして、智子は駅にほど近い大きな商店街を目指した。その商店街は、この街の最も拓けた場所に在った。古くから在る老舗の名物品商店舗から、若者向けブティック、食料品店からレストラン、海外有名ブランド店や高級宝飾店まで、ありとあらゆる店舗が雑多にアーケードの中に混在して軒を連ねてひしめき合っている。︵何なら、お母さんに電話して、今夜はこのまま外で食べて帰ってもいいし……)と、智子は思って、その商店街を目指して歩いた。商店街の入り口に差しかかると、アーケードの中は明るい水銀灯のシーリングライトにもう照らされていて、平日だと言うのに、買い物客や学生たちで相当の賑わいがあった。
︵あ、そうだ、あそこんちのケーキ屋さんで、おみやげにショートケーキでも買って帰ろ!)智子は、この商店街の先に在る、有名なパティシエが経営するケーキ店を憶い出して、買い物を一つ、今日の予定に付け加えた。
 商店街の中を歩きながら、ウィンドウ・ショッピングし続けていたとき、智子の視界に何やら引っ掛かるものがあった。しかし、智子はそれが何かが明確には判らずに、数歩、そのまま歩みを進めたが、どうにも気になったので、そこで立ち止まって、歩いてきた後ろ側へ顔だけ振り返ってみた。それでもよく判らなかった。しかし、それでも尚、何かが智子の気に留まったままだった。
 智子は後ろに向き直って、自分の視界の角から角までを景色を見渡して見た。やはり、特に驚きに値するような物も無く、その目に映る景色自体、何の変哲も無い、賑やかな商店街のアーケード内の在り来たりな風景でしかなかった。まるで、間違い探しゲームをしてるみたいだった。でも何故か、夏の日に雨が降り出したときにアスファルトから漂う、あの嫌な臭気が智子の脳裏に憶い出された。
︵! ……)そのとき、遂に、智子は気づいた。
 智子は咄嗟に物陰に隠れようとしたが、商店街の通りの真ん中にそんなスペースは無かったし、生憎、このときの面前の人通りは疎らだった。目が付いたのは、通りの並びのすぐ近くの店舗の前に出されていた特売セール品テーブルだった。そのテーブルに盛られたシャツやらカーディガンやらの特売衣料商品を掘り返しながら、物色中の数人の女性買い物客が群れて居る。彼処なら角度的に死角になりそうだと思った智子は、反射的に、慌てて小走りでその買い物客の群れの中に紛れた。そこから再度、俯きつつ顔を隠しながら確認してみた。
︵たぶん、間違いない)途端に胸がドキドキしてきた。
 テーブルの掘り出し物探索に夢中の買い物客たちは、そんな智子のことなど、特に気にも留めようとしなかったが、かと言って、このままでは、あまりにも挙動不審者に思われるかもしれない、と思った智子は、次いで、ちょうど向かい側に在ったファストフード店に駆け込んだ。上手い具合にその店には二階席があり、その窓際の席からはウィンドウ越しに商店街のアーケード内を見渡せそうだった。智子は、適当にオレンジ・ジュースをオーダーして、そのストローの差されたカップを持って階段を上がり、丁度空席だった窓際の席に座った。これで取り敢えずは落ち着けた。その窓際の席は、思ったとおり、位置的に絶好の場所だった。
 ファストフード店の斜め向かいには、漬け物屋が店を構えていた。その軒先に︿高菱屋〉という屋号が太く黒い墨で書かれた、磨きをかけられた木製の一枚板の大きな看板が掲げられていた。その漬け物屋の店先には大きな漬け物の樽が幾つか並べられていて、店主だろうか、樽の周りで商品の陳列を整えたりと、忙しなく作業をしている白髪の男が居た。
 智子はオレンジ・ジュースのストローを銜えながら、その漬け物屋の男の顔姿を凝視した。間違いない。あの男だった。その男は、うふ鉄で問題を起した、あの白髪爺に違いなかった。智子は窓際の席でじっと男の姿を目で追い、見詰め続けた。心の内に眠っていた、塊の中に閉じ込められていた何ものかが、今、溶けて外に出てこようとしていた。
 ――﹁玉出せや! 玉出さんかい!」――あのときの、あの男の、薄気味悪い言葉が蘇った。
 智子はバッグの中から、ついさっき展覧会で買った、あの絵画のポストカードを取り出して、そこに眼を落とし見詰めた――﹃蛇と玉と裸婦の連作 Ⅲ』――その絵と、自分のヴァギナから産まれ出た、あの玉の記憶とを、智子は自分の中で重ね合わせた。心の襞の湿ったところに隠れていた何物かが、居心地の良い、もっと湿った場所を見つけて、百足のように蠢きながら這い出てくるようだった。
 智子はオレンジ・ジュースのストローを銜えたまま、もうとっくに中身が空になったカップの容器の底に僅かに残った水滴を、小さく音を立てて吸い続けながら、斜め向かいの漬物店にその視点を留めたままでいた。オレンジ・ジュースを飲み切っても尚、智子の喉は渇いてカラカラだった。それからも暫くの間、智子はじっとその席に居続けていた。どれくらいの時間、そうしてそこに留まっていたのか、智子は自分で判らなくなっていた。
 このとき、智子が何を考えていたのか、彼女の胸の内に去来していたものがあったとすれば、それが一体何だったのか、それは誰にも解らない。
 そして、柔ら智子は立ち上がって、空のオレンジ・ジュースのカップをダスト・シュートに放り込むと、しっかりとした足取りで階段を降りて、暫し隠れ家としたファストフード店を出た。そして、逡巡することなく、そのまま一直線に、しかしゆっくりと、アーケードの中の向かいの漬け物屋に智子の足は向かった。
 あの男は、店先で通りに対して後ろ向きにしゃがみ込んで、年季の入っていそうな大きな木製の漬け物樽の外側を、丁寧に雑巾掛けしている様子だった。
 智子はその男のすぐ背後にまで歩いて迫り寄った。そして、男の背中に向けて言った。
﹁わたし、玉産んだよ」



  Ⅸ 白拍子



 みどりからの連絡は、いつものようにeメールによって届いた。
 先日の電話の件を彼女は忘れてはいなかったようだった。みどりの記憶回路は、単に自分自身にだけ都合良く利害の絡む事柄のみに限定される、とても便利な機能付きなのかもしれなかった。いっそのこと、そんな風にまで見方を飛躍させた方が、あの彼女の暫定記憶喪失の一件は、むしろ、しっくりする気がしないでもなかった。そう考えてみると、この極端極まりない﹃みどりさまの記憶の法則』は、みどりの基本行動のすべてに当て嵌まる気もした。それは或る意味、徹底した合理主義に基づいて、更にまた彼女独自の潔さを貫いて設定された、切り捨て御免の基準とも感じられないではなかった。
 ぼくは、みどりに度々垣間見れるそういった極端過ぎる彼女の態度に、特殊な宿命を背負って生きる人たちに見られる頑さとの共通性を感じていた。それは、常に社会の差別意識や、ある種の世俗的な困難さを強いられて生きなければならない人たち――例えば、ジプシーなどの流浪民的な――に共通の、自身にまつわる物事の切り捨て方に似ているのではないかと思う。謂わばそれは、厳しい世間を生き抜くための社会的弱者故に身についた知恵みたいなものだ。
 やはり、ぼくのような門外漢的な存在はみどりの交友関係の中では浮いた存在に思えてくる。本来、彼女にとっての交際基準の枠外に居る筈の人物の一人である筈が、何らかの例外的措置として加えられ続けているみたいに。ただ、それが何故なのかがぼくには未だによく解らないでいた。その例外的条件が人情的な好みに由来するのならば、それはそれで考えられなくもなかったが、もしそうだとすれば、その彼女の感情表現はあまりにも稚拙で不器用極まりないものと言えると思う。女性特有の感性による気紛れから続いた交友関係、という曖昧な落としどころが最も適当な気がする。何れにせよ、ぼくにはみどりという人の核になる部分が、今以てまったく見えていなかった。
 みどりの得体の知れなさは、それが自分自身で意識してそうしているものなのか、自然体でそうなのか、そこのところがまったく見えてこないところだった。それは、ぼくにはとても不幸なことに思える。彼女自身にとっても、ぼくを含めた、彼女のすべての友人たちにとっても。
 ……こんな風に、ぼくはときどき、みどりの生来の性向について、自分なりに思索を巡らせていた。けれど、その成果と言えるものはなかったし、それは、みどりと対峙するための何の役にも立っていなかった。早い話が、相変わらずぼくはみどり主導で振り回され続けていた。

[受信]﹁じゃ、あのソファのカフェで待ち合わせしましょう。十五時でいいですか?」
[送信済]﹁了解です」
 あの電話連絡から、約一週間後の平日の午後のお茶時に、ぼくはみどりと久しぶりに待ち合わせをした。
 曇り空で、天気予報では雨は降らないとされていたその日、それでも不意の雨に備えて、ぼくはBarbourのオイルびきハーフコートを着て昼前に自宅を出、のんびりと贅沢に散策がてら街をぶらつき、外食で適当なランチを取った。自宅が仕事場だと、つい部屋に引き蘢りがちになってしまう。ここ最近は仕事が立て込んでいたので、ここらで一息ついて気分転換的な一日を設けてもいいな、と思ったからだった。
 丁度、個人ギャラリーで開催中だった友人のイラストレーターの展覧会に立ち寄り、その彼とお互いの近況や業界の噂などについて情報交換をし、その後、本屋で数冊の仕事関係の専門書などを立ち読みし、ついでにいつものお気に入りの文房具専門店を見て回った。
 そんな日には思い掛けず、何かしらの閃きが得られたり、仕事のアイディアの元に成りそうな材料を拾えたりする。ぼくはこうして独り歩きするのが好きだった。そして、それは平日に限る。けれど、この日は特に収穫と言えるほどのものは何も拾えなかった。

 みどりとの待ち合わせは、再会時に一度、二人で偶々入って以降、みどりのお気に入りになったらしい、ソファ席の在るアダルトな雰囲気のカフェでだった。その店の料金設定は他店よりも割高だったが、その分、贅沢に四人掛けの席を二人で占領しても嫌な顔はされずに居られた。けれど、ぼくは待ち合わせ時間に敢えて少し遅れて行くことにした。人との待ち合わせとは言え、みどりのように四人掛けの席を一人で占有しながら、何食わぬ顔で平気で待つような真似をするのは、小心者のぼくにはとても気が引けることだからだ。
 歩きながら、みどりについてリカが言ったことを憶い出していた――﹁それは……心の叫び……みたいなもの……」――ぼくにはまったく腑に落ちるところがなかった。リカが言うような、みどりからのサインはぼくにはまったく解らない。
 カフェに十数分ほど遅れで着くと、やはり、四人掛けソファ席をみどりが独りで陣取っていた。
﹁ごめん、遅れた」
﹁ううん、わたしも今さっき、来たとこよ」
 黒の長袖ブラウスに、ゴールドのラメが編み込まれたシャンパン・カラーのニット地のタイト・スカート、黒のストッキングに黒のハイヒールのスェード・ブーティという装いで、今日のみどりは快だ表情をしていて、これまでになく華やいで見えた。ソファの傍らにはチョコレート・ブラウンのミュールスキンのコートが折り畳まれていた。
 黒のブラウスの身頃は、繊細なフローラル柄のブローケード織りのような刺繍が全面に施された生地で、近くで見ると、それはとても素敵なものだった。おそらく、かなり高級なブランドものだ。ぼくは素直にその装いを褒めた。
﹁ありがとう! 流石、純さんね! 純さんくらいよ、褒めてくれるの」と言って、みどりはとても大袈裟に喜んだ。
 彼女の着た黒のブラウスの台襟付きカラーは、ネックの後ろ半分が立てられていて、その身頃のボタンは、やはり胸の谷間が見えるところまで留められていなかった。それは、みどりの色白の素肌をシャープに際立たせていた。
 客のオーダーを伺いに来た、文句のつけようのない至極丁寧な接客態度のこの店のウェイトレスに、ぼくはブラック・コーヒーを、みどりはカフェ・オ・レをオーダーした。
 BGMは、Big John Pattonのアルバム、Got A Good Thing Goin'だった。透明感のある彼のHammond Organの響きとGrant Greenのナチュラルなギター・サウンドが、その音と音で会話を交わしているかのように絶妙に絡み合いながら、店内の空気をまるで高品位な空気清浄機にでも通したみたいに心地好い空気に変えて、その音の波がぼくの身体を柔らかく刺激しながら漂っていた。それで内心、ぼくはいつもより機嫌を一段階善くしたので、それがそのままぼくの表情に出たのかもしれない。それに呼応するように、みどりは一層明るく振る舞った。 
﹁それでね、純さん、ウチの商品の取り次ぎ販売代理店を設けることにしたの」
﹁へー、それは商売が順調なんだね」
﹁なんとかね……それも純さんのお蔭よ」
﹁いや、ぼくは特別なことは何もしてないよ」
﹁いいえ、お世話になってるもの。それで、その販売店第一号の契約が取れそうでね……」
﹁それが、この前のミーティングだったわけ」
﹁うん、そう。この前、その販売店候補の方と会ってたのよ。それで、販売店用の販促キットみたいなのが必要、て話しになって……それで、当然、純さんにお願いすることになるから……」
 つまり、新たな仕事の依頼だった。みどりの事業の進展状況は順調なようだった。ということは、今のみどりに特に記憶障害のような問題はないと考えられる。やはり、あれはリカの言ったように、芝居じみたものだったのだろうか?
 みどりは仕事用の大きな鞄から資料のファイルを取り出して、その中身をテーブルの上に雑に広げた。それは、雑誌の切り抜きやら、他社のリーフレットなどを雑多に纏めたものだった。以前、最初に打ち合わせを始めたときに、みどりは何から何まで、そのすべてを口頭で説明しようとするものだから皆目要領を得ず、次からは何かしらの視覚的に判断できる、より具体的な資料を用意して欲しい、とぼくが彼女に通達したからだった。
 その後は、即席の仕事の打ち合わせとなった。万事仕事の話に関する限り、みどり自身の要望は常にはっきりしており、明快で事務的にも的確なものだった。そういうビジネス的手腕については贔屓目なしに高く評価できる。そこから推察すると、営業面でも事業が順調なのは十分頷けることだった。
 打ち合わせの最中、テーブルの上の資料を手に取ったり、それをまた広げては見せたりする度に、みどりは引っ切りなしに軀を動かしてはその尻の座面位置を替えるので、彼女のスカートの裾がズレて、どんどん捲れ上がってはその裾を手で伸ばし、という仕草を彼女は度々繰り返した。それを意識的に見ないようにしようとしても、それがどうしても、その度にぼくの視界にその姿が映り込み、無意識にぼくの目が勝手にその動きを追ってしまう。
﹁見える? いいわよ、見えても。純さんなら」
 ぼくの目線の動きに気づいたみどりがそう言った。ぼくは苦笑した。
﹁ぼくが悪いんじゃないよ」
 実際、みどりのその所作は、見えてしまうのが嫌だから隠しています、と言うよりは、スカートの収まりが悪くて、気持ちが悪いから無意識にやってしまっているだけです、という風な、雑な仕草だった。
﹁ニット素材だから、捲れてこうなっちゃうのよ。でも、黒だから、何てことないでしょ?」と、みどりは自ら、着けているショーツの色を明かして、笑いながら軽口を叩いた。
 そのみどりの言葉尻から、まったく嫌みな感じを受けない自分にぼくは驚いた。彼女のいつもの言葉尻に感じる不自然さ、というか、尊大な態度と奔放な言動とが混ざり合った、整合性を欠いたあの独特な違和感を今はそこに感じなかったからだ。
 けれど、実際にこちらから見えた景色は﹁何てことない」なんてことはなかった。みどりの着けていた黒のストッキングは、彼女の下肢のすべて覆い隠す、あのパンティ・ストッキングではなかったからだ。みどりのスカートの中の黒いショーツとストッキングとの間に僅かに見える、彼女の色白の太腿の素肌が見せるコントラストは、テーブル越しに見せる景色としては、男性の目を刺激するには十分過ぎるほどエロティックだった。それはスタイリングが整っていてこそ際立つエロティックさと言える。ぼくは思わず、黒いレザーのチョーカーを首に着けた、あのリカの姿を脳裏にダブらせてしまい、無駄に背徳感を感じさせられてしまった。
 打ち合わせには案外時間を取られた。それは、みどりの仕事に対する姿勢にプロ意識が高まっていたことがそのまま反映されているのだと言えるのではないかと思う。ぼくにとっては、それは歓迎するべきことだった。初期段階で綿密な打ち合わせができた方が、後々は楽に仕事を進めることができる。
﹁ねえ、お替わり頼んで、少し小休止しましょ、純さん」
 そう言うと、みどりは、控えめだが愛想の良いウェイトレスを呼んでオーダーした。
﹁純さん、わたし、愉しいの。こうして純さんとお仕事一緒に出来て」
﹁自分の今の仕事にやり甲斐を感じてきた?」
﹁そう。その通り。忙しいけど、今が一番充実してる感じ」
﹁なるほど」
﹁純さんも、そんなこと、あった?」
﹁そうねー……駆け出しの頃はそうだったのかなー?」
﹁ああ、そっか。わたし、まだ駆け出し中よね」と言って、みどりは愉しげに笑った。
 ぼくは、初めて、素直な態度で接するみどりを見た気がした。正直に言うと、ぼくは嬉しかった。店のBGMによる効果かもしれない。
﹁ねぇ、純さん、わたし、他人に思い遣りを掛けられる人になりたいの」
﹁ほう」
﹁わたし、そういうのが解らないのよ」
﹁というと?」
﹁思い遣りって、何?」
﹁……」
 ぼくは絶句してしまった。
﹁例えば、何?」
﹁例えば、って言われても……」
﹁純さんは、いつも、人に思い遣りを持って接してる?」
﹁そう言われると、正直、いつも、誰に対しても、というわけではないね」
﹁そうでしょ?」
﹁……うん」
﹁それは、特に好きな人にだけ?」
﹁そんなこともないと思うよ」
﹁好きじゃない人にも思い遣り、ある?」
﹁少なくとも、思い遣りを掛ける、 掛けないの基準は、その相手に対する個人的な好き嫌いの問題ではないと思うけどね」
﹁……そう……」
﹁じゃ、わたしに対してはどうお?」
 みどりのその言葉に、ぼくは呆れて笑った。
﹁おいおい……思い遣り、感じられない?」
﹁そうなの?」
﹁解らないの?」
﹁……解らない」
 みどりは真顔だった。
﹁……うーん……例えば、この一連の仕事を受けてるのは、少しでもあなたの助けになれれば、という気持ちでやらせてもらってる。それを少なからず、ぼくの思い遣りと感じてもらってないとすると、それはちょっと……ぼくとしても立つ瀬ないよ?」
﹁あー、そっかー……そうよね、ごめんなさい。これは純さんのわたしへの思い遣りよね。わたし、馬鹿だから、解らないの、ごめんなさい」
 みどりはまるで、子どもが大人に諭されて悄気るような態度を見せた。至らぬ子どもに反省を促し諭す学校の先生、みたいな図になった。不思議なことに、ぼくは彼女を虐めているような、嫌な自分を感じさせられた。勿論、それは大きな錯覚だ。
﹁……ねぇ、純さん、そういうこと、ちゃんと解れる人に、わたし、成りたいの」
 大の大人から、そんな言葉を投げかけられたのは初めてだった。想定外の問いに対して、用意されていなかった言葉を改めて即座に見つけ出すのは難しい。ぼくは頭の中の書棚から、背表紙に﹃思い遣り』というタイトルが記された本を探した。
 そしてこのとき、これまでずっとみどりに対して抱いていたもやもやした感情をぼくははっきりと認識した。それはやはり、同情だった。
 親にとって、不出来な子ほど可愛いと言う。ぼくには子どもはいないから、実感としてのその感慨を得るのは未経験だから不可能だけれど、それを他人――この場合、大人だが――に当て嵌めれば、今日のみどりはそれだった。
﹁純さん、わたし……なんか、最近、物忘れが激しいみたいなの……」
﹁……やっぱり」
﹁え? 純さんも気づいたことある?」
﹁あ……うん」
﹁何? 何か、あった?」
﹁この前の電話で……ほら……」
﹁あ、美輪ちゃんのお店での話ね」
﹁そう」
﹁あれ、後で憶い出したわ。でも、あのときはまったく憶い出せなくて……」
﹁ほう……」
﹁わたし、お仕事のし過ぎなのかしらね……」
﹁仕事のストレスか……確かに、一人でこなせる仕事量としては、そろそろ限界なのかもしれないね」
﹁でも、女が独りで生きてくには、できるだけ切り詰めないと、なの」
﹁……うむ」
﹁それに……わたし、酷い偏頭痛持ちでしょ? それも、なんか関係ある?」
﹁……どうなんだろうね……ぼくは医者じゃないから判らないよ。だから、あのときも、一度、お医者に行けって言ったじゃないか」
﹁そう……でも、怖いじゃない?」
﹁自分の健康の問題だよ?」
﹁……そうね」
 あれは、芝居などではなかったようだ。
 そして、みどりがこんなに汐らしい態度をぼくに見せたのは、ちょっとばかり驚きだった。普段﹃自立する女』というスローガンを楯に、それを拠り所にしてはいたが、堅い鎧を暫し脱ぎ捨てた生身のみどりの姿がそこには在った。とにかく、今日のみどりはいつになく上機嫌だった。それは、これまでのみどりとはまるで別人のような、和らいだ印象をぼくに抱かせたが、目の前に居る女性は間違いなくみどりさまに他ならなかった。
 仕事の打ち合わせは後に無駄に確認作業をせずに済むように二人で了解し合って、この段階で可能な限り纏め上げた。そういう実務上の協力関係では、案外、ぼくとみどりは息が合った。
﹁純さんがわたしのビジネス・パートナーになってくれるとありがたいんだけどなー」と、みどりは冗談めかして言った。彼女も同じように感じていたようだった。
﹁そうもいかないよ」と、やはり、ぼくは即座に固辞して見せた。
﹁プライヴェートな方のパートナーでも良くってよ?」
 みどりは悪戯な笑みを浮かべながら切り返した。ぼくは苦笑を返した。
﹁ねぇ、純さん、今日はお時間有るんでしょう?」
﹁……あ、ああ、うん」
﹁じゃ、そろそろ夕食どきだから、お仕事はここまでにして、今夜は一緒に何か食べながら飲みましょうよ。日頃お世話になってるんだから、勿論、わたしの奢りよ」
 そう言えば、美輪のカフェで、みどりが具合を悪くしたあの日の別れ際、そんな誘いを受けていたのだった。考えてみれば、みどりとは、二人っきりでの会食の機会などこれまで持ったことがなかった。それは意識的にぼくが避けていたことでもあった。今日のこの流れなら、それも良いかな、と思った。言うなれば、気の弛みとも言えるかもしれないが、それよりも、ぼくの胃袋が同意を強力に後押ししていたのだ。
﹁……そうだね、じゃ、奢ってもらおうかな」
 ぼくとみどりはカフェを出て、極最近開店された店で、みどりが﹁一度行ってみたいと思っていたの」と言う、イタリア人シェフが経営するイタリアン・バール・レストランへ移動することにした。

 少しばかり歩いてその店に着くと、やはりオープン直後の話題性もあってか人気らしく、店の入り口には既に数組の客が入店待ちの列を作っていた。それを見て、ぼくはてっきり、みどりが別の店にしようと言い出すだろうと決めて掛かった。
﹁ね、純さん、わたし、もうイタリアンの口になっちゃってるの。少しだから、待ちましょうよ。いいでしょ?」
 ところが、驚いたことに、当のみどりは店の外で待つことを厭わず、お行儀よく列に並んで待つつもりらしかった。本来の彼女の性格なら、そんな悠長な真似はできない筈だった。﹁チッ」と舌打ちして、﹁別のとこに行きましょ」そう言って、みどりはさっさと踵を返して方針転換するに違い無いと思っていた。それがぼくが知っていた、みどりというひとだったからだ。けれど意外なことに、彼女はむしろ待つことを楽しむ余裕すら見せていたのだった。それは、これまでぼくが見てきたみどりの性向からして、とても驚くべき態度の変化だった。
 客は次々と訪れ、入店待ちの列は後にも続いて途切れなかった。どうやらぼくらは、まだぎりぎりラッキーな時間帯に来ていたようだった。そうして、暫く大人しく待って――本当にこんなことはみどりの場合、考え難いことだった――入店が叶ったほぼ満席の店内の雰囲気は、気張らずにラフで適度な賑やかさがあり、確かに本場イタリーに在りそうな店のムードを上手く演出することに成功していて、それらのバランスが絶妙だった。二人共、直ぐにこの店内の雰囲気が気に入った。
 ぼくらはワインをボトルでオーダーし、乾杯した。
 本場のイタリーから持ち込まれた薪窯で、ナポリ仕込みの職人の手に依って焼かれたピッツァの味は確かに絶品だったし、他の料理も文句なしに旨かった。
﹁純さん、今夜は無礼講でいいわよね?」
﹁ぼくら、そんな堅苦しい取り引き会社の社員同士の遣り取りをしてるのかな?」と言って、ぼくは笑った。
﹁あ、接待よね! こういうのを接待って言うんだ?」
 みどりが目を輝かせて訊いた。
﹁どうかなー、それは。ふつう、男同士のビジネス上の接待ではこういう店は選ばないのかもしれないな」
﹁そうなの? じゃ、どんなお店? 純さんはそういうの、よくあるの?」
﹁いいや、ぼくは経験ないな……そういうことは面倒だから、なるべく避けて歩いてきた方だからね」
﹁あー、解るわ。純さんはそういう人よね。でも、ふつうの接待って、どんなの?」
﹁どうなんだろうねー? 適当に高級な焼き肉とか食わせて、その後、キャバクラなんかに連れてくのかもね」
﹁あー、それ、肉食一直線ね!」
﹁まあ、そうだよね」
﹁食欲と肉欲に酔わせるのね」
﹁それと、酒だね」
﹁分った! じゃんじゃん飲んで、酔って! 純さん。今夜はわたしがとことんおもてなしの接待をするわ」
 みどりは益々上機嫌だった。ぼくは、これまでまったく知らずにいたみどりの一面を、今夜、初めて見た気がした。それは、彼女との遣り取りの中でどうしても感じずにはいられなかった違和感を微塵も感じることのない、自然で本質的にオープンマインドなみどりの姿だった。あの、いつもの底意地の悪そうな刺のある悪態の影を、今夜のみどりは未だ微塵も見せなかった。
 取り立てて大事な話はしていなかった。飲み食いしながら、くだらない世間話をしていただけだった。それでも愉快な夜だった。それがとても不思議だった。そんな風にみどりと時間をシェアし合えるとは、これまで思ってもみなかったことだったから。それは、その前に二人で集中して仕事の打ち合わせの詰めをしていたことからの開放感、或いは、その達成感から齎されたものかもしれないし、謂わば、同時に協調協力して何かを共有した者同士に屡々見られる、同調性による高揚感が影響しているのかもしれない。また、店の雰囲気が良かったからかもしれないし、食事が殊の外旨かったからかもしれない。それら、すべての相乗効果によるものかもしれない。
 そして、二人共に杯は進み、みどりは強かに酔い、ぼくも久しぶりに酒で酔った。
 店員がラスト・オーダーを伺いに来た。知らぬ間に、ぼくらはラスト・オーダーまで店で粘っていたのだった。
﹁いいえ、もういいわ。ありがとう」
 みどりが店員に断った。
﹁お店、もう締めなのね。それじゃあ、わたしの家で飲み直しましょ! 頂き物の良いワインがあるの」
﹁え? ……まだ飲むの?」
﹁いいじゃない、今夜くらい! 純さん、とことんつきあってよ!」
 チェックアウトすると、みどりは愚図るぼくを強引に引っ張って、腕を組んで連れて歩いた。ぼくの方もかなり酔いが回っていて、いつになく︵まあ、いいか)という、かなり投げ遣りな気分になった。結局、その流れのまま、みどり宅へ邪魔することになった。


 初めて訪れたみどりのマンションの部屋は、決して広くはなかったが、独り住まいにしては贅沢な間取りだった。オープンキッチンのダイニングは十分な広さがあって、其処にはシンプルだけれどデザインの洒落たテーブルと、向かい合わせに椅子が二脚在った。何れもイタリー製ファニチャーのセットアップ物に見えた。その傍らの窓際に置かれたプランターを挟んで、高級そうな黒いレザー張りのソファとロワーテーブルが在った。たぶん、これらのファニチャー類は、すべてCASSINA社製の高級な品物だと思う。
 みどりはダイニングに入って、チョコレート・ブラウンのミュールスキンのハーフコートを脱いで、それを無造作にテーブルに投げ置くと、﹁純さん、そこに掛けて寛いでて。すぐにワインとおつまみを用意するわ」と、リビングのレザー張りソファで待つようにぼくを促した。
 言われたままにソファに腰を落として部屋の中を見渡すと、生活感の滲み出るところが殆どない、まるでプロのインテリア・コーディネーターが纏め上げたようなセンスの良いモデル・ルームみたいな佇まいだった。その印象は、殺風景とは言わないまでも、全体的に少しばかり物足りなさを感じないわけでもなかった。今や女独り暮らしで、彼女にとっての邪魔な物を徹底的に省いた、みどりらしい部屋と言えばみどりらしい、かなり思い切って無駄を排除した部屋だった。
 暫くすると、みどりはクラッカーにチーズを載せて盛りつけた小皿をソファの前のテーブルに置いた。大雑把ではあったが、流石に主婦歴があるだけに、酒に酔ってはいても手際良かった。そして、ワインのボトルとオープナーを取ってきて、それらをぼくに手渡した。
﹁純さん、それ、お願い。とても良いワインらしいんだけど、純さん、わかる?」
 ボトルのラベルを、確かめるだけは見確かめてみた。
﹁フランス産ということ以外、まったく判らないな」
 みどりがキッチンからワイングラスを二つ手にして戻ると、隣に腰を落とした。
﹁飲んでみて、旨いか、不味いかしか、判らない」と、ぼくは言った。
 みどりは隣で微笑んでいた。
 手子摺りながらも、なんとかワインのボトルのコルク栓を抜き、二つのグラスに注いだ。
 みどりがグラスを掲げ、ぼくらはグラスを重ねて音を鳴らし、一口含んだ。
﹁うん、確かに。これは旨いね」
﹁うん、美味しいわね。良かった。こんなときがないと、開けられないもの」
﹁良かったの? これ、かなり高級なものなんじゃないの?」
﹁いいわよ。純さんへのおもてなしなんだから、相応の品の筈よ」
 機嫌を善くしているのは、もてなしを受けている側のぼくよりも、むしろ、もてなしている側のホステスのみどりのほうだった。
 それから、みどりはソファの隣で斜めに傾いで、ぼくの軀に体重を乗せて寄り掛かり、グラスを持った手を天井に向けて掲げて部屋の角のスタンドライトの灯りにグラスを透かして、そのワインの色をじっと見たりしながら、そして、それをまた口に運び、極短い言葉を投げ掛けてはぼくの短い応えに頷き、そしてまたワインを味わったりを繰り返した。みどりの手にするグラスの縁に彼女の赤い口紅が残した油の痕が所々に重なって着いていた。次第にぼくは流石に酔いが回ってきて、ソファに深く軀を沈めつつ緩い睡魔を感じ始めていた。横でみどりが凭れかかる重みを鬱陶しく感じていたが、ぼくの瞼が重くなり始めていたのはそのみどりの軀の温もりが逆に心地好かったせいでもあった。そう、彼女の軀は熱かった。
 ワイングラスをテーブルに置くと、みどりは徐にふらっと立ち上がり、よろよろと千鳥足で部屋の壁際の棚に向かった。音楽を掛けにその棚の上に在ったミニコンポを操作しに行ったらしかった。そして、スピーカーから音が流れ出した。Cal Tjaderのアルバム、"Soul Burst"だった。それは中々センスの良いセレクションだった。それが偶々、そのときコンポにセットされっ放しだったCDであったにせよ。みどりは壁から向き直って、こちらに歩み寄りながら、テーブルの向こうのフローリングに敷かれたモノトーンの幾何学模様のラグの上で、穏やかな波打ち際に浮かぶ半死のクラゲのようにラテンジャズ・グルーヴのリズムに合わせて軀を揺らして踊りだした。みどりは明らかにご機嫌さまに酔っ払っていた。そして、ぼくの視界自体もぼんやりと心地好く微妙に揺らいでいた。
 みどりは軀を揺らせつつ、ゆっくりとこちらに近づきながら、しかし、途端にテーブルの上に乗り上がろうとした。みどりの予想外な動きを制することができる反射神経をぼくはアルコールによって既に麻痺させられてしまっていて、脳からの指令に軀の反応が追い着かず、みどりはもう既にテーブル・トップの上に立っていた。ぼくは慌ててワイングラスとボトルを手に取って、辛うじてソファ横の床の上に回避させるのがやっとだった。
 目の前で、みどりの軀が酔って揺れていた。
﹁純さん、わたし、熱い……」
 みどりはブラウスのボタンを外して、それをあっさり床に脱ぎ捨てた。しかも、続けざまにスカートの後ろのジッパーにも手を掛けていた。ぼくは、その一連の行動に驚きを抱きつつも、ぼんやりとそのさまを仰ぎ見ていたら、スカートはあっという間にテーブルの上に落ちていて、目の前のみどりはもうすっかり霰もない下着姿になっていた。
 みどりは酔っ払ってしまったからなのか、ぼくに対してまったく恥ずかしがる素振りを見せない。また、それはぼくを挑発しているというわけでもなさそうだった。彼女は音楽に身を委ねて陶酔して踊るというよりは、ただゆっくりとテーブルの上で回転しながら揺れているみたいだった。そんな女性の姿を、ぼくは以前にも見たような気がした。
 黒の薄いレースで揃えられたブラとショーツ、そのセットアップなのだろう、ガーターベルトで留められたストッキング姿で、みどりは尚も揺れ続けていた。それは、男性のぼくへの接待のおもてなしの余興としては間違いなく最上級の見せものと言えたが、果たして、みどり自身はそのつもりなのかどうかは判らない。最早、みどりの姿は裸同然と言えた。それにしても、みどりの肢体は、中年女性のそれとは見紛うものだった。その素肌は細やかで透き通るように白く、少し汗ばんでいたからか、艶さえあったし、どこにも皺や垂み一つない、美しい張りのある曲線を有した軀だった。乳房は弛んで垂れてなどいなかったし、覆うには余りにも小さ過ぎるGストリングス・ショーツによって露な尻さえも、引き締まって、弾力のありそうな美しい丸みを見せていた。
 すると、まるで突然、天からお告げでも授かったかのように、みどりは軀の動きを止めると、テーブルから降りて、ぼくの直ぐ前に仁王立ちになったのだった。
﹁純さんに見て欲しいの」
 言うが早いか、みどりは今度はブラを外して、その場に捨てた。そして、あっという間にショーツにもその手を掛けて、スルッと見事に脱ぎ落とした。薄くて黒い小さな布切れがみどりの足下に引っ掛かって、みどりは片足を上げてそれを完全に躰から外した。ソファに座るぼくの、ほんの爪先のところでみどりは立って、惜しげも無く、その裸体のすべてをぼくに曝していた。
 そして、みどりは尚も大胆に、片足をソファの肘掛けに掛けて脚を開くと、その股間をぼくの目の前に露にした。顔面の前に曝された、黒いガーターの下の彼女の最もエロティックなそこには、有る筈の陰毛は陰かたちも無く、美しく脱毛処理されて、緩やかに盛り上がった白い恥丘の真ん中が縦に小さく割れて見えた。

 ベルガモットの精油。
 矢車菊と紅茶の渋み。
 ミルクと人の汗。
 濃く咽せるようで誘われる女の匂い。

 その刹那、それらの入り混じった濃密な匂いに包まれた。
 それは、デジャヴュのようだった。そう、これは以前、夢の中で見たみどりの姿だ。胸の芯に焼けるような熱さを感じた。そして、心臓が途端に高鳴りだした。
 自分が見た不埒な夢を、その最初から最後まで、みどりに見透かされていたような気がした。そしてそれをみどり自身が今、そっくりそのまま再現しようとしているかのようだった。
﹁わたし、ずっと純さんに見て欲しかったの」――︵これが、あなたが夢に見た、わたしの姿でしょ?)
 そう聴こえた。みどりは知っていた? ……そんな筈はなかった。けれど、これはやはり、あの夢で見たシーンとまったく同じだ。
 酔いが過ぎてぼくは幻覚を見ているのか、いや、それとも、またしても夢の中に居るのか、現実なのかそうでないのか、今見ているヴィジョンの正体が一体何処に在るのか、ぼくは混乱して判断ができなくなった。
 みどりはその片足をソファーの肘掛けに乗せたまま、まるで何かの霊が乗り移ったかのように音楽に合わせて軀を揺らせながら、両手を自身の軀の上へ下へとゆっくりと交互に繰り返し這わせた。みどりが腰を前後にくねらせると、目の前でエロティックな小さな割れ目の奥のピンク色に濡れた薄いラビアが見え隠れして、そこからは透明の露がもう既に滴って、白い内股の付け根をゆっくりと伝っていた。俯き加減に項垂れながら、ぼくの方へ視線を落としているのであろうみどりの顔は、彼女のミディアムロングの前髪が垂れて、その髪の塊が顔を覆っているのでその表情がはっきりとは見えない。みどりはぼくを意識して自身を昂らせているのか、それとも、独り恍惚の我が世界に入りきってしまっているのか、それも判らない。
 あの夢の中のみどりの姿と、今目の前で揺れているみどりの姿が、眼窩の奥でシンクロして重なって見えた。脳内に血流が集中して火照って熱くなりだした感じがした。僕はただ唖然として、ソファのクッションに軀を埋めたまま動けなくなった。それは、信じ難い驚きと同時に、呪術のような異様ささえ感じていたからだった。
 みどりは手元を胸と股間に留まらせ、その指先で自身の敏感な部分を刺激していた。そして、吐息を漏らして悶え始めた。
﹁純さん……見てて……」――︵もう一度見たかったでしょ?)
 みどりの声がダブって響いて聴こえる。
 これはやはり、また同じ夢を見ているのかもしれない、と思った。その証拠に、軀は金縛りにあったように動かせなかった。けれど、ペニスだけは確実にパンツの中で勃起していた。
 みどりの軀から熱気が溢れていた。彼女の素肌が、その内側で粟立っているかのように汗でしっとりと湿りを帯び始めていた。みどりの指先が自身の乳首を摘むと、ピクンと仰け反り、また、もう片方の指先がクリトリスを擦れば、﹁あうっ!」と呻いて軀を震わせた。みどりは徐々に、確かに自身で昂って、徐々に昇り詰めようとしていた。彼女の手は執拗に自身の股間を弄り、その指先はラビアを広げてヴァギナの中へと挿入されていた。その腕を突っ張らせ、また緩めて、指先が入ったり出たりを、音を立たせながら繰り返すところを具にぼくに見せる。指がヴァギナに入る度に透明に光る露が指に纏わりつき、それがみどりの手の平を濡らして指の間から細く糸を引いて滴り落ち続けた。
 そして、そこから発せられる濃厚なみどりの女の匂いの膜にぼくは包まれていた。夢で感じ取れる筈のないその匂いまでもが、何故かあの夢の中で感じたそのものだった。
 みどりは身悶えながら、指先の動きを止めようとしなかった。その動きは更に敏捷になり、彼女の白い素肌はどんどん紅潮を帯びて、今や全身から蒸気さえ発しそうなほどだった。
﹁純さん……ちゃんと……最後まで……」
 みどりは呻き、嗚咽を漏らし、声を震わせながら、ヴァギナに指を止めどなく出し入れを繰り返していた。透明の露が遂には泡立ち、白濁して、ラビアと手の平の間で粘って糸を引いていた。
﹁見て!」
 軀を引き攣らせて喘ぎ叫ぶと、みどりはヴァギナからその手を離した。その瞬間、開かれたラビアの間から汐を迸らせた。それはぼくの顔に目掛けて勢い良く解き放たれた。
 みどりは軀をぶるぶると震わせ、腰を抜かしたように脱力して、テーブル・トップにその腰を落とし、両手で股間を覆いながら項垂れて放心していた。ぼくは、みどりの生暖かい汐で顔を濡らしたまま、愕然としていた。ペニスは尚パンツの中で硬直したままだった。
 みどりは顔を上げてぼくを見詰めると、両手を伸ばして、まだ濡れたままのその手でぼくの顔を拭った。そして、その指先で以てぼくの唇を開けさせると、指先を口に突っ込んで舌の上に乗せて舐めさせた。そのみどりの濡れた指は、微かに薄ら塩味を感じさせたけれど、殆ど味という味はしなかった。けれどそれと同時に、その味よりも、より濃密なみどりの匂いにぼくは包まれた。それは、まるで媚薬の香りを嗅がされたたみたいで、彼女はぼくの中の何ものかを麻痺させて、その手の内に閉じ込めた。みどりは優しい表情でぼくに微笑み掛けていた。
﹁純さん、まだよ……まだダメよ……」と、みどりは顔を近づけて、諭すように言いつけた。
 そして、みどりは自分の両手を後ろ手に回して背後のテーブル・トップに突っ張らせ、上半身を反り返らせると、しなやかに両脚を大きく広げて、その足先をテーブル・トップの縁に乗せ掛けた。みどりのぬめぬめと濡れた内股がぼくの面前に大きく開け広げられていた。
﹁ああ……」
 みどりが仰け反って呻き声を上げ始めると、ヴァギナの入り口のラビアがまるで生き物が呼吸するように振幅しながら、独りでにゆっくりと開きだした。その中心から何やら小さく光るものが見え始めた。それは入り口をどんどんと広げるように大きくなり、ヴァギナの両縁は内部からそれに押されるように盛り上がってくる。そして、ラビアが更に大きく丸く口を開けだすと、その中心の光るものが、はっきりとまん丸とした球状の何かに見えだしてきた。みどりは何かを今、そこから産み出そうとしていた。ぼくはやっとそれを悟った。そして、これから始まろうとしているその過程を、息を呑んで見入った。
 それは、ゴルフボールより大きく、テニスボールよりは小さい球状の物体だ。
 みどりのラビアが開いて伸びて、ヴァギナの両縁が最大限盛り上がったかというところで、それはプルンと、遂にヴァギナから押し出された。それは球状の……光る玉だった。その玉は、みどりのヴァギナから産み出されると、床に落ちることなく、独りでに宙に浮遊していた。まるで、それ自体に意思が在るかのように、紛れもなく完全に重力に逆らって浮かんでいる。そして、そのままゆっくりと更に浮上し、丁度、ぼくの顔の高さ辺りに浮き上がって、そこで空中に留まった。
 みどりのことが心配になって様子を見てみると、彼女は両脚をだらりと開いたまま床に座り込み、テーブルに凭れかかりながら失神しているようだった。みどりのヴァギナには流血は見られず、裂傷などはしていないようだった。何より、みどりの乳房が胸の鼓動に合わせて正常に上下しているのを視認して、ぼくは安堵した。そして尚も、目の前で浮遊し続ける不思議な球体にぼくは見入った。
 その玉の中心には、何か核らしきものが在るのか、それが内部で蠢いているように見えた。煙幕のような霧状の白い塊がその中心を覆うように渦巻いていた。それらが光って見えるのだった。いや、それに絡み付くように電光のような小さな稲妻のような連なりが玉の中を光って動いていた。その玉は、球面体の中に閉じ込められた有機体のような未知の物体だった。
 次第に、ぼくはその球体に触れたい衝動に駆られた。その玉が、その意思で以て、ぼくの手を引きつけているかのような誘因力を感じた。さっきまで金縛りにあっていた手が、今度は独りでに動き出しているのに気づいた。それは抗えない力による誘因だった。ぼくの両手が徐々に球体に向かって伸びた。
﹁それに触れてはならない」
 突如、声が聴こえた。ぼくは反射的にその声の聴こえた方を見た。キッチンのテーブルの椅子に猫虫が座っていた。猫虫はこちらをじっと見詰めていた。
﹁それは蛇玉だ」
 猫虫が言った。
︵蛇玉? ……)
 ぼくは心の内で反芻した。
﹁そうだ。それは蛇玉だ。だから、きみはそれに触れてはいけない」
 そう言って、猫虫は再度、ぼくに念を押した。
 けれど、ぼくの手は、強力な磁石に引き付けられるように球体に引き寄せられ続けていた。その吸引力はどんどんと力強さを増してくる。
 猫虫は椅子にじっと座ったまま、こちらを見詰め続けていた。
 ぼくは、誘引される力に抗いたい気持ちと、玉に触れたい衝動との間で揺れていた。手は独りでにどんどん球体に近づいてゆく。
﹁それは、きみにとっての試練だ」
 猫虫の声が聴こえる。
 それでも、ぼくの手は更に球体に近づいて、今やもう、あと1センチ足らず、というところまで引き付けられていた。この力には到底抗いきれない……と、ぼくは半ば諦め掛けた。
﹁しかし、触れてはならない。きみのためにも。きみの大事な人を守るためにも」と、猫虫が言った
 ぼくの脳内の記憶が、一瞬にして高速逆再生されて、最後に、それは桃色の網膜に包まれた。その瞬間、ぼくの両手は逆方向への強大な引力によって、ソファの座面にベタッと張り付いた。まるでそれがスイッチになっていたみたいに、バチッと静電気が起ったみたいな音がして、部屋の灯りが急激に電圧降下を起したように、一瞬消えかけて、直ぐに点灯復帰した。
 そのアクシデントと同時に、みどりのヴァギナから産まれ出た謎の玉は浮遊していた力を唐突に失い、真っ直ぐに床に落ちた。球体であったその外郭の膜は床に当たって音も無く破裂して、灯りが落ちたときのその暗がりに吸い込まれるように消え失せ、床にはドライアイスのような消え入る白い煙が立ち昇った。
 すると、そこから蛇のような足の無い胴体だけの薄気味悪い生き物が、浜辺に打ち上げられた死骸のように力なく遺って現れた。それは、うなぎの白焼きみたいに色素が薄い肉の塊で、卵の中に居た幼体のように表面が濡れていて、その皮膚が微かな部屋の光を滑らかに反射させていた。全身に細かな鱗状の刻み模様のある、その蛇のような生き物の生命力は明らかに失われており、ただ力なくベタっと足下の床に落ちているだけだった。それは、死骸に違いなかった。
 この得体の知れぬ、蛇に似た生き物の死骸を凝視していると、何故か、その弱々しい生き物の命を自分が奪い取ったような嫌な気分がした。それは何と言うか、そのようなことをした覚えはないのだけれど、自分が見殺しにした人の遺骸を見せられたような、そんな、これまで味わったことのない、黒く、そして、後ろめたくも罪悪感を伴った重苦しさを胸の奥に生じさせたのだった。
 そのまま暫くぼくはソファの背もたれに軀を預けて放心していた。まるで全力疾走して力尽きたときのような、強烈な体力の消耗による疲労と焦燥感とが全身を支配していた。ふと気づいて、キッチンの方に目を遣ると、猫虫の姿はもう其処には無かった。
 次第にぼくは全身に開放感を感じ、それが金縛りから解かれていたことを実感させた。念のために両手を自力でゆっくりと伸ばしてみた。なんともなかった。玉が浮遊していた辺りに手を翳してみた。何も手に当たる物は無かった。夢か幻覚の中に居たような気分は拭い去り難かったが、ぼくの足下の床には小さな白い蛇のような生き物の死骸が、膝先には項垂れて失神したみどりが居て、この双方が此処で同時に存在していることが、現実に起った出来事であることをぼくに証明して見せていた。
 なんとか我に返ったぼくは、この蛇のような生き物の死骸の処分をどうしたものかと暫し思案したが、粘着シート式の罠で捕れたネズミは生ゴミとして廃棄するのだと、いつだったか、以前に誰からか聞いたことを憶い出し、それならばやはり、これも生ゴミとして扱って廃棄するのが妥当と判断した。
 失神していたみどりには無断で、キッチン周りのドローワーを片っ端から引いては戻しを繰り返し、五つ目のドローワーの中に、几帳面に小さく折り畳んで在ったグリーン色のレジ袋の取り置きを見つけ出した。そのレジ袋を開きながらリビングに戻り、意を決して床から死骸を掴んで袋の中に放り込み、開口部をキツく二回結んで閉じた。生き物の死骸の触感は、ぬめりを帯びて弾力があり、相当に気持ち悪かったが、驚いたことに、その体重はまるで抜け殻のように軽く、質量的な重みが殆ど感じられなかった。その軽さを直に確かめられたお蔭で、ぼくの殺生感と言うか、罪悪感にも似た気分の重苦しさは、この生き物の死骸のあまりにも信じ難く唐突過ぎた出現時よりは、その死骸の体重に比例するかのように幾分減じられた。
 キッチンの床に設えられていたステンレス製のダストボックスのフットペダルを踏んでその蓋を開けると、ぼくはそこに死骸の入ったグリーン色のレジ袋を投げ捨てた。
 そして、項垂れたままだったみどりを床から抱き上げて、一先ずソファに寝かせた。
 みどりが薄すらと瞼を開いた。意識が戻りつつあるようだった。
﹁……純さん?」
 みどりが弱々しく両手を伸ばした。それは、﹁抱きしめて」と伝えたみたいだった。
 ぼくはみどりを抱き締めてやった。そして、ベッドルームまで彼女を両手で抱えて運び、彼女をベッドに寝かしつけた。
﹁純さん、わたしが眠るまで、側に居てくれる?」と、みどりがぼくの手を握り締めて、離そうとしなかった。
 ぼくは頷いて、ベッドの傍らの床に腰を落とした。



  Ⅹ ユリカモメの落日



 十一月の始め、美輪から電話があった。
﹁純さん、みどりさんのことなんですけど……純さんは最近、会われましたか?」
 いきなり、みどりのこと、と聞いて、ぼくは少々動揺した。
﹁いや、会ってないな。もっぱら、メールでだけの仕事上の遣り取りだからね。ちょっと前までは印刷物の打ち合わせを暫く続けていたけど、それも一段落して、もうすべて仕上がってるからね」
﹁あー、そうなんですかー……」
﹁どうかしたの?」
﹁……いえ、つい先日なんですけどね……」
﹁うん」
﹁ウチのお店で、みどりさんとお客さんが待ち合わせされてたみたいなんです」
﹁うん、それが?」
﹁みどりさん、完全にすっぽかされちゃって」
﹁ん? ……どっちが?」
﹁あ、みどりさんが、です。……あ、お客さんを、です」
﹁彼女が、自分の顧客との約束をすっぽかした?」
﹁あ、はい、そうなんです」
﹁遅刻じゃなくて?」
﹁はい。携帯で何度も連絡もされてたみたいなんですけど、不通だったらしくて……」
﹁ほう」
﹁なんか、みどりさん、最近、おかしいんです……」
﹁おかしい、って、その件だけじゃなくて?」
﹁あ、はい……」
﹁ほう……」
﹁あのー……、以前、純さんが電話くださったこと、あったじゃないですか? ……ほら、占いの女性が来られた日のこと……」
﹁ああ、そうだったね」
﹁純さん、あれって、みどりさんがあの日のこと、覚えてなかったから、じゃなかったですか?」
﹁うん……」
﹁みどりさん、やっぱりおかしいです……お仕事、一人で切り盛りされてて、大変なんでしょうけど、それで身体壊されては、って、……ちょっと心配になって」
﹁うん……いや、実はぼくも、その件では気になってたんだけど……そうだね、少し気を配っておいた方がいいかもしれないね。余計なお世話なのかもしれないけど」
 ところが、みどりはまたその後にひょっこりと何食わぬ顔で美輪の店に顔を出して、我々の心配を他所に、いつものみどりさまたるところをしっかり誇示していたらしい。
﹁ちょっとわたしの気の回し過ぎでした」
 後日、美輪に会うと、彼女はそう言って笑っていた。
﹁みどりさんに﹃仕事が忙しくて、つい忘れてしまうことがあるから、大事な約束があるときはメールでお願いね』て言われました。特にわたしからはそういう用事も無いんですけどね。誰か一人くらい、スタッフ雇われたほうがいいですよねー、みどりさん」

 そして季節は進み、街路樹の銀杏の葉はすべて地面に落ちて、市の清掃作業員たちがそれらを根刮ぎパッカー車に詰め込んでは焼却場送りにしていた。多くの黄色く色づいた銀杏の葉の数々は、そうして自ら朽ちて土に還ることもできずに、人の手に依って塵同然の扱いを受けながら、早々に焼かれて灰にされてこの世から無きものとなっていった。都会の中の小さな自然は人の意思による採択で以って管理されるべきものなのだ。枝で色づけば人に喜ばれ、しかし、地に落ちれば人に疎まれる。銀杏の葉が示すように、過ごし善い秋はほんの一瞬にして過ぎ去り、あっという間に何から何まで冬の冷たい空気の中にどっぷりと飲み込まれていった。それは、地球が太陽の周りを自転しながら回っているからに他ならない。
 みどりとのあの夜の耽美と倒錯に満ちた出来事以来、ぼくの日常には特に変わった事は起らなかったし、ぼくの周辺で何かしらの変化が起るとすれば、差し当たり、その原因はみどり以外には思い当たらなかったのだけれど、その張本人に特に変化が見られなかったから、万事平穏な筈だった。というよりも、見掛け上は万事が平穏な日々に乗っ掛かって過ぎていた。けれど、実際はそうではなかった。
 いつしか、ぼくはあまりにも表面的に生きていた。現実という名の表層に張り込まれた、薄っぺらい安物の絨毯の上を歩いていたようなものだった。その下のひび割れや、ささくれや、亀裂が有っても無視して気にも留めず、ただ自分一人がその上を歩くのみに集中していた。まるで心を持たない集積回路で制御されたロボットのように。滑らないように、転ばないように、ただそれだけを信条としてひたすら歩いていただけだった。今思えば、ぼくはそんなふうに、まるで凡庸を美徳として、自分を、また、自分を取り巻く人々をも見捨てながら歩いていたのだ。知らぬ間にぼくはそんなまったく平板でくだらない人間に成り下がっていた。それは無関心を砦にして、在りもしない脅威から我が身を守っていただけだった。神々は呆れてやる気をなくし、天使たちは退屈して倦怠に酔いしれ、悪魔は手持ち無沙汰に災厄が起る兆しを待っていた。それは、息づくものの無い失地だった。
 何よりも、ぼくにとっての大切なものがぼくの世界から失われつつあることに、まったく気づいていなかった。それまでの日常は、ぼくの伺い知れないところで確かに変化していた。リカが姿を見せなくなっていたのだ。
 それが、いつ頃を境にしたことだったのかは正確には分らない。何故なら、リカが訪問する日に特に決まりや規則性はなかったからだ。突然やって来て連泊することもあれば、一ヶ月ほど連絡さえ無かったこともこれまでにある。リカは、ぼくに逢いたい、或いは、逢う必要があるときに訪れて去っていく。これまでずっとそれを繰り返していた。互いにそれがぼくらの自然体のつきあいになっていた。二人の間で何かしらの決まりをつくる必然性は感じたこともなかった。
 今更だけれど、考えてみれば、こうなってみて初めて、ぼくの中にリカが居なくなるという現実はまったくの想定外だったことに気づいたのだった。それが打算的な男女のつきあいだったのならば、ぼくはリカをぼくの生活に確かに留めておくための何かしらの策を講じておくべきだったのかもしれない。けれど、それ自体が二人の関係の基盤を根底から破壊することになっていたことだろう。何故なら、ぼくとリカの関係はその始まりから、相互依存しつつも束縛をし合わないでいられる関係だったからだ。ぼくらは双方の独自性を認め合いながら、共有し合える部分にのみ強烈に執拗に粘着していたと言えると思う。謂わば、その密着、癒着の度合いから言って、お互いの存在は欠くべかざるものになっていた筈だった。
 ただ、これほど長くリカが姿を見せなくなったのは初めてのことだった。リカの身に何かが起った可能性も無きにしも非ずではあった。もし、それが病気や事故の類いであれば、それは当然、ぼくとしては心配になる。けれど何故か、ぼくの中ではそんな不穏な疑念は浮かんでも直ぐに払拭されていた。そのようなリカの身の危機感をぼくはまったく感じ取れなかったからだ。ぼくはそれには確信めいた念を持っていた。それが心中では逆に作用していたのかもしれない。
 リカが暫く姿を現さないのには理由があり、そこには何かの意図が秘められている気がしないではなかったけれど、ぼくにはどうも、リカという存在が、完全にぼくのテリトリーから消え去ったというような、そんな絶対的な印象を持てぬままでいた。相変わらず、リカはぼくの中に居続けていた。それをどう表現したらいいのか分らない。ただ単純に、リカとぼくの繋がりは断たれていない、ぼくはそう強く感じていた。だから、以前のように、リカは何時ひょっこり現れるかしれなかったし、突然に、それこそ今、彼女から電話が掛かってくるかもしれなかった。つまり、ぼくは相変わらず暢気に構えつつ、リカ不在の退屈極まりない日常をやり過ごしながら彼女を待ってはいたが、リカが不在であっても、それはぼくにとっては、やはりリカ在りきの世界のままだった。

 或る不動産関係の会社に勤める旧友から連絡があった。
﹁おまえ、まだフリーで同じ仕事やってるんだよな?」
 事務所・店舗用の優良テナント物件があるので、見るだけでも見てみないか、というものだった。自宅兼仕事場の今のマンションにさして不満を持ってはいなかったが、ここのところ仕事は順調で、新たに仕事場専用として事務所を借りようと思えば借りられなくはないかな、というところではあった。実際問題、個人事業主たるぼくとしては特にその必要に迫られていたわけではなかったが、その友人が﹁滅多に無い、おまえ向きの優良物件だから!」と、執拗に力の入った勧めをするもので、彼の申し出に従って、見るだけは見に行ってみよう、ということにしたのだった。
 世間が年の瀬で忙しさを見せ始める前、十一月中旬、彼と待ち合わせて、物件を下見に行った。
 その物件は、古い鉄筋コンクリート平屋建ての倉庫ビルをリノベーションした建物で、新たに幾つか分割されたうちの一ブロックが今回紹介の物件だった。坪数で言えば三〇坪ほどのフラットなスペースで、元々が倉庫だったので天井が高く、優に四メートル以上あるせいで更に広々と感じる。壁の一面がガラス張りに改装してあり、そこにはテラスまで在った。これは確かに良質な物件だった。街中と郊外との中間に位置し、交通の利便も立地的に良かったし、周辺環境も良かった。何せ、友人であるところの彼の、ぼくへの最大の推しポイントである、外壁の一部に赤煉瓦が使用された古い倉庫ビルの外観の趣きが最高だった。港町の旧居留地に建っているような、おしゃれな洋館を憶わせるに近い佇まいだった。それは、ぼくらのような職業に就く種類の人間たちにとって、ある種のステイタス感を満たす趣と言えた。
 友人の彼としては、そこのところのぼくの感覚を悟ってこの物件を見つけて紹介した、自分自身の目利きぶりに大層ご満悦だった。この物件の持つ雰囲気は硬くなく、また柔らか過ぎず、建材が経年劣化して自然に古びたせいで、本来無機質な筈の鉄筋コンクリートと煉瓦を組み合わせたその外観が独特の質感に変容して、ある種の人間臭さにも似た何かを醸し出していた。条件を訊くと、彼の特別な計らいもあってのことらしいが、保証金も家賃も相場よりも破格の安値だった。それならば、確かに、今回の彼の仕事をぼくは高く評価することができた。
﹁ただ些か、ぼく独りの仕事場とするには、この部屋のスペースは広過ぎではあるなあ」とぼくが漏らすと、﹁上手い具合に仕切れば、小さなカフェの併設も可能かもしれないし、何なら中二階を作ったていい。そういう使い方でもまったく問題ないよ。ガス、水道、電気はどうにでもできるしね」と彼は言った。
 それなら、リカが見たら、きっと気に入って興味を持つかもしれないな、とぼくは思った。ステーショナリー関連の雑貨屋カフェ、なんてのもいいかもしれない。いや、リカならきっと、もっと奇抜なアイディアを思い付くだろう。そんな皮算用をしていると、いつしか、ぼくは半ば契約に乗り気になったのだったが、もう一度後日、リカと一緒に見に来て、彼女の意見を聞いてから決めようと思った。そして、それは愉しげな下見になりそうな気がした。
 物件を見終えた後、近所に在った喫茶チェーン店を見つけて、其処で彼とコーヒーを飲みながら暫し雑談した。
﹁ああ、そうそう。この前、おもしろい店を見つけてさ」
﹁ほう」
﹁新規の担当物件を下見に行った時のことなんだけど、これは、オレのいつものルーティンみたいなものなんだがさ、帰りに、近辺を視察しながら帰るわけよ。特に、旨いラーメン屋とか、さ。ほら、お客に対する営業トーク以外のネタの一つ、二つにはなるからさ、そういうのをしっかり拾っとくわけさ」
﹁ふむ」
﹁それで、いつものように、物件の近隣の通りを歩いてたんだ。そしたら、︿不動産屋〉て看板を出してる店を見つけた」

﹁なんだ、ライバル店か」

﹁いや、それが違うんだ」

﹁ほう」

﹁その店の前まで行ってみると、それがまったく、町の不動産屋然としたところがない不動産屋なわけさ。ウィンドウに物件紹介の張り紙も貼られてやいやしないし、殺風景な事務カウンターに制服姿の女子社員も見えやしない。外から窺うと、何やら、どうも骨董品屋っぽい店構えなんだな、これが」

﹁屋号は?」

﹁だから、それが、︿不動産屋〉なんだって」

﹁そりゃ、変な店だね」

﹁だろ?」

 彼は得意げな顔で続けた。
﹁で、こりゃあ、オレとしては俄然、興味が湧いてきたもんで、偵察がてら、店に入ってみたんだ」

﹁何の店だった?」

﹁やっぱり、骨董屋みたいだった。でも、何か少し違うんだ、やっぱり」

﹁ほう」

﹁店内に陳列されてる品々が、商品らしくない、と言うか、全部が全部、どことなく客に買われることを拒んでいる、みたいな……そんな雰囲気で充満してるんだな」
﹁益々、奇妙な店だね」
﹁そうだろ?」

﹁そしたら、店の奥から、店主らしきオヤジが出てきた。『いらっしゃいませ。何か、お探しの物でもありましょうか?』て、愛想良く迎えてくれたんで、素直に、ざっと、そのまんまの経緯を説明したわけさ」

﹁うむ」

﹁店のオヤジが言うには、オレみたいな一見客が店に迷い込んでくることは、この店じゃ珍しいことじゃないらしくてさ、オヤジにしちゃあ、慣れたことらしい。で、それも、このオヤジにとっちゃあ日々の愉しみの一つってなあもんで、全く嫌な顔一つせず、話すんだな。こっちが冷やかしってのも承知でね。で、オレは、何で骨董屋が︿不動産屋〉なんて、ふざけた屋号の看板を挙げて商売してんのか、ストレートに訊いてみた。すると、『ウチは骨董屋じゃないんです』て言う」

﹁ほう」

﹁やっぱり、︿不動産屋〉なんだって言うんだ」

﹁おもしろくなってきたね」

 彼はほくそ笑んだ。

﹁オヤジが言うには、『うちで扱う品物は、すべて、このままでは使い物にはならんのです』と。すべて、どこかしら、必ず壊れた物しか扱わないんだそうだ。本来の機能を失った物だけが、この店の売り物であって、まともに機能するものは一切店には無い。つまり、この店で購入した後に、客自身が手を入れない限り、そのままでは永久に使い物にならない物が、この店の商品なんだ」
﹁なるほど! それで︿不動産屋〉なわけか!」

 うんうん、と、彼は嬉しそうに頷いた。

﹁しかし、そんな、ぶっ壊れてて使い物にならん物が、だ、果たして売り物になるのか、って話だよな」

﹁うん、そうだね」
﹁ちゃんと修理してから売れば、もっと高く売れて、儲かるんじゃないですか? って、訊いたんだ。ところが、オヤジは『あなたは大きな思い違いをしておられる』と言う。『それでは、まったく意味が失われてしまうじゃないですか。壊れているから売れるんです。必ず、どこかが壊れていないとウチでは売り物にはならんのです』と」

﹁それは、本当におもしろい店を見つけたもんだね」

﹁だろ? オヤジが言うにはさ、壊れた物の需要てのは、結構多いらしい。どういうことかと言うと、レストレーションとか、言うのだそうだが、謂わば、修理マニアだな。修理修繕を趣味にしてる人たちが世間には一定数居るって話なわけだ」

﹁なるほど」

﹁それで、この店には、かなりのそういった顧客が居るらしくてさ、そんな常連客どもからオヤジは常に注文を受けてて、バックオーダーだって抱えてるらしい」

﹁それは凄いね」

﹁だろ?」

﹁確かに、店内を見渡すと、所狭しと多種多様な品物が置いてある。シリンダーが固着した真鍮製のドアの取っ手やら、欠けたステンドグラスの置物やらの雑貨から、高級そうな物は、腕時計なんてのは、ショーケースの中にかなりの数がずらっと並べられててね。これらも全部壊れてるのか、って訊くと、オヤジは嬉しそうに頷く。『海外で言えば、うちはジャンク・ショップてことになるんでしょうが……』ってね」

﹁それで、商売が成り立つんだな」

﹁在庫品は、この店に在るだけじゃないらしい。むしろ、これは極一部に過ぎない、って話で、町外れに倉庫が在って、大型の物は其処に置いて在るんだそうな」

﹁そりゃあ、立派な商売なんだな」
﹁まったくだ。それで……」彼は、上着のポケットから小さな油紙の包みを取り出して、その中に入っていた物をテーブルの上に置いた。

﹁ダイキャスト製のミニカーじゃないか」

﹁おう、流石。目が利くねー」

 彼はそう言ってぼくのことを褒めると、子供のように目を輝かせながら、そのミニカーのボンネット、ドア、トランクを、一つづつ、テーブルの上で動かして、開いて見せた。
﹁これさ、あのオヤジが言うには、こんな風に稼働させられる仕組みで発売された、最初に作られた大変貴重な物なんだそうだ。でも、ほら、この左側のドアがさ、取れて無くなっちまってるんだな。これをさ、何とか、元通りにしてやらないといかんわけさ」

 不動産業の友人とは、再度後日連絡を取り合うことを約束して、その喫茶店を出たところで別れた。別れ際も、﹁この物件こそは、絶対、オマエ向きのもんだぜ!」と、芸術的素養をまったく持たないことを自認する体育会係の彼は、繰り返し、あの物件をぼくに勧めることを忘れなかった。
 付近の動線関係を確かめる意味で、一人でもう一度テナント物件の前を通り過ぎ、そこからの帰り道をぼくは敢えてのんびりと歩いて帰ってみることにした。
 その帰途、比較的大きな河川の架橋に差し掛かり、その橋の歩道上を歩いて渡っていた。橋の丁度中ほどくらいを歩いていたときだった。視界の端っこに、何やら白い物体が上空からひらひらと舞い落ちてくるのが僅かに見えた気がした。ああ、レジ袋か……と思った。いや、コンビニ袋もスーパーのレジ袋も、不届き者に捨てられたものが強風で地面から少しばかり空中に舞い上げられることはあったとしても、空から真っ直ぐ降ってきて人類に供給はされはしない。疑問に感じたぼくは、その白い物体が落ちようとしていた方向に向いて、欄干から下方の川を覗き込んだ。それは、正にそのとき、川面に落ちたのだった。
 バシャッと大きな音を立てて、その白い物体は川に沈んだ。その音の大きさからしても、それは薄っぺらくて軽々しい、あのレジ袋などではなかった。少なくとも、袋の中に何かしらのその音の大きさに相応の内容物でも入っていなければ立たない大きさの音だった。
 ぼくは橋の欄干に手を掛けて、身を乗り出してその川面を注視した。川の水面から一気に沈み込んで、自身の浮力ですぐに再び浮かび上がったそれは、やはりポリエチレンのレジ袋などではなく、その実態は、大きな白い鳥だった。鳥が上空から真っ逆さまに落ちて来たのだった。
 ぼくは驚いて、鳥が落ちて行ったのとは逆方向、つまり、その上空を真っ直ぐに目で追って見上げた。そこにはペールブルーの冬空がただ広がっていた。それ以外に空間には何も見当たらなかった。其処は何ものにも邪魔されることのない、鳥たちの自由制空域だった。ぼくは更に上空を見渡せる限り平行に見渡してみた。鳥の飛翔の障害物になるような物体は無く、高層ビルもこの辺りには一切見当たらなかった。そして、鳶やカラスなどのライバル鳥たちの飛ぶ姿さえも一羽も確認できなかった。風はほぼ無風だった。
 もう一度、川面に流れて浮かぶ、その落ちた鳥の無惨な亡骸をぼくは見て追った。白い鳥は、どうやらユリカモメのようだった。その軀からは血は流れておらず、ボーガンなどの矢は刺さってはいないようだった。それは失神などではなく、ユリカモメは明らかに死んで、川に浮かんで流されていた。ユリカモメは見る見る間に川の流れに飲み込まれてゆく、そして、あっという間に川下に流されて、もう此処からは目視できなくなってしまった。
 今、目にした不思議な光景を、それは誰でもいいから、誰かと共有認知したかった。ぼくと同じく、あの状況を現実にその目で確認した、ぼくと同様の目撃者が周りにはきっと居た筈だった。そう思い、今度は周囲に居たであろう人を探した。けれど、片側二車線道路でもある比較的大きな架橋だと言うのに、こちら側にもあちら側にも、歩道を歩いている人の姿はこの時に限って無かった。ユリカモメが空から落ちてくるところを見た歩行者は、どうやらぼくただ一人だけだった。心底落胆した。
 そして、流れる川面は、ぼくが見たものが現実だったのかさえ裏付けすることのできない、ただの連続した水の流れを作り戻していた。まるで人為的に編集された、なんの変哲も無い過去の風景記録映像みたいに。
 果たして、鳥たちは皆、あのユリカモメのように大空を飛翔しながらその最期を迎えることになるものなのだろうか? 最期まで彼ら鳥が、鳥として在るように。
 思いも依らず遭遇した偶然の出来事に、呆気にとられて橋の欄干の上に手を置きながら、ぼくはその場で立ちつつ思索を巡らせた。その後も暫くぼくはその橋の上から動くことができず、あの鳥の最期に思いを寄せ続けた。それは、風のない冬の曇り空の、ちょうど正午頃のことだった。

 その昼下がりの帰り道、ぼくはカフェで軽食を遅めの昼食替わりにして、食後のコーヒーを啜りながら時間を潰し、その後、ついでに街で日用品やらの買い物を済ませて、夕方過ぎの日没に合わせて家に帰った。いつものように風呂に入り、夕食を作って食べ、Frank Zappa & The MothersのUncle Meatをターンテーブルに乗せて聴きながら、寛いだ時間を独り過ごした。二枚組アルバムのSide Threeを聴き終え、レコードをひっくり返して暫くした頃だった。ぼくは、眼窩の奥に熱を感じ始めた。後頭部もなにやら熱っぽかった。そのままレコードの音を楽しんではいたのだが、今度は、次第に四肢の関節に気怠さを感じ始めた。これは、ひょっとして風邪でもひいてしまったのかもしれない。

 目の前が霧の靄で霞んでいた。その遠く向こうから、目映い白い光が差し込むのが見える。その光源は、まるで意思を持った生きもののように蠢くように動いていた。ぼくはそこに何らかのメッセージが含まれているのかもしれない、と感じた。けれど、その光は薄まり、霧が幾つもの層をつくって重なり合い、視界を邪魔して阻んだ。
 霧が晴れると、木造の庇が着いた小さな小屋が在った。それは、バスの停留所の待ち合いのために設置された建物らしかった。ぼくはその小屋の中のベンチでバスを待つことにした。けれど、自分が何処に行こうとしているのか、それが自分でまるでわからない。すると、そのベンチには一人の先客が座って居た。その人は、ブラックスーツに身を包んだ初老の紳士だった。雨降りでもないのに、膝の前で立てた黒いこうもり傘の柄を両手で押えるように持って、静かにバスを持っていたようだった。
 彼の隣に腰掛けてバスを待つことにしたぼくに、彼は優しげな微笑をつくって、軽く会釈した。とても自然な所作だった。
﹁こうもり傘とは今時珍しいですね」と、彼の会釈に返すように話し掛けると、﹁こうもり傘はこうもり傘であることが最も重要なのでありますよ」と、初老の紳士は答えた。
﹁それは、たとえ雨の日でなくとも?」
﹁その通り。雨降りであろうと、雨降りでなかろうとも。それは、あなたが、いつもあなたであることが最も重要なのと同じにであります」
 彼の言った言葉の意味を考えたが、急に辺りに再び霧が立ち籠めたかと思うと、ぼくとベンチだけを残して、紳士の姿は小屋諸共、すっかり消え失せていた。
 靄が晴れると、其処にぼくはみどりと共に居た。芝生の上に二人軀を寄せ合い、座っている。明るく陽が差して、地面からは若草の萌える青々しい強烈な匂いがした。みどりはまだ高校生だった。彼女の肌は透き通るように白く美しかった。みどりとぼくは恋人同士だった。二人寄り添って、放課後の時間を、芝生の上で日向ぼっこしながら過ごしているのだった。
 すると、何処からか、年上の見知らぬ男がぼくらの前に突然現れた。彼を見確かめたみどりが立ち上がると、その男と腕を組んで、ぼくを見下げながら言った。
﹁純さん、わたし、この人とおつきあいすることにしたの」
 唐突な宣言に驚いて、呆気にとられたぼくは、何も言えずに、二人を見上げながら惚けるしかなかった。胸が刃物で突き刺されたかのように鋭く傷んだ。みどりの頭の向こうから、ちょうど西陽が射して眩しくて、彼女の表情が見て取れない。
﹁純さん、じゃ、またね」
 みどりは、一方的にそうぼくに別れを宣告すると、男に甲斐甲斐しく寄り添って、ぼくの前から消えていった。
 激しく動悸がした。どうすることもできず、ぼくは独り其処に取り残され、酷く傷つき、項垂れた。凄く惨めだった。
 目の前が霞む。
 靄がぼくの視界を阻む。
 Frank Zappa & The Mothersの"King Kong"の曲中の、幾つかの旋律が繰り返し聴こえる。脈打つリズムと共に、何度も何度もホーンの歪んだ音がけたたましく鳴り響く。
 白い光が霞の向こうで踊っていた。その源が何処なのか見定められない。
 辺りに霧が立ち籠める中、やがて、スコールのような雨が降り始めた。
 緑繁く原っぱの真ん中の、一筋の細い砂利道沿いのバス停留所にぼくは居た。小屋は無く、さっきの停留所とはまた別の処らしかった。雨は一気に本降りになり、雨宿りできそうな場所を探したが、辺りにそんなところはまったく見当たらない、見渡す限り一面、原っぱだけのその場所で、立ち尽くすしかないぼくの全身は、瞬く間に水浸しになっていった。軀は何故か熱い。火照っていて、雨で濡れた全身から蒸気を発している。眼が熱い。けれど、ぼくは立ち続けている。何かをひたすらに待っているのだ。
 どれくらい雨に濡れながら待ち続けたのか、やっとのことで乗り合いバスが停留所に到着して、そのドアが開かれた。バスから一人のショート・ヘアの女性が、ピンク色の雨傘を差しながら降り立った。それはリカだった。薄手の赤いニットのカーディガンに、紺色のワンピース、赤いパンプス姿だった。ぼくはリカに逢えたことで、とても気分が安堵した。
﹁リカ」と、彼女の名を呼んだ。
 けれど存外、リカは無表情に顔を上げて、ぼくの前まで歩み寄って止まると、﹁あなたはまったく思い違いをしているわ。あなたは次のバスに乗るの。決して、乗り過ごしては駄目よ」
 彼女はそう言って、静かにぼくの前を過ぎ去った。ぼくは、一体全体どうなったのか、皆目理由が解らず、混乱した。
 リカはピンク色の雨傘を差して、一本道をその先へと歩いて消えていった。彼女はこちらを振り返らなかった。リカの後ろ姿に、ぼくは何かしらの強固な意志を感じた。
 ぼくは雨に打たれ続けながら、彼女に言われたとおり、次のバスを待った。しかし、雨は降り止まず、バスはいつまで待っても来ない。
 次第に雨が細かな霧となって、まるでぼくの軀に絡み付いて留まっている。ぼくは其処から逃れられずに居た。
 "King Kong"の曲中の幾つかの旋律が、繰り返し繰り返し、何度も何度も鳴り続け、そのリズムの間合いとリンクするように白い光が生き物のようにこちらに近づいて、その目映さでぼくを威嚇したかと思えば、それは急速に遠くへ離れた。左右、上下、どこからでもオマエを狙えるぞ、という具合に。軀のそこら中が大きく脈打った。足の裏に心臓が移動したかのように感じたと思えば、そしてまた、心臓は手の指先にもあるかのように、軀中をその脈動が巡った。
 濃霧が徐々に薄くなって、周囲の景色が見え始めた。足下に自然の荒々しい岩肌が見える。其処は高山の山岳地帯のようだった。
 ぼくら一隊は、険しい山道を黙々と歩いていた。其処が日本の山中の何処かなのか、はたまた、ヒマラヤ山脈だか、アルプスの山中なのか、それはまったく皆目見当が付かない。けれど、空気中の酸素は平地と同様で薄くはなく、肺呼吸に困難はまったく感じられない。むしろ爽やかさを感じられるくらい、辺りの空気がとても旨い。
 ぼくの前には、薄手の水色のサマードレスを着た若い女性の後ろ姿が見えた。彼女は登山には到底相応しくない、そんな軽装の服装でリュックを背負い、険しい山の尾根筋伝いの山道を一心に登り続けていた。
 そして、更に彼女の前には、奇妙な生き物たちが列を成してその行く道先を先導していた。彼らは、人の頭部を持った妖怪のような、極めて奇妙な生きものたちだった。それは人間の頭の両側の、本来は耳が着いている筈のところから一対の両腕が生えた、人間の首から下の胴体がすっかり失われた生きものだった。それらを背後から見ると、巨大な胴体を持つ二本足の蜘蛛の化け物のように見えたが、その両足と成っているのは紛れもなく人間の腕から先の手であって、その上腕筋は隆々としていて逞しく、素足ならぬその素手二本で以て大きな頭を支えつつも、彼らは器用に手の平で地面を蹴って力強く歩いていた。水色のサマードレスを着た若い女性の前では、それらの五頭の蜘蛛人間たちが連なって先導して歩いていたのだった。そんなぼくら登山隊一行は、寡黙だった。
 暫く先を進んで、山道の片側が大きく切り立った崖に差し掛かったときだった。蜘蛛人間たちが突如として歩みを止めて一斉に振り返ると、彼らは女性の顔を見上げた。やはり、彼らの顔は人間そのものではあったが、両眼はやけにどぎまぎして眼球が小刻みに震えていて、その眼は人間の眼と言うよりは、アマゾン奥地の木々の樹上をその住処とする原種の猿の眼のように用心深くも怯えていた。彼ら蜘蛛人間たちは、女性の一挙手一投足を見逃すまいとするかのように、その震える眼差しを女性から離さず、平場がどこにも無い磐だらけの地面のほんの少し上から、食い入るように彼女の顔を見続けていた。
﹁よし」
 女性は、何やら、或る目的の地点を見極めたようだった。
﹁純さん、わたしは此処で祈りを捧げることにします」
 水色のサマードレスを着た若い女性は、蜘蛛人間たちには一切頓着せずに、威厳を持ってそう宣言し、初めてその顔を真正面からぼくに向けた。彼女の顔を見て、ぼくは驚いた。彼女は、映画やテレビ・ドラマやCMなどでよく見掛けたことのある、今の時代の日本人なら誰もが知るのであろう、清純実力派の有名若手女優だった。どうやら、本当にこの彼女がぼくら登山隊一行の隊長格者のようだった。
 彼女は、背負っていたリュックをその場の足下に降ろすと、崖に向かって身構えて、まったく何の躊躇いも見せること無く、サマードレスの裾に徐に両手を突っ込んで、穿いていた小さな白いショーツを膝までずり下げ、その場で尻も露わに大股を開いてしゃがみ込んだ。
 それを見た蜘蛛人間たちが、彼女の周りでぞわぞわと興奮して、彼女の股を覗き込もうと寄り付いたが、その気配を感じ取った彼女が賺さず振り向いて、威嚇する表情で一瞥すると、言い放った。
﹁控えよ! ゲソども!」
 蜘蛛人間改め、ゲソたちは、彼女のその言葉に恐れ慄いて彼女の背後に離れて群れて固まった。それと同時に、ぼくも後ずさって彼女の側から離れようとすると、﹁純さんには確とわたしの祈りを見届けてもらわねばなりません」と彼女は告げてその片手を伸ばすと、ぼくの腕を強く掴んで彼女の傍らに引き留めた。
 彼女はぼくの見ている前で、と言うよりも、明らかにその行為をぼくに具に見せるように、崖下に勢いよく小水を放ち始めた。彼女の股の薄らと茂る陰毛の間の小さな割れ目から、か細い水柱が立ち、その水先が緩やかな弧を描き連なりながら細い一本の線の槍となって、霧で霞む深い谷底に落下していった。その光景は、案外美しかった。
 そうして、彼女は神妙な顔つきで祈り――小水――を崖下に捧げ終えると、立ち上がりながらショーツを穿き戻し、リュックを背負い直した。
﹁純さんも、もうすぐ祈りを捧げられますよ。あと、もう少しですから!」
 彼女の表情は、はにかむどころか晴れやかな満面の笑顔で、まるで遠足で小学生を引率している新米教師が、隊列から脱落しそうなひ弱な生徒を元気づけて励ますように、そう言った。それでぼくは、何かしら意義ある素晴らしい目標を得た気分を抱いた。
 一方、ゲソたちは、ぼくらの後方の少し離れた岩場の片隅で尚、どぎまぎしながら、五頭、各々が彼女の顔を恐る恐る見据えている。
︵そうか、彼らには耳がないから、目で彼女の口を読んでいるのか!)
 その様子を見て、ぼくは合点がいったのだった。
﹁さあ、ゲソども、先を案内あないせよ」
 一転、表情を引き締めた彼女が号令を掛けると、ゲソたちは彼女の目と口の動きを読んで、再び、先へと隊列を組んで歩みだした。ぼくたち一行は、高山の切り立った稜線の山岳道を寡黙にひたすら歩き続けた。それは、何かの重大な使命を帯びて選ばれた使者たちの崇高な行幸のようだった。きっと、この試練は、選ばれし者のみに与えられた栄誉なのだ。
 そして遂に、我々は山頂付近に辿り着いたようだった。其処は、その先には切り立った崖しかない、正に断崖の行き止まりだった。この崖以外にもう先には何も認められず、周りは雲河が浮遊する高地の絶海だった。天上の世界への入り口のような、辺りには異界との境地のような荘厳さが漂って在った。
﹁さぁ、純さん、やっと祈りを捧げられますよ!」
 我らが登山隊長である彼女が、微笑みを向けながら振り向くと、当然のようにぼくを促した。
 ぼくは切り立った崖の頂点に立ち、徐にパンツのジッパーを下ろした。彼女は、ぼくの側にしゃがみ込み、目を輝かせて、ぼくの股間を凝視していた。ぼくの祈りのすべてを見逃すまい、とでもいうように。

 強烈な尿意を感じて、それで目が覚めた。
 脳髄が遠赤外線ヒーターででも長時間照射されていたみたいに熱っぽかった。意識が朦朧として、現実に戻るのに少し時間が掛かった。
 聴覚が蘇ると、スピーカーからクリック・ノイズが断続的に部屋に鳴っていた。レコード盤に乗せられたターンテーブルのカンチレバーがレコード盤の音溝の内周のループになっている無音の環状溝をトレースし続け、一周回毎に小さなノイズを律儀に再生し続けていたのだった。
 ベッドから起き上がりはできたものの、軀の節々が痛み、立ち上がるには腹筋にどうにも力が入らず、頭もふらついてしまう。焦りつつも、歩行の侭ならぬ老人のような姿でゆっくりとトイレに向かい、やっとのことでぼくは祈りならぬ小便を、自宅の東洋陶器製便器に捧げた。天啓は天井から降りてはこなかった。其処は現実の空間であり、間違いなく我が住処のマンションのトイレだった筈だ。
︵まったく、奇妙な夢を見たものだ……)
 そう思いながら部屋に戻り、ターンテーブルのトーンアームをリリースして戻し、オーディオ・セットのスイッチを切った。たったそれだけのことでも大層面倒で、手間の掛かる作業に感じた。そして、再びぼくはベッドに突っ伏して、忽ち意識を失った。

 結局、その後もぼくはベッドの中で熱に魘されながら寝続けて、そうして、なんとか風邪を遣り過ごし、数日後の朝、まるで冬籠りの巣穴から目覚めた熊のように布団から這い出たのだった。
 夢は、あれっきりだった。というか、他には夢の記憶がなかった。
 軀が以前よりかなり軽くなった気がした。風邪のウィルスと戦い続けた結果、水分と体力を消耗したのだろう。冷蔵庫からペットボトルのミネラル・ウォーターを取り出し、それを一気に飲み干した。胃の中に冷たい水が流れ込んでくるのが分った。やっと生きた心地がした。
 久しぶりの空腹感を感じたが、先にシャワーを浴びて垢を洗い流すことにした。



 我々、日本人にとっては、宗教的意味合いを殆ど重要視することのない、ただの消費経済効果を一時的に促進するだけの形骸的な行事に過ぎないクリスマスが過ぎ、例年の忙しない年の瀬の日々がカレンダーの数字をなぞり取って過ぎ去った。年末に風邪をひいてしまい数日寝込んだことを除けば、ぼく自身にとっては何事もなく、気づけば、新しい年になっていただけのことだった。寝込んだときの影響からか、むしろ、そういった気分的な転換期を自分だけが世間より先に通り過ごしてしまったみたいな感覚があった。大袈裟に言えば、熱を出して寝込んだことによって毒気が抜けて心身が改められたような感じだった。
 元旦から五日間ほどを休みと曖昧に決め、ぼくはその間をのんびりと自由に過ごした。自宅で音楽を聴き、読書をし、少し街に出て買い物をしたりした。特に何も起らず、何かしら愉快な気分でもなく、万事平穏な日々を過ごした。そんな独りの新年の日々は、真っ新な純白のシャツを襟元まで正しくボタンを留めて着て新学期の学校に通っている編入生のような気分がした。そいつは無感情で無表情な学徒だった。﹁ぼくは勉強をするために学校に通っています。だから、それ以外のことでぼくに構わないでください」とでも言うように。それが彼にとっては当たり前のことなのだ。
 リカからは何の連絡もなく、未だに彼女は顔を見せなかった。これはどうやら、リカは本当にぼくの元を去ってしまったのかもしれなかった。
 リカのことを想う度に、こんな退屈過ぎる新年が﹁何かおかしい」のだと、何処からか何かが伝えようとしているみたいだった。けれど、どういうわけか、そのあたりの感覚があまりにも馴染みが悪かった。何が正常な状態で何が異常な状態なのか、そのどちらも判断が着かなかった。それ故に、ぼくは自分本位に能動的というよりはこの世界に対して受動的にただ日々を過ごしていた。日々の流れに逆らうこと無く。人々が捨て去った過疎の村に残された風車が、ときどき風を受けて回り続けているように。ぼくは、自分の居るこの不安定な世界に辛うじて適応していただけだった。それは、それほど不愉快なものではなかったけれど、心躍るようなものは何処にも無かった。
 
 そうして、新年も、早くも二月の中旬を過ぎた。
 スマートフォンの着信音が鳴り響いた。ディスプレイに表示された番号は、その電話の主がぼくの知らない相手であることを教えていた。
﹁本田純さんでしょうか?」
 けれど、その声は聴き覚えのある、なんとなく、どこか懐かしさを感じさせる落ち着いた低い調子の女性の声だった。
﹁はい、そうです」
﹁わたくし、深山みどりの実の妹のあおいと申します。本田さんには、姉が大層お世話になっていたようで、ありがとうございます」
 そうだ、これはみどりの声だ、とぼくは思った。
﹁え? みどりさんではなくて、……みどりさんに妹さんが?」
﹁あ、はい。双子の妹なんです。わたし、長い間、日本を離れて、イギリスで暮らしておりましたので……今は日本に戻ってきておりますので、こうして、ご連絡させていただいております」
 道理で、声がみどりとそっくりなわけだった。けれど、その声には、あのみどりのような声の張りがまったく感じられなかった。
﹁そうなんですか……でも、みどりさんから、妹さんが居られたとは一度も聞いたことがありませんでしたから、いきなりで驚きました」
﹁そうでしたか。それは失礼しました。そうですよね。姉は、まあ……そういう人でしたから……本田さん、実は……姉のみどりが倒れまして……」
﹁え……」
 みどりが脳梗塞で倒れた、ということだった。みどりの実の妹、あおいという女性の伝えるところによれば。
﹁それで、みどりさんのご容態は」
﹁残念ながら、姉の病状は思わしくありません」
﹁そうなんですか……」
﹁突然、このようなことをお伝えしなければならなくなってしまって……緊急手術後、病院に入院中で、わたしが介抱をしながら経過を見ております。状態としては、意識はあるのですが、外界に対して、まったく無反応な状態が続いています。それで、……できましたら、姉が親しくさせていただいていた方に面会していただければ、もしかしたら、姉に何らかの善い刺激を与えられるのではないかと。かと言って、それで快方に向かう確証があるわけではないのですが、誠に勝手なお願いなのですが、是非、近々お時間いただけませんでしょうか?」
﹁勿論です。お役に立てるのでしたら」
 ぼくはみどりの妹、あおいにみどりとの面会の約束をし、その日時と、彼女の連絡先を無心でメモした。
 電話を切り、椅子に掛けたまま放心していたところに、再びスマートフォンのコール音が鳴った。発信元表示は、美輪からだった。
﹁もしもし、純さん、みどりさんの妹さんから電話ありました? あの、あおいさんとかいう……」
﹁あ、ああ。つい今しがた」
﹁わたしも今……純さん、みどりさんが……そんな……」
 美輪の驚きと動揺は、友人の突然の重篤な病臥を知らされた者が見せる、至極当たり前な反応だった。無論、それはぼくとても同じ心持ちだった。
﹁妹さんのお話しだと、脳梗塞っておっしゃってましたけど、純さん、あおいさんから詳しいお話しは……」
﹁いや、情けないことだけど、突然で気が動転してしまって、何もこちらからは訊けなかったけど、意識はあるものの無反応、と」
﹁あ、そうですよね、わたしもです……突然だったから……あおいさんの言葉の雰囲気からは、かなり……」
﹁そのようだね」
﹁やっぱり、あのみどりさんの偏頭痛は前兆だったんでしょうか……」
﹁そう言えば……」
﹁みどりさん、お医者には行かれてなかったんでしょうか……」
﹁そう。ぼくもあのとき、それを勧めたんだだけどね、ほら、占いの女性が来たときね」
﹁ああ、あのとき、そうでしたよね」
﹁でも、あれから後に会ったときに聞いたら、医者には行ってはなさそうだった」
﹁そうでしたか……」
 美輪は、どうにも収めどころのない気持ちの拠り場を、彼女にとってのみどりとの共通の友人と言えた、ぼくに求めていた。
﹁純さんは、みどりさんに妹さんがいらしたって、ご存知だったんですか?」
﹁いや、それも初耳だった」
﹁そうですよね、そこから、もう驚きでしたから……純さん、最近はみどりさんとは会われてなかったんですよね?」
﹁うん、そうだね、ここ暫く、顔を見るのは疎か、連絡もまったく途絶えていたから……」
﹁わたし、去年の年末、みどりさんがお店にいらしたときが最後なんですけど、そのときはぜんぜんお元気で……そんな……」
﹁ああ、美輪ちゃん、まったく……」
 重苦しい空気が、繋がった電話の回線の上に重みとなって撓って、今にも引き千切れそうな、そんな胸の詰まる息苦しさをぼくは感じた。
﹁あ、純さんも、みどりさんのお見舞いに行かれますよね?」
﹁あ、うん。さっき、その約束をしたよ」
﹁ご一緒しましょうか?」
﹁うん、そうしよう。それがいい。たぶん、彼女のためにも」
﹁ですよね。まだ望みありますよね、きっと……」
﹁今は、そう願うしかないよ」
﹁ですよね……じゃあ、あおいさんには、わたしからその旨お伝えしておきます」
﹁うん、お願いするよ」
 再び、自室での独りの時間が戻った。けれど、演劇の暗転後の舞台転換のように、それはもう、それまでの世界とは異なった別世界に変わっていた。何でもない平凡な一日の筈だった今日という日を、たった一本の電話連絡が変えてしまったのだった。



 ぼくは美輪と待ち合わせをした場所で落ち合い、途中、花屋に立ち寄り、あおいから知らされた病院へと二人してみどりとの面会に向かった。
﹁純さん、わたしたち、悪戯か何かで担がれてるんじゃないでしょうか? みどりさん、倒れられたなんて、わたし、やっぱり、どうにも信じられないんですけど……」
 美輪は何かしら、腑に落ちないでいるらしかった。それは、ぼくとしても同じだった。
﹁まったく」
﹁なんて言うか……感じないんです……受け入れられないんじゃなくて……その……純さん、わたし、おかしなこと言ってます?」
﹁いや、美輪ちゃんの言わんとするところはよく解るよ。実は、ぼくも同じような感覚があるんだ」
﹁そうでしょ⁈」
﹁でも、もしこれが悪戯だとしたら、それはあまりにも度を超した悪戯に過ぎるだろ? それに、あの知らせの日も今日も、四月一日じゃない。今は未だ二月だよ」
﹁ですよね。もし、エイプリル・フールだとしても、これは、ちょっと酷過ぎですよね……」

 病院の待ち合いで、みどりの実妹、深山あおいと初対面したぼくと美輪は、忽ち面食らってしまった。ぼくたちの目の前に現れたその人は、みどり本人だとしか思えなかったからだ。そう、どう見ても、あおいと自ら名乗るその人の顔は、みどりと瓜二つだった。もしも、姉妹が一卵性双生児だという可能性を踏まえた上で見ても、それでも、目の前の女性はみどりに見えた。
 ぼくと美輪はあんぐりと口を開いたまま互いに自然に顔を見合わせて、無言でお互いの心持ちに同意した。美輪の言った悪戯説の可能性が脳裏に浮上して、不覚にもぼくらは一瞬、自分たちの面前に居る人物への態度の方向性を見失い掛けた。しかし、それはその対象人物であるこのあおいと自称する本人自身によって、即座に否定されることとなった。
﹁お二人のその驚きようは無理もありません。わたしたち姉妹は、あまりにも似過ぎていますよね……」と言って、あおいは控えめな笑みをこちらに向けた。
﹁初対面なのに失礼しました。でも、これは……」と、ぼくは美輪の分も含めて、取り敢えず言い訳をした。美輪が隣で頷いていた。
﹁一卵性双生児なんです。それにしても似過ぎているかも知れません。それにはわたしもまったく同意します」
﹁あの……すいません……本当に、みどりさんじゃなくて?」
 美輪は未だ信じられない様子と見えて、眉間に皺を寄せながら、あおいに念を押した。
﹁はい、初めてお目に掛かります。深山あおいと申します。お二人には、姉のみどりが大変お世話になっていたそうで、わたしからもお礼を申し上げます。今日は、わたしの勝手なお願いにわざわざご足労いただいて、大変ありがとうございました。きっと姉も喜ぶ筈です」
 あおいは深々と頭を下げた。ぼくらもそれに対応して、一先ずは、形ばかりのおじぎを返した。
 あおいは上質なグレイフランネルのスーツに黒のブラウスという装いだった。やはり、ブラウスの胸元は開いていたが、みどりのそれとは違いそれは極控えめなもので、僅かに露なその素肌にはパールのネックレスが落ち着いた輝きを魅せていた。あおいのその出で立ちから醸し出される雰囲気には、姉のみどりとは対照的な上品さがあった。そこには優雅さがあり、気品を纏った所作と態度が窺えた。それでも彼女ら姉妹共に、日本人離れした帰国子女っぽい自然体での強い自己主張をその態度から垣間見れるのだけれど、あおいのそれは、みどりのあの傲慢で利己的、そして、下品で粗雑な態度を綺麗さっぱり取り除いた、文句の付けようのない自立した女性の清楚で協調性のある態度だった。
﹁姉に面会していただく前に、わたしから少しお話しさせてもらってもよろしいでしょうか? あちらに来客用の喫茶ルームがありますので」
 ぼくらは殊勝に了解して、場所を移動した。
﹁先ず、わたしたち姉妹の複雑な生い立ちから、ざっと説明させていただかなければなりませんね……」
 あおいはそう前置きして、まだ表情が強張って解けないでいる、ぼくと美輪に向かって話し始めた。
﹁わたしたちは幼いときに父を亡くしてから、母の仕事の都合で別々の親類に預けられて育ったんです。姉は母方の祖母の家に、わたしは叔母の家に預けられました。わたしたち姉妹は幼いときに離ればなれになって別の家庭で育ったんです。そのために、実の姉妹で顔も瓜二つとは言っても、お互いに性格や生活感には大きな違いが生まれたのだと思います……」
 あおいの話は、以前、みどりがぼくに話した、彼女の身の上話の一部に大凡符号するものだった。ただし、この先は初耳のことだった。
﹁……その後、わたしはイギリスに留学して、そのまま、あちらで暮らすようになりました。一度結婚はしたのですけれど、早くに離婚して、それからはずっと独り身です。……姉と会うことは稀だったのですけど、昔から連絡は取り合っておりました。それで、姉が離婚して、独りで事業を興すということになり、実は、わたしが姉の会社の取り扱い品のヨーロッパでの仕入れなどの手配をイギリス国内で担当していたのです。言ってみれば、現地コーディネイターというか、出張所所長みたいなものですね。だから、本田さんのことは、姉が事業を始めて暫くした頃から、姉から聞いてよく知っておりました。印刷物のデザインやらを担当していただいて、とても助かっている、と……」
 その表情に、動揺の色を隠せない様子だった美輪も、次第にあおいの話に入り込んで、黙って聞き入っていた。
﹁……姉が倒れた日に連絡を受けたのですけど、わたしはまだイギリスに居りましたので、直ぐに日本に帰国、というわけにはいきませんでした。帰国後に姉の状態の仔細を知り得たので、すべては伝聞ということにはなりますけれど」
﹁みどりさんは、以前からご病気だったのでしょうか?」
 美輪が訊くと、あおいがそれに頷いて、応えた。
﹁お医者さまの話によると、姉は、ずっと脳に悪性の腫瘍を抱えていたようなんです。倒れたときの緊急手術で奇跡的にその腫瘍を全摘出することはできたのですけれど、それ以前に受けた損傷の回復は不可能、と仰っていました。姉が自身の病を自覚していたのかどうか……それはもう、今となっては判りませんが、もっと早くに検査なり診断なりを受けていれば、こんな重篤なことにはならなかっただろう、と。……今のところ、姉のところには、病院の通院歴らしきものを確認できる物は見つかっておりませんし……」
 神妙に耳を傾けているぼくらの表情を見て取って、逆にあおいが訊き返してきた。
﹁お二人とのおつきあいの中で、何かしら、病変らしき素振りを姉が見せたことがありましたでしょうか?」
﹁そう言えば、みどりさん、ここ最近物忘れが激しくなってて……ね、純さん」と言って、美輪がぼくの顔を見た。
﹁……あ、うん……確かに、そういうことはありました」
﹁そうでしたか……」
﹁それに、ずっと偏頭痛持ちでしたね……みどりさん……やっぱり、あれも病気の症状だったんだ……」
 そう言って、美輪が回想する。
﹁今、あおいさんから詳しくお話をお聞きすると、みどりさんの病状的な片鱗は、注意しておけば見て取れたのかも知れません……その点では、ぼくらももっと気をつけて彼女を見ていればよかった……申し訳ありません」
 ぼくは、言い訳がましく詫びた。
﹁いえ、実妹のわたしですら気づけませんでしたし、姉自身が、おそらくは知らなかったことなんです。それは今と成っては致し方ありません。姉の運命だったのだと思います……それよりも、お二方のことは、姉がわたしにもよく話してくれていました。お二人が姉と親しくしていただけたことに、わたしとしてはとても感謝しております。それについては、何度でもお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました」
﹁それで、現在の病状の方は……」
﹁はい……冷静に判断して、今もご連絡差し上げたときにお話ししましたような状態のままで、快方に向かう兆候はまったく見られない状態です。残念ながら。実は、お医者さまもその見込みは限りなく低い、と……」
﹁みどりさん……」
 実感が湧いて込み上がってきたのか、美輪がそう呟いて嗚咽を漏らした。ぼくは隣で、美輪の肩を抱いて寄せて慰めた。
 そんなぼくらの姿を、向かい側からあおいは優しく目を細めて黙って見詰めていた。それは﹁この人たちが姉のお友だちで居てくれてよかった」とでも感じているような、憂いながらも優しい眼差しだった。
﹁わたしとしましては、一縷の望みでもあるのであれば、できるだけのことはしてやりたいですし、もし、親しくしていただいていたお二人の顔を見れば、姉の意識に何かしら善い変化が起るやもしれません。ですが……お二人には、例え姉に何の変化もなかったとしても、そのときはどうか、お気落としなさらぬように……勿論、表情に何の変化もわたしたちには見受けられなかったとしても、きっと姉は喜んでいる筈ですし……そもそも、わたしも過度な期待を抱いて、お二人にお願いした訳ではありません。そこのところはお医者さまから説明を受けて重々承知しております。……ただ、不本意ながら、もしかしたら、お二人をとてもお辛い気分にさせてしまうかもしれません。どうか、そこのところは事前にお心置きいただきたいのです」
﹁……ですよね。解りました」
 目頭をハンカチで押えながら、ぐっと堪えた表情を作って、美輪が気丈に応えた。
﹁勿論です」
 ぼくも了解した。
﹁では、こちらです」
 ぼくらは、あおいに案内されて、みどりの居る病室へと向かった。

 みどりとの面会を済ませたぼくと美輪は、部屋を出た。
 ドアが閉じた瞬間に、堪えきれなくなった美輪がぼくの胸にその顔を埋めて、声を押し殺しながら肩を震わせて嗚咽を漏らした。ぼくは黙って、美輪をこの胸に抱き締めた。

 それから、病院を出たぼくらを、あおいが暫く一緒に歩いて見送ってくれた。
 その道中、美輪がベソをかきつつも、みどりのことについてあおいに話したり、また、あおいの知るみどりについて、美輪は聞いた。そうして美輪は、みどりの現状を現実として少しづつ受け入れ、彼女なりにになんとか消化しようと努めていたようだった。
﹁あおいさん、これからはどうされるおつもりなんですか?」
 美輪が訊いた。
﹁暫くはまだ、こちらに滞在する予定でおります。姉の事業の後始末もつけておかなければなりませんから」
﹁ああ、そっかあ……そうですよね」
 美輪が納得する。
﹁せっかく事業が軌道に乗り始めたところだったのに、残念ですね」
 そう発言しておきながら、自身の御座也な相槌の台詞回しに、ぼくはなんだか余所余所しくも、白々しい感じがして、そんな言葉を吐いた自分に対して気が咎めた。
﹁姉の意思を引継いで、このまま日本で姉の事業をわたしが継続させるべきかとも、一時は思ったんですけれど……」と、あおいが打ち明けた。
 今ではもう過去となった、みどりとの仕事での遣り取りの情景を、ぼくは少し振り返った。
﹁でも、それは止めにしました。わたしは姉と同じようにはできませんから。それに、そうしない方がいいんだと。実は……これは、お二人との面会の後に決心しようと思っていたことなのですが、……姉はわたしが引き取って、イギリスに連れて帰ろうと思います。わたしが今後姉の面倒を見るためには、わたしにとっては日本では現実的に困難なことのほうが多いのです。もうこちらには生活の基盤がありませんので……」
 ぼくらに、それをとやかく意見する権利はなかった。
﹁今日はお呼び立てして申し訳ありませんでした。きっと、姉も喜んでいたことと思います。いえ、きっとそうに違いありません。わたしも、こうしてお二人にお会いできて良かった。本当に、姉はよいお友だちに恵まれていたんですね」
 あおいはそう言って締めると、伏し目がちに微笑んだ。
﹁もし、……もし、みどりさんに善い兆候があったときは……」
 美輪が縋るように言った。
﹁ええ、勿論、お二人にはお知らせいたします。必ず」
 分かれ道に出たところで、ぼくらは挨拶をして、あおいと別れた。

 ぼくと美輪は、其処からの帰り道をしばらく無言で力なく歩いた。
﹁わたし、喉が渇いちゃいました」
﹁ほんとだ」
﹁純さんもでしたか」
﹁ほら、あの先のコンビニで何かドリンクを買って飲もう」
 ぼくらは道草にコンビニに立ち寄って、ペーパーカップ入りの温かいドリップ・コーヒーを買った。 
﹁あ、純さん、ごめんなさい」
 コンビニを出頭、自動ドアに差し掛かったとき、急に美輪が後ろからぼくの腕に触れて制止したので、自然に振り返ると、何やら面映ゆげな顔をこちらに向けていた。
﹁何?」
﹁お手洗い、いいですか?」
 ここに来て今日、初めて自分の表情筋が自然に緩んだ気がした。
﹁我慢してたの?」
﹁だって……我慢してることさえ、忘れてました」
 ぼくは笑いを堪えながら、美輪を、可愛いな、と思った。
﹁行っておいでよ。外で煙草吸いながら、待ってるから」
﹁すいません。じゃ、ちょっと」
 そう断って、自分のコーヒーのペーパー・カップをぼくに手渡すと、美輪は踵を返して真っ直ぐに店内の奥へと通路を早歩きに行った。
 ぼくはコンビニの外に設置されたダストボックスの横に立って煙草を噴かしながら、美輪を待った。
 郊外の町並みが見えた。何処からか、女性の小団体らしき愉しそうに声を掛け合う弾んだ声の母音だけが、近くの家々の壁と路地のアスファルトに打つかり合っては跳ね返りながら淀んで、聴き取れそうではっきりとは聴き取れない木霊みたいに耳に伝わってくる。その声が途端に大きくなって近づいてきた。それらの声の主は、練習を終えたところの帰り途らしき女子高生のラクロス・クラブ部員たちだった。表通りに現れた彼女たちが大挙して傾れ込むようにコンビニの中に入っていった。近隣に高校が在るらしかった。空を見上げたら、数羽の白い鳥の群れが薄紫色の夕暮れの空に浮かびながら、水平に横切って行くのが見えた。
 つい最近見た不思議な夢のことをぼくは憶い出した。確か、ぼくは誰かに呼び出されて、何処かの建物の物件を見に行っていた。とても古びた情緒のある倉庫を改造した建物で、中の部屋は居心地の良い広々とした空間だった。実体感による温度感とは別の、視覚野から得られる暖かみをぼくは感じていた。その趣きの印象がとても良くて、そのぼんやりとしたイメージが脳裏に遺っている。それは、長年探し求めていたアンティーク家具を手に入れることができたときのような、そんな満ち足りた喜びを夢の中のぼくに与えていた。ぼくは其処で新たな生活の展望を想い描いていた。それはとても心地好い気分に浸っている時間だった。夢の中のぼくは、其処にもう一度来てみたいと願っていたのだけれど、そのときには女性を連れて行きたいと思っていた。それが誰だったのか。はて、その女性の顔が浮かんでこない。ぼくは誰をその場所に連れて行きたかったのか。それがどうにも憶い出せない。まるでMagritteの絵みたいな、その女性の姿形が輪郭だけを遺して透明にくり抜かれた絵でも見ているみたいに、記憶の残像から欠落している。
﹁純さん、お待たせしました」
︵みどりだったのか……)
﹁純さん?」
︵美輪……)
 美輪が横に立っていた。
﹁……あ、ごめん。ぼうっとしてた……はい、こっちが美輪ちゃんの」
 美輪の分のカップを手渡した。
 町外れの小さなコンビニエンス・ストアの前に二人して並んで立ちながら、ホット・コーヒーを啜った。二人の吐く息が白かった。
﹁わー、やっぱ、夕方でも、もうかなり寒いですねー」
 美輪が軀をぶるっと震わせながら、着ていた黒いダッフルコートの見頃のトグルを、急いで片手で留めようとした。
﹁カップ、持っててあげるよ」
﹁あ、すいません」
 コートのトグルを下まで留め切ると、美輪は腕に通したバックスキンのトートバッグから出した、暖かそうなマルチカラーのウールのマフラーを首に巻き付けながら、﹁わたし、今日は臨時でお店のシフト抜けたんで、これからお店に顔出そうと思ってたんですけど、やっぱり止めにします。だって……ね」と、それに同意を求めるように、美輪はぼくの目を見た。
﹁ああ、そうだね」
﹁ねえ、純さん、ちょっと早いですけど、これから、夕食がてら飲みに行きません?」
 美輪は気持ちの切り替えをしたかったのだろう。
﹁そうだね、そうしよう」
 ぼくは美輪の提案に同意して、道すがらタクシーが通り掛かるのを待ちつつ、二人でのんびりとそこからの帰り道を歩いた。タクシーはなかなか通り掛からなかった。その道は、普通車すら通ることが少ない幹線道路から外れた旧道だったから。
 一台の車が、明らかに法定速度超えのスピードで向かい側から走って過ぎていった。
﹁なんだか、きつい顔が増えたって、思いません?」
 歩く道すがら、隣で美輪が唐突な問いを投げ掛けた。
﹁きつい顔?」
﹁あ、車です」
﹁車のフロント・フェイスのこと?」
﹁はい。車の顔が」
﹁ほう……」
﹁昔、わたしの小さい頃の記憶では、今みたいじゃなかった気がするんですよね、道路を行き交う顔が」
﹁きつい顔の車だらけになった、てこと?」
﹁はい。昔の車って、もっと愛嬌のある顔、多くなかったですか? ほら、目玉も丸っこくて」
﹁ああ、確かに、ヘッドライトは丸いのが普通だったよね、昔は。角目ってのも在るには在ったけど、少数派だったし、フェラーリなんかのスポーツカーだって、昔は丸目だった」
﹁そうでしょ?」
﹁うむ」
﹁やっぱり、車の顔も、人の顔に似せて作られてるんじゃないですか? 目玉二つだし、真ん中に口みたいなのもあるじゃないですか?」
﹁うんうん。確かに」
﹁それがなんで、近頃の車って、角目どころか、どれもこれもツリ目で、きつい顔ばっかしてるんでしょうか? これじゃあ、運転する人も気持ちがギスギスしちゃいません?」
﹁……なるほど、その論は案外、一理あるかもしれないね。実際、道路じゃ車の運転者同士は向かい合わせで車を走らせてるしね」
﹁暢気な丸目さんたちが、軒並みツリ目さんになっちゃってるんですよねー、みんな。人も、みんながそんな目してたら、世の中ギスギスしちゃいません?」
﹁確かに」
﹁なんか、『其処退け!』みたいな。あのツリ目って、威嚇ですよね。暗に、力の行使ですよね。ガン切りながら走ってる、っていう……」
﹁なるほど。そうかもしれない」
﹁わたし、免許持ってないからわからないんですけど、そんなでないと、道路っていうのは走りにくいものなんでしょうか? そこまでして車走らせて、運転、しんどくならないんですかねー? って」
 冬の夕暮れは早かった。薄曇りだった空が透き通った暗闇の中へ溶け込んで、じきに無くなろうとしていた。ぼくらの知っていた、あのみどりをさらってゆくかのように。



 美輪と飲み明かして、酔い潰れた彼女を送り届けて自宅に戻ると、腕時計の針はもうすぐ朝の四時を指そうかというところだった。
 仕事場兼自宅マンションの部屋は深々と冷えていて、今や独り住まいの侘しさを尚更実感させた。暖を取ろうと、ふらつきながらも床の簡易ヒーターのスイッチを入れて、椅子をその前に移動させて腰掛けると、ヒーターから温風が吹き出してくるのを両手を擦りつつ、キリキリした寒さに震えながら暫し待った。
 深酒をしたのは、そう言えば、みどりと飲んだあの夜以来のことだった。みどりにまつわる謎が、取り留めの無い靄のように緩い眠気を伴った記憶の中で、何物とも憑かぬ奇妙な模様を作って渦巻いていた。ぼくはその仮置き場に困っていた。既に﹃処分保留』倉庫が満杯で、何処にも収め場所が無かったからだ。
﹁もう、よしとしよう、今日はここまでで。ぼくにだって限界ってもんがある」
 スタンバイ・モードのままで未だその本機能を開始していないヒーターのメイン・スイッチを切り、ぼくは就寝することにした。布団の中に潜り込むと、身震いするほどに冷たかった。吐く息が部屋の中でも白く見えた。けれど、酒の酔いからの軀の熱っぽさからか、布団の中の空気は程なく温まり、寒さの感覚は眠気と共にすぐに麻痺して消えていった。
 頭の中では、幾つもの声やら音が短いエコーの波のように響いていた。収拾のつかない漠然とした重層的な思考がお互いに引き合って混ざりながら、心の宇宙空間に一定の重みを感じさせつつも渦を巻きながら浮かんでいる。そしてそれらは次第に緩やかに収束して、ぼくの意識の、底無しの下へ下へと、どんどん墜ちて、徐々にフェイドアウトしていった。

 急激な体温上昇を感じた。それで目が覚めると、部屋の空気が温かかった。カーテンが開け放たれていて、冬の朝の陽光が窓から部屋に差し込んでいた。
 意識と身体との時間軸のズレたような、不思議な違和感に襲われた。まるで一睡もしていないような、睡眠を何者かに奪い取られたかのような、眠っていた間の自分の存在を何処か別の時間に吸い取られてしまったかのような。それでも、今の意識は目覚めにしてはあまりにもはっきりしていた。
 キッチンに人が居た。去年のクリスマス・プレゼントにぼくがリカに贈った、グレー地に白い馬の模様が編み込まれた太ゲージのウール・カーディガンを着ていた。その後ろ姿は紛れもなく、リカだった。
﹁リカ」
 ぼくの呼び掛けに反応した彼女が、こちらに振り返った。やはり、リカに違いなかった。
﹁純ちゃん、やっと起きたの」と言って、暢気に笑った。
﹁……い……いつ来てたの?」
 上半身をベッドから起こしながらそう問いかけると、リカは笑いながら不思議そうに頭を傾げた。
﹁あー、純ちゃん、おかしな夢でも見てたんでしょう? だって、何度呼び掛けてもぜんぜん起きないんだもん」
﹁夢?……」
 ぼくは混乱した。夢って……夢なんて見ていた記憶がない。一体、どれが夢だと言うのか。時計の針は午前九時の少し手前を指していた。ということは、五時間ほどは眠っていたことになる。ならば、これは二日酔いの影響ということか。それにしては頭痛も胃もたれもない。体調は頗る良く、しかも、軀はいつになく軽く、意識もはっきりしている。
 リカは朝食の準備をしているようだった。ふと、部屋にもう一人の人が居る気配をぼくは感じた。テーブルの方に視界を移すと、猫虫がいつもの椅子に掛けていた。
﹁やあ、お邪魔しているよ」
 猫虫はぶっきらぼうに、何喰わぬ顔でそう言って、いつもの挨拶を済ませて続けた。
﹁今日はいつもと違って、ちょっと口が淋しくてなんなんだけれどね……まあ、それは。手短に済ますつもりだから、お構いなく、というのでいいよ」
 そう言って、彼はリカの方を指差した。
﹁ねえ、純ちゃん、わたしたちが初めて出逢ったときのこと、覚えてる?」
 キッチンから支度をする手を休めないまま、リカが唐突に憶い出話を投げ掛ける。
﹁実はわたし、純ちゃんのこと、あれよりずっと前から知ってたのよ。でも、純ちゃん、知らなかったでしょう? リカのこと、ぜんぜん気づいてなかったもん。純ちゃん、いつも、あの公園を散歩してた。わたしも前からよく彼処を散歩してたの。だから、あれ以前から何度も擦れ違ってたのよ、わたしたち。でも、純ちゃんはまったくわたしのことに気づいてなかった。わたしの姿は疎か、まるで景色から何から何まで、純ちゃんの目にはまったく入ってないみたいで……。そのうち、わたし、純ちゃんをあの公園で見掛ける度に、話し掛ける切っ掛けを待ってたの。純ちゃんがわたしのことに気づいたそのときに、って。でも、いつまで経っても、純ちゃんはわたしに気づいてはくれなかった。そしたらあの日、予報どおりに雨が降ってきたのよ。ずぶ濡れでベンチに座ったままの純ちゃんを見つけて、……このひとには天気予報さえも関係ないんだ、って……」
 窓から陽光が顔に差し込んで目が霞み、一瞬リカの姿がその光に奪われた。ぼくは言葉を失っていた。というよりも、ぼくの言うべき言葉そのものが、ぼくの中からその光源に吸い取られたように無くなっていた。それは、あの瞬間に似ていた。母の軀から産み出されて、この世界の光を初めて浴びたときのことだ。
﹁あのとき、わたし、純ちゃんを助けてあげなきゃ、って思ったの。このひとを助けられるのはわたしだけだ、って」
 ぼくは問いかけることができなくなっていた。何故か、口を利くことができないのだ。
 リカに取って代わるように、猫虫が再び話し始めた。
﹁色気ババアについては、あれが成り行き上、最善の結果だったのさ。万事、結果的には。とにかく、蛇はあの女から去った。ちゃんとお祓いはできたのさ。そして、あれでこの世界は少し良い方向に進んだのだよ。例え、一人の人間族の身の上の出来事であったとしてもね。勿論、この世界にはきみ自身も含まれているのだし、それはつまりは、きみのための世界と言っても差し支えないのだけれどもね。ただ、あの色気ババアのことについては、きみの方はきみの方で特別な感慨があるんだろうと思う。それについては猫虫のぼくがとやかく言う筋合いのものではない。申し訳ないが、それはきみ自身で整理つけてもらうしかないんだ。それも千と九十五日間ほどの辛抱さ……それと、あれからは少々、きみの世界は拗れの影響を受け続けるから、今暫くは記憶やら様々な認識に混乱があるとは思うんだけどね、まあ、そっちの方はほんの少しの間のことでね、ほら、池に石ころを投げ込んだときに起こる、あの、水面の波紋みたいなものでね、気が付いたときにはそれもすっかり鎮んでるだろうさ」
 猫虫はそこで口を噤んだ。
﹁あー、無いよー……」
 キッチンでリカが何かを探していた。
﹁無いよー、オリーブ・オイル……純ちゃん……」
 リカはそう言いながら、猫虫の顔のすぐ前のテーブルの上に置かれていた、自分のバッグの中から財布を取り出して掴むと、﹁わたし、ちょこっとコンビニまで買い出ししてくるね」と言い残して、部屋を出て行った。
 まるで、リカの一連の行動を予測していたかのように、猫虫はその大きな猫目で彼女の姿を追って見届けると、そしてまた、口を開いた。
﹁悪いね、手短に済ませるつもりだから。以前に、ぼくがきみに話して聞かせてきたとおり、この世界では様々な因子が影響し合っている。それには良性のものもあれば悪性のもの、また、さして都合が良くも悪くもならないものもある。その中で、ぼくはきみの猫虫として、きみに関わる範囲で悪性の因子を排除する……まあ、それは我々猫虫が人間族に対して干渉可能な範囲でしかないわけだけれども……とにかく、そういう役割を担っている。そういう意味では、今回のぼくの仕事に関しては、概ね満足いく結果が得られたわけだ。それはすべて、ではないけれどもね。勘違いしないで欲しい。あくまでこれはこの世界にまつろうもの、すべての共有的事象の往く先をより良いものとするための善処というやつだよ。……何れにせよ、きみにとっても、また、他者である誰にとっても、この世に息づくすべての者どもにとって、昨日までの世界とは違う新たな世界が今日、形作られてゆく。そのために、きみはもう一度目覚める。いいかい? きみはもう一度、別の今日の朝を迎える。そう、これからきみがやるのは﹃二度寝』ってやつかな。よく、やっちまうだろ? きみらはそういうのを。そのときに、今の記憶が残っているかどうか、それは定かではない。しかし、もう一度目覚めた時、忘れ掛けていた大切なことをきみは憶い出すだろう。今、ぼくはそのために話しているんだ。……と、まあ、ざっとそういうことさ。また暫くはご無沙汰になりそうだし、ご馳走にはなりたかったんだけどね、長居はしないと言ったからね、このへんでお暇するとするよ。良い朝を」

 朝方近くまで酒を飲んでいたというのに、それ故に睡眠時間も僅かだったというのに、未だ夜明け前の早朝に目覚めたぼくは、何を思う間もなく起き出して、顔すら洗わず、軽装の上にダウンコートを羽織って外に出た。けれど、その自分の衝動の源泉が何処から生まれているのやら、それが、ぼくにはまったく見えない。これが自分の意思なのか、何者かの意思に操られているのか、その確たる実感すら得られぬ侭に、まるで、ぼくに向けて発信された救命信号に呼び起こされたみたいに、ただ何故か、やたらと外に出たかったのだ。凍てつくような寒さの空間に。
 外は正に今、夜が明けようとしていた冬らしい薄暗い曇り空だった。冷えた空気に音の響きを吸い取られた、まだ街路灯に照らされたアスファルトの路面を無心に歩くうちに、白み始めた空からちらちらと粉雪が舞い落ちてきた。けれど、ぼくは背に垂らしていたコートのフードを頭に被せ、白い息を吐きながらそのまま黙々と歩みを進めた。出所不明の電波信号の発信源を辿るように。
 気がつけば、何かに吸い寄せられたみたいに、ぼくは以前によく訪れていた緑地公園の敷地の中に居た。見覚えのある木立は殆どの葉を落とし、今は隙間だらけに根元の地面に光を浴びさせて、自らはその細い枝を懸命に突っ張らせつつまだ来ぬ春の到来を静かに待っていた。枯れ落ちた葉っぱが覆う砂利道の中の、ほんの小さな、千切れた真綿のような雪の結晶が疎らに降り重なった小径を踏みしめながら、ぼくはあのベンチの場所に辿り着いた。
 けれど、あの古ぼけたベンチが、其処に在った筈のあのベンチが、今はもう影形も無かった。煉瓦を敷き詰めて平台状に嵩上げされた台場に、ベンチの座金を留めていたボルトの切れ端が四つ、サンダーで削り落とされた痕も痛々しく、モルタルの中で錆びて遺っていたのをぼくは見て取って、あのベンチがぼくの知らぬ間に、もうすっかりその役目を終えていたことを知った。
 ぼくはその台場の上に足を踏み入れ、かつてベンチが設えて在ったところに立った。周りの景色がいつかの記憶とは少し違って見えた。真冬の公園の朝は鎮まり返り、林の遠く向こうで暮す人々の気配は此処には無い。まるで、ぼく一人だけがこの世界の住人であるかのような静けさだった。目を瞑り、天を仰ぐと、雪が顔に柔らかく舞い落ちては肌の温もりでゆっくりと溶けて、泪粒のように頰を滴った。
 あのときと、ぼくは何か違ったろうか。
 それを確かめないといけない。それを確かめるために、ぼくは彼女に会わねばならない。ぼくがよく知っていた筈の彼女に。ぼくのことをよく知っていてくれている筈の彼女に。
 このまま、全身に雪を積もらせてみるのもいいかもしれない。傘が遮ってくれるまで。

猫虫

2017年5月8日 発行 3版 第一刷

著  者: コージ
発  行: KOJI-EN PUBLISHING.

bb_B_00149993
bcck: http://bccks.jp/bcck/00149993/info
user: http://bccks.jp/user/137961
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

コージ

京都府京都市生まれ
京都市在住























Cover illustration & designed by KOJI

jacket