spine
jacket

───────────────────────



黄昏の街

夢空詩

夢空詩出版



───────────────────────

黄昏の街



「貴方の傍にいるだけで幸せ」

 ゆっくりと移動する各駅列車の中。隣に座っていたカップルの女性が、男性の腕を絡めとり可愛らしくそう溢す。
 男性は、女性ではなくスマートフォンに視線を向けたまま……『あー、俺もー』なんて適当に返事をしていた。それでも、女性は男性の隣で幸せそうに微笑んでいた。
 ――傍にいるだけで幸せ……か。
 そう相手に伝える事が出来る彼女は、何て幸せな人なのだろう。大切な人に触れる事が出来る彼女が羨ましくて堪らなかった。
 だって、いくら想っていても届かない。……届く筈がないもの。
 今、私と同じ気持ちでいる人達は世界にどれくらいいるのだろうか?
 ……考えてもキリがない。世界は広いのだから。

 暫く列車に揺られていると、突然雨が降り出し始めた。
 私は読んでいた手帳を閉じて鞄に戻すと、窓の外に目を向けた。
 視界に、沢山の人達の姿が映り込んでくる。
 傘がなく、上着を傘代わりに走る青年。
 雨宿りをしながら、時計を見ている女性。
 濡れる事に何の抵抗もなく、寧ろ楽しそうにはしゃぐ子供達。
 そして、たった一つの傘で寄り添うように歩いている恋人同士。
 大きな雨の粒が、列車の窓の外側全体を支配する。
 まるで、『中にいれてくれ』と懇願しているかのように見えなくもない。
 こちらから触れても、滴が指を濡らす事はないのだけれど、触れた指先はひんやりと冷たく、私の心の中にまで雨を降らした。

『雨はね、空の上で神様が泣いているから降るんだよ。ようするに、神様の涙なんだ』

 ……なんて、小さい頃に誰もが一度は耳にした事があるような与太話。
 勿論、私も神様の存在なんて信じていなかった。
 けれど、今はどうだろうか? 神様はいる……のかもしれない。
 本当に空の上で泣いているのかもしれない。
 しかし、もしそれが本当なら……神様は地上にいる人間達をこんなにもびしょ濡れにしてしまうくらい、何をそんなに悲しんでいるのだろう?
 神様も恋をし、涙を流す事もあるのかな?
 想像すると何だか可笑しくて、誰にも見つからないように小さく笑った。

 ――雨は好き。
 どこか懐かしいあの匂いも、心地良い旋律を奏でるあの音も……とても、とても大好きだ。
 あの日……今と同じように、突然雨が降り始めた。
 勿論、傘なんて持っていなかった私は、濡れる事などお構いなしにその場で崩れ落ちた。
 雨は容赦なく私の身体に降りかかり、急速に体温を奪っていく。
 それでも私は、その場から一歩も動く事が出来ずにいた。
 次第に雨は、私の頬を流れ落ちる涙と同化を始め、私の弱い心も、醜くて汚い感情も、一緒に洗い流してくれたのだ。

 ――もう一度、立ち上がれるように。
 ――もう一度、這い上がれるように、と。

 雨は優しかった。とても。
 しかし今の私は、ずぶ濡れになりながら雨の中を歩いていられるほど、もう若くはない。
 私は軽く苦笑しながら、鞄の奥にいつも常備している花柄の折り畳み傘をギュッと握りしめた。

 私の名前は斎藤愛子。今日でもう二十九になる。
 同期の殆どは寿退社をし、家族を持ち、幸せに暮らしている。
 そんな中、ずっと会社に居座り続けている私の事を、後輩達が隠れて【お局様】と呼んでいる事には、とっくの昔から気付いていた。
 勝手に何とでも呼べばいい。私は強い女でなくてはいけないのだ。
 ……もう二度と、何も失いたくないから。

 貴方が居なくなって、もう五年近く経ちますね。私もやっと、あの頃の貴方と同じ歳になりました。
 それでも私は、何年経っても貴方に追いつけそうもありません。
 いつでも私の一歩先をゆく、そんな貴方。
 永遠に追いつけないその距離感がとても好きで、とても大切でした。
 今も貴方はあの場所で、夢を語っていますか?
 今でも、あの優しい笑顔で笑っているのでしょうか?
 或いは……もう既に消えてなくなってしまっているのかもしれません。

 会いたいです。貴方に会いたいです。

 春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て。
 貴方と過ごした時間よりも、遥かに長い時を過ごしてきたけれど、貴方との記憶、貴方の存在は……風化する事なく、いつでも私の心の中に存在した。
 けれど、貴方に伝えたい想い、貴方に伝えなくてはいけない言葉は……心の中にいる貴方には、決して届かない。
 だから、貴方に会いに行きます。
 辞表は今日、提出しました。勿論、後悔なんてしていません。貴方の笑顔が、もう一度見たいのです。
 きっと、貴方は喜んでくれないのでしょうね。
 それでもいい。自分自身で決めた事なので。

 アナウンスが聞こえ、私はゆっくりと列車から降りる。外はもう日が沈んでいて、辺り一面真っ暗だ。
 外灯の灯りだけが、弱々しく道を照らしていた。
 ここは無人の駅なので駅員はいない。私は設置されている箱に切符を押し込むと、鞄の中から可愛らしい花柄の傘を取り出し、素早く開いた。

 町外れにあるこの場所は、住んでいる人が少ないせいか、建物などはあまりなく、沢山の樹木が凛として立ち並んでいる。
 ここは本当に、自然に包まれた良い場所だ。しとしとと降り続ける雨音が、静寂すぎるこの地に活気をもたらしてくれているようにも思えて、何だか少し可笑しい。
 ――ああ、こんなに心が穏やかなのは、どれくらいぶりだろう?
 仕事中の私は、いつも眉間に皺を寄せ、イライラしていた。その内に社内の嫌われ者となった私に、好んで話しかけてくる人なんて一人もいなかった。
 耳にするのは、いつも私の悪口ばかり……
 勿論、私だって人間です。傷付きもすれば、悩んだりもします。
 けれど私は、そんな事を気にする事なく、この五年の間……ずっと貴方の事ばかりを考え、生きてきました。
 そして、自分に言い聞かせるのです。
『こんな事くらいで負けては駄目、もっと強くならなきゃ』と。
 ……本当はね、私、待っていたんです。
 あの頃の貴方と今の私が同じ年齢になるその時まで……ずっとずっと、待っていたんです。
 貴方と同じ歳になった時、見える景色もまた違って見えるんじゃないかって……そう信じていたのです。
 まだ時間まで少し早いみたいなので、貴方の事を思い出すのもいいかもしれませんね。
 今でも鮮明に覚えています。瞼の裏に焼き付いて、離れてくれそうもありません。
 あの、不思議な街……
 黄昏の街で起こった出来事を――


 私が初めて彼に出会ったのは、まだ十九歳の夏の日の事でした。
 当時の私の素行は決して褒められたものではなく、外見ばかりを派手にし、家にも帰らず、毎晩のように友人と夜の街を徘徊し、遊び呆けていました。
 私はいつだって、皆と同じじゃないと不安でした。皆と少しでも違うと不安でした。
 だから私は、皆と同じようなメイクをして、露出度の高い服ばかりを選んで着る。
 お気に入りの甘いパフュームの香りが、いつも私を包み込んでいました。
 そして周りには常に、派手な外見に騙された馬鹿で軽い男達が群がる……私は男達に偽名を教えては、ご飯に連れていってもらったり、カラオケで熱唱したりして時間を潰していました。
 勿論それだけで終わらない連中も、中にごまんといます。なので……『この男は危険だ!』、そう察知すると、適当な理由をでっち上げたり、トイレに行く振りをしてそのまま友人と逃げ出したりと、上手く危険を回避してきました。
『さっきは危なかったねー!』などと言いながら、いつものように馬鹿みたいに笑い合っているのが、その頃の私の全てだったのかもしれません。

「――じゃあね」
「あ、うん」
 友人と別れると、私は一人、自宅に向かって歩き始めます。
 誰もいない夜の空の下。輝く星がとても綺麗で、急に虚しさが込み上げてくるのがわかりました。
 私は一体、何の為に生きてるんだろう?
 私は一体、何が楽しくて笑っているんだろう?
 本当の私は一体、どこにいるの?
 ……もう疲れてしまった。消えてしまいたい。いっその事、こんな私なんて、誰からも忘れ去られてしまえればいいのに。……本当に馬鹿みたいだ。
 涙が止めどなく溢れ出し、マスカラが落ちて目の周りが真っ黒になっても、私はお構いなしに泣き続けました。
 そんな時に限って、昔の事が頭をよぎるのです。
 ――学生時代。私はとても真面目な生徒でした。成績は決して悪くはなかったし、決まり事はちゃんと守る……そんな面白味の欠片もない、退屈で窮屈な人間だったのです。
 自由に生きている同級生達に羨望の眼差しを向けながらも、同じように生きる事が怖くて、私には到底真似出来そうもありませんでした。
 そんな真面目だった私が、どうしてこうなったのか。それには勿論、理由があります。
 私には、こうならなくては生きていけない事情があったのです。こうしなきゃきっと……生きていけそうもなかったから。
 とにかく、私は孤独でした。
 友達や遊び仲間が大勢いたって、私の心の中はいつも独りぼっち。
 歩く事に疲れた私は途中で足を止めると、マスカラで汚くなった顔のまま、近くの河原に腰を下ろし、綺麗な星を眺めていました。
 ……その時、私以外にも河原で星を眺めている男性がいる事に気が付きました。
 彼はただ、座って星を見ていただけでしたが……何故だか私には、目の前の彼が泣いてるように見えました。
 彼の口から吐き出される煙草の白い煙が、ふわりと空に流れ、夜空に浮かぶ星まで届く事なく、儚く消えていく。
 そんな中、彼は空に輝く幾千もの星に向かって、思いっきり手を伸ばしました。まるで何かを捕まえたいような仕草のようにも見えましたが……勿論、星を捕まえる事は出来ません。
 ならば、彼のあの強く握られた拳の中には、一体何が入っていたのでしょう?
 彼は……何を手に入れたかったのだろう?
 そんな事をぼんやりと考えていると、不思議と私は、彼から目が離せなくなりました。
 ジッと見つめてくる私に気付いたのか、彼と私の視線が真っ直ぐに重なり合い、ピシャリと時を止める。
 どうしようと戸惑っていると、彼は私の顔を見て、『ぷっ!』と大きく吹き出しました。
「その顔、すごいね」
 そう言って彼はゆっくりと立ち上がると、ジーンズの地面に触れていた部分を軽くはたきながら、こちらに向かって歩いてきました。
「――隣、いい?」
 私は思わず、こくりと頷く。
 そんな私を見て柔らかく笑った彼は、私と一人分の空間を空けたその先に、ゆっくりと腰を下ろしました。
「どうして泣いてたの?」
 彼は空に視線を向けたまま、私にそう問いかけてきました。……少しだけ、言葉が詰まる。
 しかし、どうせ赤の他人。見知らぬ相手だ。本音で話してみても、恐らく差し支えはないだろう。
 ここで別れてしまえば、どうせまたすぐに知らない者同士に戻ってしまうのだから……
 私は、そんな軽い気持ちで口を開きました。
「……孤独だから」
 可愛い気なく、素っ気なく、そんな事を言う私に、彼は……
「そっか。じゃあ、俺と一緒だね」
 そう言って、クスクスと笑いました。
 無邪気に笑う彼の表情はとても優しいもので、私の胸は小さな振動を覚えました。
「君、名前は?」
 突然名前を聞かれ、偽名を使おうか一瞬悩んだけれど……
「アイコ」
 気付けば私の口は、勝手に本名を口にしていました。
「俺はカズト。よろしく、アイコ」
 私の手を握り、ブンブンと上下に振る彼。『随分と豪快な握手だな』と、私は思わず苦笑いを浮かべました。

 彼の名前は森野一人。【ヒトリ】と書いて、カズト。
 彼は笑いながらそう言いました。
 歳は私より五歳上の二十四歳。けれど童顔な彼は、私とさほど変わらない年齢のようにも見えました。
「君は孤独が怖いんだね」
「……うん、そうだね。とても怖いよ」
 何故か私は初対面だというのに、彼には素直に何でも話す事が出来ました。……本当に不思議です。
 初めて会ったのに、随分昔から知っていたような、そんな感覚。
「俺はさ、孤独なんてものは誰もが必ず持っているものなんだと思ってる。見せるか見せないか……ただそれだけ。人は皆、孤独と共存しながら生きているんだよ」
「……共存」
「うん。人はね、産まれてくる時も死ぬ時も必ず独りなんだ。ただ……誕生を喜んでくれる人、いなくなる事を悲しんでくれる人は必ずいると思う。それでも、やっぱり人は孤独から抜け出す事は出来ないんだよ。人である限り、ね」
「……たとえ私が死んだところで、誰も悲しんだりしないよ」
 私は俯き、そう答える。
 彼はそんな私をじっと見つめました。
 やがて彼は、一人分の空間の先にいる私に向かってゆっくり手を伸ばす……彼のその大きな手のひらは、私の頭をそっと柔らかく包み込んでくれました。
「俺が悲しむよ」
 そう言って彼は優しく頭を撫でると、『よいしょ』と立ち上がり、真っ直ぐ星を見つめながら言いました。
「君が死んだら、俺が悲しむ」
 ……初めて会った人で、まったくの赤の他人です。名前だって年齢だって、さっき知ったばかりで、私は他に彼の事など何一つ知りません。
 それどころか、初対面の人間に対してこんな事を言うなんて、案外軽い人なのかもしれません。
 それなのに、何故かその言葉は私の心の深い部分まで染み渡り……気付けば私は、まるで小さな子供のように大声で泣き喚いていました。
 嬉しかったのです。認められた気がして。
 嬉しかったのです。受け入れてもらえた気がして。
 彼の横顔は月明かりに照らされて、とても綺麗でした。

 それから私は、毎週日曜日の夜に、あの河原で彼と会う事になりました。
 虚しいだけでしかなかった夜の遊びは、勿論あの後すぐに辞めました。
 彼と過ごす時間は、とても楽しいものでした。
 彼の話を聞くだけで心が弾む。彼の笑顔を見るだけで心が安らぐ。
 彼は今まで出会ったどんな人よりも、魅力的で素敵な人でした。
 勿論、私がそんな彼に好意を寄せるのに、そう時間はかかりませんでした。
 心の中に生まれる、淡い恋心。
 時としてその心は大きく吹き荒れる台風の目となるが、温かい春の日差しに包まれ、満開に咲き誇る桜となる事もある。
 言葉ではとてもいい表せない不思議な感情。
 ――それが、恋だ。
 けれど……私は彼に、その想いを伝える事はありませんでした。
 自分に自信などなかったし、こうして今まで通り彼と会えなくなるのが嫌だったから。
 私は、彼と話せるだけで充分満たされていました。それだけで、本当に幸せだったのです。
 今思えば、恐らく彼は私の気持ちに気付いていたのだと思います。
 それなのに気付かない振りをしてくれたのはきっと、彼の優しさだったのでしょう。

 こうして、私と彼が出逢って数ヶ月が経ちました。初めて出逢った夜から今まで、何の問題もなく、楽しく過ごせていたと思います。
 ……だけど、【その日】はいつもと違ったのです。
 いつもなら夕方過ぎに河原に行くと、必ずそこに彼はいました。しかし、その日は何故か彼の姿が見当たらなかったのです。
『今日は遅いなぁ』なんて思いながらも、特に気にする事なく、私は座って彼を待っていました。
 けれど、いつまで経っても彼が現れる事はなく……時間だけが、ただ非情に過ぎていく。
 ずっとずっと待っていたけれど……結局その日、彼が河原に来る事はありませんでした。
 次の週も、次の週も、そのまた次の週も……彼が河原に現れる事はありませんでした。
 勿論、何度も彼に連絡してみたけれど、一度も繋がる事のないまま……無機質なアナウンスは、行く宛のない私の想いを無情にもかき消していきました。
 私は、きっと彼に嫌われてしまったのだなと思い……悩んだ末、もう河原には行かない事にしました。
 いきなり何も言わずにいなくなってしまった彼の事が許せなくて。けれどそれ以上に……悲しくて、寂しくて、切なくて。
 もうこのまま、彼の事は忘れよう。……そう思う事にしたのです。
 夢のような時間はあっという間に終わりを告げ、私を現実の世界に引き戻してしまいました。
 ――それから約五年の年月が流れ、私は二十四歳に。
 初めて出逢った頃の彼と、同じ年になりました。



 二十四になった私は、既に今の職場で働いていて、覚えなくてはいけない事が山ほどありましたが、毎日とても充実した日々を過ごしていました。
 次第に彼の事を思い出す事も少なくなっていき、あの頃の事は良い想い出として、そっと心の中にしまい込むようになりました。
 それでいいと思っていたのです。実際に仕事は忙しく、考える余裕もなかった事には違いなかったのですから。
 ――そんな、ある日の事でした。
 お昼休み。私は自宅に弁当を忘れてきてしまった事に気が付いたのです。
 けれど、今日中に終わらせなければならない仕事が山のように溜まっていて、とてもじゃないけどランチになんて行ってる暇などありません。
 私は仕方なく、近くのコンビニで何か買ってすまそうと思い、急ぎ足で向かいました。
 選んでいる時間すら惜しかった私は、適当におにぎり二つとお茶を手に取ると、そのままレジに一直線。慌てる私を見て店員さんはクスリと笑うと、『ありがとうございました』と元気よく送り出してくれました。私はペコリと頭を下げ、急いで出口に向かいました。
 店の自動ドアが開き、一歩足を踏み出した……その時でした。
 柔らかな風が優しく髪を揺らしながら、そのまま私の中を吹き抜けていく。コンビニの前にいた鳥達が、一斉に高く飛び立っていきました。

 ただ、風が吹いた。……それだけでした。

 けれどそれは、何故か不思議な感覚でした。
 だって風が、忘れる筈のないあの人の……彼の香りを一緒に運んできたのだから。

 ……彼がいる。きっと、あの河原に――

 それは、単なる想像でしかありませんでしたが、限りなく確信に近い予感でもありました。
 脳が身体に命令を送るよりも早く、私の足はあの河原に向かって走り出していました。汗だくになりながらも、全速力で。
 何度か躓いて転び、周りの人に笑われたりしたけれど、私は決して足を止める事はありませんでした。
 あの河原までは結構な距離なので、休憩時間はとうに終わってしまっていただろうし、途中で履いていたヒールも折れてしまいましたが、そんな事はどうでもいいのです。大した問題ではないのだから。
 ――結局彼には会えないまま、今日も一日が終わる。
 そっちの方が、私にとっては大問題でした。
 折れてしまったヒールを見て、私は大きく溜息を吐きました。本当に時間が惜しいけれど、このままでは走る事が出来ません。
 暫く裸足で走り続けていましたが、視界に入り込んできた靴の専門店に入り、適当に選んだスニーカーを購入すると、さっきまで履いていたヒールをそこに脱ぎ捨てて、再び全速力で走り出しました。
 ――もう少し! ……あと少し!
 運動不足なせいか、下腹部がかなり痛み始めました。こんな事なら、もっと運動して体力をつけておけば良かった。
 ……今更悔やんでも、意味のない事ですが。

 やっとの思いで河原に着くと、やはりそこには【彼】の姿がありました。
 視界が涙で滲み、胸がギュッと締め付けられるような感覚……
 ふいに振り返った彼は、私の存在に気が付くと、そっと右手を挙げました。
 私は走り、彼の腰に手を回すと、力一杯抱きしめました。
 この手を離してしまうと、彼は一瞬の内に……蜃気楼のように、はたまた泡沫のように、儚く消え去ってしまいそうだったから。
 もう、どこにも行かないで欲しかった。
 彼は眉を下げ、照れたように頭を掻くと、五年前と同じように、私の頭を優しくポンポン撫でながら……
「ただいま」
 そう言って、優しく微笑みました。
「……おかえりなさい」
「うん」
「……カズトくん。会いたかったです。ずっと」
「ありがとう。俺もだよ」
 気の抜けた私は、彼を抱きしめていた腕の力を緩め、その場にへたり込んでしまいました。もう足がガクガクで、力が入りません。
「……汗だく。走ってきたんだね。そんなに俺に会いたかったの?」
「ち、違うし!」
「まったく素直じゃないんだから」
 子供のようにケラケラと、屈託なく笑う彼の姿。
 私は何だか腑に落ちず、そんな彼の事がとても憎らしくて堪りませんでした。
 けれど彼の笑顔を見ていると、結局は怒りなんて一瞬にして吹き飛んでしまい……気付けば私も、彼と一緒に笑っていました。
 会いたかったよ。凄く会いたかった。
 本当に昨日までここにいなかった存在だなんて、とてもそうは思えませんでした。
 彼が私の隣にそっと座り、五年前と同じように他愛のない事を話し始める。その優しい声に耳を傾けながら、私はまるで夢の世界にいるような、そんな気持ちになりました。
 それくらい、彼の隣は私にとって心地良い空間だったのです。
 久しぶりに見る彼はやはり素敵で、胸が激しくときめいてしまうのが嫌でもわかってしまいました。
 いつも楽しそうに夢を語っていた彼。私に無いものは全て、彼が持ってるんじゃないか? ……そう思えてしまうくらい、彼は他の誰よりも輝いて見えました。
 二十九歳になった彼は、やはり以前より大人びて見えて……私の胸は高鳴るばかり。
 二十四歳になった私は、彼から見て……少しは大人になったように見えたのでしょうか?
 ……それは、私にはわかりません。
 彼は、そんな私の思考を読み取ったかのように言いました。
「しかし、君は相変わらず何も変わってはいないね。本当に昔のままだ。ここに現れた時、すぐに君だってわかったよ」
 そう言ってクスクスと笑う彼が、妙に腹立たしく感じる。……いつまでたっても、子供扱いは健在か。
「何よ! 少しぐらい変わったでしょう⁉ 私、二十四になったんだよ? あの頃に比べて、ずーっと大人になりましたよーっだ!」
 こうやって言い返してしまう所が、まだまだ子供な証拠なのだと自覚していながらも……つい、そう言ってしまうのは、彼に子供扱いされる事が嫌いではないから。
 ……けれど、やはり彼の方が一枚上手なようで。
「嘘。綺麗になったよ、とても」
 そんな言葉を顔色一つ変えずに平気で言ってしまえるのだから……私は一生、彼には敵わないのでしょう。
「けど、君ももう二十四かぁ。時が経つのって本当に早いね」
 河原であぐらをかき、空を見上げていた彼は、ふと自分の手の下に視線を移し、そこに落ちていた石を一つだけ掴むと……オレンジ色が鮮やかに反射している水面に向かって、思いっきりそれを投げました。

 一……
 二……
 三……
 四……
 五……
 六……
 七……
 八……
 九……
 …………

 何度か水の上を楽しそうに跳ねていった石は、やがて静かに水面下へと沈んでいきました。

「……あのね、カズトくん」
「ん? どうしたの?」
 私は、そっと彼に尋ねました。
「カズトくんは、今まで一体……どこに行ってたの?」
 本当はずっと聞いてみたかったけれど、聞いてはいけないような気がして……聞けなかった。
 それでも、結局は気になって仕方がなかったので、私は勇気を出して彼に聞いてみる事にしたのです。
 二人の間に、暫しの沈黙が流れ始めました。
 返答を待っている間も『君には関係のない事だよ』なんて言われたらどうしようとか、やっぱり聞かない方が良かったのかもしれないとか……そんな不安な気持ちに押し潰されそうになりましたが、私は彼の言葉をじっと待ち続けました。
 彼は胸のポケットから煙草とライターを取りだし、一服すると、再び空を見据えながら言いました。
「きっと信じてもらえないだろうけど、あれは……あの場所はきっと……【異世界】、かな」

 ……そうか、異世界か。異世界ね。

 ――って!
「い、異世界⁉」
 待ちわびていた返答が、私にとって想像もつかないものだったので、私は開いた口が塞がりませんでした。
 そんな私を横目に、彼はぶれずにゆっくりと話し続けました。
「そこは、本当に不思議な街だった。朝も、昼も、夜もこない。ずっと夕焼けが広がっている……そんな場所に、俺はいたんだ」
 そう言った彼の横顔は寂しそうで切なげで、けれど、とても綺麗で……私は思わず目を奪われました。
「……はは。急にそんな事言われても信じられないよね。勿論わかってるよ」
「いや、あの、その……」
「いいんだ。聞き流してくれれば」
 彼はそう言うと河原に寝転がり、『んーっ!』と腕を真っ直ぐ伸ばしました。
 私と目が合うと、ふにゃっとした笑顔を見せた彼は、手を頭の下に敷き、再び空に視線を移しました。
 ……彼の言っている事は、正直私にはよくわかりません。
 突然異世界だなんて言われても、『そっかー! 異世界に行ってたんだね! どうだった?』……なんて素直に受け取れはしないし、そもそも信憑性に欠けています。
 けれど、先程彼が見せた真剣な瞳には一片の曇りなどない。
 私には、彼がわざわざ私に嘘を吐いたり、作り話を聞かせる理由なんてない。……そう思いました。
 多分、カズトくんは何か勘違いしてるんだ……きっとそう。
「あの、えっと……ね?」
「……ん?」
「その不思議な街は、現実の世界……ではないんだよね?」
「……うん、絶対に違う。現実じゃ有り得ない事が多すぎるから」
「じゃあ、カズトくんはどうやって……その不思議な街に行ったの?」
「どうやってって……」
「聞かせて欲しいの。知りたいから!」
 私がそう言うと彼は身体をゆっくり起こし、そっと私に耳打ちしてきました。
 たったそれだけで私の胸は高なり、体温が異常なくらいに上昇してしまいました。顔なんて、茹で蛸みたいに真っ赤だったに違いないです。
 けれど幸運な事に、赤々とした夕陽が私の顔を隠してくれたので、何とか気付かれずに済んだようでした。
 後は、『この高鳴る心臓の音が、彼に伝わりませんように』と……そっと祈るだけ。
「……秘密」
 私の感情を激しく掻き回した耳打ちの内容が、これだ……非常に彼らしい。
 彼はさながら、無自覚で女性を虜にさせるスイーツのようです。
「何それ! からかわないでちゃんと教えてよ!」
「ふふ、ごめんごめん。――じゃあ、少しだけ」
 彼はその不思議な街を、【黄昏の街】と呼んでいました。とても美しく、どこか物寂しい……そんな世界。
 行き方を聞いてみたところ、そこは誰でも簡単に行けるような場所ではなく、行くには何らかの条件があるようでした。
 けれど何度尋ねても、彼が私にその条件とやらを教えてくれる事はありませんでした。

「……さてと。俺、そろそろ行くよ」
「えっ? もう行っちゃうの⁉」
「うん、ごめん。――あ、そうだ!」
 そう言うと、彼は持っていた鞄から何かを取り出し、私の前に差し出しました。
「はい」
「……何これ?」
「君にあげるよ」
 彼の手の上にあったのは、琥珀色をした……とても綺麗な石でした。
「これ、その黄昏の街で見つけたんだ。君にあげたくて持って帰ってきたんだよ」
 ――だから、はい。
 そう言って、彼はそれを私の手のひらの上に置きました。
「凄く綺麗……! ありがとう。大切にするね」
「うん。じゃあ、俺行くね」
 彼は私の頭に優しく触れると、またふにゃっと笑いました。
 彼はいつも笑っていて、私はその笑顔を見るのが、とても大好きでした。……けれど、今日は何だか違う。
 笑っているのに、何故か私には……彼が泣いているように見えました。
 あの、星を眺めていた夜と同じように。
 彼の言う【黄昏の街】が本当にあるというのなら……今夕陽で赤く染まっているこの場所と、どう違うのでしょう?
 急に私は……彼が今からまた、その黄昏の街に行こうとしているのではないか?
 そして、もう二度とここには戻ってこないのではないか?
 そんな、底知れぬ不安に襲われました。
 ……聞かなければ。そして、もしそうなら止めなくちゃ。
 焦りが、一瞬の内に脳内を支配しました。
 私は……既に私に背を向け、歩き出そうとしている彼に向かって、大きく声を上げました。
「カズトくん!」
 その声に彼は振り返ると、『ん?どうしたの?』なんて……特に何とも思っていないかのように声をかけてきます。
 私は、彼に尋ねました。
「また……会えるよね?」
 彼は驚いた表情を見せながら……少し間を置いて、こう言いました。
「――勿論! また会えるよ、きっと」
 その言葉を聞いて……わかってしまいました。
(……もう、会えないんだね)
「本当に、本当にまた会える⁉」
「必ず」
(嘘だ。もう二度と会えないんでしょ?)
「……じゃあ! 今度はいつ会える⁉」
 彼は手のひらを自分の心臓部分に当てながら、ゆっくりと口を開きました。
「……そうだな。君が会いたいと願ったら、かな? 俺はいつだって、君の傍にいるよ」
「……嘘つき。また行っちゃうんでしょ?」
「え?」
「黄昏の街に」
 彼は口を閉ざしました。それは、肯定しているのと同じ事。
 私は、彼が私に何も言ってくれない事に酷くショックを受けながらも、話を続けました。
「どうしても行くなら止めないよ。……けど、お願い。私もそこに連れていって欲しい。一緒に」
 私の言葉に、一瞬驚きを隠せない表情を見せた彼。
 しかし彼は、すぐに毅然とした態度をとり、はっきりと私に向かって言いました。
「君を連れてはいけない」
 ……あぁ、やっぱり連れていってもらえない。
 彼の言葉が胸に深く突き刺さりました。けれど、引き下がるわけにはいきません。……そう簡単には引き下がれません。
 せっかく五年振りに会えたのに、また会えなくなるだなんて……そんなの絶対に嫌だったから。
「何故、連れていってくれないの……? それなら、どうしてその街の話を私に聞かせたの? ……そりゃ、最初に聞いたのは私だよ。カズトくんはただ、それに答えてくれただけ。貴方は何も悪くない。滅茶苦茶な事を言ってるのは私の方だって、ちゃんとわかってる。……けどっ! こうやってまた私の事を置いて、どこかに行ってしまうのなら……言わないで欲しかったよ。カズトくんは勝手だよ」
 行き場のない想いが爆発する。こんな事……本当は言いたくないのに。

 ――勝手なのは私。
 ――我儘なのは私。

 あぁ、私は本当に醜い。

「……それもそうだね。アイコが正しいよ」
 彼は困ったように笑いました。
 こんなに理不尽な事を言われているのに、優しく肯定してくれる彼。私は、激しい罪悪感に苛まれました。
 彼を困らせているという事は、重々承知していました。でも……ここまで言ってしまったのです。
 私は絶対、カズトくんについて行く。だから、どれだけ嫌な女だと思われても……
 私は――

「……それとも、やっぱり嘘だったの? 黄昏の街だなんて本当は存在しないんじゃないの? ……ねぇ、私を騙したの?」
 私は優しい彼に、言葉のナイフを突きつける。
「嘘なんかじゃない。騙してもいない。黄昏の街は、確かに存在する」
「……なら、証明してみせて」

 彼は暫く何かを考え込んだ後、真剣な表情を見せながら私に言いました。
「……一度だけ。一度だけなら、君はあの場所に行く事が出来る。俺と一緒ならね。けれど、必ず帰らなくてはならない。ちゃんと元の世界に戻ってくるって……約束出来る?」
「! うん! 約束するよ」
「決してあの世界に魅了されてはいけない。帰りたいという意思を手離してはいけない。……本当に、約束出来る?」
「出来るよ! 絶対に出来る!」
「……君の心は、とても弱くて脆い。状況によっては簡単に左右され揺さぶられる事もあるだろう。それでも、俺の言う事は必ず聞く事。俺の事は何があっても信じる事。――いいね?」
「……うん! わかった」
 そう私が伝えると、彼は『やれやれ』といった様子で苦笑いしながら、私の前に手を差し出しました。
「……おいで、アイコ。一緒に行こう。――黄昏の街に」
 差し伸べられた手に戸惑い、少し躊躇しながらも……そっと手を乗せました。
 ギュッと握られた手は、とても大きくて温かったのを覚えています。
「本当に君って人は……強情なんだから」
「ごめんなさい、酷い事ばかり言って。私、カズトくんが嘘をついてるだなんて……本当はそんな事、全然思っていないから!」
「わかってるよ。気にしないで」
 そう言うと、彼は優しく微笑みました。
「きっと君は、俺と離れるのが嫌なんだね」
「……そういう事にしておいて下さい。もう」
「そういう事にしときます」
 本当に、彼には頭が上がりません。

 私は空を見上げました。既に綺麗な夕日は沈みかけていて、いつものように夜を連れてこようとしています。
 ――黄昏の街。夜がこない街。
 そんな場所が、本当にあるのでしょうか?
 本当に存在したとしたら……そこは一体、どんな世界なのでしょう?
 ……私は、少しだけ不安になりました。
 けれど、きっと大丈夫。彼が私の隣にいる……それだけで、大きな安心感に包まれました。
 バッグの中の携帯電話がずっと震動している事には気付いていたけれど、どうしても取る気になれず……私はそっと電源を落としました。

 列車に揺れる彼と私。私達は、今までの空白の五年間の事をお互いに話し合いました。
 彼は私のどんなに下らない話でも、ちゃんと最後まで話を聞いてくれて、『いっぱい頑張ったんだね』と褒めてくれました。私は、それがとても嬉しかったのです。
 会えなかった期間が帳消しになるくらい、私と彼は沢山の話をしました。
 実際、私達が河原で会った回数はたったの十数回。
 けれど、その十数回は……私にとって、とても大切でかけがえのない宝物のような日々でした。
 これから何年、いいえ……何十年経っても、この気持ちはきっと、一生変わる事はないでしょう。
 もう遅い時間なので、列車の中にはあまり人がいませんでした。
 少し離れた場所に、神について討論してる老夫婦の姿が見えました。聞き耳を立てているつもりはないのですが、声が大きすぎてここまで聞こえてくるのだから、仕方がありません。
 ――神様、か。
 私は、欠伸をして眠そうにしている彼を横目で見ました。
 ……神様。もし本当に存在するのなら、お願いです。
 もう彼をどこにも連れて行かないで下さい。
 そして、出来る事なら……このまま時を止めて下さい。彼と、ずっと一緒にいたいのです。もう二度と、離れたくはないのです。
 貴方が本当に偉大な存在なら、そんな事は簡単でしょう?
 ……なんてね。
 正直私は神様なんて信じていないし、そんな非現実的なものが、この世界に存在などする筈がない……そう思っていました。
 けれど、彼の言う異世界が本当にあるというのなら……神様だって本当はいるのかもって、信じられるかもしれません。
 だから神様? お願いです。私の願い……きっと叶えて下さいね?
 私は何だか可笑しくて、クスクスと小さく笑いました。
「アイコ……? どうかした?」
「ううん、何でもないよ! ちょっと下らない事を考えてて可笑しくなっただけ」
「そう? ……まぁ、君はすぐに自分の世界に浸り込む癖があるからね」
「……それ、カズトくんだけには本当に言われたくないんだけど。――あ、そうだ! 黄昏の街の事、もっと聞かせてくれる?」
「うん、わかった」
 そう言うと、彼は黄昏の街について……先程よりももっと詳しく、具体的に話してくれました。
 そんな彼の話はとても不思議で、どこか神秘的なものでした。
「黄昏の街には沢山の人がいる。けれど、それらは全て肉体がないんだよ。存在するのは真っ黒な影だけ。影が動いたり、話しかけてくるんだ。黄昏の街、って言うより……【影の街】っていう方がピンとくるかもしれないね」
「影の……街……?」
「うん。けどまぁ……俺みたいに、偶然迷いこんでしまった普通の人間も、たまにいるみたいだけどね」
 私達の声を拾ったであろう女の人が、怪訝そうな顔をしながらチラチラとこちらを見てきました。
 恐らく私達の会話は、周りから見たらとても滑稽で……きっと、頭のおかしな人間だと思われているのでしょう。
 別に、誰にどう思われても構いません。
 私達は気にせず、話を続けました。
「カズトくんは……怖くないの?」
「ん? 何が?」
「だって……影が動くとか、影が話すとか」
「はは、大丈夫だよ。影達は無害だし、まったく怖くはないよ。……けど、あの世界に対してはどうだろうね? 怖い、のかもしれない。『怖くない』とは言い切れない。けどね、人間は誰しも想像もつかないような事が突然起きてしまえば、少なからず恐怖を覚えるものさ。認めたくないからね。人は弱い生き物だから。でも、それらを全て認めてしまえば……本当はそこら中に、誰も想像すらした事のない不思議な世界がありふれているのかもしれない。それに比べたら、こっちの世界なんて本当にくだらないよ。出来る事ならずっと、あっちの世界に留まりたいくらいさ」
 そんな事を言いながら、自嘲気味に笑う彼を見て……私は彼の事なんて、何一つとしてわかっていなかったのだなと思い知らされました。
 彼はとても社交的で、よく私に色んな話を聞かせてくれました。……けれど、それはいつだって【彼自身】の話ではなかった事に気付いてしまったのです。
 私は彼の事を何も知りませんでした。
 それどころか、本当の彼の姿は私が知っている彼とはまったく当てはまらない【別人】なのかもしれません。
 私は今まで彼の事を深く知る努力もせず、いつも話を聞いてもらうばかりでした。
 それなのに彼は嫌な顔一つ見せず、励ましの言葉や優しさを私にくれました。
 じゃあ、彼は辛い時……一体誰に弱味を見せてきたのでしょうか? 愚痴をこぼしてきたのでしょうか?
 支えてもらうばかりで、彼を支えてあげられなかった自分を恥じて……とても心が苦しくなりました。

「ご乗車ありがとうございます。次は~……」
 ……ちょうど、アナウンスが次の停車駅の名を告げてきました。
「アイコ、次で降りるよ」
 ずっと繋いだままの左手は、何だか先程とは違い……ひんやりと冷たく感じました。

 降りた先は無人の駅。『暗いから気をつけて』と、私の手を引いて進む彼。私達は木々の間をすり抜けて、狭い畦道をひたすら歩き続けました。
 ……とても静かな夜です。時折、虫や蛙の鳴く声が聞こえるくらいで……今この瞬間、この世界に彼と私しか存在していないかのような、そんな錯覚に陥りました。
 優しい静寂が、私にはとても心地良く思えたのです。
「アイコ」
 突然、前を行く彼が私に話しかけてきたので、私はすぐに返事を返しました。
「どうしたの?」
 すると、少しだけ間が空きましたが……彼はゆっくりと口を開いて、こう言ったのです。
「……ありがとう」
「えっ?」
 彼のそんな言葉に、私の口から思わず間の抜けたような声が出ました。
 彼は一度も振り返る事なく、ずっと前だけを見て歩いているので……私には彼がどんな顔をして、どんな気持ちでお礼を言ってくれたのかはわかりません。
 私は急に、不安な気持ちに襲われました。
「……いきなりどうしたの? お礼を言いたいのはこっちの方だよ」
 彼はその場で立ち止まると、ゆっくりと私の方に振り返ります。柔らかな風が、そっと二人の髪を揺らしました。
「アイコ、本当にありがとう」
「――もう! ほんとやめてよね⁉ そういうの、何かやだよ。最後のお別れみたいでさ……」
「黄昏の街に行く前に、ちゃんと君に言っておきたかったんだよ。……大丈夫。別れの挨拶とかじゃないから」
「本当に……? 約束だよ?」
「うん、約束」
「ならいい。……で、何がありがとうなの?」
「……それは秘密」
 人差し指を唇に当てると、彼は悪戯っ子のようににっこりと微笑みました。
「もう! わけわかんない!」
 彼の思考は本当に理解不能で、私は毎回頭を悩まされます。
 けれど、彼が笑ってくれたので……何だか少しだけ、安心しました。
 ……きっと、深い意味なんてないよね? 私は自分に、無理矢理そう言い聞かせる事にしました。
「行こう、アイコ。この森の先に黄昏の街がある。もうすぐだよ!」
「あ、うん……!」
 それから彼は一言も話す事なく、森の中を真っ直ぐ進み続けました。
 私は歩幅の違う彼の後ろを、ただひたすら追いかけ続けるだけ。
 繋がれた手が離される事はなかったけれど、何だか少しだけ……彼の手が震えているように感じました。

「着いたよ、ここだ」
 目の前にはとても大きな樹木。一体どのくらい昔から、この樹は存在しているのでしょうか?
 ……これだけ大きな樹です。神様が住んでると言っても恐らく皆、納得するでしょう。
 それは神樹と呼ぶのに相応しい、堂々たる装いでした。
 彼は呆気にとられてる私の姿を横目に見て、クスリと笑うと……繋がれた手をそっと離し、樹の中心部に手を添えました。
「……カズトくん? 何してるの?」
「シッ……ちょっと待って」
「う、うん」
 私は言われた通り、静かに待つ事にしました。
 彼の手が、徐々に淡い光を宿し始めます。最初は錯覚かとも思いましたが、どうやらそうではないようで……私は驚きのあまり、上手く声が出せませんでした。
 ――その時、物凄い突風が森の中全域に吹き荒れたのです。
 荒ぶり始めた風は、まるで鎌鼬のように激しく葉を揺らし、それを地面に落としました。
 宵闇に木霊する低い唸り声は、まるで悪魔の咆哮のように感じられ、背筋がひんやりとした。
 私は声を絞り出すようにして、彼の名を呼びました。
「カズトくん!」
「アイコ! 開くよ、扉が」
 すると、彼の手が触れている周辺から金色の糸のような線が生まれ、その場に大きな円を描き始めました。
 中は眩しすぎて直視できない程に輝き、黄金の光が森中に溢れ出します。
「眩しいッ……!」
「暫く目を瞑ってて。すぐに収まるから」
「う、うん! わかった……!」
 少し時間が経つと彼が言った通り、光は徐々に弱まり始めたようでした。

「もう目を開けても大丈夫だよ」
 彼がそう言ったので、恐る恐る目を開けてみると……風は落ち着きを、そして森は静寂を取り戻していました。
「行こう、アイコ。早くしないと入り口が閉じてしまうよ」
 そう言うと、彼は私を置いて一目散に光の中に飛び込んでいってしまいました。
「え、ちょっと……! カズトくん! 待ってよ!」
 行ってしまった彼には、私の声は届かず……その声は虚しく森の中に消えていきました。
「何だったの、今の光……」
 目の前には、光り輝く円状の大きな穴。人一人、簡単に入れるくらいの大きさでした。
 ……けれど、それは徐々に小さくなっていっているような気がします。
「急がなきゃ……!」
 得体の知れない何かに飛び込む事は、やはり少し怖かったけれど……私は彼を追う為、無我夢中で光の穴に飛び込みました。



 ――柔らかい風。眩しい太陽。
 紺碧の空に、白い雲がゆっくりと流れる。
 一面に広がる草原は、まるで緑の海原。膝まで伸びた草は、私を優しくくすぐった。
 草原の先には、色鮮やかに咲き誇る美しい花。
 赤、青、黄、白、薄紫、桃。
 風に遊ばれ、優しく身を揺らすその姿はとても愛くるしいものだ。
 蝶が舞っている。まるで、妖精のワルツのようだ。踊り疲れた蝶は、桃色の花の上で羽を休めた。
 水が流れる音が聞こえてくる。近くに水流があるのかもしれない。
 そこに根を張り、この世界の全てを見据える大樹。それはきっと、神霊を宿す樹木に違いない。
 私はその樹の下で、じっと空を見上げていた。

 ――葉は歌う。風と共に。
 ――鳥は歌う。空と共に。
 ――私は歌う。……命と共に。

 真っ白のワンピースに裸足で草原に飛び込んだ私は、大声で叫ぶのだ。
 全ての命は尊いのだ、と。

『おや? どこからか泣き声が聞こえるぞ』と、風が私の手を引いて、その声の元まで案内をする。
 優しい風は、まるで私の身体まで風に変えてしまったかのように……軽く、素早く、その場所まで運んでいった。

 目の前で、小さな子供が泣いている。
 誰にも見つからないように……小さく、小さく、疼くまって泣いている。
 ……あなたは誰? 何故、一人で泣いているの?
 その小さな子供は、こちらの声など聞こえていないかのように泣き続ける。
 そして、そのまま消えていった。

 ゆっくり……
 ゆっくり……

 ゆっくり――

***

「アイコ、起きて。アイコ」
 ……私を呼ぶ声が聞こえる。優しくて落ち着いた声。
 あぁ、彼の……カズトくんの声だ。
 私はゆっくりと重い瞼を開く。
「良かった。目が覚めて」
 そう言うと彼は立ち上がり、私の身体をゆっくり引き起こしました。
「ここ……どこ? 天国……?」
「違うよ。寧ろ、地獄かもしれないね」
 そう言われ、今までの記憶が鮮明に甦ってきました。
「じゃあ、ここが……」
「そう、黄昏の街」
 目の前にある景色は、一瞬にして私の心を奪ってしまいました。
 黄色に近いオレンジ色の夕焼けが、どこまでも続いています。それは、私達が普段から目にしている夕焼けとは、少し違ってみえました。

 黄金の空。黄昏の街。
 本当に実在したんだ……

 そこは、とてものどかでした。そして、どこか懐かしさを覚える地でもありました。
 周りには昔ながらの古い家や建物が立ち並んでおり、水車がくるくると回っていて、とても風情に富んだものでした。
 手鞠歌を歌っている女の子。
 もウ帰ッテきなサいよーと、子を呼ぶ母親。
 カァカァと、電線の上で鳴いているカラス。
 井戸水を引き上げている老人。
 そこは、説明しただけで誰もが容易に想像出来てしまえるような世界であり……または、どこかで一度くらいは目にした事があるような場所でした。恐らく、教科書などにも載っていたような……そんな風景が私の目の前に広がっていたのです。
 街というよりは、村に近いかもしれません。
 ただ一つだけ違うのは、存在する全ての人や生き物達は皆、姿形がなく……まるで影のような存在だという事。とにかく、身体が全て黒に覆われていました。
「……カズトくんの言ってた通りだね」
「ね、本当にあったでしょ? 嘘なんかつかないよ、俺は」
 彼は疑われた事を少し根に持っていたみたいで、得意気にそう答えました。
「俺はずっとここで暮らしていたんだ。ちょうど、河原に行かなくなった時期から……かな?」
「じゃあ、ここに五年近くも⁉」
「ははっ、住み心地は悪くないんだよ。元の世界と違って色んな欲求が免除されているしね」
「免除って……どういう事?」
 彼は『そうだなー』なんて言いながら、突然指を三本立て、その一本ずつを折り曲げながら説明してくれました。

 ――この世界ではお腹が空かない。だから、食べる必要がない。
 ――この世界では眠くならない。だから、眠る必要がない。
 ――この世界では疲れを知らない。だから、休む必要がない。

「きっと他にもあるだろうけど、とりあえずわかるのはこれだけ」
 そう言えば、彼に会えた事が嬉しくてすっかり忘れていたけれど、私ずっと何も口にしていなかったんだ……
 それなのに、お腹が空いたような感覚が、確かに微塵も感じられません。
 それに、列車の中ではあんなに眠そうに欠伸を繰り返していた彼も、今ではすっかり目が冴えているように感じられました。
 ここは、なんて不思議な場所なのでしょう。このような世界が、私達の住む地球上に存在するだなんて。
 ――朝も、昼も、夜もやってこない世界。
 お腹が空かない、眠くならない、疲れない。……そんな世界。
 そして、実体を持たない影だけの世界。
 背筋がぞくりとするも、口角が少しだけ上がってしまっている自分に気が付きました。
 どうしよう……何だか胸がドキドキする。
 私、もっともっとこの世界の事が知りたい。
 ――そう。私はこの世界に惹かれ始めていたのです。それも、恐ろしいスピードで。
「――ちょッと兄ちャン達、後ロ通るヨ~。退いトクれ」
 後ろから歩いてきた影が、私達に声をかけてきました。
「あ、すみません。どうぞ」
「ご、ごめんなさい!」
 私達は急いで道を開け、影の姿をしたおじさんに場所を譲りました。
「アリがトよー」
 そう言うと荷台を引いた影は、ゆっくりゆっくりと歩いていきました。
「うわぁ……びっくりした!」
「大丈夫。悪い人ではないよ。怖くなかったでしょ?」
「うん! 全然怖くなかった。今の影のおじさん、とっても優しそうな人だったね!」
「あの人はいつも荷台を引いて、ああして歩いているんだよ。とても働き者のようだね」
「姿は影でも……普通の人間と変わらないんだね」
「そうだね。肉体がなくても、皆一生懸命この街で生きてる。住んでる世界が違えど、俺達と何ら変わりはないんだよ」
「生きている……私達も、影達も」
 ひぐらしの鳴き声が聞こえた。そして、遠くから汽笛の音も。どこかで汽車が動いているのでしょうか?
 一体この空は、どこまで続いているのでしょう?
 あぁ……とても心地良い。
 私はいつの間にか、この世界を楽しんでしまっている自分がいる事に気が付きました。
 空気はとても綺麗だし、この素晴らしい情景に現実社会で疲れきった心が癒されます。
 影の人達も、悪い人ではないみたい。表情はわからないけれど、少なくともここにいる影達はきっと……皆穏やかで優しい顔をしているのだろうなと思いました。何故か、そう感じたのです。
 私はとても、黄昏の街に興味を持ちました。
 けれど、彼はそんな私の気持ちを見抜いていたのでしょう。
「アイコ、駄目だよ」
「え?」
「この世界に魅了されてはいけない」
 ――約束だからね?
 そう言うと……彼は私に背を向け、歩き始めました。
「場所、移動しようか」
「あ、うん……」
 私は、ゆっくり歩を進める彼の後を追いました。
 彼の大きな背中は、何だかいつもよりも小さく見えました。

 私達は色んな場所を散策しました。
 野原に、バス停に、堤防に、公園に。
 それはとても楽しくて、本当に有意義な時間でした。
 彼と会える時間はいつも限られていたから、今日は時間を忘れて、思いっきり楽しんじゃおう! そんな事を思っていました。
 ここでは、今まで彼と過ごせた時間の何倍も、二人で一緒に過ごす事が出来ます。
 仕事だって行かなくていい。お金だって、この世界では必要ない。
 彼と、ずっとずっと笑いあって……ずっとずっと一緒にいられるのです。

 ――黄昏の街。
 彼と一緒にいられるのなら、私……ずっとこの世界に――
 
 私は、突然脳裏によぎった言葉を無理矢理かき消すかのように、頭を思いっきり左右に振りました。
 ……駄目だ。すぐに流されてしまう。本当に私の悪いところだ。
 ここは私の世界などではないし、彼も私に『帰りたいという意思を手離してはいけない』と、そう言いました。
 約束は守らなくてはいけない。約束は破る為にあるんじゃない、守る為にあるのだから。
 私は、何度もそう自分に言い聞かせました。

「うわぁ……汽車だ! 大っきいね」
 私は目をキラキラ輝かせながら、齧り付くように黒い機体を見つめました。
「……乗りたいんでしょ?」
「うん! 乗りたい!」
「でもこの中……すっごい混んでるんだよね」
「いいの! 乗りたいの! 混んでてもいいから乗るの!」
 私が汽車に乗りたいと駄々をこねると、彼は苦笑いを浮かべながらも私に付き合ってくれました。
 汽車の中には、やはり沢山の影達がいました。
 彼が言った通り、もの凄い数の影達がいる事に、私はとても驚かされましたが……ほとんどの影達が、一つ目の駅で汽車を降りていきました。
「色んな発見があって楽しい! ――あっ! 見て見て! 今降りた影の人……帽子落としていったのに気付いてないよ! 後ろの人が帽子拾って追いかけてる! 追いつけ~! 頑張れ~! あ、気づいた! ほら見てカズトくん! あの人やっと気付いたよ!」
 にんまりしながら、ついつい観察を続けてしまう私。
 子供のようにキャッキャッとはしゃいでは、この世界を思いっきり楽しんでいました。
「あのね、アイコ……」
「……はいはい、わかってますって! ちゃんと帰るし、ここに残りたいだなんて言わないから。ちょっと興味があるだけだよ」
「わかってるならいいんだけどね」
 彼は呆れたように溜息を吐きましたが、私は軽く無視をし、じっと窓の外を眺めていました。
「……あ、そういえば」
「はいはい、今度は何?」
 私は困ったように笑っている彼の方を向き、気になっていた事を聞いてみる事にしました。
「皆、さっきの駅で降りちゃったけど……さっきの場所には一体何があるんだろう? カズトくん、知ってる?」
「あぁ、この先にあるのは墓地だよ」
「墓地?」
「ここに住んでいる影達も俺達と同じように年を取るんだ。そして、いつか必ず死を迎える。肉体を持たない影達は火葬される事もなく、土葬される事もなく……ただいきなりこの世界から消えてなくなる。けれど、それだけだと悲しいと思ったこの世界の住人達が、形だけではあるけれど、この地に墓地を作ったらしいよ」
「ふぅん……お墓かぁ。じゃあ皆、お墓参りに行ったんだね」
 ……影のお墓参りか。
 あんなに沢山の影達がさっきの駅で降りていったのだから……以前この街には、もっと沢山の影達がいたという事になります。一体この世界は、どれくらいの年月を影達と共に生きてきたのでしょうか?
 きっと、私には想像も出来ないくらいの長い歴史や物語があるのでしょうね。
「まぁ、俺もそこには行った事がないんだけどね。そういう神聖な場所に、簡単に足を踏み入れるような真似はしたくないんだ。……それより、アイコ。窓の外を見てごらん」
 彼に言われるがまま、窓の外に目を向けてみると……そこには、一面に広がる美しい海がきらびやかに映し出されていました。
「わぁ、海だ!」
「行ってみる?」
「うん!」
「じゃあ、次で降りよう。……ちょうど着いたみたいだ」
 汽車は煙を撒きながら、ゆっくりと停止しました。連結部分が金属音を鳴らします。
 私達は急いで汽車から降りると、目の前に広がる海に向かって一直線に駆け出しました。

「……綺麗だね」
「うん。とても……」
 砂浜に打ち寄せる穏やかな波。波の音は、静かに哀愁を漂わせていました。
「だけど……」
「だけど、何?」
 オレンジ色が反射した海は、まるでこの世の終焉を見届ける役割も果たしているように見えて……美しいのだけれど、何だか少し切ない。
「……何でもない!」
「変なアイコ」
 目を細めて笑う彼も、何か思う事でもあるのでしょうか? 私からゆっくりと目を離すと、静かに海を眺めていました。
 ふと浜辺の方に目をやると、寄り添い合う二人の影が見えました。
 二人はきっと、恋人同士なのでしょう。
 女性は男性の肩にもたれ、静かに海を見つめています。二人の手はしっかりと繋がれていました。
「……お幸せに」
 私は小さい声で二人にエールを送りました。

 彼と一緒に海沿いを歩いていると、沢山の影達とすれ違いました。
「コんにチは」
「こんにちは」
 影と挨拶を交わしたり、少し立ち止まって会話を楽しんでみたり、笑い合ったりする事もありました。
 皆優しく親切な人達ばかりで、話していて凄く楽しかったのを覚えています。
 非日常的な現状に私の感情は高ぶっていて、とても興奮していました。
 そんな時、彼は時折立ち止まっては、通り過ぎていった影達の背中を……とても悲しい表情をしながら見ていました。
 黄金の空が彼の背後に、長い長い影を作り出します。
 彼の影が、彼の身体からそっと離れて……あの影達と共に、遠く離れた【どこか】へ行ってしまいそうな気がして……私は思わず、彼の袖をギュッと握りました。
 美しい黄金の空は……彼を、そしてこの世界の全てを一気に飲み込んで消し去ってしまうような、不吉な感じがして……
 私は、何だかとても怖くなりました。

「……カズトくん、大丈夫?」
「ん? ……何が?」
 彼はいつものように優しく微笑んで、そう答えました。私は、何か気の利いた言葉を必死で探しましたが……上手く言葉にする事が出来ません。
「……そうだ! オニギリ食べる? 買ってあったの忘れてて! あ、でも……お腹空いてないか」
 元気づけようとして、失敗して。しょんぼりする私の姿が可笑しかったのか、彼は声を出して笑いました。
「あはは! 本当に君って人は。……確かにお腹は空いてないね。でも、せっかくだから一緒に食べようか。こっちにおいで」
「うん!」
 海が真正面に見えるコンクリートの上に座り込み、私達は二人で、仲良くオニギリを食べました。
 お腹はまったく空いてはいなかったけれど、何故か満たされたような……そんな気持ちになりました。
「ねぇ、一つ聞いてもいいかな?」
「どうしたの?」
「あのね、カズトくんは……どうしてもう一度ここに来たいと思ったの?」
 そう彼に尋ねると、彼は黙って視線を地面に落としました。
 ……私は、ずっと気になっていたのです。
 確かに、この不思議な世界は私達が住む世界にはないものだし、心が揺さぶられるのもわかります。
 けれど……五年近くも一人でこの世界いて、再び戻って来たいと思うものなのでしょうか?
 寧ろその前に、そんなに長い期間……ここで暮らせるものなのでしょうか?
 知っている人が、誰一人といないこの世界で。
 最初の内は、探究心や好奇心でこの世界の事を色々調べたりするでしょう。
 そして新たな発見をしては、喜び……感動を覚えるに違いありません。
 けれど、五年も一人で……飽きもせず暮らしていけるものなのでしょうか?
 ……私には、とても無理です。
 彼と一緒にいられるならまだしも、一人でなんて……私には、とてもじゃないけど考えられませんでした。
「あ、ごめん! 答えたくなかったら答えなくてもいいからね? ほんの少し気になっただけだから」
「そんなに気を使わなくていいのに。君はいつも、俺に気を使いすぎなんだよ」
 彼は屈託ない笑顔を見せながら、私にそう言いました。

 静かな波の音がまるでBGMのように、二人だけの空間を創り出す。優しい風が髪を揺らし、彼の長くて黒い前髪がふわりと浮き上がりました。
 彼は浮いた前髪を掻き上げながら、じっと私を見つめました。私は目を逸らす事も出来ず、ただただ彼に魅入られていました。
 もう片方の手で、そっと私の毛先に触れ……名残おしそうに離れる彼の指。
 トクンと胸を打つ鼓動。
 緩やかに波打つこの心音は、まるで目の前に広がる壮大な海のようです。
 ……私はきっと溺れてしまうでしょう。この海の底で。
 そんな私の気持ちに気付きもせず、彼は何もなかったかのように話し始めました。
 けれど、その表情はとても寂しそうでした。
「最初に来た時は、勿論俺も……今の君みたいに凄く興奮したよ。こんな世界があっただなんて、ってね。知れば知るほど高揚し、夢中になっていった」
「……うん。まぁ、そうだよね。わかるよ。こんな世界が本当に存在するだなんて、思いもよらなかったからね。夢中になってもおかしくないと思う」
「……けど、俺は最低だね」
「え……?」
「君は俺に会えなくなって寂しい想いをしてくれていたのに……それなのに俺は、この世界の事をもっと知りたくて、それしか頭になくて……君の事を忘れていた。本当にごめん」
「……いいよ。大丈夫だよ! そんな事、本当に気にしなくて大丈夫だから! ……あははっ、カズトくんは律儀な人だね、もう!」
 私は彼に精一杯の笑顔で笑いかけたけれど、彼は俯いたまま、再び私に『ごめん』と告げました。
 ――謝らないでよ。お願いだから。
 これ以上……惨めにさせないで。

 本当は胸が苦しくて切なかったけど……それはどうしようもない事、仕方のない事です。
 彼と私の想いの差。温度差が違っただけ。
 零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、私は彼の言葉をじっと待ちました。
「……けれど調べていく内に、俺は真実を知る事になる。俺はここに、【偶然】迷いこんだんじゃない。導かれたんだよ、この世界に。それはきっと、必然だったんだ」
 ――必然。
 偶然ではなく、必然……?
 彼はここに来る【運命】だった。……そういう事なのでしょうか?
 そんなまさか……けれど、もしそれが本当なら、一体何故?
 カズトくんには、何か心当たりでもあるのでしょうか?
「――アイコ。俺列車の中で、出来ればずっとこの世界に留まりたい。……そう君に言ったよね?」
「……うん。確かそう言ってたけど」
「本当はさ、少し違うんだ。俺には……元の世界には戻りたくない理由があった。だから、ここに逃げてきたんだ」
「逃げて……きた?」
「そう。逃げてきた。この世界は、そんな俺を受け入れてくれた。だから俺は……この世界が好きだ。出来る事なら、このままずっとここにいたいと思っていた。けれど俺には、元の世界に帰らなくてはいけない事情があった。どうしても、自分の目で確認しなくてはいけない事があったんだ……」
『結局、確かめる事は出来なかったんだけどね』と、彼は苦笑いを浮かべました。
「ここから出る時にさ、俺……この世界と契約を交わしたんだ。『必ず、もう一度この世界に戻ってくる』と。だから戻ってきたっていうのが……正しかったりする」
 彼は、とても悲しそうに笑いました。
 その泣いているような笑顔に、私はとても胸が締めつけられました。
「……そう。俺は必ずもう一度、【ここ】に戻ってこなければならなかったんだ。……何があってもね」
「カズトくん……」
「……そうだ、アイコ! 実はね、ずっと君に聞いてみたかった事があるんだ」
「私に、聞いてみたかった事……?」
「君にとってこの世界は、どんな世界だと思う? この世界は、君の瞳にはどう映って見える? そして……君には、今の俺がどう見える?」
 彼は真剣な眼差しで私を見つめながら、静観しました。
 波達がザァザァと、波打ち際まで競争を続けています。真の勝利者は、新たな波の存在に簡単にかき消されてしまい……儚く消えていくだけ。
 先程見かけた恋人同士が、脚だけ海に浸かり……互いに水をかけ合っては、はしゃいでいる姿が視界に入り込んできました。
 彼をあまり待たせてはいけないと思いましたが、一度に色んな事が起こり過ぎていて……上手く頭の中でまとまりません。
 少し考えてから、私は思ったままを口にしました。
「どうって……不思議な世界だと思うよ。樹の中にこんな世界があるだなんて、誰も想像出来ないだろうし。さっきの影の人達も本当は怖がらなくちゃいけないんだろうけど、まったく恐怖を感じなかったし。だけど、この世界が一体何の為に存在して……何故カズトくんがここに戻ってこなくちゃならなかったのかとか……そんな事、私には全然わからないよ」
 彼は黙ったまま、じっと私の声に耳を傾けていました。
 私は緊張しながらも、更に言葉を繋げます。
「カズトくんは……昔からずっと変わらない。優しくて強くて、誰よりも尊敬できる人だよ。ここに来てからは少し口数は減ったし、何だか少し元気がないように見えるけど……それでも、カズトくんはカズトくん。何も変わらな――……え?」
 その時、突然私の口の前に彼の手の甲が現れました。……それは、私の言葉を静止させるには充分な威力がありました。
「……そうか。ありがとう、アイコ。もういい……もういいよ」
 そう言った彼の表情は笑ってはいるものの、今まで見た事がないくらい悲しそうでした。
 きっと私は、彼が求めていた言葉をちゃんと答える事が出来なかったのでしょう。
 彼には一体、何が見えているというのでしょうか?
 彼は私に……どんな答えを求めていたのでしょうか?
 あの頃の私は、彼の言葉の意味を一つたりとも理解する事が出来ていませんでした。

 チリンチリン……

 突然、どこからか鈴の音色が聴こえてきました。
 そちらの方向に目を向けると、狐面をつけ、淡い藍色の甚平を着た小学生くらいの少年が……ゆっくりとこちらに向かって歩いてきました。
 まだ小さいその身体から異様な貫禄を感じ、つい萎縮してしまいます。
 少年の素顔を隠している狐面には奇妙な装飾が施されており、作り物でしかない筈なのに……まるで面そのものに生命が宿っているかのように見えました。
 それはまるで、サーカス会場に必ず一人はいる道化師そのもの。笑顔の仮面を張り付けたピエロのよう。
 その笑顔の裏では、一体何を企んでいるのか? ……何を思っているのか?
 表情のない空洞のその目は、静かにじっとこちらを見つめていました。
 面の横から見える白いうなじから、彼は影ではないという事がわかりましたが……では、私達と同じか? と聞かれてしまえば、答える事が出来ません。それくらい少年の存在は異色に思えました。
「おかえりなさい」
 私には一切目もくれず、少年は優しい声色で彼にそう話しかけました。
「……君か」
「随分とお早いお帰りでしたね。もう良いのですか?」
「……ああ。もういいよ。ありがとう」
「いえいえ。――で、どうするか決められましたか?」
「それは……」
 そう言って黙り込む彼を横目に、少年はやれやれといった素振りを見せると、今度は私の方に振り返りました。
 私は驚き、一歩後ろに下がります。ただの少年ではない事は一目瞭然だったし、用心するにこした事はありませんから。
「こんにちは」
「えっ……あっ! こんにちは……」
「貴女は誰ですか?」
 少年は、不思議そうに首を傾げました。
「えっと、私は……」
 私が返答に困っていると、少年は私から視線を逸らし、再び彼に問いかけました。
「こちらの女性はご友人ですか」
「……そうだよ」
「では、彼女を身代わりに?」
「彼女は違うよ。……そうじゃない」

 ――身代わり?

「……そうですか、それはよかった。私もこの世界も、それを望んでいませんから。しかし、関係の無い者がここに長くいると非常に危険ですよ? ……貴方わかっていますよね? では、何故お連れに?」
 私は二人の会話から、もしかして何かとんでもない事が起きているのではないかと不安になり、彼を見ましたが……彼は沈黙したまま、ずっと俯いていました。
「……まぁ、いいでしょう」
 狐面の少年は、再びこちらを向いて言いました。
「お嬢さん、早くお帰りになられた方が身の為ですよ。いつ隣の男が、貴女を身代わりに差し出すやもしれませんからね。……ふふ」
「……俺はそんな事しないよ。絶対に」
 少年はクスクス笑うと、『ハイハイ』と軽く返事しました。
「とにかくお嬢さん。貴女は、此処にいてはいけない存在です。面白半分で来て良い場所と、そうでない場所があります。……早々にお引き取りを。まぁ……無事に帰る事が出来れば、の話ですがね」
「え? それって、どういう……?」
「この世界の入り口は一つですが、出口はそこら中にいくつも存在します。けれど、その出口は非常に儚いもので、輝きを放つのはせいぜい五分が限度でしょう。出口はすぐに消え去り、また他の場所に移動する。まぁ、運が良ければすぐに見つかりますが……そうでなければ二度と出られない事もあるかもしれないという事です」
「……待ってくれよ。君は出口を創り出せる。それなのに、どうして出してくれないんだ?」
「……嫌ですよ、面倒臭い。招かれて来た者には出す事もありますが、彼女はそうではない。勝手に来たのだから、勝手に去れば良い話です」
 そう言うと少年は、チリンチリンと鈴を鳴らしながら……静かにその場から立ち去りました。
「ねぇ、カズトくん……今のって、どういう事なの……?」
「……ごめん。迂闊だった。今の子供が、帰り道を出してくれると思っていたんだ。……俺の時みたいに。けど、大丈夫だよ。きっと君を元の世界に戻してみせるから。……必ず」
 そう言うと、彼は歩き始めました。『戻してみせる』って……じゃあ、カズトくんは?
 そう聞きたかったけど、何故か聞く事が出来ませんでした。
 とにかく私は、そんな不安な気持ちを押し込んで、彼の後を追いました。

 私達は帰り道をひたすら探し回りましたが、一向に見つかる気配などありません。
 途中、彼に色々と気になっている事を尋ねてみましたが……彼は口を開く事はなく、ただ前だけを見て歩き続けるだけ。
 私は次第に、彼に不信感を抱き始めていました。

『俺の事は何があっても信じる事』

 そう約束した事ですら忘れてしまえる程、私はきっと彼の事を疑っていたのでしょう。
 彼を信じたい。けれど……今の彼はまるで知らない人のよう。
 彼はこの世界で今、私が唯一心を許せる人。その筈なのに……彼には不可解な点が多過ぎました。
 ねぇカズトくん……
 貴方は一体、何を考えているの?

「うわァアあァ……ウワぁアあぁ……!」
 突然、酷く苦しそうな呻き声が、石垣の向こうの奥の方から聞こえてきました。
「な、何? 今の声!」
「……駄目だ! アイコ!」
 彼が止めるのも聞かず、恐る恐る声がした方を覗き込んでみると……そこには一人の影がいました。
 ネクタイのシルエットが見えるので、恐らく中年くらいのサラリーマンでしょうか……?
 その影は、泣いていました。
 何人かの名前をとても哀しそうに呼んでは、その場に崩れ落ち、泣いていたのです。……奥様とお子さんの名前でしょうか?
 見ていて、とても胸が苦しくなりました。
「アイコ……」
 彼は私の肩に、優しく手を置きます。
「……行こう」
 そして私の手を取ると、ゆっくりと進み始めました。

 彼に手を引かれている間、私はたくさんの影達とすれ違いました。
 自分の頭を壁に叩きつけている影。
 座り込んで泣き叫んでる影。
 ずっと何かに向かって怒鳴りつけている影。
 空を眺めて哀しそうに笑っている影。
 手を合わせ、誰かに謝り続けている影。
 最初に私が見てきた影達とは、何もかもが違いました。
 影達は皆、穏やかで幸せに暮らしているのではなかったのでしょうか?
 ここにいる影達は、明らかに嘆き苦しんでいます。
 ――彼が言っていた地獄。
 それは正に……この世界と、影達の事なのかもしれない。
 私は背筋に電流が走ったような感覚、底知れぬ程の恐怖を感じ始めていました。

(今すぐここから出たい)

 その感情だけが、私の頭の中を占めていきます。……何故、一緒に連れていって欲しいだなんて言ってしまったのでしょうか?
 身代わりって何?
 彼は今、一体何を考えてるの?
 彼を信じきる気持ちが欠乏し、何も話してくれない彼に対して、私は疑心暗鬼に陥りました。
 彼が何を考えているのかわかりません。
 そもそも、私は彼の事を知らな過ぎました。
 あんなに好きだったのに……今だって、変わらず大好きなのに……
 彼が怖い。もう信用出来ない。
 お願い……誰か助けて。

「アイコ? ……どうしたの?」
「――して」
「えっ?」
「……離してって言ってるの」
 そして私は、繋がれていたその手を強く振り払いました。
 あの時、手を振り払われた彼は……一体どんな気持ちだったのでしょうか?



 もう、どれくらい時が経ったのでしょうか?
 身につけていた腕時計は役目を果たす事なく静止しているし、携帯の電源を入れようとしてもうんともすんとも言いません。
 お腹は空かないし、疲れる事もありませんが……私は精神的に、かなり参っていたのだと思います。
 何十分、何時間……そんなレベルなどではありません。ここから出られなくなって、きっと何日かが経過しています。
 その間、私は彼と必要最低限の事しか話さなかったので、余計に頭がどうにかなってしまいそうでした。
 どれだけ探しても出口なんて見つからない。
 このまま私は、ここで一生暮らしていかなければならないのでしょうか? ……得体の知れない影達と一緒に。
 そんな事を考え始めた時でした。
 草の中から、いきなり誰かが飛び出してきたのです。私はびっくりして、思わず声を上げました。
 彼は、そんな私を庇うように、咄嗟に自分の後ろに隠してくれました。
「カズトくん……」
 私はそんな彼の背中の頼もしさと温かさに、涙が出そうになりました。
 いつだって自分の事しか考えられない私は、本当に弱くて最低な人間だと思えたから。
「おー、いてて」
 ――驚きました。草陰から飛び出してきたのは、影ではありません。普通の人間です。
 そういえば彼が列車の中で、ここには自分と同じような人間も、たまに存在すると言っていました。きっと、この男性がそうなのでしょう。
 小太りで髪の毛が少し薄い、五十歳くらいの男性は、私達の存在に気が付くと、あっけらかんとした態度で話しかけてきました。
「お、人だ人だ!」
「貴方は……」
「カズトくん、人だよ! 私達と同じ! 他にも人がいたんだよ!」
「……ちょーっと待て」
 目の前の男性が、『あんたら呼ばれたんか? それとも偶然に迷い込んだんか?』と、意味のわからない事を私達に尋ねてきました。
 私が口を開こうとした瞬間、彼はすかさず『迷い込みました』と、男性に返事をしました。
 深刻そうに思えた空気は一変し、男性は納得したように、ニカっと歯を見せて笑いました。
「そうかー! あんたらマヨイかぁ。珍しいなぁ、最近じゃあんまり見る事もなかったからよぉ。あ、俺は大山鴈治郎っていうんだ! 気軽にガンさんとでも呼んでくれや」
「が、ガンさん。あの……」
「……俺達、帰り道を探してるんです」
『何だぁ? あんたら帰りたいんか?』などと、気の抜けた返事をするガンさん。その表情は、どこか驚いているようにも見えました。
「この世界は本当にいーところだぞ? なのになんで帰りたいんだよ? ……まぁいいや。うちこの近くだから、ちょっと寄っていきな。話を聞いてやる」
 そう言うとガンさんは、自分の自宅があるという場所まで私達を案内してくれました。
 私は、私達と同じ【普通の人間】と出会えた事に、湧き上がる喜びを隠せませんでした。

「まぁ、なんもないところだけどよー。ゆっくりしてってくれよ」
 ガンさんは豪快に笑いながら、私達の肩をバシバシと叩きました。彼は苦笑いをしながらも、ガンさんの話に耳を傾けていました。
 ……彼にお礼を言いそびれてしまった。さっき、助けてもらったのに。
 その事が気になって横目で彼を見てみると、彼は眉を寄せ、難しい顔をしながらキョロキョロと家中を観察していました。
 そういえば……ガンさんに会って、ここまで案内してもらっている途中、彼はガンさんの背中を睨みつけるように見ていたような気がします。
『あれ?』と思い、目をこすって再び彼を見た時には、もういつもの彼の表情だったから、私の気のせいかもしれませんが……
 ガンさんはこの場所について、色んな話を聞かせてくれました。そのほとんどが、彼から聞いて既に知っていた事だったのですが……何故か彼はわざとらしく驚いてみせたり、色々質問したりするので、ガンさんも気を良くしたのでしょう。
 ひたすら話す。とにかく話す。
 ガンさんは話し上手でありながら、とても聞き上手でもありました。
 私が『帰れないかもしれない』と悩めば、優しく励まし、元気づけてくれました。
 私はすっかりガンさんに心を許していました。色々相談したり話を聞いてもらったりしている内に、私の胸を蝕んでいる不安が、少しずつですが取り除かれていくような、そんな気持ちになれたのです。
「影なんて放っておいても何も危害をくわえたりしねーよ。大丈夫、大丈夫」
「ガンさんが言うと、何だか本当に大丈夫! って気持ちになってきます!」
「がはは! ねぇちゃん、そりゃいい事だ!」
 ガンさんは、もう二十年もこの街で過ごしていると言いました。お腹も空かないし眠くもならないから、現実世界よりここの方がずっと居心地がいい。そう言いながら大声で笑っていました。
「心配せんでも、あんたらは単なるマヨイだから出口さえ見つかりゃ簡単に帰れるよ」
「……? じゃあ、ガンさんはここに迷い込んで来たんじゃないんですか?」
「俺はちぃーとばかり違うんだな。まぁ……聞かねぇ方が身の為だよ、ねぇちゃん」
 頭にクエスチョンが浮かび上がりましたが、きっとガンさんは、彼が前に言っていた【この世界に来る為の条件】とやらを満たして、ここにやって来たのでしょう。
 ……それにしても、彼は何故ガンさんに『迷い込んだ』なんて言ったのでしょうか?
 ガンさんが話した内容を、あたかも初めて知った事のように振る舞った彼。
 隠さなければならない事情でもあったのでしょうか?
 そっと彼の方を見てみると、彼はガンさんに見つからないように、私に向かってこっそり人差し指を立てました。
 ……言うな、って事だよね? どうしてだろう?
 とにかく私は彼の指示通り、何も言わない事にしました。

「……実はよ、俺出口の場所知ってんだよ」
「え? けど、狐の面を被った子供が出口は定期的に位置を変えるって……」
「あんたら、神童に会ったのか? あちゃ~! じゃあ、この事は内緒にしてくれよ? ……まぁ、もう会う事はないか」
「じゃあ、ガンさん……本当に出口の場所を知ってるんですか?」
「おうよ! あんたら、ここに長くいても意味なんてないだろ? 特別に教えてやるよ!」
 影しかいないこの世界で、私と彼のような普通の人間に出会えた事。それは、ふさぎ込んでいた私に勇気を与えてくれました。
 それに、出口の場所を知っているだなんて!
 良かった! これでやっと元の世界に帰れるんだ!
 感極まって『やったぁ!』と叫ぶ私の隣で、ずっと黙り込んでいた彼が口を開き、ガンさんに問いかけました。
「……何故、出口の場所を?」
「? カズトくん?」
「あぁ?」
 私は純粋に、二十年もここに住んでいるのだから出口が出現する時間帯などを、ガンさんが把握しているだけじゃないの? と思いましたが、彼はどうやら違うようで……何か気になる事があるようでした。
「貴方は断言しましたよね? 出口の場所を知っていると。それはおかしい」
「あのなー、にぃちゃん。俺はここに二十年も住んでるんだから、それくらい……」
「出口は一定の場所には留まらない。決まったサイクルもない。何か小細工をしない限り出口を留めておく事は出来ない」
「……まぁ、確かにそれはにぃちゃんの言う通りだ。けど俺は、いつでも元の世界と行き来出来るように【あるもの】で穴を固定してんだわ。だから――」
「それは神童から持ち去ったもの、ですよね?」
「! にぃちゃん、何でその事を!」
 彼は立ち上がり、一歩ずつガンさんとの距離を詰めていきました。
「出口を知っているにも関わらず、帰る事もせず……【その姿】でこの世界に存在している」
 彼とガンさんとの距離は数センチ。必然的にガンさんより背の高い彼が、ガンさんを見下ろす形となりました。
「……俺は五年この街にいた。けれど、貴方を【ここ】で一度も見かけた事がない。ねぇ、ガンさん。貴方……一体、何人の人達をここに導いてきたんですか?」
 彼の言葉に、ガンさんの目つきが鋭く変わったような……そんな気がしました。
 二人の間に不穏な空気が流れ始めますが、私にはまったく事情が飲み込めず、ただ傍観するしかありません。
「……にぃちゃん。もしかしてあんた、【ミチビキ】か? じゃあ、そっちのねぇちゃんも」
「彼女は本当に迷い込んだだけだ。それに俺も……導きなんかじゃない」
 突然ガンさんが、目の前のちゃぶ台を投げ倒し、襖を蹴破り、豪快に笑い転げました。
 優しかったガンさんのいきなりの豹変と、ただならぬ事態に、私は恐怖を隠せませんでした。
「おいおい! ミチビキじゃないだって? んなわけないよなぁ? その姿見ればわかるんだから! なぁ、そうだろ? じゃあ、にぃちゃんも……俺のお仲間ってわけだ?」
 ニヤニヤと、気持ちの悪い笑顔を見せるガンさんに対し……
「俺は貴方とは違う。……ちゃんと受け入れるつもりだ」
 彼は凛とした強い眼差しで、はっきりそう答えました。
「……わっからねーな。何でだよ? ちょうどいいのが隣にいるじゃねーか? ここの暮らしはいいぞ~?」
「彼女に罪はない」
「馬鹿だなぁ、あんた。罪のない人間なんて、この世に一人だっていやしねぇよ。知らねぇ間に、人間に踏み潰された蟻だっているようにだ!」
「何故貴方はこれ以上罪を増やす? ここに来た時は、貴方だって己の罪を悔やんでいた筈だ」
「……何故、だって?」
 そう言うとガンさんは、腹を抱えながら、耳が痛くなるくらいの大声で笑い出しました。
「おもしれーからだよ! 楽しいからだよぉ。ここにいれば捕まらねぇし、代わり差し出せば罪に問われる事もねぇ! ここは楽園だ。黄金の楽園! 俺にとっては天国でしかねぇよ!」
「……屑が」
 下品に笑い転げるガンさんに対して、明らかに怒りを露わにする彼。
 一体、何が起こっているのか……
 彼らが、何を言っているのか……
 突然の出来事に、私は何が何だかわからなくなりました。
「そういやぁ……あんた、思い出したぞ? 随分と話し方や雰囲気が違うから、なかなか気付けなかったが……あんたあの時、フード被って何かブツブツ言ってた奴だよなぁ?」
「……え?」
 ――カズトくんとガンさんは顔見知り?
 二人は、以前もどこかで会った事があるという事なのでしょうか?
 一体、どこで……?
 私は軽く混乱しながらも、二人の言葉を聞き逃すまいと、彼らの会話に集中しました。
「俺がここに連れてきた人間は数知れないが、あんたの事は妙にインパクトがあったから覚えてたぜ」
「……神童が貴方を捜している。貴方は【それ】から逃れる為、頻繁に元の世界とこの世界を行き来していたようですね。神童やこの世界は、導きの存在を肯定したりしない。飢えた神樹が何を言おうが……貴方は貴方の罪を償うべきだ」
「おい、いいのかよ? 俺のおかげでねぇちゃんはここから帰れるんだぜ? それなのにあんた……俺にそんな口を聞いてもいいのかねぇ?」
 ガンさんは、私を見ながらそう答えました。
 ……確かにそうです。
 ガンさんが帰り道を教えてくれないと、私はもう二度と……元の世界には戻れないかもしれません。
 ガンさんが何者であれ、一度は出口の場所を教えると言ってくれたのに、何故彼は突然こんな事を言い出したのでしょうか?
 黙り込む彼を見ながらガンさんは腰を下ろすと、深く息を吐きながら『やれやれ』と呟きました。
「まぁいいや。そっちのねぇちゃん、帰してやりたいんだろ? 出口、教えてやるよ。俺は今最高に気分がいいからなぁ。【仲間】が見つかってよぉ? それににぃちゃんには、ここに連れてきた詫びもしなきゃなんねぇしなぁ」
 ガンさんはそう言うと、『よっこらせ』と立ち上がり、倒したちゃぶ台を起こして、片付けを始めました。
「ここの暮らしは最高だが、退屈なのは頂けねぇ。にぃちゃんの行く末、俺がじっくり見届けてやるよ。……ほら、そこだよ」
 ガンさんが窓の外を指指しました。窓に近付いて見てみると、ここから少し離れた場所に蔵のような建物があるのがわかります。
 それを見た彼は、一目散に走り出したので……私も急いでその後を追いました。
「ねぇちゃん送ったら、また戻ってきなー。話してぇ事もあるしよ!」
 背後から、そんなガンさんの声が聞こえてきました。

 蔵に辿り着いた私達は、急いで中を覗き込みました。
 不安定な円が光り輝く棒に固定され、あの【森】を映し出しています。棒を取り除いてしまえば、出口は一瞬にして消え去ってしまうでしょう。
 ガンさんは、この穴から自由に出入りをしていたという事なのでしょうか?
 ……何故なの? 一体、何の為に。
 ガンさんはこの世界がとても好きで、ここに住んでいると言っていました。身内ももういないし、元の世界に帰る必要がないとも。それなのに、何故……
 ガンさんとカズトくんの【繋がり】。
 ガンさんが言っていた【ミチビキ】。
 カズトくんが言っていた【罪】。
 そして、あの神童と呼ばれる少年が言っていた【身代わり】。
 色々と謎は残ったままだ。
 カズトくんにも、ガンさんにも罪がある?
 だから、この黄昏の街に来れたという事なのでしょうか?

「……アイコ」
 考え込む私の脳内に響き渡る、優しくて愛おしい彼の声。思考を重ねていた脳は、一瞬にして彼の声に引き寄せられ……何も考えられなくなりました。
 だって彼が、どうしようもなく泣きそうな顔をして笑っていたから。
「アイコ、怖い思いをさせて本当にごめん。その穴から元の世界に戻れる。早く行くんだ」
 彼は穴を指指すと、優しく私を誘導しました。
「か、カズトくん……カズトくんも一緒に帰ろう。帰ろうよ!」
 彼はそっと首を横に振ります。
 ……わかっていました。こうなる事はわかっていました。
 けれど、言わずにはいられない私は……彼の両腕を掴み、必死に泣きつきました。
「嫌だ、そんなの嫌だよ! ごめんなさい! 私がカズトくんを信じなかったから、疑ったりしたから……だから!」
「それは違う」
 彼は強い口調で、私の言葉を遮りました。
「俺はもう帰れないんだよ」
「そんなの……嘘だよ」
「嘘じゃないんだ」
 彼は優しく微笑みながら、私の頭を撫でました。
「俺はね、君が思っているような人間じゃないんだ。本来なら、君に好いてもらえるような……そんな人間じゃないんだよ」
「どうして、そんな事を言うの……?」
「君は俺を知らない。君は俺の事なんて、何も知らないんだよ。何もね……」
 彼の声が少し震えていました。手も、震えていたような気がします。
 私は彼の事を何も知らない。……そうかもしれません。
 この世界に来てから私の知らなかった彼の顔が、少しずつですが見え始めました。私はそれを知っていく内に、違和感を感じずにはいられませんでした。
 そして気付いたのです。私は勝手に【彼】という人物を理想のままに作り上げ、ただ盲目的に好意を抱いていたに過ぎないんだという事に。
 だから、ほんの少し何かあっただけで彼の事を簡単に疑ってしまい、信じきる事が出来ませんでした。
 けれど……この気持ちは嘘じゃない。
 どうか、それだけは信じて欲しい。

「君と初めて出会った時、本当は俺さ、色んな事に疲れていて……このまま死ねたらどんなに幸せなんだろうって思ったりしていたんだ」
 彼はぽつりとそう呟きました。
 その言葉は私の中にジワジワと染み渡り、次第に心を真っ暗な闇で覆い尽くしていきました。
 彼は底のない闇の海で、ずっと一人でもがき続けていたのでしょうか?
「孤独が一番怖かったのは、本当は俺の方なんだよ。けれど、どうしようもなく馬鹿な俺は……格好つけて君を勇気付けようとした。そしたらさ、君はまるで子供のように泣きじゃくり……泣けない俺の分まで、一緒に泣いてくれたんだ」
 彼は今まで見た事がないくらいの最高の笑顔で、私に微笑みかけてくれました。
「最後にちゃんとお別れが出来て、本当に良かった。ありがとう。森野一人は君と出逢えて……きっと、幸せだったと思う」
 そう言うと、彼は私の身体を【穴】に向かって、ゆっくりと突き飛ばしました。
 スローモーションで、彼と私の空間が広がっていく……それと同時に眩い光が私の身体を包み込んでいきました。
 私は懸命に手を伸ばしましたが、それは虚しく空を切るだけ。

 ――いやだ! 嫌だ! 嫌だ!
 待ってよ、カズトくん!
 置いていかないで――

 私の想いや声は彼に届く筈もないまま、儚く消える……
 やがて初めてこの世界に来た時のように、私の意識は薄れ始めていきました。
 泣きそうに笑う彼の顔。消え始めていく出入り口。
 ――あぁ。カズトくんは、あの光る棒をきっと……
 きっ……と……

 チリンチリン……

 私が完全に意識をなくすその前に、あの優しい鈴の音色が聞こえたような……そんな気がしました。



 本当に、時が経つのはとても早いものです。あの頃の事が、まるでつい最近の出来事のよう。
 そびえ立つ樹木の中で、一際目を引く大きくて美しい神樹。
 あの時の彼のように、そっと触れてみたけれど、何も起こりはしない。
 ――行くのは無理。そう、私だけの力では。
 そんな事はとうにわかっている。だから私は目を瞑り、【待ち人】がここに現れるのをじっと待ち続けた。
 そっと目を閉じてみると、視覚が遮断された事によって聴覚が敏感になっているのがよくわかる。
 ぽつぽつと降る雨は傘に弾かれ、リズミカルな演奏を優雅に奏でていた。
 そして、微かに聞こえる儚い鈴の音。
「やはりきたのですね」
「ええ、きたわ」
 あの頃と変わらぬ姿で、神童は大木の後ろからひょっこりと顔を覗かせた。
「本当に人間の心理というものはとても難しい。我々には理解しがたいものです。知らずに暮らしていけば幸せな暮らしが出来るやもしれぬというのに、何故自ら闇に身を投じるのか? 非常に奇怪です」
「貴方の言いたい事はわかってるよ、ちゃんと」
「……ほう。それでもやはり行くのですか?」
「ええ、行くわ。お願い。もう一度私をあの世界に、【黄昏の街】に連れていって」
 先程まで降り続けていた雨は、いつの間にか止んでおり、ざわめき始めた風が木々たちを激しく揺らしていた。
「黄昏の……街、ですか。何ともまぁ、趣のある良い名を付けて下さる」
「彼がそう呼んでいたの」
「ほう。【彼】が……ね」
 そう言うと、少年はクスクス笑った。
「いいでしょう。約束、でしたからね。彼から受け取った【石】はお持ちで?」
 私は、鞄の中から琥珀色をした美しい石を取り出すと、そっとそれを神童に差し出した。
 神童は私から石を受け取ると、その石に向かって鈴を一度だけ鳴らした。

 チリン……

 琥珀の石から眩い光が放たれる。あの頃と同じ、黄金の輝きが辺りを包み込んだ。
 私は片目を瞑りながら、神童の方をチラリと見る。石は神童の手から離れ、宙に浮くと、木っ端微塵に砕け散った。
 その砕け散った先に、この世界と黄昏の街を繋げる架け橋が生まれていく。
「扉は開かれましたよ。ただし、一度だけ。行きと帰りを合わせて、たったの一度だけです。この入り口は閉じずに置いておきましょう。元の世界に戻るか、この【黄昏の街】に留まるのか……それは貴女の自由です」
「ありがとう」
 私は神童に感謝の言葉を述べると、光り輝く円の中心に飛び込んだ。

 ――ひぐらしの鳴く声が聞こえる。
 私は夢見心地に、あの頃と変わらない黄金の空を眺めていた。
 ……あぁ、やっぱり綺麗だなぁ。
 カラス達は山に帰る。童謡のように、我が子を山に残してきているのだろうか?
 私は無意識に口ずさんでいた。

 ……カ~ラス~
 なぜ鳴くの~
 カラスは山に~
 か~わいい~
 な~な~つ~の
 子があるからよ〜……

 そっと目を閉じると、聞こえてくる貴方の声。
『……アイコ、起きて、アイコ』
 あの時のように、私を起こしてくれる優しい声はもうない。
 けど……
「ちゃんと戻ってこれたんだ。……良かった」
 目の前には、昔と変わらないのどかな橙色の街。影達が、穏やかに慎ましく暮らしている。
 この世界では全ての罪が許される代わりに、その肉体は朽ち果て、神樹の命の一部となるのだ。
 その事実を知ってしまった時、私はとても悲しい気持ちになったのを覚えている。
「……あれ? あの人、もしかして」
 腰を低く屈めて話している男性の影。時折、ネクタイらしき物がヒラヒラと揺れていた。
 会話がここまで聞こえてくる。男性は、とても楽しそうに笑っていた。
 苦しんで叫んでいたり、泣いていた影達も……今じゃ皆、この場所で幸せに暮らしているようだ。
「……良かった。もう悲しくないね」
 私は影達にそっと一礼すると、この街のどこかにいる彼を捜す事にした。
「彼は一体、どこにいるんだろう?」
 私はとりあえず、あの日彼と歩いた道を同じように進んでみる事にした。
 あの日の事を、そっと思い出しながら――

***

 穏やかで風が気持ちいい野原。彼と私は、フワフワとした草のベッドの上に寝転がって、空を見上げていました。
 なぞなぞやしりとりをしたり、追いかけっこをしたりと、私達はまるで幼い子供のようでしたね。
 そうこうしていると、彼の柔らかそうな前髪に、黒いシルエットのてんとう虫が止まりました。
「こんにちは。どこから来たんだい?」
 てんとう虫に小さく語りかける彼。そっと触れようと手を伸ばすと、てんとう虫は小さな羽を懸命に広げ、どこかに飛んでいってしまいました。
 彼はゆっくりと身体を起こすと、空に飛んでいったてんとう虫を優しく見つめながら……
「さようなら」
 そう言って、軽く手をあげました。
 あのてんとう虫は、今でも夕焼けの空を元気に羽ばたいているのでしょうか?

 田んぼや畑が並ぶ畦道を歩いていると、バス停が見えてきました。私達は赤色のベンチに座って時刻表を確認してみたけれど、ここでは時間という概念がないから、バスがやって来る時間がわかりません。結局、私達はバスには乗れませんでした。
 けれど私は、もう少し彼と色んな場所を二人で歩いてみたかったので、バスに乗れずとも特に不満などはありませんでした。

 川と道との細くて狭い境界線。
 彼が危ないと言っているのに、私はつい調子に乗って、堤防の上をヤジロベエのようにバランスを取りながら歩いていました。
 案の定『落ちる!』という時に、ぐいっと強く引かれた私の腕。
 彼は額に手を置き、大層呆れながらも、落ちそうになる私の事を何度も何度も助けてくれました。
 あまりに強く腕を引くものだから、少しだけ痛くて……私の事を本当に心配してくれている事。そして、彼の優しさが伝わってきました。
 
 空き地みたいな狭い場所に、滑り台とブランコとシーソーと揺りかご、一通りの遊具が揃ってある公園。
 突然、シーソーに乗ろうと言う彼。女性相手に無神経だと私が言うと、彼は『何で?』と不思議そうに首を傾げました。本当に彼は鈍感過ぎます。デリカシーに欠けるというか、何というか……
 あと、どちらの方がブランコを高くこげるかを競ったりもしました。
 必死にブランコをこぐ彼の横顔が、何だかとても可愛くて、こっそり横目で見ていたのは内緒です。

 ――そして、彼と乗った汽車の中。
 最初、汽車の中はもの凄い影達の数で、まったく身動きがとれませんでした。けれど彼は、私一人分のスペースを確保し、影達から押されないように守ってくれました。
 頭を上げれば彼の顔。耳の横には彼の腕。そして、彼の服に染み付いた甘い煙草の香り。その全てが、私の胸を大きく揺らしました。
 それなのに、次の駅で影達が一斉に下車して、汽車の中はすっからかん。
 彼はひょうひょうと私の前から離れると、何事もなかったかのように席に座り、私を呼びました。
 一人舞い上がっていた自分が恥ずかしいです。本当に。

***

 道を歩いていく度に鮮明に思い浮かぶ、彼との沢山の思い出たち。私は思わず笑顔になる。
『懐かしいなぁ』と口にしながら、私はそっと汽車を降りた。

 ――海だ。

 凄く綺麗で、少し恐ろしくて、何だか切なかったのを覚えている。
 彼はあの時、この海を見ながら……一体何を思っていたのだろう?
 砂浜にいた恋人達は、今でも二人、仲良く幸せに暮らしているのかな?
 もしかして、あのまま二人は結婚して……今頃、笑顔いっぱいの幸せな家庭を築いているのかもしれない。
 そうだといいな。……うん、その方が絶対にいい。
 この世界の人達には、ずっと笑顔でいて欲しいから。
 波が静かに、波打ち際を行ったり来たりしている。私は靴を脱ぎ、ゆっくりと脚だけ浸かってみた。
 温かいような、冷たいような、ちょうどいいような……よくわからない温度。
 少し水を蹴り上げてみると、キラキラと光る水飛沫が宙を舞い、また海へと戻っていく。
 まるで人魚の涙のようだ。
 私は鞄からミニタオルを出し、濡れた脚から丁寧に水分を拭き取ると、砂浜に腰を下ろして空を見上げた。
 思い出すのは……すれ違う影達の背中を、寂しそうに眺めていた彼の姿。
 今なら、その理由がとてもよくわかる。彼が、何故そんな表情で影達を見つめていたのかも。
 辛かったよね? 悲しかったよね?
「ごめんね……」
 あの頃の私は、無力な上に無知過ぎた。彼の気持ちを正しく理解する事が出来なかった。私は彼の事を、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。
 けど、今は違う。きっと私が、彼を救ってみせる。
 たとえそれが、どんな形であっても――

 やっぱり……海にもいないか。彼は一体、どこにいるのだろう?
 黄昏の街はとにかく広い。行った事のない場所なんて、まだまだ沢山あるだろう。こういう時、疲れない身体とは便利なものだ。
 けれど、精神面でかなりのダメージを負う事は否めないだろう。
 ――早く先に進まなきゃ。

 私が次に向かったのは……悲しい影達がいた、あの場所だった。
 その先にある、ガンさんの家。
 あそこにいるとは思えないけれど、一応行ってみようか?
 私は、少しだけ歩くのを早めた。

「いない、か……」
 あの頃のように嘆き苦しむ影達の姿はなく、辺りはしんと静まり返っている。
 私はその場から離れ、ガンさんの家を訪ねてみたが……やはり、そこには誰もいなかった。
 ガンさんは、どこかに出かけているのだろうか?
 この世界にいるのか、元の世界にいるのかはわからないけれど……変貌したガンさんの姿を思い出すと、出口を教えてくれた事には感謝しているのだが、正直あまり会いたくないなぁ、などと思っていたので、思わずホッと胸をなで下ろした。
 ガンさんの家を出た私は、長い長い坂の上を一人で歩いた。
 ガンさんの家の窓から、この先にある坂の上に展望台が見えたからだ。
(あんなところに展望台なんてあったんだ。行ってみようかな……?)
 もしかしたら、そこに彼がいるかもしれない。
 それに、たとえいなくとも、高い場所から地上を見降ろしてみれば、何か新しい発見があるかもしれない。
 そう思った私は、ゆっくりと急な坂道を登り続け、ただひたすらに展望台を目指した。

 やっとの思いで辿り着いた私は、入り口の前で展望台を見上げる。白くて丸みがかった小さな建物、螺旋階段が上まで続いていた。
 私は手すりに手をかけ、カンカンと甲高い音を鳴らしながら、階段を一段ずつ登っていく。視界に入り込んでくる美しい黄昏の空を眺めながら、私は頂上を目指した。
 性悪な夕陽が月を拒み、ここでは夜が訪れない。夜がこないわけだから、勿論朝だってやってこない。
 夜の空を支配する月や星だってとても素敵だし、輝く太陽に、白い雲……スカイブルーの空だって、とても美しい。
 それなのに、どうしてこの世界は夕暮れ時を……【黄昏】だけを愛するのか?
 セピアに色付いたこの世界は、まるで古い写真のよう。
 そんな事を考えていたら、ついに足が最後の一段を登りきった。

「うわぁ……! すごい」
 風が少しきつい。意地悪な風が、私の髪を悪戯に弄んだ。
 ――海が見える。岬が見える。
 黄昏の街の全てを見渡せる。
「見つかればいいのだけれど……」
 私は展望台に設置されていた望遠鏡を使い、この【黄昏の街】を隈なく調べた。

「……あれ? 確か、あの場所って」
 私は一箇所だけ、とても気になる場所を見つける。
 それは、彼がかつて教えてくれた、墓地への入り口の近くにある森の先だ。
 墓地には軽はずみに足を踏み入れたくないと、以前彼がそう言っていたので、うっかり見逃してしまっていた。
「……あそこだ。絶対にあそこだ」
 私は急いで螺旋階段を駆け下りると、再び駅の場所まで走った。無我夢中で走った。
 疲れない事が幸いだった。……走れる。どこまででも。
 私の脚よ、風になれ。
 そして、一分でも一秒でも早く……私をあの場所まで運んで。
 そう心の中で願った瞬間、身体がとても軽くなったような気がした。

 沢山の影達と共に汽車を降りると、影達は立派な門をくぐって真っ直ぐに進んでいく。私はその門をくぐらず、望遠鏡で見た左手側の位置に立ち、木々をそっと掻き分けた。
 人一人入るのが精一杯の細道を見つけ、ゆっくりと進入する。枝や葉が当たり、腕などに細かい傷が出来たが、それでも前だけを見て進み続けた。
 暗くて狭い道だ。不気味で恐ろしくて、もう二度とここから出る事が出来ないのではないかと恐怖に包まれる。
 頭上も左右も樹で覆い尽くされていて、まるで樹に飲み込まれた私が、胃まで続く食道の一本道を歩いているかのようだった。
 いや……逆かな。
 樹の胃の中にいる私が、光を目指して出口まで歩く。愛しい彼に、ただ会う為だけに。
 怖くない。負けない。
 だって、この先にはきっと……彼がいる。
 だから、立ち止まらない。引き返さない。決して振り返らない。
 光が漏れ始める。――そろそろゴールか?
 私は今、ようやく樹の口内から這い出ようとしていた。

 ――空だ。
 溜め息が出るくらいに美しい空が目に入る。
 私は安心したのか、その場でへたり込んでしまった。
 ……怖かった。怖かったよ。闇に飲み込まれてしまいそうだった。
 私は震える手をギュッと握りしめながら、目の前の風景を見つめた。
 昔、私達がよく会って話していた河原にとても似ているこの場所。きっとここに、彼が……
 そう思った私はゆっくり立ち上がると、必死に彼の姿を捜した。

 時が……時が、止まったような気がした。

 ――いた。やはり、彼はそこに居た。
 夕陽をじっと見つめている彼は、私の存在にはまだ気付いていないようだ。私は彼に向かって、一歩ずつ近付いていく。
 彼はその足音に気付いたのか、そっと後ろに振り返った。
「久しぶり」
「……あ」
「会いに来たよ」
「アイコ……」
「元気にしてた?」
 私は溢れ出しそうな涙を懸命に堪えて、彼に話しかけた。けれど、彼はただ静観したまま……その場にずっと立ち尽くしているだけ。
「感動の再会なんだから、もうちょっと喜んでくれてもいいじゃない!」
 私はとびっきりの笑顔でそう伝えた。
「何デ……」
「ん?」
「何デ、俺だっテわかッタの……?」
「……わかるよ、バッカだな~!」
 私はそう言って、貴方の肩に軽くパンチをした。
「コこニハ、沢山の影達ガいルのに……ドうしテ」
「……あのね? 私の目には、昔と何も変わらない貴方の姿が映ってるの。あの頃のまま。何一つ変わらないよ」
「……アイコ」
 ――彼が影になっている。それは、なんとなくだが予感していた。あの時、彼が言った【償う】という言葉から……
 けれど私は、たとえ彼がどんな姿になっていようと見つけられる自信があったんだ。
 姿や表情がわからなくても、彼は彼。
 私が彼を、間違える筈がない。
「ずっと、ずっと会いたかったよ」
「アイコ……」
 今の彼の表情は私にはわからないけど……きっと難しい顔をしているんだろうな、と思った。
「あのね、どうしても貴方に伝えたい事と聞きたい事があったの。だから来たんだよ、貴方に会いに」
「俺二、伝エタい事ト……聞キたイ事?」
「うん。そうだよ、カズトくん。……いいえ。――森野一樹くん」
 私がその名を呼ぶと、彼が動揺したのがすぐにわかった。
 そう、彼の本当の名前は森野一樹。
 森野一人ではない。
 オレンジと黄色が混じり合ったこの空が、大きく揺れたような気がした。

「……カズキくん。もう自分を偽らなくていいんだよ。私はもう、全てを知っているから。貴方の罪も、本当のカズトくんの事も。……弟さん、だったんだよね? 私と同い年の」
「何デ、知っテ……?」
「これだよ」
 私は鞄から一冊の手帳を取り出した。
「あの日、貴方はこの世界に来る前……この手帳をあの大樹の近くに落とした。そして、一人で元の世界に戻ってきた私が、偶然それを見つけて拾ったの。……ごめんなさい。中身を見てしまった」
 私は深く頭を下げながら、彼に手帳を差し出した。
「……そッカ。見つカらナイと思ッテいたラ、ソんナトコろに落としテいたんダネ」
 彼は私に近付き、昔のように優しく頭を撫でた。
「拾ッテくれテありガトう。トテも……とてモ大切なモノだっタンだ」
 頭から伝わる温かい温度。大きな手のひら。
 胸が苦しいくらいに締めつけられた。
 ――痛い。……イタイ。
 けれど、彼の方がもっと痛い。
 ねぇ、貴方はどれ程苦しんだの? そして、どれ程悲しんだの?
 自分を追いつめて、一人で背負いこんで……誰にも言えず、ずっとずっと一人で。
 ――あぁ、これが【孤独】か。
 我慢していた筈の涙は止めどなく溢れ出し、地面を濡らした。
「アイコ、泣かナイデ」
 優しいその声を聞いた瞬間、マリオネットの糸がぷつんと切れたかのように私はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。
「どうして……? ねぇ、どうしてよ? 何故、こんな事になってしまったの? 何で!」
 溜まった想いが悲鳴をあげる。彼は、そんな私の肩に両手を置くと、ゆっくり口を開いた。
「全部知ッていルトいう事ハ、うち二行ッたんダね? アイコ……カズトは、カズトハ……」
「うん……亡くなっていたよ。今から十年前、貴方が河原に現れなくなった日に……」
「……そッカ。やッパりソウだヨね。ハハ、奇跡ナンて起キる筈がナイんだ」
 彼の悲痛な笑いが、私の心を更に締めつけた。
 彼が、どうしても元の世界に戻って確認しなければならなかった事とは、きっとカズトくんの生存だったのだろう。けれど、確かめに行く勇気もなく……あの日河原で一人、ずっと悩み続けていたのだと思う。
「貴方の……カズキくんのせいじゃないよ」
「……やメテくれヨ」
「どうしようもなかったんだよ! だから、カズキくんのせいじゃ――」
「ヤメろッテ言ッテんダろ」
 低く冷たい声色は、容赦なく私を攻撃する。私は彼に強く突き飛ばされて、大きくバランスを崩した。
「俺ノせいナんだヨ! 俺がカズトを、カズトヲ殺したンだ!」
 私に対し、彼は声を荒げ怒鳴った。 こんな彼の一面は初めて見る。
 森野一人じゃない。【森野一樹】の心の声を、私は今日……初めて聞いたんだ。
「あイツじゃナクて俺ガ死ねバ良カッたんダ! コノ世二必要無イノは俺の方ダッたノに……! うわァあああアアあアアあぁ! カズト、カズト……ごめン、ゴめん! ごめンよ……」
 彼は頭を押さえ、唸り声を上げながらしゃがみ込む。それは、とてもじゃないけど見ていられるものじゃなかった。
 彼がずっと演じていた森野一人は、強くて優しくて、前向きで、真っ直ぐで……少し自信過剰ではあるものの、憎めない。きっと、誰からも愛されるであろう、そんな人間だ。
 けれど、演じる事をやめた森野一樹は、弱くて後ろ向きで、傷付きやすくて、不器用で……多分自分に自信がなさ過ぎるせいか、必要以上に自分自身を卑下してしまう。きっと誰よりも、理解と深い愛情を求めているであろう……そんな人間。
 どうして、本当の彼に気付いてあげられなかったんだろう。こんなに傷付いて、子供のように震えているのに……

 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい……

 けれど――
 けれど、聞かなくてはいけない。知らなければならない。
 私はその為に、ここまで来たんだから。
 泣いている場合じゃない。
 泣いても、何も変わらない。
 私は袖で涙を拭った。
「……あの日、何が起きたのかは知ってる。けど、貴方とカズトくんの間で何があったのかは、私にはどうしても知る事が出来ない。だから話して欲しい。聞かせて欲しいの、真実を。貴方にとって、とても残酷な事を言っているのはわかってる。でも……逃げちゃ駄目なんだよ。お願い、全部話して。そうしないと、貴方は永遠に救われない」
 彼を少しでも呪縛から解放してあげたい。
 ここに存在する、優しくて穏やかな影達のように……彼が笑ってこの地で暮らせるように。
「……君に話シタとこロデ何モ変ワリはしなイ。カズトは生き返ラないシ、俺ガ人に戻れルワケでモない。君ノ言ってイル事は単ナル自己満足ダ。……ソレとも何カ? 女神ニデモなっタつもりカ? 可哀想ナ俺二情けデモかけテ、イい気分になりタイだケダろう?」
 ……本当の森野一樹は、随分と卑屈で口が立つようだ。今までのイメージがことごとく崩され、粉砕される。
 そう、例えるなら……
 優しい子羊が突然凶暴な狼になった。
 身を守る盾がいきなり諸刃の剣になった。
 甘い飴が急に薄荷味に変わった。
 キャラメルラテが有無を言わさず、ブラックコーヒーに変わった。
 ……そんな感じだ。
 けれど、それが嬉しい。やっと本当の彼に、少しだけでも近付けたのだから。
 それに今となっては、ただ虚勢を張っているだけにしか見えない。
 今の彼はさながら、捨てられて震えている仔犬のようだ。
「……そうだよ、何も変わりはしないね。カズトくんは生き返らないし、貴方も一生影のまま。私の言ってる事は確かに自己満だよ。……女神? なれたらいいね、本当に。そしたらカズトくんを生き返らせるし、貴方を元の姿に戻して元の世界に帰る。それでハッピーエンド! 全てが丸く収まる。……本当にそうなればいいのにね。残念ながら私はただの人間だし、神様でも女神でも魔法使いでもない。貴方を本当の意味で救う事は出来ない」
「……だロウな」
「けどね? 私には知る権利がある。それだけは譲らない」
 無言で私を見つめる彼。私はそんな彼を睨みつけながら再びこう口にした。
「絶対に譲らないから」
 彼は突然、大声で笑い出した。目の前の黒いシルエットはお腹を抱えて笑い、時に咽せ返す。それでも笑う事をやめたりしない。
 暫く経って、落ち着きを取り戻すと……彼は私に、先程とは違う優しい声色で話しかけてきた。
「強くナッタね、アイコ。昔の君ナラ、きッとスグに泣イてしまッテいたダロうに」
「それは残念! 私、もう二十九ですからね。ちょっときつく言われたくらいで傷付き泣いてしまう程、乙女じゃありません」
「ナルほド、ソレは一理アる」
「ちょっと……それどういう意味?」
「自分デ言ッたんジャなイか、本当に難シイよ、君ハ」
 彼と私は顔を合わすと、声を上げて笑った。
 笑っている今の彼の表情は、私にはわからないけれど……きっとあの頃のように、太陽みたいな笑顔で優しく笑っているんだろうなぁ、なんて思った。
 ……見たいなぁ。もう一度、貴方の笑顔を。
 大好きだった、貴方の優しい笑顔を。
「さッキは突き飛ばシテしまッて本当にごメン。大丈夫ダッた?」
「大丈夫! 全然思いっきりとかじゃなかったし、あんなくらいへっちゃらだよ! それにね、私嬉しかったの。カズキくんが、あんな風に感情をぶつけてくれたのって、初めてだったから」
「ソういウモの?」
「そういうものです」
 彼は『そッか』と呟くと、持っていた鞄に手をかける。あの頃と変わらない彼の鞄を見ると、何だか時間が戻ったみたいな感じがして嬉しくなった。鞄は以前より傷んではいたけれど、まだまだ使用出来そうだ。
 彼が鞄から取り出した物。
 それは――
「あ、それ……!」
 彼の手にひらの上に乗せられていた物。それは以前、彼が私にくれたけれど、この世界に来る為の依り代となり消えてしまった、あの琥珀色の石と同じ物だった。
 彼は、カズトくんがもしも生きていたら……この石を渡してちゃんと謝りたい、そう思っていたらしい。

 一つはカズトくんに、もう一つは私に。

 貰い手のないその石は彼の手の中で、キラキラと輝き続けていた。
「カズトはさ……本当二変わっタ奴ダッたンだ」
「……うん。それはカズトくんになりきろうとしていた貴方を見ていれば、よくわかるよ」
「ハハ! だろウ? ソんなあイツにハサ、夢ガあっタンだ。世界中ヲ旅シて、自分ノ知らナイ世界ヲ見てミたいッテ、よク俺ニ言っテいタよ。俺はソンなあイツを、イつもバカにシテたんだ」
「ひっどいね。お兄ちゃんなのに」
「そウだね。ケど、本当ハ……そンなアイつガ羨まシクて仕方がナカっタ。俺ハ人とノ付き合イなンテ苦手ダし、周りノ連中ノ事なんテ常に見下シテいた。勿論ソんナだかラ、周リからハ嫌ワレていたヨ。ナノにあイツは皆カラ支持さレテ、愛さレテ……疎マしカッたンダ。アイつなんテ死ンでしマエばイイ。ソシたラ俺も、楽ニナれるのニ……っテ思ウ事モ、何度もアッた」
「……カズキくん」
「アイコ、聞イテくれルカい? 決シテ気持ちガ良イ話デはナイのダけレど……」
「……うん。その為に私はここに来たんだよ」
「……アりガトう」
 私と彼はその場に腰を下ろす。小刻みに震えている彼の手をそっと握ると、彼も強く握り返してきた。
 そして彼は、深く深呼吸をしてから……ゆっくり、ゆっくりと話し始めた。



 俺、森野一樹。二十四歳。
 人生適当に生きてきた。否、諦めてたんだよ……色々と。
 こんな世の中、期待するだけ馬鹿を見る。だから俺は、全てを見下して生きてきた。
 そもそもこんなふざけた世界に、生きる価値などあるのだろうか? 俺には全く理解出来んね。
 漆黒の上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。箱から煙草を取り出し一服すると、空に向かって煙を吐き出した。
 昨日、一緒に事業を起こそうと言っていた奴が死んだ。……自殺だよ、自殺。
 昔からの友人で、とてもいい奴だった。本当に、いい奴だったんだ。
 あいつの死に、皆が泣いていた。あいつは本当に幸せ者だ。
 友人達で集まり、あいつの話を沢山した。皆があいつとの思い出に浸り、悲しんでる中、俺が……
「あいつが死んだ事、俺はよく頑張ったなって褒めてやりたいけどな」
 と言った瞬間……突然全員が黙り込み、冷たい視線を俺に向けた。
 気が付くと俺は、友人の一人に思いっきりぶん殴られていた。
「相変わらずお前は最低な人間だな」
 そう言って、全員が俺を非難した。
 ……何でだ? だってさ、やめようと思ったら途中でやめられた筈だろ? けどさ、あいつはやめなかった。そこには、死にたいという強い意思があったんだ。
 奴はそれを貫いた。……かっこいいじゃないか。
 死んだあいつの勇気を褒める奴は誰一人としていない。だからこそ、俺だけでもあいつを肯定してやる。
 苦しかった筈なのに……よく頑張ったな。
 ――ゆっくり眠れ。お疲れさん。

 俺は、やはりまわりの人間が言うように、血も涙もない人間なのだろうか?
 所詮、【他人】の言葉に耳を貸すつもりはないが……たまにふと頭をよぎるんだ。
 確かに俺は冷めてるし、性根が腐っている。それは認めるよ。
 物心ついた頃から俺はこうで、嫌いな奴に合わせたり、愛想良く振る舞うなんて事は出来やしない。……要領が悪いもんでね。
 そもそも人を愛するという気持ちも、誰かに愛されるという感情も、俺にはイマイチよくわからない。
 人は裏切るものだと思ってるし、俺だって平気で他人を裏切る。人間なんて、そんなもんだろ?
 ……ただ、あいつが自殺した事はそれなりに悲しくもあったんだ。
 表情には出ないタイプだし、涙も出なかったから伝わらないかもしれないが……あいつは、数少ない俺の理解者だった。
 けれど、俺はあいつが死にたがっている事なんて全然知らなかった。相談すらされた事がない。
 きっと、あいつにとっても俺は……信用の出来ない、血も涙もない人間だったのだろう。
 まぁ、相談なんてされたところで俺は、気の利いた言葉の一つも言えずに『じゃあ死ねば?』と言ってしまうのがオチだが。

 今、この国は自殺大陸だ。文明が進化し過ぎたのだから仕方がない。
 この環境の変化に上手く適応出来ない人間達は、ここぞとばかりに自ら命を絶っていく。
 戦時中。誰もが死にたくないと思いながら、お国の為と……そう言って死んでいった。未来を子供や若者に託しながら。
 それが……今ではどうだ? 今世界で、どれくらいの人間が自殺をしていると思う?
 ――年間十八万人らしい。
 遺書が見つからないと自殺扱いにならず、変死として処理されてしまうらしいが……その数を合わせておよそ十八万人。
 今、人類は死を望んでる。
 俺もその中の一人に違いないが、勘違いはしないで欲しい。
 俺は死にたいんじゃなく、消えたいんだ。
 親、兄弟、友達、同級生、知り合い……全ての脳内から【森野一樹】の存在を消し去って欲しい。
 それは自殺ではない。……消失だ。

 俺には十九の弟がいる。少し変わった、おかしな奴だが……誰にでも優しく、誰からも愛されるような、そんな男だった。
 弟の周りはいつも笑顔で満ち溢れている。俺はそんな弟に、劣等感を抱いていた。
 同じ兄弟なのに、どうしてこうも違う?
 何故、あいつの周りには人が集まる? 何故、ああも愛されるんだ?
 別に弟の事が嫌いだったわけじゃない。寧ろ好きだよ。あいつは、とてもいい奴だから。
 けれど、俺の中の嫉妬心みたいなやつが少しずつ胸を蝕んでいき、キツく当たってしまう事も度々あった。
「カズト、何書いてるんだ?」
「ん? 別に大した物じゃないよ」
「ちょっと見せてみろよ!
 俺は半ば強引にカズトから手帳を奪う。中を見てみると、異世界だの神隠しだの……そんな絵空事がびっしりと詰まっていた。
 こいつの脳内はどうなってやがる? お花畑か?
「……お前って、ほんと変な奴だよな。パラレルワールドとか、そんなもん本気で信じてるのかよ? ……阿保らし。
 俺はカズトに向かって手帳を投げる。カズトはそれを上手くキャッチすると、眉を下げ、苦笑いをしながら口を開いた。
「いいんだよ。俺は信じてるんだからさ。こんな夢も何もない世の中、想像する事くらい許されてもいいだろう? 何もかも否定して生きていくより、全てを肯定して生きる方がまだ……こんな腐った世界でも、生きる希望が湧いてくるもんだよ」
 そう言って、カズトは笑った。
 俺は、カズトがそんな言葉を口にするとは想像もしていなかったから、思わず面食らった。
 ――お前は毎日幸せで、悩みなんてない筈だろ? いつも楽しそうに笑っているじゃないか。
「……お前、何か悩みでもあんのかよ?」
「ん? どうだろう? まぁ、あっても兄さんには言わないけどね」
 そんなカズトの言葉に、俺は苛立ち始める。
(……何だよ、それ? 話す価値もないって事かよ、俺には)
 考えていた事が顔に出ていたのか、カズトは『違うよ』と、優しく笑いながらこう言った。
「自分よりも重いモノを抱えているかもしれない相手に、これ以上荷物を背負わすのが嫌なんだ。兄さんは、いつも何かに対して悩んでいるよね? だからだよ」
『兄さんは本当に顔に出やすいから、考えている事がすぐにわかる』、そう言って屈託ない笑顔で笑うカズトは、更に言葉を続けた。
「兄さんは俺に悩みを言わない。俺も兄さんに悩みは言わない。……それでいいじゃないか。それに俺の悩みなんて、取るに足らないような下らないものかもしれないしね」
 カズトは手帳を鞄にしまうと、『図書館に行ってくる』と言って、外に出た。
 ……やはり、カズトは変わった男だ。
 しかし、何だかあいつの【何もかもお見通しだ】と言わんばかりの態度が癪に触る。
 俺には、あいつの考えてる事なんか何もわからないし……そもそもあいつに、悩みなんてものがあるようには思えなかった。
 しかし『顔に出ている』などと言われると、何やら少しこっ恥ずかしく感じる。
「俺もアイツみたいに、少しくらいはポーカーフェイスってやつを極めないとな」
 俺の中で、弟に関する見方が少し変わった一日だった。

 それから数日後。俺は荒れていた。
 よくよく考えてみれば、しょうもない事だった。解決法なんて、考えてみればいくらでもあっただろうに。
 けれど、その時の俺はその考えに達する事もなく、酒に逃げ、女に逃げた糞野郎だ。
 俺は弱かった。何よりも、独りでいる事が辛かった。一緒にいてくれるなら、慰めてくれるなら……誰でも良かったんだ。
 俺はもう自分の事で頭がいっぱいで、カズトが今、どんな心境なのかなんて知る余地もなければ余裕さえもなかった。俺は、いつだって自分の事しか考えていなかったから。
 抱いた女からは呆れたように、『貴方よりカズトくんの方が魅力的』なんて事を言われた。
 苛ついた俺は、カズトに酷い言葉をぶつけたり、罵ったりもした。
 俺は、あいつが優しいのを知っていた。だから、たとえ俺が何を言っても、あいつなら笑って許してくれると思っていたんだ。だって俺は、あいつの兄貴だしさ。
 自由奔放で、いつでも好き勝手に生きている弟。お前は俺より恵まれているではないか?
 だから……少しぐらい、俺のストレスのはけ口になってもらってもバチは当たらないだろう?
 俺はあいつの事なんて……正直どうでもいいと思っていたんだ。
 俺より賢い弟。
 俺より優しい弟。
 俺よりモテる弟。
 あいつは、俺より沢山のものを持っている。
 俺がカズトだったら、俺は皆に信頼されただろうか?
 俺がカズトだったら、俺は皆に愛されただろうか?
 カズトが羨ましかったんだ。……本当に。

「兄さん。もうお酒はそれくらいにしといた方がいいよ」
「うるせぇ……」
「身体によくないって」
「うるせぇって言ってんだろうが!」
 俺は飲みかけのビール缶を、カズトに向かって投げつけた。
 缶はカズトの真横を通過し壁に当たると、その場に黄色い染みを作った。
「お前に俺の何がわかんだよ? 余計なお世話なんだよ! わかったならとっとと消えろ。そんで、お前の大好きな御伽噺の世界に身でも投じてやがれ。馬鹿が」
 そう言うと俺は新しい缶を開け、喉に流し込む。カズトは手をギュッと強く握りしめると、今まで聞いた事もないような低い声で俺に言った。
「……じゃあ兄さんは、俺の何がわかるっていうんだよ。いい加減にしろよ、この卑屈野郎」
「……何?」
 それが、俺とカズトの【初めての喧嘩】だった。
「兄さんの噂なんて、すぐに耳に入る。荒れてる内容だって、聞けば本当に下らない。考える事を放棄して逃げているだけだろう? 気持ちもないくせに、沢山の女の人を抱いて、傷付けて、酒を飲んでるつもりが酒に飲まれて……いい年して本当にみっともない」
 俺は、顔がカーッと熱くなるのを感じた。
 怒りのせいか? 酒のせいか? プライドを傷付けられたからか? それとも……カズトの言葉が正論過ぎて恥ずかしくなったからか?
 とにかく俺はカズトの胸ぐらを掴み、拳を落とす。――鈍い音が響いた。
 殴られたのはカズトじゃなく、俺の方だった。
「カズト、てめぇ……!」
「少し落ち着きなよ。……ねぇ、兄さんは何故変わろうとしないの? 幾千もの可能性が兄さんにはあるというのに」
「はぁ? 何わけわかんねぇ事言ってやがる⁉ 俺は俺だろうが! 何でてめぇに言われて変わらなきゃなんねぇんだよ⁉」
「兄さんは今のままじゃ駄目だ。このままじゃ、誰も受け入れてはくれない」
 キッパリとした否定、拒絶に……目頭が熱くなる。
「マジうるせぇ! 黙れよ屑が! お前なんかいなきゃ良かったんだよ! 今すぐ俺の前から消えろよ、畜生が! いつもいつも俺を見下しやがって!」
「見下してるのは兄さんの方だろう? 自分より強い相手に媚びる事は出来ないから、卑屈的になり荒れて……自分より弱い相手、見下せる相手がいて、初めて自分を保つ事が出来ているんだよね?」
 カズトの言葉が鋭利な刃物となって、俺の心を突き刺してくる。
 やめてくれ。やめてくれ。頼むからほっといてくれよ。他の奴らと同じように。
 じゃなきゃ俺は、自分をコントロール出来ない。
 苦しいんだよ、痛いんだよ。俺だって……俺だって本当はな、お前みたいになりたいよ。
 皆の中心でありたい。いつも笑顔でいたい。頼られたい。……愛されたいんだ。
「……カズト、お前マジうぜぇ。俺にお前の観念を押しつけるな。俺は、今のままでいい」
 俺はカズトの顔を見る事もせず、上着を羽織り表に出た。

 逃げ出すように家から出た俺は、ひたすら走り続けた。今はただ、その場から早く離れたかったんだ。
 ――何処でもいい。俺は、無我夢中で走った。
 走っている間もカズトに言われた言葉が、ずっと俺の脳内にこだましていた。
 ……あいつに俺の何がわかる? 俺だって好きでこうなったんじゃない。何も知らねぇくせに指図してんじゃねぇよ、クソが!
「畜生っ!」
 ……悔しい。惨めだ。

 暫くして足を止めると、昼間子供達がよく遊んでいる広い河原が目に入った。
 こんな時間だ、もう誰もいない。……ちょうどいい、暫くここで時間を潰すか。
 初夏だというのに、今夜は少し肌寒い。走って汗をかいたから尚更だ。上着を羽織ってきて良かった。
 夜風のお陰で頭が冷え、少しずつ冷静さを取り戻していく。
 俺は河原に腰を下ろすと、先程の事をゆっくりと思い出していた。……鮮明に覚えている、カズトの表情と言葉。
 そうだ。カズトの言う通りだ。全てお前が正しい。そんな事は、俺が一番わかってんだよ。
「あーもう、消えちまいてぇな……」
 弟にまで馬鹿にされる兄貴なんて、情けな過ぎて笑えるよ。
 俺は自嘲気味に笑うと、煙草に火をつけた。
 ふと、空を見上げる。輝くばかりの満天の星空だ。普段の俺は、空なんて見上げたりする事があっただろうか?
 ……いや、ないな。
 どちらかというと俺は、いつも下ばかり向いて生きてきたような気がする。
「星って、こんなに綺麗だったんだな」
 俺はいつの間にか、星の美しさに目を奪われていた。
「……カズトも、星とか好きそうだよな」
『あいつメルヘンだし』と独り言を言いながら、フッと笑みを浮かべる。
 こんなにムカつくのに、思い出すのは出来の良い弟の事ばかり。
「……カズト、ごめんな。こんな兄ちゃんで」
 面と向かって素直に謝れない俺は、誰にも聞き取れないような小さな声で、そう呟いた。
「それにしても……本当に綺麗だな」
 カズトを真似て言ってみるとしたら、きっとこうだ。
 ――幾千もの星が、夜の世界を支配する。ものを言わずとも、誰もがその美しさに酔いしれるであろう。夜の主役は月である筈なのに……今では月は完全に裏方にまわり、立場は逆転。これではまるで、星が主役の大舞台だ。
 ……少し表現は違っても、あながち間違いではないだろう。
 しかし、あいつのロマンチシズムは相当なものだ。一体、誰に似たんだか。
 親元から離れ、あいつと二人暮らしを始めてもうすぐ一年になるが、未だによくわからない。
 俺はふぅと溜息を吐くと、空に向かってそっと手を伸ばす。この手が星に届くようにと、出来るだけ思いっきりその手を伸ばしてみた。
 俺のこの手は……一体、何を捕まえたいんだろう。
 ――生か? ――死か? それとも、自由か?
 ……違う、そうじゃない。俺は誰かに、この手を取って欲しいんだ。
 けれど、俺の手のひらは空を切り、握られた拳の中には何も残らない。
 信用出来る何かを見つけたい。自分の居場所を見つけたいんだ。……たった一人でいい。俺の存在を認めて、受け入れてくれる存在。
 その存在こそが、俺のこの【孤独】を埋めてくれるような……そんな気がしてならないんだよ。
 果たしてそんな人物が、この世界に存在するのだろうか? ……俺にはわからない。
 これから、どうしたらいいのかさえも。

 ふと視線を感じて横を見ると、一人の女と視線が重なった。
(うわ……何だ、このギャルは。目の周りなんて真っ黒で、まるでパンダみたいじゃないか!)
 その女に対する、俺の第一印象はこれだ。
 けれど……目の周りが真っ黒なのはきっと、沢山泣いたから。彼女は今、苦しんでいるのかもしれない。俺と同じように。
 ――こういう時、カズトならなんて言うだろう?
 カズトなら……
 俺は、気付けばその女に声をかけていた。

 彼女の名は、斎藤愛子といった。年は十九歳。カズトと同い年だ。
 俺は咄嗟に自分の名前を、森野一樹ではなく【森野一人】だと、彼女に伝えた。
 何故かって? そんなのは俺にだってわからない。
 きっと俺は、この短い間だけでも自分を捨てて、カズトという人物を演じてみたいと思ったのだろう。
 今日だけ、俺は森野一樹じゃない。森野一人だ。
 彼女は孤独が怖いと言った。……俺と同じだ。誰だって一人は寂しい。
 俺は【こういう時カズトなら何と言うか】、それを考えながら、弟になったつもりで彼女に接し続けた。

「……たとえ私が死んだところで、誰も悲しんだりしないよ」

 ……あぁ、わかる。よくわかるよ。
 だって俺も、俺が死んだって誰も悲しんだりしないと思っているから。
 カズトなら……こういう時どうする? 彼女に、なんて言って励ますだろう?
 カズトなら、カズトなら、カズトなら……
 カズトなら、きっと……

「俺が悲しむよ」

 ――そうだ。あいつならきっとこう言うはず。

「君が死んだら俺が悲しむ」

 ……偽善的な言葉だ。けれど、カズトなら本当に悲しむだろう。あいつはそういう男だから。
 俺がそう言うと、パンダ顔の彼女は……まるで小さな子供のように泣き声を上げた。
 俺は思わず面食らった。
 けれど、目からボロボロと涙を流す彼女を見て、何だか俺も少し泣きそうになった。
 俺には、ここまで素直に感情を表現出来ない。
 年を取る度に泣けなくなっていく俺は、そんな彼女の純粋さが……何だか羨ましかった。

 それから俺は、毎週日曜の夜に彼女と会う約束をした。
 俺を慕ってくれる彼女が、とても愛らしい。俺は彼女の事を可愛い妹のように思っていたんだ。
 本当の弟とは上手くいかないのに、おかしな話だろう?
 あれから俺とカズトは、すれ違いの生活を送っていた。
 俺はあいつが寝静まる頃に帰り、あいつは俺が寝ている間に外に出る。
 こんなに長い兄弟喧嘩は初めてだ。
 というか、普段温厚な弟と喧嘩する事自体が珍しいもんだから、どうしたらいいのかがわからない。
「カズトくん見て! 流れ星だ!」
 俺は、無邪気にはしゃぐ五つも年下の彼女に視線を向ける。彼女は目を輝かせながら夜空を見上げていた。
「何を願ったの?」
「願う暇なんてなかったよ! だって一瞬だよ? ビュンって!」
 彼女は両手を使い、【ビュン】のジェスチャーをする。必死に伝えようとするその間抜けな姿に好感を覚え、思わず笑いがこぼれた。
 俺は次第に、彼女に心を開いていった。
 日曜日が待ち侘しいと感じる事もあった。
 けれど彼女が慕っているのは、あくまでカズトなのだ。俺ではない。
 本当の俺を見せてしまえば、この眩しいほどに輝いている笑顔も、一瞬で消え去るだろう。
 ――そう。俺は彼女を騙しているのだから。

 少しずつ立ち直ろうと頑張る彼女は、あの日から少しずつ変わっていった。
 あのケバケバしいメイクもナチュラルなものに変わり、馬鹿みたいに露出の多い服は清楚で可愛らしいものになっている。
 きっとこれが、彼女の本当の姿なんだろう。
 彼女は変わった。……【カズトの言葉】でだ。
 自分が始めた事なのに、カズトを演じる事に苦痛を感じ始める。
 疲れを感じる。誰かを意識して話すというのは非常に窮屈だ。
 けれど不思議な事に、言葉を重ねれば重ねるほど……『俺は元々こんな人間だったのではないか?』と、錯覚させられる。

『兄さんは何故変わろうとしないの?』

 ――変わるよ。じゃあ俺、お前になる。
 偽りの森野一人なんて、本物には到底及びもしないだろうが……そんなイミテーションな俺でも、彼女は必要としてくれている。
 誰かに必要としてもらえる事は、大きな原動力となる。
 彼女はカズトの言葉に救われた。けれど俺は、アイコの存在に救われたんだ。
 ここには【森野一樹】という人間は存在しないけど、それでいい。今の俺には、アイコの存在が必要だから。こうして傍にいてくれる限り、いくらでもアイコが必要としているカズトを演じきってやる。
 足りないものは、互いに補えば良いのだから。
「人って難しいな。……本当に」
「ん? 今、何か言った?」
「……ううん。何でもないよ」
「変なカズトくん!」
 彼女はそう言ってクスクスと笑った。
 ――カズトは今、どうしているだろう。あいつもこの星を、同じようにどこかで見ているのだろうか?
 いつかカズトにあの日の事を、『ごめん』って伝えられる日がくるのかな?
 今はまだ言えそうもないが、いつかちゃんとあいつに謝ろう。俺はそう心の中で決意した。

 ――それから数ヶ月が過ぎた。
 もうすぐ冬がやってくる。クリスマスなんてまだ先の話なのに、以前までよく目にしたハロウィンのカボチャやグッズはとっくに片付けられ、クリスマスツリーの飾り付けに変わっていた。
 午前七時過ぎ。俺は、ドアをノックする音で目を覚ます。
 この日は間違いなく、俺の運命を大きく狂わせた。
「――兄さん、ちょっといい?」
「ん、あぁ……」
 必要最低限にしか話していなかったカズトが俺の部屋の中に入り、ベッドに腰を下ろす。
「兄さん、最近何か変わったね」
 カズトはそう言うと、優しく笑った。
「……そうかな?」
「うん、変わったよ。雰囲気とか……少し丸くなったような気がする」
「はは、そうだといいけど」
 カズトと普通に会話が出来ている。それがとても嬉しく、照れ臭くもあった。しかし、久しぶりに直視した弟の顔は、何だか少し痩せたようにも見える。
「……兄さん。今日ね、昼から友達がうちに来るって言うんだ。だから悪いんだけど、夜まで外に出ててもらっていいかな?」
「おいおい、女か?」
「違うよ、ただの友達!」
 そう言って、屈託なく笑うカズト。
「……まぁ、いいや。俺も今日は用があるし」
「兄さんこそ、最近日曜の夜になるといつもどこかに行くよね? ……彼女でも出来た?」
「バーカ。違うよ、そんなんじゃない」
 本当にそんなんじゃない。
 彼女はきっと【カズト】に恋をしている。けれど俺はカズトではないし、俺は彼女の事を妹のようにしか思っていなかった。
 大体、俺には人を好きになるという感情自体がよくわからないんだ。今まで沢山の女と付き合ってきたし、沢山の女を抱いてきた。けれど、そこに気持ちがあった事など一度もない。
 それに相手もきっと、そこまで俺の事を好きではなかったと思う。
 ただ互いに寂しい時、肌の温もりを感じ合えればそれで良かったんだ。抱きたい時に抱ければいい。
 しかし今の俺は、そんな行為など必要がないくらいに満たされているのも事実。
 やはり彼女の存在は、俺の中で大きいのかもしれない。

 カズトと他愛もない話で盛り上がる。カズトも俺も、自然に笑顔になっていた。
 ……あれ? 俺ってこんな風に笑えるんだ。
 そんな事を考えていると、隣に座っているカズトと目が合う。カズトは静かに優しく微笑んだ。
「きっと兄さんは、良い出会いをしたんだね。前までの兄さんは、いつも不平不満しか言わず誰の事も信じていないような人だった。目なんてまるで死んだ魚のようだったのに……今じゃまるで別人だ」
「……おいおい、それは言い過ぎだろ? こいつ!」
 俺は後ろからカズトの首に手をかけて、思いっきり締め上げた。
「あはは、ギブギブ!」
「参ったか、この野郎」
 腕の力を緩めると、カズトが軽く咳込んだ。……少し、強く締めすぎたかな?
「ずっと心配してたんだ。でも、兄さんはもう大丈夫だね!」
 カズトは俺に向かって、満面の笑みでピースサインを作った。
「……おう」
 俺は何だか気恥ずかしくて、後頭部を雑にガリガリと掻いた。
「……そうだ! 俺ちょっと出かけてくるね。いる物があるんだ。兄さんはもう少し寝る?」
「いや、もう起きる。俺もシャワー浴びてから外に出るわ。お前が帰る頃にはもういないと思う」
「了解。じゃあ行ってくるね! 鍵、閉め忘れないようにね?」
「そこまで子供じゃないっつーの」
「あはは、確かに!」
 そう言って笑うと、カズトは颯爽と俺の部屋から出ていった。
 俺はそのままバタンと後ろに倒れこみ、天井を見上げる。
 ……何だか清々しい気分だ。そして、少しむず痒い気分でもある。
 俺がもっと早くに間違いに気付いていたら、もっと早くに自分を変える努力をしていたら……カズトと俺は今のように仲良く、上手くやれていたのかもしれない。
 けど、きっとこれからは大丈夫だ。カズトと俺の関係は、確実にいい方向に進んでいくと思う。
「……あ!」
 俺はベッドから身体を上げ、急いでドアを開ける。もう既にカズトの姿はなかった。
「またあいつに、『ごめん』って言うの忘れてた」
 今の俺がカズトに伝えたい言葉はそれだけじゃない。ちゃんとアイツに、伝えたい事があるんだ。
「……ま、夜にでも言えばいいか」
 ――その頃の俺は、カズトと俺の時間がこれからもずっと続くものだと信じてやまなかった。
 それなのに、運命の歯車は俺の意思などお構いなしで、簡単に狂い始める。
 一度狂い出してしまえば、もう……止まらない。

 俺はシャワーを浴びてから、少し早いが家を出る事にした。
 外はやはり冷える。俺はパーカーのフードを深く被ると、空を見上げた。
 今日は曇りだ。天気予報で見た限りでは、明日から降り出すらしい。
 灰色の空は、今にも泣き出したいのに……必死で涙を堪えているように思えた。

 ……さて、どこで時間を潰そうか?
 まだ少し早いクリスマスソングが流れる商店街を、歩きながら考える。
 そのまま商店街を抜け、更に歩き続けると……そこには、占い師だろうか? いや、靴磨きか?
 小さな机に小さな椅子。その椅子に座ってるのは、古びたローブとおかしなオーラをその身を纏っている中年の男性。机の上には何も置かれていない。
 ……何だか気味が悪りぃ。関わらない方がいいだろう。
 そう思いながら、俺はその中年男の前を横切った。
「おい、そこのにぃちゃん。ちょっと俺の話でも聞いていかねぇか?」
「……はぁ? んな暇なんてねぇよ」
 中年男はそんな俺の言葉を無視し、更に話を続けた。
「俺ぁよ、わかるんだよ。色んな人間を見てきたからなぁ? あんた、きっとこっち側の人間だわ」
「……おっさん、頭おかしいんじゃねぇの? 何だよ、こっち側の人間って?」
「死に取り憑かれた人間だよ。にぃちゃん、あんた……今すぐ死にたくなるような罪を犯した事はあるかい?」
「……マジ、きめぇ。ドン引きだわ」
 相手にするだけ時間の無駄だと思った俺は、男の言葉など無視し、歩き始めようと一歩前に出た。
「あぁ! そうか! 死にたいんじゃなくて、消えたいんだよなぁ?」
 俺はその言葉に、ピタリと足を止めた。
「ご名答かぁ~。何故わかるって? 簡単な事だ。殆どの奴がそう思ってるからだよ。別にあんただけじゃない。……なぁ、にぃちゃん。死ななくてもいいよ。けど、あんたは消えて全てから解放される。そんな世界に興味はねぇかい?」
「ない」
「そうかい。けどまぁ、俺はいつでもここにいるからよぉ? 考えが変わったらいつでも来な。いい話を聞かせてやるよ」
 俺は無言でその場から離れた。

 ……胸糞悪りぃ。何なんだよ、あのおっさんは。
 生憎だが、俺は変わったんだ。最近は死にたいとか消えたいだなんて思ってやしない。寧ろ考えてもいない。……その筈だ。
 ――その筈なんだ。
 なのに、どうしてこんなに胸がモヤモヤするのだろう。何故あんな奴の言葉に、こんなにも心が乱される?
『くそッ!』と舌打ちをしながら、俺は公園のベンチの上で横になった。
 あの男の言葉が、どうも俺を苦しめる。あいつは一体、何者だ?
 死神か? それとも悪魔か? ……馬鹿馬鹿しい。ただの頭がおかしいイカれたおっさんだ。
 気にする事はない。考える必要なんてない。
 俺は曲げた腕を額付近に掲げながら、ゆっくり目を閉じた。
 閉じた目が映すのは真っ暗な世界。一面、闇の世界だ。闇は、どんな人間にもついて回る身近な存在でもある。
 俺は次第に、珈琲に入れるミルクのように……ゆっくりと闇の中に溶けていった。

***

 気が付くと俺は、真っ暗な場所で一人立ち尽くしていた。辺り一面、闇に包まれている。俺以外、そこには誰もいない。
 突然、静寂を破るように……コツコツと靴音が響き渡った。
 闇の中だが、前方に見える人物だけははっきりと認識出来る。ローブを羽織った男が、ゆっくりと俺の方に近付いて来ていた。……あの野郎、さっきの奴か?
 一度はそう思ったものの、体型や背丈から見てどうやら違うようだ。
 じゃあ……あれは一体、誰だ?
 ローブの男は俺の目の前に立つと、低い声で話しかけてきた。
 その声には聞き覚えがあった。

 ――お前、本当に変わったのか? お前がいくら変わったつもりでも、人間の深い部分、根本的な部分は決して変わりやしない。
 人間の本質なんてもんはな、どれだけ努力しようが頑張ろうが、簡単には変わらないんだよ。
 大体、お前は変わったんじゃない。カズトの真似をしているだけじゃないか。
 お前は、紛いモノの【森野一人】だろう?
 ……いいか? お前は【森野一樹】だ。憐れで弱くて脆くて卑屈で、自分一人じゃ何も出来やしない惨めな男だ。
 お前、その事を忘れてはいないか?
 森野一人も、斎藤愛子も……お前のその情けない面を見たらどう思うだろうな?
 忘れるな。お前は独りだ。
 ――永遠にな。

 フードを外したそいつは、紛れも無く俺自身だった。背の高さも、癖っ毛も、その声も……何もかもが俺と瓜二つだ。
 急に目の前の映像が歪み始め、ノイズが走る。
 ――そうか。もうそろそろこの世界の終焉だ。
 もう一人の俺が、嬉しそうに笑う。
 残された俺はただ茫然と、この世界が消えていく様を眺めているだけだった。

***

 目を開くと、真上には眩しい太陽が輝いていた。
 先程までは誰もいなく静かだった公園が、子供達の声で賑わう。……俺は、あのまま少し眠ってしまったのだろうか?
 それにしても、酷い汗だ。珍しく鮮明に覚えている夢の内容に、激しく呼吸が乱れる。冷たい風が俺から流れ出た汗を、更にひんやりとさせた。
「畜生……いやに目覚めの悪い夢だったな」
 俺はベンチに座り、額に手をやった。何だか少し調子が悪い。眩暈がする。
 俺は腕時計を見て、時間を確認した。
 二時過ぎか……
 今日はカズトの友人が家にくるから、夜まで外に出てくれと言われていたな。
 しかし、熱が上がってきたのか寒気がする。頭痛も酷い……頭が割れそうだ。
 少し考え、俺はうちに帰る事にした。部屋に篭って、鍵でもかけてりゃ大丈夫だろ。
 この選択が幸か不幸かは、俺にはわからなかったが……俺はただ、早くベッドで休みたかった。彼女との約束の時間までに、少しでも体調を整えておきたかったのだ。
 俺はベンチからゆっくり立ち上がると、ふらつく足取りで帰路を目指す。……あのおっさんがいた場所は、なるべく通りたくないな。遠回りになるが、違う道から帰ろう。
 少し歩いただけで息が上がる。熱が上がってきたせいで、俺の思考は正常に機能出来ていなかったのかもしれない。
 ――なぁ、カズト。
 この日、俺が熱なんて出さなければ……
 家に帰る事を選ばなかったら……
 カズトの気持ちを理解出来ていたら……
 未来は変わっていたのかな……?
 ……いや、きっと変わりはしなかっただろう。
 その場合、少しばかり先延ばしになっただけで……カズトが紡ぐ未来は、きっと何も変わらない。
 カズトの強い意思は、誰にも止める事は出来ないのだから。
 ……そう、俺は無力だったんだ。



 ようやく、俺とカズトが住むマンションに辿り着いた俺は、とにかく早く横になりたい一心でポケットから鍵を取り出し、素早くドアを開ける。
 部屋の電気は消えていた。カズトの友人が来ているとは到底思えないくらいに、家の中は静まり返っている。
 ――おかしいな。静か過ぎる。
 カズト逹はどこかに出かけたのだろうか? 少し気になった俺は、カズトの部屋の前に立った。
「……? 何だこれ?」
 ドアノブには、輪っかにくくられたロープが引っかかっていた。ロープはノブからドアのてっぺんに伸びており、裏側にまで続いている。
 一瞬にして血の気が引いた。
 これってまさか……違うよな、そんな!
 俺はドアを開けようとしたが、思い留まった。俺の考えが正しければ、ドアを開けてはいけない。
 俺はすぐに、ノブにかけられていた輪っかを取り外した。
 輪っかはスッと上に引き上げられる。カズトの部屋から、大きな音と激しく咳込む声が聞こえてきた。
「カズト!」
 俺は急いでカズトの部屋に入った。
 苦しそうに咳込むカズト。首に残る痛々しい跡に、思わず目を背けたくなった。
「なぁ、お前……何やってるんだよ? なぁ!」
 俺はカズトの肩を思いっきり揺さぶった。
「何だよ、これ……今日来るって言ってた友達にやられたのかよ⁉」
「……違う、自分でやったんだよ。友達なんか来ないよ、本当は」
「はぁ⁉ お前、何考えて……」
「兄さん、ちょっと水貰えるかな……?」
「……あ~! もう! ちょっと待ってろ!」
 俺は急いで冷蔵庫を開け、グラスに水を注ぐと、カズトの手にそれを握らせた。
「ありがと……兄さん……」
 カズトはひんやりとした水をゆっくり口に含むと、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「……おい、少しは落ちついたかよ?」
「うん……そうだね」
 カズトは無気力な様子でそう答えた。
 ……誰だ、【これ】は。
 俺は、こんなカズトを知らない。
「お前……何で急にこんな事をしでかしたんだよ?」
「……別に急にじゃないよ。毎日考えていた事だ。もう疲れたんだよ、色々とね」
 カズトの瞳は薄暗くどんよりしていて、全くと言っていいほど、光を感じられない。
 青白く、生気のない顔。お前……一体、いつからそんな顔をするようになった?
「……兄さんは、いつも俺の事を羨ましいだの悩みがないだの言っていたよね? でもさ……この世の中に、悩みのない人間なんているのかな?」
「えっ……?」
「もしそう見えていたとしたら、それはきっと……誰にも見せないように、見えないように無理を重ねて、『死にたい』だなんて口にするよりも、先に死んでしまうタイプの人間なんだろうね。……俺は」
 ――そうだ。カズトの言う通りだ。
 俺は何かあると、すぐ死にたいだの消えたいだのと口にした。
 けど、俺は結局生きている。ただ、誰かに構って欲しかっただけだ。
 ……けど、カズトは俺が帰ってこなかったら間違いなく死んでいただろう。
(何はともあれ、偶然でもカズトを助けられたんだ。こんな事……やめさせないと)
 俺は出来るだけ言葉を選び、優しくカズトに話しかけた。
「……カズト、しっかりしろよ。どうしちゃったんだよ、お前? 悩みがあるなら、俺で良けりゃあちゃんと聞くからさ! だからもう、こんな事は……」
「ねぇ、兄さん。どうして帰ってきたの? どうして邪魔をしたの? やっと解放されると思っていたのに。……そうだ、兄さん。責任取ってよ」
「せ、責任ってなんだよ」
「もう一度、俺を吊るしてくれないか?」
「おい……お前、何言って……」
 カズトは、『別に殺してくれと言っているわけじゃないよ』と言い、言葉を続けた。
「兄さんはこのまま部屋を出て、ロープをさっきのようにノブに引っかける。絶対外れないようにしっかりとね。そして、玄関から普通に外へ出るんだ」
 ――自分ですると、ノブから輪っかが外れて、結構失敗しちゃうんだよね。
 そう言って、カズトは静かに笑った。
「兄さんは今日、うちに帰ってこなかった。何も見てなんかいない。何も知らない。俺とも、朝以降会ってはいない」
 勝手な事ばかり口にするカズトに対し、俺の怒りが頂点に達した。
「お前いい加減にしろよ! 馬鹿な事言ってんじゃ……!」
 大声を出した瞬間、目の前がグラリと一回転する。
 ――倒れそうだ、吐き気がする。
 こんな大事な時なのに、俺の身体は正常に機能してくれない。
「兄さん……調子が悪いの?」
「……あぁ、そうだよ! 具合が悪りぃから帰ってきたんだよ! だからこんな話、さっさと終わらせてゆっくり眠らせてくれよ? なぁ、カズト……」
「……ごめん、兄さん。それは無理だ。今日じゃないと駄目なんだよ」
 何故か今日にこだわるカズト。……どうしてだ?
 何か理由でもあるのだろうか?
 必死にその理由を考えようとするが、熱によって上手く頭が働かない。視界が若干ぼやけ始める。何とか意識を保てるように、俺は下唇を強く噛んだ。
「わかって欲しい。俺は今日……この世界から消える」
「……わかりたくねぇな、そんな事は」
「何故? 兄さんは自死に関して肯定派だった筈だ」
 やはりカズトには、何でもお見通しだったようだ。
 けど、今は……
「俺は、お前に死んで欲しくないし、片棒を担ぐのもごめんだよ」
「俺の事、邪魔だと思っていたのに?」
「……あぁ」
 カズト相手に隠しても無駄だと思い、俺は素直に頷いた。
「……何を言われても俺の気持ちは変わらない。兄さんが手伝ってくれなくても俺は死ぬから。ただ……失敗すればするほど、苦しむ時間が増えるだけ。……兄さんは、俺が無駄に苦しんでもいいの?」
「何だよ、それ……脅しのつもりかよ?」
「……違うよ。俺は出来るだけ早く、確実に死にたいだけだ」
 ふぅと一呼吸置いてから、カズトはゆっくり口を開いた。
「そして、兄さんは……俺になればいい」
「え……?」
「なれるよ、兄さんなら。……俺に」

 ――オレガ、カズトニナル?

 その言葉は、俺の心を激しく揺さぶった。

 ――ホンモノノカズトガイナクナッタラ、オレガホンモノノカズトニナレル?

 死んだような目で、静かにジッと俺を見つめるカズトの後ろに……夢の中のアイツが、もう一人の俺が立っていた。
 奴は不気味なくらい口角を上げ、気持ちの悪い笑みを浮かべながら俺に語りかけてくる。

 ――これはチャンスだ。
 お前が本物の森野一人になる為のな。

 カズトには、もう一人の俺の声は聞こえていないようだった。

 ……見てみろ、カズキ。カズトは死にたがっている。お前にそれを止める権限なんてない。
 好きにさせてやれよ? どうせお前が何をしてもしなくても、こいつは死ぬ運命だ。
 こいつには死神が取り憑いているからな。今か今かと、こいつの魂を喰らおうと待ってやがる。
 お前……兄貴だろう? 弟の最後の頼みくらい、聞いてやれよ。
 どうせ苦しむなら、一回で終わらせてやるのが仏心ってもんさ。
 そしてお前は、正真正銘【森野一人】になるんだ。
 お前はもう……偽物なんかじゃない。

 もう一人の俺は俺に近付き、耳元で甘く誘惑する。まるで、何かの呪文でもかけられているようだ。

 ――俺はカズトになる。
 ――俺がカズトになる。
 俺は、カズトになりたい。

 俺の心は完全に支配されていた。カズトに死神がついているのなら、俺についているのは間違いなく悪魔だ。
 今の俺には悪魔を振り払う力もなければ、打ち勝つ強ささえも持ち合わせていなかった。
 ただ流されるまま、悪魔の言葉に耳を貸した。

「兄さん……どうしたの? さっきから、ボーっとして」
 カズトの声で我に返る。悪魔はもういなかった。
 あいつは、俺が生み出した幻だったのか?
 それとも、熱のせいで頭がおかしくなっていただけなのか?
 アレが俺の中に巣食う本心なのかどうかは、俺にだってわからない。
「……兄さん。これ、受け取ってくれるかな?」
 カズトは自分の机の引き出しから一冊の古びた手帳を取り出すと、そっと俺に差し出した。俺はカズトから、その手帳を受け取る。
 ……あの時の、カズトの手帳だ。
「自分なりに色々調べてみたんだ。それを記録してる。……ただの絵空事に過ぎないけどね。兄さんに持っていて欲しいんだ」
 そう言うと、カズトは静かに話し始めた。

 ……ねぇ、兄さん。俺さ、何度も同じ夢を見るんだ。
 俺は一人、誰もいない世界にいて……そこで世界の全貌を眺めている。
 その中で、俺はよく姿を変えた。

 時には風になり、自由に舞い……
 時には火になり、情熱的に踊り……
 時には水になり、誰かを労わり……
 時には土になり、全てのものに優しく……

 樹のように強い根を張り、空のように広い心で、太陽のように輝くんだ。

「こんな事を思う俺って……やっぱり、どこかおかしいよね?」
 カズトは笑う。悲しそうに、苦しそうに……
「カズト……」
 突然、カズトの瞳からボロボロと涙が溢れ落ちた。
「……会いたい人がいるんだ、どうしようもなく。けれどその人は、もうこの世界にはいない……」
 カズトが涙を流すところなんて、初めて見た。絶えず流れ落ちる涙の粒は、カーペットに濃い水玉模様を作り出していく。
「彼女は俺の全てだった。唯一、独りぼっちの俺の気持ちをわかってくれる人だった。……けど、彼女は病気で、去年――」
「……カズト」
「か……のじょは、俺に『生きて』と言ってくれた。貴方はちゃんと、寿命を全うしてと……」

 ――長生きしてね。私、ずっと待っているから。

「来世ではきっと、健康に生まれてくるからって……だから絶対に、私を見つけてね……って!」

 ――あぁ、見つけるさ。必ず見つける。だからその時は、きっと二人で幸せに。

「けれど、彼女がいなくなってしまった世界は、俺には空っぽで……生きる意味と気力を失った。もう本当の俺を理解してくれる人は、誰一人としていやしない」

 俺は孤独だ。――君は、もういない。

 カズトの言葉を聞いて、俺は悟った。もう誰も、カズトを止める事は出来ない。
 こんなに苦しんで、こんなに泣いているカズトに、俺がかけられる言葉なんてたかが知れている。
 ……頭がボーッとしてきた。上手く思考が働かない。
 俺が兄貴として、森野一樹として出来る事。
 それは止める事ではなく……その背中を押して、送り出してやる事かもしれない。
 実の弟に対して、そんな事を考える俺は……最低な兄貴なのかもしれないけど。
「……兄さん、お願いだ。もう行ってくれ。変な事を頼んで悪かったよ」
 カズトはぐしゃぐしゃになった顔で、優しく笑った。
「もう、無理なんだな……?」
「うん……」
「……逝くのか?」
「お別れだ、兄さん」
 彼女はきっと天国にいるから……自ら死を選んだ俺はきっと、地獄にしかいけない。
 それでも、彼女がいないこの世界で、俺は生きていけそうにないんだ。
 悲しそうに微笑むカズトは、ゆっくり窓の側に向かうと、外の景色を眺めながら、小さな声でそっと呟いた。
「……あんたのいう通りだったね」
「? ……カズト? お前、誰に話してるんだ?」
「兄さん、覚えてる? 俺達がまだ小さい頃に、家族皆で、城に桜を見に行った事があっただろう? あの時、俺が言った白い着物のさ……」
「? 一体、何の話だ?」
「ふふ、何でもないよ」
「……変なやつ」
 俺がそう言うと、カズトは少し驚いた顔をしてから、ふっと笑みを浮かべた。
 俺は腰を屈めて、落ちているロープを拾う。
「? 兄さん……?」
「……自殺だと、天国に行けないんだろう?」
 俺がノブにロープをかけたとしても、実行するのはカズトなのだから自殺には違いない。
 けれど、ほんの少しでも可能性があるのなら……俺がお前に天国への切符を用意してやる。
 俺は間違いなく、地獄に堕ちるだろうがな。
 今まで何も兄貴らしい事が出来なかった分、せめて今日くらいは……お前の我儘を聞いてやる。
 俺はロープをドアの隙間から外に通すと……
「何かちょっと疲れた……俺、行くわ」
 そう言って、カズトの部屋から出た。

「さて……と」
 俺はロープの輪っか部分を一旦解き、再びノブにきつくくくりつけると、ドアを背にもたれかかった。
 一服したいが、体調が悪い時に吸うと更に気持ちが悪くなりそうなので、やめておく。
「……兄さん」
 ドアの向こうからカズトの声が聞こえた。
「……なんだよ」
「俺ね、兄さんが俺の事をどう思っていたとしても……俺は兄さんの事が、本当に大好きだったよ」
「……ばぁか。気色悪りぃ事言うな」
 俺の頬を暖かい雫が一筋、流れ落ちる。
「誰に非難されても、否定されても、嫌われても、自分を貫き通す兄さんの事を、かっこいいって思う事もあったよ。……俺、兄さんの弟で本当に良かった」
 カズトの言葉に何か返そうとしても、何だか声が震えて言葉が出ない。【俺】から、鼻をすするような音が聞こえてきた。
「父さんと母さんに伝えて。親不孝な息子で本当にごめんって……」
「……わかったよ。だから、もう泣くなよ」
「兄さんだって、泣いてるじゃないか」
 カズトの言葉で、自分が泣いている事にようやく気付く。
 今の俺の顔はきっと……涙と鼻水まみれで、汚くて見れたものじゃない。

 ――兄さんの弟で本当に良かった

 カズトは、こんな俺を受け入れてくれていた。認めてくれていたんだ。
 それなのに、俺は……俺は……!
 俺はグッと涙を堪えた。……これ以上兄貴として、弟に情けないところを見せられないからな。
「じゃあな、カズト。俺が逝く時には、その大切な彼女の事……ちゃんと紹介しろよな?」
「勿論。けど、あんまり早く会いに来ないでね?」
『お前が言うな!』と小さく笑うと、俺はそっと立ち上がり……家を出た。

 俺は必死に走った。決して後ろを振り返らないように、ふらつく身体を懸命に奮い立たせながら。
 一刻も早く、うちから離れたかった。
 今頃になって、凄まじい罪悪感が俺を襲う。手が、足が、尋常じゃないくらいに震え上がる。
 今頃、カズトはもう――
 そう考える度に、堪らなく吐き気がして、俺は何度も嘔吐を繰り返した。
 だって、どうしようもなかったんだ。カズトはもう自分の未来を決めていた。それも、覆す事は出来ないくらいの強い意思で。
 それにあの時、俺は調子が悪くて正常な考えが出来なかった! ……仕方なかったんだ! 仕方なかったんだよ!
 頭の中で必死に自分に言い聞かせる。歯がガタガタと音を立てる。心臓が破裂するくらいに振動し、脈が恐ろしく早くなる。
 ――わかってる。わかってるよ。
 そんな事、ただの言い訳に過ぎない。
 俺は、俺がしてしまった行為を正当化したいだけだ。
 全てカズトの為にやったんだ、と。

 俺は自暴自棄になりながら、地べたに座り込んだ。さっき大分吐いたからだろうか? 身体は少し、楽になっていた。
 服に吐瀉物がつき、酷い異臭を漂わせていたが……気にもならないし、気にしている余裕もなかった。
 俺は頭を抱え、大声で叫んだ。……そうしなきゃ、頭が狂いそうだったから。
 ――怖い、怖い、怖い、怖い。
 俺は一体、どうしたらいい……?
 カズトは、俺が殺したも同然だ! 俺は……殺人者だ。
 カズトを殺しておいて、のうのうと生きている……そんな事が許されるのだろうか?
 ……許される筈がないじゃないか!
 俺は弟が死にたがっているのを知っても、止められなかった。
 それどころか、一瞬でも【カズトが死ねば、俺が本物のカズトになれる】だなんて、馬鹿な事を考えてしまった。
 何か他に方法があったんじゃないか?
 説得は無理だったとしても……あいつの意識がなくなるまでぶん殴って、親父やお袋のところに無理矢理連れていくとか、あいつが死にたいだなんて思わなくなるまで病院に入院させるとか……
 どうして今頃になって色々と思いつく⁉
 何であの時、俺は何も考える事が出来なかったんだよ!
 誰か俺を消してくれ……
 誰か俺を消してくれ……
 誰か俺を消してくれ。

 ――誰か、俺を消してくれ。

 そんな時に、俺はあの中年男の言葉を思い出していた。
『……なぁ、にぃちゃん。死ななくてもいいよ。けれどあんたは消えて、全てから解放される……そんな世界に興味はねぇかい?』
「……全てから解放される」
『そうかい。けどまぁ、俺はいつでもここにいるからよぉ? 考えが変わったらいつでも来な。いい話を聞かせてやるよ』
「いつでもここにいる……今でも、あそこにいるのか……?」
 この時の俺はどうかしてたんだ。
 あんな如何にも怪しげなおっさんの言葉を思い出すだなんて……
 けど今の俺には、俺と何の関わりもない赤の他人のあの男の言葉しか、縋るものがなくて……
 気付けば俺は、無我夢中であの男がいた商店街方面まで足を走らせていた。

「よぉ、にぃちゃん。やっぱり来たなぁ? 待ってたんだぜぇ?」
 ローブを着た中年男は、相変わらず薄気味悪い顔でニタニタと笑いながら俺に近寄る。
「……ほぉ。朝と違って随分いい面構えになってるじゃねぇか? 何だぁ? にぃちゃん。もしかして人でも殺ってきたんかぁ?」
 そう言って男は、下品な声でゲラゲラと笑った。
 思わずぶん殴ってやろうかと思ったが、グッと拳を握り、堪える。
「……しかし、くっせぇなぁ。にぃちゃんくせぇよ。随分派手にぶちまけちまったみてぇだなぁ?」
「…………だよ」
「……あ? 何だって? そんな蚊の鳴くような声でブツブツ言われたって聞き取れやしねぇよ?」
「今すぐ消えるにはどうしたらいいか、って聞いてんだよ……」
 俺は目の前の男を睨みつけた。
「こえぇな~、にぃちゃん! これぞ正に、蛇に睨まれた蛙ってやつか? なんちゃってな! がはははは!」
 俺は男の胸ぐらを掴み、持ち上げた。
 俺より遥かに体重が重いであろう男を、軽々と持ち上げられるくらい……俺のリミッターは既に外れていた。
「ひぃ……! 悪い! 俺が悪かった! 降ろしてくれ! 頼むよ! なっ? ちゃんと教えるからよぉ~!」
 俺は無言で、男を地面に向かって放り投げた。
『チッ、年上は敬うもんだぞ!』などとブツブツ言いながら、男はポケットから一枚の紙を取り出した。
 紙を開くと、簡単な地図と殴り書きしたような文字が書かれてあった。地図には大きな木が描かれていて、そこにバッテンがつけられている。読み辛く汚い字には、どうやら降りる駅名が書かれているようだ。
「……なんだ、これ?」
「ここに行きな。行きゃあわかるよ」
 簡単な地図だが、非常にわかりやすく書かれている。……地図の場所は、ここから結構近いようだ。
「ここに行ってどうするんだよ。ここに殺し屋でもいるって言うのか?」
「そんな物騒なもん、いやしねぇよ!」
「じゃあ、一体ここに……何があるって言うんだよ」
 俺がそう言うと、男は一層不気味な顔でニタァと笑いながら口を開いた。
「異世界だよ、にぃちゃん」
 ――異世界?
 異世界だって……?
 そんなもん、あるわけ……
 俺の頭の中でカズトの言葉が思い出される。

『いいんだよ。俺は信じてるんだからさ。こんな夢も何もない世の中、想像する事くらい許されてもいいだろう?』

 ……カズト。

『何もかも否定して生きていくより全てを肯定して生きる方がまだ……こんな腐った世界でも生きる希望が湧いてくるもんだよ』

 ……この世界に、異世界なんてもんがある筈ないんだよ。
 カズト。お前はただ、夢を見たかっただけなんだ。
 こんな世界を認めたくなかったから。
 ――なぁ、そうだろ?

「……異世界だ? ふざけてんのか、てめぇ……」
 男はふぅと息を吐くと、うんざりしたような顔で話を続ける。
「異世界は本当にあるんだよ。嘘じゃねぇ。ここに行けばあんたの存在は間違いなく消えるだろうなぁ? けれど死ぬわけじゃねぇ。全ての罪が許されるんだ」
「全ての罪が、許される……?」
「そうだよ。そこは罪を持つ人間。そして、その罪を悔やみ、嘆き、苦しみ、自ら命を絶とうとする人間。たとえ死ぬまでの勇気がなくとも死にたい、消えたいなんて思っている人間。……そうしたヤツらが招かれる、そんな不思議な世界だ」
 ――条件はたった二つ。
 何かの罪を持つ人間。そしてそれを悔やみ、死に囚われてしまった人間。この二つが揃ってりゃあ、誰でも行ける。
「……罪の程度は?」
「罪なら何でもいいぜぇ? 大きいものでも、小さいものでも。要はその罪に対し、どれ程の罪悪感を感じて死を意識しているかどうかだ」
 男は【軽犯罪】【重犯罪】、そして……果たしてそれは罪になるのか? と思えるような内容までも、次々と口にする。
 男の言う事が全て【罪】だと言うのなら、この世界に罪のない人間など一人も存在しない事になる。
 一つ目の条件は誰もが達成してるという訳だ。
 ただ、そんな内容で死にたいとまで思う人間がいるのだろうか? ……いないだろうな、恐らく。
 じゃあ、自殺志願者は全員そこにいけるという事か? ……そんな馬鹿な。
 考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい。
 けれど、俺はそこに向かう事にした。
 今の俺には、他に行く場所なんてどこにもなかったからだ。
 何もなかったら、なかったで……そこで死ねばいい。
 既に無気力な俺は、まだ生きているのにも関わらず、恐らく死人のような面持ちだっただろう。俺は男に背を向け、ふらふらと歩き出した。
「おい、にぃちゃん! 待て待て!」
「……なんだよ、まだ何かあるのか?」
『それだよ、それ!』と、男が俺の汚れたパーカーを指さした。
「んなゲロまみれの姿で行くと、神童に嫌がられるぞ? ちゃんと脱いでいけよ?」
「……シンドウ? なんだよ、それ」
「その異世界に住んでる神の使いだよ。まだ小せぇガキなんだけどよ」
 そこから男は、またダラダラと長話を始める。最早、耳を貸すのも馬鹿馬鹿しい。
「……わかった、処分しとくよ」
 そう言うと、俺はゆっくり駅に向かった。

 近くにあったホームセンターで、頑丈そうなロープを買う。そして外のゴミ箱の中に、汚れたパーカーを無理矢理強く押し込んだ。
 少し肌寒いが、まぁ仕方がない。……どうせ、俺は死ぬんだ。もう、どうだっていい。
 俺はただ、静かに列車に揺られていた。
 袋に入ったロープを鞄に詰め込むと、中に入っていたカズトの手帳が目に入った。
 まだ一度も中を見れていない手帳。
 カズトを思い出して胸が張り裂けそうに痛むから、俺はこの手帳をどうしても開く事が出来ないんだ。
 ……ごめんな、カズト。
 せっかく大事な手帳を、俺なんかに託してくれたのに……俺はきっと、中を読めずに人生を終える。
「結局、喧嘩の事……ちゃんとあいつに謝れなかったな」
 素直になれなくて、弟に頭を下げるだなんてプライドが許せなくて……ずっと先延ばしにしていた。
 けれど、今日の朝。あいつと笑顔で笑いあえて、それがすごく嬉しくて……
 今日の夜こそはちゃんと謝ろうって、そう決めていたのに……
 ――遅すぎた。遅すぎたんだ。
 もう一生、カズトに謝る事は出来ない。
 列車の中だというのに涙が溢れて止まらない。大の大人がみっともないと思いながらも、流れる涙を拭おうとはしなかった。
「カズト……ごめんよ、ごめん……! 馬鹿なにぃちゃんで本当にごめんなぁ……! 俺もすぐに逝くから、待っててくれよな……?」
 誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
 もしあの世でカズトに会う事が出来たら、必ず一番最初にあいつに謝ろう。俺はそう心に誓った。
 ――列車が、目的の駅でゆっくり停車する。
 俺は下を向きながら、そっと列車を後にした。

「ここか……」
 俺は地図を片手に、大きな大樹を見上げた。
「ここが一体、何だって言うんだ……?」
 森は静まり返っている。薄暗くなり始めた空は、なお一層この森を静寂かつ闇に染めた。
「……何も起きないじゃないか」
 俺は目の前の大樹を思いっきり蹴り飛ばす。大樹は微動だにしないが、葉は何枚かヒラヒラと舞い落ちた。
「……まぁ、いい。この木の枝はしっかりしていて、俺が死ぬにはうってつけの場所だ。ここなら、人が来る事もないだろう」
 俺はブツブツと呟きながら鞄からロープを取り出すと、台になりそうな物を探した。
 ちょうど少し離れた場所に古びた木箱を見つける。俺はそれを使い、木にロープをしっかりとくくりつけた。
 きっとこの木箱を使い、自ら死を選んだ人間もいるのだろう。
 この場所で死を迎えた、沢山の亡霊達よ。今すぐ俺を、死の世界にいざなってくれ……
 ――無表情で、無気力に、無感情で、無機質に。
 俺はゆっくりと輪っかに首をかけた。

「――人間というものは、幾ら年月を重ねても、行う行動に何ら変化が見られない。非常に浅はかだ。見るに耐えないですよ……本当に」
「だ、誰だ……⁉」
 突然樹の上の方から聞こえてきた声に驚いた俺は、咄嗟に木箱から降りて、大樹から距離を取った。
「おや? ……これはこれは。随分と酷い形相をなされていますね」
 声の主は、かなり高い位置にある太い木の枝の上に腰を下ろし、足をブラブラと揺らす。
 俺はそれを見上げている形になるので、顔などを確認する事は出来ないが……透き通る幼い声や小さく華奢なその足から、声を発しているのはまだ小さな子供なのだと容易に推測できた。
「……おい! お前! 何やってんだよ⁉ 危ないだろうが! ……もしかして降りれないのか? ちょっと待ってろ!」
 俺は【何とか降ろしてやらないと!】と、樹に足をかけて懸命に登ろうとするが、なかなか上手くいかない。どう足掻いても、あんなに高い位置から少年を助け出すなんて不可能だ。
 少年は俺の行動を一部始終黙って見ながら、小さく声を出して笑った。
「お構いなく。高い場所が好きなだけなので」
 少年は枝からヒョイっと飛び降り、くるくると回転しながら陸に着地する。
 俺は、あんな高い場所から落ちて擦り傷一つ見当たらない異常さと、奇妙な風貌に言葉を失った。
「お前、何者だよ……?」
「私、ですか? さぁ? 自分でもよくわからないもので、一体何と答えればよいのやら?」
 少年はクスクスと笑う。被っている狐面の表情は微笑んではいるものの、どこか深い怒りに満ちているようにも見えた。
 ――もしかしてコイツが、あの男の言っていた【シンドウ】って奴なのだろうか?
 少年が放つただならぬ雰囲気に、俺はただ飲まれていくばかりだった。
「しかし、最近ここに招かれてやってくる人間の数が非常に多い……」
『貴方、何かご存知ですか?』と、少年は俺に向かって尋ねてきた。
「……あのおっさんが、ここに人を集めたんじゃねぇの?」
 俺は胸糞悪いあの男のにやけ顔を思い出しながら、吐き捨てるようにそう口にした。
「……ほう、あのおっさんとは?」
「俺だって、あいつが誰なのかなんて知らねぇよ」
「……ふむ。実に興味深い」
 少年は腕を組み、考える素振りを見せる。色々と思考を巡らせているのだろうか? ブツブツと呟いては、うろちょろ歩き回っていた。
 ……何だか、イライラしてきた。
 どうでもいいが、俺は今すぐ死にたいんだ。訳のわからない子供なんかに構っている暇など、俺にはない。
「おい! お前が、あのおっさんの言ってた【シンドウ】とかいう奴なのかよ?」
 少年は考えるのを止めて後ろに振り返ると、けろっとした態度で答えた。
「はい。そうですよ」
「……やっぱり! じゃあ、異世界ってやつは本当にあるのか?」
「ええ。人間達が住む世界には、貴方達が考えられないような世界が幾つも存在していますよ? 人はそれらを、異世界と呼びます」
「じゃあ、そこに行けば俺は死ねるのかよ?」
 少年は顎に手を当て『うーん』と唸ると、少し考える素振りを見せながら……
「貴方達人間の言葉を借りると、身体は確かに死ぬでしょうね。神樹に喰われてしまいますから」
 ――そう口にした。
「【シンジュ】に喰われる……だと?」
「そうです。ほら、今貴方の目の前にある、その大きな大樹の事ですよ」
 少年が指をさした先にあるのは、この森で一番大きな大樹。先程使おうとした木箱は倒れ、くくりつけたロープは、だらんと虚しく垂れ下がっていた。
「その神樹は、人間の欲や罪を非常に好む。そして死をもね。……貴方には視えませんか? 神樹が涎を垂らし大口を開けながら、貴方を喰らいたいと……今か今かと待っている様を」
 少年の言う不気味な表現が妙にリアルで、俺は額から汗が流れ落ちた。
 ――ちょっと待て。俺は怖がっているのか? 怖がる必要などないじゃないか? 寧ろ、好都合だろう?
「……おい、チビ。俺を、その異世界とやらに案内しろ」
「貴方の存在は失われる事になりますが?」
「そのつもりでここに来たんだ。後悔なんてしない」
「……わかっておりますよ。ここに招かれた人間は、抗えない運命によって支配されている者達だけですからね。貴方達の未来は、生まれた時から既に決まっているのですよ。……ただ」
 と、少年は言葉を続ける。
「……貴方に対して、少し気になる点があるのです」
『何故でしょうね?』と、少年は不思議そうに俺に向かって言った。
「貴方……今まで余所の世界に行かれた事がありますか?」
「あるわけないだろ、んなもん」
「……ですよねぇ? あるならあるで、私達にはすぐにわかる筈なんですよ。でも、それは感じられない。それとは違う何か……貴方を守護する【何か】を感じるのですよ。それによって神樹は、現時点で貴方を喰らう事が出来ず、怒り狂っているようですね」
「どういう意味だ。それ?」
「……まぁ、いいでしょう。とりあえず行きましょうか? 少し、貴方に尋ねたい事もありますので」
 少年は神樹の前に立つと、懐から鈴を取り出しそれを鳴らす。鈴はチリン、と儚い音を立てて消えた。
 それと同時に、突然現れた眩い光が俺達を包み込み……意識を奪っていった。



 彼の口から語られる長い長い物語は、ゆっくりと終わり告げる。
 それはとても切なく、残酷な物語であった。
「……カズトは全テ知っテイタんだ。自分ガどンな最後ヲ遂げルか。そシて、イずれ俺ガ……異世界で命ヲ落とスとイウ事も」
 彼は手帳を見つめ、そっと口を開いた。
「……十六頁」
 彼が静かに朗読を始める。手帳を開かずとも、内容は全て暗記しているようだ。
 十六頁に何が書かれているか……
 それは勿論、私も知っている。

***

 十六・黄昏の街。

 俺達が住むこの世界には
 朝も、昼も、夜も来ない、
 ずっと夕焼けだけが広がる……
 そんな不思議な世界が存在するらしい。
 俺はその世界を黄昏の街と名付けようと思う。
 何故その名前をつけたかと言うと、俺なりに想像してみたからだ。その世界の全貌を。
 一面に広がる、美しい夕焼けの情景を。
 で、咄嗟に思いついたのが黄昏の街だった。
 その世界は生きている。空も海も森も、俺達と同じように息をしている。
 黄昏の街自体が、その世界の神と言えよう。
 そしてその神は、とても慈悲深いとも聞く。
 罪を悔いた人間達が、森に足を運び、自ら命を絶とうとする姿を見て……それを憐れに思った神が、罪を背負った人間達がこれ以上傷付かずにすむようにと、黄昏の街を作り出した。
 肉体を代償に、魂のみをこの地に残し、全ての罪を許し、皆が幸せに暮らしていけるように。
 本来そこは、そんな優しい世界であった。
 しかし……人間の肉体を喰らい、成長を続けた神樹は留まる事を知らずに、更に多くの人間の肉体を求めるようになる。
 次第に神樹は、自らの欲求を満たす為だけに、罪人を導いてくる者を選出し、過ちを嘆き苦しみ、死を求めている人間達を、この世界に連れてくるように命じた。
 この世界はもう駄目と、彼女は言う。
 神童がいなければ、ここは既に崩壊していてもおかしくないだろう……と。
 神童とは、神に使える幼い子供の事らしい。
 どちらにしても人間の罪を喰らい過ぎた神樹は、近いうちにその毒素により身を腐らせ、朽ち果てていくだろう。
 肉体を奪われ、影の姿となった人間達は、この世界が消え去ると同時に消滅する。
 兄が迷い込む世界が、この世界じゃないといいのだが。

 ……けれど俺は、兄が迷い込むとしたら、きっとこの【黄昏の街】だと思った。
 兄には元々自殺願望があるし、何より優しい人だ。
 自分を責め、悔やみ、死を選ぶ……
 今の兄に一番近くて、どうしても深い繋がりを感じてしまう。
 俺は彼女に黄昏の街について、出来るだけの情報の提示を願ったが……何せ余所の世界の事だ。関与出来ない事もあると言われ、詳しい事は何一つとしてわからなかった。
 更なる情報が分かり次第、追記する。

***

「カズトはヤッぱリ、何デもオ見通シだな。アいツハ本当二……俺ノ自慢の弟ダヨ」
 彼は空を見上げながら、ポツリと呟いた。それと同時に、背後の方から手を叩く音が聞こえてきた。
「素晴らしい。とても素晴らしかったです」
 振り返ると、いつからいたのか……そこには神童が立っていた。
「すみませんが、少しその手帳を見せてもらってもよろしいでしょうか?」
 彼は何も言わず、神童に向かって手帳を投げる。神童はそれを受け止めると、ゆっくりページを捲り始めた。
「――ほう、夜宴の島の事まで。ふむ……なるほど。この手帳の中に書かれている世界は、間違いなく全て存在しております。貴方の弟は、さぞかし由緒ある古の神に見初められていたのでしょう。貴方を護っていたのは、この神の力でしたか。恐らくこれは……まぁ、その話はいいでしょう」
 神童は突然彼の前に立ち、狐面を外す。
 そしてその面を彼の顔に被せると、右手に鈴を持ち、左手で彼の胸を軽く押さえながら、不思議なまじないのような言葉を唱え始めた。
「……大切な手帳を見せてもらったお礼です」
 彼の影が急に輝き始め、踵から順に……ゆっくりと姿を現していった。
「アイコ……? 一体、何が……」
 彼は私に尋ねてきたけれど、あまりの出来事に上手く言葉が出なかった。
 見る見るうちに、彼が本来の姿を取り戻していく。やがて、彼の黒い髪がふわりと風に揺れると、神童が『もう面を外して良いですよ』と口を開いた。
 彼は狐面を外すと、一番最初に目に入った自分の手のひらを見つめ、言葉を失った。
「……貴方が身体を失っている事は、決して変える事の出来ない事実です。その姿でいる事が出来るのは、せいぜい一時間が限度でしょう。それにしても、兄をこの世界に来させたくないと思っていた弟の死が……結果、兄をこの世界に招いてしまう原因となるとは。本当に何と言えばよいのやら、言葉も出ませんよ。いつだって運命とやらは、残酷で非情です。……これ以上お邪魔をするのは申し訳ないので、私はこれで失礼しますね」
 神童は手帳を彼に返し、代わりに狐面を受け取ると……再び面を被り、鈴を鳴らしながら、ゆっくりその場から立ち去った。
「……ありがとう」
 彼は、もう見えなくなった神童に感謝の言葉を述べると、振り返り私を見た。
「……アイコ、いい加減に泣き止んだら? さっきからずっと泣いてばかりじゃないか。酷い顔だよ? 本当に」
 彼は眉を下げながら笑う。彼の過去の話が終わった今でも、私の目からはポロポロと涙が零れ落ちていた。
「最後まで聞いてくれてありがとう。君が聞いてくれたお陰で、何だか少し救われた。本当に感謝してる」
「こっち……こそ、だよ……辛いのに話してくれて、本当にありがとう……!」
「……まったく。また君が俺の分まで泣くもんだから、俺は泣けやしないよ」
 彼は笑う。精一杯の笑顔で。
 気が付けば私は彼の元に行き、両手を首に回して、思いっきり抱きしめていた。身長差があるので、バランスを崩した彼は尻餅をつく形となったが、それでも私は気にせず……強く、強く、彼の身体を抱きしめた。
「……泣いていいんだよ。我慢しなくていいんだよ。そんな泣きそうな顔で、無理して笑わなくたっていいんだよ」
「アイコ……」
「あのね、カズキくん。……カズトくんはね」
 私は彼に真実を伝える為、そっと口を開いた。
 カズトくんの手帳は、途中から彼が使っていたようで、彼の苦悩が赤裸々に書かれてあった。
 ――カズトが自殺した。俺のせいだ。俺がカズトを殺してしまった。
 そう書いていたのを、私はちゃんと覚えている。
 そして先程の彼の話を聞いて、ようやく確信が持てた。
 彼は勘違いをしている。……とても悲しい勘違いを。

「――あの日。カズトくんは、カズキくんが家を飛び出した後……そっと部屋を出たの。そして、カズキくんが結んだロープを解き、全て処分した」
「え……?」
「カズトくんは、初めからカズキくんに自殺幇助なんて重荷を背負わすつもりなんてなかったんだよ。多分、今までカズキくんに邪険に扱われてきた腹いせにそう言っただけだったんじゃないかな? ちょっとした仕返しのつもりだったんだよ」
「けど、君はさっき……カズトは死んでいるって」
「うん。カズトくんはあの日、間違いなく亡くなった」
「じゃあ、カズトはどうやって……」
「カズトくんはロープをゴミ袋にまとめてから、すぐにカズキくんを捜しに外に出た。慌てていたから、ちゃんと周りを見れていなかったんだね。……彼は事故死だったんだよ。自殺じゃない」
「そん……な……まさか、嘘だろ……?」
「嘘じゃない。彼は自殺なんかしていない。カズトくんはきっと、世界で一番大切な彼女のところに行く事が出来たんだよ」

 ――決して抗えないといった運命。
 けれど、彼の涙が弟を止めたのは事実。
 たとえ死は免れられなかったとしても、未来を変える事は出来たんだ。
 私はポケットの中から一枚の紙切れを取り出すと、彼の目の前に差し出した。
 見る見るうちに彼の目に涙が溜まる。零れ落ちないように必死で堪えているようだが、次々と溢れてくるその涙は、まるで蛇口のひねられた水道水のようなものだ。簡単には止まってくれそうもないだろう。
 紙切れには、たった一言だけ……こう書かれていた。

【兄さんへ。こないだはごめん】

「カ……ズト……」
「きっとカズトくんも、喧嘩の事をずっと気にしていて……仲直りしたかったんだね。だから、自分が死んだ後、カズキくんがすぐに見つけやすいように、机の一番上に目立つように入れていたみたい」
 もう限界だったのか、彼は堰を切ったように泣き叫んだ。
「何でお前が……お……れに謝るんだよ、カ……ズト。あ……やまらなきゃいけないのは俺の方だろうが、馬鹿野郎……! ば……かやろっ……!」
 慟哭が喉を引き裂く。涙で顔がぐしゃぐしゃになっても、彼は込み上げてくる想いを抑えきれずに泣き続けた。
 私は、そっと彼を抱きしめた。小さい子供を抱きしめるように、優しく。
「ア……イコ……」
 彼は私の頭を抱えるようにして抱きしめ返す。その力はとても弱々しく、尋常じゃないくらいに震えているのがよくわかった。
 私の目からも大粒の涙が溢れ出し、彼の服を濡らしていく。それでも私は彼の震える肩を、強く強く抱きしめ続けた。

 ――好きだ。
 好きだ。大好きだ。
 この人の弱さが、不器用さが……前よりずっと愛おしい。
 何も知らないくせに、ただ盲目的に好きだったあの頃とは違う。
 本当は憧れていただけだったのかもしれない。
 恋に恋をしていただけなのかもしれない。
 好きだと言いながら簡単に疑い、手を離した私。若すぎた私。
 けど、もう迷わない。
 カズキくん、私ね……貴方の事が大好きなんだよ。

 慈悲深く優しい、この世界の神よ。
 そして……神童。
 どうかこの人の苦しみや悲しみを、その涙と共に全て流してあげて下さい。
 彼がこれからこの世界で、誰よりも幸せに、誰よりも光り輝く笑顔で笑っていられるように……力を貸してあげて欲しいのです。
 悲しみで埋め尽くされた深い闇から彼を救い出し、光の中にある道を示してあげて欲しいの。
 ……私はもう、彼に何もしてあげられないから。

「――アイコ、ありがとう……もう大丈夫」
 暫く二人で泣き続けた後、彼はそう言って顔を上げた。
「……すっごい顔」
「……何よ、そっちこそ!」
 私達は顔を見合わせ、プッと吹き出すと、馬鹿みたいにケラケラ笑った。
 黄昏の街に、明るい笑い声が響き渡る。
 私達は目に涙を浮かべながら、ずっと笑い合っていた。
「カズキくん。何だか吹っ切れたって顔してるね」
「……んー。それでもカズトが死んでしまった事に変わりはないから、やっぱりまだ悲しいけど……何かスッキリしたかな。全部アイコのおかげだよ。ありがとう」
 そう言うと彼はそっと立ち上がり、黄昏の空に向かって大声で叫んだ。
「……カズト! 聞こえるか? お前の気持ち、ちゃんと届いたぞ! 俺の方こそ本当にごめんな! そして……ありがとう」
 彼の言葉は風に運ばれ、空へと高く舞い上がる。
「……届いてるといいね、カズトくんに」
「……うん」
 黄金の優しい空は、きっと彼の想いをカズトくんの元へと届けてくれるだろう。
 きっと……

「カズキくん」
「ん?」
 彼が振り向くと同時に、そっと背伸びをする。一瞬……軽く触れたくらいの短いくちづけ。
 私はそっと、踵を地面につけた。
「アイコ……?」
「カズキくん。私ずっと、カズキくんの事が大好きでした」
 私は、精一杯の笑顔を彼に向ける。
「そろそろ帰らないといけないから、最後にちゃんと伝えておきたかったの。……返事、聞かせてくれる?」
 彼は真剣な顔をしながら、じっと私を見つめる。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……ごめん」
「……うん」
「俺には、今でもよくわからないんだよ。人を好きになる気持ちっていうのが。それに俺はもう、この世には存在していない人間だ。……俺の事は早く忘れて、アイコには幸せになって欲しいと思う」
「……うん」
「けど、アイコが俺にとって特別な人だって事はわかる。それだけは、自信を持って言えるよ」
「……うん」
「でも、なんだろうな……こんなに悲しいキスは生まれて初めてだ」
 彼はそう言うと、少し寂しそうな表情を見せた。
「何だか、凄く胸が苦しい。それに……痛い」
 彼は苦笑いを浮かべながら、自分の心臓付近をギュッと押さえる。
「……カズキくん。私ね、ある人に結婚してくれないかって言われてるの」
「……ん」
「凄く良い人なの。責任感があって、思いやりのある……とても優しい人。ずっと好きだと言ってくれていたけれど、私には忘れられない大切な人がいるって断っていたら、『待つから』って。私の気持ちが変わるまで、ずっとずっと待ってるからって……そう言ってくれたの」
「そっか……」
「そろそろ私も、前を見て歩き始めないとね!」
 そう言って、私は笑ってみせた。
「さよなら、カズキくん。最後にもう一度、貴方の姿を見る事が出来て……本当に良かった」
「……うん。アイコ、本当にありがとう」
 彼が差し出した右手を、私は強く握り返す。そして、ゆっくりと二人の手は離れた。
「……貴方のおかげで私、変われたの。本当に感謝してるんだからね? あの日、カズキくんと出逢えて良かった」
「俺もアイコに出逢えて、本当に良かったと思ってるよ」
「ふふ、ありがとう!」
 私は自分が出来る最高の笑顔を彼に贈る。そんな私を見た彼も、優しく微笑み返した。
 ――ねぇ、カズキくん。
 私、上手く笑えてるかなぁ? みっともない顔、してないかな?
 あぁ、これで最後だ。
「じゃあ、私行くね! カズキくん、元気で。貴方がこの世界で幸せに過ごせるように、私……ずっとずっと願っているから!」
 そう言うと私は彼に背を向けて、ゆっくり一歩ずつ歩き始めた。
 ……決めたんだ。決して後ろを振り返らない。
 もう一度彼の顔を見れば、決心が揺らぐかもしれないし、きっとこれ以上は堪えていた涙を抑える事が出来なくなるから。
 彼に覚えていて欲しいのは、泣き顔なんかじゃなく笑顔の私がいいの。だから、笑顔で『さよなら』するんだ。
 ――頑張れ。泣くな、アイコ。もう少しの辛抱だ。
 樹のトンネルの前に立つが、なかなか足が動いてくれない。
 この中を越えて、汽車に乗って……私は元の世界に帰る。
 これでもう、お別れなんだ。
「……アイコ!」
 突然、後ろから伸びてきた両腕。気付けば私は、強く彼に抱きしめられていた。
 勿論、背後にいる彼の表情はわからない。
「行かないで」
 弱々しく震える声で、そう呟く彼。その声を聞いた途端に、我慢していた涙が込み上げてきた。
「カズキく……ん……なん、で……?」
「……どうしてだろう? 今追いかけないと、きっと後悔するような気がした」
 彼の言葉が胸に刺さる。ポロポロと涙が頬を伝って流れ落ちた。
「ねぇ、アイコ……どうしても行ってしまうの? 君はこんなに泣いているのに、こんなにも震えてるのに……どうして行ってしまうんだ」
「カズキくん、離して……」
「………嫌だ」
 私は無理矢理腕を外そうとするが、彼がそれを許さない。
「独りはもう嫌だ。……寂しいんだ。寂しくて寂しくて堪らないんだよ」
「……カズキくん」
「アイコ、お願いだから俺から離れないで。ずっと、俺の傍にいてよ……」
 彼は、私の肩に顔を埋めた。
「カズキくん……それは出来ない」
「……どうして?」
「貴方が必要なのは私じゃないから。貴方はただ寂しいから、誰かに傍にいて欲しいだけでしょう?」
「アイコ……」
「……貴方の、優しく頭を撫でてくれるその手がとても好きでした」
 ――頭の中に貴方を思い出す。貴方は、私の頭の上にぽんっと手を置くと、私の隣で優しく笑った。
「貴方の、陽だまりのように温かいその笑顔が……とても好きでした」
 辛い事があっても、悲しい事があっても、貴方が傍にいてくれたから……私は全てを乗り越えられたんだ。
「貴方の弱さの中で一際輝きを放つ、その芯のある強さがとても好きでした。貴方の言葉に私がどんなに助けられてきたか……きっと、貴方にはわからない」
 こんなに、こんなに好きなのに……行く先の違う二人の道は、もう二度と交わらない。
「カズキくん……」
 私は少し緩んだ腕からゆっくり身体を抜くと、振り返って彼の姿をその目に焼き付けた。
 彼の瞳に映り込む……涙で滲んだ私の瞳。
 私の瞳の中に映り込む……悲しく歪んだ彼の顔。
 精一杯の気持ちを込めて、私は彼に伝えたい。
「愛してる……!」

 気が付けば私は、再び彼の胸の中にいた。彼が腕を引き寄せ、私を抱きしめたから。
 ……強く、強く、抱きしめていて。夢が終わっていく、その寸前まで。
 貴方が見せてくれた優しい夢。それはいつも、私を優しく包み込んでくれましたね。
 いつか、覚めるとわかっていたけれど……それでも、どうしても手放したくなかった。
 貴方が教えてくれた沢山の事。私はきっと忘れない。
 ――貴方は私の、人生の教科書でした。

「私がこれから先、どんな困難にも負けずに幸せに暮らしていけるように……! 何があっても、笑っていられるように……! ずっと、ずっと……この世界から見守っていて下さい!」
 今日、私は十年分の愛を……この世界に置いていきます。
 そして私は、私の人生を。
 貴方は、貴方の人生を――

「……わかった」
 彼が、そっと私から離れる。
「わかったよ、アイコ。困らせてしまって本当にごめん……」
 そう言うと、彼は河原の方に足を向けた。そして、数歩進んだ先で振り返ると、大きな声で叫んだ。
「俺なら大丈夫! この世界で楽しく、毎日笑顔で暮らしていくから!」
『だからもう心配するなよな?』と、屈託なく笑う彼の姿。
「……うん! わかったよ!」
 その言葉に、私も笑顔で答えた。
「でもその前に、カズトの日記に書いてたようにこの世界が消えてしまわないか……それが問題なんだよなぁ」
 彼は両腕を上げ、『んーっ』と背伸びをすると、そのまま手を後頭部にそっと添えた。
「まぁ、あの神樹がこれ以上暴走しないように、神童と話し合ってみるか」
「……あれ? 影としてこの世界で穏やかに、静かに暮らしていくんじゃないの?」
「そんなの面白くないじゃないか! この世には、まだまだ俺達の知らない世界が無限に広がっているのだから」
 彼はまるで子供のように笑うと、両手を広げ、空を仰いだ。
「そっか……うん、そうだね!」
「あ、そうだ」
 彼は私に向かって、『手! 手!』と声を上げる。
「手?」
 私は思わず両手を見る。それを見た彼は、まるで悪戯っ子のようにニヤリと笑った。
「それ! 御守りだ」
 弟に渡す筈だった琥珀の石が、キラキラと光り輝きながら空を舞う。飛び疲れた光は、私の両手の中に綺麗におさまった。
「……ありがとう! 絶対に大切にするからね!」
「おう! じゃあな!」
 そう言うと彼は、右手を上げながらゆっくり背を向け歩き始めた。
 私も彼に背を向け、樹のトンネルを一歩ずつ、ゆっくりと進んで行く。
 少しずつ、離れていく二人。
 もう二度と、出逢う事はないだろう。
 暗い樹のトンネルを抜けた後、私はそっと後ろを振り返った。
 闇に支配された樹の道は、ザワザワと葉を揺らし、この街から出ようとする私に呪いの言葉でもかけているように思えた。
「……さよなら、カズキくん」
 私は再び背を向け、歩き始める。私は私の世界に帰る為、汽車に乗り込み、出口を目指した。

 汽車は機体を揺らしながら、ゆっくりと前進する。窓の外を眺めていると、車内で影達が楽しそうに会話している声が聞こえてきた。
 少し離れた場所で、仲良く話している三人の影。その中心にいるのは、間違いなくガンさんだった。
 楽しそうに大きな声で笑っている。それはまるで、かつてからの旧友と仲良く語り合うように、心の底から楽しんでいるように思えた。
「ガンさん……やっぱり影に」
 ここからは、私の勝手な想像だ。
 ガンさんが神童から盗んだ、あの光り輝く棒のような、杖のようなもの。
 私を元の世界に戻した後、カズキくんはきっと、出口の穴を支えていたあの棒を外しただろう。
 それにより道は閉ざされ、一瞬にして消える。
 きっと、ガンさんは怒り狂った筈だ。
 彼と色々話をしたいなどと言っていたけれど……あの短気なガンさんの事だ。まともな話し合いが出来たとは思えない。
 神樹の為に人間をこの世界に運ぶ事で、それを身代わりとし、人間の姿のまま、気楽にこの世界と元の世界を行き来していたガンさんの末路はきっと……神樹に肉体を奪われたのだろう。
 そうは思っていたけれど、実際に影の姿になっているガンさんを見ると、何だか少し胸が痛くなった。
 ガンさんが自分の為だけに、彼や沢山の人達にしてきた事は、勿論許されない事だ。
 けど……
 確かに怖い人ではあったけど、『迷い込んだ』と言った私達に対して、とても優しくしてくれたから……きっと、元は良い人だったんだと思う。
 根っからの悪人ではなかったと信じたい。罪を悔やんだ人間しか、この世界に招かれる事はないのだから……
 きっと神樹は、ガンさんの優しい人柄につけ込んで、あの人を強欲で冷酷な人物に変えてしまったのだろう。
 悲しい物語は、ここにも存在したのだ。
「さよなら、ガンさん。……ありがとうございました」

 ――汽車が駅につく。いつの間にか、ガンさんの一行はいなくなっていた。
 汽車から降りた私は、帰路を目指し歩き始めた。
 あの小さな公園を越えて、落ちると危ない堤防を越えて、いつ来るのかわからないバス停を越えて、緑が広がる野原を越えて――
 貴方との思い出を、一つずつゆっくりと振り返りながら……

 気付けば私は、入ってきた入り口の前でぼ~っと立ち尽くしていた。
 水車が回る音と共に、『オーイ!』という声が聞こえてきたので、私はそっと振り返る。すると、何人かの影達が私に向かって、優しく手を振っているのが見えた。
 影の中の一人が、私に向かって……
「モう来タらアカんヨー!」
 そう言った。
 私は目尻に涙を溜めながら、影達に向かってぺこりと頭を下げた。
 影達は『うんうん』と、頷いているように見えた。

 私は涙を堪えて、空を見上げる。
 夕焼けの空。
 黄金の空。
 美しい筈のその空は……今の私には、涙でぼやけてよく見えない。
 美しくも恐ろしい世界。
 優しくも儚く……悲しい世界。
 私、この世界にきて本当に良かった。
「……さよなら、黄昏の街」
 輝く光が私をゆっくりと包み込んだ。
 オレンジ色の空が、そっと笑ったような……そんな気がした。



 ――ゆっくり目を開けてみると、眩しい日差しが私を優しく照らしていた。
 そんな私の頭を支える柔らかい感触。おでこに置かれた小さくてひんやりとした冷たい手。
 そこには、優しく私を覗き込む狐面の姿があった。
「おはようございます。良い朝ですよ」
 目が覚めた私は神童の膝からそっと頭を上げると、ゆっくり辺りを見渡した。
「……夢は、終わったのね」
「ええ、そのようですね」
 私は『そっか』と小さく呟きながら、目の前にそびえ立つ神樹を見上げた。隣では私と同じように、少年も神樹を見上げている。
 私は神樹に目を向けたまま、神童に問いかけた。
「……ずっと、ここにいてくれたの?」
「はい。貴女がなかなか目を覚まさないものですから」
 神童も、私に一切目を向ける事なく、そう返した。
「膝……重くなかった?」
「平気です」
「……ありがとう」
 神樹は突然吹かれた風によって、優しくその葉を揺らす。どこか遠くの方から、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
(……あぁ。心がとても和む)
 この大きな大樹が人の肉体を喰らうなど、今でも信じられない。
 もしかして私は、本当に長い夢でも見ていたのかもしれない。
 そう思えてしまうくらいに、目の前の神樹はとても美しかった。
「それにしても……あの日に比べ、貴女は大きく成長をしましたね」
 神童は、ゆっくりと口を開いた。
「あの日って……もしかして私が、初めて黄昏の街から戻ってきた【あの日】の事?」
「はい。貴女が地面に這いつくばって号泣しているのを拝見した、【あの】雨の日の事です。あの時は、生まれて初めて人型蛙を見たと……とても感動を覚えたものです」
「か、蛙?」
「――ふふ、冗談ですよ。しかし、あの時の貴女の気迫は物凄かった。まったく、私も余計な約束をしてしまったものです」
 神童は、五年前のあの日の事を懐かしむかのように小さく笑った。
「……ねぇ、神童。そういえば、私……初めて黄昏の街に入って、意識を失った時……とても不思議な夢を見たの」
「ほう、どのような夢ですか?」
「とても綺麗な夢だった。一面に広がる緑の草原。美しい青空に流れる白い雲。私は裸足で、その世界を思いっきり駆け回るの。花も木も水も、全てが本当に美しくて、思わず目を奪われてしまうくらいに素敵だった」
「ふむ。……それで?」
「そこにね? 座り込んで泣いている子供がいたの。たった一人で、とても悲しそうに……苦しそうに涙を流していた」
「ほう、子供が。それは男児だったのですか? それとも女児でしたか?」
「それが……わからないの。どうしても思い出せないんだ」
「ではそれは、もしかして幼い頃のカズキさん、もしくは弟のカズトさん。それとも……貴女自身だったのかもしれませんね?」
 その言葉を聞いた私は、何だかちょっぴり可笑しくて、小さく笑ってみせた。
 そんな私を見て不思議に思ったであろう神童は、『はて? どうしたのですか?』と言いながら、隣で首を傾ける。その姿がとても愛らしい。
 私はそっと口を開いた。
「ねぇ、神童。私の話、聞いてくれる?」
「……いいですよ。聞きましょう」
 私は神童の方に向き直り、じっと狐面を見つめると、一つの考えを口にした。
「私ね、あの夢の中の世界は、黄昏の街の本来の姿だったんじゃないかって思うの」
「……ほう。では、何故そうお思いに?」
「大樹が……神樹が、そこに立っていたから。強く、優しく、全てを見守るように」
「……ふむ」
「本当は、初めから夜が来なかったわけじゃないのかもしれない。朝も昼も夕方も夜も、ちゃんと存在したのかもしれない。人の罪の全てを飲み込み過ぎた故に、あの世界までが犠牲になってしまったのかもしれない」
 神童は、何かを考えるように黙り込んだ。
「神童」
「……はい?」
「もしかして、あそこで泣いていたあの子供は……貴方だったのかもしれないね」
「…………あは、あはははは!」
 突然神童はいつものような含み笑いではなく、まだどこか幼さの残るような、あどけなく無邪気な声で笑い出した。
「ふふっ。非常に楽しく愉快な解釈でしたよ。私、こんな姿をしていますが……もう齢千をとうの昔に超えておりますので、そんな昔の事は覚えていないのですよ。黄昏の街の本来の姿が、一体……どのようなものであったのかも、ね」
 そう言って笑う神童の表情は、狐面に隠されていて私にはわからなかったけれど……その言葉から、私は何故かとても寂しく、切ない気持ちになった。
「では……私も貴女に一つ、質問してよろしいでしょうか?」
「? いいよ? 何?」
「貴女の【罪】は、一体どのようなものなのですか?」
「え……?」
「皆さんは勘違いなされています。いくらカズキさんが道を開いたとしても……罪と死に直面していない人間は跳ね返されてしまい、あの世界に入れる筈がないのですよ。誰にでも、簡単に入り込めるというわけではないのです」
 神童は口元に手を添え、クスクスと笑った。
「最初から……気付いていたの?」
「えぇ、最初から」
 神童はそう言うと、じっと私を見つめた。
「貴女が胸の奥底に隠している闇は、深くてとても禍々しい。人間相手にはうまく隠し通せるでしょうが、私達の前では意味がない。……全てわかっておりましたよ。私もあの世界も、ね」
「じゃあ……何故神樹は、私の肉体を奪おうとはしなかったの?」
「それは……貴女が死を望むのと同じくらい、生を望んでいたから。――貴女の中には迷いがあった。きっとカズキさんと出逢った事によって、貴女の運命は変わってしまったのでしょうね。残念です。もし、カズキさんと出逢っていなかったら……貴女は間違いなく、この世界の住人になれたのに」
「――そっか。じゃあカズキくんは……カズトくんと私、二人の運命を変えてくれたのね」
「……そういう事になりますね」
 涙が込み上げてきた。
 彼はずっと……私の中で生き続けているんだね。
 私は空を見上げ、もう会えない彼の姿を頭に思い浮かべながら、心の中で『ありがとう』と呟いた。
「カズトさんが他の神に深く慕われていたように、彼もまた、特殊な人間だったようです」
「神童……カズキくんの事、よろしくね」
「大丈夫。彼は強い。それに……あの世界はまだまだ滅んだりしませんよ。私がいる限り、そうはさせません」
「ありがとう」
『では、そろそろ行きます』と、神童が私に最後の挨拶を交わす。小さな少年に手を引かれ、私はゆっくりと腰を上げた。
「貴女が再び闇に飲まれて、深く心を蝕まれ、死を強く意識した時には……いつでもどうぞ。待っておりますよ」
「……お生憎様! その日はきっと、一生やってこないから」
「おやおや。……それは残念」
 神童はそう言うと、フッとその場から消え去った。
 最後にちりん、と……儚い鈴の音を残しながら。
「さよなら、神童。さよなら、――異世界」

 私は立ち上がり、再び駅に向かう。
 あの世界の、汽車が走る駅ではない。この世界の、列車が走る駅に……だ。
 動き始めた時計を確認すると、既に始発が出ている時間だった。
 私は一歩前に踏み出す。もう振り返りはしない。
 彼はいつだって、私の心の中に存在するのだから。

 一樹くん。
 私は、私の道を歩いて行きます。
 だから……貴方は貴方の道を。
 ――今でもずっと、誰よりも愛しい人。
 私は一生、貴方の事を忘れません。
 だから、ずっと遠くから……私の事を見守っていて下さいね?

 愛しています。……永遠に。

 ――風が吹いた。
 風は、私の髪を優しく揺らした。
 忘れられる筈のない、貴方の香りを一緒に運びながら……

 彼がそっと、笑ったような気がした。

夏色白書


 ――ある夏の日。
 私は不思議な出会いをした。
 それは、とても不思議な物語。
 まるで風が巡り会わせた奇跡のようだった。

 雛菊 晴乃。

***

 ただ、自由になりたかった。
 自由とはなんなのか?
 そんな事は私にもわからないけど……それでも、自由になりたかった。
 今の私にとっての自由とは、単に行きたくない学校にも行かないで、誰も知らない……どこか遠くの場所まで行く事。
 そんな、極めてしょうもないものだったのかもしれない。
 親からガミガミ怒られる事もないし、やりたくない事なんてやらなくていい。
 とにかくがんじ絡めだったこの世界から、私は自由になりたかったのだ。
 空は半分青空で、半分が曇り空。
 ほんの少しだけポツリと天気雨が落ちてきた。
 夏休みに入ったばかりのこの日。私は親に部活に行くと嘘を言って、いつもとは正反対の道を駆け抜けていく。
 梅雨明けしたとニュースで見たけれど、今日は新たな旅立ちにはちょうど良い日和だった。
 少し強めの涼しい風が私の自転車を後押ししてくれる。それがとても心地良かった。
 私は今日、私の人生を大きく変えてしまうような【何か】が起こる事を心の中で期待しながら、自転車を漕ぐ速度を速めた。
 遠いようで近いようにも見える、あの田んぼを隔てた先にそびえ立つ雑木林から、一斉に蝉の鳴き声が聞こえてくる。
 いつもなら余計に暑さを感じさせる蝉の鳴き声に、少しの煩わしさを感じるかもしれない。……しかし、今日は別だ。
 私はこの位置からでは小さすぎて見えない蝉達に向かって、大きく手を振った。
「蝉達諸君! 私は今日、君達が抜け殻から這い出してきたように、新しい私に生まれ変わるのだ! 是非とも、検討を祈っていてくれたまえ!」
 私は『はっはっはー!』と、まるで貫禄のある軍曹や隊長のように大口で笑う。
 ちらほら歩いていた学生や、日傘を差して歩くご婦人達が私の方をチラリと見たが、私はお構いなく鼻歌を歌いながら自転車を走らせた。

 自転車を走らせる事、数時間。
 スポーツ部に所属していた私は、体力には自信があった。
 二、三時間程度自転車に乗っていただけで息切れしてしまう程、やわな身体はしていないつもりだ。
 それどころか見た事もない地に足を踏み入れ、少々興奮気味の私は、胸をワクワクさせながら、この【冒険】を楽しんでいた。
 疲れなど、微塵も感じる筈がない。
 わざと見慣れない道ばかりを選んで走り続けてきたので、既に帰り道などわからなくなっていた。
 それでもいい。何とかなるだろう。
 帰れないなら帰れなくても別に構わない。
 私は、自由になりたいからここまで来たのだから。
 変なところで楽観的な私は、深く考える事なく、軽快にペダルを踏んだ。
 地上より少し高い位置にいた私は、急な螺旋状の坂道を勢いよくどんどん下って行く。
 ガードレールの向こうに見える景色は、急スピードで視界から流れていった。
 美しい街並みが見える。その向こうには、広くて壮大な海が見えた。
 ――あぁ、好きだな。こういうの。
 私は少しブレーキをかけ、出来るだけ鈍速しながら、ゆっくりと流れる景色を眺めていた。
「……私、一体何がしたいんだろう? こんな事しても自由になんてなれる筈がないのに」
 半分だけだった曇り空は、いつの間にか三分の一になっていて、青空が目の前いっぱいに広がっていく。
 白い綿菓子のような雲が、ふわふわと青い空の中を散歩しているようだった。
 お気に入りの腕時計を見ると、時刻は既に昼前を差している。これからどんどん蒸し暑くなっていく事だろう。空は綺麗だが、少し気が重い。
 まぁ、雨が降ってくるよりは断然マシだが。
 私は自転車から降りると、それを端の方に寄せ、スタンドを立てた。
 そして、目の前のガードレールを両手でしっかりと掴み、高い場所から見えるパノラマ風景を思う存分堪能する。
 ガードレールを掴んだせいで、私の手のひらは真っ白になっていた。
「人って不思議。皆、それぞれ目的があって、そうやって一生懸命生きているんだよね。……私は、ちゃんと大人になれるのかなぁ」
 ふと、無意識に口から独り言がこぼれる。
 太陽の光が海に反射し、眩くキラキラと輝いていた。
 学校になんて行きたくない。皆に合わせてばかりで毎日疲れるだけだ。
 家になんていたくない。親なんて……いつも私の話をちゃんと聞いてくれないし、頭ごなしにガミガミ怒るだけだ。
 だが、不満を口にしてもキリがない。
 こんなのは私以外の人でも、誰もが一度くらいは思うであろう事だから。
 けれど……最近よく考える。
 これから私はどんな風に大人になって、どんな自分になっていくのだろう?
 先が不安で仕方ないのだ。知る事の出来ない未来ばかり考えていても、意味がないことくらいちゃんとわかっている。けれど、考えてしまうのだから仕方がない。今の私にはどうする事も出来ず、ただ思い悩み苦しむだけ。
「あの人はもう……道を示してはくれないしね」
 私の口から深い溜息が漏れた。
 ――私には、とても好きな人がいた。本当に大好きだったんだ。
 けれど……この想いはちゃんとした形で届かないまま、いつの間にか終わってしまった。
 仕方ないよね。あの人にとって、私の存在なんて大勢の中の一人に過ぎない。
 あの人の優しさは皆に向けられたもの。私だけが特別なわけじゃない。
 そんな事、ちゃんとわかってたよ。わかってた。
 けど……あなたは気付いていただろうか?
 あなたの一言で、私がどれだけ幸せになれるかという事に。
 あなたはきっと、知らないでしょうね。
 決して届かない恋の痛みに、私がどれだけ涙を流していたかなんて。
 淡い恋心は報われないまま泡となり、空高く昇っていって、やがてパチンと弾けた。
「……会いたいな、今すぐに」
 ふと、ガードレールのずっと真下の方に目を向けてみると、小さなトンネルが視界に入った。
 車は入る事が出来ない。
 舗装もされていない。
 地面には雑草が沢山生えている。
 小さな小さなトンネル。
 ガードレールにお腹をかけて、宙ぶらりんの体制になって見ていたので、バランスを崩し、思わず『おっと!』なんて間の抜けた声が出た。
 私はガードレールを掴む手に力を込め、ゆっくりと身体を起こす。
 心地良い風が、私の短めの髪と制服のスカートをふわりと揺らした。
 私は反対の方のガードレールに回り、周囲をじっと見渡してみたが、こちら側から見る限り、トンネルの穴らしきものは見当たらない。
「……うーん。特に行く当ても無いし、行ってみようかな? けど、あのトンネル……一体どこに繋がっているんだろう? 反対側に出口は無いみたいだし」
 私は止めてあった自転車に跨ると、思いっきりスタンドを蹴り上げた。
 そして、滑るようにその坂を下り終えると、私はさっき上から確認したばかりのその場所まで急いで自転車を走らせた。

「あった!」
 私はあっという間にトンネルの前に立っていた。自転車はトンネルの横に置き、じっくりと観察してみる。
 高さは二メートルくらいだろうか? 横幅は、人三人分くらいかなぁ?
 中には電灯など設置されておらず、真っ暗。
 入り口付近に豪快に生え揃った雑草には、小さなバッタやカマキリの子供がくっついていた。
「……よし、行ってみるか!」
 不思議と恐怖などは感じない。
 それどころか、この先には一体何があるのかと好奇心に包まれていた私は、軽い足取りでどんどん奥へと進んでいった。
 膝下まで伸びた草は、トンネル内まで続いていて少しくすぐったかった。

 トンネルの中は真っ暗だったが、入り口から射し込む光で何とか前に進む事が出来た。
(……おかしいなぁ?)
 私は心の中でそう思った。
 だって、トンネルの中がとんでもなく長かったから。
 上から見た時は反対側に出口などなかったし、一直線なのだから、穴があればもうとっくに貫通していてもおかしくはない筈なのだ。
 この道の先には一体、何があるんだろう?
 少しの不安と、それを遥かに上回る期待に胸が騒めいた。
「このまま天国まで続いてたりして……! あ、でも地獄は勘弁だなぁ。毎日家でガミガミガミガミ叱られて、嫌って程地獄を見てきたんだから。な~んてね、ふふっ」
 そんな事を口にしながらクスクス笑っていると、前方から眩い光が射し込んでくる。やっと出口に辿りつけたようだ。
 私は高鳴る想いを胸に、最後の一歩を踏み出した。

「うっわぁ……!」
 そこは、広さで言えばそんなに広くはないが、一面緑に囲まれた不思議な場所だった。深い緑や明るい緑、黄色に近い緑などの植物に敷き詰められている。そして、周りは全て樹で囲まれていた。
『トンネルの中に樹?』そう思い、そっとその手で触れてみたが、見たところ本物の樹のように見える。
 全体的にその場所はほら穴のような形状をしており、目の前に可愛らしい洋風の小さな家が建っている他には、道などは一切見当たらなかった。
 どうやら帰るには、元来た道を戻るしかないようだ。
「何これ、すごい! まるで小さな森みたいだ」
 私は思わず建物の周辺をぐるりと走り回る。桃色と白が混ざり合った小さな花は、とても綺麗だった。
(一本だけなら摘んだって構わないよね?)
 そんな事を思っていた私を注意するかのように、小鳥がその花の上に着地した。
 可愛らしい声で鳴く小鳥は私が手を伸ばした瞬間、樹の上に飛んでいってしまった。
 ……花はやめておこうかな。どうやらあの小鳥のお気に入りのようだし、抜いてしまうよりもこの場所で咲いてる方がいいだろう。
 私は顔を上げて、目の前の建物をじっと見つめた。
 この家はどうやら何かのお店のようで、ドアノブに【OPEN】と書かれた横長の小さなプレートが掛けられていた。
 薄くて黄色の壁に、赤い屋根の小さな小さな一階建てのおうち。ドールハウスのように可愛らしいのだが、所々蔦(つた)で覆われているのが少し残念に思われた。
 私は興味半分で、その扉にゆっくりと手を伸ばす。
『ここは一体何のお店なのだろうか?』、胸がドキドキと激しく高鳴る。
 私はまるで秘密の隠れ家を見つけたような、そんな気持ちになり、心がウキウキと弾んでいた。
(あ、けどここがお店だったら……私、そんなにお金持ってきてないんだけど)
 そんな事を呑気に思いながらも『まぁ、なんとかなるだろう』とたかをくくった私は、金色のノブをくるりと回した。

 カランという音が聞こえ、中からクーラーの効いた涼しい風が、ふわりと私の身体を冷やす。
「いらっしゃい」
 中から優しそうな男性の声が聞こえてきた。私は慌てて、その声の主に挨拶をする。
「あ、あの……こんにちは!」
「はい、こんにちは」
 男性はクスクスと笑いながら『こちらへどうぞ』と、カウンター席に案内してくれた。
 そこにいた男性は、恐らく二十代後半くらいだろうか?
 黒髪でコバルトブルーのエプロンをつけた、落ち着いた雰囲気の男性だった。
 そして、笑うと目尻が下がりえくぼがでる。
 それがとても印象的だった。
 ……更にもう一つ。私の目を引いたもの。
 それは、お店の壁中に掛けられた沢山の絵画だった。
 思わず目を奪われてしまうような美しい風景画や、私にはよくわからないけど多分凄いんだろうなと思われる抽象画など、何点も額に入れて飾られている。
「……あの、ここは何のお店なんですか?」
 私は恐る恐る男性に尋ねてみた。
「じゃあ君は、一体何の店だと思う?」
 突然の返し技に多少驚きはしたが、私は店内をじっくり見渡して、正しい答えを導き出そうと奮闘する。
「喫茶店……?」
「じゃあ、喫茶店という事にしよう。オレンジジュースでいいかな?」
 男性はそう言うと、カウンターの中にある冷蔵庫を開け、手際良く私の目の前にオレンジジュースと手作りのサンドイッチを並べた。
 ちょうどお腹が空いていたところだ。有難い!
 私は素直に喜んで見せた。
 しかし……お金は足りるだろうか? ざっと見渡してみても、メニュー表などの金額が提示されているものは何一つ見当たらない。
「あ、あのぉ……私今日あんまり持ち合わせていないんですけど」
「お金なんていらないよ。僕の話し相手になってくれたらそれで充分」
 アティックローズの壁紙に、アンティークの置物。壁に掛けられた小洒落たランプには、小さな炎がユラユラと揺らめいていた。

 男性の名前は司郎さんといった。今年で二十七歳になるらしい。
 彼がレコードをターンテーブルの上に乗せると、針は盤の溝をトレースし、次第に音楽が流れ始めた。
 かなり古いものではありそうだが、とてもお洒落な感じの洋楽で……私は思わず目を閉じて、曲に聴き入った。
「……気に入った? これはね、恋の歌なんだよ」
「恋の……歌?」
「うん、そう。僕のお祖父さんがとてもそれを気に入っていてね。どうやら、お祖母さんとの想い出の曲だったらしいよ。お祖母さんは早くに亡くなってしまったんだけどね。お祖父さんは……それでも毎日毎日この曲を流し続けた。天国にいるお祖母さんの元まで届くようにと。……で、何度も聴いているうちに、いつの間にか僕まで好きになってしまっていたんだ。どう? 可笑しいでしょ?」
 彼は眉を下げながら、柔らかく微笑んだ。
「そのお祖父さんが亡くなってからは、僕が代わりにこの曲を天国にいる二人に送るんだ。雲の上で、二人が並んでこの歌を聴いてる姿が目に浮かぶようだよ」
 その笑顔から、彼の人柄や穏やかさが一心に伝わってきて、思わず私の頬も綻ぶ。
 素敵なお祖父さんとお祖母さんを持った彼も、こんなに素敵なお孫さんを持ったお祖父さんとお祖母さんも……みんなみんな、幸せだったのがよくわかる。
 その素敵なエピソードは私の心に深く沁み渡り、胸に優しい温もりを与えた。
「司郎さんのお祖母さんは……お祖父さんにとっても愛されていたんですね。きっと、すごく幸せだったんだろうな」
「……そうだね。僕は二人のような純粋な恋愛を今まで見た事がない。お祖母さんが亡くなる前に、ずっと手を握りながら『うんうん』と頷いていたお祖父さんの顔が今でも忘れられない。本当に優しい笑顔だったよ」
 彼の持っている優しく心地良い雰囲気は、きっとお祖父さんやお祖母さんから受け継がれたものだろう。
 私は、『彼の想いが沢山詰まったこの音色が、本当に老夫婦のいる場所まで届けばいいなぁ』と思いながら、天井を見上げた。
「あはは、ごめんね。変な話をしちゃって。……で、晴乃ちゃんはどうしてこんな場所まで来たんだい?」
「え、私……?」
 彼は頷くと、にっこり優しく笑った。
「今度は君の話を聞かせてよ」
「……私の話なんて、面白くもなんともありませんよ? ほんっとーにつまらない人間だから」
「つまらない? ……そうかなぁ? 僕は君がこの場所に現れた時から、凄く興味津々なんだけどね」
「私もこんな所にお店があるだなんて、本当にびっくりしました!」
「ふふ、そうだろう? ここには滅多に人は来ないんだよ。だから君は、とても珍しいお客さんなんだ。話を聞いてみたい理由にしては充分な筈だろう?」
「まぁ、確かに……」
「ちょうど一人で退屈していた頃だったんだ。良ければ君の話を聞きたいなぁ」
 そう言ってくしゃりと笑う司郎さんは、何となくだが……ほんの少しだけ【あの人】に似ていて、一瞬胸がドキッとした。しかしその反面、鈍い痛みが再び私の胸に襲いかかる。
 私はそんな感情を打ち消すように顔を左右にブンブン振ると、ゆっくり口を開いた。
「も〜! わかりましたよ。けど本当になんて事もない、くだらない話ですからね!」
 私が話している間、彼は静かに私の言葉に耳を澄ませ、時折小さく頷く。
 その度に揺れる前髪を掻き上げる彼の仕草から、妙に大人の色気のようなものを感じられた。
「へぇ、じゃあ君……今家出中なんだね?」
「家出なんかじゃありません。私は自由を探す旅に出てるんです!」
「ははっ、なるほどね。じゃあその、君の言う自由とやらはちゃんと見つけられたのかな?」
「それは……」
 私は思わず口をつぐむ。
「ん? どうしたの?」
「……わからないんです。考えれば考えるほど頭がこんがらがってきちゃって。私一体、何がしたいのかなって」
「まぁ、そうだろうね。自由とは奥が深すぎて、今の君には少し難しいかもしれない」
 私は何だか子供扱いされたような気がして、思わずぷくっと頬を膨らませた。
「じゃあ、司郎さんにはわかるんですか? 自由って一体、どんなものなのか」
「う~ん……そうだなぁ。とても難しい質問だ。けれど僕はね、まだ中学生の君を見ていると……『あぁ、自由でいいなぁ』って思うよ」
「私が、自由……?」
 私は開いた口が塞がらなかった。
 自由を求めてきた筈の私に、彼は【自由】だと言う。
 私は彼のその先の言葉がとても気になり、静かに耳を傾けた。
「うん。自由を求める為に、自由を探す旅に出る事が出来る君は……やっぱり、誰よりも自由な気がするよ。君の考えも行動も、全てがね。あ、でも……決して馬鹿にしてるわけじゃないんだよ? とてもね、羨ましいんだ」
「私が、羨ましい……?」
 彼は空になったグラスにオレンジジュースを注ぐと、私に優しく微笑みかけた。
「僕くらいの年齢になるとね。保身的になってしまうものなんだ。具体的な例を挙げてみると、例えば……仕事かな? どんなに心が自由を求めていたとしても、働かなきゃ人は生きてはいけない。仕事を辞めて違う場所に旅立っても、やはり新しい地で新しい仕事を見つけるだろう。僕達大人は、やらなくてはならない事、現実をちゃんと知っているからさ。僕達は社会によって生かされている。きっと、この世界はそういう風に出来ているんだよ」
「私……そんな生き方は嫌だ」
 私は俯き、小さな声で反論の言葉を述べる。
「勿論そんなの僕だって嫌さ? 出来る事なら全てを捨てて自由に生きたい。誰にも干渉される事なく、自分らしく、後悔のないように生きていきたい。……けれど、僕にはそれが出来ないんだ」
 彼は笑った。とても悲しそうに。
「だから僕は君に、今しか出来ない大冒険を精一杯楽しんで欲しいと思ってる。その結果、たとえ何も変わらなかったとしても、きっと得る物は沢山ある筈だから。――ねぇ、晴乃ちゃん? いつか【成長】が君自身を苦しめ、君の生き方を制限される日が来たとしても……その心の中だけはずっと自由でいてね。その気持ちを、ずっと忘れないで。今の君の想いはとても綺麗で、僕には輝いて見えるよ」
「自由……か」

 私は自由になりたい。
 私は、『生きる世界を間違えたのだ』とさえ思ってしまうくらいに、この人生にうんざりしていた。
 ドラマのような、小説のような……もしかしたら、そんな素敵な物語が私を待っているのかもしれない。
 流れる雲を眺めながら、そんな事を思い描き、密かに夢を見たりしていた。
 もしも生まれた世界が違ったなら……大好きなあの人と私が結ばれる可能性は、ほんの僅かでもあったのだろうか?
 あの人と二人。何かに縛られる事もなく、色んな世界を一緒に冒険する事が出来たのかな?
 美しい空を見上げ、優しい風に吹かれて、穏やかな波の音に耳を澄ます。
 高い山に登り、緑の呼吸を共に感じ、綺麗な花に心奪われる。
 満天の星空は、月の周りを華やかに飾る。
 その広い紺碧の夜空の下、私は貴方と二人で一つずつ星の数を数えてみるのだ。
 時間は無限。想いも無限。
 そうやって、ずっとずっと貴方といられたら……どんなに幸せな事だろうか。
 ねぇ、先生……大好きだよ。
 この世界に住んでいるどの人よりも、私は先生の事が大好きです。
 私は私の人生を、好きに生きたい。
 後悔するような生き方なんてしたくないの。
 残念ながら先生と私が結ばれる事はないのだけれど……それでも、この気持ちを大切にしたい。
 忘れたくないんだ。
 私は、自由になりたい。けど――
 ……私は、自由にはなれない。
 本当はわかっている。理解だってしている。
 私は一人では生きていけない。
 私が思っている以上にこの世界は残酷で、とても不条理だから。
 だから……たとえあの人と二人、こことは違う別の世界に生まれ落ちたとしても、結ばれる事など決してない。
 ――ずっと一緒にいられたら。
 そんなのは、ただの私の理想や願望に過ぎないのだ。
 いくらあの人の事を想っていても、届かない事くらい……ちゃんとわかってる。
 あの人はとても素敵で、私なんてとてもじゃないけど釣り合う筈がないのだから。
 でも……それなら、先生。
 優しくしたりしないでよ。期待を持たせるような事はしないで。
 私が好きだと伝えたら……先生はきっと、困った顔をするでしょう?
 皆に優しい先生が嫌い。優柔不断な先生が嫌い。
 そんな自分勝手なドロドロとした感情が私の中を支配して、どんどん自分が醜くなっていくのがわかる。
 まるでヘドロのようだ。その内に異臭を放ち始めるのだろうか?
 ……いつか必ず、私も大人になる。
 高校生になり、大学に行って、仕事を始めて……そして、先生じゃない他の誰かと結婚して、その人との間に子供が生まれ……幸せな家庭を築いていく。
 子供の成長と共に、私はどんどんおばちゃんになって、いずれはしわくちゃのおばあちゃんになって……そして最後には深い眠りにつく。
 それも、幸せの一種なのかもしれない。
 けれど、まだ中学生で身も心も幼く未熟な私には、そんな現状を受け入れられる筈もなく……理解なんてしたくもなくて、わざと目を背けているのに過ぎないのだ。
 そんな人生なんて、真っ平御免だから。
 私は、自由にはなれない。
 ……まるで、この世界は【牢獄】のようだ。

「……晴乃ちゃん? どうしたの?」
 突然聞こえてきた声に、私は現実世界へと引き戻される。目の前には、私を心配そうに覗き込む彼の姿があった。
「あ、……ごめんなさい。少し考え事をしていました」
「何か思いつめたような顔をしてたよ。凄く悲しそうな顔をしてた。……ごめんね。きっと僕が変な事を言ってしまったからだ」
「ううん! いいんです! 司郎さんは何も悪くないんだから謝らないで下さい」
「……うん、わかった」
 彼はそれ以上何も言う事はなく、カウンターテーブルを布巾で丁寧に拭き始める。
 私はそっと立ち上がると、壁にある絵を一枚ずつ眺めながらポツリと呟いた。
「……ねぇ、司郎さん」
「ん? どうしたの?」
「私はきっと、この店を出た後……トンネルを抜けて自転車に跨り、元来た道を辿って家まで帰っていくんでしょうね。他に行く所なんて、どこにもないのだから」
「うん……きっと、そうだろうね」
「私は一体……何の為に生きてるんでしょうか? どうして、生まれてきたのかな……?」
 ポロッと涙が一筋、私の頬を流れ落ちる。
「自由になれないのなら、このまま帰らず……ここで消えてしまいたい。いつか死ぬ日の為だけに生かされている、ロボットのようにはなりたくないの! 大人になんかなりたくないんだよ! それにね、考えたくなんてないのに……先の事ばかり考えてしまうの。『いつか私の家族が死んでしまったら、私はその悲しみに耐えられるのか?』、『今私が大切にしてる宝物や想い出の品は、私が死んだら一体どこにいってしまうのか?』……ほんと馬鹿みたいでしょ、私って。……ねぇ、司郎さん。私は幸せになれるのかな? そもそも幸せってどんなものなのかな? 今の私にはわからないよ。私、大人になるのが……凄く怖いんだ」
「……じゃあ、大人になるのをやめてしまえばいい。たとえ君が望まなくても、身体はどんどん大人になっていくだろう。けれど心の中までは、君以外の誰も支配する事なんて出来ない。……歯向かってごらんよ? 抗ってしまえばいい。君には君だけの人生があるのだから。どうするかは全て、君の【自由】だ」
 ――彼の言葉が心に響く。どうするかは、私の自由。
 私……決めてもいいんだ。自分の道。自分のしたい事を。
「……ふふ、あはは! 司郎さん、さっきまでと言ってる事が全然違うよ~。さっきはまるで、大人になる事からは決して逃げられない、みたいな感じだったのに!」
「確かにその考えは変わっていない。けれど、きっと……君の言葉に少なからず感化されたんだろうね」
 司郎さんは扉を指さし、私にこう告げる。

 ――生きろ、少女よ。赴くままに。

「その先に何が待ち構えているかはわからないけれど、きっと君がこれから生きていく道の分岐点となるだろう。……見守っているよ。ずっとここで」
 優しく笑う司郎さんの顔はとても穏やかで、見ているこちらまで笑顔になれた。
 先程注がれたオレンジジュースに手をつけると、グラスの中でカランと氷が動いた。
 甘いような、少し酸っぱいような……そのオレンジジュースの味は今の私に相応しい、とても優しい味だった。
 誰も私を止める事なんて出来ないんだ。なら私は、今の私自身と生きていきたい。精一杯、自分の心と向き合っていきたい。
 今の私がどうであれ、過去の私がどうであれ……未来の自分を創り出せるのは私だけ。
 私は……
 未来の私は……
 きっと、誰よりも自由なんだ。


***

「ん……っ」
 緑の草花が優しく私の頬をくすぐる。ちょっぴり痛いような、くすぐったいような……そんな感触。
 草の、緑の匂いが何だか妙に心地良くて、私はゆっくり瞼を開く。
「え……あれ? あれれ? 私、もしかして寝ちゃってた?」
 私は起き上がり周りを見渡した。目の前にはトンネルの入り口があり、端の方には私の相棒の赤い自転車が止められている。
 少し遠くの方からは、車の走行音や踏切の鐘の音がひっきりなしに聞こえてきた。
「……どうして私、こんな所で?」
 えっと……思い出せ、私。確かトンネルを歩いて奥まで行ったら行き止まりで、ここまで引き返してきたんだよね。で、気がついたらそのままここで寝ちゃってたと。
「うわっ……正真正銘の大馬鹿野郎だよ、私」
 砂を払いゆっくりと立ち上がると、スカートの上から数匹、バッタの子供が跳ねていった。
「わっ! ……もう! 驚かさないでくれますか? 小さな小さなバッタくん?」
 バッタの子に話しかける自分自身が痛くもあり、少し可笑しくて、私は小さく笑った。
 行きとは違い、頭も心もさっぱりしている。何だかとても清々しい気持ちだ。
「あ、大変! もうこんな時間! 早く家に帰らないと、お父さんとお母さんに怒られちゃう!」
 急いで自転車に前に立ち、手を触れた瞬間……風がふんわりと柔らかく舞い、私の髪をくすぐるようにそっと揺らした。

 ――見守ってるよ。ずっとここで。

 風に乗って、そんな優しい声が聞こえてきた気がしたけれど……周りには誰もいない。多分、気のせいだろう。

 私は自転車に乗って走る。全速力で。
 適当に走ってきてはみたけれど、案外何とかなるものだ。帰り道は、風が教えてくれる。
 行きとは違う、逆からの風景を眺めながら……私は色んな事を思い浮かべていた。
 ――うん。やっぱり、ちゃんと気持ちを伝えよう。言えずにウジウジ悩んでいるなんて、私らしくない。
 自信を持て、私! 好きになった事に、何の後悔もないのだから。気持ちを伝えて……ちゃんと先生から卒業するんだ。
 それからまた、始めればいい。
 私の、たった一度しかない人生を。
「よしっ! ウジウジせず、私なりに頑張って生きてみよう。行きはあんなに悩んでいたのに、帰りはこんなに前向きになれるなんて……何だか素敵な魔法にでもかかったみたいだ」
 けれど……この晴れやかな気持ちと共に、ほんの少しモヤモヤとしたものを感じるのは何故だろう?
 何か大切な事を忘れてしまっている気がする。
 私は違和感を感じつつも、取り敢えずペダルを漕ぐ速度を速めた。

「やっと家が見えてきた~!」
 この坂を登り切れば我が家だ。朝早くからこの大冒険は始まっていたから、実際にはちょうど部活が終わり帰宅したくらいの時間だろう。両親はきっと、この小さな反抗を一生知る事もない。
 見方を変えてみれば、両親がどれだけ私の事を心配して、叱っていてくれたのかが今更ながらによくわかる。私は今も、少しずつだが成長しているのだ。
 これからは、少しだけ親孝行でもしようかな? そうだ! 今日の夕飯は私が作ろう。きっと、お父さんもお母さんも驚く筈。
 その顔を見られる事が今はとても楽しみだ。
 その他にも友人関係の事や将来の事、色々と考えてみたけれど……悩む前に、まず自分が出来る精一杯の事をしようと思った。きっと、私が持っている可能性は未知数なのだから。
 今はまだ空は青いが、すぐにオレンジ色の夕焼けが辺りを包み込み、あっという間にいつもと変わらない夜を連れてくる。
 そう、オレンジ色の――

「あっ……!」
 私は思わず自転車を止める。
「司郎……さん……?」

 見上げたお日様が、いつもより数段輝いて見えた。

黄昏の街

2019年4月26日 発行 初版

著  者:夢空詩
発  行:夢空詩出版

bb_B_00150117
bcck: http://bccks.jp/bcck/00150117/info
user: http://bccks.jp/user/140797
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket