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今でも私は、詩も文学も結局音楽の代用にすぎないと思うことがある。
——江藤淳『戦後と私』
娘と倅をよく職場に連れて行く。
保育園の年長になると倅も「お父ちゃん、法政二高に仕事行ってるの?」などと、分かるようになった。
お嬢さまの条件は「わたくし、お父様のお仕事のこと、よく知りませんの」と応答することらしい。だが普通の家庭なら、親が何で稼いでいるかぐらい、知っていた方がいい。もっとも、先生の子どもだと公言しても、ろくなことがないので、近所ではいうな、と二人には言い含めている。
オトンの職場に初めて行ったのは、小学生の頃だった。
大阪市教育委員会から神戸市に転じ、市立考古館の館長をつとめた。館長といっても、もぎりのおばちゃんと、掃除のおじさんの三人だけだ。
市内の桜ヶ丘遺跡から大量の銅鐸・銅矛が出土したが、国には委ねず、自治体でその管理を行うために、考古館が作られたらしい。
日曜日、家族五人で弁当を持って、その仕事場に出かけた。収蔵品よりも、銅鐸に描かれた動物や文様が綺麗に刈り込まれた芝生を、ずっと眺めていた。
掃除のおじさんの趣味だったらしい。見事な仕事だった。
その後、考古館は南蛮美術館と共に市立博物館として統合され、オトンもそこで働くことになる。新しいミュージアムは、旧横浜正金銀行をリノベーションした豪壮な建物だ。吹き抜けには東山魁夷の巨大なタペストリーがかけられ、教科書に必ず登場するザビエルの聖画もある。
昼食は、おしゃれな併設カフェでサンドイッチを食べた。
誇らしいというより、「ようこんなキレイなところで、働くなあ」という感慨があった。また、思ったより同僚に謙虚なことも印象的だった。
当時最新の設備で、手洗いの水が自動で出るのに驚き、何度も試した。子どもは、しょうもないことだけ、覚えている。
大学生協前の芝生に、一本のしだれ桜があった。
季節はずれに、桜を愛でることができるので、大学に長くいる人間にとっては、大切なスポットである。
同級生がみんな卒業していった、春だった。
大学院はその頃、設置されていなかった。
就職したくない私は、専攻科という教員免許が少しだけグレードアップするコースに逃げていた。
後から聞くと、花吹雪が舞う中、僕らは登場したらしい。当時付き合っていた女の子はすでに仕事をしていたので、休日だったかもしれない。
樹下では、すでに宴が始まっていた。
彼女と男二人がいた。一人は沖縄出身、もう一人は取るに足らない男だったのか、覚えていない。とにかく、美しい彼女を中心に男どもがウキウキしていた。私と女の子は、自然とその花見に参加した。
﹁故郷の酒です」
差し出されたのは泡盛だった。ほのかに炒った米の香りがした。
彼女は私と同じく、専攻科に進んでいた。東京に出る勇気がないのか、その準備をしているのか。しかし、私のように不真面目な態度での、進路選択ではなかったはずだ。
そうでなければ、凛とした美しさは、表に現れるはずがない。
走り続けていると、「あの頃」に戻りたいなどとは、一度も思ったことはない。だが、あの桜の樹の下にならわるくない、とも思う。
つらいことも、悲しいことも、まだ恋さえ始まっていない、あの季節になら。
前にも書いたが、山梨の大学で初めて一人暮らしをして、定食屋の味の濃さには大いに閉口した。はじめは自炊も慣れておらず、がっかりするような出来で、余計にへこんだ。
普通にうまいものを食べたい。
そんな入学直後のある日、オリエンテーションの出し物を、クラスで一番目立つ美少女の下宿で準備していた。
富士山へのバスハイクのあと、大学の体育館に戻って、各学部ごとに発表をするのだ。
我が国文学科は、山紫水明の四つに分けられ、僕らは「紫」クラスだった。出たがりの私は、「紫」の実行委員長を買って出た。
当時人気絶頂のWinkのダンスの解析と、テープの編集に熱中するあまり、帰りが遅くなってしまった。近くにコンビニはなく、定食屋も終わっている時間だ。
田舎の大学に出てきて、みんな慣れない下宿生活である。そろそろ帰らないと、と女の子ともう一人の男、私の計三人でまごついていると、
﹁ちょっと待って、あり合わせでいいよね♥」
部屋主の美少女が、ささっとナポリタンを作ってくれた。ケチャップに、玉ねぎとピーマンとベーコンが入ったやつだ。
入学してこのかた、外食で荒れた胃には優しい味であった。
﹁おいしいね。嬉しいね」
御相伴にあずかった中で、男子二人より、まず最初に女の子がポツリと口にした。きっと彼女も、おぼつかない一人暮らしで、このようにうまく夕飯が用意できなかったのだろう。
作ってくれた美少女には、この後の大学生活でこっぴどく痛めつけられるのだが、あの先制パンチのナポリタンは忘れがたい。
控えめにいって、素敵でした。かないません。
何でもないメニューが、忘れられない味になる。
音楽も同じように、その感動と音質は関係ないらしい。
有名なエピソードだが、武満徹が青春期に最も感動した音楽は、防空壕で聴かされたシャンソンだったらしい。
死が轟音とともに、目前に迫る極限状況の中、青年将校が蓄音機でかけた異国の謡曲は、武満にとってとてつもなく崇高なもので、そののち彼が音楽の道に入ることを、決定づけた出来事であったという。
親友のお母さんは、なかなかに難しい人だった。教養があったからだろうか。不作法な私は、必要以上に嫌われていたように思う。
お父さんがまたカッコイイ人で、
﹁キタニくん、靴のかかとは踏むもんじゃないよ」
などとダンディな声でたしなめてくれる。若き日にウィーン留学された女子大の音楽の先生である。
リビングには、ステージ写真のパネルが飾られていた。どうも、分不相応なご近所さんだったかもしれない。
小中高と同じ学校に進んだのは、彼だけだ。
ある時、母が弁当を作れない事情があって、私の分を頼んだことがあった。フタを開けると色使いが絶妙、煮物で茶色一辺倒などでは、決してない。一口、手をつけると、非常に複雑な味付けであった。
ウチの弁当の味のレイヤーが一、二層だとすると、三、四層のハーモニーである。
最後にお話ししたのは、私が追われるように大阪を離れ、異境の地の大学に行く直前のことだった。親友に会いに行ったのだが、たまたま彼は不在であった。
初めての一人暮らしで、向こうでは、大変でしょうね。
珍しく、温かい言葉をかけてくれ、上質のバスタオルを何枚か持たせてくれた。意外な感じがしたが、ありがたく、餞別を頂戴した。
彼の家とウチは近い。街灯の光だけが降り注ぐ、静かな夜だった。
美少女の部屋に転がり込み、自堕落な生活をはじめた私は、その知らせを受け取りそこなった。
朋輩の母は、私が大阪を離れてから、程なく急死した。下宿をずっと空けていた私も私だが、流しに小さな伝言を置いたきりの大家も大家だ。
通夜の晩には、なんとか間に合った。
友の涙を見たのは、その葬儀のときだ。幼き日より知りし友は、亡母の棺が運ばれるとき、
﹁追ってくれるな」
こう私に言い残し、一人斎場の中に消えていった。
大学に帰り、一緒に暮らしはじめた美少女にそのことを話した。
﹁いい男は、涙もカッコイイんだろうね」
事情も知らぬのに、ことなげにまとめてくれた。
いただいたバスタオルは、使いもせず部屋に置きっぱなし。
堕落した生活が再開した。
八十年代は、高校生でも、肩パットバリバリのスーツの時代である。
バンド演奏も、Tシャツではなく、ジャケットが必須だ。
ドラマーの私は、上着をわざわざ袖まくりし、ずり落ちてもスティックさばきの邪魔にならないように、汗取りの黒いサポーターを手首につける。
今考えると、相当にイキったスタイルである。
しかし、これはオフコースのドラマー・大間ジローの真似だった。当時部活の女子たちは、私のことを「ジローさん」と呼んでいた。
衣装はタカシの誘いで、問屋のセールで買っていた。ビルまるごと特価品のイベントが毎シーズンあり、普段着も含め、よく買いに出かけた。
やがてメインボーカルのタカシには、一年下の女子が、スタイリストとして付くようになる。本番前に、髪の毛なんかをとかしてくれる。
テツヤとクリちゃんも、ラストライブではデザイナーズブランド(!)に身を包んだ。
肩パッドビシバシ、もうイカすイカす、ゲットワイルドの時代である。
打って変わって、九十年代はグランジという方便があったので、地方大学の、僕ら音楽系クラブや演劇関係者は、髪は伸び放題、汚い格好が多かった。おしゃれではなく、金がないゆえの長髪、古着という選択だ。
ある日、大学院の研究室に顔を出すと、
﹁なんかキタニくん、私たちの前だと、いつもいい加減な格好じゃない?」
突然嫌疑をかけられ、吊るし上げられた。六人の院生で、私以外の五人が女性であった。
あわてて否定したものの、確かに君たちの前では、服なんか全く気を使っていなかったが……。黒一点で、のほほんとやっていたら、いらぬ反感を買っていたようだ。
バンドに専用スタイリストのいた高校時代とは、隔世の感がある。
山登りがブームらしい。
師匠が住んでいる高尾に勉強会で向かうと、日曜の京王線の下りがごった返している。
なぜ、人はこうも高尾山を目指すのか?
ところで大阪南部だと、小学生の遠足は信貴山か葛城山、ちょっと本格的なら金剛山が行き先となる。
当時は地元の子ども会で、ハイキングの企画があった。
冬の信貴山は積雪があり、登山靴にアイゼンまでつけたかもしれない。ペースが遅く、山頂ではなく、氷のベンチしかない休憩ポイントで、早めの昼食となった。弁当はカチコチ、お茶は冷え冷え、子ども会の士気は大いに下がっていた。
そこに誰か、山の巧者がいたのだろう。
氷の世界で、不意に湯気の立つラーメンが差し出された。具の入っていない素のチキンラーメンだったが、これが冷えた体が生き返るほどに、むちゃくちゃ美味かった。
こごえる身に、ジャンクなスープがしみ渡る。マインドが即座に解放され、凍ったせせらぎさえ、色を取り戻す。
今まで食べた一番美味いものは、以来更新されていない。
大阪と奈良の間に、二上山というふたこぶの山がある。
海抜五〇〇メートルほどをゆく、ちょうどいいトレッキングコースだ。オトンがその「ふたかみやま」に連れてくれるというので、兄弟三人で喜んでついていった。
オトンの企みは、途中で知れることになる。山道で突如、一人で小径にそれるのだ。兄弟で待っていると、なにやら新聞紙に包んだものを三つ抱えている。
﹁これ、入れといてくれ」
二上山は黒曜石ならぬ、サヌカイト(讃岐石)が採れるのであった。
三兄弟のリュックをあてにした行楽とは、見事なプレイである。
子どもより、親が大事と思いたい。
オトンは実地研究と称し、大きめのダンボールの中に入り、採ってきたサヌカイトを、鹿の角で叩いて、鏃や石包丁を作っていた。
火炎型縄文土器も作るし、器用な男である。
﹁夏休みに行った場所を、黒板にみんなで書きましょう」
唐突に思いつき(であろう指示)を新任の先生が口にした。
我が家も毎夏、豪勢な旅行をするわけではない。親父が勤める神戸市の保養所が六甲山にあったので、二年続いたこともあった。
素泊まりで一人三百円だ。
もっと地方に行く場合もあるが、遺跡や古墳めぐりといった親父の目的が優先されるため、昼間は地味な行程、泊まるのは民宿とか国民宿舎などささやかなものである。
黒板には無記名で、地名のみが書かれた。
俺んちの旅行、近いトコやしなぁ、などと皆つぶやきながら書きはじめると、最初はささやき声、次にクスクス笑いが起こり、やがて教室全体が爆笑に包まれた。慣れないチョークで、遠慮がちな文字でしたためられた地名を、私も認めた。
﹁泉大津」
近すぎる。わが街、高石からわずか駅三つである。笑われるのも無理はない。
しかし、後から聞くとそれを書いた女の子のウチは自営業で、休みがそう取れる種類の商売ではなかった。教室の笑いは残酷なものである。
そういう設定をした教師がいけないのだ。どういう言い訳をその先生がのたまったか。何といったのか。
記憶をたどると、その子はたしか、牛乳が飲めなかった。
今ならアレルギーの問題もあるので、無理やり飲ませたりしないはずだ。ところが、そこは配慮なしの昭和、少しずつでも飲んでもらおうという指導が展開された。
あのまずいコッペパンに牛乳を少しずつひたし、彼女は瓶に先生がマジックで引いたラインまで消費することに勤しんだ。一ミリずつ、明日は二ミリと。
今考えれば、恐ろしいことで、最後はクラスみんなの手拍子の中、彼女はついに瓶一本を丸々飲めるようになった。委員長として、旗を振っていたのは、私だ。
彼女のことはよく覚えていない。しかし、泉大津と牛乳の記憶は分かちがたく、結びついている。
ごめん、あの頃僕らは(教師も含めて)アホでした。
今はおぼっちゃま学校に勤めているので、安心して「今まで旅行に行った場所で印象に残っているところは?」とたずねている。
これまで聞いた中で一番生意気で、腹の立つ回答は以下。
﹁ベニス、かな」
祖父は片手運転でポケベルを切り、車をUターンさせる。
﹁ちょっと行こか」
予定の仕事を終えたので、あとは新しい依頼さえ入ってこなければいい。目指すのは、もちろん住之江ボート場だ。
ガス器具の修理は、冬場は凍結でかなり忙しい。天気予報で東北地方まで、マイナス四十度の寒気が降りてくると「そろそろ、来るなあ」と祖父はひとりごちる。
冷たい空気がここまでくると、大阪でも水道管が凍結して破裂するのだ。そういう繁忙期には、私は助手としてバンに同乗した。
濡れ手に粟、と祖父が形容した大寒波の年もあった。
逆に夏場は、午後を少し回れば、予定を全て終える場合もある。
今日はそんな、ボート日和だ。
モータープール(駐車場)に「満車」のフダが出ていても、「ええんや」と、祖父は意にも介さない。
係のおばちゃんは「そこに停めといて」とだけ言い、祖父から車のキーを預かる。おそらく、大勝ちしたときの「心づけ」が効いているのだろう。いつでも顔パスだ。
同じく客席でも、祖父の姿を誰かが認めたとき、スッと席が空いたと、連れて行かれたオトンが証言していた。正月の満席時でだ。
まるで、横山やすし、やっさんではないか。
場内に入ると「おばあちゃんには黙っとけよ」と口止めの五千円札を、早速呉れる。その日のバイト料とは、もちろん別である。
食堂で肉うどんを食べたり、甘酒飲んだりして時間を潰していたが、せっかく金ももらったから一発当ててやろうという気になる。予想屋の話を聞いて百円のメモを買い、何回かデタラメに張ってみたが、一度も当たらなかった。
帰途、駐車場の出方ひとつで、そいつが今日勝ったか負けたかは、すぐにわかる。やーさんがアクセルをうならせながら、急発進していく。
ホクホク顔の祖父がシートベルトを締める。
﹁ぼちぼち戻ろか、ばあさん怒りよるから」
脳梗塞で倒れて、入院生活を送っていた最期に、末弟は競艇場まで連れて行ったらしい。ウソかマコトか、車椅子に乗っていた祖父は、ボート場についた瞬間立ち上がり、券売り場まで走ったという。
大阪人の話は、往々にして盛られている。
しかし、この話は博打好きには、すこぶる受けがいい。
﹁ええ話ですね~」
誰もが己の業を思い、目頭を押さえる。
高校は、泉北ニュータウンにある特徴のない学校だった。
周囲は浜田省吾が「パワーシャベルで削った 丘の上幾つもの 同じ様な小さな家 何処までも続くハイウェイ」と歌った街そのままで、校舎はくすんた灰色だった。
スポーツは全く盛んではなかった。そのせいか、中学でまずまずの記録を持っていた私は、連日陸上部員に追い回された。
﹁百メートルなら、一年でコンマ五秒は縮まる」
先輩ヅラした奴はこんな惹句で誘ってきた。アホかと思った。三年後には日本代表だろ、それじゃ。
この騒ぎでクラスの連中には「足が早い=こいつはスポーツ万能」だと、勘違いされた。
クラス対抗のバスケットで、バンバンボールがパスされてくるのだ。バスケは、もっとも不得意なスポーツである。これで一気に信用を落とした。
迷惑な話だ。
授業のあと、記録を持っていそうな何人かの生徒と一緒に、体育教師に呼ばれたことがあった。
何かと思えば、常に濃いサングラスをつけている陸上部の顧問が、一人ひとりに入部を迫ってくるのだ。
まるで浜田省吾、いや、押しが強そうな雰囲気は、西部警察の大門警部(渡哲也)か。
威圧的な体育教師七人の中で、最も戦闘力の高そうな人物だった。
角刈りならぬ、そのパンチパーマの大門がにじり寄る。
﹁キタニ、俺と一緒に、三年間やらないか(キリッ)」
﹁……。」
向こうは口説けたつもりだったのだろう。しかし、こちらもしっかり断らないと、後々とんでもないことになると思い、
﹁……フォークソング研究部に入って、三年間ドラムを叩くつもりです」
自分でも驚くほど、はっきりと答えた。
大門は、
﹁それじゃあ、フォークソング研究部で、頑張ってください」
これまた、あっさりと解放してくれた。
ルックスに反して、民主的なやつだと思った。
今考えれば、欲しいような、大した選手ではなかったという、ただそれだけの話なんだが…。
引き止めろよ、団長!
昼間のテレビから『徹子の部屋』が流れている。
俳優の前田吟さんが、いろいろと実生活について話している。ドラマでよく顔を見る売れっ子の芸能人だ。いいお父さん役をやっている。
﹁半年に一回、必ずやることがあるんですよ」
﹁まあ、それはなんですの」
﹁テレビから何から、家財道具を全部庭に投げ捨てるんですよ。ばーっと」
﹁あら、見かけによらず」
﹁こう、自分にも、周りにも怒りがあるんです。だからテレビ投げちゃうんですよね」
﹁俺もやりたいなあ」
隣で親父がつぶやいたことに、二度驚いた。
しみじみと、しかも前田吟に共感するかのように、静かに、ごく自然に口にした。
あんたは、そんなにストレスが溜まっていたのか?
しかし、自分が怒れる(イカレる?)中年になったからこそわかる。
テレビから何から、みんな窓から投げ捨ててしまいたい。所詮は子どもには、わからない気持ちだ。
黒柳徹子は、いつもの決め台詞で、吟と親父に釘をさす。
﹁まあ、あなた、ご苦労なさってるのね」
クラブを引退して、何もやることがなくなった。
バンドが活動休止になったのは、高三の五月である。
高校から最寄りの泉ヶ丘駅までは、なだらかな遊歩道が続く。ポプラ並木の左手には、バカ高い料金の泉北高速鉄道が敷かれている。その凡常な街路を、ただただバンド仲間と十五分ほど歩く。
ある日、一緒に帰っていたテツヤが、急に一服つけ出した。
なんの前触れもなく、ごくナチュラルに。
タバコは、通常三日ほど停学になる。
最近も、クラスの短ランで茶髪のバカが、二度目の処分を受けていた。
おいおい、通学路でなにすんねんと、一同が面食らっていると、
﹁今日のこういうことは、少し残念だなあ」
森さんが実にさわやかに、諫めるようになげいたことに、僕らはまたぞろ驚嘆した。
放送部の彼の名は本名ではなく、ディレクターぶって、自分で「森」と通り名をつけていて、僕らもそう呼んでいた。今となっては本名が思い出せない。
五月の引退コンサートは、スタッフを大々的に集め、いろんな人たちに手伝ってもらった。当時はデジカメなどなく、写真好きの悪友たちに、フィルムを好きなだけ渡して、ライブを撮らせた。
映像は放送部にお願いして、8ミリのハンディカムを三台固定と、移動用を一台、計四台で最終公演を完全収録している。
部室が隣り合わせで、親しかった森さんは、陣頭指揮を執ってくれた。
放送部の連中も、普段の地味な活動に比して、ライブのサポートは晴れ舞台なので、喜んで協力してくれたのだった。
﹁ライブの手伝いとかで、テツヤくんって、いいなあって思ってたから、今日のことは、ホント残念だなあ」
こう言われては、愚行に及んだ方は立場がない。テツヤは照れ笑いを押しかくし、電柱でそそくさとタバコをもみ消した。
私はこんなにエレガントな諫言を、大人の世界でも聞いたことがない。
何事もなかったように、僕らは泉ヶ丘駅のコンコースに向かっていった。
﹁ここは戦場だ!」
山下真司が叫ぶほどではない。しかし、地元の中学校は恐ろしい場所であった。
非常に痛ましい事件があり、僕らが入学する前に、いじめが原因で自殺者が出ていた。近所の廃工場で、被害者は首を吊ったのだ。全国紙の一面を飾る衝撃的な出来事だった。
金八先生の第二シーズン(こら加藤っ!、松浦っ!)が話題となり、ちょうど校内暴力の嵐が全国的に吹き荒れた季節だ。
さらに悪いことに、私の通う高石小学校は学区の関係で二分割され、ただでさえ少ないなのに、ひとクラス半の人数でその高石中学校に乗り込むことになった。
兄ちゃんがケンカに滅法強い宇田君や、巨漢の三塩君がいるから大丈夫だよな、大丈夫だよな、と互いに言い聞かせて、最初はみんなで小さくなっていた。
ところがそんなことは杞憂で、同じ市内の学校なので、羽衣小、東羽衣小の連中とはすぐに仲良くなった。
ただ、上の学年は怖いは怖い。野球部がやたらとマッシブな雰囲気で、狭い運動場の一角を綺麗にグランド整備し、少しでも入ろうものなら怒鳴られる。打球は飛び放題、ストレッチをしていると、ライナーが後頭部に直撃したこともあった。
生意気だというだけで、一つ上の学年の奴らが教室に乱入し、宇田君が目の前で殴られるという事件もあった。
ひどいいじめはなかったが、やはり余波はある。
例えば、担当の先生が休みの自習時間。
騒ぎまくっている教室で誰かが、
﹁なんで今日、三宅先生休みなん?」
﹁なんでやろうなあ。昨日はなんもいうてへんかったで」
﹁病気なんか」
﹁知らん」
すると事情通が、ことなげに答える。
﹁今日なぁ、裁判で証言しはんねって、三宅先生。担任やったんちゃうか」
いじめの公判はまだ続いていたのだ。会話が聞こえていた周囲が、静まり返る。三宅先生は普段は優しいが、怒るとどぎつい。それに、どことなく、影もある。決して触れてはいけない、暗黒面を抱えているのだ。
私だけでなく、みんなもその殺気を、日頃から感じていた。
﹁さ、ちょっと課題やろか…」
逝ってしまった者が、もちろん一番辛かったはずだ。しかし、残された生徒も先生方も、みな一様に、どこか傷ついていたと思う。
卒業生がバイクで運動場に入り、飛び出した先生と言い争い後、パラリラパラリラと去っていく、お約束の儀式もよくあった。あれも一種のヤンキー的レクイエムだったのかもしれない。
自殺を知っている最後の学年が卒業する頃、あの一番恐ろしい野球部の部長が、僕らの教室に現れた。
授業中である。そして、教壇の井上先生に、
﹁相撲を取ってくれ」
突然、一番申し出た。
驚いたことに、イノセンは動じもせず上着を脱ぎ、廊下で四股を踏みはじめた。
アゴ&キンゾーのあご勇激似の部長さんも、力足を踏んで、見合って見合って、顔を真っ赤にして、イノセンとがっぷり四つ、突き当たる。
それは半分、冗談のようでもあり、魂と魂がぶつかり合い、触れた痛みで、互いに何かを確認し合うような、奇妙な取り組みであった。
みんなは笑っていたが、私は「先生、体張ってるなぁ」と密かに、敬意を抱いた。
今思えば、あの廊下相撲は、大事な何かを失った者同士の、喪の祭儀だったのかもしれない。
あご勇の部長はイノセンを投げ飛ばすと、何も言わずに階下に消えていった。
祖母の妹だから、大叔母と呼んでいいのか。
まあ、若かったから、おばちゃん。千恵子という名であったので、呼び名は、ちぇーちゃんのおばちゃん。
ずっと独り身で、泉大津の隣の忠岡町に住んでいた。それが、病気をしてから、高石に引っ越してきた。
電電公社、のちのNTTに勤めていて、羽振りはいい。その昔、電話交換手という職業は、女性の仕事では花形であった。お酒が好きだったから、毎晩近所のスナックを飲み歩いていたらしい。
スーパーのライフにあったカメラショップと付き合いがあり、新しい家電を勧められては、次々と購入していた。ビデオも、最初は確かベータ(β)であった。ソニーの8ミリビデオやワープロも「貸す」という名目で、僕ら兄弟に買ってくれた。
私は字が汚かったので、使っていいと渡されたシャープ「書院」は嬉しかった。高校時代は村上春樹に影響を受けまくっていて、早速、一人称の語り手「僕」を仕立てて、小説のまねごとをどんどん打ち込んだ。
一作目は親友の女の子が自殺して、その霊と交感するホラー。二作目は春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を、もろにパクった核戦争後(世界の終り)の物語。恋人を殺された主人公は、複葉機で自分の街を焼き払う…。
それはともかく、ちぇーちゃんは、どこかひねたようなところがあった。親切なんだか意地が悪いんだか、よくわからない。時に子どもに対しても、辛辣なことをいう。大阪弁でいうところの「難儀な」おばちゃんだった。
退職した年の五月に、その大叔母は心筋梗塞で倒れた。
大学の事務に無理を言って、学割を即日発行してもらい、山梨から東京経由で急ぎ帰阪した。
途中、嫌な予感がして、新宿駅南口の公衆電話から実家にかけると、
﹁お前、もう遅いぞ」
親父が電話口に出た。何もしないオトンが留守番ということは、そういうことだ。
そうか、もう遅いんか、重い受話器を置き、構内でよろよろと歩を緩めた。あわてることはない、もう遅いんや。
三ヶ月前に祖父が亡くなって、専攻科の最後の講義を休み、同じように大阪に帰った。年明けには、関西では大きな地震もあった。一九九五年は、辛い年であった。
こういうことは、なかなかわからない人がいるので書き記しておきたい。
いわゆる、あとのことだ。
亡くなった本人に子どもがいない場合、最終的には甥っ子、姪っ子がその後始末を行うことになる。ちぇーちゃんは気の毒なことに、リタイヤしてすぐに倒れたので、退職金が丸々残っており、幾ばくかの財産のようなものもある。
子がいなければ、相続人は親兄弟や親にさかのぼる。問題は両親(つまりは私からすると曾祖父母)が、死んでいるか否の確認である。
生きてはいないが、百五十年経っている訳でもない。行政的にも、中途半端な年月だ。結局、私の母がその証明のため、近くの和泉市だけでなく、和歌山の本籍地(海南市)まで証明書を取りに行っている。
結局、姪が肩代わりだ。
大阪弁でいうところの、あーめんどくさ、難儀なこっちゃ。
さらに、さかのぼって。
亡くなった直後は、悲しんでいる場合ではない。葬式の準備が慌ただしい。下手に銀行に死亡届を出すと、名義などすべて書き換えねばならない。
当面なんやかんやで現金があったほうがいいので、本人の口座からとりあえず下ろそうということになる。
ところが、暗証番号を聞いていたはずのオカンが、その四桁を思い出せない。何やったやろ、誕生日とちゃうんか、とみんなで困っていると、突然次弟が、
﹁多分、8442、や」
青ざめた顔でつぶやいた。
﹁なんで8442やね」
﹁早よ死にって、おばちゃんいうとったわ」
全く、冗談のキツイ人であった。
みんなでゾッとしながら、その口座からは全額下ろして、事なきを得た。
まだ、後日談はある。家は処分しなかったものの、遺品は整理した方が良かろうと、母が着手しはじめた。
もともと高石に越してきたのは、姪っ子である母を頼りにしていた側面もあった。最後まで、面倒を見てやろうということだ。
一人暮らしなので、家財道具は少しだった。ところが、タンスは七棹ある。全部着物が詰まっていても、これまた散財で困るが、一つには全部内祝いや香典返しの未開封タオルが詰まっていたという。泣くというより、これは笑うしかないやろ、とオカン。
株券は給与明細の紙屑の中にまぎれており、宝飾類もタンスに無造作に仕舞われていた。
我らも冗談のキツイ家族なので、ルビーの指環やダイヤなど、形見の四つの宝石を、アミダくじで三兄弟といとこのヨースケで分けた。五連のダイヤは、のちに金のない私の婚約指輪になった。
のみならず末弟が、
﹁あんたら兄弟が国公立の大学に入ったら、ひとり五十万ずつあげるわ」
生前、ちぇーちゃんが口にしていたことを思い出した。三人とも、無名の学校ながら、その条件はクリアしていた。
それはぜひとも、もらおうもらおう。
談判の末、相続人の祖母に母がかけあい、それぞれに振り込んでくれた。
私の場合、卒論を書いた「書院」がさすがに壊れていたので、当時高価だったマッキントッシュと周辺機器を買って、使い切った。
最初に要求した末弟は大学を留年しており、サッカー留学した友人を頼ってのヨーロッパ傷心旅行にあてた。
次弟は堅実に全額貯金したという。
ちぇーちゃんは、眉毛をかいて、いつも化粧をしていた。
今でも眉を綺麗にしている女性を見ると、反射的に、あ、ちぇーちゃんや、と思うときがある。
中学を出てすぐに、どういう経緯か、小学校時代の仲間と集まった。
僕らの周りでは、中卒でヤクザの舎弟になった奴もいる。
そこまで極端ではないものの、高校へはいかず、すぐに働いた友人や、十代やそこらで、なんと兄弟で店まで持った者もいる。
たまたま話したのは、タバコの話だ。
高校進学組は誰も吸っていない。就職組は、みんな吸っている。
面白いのは、働いているのでタバコはオッケーだが、親の前で吸っていいウチと、ダメな家庭があったことだ。
﹁おれんち、ええで」
﹁いや、ウチはあかん。何でか」
色々なルールがあり、家庭により作法があるのが面白かった。
口では偉そうに言っても、結局誰も他人のことなど分からない。
インテリが多様性だなんだと熱弁していると、アホかと思う。
他人の、生き様が知りたいか。
なら、まずは地元の友だちに聞けよ。
毎晩バーで飲んでいると、ずーっとしゃべっているわけにも、ずーっと飲んでいるわけにもいかないので、自然と吸うことになる。
私も十年ほど吸っていたが、結婚を機にやめた。
夢の中で、たまに猛烈に口にしたくなるときがある。あれは不思議な幻覚で、目ざめてもその習慣が戻ることはない。
葉巻は、たまにバーで吸う。
しかし、オレは家では吸わん。
だんじりといえば、岸和田が全国的にも有名である。
近いんでしょ、とよく言われるが、我が街はそこから少し北側に位置する。南海本線で七駅ほど、離れている。
地元・高石でも今までの花車(軽トラを飾り付けたもの)を廃し、岸和田に続けとばかりに、本格的な地車を買う地区が増えてきた。
ちょうど中学生の頃だ。
私の住む五区では、小さいながら数百万出して、新品を購入した。
これを曳き回すには、若い力が必要になる。そこで、今までなかった青年団の結成が画策される。
いつもの太鼓と笛の練習の後、青年団の初会合が予定された。その晩は、二十代の連中がなぜか、小中学生を一時間早く招集し、乗り込んできた。
﹁祭りに、オッサンらがいっぱい来て、威張っとったら、嫌やろ」
﹁まあ、そうですねぇ」
﹁小学生と話なんか、合えへんで」
﹁はあ」
﹁ほんなら、青年団の資格は、三十歳以下って、みんなで言うてくれるか」
﹁どうゆうことですか」
つまり彼らは、青年団を乗っ取るクーデターを企み、早めに出張ってきたのだ。
今まで子ども相手の花車だけで、われら高石は本場の岸和田に遅れをとっていた。待ちに待った青年団が、はじめて動き出す。口うるさい年長者は、この際、排除しておこうというわけだ。
僕らは、太鼓叩いて笛吹いて、だんじりに乗せてくれれば、それでいい。面倒な大人同士の争いに対して、特に意見はなかった。
﹁いやぁ、三十以下でしょ」
﹁三十くらいまででしょうね」
﹁僕らと年齢が近いとすれば、三十歳くらいですかね…」
おじさんたち(三十以上)の落胆の色が、目に見えて広がっていく。
会合が始まり、青年団の資格について話が進むと、打ち合わせ通り小中生から、ドント・トラスト・オーヴァー30な発言が続いた。
三十以下でしょ、三十以下でしょ、三十以下でしょ…。
最後に私の番が回ってきた。
おっさんたちが、オレの発言に注目する。
﹁ま、三十以下でしょう、ね」
とどめを刺されたおっさんたちは、相談役と書かれたタスキをかけられ、地車の後ろを練り歩くことになった。
僕らは岸和田のようにだんじりの屋根で、うちわを持って舞った。
信号機が頭上をかすめる。
それは、恥ずかしいような、誇らしいような、とにかく眺めのいい景色だった。
新任の梅ちゃんが、陸上部の顧問に就任した。
弱小クラブだったのに、なぜか僕らの学年は二〇人以上の新入部員が集まった。
私の短距離がまあまあ。アチョー(あだ名です)は、のちに長距離走で全国大会出場を果たすくらいなので、最初から目立っていた。先輩でもハードルで速い人がいて、それなりに部は盛り上がりをみせる。
はりきったのは、梅ちゃんだ。
当時としては珍しく、イメージトレーニングの指導をしてくれたり、ウェイトの道具をそろえだしたりした。予算が急につくクラブでもあるまい。全部、梅ちゃんの自腹だったのではないか。
ドンカマ(リズムマシン)まで使った踏み台昇降の反復メニューには、みな感動した。
﹁君は今、オリンピックの大会場の、ど真ん中にいる」
こんな風に始まるイメトレの方は、みんな爆笑して真面目に取り組まなかったが、今思えば先進的な取り組みだ。
やがてクラブは、アチョーの三〇〇〇メートル全国大会出場で、学内でも一目置かれるようになった。キタニ家は次弟も末弟も、三兄弟で入部して、みんな梅ちゃんのお世話になる。
梅ちゃんの若ハゲは、槍投げのヤリが後頭部に突き刺さったときの後遺症だと、誰かが言っていたが、多分嘘だろう。
そんなしょうもない中学生のからかいにもめげず、よくやってくれた先生だった。
僕らは、梅ちゃんが顧問の初年度生である。
むこうも思い入れがあったのか、卒業のとき、みんなに箱入りのプレゼントをくれた。
当時は、いただいたものの包みを、その場でバリバリ破るようなアメリカンな文化ではない。
梅ちゃんは、その場で開けて欲しそうだったのに、誰も中身を確認せず、うちに持ち帰ってしまった。
家族の前で包装を解くと、それは卒業記念のトロフィーだった。
みんながみんな、アチョーみたいに大舞台で活躍したわけではない。そこで梅ちゃんは、部員全員にそれを用意してくれたのだった。
あの場で開けて、もっとちゃんとお礼を言えばよかったなぁ…。
大学入学時は、意外に文学に燃えていた。
この世界で生きていこう、たくさん作品を読んで、小説を読み解く秘鑰を手にするのだと意気込み、友人の高野と「読書会か、研究会に入ろう」と話していた。
高野(たかちん)は元ヤンキーなのに、敬愛するのは加藤周一だった。酒に誘っても、あんまり飲まず、部屋でドストエフスキーばかり読んでいるちょっと変わり者である。
二人で狭いキャンパスをうろうろしていると、
﹁僕は君みたいな子を探していたんだ」という惹句が目に入った。
島田雅彦『亡命旅行者は叫び呟く』の一節だ!
なかなかいいブラックなセンスなので、二人で研究室のドアを叩いた。
﹃亡命旅行者』の主人公キトーは、このセリフの後、ロシア人女性に乱暴狼藉を働くのだが、僕ら新入生は暖かく迎えられた。
学部公認の研究会だけあって、初回は金子博先生が登場された。先生には、のちのちゼミでお世話になる。
この日は初見で太宰治『魚服記』を取り上げ、スワという少女の二つの「死」をどう読むのか、というかなり難解なお題に取り組んだ。「疼痛」というセクシャルなワードを、私も高野も作品に即して(近親相姦)解釈できたので、妙な自信になった。
コーチ的な卒業生が一人、四年の先輩が二人、三年生が一人、二年生が二人在籍している。
やがて僕ら新入生六人が入会して、一気に大所帯になった。
毎週火曜日の夕方四時半から、だれかがレジメを切って短編小説を読み合う。長編を扱う場合は「文庫本を買って、読んでおいてね」と一ヶ月前から発表者が予告する。
あつかう作家に、特に取り決めはない。向田邦子から、翻訳のアガサ・クリスティーまで、いわゆる純文学でなくてもいい。
準備はただ、小説を読んで所感をまとめておくだけである。それも間に合わなければ、火曜当日に洗濯物を干しながら、下宿の屋上であわてて掌編をめくった。
文学部というのは不思議な稼業で、たくさん小説を読んでいる奴が一番偉いのだ。
あの頃、完全に「自由」だった。
年をとってからでも、金を払ってでも、生まれ変わってでも、あの屋上で小説を読む感覚――つまり、大学で学問する自由の享受――は味わうべきだと思う。
近代文学研究会というお堅い名前だったのに、先に述べたように、作品は何を取り上げてもよかった。私の最初の発表は、近親相姦がテーマのえげつない夢野久作『瓶詰地獄』だった。
研究会の後は、先輩が飲みに連れて行ってくれる。その後はだれかの下宿で二次会、文学談義となる。一年生で早々に、彼女に振られた孤独な青年にとって、火曜日は待ち遠しかった。
少人数しか集まらず酒が入らない夜は、シビックの中古で、河口湖までドライブに繰り出す。
車の持ち主は、一つ年上の清楚なお嬢さんである。彼女は小田和正の大ファンで、私もオフコースのコピーをしていたとカミングアウトすると、この日は「君にmerry X'mas」をかけてくれた。
ボビー・コールドウェルも、ジャジーなアレンジでカバーしている切ないバラードだ。冬の河口湖の底冷えする空気感に、後期オフコースのデジタルで、つめたく、非人間的なテイストはいかにも似つかわしい。
寒い夜には、切なさに満ちた文学青年時代を、たまに思い出す。
入学式が終わってから授業が始まるまで、やや時間がある。
都会人ぶるわけではないが、何もないこの街は、淋しい、なんてもんじゃない。野山が近すぎて、人間の営みがかすんで見える。灯りのない荒涼とした景色と、光明が見えぬこれからの学生生活の不安が、見事に重なる。
大学パンフレットには、富士山がデンと構えていた。しかし、この山間部からは、頭ものぞかせない。こんなに近いのに、周りの山が大きすぎて、古い宿場町からフジヤマは全く見えないのだ。
別に霊峰富士に憧れなんぞないが、これはひどい詐欺、誇大広告だ。
おまけに、異様に日没が早く、夕暮れの時間帯がない。寂寞とした無情の世界が、悔恨とともに心象に広がる。
どうしてオレは、こんな大学にしか入れなかったんだろう。
クヨクヨとくだらないないことを考えていると、突然夜の訪問者が、ひっきりなしに下宿のドアをノックする。
いろんなサークルの男女が、まとまってやってくるのだ。
この数日続くスカウト活動は、オルグと呼ばれていた。勧誘だから、そういう呼び方でいいが、どうも社会運動臭が強い。創立時には激しい学生運動があったと聞くので、やはりサヨク勧誘の名残という感はある。
まあ、さびしくなっている下宿生が、逃げ出さないための知恵、共同体維持の自衛策なんだろうけど。
オルグといえば、今の職場では逆オルグがあった。
新人の頃、大御所の先輩に一席設けてただいた。サシである。懇意にされているとかで、和食のうまい店だった。
大先輩は日本酒、私はひたすらビール。
別に話が盛り上がるわけでもない。何か言いたそうだが、
﹁さ、この穴子の天ぷらも食べなさい」
なかなか本題に入らない。
非常勤の頃からお世話になっていたので、のこのこついて来たが、この会には何かある。
ただほど、怖いものはない。
﹁ところでキタニさんは、党には誘われてはないのか?」
﹁党って、アレですか。それはないですね」
﹁丸山君は?」
同期の女性のこともたずねられた。彼女は女子大を出たての新卒だ。
﹁Oさんとか、Yさんからも、そういう話はないか」
﹁全然ないです」
﹁ちょっと『赤旗』の日曜版だけ取ってくれとか」
﹁ないですね(笑)」
先輩は杯を静かにテーブルに置いた。
﹁…そうか…それは、よかった…」
実はこの先輩、極めて政治的な方であった。天ぷらを食べさせてやるから、手下になれ、とでも言われるかと思い、後半は気が気でなかった。
﹁キタニさんや丸山君が、もしも軽く見られてたら、誘われるかもしれんと、心配してたんだよ。そういうとんでもない奴らが、うちの職場には多いからなあ」
ありがたい逆オルグであった。
以来、マジもんのオルグがあるかと期待したが、一切誘われることはなかった。
三島由紀夫でさえ共産党に勧誘されたと書いていたので、全くアプローチがないのは知識人として、失格という気もする。なんか、淋しいぞ。
いつでも、下宿で待ってます。
いくつかの単位を落としながら、大学一年生を終えた。
春に帰阪したときのことである。
昼間から親父とビールを空け、オレ二十歳、オトンがまだ五十代で、消費量はまさにピークであった。
アルミ缶のピラミッドが、布団を払ったコタツに出来上がったところで、オトンがふと口を開いた。
﹁お前、教員免許は取っとんのか」
﹁いや」
元々、他人に説教をかますような仕事は嫌だったし、誰がどう生きようとオレには関係ないと思っていた。だから、教育系の大学に通っていたものの、教師になる気など、さらさらなかった。すると、
﹁お前みたいな三流大学で、教員免許取らんで、どうすんね」
さらりと、親父は言ってのけた。
二人とも酔っている。
反射的に「なめとんのか」と拳が出かかったが、よくよく考えると正論中の正論だ。
﹁そうですね、お父さん」とばかりに矛を収めて、妙に納得してしまった。
学校を出て、何も資格を持っていないというのも、不安であった。
﹁ほな、四月から取るわ」
﹁そうせい」
ただし、新学期からが大変だった。
例えば、一年次に取っていた「日本国憲法」などいくつかの講座は、教職単位に読み替えができた。だが、国文学科のみんながさっさと履修していた「書道」や、他の教職教養は受けていない。
当時付き合っていた彼女と別れて、顔を合わすのが嫌で放棄した必修英語の再履修など、バカなことも重なり、忙しくなった。
二年生はそんなこんなで、単位はボロボロ、切羽詰まってきた。
﹁キタニくん、教職はあきらめたら?」
いつしか私の教員免許は、気球の砂袋に例えられた。捨てれば、浮遊(卒業)できるのだ。そんなもん捨てればいい。捨てなはれ。
同じ学部の真面目な学生は、教職(中高の国語免許)だけでなく、副免(小学校の第二種免許)も取っている。さらに、図書館司書や学芸員まで取得する者もいる。大抵は、女子学生だ。単位欠乏症の私からは、考えられないことだった。
意地になって、ついぞ砂袋は捨てなかった。地面に何度もこすられながら、無事に四年で学部は卒業した。
﹁教師なんぞやるのは、中の下だ」
あれは大学で職を得られぬ自分へのひがみも含まれていたのか、酔っ払って、親父がそんなことを言った。
﹁お前、弟にはそういうこと言うな。あいつはもう保育士になることに決まっとる」
それだけ言って、そのときも親父をぶちのめしていない。私が大学院に逃げていたときのことだ。今は、その言葉の通りだと思っている。
﹁俺みたいな三流大学だと……誰が三流大学やねん!」
そんなノリツッコミをかましながら、教壇に立っている。
内面は疲れ果て、いまぼくたちは永遠に魂を失う
――ジョイ・ディヴィジョン『ディケイド』
苦しみや悲しみは、ないに越したことはない。そう思う。
つらい体験が、逆に「いい経験になった」的な言説を、私は絶対に認めたくない。
しかし、精神的な病を得たことをきっかけに、カウンセリングや臨床心理に――書物ではなく、生の体験として――少しでも触れられたことは、自分にとっては、やはり幸せなことであったと言わねばならない。
その邂逅は、驚天動地の認識の転換、コペルニクス的転回であった。
人生の落とし穴にはまり込んだことによって、世界の見方が、まるで変わってしまったのだ。
カウンセリング体験を、例えるならこうだ。
今まで生きてきた世界が一つの部屋だとすると、その壁が抜けて、まるでもう一つ同じサイズの部屋が出現したようなのだ。
あれ? もう一つあるのか? と驚くとともに、その部屋が、確かに最初からそこに存在していたことに気づく。勝手に今ある場所を、唯一無二だと思い込んでいただけで、私が住んでいた世界は、その半分にすぎなかったのだ。
しかも、それは下手すると、全く新しい自分を見出せる別天地であった。
新世界の存在に、気づかないまま生きていたとしたら、それは人生にとって、大きな損失だったろう。この発見がはたして「いい経験」だったかと問われれば、答えるのは難しいが。
パニック障害の症状が職場の教室でも出てしまったので、親しい同僚が勝手にカウンセリングルームの予約を取ってくれた。
掟破りなやり方、である。
本来、スクールカウンセラーは生徒と保護者のためにあるからだ。
その設置が文科省によって制度化され、本校でも二〇〇一年から「ほっとすルームKIDUKI」が開設されている。
KIDUKIとは地名(木月)であり、「気づき」でもあり、「キッズウキウキ」「勇気」のカルテットの見事なネーミングだ。
最初はK先生だけの、たった一人のスタートだった。先生は、教員会議で紹介されたときも、折々の会合でも、常に慈愛に満ちた笑みをたたえ、余裕を感じさせる女性であった。
その笑顔に安心感があっただけに、逆にカウンセリングとは、人心を惑わせる黒魔術的なものなのではと、余計に警戒していた。
中高生にカウンセリングルームに行くことを勧めると、拒否されることが多い。あそこに行けば、「人生終わり」だと、彼らは思っている。
今から思えば、私の認識もこのレベルの完全なる偏見、ありえない誤解を抱いていた。
力をお借りするだけの、知見がなかったのである。
繰り返しになるが、教師が個人的に話しに行くのは、ルール違反だ。
しかし、親友に無理やり連れて行かれたことで、魂の対話はそこから始まった。
その頃、長年悩んでいた苦しい恋愛が、破滅的な最期を遂げ、息絶えた。
あまりに傷が深いと、痛みはすり抜けてしまう。
桎梏から解放されたと、身体が勘違いして、失恋の悲しみにひたることなく、突如、躁状態になった。
部屋でウジウジ泣いていればよかったのだが、毎晩飲み歩き、大言壮語、大ボラ、永遠の漫談を、千日回峰行のごとく夜の街で敢行した。
芸の肥やしとばかりに、いくつものバーで千の恥をかいた。連日のバカ騒ぎの中で、魂は彷徨し、おそらく疲れ果てていた。
立ち止まりたいのに、間寛平のコントの爺さんのように、止まれないのだ。停止はすなわち死であり、敗北の受諾を意味した。
だから、俺は走り続けるしかなかった。
バーのカウンターで「止まったら死ぬんじゃ〜」と、寛平ちゃんのように叫びながら。
パニック障害とは、心と身体の空中分解だと思う。
心は、肉体ほど丈夫ではない。
その後、パニックから軽い鬱へとフルコースが待っていた。
鬱病に陥ったときにはいろいろ読んだが、鶴見俊輔の自己分析が一番しっくりきた。彼は自分のメランコリアの原因を「理想と現実」だと、言い切っていた。実に明快な捉え方である。
ギャップのはざまで、人は自分の心を押しつぶす。
私にも確かに、理想はあった。目の前の、無残な現実は耐え難かった。
カウンセリング体験を、先に別部屋だと書いたが、そこでは日常の世界では、決して使わない「魂」という言葉をK先生が口にされ、私は驚いてしまった。魂が疲れ切るとか、すり減るとか。
私は、人間の心の動き(意識)が、脳内の電気信号に過ぎないということを知的に了解している。しかし、同時に、我々の魂はタンパク質を通る電流などでは、断じてないとも思っている。
魂は、そんな記号式で表されるものではない。科学的な解釈では、どうにもならないのが、僕らの心のあり方である。だからこそ、「魂にメスはいらない」のだ。
自分が暗闇に落ち込んで、はじめてわかった。すべての人間は、病み衰え、ときに立ち上がれないほど、魂が疲れ果てることを。
やがて、魂の疲弊した少年を担任として受け持つことになり、自分が病んでるだの何だの、言っていられなくなった。他人を救うことによって、自分が救われる。これは極めて有効な治癒法である。
教室に入れない彼とは、カウンセリングルームでK先生を交えて、三人で談笑した。
昼間の空き時間を利用しての面談なので、クラスでは普通に授業が行われている。思えば、特別な時間だ。
当時、小泉純一郎首相が主張する自己責任論が話題になっていた。イラク武装勢力の人質となった邦人に対し、公費で身代金を用意したことに世間の批判が集中していた。
﹁自己責任なんか、取れるわけないじゃないですか」
学校に行けないことを、当然気に病んでいたのだろう。彼は人質となり、吊るし上げられた彼らに感情移入し、日頃からの不満を遠慮なくぶちまけていた。
誰も自分一人で、己の責任など負えるはずがない。K先生も私もその意見に同意した。
彼にとっても、いわば「大人の会話」ができる場所であった。幸い、彼はこのあと「ほっとすルーム」を「卒業」することになる。
自分も含めて、どうして辛いはずの人間が、カウンセリングルームに行くことを嫌ったり、拒否したりしたのだろうか。
カウンセリング体験という非日常の世界は、他者としての自分の存在を、再発見できる場所であるのに。
さて、私の恋愛をめぐって。
カウンセリングの中で、まとまって話すタイミングがめぐってきた。
昨年突如、一緒になれないと告げられたこと、彼女に全てを賭けていたこと、今の自分に何の希望もないことなど、洗いざらい告白した。
私が話しおえると、K先生は一呼吸間をおいて、
﹁そう、くやしかった…のね」
そのまま、私の地獄を総括してくれた。
言われた瞬間、私の感情は決壊し、男泣きに泣いた。
それまで、どんなに苦しくても、泣けなかったのだ。涙で浄化されることとは無縁の、荒れた生活の中で、泣くことさえ忘れていた。
カウンセラーは、クライアントのアモルファスな(あいまいな)感情の混沌に、言葉を与える。フレームを手渡してくれる。
そうか、俺は、くやしかったのか。
情けない過去は意味づけられ、少しだけ前を向けるような気がした。
他人の話を聴くということがなかった。
もっというと、相手に寄り添って、その話を聴くということがなかった。
たとえ、それが恋人であろうと、肉親であろうと、ましてや商売相手の生徒であろうと。
カウンセリングを体験するまでのことである。
基本、カウンセリングとは「相手の話を聴くこと」である(『河合隼雄のカウンセリング入門』)。
技術的な話をさらに整理しよう。
まずは、他人の話を聴くための、時間設定である。
プロでも集中できるのはせいぜい三十分、長くても一時間らしい。
だから「素人」の学校の先生が、延々生徒の悩みを聴いたり、電話で二時間話したりするのは、教師の独りよがりなのだ。
K先生のカウンセリングは、六〇分がワンセットと決まっていた。
ところが、クライアントはなかなか本音を言わない。
ジャック・ラカンは、患者が決定的なことをいうのは最後だと見抜いており、精神分析のセッションを短くしたらしい。カウンセリングは精神分析とは違うが、おそらくクライアントは、最後まで核心を語らないのではないか。
私はその日のセッションで、
﹁愛する人を失った僕は、彼女のいる東京にいても、意味がないんです」
というふうに、自分の本音と呼べる内容を、最後の数分で話した。もちろん「最後に話そう」などと、クライアントは意識はしていない。
するとK先生は、
﹁そう思っているんですね……。それでは、時間ですから、今日は終わりましょう」
急にその話をやめてしまった。
その時は正直、なぜ最後まで聴いてくれないんだと、反発したのだが、あとあと考えると合点がいった。そこで、全てを聴いてしまったら、ダメなのだ。
これはなかなかに難しい問題で、人間には掘ってはいけない堀り方、くり抜いてはいけないときがあるのではないか。あの時はまだ、機が熟していなかったのだ。
実際、同僚がある生徒の話を二時間聴いた挙句、最終的に面談室で暴れられたというケースもある。
時宜を問わず聴くのは構わないが、深い井戸を掘り進めて、それを一体誰が埋めるというのか? この視点なくして、悩みなど、生半可に聴いてはいけない。
そう、親父も言っていたことで、考古学の世界でも、すべての遺跡を発掘することが正解ではないという。与えられた条件で仮説を立て、実際豊かでクリエイティブな研究や解釈が、生まれる場合もあるらしい。
カウンセラーは「聴いていない」のではない。K先生はそのときも、おそらく次の予定を決め、時候のことなどを話しながら、私を「現実に戻す」作業をしてくれたと思う。
その上で、すべてを聴かない。素晴らしい技術だ。
* * *
ああ、そんな叡知があれば、彼女を救えたかもしれない。
下宿近くの中央線の駅で、彼女がうずくまって、一時間ほど動けなかったことがある。
多分、彼女もパニック障害を持っていたと思う。そのことを、僕らは多分、何もわかりはしなかったのだ。
心の病についての知識が、まるでなかった。私は、うずくまっている彼女を、初めは酔っているのか、あるいは、ふざけているのかと思ったくらいだったから。
やがて、彼女は心療内科に通いだした。酒も飲まないのに、肝臓の数値が急に悪化し、身体には謎の赫い穿孔が出現した。いい加減な医者が出した、たくさんの薬のせいだった。
彼女も、研究者にありがちな、パニックから鬱病というお決まりのコースを歩んでいた。
期せずして、私も一年後、全く同じ経路をたどることになる。
私は彼女の心の叫びも、自分の声さえも聴くことができなかった。
精神科医はピンキリだという。しかし、カウンセラーは、その何十倍も、それこそ雲泥の差があるという。恐ろしい話だ。
私は、ぬかるみの中でうめきながらも、K先生という素晴らしいカウンセラーに出会えたのだから、幸運だったのかもしれない。
カウンセリングで学んだ具体的な智恵として、自律訓練法がある。
これはパニック障害に対しては、極めて有効な自己催眠の呼吸法だ。
普通に椅子に腰を下ろし、目をつぶる。
身体の力を抜いて、手は軽く握り、膝の上に置く。
あとは、カウンセラーの指示に身を委ねる。
﹁気持ちが、落ち着いている」
﹁気持ちが、とても落ち着いている」
﹁だんだん、両手が重くなる」
﹁手の先から、体が温かくなる」
などと声をかけられる。数分だろうか。
我流でやるよりは、プロから直接教えてもらった方がいい。
やがて、自分でもコツをつかみ、一人でもできるようになる。
今でもごくたまに、息苦しく感じるときや、眠れないときには、布団の上にあぐらをかき、やってみる。
この呼吸法を体得したおかげで、妙な自信と安心感がある。どんな鎮静剤やドラッグよりも、確実な安全弁だ。以来、財布にデパス(抗不安剤)を入れることはなくなった。
オレはもうどんな迷路でも、抜け道を見つけられるのだ。
ケミカルでなく、諸君、ナチュラルに行こう。
九十八歳で大往生した祖父は、一九〇〇年生まれで、ちょうど前世紀と生涯とが重なる。
名は丈吉といい、養子で円満家から喜谷家に入った。
兵庫県は万願寺出身、円満丈吉という元の名は、何だか運の良さげな名前である。
確かに、運はいい。
この国は百年間、戦争だらけだったが、このじいさんは兵隊に取られていない。日露戦役時は幼すぎ、シベリア出兵も若すぎ、日中戦争、先の大戦では、すでに壮年に達し、赤紙はついに来なかった。
母方の祖父母は、その青春をもろ戦争に奪われた世代である。年が二十年ほど違うと、二十世紀少年の人生はこうも変わる。
学校は尋常小学校しか出ていない。あとは農家をやりながら、日本酒のラベルなどを描いていたらしい。奇抜なところなどは、全くない普通の人だ。しかし、得体の知れないところがあった。
母方のじいちゃんが、いつも派手に小遣いをくれるので、里帰りのとき試しに、
﹁お年玉ちょうだい」
兄弟三人でねだったことがある。祖父は意表を突かれたようで、しばらくして、
﹁…五〇〇円くらいで、ええか…」
今度は僕らが絶句して、丁重に辞退した。
どうも、子どもに「小遣いをやる」という文化はなかったらしい。
そのくせ、一番上のオジキと、三男のオトンを京都の大学に行かせたわけだから、不思議な人だった。
不思議といえば、そのオジキが戦時中、少年航空兵に志願しようとしたのをやめさせ、
﹁他のことでも、お国のためになることは、あるんやないか」
祖父はこうなぐさめて、諦めさせたという。
少年航空兵といえば、軍国少年の憧れの的である。事実、合格した岸呂のおっちゃんは、証書を戦後わざわざ復元して、居間に飾っていた。
皇国の兵ではなく、他の道で生きろというのは、ドラマに出てくるような非国民的発言だ。
やはり、ただ者ではない。
ついぞ小遣いはもらえなかったが、祖父は我ら三兄弟に掛け軸を描いてくれた。私には鍾馗さん、次弟は干支にちなんで寅、末弟はキタニの紋である井桁が入った武者人形。
金はくれないが、アートの大盤振る舞いだ。
オジキはその血を引き継いで絵描きになったのに、私は残念ながら絵心がない。
祖父が亡くなったのは、二中高に講師で赴任した年の、ゴールデンウィークだった。一時は老人ホームに入っていたが、周りがボケているのに「自分だけ明晰なのがツライ」と、最後には北条の家に戻っていた。
体つきは農民らしく、がっしりしている。
九〇を過ぎていたあるとき、長生きの秘訣を聞いた。
﹁あんまりクヨクヨせんこっちゃな」
あとは、何かないですか。
﹁わしゃ、食事んときに、あんまり汁物を飲まへんのや」
今考えれば、よく噛め、ということだと思うが、味噌汁の塩分を控えろ、とも取れるので、真意は分からない。酒もタバコもやっていたので、特に健康を気にしている感じでもなかった。
もっと話しておけば、よかったかもしれない。
葬儀は、まるでお祝いのようだった。
棺は紅白の布にまとわれ、近所には餅がまかれた。街道沿いの喜谷家には、たくさんの人が集まり、見送ってくれた。斎場に向かうマイクロバスからの眺めは、よく覚えている。あれは祝祭の光景だった。
見事な人生でした、丈吉っつあん。
小学生くらいまで、父の実家に帰省していた。加西市北条へは、大阪駅の郵便局前から、高速バスを使うのが便利であった。
しかし、弟の乗り物酔いが激しいため、遠回りになるがローカル線を乗り継いで行くことが多かった。いわゆる赤字路線で、国鉄民営化後、北条線はすぐに廃線となり、レールバスになった。
一番贅沢なのは、新幹線で姫路まで乗車し、そこからタクシーで向かうというコースだ。しかし、これは余程のことがないとやらない。いずれにせよ、大阪から二時間半はかかった。
田舎に帰る前は、それなりにワクワクするが、行っても特に何もすることはない。
正月など、当時はどこの店も開いていない。凧揚げして、田んぼの溝にはまったときは、靴を買う店を探すことさえ苦労した。
盆は御詠歌をあげる。これも退屈でありながら、西国三十三所の全部の寺を回るのは、ちょっとした達成感があった。途中、休憩があって、それもホッとして嬉しい。一番札所の那智山「補陀洛や~」というさわりは、よく覚えている。御詠歌は、節に哀感があって、いい。
あとは、長い長い廊下があったので、チョロQで消しゴムか将棋の駒を倒す。従兄弟のレコードを物色する、いらないステレオをいただく算段をつける、などなど。
飽きてきた頃、大阪に帰る。
初日に必ず出るものがあった。奇妙な郷土料理だと思っていた。
こう、何というか、てっさ(ふぐ刺し)のように、大皿にかまぼこが綺麗に盛り付けられるのだ。有田焼に他の練り物と並べられ、きざんだ野菜の上にマヨネーズがかかる。大人はビールだ。
子どもには、おじいちゃんが焼いた餅に、砂糖醤油がかかったものが供される。大人はひたすら、かまぼことサラダとビール。
毎回、これである。
ずっと後になって母に聞くと、実はあれは大阪を出る前に、なんばの高島屋で買っていったものらしいのだ。みんなが座って、何も出なかったことがあったので、いつしか母が用意して帰るようになったという。
しかし、どうしてもあれは播州の珍しい郷土料理として、記憶の中では凝固している。
オードブルっぽくて、酒を飲むなら、あれでいいんじゃないかな。
平積みされた本の間から、アンテナがついた白黒テレビが顔を出している。坂口安吾の書斎的な居間が、私の原風景だ。
半畳ほどある古墳の航空写真集など、常軌を逸した稀書が棚からはみ出ている。一度出入りの学生さんに数えてもらうと、せまい長屋に二万冊はあったらしい。地方公務員なのに、年間百万単位で書籍購入していたから、オカンは苦労していたと思う。
オトンは若い頃、京都大学の研究室に資料を借りに行ったのだが、やはり毎回頭をさげるのが、嫌だったらしい。そこから、異常な蒐集が始まった。個人がせまい住居を蔵書だらけにする、戦後知識人の典型的にやっかいなパターンだ。自然、トイレと風呂以外には本があふれた。
玄関の土間は板張りに改造され、作り付けの書架が両サイドに配された。
ガラガラと引き戸を開けると、いきなり『国史大系』と『群書類従』が出迎える。
﹁見て下さい。ウチ、本ばっかりでお金ありませんねん」
オカンが一喝すると、訪問セールスは大抵恐れをなして退散した。
おかげで、教員や研究者と呼ばれる人の自宅に上がり込んでも、これだけしかないのか? と毎回妙な不安を覚える。私の基準からすると、どこもかしこも所有する書物が異様に少ないのだ。
この程度で、マジであんたら大丈夫か?
昔、読書家のガールフレンドがいた。それこそ四段の小さな本棚には彼女が愛する批評家、小説家、哲学者、詩人が厳選され、重要作品のみがコンパクトに収められていた。いつ夜逃げを計画しても、わずかな書物をボストンバックに詰め込めばいい。エキセントリックな女性だったが、書架は素敵だと思った。
現在の知的生産というか、研究生活において、個人が膨大な蔵書を持つなどということは、全くナンセンスだ。
今の自分で言えば、書籍は法政大学から学内メールで送られ、ややこしい雑誌や紀要は国会図書館の複写サービスでほぼカバーできる。人文系でも、最新の論文はネットで読める。逆にCiNii(学術情報データーベース)に引っかからないような論文は、現在では価値はないともいえる。
我が書斎はわずか四畳で、隣の部屋に何本か扉付きの書架を配している。まあ、蔵書などと呼べぬ、数千冊レベルの微々たるものだ。
いっそ、全部捨ててしまおうかとも思う。太宰治が持っていたのは聖書くらい、三島由紀夫の蔵書も、書誌を見る限り、意外に少ない。
壁一枚ぶんくらいの本棚で、その数をコントロールしている物書きもいて、ストイックで憧れる。心底、思う。本なんか、いらん。
永井荷風も空襲で偏奇館が燃え上がったとき、内心では恍惚としていたのではないだろうか。
不良と呼ばれる人種を、かっこいいと思ったことは一度もない。
勝手にやってろ、という感じだ。
しかし、一人だけ覚えている「不良」がいる。
陸上部の二つ上の先輩である。
その人はクラブはすでに辞めていて、その辺を女の子と、毎日ぶらぶらしていた。
たまに陸上部をひやかしにやってきて、一五〇センチほどの高飛びを、お前らこれぐらいも跳ばれへんのかと、準備運動もなしに、軽々と背面跳びで、クリアして見せた。
短ランの下の、赤いTシャツも決まっている。あの人、身体能力めちゃくちゃ高いんやけどなぁと、誰かが残念そうに言った。
放課後、その「不良」は女の子と、自転車の二人乗りで帰っていく。
赫い髪の女が、後の席から、先輩の股間に手を伸ばそうとする。
先輩はうっとうしそうに、アホかと払いのけ、女がまた笑いながら手を伸ばす。
一年坊主の僕らはグランド整備をしながら、その姿態を呆然と見送った。
今日、彼らは、どこに遊びに行くのだろうか。
ほんま、カッコええなあ。
関西には、女性に花を贈る習慣はない。
昔、南野陽子さんがラジオで話していた。デビュー当時、業界の男性から突然大きな花束をもらい、赤面したと。
まことに、関西人らしい勘違いである。この場合は、単なる仕事上の御礼だろうが、彼女は重大な愛の告白だととらえたのだ。
つまり西の人間にとって、花の贈与は、ドラマの中の出来事でしかない。
照れくさくて、大阪の男は、そんなことようせんし、でけへん。
しかし、のちに私も東国に下って、花の贈り物に効果があることを、身をもって知ることになる。絶対的な、決定力があることを。
まずは、大学一年生のシクラメン。
しかも植木鉢、である。どうにもダサいが、そのときは、うまくいかなかった彼女に、花屋の店先で見つけたそれを、あげたくなったのだ。
友だちに「彼女引き止め対策費」として五千円借りていたので、二千円のシクラメンを買って、部屋に持っていった。すると、
﹁やっぱり、あなたが一番、私のことを思ってくれてるのね…」
花を手にし、女優体質の彼女は、片目からつっと涙を流し、望外に喜んでくれたのだ。
これが、花を贈る威力なのか!
驚きの攻撃力に、開眼した瞬間であった。
もちろん効果は一時的なもので、やがて女優のベランダには、枯れた植木鉢が放置されることになる。
シクラメンのように、私も部屋から放逐された。
﹁薔薇は、一本か、一〇〇本よ」
サークルの美しい四年生の先輩が、そう教えてくれた。
後日、誕生日が近い彼女に、言われる通り、一本だけ献上した。これも、ひどく喜んでもらえて、私はかわいい後輩を演じることができた。
新宿で買い求めた一輪は、円筒形の透明なケースに収められ、スタイリッシュなプレゼントになった。あの売り方は、他では見たことがない。
ラッピングなし、という上級編もやってみたい。しかし、これは往年のアラン・ドロンか、草刈正雄クラスでないと、無理だろう。
ここは定石通り、きれいに包んでもらおう。
また、あるとき。
横恋慕の彼女に、赤い薔薇を一本謹呈した。もはや、私の得意技である。
しばらくして、彼女はわざわざ写真をプリントして見せてくれた。
﹁見て、キタニくん、ものすごく綺麗に咲いているでしょう」
彼女の部屋に飾られた私の贈り物は、一週間後も燃えるような緋の彩りで、力いっぱい花弁を広げていた。
血の色をした唇が、テーブルの上で不敵に笑っているようにも見えた。
﹁すごく、元気よね」
正直、激しい恋心が見透かされてるようで、自分でもゾクリとした。その想いの強さは、誰よりも花が伝えてくれたのだ。
薔薇の執念のお陰か、この恋は成就することになる。
ただし、鉄壁かに見えたこの作戦に、まさかの死角があった。
花をまったく喜ばない女性が、世の中にはいるのだ。
攻撃パターンの少ない私は、こうなると手も足も出ない。この手の御婦人は、単純に「花より団子」というわけでもない。
実は、男のワタシも、花をもらうのは嫌いではない。
セレモニー的に、全員に渡されるようなものは、もちろん嬉しくもなんともない。
サプライズで、自分だけが頂く花束は、贈り主から大事に思われているようで、逆に感謝の念にたえない。
なぜ、あなたは花を喜ばなかったのだろうか?
大学の授業が始まると、僕らは美少女の部屋に毎夜集まり酒を飲んだ。
美少女とレイコちゃんは、同じワンルームマンションの隣同士で、そこがすぐにたまり場になった。
新入生の中で一番目立つ美少女と私は、この後ママゴトのような同棲生活に入るが、その前のひと月ほどは、大学で出会った新しい仲間四人と、ワイワイ共同生活のようなものをやっていた。
どんな大学であろうと、バンドはやるつもりだった。
だが、メンバーを一からハンティングせねばならず、自分のリーダーバンドの結成は難航した。サークルでは新顔に部内発表くらいしか機会は与えられず、初心者扱いで、フラストレーションがたまった。
期待していた近代文学の講義も、超初級編で全く物足りない。地方の単科大学には、世に吹き荒れるポストモダンのポの字もなく、その代わりにくずし字を覚え、古ぼけた実証的研究の手ほどきを受けた。
唯一の楽しみは、ポール・ボウルズを訳していた一般教養の英語の先生の授業で、村上春樹へのどぎつい悪口に、私だけが笑っていた。
先駆的な表現に囲まれて、日々創造的な自分を拡張していくという、思い描いていた芸術まみれの学生生活とは、相当かけ離れたスタートを切ってしまった。
これでは、まるで亡命作家の流刑地じゃないか。
幼なじみ同士の美少女とレイコちゃんは、東京のとある大学の付属校出身だった。ふざけた浪人生活で没落した私はともかく、彼女らはなぜこんな収容所を選んだのだろうか。
その付属は北関東にあり、首都の中堅大学とこの地味な教育系大学を天秤にかけて、どうも公立というだけで、後者を選んでしまったようだ。
プライドの高い地方の富裕層の子女から、ついぞ後悔の言葉は聞いたことはなかった。だが、内心はどうだったか。鬱屈した表情を決して見せず、軽やかなふりをしている派手な彼女らに、私は救われていたと思う。
とはいえ、まだ恋愛関係になかった男女数人には、やることがない。
娯楽はカラオケ、ビリヤード、バッティングセンターくらい。コンビニはたった一軒で、モテない男子学生たちは、早くもパチンコの沼に引きずり込まれていた。
私たちの日課も、ささやかなものだ。
はちみつレモンに安いリキュールを混ぜ、UNOで負けた後藤くんが、罰ゲームでピザを焼く。映画版ガンダムを、三夜連続で鑑賞する。たかちんの実家から届いたラム肉でジンギスカンパーティー。私のセガサターンでテトリス大会。負けたら玉ねぎとピーマンをスライスし、また後藤くんがピザを焼く。『恋とマシンガン』を聴きながら、毎夜詮ない宴が続く。
彼女らのマンションの裏には、すぐ富士急行線が通っていた。
いい加減な管理で、鉄条も柵もなく、積み上げられた砕石を乗り越えると、軌道に足を踏み入れることができる。大月行きの終電が行き去ったあとは、レールの上からみんなで夜空を見上げた。
街灯の極端に少ない学生街は、天然のプラネタリウムだった。
﹁ここは、星だけは綺麗ね」
少し酔った美少女が、枕木に腰掛けている私の隣に寄り添ってきた。
﹁東京や大阪やと、こうはいかんよなあ」
肩が触れ合った彼女に同調して見上げると、降り注ぐような銀河の光が富士急の線路の上を通過する。
都会の灯が邪魔するぼんやりとした輝きではない。澄んだ空気が、冷たく響くような白色を、小さな星々のひとつひとつに与えていた。
ふと、どうしようもない淋しさと後悔で、胸の中がいっぱいになった。
美少女は不満そうに、レールの上でジグザクにステップを刻んだ。
いつものように、晩飯が準備されてからのことだ。
オカンは夕飯を作るのに、そんなに時間をかけない。
大方が和食で、ご飯に味噌汁、煮付けや焼き物など魚料理が多かった。男三兄弟なので、炒め物、フライや天ぷらもよく出る。
出来合いのお惣菜が出てくることは、ない。マルシンのハンバーグなど、見たこともない。
メインの前に、豆腐がピラミッドのように供される。関西では、納豆は絶対に食卓にのぼらない。酢の物など、手際よく三品ほど並ぶ。
食膳はちゃぶ台ではなく、コタツ机である。フキンでその台を拭くくらいで、兄弟三人、あまり手伝わない。
はいおわった、とオカンがやっとエプロンを外して、家族四人で食卓を囲んだ。
オトンは、神戸までの通勤が約二時間なので、夕飯時にはいない。
箸をつけはじめると、
﹁オカン、来年から「先生」やろうと思うね」
﹁は?」
いきなりの就職宣言がはじまった。
﹁なんやね、急に」
﹁せやけど、お母ちゃん、免許持ってんねで」
﹁先生って、学校の先生か?」
﹁そうや、もう知り合いの先生に、やるとこ探してもうてんねん」
﹁急やなあ、そんなんすぐにできんのか?」
聞けば、非常勤ならば比較的、口はあるというのだ。
父母が社会科の教員免許を持っていることは知っていたが、まさか母までが活用するとは思わなかった。
戦後すぐに生まれた(アプレ?)女性の人生は、二十世紀の歴史的な大変革期と重なり、目まぐるしくフェイズが変化していく。
親の言うがまま私立学校に通った十代がオカンにとっての少女期、娘の時代である。それが十九歳で学生結婚をして妻。大阪市大の夜間で卒論を書き終わる頃、二十三歳で私が生まれて、一気に母に変身。
三兄弟の子育てに一区切りつくのが四十五歳くらいなので、それ以後は、母バージョン2ということになる。PTA会長にも、生活協同組合の理事にも飽きたのか、突然の教員生活は、この時期にあたる。
その後、大学院に入り直し、社会福祉士の免状を取り、介護サービスのNPOを立ち上げた。この「老いじたく」は、さしずめ母の婆ジョン3か。
この道のりは、終身雇用で学芸員として公務員生活を全うした父よりも、起伏に富んでいる。
福沢諭吉は「一身にして二生を経る」と、自らの人生を評した。彼とて前半生は漢学、後半は洋学を修めねばならない激動の世紀を生きた。
でも、まあ男は二つくらいか。
これに対して「女の一生」は、昭和的な古い価値観でも恋愛・結婚・出産・不動産と、目まぐるしくステージが入れ替わる。
これからの人生百年時代、団塊の世代の女性の生き方は、男女を問わず、一つのモデルケースになるのかもしれない。家庭や職場というフォーマットにとらわれず、流転していくしかない。
いずれにせよ、母の転身によって三兄弟の学費は尽きることはなかった。末弟は二ダブ、私は三年間「入院」、三人で実に大学は十七年分だ。
オカン、ありがとう。
ハゲタカどもが、鳴き叫びながら、何かをついばみ、争っている。
東京に越してきた朝は、その声で起こされた。
いや、嘘をついた。
登戸、武蔵中原、新丸子と部屋を借りたのは、いつも多摩川沿いの神奈川県側である。
首府に居を構えたことはない。
その向こう岸に、初めて移り住んだ日のことだ。
鉄筋で階下が作業場のマンションは、登戸駅前にあった。玄関のドアを開けると小田急線のホームが見える。
なぜ、そんな場所でハゲタカが騒いでいるのか。
まるで『北斗の拳』か、黒澤明『羅生門』ではないか。
死体を喰らい、群れは順を待ち、悠然とマンションの上空で弧を描く。
散らばる骨、砂塵、ざらついた風。
やがて、寝ぼけた妄想から覚めて、その鳴き声はカラスなんだと気づく。
学生時代を過ごした山梨にも、故郷の大阪にも、あの嫌われ者は存在しなかった。
大阪は緑が少ないせいか、街中でその姿を決して見ることはない。
好きな人を追って、出てきた東京(もとい登戸)だったが、不吉な未来を暗示しているようで、寝覚めは悪かった。
どうしてそんなに、カラスがたくさんいるのだ。
﹃北斗の拳』の世界には、マッチョか、彼女のようなグラマラスな美女しか登場しない。なぜなら、他はみんな死に絶えているからだ。
オレはこんなハゲタカが飛び交う世界で、生きのびることができるのだろうか?
待ったなしの、就職試験である。
私は来年三十歳になろうとしていた。若い頃は、定職や金のことなど考えたこともなかった。
就職? はぁ? 関係ないね、とうそぶいていたが、世間という水位は確実に私の体を浸し、二十代の終わりには、首までつかろうとしていた。
ぶくぶくと息ができなくなり、観念した私は、真面目に職につくことを考えるようになる。
田舎の大学院を無駄に出た、文学部出身者の就職といえば、教員しかない。団塊の世代が大量退職するのは、まだ大分先の話だ。
そうそうチャンスは回ってこない。
そんなご時世で、非常勤で使ってもらっていた学校に、新採用があった。
千載一遇のチャンスである。
一次試験には教室三杯分の受験者があふれていた。こいつらを乗り越えなければ、オレはずっと素浪人のままだ。
全員ぶっ倒すつもりで気合いを入れ、集中力を高め、やるぞやるぞやるぞやるぞと、どこかの教祖のようにつぶやいていると、隣席から、
﹁あのーあのー」
間延びした声が、聞こえてくる。
﹁すいません、消しゴムをひとつ、貸していただけませんか」
開始直前に、驚愕の申し出である。
隣の女性は悪びれもせず、頭を下げる。こいつは、人生崖っぷちの私の気力を削ぎに来た工作員なのか。
試験準備と言えばもちろん、鉛筆五本、消しゴム二つ、シャーペン二本に、鉛筆削りをそろえるのは当たり前だ。コンビニでは、ご丁寧に消しゴムつきペンシルが、試験用としてキャップとセットで売られている。
下宿の机には、これら筆記具と論文用紙、タイマーを設置して、自作の想定問題と格闘してきた。気持ちは、皇国の興廃この一戦にあり、常在戦場、七段構え、背水の陣である。
今日はゲン担ぎで、当然全部新品を用意している。
うっとうしいので、封を切っていない方を渡して、追い払った。
私は意地が悪いので、試験が終わって、その使いさしを返してきたら、
﹁ご向学のために、お役立てください」
とでも言ってやるつもりだった。
それで勉強せい、という嫌味である。
ところが試験が終わると、彼女は書類の不備で担当者に呼び出され、あたふたして、結局消しゴムを返してくれなかった。
あきれた女性がいたものだ。
もちろん、二次試験に彼女の姿は影も形もなかった。
高二のクラスに、ひとつ年上のやつがいた。
名前はサイトウ、だったはずだ。
自己紹介のときに、
﹁オレは、ひとつダブってるんで、まあ、適当によろしく」
突き放したようなあいさつだったので、何か事情があるのかと思い、周囲は若干敬遠していた。
そんな彼を一気にスターダムに押し上げたのは、我がバカ高にアメリカから留学生が来たときのことである。
英語の授業は、林という厳しい教師が担当であった。
授業の予習は必須で、忘れた場合は教員室をたずねて、わざわざ事前に不備を申告する必要があった。
﹁できなかった? しなかった?」
この尋問を受けねばならず、それが嫌で大方の生徒は予習を忘れなかった。また、百人以上を擁する少林寺拳法部の顧問であったので、その点でも林は恐れられていた。
ある日、アメリカの片田舎からやって来た女の子を、教頭が教室まで連れてきた。ちょうど、英語の授業中である。彼女があいさつすると、聞き取れない我々は、林教諭の方を一斉に注視した。
いつもエラそうなんだから、訳せよぉ……。
林の方もよく聞いていなかったのか、留学生の女子に、もう一度話すように促した。
何度か大きくかぶりを振り、そして、衝撃の開き直りを言い放った。
﹁訛りが強すぎて、聞き取れない」
コントなら、生徒全員が椅子からずり落ちるところだ。さすがは、バカ高校、英語教師がネイティブのヒアリングにお手上げなのだ。
結局、毎日厳しい風にやらされていた英語学習が、なんちゃっての、全く役に立たない偽物だったということが、暴露された瞬間であった。
この白けた雰囲気を打ち破ったのが、サイトウだった。
﹁オレ、去年一年間、ベネズエラにおったから、言うてることが分かるかも知れん。彼女が何を話してくれたか、もう一回聞いてみようか」
不承不承それを認めた英語教師を尻目に、サイトウは教室の前に踊り出てきた。そして、ゼスチャーを交えて、留学生と話し始める。
確かに聞き取りにくいようだが、サイトウと話すにつれて、林の仏頂面で曇っていた彼女の笑顔は戻り、次第に会話ははずんでいった。
﹁おーい、みんな聞いてくれ。だいたい、わかったわ。さっき、この子が言いたかったのは、まず自分の出身地のことで……」
元々、彫りの深い、男前の部類に入れていい造作である。
この日を境に、クラスメイトの見る目、特に女子からサイトウへの視線が、尊敬のハートマークへと変わっていった。
サイトウの記憶は、これ以外は特にない。
ただ、好きだった女の子にまつわる一点の疑念が、今もある。
彼女は酒も飲まないのに、肝臓の数値が異常を示し、黄疸があらわれ入院してしまった(170ページ「ラスト・スタンド」)。
お見舞いに行ったある日、なぜこんな病気になったのかという話になった。医者からいろいろ聞かれた中で、近ごろ周囲で、中南米から帰ってきた人がいないかと、質問があったらしい。
﹁不思議よね、サイトウくんのことかしら。うふふ」
彼女は笑っていたが、どうも何か隠しているようでならなかった。
キスでもされたんだろうか?
アジアを旅行していて困るのは、ふと年配の方に、日本語で話しかけられることだ。
親父は中国で、満州鉄道に勤めていたという人に呼び止められ、大いに恐縮したらしい。
なぜならこの御仁は「日本人がいた頃の方が、よかったぁー」と親父の肩を抱き、何度も激賞したからだ。
満鉄といえば傀儡国家の国策会社である。
からかわれたのか、本気だったのか、今となってはわからない。
台北の郊外に、九份という小さな町がある。台湾を代表する映画監督・侯孝賢『悲情城市』の舞台である。
路上で突然老人から、
﹁どこからきたの」と、きれいなニュアンスで話しかけられた。
びっくりして咄嗟に「と、東京です」と応じた。
すかさず「東京の、どこ?」と御老人。
﹁すいません、いいかげんなことを言いました。正確には、東京の隣の川崎から来ました」
﹁そう。私はね、横浜で働いていたことがあるんだよ」
なんだか申し訳ないような気がして、こちらからは何も聞けなかった。
韓国では、明らかにおちょくられた感がある。
ソウルの地下鉄ホームで「五十円頂戴」と言われたからだ。
なぜ、五十円なのか?
一番初めは、西安でのことだ。
城壁に腰かけていると、おじいさんが現れ、やはりどこからきたのかと問われた。そして、きれいな日本語で、
﹁西安はまだ、こんなに田舎ですけれども、今度あなたが来る頃には、中国も進歩して、この街ももっと発展していることでしょう」
我々の父祖が、この人に強いた言葉なのかもしれない。しかし、それを差し引いても、美しい日本語であった。
九〇年代の中国は、奥地に行けば行くほど、ビールは紹興酒のような味になり、事前にお願いしていないと、ぬるいものが餐厅では供された。
最近、ツイッターで西安の映像を観た。
LEDでバリバリに電飾された大通りは、まるでCGで再現された夢の長安で、不況の東京の夜景など、およびもつかない派手さだった。
御老人があのときつぶやいたことは、本当だった。
高校は通うのが遠かった。
小学校が歩いてすぐ、中学は徒歩十五分、それが一気に電車通学で一時間となった。行きは友人たちと鳳駅から一緒に乗っても、帰りは何だかんだで、待ち合わせがうまくいかず、一人になる場合がある。
そんなときは、三国ケ丘駅に併設されていた天牛堺書店に寄った。珍しい販売形態で、店頭には古書と新刊書がほぼ半々に並ぶ。
近年だと、そういうセレクトをするマニアックな書店が都内にもあるが、チェーン店では全国的にも珍しいのではないか。
本好きなら、わかると思う。古書の方が「新しい」出会いがあるということを。新刊書は、瞬く間に消えていくので、古書店は出会いそびれた対象と、再びめぐりあう場所なのだ。
最近、地元にも天牛の支店ができて、帰郷するたびに行くのがちょっとした楽しみになっていた。高石店の小さな古書コーナーには、他店から回送されてくるのか、定価が一律の商品が数日セットで並べられる。
四八〇円均一くらいのときが掘り出し物が多く、九八〇円や二八〇円だと、駄本が多い。
新刊書の購入は単なる消費という気もする。これに対し、古書はモノを買うというより、授業料を払っているような感覚である。
ところがこの天牛書店、府下で十二店舗を有していたが今年(二〇一九年)になって破産して、全て閉店となった。
大阪は、どこかのチンピラが牛耳るようになって、経済は低迷している。
ついに高石から、書店がなくなってしまった。
なんてこった。
師匠は言った。
﹁そこで飲もう」
駅前といっても、何もない。
大学から最も近い駅だが、ロータリーを囲む商店は数件である。それこそ馬車が待合に現れても不自然ではない。前近代的なたたずまいだ。
うらぶれた紫色の看板のスナックと、トタン屋根のタクシー乗り場と、タバコ屋が申し訳程度にあるだけである。
店は居酒屋といっていいのか、立ち飲みのような風情だが、席はある。汚れた暖簾をくぐると、もわっとした湯気が心地悪く、出迎えてくれる。
やがて瓶ビールが運ばれ、あの「アサヒビール」と濃紺で書かれた小さなコップに、師匠は無造作に注いでくれた。
大学院の一年目は放任、二年目からは激烈な指導がはじまっていた。おそらく今年中に修士論文を書き上げるのは無理だ。
この冬は、一文字も書いていない。
先生、いつもここで、と聞きかけると師匠は、
﹁捨てられた、敗残兵のように飲むんだよ」
諭すように、ひとりごちた。
とにかく、勉強しない。
高校時代は、そんな誓いを立てたわけではないのに、恐ろしいほど勉学をおろそかにした。
今でも、数学の問題が解けずに追い込まれる悪夢をマジでみる。全ては高校生活の怠惰ゆえである。
学校の責任にするのも何だが、成績上位層の者を、わざわざ指定校推薦で偏差値の低い大学に入れたり、アホ高校の進路指導も滅茶苦茶であった。
まあ、他人のせいにするのはやめようか。
不徳の致すところ、全ての大学に、カスリもせずに落ちた。
関西人以外にはわかりづらいだろうが、「関関同立」以下の大学を一切受けないという作戦に出ていた。
これは「お前はアホや、本近関や」と、いつも罵倒する親父との対立から立案された、無茶な軍略である。今思えば、暗黒の浪人時代は、どうでもいい親子の確執の結果だった。
ともあれ、現役時の全敗を受けて、問題は予備校選びに移行する。
おそらく、毎日通うことになる。自宅から、南海電車で三十分ほどの難波が、通学としてはベストだった。浪人が確定し、早速何も考えずに浪速予備校というベタな名前のところに申し込んだ。
予備校は大体、京大・阪大コースを頂点に、国公立(センター)、関関同立、一般私大とランクが分かたれる。もちろん、関関同立コースを選択し、即日選抜試験を受けた。
ほどなく、書面で不合格通知が郵送されてきた。
え?
間抜けも間抜け、国宝級のバカだった。
まさか予備校にまで、落ちるとは。
行くところがない、真性の素浪人がここに爆誕した。
この破滅的状況で、同じく討ち死にしたタカシが打開策を見出してきた。大手予備校の代々木ゼミナールが、新校舎を江坂に建設するため、大々的に生徒募集をしているらしい。
関関同立コースなら、試験はなし、推薦入学が可能だというのだ。
推薦入学!?
誰が推薦するのだ?
高三の担任は、名前も覚えていない。嫌なバアさんだった。クラスの文化祭企画は禁断の「休憩所」。みんなが受験する前提とはいえ、何の工夫もない最低の指導である。
ところがこいつは「こういうのもアリでしょうね」というに事欠いて、ホームルームで総評しやがった。やつは仕事をしない公務員、こうはなりたくない汚い大人の典型だった。
その嫌な担任に頭を下げ、推薦状を書いてもらった。これはこれで、予備校に落ちたよりも、屈辱的な降伏調印である。
晴れて、私は予備校に推薦入学を果たした。
今は自分の将来を主体的に構想する、キャリアデザインという考えがある。しかし、当時はそんなものは、一切ない。
あの頃、ウチの高校の女子生徒は、ほとんど四年制大学に進まなかった。
みんな、私よりずっと優秀だったのに。
彼女たちは今頃どうしているだろう。人生の迷い道で、私のように高校の進路指導を恨んだりしていないだろうか。
教師が人の道を説くというのも傲慢な話だが、ほんまもんの「しくじり先生」としては語らずにはいられない。連戦連敗の記録は、全てネタとして話している。
恥ずかしいのは、失敗したことではない。キャリア教育やまともな進路指導が、今までなかったことの方が問題なのだ。
二〇一六年から勤務校が共学化し、聡明な女子生徒たちを教えている。予備校に落ちるようなバカ男子が、どうなろうと知ったことではない。
しかし、この差別的で、閉塞した日本社会で、彼女らが不当な扱いを受けようものなら、それは世間が許しても、私が断じて許さない。
女性の人権など、今まで考えたこともなかったのに(猛省)、真面目な女子生徒に日々接していると、ほとんど義憤にも似た使命感にかられている。彼女らが性別で虐げられることは、絶対にあってはならない。
そして諸君、「道が間違っていれば、引き返して正しい道を探せばいい」(映画『ブエノスアイレス』レスリー・チャンのセリフ)。
私のように、迷うでないぞ。
めでたく推薦入学で、代々木ゼミナールに通うことになった。
学費は、年間九十八万円である。
未だに母から「高ついた」と言われる。
各教室には「親身の指導」「日々是精進」と標語が掲げられている。ひねくれた浪人生は「親身の取立て」「日々是決算」と言いかえる。
または、授業の駿台、机の河合、授業料の代々木だと。
つまり、講義内容は駿台予備校、机の大きさは河合塾が丁度いいと言われていた。代ゼミは、単に高いだけで何もないと、自虐ネタを口にし、皆卑屈に笑う。
推薦入学を教えてくれたタカシとは、関大・立命志望コースを選んでいた。問題は、半年経って行われたクラス分けだった。選抜試験の結果、二人とも上位クラスに入れたのだ。これは逆に、相当あせった。
全く勉強していなかったのに、なぜ上のクラスに?
ここはバカばかりだったのか?
周囲の浪人生たちは、我々と同じく、講師の名調子に笑っているだけで、ただただ無為に日々を送っていたのだろう。下のクラスに落ちた奴らは、愚鈍すぎる。
にしても、代ゼミの講師陣は、とにかく話がうまかった。夢のように講義時間が過ぎていく。テレビで吉本芸人を見ているのと同じだった。
事実、彼らは自分たちのことを「男芸者」と呼んでいた。お座敷から、お声が掛からなくなったら、おしまいだと。そのためには、ボケてボケて、ボケ倒す。公立の疲れた教師などおよびもつかない、圧巻の漫談、じゃない白熱の講義が毎日繰り広げられた。
人気のない先生には、ギャラリーは集まらない。数人の生徒を前に「今日は、授業を進めていいかどうか…」などと廊下でオロオロしていた公立あがりの講師は、次年度は契約解除だ。
﹁温泉」とか「牧場」と呼ばれていたバカ高校にはない、講師同士の激しい客の取合いは、それなりにプロの緊張感として伝わってきた。
名物先生がたくさんいる中、最も思い出深いのが、マドンナ先生だ。
容姿端麗、才色兼備、見目うるわしい美人教師の質問部屋には、行列ができる。
何しろ、気っ風がいい。
例えば男性の人気講師には、ふざけて貢物が教卓に山となる場合がある。
﹁俺は庶民派で、チキンラーメンが好きだ」と授業で話せば、次の日は袋麺がうず高く積まれ、碗にかぶせるサランラップまで供される。
﹁ポルシェは飽きた。次はフェラーリに乗りたい」とつぶやけば、翌日は赤いミニカーが山盛りで、教室がどっと沸く。
この流れで、ある日マドンナの講義に、栄養ドリンクが一本だけそなえられていた。受講者全員が思った。「なんか気色悪いなァ…」
ところが、その空気を察してか、マドンナは「誰か知らないけど、ありがとう」と、フタをキリリと開け、その場で一気飲みしてしまった。
ぷっふぅーのあと、万雷の拍手。彼女は役者だった。
わかりやすい授業、明快な理論、確かな実践、そして古典文学への愛…。心地よい時間が流れ、なんか勉強した気になっていた。
入試直前、彼女の頰はたくさんのデキモノで、醜く腫れ上がった。
﹁私、この時期になると、ストレスで肌がボロボロになるの」と嘆いた。
その横顔は神々しいまでの美しさで、誰もが彼女のために合格を捧げよう、と心に誓ったものであった。
そのマドンナに、移籍話が持ち上がる。
バブルがはじける前の予備校講師の年収は、人気者だと二〇〇〇万円以上と言われていた。ちょっとしたJリーガーだ。他校に引き抜かれると、さらに一〇〇〇万円上乗せというヤクザな世界だった(らしい)。
浪人の年が明けた頃、テレビの特集でマドンナの密着取材があった。三大予備校の一角に食い込もうとしていた東進ハイスクールが、彼女のヘッドハンティングを試みる一コマが放映された。
当時、東進は関西では無名で、マドンナの獲得は無理筋のパフォーマンスにしか見えなかった。
翌日予備校でも話題になったが、本人も笑顔で応えるのみである。同僚の男性講師陣(みんなマドンナが好き)も、一笑に付していた。
ありえない、と。
二月一日、私立大学入試の初日に合わせてきたのだろう。東進ハイスクールは、堂々の新講師陣を引っさげて、大阪に殴り込んできた。
ポスターの真ん中に鎮座するのは、なんと、僕らのマドンナだ。
電撃移籍だった。
我ら悲しき代ゼミ生は、まるで勝利の女神を奪い取られたような気がして、大いに士気が下がった。
御堂筋線の車窓に、あのマドンナの笑顔が流れていく。
初日は関大の法学部だ。
まったく、ゲンが悪い。
文子ちゃん、あんたのせいで、今年もダメかもしれん。
戦う前から、勝負が決まっているときがある。
私の場合、それは現役時の大学受験だった。
一月中旬の最後の共通一次試験を経て、私立大学の試験は二月一日から始まる。
主要私大の入試が一週間ほど続くのだ。
初日は関西の某大学、三百人は優に入る大教室が受験会場だった。試験用紙が配られた後、突然、テレビカメラを抱えた一団が闖入してきた。
教員らしき、試験監督がこう弁明する。
﹁受験生諸君はご存知の通り、今日から関西の私立大学の試験が始まります。会場の雰囲気を、いま入ってこられた報道関係各社の皆さんに撮らせてください。ともすれば、諸君らの集中を、ディスターブするかもしれませんが、数分ですみますのでご協力ください。よろしくお願いします」
その説明通り、腕章をしたカメラマンたちは、ほどなく立ち去り、何事もなく試験ははじまった。
しかし、ディスターブってなんだ?
分からない。
dis(ディス)があるということは、打ち消しだから、良い意味ではないだろう。集中力が減る? 意欲が半減? 一体どんな意味なんだ。
国語から試験は始まったが、ぐるぐるぐるぐる「ディスターブ」という言葉が頭の中をめぐり、あまり集中できなかった。
帰ってから辞書を引くと、disturbの意味は「じゃまする」であった。
初日で、ほぼ戦況は決したか。
こんな基本単語もわからないようでは、今年の受験はおそらく、全部ダメだろう。
事実、現役の入試は全敗だった。
その後、海外のホテルに行くと、ドアノブに「Don’t disturb」と掛かっていて、あれは「起こさないでね」とでも訳せばいいのだろうか。
こっちとしては、苦い浪人の記憶が呼び起こされる。
二十代後半は高校の非常勤と、塾の講師で食いつないでいた。
﹁早う就職せんかい」と、実家からはプレッシャーがかかるものの、こちらの生活を心配してか、たまに宅急便が送られてくる。
中身はパスタとそのソースの缶詰、米、レトルトカレー、ビール券など。金が無いので、食料品はありがたい。
あるとき、届けられた包みを開けると、箱の一番上に海外青年協力隊の募集要項が入っていた。
仕事がないなら、外国で井戸でも掘れというわけだ。
またあるときは、北京や上海での日本人学校の講師の募集案内が同封されていた。
厄介払いされているようで、多少なりともムっとしたのだが、あれは、ウダウダしているのなら、海外にでも行け、というオカンなりのメッセージだったらしい。
﹁こんなのが送られてきたんですよ、まったく」
勤務校の講師仲間に案内を見せると、「意外に条件が良いじゃないか」と、まあその人は中国語が話せるものだから、そう言われてしまった。
行ってもいいが、帰国してからのポスト探しがもっと大変だ。ずっとこの国の外で亡命生活を送るのなら、それでいいのだが。
今やっている仕事は、村上春樹的にいえば全ては「文化的雪かき」である。それに比べて、フィジカルな井戸掘りで人助けする方が、よっぽど意味のあることかもしれない。
あのとき、どこかの国に行っていれば、きっと別の人生が待っていたのだろう。
阿房高校で、一人だけ尊敬に値する先生がいた。
名前も忘れてしまったが、倫理の先生だ。
非常勤講師で、ルックスは赤塚不二夫の描く「シェー」のイヤミに似ていた。
イヤミのようなフランス仕込みの派手な紳士ではない。灰色のジャケットを着た、地味なおじさんだ。
板書の字はヨレヨレで、授業はボソボソと良く聞こえない。試験問題が手書きで読めないこともあり、生徒間での評判は悪かった。
ただ、彼の哲学に対する愛はなんとなく伝わってきて、ポツポツと話す授業は、私は嫌いではなかった。
少なくとも、他の全く印象に残らない授業よりも、ずっとマシだった。
ある日、バカ高にしては珍しく、授業中に質問があった。
﹁真理とは何か」とか「イデアとは何ぞや」という漠然とした問いだ。
多分先生をからかい半分、授業を脱線させるために、誰かが仕組んだことなのだろう。
先生はチョークを持ったままフリーズし、しばらく間をあけ、
﹁それが、僕には、ようわからんのですよ」
恥ずかしそうに言った。
教室は爆笑に包まれ、「そらみろ、答えられないじゃないか」とヤジが飛んだ。
そのあと、先生は言い訳せず、自分の発言を取りつくろいもせず、いつものようにポソポソとその「真理」とやらについて、話されたと思う。
笑っている方が薄っぺらで、この先生は朴訥だが勇気があると思った。
自分の専門にあぐらをかかず、探究心がある。
学問に対して、一人の研究者としての誠実さがあった。
教壇に立つものなら、わかるはずだ。そこでは「わからない」とはなかなか言えないものだ。
僕の好きな先生は、翌年はもう学校にはいなかった。
代々木ゼミナールには、高校よりきちんとした購買部があった。
書籍は一割引で、参考書を買うことはなかったが、CDの値引きがきくので重宝した。ソフトバレエのファーストアルバムはここで予約した。
学内も受験一辺倒ではなく、たまには文化的な企画も打たれる。有名人を招いての講演会だ。
11PM(イレブンピーエム)の藤本義一とか、全く興味のないビックネームのあと、浅田彰が来校すると告知された。
浅田彰だと?
俺のために、呼んでくれるのか?!
坂本龍一と村上龍の超刺激的な対談集『EV.Cafe 超進化論』に、吉本隆明のあと、ニューアカデミズムの中で、最初に呼ばれたのが浅田だ。
その頃、龍が経済小説『愛と幻想のファシズム』を書いていたので、国際通貨について話し出すと、数百倍に濃縮された情報量でまくし立てていたのが、浅田彰だ。
よく分からないが、言うことはキレキレで、鼎談の後半では、教授はほとんど相槌で、龍はアワワワと、しゃべれなくなっていた。
とにかく、すごい。
興奮した高校生の私は、今はなき梅田の旭屋書店で、彼のデビュー作『構造と力』を手に取った。もちろん、内容は序章の軽い文章以外、さっぱり理解できなかったが…。
その浅田が、代ゼミにやってくる!
タカシに録音できるウォークマンを借りて、いつもは決して座ることのない教室の前列に陣取った。結構な人気で、大会場は大入り満員であった。さすがはアサダさん!
我らがアイドルは白いタートルに黒のジャケット、いつものスマートなスタイルで颯爽と登場した。
この日の題目は「天安門事件とフランス革命二〇〇周年」だったと思う。
当時、東欧革命が進行中であった。ゴルバチョフのペレストロイカ以降、社会主義国家があちこちで倒れようとしていた。
ところが中国共産党はテコでも動かず、天安門に居座った学生のデモ隊を、人民解放軍の戦車で轢き殺した。
世界史が書き換わる一九八九年は、まだ終わっていなかった。
我が家は、民主化闘争を断固支持。学生側に立つ趙紫陽派を応援していた。グループナンバー2の胡啓立と、親父が飯を食ったことがあるという、割とどうでもいい理由も、加味されてのことだった。
八〇年代初頭、胡氏は天津市長で、親父は神戸市立博物館で展示品を借りるため、彼と会食したのだった。神戸市と天津市は、友好都市提携を結んでいる。
胡啓立はその後、中央に戻り、鄧小平の後継者と目された人物である。
若者たちが民主化を求める世界的潮流は、止めようがない。毎晩、久米宏のニュースステーションでその推移を見守りながらも、事態を楽観視していた。やがて、中国も開かれるだろうと。
だから、天安門に学生らが建てた自由の女神が倒される映像や、戦車の前に立ちはだかる青年の姿は、非常に、衝撃をもって受け止めていた。
この事件の後、趙紫陽は死ぬまで軟禁され、胡啓立は失脚した。
天安門の暴力的な結末のおかげで、フランス革命の「自由、平等、博愛」という古ぼけた理念が、二百周年を迎える今、再び注目されることになったと、浅田さんは自分で言ったことにウケて、ククククっと体を曲げ、エキセントリックな笑いを挿入した。
悲壮な流血を前にして、なおシニカルで、巨視的な歴史認識を、我々予備校生に投げかけるアサーダー。でも、ちょっと皮肉っぽくないか?
しかし、天安門の野蛮を見過ごす世界は、近代の限界性そのものを表している、とか言っている場合ではなく、まずはその「近代」とやらを再構築しないとね、とフォローも忘れなかった。
一時間ほどの講演の後、スターには似つかわしくない質疑応答が続く。予備校生に何かエールをと、極めて凡庸な要望にも嫌な顔をせず、
﹁まあ、浪人時代は暗黒だろうけど、大学は自由に学べる場所だから、今はせいぜいがんばんなさいよ、君たち」
予備校生を馬鹿にするのかと思いきや、俊英からのさりげないエールは、嬉しいものだった。
最近は、東浩紀さんのゲンロン界隈にも顔を出しており、昔と変わらぬ華奢な青年然としたルックスは健在だ。
いつまでも、浅田彰はスキゾ・キッズである。
あとで悪友たちに聞くと、その頃飲み会に、私は『構造と力』を持ってきていたらしい。
ま、そんな時代です。
四十歳を過ぎての同窓会。
なんか、保守的な感じがする。後ろ向きなイベントだ。
今までやったことがないのに、そう思っていた。
ところが、こんなに過激な会合は、他には見当たらない。
齢四十五にして伴侶を見つけるという僥倖に恵まれた友人の、派手な結婚式のことである。
慣れぬ挨拶をやらされ、二百人を超える列席者を眺めると、懐かしい顔が全く見当たらない。誰一人わからぬ。
疎外感さえ感じて、マイクをおいた。
やがて、私の方を向いて笑っている一団を発見する。
﹁お、おう? おおー!」
名刺交換して、やっと互いの名前を確かめ合う始末だ。一団は、同じ中学の連中だった。
フリーズドライでもなければ、単純な経年劣化とも言えない。
お互いの「経年」をつぶさに見ていないから、大げさに形容すれば、タイムマシンに乗ったか、竜宮城の玉手箱を開けたようなのだ。モクモクと煙が出ずとも、気がつけば、時空はものすごい速度で過ぎ去っていた。
﹁だ、誰やねん!」
顔を見合わせたあの瞬間の気まずさ。あの頃、あんなに一緒に遊んでいたのに、なぜにすぐ思い出せなかったのだろう?
幹事をやってもいいが、大阪を離れているので、流石にハードルが高い。
誰か、この最も過激なイベントをプロデュースしてはくれまいか。
三年生の五月にクラブは引退させられる。
一年生の一月がデビュー戦なので、思えば高校でのバンド活動は、学内ではたった一年半ということになる。
大学生だと使う機材は高くなるし、技量も多少上がる。バンドの運営やイベントの作り方など、小慣れてくる。
要するに、いろいろできるようになる。
これは、「できない」ことに対して、そう面白いものではない。
高校時代は、すべてのことが、うまくいかない。スキルが追いつかない。誰かが、必ず何か、失敗する。
しかし、その苦難の時代は同時に、宝石のような時間でもあった。何をやるにもうまくいかない時期は、今から思えば、学びや発見のある、面白い好機だ。
リアルタイムで生きている本人は、まったくもってその大切さが分からないものであっても。
一番大事なイベントである引退ライブも、うまくいかなかった。
当時はオフコースとTMネットワークと、女の子バンドのドラムとボーカルの三つを掛け持ちしていた。
女の子バンドには、三年間好きな子がいた。ベース担当でちょっと天然で、ふっくらとした優しい女の子だった。
最後のコンサートに向けて、頑張りすぎて、日に日に体調が悪くなり、酒も飲んでいないのに、まさかの肝炎になった。色白なのに、黄疸。結局前日になって緊急入院し、ラスコンは欠場となった。
クリちゃんが急遽ルート音を拾いつつ、愛しいベーシストの代役を果たしてくれた。
泣きながらドラムを叩くというのも、あれ以来、演ったことがない。
ライブが終わった後、タカシの自転車を借りて、病院に駆けつけたが、面会謝絶で彼女には会えなかった。
悲劇に酔って、廊下でへたりこんでいると、ロビーで異様に注目されてしまった。
大丈夫、死んでない、死んでない。
俺、十八歳。
バンドのメンバーは、全員大学受験に失敗した。
卒業式はすでに終えていた。大喪の礼(天皇の葬儀)という公権力が、ことなげに式を押しのけ、我々は一日遅れの二月二十五日に高校を卒業している。
ただちに浪人生活に入らず、三月は猶予期間でバンドをやり放題、昨春クラブを引退して以来の、活動期に入っていた。
学力に反比例し、音楽的には一番優れていたときかもしれない。
卒業ライブと称して、月末には泉ヶ丘にあるパンジョホールを借り切っていた。他校のバンド仲間も集め、盛大に浪人突入記念ライブを敢行したのである。
後輩の女の子の間で、超絶人気バンドだった我がテイク・オフは、オフコースのコピーバンドだった。
だが、俺はもうとっくに「卒業」し、ブリティッシュ・ポップに傾倒していた。
デヴィッド・シルヴィアンばりに、マオカラーのステージ衣装を着て、小田さんの「二人で生きている」をドラムから離れて、ソロで歌った。
何だかよく分からないが、日本のニューミュージックも、英国のニューウェーブも好きだった。
それはともかく。
ライブ準備期間の、ある日。
練習はいつも、深井駅至近のベース・オン・トップで行っていた。高校のある泉が丘のひと駅手前のスタジオで、集まりやすかったのだ。
料金の安い午前中に入り、昼食はタカシの団地で摂って、そこでミーティングでもしようという段取になった。
先に彼だけが自転車で戻り、僕ら残りのメンバー三人は、飯伏先輩の車で、後から向かうことにした。
﹁メシ炊いとくから、何かオカズでも買ってきて」
タカシは確かに、そう言った。
﹁お前ら、何しにきたんや」
遅れてニュータウンのタカシ宅に着くと、嫌そうな風情で迎えてくれた。
﹁いやいや、来る言うてたでしょ、ほらコロッケとか買うてきたで」
とりあえず、ウチに上げてもらったが、様子おかしい、部屋の明かりもつけずに、変だ。ついさっき、約束したばかりなのに。
炊飯器が空であることに、まずテツヤが気づいた。
お腹をすかしてやってきたのに、ご飯がない。
﹁メシ、ないやん」
﹁は? 何のこと」
聞けば、今日の練習のことも、すっかり忘れている。
ふざけてんとちゃうんか、とかみ合わないやりとりが続く。どうも昨日のことさえ、覚えていないらしい。
﹁お前、まさかと思うけど、卒業式終わってるで、もう」
﹁うそやん」
﹁カレンダー見てみい、自分でめくってるやん。もう三月やで」
﹁ひえー」
天皇の葬式で、一日ずれた卒業式のことが、すっかり抜け落ちている。
﹁なんか、オレ、損してるー」
いやいや、そんな問題やないやろ、と突っ込んでいると、クリちゃんがタカシの服に、いくつか不自然な汚れがあることに、気づいた。
見ると、壁に立てかけられたギターケースの一部が、破けている。開けてみると、愛用のストラトキャスターにザックリと傷が入っていた。
﹁ギター、傷ついてるで」
﹁うそやん」
﹁見てみい」
﹁ひえー」
どこかで、転んだのか。事故に巻き込まれたのか。
今日が、いつかもよく分からない上に、どうも短時間の記憶もバックアップされないみたいだった。
しばらくして、同じ質問を試してみた。
﹁お前さぁ、まさかと思うけど、卒業式終わってるで、もう」
﹁うそやん」
﹁カレンダー見てみい、もう三月やで」
﹁ひえー」
間髪を入れず、
﹁ギター、傷ついてるで」
﹁うそやん」
﹁見てみい」
﹁ひえー」
このやりとりを数回。からかい半分で、同じ質問を繰り返すと、判を押したように、大げさに「ひえー」「ひえー」である。
さすがに気味が悪くなり、これは完全に記憶喪失だと、僕らもうたがい始めた。
そして、とうとうクリちゃんが、頭のコブを発見した。
﹁アカン、こいつ、怪我しとる…」
みんなで外に走って出ると、いつものタカシの青い自転車が、全体的にボロくなっていた。スポークが数本折れ、タイヤが曲がっている。おそらく交通事故に巻き込まれたのであろう。
片翼をもがれた戦闘機のように、よくも一人で戻ってこれたと、本人も含め、ゾッとした。
この間、私とテツヤは、ずっとオロオロしていた。
しかし、クリちゃんは、落ち着いて事実関係を整理し、地方公務員のお父さんと、パートタイマーのお母さんに電話をかけ、病院の手配もした。
思えば、彼のお母さんは長く心臓を患っており、冷静な対応を日頃から迫られていた結果かもしれないと、後から思う。
おそらく、頭の検査もやっているのだろう。
心配で、帰るに帰れない。
病院に行ったタカシを三人で待っていると、夜になった。
幸い大事には至らず、やがてお父さんも市役所から帰ってきて、自然と酒宴になった。
﹁今日はみんな、ありがとうな」
ビールを、豪快に何度も注いでくれた。
その後、タカシの記憶のほとんどは回復したが、事故の瞬間だけは、どうしても思い出せないという。
引っかけられた直後のことか、トラックの運転手から「大丈夫か」と、声をかけられたのは、おぼろげながら記憶の底から引き出せたらしい。
でも、そこまで。
堺のドライバーは荒っぽく、私も自転車で泉北ニュータウンを走っていると、空き缶を投げつけられたことがあった。
この一件、長く仲間内では、定番の笑い話であったが、今思えば、普通にひき逃げではないか。
平成、最初の大事件でした。
一番ええ名前やと、本人がことあるごとに言っていた。
タクト。確かに音の響きはいい。
倅に似た名前をつけようと思ったが、親族一同から反対されるのでやめた。おじいちゃんは、博打に凝っていたものだから、その点では著しく評価が低い。
出征前の兵装した写真を見ると、日本人の平均身長ながら、なかなかに勇ましい出で立ちである。僕ら孫からのイメージは、金払いがいい、変なこだわりがない、どこか吹っ切れている魅力があった。
葬儀には、誰か見知らぬご婦人が出て来たら盛り上がったが、ついぞそのような人は現れなかった。
不器用な人だから、当たり前か。そういうずるさは、なかったか。
小遣いをよくくれたので、無意識が感謝している。そのため、不意に祖父は夢に現れる。
﹁おい、どっか行こうか」
生前は持っているはずもない、オープンカーで登場する。
元々筋骨隆々であったが、夢では三割り増しのガチムチで、こころなしか、リーゼント。そういえば、二週間に一度の散髪を欠かさなかった。なかなかに男前なので、バカでかいアメ車もさまになっている。
﹁おじいちゃん、死んだんやないのか」
思わず口にすると、まあ、そんなこと、どうでもええやないかというそぶりで、後ろのシートに乗るように促される。
祖父の運転で、酔ったことはない。
確実なハンドルさばきで、今日はどこに連れていってくれるのか。
まずは、御陵前のゲコ亭で腹ごしらえかなあ。
帰宅すると、リビングのカウンターには、夕刊とその日届いた郵便物がのせられている。
意味のないDMと不動産屋の広告を捨て、学会誌の封を切っていると、もう一枚、見慣れた筆跡を見つけ、あっと声をあげそうになった。
やや、乱れはある。しかし、特徴的な文字なので間違いない。
亡くなった早川眞理さんからの葉書だった。
すでにいなくなった方と、よく似た人を街で見かけることはある。だが、死んだ人からメッセージが届くというのは、聞いたことがない。
しかも、亡くなったのは半年も前のことだ。
あらかじめ用意されていたものが、死後に自動発送されたのか?
それとも、あの世で、何か言い忘れたことがあったのか?
おそるおそる裏をめくってみた。
最後にお会いしたのは、前年の暮れのことだった。
同人誌の忘年会を、阿佐ヶ谷の居酒屋でもうけた。雑誌発送の後、いつも寄っている安いチェーン店での小宴だ。
早川さんは体調がすぐれないと聞いていたので、来られないものと思っていた。
皆がデキ上がってきた八時頃、携帯に見知らぬ番号から着信があった。
怪しいが出てみると、駅前の交番からである。
﹁早川さんという方が、派出所にいらっしゃいます。どなたか、迎えに来ていただけませんか」
急いで駆けつけると、早川さんは交番のパイプ椅子にまるで「保護」されたように、ポツンと座られていた。「ごめんね」という感じで、頭を下げられる。
歩くのがやっとのようで、手をお貸ししながら、会場にお連れした。
お住いの千葉は松戸から、阿佐ヶ谷までは一時間ほどである。
三時の同人誌発送に合わせて、もし来られたとすれば、四倍以上の時間がかかっている。
ほんの数年前までは、ルノアールでタバコをふかしながら、悠然とひとり同人を待たれていて、実に堂々としたものであった。
しかし、今夜はたずねたことに、やっと答えられるくらいの様子だ。
何も口にされていないようで、とりあえず焼きそばを追加注文した。
これはお送りせねばなるまい。
乗換アプリで検索すると、新御茶ノ水から一本で松戸まで戻れることがわかった。そこで、事務局の私がお見送りをおおせつかった。
ところが、である。
新御茶ノ水駅が、実に奇妙な構造で、地下鉄なのにエレベーターが一機もないのだ。長い長い高速エスカレーターが稼動するのみである。もちろん階段もあるが、介助しても、今の早川さんには無理だ。
そこで、屈強な駅員さんと相談し、以下のような作戦を立てた。
人が途切れたところでいったんエスカレーターを止めて、早川さんを乗せる。再起動させて、降りるときには二人で両側から抱きかかえて下ろす。
乗っているときに緊急停止させると、反動があり危険なので、どうもこの方法しかなさそうだ。ごっつい駅員さんも、こんな介添はやったことがないらしい。
だから、せーので、早川さんを降ろしたときには、ちょっとした達成感があり、千代田線の駅員さんには丁寧にお礼を言って、ホームに向かった。
しかし、どうして無理を押して来られたのだろう。
われわれ同人の仲間に、さよならを告げに来たのだろうか。
葉書の文面は早川さんの妹さんによるものだった。
﹁昨年十二月十日、新御茶ノ水駅で、電車に乗せてくださったのは、喜谷様だと姉から聞いておりましたが、この葉書の表文字は、姉の手跡です。何か御礼を申し上げたかったのではないかと想像しております。亡きあと、ハガキを見つけました」
霊界通信なんじゃないかという恐怖が氷解し、懐かしい感情がこみ上げてきた。
早川さん、届きましたよ、お葉書。
そろばん学校の前で、膝下まで水に浸かった自分の写真がある。
オカンが理事をやっていた関係で、各地の生活協同組合から救援物資が届くほどの洪水だった。
ネットで古い記録をたどれば、それは一九八二年八月のことで、総雨量二三一㍉、高石市内で二〇〇〇戸近くの家が浸水したという。
普通の家でも困るが、我が家はアホみたいに数万冊の蔵書がある。震え上がったのは、オトンだ
﹁おい、どこまで水が来とる」
兄弟三人が、たびたび斥候に出され、状況を確認させられた。羽衣方面はかなり氾濫しているらしく、横流は我があばら家の目前に迫っていた。
﹁足しにならんやろうけど、堤防を作ろう」
申し訳程度に玄関前を土で固めはじめた頃、泥水は田野珠算学校を過ぎたあたりで、ぴたりと止まった。
危ないからやめろと言われたが、ザブザブ自転車で水面を駆るのが楽しくて、水びたしの羽衣まで足を伸ばした。今考えると相当に不衛生で、自転車はそのせいか壊れてしまった。
後から聞いた話。
半地下のジーンズショップでは、店のおっさんが大水に気づかず、開店と同時にシャッターを上げてしまった。店主は肩まで濁流に飲まれ、店舗は水没、商品は全て台無しになった。
ところが、水が引いた後、クリーニングして半額セールを行うところが、実に大阪らしい。確か、一本買いに行った気がする。
五千円の床下浸水ジーンズは、学校でも話題になった。
この店も、今はもうない。
当時吸っていたタバコが切れたのか、酒がなくなったのか。いずれにせよ、変な時間にそわそわしだした。
登戸に住んでいたのは二十代最後の時期だ。
その夜は、丑三つ時に近所のコンビニに出かけた。駅前に住んでいたので、真夜中でも、あたりは明るい。ただ、さすがに終電を過ぎると人通りは少なくなり、騒がしい飲み屋も閉まっている。
踏切の手前、漢方をあつかう薬局の付近で、一台のワンボックスカーが不審なバックを繰り返したあと、急停車した。
引き戸が開くと、若い女性がヘラヘラ笑いながら、おぼつかぬ足取りで、こちらに向かって歩いてくる。楽しそうでもあり、また明らかに相当飲んでいる様子だ。
見る間に、車から二人の男が飛び出し、女を追いかけ、前後から囲んだ。正面をふさいだ奴の、無駄に鋭い蹴りが、女性の柔らかい腹に、ブスリとめり込む。
女の体は、前に折れ、ウッとうめきながら、バックシートにそのまま押し込められた。もうひとりの男が、あたりを警戒する。
まずいな。
タイキックの男、コンビニ袋とタバコを持った私を見つける。
その距離、約五十メートル。
そんなに思いっきり蹴るのなら、なぜ女を車外に出させたのか。
反発というか疑問が、先方には、ほうけた顔として映ったであろう。多少の正義感も自然とはたらく。反射的に、タイキックを見すえる。
一瞬、奴もこっち側に身体を向けかけた。
ポケットにはケータイ、履物はツッカケ、とはいえ逃げ足には自信あり。交番の位置も頭ではマッピングされており、何より駅には近い。
互いに軽くにらみあった後、扉がガーッと閉じられ、ワンボックスは急発進した。
多分、ケータイを取り出したら、男たちは襲いかかってきただろう。
この話を、当時非常勤で教えていた学校の授業で「川崎は怖いなー」という文脈で話すと、
﹁先生、それこそ『義を見て為さざるは勇なきなり』ですよ」
古典の時間だけに、偉そうに説教された。
この学校の生徒は、一言多い。
なら、義を示してもいいが、それはそれで、俺もタイキックやろ。
男の死に場所は、登戸の路上ではない。
入学式の翌日、早速ガイダンスがはじまった。
高校初日の席で隣だった奴が、実に最低な野郎だったので、横にすわった男には自然と身構える。
話すと、入学早々風邪気味で調子が悪いらしい。病院は行ったか? と聞くと、まだだという。
大学と下宿が立ち並ぶコロニーは、ささやかな街の中心部から、若干はずれていた。市役所や駅も遠い。当然、近辺に医院はなかった。
まだ授業もないし、私も病院の場所くらいは知っておきたかった。そこで、二人で医者を探すことにした。
足がないな、と彼が言ったので、大学生協で早速自転車を購入し、二人乗りで目抜き通りへの坂を降りた。
私がいきなり自転車を買ったので、彼も驚いたようだった。
自転車のお礼で、茶でも飲んでゆけというので、そのまま下宿に寄った。
改めて互いの自己紹介の後、この男は恋愛遍歴と、初体験について延々話し始めた。
美しい先輩との恋や、修学旅行先のホテルの脱衣所での顚末など、それなりに刺激的な話が続く。熱っぽい語りで、微に入り細に入り。
タオルの感触、床板の硬さ、そして、その柔らかさ。
端正な顔立ちの男だったので、不思議と嫌悪感はなかった。
しかし、いくらなんでも下ネタばかりなので、
﹁…なんで、こう、その、そういう話ばっかりなん?」
思わず真顔で聞いてしまった。
﹁…まあ、その、初対面だと、こういう話の方が親しくなると思って…」
むこうも素直に照れた。何だ、コミュニケーションの一環だったのか。
合点がいったので、私も身を乗り出した。
﹁いや、もっとすごい話があって…」
彼とは学部の四年間、大親友となる。
良き友を得た。
初めて買ったレコードは、『少女A』が入った中森明菜の二枚目だったか、ラジオで本人が買うことをそそのかす谷村新司だったか。
もっと幼い頃は、桜田淳子が好きで、オトンがドーナツ盤(シングル)が出るたびに買ってくれた。
中学時代はもっぱらラジカセでエアチェック。FM STATION(雑誌の名前です)の鈴木英人のカセットレーベルを切り取って、オリジナルテープを作る。好きな曲をダビングして、女の子にあげていた。全国の男子諸君がやっていただろうが、あれはもらった方も迷惑だったろう。
それはともかく、最も影響を受けたレコードは、何か。
高校の帰り道で、輸入盤屋の雰囲気があるレンタル屋を見つけた。聴いてみたかったジャパン『錻力の太鼓』、キング・クリムゾン『レッド』、ブライアン・イーノ『アナザー・グリーン・ワールド』を借りた。この三枚が、その後の音楽的嗜好を決定づけたといっていい。
﹃錻力の太鼓』は前衛性と大衆性が、『レッド』は抒情と破壊が見事に同居していた。イーノはポップスの定型から解放された実験性の魅力といったところか。世はBOØWY一色であったが、私はひたすら『錻力の太鼓』だ。ギュンター・グラス原作の気色悪い映画も観た。
この三枚から、テクノ・ニューウェーブ・プログレに趣味の範囲が広がっていった。
バンドが休止中の高校三年生に、再開後はこういう音がいいんじゃないか、とタカシと持ち寄ったことがある。彼がスクリッティ・ポリッティのセカンドアルバム、私はドルフィン・ブラザーズ(元ジャパン)のファーストで、テープを交換した。
あの頃、大きなLPも、盤面がピカピカのCDも、万年筆で曲名を書いたカセットテープも、全部が全部宝物だった。
車に乗らないのに、駐車スペースなんぞ作ってしまった。
おかげで申し訳程度の花壇があるだけで、拙宅には庭がない。ローンを払い続けるのに、庭がないのだ。
思い出されるのは、家人の英国の友人、リチャード・ドリスコール氏の実家に招かれたときのこと。
瀟洒な館の納屋には、庭いじりの様々な道具が設えてあった。
草刈り機やすきなど、興味深く眺めているとリチャのお父上は、
﹁ノブは、庭仕事はしないのかい?」
優しく問いかけてくれた。が、答えに窮した。
﹁アイハブ、ノ、ノーガーデン。アワハウス、イズ、ベリースモール」
とか何とか、しどろもどろで話した。我が国の住宅事情は、ウサギ小屋だという比喩を思い出し、恥ずかしかった。
リチャはカレッジを出て、私と同じく学校の先生だった。
お父さんは、アイルランドから移民してきたいわゆる労働者階級で、ダブルデッカー(二階建てバス)の運転手だ。まさに教科書通り、英国ではワーキングクラスでも一軒家を持っている。しかも、メチャおしゃれ。
ロンドンの街の美しさにも打ちのめされたが、まばゆいドリスコール家の庭も忘れがたい。
日本だと敷地目一杯に造りそうなものの、建屋はあくまで控えめで、皆でお茶を楽しむ庭は、余裕を持ってとられている。招かれたその日は天気も良く、屋外にアルバムを出して、思い出話に花が咲いた。
落ち着いた郊外、街の中心の教会、広くとられた庭……。
この北半球の辺境であるヨーロッパで「近代国家」や「市民社会」は形作られ、はるか極東まで席巻したのだ。そんな当たり前のことを、身をもって知ることになる。
三十を過ぎて、欧州旅行など行くもんじゃない。自分がアジアの田舎者だと分かりショックを受けるのは、もっと若いうちがいい。
私の実家にも庭があった。
古ぼけた燈籠と赤い椿を思い出す。見上げると、大家さんの二階建ての屋敷が見える。最近めっきり少なくなった雀が、エサ箱のパンの耳をついばみに来る。
毎年、親父が長芋を掘り起こす。途中でポッキリ折っておくと、次の年には伸びているのだ。正月二日の朝は、とろろご飯と決まっている。
懐かしい、マイ・シークレット・ガーデン。
家人の友人であるリチャード・ドリスコール氏には、英国旅行では大変お世話になった。
割と有名人好きな人で、交通事故で死んだダイアナ妃とオーナーの息子が祭壇で祀られる百貨店ハロッズと、トニー・ブレア首相の自宅を案内してもらった。
他にはカムデンのマーケットや、ライオンで有名なトラファルガー広場、ご実家近くのオリエンタルな寺院など。
中でも、もっとも英国的生活に触れられたのが、チャンピオン・リーグ(プレミアの一つ下)でのフットボール観戦である。
週末、決められたように地元チームのクイーンズ・パーク・レンジャーズ(QPR)を応援しているようだ。
スタジアムへの道すがら、パブがまことに正しい距離に位置している。そこでリチャのお父さんと待ち合わせて、試合前に、みんなでギネス・ビールを一杯飲んで、歩いて競技場に向かうのだ。
指定席をわざわざ取ってくれていたのかと感激したが、客席は日本と違い、はじめから全席指定である。ほろ酔いで、四人並んでの観戦だ。
もっとも強烈な観客は、試合中何度も、審判にむかってメガネを外し、口角泡を飛ばしていた。
﹁ボケ、どこ見とんねん、ファールやろファール、寝ぼけてんちゃうぞ、俺のメガネ貸したろか、これ、なんぼでも使えや、ゴラァ」
と言っていたと思う(多分)。
サッカーがきっと人生の中心なんだろう。素晴らしいことだ。
試合展開が膠着してくると、サポーターたちがスタジアムの最上階の外壁をバコバコ叩きはじめる。金属音と怒号が、会場全体に鳴り響く。
さすがは本場、緊張感ただようフーリガンな雰囲気である。
ハーフタイムには、ちょっとしたファンサービスがあった。
少年少女が、フェンスに後ろ向きに腰掛けると、グランドでアップしている選手たちが、代わり番こに、Tシャツにサインをしてくれるのだ。
ピッチが異様に近い。一度あの親密さを体験してしまうと、日本のスタジアムは選手との距離がありすぎて、飽き足りない。
試合終了のホイッスルと同時に、観客は立ち上がり、帰路に向かう
引き分けの試合だったし、どこにも寄らず、みんなおとなしく帰る。
﹁じゃあ、また、都合が合えば、来週ね」
という感じで、散会だ。
まことに正しい英国紳士の週末であった。
地方試験が充実した山梨の公立大学には、全国から学生が集まった。
山梨県なので方言があるはずだ。
しかし、いろんな地方出身者が会すると、まるで江戸時代の参勤交代のように、全員が標準語を「公用語」とする傾向がはっきりと現れはじめた。
困ったのは、東北人と関西人である。
前者は技術的に無理で、後者は信念で変えないというのは嘘で、大阪人も標準語を話すことが極めて困難である。正確に言うと、生理的に受けつけないのだ。
例えば、ブリッジの橋と、チョップスティックの箸では、アクセントが東京弁と真逆になっている。橋の「は」は高く、「し」は低い。これはどうしようもない。
失語症というほどでもないが、入学当初は「いや、まあ、その…」と若干、無口になった。東北の人ははっきりしていた。東京の軍門に下るか、方言に固執するかだ。関西人は、割とどっちつかずで、普段は標準語だが、筆者と話すと大阪弁に戻るというパターンの人が非常に多い。
ちゃんぽん(交互)の関西人が多いのではないか。
初めて教壇に立ったときは困った。
緊張のあまり、標準語か関西弁か、基本OS(言語)が選べないのだ。最初の授業は、プリントを配ってやらせて、なんとかごまかしたが、
﹁あいつ、何なの? 栃木弁?」
悲しいつぶやきが聞こえてきた。「栃木ちゃうわい!」と心の中で叫んだが、声にならなかった。
うまく話せず、生徒に小突き回された感があり、講師室でぐったりしていると、
﹁初日は疲れたでしょ、ちょっと行きましょうか」
国語科の先輩二人が、通学路を見下ろせる駅ビルの居酒屋に誘ってくれた。まだ、四時前だった。
﹁下校中の生徒の姿を肴に、飲めるんですよ」
当時の成城の街は小さな横丁が意外にもあり、仮設トイレを使う店が三件目だった気がする。
酔いが回ってきてから、今日はうまく話せなかったことを告白すると、
﹁自分のクニのなまりは、大事にしたほうがいいですよ」
ベテラン二人から、的確なアドバイスを受けた。
以来、大阪弁バリバリで教員生活二十年、現在に至る。
混み合った武蔵小杉のみどりの窓口で、新大阪までのチケットを急ぎ買い求める。
着替えだけをつめたスカスカのスーツケースをひっぱり、新横浜に向かった。
今日は、いい知らせがある。
とびきりの報告というわけではないが、まあ、成功へのまず第一歩だ。
キオスクで「出陣弁当」と、プレミアムモルツのロング缶を買って、普段は読まないスポーツ新聞も手に取る。
いつまでたっても、故郷に錦を飾ることはできないが、父や母の顔を見る口実くらいにはなるだろう。
帰ってみると、なんということのない町だ。
子どもの頃、すでにさびれていた商店街、ずっと変わらないスーパー、ついに高架になった駅、同じように歳をとった友人たち。
列車は走り出す。
モルツを飲み干すと、急に眠気が襲ってきた。
だが、まだ時間はたっぷりある。
夢の中のふるさとには、いつまでたってもたどり着くことはできない。
いつになったら、その場所に立つことができるのだろうか。
まどろみの中で、大阪行きの最終列車が、熱海の長いトンネルに吸い込まれていった。
三十二でぶっ倒れて、逃げるように大阪に帰った。
夏の盛り、タイガースが十八年ぶりに優勝する年のことだ。
何も持たずに戻った私は、母に買ってもらったジャージに着替え、カメラ片手に、近所をぶらぶら散歩した。
負け犬には、ちょうど良い休暇だ。
仕事も学会も全て放り出して、しばらく休むつもりだった。
地元の高師浜から羽衣まで、歩いてみようと思った。センチメンタルジャーニーのつもりで。
このルートには、単線高架の南海電鉄・高師浜線が走っている。昔なら、小学生が行きの切符だけで、往復しても怒られなかった。懐かしくなり、伽羅橋から乗ってみる。
ところが終点の羽衣に降り立って、愕然とした。
子どもの頃に通い詰めた丸武模型店、ビリヤード場、貸レコード、今川焼を食べた駅のショッピングモールは跡形もなく消え、寄り道したファーストフード店やジーンズショップ、友人が通っていた学習塾までが、まるで空爆を受けたかのように、私に何の断りもなく、消失していたのだ。
故郷は全てを失い、歩みを止め、後ずさりさえしていた。
ずっと放ったらかしにしていたとはいえ、これは迂闊だった。
自分が生きかたのツケを払わなければと悟ったとき、その拠り所となるふるさとがなくなろうとしていた。
人生の後半は、幼年期の思い出を取り戻すことにある。
こう井上ひさしが『本の運命』ではっきりと書いているのを見つけて、鼻白んだ。まさか自分の幼時が、未来までも規定し、それを取り戻すことが人生の折り返しだなんて、若い頃は思いもしなかったからだ。
DV作家に教えられるまでもなく、今の自分はそのような道を歩いている。いくらバカにされても書くしかない。あんなものを書くなと言われても、仕方がない。
大殺界の三十二歳で書いていたのは、門外漢の北村透谷『漫罵』についてだ。日本の近代化について、そんなものは進歩でも何でもない、単なる「移動」だと、悪態の限りを尽くす痛烈な批判である。
透谷の過剰な自己破壊衝動には、危険な魅力が宿っていた。専門外の対象に、すっかり感化されてしまった。
ただし、鋭さだけを追求した刃は、見えない力で逆手に持ちかえさせられ、自らの肺腑を突くことになる。
あれを書いたあと、私はずっと躁の状態が続き、後頭部がずっと熱を持っていて、昼間から濡れタオルで冷やすしかなかった。伊藤整『日本文壇史』によると透谷も「首の後ろの所に痛みがあって、頭を真直ぐ上げていられなかった」という。
メーターが振り切れた偉大な近代文学の先人は自裁し、私は絶望の度合いが低かったのか、幸運にも死神に蹴り出された。今回そのことを書くにあたって、助言していただいた方々には、感謝したい。
おぼろげな記憶が消え失せ、思い出が全て色をうしない、影も形もその輪郭をなくしたころ、はっきりと血の通った別のものとして、語るべき言葉が立ち現れてくる。
その幻影を掴まえ、文字にして、貼り付けるのを日課にしている。
毎回宣言しているが、次は軽薄な思い出話ではなく、長い小説になると思う。
いつも読んでくれて、ありがとう。
ではまた、失敬。
二〇一九年七月 石垣島にて
喜谷暢史
喜谷 暢史(きたに・のぶちか)
1970年大阪生まれ。法政大学第二中・高等学校教諭。
編著書
共著『〈新しい作品論〉へ、〈新しい教材論へ〉評論編』(右文書院 2003.2)共編著『千年紀文学叢書6 体験なき『戦争文学』と戦争の記憶』(皓星社 2007.6)共著『〈教室〉の中の村上春樹』(ひつじ書房 2011.8)共編著『千年紀文学叢書7 グローバル化に抗する世界文学』(皓星社 2013.4)共著『「読むこと」の術語集―文学研究・文学教育―』(双文社出版 2014.8)共著『21世紀の三島由紀夫』(翰林書房 2015.11)
訳書
「國際村上春樹研究 輯二」(獨立作家 2015.12)孫立春譯「跨越無望之愛的生者與逝者──論《挪威的森林》」(「愛の不可能を超える生者/死者─『ノルウェイの森』論」 『〈教室〉の中の村上春樹』所収)
日本文学協会、千年紀文学の会所属。
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2013.04.22
【データ本】無料:文庫版 292㌻ 1.4MB
【EPUB】無料:1.8MB
【紙本】販売中 文庫版 288㌻ 1,286円
二〇〇七年から不定期に発行しつづけている「一週間パイロット」。この学級通信ならぬ個人通信を七二本一挙掲載。国語教育関係のエッセイ「箱庭とサンドバック」「フリートークの中に真実がある」も収録。
「一週間パイロット」全体のメッセージは一つである。「若人諸君、世界に目を向けよ」「世界を広げよ」ということだ。——池上貴章
http://bccks.jp/bcck/100716/info
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2014.04.22
【データ本】無料:新書版 196㌻ 1.8MB
【EPUB】無料:1.9MB
【紙本】販売中 新書版 196㌻ 1,070円
暴力表現の〈根拠〉へ――
二〇〇三年から一〇年間の文芸時評/映画評を集めた著者初の文芸論集。初期のエッセイも収録。
島田雅彦/ウォン・カーウァイ/樋口真嗣/藤田嗣治/黒木和雄
クリント・イーストウッド/GACKT/村上春樹/村上龍
池澤夏樹/黒澤明/忌野清志郎/庵野秀明/トラン・アン・ユン
会田誠/富野由悠季/イエス小池/加藤典洋/三島由紀夫
嘲笑されても、見えている人は歌い続ける。彼らには、既に事態は見え過ぎるほど、見えているからである。(本文より)
http://bccks.jp/bcck/115041/info
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2015.12.24
【データ本】無料:10inch版 188㌻
【EPUB】無料:10inch版 883.1KB
【紙本】販売中:10inch版 160㌻ 1,232円
批評や文学研究にいそしんでも、たいして評価されるわけでもないので、思い出話を書くことにした。
懐古趣味など、我ながらヤキが回った気もするが、幼年期の記憶は、いくら書いても尽きることはない。小説の習作のつもりでおもむいた過去への時間旅行は、意外に豊饒で、自ら掘り起こした幼年期の手触りは、悪くはなかった。(あとがきより)
https://bccks.jp/bcck/136463/info
喜谷暢史著 丸子陣屋堂発行
2020.1 発売予定
【データ本】無料:文庫版 302㌻ ----MB
【EPUB】無料:----MB
【紙本】販売中 文庫版 320㌻ 1,880円
「一週間パイロット」から6年目の続編。この学級通信ならぬ個人通信の通号73号から最新の130号までを収録。未発表の「闘病記(アッペ)」も含む。
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2019年8月31日 発行 初版
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