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夜宴の島

夢空詩



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夜宴の島



 若葉の香りを運ぶ、初夏の風が吹きぬける夏。
 私の人生を大きく変える出来事があった。
 それはきっと、誰に話しても信じてもらえないような、とても奇妙で不思議な一つの物語。
 私自身、今でもたまに……『あの出来事はもしかして、私が見た夢の中の話だったのだろうか?』なんて思う事がある。
 けれど、彼が残してくれた沢山の思い出達が『あれは決して夢などではない』と、優しく私の心に語りかけてくれた。
 私の退屈でつまらない世界はきっと、彼と出会った事によって、かけがえのない、尊いものへと変化したのだ。
 蛹から脱皮し、蝶になるように。
 蕾が綺麗な花を咲かせるように。
 雨上がりに、鮮やかで美しい虹が生まれるように。
 私は、私という殻から抜け出し、新しい自分に生まれ変わる。
 そうして初めて……何もないこの世界も、案外悪くない。そう思えたのだ。
 ――彼と、ずっと一緒にいられるのなら。

 私は誰もいない夜道を一人、ゆっくりと歩く。
 既に寝静まった街を起こさないように、無意識に忍び足になりながら、夜の帳に身を隠した。
 時おり立ち止まっては、星の輝く夜空を眺め、もうここにはいない彼を強く想う。
 言いたい事は沢山あった。けれど、咄嗟に口から出てくる言葉はいつだって同じ。
「……ごめんね」
 温情深い夜の闇が、私の目から流れる一筋の涙を、暗闇のヴェールで隠してくれた。
 誰もが恐れる漆黒の夜、孤独を連れてくる夜。けれど、私はこの夜がとても好きだ。
 あの世界の夜とはまったく違うけれど、この世界の夜は……彼を想う、優しい時間を私にくれるから。
 考える時間を与えてくれる静かな夜。優しく私を照らしてくれる月や星達。
 私は今一人、この静寂に包まれた無人の街に存在していた。
 昼間は賑わいを見せる街並みも夜に溶けると、まるで別世界のようだ。
 澄んだ空気を鼻からゆっくりと吸い、口からそっと吐き出してみる。とても気持ちが良い。
 そんな事を考えながら、私は再び、沢山の星が散らばり眩い光を放つ、美しい夜の空に目を向けた。

 ――ソウくん。
 貴方は今でも……賑やかで騒がしく、不気味で奇妙な、悲しくも切ないあの夜を、繰り返し過ごしているのかな?
 いつか、もしも戻ってくる事があれば……必ず会いに来てね?
 私はその日が来るまで、ずっとずっと貴方を待っているから。

 暗い路地を抜け、広い河原に続く道に出ると、もうかなり遅い時間だというのに、花火をしている若い男女の姿が見えた。
 ……恋人同士かな? とても幸せそうだ。
 楽しそうに見える二人の姿を微笑ましく思いながらも、ゆっくりと足を進める。
 すると、突然後ろから破裂音が聞こえ、私は思わず振り返った。先程のカップルが、小さな打ち上げ花火を夜空に打ち上げたようだ。
「綺麗……」
 花火は正に夏の風物詩だ。河風が火薬の匂いをここまで運んできた。
「……ソウくん。もうすぐ、夏が終わるね」
 楽しそうに笑いあっている二人が、これからもずっと幸せでいられますように。お願いだから、彼と私のようにはならないで。
 そんな事を思いながら軽く苦笑すると、今度こそその場から離れ、目的地に向かって歩き始めた。

 彼は、とても不思議な人でした。
 明るくよく笑い、場を和ますチカラを持っていたから、彼の周りでは皆が笑顔になる。それはまるで、暖かい春の陽気のように思えた。
 けれど、晩秋から初冬の間に吹く木枯らしのように、冷たく、時には非情な部分も見え隠れし、何だか怖いと感じる事もあった。
 ドジで、少しおっちょこちょいなところもあったな。思い出すと、今でも笑ってしまう。
 だけど、本当はとても頼りになる……強くて優しい、勇敢な人。
 馬鹿みたいにお人好しな彼に、たまに少しだけイライラさせられる事もあったけれど、何だか憎めなかった。
 どの彼が【本当】の彼だったのか、私にもよくわからない。
 でもね? 私はそんな百面相のような彼の事が、とても大好きだったんだ。
 とても……とても、大好きだったんだ。

 あの世界に戻りたいとは思わない。あの場所にいれば、嫌でも思い出してしまうから。
 美しく優しかったあの時間を。
 恐ろしくも切なく、悲し過ぎたあの結末を。
 ……けれど、もう一度だけでいい。彼に会いたい。
 そんな矛盾した気持ちが、心の中でグルグルと渦を巻き、私を激しく苦しめた。
 何となくポケットの中から携帯電話を取り出すと、繋がる筈のない彼にコールをしてみる。
 ――やはり繋がらない、か。
 私は仕方なく、通話終了のボタンを押した。
 一体、今までに何度この動作を繰り返したかはわからない。……馬鹿みたいでしょう?
 けれど、今はやめられそうにないの。だから暫くは、そうする事を許して欲しい。
 いつか、その癖がなくなるその時まで――

 公園に着いた私は、ブランコの上にゆっくりと腰を下ろした。ここは、バイト帰りによく彼と来た思い出の場所。
 ここには今でもよく足を運んでる。そして空を見上げては、いつも彼の事を思い浮かべるんだ。
 彼と、初めて出逢った時の事を。
 ……ねぇ、ソウくん。あの時は本当にごめんなさい。第一印象で貴方を判断してしまった私は、とても小さな人間でした。
 親しくなったきっかけは、とある小説。
 私の好きな本が貴方の一番好きな本と同じで、思わず話が弾んだよね。
 貴方はとても変わり者で、私も負けず劣らずの変わり者だった。お互いに、あまり人から理解されないタイプの人間だったと思う。
 否定されるのが怖くて、私はそれをひたすら包み隠していたのに、貴方は臆する事なく、隠す事なく、堂々と周りにアピールしていたよね?
 笑っちゃうくらい、貴方は自由な人でした。
 だから……ああなった事は、きっと必然的な事だったのだろう。
 貴方と訪れたあの島……
 貴方があそこに残るのは、目に見えていたのに。

『――どこか遠くへ。そんな事を常に考えながら、俺は生きてる。……おかしいだろ? けど、本心なんだ』

 彼は、『こんな何もない世界に、何の魅力も感じないんだよ』と、まるで口癖のように何度もそう言っていた。……わかるよ、わかる。
 だって私も、同じ事をずっと思っていたから。
 小さな頃から本が大好きで、友達と遊ぶよりも自宅に帰って本ばかりを読んでいた私は、素敵な物語を読む度に現実の世界に幻滅していく。
 この世界は物語のように美しくはない。
 恋愛小説のような純粋で穢れの知らない純愛など、今の時代存在しない。
 ファンタジーゲームのような夢や希望に満ち溢れた大冒険など、出来る筈もない。
 ホラー映画のようにシンボルになる仮面を被った殺人鬼が、次々と殺戮を繰り返していくなんて、有り得っこない。
 推理ドラマのように探偵が次々と難事件を解決していくなんて、聞いた事がない。
 そんな事が実際に起きる筈ないと思っているからこそ、人々は憧れを抱き、その世界観にどっぷりハマっていくのだろう。
 けれど……それは違った。
 人は時として突然、現実で考えられないような事態に対面する事もあるのだ。
 実際あの島に招かれた私達は、有り得ない体験をしてきたのだから。
 楽しかったね。でも、やっぱり怖かった。
 得体の知れない、人であらざる者達と過ごす無限の夜。恐怖を感じない方がおかしいというものだ。
 しかしあの世界は、この世界の何倍も何十倍も美しかった。私は本当に、あの世界が大好きだったんだ。
 けれど、【あんな事】が起こってしまったのに、彼と同じようにあそこに残る事は……私には、とてもじゃないけど無理だった。
 だからもう二度と、あの美しさを目にする事は出来ない。
 でもね? あの島に招かれ、同じ夜を繰り返し彼と過ごした事を……私は未来永劫、忘れる事はない。

 ――ねぇ、ソウくん。この物語の結末はどうなるの?
 ありきたりの物語を好まない貴方なら、きっと誰もが想像も出来ないような最高のエンディングを用意してくれるよね?
 それまでのストーリーは私が綴るから、その続きを私に教えて欲しい。そして、感想を聞かせてよ。
 お願いだから……

 生暖かい夜風が、誰も座っていない隣のブランコをそっと揺らす。
 まるで隣に彼がいて、私の紡ぎ出す物語に耳を傾けてくれているかのようだ。
「……ソウくん。この物語が、夜宴の島にいる貴方の元まで届きますように」
 私は鞄から一冊のノートを取り出すと、ゆっくりとその内容に目を通し始めた。


***


 【夜宴の島】

 得体の知れない者達が島の海辺に集まる、夜の宴会場。
 背後には、とてつもなく深い森が広がっていた。
 暗闇に灯るオレンジの火が昇り竜のように燃え上がる。まるで躍っているかのように。
 色とりどりの衣装を身につけた者や獣達も、我を忘れたかのように愉快に踊り明かす。
 笛は高らかに美しい音色を奏で、皆はパーカッションのリズムに合わせ手拍子を送った。
 見目麗しい娘が美しい歌声で歌い始めると、鎌鼬はそれに合わせて軽やかに舞う。
 荒ぶる風を巻き起こし、鮮やかな紙吹雪を宙に撒き散らしながら。
 幼い童が、揃って一斉にシャボン玉を高く飛ばすと、まるでこの宴会は水の中で行われているような錯覚に陥った。一面に広がるシャボン玉は、まるで呼吸の泡のように浮き上がる。
 その美しく神秘的な空間に心を奪われた私達は、思わず息を漏らさずにはいられなかった。
「何度見ても綺麗……」
「……うん。まさに【水中月下】だね」
 そう言った彼は、少年のように目を輝かせていたものの……どこかその表情は、憂いを帯びているようにも見えた。
 ――私達はもう何度、その宴会に参加しただろう?
 月はいつも満月で一度も欠ける事がなく、星の位置もいつだって同じ。
 私達は、同じ夜を何度も何度も繰り返しているという事なのだろうか? それとも……
 今夜も私達は、それぞれが手に持った面を被り、その宴会に参加する。
 夜な夜な繰り返される、奇妙で不可解で不思議なこの宴に……
 最初にこの島に来た時、私達が謎の老人に教えてもらった約束事。

 ――楽しんではいけない。この世界に取り込まれてしまうからね?
 ――楽しまなくてはならない。皆はそっと見張っているよ? 楽しめない者は許されない。
 ――怖がってはいけない。ここにいる間は、皆が仲間だから。
 ――怖がらなければならない。 この中にいるのは良い者だけとは限らない。得体の知れない者達が紛れ込んでいるかも。

 夜になると、私達はいつの間にかそこにいた。
 夜明けが来るまで戻れない。ここがどこなのかもわからない。
 天狗の面をつけた老人は、私達にこう言った。
「ここは【夜宴の島】だ。何もかも忘れて歌い踊れ」と――

 橘 瑞歩



 夏、私のバイト先に奇妙な男が面接に来た。
 私が働いているのは、街の目立たない場所にあるしがない本屋だ。客は大型の書店に流れ、姿を見るのはいつもの見慣れた常連客だけ。
 売り上げも少ないこの店が今まで潰れずに済んだのは、この店が店長の道楽にて作られた店だからだ。
 お金に困っていない老夫婦は、揃って書店を経営するのがかつてからの夢だったらしい。
「ミズホちゃん。今日一人、バイトの面接に来る予定だから! よろしくね~」
 店長の言葉に、思わず耳を疑う。
「え? 募集かけたんですか? 新しいバイトなんて雇わなくても、店長と奥さん、サユリさんと私……この四人で充分回していけますよね?」
「うーん、そうなんだけどねぇ……昨日、いきなり電話で『どうしてもここで働きたいので面接して欲しい』って頼み込まれてさぁ。その情熱を買って、一度面接してみる事にしたんだよ」
「へぇ、そこまでうちで……」
 こんな小さくて地味な書店でそうまでして働きたいと思うだなんて、随分物好きもいたもんだと心の中で思ったが、流石に口にするのは止めておいた。
 ちなみに私は、このバイト先がとても気に入っている。人と接する事があまり得意ではない私にとって、この静かな空間はとても心地が良い。
 店長も奥さんもとても穏やかで優しいし、もう一人、ここで働いているスタッフのサユリさんは私より三つ年上で、本当に明るくしっかりした美人なお姉さんだ。シフト上、入れ替わりになるので店ではゆっくり話す事は出来ないが、プライベートではとても仲良くさせてもらっている。
「とにかくまぁもう来る頃だと思うから、来たら呼んで。僕はバックヤードで在庫チェックしてるからさ」
「はーい」
 私がそう返事をすると、年老いた店長は腰に手を当て、バックヤードに移動した。
 ……面接かぁ、どんな人が来るんだろう?
 まぁ、店長……人が良いからきっと採用だろうし、気が合いそうな人だといいなぁ。
 男の人は、昔から少し苦手だから……出来れば女の人の方がいい。
 ちょうどそんな事を考えていた時に、自動ドアが開いた。
 ドアの外からモワッとした熱風が店内に流れ込む。既に聞き飽きた、有線から流れる音楽が、偶然に終わりを告げた。
「あの……どうも。面接にきました」
 低くて静かなその声の主に、私は思わず目を奪われる。決していい意味ではない。悪い意味で、だ。
 目の前には、黒くて長めのボサボサの髪に、今時どこに売っているのかと聞きたくなるくらいの分厚いレンズの眼鏡、冴えない風貌の奇妙な男が立っていた。
 第一印象……とにかくダサく、陰気。
 しかし、何故だろう?
 これといって、他の人より秀でてる面など見受けられないのだが、彼が持つ独特な雰囲気に目を離す事が出来ない。
「あの……?」
 不思議そうな彼の声で、私の意識は現実に戻される。
「え……あっ、はい! 少々お待ち下さい」
 私は適当に愛想笑いを浮かべながら、足早にバックヤードに向かい、店長を呼んだ。

「やぁ、どうもどうも! 店長の藤尾です」
「あの、五十嵐です。今日は無理を言ってしまい、申し訳ありませんでした。よろしくお願いします!」
 店長と男は互いに頭を下げて挨拶をすると、スタッフルームへ向かって行った。
 うん、あれはない。いくら店長でも、流石に採用しないだろう……多分。
 見た目で判断するほど、浅はかではないつもりだったけれど……鼻まで被さる前髪に、その間から覗くビン底眼鏡、頭のてっぺんにはハネたままの寝癖、髪はとかしていないのかぐしゃぐしゃだ。そしてシャツはジーンズにインしていて、蛍光ピンクのリュックを背負っている。
 一言でいえば、あまり関わりたくない人種である。オタク、本の虫、引きこもり……失礼かもしれないが、そんな印象だ。
 一体、彼は何歳ぐらいなのだろう。……ま、どうでもいいか。
 面接希望くんの事は、取り敢えず置いておいて、私は本の整理を始める事にした。
 今日は先週追加発注をかけた私の大好きな作家さんの新刊が入ってきていて、見慣れた表紙ではあるものの、気分はとても弾んでいた。
 勿論、私は発売日の日に購入して既に読了している。
 漫画も良いが、私は小説の方が好き。文章からその世界を想像するのがとても好き。
 気付けば、その世界観にどっぷり浸り込んでしまっているという癖があるのが難点だが。
 梱包を外すだけでもワクワクする。レジでお客さんがその本を持っているだけで、何だかとても幸せな気持ちになれる。

 夜科 蛍よしな けい【朧月夜に泳ぐ魚】

 そこまでメジャーな作家さんでもなく、男性なのか女性なのかすら私にはわからない。けれど、夜科さんの書く物語は全て……繊細で儚げで、とても美しい。特にデビュー作が素晴らしくて、何度読み返したかわからない程だ。

 デビュー作【鏡花水月】

 鏡花水月の意味を調べてみると、鏡に映った花や水に映った月のように、目には見えるけれど、手に取る事が出来ないもの。また言葉では表現できず、ただ心に感知するしかない物事、儚い幻の例え……などと書いてあった。
 正に小説の内容にぴったりだ。
 意味だけでも美しいのに、内容は私の胸を強く打った。


***

 俺は彼女の遺体を優しく抱き抱えた。どんなに嘆き哀しんでも、彼女はもう二度と帰って来ない。
 わかっているのだ。……わかっている。
 けれど止まる事のない涙が、必死に彼女の帰還を願っていた。
 このまま彼女を想い、溢れだす深い涙の海に沈み、溺死する事が出来たら……どんなに幸せな事だろう?
 彼女の遺体を、二人のお気に入りだった小さな湖の底にそっと沈める。
 彼女は眠る人魚のように、美しい表情を見せながらゆっくりと沈んでいくと、次第に見えなくなってしまった。
 ――その時だ。優しい月の光を受けて、水面が青白く、神秘的に光りだしたのは。
 俺は涙に濡れた顔で、それをじっと見つめていた。
 月光が、突然湖を液体から個体に変え……湖が、まるで分厚いガラスのように変化する。
 あり得ない光景に、普段なら心臓が飛び出しそうなくらいに驚いたと思うが……今の俺は彼女を失った哀しみで無気力になっており、ただ茫然と変わっていくそれを見据えるだけ。
 俺はゆっくりと湖の上に乗り、結晶化した湖の中をそっと覗き込んだ。
 そこには、死んだ筈の彼女がいた。
 彼女も驚いたように、こちらをじっと見つめると……次第にはにかむような笑顔を見せた。
 俺はとても驚いた。――彼女は、生き返ったのか?
 けれど、彼女は今……湖の向こう側の世界にいる。いくら生きていようとも、俺は彼女に触れる事すら出来ないのだ。
 俺は湖の透明ガラスをコンコンと叩いた。こちらにゆっくり近付いてきた彼女も、それを真似て向こう側からノックする。
 水で出来た壁は、まるで二人を隔てる牢のようだ。けれど、もう一度彼女の笑顔を見る事が出来た俺は、この上ない幸せを噛み締めていた。
 俺はずっと、湖の向こう側の世界にいる彼女を見つめてた。

 もうどれくらいそうしていただろう?
 次第に夜が終わり、朝日が顔を出した瞬間、水の壁は本来の水へと変わる。突然足場を失った俺は、否応が無く湖の底に沈んだ。
 湖の中に落ちた俺は、水中で懸命に彼女を捜すが、彼女の姿はどこにも見つからない。
 仕方なく俺は湖から這い上がり、手と足を地面につけた。
「サヤカ。君は一体、どこに行ってしまったんだ……?」

 その夜、俺は再びあの湖に向かった。月の光を浴びた湖が、ピシッと氷を張るように道を作り始める。俺はゆっくりと、その水の上を歩いた。
 あの出来事は夢か、幻か――
 けれど、現に湖は美しい水晶のように、頑丈な足場を作り出しているではないか。……ならば、きっと夢ではない。
 一瞬、『これは全て、俺の哀しみが生んだ幻なのか?』とも思ったが、幻にしてはどうもリアル過ぎる。
 それに、ひんやりと冷たく硬い感触が、この状況は決して幻などではないと、はっきりと告げていた。
 きっと、今夜も君は……この湖の中に――
 俺は執拗に湖の中を調べた。透き通る程に綺麗なこの湖は、底までクリアに見渡せられる。
 月夜の光がキラキラと石を光らせ、小さな魚達は優雅に泳ぐ。
 その中心に、まるで人魚のように魚達と戯れる一人の女性の姿を見つけた。
 ――あれは、彼女だ。……彼女がいる。
 彼女は俺に気が付くと、笑顔で手を振った。俺はしゃがみ込み、顔を彼女の方へと近付ける。
 彼女は何かを話しているようだが、こちらからはその声は聞こえない。
 俺は途端に悲しくなり、涙を流した。
 流れた涙は水の牢が弾き飛ばし、俺のズボンの裾を濡らす。彼女は困ったように笑うと、そっと水の壁に触れた。
 俺はその手のひらに、自身の手のひらを添えてみる。微かに彼女の温もりを感じられた気がした。
 ソウジロウ、泣かないで。――大好きだよ。
 そんな、彼女の声が聞こえたような気がした。


***

「おーい、ミズホちゃん! ちょっと~!」
 突然、スタッフルームの方から私を呼ぶ店長の声が聞こえてきた。
 ――しまった。どうやら、また自分の世界に入り込んでいたみたいだ。……いけない、いけない。
「はーい。今行きます」
 今はちょうど客足も途絶えていて、店内には一人も客がいない。店長も、その事をわかっているからこそ私を呼んでいるのだろう。
 それに、自動ドアは開くと音が鳴る仕組みになっているので、誰かがくればすぐにわかる。
 私は、品出ししていた本を全てカートの中に戻すと、急いでスタッフルームに向かった。

「……失礼しまーす」
 スタッフルームに入ると、店長と面接に来た彼が向かい合って座っていた。
「あ、ミズホちゃん! お疲れ様!」
 二人は立ち上がり私の前に移動する。店長はニコニコと笑いながら、大きく口を開いた。
「ミズホちゃん。彼ね、採用したから! 明日から面倒見てあげてくれるかな?」
「え、採用……ですか?」
 店長の言葉に、分かりやすいほど怪訝な表情を浮かべてしまう。聞き間違えじゃ……ないよね?
「うん、彼の本に対する情熱は本物だよ! きっと、頑張ってくれるに違いない」
 店長は嬉しそうに笑った。笑う事によって皺の増えるその顔が、更に穏やかで優しい表情を作り出す。
 店長の人の良さは、私が思うよりずっと上だったらしい。……初老の器の大きさに、心底感服する。
「あの……五十嵐想です。これからよろしくお願いします」
 彼は礼儀正しく、私に深くお辞儀をした。
「あー、えっと……橘瑞歩です。こちらこそよろしくお願いします」
 私も負けじと、丁寧にお辞儀を返した。
「うんうん! 二人共年も近いし、すぐに仲良くなれそうだね。五十嵐くん。わからない事があれば何でも、僕やミズホちゃんに聞いてくれたらいいから」
「はい。わかりました!」
「うん、いい返事だ。じゃあ明日から頼むよ、五十嵐くん」
「あ、あの……良かったら、今日は少しだけお店を見ていって構わないでしょうか?」
「え? 大丈夫なの?」
「はい! 早く色々と慣れたいので!」
「仕事熱心だね、君は! いや~気に入った」
 店長は、笑顔で彼の背中をポンと叩く。……嫌な予感がする。
「ミズホちゃん。僕、店出るから先に休憩入っちゃって! 五十嵐くんも、彼女の休憩が終わり次第一緒に……ね?」
「……え? じゃあ店長、それまで彼は?」
「ミズホちゃんが五十嵐くんの指導係なんだから、もっとお互いの事をよく知って、仲良くなるのもいいなって思うんだよ、僕は!」
 店長は『うんうん』と頷くと、『じゃあ、後でね~』なんて言いながら、私と彼をスタッフルームに残し、店内へと歩いて行った。
 どうしよう、気まず過ぎる。こういうの本当に苦手だ。何を話せばいいのやら。
 仕事中だと、まだ話す内容も見つかると思うのだが、休憩時間に初対面の彼と……一体、何を話せばいいのかがわからない。自分のコミュニケーション力の乏しさに思わず嘆く。
 休憩時間に、また小説を読もうと思って持ってきたのに……読めそうもないね、これじゃ。
 チラッと後ろに振り返ると、前髪と眼鏡でまったく顔のわからない彼が立っている。彼も、何を話せば良いのか悩んでいるのだろうか?
 ……いや、そんな事もなさそうだ。
 彼は興味深そうにスタッフルームを見渡すと、何やら楽しそうに一人で喋り続けている。そして、一通りスタッフルームをチェックすると……突然、私に向かって話しかけてきた。
「あの、橘さん! 休憩ってどれくらいあるんですか?」
「あ~、……三十分くらい、です」
 会話終了。……空気が重い。
 とりあえず私は、スタッフルームの横に設置されている小さな手洗い場で手を洗う。彼はまるで、背後霊のように黙って私の後について来た。
 私はため息を漏らしながら、ロッカーの前に移動すると、中から鞄を取り出した。
 相変わらず、ぴたっと後ろに引っついて来る彼は、『ロッカーってこんな感じなんだ~』と、一人でブツブツ呟いていた。
「……あの、五十嵐くん」
「あ、はい! 何でしょう?」
「いくらお客さんが少ないとはいえ、仮にも接客業なの。とりあえず、その格好はちょっと……」
 言葉を選んで話したつもりだが、少々棘のある言い方になってしまった。
 それなのに彼は、少しも気にした素振りを見せず、明るく言った。
「そうか、そうですよね。わかりました!」
 彼は眼鏡を外し、机に置くと……手洗い場に頭を突っ込み、蛇口を捻る。勢いよく噴射される水に、髪はみるみる内に濡らされ、重みを増していった。
 私は突然の出来事に目を丸くする。とにかく呆気に取られ、唖然とした。
「あ~……橘さん、そのリュックからタオル取ってもらえますか?」
「……え? あ、うん! わかった」
 私はすぐさま、蛍光ピンクのリュックの中から青いタオルを取り出すと、水滴が落ちないように排水口の方を向いている彼に手渡す。
「ありがとーです」
 彼はタオルでしっかりと髪を拭くと、能天気に『これで寝癖はオッケー!』なんて言いながら、腕につけていた輪ゴムで前髪をくくった。
「前髪は明日までに切ってきます。今日はこれで大丈夫ですかね?」
 分厚い眼鏡と長い前髪から解放され、露わとなったその素顔は、とても端整な顔立ちをしていた。さっきとはまるで別人だ。
 しかし、何だろう? この人……
「……眼鏡、かけないで大丈夫なの?」
「俺、両目とも視力2.0なんで。あの眼鏡はファッションです」
 相当な変わり者だとお見受けしました。

「――あれ? それって……夜科蛍の」
「え?」
 彼は机に置いていた私の鞄から、ひょっこりと顔を覗かせていた小説を見て、そう口にした。
「……鏡花水月か。橘さん、夜科蛍が好きなんですね」
「夜科さんを知ってるの⁉ 五十嵐くん!」
「えぇ。鏡花水月に、星降る夜に走る列車、常夜の言の葉、夜光曲。そして新作の、朧月夜に泳ぐ魚。夜をモチーフにした作風が目立つ作家ですよね?」
「そう…! 五十嵐くんも全作読んだんだ! あまり知られた作家さんじゃないから、私の周りに知ってる人ってなかなかいなくて! うわ、何か感動……!」
 共通の話題を見つけた事で、急に親近感が生まれる。そんな私を見て、彼はふっと優しく笑うと……目を閉じ、見慣れた文章の朗読を始めた。
「――このまま消えゆく俺に、彼女は一体、何を想うだろうか? いつものように、『サトルの大嘘吐き』と、頬を膨らませる姿が目に浮かぶ。それでも、俺は帰らない。たとえ、彼女をまた、泣かせてしまう事になったとしても……」
「窓に浮かぶ蛍達に願う。どうか彼女の中の俺が、どうしようもない嘘吐きで、最低な男でありますように。『……カスミ、ごめんな。幸せになれよ』。蛍達は散らばり、まるで星屑のような輝きを放つと、光の路線を作り出した。俺を乗せた列車は、静かにその上を走行する。煌めく夜空に降る星屑の雨は、まるで彼女の涙のように……俺の心を深く苦しめた。――【星降る夜に走る列車】だね」
「橘さん……かなり通ですね」
「夜科さんの書く話が、凄く好きなの。何度も読み返してきたから……しっかりと頭の中に入ってる。五十嵐くんだって、相当な通じゃない! 普通はそこまで覚えられないよ!」
「俺は……夜科蛍の作品は全部読んだけれど、実は一つの作品以外はあまり好きじゃないんです。ファンの橘さんの前で、こんな事を言うのは本当に申し訳ないんですけど……」
「あっ! その作品って、もしかして【鏡花水月】でしょ? あの作品以降ものは、何だか少し感じが変わった気がするから」
「……橘さんも、そう感じるんですね」
「うん。けど、私が夜科さんの小説を好きな事には変わりないけどね! 五十嵐くんは、どうして鏡花水月以外の作品は好きじゃないの?」
「それは……鏡花水月のような美しさや儚さが、今の夜科蛍にはないから。今の夜科は、ただ……美しく書こう、儚げに書こうとしているだけのような気がしてならない。まるで……別人が書いているとしか思えないんですよね」
「……? 別人? そんな風に思った事なんて、一度もなかった……」
「そうですよね。文章に、表現の仕方……癖などを見たって、鏡花水月も夜光曲も朧月夜に泳ぐ魚も、まったく瓜二つだ。……けれど、どうしても認められない。鏡花水月の夜科蛍は……もう存在しない」
「そうかな……? 私には、よくわからないよ」
 彼がどうしてそんな風に思うのか、私にはまったくわからない。 私から見たら何も変わらない、どれも夢溢れる美しい作品だと思うのだけれど……
「おかしな事言ってますよね、俺。けど、俺にはそう感じてしまって。だから……鏡花水月以外の作品に魅力を感じないんです。それに、実はこれ! 俺の一番好きな小説なんですよ。だから橘さんが知っていてくれて、こうやって話せた事が本当に嬉しいんです。……あ、すいません。休憩中なのに、何だか邪魔しちゃって」
「ううん! 私の方こそ、小説の話が出来て本当に嬉しかった。それと……ごめんなさい! 私、最初……かなり感じ悪かったよね?」
「あ~……大丈夫! 慣れてますから! 人見知りとかですか?」
「うーん、それもあるんだけど……私、昔から男の人が少し苦手で。あと、あの格好は正直引くよ。何か気持ち悪いと言うか、その……」
 私の言葉を聞くと同時に、彼はケラケラと笑い出した。
「わざとです」
「え?」
「わざとああいう格好して面接に来たんです。あの店長に、俺自身をちゃんと評価してもらいたくて! だから、明日から普通に戻します」
 彼は『内緒ですよ?』と、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「……五十嵐くん。貴方、よく周りの人から変わってるって言われるでしょ?」
「はい、日常茶飯事です。でも、普通じゃつまらなくないですか? だから褒め言葉として受け取ってます。それに、俺の見たところ……橘さんも相当変わってますよ?」
「え? そうかな? 私、変わってる? まぁ……私も結構、変とか言われたりする事はあるんだけど」
「はい! それに何だか、【大人になりきれてない、大人】って感じがします」
「……何だか、少し馬鹿にされてる気分」
「あっ! 気分を害したのなら謝ります! ただ俺には、小説の世界に心酔している橘さんが……身体は大人でも、心はまるで純粋な少女のように思えて。……すみません」
 彼は眉を下げながら、困ったように私に謝罪をした。
「……でもね、橘さん。この世界には、美しいものなんて一つもありませんよ。だから人は、美しいもので溢れている絵画や彫刻、映画に小説など……人の手により作られた偽物の美しさに魅了されてしまうのです」
「……うん。それは私もそう思う。いつも小説ばっかり読んでるからかな? 小説の世界に憧れているし、もし自分が小説の中に入れたら……なんて、馬鹿げた事を思う事もある。この世界は、小説とは違って美しくないよね。汚いもので溢れ返っている。それに自由でもない。まるで決められたレールを、見えない何かに無理やり歩かされているような気がして……たまに疲れるんだ」
「……ほら、やっぱり。橘さんならそう言うと思いました」
 彼は私に、『だから変わり者なんですよ』と言うと、小さく笑った。
「大抵の人間は、『この世界はこんなものだ』と、割り切って生きている……現実的にね。実際問題、【有る筈がない】とわかっているものを求めるなんてしないんですよ。そんな時間があれば、男性は仕事に打ち込むだろうし、女性は結婚をしていれば、家庭を守る」
 彼は、先程とは打って変わった表情で話を続ける。そんな彼の瞳は、光を宿しておらず、まるで常闇のように真っ黒に見えた。
「そして皆……年を取って、同じように死んでいくんです。事故や病気でもしない限りね。生きてきた形が違っても……最終的には皆、同じように生かされてる事に気付くんだ」
「五十嵐くん……?」
 何だかとても苦しそうに話す彼に、私は思わず声をかけた。
 彼は突然『ハッ』とした表情を浮かべると、私の方を見て、にこりと笑った。
「……すみません、ちょっとお喋りが過ぎました。何だか暗くなっちゃいましたね! 忘れて下さい」
「……うん」
「あっ。そろそろ休憩も終わりですね! 行きましょう。教えてもらいたい事が沢山あるんです!」
 彼はそう言うと、立ち上がり、私より先にスタスタと歩いて行ってしまった。
 私は、掴みどころのない彼の背中を見ながら……彼は一体、いくつの顔を持っているのだろうと思っていた。

 ――五十嵐想。最初に見た時、彼は冴えない奇妙な男だった。
 眼鏡を外した後の彼は、明るくよく笑う青年だった。
 そして、さっきまでの彼は……どこか、深い影を背負っているような気がして、何だか少しだけ怖かった。
 ……不思議な人だ。一体どの彼が、【本物の五十嵐想】なのだろうか? 彼はまだ、他にも色んな顔を隠しているのかもしれない。
 一度考え出してしまったら、気になる事が次々と溢れ出してくる。
 どうして彼は……人通りも少なく、募集さえしていなかったこの店で働きたかったのだろう? ただ本が好きなだけなら、ここよりも本の種類が豊富な書店はいくらでもあった筈だ。
 それなのに、どうしてなんだろう? 何か理由でもあるのだろうか?
 ……深く詮索するのはやめよう。
 明日から、彼と私はバイト仲間だ。出来れば仲良くしていきたい。
 私は両手で頰をパチンと叩くと、先に店内に出た彼を追いかけ、スタッフルームを後にした。



「五十嵐くんが行ってる大学ってさ、あのすっごい頭いいとこでしょ⁉ 五十嵐くん、頭いいんだぁ! 素敵!」
「いや、そんな事ないですよ。大した事ないです。ついていくのが精一杯で」
「もう! 謙遜しちゃって~! 可愛い!」
 ――次の日。店内に入ると、サユリさんと五十嵐くんの楽しそうに話している姿が目に入る。二人は私に気が付くと、温かい笑顔を向けてくれた。
「あ、ミズホちゃんだ。やっほー!」
「橘さん、おはようございます」
 二人の笑顔につられ、私もつい笑顔になる。
「二人共、おはようございま……」
 私が返事を返そうとすると、すかさずサユリさんが私のところに突進してきた。それも、まるで猛牛! ……いや、闘牛のように。
 彼は、キョトンとした表情でこちらを見ていた。
「ちょっと、ちょっと! 五十嵐くん、よくない⁉ 優しいし紳士的だし、何よりかっこいいし! 歳下だけど、ありだわ! ありよ、あり!」
 小さい声だが興奮高らかにそう話すサユリさんは、まるで恋する乙女のように頬を赤らめていた。
「……え? え? あ、そうですか?」
「じゃあミズホちゃんも来たし、私先に上がるね~。お疲れ様、五十嵐くん! ミズホちゃん、一緒に中に行こう! さぁ!」
「え? あ! サユリさん、ちょっと!」
 私はサユリさんに腕を組まれ、無理矢理スタッフルームへと引っ張られていく。……否、引きずられていく。『お疲れ様でしたー』という、五十嵐くんの声を背後から聞きながら。

 私とサユリさんはタイムカードを切ると、共にスタッフルームへと向かった。
「ねぇ、正直言ってミズホちゃんはどう?」
「はい? 何がですか?」
「五十嵐くんの事よ。昨日、色々話したんでしょ? もしかして好きになった?」
「はぁ⁉ ないですよ、ないない! 第一、昨日初めて会ったばかりですよ? 有り得ないですってば!」
「えー? 恋に時間は関係ないじゃない! 恋は突然やってくるものよ」
 ……この人に、昨日の彼の姿を見せてやりたい。きっと、今とは180度違う言葉が返ってくるだろう。
「はぁ、いいなぁ。五十嵐くんと長時間一緒に入れるとか。私、掛け持ちしてるから無理だし。けど……恋には障害が付き物よね? ファイトだ! サユリ! イケイケ、サユリ!」
 完全に熱くなっている彼女に、私は思わず苦笑いを浮かべた。こうなると、彼女の話はとんでもなく長い。
 私はロッカーに荷物を置き、急いでエプロンをつける。早く入らないと、お客さんが来たら五十嵐くんも困る筈。
「サユリさん、その話はまた今度ゆっくり聞きますから! とりあえず五十嵐くん一人、店内に残しておけないので……私、行ってきますね!」
「あ、そうだった。うっかりしてたわ! 彼、新人なんだっけ! ごめん、ごめん! いってらっしゃ~い!」
 まったくこの人は……彼の事が気になるのに、そういうところは気にならないのだろうか?
 しかし……
「サユリさんが、五十嵐くんを……ねぇ?」
 何だか今日のサユリさん、凄く可愛かったなぁ。恋は女性を美しく変えるって言うのも、あながち間違いじゃないのかも。……なんて思いながら、私は足早にカウンターへと向かった。

「ごめんね、五十嵐くん! 遅くなって!」
「大丈夫ですよ。お客さんも全然来なかったし、平気です」
 彼はそう言うと、優しくにこりと微笑んだ。
 あー成る程。この笑顔にやられたんだな、サユリさんは……なんて思いながらカウンターに入る。
「じゃあ今日届いた取り寄せ分のリストのチェックしてから、電話連絡。それが終わったら在庫チェックの続きやろうか!」
「はい!」
 彼は飲み込みがとても早いし、とにかくよく動く。本の置き場所も、もう大方覚えてしまったみたいだ。
 ポップ作りのデザインもセンスがあるし、イラストもとても上手い。お客さんの興味を引くような作り方を徹底している。
 細かい事にもよく気がつき、目が行き届いていて、本当に感心させられる。
 そして彼は、とてもよく笑う。
 勿論顔だってかっこいい部類に入ると思うし、サユリさんでなくても夢中になる女の子は沢山いるだろう。
 けど、何故だろう? 私はこの笑顔に何の魅力も感じない。
 昨日の彼を見た後だからだろうか? この笑顔も全部偽物のように感じる。
 張り付けられた笑顔の仮面の下で、彼は一体、どんな表情をしているのだろうか? ……うん、気になる。
「橘さんこれ、どうしたら……」
「あの……橘さん?」
「橘さーん! 聞こえてますかー?」
 あー……詮索はやめようって決めた筈なのに、どうしても気になってしまう。
 こんなの五十嵐くんにも失礼だ。……ちゃんと仕事しよう。
「……君が視る景色、触れるものは全て本物か? 知らぬ間に僕達は幻の中にいるのかもしれない」
「あ、新刊のキャッチコピー!」
 彼の台詞にまるで連鎖反応のように即答する私を見て、彼は『ぷはっ!』と吹き出し、笑った。
「やっぱり、橘さんは面白いです!」
 彼はお腹を抱えて笑う。……これだけ笑われると何だか面白くない。
「反応しちゃうんだから、仕方ないでしょ!」
「さっきからずっとうわの空だったのに、夜科蛍の話になると凄い勢いで食いついてくるんですもん」
「……え? あ! 何か言ってくれてた? ごめん! 話聞いてなかった! 何⁉」
「これです、これ! どこに出せばいいかを聞いてたんです」
「あ! これね、これはそこの棚の……」
 またやってしまった。一つの事考えていたら周りが声が耳に入らない。
 彼は今も楽しそうにケラケラ笑っている。さっきの笑顔とは違う、子供のような笑顔で。
「けど夜科蛍も、そこまで作品を愛されてたら本望でしょうね。ははっ、おかし!」
 ……うん、こっちの笑顔の方が良い。
 完璧すぎる笑顔はまるで機械のように冷淡に見える。声を上げて、少し崩れた表情で笑う方がずっと人間らしくて良い。
「はいはい。とにかくお仕事、お仕事!」
「はいっ! ご指導よろしくお願いします。でもあまり自分の世界に入り込まないようにお願いしますね?」
「……肝に銘じます。本当に申し訳ない」
「いえいえ」
 反省する私を横目に、彼はクスクスと笑った。

 ――ちょうどその時、ゆっくりと自動ドアが開く。私と彼は急いで入り口に視線を向けた。
「二人ともお疲れ様!」
 そこには優しく穏やかな表情を見せる老紳士と、上品で気さくな老婦人の姿があった。
「あ、店長と奥さん! 今日はお出かけの予定だったんじゃ……」
「それがね、この人ったら途中で気分が悪いとか言うから引き返してきたのよ~。で、どうせ帰り道だし店に顔を出しに来たの。あ、これ、シュークリーム! 良かったら休憩中にでも食べてね」
「え⁉ 店長大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと疲れただけだよ。年は取りたくないもんだねぇ」
 老紳士は『情けない』と言いながら笑う。その寂しそうな笑顔を見ると、何だか胸がグッと締めつけられた。
「――店長、奥さん。お店の事は橘さんと俺に任せて、今日は自宅でゆっくり休んで下さい。締めまで責任を持って、ちゃんと二人で終わらせますので」
「五十嵐くん、ありがとう。しかし昨日、ミズホちゃんと休憩から戻ってきた時の君の変貌にもとても驚かされたが、面接の時の君とはまるで別人だね。……何故、あの姿で面接を?」
「……いつもはあんな感じなんですよ。けれど橘さんに昨日、服装と髪型何とかしろってきつく注意されたんです。で、反省してこういう形に……」
「……え⁉ ちょっと! 五十嵐くん!」
「はっはっは! ミズホちゃんもなかなか言うね」
「ウフフ、今は男性よりも女性の方が強い時代ですものね」
 老紳士は豪快に笑い、老婦人はクスッと上品に笑う。
 私は隣にいる彼を、恨みがましくジィーっと見つめると、視線に気付いた彼は私を見てニッコリと笑う。
 策士め……策に溺れやがれ、なんて思いながら、私もニッコリと笑い返した。

 店長と奥さんが帰った後、私達は淡々と仕事をこなし……そろそろ閉店の時間だ。私は有線を閉店時にかける音楽に切り替えた。
 ホタルの光が流れる頃、店内には誰もいなく、非常に静かで何だか少し物悲しい。
 レジ締めも終え、今日の仕事もこれで終わり。
 ブラインドを下ろしに行っていた彼が、戻ってくるなり私に尋ねてきた。
「橘さん、この後少し時間ありますか?」
「え、この後? うちに連絡しとけば大丈夫だけど、どうかしたの?」
「実は、俺……橘さんに聞きたい事があるんですよ」
 ――私に?
 彼は一体、私に何を聞きたいというのだろうか? ……まったく見当もつかない。
「わかった。いいよ!」
「ありがとうございます」
 私がそう言うと、彼は嬉しそうに笑った。
 タイムカードを切ってロッカーにエプロンを直す。彼には先に店を出て、外で待っててもらう事にした。
 私はその間に自宅に電話し、一言断りを入れると、戸締りの点検をして裏口から出た。

 外はすっかり真っ暗で、電柱に設置されている外灯などには沢山の虫が集まっていた。
 いつものように風もない蒸し暑い夜ではなく、今日は少し風がある。イタズラな風が、イタズラに私の髪を揺らした。
 気紛れな風が運ぶ夏の夜の匂いが、妙に心地良く感じる。
 ――暗闇に浮かぶ、彼の後ろ姿。
 私は、急いで彼の元へと駆け寄った。
「五十嵐くん! ごめんね、待たせて」
 振り返った彼は、私を見てそっと笑う。
 その表情は暗くてはっきりとは確認できないが、いつもの彼とは違い、何だか大人で……物静かでミステリアスな雰囲気に包まれていた。
「ミズホ、お疲れ」
 突然呼ばれた名前に、私の心臓は大きく跳ね上がった。
 彼の甘く低い声が私の名を呼ぶ。
 高鳴る心臓の音が、はっきりと聞き取れるくらいに響き渡り、頬がみるみるうちに紅潮するのがわかった。
「ミズホ……? どうかした?」
 彼は私の顔を覗き込む。まるで別人のような彼に、戸惑いを隠せない。
 私は高ぶる気持ちを何とか落ち着かせ、動揺を隠すように、明るく彼に話しかけた。
「……ちょっと〜! いつもは敬語だし、橘さんって呼ぶのに、何でいきなりミズホ? びっくりしちゃうじゃん、もう!」
「あ、そっか。仕事中とプライベートはちゃんとわけてるんだ、俺。……駄目だった?」
「別に、駄目じゃないけど……」
「そ? なら良かった」
 彼はそう言って静かに笑うと、『行こう』と一人歩き始めた。
「……ねぇ、どこ行くの? 五十嵐くん」
「ソウ」
 彼は立ち止まりゆっくりと振り返ると、じっと私を見つめる。
「俺の事はソウでいいよ、ミズホ」
 ――まただ。私の中で、新たな五十嵐想が生まれる。
 もしかしたら多重人格者ではないのか、と思うくらいにコロコロと雰囲気の変わる彼は、まるで掴もうとしても掴めず、指と指の間からサラサラとこぼれ落ちる砂のようだ。
 本当に掴みどころがない。
「わかった?」
「う、うん。ソウ……くん」
「ミズホは、本当に今時珍しいくらい古風な女性だね。いいと思うよ。そういうの」
 彼はそう言い軽く微笑むと、私の髪をそっと撫でた。苦しいくらいに胸が高鳴る。
「近くに公園があるから、そこに行こうか」
「うん……」
 私は前を歩く彼の背中を見ながら何とも言えないような複雑な感情に包まれ、居心地の悪さを感じていた。
 彼はそんな私の気持ちも知らず、呑気に口笛を吹きながら歩いていた。

 夜の公園は緑の匂いに包まれ、風は木々を優しく揺らしていた。
 彼は近くにあったベンチに座る。私は、彼から人一人分の空間を空けて、そこに座った。
「何でそんな離れてるの?」
「……別にいいでしょ、何でも!」
 彼は『俺、怖い? 別に何もしたりしないよ』とクスクス笑う。
 決してそういうつもりではなかったのだが、彼にそう言われた事で自意識過剰に思われたのではないだろうかと、ほんの少し恥ずかしい気持ちになった。
「……で、私に聞きたい事って何?」
「うん、単刀直入に聞くけど……ミズホは店長夫妻の事をどれくらい知ってるの?」
「え? 店長夫妻⁉」
 彼の口から突然飛び出した店長夫妻の話題に、私は思わず怪訝な表情を浮かべる。
「そう、藤尾さん夫婦の事だよ。どんな事でもいい、何か知っている事があれば教えて欲しいんだ」
 彼は真剣な表情を見せながら、そう私に問いかけてきた。
 そんな事を突然言われても、店長と奥さんの一体、何を話せと言うのか?
 悩んで言葉を詰まらせる私に、彼は痺れを切らしたかのように話を続けた。
「ミズホはあのバイト長いんだよね?」
「長いのかな……? けど、あのお店が建った時にオープニングスタッフとして入ったの。高校の時からだからもう三年くらい、かな?」
「それじゃあ、店長と奥さんとはかなり親しくなっている筈だよね?」
「うーん。確かに、可愛がってもらえているとは思うけど……」
「あの夫婦から、何か変わった話を聞いた事がなかった?」
「話って、どんな?」
 私がそう尋ねると、彼は暫し黙り込んだ。そして何かを決心したかのように口を開く。
「たとえば、不思議な島の話とか……」
「島? ……ううん。そんな話、今まで店長夫妻から一度も聞いた事ないけど」
「……そっか、そうだよな」
 彼は小さな声で『頑なに口を閉ざしていると聞いたし、そう簡単には他言しないだろうな』などと意味深な事を呟く。
 ――不思議な島? 一体、何の話だ?
 けれど私の脳の片隅で、何か引っかかるものを感じる。不思議な島……不思議な世界……
 不思議な――
「あっ!」
「……ミズホ、何か気になる事でもあった?」
「そう言えば昔、奥さんと小説の話をしていた時……」


***

『ミズホちゃんは、本当にファンタジーが好きなのね』
『はい! 大好きです! でも、最後まで読んでしまった後……何だかいつも虚しくて、悲しい気持ちになるんです。素晴らしい物語がまた一つ、終わってしまった……って。それで一気に現実に引き戻されてしまって、今まで以上に、この世界にもこの世界で生きている自分にも幻滅させられます。……駄目ですね、私。別世界なんて、存在するわけがないのに』
『……わからないわよ? 気付いていないだけで、貴女の知らない世界が、本当は存在しているかもしれない。ただし、それが貴女の思うようにただ美しいだけとは限らない。時に恐ろしく、貴女の心を深く追いつめてしまう危険な世界かもしれないわ。異世界とは本来、憧れではなく恐怖を抱くべき場所なのかもしれないわね……』

***

「……あの時の奥さん、いつもと雰囲気が違って見えた。この世界には誰も知らない不思議な街や不思議な島が隠されているのかもねって寂しそうに笑って話していたのが、何だか印象的だったけど……」
「……やっぱり、そうか」
「え、何が?」
「記述にあった通りだ、間違いない。あの夫婦はきっと、島の生還者だ」
 彼は立ち上がり、ブツブツと呟きながら何かを考えているような素振りを見せる。真剣な表情ではありながらも口角は上がっているし、目は爛々と輝いていた。
「ミズホありがとう! 君のお陰で確信が持てたよ!」
 月明かりに照らされた彼の笑顔は、今までに見た事がないものだった。
 赤子のように愛くるしいような笑顔でもなく、思わずとろけてしまいそうな甘い笑顔でもない。ゾクッとするくらい、魅力的な笑顔……
「いが……ソウくん。一体何なの? さっきからわけがわからない、ちゃんと説明して」
「あぁ、ごめんごめん! まぁ、君になら話してもいいかな。他の人間なら信用すらしないと思うけど、君ならきっとわかってくれると思うしね」
 すると、彼はまるで小説の一節のように語り始めた。
「永遠に続く夜の宴。それは不思議で奇妙で恐ろしく、そして何より美しい。悪魔や魔女の宴とも呼ばれるものだ。不気味な島で開かれる夜の晩餐。夜の間はその島で過ごす事になり、朝日が昇れば元の世界に戻れる。――その島の事を、住人達は【夜宴の島】と呼んだ」
「夜宴の島……? 誰かの小説か何か?」
「違うよ。これは実在する島の話だ。いや、実在するっていうのはおかしいか。この世界とその世界は、まったく別の世界なのだから」
「別の世界……それって、異世界って事?」
「流石ミズホ。飲み込みが早くて助かるよ」
 彼の突飛すぎる話に頭がついていかない。彼は一体、何を言っているのだろうか?
「ちょっと待ってよ、本気で言ってるの? 異世界だなんて、そんなものある筈が」
「俺は本気だよ。異世界は確実に存在する」
 彼は怖いくらいに真剣な眼差しで、はっきりと私に言い放つ。
 あまりの迫力に、私は思わず口籠り、それ以上何も言えなくなる。
「藤尾夫婦がその世界に行って戻ってきた。当時の夫婦はその事を世間に訴えたが、勿論誰も信じる事なく……その真実は闇に消えさった。けど、古くから藤尾夫婦と知り合いで、俺の通っている大学で教授をしてる都築先生がその話に興味を持ったんだ。ちゃんと記録に残ってあった。都築先生は当時色々と調べたみたいだけど、結果何の成果も得られなかったみたいだね」
 彼が饒舌に詳細を説明していくのを、私は相槌で返した。
「結局、都築先生自身もその件を放り投げた。今では思い出す事もないだろう。そんな時、俺は教授の部屋で、ファイリングされているその記事を偶然見つけた。一瞬で魅了されたよ。藤尾夫婦は誰も信じてくれなかった事と、夜宴の島での事をあまり思い出したくない一心で、今では口を閉ざしているらしい」
 ――繋がった気がした。彼がうちに面接に来た理由。
「だから俺はその事を調べる為に、あの書店で働こうと思ったんだよ」
 ……やっぱり。
「ミズホは夜宴の島と呼ばれる島が、本当に存在するのか……興味はない? 真夜中の宴会場。人であらざる者達が集まる恐ろしくも美しい世界。……俺は行ってみたい。今すぐにでも」
 彼は少し……いや、かなり歪んでいるように思えた。異世界という世界に心酔し過ぎている。
 けれど……もしそんな世界があるというのならそこに行ってみたいと思う私も、やはり歪んでいるのかもしれない。
 それ程までに、彼の話はとても興味深かった。
 そしてそれは、夜科蛍が創り上げる物語のそれと……どこか少しだけ似ているような気がした。
「――ねぇ、ミズホ。夜科の小説のように、俺達でファンタジーを創り出さないか?」
「え?」
「ミズホだって、この世界に飽き飽きしているんだろう? ……わかるよ。君は俺に、とてもよく似ているから」
 彼は笑う。私はその笑顔の裏に『何かあるのではないのではないか?』と、つい疑ってしまう。
「俺と一緒に行こう。夜宴の島へ」
 彼が手を差し伸べる。……信用出来ないその手を取ってしまったのは、この五十嵐想という人間の事が気になるから?
 ……ううん、違う。知りたいからだ。
 彼という人間の中身を、本当の彼自身を――

「正直信憑性に欠ける話ではあるけれど、そんな島が本当に存在するのなら私も行ってみたい……かもしれない」
「それでいいんだ。必ずしも全部を信じる必要はないよ。君が信じようが信じまいが、真実は一つしかないんだから。いずれ真実の方からひょっこり顔を見せるさ。それまでは半信半疑でいい。君の好きな夜科の文面にもあっただろう? 『千の人間が否定したとしても、自分は一の肯定者でありたい。その選択がきっと、君の視覚、聴覚、知覚をより過敏にし、君を黄泉の世界へといざない、招き入れるであろう』と」
「常夜の言の葉……けど、その好奇心が結果的に自分自身を追いつめ、破滅の道に進むんだよね」
「そうだね。でもミズホは、彼のその選択に後悔があったと思うかい?」
「それは……」
「知って後悔するよりも、知らないまま後悔する方がもっと嫌だ。俺には、あの主人公の気持ちがよくわかるよ」
 ソウくんは、鏡花水月以外の作品は好きではないと言った。けれど私にはとてもそうとは思えない。
 彼の言葉から夜科蛍の作品に対する愛情が、見え隠れしていたから。
 私には、彼が嘘をついているようにしか思えなかった。
「わかった。私に出来る事があれば協力する。確かにその話はとても興味深いもの。けど、その代わりに一つだけ教えて」
「何?」
「……貴方は一体何者なの? どれが、本当の貴方自身の姿なの?」
 静かな夜の公園に、私の声がさざ波のように響き渡る。
 夜風が公園のブランコをゆっくりと揺らした。
 まるで、そこにもう一人存在し、私達の話にそっと耳を澄ましているかのように。
「……それは教えられない。答えたくないんだ。自分の素性ほど、愚かで惨めなものはないからね。けど、協力してもらうんだし……一つだけ。ミズホから見て俺という人間が掴めないと思うのなら、それは全て本当の俺ではないからだよ。でも君が見てきた俺は全て、正真正銘本物の俺自身に違いない。……その矛盾、君にはわかるかな?」
 彼は、私の頭にぽんっと優しく手を置く。
「……ミズホが見つけてみてよ。本当の俺自身を。その謎が君の中で、また新たな一つの物語を生み出すんだ」
 そう言うと彼は、『もう遅いから送るよ』と、そっと立ち上がった。私も数秒遅れて立ち上がる。
 気が付けば夜も更け、歩行者や走行車の姿も見えなくなっていた。
 私は空に輝く月を見上げながら、彼の言うもう一つの夜を思い浮かべ、想いを馳せた。



 燦々と輝く太陽の下。蝉の声が煩わしく響き渡る遊歩道を、私は欠伸をしながら歩く。木陰が暑さを少し和らげてくれているようだ。……しかし、暑いものは暑い。
「眠い……」
 昨日、あれから家に帰って携帯をチェックしたら、恐ろしい数の着信が履歴を埋め尽くしていた。
 相手は勿論、サユリさんだ。バイト終わりの時間を狙ってかけてきたのだろう。
 急いでかけ直すと、内容は勿論【彼】の話だった。
 五十嵐くんが素敵だの、かっこいいだの、運命の相手だの……そんな話を延々と聞かされ、気が付けば朝を迎えてしまっていた。
 彼女に言いたい。彼の作り笑顔に騙されないで。
 彼には正に、【天使の顔をした悪魔】という表現が相応しいのだ。
 まぁ、悪魔は言い過ぎだろうが……

 そうこうしているうちに書店に辿り着いた。昨日、あれから彼と話した内容はこうだ。

『――私が?』
『そう、ミズホが』

 ……ようするに、私がそれとなく店長夫妻から情報を入手する。
 何だか彼に上手く利用されているような気がして、腹立たしい。
 けどまぁ入ってきたばかりの彼より、多少気心の知れた私の方が、店長達も口を開いてくれるかもしれないし……仕方ないか。
 私が書店の前に立つと、ドアは静かに道を開いた。
「あ、橘さん! おはようございます!」
 バイトモードに入っている彼は、いつもように敬語で私に話しかけるが、その表情には焦りの色が見える。
 彼は私に近付き、こっそり耳打ちをした。
「……まずい事になりました。計算外です」
「え? それって、どういう事?」
「それは……」
「あ~! ミズホちゃん!」
 ちょうどバックヤードから出てきたサユリさんが私の顔を見るや否や、猛ダッシュで飛びついてきた。
「ちょっと、ミズホちゃん! 大変だよ~!」
 彼女は私の腕をぶんぶん振り上げながら、驚きを隠せないような複雑な表情を浮かべている。
「さ、サユリさん……一体、何があったの?」
 ちょうどその時、スタッフ出入り口の扉が開き、中から奥さんが顔を出した。
「あ、奥さん! おはようございます!」
 奥さんは何故か切なげな表情を見せながら、ゆっくりと笑った。
「ごめんなさいね、サユリちゃん。上がりのところ悪いんだけど……ミズホちゃんが戻るまで、もう暫く五十嵐くんとレジに入ってて貰えないかしら? すぐに戻ると思うから」
「! わかりました! 今日はこの後、どこもシフト入っていないし、ちゃんと五十嵐くんをフォローしますので! どうぞ、ゆっくり話してきて下さい」
 若干邪な気持ちが見え隠れするサユリさんは、五十嵐くんの腕を絡め取り、満面の笑みでそう答えた。……さっきまでのあの表情はどこにいった⁉
「そう、良かった。それじゃ、二人ともお願いね。行きましょう、ミズホちゃん」
 彼はじっと私を見つめた。私はそんな彼に応えるように、一度だけ頷くと、奥さんと一緒にスタッフルームに向かった。

 奥さんと二人でスタッフルームに入ると、そこには店長の姿があった。店長の顔は血の気を失ったように青白く、まるで生気を持たない死人のようにも見える。
「……やぁ、ミズホちゃん。お疲れ様」
 店長は弱々しくはあるものの、いつものように穏やかで優しい笑顔を私に見せた。
「店長、どうしたんですか! 顔色、凄く悪いですよ⁉ まだ調子悪いんじゃ……そんな状態でお店に来て、本当に大丈夫なんですか⁉」
「……いや、大丈夫だよミズホちゃん。単なる寝不足なだけだから。……最近、あまりちゃんと眠れていなくてね」
「でも……!」
 声を張り上げる私を制止し、奥さんが困った顔をして口を挟む。
「ミズホちゃん、本当に申し訳ないんだけど……暫く店を閉めようと思うの」
「えっ⁉」
 私は、思わず言葉を失った。

 彼がここに現れたのは、三日前の話。それなのに、事態は大幅に急展開を遂げる。
 一日目、奇妙な青年が書店に現れる。
 二日目、そんな青年の本当の目的を知る。
 そして、三日目……重要人物である夫妻の謎の言葉。
 これは何の巡り合わせなのだろうか。まるで、彼を主人公としたストーリーが今、始まろうとしている……そう思わざるを得ないくらいに急スピードでページが捲られていく。
 ――この【物語】は不幸を招く。私には、そんな気がしてならなかった。

「奥さん、一体どういう事なんですか? 店を閉めるだなんて……いきなり過ぎますよ」
「実はね、最近になってから……この人の調子があまり良くなくてね」
「店長……もしかして、何か重い病気なんですか?」
「ううん、それは違うんだけど……」
 店長がそっと奥さんの肩に手を乗せる。
 奥さんが不安げに店長の顔を見ると、店長はゆっくりと頷き私に話し始めた。
「……ここ一ヶ月くらい前から夢を見るんだ。それはとても恐ろしい夢だった。最初はただうなされて何度か起きる程度だったんだ。けれど、ここ数日はまったく眠れない。眠ると必ずその夢を見るんだ。……必ず、ね。今では恐ろしくて眠れやしない。それに、夢だけじゃないんだ。それは現実にまで……まるで幻のように、僕の前に現れるようになった」
 店長は必死に手で頭を支えながら、苦しそうな表情を浮かべる。奥さんはそんな店長の背中を優しく撫でた。
「ミズホちゃんにだけは言うけど……もしかしてもう、この店を開く事はないのかもしれない」
「店長……」
「長い間勤めてもらった君やサユリちゃん。そして、入ったばかりの五十嵐くんには本当に申し訳なく思っているよ。けど僕らには、どうしても行かなくてはいけない場所があるんだ」
「……行かなくてはいけない場所?」
「きっとその場所に行くまで、この悪夢は終わらない」
 店長の額に汗が見えた。少し震えているようにも見受けられた。
「あなた……!」
 奥さんの声で正気を取り戻した店長は、私を見ると眉と目尻を下げ、困ったように笑った。
「いやぁ〜すまない、すまない! 変な事を言ってしまったようだ。気にしないでくれ」
「いえ……」
「ミズホちゃん、時間を取らせてしまってごめんなさいね。サユリちゃんにも、もう上がってもらわないとね。近くに書店はいくつもあるし、元々うちは客入りも少なかったから……急で本当に申し訳ないのだけれど、明日から暫く店を閉めるわ。サユリちゃんと五十嵐くんには、もうちゃんと伝えてあるから」
「……はい」
「じゃあミズホちゃん。今日一日、よろしくお願いするよ。ミズホちゃんはこの店が建った時からずっと一緒に働いてくれていた、僕らにとって孫同然みたいなものだったから……今回こんな事になってしまって君を裏切るような形になってしまい、本当に申し訳なく思っているよ。すまない」
「私からも……ごめんなさいね」
 二人の心のこもった謝罪が、私の不安定な心を更に締めつけ苦しめた。
「じゃあ、私……店に戻りますね。――あ、あの!」
 私は去り際にどうしても一つだけ店長に聞きたい事があったので、思い切って尋ねてみる事にした。ちゃんとした返答を貰えるとは到底思っていなかったけれど……
「店長、その場所と言うのは……」
「ん?」
「……ちゃんとこの世界に存在する場所の事を言っているんですよね?」
 私の言葉に、一瞬場が静まり返る。しかし、それも束の間の話だ。すぐに店長から笑みがこぼれる。
「当たり前じゃないか!」
「本当にミズホちゃんは、おかしな事を言う子ね」
 藤尾夫妻は笑う。何事もなかったかのように。その笑顔が、何故だか痛々しい。
「……失礼します」
 私はそれ以上何も言えず、後ろ髪を引かれるような思いでスタッフルームを後にした。

 とてもショックだった。何とも言えないような、モヤモヤした気持ちが私を襲う。
 店長と奥さんの不安そうな瞳の奥に垣間見える覚悟を決めた顔。そして、店長が話してくれた悪夢の話。
 どうしても、昨日彼から聞いたばかりの話とダブらせてしまう。何らかの関連性を見出してしまうのだ。
「きっと、何かある筈。……ソウくんに詳しく話を聞いてみよう」
 店内に戻ると、彼とサユリさんがすぐさま私の元へと駆けつけて来た。
「ミズホちゃん、大丈夫?」
「……サユリさん、ごめんなさい。もう上がってもらって大丈夫だから」
「う、うん。わかった! けど、元気だしなよ? こればっかりは仕方がない事だから……ね?」
 サユリさんは私の顔を心配そうに覗きこむと、『よしよし』と頭を撫でてくれた。
 サユリさんのそんな優しさが、とても身に染みた。
「じゃあ、私先上がるね。ミズホちゃんに五十嵐くん、お疲れ様! ミズホちゃん、また夜連絡するから!」
 サユリさんはそう言うと、颯爽と店長達がいる中へと入っていった。
「……橘さん。店長と奥さんから何か聞けましたか?」
「その話なんだけど……ソウくん、夜宴の島の話をもっと詳しく聞かせて欲しいの」
「……何か、関係がありそうでした?」
「それはまだ、わからないんだけど……」
「けど、君はそう感じた。……でしょ?」
 彼はそう言うと、妖艶に笑った。
「今日もまた、あの公園で」
 彼は私の肩に手を置き、小さな声でそう言うと、まるでキャラクターが変わったかのように明るく話し始めた。
「橘さん、とりあえず笑顔で今日も一日頑張りましょうか!」
 私はそんな彼の変わりようが何だか可笑しくて、思わず笑いがこぼれた。
「うん、そうだね! 一応、今日で最後だもんね。また店長達、店を開けてくれたらいいけど。……私ね、ここ凄く好きなんだ」
「わかりますよ。橘さんの仕事に対する姿勢を見ていて、そう感じますからね」
 私は彼と顔を合わせると、にこりと笑った。
「とりあえず今は仕事に集中、だね! よーし、やるぞ! 返品処理かけるリスト、チェックしてくるね!」
 私はカウンター内に置いてあるリストを手に取ると本棚に向かう。彼はその間に以前発注をかけていた商品を全てキャンセルする為、出版先に電話をかけていた。
 たとえ最後だとしても、与えられた仕事は精一杯頑張ろう。

 今日で店を閉めると言う事で、店はかなり大忙しだった。時間はあっという間に過ぎ、閉店時間を迎える。
 藤尾夫妻は用があると言い、早めに上がったので、店内はまた私と彼の二人きり。だからといって、特に何かある筈もなく、私達は閉店後急いで作業を終わらせると、再びあの公園へと向かった。

「……成る程。確かにそれは興味深い」
 私が事の全貌を全て彼に伝えると、彼はまるで推理小説に出てくる探偵のように口角を上げ、不敵に笑った。
「やっぱり何か引っかかるよね。行かなければならない場所……それって、もしかして」
「夜宴の島で決まりだね。間違いないよ」
 まるで、『犯人は貴方だ!』とでも言うような素振りではっきりと言い張る彼に、私は問う。
「どうして、そう断言できるの?」
「勘だよ。けど、俺の勘は今まで一度も外れた事がないんだ」
 ……その根拠のない自信は、一体どこから現れるのかがわからない。この探偵の雇い主は、さぞかし骨が折れる事であろう。
 ちょうどその時、短いバイブ音が鳴り響いた。……私じゃなく、彼のだ。
「ごめん、ちょっと待って。……あ、サユリさんだ」
「え⁉ サユリさん⁉」
 私は彼の言葉に思わず目を見開いた。
「いつの間に連絡先交換したの⁉」
「……え? ミズホが奥さんと入っていったすぐ後だよ? いきなり連絡先聞かれて、仕事中で携帯持ってないしメモ帳に書いて渡したんだ」
「へー、ほー、ふーん。そうなんだ」
 サユリさん、行動力あり過ぎでしょ! 彼女のバイタリティーには目を見張るものがある。……しかし、何やら複雑な気分だ。私だって、ソウくんの連絡先なんて知らないのに。
 と言うか……仕事場で私は橘さんなのに、何故にサユリさんはサユリさん⁉ 
 ……ん? あれ? 
 別にいいじゃない? サユリさんは彼の事が好きなんだし、私にはまったく関係のない話だ。
 なのに、どうしてこんなに胸がざわつくのだろうか? ……その理由がわからない。
「……こーら」
  彼が私の頭をコツンと軽く小突く。
「まーた自分の世界に浸り混んでたでしょ? ……何、ヤキモチ?」
「は、はぁ⁉」
 彼がイタズラっぽく笑いながらそんな事を言うものだから、見る見る内に顔が熱を帯びていくのがわかる。
「そんなわけないじゃない! ……自意識過剰!」
「本当に素直じゃないね、ミズホは」
 彼は面白可笑しそうに、クスクスと笑った。
「……で? サユリさん、何だって?」
「ほら! やっぱり、気になるんでしょ?」
「ならないし! どうでもいいよ!」
「……ふーん、あっそう」
 そう言うと、彼は自身の携帯を操作し始める。……サユリさんに返事しているのだろう。
 何だか釈然としないので、私も携帯を取り出し、アプリのゲームでも始めよう……そう思ったのと同時に、今度はサイレントにしてあった私の携帯電話にメールのアイコンが現れた。
 このタイミングだと、サユリさんかな? ……けど、メール?
 首を傾げながら、取り敢えず内容を確認してみる。

『ミズホの天邪鬼ー!(≧∇≦)byソウくん』

「……ちょっと、何で私のアドレス知ってるの」
「え? さっきのサユリさんのメールに、ミズホの番号とアドレス書いてあったから」
 サユリさん……一体、どういうつもりなんだ。
 しかし、何あの顔文字! 絶対顔文字なんて使いそうなタイプじゃないのに! 何か可愛いんですけど! ……ついつい、ニヤけてしまう。
「……ミズホってさ、前から思ってたんだけど、思ってる事、顔に出やすいよね。いや~本当にこんなにわかりやすい人、俺初めて見たよ」
「何それ、何か馬鹿にしてるでしょ?」
「いや、褒めてるんだよ! わかりやすい人の方がいいでしょ? 腹の中で一体何考えてるかわからない奴よりもさ」
「……そうだね。ソウくんみたいに何を考えてるのかまったくわからない人よりは、ずーっとマシです」
「俺はいいんだよ。男は多少ミステリアスな方がかっこいいんだから」
 ……何だろう。もうそろそろ慣れては来たが、今日の彼は何だかいつもよりも子供っぽく感じた。
「それに俺達は夜宴の島に一緒に行く、言わばパートナーだ。多少、意思疎通が出来ている方が効率が良いだろう?」
「パートナー? ……何それ、大袈裟だよ。それに私、興味があるとは言ったし行ってみたいとも言ったけど、まだちゃんと行くって決めたわけじゃ……」
「いや、君は必ず行くよ。俺と一緒に。もう俺達の物語は始まっているのだから。それにさ、物語にはパートナーが必要なんだよ。……ほら、どんな小説でも大概パートナーがいるだろう? 夫婦に恋人同士、友人同士に兄弟。ほとんどの物語の必要要素だ」
「……それって、別に私じゃなくてもよくない? そうだよ、サユリさんは? 二人共、仲良いんだし……サユリさんと一緒に夜宴の島に行けばいいじゃない? 私じゃなきゃ駄目な理由なんてないでしょ?」
「うーん。……そうだね。彼女はとてもユニークでユーモアだ。行動力もあるし、とても強く、前向きで積極的でもある。明るく楽しい彼女となら、異世界に行っても楽しめるかもしれないね?」
 彼はクスリと笑いながら、じっと私を見つめた。
「……けどね、駄目なんだ。彼女とでは俺の物語は完成しない」
「……それは、どうして?」
「彼女が必要とされるのはせいぜい恋愛小説か青春ドラマ、友情映画だ。俺が求めるファンタジーでは意味をなさない。第一、彼女が異世界なんて眉唾ものを信じるなんてミズホは本気で思ってるの?」
「あー、それは確かに……」
「……今時、古風で繊細。そして、本当は決して強くないのに弱い部分を人に見せたくなくて強がる。けれど消極的な中に秘められてる内なる好奇心は人一倍。しかし現状を打破するだけの勇気を持たず、平凡に地味に、退屈そうに……毎日をただ流されるままに生きる」
 彼は私の髪を一束、指で絡め取った。
「美しくて長い黒髪。憂いを帯びた瞳。簡単に人を信用しない用心深さ。……ほら、君の出来上がりだ」
 二人の視線が重なり合う。私は彼の、深くて感情の読めない真っ黒な瞳に飲み込まれていく。
 それはまるで、コーヒーに中に溶けゆくミルクのように、だ。
 現実の男性が言ったら、きっとドン引きされるであろう臭い台詞も、彼が言葉にするだけで、それは小説の一節のように美しく姿を変える。
 そして、私は今日も……彼の言葉に惹きつけられてしまうのだ。
「あ、そうだ。一度ミズホに聞いてみたい事があったんだった」
 彼は髪からそっと指を離すと、思い出したかのように話し始める。
「何……?」
「君は切ない恋愛、物語を好む傾向があるよね? それは何故?」
「え?」
「……普通、大抵の人が幸せに終わるハッピーエンドの物語を好むよね? けど、君はそうではない。バイト中に好きだと手に取った小説は全て、報われず成就せず、離れ離れになる悲恋的なものばかりだ。夜科に限らずね」
「……よく、見てるね」
「観察するのが好きなんだよ。気に障ったならごめん。……けど、何だかそれが気になって。俺気になると聞かずにはいられない性格なんだ。良かったら教えてくれないか?」
 彼は私を見て、優しく微笑んだ。
「……私には、ハッピーエンドなんて考えられない。二人が結ばれて終わり、なんて物語は苦手なんだ」
「それは、どうして?」
「だって、結ばれた二人がその先もずっと幸せとは限らないじゃない? 人の気持ちなんて簡単に変わるもの。……私ね、いつもその先を考えてしまうの。小説でもドラマでも、大変な思いをしてようやく両思いになって付き合ったとする……その後の二人の想いは、もう二度と片思いをしていた頃の想いの強さを超えることは出来ない。ただ劣化していくだけ」
「……なるほど、ね」
「だからお互いがお互いを一番想い合っている状態のまま離れ離れになるか、またはその時に一緒に消えてなくなる……それが永遠の愛っていうものだと思う。そういう意味では、シェークスピアのロミオとジュリエットは永遠の愛を貫いたと言えるんじゃないかな?」
 ……まぁ、ロミオとジュリエットはあまり好きではないのだが。
「……本当に悲恋の物語が好きだね、君は」
「そうかも。だから、夜科蛍さんの作品が好きなんだ」
「切ない物語だったら、今日バイト中に話した小説家以外にも、雨宮柳之介や轟はじめ、桜庭真緒なんかもあるけど……それでも君は夜科蛍がいいの?」
「勿論全部読んだよ。全て素敵だった。けど、私はやっぱり夜科さんが一番好き」
「……へぇ、成る程。きっと君は、今まで悲しい恋ばかりをしてきたんだろうね」
 彼の言葉に、一瞬思考が停止する。夜の闇が私の心の中までも真っ黒に染めていくのを感じずにはいられなかった。
「……どうしてそう思うの?」
「【思想は思考の表れ】……とでも言えばいいのかな? 俺には君は、今までに一度だって幸せな恋をしてこなかったんだろうなって感じたよ。一緒に生きる道より一緒に死ぬ道を選ぶ。……不安なんだね、君は。自信がないんだね。ずっとずっと愛され続ける自信が。だから愛されているうちに、相手の気持ちが変わらないうちに二人で消え去りたいだなんて思うんだよ。君が最初に言ってた、男の人が苦手って言うのは、それに何か関係しているのかな?」
「やめて……」
 胸が苦しい、動悸が尋常でないくらいに早まるのを感じる。なのに、そんな私の声は彼には届かず、なおも彼は話を続けた。
「君の視野は狭まっている。君は色んな事から逃げてばかりなんだよ。……ミズホ、それじゃ駄目だ。このままだと君は、ずっと自分の殻に閉じ籠ったまま、悲しみに打ちひしがれたままだ。たった一歩、踏み出すだけで君の中の世界は簡単に色を変える事が出来るんだよ? だから俺が――」
「もう、やめて!」
 静寂な公園が私の悲痛な声によって、更に音を失う。
 聴覚が捉えるのは、私の早い呼吸音。視覚が捉えたのは、驚いたように目を開く彼の表情。
 込み上げてくる気持ちが、怒りなのか悲しみなのか……それすらわからないまま、私は荒ぶる感情を彼にぶつけた。
「貴方に何がわかるの……? 知ったような口を聞かないでよ! 貴方の事を、今まで大人っぽいとか子供っぽいとか、優しいとか、たまに少し怖いとか、色んな感情を抱いてきたけれど……こんなに不愉快で腹立たしく感じたのは初めてよ。大っ嫌い! 貴方なんて大っ嫌いよ!」
 私は鞄を手に取り立ち上がると、一度も彼の方に振り返る事なく、一目散に公園のゲートを目指す。
 一刻も早くここから離れたかったから。
 五十嵐想。今日でイメージが定着した。
 無神経で最低な男。……もう二度と、関わらない。
 彼は急いで追いかけてくると、後ろから私の手を強く掴んだ。
「ごめん! ミズホ、ごめん!」
「うるさい! ついてこないでよ!」
 思いっきり腕を引き寄せられた私は、気が付けば彼の腕の中にいた。
「ごめん、ミズホ。俺が悪かった。お願いだから話を聞いて……? ちゃんと謝らせてよ。お願いだから、そんなに泣かないで」
 自分でも気が付かない内に、私の目から大粒の雨が止めどなく降り注いでいた。
 呼吸は荒く胸は苦しくて、頭が割れそうなくらい痛くて、まるで心がどうにかなってしまいそうだった。
「……ミズホ、ゆっくり息を吸って?」
 彼の優しい声が、ストレートに胸に響き渡る。
「……吐いて」
 彼は私を強く抱きしめながら、ゆっくりと背中をさする。
「……吸って」
 どうして私は今、こんなに無神経で最低な人の腕の中にいるんだろう? ……突き放せばいいのに。
「……吐いて」
 けれど、彼の温もりとその優しく響き渡る声が妙に心地良くて……さっきまでの怒りも悲しみも全て、ゆっくり溶けていくような感じがした。
「……少し落ち着いた?」
 私は彼の言葉にコクリと頷く。
「ミズホ……本当にごめん。俺悪気はないんだけど、いつも深く考えずに思った事を相手に直接言ってしまうところがあって……結果的に相手の事を苦しめて、追いつめてしまう。そんな事が今までにも何度もあった筈なのに……学習しないな、本当に」
 彼は私の肩に顔を埋めた。背中に回された腕の力が少し強まったような気がした。
「……もういいよ。私の方こそごめんなさい」
「俺は本当に最低だね。君に、あんな風に言われて当然だと思ってる。人には誰だって、触れていい事と悪い事、踏み込んでいい事悪い事があるのにね……」
「……あまり自分を責めないで。きっと、貴方の言う事が正しいから」
「ミズホ、ごめん……」
「本当にもういいから……私も色々と酷い事を言ってしまったし。だからもう、ソウくんも謝らないで? これでもうおあいこだよ。ねっ……?」
 ……俯く私。上手く表情を作る事が出来ない。
 彼は私を抱きしめる腕の力を緩め、両手を私の肩の上にそっと置くと、じっと私を見つめた。
 彼の表情はまるで飼い主に置き去りにされた子犬のように弱々しく、深く傷ついているように見えた。
「……うん、わかった。じゃあせめてミズホが元気がなれる魔法を、俺にかけさせてくれる?」
「魔法……?」
「うん、君が一番好きな魔法。……最高の笑顔になれる魔法だよ」
 自称魔法使いの彼は『ふぅ』と深い呼吸を繰り出すと、満天の星空が見上げながらそっと呟いた。
「……君が奏でる旋律は夜の街に光を与え、僕に深い安らぎを与えた。ぼやけた視界でかろうじて涙に濡れる君の姿を見つけた僕は、ゆっくりと目を閉じる。来世でまた会う時は、きっと幸せに」
「! ……それって、夜光曲」
 彼が口にした言葉は、大好きな夜科蛍の小説に書かれている文章の一節だった。
「水中から見る月は、地上から見る月よりも美しく思えた。優雅に泳ぐ魚達もそんな事を思いながら毎日を過ごしているのだろうか? 実に興味深い話だ。あぁ、出来る事ならこのまま魚になってしまいたい!」
「ふふっ、朧月夜に泳ぐ魚だ!」
 私の事を想い、一生懸命に夜科蛍の言葉を紡ぎ出す彼の姿に……頑なになっていた自分の心が、次第に解きほぐれていくのがわかる。
「彼女の遺体を、二人のお気に入りだった小さな湖の底にそっと沈める……」
「彼女は眠る人魚のように、美しい表情を見せながらゆっくりと沈んでいくと、次第に見えなくなってしまった……鏡花水月だね」
「……正解」
 その後も彼は優しく美しい文章を、まるで歌でも歌っているかのように、次々と奏で続ける。
 気が付くと、いつの間にか……彼も私も笑顔で楽しく笑いあっていた。
 ……とても不思議。まるで本当に、彼のいう【魔法】にかかったようだ。見る見る内に幸せな気持ちが溢れ出す。
「ねぇ、ソウくん! 次は?」
「じゃあ……これが最後ね?」
 彼は優しく笑い、そっと目を閉じる。そして、夜科蛍の世界観を想像するかのように、最後の小説の朗読を始めた。


***

 朦朧とする意識の中、俺と彼女は目を覚ます。
 ゆらゆら揺れる、薄汚れた渡り鳥のオブジェを見つめながら、『あぁ、また元に戻ってしまった』と、落胆の色を隠せない。
 つい先程までは確かに、柔らかい陽射しを受け、桃色で埋め尽くされたあの桜並木の道を歩いていた筈なのに。
 空の色を映したあの無限大の青い海は、思わず目が眩むほど光り輝いていた筈なのに。
 色鮮やかで美しい紅葉が作り出した、あの赤いベッドの上で眠っていた筈なのに。
 あの白い空から絶え間なく降りてくる粉雪に包まれ、命の尊さを知ったはずなのに。
 今まで見ようともしなかった、四季折々の自然の美しさに俺の心は深く感動し、同時に自責の念に駆られる。
 何故ならば、それらの美しさが瞬く間に儚く消え去る事を……俺も彼女も知っていたからだ。
 今、俺達が過ごしている季節。それは春でもなく、夏でもなく、秋でもなく……勿論、冬でもない。
 誰も知らない、五つ目の季節だ。美しい自然など、何処を探しても見つかりはしない。
 ――この世界は死んだ。……きっと、俺のせいだ。
 俺はこんな世界を望んだつもりじゃなかった。
 けれど結果的に、俺の勝手な行動が彼女をも巻き込んでしまい、今のこの現状を生み出した。悔やんでも悔やみきれない。
「……大丈夫。貴方のせいなんかじゃない。言葉一つで全てが消え去ってしまうとしたら、たとえ貴方が【それ】を望まなかったとしても、いずれ貴方ではない誰かがそれを望んでいた筈。ねぇ……貴方が思うほど、この世界は綺麗ではないのよ? 貴方が思うほど、人間は優しくなんかないのよ? ……それに、もしかしたらこの世界は、貴方ではなく私が望んだものかもしれないでしょう?」
 彼女はそう言って、ニコリと笑った。

***

「――はい、ここまで」
 彼はゆっくりと目を開け、目の前にいる私を見ると優しく笑った。
「……ちょっと待って? 今の、私知らない。夜科さん、他にも小説出してたの⁉ ……あれ? でも、夜の話じゃないよね?」
「残念。今のは俺のオリジナルでした」
 彼はそう言うと、子供のような笑顔でクスクスと笑いながら、私の頭をポンッと撫でた。
「え⁉ ソウくんが作ったの⁉ 今の話!」
「うん。そうだよ? ……何かおかしかったかな?」
「いや、違うよ! そうじゃなくて! 文章の雰囲気や、間の取り方、言葉の言い回し……どれをとっても夜科さんが書いたとしか思えないくらい酷似していて、それを書いたのがソウくんだって知って……少し驚いた。思わず、聴き入ってしまったよ」
「……そう? けど夜科蛍の大ファンからのミズホの言葉、光栄以外の何物でもないね。ありがとう。最高の褒め言葉として受け取るよ」
「……ソウくん、本当にすごいよ。さっきの物語、【何故そうなったのか】とか、【その先は一体どうなるのか?】とか、物凄く気になるもん! 何かに内容を書き留めてあるなら、今度それを見せて欲しい!」
「うーん……残念ながら、その前の話もその先もミズホに教える事は出来ないんだ。ごめん」
「え~! どうして?」
「……だってさっきの物語は適当に今思いついただけの話なんだよ、実は。だから後にも先にも、物語の全貌を説明する事は難しい。最初から存在しないんだから、ね?」
 彼はペロッと舌を出した。
「それと……ちゃんと魔法はかかったようだね。本当に良かった」
「何か……敵わないや。ソウくんには」
 私はバッグの中から飲みかけのペットボトルを出し、渇いた喉を潤した。
「――あ。そう言えば、アレ……何だったの?」
「ん? ……アレ?」
「さっきさ、つい遮っちゃったけど……ソウくん、私に何か言おうとしていたでしょ?」
 彼は少しの間『アレ……?』などと考え込んだが、すぐに閃いたのだろう。思い出したかのようにポンと手を叩く。
「……あー! アレね!」
「で、何て言おうとしたの?」
 私はペットボトルに目を向けながら、一口、もう一口とお茶を口に含む。
「うん、『俺が、ミズホにハッピーエンドを教えてあげる』そう言おうとしたんだ」
 彼の突然の言葉に、私は口に含んだお茶を勢いよく吹き出した。
「ミズホ~、女の子が下品過ぎるよ」
 彼は笑いを浮かべながら私に話しかけるが、こちらは咽せてそれどころではない。
「ちょ……それどういう意味で言ってる?」
「え? 言葉のまんまだけど。ミズホは悲恋が好きだから離れ離れになる物語が好きなんでしょ? だから夜宴の島では、離れ離れに終わる物語ではなくて一緒に戻ってくる【ハッピーエンド】の物語にしようって思ってさ!」
「いや……違、そういう事を言ってるんじゃなくてですね……その」
「え? 何?」
「……何でもないです」
 あのね、悲恋って悲しい恋って書くわけじゃないですか? それをこの人は、私にハッピーエンドを教えてあげるって……一体、何を考えてるんだ? 
 まぁ、彼のことだ。多分何も考えずに言っているのだろう。私達ってまるで、小説風を装い疑似恋愛をしている二人のようだ。……もう何も言うまい。きっと言っても無駄だと思う。
 何せ彼は、かなりの【変わり者】なのだから。
「……とにかく、話はかなり脱線してしまったけれど、明日から店は開いていない。そして、『行かなければならない』という店長の言葉……これはかなり急がなければならないね、悠長に構えてる暇は無さそうだ」
「……じゃあ、どうするの?」
「プラン変更だ。ミズホ、明日時間取れる?」
「え? それは、大丈夫だけど……」
「明日、店長宅に押しかけよう。そして詳しい話を聞くんだ! 勿論、俺も行くよ」
「……いきなり押しかけて大丈夫かな?」
「前以て連絡してたら大丈夫だよ。勿論、ミズホがね!」
 彼は不気味なほどの甘いマスクで、にっこりと笑う。
「……はいはい、わかったわよ。わかりました! 明日、午前中に連絡しておきます!」
「よろしい! なら本日はこれにて解散」
 彼は私からペットボトルを奪うと、一気に中身を飲み干した。
「あ、あーーっ!」
「自分だけ飲むなんてズルイよ? 俺だって喉渇いてるのにー」
 彼は空になったペットボトルをゴミ箱に放り込むと、書店に向かって歩き始める。
 私はリンゴの様に顔を赤くしながら、彼の背中を憎々しげに見つめた。
「つ、疲れる……本当に掴めない」
 きっと、あの不思議で奇妙で自由過ぎる彼に、私はこれからも振り回され続けるだろう。……まったく、前途多難だ。
 けれど、何故だろう? 彼との距離が、以前よりずっと近くなった。……そんな気がした。



 噎せ返るような暑さに、心身共にダメージを負いそうになる日曜日の朝。
 灼熱の太陽の下、多くの人で溢れた雑踏の中を掻き分けて、私はある場所へと向かっていた。
 昨日の夜遅くにサユリさんから、『明日、朝九時。いつもの場所で』と連絡が来たからだ。
 ちょうど午前中に何の予定もなかった私はこの誘いに乗り、【いつもの場所】に向かっているというわけだ。
「……ソウくん、ちゃんとメールの内容わかってくれてるのかな? 絶対半分寝てたっぽいしね。一度画面開いてるわけだから、起きても忘れちゃってて気付かないかも……」
 朝。私は目を覚ますとすぐに、ソウくんとの約束通り店長の携帯に電話をかけた。
 藤尾夫妻は私の突然の申し出にも関わらず快く応じてくれて、今日の午後三時頃に時間を設けてくれる事となった。
 その事をソウくんにメールすると、【了解ちましたzzzZ】と返事がきたわけだけど……わざとなのか、寝ぼけながら打ったのか、それは私にもわからない。
 ……来なかったら一人で行ってやる。

 赤い屋根が特徴的なお洒落で可愛らしいカフェ【souvenir】。フランス語で【想い出】という意味らしい。
 若い女の子達に大人気のこのカフェは、勿論私とサユリさんのお気に入りの場所でもある。扉を開けると、よく効いた冷房の冷気がひんやりとしていて気持ちが良かった。
「ミズホちゃん、こっちこっち!」
 私の姿を見つけたサユリさんが高く手を上げる。
「ごめんなさい! 待たせました?」
「ううん、私もちょうど今来たところだよ!」
 すぐに可愛らしい制服を着た店員が、メニューを聞きに席までやって来る。サユリさんはカプチーノ、私はキャラメルマキアートを注文した。
「しっかし昨日、ほんっとーに驚いたよねぇ。いきなり店閉めるとかさ~。言っちゃなんだけど、店長達ちょっと勝手すぎない?」
「きっと、何か理由でもあるんですよ……」
「んー、まぁそうだろうね。店長、幽霊みたいな顔してたし……身体、どっか悪いのかもだね。あ~あ、あのバイトなくなって時間が空いた分、また新しいバイト先見つけないとだわ~」
「サユリさん、掛け持ちしすぎですよ! 就職は考えてないんですか?」
「んー、今はね~。まだ暫くは自由気ままなフリーターでいいや」
「お待たせ致しました~」
 サユリさんの前にカプチーノ、私の前にはキャラメルマキアートが置かれる。サユリさんは、ゆっくりとそれを口に運んだ。
「あーっ! そうだ! 五十嵐くんの事なんだけどさ!」
「……? どうしたんですか?」
「私、やっぱりもういいや。パス!」
 突然のサユリさんの言葉に、私は思わず呆気に取られた。
「えっ! いきなりどうしたんですか! 昨日まで、あんなに彼に夢中だったじゃないですか?」
「だってさぁ……五十嵐くんって、あ~んなにかっこいいのに、ちょっと頭おかしいんだよ。異常だよ異常」
 サユリさんは心底幻滅したように、嫌そうな顔を見せながらその理由を語り始めた。
「私さぁ、昨日漫画エリア整理してたんだけど……ちょっと悪戯心が芽生えてさぁ。後ろから彼を驚かせてやろうと思って、そっと文庫エリアにいる五十嵐くんに近付いたのね? じゃあ彼、小説を手に取りながらずっと一人でブツブツ何か喋ってんの。よーく耳を澄ませて聞いてみたら、何かグロ系のホラーっぽい内容でさ。暗記してんだよ? やばくない? かなり不気味過ぎて一気に冷めちゃった。……あーあ。イケメンなのに、ほんと勿体無い!」
 私は思わず『プッ!』と吹き出し、声を押し殺しながら笑う。ちなみに、脳内では大爆笑だ。
 そんな私の姿を見ながら、サユリさんは頬杖を付き、じっと私を見つめた。
「それにさぁ〜彼、カウンターの中でもずっとミズホちゃんの話ばっかりするんだよ?」
「え?」
「その時はまだ【五十嵐くんラブ】だったから連絡先とか聞いてみたんだけど、ミズホちゃんの連絡先教えて欲しいとか、ミズホちゃんの事ばっかり聞くんだもん。その時点でドン引きなのに、その後の文庫エリアでの奇行……百年の熱も冷めるっての」
「……あ〜、そうなんですか」
 私は引きつった笑いを浮かべた。普通の女の子ならこういう時、胸が高鳴り、彼を男として意識する事だろう。……しかし、彼の思考や性格を微妙にだけど知ってしまった私は『彼の思惑にまんまと引っかかってたまるか』などと、どうしても否定的に捉えてしまう。
 彼の物語は、既に始まっているのだ。
 彼の小説に欠かせないもの。それは、ファンタジー、謎、美しさに残酷さ、恐らくそういった類のものだろう。
 ……そしてもう一つ、絶対に忘れてはならない重要な要素がある。彼の物語に必要不可欠なその要素。
 それは……【恋愛】だ。
 可愛くない私は、全てが彼の計算通りに進んでいるような気がしてならない。……しかし、シンプルではない私のこの性格だ。実際は深く考え過ぎで、彼の中では特に意味を持たない、至って普通のやりとりなのかもしれない。
 まぁそうだとしても、それはそれで彼は相当な天然たらしという事になる。 ますます油断ができない。
 ……連絡先なんて、直接聞けばいいのに。

 その後、ケーキセットを注文した私達は、それを食べながら色んな話をしては沢山笑いあった。
 サユリさんは本当に、とても良い人だ。彼女と話しているだけで場の雰囲気が和む。そういった意味で、彼と彼女は本当にお似合いだと思ったのだが……少し残念に思う。
 けれど本音を言えば、少しだけホッとしたのも事実だ。……私は一体、彼の事をどう思っているのだろう?
「じゃあね、ミズホちゃん! また連絡する!」
 この後、花屋のバイトがあるという彼女と店の前で別れると、私は時計を確認し、急いで書店に向かった。
 ソウくん、忘れずにちゃんと来るかな? 未だに何の連絡もないんだけど。
 ……駄目だ。嫌な予感しかしない。
 書店に着いた私は、一応彼に電話をかけてみる事にした。長いコールの末、とろけるような甘い声が私の耳に響き渡った。
「……はい、は~い。おはようございます~」
「……もう、お昼過ぎてますけど」
「仕事先では~、朝でも昼でも夜でも~、挨拶は『おはようございます』なんです~。ミズホちゃんはそんな事も知らないんですか~?」
 このまま電話を切ってやろうかとも思ったが、とにかく本題に入る事にした。
「今日、店長の家に三時って言ったの……ソウくん、ちゃんと覚えてるよね?」
「……え~? てんちょ~んちにさんじ、てんちょ~んちにさんじ……店長んちに三時⁉」
 彼は電話の向こうで、鼓膜が破れてしまうのではないかと思うくらいの大声を上げる。私はキーンとする耳を押さえながら、電話を反対側に持ち替えた。
「やっと起きたか。このねぼすけくんは」
「今何時⁉」
「二時半」
「何だよ、ミズホ! 何でこんなギリギリに言うの? しかも、何で起こしてくれないの⁉」
「朝にメール入れたらちゃんと返事も返ってきたし、今も電話してるじゃない!」
「とにかく、すぐに向かうから! 店長の家に先に行って……あ、やべ。俺店長の家、知らねーや! あーもう! どうしようかな……ミズホ、今どこ?」
「とっくに書店の前。ちなみにここから店長の家まで徒歩五分」
「了解! すぐ行く!」
 通話が切れた。今頃彼は猛スピードで用意をしている事にだろう。……本当にどうしようもない男だ。
 けれど、寝起きの彼は完全にフニャフニャの甘えん坊モードで何だか可愛かったし、焦る彼はいつもと違って余裕がなく話し方も何だか子供っぽかったなぁ、なんて思いながら、今度は一体どんな顔が見られるんだろう? と、内心ワクワクしている自分がいる事に気付く。
 ……あぁ、このままじゃ彼の思う壺なのかもしれない。
 出会ってまだ四日、たったの四日だ。
 それなのに彼は、私の中に深く入り込んできて、居場所を作り上げていく。
 これも彼のシナリオ通りなのか? ――それとも。

「……すみませんでした。ミズホさん」
「いいよ、気にしないで」
 結局彼は三時に間に合う事はなく、店長に電話して約束を三時半からにしてもらった。
 目の前の彼は初めて会った時のようなボサボサ頭に、だらしがなく伸びた白いTシャツ、黒いハーフパンツ。うん、パジャマだね! これ。
 まぁ……これより酷い、あの面接姿の彼を採用した心の広い寛大な店長の事だ。きっと許してくれるだろう。
「あ。そうだ! ソウくんってホラーも好きだったんだね? しかも、滅茶苦茶グロい系」
「ホラー? 何で?」
「サユリさんに聞いたから。サユリさんかなり怖がってたよ、ソウくんの事」
「あ! それね。違う違う! わざとだよ」
「……え? わざと?」
「サユリさんからのアプローチが凄まじ過ぎてね、ちょっと困ってたんだ。で、彼女が後ろにいる事……俺、ちゃんとわかってたから、わざとグロいスプラッタ系ホラー小説をブツブツ朗読したわけだよ。あの時の俺、かなり不気味だったと思うよ~」
 彼は、『効果あったみたいだな』とケラケラと笑う。
 ……呆れて言葉も出ない。本当にたちの悪い男だ。
「なるほど。だからカウンターでも彼女に諦めてもらう為に、私の話題ばかりをふっかけたってわけだ。納得」
「それは違うよ?」
「え?」
「ミズホの事、もっと知りたかったから」
 そう言うと彼は、太陽よりも眩しい顔で笑ってみせた。
 私はその笑顔とその言葉に、激しく胸が揺れ動く。高鳴る胸の鼓動は身体全体に響き渡り、私は思わず目を伏せた。……こんな顔、彼に見られたくなかったからだ。
「……ソウくん、それってどういう意」
「あ! 表札に藤尾って書いてる! ここが店長の家? ……うわ~、何かドキドキするな~。インターフォン鳴らすよ? いい?」
 ……前言撤回。ドキドキなんかするか、馬鹿野郎。

 彼がインターフォンを鳴らして、数秒。私達は中から出てきた奥さんに案内してもらい、応接間に通された。
「本当に……突然すみません」
「あらあら、いいのよ。気にしないで? もうすぐ主人も来るから。あ、私飲み物入れてくるわね?」
「あ、お構いなく!」
「ゆっくりしていってね」
 奥さんは富士山の絵が描かれた襖をゆっくりと開け、廊下に出る。すると、ちょうど入れ替わりに店長が中に入ってきた。
「ミズホちゃんに五十嵐くん。すまない、待たせたね」
 店長が優しい笑みを浮かべながら、私達に声をかける。
「いえ、こちらの方こそ遅れてすみませんでした!」
「俺が寝過ごしました……すみません」
 店長は寝癖だらけの彼を見て、面白可笑しそうにクスリと笑った。
「相変わらず、君は不思議な青年だね」
「見た目は関係ないですよ。肝心なのは中身です、藤尾さん」
「はは、そりゃそうだ。本当に君は面白い!」
 店長は手を叩きながらゲラゲラ笑うと、私の向かい側に腰を下ろす。そして、ゆっくりと口を開いた。
「――で、二人共。僕に聞きたい事とは、一体なんだい?」
 店長が私達に問いかける。老紳士の顔色は昨日に比べると随分良くなったように見えたので、私はほんの少し安心した。
「単刀直入に聞いてもよろしいですか?」
「なんだい、五十嵐くん。かしこまって。……いいだろう。言ってみなさい」
「橘さんから聞いたんですが、藤尾さんが行かなければならないと行っていた場所。それは……【夜宴の島】の事ですよね?」
 彼の言葉に、先程までは確かに穏やかな笑顔を見せていた店長が、一瞬のうちに表情を変え、その場で立ち上がった。
「【夜宴の島】だと⁉ 五十嵐くん! 君、一体それをどこで⁉」
「都築先生の資料を拝見しました」
「都築くん……? ……あぁ、そうか。そうだったな。君は都築くんがいる大学の」
「はい」
 店長は深く深呼吸をして心を落ち着かせると、ゆっくり畳の上に腰を下ろした。
「……なるほどね。だから、君はうちの店に面接を。これで全てが繋がったよ。けれど都築くんは、この件からはとっくの昔に手を引いた筈だよ?」
「……えぇ。けど俺は納得出来ていないんで」
 彼は仮面を被ったような作り笑いを浮かべながら、店長にはっきりと言い切った。
「……まったく。ミズホちゃんが突然おかしな質問をしてきたと思えば……五十嵐くん、君の入れ知恵かね?」
「えぇ、彼女には俺が話しました」
「それは感心できないな。自分の興味に彼女を巻き込む事はあまり良い事だとは思えない。それが【夜宴の島】の事なら、尚更だ」
 店長はまるで諭すように、真剣な表情でじっと彼を見つめた。
「それは……確かにそうですね。けど俺は、橘さん……いや、ミズホなら大丈夫だと思ったんです。彼女は至ってシンプルだ。熱いものを、ただ熱い。美しいものを、ただ美しい。と素直に感じる事の出来る心。それでいて順応力に長けてて、柔軟に物事を捉えられる彼女に……知識を借りたい、意見を求めたい、そう思いましてね」
 突然の彼の言葉に、私は驚きの色を隠せない。
「……え? 私が、シンプル⁉ どこが?」
「ん? 至極シンプルだよ。……まぁ、たまにおかしな方向に考え過ぎてしまう面はありそうだけど、基本シンプル過ぎてわかりやすい。君の考えなんて手に取るようにわかるよ」
 ……不愉快だ。何だか非常に不愉快だ。しかし彼の言う通り、私の考えている事が全て彼に知られてしまっているとしたら……
 私は急に、穴があるなら今すぐにでも入ってしまいたいと思った。
「とにかく俺達は夜宴の島に行きたいんです。藤尾さんが行く方法を知っているなら是非同行を願いたい」
「いかん。あそこは危険だ。君達は何もわかっていないのだよ」
「……そうよ。あそこに行くには、何かを失わなければならない」
 いつの間にかそこに立っていた奥さんが、私達の会話に口を挟んだ。
「――何かを失う、ですか?」
 私は奥さんの方を見ながら、そう問いかける。
「そうよ……悪い事は言わない。あの島に興味を持つ事は今すぐに止めなさい。貴方達まで取り込まれてしまうわよ」
 奥さんは青白い顔をしながら、その場に立ち尽くしていた。店長はスッと立ち上がり奥さんの傍に近付くと、優しく彼女の背中をさすり、席へと誘導する。
 薄っすらと笑みを浮かべた奥さんは『大丈夫よ、心配しないで』と言うと、店長の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「あの、『大切なものを失う』とは……一体、どういう事なのでしょうか? 都築先生の資料には情景描写ばかりが書かれてあって……その、具体的な情報が少なくて……」
「そりゃそうだ。僕達が帰ってきた時、記憶はとても曖昧な状態で……自分達は、美しくも奇妙なその島から何とか帰還した。それだけしか覚えていなかったのだから。この少ない情報の中だ、都築くんが根をあげたのも仕方のない事だよ」
 店長は少し悲しそうな表情を見せながら、消え入るような声でそう呟いた。
「ただ、その時はっきりしていたのは……私達は夜宴の島で、何度も不思議な夜を過ごしたという事だ。夜になると、我々は必ずその島に招かれた。そして朝日が昇ると、いつの間にか元の世界に戻っている……その繰り返しなんだよ。だがいつの時代も、そんな絵空事のような話を信じる輩はいないさ。……残念ながらね」
「……藤尾さん、俺は信じています。夜宴の島は、必ず存在すると」
 店長は彼の言葉に一瞬目を大きく見開くと、とても儚げに優しく微笑んだ。
「……ありがとう、五十嵐くん。信じてもらえてとても嬉しいよ」
 彼はその言葉に笑顔で答えると、再び難しい顔をして何やら考え込んでいた。
「けれど、記憶が安定していないとなると、やはりこれ以上の情報を得る事は難しいか……」
 そんな彼の言葉を遮るように、店長が『いや……』と言葉を続ける。
「それが最近になって夢に見るようになって、少しずつだが色んな事を思い出してきたんだよ」
「本当ですか⁉ 藤尾さん、その夢の内容を教えて下さい」
 彼はテーブルに手を置き、前のめりの姿勢で店長の言葉の続きを待った。
「あなた!」
 普段は温厚な奥さんが思わず声を張り上げる。
「いいじゃないか、ミドリ。彼が知りたいと言うんだ。ならば我々が隠す道理もないよ。それに若者の好奇心を押さえつけるような無粋な真似を年寄りがしちゃあならん。若い彼らの幾多ある可能性を潰してしまうだけだよ」
 店長はそう言って笑う。奥さんは納得のいかない顔をしながらも、一先ず沈黙した。
「すまんね、五十嵐くん。女はいつだって男のロマンというものをわかってはいない。……君も、そうは思わんかね?」
 店長はそう言うと、まるで悪戯っこのようにニヤリと笑う。彼は奥さんと私の顔をこっそり横目で確認すると、困ったように笑いながら着席した。
「……まず、夜宴の島で夜を繰り返す回数は無限ではない。確か……そう、十七夜までだ」
 店長の言葉を聞いた彼は、顎に手を添えながら暫しの間黙り込むと、ゆっくり口を開いた。
「十七と言えば、イタリアでは忌み数とされていますよね」
「いみすう?」
 彼の言葉に横槍を入れるようで申し訳ないが、私は聞いたままに、それを口にする。
「ほら、日本では四や九が『死』や『苦』を連想させて、毛嫌いされているだろう? 42だと『死に』、49だと『始終苦』とされ、敬遠されてる。西洋ではが忌み数。新約聖書、ヨハネの黙示録においては666という数字が忌み数だ。ミズホも聞いた事あるだろう?」
「あぁ! そういう事ね。でも……じゃあ十七は?」
「十七をローマ数字で書くとXVIIとなり、これを並び替えるとVIXIとなる。ラテン語でそれは……【私は生きている】の直説法完了にあたり、【私は生きることを終えた】……つまり【私は死んでいる】という意味になるからだよ」
「成る程! ソウくん詳しいんだね!」
「まぁ、関係あるかどうかは定かではないけれどね……ここ、日本だし」
 私達のやり取りを一通り見ていた店長夫妻は、こちらの話が終わったのを確認すると、再び口を開いた。
「……理由は僕らにもわからないんだよ。ただ、十七夜を過ごしたら【終了】となる」
「終了したら……どうなるんですか?」
 彼の問いに、先程まで黙っていた奥さんが口を開く。
「何もかも今まで通り、普通の生活に戻って来られるか。それとも一生、その世界から戻って来れないか。……二つに一つよ」
「戻って……来れない」
 私は、とても冗談だとは思えない奥さんの言葉に、恐怖の色を隠す事が出来なかった。
「奥さんも……夢を?」
「……えぇ。この人に心配をかけてはいけないと思って、ずっと黙っていたけれど……もう半年も前から見ているわ」
 奥さんはまるでさっきの仕返しかのように、『怖い夢を見て、眠れなくなるなんて……本当に男は女よりナイーブで小心者ね?』なんて言いながら、小さく笑う。店長は、バツの悪そうな顔をして下を向いた。
「あそこには、兎のお面を被った幼い男女の双子がいてね。夢の中で私に話しかけてくるの」

『宴は始まった』
『始まった』
『もう一度、この地へ来い』
『この地へ来い』

「ってね。……感情のないその声は、まるでロボットのようだったわ」
 ――兎のお面。生き物としても、イラストとしても、とても可愛らしく皆に愛されるであろうウサギ。……しかし、それが兎面となると、一層不気味さを増す。
 兎という生き物が私の中で、突然恐ろしいものへと変化していく……私はその、可愛さの中に生まれる邪悪さに、恐怖を感じずにはいられなかった。
「私達が最初に夜宴の島に訪れたのは、もう五十年も前の話。最初こそは、その神秘的な夜の宴に心は動かされ、魅了されたわ。けれど、それがこう毎夜のように続くとね、急に恐ろしくなってくるの。この宴は一体、何の為に繰り返されているのだろうか? ってね」
「……その双子以外にも、沢山【いる】んですか?」
「そうね……沢山【いる】わよ? そしてそれらは皆、色んなお面を被っている。素性がわからないように……かしら? 私達には誰が私達と同じ人間で、誰がそうではないのかも判断出来なかったわ。そもそも私達と同じように招かれてきた人間なんて、最初からいなかったのかもしれないけれど」
 奥さんは持ってきたお茶を口にし、ふぅと一息をついた。
「奥さん……そこへは、どうしたら行く事が出来るんですか?」
「五十嵐くん……貴方も懲りない人ね。興味本位で首を突っ込んでいい話ではないのよ?」
「……それでも俺は、どうしても夜宴の島に!」
 彼の必死過ぎるその態度に、私は違和感を感じた。彼は何故ここまで、【夜宴の島】という不確かな存在を盲信出来るのだろう?
 ……何だかおかしい。きっと彼は何かを隠している。
 そう思えてならなかった。
「どうやったら行けるかなんて、私達にもわからないわ。気が付けばそこにいたんだもの。だから今回も、目が覚めたら……きっと」
「実はね、今朝起きたら僕達の枕元に【これ】が置かれていたんだよ」
 店長は、ポケットから小さな結晶を取り出す。
「――不思議だ。これを見ていると、夜宴の島を思い出すんだ。だから、これはあの双子が置いていったものなんだろう。ならばきっと、僕達は今夜……再びあの世界に」
「……ちょっと、それ! 見せてもらってもいいですか!?」
 彼は店長からその結晶を受け取ると、まんべんなくそれを観察した。しかし、何の情報も得る事も出来なかったのだろう。落胆した表情を見せ、深い溜息を吐いた。
「……ねぇ、ソウくん。私にも見せて」
 彼は私の手のひらにそっとそれを乗せる。私はその結晶の美しさに、思わず目を奪われた。
「綺麗……」
 手のひらに収まるサイズの紺碧色の結晶。それを手に取り覗き込むと、中に大きな満月のようなものと海と砂浜のようなものが見えた。非常に繊細な作りである。
 ――あれ? 今、動いた……?
 結晶なのだ、動く筈がない。なのに……月が輝いて見える。砂浜の砂が風に吹かれ、サラサラと宙を舞っているように見える。海が、穏やかに揺らめいて見える。
 まるで……この結晶自体が生きているようだ。
 次第に、結晶の中から楽しげな音や声が聞こえ始めてきた。笛や太鼓の音だろうか?
 赤や黄色、オレンジや緑の明かりがゆっくりと灯ってゆく――

「……ミズホ? どうした?」
 彼の声で、ハッと我にかえる。手の上の結晶は、最初と何ら変わりなくその場で静まり返っていた。
「――あれ? どうして……?」
 私は、白昼夢でも見ていたのだろうか?
「いやぁ、それにしてもミズホちゃんと五十嵐くんがいきなりうちに遊びにきてくれるなんて嬉しいなぁ。長生きはするもんだよ!」
 店長の素っ頓狂な声が部屋中に響き渡る。
「そうね、あなた。こんなに若いお客様だなんて、本当にどれくらいぶりかしら?」
奥さんが上品にクスクスと笑った。
「え……?」
「藤尾さん……何言って?」
「で、今日は一体どうしたんだい?」
 店長はいつものように優しく穏やかな表情を私達に見せる。
「何って……夜宴の島の事について、聞きに来たんじゃないですか!」
  彼は店長にそう声をかけるが、焦りと戸惑いを隠せてはいなかった。
「やえんの島? 何だね、それは? ――おい、君は知っているか?」
「? ……いいえ? 初めて聞きましたけど」
 店長と奥さんは不思議そうに顔を見合わせた。
 その表情は、私達をからかっていたりふざけているようなものではなく、【本当に何も知らない】。……そういう風に見受けられた。
 私達は、この短時間の間に一体何が起こったのか理解出来ず、困惑した表情を浮かべた。
「で、そのやえんの島? がどうしたんだい?」
「あなた! 島の名前みたいですし、観光地か何かじゃないかしら? もしかして貴方達、旅行にでも行くの? うふふ」
「何! 二人でか⁉ 君達、いつの間にそんな間柄に……」
「そ、そんなわけないじゃないですか! 二人共、何言ってるんですか⁉」
 店長夫妻は必死に弁明する私を見て、クスクスと笑う。……いや、今はそれどころではない。
 明らかに場の雰囲気が変わった。これじゃあまるで、パラレルワールドにでも来たようだ。
 今の店長夫妻は、さっきまでの店長夫妻だとは思えないくらいに落ち着き、和んでいる。
 彼は完全に言葉を失い、ただただ静観を続けた。
「――そうだ! ……お店! 店長、お店はどうして閉める事にしたんですか⁉」
「あぁ……やはり年かね。最近は疲れやすくてね、身体がついていかないんだよ。だから夏の間、少し休ませてもらおうかなと思ったんだ。入ったばかりの五十嵐くんには、本当に申し訳ないんだけどね」
「ごめんなさいね。なるべく早く開けるようにするから。二人さえ良ければ、またうちに来てくれると助かるんだけど……」
 ――駄目だ。店長達は何らかの理由で記憶を失った……そうとしか考えられない。
「すみません! 私急用を思い出したので、これで失礼します!」
「……え? もう⁉」
「本当にごめんなさい! また来ますね! お邪魔しました!」
 私は強引に彼の腕を掴むと、店長夫妻の家から急いで外に飛び出した。

 私は彼の手を引き、街路樹を歩いた。……目的地はいつもの公園だ。
 公園につくと私は彼をベンチに座らせ、その隣にゆっくりと腰を下ろした。
「ソウくん、大丈夫?」
「……おかしい、一体どうなってるんだ?」
 彼はブツブツと何かを呟いていて、私の声など耳には届いていないようだった。とりあえず、彼が落ち着くまで待とう。
「あ、これ……持ってきちゃった」
 私は、自分の手の中でしっかりと握りしめられていた紺碧の結晶をじっと見つめた。
 さっきまでの不思議な現象を思い出し、私はまるで何かに突き動かされるように結晶の中を覗き込んだ。
「――っ! あ……ぁ……」
 私はあまりの驚きに、思わず声にもならないようなしゃがれた声が出た。
 結晶の中に立ち、こちらをじっと見つめる幼い二人組。和風の模様や装飾が施された面を被る、黒い兎と白い兎。
 ――双子? この子達が、さっき奥さんが言っていた兎面の双子なの……?
 黒い兎面の少女は私に向かって指を差した。それを真似て、白い兎面の少年も指を差す。
 その瞬間、二人の声が私の脳内に響き渡った。

『お前、代わり、来い』
『お前、代わり、来い』
『翁と嫗、もういらない』
『爺さん婆さん、もういらない』

 不気味な声が、見る見る内に私の脳内を侵食し始めていく。今の出来事が小説の中の話なら、間違いなくこれはホラー小説に違いない。そう思わされるくらいに、私の身体は恐怖に打ち震えていた。

『ここに、お前、求めるもの、ある』
『うん、きっと、ある、ここに』

 仮面を被っている彼女達の表情など、私には到底わかる筈もないのだが……表情のわからない者と会話する事が、ここまで恐ろしい事だと思ってもいなかった。
 本来なら、可愛い年頃の二人の子供。
 それなのに、まるで覇気のないその声は、奇妙で不気味以外のなにものでもなかった。
 そんな双子達は手を繋ぎ、砂浜から私の方に向かってゆっくりと歩いてくる。
 テレビから突然お化けが出てくるように、この結晶の中から兎面の二人が飛び出してくるような……そんな錯覚に陥っていた。
「……いや! こないで!」
 私は恐怖のあまり、思わず紺碧の結晶を地面に投げつけた。
「ミズホ⁉ いきなりどうしたんだ!?」
 私の声を聞きつけた彼が、急いで私の元に駆けつける。小刻みに震える私を見て、何か尋常ではない雰囲気を読み取ったのか、彼はギュッと私の手を握った。
「そ、ソウくん、私……」
「……何があったの? ゆっくりでいいから話して?」
 手から伝わってくる彼の温もりに、何だかとても安心した私は、徐々に落ち着きを取り戻していく。
 私は地面に転がったままの結晶をそっと指差すと、店長夫妻の家で起きた事と、今結晶の中で語りかけてきた【兎面の双子】の話を彼に伝えた。
「まさか、そんな事が……」
「ソウくん……信じてくれる?」
 私の言葉に、彼はきょとんとした表情を見せた後、『当たり前だよ』と優しく頭を撫でた。
「さっきの店長の自宅での出来事から、明らかにおかしい事が起こり過ぎている。それに、話の内容からしても……ミズホ。きっと君は今夜、夜宴の島に招かれるだろう」
「そんな……⁉」
「だけど何故だろう? どうしてミズホには見えたのに俺には見えなかったんだ? ……何か理由でもあるのか?」
 彼は落ちた結晶を拾い、じっと見つめた。
「……駄目だ。俺にはやはり何も見えない。ミズホちょっと来て?」
 私は言われるがまま、ソウくんに近付いた。
「覗き込んでみてくれる? ……大丈夫。俺も一緒にいるから」
 ちょ、ちょっと待って……! こんな小さな結晶を二人で覗き込むなんて……心臓がいくつあっても足りないし!
 こんな時にそんな事を思ってしまう危機感の足りない自分に少々呆れながらも、『わかった』と返事を返した。
 顔のすぐ隣にある彼の顔。私は高鳴る胸の鼓動を何とか押さえ込み、再び結晶を覗き込んだ。
 ……何もない。結晶の中の細やかな装飾品が見えるだけだ。
「そんなところに、もういない」
 突然背後から聞こえた声に、私と彼は急いで振り返った。今の声は彼にもちゃんと聞こえたようだった。
 先程と同じように、黒い兎面の少女が先にものを言い、白い兎面の少年がそれに続く。
「お前達、夜宴の島に来い」
「お前達、夜宴の島に来い」
 彼は突然目の前に現れた兎面の双子を見て、興奮しているのが一目でわかるくらいに目を輝かせていた。
「あぁ、行く! 夜宴の島に行く! だから早く、俺達をそこに連れていってくれ!」
「心配せずとも、逃げられない」
「お前達は、もう、逃げられない」
 兎面は一歩ずつ私達の方に近付いてくる。私は思わず後ずさったが、彼は怯える事なく堂々と彼女達の前に立ちはだかった。
「逃げたりなんかしない。俺はずっと、夜宴の島に行きたいと思っていたのだから」
 彼はそうはっきりと断言した。
 この明らかに妖しげな者達を目前にしても、何ら恐れる姿を見せない彼。双子達はそんな彼をじっと見つめると、同時に首を傾げた。
 少女は右に。少年は左に。
「お前、とても異色、珍しい」
「黒か、白か、はっきりしない」
 その幼い声は彼に、『お前は黒か? それとも白か?』と執拗に問いかける。 私はその不思議な光景を、ぼーっと見ている事しか出来なかった。
「異色の者、忌み嫌われる」
「二つ持つ者、邪険に扱われる」
 黒の兎が彼の前に立ち、下から彼を見上げる。
 白の兎は彼の背後に立ち、下から彼を見上げた。
「黒ならば、私が、助言する」
「白ならば、僕が、助言する」
「両方持つ者、助言は、与えない」
 彼は双子の言葉に、何か心当たりでもあるかのように暫く黙り込んだ。
 異色? 両方持つ者?
 一体、どういう意味なのだろうか?
「……今夜、宴が開かれる。客人も住人も皆、大いに歌い踊れ」
 兎面の双子は、そう口にしたと同時に消えた。

「何だったの……? 今の、夢なんかじゃない……よね? きっと……」
 夢にしてはリアル過ぎる。これは決して夢などではない。
 それをちゃんとわかっていながらも、私は口に出さずにはいられなかった。
『今夜、宴が開かれる』、か。もはや疑う余地はこれっぽっちも存在しない。【夜宴の島】は存在するのだ。そして私達は今夜、そこに招かれる。
「何だか私達、本当に物語の世界にいるみたいだね。これが小説ならジャンルは一体何になるのかな? ファンタジー? ミステリー? それともやっぱりホラーかな? ね、ソウくんはどう思う……?」
 私は彼にそう話しかけてみるが、返答はない。
「ソウくん……?」
「……やった。やったよ、サヤ。これできっと、俺は君を……」
 下を向いたまま、小さく妖しげにクスクスと笑う彼。その姿は狂気に満ちているように思えた。
「どうしたの、ソウくん……」
 私がもう一度彼の名を呼ぶと、彼は突然我にかえったかのように意識をこちらに向け、弱々しく笑ってみせた。
「ごめん、ミズホ。ちょっと考え事をしてた」
 そう言うと、彼はベンチに座り、心を落ち着かせる為なのか大きく深呼吸をした。
(サヤ……?)
 彼の口から突然出された女の人の名前。……彼女、かな?
 そういえば私、彼に彼女がいるかどうかも知らない……彼の事なんて、何も知らないんだ。
「? どうしたの、ミズホ?」
 ――何故だろう? 凄く胸が痛い。
「……ううん、何でもないよ!」
 私は彼に精一杯の笑顔を振りまく。彼はそれに応えるように優しく笑った。
「今夜、俺達はついに夜宴の島に招かれるんだね」
「……そうみたいだね」
「ミズホ……怖い?」
「そりゃあ、多少は……」
「……ごめん、ミズホ。君を巻き込んでしまって」
 彼の懺悔のような謝罪は、私の心に重く……そして、深く染み渡った。
「……ミズホ、頼みがあるんだ」
「? どうしたの? いきなり」
「今から俺はおかしな事を言うかもしれない。勿論、聞き流してくれて構わない。けれど、少しだけ吐き出したいんだ。だから……君が聞いてくれると嬉しい」
 彼は私にそう告げると、ゆっくり口を開いた。
「――どこか遠くへ。そんな事を常に考えながら、俺は生きてる。……おかしいだろ? けど、本心なんだ」
 彼は頭上で揺れる青葉を眺めながら、ぽつりとそう言った。
「ここではないどこかへ。一分一秒でも早く、今すぐに。これ以上俺の心が、この汚れた世界に侵食されてしまうその前に」
 彼は表情を酷く歪める。何かこの世界で、彼をここまで苦しめてしまう程の辛い出来事でもあったのだろうか?
「何がそんなに苦しいの?」
「……わからない。わからないんだ。ただ、受け入れられないんだよ今の自分が。わからないんだ、本当の自分が。一つだけわかるのは、俺は演じきらなくてはならないという事。本当の自分をひた隠しにしたとしてもね。それが、たまに苦しいんだ。立っている事さえ辛くなる……」
 彼は俯き地面を見つめた。握られた彼の拳は力が入りすぎているせいか、少しだけ赤く、小刻みに震えていた。
「このまま塵になって消えてしまえたら、どんなに幸せだろう? 風に運ばれ、空を高く舞い、美しい海や山まで流されるんだ。そこには俺の意思など存在しないし誰にも関与されない。何者でもない自分が、ただそこにいるだけだ」
 いつになく弱音を吐く彼は、今での彼とはまったく別人のように見えた。これが彼の本当の姿なのだろうか?
「夜宴の島は一体どんな場所なんだろうね。早く行きたいよ……本当に」
 私は、今すぐ彼を抱きしめたいと思った。優しく抱きしめ、元気付けてあげたい。そして『大丈夫だよ』と、たとえ根拠なんかなくてもそう言ってあげたかった。
 じゃないと、彼の心が今にも壊れてしまいそうに思えたから。
「ソウくん……」
 私は彼に向かって手を伸ばしたが、思わずその手を引っ込める。――違う。そうじゃないでしょ? 優しくするだけなら、誰にだって出来る。
 だから私は、たとえ彼に嫌われたとしても、上手く想いを伝えられなかったとしても、性格が悪いと思われても……本当の彼に、本当の私の想いを伝えたい。
 じゃなきゃいつまで経っても、頑丈な彼の壁が邪魔をして、彼の心の中に入り込めない。
 ――結局は、諸刃の剣かもしれない。
 私は彼を傷付け、そして同じように自分が傷付いたとしても……今目の前にいる彼を優しく抱きしめるのではなく、彼の前にそびえる屈強な壁を壊して、壁の奥で怯え、震えている弱虫な彼を……強く強く、抱きしめたいと思った。
「……ソウくん。約束したよね? 私にハッピーエンドを教えてくれるって。じゃあたとえ遠くに、その夜宴の島に行ったとしても、ちゃんとこの世界に戻ってこないとそれは実現出来ない。ソウくん、私の中で嘘吐きになっちゃうよ?」
「ミズホ……」
「私、嘘吐きは嫌い。たとえそれが優しさの上に成り立つものだとしてもね。事実を知った時、酷い嘘なら軽蔑するし、それが優しい嘘だったとしても、多少なりとも心に傷が残るんだよ。……しかも、お互いにね」
 彼は黙って私の言葉に耳を傾ける。明らかに弱り切っている彼の瞳に心が痛んだ。……でも、やめたりしない。
「あとね、逃げる人も嫌い。自分勝手に周りを振り回していきなり消えるなんて、貴方を待ってる人がいるかもしれないのに」
 一瞬、さっき彼が口走った【サヤ】という女性の事が頭の中に浮かぶ。
「……ソウくんは、待たされる側の気持ちを何も考えていない。逃げたいなら、逃げるくらいなら、一緒に連れていってあげればいいのに。逃げるのが悪い事だとは思わない。けど、消えちゃ駄目。ソウくんが何を悩んでいるのか私にはわからない。でも、目の前の出来事から逃げちゃ駄目だよ」
 私は彼の瞳を逸らす事なくじっと見つめ、精一杯の想いを彼に伝えた。
「逃げれば逃げるほど、貴方は確実に追いつめられる。最終的にはきっと道を失う。だから……消えるんじゃなく、逃げるんじゃなく、避ける方法を一緒に考えようよ!」
 私は本当に嫌な女だ。消えたいと思ってる人間に『消えないで』、逃げたいと思ってる人間に『逃げないで』は……死にたいと思っている人間に『死ぬな』と言うのと同じようなもの。余計に彼を追いつめてしまう言葉だと、充分に自覚していたのに。……こんな私を、彼は軽蔑するだろうか?
 すると彼は、突然柔らかく朗らかに笑った。
「それだと都合の良い俺の頭じゃ、まるでミズホが俺に『私を置いてどこにも行かないで』って言ってるように聞こえるよ。そして、『どこか遠くへ行くのなら私も一緒に連れて行って』『お願い、消えないで』ってね」
「は、はぁ⁉ 何、そのポジティヴ過ぎる捉え方は! さっきまでの弱々しい五十嵐想は、一体どこいったのよ⁉」
 本当に彼の変わりようには驚かされる。彼は先程の事など、まるで何もなかったかのようにケラケラと笑った。
「ミズホの顔、リンゴみたいに真っ赤だ~!」
「人が心配して、真剣に! ――もういい」
 彼と話すといつもこうだ。いつだって最終的に不愉快な気持ちにさせられる。……私は本当に心配していたのに。
 明らかに不機嫌になり、そっぽ向いた私の腕を、彼は強引に自分の方に引き寄せた。
 私はいつの間にか……彼の広い腕の中に、暖かい胸の中に、すっぽりとおさまっていた。
.「そ、ソウくん⁉」
「ごめん、嘘。めちゃくちゃ嬉しい」
「ちょっ……! ここ公園!」
「うん。でも今誰もいないから大丈夫。……暫くこうしててもいいかな? ちょっと、色々限界なんだ」
 彼の心臓の音が聞こえる。生命が奏でる優しい音だ。その音を聞くと私は何だか凄く安心し、心が落ち着いていくのがわかる。
 私の心臓の音と彼の心臓の音が二重奏となり、一つの音楽を生み出していった。
「……もう。誰かが来るまでだからね」
 可愛くない私の返答に、彼はクスリと笑うと、優しく『ありがとう』と言った。
 私は彼のボサボサの頭を、そっと手でとくようにして優しく撫でる。無言で私の肩に顔を埋める彼は、一体何をそんなに傷付いているのだろう? 気になる。
 ――けれど聞けない。彼の表情が、それを望んでいないから。
 その切なげな視線の先に写っているのは、やはりサヤという女性の姿なのだろうか?
 どうして私はここまで、サヤさんという存在が気になって仕方ないのだろう? もしかして、彼の恋人かもしれないから? ……そんな事を考えていると、胸にチクリと突き刺さるような痛みを感じた。
 彼に直接聞けばいいのに、どうしても聞け出せない。昔のよくない思い出がストッパーとなり、私を臆病にさせる。…….これだから男の人は苦手なんだ。
 けれど、実はさっきから少し引っかかっている事がある。

 サヤさん、サヤさん、サヤ……

 私はその名前を、以前からよく知っているような気がしてならなかった。
 どこだ? 一体どこで……? ――駄目だ。わからない。
 きっと、私の勘違いなのだろう。そうに違いない。私は、あまり深く考えないようにした。

 オレンジ色の空が顔を見せる夕暮れ時。ほんのり風が涼しく、とても気持ちが良い。
 彼はゆっくりと私から離れた。彼の髪が私の頬をかすめて、何だか少しくすぐったかった。
「ミズホありがとう。本当に君は優しいね。少し、楽になれたよ」
「私、優しくなんかないよ。ソウくん、私を買いかぶり過ぎだって」
「いや? 君は優しいよ。とても。……まぁ、確かに誤解されそうな性格ではあるけどね。素直じゃないし、意地っ張りだし」
「うん。一言余計だね」
 私と彼は顔を合わせて、クスリと笑った。
「……ミズホ。俺、一旦うちに帰るよ。多分夜宴の島へは藤尾夫妻から聞いた通り、夜一定の時間が来たら自動的に送り込まれるんだと思うんだ。だからそれまでちょっと休む……それに、この格好だしね」
 彼は眉を下げ、頭を掻きながら笑った。
「それと、ミズホ。……さっきの答えなんだけど」
「? さっきの答えって?」
「……俺は絶対に嘘は吐かない。必ずミズホにハッピーエンドを教えてあげる。どこかへ行きたいなら夜宴の島から帰ってきた後、また新しい場所を探せばいい。勿論その時はミズホも一緒だ」
「私も……?」
「あぁ! ファンタジーが好きなミズホに、俺が最高の物語を提供するよ。だから、とにかく夜宴の島を思う存分に楽しもう! それと、俺が絶対にミズホの事を守るから。ちょっと怖いって言ってたろ? 何があっても必ず守る……だからミズホは余計な心配はせず、俺の言葉を信じて」
 そう言うと彼は『じゃあ!』と手を上げ、その場から走り去った。
 ありがとう……ソウくん。私、貴方の事を信じるよ。
 貴方と一緒なら、きっと怖くない。貴方と一緒なら、きっと大丈夫!
 ――これは絶対に、忘れられない物語になる。
 そう確信しながら、私も家路に向かった。

 帰宅した私は夕飯を食べ終え、風呂に入ると、一人部屋の中に篭っていた。
 いつもの黒いストレートの髪を、少し軽く巻いて、お気に入りのワンピースを着る。
 ――うん、我ながら気持ちが悪い。どうして、こんなに気合いを入れておめかししているんだ私は。
 深い理由なんてない。夜宴の島っていうんだからそれはもう、楽しく愉快な宴会が行われているというイメージだ。
 そんな場所にいつものジャージ姿で行く勇気は、流石の私でも持ち合わせていなかった。ただそれだけだ。
 別に、彼に少しでも可愛いと思ってもらいたいなどという邪な理由は微塵もないので、誤解はしないように。
 必死に自問自答している自分を、何だか少しだけ情けなく思い、『はぁ~』と深い溜息を吐いた。
「夜宴の……島、か」
 私はそのまま背後にあるベッドに倒れ込み、壁にかけられている可愛い作りの時計を見る。
 時刻はもうすぐ午前0時となる。――0時になると同時に、夜宴の島! ……だと、何だかありきたりだなぁ。もうちょっと捻って欲しいところだ、なんて思いながら私は大きな欠伸をする。
「ねむ……」
 少し睡魔がやってきたようだ。これで夜宴の島に行く事も出来ずに徹夜、なんてことになったら本当にいい御笑い種だ。
 私はうとうとしながらも携帯を手に取り、それを弄る。
 そして、本当に何の気なしに検索ワードに【夜宴の島】と入れると、素早くOKボタンを押した。
「――えっ? これって、どういう事……?」
 検索して一番最初に出てきた文字に、私は驚きを隠せない。

【夜科蛍】

「よしな……けい……? どうして、夜科蛍の名がここに?」
 私は急いでその項目をクリックし、内容を確認した。
 注目すべきは、とある出版社との対談で、夜科蛍が口にした言葉だった。
『この鏡花水月という作品を書こうと思ったきっかけは、私が夜宴の島と呼ばれる不思議な島へ招かれたから。やはり、それが一番の理由ですね』
 確かに、そう書いてある。
 どういう事なんだ……? どうして夜科さんが? ソウくんはこの事を知っているのだろうか?
 突然の情報に、頭がついていかない。
 けれど私の脳内で今、一つの可能性が生まれようとしていた。
「夜科蛍は、夜宴の島からの帰還者……?」
 私がそう口にした途端、いきなり激しい眩暈が私に襲いかかってきた。
 頭を押さえながら時計を確認してみると、針はやはりちょうど0時を示している。
 見慣れた筈の私の部屋が、一瞬にして全ての色を消した。
「――何⁉ 停電⁉」
 そんな筈はない。いくら停電だったとしても窓から射し込む月や星の光だけは、どうやっても消す事など不可能だ。
 それに、真っ暗ではない。……真っ黒なのだ。
 まるで自分だけが、この墨汁で塗りたくられたような箱の中で唯一色彩を持っている存在のように思える。
 ……眩暈が酷くなってきた。どこからか賑やかな祭り囃子のような音が聞こえてくる。――その瞬間。黒い箱の底がいきなり抜けたように消えて、私は深い闇の中を真っ逆さまに堕ちていった。
 どこもかしこも真っ黒だ。私は落下していく際も何か手すりのような物はないかと、懸命に手を動かし探してみた。しかし、それは虚しく空を切っただけ。
 このまま私は、この深い闇の底に落下して死んでしまうのではないか? 
 そうは思ったものの、心臓はいつものように規則正しい早さで動いているし、こんな状態にも関わらずパニックを起こす気配もない。
 妙に冷静で、落ち着いている自分がそこにいた。先程までの眩暈も、いつの間にか消えてなくなっていた。
 ……勿論、走馬灯も見えない。
 私はこの不思議で不可解な現象に抵抗する事をやめ、ただ身を任せるように、ゆっくりと落下していった。
 耳に聞こえる賑やかな音や声はだんだんと大きくなり始めた。その音を聞いていると、何故か幼い頃によく行った神社の祭りを思い出す。
 大人になってから見る祭りは、やはり幼い頃に見る祭りと比べて、感動がまったく違った。
 暗い中、沢山の提灯に火が通って、オレンジ色の明かりが一列に並んでいる。夜店にはお面や風車などが置いてあって、浴衣姿の私はいつもお面を買ってもらい、決まって金魚すくいをするんだ。
 賑やかで不思議で、少し奇妙でもある、子供の視点から見る夜祭り。
 私はもう二度と、そんな風に祭りを見る事は出来ないのだろうなと思いながら、賑やかな音の中……そっと目を閉じ、ゆっくりと意識を手放していった。
 ――懐かしい音や声に、優しく包まれながら。



「ん……っ、こ……こは……?」
 目が覚めると、私は土の上に敷かれた柔らかいシーツにくるまれていた。
 大きな満月が見える。月面にあるクレーターまではっきりとわかるくらいの奇妙で非現実的な、異常に大き過ぎる月。それはとても綺麗だが、薄気味悪さの方が遥かに上回っていた。
 辺りは深い闇に包まれた不気味な森林、右も左もわからない。一見して【迷いの森】と呼ぶのに相応しいだろう。
 もしかして森に住む獣達が息を殺して潜んでいて、もう既に獲物である私を見つけだし狙っているのではないか? などと考えると、戦慄が走り、小さな音にも過敏に反応してしまう。
「そんなに怯えんでいい。大丈夫、大丈夫。夜風が木の葉を揺らしただけじゃよ。獣なんておりゃせんわい。たとえおったとしても、獣は火を怖がるでのう。ここに近付きはせんよ」
 突然聞こえてきた声の先に目を向ける。私は、少し離れた場所で焚き火の前に座っている一人の老人の姿を見つけた。
「やぁ、娘さん。目が覚めたようじゃのう?」
 老人は見るからに立派な長くて白い顎髭に触れながら、気さくに話しかけてきた。
「あの……お爺さん。これ、もしかして貴方が?」
「ん? ……あぁ。土は固く冷たいし、汚れるじゃろうと思うてな。年寄りのいらんお節介じゃよ。気にせんでいい」
「いえ、そんな! 助かりました。本当にありがとうございます!」
「礼には及ばんよ。何て事はない」
 そう言うと、お爺さんは燃え盛る焚き火の炎をじっと見つめていた。
 夏なのに、焚き火だなんて熱くないのだろうか? ……なんて無粋な事は思わない。
 この焚き火は寒さを凌ぐ為ではない。明かりを灯す為の役割を果たしているのだ。キャンプファイアーと同じようなものだろう。
「あ、あの……お爺さん。ここは……?」
「ミズホ! どこだ⁉ 返事をしてくれ!」
『ここはどこか?』と老人に尋ねようとした時、私を呼ぶ彼の声が静かな森の中に響き渡った。距離は結構近いようだ。
「ソウくん⁉ ソウくん! 私はここだよ! ここにいるよ!」
 私は出来るだけ大きな声で彼を呼んだ。その声を聞きつけた彼は、深々と生い茂る不気味な森林の中からひょこりと顔を出した。
「ミズホ!」
「ソウくん!」
 彼は急いで私の元に駆けつけると、安心したのか……『ふぅ』と大きく息を吐き、安堵の笑みを浮かべた。
「良かった、見つかって。怖がってるんじゃないかって、本当に心配したよ」
 随分と走り回って、私を捜してくれていたようだ。彼の息は既に上がっていて、はにかみながらも苦い表情を見せる。
「……ミズホ。そこにいる御老人は?」
 彼は老人に対し、少し警戒しているように思えた。まぁ、無理もない……こんな不気味で怪しげな森に、突然現れた奇妙な老人。警戒しない方がおかしいという話だ。
 けれど私は、色々とお世話をしてくれた老人が疑われる事に何だか心が痛み、気が付くと必死に弁明していた。
「大丈夫だよ、ソウくん! 悪い人ではないよ! 私が目が覚めたら既にここにいて、色々と親切にしてくれたの」
 老人は色素の薄いグレーの瞳で私達をじっと見つめると、木の横に立てかけてあった杖を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「儂はこの宴の参加者じゃよ。お主達は……儂の見たところ、ここに来たのは初めてのようじゃな?」
 私の言葉でようやく少しだけ警戒心を緩めた彼は、老人に話しかけた。
「じゃあ、やはりここは……」
「おお、ここは人ではない者達が集まる夜宴の島じゃ。もうすぐ海辺で宴が始まるぞ? お主等も早く向かうがいい」
 老人は優しく、穏やかに笑った。
「あ、あのっ! 人ではないって……? じゃあお爺さんも……人間ではないんですか?」
 私は、恐る恐る老人に尋ねてみた。
「儂は、奥岩島の仙人じゃよ。ここの宴に出される酒が何とも見事に美味くてのう。よく参加するんじゃよ。あの酒の味は病みつきになるぞい。お主達もいかがかな?」
 そう言うと、仙人はさも愉快そうに笑った。
「……さて、娘さんも目が覚めたようだし、儂もそろそろ行こうかの」
 仙人が杖を向けると、先程まで赤々と燃え上がっていた火の塊が一瞬にして消えさった。
 私はその不思議な光景に、まるで【マジックショー】でも見ているような気持ちになり、思わず『おおっ!』と声を張り上げてしまった。
 隣では彼が『まるで、魔法だ!』と、子供のようにキラキラと目を輝かせている。
「良ければ、儂が案内しようかの? 何せ初めてだ。わからない事だらけじゃろう」
「本当に⁉ いいんですか⁉」
「いいんじゃよ、いいんじゃよ」
「有難いです。とても助かります」
 私と彼は、お互い顔を見合わせて喜んだ。
「おっと、忘れてはいけない事がある。ちょっと待ちなされ」
 仙人は布で出来た袋から何かを取り出し、それを私達に渡す。中身は……お面? しかも、おかめとひょっとこ。
「それを被りなされ。ここでは宴会に参加する者は皆、仮面を被らなければならないルールがある」
「もし、そのルールを破ったらどうなるんですか?」
 彼は真剣な顔をしながら、仙人に問いかける。
「そうじゃな……仮面を被れば仲間と見なされ、もてなされるじゃろうが、仮面がない者はよそ者だと認識され、恐ろしい目にあうやもしれん。まぁ、全員が全員ではないがな」
 老人は笑顔で物騒な言葉を言い放った。
「恐ろしい目……ですか」
「そんな事……あの兎面達、一言も言ってなかったよね? 自分達から来いって言ったくせに、肝心な事言わないとか、本当に有り得ない!」
 私は兎面の双子に憤怒した。……しかし、説明が多すぎる小説は、情報を与えられすぎて思考が停止したり、自分の想像する世界を思い描けない分、面白味に欠ける。
 ――いや、これは【小説】ではない【現実】だ! やはり情報は少し多い方が助かるし、出来れば教えておいて欲しかった。
「大丈夫じゃよ。海辺に出る道の前に、仮面はわんさかと置かれておるわい。ちなみにそれは儂のお手製でお気に入りじゃ! 特注品じゃぞ? 是非使ってくれ」
 これ、お気に入りなんだ。予備があるならもっと可愛い面がいい。……なんて、仙人のあの嬉しそうな顔を見ておいてそんな卑劣な事が言える筈もなく、私はとりあえずおかめの面を頭にかけた。
 ふと隣を見ると、彼はとっくにひょっとこの面を顔に被せていて、とても楽しんでいるように見えた。どうやら満更でもないみたいだ。……彼のこういうところが、少し残念だと思う。
「それとお主達、白兎神しろうさぎのかみ黒兎神くろうさぎのかみに会ったのか?」
「……えぇ、この世界に来る前の話ですが」
「あれには気をつけた方がええ。あれはちょいと厄介な存在じゃ。退屈を嫌い、規則を嫌い、遊戯を楽しむ。いつも自分の思い通りになる玩具を探しているんじゃ。まだ幼いが、悪魔の申し子のようなもんじゃよ。子供ながらの残虐性を秘めておる。……あの子らは心を惑わしおかしくさせる、あまり関わらん事だよ」
 仙人は些か辛辣な表情を見せながら、私達にそう助言した。
 ――その時、大きな発砲音が島中全体に鳴り響き空に赤や緑、黄色などの煙が立ち昇る。
「おぉ! 宴が始まる合図じゃ。急ぐとしよう! 七年振りの宴じゃ。胸が鳴るぞ」
「七年振り……」
「ソウくん? どうかした?」
「……いや、何でもないよ」
 ひょっとこの面を被った彼のその表情を、私は読み取る事が出来なかった。
 仙人は布袋から自分用の面を取り出す。私は、仙人は一体どんな仮面なんだろう? と興味津々に、後ろからそっと覗き込んだ。
「天狗……」
「大傑作じゃろ?」
「……お爺さん、何だか和風な人なんですね」
 私は思わず苦笑いを浮かべる。
「あぁ、儂は人の世を好んでおってな。おかめもひょっとこも大好きじゃ。人間が描く七福神も好きじゃなんじゃよ。実物とは、姿も形も全く違うんじゃがな」
 そう言うと仙人は可笑しそうに笑いながら、天狗の面を左頭の方にかけた。

 ずっと私達の後についてくる大きな月と追いかけっこをしながら、私達は暗く不気味な深い森の中をひたすら歩く。生暖かい風が身体にまとわりつくようにして、私から離れない。非常に不愉快だ。
 足場がはっきりせず、落ちている木の枝を踏んでパキッっという音が鳴る度、背筋がゾクリとした。
 徐々に海辺に近付いているのだろうか? 煙の甘ったるい匂いが漂い、鈴や太鼓のシャンシャンという音や、ドンドンという音が、微かに聞こえてきた。
 突然後ろにいる彼が私の肩を叩き、私は足を止める。立ち止まる私達に気が付く様子もなく、仙人は浮足で先を行った。
 まだまだ静寂な森の中。彼は、『ミズホ……』と小さな声で私に話しかけてきた。
「この世界では基本、誰の事も信じない方がいい。勿論、あの老人もだ」
「え……どうして? あのお爺さん、凄くいい人じゃない」
  先程まで仲良く話していたのに……あれも全て、彼の演技だったという事なのだろうか?
 私は正直、彼にはお面など必要ないのでは? と思った。……だって彼はいつも、偽られた道化師の仮面を装着しているのだから。
「兎が言っていたろ? 白か黒かと。言葉のまま考えると善と悪。あの老人が【白】の仮面を被っていないとは言い切れない」
「……ほっほっほ!」
 少し前を歩いていた仙人が、いつの間にか少し先で立ち止まっていて、軽快に笑い出した。……この距離では、私達の会話は聞こえていない筈なのに。
 老人は振り返り、道を引き返す。そして私達の前に立つと、非常に穏やかな笑みを浮かべた。
 私は仙人のその表情を見て、ふいに店長の顔を思い出した。皺くちゃで長い歴史を感じるような、誠実で強くて尊い、とても優しい微笑みだ。
「そうじゃ……青年よ、君は正しい。娘さん、ここではむやみに誰も信じてはいけない」
 仙人は頭にかけられた面を顔に被せると、奇妙な風貌で話を続けた。
「ここには他に決まりがあってね」

 ――楽しんではいけない。この世界に取り込まれてしまうから。
 ――楽しまなくてはならない。皆はそっと見張っているよ。……楽しめない者は許されない。
 ――怖がってはいけない。ここにいる間は、皆が仲間だから。
 ――怖がらなければならない。この中にいるのは良い者だけとは限らない。……得体の知れない者達が紛れ込んでいるかもしれない。

「……この言葉、ちゃんと覚えておくがいい」
 仙人は一通り話を終えると『儂も、天狗の面を被った得体の知れない者かもしれないぞ? 信用はしない事だ』と楽しそうに笑った。

 甘い匂いの中に薄っすらと潮の匂いを感じる。賑やかな音楽に、歓声が聞こえる。私はおかめの面をそっと顔に被せると、森を抜け、砂浜に足を踏み入れた。
「すごい……」
 海辺に集まる仮面達の、秘密の宴会会場。そこは沢山の仮面をつけた者達で溢れ返っていた。
 暗闇に灯るオレンジの火が激しく燃え盛る。火の威力を増した【それ】は、まるで昇り竜のように暴れ、躍り狂っていた。
 その【昇り竜】の周辺には、色とりどりの衣装を纏った者や獣達がいて、美しい笛の音色やパーカッションのリズムに手拍子を合わせると……皆、我を忘れたかのように愉快に踊る。
 祭りの夜店のように、見た事のないような食料や飲み物が、ズラリと並んでいるが、ここではお金など必要ないらしい。皆好き勝手に手に取り、好きに楽しんでいる。
「……美しい。こんな世界が本当に存在していたとは」
「そうじゃろ? 青年よ。目に見えるものだけが真実ではない。目に見えないものにこそ、本当の美しさが隠れているというもんじゃ」
「……そうですね。俺は今まで、こんなに美しい世界を見た事がありません」
 彼は感嘆の声を漏らした。
 無理もない。私も先程からずっと、この胸の高鳴りを抑える事が出来ないくらいに気分は高揚し、感動していたからだ。
「おぉ! 奥岩島の爺さん! あっちの方で、もう酒盛りが始まっているぞ? はよきんしゃい!」
 突然仙人に話しかけてきたのは、狸面を被った小さく小太りな老人だった。見る限り、仙人とは随分と親しい間柄のようだ。
「何⁉ それは急いで行かねばならん! ……申し訳ないが君達、儂はこれで失礼するよ。存分にこの宴を堪能すると良い。ここは【夜宴の島】だ。何もかも忘れて歌い踊れ」
 仙人は私達にそう告げると、狸面に連れられ、あっという間に見えなくなってしまった。
「……とりあえず、俺達も色々と見て回ろうか?」
「うん!」
 賑やかで騒がしい中、彼と私は夜宴の島を見て歩き回る。
 目の部分だけを仮面で隠してはいるものの、一目見ただけで見目麗しい事が充分にわかる女性が、それに見合った美しい歌声で歌い始めると、鎌鼬が軽やかに女性の周りを舞う。荒ぶる風を巻き起こし、鮮やかな紙吹雪を宙に撒き散らしながら。それが、とても美しかった。
「! ソウくん! あれを見て!」
 一箇所に集められた幼い童達が、揃って一斉にシャボン玉を飛ばすと、まるでこの宴会は水の中で行われているような錯覚に陥る。無限とも思えるくらいのシャボン玉が次々と夜の空に昇っていくのを見て、皆が歓喜の声を上げた。
 この場に存在する者達全員が、その美しさに深く酔いしれる。きっと、お酒の酔いも早く回る事であろう。
 まるで呼吸の泡のように、一面に浮き上がるシャボン玉を見て……私は無意識に、夜科蛍が執筆した【鏡花水月】のヒロインの事を、【水の中を優雅に泳ぐ人魚】と表現した美しい描写を思い出していた。
 ――そうだ! ネットで見つけた夜科蛍の話を、彼に話さなくては。
 ……いや、それはまた後でいいだろう。
 今はこの世界を、ただひたすら、何も考えずに楽しみたい。私はそんな事を思いながら、意識を再び【夜宴の島】に向けた。
 美味しそうな魅惑の匂いにつられ、少し小腹が空いてきた私達は、肉焼きや飲み物を手に取ると、お面を少しずらしてゆっくりと口に運ぶ。
 今まで見た事もないような美しい虹色の飲み物は、口の中で弾けるように、私の中に溶け込んでいった。それは、私の心を一瞬にして虜にしてしまえるような何とも言えない味だった。
 気付けば私は、もう三杯も、その宝石のように美しい飲み物をおかわりしてしまっていた。
「ミズホ、飲み過ぎ!」
 ソウくんが笑う。
「だって美味しいんだもん!」
 私も笑う。
 周りでは他の面達も皆、楽しそうに笑っていた。
「ねぇ、ミズホ? ここにいる者達は皆、あの面の下で……一体、どんな表情をしていると思う?」
 突然、彼が私にそう問いかけた。
「? 笑ってるんじゃない? だって、そこら中から笑い声が溢れているもの」
「わからないよ? もしかしてあの面の下では、とんでもなくおっかない顔をしているのかもしれない」
「もう、脅かさないでよ!」
 私は思わず吹き出して笑ったが、もし彼の言う通り、あんなに声を上げて笑ってる仮面の下が怒りの表情だったら……なんて考えると、この世界そのものが違ってみえる。なので、深く考えない事にした。

 海の方に目を向けると、海は穏やかに波音を立てていた。
 イカダを作りこの海に出たら、一体どこに繋がっているのだろう?
 そんな事を考えながらボーッと歩いていると、目の前にいた幼い少年に気付けず、ぶつかってしまった。少年は少しよろけたものの、何とか転けずに済んだようでホッと安堵の息を漏らした。
「ご、ごめんなさい! 少し考え事をしていて……大丈夫ですか?」
「……いえいえ、お嬢さん。大丈夫ですよ。お気になさらないで下さい」
 狐面を被った淡い藍色の甚平を着た少年は、少年らしからぬ丁寧な言葉使いで私にそう言った。
「おや……貴方達は【人間】、なのですか?」
「え⁉ どうしてわかったの⁉」
「ミズホ!」
 彼は、焦ったような声を出し、私を制止する。
 私は頭に【はてな】を思い浮かべながら彼を見ると、狐面の少年は口元に手を添え、クスクスと上品に笑った。
「そう聞かれて馬鹿正直に話すのはナンセンスです。お気をつけて」
 狐面は、『まぁ隠さなくても、その出で立ちで大体わかりますがね』と静かに笑うと、ひょっとこ姿の彼の前にゆっくりと移動した。
「貴方……実に興味深いです。何故、この地にいらしたのですか?」
 狐面は彼の方を見て、首を傾げた。
「え? 何故って……この世界に興味があったからだよ。ずっとずっと、異世界というものに憧れを抱いていたんだ」
 彼は相手が子供だからか、正直に理由を話しているように見える。すると、少年は更に首を傾げながら彼に尋ねた。
「貴方……嘘をついていますよね?」
「え……?」
 少年は、何の確証があってそんな事を言うのだろう? 彼も驚き、言葉を失っているようだった。
「――いや、嘘とも言い難いのだろうか? 確かに貴方の中にはこの世界を美しく思い、異世界への憧れと純粋な心をお持ちのようだ。けれど本質的な貴方からは、この世界に対し、激しい憎悪や怒りのようなものを感じたものですから」
 そんな少年の言葉に、彼はまるで図星を突かれたかのように押し黙る。
 怒り? 憎悪? ……彼が?
 初めて来たばかりの夜宴の島に? ……まったく意味がわからない。
「私、思ったら何でも口にしないといられない性分なのですよ。気に障ったのなら謝ります」
 少年はぺこりと頭を下げた。
「……いや、いいよ。気にしないで」
「そうですか。それなら良かったです」
 彼は今、仮面の下で……どのような顔をしているのだろう?
 わからない。想像もつかない。
 表情というものは、とても大切なものなのだと改めて認識する。
 笑っているのか、怒っているのか、泣いているのか、喜んでいるのか……仮面一つで全てが隠されてしまい、容易に判断できなくなる。
 私は急に、不安で胸が押し潰されそうになった。
「さて、……私はそろそろ失礼しますよ。あまり長居をすると見つかりたくない相手に見つかってしまうので」
「……見つかりたくない相手?」
 ものを言わぬ彼の代わりに、私が少年に尋ねる。
「えぇ。ここには兎の面を着けた双子がいるんですがね? 私、その双子が苦手……と言うより大嫌いなのですよ。ソリが合わないとはこういう事なのですかね。とにかく、不愉快極まりない存在なのです」
 狐面の少年は、あからさまに大きな溜息を吐いた。
「それに、もう用事も済みましたからね」
 少年が指をパチンと鳴らすと、突然現れた木の葉が少年の周りを囲い、優しくそっと包み込む。
「――では失礼」
 そう言うと、少年はフッとその場から消え去った。
「うわぁ……あんなに小さくても、やっぱり人間じゃないんだね。狐面を被ってたし、今の子供は狐の神様か何かなのかな?」
「……そうだね」
 明らかに声に張り合いが感じられない彼。
 私はそんな彼の事が心配になり、一つ提案してみる事にした。
「ねぇ、ソウくん。少しここから離れない? 私、ずっと面着けてるから、何だかちょっと疲れてきちゃったよ」
「……そうだね。俺もちょっと疲れた。それに、この島をもっと探索するのも悪くないしね」
 そう言った彼の声は、先程に比べると少しだけ元気を取り戻したような気がして、私は胸を撫で下ろした。
「よし、そうと決まれば行こう!」
 私達は沢山の人混みの中を掻き分け、少しずつ宴から離れて行く。……実際、人ではないのだけれど。
 賑やかな音は徐々に遠ざかり、私達は再び暗闇の中へと消えていった。

 私達は先程とは逆方向の道を歩く。……とは言ってもここはやはり【島】だ。見渡す限り、森と海しかない。
 宴会場からかなり離れた森の中で、木で作られた休憩場所のような場所を見つけた私達は、一旦そこで腰を下ろした。
 目の前には不気味な月が見えていて、そのあまりの大きさに、手を伸ばせば届くのではないか? と、つい手を伸ばしてみる。
 月に向かって手を翳してみると、更にその月の大きさを実感する事が出来た。
 彼はひょっとこの面を頭にずらす。久し振りに見たような気がする彼の表情は、何だか凄く疲れているように感じた。私もおかめの面を頭にずらす。
「ミズホって……そんな顔してたっけ?」
 彼が笑いながら、白々しくそんな事を言うものだから、取り敢えず頭を軽く小突いてやった。
「もっと可愛い面が良かったけど、お爺さんがせっかくくれたんだし……文句は言えないよね」
「ミズホのおかめ姿、なかなかサマになってたけどね?」
「……ソウくんのひょっとこもね」
 私は顔から面を外して彼の笑顔が見れた事にとても安心し、思わず顔が緩んだ。
「それにしても、本当に凄い世界だね」
「ん……?」
「本当に綺麗だった。宴に参加している人達は皆、やっぱり奇妙で少し恐ろしくも感じるけれど……心を魅了してやまない不思議な世界。正にファンタジーだね」
「……そうだね。本当に不思議だ。あの目の前にある月になんて、見ているだけで今にも喰われるんじゃないかって気持ちになるよ。いきなり大口開けて、ガブッとね」
「確かに! 飲み込まれそうなくらい大きいよね! あんなに大きな月、初めて見たよ!」
 私がクスクスと笑っていると、彼はじっと月を見つめ、そっと口を開いた。
「あの月をぶっ壊したら……中には何が入ってるのかな?」
 突然の彼らしからぬ発言に、私は少し目を丸くしたが、思った事を素直に述べてみた。
「月の……住人?」
 彼は『ぷはっ』と隣で吹き出した。
「月の住人って、かぐや姫や兎の事? ミズホは本当にメルヘンだよね!」
 ソウくんは声を上げて笑った。私は少し不貞腐れながらも、今度は逆に彼に問いかけてみる。
「じゃあ、ソウくんはあの中に何が入ってると思うの?」
「俺? うーん、そうだなぁ? ――宇宙人。もしかしてあの月の中は、宇宙人の秘密基地かもしれない」
「宇宙人⁉ 月に⁉ ないよ! ないない! けど、それ面白いかも!」
 周りから見たら間違いなく変人同士の会話なのかもしれない。けれど私は、こんなに私の事を理解してくれる彼と話している時が一番楽しい瞬間なのだ。
 だから……こんな時間がずっと続けばいいのになって、心の底からそう思った。

「あ、そうだ! 私ソウくんに言わなきゃいけない事があったんだ!」
「ん? 言わなきゃいけない事?」
「うん、あのね! ここに来る前にネットで偶然に見つけたんだけど……夜科蛍がね、夜宴の島に来た事があるみたいなの!」
「夜科……蛍……」
 彼は【夜科蛍】の名にピクリと反応する。その顔は先程までとは違い、急速に表情を失っていった。
「え……? ソウくん、どうかした……?」
「……いや、何でもないよ。続けて?」
「う、うん。ならいいけど……」
 私はとにかくネットで得た情報を全て彼に伝えた。その間、彼の方からは特に何を言う事もなく、黙って私の言葉に耳を傾けてくれていた。
「夜科さんって年齢不詳だし、性別だって不明で、謎のヴェールに包まれてるけど、対談とかしてたんだね。何だかびっくりした! ……けど、やっぱり夜科さんの情報には何も触れられていなかったよ。やっぱり秘密なんだね。色々と」
 私は目の前の月を眺めながら、『んーっ!』と腕を上げ、背筋を伸ばした。
「ねぇねぇ! ソウくんは夜科さんって男だと思う? それとも女だと思う?」
 私は彼の方に笑顔で振り返るが、一瞬にしてその顔はピシャリと凍りついた。
 彼が、五十嵐想が……まるで能面のように、不気味なまでに無表情だったから。
「夜科蛍は、女だよ」
「……え?」
「鏡花水月の夜科蛍は、女なんだ」
 彼は『女だと思う』ではなく、『女だ』と、そう断言した。私は彼の突然の爆弾発言に、驚きを隠す事が出来なかった。
 けれど、もしそれが本当だったとしても、何故ソウくんがその事を知っているのだろう?
「ねぇ、どうして夜科蛍は女の人だなんて言い切れるの?」
「……色んなルートを使って調べたんだよ。ただそれだけ」
 彼の様子が明らかにおかしい。何だか急に素っ気なくなった気がする。……私の気のせいだろうか?
「じゃあ、もしかして……夜科さんが夜宴の島に来た事があるって事も……?」
「勿論、知っていたよ。……だから何?」
 特に悪びれる事もなく、シラッと言う彼の態度に段々と腹が立ち、思わず私の口調に怒気が混じる。
「知っていたなら、どうして教えてくれなかったの⁉」
「……別にいいじゃないか。君には関係ないだろう? わざわざ知る必要もない」
「関係ない事ないよ! 私、夜科さんの大ファンだもん! それに夜宴の島にも関係ある事でしょ? 思いっきり関係あるじゃない!」
「……大ファンが聞いて呆れるよ。何も知らないくせに」
 ……何で? さっきまで笑ってたよね?
 どうしていきなりそんな事言うの? 何で急にそんなに不機嫌になるの?
「じゃあ、ソウくんは一体……夜科蛍の何を知ってるって言うの?」
「……少なくても、君よりも知っているよ。それも、嫌ってぐらいにね」
 彼のキツく鋭い視線は、まるで鋭利な刃物のように、私の胸を容赦無く突き刺した。
 彼の感情を持たないような冷めた表情は、まるで吹雪のように近付こうとする者を容赦無く凍結させる。
 近くに感じ始めていた私と貴方との距離は、実際は前と変わらず、遠いままだった。

「喧嘩だー」
「喧嘩だー」

 聞き覚えのある声が重なって聞こえてきた。……兎面の双子達だ。二人は楽しそうにケラケラ笑いながら、こちらに向かって歩いてくる。腰につけられた巾着袋から、微かに鈴の音が聞こえてきた。
「やはり、お前、黒。間違いない」
「黒い感情、プンプン匂う。お前邪悪」
「初日の夜、白と黒は仲違い」
 不愉快なくらいに高らかな笑い声が、森中に大きく響き渡った。
 キャッキャとはしゃぐその姿は、仮面さえ無ければ普通の子供と変わらないような気もする。
 それ程までに、彼らから悪意を感じない。ただ純粋に、この時を楽しんでいるように思えた。
 そう、ただ純粋に……
 彼は無言で立ち上がると、兎面の前まで進む。
 急に目の前に立ちはだかった彼の姿を見て、双子は同時に首を傾げていると、彼は兎達の胸ぐらを掴み、高く持ち上げた。
「いちいち、うっせぇんだよ。糞ガキ共が」
「う……ぐぐ……」
 私は、彼の言葉に耳を疑った。彼の行動が、信じらなかった。
 ――目の前にいるこの男は一体誰だ。
「……この宴会の主催は誰だ。さっさと答えろ。そいつに会う為に俺はここに来たんだから」
 彼は冷酷な瞳で双子を睨みつける。兎達は苦しそうな声を出しながらも、彼に反抗の意思を見せつけた。
「……しゅ、主催者なんて、いない、バーカ」
「そ……んな事さえ知らない、お前、バーカ」
「……あぁ?」
 彼は更に力を強めた。仮面に隠されていてはっきりとはわからないが、きっと双子達は歪んだ表情を浮かべているに違いない。苦しそうな呻き声が、それを物語っている。
「うぅ……っ!」
 ――出ろ、声! 動け、足! これ以上彼が変わってしまう前に、早く止めないと!
「やめて!」
 私は思わず声を張り上げた。
 その声に彼は手の力を緩め、双子は地面に強く強打する。私はすかさず彼と双子の間に割り込み、彼に向かって叫んだ。
「もうやめてよ! ソウくん!」
「……どうして止めるんだ、ミズホ。さっさとそいつらを寄こせ」
「……どうしてですって⁉ いくら不気味で怪しい双子だとしてもこの子達はまだ子供なのよ⁉ そんな事もわからないの⁉ ……駄目、この子達は絶対に渡さない」
 私は双子達を背に隠し、彼を睨みつけた。彼の目には相変わらず生気は感じられない。
 ギュッと握った拳に力が入る。その手はブルブルと震えていて、抑えようとしても止まる事を知らない。
 それは、彼に対する怒りからか? それとも、何も出来ないもどかしさからか?
 いや……単純に恐怖からかもしれない。
 怖い。彼が怖い。……怖くてたまらないんだ。

(お姉ちゃん、大丈夫だよ)

 突然、私の頭に響く……優しく、幼さの残る声。
 ……誰?
(僕は白兎神だよ。お姉ちゃんの後ろにいる。あ、後ろは振り返らないで)
 双子の? けど、いつもと話し方が全然違う。
(お兄ちゃんは……あの宴で何かを口にした?)
 あの宴で彼が口にした物? 彼は確か、肉焼きと真っ赤な飲み物……そう! 彼はルビーのように美しく情熱的な真紅色の飲み物を手に取っていた。
(――それだよ。あの宴に置いてあるものは、大体が普通に食べられる物ばかりなんだけど……ごく稀にそうでない物も紛れ込んでいるんだ。お姉ちゃん達は飲んだ者の心を惑わすと言われている、魔女の薬を飲んでしまったんだね)
 ……魔女の薬???
(不思議な事に魔女の薬は飲み手を選ぶんだ。選ばれた者は、無意識に自分が一番望んでいる物を手に取ってしまう……お兄ちゃんは今、心に秘めていた歪んだ想いが増大し、抑え込んでいた感情が暴走してしまっているんだよ。けど魔女の薬は大抵、飲んだ者の心を後押しするくらいの効果しかない筈なんだ。本来は自分の意思で、少からず制御出来る筈なんだけど……きっとお姉ちゃんはお兄ちゃんの悩んでる内容に、知らず知らずに触れてしまったんだね。お兄ちゃんが変わる原因となってしまったきっかけ、そのキーワードを出してしまったんだ。それで歯止めが効かなくなったんだよ。……心の弱い者ほど魔女の力に強く影響されてしまう。お兄ちゃんはきっと、弱い人なんだよ)
 きっかけ……キーワード……

【夜科蛍】

 ――間違いない。彼は、私が夜科蛍の話題を出したあの時から……まるで人が変わったかのようにああなった。
 じゃあ、これは全部……私のせいなんだ。
(……ううん。そうではないよお姉ちゃん。これがお兄ちゃんの本当の姿なんだ。多少薬の影響で、感情が大きく膨れ上がってるかもしれないけど……今の姿が、間違いなくお兄ちゃんの心の奥に眠る本心なんだよ。【レッドナイトムーン】が、それを表に引き出したに過ぎない。お姉ちゃんが責任を感じる必要なんてないんだよ)
 でも……!
「……さっきから、何をブツブツ言ってるんだ? また自分の世界にでも入り込んでるのか?」
 皮肉じみた彼の言葉など無視し、私は白兎の言葉に集中する。すると、彼は呆れた表情を見せながら私に話しかけてきた。
「……まぁいい。俺はこいつらに聞きたい事があるんだ。邪魔をするなら君でも容赦しない」
(……お姉ちゃんが飲んだのはきっと、【アクアマーメイド】だね。僕、何となくわかるんだ。アクアマーメイドは困難に立ち向かう為の勇気と自信をくれる、今のお姉ちゃんにぴったりな薬だ。お兄ちゃんはきっと、頭の中では止めたいと思ってる。助けて欲しいと思ってる。だから……お姉ちゃんが止めてあげて)
 頭にこだまする幼く優しい声は、私に力をくれた。
 私が、彼を何とか元の彼に戻して……この子達を守らなければ。
「……ソウくん」
 私は彼の前に立つと、思いっきり彼の左の頬を引っ叩いた。パシン! という鈍い音が、辺りに響き渡る。
「いって……」
「痛い? そりゃ痛いでしょうね? 本気で叩いたもの。たかが飲み物の力なんかに左右されるなんて、本当に弱い男ね。……情けない」
「一体、何の話だ?」
「貴方、幼い子供相手にやっていい事と悪い事の区別もつかないの? 本物の五十嵐想って男は、こんなしょーもない男だったってわけだ。……何だかがっかり」
「……何が言いたい? はっきりしろよ、聞いててイライラしてくる」
「別に? 秘密主義者の本当の姿は、小さい子供相手に酷い事をするような下劣で最低な男だった。ただそれだけの事よ」
「……君に俺の何がわかる? 知ったような口を聞くのはやめてくれないか? 君に俺の気持ちなんて、わかる筈がない」
「そんなのわかるわけないでしょ? だってソウくん、いつもなーんにも言わないじゃん。思ってる事を何も言わないくせに、わかってもらいたいだなんて図々しいのよ」
「黙ってくれないか、もう。今は君の話を聞いているだけで虫唾が走る」
「逃げるんだ?」
「……何?」
「女に言い負かされて、逃げるんだ?」
 私の言葉に怒りが頂点に達したのか、彼は木で出来た椅子を何度も何度も蹴りつけた。
 ベンチのような形の椅子は、少し脆くなっていたのだろう。簡単にその形を変えてしまった。
 尖った木の破片が飛び散り、辺りにバラ撒かれる。椅子は大破されてしまい、もう座れそうもない。
「……いい加減にしろよ。黙れと言ってるのがわからないのか⁉」
「私が話しているのを、貴方が止める権限なんてないよね? それに物に当たるとか、本当にカッコ悪いからやめてくれない?」
「うるさい! 黙れよ!」
 彼は激しく声を荒げた。
「そんなに苦しいならね⁉ もう全部ブチまけちゃえばいいじゃない! 貴方には今まで親身になって話を聞いてくれる、そんな相手が一人もいなかったの⁉」
「うるさい……うるさい! うるさい!」
 彼は苛つきを止める事が出来ないのか、髪を激しく掻き毟る。呼吸は荒く、必要以上の換気活動を行なってしまったせいか過呼吸を引き起こしており、パニック症状も見られる。
 目尻に溜まる涙。震える手足。絶え間なく流れる汗。血走る眼球。
 一目見ただけでわかる。今の彼の精神状態は、普通ではない。
 しかし彼はそんな状態にも関わらず、まるで野生の狼のように私を鋭く睨みつけた。
 手を出した瞬間、勢いよく噛みちぎられそうなくらいに鬼気迫るものを感じる。……しかし、私はただ震えて食べられるのを待つ子山羊ではない。
「どうしてそんなになるまで自分を追いつめてしまったの? ……ねぇ、何がそんなに辛いの? どうして一人で抱え込むの? 貴方が自分自身で心を閉ざして壁を作ってしまっている事に、何で気付かないの⁉」
「黙れッ!」
 彼は手を勢いよく上に振り上げる。
 私は、『打(ぶ)たれる!』と思い、咄嗟にキュッと目を瞑った。
 ……あれ? いつまで経っても痛みがこない。
 恐る恐る目を開けてみると、彼の振り上げられた手がわなわなと震えているのが見える。
 彼の悲痛な表情を見て、ギリギリ寸前のところで彼の意思が【それ】を止めた事がわかった。
「――おいっ! 女! お前今、あの結晶を持っているか⁉」
 黒兎の少女が声を上げた。
「え、結晶⁉ 店長のだよね? あれは、確か彼が……で、でも! 今日彼があれをここに持ってきているかどうかなんて、私にもわからないよ!」
「……いや、こいつなら必ず持って来ている筈だ。それにこいつが持っているというのなら、ますます好都合だ」
 黒兎はその小さな手を彼にかざし、聞いた事のない、まじないのような言葉を口にした。
 その瞬間、彼の身体が眩い光を放つ。
「⁉ お前! 俺に一体、何をした⁉」
 彼は吠えるように兎に食らいつこうとするが、【中】の彼がそれを抑制しているようだ。彼は今、身動きを取る事が出来ない。
 黒兎はなおも不思議な言葉を唱え続ける。白兎はその隣で黙って静観している。
 目も眩むような輝きが辺り一面を包み込み、その光の中に小さな黒い影のシルエットが映り込んだ。
 ――あの結晶だ!!
 美しい結晶は空中に浮かび上がり、彼の頭上で粉々に砕け散る。
 その瞬間、砕け散った欠片が彼を紺碧の渦の中へと飲み込む。それは夜の空か、深い海か? 彼を閉じ込めた円状のそれは、徐々に透明化していき、やがて視界から見事に消え去った。
「ソウくん! 大丈夫⁉」
 私は急いで彼の傍に駆け寄った。酷い顔色だ。真っ青に染まった彼の顔は、疲労の色を隠しきれない。
「うっ!」
「ソウくん⁉」
 彼はその場で嘔吐した。それも、出たのは普通の吐瀉物ではない。ドロドロで真っ黒な液体が、絶え間なく彼の口から放出されていく。私は、彼の背中を優しくさすり続けた。
「心潜む、闇、出た」
「心蝕む、毒素、出た」
 双子達は、以前の話し方に戻っていた。
「闇? 毒素? ねぇ、彼は大丈夫なの⁉」
 私は懸命に兎達に尋ねるが、二人は互いにそれぞれの場所を指差し、クスリと笑う。
 ――黒兎は森を指差す。夜明けと共に森は霧に包まれ、白く霞み始めて行く。
 ――白兎は空を指差す。朝焼けが空一面に滲むように、広がり始めている。

「夜明ける。一日目、終わり」
「夜明けた。二日目、始まる」

「宴は残り十六夜。盛大に楽しめ」

 その言葉と同時に、彼は急に意識をなくし、その場に倒れ込んだ。大声で彼の名を呼び、身体を強く揺するが、一向に目を覚ます気配がない。
 その内にだんだんと私まで意識を保っているのが辛くなってきた。目がトロンとし、上手く頭が働かない。
「ソ、ウくん……」
 私は彼の上に被さる形になりながら、ゆっくりとその目を閉じていった。



「本当にごめん!」
「もういいよ、わかったから顔を上げて」
「良かったら、この小説を全部……」
「いや……それ私、全部持ってるから」
 今の状態を、ざっと説明しよう。
 ただ今の時刻は夕方の五時半過ぎ。私の前で深々と頭を下げているのは、昨夜色々としでかしてくれた彼。五十嵐想である。
 取り敢えず、時間を午前まで遡ってみる。

 あの後、目が覚めた私はベッドの上にいた。
 自室のベッドの上でだらしなく両手両足を広げ、布団も被らずに爆睡していたようだ。
 あんなに濃い夜を過ごしたと言うのに、不思議と眠気などはまったく感じられなかった。寧ろ、ぐっすり眠れた爽快感に頭がスッキリしていたくらいだ。
 あの出来事は全て、夢だったのだろうか? それならば色々と説明もつく話だ。……しかし、あれは決して夢などではない。
 その証拠に私の手のひらには、あの時に砕け散った夜宴の結晶の欠片が強く握られていたのだから。
 ふとベッドの上に無造作に置いていた携帯を手に取り、画面を確認する。
 やはり、昨日から放置したままの画面には【夜科蛍】の文字が映し出されていた。
 彼は私に、夜科蛍の【鏡花水月】の大ファンだと言っていた筈なのに……昨夜の彼はどう見たって、夜科蛍を嫌い憎んでいるように見えた。
 ――どうして?
 それに、彼が夜宴の島で口にした言葉。

『夜科蛍は、女だよ』

 彼はその女性? とされる夜科蛍に、何か恨みでもあると言うのだろうか?
 一体彼は【夜科蛍】について、どこまで知っているのだろう?
 そして、夜宴の島の存在を知っていた夜科蛍。……ミステリー小説のように、謎は深まる一方だ。
 私は電話帳を開き、ア行の中の【ア】から一番近い場所にあるその文字をじっと見つめた。

【五十嵐想】

 ……どうしよう。電話してみようか? けれど彼が昨夜のままだったら、なんて思うとやはり気が進まない。
 ちなみに具合は大丈夫なのかな? あんなに大量に吐いていたけれど……
 あー、いっそ全部夢だったなら。昨日の彼の変貌も、全て私が作り出した夢の中だけの話なら、私はこんなにも彼を恐れずに済んだだろうに。

 ♪~ ♪~ ♪~

 突然電話が鳴り出し、驚きのあまり思わず携帯電話を手から落としそうになる。相手を確認すると……相手は勿論、五十嵐想。
 けれど、やはり今は電話を取る気にはなれない。
 やがて着信音は止み、私の部屋は再び静けさを取り戻したが、すぐにまた彼からの着信が入る。
 それらの事を二、三度繰り返したのち、電話はようやく鳴らなくなった。
「……一応、サイレントにしておこう」
 私はサイレント機能に切り替えると、携帯を枕の下にそっと隠す。そして再びベッドの上に仰向けになると、白い天井を見上げた。
 ――私はずっと、夜宴の島の事ばかり考えていた。
 途中、一階から何度も声をかけられたりしたけれど……空返事のまま、専門学校にも行かず、必要最低限にしか下に降りようとはしない私に母親も呆れたのか、次第に何も言わなくなった。
 好都合でもある。今の私の頭の中には、夜宴の島の事を考えるスペースしか存在しないのだから。
 引き篭りとはこんな感じなのだろうか? そんな事を考えると何だか複雑な気分になるが、今はただぼんやりと、夜宴の島の事だけを考えていたかった。
 夜宴の島……色々あったけど、素敵な場所だったと思う。本当に小説のような世界だった。
 あんなに素晴らしい世界がこの世界に存在するだなんて、思ってもいなかった。
「早く夜にならないかなぁ……」
 無意識に、そんな事を口にする自分自身に驚きを隠せない。……けれど、間違いなく本心だ。
 私はあの世界に、完全に魅了されてしまっていた。夜宴の島の事を考える度に、現実の世界が物足りなく感じるのだ。
 何もなかった私の世界が変化を見せた。普段見慣れてる月までもが偽物で、夜宴の島のあのとんでもなく大きい月が、私のこれからの【本物】なのだ。
 あぁ……あの美しい魔女のドリンクが飲みたい。次に私が手にするとしたら、一体どのカラーのドリンクなのだろうか? ……レッドナイトムーンだけはお断りだが。
 目を閉じると、瞼の裏に夜宴の島が映り込む。賑やかな宴、奇妙なお面、美しい景色。そして幼い謎の双子、心を狂わす鮮やかなドリンク。
 ふわふわ、ゆらゆら……まるで、考える度に脳が溶けていくような感じだ。
 そしてそのまま炭酸水の気泡のようにグラスの中で上昇し、パンッと弾けた。心地良くて、刺激的。夜宴の島はそういう場所。私の中にそう組み込まれていった。
 たった一日でこのザマだ。あと十六夜も過ごしたら、私はどうなってしまうのだろう?
 ――あと、十六夜。あの世界にいられるのが、あとたったの十六日しかないという事実に、私は落胆せずにはいられなかった。

 汗をかいた身体が気持ち悪く、下に降りてシャワーを浴びる。二階に戻る際に母親の口から放たれた小言や苦言は一切無視し、黙って階段を上がった。
 玄関ドアの閉まる音が聞こえる。きっと、母親がどこかに出かけたのだろう。
 窓の外から見える空が、少しずつオレンジがかって見えてきた。時計を見るともうすぐ五時半になろうとしている。
『もうそんな時間か』よりも、『まだこんな時間なのか』などと考える抜け殻のような私は、異世界の魅力に完全に取り憑かれた……魂の入っていない操り人形のようなものなのかもしれない。

 ピーンポーン。

 インターフォンが鳴る。一度……そして、また一度。
 ……そうか、母は出かけているのだった。まぁいい、面倒臭いから居留守を使おう。
 ピーンポーン。
 ……しつこいなぁ。橘家は今留守ですよ~。
 ピンポン! ピンポン! ピンポン! ピンポーン!
「……あ~! もう! うるさいなぁ!」
 あまりのしつこさに、私は仕方なく一階へ降りる。
 これでセールスや業者とかだったら文句を言って、追い返してやる! なんて思いながら、リビングに設置されてるモニターの確認もせずに玄関に向かうと、思いっきりドアを開けた。
「はい、どちら様……」
「ミズホ! やっぱりいた!」
 威勢良く私の名を呼ぶその声に、思わず面食らう。
「そ、ソウくん⁉」
「電話。何度もかけたのに、どうして出てくれないの?」
「あ〜、それはその……って言うか、どうしてうちの場所を知ってるの⁉」
「サユリさんに聞いたんだよ」
「……あー、ね」
 サユリさんめ、余計な事を……
「ミズホ、中入れて」
「……は? やだよ! 今部屋散らかってるし!」
「話がしたいんだよ! 散らかってるとかどうでもいいよ。大体そんな恰好で表に出てきてるのに、今更恥ずかしいとかないでしょ?」
 確かに彼の言う通りだ。ノーメイクで前髪は単に暑いからという理由でくくっていて、パイナップルの冠芽のように逆立っているし、おでこは丸出し。Tシャツに短パンのジャージというあられもない姿で彼の前に現れている私に……今更恥などという概念は存在していないのかもしれない。
 しかし……
「毎回一言多いのよ! ソウくんがいきなり来るから悪いんでしょうが! それに服装に関しては、ソウくんにだけは絶対に言われたくないんだけど!」
「俺、今日は普通だし」
 普通というか、今日はまた一段とかっこいいんですけど。それがまた、更に私を惨めにする。
「あら、誰? お客さん?」
 彼の後ろから母親の声が聞こえてきた。
(しまった! タイミングが悪すぎる!)
 ……と思った時には既に遅し。彼は後ろに振り返ると、ここぞとばかりに輝くような笑顔で挨拶をした。
「こんにちは! 玄関先で騒いでしまってすみません。僕、五十嵐想と申します。ミズホさんには大変お世話になっていまして」
「え⁉ やだ! かっこいいじゃない! もしかしてミズホの彼氏??」
「お、お母さん! 何言ってるのよ⁉」
「あんた何してんのよ! こんなとこで彼に失礼でしょうが! 気の利かない娘でごめんなさいね~? 狭いとこだけど、どうぞ上がっていって頂戴!」
「お母さん!」
「ありがとうございます! 失礼します!」
 母親は彼の天使のようなスマイルにやられて、既に目がハートになっていた。
 騙されないで! 昨日この人に貴方の娘、打(ぶ)たれそうになったんだから。……まぁ、私も打ったからお互い様だけど。
 彼は靴を揃え、『お邪魔します!』と丁寧に挨拶すると、母親に部屋の場所を尋ね、私の手を引いて二階に上がっていく。下から母親の『ごゆっくり~』という呑気な声が聞こえてきた。

 バタン。とドアが閉まると、彼は向き直り、私に向かって頭を深く下げた。
「昨夜は本当にごめん。俺、どうかしてたんだ」
 彼は思いつめた表情で、何度も何度も私に謝り続けた。勿論、彼だけが悪いわけではない。そんな事はわかっているのだ。
 けれど罪悪感を覚えながらも、素直になれないこの天邪鬼な性格が邪魔をして、ついツンケンした態度を取ってしまう。あぁ、本当に可愛くない。……けど、どうしたらいいのかわからないのだ。
「本当にごめん!」
「もういいよ、わかったから顔を上げて」
「良かったら、この小説を全部……」
 彼は鞄の中から沢山の著者が書いた小説を数冊取り出す。きっと彼のお勧めなのだろう。しかし、私は申し訳ない気持ちで自室の本棚を指差す。
「いや……それ私、全部持ってるから」
 彼はあからさまに落ち込んだ表情を浮かべながら再び鞄の中に手を入れると、目の前に何かを差し出した。
「じゃあ、これ……」
 彼からクリアファイルに挟まれた数十枚のルーズリーフを渡される。
「……何これ?」
「読んでみて」
 私はそれに目をやると、手書きで書かれたその文章に、思わず言葉を失った。

【少女と少年と月の住人】

 主人公の少女【ミズホ】が、夢の中で出会った【ソウ】という少年と一緒に、月を探検するという幼い二人組の物語。
「これ、ソウくんが……?」
「……うん。ずっと、どうしたらミズホは許してくれるかな? どうしたらミズホはまた笑ってくれるかな? なんて思ってさ。それで思いついたんだ、俺にしか出来ない事。急いで書いたから短編の上に、かなり子供向けになってしまったけど……」
 彼は照れ臭そうに笑うと鞄の中からA4サイズの茶封筒を取り出す。そちらはちゃんとパソコンにて打ち直され、印刷されたものであった。
「世界に一つしかない、ミズホだけの物語だ。……書いたのが俺なんかで申し訳ないけど」

 彼に少し時間を貰い、彼の作った物語を読んでみる事にした。
【ミズホ】は、とても強くて勇敢な心の優しい少女。それに比べて、夢の中で出会った少年【ソウ】は泣き虫で弱虫で、一人じゃ何も出来ないような少年。
 二人はある日、【月の住人】に招かれて、月へと探検に出かける。

『あの月をぶっ壊したら……中には何が入ってるのかな?』
『月の……住人?』
『月の住人って、かぐや姫や兎の事? ミズホは本当にメルヘンだよね!』

 ――私はふと、……夜宴の島で彼と話した会話を思い出していた。

【少女と少年と月の住人】

 見る者の好奇心を誘うように、面白可笑しく、コミカルな内容で作り上げているその作品。それはとても可愛らしくて、そして心温まる優しいストーリーだ。
 確かに子供向けではある。けれど、彼の作り出す文章はやはり美しく暖かく、激しく私の胸を打つ。彼の独特の世界観が、あっという間に【私】の心までも、【月の世界】へと連れて行くのだ。
 彼の見えている世界が私にも見える。幼い少年少女の心情が、清らかな風のように、私の中を優しく突き抜けていった。
 つい先が気になり、ページを進める手が止まらない。短編なのに、本当に最初から最後まで綺麗にまとまっていて、まるで長編のストーリーを読んでいるかのように思えたのは、それだけ夢溢れる素敵な内容がこの中に沢山詰まっていたから。
 喧嘩の仲直りの為に、許しを請う為に……普通ここまでするだろうか? 普通ここまで出来るだろうか?
 彼が一生懸命この作品を書き続けている姿が、私の頭の中に鮮明に思い浮かんでくる。
 それが何だか切なくて、胸が苦しくなってきて、気付けば目に大量の涙が浮かび上がっていた。
「ミズホ? どうして泣くの?」
 彼は不安そうな顔をして、私の顔を覗き込む。
「……ごめんね、ソウくん。避けたりして。ソウくんがああなったのはあの飲み物のせいなんだって、ちゃんとわかっていたんだけど……私、ソウくんの事が怖くて、怖くて……」
 私は素直に思っている気持ちを彼に伝えた。
「……いいんだ。全部俺が悪かったんだよ。君の心を深く傷付けてしまったね、ごめん」
 ……違うよ。違う。私なんかよりも傷付いたのは、きっと彼の方だ。
 誰にでも秘密にしておきたい事がある。誰にでも触れてはいけないものがある。それを彼は薬の力で、全てさらけ出してしまったのだ。
 自分の汚れた醜い心。横暴で凶悪な心。

『……心の弱い者ほど魔女の力に強く影響されてしまう。お兄ちゃんはきっと、弱い人なんだよ』

 恥ずかしくて誰にも知られたくない、弱い心。
 本当のソウくんは、【少女と少年と月の住人】の少年【ソウ】のように……泣き虫で弱虫で、一人では何も出来ない不器用な人なのかもしれない。
「ソウくん、素敵な物語を本当にありがとう! 私、ずっとずっと大切にするね。永久保存版だよ!」
 私が笑うと、彼はホッとしたような顔をしながら笑って見せた。
 彼は一体、どれだけ悩んでいたのだろうか? 彼は私が思っている以上に、ずっと小心者なのかも知れない。
 私は思わず、前方に座っている彼の頭をそっと撫でた。
「ミズホ……?」
「大丈夫、大丈夫。……ソウくんは大丈夫」
 私はおまじないを唱えるように、彼に向かってそっと呟く。
「怖くない。私がソウくんを守ってあげるから、ねっ?」
 そう言って幼い子供をあやすように、私は優しく髪を撫でた。
「……ミズホには敵わないな」
 彼は眉を下げながら優しく、照れたように笑う。
「けど……そんなに優しくされると俺、好きになっちゃうかもよ? ミズホの事」
 私と彼の視線が交わる。私はキョトンとしながらも、だんだん可笑しくなってきて、ケラケラと声を上げて笑った。
「またまた~。そう簡単に貴方の手口には乗りませんよーっだ! 恋愛はソウくんの物語にとって必要事項ですもんね」
「……必要事項? 何それ?」
「だから~、夜宴の島の物語はもう始まっているんでしょ? 私、ソウくんのいうファンタジーに必要なものは、謎と美しさと恋愛要素だと思うのね。実際そうでしょ? だからそう簡単にソウくんの手の中で転がされたりしません。残念でしたー」
「あ~……なるほど、そういう事か。だからハッピーエンドって話に過剰に反応したわけだ。ようやく理解出来たよ。……ミズホ、君って単純なのか難しいのか本当によくわからない性格をしてるよね。けど、もっと頭を柔らかくした方が良い。君はきっと深く考えすぎだ。……まぁ、確かに恋愛要素を含む事によって物語が盛り上がりを見せるかと聞かれると、無いとも言い切れないけどね」
 彼はクスクスと笑う。……私、変な事言ったかな?
「じゃあ本当に、俺と恋愛してみる?」
 彼のまっすぐ真剣な瞳に、私は……
「お断りします」
 そうにっこり笑って返した。
「本当に君は難しい」
 そう言って彼は、クスリと笑った。

 あれからすぐに、彼は帰って行った。『今夜また、夜宴の島で』と言い残して。
 私は火照る顔を枕に埋めながら、ずっと一人で考え込んでいた。
『けど……そんなに優しくされると俺、好きになっちゃうかもよ? ミズホの事』
「ばっかやろー……」
『じゃあ本当に、俺と恋愛してみる?』
「軽すぎだよ、ばーか。本当に何を考えているかわかんない」
 たとえ冗談でも、言っていい事と悪い事があるよね。さっきは咄嗟に平気な振りをしたけれど……
「……もう、わけわかんないよ」
 ずっと前から考えてた。私は彼に対して好意を抱いているのか? と。確かにドキドキする時もあるし、意識しているのは間違いないと思う。私は彼の笑顔がとても好きだ。彼の事を想うと胸が高鳴る。
 でも正直、たまに彼の事を『すっごく嫌い』だなんて思う事もあるんだ。彼に対してイライラする時だって、勿論ある。
 けれど彼を想うと切なくて悲しくて、ずっと彼と一緒にいたい、今すぐ彼に会いたい。なんて思う事だって、決して少なくはない。
 しかし彼の怖い部分を見てしまい、もう二度と会いたくない、関わりたくないと思っている気持ちも確かに存在している。
 でも……彼といると楽しい。彼といると、全ての世界が輝いて見えるんだ。
 私は彼の事が好きかもしれないし、嫌いなのかもしれない。
 会いたいのかもしれないし、会いたくないのかもしれない。
 けれど良い意味でも悪い意味でも、私を変えてくれたのは間違いなく彼自身だ。
 彼と出会わなかったら、私はずっとつまらない毎日を過ごしていただろう。
 しかし、逆に……私は異世界という存在に心を奪われ過ぎて、今こっちの世界では、間違いなく無気力な廃人と化している。
 ――もう戻れない。普通の生活には戻れない。
 普通の毎日じゃ、もう……物足りない。
 私が生きるのは【この世界】。決して【あっちの世界】じゃないんだと、頭の中ではわかっているのに……
 私は、再び彼の作った物語を手に取ってみた。
「……こんなに素敵な贈り物は初めて」
 無意識に顔が綻び、小さな笑いがこぼれる。
「月探検に行った二人は、本当に楽しそうだったなぁ」
 ……けれど、それはハッピーエンドではなかった。
 夢の中の少年【ソウ】は少女【ミズホ】が創り出した幻の友達で……最後には儚く消えていく。
 それでも少女は涙を拭き、地に足をつけ、ゆっくりと前に進んでいく。
 たとえ二度と会えなくなったとしても、二人で過ごした夜と二人の友情は永遠なのだから――
「……私、そんなに強くないよ。ソウくん、ほんと買い被り過ぎ」
 彼には私がこう見えているのかと思うと、何だか少しむず痒い。
「私も、彼に何かお返しがしたいな……」
 けれど、こんな自分に何が出来るだろう……? 『うーん』と、頭を捻らせて考えてみる。
 夜宴の島に行った事で、腑抜けになってしまったこの頭で、今の私が出来る事。私の……好きな事。
「そうだ!」
 私は急いでベッドから飛び起きると、そのまま机へと向かう。そして、備え付けの引き出しからルーズリーフとシャープペンを取り出すと、思いつくままにカリカリと文章を書き綴った。
 夢中になってる夜宴の島。読むのが好きな小説。
「ソウくん、私……夜宴の島の小説を書くよ」
 小説なんて今まで一度も書いた事がない。勿論文才なんてないし、表現乏しいこの頭だ。出来上がった作品は駄作である事に違いない。……けど、書きたい!
 彼が書くような美しくて素敵な物語は、私には書けないって事くらいわかっている。でも、どうしても彼に読んで欲しいから。だから、書くの。……理由はきっと、それだけで充分だ。
「待っててね。きっと最後まで書き上げてみせるから」
 奇妙で不思議で、美しくも恐ろしい【彼】と【夜宴の島】の物語を――


***

「ん……あれ……」
 顔に当たるザラザラとした感触。目を開けると一面に白い砂浜が広がっていた。
 ネイビーブルーの空と海が見える。貝殻が白い絨毯の上に沢山散りばめられていて暗闇の中をキラキラと光り輝いていた。
 ここは……昨日までとても賑わい、騒がしかったあの海辺に間違いない。
 けれど、今夜この辺りは静まり返っていて誰の姿も見えない。
「夜宴の島……何で? あ、そっか……私、あのまま寝ちゃったんだ」
 こんな格好のまま夜宴の島に来てしまった。……最悪だ。泣きたい。
 しかし今はそんな事よりも、同じようにこの世界に来ているだろう彼を捜し出して合流しなければ。
 彼は今、どの辺りにいるのだろうか?
「……ん?」
 ふと違和感を覚え、右手を見ると、その手にはしっかりとおかめの面が握られていた。
「あ~……おかめ」
 相変わらず間抜けな顔をしたこの面を見ると、生憎苦笑いしか出てこない。
「……今日も一日、よろしくお願いしますね。――おかめ様」
 私はその面を崇めるように空にかざすと、一瞬おかめが笑っているかのように思えた。……いや、元々笑ってるのか。
「おかめだもんね……」
 そんなどうでもいい事を考えていると、突然森の奥の方で色鮮やかな煙が高く立ち昇った。
 ――宴が始まる合図だ。
 宴の場所って毎回変わるんだなぁ、なんて呑気に思いながらも、私はおかめの面を頭につけて素早く立ち上がった。
 あの煙を見たならば、きっと彼もあそこに向かう筈……急がなくては。
 今夜は一体、どんな夜が待っているのだろう? 楽しみで仕方がない。
 煙の上がった方角に、急いで足を進めようとすると……突然ぐいっと、袖を後ろに引っ張られた。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
 そこにはいつの間にか、白い兎面を被った少年が立っていた。
「あっ! 貴方!」
「……昨日は大丈夫だった? 僕、ずっと心配してたんだ」
 幼い白兎は弱々しい声でそう尋ねる。この少年は、本当に私の事を心配してくれていたのだ。彼の声から、それが一身に伝わってきた。
 私は膝に手を置き、腰を屈めると……少年と目線の位置を合わせ、優しく彼の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。昨日はありがとうね! 今日は黒兎の子と一緒ではないの?」
「姉様はここにはいないよ」
「あ、あっちがお姉ちゃんなんだ。じゃあ君は弟くんなんだね。名前はなんて言うの?」
「僕は白兎神だよ」
「それって敬称みたいなものでしょ? そうじゃなくて、名前!」
 白兎は不思議そうに首を傾げた。
「僕、今まで白兎とか餓鬼とか双子とか……そんな風にしか呼ばれた事がないよ?」
「――そっか。うん、わかった!」
 その言葉に何だか胸が痛み……私は名も無き少年に、それ以上何かを追求する事をやめた。
「あのお兄ちゃん、悪いモノいっぱい出たね? あれだけの毒素が溜まっていたならきっと、凄く辛くて苦しかっただろうね」
「毒素……ねぇ、彼はそんなに沢山悩んでいるの?」
「うん、悩んでいるよ。そして見失っている。本当の自分自身を」
「ねぇ、それってどんな……!」
 私は彼が悩んでいる内容を白兎に尋ねようとした。けれど……以前私が彼に、【本当の彼】を問い質した時に返ってきた言葉。
 その言葉が、急に私の頭の中に思い浮かんできて……私はそれ以上、何も口にする事が出来なくなった。
『……それは教えられない。答えたくないんだ。自分の素性ほど、愚かで惨めなものはないからね。けど、協力してもらうんだし……一つだけ。ミズホから見て俺という人間が掴めないと思うのなら、それは全て本当の俺ではないからだよ。でも君が見てきた俺は全て、正真正銘本物の俺自身に違いない。……その矛盾、君にはわかるかな?』

『……ミズホが見つけてみてよ。本当の俺自身を。その謎が君の中で、また新たな一つの物語を生み出すんだ』

 ――彼は、確かにそう言った。
 なのに私が考える事をやめて、その答えを誰かに教えてもらうなんて……それって何だか違う。
 私が、私自身が、その答えを見つけ出さないと駄目なんだ。
「お姉ちゃん……?」
「ごめん。何にもないよ! 気にしないで!」
 白兎は再び首を傾げながらも、『うん、わかった』と返事をした。
「取り敢えず、あのお兄ちゃん……暫くは大丈夫だと思うよ? 大方吐き出したからね」
「そっか、それは良かった。あんなソウくん、もう見たくないもん」
「お姉ちゃんは、怒ってる時のお兄ちゃんの事が嫌いなの?」
「え……? 別にそんなわけじゃ……」
 思わず返答に戸惑っていると、白兎が私の顔をじっと覗き込む。その姿が愛らしくて、つい笑みがこぼれた。
「……んとね? じゃあ、二人の秘密だよ?」
「うん!」
 私は『ふぅ』と息を深く吐くと、ゆっくり口を開いた。
「私のね、お父さんが……私やお母さんに手をあげたりする人だったの。それが原因でうちの両親、離婚しちゃってるんだ。でね、笑っちゃう話なんだけど、私が今までに付き合ってきた相手って皆、決まって暴力振るったり、暴言を吐いたりする人ばかりだったの。そういう人を選んでしまうところは母親に似ちゃったのかな? ……ははっ」
 私は白兎の方を見ながら情けなく笑ってみせたが、白兎は黙って私の話を聞いていた。
 私は、空に浮かぶ大きな月と目の前に広がる紺色の海を見つめながら話を続けた。
「最初はね、凄く嫌だった。凄く怖かった。……けどね、不思議な事に慣れちゃうんだよ。殴られるのは私が悪いから、怒鳴られるのも私が悪いから……ってね。防衛反応ってやつかな? そして、この人はきっと弱い人だから……私が傍にいないと駄目なんだ、ってね」
「お姉ちゃん……」
「で、最後は結局、音信不通か浮気されて終わり。笑っちゃうよね! そりゃ、男性不信にもなるでしょ? 幸せな恋愛なんてした事ないんだもん! だから、怒鳴ったりする人は苦手なんだ……昨日の彼みたいに、ね。――あっ」
 最後まで話した後に、ハッと気付く。
 私はこんな幼い子相手に【離婚】だの【暴力】だの【浮気】だの、一体何を言ってるんだ。
 それに、あまり教えて良い言葉でもない……
「ごめん! お姉ちゃん、変な事言っちゃったね。忘れてくれると嬉しいな」
「ううん! 僕、ちゃんと意味わかるよ。じゃあ僕も、お返しに秘密の事話すね」
「秘密の事?」
 そう言うと、白兎は唐突に面を外した。
「君、その目……!」
 彼は、私達でいうところの白目部分が深い闇のように真っ黒で、黒目部分がまるで血のように真っ赤だった。
 白兎は弱々しくニコリと笑う。
「……宴では必ず面を付けるというルールを作ったのは僕と僕の姉様なんだ。僕達はこの不気味な瞳を誰にも見られたくないから、ずっと兎面を被っているんだよ。僕達、実は元々は人間だったんだ。けれど、この不気味な瞳に『呪われた子だ!』と両親が怯え、僕達はまだ赤ん坊の時に捨てられた。樽に入れられ、海に流されたんだ。そして、そのまま死んでしまった……」
「そんな……!」
「僕達の亡骸は、やがてこの島に辿り着き、この島の神に拾われた。とうに朽ちていた身体から魂だけが取り出されて、神は僕達に新しい身体を与えた。呪われた目だけはそのままでね。そして不思議な力を授かった僕達は兎面と共に、【黒兎神】【白兎神】という名を与えられたんだ。永遠にこの島を守るように、と。
 ……お姉ちゃん? どうして泣いてるの?」
 白兎が心配そうな顔をして私を見つめた。
「だって、そんなの……貴方達があまりにも可哀想で!」
 私は、少年の話に涙が止まらなくなった。
 彼らはまだ、こんなに幼いのに……私なんかよりずっとずっと重い過去を背負っているんだ。
「――僕ね、お姉ちゃんがお兄ちゃんから僕と姉様を守ってくれた時、本当に嬉しかったんだよ」
 白兎がコツンとおでこをおでこをくっつけた。
「だから……これからは僕がお姉ちゃんを守ってあげるね」
 ――何だ? 何だか急に、目がトロンとしてきて頭がクラクラする。まるでお酒にでも酔ったみたいに。
「……大丈夫、お姉ちゃん? 何だか力が抜けちゃってるよ?」
 白兎の赤い瞳を見ると、何も考えられなくなる。……力が入らない。
 私は、白兎に身体を預けた。

「……白兎、お前何やってんだよ?」
 突然背後に黒い兎面の少女が現れ、少年に話しかける。その瞬間、先程までの不可解な状態から解き放たれ、身体を自由に動かせるようになった。
「おい、そこの女。白兎なんぞの嘘に騙されやがって。お前、馬鹿だろ?」
「……え? え? 嘘⁉」
 白兎は黙って、兎面を顔に被せた。
「こいつ昨日の一件で、お前の事を大層気に入ったみたいだからなぁ。お前の事が欲しいんだろうよ。白兎という名を持ち、寂しがり屋で弱々しい姿を見せるところなんて、正に兎そのものだが……あたしはこんなに腹黒くて、悪魔のような奴を見た事がねぇ。……迂闊に信用すると痛い目にあうぞ?」
 白兎は『チッ……』と舌打ちを鳴らすと、黒兎の方に向き直った。
「――まったく黒兎は、いっつもいいところで邪魔をするんだから。……もう少しだったのに。うん、僕欲しいよ? ミズホが欲しい。喉から手が出るくらいね」
「え⁉ どうして私の名前知っているの? しかも、ミズホって……呼び捨て⁉」
 黒兎は呆れたように溜息を吐いた。
「だから! あたし達はこんななりをしても神なんだよ。お前の名や生い立ちなど全て、顔を見るだけで浮かんできやがる……嫌でもな。じゃなきゃ、こいつがお前と一緒にいた男の事を色々と知ってるのはおかしいだろうが! ……まぁ、たとえ知っていても詳しい内容を他者に話すのはルール違反。タブーだけどよ」
「あ、そう言えば……確かに」
「……お前、本当に馬鹿だな。馬鹿正直というか、何というか…….」
 白兎は私の前に立つと、腕を組み、黒兎に対し威圧的な態度を見せた。
「煩いな、黒兎。邪魔しないでよ。折角ミズホと二人っきりになれたのに」
 私は白兎のあまりの豹変ぶりに度肝を抜かれる。
「……黒兎。彼女は優しく勇敢で、純情可憐、そして実に聡明だ。僕の子を宿すのに相応しいとは思わない?」
「……は? はぁー⁉ 子⁉ 子って何⁉」
「人と交わるだと? 馬鹿じゃねぇの、お前」
「僕はミズホが欲しいんだ。それとも黒兎、僕がミズホに取られると思って嫉妬でもしているの? いい加減、弟離れしなよ」
 白兎はクスクスと笑いながら飛び跳ねる。
「いや、お前なんぞいらないからさっさとこの島から出て行け。この女を嫁にでもなんでもするがいいさ。清々するぜ」
「ちょっと、あんた達! 子供のくせに何て話をしてるの!」
「お前……あたし達はこんな姿をしているけどな、もう百二十年も生きてんだよ。人間風情が子供扱いするんじゃねぇ! この無礼者めが」
「ひゃ、百二十歳⁉」
「……何だよ? 文句でもあんのか?」
「いやいや! 文句なんてないよ! けど、本当に凄いね。貴方達、そんなに長く生きてきたんだ」
 私は素直に感心した。まだほんの子供だと思っていたのに、私なんかより沢山のものを見て、沢山の時間を生きてきた。……それって、本当に凄い事だ。
「……ま、まぁ、あたしなんて、まだまだこの世界ではひよっこに違いねぇがな。別にそんなに凄い事でもねぇよ!」
 黒兎は少し照れたようにぶっきらぼうに話す。
(……え、可愛い。)
 黒兎って口は悪いけど、意外と素直で恥ずかしがり屋さんなのかもしれない。さっきだって、一応白兎から助けてくれたわけだし。
 ――それに比べて。
「……ねぇ、白兎」
「なになに⁉ ミズホ!」
 白兎は弾んだ声で返事をした。
「さっきの話なんだけど、貴方達は元々人間でその目に怯えたご両親に捨てられ、死んでしまった。そしてそれを不憫に思ったこの島の神の手により貴方達は蘇り、力を授けてもらい、今も二人でこの島を守っている――それで間違いないんだよね?」
 それを聞いた黒兎がゲラゲラ、ヒィヒィと下品に笑う。
「だから! そんなの全部嘘に決まってるだろ! あたし達が人間? 笑わせやがる。じゃあ何で赤ん坊だったあたし達の魂がこんな幼子の姿をしてんだ? わざわざこんな小さく不便な身体に魂をこめるなら、その神とやらも敢えて大人の身体にしただろうよ。それにあの目だって、妖力を使う時にあんな風になるだけだしな! もっぺんあの兎面外して見てみろよ? もう普通の目に戻ってる筈だぜ」
「妖力を使う時……?」
「くくっ……お前、あいつの目を見て身体の自由が利かなくなっただろうが?」
「あー……そういうことね。白兎って、ほんと最低」
「違うよぉ、ミズホ~! 僕はミズホが、だーい好きなだけなんだ! ね? お姉ちゃん? ……僕を信じて?」
 白兎は甘えた声で、尚も子供っぽく振る舞ってみせる。
 ……もう絶対に騙されないぞ。この腹黒白兎め。
「あっはっは! ざまぁみろ、白兎! 何でもお前の思い通りになると思ったら大間違いだぜ!」
「……まったく、自分が神童に相手にされないからって僕に当たらないで欲しいよ。……いい迷惑だ。さっさと神童について黄金郷に行けばいい。僕はミズホとここで暮らしていくんだから」
「……お、お前! 気安く神童などと呼ぶな! 神童様と呼べ!」
「や〜だよ! ば~か」
 本当に何なんだ、この双子達は。当初のイメージと違い過ぎる……
 一見可愛らしくて弱々しいが、実は腹黒で大嘘吐きな白兎に、口が悪くて男勝りではあるが、意外と親切? な黒兎。……これだとまるで、白と黒が逆のようだ。
 ところで……
「ねぇ、神童……って誰?」
 私がそう尋ねると、白兎がケラケラ笑いながら話し始めた。
「神童というのはね、こことはまったく違う世界に存在する、狐の面を被ったお方の事だよ。黒兎は昔から神童に憧れているんだけど、全然相手にされてないの! 可笑しいんだよ~! 本当に惨めで憐れな黒兎!」
「……白兎。てめぇ、絶対に許さねぇからな」
 狐面の少年……ねぇ。

『えぇ、ここには兎の面を着けた双子がいるんですがね? 私、あの双子が苦手……と言うより大嫌いなのですよ。ソリが合わないとはこう言うことですかね。とにかく、不愉快極まりない存在なのです』

 ……きっと、彼の事だろうな。
 成る程。その理由、何だかわかる気がする。
「……って、こんなところで時間を潰している場合じゃない! 宴も始まってるし、早く彼を捜さないと!」
 私が大声で叫ぶと、白兎と睨み合っていた黒兎が振り返り私に言った。
「……あいつなら、宴の場にいたぞ」
 黒兎がそう言うと、白兎はすかさず口を挟む。
「今日は鬼面の一行がいるから、ミズホはここにいた方がいいと思うよ」
「……おい、白兎! あたし達は全ての者に平等でなければならない。一部の者に肩入れする事は許さないぞ!」
「きめん……? それって、恐ろしい存在なの?」
「……ごめん、ミズホ。僕の口からは何も言えない」
 白兎はシュンと落ち込み、申し訳なさそうに私にそう告げた。
「……女、どうするんだ? 行くか行かないかはお前の自由だ。勝手にするといい」
 私は少し考えるが、すぐに『うん』と頷く。
「私、行くわ。彼の事が心配だし……それに、私はこの【夜宴の島】の全てを知りたいの。今日はどんな事が起こるんだろうってワクワクしてるんだ」
「……どうして、夜宴の島の事を知りたいの?」
 私は白兎と黒兎を見ながら、笑って答えた。
「私、物語を書くの! 夜宴の島の物語を! だから、この島の全てを知りたいんだ! 知らないと、何も書く事が出来ないからね!」
「! ……そうか。なら、好きにしろよ」
「貴方達って一癖あるけど、私……何だか嫌いじゃないわ! 色々とありがとうね! クロちゃんに、シロくん!」
「く、クロちゃん⁉」
「シロくん……」
「ふふ! それじゃあ、行ってくるね!」
 私はそう言うと、双子達に背を向けた。
「……待て、女!」
 黒兎の言葉に、私は再び振り返り『どうしたの?』と声をかける。すると黒兎は『フンッ』とそっぽ向きながら、こう言った。
「……その面、だせぇけど絶対に外すなよ? あたしからの忠告だ」
「……わかった! ありがとう!」
 きっと、この面には何かがあるのだろう。私は黒兎の不器用な優しさに頬を緩ませながら、その場を颯爽と走り去った。暗い森の中に灯る、明かりの先を目指して。
 闇を引き裂くような強風が強く吹き荒れ、草木を激しく揺らしていく。もしかしてこれは風などではなく、昨夜宴で目にした鎌鼬が森中を乱暴に駆け回っているのではないだろうか?
 不吉な風が髪を揺らす。
 不気味な満月の中から、得体も知れない何かが見つめているような……そんな気がした。

「この奥だ。やっと着いた……」
 私はおかめの面を顔に被せ、宴に参加する。
 森の中は大層賑わいを見せていた。相も変わらず酒盛りを交わしている者達に、美しい笛の音色に耳を澄ませる者達、円になり、松明を持って時計回りに踊り続ける者達。そして楽しそうに食事を取っている者達もいた。
 仮面舞踏会のような奇妙な仮面をつけて、談話を楽しむ貴婦人達の姿も見られる。
 そんな中、ボウボウと燃え盛る大きな薪組みの近くで、一人ぼんやりとオレンジ色の炎を見つめる、ひょっとこの面をつけた彼の姿を発見した。
「ソウくん!」
 私は手を振りながら、彼の元に駆けつけた。
「ミズホ! 一体、今までどこにいたんだよ!」
「ごめん、ソウくん。あの海辺でね、双子達と少しお話してたの」
「……双子って兎面の? 大丈夫だったの⁉」
「ん? 全然大丈夫だよ! 平気平気!」
 兎達とのやり取りを思い出すと、何だか可笑しくなってきて、思わず笑いがこぼれた。
 あんなにも不気味だったあの子達が、まさかあんなにも可愛らしい子達だったなんて。
 きっと、ソウくんもびっくりすることだろう。
「……何だかミズホ、楽しそうだね? あの双子達とどんな話をしたの??」
「えっとね! あっ……ごめん! やっぱり今は内緒」
「えー⁉ 何でだよ! 教えてくれてもいいだろう?」
「ごめん、ごめん! でもね、いつかソウくんにもわかる事だから……お願いっ! 今は聞かないでいて?」
「よくわからないけど……ま、いっか。わかったよ。じゃあ、また今度教えて? 約束」
「うん、約束!」
 彼が小指を出してきたので、私はその指に自分の小指を絡めると『ゆびきりげんまん~』と、笑いながら指切りをした。
 私達が宴を楽しんでいると、真っ白なテーブルに置かれた沢山の色鮮やかな飲み物を発見する。
 私は一瞬で【それ】に目を奪われたが、彼はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。
「俺、絶対に飲まないから」
「私……あれがすっごく飲みたい」
 私が指を差した方向にあったのは、雪のように真っ白で中にピンクや黄色、水色のラムネが浮かんでいるドリンク。……とても美味しそうだ。
 どうしよう、どうしても飲みたい。
「……ミズホ、やめておこう。昨夜君が飲んだ物のように、良いものが入っているとは限らない。もしかして昨夜の俺のようになってしまうかもしれないよ? ここでは、何も口にしない方がいい」
「でも……」
「わかって、ミズホ」
「……うん、そうだね。わかった」
 後ろ髪を引かれるような思いで、私はその場からそっと離れた。
 森の中心部には大きなステージが設置されている。ステージ周辺には、沢山の者達が集まっていた。……今から何か始まるのだろうか?
 そう思った直後に、キンコンカンコン~とベルが鳴り、放送が流れ出した。
『あーあー、皆様。お楽しみの時間に申し訳御座いません。ワタクシ、この島に住む梟、フクロウで御座います。白兎神、黒兎神はこの後のイベントの準備の為、席を外しておりますので僭越ながらワタクシめが仕切らせて頂きます。本日、鬼面の衆がこちらに赴いていらっしゃるので、皆様、どうか盛大な拍手でお出迎え下さいませ』
 その言葉を合図に、場内から拍手喝采が湧き上がる。
「鬼面……」
 森の奥から十数人、鬼の面を被った者達が顔を出し、ステージに上がる。皆それぞれ恐ろしい鬼の面を被り、白い袴を着ていた。だが鬼の面を被っているからといって、図体や風格まで鬼のよう……というわけではない。
 中には、見るからにひ弱そうな男性や華奢な身体つきの女性、老人などもいた。勿論、いかにも素行の悪そうな乱暴者もいるようだが。
「これから……何が始まるんだろう」
「……俺にもわからない」
『えー、おほん。それでは準備も整ったようですので、本日より三日間のビッグイベント! 【鬼達による兎狩り】を始めさせて頂きます。二匹の兎を捉えた鬼の皆様には、何でも一つだけ願いを叶えて差しあげるとのことで御座います。しかし、殺してはなりません。必ず生け捕りでお願いしますよ。ルールは厳守で御座います」
「兎狩り……って、あの双子の事だよな?」
「そんな……!」
 狩りという物騒な単語を耳にし、私は戸惑いを隠せなかった。
「尚、本日の宴に参加しておられる神々や、位の高い崇高なる皆様は、見物を楽しまれるものだと思われますが、鬼以外にも、もし【狩り】を希望される方がいらっしゃいましたら、今すぐ挙手をお願い致します。どなたかいらっしゃいませんか?」
「…………ごめん、ソウくん」
「ミズホ? 君、まさか……」
 私は手を高く上に挙げた。それを見た古の神々は『おぉ!』っと声を上げ、称賛の言葉や大きな拍手で迎える。
 沢山の面達の視線が一点に集まり、皆が私に注目しているのがわかった。私の足は緊張でガタガタと震え、心臓はおかしくなったかのように激しく音を立てた。
 ――何故、手を挙げてしまったのだろう?
 本当に馬鹿かもしれない。いやきっと、大馬鹿者だ。兎達とちゃんと話をしたのはさっきが初めてだし、結局あの姿だって、本物かどうか定かではない。私は、またしてもあの兎達に騙されているのかもしれない。
 けれど、あのフクロウ。
『殺してはいけません』とは言ったけれど、『怪我をさせてはいけません』とは言わなかった。
「勇敢な人間の女性が、手を挙げて下さいました。他はいらっしゃいませんか? そろそろ締め切らせて頂きますよ?」
 梟がそう声を上げると……すっと、もう一つの手が隣で挙がった。
「俺も参加する」
 周りは更に騒めきを見せる。『いいぞ、兄ちゃん!』などと、囃し立てる声が聞こえてきた。
「ソウくん、どうして⁉」
「……馬鹿。君にだけそんな危険な真似をさせられる筈がないだろ? それに、君を敵と見なした鬼達が、君を攻撃してこないとは言い切れないしね」
 その言葉に、私の背筋は凍りついた。……そうか、そうなのだ。鬼からしたら私は敵。無事でいられる保証などないのだ。
「では、おほん! 兎狩り一日目は、もう時間も少なくなっております。お急ぎを」
 鬼面達がステージから飛び降り、一斉に兎達を捜し始める。見るからに野蛮そうに見えるあの巨体な鬼の男は、白いテーブルに置いてあったあの真っ白なドリンクを手に取ると、面を少し上にずらして一気に飲み干した。
「あぁ! 私のドリンクが!」
「馬鹿な事を言ってないで行くよ⁉ ……助けたいんだろ、あいつらを」
「……そうだった。ごめん、ソウくん」
 こんな時に何を言っているんだ、私は。
「私、あの子達を助けたい。だから急ごう!」
「ミズホ、さっき兎達と話した場所は⁉」
「こっち!」
 私は彼を誘導し、森を抜ける。兎達を生け捕りだなんて……そんな事、絶対にさせない。
 私達が必死に森の中を走っていると、鬼達は樹から樹へ、ひょいと素早く移動した。
 ……鬼って、あんなに身軽なの⁉ 私のイメージでは、黄色と黒のしましまパンツを履いていて、金棒を持ちながら野太い声で、『おぉい! 兎ぃ~! どこに居るぅ⁉』なんて叫びながらドスンドスンと歩いてくのが鬼なのに……あれじゃ、まるで鬼ではなく忍者だ。
「……はいはい、言いたい事は何となくわかったから。今は余計な事を考えずにあいつらの事だけ考える! いいね?」
「すみません……」
 私達の頭上を鬼が次々と超えていく。それにしても人数が多い。十数人のほとんどが、私達と同じ方向に向かっているようだ。
「……ミズホ、ちょっと待って!」
 彼はいきなりその場に立ち止まった。
「どうしたの、ソウくん⁉ 早く、急がないと!」
「ちょっと。こっちへ……」
 彼は私を引っ張り、近くに寄せると、囁くように小さな声で話し始めた。
「この島は広い。もっと鬼達が分散されてもおかしくはない。けれど鬼達はほぼ全員、俺達と同じ方角に向かっている。……おかしいとは思わないか?」
「……うん、私も何かおかしいとは思ってた」
「考えられる可能性は一応二つ。一つ目は鬼が兎独特の獣臭を嗅ぎ分けられる、もしくは発信機等が兎に付けられている。……けれど、その可能性は低いと思う。三日間も続く一大イベントとやらが、そんなに簡単なものだろうか? 俺には、とてもそうとは思えない」
「それじゃあ……もう一つの可能性は?」
「……俺達だよ」
 彼の言葉に、思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
「俺達はあの場で手を挙げた。鬼達は、俺達が兎達の居場所に心当たりがあると思ったんじゃないかな? その証拠に、見てごらん」
 私は彼が視線を向けた方向にそっと目を向けた。
「……うわっ!」
 私は思わず、悲鳴のような声を上げた。
 少し先の樹の上から、移動を止め、こちらの様子を伺う数十人の鬼達の姿が見える。暗闇の中で鬼の目がギラリと怪しく光っていた。
「どうやら、正解……みたいだな」
「でも、じゃあどうしたら……!」
「一度二手に分かれよう。兎達が見つからない限り、あいつらは俺達に攻撃はしてこないと思う。それに、兎は【二匹】いるんだ。俺達が今二手に分かれたって何らおかしい事はない。兎達が二人一緒にいる保証なんてどこにもないのだから……」
「なるほど……」
 私は少し考える。そして、ふと頭の中で閃いたアイディアを彼に話してみた。
「じゃあ……とりあえず私達が夜明けまでわざと海辺から遠ざかって、適当な道を走ったり止まったりして鬼達を引きつけておくっていうのはどう⁉ そしたら兎達を捜さなくても、あの子達を危険から守る事は出来るんじゃないかな⁉」
「それじゃ駄目だ。俺達が闇雲に走り続けたとしたら……きっと、奴等もそこまで馬鹿じゃない。俺達に見切りをつけて個別に兎達を捜し始めるだろう。そうなれば、あの身軽で素早い動きに俺達は追いつけやしない」
「……あ、そっか。じゃあ私、どうすればいい⁉」
「俺はこのまま海辺の方に突き進む。ミズホは一度、宴の場所まで戻るんだ。そして別の道から海辺を目指して。……いいね?」
「うん! わかった!」
「……君を危険な目に合わせるかもしれないのが心苦しいのだけれど」
「大丈夫! それに。元々私が手を挙げてソウくんを巻き込んでしまったんだから。私の事は気にしないで!」
 おかめ姿の私は、敬礼のポーズを彼に送る。ひょっとこはそれを見て、深く頷いた。
「……よし! じゃあ、せーので走るよ?」
「うん!」
 私は深呼吸をし、ぐっと息を止める。
「せーの!」
 彼は真っ直ぐ走り出し、私は元来た道を懸命に戻る。
 樹の上の鬼達も、二手に分かれる事にしたようだ。二分割された鬼達が、私の後を執拗に追いかけてきた。
「……これぞ正に、鬼ごっこってやつ?」
 私の頭上をさっと超えては、私を睨みつける恐ろしい目。いつ襲いかかってくるかもわからない恐怖。
 この鬼達は双子を捕らえて、一体どんな願いを叶えてもらうというのか?
 ――クロちゃん、シロくん。……無事でいて!
 運動不足のせいか、息は荒くなってきたが、私は足を止める事なく必死に走り続けた。
 森の奥から聞こえてくる、楽しげな声や太鼓の音が徐々に大きくなっていく……
 私は、宴の広場に勢いよく飛び込んだ。
 鬼や私達の事など、すっかり忘れたように宴を楽しんでる者達。私はその中に、ゆっくりと溶け込み、紛れ込んでいく。振り返って見てみると、鬼達は私を捜しているように辺りを見回していた。
 少しでも追っ手の数を減らすに越した事はない。私は出来るだけ沢山の者達の間を潜り抜け、足早に走った。
 その時、突然左腕にギリッと鈍い痛みが襲いかかる。
 痛む腕の方に目を向けてみると、そこには痣が出来そうなくらい強い力で私の腕を掴む、ローブを身に纏った小さな老婆の姿があった。
 老婆は面をつけてはおらず、私を見つめ、にんまりと奇妙に笑う。
「な、何……? 離してください。私、急いでいるんです……」
「あんた……さっきからこれを飲みたかったんじゃろ?」
 老婆は片手に、あの白い飲み物を持っていた。……しかし不思議な事に、それを見ても何も感じない。
 確かにさっきまでは、それが飲みたくて飲みたくて仕方なかった筈なのに。
「そんなの……い、いりません」
「――あぁ! そうかい、そうかい。さっきまでのあんたはこれを欲していたが……今はこっちかな?」
 老婆はそう言って指をパチンと鳴らすと、中身が即座に白から黄色い物へと変わる。
 その黄色いドリンクを見た瞬間、私の心臓はドクンッと鳴り響き、軽い眩暈を覚えた。
「さぁ! 飲みなされ、飲みなされ」
 老婆はヒッヒッヒッと、不気味に笑う。
「……駄目、彼が飲んではいけないって。悪いものかもしれないから」
「何故悪いものだと決めつける? ここにある物は全て【その時、それを飲む者】が中身を決める。……そやつが今、一番欲している【もの】をな。ならばこれは、今あんたが一番欲しているものだ。騙されたと思って飲んでみるがよい」
 私は、老婆から黄色いドリンクを受け取った。
「これはのう、特別な物じゃぞ。本来ならこの宴に決して並ぶことのない商品じゃ。そう簡単に口にする事は出来ない。……お前さんはとてもついておる」
 老婆の言葉がまるで甘い媚薬のように、私の心を誘惑し、揺さぶりをかける。こんな所で時間を過ごしている場合ではないのに、足が一歩も動かない。
 私はグラスに口をつける。甘美な香りが鼻から脳にまで行き渡り、スッと溶け込んだ。
 ――もう我慢が出来ない。
 私はそれを、一気に飲み干した。
 最後の一滴が喉に流れ落ちた直後、私の手からグラスがするりと地面に落ち……割れた。
「……い、痛い! 痛いよ! 痛いっ!」
 私は突然襲いかかってきた目の痛みに、意識を保っているのが精一杯だった。眼球が燃えるように熱く、突き刺すように痛い。とてもじゃないが、目など開けてはいられなかった。
 ……ああ、やはり飲むべきではなかった。と、今更後悔しても遅すぎる。
 私の目は一体……どうなってしまうのだろうか?
 ――怖い。
「……心配せんでもええ。悪いもんじゃあない。今は少しばかり痛むかもしれんが、どうせすぐに慣れる。痛みは一瞬じゃよ」
 ……本当だ。確かに老婆の言う通り、痛みは徐々に治まってきたような気がする。
私は痛みによって固く閉じられた両目を、右目から順に、恐る恐るゆっくりと開いてみる。
 すると、まだ閉じたままの左目の視界に何かが映り込んだ。
 ――あれは、シロくん⁉
 白兎が海辺の近くで、呑気に砂の城を作って遊んでいる姿が見える。
 私は『まさか……』と思い、今度は右目を閉じてみる。すると、やはりそこには黒兎の姿があった。
 黒兎は昨夜、彼とひと騒動があったあの深い森の奥で何かをしている。……彼が壊してしまった椅子の修復だろうか? 何やら楽しそうに、金槌で椅子を叩いていた。
「【サガシモノ】は見つかったかの? それは鷹の目じゃよ。どんな獲物も見逃さない。その目からは何人たりとも姿を隠す事は不可能じゃ」
「鷹の目……?」
「この薬は宴に置いてあるものとは、ちょっとばかり毛色が違う物でのう。宴に置いとる物は大体が内面を変えたり、何かを引き出す力を持つ薬じゃ。しかしこれは、外見を変え、飲んだ者に新たな力を与える物となっておる。非常に便利じゃぞ?」
「外見を……変える……?」
「ほれ、見てみるがいい」
 老婆は私の目の前に古びた手鏡を差し出した。
 私はその場にしゃがみ込むと、周りの者達に気付かれないようにそっとおかめ面をずらし、老婆に渡された手鏡を使って自分の顔を確認した。
「な、何これ……」
 私の目は、既に普通の目ではなかった。
 白目が鷹のように黄色く染まっていて、黒目が小さくなっている。
 あまりの不気味さに、身体の震えが止まらず、つい手鏡を地面に落としてしまった。
「心配せんでもええ。効果はこの島にいる間のみで、ちょうど三日間じゃ。三日経てば、ちゃんと元の目に戻るわい」
 私はその言葉に、とりあえず安堵した。真偽は定かではないが、一生このままだと言われるよりかは断然気が楽だったから……
 今の私が望んでいたもの。それは……双子達の行方がわかる【目】。
 片目を閉じると閉じた方の目に見える。
 左が白兎。右が黒兎。
「さぁさぁ、急いで兎狩りのイベントを続けるがよい。儂はまだまだ森の奥でやらねばならない事が沢山あるからのう」
「……そうだ、こうしてる場合じゃない! 早くソウくんと合流しないと!」
「鬼が兎を捕らえるより、人間が兎を捕らえた方が面白い。大半がそう思っておるわ。何せ鬼のような低俗な輩達は、ここにおる者達全てに見下され、毛嫌いされておるからのう。本当にお主らは良い見世物じゃよ」
 老婆は下品に笑いながら、私が落とした手鏡を拾い、袖の奥にしっかりと直す。
 最後の一言に少しばかり腹立たしさを感じながらも、私は老婆に軽く頭を下げ、海辺の方に向かって走り出した。
 背後から聞こえる老婆の不気味な笑い声が、今でも耳の奥に残る。どうか、白兎も黒兎もソウくんも……皆、無事でありますように。
 動き出した私に気付いたのか、はたまた最初から老婆とのやりとりを隠れて伺っていたのか、再び鬼面達が私を追跡し始める。
 痛む横っ腹を押さえながら、懸命に走り続けている最中……大した事ではないかもしれないが、一つだけわかった事があった。
 わざわざ片目を瞑らなくても、手で片目を覆い隠しただけで兎達の姿をちゃんと確認する事が出来る。
 私は乱れた呼吸を整える為、一旦その場に立ち止まった。左右上空より、鬼達が突き刺すような目で私をじっと見張っている。
 私は、おかめの面の上から左目を隠すようにそっと手を添えてみた。
「……――ソウくん!」
 白兎の近くに彼の姿が見える。そして勿論、鬼達の姿も。
 けれど白兎は慌てる素振りなど一切見せずに、完成間近に見える砂の城の開通工事に取り掛かっていた。
 彼や鬼達は白兎の近くにいるというのに、何のアクションも見せず、ただひたすら走り回っている。
 もしかして彼や鬼面には、白兎の姿は見えていないのでは?
 もしそうならば、このまま白兎を助ける事が出来るかもしれない。しかし……本当にそうなのだろうか?
 そんな事で済むのなら、この兎狩りはたった一日で終わってしまうのではないだろうか?
 それに、彼も言っていた。

『三日間も続く一大イベントとやらが、そんなに簡単なものだろうか? 俺には、とてもそうとは思えない』

 兎狩りは、まだ始まったばかりだ。……決して油断をしてはならない。
 それに、あの巨体の鬼が飲み干した白のドリンク。あれが一体どんな効果をもたらすのかも……今のところ、まったく見当がつかない。
 もっと言えば、私の他にもあの黄色いドリンクを口にした者がいるかもしれないしね。
 私は黒兎の事も気になり、今度は右目をそっと手で覆い隠す。……黒兎は無事だ。直った椅子の上に立ち、大きな月を眺めていた。近くに鬼の姿も見えないようなので、私は取り敢えず安堵する。
 突然、風が乱暴に吹き荒れた。
 海の方から吹いてきているのか、微かに潮の香りがした。砂埃が宙を舞い、すかさず私の目の中に侵入する。
 入り込んだ砂を取り除く為、私は思わず目を擦った。
 ――その時、私は不思議な光景を見た。
 一人の鬼が彼と向き合い、その場に立ち尽くしている。
 潮風がその鬼の、長くて美しい黒髪をふわりとなびかせた。
 彼は口を開き、鬼に何かを話しているようにも見えるが、あいにく【目】で見る事は出来ても、【声】までは拾う事が出来ないようだ。
 私はとても嫌な予感がした。……何故か、胸騒ぎが止まらない。
 ここからソウくんのいる場所まで、さほど遠くはない。私は左目を押さえながら、必死に海辺に向かって走った。
 ……お願い、ソウくん! 無事でいて!
 鬼の面を被った女が、一歩……また一歩と、彼に近付いていく。
 彼は後退り、鬼女と距離を取ろうとするが……鬼女は腰に差してあった脇差しを瞬時に取り出すと、彼に向かって斬りかかった。彼は、間一髪のところでそれを避ける。
 他の鬼達は彼に見向きもしないで兎探しに力を注いでいるというのに、何故あの鬼だけは彼を攻撃するのだろうか? 鬼女は、にじり寄るようにして彼に近付いていく。
 やっとの事で森から海辺に出た私は、鬼女に向かって大きく叫んだ。
「やめて! ソウくんに手を出さないで!」
「っ……ミズホ! 危ないからこっちに来るな!」
「ソウ……?」
 鬼女の動きが急に止まる。私はその隙に彼の傍まで走った。
 鬼女はじっと私達を見つめるが、その場で静止し、何もしようとはしない。
 それでも私は、いつ振り上げられるかわからない脇差しの先端から目を離す事なく、その一点にのみ集中していた。
 ――その時、放送が流れる。
 その声の主は間違いなく、白兎と黒兎のものだった。

『夜明ける。二日目、終わり』
『夜明けた。三日目、始まる』
『宴は残り十五夜。盛大に楽しめ』

 ……あぁ、夜が終わる。大きな月はいつの間にか姿を消していて、美しい朝焼けが澄み渡るように広がっていく。
 私は目の前の鬼女を見る。……タイムアップだ。
 もう私達に攻撃などはしてこないだろう。
 鬼女は脇差しをゆっくりと腰にしまうと、そっと口を開いた。
「……いいの、私はいいの。とてもここが気に入ったから。今更、あんな世界に戻りたいとは思わない」
 鬼面の女が生気を持たないような、か細い声でそう呟く。
「ずっと自由になりたかった。けれど、自由がなんなのかなんて……私にはわからなかった」
 彼も私も絶句し、動揺を隠す事が出来ない。
 だって私達は……
 この言葉の続きをよく知っているのだから。
「これを自由と呼ばないのならば、この世界のどこにも自由なんてものは存在しない。ねぇ、そう思わない――――」
 こんな時に意識が朦朧とし始める。視界は霞み、聞力も本来の役目を果たさない。
 どうして、鬼が……? ――どうして?
 伸ばした手は力無く地面に落ちる。鬼女がどうなったのかはわからない。
 彼と私は、毒リンゴを齧った白雪姫のようにそっと目を閉じ、深い眠りについた。
 ……次の夜には、きっと想像もつかないような新展開が私達を待っている。
 そして私は、少しの期待と多くの不安を胸に……



「で、どう思う……?」
「何が?」
「あれだよ、あれ! あれだってば! わかるでしょ? あれ」
「だから、気にしないで言いなよ。言いたくてたまらないって顔してるよ?」
「……うん、わかった! じゃあ言うね? 何となくソウくんの前では言いにくいんだけど……」
 彼はクスクス笑いながら『はいはい、どうぞ』と、私に返した。
「夜科蛍だよ! 夜科蛍! あの鬼の面を被ってた女の人の言葉って、夜科蛍の鏡花水月の事だよね⁉ ソウくんわかってた⁉」
「当たり前だろ? 勿論わかってたよ。鏡花水月は俺にとってかなり特別な作品だから、最初から最後まで、一語一句ちゃんと覚えてる」
「でも、どうして鬼が? 鬼の世界にも名を轟かせているの⁉ 夜科蛍って! 大体、鬼の世界って何? 鬼ヶ島の事? あーもう意味わかんない!」
「ちょっと落ち着こうよ、ミズホ。話がかなり脱線してるから」
 彼はそう言って優しく笑うと、私の頭を軽くポンポンと叩く。昨夜あんな目にあったというのに、随分余裕そうだ。
「ソウくん何でそんなに余裕なの? 殺されかけたんだよ? 避けなきゃ本当に死んでたんだよ⁉」
 彼は顎に手を当て『うーん』と、難しい顔をして答えた。
「……何かおかしいんだけどさ。自分が体験した事なのに、いまいち実感が湧かないんだよね。まるで新しい小説を買って、ミズホと1日ごとに感想を言いあってるような……そんな感じ」
「あ〜……何だかそれ、わからなくもない」
 朝早くからバイト先近くの公園に集まった私達は、昨夜の話を一つずつまとめていく事にした。
 彼とわかれた後、宴の場に戻った私が不気味な老婆に言われるがまま、あの謎のドリンクを飲んでしまった事は……勿論こっぴどく叱られた。
 けれど彼は、私とわかれた直後に、私が【あれ】を飲んでしまう可能性も少なからずあるだろうな、と何となく予測がついていたらしい。彼曰く、私は甘い誘惑に弱く、駄目だと言われたら余計に飲みたくなるタイプとの事だ。……当たっているからこそ何も言えない。
 あと老婆の言っていた三日間というのは、どうやらあの世界での三日という意味らしく、取り敢えず今は普通の目に戻っていた。片目を隠しても何も見えない、見えるのはただの暗闇だけだ。
「けど、鷹の目かぁ。何だか、ますますファンタジーな展開になってきたよね」
「ははっ、確かにファンタジー! けど……もしもだよ? もしもあのまま一生目が治らなかったらどうしよう。もしかしたら私、そのまま本物の鷹になっちゃうのかもしれない……」
 私はそう言うと、しょんぼりと膝を抱えた。実は不安で不安で仕方がないのだ。それ程までに、あの目は不気味で恐ろしい。
「大丈夫。もし治らなかったら、俺もそれを飲むから。ミズホを絶対に一人にはしないよ」
「ソウくん……」
「それに鷹になるだなんて、かっこいいじゃないか!」
 彼はそう言って、軽快に笑った。
「鷹は人間より、約八倍もの視力を持っているらしいよ。高い空を飛ぶために、目の性能の進化をさせてきたんだ。遠くにいる獲物もすぐに見つけられる目、空を自由に飛べる翼……空を飛ぶという事は、人間にとって永遠の憧れだよ」
「……私はいいや。空は飛んでみたいけど、鳥や蝶にはなりたくない」
「それは、どうして?」
「鳥だと撃たれるかもしれないし、蝶だと捕まって標本にされるかも。あと、絶対に虫は食べたくない!」
「ははっ! 現実的だね、そういうところは。けど君の理想とする空の飛び方はきっと、もっと幻想的なんだろうけど」
 彼はくっくっと笑った。……うん、やはり馬鹿にされている気分だ。
 まぁ……空の飛び方については、きっと彼の想像通りで間違いないとは思うけどね。……やっぱり夢がある方がいいよ、うん。
「まぁ、心配しなくても大丈夫だと思うけどね。この世界までは干渉出来ないのか、今のミズホの目は至って普通だし、宴の夜が終わった暁には元の世界に戻れるんだから、目も元に戻る筈だよ、きっと。……帰ってこれたらの話だけどね」
「ちょっと、脅かさないでよ!」
「ごめん、ごめん! けど万が一、俺達がこの世界に戻ってこれなくてミズホの目もずっとそのままだったら、その時にまた二人で考えたらいい。たとえ俺達の姿が本物の鷹になったとしても、新しい世界が広がるだけさ。二度目の生の誕生だよ」
 そう言って朗らかに笑う彼は、ポジティブというか、前向きというか…… けれど、私にはそんな彼がとても輝いて見えた。
「……成る程。そうだね! 戻らなかったら、またその時に考える! 今悩んでたって仕方ないもんね!」
「そういう事」
 彼はそう言うと、立ち上がって『んー!』と背筋を伸ばし、青い空を見上げた。
 そして突然、彼は何かを思い出したかのように『あっ』と声を出すと、こちらに振り返り、少し神妙な面持ちで言った
「……ミズホ。あの鬼女について、少し気になる事があるんだ。だから……あの鬼女は、俺に任せてくれないかな?」
「気になる事って、大丈夫なの……? 危険じゃない?」
「大丈夫、大丈夫! まだ確証が得られてないから何とも言えないんだけどね。勘違いだったらいいんだけど……ま、分かり次第、報告する」
「……うん、わかった。本当に気をつけてね」
 私は、彼の言葉がほんの少しだけ気になったけれど……それ以上彼を問い詰める事はしなかった。
 今夜は一体、どんな夜が待っているのだろう? 何か、恐ろしい事が起きなければいいが。
 兎狩りなんて物騒なイベントなど、さっさと終わってしまえばいいのに。
「じゃあそろそろ解散しますか。私やらなきゃいけない事も、やっておきたい事も沢山あるからね! まだ話し足りないのが残念だけど。それに……ずっと家に引き篭もってるわけにもいかないしね。明日からはちゃんと学校に行くし、新しいバイトも探さないと」
「もう、書店でバイトはしないの?」
「したいよ? けど、夏の間閉めちゃってるんだからどうしようもないしね。取り敢えず、短期のバイトでも探すつもり。で、秋になったらまた店に戻る」
「昨日まではあんなに夜宴の島の虜になってたのに、どういう風の吹き回し?」
 彼はクスクス笑いながら、小さな滑り台の階段を一段ずつ登っていく。
「んー、何でだろうね? 確かに昨日は、一日中夜宴の島の事ばかり考えてた。早く行きたくてたまらなかったし、こんな平凡な世界から抜け出して、ずっとあっちの世界にいられたら……なんて思ってたのに」
 一日引き篭もっていて気付いた。たとえ、どれ程あの世界に恋い焦がれようとも、あの世界は私達がいるべきではない世界だ。いつかはきっと、夢や幻のように儚く消えてしまうだろう。
 その時に私がこんなに腑抜けたままじゃ、これからの生き方を見失い、一生現実と幻想の狭間を彷徨い続ける事になる。
 だから……やるべき事、やらなくてはいけない事は、ちゃんとやっておく方がいい。
「……本当は今だって夜宴の島に行きたいよ。こんな退屈な世界より、あっちの世界がいい。でも、やっぱり……いつかは夢から覚めて、私達は普段の生活に戻るんだよね。そうなった時に、このままじゃ駄目だとか今更ながらに考えちゃって」
「……そうだね。夜宴の島の物語は、いつか必ず終わる。あの不思議な世界も、奇妙な面達も……いつかは俺達の前から、まるで最初から何もなかったかのように姿を消すんだ。……ミズホは賢い生き方が出来る人だね。先をちゃんと見据える事が出来ている。決して廃人には成り得ないタイプの人間だ」
 彼は滑り台から勢いよく滑り降りてきて、華麗に着地した。
「小説でも映画でもゲームでも、最後は必ず終わりがくる。終わりを迎えてしまったものは、悲しくも、終わりを迎えるまでの物語には太刀打ちする事が出来ない。――ほら、ミズホも言ってたろ? 恋愛が成就する物語は好きじゃない。結ばれた後の二人がその後もずっと幸せだとは限らないから、って……」
「うん……」
「あの時は何も言わなかったけど、俺も小さい頃に、少しミズホと近い事を考えた事があるんだ。一つ例をあげるとしたら……TVゲーム?」
「ゲーム?」
「仮に魔王を倒す為、勇者が仲間と共に旅に出るって設定だったとしよう。勇者は世界を守る為に必死にレベルを上げたり、傷付きながらも強い敵と戦っていくわけだ。そして、やっとの事でラスボスを倒して、世界は平和になる。……その平和になった後の世界で、勇者はそれから、どうやって生きていくのだろう?」
 彼は突然ブランコに乗ると、立ち漕ぎしながら話を続けた。
「勇者は平和になった世界で、剣を捨て、普通の村人に戻る。……物足りるのかな? 今更、そんな生き方で」
 だんだんとスピードを増し、高く上がっていくそれは、ギーコギーコと耳障りな擦り音を立てる。
「それって本当にハッピーエンドなのか? って俺は思うんだよ。今も昔もね! ……よっと!」
 彼は高く上がったブランコからヒョイっと優雅に飛び降り、着地した。
「だから俺は、ゲームをクリアするのが嫌いだった。大好きな物語がそこで終わってしまうから。物語を終えた勇者が、幸せだったとは幼い俺には到底思えなかったから……」
 彼は、ゆっくりと鉄棒の前に移動する。
「だから俺は思ったんだ。永遠に終わる事のない物語を見つけたいって」
「終わらない……物語……?」
「そう」
 そう言うと、彼は鉄棒を掴んでクルッと逆上がりをし始めた。
「俺は……やるからには保険なんてかけていられない。いつでも全て捨てていい、失ってもいいという覚悟を持ってるんだ。馬鹿みたいだろうけど本気。終わらせるつもりなんて、最初からない」
「ソウくん……それ、簡単に言っちゃってるけど普通の人はね、そこまで簡単に踏み切れないんだよ。どうしても保身的になってしまうものだから」
「うん。だからきっと……俺は普通ではないんだろうね」
 彼は一人シーソーに跨ると、私に合図を送るが……私は丁重にお断りした。
「……ソウくんってさ、やっぱり変。変わり者の域を超してるよね。もはや変人レベル」
「ははっ! そこまで言う? 手厳しいなミズホは。……ま、いいや。本当の事だしね」
 彼はようやくシーソーから降りてきて、元通り私の隣に座った。
「……けどね、本当は私だって、終わらない物語の中で生きていきたい。ソウくんと一緒に、ずっとずっと夜宴の島で過ごしたい。たとえ夜宴の島が消えてしまったとしても……私、ずっとソウくんと一緒に新しい物語を作っていきたいの。他の誰もソウくんの代わりにはなれっこないからね! 変わり者だし変人だけど、それでも私、やっぱりソウくんがいいんだ!」
 私は彼にニコリと笑いかけるが、彼は不自然に横を向いた。
「……あのさー、ミズホ」
「ん? 何?」
「……そういう事、あんま男相手に言ったりしない方がいいと思う」
 彼は、そっぽ向きながら私にそう言った。
「……え、何で? ソウくんだって言ってたよね? どこかへ行きたいなら、夜宴の島から帰ってきたその後、また新しい場所を探せばいい。勿論その時はミズホも一緒だ、って」
「俺はいいの。男だから」
「何それ、不公平! ……ん? あれ?」
 この位置から見える彼の横顔は、まるでトマトのように赤く、前髪を掻き上げながら、何だか落ち着かないように視線を泳がせていた。
「ちょっと! ソウくん顔真っ赤なんだけど!」
「赤くなんかなってねーよ! うるせぇな!」
「おやおや? 話し方まで変わってますよ⁉」
「……言われ慣れてないんだよ。仕方ないだろ」
「慣れてない⁉ よくもまぁいけしゃあしゃあとそんな事を……この天然タラシが」
「……ばっ! ミズホは俺の事を一体、どんな人間だと思ってるんだよ! 心外だな!」
 いちいち慌てふためく彼の姿が面白くて、わざとからかってみせる。
「どんな人間って……キザだし、いちいち台詞がクサくて小説みたいだし、思わせぶりが激しいし、簡単に女の子の事を抱きしめちゃったりしちゃうしね。とにかく、チャラい。 ――って、ちょっとソウくん⁉」
 彼はあからさまに項垂れる。相当ショックを受けているみたいだ。少しからかっただけなのに……と、私は思わず苦笑いを浮かべていると、彼はぽつりと小声で呟き始めた。
「……だって仕方がないだろう。小さい頃からあまり外にも出ず、毎日本ばかり読んでいたんだから。その影響で今こんな話し方なんだろうし、正直……人とどう接していいのかもよくわからないんだ」
「……は、はぁ?」
 こんな彼は初めて見る。物凄く新鮮だが、とにかくウジウジしていて何だか暗い。
「……でも、俺こんなだからさ。昔から変わり者呼ばわりされたりして、仲間に入れてもらえなかったり、嫌われてたりしたんだけど、ミズホと話すのは凄く楽だし、価値観が合うというか何というか……」
 ……何となく読めてきた。彼の性格が全く掴めなかった理由。
 あのミステリアスで危険な感じがした彼は、多分……ミステリー小説を読みすぎて影響を受けた。紳士的で優しく、積極的な彼はきっと……恋愛小説に影響されてしまったのだろう。
 そしてバイトの初日以降、やたらと私に懐いてきたのは【小説&夜科蛍】という共通の話題があって、単に話しやすかったから。
 押しが強いサユリさんの事が苦手だったのは、多分ぐいぐいきて怖かったから。
 私の連絡先を直接聞かなかったのは、きっと自分で聞く勇気がなかったから。
 公園での夜、彼の言葉に腹を立てて泣いてしまった私を抱きしめたのは、きっと【泣いてる女性は抱きしめる】という小説からの知識。
 オロオロとうろたえ、好きな小説を何冊も持ってきたり、小説を私の為に書いてくれたのは、コミュニケーションの取り方がよくわからなかった彼なりの、精一杯の誠意。
「あー! もう、馬鹿馬鹿しい!」
 私は大声でケラケラと笑った。
「完璧なんかじゃないじゃん、全然」
「……笑うなよ、馬鹿」
 まだ赤い顔のままで拗ねたようにいじける彼の姿に、何だかほんのりと心が温まる。初めて会った時の彼とは、まるで別人だ。
 出会ったばかりの彼は完璧すぎて、何だか少しだけ怖かった。本性が見えなくて、何を考えているのかなんてさっぱりわからなくて……優しいけど、本当の意味では優しくなくて、怖くないけど……多分、誰よりも怖かった。
 でもそれはきっと、私が彼を【完璧】だなんて思い過ぎていたからだ。
 彼はこういう人なんだって、無理矢理枠にはめ込んで、彼という人物を勝手にそう決めつけてしまっていたのかもしれない。
 完璧な人間なんて、どこにもいやしないのに……
「ねぇ、ねぇ、ソウくん?」
「……何?」
「不器用な男だねぇ、ほんと」
 私はよしよしと、彼の頭を優しく撫でた。
「あー! もう! 子供扱いするなよな? 俺これでもミズホより二つも歳上なんだから」
「真っ赤。ソウくん、かーわいっ!」
「……可愛いとか、男に言う言葉じゃないだろ、まったく」
 彼は、『帰る!』と言って立ち上がる。きっと、怒ってるわけではない。照れ臭いのだろう。
「ソウくん、ちょっと待ってよー! それにしても……自分から何かしたり言うのは全然平気なのに、逆だと駄目だなんて、何だかおっかしいの! あはは!」
「煩いなぁ……少し黙ろうか、ミズホちゃんは。じゃないと、今夜もし夜宴の島で何かあっても俺、絶対に助けてやらないからな?」
「いいもんねーっだ! 寧ろ、一日目も二日目も絶対私の方がソウくんを助けてると思うんですけどね~」
「……おっしゃる通りです。面目ない」
「もっと、しっかりして下さいね」
「……はい」
 憎まれ口を叩きあっても、肩を並べて歩いていける……その空間がとても好き。
 何だか、ようやく本当の意味で彼に一歩近付けたような気がした。それは彼が、少しずつ私に心を開いてくれているから。その事が本当に嬉しい。
 恐らく、彼が一日目の夜に吐き出した黒い液体も彼が心を開いてくれた原因の一つなのだろう。あの時はどうであれ、結果オーライかもしれないね? 彼の心が、少しでも楽になれたというのなら。
 けれど……きっと彼には、まだまだ沢山の秘密が隠されている。
 黒兎と白兎が言ってた、【二つ持つ者、異色の者】という言葉。
 夜科蛍を尊敬しながらも、とても憎んでいるように思えた事。
 夜宴の島に行けるようになった時に一瞬だけ見せた、あの狂気を含んだ妖しげな笑顔。
 そして、宴の主催に会う為にここに来たと言った彼の、怖いくらいに追いつめられた表情。……吐き出された黒い闇の中身。
「ソウくん……ずっとこのままのソウくんでいてね。いきなり、一人でどこか遠くに行っちゃわないでね?」
「ミズホ? 急にどうしたんだよ?」
 本当にそうだ。私はいきなり何を言ってるのだろう?
 けれど止まらない。想いが止まらない。普段と違う彼の姿を見て、ほんの少し欲張りになってしまったのだろうか?
 でも嫌なんだ。怖いんだ……不安なんだ。兎狩りのイベントで、また彼が危険な目に合うかもしれない。
 双子達が彼は闇を吐き出したと言っていたから、もう黒いソウくんは出てこないと思うけど……もしかしたら何かのきっかけで、また出てきてしまうかもしれない。
 ――そして、あの鬼女。
 彼は、彼女の何が気になるのだろうか? また殺されかけるかもしれないのに……
 私は今夜初めて、夜宴の島に行きたくない……そう思ってしまった。私はしゃがみ込み、俯き、膝に顔を埋める。
「ずっとずっと、小説の話をしよう。物語の話をしようよ? ……二人で馬鹿みたいに、色んな空想や妄想を膨らませてさ」
「……大丈夫、俺は変わらないよ。ずっと」
 彼は安心させるように、ゆっくりと私に話す。
「……おっかしいなぁ、私。まだソウくんと知り合って数日だよ? なのに……もうずっと前から、貴方の事を知っているような気がする」
「俺も同じ事を考えていたよ。ミズホと出会ってまだ数日だけど、一緒にいる時間が長いせいか、過ごしてる時間の中身が濃いせいか……もう随分と昔からこうしてるような気がするんだ」
 彼は膝を曲げると、俯く私の頭にそっと手のひらを乗せる。ゆっくりと顔を上げてみると、彼の優しい笑顔がキラキラと私に降り注いだ。
「……ミズホ。こういうのをさ、人は【運命】って呼ぶのかな?」
「運命……?」
「そ。運命の出会いってやつ。俺とミズホはきっと、出会うべくして出会ったんじゃないかな? この広い地球の中でね。言わば同士だよ。普通の友人同士より、ずっと深い絆で結ばれている。俺、そんな君に出会えた事が、本当に凄く嬉しいんだよ」
「ソウくん……」
「ありがとう、ミズホ。こんな俺と出会ってくれて」
 彼はそう言って微笑み、同じように隣にしゃがみ込むと……両手を私の肩に添え、突然意味不明に『うんうん』と頷き始めた。……何だ?
「それに、ミズホの気持ちはよーく伝わったからさ。本当に君は素直じゃないんだから」
「……? 気持ちって?」
「ミズホがどんなに俺の事を大好きなのか、って事がだよ」
 彼はにししと笑いながら、私の肩にぽんぽんと手を置いた。
「ば、ばっかじゃないの! ……これは、あれよ! 友好的なもので……そ、そう! 親愛みたいなものよ! 勘違いしないでよね⁉」
「【しんあい】って、深い愛? それとも、信じる愛?」
「親で愛の親愛よ! 友人に対する愛だよ愛! ……ソウくん、わかってて言ってるでしょ?」
「あ、バレた?」
 彼はペロッと舌を出し、まるで悪戯っ子のようにクスリと笑った。
「ほんと、自意識過剰……やってらんない!」
「ミズホの顔、真っ赤だよ? かーわいっ」
 まるで、形成逆転とでも言うかのように、同じ言葉を並べてくる彼が、とても腹立たしい。
 でも――
「けど、ミズホが元気になったみたいで本当に良かった。あんまり不安になるなよ……なっ? そんなに心配しなくても俺は大丈夫だから。約束……ちゃんと覚えてる? 俺、絶対にミズホに悲しい想いはさせない。だからもうちょっとだけ、俺の事信じてみてよ?」
 ――ほら。最後はいつも、そんな風に……お日様のように明るく、優しく笑うんだ。
 そんな風に言われたら、これ以上何も言う事が出来ない。……やっぱりソウくんは狡い。
「……わかった。信じてるからね?」
「当たり前。俺は嘘なんて吐かないって」
 うん、彼なら大丈夫だ。たとえ何かが起きたとしても、きっと何とかなる。……そう信じてみよう。
 深く考えるのはもうやめにして、風のゆくまま流れに身を任せるのも悪くないだろう。
 ――きっと、私達の関係は変わらない。ずっとずっと、このままだ。
 ……ソウくん。私も貴方と出会えて、本当に良かった。
 これが彼の言うように、運命の出会いだというのなら……どうか、その運命を悲しいものにはしないで欲しい。
 ずっと、彼と笑っていられる未来を……私に。
 私は心の中で、そう何度も何度も呟いた。

 彼とわかれた後、家に帰った私はペンを握り、小説の続きをひたすら書き続けた。
 今夜は一体、どんな夜が私達を待っているのだろう?
 やはり少しの不安が私の心を締め付けたが、わざと意識を逸らして、出来るだけ考えないようにと心がけた。
 今回は、初っ端から兎狩りが始まっている。取り敢えずこのイベント早く終わらせる為にも、白兎と黒兎を捜さなきゃ。
 ……あ。今日はちゃんとした恰好をしておかないとな。
 三日目の夜が始まろうとしていた。
 彼の深い闇が、より一層彼の心を蝕み始め、私達のこんな曖昧な関係に簡単に亀裂を生み出していくという事を……私はまだ、気付いていなかった。


***

 黒く深い穴に落っこちて始まる、三日目の夜。いつも通り、辺りには誰もいなく、静まり返っていた。
 森の中でゆっくりと目を覚ました私は、身体についていた土を払うと、恐る恐る片目を塞ぎ、確認する。
 ――やはり見える、黒兎と白兎の姿が。
 しかし、今日は少しばかり状況が悪い。二人がいる場所はバラバラで、どちらも森の中。昨夜のように目印になるものなど、何一つ見当たらない。……これじゃ、闇雲に捜すしかなさそうだ。
 取り敢えず、ソウくんと合流しないと。
「……今日の宴は、どこでやるんだろ?」
 私は振り返り、合図の煙が打ち上げられていないかを確認をする。――その時、一瞬心臓が止まりそうになった。
 鬼が、鬼が一人……森の奥の方から、じっとこっちを見ていたから。
 全身から、サッと血の気が引いていくのがわかる。喉を締めつけられるような恐怖が、私の元へとやってくる。戦慄が走った。
 その鬼は樹の葉を掻き分けて、一歩ずつこちらに向かって歩いてくる。そして、低いような高いような不気味な声で私に語りかけてきた。
「その目、黄色の目……お前兎の場所がわかるのだな……?」
 ――しまった。顔を隠すのを忘れていた。
 私はその場に落ちていたおかめの面を拾うと、ギュッと強く握りしめた。
 鬼面を被った男は、躊躇なく腰から脇差しを抜く。
 私は、恐ろしくて腰が抜けそうになりながらも、必死でその場から逃げ出した。……本当に恐ろしい時には、声すら出ない。それが立証された瞬間でもあった。
 目尻に涙が溜まり、恐怖のあまり呼吸も早くなっていく。足がもつれていう事を聞いてくれない。心臓がドッドッと煩いくらいに音を立てている。
 ――ソウくんどうしよう。私、このまま死んじゃうかもしれない。
 そんな時に運悪く、私は木の幹に躓き、派手に転んでしまった。
「いったぁ……!」
 肘や膝を擦りむき、じわっと血が滲む。半泣き状態になりながらも後方に顔を向けると、既にそこには、私を見下ろす恐ろしい鬼面の姿があった。
「あ、あ……っ……」
 尻餅をついたままの私は、手で土を掻きながら必死に後退るが……背中が樹にぶつかり、ついに逃げ場を無くした。
「俺はどうしても奴らを見つけ、願いを叶えてもらわないと駄目なんだ……だから、今すぐ兎共の場所に案内しろ。それが嫌ならその目を、その眼球を、俺に寄こせぇええええ!」
 鬼が私の目に向かって脇差しを振り上げた。
 私は『もう駄目だ』と覚悟を決め、両目を閉じた。すると突然、真っ暗な視界の中に彼の姿が現れた。
 視界の中の彼は、私の目の前にいる鬼面の背後に立ち、太くて頑丈そうな棒で後ろから叩きつけようと腕を思いっきり振り上げた。
 ――何だこれは? 何故、ソウくんが私の視界に……⁉
 ちょうどその時、現実にも鈍い音が鳴り響き、私は驚いて目を開ける。その視線の先には、『ハァハァ』と浅い呼吸を吐きながら棒を握りしめている彼と、その場に倒れ込む鬼面の姿があった。
「ソウくん!」
「危機一髪……ってところだな」
 彼はふぅっと息を吐きながら、額から流れる汗を乱暴に拭き取った。
「……あ、本当に目が黄色くなってる。いや、そんな事より……ミズホ、大丈夫か?」
 彼は棒を地面に放り投げ、私を引っ張り起こすと、頬に手を当て、安否を確認した。
「あ、ありがと、ソウくん……助けて、くれて…………ううっ!」
 私は彼の姿を見て安心したのか、目からじわじわと涙が溢れ出してきて、彼の暖かい手のひらを濡らすと声を上げて泣いた。
「大丈夫、ミズホ。もう大丈夫だから」
「……もうやだぁ! こんな所から帰りたいよ! 私達いつか殺されちゃうよぉ!」
 子供のように泣き喚く私に、彼は慌てながら……恐らく彼のポケットに入っていたのであろう飴玉を包み紙から取り出し、私の口内にポイッと放り込んだ。
「甘い……」
 彼のくれた苺味の飴玉は、私の心を落ち着かせるには充分な効果があった。私は舌の上でそれをコロコロと転がした。
「ミズホ、リラックスして。リラックス。あー、それにしても派手に転んだなぁ」
 彼は私の腕を手に取ると、肘の辺りをマジマジと見つめる。膝からも赤い血液が流れていていて、我ながら痛々しい状態だ。
「どこかで手当が出来るといいんだけど。……けどその前に、こいつだな」
 彼は倒れた鬼面の姿をじっと見つめ、ゆっくりと近付いた。
「ソウくん……? 駄目だよ、危ないよ!」
「……大丈夫。この面の下の顔を拝んでおきたいだけだから」
 彼は鬼面に手を触れ、ゆっくりと面を外した。
 ――普通。
 おっかない鬼面を外してみると、普通にどこにでもいそうな痩せっぽっちの若い男の人だった。
 彼はしっかりと閉じられている男の眼球をそっと開いてみる。気を失っているその目は白目に黒目。……私達と同じだ。
「人間……?」
「いや、そうではないと思うけど……もしかして鬼って奴らは意外と俺達に近い存在なのかもしれないね」
 彼は鬼の面をじっと見つめると、何やら考え込んでいるような複雑な面持ちで、そっと目を閉じた。
 一先ず、安全の為にも倒れている男を樹に縛り付けておきたい気分だったのだが、生憎ロープなど持っていない私達は男をその場に放置する他なかった。男の脇差しと鬼面は彼が持つ事となった。
 脇差しはいざという時に役に立つかもしれないし、鬼面をなくした男は、狩りの【参加者】から外されるかもしれないからだ。
 男の袴を奪って彼が変装するという案も思いついたのだが、いくら彼でも……あんな忍者のように素早く身軽な動きなど出来ないし、樹の上を移動なんて、そんな芸当は出来っこないので断念した。
 私は、持っていたおかめの面を顔に被せる。彼も、隣でひょっとこの面を顔に被せた。
 その瞬間、発砲音が響き渡り、色鮮やかな煙が達が線を描くように、空高く昇っていった。――今夜もまた、宴が始まったようだ。
「ミズホ。兎達はまだ森の中にいる?」
「ちょっと待って、今確認する……」
 私は右手、左手……と順に目の上にかざし、兎面の双子達の居場所を確認してみせる。
「……うん。まだ森の中にいるよ! 二人とも別々の場所にいるみたいだけど」
 その言葉を聞くや否や、彼は振り返り、まるで覚悟を決めたかのように低いトーンで私に話しかけた。
「……ミズホ。一度宴の場所に行ってみよう」
「え? でも……宴の場所には双子はいないよ?」
「それでいいんだ。ミズホ……俺、魔女が作ったあのドリンクを飲もうと思う」
 彼の言葉に、私は一瞬で【黒い】彼の姿を思い浮かべ、激しく動揺した。
「え? 何で……? ソウくん、もう絶対にあのドリンクは飲まないって言ってたよね? もしも前みたいにおかしくなっちゃったらどうするの⁉ 私、嫌だよ……そんなの」
「……大丈夫だよ。あの不思議な飲み物は、望みを持つ者の潜在意識を読み取り、それに取り込まれた者は無意識に今、自分が一番望んでいる物を手に取る。なら、今の俺が欲し、望むものは……たった一つしかないんだ」
 彼は丸い月に、赤や黄色、緑の煙が立ち昇る夜空を見上げながら、そっと呟いた。
「真実を知りたい。ミズホが兎達を見つけられる目を持つなら、俺は真実を見極める目が欲しい。別に目でなくても構わないけれど……俺は今、どうしても知りたいんだ。この宴に隠された秘密を」
「ソウくん……」
「多分その答え次第で、俺の運命は大きく変わってしまうだろう。けど、知らないままではいられないんだ。……それが、どれだけ俺の心を苦しめる事になったとしても」
 彼が今、どんな表情をしているかだなんて……ひょっとこの面に隠されていて、私には知る事など出来ない。けれど彼の意思が固いという事くらいは、私にだって容易に判断出来た。
 私は彼の両手をぎゅっと握り、出来るだけ明るい声で彼に伝える。
「行こう、ソウくん! きっと、何とかなるよ! 何かあったら、また私がソウくんの事を引っ叩いてやるんだから!」
「……ありがとう、ミズホ」
 そう言った彼の手は、少し震えているように思えた。

「ミズホ、足……痛くない?」
 煙の位置を頼りに歩いていると、突然彼がそう話しかけてきた。
 ――確かに痛い。しかし、そんな事は言ってられない。
「ううん、大丈夫だよ? 早く急ごう!」
 彼は無言で私を見つめると、いきなり背を向けてその場にしゃがみ込む。
「ん」
「……? 何よ?」
「背中。おぶるから乗って」
「はぁ⁉ 嫌だよ! 絶対に嫌だからね!」
「……ふーん。そ?」
 彼は立ち上がり、こちらに振り返ると、両手を大きく広げる。
「じゃあ、お姫様だっこにする? 別に俺はどっちでもいいけど。そのペースじゃ夜も明けちゃうし、兎達も鬼達に捕まってしまうよ?」
「……そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「ごめん。別に急かしてるとかそんなわけじゃないんだ。……さっきから辛そうだからさ。俺に気を使ってるなら、別に気にしなくても大丈夫! きつい時は甘えればいいんだよ」
 笑いを含んだ優しい声で、私にそう話す彼。……怪我のせいでスピードが落ちているのは間違いない。私は、どっちの方が迷惑かを天秤にかけてみる。
 彼は出来るだけ早く宴の場に着きたいと思うし、足手まといにだけはなりたくない。
 彼の言う通りにして甘えさせてもらった方がいいのかもしれない。……どっちにしたって迷惑をかける事には変わりないが。
 けど、おんぶかお姫様だっこって……
 その二択しかないなら、どちらかというと……
「……おんぶでお願いします」
「素直でよろしい」
 彼はわたしを『よっと』と背負うと、ゆっくりと歩き出した。
 ひょっとこがおかめを背負う姿。……想像しただけでカオスだ。
 笑いの場なら、そんな二人組がいればお腹を抱えて笑い転げるだろうけど、こんなに暗く不気味な森の中では、二人の姿は恐怖そのものだろう。……私なら泣き叫ぶ。
 ――まぁ、冗談はさておき。
 彼の背中は大きくて、暖かくて……何だかとても安心出来た。男の人におぶってもらうなんて、うんと幼い頃に父親にしてもらった以来だ。
 優しかった頃の父親の背中を思い出して、何だか少し切なくなった。
「ソウくん、ありがと……」
「いいよ、これくらい! けど、ミズホって意外と着痩せするタイプなんだね」
「……はい?」
「いや、結構重いからさ! 島から帰ったらダイエットだね!」
「……降ろせ。この無神経で女心もわかんない、デリカシーなしの馬っ鹿男!」

 彼の背で暴れまくって……数分後。
 やっとの事で私達は宴の場に着いた。私は彼の背からゆっくり降ろされると、いつものように美しい夜の空を見上げた。
 沢山のシャボン玉が浮遊している。大きなものから小さなものまで。流れるように、星の綺麗な紺碧の海原をふわりと舞う。
 大きな樹の枝に座った童達はとても楽しそうにこの宴の場を、まるで海の底に沈んでしまった水中世界かのように演出していた。
「何度見ても綺麗……」
「……うん、そうだね。水中月下だ」
 水中から見る月は、地上から見る月よりももっと美しく見えた。優雅に泳ぐ魚達もそんな事を思いながら毎日を過ごしているのだろうか?
 ――大きな月の下の、水の中。
 私は無意識に……夜科蛍の、【朧月夜に泳ぐ魚】を思い出していた。

「おっ! あんたら確か、奥岩島の爺さんと一緒にいた子らじゃのう。どうじゃ? 宴を楽しんでおるか? ――ん? ……娘さん、どうしたんじゃ? 兎狩りの最中に怪我でもしたんか?」
「あ、貴方は……」
 空を見上げていた私達に突然話しかけてきたのは、初日の夜に仙人と親しげに話をしていた、狸面を被った小さな小太りの老人だった。
「……ありゃりゃ、こりゃあ痛そうだ。ちょっと待ちんしゃいね」
 狸は小さなポシェットから葉っぱを一枚取り出すと、膝の傷にぴたっとそれをくっつけた。
 その葉はまるで、血液を吸いあげる蛭(ひる)のようにしっかりと傷口ひっつくと、地面に落ちる事はなく、皮膚と一体化していった。
「あった、あった。次はこれじゃわ」
 そう言うと、狸面の老人は液体の入った小さな小瓶の蓋を開ける。そしてそれを、葉っぱの上から傷口に向かって数滴程度振りかけた。
 じゅわあぁと、傷口周辺から白い蒸気が出る。滲みたり痛みなどは不思議と感じなかった。
 やがて白い気体は消え去り、狸は口を開いた。
「これで平気じゃ。もう傷は消えとるよ」
 狸が葉っぱをゆっくりと外すと、まるで最初から傷などなかったかのように、皮膚は元通り綺麗になっていた。
「え⁉ どうして⁉ ……治ってる。痛みもないよ!」
「嘘だろ……!」
 私達は面食らったようにポカンとした表情を浮かべていると、それを見た老人は『ひっひ』と愉快そうに笑った。
「ほれほれ、次は肘だ。肘を出しんしゃい」

 肘の傷口もすっかり消えたので、狸面の老人はポシェットの中に葉っぱと小瓶をしまった。
「あの、本当にありがとうございました!」
 私が老人にお礼の言葉を述べると、老人は手をヒラヒラと振り『気にせんでいい』と告げた。
「じゃあ儂は、酒を呑みに戻るけんのう。さっさと兎狩りに行ってきんしゃい。儂らは鬼面の輩よりもあんたらを支持しておるからの。酒のつまみに丁度良い催しじゃわ」
 魔女は『見世物』と言ったが、狸のお爺さんは『催し』と言った。きっと言葉を選んでくれたに違いない。
 仙人といい、狸さんといい……本当に良い方達ばかりだと思った。
 私は去り際に一つだけ、老人に問いかける。
「あの……鬼って、一体何者なんですか?」
「……あー、鬼かぁ? 憐れな者の成れの果てよ。人でもない、神でもない、何者でもない存在……それが鬼の姿じゃ。あんたらも気ぃつけな。鬼なんぞにならんようにな」
「私達が……鬼に……?」
 狸面の老人はそう言うと、群れの中に溶け込み、姿を消していった。
「人ではない……人を捨てた……? 神ではない……神に、近付こうとしたのか? そして、何者でもなくなった……」
「……ソウくん?」
 その時、突然背後から『ヒッヒッヒ』と不気味な笑い声が聞こえ、私達は急いで振り返える。
 フードを被った背の低い老婆が、後ろで手を組み、腰を曲げてしっかりとそこに立っていた。
「……あんたら、儂に御用なんだってねぇ」
「魔女の、お婆さん……!」
 私の言葉に彼は反応し、唐突に老婆に問いかけた。
「今日はあの不思議なドリンクは置いていないのか?」
「勿論置いてあるさ。けれど……あんたの求めている物はきっと、手にする事は出来ないだろうねぇ」
「……それは、何故?」
「あんたが今望んでいるのは、真実を知る為の物だね。……しかし、薬の力を侮ってはいけないよ? あんたが胸の奥に秘めている、どうしても知りたい真実というのは、この世界というより【鬼】についての真実の事じゃろうて? ――なら無理じゃの。薬は決して現れない」
「……そのわけを聞かせてくれないか?」
「いいじゃろ。理由は簡単。……お主、もう気付いておるじゃろうが? 答えに辿り着いておる。既に真実を知っている者に、真実を知る為の薬など出やせんわ」
 ――ソウくんが、真実に気付いている?
「……そうか。飲まなくても真実に辿り着けたのなら、それに越した事はない。助かったよ、ようやく確信が持てた」
 彼は私の方に振り返ると、まるで覚悟を決めたかのように自らの意思を伝えてきた。
「……ミズホ。俺、兎狩りの勝者になる。叶えてもらいたい願いがあるんだ。 ――力を貸してくれ」
 彼の声があまりにも真剣なので、思わず返答に戸惑っていると……突然、宴の場で大きな打撃音が響き渡った。私達はその方向に、即座に目を向ける。
 そこには、昨夜見たあの巨体な鬼が木の棒を振り回しながら、叫び、狂ったように暴れている姿があった。
 先程の打撃音は、木で作られたテーブルやその上に置いてあった食器等が粉砕、破壊された音のようだった。土の上に破片がばらつく。
 周りにいた者達は、さも迷惑そうにこそこそと話しながら、鬼から距離を取っていた。
「な、何⁉ 一体、何が起きてるの⁉」
 私は奇声を発しながら棒を振り回す鬼に恐怖を覚えていた。
「! ミズホ! 目だ! 確認してみて!」
「……え? あっ! ……うん!」
 私は彼に言われるがまま、左右……片目ずつ閉じて、兎の居場所を確認する。
「――いた」
 左目を閉じた際に映ったのは、甚平を纏った白兎の姿。
「やっぱり。……どっち?」
「……白兎の方」
 兎面の少年は、あの巨体の鬼面が振り回す棒をひょいと身軽に、そして器用に避けていた。
「あの巨体には、もしかして……白兎の姿が見えている?」
 ――その時。私は、今の今まですっかり忘れていた【ある事】を思い出した。
 どうして忘れてしまっていたのだろう? 私は、堰を切ったように老婆に問いかけた。
「お婆さん! あの鬼が昨夜飲んだ白い飲み物の中身は、一体何だったの⁉」
「……ようやく気付いたようだねぇ。昨夜、あやつが飲み干したのはあんたも一度は望んだもの。夢を叶える為、その手助けをするものさ」
 老婆はそう言うと、とても愉快そうに笑った。その声は、周りの植物を一瞬で枯らしてしまう効果がありそうな程、不気味で禍々しい。
「夢を叶える……手助け?」
「お婆さん……鬼面達の夢って、一体?」
 私がそう尋ねると、老婆は眼球が飛び出しそうなくらいに思いっきり目を見開いた。
「鬼の夢など一つしかあるまい! 兎を捕らえて、願いを叶えてもらう事じゃよ」
 老婆はさもそれが当たり前かのような物言いだ。私は、更に核心をつく。
「鬼達の願いって、なんなんですか?」
「支配からの解放。……それとも神の称号を得る事、かのぅ?」
「支配からの解放? 神の称号を得る事?」
「……なるほど、ね。理由も大体読めてきたよ」
 老婆が何を言っているのか、私にはまったくわからない。……彼には、わかっているというのだろうか? 老婆の魔女が言っている言葉の全てを――
「――行こう! ミズホ!」
 彼は私の腕を掴むが、私は咄嗟にその手を振り払う。振り払われた彼の手は、虚しく宙を舞った。
「……ミズホ?」
「ソウくん。どういう事なのかちゃんと説明してよ。私、もう……わけわかんないよ」
「ミズホ……どうしたんだよ? 今はそんな事より白兎を捕まえる事の方が先決だろ? 急がなきゃ、あいつらも無事で済むとは限らないんだぞ⁉」
「そうじゃそうじゃ。こんなところでモタモタしておると兎は奴らに奪われてしまうぞ?」
 横目で鬼面を見ながらそっと片目を瞑り、白兎の姿を確認する。白兎は、今も攻撃を避け続けているものの……先程までのキレは感じられない。
 このままだと白兎は捕まってしまうかもしれない。小さく華奢なその身体と、あの巨体を比べてみれば……体力の差は一目瞭然だ。
 けれど、やはり私は頭をぶんぶんと左右に振る。
「……駄目、やっぱり納得出来ない。私ばっかり何も知らないままでいられないし、いたくないの。話してくれるまで絶対にここから動かない」
「ミズホ……」
 彼は腰を屈めて私の髪をわしゃわしゃと掻き回すと、周りに見つからないように少しだけ仮面をずらす。仮面の隙間から覗いたその顔は、にっこりと優しい顔で笑っていた。
「ミズホ、安心して? この夜が終わればちゃんと話すから。……約束しただろ? 確信が持てたら説明するって。全部話す。俺が知っている事も、俺が今までミズホに隠していた事も全部……ミズホに話すよ」
「ソウくん……」
「……だからお願いだ。力を貸してくれないか? 俺一人じゃ駄目なんだ。ミズホの協力が必要なんだよ」
 彼は私の両腕をギュッと握る。今の彼の手は、微塵も震えてなんていない。
「本当に……本当に全部教えてくれる?」
「うん」
「約束……だよ?」
「俺を信じろ」
 私はふうと一息吐くと、彼の顔を見上げて深く頷いた。
「わかった。私……どうすればいい?」
 彼は『ありがとう』と言い、ひょっとこの面を被り直すと、私に作戦の内容を伝え始めた。
「俺があの鬼を引きつける。その間にミズホは白兎を連れて、出来るだけ遠くに逃げて。他の鬼面達には兎の姿は見えていないのだから、奴等からはミズホが一人で走っているように見える筈。出来るだけ白兎との会話は避けるんだよ? 話しているとバレてしまうからね。とにかく、あの鬼面の意識が俺に集中した時……ミズホは兎に接近してここから連れ去るんだ。――わかったね?」
「え……? でもそれって、ソウくんが囮になるって事だよね? いくら何でも無茶だよ! 危険だよ……他に、他に何か作戦はないの……?」
「ない。大丈夫、俺逃げるのは得意だから」
 彼はあまり自慢にならない名言を私に残すと雑踏の中をかき分け、一目散に鬼の元へと走り出した。
「ソウくん! ……お願い、無事でいて」
 ちょうどその頃、周りから大ブーイングが巻き起こり、場の雰囲気が途轍もなく悪くなり始めていた。
 楽しい宴を邪魔したせいか、面を被った者達から禍々しく、ドス黒いオーラを感じる。
 当の乱暴者はまったく気にする事もなく、巨大な木の棒を振り回し、暴れ続けた。
「ひっひっひ、この兎狩りはのう? 参加者以外は関与してはならん決まりなんじゃよ。今頃神々や崇高なる者達のはらわたは煮えくり返っている事だろうよ。さぁて、そろそろ面白いショーが始まるわ。ほら、お主もさっさと行くがいい」
 老婆がシッシと、まるで野良犬を追い払うように手首を上下に振り払う。
 私は老婆から離れると、バレないように彼とは逆方向から、ゆっくり……ゆっくりと……白兎に近付いていった。
「――おい、そこの木偶の坊!」
 彼の大きな声が宴中に響き渡り、先程までの野次やブーイングの声がピタリと止んだ。
「そんなにでかい図体をしていて、あんなに小さな兎一匹、捕まえられねぇのかよ? 小動物以上に小物だなぁ、おい?」
 彼は馬鹿にするように鬼を挑発し、豪快に笑う。鬼面の男は、視線を白兎から彼に向けた。
「んなもん、闇雲に振り回しても当たるわけがないだろうが? 少しは脳ミソ使って考えろよ、バーカ! あ。もしかして図体にばっか栄養がいき過ぎて、オツムの方には回んなかったのか? 悪い悪い! それなら馬鹿なのも頷ける」
 背後からピューイと指笛や拍手、そして彼に対する賛辞の声が上がる。鬼は黙って彼を見据えていたが、彼の方は御構い無しに、ただひたすら目の前の鬼を罵倒し続けた。
「ウゥ……」
 彼の度重なる挑発に、ついに我慢の限界がきたのか? 怒りが頂点まで達してしまったのか? 鬼は頑丈そうな棒を高く振り上げると、ようやくその重い口を開く。
「オマエ……コロス」
それは低く野太い声で、わかりやすいくらいに殺意を放っていた。
「……殺ってみろよ?」
 彼は鬼に背を向け、猛ダッシュで走り出す。
 振り落とされた木の棒は、激しく地面にのめり込んだ。その威力は計り知れない。
 私はとっくに白兎の近くまで来ていたが、彼の事が心配になり、その場に立ち尽くしていた。
 ――駄目だ。動け、足!
 彼は危険を顧みず、必死に時間を稼いでくれているというのに……こんな所で立ち止まっているわけにはいかない。
 辺りを確認すると、運が良い事に、今この宴の場には鬼はあの一体しかいないように思えた。
 私は、樹の上で彼と鬼が争っているのをじっと見つめる白兎に、そっと声をかけた。
「……シロくん」
 白兎は振り返り、樹の下にいる私の姿を見つけた瞬間、そのまま私を目がけて飛び降りてきた。
高い場所から突然の急降下。当然、私はその場で尻餅を付く。
「いったたたた……」
 白兎は愛しそうに、ギュウと私に抱きついた。
「お姉ちゃん〜! 僕、怖かったよぉ」
「……嘘吐け。楽しそうに避けてたよね」
 私の言葉に『えへへ、そうだっけ?』と呑気な返答を返す白兎。私は少々呆れながらも、その身体を引き剥がすと、急いで立ち上がった。
「とにかく話は後! 行こう、シロくん! 彼が時間を稼いでくれてる間に……早く!」
「……え~? 疲れたから抱っこ~」
「馬鹿! 抱っこしながら走ったら、鬼達にバレるでしょうが! ほら、さっさと行くよ!」
「……は~い」

 鬼面達が素早く上空を移動している。私の姿を確認してもすぐに顔を逸らし、私達と正反対の方向……宴の場に向かっているようだった。騒ぎを聞きつけたからか? もう私についてきても兎まで辿り着かないと認識したからか? 彼の事は心配だが、こちらにツキが回っている。
 このまま、どこかに隠れる事が出来れば……
「ねぇ、ミズホ……」
「シッ。今は話しかけちゃ駄目!」
(じゃあ心に語りかけるね? ……ミズホ。君はどうしてこのイベントに参加したの? あと、もう【目】は閉じなくても大丈夫だよ。参加者が標的に触れた時点で、その者は標的を認識する事が出来るんだ。……君は、鷹の目を持っているね。 ――それは何故?)
 白兎は以前のように私の脳に直接語りかけてきた。……本当だ。白兎の言う通り、片目を閉じたり隠したりしなくても、ちゃんと彼の姿が確認出来る。
 私は、頭の中で白兎と会話をした。
(どうして参加したかだなんて、貴方達の事が心配だったからに決まってるじゃない! 無事に見つけられて本当に良かった! あとこの目は、えっと……私の望みがね? 二人を見つけ出す事だったから、鷹の目のドリンクが現れたの。本来出る筈のない特別な薬だって魔女が言ってた。でもこれのお陰でシロくんを見つけ出す事が出来たし……あとはクロちゃんだけだね!)
(……何て愚かな事を。あれはね、本来人間が持っていいものではないんだ。それなのに……あの忌々しい魔女め。まさかミズホに目をつけるなんて。――絶対に許さない)
 鷹の目を持った事が愚か……? え、だってこれ……三日経てば元に戻るんだよね?
(……ミズホ。こっちに来て。海岸に繋がる洞穴があるんだ。一先ず、そこに行こう)

「こっちだよ、ミズホ」
 白兎は私の手を強く握り、洞穴の奥まで進むと大きな岩の上に私を座らせた。
 少年は兎面を外し、近くの岩の上に置く。
 黒兎の言っていた通り、白兎の目はあの禍々しい赤色ではなく、色素は薄めだが普通の綺麗な目の色をしていた。
「ミズホ……目を見せてみて」
 白兎は私の面に手を添えると、ゆっくりと顔からそれを外し、兎面の上に重ねた。
 目の前にいる少年の表情は、今まで見た事がないくらいに悲しそうで、いつもより数段大人のように見えた。
「可哀想なミズホ。憐れなミズホ。……醜い目。悪魔の目だ」
 少年は、私の目元に優しく触れる。
「あの……シロくん?」
「ねぇ、ミズホ。あの場所にいた神や仙人にはね、ちゃんと僕達の姿が見えているんだ」
「え……?」
「見えていないのは参加者だけ。僕達が妖力をかけてあるから。まぁ、力のある神々が狩りに参加したならばきっと、僕達の力なんて簡単に弾かれてしまうだろうけど……その心配はないんだよ。神達が狩りに参加をする事なんて絶対にないからね。神達はまだ未熟で非力な僕達に、願いを叶えてもらう必要なんてないからさ。……だから、こんな馬鹿馬鹿しいイベントに参加するのは低脳な鬼面、あるいは何の力も持たない人間くらいしかない。魔女は……それにつけ込んだんだ」
「つけ込んだって……さっきも言ったけど、これ三日経てば元に戻るんだよね? もしかして、二度と……治らないの?」
少年の言葉に私は動揺を隠す事すら出来ず、不安と戸惑いが一気に押し寄せてきた。
 白兎は透き通るような眼で私の顔をじっと見つめながら、まだ幼さの残るその声で私にそっと語りかけた。
「魔女のドリンクに良いものなんて一つもないんだよ、ミズホ。無条件で飲む者の望みを叶える薬だなんて、そんな都合の良いものなどある筈がない。特に、姿を変えてしまうものは駄目だ。ミズホの身体への負担とリスクが大きすぎる。魔女は、鷹の目を与えたんじゃない。 ――ミズホ。君から目を【奪った】んだよ」
「私の目を……奪った……?」
 白兎はこくりと頷くと、話を続けた。
「確かに、三日経てばその目は元の黒い目に戻るだろうね。……けれど、ミズホの中からその目が完全に消え去ったわけじゃない。身体の中に眠っているだけだよ。そう、それはまるで、君の中に強くて頑丈な根を張るように……僕が妖力を放つ時にだけ、この目が赤く染まるように……君は、少しずつ人知を超える者になろうとしている。それも、神や仙人のような高い地位の者ではなく、亡者に近い穢れた獣のような存在だ。きっと、最初は目、次は耳、と……魔女は甘い言葉で君を言い包めて、力を与えていき、少しずつ君は人間でなくなり……最後には魔女のペットにされてしまうだろうね」
「そんな、嘘よ……そんなのって……」
 私はあまりのショックに、流れる涙を止める術を一切持たないでいた。
 呪われた黄色い目から流れ落ちる涙は、一体何色だろうか? 正常な色をしているのであろうか?
 止めどなく溢れ出す噴水のような涙は、私の手を濡らし、地面にじわりとその跡を残した。
「泣かないで、ミズホ。大丈夫、僕が何とかしてあげるから」
「え……っ?」
 私は頭を上げ、涙に濡れた顔で白兎を見た。
「三日を過ぎると僕にはどうする事も出来ないけど、今なら何とか間に合うよ。 ――ただ、その目は失ってしまうけど……いいよね?」
 鷹の目を……失う?
「……? ミズホ? どうかした?」
 私は少し考えた後、ゆっくりと首を左右に振り、白兎の顔をしっかりと見据えた。
「――駄目だよ、シロくん。この目はまだ手放せない。だってまだ、クロちゃんを見つけていないから」
 白兎は私の言葉に驚き、目を大きく見開く。
「ミズホ、何言ってるのさ……⁉ 君には時間があまり残されていないんだよ? 僕はルール上、君に何も教える事は出来ないし、たとえ目を持っていたとしても黒兎を見つけ出すのは困難だよ? どれくらい時間がかかるかわからない」
「それでも……! それでもいいの。目を治してもらうのは、ちゃんとクロちゃんに触れてから。あんな鬼なんかに二人は渡さない。傷付けさせない」
「ミズホ……」
「勝手な事ばっかり言って、ごめんね」
 私は心配そうに見つめる白兎に、出来るだけとびっきりの笑顔を見せた。
「大丈夫、そんな顔しないで? ……よし! そうと決まればいつまでもこんな所でメソメソしてる場合じゃない! クロちゃんを早く捜さないと! ……ね?」
 白兎はポスッと、私の肩に頭を置く。小さなその身体は、少しだけ震えていた。
「ミズホ、君って本当に馬鹿だね。僕達を捕まえて願いを叶えてもらいたいわけではなく、本気で僕達を助けようとするなんて。正真正銘の大馬鹿ものだよ……お姉ちゃんは」
「……本当に私、馬鹿だよね! でもほっとけないんだもん。仕方ないよ」
「これだから……僕は君が欲しくてたまらない。本当に君の事が大好きなんだ。もしも君の目が一生そのままだったとしても、たとえ君が人ではなくなってしまったとしても……僕はミズホの事がとても、とても大好きだよ」
 白兎は、力なく呟いた。
「……もう! ませた事言わないの! 貴方は私から見れば、まだまだ幼い子供なんだから! 本当はうーんと年上だったとしてもね? でも、ありがとう。シロくん」
「――僕の身体がこんなに幼くなかったら、ミズホは僕の事を愛してくれたかな」
 彼は小さくそう呟くと、私の肩に深く顔を沈めた。

「…………ん?」
 突然ピョンと兎の耳が跳ねるように、少年は顔を上げた。その表情は見る見る内に険しく変わる。
「シロくん? どうしたの?」
「……黒兎が」
「クロちゃん? 彼女が、どうかしたの?」
 その時、急に嫌な雑音が周囲に響き渡った。
「な、なに??」
「……梟、放送の合図だよ。聞こう」
 スピーカーはこの洞穴の中にも設置されているのだろうか? 次第にノイズ音が静まり始めると、その内容ははっきりと私の耳まで届いた。
『あーあー、兎狩りに参加の皆様、そしてそうではない皆様も。ワタクシ、フクロウ、梟で御座います。もうすぐ二日目も終わりを迎えようとしておりますが……現時点で、兎達はそれぞれ鬼面の衆と人間の娘の手に落ちました。……ゴホン』
「何ですって! クロちゃんが⁉」
 私は急いで右目を手で覆い隠し、確認する。
 海辺に集まる大勢の鬼面達。そして、巨体の鬼に首根っこを掴まれ、ぶら下がっている黒兎の姿が確認できた。
 黒兎は暴れ抵抗の意思を見せるが、巨体の鬼はビクともしない。
 そして……その先頭に立つのは、あの鬼面の女。
 その隣には、縛られ、砂浜に転がされている彼の姿があった。
「ソウくん!」
『しかし、双子の兎は二兎で一兎に御座います故、別々では勝者とされませぬ。ご注意を。……いよいよ兎狩り終了まであと一日に御座いまする。皆様、悔いのないようお過ごし下さい。それでは、皆様失礼致します』
 プツリと放送が切れる音と同時に、私は湧き上がる震えと動悸に眩暈を覚えた。
「シロくん、どうしよう! クロちゃんも、ソウくんも……鬼面に捕まっちゃった」
「ミズホ、落ち着いて。……ちょっと静かに」
 切れたばかりの放送から、また新たなノイズが生まれ、この地に響き渡る。
「……今度は鬼面達から、僕達にコンタクトを取ってきたようだ」
「鬼達から⁉」
「まぁ、内容は大体わかるけどね。……あの鬼達の言いだしそうな事だ」
「聞こえるか、人間の娘よ! この男の生命が惜しくば白兎を連れ、今すぐ海岸まで来い! 我々は兎神に手を出す事は出来ないが、この男の命ならば奪う事など容易い事だ。 ――いいか? 我々は待つのが苦手だ。出来るだけ早く来ないと、後々後悔する事になるぞ?」
 その低い男の声を最後に、通信は途絶えた。
「ソウくん! どうしよう……ソウくんが!」
「……ミズホ、しっかり」
 私は首を、凄い勢いで左右に振った。
「しっかりだなんて無理だよ! だってソウくんが殺されちゃうかもしれないんだよ⁉」
 止まったはずの涙が、またじんわりと目尻まで広がる。その姿を見た小さな少年は、そっと私に声をかけた。
「嫌? ……あいつが死ぬの、そんなに嫌?」
「嫌! 絶対に嫌だ! そんなの、当たり前でしょ⁉」
「――なら、ミズホ。僕を連れて海岸に行くんだ。今はもう、それしか方法はないよ」
「……でも! それじゃ、シロくんが身代わりになってしまうよ! ……そ、そうだ魔女! 魔女に何か薬を、薬を出してもらえないかな⁉」
 慌てふためく私の両腕をしっかりと掴み、白兎は真剣な眼差しを向けた。
「駄目だ、ミズホ! これ以上、君は魔女の薬に頼ってはいけない。……さっき言ったばかりでしょ? 君は既に魔女の薬に依存し始めている。それを早く断ち切らなきゃ。……取り敢えず、落ち着いて? ミズホは、あいつを助けたいんでしょう?」
「うん……」
「なら、覚悟を決めるしかないよ」
 白兎は、ゆっくりと私の腕を下ろした。
「でも、じゃあシロくんとクロちゃんは……」
「僕達は平気だよ。兎狩りは【生け捕り】のルールだから殺される事はない。……まぁ、あんな輩に殺される筈もないけど。でもこのままだと、あいつは確実に殺されるだろうね。鬼面の衆は感情というものを一切持たない。ただ本能のまま、善悪の判断もつかずに行動を取る愚かな種族さ。早く行かないと奴らは本当にあいつを簡単に殺すだろうし、そうなれば次に狙われるのは……ミズホ、君なんだよ? 今は鬼面の案に乗る事が、一番賢い選択だと僕は思う」
 白兎の言う通りだ。彼を助けたいのなら、白兎を連れて取引の場に行くしか方法はない。でも…….
「……けどね、ミズホ? 僕は鬼面なんかの願いなど叶えたくはない。それに、【あいつ】の願いを叶えたいわけでもない。叶えるなら君の願いがいい。だから三日目。このイベントの勝者は必ず君でなければならない」
 白兎は立ち上がり、岩の上に置いてある兎面を被ると、おかめの面を私の膝の上に置いた。
「約束だよ? 僕達は獲物であり、ルールに支配されているから協力する事は出来ないけれど……必ず、僕と黒兎を捕まえて。僕達がミズホの願いを叶えてあげるから」
「でも、私には叶えて欲しい願いだなんて……私は、シロくんとクロちゃんが無事だったら、ソウくんが無事ならそれで…….」
 白兎はクスクスと、声を出して笑う。
「……まったく。魔女の薬には異常なまでに依存してしまっている君なのに、欲があるんだかないんだか。……とにかく、今僕が奴らの手に渡ったとしても明日の終了時までには、まだ充分時間がある。――ミズホ。きっと僕と黒兎の事を迎えに来てね」
 白兎はそう言うと、今度は優しく微笑んだ。
「……シロくん。……わかった。行こう、海岸に! でもきっと、絶対に助けに行くから! 約束! 信じて待っていて!」
「うん、待ってる。さぁ、早く行かないと! 鬼達もそんなに待ってはくれないだろうし、黒兎の怒りも限界だ。あいつは……ま、どうでもいいけど」
「もう、そんな事言わないでよ……シロくん」
「だってあいつ、僕と黒兎に酷い事をしたんだよ? 絶対に許してやるもんか」
 そっぽ向く白兎に、私は優しく語りかけた。
「本当は優しい人なの。少し不器用なだけで、とてもいい人なの。きっと彼も反省してる。だからシロくん。彼の事、許してあげてくれないかな? ……お願い」
「……わかったよ。ミズホがそう言うなら。まだ許せるかどうかはわからないけど、とりあえずあいつの事……助ける」
「……ありがとう!」
 私はその小さな身体を優しく抱きしめると、スッと立ち上がりおかめの面を被る。
「行こう、シロくん!」
 私と白兎は海岸へと続く洞穴の出口に向かって、ゆっくりと歩き始めた。

 今【この場所】にいる、全ての者の心情を代弁するかの如く、強風は吹き荒れ、波を無情に揺らす。
 月光の中に浮かぶ影は……不吉の予兆。
 私は震える身体で拳を強く握り、鬼達に恐怖を悟られぬよう出来るだけ低く、静かに話す。
「……ソウくんを返して」
「遅かったな、娘。白兎はちゃんと連れてきたのだろうな?」
「ここに、ちゃんといるわ」
 鬼は巨体の鬼に確認を取る。巨体は大きく縦に頷いた。
「……よし。ならば娘、兎をこちらへ寄こせ」
「駄目! ……ソウくんを先に解放して」
「いいや、兎が先だ。男を殺すぞ……?」
 彼の近くにいるナヨナヨした貧弱そうな鬼面と腰の曲がった老人の鬼面は、脇差しを素早く抜くと、彼の頭上高く振り上げる。
「やめて!」
「では、兎を! ……早く」
「……ミズホ、僕行くよ」
 白兎は私から離れ、ゆっくりと歩いていく。
そして声を荒げる鬼の前に立つと、ちょんっと袖に触れた。
「……うわぁああ! ひぃい!」
 鬼は突然目の前に現れた白兎を見て、情けない声を上げ、大きく仰け反る。白兎がパチリと指を鳴らすと、突然何もなかった空間にパッと白兎が現れたかのように、全ての者達が白兎を認識出来るようになった。
 そして巨体に捕まり、暴れまくっている黒兎の姿も……
「来たよ。取り敢えず今だけは触れていなくとも、全員が僕達の姿を見えるようにした。さぁ、早くあいつを解放しなよ」
 白兎の言葉に、鬼女以外の鬼が大きく高らかに笑う。そして先程までの失態を掻き消すように、鬼の男が強く白兎の腕を掴んだ。
「……それは出来ない相談だな。三日目の夜に邪魔をされては困る。ここは最後まで何が起こるかわからない夜宴の島。万が一、と言う事もあるのでな。残念ながら、この男にはここで死んでもらうとしよう。……そこの女もこいつが死ねば意気消沈し、何も出来ないだろう」
 鬼はさっと右手を上げる。
「や、やめて……! 嘘つき! 卑怯者!」
 私は声を振り絞り叫び続けるが、鬼は笑いを含んだ声で彼の近くにいる鬼達に命ずる。
「――殺れ」
 鬼がその手を下ろそうとした瞬間、白兎を掴んだ方の手が突然紫色の炎に包まれ、鬼はつん裂くような声で叫び、呻き、のたうち回った。
「汚い手で僕に触るな。この外道が……」
「……白兎! やめろ! ルールを守れ!」
 黒兎が叫ぶ。白兎はそれを一切無視し、鬼面達に告げた。
「……鬼め。それ以上ふざけた真似をしてみろ、たとえルール違反だろうが、この身が朽ち果て、消えてしまおうが……必ずお前ら全員皆殺しにしてやる」
 ピリピリとした空気の中、鬼達がたじろぐ。白兎の身体が紅く光り髪が逆立つ。ハァハァと荒く息を吐く姿は、もはや兎などではない。怒り狂った猛獣そのものだ。
「この僕がお前達の手に落ちてやるというのに、何が不服だ? ――さぁ、言ってみろ? それとも、屍体に直接聞いてみようか?」
「シロ……くん……」
「馬鹿野郎が! 本当に処分されちまうぞ⁉ 落ち着け! ――おい、女! てめぇ、泣くな!」
「え……?」
 黒兎が突然、私に向かって叫んだ。
「お前が泣くからコイツが惑わされんだよ! いいか⁉ わかったら、いつまでもメソメソしてんじゃねぇ! 馬鹿みてぇに泣いてもなぁ⁉ 何も変わりゃしねぇんだよ! あたしらばっか見てんじゃねぇ! そのイカれた目で……やらなきゃいけねぇ事をちゃんと見極めろ!」
「この目で……? ……あっ!」
 私は黒兎の言葉に気付かされ、急いで強く両目を瞑る。彼が、五十嵐想の姿が、瞼の裏に鮮明に映し出された。
 彼は、一体どこに隠していたのだろうか? あの、最初に出会った鬼から奪った脇差しを手に、縄に切り目を入れていく。両隣にいる鬼達は、白兎の気迫に目を奪われていて、何も気付いていない。
「……ソウくん」
 ――そうだ。泣いていても、誰も助ける事なんて出来ない。誰も守れない。……今、私が出来る最大限の事をしなくては。

「う、あぁああーーーーっ!」
 私は声の限り大声で叫ぶ。鬼達の意識が私に向いた。
 今の私に出来る事、それは……白兎の心を落ち着かせ、元に戻す事。そして、時間を稼ぐ事だ。
「こらぁあーー! 白兎! 何怒ってんのよ! 私は大丈夫だから怒りを鎮めなさい!」
 白兎は振り返り、じっと私を見つめる。
「ルール違反⁉ 消え去る⁉ 処分⁉ そんな事、私が絶対に許さないんだからね! 私が泣くのが嫌なら、まず貴方が自分自身を大切にして!」
「ミズホ……」
「いい? 貴方がいなくなったら、私絶対に泣くから! ずっとずっと、泣くんだから! そしたら責任取れんのかーーっ! この馬鹿白兎っ! さっさと元に戻れ!」

「ぷっ……ははは! あはははははは!」
 白兎は、突然大声で笑い出した。お腹を抱えてケラケラと笑い転げる少年の姿に、周りの者は言葉を失い、ごくりと唾を飲む。
「……わかったよ、ミズホ。わかったからそんなに怒らないで? 僕はね君の涙を見ると、とても心が苦しくて堪らないんだ。それなのに君が僕の為に泣くというのなら、確かに責任なんて取れないね。だから、もうやめにするよ。……君の為に」
 白兎の身体から、紅い光が瞬く間に消え去る。それを確認した私は、まるで緊張の糸が切れたかのように、その場にへたり込んだ。
「……ねぇ、鬼面の衆。あ、特に君! 君だよ! さっきはごめんね? ちょっとやり過ぎちゃったよね?」
「ひ、ひぃっ!」
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ? もうしないし! 見ての通り、僕は可愛い兎さんだよ? 愛着が湧いたとしても、恐怖なんて無縁の話だと思わない? ね、手を見せて? 治してあげるよ!」
 大火傷を負った鬼の手に、白兎が手のひらをかざすと、みるみる内に再生を始めた。神秘的で美しい白い光が、鬼の傷を優しく包み込む。
「……ほ~ら、治った! 前の手よりもずっと綺麗にしてあげたよ⁉」
 焼け焦げた手が完全に元通りになった鬼は、怯えたように白兎の傍から離れると、急いで鬼女の後ろに隠れた。……鬼女は何も話そうとはせず、じっとこちらを見据えている。
「大体君達みたいな小物相手に、あーんなに怒りを露わにしちゃうなんて、年長者として有るまじき行為ってやつだよね? ごめんね? さぁ、皆! 仲直りをしよう?」
「白兎の奴……減らず口の絶えねぇ野郎だぜ。皮肉が過ぎんだろ、まったく。……おい、デカイの。いい加減離せよ。別に逃げやしねぇよ」
 巨体の鬼は、先程の白兎の言動から黒兎に対しても恐れを抱き始めたのか、すぐさま彼女を地面に降ろした。
 黒兎は、素早く白兎の隣に移動する。
「やぁ、黒兎。元気だった?」
「……随分と嬉しそうだなぁ、お前」
「だってさ! だってさ! ふふふ」
「いや、言わなくていい。……わかってっから。しっかしお前本当に気色悪りぃ奴だよな。つーか、馬っ鹿じゃねぇの?」
 双子のやりとりを呆気に取られたように見つめる鬼達。その隙に、私は鬼達の背後にいる彼に意識を集中させた。
 縄は……ーー切れてる!
 私はしっかりと目を開き、鬼面達の背後でゆっくりと立ち上がる彼をじっと見つめた。
 彼は顔を上げると、私を見て小さく頷く。――やるしかない。
 私は少し震える脚を懸命に立たせながら、【目標】に向かって、全速力で走った。
 彼は白兎の腕を、私は黒兎の腕をしっかりと掴むと、無我夢中で海岸を駆け抜ける。
「! ……おい! 逃がすな! 捕まえろ!」
 鬼達はようやく現状を理解したのか、声を張り上げ、戦闘態勢に入った。
「ミズホ! もう夜が明ける! それまで走れ!」
「わかった!」
 素早い動きをする鬼達から、勿論逃げられるとは思っていない。けれど夜が明け、この二日目が終わってしまえば……もしかして逃げ切れるかもしれない。
 三日目の夜。目覚めた場所には鬼面達はいないかもしれないから。
 しかし、そんな考えは……一瞬にして虚しく消え果てた。

 ――鬼女は舞う。天女のように。

 満月を背景に高く飛び上がり、二刀の脇差しをクロスしながら私と彼の間の空間を斬りつけ、そのまま薙ぎ払う。
 海岸の砂は、まるで細かい粉末のように勢いよく飛び散り、私と彼は柄に強く弾き飛ばされた。
「いった……」
「くそっ……」
 鬼女は白兎と黒兎を起こして、そっとその肩に手を置いた。
「……駄目よ。この子達は渡さない。私は必ずこの子達に願いを叶えてもらわないといけないの。だから……邪魔はしないで頂戴」
 白兎はそんな鬼女を見つめ、悲しそうに問う。
「……どうして? 君はあんなに優しく美しかったのに、何で鬼なんかに」
 その言葉に、鬼女ではなく黒兎が返した。
「お前の大好きなそいつもいずれはこうなる。……結局、人間なんかを信じる方が馬鹿だって話なんだよ」
「……? 貴方達は一体何の話をしているの? 私にはよくわからない。わかる事はたった一つだけ。私は神に近い存在になりたい。鬼なんてもう嫌。この夜宴の島に相応しい、選ばれた存在になるの。その為にはどんなに屈辱を浴びようが蔑まれようが、私は鬼として兎を狩る。貴方達は私のもの――」
 彼はフラつきながらもゆっくりと立ち上がると、鬼女に向かって話しかけた。
「もうやめろ。……サヤ」
 彼の言葉に私は、心臓が止まりそうなくらいの動揺を見せる。
「……誰? 何故、私の名を知っているの?」
「サヤ、俺だよ。……【ソウ】だ」
 彼はひょっとこの面を外し、彼女を見つめた。鬼女は彼に近付き、その端正な顔にそっと触れた。
「誰だか思い出せないけれど、何故かとても懐かしい名前……私は多分、貴方を知っている。頭も心も身体も、貴方を見て、必死に信号を送り続けているもの。貴方はきっと、私にとってなくてはならない人。……私の生命の半分。ねぇ、ソウ……貴方は誰? 貴方は一体、私の何なの……?」
 彼は今にも泣き出しそうな顔をしながら、鬼女に向かって優しく微笑んだ。
「俺は君の……愛する人、だよ。そして、サヤ……君は五年前に死んでいる。それなのに、どうして今もここにいるんだ?」
「貴方は……私の愛する人? 私が、既に死んでいる? ……ああ、わからない! 何も思い出せない!」
 鬼女は頭を抱え、酷く困惑した。
「サヤ!」
 彼は、そんな鬼女を強く抱きしめた。
「……けれど、これだけはわかる。私はきっと貴方を愛してる。ソウ、私……貴方が好きよ」
 鬼女は自ら鬼面を外し、砂の上に投げると、彼の首に腕を回し、彼の唇にキスをした。
 心臓が壊れてしまいそうなくらいズキズキと痛むのに、私は二人から目を離す事が出来なかった。
 白兎の声が脳に直接響いてくるけれど、今は何も話す事が出来ない。心がついていかない。
「ソウ……くん」
 ――ああ、どうしてだ。どうして今になって、はっきりと思い知らされてしまうのだろう。
 私、彼が……五十嵐想が、好きだ。
 大好きだ。
 ――胸が苦しい。

 サヤ……さん。
 やはり、私はどこかでこの名前を聞いた事がある。サヤなんて名前、きっとどこにでもあるのだろうけど……何故か確信めいたものを感じるのだ。
 きっと、それは組み合わせ……
【サヤと……ソウ】
 この二つが組み合ったもの……私はどこでこの名前を聞いた……? ――いいや、違う。
 どこかでこの名前を……【見た】?
 脳がフル回転をし始める。

 サヤとソウ……
 サヤと……ソウ……

 ――サヤカとソウジロウ。

「……鏡花……水月……?」
 私の中でバラバラだったパズルのピースが、凄まじい勢いではめ込まれていく。
 彼は、夜科蛍の事を女性だと断言していた。
 そして小説の、鏡花水月のキャラクターの名前が【サヤカ】と【ソウジロウ】。
 それじゃあ、夜科蛍の正体は……もしかしてサヤさん?
 ――違う。それだとおかしい。さっき彼は、サヤさんは五年前に【死んだ】と言っていた。五年前といえば、鏡花水月ならともかく……その後の作品を書ける筈がない。
 ……生前に書き溜めておいた物を、誰かが形にしたという事?
 確かに短期間で小説が発売され過ぎている気がする。二冊同時発売とかもあったし。
 けど、それだと……彼が前に言った言葉に、僅かにだが引っ掛かりを感じてしまう。
 本当にサヤさんが、全ての作品を書いたのだろうか? 鏡花水月ならともかく……
 …………まさか。

『……夜科蛍の作品は全部読んだけど、実は一つの作品以外はあまり好きじゃないんです』

『それは……鏡花水月のような美しさや儚さが、今の夜科蛍にはないから。……今の夜科はただ、美しく書こう、儚げに書こうとしているだけのような気がしてならない。……まるで別人が書いているとしか思えないんですよね』

『……そうですよね。文章に表現の仕方、癖などを見ても、鏡花水月も夜光曲も、朧月夜に泳ぐ魚も……まったく瓜二つだ。……けど、どうしても認められない。鏡花水月の夜科蛍は、……もう存在しない』

『大ファンが聞いて呆れるよ。何も知らないくせに』

『鏡花水月の夜科蛍は、女性だよ』

 鏡花水月【の】夜科蛍は女……
 まさか……
 夜科蛍は……二人、いた……?

 最後のパズルのピースが、カチッとはまる音が聞こえた。



「今まで隠していて……ごめん」
「……ちゃんと全てを話して、ソウくん。貴方とサヤさんは……夜科蛍だったんだね」
 あれからすぐに夜は明けて、夜宴の島での三度目の夜……そして、兎狩り二日目が終了した。
 白兎と黒兎は鬼達に連れ去られ、強く抱きしめあっていた彼とサヤさんも離れ離れになり、私達は元の世界に戻ってきた。
 起きてすぐ、いつもの公園に集まったものの……私は未だに彼の目を見れないままでいた。
「……あぁ。鏡花水月はサヤの作品で、それ以降の作品は全部、俺が書いたものだ」
 ずっと憧れていた夜科蛍の正体が、サヤさんと彼だとわかっても……私は何故か、少しも嬉しくはなかった。
 それどころか、目の前にいる夜科蛍が【彼】じゃなければ良かったのに……なんて思いながら、私はそっと目を伏せる。
「ソウくんとサヤさんって、恋人同士だったんだね」
「……ううん、違うよ」
「……え?」
 私は思わず顔を上げて彼を見る。ちょうど私の方を見た彼と目が合うと、彼は悲しそうにニコリと笑った。
「サヤは……俺の実の姉さんだよ」
「……お姉さん?」
「うん。サヤの名前は【五十嵐紗耶】。正真正銘、俺の……三つ上の姉だよ」
 ――あの鬼女の正体が、彼のお姉さん? でも、それじゃあ何故? サヤさんは、とても彼を愛しているように見えた。それに彼も、『俺は、君の愛する人だ』と……確かにそう言った。姉弟の愛情表現にしては、些か過剰に思える。
「……サヤは、昔から少し身体が弱くてね。よく入退院を繰り返していたから、ろくに学校に通う事も出来なくて……入院中は病棟にある学校に通っていて、家では俺が勉強を見たりしていたんだ」
 彼は気の抜けたような表情でボンヤリと空を見上げながら、そっと呟いた。
「サヤは……俺をとても愛していた。家に閉じ篭ってばかりのサヤには、信用し、心を許せる相手なんて、俺くらいしかいなかったから」
「ソウくん……」
「勿論、俺だってサヤの事は好きだ。姉弟なんだから。……けど、彼女は俺を男として見ていた。少し留守にしたり連絡を返さないだけで、彼女は泣いて『どうして私だけを見てくれないの? どうして私を愛してはくれないの?』と泣き喚く事も度々あった。俺は、俺に依存し過ぎて変わっていくサヤが……少し怖かった。そんなある日……サヤは突然、おかしな事を言い始めたんだ。自分は昨夜、夜宴の島という不思議な世界に招かれたのだと。俺は最初、意味のわからない事を懸命に語り続けるサヤに対し、きっと夢でも見たんだろうなんて思っていたけれど……彼女のその話は朝が来る度、毎日続いた」
「夜宴の……島……」
「その【夜宴の島】について話すサヤが、何だかとても楽しそうに見えて……それなら別に、このままでいいんじゃないか? なんて思いながら、俺は毎日その夜宴の島の話に付き合った。まぁ詳しい内容は、敢えて教えてくれなかったけどね。……サヤが夜宴の島に行ったのは、今から七年前の話だ」
「七年……確か、仙人のお爺さんが『宴が開かれるのは、七年振りだ』って言っていたっけ。じゃあサヤさんは、その時に……」
 彼は弱々しく、小さく頷くと、更に話を続けた。
「彼女の顔には笑顔が戻った。毎日泣いてばかりだったサヤの心に、まるで一筋の光が射し込んだかのようにも見えた。……それから彼女は以前よりも部屋に閉じ籠るようになって、朝とご飯の時以外、ほとんど顔を見せなくなった。俺は……確かに心配はしたけれど、毎朝サヤの顔を見るといつも元気そうだったし、干渉される事も減ったから……少し安心したりもしていたんだ。そしてサヤは、わずか数日で書き上げた数冊ものノートを俺に渡してきた。中身は小説のようだった。彼女は俺にこの文章をまとめ、手直しをしてくれと頼んできたんだ」
「小説………」
「それを最後まで読んだ俺は、深く感動した。確かに文章は拙いものの彼女の美しい世界観に感動すら覚え、心酔した。サヤは、俺達二人をキャラクターに置き換えて小説を書き、そして完結させた。……それが鏡花水月だった」
 彼はベンチから立ち上がり一歩前に踏み出すと、広くて青い空を仰いだ。
「俺は、サヤが作り上げたその物語を、何とか俺の手で最高傑作に仕上げてやりたい。そして、出来る事なら陽の当たる場所に出してやりたい。……そう思った。身内の欲目なんかじゃなく、鏡花水月は……本当に素晴らしい小説だと思ったから。とにかく俺はその一心で、キーボードを叩き続けたよ」
「……そうして、鏡花水月は生まれたんだね。鏡花水月は、二人の想いが重なりあって出来た……作品」
 彼とサヤさんは姉弟だけど、それ以上に深い繋がりを持っている。私なんかが入り込む余地などないくらいに、強くて硬い絆が二人にはある。……それが凄く伝わってきた。
「彼女は、よく言ってたよ。夜宴の島で過ごす夜が終わったら『私、今度は夜宴の島の物語を書きたい! ……だからソウ、それまで楽しみに待っていてね?』と」
 夜宴の島の小説を……? 私と一緒だ。
 私は急に、今まで書いた小説の全てを破り捨てたくなった。私は、彼女には……【夜科蛍】には敵わない。――敵いっこないの。
「……けれど、幸せな時は長くは続かなかった。それから更に数日が経つと、サヤの様子はあからさまにおかしくなっていったんだ」

『……夜宴の島の事を思い出せない。行った事はちゃんと覚えてるし、風景も何もかも覚えているのに……どうして⁉』

「そう言って彼女は取り乱し、錯乱する事も増え、発作も……頻繁に繰り返すようになった。次第にベッドから起き上がる事も出来ないくらい、サヤの身体は弱っていったよ」
「それって、店長夫妻が言ってた通りだ……サヤさんは夜宴の島での十七夜を終え、無事に帰還してから、記憶を失ったのね?」
「きっと、そうだと思う。彼女は何ヶ月経っても、一年、二年が過ぎても……夜宴の島の事ばかりを考えては涙を流し続けた。俺はそんなサヤに、どうしてやる事も出来なかった。その間に、公募に出していた鏡花水月は賞を取り、書籍化する事が決まった。俺は、本当に嬉しかった。サヤの世界が世間に認められたんだ、って。……けれどサヤは喜ぶ事なく、うわ言のようにいつも『夜宴の島に戻りたい。ソウと結ばれる事も出来ないこんな世界なんて捨てて、夜宴の島の住人になれたら』……そう言っていたよ」
「それで……サヤさんはどうしたの……?」
「……死んだよ。病死じゃない。自殺だ。サヤにとって夜宴の島は生命そのもの。きっと、生きていくのに必要な全てだったのかもしれないね。……俺よりも、大切だったんだと思う」
 ――自殺、死。
 重みのあるその言葉に、私はどう答えていいのかわからず戸惑っていると……頭上から優しい声が降り注いだ。
「大丈夫。もう五年も前の話だ。ミズホがそんなに気にする必要なんてないんだよ」
 そう言うと彼は、私の髪を優しく撫でた。
「……ソウくん。サヤさんは夜宴に島について、何かに書きまとめてはいなかったの?」
「……書いていたらしいよ。けどそれは、夜宴の島で起きた事の記憶を失ったと同時に、全て消えてしまっていたらしい」
「……じゃあ、あの対談は?」
「あれは、俺。本当は二人でする筈だったんだけど、サヤの言葉を俺が預かった」
「……鏡花水月を書こうと思ったのは、夜宴の島と呼ばれる不思議な島へ招かれた事がきっかけ……だったよね」
「そう。だから俺は、サヤの言う夜宴の島に行って、真相を確かめたいって……ずっとそう思って生きてきた。そんな時、都築教授の部屋から藤尾夫妻の記事を見つけたんだ。……運命だと思った。サヤが招かれた夜宴の島に、俺も訪れる運命だったのだと。あの鬼女が本当にサヤだというのなら、俺はサヤの事を何があっても守らないといけない。……彼女を二度も、死なせるわけにはいかないから」

 彼から全ての話を聞き終えた後、私達は一先ず解散する事になった。……互いに考えなくてはならない事が沢山ある。しなくてはいけない事だって沢山あるんだ。学業だって仕事だって、これ以上疎かには出来ない。そんな事は、重々承知しているのだ。
 でも……『一緒に帰ろう』と彼から差し伸べられた手を、私はどうしても掴む事が出来なかった。
 適当な理由を口にして、何とか彼に先に帰ってもらうと……一人残った私は、暫く公園のベンチに座っていた。
 私の、自覚したばかりのこの気持ちは……結局彼に伝えられないまま。
 彼との距離が狭まったかもなんて、一人で勝手に思っていたけれど……勘違いだったみたい。それどころか突然押し寄せた大波が、私達の距離を更に大きく広げ……彼が、もう二度と手の届かない……遥か遠くまで行ってしまったかのように思えた。
 『好きだ』と伝えた瞬間に、彼が私の目の前からいなくなってしまいそうで……結局私は、彼に何も伝える事が出来なかった。
 彼に、この溢れんばかりの想いを打ち明けてしまったら、一気に全てが壊れてしまいそうで……『行かないで』なんて、言える筈がなかった。

「……好き。ソウくん、大好きだよ」

 こんな想いをするくらいなら、気付かなければ良かった。
 こんな気持ちになるくらいなら、知りたいなんて思わなければ良かった。
 貴方を好きになればなるほど、醜い自分の心が剥き出しになって、私はどんどん自分の事を嫌いになっていく。
 ……彼は何も悪くない。そんな事は私が一番よくわかっている。私が勝手に彼を好きになっただけ。この痛みはその代償。だから、彼を責めるのは筋違いというものだ。
 ああ、いっその事……彼の事を嫌いになれたなら。
 今すぐ記憶を失える、魔法の薬があるというのなら、私は迷わず一滴残さず飲み干すだろう。
 彼の事を好きな気持ちが膨らんで、私が私じゃなくなりそうで……けど、こんな自分は見せたくなくて、こんな自分を知られたくなくて。……惨めな私。いっそ消えてしまいたい。彼に軽蔑される、その前に。
 雲行きが徐々に怪しくなり始める。それでも私は、ベンチから立ち上がる事が出来なかった。
 ――もう小説は、書けない。
 彼と私の物語なんて、書ける筈がない。……彼は鏡花水月のキャストであり、夜宴の島のキャストにはなり得ない。
 それに、頑張って書いたところで……結局は全て消えてしまうのだから。
 サヤさんなら、夜宴の島を、あの世界を……どう表現したのだろうか?
 ぽつぽつと、空から雨が降り始める。私の代わりに泣いてくれているようなこの雨は、今までどれ程沢山の涙の代わりを引き受けてきたのだろう……?
 優しい雨に負担をかけてしまうけれど、今は私の悲しみの半分を受け持って。……お願い。
 じゃないと、私はきっと……悲しみに押し潰されてしまうから。
 ――ソウくん。
 私じゃ……駄目ですか?


***

『えー皆様。この夜で兎狩りは終了で御座います。何度も言うようですが、各自、悔いのないよう、最後まで奪い合って下さい。以上!』
 ……神様は皮肉だ。こんな時に限って、目が覚めたら隣に彼がいるのだから。
 おはようなんて笑顔で言わないで。その手で優しく髪を撫でたりしないで。……辛くなる。
 とにかく、今日で兎狩りも終わる。私は、白兎と黒兎を見つける事だけに集中しなければ。
 兎に触れたら兎の姿を認識する事が出来る。
 彼は白兎に触れた。なのでこれからは、白兎の姿は彼にもちゃんと見える筈だ。
 鬼面達はきっと、もう既に全員が双子に触れている事だろう。
 私も白兎と黒兎、何とか両方に触れる事が出来たので……この目はもう、あまり役に立ちそうにない。
 ――鷹の目。
 私は彼に、白兎から聞いた【この目の事】について、一切何も言わなかった。
 もうどうでも良かった。人間じゃなくなろうが何だろうが。私が意思をなくした獣になるというならば、いっそなってやろうじゃないか、とさえ思ってしまう……自暴自棄だ。
 私のこんな姿を見たら、白兎は怒るだろうか? ……それとも、哀しむだろうか?
 せめて今夜、白兎と黒兎を助けられたら……もうそれだけでいい。
 そしたら、私は双子達に願うんだ。『この夜宴の島からもう……解放して欲しい』と。
 そして私はいつも通り、下らない毎日を送り、つまらない人生を生きていく。……それでいい。
 刺激的な日常は、時に我が身を傷つけ、犠牲となる。彼と出会ってからの私は、正にそのルートを辿ろうとしているのではないか? ……どうでもいい。考えるのも疲れた。
「ミズホ? どうした? 何か元気ないみたいだけど……」
 彼のその言葉に、私は平気な振りをして笑顔で答える。
「え? そんな事ないよ⁉ ソウくんの勘違いだって! 元気、元気! そんな事より、今日でようやく兎狩りのイベントが終わるんだね。……頑張らないと!」
「……そう」
「私、シロくんと約束したんだ! 絶対に助けるって! だから、約束はちゃんと守らなきゃね! さ、早く行こう!」
 私が一歩踏み出そうとすると、彼が私の手をぐいっと後ろに引いた。
「な、なに⁉」
「やっぱり黙ってはいられないから言うけど……ミズホ、まったく笑えてないよ。そんな作り笑顔を見せるくらいなら、思ってる事全部ぶちまければいいのに。朝からずっとおかしかった。……俺、何かしたかな? もし、そうなら……ごめん」
 私は、じっと見つめてくる彼の顔を直視する事が出来ずにいた。――言える筈がない。
 私は、彼のお姉さん相手に醜いまでに嫉妬し、恋にトチ狂った憐れな女なのだ。そんな事を言ってしまったなら、きっと彼は間違いなく私の事を嫌うだろう。
 サヤさんは……彼にキスをした。彼は、それを拒まなかった。
 きっと……彼らにとっての【それ】は、日常茶飯事の事だったのかもしれない。
 海外では、挨拶で交わされるような簡単なものだ。特に深い意味などないのかもしれない。
 けれど、私は……サヤさんだけでなく、彼もまたサヤさんの事を、深く愛しているような気がしてならなかった。
「……ミズホ、泣いてる」
 彼は私の涙を指ですくうと、眉を下げ……とても悲しそうに笑った。
「ミズホが泣くと、俺……何だか胸が苦しい」
 ……あたしだってそうだよ。貴方を想うだけで心が張り裂けそうなくらい苦しいんだよ。
 どうして貴方が夜科蛍なの……?
 どうして私をここに連れてこようと思ったの?
 貴方はとても……残酷だ。
「……ねぇ、ソウくん。聞きたい事があるの。ソウくんはこの兎狩りの勝利者は、誰であって欲しいと思ってる?」
「え……?」
「正直に答えて」
 彼は少し複雑そうな表情を見せると、意を決したように強く言い切った。
「……ごめん、ミズホ。俺……サヤに勝たせてやりたいって思ってる」
 ……やっぱり。
 わかりきった答えに、いちいち傷付くこの弱い心を今すぐ消し去ってしまいたい。
「……けど、願いを叶えてもらえるのは一人だけなんだよね? そしたら鬼達は、一体どうするつもりなんだろう」
「……わからない。代表者に権利を譲るか、取り合いになるか。……とにかく俺は、サヤを勝たせて願いを叶えさせてやりたい。それが無理なら、俺が何としても双子達を捕まえて、サヤの願いを代わりに願ってやるつもりだ」
 彼の気持ちはよくわかる。大切なお姉さんが、亡くなってもなお、この世界に留まっているなんて……とても哀しい話だ。
 私には兄弟はいないけれど、もしいたとしたらきっと、同じ想いを胸に抱くだろう。
 彼の事が好きな私が……彼の為に出来る事。それは彼の想いを尊重し、力になる事なのかもしれない。
「ソウくん、私……協力するよ! サヤさんを勝たせてあげよう」
「ミズホ……」
「私、ソウくんの力になりたい! ……お願い。手伝わせて」
「……ありがとう」
 そう言って彼は優しく笑うと、私の頭にポンと手を置いた。
「……ミズホ。これは単なる俺の想像に過ぎないんだけれど、聞いてくれる?」
「……うん!」
「鬼は、元々は夜宴の島に招かれた人間達だったんじゃないかな。けれど、同じ人間でも……明らかに藤尾さん夫妻とは違う点が一つだけある。それはきっと、鬼になってしまった人間達は皆、夜宴の島に【魅入られてしまった】者達ばかりなんじゃないかと俺は思ってるんだ」
「この世界に魅入られた……人間?」
「藤尾さん夫妻は、夜宴の島の事など早く忘れてしまいたかった事だろう……恐ろしく、不気味な世界。恐らく、彼らはもう二度とこの夜宴の島には戻りたくないと、そう思っていた筈だ。それは、あの二人を見て、一緒に話を聞いたミズホならよくわかると思う」
 私は、コクリと大きく縦に頷いた。
「……けれどサヤは違う。夜宴の島に戻りたくて、帰りたくて仕方ないと取り憑かれたように言っていた。……そしてその結果、自ら命を断った。他の鬼面の連中もそうじゃないのかな……?」
「え……? じゃあ皆、死んでなかったって事? 本当は皆生きていて、もう一度この世界に招かれた……そう言う事なのかな?」
「……いや、サヤは確か火葬された。俺はそれをちゃんとこの目で確認した。だから、恐らく肉体は持たない、魂……霊魂のようなものかもしれない。とにかく、人でも何者でもない存在。それが鬼の正体だと、俺は思ってる」
「魂……それとも、意識とか?」
「意識……?」
「夜宴の島を恋い焦がれるあまり、死に際に強く想った意識だけが飛ばされ……もう一度、この世界にやってこれたのかもしれない」
「意識か、成る程ね……考えれば考えるほどここは不思議な世界だよ。本当に。とにかく魔女は、鬼面達が願う内容は【解放】か、神に近い存在になる事……即ち、【進化】だと言っていた。きっと一部の鬼達は、もうこの世界から解放されたいと思ってるんじゃないのかな? 一度は想いを馳せてここまで来たけれど、鬼として生きる事に疑問を抱き始めたのだろう。そして残りの鬼達は、今もなお夜宴の島に相応しい存在になりたがっている。……サヤも、その一人だ。俺は、サヤに勝たせてやりたい。けれどサヤの願いを叶えた場合、サヤは夜宴の島の住人となり、この世界にずっと縛られる事になる。生前あいつの思うようにしてやれなかった分、今は力になってやりたいけど、本当にそれでいいのかなと思ってる自分も……確かに存在しているんだ」
 彼の言う通りだ。解放を選べば、きっとこの世界でのサヤさんの存在は消滅する。
 そして、進化を選べば……サヤさんはずっと夜宴の島で生き続ける事になる。
 そうなったら、彼は一体どうするつもりなんだろう?
 十七夜が終わるその時、彼は――

「……他の願いじゃ駄目なの?」
「えっ?」
「サヤさんが勝ってしまってたら、私達にはどうする事も出来ないけど……ソウくんが勝てば、サヤさんを生き返らせてと願う事だって出来る筈じゃ」
「駄目だミズホ。生は尊い。……既に生命を失った人間を蘇らせる事なんて、してはいけない。人としての道理から外れてしまうよ。サヤはもう死んだんだ。生きるなら、この世界じゃないといけないんだ」
 そう言った彼の顔は、とても歪んでいて悲しそうで、私は胸が痛んだ。
「……ソウくん、とにかく今は色々考えてる場合じゃないよ。考えるのは後にしよ? どれだけ足掻いても、これが最後の一日。双子達とサヤさんを、私達の手で助け出すの! 状況はかなり不利なんだから、早く行動に移さないと」
「――大丈夫。絶対に勝つよ。何といっても、こっちにはミズホの目があるからね」
「え? ……でも私、双子達に触れて目を使わなくてもあの子達の姿が見えるようになったから、この目はもうあまり役には立たないと思う」
「そんな事はないよ。たとえ姿を認識する事が出来たとしても、どこにいるかわからなければ意味がない。そうなると、ミズホのその目の本領発揮だ。その目が見た風景から、今兎や鬼面達が森の中にいるのか海岸にいるのかが把握出来る。それはかなり重要な事だよ」
「そうか……! そういう使い方もあるね!」
「本当に凄い目だよ、それは。俺もそんな便利な目があればなぁって思う」
「……うん、そうだね! あ、私ちょっと調べてみるね!」
 彼の言葉が胸に刺さる。……仕方ない。彼はこの目の事を何も知らないんだから。
 このまま、私はどうなってしまうんだろうか。闇に潜む獣となり、この暗い森の中を駆け回る存在となってしまうのか?
 ――いや、まだ大丈夫。まだ【目】だけだ。それに、シロくんが元に戻してくれると言ったじゃないか。
 まだ三日目。ギリギリ間に合う筈……早く見つけなきゃ。

「……いた、二人一緒にいる」
「他には何が視える?」
「満月……大きな満月を背に、白い砂浜の上で座ってる二人が視える」
「……海岸だな。どの方角だろう?」
「ちょっと待ってね? あれは……」
 ギリギリ視界の端に映っていたのは、海辺の近く、若干入り口が低めの小さな小さな洞穴。
 それにはとても見覚えがあった。……白兎といた洞穴だ。
「わかった! わかったよ、ソウくん! 昨夜の場所から、そう遠くない」
「昨夜の? ……よし、わかった。すぐ行こう!」
 彼は私の手を引き、海岸に向かって足を進めようとするが、私はそれを制止する。
「――ちょっと待って!」
「⁉ どうした、ミズホ?」
「何だか違和感が……ううん、違和感というよりやっぱりおかしい」
「おかしいって何が……?」
「双子達の周りに、鬼が一人もいないの」
「――えっ?」
「それにシロくんとクロちゃんが、私が目を使った瞬間から……二人とも、こっちをじっと見てる。まるで、私が目を使って二人を見てる事に気付いているかのように……」
 私は急に、とんでもない胸騒ぎに襲われた。背筋が凍り付き、嫌な汗が流れる。動悸が激しくなり、手足の震えが止まらない。――何だこれ? こんなの初めてだ。
「兎の面をつけているから口元の動きもわからないし、声も聞こえない。けれど、何でかな……? 双子達に『ここには来るな』と言われているような気がするの……」
「ミズホ……」
「駄目……怖い! 何でだろう……? わからないけど怖くてたまらない。あの場所に行っては駄目。絶対に行ってはいけない!」
 私は突然パニックを起こしたように取り乱す。……仕方がない。底知れぬ恐怖が、身体中を隈無く駆け巡るのだから。
 何故? 一体私の身に何が起こっているの? ……わけがわからない。

「左目を閉じれば……白兎が」
「え……?」
「右目を閉じれば……黒兎が」
 彼は静かに口を開く。
「そして……両目を閉じたら俺の姿が視える」
「ソウくん……?」
「ミズホのその目はもしかして、この世界の【全て】が見えているのではないかな」
「私のこの鷹の目には、世界の【全て】が見えている……?」
「そう。ただ、それをミズホ自身に信号として知らせる手段が三通りしかないから、把握しきれていないだけで……ミズホの目は、きっと全てを見据えている。……多分、あの場で何か恐ろしい事が起きているんだ。その目はその全てを知っているからこそ、ミズホの身体に恐怖を感じさせている。俺には何だか、ミズホ自身がその目に取り込まれ始めているような……そんな気がした」
 彼の鋭い視察に私の胸はギクリと音をたてる。私が鷹の目に取り込まれ始めている……?
 彼の言葉が正しいなら……もう、私の身体は【この目】と一体化し始めているという事なのだろうか? 既に、人ではなくなろうとしているのだろうか? ……そんなの嫌だ、どうしたらいいの?

「ミズホ、君はここに残るんだ」
 彼は私を静かに見つめると、安心させるようにゆっくりと低い声でそう告げた。
「今の君の様子を見て、あの場所に連れて行く事なんて……俺には出来ない」
 ――彼の言う通りだ。目尻に溜まる涙。いつの間にか地面についている膝。滴るように流れる冷や汗。怖気づいたと言われても過言ではない。
 私の身体が全身全霊をかけて、あの場所に行く事を拒絶している。
「俺が一人で行く。ミズホはここで待ってて」
「でも……! ソウくんにはシロくんの姿は視えても、クロちゃんの姿は視えないんだよ⁉」
「あいつら、一緒にいるんだろ? ……大丈夫だ。何とかなるよ」
 彼はニコリと笑うと、素早くひょっとこの面を被る。
「心配しなくても大丈夫。俺を信じて、ここで待ってて?」
 大きく暖かい手のひらが、私の頭に優しく触れた。
 やがて、その体温がそっと頭から離れると……彼は私に背を向け、海岸に向かって走り出した。
「ソウくん、待って! 行っちゃ駄目! 行かないで、ソウくん!」
 私は必死に彼の名を呼んだけれど、彼は右手を挙げ、振り返る事もなく視界から消え去った。
 蝙蝠こうもりが、危険で悍ましい程に、恐ろしい夜の空を飛び回る。黒い空に映る黒いシルエット、今の私には不吉以外のなにものでもない。
 獣の遠吠えが、森の奥の方から聞こえてきた。
 不気味なこの島に平穏など……どこにも存在しないのかもしれない。
 ――今の私はヒトなのか? ――それとも、バケモノなのか?
 そんな事すらわからなくなっていた私は、考える事から逃げ出したくて……ただひたすら、彼の無事を祈り続けていた。

 どれくらいの時間が経っただろう。……一時間? いや、正確には三十分も経っていないのかもしれない。
 私は膝を抱えて、樹の根元に小さく座り込んでいた。彼が今どうしてるかなんてわからない。目を使う事を躊躇い、確認する事が出来ないからだ。
 私が膝に顔を埋めていると、遠くの方からパキッと折れた木の枝を踏みつけ、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。私は咄嗟に顔を上げる。
「ひっひっひ! こんな所で何をしているんだい? まるで、狼に怯える仔山羊のように震えているではないか?」
 嗄れた声で下品に笑う老婆に、私は一瞬にして警戒態勢をとる。
「……何しに来たの⁉」
「いやぁ、何て事はない。その目は役に立っておるかと思ってな? ちょっとばかり気になってのう。ひっひっひ!」
「……よくもそんな事が言えたわね! 私がこの目にどれだけ苦しめられているのか、貴女わかってるの⁉」
「ふんっ、元はと言えばお主が欲しがった物じゃないか? やだねぇ、人のせいにするんじゃないよ。お主が自分で飲むと決めたんだ。責任転換はよしておくれ。あぁ、気分が悪い」
 老婆はブツブツ文句を言いながら、近くにある大きな石に『よっこらしょ』と腰を下ろした。
「……お願い、元の目に戻して。何だか、怖くてたまらないの。……身体の震えが止まらない。このままじゃ、私が私でなくなってしまう……頭がおかしくなりそうよ」
「……おやおや、可哀想に。決して案ずる事などない。その目は三日経てば元に戻る。今日で終わりだ、気にしなさんな。――さぁて、喉が渇いただろう? 好きな物をお飲み。どれも今のあんたが欲しがっているものばかりだ」
 老婆がパチンと指を鳴らすと小さな机が現れ、ドリンクの入った三つの瓶が並んだ。
「この三つも、普段なら宴に並ぶ事のない特別な薬じゃよ。さぁ、好きなのをお飲み。別に全部でも良い」
「嫌だ……! もう絶対に騙されない。魔女のドリンクは二度と口にしない!」
「……ほう、いいんかい? あんたの……あの連れの男、今どうなっているか知らないだろう?」
「……どういう意味?」
「なぁに、言葉の通りさ。知りたいなら……ほれ、その一番左端に置いてある紫色のドリンクを飲んでごらん? 何でも聞こえる耳だ。どんなに遠くの声でも、決して聞き逃しやしないよ? 俗に言う、地獄耳っていうやつさ。視るのが怖いのなら、聞いて知れば良い。簡単な事じゃろうて」
「……何でも聞こえる、耳」
 私は涙目になりながらも、ゆっくりとその紫色のドリンクに手を伸ばす。
 ――【地獄耳】。どんな声でも聞き逃さない……悪魔の耳。
 こんなの、飲んでいい筈がない。そんな事はわかってる。……わかっているんだ。
 けれど、ソウくんは今……どうしてる? ちゃんと無事でいるの? ……どうして戻ってこないの?
 ずっと、ずっと……待っているのに。
 ……魔女の言葉が正しいとすると、ソウくんの身に何か悪い事が起きているのかもしれない。そう考えただけで、胸が締め付けられそうなくらいに苦しくなった。
 ――私は彼が、とても好きだ。
 だから、彼の身に何か悪い事が起こってると言うのなら……私は……
 今の私に出来る事……そんなものは数少ない。【やれる事】は限られているではないか。
 ゆっくり左端の瓶を手にすると、唾液をゴクリと飲み込む。その姿を見ていた魔女はとても愉快そうな顔で微笑んでいた。
 私は瓶の蓋を開ける。ポンッと気持ちの良い音が鳴り、その入り口から、微かに紫色の煙が宙に立ち昇った。
 視てしまうよりも、聞く方がまだマシなのかもしれない。
 確かに怖いけど……今はとにかく、彼の事が心配でたまらない。こんなところでずっと不安に怯えながら、彼の帰りを待っているくらいなら、いっそ……
 私は戸惑いながらも、そのドリンクを一気に飲み干した。
「……っつ!」
 【目】の時と同じように、猛烈な痛みが私の耳に襲いかかった。
 まるで耳を、熱した鉄でジュウジュウと焼かれているような耐え難い激痛に、正気を保ってはいられず……思わず気を失いそうになる。
 飲んではいけない事なんて、承知の上だった。……もう後悔はしない。
 何の役にも立てないよりも、何か少しでも彼の役に立ちたいの。
 ……貴方を想う気持ちが、時に身の破滅に繋がるかもしれない。自ら、自分を犠牲にしてしまうかもしれない。
 ――でも、もういい。自分の気持ちに、嘘は吐きたくないの。
 ……彼はきっと喜ばない。とても優しい人だから。
 だから、私が勝手にしたい事をする。――ただ、それだけだ。
「ソウく……ん………」
 彼を救えるのなら、私はもう人間じゃなくても良い。
 獣でも、悪魔でも、死神でも……

 痛みが徐々に治まり始めてきた頃。特に意識はしていないのに、まるでストップ機能が壊れ、延々と流れ続ける演奏のように……幾つもの【声】が止む事なく再生された。
「……なに……何なの、これ……⁉」
 私の耳が捉えたシグナルは、大方断末魔のような……悲惨な叫び声であった。
 その声のあまりの大きさに、私は思わず両耳を塞いだ。
 男性、女性、老人、低いものから高いもの……男性の低い呻き声から女性特有の高い金切り声まで、私の聴覚に直接振動を与え続けた。
「……ひっひ、お前さんにも聞こえたかい? 聞こえるのは、【今話されているもの】だけではないんじゃよ。その場に残った残留思念すらも聞き取れる。ほーれ、よく耳を澄ませてごらん? あんたにも聞こえる筈だ」
 ――老婆の言うとおりだ。叫び声が大きすぎて聞き取りにくいが、微かに聞こえてくる沢山の声と想い。

 助けて……! 苦しい!
 ……死にたくない。
 やめて……!
 選ばれた……神に、なりたかった……
 ただ……人間に戻りたいだけだったのに。
 来るな!
 ――生きたい。

 私の身体は震え上がり、恐怖のあまり歯がガチガチと音を立てた。
 ……言葉だけでわかる。あの場で今、一体何が起きているのかなんて、【一瞬】にして理解してしまった。
 私は、私の背中にぞくりと嫌な汗が流れるのを感じずにはいられなかった。
 耳を塞ぎ、目を閉じて、声が途切れるのを待つものの……一向に終わりを見せないその声に、私は心身共に疲労を感じ始める。……やがて聞きなれた筈の声が、私の聴覚の湖に波紋を広げた。
『こっちだ! 早く!』
 ――ソウくん! ……これって、絶対にソウくんの声だ。
 彼の声を、私が聞き間違える筈がない。
『走れ! 立ち止まるな!』
 焦りのみえる声で、誰かと会話をしている彼。……相手はきっと、サヤさんだろう。
 何だか二人の会話に、こっそりと聞き耳を立てているかのように感じ、少しいたたまれない気持ちになった。
『――許せない。あの双子達は私の物なのに、絶対に許さない……』
『それ以上喋るな! 傷口に響く! ……サヤ、もう兎達の事は諦めろ。争いが生み出すのはいつだって絶望だけだ。どうしてそれがわからない? サヤは、この世界の住人になって何がしたいんだ!』
『うるさい! うるさい! 貴方にはわからない! 私がどれ程この夜を待ち侘びていたか……貴方なんかに、わかる筈がない!』
『わかるさ! サヤが『この夜宴の島に帰りたい』、そう毎日のように言い続けてきたのを……俺はずっと見てきたんだから』
 少しの沈黙が二人の中に生まれる。その沈黙の間が、二人の心境を複雑に物語っているかのようだった。
『ねぇ……ソウ。やはり貴方と私は、恋人同士だったの?』
『……いいや、恋人同士なんかじゃない。俺達は姉弟だ。俺はサヤの弟だよ』
『おと……うと……? そんな……そんなの、嘘よ! だって、私は貴方を愛しているもの!』
『嘘じゃない、俺は――』
 その瞬間、突然耳の中にキーンという超音波のような音が広がり、彼とサヤさんの声は一瞬でかき消された。
「いきなり何⁉ ……あれ? まだ何か声が聞こえる」
 私の聴覚が、小さく低い声を逃す事なく捉える。小さな声なのに、先程まで聞こえてきたどの声よりも、はっきりと私の耳まで届いた。
 それは、怨みがましく……震え上がりそうなくらいに恐ろしい声だった。

 どこだ……
 どこにいる……
 鬼の娘と、娘を連れて逃げた男……
 そしてあと一人、あの人間の娘……

 許すまじ……一人残らず……

 根絶やしにしてくれる――

「……っ!」
 血の気が一瞬にして引いてしまうくらいの恐怖が、突然私の身に襲いかかる。
「……おや、どうした? 酷い顔色じゃないか? 何かあったのかい?」
 老婆が、ニヤニヤと気持ち悪い笑顔で私に問いかけてくる。
 ――あれ? 急に声が聞こえなくなった。
「言い忘れておったが、その耳は人体への影響や負担が大きいので連続して長くは使えない。もう暫く経てば、また聞こえるようになるだろうさ。ひっひっひ!」
 私は耳からそっと手を離す。……先程から気付いていたが、耳の形状が随分と変わっている。
 先が尖っていて、少し硬い。その姿は、容易に悪魔を連想出来た。悪魔など非現実的なものだと思っていたし、実在する筈なんてないと思っていたから、テレビや本で見る、想像により創られたものしか知らないけれど……悪魔は本当にいて、やはり耳が尖っているのだなと思わずにはいられなかった。
「誰かが私達を捜している…….兎達を奪う為に仲間割れをして、鬼面達が襲いあったんじゃないの……?」
 ――その時、ふと気付いた。
「……双子は? 双子達の声は聞こえなかった……今、あの子達はどうしてるの?」
 私は即座に片目を瞑った。すると、そこには先程と変わらず、寄り添い海辺に佇む二人の姿が見え、私は思わずホッと安堵の息を漏らす。……けれど、安心するのはまだ早い。
「さっきの声の主は、今でも兎達の近くに……あの海岸にいるのかな?」
 私がボソッと呟くと、その声を拾った魔女がすかさず私に向かってこう言った。
「なら、自分の目で確認してみるがいいさ」
「え……?」
「両目を閉じて、見たい相手の事を考えるんじゃよ。あんたが気になり、知りたい相手の事は……その目が全て教えてくれるじゃろうて」
 両目を閉じた時、映り込むのは【ソウくん】だけじゃなかったんだ。
【気になり、知りたい相手の姿が映る】
 だから……私の眼にはソウくんの姿が映った。じゃあ私の両目は、願えばこの世界にいる誰の姿でも映す事が出来るという事なの?
 私は目を閉じ、姿形も知らない……あの邪悪な声の主の事を懸命に思い浮かべる。数少ない情報から、恐らくかなりの【危険人物】であろうその男を、無理矢理手繰り寄せた。
「……――いた!」
 私の視界に二人の後ろ姿が映る。
 その二人組は双子達のいる海辺から、ほんの少しだけ離れた森の入り口付近で立ち止まっていた。
 一人の姿に見覚えがある。後ろ姿からでも、すぐにわかった?
 あの【夢を叶える白いドリンク】を飲んだ、粗暴で巨体な鬼面の男だ。先程、あの鬼面の声を聞き取れなかったのは……元々口数が少なく、無口なせいなのだろうか?
 そして、その鬼面の傍にいる……もう一人の男。
 ……あの不気味な声の主は、この男に違いない。
 男は急に巨体の方へと振り返る。その姿を目にした私の脳裏に凄まじい衝撃が走り、戦慄を覚えた。
「は……般若、の面……」
 私から、一筋の汗が流れ落ちる。鬼面よりも、よっぽどシンプルな造りのその面だが……不気味さと恐ろしさは、その数倍だ。
 右手には、脇差しなんかよりもずっと立派で威力もありそうな、日本刀らしき物が握られていた。
 般若は巨体の鬼に向かって、何らかの指示を送っているようなジェスチャーを見せる。……こんな時に機能しない悪魔の耳に、少しばかり不満と苛立ちを感じ始めた。
 やがて、会話を終えた二人は二手にわかれる。
 般若は森の方へ。そして残された巨体の男は、海辺にいる兎達の方へと歩いて行った。
 沢山の鬼達が砂の上に倒れているのが見える。その地獄絵のような光景に、胃液が逆流してくるのがわかった。
 これ以上その現場を見たくない私は、咄嗟に目をしっかりと開いた。
「般若の男はソウくん達を追って森に……そして、巨体の鬼は兎達の見張り……私はこれから、どうすればいいの」
「困ったなら、この残りの二本も飲んでみたらどうだい? ……きっと、役に立つはずじゃよ」
 魔女は『ほれっ』と言うと、小さな瓶を手に取り、振り子のように軽くユラユラと揺らした。
「その二本には、一体どんな能力が備わっているの?」
 私は緑色のドリンクと真っ黒なドリンクを交互に見つめながら、魔女の老婆に問いかけた。
「こっちの緑のドリンクは一定期間姿を消す事が出来る。【カメレオン】と呼ばれているものじゃよ。……しかも効果は絶大じゃ。カメレオンが触れている期間は、その触れられている相手も姿を隠す事が出来る」
「カメレオン……」
 これは使えそうだ。上手く使いこなせば、兎を助ける事も、般若や鬼面からも身を隠す事も出来る。それに、私が触れてさえいれば皆を守る事も可能だ。
「その薬は持っておいき。消えたい時に飲むがいい。しかし飲めるのはあんただけじゃ。他の者には決して飲ませてはならんぞ? ……良いな?」
「……わかった」
 魔女は私の返答を聞くと、不気味ににんまりと笑い、『いい子だ』と妖しげに囁いた。
「そしてこっちは……」

「――というわけじゃ」
 二本のドリンクの説明を聞き終えた私は、それらの瓶を魔女から受け取り、少し大きめの上着のポケットの中にしまう。
「ひっひっひ。では、気ぃつけてなぁ。健闘を祈っておるからのう」
「……ありがとう。お婆さん」
 私が一応、お礼の言葉を伝えると、魔女は軽く頷きながら、暗い森の中に溶け込み……あっという間に見えなくなった。
「……よし。先ずは兎達を助けにいかなきゃ」
 兎達のいる付近に転がる鬼面達の姿を思い出すだけで鳥肌が立ち、身体がブルッと震える。
 けれど……絶対に助けるって約束したから。――行こう。
 大丈夫だ。今、私は少しだけ……ファンタジーの世界からホラーの世界に場所が移っただけ。ホラー小説だって、沢山読んできたんだ。まったく免疫がないわけではない。
 それなら今日、私はホラー小説の主人公にでもなってみせよう。……フラグさえ立てなかったら大丈夫。
 勇気を出して、この最後の一日に決着をつける。
 ――待ってて。シロくん、クロちゃん。

 般若面と鉢合わせにならないように、鷹の目で確認しながら、素早く海岸に移動をする。
 今のところ、彼とサヤさんは何とか無事のようだ。
 一面に広がる真っ白な海原の端には、双子達と巨体の鬼の姿が見える。
 般若面が戻ってくるかもしれない。それまでに、何とか兎達を助けなければ。厄介な相手は、なるべく少ない方が良い。
 私は樹の葉に隠れ、そっと様子を伺った。
 兎達はとても退屈そうにしている。白兎は砂浜に寝そべり、黒兎はたまに巨体の身体を蹴り飛ばしたりしていた。……けれど、巨体は何の反応も見せない。
 やはり、鬼が兎達に手を出す事はないか。
 嫌でも視界に映り込む、砂浜に倒れる十数名の鬼面達。白の中に混ざる赤い血痕。
 ――鬼達は生きているのだろうか?
 そんな事を考えただけで血の気が引き、身体が急速に体温を失っていく。……どうしてこんな事になってしまったんだ。
「兎狩り……お願いだから、早く終わって」
 この夜が終わりさえすれば、きっと兎達が般若を何とかしてくれる筈だ。取り敢えず、どうにかしてあの巨体の意識をこっちに向けないと。
 私は震える手で、おかめの面を顔に被せた。
 私は深く深呼吸する。……大丈夫、やれる。

 ポケットの奥から緑色の液体が入った瓶を取り出し、予め蓋を開けて、岩の上に置いた。
 ……大声は出さない。般若まで気付いてしまったら厄介だから。
 私は近くにあった【かなり大きめの石】を持ち上げ、海岸に出ると……渾身の力を振り絞り、それを海に目がけて投げ込んだ。
 海に投げ込まれた石は大きな水飛沫を上げる。
 私はすかさず森の中に姿を隠した。
 少し離れた場所にいる鬼面は、それに気付くと立ち上がり、こちらに向かって歩き始めた。
 ――今だ!
 私は緑色のドリンクを半分程度口に含み、飲み込む。数滴だと、いつ効果が無くなるかわからないので【念の為】の半分だ。
 飲んですぐ身体に異変が起こる。目や耳の時のような痛みはない。寧ろ身体がまるで風船のように軽くなった感じだ。
 身体が見る見るうちに透けていく。巨体は海の中に足を浸け、水飛沫が上がった辺りを隈無く調べていた。
 私は走った。全速力で。
 巨体の背後を猛ダッシュで走り抜ける。巨体は全く気付かない。
 白兎と黒兎は、巨体の方を眺めている。兎達ですら私の存在には気づいていないようだ。
 私は急いで二人の腕を掴む。兎達がようやく私を認識する。
「ミズホ……⁉」
 それと同時に二人の姿が透け始めた。私は兎達を連れ、取り敢えず海岸の洞窟を抜けて、反対側の出口から出る事にした。巨体の鬼の動向を確認する時間すら今は惜しい。気付いていないようなので素通りする。
 私は背後を一切振り返る事なく、洞窟内を突き進んだ。
 黒兎は、途中『痛いだろうが、もうちっと優しくしろ!』などと減らず口を叩いていたが、白兎はずっと静かに黙り込んでいた。
「ごめん、二人共。少しだけ待って」
 洞窟の奥で私は一度、その場に立ち止まる。そしてそっと目を瞑り、巨体の姿を確認した。
 巨体は兎がいなくなった事に気付き、慌てて辺りを見回している。
 私は次に般若面の姿を確認した。……般若は宴の場にいた。血に濡れた日本刀を、引き摺るようにして歩くその姿に……他の者達も、面の下では怪訝な表情を浮かべているに違いない。
 最後に確認したのは……彼とサヤさんのいる場所。
 二人は小さな灯台の上にいるようだ。灯台に登り、腕を負傷したサヤさんの手当てをしている彼の姿が見える。
「ねぇ二人共、灯台にはどうやって行くの?」
「あ? 灯台? ……それならこの先を抜けて、北東に進んだ先にあるけどよ? 何でだ?」
「そこにソウくん達がいるの! シロくん、クロちゃん! 早くそこまで行こう! ……兎狩りが終わるまで、そこで隠れてじっと待つの! そしたらきっと」
「……ちょっと待って」
 突然、白兎が私の言葉を制止する。
「シロ、くん……?」
「……ミズホ、その耳は何?」
 白兎の突き刺さるような冷たい声色に、思わず萎縮した。
「ミズホ、答えて」
「おい……白兎。お前」
「黒兎は黙っててくれない? ……ミズホ、答えて」
 私がまったく言葉を発せずにいると、白兎は大きく溜息を吐いた。
「ねぇ、ミズホ。どういうつもりなの? 僕、言ったよね? 二度と魔女の薬に手を出すなって」
「ごめんなさい……」
 白兎の私に対する怒りが、痛い程伝わってくる。……無理もない。あれだけ私の事を心配してくれてた白兎の気持ちを無下にしたのだ。責められるのも当然だ。
「ま、まぁよ? こいつも、あたし達を助ける為にした事なんだから……白兎、お前ちょっと落ちつけよ? なっ?」
「醜い目に、醜い耳……そして姿を消せる能力。……君は究極のマゾヒズムなの? そんなに魔女のペットになりたいの? 人である事を捨てると言うのなら、魔女の手など借りずとも、僕自身の手で君を魔物の姿に変えてやる! 醜く憐れな姿で、一生地を這いずり回ればいい!」
 白兎の悲痛の声が、洞窟内に反響した。
「……ご……めんなさい、私……」
 少年は小さな身体をほんの少しだけ震わせながら、ゆっくりと地べたに腰を下ろした。
「……ごめん、ミズホ。言い過ぎたよ、ごめん」
「シロくん……」
「けど、どうして……? どうして、僕の言う事を聞いてくれないの? そこまできたら、もう僕の力では君を元の姿には戻せない。黒兎の力を借りたとしても無理だ。僕等はまだ半人前なんだ。この島の恩恵を受け、願いは叶えられても……呪いを解く術などないんだよ」
 小さな少年は膝に頭を埋め、消え入るような微かな声で私にそう告げた。
「あー……悪りぃ。そいつの言う通りだ。あたし達にはどうしてやる事も出来ねぇ。魔女の力は、欲する者の欲望により生まれた【お前と魔女だけ】の契約だ。あたし達には手出しが出来ねぇ。解呪するには、魔女よりも高等な魔力を持つ者でないと……」
 双子達にも私を元の姿に戻す事は不可能。……仕方がない。自分で蒔いた種だ。それに、こうなる事は何となくわかっていた。わかっていながら……私はあの魔法のドリンクを飲んだのだ。不思議と、以前のような後悔は無い。
「……わかった。ありがとうね、二人共」
「! ……で、でもよ! お前ら二人共、そんな大袈裟に考えなくても簡単な方法があるじゃねぇか! 勝ちゃあいいんだよ! 女! お前がこの狩りの勝者になればいい。そして願うんだ、元の姿に戻して欲しいと。そしたらこの島の力を借りて、未熟なあたし達でもお前を元の姿に戻してやれる筈だ」
「え……?」
 私が兎狩りの勝者になれば、元の姿に戻れる? けど、それは……
「――それは無理だよ。黒兎、君は本当に頭が悪いね。ミズホの事を何一つとしてわかってはいない。それが出来るのなら僕がここまで悩む必要はない事に、何故気が付かないの?」
「あ? ……何だよ? どういう意味だよ?」
「断言しよう。ミズホは……たとえ勝利を手に出来る一番近い場所にいたとしても、きっと他の者に勝利を譲る」
 白兎はそっと兎面を頭にずらす。そうして露わになったその瞳は、私をじっと見つめていた。
「自分の事よりも、人の事を優先し過ぎる。後先考えずにね。……こういうのって、自己犠牲の精神とでも言えばいいのかな? 悲しい事だね。きっと、幼い頃の家庭環境が君をそんな風にしてしまったんだ」
 私は以前、白兎に話した内容を思い出していた。白兎の悲しそうな表情を見ると、何故かとても……心が痛む。
「……ミズホには欠けているものがある。たとえば、自分自身を大切にする事が出来ないところ。辛い事をわざわざ口に出さない性格だから、いつだって一人で背負い込み、我慢してしまう。周りが気付いてあげないと、君はいずれ壊れてしまうかもしれないのに……あの男は今、サヤの事で頭がいっぱいで、ミズホの事なんてこれっぽっちもわかろうとはしない。僕はそれが許せないんだ」
「! 二人共、サヤさんの事を知ってるの⁉」
 私の言葉に、白兎が答える。
「サヤは、ミズホと同じように……この夜宴の島に招かれ、ここにやってきた人。そしてこの島の魅力に心を囚われてしまった、とても哀れな人だ。けれど、とても聡明で美しい人だった」
「……あぁ。サヤは本当にいい奴だったよ。あたし達にもすっげぇ優しくてさ。でもあいつは、あたし達を裏切ったんだよ。信じていたのに……だからあたしは人間は嫌いだし、信用ならねぇと思ってる。白兎と違ってな」
「裏切った……? それってどういう」
「……ミズホ」
 白兎は私の声を遮るように声をかけると、そっと立ち上がり、私の目の前に立った。
「ミズホ、君はこれからどうしたい?」
「え……?」
「君のポケットの中に、他にもまだ魔女の薬があるね?」
 ……シロくん、わかっていたんだ。
 黒兎の方をチラッと見ると、黒兎はバツが悪そうな顔をして、サッと目を反らした。
 そっか、クロちゃんも……
「僕達には、その【中身】がどんなものなのかわからない。……けどね、ミズホ。それが、たとえどんなに役立つものであったとしても、決して【良いもの】ではないんだよ?」
「……うん。わかってる」
 私は左のポケットに手を入れ、小さな瓶をギュッと握りしめた。
「それを使うかどうか。そして君が、この狩りの勝者になるかどうか。全てミズホが決めるといい。僕はそれに従う。……勿論、黒兎もね」
「白兎⁉ お前……何、勝手な事を!」
「……黒兎、いい加減に素直になりなよ。君だって本当はミズホの事が好きなくせに。何だかんだ言って、いつも心配してるよね? 本当に可愛くないんだから……」
「は、はぁ⁉ んなわけねぇだろ! 馬っ鹿じゃねぇの⁉ 誰がこんな人間の女の事なんか……!」
「はいはい……煩い。少し黙ってて」
 白兎はギャーギャーと喚き散らす黒兎を無視し、私に優しく語りかけた。
「……ねぇ、ミズホ。僕は何があっても君の味方だ。だからミズホの好きなように動くといい。君のその姿が、もしも化け物になってしまったとしたら、魔女じゃなく僕が飼ってあげるよ。いっぱい可愛がって、いっぱい愛してあげる。その寿命が尽きるまで、ずっとずっとミズホの傍にいるから」
 白兎は目を閉じ、私の袖をキュッと掴む。
「どうか、君の選択に……最高の奇跡が起こるように」
「シロ……くん……!」
 白兎の言葉に、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「泣かないで、ミズホ。僕はミズホの笑った顔が好きなんだ。そりゃ、泣いてる顔も多少は唆られるけど……でもやっぱり、ミズホは笑ってる時の顔が一番可愛いよ」
 涙が面の中に次々と溜まっていく。私はそっとおかめ面を外すと、白兎に向かって精一杯笑いかけた。
「あり……がとう!」
「……まったく、酷い顔だね。それに、人間はとても器用だ。泣きながら笑う事が出来るんだもん。これじゃあ、ミズホが悲しいのか嬉しいのか、僕にはまったくわからないよ。涙を止める魔法が使えたら、今すぐ君に使ってみせるのに」
 そう言うと、白兎もニコリと笑ってみせた。
 安心出来て、頼りになる優しい声。身体は小さくても、やはり私なんかよりずっとずっと大人なんだ。
 ――優しく小さな兎の神様。その御加護が、私にありますように。
「……あー、もう! うぜぇな! これだから女は嫌いなんだ! 何かあるとすぐ泣きやがる。……ほら、これ使えよ。ったく」
 黒兎は腰につけた巾着から小さな手拭いを出すと、素っ気なく私に差し出した。手拭いは桜の模様が入った、とても可愛らしいものだった。
「クロちゃんも……ありがとう!」
「……洗って返せよ! 馬鹿野郎」
 ――私、この子達の事が大好きだ。
 白兎も黒兎も、少し歪んでいるかもしれないが本当にとても優しい良い子達だ。二人はルール上、私に加担する事は出来ないかもしれないけれど……傍に居てくれるだけで心強い。
「さぁ、ミズホ。灯台に行くんでしょ? ……なら、急がなきゃ。もう知ってると思うけど、鬼面の中に異端者が紛れ込んでいる。行動は迅速且つ、なるべく無駄の無いようにするべきだよ、今はね……」
「般若の面の……男、だよね?」
「あんの般若の野郎……マジで不気味だよな? 他の鬼達とは明らかに毛色が違うしよ」
「で、でも! 兎狩りは最初から参加が決まっていた鬼面と、【参加する】に手を挙げた私達以外は参加出来ない筈だよね⁉ じゃあ、あの般若は……一体、何の為にこんな事を?」
「……いや、ミズホ。奴は【鬼面】だ。間違いなくね。兎狩りの参加者はオーラで判別できる。鬼面を捨てて、般若の面を被っただけに過ぎない。だから、奴が僕達を捕らえたなら……当然、勝利者の権利は奴のものとなる。ただ――」
「ただ……?」
「己の願いを叶える事よりも、鬼達の事よりも、君達に対し深い憎悪のようなものを感じるし、酷く執着しているようにも思える。願いを叶えて欲しいだけならば、僕達の見張りを巨体の鬼に任せず、自分で見張ればいいものの、わざわざ君達を捜しに出向いた。……これは明らかに異色だ。ねぇ、ミズホ。奴に、何か心当たりはない?」
「心当たりって言われても……うーん」
 私が考え悩んでいると、突然、黒兎が大声でゲラゲラと笑い出した。白兎は少し苛立ったような表情を浮かべながら、黒兎を睨みつける。
「甘ぇな、白兎! 【願いよりもこいつら】ってのは、ちょっとお前の勘繰りすぎじゃねーの? 般若の野郎は、念の為に全員殺っちまってから安心して願いを叶えてもらうつもりかもしれねぇだろうがよ? ちったぁ、頭使えよな!」
「……まぁ、一理あるね。ただ、馬鹿な黒兎に言われる程、腹立たしくて屈辱的なものはないけどね」
 二人の間に激しい火花のようなものを感じ、私はすかさず中に割り込んだ。
「あーもう! 二人とも、喧嘩しないでよ! 行こう、灯台! 今すぐ行こう! 巨体がここに気付いて追いかけて来るかもしれないし! この透明化も、いつまで続くかわからないんだから」
 私はおかめ面をきちんと被り直すと、二人の手を引いて洞穴の中を突き進んだ。
 白兎の先程の言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。

『奴に、何か心当たりはない?』

 ――何かが、胸に引っかかる。そして地獄耳で聞いた、あの般若の声……確か、どこかで……

 目で般若や巨体の様子を伺いながら、私達は何とか灯台へと辿り着いた。薬の効き目は既に切れていて、半分飲み干して持続時間は大体一時間前後だと知った。
 私は髪で耳を隠す。こんな耳、彼には見られたくない。
 透明になれる薬も魔女ではなく、他から貰い受けた事にしよう。
 白兎が『本当にそれでいいの?』と、私に問いかけてくる。
 ……うん、それでいい。彼にだけは、知られたくない。彼にだけはこんな姿を見られたくない。だから……これでいいんだ。
 ……もしも私が化け物になってしまったとしたら、彼の前からひっそりと消えよう。
「行こう、シロくん! クロちゃん!」
 私は二人を連れ、螺旋状の階段を急いで駆け上った。

「ソウくん!」
 私の声に、彼は驚いたように振り返った。
「ミズホ⁉ どうしてここに⁉」
「良かったぁ……ずっと心配してたんだからね? 目を使って、何とかここまで来れたんだよ」
 彼は白兎の姿を視界に入れると、心底驚いたような素振りを見せ、私に尋ねた。
「白兎まで。という事は、もしかして……黒兎もそこにいるのか?」
 彼の言葉に、黒兎が思い出したかのように手を叩いた。
「あ、そっか。こいつあたしに触れてねぇから姿見えてねぇんだわ。しょうがねーなぁ……」
 黒兎はスタスタと彼の前まで歩いていくと、そっと彼に触れる。
「よぉ。ちゃんとあたしもいるぜ?」
「! やっぱり黒兎も……!」
 彼は急いで黒兎の横を通り過ぎると、私の肩を両手で掴み、軽く揺らした。
「ミズホ、まさか君が一人で兎達を⁉ 何て無茶な事をするんだ! ……怪我とかない? ごめん、俺がミズホを一人にしたから」
「だ、大丈夫! 大丈夫だよ、ソウくん! ちょっと落ち着いて。ねっ⁉」
 突然私の隣にいた白兎が、彼の足を思いっきり蹴り上げる。蹴りは、上手く弁慶の泣き所にヒットしたようで、彼は痛みのあまり声も出ないようだ。
「僕のミズホに触れるな。……この下等民族が」
「ちょ、ちょっと! シロくん! 何してるの⁉ ソウくん、大丈夫⁉」
 私は急いで彼に駆け寄るが、白兎は素知らぬ顔でそっぽ向いている。……少年はかなり彼の事が嫌いなようだ。
「いってぇ……ったく、少しは手加減しろよな!」
 彼はそう言うと、足を摩りながらその場に座り込んだ。
「ソウくん……サヤさんは?」
「あぁ……サヤならさっき眠ったところだよ。少し疲れたみたいだ」
 彼が指差す方向に、座りながら眠りこけるサヤさんの姿を見つける。彼女の腕に巻かれた彼の上着に薄っすらと血が滲んで見えた。きっと、般若に切られたのだろう。
「サヤさんの腕の傷……大丈夫なの……?」
「……大丈夫。出血のわりに、傷口の方は大した事ないよ」
「ねぇ、シロくんにクロちゃん……サヤさんの傷、治してあげられないかな?」
 私が双子達に尋ねると、黒兎はこちらに目を向ける事なく、キッパリと言い張った。
「ルール違反」
「黒兎……根に持ちすぎだよ、サヤの事。……ごめん、ミズホ。言い方は悪いけど、黒兎の言う通りなんだ。狩りの最中は、如何なる場合でも私情で動く事は許されない。僕らはあくまで中立の立場だから……」
「そうだよね……うん、わかった。ごめんね、二人共……」
「……あ! けどそこの白兎さんは、お前の事になるとすぐに我を忘れるからなぁ? おい、白兎? お前、せいぜい処罰されないように気を付けんだな。あたしみたいに【クール】でいねーと、いつか足元掬われるぞ?」
「それはどうだろうね、黒兎。【クール】でなくて、足を掬われるのは……案外、君の方かもしれないよ?」
「……はぁ? お前、それどういう意味だよ?」
「別に?」
「……喧嘩するならどこか他所でやってくれ」
 溜息を吐き呆れたような声を出した彼は、ゆっくりと私の方に向き直った。
「……ミズホ。俺がいない間に何があった? 教えてくれないか?」
「……うん。わかった」
 私は彼に、今までの出来事を掻い摘んで話す。……勿論、この耳の事や魔女の事は一切話さずに。
 彼は一頻り話を聞いた後、そっと口を開いた。
「――なるほどね。要するに、その薬を飲んだミズホに触れている間は俺達も同じように姿を隠す事が出来る。それで、この夜を何とかやり過ごすって事か。……ミズホ、その瓶、本当に魔女に貰った物じゃないんだよね?」
「もう! 違うってば! 当たり前でしょ⁉ これ以上私、おかしな身体になんてなりたくないもん!」
 私は可笑しそうに笑ってみせる。
「けど、両目を閉じただけで想った相手の姿を確認出来るなんて……本当に凄いよ、それ」
「あはは、そうかなぁ? けど、この目も今日で最後。明日には元に戻ってるよ!」
「うん。少し勿体無い気もするけどね」
 私はチラリと白兎を横目に見る。白兎は何も言う事はなく、ずっと灯台から綺麗な月を眺めていた。……良かった。黙っていてくれるみたいだ。
 ――そう安心したのも束の間、突然私に異変が起こり始めた。
「?…………あ、れ……?」
「ミズホ? どうし――」
 いきなり彼の声が……消え……た? ――いや、違う。突然、彼の声が聞こえなく……なった……?
 目の前には……口をパクパクと動かす彼の姿。
 ――彼の声が、聞こえない。
「っ……う!」
 耳が熱い……! 酷い耳鳴りが私を襲う。
 痛みはない。……けれど、金属音にも似たような酷い音が私の耳を支配していた。
「な、なに……これ……」
 その時、私の腕にグッと強い圧力が加わる。
 ――白兎だ。
 白兎は私の腕を引くと、その小さな身体のどこにそんな力があったのだろうか? 私を軽々と担ぎ上げ、灯台の階段を急いで駆け下りた。
「シロく……ん……」
 地上に降りると、白兎は私を地面に座らせる。
 兎面を外した白兎は、口をパクパクと動かすが……少年の声は私の耳には届かない。
 やがて、焼け付くような耳の熱さや不快な金属音が治まると……今度は【地獄耳】が活動を始めた。
 頭に響いてくるのは、歌……?
 そう……歌だ。遠くから、おかしな歌が聞こえてくる。けれど、声が小さすぎて……歌詞を上手く聞き取る事が出来ない。
 うんと低い声で、楽しそうに……何度も繰り返される不気味な歌声は、徐々に大きくなり、はっきりと聞き分けられるようになった。

 鬼狩り……人狩り……
 楽しいな……
 兎を盗んだ悪い子、誰だ……
 盗人見つけて、地獄を見せる
 泣いて苦しみ、地獄に落ちろ
 宴の場には誰も居ぬ。
 森か、海か、洞穴か……
 それとも
 いるのは、灯台か……

 身体中の毛という毛が逆立つ。私は咄嗟に両目を瞑った。
 般若が巨体の鬼面を連れ、こちらに向かって歩いてきているのがわかった。見覚えのある折れた大木からおおよその距離がわかる。このペースなら、あと十分もしない間に着いてしまうだろう。
(ミズホ!)
 突然脳に語りかけてきた白兎の声に、私はパッと目を開く。白兎は私の面を無理矢理外すと、呪われた悪魔の両耳を強く押さえた。
(……治す事は僕の力じゃ無理だ。けど少し進行を遅らせるくらいなら僕でも出来る筈。急がなくちゃ……このままじゃ、君は人としての聴力を失ってしまう)
「けど……私を助けるのって、ルール違反なんじゃ……!」
(これは兎狩りのイベントに直接関与していない。大丈夫……僕に任せて)
「でも! ……やっぱり駄目! 駄目だよ。般若達が今、こっちに向かってきてるの。多分あと十分ぐらいで着いてしまう。こんな事をしてる間にも、どんどん近付いて来てるんだよ……? 早く逃げなきゃ!」
(君の耳を何とかする方が先だ! 今、君からの指図は受けない! 僕がしたい事をする。……大丈夫。時間は取らせないから)
 白兎の眼が禍々しい程に紅く染まる。白兎の手から私の耳に、優しく温かいオーラのようなものが流れてゆくのを感じた。
 白兎の額に汗が流れ始め、呼吸も乱れ始める。
 時折苦しそうに歪んだ表情を見せる白兎に、とても胸が締め付けられた。

 ――少しずつ、少しずつ……周囲の音がわかるようになってきた。まだ少し音の篭ったような閉塞感は感じるが、それでも何とか聞き取れる。
 階段を降りる複数の足音が聞こえてきた。彼とサヤさんと黒兎が、こちらに向かって走って来る……
 彼らは私達の姿を見つけると、急いで傍に駆け寄ろうとしたが、白兎が『来るな!』とそれを止めた。
「……白兎、お前」
 白兎の手が私の耳を隠してくれていたから、彼やサヤさんは多分気付いていないだろうが、事態を一瞬にして察したであろう黒兎は、呆然と白兎の姿を見下ろしていた。
 白兎は浅い呼吸を吐きながら、黒兎に告げる。
「……ちょうどいいところにきたね、黒兎。今ここに般若達が向かってきてる。そこの男とサヤを連れて、急いでここから離れるんだ」
 黒兎は白兎の胸ぐらを掴みながら、怒りや戸惑いを露わにした。
「馬鹿言ってんじゃねぇ! お前、どれだけ力を使ってんだよ⁉ フラフラじゃねぇか! ……そいつ、相当やべぇのか?」
「そのようだね。……かなりのものだ」
「……ちっ! 仕方ねぇ、あたしの力も貸してやる! だから早くしろ! おい、サヤに男! お前ら、さっさとここから離れやがれ! 今すぐにだ!」
「黒兎!」
 白兎の叫びがその場に響き渡り、辺りはしんと静まり返った。
「――黒兎、頼む。君達がここから逃げてくれないと、ミズホが気にやむ。僕なら大丈夫だ。万が一間に合わなくても、僕がミズホを守るし、透明になれる薬だってある。必ず合流するよ」
「白兎……ちっ! わかったよ! ぜってー捕まるんじゃねぇぞ⁉」
「ありがとう、黒兎。助かるよ……」
「……気色悪りぃ事ほざいてんじゃねぇよ! 行くぞ、お前等! あたしについてこい!」
 黒兎は二人に声をかけると、私達に背を向けた。
 月明かりが辺りを優しく照らし、光がまるで細かい綺羅星のように、地面をキラキラと輝かせていた。
 そんな中、彼がそっと口を開く。
「……ちょっと待てよ。勝手に決めるな」
「ソウくん……」
「ミズホ、俺も一緒にここに残る。君を置いてはいけない」
 その言葉を聞いた途端、白兎は真っ赤な目で彼を睨みつけた。
「黙れ……お前の出る幕じゃない。下がってろ。ミズホは必ず僕が守ってみせる。お前はサヤの事だけ守っていれば良い」
「おま……」
「ソウくん!」
 反論しようとする彼を、私が制止する。
「ソウくん、お願い……行って。もうすぐ般若達がここまで来てしまう。サヤさんと黒兎を守ってあげて」
「ミズホ……」
「……行きましょう、ソウ。行けと言うのだから行けば良い。どうせ今、理由を問う猶予すら私達には与えられていないのだから。私は兎さえ手に入ればそれで良い。本当は白兎を無理矢理にでも連れて行きたいところだけれど……どうやらそれは無理なようね。なら、二匹とも奪われるわけにはいかない。……ねぇ、そこの娘。私達はどの方角をゆけば良いの?」
「般若達は……あっちの方角から来ます」
「……そう。ありがとう」
 彼女は私達に背を向けると『行きましょう』と言い、黒兎と彼の手を引く。彼は振り返り、じっと私を見つめた。
 ひょっとこの面に隠され、その表情はわからないけれど……きっと泣きそうな顔をして心配している。
「ソウくん、大丈夫。私達を信じて。必ず合流する」
「……わかった。きっと、無事で」
 彼は私にそう告げると、黒兎とサヤさんと一緒に森の中へと消えていった。

「ミズホ。この状態のまま、奴らが今、どの辺にいるか確認出来る?」
「……やってみる」
 私は、そっと両目を閉じた。
 ――いた。
 声は聞こえない。白兎の力で地獄耳の効果が一時的にかもしれないが、上手く制御されているようだ。
 般若達は立ち止まっている。先程視た場所から、さほど距離が進んでいないように思えた。
 ……良かった。もう少し時間が稼げそうだ。
 ――その時、私は恐ろしい事に気付く。
 般若はその手に、液体の入った小さな瓶を持っていた。……間違いない。あれは魔女の薬だ。
 色の識別が出来ない。中身は恐らく透明。だからといって、ただの水のわけがない。
 何故だ? 何故、般若があの瓶を? ……魔女から無理矢理奪ったのか?
 それとも、最初から魔女が裏で糸を引いていたという事なのだろうか?
 聞かずとも知れている。恐らく後者だろう。
 私は最初から、魔女の手の中で踊らされていたというわけだ。そして私がその事に気付くのも、きっと魔女の想定内。
「やってくれるじゃない……」
 そして……もう一つわかった事がある。
 般若は薬を飲む為に、その面を外した。
 ……どうして今まで気付かなかったんだろう? どうして、今まで忘れてしまっていたんだろう?
 よく考えれば簡単な事だったのに。
「シロくん……」
「……ん。君に触れていたからか、僕の頭にも映像が流れ込んできた。そして……君の思考まで、ね。ミズホ、般若に心当たりがあるんだね」
「うん。般若が誰なのかが……わかった」
「話してくれる?」
「……うん。般若の正体は……兎狩りの二日目が始まった時、突然私に襲いかかってきた鬼面の男。間一髪のところで、ソウくんが助けてくれたの。その時、彼は……もしかして兎狩りの対象者かも外れるかもしれないと言って、あの男から鬼面と脇差しを奪った……」
「成る程ね。道理で君達に対する奴の憎悪が強いわけだ。しかし、あの男も考えが浅いね。鬼面がなければ対象者から外れるなど馬鹿の極みだ。けれど……何かが引っかかる。ミズホ、その鬼面は……今でもあいつが持っているの?」
「……わからない。けど、多分。おかめの面もひょっとこの面も、元の世界に戻ると消えているのに、この世界に戻ってきた時はいつもちゃんと手に持っているから。今でも彼の鞄の中に入ってると思うけど……」
「……あの男は今、【鬼面と脇差し】を持っている。そして、あの魔法の薬が入った瓶の【中身】。般若の【望み】。僕の考えが正しいとしたら……」
 白兎は即座に立ち上がると私に告げた。
「……ミズホ! 急いで黒兎のところに向かおう。耳は取り敢えずこれで大丈夫な筈だ。――嫌な予感がしてならない」



 ――畜生! どうしてこうなった⁉
 油断した。まさか……いきなりサヤが、【背後】から斬りつけられるとは。
 まったく意味がわからねぇ。てか、有り得ねぇだろうがよ! ……目の前にいる【こいつ】は、誰だ?
「……見つけた。黒兎と死に損ないの鬼女の娘。どうして、白兎と人間の娘は一緒にいない? 手間をかけさせないでくれよ。俺、面倒臭いの嫌いなんだよねぇ……」
 うぜぇくらいにニヤニヤ笑ってやがるその面に、スクリューパンチでもかましてやりてぇところだが…….流石のあたしでも分かる。
 こいつ異形だ。明らかにおかしい。
 誰かが裏でお膳立てしてやがるみてぇだな。……魔女の野郎か?
 どっちにしたって、ルールがある以上……あたしにはどうする事も出来ねぇ。
 けど……
「ソウ…….貴方、どうして……?」
「……サヤ。お前はあたしの後ろに隠れてろ。こいつは、お前の弟じゃねぇ」
 ――サヤは、あたしが守ってみせる。
 こいつの記憶が既に失われていて、たとえ何も覚えてなくても……あたしはこいつに【借り】があんだよ。
 最悪な事に、ここは白兎達のいた場所から殆ど離れていない。きっと、すぐに辿り着いてしまうだろう。
 今あの身体で無茶でもすりゃ、罰どころか白兎の奴……消滅しちまうかもしれねぇ。――あたしが何とかしねぇと。
 【そいつ】は鼻歌を歌いながら、肩にかけている鞄の中から何かを取り出した。あれは……鬼面、か?
「……あーった。あった。やっぱりこれが一番しっくりくる」
 そいつは鬼面を被ると、脇差しをブンブンと上下に振った。目に見える凶々しいオーラが、ぶわっと辺り一面を包み込む。
 森の従者である鎌鼬は、その危険性を察知すると、荒ぶる風を巻き起こしながら颯爽とその場から逃げ出した。
 ……よし、それで良い。――頼んだぞ。
「さぁ、黒兎。……こっちにおいで。そして俺の願いを叶えるんだ」
「お前、般若の野郎だな? ……どうやってそいつの身体を乗っ取りやがった」
 男は手を広げながら、大声で高笑いをする。
「ひゃっはっはっは! ……そうそう、俺だよ。俺が、お前達の言う【般若の男】だよ。どうやってだって? 勿論、魔女のおかげさ。……そうだ! ちょっと世間話でもしようか?」
 男は余裕のありそうな態度を見せながら、岩に『よっ』と腰を下ろした。
「――まず、魔女は俺に力を得る薬をくれた。誰にも負けない恐ろしい力だ。本来なら、魔女の薬なんぞに手は出さない。リスクはでかいし、鬼面達の中でもずっとタブー化されてきたからな。まぁ……あの馬鹿なデカブツは、単に喉が渇いたってだけで、目の前にあった【ドリンク】を飲んじまったようだがな? まったくもって救いようがない。……阿保な奴だ。もっとも、阿保だから扱いやすいんだけどな? くくく……あははははははは!」
 男は腹を押さえ、岩の上でケラケラと笑い転げる。サヤは、静かに口を開いた。
「そうね……鬼面の中では決して、魔女の薬を飲んではいけないという掟があった。魔女の薬は【不浄の現れ、身を滅ぼす毒薬】と呼ばれ、嫌厭されてきたもの。見たところ貴方、とても賢いと思うのだけれど……何故、魔女の薬に手を出してしまったの?」
「……何故だって?」
 男は【自ら】を指差し、急に我を忘れたように声を上げた。
「【こいつ】だよ、【こいつ】! こいつが俺の事をいきなり棒か何かで、後ろから殴りやがったんだよ! ……俺をだぞ⁉ この俺を、この俺を……! この【俺様】を、だ! ……この俺を殴るなんて、絶対に許さない。お前達なら許せるか? ……許せないよなぁ? だから俺は、こいつと鷹の目を持つ娘を無惨なまでに破壊してやりたいと思ったんだよぉ。お前ら鬼面の衆らは、その巻き添え! 言わばとばっちりだ! 美しい鮮血、肉を斬りつける感触、絶望の悲鳴……あぁ、思い出しただけで興奮してくるよ」
「……狂ってやがる。気色悪りぃ」

「――クロちゃん!」
 ちょうどタイミングの悪りぃ時に、白兎と一緒にいる筈の【女】の声が聞こえ、あたしは即座に声のする方へと振り返った。
「お前……!」
 女の背に背負われた白兎の顔色はとても悪い。
「シロくんが、ここに向かっている途中に倒れて……!」
「馬鹿野郎……! 無茶ばっかりしやがって……」
 女はそっと白兎を下ろすと、じっと男の姿を見つめた。
「ソウくん……?」
「やぁ、【ミズホ】。白兎を連れてきてくれてありがとう」
「……そいつは般若だ。騙されんな」
 突然男は両手をパンパンと叩き、まるで何かのパフォーマンスでも始めるかのように両手を広げ、大袈裟に振る舞ってみせた。
「じゃあ、話の続きだ。お前達に一つ、問題を出そう。魔女が次にくれた薬の話だ。……魔女は二つの瓶を用意した。どちらにするかは俺自身が決めろと。俺が選んだその中身は、果たしてどっちだ? 俺とこの男の中身が入れ替わる不思議な薬か、それとも……俺がこの男の中に入り、完全に支配できるという不思議な薬か」
 その問いに、あたしははっきりと答える。
「お前がただの単細胞なら……答えは恐らく後者だな」
「……ほう? それは何故?」
「だってよ、中身が入れ替わるっつーのなら……奴は今、お前の身体の中にいるわけだろ? って事は日本刀を持っているわけだし、お前が奴に殺られちまうかもしんねぇじゃん。リスク高すぎ。どこの馬鹿がそんな危険な橋を渡るかよ」
「く、はははっ! 本当にそれが正しいのかな? 向こうにはデカブツを待たせている。奴が目覚める前にデカブツが刀を奪っていたら? 勝ち目などある筈がないじゃないか。そもそも奴が刀で俺を斬ったとしよう? じゃあ何か? 奴はこれから、永遠に俺の姿で生きていくという事か? ……それは面白い。ふはっ!」
 この野郎、必死に笑いを堪えてやがる。……うぜぇ!
「それと、お前の言う『俺が奴の身体を乗っ取り、支配している』が……仮に真実だとしよう。その場合、向こうに残された俺の身体は今無防備な状態だ。そっちの方がリスクが高いとは思わないのか? ……単細胞はお前の方だよ、黒兎。もっと頭を柔らかくして、じっくり考えてみたらどうだ? お前はとても頭が悪い」
「……くそっ! 馬鹿にしやがって! じゃあやっぱり、前者だ! 前者!」
「……いや、黒兎。君は間違っていない。答えは後者だ」
 白兎は、疲れ切った弱々しい声でそう告げる。
「お、自信満々だねぇ? そのわけを聞かせてもらおうか?」
「……簡単だよ。お前が、ミズホの名を知っていたからだ。身体が入れ替わるというのが正解だと言うなら、お前がミズホの名を知っている筈がない。名前を知る暇もなく、その男に殴られ、無様に意識を飛ばしていたのだからね。だから……お前が飲んだのは相手の意識や身体の全てを支配する薬。更に言えば、奪われた鬼面に込められていたオーラで判別し、この場所を当て、奴の身体を乗っ取った。……あいつの記憶から知識を得たんだよね? だから、ミズホの名前を知っていてもおかしくない」
「チッ! ……いけすかねぇ餓鬼だぜ。黒兎と違って、随分と頭が切れるようだなぁ。――そうだよ。俺はこの男を乗っ取った。俺の本体は眠っているが、デカブツが見張っている。まぁ俺は、元の身体に戻るつもりなど毛頭ないんだけどな。こいつの全てはもう、俺の物だ」
 その時、突然の稲光に辺りが眩く照らし出された。
 夜の空がゴロゴロと低い唸り声を上げ、それはやがて、ポツポツと不吉な雨を降らす。……この島での雨は珍しい。今頃、宴の参加者達は慌てふためいている事だろう。
 それはまるで、裏方に回った【夜宴の島】自体が、天候までをも操り、このパフォーマンスを大いに楽しんでいるかのようにも思えた。
「で、どうする? この状態でお前達、【俺】に手出しは出来ないよなぁ? 仲間を傷付ける事なんぞ、出来やしねぇだろ? はははっ! 実に愉快な話だ! おっと! 別にこいつの身体がどうなってもいいのなら、好きに動くがいいさ? 俺は別に痛くも痒くも無い。こんな身体……いらなくなりゃ、すぐに捨てればいいだけの話だからなぁ?」
 イカれた糞野郎の胸糞悪りぃでけぇ声が、鼓膜を振動させ、脳内まで響く。
 雨も少しずつ強くなってきてるし、状況は圧倒的に不利だ。
「俺は変わらず自由に動ける。鬼女と鷹の目を持つ娘……お前達二人を完膚なきまでに破壊すれば、もう俺の邪魔する奴はいない。このイベント、俺の一人勝ちだ! ……あ、そうだ。最後にあのデカブツも処分しておかないとな。もう必要ねぇや」
 そいつは岩から腰を上げて立ち上がると、一歩ずつあたし達に近寄る。
「この男の身体を使うのは、少々不愉快で納得がいかないが……まぁ、良い。こいつは永遠にこの俺に支配され、人を殺め……そして苦しみながら、その一生を闇の中で生き続けるんだ! ……どうだぁ? こんな最高なシチュエーション、そうはないだろう?」
 下卑た高笑いがこだまする中、女がスッと立ち上がった。
「……そんな事はさせない。ソウくんの身体でそんな事は絶対させないし、双子達も決して渡さない。サヤさんと私も、貴方なんかにやられたりはしないわ! ソウくんは……絶対に返してもらう!」
 女は即座に透明になれる薬の、残り全部を飲み干すと、急いであたし達の身体に触れた。あたし達の身体が、即座に消え始める。
「ほぉ……?」
「散らばって! 出来るだけ、早く! クロちゃん! ……シロくんをお願い!」
 女が気丈に、そして勇敢に指示をする。――こいつ、こんなに強かったか?
 とにかく女の言う通り、あたしは急いで白兎を担いだ。
「おい! しっかりしろ、白兎! 姉ちゃんがぜってーに助けてやるからな」
「……はは、大丈夫だよ。けどありがとう。――姉様」
「しっかりしろよ! 弱ってるお前なんて気色悪ぃよ!」
 あたしは兎面をほんの少しズラし、首につけていた宝玉の紐を歯で噛みちぎると、白兎の手に強く握らせた。
「これでも持ってろ。ちぃったぁ、妖力も回復するだろう」
 白兎は頷くだけで返事をしない。こいつ……やっぱり相当弱っている。どうしてそこまで……
 あたしは白兎を担いだまま、素早く樹の上部に移動する。頑丈な大木に白兎をもたれさせると、太い枝があたし達の重みををしっかりと支えてくれた。
 ここなら、全員の姿が確認出来る。って、あれ……? ちょっと待てよ?
 あたしは今、あの女に触れてもいないのに……ずっと【インビシブル状態】を保てている。
 確かあいつ……『薬を飲んだ者と身体が触れている間だけ、姿を隠す事が出来る』って、言ってなかったっけ? ……やべぇな、おい。きっとアイツは今頃、頭が一杯で……その事をすっかり忘れ、気付いてすらいないだろう。触れ続けなくても、一度触れただけで相手の姿を消す事が出来るまでに身体が変化し始めている事を……

 あいつは……【ミズホ】は……もう手遅れだ。

 あいつが隠し持っている【もう一つの薬】は、一体どんなモノなのだろうか? それがろくなもんじゃねぇって事くらい、あたしにだってわかる。……白兎の為にも、なるべく使わせたくないな。
 ふと、あたしは女に目を移した。女は……更に深手を負ったサヤに手を貸すと、サヤのペースに合わせながら、森の奥へと逃げる。
 男はまるで、それが視えているかのように……ゆっくりとその後を追った。
「――おいおい、視えてんのかよ?」
 あたしは木の枝を折り、手の上に置くとフッと息を吹きかける。木の枝は勢いよく飛び、男の後頭部に打ち当たった。
 男は立ち止まり振り返ると、キョロキョロと執拗に辺りを見回したが、やがて諦めたかのように、再び森の中へと姿を消した。女とサヤの後を追ったようだ。
 ……やはり視えてはいない。奴はあたし達の姿を認識出来ていない。
 なのに、どうしてあの二人の後を正確に追えるのだろう?
「!……そうか、わかったぜ。――おい、白兎! 聞こえるか⁉ あたしは少しここから離れる。お前はここにいろ⁉ いいな?」
「え、ちょっと……黒兎……?」
「……嫌な予感がすんだよ。あたしの予感的中率が高いって事、お前よく知ってんだろーが」
「……確かにね。君は頭が悪いけど、勘は鋭い。じゃあ……僕も一緒に行くよ」
「馬鹿野郎! お前みてぇな足手纏いがついて来やがったら、邪魔にしかなんねーだろ⁉ ……ここにいろ! いいな⁉ あと、頭が悪いは余計だっつーの!」
 あたしは白兎の返事も聞かず樹から飛び降りると、急いで奴らの後を追った。
 ――それはまるで、不気味な風と、哀しい雨に誘われるように。

十一

「サヤさん! 大丈夫ですか⁉ もう少しです! 頑張ってください!」
 私は負傷したサヤさんを出来る限り励ましながら、森の奥へと突き進む。
 しかし、姿を隠したと言えど根本的な解決には繋がらない。何とかして彼を助けなければ。
 けれど、一体どうやって彼の身体から般若を引き離せばいいのだろう……
 雨で視界が悪い。元々薄暗かった森が、ますます暗く淀んで見えた。
「うっ……!」
「! 大丈夫ですか⁉ サヤさん!」
 ……酷い怪我だ。背中からは血が流れ、白い袴が赤く染まっている。
「姿は視えていない筈だし……あの大岩の後ろに隠れて、暫くやり過ごしましょう!」
 私は彼女を何とか大岩の後ろまで連れて行くと、そこにゆっくりと座らせた。
「貴女……ミズホ、とかいったわね。どうしてそんなに一生懸命なの? 私は貴女の敵よ? 貴女にも、叶えたい願いがあるのでしょう?」
「敵なんかじゃありません! 貴女はソウくんの大切なお姉さんなんだから……そんなに警戒しなくても、私は貴女の味方です! それに、私には叶えたい願いなんて……何もありませんから」
「叶えたい願いなんてない? ……本当かしら? じゃあ、その耳はどうするの?」
「え……?」
「……治さなくても大丈夫なの? きっと、ソウも気付いているわよ。恐らく、その目の事も。あの子は……昔からとても賢い子だったから」
「⁉ サヤさん……もしかして記憶が⁉」
 彼女は鬼面をそっと外すと、ふぅと深く息を吐いた。額には雨と汗とが混じり合い、その表情からは、傷の痛みを懸命に堪えているのがよくわかった。
「……灯台で少し休んだ時に、夢を見たの。あの子にそっくりな顔をした幼い子供が、私を『お姉ちゃん』と呼び、笑っていた。その瞬間、記憶が鮮明に蘇り……全て思い出したわ」
 サヤさんの記憶が戻っていたんだ! ――本当に、良かった。
「貴女……ソウの事が好きね?」
「……えっ⁉ そ、それはその……」
「言わなくてもわかるわ。貴女ってとても素直でわかりやすいもの。……けどね、私もソウの事が好き。私にはずっと、ソウしかいなかったから……」
「サヤさん……」
 彼女は雨に打たれながらも、暗くて何も見えない空を見上げた。その表情は、とても美しかった。
「……好きなの。ソウの事が好き。ソウの全てが好き。久し振りに会って、忘れていた筈の感情が溢れ出し、想いが止まらなくなった。……貴女も、私の事をおかしいと思っているんでしょうね? 姉と弟なのに気持ち悪い、結ばれっこないのに、惨めで憐れな女だって。……そんな事はわかっているわ! 誰よりも一番私がわかってるわよ! 私の気持ちは、いつだってソウの負担になっていた。ソウが疲れているのにだって……ちゃんと気付いてたわ。じゃあ……一体、どうすれば良かったの。私の世界には、ソウしかいなかったのに……」
 彼女は華奢なその肩を静かに震わせながら、そっと涙を流した。
 ……彼女の想いが胸に響く。彼女の心境が、まるで手に取るようにわかり、その悲痛な訴えが、心を抉り取るような苦しみと痛みを連れて来る。
 この人はやはり夜科蛍だ。存在の全てがそれを物語っている。
 これ程までに彼の事を愛しているのに、彼女が【この夜宴の島】で生きていきたいと願ったその理由は……もしかして、彼を自分から解放してあげたかったから?
 ……私はそっと、口を開いた。
「…………ああ、こんなに近くにいるのに、私は貴方に触れる事すら許されない。月明かりの下で涙を流す貴方の姿を、こんなにも近くで見つめているのに……今の私には貴方の温もりを感じる事も、その胸に飛び込む事も出来ないのだ。……こんなに傍にいるというのに。沈んだ深い湖の底。仄暗くて、何が綺麗なものか。貴方の瞳から流れる涙よりも美しいものなど、この世界には存在しないであろう。抱きしめる事さえ許されない憐れな人魚は……もはや人魚などではなく、人知れず藻屑と成り果て、消えていくだろう。こんな姿を見ないで。もう会いに来ないで。私の事は忘れて。……幸せになって。本当はずっと、貴方と一緒に……生きていたかった」
「貴女、それ……」
「――鏡花水月、です。サヤさんの作品ですよね。私、大ファンなんですよ?」
 私は彼女の方を向き、笑ってみせた。
「……私、鏡花水月が好きです。大好きです! 貴女の作品を読む度に、胸がとても苦しくて、痛くて、切なくて、涙が出て……どうしてこんなにまで、私の心を激しく揺さぶるのだろう? 想いが、こんなにまでダイレクトに伝わってくるのは何故なんだろう? って……ずっと思っていました。……けど、今わかりました。きっと貴女が、貴女の想いの【全て】を、その小説に込めたから! 私はその一途でひたむきな想いに共感したんです」
「……想い」
「好きなら好きでいいじゃないですか! 好きなんだから仕方ないですよ。無理して諦める必要なんて、どこにもない! ――サヤさん! 私もソウくんの事が好きです! 大好きです! 彼と過ごしてきた時間はら到底サヤさんに敵う筈もないし、想いの深さでは勝ってる、だなんて……そんな烏滸がましい事も私には言えません。けど……私の心の中には彼がいます。その気持ちに、嘘だけは吐きたくないんです。でも、不思議ですね。私……変かもしれないけれど、ずっと憧れだった貴女と、同じ人を好きになれて……何だかとても嬉しいです」
 彼女は目を見開き、呆気に取られたような顔で私を見つめた。次第にその口元が、プルプルと緩み始め、プハッと勢いよく息が漏れる。
「ふふ……あはは! ふふふ!」
 彼女は目に涙を浮かべたまま、まるで幼い子供のように声を上げて笑った。その表情はやはり、彼にとてもよく似ていた。
「――貴女って本当に可笑しな人。けど、どうしてソウが貴女と行動を共にしているのか、少しだけわかった気がするわ。……ありがとう、ミズホ」
「え……?」
「……けど、ソウは絶対に渡さないし、兎達も私が貰うからね⁉ このイベントで勝利を手にするのは、絶対に私なんだから! わかった⁉ あ、あと! その敬語もやめて。……サヤでいい」
 彼女が……サヤが、優しい顔をして柔らかく笑う。その微笑みがとても嬉しくて、私は頭を上下にブンブンと振りながらおかめ面を外すと、にっこりと笑った。
「うん! よろしくね、サヤ!」
「――そろそろ、話は終わったかな?」
 突然聞こえてきた声に驚き、私達は急いで背後に振り返る。
 そこには……岩の上で私達を見下ろす、彼の顔をした【悪魔】の姿があった。
「え……? 何で……どうして……⁉ 何故、私達を見つける事が出来るの……⁉」
「……お嬢ちゃん達はお喋りに夢中で、全然気付かなかったみたいだね? 姿を隠していても声はちゃんと拾えるんだから、油断しちゃあ駄目じゃないか? 結果、こういう悲劇を招く事になる」
「そんな! ……ううん。それでもやっぱりおかしいよ。声が聞こえたって、この雨の中で? 私達の場所を、完全に把握していなかったら……声を聞き取れる範囲の場所にいなければ……わかる筈がない。貴方、どうしてわかったの⁉」
「……さて、どうしてでしょう?」
 般若、いや……鬼面は、サヤの身体を軽々と引っ張りあげると、そのまま地面へと投げ付けた。
「……ふぅん。触れたら姿を認識する事が出来るんだねぇ。兎達と同じじゃないか」
「サヤ! ……痛っ!」
 彼女の名を呼んだ直後に、頭皮に鈍い痛みが降り注ぐ。鬼面が私の後ろ髪を思いっきり掴み、何本かがブチブチと音を立て抜け落ちた。
「なぁ、【ミズホ】? 邪魔しないで、ちょっとそこで見てろよ。……大丈夫さ。心配しなくてもすぐにお前の番だからさ」
 鬼面は彼の声を使い、そう耳元で囁くと、乱暴に私の髪から手を離し、大岩から飛び降りた。
「……どうした? 傷が痛くて声も出ないか? 出ないよなそりゃ! ……でも大丈夫。もう声を出す必要もない。――永遠に眠れ。憐れで醜い、鬼の女ぁああ!」
 鬼面は脇差しを彼女に向かって振り下ろした。
「サヤぁああああああ!」

「……やめろ! サヤに近付くんじゃねぇ!」
 ――それは、突然の出来事だった。
 どこから現れたのか? 黒兎が鬼面と彼女との間に割り込み、眩い光を放った瞬間……凄まじい力で、男の身体を強く吹き飛ばした。
 ……そうか。私達は鬼面に【認識された】。黒兎は【認識されていない】。……だから、私達には黒兎の姿が認識【出来なかった】んだ。
 黒兎の面が一瞬触れた脇差しの刃に弾き飛ばされ、隠されていたその姿が露わとなる。幼いものの、美しいその素顔に……私は思わず目を奪われた。
「……てめぇ、サヤに手を出してんじゃねぇぞ。指一本でも触れてみやがれ……? 一瞬でお前を塵に変えてやるからな」
 白兎の禍々しい赤い目とは違い、怒りを冷静に宿す青い目の兎は、紺碧のオーラをその身に纏い、逃げ回る鬼面に対して攻撃をやめようとはしない。
 鬼面は、樹や岩などで激しく身体を強打しながら、やがて情けないように口を開いた。
「……お、おいおいおい、ちょっと待てよ⁉ そりゃ、ルール違反てもんだろ⁉ こっちは兎に手出しはできねぇんだぜ⁉ それにお前、コイツの身体がどうなってもいいのかよ⁉ ほら、血が出てるぜ! ほら! な?」
「……黙れ。そんな事、あたしには関係ね――」
 ――その時。目も眩んでしまう程の稲妻が、黒い空を裂いて青く光り、凄まじい雷鳴が地上に轟き渡った。
「っ、ぎゃあああああああ!」
 激しい落雷は短い間隔を置いて、黒兎の身体を容赦なく、無情な迄に痛ぶり続ける。助けに行きたくても、近寄る事さえ困難だった。
 幼い断末魔が……雨に掻き消される事なく森中に響き渡る。私はただ、それを震えながら眺めている事しか出来なかった。
 やがて雷鳴は鳴り止み、傷付いた少女はそのまま地面へと倒れ込む。
 濡れた土の中に顔を沈め、少女は今、一体何を思うのだろう。
「クロ!」
 サヤは急いで黒兎に近寄ると、その手をぎゅっと強く握りしめた。
「クロ、しっかりして! どうして⁉ 何で私なんかを助けたの⁉」
「仕方ねぇだろーがよ……身体が勝手に動いちまったんだから、ルール違反になる事くれぇ気付いていたってに……本当に馬鹿な話だぜ。こんなんじゃ、白兎の事をとやかく言えねぇよな……てかお前、記憶……取り戻したのかよ?」
「うん! うん……! 思い出したよ、全部! でも私は、貴女達との約束を破った。『この世界の事は全て忘れ、誰よりも幸せに暮らせ!』って、貴女は言ってくれていたのに……結局馬鹿な私は、元の世界で生きていく事なんて出来なくて……自らの手で生命を絶ち、ここに戻ってきてしまった! そして、醜い鬼なんかに成り果ててしまった。ごめんなさい、ごめんなさい! 生命を大切に出来なくて、本当に……ごめんなさい!」
 彼女の……サヤの涙が、開かれたままの蛇口の水のように、止まることを知らず、その白い頬に哀しい跡を残す。
 黒兎は困ったような表情を見せながら、『もう謝んな……馬鹿野郎』と、弱々しく言葉を紡ぎ始めた。
「お前は、こんな場所にいるべき存在じゃねぇと思ったから追い返してやったのに……簡単に死を選んでまで……戻ってくんじゃねーよ。正真正銘の、馬鹿野郎だよ……お前は……」
「そうだね、でも私は……もう一度クロやシロに会いたかった。もう二度と会えないなんて……そんなの絶対に嫌だった! ……元の世界は嫌い。私はここで生きていきたかった。この夜宴の島で……ずっと貴方達と」
 サヤは黒兎の身体を優しく、そして、強く抱きしめた。
「クロ、ただいま……ただいま!」
「……サヤ。――おかえり」
 黒兎は、普段の口調からは到底想像出来ないくらいに、優しく穏やかな顔で笑った。
 そんな二人の姿に何故だか涙が溢れた。サヤと黒兎には、どうやら私も知らない強い絆があるようだ。
 良かった……思いが通じ合えて。本当に良かった……!

「貴様ら舐めやがって……この俺をこんな目に合わせた事を後悔させてやる!」
 般若は唸るような低い声を出すと、痛々しい身体を必死に支え立ち上がろうとするが……脚に力が入らないのか、樹にもたれかかるような体制のまま崩れ落ちる。
「く……そ! 畜生!」
「……ひっひっひ。何とも無残な姿じゃのう?」
 般若の背にある樹の後ろから、ひょっこり顔を出す老婆。――魔女だ。
「情けない醜態を晒しおって、せっかく儂がお膳立てをしてやったものを……ほれ、若いの。これをやろうではないか。飲むがよい」
「魔女⁉ 貴女、何を⁉」
 私は魔女に向かって叫ぶ。
「へへ……これはありがてぇ」
 鬼面は間入れず老婆から、既に蓋を開けられた状態の瓶を受け取ると、中に入っていた液体を一気に飲み干した。
 ――鬼面は突然苦しみ悶える。目を凝らし、よく見てみると……先程、黒兎に負わされた傷がみるみる内に消えていくのがわかる。
 男はまるで雄叫びのような咆哮をあげると、やがてスッと立ち上がり、歓喜に満ちたような声で老婆に言った。
「――すげぇ。すげぇぞ。力が無限に込み上げてくる。……これならやれる! どんな相手にだってやられる気がしねぇ……! まるで神にでもなった気分だよ! おい、魔女! これは一体どんな薬なんだ⁉」
「それはじゃな、誰にも負けぬ……強大な力を手にする事が出来る薬じゃよ。それを飲めば、お前は誰にも負けない。もうそんな無様な姿を晒す事もなかろうて」
 魔女は瞬時にその場から消えると、突然私の目の前に現れた。
 鬼面はそんな事など御構いなしに、自身の両手を見つめ、ゲラゲラと笑い続けていた。
 そして魔女は……私にしか聞こえないような小さな声で、こう告げる。
「さて、儂は高みの見物でもさせて貰おうかのう? ……娘、もう例の【薬】の力を使わなければこの現状は覆せないぞ……? ひっひっひ! まぁ……お主がアレを飲んでも、成功するかどうかはわからないがのう。前にも言ったようにアレは、使用方法がとても難しい。お前は【何】を選ぶか、……果たして【どれ】を選べば、適切にことを運べるだろうか? 精々、上手く立ち回るが良いぞ」
 魔女は笑い、今度こそ本当にその姿を消した。
「私次第……」
 その時、背後から黒兎とサヤが……その身を引き摺るようにして歩いてきた。
「くそ……絶体絶命ってやつだな。気でも狂ったかのように笑い続けてやがる……けど、あの力はマジでやべぇよ。このままじゃ、全滅だ」
「ミズホ、魔女と何を話していたの……?」
「……サヤ、クロちゃん」
 二人の身体は傷だらけだ。……クロちゃんの言う通り、このままでは全滅してしまう。
 ……このタイミングで使うしかない。効果を得られるのは、たった一度だけ。

 なら、私が選ぶ【答え】は……もう既に決まっている。

「二人とも、暫く樹の陰に隠れていて。私……行ってくる」
「ミズホ? 行ってくるってどこへ……?」
「……お前! まさか、薬を……⁉」
 黒兎がそう言いかけたと同時に私は素早くポケットから魔法の小瓶を取り出すと、黒い液体を一滴残さず全て飲み干した。
 ……身体は何ともない。それもそうか……この薬は今までのものとは違い、効果が出る【タイミング】が、少しばかり違う。成功するかどうかも、正直私にはわからない。……けれど、もうやるしかない。
 チャンスは一度、失敗は……出来ない。
「……おい! 今飲んだ薬は何なんだよ……⁉ お前一体、何考えてやがんだ⁉ なぁ、おい! 返事しろ! ――ミズホ!」
「……初めて、だね」
「え……?」
「クロちゃんが私の名前を呼んでくれたの。……何だか、少し嬉しい」
「! ……こんな時に馬鹿みてぇな事言ってんじゃねぇよ! 行くな! お前になんかあったら白兎に顔向け出来ねぇじゃねぇか!」
「ミズホ、駄目! 行ってはいけない!」
「ソウくんを!」
 私の声を聞いた二人が押し黙る。
「……ソウくんを助けるの」
 私は、二人にそっと笑いかけた。
「……大丈夫。私を信じて? それに、あのままだと……彼が可哀想だ」
「ミズホ……」
 私は鬼面の方へと一歩ずつ、ゆっくりと歩いていく。……怖くない筈がない。けれど【彼】を、あのままにはしておけない。
 鬼面は私の方に振り返ると、不気味な笑いを含んだ声で私にこう言った。
「……何だぁ? わざわざ殺されにきたのか⁉」
「ソウくんを返して」
「はっ! 馬鹿か、お前? 人間世界での俺の本体はとっくに消滅している。こいつの身体のままいれば、俺は再び現世に生を設ける事が出来るんだ。誰がそう簡単に返すものか!」
「ソウくんを返して!」
「……救いようがない馬鹿だな! この絶対的な力を目前にしても、怯むことなく喰いつくとは。人間にはわからないのか? この圧倒的なパワー……そして、類稀なる破壊力が!」
「それは貴方の力ではない! 魔女の力よ!」
「……ふん、まぁいいだろう。この力の最初の【見せしめ】をお前にしてやるよ⁉ 愛しい男の刃によって……その生涯を終えろ!」
 鬼面は脇差しを握り直し、そのまま私の腹に狙いを定め、一直線に貫く。
「うぐっ……はっ!」
 それと同時に、私の口内からおびただしい程の血液が溢れ出した。
 尋常じゃないくらいの痛みが、無情なまでに私に襲いかかる。ドクンドクンと心臓が波を打ち、貫かれた傷口が焼けるように熱い。……だんだん意識が遠退いてきた。鬼面のカンに触る高笑いが、どんどん遠くなり始める。
 ……まだだ。ここで倒れるわけにはいかない。
 私は自身を貫いたその刃を、ギュッと強く握りしめた。
「! ……おい⁉ お前、何をやっている? ……離せ!」
「……いや……絶対に離さない。私は……この時を待っていたんだから」
「ミズホ!」
「いやああああ!」
 黒兎とサヤの声が聞こえる。心配しないで、二人とも……大丈夫、私は大丈夫だから。
 さぁ、【ブラッディ・イレイザー】。
 ――私の願いを聞いて。
 これ程までに血を流したのだから、絶対に失敗なんてさせない。
 鬼面に逃げられないように、わざと刀で貫かれたのだから……絶対に刃を抜かせはしない。
 そしてあと一つは……
 私は、魔女の言葉を思い出していた。

『よし、じゃあ説明してやろう。発動方法その一。発動するには自身の血液が必要。多ければ多い程、その威力が増す。発動方法その二。【それ】に関与している対象者、対象物に触れていなければならない。そして……発動方法その三。対象者もしくは対象物に、自身の血液を塗り込む。……そうすれば、たった一つだけ【あった事をなかった事】に書き換える事が出来る。それを全て終えた時、お前がなかった事にしたい内容を、大声で叫ぶが良い。ひっひっひ!』

 私は必死に血の付いた片手を伸ばし、鬼面の腕を強く掴んだ。
 私が【消し去りたい】事は、ただ一つ……
「お前っ! 何を⁉」
「ソウくんの中に……鬼が【入り込んでいる】事実を、なかった事にして!」

 ――突然、私以外の【全て】が活動を停止した。

 私の目の前にいる鬼面の男に、少し離れた場所にいるサヤと黒兎……
 空。そして森。その全てがモノクロと化す。
 そこに現れた眩い光。大きな樹の近くで、それは一際美しい輝きを放っていた。
 ……中に誰かいる。私はその光の中を、ジッと見つめた。
 中から現れたのは……今、巨体の鬼面と一緒にいる筈の白い袴を着た般若の姿。近くに巨体の姿はない。
 般若は今、彼の……ソウくんの中に入っているのだから、その身体は当然もぬけの殻だ。
 般若の身体はグッタリと、もたれかかるようにしてその樹に身を預けながら、静かに眠っていた。
 次に光り輝き始めたのは、私の目の前で石像のように動きを止めていたソウくんの身体……
 輝く光はソウくんの身体から勢いよく飛び出すと、樹にもたれかかり眠ってる般若の身体にすっと入り込んだ。
 その瞬間、目も開けていられない程の黄金の光が辺り一面を包み込み、視界は一瞬にして真っ白になった。

「――ミズホ!」
 時間が動き始めたのだろうか? 私の名を呼ぶ黒兎の声が聞こえる。
 貫かれた刃が小刻みに震えているような気がして……私はそっと顔を上げた。
 目の前にいた男は、空いてる方の手で鬼の面を外すと、真っ青な顔をし、泣き出しそうな表情を見せながら、歯をガタガタと揺らしていた。
 ――ああ、ソウくん。元に戻ったんだね。……良かった。本当に。
 脇差しからそっと手を離すと、刃はするりと私の身体から抜ける。彼は脇差しを投げ捨て、私の元に駆け寄った。
「ミズホ! ……どうして、こんな事を!」
 彼が私の身体を強く……けれど、とても優しく抱きしめる。その身体は、尋常ではないくらいに震えていた。
「ごめ……ソウくんの手を……汚させてしまって……本当にごめん……なさ……」
「もう喋るな! 頼むから……喋らないで……」
 サヤと黒兎が急いで私の元に駆けつける。二人共怪我しているのに、私の為に無理をしないで。お願いだから……
「ミズホ! しっかりして……! ミズホ!」
「……黒兎、頼む! ミズホを、ミズホを助けてやってくれよ、頼むから……」
「……無理だ。あたしの力ではどうにもならねぇ。……もう手遅れだ」
「……クロ、兎狩りの勝利者の願いは? それならミズホを助けられる?」
「……それも無理だ。夜が明けるまで、こいつは生きていられない。故に勝利者にはなり得ない。たとえ他の奴が勝利者になろうと、死んだ者を生き返らせる事は出来ないんだよ。それに見てみろ……お前らもわかってんだろ? コイツの目や耳……そして、色を失いつつあるその身体。たとえ生命を取り止めたとしても……人としての視力、聴力を失う。やがてその存在自体、誰にも認識されなくなるだろう」
「そんな……!」
「じゃあ、どうすればいいんだよ……? 俺達にはもう……どうする事も出来ないのかよ?」
 雨が……まるで皆の代行を引き受けたかのように、空から多くの涙を降らす。……私は助からない。
 そんな事はとっくにわかっていた。自分の身体の事だもの。
 だから今、私が言える最善の言葉は――
「皆……聞いて……?」
 皆は一斉に黙り、私の声に耳を傾ける。私はゆっくりと口を開いた。
「私を置いて、皆でここから逃げて……あの男が目覚めてしまう前に……きっと、すぐに目覚めてしまう。それに……巨体の鬼も……ここに向かっているかもしれない……」
「……嫌だ。俺はここにいる。何があっても、絶対に離れたりしない」
「ソウくん……黒兎とサヤの身体はもう限界なんだよ……? それに貴方も……あの男が中にいた時に黒兎から受けた攻撃で、ダメージが大きい筈……ここにいたら……皆死んでしまうかもしれない。今逃げたら……貴方達だけでも助かるかもしれないの……! せっかくのチャンスを、下らない正義感や同情心で無駄にしないで……」
 サヤが、私の襟元をグッと強く掴んだ。
「さっきから聞いてりゃ、馬鹿な事言ってんじゃないわよ! あんたね、ふざけてんの⁉ 置いていかないって言ってんのよ! 正義感? 同情心? ……あんた何言ってんの⁉ あんたは初めて出来た私の女友達なんだから! 友達置いて逃げる奴がどこにいるっていうの? 見損なうんじゃないわよ!」
「……サヤ」
 サヤは、私の襟からそっと手を離すと……ふぅと一呼吸置いて私に告げた。
「……私達はさっき、貴女と白兎を置いてここまで来た。今度は絶対に、貴女を置いていったりしないわ」
 黒兎はポンッと彼女の肩に手を置くと、そっと口を開く。
「わりぃな。あたしもコイツ等の意見に賛成だ。ミズホ、お前の意見は聞けねぇよ」
「……クロ……ちゃん……まで……どうして……」
「このまま尻尾巻いて逃げるなんて、あたしのプライドが許さねぇんだよ! そもそもあたしは【犬】じゃねぇ! 【兎】なんだよ! 【負け犬は尾で尻を隠すように、巻いて逃げる】なんて言うけどな⁉ 巻いて隠す尾なんて、あたしにはねーんだよ!」
「クロ、何か根本的にちょっとずれてる。……まぁ、照れ隠しだとは思うけどね」
「う、うるせぇよ! とにかく、大丈夫だ。まだ【奇跡】が起きる可能性はある。その可能性は、かなりゼロに等しいけどよ」
「……奇跡……って……?」
「確証がない事は口にしない主義なんだ、悪りぃな。けど、奇跡は奇跡だ。期待しない程度に信じてみろ」

「……くそっ! 貴様らぁ……!」
 突然聞こえてきた声の方角に、全員が一斉に目を向ける。
 般若面を被った鬼面の男は、樹で身体を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「おい……そこの死に損ないが……! お前一体、俺に何をしたぁ……⁉ ふざけた真似しやがって!」
 少し離れた位置から大声で喚き散らす男。ソウくんは庇うようにして私達三人の前に立つと、男に向かって叫んだ。
「……よくも好き勝手暴れてくれたな! お前が中にいる間、俺の意識は常にはっきりしていた! だから……お前が俺の身体を使って、何をしたのか……俺は、全て覚えてるよ。――この人でなしが。地獄に堕ちろ」
 彼の言葉に、男が嘲笑いながら答える。
「……ハッ! 生憎だがな? こっちはとうの昔に人の身なんぞ棄てているんだよ! ……人でなし? 大いに結構! 愚かで浅はかな人間など、こちらの方から放棄してやるよ! ……まぁ、良い。この漲るパワー。【最強の力】は、どうやらこっちに受け継がれたらしいな。なら、そのような腰抜けの身体など、もう要らんわ! ――覚悟しろ。すぐにお前達をあの世まで送ってやるよ。人の身をなくし、地獄に落ちるのは、……はて? どちらの方かな?」
 鬼が持っていた日本刀を握りしめて、ゆっくりとこっちに向かって歩いてくる。まだ少し距離はあるが、私達は逃げる事すら出来ない。
 黒兎が言っていた【奇跡】。そんなものが本当にあると言うのなら……
 ――お願い。……奇跡よ、起きて。

「黒兎……早くこっちに来い。間違ってお前まで斬ってしまうわけにはいかないからなぁ。白兎はどこに行った? お前達の力で、この俺を早く【夜宴の島】の王にしろ」
  その言葉を聞くや否や、突然『ぷっ!』と吹き出し、大笑いをする黒兎。 ……男は、ピタリと足を止めた。
「……何がおかしい?」
「だ、だってよ、王だぜ? 王! これが笑わずにはいられるかって話だぜ! ぐはははは! 何、お前? 王様になりたかったの? くくく……あーっはっはっは! あ~腹いてぇ! 白兎にも聞かせてやりたかったぜ!」
「……やはりプラン変更だ。お前達、双子の力を借りずとも、今の俺のこの最強の力を持ってすれば、この島にいる住人共など簡単に支配できる筈。皆がこの俺に屈し、平伏すだろう。黒兎、お前はもう必要ない。……こいつらと共に消えて無くなれ!」
 鬼は不気味なオーラを身に纏い、持っていた日本刀をブンブンと振り回した。
「……なぁ、お前。あんまし、ここの連中の力を見くびるんじゃねーぞ」

「――まったくもって、その通り!」

  どこからか聞こえてきた沢山の賑やかな声に、私達は驚き、辺りを見渡した。
 黒兎だけは綻ぶ顔を隠し切れず、拳を握り、『よっしゃ!』とガッツポーズを見せる。
 真っ白い煙のような霧が森中を包み、その奥には幾つもの人型のような黒いシルエットが浮かび上がっていた。
 雨が上がり、霧の中から現れたのは……天狗の面を被った仙人。それに以前、私の傷を治してくれた狸面のお爺さん。そして他にも、見た事のないような変わった面を被った老人が数名……
「爺さん、来てくれたんだな! 鎌鼬、お前でかしたぞ! 良くやったな! 偉いぞ!」
 黒兎は飛びついてきた鎌鼬を抱きしめ、頬擦りをした。
「……やれやれ。鎌鼬が叩き起こすから来てみれば、また随分と酷い有り様じゃなぁ。雨で皆の衆が帰った時に、儂らだけ酔っ払って眠りこけていたのが吉か凶か……狸、この娘さんに最善の治療を。他の者も傷を負っているようじゃが、ちぃと待つが良い。この娘さんの状態は一刻を争うでのう」
「……お、お願いします! ミズホを、ミズホを助けて下さい!」
 彼は泣きそうな声で懇願する。その声に、私はとても胸が痛んだ。
「よしよし、安心しんさい。儂らが来たから大丈夫だ。……娘さんや。人の身でありながらようここまで頑張った。後は儂らに任せんしゃい。……しかし、爺さん。怪我もだが、この呪いはちぃとばかりきついぞ? 蛇、おめぇも手ぇ貸せや。治癒と呪い落としを同時にせにゃ」
 蛇と呼ばれた老人はコクリと頷くと、私の傍に屈み、妙な【まじない】を唱え始めた。
「……怪士、烏、恵比寿。お前達も狸らに協力してやってくれ。猿、獅子口、大黒、不動、梟は儂と一緒に」
「えー? ワタクシもですか? ……面倒ですよ」
「まぁ、そう言うな。お前はこの兎狩りの勝者を見極めねばならん立場じゃろうか? ……今回の騒動は、魔女の動向を見抜けなかったお前の【監督不行き届き】というやつじゃ。ちゃんと、責任は取らねばのう」
「……やれやれ、仕方ないですねぇ」
 梟はパタパタと羽根を揺らすと、仙人の肩にひょいっと止まった。
「……のう、兄さんや。宴の邪魔をするでない。儂らはそれが楽しみでここに来ているんじゃから。それに……あんた、ちぃとばかりやり過ぎたようじゃのう?」
「――煩い。黙れ、この老いぼれ共が。お前らが何人束になろうが、俺は最強の力を手に入れた。老い先短い命を今無惨にも散らしたいと言うのなら相手をしてやる。かかってこい!」
「……ほう? 聞いたか皆の衆! 儂らも随分甘く見られておるようじゃなぁ」
 面を被った老人達は、さも愉快そうに笑う。その老人達の姿を見た男は、プライドを傷つけられたのか、苛立ちを隠せないように激しく日本刀を振り回した。刀を握るその手は、怒りで打ち震えているのがよくわかる……
「やはりここは儂だけで良い。お前達は下がっとれ。あ、狸らに協力出来る者はそちらの方を頼んだぞ? ――のう、若僧よ? お主の視てる世界は小さく狭い。所詮、井の中の蛙じゃ。……来世ではもうちっとマシな人物に生まれ変わると良いな」
 仙人は天狗の面からはみ出している髭を優しく撫でると、杖をトンと軽く地面につけた。

 ――それは、一瞬の出来事だった。

 魔女の薬によって、最強の力を手に入れた筈の鬼面が……仙人から放たれた白い光によって、声を出す暇さえ与えられずに消滅する。
 白い光と共に溶けた男の亡骸は細かい塵となり、自然へと還元された。
「さっすが、爺さんだぜ……マジ、すっげぇ!」
 黒兎が、ピューイと指笛を鳴らした。
 本当に、あっという間の出来事だった。
 あの鬼面の男が、あんなにも簡単に……最強の力を手に入れたんじゃなかったの?
「……なーにが【最強】じゃ。ここには儂より強い者達など幾らでもおるぞい? まぁ、最初からあやつに最強の力など備わっていない事には気付いておったがのう。魔女にそそのかされ、だまくらかされたんじゃろう。あやつが飲んだのは恐らく、【治癒力が半端なく強い薬】かなんかじゃろうな。それをあやつは、強大な強さを得たと錯覚したんじゃよ。何とも浅はかな事じゃ……」
 じゃあ本当に……これで全て……終わったの……?
 終わってみれば、何だか呆気ないものだったけれど……お爺さん達が来てくれなかったら、私達は今頃全員、死んでいたかもしれないんだ。
 今は……この【奇跡】に感謝をしよう。
「……とにかく。今はあのような軟弱者の話よりも、娘さんじゃ。早く何とかしてやらんと。狸、蛇……皆の衆。様子はどうじゃ?」
 私に対する心配の言葉が、まるで他人事のように耳まで届く。さっきから思考は割としっかりとしているのだけれど、身体はまったく動いてはくれない。
「爺さん……こりゃ酷ぇわ。呪いの力が強すぎて儂らの治癒を跳ねてしまうんじゃ。このままじゃ、ゆうてる間に娘さんは死んでしまうじゃろう。……それと厄介な事に、この呪いは死んだ後にも解けん。肉体から魂が離れた瞬間に呪いがこの身体を支配し、化け物へと姿を変え、再び動き始めるじゃろう。……魔女め、そこまで計算していようとは」
「ふむ……難儀な事になったのう。ならば先に魔女を捜した方が良策か?」
 老人達が話しあっている最中、いつの間にか地面に置かれていた、大きな風呂敷の中に包まれている【モノ】が、ガタガタと激しく揺れ動いた。
「な、何だぁ⁉ 爺さん……アレ、何か入ってんのか?」
「……あ。忘れとったわい! ここに来る途中で拾ったんじゃった」
 仙人が風呂敷をとくと、中から幼い少年がひょっこりと顔を覗かせた。
「おまっ……! 白兎! こんなとこで何してんだ、てめーは⁉」
 黒兎の言葉を無視し、一直線で私の元へと駆けつけた白兎は……私の手に、そっと自身の手を優しく添えた。
「ミズホ……ミズホ、しっかりして!」
「シロ……く……ん……」
 白兎は隣にいた彼を鋭く睨みつけ、怒りに満ちたような低い声で話しかけた。
「お前が……お前が、ミズホをこんな目に合わせたのか……?」
「――あぁ、そうだ。俺がやった。……すまない」
 白兎は座ったまま彼の胸ぐらを掴むと、俯きながら消え入りそうな声で彼に訴えかけた。
「……人間は弱い。何の力も持たない、非力で最もか弱き種族だ。……だから! だからこそ! 力があるものが守ってあげないと駄目だったのに……! 僕がここにいなかったから、お前に力がなかったから、ミズホはこうなってしまったんだ! 彼女は、周りに心配をかけない為に……いつも笑い、全てを自分の中に押さえ込む……お前はそんな事すらわからなかったと言うのか⁉」
「……知ってたよ! そんな事は……お前に言われるまでもなく、ちゃんとわかってた! 目の事も、耳の事だって、気付かない筈がないだろ……⁉ けど……それじゃ駄目だ。たとえ周りが『言え』と彼女に捲し立てても、彼女は決して口を開かない。彼女自身が自分の口で話そうとしない限り、周りに助けを求めない限り……どれだけ止めようが、彼女は同じ事を繰り返す。けれど……彼女は悪くない。俺が……本当に信用され、甘えられ、全てを打ち明けてもらえる域まで達していないだけだ。けど……それはお前も同様だよ。白兎」
 白兎の目が、カッと赤く染まる。――いけない。このままじゃ……
「や、めて……二人とも……シロくん、ソウくんは悪くな……ぐっ!」
「……ミズホ! しっかりして⁉ ミズホ!」
 私の口から溢れる鮮血……気……持ち悪い……
「これは……一刻も早く急がにゃ! お前らも言い合いなんぞしとる時じゃねぇ事をしっかり理解せんか! この阿呆共!」
「ミズホ! ……頼む、しっかりしてくれ!」
 彼の……ソウくんの声が聞こえる。左手に、彼の温もりを感じる。私の手に……温かい雫が流れ落ちる。
 ……あれ? また雨が降り出したのかな? わかんないや。
 白兎、黒兎も傍にいてくれてる。自分の治療を断ってまで……貴方達の身体も傷ついているのに、私なんかよりも自分の身体を大切にして……
 サヤも……お願いだから……そんなに泣かないで。
 綺麗な顔が台無しだよ。それにサヤだって酷い怪我してるんだから……無理しないで。
「……仙人。そして、古から存在する崇高なる神々よ。貴方がたの力で僕の生命と引き換えにミズホを救う事は出来ないだろうか? それが可能なら、今すぐこの生命を……!」
「……馬鹿な事を言うでない! ちぃと落ち着かんかい!」
「……儂らの力を甘くみなさんな。小童兎の生命なんぞ使わんでも娘さんは救ってみせるわい。乗り掛かった船じゃ。任せんしゃい」
 狸のお爺さんの言葉に、他の面達からも賛同の声が上がった。
「皆の者……もう夜が明ける。この娘さんは暫く儂らが預かろう。……梟よ。兎狩りは終了じゃ。勝者は【この島】が決めるじゃろう。蛇よ……蛇眠香で、娘さんを暫く……深い眠りにつかせてやってくれ」
 蛇面はコクリと頷くと、腰の巾着から小さい瓶を取り出し、蓋を開け……私の鼻元に当てる。
「今は全て忘れ、ゆっくりと眠りなさい……次目覚めた時、貴女に幸せが訪れるように」

 甘くて不思議な香り……何だか……眠くなってきた……
 視界が揺れる……視界が歪む……
 視界がゆっくりと薄れて……いく……

 暗い……何も聞こえない……
 けれど、何だか心地良い……
 もう……このままずっと、眠っていたい……

 サヤ……
 クロちゃん……
 シロくん……

 …………ソウくん。

 ごめんね……

十二

 ――眩しい太陽の下。
 誰もいない海岸を、私は一人、裸足で歩く。
 バニラ色の入道雲がソーダ色の空に溶ける。……静かだ。潮風が私の鼻をくすぐり、白い砂が私の脚に触れてはサラリと宙を舞う。
 綺麗な海が、波音が、私の心をとても穏やかにした。
 この水辺線の向こうには……一体、何が待っているのだろう?
 海の中心に、誰かが立っている事に気付く。……海水に腰まで浸かって、こちらを見ている人物。
 夜の小説家、【夜科蛍】が……私を見つめながら優しく笑う。その顔は、見る者全てを魅了してしまう程に美しく、私の心は簡単に奪われた。
 その姿は、まるで……人魚そのものだった。
 鏡花水月の【サヤカ】が、現実世界に姿を見せ、物語の中の小さな湖ではなく、際限無く続く、この広い海に解き放たれる。
 自由を手に入れた人魚。全てのしがらみを捨てた今、彼女は何を思うのだろうか?
 ……人魚は、私に向かって両手を差し伸べた。
 私は引き寄せられるように、砂浜から海に脚を沈めていく。
 衣類が水分を含み、重みを増す。もしも私がこの海で溺れてしまえば、あの美しい人魚のように……華麗にこの海を泳ぎ切る事は出来ないだろう。
 けれど私は、一歩……また一歩と、人魚の元へと歩いて行った。
 そして今、彼女の目の前に立つ。
 美しい人魚は広げていた両手で私を優しく抱きしめた。華奢なその腕でギュッと強く。
 何故か、とても安心した。……安らぎを感じた。
 この人魚はもしかして……あの美しい空から舞い降りてきた天使なのかもしれない。
 人魚は私からそっと離れるとニコリと笑い、海岸の方へと指をさす。
 彼女が指をさした方角に視線を移すと、もう一人の【夜科蛍】が、こちらを見て手を挙げていた。
 いきなり背中をトンッと優しく押され、私は一歩前に出る。
 私は振り返って、彼女を見つめる。……彼女は、はにかみながら私に言った。

「愛に溺れた憐れな人魚は、それ以上に大切なものを見つけ、海に渡る。永遠に続く旅……もう誰にも縛られたりしない。自由を手にした私に勝るものなどないのだから。……さぁ、貴女はこれからどう生きる?」

***

「……ん……っ、ここは……?」
 目が覚めると、私は木で出来たベッドの上で横になっていた。
 窓から外の景色が見える。真っ黒な世界に、色鮮やかな明かりが灯っており、少し遠くの方から賑やかな音や声が聞こえてきた。
 ――ここは、夜宴の島だ。
 私は起き上がり、周囲に目を向けてみた。小さな小屋にひっそりと置かれたベッドと、小さな机。
 今、私の目の前に見える【小さな世界】は、正にそんな感じ。
 私は、まだはっきりとしない虚ろな頭で『夜宴の島にも、こんな場所があったんだ』なんて思いながら、ぼんやりと天井を眺めていた。
 ……さっきのは、夢だったのか。何だかとても、不思議な夢だった。
 ――そうだ。今頃、皆はどうしているのだろうか? この島のこの夜を、どのように過ごしているのだろう?
 ……その時、ガチャリとドアノブが回る。私がそちらに目を向けると、そこには驚いた顔をしながら立ち尽くす、白兎の姿があった。
「ミズホ!」
「シロくん……」
 私が白兎の名を呼ぶと、少年は満面の笑みを見せながら、私の身体を思いっきり抱きしめた。
「良かった……良かった! 本当に良かった!」
「ちょ! シロくん、苦しいよ……!」
 白兎は、まるで小さな子犬が戯れて尾を振るかのように私に甘え、嬉しそうに話す。
「ごめん! でも少しくらい我慢してよね⁉ 五日間だよ? 五日間も君はずっとここで眠っていたんだ。このまま目が覚めなかったらどうしようかって、凄く不安だったんだから」
「え、五日⁉ 私、五日も眠っていたの⁉ じゃあ、今夜は……」
「うん。今日は夜宴の島での九日目。兎狩りのイベントが終わってからは、穏やかで楽しい夜が続いているよ」
「そっか……そんな楽しい夜にずっと眠っていたなんて、本当に残念。私の怪我……仙人達が治してくれたのね」
 私は服を少し捲り上げ貫かれた跡を確認するが、傷などは一切見当たらなく貫かれた事実すらなかったかのように思えた。
「……君って、本当に僕の事を子供としか認識していないようだね」
「……? え? 何の事? あ、そうだ! 私の目は⁉ 耳は……⁉ 今、どうなっているの?」
「大丈夫。とても綺麗な人の目をしてるよ」
「ほ、本当に……⁉ 耳も……⁉」
「……うん。小さくて丸い、可愛い耳をしてる。自分で触ってみてごらんよ?」
 白兎に言われ、私は恐る恐る耳に触れてみる。違和感を持たない、よく知った感触。……どうやら、本当に元に戻れたようだ。
「――あの後、四日目の夜を終えてすぐ……皆で君をこの場所まで運び、烏と梟が魔女を捜しに島中を飛び回った。老人達は交代しながらも、君の為によく頑張ってくれた。普段のあの酔いどれ姿からは想像もつかない程に迅速かつ完璧な動きだった。やはり彼等は凄いよ! 偉大だ」
「……本当に仙人達は凄い人達だったんだね。後でちゃんとお礼を言わなきゃ。……あ! シロくん達の身体は、もう大丈夫なの?」
「うん。僕達もあの後すぐに治療を受け、この通りピンピンしてるよ。あいつ……ソウは、一旦夜明けと共に元の世界に戻った。そして君が眠ってる夜の間も、変わらずこの島にやって来ている。……ここには、殆ど近寄らせないけどね」
「……あれ? シロくんがソウくんの事を名前で呼んでる! 二人共、打ち解けたの⁉」
 白兎が、『あ~……』と口を開いた。
「……あいつが謝ってきたんだ。この前の事もだけど、レッドナイトムーンの一件で、ずっと僕と黒兎に謝りたいと思ってたんだ、ってね。あいつの事を嫌いな事には違いないけれど……僕は、礼儀を重んじる寛大で大人な種族なんだ。仕方ないから許してやったよ。子供の言う事に一々目くじらをたてる必要もないしね」
「……こ、子供。と、とにかく……仲良くなれたなら良かった!」
「仲良くなんてないよ! あいつが邪魔で目障りなのには変わりないからね。……けれど、頼まれたから仕方ない。――まぁ、その話は後にしよう。それから魔女は、いとも簡単に見つかったよ。老人達が自分を捜している事もわかっていたようだし、観念したんだろう。魔女はすかさず、一本の瓶を取り出し、こちらに差し出した。それは、君の中から呪われた力を消す為のものだよ。けれど……魔女の薬には大抵リスクがある。もう済んだ事だから詳しくは言わないけれど、とにかく君を元に戻すのは困難を極めた。老人達はようやく落ち着いた君の姿を確認すると、『もう厄介ごとは懲り懲りじゃわい! 酒じゃ酒!』と言って、散り散りに宴に戻っていったよ」
 白兎は思い出したようにクスクスと笑った。それはとても優しく、穏やかな表情であった。私もつられて笑顔になる。
 仙人に、狸のお爺さん……それに、私達を助けてくれた沢山の神々よ。――本当にありがとう。
 貴方達の深い優しさに……感謝します。
「……あー、早く皆に会いたい! ねぇシロくん! 皆は今、どこにいるの⁉ ――あっ、そういえば! 結局、兎狩りの勝者は誰になったの?」
 私がそう尋ねると、白兎は急に表情を変え、真剣な面持ちでこう告げた。
「……ミズホ。その事で君に言っておかなければならない事があるんだ。実は――」

 外に出ると木々の間から、炎の灯ったオレンジ色の光が見えた。祭り囃子のような賑やかな音と、沢山の楽しそうな声が聞こえてくる。
 きっと、この向こうで宴が行われているのだなぁ、なんて思いながら……私は、屋根の上で空を眺めている黒い兎面の少女に話しかけた。
「……クロちゃん」
 その声を聞き取りこちらに顔を向けた黒兎は、私の姿を確認するや否や屋根から飛び降りると、私の目の前に立った。
「おぉ! お前、気がついたのかよ⁉」
「うん! お陰様で。クロちゃんにも沢山心配をかけてしまって……本当にごめんね?」
「べ、別に心配なんてしてねぇよ! ……馬っ鹿じゃねーの⁉」
 黒兎は相も変わらず減らず口を叩くと、『ふんっ!』と横にそっぽ向く。けれど、その声は……いつものような元気良さは微塵も感じられず、何だかとても寂しそうだった。
「シロくんから……全部聞いたよ」
「……――そうか」
 黒兎は近くの岩に腰を下ろすと、ふぅっと溜息を吐き、空を見上げた。
「まぁ、仕方ねーよ! もう決まった事なんだから! あたし達には抗えねぇ、どうしようもねぇ事だ。……とっとと忘れる事だな」
 黒兎はそう言うと両手を高く頭上に伸ばした。
「クロちゃん……」
「んな顔すんなって! 辛気くせーな。あたしは平気だってよ! つーか、お前は大丈夫なのかよ? ……身体」
「私はもう全然平気。何ともないよ」
「……んじゃ、あたしなんかより【あいつ】の所に行ってやれよ。最近は宴に参加する事なく、ずっと砂浜で海を眺めてるから……今日もそこにいる筈だ。あたしはもうちょいここで、空でも見てるからよ」
 そう言うと、黒兎はピョンと高く飛び跳ね、再び屋根の上へと戻って行った。
 ――私は、ちゃんと気付いていた。黒兎の身体が、微かに震えていた事を。
 皆の傷は癒えていない。それも【厄介】な方の傷だ。身体の傷は放っておいてもいつかは癒えるが、心の傷は簡単に癒えてはくれない。傷跡に深く根付き、いつまでも痛みを引き起こす。いくら考えないようにしても、脳がしっかりとそれを覚えている。心が……悲しみの海へと引き摺り込まれるのだ。
 彼の元へ急ごう。……出来るだけ早く。

 海辺に佇む彼の姿。寂しそうに哀愁を漂わせるその背中に、思わず涙が出そうになる。
 彼は、あの広くて飲み込まれそうなくらいに真っ黒な海を見つめながら……何を思うのか。
 夜の表現者、夜科蛍。
 今、彼の中には……どのような物語が生まれているのだろう。
 私は溢れ出しそうな涙を懸命に堪えながら、彼に声をかけた。
「……ソウくん」
「――ミズホ!」
 彼はすぐに、こちらに向かって駆けつける。気が付けば、私はあっという間に彼の腕の中にいた。
 暖かい彼の体温に包まれ、最高の安らぎを与えられる。
 どうして、こんなにも安心出来るのだろう? 貴方は本当に、不思議な人だ。
「良かった……! 本当に……良かった。ミズホ、ごめん! ……本当にごめんな」
 彼は私に懺悔の言葉を繰り返す。
 謝らないで。貴方が悪いわけではないのに……お願いだから、そんなに苦しまないで。
「ソウくん……大丈夫! 私は大丈夫だから! 貴方が苦しむ必要なんてないの。次謝ったら暫く口聞いてあげないからね?」
 私は、彼の胸の中でクスクスと笑った。
 急に抱きしめる力が強まったので、ふと顔を上げてみると……泣きそうな顔をしながら優しく笑う彼の姿があった。
 勇敢で頼り甲斐のある強い人。愛おしいほど、弱い人。
 その笑顔は、不器用すぎるよ。……本当に。
「もう一度ミズホに会えて、こうやって話す事が出来て……本当に良かった」
「偶然だね。私も今、同じ事を思ってた」
「……本当に? それは奇遇だね」
「うん! 神様って本当にいるんだな、って……そう思った」
「……ははっ! 神様なら、この島に沢山いるよ。色んな神様が沢山、ね」
 私と彼は手を繋ぎながら黒い海の前に立つと、白い砂の上にゆっくりと腰を下ろした。
「ミズホ……サヤは……人魚になったよ」
「……うん」
「鏡花水月の湖の底を泳ぐように……彼女は遠くに行ってしまった」
「……うん」
「もう……二度と、会えないんだ」
 ――夜宴の島が勝利者に選んだのはソウくんだった。
 どうしてソウくんが選ばれたのかはわからないけれど……白兎が言うには、どうやら納得できる理由があったようだ。
 彼は【この世界の住人になりたい】という彼女の願いを叶えてやりたいと言っていた。しかし、今回の事で何か思う事があったのか……彼の望む願いは以前と変わっていた。
 彼女は、彼が【その言葉】を口にしようとすると……微笑みながら、そっと頷いたらしい。
 サヤは全てわかっていた。全てを、受け入れていたんだ。自分の運命、自分の未来を……
 ソウくんが願ったのは、サヤを……この世界から【解放】するというものだった。
「もう二度と……サヤに会えないのね……」
 抑え込んでいた涙がボロボロと溢れ出し、私の頬を濡らす。ストッパーが外されたその涙は、止める術さえ持たず……ただ無情にもその場に、言いようもない哀しみだけを残した。
 サヤ、どうして逝ってしまったの……? まだちゃんと話してないよね、私達。せっかく仲良くなれたのに、私が起きるまで……待っててくれてもいいじゃない。……この島は非情だ。
 ――あの夢は、サヤが見せてくれた【奇跡】だったのだろうか?
 そんなのって、悲しすぎるよ……

『私はソウより大切なものを見つけたの。初めて出来た一番の親友。世界一の親友だわ。……だからソウ、私の代わりに彼女の事を守ってあげてね? 【お姉ちゃん】からの、初めてのお願い。……彼女は、貴方にとてもよく似ている。お節介で心配性で、呆れるくらい人が良いんだから。ほんと、嫌になっちゃうくらい! ふふ。……けどね、優しくてとても良い子だわ。もしも、私が生きていたならば……彼女の物語を書いてみたかった。きっと鏡花水月なんかよりも、もっともっと素晴らしい物語になったでしょうに。本当に残念。……私は、今日で全てから解放される。ソウ、貴方も私から解放してあげるね。――幸せに、生きて』

「……それが、サヤの最後の言葉だ」
 胸を刺すこの痛みは、般若に脇差しで貫かれた時よりも……もっともっと痛い。
 視界が、まるで海の底にいるかのように歪む。涙の海に溺れたとしても、私には上手く泳ぐ事が出来ない。助けてくれる人魚はもういないというのに……私はどうしたらいいの?
「ミズホ、そんなに泣かないで。……ごめん。俺もちょっと……きつい」
 膝に顔を埋める彼。……私なんかより辛いのは当たり前だ。実の姉を、二度も失ってしまったのだから。
 ……わかってる。わかってるよ、サヤ。
 自力で岸まで上がればいいんだね。そして、私が彼を浮上させてみせるよ。貴女の代わりに……
「ソウくん……!」
 私の声に、彼はゆっくりと顔を上げる。赤くなった兎のような目に、震える身体が痛々しい。
 懸命に涙を堪える彼に、私はこう告げる。
「小説を……」
「え……?」
「貴方の物語を……サヤに」
 私は、精一杯の笑顔を彼に向けた。
「サヤは、もう一人の【夜科蛍】の存在を知らないんでしょう? なら、鏡花水月の後に生まれた【貴方】の作品を……サヤは知らない。星降る夜に走る列車、常夜の言の葉、夜光曲。そして、朧月夜に泳ぐ魚。……あのヒロイン達は皆、サヤがモデルになっているんだね。とても素敵で、素晴らしい物語ばかりだわ。だから、せめて最後に……貴方の物語を、サヤに届けてあげて?」
「俺は……自分の作品を好きだなんて思った事がない。何を書いたって鏡花水月には敵わない。サヤの作品を超える事は出来ない。素晴らしくも何ともないんだよ。ただ、サヤの代わりに書いていただけに過ぎないんだ。俺なんて……」
「……私ね、夜科蛍の作品は全て好きだけど、中でも鏡花水月が一番好きだって……その作品以降の作品は少し感じが変わったような気がするって……ソウくんに言った事があったよね?」
「……うん」
「そしてその時、ソウくんは鏡花水月以外の作品は好きではないと言った。それはきっと、鏡花水月を超える作品が書けないという葛藤や、サヤの為に小説を書き続けなければならないという焦りに追いつめられていたから。私は、夜科蛍の小説は全て大好きだった。けれど鏡花水月と他の作品は、根本的に何かが違うように感じていたのも確か。そしてそれがどうしてか……ようやくわかったの」
 私はすっと立ち上がり、彼を見つめた。
「作品に対する想いを感じられなかったから。サヤは、鏡花水月を愛していた。けれど貴方は、自分の作品を愛してはいなかった。貴方が自分の作品を愛さない限り、貴方はいつまでもサヤの影に隠れたまま」
「……ミズホ」
「ちゃんと愛してあげて……貴方の物語を。その想いはきっと、貴方と貴方の作品をよりいっそう輝かせてみせる筈。そしてサヤに、最初で最後の、貴方にとって最高の物語を」
 波風が髪をたなびかせ、波音が静寂を連れてやってくる。
 彼と私の視線がぶつかり合う。彼は小さく頷くと、ゆっくりその場に立ち上がった。
 海に視線を移した彼は深く深呼吸をすると、鼻声で、震える口調で、ゆっくりと語り始めた。
 彼の表現力は、やはり目を見張るものがある。
 彼の世界観は独特でありながらも、人の心の中に激しく訴えかけてくるものを感じさせる。
 感情移入がしやすく、そのキャラクターの心情が、ダイレクトに伝わってくる。
 風景が鮮明に浮かび上がり、ここが夜宴の島だという事自体、忘れてしまいそうだ。
 目の前に、二人の男女の姿が見える。幸せに笑い合う二人。二人の関係は、恋人同士ではなく……仲の良い姉弟。
 二人はとても不思議な世界に迷い込む。そこは不思議で、奇妙で……美しくも恐ろしい世界。
 彼の、【夜科蛍】の物語が……その口によって紡がれる。それは繊細で儚げで、聞く者全てを魅了してしまいそうなくらいに美しい物語。
 私はそっと、耳を傾けた。
「……明けない夜などない。終わらない夜なんてものはないのだ。君が望めば、いつだって朝はやって来るのだから。真っ暗な闇は君という光を手に入れて、穏やかで柔らかな朝を連れてくる。朝露は葉を瑞々しく濡らし、白い霧は晴れ、君を……永遠の安らぎが与えられる夢の世界へと誘(いざな)うだろう。君を悲しませるものは……もう……もう……」
 彼の頬を流れる涙。私はこんなにも美しい涙を、今までに見た事があっただろうか?
 彼は、言葉にならない想いを……【言葉】にして彼女に捧げる。
 ――ああ、温情なる夜宴の島よ。……彼の想いを、サヤの元まで運んで。
「君を悲しませるものは……もういない。君を苦しめるものは……もういない。安らかに眠れ。夜に愛され、夜を愛しすぎた少女。君は永遠に……――俺の誇りだ」
 その瞬間。突然海が光輝き、円筒状に空へと昇る。辺りに散らばる細かな黄金の結晶は、まるで光の雨のように降り注ぎ、一面をキラキラと輝かせた。手のひらに落ちた黄金の欠片は、触れた瞬間に儚く消えてしまうが……何千、何万はあるであろうその煌めきは、私達の心の中に【記憶】を残した。一生、忘れる事など出来ない記憶を。
「綺麗……!」
「本当に……綺麗だ」
 私達は、あまりの美しさにそれ以上の言葉を失いながらも、浮遊する光の欠片達をずっと眺めていた。
「粋な事をするね、この島も」
「シロくん⁉ ……いつの間に!」
「おい、ソウ! お前、何かすげー奴だったんだな! ……グスッ。何かよ、何て言えばいーのかわかんねーけど、とにかくお前、すっげぇよ。……ズビッ!」
「……クロ、お前まで。しかも泣きすぎ」
 白兎は私の隣に、黒兎は彼の隣に立つと、同じように輝く夜空を見上げた。
「ねぇ。ちゃんと、サヤに届いたかな?」
「……うん、届いているよ。彼女ならきっと、来世で幸せになれる」
「あいつ……今頃、すっげぇ笑顔で笑ってんだうな。想像がつくぜ!」
「サヤ……さよなら……」

 ――夜宴の島、九日目。
 私はこの日を絶対に忘れない。
 美しい人魚が、海という空に還った夜。
 サヤはいなくなってしまったけれど……彼女はきっと、永遠に私達の胸の中で生き続ける。
 これからも共に笑い、共に泣き、共に怒り、共に生きていこう。
 私のライバルで……私の憧れの人。
 そして【親友】の貴女に……真心を込めて。

「貴女に逢えて、本当に良かった」

夜宴の島

2019年4月26日 発行 初版

著  者:夢空詩
発  行:夢空詩出版

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