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「お義父さん、ハナはどこにいるの?」
家の前まで戻ると、おばさんのキンキン声が聞こえた。このおばさんは苦手。
「いやあ、膝が痛むと散歩に連れていくのがきつくてなあ」
「またハナだけで外に出してるの? いまはリードを外すなって、うるさいのよ、保健所に連れていかれたらどうするのよ」
このおばさんはパパが足を痛めてから、前よりもよくあたしの家に来るようになった。
「ちゃんと首輪をしてるし、迷子札だってつけているんだ。ハナは利口だからアズさんが心配することはないですよ」
「なにかあったとき、一番つらい思いをするのはお義父さんじゃないの。わたしが来るまで散歩は我慢させてくださいって言っているのに」
「いやあ……ハナは人を選ぶからなあ」
パパが困ってる。助けなきゃ。玄関の脇の柵の隙間をすり抜けて、掃き出し窓のある庭に回って、あたしは大きな声ではっきり言った。
「わん!」
「おお、帰ってきた。ほうら、ハナは一人でも大丈夫だよな」
網戸が開いた。しっぽを大きく振って、かけていく。
「よーしよしよし。ハナは模様に特徴があるから、みんなに覚えてもらえてるもんな。一足だけ違う色の靴下履いて生まれたおしゃれさんだもんなぁ?」
「ちょっとお義父さん! ハナがなにか持ってきてますよ。そこに片一方だけスニーカーが落ちてる」
「よーしよしよし」
パパ大好き。お土産持って来たの。大好きなお兄ちゃんの匂いがするの。
「どこのおうちのかしら。このデザインは、中学生くらいの子の学校指定の体育館履きみたいね」
「ハナは顔が広いからなあ」
「お義父さん、甘やかさないでハナを叱ってくださいよ。片っ方の靴がなかったら困りますよ」
「それなら、門のところにでも出しておこうか」
「片っ方だけ中学生のスニーカーが落ちていたら、なにかの事件に巻き込まれたみたいじゃないですか。遺留品と思われて警察を呼ばれて大ごとになったら困ります」
「犬がくわえてきたくらいのことで、アズさんは心配性だねぇ」
おばさん、イラッとしてる。イライラは退散させなくちゃ。
「わんわん!」
「もういいわよ。ハナの好きにしなさい。ちゃんと持ち主に戻してくるのよ?」
うん。いっぱい匂いをかいで齧るのに飽きたら返してくるよ。わたし、お利口だもん。おばさんのことだって、まだ噛んでないでしょ。
「わんわん」
「よーしよしよし、ハナはいいコだな」
パパが撫でてくれた。パパ大好き。パパも喜んでる。大好きなお兄ちゃんの足の匂い、一緒に嗅ごうね。
背中のかばんがいつもより存在を主張する。一歩一歩前に進むたびに重力に従順におれを苦しめる。首筋を大粒の汗が流れ落ちた。
放課後になっても暑さのおさまらないこんな日にさえ、学校のクラスの友人たちは、大会が近いからとそれぞれの部活動にいそしんでいる。この暑いのに、さらに運動する気が知れない。人間暑さの限界を超えたら死ぬのだ。おとなしく涼しい部屋で安全に過ごせばいいものを。
おれは重たいかばんを背負いなおした。塾までの道のりは太陽が残した熱との戦いだ。
歩きながら思う。おれたちにとって太陽は大きな存在だ。しかし太陽からしたら、人間の存在なんてどれほど小さなものだろう。終わりもわからないくらいの大きな宇宙の中にぽつりと地球があって、その中にぽつりとおれの通う中学校がある。部活が命だみたいに大げさに言う友人もいるけれど、そんな小さく狭い世界で一生懸命なにかをやったって、しょせんなににもならないと思うのだ。
思わず笑いがもれる。こんな宇宙のことなんて考えるのも、昨日読んだ、このかばんの中にある本のせいだ。
通学かばんから取り出すのも一苦労な分厚い本は、机に置くとごとり、という音をたてる。内側に「伊勢政隆」と書かれたネームプレートが蛍光灯に反射してきらりと光った。
ファンタジー? なんて、ぜんぜん趣味じゃないせいで、昨日中学の図書館で探すのにすごく時間がかかってしまった。けれど、いざ読み始めてみるとつい、時間を忘れてページをめくってしまい、そのせいで昨晩は寝不足になってしまった。
塾の教室(天国)に入り、クーラー(神様)に最大限の感謝をささげる。おれは下敷きも一緒に取り出して、自分に冷気を浴びせながら席に着いた。暑い日と重いかばんのコンボはどうも気が滅入る。特に、この塾が入っているテナントビルに着くまではしんどくて、歩きながらこの本を通学かばんに入れた昨晩の自分を三回くらいせめた。
「伊勢くん、もしかしてその本は!」
机の上に置いた本を見て、隣の席の島田夏芽が声をかけてきた。
「わたしが教えた本じゃん。読んでくれたんだ」
「うん。まあまあおもしろい」
昨日の夜から読み始めたこの本は、『だれも知らない魔術』という名前のいかにも危なそうな本で、実際の中身も空を飛べるという人へのインタビューや、宇宙人とのコンタクトのとり方、タイムトラベルの方法などとつっこみ要素ばかりのいわゆるトンデモ本だった。章の名前も「黒魔術の章」とか、「闇魔術の章」とか、なんのちがいがあるのかと思わんばかりのタイトルが並んでいて、中身も統一性がない。要は作者が、自分の妄想を書き出しただけなのだろう。
島田の通う、爽優学園中学でいま人気の本なんだと以前教えてもらった本だった。
「伊勢くんの学校では、借りれたんだ」
「フツーに置いてあったよ。そっちは予約待ちなんだっけ?」
そう聞くと、島田はにやりと笑って私立中学の品の良いかばんから、同じ本を取り出した。
「じゃん! 予約がね、やーっと回ってきたんだ。わたしもこれから読むよ」
「おー、よかったじゃん」
これが驚くことに、爽優の図書館で引っ張りだこなのだそうだ。確か夏休み明けの授業のときに愚痴られた記憶がある。
「なんか不公平だよね。そっちの中学じゃすぐ借りれるのに、うちは一ヶ月待ち」
島田はそう言って、出したばかりの本をすぐにかばんに戻す。
「ね、伊勢くん、もう見た?」
「なにを?」
「全統模試の順位! 張り出されてるよ」
「マジか」
クーラーの恩恵を受けることしか頭になかったので、来るときには廊下の喧騒にまったく気づかなかった。
中学三年という学年に上がってから、特にこの夏休みは模試ばかり受けさせられてきた。全統模試も数あるうちの一つにすぎないのだが、おれたち塾生がこの模試の結果を気にする理由は廊下に張り出される紙にあった。
「うーん。今回の点数よかったんだけどなあ。どの教科も圏外だ」
島田が肩を落とす。
この模試の結果だけは、廊下に塾生の成績に応じ教科ごとに上位十名が張り出され、授業前に廊下が騒がしくなる原因になるのだ。
おれにはライバル的存在がいた。
加賀谷駿。
島田と同じ中学の同級生で、なにかと目立つ存在だった。そこまで大したイケメンでもないくせに(女子に怒られそうなので、これはあくまでおれの基準だ)、醸し出す雰囲気が周りの人間を惹きつける。正直に言っておれはああなりたいとは思わないし、別に加賀谷と仲良くなりたいわけでもない。
しかし。
人の上に立つことは気持ちがいいので、勝てるものがあるなら勝ちたい。
ふたりと加賀谷が属するクラスは、数学の難関クラスだった。
今度こそ加賀谷より上の順位に行きたい。
一枚の紙にすがるように、上から下へと視線を移していく。
下まで見終わる。おや? と思う。心がざわつく。
「……加賀谷が載ってない」
「え? 加賀谷?」
島田も数学の張り紙を一瞥し、ああと呟いた。
「伊勢くん、加賀谷と仲良かったっけ?」
「いや。ほとんど話したことないけど」
加賀谷は数学の上位常連だ。おれが塾に入ってから、この順位表で一度も十位以下になったことはないはずだ。
「あっ、伊勢くん数学六位じゃん! おめでとう」
あの加賀谷が圏外? 信じられない。
何度見ても加賀谷の名前がないことに、おれは自分の順位よりも驚いてしまった。視線を何度も上下させているのを見かねて島田が口を開く。
「加賀谷ね、最近学校にも来てないんだよね」
そういえば前に顔を見かけたのはいつだったろう。塾は出席を取らないから、いつの間にか来ていないことに気がつかなかった。
「ふーん。風邪かなにか?」
「うーん。ちがうと思う。みんな話題にしてるんだけど、男子たちも理由を知らないっぽいの。模試もね、たぶん、成績が悪かったんじゃなくて、受けてないんだと思うよ」
「へえ。じゃあ失踪だ」
「ちょっと思ったけど、でも学校でも塾でも大人は騒いでないの。つまりさあ、なにか理由があるってことだよね」
隣で、島田のポニーテールの先がふわりと揺れる。
ということはじゃあ、加賀谷にはまた、負け越しだ。
教室に戻ると島田はなにやらスマホで文字を打ち始めた。
「それツイッター?」
「うん。加賀谷が学校に来てないの気にしている子がいるから、模試も受けてなかったよって」
「うわあ。個人情報の流出を見てしまった」
「加賀谷って名前は出してないから大丈夫だよ」
そう言った島田のアカウント名は思いっきり名前になっていて、おれは危うくつっこみそうになる。人の名前はだめで、自分の名前はいいのかよ。
「でも加賀谷って、そんなに人気なんだな」
「まあね。わたしは加賀谷とは隣のクラスなのに、それでもばんばん情報入ってくるもん。結構、話題になってる。ほんと、なんで来ないんだろ」
おれはふと、昨日読んだ本の内容を思い出した。
「じゃあ、空を飛びたくて研究してるとか」
一番突拍子もないと思った闇魔術の話で、「特定の呪文を唱えた人間が一定距離の落下運動をすると、飛行能力がつく」というものだ。島田は急な話に、一瞬の間を置いて苦笑した。
「なんでいきなり、空」
「島田が今日借りた本に書いてあるんだって。読んでみ」
「ほんとうにそうだったら、すごくおもしろいけどね。どんな話なの? 鳥人間的な?」
おおまかに概要を話す。茶化しながら聞いていた島田だったが、突然話すのをやめて押し黙った。
「なんかあった?」
振り向くと、神妙な顔がある。
「……落下運動って、まっすぐ落ちるってこと?」
「え? そ、うん、そうだけど」
「……それって高さとか決まってるの?」
「へ?」
そんなこと覚えているわけがないと返しそうになったが、そこは数学六位の意地である。一度見た数字を思い出せないなんて、格好悪い様は見せられない。呪文の章、左のページ、確か図があって……。
「三・四六メートル」
「なるほどね。ね、伊勢くん。来週の授業、少し早く来てよ」
「え? なんで」
「加賀谷失踪の理由を探り隊。発足!」
おれになんの権限も持たせないまま、島田は来週の予定をたてはじめた。
さっきは失踪じゃないと言ったくせに、いったいなんなんだ。
加賀谷が突然姿を消す、という非日常的な出来事は、小さく狭い世界に住むおれの日常を少しだけ変えることとなった。
一週間後、まだまだ元気なセミがしゃあしゃあと音をたてる中、おれと島田は塾のあるビルの反対側にいた。
「伊勢くんさ、加賀谷がここに落ちたことあるの、知ってる?」
「ここって……」
ビルの一階は土木系の会社が入っていて、裏の地面にはパッキングされた土が積まれていた。島田はそのあたりを指さした。思わずビルを見上げる。
「え? 屋上から? いつ?」
「まさか。そこの窓あるでしょ、階段の踊り場のとこの。そこから落ちたんだよ」
「事故? 知らなかった」
「去年の夏休みなんだけど。朝自習しに来たらさ、加賀谷がこっちから表の入り口に回ってくるわけ。どうしてか聞いたらそこの踊り場の窓から落ちたっていうんだよ」
窓から落ちた? 踊り場は、うっかり落ちてしまうような危険な場所だったか?
「それ、けがしたんじゃないの。病院行き?」
「それがね、ぴんぴんしてんの、無傷ですんだらしくて。恥ずかしいから大事にしないでくれって言われたけど、まあ服もめっちゃ汚れてたし、フツーにばれてたけど」
島田は特有の顔でにやりと笑った。
「いまからここが三・四六メートルの高さなのか検証します」
「なーにを言っているんだまったく」
今度はおれが鼻で笑う番だった。
「伊勢くん、わたしもあの本ぜんぶ読んだよ。闇魔術の章も読んだ。で、後ろについてる貸出カードも一年分くらいさかのぼって見た」
島田が言わんとしていることがようやくわかってきた。つまり、加賀谷もあの本を読んで、書いてあったことを本気にして実行しようとしたんじゃないかと、そう言いたいのだ。
「おれはあの加賀谷が、あんなうさん臭い本の内容を本気にすると思えないけどな」
「わたしもそう思う。だからさ、きっとなにか理由があるんだって。すごく知りたくない?」
正直、どうでもいい。それより、女子とこんなところでこそこそと話している方がよっぽど気になる。周りのやつらに見られて、変に誤解されることを考えただけで腹のあたりがぞわぞわする。できることなら早く教室に戻りたい。
「でもこんなビルの正確な高さなんて、わからないだろう」
「それをなんとかするのがきみの仕事でしょ。仮に加賀谷があの内容をほんとうに実行しようとしたなら、加賀谷も窓から地面までの高さを知ってたはずだよ」
「じゃあそのまま窓からメジャーかなにかを垂らせばいい」
島田はスカートのポケットからオレンジ色のメジャーを取り出した。
「やってみたんだけど。ぜんぜん足りなかったんだよね、これ」
どこにでも売っている二メートルメジャー。これが足りなかったということは二メートルを超える高さだということだ。
「じゃあわかった。そのメジャーでビルの高さを計測できる方法がある」
ビルの影、高さ、そして自分の影。これらを使った数学の問題が、あったではないか。
「ほんとに?」
「まずはそのメジャーで、おれの影の長さを測って」
島田は従順な犬のようにおれの足元にかがんで、メジャーの先をにょきにょきと伸ばす。
簡単な比を使った計算だ。自分の背の高さと影の長さの比を計算し、さらに地上から窓の影までの長さを測れば、おのずと実際の窓の高さが算出できる。
「八十センチ」
「じゃあ次、あの窓と同じ高さのなにか目印がないかな」
言うまでもなく、あった。まっすぐ横にビルの看板がついているのだ。
「看板があるけど、どうするの?」
「ビルが建っている下のところから、看板までの影の長さを測ろう」
島田も難関コースに通う中学生だ。やろうとしていることを理解してくれたようで、少し上気した顔でうなずいた。もっとも、勘がよけばだれだって思いつくことだろう。加賀谷だって例外ではない。
看板の影にメジャーの先端を合わせると、島田がオレンジ色の本体を持ってビルにぴったりつけに行った。
「一メートルと……七十センチちょい!」
提案したのはこちらだったが、こうもうまく計測できると思っていなかった。ひっかけ問題に気づいたときのような高揚感におそわれる。全身の血のめぐりがよくなって、脳内がじわりと震えるのを感じる。
「伊勢くんすごい!」
メジャーを戻しに行くと直球のほめ言葉が返ってきて、高揚感とは別に、心臓がどきりとするのを感じた。居心地が悪くなる。
「じゃ、あとはそういうことだから。おれは教室に戻る!」
島田の返答を待たずにその場を立ち去った。汗ばんだ額をシャツでぬぐいながら、動揺を隠すためにあっちい、と声に出してつぶやいた。
教室に戻ってきた島田が、身長を聞いてくる。
「ちょうど、百六十センチ」
我ながらなんて計算のしやすい問題なんだ、と思った。おれの身長が百六十センチでその影が八十センチということは、比は一対二だ。つまり、窓の影の長さを二倍したものが、実際の高さ。
「一メートル七十センチちょいの二倍っていくつよ、伊勢くん」
算出した頭の中の数字を言いかけて、はっと島田の方を見た。同時に島田も机から顔を上げお互いの顔を見合う。ひと呼吸おいて、島田が口を開いた。
「加賀谷はほんとうに……」
「……なんでなんだ? 加賀谷は空を飛びたかった、のか?」
「飛ばなきゃいけない理由ってなに……」
小学校三年生のときのクリスマスプレゼントを思い出した。当時、ハリー・ポッターに夢中で、幾度となくホウキで浮き上がる自分を想像した。サンタクロースになにをお願いするんだと両親に聞かれて、ニンバス2000がほしいと言ったら、柄の部分にガムテープとマジックでニンバス2000と書かれた竹ボウキが送られてきて、しばらくは本気で飛ぶ練習をしたものだった。
いまでは庭そうじに大いに役立っているニンバス2000に思いを馳せていると、島田は気難しそうになにやら考え始めた。
「伊勢くん、お願いがあるんだけど」
「いやだ」
「あそこの窓から一回、飛び降りてくれない」
「いやだって言ったのに! おれ言ったのに!」
「そうかたいこと言わないでさあ、なにごとも挑戦じゃない?」
「島田。落ち着いて他の方法を考えよう。そうやって魔術の信ぴょう性を確かめる前に、加賀谷がほんとうにあの本に書いてあったことをやろうとしてたのか、他の魔術も検証する必要がある。学校に来なくなる前の加賀谷の情報をもっと教えてくれ」
それからは授業が始まるまでずっと、島田の知りうる加賀谷の情報についてふたりで考えた。
新たにわかったことは、加賀谷の家がパンの教室をやっていること、水泳部であること、白い犬を散歩させていたこと。
よくもまあそんなに隣のクラスの男子のことを知っているなと思った。授業が終わったあとにそう言ったら、女子の情報網をなめないでよね、とスマホを振りながら帰っていった。
塾の帰りに最寄りの駅から歩いていると、街灯の明かりのようにぽっくりと丸い月が、ビルの隙間から顔を出しているのを見つける。今日はどうやら満月らしかった。
星もろくに見えない東京で滅多にない見つけものをして、おれはなんとなく嬉しい気持ちになる。
……満月といえば!
満月といえば、黒魔術の章、第二編だ。「満月の夜に廃墟に向かう動物についてゆくと、異世界に連れていかれる」というもの。これだと思った。白い犬を散歩させていたという島田の情報。あれが散歩ではなくて、実は廃墟に向かう犬についていっていたのだとしたら。それが満月の日だったとしたら。
これで島田の学校の近くに廃墟があれば、また検証材料が増える。
すっかり島田のペースに乗せられて、毒されていることに気づいてひとりで苦笑する。けれど、こういうのも悪くないかと思った。
来週は廃墟がなかったか、聞いてみよう。
面倒だと思っていた気持ちは不思議なことに、もうなかった。
しょせんちっぽけな人間がなにをしたって、なにも変わらない。けれど、なにもしないよりはおもしろいのかもしれないと、ふと、そう思った。
彼は全てを見透かしているような澄んだ黒い瞳を真っ直ぐこちらに向けて、ゆっくり近づいてきた。私は思わず、チョコレートの入った紙袋を握る手に力を入れる。鼓動が彼の歩みに呼応して速度を増していく。泳いでいる時のように息を吸い、目を伏せる。綺麗に磨かれた革靴が視界に入り、顔を上げると、目の前に彼がいた。心臓がぎゅっと縮まる。視線と視線が絡まる。彼が口を開いた――。
乗り換えの駅名が耳に飛び込んでくる。急いでメモアプリを閉じ、足の間に挟んでいた通学カバンを膝の上に乗せる。それから、頭をわずかに動かす。右隣のネクタイが曲がっているサラリーマンのお兄さんは、眉間にしわを寄せながらゲームをしている。左隣のスカートが短い他校の子は、にやけ顔で忙しなくメッセージのやり取りをしている。前に立っている白髪交じりのおじさんは、重たそうな瞼と格闘している。大丈夫。誰にも見られてない。
スマートフォンのメモアプリで物語を書くようになって、一年が経った。アイデアは次から次へと湧いてきて、書きかけのものや設定だけ書いたものがいくつもある。いま書いているのは去年の冬に設定を考えた、わたしと同じように女子校に通っている中学三年生のマナカが家庭教師である大学生のシュウに恋をする話だ。
人波に流されるまま、電車から降りる。右胸のあたりで外に向かってはねている髪(どんなに入念に梳かしても、ふたつ結びはどちらも右にはねてしまう。右側の髪が内巻きになってくれればいいのに)を撫でながら、辺りを見渡す。やっぱり、今日もいない。最近、加賀谷くんを見かけない。
加賀谷駿くんはわたしの片想いの相手で、きっと運命の人だ。だって、シュウとそっくりなのだから。違うのは名前と、わたしと同じ十五歳という年齢だけ。湧き水のように透き通っていてひそやかな目も、爽やかな短い黒髪も、他の男の子より少し高い背も、たくさんの女の子から好かれていることも、ぜんぶぜんぶ同じなんだ。
だから、今年の春はじめて塾で加賀谷くんを見かけたとき、心臓が落っこちてしまうかと思った。そして瞬く間に、わたしは加賀谷くんのことを好きになってしまった。
加賀谷くんはわたしとは違う、勉強ができる子の集まるクラスで、ほんのときどきしか会えなかった。けど、出会ってから数週間後に最寄り駅が同じで、通学路も途中まで同じだってことがわかった。それからの数か月は、同じ時間に同じ車両に乗っている。きっと加賀谷くんもわたしに気付いているだろうから、九月になったら「塾が同じだよね。わたし、川合まなっていうんだけど、前からお話してみたかったんだ」と思い切って話しかけてみようと思っていたのに。夏休みが明けて、もう一週間。もしかしたら違う車両に乗っているのかもしれない。
次の日から電車を待つ位置をひと車両ずつ変えてみたけれど、加賀谷くんを見つけることはできなかった。時間を前後させてみても、結果は同じ。塾でも姿を見かけない。毎回加賀谷くんの名前が載っている成績優秀者の張り紙を見ても、彼の名前はなかった。
それから一週間経って、加賀谷くんが塾にも学校にも来ていないことがわかった。塾で、彼と一緒の学校の子が話しているのを聞いたのだ。去年、加賀谷くんが塾の窓から落ちた、という不穏な話も。
加賀谷くんが塾にも学校にも来なくなってしまったのはどうしてだろう。転校? 不登校? 入院? それとも夜逃げ? もしかして、自殺?
どうしよう。もう二度と加賀谷くんに会えないの。まだ挨拶さえもしていないのに! 会いたい。会いたいよ。なにかに悩んでいるのなら、話を聞いて、力になってあげたい。わたしにできることならなんでもしてあげたい。会いたい。とにかく会いたいよ。でもどうしたら。
頭全体に平たい痛みを感じて、目が覚めた。ぼんやりした意識のまま、目は開けずに頭をさすろうとすると、手の甲がなにかにぶつかった。ざらざらした触感。それに、毛布を被っている気配がない。かといって床の上にいるようでもない。そっと目を開けてみて、息が止まる。
下に、自分がいる。
しかもパジャマを着て、ベッドで目を閉じて、すやすやと寝ている。ふりかえってみると、そこは天井で、自分が浮いていることに気付く。足はぶらぶらと宙で浮いている。遅れて、口から変な声が出た。
わたし、死んだの? いやでも、下で寝ているわたしは呼吸をしている。ふと、白い紐が目に映った。辿っていくと、浮かんでいるわたしの左足の親指から生えている。だらんと垂れ下がっているだけで、眠っているわたしと浮かんでいるわたしとを結んでいるわけではなかった。
眠っている自分に触れようと手を伸ばすけれど、届かない。身体を降下させようとしてみるけれど、一向に動かない。天井に力を込めたら、反動で下に行けるかもしれない。
両方の手のひらで天井を押すと、ぐんぐん身体が下に向かう。あっという間に、寝ている自分の身体が迫ってくる。反射的に目をつむり、次に目を開けると朝で、わたしはベッドの中にいた。
次の日、頭全体に平たい痛みを感じて目を開けると、やっぱりまた幽体離脱をしていた。
幽体離脱のくせに、痛みがあるなんておかしな話だ。しかも、パジャマを着ているし、平泳ぎのように手足を動かしてみても、数ミリしか動けない。イメージでは、裸で思うままにすいすい動けると思っていたのに。
ぐうぐう寝ている自分の顔を眺めながら、無意識に親指から伸びている白い紐に触っていた。つまみあげて、よく見てみる。凧や風船の紐みたい。――もしかして、わたしはいま、風船と一緒の状態なんじゃないか。
昨日の二の舞にならないように、そっと天井を手で押して、机のほうに向かう。天井に上がっていってしまわないよう椅子に足をかけて、机の横に立てかけてある書道セットを開ける。中から文鎮を取り出し、白い紐を巻き付けて、床に置く。足を椅子から離してみると、思った通り、空中で身体が浮いたままになった。ほんとうに、風船と一緒だ。
こんな状態だったら外に出るなんてできそうにない。うまく動けないし、もし強い風が吹いてしまったらどこか遠くに飛ばされて自分の身体に戻れなくなってしまうかも。
宙に浮いたところでなにもできることがない。文鎮から紐をほどきつつ、身体に戻ろうと机のへりに両足を押し当てる。
「あっ――」
力加減を間違えて、窓に突撃しそうになる。やだやだ。痛いのはやだ。
予想していた痛みがこなくて、恐る恐る目を開くと、目の前には薄墨に溶け込んでいる家々があった。それは紛れもなくマンション七階からの眺めだった。ふりかえると、膝が窓に埋まっている。かすれてほとんど聞こえない悲鳴が喉を這い出る。思いっきり身体を起こすと、部屋の中に戻れた。もうやだ。こわい。勢いよく、眠っている身体にダイブした。
また次の日、自分の寝顔を見ながら昨日のことについて冷静に考えてみた。どうやら物をすり抜けることができるらしい。試しに、すり抜けろと念じながら天井に触ってみると、ずぶずぶと飲み込まれるように手が見えなくなった。
身体を重たくして、あんまり浮かないようにしたら、夜の街を歩くことができるかもしれない。そうして、加賀谷くんを探しに行けるんじゃないか――。
日曜日、空っぽのリュックを背負って、電車で三十分ほどかかる河原に行った。空は高く、八月とは違って落ち着いた日差しが隅々にまで行き渡っている。子ども連れの家族で賑わっている中、人が少ないところを見つけて、石を拾う。リュックに詰め込んで、夜歩きのための重しにするのだ。
夜、目が覚めると、地面から十センチくらい浮くようにリュックの調整をはじめた。高いところに行きたいときや、万が一リュックが身体から離れてしまったときに備えて、白い紐は肩ひもの部分にくくりつけた。試しに家の中を動いてみる。歩くよりはいくぶんか早く、跳ねるようにして移動ができる。これなら加賀谷くんを探しに行ける。
石の詰まったリュックを背負って、夜の街を跳ね歩く。ぽつんぽつんと灯っている家の光は、時折川底で光る石のよう。加賀谷くんに想いを馳せながら、跳ねて跳ねて。家を出る前に結んだ髪もあわせて弾む弾む。
星の王子さまも言っていた。砂漠が綺麗なのはどこかに井戸を隠しているからだって。だから、加賀谷くんが眠っているこの街もこの夜も、綺麗なんだ。
四日経っても、加賀谷くんの家を見つけることはできなかった。最寄り駅が同じだから、きっと家もこの街のどこかにあると思っていたけれど、違うのだろうか。会いたい、はやく会いたいよ。
今日も結局、加賀谷くんの家を見つけることはできなかった。浮いている身体とは正反対に重たい心を引きずりながら帰路についていると、目の前に犬がいた。後ろの右足だけが黒い、真っ白な犬。飼い犬のようで、人懐っこい瞳でこっちを見ている。
「こんばんは」
わん、と鳴き声が返ってくる。
「加賀谷くんの家を探しているんだけどね、全然見つからないの。きみ、もしかして知ってたりする?」
寝る前は内巻きだった右の髪を撫でる。自分で言って、恥ずかしくなってしまった。
犬はもう一度、鳴き声を上げると歩き出した。
しばらく迷って、犬の後を追いかける。駅を越えて、向こう側へ。わたしが使っている出口とは真反対の出口の方面だ。そこからさらにしばらく歩いていくと、大きな一軒家が増えていく。
わん、とまたひと声鳴いて、犬は立ち止まった。白い尻尾がゆさゆさと左右に揺れる。
クリーム色の大きな一軒家。蔦の装飾がされた西洋風の黒い門には、手作りの可愛らしい『ヘルシーパン教室』というプレートがかかっている。郵便口の上にある、ネームプレートには『加賀谷』と書いてあった。
犬を見ると、相変わらず尻尾をゆさゆさと振っている。わたしは小さく柔らかい頭を撫でて、門を通り抜けた。
リュックを地面に置いて、くくりつけていた糸を何巻かほどく。鼓動と一緒に身体が上がっていく。もうすぐ加賀谷くんに会える。きっと加賀谷くんは驚くだろう。電車でよく見かける子が目の前にいるんだから。
二階部分には窓が三つあり、一番手前の窓のカーテンがほんの少し開いていた。隙間から目を凝らすと、壁に制服がかかっているのが見えた。窓に手を伸ばして、加賀谷くんの部屋に入る。息が上がって、くらくらしてきた。
加賀谷くんはベッドで寝息を立てていた。よかった。自殺もしてないし、病気でもなさそうだ。
「加賀谷くん、加賀谷くん」
名前を繰り返す。加賀谷くんは、うめき声をあげた。
「加賀谷くん、加賀谷くん、加賀谷くん」
目がゆっくりと開かれる。眠たそうな瞳が、最初はゆらゆらと揺れ、やがてわたしに焦点が合わさる。
「加賀谷くん……」
名前を呼ぶのが精いっぱいだった。なにかを言おうとして口を開けるけれど、頭の中は眩しいライトをあてられたように真っ白で、言葉が思いつかない。加賀谷くんは上半身を起こし、わたしをまじまじと見た。自分がパジャマ姿(どうしてもパジャマは脱げなかった)であることを思い出して、思わず右の髪を撫でる。右の髪も外に跳ねているし、恥ずかしい。
「――誰?」
「え」
「きみ、誰?」
髪を撫でていた手がだらんと落ちる。何ヶ月も同じ車両にいたのに。わたしのことを知っていると思っていたのに。加賀谷くんが、目の前の風景が、ぐにゃぐにゃになってすぼまって、消えていく。
目が覚めると、わたしは自分のベッドの中にいて、頬も枕も涙で濡れていた。あの後どうやって家に帰ってきたのかは全く覚えていない。ベッドから降りると、石が詰まったリュックに足をぶつけた。痛くて、また涙が出た。
次の日、夜中に目が覚めてもわたしはちゃんとベッドにいた。加賀谷くんの警戒した眼差しを思い出して、涙がにじみ出てくる。手探りで、枕の下のスマートフォンを見つける。ぼやける視界の中、あえぐように息をして、マナカとシュウの物語を消した。
九月の太陽って、こんなんだっけ。
ギラギラっと音がしそうなくらい、照りつけてくる。準備体操だけで汗だくだ。この夏に野球部を引退して、あまり日射しをあびてないから、余計にきつく感じるのかな。
「じゃ、隣の人と組んで」
三時間目のプールサイド。屈伸とかの個人体操が終わると、先生が笛を鳴らした。
オレは、いつものように三人で引っ張り合うために手を広げる。
男子は奇数だから、どうしても三人のところができるのだ。ちびのオレは、いつもそのメンバーってわけ。
ところが視線の先に、顔はひとつしかなかった。芳川信哉。本当に夏休みをすごしたのかってくらいの白い肌は、本当にこのギラギラの太陽を感じてるのかってくらい汗をかいていない。
「おい広瀬、組んでやれよ」
背の高い男子たちからヤジが飛ぶ。
オレは三人用に広げた手を狭めて、幽霊みたいに胸の前でふらふらしている芳川の両手首をつかんだ。
忘れてた。今日は、偶数なんだ。加賀谷くんがいないから。
「側筋を伸ばすぞー」
いっち、にぃ、さん、しぃ、ごう、ろっく、しっち、はっち。
先生の笛に合わせてカウントをしながら、オレたちはプールサイドのはしっこで、横腹が伸びるように引っ張り合う。
すると芳川が、さっと手をひっこめた。
「あ、おい。体操できないじゃん」
反動で転びそうになったし。
「これ以上、力が入らない」
「なんだよ、水にぬれて力が出ないのか?」
「ちがう。握力が二〇キロなんだ」
「女子なみじゃん」
「え、男だけど」
左手首をなでながら答える芳川、超真顔。オレは言葉に詰まってしまった。
「広瀬、芳川、ちゃんと体操する!」
先生が、ピーっと笛を鳴らし、他の男子が一斉にオレたちを見た。
「でも、先生……」
「すみません」
オレの声にかぶせるように、芳川が先生に謝った。
くそ。なにやってんだ、オレ。思わず坊主の頭をかきむしる。芳川って、つっこんでも、ふざけても、いじっても、のってこないってわかっているのに、ついふざけてしまう。
自分の失敗の反省をしつつ、これ以上深追いしませんと頭の中で誓いを立てる。
いつもどこ見てるかわからないような糸みたいな目の芳川が、オレは苦手なのだった。他の男子と絡んでるところも見たことがない。笑顔なんて想像もできない。
「今日の授業の後半でクロールのタイム測定するから、そのつもりで。タイムは二人一組で測り合ってもらう」
先生が、ニヤニヤした顔でオレたちを見る。体操を終えたプールサイドはにぎやかになる。
オレは、「うええ」と声を出していた。今日の水泳は、ずっと芳川と一緒じゃんか。
加賀谷くんもいないし、ついてないなあ。
ギラギラとした太陽の下、オレのまわりだけ、どんより曇り空って気分だ。
六月から、オレは加賀谷くんのファンだ。
あれは最初の水泳の授業。クロールが下手な班に振り分けられて、がっかりしていた。そのとき先生が、いちばんうまい班から加賀谷くんを呼んできて、お手本に泳がせたのだ。
三年生になって初めて同じクラスになった加賀谷くんとは特別に親しいわけじゃなかったけど、手本を見てから、水泳の授業が楽しみになった。
加賀谷くんのクロールはすごいんだ。
ひとかきで、ぐん、と前に進む。ふたかき、みかき、そして息継ぎ。ぐん、ぐん、ぐん、ぱっ、て感じ。
そのリズムを意識して練習をしたら、めでたく普通の班に昇格できた。先生にもほめられて、いいことづくし。
お礼を言おうと思ってるうちに夏休みに入ってしまった。九月になって二学期がはじまってからにしようと思っていた。
なのに加賀谷くんは、ずっと学校に来ていない。
「LINE、未読スルーされっぱなし。誰か既読ついたやつー」
昼休み。机の上に座った佐山雄太が、スマホをかかげた。プールサイドの反対側からヤジを飛ばしてきたのも佐山。クラスでいちばん身体も声も態度も大きい。
「なんだよ、みんなスルーされてんのかよ。まじどうなってんの」
昨日みんなで加賀谷くんにLINEを送ったから、既読がついたか確かめているのだ。
「あ、芳川は? まだ聞いてないんじゃね?」
佐山が思いついたように言った。まわりの男子が「あーそうだったかもな」と同意する。
「広瀬、聞いてこいよ」
サル山め。と心の中で悪態。予想通りオレに振ってきた。
「やだよ。どこにいるか、わからないし」
「じゃあ自販機までちょっとコーヒー牛乳買って来いよ。芳川に会ったらどこ行ってたか聞いといて」
「コーヒー牛乳が本命なんだろ」
「まあな、悪いな」
佐山は歯を見せて笑った。全然悪いと思ってない。
「ほら、あと一〇分で五時間目はじまっちゃう」
「しょうがないなあ」
オレは財布を持って、教室を出ると、急いで一階の自動販売機へと向かった。
そこは校舎と校舎のつなぎで、渡り廊下の下になっている。放課後は運動部が使うけど、昼間は、自動販売機に用事がないと行かないような場所だ。遠くから、わーとかきゃーとか、声だけが聞こえてきて、ちょっと寂しい気持ちになる。コーヒー牛乳のパックはここにしか置いていない。
外は風が吹いていた。中庭の砂がここまでくることを知っているオレは目を閉じる。強い風はすぐにやみ、砂をはらいながら目をひらいた。
「あ、芳川くん」
自動販売機の前に、芳川が立っていた。手にはコーヒー牛乳のパック。
「好きなの、コーヒー牛乳? オレも買いに来たんだ」
財布から百円玉を出して、ボタンを押した。芳川は黙ったまま、静かにストローをくわえている。
「あ、自分で飲むんじゃないよ。佐山のお使いで」
なんでなにも言わないんだよ、と思いながら、一人でぺらぺらしゃべるオレ。芳川としゃべるときは、ふざけないようにしなきゃ。真面目に返されるだけだからな。
「佐山もたまには自分で買いに来ればいいのになあ」
「言えば」
飲み終わったのか、見ると芳川はパックをたたんでいた。
「え、なに?」
「自分で買えって、言えば。佐山くんに」
「どうして?」
「そうしてほしいんでしょ」
「べつに」
口の中が乾いていく。そういうつもりで言ったんじゃないのに。
でも、芳川にしてみたら、佐山について唐突にグチられたって感じかもしれない。
オレは、ふうっと息をついた。
教室に戻りたかったが、ついでだから、もうひとつ用事を済ませておこう。
「芳川くんは、昼休みはどこに行ってるの?」
「なんで」
「聞いてこいって、……佐山くんが」
「ふうん」
糸みたいな目がもっと細くなるのを見て、オレは自分の失敗を悟った。
「佐山くんが聞きにくれば」
ていねいに平たい四角になった紙パックが、ゴミ箱に投げ入れられる。芳川はちっとも顔を上げないまま、校舎へと入って行った。
予鈴が鳴る。
でもオレは、しばらくそこで芳川の背中を眺めていた。追いつくのがいやだった。
風が吹く。舞う砂埃に目を閉じた。
「えーっ。そういうオチなの?」
姉ちゃんは不満げな声を上げた。
夕飯の時間、食卓を囲みながら、今日の芳川とのあれこれをしゃべっていたのだ。歳の離れた姉ちゃんは、オレの話をよく聞いてくれる。
「ていうか透、いつも佐山くんに使われてるね。たまには使ってやりな」
自覚ないんだろうなあ。オレのパシリ体質を育てたのが誰なのか。
「佐山くんは、姉ちゃんに似てるよ」
「なになに、美人系?」
「えーと、サル」
「ちょっとー、あんたのがサルじゃん。……ん? てことは姉のわたしもサルなのか」
オレはおかわりの白米をよそうために席を立った。
しゃもじを炊飯器につっこむ。野球部を辞めてからというもの、どれくらい食べていいのか、いつも迷う。去年だったら、山盛りだけど。
このことを芳川に話したら、絶対、「食べなきゃいいのに」って言ってくるんだろうな。声まで聞こえてきそうなくらい、リアルに想像できた。佐山に話したら、「オレはもう一杯いける」って言うような気がする。机の上に座って。そして、自分の大食い記録を披露しそう。
加賀谷くんに話したら……。うーん、想像できない。加賀谷くんって、誰と仲が良いんだろう。誰とでも話していた気がするけど。
実は夏休み前、加賀谷くんに話しかける機会は何度かあったのだ。でも、佐山がオレを呼んだり、佐山が加賀谷くんに絡んだりして、なんとなく逃しちゃったんだよな。後悔しても遅いけど、もっとグイグイいけばよかった。
「透は、芳川くんと仲良くなりたいの?」
食卓に戻ると、姉ちゃんが、あいた食器を重ねていた。
「え? えーっと」
考えたこともない質問に、加賀谷くんの後ろ姿を思い出す。ブレザー姿だ。そのとなりにも誰かがいる。そうだ、芳川だ。二人で教室の窓際に並んでいる。
進級して間もないころ、二人が何かを話しているところを、オレは見たことがあったのだ。
こんなの、思い出し損だ。悔しい気持ちが広がるだけじゃないか。
オレが一人で葛藤しているとも知らず、姉ちゃんはオレのあいた皿もどんどん流しに持って行きながら、話題を続けた。
「べつに仲良くなりたくなくて、もし不愉快なんだったら、しゃべらないって手もあるんだよ。合う合わないは、どうしてもあるんだからさ」
「ふゆかい、か」
それは、テレビでしか聞かないような言葉だった。
夕飯のあとは塾。二時間の授業を終えて、チャリで住宅街を走り抜ける。
白線の引かれてない住宅街の道路を走る車はほとんどない。
信号も坂もなくて、このあたりは一軒家が多いから、巨大立体迷路の中にいるみたいだ。どこまで行っても同じ高さの壁がつづいて、視界をはばむ交差点がちまちまと多い。
ペダルを一回こぐと街灯があり、三回こぐと両側の壁が切れた。そこはちょうど十字路だった。
ぐん、ぐん、ぐん、ぱっ。
これなんだっけ、と考えながら、脳裏によみがえったリズムでぬるい風を分けるように進む。
ぐん、ぐん、ぐん。
ぱっ、で十字路。
顔をあげてひらめく、息継ぎのイメージ。
そうだ、これはクロールだ。
おもしろくなって、続けてみた。だんだん勢いづいていく。
それに集中していると、芳川のことが後頭部の遠くへ薄れていって、代わりに加賀谷くんに会えるんじゃないかというバカげた考えが浮かんできた。
ぐん、ぐん、ぐん、ぱっ。
誰もいない夜の住宅街を、泳ぐように駆け抜けた。
その翌日から、オレは意識して、芳川に話しかけるのをやめた。
姉ちゃんのアドバイスを試すことにしたのだ。
体育で組んでも、芳川の力加減で体操をする。そうじで一緒になっても、佐山に言付けを頼まれても、芳川の発言をいちいちふくらまさず、必要最低限のことしかしゃべらない。
はじめは居心地が悪かった。話をどう切り上げたものか、わからなかった。でも、だんだんとコツがつかめてきてからは、余計なことを考えなくなって、イライラすることも減った。
ふゆかい、だったのかもしれない。だって芳川って、笑わないし、会話も続かないし、どこを見ているかもわからない。
芳川は、きっと、姉ちゃんが言ってたように、オレとしゃべりたくなかったんだ。それをオレが無理につっこんでたから、いけなかったんだ。
「おまえらがケンカしてもクラスのムード変わんないよな」
佐山が探りを入れるように言ってきた。
「べつにケンカじゃないよ……」
「フーン」
ふつうに返したからか、佐山もそれ以上つっこんでこなかった。
金曜の放課後。
佐山の筆箱を取りに教室に戻ると、芳川が一人でゴミ箱を片づけているところだった。普段、特に接点がなくても声をかけるシチュエーションだ。でも、何も言葉は浮かんでこない。結局、声をかけないまま、用事を済ませて廊下に出た。
向こうも声をかけてこなかった。
やっぱり話したくないんだ。だからこれで、よかったんだ。
オレは佐山が待っている下駄箱へ向かう。
持っているものはぺちゃんこで軽い筆箱なのに、どうしてか、参考書よりも重い気がした。
塾から帰るとき、クロールのリズムでペダルをこぐ遊びには、まだハマっている。
九月も二週目が終わろうとしている。
太陽のギラギラが減って、空の青さが変わった。雲が変わった。オレはそれを、最後の水泳の授業で、水に浮きながら感じた。背泳ぎをしようとしたけれど、うまく進まず水を飲んで、佐山たちにからかわれた。
加賀谷くんの噂は、だんだん落ち着いてきている。
オレも水泳が終わってから、加賀谷くんを思い出すのは塾の帰りのときだけになっていった。
もしも友だちになっていたら、どんな会話をしただろう。音楽とか、何を聞いてるんだろう。バラエティーは何を観てる? 好きな動画は、芸人は?
ぐん、ぐん、ぐん。ペダルをこぐ。
会話を想像しながら街灯を追いかける。でも頭の中の加賀谷くんは、クロールばっかりしていて、一向に答えてくれない。プールサイドには、いつのまにか芳川がいる。泳ぎ続ける加賀谷くんとしゃべっている。ふたりはどこまでもまっすぐのコースを進んでいく。
待って! 一体、なにを話しているの?
足に力が入って、はっとする。影が、目の前を横切った。
「――わ!」
あわててブレーキ。
バランスを失って、サドルから降りる。顔を上げると、そこは十字路だった。
「セーフ!」
思わず声が出る。
知らないうちに物思いにふけっていたみたいで、あと一瞬ブレーキが遅れたら壁に激突していたかもしれない、というところだった。
すぐ脇の電信柱の下では、白い犬がうろうろしている。うかがうような黒い目が、オレに向けられていた。
さっき横切った影は、こいつだったのだ。
「よかった、当たらなくて。ごめんな。おどろいたよな。あれ、首輪してるじゃん。飼い犬か」
さわろうと、手を伸ばす。
すると犬は、はっとしたように小さく短く吠えた。
オレが思わず手を引っこめると、犬は来た道を走っていった。
「ちえ、なでたかったな」
去って行く犬に、ふと、芳川の背中が重なった。自動販売機の前で見送った背中だ。
あのとき、あの背中を追いかけても、ふたりで教室に戻っても、オレは加賀谷くんじゃないから、芳川としゃべり続けるなんてできない。わかっている。あのときはあれが正解だった。
でも、なんだか息苦しい気持ちがするのだ。
「じゃあ……」
「気をつけてね」
後ろから人の声がして、どきっとした。
見ると、一軒家からオレと同じくらいの背丈の影が出てくるところだった。
門灯が照らすその顔を見て、またおどろく。
「芳川くん」
思わずもらした声に、影が振り返った。
ああ、しまった。知らないふりをしていればよかった。
「あ、駅の裏か、ここ」
ちがうちがう。無視しなきゃいけないんだって。でもこの状況でそれは絶対に変だし。
なんとかして、早く去ろう。
「かなり帰り道からそれたなあ、ははは……」
芳川も塾の帰りなのだろう。私服だし、学校のときとはちがうリュックを背負っている。
あ、芳川が着てるTシャツ、知ってる。
背中に肉料理が、左胸にその動物がプリントされたシリーズがあるのだ。芳川は牛のやつを着ていた。オレは豚を持っている、ということを話したい。しかしここはぐっと我慢だ。あっちから話しかけてくる気配はないが、動く気配もないし、視線は感じるし、なんとかして自然に別れなければ。
オレはスマホを出した。時間をきっかけにして立ち去ろうと思ったのだ。
「やば、もう十時かよ」
画面に並ぶ四つの数字に、オレは素でおどろいた。普通なら、とっくに帰り着いて、風呂に入ってる時間だった。
チャリにまたがる。スマホがふるえた。お母さんからの着信だ。
「はいはい」
あわてて電話を取る。
「広瀬くん。ヘンタイが出たばっかりなんだし、自転車だからって油断しないで、気をつけなよ」
それは、電話口のお母さんの言葉ではなかった。
顔を上げる。
芳川の背中は、駅に向かっていた。
「え? うん。……だからクラスのやつと会っちゃったんだって」
お母さんに言い訳をしながら、芳川が振り返らないかなって思った。そうしたら手くらい振れるのに。
期待もむなしく、芳川はちっともよそ見をしない。
そして立派なステーキは駅に消えた。
翌日、オレはいつもより三本も遅い電車に乗って登校した。
あのあと帰って風呂に入り、さっさと布団に入ったものの、全然眠れなかったのだ。
「おはよー! セーフかと思ったら、余裕!」
教室に入って壁時計を見る。女子の何人かがあいさつしてくれた。
男子たちは、教室の真ん中でたむろしている。もちろんその中心は、机の上に座る佐山だった。
オレが来たって気がついてないみたいだ。茶々を入れようと、そっと近づく。するとみんなが一斉に、オレに後頭部を向けた。窓を見たのだ。
つられて視線を追いかける。芳川の席があった。やつはひとりで、難しそうな分厚い本を広げて読んでいる。
「おい芳川、英語の宿題、やってきたか?」
佐山の声。
え、それは、オレに言うんじゃないの? 心が波を打った。
英語が得意な佐山は、やたらと周りに自分の宿題を見せたがる。オレは苦手だからありがたいんだけど、芳川にも見せようとするなんて意外だ。直接しゃべるなんて、もっと意外。
もしかして、オレがいないところでは、めちゃくちゃ仲良しだったりするのかな。
想像すると、とたんに胸が苦しくなってくる。水の中で、息を全部吐ききったみたいに。
オレは廊下側の自分の席に荷物を下ろすも、耳は、男子の声を追いかけていた。
教科書を取り出して、一時間目の用意をして、無意味にシャーペンを出して。
女子の声が邪魔だ。芳川、しゃべった? しゃべってない?
「おはよう」
近くで細い声がした。
顔を上げると、芳川だった。
「昨日の夜、ちゃんと帰れた?」
あれ? 佐山としゃべっていたんじゃなかったっけ。
見ると佐山は別のやつにノートを回している。
芳川に視線を戻すものの、なんて答えていいのかわからない。芳川も、会話を続けるには中途半端な距離で立ち止まっている。けれどもかかとは浮いていて、右へ左へと重心をふらふらさせていた。
犬だ。
と、反射的に思った。
今の芳川は、電信柱の下でオレを見ながらうろうろしていた白い犬そっくりだ。
あのとき犬は、オレと衝突しそうになってビビっていた。そうだ。だからオレは、なでてやろうと思ったんだ。
「帰れたよ」
意識して、声を出す。肺がふくらむ。
オレは、ふっと息をつくことができた。
「昨日はびっくりしたぜ。塾、あのへんなんだな。しかもかなり遅い時間だったじゃん。私服姿で一瞬わからなかったし……」
するすると言葉が出てくる。話すほど、息苦しさが消えていく。
オレは椅子から立って続けた。
「あのTシャツはどこで買ったの? めっちゃ意外だったんだけど。しかも牛とか、似合わなすぎ」
「あそこ、ばあちゃんの家」
芳川が、こっちに踏み出す。きちんと体重をかけて、一歩、二歩。声が届く、ちょうどいい距離になる。
「親の帰りが遅い日は、ばあちゃんちのご飯を食べてる。シャツはばあちゃんが買ってくれたんだ」
「へえ。じゃあ今度は、鶏にしてもらったら」
「なんで」
糸みたいな目が、ちょっとひらく。
「なんでって、チキンだからさ」
「オレは牛が好き」
うまく言えたと思ったけれど、芳川は淡々と、まともに返してきた。
つっこんでも、ふざけても、いじっても、芳川はこうなんだろう。でもオレは、つっこんだり、ふざけたり、いじったりしたい。そうしてないと、なんだか息苦しいんだってことに気がついた。
だとすると、やっぱり、芳川とは合わないんだろうな。
「あれ、広瀬じゃん。来てたのかよ。LINE、スルーすんなよ。心配するだろ」
佐山が、教室の真ん中から声をかけてきて、男子が一斉にこちらを向いた。
「あー、ごめん。学校では電源切ってるから」
遅刻すると思って急いでいたから、家を出てから見ていなかった気がする。
もっと面白い返しをすれば良かった。みんながこっちを見ているから、ちょっとビビってしまった……と自己評価していると、突然、芳川が身体をくの字に曲げ、プーっと吹き出した。
「へっ、え? なに?」
芳川は口に両手を押さえつけ、両肩を揺らし、足をばたばたと踏みならしている。
「どうしたの?」
声をかけると、さらに顔をまっ赤にしてオレに背を向けてしまった。
「まーた芳川が変なところで笑ってる」
佐山が下敷きをうちわにしながら言った。
「笑ってるの、これ」
「芳川は笑いのツボがへんなんだよ。一年のとき同じクラスでさあ、こうなると全然話が進まねえ」
な、と佐山に同意を求められた男子たちが、うんうんと頷いている。
そうだったのか。オレには口元を抑えて苦しんでいるようにしか見えないけれど、よく聞けば、口から漏れるのは笑い声だった。
一体なにが笑いのツボだったのかすごく気になったが、チャイムが鳴ってしまった。みんなぞろぞろと席につく。芳川も目をまっ赤にして窓際に戻っていった。
佐山がくるりと振り返った。
「おまえら、仲直りしたんだな!」
先生が入ってきて、日直が起立の号令をかける。
このタイミングを狙ってくるなんて、佐山も卑怯だ。なにも言い返せないじゃないか。
礼をする。
オレは息継ぎをするように、笑った。
「加賀谷って最近学校に来てなくない?」
ふと耳に飛び込んできたその言葉が、誰のものか私にはわからなかった。ホームルーム前の朝の教室は、放課後とはまた違った種類のうるささで満ちている。
首をめぐらせると、教室の後ろ、掃除用具入れの辺りで佐山くんを筆頭とした男子のグループが例のごとくで群を作ってた。女子たちが密かにあれを「佐山のサル山」って呼んでることを、多分彼らは知らない。体が大きいボスザル・佐山くんを中心に、群れの子分たちはキーキーおしゃべりする。
「何かの病気? あいつが風邪引いてんの見たことないけど」
「留学したって聞いたぞ。あいつんち金持ちじゃん」
「先生が不審者が出るって言ってたのと関係ある?」
女子のおしゃべりだってろくなもんじゃないけど、男子のそれも、ホント、大差ない。
クラスメイトの加賀谷くんが、夏休み明けから学校に来てない。
今日は九月のちょうどまん中、十五日。季節外れのインフルエンザだとしても、二週間も休むのはちょっと長い。おまけに先生からは説明なし、そりゃ勘ぐりたくもなる。こうして、加賀谷くんの不在はちょっとした事件になりつつあった。
「加賀谷くん、大丈夫なのかな」
適当なおしゃべりで忙しい佐山のサル山にいながら、広瀬くんだけは本気で心配そうな顔をしてた。佐山くんがボスザルなら、広瀬くんは子ザルだ。いつもちょろちょろしてて、ニコニコしながら佐山くんのパシリをやってる。加賀谷くんは佐山のサル山の構成員じゃなかったし、広瀬くんと特別仲がいいってイメージもない。加賀谷くんを心配する広瀬くんがいい人なのか、はたまた加賀谷くんだからこそさして仲良くもない広瀬くんにも心配されるのか。
加賀谷くんは、何かと目立つ男子だ。
「天は二物を与えず」って言葉を知ったとき、それって嘘じゃない? って笑った。天は一人の人間に長所や才能をいくつも与えることはない、って意味だけどそんなの大嘘、考えたヤツはえん魔様に舌を抜かれればいい。だったら加賀谷くんはどうなる。
加賀谷くんはテストで常に学年ベスト3に入るくらい頭もよくて、おまけに他校の女子にまでモテるくらい背も高くて見た目もよかった。私はよく知らないけど、水泳選手のなんとかってイケメンに似てるらしい。これだけでもう「二物」なのに、性格もよくて人望があって水泳部の部長までやってて、ついでに家はお金持ちでお母サマは料理教室の先生。って、いくつ「物」があれば気が済むんだよこのヤロウ。私はたかだか十五歳にして、世の理不尽さを実感させられる。私には一物だってあるのか疑問だってのに。仮に私ががんばったところで、ちょびっと成績がよくなるくらい、学年ベスト3の頭脳は手に入らないしルックスも変わらないし家は金持ちにならないし料理教室を開くママンも手に入らない。がんばれば報われる、みたいな学校教育を、加賀谷くんという存在はまっ向から否定しにかかる。
そんな加賀谷くんが、二学期になってから学校に来なくなった。
男子にも人気がある加賀谷くんに限っていじめなんてあるわけはないし、不登校っていうのもあまりにイメージにない。それもあって、病気か、留学か、はたまた行方不明か、なんてみんな勝手に憶測し合ってた。「宇宙人に連れ去られた」とかいつの時代のどこの話だよって噂を真顔でしてる人までいて、なんかもうみんな想像力豊かだし小説家にでもなればいいよ。
「おはよう、さゆちゃん」
私の視界は、急に友菜の顔でいっぱいになった。友菜の人懐っこいところ、そういえば広瀬くんと少し似てるかも、って急に思いつく。友菜は誰のパシリもやらないけど。
おはよう、と返しつつ、隣の席に着いた友菜のテキパキした動きを目で追う。中一のときに友菜と一緒に入った美術部は七月に引退した。でも、クラスでも休みの日でも友菜とはあいかわらず一緒のことが多い。私の毎日はあまり代わり映えしない。
うちの学校は中高一貫だけど、三年生になると夏休みにはどの部も引退になる。引退すればみんなただの中学生。けど、やっぱり教室にある序列みたいなのは変わらない。
佐山くんや加賀谷くんがいるような運動部グループは、男女関係なくやっぱり目立つ。
そして、文化部・帰宅部もろもろのグループは言うまでもなく地味だ。美術部だった私はここ。
別に、ハデなグループに入りたいわけじゃないけど。クラスは何かと目立つ人たちのノリで動くことが多いのがちょっと気に食わない。先生だってそっち側の人間だ。前に加賀谷くんと一緒に日直になったときなんて、「加賀谷ともう一人の日直のヤツ」って呼ばれた。名前すらない扱いの私はモブキャラかよ。
って、「モブキャラ」なんて単語を普通に使っちゃうあたりがもうダメな気がする。マンガとかアニメの背景に描かれる、名前がない脇役のこと。地味なグループなうえにオタクとか、我ながら終わってる。友菜みたいに、オタクなのも引っくるめて笑いのネタにできるようなキャラじゃないんだ、私は。
一人で勝手に悶々としてたら、じゃーん! と友菜が何かを差し出してきた。ピンク色の紙袋とリボンでラッピングされた包み。
「誕生日おめでとう!」
今日は九月のちょうどまん中、十五日。加賀谷くんが学校に来なくなって二週間の今日は、私がこの世に生を受けて十五回目のその日でもあった。ハッピーバースデイ・私。
毎年のことだし予想はできてたけど、うれしいものはうれしい。悶々はふり払って、ありがたくプレゼントを頂戴する。見てもいい? もちろん。
リボンをそっと解いて袋の中を覗く。友菜のプレゼントなので中身は想像できてる。ここは百戦錬磨の経験がものを言う、袋の中身を勢いよく机の上に出すほどウカツじゃない。
「……もしかしてこれ、夏限定イラストの?」
アレク様グッズだろうとは思ってたけど、それでもこれはちょっと予想外だ。思わず顔がニヤけちゃった私はまだまだ修行不足だ。
「そうそう! さゆちゃん、夏限定アレク様、ゲットできなかったでしょー」
「アレク様とか大声で言わないでよ!」
あは、なんて笑う友菜はわかってるのかなんなのか。頼むからオタバレしてない私のことも考えて!
アレク様は私と友菜が揃ってハマってるマンガ『ファイヤー・ファンタジー』のキャラだ。去年アニメ化もして今はシーズン2の放送待ち、グッズもたくさん発売されてる。アレク様は炎の剣を華麗に使いこなす主人公で、誰よりもカッコよくて強くてそれでいてお茶目な面もあってかわいくて……って、止まらなくなるからここら辺でやめとくけど。友菜がくれたのは、そんなアレク様のイラストがプリントされたガラス製のペーパーウェイト。袋越しでも手に重たくて、ヤバいこれは昇天できそう。この夏限定のデザインが発売されてたんだけどお店で売り切れてて、ネット通販に手を出せない職業・中学生の自分が悔しくて涙を飲んだのは記憶に新しい。
「さすが友菜。よくわかっていらっしゃる」
「でしょでしょー、お姉ちゃんにネットオークションで探してもらったんだ」
オタク趣味に寛容な家族がうらやましい。うちなんてマンガ読んでるだけでもお母さんにいい顔されない。たくさんのアレク様グッズは机の引き出しを二重底にして隠してある。
もらったペーパーウェイトの重みを袋越しに楽しむ。本当は今すぐにでもお日様に透かしたいけど、それは放課後まで我慢。じらされるほど愛は深まるものなのだ、なんて言葉が浮かんだけど、私のオリジナルなのか何かの受け売りなのかはわからない。
友菜と盛り上がる一方で、そんな自分自身を冷めた目で観察してる自分にも気がついてた。いくら私がオタバレに気を遣ったところで、そんなこと、みんなにとってはどうでもいい。モブキャラな私は、いつだって教室の風景に溶け込んでる。
「加賀谷くん、どうしちゃったんだろ」
また広瀬くんの心配そうな声が聞こえた。主役はいつだって加賀谷くんで、誕生日を迎えた私の――モブキャラのことなんて、誰も気に留めたりしないのだ。
放課後になって一人で学校を出た。駅に向かう生徒の流れに混ざる。保健委員の会議がある友菜とは、あとで駅で待ち合わせの予定。
一人になって、誕生日って何するものだっけ、とか改めて考える。みんなの主役・加賀谷くんだったらどうだろう。
金持ちだし、豪華なパーティ開いてそう。ホームパーティってヤツ? どうせ私には招待状とか届かないだろうけど。お母さんが料理教室やってるなら、超豪華な手作りケーキとかありそう。そもそも、加賀谷くんの誕生日っていつ? 接点がない私には知り得ない情報だ。ま、加賀谷くんも私の誕生日なんてやっぱり知らないだろうし? それならお互い知らないままの方がフェアってヤツだろう。
……今日の私は、なんでこんなに加賀谷くんのことばっかり考えてるんだ。
いつもなら、加賀谷くんのことなんてここまで意識しないのに。今日は無性に加賀谷くんのことが頭に浮かんで落ち着かない、とかまるで恋する乙女みたいなこと考えちゃったけど、そこは問題ない、私の恋心はアレク様のものだ。朝、佐山のサル山のくだらないおしゃべりが聞こえてきたせいに違いない。まぁ私だって、加賀谷くんが学校に来てないこと自体は、普通に気になるけどさ――
目の前を白い犬が横切った。
首輪してるし、飼い犬が逃げたのかも。もふっとした白い毛はツヤツヤしてる。その後ろの右足だけが墨汁に漬けたみたいに黒くて、あ、と口の中で声が出た。
スマホを見る。保健委員の会議が終わるまではまだ時間がある、はず。
駅に向かう生徒の流れを抜け、角を曲がって一方通行の路地を進んだ。道の先に、ゆっくりと足を動かす白犬の姿がある。黒い後ろの右足の動きだけが、スローモーションみたいにはっきり見えた。
私は加賀谷くんのことをよく知らない。でも一度だけ、学校の外で見かけたことがある。今年の五月のことだ。
その日、私は美術部の後輩に教えてもらった、キャラクターグッズも売ってるっていう小さな古本屋を目指してた。学校から駅に向かう道を一本逸れた、住宅街の奥。その道中で、小さな公園の前を通りがかった。
そこは、どこの草原かって聞きたいくらい雑草で覆われてた。整備され、新しい家々が建ち並ぶ住宅街の中でそこだけが浮いてた。大掃除が終わったきれいな学校で、みんなが見なかったことにする掃き忘れられたすみっこみたいに。
遊具もサビついてて遊ぶ子どもの一人もいないそんな公園に、見慣れたブレザーの背中がポツンとあった。
加賀谷くんだった。
加賀谷くんは、地面に転がってじゃれつく犬のお腹を、大きな手でわしゃわしゃしてた。その犬は後ろ足が一本だけ黒くて、白い犬になりきれてない、完璧じゃない感じがなんかシャレてて印象に残った。
イケメンなうえに犬好きだなんてますます女子にウケそう、とか鼻で笑いたくなった一方で。その加賀谷くんの表情は、ちょっと想定外だった。
そんな顔してていいの、って心の中で突っ込んだ。
加賀谷くんって、わりとハキハキしてるイメージだった。元気でみんなの輪のまん中にいるのが当然、って感じの。なのに、そういうハキハキがどこかにいっちゃってた。心ここにあらずというか、元気のもとをどこかに落としてきちゃったような。
なんか見ちゃいけないものを目にした気がして、私はそっと公園を通り過ぎた。
――そんなあの日のことを思い返しつつ。
犬のあとをつけた。
後ろ足が一本だけ黒い犬なんて、そう何匹もいるわけない。あれはきっと、あのとき加賀谷くんがかまってた犬だ。
あの公園に行くのかなって思ったけど、犬はその手前で道を折れた。首筋を汗が流れてく。九月はまだ暑い。どこに行くんだろう。
道が細くなって歩道と車道の区別がなくなって曲がりくねるようになる。昔からの住宅街って一角に入った。古いアパートや廃倉庫なんかを通り過ぎて気がつく。
これ、幽霊屋敷の方に行く道だ。
人が住んでなくてボロくて大きな屋敷だから、みんなにそう呼ばれてる。私は行ったことがなかったけど、一時期は肝試しスポットとして有名だった。変質者が出るからあまり近寄らないように、って先生に言われたのは数日前のこと。
突然、犬が足を止めてわずかにこっちをふり向いた。とっさに近くの電柱の影に隠れる。
――ついてこい。
そう鼻先で促されたような気がした。犬は私の反応は見ず、再び前を向いて歩き出す。
私があとをつけてるってことに、気づいてる?
例えば。完璧な白い犬になれない代わりに、あの犬はすごく賢い脳みそを持ってるんだとして。私をどこかに連れてこうとしてる、のかも。
私があの日、加賀谷くんとあの犬が一緒にいるのを目撃した唯一の人間だから。
犬の歩みが少し早くなった気がして、私も小走りになって追いかけた。
犬は私を選んだ――そんな予感が強くなる。
だって、私しかこの犬と加賀谷くんのつながりを知らない。
予感は確信に変わってく。犬は加賀谷くんを助けたくて、必死の思いで私を呼びに来た。わざとらしく私の目の前を横切ったのがいい証拠。だとしたら今、私は加賀谷くんを助けに向かうヒーロー、ってところ?
加賀谷くんの身に何かあったのかもしれないのに、盛り上がってく気持ちを抑えきれない。頭のてっぺんまで心臓あるんじゃないかってくらい、血管がドクドク音を立てる。ピンチになってる同級生を助けようって私は今、マンガだったらコマのまん中に描かれるべきキャラだ。私の行動でお話は進む。モブキャラなんかじゃない、颯爽と現れるヒーローなんだから。
ふと気になって、歩きながら通学バッグのポケットからあぶらとり紙を取り出した。おでこと鼻のあぶらを拭いたら、ちょっと背筋が伸びて気合いが入る。
私が助けに現れたら、加賀谷くんはどんな顔をするだろう。
古びたお屋敷の一室で、ロープでぐるぐる巻きにされた加賀谷くん。あ、ハサミ持ってない。まゆ毛バサミでロープは切れるかな、ナイフとかあればいいけど。助けたのをきっかけに加賀谷くんが私のこと好きになったりしてね、助けてくれた王子様にお姫様は恋するものだし。って逆だけど。どうせ助けるなら、あんまり明るい部屋じゃないのがいい。プリクラみたいに世の中のすべての光にはなんで美肌効果がないのか。いざってときにおでこのニキビが見えたらムードぶち壊し。あぁでもそんなことになったら、友菜に「裏切り者」って言われそう。いやいやいや、もちろんアレク様が一番だし目の保養だけどね、でもアレク様じゃデートしてくれないし。いや待て、それだと私が加賀谷くんとデートしたいみたいじゃないか……。
角を曲がって足を止めた。当たってしまった予想に半ばあ然とする。
鬱蒼とした木々と高い塀に囲まれた、幽霊屋敷が唐突に目の前に現れた。気づけば犬はいない、どこ行った。人気のない通りに、私はぽつねんと立っていた。
静かだ。
そっと幽霊屋敷の入口に近づいてみる。複雑な飾り模様がついた金属製の門扉には、立入禁止と主張せんばかりにチェーンが巻かれてた。けど、扉の下の方は錆びてて大きな穴が空いてる。犬はここから中に入ったのかも。私も這いつくばればくぐれそう、だけど。
スカートの裾に気をつけながらしゃがんで穴を覗いてみるも、雑草ばかりで白い足も黒い足も見えなかった。おい犬よ、ここまで私を連れてきたくせに無責任ではないかね? ヒーローならここから先は自分でどうにかしろってこと? 何それハードル高いし。
姿勢を直して幽霊屋敷を見上げる。三階建て。アレク様が第七話で追い出されたお屋敷に似てる。壁には所々ツタがはってて、窓ガラスは割れてるものもある。周囲は背の高い雑草だらけ、どっしりと生えてる樹が大きく影を落とす。おかげでまだ日は高いのになんだか薄暗い。本当に幽霊が出そう。
本当にこの中に、加賀谷くんがいるのかな。
そっと門扉のチェーンに触れてみた。びっくりするくらい冷たい。最近、誰かがここを開けたような形跡はない、気がする。
さっきまでの興奮が嘘みたいに心臓が冷えた。
今、ここにいる、私、なんて現実が妄想の風船をパチンと弾く。
……バカみたい。
肩から提げてた通学バックを背負い直す。保健委員の会議ももう終わってるだろう。こんな明かりもないオンボロ屋敷に加賀谷くんがいるなんて、んなわけないし。もしいたとしても、だ。二週間もこんなところに閉じ込められてたら――
閉じ込められてたら、どうなってるんだろ。
心臓が大きく跳ねた。さっきまでとは比べものにならないくらい、体中に自分の鼓動が響く。もう一度、幽霊屋敷を仰ぎ見た。
こんなところに、いるわけない。
だって加賀谷くんは、みんなの主役なんだから。
そもそも、こんなところに閉じ込められてる、なんて私の発想貧困すぎる。佐山のサル山の誰かが言ってたみたいに、きっと華々しく主役らしく、留学でもしてるんだ。英語もペラペラだろうしさ、海外とか超似合う。
私ってばホント、誕生日に何バカなことしてるんだろ。
犬に選ばれようがなんだろうが私は私でしかないのに。
ヒーローに――主役になんて、簡単にはなれないのに。
一人きりだってのに、自分のバカさ加減が笑える。友菜に話したら笑ってくれるかな。
駅に戻ろう。そう踵を返しかけたそのとき。
――かすかに足音が聞こえた。
息を呑む。口の中にあった笑いはすぐに固まって消えた。
そっと、静かに、ふり返る。
背後に誰かが立ってた。
残暑厳しい九月だっていうのに、その男は長袖の茶色いロングコートを着ていた。寒がりなのかな、なんて一瞬思ったけど、コートから伸びる足は素足に革靴。そのちぐはぐな感じに鳥肌が立った。
視線だけで辺りを見回すも、人どころか犬の一匹もいない。
静かに一歩下がる。男のねっとりとした視線を頭のてっぺんに感じるも、首が固まったみたいに顔を上げられない。
……怖い、怖い、怖い。
男の両手が、前を閉じているコートのボタンにゆっくりとかかってく。
走ってもすぐに追いつかれるような気がした。でも逃げないと、考えろ、考えなきゃ、無理だし! なんて頭ぐちゃぐちゃになってたら。思い出した。
――困ったら、誰かに助けを求めましょう。
少なくともそれはアレク様のセリフじゃなかったけど、とっさに従った。今にもコートを開こうとする男から視線をはがして、肩に提げた通学バッグに手を突っ込んだ。
防犯ブザー!
アレク様のシールが貼ってあるそれに、にわかにわいた勇気でピンを抜いた。ほかの音を耳が受けつけなくなるような、予想以上に大きなブザー音が響き渡る。
ほらほらほら! ブザー鳴ってるんだからどっか行ってよ!
男の手が止まる。そのまま回れ右していなくなって――ほしかったのに。男の革靴が一歩前、つまり私の方に向いて。
……こっち来るの?
思考が吹っ飛ぶ。足が固まる。
ふり絞ったのは勇気か理性か、私は再び通学バッグに手を入れた。
翌朝、私は主役になっていた。
記念すべき誕生日だって、こんなに注目されなかったのに。教室に着くなり、クラスメイトの女子たちに囲まれた。
「ヘンタイやっつけたって本当?」
昨日、幽霊屋敷の前で遭遇したヘンタイに、私は友菜にもらったピンク色の包み――アレク様のペーパーウェイトを投げつけて撃退したのだった。
ペーパーウェイトの当たり所が悪かった――いや、ある意味よかったのか、男はひっくり返って動かなくなった。私が学校の二宮金次郎像もビックリなくらい固まってたら、通りがかった自転車のおばさんが通報してくれた。
私としてはなかったことにしたいくらいなのに。事の次第を知った友菜が、それを武勇伝にしてみんなに広めてしまった。
――アレク様が、さゆちゃんを守ったんだよ!
おまわりさんやお母さん、先生にも、なんで一人であんなところにいたんだってさんざん怒られたのに。
教室では私はヘンタイを倒した勇気ある少女ってことになってた。
ついでに、オタクだっていうのもみんなの知るところになってた。
最悪にもほどがある。オタバレを避けてきた私のこれまでの努力と、汚れなきアレク様のペーパーウェイトを返せ。
いつだって私は、自分は天にニキビしか与えられないモブキャラだって思ってた。どうあがいたって、天から与えられたものが多すぎる加賀谷くんみたいには――主役にはなれないって。
でも、だからって。こんな風な形で目立ちたかったわけじゃない。
あんな思いをするくらいなら、主役になんてなれなくてよかった。
何もしないでも目立つ加賀谷くんは、私の中にずっとあった「主役」のイメージそのものだった。
でも今、それはまったく違って思える。
加賀谷くんは、望んで主役になったのかなって。
私の代わりに武勇伝を披露する友菜を眺めつつ、心の底から思った。
願った。
祈った。
どうか、加賀谷くんがこんな形で主役になりませんようにって。
主役でいる必要なんてない、モブキャラだって悪くないよって。
今日も、加賀谷くんは学校に来ていない。
一つ咳払いをしてからイエデンのボタンを押すと、ワンコールで女の人の声がした。
「もしもし、爽優学園中学高等学校でございます」
わ、秒速だ、と一瞬焦る。
「あの、私……」
すっと息を吸った。
大丈夫、女優になりきれ。
「一つお伺いしたいことがありまして、お電話しました。わたくし、都内の中学三年生の娘の保護者なのですが」
自分でも驚くくらい、毛糸玉からするするとほどける毛糸のように自然な声が出た。
私の本物のお母さんより落ち着いてるかも。
「転入生の募集ってしていません?」
スマホで調べたら、学校のホームページにはそんな情報は載っていなかった。
でも、ネットに載ってないだけかもしれないし。
ダメ押しでも電話で聞いてみる。私、河本茉穂にはそれくらいの度胸がある。
母親のフリをしたのは、本人からだと子ども扱いされて相手にしてくれない可能性があると思ったから。まったく、十五歳ってフガイないな。
「あいにく、年度の途中では募集していませんね」
「『年度の途中では』ということは?」
私は食い下がった。まだここで諦めたくない。
「年度の変わり目では、欠員がいれば募集することもあります。高校一年生になるときに欠員募集をするかは、まだ分かりませんが」
「欠員がいれば、可能性はあるんですね」
念を押すように繰り返してから、私は電話を切った。
ふーっと大きく息をついて、そのままベッドに倒れ込む。
思い浮かぶのは、二週間前にほんの一分ほど顔を合わせた男子。爽優学園中学の加賀谷駿だ。
茉穂、と頭のなかで駿は私を呼ぶ。
あああ、呼び捨てとかもうヤバいから!
バスバスと私はこぶしで枕をたたく。実際、あの人は私の下の名前も知らないのに。
今から二週間前、夏休みに入ってすぐの水曜日。
貴重な夏休みの四十分の一日に、ここに来たことを私はかなり後悔していた。おばさんだらけのヘルシーパン教室なんて。
「ええ! 長谷川さんの息子さん、学年で一番なの?」
「いやだあ、英語だけよ。帰国子女だからね、英語くらいしか取り柄がないのよお」
「ロンドンでしょ? いいわねえ、ヨーロッパに住んでいたなんて。うちなんて、年一回家族でハワイに旅行するだけだもの」
「いいじゃない、毎年ハワイなんて。うちなんて最近は近場の台湾しか行かないんだから」
「あら、台湾って一番の流行りじゃない。海外といえば、加賀谷さんのご主人、いま海外でお仕事されてるんでしょ? アパレルなんておしゃれだわあ」
「ううん、うちの人は工場の管理者だからおしゃれでも何でもないわよ。家ではいつもユニクロ着てるんだから」
「やだ、センスのある人ほど、シンプルでもサマになるじゃないねえ」
クソつまんない。
うちの近所の加賀谷さんが自宅で開講しているヘルシーパン教室。ここに毎月通っているお母さんに、「夏休みなら茉穂ちゃんも一緒に行きましょうよ」と連れて来られた。正直気が進まなかったけど、お母さんのためだと思ってしまった。
いや、一回は断ったんだ。だって料理なんて興味ない。その時間があるなら、TSUTAYAで夏休みのためにまとめ借りした映画を観ていたい。でも、断ったときのお母さんの、真冬に待ちぼうけしたハチ公みたいな目を見て、「やっぱり行く」と言ってしまった。
お母さんのあの表情に、私はめっぽう弱い。
アイランドキッチン(壁にくっついていないキッチンをそう呼ぶらしい)で、母親たちはおしゃべりをしている。かすかに鼻をくすぐる、はちみつのやわらかい匂いがオーブンから流れ、私たちを包む。今日のメニューは、はちみつベーグルだ。
ようやく、焼きあがるところまできた。昼過ぎから始まった四時間におよぶレッスンに終わりが見えてきてほっとする。
パン作りって、こんなに長い時間が必要だとは知らなかった。
ただ生地をこねて、ベーグルの形にしたらそのまま焼くだけかと思っていた私は甘かった。生地をこねたり、形を作ったりする間に、生地が発酵するのを待つ時間が何回もある。
その度に始まるのは、おばさんたちのおしゃべりタイム。
その様子は、授業の合間の休み時間に、おしゃべりに興じるうちのクラスの女の子たちの姿に重なる。まあ、話す内容は違うけど、でもちょっとあの感じに似てる。昨日テスト勉強した? ううん、全然だよお、自信ない。うっそだあ。っていうような。
目の前のおばさん五人が繰り広げる「自分の家族の評価をわざと下げて周りにアゲてもらうのを待ってる」という独特のコミュニケーションは、もしかしたら中学生の頃にはすでに下地ができていたのかもしれない。
ああ、聞いてるだけでイライラする。その会話に、自分の母親が持っているなかでは一番高いエプロンをして嬉しそうに加わっていることにも。
「そういえば加賀谷さんのところは駿くんも優秀よねえ。それに、水泳部の部長さんなんでしょう?」
「この夏の大会で引退なのよ。今日も練習に行ってるわ。もうすぐ帰ってくると思うけど」
ふーん。面識のない男子なんてどうでもいい。近所とはいえ、加賀谷さんの家とは小学校の学区域が違ったから、私は加賀谷駿を見たことがなかった。
暇つぶしで、テーブルに張りついていたパン生地のかけらをこねていると、
「駿くんと、河本さんのところの茉穂ちゃんは同い年よね?」
不意に話のボールが飛んできた。
「茉穂ちゃんは、東京英花女子に通ってるんでしょう?」
「すごいわねえ」
そのボールは私ではなく、お母さんが横から飛び出してきてキャッチした。
「いやだ、運がよかっただけなのよ」
結婚指輪の光る手で、ゆるむ口元を隠しているけれど、お母さんの顔からは嬉しさが滲み出ている。
本当は、私を東京英花女子に入れるため、お母さんは必死になっていた。地元にも塾はあるのにわざわざ新宿にある大手の塾に毎回車で送り迎えして、私以上に模試の結果に一喜一憂して、受験三か月前からはなぜか千羽鶴を折り始め、ここで撮れば受かるというジンクスの写真館で受験用の顔写真を撮らせた。
あれは私の受験というよりお母さんの受験だった気がする。私は当日、お母さんの代わりに解答用紙を埋めただけ。
つきあってられない。
「私、帰る」
立ち上がると、母親たちの視線がいっせいに私に向けられた。
「どうしたの? もうすぐ焼きあがるわよ?」
「明日のセミナーの宿題思い出した」
上目づかいのお母さんにそう切り返した。夏休み期間でも自主参加のセミナーがある。宿題はすませてあったけど、帰りたかったから口実にした。
「えらいわねえ、茉穂ちゃん」
お母さんの友人たちが頷きあう。
「まなちゃん、気をつけてね」
「……」
玄関まで見送ってくれた加賀谷さんが名前を間違えたから、私はチラリと隣のお母さんに視線を送る。でもお母さんは間違いを訂正しない。気の弱そうな笑みを浮かべて突っ立っているだけだ。もし、間違えたのが名前じゃなくて学校名だったら、即座に訂正したんじゃないかな。
まなといえば。その名前で思い出す女子がいる。小学校の頃の同級生、川合まな。川合まなと河本茉穂。五、六年生のとき出席番号が隣だった。名前は似てるのに性格が全然違うね、とよく周りにからかわれた。まなは、どちらかというとおっとりしていて女の子らしい、私のお母さんに近いタイプだ。
まなじゃなくて茉穂です、と自分で言い直すのも面倒くさい。私は一礼して加賀谷さんの家の玄関を出る。
ドアを閉めてくるりと後ろを向いたとたん、私は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。
犬……! どうしてこんなところにいるわけ。加賀谷家に着いたとき、庭に犬小屋はないことは確認してあったのに。
白くて、もこもこした犬だった。玄関の前のポーチの先に小さな門扉があり、それがうすく開いていた。どうやらあそこから入ってきてしまったらしい。
私がこの世できらいなものは二つ。意気地なし、そして犬だ。
悪い魔女に魔法をかけられたようにその場から動けない。
どうする? インターホンを押してもう一度家のなかに入れてもらう? でも、またあの場所に戻りたくもない。
「おー、また入ってきたのか」
そのとき門扉を押し開いて来たのは、日に焼けた男の子だった。私に気づくと、耳のイヤホンを片方だけ外して訊いた。
「えーっと、誰?」
「河本です。母親がここのパン教室の生徒で……。今日は一緒に来たんです」
ここの家の息子、だよね。さっき話題になっていた加賀谷駿。
私が軽くうなずくような会釈をすると、犬は自分にもあいさつされたと思ったのか、足元に駆け寄ってきた。後ろ足二本でジャンプしながら私にくっついてくる。
「わ、やだやだやだ!」
私は後ずさりして、ドアにぺったり背中をつける。
「ああ、苦手なのか」
男の子は、犬の胴にぐるりと腕を回して抱え上げた。
「この犬、近所で飼われてるんだけど、よく抜け出してこの辺うろうろするんだよ。この足が目印」
真っ白だと思っていた犬は後ろ足が一本だけ黒かった。
安心したせいか、背中にぶわあと汗が噴き出した。真夏はこの時間でも空気がねっとりとして暑いことに、今さらのように気がついた。
「帰るんでしょ? はい、どうぞ、通れば」
犬を抱えたまま、男の子は脇によけた。
「あり、がとう……」
今度は別の意味で、私は足が動かなくなっていた。
男の子をまじまじと見る。クラスで背の順が後ろから二番目の私よりも、長身。アイドルみたいな甘い顔ではないけど、目や鼻のパーツが一つ一つきれいに整っている。
同い年の男子と話したのは小学校卒業以来だった。男の人といえば学校のおじさん先生か、お父さんか、まだ小学二年の弟くらい。同い年の男子なんて遠い星の宇宙人だ。
でも、私が東京英花女子に入っていなければ、きっと宇宙人には見えなかったはず。遠い星じゃなくて、隣の席の人だったかもしれない。
だって加賀谷駿は、私が第二志望にした爽優学園中学の制服を着ていたから。
「どうして東京英花女子に入っちゃったんだろう」
イエデンの子機を枕元に転がしたまま、つぶやいた。爽優学園に電話をかける前から、いや、加賀谷駿と出会ったその日から、私はずっとそればかり考えている。
中学受験をすることイコール東京英花女子を目指すことだった。
東京英花女子は、お母さんの憧れの学校だった。戦前からあるという歴史、都内で有数の進学実績、「山の手のラベンダー畑」という愛称(セーラー服で、ラベンダー色の大きなリボンが目印なのだ)、その一つ一つにお母さんは恋するように憧れていた。
今から三十年以上前に受験しても受からなかったお母さんは、私に夢を託した。
「茉穂ちゃんが東京英花女子のセーラー服を着ているところを見たいなあ」
それがお母さんの口癖だった。
私には、小さい頃からお母さんの期待を破り続けてきたという負い目があった。
私は眉も目元もよく言えば凛々しくて、お母さんの趣味に合うベビーピンクやフリルの服は、ことごとく似合わなかった。むしろ弟のほうが似合う気がする。
習い事もしかり。お母さんが女の子らしさを求めて習わせたバレエもピアノも、性格に合わなくてすぐに辞めてしまった。
お母さんはその度に、雨に濡れたぬいぐるみみたいな、しゅんとした目をした。口では、茉穂ちゃんには茉穂ちゃんの個性があるものね、と言ってくれたけれど、あの目は私をうっすらとした申し訳なさに浸した。わたしが同級生の川合まなみたいに生まれたら、お母さんは喜んでくれたかななんて思ったりもした。
だから中学受験ではお母さんの夢を叶えようとした。勉強でなら、お母さんの期待に応えることができる。
東京英花女子に入る。それが、唯一お母さんにしてあげられることだと思った。
他の志望校は、塾の先生が偏差値に見合うところを三校選んでくれた。爽優学園はそのなかの一つだった。
でも、本当に東京英花女子に入ることが私にとって正解だったのかな。
授業は常にまだまだ先の大学受験を見据えた内容になっているし、校則は厳しいし、部活が文化部と運動部合わせて五つしかなくて、どれも興味がないから入らなかった。毎日が窮屈で仕方ない。
学校から帰ってたっぷりある宿題を片付けると、部屋で映画を観るのが寝る前の習慣になった。映画は、私を知らない世界に私を連れて行ってくれる。とくに、まだ歩いたことのない世界を見せてくれる洋画が好きだ。
洋画を観ながら、高校卒業後は海外に留学しようといつも思っていた。早く自分の足で東京英花女子以外の世界を見てみたい。
でも。加賀谷駿と知り合ってから、それがもう待てない。あと三年も今の環境で耐えないといけないなんて。十六から十八っていう、一番の青春(この言葉を使うのは恥ずかしいけど)を土のなかに潜って過ごすようなものじゃない?
恋の一つもできないまま。
一目惚れなんて浅はかだ。そう自分をたしなめても、ちっとも気持ちは薄れない。
加賀谷駿と同じ高校に通いたい。
どんなにバカみたいな動機でも。いや、バカみたいな動機にこそ突き動かされてみたい。他の誰のためでもない、私のための選択。自分の進む場所を自分で選んでみたい。
もし、爽優学園高校に入れたら。恋をする。部活もする。成績だって上位に入りたい。今ここではできないことを叶えたい。
九月、新学期になると、休み時間はずっと爽優学園の情報収集をして時間をつぶした。もともと、休み時間は誰も近寄らないでよってオーラを出してスマホをいじっていたから、周りから見れば何の変化もないだろう。
Twitterで検索していると、爽優学園中学の生徒っぽいアカウントを見つけた。アップしている写真の制服から分かった。
アカウント名は【しまだ】。ポニーテールの似合う活発そうな女の子だ。こういう女の子って、きっと男子に人気あるんだろうな。
つぶやきを遡っていくと、彼女が中三だということ、妙な魔術書にはまっていること、塾にも友達がいることなどなどをパズルのピースのように断片的に知った。
何か、楽しそう……。
鼻でため息をつきながら画面をスクロールしていくと、気になるつぶやきを見つけ、あわてて親指を止めた。
〈九月から隣のクラスの男子が学校に来ない。なんでだろ??〉
よし、と思う。このまま来なければ、学校を辞めるかもしれない。そうしたら、私が座る椅子が空く。加賀谷駿と同じ学校に通うことができる。遠い星から隣の席にワープできるチャンスだ。
辞めろ辞めろ辞めろ。見ず知らずの男子に向けて、心のなかで祈るように訴える。不登校なんて潔くないじゃない。その学校に籍があるかぎり、登校しないことは周りに負けと思われる。ねえ、そうじゃない?
私は負けだと思われたくない。意気地なしだと思われたくない。だから通う。毎日通う。東京英花女子を辞めるその日までは。
「行きたくないのなら、自力で抜け出す方法を考えろ」
つい口に出したその言葉は、自分にも向けられていた。
授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。不意に、お母さんのあの目が頭のなかに浮かぶ。お母さんは私が東京英花女子を抜け出そうとしていることをまだ知らない。それを知ったときの目を私は直視できるだろうか。
でも。私は迷いを断ち切るようにスマホの電源を切って鞄にしまった。
今日は水曜日だ。ちょうど私が家に着く頃、お母さんもまだ温かいパンを持って帰ってくる。きっとまたおばさん同士で、たくさんのおしゃべりや情報交換をしてくるんだろう。そのなかで、一かけらでもいいから、加賀谷駿の話を持ち帰ってくれますように。
わたしの名前は花京院梓。加賀谷駿が書いた小説「きのう、きみを舐める犬の夢をみた」の主人公の少女です。
正確に言うと、創造主・駿が中学三年の夏休みの最初の日に電子辞書のメモ機能に書き始め、未完で放置された小説(の真似事)の主人公です。
わたしはいま、失意と絶望の中にいます。あの晩からずっと泣いたままでいるのは、自分で切った前髪が短すぎたから……だけではありません。一人泣きじゃくった場面で、お話が止まったままだから。わたしが生身の人間だったら、涙でまぶたが腫れに腫れてぶよぶよにふやけて、目玉がぽろっと取れていてもいいくらい泣きました。二次元の女の子でよかった。
プツ……
「えっなに? いま、電子辞書の電源が入った? 創造主・駿が小説を書きに帰ってきたの?」
「しっ、騒ぐなよ」
「り、隆。なにしに来たのよ」
同じ小説の登場人物の、幼馴染みの加賀見隆と、わたしはいま絶交状態になっているのです。
「いいから静かに。いつもと様子が違う」
わたしたちは、電子辞書の外の世界に、聞き耳を立てました。
『駿、いまどこにいるの? どうしてなにも話してくれなかったの』
どうやら、創造主のお母さんのようです。
『毎朝元気に家を出て、駿はどこへ行っているの? 学校からの連絡で知るなんて……うっうっ』
お母さんは啜り泣きをしながら、手掛かりを探すために引き出しをあさり、創造主・駿の電子辞書を手にしていたのでした。
『BLT……ベーコン、レタス、トマトサンドイッチ。駿はなにを調べたかったの?』
「腹減ってたんじゃね?」
「先に静かにって言ったのは隆だからね?」
わたしは小声で非難しました。でも隆はいつものマイペース。
「息子の部屋をあさるなよ。引くわー」
『なんでも相談してくれていると思っていたのに……』
呼び鈴が鳴りました。
『いけない、お教室の生徒さんだわ。いつもの通りにしていないと』
引き出しがしまり、人の気配が消えました。
「電子辞書、ちゃんと閉じていけよ。開いてんじゃん」
「慌ててたんでしょう。すぐにスリープモードになるよ」
「いやなんだよ、だらしないのは」
「隆の潔癖」
「悪いか。そうやってかわいくないことを言うから佐々山に嫌われるんだろ?」
「う……そうやって、触れられたくないことにずけずけ踏み込んでくるからケンカになるんでしょ!」
「その性格直せよ」
「創造主・駿に言ってよ。素直になれない元気な女の子ってありがちの設定で書きだしたのは創造主・駿なんだから! だいたいね、わたしの名前、花京院ってなんなの、無駄にフローラルでみやびだし」
わたしはずっと感じていた不満を吐き出しました。
創造主・駿によると、わたしは幼馴染だった同級生の男の子加賀見隆の親友の佐々山に恋をしているのです。佐々山の気をひきたくて、やたらと加賀見隆におせっかいを焼きに行くのですが、わたしは佐々山への思いを素直に出せず、周囲の子たちにも誤解されるばかり。
佐々山に告白をしたつもりが素直に気持ちを表せず、結果的に彼の親友の隆の欠点をあげつらう言葉となり、怒った彼に絶交を言い渡されてしまうのです。その後、わたしを心配してくれた隆とも大喧嘩をしてしまい、恋も友情も壊れてしまう。自分を変えたくて、真夜中に泣きながら前髪を切ったのですが、それも失敗。
ショートカットで小柄。かわいいほう。事前の設定なしで突然わたしは生まれ、家族関係は不明……。
わたしの容姿の描写は創造主・駿の小説にほとんどないのですが、目が大きくて、バストはAカップだそうです。ヒロインを目と胸だけの描写で済ますなんて、意味がわかりません。
しかも、なぜかわたしはモテるのです。佐々山以外の男子からは結構ちやほやされていると書いてあるのです。
「創造主が、そういうのが好みなんだろ?」
「はああああ? モテてちやほやされてるなら、わざわざ佐々山に片思いしなくていいじゃん。恋させられてるせいで、切なくて、浮ついて、人恋しくて、すっごく苦しいんですけど!」
「俺に言われてもな」
「創造主、男なんだし、主人公にするならわたしじゃなくて隆でいいじゃん。加賀谷駿と加賀見隆って、名前も似せてるなら、なんで隆の一人称じゃないわけ?」
「脇役な方が自分に向いてると思ってんじゃね?」
「隆が作者の分身ならわたしはなに?」
「さあな。俺はタイトルのほうが気になるけどな。『きのう、きみを舐める犬の夢をみた』って」
「わけわかんなすぎてどうでもいい」
「タイトルの『きみ』って、だれのことだと思う?」
「わたしにわかるわけない。隆が創造主の分身ならわかるでしょ?」
「犬ってなんのことだろう」
「犬は犬でしょ」
「夢の中の犬なんだ。実際は別のなにかのイメージかもしれない」
「犬の話なんてどうでもいいし!」
「んとに大ざっぱな女だなあ」
わたしは隆が少し前に言った言葉で言い返しました。
「創造主が、そういうのが好みなんじゃないの?」
「おまえって、地の文とセリフのキャラ違うよな」
「女の子っぽい演技をさせられてるからだよ。ずっと我慢してんの。ですます調でしゃべれるかっつの。女の子を勝手に理想化してんじゃねーよ」
「怖えぇ。ほんとの女子みてえ」
隆がにやにやからかいの笑いを浮かべている途中で、電子辞書はスリープモードになりました。
『なんで辞書の位置がずれているんだ、くそ!』
わたしの意識がもどったのは、創造主の悪態のつぶやきと同時でした。
『画面がBLTのままだ。ということは、あれは読まれてないよな』
あれとは、わたしたちのことでしょうか。
「俺、考えてみたんだけど」
「隆、まだいたの? 創造主に消されたかと思った」
「俺が消されるときはおまえだって消されてるよ。いいから聞け。俺は駿の分身だって言っただろ。俺、考えてみたんだけど、おまえだって駿の一部なんだよ。駿は 俺ではなくおまえの口で語らせたいことがあったんだよ。小説を書くって、そういうことじゃないのか? 俺たちは駿の一部なんだ」
「な、なに急に。創造主・駿の生産物ではあるけど……」
「加賀谷駿は、朝読の時間にはもっぱらノンフィクションや著名人のエッセイを読んでいただろ。作家志望でもないやつが、なんで突然小説を書きだしたんだ?」
「夏休みで暇だったとか?」
「途中で放り出したのは?」
「飽きちゃった、とか」
「夏休みが明けて、毎朝学校に行っているふりをしているのは?」
「えっ? わたしたちと関係あるわけ?」
『母さん、僕の辞書使った?』
部屋の外から聞こえてきた創造主の声は警戒色を帯びています。
『え……ええ、調べ物がしたくて。ごめんなさいね、勝手に引き出しを開けて』
創造主のお母さんの声も少し緊張しています。でも、ほぼ普段通りの親子の会話をキープしようとしています。
『なにを調べたの?』
『えっとね……なんだったかしら。お教室の生徒さんが来て、結局調べなかったのだわ』
『ふーん。代わりに調べようか?』
『なにを調べたかったのかを思い出したらお願いね。さ、夕食にしましょう。学校はどう?』
親子の探り合いです。
『べつに、普通だよ。いただきます』
外の音に聞き耳を立てていたわたしに、隆は確かめるように言いました。
「あいつ、悩んでいるよな?」
「わたしを絶望の淵に追い込んでおいて、なにを悩んでいるんだっての。マジ迷惑なんですけど。小説の続きで悩んでいるせいで学校に行ってないっていうの?」
「逆だ。学校にいけないほどの悩みがあるから、小説が途絶えているんだろう」
「創造主・駿の悩みや苦しみなら、隆が背負えばいいことでしょ。わたし、一応女なんですけど」
「男の俺は、たぶん創造主にとっては理想化された男の駿なんだよ。理想化した女のおまえをお上品な文体で書こうとしたみたいに」
「Aカップが理想なのかよ」
「男にハアッハアッされるより、精神的に愛される女性がいいだろ」
「あほくさ。理想化した分身だとして、なんでわたしが佐々山に告白して振られるわけ? 隆が女子に振られる話ならよかったのに。なんで佐々山なんか出すんだろう」
「佐々山はいいやつだから」
「だったら両想いにすればいいのに」
「この後くっつく予定なんじゃない?」
「マジか。それなら悩むことなんてない。結末書いて話を終わらせるのは簡単じゃん」
「そうか……」
隆はなにかを思い出そうとしていました。
「おまえも駿の一部なんだよな。つまり、これまでおまえが感じてきた苦しみは、創造主も感じたことがある苦しみなんじゃないか? 小説では簡単な結末でも、駿にとっては簡単な結末にならないんじゃないか」
わたしよりつらい恋をする人が現実にもいるなんて思いたくないのですが。
「いつだったか、変な夢をみたって、塾の友だちに話していたことがあったよな」
自分が書かれる前の記憶なんて、わたしにはありません。でも、だれかが昔のことを噂しているのを聞いた気がします。
「塾のことって、朝自習でゲイの理事長に迫られる夢をみて、窓から落ちたときのこと?」
「それは去年の話だろ? それじゃなくて、自分以外の人になった夢をみたことがあるかって塾友が話かけてきて、駿は自分が犬になった夢ならみたことがあるって……ああ、だからこの小説は『きのう、きみを舐める犬の夢をみた』ってタイトルなのか」
隆だけでわかったつもりにならないで、と言おうとしたとき、電子辞書はスリープモードになりました。
電源が入る気配がすると同時に隆が言いました。
「小説の続きは俺が書く」
「はあ? 隆が書けるわけないじゃない。だって、うちらは登場人物なんだよ? しかも隆は脇役じゃん?」
「脇役を強調しなくていいから。おまえだって、失意と絶望の中にいるのがいやで、完成してほしいと思っているんだろ?」
「そりゃそうだけど、未完の小説をその中の登場人物が完成させるなんて、無茶苦茶すぎでしょ?」
「なら、涙でまぶたが腐って目玉がぽろっと取れるまで泣けよ」
「絶対いや。わたし、ホラーの主役になった覚えはないし!」
「俺たちのためだけじゃない。創造主は毎日学校をさぼって、どこに行ってるんだ? うまくだましていたが親にもばれたぞ。親をだまし続けるのって、つらいだろ?」
「お母さん、不登校に気づいたのなら直接理由を聞けばいいのに、なんで嘘を叱らないの」
「駿を傷つけたくないんだろう。親だってショックなんだよ」
「そういう物わかりのいい振りするのがうまいところ、創造主にそっくり。腹ン中では納得してないくせに」
「大人だって言ってくれない?」
そう言って隆は大人びたため息をつきました。
「おまえは佐々山に失恋してぐじゃぐじゃになっていたけど、実際に佐々山のモデルにした人物が好きなのは、おまえじゃなくて創造主なんだってことだ」
「はあ? 佐々山も創造主も男……あー」
「だから戸惑って、悩んでいたんだ。辞書に残されたBLTは、意味があったんだ」
「サンドイッチじゃなくて? BL……ボーイズラブ?」
「そうじゃないだろう。LGBTって調べるつもりだったんじゃないかな。夏休み前に学校で講話があっただろ」
雑な推理に、わたしはちょっと呆れてしまいました。
「アルファベットは似てるのが入っているけど、間違えるかな。サンドイッチの種類を調べただけじゃないの?」
「かもしれない。だが、創造主が夢の中で犬になったとき、友だちのほほを舐めていたことは確かだ。塾友に夢分析の話をされて、それで動揺していたんだよ。セクシャルマイノリティの講話を聴いたときは他人事だったけど、だんだん、あの夢は自分の願望ではないかって思い始めて」
「犬なら大好きな人のことを舐めるでしょ。犬は人間の性別に関係なく好きになってくれるでしょ」
「それを確認するために、おまえを主人公にして小説を書いてみたんじゃないか。それで、行き詰まった。ハッピーエンドにしたら、創造主が佐々山と結ばれることを望んでいるみたいだって気づいたから」
「小説ならそれでいいじゃん。わたしだったら、犬を主人公にして大好きな飼い主を舐めつくすお話を書くよ。夢の中の出来事にまで責任取れるかっての」
「創造主は、考える時間がほしかったんだ。自分はいまのままでいいのか。このままの自分でこの先も大丈夫なのか」
「そんなの、小説を書いてどうにかできる問題じゃないよ」
「だよ。だから、いまの気持ちを書き残したんじゃないかな。なにかの形で表現したかったんだ。書けばなにかが変わると思ったのかもしれなくて、だけどそれは創造主の手に負えない感情を連れてきたんだ」
「それで途中でほっぽりだして、涙をわたしに押し付けて、現実からも逃げてんのね」
「きついな、おまえ」
「創造主が、そういう好みなんでしょ?」
「俺なら傷つくわあ。駿。俺はそういうおまえのことも好きだよ。夢の中とはいえ同性に興奮したのがショックなのはわかる」
「もしも隆の言う通り創造主が悩んでいたのだとしたら、わたしたちの会話ではなく、そろそろ加賀谷駿の言葉で語ってほしいと思う。そうしないと先にすすめないよ」
「解決なんて、できないよ。そんな簡単なことじゃないよ」
『駿』
創造主のお母さんが部屋に入ってきたようです。
『もしもお母さんに話しにくいことがあったら、お父さんに相談しなさいね……』
◇◇◇
ただぼんやりと眺めていた電子辞書を教科書の横に置く。
「父さんの仕事の邪魔をする気はないよ。子どもじゃないし。まあ、まだ子どもだけど」
いっぱしの大人気取り、と思われるのも癪だから訂正をくわえる。でも、内心は母さんよりは自分のほうが大人だと思う。
「明日の授業の予習、結構大変なんだ。手間がかかる」
角が立たないように、はやく部屋を出ていけという布石を打つ。
「お父さんにもお母さんにも話しにくいことだったら、だれでもいいから信頼できそうな大人に話して。一人で悩み続けないで」
「わかってるよ」
おせっかいで、やさしい母さん。でも、まずは自分で整理したいことだ。
だれも知らない小説の創造主であり、真の主人公である加賀谷駿は、混乱している。中学生ってことに。まだ少年であることに。大人でもないことに。どうにもならない不全感に。
「母さん、僕を今の学校に入れたのって、高校受験がないからだよね」
「そうね。校風も駿に合うと思ったし」
「うん……いい学校だと思う」
「いい学校?」
母さんは意外な言葉を聞いたように繰り返した。
母さんは僕がこのところ学校にも塾にも行っていないこと知っていて、知らないふりをしている。僕から話してくれるのを待とうとしてくれている。
理想的な母親であろうとしていて、僕は理想的な息子であろうとしている。父親はこの理想の家にはそぐわないが、仕事人間の父としての理想は果たしている。そして期待通りの人生を送る。父親も母親も、そして僕も……。
できるやつでいることが、できて当然と思われて期待に応え続けることが、この先もずっと続くのだ。加賀谷駿は加賀谷駿を演じ続けなくてはならないのかと思うと、自分が潜水服の中に閉じ込められているような気がした。
「高校受験するのって、大変かな。ええと、ほら、塾には受験するやつも来てるから」
「楽なことではないでしょうね。ほかの子が受験勉強する時間に、駿はうんと好きなことができるわ」
「そうだね。実感はないけれど。小学生のうちに受験させてもらって、得したってことか」
自分を変えたい。そのために、環境を変えてみたい。
これは、わがままなのだろうか。強い人間であれば、同じ環境の中でも自分を変えていけるのだろうか?
別の高校へ行きたいと言ったら、この家の平和が壊れてしまうかもしれない。その理由を知ったら、母さんの人生プランも大きく変わることになる。薄っぺらい理想と期待で支えられてた家族の壁は、案外もろいものかもしれない。
母さんは部屋を出ていった。
「高校受験しようかと思うんだ」
怖くて、その一言が、ずっと言えない。
学校に不満があるわけじゃない。僕はクラスのやつらに恵まれすぎているとさえ思う。だが、大きく変化した。
きっかけは、ささいなことだった。
なぜ言えなかったのか……。
僕は「俺」になり、電子辞書に手を伸ばす。
あのとき俺は、期待された加賀谷駿と、臆病で情けない加賀谷駿に分裂して飛び散ったのだ。
なにかの間違いだと、ずっとごまかしてきた。
正直に生きるとは、どういうことだ。どんな人生が待ち受けているのか。それを考えてみたら、隠すしかなかった。自分をつぶすしかないんだ。
俺はこれまでどおりに生きていく。みんなに望まれ、期待される加賀谷駿。そうしたい。そうしたかったのに、立ち止まってしまった。怖いのだ。
俺は完璧にはなれない……。
自分をだますということは、みんなを、この世界をだましながら生きるということだ。あの教室で、偽物の自分がみんなに賞賛されていく様子なんて見たくない。そんなのホラーじゃないか。
取り繕った大人ほど、ありのままの自分を大切にと言うが、ありのままに生きる大人ほど、取り繕った大人から疎んじられているのはなぜだろう。
報われない。そんな自分への恐怖。
おまえはだれだ? おまえが加賀谷駿だというのか! そんな駿を、だれが認めてくれるだろうか。
この気持ちを表すために書いたのだ。へたくそな、中途半端な小説を。
いつだったか、すさまじくくだらない本を読んだのだ。それはクソマジメな魔術書の顔をしたインチキ小説だった。そんな本が出回り、学校の図書館に置かれるのなら、俺でも小説の一冊や二冊は軽く書けるはずだと、傲慢にも考えたのだ。
本を返却するとき、漫画家志望の女子から訊かれた。
「どうだった? その本、気になってたの」
「読むと、小説を書きたくなる」
と答えたのは皮肉のつもりだった。しかし、
「そんなに面白いんだ?」
と、真逆の意味で伝わってしまった。
どんな本かは読めばわかる。わざわざ評判を落とすこともないだろうと、その時は誤解されたままにしていた。その頃の自分はまだ根拠のない自信に満ちていたのだ。あんな本でも最後まで書き上げたということは、それだけでも本になる価値があるのだろう、と今は思う。
僕は完成させなくてはならない。俺は完成させてはいけない。どんな結末も、僕は知りたくないのだ。どんな結末も、俺の慰みにはならないのだ。
弱い自分は要らない、と思っていた。
僕は加賀谷駿。俺が加賀谷駿。それだけが、本当のことだ。
わたしはふと思いました。
「もしかしたらわたしたち、もう電子辞書の中にいるんじゃないのかも」
「どこにいるんだ」
「創造主の頭の中」
「書かれる前ってことか? 文字になってこその小説ではないのか」
「創造主は放棄したのかもしれない。書くことを」
『おうい駿!』
その声にわたしの胸はずきんと痛みました。小説の中の佐々山の声にそっくりだったのです。モデルにしていたクラスメイトに創造主は会ってしまったようです。
『どこ行くんだよ』
『佐山か。久しぶり。川だよ、多摩川』
『なんでこんな時間に多摩川に行くんだよ』
好き。好き。この声、大好き。
『辞書を捨てに行くんだ』
『不法投棄かよ』
苦しいのに、嬉しい。嬉しいのに、悲しい。わたしのこの思いを届けることができないから。知られて拒絶されることが怖いから。きっと創造主・駿もいま、同じ気持ちなのかもしれない。
『やめとけ。要らないならそういうのは中古屋に売ったほうがいいぞ』
好き。好き。この声が好きなのだ。どうにもならない気持ち。突き抜けたいのにどこにも出口のない膨張。
『駿、そろそろ学校、来いよ。おまえがいねえとつまんねえよ。待ってっぞ!』
この気持ちに嘘なんてつきたくない。
『ああ、考えとく』
「よし、川に行くか」
隆が言いました。
「辞書ごと遺棄されるってのに?」
「川に行って、叫んでくる。俺がおまえの代わりに叫んでやる」
「隆に代わってもらえなくても、自分で叫べますけど」
「じゃあ、二人で叫べばいい。わああああって。青春だろ。それで第一部完ってことでいいだろ」
「ざっくりしすぎじゃないの?」
「どうにもならないんだ。夜の川に叫ぶくらいいいだろ。多摩川広いし」
「鉄橋のそばで電車が通るタイミングなら音にかき消されるかな」
「創造主よ、行け! 俺たちを川で叫ばせてくれ。俺たちがそうしたいんだ。ハッピーエンドやバッドエンドの結末なんて、そうそう来ないんだよ。生身の人間の生きた小説には、終わりなんてないんだから」
隆に言われて、そんな気がしてきました。
「叫ぼう、創造主・駿。わたしも泣いているより叫びたい」
「叫べよ、駿。おまえは俺と、叫びながら生きるんだ」
「こんな前髪はいやだあああ!」
「ヒロインがいまいちだああ!」
「幼馴染み設定うざああああ!」
「本気の俺はこんなもんじゃねえぞおおおお!」
「また書けばいいーよ! 無茶すんなああ!」
「これが小説だなんて俺は言わねえ! これは、俺たちは、おまえの叫びなんだーっ! 生きろ!」
「生きろぉー!」
◇◇◇
頭に浮かんできた小説の内容に、思わず笑ってしまった。そんなエンディング、くだらなすぎだろ。最悪の失敗作だ。
現実は、小説のようには都合よく進まない。
小説の主人公になるなんて、まっぴらだ。
夜を照らし、電車が来た。
もういいじゃないか。自分をスッキリさせたいんだ。
騒々しい音が近くに迫った。
「俺の体育館履きはどこだーっ!」
いまはとりあえず、絶叫し続ける。
「なんで片方だけ隠すんだー! 文句あるなら出て来ーい!」
夜の轟音に向かって、外に出せずにうちに閉じ込めていた苦しい言葉を声にして放つ。
その闇には俺の広大な孤独があるのだ。
「受験、好きですか?」
そう質問されたら「はい!」と即答する方はなかなか珍しいのではないかと思います。
私も好きという訳ではないはずなのですが、振り返ると幼小中高大すべて受験してきました。(小学校時代までは省くとして)中高一貫校だから高校に、大学付属高校だから大学に、そのまま上がる道があったけれど、それを選べなかったのは色々なことにすんなりと納得ができなかったからかなと思います。いちいち考えては立ち止まり、自分なりの答が出るまでは動かない、一言でいえば面倒くさい子でした。
すんなりと納得できなかった気持ちは、十代を通りすぎても私のなかでデータの圧縮ファイルのように小さく陣取っていて、それがYA小説を書きたいと思う燃料になっているのかもしれません。
YA小説を書いてみよう部、本当にあっという間の三ヶ月でした。入部した時期は、ちょうど、今まで一人で童話や小説を細々と書いていたけれど仲間がほしいなと思っていた頃でした。しかもYA小説という、とても好きなジャンル。
連作短編『加賀谷って最近学校に来てなくない?』は、それぞれの物語がところどころでリンクしています。登場人物や舞台設定をメンバーで話し合いながら肉付けしていく工程は、一人では味わえない楽しさでした。そうして作ったものが、こうして形になってうれしいです。
今回の貴重な機会をつくってくださった梨屋さんと書いてみよう部のメンバー、YA小説好きな私にこの部活の募集をおしえてくださった方に心よりお礼を申し上げます。ありがとうございます!
このたび、YA部に参加した谷口と申します。
小説を書くということと、ちゃんと向き合おうと考えた二〇一六年十二月。まず環境を変えたいと思ったとき、YA部の参加者を募る梨屋さんのツイートが目に留まりました。あと一人で開催できるという一文が背中を押し、参加希望のメールを書きました。
この三ヶ月間、月二回の頻度で渋谷に足を運ぶ時間は、とても楽しいものになりました。
自分が書いたものを手直ししていく作業が、特に新鮮でした。
わたしはこれまで、読み返したり、他人に読んでもらったり、大部分を残したまま書き直すということに、積極的でなかったのです。ずっとひとりで終わりのないリメイクをしていました。今回のアップデートしていく感覚は、それ自体が今までにない経験で、とてもよい刺激になりました。
最後になりましたが、大人しそうでいて個性が見え隠れするメンバー、笑顔を絶やさず場をまとめ見守ってくださった梨屋さん、すてきな時間をありがとうございました。
こんにちは、梨屋アリエです。ありりんです。
世話人だけするつもりで、活動開始直後は書くつもりではなかったのですが、二回目の活動の帰り道に部員さんから「梨屋さんも書くんですよね(きゃっきゃ)」と楽しそうに言われて、「えーと……どうしよう。じゃあ書いたほうがいいのかな……」という気分になって、書くことにしました。決めてからは部員の一人として楽しんで書かせていただきました。ちなみに登場人物に使った「花京院」という苗字は、途中から不参加となった部員さんから出たアイデアです。
「書くことがとにかく楽しくてたまらないという若い人が書く、勢いだけのよくわからない、なのになぜかおもしろい作品」に、眩しさと憧れを感じます。つじつま合ってなくても設定が矛盾だらけでも、キラキラ輝いてしまう作品って、ある時期にしか書けないと思うので。うまく書くことより、書きたい「いま」のために書いている。そんな楽しい(恥ずかしい/苦々しい)体験を自分もしてきたんだって、忘れたくないなと思うのですが……あの感覚、いつどこに置き忘れてきてしまったんだろう。いつかまたもどってきたら、「まだ作者は中学生なのにこんなに書けてすごいわねえ」と大人が勘違いして褒めてしまうような、そんなYA作品を書いてみたい。いや、それはそれでまずいのか……大人にならなくちゃ。
思春期の黒歴史は、二十年くらい時が経つと黒くなくなるみたいよ。
YAを読む読書会「YA*cafe」が七年目に入りました。回により参加者の増減はありますが、継続的に来てくださる方もあり、仕事やプライベートの調整をして駆けつけてくださる方もあり、これまで続けてこられました。しかし、当初の予想ほどには若年層の参加者が伸びません。YA小説の好きな人をもっと増やしたいのに。若い人ほど、読むより書く方の興味が強いのかもと考え、「YA小説を書いてみよう部」第一期というのをネットで呼び掛けてみることにしました。「これからYA小説を書いてみたい方、YA小説を書くきっかけがほしい方、YA小説について考えてみたい方、創作活動の刺激がほしい方、YA小説が好きな方」がYA小説のことを考えたり、みんなで連作短編を書いてみたり、という活動ができたらいいなと思ったのです。塾や講座ではなく、「部活」であって、さらに、創作部でなく「書いてみよう」部にしたのは、書けるかどうかわからないけどちょっと書いてみようという人にも、YA小説の雰囲気に親しんでもらいたいからでした。
第一期の活動期間は一月から三月までの全六回で、各回九十分。七人から問い合わせがあり、六人が正式に部員となりました。二十代学生から三十代前半の社会人で、創作未経験の方もいれば出版デビューが決まっている方もいらっしゃる。
初回に部活でなにをやりたいか話し合ったところ、みんなで連作短編小説を書きたいという要望が多数でした。リレー小説を一人ずつ書いていくと時間がかかりすぎるので、梨屋の提案で、ある人物の不在をめぐるアンソロジーを同時進行で書くということになりました。活動二回目にキーパーソンの大まかな設定だけ考え、三回目には各部員が書きたい短編プロットとキャラを披露。四回目にあらすじを出し、作品の世界観のすり合わせをしました。五回目で作品提出と合評。六回目で第二稿提出です。「原稿用紙を文字で埋める」のと「作品を書く」ことは違うわけで、「作者のために書かれた作品」と、「人が読みたい作品」もまた違うのですが、まずは「書いてみよう」を行動に移し、書いて読む楽しさと大変さを、部のみんなと一緒に体験してみたいと思いました。
はじめて書く人も、書きなれている人も、それぞれの持ち味を出して書ける範囲で書き、設定やアイデアをシェアすることで、全体像を作っていく作業、見直す作業ができました。仕事や学校の課題では書かないような「部活」らしい楽しい作品集ができたと思います。作品発表は部の目的ではなかったのですが、寄せられた作品を見ているうちに、アンソロジーとして同人誌にしたら今回の活動のことを知ってもらえて良いのではないかと感じました。
若い読者が読んだとき、「自分にも書けそう」と思えるところがYA小説の良さの一つでもあります。第一期のアンソロジーを本の形で読んでいただくことで、部員も読者さんもそれぞれに、新しいなにかを発見できたらいいな、と期待しております。「こういうふうでもいいのなら、わたしもYA書けるかも……」と身近に感じていただけましたら、とても嬉しいです。
「YA*cafe」の読書会の方にも、ぜひ足をお運びください。専用サイトのほか、梨屋アリエのホームページでも読書会のご案内をしていますのでご確認ください。
「YA*cafe」 http://yacafe.chagasi.com/
葵ゆうま 1994年東京都生まれ。立教大学卒 会社員
上野ヨウ 1995年群馬県生まれ東京都在住。大学在学中
神戸遥真 1983年千葉県生まれ東京都在住。物書き
こまつあやこ 1985年東京都生まれ。図書館司書
谷口 1985年大阪府生まれ滋賀県出身東京都在住
梨屋アリエ 1971年栃木県生まれ横浜市在住。児童文学作家
YA小説を書いてみよう部アンソロジー 『加賀谷って最近学校に来てなくない?』
著者 葵ゆうま 上野ヨウ 神戸遥真 こまつあやこ 谷口 梨屋アリエ
発行者 梨屋アリエ
表紙PHOTO マクベ
PHOTOGRAPHER 今村修
装丁デザイン 谷口
電子書籍作成 神戸遥真
本書の無断転載を禁止します。ここに収録した作品の著作権は作者にあります。
2017年6月5日 発行 初版
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