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今日は木曜日

とうやまりょうこ

孤帆出版



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今日は木曜日


 いつものブレーキ音をたて、マンションの前にヤマト運輸のワンボックスのバンが停まった。欽吾は時計を見上げた。
――今日は一時か。
 昨日は一二時四五分だった。一階に住む欽吾は、庭を隔てて彼らの動きを毎日見ている。スタッフはすぐには降りてこない。スライドドアの音がする。台車を広げる音がするときもあれば、靴のゴム底が地面をこする音だけ聞こえる日もある。エントランスに荷物を持った宅配員が向かう。欽吾の家のチャイムが鳴ること滅多にない。日差しに反射してバンのルーフが光っている。その向こうは、多摩川の河川敷だ。土手の桜が満開に近い。
 欽吾は窓際のソファに、午前中のあいだずっとそうしていたのと同じように深々と腰を沈め、編みかけのマフラーを手に取った。昼食のヨーグルトとバナナがまだ胃の中でなんとなく冷たい。妻を脳梗塞で失ったのは九年前だ。あの頃七十五キロあった体重が、六〇キロを越えなくなった。病気ではないが食欲がわかない。ゴミと洗っていない皿や鍋が散乱する台所に立つのも億劫だ。
 気がつくと、あっという間にその日が終っている。最近、毎日そうだ。ただ座っているだけの生活の中で、欽吾は自分が誰なのかわからない、そんな感覚を持つようになった。
 子ども達から一人暮らしをやめるように再三言われている。しかし、若い世代と同居するのはしんどいだけだ。五十代の子ども夫婦だけならまだしも、大学生の孫達とは生活のスピードが違いすぎる。視力も落ち、人の声もよく聞こえない。手指の関節が節だって固い。この数年は、とくに左手が震えるようになった。だが、それで困っているということもない。少ない食事をゆっくり食べる。好きな時間に風呂に入る。布団に入る。欽吾は布団に入るとほっとした。何をしていいかわからない昼間から解放されるからだ。
 多摩川の土手沿いに建つこのマンションに入居したのは十数年前だ。2LDKで当時築八年、一階の物件で、庭の広さは二〇平米ほどだ。終(つい)の住処のつもりで買った。快晴の日は、干したシーツが陽にすけて風にはためいた。ビニールプールに水をはり、孫を遊ばせた。まだ、妻が生きていた頃の話だ。今はもう洗濯カゴを抱えて庭に出るのも辛くなり、物干竿は錆びたまま、洗った衣類は室内に適当に広げ、乾いた端から着ていく。妻はこの部屋に四年三ヶ月しか住まなかった。一人になって堪えよのない寂しさに囚われて仕方なかった。それが最近ようやく終った。今は、時間と家の広さと、そして浮かんでは消える思い出とが、きれいに調和している。何かを思って焦燥感に駆られることはなくなった。
 欽吾はそこでふと編み棒を動かす手を止め、顔を上げた。「あ、」と思ってカレンダーを見た。過ぎていた。もう木曜日だった。毎週水曜の編み物教室を忘れてしまっていた。
 編み物教室に通い始めた理由をボケ予防だと、たまに会う子どもに欽吾は話していたが、本当は女のいそうな場所に行きたかったのだった。どんな世代でもよかった。女に会いたいと思った。欽吾は足の赴くままに駅前の編み物教室のドアを開けた。孫娘のような若い子でもよかったし、腰の曲がった同世代の女でもよかった。上下意識の強い男同士の人間関係が面倒で人に会う気にならなかったのだが、女なら気楽だと気づいたのだ。あるいは、年老いてから母親のことが思い出されて仕方ないというのも影響していたかもしれない。
 習い始めて二年たち、マフラーが二本と帽子が一つできた。細かい編目はもう欽吾の目では見ることができず、極太の毛糸ばかりを使っている。講師は梨田敏江といった。中学生の息子二人を育てる傍ら、手芸教室を一人で切り盛りしている。年齢をきいたことはもちろんなかったが、四十代に見えた。熊本出身という彼女は、均整のとれた眉が上品に左右に伸び、黒目がちの二重の目がわずかに中央よりに並んでいて愛敬がある。黒髪でなければ西洋人にも見える。華奢な体で手足が小さい。運動部の息子達にはとっくに身長を抜かれていると話す笑顔にくったくがなかった。小刻みの震えがやまない欽吾の無骨な手をとって指導した。表編みと裏編みができるようになるまで半年かかった。
 編み物教室は毎週水曜の午後一時だ。欽吾はその朝、空き缶を収集所に持って行き、置いたそばから回収されていったのを確かに見た。ビン・缶の収集は木曜だ。敏江に会える週に一度の機会を忘れてしまった。どうして忘れたのか、前の日は朝起きてから何をしていたのだろうか。天気はどうだったろうか。欽吾は、メリヤス編みの棒さばきの、編目を拾いかけた手のまま両目を閉じた。しかし、何も思い出さなかった。ビンや缶をガチャガチャと音を立てながらトラックに積んで行く収集員の後ろ姿を見送った記憶にも急に自信が持てなくなり、何週間も前のもののような気がしてきた。そういえば昨日、庭のモクレンの花が全部落ちて、肉厚な花びらが地面を白く覆っていたのを確かに見たはずだったが。目を開けて窓の外を見上げると、モクレンの白い花は真っ直ぐに空に向かって咲き、一つも散っていなかった。
 粒子の荒い紙ヤスリを手の平で撫でたような、焦りとも恐れとも知れない冷たい感覚が全身に広がった。欽吾は、編みかけのマフラーと編み棒を手近にあったビニール袋に突っ込むと、上着をつかんだ。どこに行くのにも着ている、薄汚れた黄緑色のダウンジャケットだ。袖口のゴムが伸びたスウェットの上にそれを着て、サンダルをつっかけて外へ出た。
 マンションの入口にある街路灯の住所標識には「調布市多摩川3」と記されていた。よく知っている、書き慣れた自分の住所だった。
 並木の桜はみな若木だ。冷たい風が吹くとまだ頼りない枝が、か細い腕を振るように左右に揺れ、ピンク色の塊が波打った。見るからに自分よりも年齢の若い桜の木は、見ていると歯がゆくて落ち着かなかった。
 欽吾は河川敷を背にして駅に向かった。道幅の狭い住宅街をクーラーボックスやレジャーシート、幅広な紙袋を持った人たちが河原へ向かって大勢歩いていた。
 京王線の高架をくぐり抜け、いつも教室をやっているビルの前に着いた。白いタイルの外装の、四階建てのビルの一階はパン屋で、脇に階段がある。人一人通れる幅の階段をあがり、教室の前に来た。いつもの、毛糸で作った文字が並ぶコルクボードの看板が、その日はA4サイズの紙一枚の「囲碁教室」に変わっていた。ガラス扉の中では、白髪やはげ頭の男たちが向き合っていた。敏江もいなければ、女同士のお喋りもチョコやクッキーも、毛糸玉の山もない。黙り込んで腕を組む男たちの姿を見て、欽吾は始めたのが囲碁ではなく編み物でよかったと思った。
 やはり教室は昨日だったのだと、胸深くまで息を吸って呼吸を整えた。マンションからなかば走るようにして教室のビルまで来ていた。こんな運動をしたのは久しぶりだった。少し足がふらついた。
 階段をおりて目に入ってきたパン屋の看板に、「本日金曜日はポイント2倍」と書いてあった。
 欽吾はパン屋に入ると真っ直ぐにレジ台の所に立っているコックコートを着た女の人に声を掛けた。
「あのね、間違っているよ、おたく、曜日が」
 突然話し掛けられた店員は目を丸くして欽吾を見つめた。
「はい?」
「外の看板、間違ってる。今日、木曜日だから」
「え? 金曜日ですよ」
 欽吾は彼女に口答えされたように感じ、憮然とした。
「いや、木曜日だよ」
 最後は声を小さくして、大袈裟に溜め息をついてみせた。それでもその女の店員はカレンダーや新聞を確かめようともしない。話にならない。手芸教室は昨日だったのだ、今日は木曜だ。
 女が欽吾のビニール袋の毛糸と編み棒を見やった。
「編み物教室は、水曜日ですよ。あの、上の」
「わかってるよ。おれも間違えたの。今日は木曜日」
 語気が荒くなった。店に一人だけいた、スーツ姿の若い男の客が振り返って欽吾を見た。
「いえ、金曜日なんで」
 女の従業員が黒目を真っ直ぐに向けてまた言った。欽吾はまったくバカにされていると思った。善意で注意をしたのを後悔した。女の顔を見ていると苛立ちが募ってきた。欽吾はもう一度短く息を吐き、出入口のほうへ足を出した。パンのトレーを持ったスーツの男がポケットから「画面の電話」を出した。体を欽吾のほうに向け話し掛けてきそうな体勢なのに、視線は画面を見ている。欽吾のほうに来たいのか画面を見たいのかわからない若い男の動きに欽吾の苛立ちは更に募った。するとその男が顔を上げて手の平の小さな画面を欽吾のほうへ向けて来た。
「すいません、これ」
 突然のことに欽吾は驚き、体のバランスを崩してしまった。電話の画面には細かな文字と写真のような色彩の形がぼんやりと見えただけだった。こらえられると思ったが、前のめりになる体を支える一歩が出ない。おかしいなと思っているうちに上半身の傾きが深くなる。慌てて手を伸ばしたら、男のパンのトレーに掴まろうとしてしまい、トレーは予想外の加重にたえきれず、当然、ひっくり返った。トングと焼きそばパンが落ちた。パンにはさんであった焼きそばが床に散らばった。所々鮮やかな赤が見えたのは紅ショウガだったろう。
 トングが転がる甲高い音が、駅の反対側のホームで何かが落ちた音みたいに微かに聞こえた。トレーをつかみ損ねた欽吾は反対の手をドアガラスについて転ばずに済んだ。焼きそばがダウンジャケットにもついていた。それをはらうと、二人の顔を見ずに欽吾は店を出た。閉まり切らないドアの内側で、女の店員が「何、あの人、ヒドイ」と言うのが聞こえた。
 通りに出ると今度は黒い学生服の自転車が何台も続けてやってきて、欽吾の鼻先を通り過ぎて行った。白い足も見えたので、女生徒もいたらしいのだが、欽吾が顔を上げるときにはもう角を曲がってしまっていた。
 なにもかもいい加減だと欽吾は思った。速度を落とさずにこんな人混みに入って来て、我が物顔だ。
――女の店員だって、何だあの態度は。
 欽吾はまた大きな溜め息をついた。教室に通う他の女の生徒たちは、梨田のレッスンが終ったあと喫茶店に入ってコーヒーを飲みながらまた編み棒を広げる。友だち同士で教わったことを復習する。編み棒の飛び出たビニール袋を提げぼんやり歩く欽吾の目の前に、欽吾も彼女達と入ったコーヒー店が現われた。一人では入る気がしなかった。メニューがまずよくわからないし、文字が小さい。機械の音で女店員の声が聞こえないし、コーヒーをこぼさずに席まで運ぶのも、入れ替わり立ち替わり客の出入りする店内では難しかった。彼女たちと入ったときは全部彼女たちがやってくれた。そして笑顔で欽吾の話を聞いてくれる。一万円の月謝では安いくらいだった。
 いつも年金をおろしにくる銀行ATMを通り過ぎ、花の公園の入口近く、レストランの前のベンチに腰掛けた。花の公園は有料で、中に入るとチューリップとかバラとか植えてあるらしい。前はなんとか百花苑と言っていた。
 よく晴れて、高い空の上から冷たい風が吹き抜けてくる。痩せて骨が出て、固いベンチはお尻が痛い。
 杖をついた女がバス停へ向かう。風で、散切り頭のような頭髪が逆立っている。自分も杖を買おうかと思う。手に持つスーパーの袋には、豆腐や肉のパック、野菜が透けて見えた。家族がいるのだ。
「お客様、何名様ですか」
 若い女の声に顔を上げて驚いた。白と紫の矢の柄の着物に紫色の袴を履いた若い女が、腰をかがめ、顔を欽吾のほうへ近づけてきた。粉っぽい白粉に目の周りの墨の濃い、ネコのような顔をしていた。
「一名様ですか」
「え?」
 気の抜けた欽吾の返事で、ネコ顔が曇った。
「あの、ご利用に、なられますか?」
「あ、いや、ちょっと疲れちゃってね。このベンチ、おたくの?」
 袴姿の女は怪訝な目つきで欽吾を見おろした。不自然に割合の大きな黒目がせわしく動き、ビニール袋を見た。欽吾の姿から何を思ったのか、黙って店の中へ戻って行った。女が姿を消したドアからは、そのあと一組客が出て来た。中高年の女たちだった。肩から袈裟掛けにしたバッグに財布をしまい、その中の一人が受け取ったレシートをしかめっ面で眺め、「高い」と言った。
 その後ろから、今度は四十格好の男が出てきて、欽吾の前に立った。短髪で肌の白い太った男だった。フチのないメガネをかけていた。メガネのレンズが頬の肉に埋まっていた。背後に先ほどのネコ顔も立っていた。
「お客様、当店をご利用になりますか」
「え?」
「当店を、ご利用に、なられ、ますか」
 男は鬼気迫った顔つきだ。何をそんなに大袈裟に言うのか、わからなかった。
「ちょっと座っただけだろ」
 欽吾は溜め息を吐きながらそう言い、店長らしい男から顔をそらした。持っていたビニール袋は裂けて、編み棒が落ちそうになっていた。
 その時唐突に、欽吾は、とても不思議な気持ちに襲われた。すべてのものが止まって、体中から力が抜けた。目を覚ました瞬間のぼんやりした感覚がした。苛立ちも焦りも何もない、ただ光を感じた。そして視界に入ってくるものを一つ一つ認識していった。この光景は何だろう。なぜ自分は編みかけのマフラーを持ってここにいるのだろうか。傍らには太った男が立っていた。
「ご利用にならないのでしたら、お帰りください。ここは、当店のお客様の椅子ですので」
「おたくさんは、誰?」
「私は副店長の川副です。お帰りにならないようでしたら、警察に通報します」
「ふくてん……、警察?」
 大柄な男に突然警察などと言われ、欽吾はうろたえた。
「迷惑ですので、お帰りください」
「その人、僕、知ってるんで」
 また違う声がした。痩せたスーツ姿の男が欽吾たちに近づいて来た。
「お知り合いですか」
「はい、知ってます」
 いや、知らない。欽吾はこんな若者を知らない。
「行きましょう」
 スーツの男は欽吾の左側に座り「立てますか」と声を掛けるとおもむろに欽吾の左手を握った。そして自分は先に立ち上がり、欽吾が腰を上げるのを待った。体を引き上げられ、歩き始めた。スーツの男はしっかりと欽吾の手を握ったまま離さない。太った男と、何か着物のような服装をした女が欽吾たちをじっと見ていた。
「大丈夫ですか。行きましょう」
――これはなんなんだ。新手のオレオレ詐欺か。
 スーツの男は何も言わずに手を握って歩いている。温かい若者の手の中で、欽吾の左手は震えがとまっていた。
 駅前まで戻った。
「さっきは驚かしちゃって、すみませんでした。上着にも焼きそばついちゃって、汚れなかったですか」
「焼きそば?」
 床に落ちた焼きそばの麺や紅ショウガの記憶がある。金曜日だと言い張ったパン屋の女のことも思い出した。
 スーツの男がやっと手を離し、逆の手にカバンの柄と一緒に握っていたらしい編み棒を一本差し出した。
「これ、落とし物です。編み物、いい趣味ですね。僕の嫁さんも好きでよくやってます。あそこの教室は、評判がいいみたいですね」
 欽吾の編み棒だった。一本落ちていたということは、途中まで編んだ編目がほつれているということだ。
 欽吾はようやく、自分が編み物教室を休んでしまったことを思い出した。敏江の顔が浮かんできた。
「ああ、ありがとう、親切に」
「それから……」
 スーツの男は言いよどんだ。
「ほんとうに、親切にね、拾ってくれて。あんたみたいな人が」
「今日、なんですけど」
 再びそう切り出すと、ポケットから例の「画面の電話」を取り出し、馴れた手つきで操作した。
「今日、今日は金曜日です」
 そう言って、その画面を欽吾に見せた。白い文字で、大きく時刻が出ていて、その下に「3月31日金曜日」と表示されていた。画面全体が写真になっていて、女の子の笑った顔が大きく映っていた。二歳くらいだろうか。
「ああ、そう」
「はい」
 それだけ言い残し、スーツの男は駅の改札の中に入って行った。
「金曜日か」
 親切な人がいるもんだと、また思った。
「へぇ、金曜日か」
 風が吹き抜けた。午後の日差しに反射してビルの窓が光っていた。桜の枝も揺れて光っていることだろう。春が好きな妻が桜並木を気に入ってあの物件を買ったのだった。帰りがけ、土手を歩いてみようと欽吾は思った。電話に映っていたような子ども達を見ることができるかもしれない。
 お腹が鳴った。
――焼きそばパンでも買って、土手で食うか。
 そして、ついでにあの店員に謝らなきゃな、と欽吾は思った。

今日は木曜日

2017年6月3日 発行 初版

著  者:とうやまりょうこ
発  行:孤帆出版

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