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ヒア、ボトム

とうやまりょうこ

孤帆出版



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ヒア、ボトム


 午後の日差しを額にうけながら晴樹は優美の顔を見つめた。妹とこんな風に向き合うのは何年ぶりだろうか。晴樹が就職して家を出て、もう八年経つ。
 優美がエンゼルクルーラーを食べ終えた。晴樹はオールドファッションの最後の塊を慌てて口に入れた。これから食事をするというのにこんなところで二人してドーナツなど食べてしまった。改札口で会った時から優美は伏し目がちだった。小麦粉の口の中でごわつく。晴樹のコーヒーは既に空で、つい優美のオレンジジュースに手が伸びた。
「わたしのなんだけど」
 やっと声を出した。
 晴樹には優美の他に三歳下の弟友紀がいた。五歳下の優美は三人兄妹の末っ子で、ちょうど就職活動をおえたばかりの大学四年生だ。
 みなとみらい駅は巨大な商業ビルの地下三階に改札があり、その更に下のホーム階から地上数十階まで吹き抜けになっている。改札へ向かう人達が数メートル先を歩くドーナツ屋のテーブル席から、ビルを貫く吹き抜けの天井を遥か高く見上げることができた。太陽光がよく届くのは設計がいいせいだろうと、挫折した建築学が恋しくなった。
 ドーナツをようやく飲み下し、
「金払ったのはおれなんだから」
 と優美に言った。
 二週間前に就職の内定が決まった優美はさっそく髪の色を明るく直し、ビーズの散る爪を眺めていた。
「だから彼女ができないんだよ」
 氷が溶けて薄味になったオレンジジュースを、それでもあと何口分か残して返したのだが、優美はもうグラスに触れようともしなかった。つけ睫毛が下を向く眼差しは、小さい頃晴樹がいつも風呂に入れてやっていたことなどすっかり忘れてしまったようだった。
 両親の結婚三十周年と友紀の誕生日が同じ月に重なり、ついでに優美の就職内定が出たというニュースも加わって食事をすることになった。家族で外食をするのはそうとうに久しぶりだった。ざっと記憶を辿っても、親戚の法事で出かけた十年前が最後だ。大規模工場用のロボットを売る営業職の友紀が一家の出世頭だ。いまだに手取十九万でサービス残業漬けの晴樹よりもずっといいマンションに住んでいる。それでも家族へのプレゼント代は晴樹が負担した。友紀も兄の懐具合は知っているはずだが、手伝おうとは言ってこなかった。長兄の面子を気遣われたのだと思うことにした。
――いま横浜だけど、今日、どこ。
 素っ気ない優美からのメールに予約したレストランの地図のURLを送った。返信メールを開いてみると「行く前にちょっと話したい」と返してきた。
 兄を頼ることなど何年も前にやめたのだと思っていた。晴樹は優美からのメールを嬉しく思う反面、大学生活をほぼ終え大人になりかけている優美の口にのぼる一喜一憂が煩わしくもあった。くたくたになるまで働いて疲れ、それでも誰が味方になってくれるわけでもないのが社会人だと知った晴樹は、新卒の胸の膨らみが鬱陶しかった。
 待ち合わせをしてドーナツ屋に入ったというのに、一向に話を始めない優美に呆れ、しかしそれは半分予想済みのことで、気付かれないように小さな溜め息をついた。なんとなく、こうなるのではないかと思っていた。晴樹は腕時計を確認してから持って来た紙袋の取手を握った。
「もう時間だから、出よう」
 茶色のカーディガンにヒラヒラした襟の踊る、その上からパーマの髪をたらして毛先を見たままの優美に言った。
「うん」
 だが、晴樹が立ち上がりトレーを持っても、優美は顔を上げなかった。
「行かないの? 予約、一人、減らしてもらうよ」
「うん」
「うん、じゃないよ」
「お兄ちゃん」
 優美は晴樹のことをお兄ちゃん、友紀のことを友兄ちゃんと呼んだ。大学卒業を機に実家を出た晴樹にとって、優美の呼びかける声は久しぶりだった。
「あの、彼女のこと話してよ」
「はあ」
 手に持った紙袋には両親へ買った旅行券と、友紀と優美に用意したボールペンが入っていた。
 プレゼントは晴樹が用意したが、親の食事代は晴樹と友紀が負担する約束だった。優美には自分の分は自分で出せと言ってある。レストランの予約の時間までまだ三十分はあった。
 五月の土曜日で、三日続いた雨がきれいにあがり、早く港町の大きな空を見上げたかった。これから久しぶりの家族の時間を過ごそうというのに優美が何をしたがっているのかわからなかった。妹が何をしたいのかわからない――、苛立ちもしたがふっと心の表面が緩むような懐かしさも湧いて来た。コンビニで駄菓子を見つけた時に似ていると思った。近所の駄菓子屋の雑多な陳列が思い浮かび、つい買ってしまう。だが食べるとこんなものかと思う。兄として気にしてやりたくなるのだが、面と向かうと優美ももうただの誰かなのだと思う。懐かしさの余韻を味わう暇もなく現実があっという間にやってくる。
「何だよ、彼女のことって」
 立ったままの晴樹を見上げ、優美は一度強く目をつむってから改めて言った。
「この前、この前って言っても二、三年前、別れた彼女のこと話してよ」
 晴樹は椅子に座り直し、優美の顔を真っ正面から見て言った。
「お前はバカか」
「何でよ」
「何でそんな話お前にしなくちゃならないんだよ。自分のことだけ考えてろよ」
「いいじゃん、お兄ちゃんなんだから」
「絶対にイヤだ」
「今日のゴハン代、私、三人分は出せるよ。バイトのお金、下ろしてきたから」
 そう言って優美は鞄から財布を出すと、三万抜き取った。ピンクのラメがコンコースの光に乱反射する財布から出て来た一万円札は、二つ折り財布の厚みのカーブで起き上がっていた。どれもピン札だった。差し出した右手の薬指から、大学生になって以来つけていたはずの二連の指輪がなくなっていた。
「金でつるのか」
「お兄ちゃん、お金ないんでしょう」
「バイトの金なんて自分で使えよ」
「うん、だからいま使ってる」
 スチールの丸テーブルに無造作に置かれた一万円札が風で僅かに浮いた。押さえようと手を出しかけたが、カーブした紙は風をやり過ごし動かなくなった。
 地上二階から伸びる長いエスカレーターからテンポよく人が下りて来る。土曜日だというのにスーツ姿が多い。晴樹は何年も前に買ったブランドもののシャツを着ていた。洗濯しすぎて色が薄くなっている。そのブランドのロゴがなければ近所のコンビニに着ていくのがやっとという一枚かもしれなかった。
 友紀には高校生の頃から彼女ができ、自宅につれて来ることもあった。バイト先もサークルも、自分が身を置く共同体を簡単に広げていく。友だちも多く、言うことも考えることも簡潔で、思うことと行動することの間に距離がない。そんな友紀と比べると晴樹は行動力もなく、何事も時間をかけて眺めなければ考えをまとめることができない。優美の言う元彼女は、大学時代の同級生だった。ゼミを二年間共に取り仕切って、二人で会う時間が自然とそうなっていった。数少ない友だちの一人が、たった一人の交際相手になった。その人が去ってしまってからは、晴樹はずっと一人だった。職場とアパートの往復をするだけの生活に友だちも交際相手も、あまり必要ではなかった。心に蓋をすれば、日常生活は平穏だった。
「何が聞きたいの」
 様子を伺うように晴樹がそう問うと、間髪を入れずに
「まだ好き?」
 と優美は返して来た。目玉が二つ、揃ってこちらに向いた。一重のパッとしない目元も、アイラインで大きく見えた。
「知らないよ、そんなこと」
 晴樹がたまらず居住まいを直すと、優美の視線は元に戻った。上階で響く話し声が吹き抜けを降りてくる。優美の話下手は母親ゆずりだった。晴樹もそれを受け継いでいたが、仕事をしているうちにそれが原因で溜め込むストレスの多さに嫌気がさし、自分で矯正した。
「その人と生きていかなくていいの?」
「お前、何の話してんの。失恋でもした」
「映画の試写会行ったり、水族館行ったりしたのにさ、それでもういいの? 五月の晴れた空みたいな色のシャツとか、まくるとチェックの柄が見えるカーゴパンツとか、秒針が逆回りする腕時計とかさ。なんで全部おわっちゃうの」
 おそらく家族の記憶に、デートなどということをし始めた晩生(おくて)な自分の姿が残っているのは理解できた。だが、行った先がどこかだとか、色々の「記念日」に相手から何をもらったかだとか、話したはずのないことを優美が次々と言い出したので晴樹は面食らった。
「お兄ちゃんがどんどん変わっていくの、お母さんも驚いてたんだよ。野菜もフルーツも食べるようになって」
 優美のとがった口調はとどまる気配がなかった。どのラインまでなら突っ込ん来られても大丈夫だろうかと先回りして計算しなければなかった。取り乱さずにいられる予防線はどこだろうか。別れた直後はそのラインを毎日見極めて過ごしていた。二人でいた時間に繋がる言葉やイメージを見聞きしても平気でいられる日が来るのを待った。息を詰めたような一日が一つ一つ重なり、自分が灰色の塊になっていくのをじっと待った。そうしなければ未来を見つけられない苦しみに耐えることはできなかった。
「なんで仲直りしなかったの」
「関係ないだろ」
「お兄ちゃんが弱いからだよ」
「好きなように言えばいいよ。行かないんなら、本当に置いていくよ。優美は急な用事ができたって父さんと母さんには言っておくから」
 声のトーンが落ちて、冷たい言い方になってしまった。
「じゃあ、さ」
 優美が身を乗り出した。肘をついた勢いでまた一万円札が僅かに浮いた。
「お兄ちゃんの元カノに、この前会ったって言ったら」
「どこで」
「駅で」
「駅ってどこの」
 問いつめられて二の句が継げなくなった。視線が細かく左右に動いた。
「そんな嘘ついてまで、何なんだよ。失恋した話なら友だちにしろよ。いっぱいいるんだろ、どうせ」
「違うもん、言わないでって言われたんだもん。会ったこと言わないでって」
「じゃ、どんな外見か言ってみろよ」
「えー、外見って。なんか優しそうな人で、髪は肩くらいまでで、声も優しい声で」
「みんなそうだよ」
「口の右側の下にゴマくらいのホクロがある」
 黒子は言い当てた。向き合う晴樹から見ると口の左下にある、小さいけれど存在感のある黒子は、いまでもはっきりと覚えていた。両目のフォーカス機能が急に落ち、テーブルで風に揺れる一万円札が歪んで見えた。家族の写真を見せたことが何度かあった。写真の優美を見て、年の離れた妹ならお兄ちゃん子でしょう、と言われた。その時の記憶が蘇った。晴樹のスマホをスワイプして画像を繰る、ちょっと遠慮した手つきや俯いてさがってきた前髪を耳にかける指――。彼女は優美の顔をまだ憶えているのだろうか。
 どこで、とまた言おうとしたが、喉の奥がうまく動かなかった。一度唾を飲み込んだ。
「どこで会ったの」
「川崎駅」
 晴樹には言わないという約束を破ってしまい、すまなそうな優美の話し方は真実味を帯びていた。
「ホームで?」
「違う、時計台の下」
 東芝の工場がなくなり巨大なショッピングモールができたのは三年前だ。付き合っていたころにはまだなかった。駅の利用者は倍増し、時計台の下で待ち合わせをする人の数も増えた。高い天井のコンコースは人々の声を鈍い共鳴に変え、鼓膜が詰まったように感じさせる。近くの音がうまく聞こえなくなる。黒い頭が無数にうごめく中を、彼女が戸惑いながら歩こうとするのが、どちらに向かえばいいのか忙しなく首を動かしているのが目に浮かんで来た。彼女は中央線沿線に今も住んでいるはずだ。新宿や東京で乗り換えてまで川崎に来る用事などない。
「なんて言ってたの、彼女、元気そうなの。なんでそこにいたって? なんて言って話し掛けて来た、お前に」
 言いながら声が小さくなっていく。乾涸びた晴樹の胸に痛いくらいに瑞々しい、光に包まれた人影が像を結ぶ。呼び慣れた名前も耳の奥で響いた。 
 優美は兄の声が小さくなったのを気にかける風で、先ほどまでとは違って、丸みを帯びた話し方になっていた。
「人違いだったらごめんなさい、齊藤晴樹さんの妹さんですかって。すごく優しい笑顔で、話し掛けてくれたよ。なんで、別れちゃったの、お兄ちゃん」
 生きて行く場所が違うような気がしたとそんなに素直には、妹の優美には言えなかった。
「メールしちゃ、ダメなの、あの人に、お兄ちゃんからさ」
「おまえさぁ、もう、新しい誰か、いるに決まってんだろう。一度なくなっちゃったもんは、もう二度とかえってこないんだよ」
 この人には才能も可能性も、それを実現するだけの体力も備わっている、自分の存在はこれから少しずつ重荷になっていくのだと、それが自分たちの関係の真実だとわかった。些細な喧嘩が修復できなくなったのは、晴樹の胸底にそんな考えがあったからだった。「まだ好き」という優美の問いに正直に答えることが許されるなら、晴樹は黙って首を縦に振る。しかしもう灰色になった自分には感情を波立たせるようなたぐいの、いっさいのことを許していない。
「頼むから、言うなよ、そんなこと」
 絞り出してようやく言った一言に、さすがに優美も口をつぐんだ。こんな気持ちになってしまって、これから両親の結婚記念日だの弟の誕生日だのを祝うことなどできそうもなかった。プレゼントとお金を優美に預けて帰ってしまいたくなった。一人電車に乗る自分を思い浮かべた。洗濯でよれたシャツを着た三十男が川崎駅の時計台の下に、人混みをかき分けながら進んで行った。
「あのね、お兄ちゃん、私ね、別れちゃったみたいなの、彼氏と」
 時計台の下が気になり優美の話には上の空だったが、言わんとしていることだけなんとか受け止めた。
「へえ、やっぱり」
「うん」
「ふられた? お前わがままだからな」
「わたし、自分ってわがままなんだなって、ほんとに思ったよ」
「ふーん」
 もっと話したいらしい優美の失恋話に興味がわかない晴樹は、ぼんやりとまた、エスカレーターを見上げた。何十メートルもある長いエスカレーターは、巨大な空間に浮いているように見えた。利用客はベルトに片手をあずけ、楽な立ち姿で思い思いの方向を見上げていた。どうして川崎の駅まで来ていたのか知りたくてたまらなかった。
「遠くに行っちゃうんだって。希望した業種でもないのに、もともと東京で働きたいって言ってたのに、まだ時間をかけて頑張ったっていいのに、遠くの会社にしちゃったの」
 優美と違って兄妹の恋愛事情に晴樹は疎く、はじめ優美が何のことを話しているのかわからなかった。付き合っていた相手も就職活動をしていたのだなと理解するまで間があった。優美はそれを気にもとめずに、話し続けた。
「ぜんぜんわかんない。なんでなのかな。絶対に東京で働くって言ってたから私もそうしたんだよ。本当は他に行きたいところあったんだから、わたしだって」
 言葉に力が入る優美の顔を改めて見た。兄妹の中で一人父親に似た優美は鼻がやや上向き加減で、顎が小さい。
「あんまり優美のこと、好きじゃなかったんじゃないの」
 晴樹の言葉に驚いて顔を上げ、優美は口を固く結んだ。そしてべそをかきはじめた。眉頭を極端に上げ、つけ睫毛がパタパタと上下に動いた。優美を泣かせるんじゃないとよく親に怒られたことを思い出した。
「お前、いま、泣くなよ」
 優美は鼻をすすり始めている。ことの顛末を全部親や友紀に話す煩わしさを思っていると、携帯電話が振動した。友紀からだった。
「もしもし」
 電話を耳にあてていないのか、友紀は近くの人と、恐らく母親と話しているらしかった。
「もしもし」
 ともう一度晴樹が言うと、久しぶりの弟の声が聞こえて来た。
「ああ、あにき、何、どこにいんの。今ね、お店の前で父さんと母さんと一緒なんだけど」
 友紀の明るい声に、久しぶりの一家集合に両親がはしゃぐのが想像できた。特に母親の甲高い声は電話の向こうにちらちらと聞こえ、晴樹の到着が遅れていると非難する口ぶりも楽しそうだった。
「今? 駅。みなとみらいの」
「あ、じゃあ、もう着くね。中入ってていいでしょ? 優美ももう来るよね、連絡した?」
「ああ、うん。もう着くってよ。改札で優美を見つけて一緒に行くよ。店に入ってて。もう料理は決まってるからさ、なんか、飲み物とか決めててよ」
 電話を切って優美を見た。眉頭はまだ高く上がっていたが頬に涙の跡はなかった。
「ほら、もう行くぞ」
 優美が財布から出した一万円札を手にとって端を揃えた。そして顔をもう一度確かめ、優美の片手をテーブルの下から持ち上げた。掌を出させて一万円札をその上に置いた。
「しまっとけ。初任給のときに親に何か買ってやれ」
「ずるいんだよ男の人はさ、お兄ちゃんもだけどさ」
「まだ言ってんのかよ」
「好きなら好きって言えばいいじゃん」
「だからもうそいつは好きじゃないんだろ、優美のこと」
 やばいかなと思ったが、友紀からの電話で幹事としての責任を俄に思い出した晴樹は席を立ち、皿やコップののったトレーを食器返却口に返しに行った。ビルの底から見上げると、大きな硝子窓から差し込む光が淡い黄色い筋になって巨大な空間を横切っていた。快晴の空を見上げたくなった。予約したレストランは隣接するホテルの高層階にある。地下三階から地上二十数階へ移動する。
 優美はまだ肩を落として座っていた。後ろからのぞくと、一万円札は財布に入れたらしかった。だが、涙が頬を伝って、マスカラかアイラインの黒い液体の跡がついていた。
「わたし、もしお兄ちゃんが前の彼女にメールしたら、ついていく。あいつについていく」
 カーディガンの上から肩を撫で、黒い涙を流す妹に晴樹はできるだけ優しく声を掛けた。
「うん、わかったよ。それはご飯食べてからゆっくり考えよう。みんな待ってるから。ほら、行こう。顔拭いて」
 紙袋を持って歩き出そうとする晴樹の腕を掴んで優美が言った。
「ねえ、お兄ちゃん、メールしてよ。まだ好きなんでしょう」
「おい、いい加減にしろよ」
「じゃなかったら動かないよ」
「勝手にしろよ」
「お兄ちゃん! いいの、このまま離ればなれで?」

 ドーナツ屋のテラス席から見上げていたエスカレーターは、高所恐怖症の人なら少なからぬ不安を感じるのではないかと思うくらい、乗ってみると高かった。真後ろにいる優美越しに下を見ると、さっきまでいたテーブル席の人影が昆虫くらいの大きさに見えた。
 優美に気圧されて、晴樹は短い文章を、数年前別れた相手にメールで送った。言い出したらきかない妹を連れ出すためだったか、本当は灰色の自分と縁を切りたかったのか、さだかではなかった。優美はメールする晴樹を見ると黒い涙も拭かずに晴れやかに笑い、喧嘩別れしたという男子学生の就職が決まった土地で、一から就職活動をし直すと言った。
 エスカレーターが終わりに近づき、晴樹が足を出すタイミングをはかっていると、無邪気な優美の声が背中から聞こえて来た。
「あのね、お兄ちゃん、時計の下で会ったの、嘘なの」
 吸い込まれるステップから足を上げそこね、つま先をエスカレーターの吸い込み口につっかけた。慌てて後ろの足をだし、前を行く人の踵を蹴ってしまった。
 すいませんと謝り、後ろから来る優美を待った。
「そうなの? 何、じゃあ、どこで会ったの。新宿?」
「違う。ごめんね、会ってなんかないんだよ、お兄ちゃんの彼女」
「え」
 送ったメールの文面、ほんの二言の、二十字弱の文字列が、携帯の画面で見ていたままのメイリオゴシックの横書きで心臓の表面に貼り付いた。ぎゅっと胸が痛くなった。
「ごめんなさい。お兄ちゃん、話してくれないから。あー、それにしても、遅刻だね」
 優美が晴樹を追い越して走り出した。目の前はビルのエントランスだ。手前と奥にある自動ドアが交互に開閉し、利用客が出入りする。その向こうには芝生や花壇のある広場があり、そして目的のホテルの建物がある。優美はもう太陽の中を歩き始めていた。振り向きもせず、空も見上げず、真っ直ぐに目の前の建物へ向かっていた。優美の服の色が座っていたときよりもずっと、明るく見えた。
 たぶん、彼女のメールアドレスはとっくに変わっていて、英語のリターンメールがじきに来るだろう。どうせもう届かないのだ。忘れていた辛さが体の奥から湧いてきた。外に出ると強い日差しで視界が一瞬真っ白になった。首の後ろが熱い。チリチリと焼けるように胸が痛んだ。そうだった、この感じ。彼女のことを思い出すとこの感じになるんだった。お尻のポケットに入れたスマホが震えた。何か受信した。立ち止まりかけたが優美が晴樹を呼ぶ声がして、ポケットには手をかけないまま走り出した。
 自分には何も起こらない――、いつもの言葉を呟いた。痛い目に遭うのはたくさんだ。目の前には五月の快晴の空と豊かな日差しがあるだけだった。


ヒア、ボトム

2017年6月3日 発行 初版

著  者:とうやまりょうこ
発  行:孤帆出版

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