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夜宴の島

夢空詩

夢空詩出版



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夜宴の島



「――よし、今日はここまでにしよう」
 私は目の前にあるノートを閉じ、ペンを置く。
 目の前に浮かぶ【夜宴の島】での物語。不思議で奇妙で、残酷だけど美しい世界。
 夜宴の島での十七夜が終わると、この小説は消え……私の記憶もなくなってしまう事はわかっている。
 けれど書きたいのだ。書かずにはいられない。

 私が島で眠っていた五日間。彼が上手くやってくれたお陰で、親に心配される事もなかった。
 しかし……『素敵な彼氏よね!』だの『五日間もお泊まりだなんて、うちの子もやるわね!』だの、煩わしい事この上ない。
 完全に彼と私の関係を【恋人同士】だと思っている母親の話は右から左に流しつつ、私は普段通りの生活を過ごし……今に至る。
 ――もうすぐ【時間】だ。
『ミズホ』
 突然、背後から聞こえてきたその優しい声に、私は振り返る。……不思議と恐怖はない。
「誰……?」
 いつの間にか開けられていた大きめの窓。その先に繋がっているベランダにうつる人影。
 私は椅子から立ち上がり、ベランダに出た。

 こちらを向いて立っている青年は、とても美しい人だった。
 私と同じくらい? いや、年上だろうか……?
 少し長めの髪に色素の薄い瞳。儚く神秘的に見えるその人は恐らく……夜宴の島の住人。
 着物姿に、うっすらと消えかかっているかのように見えるその身体。――きっと、間違いないだろう。
 この人……どこかで会った事があるような気がする。こんなに美しい人を忘れる筈などない。しかし、どこかで……
 青年はふわりと私の前に立つと、私の髪に優しく指を通し、それに軽くキスをした。
 突然の出来事に、私は激しく動揺した。体温は上昇し、心臓はバクバクと音を立てる。
「ちょっ、ちょっと! 何⁉ 何なの⁉」
 慌てふためきながら青年に問うと、青年は私の腕を強く引く。いつの間にか、私は青年の胸の中にすっぽりと納められていた。
「……君の時間を僕にくれる? まぁ、拒否権なんてないんだけどね」
「わ、私の時間?」
「……うん、きっと満足させてみせるよ」
 そう言って私を見つめた青年は、妖艶に笑う。その顔が余りに美しすぎて、目も離せないくらいに惹きつけられた。
「――さぁ、時間だ。行こう。夜宴の島へ」


***

「ん……っ……」
「おはよう、ミズホ」
 目が覚めると、目の前には美しく整った顔。長めの前髪が私のおでこに触れ、私は開口一番、大声で叫ぶ。
 突然の大声に、流石に驚いたのか……青年は耳を押さえながら身体を起こした。
「……ミズホ、声が大きいよ。僕は耳が命なんだから。シッ。静かにね?」
 青年は人差し指を口元に持って来ると、にこりと笑う。その仕草に目を奪われながらも、私はとりあえず抗議した。
「だ、だって! 起きたら膝枕されてるし、顔覗き込まれてるし! こういうの免疫ないんだから本当に勘弁してよね……心臓に悪い」
「……あれ? ちょっと意識した?」
 そう言って悪戯っ子のように笑う青年に、私はあからさまに動揺を隠せない。
「可愛い、ミズホ。……本当に可愛い」
 青年のひんやりとした手が、私の頬に触れる。……何だ、このシチュエションは⁉
 こういうの本当に苦手だ。女の子として……否、お姫様のように扱われるのは。しかも、正に王子様! って感じの人に……
 私は即座に立ち上がり、青年から距離を取る。
 そんな私を見て、青年はクスクスと笑った。大人っぽいような、幼いような……そんな無邪気な顔で。
 私が言葉に詰まっていると、青年は突然耳を押さえ、何やらおかしい言動を取り始めた。
「ねぇ……どうしたの?」
 私は恐る恐る青年に声をかけると、青年は『ちょっと、待ってて』と、優しい声色で私に告げる。そして、いきなり後ろを向いたと思ったらブツブツと独り言? を言い始めた。
「……何、見失った? 何やってるんだよ、さっさと捜してきてよ。……このままだと黄金郷ツアーの話は白紙だからね」
「……え? 何の事?」
 私の声に過剰な反応を見せた青年は、慌てて振り返ると、にっこり笑って私の手を取った。
「こっちの話だよ! 行こう、ミズホ! 僕がこの島を案内してあげるよ!」
 青年は強く私の手を引き、歩き始める。
「ちょ、ちょっと待って⁉ 貴方、名前は?」
 その言葉に、青年はピタリと立ち止まった。
「……二度目だね」
「え?」
 不思議な青年は大きな満月を背景に、笑ってこう答えた。
「――ハク。僕の名前はハクって言うんだ!」
「……ハク?」
 ハクと名乗った少年は、にこりと笑う。
「早く行こう、ミズホ。時間は待ってくれないんだからね? ほら、早く!」
「待って、待ってってば! そんなに腕を引っ張らなくても、ちゃんと歩けるから!」
「そう? じゃあ……はい!」
 そう言って、青年は手を前に出す。恐る恐るその手に左手を乗せると、青年は嬉しそうに横に並んだ。
「夜宴の島にはね、まだミズホが知らない場所が沢山あるんだ。隠し道とかもあるんだよ?」
「隠し道⁉」
「うん。そこを抜けるとね、一面に草原が広がっていて、よく流星が見られるんだ。通称【星降る丘】。……僕の、一番お気に入りの場所なんだ」
「え! そこに行ってみたい!」
「うん、行こう! 僕が案内するよ」
「うん! ……あ、でもちょっと待って! お面を被らないと! ……あれ? おかめの面がない!」
「あ、これ?」
 青年は着物の胸元からおかめ面を取り出した。少しはだけた胸元……目のやり場に困る。
「今日は被らなくても良いよ。僕が近くにいるし! けど、これには魔除けの術が施されてるからね。ちゃんと持っておくんだよ?」
 私は青年から面を受け取ると、ふと気になっていた事を素直に口にした。
「ねぇ、貴方は普段何の面を被っているの?」
 青年は目を丸くすると、ぷはっと吹き出した。
「……何だと思う? ヒントをあげるよ! とっても可愛いらしい面だよ」
「可愛い……わかった! 犬だ、犬! 何だかハクって犬っぽいし!」
「犬かぁ……そうだねぇ。犬は犬でも、実は僕の正体は……可愛い犬に見せかけた獰猛(どうもう)な狼かもしれないよ? そして、後からペロッと君の事を食べてしまうかも。 ――そしたらどうする?」
「え? 食べるの⁉ 美味しくないよ、私!」
 私は笑いながらそう言うと、青年は妖艶な笑みを浮かべる。
「美味しいよ、きっと。……【食べる】の意味は違うと思うけどね」
 突然の爆弾発言に、ボンっと効果音が聞こえるくらいに顔は赤面し、プシュ〜と湯気が上がりそうになる。……いきなり何て事を言うんだ。この人は!
「ふふ……冗談だよ。本当に君は見ていて飽きないね」
 青年はとても愛おしそうな瞳で私を見つめる。私はどうしたらいいのかわからなくて、思わず目を逸らしてしまった。
 青年は繋いだ手を握りしめ、ゆっくりと歩き出す。……何だか本当にペースが乱される。
 このハクという青年は……一体、何者なのだろうか? ただ、危険な感じはまったくしない。恐らく、ついていっても大丈夫だろう。
 それに私は、星降る丘の存在がとても気になっていた。この島にそんな場所があるだなんて、今まで知らなかったから。
 胸が高鳴る、胸が踊る。ソウくんは今どこにいるのだろう? どうせなら、彼とも一緒に流星を見たい。どこかで合流できるといいのだが。

「……え、この中をくぐるの?」
「うん、そうだよ!」
 そこは、【子供】なら楽々に通り抜けられるであろう、木で出来た小道だった。……どう見たって、大人じゃ狭すぎる。
 そっと覗き込んでみるが、奥の方にいくにつれて暗くなっており、よくわからない。想像しただけで身体はブルッと身震いを起こした。
「入れるの⁉ ここ⁉ む、無理無理無理! 私、閉所恐怖症だもん! こんな狭いところに入って、もしも出られなくなったら……絶対発狂するよ、私!」
「うん。確かにこの身体じゃ、狭いねぇ。けどまぁ、通れない程でもないよ」
「……何メートルくらいあるの?」
「二百くらいじゃないかな? 短いでしょ?」
「に、二百メートル⁉ 長いよ、長い! 走るわけじゃないんだよ⁉ その距離をくぐるんだよ? 出口まで確実に行けるなら、何とか大丈夫かもだけど……もし百メートル辺りでお尻とかがつっかえて動けなくなったら? 前にも後ろにも進めない。……駄目! そんなの絶対に無理!」
「オーバーだなぁ、ミズホは。でもこの先を行かないと、星降る丘には辿り着けないんだよ? ――それでもいいの?」
「うっ! それは……」
 好奇心と恐怖心が天秤にかけられる。不安定にユラユラと揺れる天秤は、やはり……星降る丘に対する興味の方に傾いていた。
「大丈夫、僕でも通れるんだから。ミズホだったら楽々だよ! よし、行くよ⁉」
「あ、ちょっと待って! ハク!」
 青年は膝を付き、小さな小さな木のアーチをくぐっていく。仕方なく、私は彼の後ろに続いた。

 入ってみると思ったよりも余裕があるように感じた。木の香りがする。……何だかとても心地良い。前方から、風がふわりと舞い込んできた。……この風は、草原から?
 さしづめ、この小道は風の通り道という事か。
 先程まで感じていた恐怖は、あっという間にどこかへ飛んでいってしまったようだ。入る前は長く感じた距離も、何だか今はとても楽しい。まるで探検をしているような、冒険をしているような……
 そんな風に、夢で溢れていた幼い頃の自分の心を取り戻したかのように、私はドキドキ感とワクワク感に包まれていた。
 この先にあるのは【秘密基地】。そんな事を思うと、次第に顔が綻び始める。服が汚れようが気にならない。ズンズン前に進む。
 この先にあるのは、一体どんな場所なのか? そして、どのように美しいのだろう?
 私は胸を弾ませ、まだ見ぬ【美しき世界】を、脳裏に描いた。

「う……わぁ……!」
 小道を抜けた先で真っ先に目に入ったのは、緑鮮やかで豊かな草原だった。
 小さな川が丘の上の方からしなやかに道を辿り、所々に色とりどりの花が咲いている。
 上を見上げると、丸くて大きな月。満天の星空の中を、頻繁に星が流れ落ちた。
「きっれ……」
「……凄いでしょ?」
「うん、凄い……こんなの初めて! 星がここまで落ちて来ちゃいそう」
「はは! それじゃあこの辺一帯、星屑まみれになっちゃうね!」
 青年は可笑しそうに、お腹を押さえながらコロコロと笑う。私はその姿を横目で確認し、クスリと小さく笑うと、再び空を見上げた。
「この世界に、こんな場所が存在しただなんて……」
 私は、とても感動していた。星が私に降り注ぐ。『忘れないで』と、心に深く印を残しながら。
 風の唄が、草の息吹が、花の命が、小川のせせらぎが……私の心に、言いようのない感動をもたらしていた。
「……ミズホ、泣いているの?」
 青年の言葉で、初めて自分が泣いている事に気が付いた。ハクは私の顔を覗き込みながら、心配そうに声をかけてきた。
「どうかした……? どこか痛い?」
「……違っ、何だか感動しちゃって! ははっ! 私、可笑しいね」
 青年は私の前に立つと、白い袖でゴシゴシと私の涙を拭った。
「……泣かないで、ミズホ。君が泣くと、何だか胸の辺りが苦しくなるんだ」
 青年は表情を歪ませる。その顔が、とても哀しそうに、切なそうに見えて……何だか、私の方が胸を痛めていった。
「――ねぇ、ハク。人は一体、何の為に生きているのかな? 何の為に生きていくのかな? 私はこの先、元の世界で……これ程までに美しいものを見つける事が出来るのかな?」
「……僕は、人間じゃないからわからないよ。けど、人間の世界にも美しい自然はある」
「そうだね。空も、海も、山も……全てがとても綺麗。……けれど、この島の美しさには到底敵わない。この島はとても残酷。恐ろしくも、美し過ぎるから」
「ミズホは……この世界で暮らしたいと思う?」
「……わからない」
 けれど……と、私は話を続ける。
「やっぱり、夜宴の島は特別。鬼になってしまった人達の気持ち……わからない事もない。元の世界には何もないから。……そう、何も」
「ミズホ……」
「今ある全てのものを、何もかも全部捨てて、思うがまま自由に生きられたなら……どんなに幸せな事だろう」
「……今日は何だか、いつものミズホじゃないみたいだね」
「……そうかな? 私は昔からこんな人間だよ」
「ふ……そういう意味じゃないよ。今日はとても自分の気持ちに正直だって事!」
 青年は、どさっと草の上に腰を下ろした。私もその横に、ゆっくりと座り込む。
「いつもはわざと明るく振る舞って、決して本心を見せようとはしない。誰にも頼らず、甘え方すら知らない君が……今日はやけに素直だ。僕にはそれが、何だかとても嬉しいんだ」
 そう言うと、青年はゴロンとその場に寝転がり、空に向かって腕をピンと伸ばした。
「……ふふ。姿が大きく変わっても、ちっとも変わらないものもあるのにね。――ねっ、シロくん?」
「……! ミズホ、気付いてたの……⁉」
「気付かないわけがないでしょが!」
 私は寝転ぶ青年……いや、白兎の両頬をギュッと抓った。
「痛い、痛いよミズホ~!」
「私を騙そうとした罰です!」
 私が白兎の頬から手を離すと、白兎は起き上がり、少しだけ赤くなった両頬を優しくさすった。
「いったいなぁ~。本当に容赦無いんだからミズホは。……ところで、どうしてわかったの?」
「最初は似てるなぁ、って思う程度だったの。身体は大人だし……まさかね、ってあまり気にしてなかった。けどね? 左耳を頻繁に触る癖と嬉しい事があったら急に飛び跳ねるところは前と全然変わってなかったから、だからすぐにわかったよ」
「え⁉ 僕、いつもそんな事してる?」
「うん、してる。もしかして自覚がなかった? それと、名前もハクとか……安直過ぎだよ〜」
 私がクスクスと笑うと、白兎はバツの悪そうな表情を浮かべながら頭を掻いた。
「……で、シロくん。どうして、いきなりそんな姿に?」
 私がそう尋ねると、白兎はどこから取り出したのか、空っぽの小瓶をユラユラ揺らしながら、こう答えた。
「魔女の薬だよ。こないだの詫びにってくれたんだ。すっごいでしょ? 好きなの選んでいいって言うから、これにしたんだ。黒兎は『こんな得体のしれねもん、飲めっかよ!』とか言って、もらわなかったけど!」
「え⁉ 魔女の薬⁉ それって、大丈夫なの⁉」
「大丈夫、害のあるものは入っていないから。それに急激に成長した分、力も強くなったんだよ!」
「害はないって……そんなのわからないじゃない! それに、魔女の薬には何らかのリスクがあるって、シロくん言ってたよね⁉」
「あぁ、それ? リスクは勿論あるよ。まぁ、大した事ではないけどね」
「……リスクって何?」
「だから、大した事じゃ……」
「ちゃんと答えて!」
 私の大きく張り上げた声に、少し驚いた顔を見せた白兎は、ふぅと深く息を吐くと『やれやれ』といった面持ちで口を開いた。
「……戻れなくなった」
「え……?」
「元の姿には、戻れなくなった」
 ――私は言葉を失った。元の姿には戻れないって……じゃあ白兎は、ずっとこのままだという事? 双子の姉は小さいままなのに、弟だけ大きくなってしまっただなんて……
「……あとは成長した分、寿命が縮まったって事くらいかな? あ、でも……【永遠に戻れない】って事はないんだよ? まぁ、それなりに条件はあるけどね。……とにかく、そんなに深く考える事はないよ! 僕、この身体気に入ってるし」
「そういう問題じゃない!」
 私の声に、白兎が目を丸くする。
「……やだな~。何でそんなに怒ってるの? 本当にそこまで深刻になる事なんてな……」
「……どうして変える必要があったの? 元の姿に戻れなくなって、更に寿命まで縮めて……いつかは必ず、その姿になれた筈なのに。どうして今、変わる必要があったのよ!」
 納得がいかなかった。何でそんな訳のわからない事をするのか。しかも、魔女なんかに頼るだなんて。
 私がそんな事を頭の中で思っていると、黙って話を聞いていた白兎がそっと口を開いた。
「……君が」
 青年は哀しそうに笑いながら、私を見つめた。
「ミズホの事が……好きだからだよ」
 空に、一際大きな流星が流れ落ちる。
 その美しさに負けず劣らず美しい白兎は、輝く星に目を向ける事もなく、ただずっと私を見ていた。
「……シロくん」
「この姿ならミズホを守る事が出来る。もう二度と、君を傷つけさせやしない。君が般若に傷付けられた時、僕は何も出来なかったどころか、その場にいる事すら出来なかった。……君の目が覚めない間、どれ程不甲斐ない己を悔いた事か」
「あれは……! シロくんは私の耳の進行を抑えようと、必死に頑張ってくれて……それで!」
「それじゃ駄目なんだよ! 力がなく、弱いままじゃ……! 結局、君の呪いを解く事も君を守る事も、僕には出来なかった。仙人達の助けがなければ、今頃ミズホは、ここにはいなかっただろう」
「でも、結果的に助かったわけだし、貴方がそこまで気にする必要なんてないんだよ⁉ シロくんはまだ小さいんだから」
「……それだよ」
「えっ……?」
「ミズホはいつも、僕の事を子供扱いする。確かにこの世界での僕はまだまだ未熟だし、子供だよ……けれど、僕は君よりずっと、ずっと長く生きているのに! なのに、どうして君は……僕を男として見てはくれないの?」
「シロくん……」
 白兎は震える腕で、私を優しく包み込む。ふんわりとした柔らかい髪が私の頬をかすめた。
「……妖術で僕を好きになって貰うのは簡単だ。或いは、魔女の薬に頼る事だって。けど僕は、それだけはしたくない。今の君自身に想ってもらえないと……何の意味も持たないんだ」
 白兎のおでこと私のおでこがコツンとぶつかり、視線が絡み合う。
 美し過ぎる青年の長い指が、まるで宝物や壊れ物を扱うかのように優しく私の唇に触れた。ドクンドクンと、心臓の音が聞こえる。……これは白兎のものか? それとも私のもの?
 それすらもわからないくらい、私はテンパっていたと思うし、不覚にもこの雰囲気に飲まれそうになっていた。
「もう元の世界に帰らなくてもいい。君の好きなこの島で、ずっとずっと暮らしていけばいいよ。……君だって、本当はそれを望んでいるじゃないか? 君は幸せになれる。僕の手を取れば、確実に。僕が君を、幸せにしてみせるから」
 白兎は切なげに、苦しそうに私を見つめた。
 涙で視界が滲み始める。痛い程に伝わってくる白兎の想いが、激しく私の胸を締めつけた。
「絶対、ソウよりミズホの事を幸せに出来る。……ソウは駄目だ。あいつは特殊な人間だし、普通には生きられない。普通じゃ、きっと満足出来ないよ。あいつは何が起きたとしても、君より自分の気持ちを優先させるだろう。君はいつも人の為に自分の気持ちを抑え込んでしまうけれど……ソウは君が何を言おうとも、自分が決めた事、自分の意思は決して曲げたりしない。……君達は、決して相容れない。君がこれからもソウに振り回されるのは目に見えている。ソウの事を想って、無理をしたり、泣いたり、傷ついたり、苦しむ事が手に取るようにわかるんだよ。あいつは君じゃ手に負えない。そして、あいつは君を幸せには出来ない。ソウはいつか、君の前からいなくなるよ。……絶対に」
 白兎の言ってる事はよくわかる。私と彼は、きっと白兎の言うように相容れない。私自身、彼との未来を想像する事が出来ないから。
 彼はきっと、この夜宴の島での夜を終えた後……私の目の前からいなくなってしまうだろう。何故だかわからないけど、私はそう予感していた。

「……勝手に決めんな」
 聞きなれた声に、咄嗟に振り返ると……そこには、頭に面をかけ仏頂面をしている彼と、その後ろからこっそりと顔を覗かせている黒兎の姿があった。
「そ、ソウくん! どうしてここに⁉」
 何だか不自然な程に慌てふためく私をよそに、白兎は彼と目を合わす事もなく、ツンとそっぽ向いた。
「目が覚めたら、目の前にこいつがいて……何か言動がおかしかったから取り敢えずまいた。……で、隠れて様子を伺っていたら、こいつが慌てて見覚えのない狭い道を進んでいったから、『これは絶対に何かある』と思って後をつけてみた。で、ここに辿り着いたってわけ」
「……黒兎」
「し、仕方ねぇじゃねか! どれだけ捜しても見つからねぇんだもんよ。何回テレパシーを送ってもお前からの返事はねぇし、取り敢えず知らせようって思って、ここに……」
「……どれだけ捜しても見つからないって、力を使えば良かった筈だよね?」
「……あ!」
「本当に君は救いようがない大馬鹿者だね。……黄金郷の話は、勿論【無し】だからね」
「……畜生! あたしだって頑張ったのに!」
 白兎は黒兎に冷ややかな目線でそう告げると、彼の方に振り返り、口を開いた。
「とにかく、邪魔しないでくれるかな? 僕は今、ミズホと甘くてロマンチックな夜を過ごしてるんだ。……君は用無し。邪魔だよ邪魔」
 白兎は手の甲を彼に向けて、『シッシ!』と軽くあしらう。
「……生憎だがな、シロ。そのミズホはお前のしつこいアプローチに、随分と困ってるみたいだぞ? 退散するのはお前の方じゃないかな? 男は引き際が大事だと思うよ? 俺は」
 彼は目を瞑り、腕を組みながら『ウンウン』と頷くと、白兎がムキになって言い返した。
「嫌がる⁉ ミズホが嫌がる筈がないよ! 【容姿端麗】、【蓋世之才】、【温和怜悧】のこの僕を見てみなよ? ……どう見たって、君を遥かに上回ってる筈だよね?」
「お前……よく自分でそこまで言えるよな」
「だって本当の事だからね」
 白兎は彼に向かって、べぇと舌を出した。
 彼は呆れた表情を浮かべながら、口を開く。
「……とにかく。さっき言った通り、勝手に俺の事をお前が決めるな。ミズホ、それは君にも言える事だよ? シロの言葉に納得してたよね? ……確実に」
「うっ! ……それは」
 彼は深く溜息を吐きながら、言葉を続けた。
「夜宴の島での夜が終わり、元の世界に戻った俺は……確かに物足りなく感じるだろうな。それは否定しない。広い世界のどこかに、この場所と同じような不思議な世界があるのなら……俺はそこに行ってみたい。人生は一度きりしかない。それなら俺は、自由に生きてみたいんだ。沢山の世界を知って、この目でちゃんと見ていきたい。後悔の残るような人生は嫌だから、俺は俺のしたいようにすると思う。だから、シロの言う事はあながち間違いでもない」
「……ほら、ミズホ。僕の言った通りでしょ? ソウは自分の事しか考えられない、君の事なんて考えてもいない。見切りをつけるなら今の内だよ」
「おいおい、話はちゃんと最後まで聞け。俺は確かに自分勝手だ。一度自分が決めた事は周りに何を言われても変えたりはしない。この世界とは違う、また新たな世界を見つけた時……俺は間違いなく、何かを捨てる事になってもその地に赴くだろう。けれど、その時はミズホも一緒に連れて行くよ。俺の物語にはミズホは必要不可欠なんだ。……彼女がいないと、俺の物語は成り立たない」
「ハッ! 本当に君は馬鹿だよね? 人には人の世がある。君みたいに夢ばかりを見て、生きていける筈がないでしょ? ……現実を見てみなよ。その絵空事に振り回される彼女の気持ちになって、少しは考えてみるべきだ」
「シロ……悪いけどミズホはお前のものにはならないし、お前には渡さないよ。彼女は俺のパートナーだからね。あと、【俺は、ミズホには手に負えない】って言っていたけど、その言葉……そのままお前に返すよ。ミズホはお前には手に負えない。彼女は一癖あって、単純明快なように見えても難しい性格の持ち主だ。お前みたいに無償の愛情か何かで、ミズホの全てを赦し、受け入れてしまうタイプは彼女には合わないし、彼女自身を駄目にする。甘やかす事、優しくする事が愛情だとはき違えてる時点で、お前が彼女を幸せにする事なんて出来ないんだよ」
「何……?」
「ちょっと落ち着いてよ、二人とも! 一体、何の話で揉めてるのよ! 仲良くしてよ、もう!」
 私が二人の間に割り込むと、白兎は苛立ちを隠せないように、ぐしゃぐしゃと自身の髪を掻き回した。
「……あー、イライラするなぁ。じゃあ何? 君ならミズホを幸せに出来るって言うの? 大体さ、はっきりしないんだよね。実際のところ、ソウはミズホの事をどう思ってるわけ? ――好きなの⁉」
「馬っ鹿! おま、白兎! それ禁句!」

「――好きだよ」

 ――時が止まる。それは正に、今のような事を言うのだろう。この世界から、全ての【音】が消えた。そして、唯一聞こえてくるのは……彼の声だけ。
「……俺は、ミズホの事が好きだ」
 彼の声が脳髄まで染み渡る。胸が尋常じゃないくらいに活動をし、体温が急激に上昇し始めた。
 どうしよう……凄く嬉しい。今までに見てきた恋愛小説や、ドラマなんかよりも、遥かに胸が高鳴る。
 ――ねぇ、ソウくん。その言葉……信じていいの?
 私もソウくんの事が好き。誰よりも一番……貴方の事が大好きだよ。
 だから……
「……けどな?」
(ん……?)
「シロ! 俺はお前の事も好きだぞ? 生意気過ぎるのは頂けないが、好きな女の為にそこまでやれる男って中々いないよな! お前のそういうとこ、凄くかっこいいと思う」
 白兎は口を開けたまま、引きつった表情を見せた。
(あれ……? ちょっと……)
「クロだって、すっげぇ人情味溢れる奴だし、仲間思いのいい奴だ! それに何だかんだいって優しいしな? 俺は好きだよ」
 黒兎の表情はわからないが、右手で自身の頭をさすり、何だか照れているかのように見えた。
(待ってよ……)
「仙人も、狸面のおっちゃんも、他の爺さん達も、俺は皆が大好きだ!」
 そうだ……彼はこういう人だった。失われた音が、一瞬にして元に戻る。……ほんの少しでも期待をした自分が馬鹿だった。
 音を取り戻したこの世界は落胆に満ちていた。真に受けた自分が恥ずかし過ぎて、今すぐここから逃げ出したくなる。
 白兎は、心底呆れた顔をしながら口を開いた。
「……気持ち悪い事を言わないでくれるかな? 君に好かれたって、僕はちっとも嬉しくなんかないよ」
「まぁ、そう言うなって! それとも……もしかして照れてんのか? お前」
「照れるわけがないだろ! 男同士で気持ち悪いだけだよ! ……と言うか、気安く僕に触るな! 本当に君は無礼な男だな!」
 彼は白兎の肩に腕を回し、高らかに笑う。……まったく、仲良いのか悪いのかがわからない。
 突然、黒兎がぐいっと私の袖を引いた。
「何だか、お前も大変だなぁ。ちょっとだけ同情すんぜ」
「あはは……」
 けど……ま、いっか。彼は楽しそうだし、白兎も……迷惑しているように見えるが、心の底から拒絶している風には見えない。まるで仲の良い男兄弟のようだ。

 ピィ――――――――!

 ――その時、警報音のような大きな音が島中に響き渡る。突然の事に驚いた彼と私は『何だ⁉』と辺りを見回した。
 白兎の顔付きが変わる。黒兎も、ただならぬ事態を察知したのか、静かに周囲を観察し始めた。
 すると、先程私達が潜ってきた木のアーチから小さな影が一つ、こちらに向かって飛んでくるのがわかった。
 その影の正体は……梟だ。
「黒兎、白兎! 大変で御座いますよ~!」
 梟は小さな羽根をパタパタと上下に振りながら、私達の元へと辿り着く。
「! おや、ミズホさん! その説はどうも!」
「……あ! いや、こっちこそ色々とお世話になったようで、ありがとうございます!」
「……いやいや! 今はそんな悠長な事を言ってる場合じゃないんですって!」
 自分から話を振ってきたのにも関わらず、梟はそんな事を言いながら慌ただしく空を飛び回った。羽根が数本抜けて、宙を舞う。
「梟、落ち着いて。この音……今島で、一体何が起こってるの?」
 白兎がそう尋ねると、梟は恐る恐る口を開く。
「それが……その、ですね……あの~……」
「あ~! ……ったく! はっきり言えよ! モゴモゴ喋ってんじゃねぇぞ!」
 痺れを切らした黒兎は声を張り上げる。その声の大きさに驚いた梟は、飛び上がり、白兎の肩の後ろに隠れると、小さな声で報告を始めた。
「見知らぬ者達が、この島に上陸致しまして……その……」
「……上陸?」
「はい、その……船で」
 その言葉を聞くや否や、白兎はジッと考え込み、少しの間口を閉ざす。そして暫くすると、ゆっくり口を開いた。
「ミズホ、ごめん。少し急用が出来た。ちょっと行ってくるよ。僕が戻るまで君はここで待ってて。……決して、ここから出てはいけないよ?」
「シロくん……?」
「――ソウ。君に頼むのは癪だけど、僕が戻るまでミズホの事を頼んだからね」
「……何だよ、何だか穏やかじゃないな。何かあったのか? なら心配だし、俺達もついて行くよ」
「駄目だ。君達はここに残るんだ」
 青年はどこからか兎面を取り出すと、それを顔に被せながら私達にそう強く言い放った。
「今回ばかりは白兎の言う通りにしろ。それに……何だか嫌な予感がしやがんだよ。あたし達に気付かれずに、この島に上陸たぁ……本来なら考えられねぇ話だ。あたしはともかく、白兎までもが気付かねぇとかマジ有り得ねぇ。……そいつら、怪し過ぎる。用心に越した事はねぇ。ここにいろ」
 青年の白兎と少女の黒兎は、梟の先導のもと……この場所から即座に立ち去った。

 私と彼は、二人……この美しい丘に取り残され、どうしたら良いのかもわからずに、ただ流れる星を眺めていた。
「あの子達……大丈夫かな……?」
「……大丈夫だよ。単にこの島にいる者達のように、夜宴の島での宴を楽しみにして、ここまで来たのかもしれない。まだ【悪】だと決めつけるのは早いよ」
「うん……そうだよね!」
「今はあまり深く考えずに、あいつらの帰りを待とう」
 彼は私の頭にポンッと手を置き、にこりと笑った。
 ……あ、何だか久しぶり。こうして彼が私の髪に触れるのは。何だか安心する。彼の言葉も、彼の行動も……
「それにしても、すっごい星だなぁ」
 彼は、幼い少年のように目を輝かせながら星を見つめた。
「綺麗だよね。まるで、星がこの広い夜空を自由に散歩しているかのよう」
「ははっ、詩人だね。ミズホは」
「じゃあ、夜科先生なら……この流れ星をどう表現なさいますか?」
「難しい事を聞くね、本当に君は。うーん……でも、そうだなぁ。俺なら雨を連想するかな。突然降り出した雨のように、ただ一心に地上へと降り注ぐ。この光の雨が止む頃には、朝日が昇り……誰かの想いを乗せた星は、その願いの元へ」
「なるほど! ……けど、不思議だね。この美しい流れ星を【雨】と置き換えるだけで何だか急に、切なくて悲しい物語に早変わり。文章によって物語は、その人の思考や色に染まっていく……」
「そうなんだよな。何故かいつもそういう表現しか出来ないんだよ、俺。暗いのかなぁ?」
「暗くないよ! とても素敵な表現だと思う。人は【雨】という言葉に、どうしても悲しい連想をしてしまうだけ。けどね? 私は雨が好きよ。それに、私はソウくんの書く物語がとても好きだから。ずっとずっと……ソウくんの物語を読んだり、聞いたり、知っていきたい」
「……ありがとう。俺も、ミズホの【星が夜空を散歩】って表現、ファンタジーっぽくていいと思うよ。――凄く好きだ」
 私は何だか照れ臭くて、『えへへ、ありがとう』と言いながら、雨のような流星にそっと視線を向けた。
「あっ! さっきからずっと星が流れているのに、私ちっとも願い事してなかった! 願い事、願い事!」
 私は手を合わせ、星に願いをかける。そんな私の隣で、彼も同じように手を合わせた。
 幾千もの流星が夜空を駆け巡る。これだけの星が流れているんだ。きっと、どれか一つくらいは願いを叶えてくれるだろう。
「……ミズホ、何を願ったの?」
 彼が私の顔をそっと覗き込んだ。
「……ふふふ、内緒! ソウくんは、何か願い事した?」
「うん、したよ」
「何を願ったの?」
 彼は草の上に寝転がると、『俺の願いは……』と呟きながら優しく笑った。
「きっと、ミズホと同じだと思うよ」
 私はふいをついた彼の言葉に、ドキッとする。
「う、うっそだぁ~! そんな事、誰にもわかる筈ないよ」
「……さぁて、どうだろうね?」
 彼の願いと、私の願いが同じ? そんな事を言われたら、胸がキュウっと苦しくなる。
 何故なら、私の願いは……
「……きっと、叶うよ。俺の願いも、君の願いも、ね」
 彼の想像してる私の願いが合っているかどうかなんて、本人同士にしかわからない。
 けれど……きっと、全てお見通しなのだろう。彼は小説家より、探偵になる方が良いのかもしれない。
 でも、本当に私達の願いが同じなら……星達も叶える願いが一つで済んで大助かりな筈だ。それに、たとえどちらか一つだけしか願いを叶えて貰う事が出来なくても……
 私は彼と、ずっと一緒に……
「――ミズホはさ、さっきのシロの言葉に……少しはときめいたりしたの?」
「え⁉ 何、いきなり」
「……別に。ちょっと気になっただけだよ」
 慌てる私に、彼は面白くなさそうな顔をするとゴロンと横に寝返った。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「何でもないって事はないでしょ? 何?」
「何でもないって」
「……あ~! 何、もしかしてヤキモチとか⁉ へへ、なーんちゃっ」
「そうだよ?」
 彼は身体を起こし、真剣な表情でこちらに振り返ると、私の腕を強く掴んだ。
「シロが大人の姿になって、ドキドキした?」
「い、いきなり何言って……!」
「答えて?」
 彼の表情があまりにも真剣で、私は彼から目を離す事が出来ず……重なりあった視線は、暫しの沈黙を連れて来る。掴まれている腕が熱い。
「……あ、あの」
「ん……?」
「た、確かに、その……大きくなったシロくんはかっこいいと思ったし、何だかいつもと違ってペースを狂わされたりはしたけど、シロくんは私にとって可愛い弟みたいなものでそんな……ドキドキとか……は……その……」
 私は彼の追求に、しどろもどろになりながらも何とか答えるが、彼は表情を崩さない。
「ふーん。……じゃあ、今は?」
「え……?」
「俺といると、ドキドキする?」
「……へ?」
 突然、何を聞くんだ⁉ この人は! 一体、私に何を言わせたいの⁉ ……と言うか、見てわからないのか?
 テンパっている頭がますますテンパり混乱する。彼の心情がわからない。
 大体、こういう時……何て言えばいいの? 素直に可愛らしく『うん、ドキドキする』?
 ……言えるか! そんな事!
 じゃあ……『ドキドキなんてするわけないでしょうが!』って突っぱねてみる? ……いやいや、可愛くなさすぎでしょ。
 ――落ち着け、私。考えず、今の心境を素直に言えばいいんだ。
 今の心境……今の心境……今の心境……
「は……!」
「は?」
「……破裂しそうです」
 彼はぽかんと口を開きながら私を見つめた。私は、勢いで口走ってしまった言葉に、果てしなく後悔する。
 ――これじゃ、告白してるも同然じゃないか!
 赤くなる私の隣で、彼はくっくっくと、声を押し殺しながら笑った。
「ん、満足」
 彼は掴んでいた腕を離し、そっと立ち上がると、温もりを失ったその手をポケットに入れながら、空を見上げて、小さく呟いた。
「……俺も」
「え?」
「……破裂しそうです」

 え……っ?

「ソウ……くん、それって……」
【それってどういう意味?】
 ――そう聞こうと思った瞬間。突然、大きな音と共に地面が揺れ、地中から激しい地鳴りが響き渡った。
「――な、何⁉ 地震⁉」
「これは……ただの地震じゃない!」
 空が、まるで吸い込まれるように消え始める。あれだけ騒いでいた星達も……一つ、また一つと、姿を消していった。空が、空間が、歪み始める。
「え、何これ⁉ 十日目の夜が終わるの⁉」
「……いや、まだ夜は明けていない。きっと、この島で何かが起きているんだ」
「そんな! じゃあ、シロくんとクロちゃんは? 二人は一体どうなったの……⁉ 仙人や他の老人達は? 他の面の人達も、無事なんだよね? ……ねぇ、ソウくん!」
 彼に聞いたってわかる筈がないって事くらい、ちゃんと理解しているのに、それを聞いてしまう私は多分……彼からの『大丈夫だよ』という言葉を期待して……ううん。そう言って欲しくて、安心したくて……
 ――けれど、彼は黙秘する。それがますます不安を誘った。
「……きゃあ!」
「ミズホ!」
 地面に亀裂が入り、私と彼を引き離す。必死に手を伸ばすが、二人の手が触れ合う事はない。
「ソウくん!」
 夜宴の島が、崩壊する……?
「ミズホ! 元来た道を戻れ!」
 私は振り返り、道を確認する。
「駄目! 崩れちゃってる!」
「……くそ、どうすれば!」
「――下がれ」
 その時、私達の前に突然姿を現した二人。まるで最初からそこにいたかのように、兎面で素顔を隠した双子は、私達の目の前に立っていた。
 私の前には、白兎。彼の前には、黒兎。
 身体が透き通っている。……実体ではないの?
 双子は私達に手をかざすと、何やらよくわからない言葉を唱え始めた。――私達の身体が光り輝く。
「クロ!」
「シロくん!」

『夜明けず。十日目、終わる』
『夜明けない。十一日目、……始まらない』

『宴は残り七夜。もう二度と、夜宴の島で宴は行われない』

 双子のその声が聞こえたと同時に……私は意識を失った。



 夜宴の島から帰還して、早一週間。
 私達は夜になっても、あの不思議な島に行く事が出来なくなっていた。
「はぁ……」
「ミズホ……溜息、今日で何回目?」
「そんなのわからないよ。この一週間で、もう一生分の溜息を吐いたんじゃないのかな……」
「……まぁ、気持ちはわかるけどさ。はぁ〜」
 夜宴の島から戻ってきた私達はまるで廃人で、抜け殻のように日々の生活を送っていた。
 夜宴の島での出来事は、全て夢だったのか? 私は頭を左右に振り、『それは違う』と自分自身に言い聞かせる。
 ……夢である筈がない。あんなに素敵な世界をこの目で見て、過ごしてきたんだ。
 あれが全て夢だったとしたら、私はこの世界に絶望するだろう。それ程までに、私の中で夜宴の島の存在は大きく、かけがえのないものとなっていた。
「夜宴の島は、シロくんとクロちゃんは……一体どうなっちゃったのかなぁ」
「島と一緒に、消滅……とか」
「ちょっと! ……馬鹿な事言わないでよ!」
 彼の言葉に断固として【否定】をしてみるが、その可能性も確かに否めない。
 けれど、認めたくなかった。あの夜宴の島が消えてしまっただなんて。……あの子達に、もう会えないだなんて。
 私は、今日一番の大きな溜息を吐いた。
「ソウくん。夢が……終わっちゃったね」
「……覚めてしまえば全てが終わる。けれど、こんな中途半端に終わらされてしまったら……流石に目覚めが悪いよ」
「もう二度と……夜宴の島に行く事は出来ないのかなぁ?」
「俺達には、どうする事も出来ないしね」
 二人で同時に『はぁ~』と深い溜息を吐く。まるで人生に疲れた若者のようだ。
 まぁ、あながち間違いでもない。
 彼は大学で資料を探したり、都築教授に何か知っている事はないかと尋ねに行ったりと、情報収集を試みたり……私も無駄だとはわかっていながらも、いくつもの図書館を回ったり、何度も店長夫妻の家に通ったりと、やれる事はやったつもりだ。……しかし、何の成果も得られなかった。
 店長夫妻だけでなく、都築教授からも、【夜宴の島】の記憶や情報はなく、全て忘れてしまっているようだった?
「このまま、最初から無かった事になっていって……いつかは私達の記憶からも、少しずつ消えていってしまうのかなぁ? ……私、そんなの嫌だよ」
「……俺だって、嫌だよ」
「あの~、すみませ~ん」
 俯いていた私達の頭の上から、突然聞こえてきた幼くて可愛らしい声。
 私達はその声に誘われるように、ゆっくりと顔を上げた。
「わっ……」
 思わず目を見張るくらいに美しい少女が一人。ニコリと笑いながら、そこに立っていた。
 パッチリとしたおめめに、愛らしい小さな唇。山吹色で、柔らかいウェーブのかかった髪。頭のてっぺんについている、赤くて大きなリボン。ふんわりとした白いワンピスが、とてもよく似合っている。
(うわぁ……可愛い! お人形さんみたい)
 けど、この子……いつの間にここに?
 さっきまで、この公園には誰もいなかったし、足音だって聞こえなかった。……それとも、足音にすら気付かない程、私達は落胆していたという事なのだろうか?
 それにこの子、誰かに似てるような……
「どうしたの? ……君、一人? おうちの人は?」
 彼が少女に問いかけると、少女は『うふっ』とまるで花が咲いたかのように華やかに笑った。
「わたくし……貴方達に、会いに来たんですの! 随分とうちの者がお世話になったみたいで」
「え……?」
「うちの……者?」
「えぇ。うちの粗暴な妹と屈折した弟が、貴方達に大変お世話になったと聞いたのでお礼をと思いまして、遠路遥々ここまで来たんですのよ?」
「……え? ソウくん、わかる?」
「……いや。多分、人違いじゃないかな?」
「あら? わかりませんこと? 思った以上に薄情な方達ですわねぇ。あぁ、あの子達が可哀想!」
 目の前でオーバーリアクションを取る少女に、私達は呆気に取られた。
 ……しかし、見れば見るほどよく【似てる】。ずっと彼女の顔を見ていると……嫌でも、その【似てる相手】が誰なのかがわかってしまう。
 彼も同じ事を思ったのか、咄嗟に私を見た。
 粗暴な妹と……屈折した……弟……?
「それって、もしかして……!」
「まさか、黒兎と白兎の事じゃ……⁉」
「あら? 嫌ですわ! あの子達、まだ名前がなかったのね。好きな名前を好き勝手に名乗れば良いものを……じゃあ、わたくしがあの子達に素敵な名前をつけてあげますわ! ……えっと、どんな名前にしましょう?」
 少女はくるりと回りながら、『うん……』と人差し指を口元に当てる。優雅で可憐で美しいその姿は、まるで花の妖精……――いやいや、そんな事よりも!
「ちょ、ちょっと待って⁉ じゃあ貴女、シロくんとクロちゃんのお姉さんって事だよね?」
「はいっ。そういう事になりますわね!」
「ねぇ! 今、夜宴の島がどうなってるか……貴女知らない⁉ シロくんやクロちゃんはちゃんと無事なのか、何か知っていたら教えて欲しいの!」
「そ、それが……」
 突然、少女の大きな目が潤み出す。
 そして次第に『うわぁああああん!』と大声を出して泣き始めた。
「い、今……あの島は大変な事になっているんですの……! 白兎も黒兎も、危険な状態で……それでわたくし、貴方達に助けて頂きたくてここまで来たんですの……」
 少女はグスンと鼻を鳴らしながら、ポケットからハンカチを取り出し、そっと涙を拭いた。
「貴方達があの子達にとって、とても大切な存在である事を知って……ずっと捜しておりましたの。どうかお願いですわ。あの島を、あの子達を、ワルモノ達から救ってやって欲しいんですの」
「悪者……?」
「……えぇ。その方達は、あの島の事をとても憎んでいらっしゃるみたいで……あの島を滅ぼそうとしているんですわ。 ――あの子達、諸共」
「そんな……!」
「お願いですわ! 一緒に来て欲しいんですの! 私の力では貴方達をお迎えする事で精一杯なのです。早くしないと……! あの子達も、貴方達が来てくれるのを……ずっと信じて待っていますわ!」
 少女の言葉から、今夜宴の島が危機的状態である事が充分に伝わってきた。正直、何の力も持たないただの人間の私達に、何か出来るとは思えないけれど……少女の言葉を聞いて、二人は私達を必要としている、私達を待っていてくれているのだと思うと、いてもたってもいられなくなった。――それならば。
「……ソウくん、行こう! 二人が心配!」
「事情がイマイチよく飲み込めないけど、俺達に出来る事があるのなら。……すぐに行こう!」
「……良かった! 貴方達ならきっとそう言ってくれると信じておりましたの! 流石、あの子達が見込んだ方達ですわね」
 少女は、とても嬉しそうに微笑んだ。
「ところで……君、名前は?」
 彼がそう尋ねると、少女はスカートの端を持ち上げ、礼儀正しく一礼する。
「わたくしの名はティターニア。この名前が好きで、勝手にそう名乗っておりますのよ」
「ティターニア……ヨーロッパ中世の、伝説上の妖精国の王であるオベロンの妃と同じ名前だね」
「シェークスピアの【真夏の夜の夢】。――ねぇ、優しいお方。もう一度歌ってみて。私の耳はあなたの声に魅せられ、私の目はあなたの姿に魅せられたの。私はあなたの美しさにすっかり心を動かされ、一目見ただけであなたを愛してしまいましたの……ふふ、話し方まで何だか似てるね」
「まぁ! 素敵! ご存知でしたの⁉ 妖精……正にわたくしにぴったりの名じゃありませんこと? うふふ。……わたくし、【兎】の名称は大っ嫌いですの。なので、どうぞ気軽にティニアとお呼び下さいませ」
「じゃあ、ティニア。どうしたら俺達はあの島まで行く事が出来るんだ?」
 彼が少女に問いかけると、少女は再びポケットに手を入れ、何かを取り出した。
「これを食べると、すぐにでもあちらに行く事が出来るんですのよ!」
 少女はパッと手を開く。手のひらの上でコロンと転がる二つの固形物。
「……飴?」
「飴……とは、ちょっと言い難いですわね。口に入れたら即座に溶けてしまいますので! どちらかと言うと【ラムネ】の方が近いかもですわ。とにかく、ご賞味あれ!」
 透明の紙に包まれた、大きく赤いまん丸とした飴のようなものは、一見苺味のそれに相似している。
 私達は少女からそれを受け取ると、ゆっくり包み紙を外した。
「……ねぇ。今は夜ではないけど、島に入る事は出来るの?」
「えぇ、それは大丈夫ですわ!」
「……よし、ミズホ」
「……うんっ!」
 私達は、一気にそれを口に含んだ。少女の言う通り、口の中で一気に弾け、溶け込んだその固形物は……何だか、不思議な味だった。
 ――いや、不思議というよりは、とても不快な味であった。
 パッと見た感じ、甘くて美味しい苺の味を連想してしまうその固形物は……とにかく不味い。
 それに苦い。辛いような気もする。
 身体が急に怠くなり、思うようにいう事をきかない。耳鳴りや頭痛、激しい吐き気を催す。
「ティニア、これ……食べて大丈夫なものなんだよね?」
「はい! もうすぐ貴方達はこの世界から消えますわ。今度はその肉体ごと、あの世界に送られてしまいますから……身体の不調は所謂、拒絶反応のようなものでしてよ」
「肉体ごと、この世界から消える……?」
 ――その時、彼が勢いよく地面に倒れた。
「ソウくん!」
 倒れた彼のつま先から、どんどん色が失われ始めていく。
 このまま、この世界から彼の存在が消える? そして……私も?
「……【ティターニア】は、気に入った男を見つけると、妖精の国に引きずり込み、飽きるまで愛を注ぎ込むんですの。What angel wakes me from my flowery bed? (どんな天使かしら。わたしを花のベッドから起こすのは?)……うふふ。楽しくなりそうですわ!」
「え……な、に……?」
 だんだんと、意識を保っていられなくなった私に、少女は…………
「あちらで先に待っておりますわ。ご機嫌よう。……タチバナ、ミズホ様」
 そう言って、可愛らしく笑った。


***

「……ミズホ! 起きろ!」
「う……ん……」
 彼の声に、私はゆっくりと意識を取り戻す。
 目を覚ました私は周りの状態を見て、思わず自分の目を疑った。
「な、何これ……これが【夜宴の島】?」
 ――私は言葉を失う。
 どんよりとした灰色の空に、波打ち際に押し寄せるゴミの塊。樹は無残にも倒れ、葉は全て焼き焦げていた。
 あの地震でキャンプファイヤーの火が、樹に移ったのだろうか? それとも、誰かが故意に火を放ったのか?
「こんなのって……酷い、酷いよ! これじゃあまるで、別の世界だわ!」
「ミズホ、少し落ち着いて。とにかく、あいつらを探そう。……無事でいてくれてるといいけどな」
「シロくん……クロちゃん……」

 ――私達は、走った。
 白い砂浜を黒く汚す、灰や焼け落ちた大木の欠片、無造作に散乱されたゴミの間を駆け抜け、走り続けた。
 足場は悪いものの見晴らしの良くなった森の中を、それはもう、隈なく捜し続けた。……けれど、誰もいない。誰の姿も見つからない。皆、どこに消えてしまったというの?
「どこにもいないよ、ソウくん……」
「! ミズホ、あれって……!」
 彼が指差した方に視線を向けると、その先に見えたのは……小さな小さな樹の出入り口。
「あれ、もしかして……!」
「……うん。あの丘に続く道だよ、きっと!」
「けれど、あの道は崩壊した筈じゃ……」
「きっと誰かが妖力か何かで修復したんだよ。……いるならもう、ここしか考えられない」
 彼は即座に、狭くて小さな樹のトンネルを潜っていく。勿論、私も後に続く。
 ……胸騒ぎしかしない。どうしてこんな事に?
 双子は、本当にこの先にいるの……? 誰がこの島をこんな風に変えてしまったの?
 ティニアは今、どこにいるのだろうか? もう二人と合流しているのかな?
「シロくん……クロちゃん……お願い。どうか無事でいて」
 無意識に口から出た言葉に、前方にいる彼が返事を返す。
「……大丈夫、あいつらは強い。【敵】が誰であろうと絶対に負けたりしないよ。あいつらは無事だ。きっと」
「うん! そうだよね。あの子達ならきっと大丈夫。私……信じるよ」

 何とか無事にアーチを抜けると、私達の耳に突然聞こえてきた大声……私達は即座顔を見合わせた。
「あー! あー! あぁー! あーー! あぁー! あー!」
「黒兎! 落ち着いて!」
 そこには、奇声を発しながら髪を激しく掻きむしる黒兎と、その彼女を必死に宥(なだ)める青年姿の白兎がいた。
 黒兎の腰付近まであった長い髪が、肩くらいまでの長さまで、無残に切り取られている。
 毛先の揃わぬ惨めなその髪型に、『黒兎が自分でやったのか?』と思いながら地面に目を向けてみたが、切り落とされたであろう髪の束はそこにはない。……誰かに無理矢理切られたのだろうか?
「クソクソクソッ! あいつ、ぜってぇに許さねぇ! 殺してやる……刺し違えても殺ってやる! ――白兎、お前も手を貸せ! 今度こそあいつをこの手で……!」
「……勿論だよ。けれど、あいつは今……死の神の加護を一身に受けている。とても強大な力だ。ただでさえ、もの凄い力の持ち主なのに……僕達じゃ敵う筈がない」
「じゃあ、このまま指を咥えて見てろって言うのかよ! ここも、こんなにめちゃくちゃにされちまって……あたし達には、太刀打ち出来ねぇって言うのかよ? 畜生……! 一体、どうすりゃあいいんだ」
「もう駄目だよ……黒兎。夜宴の島は終わりだ。このまま、夜宴の島も……僕達も消える」
「……今の話、どういう事だ?」
 彼の言葉に二人は振り返る。私達が来た事に気付かないくらい、二人は話に集中していたようだ。
「……ソウ! それに、ミズホ! お前達……どうやってここに⁉ あたし達が、確かに元の世界に戻した筈……!」
「ティニアがここまで私達を連れて来てくれたの。貴方達の事を……とても心配していたわ」
「な……に……?」
 私がティターニアの名を出した途端、二人の顔は真っ青になった。
「ど、どうしたの……?」
「――畜生、あいつ……そう来たか。あたし達の場所まで案内させる為に……」
「駄目だ……ミズホ、逃げて! この場所もバレてしまった。きっとすぐに、あいつが来る」
 兎達は、いつも強気で自信たっぷりな二人からは想像も出来ないくらいに怯えた顔を私達に見せた。一体、どういう事なんだ……?
「ちょっと落ち着けよ、お前達。一体何があったんだ? 俺達にわかるように説明してくれ……」
「僕達じゃ、抗えない。……あの女は悪魔だ。このままだと君達も殺されてしまう」
「あの女って……⁉」
「赤兎――」
 白兎がそう口にした途端、目の前にあの少女が現れ、青年の腹部を目がけて思いっきり蹴り上げた。
「う……ぐっ……!」
 少女のどこにこんな力が? と思わされるくらいに、大人の姿の白兎の身体は軽々と宙を舞った。突然の事に、私達は身動きさえ取れず、ただその現状を見つめている事しか出来なかった。
 美し過ぎる少女がにっこりと笑う。
「あらぁ、ごめんあそばせ? けれど、わたくし……その名前で呼ぶなって言いませんでしたっけぇ? ……このグズが。まだ痛めつけ足りないみたいですわね? 図体だけ大きくなっても、結局お前は弱虫で泣き虫の、か弱い病弱【白兎チャン】のまま。そんな弱小者が、このわたくしに逆らわないでくれませんこと? あんまりウザいと……うふふ。――殺しちゃうかも」
「白兎!」
 黒兎は、すぐさま倒れた白兎の近くに駆け寄り、少女を思いっきり睨みつけた。
「あら……そこのブス。何ですの? その目は? わたくしに何か文句でもあるのかしら? ……その態度、とてもよろしくありませんわよ? 髪を切られただけじゃ、あまり堪えていないのかしらね? じゃあ今度は因幡の兎みたいに、お前のその毛を全部、毛根からむしり取ってやろうかしらぁ?」
「……やってみろよ。あたしは絶対にお前に屈しない」
 黒兎の目が、身体の周りが、まるで青い炎のように激しく燃え上がる。
「や……めて、黒兎……! 君には無理だ……!」
 白兎は黒兎を必死に止めるが、黒兎は今にでも噛みつきそうな勢いだ。怒りや憎しみという感情が全身から滲み出している。
 とにかく私は、蚊の鳴くような声で少女に問いかけた。
「ちょ、ちょっと待って……ティニア? どういう事、これ……」
 私の言葉に満面の笑みを浮かべながら、くるりと振り返った少女は……その愛らしい小さな口をゆっくりと開いた。
「タチバナミズホ様と、イガラシソウ様! ここまでの道案内、どうもありがとうございますですわ~! お陰で助かりましたの~! この子達、隠れる事だけは一人前なので捜すのに大変骨が折れまして……それで、貴方達に協力を頼んだ次第ですわ」
「貴女……双子達のお姉さんなんだよ、ね? どうしてこんな酷い事を……?」
「っ! ……こんな奴! 姉貴なんかじゃね……!」
 黒兎の顎に少女の鮮やかな蹴りが入る。ゴキッと鈍い音が出て、黒兎は仰け反り返る。
「えっとぉ……? どうして、でしたっけ?」
 少女は黒兎の前髪を掴むと、身体ごと引きずり上げた。
「……っつ!」
「クロ!」
「クロちゃん! ティニア、もうやめて!」
「――躾ですわぁ。出来の悪い妹と弟を正すのは姉であるわたくしの使命でしてよ? うふ」
「は、離せ……クソ女……が……」
 惨たらしく口と鼻から血を流す黒兎に、少女は嘲笑うかのように罵った。
「……汚ったない顔。貴女に本当にぴったりな顔でしてよ? きゃははははははは! けれど、その下品な言葉使いは直しなさいな?」
 少女は黒兎を地面に叩きつけると、彼女の背に脚を乗せ、グリグリと踏み付けた。
「貴方の……目的は何なの……?」
「わたくしの目的は勿論、この目障りな島を滅ぼす事ですわ。邪魔な黒兎と白兎諸共。この子達、酷い子達ですのよ? 以前わたくし……この子達に殺されそうになったんですの。だから、これは復讐。わたくしに責められる道理などありませんわよね?」
 私と彼はバッと双子達の顔を見る。双子達は俯いていて表情が上手く読み取れない。
「まぁ、昔の話はどうでもいいですわね。わたくしもあまり思い出したくはありませんし。……そして、わたくしのもう一つの目的は【彼】ですの!」
 少女がビシッと指を差す。その先にいたのは、紛れもなく【ソウくん】だった。
「俺……?」
「えぇ。そうですわよ? イガラシソウさん♪」
「一体……何が望みだ?」
「貴方、わたくしの【お人形】になりませんこと?」
「……人形?」
「実は、一年も前から目を付けている【人形】がいるんですけれど、なかなかわたくしのモノになってはくれませんの~。死の呪いを一身に受けているのにも関わらず、なかなかしつこいお方で……わたくし待ちくたびれてしまいましたわ。……まぁ、どうせ近い内に手に入るでしょうけど。それまでは別のお人形をと思い、色々捜しておりましたら、貴方の存在を知りましたのよ♪」
 少女は彼の前に立つと、恍惚の表情を浮かべた。
「ソウ……とても美しい人。それに知性もある。わたくしのお人形に相応しいですわ。わたくしが貴方に飽きるまで……わたくしの為だけに生き、わたくしを悦ばせなさいな。遊び尽くして要らなくなったら、最後は無惨に殺してあげる。――そう、私は死を司る神の後継者」
 少女の着ていた真っ白のワンピースが、真っ黒なドレスに変わっていく。ほんのりピンク色だった唇が、血のように真っ赤なルージュを塗られたように紅く染まる。
「死んだ後も、その魂を残らず喰い尽くして差し上げますので……ご心配なく♪」
「……とんだお姫様だな。悪いけどお断りだ。俺はロリコンでもなければマゾヒストでもない。そもそも人形なんて柄でもなければ、誰かの命令に従い、犬のように生きるなんて御免だ」
「あらぁ? 生意気ですわねぇ。これは調教のしがいがありますわぁ! ……けれど、拒否権なんてありませんことよ? 今ここに居る者達の中で発言が許されているのは、この【わたくし】だけ。誰の指図も受けませんわぁ。……さぁ、わたくしに跪きなさい。そして、この手の甲に忠誠の証を。でなければ、今すぐその人間の娘……タチバナミズホを殺しますわよ? よろしいのかしらぁ?」
「何……っ⁉」
「殺し方はどうしましょうか? 惨殺、斬殺、撲殺、絞殺、刺殺、殴殺、毒殺、薬殺、扼殺、轢殺、爆殺、鏖殺、圧殺、焼殺、抉殺、誅殺、溺殺、射殺、銃殺、……さぁ、どれがお好み? 惨たらしく残酷に、そして華麗に美しく、殺して差し上げますわ」
 少女の瞳が私を捉える。ドス黒い闇のようなその目に、私は飲み込まれそうになり……恐怖に打ち震えた。

 ――私、この子が怖い。

「そ、ソウくん! わ、わたし……!」
「ミズホ……」
 恐怖のあまり涙目になり、異常なまでに震える私を見て、彼は……まるで覚悟を決めたかのように、少女のいる方向に目を向けた。
「ミズホには手を出すな。そしたらお前の人形でも、ペットでも……何にだってなってやる」
「うふ。良い心掛けですこと。いいですわよ? けれど……その言葉使いが、少々気になりますわねぇ?」
「……ティニア様、彼女には手を出さないで下さい。 ――お願いします」
「あらぁ♪ 随分従順な可愛らしい子。……じゃあソウ、わたくしの手に服従の口付けを。 ――さぁ、早く」
 彼は少女の前に跪き、差し出された手の甲にそっと口付けをした。
「ソウ……くん……」
「はぁ~ん……ゾクゾクしますわぁ。嫌がる男を無理矢理支配するこの快感。堪りませんわぁ! キャハハハハハ! ……けれど、ソウも白兎もどうしてこんな冴えない地味な女が気になるのかしら? 理解に苦しみますわね。何だかムカつきますわぁ。……やっぱり殺してしまおうかしらぁ?」
「ティニア!」
 普段あまり大声を出す事がない彼が、声を張り上げ、少女を睨み付ける。
「――約束だ。……ちゃんと守れ」
 一瞬、目を大きく見開いた少女は……クスリと妖艶に笑うと、彼の頬にそっと触れた。
「イイわ……貴方。思った以上にイイ。これ程までの辱めを受けても、その強気で反抗的な態度。不屈の精神。……とても良いお人形ですわ。今はその無礼も許しましょう。【いま】は、ね?」
 少女はちらりと、白兎に視線を移す。白兎はわかりやすいくらいに、ビクリと肩を揺らした。
「……そうですわぁ! わたくし、いい事を思い付きましたの! 白兎ぃ……お前にこの娘をあげる。だからお前、わたくしの方につきなさい?」
「え……?」
「好きなんでしょう? 恋い焦がれて恋い焦がれて、その胸が張り裂けてしまいそうなくらい。……わたくし、恋愛に対しては寛大ですのよ? 可愛い弟の為ですもの。一肌でも二肌でも脱いで差しあげますわ。けれど、黒兎。お前は要らない。昔から可愛くない。いつもわたくしに反発してばかり、お前のような偽善者は虫唾が走るんですの。今すぐここで消えて頂戴。お前のその顔……かなり目障りですわ」
 少女は、怪しく不気味に……そして美しく笑うと、ゆっくり黒兎のいる方向に手をかざした。

「……待って、姉様」
 黒兎にトドメを刺そうとする少女を、白兎が制止する。
「……ここで黒兎を殺しても、簡単過ぎて面白くないよ。もっと苦しめてから死んでもらおうよ。僕も黒兎の馬鹿で無鉄砲なところに、いい加減ウンザリしていたんだ。黒兎はもう要らない。だから……僕にミズホを頂戴」
「なっ、てめぇ⁉」
「あら? 随分と良い顔付きになりましたわねぇ、白兎。その瞳、弟ながらゾクゾクしますわ。実の姉より好きな女を選ぶ。……実にシンプル。恋に溺れ、恋に狂う。あぁ、素敵! 何て素敵なの!」
「……そうだよ。僕は何よりミズホが欲しい。ミズホを手に入れる事が出来るなら、他には何も要らない」
「シロくん……!」
「……ふざけるな、シロ。血迷ったのか? それに、ミズホはお前に渡さない」
「ソウ……君は姉様からの御指名だ。さっさと行け。姉様が飽きるまで、姉様だけの人形になると良い」
 白兎が私の腕を掴み、胸の中に引き寄せた。
「やだ……こんなのやだよ、シロくん……!」
「ミズホ、そんな顔しないで。君はそんなに、僕の事が嫌い?」
「嫌いとか、そんなんじゃ……!」
「ミズホ、命令よ。憐れで惨めな白兎を愛して差し上げなさい? わたくしがいないと、好きな娘一人手に入れる事が出来ない、可哀想で愛おしいわたくしの弟」
「ミズホ……目を閉じて」
「……嫌だ」
「閉じて」
「こんなの、間違ってるよ! シロくん、目を覚まして!」
 私がそう口にしたと同時に、私の唇に触れる白兎の唇。口内に侵入する舌が絡み合い、上手く息が出来ない。
 歪んだ表情のソウくんと目が合う。……嫌だ。
 こんな私を見ないで。
「キャハハハハハ! いい見世物だわ。とても楽しい! とても満足ですわ、白兎!」
 白兎の舌から解放された唇は唾液の糸を引く。青年は、私をその胸で優しく包み込んだ。
「姉様。……先に【船】まで戻っては駄目かな? ミズホも疲れているみたいだし」
「うふふ。そんな事言って、早くミズホと二人っきりになりたいだけじゃないんですの? 可愛い白兎。いいですわよ? もうわたくし達も行きますわ。……じゃあね、黒兎。白兎のはからいで、暫くは生かしておいてあげますわ。それまで、惨めに一人で生きていきなさい? ――それじゃあ、御機嫌よう」



 私と白兎は今、豪華客船の一室にいた。――時は、ほんの少しだけ遡る。
 あれから、黒兎を置いて私達が向かった先は……以前のように美しい海ではなく、朽ちて廃れ切った海の前だった。
 彼と双子達を捜し回っていた時には、確かになかった筈なのに……海岸には、目を見張るくらいに立派で巨大な船が停泊していた。
 不気味すぎる仮面をつけた者達が一斉に、妖精【ティターニア】を出迎える。
 ティニアと彼は大勢の仮面達を従えて、どこかに歩いて行ってしまった。
 結局彼と私は、言葉を交わすどころか……一度も目を合わす事がなかった。
「こちらへ……」
 私と白兎は一人だけ残った仮面に案内されて、二人とは逆方向に進む。案内された場所は、洋風の……とても可愛らしい部屋だった。
 仮面は私達が中に入ったのを見届けると、すぐにその場から立ち去った。

「酷い……酷いよ、シロくん……! 最低だよ」
 私は白兎の胸板を、ドンドンと力無く叩く。
「……泣かないで、ミズホ。お願いだから」
「ソウくんの、彼の目の前で……あんな事をするなんて……」
 白兎は私の手首を強く掴みながら、ジッと私を見つめ、やがて小さく口を開いた。
「あそこでああしなきゃ、黒兎が殺されていた。それに……きっと君も」
「え……?」
「……あいつ、ソウには【ちゃんと言う事を聞きさえすればミズホを生かす】みたいに言っていたけれど、あんなの信用出来ない。どこにそんな保証があるの? きっとソウを辱める為だけの、ただのパフォーマンスだよ。……あいつは自分以外の女を嫌う。あのままだと君は多分、黒兎と一緒に……あの場で殺されていたと思う」
「それじゃ、もしかしてシロくん……」
 私達を守る為に――? 
「……二人を確実に生かす為には、あぁするしかなかった。しかし……あれ程までの屈辱を受けたのは生まれて初めてだよ。ああいうのは、人前でするものじゃない。それに、僕に対して何の気持ちもない相手とする口付けなんて……ただ、虚しいだけだ」
 そう言って笑った白兎の顔は、とても悲しそうだった。
「ごめ……シロくん……ごめんなさい……私、酷い事を!」
「謝らないでよ。酷い事をしたのは僕の方だ。ごめん、ミズホ……本当にごめん」
 白兎は深く頭を下げた。前髪で顔は隠れて見えないが、肩が……腕が……震えているのがわかった。 
 私は目の前で震える青年を、大きな身体なのに小さく震える白兎の事を……何故だろう。思わず抱きしめたくなった。
 けれど……私は伸ばしかけた手をスッと引っ込めた。
「……クロちゃんは、この事をちゃんとわかっているのかな? シロくんが、クロちゃんの事を裏切ったって……そう思っていないかな?」
「黒兎はきっとわかっているよ。彼女は、頭は悪いけど……決して馬鹿ではない。こういう時こそ、頭が回る」
「そっか。……良かった」
「生きていなければ、どうする事も出来ない。生きてさえいれば、きっと何とかなる。だからそれまでは……ミズホ、お願いだ。……フリでいい。僕を、愛して」
 私は、まるで胸に千本の矢が突き刺さったかのような感覚に襲われた。
 ――嫌だったからではない。
 その苦痛そうな表情から、白兎が今……どんなに苦しみながら、その言葉を口にしているのかが痛い程伝わってきたからだ。
 ……胸が、痛い。
 その悲しすぎる言葉に、何の返答も出来ずにいた私を見た白兎は、眉を下げ、泣きそうな顔をしながら笑った。
「ごめん、そんなの演技でだって嫌だよね。君にはソウがいる。君は、ソウの事が好きなのに……ははっ、どこまで僕は惨めなんだろうね。あいつの言う通りだ。僕は憐れで惨めで、愚図で、鈍間で、弱くて……だから、そうする事でしか君を守る術が見つからない。本当はフリなんかじゃなく、誰よりも君に……愛して欲しいのに」
 いつも自信たっぷりに見せるのは、本当は誰よりも自分に自信がないからかもしれない。
「――お願いだ、ミズホ。フリでいいんだよ。大丈夫、勿論間に受けたりなんてしな……」
 ……もう、限界だった。
 私は堪らなくなって、白兎を強く抱きしめた。

 ――ごめんね、ソウくん。
 けれど、どうして今……この人を抱きしめずにいられるものか? 
 たとえ自分が傷付いたとしても、必死に守ろうとしてくれているこの優しくも不器用な手を……どうして振り払う事が出来るだろうか? 
 これは、同情かもしれない。私がしている事は残酷なのかもしれない。
 けど、それで……たとえ目の前にいる青年に更に深い傷を負わせてしまおうとも……今の私は、白兎を抱きしめずにはいられなかった。
 その気持ちは、フリでも何でもない。
「ミズ……ホ……」
「わかった……わかったよ、シロくん。だからもう……そんな悲しい顔、しないで。お願いだから……」
 私の鼓動と彼の鼓動がシンクロして、何と心地の良い旋律を奏でるのだろう。私はこの状態に酷く安心をしていた。とても安らぎを感じていた。ソウくんの時とは確かに違う何かが……そこには確かに存在した。
「好きだよ」

『――好きだよ』

 そう言葉にしたのは、一体……どちらの方だったのだろう? 白兎? それとも、私……? 
 そんな事にすら気付けない程、自然に……緩やかに……まるで空気に溶け込むように、お互いの口から溢れ出た言葉だった。
「……シロくん」
 しゃがみ込んでいる白兎の、柔らかくふわりとした髪に触れ……そのまま、ゆっくりと頬を通過する。
 こうして見ると、私と何も変わらない。……まるで、普通の人間のようだ。
「……好きだよ」
 私は……私の中でほのかに芽生えたこの想いに、戸惑いを隠せなかった。
けれど、それは……ソウくんに対する気持ちとは、まったくと言っていい程、違うように感じた。
 私は……今でも彼の事が、誰よりも大好きだ。彼の言葉一つで私は、天国にでも地獄にでも行けてしまうだろう。
 本当に好きだからこそ……簡単に幸せな気持ちになれる反面、少しの事で不安になったり、嫌われる事を過剰に恐れたりした。私はきっと、自分に自信がないのだ。
 とんでもなく高い壁が私達の間に存在して、彼を……とても遠くに感じてしまう。
 それもそうだろう。彼は普通の青年ではない、小説家【夜科蛍】なのだ。
 そもそも私なんかとは住む世界が違う。だから、どうしても卑屈な考えになってしまうの。
 それなのにシロくんに対しては……何だかとても愛おしくて、嫌われるかも、なんて心配する事なく……心の底から安心出来る。凄く凄く、大切だと想える存在だ。
 この気持ちを……一体、何と呼べば良いのだろう? 

「……大丈夫だよ、ミズホ。僕には【それ】が何か、ちゃんとわかっているから」
 白兎は私の肩からそっと頭を上げると、優しくニコリと笑った。
「……シロくん、勝手に心を読んだでしょう?」
「ごめん。ミズホが急に黙り込むから、つい。それに……こんなに近かったら、聞こうとしなくても勝手に聞こえちゃうしね」
 何だか、急に恥ずかしくなって俯くと、白兎は『よしよし』と私の頭を撫でた。
「本当に深く考える事はないよ。いつか……その答えがわかる時が、きっと来るから」
「シロくんは……答えを教えてくれないの?」
「うん。あんまり言いたくはないかなぁ……」
「どうして?」
「……内緒」
 白兎はそう言いながら私から離れると、ベッドに腰を下ろし、『こっちにおいで』と手招きをした。
 私はゆっくり立ち上がり、白兎の隣に座ると、青年は真剣な表情で私に語りかけてきた。
「――ミズホ。昔ティターニアと……ううん、【赤兎】と僕達に何があったのか、聞いてくれる? ……君には知っておいて欲しいんだ」
「! ……うん、聞かせて」
「僕と黒兎も、間違えたのかもしれない。過去の……清算したい過ちだよ」
 そう言うと、……白兎はゆっくり口を開いた。
「この夜宴の島にはね、昔……僕達以外の者も沢山住んでいたんだよ。来訪者や宴の参加者とかじゃなくてね。……これは、僕達がまだ夜宴の島に……【ただ、住んでいた】だけだった頃の話――」

 この島には全部で十七人の童子が住んでいた。皆、各々に不思議な力を持っていたよ。
 その中でも特に島からの恩恵を受けていたのが僕達、兎神の末裔。
 他の者達は、将来僕達に仕えるために、この島に連れて来られた……既に身寄りのない神の申し子達だった。
 しかし、まだ幼い童子達は、配下というよりも僕達の仲間でもあり、ライバルでもあり、良き友でもあったんだ。
 たまに意地悪される事とかはあったけれど、僕達はとても仲良く暮らしていたよ。……本当に。
 昔ね、僕は今では考えられないくらいに、とても病弱だったんだ。生まれてきた時はまだ健康だったらしい。
 けれど、生まれて少し経ったある日……原因不明の病がこの身に降り注いだ。
 病だけは……たとえどんなに強い力を持っていたとしても、どうする事も出来ない。
 その病は……確実に僕の身体を蝕んでいったよ。身体だけではなく、【心】までもね。
 【この頃】の僕達三人はとても仲が良くて、赤兎も黒兎も……本当に僕の事を気にかけてくれる、優しい姉達だった。
『白兎、お前また咳いてんじゃねか。今日もうちで寝てろ。……留守番だ、留守番!』
『……嫌だ! 僕も姉様達と遊びたい』
『駄~目っ! 寝てなきゃ駄目でしょう⁉ 悪化したらどうするの? ほら、これいつものお薬! ちゃんと飲まなきゃ駄目よ?』
『うん……』
 二人が居なくなった後、外から楽しそうな声が聴こえてくる。皆で楽しく遊んでいるのだろう。
 僕にはそれが……とても羨ましかった。
 赤兎の言う通り、ちゃんと薬を飲んでいるのに……この身体は、いつまで経っても良くなってはくれない。苛立ちと悔しさで、胸が張り裂けそうだった。
 神として……この身体は欠陥品。月に一度、僕の身体を診る為に島まで来てくれる狸のお爺さんには、『このままではいつ死ぬかわからない』とまで言われていた。
 僕は、寂しくて、怖くて、苦しくて、不安で……いつも一人で泣いていた。
 赤兎は、僕達の中でも一番強い力を持ち、この島の後継者に一番相応しい存在だった。皆が一目を置いている事は見ていてよくわかった。
 黒兎は、皆のムードメーカーで、馬鹿だけど身体を動かす事は得意だったし、とにかく人気者だった。いつも皆の中心にいた。
 だから……弱くて泣き虫の僕だけが、二人のお荷物だと島の皆に言われ、除け者にされたり、石を投げられたりしたっけ。その度に、赤兎と黒兎が助けてくれたのを覚えてる。
 けれど、あの頃の馬鹿だった僕は……そんな二人に対して強い劣等感を感じ始めていたんだ。
『……狡いよ、黒兎。君と僕は双子で一緒に生まれてきた。それなのに……どうして君だけそんなに健康なの? 不公平だよ、そんなの』
『んな事知らねぇよ! お前、そんな卑屈になるなって! ……大丈夫だよ。いつか必ずお前の身体はよくなる。あたしがきっとお前を治してやるから!』
 黒兎は優しい。そんな事は僕が一番わかっている。けれど、何の確証もないそのような言葉など……僕にはただ鬱陶しいだけだった。
 僕は近くにあった花瓶を、黒兎の背後にある壁に向かって思いっきり投げつけた。
 パリン! という音と共に……今朝、黒兎と赤兎が摘んできてくれた色彩豊かな花達は、まるで抵抗出来ないその身を嘆くかのように、パラパラと床に舞い落ちた。
『煩い……黙れ、黒兎。僕は君の声など聴きたくもない。消えろ、僕に話しかけるな』
『っ! ……馬鹿がっ! 勝手にしろ!』
 黒兎が部屋を飛び出すと、僕はゆっくりベッドから降り、散らばった破片や花を拾った。
『……八つ当たりしてしまって、ごめんね』
 それから黒兎は、暫く僕の部屋に姿を見せる事はなかった。

 僕は以前にも増して部屋に閉じ籠るようになり、感情を失っていった。誰かと話す事も煩わしかった。全てが馬鹿馬鹿しく思えたから。
 どうせ僕は、長く生きられない。ひと月後、僕達三人はこの島の後継者に選ばれ、この島を支配するのだろうけど……僕にはどうでも良かったんだ。
 随分と捻くれていたと思う。我儘だったと思う。
 けれど僕は、そんな事もわからない程に……考えがまだまだ子供過ぎたんだ。
『白兎~? 入るわよ~?』
 そう言って入ってきたのは、赤兎だった。
 赤兎は、黒兎がこの部屋に寄り付かなくなっても……毎日変わらず、僕の所まで薬を運んで来てくれていた。
『大丈夫? はい、これお薬』
『……いつも有難う、姉様』
 僕は、黒兎には不満をぶちまけていたものの、赤兎には違った。極力逆らわないように、怒らせないように、神経を張り詰めていたと思う。
『いいのよ、そんな事! 可愛い弟の為だもの! 身体、早く良くなるといいね?』
 小さなテーブルに薬と水を置いた赤兎は、そう言うとすぐに部屋から出て行った。僕は、ほっと胸を撫で下ろした。
 髪長姫、とまではいかないが……僕達と同じ色の天然パーマでクルクルとした長い髪は、踵まで伸びきっていた。彼女はいつもニコニコ笑っていて、僕達や童子達と戯れる姿はまるで天使のように思えた。
 けれど、僕は……赤兎がとても苦手だった。
 普段はとても優しいけれど、彼女の【今は】無いであろう、内に秘めた狂気を……僕も黒兎も知っていたから。

「――その頃より、更に昔の話になるけれど……今から話す事は……僕達が夜宴の島に連れて来られる前の話だ」

 僕達三人は、人間の住んでいる世界にある山の奥地で暮らしていた。
 そこの空気はとても澄んていて、頂上から見える景色は絶景だった。山には沢山の動物達もいたし、まだ子供の僕達にとってそこは、最高の遊び場になっていったんだ。
 僕達に、父や母という存在がいたかどうかはわからない。だって、物心がついた時には僕達は既に三人だったから。
 とにかく僕達は、極力人間と接触しないように……そこで静かに、慎ましく暮らしていたんだ。
 この頃、僕の病状はまだ安定していたから、黒兎と一緒に山で木の実を集めたり、どちらが沢山落ち葉を拾えるかなんて、子供ながらの遊びを、毎日飽きもせずにしていたのを覚えている。
 赤兎は、僕達のそんな遊びに目もくれる事なくいつも沢山の生き物を捕まえては、ずっと一人で【遊んで】いた。
 あの頃の赤兎は……天使どころか、まるで悪魔のようだった。
 ……彼女は当時、生き物を【壊す】事に、異常なまでに執着していた。それも、如何にそれらを残虐に破壊するかを踏まえた上での事だ。
 最初の生贄は小さな虫。それが、いつしか動物となり……やがて彼女は『次は人間を壊してみたい』と言い始めた。勿論、僕達は止めたさ。
 けれど、駄目だと言われて我慢出来る程大人ではなかった赤兎は……僕達が寝静まったのを見計らって、一人で里に下りたんだ。
 目が覚めると、赤兎の姿はどこにもなく……嫌な予感がした僕達は、急いで山を下った。

(……あぁ、彼女はもう……元には戻れない)
 美しく積もった白い雪が赤く染まり、その上に転がる、バラバラになった沢山の死体の山……その中心で、見覚えのない【男の子の人形】をギュッと抱きしめ、高笑いをしている【悪魔】の姿があった。
 悪魔は僕達を見つけると、血塗れの顔で、天使のように優しく微笑んだ。
『あら、黒兎に白兎! 迎えに来てくれたの? あまりに美しい光景に見惚れてしまって、ついそのまま朝を迎えてしまったわ! ほら、見て? この人形! ……素敵でしょう? あの家に住んでた娘が持っていたの! 凄く気に入ったから奪ってきちゃった! 今日からこの子はうちの子! 名前は何にしようかしら?』
 赤兎は愛おしそうに人形を抱きしめる。僕達は、それを黙って見ているしか出来なかった。
『……ふぁああ~! 私、何だか眠くなってきちゃったわ! そろそろおうちに帰りましょ?』
 彼女は大きく口を開き、欠伸をすると、近くに【落ちていた】死体をぐしゃりと踏みながら帰路へと向かう。
 この状態を見て……何故、平気でいられるのか? どうして、罪のない人間達にこんな酷い仕打ちを……? 
『……人間を殺すのも虫を殺すのと一緒で、何だか簡単だったわ、面白くない。……そうだ!』
 そう言うと赤兎はくるりと後ろに振り返り、僕と黒兎を見ながら、不気味なくらいに口角を上げてこう言った。
『同族を殺したら……一体、どんな感じなのかしらぁ? ……きっと今まで以上に興奮するでしょうね、ふふふ』
 その言葉に、僕達は背筋が凍り付くような恐怖を感じずにはいられなかった。
 僕達は彼女が、とても恐ろしかった。

 それからの赤兎はというと、比較的に大人しく見えた。……しかし、油断は禁物だ。
 僕はいつだって、神経を張り巡らせていた。
 彼女はまるで【大蛇】だ。一度隙を見せてしまえば、小さな【蛙】の僕達は……いつひと思いに丸飲みされるかわからない。
 とにかく弱虫で泣き虫だった僕は、毎日気が気じゃなかった。このままじゃ……近いうちに僕達は赤兎に殺されてしまうだろう。
(……赤兎は僕達の姉様だ。そんな事をする筈がないだろう?)
 そう、何度自分に言い聞かせてきた事か。けれど、どれだけ言い聞かせても……その考えには到底行き着かない。
 彼女はきっと、自分の快楽の為ならば……
 欲求の為ならば……
 簡単に、僕達を手にかけるだろう。
 僕は毎晩、怯えながら夜を過ごしていた。

 そんなある日の事だった。黒兎が意を決して、僕にこう告げたんだ。
『殺される前に、赤兎を殺そう』
『え?』
 僕は思わず耳を疑った。だって、まさか黒兎がそんな事を言うとは思わなかったから。
『……このままだと、あたしもお前もきっと殺される。お前も見ただろう⁉ あいつは普通じゃない。それにお前、あまり夜も眠れていないんだろ? すげぇ、顔してるぞ……身体にも良くない。あたしもいい加減に疲れたんだ。あたし達二人が協力すれば、きっと勝てる。――覚悟を決めろ、白兎。あたし達はあいつの、唯一の身内なんだ。これ以上……あいつを野放しにするわけにはいかない』
 ……黒兎の言う通りだ。赤兎が生きている限り、きっと僕達に平穏な日々は訪れない。
『……わかったよ。姉様の言う通りにする』
 だから僕は、黒兎の案に乗る事にした。……けれど、直接対決だと僕達に勝ち目はない。
 だから僕と黒兎は、見晴らしの良い場所まで赤兎を上手くおびき寄せて……そこから彼女を、無我夢中で突き落としたんだ。

 小屋に戻った僕達は……どちらとも口を開く事はなかった。
 恐ろしくなった僕達は赤兎の生存を確かめる事もせず、急いで逃げ帰って来てしまったのだ。
 万が一、彼女が死んでいなかったとしたら……目を覚まし、戻ってきた赤兎に……僕達は間違いなく、確実に殺されるだろう。
 僕は、不安に押し潰されそうになっていた。

「……結果的に言えば、赤兎は勿論生きていた。そして、先に夜宴の島での話を聞いてもらった事で、もうわかったと思うけど……彼女はあの日、全ての記憶を無くしたんだ」
「記憶……喪失……?」
「うん。怪我自体は、あの高さから落ちた割には軽症だったんだけど……それが原因で記憶を失った赤兎は、見違える程【普通】になった。残忍で恐ろしい姉は消え去り、親切で思いやりのある……優しい姉へと生まれ変わったんだ。僕と黒兎は、変わりきった彼女の姿を見て……今までの事は全て忘れ、今の赤兎と、もう一度共に生きていこうと誓った。赤兎が小屋に置き去りにしていたままだったあの少年の人形は、彼女が眠っている間に僕達が山に埋めた。……もう二度と、彼女が殺戮に目覚めないようにと願いを込めて。赤兎は、本当にあの人形を気に入っていたんだ。だから、万が一あれを見て、全てを思い出してしまったら困るからね」
「それなのに、どうして今、こんな事に……? ティニアは……赤兎は、記憶を取り戻したの?」
「……それから暫くして、さっきも話した通り僕達はこの夜宴の島に招かれたんだ。島の後継者になる為に、ね……」

 赤兎との、その【過去】があったから……僕はこの島に来た今でも、赤兎に対する警戒心が弱まる事はなかった。
 だから、黒兎には反発しても、赤兎には、何があろうと逆らう事は一切なかった。
 まぁ、その時の赤兎は本当に完璧で、とても優しい姉だったから……文句をつける内容すら見つからなかった、っていうのもあるんだけどね。
 現に赤兎は、その頃の記憶を取り戻す事もなく童子達とも上手くやっていたし、黒兎とも……とても仲の良い姉妹になっていた。
 ……きっと、あの頃の僕達は未熟で、幼過ぎたんだ。
 だから僕達は、赤兎の暴走を止める事も出来ずに、【彼女を殺そう】という物騒な考えにしか至らなかった。
 そして彼女自身も、生命の重みというものを知らなかった。
 もしも今、赤兎が記憶を取り戻したとしても……皆、あの時よりも成長している。
 きっと……あのような惨劇が起こる事は、二度とないだろう。
 僕は、そう信じる事にした。

 しかし、この島に来てからは……山では安定していた筈の身体の調子がどんどん悪くなる一方だ。
 山ではよく効いていた薬を、今でもかかさず毎日飲んでいるのに……
 血を吐く量も増えた。目も、よく霞んで見える。
 ベッドから身体を起こす事すら出来なくなり、殆ど寝たきり状態だったと言っても過言ではないだろう。
 ――これが、僕の寿命か。
 結局、人間の平均寿命と……同じくらいしか生きられなかったな。
 明日は、この島の後継者となる日。僕はそれまで、生きられるのだろうか? 

 ……あぁ、もうそろそろ薬の時間だ。

 僕はそっとグラスを手に取る。ゆらゆらと揺れる水面に映るのは……生気を失い、痩せ細った僕の姿。
 僕は紙に包まれた薬の粉を、ゆっくりと水に溶かしていった。水の中を綺麗な紫色の粉が優雅に舞い踊り、やがて混じり合ったそれは、グラスの中に鮮やかなラベンダーの花を咲かせた。
 ――その時、ドタ! バタ! と激しく騒がしい音が聞こえ、僕のいる部屋のドアが乱暴に開け放たれた。
『白兎っ……大変だ!』
『……何だよ、急に。ノックもしないでさ』
 約ひと月振りの、黒兎との会話。
 それなのに、感情を無くしつつあった僕はきっと……光を持たない死人のような目をしていたに違いない。
 黒兎……一体、何の用だ? 
『お前っ……まだ、薬は飲んじゃいねぇよな?』
『……今から飲むところだけど、何?』
『絶対にその薬を飲むな。今すぐ捨てろ!』
『……は? 君は僕に、さっさと死ねと言いたいのか?』
『ちげぇよ! 寧ろ、その逆だ! その薬を飲み続けたらお前は間違いなくあの世逝きだぞ⁉』
『……どういう意味だ。……まさか、狸が僕に毒を盛ったとでも言うのか⁉』
『馬鹿かてめぇ! 狸の爺さんが、んな事する筈ねぇだろうが! 身寄りのないあたしらによくしてくれた恩人だぞ⁉ 山に住んでた時も、この島にだって……お前の為に遠路遥々薬を届けてくれてるってのに、この恩知らずがっ!』
『じゃあ、一体何なんだよ? わけがわからない。馬鹿は馬鹿なりに僕にも分かりやすいように、少しは考えてからものを言ってくれないかな?』
 僕は呆れて、大きな溜息を吐く。
 ただでさえ身体がきついのに、黒兎の戯言に構っている余裕なんて……僕にはないのだ。
『……じゃあわかりやすいように言ってやる。お前が持ってるその薬は偽物だ。見た目も味も匂いも似せて作っているが、まったくの別モンだ。そして、その薬には呪術がかけられてやがる……それも死に直通する、厄介過ぎるくらいに強い呪いだ。それは徐々にお前の身体を弱らせ、やがて肉や骨まで腐らせていくだろう。あたしは、【奴】がその薬に呪いをかけているところをちゃんとこの目で確認した。更に見つからねぇように、呪う方法を書いていた黒魔術の書も読んでみたが……間違いねぇ。あれは、マジでやべぇって! お前このままじゃ、確実に呪い殺されちまうぞ⁉』
『――呪い? ……けど、君はさっき【狸がそんな事をする筈がない】と、僕を罵っていたじゃないか? それを今度は【見た】だって? ……やはり矛盾してるよ』
『……じゃあ、【それ】を毎日欠かさずここに運んできているのは……誰だ?』
『誰って、そんなの姉様に…………え?』
『……そういう事だ。……畜生め』
 黒兎の言葉の意味をようやく【理解】した僕は、身体中からひんやりとした汗が大量に流れ出すのを感じずにはいられなかった。
 ――まさか、姉様が? 

『え……? え……? どういう事? じゃあ、姉様の記憶が戻ったって事だよね? え? そんな……いつから?』
『……白兎、気を確かに持て。今から、あたしが言う事をしっかりと耳に入れろ。あたしはさっき、姉様に用があって部屋を訪ねたんだ。……明日、あたし達はこの島を継承するだろ? それで童子達が、あたし達の為に祝いの宴を開いてくれるとか言うんでよ、部屋にいる姉様に、その事を伝えに行ったんだよ。じゃあドアが少し開いててさ……中から不気味な声が聞こえてきた。唱えられているまじないの内容から、それが決して良いものではないと瞬時に悟ったあたしは、こっそりと部屋を覗き込んだ。姉様は黒いローブをその身に纏い、片方の手には黒魔術の書を持ちながら……二つある紫色の粉薬を、それぞれ天秤の上に乗せて、その内の一つに呪いをかけているようだった。そして、その儀式みてなのが終了したと同時に……片方の粉が跡形も無く消え去った。消滅した方がきっと、狸の爺さんがくれたものだ。恐らく、強い呪いを使いこなすにはまだ妖力の足りない姉様は……狸の爺さんの妖力が詰まった薬を、呪いの媒体にしたんだよ。その後、姉様は……残った方の薬を紙に包むと、不気味なまでに口角をあげ、気が狂ったように笑っていた。……んで、それから姉様はすぐにお前の部屋に向かった。その隙に、隠れていたあたしが部屋に忍び込み、魔術書を確認したら丁寧に付箋がされてあってよ。内容を見たら……ドンピシャだ』
『そんな、まさか……!』
『あとな、信じられねぇだろうが……【アレ】がベッドの上にあったんだよ』
『あ、アレって……?』
『あたし達が、確かに埋めた筈の……あの人形だ』
『⁉ そんな、馬鹿な⁉ あの人形は確かにあの晩、山に埋めた筈! この島に来て、記憶を取り戻したとしても、あの人形を見つけ出すなんて不可能だよ! それに姉様は島からどうやって出たの⁉ 継承した後じゃなきゃ、この島からは出る事が出来ない筈だよね⁉』
『……ああ、そうだろうな。あの山はとんでもなく広い。しかも、何の能力も持たないただの人形だ。それをピンポイントで見つけられるなんて……普通じゃ考えられない。しかも、最近記憶を取り戻したからといって、この島から出る事は許されていないし、出る事も出来ない。……そして、お前の病状が悪化したのは【最近】の事じゃねぇ。……その事から、考えられる事は一つ』
 黒兎の言葉に、僕は思わず息を飲んだ。……聞きたくない。けど、聞かねばならない。
 聞くまでもなく、わかりきった答えを――

『あいつは最初から……記憶を失ってなんかいなかったんだ』

 そんな……じゃあ、あの時も……あの時も……あの時も……姉様はずっと全てを覚えていながらも、僕達に優しく振る舞って、笑顔で振る舞って……僕の薬に、死の呪いをかけ続けていたのか? 
 それを毎日僕の元に運び、あたかも心配してるように見せかけて……
『うぐえっ……!』
 僕は堪え切れず、置かれてあった入れ物の中に嘔吐した。
『おい……! お前、大丈夫かよ⁉』
 ずっと具合が悪くて食欲なんてなかったから、胃の中は空っぽで吐けるものなど何もない。
 ただ血が交じり合った酸味の強い胃液を、無理矢理絞り出すようにして排出しているだけだ。
 頭が……身体が……今までに飲んだ毒素の全てを吐き出したいと願うように……この【苦しみ】は、中々治まってはくれない。

 ――トントン。
 突然、静寂の中に響くノックの音。僕と黒兎は沈黙し、ドアに目を向けた。
『……どうしたの、白兎? 中に黒兎もいるんでしょう? 騒がしいけど、何かあったの……?』
 姉様だ。けれど、足音なんか聴こえなかったぞ……? 一体、いつからそこに? 
 【身の毛もよだつ】とは、まさにこの事か。
 優しい姉様の声が……鎌を持ち、僕の命を奪いに来た恐ろしい死神の声のように聞こえた。
(……シッ、とにかくここはあたしに合わせろ。絶対に悟られんじゃねぇぞ?)
 黒兎は、口パクとジェスチャーで僕にそう伝えると、【汚物入れ】と化した入れ物の中に、グラスに入った【悪魔の水】を一滴残さず全てブチまけてから、姉様に向かって応答した。
『あ、姉様! こいつ今日、かなり調子悪いみたいでさ……今大量に吐いちまったんだよ。ほんと、ひっでぇ匂いだ。姉様はこっちに来ない方が身の為だぞ⁉』
『え⁉ ……それで、大丈夫なの? 白兎は。汚してしまったなら片付けないと。私が――』
 姉様がそう言ったのとほぼ同時に、僕の部屋から出て行った黒兎は、下品な声でゲラゲラと笑った。
『姉様~、あいつにも男のプライドってもんがあると思うし、今はそっとしといてやろうぜ。……お前も、ゲロ吐いたとこなんてカッコ悪くて見られたくねぇよな、白兎? あとは一人で片付けられんだろ?』
『……うん。ちゃんと自分で片付けられるよ。僕の事は大丈夫。……だから、姉様。黒兎と行って』
『……そぉ? わかったわ。けど……何かして欲しい事があれば、遠慮なく私に言うのよ? 貴方は可愛い、私の弟なんだから』
『ありがとう、姉様』
 ……お願いだ。早く向こうへ行ってくれ。……頼むから。
 僕は一人、ドアのこちら側で恐怖に打ち震えていた。
『…………あ! そうだ私、黒兎に聞きたい事があったの!』
 ドアの向こうから、何かを思い出したかのように、姉様の無邪気な声が聞こえてきた。
『……あたしに聞きたい事?』

『えぇ。貴女……私の部屋に入らなかった?』

【貴女……私の部屋に入らなかった?】

 その言葉に僕は……全身の血が冷え渡り、動悸が高まるのを感じずにはいられなかった。恐れが、胸の底で蠕動する。
 この悪夢のように忌まわしい恐怖から、出来る事なら今すぐ逃げ出したい。それは、壁の向こうにいる黒兎もきっと、同じ気持ちだろう。
 ……どうしよう。全て、バレているのか? 
 黒兎は一体、どう答えるのだろう……? 
 僕は、身も縮むような思いで、黒兎の言葉を待った。

『……あ! さっき童子達によ、あたし達が明日この島を継承したら、その後に祝いの宴を開いてやるって言われてさ? それを姉様に伝えようと思って声を掛けたんだけど返事がなかったから、ちょっとドアを開けて覗いたけど……中には入ってねぇよ? よく考えたら白兎の薬の時間だし、ここに来たら会えるかと思ってさ。どうやら入れ違ったみたいだけどよっ!』
 真実と虚実を混ぜ込んで淡々と、冷静に説明をしていく黒兎に……僕はとても感心させられた。
 問われたのが僕だったら、きっと口籠り、すぐにバレてしまっていただろう。
 やはり黒兎は馬鹿だけど、いざって時には頭の回る、尊敬すべき優秀な姉だ。
『あらっ! そうだったの⁉ それに、宴ですって⁉ いいわね! 私、パーティーだぁい好き!』
『姉様ならきっとそう言うと思ったぜ! よし! いっちょでけぇの開いてもらおうじゃねぇか!』
 姉様と黒兎の声が少しずつ離れていく。……どうやら、上手くいったようだ。僕はホッと胸を撫で下ろした。
『けど……これから、どうすればいいんだ』
 僕はふと、ベッドの横に置かれた【汚物入れ】に目を向ける。
 黒兎が薬をぶちまけたのはきっと、姉様がこの部屋に入ってくる事も予測しての事だろう。
 万が一、部屋に姉様が入ってきたら……まだ飲まれていない薬に気付き、僕にそれを飲むよう促したかもしれない。
 だから彼女は、薬を吐瀉物の中に捨てたんだ。
 一度は【飲んだ】薬を、全て吐き出してしまったように見せかける為に……
『……冷静になれ。僕が慌てふためいてもどうにもならない。真実を知ってしまったんだ、もう後戻りは出来ない。姉様とちゃんと話し合おう。そして、僕達が犯してしまった【罪】を、ちゃんと謝らなきゃいけない』
 僕は高ぶり過ぎた心を落ち着かせるように、自分自身に言い聞かせた。
 ……もう、あの頃のような惨劇は起こらない。ちゃんと謝ったら、許してくれる筈だ。
 たとえ殺されかけたといえど、彼女は僕の姉だ。話せばきっと、わかってくれる。
 僕はまだ……姉様を、赤兎の事を信じていた。

「――しかし次の日。誰も想像すらしていなかった事件が起きてしまったんだ。それが僕達の……この島の運命を、大きく変えてしまったんだよ」



「次の日の事だ。僕達は皆で海辺に集まった。後継者に選ばれた瞬間から、この島の恩恵を受け、古から伝わる力を手にする事が出来る。童子達の羨望の眼差しが、僕達【三人】に注がれた。なのに、島の後継者に選ばれたのは、僕と黒兎だけ……だったんだ」
「……え⁉ どうして⁉」
「島の神は……きっと全てをわかっていたんだろうね。彼女の美しく純粋な笑顔の裏に隠された悪魔のような素顔を。……力を授かった僕達は、それぞれ目の色が変わり、以前とは比べものにもならない力を得た。……僕の病も力を得た事で治ったのか、元気に動き回れるようになった。赤兎だけが何も変わらないまま……じっと、僕達を見つめていた」
「……それで、赤兎はどうしたの?」
「童子達の憐れみと同情からくる視線に、『どうして⁉』だなんて取り乱す事は、彼女のプライドが許さなかったんだと思う。平気な顔をしてニコリと笑っていたよ。童子達はその表情を見て安心しただろうけど、僕達はその笑顔が恐ろしくてたまらなかった。 ――そして、その晩……宴が開かれる事はなかった」
「……まさか」
「そのまさかさ。『準備をする間、部屋で待っていて』と童子達に言われ、僕と黒兎はずっと待っていた。けれど……約束の時間になっても、誰も呼びに来ない。あの山の時と同じ胸騒ぎを感じた僕達は、すぐに海岸に向かう事にしたんだ。この不安が単なる杞憂でありますように、と願いながらね。だけど……その願いが叶う事はなかった。宴に使う道具は全て破壊され、童子達は全員……見るも無残な姿になっていたよ」
「そんな……!」
「……あの時と同じように人形を抱きしめ、そこに立っていた赤兎を見て、黒兎は激怒した。人間達を殺された時とはワケが違う。……童子達は、僕達の友達だった。一緒に生活してきた仲間だったんだ。僕達の家族も同然だったんだよ」

『お前など、もう姉でもなんでもない!』

「――そう黒兎が叫ぶと、赤兎は……突然気でも触れたかのように笑い出し、僕達に向かってこう言った」

『キャハハハハハ! は~、おっかし~! ……お前、山で私を殺そうとした癖によくそんな事が言えたわねぇ? それはこっちの台詞だわ。毎日、毎日……お前達をどう殺してやろうか? そればかりを考えて生きてきたのよ、私。そして、島の後継者に選ばれる今日。この【クズ共】と一緒に、絶望を与えながら殺してやろうと思っていたのに……何故、私が選ばれないの? ……はぁ~、むっかつく~! お前達の顔を見てるだけでほんっと虫唾が走るんだけど。……さっさと死ねよ、ブスにノロマ。私がお前達を残酷に……そして美しく、殺してあげるわ。【こいつら】のようにね。あは! ……ずっとずっと、殺してみたかったの。同族で私の唯一の肉親……うふふふ。精々、良い声で鳴いてちょうだい?』

「――そう言って、彼女は突然攻撃をしてきたんだ。赤兎の力は強大だった。本気で僕達を殺そうとしているのがよくわかった。……けれど、力を授かった僕達の方が少しだけ赤兎よりも強く、黒兎と僕の力が交じり合った瞬間、とてつもなく大きな炎を生み出した。まるで竜のようにも見える火柱が赤々と立ち昇り、夜の空を朱に染める。そしてその炎は……無情にも、赤兎のその身を包み込んだんだ」

『ぎゃあああぁああぁああぁああ!』

「赤兎は、まるで魔女裁判にかけられた魔女のようにつん裂くような声で叫びながら、激しい業火の中で踊り狂う。僕達はただ、焼かれていく赤兎の姿を……見ている事しか出来なかった」
「赤兎は……一度、死んでしまったって事……?」
「……いいや、死んでなんかいない。その時にね? 炎の中から、一つの影が飛び出してきたんだ」
「影?」
「……あの人形だよ。少年の形をした可愛らしい人形は、焼け焦げ、黒いススで汚れていたけれど……何故か燃え尽きてはいなかった。宙に浮かんだソレは、凶々しいオーラを纏いながら、不気味な声で僕達に話しかけてきた」

『オ前タチ、絶対ニ許サナイヨ』

「その人形、喋るの⁉」
「……僕達も驚いたよ。赤兎と一緒にいる内に魂が宿ったのか、赤兎が黒魔術で人形に魂を宿したのか、或いは……最初からただの人形じゃなかったのか。――それは、僕達にもわからない。そしてその人形は、息絶え絶えの赤兎を連れて、島から消えた。……長くなってしまったけど、これが僕達に起きた過去の全てだ」

 全てを話し終えた白兎は、少し疲れたのか……そのまま後ろにあったベッドに倒れ込んだ。……白兎の額に汗が流れているのが目に入る。
「シロくん……。辛い事を話してくれて、本当にありがとう」
「……ううん。ミズホにはちゃんと全てを話しておきたかったんだ」
「今度は……私が思った事を話してもいい?」
「……うん。勿論」
 私は……ゆっくりと深呼吸をする。そして、自分の中に生まれた気持ちや想いを、正直に白兎に話してみようと口を開いた。
「赤兎は、確かに恐ろしい存在だと思う。無慈悲で残虐で……私は彼女が凄く怖い。昔の話を聞いてその想いは更に強まってしまった。けれど……どうしてだろう? 私、何だか……赤兎を可哀想に思った」
 幼い赤兎が生命あるものを殺める事に興味を抱き始めた時に、黒兎と白兎が……見て見ない振りをするのではなく、彼女を止めてあげていたら。多くの人間を殺してしまった事は決して許されない事だ。けれど……あの頃、三人の周りには叱ってくれる存在がいなかった。『してはいけない事だ』と教える人がいなかった。
 黒兎と白兎はそれを悪い事だと判断出来ていたけれど、赤兎はきっと精神的に、二人よりうんと幼かったのだろう。それが悪い事だと認識出来ていなかった。
 とにかく……彼女は死の重みを知らなかった。溢れる好奇心を押さえつける事が出来ず、沢山の人間達を死なせてしまった事も……彼女にとっては単なる【いつもの遊び】の延長戦だったのかもしれない。
 そして……

『同族を殺したら……一体、どんな感じなのかしらぁ? ……きっと今まで以上に興奮するでしょうね、ふふふ』

 彼女を援護するわけではないが、彼女は本当に二人を殺したいと思っていたのだろうか? 幼い子供が面白がって言うような、軽い冗談だったのではないのだろうか? 
 現にそれからの赤兎は大人しく、二人に手を出してはいない。
 彼女は彼女なりに、二人の事を……ちゃんと愛していたのではないだろうか? 
 そして……赤兎のその言葉に恐怖を感じ【殺される前に殺す】という選択肢しか見つからなかった黒兎と白兎も、やはり考えが幼過ぎた。
 結果、赤兎は……実の妹と弟に山頂から突き落とされる。辛うじて生きていたものの、二人に殺されかけた事により赤兎は傷つき、憎しみ……死の連鎖から回避出来なくなってしまった。
 互いに話し合う事から逃げずに、ちゃんと向き合っていたら……【島】での悲劇は防げたのではないだろうか? 
 ――わかってる。私のこの考えはあやふやで、実に偽善的だ。けれど……そう信じたい自分が確かに存在する。
 じゃなきゃ、悲しすぎるよ。じゃなきゃ……救われない。
 白兎も黒兎も……そして、赤兎も……

「……ミズホ。君は本当に優しい人だね。けれど赤兎に関して、そういった感情を持つのは間違いだ。彼女は悪魔だ。君の思うような、ただ純粋無垢なだけの少女ではなかった。あいつは、誰かを殺す為だけに生まれてきた。……それが僕の見解だよ」
「……うん、そうだよね。実際私はその場にいたわけではないし、こうやって聞く事でしか貴方達三人の気持ちを知る術を持たない」
 私もそっと、後ろにあるベッドに倒れ込んだ。
「……これから、どうしたらいいんだろうね」
「わからない。けれど赤兎が飽きた時点で、僕達は確実に殺されるだろうね」
「――ねぇ、シロくん。私思ったんだけど……もしかして、夜宴の島で過ごす十七夜って……」
「……うん。そうだよ。この島にいた童子達の数だ。僕達はね、赤兎がいなくなった後……毎夜のように宴を始めた。僕達以外、誰もいないこの島で。童子達に対するせめてもの罪滅ぼしさ。彼等は宴を……本当に楽しみにしていたから。一度に行う宴の回数は、童子達の数……即ち十七回目の夜までって決めていた。それを終えると暫く期間を置いてから、また宴を始める。長い年月をかけて、宴の噂を聞き付けた神々がこの島に訪れるようになり、この島はいつの間にか【夜宴の島】と呼ばれるようになったんだよ」
「……そっか。夜宴の島にはそんな歴史があったんだね」
 あんなに知りたいと思っていた筈の、夜宴の島に隠された謎や真実。けれど知れば知る程に、世の中には知らないままでいた方が良いものもあるんだなと実感する。
 ここは悲しい島だ。とても……
「けどそれも、もうすぐ終わるのかもしれないね。夜宴の島がこのまま消えてしまったら、全てがなかった事になる。あの美しく賑やかな宴も、もう二度と行われる事はないだろう。もう、二度と……」
「終わらない! 終わらないよ……!」
「……ミズホ」
「絶対に終わらせない。この島の宴は、これからもずっと続くの。永遠に続く不思議で奇妙で美しい夜。夜宴の島は消えたりなんかしない。そんな事絶対にさせない! ……何があっても!」
 突然、左手に温もりを感じた。白兎の細くて長い指が、私の指と絡み合う。
「おいで」
 そう言って白兎が腕を広げ、優しく笑うものだから……私は身体を寄せ、その中にすっぽりと包み込まれた。
 ……安心する。白兎の包容力に、自然と身を預ける事が出来る。油断すると、このまま眠ってしまいそうなくらいの安らぎがそこにあった。
「ミズホ……好き」
「……うん」
「ずっとずっと、君と一緒にいられたらなぁ」
「じゃあ私、シロくんより先におばあちゃんになっちゃうね?」
 そう言ってクスリと笑う私の頭に手を伸ばし、白兎は優しく髪を撫でた。
「人間の寿命は短いからね。ミズホはきっと可愛いおばあさんになるよ。……あ! 意外と偏屈で頑固な老人になるかもしれないね?」
「ちょっとぉ! それどういう意味⁉」
「あはは! 冗談だよ!」
 白兎のこんな笑顔を久しぶりに見たような気がする。それは何だかとてもくすぐったくて、心の中に優しく暖かい風が吹いたようだった。束の間の幸せを、感じずにはいられなかった。
 それなのに、白兎は……
「ちゃんと君を無事に、元の世界に戻してあげるからね。……ソウと一緒に」
 そう言って、今にも泣き出しそうな顔で笑うんだ。

 ソウくん……
 彼は今頃、どうしてるんだろう。
 胸が、締め付けられるように……痛い。

 コンコンとノックの音が聞こえ、白兎がドアを開ける。扉の前にいたのは、先程この部屋まで案内をした者と【同じ】者かどうかはわからないが、同じ【奇妙な仮面】をつけた者だった。
「ティターニア様がお呼びです。ご準備を」
「……わかった。そこで待っていてくれ」
 白兎は悪魔面にそう告げると、一度ドアを閉めて、私の両肩に手を置いた。
「……ミズホ、絶対に感情的になってはいけないよ? 君の事だ、一応先に言っておくけれど……説得なんて通じる相手じゃないからね? 逆らったり、歯向かったりしてはいけない。君は僕に全てを一任してくれればいい」
「うん……わかった」
「そうだ! これを……」
 白兎は腰に付けていた布袋から、一つの石を取り出した。それは紺碧色の結晶で、とても身に覚えのあるものだった。
「これは僕がこの島で初めて作った結晶なんだ。きっと、君の力になると思う。あげるよ」
「これ、店長が持ってたものと同じだ……! ソウくんがレッドナイトムーンを飲んだ時、彼を救って砕け散ったものと同じだよね?」
「うん。これには微量だけど、魔力が込められてるからね。いざとなったら君を守ってくれるかもしれない。大した役には立たないと思うけど、ミズホに持っていてもらいたいんだよ。何かあったらこの結晶を握りしめ、強く願うんだ。きっと奇跡が起きるから」
 白兎はその結晶を私の前に差し出したが、私は首を左右に振りながらその手をぐっと押し返す。
「ミズホ?」
「……使わない。使ったらそれも粉々になっちゃうんでしょ? そんな大切な物、使えないし……使いたくない。シロくんが初めて作った、想い出深いものなんだから」
「……まったく、強情なんだから! じゃあせめて、御守り代りに持っていて。何があっても、僕はずっと君の傍にいる。これは、僕と君との絆の証だ。僕がきっとミズホを守ってみせるから」
 白兎がこつんとおでこをくっつける。暖かくて、くすぐったくて……何だかとても安心した。
「うん。……信じてる」
 白兎の手から私の手へと渡された夜の結晶はキラキラと光り輝き、覗き込めば、あの美しい海と大きな月を映し出していた。
「ずっとずっと、大切にするからね」
「うん。けど使わなきゃいけない時はちゃんと使うんだよ? 出し惜しみしないでさ」
「……は~い。分かりました~」
「それと、僕の事はこれから【ハク】って呼んでね。赤兎は兎の名称を嫌うからさ。あと、絶対に彼女の事を赤兎と呼んではいけないからね? ……きっと逆鱗に触れる」
「……うん、わかった! 気をつけるね。じゃあ、ハク。そろそろ行こうか!」
「……あ! 待って。ミズホ! 【アレ】! ちゃんと持ってるよね?」
「……【アレ】?」
「そう! 【アレ】はかなり重要だからね」
 そう言って、白兎は笑った。

「……随分と遅かったですわねぇ? わたくし、待たされるのは嫌いなんですのよ?」
 悪魔の面に案内されて入った広くて豪華な一室の中央には、立派な二つの玉座が並んでいた。
 そこに堂々と座っていたのは、【妖精の王妃ティターニア】と……あと【ヒトリ】。
「遅イ遅イ! 公開処刑ダ! ……ネェ、ティターニア! コイツラ殺ッチマオウヨ」
「もぉ、ゲーデったら! そんなに簡単に殺してしまったら面白くないでしょう?」
「エ〜! ツマンナイ、ツマンナイ! ツマンナイッタラツマンナイ!」
「……葉巻とお酒を用意させるから我慢おし」
 ――本当に喋れるんだ。あの人形。
 しかしそれは、お世辞にも【可愛い少年の人形】とは言い難い。おかしな配色をしており、炎に焼かれた事が原因か、髪の毛などはなく、左目の上には星型のワッペンが縫い付けられている。頭部から左目付近まで伸びた痛々しい縫合の後は、まるでフランケンシュタインの傷痕を連想させた。……とにかく、見るからに不気味な人形だ。
 そしてティターニアの斜め後ろに静かに立つ、髪をオールバックにし、白いスーツを着た【彼】の姿。
 感情を一切持たない、冷たい目をした彼に……私は妙な胸騒ぎを覚える。
 少女は、私の顔を怪訝そうな顔でマジマジと見つめると、やがて呆れたように口を開いた。
「……ちょっと貴女。このわたくしを馬鹿にしているのかしら? 何ですの? そのダサくて可愛くない面は⁉」
 私は少女の言葉に、恐る恐る返事をする。
「いや、その……これ気に入っていて」
「はぁ~……貴女、自分に置かれた立場をちゃんとわかっておりますの? ――白兎。お前、女の趣味がとんでもなく悪いみたいですわね」
「ごめんね、姉様。ミズホはこのおかめの面がないと、不安で夜も眠れないんだよ。僕も思わず嫉妬してしまうくらいにこの面に依存し、執着しているんだ。無理に外そうものなら、発狂して煩いのなんの……姉様も煩いのは嫌でしょう? だから、少し大目に見てあげてくれるかな」
 ――うっわ! よく言うよ! ハクが『この面をつけておけ』って言ったくせに……! こんなふざけた面をつけたまま彼女の前に立ったら、私……確実に殺されちゃうよって、ちゃんと言ったのに。
 どうしよう。やっぱり彼女、怒ってるんじゃ……
「……まぁ、いいですわ。人間にはたまにおかしな趣向の持ち主もいるみたいですしね。それに、わたくし寛大ですもの。許して差し上げますわ」
 ――え。いいの? いけるの⁉ 許しちゃうの⁉ どう考えても馬鹿にしてるでしょ、コレ……
 万が一、ティターニアが私の心の中を読んだとしたら非常にまずいというのは重々承知していたのだけれど、つい心の中でそうツッコんでしまう。
 白兎が誰にも見つからないように私の手の甲をキュッと抓った。……わかりました。余計な事は考えません。
「姉様のお陰で、ようやくミズホと心を通わせる事が出来たし……本当に感謝しているよ。姉様がいなかったら、僕はミズホと結ばれる事はなかった。それが今ではミズホも僕の気持ちを受け入れ、僕と同じ気持ちでいてくれている。 ――こんなに幸せなのは生まれて初めてだ。姉様、本当にありがとう」
「あら? 何て従順で可愛らしいのかしら! いいんですのよ、可愛い白兎の為ですもの!」
「【ハク】だよ、姉様」
「……ハク?」
「うん、今日から僕の事はハクって呼んでくれないかな? ……いい加減、名前がないのも不便になってきてさ。それに、やはり愛しい人には名前を呼んでもらいたいものだしね」
 白兎がそう言っていきなりこちらを見るものだから、私は恥ずかしくなり思わず目を伏せた。
「――ふぅん? そう……わかりましたわ、ハク。これからお前をそう呼ぶ事にしましょう。……しかし、随分とうまくいってるみたいですわねぇ」
「……うん。やっぱり姉様の言う通りだ。古き風習などに捉われず、欲しいものがあればどんな手を使ってでも必ず手にいれる……実にわかりやすい。そう考えれば、欲望のままに生きていくのも悪くないね。……あの島はやはり退屈だよ。あんな島なんてとっとと捨てて、姉様について行く方が合理的だと思う」
「うふ。やっとわかったみたいですわね。……そう。欲しい物は無理矢理奪い取り、邪魔なものは全て壊してしまえばいいんですの。刺激のない生き方なんて何も楽しくありませんわ。……で~も! 簡単には信じてあげませんわよぉ? 何せお前はかなりの【大嘘吐き】だもの。調子の良い事を言って、このわたくしを油断させようと思っても無駄な事でしてよ?」
「ソウダ、ソウダ! コノ病弱カス兎!」
「大丈夫…… いずれ信じてもらえると思うよ」
「……ま、そんな事はどうでもいいですわ。わたくしは今、新しいお人形を手に入れて、すこぶる機嫌がいいんですもの! ――どう? ミズホ。わたくしのお人形……とても美しいでしょう?」
 少女は玉座の上に立つと、自分の後ろに立つ彼の頬に手を触れる。
「ど……うって……」
「うふ! ハクに飽きたら、貸してあげてもよろしくってよ? わたくしからして、ソウは【本命】を待つ間の代用品でしかなかったのだけど……」
 少女はぐいっと彼の腕を引き、屈ませるとそっと彼の頬に舌を這わせる。
「この子もなかなか素敵でしょ? ……だから、大切に愛でてあげなくてはね?」
 その間……彼は何の反応も見せず、一切表情を崩す事はなかった。まるで、知らない人のようだ。
 けれど、何となくだが……彼はティターニアに操られているというわけではないと思った。本当に人形にされたわけでもない。妖術をかけられているわけでもない。……きっと、自らの意思でああしているのだと。
「! そうですわぁ。ねぇ、ミズホ? わたくしの可愛いお人形と一緒に、少しお喋りでも楽しんでみてはいかがかしら?」
「⁉ 姉様、いきなり何を……」
「――お黙り、ハク。……ね、いいでしょお? 貴女達、ここに来るまで一言も話さないし、今だって他人行儀なまま。【以前】はとっても仲が良かったのに、それじゃあ少し寂しいですわぁ。さぁ、ソウ? 貴方がレディーをエスコートして差し上げなさいな? 紳士的に、ね?」
 少女の言葉を聞くと、彼はふぅ……と重い溜息を吐き、私の前までゆっくりと歩いてきた。
「行こう」
 そう言って私の前に手を差し出す。その声には、やはり何の感情も感じられない。
 私が思わず躊躇して、なかなかその手を取れずにいると……白兎が『ミズホ……』と私に声をかけてきた。
 振り返った先にあったのは、とても心配そうな顔で私を見つめる白兎の姿。
 不安そうに、切なそうに……じっと私を見つめていた。
「……ねぇ、ハクぅ。わたくし簡単すぎるのは好きではないんですの。それともお前、自信がなくって? 折角手に入れたお前の【宝物】が、ただの【人形】如きにまた奪われるとでも?」
「ちがっ、そんなんじゃない!」
「きゃっははは! それよ、そ~れ! 快感ですわぁ~! ……わたくし、慌てふためくお前を見ている方がよっぽど楽しめましてよ?」
「プフフ! 惨メデ、憐レデ、情ケナイゼッ! 女ヒトリ繋ギ止メトク事モ出来ナイノォ? オ前ソレデモ男カ! ッテカ女カヨ〜? カス兎チャン!」
 広い部屋に彼女の笑い声と、ゲーデと呼ばれていた人形の、白兎を小馬鹿にするような声が響き渡る。
 そして散々笑い続けた後、少女は再び口を開いた。
「それに、お前には少し話がありますの。私達と一緒にいらっしゃい。ミズホ、暫くソウを貸して上げますわ。けれど、忘れちゃ駄目。その子はわたくしのものでしてよ? 万が一、手を出すような真似をしたら……その時は貴女の首など、一瞬で斬り落として差し上げますからね。では、いってらっしゃ~い。御機嫌よう♪」
 彼は無言で私の手を引き、素早く歩いていく。歩幅が違う分、小走りになって必死に彼の後を追う。彼が私の手を強く、乱暴に引くものだから……少しだけ、その手が痛い。
 ――わかってる。彼は何かに怒っているんだ。

 船のデッキに出ると外はもう夕暮れで、オレンジ色の空に薄暗い雲が浮かんでいた。本来ならこのまま夜が来て、あの賑やかな宴が始まる。
 暗闇に灯る炎の昇り竜に、愉快に踊り、楽しそうに楽器を奏でる仮面の衆。美しい歌声で歌う見目麗しい女性と、それに合わせて華麗に舞う鎌鼬。シャボンの液で、神秘的な空間を作り出す沢山の童達。
 仙人や、あの老人達は……どこに消えてしまったのだろう。
 停泊したままの船上から、今や見る影も失った夜宴の島を眺めていると……何だかやるせない気持ちになった。
 ……黒兎の姿は、見当たらない。
「皆は……どこに行ってしまったんだろう」
「……ティニアが言うには、全員強制退場させたらしいよ」
 無意識に出た私の独り言に、彼が私の方を見ないままそう答えた。
「――で、シロとミズホは、これからどうしていくわけ?」
 彼は手すりに肘を乗せ、夕焼け色の空に目を向けながら私に問う。
「それは……何とか方法を考えているんだけど中々良い方法が思いつかなくて……」
「……ふぅん。俺はてっきりティニアとゲーデに従い、島の事は忘れ、これから君達二人で仲良く暮らしていくのかなと思っていたよ」
「そんな! 違うよっ! ハクは……! ハクはいつだって、島の事を真剣に考えてる!」
「――ハク、ね。うん、わかってるよ。【シロ】は賢い。屈辱に耐えながらもそれを決して表には出さず、これからどうするかを冷静に考えている。君への気持ちも、決して無理強いなんてする奴じゃない。【あの場】では、ああでもしなきゃ突破口は生み出せなかった。……ティニアは自分以外の者を思い通りに支配するのが好きだからね。だからシロは、全て言う通りにする事で彼女の自尊心をくすぐり、優越感に浸らせた。決断を迫られた君の代わりに、自らが動く事で、汚れ役を被ってまでも……君を守ったんだよ。あいつは、本当に凄い奴だ。シロは誰よりも島を大切にしているし、愛してる。今だって、君やクロ、そして夜宴の島を守る為に必死だ。――けど」
 彼は鋭い目で、責めるように私を見つめた。
「【君】は違うよね?」
 彼は……いつだって全てお見通しだ。

「シロの事が、本当に好きになった?」
「そ……れは、わかんないけど……ハクといると心が休まるというか、温かい気持ちになれるの。あの子はとても弱いから、傍にいて支えてあげたいって思う。【愛おしい】って、こんな気持ちなのかなって……そう感じるの」
「ふぅん……――じゃあ、俺は?」
「……えっ?」
「俺の事は、どう思ってる?」

『ふーん。……じゃあ、今は?』
『え……?』
『俺といると、ドキドキする?』
『……へ?』

 こういうの、前にもあった。あの、美しい星が無限に流れる丘で……彼は今と同じように私に問いかけたのだ。
 けれど今は、あの時とは全然違う。彼の表情も、声のトーンも……何もかもが違う。
「どうして黙るの? 俺は君の口から聞きたいんだ。君は俺に対してどう思っているのか。――だから、答えて」
 まるで尋問のように問いかけてくる彼に、私の心はもう限界だった。私は、胸に溜まった言葉を全て吐き出すかのように彼にぶちまけた。
「……く……るしいよ……っ!」
「えっ?」
「ソウくんの事を考えると、胸が痛いし、苦しいの……! 安心なんて出来ない、安心なんてさせてくれない! いつか、私の前から突然いなくなっちゃうんじゃないか……って不安で不安で仕方ないの……! 大体ソウくんが何を考えてるのかも、私には全然わからない。もうソウくんといると頭がパンクしそうなの! 心が破裂しそうなの! 誰よりも近くにいたいのに、誰よりも遠い。 ――ソウくんは残酷だ。ソウくんなんて、大っ嫌い!」
 一度口を開いてしまえば、もう止める術を持たない。こんなの、単なる八つ当たりだ。突然そんな事を言われても彼だって困るし、腹だって立つだろう。
 嫌われたくない、だからこれ以上は――
 そう思っているのに……止まらない。
 私……気付かなかった。こんなになるまで、自分の中に想いを溜め込んでしまっていた事を。
 言えずにいた【言葉】が、ドロドロした感情と共に溢れ出す。それは、とても綺麗なものではなかった。汚くて醜くて……思わず目を反らしたくなるくらいに無様だ。
 彼は静かに私を見つめながら、表情を崩す事なくこう言った。
「そう思うのは、ミズホが俺の事を好きだからだよ」
 何よ……何それ? 何なのよ……? どうして、そんな事……簡単に言えるの⁉ 
「……何それ、自信過剰だよ」
「いいや? 君は俺が好きだよ。間違いなく」
 平然とそう言い張る彼に、苛立ちが募る。
「……じゃあ! ハクに対するこの気持ちは何⁉ 優しくて暖かくて、いつでも私を想ってくれて大切にしてくれて、ソウくんみたいに……私を傷つけたりなんかしない!」
「……だから逃げるんだ? 流されるまま楽な方に、簡単な方に」
 彼の棘が、私の心の弱い部分に容赦なく突き刺さる。
「逃げてなんかいないよ! あの子には……私がついていないと駄目なの! ずっと昔から、ハクの心は深く傷付いてる。いつもの強気な態度も振る舞いも全部、弱さを隠す為の虚勢なんだよ! ハクと私は似てる。……そうだ、似てるんだよ。私達は! 皆が皆、ソウくんのように強くないんだよ!」
「……なんだ、全部わかってるじゃないか」
「っ……何が⁉ ソウくんの言ってる事がわからない、まったくわからないよ……!」
「わからない? ……それはお笑い種だな。俺は、君はもっと賢い人だと思っていたよ」
「なっ! ……じゃあソウくんには私のこの気持ちが何だかわかっているっていうの⁉」
「ああ、勿論わかるさ。じゃあ俺が、君にもわかるように、ちゃんと説明してあげるよ。たとえば……ミズホ、君はまだ【幼い子供】だ。そんな君の目の前に箱に入れられ、捨てられた子犬達がいる。皆、とても小さく可愛い子達ばかりだ」
「いきなり、何……?」
 彼は私の言葉を無視し、そのまま話を続ける。
「その中に一匹だけ、怪我をしていて、とても弱っている子がいた。他の子と比べても体は小さく、随分と痩せ細っている。君は昔から子犬を飼いたがっていたので、親に頼んでみる事にした。……けれど、連れて帰れるとしたら精々一匹だけ。なら君は【間違いなく】、その弱っている子犬を連れて帰るだろう」
「何が言いたいの……」
「君が大人ならば、【助ける為】にその子を連れて行くのはわかる。けれど……君は子供。助けられる術など持たない、まだ幼い子供だ。普通なら、元気で人懐っこいお気に入りの子を【飼う為】に連れて帰るだろう。子供は時として残酷な心を持ち合わせているものだからね。可哀想だとは思っても、一匹だけという選択を迫られたら……少なからず迷うものだ。それじゃあ、何故か? ――必要とされたいと思ってるのは、本当は自分の方だからだよ。その弱った子を連れて帰る事で君の心は安定する。それは本当にその子犬の為? ……いいや、自分の為だ。ミズホがシロにしているのは、そういう事だよ」
 反論したいのに……言葉が出ない。
「君のシロへの気持ちは恋じゃない。弱っている子を【放っておく事が出来ない】と同情し、【自分が傍にいてあげないと駄目】と、傲慢にも似た偽善的な考えを掲げる。良い風に言えば、無償の愛情で相手を包み込む……母性本能、とでもいうのかな? そして、【自分に相似しているから】と同調。そんなのは、互いに傷の舐め合いをしているだけにすぎないんだよ」
 仮面の下で、ポロポロと涙が溢れる。恐らく、彼の言葉が正論だからだ。私はきっと、ハクを深く傷つけた。

『……大丈夫だよ、ミズホ。僕には【それ】が何か、ちゃんとわかっているから』

 ……ハクは、わかってると言っていた。

『本当に深く考える事はないよ。いつか……その答えがわかる時が、きっと来るから』
『シロくんは……答えを教えてくれないの?』
『うん。あんまり言いたくはないかなぁ……』
『どうして?』
『……内緒』

 全て、わかって……それでも笑ってくれた。優しくしてくれた。包み込んでくれたんだ。ソウくんが怒っているのも無理はない。……私は最低な人間だ。自分の事しか、考えていなかった。
「……ごめん、今の君に、俺はどうしても優しくする事が出来ない。何故だかわからないけど、酷く胸が苛つくんだ。……先に戻ってる」
 彼は私に背を向け、船内に向かって歩いて行った。私はそれを止める事なく、その場に崩れ落ちた。

「……どうしたの? こんなところで」
 どのくらい時間が経過していたのだろうか。三角座りをし、膝に顔を埋めている私の頭上から……優しくて温かい声が聞こえてきた。
「話を終えてさっきの場所に戻ったら、いるのはソウだけで君はいないし……随分捜したよ」
「……ごめんなさい」
 白兎は、私の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「ソウが君に……何か酷い事を言ったの?」
 私はその問いに、首を左右にブンブンと振る。
「――おかめ。……外してもいい?」
 私が何も言わずに黙っていると、白兎はそっと、面を頭の方にずらした。
「……これはまた、酷い顔だ」
 そう言って白兎は、困ったようにクスクス笑いながら、暖かい指で私の目元に優しく触れた。
「ミズホ、話してくれる? ソウと何があったのか。ゆっくりでいいんだよ……君のペースでね? 大丈夫。これ以上、もう誰も君を傷つけたりはしないから」
 白兎が優し過ぎて、また涙が止まらなくなる。けれど、ちゃんと伝えなきゃ。もうこれ以上、白兎にも自分にも……嘘を付く事は出来ない。
 私は、彼と話した事の全てを……白兎に伝える事にした。偽らず、包み隠さずに……全て。

「……成る程ね」
 白兎は私が全てを話し終えるまで、一度も口を挟む事なく、最後まで……相槌を打ちながら真剣に聞いてくれた。
「――ミズホ。本気で人を好きになったらね? 相手の事ばかり考えたり、嫌われる事を恐れたり、不安になったり、逃げ出したくなったりするものだよ。それでもやっぱり好きで、胸が苦しくなって涙が出て、心や頭の中が相手に支配され、埋め尽くされてしまう感情。 ――それが【恋】だ。それはミズホがソウを想っている時のものと、まったく同じ感情だね」
 白兎は、優しく私の頭を撫でた。
「……けど、もう駄目だよ。私、ソウくんに嫌われちゃったし……」
「嫌いになんてなるもんか。ただ少し拗ねているだけだよ。彼はああ見えてかなり独占欲が強いからさ。――今頃きつく言い過ぎた事を、きっと後悔しているよと思うよ。ソウは一言多いし、たまに冷たく感じるかもしれないけど……本当は優しい男だからね」
「……うん、知ってる」
「それに今回は、ミズホも言ってはいけない事を彼に言ってしまったと僕は思うよ?」
「え……?」
「ソウは決して強くない。僕から見れば、弱さの塊のような男だよ。かっこ悪いところを君に見せたくないから、いつもしっかりしているように装う。僕とミズホの事だって単に嫉妬しただけなのに、プライドからそれを上手く伝える事が出来ずに、結果態度に出る。君が彼、いや……【夜科蛍】に憧れを抱き過ぎていて、彼を高く評価し過ぎるから、だからソウはありのままの自分を君に見せる事が出来ないでいる。それも、君に幻滅されたくないから、ね? 決して遠くなんてない。君が自ら遠退いているだけなんだ。……壁なんてない。君が自ら作り出しているものにすぎないんだよ」

『皆が皆、ソウくんのように強くないんだよ!』

 ――そうだ、確かに私はそう言った。それは、間違いだった……? 

「ソウはね、どこにでもいるような……不器用で意地っ張りで、素直じゃなくて……ちょっとだけ頭の固い、普通の青年なんだよ」
 白兎の言葉が私の心の奥深くに、まるで溶け込むように浸透していく。
「最近の君は少しいつもの君らしくなかったね。……もう一度、【アクアマーメイド】を飲むべきだったかな?」
 白兎はそう言って、優しく笑った。
 アクアマーメイドは、私がこの島にきて最初に口にした……困難に立ち向かう為の、【勇気と自信】を与えてくれる魔法のドリンクだ。
 確かに今の私とあの頃の私は全然違う。……恋を知って臆病になったか、馬鹿ミズホ。
 マーメイド……か。
「……よしっ!」
 ――もう大丈夫だ。もう迷わない。ようやく、自分がやりたい事が見つかったのだから。
「? ミズホ、ちょっと待って……⁉ 君、一体何を!」
 私は船の手すりを跨ぎ、海をじっと見つめる。そして、勢い良く水の中に飛び込んだ。
 水飛沫が大きく上がり、私は人魚にでもなったかのように水面から顔を出す。見上げた先には手すりを握り、顔を突き出して覗き込む白兎の姿。その慌て振りに、私は思わず吹き出した。
「ハク、私行くよ!」
 白兎は何が何だかわからない様子を見せながらも、私の言葉にこう答えた。
「……なら、僕も行く!」
「駄目! 二人の足枷になっているのは私。だから、私はここから逃げる! どうにかしてクロちゃんと合流するよ!」
「黒兎は今この地にはいない! ティターニアと気を探ったから確実だよ。さっき僕が呼ばれたのは、ティターニアへの忠誠の証に、黒兎を僕の手で始末しろと言われたからなんだ。一体今、どこにいるんだか……逃げるにしても、行く場所なんてどこにもない筈なのに……」
「……けど、いずれ絶対に戻ってくる! クロちゃんがこの島を見捨てるわけがないでしょ⁉ だから私、帰りを待つよ!」
 私の言葉に、白兎は分かりやすいように頭を抱えた。
「無茶だよ、君は今存在自体を消されている。朝になっても、元の世界には戻れない。森を闇雲に彷徨うのはリスクが高すぎるし、すぐにティターニアが従えている仮面の衆に囚われてしまうよ!」
「それでも、動かないと何も始まらないよ。ハクは何とか時間を稼いで! ソウくんもきっと、ティターニアの足を止めておいてくれる! 私は、私がするべき事をするから! 信じて待っていて欲しい」
「ミズホ……」
「……ソウくんに伝えて! この物語は、このままでは終わらせない。夜宴の島の物語は、ハッピーエンドで終わるの! きっと!」
 私は、不安そうな白兎に笑顔を向けた。
「まったく……君って人は。わかったよ! 精々足掻いて!」
「ハク! その……色々ごめんね! 私……」
「ストップ!」
 白兎は私の言葉を遮ると、小憎たらしい笑みを浮かべながら、右手を【シッシ】と外側に振った。
「こんな所でノロノロしてると、あいつらにすぐ見つかっちゃうよ? お馬鹿さんの尻拭いはごめんだね。さっさと行きなよ、僕はこれから色々と忙しいんだ」
「ハク……」
「【ハク】? それは一体、誰の事かな? ……僕は白兎。生まれた時から、ずっと……【白兎】だ」
 そう言って優しく笑う白兎に、私は今までどれ程救われてきただろう。……ありがとう。優しい神様。
 今度は、私が皆を助ける番だ。
「……シロくん! 待ってて! きっとすぐに助けにくるから!」
「うん、約束! 僕もやれる事はやってみるよ。……ほら、早くおいき」
 空は、徐々に夜を連れて来る。闇に紛れるにはちょうど良い。
 私は白兎に手を振ると、海岸に向かって泳いだ。停泊しているのだから、距離にしては短い。
 船の入り口付近にいた見張りの存在が気にかかる。けど私が海に飛び込んだ時、何の反応もなかった事を思うと……意外と夜は手薄なのかもしれない。
 案の定、誰かいるような気配は感じない。皆揃って、会議でも開いているのか……? それとも、罠だろうか? 
 ――いや、今は深く考えるのは止めておこう。
 取り敢えず、【会いたい人物】がいる。その人に、何らかの話を聞く事が出来たなら……
 私は海から這い上がり、砂浜に脚を乗せる。
「……行こう。この世界にいる可能性は低いけど……」
 覚悟を決めた私は、影のようにこっそりと、静かに森へと足を踏み入れた。

 ――さぁ、最終章の始まりだ。



「――やっぱり、いないよね」
 あれから森の中を行ったり来たり、隈無く捜しているつもりなのだけれど……誰とも遭遇しない。

『……ティターニアが言うには、全員強制退場させたらしいよ』

 彼の言葉を思い出す。やはりこの島にはもう、私達以外誰も存在しないのだろうか? ……しかし、あの強力な力を持つ仙人や老人達を無理矢理この島から追い出せる程の力が、本当にティターニアにあるのだろうか?
 それじゃあ、もう……世界最強じゃない。
「『私は死を司る神の後継者』……か」
 死を司る神……それってやっぱり、【死神】の事だよね?
 その死神がティターニアと、あのゲーデと呼ばれていた不気味な人形に力を分け与えたという事なのだろうか?
 けど……それじゃあ死神は、いつから彼女に目を付けていたのだろう?
 それとも……やはりティターニアと一緒にいた事により、ただの人形に悪の魂が宿ったのか? そして夜宴の島の継承の夜、魂を宿したあの人形は……燃え盛る炎の中、彼女を助けて島から逃げた後、【偶然】死神に助けられたとか?
 またはティターニアが復讐の為に、死神の在り処を探り当て……後継者になったのか。
 ――いくら考えてもキリがない。誰も、【正しい答え】を提示する事だなんて、出来ないのだから。
 私は倒れた大木を背に、そっと座り込んだ。
「……どうすれば、あの人に会えるんだろう」

 私はポケットに手を突っ込み、白兎から貰った夜宴の島の結晶を取り出す。
 結晶はキラキラと輝いていて、中では海が静かに波を打ち、上の方では、大きくて真ん丸なお月様が浮かんでいた。
 ふと石から目を離し、【現実】の夜宴の島を見てみると……余りの違いに、悲しくて涙が出そうになる。
「……お願いです。あの美しい宴を……もう一度。皆が楽しそうに笑っていて、賑やかで、騒がしくて……そんな、不思議で奇妙な夜を……もう一度皆と一緒に過ごしたいんだ」
 ――諦めない。……絶対に。

 その時、いきなり脚に何か触れた。
 フサフサしていて、体温が高く、比較的に小さいもの……
 私は、恐る恐る目を下に向ける。すると……鼠が私の足にぴったりと寄り添っていた。びっくりして、思わず飛び跳ねる。
「ななななななに⁉ ね、鼠⁉ 何で鼠がくっついてくるの?」
 突然の出来事に、心臓が飛び出しそうなくらい驚きながらも……ゆっくりと鼠から離れる。
 ……やはり、鼠にぴったりとくっつかれていると少し気持ち悪い。長くてくねくねと動いてる尾から昆虫を想像してしまい、思わず身震いする。
「お願いぃ……どっか行って……ほら、早く……」
 すると、鼠はこちらに向き直り、暗く淀んだ目付きでジッと私を見つめてきた。
 ……あれ? この鼠、誰かに似ているような……

 鼠は背を向けて走る……が、少し進むと、再び振り返って私を見つめた。
「……もしかして、ついて来いって事?」
 何故だかわからないが、そう感じた私は……恐る恐る、鼠が走った方向に足を進める。鼠は私がついて来ているのを確認すると、また少し走っては、止まって、振り返り……と、私が来るのをじっと待っているように思えた。
 ――間違いない。ただの鼠ではない。
 私が走って追いかけると、鼠は振り返る事なく、一直線に走り続けた。
 この鼠はどこに行くのだろう……? 
 これではまるで、鼠という獲物を捕らえる為に必死に走る猫にでもなったような気分だ。
 鼠と私は、追いかけっこをしながら、深い森の中を駆け抜けていく。
 走って、走って、走って……
 その先に何があるのかは私にはわからないが、きっと……何かが変わる。
 そんな事を考えながら、私は懸命に走り続けたのだった。

 かなりの距離を走った。鼠はあんなに小さな体で、この距離をずっと走り続けて……疲れたりはしないのだろうか?
 こちらはそろそろ限界だ。脚は疲れていう事をきいてはくれないし、動悸は激しく、喉はヒューヒューと不快な呼吸音を鳴らした。
「ちょっと待って……もう限界……」
 そう言って私は膝に手を置き、呼吸を整える。
 鼠は止まり、じっと私を見つめるが……再びぷいっと顔を逸らすと、目の前にある空洞の中に素早く入っていった。
 ……洞穴だ。
 私は膝に置いた両手にグッと力を込め、ピンッと立ち上がった。
「こんな所に……この先には一体、何があるのかしら……?」
 けど、きっと何らかの【情報】がある筈だ……私はそう確信していた。
 私の予想が正しければ……きっと、あの鼠の正体は――
 私の捜していた人物ではないけれど、私をここまで誘導したぐらいだ。……何か話くらいは聞けるかもしれない。
 私はゆっくりと洞穴に近付き、中に進入する。
 人一人くらいは簡単に通れてしまう大きな穴をひたすら突き進んで行くと……奥には、洞穴の中だというのに……奇妙なまじないのような言葉や模様が描かれた不気味な扉があった。
 ドアの下の方には小さな小窓のようなものがある。……どうやら、さっきの【鼠】はここから出入りしているようだ。
 その禍々しい扉に手を伸ばし、ゆっくりとノブを捻るとギィッという耳障りな音が鳴る。少し開いたドアの隙間から、もわっとした甘い香りが漂い、私の鼻先をくすぐった。
「……よく来たねぇ。さぁ、さっさとお入り」
「やっぱりさっきの鼠は貴女だったのね。――魔女のお婆さん」
「おや、気付いていたのかい? ひっひっひ。そうじゃよ。ちょいと鼠に化けて、島の様子を見に行ってみたらあんたがいたもんでね。ここまで連れてきたというわけさ。この中でなら、元の姿でいてもあやつらに見つかる恐れはないが……外では力を持つ者は全て、その気配によって居場所がバレてしまう。だから外に出るには、動物などに化けていくしかないんじゃよ。他の者達は皆、あの娘に島から追い出されてしもうたからのう。事前に分かっていれば、奴らにも簡単に防げただろうに」
 ――やはり、彼の言っていた通りだ。
 今、この島に滞在する事を許されているのは双子の兎と、ティターニアに招かれた私達だけ。
【この中でなら】……それは多分、あの扉に描かれていたまじないのようなもののお陰だろう。アレには封印や結界のような効果でもあるのだろうか? 
 とにかく、老婆がこの島に残っている事をティターニアは知らない。……これはチャンスだ。
 魔女の事は正直信用ならないけど、あの数々の魔法のドリンクを作ってきた人物なのだ。能力的には申し分ない。
「ねぇ、お婆さん! 外に出された仙人達をこの島に呼び戻す方法はないの⁉」
「ひっひ、無理じゃよ。宴なんぞにうつつを抜かしとるから悪いんじゃ。あやつらも油断さえしていなければ、島から弾き出されないように手を打つ事は出来ただろうにねぇ。一度外に出されたら、再び島に入る事は難しいのさ。何故なら……島から出したのがあの娘でも、島に呪いをかけているのは【死の神】じゃからな。その強力な力をもつ死神の前では、仙人や他の神々でも、簡単には手が出せんじゃろう」
「死の神……」
「……儂も会った事はないから詳しくは知らんが、死神にも色んな種類がいてのう。恐らく、ブードゥー系の神と見ておる。あの娘が皆を外に出した時に言っておった言葉が、ブードゥーのものと酷似しとったからのう」
「ブードゥー……?」
 ブードゥーと言われて、最初に頭に思い浮かんだのは【呪い】や【黒魔術】……
 ティターニアが長い間白兎の薬にかけていたのも、黒魔術の書に書かれていた呪いだって言っていたっけ……
 それじゃあ、きっと間違いはない筈だ。でも……
 ――あれ? 
 おかしい。何故かとても違和感を感じる。
 私、何か重要な事を……見落としている? 
「――お婆さん! 何か、他にも気付いた事はない⁉」
 その【答え】を……私は知りたい。
「まぁ、慌てなさんな。ちょっとそこの棚の、一番上の左端に置いとる書物をとってくれんか? ほれ……その紺色のやつじゃ。さっさとせぇ」
「……え? あ、はい!」
 私は、老婆が指差した方向にある年季の入った本棚から一冊の本を手に取り、それを渡した。
「これは……神様が書いた本なの? やけに古い物のようだけど……」
「いいや、これは人間が書いたものさ。非常に興味深いものばかりじゃよ。力を持ってはいても、儂らは世界中に散らばる神々の全てを知っておるわけではないのでな。人間の視点、または想像により生まれた【神】という存在が……今の時代にどのように伝承され、受け継がれてきたのか。当たるも八卦当たらぬも八卦。……しかし、中々馬鹿にも出来ぬぞ? ――人間もな」
 老婆はそう言いながら、近くに置いてあった眼鏡をかけ、ロッキングチェアーに腰を下ろすと、パラパラとページを捲り始めた。
「――この書物によると、ブードゥーの死神は死とセックスのロアとされており、その風貌は、古く擦り切れ、破れた黒い山高帽を被り、燕尾服を着た【男】の姿をしておるとの事じゃが……何か心当たりはあるかのう?」
「……ううん。そんな人、あの子の傍にはいなかった」
「そうかい。伝承では……死者は皆【ギーネ】と呼ばれる神々の住処に向かうらしいのじゃが、その途中にある【永遠の交差点】と呼ばれる場所に、そやつは立っているらしい。生きてきた全ての人間を知っている為、非常に賢明。その一方で酷く下品な態度や言葉遣いをし、非常に陽気で葉巻と酒が大好物である。――と書かれてはいるが、恐らくアテにはなるまい。まぁ、信じるのも信じないのもあんたの自由さ」

 葉巻と……酒? 
 下品な態度や言葉遣い……? 

 それには心当たりがある。……けど、その姿が【全く】当てはまらない。
 やはり人が書いたものには、多少の誤りがあってもおかしくないという事なのだろうか? 
 百パーセント、真実のみが書かれていると断言する事は……書いた本人以外、誰にも出来ない。
 それに、もしこの情報が概ね正しいものだとしたら、【順序】がおかしすぎるのだ。
 ――そうか。さっき感じた矛盾はこれだ。
 最初から、全て間違っていたのかもしれない。双子達は、きっと思い違いをしている。
 この物語には、誰も知らない……隠されたエピソードが存在しているのだ。
 自分のみの視点からでは、決して発見する事の出来ない……他の者からの視点。
 だからと言って、それで何かが変わるわけではないけれど……この【事実】には、何か重要な事が隠されている筈なのだ。

 最初に始めたのは、――誰だ?

「お婆さん、その死神の名前って……わかる?」
「名前かい? 確か……名前は――」

 ***

「――ほう、そんな事があったんかい」
 私は魔女に、私の知っている事の全てを話す事にした。
 勿論、信用などはしていない。けれど、起きた出来事を話さない事には何も進まないし……今の私には、これ以上打つ手がない。――何とか魔女に協力してもらわないと。
「……どうじゃ? また、魔法の薬でも飲んでみるかい?」
 黙り込んでいた私を横目に、老婆は椅子を揺らしながら、『ひっひ』といやらしく笑った。
「……飲むわけないでしょ。あんな目に合うのは二度とごめんだわ」
「おや、それは残念じゃ。またいいデータが取れると踏んでおったのになぁ」
「お婆さん……ちっとも懲りていないのね」
 私は深い溜息を吐きながらも、話を続けた。
「とにかく、私は夜宴の島を元の姿に戻したいの! ねぇ、お婆さん……これからどうすればいいと思う? 私には、頼りになるのは貴女しかいないの。クロちゃんも、今は島にいないみたいだし……」
「……ふん。そんな事、儂は知らん。お主の好きにすりゃあええじゃろうが。――と言いたい所じゃが、儂はその人形に興味がある。……本物か? はたまた単なる依り代か? ……欲しい。喉から手が出るくらい欲しいぞ!」
「! じゃあ、お婆さん!」
「仕方があるまい……協力はしてやろう。しかし勘違いをするな? 儂はお主の仲間になるわけではない。直接動く事はないし、何もしたりせん。死神なんぞに目を付けられ、儂の得になる事は何一つとしてないからのう。迂闊に近付き、命を吸いとられてしもうては元も子もない。儂はあくまでお主のサポートしかせんぞ? それでも、文句はないな?」
「それでもいい! ……大丈夫、私が動くから!」
「いいじゃろう。上手くいく可能性など万に一つもないと思うが、もしも奴等を上手く捕らえる事が出来たその時は、人形は儂の物じゃ。……ええのう?」
「私は……夜宴の島が元に戻ればそれでいい」
「よし、交渉成立じゃ」
 老婆はロッキングチェアーから立ち上がると、古びた机の上に、何も書かれていない黄ばんだ大きな紙をドサッと広げた。
「さぁて、どうする? 何か策はあるんかい?」
「策は……まだないけど、取り敢えず会いたい人がいるの。けど、この島に皆を呼び戻す事は出来ないって……さっきお婆さん言ってたよね? なら、どうすれば……」
「では、お主の方から出向けばよい」
「えっ……? そんな事が出来るの⁉」
「出来るさ。恐らく……【普通に出る事】は出来ないだろうけどねぇ。まぁ、黒兎やお前さんはこの島での滞在を許可されておる。一度外に出たとしても、きっとこの地に戻ってこられるじゃろう。――ただし、それが【ずっと】とは、限らんがのう」
「普通に出る事は出来ないって……それはどうして?」
「……馬鹿だねぇ。あの赤兎が、お主はともかく黒兎をそう簡単に逃がすと思うのかい? 他の者達はこの島には入れぬ。それならば逆も然り……黒兎やお主は、この島から【出れぬ】と考えるのが普通ではないか? しかし、その黒兎は今島にはいない。きっと何らかの方法を得て、外に出たのじゃろう。……血塗られた小娘め、それは大層慌てた事じゃろうな。ひっひっひ!」
 老婆はケラケラと笑いながら、壁の側まで歩き壺の中に手を突っ込んだ。
 じゃらじゃらと金属同士がぶつかり合う音と共に、チェーンに繋がった、青のような……紫のような……どちらとも取れるくらい際どい色をした円球の物が取り出された。
 その中には、薄っすらと砂時計のようなものが見える。
「それは……何?」
「……これは【{Hourglass of moments}(ひとときの砂時計)】と呼ばれる代物じゃ。この砂時計を逆さに向けた瞬間、お前は望む場所に行けるだろう。しかし、その名の通り【ひととき】の間だけじゃ。肉体だけはこちらに残り、魂だけがその場に向かう。肉体を置いていくわけだから、島にかけられとる呪いの対象にはならない筈じゃ。――だが、この砂時計が全て下に流れ落ちてしまった瞬間、強制的にこの場まで戻されてしまうぞ。急がねばならん」
「ひとときってどのくらい……?」
「昔の時間の単位で言えば、今の……約二時間と言ったところか」
「そんなにあるの⁉ 充分だわ! あ……! でも……」
「? ……何じゃ?」
「それをつけたら、身体に何かの変化があるとか……? たとえば、また化け物になったり……そ、それに、二時間も身体が無防備なままだと、その……人体実験なんてしたりしないでしょうね?」
 疑いの眼差しを向ける私に老婆は顔を赤くし、近くに置いてあった杖を手に取ると、カンカンと上から下へ、繰り返し地面を強く叩いた。
「阿保か、お主は! 全く……失敬な奴じゃのう。お前はその砂時計を口から飲むのか? 流し込むのか⁉ 変化などあるわけがなかろう!」
「つけてるだけで危険な場合もあるでしょ⁉ ほら、電磁波とか! 放射線とか!」
「はっ! 馬鹿馬鹿しい! 心配せんでもそれを首にかけてある間は、お主の肉体は何者からの干渉を受けない。近付く事すら出来ぬわ! 今風に言えばバリアってやつじゃ! バリア!」
「バリアねぇ。……本当かしら」
 魔女に何度も騙された立場からすると、簡単に信用出来なくて当然なのだが……老婆は疑われている事に大層ご立腹な様子で、『ふんっ!』とそっぽを向きながら、嗄れた声でこう言った。
「嫌ならせんでもええぞ。儂は別にどちらでも構わんからのう」
「……やるわよ。それ以外、他に方法はないんだから」
「じゃあ、グダグダと文句を抜かすでないわ! このたわけが!」
 老婆はブツブツと小言を言いながら、私にその砂時計を押し付けてきた。
「……さっさと付けて、はよう横になれ」
 私は言われるがまま、渡された首飾りを頭から被り、老婆が指を指した場所に腰を下ろした。
 金色の糸を使い、美しい刺繍が施されている真っ赤な布が、祭壇上から左右に垂れている。
「この上に、寝るの……?」
「そうじゃ。さっさとせぇ」
 これじゃあまるで、生贄の儀式のようだ。私は思わず、この上で胸にナイフを突き立てられている自分の姿を連想してしまう。
 ……何だか怖いなぁ。けど……
 私はゴクリと唾を飲み込むと、祭壇の上でゆっくりと横になった。
「言っておくが、その砂時計は一度しか使えん。戻ってきたと同時に、粉々になって砕け散ってしまうからのう。……さぁて、お主が会いたい相手は誰ぞや?」
「私が会いたい人物は……狸の、お爺さん」
「……ほう、狸じゃな。ならば奴の事を考え、目を閉じ、強く念じるがよい」
「あ……けど私、狸のお爺さんの顔とか知らないんだけど……大丈夫かな?」
「案ずるな。あの狸の面は、この世界でたった一つしか存在しない。だから何も気にせず、しっかりとあの面の事だけを頭に思い浮かべておればよい。儂がお前さんの代わりに、その砂時計を逆に立ててやろう」
 私はこくりと頷くと、覚悟を決めて目を閉じた。
「……決して他の者の事を考えるではないぞ? 同時に何人もの事を思い浮かべてしもうたら、行き場に迷うたお主の魂はどこにも行けず……ただ、その辺りで時間が過ぎるまで、馬鹿のようにうろちょろしているだけになるじゃろう。……所謂、時間の無駄じゃ。何度も言うが、これはたった一度しか使えぬ。万が一失敗したら、また別の策を立てるしかないじゃろうな」
 これはかなりのプレッシャーだ。『考えるな』と言われた途端に、色んな人の姿が脳裏に浮かび上がる。

 仙人……
 クロちゃん……
 シロくん……
 ――そして、ソウくん。

 私は寝転んだまま顔を左右にブンブンと振ると、ただひたすら、狸のお爺さんの姿を思い浮かべていた。


***
 
「……あ、あれ?」
 気付けば私は……美しい山道の中に、ぽつんと立ち尽くしていた。
 ……ここは、どこだろう? この場所のどこかに、狸のお爺さんがいるのだろうか?
 私は、周囲を満遍なく見渡してみた。……つい先程、夜が明けたばかりなのであろう。そこにはひんやりとした空気が漂っていて……木々の風にしなう音が、静けさの中にこだまする。
「……何だか、落ち着くなぁ」
 空気は澄み切っていて、とても綺麗だし、鳥のさえずりが妙に心地良く感じる。気持ちの良い爽やかな微風は、木々だけではなく、私の髪までも優しく揺らしていった。
 朝の光が葉の色を鮮やかに変えていく。……けれど、目の前に続く山道はほんのり暗い。
 その静かで美しい神秘的な古道を、私は一人、ゆっくりと歩き始めた。勿論、行き先などわからない。
 けれど、私の足が……まるでその場所に案内するかのように意思を持ち、歩を進める。
 胸に付けていた筈の首飾りは見当たらない。きっと、【本体】の方にあるのだろう。
 魔女が何もしてないといいんだけど……
「あ……」
  大きな切り株の上で休憩していたであろう老人が、突然驚いたような声で私に問いかけてきた。
「娘さん、あんた……どうやってここまで?」
 目尻は優しそうに垂れ下がっていて、人柄の良さそうな顔をしている。つぶらで愛らしい目をした老人。
 ――ああ、狸のお爺さんだ。
 狸の面をつけていなくても、その優しい話し方や声で、はっきりとわかる。
「お爺さん、私……話を聞きたくて」
「……あぁ、聞きたい話っちゅーのは【アレ】だねぇ。よぉわかっとるよ。しかし、ここではなんじゃ……ちょっと儂についてきんしゃい」
『よっこらしょ』と腰を上げ、老人は手招きをする。私はそれに続いた。

 私達は、無言で神聖な古道を歩く。
 腰が少し曲がり、私より少しだけ背の低い老人の背中は、何だかすごく寂しそうで……とても小さく見えた。
 穏やかな向かい風を一身を受け、つい足取りも軽くなる。狸の老人の肩に小鳥が止まった。老人が気付いているのか、気付いていないのかはわからないが、歩くスピードがほんの少しだけ遅くなった。暫く小鳥が老人の肩の上で羽を休めていると、同種の小鳥がもう一羽、肩の上の小鳥に近付いてきた。……小鳥達も会話などをするのだろうか? チチチ、と可愛らしい声で囁き合うと、二匹の青い小鳥は仲良く飛び立っていった。
「ここじゃよ」
 私は、飛んで行ってしまった小鳥に夢中になっていて……いつの間にか目的地に辿り着いていた事にすら、気付いていなかった。
 老人が目配せしたその先には、かまくらのような形をした、石で出来た白い建物がある。その中央にはしっかりとした木の扉があり、建物自体は小さく見えるが、中は意外と広そうに思えた。
「狭いけんのう。……さぁ、入りんしゃい」
 狸がゆっくりとノブを回し、扉を開ける。キィィと言う音が、妙に懐かしさを誘った。
 すると、その心地良く、優しい音をかき消すかのように、中から陽気な声が聞こえてきた。
「おぉ! 狸、勝手に邪魔しておるぞ」
 右手には、ラベルに大きく文字が書かれている縦長の瓶。そして左手には、透明な液体がなみなみと注がれたおちょこ。どう見ても、中身は酒だろう。
 顔を真っ赤にした見覚えのある老人は、『おっとっと〜』とおちょこを揺らし、口元に寄せると、グビッと喉を鳴らした。
「あぁ! わ、儂の秘伝の酒がぁ! 爺さん! あんた、何してくれとるんね⁉」
「机の上に置きっぱなしにしとるんが悪いんじゃろうが? 全く、ケチケチするでない! 酒は皆で楽しむもんじゃぞ。……ういっく」
 あからさまに落胆の表情を浮かべる狸の老人に、少し同情をしてしまう。きっと、外から戻ってきたら呑もうと楽しみにしていたに違いない。何て不憫な……
 私が再び【仙人】の方に視線を向けると、偶然にも同じタイミングで、ばっちりと目が合ってしまった。
 仙人は、優しく私に話しかけた。
「娘さんも、久し振りじゃなぁ。元気にやっておったか?」
「あ、あの……! 兎狩りの時は大変お世話になりました! お礼を言おうと思ってたんですけど中々会えずに、こんなに遅くなってしまって……あ、狸のお爺さんも……! 本当にありがとうございました!」
 仙人が、『いいんじゃよ、いいんじゃよ』と言っている傍らで、狸の老人は項垂れながら右手をひょいっとあげた。
「ところで……仙人はどうしてここに?」
「狸の古道に、儂の妖力と魔女の妖力を感じてのう。それで、すぐに来てみたというわけじゃ」
 仙人は『ほれっ』と、私の頭に被さっているおかめ面を指差した。
 成る程。このお面って、結構便利なのね。
「夜宴の島に入れなくなってから、注意深く観察しておったんじゃよ。 ――で、何があったんじゃ? 話してみぃ?」
「実は……」

 私は、双子達の手により、島から元の世界に戻された私達が……再び、どのようにして夜宴の島に戻って来れたのか、そして……星降る丘での姉弟達のやりとりや、船室で聞いた白兎の話。五十嵐想は現在、ティターニア達に囚われてしまっているという事。黒兎が、突然島から消えた事。
 それらを全て、仙人と狸の老人に話した。
「……成る程な。死神の存在と、紅き妖精悪魔……そして、呪われたキラードールの存在は、儂も知っておったが……相当の手練れだと聞いておるわい。あの青年も双子らも、このまま無事でおれる保障はどこにもない。――のう、狸や? 儂はお主が、以前から双子らと交流がある事は知っておったが……奴らに【姉】がおったという事は知らんかった。何故、今まで言わなんだ? 何か、深い事情でもあったんかのう?」
 仙人の問いに……俯き、静かに話を聞いていた狸はゆっくりと顔を上げる。……しかし、膝に置かれていた握り拳は、せわしなく小刻みに震えていた。
 怒りを堪えているのか? それとも、悲しみを堪えているのか? 私には狸の心情はわからない。だからこそ……知っている事は全て、隠さずに話してもらいたいのだ。
 そして、魔女から話を聞いた事で、私が行き着いた【一つの可能性】が間違いではないという確信を手に入れたい。
 やがて、狸は口を開いた。
「赤兎の事は……勿論、よう知っちょるよ。あの三人は、ほんに儂の事を好いてくれとった。儂も、あん子らを孫のように思っとったよ。しかしなぁ、儂は【約束】したんじゃ。その誓いは、今でも儂の中に存在している。だから儂は、今まで誰にも言わんかった。誰にも……な」
「約束とは……一体、誰と交わしたんじゃ?」
 狸は沈黙する。苦しんでいるのだろうか? 口を横一文字にしっかりと閉じ、目を瞑る狸の姿から……何があっても【約束】を守ろうとする、その誠意がうかがい知れた。
「狸、お主は全てを……真実を知っておるのじゃな?」
 狸は……もう隠しておく事は出来ないと悟ったのだろう。覚悟を決めたような表情を見せた。
「あぁ、儂は真実を知っとるよ。とても可哀想な話じゃ」
 狸はゆっくり椅子から立ち上がると、視線を窓の外に向けた。
「……誤解をしてるんよ、皆。誤解なんよ。全てを知っておるからこそ、あん子の気持ちを考えたら……胸が痛うなって仕方ないわ」
「あの子って……」
「……赤兎じゃよ。とは言っても、もう儂の知っとる赤兎はこの世にはいない。あん子は……ほんに優しい子じゃった。否、優し過ぎたんじゃな。それ故、生き方を間違った。まだ幼い双子を守る為、いつも必死じゃった。身体の弱い白兎を助けようと、儂を訪ねてこの古道までやってきたんもあん子やったんよ。赤兎は……なんも悪くないんじゃ」
「赤兎は悪くない……? お爺さん、それってどういう事……?」
「……いや、【以前の赤兎は悪くない】と言うのが正解じゃろうな。今の赤兎は……もう戻れないところまで来てしもうた。裁かれにゃならん。今のあん娘は、悪魔の申し子じゃ。助けてやりたいが、儂にはもう……どうする事も出来ん」
 狸は大きく溜息を吐くと、こちらに振り返った。その顔には疲れが見て取れる。優しい印象を与えていた穏やかな表情には、いつしか深い縦皺が刻まれていた。
「あん娘は、大好きな母親の言葉を忠実に守ろうとした。その結果がこれじゃ。ある意味、母親から……頼みという名の【呪い】をかけられてしもうたのかもしれん。
まだ幼い赤兎に、重たすぎる荷物を背負わせ、無理をさせるなど、あん娘の自我が崩壊していくのも目に見えておっただろうに。何と愚かな事を……」
「母親……? あの子達に親がいたの⁉ 黒兎や白兎は記憶にないみたいだったけど……」
「勿論じゃ。父親の方は儂と昔からの馴染みでなぁ。ほんに無粋で厳つい男じゃったわ。何かあると、とにかくすぐに手が出よる。兎なんて名称を持っておっても、実物は百獣の王のように危険で獰猛。……けど、兎神は不器用なだけで、ほんに優しいええ奴じゃった。しかしな、奴は殺されたんじゃよ。……それも非道で醜悪な人間達の手によってな」
 狸から発せられた言葉に、私は思わず手を口にあてがう。

 ――兎達の父親は殺された。それも、【人間】の手によって。

 まさか、そんな事って……
「その話は儂も聞いた事があるぞ。確か、兎神は人間の娘を庇い、命を落としたと……」
「そうじゃ。それが……その人間こそが、あん娘らの母親っちゅうわけじゃよ。まぁ、その母親も……身体を悪うして死んでしもうたがな」
「母親が人間? それじゃあ、あの子達は……」
「……神と人間の間に生まれし者。故に、神通力は非常に弱く、白兎に至っては……身体が神の血にうまく適合せず、拒絶反応を起こし、器となる資格さえ持ち合わせていなかった」
 狸の説明に、私は言葉を失った。まさか、あの子達に人間の血が流れているだなんて……思いもしなかったから。
 この事を知っているのは、狸に全ての事情を話した赤兎だけで……双子達は何も知らない。
 父親の死、母親の正体、これらの事実を……まだ幼かった少女はずっと一人で背負い込み、隠し続けていたというのか……? 
 それが母親の言いつけだったとしたら……それは正に【呪い】だ。

「うぬぅ……まさか奴らに人の血がのう。この儂が気付かぬとは……」
「爺さん、気にする事はない。双子達は夜宴の島を継承した時に、強い力を授かり……限りなく神に近い存在になれたようじゃったからなぁ。双子達は……な」
 ――そうだ。夜宴の島を継承したのは、黒兎と白兎だけ。赤兎は選ばれなかったのだ。
 そして、その夜に争いが起き……炎に包まれた赤兎を【ゲーデ】が連れて逃げた。
 その後の事は……誰も知らない。
「今から全てを話すが……儂が赤兎から聞いた言葉のまま、話をさせてもらう事にしよう。……彼女の名誉の為にも」
 そう言うと狸の老人は、赤兎の言葉を思い返しながら……ゆっくりと、言葉を紡ぎ始めた。



 寂しい……寂しい……
 いつからこんな感情が生まれたのだろう?
 私は、黒兎と白兎のお姉さん。二人よりも早くこの世界に生まれ落ちた。
 だから、【親】の存在も……勿論知っている。
 偉大な神に見初められた、小さな村の娘が私達の母。母は最初、生贄として村人達から差し出された憐れな娘だった。
 兎神という名前だけを見れば、大層可愛らしい神のように感じるかもしれないけれど……父は昔、とても恐ろしい神だったのだと聞く。
 何故はっきり言えないかと言うと、父の存在を知ってはいても、覚えてはいないからだ。
 父は私が物心つく前に、既に息絶えていた。母の腹に、双子達を残して……
 神と交わり、子を宿した母を村人達はよく思っていなかった。自分達が生贄に差し出した癖に、母の事を化け物だと罵り……その挙句、村に災いが起きぬようにと殺害を企てたのだ。
 父は、それを庇うようにして人の手によって殺された。
 兎神の加護を失った村は……その後、飢饉に陥り寂れ廃れ、次第に滅びていったと聞く。
 母は身重の体を引きずり、ある山の奥深くまで逃げた。そして、そこで双子を産み落としたのだ。
 母はよく私に言っていた。父は、愛する者の為に命を懸けられる……とても愛情深く、優しい人だったと。
 程無くして、母は身体を悪くし……死んだ。
 しっかりしなきゃいけない。これからは、私がこの子達を守らなくてはいけないのだ。
 それが、母の最後の言葉だったから……

「……賢く優しい赤兎。貴女に負担をかけてしまう事になると思うけれど……どうか、幼いこの双子を守ってあげて。半分人である貴女達に課せらた試練は、辛くて険しいものかもしれない。けれど、お母さんは信じているわ。貴女達三人が、ずっと幸せに……笑って暮らしていける事を」
 母は目に涙を浮かべながら、私の髪を優しく撫でた。
「愛しているわ、赤兎。黒兎と白兎も。貴女達はあの人の大切な忘れ形見。そして、私にとっても。双子達はまだとても小さい。きっと、私の事も覚えてはいないでしょう。だから、父と母の事を教えてはいけない。何も知らないふりをするの。父が人間の手によって殺された事。そして、三人には人の血が混じっている事。この事は絶対に、誰にも言ってはいけないからね。――約束よ? 貴女達は無より生まれた有なるもの。……それで良い」
 私は、母の亡骸を一人で山頂に埋めた。

 双子達はすぐに大きくなった。そして私に問いかけてくる。
 自分達はどうやって生まれてきたの? 
 私は、答える。
 気が付けば既にここにいた。どうやって生まれてきたのかは、私にもわからない……と。
 嘘がとても上手くなった。隠さなきゃいけなかったから。
 泣かないようになった。私がしっかりしないと二人を守れないから。
 次第に演じる事に慣れてしまった私は、本当の自分がどんなものだったのかさえわからないまま……ずっと、ずっと……舞台の上に立つ役者のように、自分という存在を演じ続けてきたのだ。
 白兎は、人間の血を強く引き継いだのか……人と神、両方の器を持つ事に拒絶反応を起こし、身体がとても弱かった。
 あの子はもう覚えていないだろうが、一度……本当に死にかけた事がある。その時の私は、必死で白兎を救う術を探した。
 母の忘れ形見である白兎の生命を、こんなところで散らせるわけにはいかない。
 ……何があっても、白兎を助けなければ。

 この山の近くにある古道に、父の古くからの友人で、病に非常によく効く薬を作る事が出来る狸の神様がいると……生前、母から聞いた事があった。
 その神様に会って貰えるかどうかもわからなかったけれど……とにかく私はその古道に向かう為、里に下りた。
 私が里に下りたのは初めての事だった。……里の子供達は私を見てひそひそと話す。とても嫌な感じだ。その目から、【よそ者】に対する好奇と敵意の感情が見て取れた。
 私は、里に住む子供達に石を投げられた。額から血が流れた。何度も、何度も、何度も、何度も……
 けれど、そんな事に構う事なく、私は先を急いだ。心がとても痛み、涙が出そうになったけれど……今は白兎の事が最優先だ。傍に置いてきた黒兎の事も気にかかる。
 一刻も早く、狸の神様の元へ。
 そんな時……ふと目に入ったのが、一人の子供が持っていた少年の人形だった。
 ……私は何故か、その人形が生きているような気がした。

 狸の神が住むと聞く山道の入り口に辿り着くと、微弱ながら、人とは違う気を持った私の存在に気付いたのか……すぐに見知らぬ老人が私の目の前に現れた。
「ほぉ……! 珍しい事もあるもんじゃ! この気は【あれ】の! お嬢ちゃん、あれの子供かい? まぁ、肩の力を抜きんしゃい。何か、儂に用があってきたんじゃろ?」
 私が弟の状態を伝えると、老人は……『それはいかん、すぐに支度をしよう!』と言い、重い腰を上げる。
 私は狸の神様に、くれぐれも双子達の前では父と母の話はしないようにとお願いすると……事情を汲んでくれたのか、笑って了承してくれた。

 行きとは違い、帰りはとても楽だった。 
 狸の神の力はとても強く、黒兎と白兎の小さな気を辿ってみせると……私を連れ、一瞬で小屋の入り口まで瞬間移動をしたのだから。
 本来はのんびりと歩いて行くのが好きなようだったが、流石に緊急を要すると思ったのか、とにかく急いでくれた。私は初めて目の当たりにした【偉大な神の力】に、感動を覚えていた。
 老人のお陰で、白兎は一命を取り留めた。
 私も、狸のお爺さんのように……親切で、優れた神になりたいと、心の底からそう思った。

 それからの私は、一人でこっそりと狸の古道に遊びに行く事が多くなっていった。
 白兎はあの薬を飲むようになってから、みるみる元気になっていったし、黒兎は女性らしさには欠けるが、思わず目を見張るくらいに強くなっていった。
 少し、肩の荷が下りたような気がした。
 ここでは、父の存在も母の存在も隠す必要がない。父の昔話や母との話を、狸のお爺さんから教えてもらったり、話したり……そうやってお喋りする時間が、何よりも楽しくて幸せだった。
「ここでは気を張らんでええ。楽にしんしゃい。おまんはよう頑張っとるでな。ええ子じゃ、ええ子じゃ」
 そう言って頭を撫でてくれる、優しくて温かい狸神が……私は本当に大好きだった。

 ――そんなある日の事だった。
 私は、小さな虫を踏み潰してしまった。知らぬ間に踏んで殺生をしてしまった事など……きっと、今までに何度もあっただろう。
 けれど、【私が踏んでしまった事により、死なせてしまった】と自覚したのは……これが初めてだった。
 私は胸の奥で、謎の高揚感に包まれていた。
「い、たい……!」
 突然、額に鈍い痛みが走る。あの……里の子供達に石を投げられた付近だ。もう随分と日が経つので、怪我なんて既に治っていたし、傷痕すら見つからない。
 けれど、何故だかズキズキと痛む。……何だこれは? 
 私は、どうしてなのかはわからないけれど……あの少年の人形が、私に【痛み】を与えているのだと思った。
 ……どうすれば良いの? 生き物を殺している間だけ額の痛みが治まる。本当はこんな事をしたくない。……けれど、しないと頭が壊れそうになるくらいに痛むのだ。
 直感的に、これは呪いの力なのではないかと思った。
 あの日、投げられた石により出来た傷口から……何らかの呪いをこの身に受けたのではないかという見解だ。
 しかし、たとえそうだとしても……大切な妹と弟に心配をかけるわけにはいかない。
 それならば、一層の事……

 私は、頭のオカシイ姉を演じる事にした。虫や動物、生き物を無慈悲に殺生する悪魔のような姉。
 そんな私を双子達は嫌悪し、不気味に思い……次第に傍から離れていった。
 ……それで良いの。貴女達を巻き込みたくない。
 今日も私は蝶の羽をもぎ取り、生あるものの生命を残忍に摘み取っていた。

 嫌だ、本当はこんな事はしたくない。
 ――でも、身体がそれを求めている。
 違うの、これは私の本心じゃない。
 ――でも、どうしてもやめられない。

 最初は、ただ痛みから逃げる為にした事だった。
 けれど……それはいつしか私の快楽となり、なくてはならないものになっていった。

 ああ……楽しい。
 もっと……もっと……! 

「――赤兎! 何をしておるんじゃ⁉」
 突然、背後から聞こえてきた声に身体がびくりと反応する。……振り返らずともわかる。
 優しくて、大好きなその声……
「……お爺ちゃん! 私……私!」
 私は狸の老人の胸に飛び込む。老人は私を落ち着かせる為に……トントンと優しく、心地良いリズムで背を叩いた。
 私は狸神に全てを話した。額の痛みの事、生き物を殺すとその痛みが和らぐ事、少年の人形が怪しいという事。呪いをかけられているかもしれない事。双子達にまで危険が及ばないように距離を置いている事。
 老人は顎に手を当てながら、『う〜ん』と唸った。
「呪いの類いは儂には感じられんが、おまんの様子がおかしいのは一目瞭然じゃ。双子達もほんに怯えておる」
「お爺ちゃん……私、もう一度里に下りて、あの人形のところに行ってみようと思うの。このままじゃ私、本当に気が狂ってしまうわ」
「いかん! もしおまんの言う通り、その人形に力があったとしたら……今度こそおまんの心は闇に取り込まれてしまう。儂が何とか調べてみるでな、おまんはここでじっとしときんさい」
「でも! もしお爺ちゃんに何かあったら……!」
「赤兎! 言う事を聞くんじゃ! おまんに心配される程、儂ゃ落ちぶれとりゃせんわ! ……安心しんしゃい。儂に任しといたらええ」
「うん……わかった」
 老人は私の返答を聞くと、安心したかのように微笑み……一度、古道へと帰って行った。
「お爺ちゃん……ごめんね」
 私はもう決意を固めていた。
 今夜、再び里へ――

 一先ず小屋に戻った私を、黒兎は……まるで穢らわしいものを見るかのように、白兎は……心底怯えているかのように、じっと見つめてきた。
 いつもの事だ。話しかけても来ない。
 ……けれど、この日は少し違った。
 双子達は言った。『もう、こんな事はやめて。全ての生物には生きる権利がある。それを姉様が面白半分に終わらせる権限はない』と。
 本当は『違う!』って言いたかった。……壊さないと、私の頭が壊れそうなの。 
 本当はこんな事したくない。……お願い、わかって。私を……助けて。
 本当に、そう言おうとしたのよ……? もう、演じるのは疲れたから。
 けれど私の口から出た言葉は、全くの正反対だったんだ……

「――次は人間を壊してみたい」

 それは、私の本心なのか? 
 それが、私の本心なのか? 

 わからない。……私はただ、この痛みから解放されたいだけ。

 ――本当に? 

 もう一人の【私】が、【私】に問いかける。

 ――本当は皆、死んでしまえばいいと思っているのでしょう? 父を殺した人間達も……母だって、双子達を産んで身体を悪くして死んだんだよね? ……ならば、あの子達の存在も【罪】だ。何故、私だけが我慢をしなければいけないの? どうして私だけ……自由に生きてはいけないの? そんなの納得がいかない。許せない。

 それは、私が姉だから。……当たり前じゃない。

 ――貴女は誰? 

 私は……優しく賢い赤兎。母がそう言ったもの。 

 ――いいえ。それは違うわ。貴女は血塗られた悪魔よ、赤兎。だって……沢山の血を見てきたじゃない? ……さぁ、次は人間の番だ。

 ……いいえ! 私は【貴女】なんかに屈したりしない。今夜、あの人形の正体を暴いてみせるから!


***
 
「な、なに……これ?」
 皆が寝静まった夜更けに、こっそりと山小屋を抜け出し、里に下りた私の目に映ったものは……悪魔の所業と言っても何らおかしくはない。
 赤、赤、赤、赤……一面に広がる、真紅の世界。
 里の者達は皆、既に全滅しているかのように見えた。
 ――誰がこんな事を? そんな事を考えていると、奥の方から微かに物音が聞こえた。私はその音に誘われるように、奥へと進む。
 奥には大きな樹があった。その樹に、もたれかかるようにして置かれてる少年の人形……
 私は【それ】を持ち上げた。項垂れるような形で下を向いていた人形が、突然顔を上げて、ケラケラと笑いながら私に言った。
「コンバンハ、美シキ妖精。待ッテイタヨ、君ガ来ルノヲ! グヒヒ!」
 その余りの不気味さに、私は思わず人形を地面に向かって強く投げ付けた。
「あ、貴方……誰⁉ これは全て貴方がやった事なの? 酷い、こんな事……許される筈がない!」
「ア~……待ッテ待ッテ。僕ガ欲シイノハ【君】ジャナインダヨネ~。君ノ中ニ存在スル、モウ一人ノ君ナンダヨ。ゴミハイラナイ。ゴミハ、ゴミ箱ノ中ヘ」
 倒れた人形から激しい突風が繰り出される。私は容赦なく背後にあった壁に叩きつけられた。
「うっ……ぐ……っ……」
「ゴッメ〜ン、痛カッタ? ネェ、痛カッタ? アハハハハ、愉快、痛快、コレ何ダッケ~? ウヒヒ!」
 ……これはまずい。私は本能的に察知した。この人形には勝てない。このままだと私は、確実に殺されてしまう。
 私は、生まれて初めて【恐怖】と対面した。
 この人形……やはり、ただの人形などではない。
「僕ハ君ノ事ヲヨク知ッテイルヨ? 生マレナガラニ呪ワレタ、憐レデ可哀想ナ、汚ラシイ娘ノ赤兎。……人ノ穢レシ血ガ混ザッテイナガラ、神ニ近イソノチカラ。……素晴ラシイ。評価ニ値スルヨ」
 人形は、布で出来た手をパンパンと叩く。
「サァ、モウ一人ノ赤兎。出テ来テ御覧? 僕ト一緒ニ遊戯ヲシヨウ。僕ナラ君ニ相応シイ舞台ヲ用意シテアゲラレルヨ! 健気ナ姉ヲ演ジルノニハ、モウ飽キタダロウ? 爺サンニ懐ク甘エン坊サンナンテ退屈ダロウ? 村ノ子供ニ意地悪サレテ、悲劇ノヒロインブルナンテ……プフ! 笑ッチャウ! ……生キ物ヲ痛ブル時、君ハ興奮シタノダロウ? ソンナ君ニプレゼントガアルンダ! ソコノ中ヲ開ケテ御覧」
 人形が示す方向に、小さな木箱があった。私は木箱に恐る恐る近付いてみる。木箱からは微かに呼吸音が聞こえ、小さく揺れているのがわかった。……嫌な予感がする。
 私は生唾をゴクリと飲み込むと木箱の蓋を開けた。
 中には、無理矢理木箱に入れられた一人の少女の姿があった。口は手拭いで塞がれ、両手は縄で縛られている。
 少女は私を見るや否や、目を大きく見開いた。血走ったその目は、私を見て怯えているような気がする。
 ――何故だ? 普通なら、助かったと思い……安心した表情を見せたりする筈。どうしてこの子は、そんな目で私を見るの……? 
「赤兎、トテモ嬉シソウダネ! ソンナニ喜ンデモラエテ僕モ嬉シイヨ! ……サァ、君ノ望ミヲ叶エテアゲル! 人間ヲ壊シテミタカッタノダロウ? イッソヒト思イニヤッチャイナヨ! ソシテキミハ新タナ自分ニ生マレ変ワルンダ」
 人形の言葉を聞き、私は頬に手をやる。そして気付いたのだ。異常なまでに吊り上がった口角に……
 ……少女から見た私は、悪魔だったに違いない。
「サァサ、呪ワレタ赤キ兎! コノ俺ニ、最高ノショウヲ見セテクレヨ? ソノ憐レナ少女ヲ、柵カラ解放サレル為の儀式ニ使ウトイイ! 退屈ナ毎日ヨリ……刺激的ニ生キヨウヨ? オ前ハコンナトコロニイルベキ存在デハナイ。モット崇高ナル尊イ存在ダ! ――サァ! コロセ!」
 人形の言葉が私の心を狂わせる。もう……自我を保っているのが難しい。私の思いとは裏腹に高く上げられていく腕。大きな目を更に大きく見開いていく人間の娘。
 ああ、狂おしいほどに美しいその表情……

 壊シテミタイ


 美しく積もった白い雪が赤く染まり……その上に転がる、バラバラになった沢山の死体の山。
 その中の一つは、私が自ら手を下したもの。
 私の右腕は、少女の身体を深く貫いていた。顔に飛び散った鮮血はとても温かく、【生】を感じさせた。血液中の赤血球の中に存在するヘモグロビンが、周囲に鉄の匂いを充満させる。……気分が悪い、吐き気がする。
 けれど、【彼女】は悦んでいた。今までに見た事のないような笑顔で、幸せそうに……
「あは、あははは! うははははは!」
 ……何がおかしいの? 人を殺して、どうしてそんなに笑っていられるの⁉ 
「は〜! おっかしい! ……そうよ、私は生まれながらにして自由でなければいけない! 誰も私を咎める事など出来ないわ! ずっと【この女】の後ろに隠れてきた……そんなのはもう嫌。やっと表に出られたの! これからは私の好きなように生きてやるわ!」
 そんな筈ない! この世に生まれてきたのだから耐え忍ばなければならない事もあるわ! 全てのものが我慢を忘れ、好き勝手に生きたら……この世界はいずれ滅ぶ。順応しなくては駄目なの! たとえそれが、どれだけ理不尽であっても。
「私がしたい事は、何だって許される世界に変えてやるわ。全てが私にひれ伏せば良いんだ! 怯え、恐怖に慄け! 逆らう者は皆、惨たらしく死んでしまえ!」
 駄目よ、そんな事をしてはいけない! 貴女は私なんでしょう⁉ 私はそんな事を望んではいない! お願いよ……聞いて、届いて、私の声……
 小さな悪魔は、いつの間にかお喋りを止め、ただの人形のように静止していた。 
 ……本当にさっきまでこの人形は動き、私に話しかけてきたのだろうか? もしかして、私の脳で都合良く作り出されただけの【幻覚】だったのでは……? 
 いいや、そんな筈はない。確かに……
 とにかく……もうお終いだ。【私】は取り返しのつかない事をしてしまった。
 ついに【私】は、虫や動物だけではなく、人間にまで手を下してしまった。……死んでしまった少女の亡骸は、血に濡れて真っ赤だ。
 そしてその目は、目の前にいる赤兎ではなく……この【私】を責めているかのように思えた。

 ……随分と時間が経過したようだ。朝日が昇り、白に混ざった赤が鮮明に映し出される
 あれから【彼女】は、村中を徘徊し、動かなくなった【玩具】の中身をいじくりまわしては、キャッキャとはしゃいでいた。……が、次第に飽きてきたのだろう。『つまんない』と言って、人形の鼻をツンツンと突いたり、両腕を持って一緒に雪の上でダンスを披露していた。
 動かない観客達の前で軽やかにステップを踏み、華麗にクルクルと回る彼女に……人形はただ身を任せ、乱暴に振り回されているだけ。
 第三者から見れば、異常な光景である事は間違いない。けれど私にとっては、ようやく地獄から解放された瞬間だった。
 ――もう嫌だよ。こんな事……したくないよ。
 そんな事を考えていると、彼女は突然立ち止まり、分かりやすく大きな溜息を吐きながらそっと呟いた。
「……物足りない。張り合いがない。人間の内部はもう調べ尽くした。そもそも私に何の関係もない人間が幾ら死のうが何の感情も湧かない。……それならば」
 彼女の思考が、私の頭に流れ込んでくる。
 あの邪魔な双子をこの手で殺してしまおう! ムカつくけれど……一応肉親。私より格段力は劣るだろうが、向こうは二人だ。きっと簡単にはいかないだろう。うふ、とても面白そう。
 それに、たとえ半分人だとしても……神の血を引いている事には違いない。神殺しかぁ……あは! ――やってあげようじゃない。もうあんなお荷物達は必要ない。あんな子達に私の人生を台無しにされるなんて耐えられないもの。私が私の為だけに生きていく為には……あの子達は不要だわ!
 ――駄目! 絶対にそんな事はさせない。あの子達には指一本触れさせはしない。けれど……今の私は無力だ。彼女の意思に完全に取り込まれ、支配されている。一体、……どうすれば良いの?

 お爺ちゃん……助けて。

「ね、姉様……」
 突然聞こえてきた声に、彼女は振り返る。視線の先には、青白い顔をした双子達がいた。
「あら、黒兎に白兎! 迎えに来てくれたの? あまりに美しい光景に見惚れてしまって、ついそのまま朝を迎えてしまったわ! ほら、見て? この人形! ……素敵でしょう? あの家に住んでた娘が持っていたの! 凄く気に入ったから奪ってきちゃった! 今日からこの子はうちの子! 名前は何にしようかしら?」
 ――違う! これは私じゃない! 騙されないで二人共! 【彼女】は悪魔よ。そしてその人形はもっとタチが悪い! 
 人形を燃やして! 早く、その人形を……! 
「……ふぁああ~! 私、何だか眠くなってきちゃったわ! そろそろおうちに帰りましょ?」
【私】は大きく口を開き、欠伸をすると……近くに【落ちていた】死体をぐしゃりと踏みながら帰路へと向かう。双子達は、黙って私に付いてくる。私は笑いながら双子達に話しかけた。
「……人間を殺すのも虫を殺すのと一緒で、何だか簡単だったわ、面白くない。……そうだ!」
 ――それ以上は、口にしては駄目! 
「同族を殺したら……一体、どんな感じなのかしらぁ? ……きっと今まで以上に興奮するでしょうね、ふふふ」
 その言葉は……双子達に疑心と恐怖心を植え付け、警戒させるには充分だった。

 山小屋に戻って、数日が経った。彼女は双子達にまだ何もしていない。……否、何もさせてはいない。
 以前、彼女が私の中で話しかけてきたように……今では私も、彼女と意思疎通が出来るようになり、その行動までも制御する事が出来るようになった。……だから、絶対に邪魔してみせる。貴女の思い通りにはさせないから。
 ……やはり、表には出る事は出来ないけれど。
「本当にしつこいわね。あんたが邪魔するから何も出来ないじゃない⁉ あ〜! さっさと双子達を八つ裂きにしてやりたいのにぃ!」
 ――馬鹿な事を言わないで。私が貴女の中にいる限り、絶対にそんな事はさせないから。
「はぁ。……まぁいいわ。また少しお喋りしましょうよ? あんたは私。そこまで邪険に扱ったりしないわ」
 ……彼女は悪魔。けど、驚いた事に……私に対してはそうでもなかった。彼女は、まるで友人と話すかのように私に話しかけてくる。その時の彼女は、至って【普通】の女の子だった。
「あの人形、私を妖精と呼んだわねぇ。それで思い出したのだけど……あんた覚えてる? ジジイの家ってさぁ、人間が書いた本が沢山あったでしょう? 【真夏の夜の夢】、そして、その中に出てくるティターニアというキャラクター。……あんた、どう思う?」
 ――ああ、妖精王オベロンが王妃ティターニアと【とりかえ子】を巡って喧嘩をし、機嫌を損ねたオベロンがパックを使い、眠っているティターニアのまぶたに花の汁から作った媚薬を塗るって話でしょう? 勿論、覚えているわ。キュピッドの矢の魔法から生まれたその媚薬は、目を覚まして最初に見たものに恋してしまう作用があるのよね? ……で、パックは森に来ていた職人のボトムの頭をロバに変えてしまう。目を覚ましたティターニアは、この奇妙な者に惚れてしまった。……要するに【ロバ】に恋を。
 ……私はあまり好きではないわ。この話もティターニアも。
「あ〜ら、私は好きよ? 面白いし楽しいじゃない! 正に喜劇だわ! あの本をあんたの中で初めて読んだ時、私ね思ったの。美しき妖精ティターニアに私もなってみたいって! ……あのお人形さん、どうやらその事も知っていたみたいねぇ」
 ――どういう事? あの人形は一体……何者なの? 
「そんなの知らない。けど、あの子といるとゾクゾクするの。まるで、私……媚薬を塗られてロバに夢中になった妖精と同じ。今の私はあの子に夢中なの。あれから一度も話したりはしないけれど」
 ――駄目よ、あの人形は危険。貴女の手に負えるようなものではない。
「……うるっさいなぁ~。あんたはこの世界に夢を見過ぎなのよ。あんたが思う程、この世界もそこに住む者達も皆、優しくないの。綺麗でも何でもない。……汚くて醜いもの達ばかりだわ! だから、誰も信じてはいけない。信じられるのは自分だけ。どんなに信じていても簡単に裏切るものよ? あんただって本当はわかっているんでしょ? 誰だって自分が一番可愛いもの! あんたが信じ、可愛がっている双子達も……いつあんたを裏切るかわからないわよぉ? 飼い犬に手を噛まれる……はたまた、窮鼠猫を噛むってね。きゃははは!」
 ――あの子達は、私を裏切ったりなんてしないわ。あの子達は……私の家族なんだから。
「ど〜だか? 今のあんた、どう見たって異常者だからねぇ。双子達のあの目、……あんた気付いてるんでしょ? あれが家族に向ける目?」
 ――それは! 一体、誰の所為で……! 
「ていうかさぁ~【家族】なんだったら、助けを乞うべきだったんじゃないの? 迷惑かけたくないからって、自ら頭のおかしな姉を演じるだなんて……ほんと浅はかで可哀想なオンナ。その甘さ、いつか身を滅ぼすわよぉ?」
 ……確かに、彼女の言う事は一理あるのかもしれない。私はきっと、愚かだった。双子達に全てを話し、相談するべきだったのだ。そうすれば、今と違う未来が……きっと存在した筈。
 ――って、私は何でこんな悪魔に諭されているのだろう? おかしいではないか……
「ねぇ……私の事は信じて良いのよ、赤兎? だって私はあんたなんだから。本能のまま……もっと自由に生きてみなさいよ? あんたに出来ないんだったら私に全てを委ねると良い。私があんたの代わりに、好きな事を思うがまま自由に堪能してあげる! 忘れないで頂戴? この殺戮欲求は、間違いなくあんたの中に存在するものなのよ? これは全て、あんたの望んだ事。私はあんたの代わりにソレを遂行しているのだから、寧ろ感謝して欲しいくらいだわ!」
 ――そんな筈ない。私はそんな事を望んだりしないわ! 貴女の言葉なんて信用しない、何があってもね。……それに、感謝ですって? ふざけないで! 私は貴女とわかり合うつもりなんてないわ。
「そっ。それは残念! じゃ、私は小屋に戻るわね。少し疲れちゃった」
 ――ちょっと待ってよ! まだ話は!
「じゃ~ね~! ばいば~い♪」
 こうなると、私がどれだけ語りかけてもひたすら無視だ。……仕方がない。諦めよう。
 暫く様子を見る事にするか……

 彼女が山小屋に戻ると、珍しく黒兎が話しかけてきた。白兎は黒兎の後ろに隠れ、相も変わらずビクビクしている。
「姉様、この山頂に虹色の花が一輪だけ咲いているのを見つけたんだ! あれってさ、もしかして狸の爺さんが前に言っていた……この世界のどこかにあると言われる、どんな願いでも叶えてくれる花なんじゃねぇかって、白兎と話してたとこなんだよ!」
「え~? 山頂にそんなもの、あったかしら?」
「それがさ、際どい場所に咲いてやがんだよ! 崖壁のわかんにくいとこに! 今から白兎と見に行くんだけどよぉ、姉様も一緒に行こうぜ!」
 ――黒兎に何かを誘われるのは久し振りだ。
 今の身体の持ち主は私ではないけれど……とても嬉しい。白兎はまだ怯えた目で私を見ているけれど、黒兎は違う。昔のように私に向かって笑いかけてくれている。まるで昔に戻ったようだ。胸がドキドキする。
「あんまり乗り気じゃないけど……まぁいいわ。【この子】も嬉しそうだし」
「この子? 姉様、一体誰の事を言ってるんだ?」
「別にぃ~? こっちの話よ。ね、ね! 行くなら早くしましょうよぉ? 陽が暮れてしまうわ!」
「そうこなくちゃ! ……おい、白兎。行くぞ」
「う、うん……」
 黒兎が私の手を引く。たったこれだけの事に幸せを感じられた。

 私達は小屋を出た。空は優しい橙色が広がり、昔三人で仲良く食べたオレンジの味を思い出させた。またあの頃みたいに、笑顔溢れる時間を貴女達と過ごしたい。ただ……そう思っていた。
 見晴らしの良い場所に辿り着くと、黒兎が『そこに虹色の花があるぜ!』と指を差した。
 ……ここからじゃ、よく見えない。
 黒兎が『そこだよ、そこ!』と急かすように言ってくるので、【私】は膝をついて崖壁を覗き込んだ。
「……ちょっとぉ? どこにもないじゃない! 本当にここなのぉ?」
 私は覗き込んだまま、背後にいる二人に声をかけてみるが……返事はない。
 ……何だろう? 何だか様子がおかしい。
「――ちょっと貴女達、聞いてるのぉ?」
 そう言って私が後ろに振り返ろうとした時、ドンという鈍い音と背中にかかる圧力が……私を奈落の底に突き落とした。
 私は、まるでスロモションのように……ゆっくりと宙を舞った。


 …………痛い。
 痛いよ……血が止まらない……
 ――どうして? ねぇ、どうしてなの……? 
 黒兎……白兎……そんなにも、貴女達は私の事が嫌いだった……? 
 私は、貴女達の事をとても愛していたわ。とても、大切に思っていた。
 なのに、どうして……? 

 あの子達の最後の言葉。私の耳が最後に拾った言葉。その言葉を思い出しただけで、私の胸は締め付けられ……涙が込み上げてきた。
「死ね」
 ――という、黒兎の冷酷な言葉と……
「お願いだから……僕達の前から消えてよ、姉様……」
 ――という、恐怖から生まれた白兎の言葉……

 ああ、そうか。
 二人は私の死を望んでいたんだ。
 私は二人に……愛されてはいなかったんだね。

 私は、うまく力の入らない手をキュッと握ってみた。
 ――動く。……間違いない。
 今、この身体の持ち主は紛れもなく【私】だ。 
 こんな時に入れ替わるなんて……本当に、皮肉な話だ。
 口から大量の血が溢れ出す。落ちていく途中に私の腹は無残にも貫かれ……今、こうして意識を保っていられるのが奇跡のようだ。目も霞んできた……私はきっと、ここで死ぬのね。
 自虐にも似た悲観的な笑みが零れる。
「あ~……あ……」
 私って、何の為に生まれてきたんだろう。……ほんと馬鹿みたいだ。
 まさか、妹と弟に殺されてしまうだなんてね。

 ――ねぇ? もう一人の私。

 そう言って、【彼女】は私の頭の中で話しかけてきた。
 ……ふふ、おかしいの。まさか最期の話し相手が私を今まで苦しめ続けた憎き悪魔だなんて。
 けれど……何だか安心した。それはきっと、彼女の声がとても優しく感じられたから。

 ――あんた、もうすぐ死ぬわね。けれどお生憎様。【私】は死なないわよ? あんたが死んだ後この身体は私のものになるの。

 ……そう。そんな気がしていたわ。何故だかよくわからないけれど。

 ――ねぇ、双子達が憎い? 

 ……いいえ。憎くなんてないわ。

 ――今すぐ殺してやりたい? 

 まさか……! そんな筈がないでしょう? あの子達は私の大切な家族なのだから。

 ――その家族に、殺されたというのに?

 ……それも運命でしょう。私はあの子達を恨まない。

 ――本当は、はらわたが煮えくり返りそうなくらい怒っている癖に。

 貴女の言葉は耳に入れない。私は……あの子達を許しましょう。

 ――偽善者ね。まるで聖母様だわ! あんたを見ていると、ほんっと虫唾が走る。

 お生憎様ね。……それはこっちの台詞よ。

 ――さっさと眠りなさいよ、この死に損ない。

 そうね……そろそろそうさせて貰うわ。ここから先は……【貴女】の自由にするといい。

 ――えぇ、好きにするわ。まず手始めにあの双子達を血祭りにあげてやる! よくも私を騙してくれたわねぇ? ……これは復讐よ。苦しめてから惨たらしく殺す。

 先にリタイヤした私には、もうどうする事も出来ない。けれど……もう一人の【私】。可哀想な分身。貴女のしたいようにするがいいわ。もう誰も貴女を止めたりはしない。貴女の手により双子達が生命を落とすとしても……それもまた、運命でしょう。
 貴女の思うがままに……生きて頂戴。私が出来なかった分まで……自由に……


「……馬鹿ねぇ、赤兎。あんたは本当に良い奴だったわ。良い奴過ぎて反吐が出るくらい。私はあんたのようには生きられない。今だってあんたの命を奪ったあのガキ共を、どうしてくれようかと怒りに打ち震えているもの。……ハッ、おっかし~。私、あんたに同情しているのかしら? ……最期まで憐れだった赤兎。あんたにとって、あいつらは肉親だったかもしれない。けれど……私にとっての肉親はあんただけだった。絶対に許してやるものか。簡単には殺してやらない。私が必ず……あんたの仇を取ってやる」
 ――赤兎、安らかに眠ると良い。あんたといて結構楽しかったわよ。……サヨナラ。
「黒兎、白兎……赤兎の命の重さは、お前らの命が束になっても足りやしない。必ず地獄を見せてあげるわ。 ――死をもって償え」


***


「ふぁああ~。……あら? わたくしいつの間に眠っていたのかしらぁ?」
 まるでどこかの貴族が眠るような、ふんわりとした天蓋付きのベッドの上でティターニアは目を覚ました。……妙に嫌な気分だ。
「……目覚めが悪いですわね。何だか嫌な夢でも見ていたような……ま、いいですわ。誰か! 誰かいないんですのぉ?」
 ティターニアがそう呼びかけると、扉の向こうから不気味な悪魔の面を被った輩達のかしこまった返答が返ってきた。
 悪魔達はノックをしてからドアを開け、ティターニアに一礼する。
「ティターニア様、何か御用でしょうか?」
「あ〜ら、アナタ達! 御機嫌よう。わたくし、すっかり眠ってしまっていたみたいですわ。眠気覚ましに甘いドリップコーヒーを淹れて頂戴。あ、そういえば! アナタ達……白兎はちゃんと牢に入れてきたんですの?」
「はい! 仰せの通り、弟君は牢にて拘束させて頂いております」
「そ。御苦労様。――で、黒兎は島に戻ってきているんですの?」
「……申し訳ございません。それが、恐らくまだ……全く気配を感じられないので」
「――ふぅん、そう。じゃあ、あの人間の小娘は見つかったのかしらぁ?」
「それが、そちらもまだ……」
「……ほんっとぉに使えませんのねぇ。このグズ共が」
 ティターニアはあからさまに不機嫌な表情を見せる。気分次第で同志達をいとも簡単に消してしまうティターニアに、仮面達は怯えていた。
 次は自分の番かと恐怖に震えながら暴君に従う。現に悪魔の数は、この一年で半分にまで減らされていたのだから。
「ソウ! ソウはどこに居るんですの⁉ まさかアナタ達……ソウまで逃したんじゃないでしょうねぇ⁉」
 赤兎は、部屋中に響き渡るくらいの大声で喚き散らす。こうなると手がつけられない。……悪魔達はまた、死を覚悟した。
「――俺ならここだよ」
 少女は気付いていなかったが、部屋の奥にあるバルコニーへと続く窓は開け放たれていて……カーテンが風によって、ヒラヒラと室内で揺れ動いている。
 ティターニアは悪魔達を外に出すと、ゆっくりと窓の外に足を運んだ。

「こんなところで何をしていたんですの?」
「……お前が寝たから月を見てた」
「あらぁ? 逃げる事も出来たでしょうに?」
「無理だろ。扉の前には門番みたいに仮面達が大勢いるっていうのに」
「ふふ、とても冷静な判断だこと♪」
 ティターニアは賢く冷静な【人形】を気にいってはいたが、些か情熱にかけると思っていた。美しいだけで面白味のないオトコ。……ああつまらない。
 退屈を嫌う飽き性な【妖精】は……やはりソウはただの代用品でしかないなと思っていた。
 ――早く【本物】が欲しい。
 不要になったこの人形は、ミズホの前で美しく殺してあげましょう。……ふふ、楽しみですわ。



「――赤兎は儂に言うたよ。村で見かけた人形が怪しいと。山への通り道じゃし、儂も村には何度も訪れた事があったんで、赤兎の言うとる少年の人形には勿論心当たりがあった。しかし、じゃ。儂にはあの人形にそんな力があるとは思えなんだ」
 狸は大きな溜息を吐くと、眉を下げ、とても悲しそうな表情を浮かべた。
「赤兎の精神は病んでおった。彼女はよく【演じる】という言葉を口にしておったが……儂にはとてもじゃないが演じているレベルには見えんかった。ここでも、書物を読んでいたかと思うと、突然発狂し、暴れたりしよる事も度々あった。しかし……あん娘はいつもその事を覚えとりゃあせんかったから、儂はあん娘に何も伝えようとはしなかった。双子達にも赤兎の狂気を相談をされておったから、隠れて様子を伺ったりもしたが……命あるものを残虐に殺しているあん娘の姿は、もはや正気の沙汰ではなかったわい。あれが演技だというならば……何故、誰の目も触れていない場でも演じる必要がある?」
「お爺さん……」
「赤兎は病気だったんじゃ。あん娘は額に当たった石に人形の呪いが施されており、おかしくなったと思い込んでおったが……呪いなんてもんはかけられとりゃあせんかった。きっと、生き物を殺さなければ傷が痛み、殺せば痛みが治まるというのも思い込みから生まれたもので……あの殺戮衝動は全て、あん娘自身が望んだ行為だったんじゃよ。それを受け入れられない、認めたくない赤兎が、恐ろしさのあまり、真実に向き合おうともせず記憶を切り離す事で本能的に己を守った。しかし、それが恒常化し……次第に【表】の自分とは別の、記憶や感情、意志を持った【裏】の自分を生み出してしもうた。……儂は、今でもそう思っとる」
 ――解離性同一性障害。
 確か……本人にとって堪えられない状況を【それは自分の事ではない】と感じたり、その時期の感情や記憶を切り離して、それを思い出せなくする事で心のダメジを回避しようとする。その中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって表に現れるものが……解離性同一性障害だ。
 母親の言いつけを通り、真実を告げぬまま……双子を懸命に守ってきた赤兎。
 彼女だってまだ幼かったのに、しっかりしなきゃと自分を奮い立たせ、感情を表に出さないようにした。……それが強い精神的ストレスを生んだのだろう。
 安心していられる場所の喪失は、どれ程彼女の心を蝕んだのか。
「……でも! あの人形は確かに私の前でも会話をしていたわ! 彼女のただの思い込みだったとは思えない。それに、島で赤兎が双子達に焼かれた時、あの人形が赤兎を連れて逃げたのを双子達はちゃんと見てる!」
「それなんじゃよ。けど儂には全く何の気配も感じんかった。そのような強力な力を持つ者が、たとえその力を隠そうとしても、多少は漏れ出すもんじゃ。だから、最初はただの人形だったものを、赤兎が何らかの方法で力を分け与えたのではないかと儂ゃ睨んでいるんじゃが……」
 狸は後ろ頭をボリボリと掻き、お手上げだと言わんばかりに顔を渋くさせた。
 すると、ずっと黙って話を聞いていた仙人が『もしや……』と、口を開いた。
「その人形は、はなから人形では非ず……神の類なのかもしれん。しかし神とは神々しきもの。気配がわからん筈はない。そこで考えられるのはただ一つ。もしかしてそやつは、既に死んでおる者かもしれんぞい。――死は無。幾ら力が強力であろうが、プラスのものは感知出来ても、マイナスのものを感知する事は困難じゃ。狸の精進が甘かったのかもしれんのう。まぁ、真実がどうなのかはわからんが……」
「な……爺さん! 儂が見誤ったとでも言いたいんかい⁉ ……そんな筈はない! あの人形は、確かにただの人形じゃった! 間違いない!」
「――狸。目に視えるもの、直接感じ取れるものだけを信用するではないぞ。お主のそれはおごりじゃよ。思い上がりもいいところじゃ。目に視えなくとも、感じる事が出来なくとも、存在する【真実】は確かにある。世界は広いんじゃ。……自分の物差しで測るではない」
 仙人の言葉に、狸の老人は口を噤む。仙人は、そんな狸に構う事なく話を続けた。瓶の中の酒は既に空になっていたし、仙人の顔は真っ赤だったけれど……酔いが回っているわけではないという事は、その真剣な表情から読み取れた。
「赤兎はお主を頼った。赤兎が信じられるのはお主だけじゃったからのう。……しかし、お主は赤兎の言う事を【心の病】だからと真摯に受け止めず、全てが思い込みからくるまやかしだと決めつけた。……厳しい事を言うようじゃがのう。今回の事はお主が招いた結果じゃ。……勿論、赤兎は悪い。同様に黒兎と白兎も悪かった。しかし、狸。やはりお主が一番悪い」
 今日の仙人は、少し厳しいような気がした。確かに人形が喋っていた事から……あれがただの人形じゃないという事に間違いはない。けれど、狸は狸なりに赤兎を想いやっていた事は、言葉の端々から伝わってくるのに……
 不気味な静けさが周囲を包み込む。やがて、狸は俯いていた顔を上げ、小さく口を開いた。
「……だな。そん通りだよ、爺さん。何故もっと親身になって聞いてやらんかったのか、今になって悔やむわい」
「その狂気に気付いておりながら、赤兎を双子達の傍に置いておったのが最大の罪じゃな。あやつらは早急に離すべきだったんじゃ。お主を慕っておったんじゃろうが? 赤兎が悩みを打ち明けた時に、無理にでもここに連れてきてやれば良かったんじゃ! 赤兎は逃げ場を……居場所を求めておった。狸、それはお主にしか作れんかったもんじゃ。それをお主は見捨てたも同然じゃ」
「仙人! そこまで言わなくても……!」
「……いいんじゃよ、娘さん。爺さんの言う通りじゃわ。儂が悪かったんよ。儂の罪は充分理解した。ちゃんと責任を取ろう。……爺さんっ、頼む。不甲斐ないこの儂に……力を貸してやってくれ!」
 狸の老人は頭を机に擦り付ける。その姿を見た仙人は『ふぅ』と溜息を吐きながら言った。
「……狸には【この酒】の借りもあるからのう。顔を上げんかい、この馬鹿たれが」
 仙人は、狸の背中を容赦なくバシバシと叩く。『痛い、痛い!』と笑いながらも、狸の目尻に涙が浮かんでいるのがよくわかった。
「とにかく、これからどうするかじゃ。夜宴の島にかけられとる結界が強力過ぎて、儂らには手も足も出んわい。……ところで娘さんや? 話は逸れてしもうたが、先程の儂の発言に何か思い当たる節があるように見えたのじゃが……どうじゃ?」
「あっ!」
 私は仙人の言葉に反応する。……そうだった。二人のイザコザからつい失念してしまっていたが、確かに気になっている点があるのだ。
 ――【神の類】、そして、それは【既に死んでいる者】。
 その言葉は、私が魔女の所で気付いた事を決定付けているもののような気がした。……私は、恐る恐る口を開く。
「その……さっき仙人が言っていた事で、少し……気になる事が」
「何じゃい? 話してみぃ」
 私は、ゆっくりと呼吸を整えてから……コクリと頷いた。
「……シロくんがクロちゃんに、【赤兎は死の神の加護を受けている】と話しているのを偶然聞いちゃったの。それに赤兎も、自分の事を【死を司る神の後継者】と言っていたわ。だから私は、赤兎と人形の背後には死神の存在がある。――そう思っていた」
「ほう。……それで?」
「でもね魔女の隠れ家で、遥か昔に人間が書いたという書物を見せてもらったんだけれど……魔女は、呪いや黒魔術の類から……恐らく、その死の神はブードゥー系の神なんじゃないかと推測したの。そこには、ブードゥーの死神の風貌が書かれてあったのと……その神は、葉巻やお酒を好むと書いてあった。その二つの単語を……私は、確かに船の中で聞いたの」

『エ〜! ツマンナイ、ツマンナイ! ツマンナイッタラツマンナイ!』
『……葉巻とお酒を用意させるから我慢おし』

「そして赤兎は、人形の名をゲーデと呼んだ。ちなみに、その死神の名も……」
「……ゲーデ、というわけじゃな?」
「えぇ。その風貌は全く異なるけれど……ヒトが書いたものだもの。誤りがあってもおかしくない。【死神ゲーデ】とは、正真正銘あの人形の事だったんだわ」
 私が二人にそう伝えると……仙人は方杖をつき、狸は腕を組みながら考える素振りを見せた。
 仙人はどうかわからないけれど、狸の老人はゲーデという存在に全く心当たりがなさそうに見えた。宙に無数のクエスチョンマークが浮かんでいる。
「――ふむ。確かにそう断定するべきかもしれんな。偶然にしては、ちと出来過ぎてるしのう。……しかし、あの人形自身が死神というならば、敵が一体少なくなったという事じゃ。儂らにとってはある意味ラッキーじゃわい!」
 仙人はそう言うと、ケタケタと笑った。その横では狸の老人が『真面目に考えんしゃい!』と注意を促した。
 私は仙人に【ゲーデ】という存在に聞き覚えがあるかと尋ねてみると、仙人は黒目を右上に寄せながら『うむぅ』と記憶を巡らせた。
「……聞いた事があるくらいじゃなぁ。別名、【バロン・サムディ】。確か……【十字架男爵】や【墓地男爵】とも呼ばれておったかのう? とにかく、生と死の間の仲介者とも言われとる存在じゃよ」
 仙人の言葉に返事を返そうとしたその時、狸の老人が私を見ながら、驚いたように素っ頓狂な声を上げた。
「お、おおぉい! む、娘さん! その手……!」
 狸の言葉に反応し、私は急いで手のひらを見つめる。すると、その指先はキラキラと光り、薄っすらと透けて見え始めていた。
「うむ。そろそろ、時間のようじゃな」
「……え? って、えぇーっ⁉ もうそんなに時間が経ってしまっていたの⁉ 仙人! お爺さん! ……どうしよう⁉ 私、島に戻っちゃうみたい!」
 これからの作戦なんて、まだ何一つとして決まっていないのに! 
 私の左右の指先はキラキラと光り輝き、徐々に第二関節まで通過した。きっとこの光が全身を包み込んだ時、私は島に強制送還させられる。……タイムオーバーだ。
 私が不安気に二人を見つめると、仙人は穏やかな顔を見せながらニコリと笑った。
「……娘さん、よう来てくれたな。安心せい、儂に任せるんじゃ。娘さんがここに来てくれた事で突破口が開けたわい! ――狸ッ! 儂が今からお主を奴らに感知出来んくらい小さな生物に変えてやる。その妖力もサイズに比例し、簡単にはばれん筈じゃ。娘さんと一緒に先に行け! 儂は別の方法を探すとしよう!」
「ち、小さな生物⁉ 蚊か⁉ それとも蟻か⁉」
「もっとじゃ! もっと小さいものに変えねばあの結界を掻い潜る事は出来ぬ!」
「けどよ、爺さん……小さけりゃ小さい程、膨大な妖力が必要となるぞ⁉ 大丈夫なんかい?」
「はっ、抜かせ! 儂もまだそこまで衰えとりゃあせんわ! このたわけもんが! ……確か、世界で一番小さいとされているアザミウマタマゴバチという寄生蜂がおったのう。――それでいこう!」
 仙人は壁に立てかけておいた杖を手に取り、呪文のような言葉を唱えた。狸の身体はみるみる縮んでいく。
 仙人の呼吸は荒くなり、額から大量の汗が流れ始める。やはりきついのだろう。
 杖を持つ手もプルプルと震えていたが、仙人は休む事なく呪文を唱え続けた。
 狸はどんどん小さくなり、途中で昆虫の姿へと変化する。私の身体は、もう殆ど光に覆われ始めていた。
「あ、あれ? 狸のお爺さんが消えた……」
「消えとりゃせんわい。小さ過ぎて、肉眼では確認出来んだけじゃよ。……狸、聞こえておるじゃろう? 出来るだけ娘さんの内部にいるが良い。くっついているだけじゃ結界や砂時計の効果に弾かれてしまうかもしれんからのう。中におるんが一番じゃ」
「内部⁉ 内部って何⁉ どういう事⁉」
「口の中や鼻の穴の中、耳の穴……幾らでもあるじゃろうて」
「……嫌だ! 何かそれすごく嫌だ! 絶対に嫌だ! 気分的にも嫌だ!」
「ガタガタ抜かすな! 少しは我慢せんかい! はぁ~……儂はちぃと疲れたわい。ここで少し休んでからどうにかしてそっちに行く手立てを考えてみるでのう。……では、達者でな」


 まるで異次元に迷い込んだような感覚だった。凄いスピードで背景が変わっていく。
 今、私は真っ暗な世界の中心にいた。周りには、星のような粒子が沢山浮かんで見える。それは赤だったり、黄色だったり、緑だったり……
 ――そう、あれだ。目を閉じたらカラフルな幾何学模様が蓋の裏に見えたりするような……それと、とてもよく似た感じ。
 その光の粒は花柄に見えたり、唐草柄に見えたりで……まるで宇宙の中を彷徨っているかのようにも思えた。
「お爺さん……傍にいるよね?」
 返事がないのはわかっていた事だが、何らかのアクションでもとって、その存在を知らせて欲しいと思ってしまう。……まぁ、鼻の穴からひょっこり顔でも出された暁には、きっと泣きそうになると思うが。
 結局、何のアクションもないまま……私の問いかけは虚しくも、闇の中へと消えていってしまった。

 ――ふと、ソウくんの顔が頭をよぎる。彼と知り合ってから、実はまだひと月も経ってはいない。
 それなのに……こんなに短期間で、これ程までに大きくなっていた。彼の存在が、私の人生を大きく変えてくれた。
 ……ずっと、一人でいいって思っていた。つまんない人生を、この先何年も、何十年も過ごして……そうやって全てを終えていくんだって、そう思っていた。
 なのに――

『あの……どうも。面接にきました』

『……でもね、橘さん。この世界には美しいものなんて一つもありませんよ。……だから人は美しいもので溢れている絵画や彫刻、映画に小説など……人の手により作られた偽物の美しさに魅了されてしまうのです』

『俺の事はソウでいいよ、ミズホ』

『永遠に続く夜の宴。それは、不思議で奇妙で恐ろしく……そして何より美しい。悪魔や魔女の宴とも呼ばれるものだ。不気味な島で開かれる夜の晩餐。夜の間はその島で過ごす事になり、朝日が昇れば元の世界に戻れる。……その島の事を、住人達は【夜宴の島】と呼んだ』

『……それは教えられない。答えたくないんだ。自分の素性ほど、愚かで惨めなものはないからね。けど、協力してもらうんだし、一つだけ……ミズホから見て俺という人間が掴めないと思うのなら、それは全て本当の俺ではないからだよ。でも君が見てきた俺は全て、正真正銘本物の俺自身に違いない。……その矛盾、君にはわかるかな?』

『……ミズホが見つけてみてよ。本当の俺自身を。その謎が君の中で、また新たな一つの物語を生み出すんだ』

 彼の言葉が、頭の中を駆け巡る。

『ミズホ』

 ソウくん、ソウくん……貴方に逢いたい。
 目を閉じると、【夜宴の島】が視える。黒兎や白兎はいつものように楽しい遊びを考えたり、悪戯をする。皆、最初の方こそ怒ってはいるものの……最終的には『やれやれ』と、呆れたような声を出して笑っている。なんだかんだ言っても……きっと皆は、双子達の事が大好きなんだろう。
 飲兵衛の老人達は浴びるほど酒を呑み、顔を赤くしながら盛り上がっている。中には悪酔いし吐く者や眠りこけている者もいるが、とても楽しそうだ。
 ――そうだ! たまには私もパーカッションを叩いてみたり、オレンジの炎を纏うトーチを大きく回してみたり、獣達と一緒に踊ってみようか? 
 それとも童子達と一緒に、誰が一番大きなシャボン玉を作れるかを競ってみようかな? 
 身体に害のない一過性の魔法のドリンクならば、また飲んでみてもいい。レッドナイトムーンはお断りだが、それを飲んだ自分がどう変わるかには少しだけ興味がある。……こんな事を言うとまた、ソウくんに怒られちゃうかな? 
 あの麗しき歌姫と一緒に歌を歌ってみたい。実は歌うのが好きだ。上手いか下手かは別として……鎌鼬は私の歌でも華麗に舞ってくれるだろうか? 
 笛の音が聞こえ、お祭りのように賑わいを見せる夜宴の島……
 あの広い海のどこかには、色褪せぬ美しさを持つ人魚が……今宵も水飛沫を上げて、優雅に泳ぎ回っている事だろう。
 私と彼は人魚に向かって手を振ると、互いに顔を見合わせて笑う。
 そして、きっと……こう言うんだ。
「夜宴の島に来れて……本当に良かった!」

 夜宴の島……あの夜を、もう一度――

 私がゆっくり目を開くと、周りは光で満ち満ちていた。私の身体は、まるで光の中に飛び込んだように同じ輝きを見せる。
「――ソウくん、今から行くね。どうしたらいいかなんてわからない。どうすればうまくいくかなんてわからない……けど、行くよ。だから……待っていて!」
 私が出来る事なんて限られてる。……けれど、やれる事はやってみせる。とにかく、赤兎と人形をどうにかして離さなければ。そうすれば、きっと突破口が生まれる筈。
 あの奇妙で不思議な夜宴の島に、皆で帰ろう。
 恐ろしい中に存在する、あの美しさを……私達は既に知ってるのだから。


***

 パチリと目を開くと、その先に見える天井。
 独特な模様が描かれた悪趣味な垂れ幕や、干からびた{蜥蜴}(とかげ)などが吊られているのが目に入る。
 私は上半身を起こし、周囲を見渡した。
 ここは魔女の隠れ家だ。良かった……無事に帰って来れたんだ。……しかし、魔女の姿が見えない。
 ふと顔を首元に向けると、円球の中にはめ込まれてあった砂時計は、やはり粉々に砕け散ってしまっていた。
 私はそのジャラジャラとしたものを首から外すと、祭壇の上にそっと置いた。
 それにしても……魔女は一体、どこへ? また外に【偵察】にでも行っているのかな? ……鼠に化けて。
 けど私がまだ眠っているというのに、ここに一人置いていくなんて酷くない? まぁでも、ずっと見守られてるのも何だか不気味だし……いっか。どうせすぐに戻ってくるだろう。
 私は静かに祭壇から降りた。
「……狸のお爺さ~ん。ちゃんといますか~?」
 あの術の効果は、一体いつになったら消えるのだろう? とにかく小さすぎて見つけられないし、言葉も話せないのだから、島までちゃんとついて来てくれてるのかさえわからない。

 …………おる……じゃ……ひっひ…………

「――ん? 今、何か聞こえたような……?」
 狸のお爺さん……? 私は周囲の音に耳を澄ませた。
 ……違う。確かに何か聞こえるけど、外の方からだ。よくよく聞いてみたら、何だか少し騒がしい。
 外で、何かが起こっている……? 
 もしかして、黒兎が戻ってきたのだろうか? ――いいや、まだ安心するのは早い。赤兎の追っ手がここまでやってきたのかもしれない。油断は禁物だ。
 ……とにかく、慎重に。

 私はまじないの描かれた扉を出来るだけ静かに開けると、洞穴をゆっくりと進んだ。
 声は徐々に大きくなっていき、微かにだが、話している内容が聞き取れるようになってきた。
 この声は……間違いない。魔女の、お婆さんの声だ。
 私は入り口付近でしゃがみ込み、そっと外の様子を伺った。
「もうすぐじゃ。もうすぐあの人間の娘が目を覚ますぞい。ひっひっひ」
「……中に突入を。娘を連れ出し、ティターニア様の元へ。急げ!」
 洞穴の周りには、昨夜からずっと私を捜していたのか、朝だというのに松明を掲げた悪魔の面の衆が大勢群がっていた。
「突入⁉ お主ら、儂の家を潰すつもりか⁉ それがこの密告者に対する、主らの礼儀とでも言うんかい? いいから大人しく黙って待っておれ! 心配せんでも娘はちゃあんと出てくるわい。……それより、その【ティターニア様】とやらにたんまり褒美を貰わないかんでのう。ちゃんと話を通しておるんじゃろなぁ?」
「ティターニア様はお前を配下にいれてもよいと仰っておられる。勿論金銀財宝も、お前が望む分だけ用意をしようとの事だ」
「ひっひっひ。それは中々の待遇じゃのう。……気に入った!」
 ――ちょっと待って、これはどういう事⁉ 密告者ですって⁉ 
 あのお婆さん……まさか、また裏切ったの⁉ 
 信用出来ないとは思っていたけれど、こんなに簡単に手のひらを返すだなんて……! 

「儂の秘伝の眠り薬は……よく効くでのう。しかも目を覚ます時間に寸分の狂いもない。すぐに外に出て来るじゃろう。あやつには他に逃げ場なんぞないんじゃからな」
 ……秘伝の眠り薬? ――おかしい。砂時計の事は誰にも話していないの?
 完全に裏切ったわけでは……ない? 
 ――成る程。魔女はあくまで観覧者。どちらの味方にもつかないくせに……あわよくばどちらの甘い汁も啜ろうと考えている。
 だから……私が砂時計の力を使い、助けを求めに行った事までは言わなかった。
 それでもし上手くいけば……魔女は望み通りにあの人形を手にする事が出来るかもしれない。……私を餌にする事でね。
 ようするに、早く人形を奪ってこい。……そういう事でしょう? 
 そして……万が一上手くいかなかった時の事を考え、敢えて私を売り、赤兎に忠誠を誓ったフリをして近付いておく。そのまま配下となり良い思いをする事も出来るだろうが……あの老婆の事だ。隙あらば、人形を奪って逃げようとするだろう。……ようは私に、時間を稼げという事だと思う。
 実に用意周到だ。私達はまた、魔女の手のひらの上で転がされようとしている。
 ……いいわ。なら転がされてあげよう。
 どちらにしたって、私が出来る事は……もう全てやり尽くしたもの。後は船に戻り、赤兎と直接対決しかない。それを魔女は……わかっているのだから。
 私は立ち上がり、老婆や悪魔達の目の前に姿を現した。
「ほれほれ、きよったわい!」
「……お婆さん! また裏切ったのね⁉ 信じられない!」
「ほっほ。……長いものには巻かれろ、と言うじゃろうが? 簡単に何度も騙される方が悪いんじゃよ!」
「さいってー……」
 私達が、演技にも近い小競り合いをしていると痺れを切らしたのか……悪魔面の一人が声を上げた。
「――娘! 私達と来い! ティターニア様からの命令だ! 抵抗する事は許さぬぞ!」
「……はいはい。わかりましたよ! 行けばいいんでしょ? 行けば! 大体、こんなに囲まれちゃってたら逃げられる筈もないでしょうが」
「よし、……娘を捕らえよ!」
 悪魔面の一人が私の肩に手をかける。
 すると、突然森の中から、ローブを身に纏った小さな人物が飛び出してきた。深緑色のローブは少し大きめで、地面に付くか付かないかギリギリのライン。顔は暗くてはっきりとは確認出来ていないが……唇は真一文字よりも、やや端が上がっているように見える。
 悪魔達は、いきなり現れた来訪者に強い敵意を向けた。
「……貴様、誰だ⁉」
 悪魔がそう尋ねると、少女は足で地面を思いっきり蹴りつけて言った。
「……あ~ら? 貴女達が遅いからわざわざ出向いてやったと言うのに……なぁに? その態度⁉ あたくし、許しませんでしてことよぉ?」
「――その声はティターニア様! し、失礼致しました!」
 ……ん? ティターニア? 何か、おかしくない? 
「貴方……あたくしに対して随分無礼な態度をとりますのね。このあたくしが誰かご存知? あの死の神の加護を一身に受けた、愛の精霊ティターニアでございましてよぉ? 貴方なんてけちょんけちょんにしてしまいますですわぁ!」
「そ、それは……! 本当に申し訳ありませんでした! どうか、お許しを……!」
「はぁ~。……まぁ、いいでしてよ、ですわぁ。……つ〜か、あたくしこの娘と話が御座いましてよ? 貴方達は、先に魔女を連れて船に帰っておくとよろしいですわ。お~っほっほっほ! さっさと行かないと……八つ裂きのぐちゃぐちゃのミンチにしてやるでございますわよぉ! うふふ……ひゃはははは! うひゃ! うひひひ!」
 少女は、まるで気が狂ったかのように笑い続ける。その凄まじく異様な光景に……悪魔達がたじろいでいるのがよくわかった。
 そういう私はと言うと、あまりにも間抜けな茶番劇に、思わず目が点になっていた。
 ……どうやら、隣にいる魔女も気付いているらしい。魔女は俯きながら、必死に笑いを堪えていた。
「は……はっ! わかりました! 我々はすぐに退散しますので! それではティターニア様、先に失礼致します。……おい、お前っ! ついて来い!」
「ほっほっほ! まぁた面白い事になってきよったのう! ……では、儂は一足先に船へと案内してもらうとしよう。――娘よ、健闘を祈っておるでのう……ひっひっひ」
 悪魔達はローブの少女に一礼すると、老婆を連れ、素早くその場から消え去った。

「…………危機一髪だったね、クロちゃん」
 私がそう言うと、目の前にいた【偽】のティターニアはフードを外し、顔を上げた。
 あの時、【本物】に無残にも切り落とされてしまった長い髪は、肩上辺りで綺麗に切り揃えられていた。
 少女は相も変わらず、凛とした、美しくも強い表情を私に見せる。……と思いきや、大口を開け、目を思いっきり見開きながら私に言った。
「お、お前! 気付いてやがったのかよ⁉」
「……わからないわけないでしょ。あの変な日本語と下品な笑い方で。しかも途中、普段の口調で話してたところもあったし、バレないかヒヤヒヤしたよ……本当に」
「マジかよ……完璧な変装だと思ってたのに」
 あれが、完璧……
「もしここに本物がいたら、クロちゃん殺されてたよ。……きっと」
「へっ! 見つかりゃあ、どっちにしたって殺されんだ。んなもん怖がってられるかっつの!」
 黒兎はそう言うと、大きな岩の上にひょいっと登り、どかっと腰を下ろした。
「……しっかし、森も死んじまったな。空気は淀んじまってるし、生き物はみーんないなくなっちまった」
 ぼんやりと空を見上げ、そう呟く黒兎に……怒りや悲しみの色など見えない。
 黒兎は今、何を思っているのだろうか? 
 私は堪らない寂寥感に襲われながら、そんな事をふと考えていた。
「……ねぇ、クロちゃん。一体、今までどこに行ってたの?」
「あ〜……ちょっとな。まぁ、お前に言ってもわっかんね〜ところだよ! ……深く聞くなよ? 面倒くせぇんだから!」
 相変わらず口調は荒っぽいものの、その顔には微かに、はにかんだような笑顔が見て取れる。
 こんな事になっていると言うのに、黒兎の声はとても弾んでいて、今までにはない晴れ晴れとした雰囲気に包まれていた。
 何か良い事でもあったのだろうか? ……とにかく、黒兎のこんな笑顔を見たのは久し振りだ。
 もやもやと霧がかっていた心が次第に晴れ、気持ちが落ち着いていくのがわかった。
 やはり、黒兎がこの場にいる事はとても心強く安心出来る。大袈裟かもしれないが、何だか全てが上手くいくような……そんな気がした。
「つ〜か、お前……白兎とソウと一緒に船に行った筈だろ? 何でこんなとこにいんだよ? しかもまた魔女に騙されたとか言ってなかったか? ……お前って、マジで救いようのない大馬鹿もんだよなぁ」
「い、色々あるの! 事情は後、後!」
 私は一瞬、黒兎に……私が知り得た事情を話してみようかと思ったが、やめた。 
 黒兎に全てを打ち明けるのは、白兎を助けてからの方が良い。
【あの話】は、二人が揃っている時に話すのが一番だと思ったから……
 私は黒兎に、『今は言えないけど……後でちゃんと伝えたい事がある』と告げた。
 黒兎は『……んだよ、今言えよ! 気になんだろうが!』と言ってきたが、取り敢えずは納得してくれたようだった。
 助けを求めに狸のお爺さんの古道に行った事と、そこに仙人もいた事。そして、狸が仙人の妖術によって……今、この島にいるかもしれないという事だけは、ちゃんと話しておいた。
 黒兎は『へぇ! じゃあ、この辺に爺さんがいるかもしんねぇって事だよな⁉ そりゃ、心強いじゃん! おい、爺さん! ちゃんといてくれよな~?』と言うと、嬉しそうに笑った。
 私は黒兎に『何か策はあるのか?』と問うが、黒兎ははっきり『ない』と答えた。
「これから……どうしようか」
「さぁな! ま、何とかなるだろうよ!」
「そんな、悠長な……!」

 ……とにかく、こうしていても埒があかないので取り敢えず私達は船に向かう事にした。
 黒兎が先を歩き、私はその後をついていく。前を行く黒兎の背中は、とても小さく見えた。
 私は黒兎の様子がおかしい事に、何となくだが気付いていた。いつも通りといえばそうなのだが、やはり何かが違った。
 今日の黒兎はよく笑う。確かに先程まではその笑顔に元気付けられたし、安心出来た。
 けれど今の私は、黒兎の笑顔の裏に隠された【覚悟】を見ているような気がしてならなかった。
 ――もしかしたら黒兎は、死ぬつもりなのかもしれない。
 たとえ死んでしまったとしても、黒兎はきっと最後まで赤兎達と闘い、夜宴の島を守ろうとするだろう。
 もしそうなれば……私に一体、何が出来る? 
 ただ見ているだけしか出来ないの……? 
「……おいっ!」
「え……?」
 黒兎は、お灸をすえるが如く高く飛び跳ね、私の頭に頭突きを食らわせた。
「いったぁ……!」
「へっ! ざまぁみやがれ!」
「いきなり何するのよ!」
「お前どうせまた、ど〜でもいい事をウジウジと考えてんだろうが。……ったく、本当に面倒くせぇ女だな。お前は色々考え過ぎなんだよ! ちったぁ、前向きに考えられねぇのかよ?」
「だって……」
「いいか? お前の考えは全部【誤解】だ! 【思い込み】だ! 【見当違い】なんだよ! ばぁか! あたしは死なねぇよ! あたしが死んだら、白兎が一人になっちまうだろうが」
「! クロちゃん……」
「狸の爺さんに、あいつの身体の事……聞いたかよ?」
「……うん、聞いたよ。だけど島から授かった力で、もうシロくんの病気は完全に治ったって……」
「……確かにな。一見、もうどこも悪いようには見えねぇ。けど、あたしは知ってんだよ。爺さんが念の為に置いていった薬を、あいつが最近隠れて飲んでいた事を。……ったく、バレてねぇとでも思ってんのかね? あの馬鹿野郎は」
「えっ……?」
「あいつの身体は治ったわけじゃねぇんだよ。きっと……永くは生きられない」
 急に目の前が真っ暗になるとは……正にこういう事を言うのだろう。

 ――シロウサギハ、ナガクハイキラレナイ。
 
「……つってもよ、人間のお前よりかは遥かに永く生きるだろうけどな! だから、あんま心配すんなって! あいつはそう簡単に死んじまうようなタマじゃねぇよ。……ただ、赤兎があんなになっちまって、その上あたしまでいなくなっちまったら、あいつは正真正銘、独りぼっちになっちまう。……あいつは、あたしが最期を看取るって決めてんだよ。だからあのクソ女に、そう簡単に殺されるわけにはいかねぇんだ。あたしも、あいつもな。……とにかく! 今は白兎とソウを助け出す事だけを考えようぜ」
「……うん。わかった」
 正直、【神】とされる者に【死】なんて言葉など、まるで縁がないものだと思い込んでいた。
 そもそも、この夜宴の島に来るまで……神様なんて眉唾な存在を信じてさえいなかったのだ。
 神様にだって……きっと寿命はある。神と人との子である双子達は、多分本物の神のそれよりもずっと短い筈だろう。
 もしも神が死なないというならば、この世界は人より神の数の方が多くても、何ら不思議ではなくなってしまう。
 しかし神とは、遥か古から崇められてきた特別な存在だ。そんなに沢山いるようなら、それは最早……唯一の神とは呼べないだろう。
 生と死は、いつだって平等に与えられてきた。
 生きている者は全て皆……いつかは死んでしまうのだ。それはきっと、神様だって同じ。
 ……駄目だ。頭が混乱してきた。黒兎も、白兎は人間である私より、ずっと永く生きると言ってくれたのだ。ならば、今は余計な事を考えるのはやめておこう。
「……クロちゃん、急ごう! 早くシロくんとソウくんを助け出さなきゃ!」
 今後の事すらどうなるかわからないんだ。先の事ばかり考え、立ち止まってる時間はない。今は、二人を助け出す事に集中しよう。
 そしてもう一度……全員揃って、あの楽しい宴の夜を過ごすんだ。
 私は、そう強く胸に誓った。



「……さぁて、どうするかねぇ?」
 私達は木陰に隠れて様子を伺っていた。船の周りには誰もいない。
「見張り……一人もいないね」
「……赤兎はもう、あたしの気配に気付いている筈だ。悪魔達の報告もあっただろうしな。恐らく、『真正面からどうぞ? お待ちしておりましてよ。おっほっほっほ!』みたいな感じなんじゃねぇの? ……ったく、馬鹿にしてやがるぜ」
 確かに、赤兎ならそう言いそうだ。自分は玉座に腰を下ろし、私達が来るまで余裕たっぷりに待っているだろう。
『……どうしてやろうか?』と、顔に嫌な笑みを浮かべる彼女の姿を想像してしまう。
 すると、黒兎は立ち上がり、船の方へと一歩足を踏み出した。
「ちょ、ちょっと待って! どこ行くの⁉」
「? 中に入るに決まってんだろうが?」
「何で馬鹿正直に行っちゃうの⁉ 罠かもしれないでしょ⁉」
 私が咄嗟に黒兎のフードを思いっきり後ろに引くと、少女は『うげっ』と悲痛な声を上げた。
「あっ! ……ご、ごめん! クロちゃん」
 私が手を緩めた瞬間、黒兎は飛び跳ね、勢いよく私の頭をパシンと{叩}(はた)いた。
「なっにすんだ! てめぇ! 殺す気か⁉」
「だ、だって、クロちゃんが勝手に行こうとするから……痛い」
「隠れて行こうがなんだろうが、どっちにしたって気配でバレんだよ! だったらこそこそしても意味ねぇだろうが!」
「それにしたって、もうちょっと考えても……」
「じゃあお前、何かいいアイディアでもあんのかよ?」
「それは……」
 いくら考えてもいい方法なんて思い付かない。やはりここは強行突破しかないのだろうか? 
 けれど敵が待ち構えているのがわかっているというのに、ただ闇雲に突っ込むというのは……みすみす捕まえて下さいと言っているようなものだ。
 捕まってしまえば、誰も救う事が出来ない。一体、どうしたものか……
「ほら! 何もねぇんじゃね〜か!」
「もうっ! ちょっと待ってよ! 今考えてるところなんだから!」
 ……そうは言ってみたものの、完全にお手上げ状態だった。
 どう考えても不利な条件が揃い過ぎている。何とか、こちらに有利な状況に持っていける方法が見つかれば……
 船の中は不利。そして……たとえ変装したり、見つからないようにこっそり進入しても、黒兎の気配ですぐに居場所がバレてしまう。
 けれど、彼と白兎は船の中。そして、赤兎はきっと……船の中から動かない。
 ならば、いっその事…………
「そうだよ、クロちゃん! 行くんじゃない! こっちに{誘}(おび)き出せばいいんだよ!」
「はぁ?」
「クロちゃんが派手に暴れて、仮面達を外に誘き出すの! 仮面達はここに来たのは初めて。島の中ならこちらに地の利がある! 赤兎が動けば少し厄介だけど、彼女はきっと動かないわ。面倒な事が嫌いだし、船に残る筈よ。【人質】もいるわけだしね。そして、ただの人間で何の妖力も持たない私の気配は、誰にも感知出来ない」
「お前、もしかして……!」
「――そう。クロちゃんが仮面達を翻弄している間に、私が船の中に潜入する。クロちゃんは出来るだけ仮面達の数を減らしてから私と合流。きっとこれが、最善の方法だと思う!」
「っ……馬鹿が! あたしはあんな悪魔共相手に負けやしねぇけど、お前の方には赤兎とあの人形がいんだぞ⁉ お前……見つかりゃ、即殺されっぞ⁉」
「それでも……二人共死ぬよりはマシだよ。一緒に行動するよりも、別々に行動した方が成功率も格段に上がる! クロちゃんが仮面達を引きつけておいてくれれば、その分私も身動きが取れやすくなるしね。それに私……クロちゃんの足を引っ張りたくないの」
 貴女の事だもの。私に気を取られて、闘いに集中出来なくなる。だって、私がピンチになったら真っ先に助けてくれるでしょ? 
 そうやって、お荷物になるのだけは嫌なんだ。
「……お前って、強ぇよな」
「えっ? 私が……強い?」
「ああ、そこらの男連中よりよっぽど肝が座ってやがるよ。兎狩りの時だって……こんな何の力もねぇ、ただの人間の小娘に、何でこんな勇気と強さがあんだろうって正直思ったぜ。この女は、死ぬのが怖くないのか? ってな」
「私だって、死ぬのはやっぱり怖いよ。……人ってさ、誰だって一度は、消えたいとか死にたいって思ったりするんだよね。今の時代は特に。……けれど、本当に死ぬのが怖くない人間なんてきっと存在しない。怖いよ、でも……誰も決められた死から逃れる事は出来ない。私がここで死ぬか生きるかも、きっと予め決められている事なんだと思う。だったら私、逃げずに立ち向かうよ。それに、もし私が死んだら……丁重に弔ってくれるんでしょ?」
 私がそう言って笑うと、黒兎はぶっきらぼうに言った。
「……あたしが生きていたらな。そん時は、盛大に弔ってやるよ」
「えへへ、賑やかにお願いしますよ? 私が寂しくないように!」
「……ば〜か。誰も死なねぇよ。絶対に全員助けて、何が何でも生き残ってやる。あたしも……――ミズホ! お前もな!」
 黒兎はそう言うと、にひっと可愛らしい笑顔を見せた。
「……合図を送る。それまでお前は海面にでも隠れてろ! 見てろよ、馬鹿オンナとキモ人形! こっからが反撃開始だ!」

 黒兎が『ちょっと待ってろ!』と言い、走っていってしまったので……私は言われた通り、海に浸かり、ちょうど死角になっている場所でこっそりと様子を伺っていた。
 それにしても、とても大きな船だ。今はしんと静まり返っているが、中には沢山の仮面達が潜んでいる。
 奇術師のような、気味の悪い悪魔の仮面。あれを見ているだけで私の背筋は凍り付き、身の毛もよだつ。
 そんな彼等を従えている赤兎と死神は、最早恐怖の塊と言ってもおかしくはないだろう。恐怖という言葉が、この世界に生まれる前の形がきっと……あの少女や死神のようなものだと思う。
 黒兎にああは言ったものの、出来れば彼女達に会わず、二人を助ける事が出来れば……なんて思ってしまう私も、確かに存在していた。
 しかし、万が一赤兎達が人質を置いて外に出たとしたら……それは非常にまずい事になる。
 気配は勿論の事だが、赤兎は島に詳しいので、すぐに居場所はバレてしまうだろうし、何より黒兎が一人で勝てる相手ではない。
 ……何とか上手く、仮面達だけを誘き出さないと。

 そんな事を考えていたら、突然大音量と共に空に色とりどりの煙が立ち昇った。
 ――いつもの、宴が始まる合図と同じものだ。
 これが黒兎からの、戦闘の始まりの【合図】なのだろうか? 
『あ〜あ〜……こちら黒兎、マイクテスト中』
 スピーカーから響き渡るのは、まさしく黒兎の声。……しかし、こんな時になんて呑気なのだ。私は思わず面喰らうと共に、呆れ返った。
 黒兎は一人でブツブツと聞き取りにくい声で喋っていたかと思えば、いきなり大声で叫び始めた。
『お前らぁ〜! あたしの声を聞けぇええ〜!』
 その声のあまりの大きさに、私は思わず耳を塞いだ。スピーカーが引き続き【ブオォン】と耳障りな音を鳴らす。
 私は軽く耳を押さえたまま、黒兎の次の言葉を待った。
『こんの馬鹿共が! いいかぁ? あたしはなぁ! この夜宴の島の継承者、黒兎様だ! てめぇらの傲慢な主人がなれなかった島の支配者だぜ⁉ どうだぁ? すっげぇだろ? それに比べて……赤兎ぃ? お前、本当にだっせぇな! そんなにこの島を手に入れられなかった事が悔しかったのかよ? ぎゃははははは!』
 スピーカーから次々と聞こえてくる罵声に、私は思わず顔面蒼白になる。血の気が一気に引いていくのがわかった。
『島を滅茶苦茶にしたからって、い〜気になってんじゃねぇぞ? こんなもんはなぁ、その気になりゃ、いくらでも直せんだよ、ば〜か! ……お〜い? 赤兎ちゃ~ん? そんなとこに隠れてないで出ていらっしゃ~い? てめぇが、妖精? ……はっ、笑っちまうぜ! その{形}(なり)のどっこが妖精だ⁉ どう考えても悪魔の間違いだろうが? 大体、【ティターニア】だぁ? だっはははは! 笑っちまうぜ! お前馬鹿だろ~⁉ 痛すぎぃ! いい年こいて何ぶっこいちゃってんだか? いっぺんその脳味噌ん中、いじくり回して見てもらえよ。そのイカれた性格もちったぁマシになんだろぉよ?」
 ……きっと黒兎は、赤兎や死神も一緒に外に連れ出そうとしているのだ。恐らく、私の為に……
 けど、そんなのは無茶だ。
 デッキへの扉が勢いよく開き、仮面の衆が外に出る。私は見つからないように半分顔を沈めたまま、より死角の位置まで移動した。
「――ふふ、お馬鹿さんですこと。島に戻らなければ死ぬ事もなかったでしょうに」
 悪魔達の間をすり抜けて、ゆっくりと赤兎が姿を現した。一人の悪魔が赤兎に跪き、拡声器を渡す。赤兎はその拡声器を口元まで運ぶと、大きく息を吸い込んだ。
『とぉっても会いたかったですわ~黒兎! 帰って来てくれて、わたくしほんっと〜に嬉しいんですの! 貴女は昔から、わたくしを苛立たせる事に関しては一流でしたけれど、少しおいたが過ぎるようですわねぇ? わたくし……貴女ほどイケナイ子を見るのは初めてでしてよ?』
 赤兎の声が島中に響き渡る。勿論、黒兎にも届いている筈だ。ほんの一瞬静寂になったものの、すぐに黒兎からの【返事】が返ってきた。
『――生憎だなぁ? あたしもてめぇみてーな性悪女、初めて見たぜ! ……おい、出て来いよ? さっさとケリをつけようぜ? まさかビビってるわけじゃねぇよなぁ?』
『いいですわよ? このわたくしが直々に躾けて差し上げますわ。生存の保証は出来ないですけれど……よろしかったかしら?』
『上等だ。あのブッサイクな人形を連れてかかってこいよ? しっかし……何だぁ? あの人形は。あの夜、炎で焼け焦げてから随分と惨めな姿になっちまったじゃね〜の! アレさ、お前が縫い直したのか? つーか、マジ悪趣味過ぎてお前にぴったりだわ! ギャハハハハ!』
「オ前……今、俺ノ事ヲ馬鹿ニシタナ!」
 不気味な人形は奇怪な大声を上げた。それを見た赤兎は、一先ず拡声器を下ろし、人形を宥めていたが……実際のところ、人形は怒っているのか、それともこの状況を楽しんでいるのか……よくわからない。
「オ~イ、ティターニア! アイツ、俺ガ殺ッテモイイ? 今度ハ俺ガ、アノブスヲ丸焼キニシテヤルヨ! デ、俺好ミニ針ヲ通シテ縫イ付テヤルゼ。イイダロ? ナ、ナ?」
「ゲーデ、少し落ち着きなさい。あんなのはただの虚勢でしてよ? ……それに、黒兎はわたくしの獲物ですわ。いくら可愛いゲーデの頼みでも、それだけは譲れませんことよ?」
 赤兎は『チェッ、ツマンネ〜ノ』とそっぽ向く人形を片手に抱きしめながら、再び拡声器を口元に運び、にこりと笑った。
『――ねぇ、黒兎~? わたくしの脳内の中で、貴女は何度死を迎えたかしらぁ? 沢山沢山、色んな方法で貴女を殺してきましたけれど……今度こそ、リアルにその感触を体験したいものですわ! さぁ、お前達。黒兎を捕まえてらっしゃい』
 赤兎の言葉を聞いた悪魔達は、一斉に空に浮かび上がり、砂浜に着地した。その姿はまるで、悪魔というよりも{死霊}(ゴースト)のように見えた。仮面達は一斉に、美しさを失い、すっかり荒れ果てた森の中へと足を運ぶと、あっという間に見えなくなった。

「……おや? あれ程馬鹿にされたのに、お主は行かないのかえ?」
 赤兎の近くにいた魔女がそう問いかけると、彼女は面倒臭そうに返事を返した。
「この暑い中、あんなジャジャ馬娘を捜しに出るなんて……骨折り損の{草臥儲}(くたびれもう)けですわぁ。わたくし、あんな挑発に乗るほど馬鹿じゃありませんの。それに……うふふ! わたくし、頭は結構良い方なんですのよ」
 ……今の発言はどういう意味に捉えれば良いのだろうか? ただ単に、面倒臭いし挑発には乗らない、とだけ考えればいいのか? それとも……こちらに裏がある事に気付いているのだろうか? 
 或いは、それを打破する方法までも……
「――ちょっと、魔女のお婆様? 貴女は黒兎と娘を捜しに行かないのかしら? わたくし、貴女のその醜く皺だらけの顔を見ていると、とても気分が萎えますの。貴女……確かわたくしの下につきたいんですわよねぇ? なら、しっかりお仕事してもらわないと困りましてよ?」
「ソウダ、ソウダ! 仕事シロ、コノ糞ババア! 女ハヤッパリ若クテ美人ガイイゼ!」
「役立たずは邪魔なだけ。更に姿までこうも醜いとなると、ますますわたくしにとって不必要ですわ。さぁ、お婆様? どうなさるか……決めて下さる?」
 赤兎はクスクスと小さく上品に笑う。それと対比するかのように、老婆は突然大きな声で下品に笑うと、さも愉快そうにこう言った。
「そうかえ、そうかえ……ひっひっひ。そりゃあ迷惑かけたようですまなんだなぁ。儂も年寄り故、兎捜しなんぞは遠慮したいところじゃが……ちょうど森の方に用事があってな。そのついでと言ったら何じゃが、行ってこようかの」
 魔女は術を施し、自らの姿を{烏}(からす)に変えると、早々にその場から飛び立って行った。
 烏は徐々に小さくなっていく。それは、この青い空に……まるで小さな穴を開けたようにも見えた。
 あの黒い穴から、突然闇が溢れ出し……森だけでなく、この美しい空までも黒く染めてしまいそうな気がして……何故かそこから目を離す事が出来ずにいた。
「ねぇ……ソウ? こちらにはお前と白兎がいる。わざわざこんな面倒な事をせずとも、お前達の命を脅かしさえすれば、黒兎達など簡単に捕らえる事が出来るでしょう。なのに、何故そうしないかご存知? うふふ……これはゲームなのですわ。簡単に攻略出来るゲーム程、退屈なものはありませんもの。あの子の舞台にわざと上がって差し上げて、少しの希望を持たせた後にそれを壊す。考えただけでゾクゾクしちゃいますわぁ」
「俺モゾクゾクシテキタゼ! ……ソウダ! ティターニア! アイツヲ捕マエタラ、地下牢ニ閉ジコメテル白兎ヲ、奴ノ目ノ前デ殺シチャオウゼ! ギッタギタノグッチャグチャニナ!」
「いいですわね! 見せしめとして彼女達の目の前で白兎を殺しましょう! 黒兎の苦痛に歪んだ素敵な表情を見れると思うと、わたくし……笑いが止まりませんわ! キャハハハハ!」
 赤兎と人形が物騒な雑談を繰り広げている中、彼は船の手すりに手をかけ、静かに海面を見つめていた。
 ここに自分がいる事を、何とかして彼に伝えたかったけれど……赤兎達にまで見つかってしまっては元も子もない。私は身を隠したまま、じっと静観していた。
 やがて彼は、視線を海から空へと向けた。
 そして――
「……どれだけ歩けば良いのだろうか? 交わる道のいずれかをゆけば……それは必ず、真実へと続く鍵となるだろう」
(? ……何? 独り言?)
 彼は再度、同じ言葉を繰り返した。それも今度は、先程より少しだけ大きな声で。
「どれだけ歩けば良いのだろうか? 交わる道のいずれかをゆけば……それは必ず、真実へと続く鍵となるだろう」
「ソウ? いきなりどうかして?」
「トウトウ頭ガイカレテキヤガッタ! グヒヒ! オイ、ティターニア! コノ男モソロソロ処分時ジャネ?」
「……少し疲れた。俺は先に部屋へ戻る」
 彼はそう言うと、くるりと方向転換をし、背後にある扉の奥へと入っていった。


「…………ふぅ。やっと行った」
 誰もいなくなったのを見計らって、私は砂浜にゆっくりと上がった。しかし……ずっと海面にいたせいで、服はびしょびしょだ。
 衣服は大量の水を含んでおり、とにかく重く、身動きが取れにくい。取り敢えず、手の届く範囲は軽く絞ってみたものの……これは骨が折れそうだ。乾くまで待とうにも時間を無駄には出来ないし……さて、どうしたものか。
 そんな時、暖かくて優しい風がふわりと……まるで柔らかい衣のように、私の身体を包み込んだ。
 この風は、どこから来たのだろう? 
 不思議な事に着ていた衣服は、一瞬にして乾いてしまった。
「……クロちゃん? 近くにいるの?」
 私の問いは虚しくも、誰の返事ももらえぬまま……その風と共に消えていった。
 ……もしかして、狸のお爺さんだろうか? そうだとしたら、無事に島まで来れたという事だ。でも……果たしてあの姿のまま、妖術を使う事など出来るのだろうか? そして、何故姿を現さないのだろう? 
 それに、気になる事が一つ。
「甘い……匂い……?」
 風は優しい温もりと共に、甘ったるい香りを運んできたのだ。……何だろう? どこかで嗅いだ事があるような、ないような……
 まぁ、いいか。きっと、大した問題ではないだろう。
 とにかく服は乾いたのだし、私は当初の目的通り、橋を渡り船の入り口から中に侵入した。

 赤兎達は……二階にある、あの玉座の間にいる筈だ。取り敢えずあの周辺には近付かないようにしよう。
 ……それにしても、見事なまでに誰もいない。数人くらいは残っていてもおかしくないと思っていたのに……こんなに簡単でいいのだろうか? 何だか、不安が募る。
 ゲーデは先程、【白兎は地下牢に閉じ込めてある】と言っていたから……まず、その地下への道を見つけなければ。
 すぐに見つかってくれるといいけど。
「それにしても、ソウくんのあれ……一体、何だったんだろう……?」
 暗記は得意。だから、さっきソウくんが口にした意味深な言葉もちゃんと覚えている。

『……どれだけ歩けば良いのだろうか? 交わる道のいずれかをゆけば……それは必ず、真実へと続く鍵となるだろう』

 ――小説? それとも……何かの暗号だろうか? 
「まさか捕らえられてる状態で、新しい小説を考えたりする余裕なんて……ない、よね?」
 正直、そう言い切れない自分も存在した。彼は、何を考えているのかわからないところがある。もしかして本当に、退屈過ぎて頭の中で物語を考えていたりして。
「……もしそうなら、彼はかなりの大物ね」
 私は思わず、苦笑いを浮かべた。
 けれど、何だか引っかかる。あの言葉に、何か重要な意味があるような気がしてならないのだ。……ただの勘だが。
 とにかく、今は答えが見つからない。けれど……ちゃんと頭の隅には置いておくにしよう。
「クロちゃんが時間を稼いでくれている間に、早くシロくんを助けださないと! ソウくんも、後回しになっちゃうけど……待っててね。きっと助け出してみせるから!」
 私は、目の前にある扉を開いた。



「……いないなぁ。やっぱり、そう簡単には見つからないかぁ」
 取り敢えず、片っ端から目の前の扉を開けて調べ回ってみたものの……一向に地下牢へ続く階段など見当たらない。まだ調べていない場所は、あの奥に見えている扉で最後だ。
 これで見つからないとなると、もう二階に上がるしかない。二階にだって、地下まで続く長い階段があるかもしれないしね。
 ……しかし、二階となると危険度が一気に増す。もしも、開いた扉の先に赤兎達がいたら、その時点で即アウトだ。
「あの最後の扉が、何とか地下まで続いていればいいんだけど……」
 私は大きな溜息を吐きながら、一番奥にある扉の前に立つと、ゆっくりノブを回した。

 中は薄暗く、部屋といえる程の広さはない。扉を超えたその先にはまた扉……と、比較的変わった造りになっていた。
 ――怪しい。これ見よがしに怪しい。
 というか……明らかにここだろう。奥の扉には円型の窓がついており、そこから下に続く階段が見えている。ビンゴだ……! 
 だけど、鍵は開かないし……鍵穴もない。……これって、もしかして【アレ】じゃない? 
 ほら、アクションアドベンチャーゲームとかによくある、パスワードを入力して扉が開く……みたいな。
 私は暗がりの中、周囲をじっくりと見回した。
「……あった!」
 思った通り、【それ】は扉の隣の壁に埋め込まれていた。
「やっぱり……! これでパスワードを入力したら扉が開く仕組みなんだわ! そうとわかれば……」
 私は急いで、その四角い箱の蓋をパカッと開けた。
「⁉ ……う……そでしょ……」
 ――絶望を感じるとは、きっとこのような時をさすのだろう。
 目の前に並べられたアルファベットの配列……そして、ENTERボタン……
「何で数字四桁じゃないのよ⁉ こういう時は数字四桁に決まってんでしょうが! まぁ、数字でもわかんないんだけど……」
 数字なら、適当に打ち込んでいけば、いつかは当たるかもしれない。……けど、アルファベットなんて無理。どう考えても、絶対に不可能だ。
「しかもこれ、文字数に制限がないじゃない! ――そっか! パスワードは何度でも変えられる仕組みなんだ。そう、何文字にだって…………いやいや、ちょっと待ってよ? 文字数すらわからないのに、どうやって暗号を当てろというの? 大体ここまで来る間に、何のヒントもなかったのに」
 どうせなら某ゲームのように、書類だの書き置きだので、何かヒントを与えてくれてもいいのに! 脱出ゲームのように、色んなカラクリから答えがわかる仕組みにしてよ!
「……現実は、そう甘くないという事か」
 これは予想外の展開だった。いや、私が馬鹿だったのだ。少し簡単に考え過ぎていたのかもしれない。船に入ったら、トントン拍子で地下への階段が見つかり、白兎を救出出来るものだとばかり思っていた。
 でもよく考えたら、普通……牢には鍵がかかっているだろうし、私はその鍵を持ってはいない。白兎に何とかしてもらえるくらいなら、あの子はとっくの昔に自力で脱出しているだろう。奇跡的にロックを解除出来たとしても、先にある牢を開ける事は出来無いかもしれない……
「でも……この扉自体が牢である可能性も捨てきれない」
 悩むのは後回しだ。……とにかく、ロックを解除しなければ。

【{island of the}(夜宴の島) banquet…………error】

【{full moon}(満月)…………error】

【{starry hill}(星降る丘)…………error】

【――error】

 駄目だ……夜宴の島や赤兎に関するワードを片っ端から入力するも、エラーばかり。
「……{titania}(ティターニア)……と」
【error】
 私はいつ来るかわからない追っ手に怯え、焦りながらも、無心にアルファベットを入力し続ける。

【{fairy}(妖精)…………error】

【{reaper}(死神)…………error】

「……駄目だ。解除出来る気がしない」
 私は頭を抱えたまま、その場に座り込んだ。
「やっぱり無理だ。こんなの、わかる筈ないよ……」
 一度弱音を吐いてしまえばそれまでだけど……容赦なく鳴り響くハズレ音とエラーの文字に、私はすっかり気力を失ってしまっていた。
「でも……ここで諦めるわけにはいかない」
 少し頭をクリアにしてみよう。一つの事に固執し過ぎていたら、見えるものも見えなくなる。
 それに、ここには元々見つかる覚悟で来たのだ。
 赤兎達に見つかったって……それはそれで仕方がない。新たに別の突破口を見つけるだけだ。
 ……そうは言い聞かせてみるものの、やはり一度折れてしまった心は、簡単に元には戻らない。
「ソウくん……ソウくんなら頭がいいし、こんな暗号なんて簡単に解いちゃうのかな?」
 ――そう。きっと彼なら、暗号を解く鍵を見つけ出して……
 ? ソウくんなら、【鍵】を……? ――あれ? 何だろう……? 鍵って、最近どこかで耳にしたような……
 どこで聞いたんだっけ? どこで……

『それは必ず、真実へと続く鍵となるだろう』

 ――そうか! あの時の……ソウくんの言葉だ! 

『……どれだけ歩けば良いのだろうか? 交わる道のいずれかをゆけば……それは必ず、真実へと続く鍵となるだろう』

 確かに彼は、そう言っていた。
「真実へと……続く……鍵? まるで、今の現状を物語っているみたい」
 ――これは偶然なのか? ……いや、偶然にしては出来過ぎている。
 もしかしてソウくんは……私が近くにいる事に気付いていた? 
 いや、あの場所は完全な死角になっていた。彼が気付く筈などない……と、思う。
 しかし、彼はずっと海を眺めていた。皆が森の方に目を向けていた時だって、ずっと……
 彼が気付いていたのかどうかは……正直、私にはわからない。……けれど、こうも考える事は出来る。
 彼はあの短時間で、私達の作戦に気付いた。私が黒兎とは一緒におらず、白兎や自分を助けに来る可能性がある。……そう思い、彼はあの言葉を口にしたのではないだろうか? たとえ私の姿が確認出来ていなくとも……念の為に、二度も。
 これはきっと、ソウくんが与えてくれたヒントなのだ。赤兎や人形に知られぬようにと、文章に変えて発信した、彼からのメッセージ。
「……彼の事だ。きっと答えは簡単。捻る事もなくシンプルに伝えてくれているに違いない」
 考えてみよう。考えれば、ちゃんと答えがわかる筈……
 私はゆっくり目を閉じると……ただひたすら、考える事に集中した。

 まずは……【どれだけ歩けば良いのだろう】。
 いつまで……? 延々と……? ゴールが見えない……? 違う、そうじゃない。
 どれだけ歩けば……それは、ずっと続いているという事だ。じゃあ【ずっと】とは、即ち……

 そして……【交わる道のいずれか】。
 ……道は一つではない。交わるのだから、沢山の道があるという事。
 人はそんな道の事を……果たして何と呼ぶ? 

 ……この二つの暗号から叩き出される接点。

 島、兎、満月、姉弟、神、人形…………ゲーデ。
 ――ゲーデ。ゲーデとは……ブードゥーの死神……

「死神……ずっと……交わる…………道……? ――あっ! それって、もしかして!」
 その時、私の頭の中に残っていた【ある情報】が、鮮明に脳裏に映し出された。

『そうかい。伝承では……死者は皆【ギーネ】と呼ばれる神々の住処に向かうらしいのじゃが、その途中にある――と呼ばれる場所に、そやつは立っているらしい』

 そして、彼の言葉……

『……どれだけ歩けば良いのだろうか? 交わる道のいずれかをゆけば……それは必ず、真実へと続く鍵となるだろう』

「――そうか! ソウくんが言いたかったのは、恐らく……」
 彼の言葉から示されるであろう【真実】の言葉を……私は偶然にも聞いた事があった。
 あの時、彼はあの場所にはいなかった。だから、その言葉を知っている筈がない。
 それなのに……彼が残した言葉と私のそれは、見事に一致していた。
 イコール、……これが【答え】だ。
 まだ試してもいないのに、私はそう確信していた。
「……今回ばかりは、お婆さんのお陰ね」
 魔女にあの書物を見せてもらっていなかったら、きっと……こんなに早くわからなかったと思う。
 あの人には、本当に裏切られてばかりだったけれど……その点だけは深く感謝しよう。
「あと、ソウくん。貴方のお陰で道が開けそうだよ。……ありがとう」
 私はふいに、この夜宴の島に来る前の事を思い出した。
 あの頃の私は、立て続けに起こった不可解な出来事に対し……【彼を主人公としたストーリーが今、始まろうとしている】、なんて思っていたんだっけ。
 けれどそれって、あながち間違いでもないだろう。
 全てが全て、物語のように上手くいくとは……到底思えない。
 このパスワードだって……いくら考えてもわからずに断念し、そのまま赤兎に見つかり、全員処刑……なんて事になっても全然おかしくはない。
 けど……ちゃんと進んでる。前に進めている。
 彼と出逢った事から始まりを見せたこの物語は、どんな苦境にも怯む事なく、乗り越えて、私達をここまで連れてきたのだ。
 これはまるで、一冊の本だ。
 夜宴の島と彼が創り出した……とても恐ろしく、そして美しい、素敵な物語。
「この物語の続きを知りたい。……だったら、立ち止まっている暇なんてないよね。早く二人を助け出さなくちゃ! でも……もしこの答えが違っていたとしたら、何だかカッコ悪いなぁ、私。……ふふ、なんてね」
 ほんの少しだけ余裕を持った笑みを浮かべながら、私はキーワードを入力した。

【{eternal intersection}(永遠の交差点)】

 ピッという音と共に、画面に【clear】という文字が表示される。
 扉がカチャリと開く音が聞こえた。


 扉を開け、急いで階段を駆け下りると……六畳くらいの部屋で倒れている青年の姿を見つけた。
「シロくん⁉」
 白兎の細い足首には、鎖で繋がれた足枷のような物が付けられている。その足首は、痛々しい程に赤く擦り切れていて血が滲んでいた。
「しっかりしてよ! シロくん!」
 私の声に、白兎はゆっくりと目を開ける。その姿はまるで……仕掛けられた罠に引っかかってしまった、小さな子兎のように見えた。
「ミズホ……来てくれたんだね。僕、君が来るのをずっと待っていたんだ……」
 白兎は弱々しくニコリと笑う。額から汗が流れていたので、私は急いでポケットから小さなハンカチを取り出すと、白兎の額にそっと当てた。
「酷い……! 足から血が出てる……これ、痛いよね? 酷すぎるよ」
「こんなの……大した事はないよ。大丈夫」
 白兎はゆっくりと上体を起こすと、自由のきくその手で私の頬に優しく触れた。
「……良かった。また逢えた。もしかして……もう二度と君に逢えないんじゃないかって、心配してたんだ」
「……ごめんなさい。私があの時、逃げ出したりしなかったら、シロくんがこんな目に合う事もなかったのに」
「あはは、ミズホのせいじゃないよ。赤兎は最初から僕を殺すつもりだった。だから……遅かれ早かれこうなっていたと思う。君が気にやむ必要なんてないんだよ」
 やはり白兎は優しかった。私はその優しさに、心が痛んだ。
 こんな場所にたった一人で閉じ込められていて、足枷まで付けられて……明らかに体力が消耗しているのがわかる。弱っているのがわかる。
 それなのに、心配をかけまいと笑う白兎に……心が痛んだのだ。
「その足枷、外せないんだよね?」
「うん。……ミズホ、これを見て」
 白兎は{徐}(おもむろ)に、右手で左手の袖をまくる。その露わになった左腕には、真っ黒な腕輪が付けられているのがわかった。
 それには赤いインクで、よくわからない文字がビッシリと書き込まれている。……まるで、血文字のようだ。
 それ以外、特に装飾等は見られないが……とにかくそれは、悪趣味としか言いようがないくらいに不気味で奇妙な腕輪だった。
「これ……どうやら、妖力を封じる事が出来るみたいなんだ。これのせいで足枷は外せず、外に出る事も出来ない。……お手上げだよ」
 白兎は、『まぁ脚の鎖は結構長いから、ある程度の移動は出来るんだけどね』と、苦笑いを浮かべた。
「ねぇ、シロくん。この腕輪には……一体、何て書かれているの?」
「こんな文字、僕だって初めて見るよ。まったく見当もつかない。まぁ……書かれているのが、決して良い言葉ではないって事くらいはわかるけどね」
「……確かに」
 私は腕輪にそっと触れてみた。一目見ただけで充分伝わるが、触ると、なお一層良くわかる。
 これはかなり頑丈な代物だ。私には、どう考えても取り外せそうにない。
「とにかく、ここから脱出する方法を考えないと。このままじゃ……みすみす殺されるのを待つだけだ」
 白兎はわかりやすく溜息を吐くと、左腕を上げ、じっと腕輪を見つめていた。
 鎖に繋がれた足枷に、奇妙な腕輪。
 今の現状から……これらを打破する方法が、全くといっていい程に見つからない。
 せっかく白兎に会えたというのに、このまま赤兎や死神が来るのをここで静かに待つしかないのだろうか? 
 ……いや、まだ黒兎がこの場所に来てくれる可能性だってある。
(大丈夫だ。……信じて待とう)
 私は、白兎の方に顔を向けた。
「……ねぇ、シロくん。その血は、赤兎達にやられたの?」
「……え?」
「ほら、着物についてる血……」
 実は……先程からずっと気になっていた。白兎の着ている着物の肩の部分や首元に、血の跡が残っている。それに、この部屋の床にも少量だが血痕が付着しているのだ。……どこか、怪我でもしているのだろうか? 
「ん? これ? ……きっと、足を怪我した時に手で擦っちゃったんだろうね。それが付いただけだよ! ……そんな事よりもさ、あれから何があったか教えてよ。何か、進展はあった?」
 白兎は私と一切視線を合わせる事なく、わかりやすいくらいに話題を変えてきた。……何だか、凄く怪しい。
 けど、確かに白兎の利き手である右側の袖にも血が染み込んでいるし、肩や首元に傷跡らしきものは見当たらない。大体そんなところに傷なんてあれば、もっと着物に滲んでいてもおかしくはない筈だ。
 やはり白兎の言う通りなのだろうか……? それとも……
 とにかく私は、黒兎に伝えた事と同じ内容を白兎にも伝えておこうと思い、口を開いた。
「そうだった……話さなくちゃいけない事が沢山あるの! あれからね、実はた――」
「……⁉ 待って!」
 私が説明を始めたと同時に、白兎が大きな声でそれを止めた。
 いきなりどうしたのだろう……? 
 私は、白兎の言葉に耳を傾けた。
「……ちょっと待って、ミズホ。君の周りから妖気を感じる。さっきまでは全く感じなかったのだけど……」
「妖気……?」
 私がそう口にした途端、突然部屋中が白い煙幕のようなものに包まれた。
「なになになに⁉ なんなの! これ⁉」
「……シッ。大丈夫だよ、ミズホ。悪い気は少しも感じない。いや、寧ろ……」
 真っ白になった部屋から、小さなシルエットが浮かび上がる。やがて靄のようものが晴れると、その姿が露わとなった。
「やれやれ、やっと戻れたわい!」
「――あっ! って……あぁーー! た、狸のお爺さん⁉ ご、ごめんなさい! 私、今の今まで存在を忘れてました!」
「やれやれ、困ったもんじゃ。……それにしても、爺さんめ。あんなに小さくされとりゃあ、元の姿に戻るのも至難のワザだったわい! ……はぁ、足腰が痛い」
 腰を丸く曲げた小さな老人の身体は、普段よりもずっと小さく見えた。
「狸神……! 一体、どうやってこの島に……!」
 白兎は目を丸くしながら、狸の顔をまじまじと見つめた。
「なぁに……全部、この娘さんのお陰じゃ。娘さんがなぁ、魔女の道具を使い、古道まで知らせに来てくれたんよ。娘さんに感謝せぇよ、白兎? こん娘さんはな、お前が思うちょる以上に{逞}(たくま)しく勇敢なおなごじゃわ」
「い、いや……私はそんな、大した事は……」
「は……はははっ! あははははははは!」
 白兎はお腹を抱えながらケラケラと笑う。その顔はとても清々しく見えた。
「ミズホ、君って人は……本当に! 毎回思いもよらない行動を起こしてくれるよね? それも、いつも僕らをいい方向に導いてくれる。本当に最高だよ! 君は!」
 白兎のこんな飾らない笑顔を、私は久し振りに見たような気がする。私と狸の老人の頬も、思わず緩んだ。
 けれど、そんな穏やかな時間は……残酷にも、一瞬で掻き消されてしまうものだ。
 楽しそうに笑っていた白兎は、急にゲホゲホと咳き込み、手で口を押さえつけた。
 白兎の指と指の間から、つぅっと赤い血が流れる。
「――⁉ シロくん!」
「いかん! 白兎! はよ、横になれ!」
 狸の老人は、直様白兎をその場に寝かすと、眼球を開いて見たり、胸に耳を当ててみたりと、まるで医者のような行動を取った。
 白兎は、オロオロとした表情で私を見つめた。
「……違うんだ! これは本当に何でもないんだよ。だからミズホ、そんな顔しないで……? ――お願いだから」
「少し黙らんか! ……大丈夫じゃ! 今、薬を飲ましちゃる!」
 狸は巾着から紫色の粉薬を取り出すと、急いでそれを白兎の口に流し込んだ。そして、腰につけてあったひょうたんの栓を抜き、中に入っていた水をゆっくりと白兎の口に含ませる。
 ――そうか。あの肩や首元の血、床に落ちていた血痕は、きっと……
 どうして気付いてあげられなかったのだろうか。黒兎も言っていたではないか……白兎の身体が、また悪くなっていると。

『あいつの身体は治ったわけじゃねぇんだよ。きっと……永くは生きられない』

 私は黒兎の言葉を思い出し、キュッと下唇を噛んだ。

「……ミズホ、僕は大丈夫だから心配しないで。こんな所に閉じ込められていたから、ストレスでも溜まったのかな? ……ははっ! けど大丈夫! 今薬も飲んだし、もう平――」
「お願い……嘘吐かないで。私、全部知ってるよ? シロくん……最近また調子が悪いんだよね? 全部全部、知ってるんだよ」
 白兎の表情が見られない。今、白兎の顔を見ると……私きっと、泣いてしまいそうだから。
「……もしかして、その姿になったから? 前に言ってたよね? 青年の姿になれたのと引き換えに、寿命が縮んでしまったって。もしかして……それで身体が悪くなってしまったんじゃないの?」
「――違う! そうじゃない。身体の調子が再びおかしくなり始めたのは……僕が、この姿になる前からの話だ」
「だったらどうして⁉ その姿になる事で、更に寿命が短くなる事くらいわかっていたでしょう⁉」
「……それでも、だ。一度くらい、自分のしたいように生きたっていいじゃないか? それを止める権限なんて誰にもない。勿論、ミズホ。……君にもだ」
「シロくん……」
「まぁまぁ! 二人とも落ち着きんさい。白兎の身体も……今すぐどうにかなるっちゅうわけでもない。とにかく、先に白兎の足枷と手錠を外してやろう。話はそれからにしんしゃい」
「え……お爺さん! これ外せるの……⁉」
「こんくらい朝飯前よ。儂に任しておけ」

 狸は宣言通りにチャチャっと足枷を外し、腕輪を破壊した。それも、妖力を一切使わずにだ。
 どこから取り出したのか、細長い針のような物で鍵穴をクイクイと弄り回すと、足枷は思いの外、簡単に外れてしまった。
「えっと……なになに? ……ふぅむ。成る程な」
 更に老人は、腕輪にビッシリと書き綴られた文字の解読を急ぐ。正しい文字を正しい順序で、針を使って上からなぞると、腕輪はパカリと真ん中で割れた。『流石、年の功!』、と言わざるを得ない。
 腕輪に彫り込まれていた言葉の意味を老人に尋ねると、【地獄の苦しみを与える】などと物騒な単語ばかりが飛び交うものだから、気味が悪くなり……私は落ちていた腕輪を思いっきり壁の方に蹴り飛ばした。

「――という事なの」
「成る程ね。現状は大体理解したよ」
 私は黒兎にも伝えたように、白兎とわかれてから魔女と出会い、魔女の力で狸の住んでいる古道に行った事。そこには、狸と仙人がいた事。仙人の力により、狸はこの地に来られた事。仙人は後から別の方法で合流してくれるという事を、ざっと説明した。
 双子達に人間の血が混じっている事。そして赤兎の、所謂、二重人格説は……黒兎と白兎が二人揃ってから話す。
 だから、今……白兎に伝えられる情報はこれくらいだ。
「ミズホ、さっきの話の続きだけど……」
「……うん」
 白兎はそっと、口を開いた。
「人間はさ、大体の寿命が決まっているよね? だから、年を重ねるごとに死期が近付いていると気付く事が出来る。増える皺や体力の低下、老いていくその身体から、徐々に死に対する覚悟が生まれ始めるんだ。……けどさ、僕らはいつ死ぬかなんてわからないんだよ。何百、何千、何万と生きる者がいる中で……果たして自分はいつ死ぬのか? 百二十年は生きているけれど、僕の姿はいつまで経っても子供のまま……老いから寿命を感じる事は出来ない。そもそも年を取らない神や、最初から老人の姿の神も沢山いる。年老いているから死ぬという概念は、僕達にはないんだ」
「シロくん……」
「それってさ、よく考えてみれば怖いよね? 常に死と隣り合わせなのに、その覚悟すら与えられないまま……僕達は突然死ぬんだ。そう考えてみると、今の僕のこの身体のように、命が削られていくさまを身を以て知る事で……得られるものも沢山あるんだよ」
 白兎はゆっくりと立ち上がると、私をじっと見据えた。
 ずっと足枷を付けられていたせいか……白兎は上手く立ち上がる事が出来ずに、少しよろけた。
「だ、大丈夫⁉」
「……ん。大丈夫。すぐに慣れるよ」
 そう言って白兎は笑うと、話を続けた。
「昔の僕は死ぬのが怖かった。どうして僕だけがこんな目に⁉ と、嘆いた事も何度もあったよ。……けど、今の僕はね? 自分の命なんていつ尽きようが構わない。そう思ってる。だから、自分の寿命が縮もうが死期が近かろうが……どうだっていいんだ。ようは、どう【生きた】か。僕は、今の生き方に悔いなんてないんだよ。……そう思えたのは、ミズホ。君に出逢えたからだ。――ありがとう」
 白兎は私の髪をそっと撫でる。柔らかい感触が頭の上でポンッと跳ねた。
 私はとにかく声が震えて……白兎の言葉に、心までが切なく震えて……それ以上、何も言う事が出来なかった。
「ただ……僕がいなくなってしまった後に、黒兎が独りきりになってしまう事が気がかりだ」
「――白兎。また薬を飲めば平気じゃよ。きっとすぐに良くなる。だから、あまり深く考える事はない。それに、たとえおまんが早う死んでしまったとしても、あん娘なら大丈夫だわい。黒兎はとても強い娘じゃ。それに儂達もおる。なんも心配する事なんてないぞ」
「……ははっ、それは安心だ! ついでに神童があのじゃじゃ馬娘を嫁に貰ってくれたら、なおの事いいんだけどね!」
 白兎は突然、パンパンと手を叩いた。
「さぁて、暗い話はここまでにしよう。早くソウを助けださないと。黒兎の事も気になるしね! これから赤兎と死神とのご対面だ、引き締まっていかないと。……正直、僕や黒兎の力ではまったく歯が立たない。狸神、期待しているからね!」
「この阿呆! 年寄りをアテにするでないわ! そもそも儂は戦闘タイプではないんじゃからな。……まったく、先が思いやられるわい」
「行こう、ミズホ! ソウの元へ!」
 私は目尻に溜まった涙を拭き、大きく頷いた。

 私達は地下牢の階段を上がり、部屋から出る。ちょうどその時、【ピンポンパンポン】と、放送の合図が聞こえてきた。
『ふふっ……ご機嫌よう、ミズホ。そろそろ白兎……あら? ハクでしたっけ? とにかく、病弱カスを助け出したところかしら?』
「赤兎……!」
「この声……どこから⁉」
「……二人とも、静かにせい!」
 狸は『シィ~!』っと、指を一本立てた。
「その何の役にも立たないグズを助け出したなら、さっさとここまでいらっしゃいな? わたくし、退屈で退屈で堪りませんわぁ! もう退屈過ぎて死んじゃいそう!」
 一人で延々とお喋りを続ける妖精に、私達は顔を見合わせた。
 ――やはり、気付かれていた。船の中に誰もいないのは、赤兎が仮面達に指示をし、どこかで待機させているという事なのだろうか? 
 そんな事を頭で考えていたら……赤兎は偶然にも、その返事とも取れる発言を返してきた。
『心配しなくても、今この船にはわたくしだけしかいませんわよ? 全員、黒兎と追いかけっこ中ですわ。早くソウを助けにいらっしゃい。早くしないと勢い余って、わたくし……彼を殺してしまうかもしれなくってよ? もうね、あのブスで馬鹿な黒兎のせいで、わたくしストレスが溜まっておりますの。だから……早く貴女達で発散させて下さいな♪』
 ――わたくし以外? 何だ……? 何かが引っかかる。嘘とか罠とか……そういう意味ではなくて。
「……ミズホ、ゆっくり移動しよう」
「うん……」
 私達三人は、放送を聞きながらゆっくりと歩き始めた。赤兎がいる場所は、やはりあの玉座のある部屋との事だ。いくら船が広いと言えど、階段を登って真っすぐ行けばすぐに辿り着く。距離など、殆ど無いに等しい。
『――ねぇ、ミズホ? 貴女……よく偽善者って言われません? この島と何の関係もない貴女が……何故、黒兎や白兎を救おうとするのかしら? 何の力もない人間風情が、自殺願望でもあるのかしら? わたくしね、貴女のその無駄な正義感を見ているだけで苛々するし、虫唾が走りますの。けれど、そんな貴女にしか出来ない事があるんですのよ? ……ねぇ、貴女に救える命がある事をご存知?』
「私にしか出来ない事……? 救える……命……?」
「耳を貸さんでいい。放っておけ」
『貴女……ソウと双子の命を天秤にかけたら、どちらを選ぶのかしらねぇ? あ、『代わりに自分の命を!』は無しでしてよ? ナンセンスですし、もの凄~く萎えますから。……いくら全てを救いたいと思っていても、全員は救えない。そうなれば、貴女は必ず【恋】を取るでしょう。恋に溺れた雌は、愛する雄の為なら何でも出来るし、全てを捧げられるものだわ! そしたら、貴女を信じた白兎や黒兎は……まるでボロ雑巾のように捨てられる。何て素敵ですの! 考えただけでゾクゾクしちゃいますわぁ!』
 私はピタリと足を止めた。
「……娘さん、赤兎の言葉に惑わされるな。心配せんでも儂がそんな事はさせんよ。だから、一人で背負いこまんでいい」
「そうだよ……ミズホ。赤兎はまず、言葉で相手を支配しようとするんだ。心を痛めつけて、戦意を喪失させ、思い通りに操ろうとする。今あいつは、君の心に揺さぶりをかけているんだよ。――それに屈してはいけない」
 私と同じように二人も足を止め、じっと私を見つめてそう言った。
 放送は、いつの間にか止まっていた。
「うん……わかってる。大丈夫」
 赤兎の言葉に惑わされてはいけない。耳を貸してはいけない。そんな事くらい、ちゃんとわかっている。
 けれど……でも……
 わかってはいても、もしそんな選択を強いられてしまえば……私は一体、どうすればいいのだろうか? 
 片方を犠牲にして、もう片方を救う。
 ……そんなの嫌だ。そんな事、出来ないよ。
 不安に包まれた私の心が、どんどん真っ黒になっていくのを感じた。

 そうこうしている内に私達は、赤兎のいる部屋の前に着いてしまった。心臓が、激しく波を打つ。
「……僕が先に行くよ。狸神は念の為に、ミズホの後ろに付いて、彼女を守ってあげて」
「わかっておる、任しておけ」
 そう言うと白兎は先陣を切って、扉を思いっきり開け放った。
 ……中には赤兎はいなかった。
 けれど――
「え?」
 私は白兎を追い抜かし、部屋に入る。
「嘘……でしょ……?」
 私の目の前には、床にうつ伏せになって倒れている彼の姿があった。背中に刺さったナイフから……ドクドクと血が流れている。
「ソウくん……やだよ、返事してよ……ねぇ!」
 私はしゃがみ込んで、そっと彼に触れた。べっとりとした生暖かい血液が、鮮やかな程に私の手を真紅に染める。
「ねぇ、ソウくん……⁉」
 どれだけ語りかけても、彼は一切言葉を発しない。身動き一つしない。
 彼はもう……息をしていない。
「嫌だ……! 嫌だ嫌だ嫌だ! いやあああああああああああ!」
 気が狂ってしまいそうなくらいの衝撃を受けた私は、彼の亡骸を抱きしめながら、大声で叫んだ。
「ミズホ! 騙されないで! それはまやかしだ! 心を……心を強く持って!」
 白兎の声は、ちゃんと私の耳まで届いていた。……けれど、これがまやかし? 
 ――そんな筈ない。
 だって、確かに彼は……私の目の前で死んでいるのだから。
「……嫌だ。ソウくん、死なないで! お願いだから生き返ってよぉ!」
「ミズホ、少し落ち着いて! どうしてわからないんだ……⁉ そこにソウはいない! 今、君が見ているのは幻覚なんだよ!」
「――無駄じゃ! 白兎、どきんしゃい!」
 狸は白兎の身体を押し退けて、私の目の前に立った。……そうだ。狸の老人なら彼を……ソウくんを助ける事が出来るかもしれない。
 私は目から大粒の涙を流しながら、狸に訴えかけた。
「お爺さん、どうしよう! ソウくんが息をしていないの。お願い……ソウくんを助けて。お爺さんなら出来るでしょう⁉ 早く助けてよ! 早く……!」
「赤兎め……なんと悪趣味な事を。……娘さんや、お主は今、厄介な闇に心を取り込まれようとしておる。儂に任せておけ。すぐに祓ってやるわい」
 狸は一枚の葉を口の中に入れると、それをバリバリと噛み砕いた。
「お爺さん……? 何を……」
 そして、ひょうたんの水を口に含むと……眠っている彼の顔を目がけて、それを勢いよく噴き出す。水に濡れた彼の皮膚の色は緑色に変わり……醜く歪み始めた。
 砂が風にサラサラと流されていくかのように、爪先から順に、彼はゆっくりとその場から姿を消していく。
 突然の出来事に、私は思わず言葉を失った。
 すると、今度は閉じられていた彼の目が、急にパチリと開かれる。そこには、本来ならある筈の眼球が見つからず……中はまるで、ブラックホールのようだった。
 半開きになり、ヒクヒクと動かされた口の中も、歯や歯茎などは一切見当たらなく……ただ、漆黒の闇に支配されているだけ。
「あ、あああああ……」
 恐怖からか……まるで、まだ言葉として成立していない赤ん坊のような声が、私の口から漏れる。
 頭では、ようやく理解し始めていた。これは……彼などではない。
 ――やがて、その【彼】だった者は……その場から消え去った。

「キャハハハッ! 面白い余興でしたわぁ!」
 突然聞こえてきた声の方角に目を向けると、先程までは、確かにいなかった筈の赤兎と彼がそこにいた。
 堂々と玉座に腰を下ろし、こちらを見ながら大声で笑う赤兎を、私は思わず睨み付けた。
「酷い顔ですこと! おかしくって堪りませんわぁ。……御覧なさい、ミズホ。ソウならここにおりましてよ? ずっと貴女を呼んでいたのだけれど……うふ、ザンネンですわ。邪魔さえ入らなければ、貴女が壊れていく様をじっくりこの子に見せて差し上げられたのに」
 彼は赤兎の横で辛そうな顔をしながら、じっと私を見つめていた。
「――赤兎。君は悪魔だ……これ以上、君の好きにはさせない」
 白兎は歯を食い縛りながら、赤兎を鋭く睨み付ける。それに応えるように、少女は妖艶に笑うと……その愛らしい小さな唇を大きく開いた。
「わたくしの名前はティターニアだと、何度言えばわかるのかしらぁ? ……この、馬鹿兎が。それに~わたくしは悪魔などではなく、美しくて可憐な【妖精の王妃】でしてよ? こ~んなに可愛いわたくしが悪魔なわけないじゃな~い! 貴方の目は節穴かしらぁ?」
 赤兎は玉座から二、三歩前に出ると、腕を組みながら、白兎を馬鹿にするかのようにクスクスと笑った。
 その一連の出来事を見ていた狸が、そっと少女に語りかけた。
「赤兎、もうこんな事は止めるんじゃ」
「あら……? 初めまして、かしら? 小さなお爺様。どうやってこの島にいらしたのかしら? それと……わたくしの名前は赤兎ではなくティターニアと申しますの。以後気を付けて頂けます? でないと、老い先短い生命が更に短くなってしまいますわよ?」
「――初めまして? 何を言ってるんだ? 狸神を知らないとでも言うのか……?」
「? 存じ上げませんけれど? 以前、どこかで会った事がありましたかしら?」
「これは……一体、どういう事じゃ……?」
 赤兎と白兎と狸の老人は口論を続けているが、今の私は怒りに打ち震えていて、話の内容が頭に入ってこない。
 ――絶対に許せない。こんな事、許される筈がない! 
 私はゆっくりと赤兎の方に歩いて行き、少女の目の前で立ち止まると……渾身の力を込めて、赤兎の頬を引っ叩いた。
 思っていた以上に小さな少女の身体は軽く、簡単に床に叩きつけられた。
「こんな事をして……何が楽しいの⁉ ――命を弄ばないで!」
 赤兎の目付きが変わる。明らかに雰囲気までもが変わった。けれど、怯むものか。
 彼が生きていた事は素直に嬉しい。……しかし、やっていい事と悪い事がある。
 こんな子に負けない。絶対に、屈したりしない! 
「ソウくんを返して! 私は貴女の事なんて……怖くもなんともないんだから!」
「いかん! 娘さん! あまり挑発するでない! ――白兎っ!」
 狸がそう叫ぶと、白兎は即座に私の目の前に現れた。私は、白兎の後ろに隠される。
「タチバナ……ミズホぉおお! 絶対に許さないですわ! ……殺してやる。惨たらしく、八つ裂きにしてぶっ殺してやる! わたくしを{打}(ぶ)つだなんて……お前、覚悟は出来ているんでしょうねぇ? 泣いて懺悔しても絶対に許さない。その忌々しい目玉をくり抜いて、お人形の目にしてやる……! わたくしを殴ったその手をバラバラに切り刻んで、全てお前に喰わせてやる……! その偉そうな口で存分に味わうがいい!」
 赤兎はフフ、と息を荒げながら、素早く立ち上がった。
「やめるんじゃ! 赤兎!」
「うるせぇよ、糞ジジィが! わたくしの邪魔を……するなぁあああ!」
 赤兎は飛び上がり、狸に攻撃を仕掛ける。老人は素早く巾着から二枚の葉を手に取ると、それを大きく振り上げた。
 それにより生まれた突風が、少女の身体を容赦なく吹き飛ばす。
「ぐっ……!」
「どうしても娘さんを攻撃しようとするならば……まず、この儂が相手になってやるわい。さぁ、赤兎よ。立ち上がるがいい」
 狸は胸元から狸面を取り出し、さっと顔にかけると、挑発するかのように手をクイクイっと内側に動かした。
「ジジィ! ……いいだろう、てめぇから殺ってやるよ! 後悔すんじゃねぇぞ?」
 赤兎はゆっくりと立ち上がる。そしてブツブツと何かを唱えると、二人の周りを一瞬にして青い炎が囲んだ。近付く事すらままならない。

(白兎、娘さん、青年よ……聞こえるか⁉)

 頭の中に狸の老人の声が響き渡る。どうやら、彼と白兎の耳にも届いているようだ。私は頭の中で返事を返した。
(気付いておる者もおるだろうが、赤兎の傍にゲーデがおらん。きっと黒兎の方に行っとるに違いない。あん娘が危険じゃ。――しかし、これは転機でもある。あやつがおらん今が、赤兎から死神を離す絶好のチャンスじゃ! これを逃すわけにはいかん! 赤兎は今、我を忘れておる。ここは儂に任せて黒兎の所に行きんしゃい! さっきの一撃を受けてわかった事じゃが、今の赤兎相手なら儂は負ける気がせんよ。心配は無用じゃ!)
 狸の老人のいう通りだ。先程から老人は少女の度重なる攻撃を交わし、跳ね返し、まったく引けを取ってはいない。
(急げ! ……あと娘さんよ。赤兎の話を聞き、儂は一つ気付いた事がある。あん娘の言葉をよく思い出すのじゃ! その考えに行き着く事が出来るのは、今の所あんたしかおらん。……頼んだぞ! ――さぁ、早く行きんしゃい!)
 気付いた事……? それって……
「……行くよ、ミズホ。狸神の言う通りにするんだ。今の僕らは足手まといでしかない」
「け、けど……ソウくんが! あの炎が邪魔をして……こっちまで来れないよ! どうするの⁉」
「大丈夫だよ。ソウには既にコンタクト済みだけど、あいつはとっておきのアイテムを隠し持っている。平気さ!」
「あ、アイテム……?」
 白兎は彼の方を見て頷くと、彼はそっと耳に触れ、何かを手に取ったように見える。耳の上に……何かを隠していた? 
 彼は、素早くその小さな物を口に放り込むと、突然姿を消した。
 怒りで我を忘れた赤兎は、狸との激しい交戦で、彼が消えた事に気付いていない。
「魔女だよ。やってくれるよね! ――さぁ、僕らも行くよ! ……今だ!」
 白兎は私の手を引き、入って来た扉を開くと、一目散に走った。



「……あ、いた! シロくん、あそこ!」
 船から無事に脱出した私達は、砂浜に立つ彼の姿を見つけ、急いでそこに駆けつけた。
 島では、まるで戦争でも行われているかのように大きな爆発音が鳴り響き、所々に火が上がっている。
 彼は、ぼんやりと森を見つめながら言った。
「……酷い光景だ」
「ああ……そうだね。僕自身、こんな夜宴の島を初めて見たものだから、戸惑いを隠せないよ」
 黒い煙が空へと立ち昇り、島全体が悲鳴を上げている。夢ならば、早く覚めて欲しい。……そう願わずにはいられなかった。
「とにかく、僕は黒兎を捜してみるよ。実はさっきから、彼女の気配を上手く辿る事が出来ないんだ。今、島には沢山の者達がいるからね……」
「えっ……? クロちゃん……大丈夫、だよね?」
「……わからない。けど、少し集中したいから……君達はあっちの方で待っていてくれないかな? くれぐれも気を付けるんだよ?」
 白兎はそう言うと、その場で座禅を組み、ゆっくりと目を閉じた。
 彼と私は白兎に言われた通り、少しだけここから離れる事にした。

「ねぇ……ソウくんはどうやって、船から抜け出したの? 何か飲んでいたように見えたけど……」
「……ああ、魔女が赤兎にバレないように小さな錠剤をくれたんだよ。勿論、不思議な力を持つ魔法の薬だ。副作用はないって言ってたけど、正直どうなるかはわからない。……まぁ、何となく大丈夫だと思うけどね」
「その薬には、どんな効果があるの……?」
「距離は予め決まっていて、六百メートルと短いんだけれど……その距離の範囲内なら、どこへでも念じた場所に移動する事が出来るんだ。こんな時じゃないと、たとえ飲んでもその距離の短さから、すぐに赤兎やゲーデに捕えられてしまう。だから……チャンスが来たら飲もうと思い、隠し持っていたんだよ」
「……そうだったんだ」
 彼とは色々あったから、何だか上手く話す事が出来ず……ついよそよそしくなってしまう。
 けれど、それは彼も同じのようだ。
 先程から彼は、一度も私の顔を見ようとはしない。
「……魔女から聞いたよ。たった一人で狸の爺さんに会いに行ったんだってね。ごめん……君が懸命に頑張っている間、俺は何も出来なかった。……本当にごめん」
「私は……自分に出来る事をしようと思っただけだよ」
 曇り空。少し肌寒く感じる強めの風が、ひゅうひゅうと吹き荒れていた。
「ここで暫く待とうか」
「うん……」
 私達は、ゆっくりと砂の上に腰を下ろした。
「まるで火の鳥のようだね。炎を纏った神鳥が森中を焼き尽くしているかのように見える。あの美しかった夜宴の島が、一瞬にして朱く染まっていく……何だか、凄く虚しい気持ちになるよ」
 ……火の鳥、か。
「そうだね……ソウくんの言いたい事、少しだけわかるような気がする」
「……夜宴の島は、このまま死んでしまうのだろうか? あの美しい夜は、もう永遠にやってこないのかもしれない。風がやんで、森は呼吸をするのをやめる。大地はひび割れ、生き物達は行き場をなくし……やがて死んでいく。そして、いつか……全てが消えてなくなる。それが現実なんだ」
「ソウくん……何言ってるの? 夜宴の島は死なないよ! 絶対に死んだりなんてしない!」
「……どうだろうね。もう期待するだけ無駄なのかもしれない。俺の我儘で君をここまで連れてきてしまったけど、俺達はもう二度と元の世界には戻れない。赤兎に、肉体ごと連れてこられてしまったからね。だから、俺達もきっと……ここで死ぬのだろう。俺達に出来る事はもう、夜宴の島の【最期】に立ち会う……それぐらいだよ」
「……ちょっと!」
 私は彼の頬を両手でパン! と挟むと、そのまま手を添えた状態で、無理矢理こちら側に顔を向かせた。
 彼の視線と私の視線が重なり合う。
「あの五十嵐想が、そんな弱気でどうするの? こんなところで勝手に物語を終わらせる気⁉ 『僕達は、燃えゆく森を見て思った。夜宴の島は死んでしまったのだと――』、これで完結⁉ バッカじゃないの⁉」
「み、ミズホ?」
「物語の主人公って……そりゃ、希望に満ち溢れているキャラクターもいれば、全てに絶望しているキャラクターだっている。けどね? その誰もが、何かしらの信念を持っている……私、そう思うんだ! キャラクターが動かないと物語は先に進まない。それってさ、未完成で終わるのと同じ事なんだよ! 完結してしまい、終わってしまった物語は……好きでいた分凄く悲しい。けど、途中で終わらせられた物語はもっと悲しいんだよ! だから……どんな結果になろうが足掻いてみせてよ⁉ それが、私の知ってる五十嵐想でしょうが!」
「ミズホ……」
「赤兎に人形みたいに扱われて、中身まで空っぽの人形になってしまったわけ⁉ ウジウジしてて……カッコ悪いよ、ソウくん。そんなの……私が好きになったソウくんじゃないんだから!」
「…………え?」
「えっ? って、何よ、いきなり⁉」
「だって、今……」
「今? 私、何か言った?」
「言った」
「……え? なんだっけ?」
 彼の揺れる瞳をじっと見つめながら、私は自分が発した言葉を頭の中で繰り返してみる。……ちょっと待って。私、今……彼に何て言った⁉ 

『そんなの……私が好きになったソウくんじゃないんだから!』

 ――最悪だ。
 私は無言で頬から両手を離すと、わかりやすいように彼から目を逸らした。
「いや、あの、その……あれは特に深い意味なんてなくてですねー。なんと言うか……あっ! 魚跳ねた! 魚いるよ、海に! 何だ~まだ島にも生き物がいるじゃない! しっかし、こんな時に呑気なもんだねぇ~? ははは……」
 隣から『くっく……』と笑いを堪える声が聞こえてくるが、恥ずかしすぎて顔を見る事が出来ない。何とか話題を変えなくては……
「と、とにかく! 弱音ばっかり吐いてないで、もう少しシャキッとしてよね⁉ 本当に情けないんだから! 大体ソウくんはお――」
「……ぷはっ!」
 彼は最早笑いを堪えるのも限界だったようで、腹を抱えながら大声で笑った。
「あっはははは! もう駄目! もう限界! 青くなったり、赤くなったり……照れたり、怒ったり……何でそんな必死なの⁉ 『魚跳ねた!』って何⁉ 駄目、腹痛ぇ! くはははっ! ……でも、や~っとミズホの正直で素直な気持ちが聞けた!」
「違っ……! ほら、これはあれよ! ……そう! 友達として……うん、それだ! あとは、バイト仲間としてでしょ? 夜宴の島のパートナーとしてでしょ? あとは、えっと……あれだよ、お面仲間! ……お面仲間って何? あー、もう! 頭がこんがらがってきた!」
「わかった、わかったから……くくっ、もう話さなくていいよ! よ~く、わかりました!」
「全然よくないよ! 絶対誤解してるから!」
 彼はおかしそうにケラケラと笑う。……いつもこうだ。大切な話をしているのに、気付けばいつの間にか立場が逆転している。……彼は本当に油断のならない男だ。
「さぁて、ミズホさんから大胆な愛の告白をしてもらったわけだし……俺も、そろそろ浮上しなきゃだね」
「だから! 告白じゃないってば!」
「はいはい、そういう事にしておきますよ」
 彼は立ち上がり、砂を払うと……『んっ』と手を差し伸べる。私が恐る恐るその上に手のひらを乗せると、彼はその手をグッと引き、私を立ち上がらせた。
「ミズホ、ありがとう」
「え……?」
「いつだって、俺に立ち上がる力や勇気をくれたのはミズホだった。この島でも、俺は一体……何度君に助けられてきたかわからない。俺さ、いつも誰かに守られてる。情けない話だけど、俺……肝心な時に諦めてしまう癖みたいなのがついてしまっていて、どうしても一歩前に踏み出す事が出来ないんだ。……怖いんだよ。想像する未来が、信じたい未来が、まったく違うものになってしまう事が。本当に弱い男だよ、俺は。……けど、ミズホが先で待っていてくれたら、俺はその一歩を踏み出す事が出来ると思う」
「ソウくん……」
 厚い雲間から光が差し込む。それはまるで、彼の心の中を表すかのように……渦巻いていた闇を一掃し、やがて救いを{齎}(もたら)した。
 空が、眩い光で全てを照らし始める。彼の心に、一筋の光明が差し込んだ瞬間でもあった。
「……頼むから、これ以上置いて行かないでよ? 君はいつだって眩しくて、どんどん先に進んでいってしまう。これじゃ、踏み出さないわけにはいかないだろう? ……夜宴の島の物語を完成させよう。必ずハッピーエンドを見せてあげるって……君と約束したからね」
 彼はそう言って優しく笑うと、私の頭をくしゃっと撫でた。
 何だか、胸に熱いものが込み上げてくる。気付けば目尻に涙が溜まり、それが一雫……私の頬に線を描いた。
 ――ああ、五十嵐想だ。彼は、私の知っている五十嵐想なんだ。
 まるで百面相のようだった彼は……強くて、勇敢で、社交的で、でも本当は誰よりも弱い人。
 根が真面目だからはっきりものを言うし、意外と卑屈で、何を考えているのかよくわからない。
 ほんのちょっぴり怖いところもあるけれど……きっと、誰よりも優しい人。
 やっと逢えた――
「ほらっ、そんなに泣くなって。今は泣いてる場合じゃない。……わかっているだろう? 夜宴の島が、この先どういう結末を辿ろうが……俺達の心の中では、今もあの不思議で奇妙な夜の宴は続いている。ずっと、生き続けているんだ。俺達がそう思っている限り、この島は死なない」
「うんっ……うん! 絶対に死なない……!」
「……けど、そう簡単に終わらせもしない。わけのわからない人形と小悪魔は、この島から追い出してしまえばいいんだ。俺達で力を合わせて……必ず、この島を守ろう! そしてもう一度、あの夜の宴を皆で!」
「ソウくんって……やっぱり物語の主人公みたいだね! それでこそ、五十嵐想だっ!」
 私は何だか凄く嬉しくて、クスクス笑った。
「……いいや? この物語の主人公は間違いなく君だよ。俺は単なるアシストに過ぎない。君が藤尾夫妻の持っていた結晶の中にクロとシロを見つけた時から、全てが始まったんだ。俺は最初からわかっていたんだよ。悔しいけど、俺には二人の姿は見れなかったからね」
「私が……この物語の主人公?」
「俺は、君がこれからどうやって物語を進めていくか、楽しみで仕方がないよ。君の憧れる【夜科蛍】なんて、大きく上回ってしまう作品を俺に見せてよ! ……これは小説なんかじゃない。俺達は今、本物の物語の中にいるんだから!」
 先程まで少し肌寒くも感じた風が、今ではとても温かく心地良い。
 彼はまだ気付いていない。私が夜宴の島の主人公だと言うならば……彼は間違いなく、私の物語の主人公なのだという事を。
 いつでも私の心を支配してやまない貴方に……どうして恋をせずにいられようか? 
 恋愛小説はあまり読まないけれど……きっとその主人公も、今の私と同じような気持ちで相手を想っているのだろう。……今なら、とてもよくわかる。
「……うんっ! わかった、期待しててよね!」
「その調子。君の物語を、一番君から近い場所で……ずっと見守っているから」
 そう言うと彼は目を糸のように細め、口角を上げて、柔らかく微笑んだ。

「ミズホ! ソウ!」
 白兎の声に、私達は振り返る。広くて白い砂浜を、白兎が大きく手を振りながら、こちらに向かって走ってきた。
「見つけたよ! 彼女は無事だ! 今の僕なら、黒兎のいる場所まで一気に飛べる」
「……よし! じゃあ急いで行こう!」
「うんっ!」
「ちょっと待って、二人共! 仙人から貰った面を被るんだ。あの面に宿っている魔力はとても強い。きっと、肝心な時に君達の事を守ってくれる筈だよ」
「そっか! うん、そうだね! わかった! ――あっ! けどソウくんは今、面を持っていないんじゃ……服だって変わってるし」
「いや、俺も持ってる。魔女の薬を使った時、俺は一階にある倉庫に移動したんだ。そこで面を取って、それから自分の足で船から脱出したんだよ。何故だかわからないけれど、これはちゃんと持っておかなければならない気がしたから」
 そう言うと、彼は背中からひょっとこの面を素早く取り出した。
「というか、この格好も何だか動きにくいんだよなぁ〜。シロ、お前ナイフ持ってるか?」
「え? あぁ……ほらっ!」
 白兎は腰に付けられていた小刀を、彼に向かって投げ付ける。彼は、何とか上手くそれをキャッチした。
「うおっ! 危ないなー! 何か悪意を感じるし! ……とにかく、ちょっと借りるぞ?」
 彼は真っ白なジャケットを砂浜に脱ぎ捨てると、シャツの袖を捲り、パンツの裾を小刀で短パン程の長さに切り取る。
「……よし、これなら動きやすい!」
 そう言って彼は、オールバックにされていた髪を、くしゃっと乱暴に掻き下ろした。
「はは……確かにそれだと動きやすそうだね……」
「だろ? 我ながらいいアイディアだ!」
 どうしよう……ダサい。何もかもがダサすぎる。動きやすさを重視するなら、こちらの方がまだ動きやすいとは思うのだけれど……正直、ない。
 倉庫に行ったのなら、ついでに服も取り返してくれば良かったのに……まぁ、今はそんな事を言っている場合じゃないか。
「……ミズホ、気持ちはわかるけど用意をして。あまり時間がないんだ。ソウも……早く」
「あっ! ごめん!」
 白兎に言われ、私は急いでおかめの面を顔に乗せた。隣では彼がひょっとこの面を装着している。
 白兎はどこから出したのか、大人用に新調された兎面を被っていた。面を着けたその姿は、儚いながらも凛としていて……とても輝いて見えた。
 青年の姿の白兎は、本当に神様のようだ。いや……元から神様なのだけれど、その大きくなった背中が、今はとても頼もしく思える。
 ――けれど、白兎の身体は……
「シロくん……」
「大丈夫だよ、ミズホ。僕は大丈夫。黒兎はあんな奴だけど、僕の大切な姉様なんだ。何がなんでも死なせるわけにはいかない。彼女は今の僕にとって……唯一の家族なんだから」
「……違う! それは違うよ、シロくん!」
「え?」
「……ミズホ、何か知っているのか?」
「うん……けど、まだ言えない。クロちゃんと合流出来たら、必ず言うから。それまで……待っていてくれる?」
 私が白兎にそう告げると、白兎はゆっくりと頷き……『わかった』と優しく微笑んだ。
「じゃあ……行くよ。二人共、僕の背中に手を添えるんだ」
 私達はコクリと頷くと、白兎の背にそっと触れた。
 白兎の身体が……突然、赤いオーラのようなものに包まれる。そのオーラは私達の手を伝って、同じように二人の身体を赤に染めた。
 ずっと呪文のようなものを唱えていた白兎は、唱えるのをやめ……小さく呟く。
「――黒兎神の場所へ」

 その瞬間、私には何が起きたのか……まったく理解が出来なかった。
 だだわかっている事は、ここは海岸ではなく、展望台の前の広場だという事。そして今、私達の周りは悪魔のような、奇妙な仮面の衆達に包囲されており、その中心には呪われた人形【ゲーデ】が存在があった。
「ヤッホーヤッホーヤッホー! ヤット来タ、来タ! ……遅イヨォ、待チクタビレチャッタ!」
「ゲーデ……!」
「ヨォ、白兎! テメェ、マダ生キテヤガッタノカ? 中々頑張ルネ~! ケドォ~、ゲーデジャネェヨ! ゲーデ様ッテ呼ビナ? 俺、馴レ馴レシイノハ~嫌イ、嫌イ、超~嫌イ! アッ! 黒兎ナラソコダゼ?」
 ゲーデは小さな指で私達の背後を指す。そこには怪我をし、グッタリとしてる黒兎の姿があった。両膝をついた黒兎の腕を仮面達が掴んでいる。
「クロちゃん!」
「ゲーデ! クロを解放しろ!」
「オイオイオイオイ~? ティターニアノ人形如キガ、コノ俺ニ指図スンジャネェヨ? ブッ殺スゾ! 黙ッテロヨ、クソ餓鬼ガ」
 人形は私の方に視線を移すと、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「……俺ハ君ト話シテミタカッタンダヨ、勇敢デ希望ニ満チ溢レテイル……【タチバナミズホ】チャン?」
 ⁉ この匂い! 甘くてクセのあるこの香りは――
「……貴方だったのね。そうか、これは葉巻の香り……」
「フフ、ダッテサ? アノママダッタラ風邪引イチャウジャン? 体調管理ハ万全ニシナイトネ! 海ニ潜ッテ隠レテイテモ、人間臭サガプンプンシテイテ、俺ニハオ見通シダッタゼ? ティターニアハ気付イテイナカッタケドナ。馬鹿ジャン、アイツ! マダマダ餓鬼スギンダヨ! マッタク、子守ハ疲レチマウゼ!」
 人形はそう言うと不気味にケタケタと笑った。
「一体、私と……何を話したかったと言うの?」
「ワカッテイル癖ニ~? チョコチョコ嗅ギ回ッテ、君ガ辿リ着イタアンサーヲ俺ハ聞キタインダヨ! ホ~ラ、オ前達? 黒兎ヲ離シテヤンナ!」
 仮面達はこちらに向かって黒兎を投げ飛ばしてきた。彼と白兎が少女の身体をキャッチする。
「ホ~ラ? ココニハ黒兎モ白兎モイル! 話スニハ絶好ノ機会ジャナイカ? ……今話サナケレバ、ミ~ンナ俺ニ殺サレチマッテ、真実ハ永遠ニ闇ノ中ダゼ?」
 ……死神は一体、何を考えているのだろう? たとえ私がここで知り得た情報を話し始めても、死神には何の得もない筈だ。
 何か企んでいるのか? ……全く思考が読めない。
「コノママジャ、良イ子デ甘チャンダッタ【赤兎】ガ報ワレネェゼ?」
「おい……ミズホ……! 今、あいつが言った事……どういう意味だよ? 赤兎が報われないって……」
「ミズホ……君は、僕達が揃った時に話したい事があると言っていたよね? それと、何か関係があるの……?」
 黒兎と白兎が私に問いかけてくる。けれど、内容が内容なだけに……こんな大勢の前では言いたくない。
「オイオイ、ドォシタァ? 話サネェノカ? ――ミズホォ? オ前ノ優シサハ残酷ダヨォ~! テメェミタイナ奴ガ、一番タチ悪リィンダゼ? 自分ノヤッテイル事ヲ、正義ダト思ッテイヤガルカラナァ⁉」
 死神が私を責め立てる。双子達も、ゲーデが言った言葉の真意を知りたいようだ。でも……
 どうすれば良いのかわからない。ちゃんと話さなくてはいけない事くらいわかっている。
 けれど、それは今なのか? こんなに大勢の前で言わなくてはいけない事か? 黒兎と白兎が深く傷付くのは目に見えているのに。
 それにゲーデの意図がわからない以上、言う通りにするのは危険だ。何が起こるかわからない。
 ……しかし今話さないと、本当に皆殺されてしまうかもしれない。
 一体、どうすれば――
「ミズホ、大丈夫だ」
 隣から聞こえてきたその声は……穏やかで、優しくて……私の心を一瞬で落ち着かせた。
「ソウ……くん……」
「俺には君が話そうとしている内容に、まったく見当がつかない。けれど、クロもシロも……君が思ってる程、弱くは無い筈だ。二人を気遣って言えないというならば、それは間違いだよ」
 彼の言葉に、黒兎と白兎は強く頷いた。
「オッ! チッタァ使エルジャン、オ前! ホラホラ、兎共モ知リタガッテルゼェ⁉ 折角俺ガヤッタ時間ヲ、モット有意義ニ使エヨ? サァ早ク~! ハ~ヤ~ク~言ッチャイナァ?」
「――うるさいッ! 貴方は黙っていて!」
 私がそう言って睨みつけると、ゲーデはケタケタと笑いながら『オ~! 怖ェ怖ェ!』と、その場に着席した。それに習い、仮面達も全員地面に腰を下ろす。
「……話してみなよ。大丈夫。ここで皆死んだとしても、真実を知らずにいるよりはずっとマシだ」
 隣に彼がいてくれる事が、どうしてこんなにも心強いのだろう。
 ――うん、そうだね。
 周りに誰がいようと構わない。言わないまま終わるかもしれないなら、ゲーデが与えてくれたこの時間は、確かに有意義なものだ。
「ソウくん。……うん、わかったよ!」
 私は視線を彼から双子達の方に向けた。
「……今から話す事は全て真実。黒兎と白兎……そして、赤兎の物語――」
 辺りがしんと静まり返る中、私はそっと口を開いた。
「赤兎はね、赤兎は……貴方達が思っているような危険な存在ではなかった。貴方達は彼女に対し、恐怖を抱いていたかもしれない。……けれど、彼女はわざとそう振る舞っていただけなの。そうしなければならなかったから。全ては、貴方達を【もう一人の悪魔】から守る為にした事……彼女は貴方達の為にも、気の狂った姉を演じるしかなかったの」
「もう一人の悪魔……? 気の狂った姉を演じる……? お前……一体、何言って……」
「赤兎の中にはもう一つの人格が存在した。それは、残虐性を秘めた、恐ろしい殺人鬼。虫や動物だけじゃ飽き足らず、人の命にまで手をかけてしまうくらいの殺戮衝動を秘めた、もう一人の【赤兎】……」
「ちょっ……と……待って、ミズホ! じゃあ……僕達がずっと怖がっていたのは、赤兎ではなかったって事?」
「ううん、それは赤兎。彼女は気付いたの。自分の中に【悪魔】がいると。その悪魔は、本体である赤兎にも影響を及ぼしていった。彼女に耐え難い痛みを与え、その痛みは、何かを殺す事によって緩和される。いつか自分は、【それ】に支配されて……双子達の事まで傷付けてしまうかもしれない。だから赤兎は、本当はやりたくなかったけど、わざと殺生を続け、貴方達を自分から遠ざけたの。そして心の中で、ずっと一人で泣いていた……貴方達に助けを求めたかった、救って欲しかった! でも赤兎は、【お母さん】と交わした約束を……懸命に守ろうとしたんだよ」
「――は? お母さん?」
「そう。貴方達にはちゃんと父と母がいた。強力な力を持つ兎神と、その神に見初められた人間の娘。貴方達は、神と人との間で生まれたの。シロくんの身体が弱かったのは、人間の血が濃すぎて、神の血に拒絶反応を起こしていたから。そして父親は……貴方達が生まれてすぐに、人間の手によって殺された。貴方達の母親を庇ってね」
 ついに、二人は言葉を失った。――無理もない。知る筈のなかった真実を、一気に突き付けられたのだから。……きっと、頭がついていかないのだろう。簡単に受け入れろと言う方が無理な話だ。
 けれど私は、話を続けた。
「兎神を失った貴方達の母は……まだ幼い三人を連れて、遠く離れた山奥に逃げ込んだの。父親を殺した村人達の住む村は、神を殺してしまった事によって加護を失い、やがて飢饉に見舞われ、滅びたそうよ。――それから暫くして、母親も病で亡くなってしまった。死に際に、貴方達の母は赤兎に言った。『必ず、真実を隠し通せ』、そして……『貴女が双子達を守るのよ』と。母親の最後の言葉は、まだ幼い赤兎の事を見えない鎖で縛ってしまった。皮肉な事にね。『何がなんでも、二人の事は自分が守るんだ』……その重圧は、やがて赤兎の心を蝕んでいき、殺戮衝動を目覚めさせた。殺したくなんかないのに……殺さないと頭が割れそうに痛む。こんな事したくないのに……生き物を殺すと頭痛は止み、高揚感に包まれる。もう、赤兎一人ではどうしようも出来ない状態になっていたの」
 私の手が少し震え始める。彼はそれに気付いたのか、隣で優しく私の手を包み込んだ。
「だから赤兎は……狸のお爺さんにずっと相談をしていた、助けを求めていたの。彼女は確信していた。自分がこうなってしまったのは、きっと呪いのせいだ。村で見かけた人形が自分に呪いをかけているのだ、と。けれど、お爺さんは人形に何の力も感じなかったし、人形はあくまで【ただ】の人形。襲いくる激しい痛みは神経的なもので、精神を病んだ赤兎の思い込みだと決めつけてしまった。実際、赤兎の精神に異常をきたしてしまった原因が、母親の言葉によるものか、そこにいるゲーデのせいかはわからないけれど……とにかく、赤兎の中にもう一人いる事は間違いなかった。……恐ろしかった事でしょう。不安だったに違いない。けれど、双子達には相談出来ず、お爺さんには信じてもらえない……彼女は孤独だった。独りぼっちだった。――悲しいくらいにね」
「やめろ! ……頼む、もうやめてくれよ! 頭ん中がおかしくなりそうだ……気が狂っちまいそうなんだよ!」
 黒兎は頭を抱えながら、その場に座り込んだ。白兎は、そっと黒兎の肩に手を置く。
「いいや、ミズホ……続けて。黒兎、真実から目を背けてはいけないよ。僕達は幸運だ。どんな形であれ、真実を知る事が出来たのだから。今の話をまとめると、僕達は苦しんでいた赤兎を……救いを求めていた赤兎を……あの山の頂上から突き落とし、殺そうとしたという事だね?」
「……うん。けど、貴方達が赤兎を突き飛ばし、落下させた後、赤兎はどうなったのか……そこがはっきりしていないの。本体の赤兎は死んでしまい、もう一人の赤兎に身体を奪われてしまったのか。それとも、もしかして……中身が入れ替わっただけで、本体の赤兎はまだ生きているのかもしれな……」
「ブッブ~! 残念~!」
 ゲーデは、口の端が裂けてしまうのではないかと思える程に口角を上げ、ニンマリと笑った。
「哀シイオ知ラセデェッス! 本体ノ赤兎ハ、アノ日間違イナク死ニマシタァ。黒、白兎ィ~オ前ラニ殺サレテナァ? 本当ニ可哀想ダッダゼ? 惨メナクライニ! ……黒兎ィ、ズット敵意ヲ向ケテイタオ前ガ、『一緒ニ行コウ!』ト誘ッテクレタ時……赤兎ハトテモ嬉シカッタンダゼェ? ソシテ、白兎ィ……! 赤兎ハナァ? ズット怯エテイタオ前ガ、自分ニ歩ミ寄ロウトシテクレタト勘違イシテ、トテモ喜ンデイタンダゼェ? ナノニオ前ラハ、オ前ラノ事ヲ一番愛シ、守ロウトシテクレテイタ姉ヲ自分ノ手デ殺シヤガッタ! プギャハハハハ! 面白過ギテ笑イガ止マンネ~ヤ!」
「やめろ……やめてくれよ……もう……」
「イイヤ~、ヤメナイ! 本体ハ死ンダ。ソシテ、モウ一人ノ赤兎ガソノ身体ヲ乗ッ取リ、今モコウシテ殺戮ヲ繰リ返シテイル……オ前ラノセイデナァア!」
「……ゲーデ。それは違うんじゃないの?」
「何ィ?」
「私には、どうしても腑に落ちない点があるの。本体の赤兎が死んでいたとして、もう一人が身体を乗っ取った。……なら、どうして彼女は暫く殺しをしなかったの? ようやく自由に動ける身体を手に入れたのに。山から島に連れてこられた時もそう。島には沢山の童子達がいたのに……何故、すぐ行動に移さなかったの? もう一人の赤兎が、本体の赤兎に何の関心もなかったのなら……本体が死んだ事に喜び、双子達に拘らず自由に殺戮を繰り返していた筈よね? それなのに……『殺したい』という欲求を抑えてまで、殺しをせず、ずっと島で暮らしたのは何故? 今の赤兎を見ていると……我慢なんて出来るタイプには、とてもじゃないけど思えない」
「……ンナ事知ラネーヨ。楽シミニ取ットイタンジャネェノォ? 飯ダッテ好キナモンハ最後ニ食ウ奴ッテイルジャン♪」
「……いいえ、きっと違う。そうじゃない。これは単なる私の想像に過ぎないけど、もう一人の赤兎は……本体の赤兎が死んでしまった事によって、芽生えた感情があったんじゃないのかな? きっと、悲しかった。激しいショックを受けた。赤兎の事を、大切に思っていた。彼女の優しさが、もう一人の彼女の心を……少しずつ変えていったのかもしれない。けれど、双子達は赤兎を殺してしまった。その時から、彼女は双子達にのみ固執し……優しい姉を演じてまで二人から離れなかった。それは、きっと【赤兎】の仇を討つ為。島を継承し、喜びに満ち溢れている時に最も残酷に……惨たらしく二人を殺す。それだけが、彼女の生きる糧になっていったんじゃ――」
 ――その時、急に私の頭の中で閃いた。
 狸のお爺さんが別れ際に言っていた事って、もしかして……
「シロくん! 久し振りに赤兎に会って、何か気付いた事とかないかな? たとえば……以前とは違った部分とか。何でもいいの! どんな細かい事でも良い!」
「え……? あの時の赤兎と、今の赤兎の違い? ――話し方、くらいかな……?」
 ……話し方。彼女は【真夏の夜の夢】を好きだと言っていた。だから、妖精【ティターニア】を真似て、あんな話し方をしてるんだって思っていた。
 けど、本体である赤兎が……昔、真夏の夜の夢を好きだったとは、誰も言っていない。
「……クロちゃん。おかしくなる前の赤兎は、真夏の夜の夢……いいえ【夏の夜の夢】の事を好きだと言っていた?」
「……あの本は、まだあたし達が仲のいい姉妹だった時、狸の爺さんの家で見つけたんだ。あの爺さん、人間の本を集めるのが好きだったから。そん時にさぁ……赤兎から聞いた事があんだよ。夏の夜の夢は、あまり好きではないって……だから、ちょっとおかしいなとは思っていたんだ。今回島に戻ってきた赤兎が、自分の事をティターニアと呼び、変な話し方すんの……」
 ――黒兎の言っている事が正しければ、夏の夜の夢が好きだったのは……もう一人の赤兎? 
 なら、一応筋は通っているようにも思えるが……どうしても無視出来ない矛盾が生じている。
 今の赤兎は、【狸のお爺さんの事を知らなかった】。夏の夜の夢は、お爺さんの家にあったというのに。
 ……そうか。やはり、そういう事だったんだ。
 狸のお爺さん。貴方が言おうとした事、私……ちゃんとわかったよ。
 きっと、これが全ての答えだ――

「ゲーデ、貴方……何をしたの?」
「……ハイ~?」
「双子達が夜宴の島を継承した夜、貴方は弱った赤兎を助け、どこかに連れ去った。その後、貴方……彼女に何かしたんじゃないの?」
「……サァテ、ナ~ンノ事デショウ?」
「今の赤兎は恐らく……本体とも、もう一人の赤兎とも違う【第三の赤兎】。赤兎の人格は二人だけじゃなかった……三人だったのよ!」
「は、はぁ……⁉ お前何言って……」
「……それだと全てが繋がるの。そしてもう一人の赤兎はきっと、今の赤兎……いいえ、【ティターニア】の中で眠らされている。第三の人格は恐らく、貴方が無理矢理作り出したもの。なら、主となる者がいないと動けない筈。……もう一人の赤兎まで死んでしまっていたら、ティターニアは存在出来ないもの!」
「……グヒャッハハハハハハ! ヒャハ! ウヒヒヒヒ!」
 ゲーデは突然、パンパンと手を叩いた。
「ブラヴォー! ブラヴォー! ミズホ、オ前ナカナカヤルジャン⁉ コングラチュレイション~! 大正解ダヨ! ……ヤッベ、キッレキレノ推理ニ俺、興奮シチマッタヨォ~! ソウ、今ノティターニアハ【良イ子ノ赤兎】デモ【流サレヤスイ赤兎】デモナイ! 俺ガ作リ出シタ【究極ノ殺人兵器】ダ! ブッチャケオ前達ニハ何ノ関係モナイキャラクターナワケ~。俺ガチョイチョイット脳ヲ弄リ回シテ作ッタンダヨネェ。二人目ノ邪悪ナ部分ダケヲ使ッテ! ア、アト媚薬ニ狂ッタ妖精【ティターニア】ノヨウニ、チャ~ント男好キニモシテヤッタんダゼ? 優シイダロ、俺? 赤兎ニ新シイ【属性】追加! ……ッテヤツゥ?」
「最低ね……貴方」
「ダッテヨォ、面白クネーンダモン。アイツ……ソコノ双子共シカ眼中ニネ〜シ、マドロッコシイシ、後継者ニ選バレネ〜シ、双子共ニコテンパンニノサレチマウシ。――イラナイッショ? ンナ役立タズ。ティターニアノ【コア】ニナルベク、生カシテ置イテヤッテルダケダヨ~。アノ殺人【人形】ノ為ニネ!」
 ゲーデはゆっくりと静かに立ち上がる。その瞬間、一瞬にして鳥肌が立った。背筋に冷たい刃物でも押し当てられているかのように身震いし、湧き上がる恐怖に動悸が早まる。
 きっと、私だけではない。――全員が、だ。
「ア~、楽シカッタァ……最高ノ気分ダヨォ。俺サ、退屈ガ嫌イナンダ。ダカラサ、モットモット遊ンデクレヨォ?」
「……ゲーデ、離れろ!」
 黒兎と白兎が私と彼の前に立ち、身を挺して守ろうとする……が。
「オ前等、ジャ~マ!」
 人形は、まるで指揮者の様に腕を振り上げ、それを払った。双子達の身体は宙に浮き、払われた腕と同じタイミングで、遠く……地面に叩きつけられる。
「ソコデ見テナ? オ前等ニ用ハネェンダヨ、間抜ケナ子兎共ガ」
「……何だか、いつもと少し話し方や雰囲気が違うのね。幼く馬鹿のように振る舞っていたのは演技?」
「アア、脳アル鷹ハ爪ヲ隠スッテイウダロウ? マァ、コノ島ニハ演ジテル奴ガウジャウジャイルミタイダケドネ~。……ナァ、他ニモ何カ面白イ事出来ル? 出来ナイナラ、ソロソロ死ンジャウ?」
 ゲーデは再び、小さな腕を高く上げた。
「きゃあ!」
「くっ!」
 私と彼の身体が宙に浮く。私は、必死の抵抗を試みるが……とにかく身体が鉛の様に重く、自由に動かす事が出来ない。まるで、金縛りにでもあっているかのようだ。
 辛うじて動く首を彼の方に向けると、彼は焦る事なく、この事態を冷静に判断しているかの様に思えた。
「死ナナイ程度ニ痛メツケテヤロウカナ~? 簡単ニ殺シタラ面白クナイモンネ? 痛ブッテ、痛ブッテ、痛ブッテ、血ト涙ト涎ニ塗レタ顔デ懇願スルンダ~。『助ケテ下サイ! ゲーデ様!』ッテナァ! ――考エタダケデゾクゾクシヤガルゼ、ヒヒ」
「つくづく変態野郎だな……お前って」
 彼は人形を鋭く睨みつける。その目には、勿論怒りの感情が読み取れたが……何だか少し呆れているようにも見えた。
「アアン? 人形ノ人形ガ……コノ俺ニクチゴタエスンジャネーヨ? 身ノ程ヲ弁エロ、屑ガ」
「さっきから聞いてれば、人形の人形って……お前なんて、正真正銘の【人形】だろうが? 自分の姿を見てみろよ? 小さくて、毛がなくて、変な顔色で、縫い目はまるでフランケンシュタイン。とにかく気持ち悪ぃ。見た目も、中身も醜すぎて反吐が出そうだ。たとえ俺がティターニアの人形だったとしても、お前みたいな腐った人形になるよりかは断然マシだよ」
「そ、ソウくん……!」
「『人形は大事にしろ』と、昔死んだ婆ちゃんに言われた事があったけどな……お前だけはどうやら別のようだ。今ここに火があれば、速攻でお前をその中に投げ込んでやるよ! ……お前みたいな奴が、存在していていい筈がない!」
「ホォ~……言ッテクレルネェ?」
 ……嫌でもわかってしまう。この人はわざと悪態をついて、ゲーデの怒りの矛先を自分だけに向けようとしているんだ。けど……そんな事はさせない! 絶対に! 
「き、聞きなさい、ゲーデ! 貴方なんかにこの島は絶対に渡さない。そこの仮面達を連れて、早くここから出ていって! この夜宴の島の物語に貴方は必要ない! 完全にミスキャストだわ!」
「……サッキカラ聞イテリャ、テメェ等調子ヅキヤガッテ。虫ケラノ人間風情ガ、コノ俺ニ盾突クンジャネェヨ? オ前ラノ命ハ……トックニ俺ノ手ノ中ダ」
 人形は、振り上げたままだった手を素早く払った。私達の身体は、凄まじい速さで遠くに飛ばされる。呼吸するのも困難を極めるくらいの速度に、思わず眩暈すら覚えた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
 顔を少し後ろに向けると、すぐ近くに大きな岩が見える。
(――駄目! このままじゃ衝突する!)
 私はギュッと強く目を閉じた。

 ……あれ? 痛みがない。というか、衝撃すらも感じられなかった……
 私は、恐る恐る目を開く。すると私の身体は、ふわふわとしたシャボン玉のような透明な膜に包まれていた。身体も自由に動かせる……これは一体……
「――チッ! オ前等ノソノ面……タダノ面デハナイナ? マ、イイヤ。……燃~エロ、燃~エロ、ゴミハ燃エロ~♪」
 ゲーデが不気味な声で、奇妙に歌い始めたのと同時に……顔に付けていた面が、突然燃え始めた。
 端から少しずつジワジワと燃えていくおかめの面。私は急いでそれを外し、地面に投げ捨てた。
 面を外した事が原因か、柔らかいシャボンのような膜はパチンッと割れ、私は宙から地面に落下した。その拍子に強く尻を打ち付ける。
「いったぁ……! 痛たたた……あ、ソウくん!」
 私は急いで、彼が飛ばされた方向に目を向けた。
「……良かったぁ。何とか無事みたいだ」
 彼も、私と同じ行動を取ったようで……少し離れた場所に立ち、徐々に燃えていく面をじっと見つめていた。……どうやら彼の方は着地に成功したらしい。
 私は再び、目の前で燃えている面に視線を落とした。
「そんな……」
 この面がなかったら……あのスピードだ。きっと、ただでは済まなかっただろう。夜宴の島に来てから、ずっと一緒だったのに。何だか少し、胸が痛い。
 ――その時。突然、【老人】の『ほっほっほ』と言う高笑いがどこからか聞こえ始めた。その場にいた全員が視線を、空や森や地面に巡らせる。
『ふぅ〜、やっと面を壊してくれたようじゃのう……まったく、待ち草臥れたぞい』
「……何ダァ、コノ声は。ドコカラダ?」
 島中に大きく響き渡る声。この声は……

「待たせた、かのう?」

「――仙人!」
 彼の……燃え続けるひょっとこの面の中から、勢いよく飛び出してきたのは……間違いなく、私のよく知る仙人の姿だった。
 そして、おかめの面からも……
「! あ、貴方は!」
 こちらの面から飛び出してきた人物。それは私の……魔女の薬によってかけられた呪いを解こうとしてくれた、あの蛇の面を被った無口な老人だった。
「……それはのう。儂と蛇とで作った面なんじゃよ。そやつ、手先が器用でな。――まぁ、そんな事はどうでもいいじゃろ」
 仙人は、人形の方へと一歩足を進めた。
「あんたが死神さんじゃな? ……こりゃあ、とんでもない力を秘めておる。狸の奴、何故わからんかったんじゃろ? お主、何か細工でもしとったんか?」
「ヘッ! 細工ナンカスルワキャネェダロ? アンナ老イボレニチカラヲ感知サレル程、俺ハ落チブレチャアイネェンダヨ! 馬鹿ニスンナヨナァ? ――マ、オ前モ充分老イボレダケドォ~」
「ほっほっほ! それは違いないのう」
 仙人は暫く愉快そうに笑った後、ピタリと笑うのをやめた。
「さぁて、どうしたものか。正直、儂等ではお主に勝てる気はせんのじゃ。身を引いてもらえたら嬉しいんじゃがのう? 何もこんな小さな島に拘らんでも、お主には幾らでも遊び場があるじゃろうて。どうじゃ? この老いぼれに免じて……立ち去ってはくれんかのう?」
「ヤナコッタ。何デ俺ガテメェノ言ウ事ヲ聞カナキャナンネェンダヨ? バッカジャネ?」
「――ふむ。ならば仕方あるまい。……戦争じゃ」
 老人がパチンと指を鳴らすと、仮面達の背後を覆い尽くすかのように煙が立ち込めた。その中に、数え切れないくらいの沢山の影が浮かび上がって見える。やがて、煙は少しずつ霧のように晴れ、見た事のある面々の姿が露わとなった。
「ナ、何ィ⁉ オ前等ァ……一体、ドウヤッテココニ⁉」
「のう、ゲーデや? 力は確かに大事じゃ。しかし、本物の策士は【ココ】で戦をするもんじゃよ」
 仙人は堂々とした態度で、こめかみをトントンと突いた。
「ここにおる者達はのう……皆、この島が好きなんじゃよ。それが、今じゃこの有り様じゃ。森が泣いておる。海が泣いておる。そして、島が悲鳴を上げておるのが……お主にはわからないのか? ここはお主がいて良い所ではない。出て行かぬと言うならば、無理矢理にでも退場して頂くとしようかのう。幾らお主に力があろうが、この数を相手にするには少々キツいじゃろう」
「糞ジジイ……! 舐メヤガッテ! オイ、オ前等! 誰デモイイ。ティターニアヲ今スグココニ連レテコイ!」
「はっ!」
 人形からの命令に、仮面の一人が即座に立ち上がった。
「――待ちなさい! ……その必要はないわ。私はここだもの」
 その言葉に、皆が一斉に振り返る。
 そこには……ふわふわとした金色の髪、紅いルージュにリボン、黒いドレスを着た少女が腕を組みながら立っていた。
 ……狸のお爺さんは? 
 身体の中を、不安と焦りが駆け巡る。ティターニアがここにいるという事は……狸のお爺さんは、もう……
「オッ! ティターニア! オッセーヨ! コイツ等、生意気ナンダワ! サッサト全員|{嬲}(なぶ)リ殺シニシチマオウゼ! ……ホラホラ、オ前ノ憎クテ殺シタガッテル双子モ揃ッテル事ダシナァ」
「……そうねぇ? 黒兎に白兎、本当に殺したいくらいに嫌いだわ。こいつ等が生きている限り、私の憎しみは決してなくなる事はないもの。けれど、二人を殺す前に……もっと死んでもらいたい奴がいるの。ねぇ、ゲーデ……先にそいつから殺ってしまってもいいかしら? 私……そいつを殺したくて殺したくて、うずうずしているの」
 そう言うと、ティターニアは一歩ずつ人形に向かって歩き始めた。
「勿論、イイゼ~イイゼ~? コノ俺ガ手伝ッテヤルヨ? 一体、ドイツヲ先ニ殺リタインダァ?」
「流石ね、ゲーデ。とても可愛い子……大好きよ? ――なら、私の望み通り……死んで頂戴?」
 ティターニアは手のひらの中に隠し持っていた硝子の破片を、ゲーデの心臓を目がけて、思いっきり突き刺した。――筈、だった。
「……ナァンチャッテ~♪」
 人形は少女の手を強く掴みながら、ケタケタと愉快そうに笑う。
「――チッ!」
 少女はその手を振り払うと、大きく後ろに飛び退いた。
「ザァンネン! イヤァ~、惜シカッタネ! ……ケド、ヤッパリ甘ェンダヨ~、オ前ハ。俺ニ向ケタ殺気ガ駄々漏レダッタヨ~ン。オイオイ~、ティターニアハドウシタァ? ――ナァ、赤兎ィ?」
「……あら? あの男狂いの事ぉ? 頭に血が昇り過ぎて、上手く自分をコントロル出来なかったようねぇ? 隙を見て私の中に押し込んでやったわ。【偽善者】といい、【変態】といい、表に出るのはいつだって腐った奴等ばっかり。この身体は私のものだって言っているでしょう? 悪趣味な髪色にルージュ、烏のように真っ黒な服。いい加減うんざり。あんたの作り出したティターニアの趣味ってほんっと~に最悪。……この身体、返してもらうわよ? で、あんたはもうお役御免ってわけ。さっさと死んでくれないかしら?」
 少女は、まるで天使のように美しく笑う。しかし、その笑顔の中に秘められた残虐性や、ゲーデに向けられた殺意は、隠される事なく表面に出されていた。
 けど……何故だろう? 
 物騒な事をしたり、言っているのには変わりないのに……ティターニアの時のように、恐怖に震える事はない。
「……私ね、あんたを利用する事があっても、利用されるなんて真っ平御免なの。だから、邪魔しないでくれる? こいつ等双子を殺るのは【私】なの。【ティターニア】でも【あんた】でもなく、この【私】。……なのに、今まで随分とこの身体で好き勝手にやってくれたじゃない? 双子の前に……ゲーデ、邪魔なあんたを先に殺してあげるわ」
「グヒャヒャヒャヒャ! オッモシレ~! タマンネェナァ? オイッ! ……イイダロウ、相手ヲシテヤルヨォ」
「――黒兎、白兎」
 双子達の名を呼んだ赤兎はくるりと振り返ると、地面に這いつくばっている二人に向かって言った。
「お前達……久し振りねぇ? 私がいなくなった後、随分と楽しい時間を過ごしていたようじゃない? ほんと、いい気なもんよねぇ~。ニ度も私を殺そうとしておきながら。……ま、【私】は今もしぶとく生きているけどね。お前達が生きている限り、私が死ぬなんて有り得ない話だわ。――私は、絶対にお前達を許さない。お前達は、必ず私の手で殺す。だから……こんなところで憐れに死ぬ事は許さない」
 赤兎は再び双子に背を向け、人形と対峙した。
「ねぇ、ゲーデ? 仮面達なんかに頼らず、正々堂々私と勝負なさいな? そして勝った方が、この島も双子達も……そこにいる人間や島の客人達の事も……好きにすればいい。――まぁ、私が勝てば全員殺すけどね?」
「奇遇ダナァ? 俺モ勿論全員殺スツモリダゼェ? 目的ハ同ジナノニ敵対タァ、面白過ギンダロ! ……イイカァ? オ前ラ、手ェ出スンジャネェゾ? ソコニイルジジイ共モダ! 後デジックリ可愛ガッテヤルカラヨォ?」
 少女と人形が火花を散らしているその隙に、私と彼は急いで双子達の元に駆け付けた。
「――二人共! 大丈夫⁉」
「立てるか? とにかく、あっちへ……」
 私達は二人に肩を貸すと、森の隅の方に移動した。島の客人達や不気味な仮面の衆は……その場から一歩も動かず、二人の闘いを見守っている。
 双子達は赤兎から一度も目を離す事なく、ぼんやりとした表情を見せながら小さく呟いた。
「あいつ……間違いねぇな……」
「……ああ。正真正銘、島での【赤兎】のようだね。でも、どうして……? これじゃあ三つ巴だ。人格を無理矢理封印されてしまったのだから、ゲーデに対し怒りを持つのはわかる。けど……折角、表の人格に戻れたんだ。再びゲーデ達と手を組み、僕達や島を一掃する事は簡単なのに。あの赤兎が誰よりも憎み、殺したがっているのは僕達の筈だ。なのに……何で……」
「それって……」
 きっと、彼女が本物の赤兎から得た感情は……赤兎が殺されてしまった事に対する憎しみや恨みだけではなかった。恐らく、彼女自身も気付いてはいないのだろう。彼女の中に芽生えている感情……多分、それは……
 どうしよう。二人に私の考えを伝えるべきなのだろうか? それとも――
 悩んでいる私の肩に、突然感じた優しい重み。振り返った私に彼は微笑みながら、首を左右に動かした。
「皆……深く考えるのはもうやめないか? あの赤兎は、一人でもゲーデと闘うと言った。その真意は誰にもわからない。……当の赤兎ですら、わかっていないのかもしれない。けど……それぞれがどう考え、どう受け止めるか。それは俺達の自由だ。彼女は確かに人格障害だったのかもしれない。けど、見方を変えてみれば……誰だって沢山の自分を持っているんだよ」
「見方を……変えてみる……?」
「ああ! たとえば……――なぁ、シロ? お前から見て、俺はどんな奴だ?」
「……何だよ、いきなり」
「いいから! 遠慮せず、思ったまま言ってみてくれ」
「……君は、本当に不愉快でムカつく存在だよ。いつだって自信に満ち溢れていて、大切なものを……いとも簡単に奪っていってしまう。僕は君の事なんか、大嫌いだよ」
「ははっ! 手厳しいな。けど、成る程ね。よし、それじゃあ……クロはどうだ?」
「……あたしはお前の事、不器用な奴だなって思うぜ。お前ってさ、後先考えずに……思ったまんま、何でも言っちまうとこがあるだろ? そういうとこ……マジ、損してんなぁ~って。けど、お前は本当に賢いし、いつも冷静に周りを見れる。……いい奴だよ。本当に」
「……そっか。ありがとな、クロ! じゃあ、次はミズホだ!」
 彼の視線が、今度は私に向けられた。
「ソウくんは……誰よりも弱くて、誰よりも強い人」
 彼は『ふっ』と優しく微笑むと、何も言わずに私の頭の上にポンッと手のひらを置いた。
「……この時点でさ、今ここに【三人の俺】が存在しているんだ。では、それが真実か? それが本当の俺なのか? ……そう問われたら、きっと誰にもわからない。勿論、俺自身だって……そんなのはわからないよ。なら、自分の目で見たままの相手を信じてみればいいんじゃないのかな? 真実がどうであれ。……今、ここに存在している者達全員が、様々な目線で赤兎の事を考えている。赤兎が今、何を考えているか……それはきっと他者諸々だ。そこから生まれた、一人一人の中に存在する赤兎。自分が見て決めた赤兎を信じてみればいいんだよ。病気、病気じゃない……そんなもんは全部取っ払ってさ! わからない答えに頭を悩ませるよりも……今、俺達に出来る事をすればいいんだよ。思いつくままに……」
「……ソウ。君って本当に馬鹿な上、とんだお人好しだね。言ってる内容も、根本的にずれているように思えるけど……何となく言いたい事はわかったよ」
 白兎は口元に手を当て、クスリと笑った。
「――僕と黒兎は、どれだけ後悔しても取り戻せない……償う事の出来ない罪を知った。あの赤兎が、ミズホやゲーデの言った通り、姉様を殺された恨みと憎しみで僕達の生命を狙っていたのだとしたら……僕達は喜んでこの生命を彼女に捧げよう」
 白兎の言葉に、黒兎も小さく頷く。
「姉様の家族だったのは……姉様の事を一番に大切に思い、愛していたのは……僕達などではなく、今……死神と闘っている彼女だったのかもしれないね」
 白兎は負傷したであろう腹部を抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。
「……なら、あいつはあたし達の【姉様】でもあるな。二番目の姉様はすげぇこえーし、ちょっと隙を見せたらこっちが殺されちまうかもしれねぇけど……死なせるわけにはいかねぇ」
 白兎よりも遥かに深い傷を負っていた黒兎も、膝に力を入れ、立ち上がる。
「ありがとう、ミズホ。そして……ソウ。君達の言葉に……僕達がどれだけ助けられ、勇気付けられてきただろう。本当に感謝してるよ。真実を知る事が出来て、本当に良かった。けど……ここからは僕達の闘いだ。君達はどこかに隠れていて。大丈夫、絶対に負けないから」
「……なら、俺達もここにいる」
「そうだよ! だって、負けないんでしょ?」
 私達の言葉に、二人はわかりやすく溜息を吐くと、穏やかな声で笑って言った。
「……もう一度、夜宴の島で楽しい宴を!」
「食って、騒いで、踊りまくるんだ! くぅ~! 今から楽しみだぜ! その為にはここにいる邪魔者達全員、この島から出ていってもらわなきゃな! ……白兎、行くぞ」
 黒兎がそう言うと、白兎は『うん』と頷き、二人は赤兎の元へと走っていった。
「……行っちゃったね」
「うん……」
「……ねぇ、ソウくん。狸のお爺さんはどうしたのかな? 無事だといいんだけど……」
「……大丈夫だよ。きっと生きてる。そう信じよう」
 私達は顔を見合わせながら、双子達と狸の老人の無事を祈った。

十一

「ホラホラァ~赤兎ィ? モウ息ガ上ガッテルジャネェカ? ドォシタァ? 俺ハマダ全然チカラヲ出シチャイネェゾ?」
「……煩いわね~。その口、縫い付けてやろうかしら? ニ度と声が出せないように」
「ギャハハハハ! 縫ッテ縫ッテ~~⁉ 縫ッテチョ~ダ~イ⁉ ……アッ、ドウセナラオ揃イニシチャウゥ?」
 ――わかってる。こいつは強い。そもそも、死神相手に最初から勝てる筈がないのだ。それでも……こいつに私の邪魔をさせる訳にはいかない。
 それに早くしないと、私の中の【ティターニア】も暴れ始めている。やはり、この死神が作り出した存在だ……とんでもなく強い。あの女を抑え込み、自我を保っているのがやっとだ。こんな状態で、戦闘に集中など出来やしない。
 さて……どうしたものかしら。
「オイ、ティターニア〜! 早ク出テコイヨ? コンナヘナチョコニ抑エツケラレルヨウジャア、オ前モマダマダダネェ?」
「残念ね。何度でも言わせてもらうけど、この身体は私のモノなの。【赤兎】から受け取ったこの身体……金輪際、誰にも奪わせやしないわ」
「……オ前、ソロソロウゼェワ。【赤兎】ノ事ヲソンナニ愛シテイルノナラ、オ前モ後ヲ追ッテ死ネバイインジャン? マ、ソウナリャ〜ソノ身体ハモウ使エナクナッチマウンダケドナァ~。デモ、イイヤ。モウ! 代ワリナライクラデモ補充出来ルシ。俺ハオ前ガ【兎神ノ子】ダカラ、使ッテヤッタダケダシヨォ! ……ナンナラ最後ニイイ事ヲ教エテヤロウカ? ヒヒッ」
 死神は展望台の一番高い位置までジャンプし、そこに腰を下ろすと……綿と布で出来た小さな手をパンパン鳴らしながら大きな声で叫んだ。
「Ladies and gentlemen~! 良イ子モ悪イ子モ聞イチャイナ! コノ俺、ゲーデノ懺悔ヲサ! プフ。ハイ皆、コレニチューモク!」
 死神がそう切り出すと……突然、その手の中に大きな厚切り画用紙が数十枚現れた。まるでマジックでも見せられているかのようだ。こちらから見える一枚目には、毒々しい紫色の背景に、血に濡れた少年の人形……そして、汚い字で【ゲーデ君、涙ノ懺悔物語】と描かれているのがわかった。……紙芝居でもしようと言うのか? 
 死神は最初の一枚を一番後ろに引っ込めた。次に出てきた絵は……一人の少女が、ニヤリと不気味に笑う少年の人形を抱きしめているものであった。
「ムカ〜シ、昔、ゲーデ君ハ……ワケガアッテ人間ノ娘ノ元デ暮ラシテイル、可愛イ可愛イオ人形サンデシタ。ゲーデ君ノ持チ主ハ、トテモトテモ優シク、良イ娘。ソウ……虫酸ガ走ルクライニネ? フヒヒ!」
 次の絵は少女が口から血を吐いたり、腹部に刃物が刺さっていたり、落雷に打たれていたり、虫が身体中に這っているのを想像している人形の絵だった。……普通の人間なら直視しがたい絵である事は間違いない。けれど私は、死神の真意と懺悔とやらが知りたくて、淡々とその絵を眺め続けていた。
 私の中のティターニアが、より一層外に出たがっているのを感じながら……
「ゲーデ君ハドォ~シテモ、ソノ娘ノ苦シム顔、醜ク歪ンダ顔ガ見タカッタ……ナノデ、周リノ人間ヲウマク操リ、ケシカケル事ニシマシタ。娘ヲ、アノ……見ルカラニ野蛮デ、凶悪ナ、極悪人面シタ【兎神】ノ生贄ニ捧ゲヨ、サモナケレバ災イガ降リカカルデアロウ! マァ……コンナ感ジデネ? 現ニ村人達ハ兎神ニ怯エナガラ、日々生活ヲ送ッテイタ……誘導スルノハ簡単ナ事ダッタゼ」
 死神の言葉に周囲がざわつくのがわかった。
 ゲーデが話している内容は、間違いなく赤兎や双子達の母親の話だ。
 ……そんな馬鹿な。赤兎が最初にゲーデの存在を認識したのは、白兎の為に里に下りた時だった筈。
 私や赤兎は、そんなにも昔からこいつの手の中で踊らされていたのか? 
 一枚、一枚……不気味な絵が捲れていく。その内容に、流石の私も吐き気を覚えずにはいられなかった。
 死神は、これから何を告白しようとしているのだろう? 
「マッサカ、アノ兎神ト人間ノ娘ガ恋仲ニナルトハ誰モ思ワネェダロ、普通! ……ケドヨ、コノ展開モマァマァ面白レージャン? キヒ! ……ナノデ、気ノ長~イゲーデ君ハ、暫ク様子ヲ見ル事ニシマシタ。ソシテ、ムカッ腹ガ立ツクライノハッピーライフヲ過ゴス奴ラニ……何ト! 赤ン坊ガ授カリマシタァ! ソウ! 皆様ゴ存知ノ赤兎チャンデス! ワオッ!」
 死神の描いた赤兎は、穢れを全く知らない、純粋そうな笑顔で笑っており、今までの絵とは異なっていた。
「コノ赤兎チャン、人ノ血ガ混ザッテル癖ニスゲェチカラヲ持ッテオリマシテェ~。何ト! 赤ン坊ノ癖ニ、ゲーデ君ガ普通ノ人形デハナイトイウ事ニ気付イチャッタミタイナンスヨネ~。アノ兎神デスラ気付カナカッタノニ。ウヒ。赤兎チャンハ、ゲーデ君ガ傍ニイルダケデ泣キ叫ビ、暴レル始末。オカシイト感ジタ両親ハ可愛イゲーデ君ヲ手放ス事ニ! トニカク、ブッ殺シタクナルクライムカツクガキダッタノデスガ……優シ~ゲーデ君ハ、マタマタ我慢スル事ニシマシタ。エライデショ? ダッテ、ゲーデ君ノ関心ハ【人間ノ母親】カラ【神ノ出来損ナイ】ニ移ッテイタノダカラ。……ア~ッ! シッカシ面倒クセェナ、コレ。ッテ事デ、短縮スンネ~? ソンナ怒ンナッテ! クケケ!」
 死神は数枚の絵を空に向かって投げ捨て、新しい絵を皆に披露した。
 先程の赤兎の絵とまったく同じように見えるが、今度の絵は赤兎の顔や身体が真っ赤に染まり、純真無垢な笑顔から一転……狂気染みた笑顔に早変わりしている。その後ろでは、人間達が様々な凶器を握りしめ、二人の小さな幼な子を抱えながら逃げる女を執拗に追いかけていた。
「ゲーデ君ハ人間達ガ子兎共ノ母親ヲ殺スヨウニ、ウマク仕向ケテヤリマシタ! ドウヤッテ? ソンナノハ簡単! ……人間ッテサァ、ホンット自分ノ事シカ考エテイナイオ馬鹿チャンバッカリダカラ、恐怖デ支配スリャア、何デモヤッチャウ生キ物ナノヨ。デ、殺サレル直前ノ母親ヲ庇イ、兎神ガ死ンデ…………

ナインデスヨネェ~、実ハ♪」

「……えっ?」
 死神の言葉に、思わず間の抜けた声が出る。死神は私の顔を見ると、喜色満面の笑みを浮かべながら言った。
「ダッテ殺シタノ俺ダモン! 仮ニモ神ガ人間ナンカニ殺サレルカッテノ! 母親ハ赤兎ト生マレタバカリノ双子ヲ連レテ、トットト逃ゲチャッタカラ……母親ト赤兎ノ間デハ、兎神ハ人間ニ殺サレタ事ニナッチャイマシタァ! ウヒヒ、ドウコレ? ウケル~! ……ア。因ミニ、身体ヲ弱ラセタ母親ヲ殺ッタノモ、実ハコノ俺! 病死ニ見セカケテ殺シチャイマシタァ! ハイハ~イ、今ココデ、俺ノ罪ヲ懺悔シマアアアアアッス! ドウモ、スイマセンデシタァ〜! グヒャヒャヒャ!」
「……信じられない。よく笑ってそんな事が言えるわね……? 絶対に許せない……! 絶対に許さないから!」
 人間の娘が、無謀にも死神に抗議をしている。島にいた神々等も皆、野次を飛ばしたり騒いだりしていた。
 私はもう……どうすれば良いのかわからなくなっていた。
 ――ねぇ、赤兎。……全部違ったよ。真実は、私達が知るものとはまったく違ったみたい。あんたは死んでしまった。だからもう……真実を知る事は出来ない。
 私達が、あの雪の降る夜にゲーデに出逢ったのも……きっと全部仕組まれていた事。……ああ、憐れにも程があるわ。私の分身よ。
 あんたは生まれた時から死神に魅入られていて、幸せになんてなれる筈がなかった。どうしてあんただけがこんな目に遭わなければいけなかったの? 
 惨めで憐れで可哀想な赤兎。どうしてだろう、あんたがいなくなった時と同じくらい……胸が痛む。
(――あらぁ? わたくしから言わせてもらえば、憐れなのは貴女も同じでしてよ? うふ! だって貴女って、本体に情が移り……今では虫も動物も、人間だって殺せなくなってしまった甘ちゃんなんですものぉ。もういない相手にそこまで尽くすだなんて、憐れ極まりないと思いませんこと? 双子達の事だって、貴女……ちゃんと殺せますのぉ? 無理なんでしたら、黙ってわたくしと代わりなさいな? わたくしが貴女の代わりに、華麗に美しく、無慈悲かつ残酷に殺して差し上げましてよ♪)
 脳内にティターニアの声が響き渡る。……いけない。今ここでティターニアと代わるわけにはいかないわ。それに、死神相手に弱い部分を見せるわけにもいかない。虚勢を張ってでも気丈に振舞わないと……
「……ねぇ、ゲーデ。話はそれでお終いかしら? そんな下らない話、聞いてるだけ時間の無駄だわ。あんた、私の事を惑わそうとしたのかもしれないけど……お生憎様。【私】は兎神の子でも、人間の娘の子でもない。ましてや、あの双子達の姉でもなんでもないわ。だから、私にそんな話を聞かせても何の意味もない。退屈なだけよ。……そんな事より、さっさと続きを始めましょうよ?」
「――イイヤ、意味ナラチャントアルサ? 確カニ【オ前】ハ、兎神ノ子デモ人間ノ子デモナイシ、双子達ノ姉デモナイ。マッタクノ赤ノ他人ダ。……ケドヨォ、赤兎ハドウダ? オ前カラ見テ、アイツハ【他人】ナノカヨォ? 違ウヨナァ? オ前ハ、モウ存在シナイ赤兎ノ事バカリ考エ、生キテヤガル。ナラドウダ? アイツノ気持チニナッテ考エテヤレヨ? 友達ダロ? 家族ダロ? 姉デモアリ妹デモアリ、時ニハ母親ノヨウニ強ク愛ニ溢レテイタ、アノ赤兎ノ傷付イタ顔ヲ思イ浮カベテミロヨ? ケケッ! ……イイカ? オ前ノ弱点ハソレダヨ、赤兎ダ。チカラデ勝ッテイヨウガ、メンタルノ強サデハ……オ前ハ赤兎ヨリズット劣ッテヤガル。俺ニハワカッテルゼェ? 今、オ前ノ心ニ生マレテイル不安ヤ葛藤……駄目ダヨォ? 赤兎チャァン? ソウイウノガ一番、悪イ奴ニ付ケ込マレヤスインダカラァ~! ――オ前ハ、赤兎ヨリ遥カニ弱イ」
「違う! 私は……!」
 死神はまず相手の心を支配する。だから、惑わされてはいけない。そんな事はわかっている。でも……その通りだ。私は弱い。
 赤兎がいなくなってから、まるで心にぽっかりと穴が空いたようだった。私は、あの娘の中に生まれた単なる人格でしかない。赤兎がいなくなった私は独りぼっちだ。孤独なのだ。
 ……この寂しさに、気付きたくなんかなかった。
 本当はわかっている。あの娘が双子達に殺されたのは、全て私のせいだ。私さえいなければ……あの娘が苦しむ事も、命を落とす事もなかった。けれど、認めたくなかったのだ。認めてしまえば……壊れてしまいそうだったから。
 だから全ての責任を、直接手を下した双子達に押し付け、殺意を抱き、『復讐する為だけに私は存在しているのだ』と……ずっと自分に言い聞かせて生きてきたのかもしれない。赤兎がこの場にいたら……こんな私を見て、どう思うのだろう? 
 ――妖精が笑っている。不安に押し潰されそうな私の心に、更なる追い打ちをかけるかのように。
 ――死神は笑っていた。私がティターニアに再び取り込まれる事を、最初からわかっていたかのように。
 そして私は……間違いなく、戦意喪失していた。

「……さっきから聞いてりゃあ、うるせぇんだよ! このキモグルミが!」
 突然聞こえてきた声に、私は顔を上げる。
 いつの間に上に上がっていたのだろう? 黒兎は死神の首を強く掴み、高く持ち上げていた。
「言っておくけど……僕達は今更、何を聞いても驚かないよ? ……けど、もうお前の話にはうんざりだ」
 白兎はすかさず、死神の身体に青い炎を放つ。黒兎は、自分の手や腕が死神の身体と共に燃え上がろうとも、奴の首を掴んだ手を緩める事なくしっかりと握り、決して離そうとはしなかった。
「アチッ! アッチィナ~! オイオイオイ、黒兎ィ? オ前ノ腕マデ燃エテンジャアアン? 容赦ナイネ~、白兎? 俺ヲ殺ル為ナラ、姉貴ノ腕ノ一本ヤ二本、犠牲ニシテモイ~ッテノカァ? ……非情ダネェ~? オ前、俺以上ノ悪党ダワ」
「チッ! 黙れよ。てめぇを殺れんだったらなぁ……こんな腕の一本や二本、簡単にくれてやらぁ!」
「お前は今すぐこの手で殺す。……絶対に逃がさないよ。黒兎、君には申し訳ないけど……確実にこいつを仕留めるには、もうこうするしかないんだ。少し我慢してくれ……」
「馬鹿! わーってるよ! いらねぇ気なんて使わねぇでいいから……さっさとこいつの息の根を止めろ!」
 黒兎の言葉に頷くと、白兎は翳した手のひらから新たな炎を生み出した。
 黒兎は顔を歪め、死神は激しい炎に包まれる。それを見ていた仮面の衆が、次々に騒ぎ始めた。
「ケッ! イイダロウ……テメェラ! 大乱闘ダ! 好キニ暴レヤガレ!」
 死神の言葉に、仮面達が戦闘態勢に入る。島の客人達がそれを迎え撃ち、辺りは瞬く間に戦場と化した。
「……サァテ、オ前ラモナントカシナキャナァ。アンマ調子ニ乗ルナヨ? 糞ガキ共ガ。……デモ、ソノ前ニ♪」
 死神の首が一回転し、私の姿を捉えると……炎の中で、ギロリとその目が光った。
 ……何だ? 奴は今、何をした? 私の身体が、まるで見えない鎖に繋がれたかのように動きを止める。
 戸惑う私を見て、死神はにんまりと不気味な笑みを見せると……私を目がけ、口内から『プッ!』と何かを吹き出した。
「……グッバイ、弱ッチイ方ノ赤兎チャン♪」
「っ! ――姉様、逃げろ!」
「早くそこから離れて! 姉様!」
 二人の声が、しっかりと私の耳まで届く。……けれど、やはり身体は動いてくれない。
 ――ああ、このままだと……きっと私は死ぬのだろう。
 しかし、今はそんな事よりも……こんな私を、こんなどうしようもない私なんかの事を、『姉様』と呼んでくれた二人に、言葉では表現出来ないような想いと、深い感情が芽生え始めていた。
 全てがスローモーションのように見える。死神の口から放たれた、小さな鉛のような玉が……ゆっくりと、確実に私の心臓を狙って飛んできているのが鮮明にわかった。
 ……もう、いいや。少し疲れたもの。赤兎……私ね、あんたに逢いたいよ。クソ真面目で、口煩くて、正義感が強い割に弱虫で……誰よりも気高く、清く、思いやりのある優しい娘。この身体は、やはりあんただけのものだ。もう誰にも穢させたりしない。
 ティターニアにも……この私にも……

「――危ない! 赤兎!」

 突然、私の前に飛び出してきた小さな背中。その背中に鉛玉が貫通し、ゆっくりと地面に落ちる。私は、その小さな身体の人物がその場に倒れ込む様子を、ただじっと見つめていた。じわじわと血液が溢れ出し、やがてその場に小さな泉を作る。
 ――どうして、こんな馬鹿な真似を……? 
 私の身体が、ようやく見えない鎖から解き放たれた。私は膝をつき、震える手をそっと伸ばす。ごろりと体制を反転させたその人物は、ニコリと笑って私に言った。
「どうやら無事のようじゃな……間に合って良かったわい……安心したぞ……」

 知ってる……私はこの穏やかな声を知ってる。
 知ってる……私はこの小さな背中を知ってる。
 知ってる……
 私はこの優しい笑顔を知って――

「狸!」
 島の客人であろう天狗の面を付けた老人は、そう彼の名を呼ぶと……目の前にいた仮面の衆らを蹴散らして、急いでこちらに駆けつけて来た。その後に、人間の娘と男が続く。
 ――狸神。先程船の中で、ティターニアから【私】を引きずり出してくれた張本人だ。少し調べたい事があるといい、船に残った筈の狸が……何故ここに? 
 狸神は、私の頬にそっと手を添えた。私の身体はビクッと反応して見せたが、私に触れたその手のひらは……とても温かかった。
「今まで、すまんかったなぁ。おまん達は、いつも儂に救いを求めていたというのに……儂は何一つ気付いてやれんかった。許してくれ」
 狸神は……赤兎が慕い、とても大切に想っていた存在だ。彼は、私の存在には気付いていなかったようだけど……たまに人格が入れ変わり、暴れ、喚き散らす私の事を、いつも優しく抱きしめながら……『大丈夫、大丈夫』と、背中をトントン叩いてくれたっけ。時には、『生き物を殺したい、人間を殺してみたい』と言う私を叱り、生命の尊さというものを説いてくれた。
 あの頃の私は、『口煩い糞ジジイめ、いつかお前もこの手で殺してやるからな!』と、そんな事を思ったりもしたものだが……
「……どうして?」
「ん……?」
「何故、私なんかを庇ったの? ……馬鹿ね。私なんかを庇ったせいで死ぬだなんて、とても愚かな行為だわ」
「まぁ、そう言うな。この老いぼれはな……可愛い孫の為なら何でも出来るし、何でもしてやりたいんじゃよ。それに、爺より先に死ぬ孫がおるか!」
「……貴方が実の孫のように可愛がっていたのは、赤兎でしょう? 私には関係ない筈よ」
「……いいや、おまんも儂の可愛い孫の一人じゃよ。気が強くて、気性も荒い……孫の中では一際手の掛かる、儂の大切な孫じゃよ。ほれっ、手の掛かる子程可愛いと言うじゃろうが? おまんはほんに、可愛い、可愛い……儂の孫じゃ」
 そう言うと、狸神はとても嬉しそうに笑った。私は何だか胸が熱くなって、思わず顔を背けた。
 止まらない血液、額から流れる尋常ではない汗の量、青ざめた顔で息急き切る狸神の姿を見て……もう長くはもたないだろうと思った。そう悟らずにはいられなかった。天狗面の老人は延命治療をしようとはしなかったし、私もしなかった。
 ――わかっていたからだ。もう彼は助からないという事を。
 死神の口から飛ばされたものは、単なる銃弾のようなシンプルなものではなかった。……あれは邪悪な呪いの結晶。死神は生命を司る神。死神に生命を狙われた者は、絶対に助からない。
 人間の娘は涙を流し、男は俯いたまま……何も話そうとはしなかった。
 周りを見渡すと、今も戦闘は繰り広げられている。そして私は、再び展望台に目を向けた。
 死神は相変わらず、黒兎に首を掴まれ、火にかけられている。何か話しているようだが、周りが騒がしいのと声が遠いのとで、よく聞こえない。しかし……あの二人も気が気ではないだろう。親を知らなかったあの二人からすれば、狸神は親同然の存在だった筈だから……
「……そうじゃ、まだ聞いてなかったな。おまんの名は何というんじゃ……? ちゃんと名はあるのか? あるならば、最後に教えてくれんか? どうしても、その名で呼んでやりたくてな」
「名前……? 私に名前なんてないわ。そんなもの……ある筈がない」
「――そうか。……ならば、この年寄りに名付けさせてくれんか? 実はおまんにぴったりの名を考えておったんじゃ」
 狸神は小さな目を糸のように細めて笑うと、皺くちゃの手を私の頬から頭部に移し、優しく撫でた。
「赤によく似ておるが、赤ではないもの。しかしそれは赤と同じように……とても美しい色じゃ。緋色の兎……お主の名は【スカーレット】。どうじゃ? なかなか良い名じゃろう?」
「私の名はスカーレット……{緋兎}(あかうさぎ)……」
 狸神は弱々しくコクリと頷いた。
「スカーレット……もう一人の緋兎。大丈夫じゃ。おまんの気持ちはきっと、赤兎まで届いておる。よくぞ今までその身体を守ってきてくれたなぁ。あん娘の代わりに……礼を……」
 そう言いかけた時、狸神の口から大量の血液が飛び出した。天狗面の老人は声を大きく荒げ、必死に狸神に呼びかける。
「狸、しっかりせえ! お主が死んだら……儂はこれから誰と酒を呑めばいいんじゃ⁉ お前と呑む酒が一番美味いというのに!」
「仙人よ……儂はもう充分に生きた。あの世で爺さんが来るのを先に待っとるでな。そん時は……また共に盃を交わそう」
「バカタレが! お前はまだ、儂より全然生きてはおらんではないか! まだ早い! 順で言えば儂の方が先じゃろうが⁉ ほら、しっかりせぇ! 狸!」
 鼓動がおかしいくらいに早くなる。私は無意識に顔を左右に振っていた。
 ……嫌だ、嫌だ、嫌だ。これが【死】だというのか? あれだけ興奮し、求めていた死が……これ程までに辛く、悲しいものだったというのか?
 ならば、私がしてきた事……奪ってきた全ての生命は……

『生きている者の命を奪うなど、許される事じゃあない。まったくもって愚かな行為じゃ。その者の生命の終わりは……時が定めるか、己自身が決める事。他者が好きに奪ってよいものではない! ……命は尊いものなんよ。おまんにも、いつかきっとわかる筈じゃ』

「嫌だ……」
 私の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。私は必死にそれを拭うが、一度溢れ出した涙は、まるで噴水のようにとまる事を知らない。
「嫌だぁ! お爺ちゃん死なないで! 死なないでよ……! やだよ! 死んじゃやだよ!」
「……おやおや。赤兎と同じで、こっちの【孫】も随分泣き虫じゃのう。双子達に笑われてしまうぞ」
 狸神は嬉しそうに声を出して笑うと、ゆっくりと瞳を閉じた。私は、もう動かない狸神の身体を抱きしめながら、まるで赤子のようにわんわんと泣き喚いた。
「……馬鹿め。お主は本当に大馬鹿もんじゃ。心配するな……後は儂らに任しておくがいい。――狸よ、ゆっくり眠れ」
 仙人と呼ばれた老人はゆっくりと立ち上がり、狸神の亡骸に背を向けると、再び戦場の中へと戻っていった。

「あの……これ、使って」
 人間の娘が、私にそっとハンカチを差し出してきた。……確か、ティターニアが【ミズホ】と呼んでいたっけ。
 あんたの目も真っ赤なんだから、自分で使えばいいのに……とんだお人好しね。
「いい。いらない……そんな事より、あんた達にお願いがあるんだけど」
 私はそう言いながら、袖でゴシゴシと顔を擦った。目元が少しだけヒリヒリと痛んだが、そんな事はどうだっていい。
「……俺達に出来る事なら」
 男が私に向かって静かにそう答えると、その横で娘も大きく頷く。私は『ふぅ』と一呼吸置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「狸神を……お爺ちゃんを……どこか木陰の方に。ここに亡骸を置いたままだと、奴らの闘いの巻き添えを食うかもしれないから。もう誰にもお爺ちゃんを傷付けさせたりはしない。彼を……ここから近く、けれど安全な場所に運んで頂戴」
 事の結末を、きっと狸神も知りたいであろう。だから私は遠くとは言わず、敢えて近くを指定した。
「……わかった」
 男はそう言うと、小さな狸神の身体を優しく抱き上げた。狸神は男の腕の中で安らかな表情を見せ、眠っている。
「……ありがとう」
 私は二人にそう伝えると、くるりと方向を転換させた。
「貴女は……これからどうするの?」
 娘の弱々しくか細い声が耳に入る。馬鹿な質問だ。私がこれから行う行動など、一つしかあるまい。
「決まってるじゃない。あの死神を消してやるわ」
 私は一歩前に踏み出した。すると……今度は先程よりも小さく、消え入りそうな声が耳まで届いてきた。
「ねぇ……スカーレット。貴女は死なないでね」
 ――スカーレット、か。
 その言葉に私は答える事なく、急いで展望台を目指した。


***

 ごめんね、お爺ちゃん。折角お爺ちゃんが救ってくれた命だけれど……私はもう、取り返しのつかないくらいに沢山の命を奪ってきてしまった。
 虫も、動物も、人間も……あの優しかった童子達の命までも。
 愚かだった。浅はかだった。どれだけ過去を悔やんでも……もう元には戻らない。
 双子達の事は今でも憎い。この私の代わりに赤兎が犠牲となり、殺されてしまったから。
 けれど……私が双子達を殺したところで、赤兎は絶対に喜ばない。あの娘は双子達の事を、とても愛していたから。
 私はね、【あんた】の悲しむ顔が見たいんじゃない。……喜ぶ顔が見たいんだよ。
「お爺ちゃんは死んでしまった。……もうこれ以上、あんたの大切な者は殺させない。そうする事でしか、私には償う事が出来ないものね」
 生暖かいのに、何故か凍りつくような気持ちにさせる邪悪な風が……皆の身体に纏わりつき、少しずつ体力と気力を奪っていくようだ。
 そして、その奪われた力は全て……死神に注がれているような、そんな気がしてならなかった。

十二

 展望台の一番上まで上がると、黒兎と白兎がうつ伏せになって倒れているのがわかる。【奴】は、私の姿を見るや否や……興奮したかのような態度を見せ、軽快に話し始めた。
「ホォラ、来タ来タ! 随分ト遅カッタジャネェカ? 待チ草臥レチマッタゼ~~」
「ゲーデ……! よくも狸神を……!」
 死神は、『オイオイ、ソレハ誤解ダ』とにんまり笑った。
「悪イノハオ前ダロ? 俺ハオ前ノ生命ヲ狙ッタンダカラ。要スルニ、死ナナカッタ【オ前】ガ悪イ。シッカシ、マ~タオ前ノ代ワリニ他ノ奴ガ死ンジャッタネェ~? ウケル~! マジオ前ッテ厄病神ジャン! 次ニ死ヌノハオ前カナ? ソレトモ双子達カナァ? ウケケ」
 私はチラリと双子達の方に目を向けた。黒兎の腕は……もう駄目だろう。焼けてダラリと伸びきったそれは、思わず目を背けてしまうくらいに痛々しい。
 それなのに、死神の持つ【人形の身体】は一切焼け焦げる事なく……本人は、まるで何もなかったかのようにケロリとしていた。
 こいつ……やはり不死身か? 
「ね……姉様……何で来たんだよ? 殺されちまうぞ……早く島から逃げろ」
「……死にかけてんのはあんたの方でしょ、黒兎。醜い腕……それ、もう使い物にならないじゃない」
「僕達は、もう二度と姉様を死なせやしない。何があっても……絶対に」
「……馬鹿じゃないの。あんた達に何が出来るって言うのよ? ――ねぇ、白兎。あんた、もう立ち上がる事も出来ないじゃない」
 私なんかの事を心配する二人に対し、私はそんな言い方しか出来ない。今更、対応を変える必要もないだろう。私達の関係は、そんなに生温いものなどではないのだから。
 双子達は、そんな私の言葉に返事を返さない。いいや……返せない。既に虫の息なのは、簡単に見て取れた。
「……ねぇ? 死ぬの? あんた達、死んじゃうわけ? 犬死に? ねぇ? ……起きろつってんだよ。馬鹿共が」
 私の言葉に、二人はほんの少しだけ反応を見せたが……やはり声を出す事はなかった。
「オイオイ! 死者ニ鞭ヲ打ツヨウナ真似ハヤメナヨ~? 可哀想ダロウガ、ケケッ! 取リ敢エズサァ、オ前……死ナナクテ良カッタワ~。チョット試シタイ事ガアッテサ。暫クジットシテテネェ♪」
「……は? お前にそう言われて、じっとしている奴がどこにいるって言うのよ?」
 この圧倒的な力の前で、どれだけ私が抵抗しても……結局は無駄な足掻きだという事は理解していた。しかし、私は必ずこいつを葬り去らなければならない。そして、双子達を助ける。――そう決めたの。
「ソンナコエェ顔スンナッテ! マダ殺シヤシネェヨ」
「黙れ。お前の言葉など信じられるか」
「ッタク……ウルセェナァ? マ、イイヤ。スグ終ワルシ」
 死神が私に手を翳した瞬間、心臓がドクンと大きな音を鳴らし、おかしな感覚に包まれた。
 どう説明すれば良いのだろう? まるで、蛇が私という【皮】から脱皮したような……蝶が蛹から飛び出したような……そんな感覚だ。とにかく、不愉快極まりない。
 ――そう。それは、私の中から【私】が無理矢理取り出されていくような感覚。剥がされていくような感覚。引っ張り出されるような感覚。……あまりの不快さに、吐きそうだ。
「オッ⁉ イケタイケタ! 意外ト簡単ダッタワ。最初カラコウシトキャ良カッタゼ」

 ――私の前に、【私】がいる。

 ……くそっ、これは史上最悪のパターンだ。今でも圧倒的不利な状態なのに。
 私と瓜二つの顔が、こちらを見てニコリと微笑む。同じ顔をしていても、全く違う。私は自分の事を【天使】だと言うつもりは毛頭ないが、あいつより【悪魔】かと尋ねられたら、全力で否定するだろう。
 悪魔の申し子、絶望の魔女、呪われた妖精、そして……死の神によって生まれし存在。
 私はいつの間にか、その人物の名を口にしていた。
「……ティターニア」
「うふ! ご機嫌よう。……あら? 怖い顔。わたくしと同じ顔をしているのなら、もう少しにこやかに、可愛らしく振る舞ったらどうなんですの? 顔も中身もブスなんて、誰にも相手にされませんわよ? それにしても、や~っと表に出られましたわ。ゲーデ、貴方……とても良い子ね。わたくしだけの力だと、この先ず~っと出られなかったかもしれないもの」
 ティターニアは身体を屈めて、死神の頭を優しく撫でた。
「オ安イ御用サ、ティターニア! サァ、今カラ沢山殺ソウヨ! アゲイン! アゲインダヨ! ……ネ、ティターニア⁉」
 ――こいつ、さっきまでとは全然態度が違うじゃない。……成る程ね。ティターニアの事をうまく手の中で転がし、彼女に支配されている風を装おって、逆に支配しているってわけか。
 そうとも知らず、ティターニアは死神の頭に口付けを落とす。
 気付かなくても当然……か。だってこの女、男の事ばかりで、基本頭が悪いのだから。
「それにしても……あのお爺様のせいで、酷く窮屈な想いをさせられましたわぁ! あ~本当に憎ったらしい、うざったい老人でしたこと」
 ティターニアの言葉に、耳がぴくりと反応を示す。
 この女……今なんて言った? 
「けれど、ザマァミロですわぁ! 惨めに死んだ老いぼれ、みっともなく泣き喚く貴女! もうわたくし、笑いが込み上げてきて仕方がありませんでしたもの! きゃははははは♪」
 怒りが、殺意が……頂点にまで達する。惨めに死んだ老いぼれですって? お前達のせいで、私のせいで……狸神は死を免れる事が出来なかったというのに! 
 たとえどんなに悪党でも、生命だけは奪ってはならない。――狸神はきっとそう言うでしょう。
 けれど、お願い。これで最後にするから……どうか、私を許して。
「あ~! そうですわ! 貴女、あのお爺様から名を頂いたんでしたわよねぇ? 確か……【スカーレット】。何だか、貧相でダッサイ名前。けれど、貴女にぴったりでしてよ?」
「何、オ前? 名前ツイタノ? 赤兎ヤラ、モウ一人ノ赤兎ヤラ、ヤヤコシカッタンダヨナ〜。ソウカ、スカーレット……緋兎カァ。ネーミングセンスハイマイチダケド、セッカクダカラ俺モソウ呼ンデヤルヨ。中身ガ【スッカスカ】ノスカーレットチャン♪」
 死神とティターニアは、私の事を馬鹿にしたかのようにゲラゲラと下品に笑う。
 ――ああ、醜い。少し前までは、私もこいつらと同じ{類}(たぐい)だったのかと思うと……まるで、全身に{百足}(むかで)や{蚯蚓}(みみず)が這うような、ゾワゾワとした嫌悪感に苛まれた。
「そういえば……ゲーデ! 貴方、わたくしがスカーレットの中にいる時に殺そうとしたわよねぇ? 一体何を考えていたのかしら? あのお爺様がこの娘を庇わなければ、わたくしまで死んでいたところでしてよ?」
「ゴメンヨ~、ティターニア。アノ時ハ、ツイウッカリシテタンダヨ~。ゴメンネェ。ス~ッゴク反省シタンダゼ、俺」
「……ま、いいですわ。わたくし、と~っても寛大ですから。最終的には、わたくしをスカーレットの中に閉じ込めた愚か者が消える事になったんですもの。結果オーライでしてよ。わたくしに刃向かう者は全員、死んでしまえばいいんですわ! ……ねぇ、貴女もそう思いませんこと? 【元】殺戮人形のスカーレットちゃん?」
「――黙れ。それ以上お爺ちゃんを愚弄する事は許さない」
 怒りに満ちた私の声に対し、ティターニアはケラケラと面白おかしそうに笑っていた。
「あらぁ? このわたくしと闘うつもりですのぉ? ……ねぇ、スカーレット。お言葉ですけど、貴女……わたくしとの力の差を、もう少し理解してみてはいかがかしらぁ?」
 ……確かに、こいつの言う通りなのはわかっている。こんなふざけた女だけれど、【強い】という事だけは認めざるを得ない。
 狸神を含め、強力な力を持つ神々なら……こんな女の一人や二人、簡単に仕留めてしまうだろうけど……正直、今の私の力ではティターニアに勝つ事は難しいと思う。
 それに今、奴の背後には死神がついている。万が一、こちらが優勢になったとしても……きっと死神が手を貸すだろうし、そう簡単には殺らせてくれないだろう。
 しかし、ここでこの女に引けを取るわけにはいかない。
 私は腰に手を当てながら、目の前に立つ【自称妖精】を鼻で笑い、強気に言い放った。
「大体さぁ、あんた……何? 本来なら私達とは何の関係もないキャラクターなわけよねぇ? それを、何調子に乗ってイキがっているの? あんたは赤兎でも無けりゃ、私でもない。ようするに、要らない存在なわけ。ほんと、あんたってある意味……ゲーデの手によって好き勝手に作り上げられた可哀想な存在よねぇ。けど……同情はしない。あんたは本当に腐った奴だから」
「ふん……随分と大きく出ましたわねぇ? そもそも、貴女が腑抜けだからわたくしが生まれたという事をお忘れになって? 寧ろ、わたくしに感謝してもらいたいくらいですわぁ。出来損ないの貴女の代わりに、その肉体と精神に快楽を与え続けて差し上げたのですから♪」
 腕を組みながら、偉そうに踏ん反り返るティターニアに対し、思わず笑いが込み上げてくる。そんな私の姿を目にしたティターニアは、さも不愉快だと言わんばかりの顔をしながら、じっと私を見つめた。
 足をトントンと鳴らし、少し苛付いたような態度を見せるティターニアだが……どうやら、私がいきなり笑い出した理由が気になっているようだ。黙って私の言葉を待つ。
「……あのさ~?」
 私はティターニアを馬鹿にするかのように笑うと、大きく口を開いた。
「元々肉体のないあんたが必死にその身体にしがみ付いてる姿って……凄く滑稽だし、何だか見ていて恥ずかしいからやめてくれない? ――ああ、そうだ。あいつ……なんて言ったかしら? あの、あんたが欲してやまない人間……あれ程の死の呪いを一身に受けておきながら、なかなか死なないわよねぇ? 想い人を亡くした後でも、あの人間の心はその女のモノ。あんたみたいな変態……存在すらも覚えていないでしょうし、たとえ魂を手に入れる事が出来たとしても見向きもされないでしょうね。ふふ、おっかしい♪」
「……なんですって?」
 ティターニアの目付きが変わる。奴の逆鱗に触れた事など、承知の上だ。何故なら私は、ティターニアの中に封印されていた間、こいつの……その男に対する執着心と歪みに歪みまくった愛情を、嫌という程に見て、感じてきたのだから。
 ――【自分】以外の【女】が、あの男を語る事は許さない。
 それ程までに、ティターニアはその人間の男を愛しているし、既に自分の所有物であると錯覚していた。けれど、未だに手に入らない事実に……不満を抱えているのはごく自然な事。
 ティターニアは感情が高ぶっている時ほど、隙が生じる……だから、敢えてそこを突く。
 ――さぁさ、怒りなさい。ティターニア。私の言葉で怒り狂うと良いわ。
 そして、自ら自滅の道を進むがいい――

「……わたくしの人形の事を、軽々しく口にしないでくれます? 彼の話をしてよいのはわたくしだけですわ。それに、彼はきっとわたくしを愛する筈。……だって、このわたくしがこれ程までに愛しているんですもの! 彼の目も、鼻も、口も……髪も、手も、足も……心臓も、血液も、脈も、骨も、皮膚も……全てわたくしのもの。彼は、わたくしの人形になる為だけにこの世に生まれてきたの。わたくし達の愛は永遠。誰にも邪魔はさせませんので悪しからず♪」
 私の目論見は外れ、ティターニアは冷静に言葉を返してきた。
 先程、船の中でこいつは……【ミズホ】という娘の言葉に怒り狂い、我を失った。それが原因で隙だらけとなったティターニアは、間違いなく弱体化し……私の人格を再び引き起こしてしまうという失態を晒した。
 もう身体は別々になったとはいえ、怒りは大きな隙を生むと知ったティターニアは、同じ失敗をしないようにと警戒しているように見えた。
 ……チッ、少しは勉強したという事か。馬鹿は馬鹿なりに成長するものね。
 ――けどね、ティターニア。握りしめている拳が怒りで震えているわよ? 饒舌に話しているようだけど、声も震えてる。……あと、貴女ご自慢の可愛らしいおめめが真っ赤に血走っているわ。……正直な子ね。笑っちゃうくらいに。
「……あんた、本当にしつこいし気持ち悪いんだけど。いい加減に諦めたらどう? あいつの【女】、神の一人かと思えば、ただの人間だったのよねぇ? それなのに、どこで得た力か……物凄く強力な結界であの男の事を守っていた。ようするに、あんたの付け入る隙なんてないの。言わば邪魔者。いいえ、空気でしかない。わかればさっさと諦めなさいよ」
「――お黙りなさい。彼の【女】はわたくしなの。知ったような口を聞かないでくれませんこと? それと……もう彼の話はお止めなさい。貴女には全く関係のない事ですわ」
 私は、苛立ちが見え隠れするティターニアの言葉を無視し、更に話を続けた。
「……惨めな女。相手の人間に心底同情するわ。でも、今日でその独りよがりの歪んだ恋愛もお終い。だって、あんた死ぬんだもん。私に殺されるの。そして、あんたのその意中の男から死の呪いは消え……あんたの事なんか最後まで思い出す事もないまま、また新しい女を作り、幸せに暮らしていく。何ならあんたの事でも話しに行こうかしら? 『貴方に付き纏う寄生虫のような変態馬鹿女は私が殺しましたので、ご心配なく!』と。……そうだ、思い出したわ! 確か、名前はモリノ――」
「! その名を口にするなぁああ!」
 ティターニアは、ただでさえ大きな目を更に大きく見開きながら、私に向かって叫んだ。
「その名を口にしてよいのはこのわたくしだけ……! お前如きが軽々しく口にするなぁああ!」
 ティターニアから放たれた衝撃波により、私は展望台の端に追いやられ、背中を激しく強打した。
「くぅ……っ……」
「汚らわしい声で私の人形の名を呼ぶな。頭に思い浮かべるな。考えるな。想像するな。――殺すわよ」
 恐ろし過ぎて震え上がってしまうくらいの殺気が、私の身体全体にじっとりと纏わりつき、心までも蝕んでいく。……何が妖精だ、どう考えても悪魔だろ。
 私は痛みに耐えながらも、素早く立ち上がった。
「……ねぇ、スカーレット? 貴女、とても目障りでしてよ。わたくしがこうして貴女の身体から出て来た時点で、貴女はもうお払い箱。さっさと死んで下さらないかしら? それに、次がつかえておりますの。……タチバナミズホ。あの女、このわたくしを随分とコケにしてくれましたから」
「お生憎様ね。その人間の小娘を殺す前にあんた、既に死んでるから」
「ウケル~! オ前ラ、マジオモシレ~!」
 私達のやり取りを一部始終見ていた死神は、腹を抱えながらケタケタと笑い転げていた。
「イイジャンイイジャン! オ前達ノドチラガ正義カ……一度、二人デヤリ合ッテミロヨ? ……実ハ俺ェ、今スッゴクヤリタイ事ガアルンダヨネ~。ダカラチョット、ココカラ離レルワ」
 そう言うと、死神はヒョイッと立ち上がった。
 ――こいつ、このタイミングでティターニアから離れるなんて……一体、何を考えているの? ティターニアが私なんかに負ける筈がないという確固たる自信でもあるのか? それとも……
「トニカク勝ッタ方ガ正義、スッゲ〜シンプル! ウププ! ジャア、俺行クカラ!」
「……ちょっと待ちなさいよ」
「ウルッセェナ~……何ダヨ、スカーレット」
「……ねぇ、ゲーデ。あんたはどっちが勝つと思う? やっぱりティターニア?」
 何故こんな質問をしたのかなんて、私にもわからない。……けれど、どうしても聞いてみたいと思ったのだ。それは多分私の中で、ある確信が芽生え始めていたから。
「ン~、トテモ良イ質問ダ! グッド! 特別ニ教エテヤロウカナァ? 俺ッテスッゲェイイ奴ダシィ。オ前モソウ思ウダロ~?」
「そんな事はどうだっていい。早く答えて」
 私の言葉に死神がニンマリと不気味に笑う。それも、とても厭らしく……何か良からぬ事でも企んでいるかのように。
「……俺ハ、ドチラモ勝タナイト思ウゼ? イイヤ、勝テナイノ間違イカナ? ダッテ、オ前達二人共【正義】ジャネェンダモン! ……正シクモナイオ前達ガ、果タシテ勝利ヲ手ニスル事ガ出来ルノカ? フハッ、コレハ見モノダゼ! ナァ……奇跡ヲ起コシテクレヨ。ソシテモット俺ヲ愉シマセロ。俺ハココカラ離レルガ、全テヲ見テイルカラナ……」
 死神はそう告げると、突如背後に現れた闇に溶け込むようにして、その場から消え失せた。
 ――どちらも勝たないと思う、……ね。
 私はくるりとティターニアの方に振り返ると、ニコリと笑ってみせた。
「ねぇ、ティターニア。よく考えてみれば、あんたも可哀想な女だったわよね。勝手に生み出された上、本になぞらえて男好きの設定にまでされて……まるでコンピュータだわ」
「あ~ら? 同情してらっしゃいます? それなら要らぬ世話ですわ。だってわたくし、とっても幸せなんですもの! 後悔なんてしていませんし?」
「――そう。でも……それも今日で終わりにしてあげる。さぁ、無へと帰りなさい。中身を持たない哀れな【人形】よ」
「……お生憎様。消えるのは貴女の方でしてよ? わたくし、まだまだ生きていたいんですもの。こんな所で死んでたまるもんですか」
「……ティターニア。これは、私とあんたの最期の闘い。さぁ、思う存分闘いましょう」
 ――ねぇ、私を選ばなかった島の神よ。貴方はきっと……最初から、私が赤兎ではないと見抜いていた。だから、双子達だけを継承させたのよね? 
 私が全て間違えていました。どれだけ悔やんでも、死んでいった者の命は戻らない。
 赤兎は私のせいで死んだ。そしてティターニアは、私のせいで生まれた。全ては私が元凶。
 赤兎はもう戻ってこない。私は何もしてやれない。けれど、ティターニアだったら或いは……
 ――夜宴の島よ。これは最期のお願いです。もしも、もしも願いが叶うなら、この哀れな女に本当の【幸せ】を。
 ……ねぇ、ティターニア。赤兎とあんたと私の三人で、あの世でお茶会でも開きましょうよ。ふふっ、きっとソリが合わないんでしょうね。だって私達、姿形はそっくりでも中身が全然違うんだもの。……けど、それはそれで案外うまくいくかもしれない。あんたが馬鹿やって、私がそれに冷たく返す。そしていつものように大喧嘩。それを、赤兎が優しく宥めるの。
 いつの間にか三人の間には笑いが溢れ、世界はあっという間に美しい変化を遂げる。
 ――そう、信じてみたいんだ。

十三

「爺さん……どうか安らかに」
 彼は大きな大樹の下に、狸神の亡骸をそっと降ろす。狸神はとても優しく、穏やかな顔をして眠っていた。
「お爺さん……今頃、赤兎に逢えているかな?」
「……うん、きっと」
 少し先の方で、仙人達が戦闘を続けている。しかし、悪魔の衆の姿は殆ど見えない。敗北したか、逃げてしまったか……この闘いは、仙人達の圧倒的勝利のように思えた。
 そのまま視線を上げると、展望台にいる二人の姿がよく見える。ティターニアと緋兎……【スカーレット】が闘っているのだ。
 眩い光が、激しくぶつかりあっているのがわかる。……黒兎と白兎は無事だろうか? 
「悲しいね。どうしてこんな事になってしまったのだろう」
「きっと、こうなる運命だったんだよ……」
「私達に……何か出来る事ってあるのかな?」
 私の言葉に、彼は頭を左右に振った。
「……ないよ。俺達はこの物語の閲覧者に過ぎない」
「でも、これはただの物語なんかじゃ……!」
「――いいや、物語だ。……そう思わないと、俺達の心がもたないだろう」
「あ……っ」
 そう言うと、彼はその場に座り込んだ。それに習い、私もその場に座り込む。
「――夜宴の島。不思議で奇妙、美しくも残酷な世界。切ない想いと憎しみが渦を巻く、楽しくも……とても悲しい島だ。ねぇ、ミズホ。この【夜宴の島の物語】は、一体どういう結末を迎えると思う? 君は、ハッピーエンドを望まない傾向にある。なら、今の現状は君の望んだ通りなのか……」
「はぁ⁉ ソウくん、こんな時に何言っているの……? 私がこんな事、望んだりするわけがないでしょう⁉ ふざけないでよ!」
「ごめん、冗談だよ。……けど、ふいに考えるんだ。ハッピーエンドって、一体なんなんだろうって……」
 彼の目は、まるでどこか遠くを見ているようだった。
「島から奴らが退散し、再びこの世界に平和が訪れる。そして……クロやシロに見送られ、俺と君は無事に元の世界へ戻る。この島の肝心な部分の記憶だけが切り取られて、ね。……それって、果たしてハッピーエンドだって言えるのかな?」
「……わかんないよ。けど……島は滅び、全員が息絶える。もしくは島に平和が訪れても、私達は二度と元の世界には戻れない。それは間違いなくハッピーエンドとは言えないよね」
 彼は、『そうだね』と小さい声で返事をすると、ゆっくり空を見上げた。
「俺は……ミズホに必ず、ハッピーエンドを見せると言った。でも、気付いたんだ。きっと、人によりハッピーエンドの定義が違う。君のハッピーエンドは多分、無事に君の家族のいる街に戻る事。ここでの出来事は、まるで夢のような世界だったと割り切り……想い出として心の中に秘めていく。そうして新たな想いを胸に、自分の世界で暮らしていく事なんだよ。君は賢いからわかってる。どれだけこの世界に魅入られようと……自分が生きていかなければならない世界を、ちゃんと知っているから」
「……じゃあ、ソウくんのいうハッピーエンドはどういうものなの?」
 私がそう問いかけても、彼は返事を返さない。……わかってるよ。ちゃんとわかってる。
 彼は、五十嵐想は……【夜科蛍】なのだ。
 夜科蛍の小説は、全て読んできたんだよ? 彼の思考、行き着いた答えなど……手に取るようにわかる。
 それをわかっていても問わずにはいられないのは……彼の口から、そんな未来をちゃんと否定して欲しいから。
「ねぇ、ソウくん! 答えてよ……」
「……聞いて、ミズホ。実はね、俺と君が出逢ったのは、あの書店が初めてじゃないんだ」
「え……?」
 彼の突然の言葉に、私は驚きを隠す事が出来なかった。――彼は一体、何を言っているのだろう? 少なくとも私には、彼と書店より前に顔を合わせた記憶なんてない。
「出逢ったとは言っても、俺が一方的にミズホの事を知っていただけだから、君は知らなくて当然だ」
 そう言うと、彼はクスリと笑った。あまりにも無邪気な顔をして笑うものだから、私の胸はトクンと小さな音を鳴らした。
「――俺が最初に君を見たのは、俺達が住む街の中心部にある図書館。……ミズホならわかるだろう?」
「図書……館……?」
「そう。きっと今、君が一番最初に頭に浮かんだその図書館で間違いないよ。木々の葉が極彩色に彩られ、華やいた姿を見せる秋の朝……君はそこにいた。あの頃の俺は本当に無気力で、何をするにも上手くいかなくて……とにかく、サヤの面影が残る家には出来るだけいたくなかった。かといって外に出て人と関わるのも嫌で、必要な時にしか表に出ない。だから……俺はいつもその図書館を利用し、そこで時間を潰していたんだ」
『そこで片っ端から本を読んだり、小説をノートに書き写したり、人間観察をしたり』と、彼は小さく呟いた。
 ああ……彼のその姿が、頭の中で鮮明に思い描かれる。
「その中でも、君の姿は一際目を引いた。皆が無表情で本を読んでいる中、君はわかりやすいくらいに表情をコロコロと変える。笑ったり、怒ったり、悲しんでみせたり……何故だろう? 俺はなんとなく、君の近くの席に腰を下ろした。……君は、手に持っている本の他にも四、五冊、机の上に置いていたっけ? 俺はかなりの本の虫だったから、君が積んでいた本の内容は全て把握していた。それらは全て、悲しくも切ない終わりを迎える、儚い恋の物語。有名なものから無名なものまで、まるで自分が体験している事かの如く、嬉しそうに……或いは悲しそうに本を読む君を、最初は興味本位で見ていたんだ」
 彼は『ふぅ』と一息つく。私はその話の続きが知りたくて、ジッと彼の顔を見つめた。
「何時間も、君は本を読み続けた。若いのに飽きずに珍しい子だなと思った。一冊一冊を読み終える度に涙を流す君を見て、とても感受性の豊かな子なんだなぁなんて思ったりもした。そして、全ての本を読み終わった後……君は{徐}(おもむろ)に、鞄の中から一冊の本を取り出した。俺はそれを見て、驚きを隠す事が出来なかった」
「あ! それって、もしかして……」
「【星降る夜に走る列車】。鏡花水月の後に発売された、夜科蛍の二冊目。即ち、俺の初めての作品だよ」
 私は今、はっきりと全てを思い出していた。
 彼は、そんなにも前から私の事を知っていたというの……? ――信じられない。
「図書館に行って、好きな本を好きなだけ読むんだ。そしてその帰りにはクレープを買おう。……そうだなぁ、その店で一番甘そうな物を。甘い物が得意ではない俺だけど……まぁ、今日くらいはいいだろう。その後、近くの公園に行って、ベンチに座って……ゆっくりと、雲が流れる夕焼けの空を見上げてみるんだ。――ねぇ、今日の空は何色?」
 彼は、私を見てにこりと笑う。私は、あの日見た情景を頭の中にしっかりと思い浮かべながら、そっと答えた。
「……あの日の空は、美しい朱が混ざり合った紫陽花色だったね」
「うん。夕焼けのグラデーションが、とても綺麗だった事を覚えている。それから君が取った行動も、俺が書いた話とまるっきり同じだった。君はきっと、わかろうとしてくれたんだね。俺にはそれが、何だかとても嬉しかったんだ。……話しかけてみようか、なんて思ったりもしたよ。けれど、人との付き合いに慣れていなかった俺は、話しかける勇気も出ないまま……ずっと君を見ている事しか出来なかった。ははっ、今考えると気持ち悪いよな、俺!」
 彼はそう言うと、今度は少し照れ臭そうに笑った。
 主人公が、何故そんな行動を取ったのかは勿論の事。私が何故、その主人公の行動を真似てみたのか……きっと、彼は全てを理解しているのだろう。
 それなのに……『わかろうとしてくれたんだね』と言ってくれた彼の優しさに、涙がこぼれそうになった。
 ――私はあの日、【星降る夜に走る列車】に書かれてある、主人公【サトル】の行動を真似た。何故そんな事をしたかと言うと、この時のサトルの心境が……状況が……その時の私にぴったり当てはまっていたから。
 あの頃の私は辛い事ばかりで、少しだけ弱っていた。サトルも、今の私と同じような気持ちだったのかななんて思ったら……何だか急に、サトルの見ている世界を見てみたくなったの。
 ……馬鹿みたいでしょ? 
 けれど結果、私は救われた。夜遅くまで、人目を{憚}(はばか)らず、思う存分泣いて……よし、明日からもまた頑張れる。明日からも、ちゃんと生きていける。……そう思う事が出来たの。

「それから何年かが経って、あの書店でミズホを見つけた時……運命だって思った。あの頃とは随分雰囲気が変わっていたけれど、すぐに君だってわかったよ。仏頂面で不審感たっぷりの表情をしながら俺を見る君に対し、俺は逆に……ものすご〜く緊張してたんだよな、実は」
「緊張⁉ あれで?」
 私は思わずクスリと笑った。
「そりゃあ緊張したさ。……ずっと、もう一度あの子に逢いたいなって思っていたからね。だから、書店で初めてミズホと話した時……君が変わらず、夜科蛍の作品を好きでいてくれた事がわかって、凄く嬉しかった。……君が好きだと言ったのは、あくまで【夜科蛍】。なのに、まるで俺の事を大好きだと言われたような気がして、心臓がバクバクと音を鳴らした。でも、一番好きなのがサヤの【鏡花水月】だって聞いて、『やっぱり!』なんて喜びながらも、地味~にショックを受けてたりしたの、知らないだろ?」
 彼の言葉に、私は『ぷっ!』と吹き出し、クスクスと笑った。
「あはは! 何それ! それじゃまるで、恋する乙女みたい! あ、男だから乙女じゃなくて男子か! 恋する男子だ!」
 そう口にしてから我に返る。……あれ? 私、何を言っているんだろう⁉ 今の私の顔が林檎のように真っ赤なのは、その温度からも容易に想像が出来てしまう。
 あわあわと慌てふためく私の事を、彼はジッと見つめながら、口を開いた。
「うん」
「え?」
「俺さ、多分……ミズホの事が好きだよ」
 ――潮の匂いがする。こんな森の奥なのに、風がここまで運んできたのだろうか? 何も言えずに固まる私を見て、彼はおかしそうに大きな笑い声を上げた。
「ははっ! そんなに固まるなよ? 多分だよ、多分! まぁ……ミズホは【絶対】に俺の事が好きだけどね!」
「な、何よ! それ⁉」
 私は恥ずかしさのあまりムキになってそう言うと、彼は悪戯っ子のようにケラケラと笑った。
「――ミズホ。俺さ、君に逢えて本当に良かった。心の底からそう思うよ」
「そんなの……私もだよ。ソウくんに出逢わなければ、私は夜宴の島に来られなかったし、存在すら知らないままだった。貴方に出逢わなければ……今も、欠伸が出る程つまんない人生を送っていたと思う。私……精一杯、今を生きてる。これからも、後悔のないように生きていたいの! ソウくんと一緒に、生きていたいんだよ。だって私……ずっとソウくんの事が!」
「……ストップ」
 そう言うと、彼は私の口をその大きな手のひらで覆い隠した。
「いつか……俺のその【多分】が確信に変わった時。俺から君にちゃんと伝えるよ。だから、それまで待っていてくれないかな? ……勝手でごめん。けど、その方がきっと……お互いの為にもいいと思うんだ」
 風が、彼の前髪をそっと揺らした。そこから覗く、優しくも寂しげな瞳に、私は釘付けになっていた。
 どうしてだろう……? 彼からの『好き』という言葉は、確かに私が待ち望んでいたものの筈なのに……胸が切なくて堪らない。
 ……そう、彼らしくないんだ。突然こんな事を言い出すなんて。
 まるで最後の言葉にも聞こえるそれは、私の心を酷く不安にさせた。
「……ミズホ?」
 私は彼の手に自分の手を添えると、ゆっくりと下に下ろした。
「……ソウくん。クロちゃんとシロくんと、スカーレットの事が心配」
「うん、俺も。今はこんな話をしている場合じゃなかったね。――さぁ、急ごう!」
 彼は狸神に深く一礼すると、私の手を取り、展望台に向かって走り出す。
 私は、見る見る内に遠ざかっていく狸神に向かって、小さく呟いた。
「お爺さん。良い夢を……」


 ――彼はきっと、この島に残る。
 五十嵐想の事だ。島から災難が消え去り、平和が訪れたとしても、恐らくこの島に残るだろう。
 だから、彼の言う【多分】が【確信】に変わる日なんて、きっと……永久に訪れない。
 自惚れかもしれないけれど、はっきり『好きだ』と言ってくれない彼から、大きな愛情を感じ取れた。
 その言葉はきっと、私の未来までも縛り付けてしまう……そう思った彼は、はっきりと断言しない事で私に逃げ道を用意してくれたんじゃないのかな?
 だって、彼がもしここで好きと言ってくれていたら、私がここで好きと言っていたら……きっと、今よりずっと苦しむ事になったと思うから。
 私はこの先……一体、どうすればいいのだろう? 
 そもそも考える必要などないのかもしれない。今ここで、どれだけ悩みや不安を蓄積させようが……夜宴の島自体が滅んでしまえば、そこで全てが終わってしまうのだから。
 以前の私なら、このまま島が滅んでしまったとしても……大切な人と一緒に最期を添い遂げる事が出来るのならば、それを【永遠】と呼んだのかもしれない。
 ……けれど、今は嫌。これ以上誰にも死んで欲しくないし、皆には、夜宴の島には……永遠に生き続けてもらいたいの。
 しかし、それは同時に彼との別れを示している。私は彼のように、全てを捨てる事が出来ないから……
 彼は普通には生きられない人。そして私は、欲張りな上に我儘だ。
 彼の全てが欲しいと、心の底から思っているのに……彼の為に全てを捨てる事が出来ないのだから。

 私達は、なるべく音を立てないように展望台の階段をのぼった。――が、何かおかしい。
「……ミズホ」
「うん……スカーレットとティターニアがいないね。それに、ゲーデも……」
 周りを隈無く観察してみても、展望台の上には……ぐったりと地面に横たわる黒兎と、その傍らで俯く白兎の姿しか見当たらない。
 私達は顔を見合わせ、コクリと頷くと、急いで二人の元に駆け付けた。

「――クロちゃん! シロくん!」
 その声に振り向いた白兎は、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、小さな声で私達の名を呼んだ。
 彼は黒兎の前で腰を落とし、彼女の腕にそっと触れる。
「これは酷いな……」
「……黒兎が自分の腕を犠牲にしてくれたというのに、僕は奴を仕留める事が出来なかった。――畜生! 僕は無力だ。身体が大きくなっても、どうする事も出来ない。奴を倒す事も! 黒兎の腕を治す事も! こんなんじゃ……僕なんて、いてもいなくても何も変わらないよ!」
 白兎の頬に涙が伝う。……もう、白兎は限界だ。きっと、黒兎だって……
 島にいる皆だって、彼や私だって……本当は限界が近いのかもしれない。それ程、ゲーデの力は強大で圧倒的だった。
「ば、かが……男の癖にメソメソ泣いてんじゃ……ねぇよ。図体ばっかデカくなっても、てんで……ガキのまんまだな、てめぇはよ……」
「クロちゃん!」
「クロ! お前……大丈夫なのか⁉」
「あぁ、大丈夫だ……ま、腕は死んじまったようだけどな」
 黒兎は傷付いていない方の腕で身体を支えると、ゆっくりと起き上がった。
「クロちゃん、待って……そんな身体でどこに行くつもり……?」
「無茶だ! このままじゃお前、本当に死ぬぞ⁉ 取り敢えず、ここで仙人達が来るのを待って……」
「うるせぇ! いつまでもこんなところで立ち止まってる暇なんてねぇんだよ! 島のピンチなんだ……あたしらが何とかしなきゃなんねぇ。それに今、姉様がティターニアと闘ってんだ。早く加勢にいかねぇと……」
「――ティターニア! そうだ……私達、下でティターニアが現れたのを見ていたんだけど……どうしてティターニアは肉体を持つ事が出来たの? それに……ゲーデは一体、どこへ?」
「……あの気色の悪りぃ糞人形が、姉様の身体からティターニアを無理矢理引き摺り出しちまったんだよ。その後、あの野郎……一人でどっかに行っちまいやがった」
「……どこかに消えた? ゲーデは一体……何を考えているんだ?」
「そんな事、僕等にもわからないよ……」
「……それじゃあ、スカーレットとティターニアがどこに行ったのかはわかる?」
「スカーレット……? 確か、ゲーデとティターニアも姉様の事をそう呼んでいたような……半分気を失っていたから内容ははっきりしていないんだけど……」
 私は二人に、狸神とスカーレットの最期のやり取りを話した。二人は時折顔を酷く歪ませながらも、最後までしっかりと話を聞いてくれた。
「……そっか、それで【スカーレット】か。爺さんも味な事しやがるぜ」
「うん、とても良い名前だ」
「緋色の兎……か。あたしさ、緋色の空ってすっげぇ好きなんだよな。どこか懐かしくて、何だか安心すんだよ」
 黒兎は『へへっ』と小さく笑う。その顔は、とても晴れ晴れとして見えた。
「爺さんがいなくなっちまった事は、正直つれぇけど……爺さんの想いが、スカーレットの心を溶かしたんだ。やっぱ、爺さんはスゲェや。あたし達が出来なかった事を、命をかけてやってのけたんだからよ。……あたしと白兎は間違えた。その所為で赤兎は死んだ。勿論、スカーレットがした事も許される事じゃねぇ。……けどよ、もう皆救われてもいいんじゃねぇかなって思うんだ。殺された童子達には申し訳ねぇけど……もう、互いに憎しみ合い、すれ違うのはごめんだ。あたしはこれ以上……誰も死なせたくねぇんだよ」
「僕も……同意見だ」
 そう言うと白兎は立ち上がり、黒兎に肩を貸した。
「……姉様とティターニアは海岸の方に行った。あたし達も急いで後を追うぞ」
「終わらせよう。……今度こそ」
 黒兎と白兎の決意は固く、私は何も言う事が出来なかった。……勿論、不安はそう簡単には拭えない。けれど、私達は最後まで見届けなくてはならないんだ。
 この、夜宴の島の結末を――

 私達は揃って、展望台の階段を下りる。下では、見た事のある面々が展望台の周りを取り囲んでいた。
 悪魔達の姿は見えない。
「これで邪魔者は全て消えた。後は、死神とあの小娘だけじゃ。――お前達、やれるな?」
 仙人の言葉に、黒兎と白兎が頷いた。
「この島の事は、お前達がケリをつけねばならん。夜宴の島が生きるも死ぬも、お前達次第じゃ」
「……わかってるよ」
「助力して頂いた事を……厚く感謝します」
 仙人は双子達の顔を交互に見つめると、ニカッと笑った。
「しかし、お前達! 良い顔をするようになったのう? ただの悪ガキ、糞ガキで、皆に疎ましがられていたお前達が……今じゃ頼もしい限りじゃ。まっこと素晴らしい成長を遂げよったわい」
 仙人の言葉に周りが賑わう。笑い声や、『うんうん』と同意する声。……聞いているだけで涙が出そうになった。
 ――お願いです。どうか、どうかこの島を……双子達を、スカーレットを、守って下さい。
 私の一生分の幸運を使ってもいい。この先、一生不幸だったっていい。だから――
「……ミズホ。大丈夫だ」
 彼が私の肩に手を置き、優しく語りかけた。
「奇跡は必ず起こる。信じてさえいれば、ね」
 ――奇跡。……そうだ。私達がここにいる事自体が、もう奇跡なんだ。目を閉じて、次に開いた時……再びこの場所にいられるとは限らない。目の前には、いつもの見慣れた天井が広がっているかもしれない。……それくらい、ここは夢のような世界。ここに来られた事は奇跡そのもの。奇跡を信じたから、私達は今、ここにいるんだ。
「ありがとう、ソウくん。もう大丈夫。……奇跡はきっと、信じれば信じるほど、永遠に続くものなんだよね?」
 私が彼に向かって笑いかけると、彼は強く頷いた。
「俺達にはもう、ひょっとこやおかめの面はないし……何の力も持たないただの人間だから、皆の役に立つ事も出来ない。……悔しいけど、信じる事しか出来ないんだ。でもきっと、その【信じる気持ち】が更なる奇跡を生む。余計な事は一切考えなくていいんだ。あいつらは俺達の事を信じてくれている。だから、俺達も信じよう。夜宴の島の奇跡ってやつをさ!」
 彼が右手を差し出した。私は躊躇する事なく、その手を取った。彼の温もりが、手のひらから私に伝わり、心の中がほんのりと温かくなった。
 私は空を見上げる。黄昏の空は、いつの間にか満天の星空に変わっていた。星はキラキラと輝きながら、私達に向かって降り注ぐ。
 思わず目を見張るくらいの大きな月は、今も変わらずそこにあり、私達を優しく見守っていた。
 ここは……本当に美しい、夜の世界だ。
 今私達がここにいる【奇跡】を、ただただ幸せに思う。夜宴の島は私達に、沢山の事を教えてくれたのだから。

「――じゃあ、あたし達はそろそろ行くぜ」
「色々とお世話になりました」
 黒兎と白兎は深々と頭を下げる。周りにいた神々達は優しく頷くと、全員が被っていた面を外した。そして、これから海岸に向かう双子達に、聖なる祝福を与えた。
 双子達の傷が、見る見るうちに癒えていく。死神の呪いを受けてしまったであろう黒兎の腕だけは、治る事なくぶらんと垂れ下がっていたけれど、黒兎は満足気にニコリと笑うと『サンキューな! 皆!』と言って、もう片方の手でピースサインを作った。
「儂もついて行こう。他の者達はこの場に残り、勇敢だった儂らの同士……狸神の遺体を弔ってやってくれ。そして次もまた、素晴らしい転生を行えるようにと、皆で祈ってやってくれんか? ……頼んだぞ」
 仙人は島の客人達にそう伝えると、クルリと振り返った。
「さぁて、それじゃあ行こうかのう。夜明けは近いぞ。――色んな意味でな」
 双子達はコクリと頷く。それを見た仙人は穏やかに笑っていたが……やはり、少し寂しそうに見えた。
 狸神は本当に、心の優しい老人だった。皆にとても愛されていた。本当に惜しい人物を亡くしてしまったと思うし、非常に残念でならない。
 出来る事ならば、来世でまたあの老人に逢いたい。
 ……ううん、きっと逢えるよね? 
 私は、あの優しい狸神の顔を夜空に思い浮かべながら、流れる星に願った。
 いつかまた、必ず逢えますように……と。

「ミズホ、俺達も行こう!」
「うん!」
 私達は、急いで三人の元に駆け付ける。黒兎は呆れたような表情を見せながら、私達に言った。
「お前ら……わかってると思うけどよ? 助けてやれる余裕なんてねぇんだから、ちゃんと安全なとこで隠れてろよ?」
「わかってるよ! だから……私達の事は気にせず、フルパワーで闘って下さい!」
「本当はここに残れと言いたいところだけど、ミズホが一緒に来てくれたら凄く心強いよ。……まぁ、ソウはどうでもいいんだけどね。仕方がないから、君も特別についてくる事を許可してあげるよ。邪魔だけはしないでよね?」
「お前なぁ~、ここのところめっきり弱り切ってて、おとなしかったのに……どうやら完全復活したようだな。ま、そっちの方がいいや! お前らしくてさ」
「ほっほ。それじゃあ、行くとするかのう! 儂が全員を海岸まで運んでやるぞい。さぁ、儂に捕まれ」
 私達は仙人の身体にそっと手を触れた。仙人の身体は、目も眩むような眩い光を放つ。その光は腕を伝い、私達の身体までも同じように金色に輝かせた。
 ――スカーレット、無事でいて。今から皆で行くからね! 
 私はそう念じながら、瞳を閉じた。


***

 目を開くと、そこは真っ白な砂浜の上だった。
 私達は、急いでスカーレットとティターニアの姿を捜す。……すると、白兎が『あそこだ』と、海のずっと上の方を指差した。
「えっ……?」
 ――どうしたというのだろう? 
 二人の身体は既にボロボロだが、今は闘いを中断し互いにジッと見つめ合っている。
「なんか……様子がおかしくないか?」
「……うん。どうして二人は闘いを止めたんだろう?」
「あれは……」
 何かに気付いたのだろうか? 仙人は『うむぅ』と声を漏らすと、口を手で隠し、何やら考え込んでいる。
「仙人、どうしたの……?」
 私がそう問いかけると、仙人は顔をこちらに向け、やがて重い口をゆっくりと開いた。
「……これはマズイかもしれんな。ティターニアにはスカーレットを殺る事は出来ん。そしてスカーレットにもティターニアは倒せない。もっと言えば、儂らの誰もがティターニアを仕留める事は出来ぬ」
「……はぁ? 何だよ爺さん! 全然意味がわかんねぇんだけど⁉ わかるように説明しろよ!」
「この阿呆が! よく観察してみい!」
 仙人の言葉を耳に入れた白兎は、じっと二人を見つめ、言葉を発した。
「傷付いている場所が……同じ?」
「え? それってつまり……」
 私の言葉に、仙人が答える。
「スカーレットとティターニアは一心同体。一人が傷付けば相手も傷付く。……どちらかが死ねば、もう片方も死んでしまうじゃろう」
「なっ! それじゃあ、あたし達がティターニアを攻撃すれば、姉様も傷付くって事かよ⁉ じゃあどうすんだよ! 打つ手なしって事じゃねぇか!」
 黒兎は足元の砂を思いっきり蹴り上げると、苛立っているのか、不安なのか、親指の爪を乱暴に齧る。白く細やかな砂はキラキラと宙を舞い、やがて元の位置へと還元されていった。
「畜生……! なら、あたし達は一体どうすりゃあいいんだよ? ある意味、死神を相手にするより大変じゃねぇかよ……」
「……方法は一つしかない」
 彼は黒兎の肩にゆっくりと手を置くと、真剣な顔をしてこう言った。
「ティターニアを捕獲しよう」
「……捕獲?」
 白兎は、彼の言葉を同じように繰り返す。彼はコクリと頷くと、次の言葉を発した。
「このままだと、きっとスカーレットは自分の命を犠牲にするだろう。そうならない為にも、一刻も早くティターニアを幽閉しなければならない。恐らく、ティターニアが自ら命を絶つとは思えないから……今はそれしか活路はない」
 ――そうだ。スカーレットなら、確かにやりかねない。
 彼女が死ねば、ティターニアも同じように死んでしまうのだから……スカーレットは何のためらいも無く、それを実行するだろう。
 彼女は、スカーレットは、今までの全てを悔やんでいる筈だから……自分の命など、きっと簡単に捨ててしまえる。
「そうだよ、急がなきゃ……! ソウくんの言う通りだよ! このままだとスカーレットが死んでしまう!」
 慌てた私が皆にそう伝えると、仙人は深く溜息を吐きながら口を開いた。
「……やれやれ。手は貸さんつもりじゃったが、そうもいかんようじゃのう。殺す事よりも、傷付けず、生きたまま捕らえる方が案外難しかったりするもんじゃ。……ただ、青年よ。『ティターニアが自ら生命を絶つとは思えない』とは、少し考えが浅はかではないか? あやつはプライドが高い。そのような者が儂らに捕らえられてしまった時、【死】を選ばないとは言い切れまい? 己で舌を噛み切ってしまいさえすれば、スカーレットもお終いなんじゃ。……慎重かつ、用心を重ねるに越した事はない。とにかく作戦を練るんじゃ。お前達、こちらに集まれ」
 仙人の言葉に黒兎と白兎が返事をし、話し合いが始まった。彼は一人、何かを考えながら、無言で地面の方に目を向けていた。
 彼の言った、『ティターニアが自ら生命を絶つとは思えない』という言葉。……私には、何故かとても信憑性があるもののように感じた。
 きっと彼は何かを知っているのだろう。彼女が生命というものに強い執着を見せる、その【理由】を――

十四

「……ゲーデ、やってくれますわね。本当にあの子はお遊戯がお好きなこと。こうなる事をわかっていながら、わたくしとスカーレットを闘わせるだなんて……悪趣味ですわ、まったく」
 ……やはり思った通りだ。『どちらも勝つ事が出来ない』と、あの死神が口にした時から、こうなる事は予感していた。
 ゲーデは一体、何を考えているのだろう? 奴の右腕でもあるティターニアを……助けるつもりはないのだろうか?
 それとも、私達が戦闘をやめると踏んでの行動? ――わからない。死神は何を企んでいるのだ? 
 そして奴は……未だに姿を現さない。
「……ティターニア。あんた、降伏する気はないの?」
「はぁあ? このわたくしが降伏ですって? 貴女、どうやらわかってないみたいですわね。この状況……どちらが不利かご存知? 確かに、わたくしに貴女は殺せない。そして、貴女もわたくしを殺せない。勿論、貴女の【お仲間】も……貴女が死ぬ事を恐れ、わたくしを殺す事は出来ない。けれどわたくしは、貴女のお仲間の皆様なら、いとも簡単に殺す事が出来ましてよ? ふふっ」
「……どうやら、あんたの方がわかっていないみたいね。あんたは私を殺せない。私があんたを殺せるかどうかはわからない。けれど……私は【私】を殺す事は出来るのだという事を」
「……! あ、貴女……正気ですの⁉ わたくしを殺せば、貴女も死ぬんですわよ?」
「……ええ。よくわかっているわよ? 私は至って正気。赤兎やお爺ちゃんがいなくなってしまったこの世界に、なんの未練もないもの。……それに、私は数々の罪を犯してしまった。最早、私の命一つでは到底償えない程の罪を、ね」
「あ、あ~ら? 貴女、あのご老人の好意を無駄にしちゃうのかしら? 彼は、貴女を守る為に亡くなってしまったというのに。普通でしたら、あのご老人の分も『しっかり生きていかなければ!』となるのが道理じゃなくって? 酷い娘ですわねぇ?」
「お生憎様ね。あんたも知っての通り、私……【普通】じゃないの。虫や動物や人、妹弟……神ですら殺してみたいと思っていた異常者だもの。今更、普通だなんて言葉を押し付けられるなんて……そんなの迷惑でしかないわ」
 ティターニアはついに黙り込んだ。その表情には、明らかに焦りが見られる。
 この子……ようやく、この女ならやりかねないと認識したみたいね。――それでいい。
 確かに、ティターニアのいう通りだ。お爺ちゃんが救ってくれたこの命を、そう易々と捨ててしまうわけにはいかない。
 けれど、万が一の時は……惜しむ事なく、この命を捧げよう。
 何があっても、この島と双子達の事は私が守ってみせる。私に出来る事は、もうそれしかないの。本当にちっぽけな事だけれど……
 ――赤兎。あんたさ、もう少しそこで待ってなさいよ? あんたが【変えられない現実】を目前にしても、必死に抗ったように……私も精々足掻き、最後まで抗ってみせるから。

「さぁ、ティターニア。――どうする? あんたは自分の命を懸けてまで、私を止める事は出来ない。私にはそれが出来る。あんたが他の誰かを襲おうとした時点で、私は私の胸を貫く。あんたには降伏するしか道は残されていないの。それが唯一、あんたが死なずにいられる手段。死んでしまったら、もう二度とあんたの愛しい【彼】にも逢えなくなるわよ?」
「……ねぇ、スカーレット。わたくしと貴女は本来一つの身体に宿った同士。争いなんてやめて、これからは仲良くしませんこと? 元々は一人だったんですものぉ。わたくし達、きっと上手くやっていけると思いますわぁ。あ! それと……あのご老人の事は、ゲーデに代わってわたくしが謝りましてよ。あの方が、貴女にとってどれ程大きな存在だった事か……本当に心中を察しますわ」
 ティターニアの言葉に、思わず怒りが込み上げる。『心中を察する』ですって……? さっきまで死神と一緒になって、お爺ちゃんの事を馬鹿にしていたくせに。それに、あんたがいくら謝まろうが……お爺ちゃんは返ってこない。

 馬鹿にするな。

「――黙れ。あんたなんかに、お爺ちゃんの事を語られたくない。……私とあんたが仲良くですって? ふざけないで。あんたの事は哀れだと思うけれど、私はあんたとは相容れない。相容れるわけがない。そんな事、あんたが一番わかってる筈でしょう?」
「そうですわねぇ……では、私と同盟を組むならば、あのご老人をわたくしの力で生き返らせてみせると言えば……貴女は首を縦に振って下さるかしら?」
「生き返らせる? ……どういう事?」
「【赤兎】を生き返らせる事は無理なんですけどねぇ。だって肉体がないんですもの。――けど、ご老人の肉体はまだ残っている」
 ティターニアはにこりと可愛らしく微笑むと、私の手を包み込むようにそっと触れた。
「わたくしならそれが出来ますのよ? これでも、死を司る神の後継者なんですもの! 命を操るなんて容易い事。死と生は隣り合わせ……奪う事も出来れば、与える事だって出来る。――貴女、言ってましたわよね? 貴女にとって大切なもの、守りたいもの。それは、赤兎の忘れ形見の双子、狸のご老人……あとは、双子達とご老人が愛してやまない、この【夜宴の島】かしら? 夜宴の島の神は貴女を継承者に選ばなかったというのに、なんて慈悲深い事でしょう! いいですわ。わたくしがゲーデに言って、双子達と夜宴の島には手を出さないようにして差し上げましょう。更に、あのご老人を必ず生き返らせてあげる。……どうかしらぁ? 貴女にはメリットしかないと思うんですけれど♪」
 ――成る程ね。考えたじゃない。確かにティターニアの提案は、死神がそれを飲みさえすれば、とても魅力的な話。
「貴女とわたくし、そしてゲーデがいれば、この世界全体を理想郷へと変える事が簡単に出来ましてよ。ね、無駄な争いはやめて……手を組みましょうよ? わたくし達は赤兎の中に生まれた、言わば姉妹。きっと仲良くやっていけますわ」
 ティターニアは、まるで本物の妖精のような笑顔でふわりとスカートを揺らしながら、私の手を優しく上下に振った。
「……そうね。それもいいかもしれない。そうしたら私やあんたは死なないし、双子達と島は無事。お爺ちゃんも生き返る……」
「ええ! そうと決まれば、早くお爺様の元に急ぎましょう! そして、邪魔な奴らはさっさと葬り去るんですの」
 嬉しそうに歓喜の声を上げるティターニアに対し、私は冷静に、先程からずっと握られたままのその手を振り払って言った。
「……あんたさ、双子達がそれで納得するとでも思っているの? 自分や島が無事だったとしても、他の者達は全員殺されるだなんて」
「あ~ら? そんなの関係ないですわぁ! だって、あの双子達が怒ろうが怒らまいが……わたくしを殺せば貴女も死んでしまうわけですから! 指を咥えて見てるしか出来ないでしょう? ふふっ」
 ふぅん、成る程ね。私がティターニアと手を組み【死なない】となると、圧倒的にティターニアの方が有利になる。それをわかっているからこそ、余裕でいられるわけか。
 けど……
「あんた、ちょっと甘いんじゃない? 確かにあの甘ちゃんな子兎達は、私に下らない情けをかけ、何の手出しも出来ないでしょうね。……けど、その後はどうするつもり? お爺ちゃんに大苦戦していたあんたが、あの神々達を相手に勝てるだなんて到底思えないんだけど?」
「うふふ。スカーレットったら、本当にお馬鹿さんだこと。先程も言いましたけれど、わたくしを殺せば貴女も死ぬ。あの方達も、そう簡単には手は出せない筈でしてよ?」
「……そうかしら? あいつら、そこまで善人じゃないと思うんだけど。私を死なせない代わりに自分達が命を落とすなんて……そんな馬鹿な事するわけないじゃない。大体奴らと私は初対面、縁もゆかりもない。いくら双子達と繋がりがあるとはいえ、私はあの子達の姉の【赤兎】ではないのよ? ……情けをかけるだけの相手でもないでしょ」
 私は呆れたようにそう言った。
 邪悪で極悪非道なくせに、どこか純粋なティターニアは、自分以外の者は全てが善人だとでも思っているのだろうか? この世界には、善人の方が少ないというのに。
 黒兎だって、白兎だって、あの人間達だって……少しくらいは残虐な部分を秘めているものだ。あの、心の優しい赤兎にだって……全てを壊してしまいたいという破壊衝動があった。だからこそ、私という存在が生まれてしまったのだ。
 彼女はきっと、全てを消し去ってしまいたかったのだろう。恐らく、自分自身も――
「そ、そうかしら? ……まぁ、わたくしのように殺戮は芸術だと思っている者や、貴女のように簡単にお仲間を裏切ってしまうような悪党もいるんですもの。確かに油断は出来ないかもしれませんわね。では、あの者達の処分は全てゲーデにお任せしましょう! あの子なら簡単に終わらせてしまうでしょうし♪」
「ああ、そうね。まぁ……あいつが戻ってくる前に、あんたは私に捕らわれるんだけど」
 私は即座に姿を消し、ティターニアの背後に回った。
「え……っ?」
 ――そう、それは一瞬の事だった。確かに一瞬の出来事だった筈だ。それなのに、私の目の前からティターニアの姿が消えた。
「……残念。わたくしはこっちでしてよ」
 背後から、小さくクスクスと笑う声が聞こえてくる。私は、急いで振り返ろうとした。しかし―― 
「なっ……⁉」
 ティターニアは一瞬の内に、背後から私の口を封じた。そしてもう片方の手で、私の両手首を爪が食い込む程に強く掴む。――物凄い力だ。片手だというのにも関わらず、私はこの手を振り払う事が出来ない。それに、奴の腕が歯と歯の間に食い込み、言葉を発する事も出来ない。……奴の本当の狙いは、私に舌を噛み切らせない事だろう。
 迂闊だった。単なる馬鹿だと信じて疑わなかった。……それが私の敗因だ。
「うぐっ……! んー! んー!」
 必死の抵抗を見せる為に、私はその白くて柔らかい肉に歯を立てる。むせ返りそうな鉄の匂いと味が、私の口内にじんわりと染み渡り、喉元を不快に潤していった。
 更に同じタイミングで、私の片腕からも鈍い痛みを感じ始めていた。
「あらぁ、痛ったぁい! 舌を噛ませないようにと、押さえつけてみたのはいいんですけど……これじゃあ、わたくしの美しい腕が傷だらけになってしまいますわぁ。いい加減に噛むのはやめて貰えませんこと? ……ほぉら、貴女の腕からもじんわりと血が滲み始めていますわよぉ? まっ、ちょうどいいですけど」
 ティターニアは、両手首を掴んでいた方の手をパッと離し、私の血が染み込んだ袖を器用に捲り上げると……人差し指と中指で傷口をなぞり、血液をすくい上げた。
 そして……その血の付いた指で、私の額に二本の線を描く。
 先程からずっと暴れ、抵抗しているのだけど……ティターニアは体勢を崩す事なく、平然と奇妙な言葉を唱え続けた。
 これは……間違いなく呪術だ。
 私も黒兎と白兎を殺そうとしていた時、長い年月をかけて魔術書を知り尽くし、様々な呪いを施してきたのだからわかる。
 確か、この言葉……この呪いは……

「さぁて、完了ですわぁ♪」
 身体がいう事をきいてくれない、力が入らない。ティターニアは私の口元から腕を離すと、まるで大切な宝物を抱えるかのように、優しく私の身体を抱き寄せた。
「こんな高い所から落ちて、怪我でもされると困りますもの。貴女の身体へのダメージは、確実にわたくしにも影響する。……最悪。ほんっとーに邪魔な足枷ですわぁ。このグズが。わたくしの足を引っ張らないでくれますぅ? ……しかし、思った通りでしたわ。呪いは片方が受けても、もう片方には影響しない。呪術には正当な儀式が必要なんですもの、何もかも一緒となると行動も同じになる筈。……そうですわねぇ? たとえばお腹が空く時、シャワーを浴びたい時、そして……誰かを殺したい時。けどみたところ、そこまでは同じじゃないみたいですし。恐らく、共有されるのは【痛み】と【死】だけ。そうなんでもかんでも一緒にされてしまいますと困りますものね。ま、念には念を入れて、呪いは単なる麻痺状態にするものに留めましたけれど」
 ティターニアは私を仲間に引き入れる事に成功したと思い込み、安堵していた筈だ。それなのに、何故? 何故わかったの……? 
「……『何故、わかった?』とでも思っているんでしょうね。うふ! い〜ですわ。特別に教えて差し上げましょう」
 そう言うと、奴は私の耳元に口を寄せ、艶のある声でそっと呟いた。
「まず一つ目。貴女がわたくしと手を組む筈がありません。だって、貴女って【死にたがり】なんですもの! わたくしのように生に対する執着を持たないツマンナイ女。いつでも正当な死の理由を探している。そうじゃなきゃ、赤兎に顔向け出来ませんものね? とにかく、そんな貴女がわたくしの誘いを受けるとは到底思えない。いつ裏切ってわたくしを道連れに死ぬかわかりませんから。【同盟】という言葉を使い、貴女に隙が生じるまで……時間を稼いでいたんですの♪」
 ティターニアは私を抱きしめながら話を続ける。生温かい吐息が耳に当たり、不愉快極まりない。
「二つ目。貴女が言ったように、あの神々達は容赦なく貴女を殺すでしょう。だって貴女、誰にも愛されていないんですもの。寧ろ、疎まれる存在でしてよ? 貴女が自ら命を捨てようとするのを、たとえ阻止する事が出来たとしても……神々達に殺されてしまえば一貫の終わり。この時点で貴女は手を組むどころか、わたくしの生命を脅かす、言わば【人質】のようなもの。協力なんてナンセンス。役立たずは隔離するのが一番ですわ」
 ティターニアはクスクスと笑いながら、私の髪を悪戯に弄ぶ。指でクルクルと巻かれた髪をスルリと抜いたと思えば、突然強く引かれ、ブチブチと束になって抜け落ちた。全身が麻痺状態なので、生憎痛みはない。
「そして三つ目。わたくしね、貴女の事が……だぁぁぁい嫌いですの! 手を組む? 冗談はやめて下さる? 貴女如きがわたくしと同じ領域にいられるなんて有り得ませんわぁ~。家畜のくせに、あまり調子に乗らないで下さいな? 赤兎という【飼い主】がいないと、何も出来ないグズが! まぁ、貴女がなれるとしたら精々【奴隷】が限界ってところかしら? きゃはは! あ~! おっかしい♪」
 ――このクソ女が。随分調子に乗ってくれるじゃない? 
 そんな事を頭の中で思ってはいても、どうする事も出来ない自分に心底嫌気がさす。やはり私では、ティターニアに敵わないのだろうか? ティターニアに苦戦しているようでは、ゲーデを倒す事など到底不可能だ。
「さぁて、取り敢えず船に戻りましょうか? そこで貴女に新たな呪術を施し、一生わたくしに歯向かえないよう本物のお人形に変えてあ・げ・る。……それとも、家畜に相応しい貴女を、本当の家畜に変えて差し上げようかしら? 動物になれば、今の貴女の脳は活動をやめ、ただ与えられた餌をひたすら貪るだけの生き物となる。自分で死を選ぶ事も出来ないでしょう。――そうだわ! 貴女の姿を醜い豚に変えて差し上げましてよ! 毎日みっともなくブヒブヒ鳴いて暮らしなさいな? ……安心なさい? 命の保証だけはしてあげる」
「……豚は姉様じゃなく、てめぇだ! ティターニア! そのブヒブヒうるせぇ口、さっさと閉じやがれ!」
 突然聞こえてきた声に、ティターニアは数秒動きを止める。その一瞬の間に、私の背後には白兎、ティターニアの背後には黒兎が現れた。
 私が白兎の方に強く引き寄せられたと同時に、振り返ったティターニアの腹を黒兎が思いっきり蹴り飛ばした。
「――姉様、大丈夫? 痛みはない? 今回ばかりはティターニアのかけた呪いに感謝だね。……大丈夫、至って簡単な呪いだ。これくらいなら僕にでも解呪出来る」
 青年姿の白兎は私を優しく抱き寄せると、呪い落としの手順に入った。
「あ、貴女達……いつの間に⁉ おかしいですわ……気配はまったく感じなかったのに!」
「仙人の爺さんの力はマジでスゲェんだぜ。お前に見つからず、ここまで近付く事が出来るんだからよぉ! んでもって、お前は籠の中の鳥。水槽の中の魚だ。あ~……悪りぃ! 豚小屋の中の豚、だったっけ?」
 黒兎はそう言うと、下品にゲラゲラと笑って見せた。
「このわたくしが、豚……ですって⁉ ふざけるなよ、このブスが……! わたくしは妖精ティターニア、愚弄する事は許さない……! 絶対に許さなくってよ!」
 怒りに身を任せたティターニアが、黒兎に襲いかかる。しかし、奴の身体は突然、その場に固定されたかのように動きを止めた。焦ったティターニアは必死に抵抗を試みたが、懸命に伸ばした腕は、引っ張られた後のゴムのように、パチンと元の位置に戻される。
 見えない、抗えない力が……ティターニアの動きそのものを制御しているようだった。
「な、なんなの⁉ なんですの……これは⁉」
 ティターニアがわかりやすく取り乱していると、どこからか笑い声が聞こえてきた。勿論、黒兎でも白兎でもない。
 貫禄があり、どこか余裕すら感じさせるその声の主は――

「残念じゃが、お主はここまでじゃ。悪いが拘束させて貰おう」

 重力に逆らい、辛うじてティターニアが顔を上げると、遥か上空から奴を見下ろす天狗面の老人の姿。――【仙人】だ。
「! 糞ジジイ……! てめぇの仕業かぁあ⁉ 老い先短いその命を、今すぐここで終わらせられたくなかったら、さっさとこれを何とかしろぉおお! うぁああああ! 苛々する! 早く……早く早く早く早く早く早く! 早く、この神通力を解きやがれぇええええ!」
「――やれやれ。何とも下品で野蛮なおなごじゃ。品性の欠片もない。それに、どうやってその状態で儂の命を終わらせるんじゃ? 言っておる事が支離滅裂。単なる負け犬の遠吠えに過ぎんよ。よいか、少女よ。死神ならともかく、お主如きにやられる程……儂も、今この島にいる連中達も……そして、そこにいるスカーレットも弱くはないんじゃ。お主など、死神の後ろ盾がなければ大した事はない。己の力を過信しすぎるな。上には上がおるし、その過信はやがて油断を生む」
「くっ! ……いいから離せよ、ジジイ! このわたくしに説教するなぁあああ!」
 今のティターニアは、まるでマリオネットの糸に繋がれている人形そのものだ。強い力に抑制されていて、身体を自由に動かす事が出来ない。
 甲高い声を上げながら発狂し、怒りに狂ったティターニアは……最早、妖精どころか猛獣だ。近寄ろうものなら、腕ごと噛み千切られてしまうだろう。……いや、蛇のように丸呑みか? 
 ならば一層の事、妖精の名は返上し……ティターニアからティタノボアに改名すれば良いと思う。……ティタノボアは些か言い過ぎか。
 白兎の呪い落としが成功し、私の身体はようやく自由を取り戻す。私は、抱き抱えられていた白兎の腕から即座に離れた。
「黒兎に白兎。……後はお前達がするのじゃ。安心せぇ。こやつは儂が引き付けておくし、力も貸してやろう」
 仙人の言葉に二人は大きく返事をし、互いの手のひらをティターニアに向けて翳した。仙人、黒兎、白兎は……ティターニアを中心に大きな三角形を描く。その三角は{白縹}(しろはなだ)に輝きながら、クルクルと回転し始めた。
「夜宴の島よ。この島の継承者として命ずる」
「夜宴の島よ。この島の守護神として命ずる」
「我らに……悪しき、不浄なる者を封印する力を与えよ!」


***

「ふぅ……何とか上手くいったぜ」
「……だね。これで奴は、ここから出る事が出来ない」
 双子達の手の中には小さな結晶。黒兎が『見てみろよ! スゲェだろ⁉』と、私の前に差し出してきたので……私はそれを手に取り、そっと中を覗いてみた。
 ――美しい海が見える。不気味すぎる程に大きい満月に、白い砂浜。……ここは夜宴の島? 
 そして、そこで一人佇むティターニアの姿。奴からすれば、この中に閉じ込められたというよりも……私達が忽然と姿を消した、という方がしっくりくるだろう。それ程までに、この結晶の中は夜宴の島そのものだ。
「しかし、この結晶……何かが……」
 仙人は私の手から結晶をヒョイと摘み上げると、じっと中を見つめた。双子達は互いに見合い、首を傾げる。
「……仙人? 何か気になる事でも?」
 仙人は白兎の問いに答える事なく、暫く何かを考えているようだったが……その内、小さく首を振りながら、こちらに向き直った。
「いや、何でもないわい! 恐らく儂の気のせいじゃよ! まったく、儂のような年寄りになると……何でも疑い、用心深くなる。本当に悪い癖じゃ。ほっほ」
「何だよ。それ⁉ 爺さん、頼むぜ~~! あんまびびらせんなって」
 黒兎と仙人がケラケラと笑う。しかしそんな二人をよそに、至って冷静な白兎はゆっくりと口を開いた。
 どうやらこの子は、私と同意見のようね。
「……ねぇ、仙人。一応、何が気になったか教えてくれないかな? 僕等はまだまだ未熟だ。だから……気付けない事もある。僕は仙人の直感を信じたい」
「悪いけど、私もそう思うわ。貴方のような位の高い者が、僅かにでも感じた直感を無視するわけにはいかない。そこの馬鹿のように、単なる気のせいで納得出来るほど……私も白兎も馬鹿ではないの」
「は、はぁ? じゃあ、馬鹿ってあたしの事かよ⁉ ひっでぇ!」
 ギャアギャア喚く黒兎は放っておいて、私と白兎は仙人に問いかける。やがて仙人は、『やれやれ』と大きな溜息を吐きながら口を開いた。
「何の信憑性もない事なんじゃが……この結晶から禍々しい気を感じるんじゃよ。呪いに近い、強い恨みの念。儂にはそれが、ティターニアとは全く異なるもののような気がしてならない。あと、この結界じゃが……夜宴の島が継承者に与えた力にしては少々威力が弱いというか、何かが足りないような……まぁ、そこは単にお前達の力量不足なだけかもしれんがのう。……とにかく、あまり深く考えるでない。儂の気のせいかもしれんしな」
 私と双子達は再び結晶を覗き込む。中にいるティターニアは、最初の方こそ怒り狂ったかのように暴れていたが……今は、何をしても無駄だという事を悟ったのか、三角座りをしながら膝に顔を埋めていた。
 ――禍々しい気? 強い恨みの念? 
 仙人が感じたという気配を、私には感じる事が出来なかった。
 やはり、仙人がいうように……単なる杞憂でしかないのか? 
「……とにかく、用心はしておこう。この石は僕が持っておくよ」
 そう言うと、白兎はその結晶を腰巾着の中にしまい込んだ。
「でもよ、ティターニアの奴……まさか、こん中で自殺したりしねぇよな?」
「……それは十中八九ないでしょうね。あの女はそもそも、器を持たない魂だけの存在。生に関する執着は誰よりも大きい。肉体を手に入れた今、何があっても死ぬ事はないと思うわ。今頃、何とかして脱出を試みようと策でも練ってるんじゃないかしら?」
 私は黒兎と目を合わす事なく、淡々と返事を返した。その言葉を聞いて『そっか! なら良かった!』と、安心したような態度を見せる黒兎に代わり、今度は白兎が私に話しかけてきた。……全く、面倒臭い姉弟だ。
「けどさ、たとえ死ぬつもりはなくても……わざと、死なない程度に自傷行為を繰り返すかもしれない。【ここから出さないと、更に苦しめる】という意味合いを込めた、脅しとも取れる要求……そしたら姉様は、痛みや苦しみを伴う事になる。その場合、ティターニアを結晶の中から出すしか方法が……」
「ほっほっほ。勿論、その辺は覚悟の上じゃよな? スカーレットよ?」
「……ええ。どうぞ好き勝手に、私の身体を抉り、痛めつけるといいわ。そもそも私は、ティターニアがその結晶の中で生きようが死のうがどうでもいいの。今更この命に何の未練もないし、惜しくもなんともないのだから。ま、奴は真性のサディスト。私を傷つける事に興奮を覚えたとしても……その為に、わざわざ自分の身体を痛ぶるとは思えないけどね」
 私はそう言うと、クルリと白兎の方に振り返った。
「それと……あんた。私はあんた達の姉でもなんでもないの。姉様だなんて呼ばないでくれるかしら? あんた達の姉はこの世界でたった一人……赤兎だけなんだから」
 ――素直になれない。歩み寄れない。こんな態度しか取れない。だって私は双子達に、『姉様』と呼んでもらう資格なんてないのだから。
 この双子達だって、赤兎を死なせてしまった負い目から……もういない姉の代わりに、私に寄り添おうとしているのだ。どちらにしたって、そんな関係は偽物でしかない。だから……馴れ合う必要もない。
 そんな事を考えていると、背後から柔らかい感触と温かい体温を感じた。
「……なら、スカーレット! これからはお前の事をそう呼ぶぜ」
 そう言うと黒い兎面の少女は、私の身体を優しく抱きしめた。
「スカーレット。君は……今までずっと、赤兎を守ってきたんだ。たまには守られる側に回ってもいいんじゃない? これからは、僕達が君を守ってみせるよ」
 目の前にいる白い兎面の青年が、その仮面を外し、優しく笑った。
「スカーレットよ、もう良いではないか? お主は充分、己の罪を悔い……懸命に償おうとした。それは、今この島にいる全員が認めておる。生きている限り、誰もが一度は過ちを犯してしまうもんじゃ。お主も、赤兎も、この双子達も……そして狸も。勿論、儂だってそうじゃよ。過去は変えられん。しかし、未来は変えられる。ようは、お主がこれからどう生きていくかじゃ」
 どいつもこいつもお人好しね。ほんと、馬鹿みたい。――ううん、本当の馬鹿はこの私か。双子達と共に、この島で生きていきたいという気持ちが……確かに芽生え始めているのだから。
 あれ程憎んできた双子達、夜宴の島――
 赤兎、お爺ちゃん……私、ここで生きていっていいかなぁ? やり直してもいいかなぁ? 
 私が奪ってきた命は戻らない。けれど、ちゃんと償っていく。もう間違えない。
 命は、全てが平等に尊く……かけがえの無いものなのだから。

「……ちょっと、あんたねぇ。暑苦しいのよ! いい加減に離れなさいよね、このバカ兎! ……あんたも! 男のくせになよなよし過ぎ。もっと男らしくしなさいよ、このヘタレ兎!」
 私は黒兎の身体を無理やり引き剥がすと、二人に向かってびしっと一本指を立てた。
「生憎、あんた達に守ってもらう程私は弱くないし、落ちぶれちゃいないの。けど、まぁ……あんた達は私の大切な【親友】の妹と弟だもの。仕方がないから守ってやるわよ! いい? 私の邪魔にならないようにするのよ? うろちょろしたら承知しないから!」
 私の言葉に双子達は暫く静止したが、やがて腹を抱えて笑い出した。
「へぇへぇ! わかりましたよ、スカーレット様! 守ってもらおうじゃねぇか、存分に! なぁ? 白兎!」
「あはは! そうだね! 頼りになるよ!」
 あまりに双子達が楽しそうに笑うので、何だか私までおかしくなってきた。
 ――私が欲しかったもの。ようやく見つけられた気がするよ。赤兎、お爺ちゃん……ありがとう。
 一人で過ごしてきた孤独な夜は、私の心と同じ。墨汁で染めたかのように真っ黒だった。けれど……今は違う。沢山の星が見える。それらが光となって夜の闇を照らし、煌びやかに輝いている。……今の夜宴の島の状況は最悪だ。しかしこの夜空は、その惨劇に屈する事なく、とても美しかった。
 クレーターの数まで、ハッキリと確認出来る大きな月は、海面に影を落とす。今までの私は、その【影】そのものだったけれど……これからは、目を開けていられないくらいに輝く、眩しい【光】になりたい。双子達と一緒なら、きっと叶う。――そう信じてる。
「……おいおい、ちょっと待て。儂の事を忘れてはおらんかのう?」
 仙人が私の頭に優しく手を置いて、『双子達だけではないぞ?』なんて威張りながら言うものだから、思わず笑みがこぼれた。
 そうだね。私はもう……一人じゃない。
「――ねぇ、皆! そろそろミズホ達の所に戻ろうよ! きっと、二人とも心配してる」
「ああ、そうだな! 早く戻ろ――」
 ――黒兎がそう言いかけた時だった。漆黒の空に、いくつもの特大花火が上がる。それは、とても華やかだが……このタイミング、この状況で、【誰か】の手により打ち上げられた花火ほど、不気味で怪しいものはない。
 沢山の風船が空を色とりどりに飾り、サーカス会場で流れているような陽気でアップテンポな曲が島中に響き渡ると……これから夜宴の島で、楽しく盛大なパフォーマンスでも行われるかのような錯覚に陥った。
「な、何だよ! これ⁉」
「……来よったようじゃのう」
「ええ。真打の登場ね」
 一際大きく打ち上げられた緑色の円の中には、不気味な大きい目が二つ。中心には人参のような形をした橙色の鼻。更に、血のように鮮やかな赤がニヤリと口角を上げた。……こんな悪趣味な花火、見た事がない。

『Ladies and gentlemen~! 待タセタナ、テメェラ? 皆ノアイドル【ゲーデ君】ノ登場ダヨォ⁉ 皆、元気ニシテタァ~?』

 どこからともなく聞こえてくる不愉快な声。間違いない、ゲーデだ。私達は思わず構えるが、近くに奴の気配は感じられない。
「サァテ! ココデ皆様ニ、重大ナオ知ラセガアリマ~ス。……イイカ、オマエラ? 心シテ聞ケヨ? 一回シカ言ワネェカラナァ?」
 嫌な予感がした。それは黒兎も白兎も、仙人も同じようだ。ゲーデの声は、島にいる全員の耳に届いている。人間達にも、この島の客人達にも。……死神は一体、何を企んでいる? 
『今夜ヲモッテ、コノ夜宴ノ島ハ滅ビマ~ッス! 皆、逃ゲルナラ今ノ内ダゼ! マ、逃ゲラレルモンナラナァ。クヒヒヒ!』

十五

『今夜ヲモッテ、コノ夜宴ノ島ハ滅ビマ~ッス! 皆、逃ゲルナラ今ノ内ダゼ! マ、逃ゲラレルモンナラナァ。クヒヒヒ!』

 花火の音にも負けないくらいの大きな声が、島全体に響き渡る。今、この声が聞こえていない者は一人も存在しないだろう。
「ソウくん、今の……」
「ああ。ゲーデの奴……一体、何をするつもりなんだろう? 嫌な予感しかしない」
「――ミズホ! ――ソウ!」
 その声に反応し、急いで空を見上げると……そこには双子と仙人、そして、スカーレットの姿があった。
「――皆! 良かった……無事だったのね。そうだ……! ティターニアは⁉」
「へっ! あの女なら、結晶の中に閉じ込めてやったぜ。これで、もう二度と悪さをする事は出来ねぇだろうよ」
 ――結晶? 店長の家で見つけた結晶や、私が白兎から預かった結晶と同じモノなのだろうか? そういう使い方も出来るんだ……
「とにかく、皆が無事で良かった! スカーレットも!」
 そう言うとスカーレットはチラッと私を見たが、すぐにふいっと目を逸らした。
「……別に。運が良かっただけよ。双子達と仙人が来なかったら、閉じ込められていたのは私の方だったもの」
「ごめん、ミズホ! スカーレットは素直じゃないんだよ。許してやって」
「ふふっ! 大丈夫。わかってるから」
 不機嫌でも、気に障ったわけでもない事は、その表情から簡単に見て取れた。ぶっきらぼうな口調ではあるが、どこか照れ臭そうな顔をして見せた彼女は……やはり双子達によく似ている。
「おぉい、そろそろ地上に降りるぞい。ずっと飛んでいるのも中々腰に来るんじゃよ。儂はお前達のように若くはないんじゃ。少しは年寄りを労わらんかい」
 仙人の言葉に、双子達は『はいはい』と呆れたように返すと、ゆっくり地面に足をつけた。
「――ねぇ。何だかおかしくないかしら? あの死神の演説、今も止まったままだけど」
「ああ……確かに変じゃのう」
 仙人とスカーレットは、腕を組みながら首を捻る。……それもその筈だ。あんな爆弾発言をしておきながら、ゲーデからの連絡がいきなり途絶えてしまったのだから。
 私達は警戒し、周囲に目を光らせていたが……まるでタイミングを見計らったかのように、先程の続きとも取れる内容が、突如島に響き渡った。
「――ア……アアア…………ワリィワリィ、チットバカリ距離ガ離レチマッタセイデ、思ウヨウニ言葉ヲ飛バス事ガ出来ナクッテヨォ。ア、モウワカッチャッタ? 実ハ、既ニ俺……夜宴ノ島ニハイッマッセェエエン! 驚イタデショウ? ププ! 急用ガ出来チマッタノト……ブッチャケ、飽キチャッタンダヨネェ。テ事デ、メンドクセェシ、一気ニ終ワラセヨウト思ッテサァ! ソノ結果、アト一時間モシネェ内ニ、ソノ島ニ隕石が落チチャイマス! ワオ! オッカネェ~!」
「な、なんじゃと⁉」
「はぁ⁉ んだよ、今の! どういう意味だよ!」
 ゲーデの言葉に皆がざわめきを隠せない。この島に隕石が落ちるですって!? そんな馬鹿な! あの人形は、そんな事までやってのけてしまうくらいの力があるというの⁉ 
「ソ~ンナ可哀想ナオ前達ノ為ニ、最後ノ宴ヲト思ッテ色々用意シテヤッタンダゼ? 花火ヤラ風船ヤラ音楽ヤラ。本ッ当ニ俺ッテ良イ奴スギルゼ。チナミニ、ティターニアハモウ要ラネェカラ、煮ルナリ焼クナリ好キニシナ? ……ア、駄目カ。ソシタラスカーレットモ死ンジャウモンネェ⁉ クヒヒヒ! 役立タズノオ荷物デシカネェナ、オメェラハヨ!」
 私は咄嗟にスカーレットを見るが、彼女は感情を全く表に出さず、海の向こうを静かに見つめていた。
「安心シロヨ! 島カラハ簡単ニ逃ゲラレルヨウニシテアルカラ。モウ結界モ何モアリマセェエエン! ……タダヨォ~? ハタシテ何人ガコノ島ヲ見捨テラレルノカナァ? ヒヒッ。マァ~ココガナクナッテモ、マタ他ノ、別ノ島デ【楽シイ宴】ヲヤレバイイジャン! 代ワリノ島ナンテ、世界ニハイクラデモアルンダカラサァ。ジャ、俺ハコレデ。See you~♪」
「は、はぁ⁉ ふざけんじゃねぇよ! あたしらにこの島を見捨てろっていうのかよ⁉ 馬鹿にすんじゃねぇ! ……おいコラ、返事しろよ⁉ さっさとここに戻って来い! あたしがお前の事をぶっ殺してやるからよ!」
「黒兎! 少し冷静にならんか! 確かにゲーデの言う通りじゃ。宴がやりたければ、他の島でまた始めればよい。じゃが、ここに残れば間違いなく……島諸共滅ぶ事になるぞ」
 黒兎は仙人の胸倉を思いっきり掴むと、絞り出すような悲痛な声で叫んだ。
「なんとか……なんとかして、隕石を止める事は出来ねぇのかよ⁉ あんたらの力を借りても不可能なのかよ⁉ ……ここは童子達の墓なんだよ。あたし達の全てなんだ!」
「……悪いが、無理じゃ。こうしている間にも、隕石は着々とこちらに向かっておる。ここに残る事は、単なる自殺行為に過ぎんわい。儂は皆と合流し、即刻ここから立ち去ろう。……お前達も急ぐんじゃぞ?」
 仙人はそう言うと、スッとその場から消え去った。

「ソウくん、……どうしよう」
「……ここは仙人の言う通りにすべきだ。冷静に考えて、たとえ隕石の落下で夜宴の島が滅びなかったとしても、怪我人や死人が出る事は間違いない。それに、あれだけ派手に宣言したんだ。夜宴の島とまったく関係のない場所に落ちるとは考えられないだろう。……生きてさえいれば、何度でもやり直せる。今は、決断するしかない」
 そう言った彼の拳はグッと強く握られていて、血管が浮き出て見えた。彼の怒りや憤りが、痛い程に伝わってくる。
 ――そうだ、双子達は……

「……立ちなさいよ、黒兎。さっさと島を出るわよ」
「嫌だ……あたしはここに残る。もしかしたらよ! ゲーデの野郎があたし達をびびらそうとして、嘘を吐いてるだけかもしんねぇじゃん? ……そうだよ! この島に隕石なんて落ちる筈が――」
「あんた……本当にそう思っているの?」
 スカーレットの言葉に、黒兎は静かに口を閉ざした。
 ……黒兎だって、ちゃんとわかっている筈だ。仙人のあの慌てようを見ても、ゲーデが嘘を吐いているようには思えなかった。きっと仙人だけではなく、ここにいる双子やスカーレットも……ただならぬ気配を感じているに違いない。

 ――今夜、夜が明ける前に……
 夜宴の島は……消える。

「……白兎、あんたはどうなの? この馬鹿と同じ考えなわけ?」
「僕は――」
 ちょうど、私と白兎の視線が重なる。
 白兎は私を見て、優しく穏やかに笑うと……今度はスカーレットの方を向き、はっきりとした声で答えた。
「僕もこの島を出る事に賛成だ。折角スカーレットとも通じ合う事が出来たんだし、もう誰にも死んで欲しくないから。僕と黒兎がここに残る事は、何のメリットもない。ましてや『誰も死んで欲しくない』と思うのなら、僕達が勝手な行動をして列を乱すわけにはいかないよ。……全員揃ってこの島を脱出する。それが正しい選択だ。それに……僕達がここに残ってしまうと、ミズホが心配しちゃうしね?」
「――ふぅん。後半の理由は相変わらず腑抜けているけれど……ま、いいとするわ」
 スカーレットは黒兎の前に立つと、黒い兎面を引っ剥がし、黒兎の両頬を思いっきり強く引っ張った。
「いへ! いへぇな! はにふんらよぉ⁉」
「……あんたさぁ、これから三人で一緒に暮らしていくんでしょ? あんたが死んだら、私が一人でこの腑抜け野郎の面倒を見なきゃいけないわけ? ふざけんじゃないわよ⁉ 煩いあんたがいれば、それはそれで大変でしょうけど……あんたみたいな馬鹿でも、傍にいてくれた方が……きっと毎日が賑やかで楽しくなると思う」
「ふ、ふはーれっほ…………」
 スカーレットは黒兎の頬から手を離すと、くるりと背を向けて言った。
「……私さ、あんた達と一緒に夜の宴を過ごしてみたい。昔、よく童子達と小さな宴を開いたわよね? あの頃は、あんた達双子をどう殺してやろうかと思うばかりで、【楽しい】だなんて……一度も思った事なかったわ。けどさ、あんた達もあの客人達も……この島を守る為に必死に闘った。皆、この島の宴が好きだと言っていた。……私ね、知りたいの。感じたいの。私もあんた達が始めた、賑やかで騒がしい夜の宴に参加して……皆のようにこの島の事を好きになりたい。――だからその夢……叶えさせてよ。たとえ島が違えど、あんた達がいればそこは【夜宴の島】だ。逆に、あんた達がいなくちゃ……二度と夜宴の島は蘇らない」
 スカーレットはジッと黒兎を見つめた。黒兎も目を逸らす事なく、スカーレットの事をずっと見つめていた。
 目尻を涙で滲ませながら、黒兎はゆっくりと口を開いた。
「……わぁったよ。そうと決まりゃ、さっさと島から脱出すんぞ。見捨てちまう事になるけど、緊急事態なわけだし……きっと、夜宴の島も許してくれるよな? また一からやり直しだ」
 黒兎はニカッと大きく口を開けて笑った。その顔を見て、スカーレットは小さく笑う。
 初めて見たスカーレットの笑顔は、とても無邪気で可愛らしく、いつもよりずっと幼く見えた。

「よし、じゃあ……島に残ってる奴が他にいねぇか調べに行くぞ!」
「そうだね。ゲーデの言葉が正しければ、まだ少しだけ時間がある」
「気配を感知出来ればいいんだけど……ゲーデの魔力が充満してて、よくわからないわね」
「取り敢えず、森の中から見て回るか」
 少し前を歩く三人の背中を見つめていると、何だかくすぐったくて、微笑ましい気持ちになった。この三人にこんな幸せが訪れるなんて、まるで奇跡のようだ。きっと、赤兎も喜んでいる事だろう。
「ねぇ、ソウくん。双子達とスカーレット……本当に良かったね」
「あぁ、そうだな。これから三人は、きっと上手くやっていくだろう」
「うん! 赤兎や狸のお爺さん、童子達の分まで……三人には幸せになって欲しいよ」
 私は、空を見上げながらそう言った。
「……ねぇ、ソウくん。私達はこれから、どうなっちゃうのかな? ちゃんと元の世界に戻れるのかな?」
「……大丈夫。きっと帰れるよ。だから、心配しなくてもいい」
 そう言うと、彼は優しく笑った。

 ねぇ、ソウくんも一緒に帰るよね……? 
 私……ソウくんと一緒に帰りたいよ。

 そう口にしたかったけど……やめておいた。今はまず、島を出る事が先決だから。
 それに……余計な事を言って、彼を悩ませたくないもの。
 本当は答えを聞くのが怖くて、逃げてるだけかもしれないけど……
 ――そんな事を、考えている時だった。

「スカーレット!」

 双子達の大きな声が私達の耳まで届く。私達は顔を見合わせると、どちらからともなく……急いで三人の元に駆けつけた。

「何だよ、これ……? 一体、何が起きたんだ」
 地面に横たわったスカーレットは……まるで痙攣したかのように、何度も何度も身体を上下に揺らす。その度に口からは大量の血液が吐き出され、地面を赤く染めた。私達は辺りを見回したが、どこからか襲撃を受けたとは考えにくい。――もしかして、ティターニアが自殺を図っているのか? 
 ……いや、それしては明らかに不自然だ。スカーレットの身体は、あちこちから血が溢れ出している。という事は、ティターニアの身体も同じ状態の筈。それに、出血部分は今もなお増え続けている。――どう見ても重症だ。痛みに耐えてまで、ティターニアが自らを傷付け続ける事など出来るのだろうか? 
「白兎ッ! 結晶だ! 結晶を出せ!」
 黒兎は荒々しく声を上げたが、何故か白兎は背を向けたまま動こうとはしない。
「おい、聞いてんのかよ! 白兎!」
「……もう出してるよ。けど、まさか……」
 白兎の身体は、わかりやすいくらいに震えていた。
「――チッ! 貸しやがれ!」
 白兎から無理矢理結晶を奪い取った黒兎の顔は、一瞬で温もりを持たない死人のように真っ青になる――
「な……んだよ、これ……んな馬鹿な……な、なんで……こいつが……なんで……?」
 黒兎の手から結晶がこぼれ落ちるのと、黒兎がその場で吐瀉物を撒き散らしたのと、どちらが先かわからない。
 とにかく、双子達はきっと……【見てはいけないもの】を見てしまったのだ。
 震えながらその場にしゃがみ込む黒兎の背を白兎が摩る。――泣き叫んだのが先か。結晶が地面を転がったのが先か。
 ……私の膝の上にはスカーレット。彼女の身体は、今も僅かにだが動いている。しかし……これは生きている者の動きではない。余程強い力で攻撃を受けているのだろう。それにより、無理矢理に身体が揺らされるだけに過ぎない。
 ――そう。スカーレットは死んだ。見るも無残に殺されたのだ。黒兎が口にした『こいつ』と呼ばれる人物に……

「スカーレット……ねぇ、お願いだから目を開けてよ……?」
 私はそう何度も語りかけたが、彼女はうんともすんとも言わない。止めどなく流れ続ける涙が、スカーレットの血液を少しずつ……少しずつ、薄めていく。
 彼は私からゆっくり離れると、落ちていた結晶を拾い、そっと覗き込んだ。
「ソウくん。私にも見せて」
「……駄目だ。ミズホは見ない方がいい」
「中は……中では、一体何が起きているの? それくらい教えてくれてもいいでしょう?」
 恐ろしくとも聞かねばならない。スカーレットの死因を知らねばならない。何故なら、彼女は間違いなく……私の大切な友人だったのだから。
 私の決意が伝わったのだろう。彼は私から目を逸らしたまま小さく口を開いた。
「……白髪の老婆がティターニアの上に跨り、一心不乱に彼女の身体にナイフを突き立てている。普段とは雰囲気は違うけれど……あれは魔女に違いない」
 体内の血液が、まるで凍りついたかのように私から体温を奪っていく。恐怖が喉を締めつける。
 それと同時に、彼の言うその【場面】を想像してしまい、膝の震えが止まらなかった。
「……どうして? どうして、魔女が中に⁉ それに、何故そんな恐ろしい事を……!」
「わからない。けど、君も聞いていただろう……?」


***

『――ちょっと、魔女のお婆様? 貴女は黒兎と娘を捜しに行かないのかしら? わたくし、貴女のその醜く皺だらけの顔を見ていると、とても気分が萎えますの。貴女……確かわたくしの下につきたいんですわよねぇ? なら、しっかりお仕事してもらわないと困りましてよ?』
『ソウダ、ソウダ! 仕事シロ、コノ糞ババア! 女ハヤッパリ若クテ美人ガイイゼ!』
『役立たずは邪魔なだけ。更に姿までこうも醜いとなると、ますますわたくしにとって不必要ですわ。さぁ、お婆様? どうなさるか……決めて下さる?』


***

「魔女は、ティターニアを恨んでいた可能性がある。些細な出来事が、時には恐ろしい事態を招いてしまう事もあるからね」
「……何にせよ、ババアはもうこの中から出られない。永遠に続く夜をひたすら過ごし、朽ち果てていくだけだ」
 黒兎は弱々しい声でそう言うと、おぼつかない足取りでこちらに向かって歩いてきた。
「クロ、ちゃん……」
「なんで……なんでだよ、なんで……! なんでこうなっちまうんだよ。一緒に生きていくんじゃねぇのかよ? ……なぁ? スカーレット? スカーレット! 目を覚ませよ、スカーレット! ……うわああああぁぁん!」
 黒兎はスカーレットを抱きしめながら、大きく声を上げて泣いた。深い眠りについた緋の兎に、この声は届いているだろうか? 
 ――スカーレット。貴女が死んで、皆がこんなにも悲しがっている。貴女は【ヒトリ】ではなかった。こんなにも皆に愛されていたの。それを、生きている間に貴女に伝える事が出来ていれば……

「スカーレット……僕達のもう一人の姉様。どうか、どうか安らかに。君は全てから解放されたんだ。もう、苦しむ事はない。……けどさ、こんな終わり方だけはして欲しくなかったよ。もっと早く、互いにわかり合う事が出来ていれば……未来は変わっていたのかな?」
 白兎の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
 ザーザーと激しい雨が降り出したように泣く黒兎と、シトシトと静かに雨が降るように泣く白兎。……形は違えど、悲しみの大きさは共に同じ。
 ――もう嫌だ。これ以上、誰かが死ぬところを見るのは嫌……心が壊れてしまいそうだ。私でさえ、これ程までに辛いのだ。双子達の痛みや苦しみは計り知れない。
「魔女は……どうやってこの中に入る事が出来たんだろう? 俺達はずっと下にいたけれど、魔女の姿なんて見なかった」
「……あたし達の力が未熟だったせいだ」
「? それって、どういう事なの……?」
「爺さんが言ってたんだよ……この結晶から、禍々しい気配を感じるって。呪いに近い、恨みの念のようなものだとも。という事は……この時既に、魔女はこの中にいたって事だ」
「……それに、仙人はこうも言っていた」

『あと、この結界じゃが……夜宴の島が継承者に与えた力にしては、少々威力が弱いというか、何かが足りないような……まぁ、そこは単にお前達の力量不足なだけかもしれんがのう』

「あたし達が、あたし達が未熟過ぎたから……あのババアが結界内に入り込める隙を与えちまったんだ」
「きっとなんらかの方法を使って、魔女はティターニアに接触していたんだろうね。たとえば……気付かれる事なく、ターゲットに接近出来る魔法のドリンクを飲んでいた。もしくは何かに化けていた。あとは古の魔法道具を使ったか……魔女はコレクターでもあったからね」
 確かに私は鼠に化けた魔女を見た事がある。狸神が小さい生物に姿を変え、私の体内に隠れていたように……魔女も、気付かれぬようティターニアの身体に纏わり付き、チャンスを狙っていた可能性がある。
 ――道具だってそうだ。魔女の隠れ家には沢山の道具があったように思う。私が使った砂時計だって、とても不思議な効果を持つものだったし……もしかして、一瞬だけでも【全員の時間を止める】、なんて道具があったのかもしれない。それならば、双子達がティターニアを封印している最中に、その中に入り込む事なんて容易い事のように思える。
 魔法のドリンクだって……【カメレオン】を使っていたならば、誰にも見つからずに近付く事が出来たのかもしれないし、他の薬でも、私達が知らないだけで……それ以上に役立つものがあったのかもしれない。
 ……しかし、今更どれだけ【可能性】を提示しても、何の意味もない。
 真実を知る事は出来ないだろうし、既に魔女は【全てをやり遂げた後】なのだから。
 ――その時、私の視界に突然蒼い光が入り込んできた。
「え? ……何……これ……?」
 私の言葉に、俯いていた三人が顔を上げる。キラキラと光を放つコバルトブルーの粒子達が、スカーレットの身体を優しく包み込んでいった。
「これは……間違いない。――継承の光だ」
「な、何だって……⁉ それって一体、どういう事だよ⁉」
「そんな事……僕にだってわからないよ……」
 光り輝く粒子は空高く昇っていく。その力に引き寄せられるかのように……スカーレットの身体は、ふわりと宙に浮かび上がった。
「これは……」
「ソウくん、どうしたの……?」
 後ろからそっと覗き込んでみると、彼の手のひらに置かれていた結晶がスカーレットの身体と同じように、キラキラと輝きを見せているのがわかる。
 中にティターニアと老婆が入った【それ】は、蒼く輝く粉を空中に撒き散らしながら、瞬く間に消え去った。
「……そうか! クロとシロの力が未熟だったわけじゃない。お前達は三人揃って、初めて一人前の【神】と呼ばれる存在なんだよ。確か、『継承者に与えた力にしては、何かが足りない』って、仙人が言ってたんだよな? それはきっとスカーレット……【緋兎】の事だったんだよ。夜宴の島を継承すべき者、選ばれし者は元々三人だった。結晶が不完全だったのは、スカーレットの力が加えられていなかったからだ」
「あたし達は……」
「三人で一人前……?」
「ああ、きっとそうだ。そして今……夜宴の島が彼女を継承者だと認めた。夜宴の島は、彼女を見放してなんかいなかったんだ。ずっとずっと……彼女が心を入れ替え、ここに戻ってくるのを待ってたんだよ」
「……そうだ。もう彼女の中には、邪悪な心はなかった。彼女は誰よりも勇敢に闘ったじゃないか? 僕達を……島を守る為に」
 白兎はゆっくりと立ち上がると、袖でゴシゴシと涙を拭った。
「彼女はこの島の守り人の一人。僕達と同じ、夜宴の島の神となったんだ。……黒兎。もう泣くのは終わりにしよう。彼女を、スカーレットを……ちゃんと見送ってあげなくちゃ」
「あぁ……そうだな。こんなにギャアギャア泣いてたんじゃあ、スカレットにも笑われちまう。……いや、『馬鹿じゃないの?』って、呆れられちまうか!」
 黒兎は人差し指で鼻の下を擦ると、『へへっ』と小さく笑った。
「――ありがとう、スカーレット。もう頑張らなくていいんだから……ゆっくり休んでね」
「そんでもってよ……空からあたし達の事、ちゃあんと見守っていてくれよな?」
 黒兎と白兎は、スカーレットの頬にそっと口付けをした。……心なしか、彼女が笑ったように見えた。
 そしてスカーレットの身体は光に包まれたまま、ゆっくり空へと昇っていく。
 私達はそんな彼女に向けて、大きく手を振り上げた。

「さようなら、スカーレット」
「さようなら……」
「またいつか、来世で逢おうな」

「君の旅立ちに……限りない祝福を」


***

 ――どれくらいの間そうしていただろう? 
 多分、それ程長くはない。それなのに……もう何時間もこうしているような気持ちだった。
 スカーレットが、蒼色に輝く美しい光と共に消え去ってしまってから……私達は誰一人口を開く事なく、こうして無意味にも近い時間を過ごしていた。
 ……しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。
 ゲーデは、【後一時間もしない内に、この島に隕石が落ちる】と言っていたのだ。もう……時間がない。

「なぁ、白兎よぉ……」
「……うん。もう誰も島にはいないみたいだ。僕達も早くここから出よう。……ずっとこうしてるわけにもいかないしね」
「ああ……そうだな。しっかしまぁ~、これだけ近付いて来られてちゃあ、流石のあたしにだってわかっちまうぜ。……相当やべぇって事ぐらい」
「ゲーデは嘘を吐いていなかったみたいだね。物凄く大きな脅威が、猛スピードで近付いてきている。あんな物が落ちてきたら、この島は一瞬にして消えて無くなるだろう」
 黒兎と白兎の会話を聞いて、やはり夜宴の島が助かる見込みは、限りなくゼロに近いという事がよくわかった。
 ……これで、夜宴の島も見納めか。何だかとても、呆気なかったような気がする。
 けれど、もうどうする事も出来ないんだ。私は思わず下唇を噛んだ。
「なぁ……どうやって島から移動するんだ?」
「んとな、あたしが道を開いて……」
「僕が最後に閉じる」
 どうやら二人には役割があるようだ。宴に招かれる時も、その夜が終わり、元の世界に戻される時も……黒兎が道を開き、白兎が閉じていたのだと言う。
 私達は、双子達の傍に移動した。
「じゃあお前ら、準備はいいか? 言っとくが……一度中に入ると、絶対に外には出られねぇから。『忘れ物が~』なぁんてふざけた事を抜かしやがると、ぶっ飛ばすからな⁉」
 黒兎の言葉に三人が頷くと、彼女は両手を大きく広げ、呪文のようなものを唱え始めた。
 すると、半透明のキューブのような物がクルクルと回転しながら私達の目の前に現れた。それはかなり大きく、私達が全員この中に入ったとしても、まだ充分余裕はあるだろう。
「さぁ、入れ。……ほら、さっさと入れって」
 黒兎は、私と彼を無理矢理キューブの中に押し込むと、後から自分も中に入ってきた。
「……よし、皆入ったね?」
「おうよ! だからお前も早く入れ」
「……ごめん、黒兎。それは出来ない――」
 白兎はそう言うと眉を下げながら、優しく笑った。

「は……? お前、何言って……」
「最初からこうするべきだった。……大丈夫。僕が必ず隕石を止めてみせるよ」
「ば……馬鹿か、てめぇ⁉ お前なんかに出来る事なんてたかが知れてるだろうが! くだらねぇ事言ってないで、さっさと来い!」
 黒兎の言葉に、白兎はただ首を左右に振るだけ。
 私は急いでキューブの外に飛び出そうとした。しかし、見えない力に跳ね返されて……どうしても白兎の元に行く事が出来ない。

 一度中に入れば、二度と外には出られない。

 先程の黒兎の言葉が、今頃になって……繰り返し、頭の中に響き渡った。
「シロくん……どうして? どうしてなの? お願いだからやめてよ、一緒に行こうよ……ねぇ、シロくん!」
 スカーレットと狸神の死で全て出し切ったと思われた涙が……一瞬の内に目尻まで広がり、大粒となってこぼれ落ちる。
 私は必死に手を伸ばしたが、白兎がその手を取る事はなかった。
「……泣かないで、ミズホ。もう君もわかっているだろう? どの道、僕の命は永くない。だったらこの命を、この島を守る為に使ってみたいんだ。たとえ無理だったとしても……悔いはないんだよ」
 声が、出ない。彼を止める事が出来るだけの威力を持つ言葉が、どこにも存在しない。
 口から漏れてくるのは、唸るような嗚咽の声だけだ。
 「シロ、開けろ……頼むから開けてくれ! お前が残るって言うのなら、俺も一緒に残るから……お前を絶対に一人にはしないから! だから、なんでも一人で背負い込むの……もうやめろよ? なんの為に俺達がいるんだよ⁉」
「……ソウ。君に頼みがあるんだ。強がっているだけで本当は泣き虫な僕の姉様と……この世界で、一番の愛おしくてたまらない彼女を……僕の代わりに支えてやってくれないか? 正直、君に頼むのは癪だけど……本当はね、そこまで嫌いでもなかったよ……君の事」
「馬鹿……野郎……!」
 そう言うと、彼はキューブの壁を思いっきり殴った。彼の拳は傷付いているのに……箱はまったくビクともしない。
「……白兎、行くな! 頼むから行かないでくれ……! お前までいなくなったら、あたしは……あたしはどうすりゃあいいんだよぉおお!」
「ごめん、黒兎。君を一人にはしたくなかったんだけど……やっぱり無理みたいだ」
 白兎はキューブ越しに黒兎の手に触れた。
「幸せになってよ姉様。赤兎やスカーレット、狸神や……僕の分まで」
「お前がいないと無理だよ。あたしには、お前が必要なんだよ! 頼むよ……一人にしないでくれよ……!」
 黒兎の悲痛な叫び声に、白兎は一瞬顔を歪ませたが……そっと目を閉じ、小さく……呟くように呪文を唱え始めた。
 私達は涙を流しながら……ただ、その声を聞いている事しか出来なかった。
 白兎の声が止まった時、キューブは再び回転し始める。白兎は、最高の笑顔を見せながら私達に言った。
「さようなら。僕の大切な姉と友人達よ。夜宴の島で過ごしてきた夜を忘れないで。君達が忘れない限り、この島は永遠に消えないのだから」
「やめろぉお! 白兎ぃいい!」

 さようなら

 白兎の声が、今も私の耳から離れないでいるのに……私達の目の前から、白兎の姿だけが消え去った。

夜宴の島

2019年4月26日 発行 初版

著  者:夢空詩
発  行:夢空詩出版

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