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1988
大事なものはみんななくなってしまう。子どもの頃からずっとそういう気がしていました。大好きなものは何だって私の手からすり抜けていってしまう。人だって同じで、ずっと一緒にいたい人は、いつだっていなくなってしまう。いくら必死で止めようとしても絶対無理で、私は取り残されて途方に暮れるしかないんです。
子どもの頃に大切な物を失くした記憶は今でも忘れず残っています。家のお風呂を改修しているとき、母に連れられて近所の銭湯に行きました。まだ五歳くらいだったと思います。私は銭湯が初めてでとても楽しみにしていました。前の日から銭湯にどのおもちゃを持っていこうかとはしゃいでいました。結局、一番お気に入りだった小さなウサギのビニール人形をぎゅっと手に握って、反対の手は母の手をぎゅっと握って、私は意気揚々と銭湯へ向いました。色んな人が裸でうろうろしていて、見たこともない大きな湯船があって、大きな富士山のタイル画があって、私はいよいよ上機嫌でした。
でも、私の幸せは長くは続きませんでした。母に頭を洗ってもらっているとき、ウサギのお人形の手をうっかり離してしまったのです。ウサギはタイルを滑って、流しの溝に落ち、そのままもの凄い勢いで排水溝を流れていきました。本当に一瞬の出来事で、私には何が起こったのかまったく分かりませんでした。何で数秒前までしっかりと私の手の中にあったものが、今はなくなってしまったんだろうって。
「流れちゃったね。もう取れないわねぇ」
母の言葉をきっかけに私は火がついたように泣き喚きました。「取って、取って」と叫んで母を困らせたのです。母はそんな私を見て悲しい顔で、
「もうどうにもならないの」
と言いました。私はいよいよ激しく手足をばたばたさせて泣きました。
「同じものを買ってあげるから」と母は私の頭を撫でるんです。でも、同じものだって、私が毎日一緒に遊んでいた、何度も一緒にお布団に入って寝た、あのお人形じゃないじゃないですか。母がそれを分かってくれないことがよけいに悲しかったです。
そのとき、五歳の私は世界は失われていくものだと知りました。これから先の人生で、私は何度こんな悲しい思いをしなければならないんだろう、こんな悲しい思いをするくらいなら、時間なんて今日のまんまで止まってしまえばいいのにと思いました。そして、わずか数分前まではしゃいでいた自分が、恥ずかしくてたまりませんでした。
結局、時間は止められずに、世界はやっぱり失われていくもので、あれから私は何度も悲しい思いをしなければなりませんでした。
迷子になった思い出も忘れられません。そのときにはもう小学校に入っていたので、多分七歳くらいだったと思います。私は姉と姉の友達の後について遊んでいました。遊んでいたというよりも、姉たちの後ろをただついて回っていただけだったかもしれません。四つ年の離れた姉たちのグループの中では、私は何をやってもミソでした。つかまっても鬼にならないのに、一緒に鬼から逃げたりしていました。一緒に逃げても鬼は私を捕まえない。だから、逃げる意味はない。だけど、私はすっかり仲間に入れてもらったつもりで一緒に逃げていたんです。ある冬の日の夕方でした。日が落ちるのが早く、五時近くになるともう辺りは暗くなってきました。私は帰りたくなりました。それでも姉たちは楽しそうに話しこんでいました。同じクラスの男子の噂話をしていたんです。家から少し遠い公園で遊んでいたので、よけいに心細くなっていたのかもしれません。私は姉の袖を引いて、「ねぇ、もう帰ろうよ」と言いました。姉は鬱陶しそうに私の方を見ると「まだ五時になってないじゃない、帰りたければ、一人で帰れば」と答えて、すぐにまた友達との会話に戻ってしまいました。初めてきた公園なので、一人では帰れませんでした。姉もそれを知っているはずでした。私はなぜだか知らないけれど、今のうちに帰らなければ、真っ暗になったら家に帰れないんじゃないかという気持ちになりました。姉たちは何にも知らずに能天気な顔で遊んでいて、そのことに気がついてないんじゃないかと思いました。私は再び姉の袖を引いて、「ねぇ、お姉ちゃん、暗くなっちゃうよ、早く帰ろうよ」と、少しだけ震えた声で言いました。
「うるさいなぁ、ひっぱらないでよ、服が伸びちゃうでしょ」
姉は私の手を振りほどきました。そして、しばらく私を見てから、
「それじゃ、最後に一回缶蹴りしてから帰ろう」
と言うと、友達たちの方に向き直って何か小さな声でささやいていたのです。
私は何かよくないことが起こるんじゃないかという悪い予感でいっぱいでした。それでも、一回缶蹴りをしたら帰るという姉の言葉を頼りに泣きそうになる気持ちを必死で抑えていました。
「それじゃ、私が鬼をやるから」
姉は自動販売機の横に転がっていた空き缶を一つ持ってきました。それほど大きくない公園なので、隠れるところも多くはありません。缶蹴りなんてすぐに終わるんだ、そうしたら、家に帰れる、夕御飯も待っていると自分に言い聞かせました。
姉は勢いよく助走をつけて、スカートの中が見えてしまうくらいに大きく脚を上げて缶を蹴り上げました。姉の友達たちは一目散に逃げ出しました。私もそれに続いて逃げ出しました。しかし、姉まで一緒に逃げ出していました。姉は私を追い抜いて、友達と一緒に公園の外へと逃げて行ってしまったのです。私は騙されたと思って必死で追いかけました。でも、私の足では到底姉たちには追いつけません。公園を出るところで、私は転んでうつ伏せに倒れました。顔を上げて周りを見回しても、もう姉たちの姿は見えませんでした。
「もう、何でそういうことするの! これ終わったら帰るって言ったじゃん、早く出てきてよ!」
そう言った私の声はもう涙声でした。辺りに虚しく響くだけで、誰の耳にも届かなかったようでした。立ち上がった私はどうしたらいいか分かりませんでした。今考えれば、そのまま公園で待っていれば、私をからかって気が済んだ姉たちが迎えに来てくれたんだと思います。でも、そのときの私にはそれが分らなかったんです。ひょっとしたら、姉はこのまま私を置いて一人で家に帰ってしまうかもしれないと思いました。そうしたら、ずっとそこで夜中まで一人ぼっちで待ち続けなきゃいけないじゃないですか。
じっとしていられませんでした。私は走り出しました。姉たちがどっちに行ったのかは分かりませんでしたが、無我夢中で走りました。まだ、姉に追いつけるかもしれない、ひょっとしたら、知っている道にたどり着けるかもしれない、そう思って涙を拭って走ったんです。
けれど、どこにも行きつけませんでした。どんどん知らない風景になっていき、あたりは暗くなっていきました。走り疲れて知らない家の前で立ち止まったとき、五時を知らせる鐘が鳴り響きました。その鐘は私の知らない曲でした。もう違う町内に来てしまったのでした。私は声を上げて泣きました。二度と家に帰れないような気がしました。お父さんにもお母さんにも、そして、いじわるなお姉ちゃんにも、もう一生会えないんじゃないかという気がしました。こんな見たこともない町の中でどうしたらいいんだろう。私はしゃがみ込みました。私は顔をくちゃくちゃにしました。大粒の涙はとめどなく流れていきました。
「泣くなよ、お前、どうしたんだよ」
見知らぬ男の子が私の顔をのぞきこんでいました。私よりも少し上級生に見えました。何か話そうと思いましたが、喋るとしゃっくりが出るみたいになって、上手く喋れません。
「落ち着けよ、困ったな。迷子か? 家はどこなんだ?」
その男の子は喋り方は乱暴だったけれど、何だか優しい感じがしました。優しい声をかけられて逆にもっと涙が止まらなくなってしまいました。泣きやみそうもない私を見たその男の子は周りを見回すとどこかに行ってしまったんです。その子にまで見捨てられたと思った私はさらに町内中に響くような大きな声で泣き続けました。
その男の子は私を見捨てたわけではありませんでした。しばらくすると彼はジュースの缶を持って現れました。
「ほら、これでも飲んで気を静めろよ」
見捨てられたと思っていた私は、そんな優しい彼なのに、
「そんなのいらない」
と言ってジュースを払いのけてしまいました。本当は嬉しかったのに。
「何だよ、せっかく買ってきてやったのに」
彼は少し困った顔になりました。
「お前、学校はどこなんだ? 家の住所が分んなかったら、お前の学校まで連れてってやるよ」
彼はまだしゃがみ込んでいた私に手を差し出しました。私がその手をつかむと、強い力で私をひっぱって立たせてくれました。彼の手が暖かくて、それに握った感触がとてもちょうどいい感じがしたのを覚えています。
* * *
子どもの頃、僕は死のことばかりを考えていた。死にたかったわけではない。死を恐れていた。小学校時代には周期的に死にとらわれていた。そうなると、何をしてもつまらなくなった。たとえば、何か楽しいことがあって笑ったとき、急に「でもお前はいつか死ぬのだ」という考えが脳裏をよぎった。街で楽しそうにはしゃいでいる人たちを見ると、この人たちは自分が死ぬってことを忘れているんじゃないかと思った。何もかもなくなってしまう、こうして自分が考えたり喜んだり悲しんだりしたことのすべてがなくなってしまう、自分のいない世界が永遠に続いていく、そのことがたまらなく恐かった。何をしても無駄に思えた。それを母親に話すと、母親は笑って、「何にもなくなっちゃうから、今を大事に生きるのよ」と答えた。そのときの僕には意味が分からなかった。何にもなくなってしまうってことは、今こうやって見たり聞いたり触ったり考えたり思い出したりしていることが、すべて出来なくなってしまうってことで、どうしてその事実に皆はたえられるのだろう。
夜眠るのが恐かった。部屋を暗くして目をつぶると、世界のすべてが真っ暗になって、このまま暗闇の中から出られないんじゃないかという気がした。明日、明るい朝が来ることが信じられなかった。電気をつけたまま寝ていると、大抵、母親がそれを消そうとした。僕は真っ暗にされるのを嫌がった。母親はしょうがないわねと言ってその場は引き下がるのだが、僕が寝入った後にまた僕の部屋にやってきて、電気を消してしまう。だから僕が夜中に目覚めると何もかも真っ暗で、僕は自分が死んだんじゃないかと恐怖に慄いた。
そんな僕に父親が音楽を教えてくれた。その当時はまだカセットだった。父親はこれを聞きながら寝ればいいとビートルズやサイモン&ガーファンクルのアルバムをくれた。それから僕は音楽を聴きながら眠るようになった。今でも眠れない夜には僕は音楽を聴く。僕にとっての最初の音楽は死の恐怖を忘れるためのものだった。いや、多分、音楽だけではなく、写真も絵画も映画も、僕にとってはみんな死を忘れるためのものなのかもしれなかった。
友達の少なかった僕は放課後よく一人で街中をうろついた。すれ違う人たちを眺めながら、この人も、この人も、この人も、みんな死んでしまう、いつかは分らないけれど、必ず全員死に絶えてしまうんだと考えた。人ばかりじゃない、猫も犬も草も木もいつかみんななくなってしまう。そう感じるとき、僕はいつも世界は何て無意味なんだろうと思った。この意味のない世界の中で僕は死ぬまでの残りの時間、何をしていればいいんだろう。
散歩をするのが好きだった。どこかに用事があって出かけても、ついつい知らない道があると入っていってしまう。今でも落ち込んだり考えごとがあったりすると、僕は知らない道を散歩する。歩き続けると混乱した頭が次第にすっきりとしていく。子どもの頃も知らない道に引き寄せられて彷徨っている間は、自分が刻一刻と死に行く存在だということを忘れていられたのだと思う。
知らない道と言っても、好き嫌いがあった。新しい単純な町並みよりも、昔ながらの複雑な町並みを好んだ。道は入り組んでいればいるほど興味をひいた。古びて蔦が絡まっているような家を見るのが好きだった。
たとえば僕には自分の家の前の道に色々な思い出があった。前に犬の糞があったけれど母親が片付けたこと、僕が姉と大喧嘩して前の家のブロック塀に頭を打って何針も縫ったこと、たまに団子虫が出ること、秋になれば隣の家の木の葉が赤く染まること。それと同じように僕が迷い込む見知らぬ道にも、僕の知らない誰かが色々な思い出を持っている。そのことがとても不思議だった。見知らぬ道に染み込んだ他人の記憶を想像すると、まるで別の人の人生を生きているような気分になった。死によって自分の記憶が失われることを恐れていた僕は道に迷いながら他人の記憶の中を彷徨うことを好んでいたのだった。
その日も僕は一人、隣町を歩いていた。多分小学校高学年の頃だったと思う。何か用事があったのかもしれないし、ただ歩いていただけだったのかもしれない。次第に辺りが暗くなってきた。夕暮れどきの町並みをわざと知らない道知らない道へと分け入っていった。
五時を知らせる町会のチャイムがなった。知らない町だったが、大体の方角の見当はついていたので、僕はもうしばらくうろうろと歩こうかと思った。そのとき、子どもの泣き声が聞こえた。大声で泣く声を聞くのは久しぶりだった。僕はその泣き声のする方へと吸寄せられるように足を向けた。
女の子がしゃがみ込んで泣いていた。僕よりも年下のようだった。声をかけてみる気になった。
「泣くなよ、お前、どうしたんだよ」
女の子の顔をのぞきこんだ。髪の長い色の白い女の子だった。彼女は目を真っ赤にしながら泣いていた。僕を見ると苦しそうにしゃっくりをした。
「落ち着けよ。迷子? 家はどこなんだ?」
しかし、彼女は何も喋らないでただ泣き続けた。僕は困った。一度話しかけたからには放っておくわけにはいかなかった。しかし、泣き続ける彼女をどうすればいいのかも分らなかった。
僕は何かジュースでも飲ませようと思い、彼女を置いて自動販売機を探しに駆け出した。自動販売機はすぐに見つかった。オレンジジュースを買って帰るとき、少しの間でも彼女を置き去りにしたことを後悔した。あの子は大人しく待っていてくれるだろうか。
彼女は同じ場所で泣いていた。相変わらずすごい勢いで泣いているその女の子を見て、この子は何て悲しい声で泣くんだろうと思った。何だか僕まで悲しくなってくるようだった。
「ほら、これでも飲んで気を静めろよ」
僕は買ってきたジュースを彼女に差し出した。
「そんなのいらない」
彼女は僕の手を払いのけた。
「何だよ、せっかく買ってきてやったのに」
そのとき、この子は僕が何かをしてやっても駄目なんだ、家に帰してあげなきゃいけないんだと思った。
「お前、学校はどこなんだ? 家の住所が分んなかったら、お前の学校まで連れてってやるよ」
僕は彼女の前に今度はジュースではなく開いた手を差し出した。彼女はそれをぎゅっと掴んだ。細い手だったが、握る力は強かった。彼女の手を握ると、僕はきっと彼女を家まで送り届けられるだろうという自信がわいて来た。僕は彼女の体を持ち上げた。
彼女はずるずると鼻水をすすって、自分の小学校の名前を言った。僕の知っている学校だった。方角も大体の見当がついた。
「よし、それじゃ、付いて来るんだ。もうあんまり泣くなよな。知ってる道に来たら、言えよ」
僕は彼女を連れて、どんどん暗くなっていく町並みを歩いていった。彼女は握った僕の手を離さなかった。彼女の手には涙と鼻水がついていたけれど、そんなことは少しも気にならなかった。
1995
他の人がどうなのかは知りませんが、私は自分の身体が大人になることが恐くてたまりませんでした。クラスメイトたちが嬉しそうに胸が膨らんできたと話しているとき、私はいつもいたたまれない気持ちになっていました。
初潮を迎えた日のことを、いまでもはっきりと覚えています。中学一年の頃、明け方に下腹部の痛みで目が覚めると、下着が汚れていました。生理がきたのだということはすぐに分りました。私は下腹部に広がる鈍い痛みの中でのろのろと布団の上で立ち上がって、絶望的な気分になりました。母親を呼ぶことは出来ませんでした。誰にも知られたくなかったんです。私は下着とパジャマをビニールに包んで机の引き出しに詰め込み、新しい下着をはいて、その中にティッシュペーパーを沢山詰め込みました。そして痛みを堪えて何事もなかったような顔で母親に「おはよう」と挨拶をしたんです。
今考えると、それでどうにかなると思っていた自分が馬鹿みたいだけれど、そのときの私は真剣でした。決してこの秘密を誰にも知られてはいけないと思いました。
痛む腰を抑えながら外に出ると、その日は眩しいくらいにいい天気でした。太陽の光に照らされながら私は、あぁ、昨日までの私はもうここにはいないんだと思いました。朝なのに涙がこぼれました。
学校に着くと、クラスメイトたちが昨日とは違う私に昨日と同じように挨拶をしてくれました。当り前だけど、そのことが私にはとても不思議な気がしたんです。私はクラスメイトと会って挨拶をするたびに、この子はもう生理を迎えたのだろうか、この子はまだ生理が来てないに違いない、なんていちいち考えてしまいました。そして、男子たちはみんな、馬鹿みたいに子どもに見えたんです。
何だかいつもと違う、現実感のない朝でした。でも、私は表面的にはごく普通に振舞っていて、私が昨日と同じ私ではないことは、誰にも気づかれませんでした。
しかし、運の悪いことに、その日は朝礼でした。私は自分が最後までちゃんと朝礼を聞いていられるのか不安な気持ちでいっぱいになりながら、それでも校庭に出て行きました。校長先生の話を聞いていて、次第に頭がくらくらしてきたところまでは覚えています。何だか世界がゆっくりと歪んでいくみたいだなと思いました。
気がつくと周りのみんなに覗き込まれていました。私は校庭に倒れていました。最初、何があったのか分りませんでした。何でみんなは私を取り囲んでいるんだろうって思いました。起き上がろうと肩を上げましたが、身体に力が入らずに、また倒れてしまいました。周囲のどよめきが聞こえました。私はこのよく分らない状況から、一刻も早く逃れたいと思いました。そして、首を持ち上げると、私の少しまくれ上がったスカートから伸びた太腿に、赤い血が糸のように流れているのが見えたのです。
私は消えてしまいたいと思いました。
動くことも出来ません。泣くことも出来ません。目をつぶることも出来ませんでした。ただ大勢の生徒たちに見下ろされて、私が身体を動かすたびに、奇妙な歓声が起こったんです。地獄でした。 誰かの大きな声がしたと思ったら、ぐっと強い力で腕と脚を持ち上げられて、私は担架に乗せられました。私は保健室に運ばれました。保健室の先生は私の足についた血を拭いてくれて、替えの下着とナプキンをくれました。私は先生の生理についての説明を黙ってうつむいて聞いていました。だけど、頭の中ではただひたすら、恥ずかしい、恥ずかしいと繰り返していたんです。
その日は教室には帰れませんでした。気分が悪いと言って、そのまま早退をしました。涙を流したまま家に帰ったんだと思います。その頃は、まだ街中で泣いても平気なくらいに若かったんですね。
乗り換えの駅で階段を駆け上がっていくと、若い大学生風の男の人とぶつかってしまいました。彼は尻餅をついて倒れました。でも、混乱している私はそれを気づかうこともせずに、階段で尻餅をついた彼をただ睨みつけたんです。彼は一瞬不愉快な顔をしていましたが、私の目から涙が流れていることに気がつき、驚いた表情になりました。私は心配なんかされたくないと思い、階段に座り込んだ形になった男の人の肩をさらに突き飛ばして、そのまま一気に階段を駆け上がっていったのでした。
* * *
高校を出る頃には、死の恐怖に襲われることはなくなっていた。その代わり、なぜ生きているのかという問いに取り憑かれていた。浪人中、僕は勉強もせずにそんなことばかりを考えていた。
何のために勉強するのか。いい大学に入るため。何のためにいい大学に入るのか。いい会社に入るため。何のためにいい会社に入るのか。そうすれば、一生幸せに暮らせるから。それは本当なのだろうか? いい会社に入って得られる幸せって何なのか? ただ、来る日も来る日も満員電車にゆられて出勤して、上司の顔色をうかがいながら、一生窮屈な会社の中で終わるのか。そんなことをしたいために、今僕は勉強をしなければいけないのか。お前は一体何のために生まれてきたのか。
もちろん、今から考えれば、勉強をしたくないからそんなことを考えていたのかもしれない。勉強をしない言訳けを探していただけなのかもしれない。それに、もし僕に友達が大勢いたら、こんなことを考えずに毎日楽しく予備校帰りに遊んでいたかもしれない。もし僕が女の子に不自由しなかったら、こんなことを考えずに、毎日女の子といちゃいちゃしてたかもしれない。もし僕が勉強が大好きだったら、何の疑問も持たないで毎日受験勉強に熱中していたかもしれない。けれど、そのどれも現実の僕ではなく、僕には友達も彼女もおらず勉強も出来ないで、ただ予備校をサボって公園に寝そべりながら、自分がなぜ生きているかを考え続けていた。
親はちゃんと勉強をしていると思っていたので、僕はしっかりと毎朝家から出かけていった。午前中は予備校の授業に出ることも多かった。予備校では誰とも話さなかった。四月には知らないもの同士だった予備校のクラスも、瞬く間にそれぞれ仲良くなりグループが出来ていった。僕はそのどこにも入らなかった。入れなかったのかもしれない。僕は知らない人に笑って話しかける程度の勇気もないくらいに、プライドだけが高くて、人から傷つけられることを恐れていた。そして、こいつらは自分が何のために生きているのかなんて考えたことがないんだ、自分がいずれ死ぬ存在だなんて意識したことがないんだと思っていた。いつも教室の一番奥の角に座って、楽しそうに話している同年代の男女を眺めながら、僕は何でこんなところにいなければいけないんだろうと暗い気持ちになっていた。
騒がしい昼休みの一時間を予備校内で一人で過ごすことはさすがにできなかった。通っていた予備校の近くには大きな公園があった。僕は休み時間にはいつもこの公園のベンチに座って、近づいてくる鳩にパンをあげたり、寝そべって空を見上げたりして過ごしていた。受験勉強に意味がないと思いながら、もっと意味のない時間の使い方をしていた。
猫がよく来た。人に慣れていたので、飼い猫だったのかもしれない。ある猫はなぜかとても僕のことを気に入って、ベンチに座る僕の足元にまとわりついてきて、僕が油断するといつの間にか膝の上に乗っかって丸まって眠るのだった。その背中をゆっくりと撫でると、長く伸びた毛の下に華奢な骨ばった猫の身体を感じることが出来た。僕はこの猫の身体にも骨があり筋肉があり血液があり内臓があるんだと、不思議な感動を覚えた。僕の膝の上に乗っているのは、まさしく生命なのだ、僕とは別の生命なのだ。当り前のことだった。しかし、そのときの僕には驚くべきことだった。そして、猫が起きないからと勝手な理由で午後の授業をさぼったりしていた。
授業をさぼって間延びした午後の時間は、よく予備校の周りを散歩した。散歩が好きなのは子どもの頃から変わらなかった。散歩をしていると色々なことが思い浮かんだ。たとえば十年後の自分を想像した。十年後の三十近くなった自分は何をしているだろうか。十年後の自分は何のために生きているだろうか。十年後の自分は今よりも少しは生きることの意味を理解しているのだろうか。十年後の自分は死ぬことを恐れてはいないのだろうか。分らなかった。ひょっとすると、十年後の自分は、生きている意味は何かなんて問いは意味のないことだと笑い飛ばして、ただ漫然と毎日を過ごしているサラリーマンになっているかもしれないとも思った。そう考えると、たまらなく不安になった。生きる意味について何も考えない人間になることは、死ぬことと変わらないような気がした。
あてもなく住宅街を彷徨っていると、ある特別な感覚に襲われることがあった。その感覚はいつやってくるか分らなかった。ただ、雑念で頭を悩ませているときには、やってこなかった。僕はその感覚を体験するために彷徨っていたと言ってもいいかもしれなかった。その感覚を言葉で説明するのはとても難しい。色彩が解放される、とでも表現したらよいのだろうか。空の青、公園の緑、立ち並ぶ家の壁の色、行き交う人々の服の色、店舗の看板の色、目に入ってくるすべての色彩が、解き放たれたように鮮やかさを増していく。赤はあまりにも激しく、緑はどこまでも深く、青は抜けるように鮮やかに。それとともに僕の身体の中から何かが抜け出していく。僕の身体から抜け出した何かは外界の色彩と交じり合って、僕は外の世界と自分との境目を見失う。そんなときは立ち止まって、世界は何て美しいんだろうと思う。
しかし、その感覚は長続きはしない。すぐに消え去って、あたりはつまらない日常の風景になる。僕は完全に大人になってしまったら、もうこんな体験は出来ないんじゃないかと思う。今僕が感じることが出来るこのあまりにも美しい世界は、今しか感じることが出来ないんじゃないかと。
それから僕はカメラを買った。保存しなければならないと思った。今僕が見ている風景を永遠に保存しなければならない。そうしなければ、自分の生きていた意味がなくなってしまうように思えた。授業をさぼって東京の街を散歩しながら、僕は次から次へと写真を撮った。しかし、現像されて出てきた写真は、僕の目に見えていた美しい色彩の風景ではなく、何の変哲もないくすんだものだった。現像されたつまらない写真を見ながら、僕は同じ風景を見ても大人になったらこんなにつまらないものに見えるに違いないと思った。今のうちに何かをしなければならない。しかし、何をしたらいいかは分からないままだった。
これはちょうどその頃のことだと思う。散歩して疲れて電車で家に帰る途中だった。ぼんやりと乗り換えのために駅の階段を降りていくと、いきなり何かにぶつかって、僕は階段に尻餅をついた。突然のことで何が起こったか分からず見上げると、そこには痩せたセーラー服の女の子が立っていた。腹立たしい気持ちが湧いてきて、この不注意な少女に文句を言ってやろうとすると、ふと彼女の目に涙が流れているのに気がついた。彼女の表情は明らかに今ぶつかったから泣いたのではなく、ずっと泣き続けていた人のものだった。彼女は真っ赤な目でこちらを睨んでいた。それを見ると戦意が失せた。僕はどうしたらいいのか分からなくなった。次の瞬間、彼女は僕の肩を突き飛ばして、ものすごい勢いで階段を駆け上がっていった。僕は駅の階段で仰向けに倒れた。これじゃ、まるで僕が彼女に変なことをしたみたいじゃないかと思った。
帰りの電車の中で、僕はずっと涙で真っ赤に目を晴らした少女の顔を思い浮かべていた。彼女は生き生きと人生を生きているんだと思った。彼女に何があったのかは分からないけれど、それは単調で他の誰とも関係を持たない僕の毎日とはまったく違う、他人とふれあい喜びや悲しみが訪れる本物の人生なんだろうという気がした。僕は人生について考えながら、少しも人生を生きていないんだと気がついた。しかし、自分が彼女のような生き生きとした人生を生きられるとは思えなかった。きっと、僕はこのままずっと、目の前を通り過ぎていく自分の人生を、ただその横に立って眺めたまま失っていくだけなのだろうと思った。僕は一体、何をやっているんだろう?
2001
女とセックスしているときに感じるのは、その人間の存在の濃さのようなものだった。消えてしまいそうなくらい淡く薄い人もいれば、息が詰まりそうなくらいに深く濃い人もいた。そのときに僕が一緒だった女は、抱き合っていると抜け出せなくなるような恐怖を感じるほどに存在の濃い女だった。笑い方が下品だった。
繁華街の外れの安っぽいラブホテルだった。壁や天井のそこかしこが鏡になっていた。シャワーの出が悪かった。布団が湿っている気がした。しかし、安っぽいラブホテルは嫌いではなかった。その女は人妻で、何かあるとすぐ恋がしたいとしきりに言っていた。口紅の色がきつくて、ファッションセンスがどことなく狂っていた。その夜は飲みすぎて、一度居酒屋で吐いていた。安っぽい女だった。しかし、安っぽい女も嫌いではない気がした。
背後から女を突き上げていると、女の尻と僕の腰がぶつかってパンパンと音がする。その妙に乾いた音からは、何の愛情もエロスも感じられない。ただ肉と肉がぶつかっただけの物質的な音でしかない。僕はその音を聞くのが好きだった。その音を聞くと、世の中の色々なことがどうでもよくなる気がするからだった。仕事のことも、目の前の女のことも、自分のことさえも。僕は女を突き上げながら、その音に合わせて小声で「パン、パン」とつぶやくのだった。
セックスが済んで僕が仰向けにベッドの上に横になると、疲れた顔でペニス丸出しの自分が天井の鏡に映っていた。彼女がその上に乗っかってきた。
「やってるとき、一緒にパンパン言うの気になる」
「あぁ、何か癖なんだよね。それより、終電なくなるよ。帰らなくていいの?」
彼女はサイドテーブルの上の携帯で時間を確認してから、嬉しそうに笑う。
「もう無理。どうせ、帰すつもりなんてなかったくせに」
僕は天井に映った自分のしおれたペニスを見ながら、どうだったろうかと思い返す。彼女の言うとおりだったかもしれない。でも、終わったら早く一人になりたかったかもしれない。思い出せない。
彼女は僕の上に乗ったまま、こちらの乳首を舐めてくる。この女はまだセックスがしたいのだろうか。
「旦那は大丈夫なの?」
彼女は僕の脇腹をつく。
「なに旦那の話なんて、思い出させないでよ。あの人私になにも言えないから、全然平気なんだから」
「旦那は何してる人なの?」
嫌がっている風を見せてはいるが、彼女は自分の話がしたいんだろうと思った。
「旦那? 別に普通のつまんないサラリーマンだよ。白くてお腹出てて、豚みたいな人だよ。タカシよりもずっとおじさんだしね」
彼女自身は僕と同い年だと言っていたから、二十代半ばのはずだが、目尻の皺や乳房の感触からどう考えても三十は過ぎている気がした。でも、それもどうでもよかった。
「僕だってつまんないサラリーマンだよ」
彼女は僕の乳首を舐めるのをやめて言う。
「タカシは違うよ。タカシはこれからもっともっといい男になるよ。いい男にならなきゃダメなんだよ」
彼女は笑みを浮かべた。いやらしい笑い方だった。彼女は僕の頭を撫でた。僕は自分がずぶずぶとベッドの中に沈み込んでいくような気がした。
新卒で今の会社に入って一年が過ぎた。毎日は恐ろしいスピードで流れていった。大学時代には人生や芸術について偉そうな口を叩いていたが、就職すると仕事以外に何もする気が起きなくなった。人に頭を下げることにも慣れていった。かつてあれだけ僕の頭を支配していた自分はなぜ生きているのかという問いはたまに思い出すだけになった。しかし、たまに思い出すと自分がそれを忘れていたことに恐ろしくなった。このまま死を恐れた少年時代や人生の意味を求めた思春期を忘れ、ただ刻一刻と過ぎていく時間の中で老いていく。そして気がついたときにはもう取り返しのつかないくらいにあの頃の自分から遥か遠くに来てしまう。もうかつての気持ちなど思い出せないくらいに果てしなく遠くに。
「そうだ、写真撮ってくれるっていったじゃん、カメラ持ってきてくれた?」
彼女は思い出したように寝ている僕の肩を揺すった。
「ちゃんと持ってきてるよ」
僕はベッドから立ち上がって、バスタオルを腰に巻き、仕事用の黒いショルダーバックを手に取った。中から大学時代に使っていた小さめの一眼レフカメラを取り出した。
「おぉ、見せて見せて」
彼女に手渡すと、わざとらしく少女のような驚いた振る舞いで、あちこちボタンを押したりひっくり返したりしていた。僕は彼女からカメラを受け取ると、ベッドに横たわったままの彼女にファインダーを向けた。彼女は慌てて毛布を体にひきよせた。
「え、もう撮るの、どんなポーズとったらいいの?」
カメラ部に所属してはいたが、撮っていたのは街の風景ばかりで、人物は殆んど撮ったことがなかった。
「好きな恰好でいいよ」
「そんなこと言われたら、困っちゃうじゃない」
そう言いながら彼女は胸の谷間を作るために腕を前に寄せて、毛布を引き下げた。そして、いやらしい笑みを浮かべた。僕は彼女の毛布を引き剥がし、続けざまにカメラのシャッターを切った。アングルも露出もまるで考えずに、ただ女の裸をとり続けた。彼女の顔は紅潮し、自分から股を広げてオナニーをするようなポーズを取ったりした。こんな写真を撮るために、大学生のときアルバイトをしてこのカメラを買ったのではなかったはずだった。
「私、中学の頃、よく同じクラスの子を校舎の裏に呼び出して、裸にして写真撮ってたのよねぇ。おしっこさせたりして」
彼女はわざとらしい笑顔でポーズをとったまま思い出話を始めた。
「何人かで周りを囲んで、脱げって脅しつけると、みんな泣き出しちゃうのよね。男の子でもそうなの」
この女の言っていることは本当なのだろうか。僕はシャッターを切り続けながら、適当な相槌を打っていた。
「でも、男って馬鹿だから、そんなときでも勃っちゃったりしてんの。おっかしいでしょ」
彼女は乾いた笑い声をあげた。この女は底がしれないと思った。このまま関わり続けていたら、べっとりとからみつかれて抜け出せなくなる。しかし、僕は彼女に性器を指で開かせて局部のアップを撮りながら、自分はもうすでにどうしようもないと思った。救いようがない。少年時代の僕が見たら、死ねと言うだろう。しかし、こうした救いようもない時間があるために、僕は毎日退屈な仕事を繰り返し、つまらない上司や先輩たちに頭を下げていられるのだという気もした。
「ねぇ、入れてるとこ撮ってよ。ほら、タカシも早く脱いでよ」
彼女は僕のバスタオルをひっぱった。僕はカメラをベッドの上に放り、彼女の上に圧し掛かった。セックスは色んなことを忘れさせてくれる。何より、自分が死ぬ存在だということを、そして自分が死ぬ存在だということを忘れて生きているということを。
コンドームが足りなくなった。僕がコンビニに買いに行くというと、彼女は「そんなにまだしたいの?」と馬鹿にした声を出して、膨らんだままの僕の股間を足の指でつついた。僕はお前だってしたいんだろうと思った。
彼女を部屋に残して外へ出て、エレベーターに乗って一階を押す。狭くて汚いエレベーターだった。動き出すとき、いやに大きな音がした。僕は壁に寄りかかって、何となくため息をついた。僕が乗った階は六階だった。エレベーターは三階でガタンと音を立てて止まった。他の客と出くわすのかと思うといい気分ではなかった。男一人でいる自分を見てカップルがお互いに顔を見合すイメージが頭に浮かび、それだけで不愉快になった。
しかし、乗ってきたのは女が一人だった。まだ、二十歳くらいの若い女だった。デリヘル嬢なのかと思ったが、服装や荷物からそうではないようだった。痩せた背の高い女だった。顔を見ると、不自然に強張った表情をして蒼白だった。目を大きく見開いていた。眼球は赤く充血していた。僕は泣きそうなのだと思った。まるで満杯に水を張ったコップのようだった。彼女を少しでも揺らしたら、涙が零れ落ちてしまうのだろう。この若い女の子に今夜何があったんだろう。僕の視線を感じた彼女はギロリとこちらを睨んだ。
エレベーターが一階に着くと、彼女は駆け出していった。
ラブホテルを出ようとすると、受付の人に止められた。受付の人は僕のいた部屋に電話して、あの人妻が出るのを確認してから、やっと外に出させてもらえた。
* * *
たった数年前は性に目覚めることを恐れていたのに、大学生になると毎週のように彼氏にラブホテルで抱かれていました。二人とも学生だったので、いつも安くて汚いホテルでしたが、そんなことは全然気になりませんでした。たとえどんなところだろうが彼とわいわい騒いでいるだけで幸せでした。
彼は大学の二つ上の先輩で、最初に会ったときは子どものようで可愛らしいという印象でした。嬉しいときにはすごく嬉しそうな顔をして、嫌なときにはすごく嫌そうな顔をすることが出来る人でした。私にはそれが出来なかったので、彼のことが羨ましかったんです。
最初、彼には私以外の彼女がいました。彼は彼女がいるんだと言いながらも、私をデートに誘い二人で会い続けました。そして、酔っ払ってとろんとした顔で、「あいつといるときよりも、お前といるときの方が楽しいんだよ」と言ってくれるんです。そんなとき、私は身体がかっと熱くなり、うつむいてしまうのでした。
やがて私は彼とキスをして、セックスをして、彼は彼女と別れました。私はもう私たちの前には何の障害もなくなったと思いました。付き合った当初はすべてが楽しくて、彼に不満なんて一つもありませんでした。このままずっと幸せな時間が続くような気がしていました。
彼のすることにはいつも驚かされました。夜中の十二時にいきなりメールが来て、「今から会いたい」と言ってきたりするんです。浅はかな私はそんなことを言われて、自分がとても必要とされたような気がして、終電とタクシーを乗り継いで彼のもとに行くのでした。そんなとき彼は、夜の駅前で私を見つけると、人目も気にせずに抱き締めてきて、とびきり甘い声で「会いたかった」って言うんです。別れるときはもう会えないんじゃないかって思うほど淋しそうな顔をして、何度も私を抱き締めて、「お前を小さくして鞄に入れて持って帰りたい」なんて言うのでした。そう言われると私はもう全身がとろけて、すっかり彼のものになってしまうのでした。
しかし、そんな彼に対して私が初めて疑問を持ったのは、私と会っていて、彼の母親から電話が来たときでした。いつもと同じような明るい口調で私と話していた彼は、携帯を取ると急に「何だよ、そんなことで電話してくるんじゃねぇよ」と怒鳴って、電話を切ったのです。私は何も言えませんでした。私の知らない彼を見て、恐ろしくなりました。
でも思い返してみれば、その前後から、私との間でも少しずつすれ違いが始まっていたのかもしれません。デートの約束の時間に現れないので電話をしたら家で寝ていたり、一緒に観ようって言っていた映画を先に観てしまったり、そんなことが続きました。それに対して私が怒ると、彼は最初はごめんごめんって謝ります。それでも私が腹を立てていると、逆に向こうが怒ってしまって「そんなこというなら、もうお前とは会わないからな」とその場を立ち去ってしまうんです。
そんなとき、私はどうしていいか分かりません。彼とは仲直りしたいけれど、謝りたくはない。第一、私が悪いんじゃない。でも、本当に彼が私と会わなくなってしまうとは思っていませんでした。それは、喧嘩した後のセックスはいつもよりもずっと激しくて心がこもっているように感じるからでした。
その日の夜も彼と一緒に狭くて汚いラブホテルに泊まっていました。私からしてみたら、唐突なことでした。でも、後になって考えてみれば、前から分かっていたはずのことだったのかもしれません。彼は一ヶ月くらい前から様子がおかしかったんです。毎週のように会っていたのが二週間に一回になったり、メールの返事がなかなか来なかったり、私が旅行の計画を立てようとすると、何かしら言訳を作って延期させたり。もちろん私は心配していました。彼は何か怒っているんじゃないかと思いました。でも、なにも言わずに私を避ける彼の態度が大人気ない気がして腹立たしくもありました。
しかし、そうした心配は彼に抱かれるとすぐに消えていったんです。その日のセックスはいつも以上に深く心が通じたもののような気がしたのでした。彼も私も激しくお互いを求めました。私はこのまま彼を食べて自分のものにしてしまいたいと思いました。
セックスが済むと、彼はシャワーを浴びに行きました。私はしばらく放心したように余韻に浸っていました。
彼はバスルームから戻ってくると、ベッドには座らずに下着姿で窓際の椅子に腰掛けてタバコに火をつけました。私はセックスの後でもないと恥ずかしくて出せないような甘えた声で、うやむやになっている旅行の計画を持ち出して「連れてってよぉ」とねだりました。
しかし、彼は黙ってうつむいて何も言いません。私はおかしいなと思って、少し素に戻り、何となくシーツを引っ張って裸の身体に巻きました。
「あのさ、悪いんだけど、別れてくれないかな」
何が起こったのか分かりませんでした。
「お前が悪いわけじゃないんだよね。でも、俺、他に付き合い始めた人がいてさ。悪いな」
何が何だか分りませんでした。彼が突然違う国の言葉を話し出したみたいでした。
「え、なに、なに言ってるの」
彼はそれ以上説明しませんでした。そのまましばらく黙ってタバコを吸い続けました。
「相手はどんな人なの」
彼は少し沈黙してから答えました。
「お前には色々と感謝してるよ。でも、もうお前には関係のないことだよ」
私は枕を持って立ち上がると、それで彼の頭を引っぱたきました。格好つけてタバコを吸っていた彼は頭を抑えてしゃがみ込みました。
「何で、何で、何でやってからそういうことをいうのよ、何で最初から言わないで、あんなに優しく私のこと抱いてからそういうこというのよ、今さらそんなこと言われたって、私、私、」
彼を枕で叩きながら、私は言葉につまってしまいました。そして、私はそのまま彼の上にしゃがみ込んで抱きついて、泣いてしまいたかったんです。でも、それはしてはいけないと思いました。私は枕を投げ出すと、私の前で頭を抑えてしゃがみ込んでいる彼の脇腹を蹴っ飛ばすと、下着もつけずに服を着て、自分荷物を手提げ鞄の中に押し込むと、部屋を出ました。ドアを閉めるとき、一度振り返って部屋の中の彼を見ると、彼は床に座ったままで、こちらを見ようともしませんでした。
悔しさと悲しさと恐ろしさと色んな気持ちが入り混じって、自分がどうなってしまったのか分りませんでした。でも、このホテルを出るまでは泣いてはいけないと思いました。
ラブホテルの廊下でエレベーターが来るのを待ちながら立ち尽くしていると、壁の薄い他の部屋の中から女の笑い声や喘ぎ声が聞こえてきました。ほんの二十分前には私も彼女たちと同じように彼に抱かれて喘いでいたんだ、彼から愛されていると信じて有頂天な気分だったんだ、そう思うと、浮かれていた自分が恥ずかしくてたまりませんでした。私が大事にしているものはみんななくなってしまうんだということを思い出しました。
エレベーターが開いたら、すぐに中の壁に倒れ掛かるつもりでした。しかし、やってきたエレベーターには男の人が一人、退屈そうな顔をして乗っていました。私はまるで自分一人ための場所がその人に奪われたような気がしました。私は泣き崩れそうな自分を必死で抑えて、エレベーターの中に乗り込みました。今思えば、よっぽど私が変な顔をしていたのかもしれないのですけれど、乗っていた男は奇妙な顔でこちらをじろじろと見てきたんです。私は彼を睨みました。お前なんかに私の何が分ると思いました。
エレベーターが開くと同時に、私は飛び出しました。ホテルの自動ドアが開くのももどかしく、私は夜の街へと駆け出していきました。
2006
その温泉街についたのは、もう夕方でした。電車の窓から降りしきる雪を見てきたので、私は年甲斐もなく早く雪に触りたくて仕方ありませんでした。改札を出るとすぐに私は積もっている雪の方に駆け寄って雪玉を作り、振り返って彼にぶつけました。彼はしょうがないなこいつはという表情で苦笑して、軽く私を小突いて、迎えに来ているはずの旅館のバスを探しにロータリーへ歩いていきました。彼はとてもいい人でした。けれど、こんなとき一緒に馬鹿になってはしゃいでくれないので、私が一人で子どものようになってしまい、ちょっと淋しいのでした。
その頃は私ももう社会人でした。彼とは合コンで知り合いました。その合コン自体は全然つまらなかったけれど、彼は優しくて誠実で好感の持てる人でした。学生時代に付き合っていた人とは違って、急に呼び出してくることもないし、日によって全然態度が違うということもありませんでした。安心できる関係というのはこういうことなんだろうと初めて分りました。新しい彼と付き合い始めて、自分が以前の彼にいかに振り回されていたかを知ったのです。
送迎バスに乗って、私たちは温泉街の外れにある旅館までたどり着きました。ネットで写真を見たときよりも、大きくて立派な建物でした。部屋に入ると、彼は荷物を片付けて、お茶を入れてくれました。そして、「いい旅館だねぇ」と笑顔で言いました。前の彼だったら、旅館の部屋に入って仲居さんがいなくなったら、とたんに私を抱き寄せて窒息しそうなくらいにキスを浴びせてきたでしょう。いったん火がついたら明るくったって何だって、私たちは愛し合ったでしょう。でも、今度の彼はそんなことはしないのです。いつも通りに普通の顔で私と話して、キスやセックスは夜になってからなのです。それが普通なのかもしれないなとも思っていました。いつまでも、その場の感情に振り回された生活をしていても仕方ないとも分っていました。ただ、やっぱりどこかで淋しいと感じるのも確かなのでした。
部屋の奥の窓際に置かれた椅子に腰掛けると、ちょうど窓の外に川が見えました。川辺には雪が積もっていました。日は落ちて空は暗くなり、川辺の雪は温泉街から差してくるオレンジ色の電灯に照らされて、光り輝いていました。
彼は「タバコを買ってくるね」と言って部屋を出て行きました。私は彼の入れてくれたお茶を飲みながら、窓辺の景色を眺め続けていました。
そして、彼とこのまま添い遂げることはないだろうと思うのでした。
この日に初めてそう思ったわけではありません。彼のことは好きだし、私にはむしろ出来すぎているくらいの人だけれど、このまま彼と一生を過ごすことは想像できないのでした。
学生時代の彼のことを忘れられないというのではありません。もう二十代半ばになってまで、あんな人とは付き合いたくはありません。ただ、前の彼の経験のせいなのか、もっと前から私にあったものなのかは分りませんが、物足りないのです。男女の仲にはもっと何かあるだろうという気がしてしまうのです。私にはもっと深く愛し合える人がいるのではないかと思えてしまうのです。私はきっと諦められない人間なのでしょう。この先に何かがあると思い続けてしまうのです。
窓を開けると、一気に冷たい空気が入り込んできました。まるで、寝惚けたことを言っている私を目覚めさせようとしているかのようでした。そんなこと言っていると婚期を逃すよとでも言われているかのようでした。しかし、私の心はそんなに簡単には変えられないのです。
彼が戻ってきて、食事をする前にお風呂に入ろうという話になりました。彼はにこにこして浴衣を私に渡してくれました。そして、「旅行すると、ずっと一緒にいれるからいいね」と言いました。
温泉はとても広くて、女湯にも大浴場と露天風呂とサウナがついていました。食事前に入ったのが正解だったらしく、私を入れて二、三人しかいませんでした。私はろくに身体も洗わないで露天風呂に浸かって夜空を見ながら、やっぱり彼は結婚したがってるんだろうなぁと思いました。私はいつどうやって、彼とは結婚出来ないことを切り出したらいいんだろう。結婚するつもりがないのなら、このまま彼と付き合っていていいのだろうか。
思い出されてくるのは、やっぱり前の彼のことでした。あの人はどんな気持ちで私に別れを告げたのだろう。どうしてあのタイミングで言ったのだろう。
そのとき、私はあの人の情けなさ、未練がましさがはっきりと分ったような気がしました。あの人も私のことを、何だか惜しいような気がしていた。そのことが、あのときは身体だけ利用されたようで悔しかったけれど、自分が誰かに別れを切り出さなければいけない立場になって、彼の弱さとして受け容れられたのでした。あの人は別れ方のとても下手な人だったと分ったのです。
そして、私はしっかりと別れをしなくてはいけないと思いました。ちゃんと話し合って、別れることにしようと心に決めたのでした。
浴衣に着替えて温泉から上がると、彼は待っていませんでした。男なのに長風呂なんだなと思いつつ、私は浴場の入口の前に置かれていたベンチに腰をかけました。汗が吹き出てきました。私は荷物からバスタオルを出して顔を拭きました。
大浴場と書かれた暖簾のすぐ隣に自販機がありました。暖簾を分けて二十代後半くらいの男性が現れて、その自販機で清涼飲料を買って、その場で開けてぐびぐびと音を立てて飲みました。それがあまりにも美味しそうな音だったので、私も何か飲みたくなりました。立ち上がって自販機の前に立ってしばらく考えて、ヘルシーに緑茶にすることにしました。荷物の中に手を入れると、お財布がないことに気がつきました。浴衣の袂とか、はいてきたズボンのポケットとかを探してみましたがありません。でも、すぐにもともと部屋から財布を持ってこなかったことを思い出しました。
「何、財布なくしたの?」
急に話しかけられて驚きました。清涼飲料を飲んでいた男の人でした。私はどぎまぎしながら、
「いや、部屋に忘れちゃったみたいで」
と答えました。彼はちょっと私の顔を見てから、自分の財布を取り出すと、自販機にお金を入れました。
「いいよ、好きなの買いなよ」
私があっけにとられて立ち尽くしていると、彼は首を振りました。
「あぁ、心配しないで。ナンパとかじゃないから。ただ何となく喉渇いてるのに可哀想だなと思っただけだから」
私は緑茶を押しました。彼は笑ってその場を去っていきました。 そんな彼の後姿を見ながら、どこかで見たことがある顔だと思いました。でも、どこで見たのかは思い出せませんでした。
「あれ、お金持ってきてたんだ」
暖簾をかき上げて、今度は私の彼が出てきました。私が緑茶を飲んでいるのを見て不思議そうな顔をしました。私は笑って「知らない人に奢ってもらっちゃった」と言いました。
* * *
そこへ行ったのは一人でゆっくりと考えるためだった。静かな温泉街は感傷的な気分にひたってこれまでを振り返るにはちょうどよかった。一人で考えると言っても、これからするべきことは決まっていた。ただ、休み明けに会社を辞めますと上司に言えばいいだけだった。たったそれだけのことのために、わざわざ東北の温泉街まで来てしまう自分があまりにも気が小さく感傷的で馬鹿馬鹿しくもあった。
おそらくきっかけは一年前、街で偶然、大学時代の知り合いと会ったことだった。デパートで買い物をしていてたまたますれ違った。それほど仲がよかったわけでもない。急いでいたら話しかけなかっただろう。しかし、そのときは何となく退屈をしていた。彼は僕と同じく大学で写真を撮っていた。所属しているサークルは違ったが、写真サークルの集りや、学園祭の合同作品展などで顔を合わせていた。個性的な人間が多かった文化系サークルの中で、あまり目立たないごく普通の男だった。
僕に話しかけられた彼は驚いた顔をしたが、すぐに社交的な笑顔になり、「今何してんだ?」と聞いてきた。僕が文房具の営業だと答えると、少し眉をひそめて「そっか、写真やめちゃったんだな、残念だな」と言った。僕は驚いた。
「え、それじゃ、お前は何してるんだ?」
「あぁ、カメラマンのアシスタントだよ。自分で撮ることもあるけど、まぁ、まだ全然なんだけどな」
正直なところ、僕や友人たちは彼のことを馬鹿にしているところがあった。彼の作品はどれもありきたりで通俗的なものに見えたし、彼の語る人生観も安っぽいテレビドラマのようでつまらなかったからだった。
学生の頃は彼よりも自分の方が才能があると確信していた。しかし、彼は写真を撮り続け、そこで仕事を見つけた。僕はいつの間にかついていた彼との差に愕然とした。
それでも、そんな動揺を隠して、今でも写真を撮り続ける彼の努力をたたえた。彼はとても素直に喜んで笑った。彼がアシスタントについているのは、学生時代に彼がしきりに話していた有名な写真家だった。大学を卒業してからしばらくはフリーターをしながら何とか近づく手を探し、ようやく三年前にアシスタントになることが出来たのだという。
僕と彼はしばらく立ち話をして、それから喫茶店でまた話し、その後で酒を飲んで終電で別れた。
僕はとても単純に自分のやりたいことを求め続けた彼の話に胸を打たれていた。やはり彼の言うことは相変わらずありきたりで通俗的だったが、それでも彼は行動が出来る男だった。それに引きかえ、僕は大学を出てこの五年間、やりたくもない営業の仕事を続けて、一体何を守ってきたのだろうか。周りの同僚たちを馬鹿にして、週末に写真展や美術展に通って何でも分ったような偉そうな批評をしながら、実際の自分はなにもしていなかった。好きでもない女を抱きながら、人生は下らないと思っていた。下らないのは僕だった。なぜ僕はやりたいことをやろうとしなかったんだろう。
露天風呂につかって夜空を見上げると、これまでの様々なことが思い出されてくる。かつてのことも、最近のことも、混ざり合うように次から次へと浮かび上がり、そして湯気とともに空に立ち上って消えていく。このままどんどん過去が抜けていって、空っぽになったら、僕はまた一から人生をやり直せるかもしれないと思う。
街で彼と話してからしばらくして、僕の心の中に死の恐怖が蘇った。それはもうずっと忘れていた感覚だった。自分がいつか死ぬということ、死んだら何一つなくなってしまうということ。死の恐怖は僕を焦らせた。いつか死んでしまうのに、僕は一体何をやっているんだ。その恐怖は子どもの頃のように激しいものではなかったが、じわじわと僕を責め立てた。お前はどうせ死ぬんだ。お前はこのまま無駄な人生を送り続け、そして死ぬんだ。
一年後、僕は会社をやめることにした。その街で会った彼の知り合いの写真家が講師をしている専門学校への入学を勧められた。僕の決断に親は反対した。母親は何を今さらそんな夢みたいなことを言っているんだと怒った。父親はむっつりと不機嫌そうな顔をした。僕も何も言わずに黙っていた。しかし、一度決めたことを変えるつもりはなかった。後は会社にそれを伝えるだけだった。
たとえば会社を辞めて、もう一度写真の勉強を始めたとしても、僕が死ななくなるわけではない。僕が何をしていようが、僕は結局死ぬ。何も思い出せなくなり、何も考えられなくなり、何も感じられなくなってしまう。しかし、それでもやはり僕はやりたいことをやらなければならないのだと思った。
甘いのかもしれない。湯船を出て頭を洗いながら思う。ただ、仕事がつらいから嫌になって、逃げたがっているだけかもしれない。そう考えると、本当に写真がやりたいかどうかも分からなくなってくる。三十近くなって、やりたいことをやらなきゃいけないとか、人生の意味が分からないとか、そんなことを考えているのは全然話にならない甘ったれで、もっと現実の自分を見つめて、地に足つけて働かなきゃいけないのかもしれない。僕がこんな甘ったれたことを言っていられるのは、結局、本当に困ったらまだ親が助けてくれるだろうと心のどこかで思っているからなのかもしれない。
そう考えると、上司にどんなふうに切り出したらいいのかということ、他の営業マンに担当部署を引き継いでもらわなければいけないこと、世話になった先輩たちにどんな顔をしたらいいのかということ、これからもずっと担当しますと愛想を言って回った得意先の人たちのこと、そして、仕事を辞めると話したときの親たちの表情などが次々に頭に浮かんできた。あぁ、もう、そんなものは全部お湯をかけて流してしまおう。どんどんお湯をかぶって、すっかりシャンプーの泡と一緒に流れて行ってしまえ。
温泉から上がると、何となく気分的に落ち着いていた。何とかなるような気がしていた。身体から色々なものが出て行ったらしく、やたらにのどが渇いた。僕は自販機で清涼飲料を買うと、それを一気に喉に流し込んだ。
ふと横を見ると、浴衣姿の女が自販機の前でしきりに荷物をあさっている。お金がないんだなと思う。
「何、財布なくしたの?」
自然と話しかけていた。やはり、旅行に来て気が大きくなっていたんだろう。彼女は驚いた顔をした。
「いや、部屋に忘れちゃったみたいで」
彼女は少しどぎまぎしてから答えた。浴衣の上からでも、彼女がとても華奢な身体をしていることが分った。まるで少年のような身体だなと思った。僕は自販機に金を入れた。
「いいよ、好きなの買いなよ」
そう言ってから、自分が妙に格好つけて、やらしいことしてると気がついて恥ずかしくなってきた。
「あぁ、心配しないで。ナンパとかじゃないから。ただ何となく喉渇いてるのに可哀想だなと思っただけだから」
彼女は僕を不審そうな顔で見たが、結局、緑茶のボタンを押した。それを見て、ほっとした僕は、仕方なく何だか中途半端な笑みを浮かべて、その場を立ち去った。
2010
近くで新築の住宅を撮影する仕事があり、その日は実家に久しぶりに帰ることにした。最寄り駅の商店街を歩くと、ほんの数年の間でも、店の並びがかなり変わっているのが分った。少し遠回りして自分の生まれた町を散歩してみたくなった。
仕事を辞めるのは僕の中ではかなりの勇気がいることだったが、専門学校に入ってみると、半分くらいは僕と同じように社会人経験者だった。皆様々な経験をしてきていて、自分が特別なわけではないことを知った。一度社会人をやってから再び経験する毎日の授業は楽しくて仕方ないものだった。人から知らないことを教わる喜びを初めて知ったような気がした。大学時代は先輩から教わって、後は適当に本などで調べて、見よう見まねで写真を撮っていたせいで、実は随分間違ったことや無駄なことをしていたと分かった。実際に撮った写真を先生に見てもらい批評されることは、大学時代にエセ芸術家だった僕にはプライドを傷つけられる悔しい時間でもあったけれど、実りの多い経験だった。ある一つの技術を身につけるのには、それを習得した人に教わるのに勝る方法はないということを改めて実感した。
二年はあっという間に過ぎた。僕は運よく教わっていた講師の紹介で、その学校の先輩が立ち上げた会社の手伝いの仕事にありついた。もちろん、そんなにすごい仕事ではない。不動産のチラシの写真やら、商店の宣伝の写真やら日常的な広告のための写真を撮ることが主であった。それでも、以前の営業の仕事と比べ格段に面白かった。たとえ決められたごく小さな範囲のものでも、自分が何かを造っているんだと感じることが必要だったのだと思った。そして、自分で撮った写真が印刷されて出回るということが、とても嬉しかった。
実家のそばの町並みを歩いていると、子どもの頃のことを思い出す。子どもの頃もよくこうやって何の目的もなく住宅街を彷徨っていた。あの頃の僕が見ていた風景と、今の僕が見ている風景は同じものなのだろうか。思い出せなかった。完全にそうだとは言えないけれど、そうではないとも言い切れなかった。風景は昔ほど親しげに僕に話しかけては来ないが、それでも僕が静かに耳を傾ければ、当時と変わらない言葉で話してくれる気がした。
予備校時代、僕は自分が見ている世界の美しさを保存するためにカメラを買った。あの時は今の自分が見ている世界は大人になったら見ることが出来ないものだと思っていた。確かに十代後半に見ていたような恐ろしいほどに鮮やかな世界はもうあまり感じられない。しかし、だからと言って、世界が美しさを失ったわけではなかった。大人は忙しさのために気づかなくなっているだけで、ただゆっくりとした気持ちで見回せば、日常の風景は以前と変わらずに様々な世界の美しさを教えてくれるのだろう。多分、僕はそのことを写真によって他の人々に伝えていくべきなんだと思う。
それでは、今の仕事に完全に満足ですっかり人生の意味が見つかってしまったのかと言うと、そうではなかった。確かに以前の営業の仕事と比べて格段に面白かったし、給料は安いけれど、待遇に不満もなかった。仕事は型通りのものが多かったが、まだ働き出したばかりなので仕方ないとも思っていた。ゆくゆくはもう少し自由度の高い仕事も回ってくるだろう。そして、もし仕事内容が不満なら、今の職場を辞めて他で仕事を探せばいい。そう思えることが専門職の強みの一つだろう。このままで大丈夫かもしれないと思う。このまま今の仕事を続け、そして少しずつカメラの腕を磨いていき、もう少し生活が安定してきたら結婚でもして、子どもには沢山、写真や絵を見せて、音楽を聴かせて、それで案外悪くない人生なんじゃないかと。でも、どこかで何かが足りなかった。最も肝心な真ん中の部分で何かが足りなかった。何が足りないのかは、自分でもよく分らなかった。そして、その答えが本当にあるのかどうかも分らなかった。
子どもの頃に彷徨っていた近所の町を歩きながら、昔の自分から見て、今の自分はどんな風にうつるだろうかと思う。今の自分は昔の自分に胸を張っていられるだろうか。僕はこの三十年ちょっとの間、生きる価値のある人生を生きてこられたのだろうか。生きていてよかったよと昔の自分に言えるだろうか。
子どもの頃は大人になれば、もっと色々なことが分ると思っていた。確かに色々なことを知った。しかし、その多くはとても表面的なことで、人生についてや自分自身について、本質的なところでは、少しも分るようになっていない。子どもの頃の僕も三十過ぎの僕も、自分が本当に何をしたいのか、何をするべきなのかについて、同じように何も知らないのだった。
ただ、分かっていることが二つだけあった。一つ目は、もし僕が足りない何かを探そうとするなら、この理解し難い世界に挑んでいきたいと思うなら、僕には写真を撮り続けるという手段しかないのだということだった。二つ目は、ここで人生の意味を手放さないのなら、あくまでも自分が何を求めているのかを探ろうとするのなら、僕は一生独りだということだった。実際に独りかどうかは分からない。家族を持つかもしれないし、仲間もいるかもしれない。でも、心の中はずっと独りで居続けるに違いないのだった。
そのときは、それも悪くはないと言う気がした。子どもの頃、道に迷うのが恐くなかった。わざと独りで知らない道に迷い込んでいった。今もまた、あの頃のような軽やかな心でいたいと思った。ただ独り、静かにゆっくりと、鼻歌でも歌いながら、知らない道に入っていける人でありたいと。
僕は鞄からカメラを取り出した。学生の頃に買ったものではなく、専門学校時代に買ったデジタルカメラだった。今の風景を切り取っておこうと思った。僕は夜の住宅街でシャッターを切り続けた。今なら、自分の見ていた風景と自分の撮った写真のギャップに失望した浪人時代よりは、少しはマシな写真が撮れるだろうか。
夢中になって写真を撮りながら、どのくらい歩きまわったのだろうか。気がつくと、時計の針は十時を過ぎていた。慌てて携帯を見ると、母親から「今日、帰るって言ってたじゃない。来ないの?」とメールが入っていた。あらためて辺りを見回すと、見たことがある景色ではあったが、どうやれば最短で実家に帰れるかは分からなかった。「ごめん、仕事が長引いた。もうすぐ帰る」と返信をして、僕はまた歩き出した。大体の方角なら想像がついた。
街灯の下で女がうずくまっていた。以前にもこんな場面に出会ったことがあるような気がした。僕は彼女に近づいていった。彼女はしゃがんでうつむいていたが、泣いているわけではないようだった。彼女は僕の影に気がつくと顔を上げた。スーツ姿の痩せた女だった。
「どうしたんだよ」
彼女は答えなかったが、顔を上げて大きく目を開いてこちらを見据えてきた。長く真っ黒い髪をした、猫のように目の大きな女だった。僕はどうしてよいか分からなくなった。
「困ったな。酔ってるのか?」
僕は何か水でも飲ませようと思い、彼女を置いて自動販売機を探しに行った。自動販売機はすぐに見つかった。ミネラルウォーターを買って帰るとき、彼女を置き去りにしたことを少し後悔した。彼女はあのままあそこで待っているだろうか。
彼女は同じ場所で待っていた。相変わらずしゃがんでいる彼女を見て、酔っているのではなく、何かあったのかもしれないと思った。
「ほら、これでも飲んで気を静めろよ」
僕は買ってきたミネラルウォーターを彼女に差し出した。彼女は黙ってそれを受け取った。そして、ミネラルウォーターのラベルをじっと見つめていた。
僕は彼女の前に今度はミネラルウォーターではなく開いた手を差し出した。彼女はそれをぎゅっと掴んだ。細い手だったが、握る力は強かった。なぜだろうか、彼女の手を握ると、そこから懐かしい感覚が辺り一面に溢れ出してきた。
* * *
いつの間にか会社の中で中堅と言われるようになっていました。三十歳が目前になって同年代の女性たちが結婚して退職していき、気がついたら若手の女性社員をまとめる役を任されることが多くなりました。 自分でこんなことを言うのはおかしいですが、私は任された仕事はしっかりとやってきたと思います。周りを驚かせるような大きな成果をあげたことはなかったけれど、そのかわり大きなミスもなく、地道に得意先を回ってきました。仕事中に手を抜いたりもしませんでした。
彼に別れを告げた日の帰り道、自分からあの人を傷つけてしまった私は、もう一生独りだったとしても誰にも文句は言えないのだと思ったのです。独りでいようと思ったわけではありません。でも、自分は一生独りでも仕方のない人間だと思ったのです。だから、独りで生きていけるようにならなければいけないと。おそらく、それから私は以前よりもきちんとした人間になったんだと思います。仕事もしっかりとするようになっていったのでしょう。もしかしたら、そんな私の几帳面な仕事ぶりは、とても真面目な人だった別れた彼からの、最後の贈り物だったのかもしれません。
その日の夕方、以前の得意先から私に電話がかかってきました。その会社の担当は半年前に二年目の後輩に譲ったので、もう私ではなかったのですが、先方はそれからもよく私宛に電話をしてきました。電話に出ると、用件は先週話した商品の見積り書がまだ届いていないということでした。私は至急確認しますと言って電話を切り、後を引き継いだササキさんの携帯に電話をしたのですが、つながりませんでした。以前担当していた会社だったので、私は自分の判断で見積り書を作って急いでFAXを出しました。折り返し先方から電話があり、上司の確認を取ってみるけれど、この金額なら採用になりそうだと言ってくれました。
外回りからササキさんが帰ってくると、私はすぐに見積り書の件を伝えました。すると、ササキさんは私が勝手に金額を決めてしまったことに不満そうでした。
「今日、会社に戻ったら出すつもりだったんです。それを主任が勝手に金額まで決めちゃって。私には私のプランがあったのに」
「これ先週営業しに行って、すぐに見積りを送るって言ったそうじゃない。それなのに、何でまだ処理してないの? お客さんと約束したら、すぐに実行しないと信用されなくなるって、これまでだって言ってきたじゃないの」
「先週の終わりは展示会があって、忙しかったんです。それは主任も知ってるじゃないですか」
「あのねぇ、忙しいっていうのは、こっちの理屈なの。お客さんにとってはそんなこと何の関係もないことでしょ。もし請合えないことだったら、最初から約束なんてしないの」
「そんなこと言うんだったら、最初から主任が全部やってくださいよ。もともと、この会社は主任の担当でしょ」
彼女のふてくされた態度にあきれてしまって、私は二の句がつげませんでした。この子は仕事をただやらされているとしか思っていないんだ、自分で責任を持って仕事しなきゃいけないという意識はまるでないんだ。私はこの子に二年間何を教えてきたのだろうと打ちのめされた気分になりました。
「もうその件はいいわ。今度から何事も早めに対処しなさい」
そう言って彼女を自分の席に戻しましたが、私の心の中は穏やかではありませんでした。パソコンに向き合って、自分の仕事の続きをしようとしても、気が立ってしまって集中できません。私は自分の気を静めるために、「ちょっと、買い物してきます」と事務所を出ました。
コンビニであんまんを買って、そのまま店の前で開いてむしゃむしゃと食べていると、少し落ち着いてきました。どうして私ばっかり一人で抱え込んでカリカリとしなきゃいけないんだろうと思いました。こんなはずじゃなかった。私はもっと自由に働ける人になりたかったのに。
ふと見ると、フードのついたキラキラする白いコートをはおりミニスカートにブーツを履いたササキさんが、携帯電話で話しながらビルから出てきました。さっき私に注意されていたときのふてくされた口調とはまるで違う陽気で楽しそうな声でした。それを見て私は電話の相手は男なのかなと思いました。ササキさんはコンビニの前であんまんを食べている私を見ると声を潜め、中途半端な顔で会釈をして去っていきました。嫌われたんだろうなと思いました。
事務所に戻って、仕事を続けていると、二つ年下の男性社員ヤマグチが近づいてきました。彼はいい加減でもないし、仕事に夢中になりすぎるわけでもないし、ちょうどよくバランスが取れた人でした。背が高く顔立ちも端整で、たまに鞄に入っている小説などを見ると、ちょっとセンスが良さそうな感じなのでした。
「ササキさんの件、お疲れ様でした」
私はその話は面倒だなと思いました。 「あぁ、私がちょっとよけいな世話を焼いちゃったのかもしれないわね」
ヤマグチは首を振りました。
「いや、そんなことないですよ。ササキさんの認識がまだまだなんですよ。主任はホントに偉いと思いますよ。あんなわがままなのに辛抱強く世話されていて」
不意に誉められると対処に困ってしまいます。
「何それ、あなたも何か私に代わりにやってほしいことがあるの?」
「そんなんじゃないですよ、ただちょっと、今日のササキさんの態度はひどかったんで。僕が今度注意しておきますよ」
「そんなのいいわよ。嫌われるのは私の役目でいいの。そんな用事ならもういいから、早く仕事片付けて帰りなさいよ」
彼は軽く頷くと、 「この部署で主任が誰よりもしっかり仕事をされていることは、みんなわかってますよ」
と言って、そのまま自分の机の上の鞄を取ると、「お疲れ様でした」と事務所を出て行った。
やっぱり私の頭は単純に出来ていて、そんな風に誉められるとつい嬉しくなって、いらいらも忘れてしまうんです。頑張っていればちゃんと人は見ててくれるんだと思いました。毎日こんなことがあったら、私はそれだけで幸せに生きていけるかもしれないのに。気を取り直して、私は残った書類仕事の片付けに入るのでした。
九時過ぎに仕事を終えて事務所を出ると、携帯に同期の友人からメールが来ていました。この間の合コンの男がどうだったのという他愛のない内容でしたが、そういう下らないメールをしてきてくれる相手がいることは嬉しかったです。帰りの電車に乗りながら、彼女と何度かメールのやりとりをしていて、こんなことを教えてくれました。
そうそう、そっちの部署のヤマグチって人とササキって子が付き合ってるんだって? 社内恋愛! そのへんど~なってるの!
私はまったく知りませんでした。昔から私は人の恋愛の噂に疎いんです。ヤマグチさんはササキさんと付き合っていた。
それで、今日、彼は私のところに来たんだ。私に声をかけたのは、私を励ましたかったんじゃなくて、私とササキさんの仲を取り持とうとしたからだったんだ。 最寄り駅についても、そのまままっすぐ家に帰る気はしませんでした。私は夜の地元の町をふらふらと歩いていきました。別にヤマグチさんのことが好きだったわけではありません。しかし、何だか無性に悲しい気分でした。しっかり仕事をしてるのを見ていますと言っておきながら、結局ヤマグチさんが見ているのはササキさんでした。それなのにちょっと誉められたからって、調子にのって浮かれていた自分が恥ずかしくてたまらなかったんです。結局、いくら真面目に働いていたって、いくら人の世話をしたって、私の中に大切なものは残らない。ササキさんはいくらいい加減に仕事をしていたって、ちゃんと愛されている。それなのに、どうして私は毎日いらいらしながら必死で働いているんだろう。何を守ろうとしていたんだろう。私は誰からも愛されずに、一体何をやっているんだろう。独りでも生きていけるようにちゃんとしなければいけないと思ってやってきた私の人生は、何か間違っていたんだろうか。
私は住宅街の街灯の下にしゃがみ込みました。昔だったらここで泣いたかも知れないけれど、今の私はもう泣かないです。ただちょっと疲れただけなんです。私はゆっくりと首を振りました。
誰かから誉められるために働いているわけじゃない。私はただ私が出来ることをやっていけばいいんだ。苛立つことも悲しむこともない。ただ目の前にある自分が出来ることを、こなしていけばいいんだ。それが私が私らしくいることなんだ。
頭では分かっていました。でも、今はもう少し休みたいのでした。ふと、私の足元にうっすらと人影が射しました。見上げると、男の人が立っていました。
「どうしたんだよ」
話しかけられて私は驚きました。変な人だったらどうしようと思いました。その人は三十代くらいでカーキ色のコートにジーンズを穿いていました。中肉中背でぼさぼさに髪を伸ばして、どこか遠い目をした男の人でした。
「困ったな。酔ってるのか?」
そう言うと、彼はその場を立ち去りました。しかし、なぜか私は彼がもう一度帰ってくる気がしていました。私はしゃがんだまま彼を待ち続けました。 彼はすぐに戻ってきました。
「ほら、これでも飲んで気を静めろよ」
彼はミネラルウォーターのペットボトルを私の前に差し出しました。私はそれを黙って受け取りました。何だかとても懐かしい気持ちになりました。前にもこんなことがあったのかもしれないという気がしました。
彼は私の前に開いた手を差し出してきました。私はその手を強くつかみました。彼の手は暖かくて、握った感触がとてもちょうどいい感じでした。このままこの手を離したくありませんでした。ずっと二人で手を取り合っていたいと思いました。
終
* 本作品は文芸同人誌「孤帆」第14号に掲載した作品を加筆訂正したものです。また、「星空文庫」および「小説家になろう」に同時掲載しており、文芸同人誌「孤帆」関連のサイトに掲載される可能性があります。
2017年6月6日 発行 初版
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