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夜宴の島

夢空詩

夢空詩出版



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夜宴の島



 ――いい風だ。とても気持ちが良い。三人は無事、島の外に出られただろうか? 
 今頃、あの黒兎の事だ。仙人や神々達に泣き喚きながら懇願している事だろう。『白兎を助けてくれ』、『自分を再び島へと送り返してくれと』と……
 まだ未熟な彼女は、一人ではここに戻ってこられない。誰かに協力してもらうしか方法はないのだ。……しかし、きっと神々達はそれをしないだろうし、黒兎をここには戻さないだろう。
 その為に僕は、隕石が落ちるとされているギリギリの時間まで、ここに黒兎達を引き止めておく必要があった。――そう。助けに戻れる時間などないくらい、ギリギリまで……ね。
 この姿になり、黒兎よりも格段と能力が上がっていた僕には、もう島には誰も残っていない事はわかっていた。それを知りながら、わざと『夜宴の島に残っている者がいないか捜そう』という黒兎の案に賛成したんだ。時間を稼ぐ為だけに……
 一つだけ悔やまれたのは、スカーレットの死だった。
 けれどきっと、僕達が早々と島から退散していても……あの結末は回避する事が出来なかった。
 それならば……この島に看取られ、命を全う出来た事は、彼女にとっても【幸せ】だったんじゃないかと思うんだ。
 彼女は最後の最後にして最高の幸福を手に入れた。……僕はそう信じたい。
「……あぁ、さっき別れたばかりなのに、もう皆に会いたくなるだなんて……僕もまだまだ未熟だなぁ。また皆と楽しい日々を過ごす事が出来たなら、どれ程幸せな事だろう」
 ……そう。きっとこれは本心だ。
 けれど、それでも僕は……やはりこの島を見捨てる事が出来ない。夜宴の島の事を、とても愛しているから。
 だから、この島に隕石が落ちて滅ぶというのなら……僕も島と共に滅ぼう、最初からそう思っていたんだ。
 ……まぁ、簡単には諦めないけどね。

「ミズホ……」
 ――君に逢えて良かった。
 最初君は、結晶の中にいる僕達を見つけた。本来なら、ソウはともかく、【君】に僕達の姿は見える筈がなかったんだ。
 僕はね、その時点で気付いていた。早く君をこの世界に迎えないと……近い内に、君は命を落としてしまうかもしれないと。
 ……きっと、君自身ですら気付いていなかっただろう。
 君が心の奥底では、ずっと……【死】を望んでいた事を。
 それを知ってしまったからこそ、単なる気まぐれで、再びここに連れてこようとしていたあの老夫婦から、島での記憶を奪い取り……君を代わりに連れてくる事に決めたんだよ。
 いつも夢ばかりを見て生きてきた君は……周りから見れば滑稽で、誰にも理解されなかった事だろう。けど、僕はそんな人間を何人も見てきた。サヤだってそうさ。君はおかしくない。だから……卑下する必要なんてないんだよ。
 ……人間ってさ、本当に憐れなくらいに弱い生き物だよね? 決められた道の上でしか生きられない。そうしなければ、生きていく事すら出来ないんだ。そしてそれが出来ない者は、ただ惨めに死んでいくだけ。
 だから……僕が君をここに招こうが招かまいが、死ぬ奴は死ぬ。流石に僕等もそこまで面倒見切れないし、干渉は出来ない。いや……しようとも思わなかった。僕等はただ、きっかけを与えただけに過ぎない。
 けれど君は……僕と黒兎を庇い、守ろうとしてくれた。
 本来ならば、逆に守ってもらわないと生きていけないような君がだ。
 弱いと思っていた君は……ただ【弱い】だけではなかった。

「好きだよ」
「大好きだよ、ミズホ……」
「狂おしい程……君が恋しい」

 これ程までに誰かを愛したのは初めてだった。……男の癖に女々しいだろう? けれど、今でも本当に大好きなんだ。
 君の弱さも強さも、脆さも勇ましさも……何もかもが愛しくて堪らない。君は、僕が初めて命をかけてでも守りたいと思えた人だった。
 ――だけど、最初からわかっていたんだ。
 僕は、どう足掻いても【五十嵐想】には敵わない。
 彼はただの人間でありながら、ミズホの事をとても深く理解していた。
 時にはきつい言葉で彼女を傷付けたり、泣かせてきたりしたけれど……嫌われる事を恐れず、彼女の為ならどんな悪役でもかってみせる彼は……本当に優しい男だ。
 嫌われたくないが故……彼女を甘やかし、居心地の良い場所を提供し、ひたすら優しくする僕の愛情など……彼に比べると、たかがしれているのかもしれない。
「ソウ……ミズホの事、頼んだからね」
 僕はもう彼女に、何もしてあげる事が出来ないから……

 実は、一つだけ心配な事がある。けどそれは、ソウとミズホが決める事だ。僕にはどうする事も出来ない。……出来るなら、彼女がこれ以上傷付かずに済む未来を、心の底から願おう。
「――ミズホ、必ず幸せになってね? この物語の結末は……君にとって辛いものになるかもしれない。けれど、負けないで。心を強くもって。僕が好きになった【橘瑞歩】なら……きっと、どんな困難でも乗り越えられる筈だ」
 そして、いつか君が言っていた【夜宴の島の物語】を……必ず君の手で完成させてよね。
「ははっ、僕も読んでみたかったなぁ。君の描く、美しくも切ない……とびっきり優しい物語を」

 ――ああ、どうしてだろう? 死ぬかもしれないというのに妙に清々しい。あれだけ怖かった【死】も……今なら簡単に受け入れられそうだ。
 黄泉の世界には……赤兎もスカーレットも、狸神だっている。それに、記憶にない父様や母様だって……
「魔女の部屋からくすねておいて良かった」
 僕が持っているこの小瓶は、限界という言葉を知らない。本来持っている力を、何十倍にも、何百倍にも引き上げる事が出来る代物だ。
 ただ、限界がないとはいえども……それは、【肉体がある限り】の話となる。肉体が先に消滅してしまえば、威力は発揮されない。ようは、この身体が持つか持たないかで決まる。
 しかし、大人の身体を手に入れ、以前よりも遥かに力が上がっている状態でこれを飲むのだから……耐性は、子供の姿の時に比べればまだずっとマシだろう。
 ――この状態なら、いけるかもしれない。僕は急いで薬を飲み込んだ。
「夜宴の島は……僕が必ず守ってみせる。この島での夜を、絶対に終わらせはしない。それが……死に損ないの僕に出来る、最初で最後の恩返しだ」
 空を見上げると、今までに見た事がないくらいの大きな石の塊が、猛スピードでこちらに迫ってきていた。

 ……ゲーデ、君って本当に容赦ないよね。絶対に、友達にはなれそうもないや。

 僕は空に手を翳し、ありったけの力を込めた――


 ごめん、黒兎……

 後は……頼んだよ。



 私達は今、夜宴の島から少し離れた海の上にいる。
 たとえ助かる可能性が低かったとしても、白兎を一人にはしたくない。今も、白兎は島の為に一人で抗い続けているのだ。そんな白兎の帰りを、遠くでじっと待ち続けるだなんて……そんな事、出来る筈がなかった。

 せめて白兎の傍で、夜宴の島の結末を見届けたい。

 神々達は、そんな私達の気持ちを考慮し、ここまで連れてきてくれたのだ。結界を張っているので、この位置からだと、恐らく被害も出ないだろうとの事だった。
 黒兎は、何度も何度も島に戻ろうとした。けれど……神々達がそれをさせない。
「儂らは何があっても、お前を島には戻らせんよ。白兎は、お前達を生かしたいが故……何も言わず、一人で島に残ったんじゃ。その想いを汲んでやらねば、あやつが報われんわい。――のう、黒兎。お前の気持ちはよくわかっておる。しかしお前のしている事は、白兎に対する冒涜行為とも言えよう。……辛いじゃろうが、堪えるんじゃ」
 仙人は、言い聞かせるようにそう告げた。
「そんな……! じゃあ、あたしは……弟が死ぬかもしれねぇって時に……こうして、じっとしてるしかねぇって事かよ?」
 黒兎の身体は、まるで魂の入っていない抜け殻のように、へなへなとその場に崩れ落ちた。
 私は……ただひたすら【奇跡】が起こる事を信じ、願い続けていた。
 白兎は死なない……死ぬ筈がない。きっと、何か作戦があって一人で残ったのだ。そうに決まっている。そうに……決まってるんだ。
 隣を見ると、両目を赤く腫らしたまま……じっと島を見つめる彼の姿があった。
 彼の目からは、【夜宴の島の最期をちゃんと見届ける】という……強い意思や信念を感じ取る事が出来る。
 だから私も、ちゃんと全てを見届けなければ……

「――来たぞ!」
 一人が大声を上げたと同時に、島に巨大な隕石が落下した。
 目も眩むような閃光に、皆が目を塞ぎ……激し過ぎる突風に、海が大きく暴れ出す。この周辺に船があったならば……間違いなく沈没してしまうだろう。
 夜宴の島に存在するあの大きな月よりも、遥かに大きなその塊は……ゲーデの言っていた通り、夜宴の島を容赦なく攻撃した。
 ……もう駄目だ。あんなものが落ちてしまっては、夜宴の島が無事である筈がない。そんな事は、誰が見ても一目瞭然だった。
 それなのに私達は……不思議で奇妙な現象を目の当たりにする事となる。
「何……あれ……? 綺麗――」
 巨大な隕石が、まるで何かの力に溶かされるかのように、少しずつ……ゆっくりと……サラサラとした砂のように姿を変え、風によって流されていく。
 島全体が頭から、青く光る【ラメ】のような灰を被ったかのように……キラキラと美しい輝きを放つ。それはまるで、大きなスノードームを見ているようだった。
 これは……スカーレットの時と同じ光だ。

「継承の……光……?」
「な、何と!」
「凄まじい力じゃ……」
「信じられん……」
 神々達は驚きのあまり、次々と声を漏らしていく。
 ――青く輝く、夜宴の島。
 何かが起きた事には違いない。しかしそれは、奇跡と呼んでも良いのだろうか? 
 それとも……
「ど、どういう事だ、これ……? なぁ、仙人! 一体どうなってんだよ⁉ 島は、島は助かったのか⁉」
「――うむ。それはまだわからんが……今のところ、嵐は去ったかのように見えるのう」
「それじゃあ……!」
「しかし、この力……とてもじゃないが、白兎が一人でやったものとは思えん。あやつ……一体何をしよったんじゃ? 隕石が落ちた瞬間、とんでもない力が放出されたのはわかったんじゃが……まさか、夜宴の島が力を貸したとでもいうのか? いや、或いは……」
 目を瞑り、真剣に考え込む仙人の横をそっとすり抜けた黒兎は、突然私と彼の腕を強く掴んだ。
「――ミズホ! ――ソウ! 来い!」
 私と彼は、互いに顔を見合わせ頷くと、急いで黒兎の身体に触れる。
「……あ。ああっ! お前達! 待つんじゃ、おい!」
 仙人は大きな声で叫んだが、時既に遅しだ。黒兎は私達を連れ、急いで島へと【飛んだ】。


***

 黒兎の力で、私達は一瞬の内に……先程白兎が別れを告げた【あの場所】に辿り着いた。
「……シロくんを捜そう! クロちゃん! 場所わかる⁉」
「さっきから気を探ってるつぅの! けど、見つかんねぇんだよ……あいつ、どこにいやがる」
「……海岸だ。海岸なら隕石が島に向かってくる様子を一望する事が出来る。だから、シロはきっとそこにいる! 二人共、急ごう!」
 彼の言葉に、黒兎と私は大きく頷いた。海岸はこの場所からそう遠くはない。私達は無我夢中で走った。
 白兎が……どうか無事でありますように! 
 私は、何度も何度も強く願い続けた。

 海岸では空中に青い光が散らばり、砂浜や海の上を浮遊する。そのあまりの美しさに、私は思わず感嘆の息を漏らした。
 ……何も聞こえない。まるで、聴覚を失ってしまったかのように静かだ。いや……視覚だけに集中し、聞こえている事にすら気付いていないだけかもしれない。
 だって、ほら! そこに横たわる白兎の姿が見える。仰向けで寝転んで、空を見てる。これだけ綺麗なんだもの、白兎だって……この美しい空を眺めていたいよね? 
 そう思い、走って近付いてみると……白兎の目はしっかりと閉じられていた。
 ……けれど、微かに弱々しい呼吸音が聞こえてくる。
 黒兎は大きな声で叫んだ。
「――白兎! しっかりしろ!」
 ソウくんだって――
「シロ! 目を開けろ!」
 そして勿論、私も――
「シロくん……! お願い、目を覚まして!」
 私達が何度も何度も必死に呼びかけ続けると、白兎はそっと目を開けて……聞き取るのが困難なくらい、小さな声で私達に言った。
「み……んな……戻ってきてくれたんだ……あ……れ……? 赤兎……と、スカーレットは……?」
 黒兎は安心したように、『ふぅ~』と大きく息を吐くと……眉毛を下げたまま、少し笑って白兎に尋ねた。
「赤兎? スカーレット? なんだよ、お前……夢でも見てたのかよ?」
 その言葉を聞いた白兎は、フッと優しく笑った。その顔は、とても穏やかに見えた。
「……あぁ……そうか……もう逝っちゃったんだね」
 白兎はそう言うと、震える手を空に翳す。
「ありがとう……お陰で、島を守る事が出来たよ……けど、僕もそろそ……ろ、時間……かな……?」
 伸ばされた手は力無く地面に落ちて、砂粒をふわりと舞わせた。
 そして白兎は、再びゆっくりと瞳を閉じる。
「……おい、ちょっと待てよ! お前、目ぇ開けたじゃん⁉ 助かったんだろ⁉ なぁ!」
 白兎は小さく息を吐く。その姿はとても苦しそうに見えた。
 青年の姿なのに……いつもより小さく見えたんだ。

「……嫌だ、やだよ……やだぁああ! シロくん、お願い死なないでよ」
 私は白兎の後頭部を膝の上に乗せて、必死に声をかける。……けれど、返事は返ってこない。
 乱れた呼吸音だけが、静かなこの島で、哀しくも響き渡った。
「嫌だよ、嫌……これが最後なんて絶対に嫌。どうして? どうしてよ……? ずっと守ってくれるんじゃなかったの? ずっと傍にいるって言ってたじゃない!」
「……ミズホ、落ち着くんだ」
 彼は私の肩に手を置いたが、その手は……まるで彼の悲しみを物語っているかのように震えていた。黒兎は白兎を見下ろしながら、呆然とその場に立ち尽くす。……きっと、受け入れる事が出来ないのだろう。
 今の……この現状を。
 皆が悲しんでいる。皆の胸が……引き裂かれそうなくらいに痛んでいる。皆が、白兎の【死】を拒絶している。
 なのに……嫌だ、嫌だよ……こんなの嫌だ! 

「……ミズホ、泣かないで。――いいんだ。これでいいんだよ」
 白兎の身体がキラキラと星屑のように輝き、まるで白いヴェールに包まれたかのように儚い光を放つ。その中で白兎は、まるで天使のように美しい笑顔で笑った。
「ミズホ、僕ね……君の事が……とても、とても……大好きだったよ」
「私も、私もシロくんの事が大好きだよ! だから、お願い。死なないで……消えないで……!」
「……『おやすみ』って言って、ミズホ。僕はただ……少しだけ眠るだけなんだよ」
 白兎はそう言うと、私の頬に優しく触れた。とめどなく溢れ出す涙が、白兎の手を濡らしていく。
 胸が、苦しい。
「馬鹿野郎が……! かっこつけてんじゃねぇぞ⁉ あたしは……あたしはこれからどうすりゃいいんだよ⁉ 一人でどうやって生きていきゃいいんだよ⁉ ……なぁ、おい。いなくなるなよ。頼むから……」
 黒兎は大粒の涙をポロポロと流しながら、白兎の身体を揺らした。
「はは……っ、僕の事で泣くだなんて、黒兎らしくない。いつもみたいに……強気でふんぞり返っている君の方が……僕、好きだな……」
「うるせぇよ……馬鹿兎……!」
「……ソウ。さっきも言ったけど……僕が逝った後、黒兎とミズホの事、頼んだからね。僕はもう、何もしてあげられないから……さ……」
「あぁ……任しとけ。けど、シロ……お前も消えるなよ? まだ早いだろ? もっと、もっと生きてくれよ……! 俺はお前に……死んで欲しくないんだよ……」
「あは、悪いけど……時間のようだ」
「! シロくん⁉」
 白兎は元の姿に戻る。久しぶりに見た、幼く小さなその身体は……まるで生まれたばかりの赤子のように背中を丸めていた。
 嗚咽が込み上げた。以前、白兎が言っていた言葉を思い出したから……

『あ、でも……【永遠に戻れない】って事はないんだよ? まぁ、それなりに条件はあるけどね』

 ……元の姿に戻る条件。それはきっと、死ぬ時なんだね。

「もう、駄目……僕、何だか凄く眠くなってきたよ……」
「シロくん……!」
「ミズ……――【お姉ちゃん】。僕ね……凄く眠い」
「うん、うん……!」
「お姉ちゃん、大好き……宴の一日目の夜、守ってくれてありがとうね。僕、凄く嬉しかったんだ……」
「私の方が……いつもシロくんに守ってもらってきたよ……いつもいつも、シロくんが私の傍にいてくれた」
 私の言葉を聞いた白兎は、『へへっ』と柔らかく笑った。
「僕ね、お姉ちゃんを僕のお嫁さんにしたかったなぁ……」
「うん……うん……」
「……お姉ちゃん。お願い、言って……? じゃないと僕……眠れないよ……」
 白兎は私に小さな手を伸ばした。私は、その小さくて冷たい手を……ギュッと強く握った。
「おやすみ……! おやすみ、シロくん……おやすみなさい……!」
 白兎は安心したように、にっこりと微笑む。
「うん……おやす……み……」
 白兎の身体は力が抜けたように重みを増し、ゆっくりと……眠るように瞳を閉じる。その目尻から流れた一筋の涙が地面に辿り着いた瞬間……
 白兎は……消えた。

「し、ろうさぎ……? 白兎ぃいいい!」
 ――駄目だ。
「シロ……お前は本当に……馬鹿だ……」
 ――もう無理だ。

 ここにいたくない。
 ここにはいられない。
 ここには、優しい想い出が多すぎる。
 ここには、悲しい想い出が多すぎる。

 ――帰りたい。
 ――帰りたい。
 ――帰りたい。
 帰りたい……帰りたい……帰りたい……! 
 今すぐここから逃げ出したい。
 でなきゃ……壊れてしまいそうだ。

 狸のお爺さんはもういない。
 スカーレットはもういない。
 シロくんが、シロくんが……

 シロくんがいない。

「ミズホ……大丈夫か……?」
 心配し、伸ばされたその手を……私は思わず振り払う。彼は、驚いたように私の顔を見つめた。
「クロちゃん、私……帰りたい。元の世界に帰りたい。ここにいると……苦しくて、辛くて、どうにかなってしまいそうなの」
「ミズホ……お前……」
「お願い、クロちゃん。私には、この結末は耐えられない。ごめんなさい、弱くて……本当にごめ……っ……なさい……」
「……わかった」
 黒兎は私に向かって、手を翳した。
「ソウ、お前もミズホの横に並べ。元の世界に送ってやるよ。……今からあたしが扉を開く。閉じるヤツはもういねぇが、あとから仙人達がなんとかしてくれんだろ! ……世話んなったな、お前ら。この島の事は忘れ、達者で暮らしてくれよな」
 黒兎はそう言うと、真っ赤な目でニカッと笑った。
「……嫌だ」
「…………は?」
「ミズホ……ごめん。俺はここに残る。クロを一人にはしておけない」
「ばっ、てめぇ、何言ってやがる⁉」
 彼の言葉に、私は深く頷いた。
「……わかってる。最初からわかっていたよ。ソウくんはもう、元の世界では生きられない。……クロちゃん、ソウくんの事……お願いね」
「ふざけんじゃねぇ! お前ら、白兎の最後の言葉を忘れたのかよ⁉ あいつはソウに、ミズホの事を頼むって……そう言ってたじゃねぇか⁉」
「――うん。確かにシロくんはそう言った。……けどね? シロ君は、【クロちゃん】と私の事を頼んだよって言ったんだよ。だから……ソウくんは間違えてない。それにきっと……シロくんは全部わかっていたと思う。私は元の世界に戻り、ソウくんはここに残ると。わかっていて、それでもそれを口にした。……私ね、そう思うんだ」
「……俺もそう思う、あいつはとても賢かったから。きっと、クロとミズホ……二人の名前を挙げる事により、俺に二つの道を示してくれたんだ。だから俺は――」
 彼は何かを言いかけたが、突然口を{噤}(つぐ)んだ。
「……いや、なんでもない。とにかく俺はここに残るよ。もう決めたんだ。この考えは……絶対に曲げない」
「で、でもよ! お前達は……!」
「……私が元の世界に戻り、ここに残ったソウくんがクロちゃんを支える。それは結果的に、ソウくんがシロくんの言いつけ通り……二人の事を守った事になるんだよ」
 黒兎は泣きそうな目で私を見つめた。
 これで、いいの。
 これで……いいんだ。

「本当に……それでいいんだな……?」
「ああ」
「うん、クロちゃん。……お願い」
「……わかったよ」
「ありがとう」
 黒兎は再び私に手のひらを翳し、まじないの言葉を唱え始めた。私の身体がボゥっと儚い光を放つ。
「クロちゃん、ごめんね。そして……ありがとう。貴女達に逢えて、夜宴の島に来られて……私、本当に幸せだった」
「……ば~か! あたしも楽しかったよ。弟が最後まで愛し抜いた女がお前で、本当に良かったぜ。元の世界で……精一杯生きろよ」
 私は何度も頷いてみせた。視界が涙で霞んで、黒兎の顔がよく見えない。
「ミズホ、――さようなら」
「ソウくん。……さようなら」
「君と出逢えた事は、俺にとって……間違いなく奇跡だった。ずっと、忘れない――」
 徐々に……ソウくんの声が遠くなっていく。目を開けていられない。この感覚……何だか、とても懐かしいや。

 シロくん……ありがとう。
 クロちゃん……ありがとう。

 そして、ソウくん……

 さようなら――



 私はゆっくりノートを閉じた。
「……これでお終い。それにしても、我ながらよくここまで頑張って書いたなぁ。まだまだ【夜科蛍】の小説には足元にも及ばないけどね……ふふっ」
 私の書いた【この物語の続き】はこうだ。


***

 夜宴の島はきっと……黒兎、島に訪れる客人達、そして五十嵐想の力で、本来の姿を取り戻していく。
 そしてまた、誰かを島へと誘い……あの、恐ろしくも美しい宴が再び行われる事だろう。
 きっと、賑やかで騒がしくて、皆が幸せそうに笑っている……そんな素敵な夜が、再びやってくる。
 ――これでいい。これで、良かったのだ。
 白兎の事を想い、何日も泣き続けた。今も、思い出すだけで涙が込み上げてくる。
 白兎は、幸せだったのかな? ……けれど、白兎の決意がなければ、夜宴の島は滅んでしまっていた。今なら白兎がとった行動は、本当に勇敢だったと思う。
 彼は島の英雄なのだ。死してなおも輝き続け、皆の心の中で永遠に生き続けるだろう。
 ……あれから、黒兎は立ち直れただろうか? そう簡単には、哀しみも傷も癒えないと思う。
 けれど、願わくば……あのいつものとびっきりの笑顔で、黒兎が笑えていますように。
 仙人達に、ちゃんと挨拶も出来ないまま帰ってきてしまった事に対し、少しばかり悔いが残っている。よくよく考えてみたら私……兎狩りの時に助けてもらった事、きちんと全員にお礼を言えてない。……本当に、失礼極まりない話だ。
 ――そして、五十嵐想。
 私をつまらない現実の世界から連れ出してくれた張本人。私の憧れの小説家【夜科蛍】。
 彼は……本当に自由な人だった。とても素直な人だった。そして私が、今でも世界で一番大好きな人だ。
 彼と私の道はすれ違ってしまい、二度と交わる事はないけれど……きっと、この気持ちは永遠に変わらないだろう。
 ……この世界には、私達の知らない世界がまだまだ沢山ある。その存在に気付く事もないまま、人は短い生涯を終えていく。その人生の中で、私は間違いなく幸せだった。
 いつか私の中で、夜宴の島は想い出となり、風化していく事だろう。
 夢のような出来事だった。だからこそ、いずれ……『あの出来事は本当に起きた事だったのか?』、『夢のような出来事などではなく、本当に夢だったのかもしれない』と……記憶の片隅に追いやられ、消え去っていくのかもしれない。
 それでも、私はきっと……あの夜の事を忘れない。……絶対に忘れたりしないから。
 サヤや店長夫妻から得た情報によると、帰還した後には……夜宴の島で起きた事や、重要な部分の記憶等は失われる筈だった。けれど……生憎、私は全てを覚えている。だからこそ、この物語を完成させる事が出来たのだ。
 夜宴の島は幻想? と、疑う日がくれば……何度でもこの物語を読み直そう。ここには、真実だけが眠っているのだから。
 ――ありがとう、夜宴の島。ずっとずっと、私の心はあの地に囚われたままだけれど……それでも、この世界で生きていこうと思います。
 闇の中に灯される明かりや、空に打ち上げられた色鮮やかな煙の線が、宴の合図。
 陽気な声や音楽が、楽器の音や歌声が……耳を澄ませると、今でも聞こえてくる。
 ――さぁさ、今夜もおいでなさいませ。皆で十七の夜を存分に楽しみましょう。
 奇妙な仮面を付けた者達が今夜も盛大に盛り上がりを見せる、この美しくも恐ろしい夜宴の島で――


***

「……ははっ! 小説の中の私は、随分前向きだなぁ。実際は、まだ立ち直れてなんかいないし……一人で戻ってきてしまった事を後悔している自分だって、確かに存在しているのに。……ソウくん、やっぱり私には【ハッピーエンド】は書けなかったよ。嘘でも書けない……虚しくなるだけだから」
 私はゆっくりと空を見上げた。小さな三日月が、時折雲にその姿を隠されてしまうが……また、ひょっこりと顔を覗かせる。明日はきっと、雨だろう。
 私は空から目を離し、膝に置かれたノートを見つめると、小さく呟いた。
「……ううん。これもハッピーエンドなのかもしれないね。二人が、選ぶべき道を選んだ事には違いないのだから。けどね、どうしてだろう……? 胸に穴が空いたみたいに、酷く苦しいんだ」
 鈍い痛みを伝えてくる左胸を、ぐっと強く押さえつけてみたが、一向に痛みが治まる気配はなかった。
 ……夢の中で、私が私に『何故、島に残らなかったの』と責めたてる。
『どうして、彼と共に生きる道を選ばなかったのだ』、と。……『夜宴の島から離れてしまったのだ』、と。
「ほんと、嫌になる。あまりにも同じ夢ばかり見てしまうから、ずっと寝不足だよ。……けどね、眠るのが怖いの。どうしようもなく」
 正解のない選択肢は、いつだって不安にさせるものだ。『本当に、これで良かったのだろうか?』と。
 誰もその答えを知る事はないし、答える事は出来ない。そして、それは……誰かに教えてもらう事ではない。自分自身で決めなくてはいけない事なんだ。
 あの時の私は帰りたかった。白兎の死が……私にはどうしても耐えられなかったの。
 じゃあ、白兎が生きていてくれてたら……私は島に残ったのだろうか? 
 ――答えはきっと、『NO』だ。
 人として生まれた私に、人としての人生を全て捨て、生きていく事など……やはり出来そうもない。
 臆病で弱虫で、後悔のない人生を歩む為の行動を取る事の出来ない私は……はたして、生きていると言えるのだろうか? 
「私だけ……独りぼっちになっちゃったね」
 私は鞄の中から、白兎に貰った夜宴の島の結晶を取り出した。
「店長のところにあった結晶には、二人の姿が現れたのに……こっちの結晶には誰も現れてくれない。ほんと、冷たいんだから」
 私は一人、そんな事を呟きながら笑う。
 ……本音を言うとね、会いたいよ。会いたい。
 今すぐ皆に会いたい。
 私は自分の意思でこの世界に戻ってきた。全てを覚悟しての事だった。けれど……簡単には心が受け入れてくれないの。幸せ過ぎたから。悲し過ぎるから。
 このまま、私は一人……この世界で生きていけるのだろうか? 
 大粒の涙が結晶を伝い……まるで、雨でも降りだしたかのように私の手を濡らしていく。
「ねぇ……お願いだから、誰か教えて……? 私は、間違えていたのかな?」

『相変わらず泣き虫だね、君は』

 私は突然聞こえてきた声に驚き、即座に顔を上げた。
「嘘……でしょう?」
『……久しぶりだね、ミズホ。君とこうして、再び話せる日がくるなんて……思いもしなかったよ』
 そこには、顔に白い兎面を付けた小さな少年の姿があった。
 私は……夢でもみているのだろうか? 
「シ、ロくん……? どうして……?」
 視界に光が入り込んでくる。私の手の中にある結晶が、いつの間にかキラキラと光り輝いているのがわかった。そして白兎の身体も結晶と同じように、青く美しく煌めいていた。
 ……そうか、これは実体ではない。きっと、結晶に込められた【白兎の想い】から生まれたものだ。
 いつになっても情けなく、ずっと泣き続けている私の為に現れてくれた……優しすぎる亡霊。
 神様からの、プレゼントなのだ。
 ポロポロと涙をこぼし、何も言えないでいると……白兎は、優しく穏やかな声で私に語りかけてきた。
『大丈夫だよ、ミズホ。泣かないで? 君の選択は間違っていない。君の世界はこちら側なんだ。だから、こっちの世界で生きていかなければならない。……まったく、僕が傍にいてあげられていたら、君をこんなに泣かせたりはしないのに。哀しいし、悔しいけど……きっと僕は、既に死んでいるだろうから……もう君に何もしてあげる事が出来ない。それがとても辛いよ』
 白兎は……全て、わかっていたんだ。
 私が、元の世界に戻る事。
 彼が……あっちの世界に残る事。
 そしてその時……自分が既に、この世に存在していないという事まで――
 白兎が私に結晶をくれたのは……私と白兎が船に囚われている時だった。
 白兎は……その時から自分の死を予感していたという事になる。ティターニアとゲーデの存在がそう思わせたのもあるかもしれないが……きっと、それ以前から……病状が進行していて、永くは生きれないと覚悟していたのだろう。
 私は、ゆっくりと口を開いた。
「間違えて……いない? けど、私の選択で、もう二度と皆に逢えなくなったんだよ……? クロちゃんにも……ソウくんにも……!」
『……君は間違えていないよ。そして、ソウの選択もまた間違えてはいない。彼は人に理解されにくい特殊な思考の持ち主だから……こっちの世界では生き辛いだろう。もしもソウが君と共に、この世界に戻ってきていたとしたら……彼もまた、サヤと同じように……自ら命を絶っていたかもしれないしね』
「……うん、私もそう思うよ。彼が生きるには、この世界は狭すぎる。だから……一緒に帰ろうだなんて言えなかった。彼の邪魔をしたくなかった。彼の足枷には、なりたくなかったの」
 そして彼自身も、私に夜宴の島で暮らそうとは言わなかった。
 きっと彼も、こうする事が私達にとって一番良いのだと思った筈だ。彼が、私の生活を犠牲にしてまで夜宴の島に残ろうだなんて……言う筈がないものね。
『けど……ミズホはソウに逢いたい?』
 白兎の質問に、私は何度も首を縦に振った。
「逢いたい……逢いたいよ……ソウくんに逢いたい……でも、彼の人生を私の感情なんかで振り回したくなかった、潰してしまいたくなかった……! だって、私と一緒に元の世界に帰って欲しいだなんて……私、自分の事しか考えてないよね。最低だよね……? けど、本当は彼と一緒にいたかった。離れたくなんてなかった。もし彼から、『一緒に夜宴の島に残ろう』と言われたとしても、きっと残れないくせに……虫が良すぎるよね、自分勝手だよね。何だかもう、疲れてきちゃったよ。私、本当にどうすれば良かったのかなぁ? ……はは、何言ってるんだろう。なんか、頭がこんがらがってきて……ごめん、わけわかんないよね。言いたい事がうまくまとまんない……本当にごめんなさ――」
 小さな小さな影が、私に重なり映り込む。白兎は、ベンチに座っている私の身体を……優しく包み込むように、そっと抱きしめた。
「……シロくん」
『奇跡を――』
「えっ……?」
『奇跡を信じて、ミズホ』
「奇跡を……信じる……?」
『奇跡の神はとても寛大なんだ。だから、信じる者を決して裏切ったりはしない。それに、君は今まで数々の奇跡を起こしてきたよね? その奇跡が、どれだけ君や僕達……島を救ってきたことか。――大丈夫だよ。奇跡は必ず起きる。だって君は、奇跡の神の【お気に入り】なんだから」
 白兎はクスクスと笑いながら私の身体から離れると、結晶を指さして言った。
『ミズホに良い事を教えてあげる。その結晶を使えば、ソウに逢えるかもしれないよ?』
「えっ……?」
『その結晶。それを君に渡した時……僕、言ったよね? 何かあったら、この結晶を握りしめ強く願うんだ。きっと奇跡が起こる、って』
「あ……っ」
『君はあの時、それを使わないって言ったけど……僕はね、ちゃんとミズホに使って欲しいんだよ。だって、それが……僕が君にしてあげられる【最後のプレゼント】なんだから。とは言っても、その石の力じゃ……きっと大した事は出来ない。けど――』
 白兎は顔の面を額に移すと、愛らしい無邪気な笑顔を見せて言った。
『――【五十嵐想と再び出逢えますように】。それくらいなら、簡単に出来る筈だよ』
「シロくん……」
『さぁ、ミズホ。それを握りしめ、強く念じるんだ! 君の想いが強ければ強い程、その結晶は力を増していく。きっと、ソウにも逢えるよ!』
 ……ソウくんに、逢える? 
 でもそれって、即ち……
『ミズホ? ……どうかした?』
「……ううん。でも、もう少しだけ考えてみてもいいかな?」
『……うん、わかったよ。けど、なるべく早くね? 僕のこの身体は夜明けと共に消えてしまう。だから、せめて……ちゃんと見届けてから逝きたいんだ』
 夜明け? ……もうすぐじゃないか。夜が明けてしまえば、今度こそ私は白兎と……本当のお別れをしなければならない。
 そしたら白兎の魂は、どこにいってしまうのだろう? 
 白兎の存在は……その身体と共に、消えて無くなってしまうのだろうか? 
 そして、いつか皆……白兎の事を忘れてしまうのかな? 
 そう考えただけで、胸が苦しくて堪らなかった。

「……シロくんは、いつも私の幸せを願ってくれているんだね」
『君の幸せが、僕の幸せでもあるからね』
「ありがとう、シロくん……私ね、シロくんに出逢えて……本当に良かった!」
 私は白兎を見て、にこりと笑った。そんな私を見た白兎も、同じように優しく笑い返す。
 それだけで、私は充分幸せを感じられた。私の幸せが白兎の幸せだというのなら……きっと今、白兎自身も幸せを感じてくれている筈だ。
 ……けど、白兎はわかっていない。私だって、貴方が幸せだととても嬉しい。だから、貴方の幸せを……誰よりも願っているんだよ? 
 ――忘れないでね? 

「目を閉じて……強く願えばいいんだよね?」
『そう。そうすれば、必ず奇跡は起こる』
「……わかった。やってみる!」
 私はゆっくり目を瞑ると、【あの日】の事を思い返していた。
 あの日とは……私が白兎から、この夜宴の島の結晶を受け取った日の事だ。
 一生、忘れる事のない……大切な思い出――


***

『これは僕がこの島で初めて作った結晶なんだ。きっと、君の力になると思う。あげるよ』
『これ、店長が持ってたものと同じだ……! ソウくんがレッドナイトムーンを飲んだ時、彼を救って砕け散ったものと同じだよね?』
『うん。これには微量だけど、魔力が込められてるからね。いざとなったら君を守ってくれるかもしれない。大した役には立たないと思うけど、ミズホに持っていてもらいたいんだよ。何かあったらこの結晶を握りしめ、強く願うんだ。きっと奇跡が起きるから』

『ミズホ?』
『……使わない。使ったらそれも粉々になっちゃうんでしょ? そんな大切な物、使えないし……使いたくない。シロくんが初めて作った、想い出深いものなんだから』
『……まったく、強情なんだから! じゃあせめて、御守り代りに持っていて。何があっても、僕はずっと君の傍にいる。これは、僕と君との絆の証だ。僕がきっとミズホを守ってみせるから』


***

 ――うん。決めた。
 決めたよ、シロくん。
 強く願えば……奇跡は起こるんだよね? 
 なら、願う。心の底から……何度も何度も強く願うよ。
 だからどうか……私の願いを叶えて下さい。
 私の願いは――

 夜宴の島の結晶は、私の手から離れ、宙に浮く。そして、パリンと音を立てた。
『……あはは、やられちゃったなぁ』
 白兎の身体は爪先から順に、黄金色の光に包まれていく。その光は、やがてキラキラ輝く星屑となり……空に向かって拡散されていった。
 その美しさときたら、まるで夜空を流れる天の川のようだった。
 白兎の小さな身体は、幾千の星屑に導かれるようにして空に浮かび上がる。少年は、半ば呆れたような声でこう言った。
『君は馬鹿だ。本当に大馬鹿ものだよ。……けど、実に君らしい』
「ふふっ、でしょ? シロくんがくれた【絆】の結晶なんだから……どうしてもシロくんの為に使いたかったの。それに、ソウくんに逢いたいだなんて願ってしまったら……彼を無理矢理この世界に戻してしまう事になるかもしれない。私、そんなの嫌だもの」
『だから、僕の【幸せ】を願ったと』
「うん! シロくんが次に生まれ変わった時は、きっと誰よりも幸せになれますように……ってね! それと、お互いに何度転生を繰り返したとしても……いつかまた、再び巡り逢えますようにって、強く強く願った。だから……いつか必ずまた逢える」
 少年はお腹を抱えながら、ケラケラと大きな声を上げて笑った。その姿が、とても愛おしい。
『……きっと、きっと逢えるよ。僕が必ず、君を捜し出してみせるから』
「うん、待ってる! 私、ずっと……ずっと、待ってるからね!」
 私は白兎の言葉に、とびっきりの笑顔で答えた。
『……あ、一つ言い忘れていたよ』
 白兎は優しく私を見つめながら、そっと口を開く。
『君の奇跡は叶ったけれど……奇跡というものは、何も君一人だけが起こせるものじゃない。この世界には沢山の者達がいる……そして奇跡は、皆平等に起こすチャンスを与えられているんだ。だから、誰かの強い想いによって……もしかして君に、再び奇跡が起こるかもしれないね?』
 少年はクスリと小さく笑うと、再び白い兎面を顔に被せて言った。
『――ミズホ、元気で』
「シロくんもね」
『ありがとう』
「私の方こそ……本当にありがとう!」
 白兎は最後に大きく手を振ると……今度こそ、この世界から消えた。
 涙はもう……出なかった。

 東の空に、黎明の光が射し始め……夜の闇を追いやり、消し去っていく。
 夜明けだ。空はもう青みがかっていて、新鮮な空気が鼻腔をくすぐる。――とても気持ちが良い。
 夢のような……素敵な夜だった。
 ……けれど、そろそろ家に帰らなければ。私はノートを鞄にしまうと、ゆっくりベンチから腰を上げた。
 私は公園の出口に向かって歩き始める。家に帰ったら、少し眠ろう。
 この場所に来て、夜宴の島を思い出して……再びまた、白兎に逢う事が出来た。もうあの子は逝ってしまったし、彼や黒兎達にも……もう二度と逢う事はないだろう。寂しい事には変わりない。悲しい事にも変わりない。けれど、先程までの……本来なら起きる筈のない【奇跡】を目の当たりにして、ようやく少しだけ踏ん切りがついたみたいだ。
 私も、そろそろ受け入れなくてはならない。立ち止まらず……前に進まなければいけないんだ。
 ――この世界で生きていくと決めたのだから。

 そんな事を考えながら歩いていると、足元にあった大きめの石に気付かず、躓き、派手にすっ転んでしまった。
「いったぁ……」
 恥ずかしすぎて、とにかく辺りを見渡してみたが……まだ早い時間というのもあり、周りには人っ子一人見当たらない。ホッと安堵の溜息を吐く。
「完全に目が覚めちゃったよ……恥ずかしい。早く帰ろう……」
 私は立ち上がり、膝についた土を払うと……再び歩き始めた。

「――お姉さん、これ落としましたよ?」

 突然背後から聞こえてきた声に、私を動かしている全てのものが活動を止める。……周りには、確かに誰もいなかった筈だ。
 けれど私は……この声の主をよく知っている。
「ほら鞄、開いてるよ。転んだ拍子に飛び出してきたんだね。……これ、頑張って書いたんじゃないの? 誰にも読んでもらえないまま、こんな所に置き去りにされたら……【夜宴の島】も、さぞ無念な事だろうね」
 まず最初に、心臓が急スピードで活動を再開し、ドクンドクンと大きな音を鳴らした。私は振り返る事も出来ないまま、辛うじて声の主に言葉をかける。
「どうして……?」
「さて、どうしてでしょう?」
 その返答に多少の怒りを覚えた私は、急いで後ろに振り返る。全ての機能は完全に回復したようだ。
 そこには……意地悪な顔をし、茶化すようにそう言った【彼】の姿があった。

「やぁ。元気だった?」
「……『元気だった?』じゃないでしょ? 真面目に答えてよ……どうしてソウくんがここにいるの……?」
 私の小さく震えた声を耳にした彼は、眉をハの字にしながら、ゆっくりと答えた。
「……最初に言っておきたいのは、俺は【約束は必ず守る】って事。あの時、シロは俺に……クロとミズホの事を頼むと言った。それを聞いた俺は、クロを支える為……島に残る事を決めた。命を賭けてまで、夜宴の島を救ったシロの為にも……一刻も早く島を元通りにしたかったんだ。その為には、クロに立ち直ってもらわなきゃならない。そしたら、それが全部終わったら……俺は、俺を待ってくれている人の元に、最初から帰るつもりだった。それを敢えて口にしなかったのは、期待を持たせたくなかったからだ。いつこの世界に帰ってこられるかもわからないのに、『待ってろ』だなんて……そんな無責任な事、俺には言えなくてさ。それが結果的に、ミズホを苦しめてしまう事には気付いていたけれど……あの時は、どうすることも出来なかったんだ。ごめん。けど、俺が思っていたより……クロはずっと強かったよ。あいつはもう大丈夫だ。それに、あっちには俺なんかより頼りになる連中達がわんさかいる」
 静かな公園内に、彼の声と私の鼻をすする音だけがこだまする。そんな私を見て、彼は困ったように笑った。
「次に……俺は絶対に嘘は吐かない。俺が口にした事は、何がなんでも絶対に果たす。――約束しただろう? 俺がミズホに、ハッピーエンドを教えてあげるって」
 彼がそう言い終えたのと同時に、私はその胸に飛び込んだ。彼はそんな私を強く抱きしめると、私の頭に顎を乗せて言った。

「ただいま」
「お、かえり……!」

 彼は私の両肩に手を置き、じっと私の顔を見つめると……ぷはっと、大きな声を出して笑った。
「すっごい顔」
「う、うるさいなぁ! なんでそんな事しか言えないのよ!」
 普通なら【感動の再会】の筈なのに……至っていつも通りの彼の姿に、何だか拍子抜けしてしまった。……まぁ、彼に普通を求める事自体が、はなから間違いなのだ。そうして、いつものように彼のペースに持っていかれる。毎度の事ではないか。
「もうそんなに泣くなって。俺、ミズホの泣き顔には弱いんだよ」
 私の頭を、『よしよし』と優しく撫でる彼の手。その感触がとても懐かしく、愛おしすぎて……私の涙腺はずっと緩みっぱなしだ。
「夢じゃ……ないんだよね……?」
「うん、夢じゃない。……夢であってたまるもんか。俺だって、ずっとミズホに会いたかったんだから」
 そう言うと、彼は再び私を自分の胸の中に引き寄せた。
「……ねぇ、ミズホ。俺やっぱり、ミズホの事が好きだ」
 彼の言葉は、毎回どこまでが本気なのかよくわからない。けれど……この時だけは信じられると思った。その証拠に彼の心臓は、今もずっと騒がしい音を鳴らし続けている。……それが、とても心地良い。
「ずっとずっと考えてた。魅力的な世界を前にしていても……四六時中、君の事を想ってた。あまりにボケ~っと毎日を過ごしていたものだから、クロに『気持ち悪りぃんだよ、さっさと帰れ! この馬鹿野郎が!』って……何度も後ろから蹴られた」
「何、それ……!」
 私はポロポロと大粒の涙を流しながら、クスクス笑う。その顔を見て、彼は照れ臭そうにはにかんだ。
「あんなに恋い焦がれていた不思議な世界にいても、ミズホが傍にいてくれないと駄目な事に気付いた。いつの間にか俺は、夜宴の島よりも……【橘瑞歩】に恋い焦がれてしまっていたらしい。――まったく、恋とは不思議なものだ」
「……よくそんな事、恥ずかしげもなくペラペラと言えるよね。本当に凄いよ、ソウくんは」
「言わせてよ。今まで溜め込んでいた分、口にしないと気が済まない。それに、君はどうにも思い込みが激しい。ストレートに伝えないと、君には正しく伝わらなさそうだ」
 彼はゴホンと咳払いをすると、真面目な顔をして言った。
「――俺は、橘瑞歩が大好きだ」
 私は、強く彼の身体抱きしめると……溢れ出す涙を懸命に堪えながら口を開いた。
「わ……たしも……ソウくんの事が好きだよ。ずっと前から好きだった。大好きだった」
「ん、知ってる」
「……何それ、ほんっと自信過剰!」
「でも、本当の事でしょ?」
 そう言って、悪戯が成功した後の子供のように笑う彼に、やはり私は勝てそうもない。……多分、一生。

 ――こうして、夜宴の島の物語は終わる。

 それからの私達……そして、夜宴の島の皆がどうなったかは誰も知らない。ここから先は……私の書いた、この【夜宴の島の物語】を読んでくれた皆の想像にお任せしたいと思う。
 しかし、私自身が思う事。……やはり、物語の終わりは嫌いだ。
 どんな物語にもいつかは終わりが来る。わかってはいるのだけど……やはり悲しい。

 ――夜宴の島。それは人であらざる者達が、奇妙な面を被り集まる不思議な島。その美しさに、誰もが目を奪われる事であろう。……しかし、この世界にはまだまだ隠された秘密が沢山眠っている筈だ。それはきっと、恐ろしくもあり、切なくもある。宴に参加している者の数だけ、物語は存在しているのだ。
 ……きっと、これを読んでくれている皆の中にも。

 とにかく、夜宴の島のお話はこれにてお終い。けれど、私達の物語はまだまだ終わらない。彼、五十嵐想が傍にいる限り……きっと新たな物語が芽を出す事だろう。
 そしていつか、再び夜宴の島に招かれる事があれば……その時は、皆で最高の宴を楽しみたいと思う。

 夜宴の島は、私にとって……

 第二の故郷なのだから。


 橘 瑞歩 …………【夜宴の島】



***

「ただの人形に戻っちゃった【僕チャーン】? ――ごきげんよう」
「ハーイ! ゴギゲンヨウ」
 【男】は不気味な人形の腕を振り、下手くそな腹話術を見せると、愉快に笑う。
「【こっち】は無事に、生還」
 男の手には、白いタキシードを着た少年の人形。男はそれを、ポイッと地面に投げ捨てた。
「で、【あっち】は死の呪いを振り払い、自死を止めたものの事故死。自殺じゃなきゃ魂は奪えない。憐れな妖精の想いは届かず、意中の男は、あの世で山桜の娘と……ププッ、幸せに幸せに暮らしましたとさ。きひひ、くはは、ぐひひひ……」
 男は腹を抱えて笑う。笑い転げる。
 優しそうな顔で笑う少年の人形は、男の手の中で塵となって消えた。
「二兎追うもの一兎も得ず、か。正に兎の物語に相応しい結末じゃねぇか! かははは! ……あ~ 、中々面白かったぜ、ティターニア。お前は暇つぶしにもってこいだったよ」
 葉巻を吸い『うめぇ』と顔を綻ばせる男は、まるで全てを見下しているかのようにも見えた。
 それもその筈。男は力があり過ぎた。否、与えられ過ぎたのだ。人の死も、自然の死も、神の死も、そして虫の死さえも……男にとっては同等。
 とにかく毎日が退屈でつまらなく、飽き飽きしていた。自分の身体を、【わざと】人形に封じ込めてしまうくらいに……
「しっかし、あいつらも馬鹿だよなぁ。……くひひ。ティターニアとスカーレットが死んだのも、全部俺が仕組んだ事なのに」
 男は再び不気味な人形を手に取ると、『お馬鹿ちゃんでちゅよね~?』などと、話しかける。
「俺の仕掛けた罠に、あいつらは幾つ気付いてんのかね? ……なぁ、蛇?」
 男に蛇と呼ばれた老人は、俯き、沈黙した。男は構わず話を続けた。
「黒兎を匿っていたのが狐のガキだって事も、俺はね~、わかってたのよ。……ようするに、最初から最後まであいつらは俺の暇つぶしでしかなかったってわけだ。終わらせようと思えばいつでも終わらせられたんだから。けど……簡単なのは面白くねぇ。だからこの俺が、物語を盛り上げてやったんだ。粋な計らいだったろ? ひひっ。ともかく! あいつらは最後の勝負に勝ち、島は消滅する事なくこの地に残った。だから……今回は見逃してやるよっ。あんま興味もねぇしな。俺は葉巻と酒と好みの女がいりゃあ、それでいい。――今は、ね♪」
 男は不気味な人形を持ったまま、ゆっくりと歩き出した。蛇も、その後に続いた。
 隣の島では、今夜もまた賑やかで騒がしい宴が始まろうとしている。しかし、この男にとっては……最早どうでも良い事だろう。

 ――男は、口笛を吹いた。
 その音色から溢れ出る【闇】に触れてしまった全ての植物達は、一瞬の内に色を失い枯れ果てる。
「……ありゃりゃ! ごめんねー」
 死神と呼ばれた男は、それを見てニヤリと笑うと……静かにその場から消え去った。

一 交わされた約束

「ん……っ」
 気が付けば私は、冷たく渇いた土の上で横になっていた。
 薄暗い灰色の空に雲が暗澹と動く。今にも大雨が降り出しそうな空模様だ。
 目の前の大きな樹は、まるで何事もなかったかのように静かにそこに立ち尽くしていた。
 まだ少しはっきりしない頭に鮮明映し出される、最後に見たカズトくんの笑顔。
 浮かんでは儚く消え去る、優しく悲しい笑顔。
「そんな……嘘、でしょ……? 嘘だよね……? カズトくん! ねぇ、カズトくん!」
 私は地に膝をつけ、思いっきり大樹を叩いた。しかし、大樹は何の反応も示さない。
「嫌だよ、カズトくん……どうしてこんな……」
 温かい雫が頬を伝い、土に水玉模様を描いたと同時に、今度は冷たい雫が、土に更なる水玉模様を描き始めた。
 ――雨だ。
 降り出した雨はすぐに大きな粒へと姿を変え、容赦なく私に降り注ぐ。
 激しい雨は一瞬で私の身体をびしょ濡れにし、著しく体温を奪った。
「はは……もう、どうしたらいいかわかんないよ……」
 消え入るような声で呟くと、私はシャワーのような雨の中に飲み込まれていった。
 ……あぁ、どうして私はカズトくんを信じる事が出来なかったのだろう?
 どうして、最後まで信じ続ける事が出来なかったの……?
『俺の事は何があっても信じる事。……いいね?』
 これは、約束を破った私への罰なのだろうか? だとしたら、全て私が悪い。
「お願い……もう一度、私をあの世界に」
 私は神樹に懇願する。目の前にそびえ立つ大樹は、私の言葉に応える事なく、静かに森を見据えていた。
 言葉にならない想いが、声にならない叫びが、私の胸を激しく責め立てる。
 止まる事のない涙は、この雨のようにザァザァと激しさを増し、嗚咽の声を漏らした。
 ――もういいや。彼がいない世界なんて、意味がないのと同じ。
 私は激しい雨に打たれながら、土の上で仰向けに寝転ぶと、空に向かってそっと手を伸ばした。
「……ねぇ、カズトくん。貴方は一体、何を掴みたかったの? 貴方は……何が欲しかったの?」
 私の視界に、伸ばされた自分の手の甲が映し出される。

『――君には今の俺がどう見える?』

「貴方は……なんて答えて欲しかったの?」
 彼の求めていた答えが知りたい。
 私はそっと目を閉じた。身体や顔に乱暴に打ち付けてくる雨が、少し痛くも感じたが……今の私には心地良い。
 無心に降り続ける雨の音だけが、耳の奥に響き渡り……私は瞼の奥に映る彼を、ずっと追いかけていた。
 どこまでも、どこまでも……追いつけないその距離がもどかしい。彼は振り向く事なく、遠くへ行ってしまう。
 ――お願い、待って! 行かないで。

 一人にしないで。

「私はこの手で、貴方を掴みたい。貴方の心を知りたいの。本当の貴方を知りたいの……」
 その時、伸ばした手に僅かな体温の変化を感じ、私は目を開いた。
「貴方は……」
 私の手に軽く触れたのは、神童と呼ばれた狐面の少年だった。少年は真っ赤な番傘を差しながら、仰向けのままの私をじっと見下ろしていた。
「……どうも。無事に出られたようですね、安心しました」
 少年は手を差し伸べ、私の上半身を引っ張り起こすと……自分も膝を曲げて、その場にしゃがみ込んだ。自然と、視線の位置は同じ高さになっている。
 少年の番傘は、この激しい雨の中……優しく私を守ってくれていた。……けれど、今は素直に喜ぶ事が出来ない。
「貴女は、何がそんなに悲しいのです?」
 狐面の少年が、いきなり私に問いかけてきた。
「先程から上の方で見ておりましたが……いやはや、貴女の行動はどうも私には理解し難い。貴女が悲しもうが苦しもうが、事実は事実。何も変わりはしない。ならば、悲しむ必要も苦しむ必要もないのでは? こうやってここで過ごしている時間も、とても無駄なものでしかない」
「何言ってるのよ……⁉ 勝手な事言わないでよ! 本当は貴方が……貴方が彼を、あの世界に閉じ込めているんじゃないの?」
「私が、ですか? ……成る程、成る程。しかし、残念ながらそうではありません。彼があの地に残るという事は、五年も前から決まっていた事。今まで恩恵を受けていた事が、本来なら有り得ない事なのですよ」
「そんなの関係ない!」
 私は神童を思いっきり睨みつけた。数センチ先で私を見る神童は、無言で圧力をかけているかのように思えた。
 けれど、私はその圧力に屈しないくらいの強い口調で、神童に言い放つ。
「彼を、カズトくんを返してよ!」
 すると……今まで口を閉じ、静かに聞いていただけの神童がゆっくりと口を開いた。
「無理です。これは、彼が望んだ事ですので」
「じゃあ……私をもう一度、あの世界に連れていって!」
「駄目です。貴女にはその資格がない。そして私自身、もう貴女にはあまり立ち入って欲しくないのですよ」
「どうして⁉ 貴方は出入り口を創り出す事が出来るんでしょ? 出してよ!」
「嫌です。面倒臭いので」
 感情的に話す私に対し、淡々と返す神童。話は常に平行線を辿り、一向に糸口を掴めない。
 やがて神童はキリがないと思ったのか、『はぁ』と溜息を吐きながら、面倒臭そうに重い口を開いた。
「何度も言いますが、彼は望んであの世界にやって来たのですよ? 貴女が関与出来る事ではないのです。貴女の言っている事は所謂、逆恨みというものですよ」
「望んでやって来ただなんて、そんな事……何故、貴方にわかるの?」
「はて? それはどういう事でしょうか?」
「……何か、何か理由があったのかもしれないでしょう⁉」
「……成る程」
 神童は、クスクスと柔らかく笑う。
 笑う度に揺れる、腰にぶら下がっている鈴は……激しい雨の中だというのに、まるで意思を持つかのように、強く、美しい音を鳴らした。
「そうだとしても、それが何か? 貴女には【それ】を知る事が出来ない。何故ならば、貴女はとても浅はかだから」
 神童は優しい物言いで私の目をじっと見つめると、そうはっきりと言い放った。
「貴女には真実を見極める目もなく、己の信じたものを決して疑わないという信念すら持ち合わせていない。……非常に幼稚で小さな人間だ。貴女という人間は、まるで思い通りにならないと泣き喚いて怒る子供のようです」
 私は何も言い返す事が出来なかった。全て、目の前にいる小さな少年の言う通りだったから。
 ……悔しいけど、彼は正しい。
「とにかく今の貴女は、あの世界に行く事は出来ない。……早急にお引取りを。こちらも少々忙しいのですよ。ずっと探していたモノの【二つ】が、ようやく見つかったようでしてね」
 目の前の狐面が怪しく笑っている。恐ろしく不気味に……そして、奇妙に。
 二つのモノとはきっと、【ガンさん】と【眩く光り輝く杖のような棒】の事であろう。
 それは、最後に聞いたカズトくんの言葉で容易に想像出来た。
 神童はガンさんに会って、何をするつもりなのだろうか?
 笑う狐面の下に隠された表情は私にはわからないが、やはり中身も狐面と同じように、怪しげに笑っているのだろうか?
 それとも………

「……ねぇ神童? 貴方さっき、【今の私】はあの世界に行く事が出来ないって……そう言ったわよね?」
「はい、言いましたよ」
「それは……何故?」
「弱くて脆く、一人で立ち上がる事さえ出来ない今の貴女が……もう一度あの世界に戻って、一体何が出来ると言うのでしょう。何も変わりませんよね?」
「それは……」
 神童は私の声を遮るように、『しかし……』と言葉を続けた。
「もしも貴女が全てを知り、それでも彼に会いたいという覚悟があるのなら、どんな困難にも打ち勝てるだけの強さを身につけたのなら……話は別ですが」
 神童は立ち上がり、再び私を見下ろす。背景の番傘が色鮮やかに私達を覆い隠し、狐面のそれと、とても似合って見えた。
「しかし、それには時間が必要です」
「時間って……どのくらい?」
 神童は顎に手を添え、『うむぅ』と考える。そしていきなり、予想だにしなかった質問を私に向かって投げかけてきた。

「貴女と彼の年の差は?」
「え? 私とカズトくんの年齢差? ……五つだけど、それが何か?」
「では、五年にしましょう。貴女に扉を開けて差し上げるのは、五年後です。……貴女が、今の彼と同じ年になった時ですね」
「五年後⁉」
「はい、五年後です。それと貴女、あの世界の物を持っていますね?」
「あの世界の……物?」
 その言葉で私はハッと思い出した。カズトくんから貰った、琥珀色に輝く石の事を。
「そう、その石の事ですよ」
 神童は人の思考を読む事が出来るのだろうか? しかし、優しいトーンで話すその声に……私は何だか安堵を覚えた。
「……五年後、必ずその石も忘れずにここに持ってきてくださいね?」
「この石を……?」
「はい。五年後、私はそれを依り代に再び道を創る事を約束しましょう。言っておきますが、私は一度決めたら必ず約束は守ります」
「……神童」
「それと、勘違いしないで欲しいのですが、私はたとえその石が手元になくとも、道を創り出す事など容易い事です。しかし、私は五年後……貴女がもしその石を持ってこなかったら、決してあの世界への道は出しません。何があっても。……何故だかわかりますか? それが私と貴女の【約束】だからです。貴女が五年後、その石を覚悟として、必ずもう一度ここに現れると言うのなら……私はその日を楽しみに待ちましょう」
「……わかった、約束」
 私は座ったまま、神童に向かってそっと小指を差し出した。神童は腰を屈めて、小指をじっと見つめた。
「……何ですか? これ?」
「約束でしょ? 指切りげんまんだよ!」
「あ~……確か人間の古くからの風習ですね。聞いた事があります」
「そう! こうやって小指を絡めてね……」
 私は神童の小指に自分の小指を絡ませると、ゆっくり歌い始めた。

 指切りげんまん
 嘘ついたら針千本
 飲~ます
 指切った

 歌い終わると同時に、私と神童の小指がそっと離れる。
「……本当に、針を千本飲ましても良いのですか?」
「駄目に決まってるでしょ!」
「それなら約束は成立しないではありませんか?」
 神童はむぅと唸り、『やはり人間はよくわからない』などとブツブツ言っている。きっと、狐面の下では頬っぺがハムスターのように膨らんでいるに違いない。想像すると思わず笑みがこぼれた。
「……あのね、神童? 私は約束を破らない。だから、針なんて飲む必要がないの」
 私は神童に優しく伝える。少年は黙って私を見つめた。
「かりに私がね? 『嘘吐いたら大樹を燃~やす、指切った』って言っても、大樹は燃やされる事はない。だって貴方も約束を守るから。……でしょ?」
 狐面の少年はクスクス楽しそうに、そして面白可笑しそうに笑う。
「この樹は火を使ったところで燃え上がったりはしませんよ、ふふ。……けど、よくわかりました。」
 神童はよほど物珍しかったのか、自分の小指をピンと真っ直ぐ立てたり振ったりと、注意深く観察していた。その姿にとても愛着が湧き、何だか可愛く思えて……私は初めて、神童に対してのイメージを払拭する事が出来たと思えた。

 気付けば、あんなにも降り続けていた雨が嘘のように止んでおり、私の涙もいつしかピタリと止まっていた。
 私には雨が……私の弱い心も醜くて汚い心も、全て一緒に洗い流してくれたように思えた。

 ――もう一度、立ち上がれるように。
 ――もう一度、這い上がれるように、と。

 あんなにも非情だと思っていた雨は、本当はとても優しかったんだね。
 神童はゆっくり番傘を畳むと、私に会釈をした。
「……では、五年後。再びこの場所で」
 狐面の少年は私にそう伝えると、蜃気楼のように揺らめき、陽炎のように舞いながら、そっと消えた。
「ありがとう。樹に宿る小さな神様。……約束は、必ず守ります」
 ふと視線を大樹から地面に向けると、少し離れた樹の陰に、何か落ちているのが見える。私はゆっくりとその樹に近付いてみた。
「これは……」
 それは一冊の手帳だった。私は、この手帳に見覚えがある。
 ここに向かう列車の中、一度だけカズトくんが鞄から取り出して見ていたのを覚えている。……これは、カズトくんの手帳だ。
「何でこんなところに……」
 私はそっと手帳を手に取った。
 手帳は、あの激しい雨の中に晒されていたというのに、あまり濡れていなく……比較的綺麗な状態だった。
 この樹が、雨から手帳を守ってくれたのか?
 それとも……?
 私はギュッと手帳を抱きしめた。
「カズトくん。私、きっと……きっと戻ってくるから! だからその時まで……待っていてください」
 その日が来るまで……貴方があの黄昏の街で、笑顔で明るく、幸せに暮らせていますように。

 鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえ始める。今日も一日が始まるのだ。
 ――急がなくては。
 私には、やらなくてはならない事が沢山ある。立ち止まってる暇なんてないのだ。
 五年といえば長く聞こえるが、案外あっという間なのかもしれない。
 私は気合いを入れる為に、両手でパンっと頬を叩いた。
「……よし! 行くか!」
 緑豊かな森をゆっくりと抜ける。葉が透明の雫をポタリと地面に落としていくが、私からはもう……透明な雫は流れ落ちない。

 強い決意と
 全てを知る覚悟と
 微かな希望を胸に抱いて……

 前へ
 前へ

 ――進め。

二 星降る夜空の下で

 兄さんが家を飛び出して、どれくらいの時間が経っただろうか?
 俺はぼーっとその場に座り込んでいた。
 窓からは沢山の星が見え始める。兄さんも、今頃どこかでこの星を見ているのだろうか?
「……どうしてあんな言い方しか出来なかったんだろう。俺、最低だ」
 兄さんを殴った拳が今頃になって痛む。……いや、それより痛むのは心の方だ。
 兄さんのあの辛そうな顔が、傷付いた表情が、俺の胸に杭を打つ。
 兄さんが苦しんでいるのはわかっていた。なのに……どうして俺は、死者に鞭を打つような真似をしてしまったのだろうか。……いいや、兄さんはまだ生きている。死者なんてたとえは何だか不吉だ、やめておこう。
「……どうして、うまくいかないのかな」
 俺は窓から顔を出し、満天の星空を見上げた。
「綺麗だな。今日ばかりは月はお役ご免のようだ。たまには星に主役を譲ってもいいだろう?」
 そっぽ向く三日月を眺めながら、俺は静かに笑う。
 こんな時、兄さんなら何て言うかな?
「星なんか、な〜んの役にも立たねぇよ! ただそこに突っ立ってるだけだろ? 大体、星が好きだなんて……女か? お前は」
 俺は指で、目を思いっきり上に引っ張り上げながら、兄さんの声真似をする。『あ、意外と似てるかも』なんて思いながら、クスクスと笑った。
 ――なーんてね、嘘だよ。
 兄さんなら、きっと……
『星って、こんなに綺麗だったんだな』
 そう思うに違いない。
 本当は優しくて、心の綺麗な人だから。

「もう、あまり時間もないのに……何をやってるんだろうね、俺は」
 他人相手ならうまくやり過ごせる事も、身内相手だとどうしても感情的になってしまう。
 特に、兄さんが相手なら尚更だ。
 兄さんは異世界の存在なんて、これっぽっちも信じてはいないけれど……異世界はあるんだ、本当に。

 ある日俺は、いつか兄がどこかの異世界で生命を落とすという……決して抗う事の出来ない運命に縛られている事を知った。
 あまり仲良くはないけれど……それでも兄さんは、俺の大切な兄さんなんだ。
 出来る事ならば、その定められた呪われた運命を打破したい。……救いたいんだ、何があっても。
 山桜の知恵を借り、彼女と一緒に書き綴ったこの手帳は……いつか兄の役に立つ時がくるのだろうか?

 でも、兄さん…………ごめん。

 兄さんを救うより早く、もしかして俺の方が……先にこの世界から消えてしまうかもしれない。

 ――昔、山桜は言った。
『お前達兄弟は、なんて不運な星の下で生まれた存在なのか。死ぬ為だけに生まれてきた存在。呪われた兄弟。実に嘆かわしい話であるな、同情するぞ』
 山桜は、兄の死因は教えてくれたけど、俺の死因は教えてはくれなかった。……でも、もう見当はついている。
 俺の死因はきっと、自殺だ。

 もうすぐ彼女が消えて一年が経つ。俺が君と初めて出会ったのは、もう十三年も前の事だ。
 恥ずかしがり屋で泣き虫だった君は、儚くも強くて美しい女性に。
 腕白で怖いもの知らずだった俺は、卑怯で臆病な……情けない男になっていった。
 子供の頃は、俺が君を支えてきたというのに……大人になってからは、君が俺を支えてくれたね。
 俺は、本当に君の事が大好きだった。世界中の誰よりも。

 星が流れる。美しく、弧を描くように。

「闇の中で眩い光を放ち、一際美しく……観る者全てを魅了してしまう。まるで君のようだね、すず。儚く静かに消えていく様まで、瓜二つだ」
 流れ星に願いを馳せる、なんて真似はしない。
 どんな願いも叶わない事はわかっているし、星の神は、随分とナルシズムで気まぐれらしいからね。
 それに流れ星が願いを叶えるなどという、そんな不確かなものよりも……君に願う方が余程効果を発揮出来るというものだ。
「すず、力を貸して」
 あの不器用で弱い兄に、どんな困難にも打ち勝てるくらいの強さを。
 そして、兄を引き摺り込もうとする者達から……兄を護ってやってくれ。
「多分もう、俺には何も出来ない。俺には、兄さんを守る事が出来ない。君を失ってから俺も……色々ときついんだよ」
 君を愛するあまり禁呪に手を出そうとする俺を、君は愚かだと思うかな? 
 それでも、俺は……

「……兄さんにちゃんと謝らないとね。きっと、かなり落ち込んでいる筈だから」
 見上げた夜空から、星がまた一つ……ゆっくりと闇の中へと消えていった。

***

 彼はまだ気付かない。
 少女と山桜の加護を失った彼は、きっと……恐ろしい神に目をつけられた。
 それは、彼の兄の【それ】よりも……遥かにもっと、たちが悪いものだという事を。
 彼の部屋に置かれたままの手帳は、窓から入る風によってペラペラと捲られ……栞が挟まれたページを開く。
 少女は嘆き、哀しみ、必死に彼を止めようと叫び続けるが……

 その声は風に消えて
 彼には届かない――――

三 夏の夜の想い出

「カズトくん、火貸して火!」
「はいはい、ちょっと待って。あ! アイコ、それちょっと貸して?」
 彼は私から花火を受け取ると、ライターを使って花火の先端に火を点ける。筒状の花火は、火薬と金属粉の炎色反応による、色の付いた長い火花を噴出した。
「あ、点いた点いた! 綺麗!」
「まったく、本当に君は子供のようだね」
「私もう十九だよ? 全然子供じゃないですよーっだ!」
「俺から見たらまだまだ子供です」
「……おっしゃる通りで」
 私は今年初めての花火に、テンションの高さを抑えきれない。
 勿論、花火は楽しい。しかしそれ以上に、彼と一緒に花火が出来るというこの状況に、私のモチベーションはひたすら上がりっぱなしだった。
 彼は花火特大パックの中に付属していた小さな蝋を取り出すと、それを溶かして地面に固める。
「アイコ、これで点けられるよ」
「うん、ありがとう!」
 私は彼の隣にちょこんとしゃがみ込むと、二人で仲良く花火に火を点けた。赤やピンクや緑や黄色、オレンジなど色とりどりの煙が辺りに甘ったるいような火薬の匂いを運ぶ。
「……アイコは、いつも元気だね」
「え? そうかなぁ~?」
「そうだよ。あの、目の周りを真っ黒にして泣いていたパンダ娘がすごい変化だ。正直、君がどんな顔をしてるのかもよくわからなかったからね……あの時は」
「ちょっ…! そこはもう忘れて下さいよ」
 こんな風に二人で馬鹿を言って笑い合う、そんな時間が私はとても大好きだ。……しかし、今日はただ楽しんで帰るわけにはいかない。
 私には、今日こそ彼に聞かなければならない事があるのだ。
 今まで何度も何度も聞こうと思ったんだけど、なかなかタイミングが掴めなくて……聞けずじまいだった【あの事】を。花火をしながら、さり気なくさり気な~く、あくまで自然に。

 ……よし、頑張れ! 愛子!

「あ、あのさ、カズトくん!」
「ん~? 何?」
 彼は花火に目を向けたまま、返事をする。
「あのね、その~、えっと~……」
 私は何だか恥ずかしくなって、思わず口籠る。毎回このパターンだ。このままじゃ今日も聞けない。――しっかりしろ、愛子! 女は度胸だ!
「もう、花火なくなった~?」
「そんなわけないでしょ! 今始めたばっかりなのに」
「はは、そりゃそうか」
 彼は立ち上がると、たった今終わった花火を、バケツの中の水に浸した。
「で……どうしたの? アイコ」
 そう言って彼は、腕を組みながら私の隣にしゃがみ込み、顔を覗き込む。
 ――近いよ、近い! どうしよう、心臓がバクバク言って煩い。
 こんなんじゃ……今日も絶対聞けないよ。

「……ねぇ、アイコ」
「な、何?」
「それ」
 そう言うと、彼は下の方に指をさす。
「……もう終わってるよ? 花火。火、とっくに消えてる」
「……え、えっ? あ~っ! 本当だ、いつの間に!」
 彼は隣で口元を押さえながら、くくっと声を押し殺しながら笑っていた。
「……ちょっと、そんなに笑わなくてもいいじゃん!」
「だって! 終わった花火をずっと持ったまま固まってるし、挙動不審だし! 何だか可笑しくて!」
「……もーいい。知らない!」
 そんな風に不貞腐れていると、突然頭にフワッと触れる柔らかい感触……勿論私は、それが何なのかちゃんとわかっている。彼の、癖のようなものだから。
「ごめん、ごめん。で、何? 言ってごらん? ちゃんと聞くからさ。ゆっくりでいいよ。話してみて?」
 ……狡い。そんな優しい笑顔で言われたら、何も言えなくなっちゃうよ。
 でも、何だか余計聞きにくい雰囲気になってしまった……どうしよう。

「……じゃあ、カズトくん。」
「はいはい?」
「カズトくんって好きな果物って何?」
「え?」
 呆気にとられた感じで、間抜けな声を出す彼。
「え、なに? そんな事?」
「いいから答えて!」
 彼は『んー』と暫く考える素振りを見せてから、ゆっくりと口を開いた。
「……桃」
「え? も、桃⁉」
 私は彼が【桃】だなんて可愛い果物を選ぶから、それが可笑しくて、お腹を抱えて笑った。
「……アイコ~」
「あはは! ごめん、可愛すぎてつい! じゃあ、好きな色は?」
「色? ん~と……そうだなぁ。白、かな?」
「うん、カズトくんっぽい! じゃあ好きな歌は?」
 私が次々と質問すると、彼は真剣に考え、答えてくれる。本当に知りたい事はこんな事じゃないんだけど、知らなかったカズトくんを色々と知れて……これはこれでありなんじゃないかって、思わず顔がニヤける。
「アイコ、何ニヤニヤしてるの?」
「えー? ふふ、内緒!」
「ねぇ、もう質問いい~?」
「だーめ! まだまだ!」
「えー、まだあるの?」
「じゃあ次ね! カズトくんって彼女いる⁉」
「……え?」

 あ……

 し、しまった!
 明らかに今までと系統が違う質問に彼は目を丸くし、私の顔はヤカンが沸騰したかのように熱くなる。
「違う! 違う! 違う! そうじゃなくて……そう! 蚊だよ蚊! 夏って嫌だよね~。蚊多いもんね~! 私、よく噛まれちゃうんだよ! だからカズトくんに、『蚊の状態はどう?』って聞いたんだよ……ははは!」
『明らかにおかしいだろ!』と、ツッコミが入りそうな滅茶苦茶過ぎる言い訳をしてしまう自分が、余計に恥ずかしすぎて……もう顔を上げられない。
 本当に馬鹿過ぎる……もう、この沈黙に耐えらない……今すぐ逃げ出したいよ、本気で。
 おろおろしたり、笑って誤魔化したり、何故か逆ギレしたり、泣きそうになったりと、もう私の脳内はぐちゃぐちゃだ。
 彼はそんな私の七変化を見ながら、眉を下げて優しく微笑んだ。
「いないよ」
「……え?」
「彼女でしょ? いないよ。それと、蚊の状態も今のとこは平気……」
 そう言うと彼はプッと吹き出し、ケラケラ笑い出す。……どうやら笑いを堪えていたらしい。私は気まず過ぎて、どこか遠くの方に視線を向けた。
「何? アイコが知りたかった事って、そんな事だったの?」
 と、悪戯っぽく妖艶に彼は笑う。
「違うし! 別の事だもん!」
「へぇ~、じゃあ何? 別の事って?」
「……うるさいなぁ! もう手持ち花火、線香花火しか残ってないよ? そうだ! 確か打ち上げも入ってたよね?」
「あ〜、誤魔化した〜」
「あ! あった、あった! よし、やろう! カズトくん、火点けて!」
「はいはい」
 彼は『ほんとアイコは可愛いんだから』と笑いながら呟くと、小さな打ち上げ花火の火を点ける準備をし始める。
 ……しっかり耳に届いてますから。ちゃんと聞こえてますから。
 けれど、わざと聞こえていない振りをしてしまう私は、素直じゃないし本当に可愛くない女だと思う……情けない。
 でも……そっかぁ、彼女いないんだぁ。絶対いると思ったのに。――良かった。

 よく晴れた夜空を支配するかのように花火は上がり、大きな破裂音と共に綺麗な模様を作り出す。バチバチと、火の粉が宙を舞った。
 隣を見ると、子供のようにはしゃぐ彼の姿。
「……自分だって子供じゃん」
「ん? なんか言った?」
「な〜んでもない!」
 私はそう言って笑った。

 ――彼と私の、とある夏の夜のお話。

四 生命の神樹

「やれやれ……ようやく落ち着いたみたいですね。今日は色々と忙しく、大変な一日でした」
 いつもと変わらない橙色の空が、今日はやけに哀しく見える。何故だろう?
「……何だか、お互いに気が晴れませんね。どうしてでしょうか?」
 狐面を被った少年は神樹の身体に背を預け、少々物思いにふけっていた。
「それにしても……黄昏の街、ですか。貴方は気に入りましたか? 私には、どうも少しむず痒い」
 黄昏の空は返事をしない。それでも神童は構う事なく話を続けた。
「この世界も、以前は命の楽園と呼ばれていた事もあると言うのに……随分と廃れてしまいましたね。神樹の暴走がなければ、今でもあの美しい風景を眺める事ができたのでしょうか?」
 神童は首を横に向け、ちらりと神樹を見る。物言わぬ神樹も何か想う事があるのだろうか? 
 神童の言葉に機嫌を損ねた神の樹は、風の力を使って太い樹の枝に腰を掛ける少年の身体を乱暴に振り落とそうとした。
「……おっと」
 神童は突然の突風に振り落とされる事なく、しっかりとその身を支えた。
 突風は、神童の腰に付けられた鈴を激しく揺らしながら……足早に通り過ぎていった。
 神樹は何も語らない。狐面の少年はふぅ、と深い溜息を吐いた。
「すみませんでした。貴方を責めているわけではないのですよ? 貴方もこの世界の犠牲になっただけ。わかっているのです、そのような事は」
 ただ……もう一度、もう一度だけでいいから……私はあの世界が見たいのです。
「ここから見えるこの夕焼けにも……少々飽きてきました」
 神童は神樹に深くもたれ、項垂れながら、小さく口を開いた。
「……最近はとても疲れる。永く生き過ぎたせいでしょうか?」
 神童は狐面に触れながら、クスリと笑った。
「いつか私のこの肉体も、神樹の一部にされるのでしょうか? ……まぁ、それもいいでしょう」
 神童は再びゆっくりと頭を上げ、美しい夕焼けの空に目を向けた。
「こんな可笑しな事を考えてしまうのは、私が人間と深く関わってしまったせいでしょうか……?」
 私はこれまで、色んな人間を見てきた。欲に溺れ、自ら破滅に向かう……憐れで嘆かわしい、そんな……愛おしい程に弱くて脆い人間達。
 そのような人間達を、この世界に案内するのが私の役目であった。しかしあくまでそれだけ。
 それ以上は、特に関与する事もなかった。
 ……けれど、今回は少し違う。私は少々、動きすぎたかもしれない。いや、動かされたのだ。
 斎藤愛子という人間の【相手を想う大きく深い愛情】と、森野一樹という人間の【暗闇に射し込む強い希望の光】に。
 私には何だか、それがとても心地良かった。
「私にもし、父や母という類のものがあったなら……こんな感じだったのでしょうか?」
 神童は、そのような人間じみた言葉を口にした自分に少しばかり驚きながらも高らかに笑う。
「……本当に不思議な人間もいるものです。これだから人の世は奥が深い」

 神の童と書いて【神童】と呼ばれる私は、気が付けば随分と古くからこの世界に存在していた。
 本当の名も知らず……自分がどうやって生まれてきたのかも、どこから来たのかもわからない。
『自分は何者なのか?』なんて考えた事もなかったし、興味などある筈もなかった。
 私に与えられた使命は、この世界を守る事。……ただそれだけだったから。

 ――神童は愛情というものを知らない。
 ――神童は希望というものを知らない。
 少年には全て、必要のないものだったから――

「あ。そういえば……貴方、知っていましたか? 山桜の姫は、もうこの世にはいないみたいですね」
 黄昏の空は相変わらず何も語ろうとはしない。まるで、最初からそのような神など存在しないかのように……
 それでも、神童は語り続ける。
「惨めで、憐れで、可哀想な娘でしたね。山に捨てられていた人間の赤ん坊を自分の娘にするなど、『山桜の神もトチ狂ったものだ』と当時は皆で笑ったものです。しかし、実に利発に育ったようですね。まさか、この世界にまで影響できる力を持つとは。一樹さんを護っていたのは山桜の力ではなく、あの少女のものでした。……本当に大したものです」
 時として人は【神】をも超える。
 予知の力を持つ山桜は、この事を全て見越していたのだろうか?
「……まったく、食えない女だ」
 神にも色々ある。形を持つ者。そして、この世界のように形を持たない者。
 邪悪な者もいる、勇敢な者もいる、聡明な者もいる。そして……慈悲深い者もいる。
 相性が合う、合わないは勿論あるが……山桜のそれとこの世界のそれとは以前、少しだが交流があった。
 山紫水明、紫幹翠葉といった言葉が当てはまる美しく穢れを持たぬ、あの山々。
 地上に存在するそれらとは似て非なるものだ。きっと、足元にも及ばないであろう。
 私は、あの世界がとても好きだった。
 柳は緑色をなすように。花は紅色に咲くように。――自然は自然のままに。
 しかし、【娘】を失った山桜は……さぞかし意気消沈している事だろう。
「落ち着いたら、久しぶりに会いにいきましょうか。山桜の姫の弔いの意も兼ねて、ね」
 鈴が、微かに音を鳴らした。
「……おや? また誰かやってきたようですね」
 神童は樹からゆっくりと飛び降りた。そして、腰につけられた鈴を手に取り宙にかざすと、それをそっと覗き込む。
「……ほう。これは、これは。非常に深い闇を抱えていらっしゃる。早くお迎えしなくては」

 まだまだ眠るわけにはいかない。
 この世界にはまだ、私が必要なのだから。
「……いってまいります」

 これだからいつの日も人の世は面白い――

五 甘い誘惑の果実

 ガラガラと引き戸を開ける音が聞こえる。
「お? やっと戻ってきたか、にぃちゃん! 随分遅かったなぁ。どうだ? ねぇちゃんは無事に戻る事が出来ただろ?」
 俺は、部屋の中から男に声をかける。……しかし、仲間がいたとは助かったぜ。これで俺の仕事もちぃーっとは楽になるってもんだ。
 ここと元の世界は、若干だが時間軸がずれている。ねぇちゃんが気を失ってたとしても、もう既に目ぇ覚まして森を出ているだろうよ。騙くらかして、神樹の餌にしちまえば良かったのに……勿体ねぇ。
 しかし、なかなか上がってこねぇなぁ。
 俺はよっこらせっと腰を上げると、土間にいるであろう男の元へと向かった。
「おい、にぃちゃんどうしたよ? 早くこっちに上がってこいよ……って」
 ――俺は一瞬言葉を失った。
 男の手には、光り輝く杖のような棒。
 それは、俺が普段からよく目にしているものであった。
 男は棒を強く握りながら、俺の顔を睨みつけるようにジッと見つめた。
「……お、お前! それ……!」
「コレは返してもらうから」
 そう平然と言いやがるこいつに、俺ははらわたが煮えくり返ったみてぇな感覚に襲われる。そして、身体中の血管が浮き出るくらいの怒りが全身を駆け巡った。
「な、なんて事しやがんだ! てめぇ……! 人がせっかく良心で出口を教えてやったってのに……ふざけるな! それを外しちまったら、今後、元の世界に楽に行き来が出来なくなるじゃねぇかよ⁉」
「知るか。そんなの俺の知った事じゃない」
 ――ああ、そうだ。
 こいつはこんな話し方をする奴だった。よく思い出したよ。
 何年も前の話だったし、今まで何百人もの人間をここに連れてきたんだ。つい失念してしまっていた。
「……あの女の前では、いい子ちゃんの仮面でも被っていたってわけだ? 聖人君子ぶりやがってよぉ……そんなに嫌われるのが怖かったのか⁉」
「……黙れ。今からお前を、神童のところに連れて行く」
 ――こいつ、神童の回しもんか⁉
 ……クソ! とんだ厄病神だ!
「あんたはもう逃げられない。……早くしろ」
 あ~、……うぜぇ。
 うぜぇ。
 うぜぇ。
 コイツ、邪魔だなぁ。ぶっ殺してやろうか。
 ――いや、待てよ? ……そうだ。ひひっ。
「……そうはいくか。その前に俺がお前を、神樹の場所に連れて行ってやるよ!」
 俺は急いで土間の隅に置いてあったバットを手に取ると、男の頭を目がけて思いっきり振り落とした。
「くっ……!」
 男は危機一髪で避けたが、体制を崩して尻餅をついた。
「どうしたぁ? あの威勢の良さは一体どこにいったんだぁ? ……大丈夫。神樹に身体を喰われるだけだ。なーんも怖い事なんてねぇぞぉ? 寧ろ、全てから解放されるんだ。この俺に感謝してもらいてぇなぁ? まぁ、取り敢えず気ぃ失ってもらわにゃならねぇから、ちょっとばかしイテェと思うが……我慢してやってくれや?」
「クソ野郎が」
「これがチェックメイトってやつかぁ? がはははは! じゃあな!」
 俺は再びバットを高く上げ、男の頭を目がけて素早く振り落とした。
 ――その時、何処から現れたのか、狐面のガキがいきなり俺と男の間に現れ、バットを片手で止めた。
「やれやれ、この世界で争いはやめてもらえませんかね?」
「てめぇ、神童……!」
「神童」
「……大丈夫ですか? ここは私に任せて、貴方は下がっていて下さい」
「神童。これを!」
 男は神童に光る棒を投げる。神童は振り落とされたバットを支える手とは逆の手で、それを受け取った。
「……ありがとうございます」
 俺はバットに力を込めるが、一向に動きやしない。……畜生め、ガキのくせに何て馬鹿力だ。
「ようやく見つけましたよ。……成る程。道理で今まで見つからなかったわけです。……神樹め、要らぬ知恵を」
 神童はバットを奪い、放り投げると、俺に向かって手をかざした。
 すると俺の胸ポケットから、神樹に託された樹の幹で作られた丸い実が、神童の手に引き寄せられるように飛び出し、宙に浮く。
 神童が開いた手をグッと握ると、実は木っ端微塵に砕け散った。
「これでもう、貴方がこの世界のどこにいても私は貴方を見つけられる。外に逃げる事も出来ない。私がそれを許さない。……さぁ、覚悟はいいか、罪人よ」
 神童から、もの凄くドス黒いオーラを感じやがる……狐面の下に隠された表情なんかは、見なくてもわかる。
 ――こりゃ、やべぇな。分が悪りぃ。

「悪りぃが、俺はお前にどうこうされるのも影になるなんてのも、まっぴらごめんでね。それによぉ、俺には神樹がついてるんだ。てめぇなんかなぁ? 神樹の力に比べたらなぁ? 足元にもおよばねぇんだ! 調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
「……ほう、成る程。ではどうなさいます? 神樹と共に、この世界と私を潰してみせますか? どうぞご自由に」
「……チッ、そうしてやるよ! 吠え面かくんじゃねぇぞ⁉」
 俺は引き戸を開け、表に飛び出した。

***

 ――クソッ! ガキの分際で年長者に偉そうな口聞いてんじゃねぇよ!
 あの男も……上手く仲間に引き入れようと思ったのに、助けてやるんじゃなかったぜ! クソッ、クソッ、クソッ!
「神樹の力を持ちさえすりゃ、お前らなんて一捻りだ! 覚えてやがれ!」
 俺は、神樹の場所まで必死に走った。……って言ってもよ? たるんだ腹に老い始めたこの身体じゃ、走ってるなんて言えねぇかもな。……競歩だ、競歩。
 この世界の力で全く疲れはしねぇが、早く走る事も出来ねぇ。この身体に嫌気がさす。
 あぁ、イライラするぜ。……神童め。ふざけやがって!
 俺を誰だと思ってやがる。俺は神樹の、神の代行だぞ⁉
 たかが神の使い如きが、しゃしゃり出てくるな! 目障りなんだよ!
 なのに……なのに……!
「何で俺は今、尻尾巻いて逃げ出してんだ? ……畜生!」
 どうしてこうなった?
 俺は確かに懺悔してここに来た筈なのに、いつの間にか後悔の念などは消え去り……この世界に、馬鹿な奴らを導くのが楽しくなってきたんだ。
 ――あの実だ。
 あの実を神樹に無理矢理喰わされてから、何だか全てがおかしくなった。
 まるで俺の中に、もう一人の俺が生まれたっつーか……いや、違うな。元々俺の中にあった本当の自分ってヤツを解放してくれたんだよ、あの実は。
 それを喰った俺は、何だか悩む事が馬鹿らしくなった。あいつらが死んじまったのは俺のせいじゃない。そういう運命だったからだ。
 ようするに、一人助かった俺は神に見初められた存在だという事だ。
 ――俺は支配者になった気がした。
 俺の言葉一つで、いくらでも人間をここに引き寄せる事が出来る。
 俺は選ばれた人間なんだ。特別なんだ。
 そう考えりゃ、笑いが止まらねぇ。

 三十代後半。俺の不注意から運転事故なんて起こしたせいで、カミさんと息子を失った。
 そりゃ悔やんださ。どうして俺だけ生き残ってしまったんだ、ってな。
 カミさんは俺より三つ上で、普段からガミガミ煩く、煩わしくも思った事もあるが……優しくしっかりした良い女だった。
 自慢の一人息子は来年から中学で、スポーツが得意なヤンチャ坊主だった。悪さばっかりのあいつに、よくゲンコツをかましてたよ。
 でも、本当に可愛い奴だった。
 俺は俺の家族を、心の底から大切に思い、本当に愛していたんだ。
 事故を起こした後、俺は捕まったのかといえばそうではない。
 たとえ死亡事故を起こしても、飲酒、無免許等が絡んでいなく自分の過失だけなら……状況にもよるが、必ずしも運転手が、自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律で、逮捕されるとは限らないらしい。
 俺は現場の警察官の状況判断にもより、処罰されずに済んだ。
 皮肉な事に、それがなお一層……俺を激しく苦しめたんだけどよ。
 とにかく俺は、生きる気力を失った。
 情けなく、みっともなく……三日三晩泣き続けた。
 もういないってのに、癖になっちまってるんだか……つい話しかけちまうんだよ。
 嫁に先立たれると、男は駄目になるとよく聞くが、それは当たっている。
 それに……親より先に死んじまった、まだまだ輝ける未来があった息子の事を思うと、俺は自分の不注意さを悔やみ、ひたすら責め続けるしか出来なかった。
 どうしようもなくなった俺は、当たり前のように死に場所を探し彷徨った。
 適当な駅を降り、まるで廃人のようにひたすら歩き続けた。
 その時……どこからか声が聞こえたんだ。

『コッチニオイデ』と、囁く声が。

 俺は声に誘われるがまま、森に入った。
 その時、神童はいなかった。神樹は神童がいない隙を狙って、俺を呼び寄せたんだろう。
 俺の目の前にもの凄くでかくて歴史を感じさせるような大樹が、静かに立っていた。
 そして、その樹は……俺の脳裏に直接語りかけてきたんだ。

 ――ソノ苦シミカラ解放サレタイカ?
 全テ忘レ、幸福ヲ手ニ入レタイト思ワナイカ?
 サスレバ我ノ命ヲ聞ケ。
 我ガ、貴様ヲ救ッテヤルゾ……

 背筋がゾッとするほどの、低くておぞましい邪悪な声が頭の中に響き渡る。俺は最初、カミさんと息子の死でついに頭がおかしくなっちまったんだなぁ……なんて思いながら、ボーっとその場に立ち尽くしていたんだ。
 ――けれど、樹は語り続ける。次第に俺は『これは幻聴じゃない』と気が付く。
 いつしかその声は、俺の脳を完全に支配していた。
 俺は両目から水が垂れ流しになっているのを、まるで他人事のように感じながら、ただただその声に耳を澄ませた。

 ――苦シイノカ? 苦シイノダロウ?
 苦シイナラバ、ソノ実ヲ喰エ。

 俺は樹の枝にたった一つだけ、実がぶら下がっているのに気付く。赤黒く変形したその実は、見るからに怪しげで奇妙で禍々しい。
 一見、毒でも入っていそうにも見える。
 苦しいならば、その実を……
 いくら俺でも、そんな得体の知れない物は食べられない。
 だから俺は、その実をただじっと見つめていた。
 痺れを切らした神樹が唸り声をあげる。闇をも引き裂くような激しい風が、荒々しく草木を吹き倒す。あまりの強風に足がよろけそうになった。
 ――突然、俺の身体が空高く舞い上がる。
 禍々しい実がいきなり枝から離れ、まるで意思を持ってるかのように口内に飛び込んできた。
 く、苦しい! 俺の喉が実を飲み込む事を拒絶する。しかし、見えない何かが、俺の喉に実をグリグリと強く押し込んだ。隙間から胃液が吐き出される。
 喉につっかえて息が……! 窒息してしまう!
 俺は口内に溜まった唾液で、その実を必死に飲み込み、流し込んだ。
 赤黒い実は食道を伝って、無事、胃の中に到達したようだった。
 俺が実を飲み込んだのを確認したのか、俺の身体は地面に強く叩きつけられた。
 俺は涙と汗と鼻水まみれで顔がぐちゃぐちゃになっていて、あまりの苦しみと恐怖に失禁してしまっていた。

 俺は何を飲まされたんだ?
 あの気味の悪い実は、一体……

 そう思った瞬間、俺の身体に変化が起きた。感情が高揚し、激しく恍惚する。
 まるで麻薬のような凄まじい快感が、俺自身に襲いかかってきた。俺の細胞の全てが進化をしたように、著しい成長を遂げる。
 俺は頭を抱えてその場に倒れ込んだ。
 痛いからじゃない。苦しいからじゃない。
 悲しいからじゃない。辛いからじゃない。
 ただただ、気持ちが良いからだ。
 全てから解き放たれるような感覚に、俺は一切逆らう事なく、ゆっくりと身を委ねた。

 ドウダ、美味デアロウ? 生命カラ作ラレタ実ノ味ハ……
 モット欲シイカ? モット喰イタイカ?
 ナラバ我ニ仕エヨ……我ノ手足トナリ動ケ。
 貴様ニシカ出来ナイ事ダ。
 未熟デ弱ク、惨メデ憐レナ人間ヨ。
 貴様ハ我ニ選バレタノダ。
 存分ニ新タナ生ヲ楽シムガ良イ……

 死神の声が聞こえる。あの実はきっと、禁断の果実。人知を超えた、呪われた実だ。
 けれど、俺は既にあの実の味の虜になってしまっていた。
 悪魔のような樹の声が、今ではとても心地良い。
 もう、カミさんと息子なんてどうでもいいや。あいつらには運がなかったんだ。そう、死んでしまう運命だったんだよ。
 奴らは、それに打ち勝つ強さも抗う術もなく死んでいった敗者なのだ。
 しかし、俺は違う! きっと俺も、本当は一緒に死ぬ定めだったんだ。……けれど生き残った。神は、俺に味方したのだ。
 俺はゆっくり顔を上げた。
「へへへ、ありがとよぉ! 俺に気付かせてくれて……さぁて、俺は一体何をすればいい?」
 俺はあの日、神樹の一部となった。

「――そうして今、俺は此処にいるってわけだぁ……なぁ、神樹よ?」
 ようやく神樹の元に辿り着いた俺は、神樹にそう語りかけたが、奴は何も言わず静かに俺を見下ろすだけ。
 俺はそんな神樹に対し、苛立ちを隠せず、荒々しい言葉をぶつけた。
「もうわかってんだろ⁉ 神童だよ! あいつに見つかっちまった! なぁ、二人であいつをぶっ殺そうぜ。で、あんたがこの世界を牛耳るんだよ! この世界の全てを俺達のもんにすんだよ!」

 ――ちりん。

「ふふふ……」
 上の方から、クスクスと笑い声が聞こえる。俺は急いで、樹の上を見上げた。
 そこには、枝に座り、ブラブラと足を揺らしながら、楽しそうに笑っている神童の姿があった。
「随分と遅い到着でしたね。待ちくたびれてしまいましたよ。私、一足先にここにきて、神樹と少々お話をしておりました」
『ねぇ、神樹?』と言いながら、奴の葉を優しく撫でる狐面。
「てめぇ……神童!」
「いやぁ、しかし本当に愉快です。貴方、とても面白い方ですね。私、先程からずっと、笑いが止まらないのですよ」
 狐面は、わざとらしく鈴の音色をちりんちりんと鳴らすと、ケラケラと笑いながら足をばたつかせた。
「馬鹿にしやがって……」
「ぶっ殺す? 牛耳る、ですか? ふふ、可笑しい。――やってみて下さいよ。私は逃げも隠れもしませんよ。さぁ、早く」
 狐面は樹から飛び降りると、ゆっくり俺に近付いて来た。あまりの気迫に俺は……一歩、また一歩と後退る。
「どうされたのです? 震えてるみたいですが? 相手は貴方のいう糞ガキですよ? 何も恐れる事などないじゃないですか?」
「し、神樹! 早くこいつを殺っちまってくれよ! あんたなら簡単な事だろう⁉」
 俺の言葉に神童は少し動きを止め、後ろに振り返ると、神樹をじっと見つめた。
「神樹よ、貴方はどうしたいのです?」
 神童の問いかけに神樹は沈黙を貫く。けれど、神童は気にする事なく話を続けた。
「さぁ、愚かな神樹よ。ならば、選ばせてあげましょう。その男と組んで、この世界と私を……真の意味で敵にまわしますか? それとも……今すぐその男の罪を喰らい、今まで通り、この世界で私達と共に生きますか?」
 神童は再び宙に浮かび上がり、何も言わない神樹に近付くと、乱暴に奴の枝をへし折った。
 神樹はけたたましい唸り声を上げ、著しく葉を揺らした。
「……おや、どうしました? 早く答えて下さいよ? 私、待たされるのがあまり好きではないのです。それに……こんなに貴方にとって条件の良いお話、そうはないと思いますが?」
 神童は、口元に手を添えてクスクスと笑う。
 神樹は、さっきまでの叫びがまるで嘘かのように、シンと静まり返っていた。
「……おい、おいおい! 神樹、お前まさか迷ってなんかいねぇよな⁉ 俺ら今まで長い間、上手くやってきたじゃねぇかよ⁉ おい、てめぇ……聞いてんのかよ!」
 俺は声の限り叫んだ。しかし、その返事を返してきたのは神樹ではなく、目の前にいるチビでいけ好かねぇガキだった。
「えぇ、神樹は全く迷ってはいませんよ」
「……じゃあ!」
 その時、四方八方から伸びる木の枝に捕らえられ、俺はあっという間に逆さ吊りにされた。硬く頑丈な木の枝が俺の足や、首などにきつく巻きつく。
「……お、おい。嘘だろ⁉」
「嘘ではございません」
 神童は俺に背を向けた。
「神樹は貴方を喰らう事に決めたようです」
「う、うわああああああああぁ! やめろ! やめてくれぇ!」
 神樹は、樹の中心部に真っ暗なブラックホールのような【口】を生み出し、俺をそこに放り込む。それは、俺がいつも見てきた風景だ。
「やめ……」
 神樹の口内の中、俺は凄まじい力によって、肉体から影を引き剥がされた。
 残った肉体は、鋭い歯により、バラバラに噛み砕かれる。きっと、飲み込みやすいようにだろう。
 それとも……消化しやすくする為、だろうか?

 ――痛くはない。
 苦痛ではない。まるで無に還ったようだ。
 分離された影の方に神経が通っているのか?
 いや……そうではない。
 神経など、もはや俺には存在しないのだ。
 どうしてだ……? 涙が止まらねぇや。
 俺はずっと孤独だった。だから、神樹に縋りつく事でしか生きていけなかったんだよ。
 悲しくて、辛くて……忘れてたなぁ、こんな感情。

 ――あぁ、意識が遠ざかる。

 けど……悪くねぇかもな。
 目が覚めた時、きっと……
 俺は全ての苦しみから
 解放されてるんだから。

「……悲しくも愚かで軟弱な人間よ。己の罪を全て神樹に預け、貴方が再び、嘘偽りもない笑顔で笑えるように……私は切に願おう」
 最後に、神童の声が聞こえた気がした。

***

「ふぅ。終わりましたか」
 神童の視線の先には、影となった大山鴈治郎の姿。
 その影はどこに誘われるのか、目的地も定まらぬまま、この場を後にする。
 神童は狐面を外し、鋭く樹を見据えた。
「……神樹。懲りない貴方の事だ。きっと隙あらば、同じ事を何度も繰り返すだろう。しかし」
 神童は先ほど折った神樹の枝を、まるで墓標のように地面に突き立てた。
「次はないぞ……覚えておけ」
 神樹はまるで意思を持たぬように静観し、神童の言葉を静かに聞き入れる。
 神童は墓標の先端に狐面をかけると、先程とは打って変わったように、優しく神樹に語りかけた。
「この世界に訪れた者を利用し、解放するでもなく、更なる苦しみを与えようとする事を、私は絶対に許さない。……わかりましたね?」
 神樹は神童の頭に沢山の葉を散らす。風はそれを優しく揺らし、木の葉は神童を柔らかく包み込んだ。
「……良い子です」
 神童は笑う。とても優しく愛くるしい表情で。
 大人のような子供のような、不思議な魅力を持つ彼は……この世界と同様に、神樹を愛していた。
 ――彼らは一つの家族なのだから。

 ゆらゆらと木の葉が舞う中、神童は神樹に近付き、果実を一つもぎ取った。神童は光を持たぬその瞳で果実を見つめ、それを齧る。
 神童の顔は一瞬のうちに歪み、苦渋の表情を作る。少年は口に含まれた実の欠片を地面にペッと吐き出した。
「やはり不味いです。……一体、これの何が良いのかが私にはわかりません」
 神童は自身の頭をポリポリ掻くと、残りの実を神樹に喰わせた。
 神樹は嬉しそうに懸命に葉を揺らす。すると、先程神童に折られた枝の根元が素早く再生を始めた。
 神童は呆れたように溜息を吐く。
「まったく貴方は……このような味にここまで魅了されているようでは、きっとまた同じ事の繰り返しですよ? 本当に救いようが無い」
 神童はふと墓標にかけられた狐面に目を移した。
「この狐面も随分と古くなりましたねぇ。そろそろ新しいモノに変えましょうか?」
 神童は目を閉じ、幾千もある獣の面を想像する。
「……うーむ。何だかしっくりきませんねぇ。やはり私には、この狐面が一番合っているという事なのでしょう」
 神童が狐面を手に取り、それを被ると、墓標の目印にと突き立てられた太い枝は、淡い光を放ちながらゆっくりと消え去った。
「……次は五年後、ですね? 斎藤愛子さん。その日を楽しみにしておりますよ」
 神童は小指をじっと見つめ、そっと口ずさむ。
「指きりげんまん嘘ついたら針千本――」

六 One Life〜

 ある日曜の午後。私はカフェで一人、注文したエスプレッソを口にしていた。
 友人とショッピングを楽しんだ後に入った、とても可愛くてお洒落なカフェ【souvenir】。
 赤い屋根のその店は、内装まで細かいこだわりを見せている。私のお気に入りの場所だ。
 友人は彼と約束があるからと言って、一足先に帰っていった。幸せそうな友人の顔を見ると、何だか私まで幸せな気持ちになる。
 しかし! 私も最近は彼女に負けず劣らず、すっごく幸せなのだ。
 私は今、とても素敵な人に片想いしている。
 そんな彼に少しでも釣り合いがとれるようにと、普段から大人っぽくお洒落な友人に頼み込んで、ショッピングに繰り出したというわけだ。
 ショップ袋から覗く、大人っぽくて綺麗なワンピースに、靴に、小物。
「……気に入ってくれるかなぁ?」
 なんて一人でにやけつつ、ふと窓の外に目を向けてみた。
「ん? あの人……何だろ? 何か……」
 視線の先には一際オーラを放つ人物がいた。沢山の人達の中心にいる青年は、輝くばかりの笑顔を見せる。そんな青年の笑顔に釣られてか、周りの人達も皆、笑顔で溢れ返っていた。
 ここからは話し声などは勿論聞こえないのだが、そこにいる人達の表情から、会話が弾んでるのは一目瞭然だし、何だかとても楽しそうに見える。
「ああいう人いるよね。皆の人気者で、誰からも愛されるっていうか。けど……何だろう? 何て言うか、う~ん」
 私は肘をつき、両手で頬を包みながら、ボーッと中心にいるその人物に視線を注いでいた。
 やがて、その青年は手を挙げると……一人、人の輪から離れた。
 青年はポケットに手を突っ込みながら、リズミカルにスキップをしている。
 何か……変と言うか、不思議な人だなぁ。
 しかし、さっきからずっと気になっているのだけれど……茶色の猫っ毛で笑顔が素敵な青年は、何だかとても誰かに似ているような気がした。私はそれが気になり、つい観察を続けてしてしまう。
「あっ」
 青年はお尻のポケットの中に無造作に突っ込んでいた封筒を道の上に落とすが、既に周りには誰もいない。勿論、本人は落とした事に気付いていない。
 呑気にスキップをしていた青年は、今は立ち止まって小さな花を眺めていた。
「どうしよう……あれ、大事なものだったら困るよね? ……あ~、もう!」
 私は直ぐにお会計を済ませると、急いで外へ飛び出した。

 良かったぁ……まだいた。
 しゃがみこんで、小さな花を楽しそうにツンツンとつついている青年。私は息を切らせながら話しかけた。
「あ、あの! これ……落としましたけど!」
「……お前、ちっこくて可愛いなぁ。何て名前の花なんだろう? あ~! 花の名前、もっと勉強しとくんだったなぁ。残念、無念!」
 自分の世界に没頭して、私の声などまったく聞こえていないようだ。否、聞く耳を持たない青年に……私は呆れながらも、もう一度呼びかけた。
「そこの背が高くて、茶髪で白いTシャツ、黒のパンツにショルダーバッグ! そんでもって、今花に話しかけてる人! これ、落としましたよ⁉」
 青年はピクリと反応し、自分の姿を上下に確認すると、しゃがんだまま後ろに振り返る。
「え? もしかして俺?」
「そう! 貴方です、貴方! これ」
 私は溜息を吐きながら彼に近付き、封筒をそっと差し出した。
「……あ。あーっ! ごめん! 全然気がつかなかった。花に夢中でつい」
「大切なものだったらいけないと思って。良かった、無事に渡せて」
「大切? んにゃ? ぜーんぜん。それ、中開けてみ?」
『……え? 私が開けるの⁉』と思いながらも、『ほれほれ、早く』とか言うものだから……私は仕方なく封筒を開け、中に入ってる白い紙を開いてみた。
「……何、これ?」
「え、ただの紙だよ?」
「……だから、何で封筒の中に何も書いてない白紙の紙を入れてたの?」
「今日の占い! ラッキーカラーが白でラッキーアイテムが手紙だったんだ。で、合体させてみましたっ!」
 しゃがみこんだまま両手でピースを作り、ケラケラと笑う青年に、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「とにかく申し訳ない! 感謝、感謝!」
 青年は立ち上がり封筒を受け取ると、おでこの前で両手を合わす。私はその仕草が何だか可愛らしくて、つい笑ってしまった。
「あれ? 俺、何かおかしかったかなぁ?」
 右手を後頭部に当て、左斜め上を見ながら考え込む青年は……やっぱり少し、と言うか……かなり変わった青年だけれど、悪い人ではない事がよくわかる。
 ……そして、誰に似ているのかもわかってしまった。
「ふふ、違うの。貴方、少しだけ私の知り合いに似てて! それでちょっとおかしかったの!」
 あの人の事を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれる。
 ただそれだけで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて、私は相当重症患者だ。
「……ふぅん。君はその人の事が好きなんだね?」
「そうなの! すっごく大好き! ……って、何言わせるの! いきなり!」
 青年は、『顔に出てるよ~? 幸せオーラ!』なんて言いながら、子供のようにニシシと笑う。
 彼はとても不思議で、誰の目から見ても魅力的に映るような天真爛漫な青年だった。

 彼に、封筒を拾ってもらったお礼がしたいと言われたけれど……大した事をしていない私は、丁重にそれをお断りした。
 すると、彼は近くの自販機の前に行き、小銭を入れて勢いよくボタンを押した。
「はいよ!」
 彼は私にペットボトルを手渡す。
「あ、ありがとう」
「どう致しまして! これでお礼したかんね? 後で何か請求しても受け付けないからね」
「あはは! そんな事しないってば! でも、何でオレンジなの? オレンジジュース普通に好きだけど」
「君、炭酸駄目でしょ? 顔を見ればわかる! 俺ってば、エスパーだからね♪」
「残念! 炭酸、別に嫌いじゃありません! 寧ろ好きだったりして」
「エェ⁉ 嘘⁉ って、炭酸駄目なの俺だった~! じゃあ替えっこしよう!」
『んっ』と言って、笑顔でそれを渡す彼に、私は何だかもう笑いが止まらない。
 変! 変すぎる! 変わってるよ、本当! けど……わかってしまった。この人が皆に人気者の理由。
 炭酸……別に苦手じゃないんでしょう?
 初めから炭酸とそうじゃないものを両方買ってるんだよね? 選べるように。気を使わせないように。
 そんな不器用な優しさが、本当にあの人に似てると思った。
「ありがとう!」
「い〜え♪」
 私は彼と、近くの公園のベンチに座った。
「君、名前は?」
「愛子だよ。貴方は?」
「俺の事は皆、かーくんと呼びます。よろしくね! あいあい!」
「あいあいって!」
 思わずジュースを吹き出しそうになった。
 かーくんと私は同じ十九歳だったので、共通の知り合いがいたりして話は大いに盛り上がった。
 彼はとても個性的で、ふわふわした部分もあるけど、人の気持ちを深く読み取れる優しい人だと思った。
 甘え上手、愛され上手な彼は、人気者の素質を充分に兼ね揃えてる。
「で、あいあいの意中の彼ってどんな人なの? 言っちゃいなよ♪」
 意気投合し過ぎて恋愛話まで発展しちゃう二人は、もはや初対面ではなく古くからの旧友のようだった。
「えへへ……んとね! 黒髪で優しくてかっこよくて大人で紳士的で、でも子供みたいなところもあって、そのギャップが凄く可愛いの! とにかく本当に素敵な人なんだ~!」
 私はあの夜の出来事を、包み隠さずかーくんに話した。
「『君が死んだら俺が悲しむ』、かぁ。……ふふ、何かくっさいなぁ、その人! あいあい、意外とロマンチストなんだねぇ」
「あ~、ちょっと! 意外とってどういう事よ~!」
「でも、俺も見たかったなぁ~? マスカラ落ちまくって不細工パンダだった、あいあい!」
「かーくん、殴るよ」
「嘘、嘘! 可愛いよ、あいあいは!」
「かーくんに言われても嬉しくないです~」
「それはどうもすみませんでした~」
 顔を合わせて大笑いする私達。異性というより同性のような感覚で話が出来る。単に彼が誰とでも仲良く出来るスキルを身につけているのかもしれないが、彼との会話は妙に心地良かった。
「かーくんは好きな人とかいないの?」
「んー? いるよー」
 彼は空を見上げながら、優しい表情でそう答えた。
「かーくん、好きな人いるんだ! どんな人⁉ ね、どんな人⁉」
「んっとね……水、みたいな人かな?」
「水?」
「そ、水。水のように透明で、とても綺麗に澄んでいる。美しい山に流れる清流のように……流れに逆らわず、ただ穏やかに。水は生命を生み出す。人々を癒す。誰からも必要とされ、愛される。正に彼女を表現するのに相応しいって思う」
 思わず見惚れてしまうくらい、愛おしそうに想い人を語る彼。
 彼の表情はとても優しく、柔らかい愛情の中に生まれる、情熱的な感情がヒシヒシと伝わってきた。
「優しくて泣き虫で……けど、誰よりも強くて、誰よりも美しい。そんな人だよ」
「おぉ……! かなり惚れ込んじゃってるね」
「うん。俺は彼女の事が、誰よりも一番大好きなんだ」
 極上の笑顔で、そんな風にはっきりと言い張る彼の事を凄くかっこいいと思ったし、少し話を聞いただけでもよくわかる。
 こんなに素敵な彼に、ここまで愛される女の子は、本当に幸せ者なのだと。
「あはは! かーくんも充分クサいし、ロマンチストじゃない! 人の事言えないよ?」
「あー……それ、返す言葉もございません」
 彼は眉を下げ、照れ臭そうに笑った。
「けど、いいなぁ。私もカズトくんにそんな風に想ってもらいたい」
「……カズトくん? あいあいの想い人の名前って、カズトっていうの?」
 かーくんは首を傾げながら聞き返した。
「うん! ヒトリって書いてカズトって言うんだよ」
「ヒトリって書いてカズト……そうなんだ!」
 彼が何故かとても嬉しそうににっこりと笑うから、私もつられて笑顔になった。
「かーくんの好きな人が水みたいな人だとしたら、かーくんは何だかお日様みたいな人だね!」
「お日様って俺が? ははっ、あいあいは良く言い過ぎだって!」
「だってかーくんの笑顔って陽だまりみたいなんだもん! 何だか凄く温かい。そしてね、いつも皆を優しく照らしてる……そんな感じがするの! 本当に」
「……あいあい、もしかして俺の事好きになっちゃった? ごめんね。気持ちは嬉しいんだけど俺には心に決めた人が」
「ならない、ならない」
 時折かーくんのボケにつっこんだりと忙しいが、それはそれで楽しくもある。
「じゃあさ、あいあいの好きな人は……例えるなら、何だと思う?」
 かーくんが優しい表情で聞いてきた。
「え? カズトくん? そうだなぁ……」
『うーん……』と真剣に考えて見るが、思い当たるものが二つ。
「二つ思いついたけど……駄目だ! 一つに絞れない!」
「いいから、言ってみ?」
「……んー。じゃあ、まずは星……かな?」
「星?」
「うん、綺麗で夜空で一際輝いてる星! けど、どこか儚げで、笑っていても寂しそうな時があって……それで、突然消えちゃったりしないか心配になる」
「……星か。成る程」
「あと一つはね、風! 不思議なの。どこにいても彼を感じる。暖かくて、いつだって優しく私を包み込んでくれるの。けど……やっぱり風に乗ってどこかに飛んでいっちゃわないか、不安」
 彼は、『心配や不安ばっかりじゃん!』とケラケラ笑う。
「だって、そう感じるんだから仕方ないでしょう⁉ もう~」
「そっかぁ。……じゃあ俺にも、思った事言わせてくれる?」
「? いいよ?」
「あいあいから聞いた情報でしかないけど、俺はその人の事……樹みたいな人だと思ったよ。初めは小さな芽で、弱く、脆いかもしれない。けれど、成長していくにつれてどんどん強くなって、いつかは誰にも倒されない強さを得る。……人は樹がないと呼吸をする事さえ出来ない。だから樹は……とても、とても優しい植物なんだ」
「ん? ……ん? どういう事? カズトくんはとても弱い人って事?」
「世界に一つしかない樹。『ヒトリって書いてカズト』より、ずっとかっこいいでしょ?」
「よくわかんないけど、世界に一つしかない樹か……うん、凄くかっこいい!」
 私がそう言うと、かーくんは満足そうに顔を綻ばせた。

「あ、いっけね。もうこんな時間じゃん! 俺今日、家庭教師のバイトあるんだった!」
「家庭教師? かーくん頭いいんだねー!」
「いやぁ、そんな大層なもんじゃなくてさー。友達に頼まれたの。妹、志望校相当危ういらしいんだよね」
「そうなんだ! じゃあ、かーくん先生! お勉強、頑張ってきて下さい!」
「おっす! 了解!」
 かーくんはベンチから立ち上がると、私の目の前に立ち、そっと笑った。
「今日、あいあいと会えて本当に良かったよ。ありがとさんさん」
 カズトくんより少し背が高い彼は、にっこり笑いながら私の頭をポンポンと撫でる。
 あれ? 何だかダブる……
「あいあいさぁ、もっと押して押して押しまくっちゃえばいいんだよ!」
「え? いきなり何⁉」
「だってあいあい、積極的なように見えて結構消極的だしさ? 今時珍しいよね。だから俺からアドバイス!」
「……無理だよ。嫌われたくないもん」
「何でさー?」
「思ってる事を全部そのままストレートに伝えちゃうと上手くいかないよ。単なる自己主張の激しい女になっちゃわない?」
「う~ん。……けどさ? 人生何があるかわかんないからね。今頑張らないといつか後悔するかもしれないよ?」
 かーくんは、腕を『ん~!』っと思いっきり空に伸ばしながら、こっちに振り返ると……
「俺みたいにね!」
 そう言って、笑った。
 背後に輝く太陽にも見劣りしないくらいの眩しい笑顔で。
 その言葉は、何だか少し悲しく感じるものだけど……彼の笑顔はまるで嘘偽りを微塵も感じられない。
 たまに、泣いてるように笑っているあの人とは違い……彼の笑顔は本物だった。
 それは本当に【完璧】な笑顔だった。

「じゃあね、あいあい! またどっかで会えるといいね~!」
「あ、ちょっと待っ……!」
 私が声をかけるも虚しく、彼の姿はあっという間に見えなくなった。
「行っちゃった。連絡先聞こうと思ったのに。……ま、いっか。かーくんとはまたどこかで会える気がするし。何でかな……? 何だか不思議」
『とにかく私も、一度家に帰って支度しないと!』、そう思い、私はベンチから立ち上がる。
 蝉の鳴き声が蒸し暑いこの季節を、更に蒸し暑く感じさせた。

 ――私はこの夏、色んな出会いをした。

 太陽のような青年は私の前に突然現れ、突然消えてしまったけれど……きっとまた会えるよね?
 私はそう信じてる。
『本当にいい出会いをしたなぁ』なんて、心の中で思いながら、私はゆっくりと遊歩道を歩く。
 印象深い最高の笑顔を思い浮かべながら――

***

「カズトくん、ごめん! 遅れちゃって……」
「大丈夫。俺も今来たところ」
 カズトくんは優しく笑ってそう言った。
 ……やっぱり違うなぁ。似てるようでまったく違う。
 いくら似ていたとしても、かーくんがカズトくんなら、きっと私……こんなにも好きにならなかったと思う。
 私の頭に触れる優しい感触も、
 耳を伝って心臓に直接触れる甘い声も、
 この人だけのものだ。

 けどね、私……
 日曜の夜以外の彼を知らないの。
 普段何してるかもわからないし、聞く勇気がない。
 連絡先だって知ってるのに、連絡出来ない。
 ……臆病になる。
 深入りして嫌われるのが怖いんだ。
 信用している筈なのに、いつも疑ってしまい……悲しくなったり寂しくなったり、不安になる。
 彼女でもないのに……何だか可笑しいよね。
 とても滑稽だ。好きになればなるほど、欲張りになるだなんて。
 ただの友達なら、こんな風にはならないのに。
「アイコ? どうしたの?」
「……ん? 何でもないよ?」
『そう?』と言うカズトくんの隣にそっと座り、私は夜空を見上げる。
 綺麗過ぎる満天の星空に、何だか少し泣きそうになった。

「……アイコ、今日何だか雰囲気違うね」
「え? ……そうかな?」
「うん、何だかいつもより大人っぽい。よく似合ってるよ。可愛い」
「……ありがとう!」
 彼の言葉で思わず顔が綻ぶ。幸せな気持ちになれる。
 それ以上を望むなんて贅沢だ。
「見て、アイコ」
 彼が指をさした先には、夜空に輝く夏の大三角。
 今日は星がよく見えるので、こと座のベガとわし座のアルタイル、二つの星の間を天の川が流れているのがよく分かる。
「……織姫と彦星よりずっとマシか」
「え? 急にどうしたの?」
「ふふ。なーんでもない!」
 単純なのかもしれない。けどこれでいい。
 貴方と一緒にいられるこの瞬間が、何より幸せなのだから。

***

 はくちょう座のデネブは、ベガとアルタイルよりも暗く目立たないが……それでも、必ずそこにいる。
 実際には太陽の五千倍もの光を放つ、明るい星なのだけれど……夜空では自ら、七夕伝説の引き立て役をかって出てるのかもしれない。
 ――いつも見守ってるよ、ずっと。
 
 開かれた窓から夜空を見つめる青年は、とんでもなく不器用な兄と、それに負けず劣らず不器用な女性の事を想い、空に向かって優しい笑みを浮かべた。
「……ある意味、似た者同士だね」
「先生~! ここわからない」
「……ん? あ~ごめんごめん! どれ?」

 ――優しい二人に、幸あれ。

七 遥かなる約束

 桜の花びらが舞い散る春。優しい桃色の季節。
 少年は忘れられない不思議な体験をした。

***

 眩しい太陽の暖かい陽射しが少年を包み込み、寒い冬から身を守っていた植物や生物も、春の到来に喜びを隠せずひょっこり顔を出す。
 少年は季節の中で、春が一番好きだった。
 父親は暖かくて仕事中眠くなるだとか、母親は毛虫やミミズが嫌だとか言うけれど、暖かい事も、寝る事もとても大好きで、虫だってへっちゃらな少年にとっては、何の不都合もなかった。

 とある日曜日の事だ。
 少年は父親と母親と五つ上の兄と一緒に、弁当を持って地元にあるお城の公園に満開の桜を見に来ていた。
 兄が屋台の焼きトウモロコシが食べたいと言うので、母親からトウモロコシ二つ分の金を貰い、二人で一緒に並んでいると、少し遠くにある、長い石の階段を登る変な人物を見つけた。
 真っ白な長い髪に、真っ白な着物。
 兄に『変な人がいるよ?』と声をかけてみたけれど、兄は『あそこには誰もいないぞ?』と言うではないか。
 少年は『おかしいなぁ、確かにいるのに』と首を傾けた。
「変なやつ~」
 兄は再び前を向き、焼きトウモロコシの順番が来るのを、今か今かと待ちわびている。少年はその間も階段からずっと目を離せずにいた。
 すると白い着物の人物はそっと振り返り、こちらを見た。
 あっ……目が合ってしまった。
 少年は目を逸らそうとしたが、何故か逸らす事が出来ず……少年と着物の人物は、互いが互いを見つめ合う形となった。
 着物の人物は女性のようで、にっこりと笑うと少年に手招きをした。

 ――オイデ。

 ここからだと声自体は聞こえないけれど、何故か少年にはそう聞こえた気がした。
 少年はその声に誘われるように、ゆっくりと列から離れる。
 ちょうど順番が来て、焼きトウモロコシを受け取っているところだった兄の、少年を呼ぶ声が聞こえたけれど……少年は沢山の人の中を掻い潜って、その階段を目指した。

 少年が階段の下に辿り着くと、階段の一番上で待っている白い着物の女性……
 女性は少年の姿を見つけると、またにっこりと笑い、手招きをする。
 そして、少年に背を向けると、再び歩き始めた。
 少年は急いで石の階段を駆け上がった。階段には少年以外にも人がいたが、やはりあの女性の姿は少年以外には見えていないようだった。
 ――どうしてだろう?
 階段を登り終えると、少年はすぐに女性の姿を探した。
 …………いた!
 女性は奥に見える大きな樹の後ろに隠れて、こちらを覗き込んでいた。
 ひょいっと白い手が伸びる。
 白い手はユラユラと揺れていた。『こちらにおいで』と、呼んでいるようにも見えた。
 その頃になると少年は、『あの人、もしかして幽霊なんじゃないか?』と、少しだけ怖くなった。
 しかし、まだ小学一年生の少年は、未知なるものに対する恐怖よりも、好奇心の方が遥かに勝っていた。
 もしもあれが、本当に幽霊だとしたら凄い事だ。
 明日クラスの皆に『幽霊を見たぞ!』なんて自慢し
てやる!
 と、少年は臆する事なく、張り切って進む事にした。

 ゆっくりゆっくりと近づいていくと、白い手がフッと樹の後ろに隠れる。
 そしてそこから、聞き取りにくいくらい小さな声で『ま~だだよ~』と、確かに聞こえた。
 これじゃまるで、かくれんぼだ。
 少年は思った。残念だけど、俺は隠れるのも見つけるのも得意なんだ! 幽霊だって人間の子供だって一緒さ。俺があいつを捕まえてやる!
 ……あれ? でも、幽霊って触れるんだっけ?
「ま、いっか!」
 樹の前に立った少年はそれに捕まると、そっと裏側を覗き込んだ。
 あれ? ……誰もいない。
 少年は恐る恐る樹の後ろ側に回ってみた。
 けれど、やはり誰もいない。
「ここは一番奥の樹だし、他に隠れる場所なんてないんだけど……おかしいなぁ」
 樹の周辺の土の上をゆっくり歩くと、端の方でおかしな違和感を感じた。近付いてみると、すぐにその違和感に気が付いた。
 ――穴だ。 大きな穴が開いている。
 少年はその穴を覗き込んでみたが、かなり深いのか暗くてよく見えない。
 もしかして、幽霊はこの穴の中に隠れているのかなぁ?
 そんな事を思いながら、少年は辺りを隈なく調べてみるが、やはりこの穴以外に他に怪しい箇所は見当たらない。
 そして唐突に『そうだ!』と叫ぶと、少年は何か閃いたかのようにニヤリと笑う。少年は、穴に向かって大きな声で叫んだ。
「も~い~か~い!?」
 穴からは何の返答もない。スンと静まり返っている。
「……あれぇ? やっぱり穴の中にはいないのかなぁ?」
「も~いいよ」
 突然真後ろから聞こえてきたその声に驚き、少年は急いで振り返る。
「見~つけた」
 白い着物の女性は、にっこり笑ってそう言うと、少年の胸のあたりをトンッと軽く押した。
 少年は、そのまま背後にある穴の中に転がり落ちた。

 ――穴はかなり深くて、狭い。
 身体中が土によって作られた壁にぶつかり、所々擦り切れ痛むが、スピードに乗って転がり続ける自分を止める事など到底出来ない。
 しかし、そのような惨事に対面しながらも、何故か冷静な少年は、納得が出来ない。
『見~つけた』は、鬼である俺のセリフなのに!
 そんな事を思いながら、少年はまるで不思議の国のアリスのように、ゆっくりと深い穴の中に飲み込まれていった。

***

「――んっ、……あれ? 幽霊……は……?」
 少年は気を失っていたのか、それとも、少し眠ってしまっていたのだろうか。ズキンと痛む頭に手を添える。
 半袖のシャツから剥き出しになっているその華奢な腕には、軽い擦り傷と切り傷が目立った。
 しかし、普段からよく怪我をして家に帰るわんぱくな少年だ。たいして気にもせず、立ち上がり、服に付いた土を払った。
「……う、わぁ!」
 目の前に広がる景色に、少年は驚いた。一面に広がる緑に一瞬にして目を奪われる。
 ここは、どこかの山の頂上のようだ。新鮮な空気がおいしくて気持ちいい。思わず、大きく深呼吸をしてみる。
 ピ~ヒョロヒョロ~と、鳶が飛んでいた。
「うわぁ! かっこいい!」
 こんなに近くで見るのは初めてだ。
 生き物が大好きな少年は、目を輝かせながら鳶を眺めていた。

「あ……っ」
 その声に少年は振り返ると、少年と同じ年頃の少女が怯えたような目で少年を見つめていた。
 肩までの長さのサラッとした黒髪に、先程の女性が着ていたような白い着物姿。大きく真ん丸とした目は、うるうると涙を溜めていた。
 両手で大きな白い箱をしっかりと抱えながら震えるその姿は、まるで小動物を連想させる。
 少年は、『何だかリスみたいな女の子だなぁ』と思いながら少女を見つめ返した。
「お前誰? 俺、気がついたらここにいたんだけど……お前ここがどこだかわかるか?」
 少年は少女に問いかけるが、少女はただ震えているだけで何も答えようとはしない。
 少女のウジウジした態度に腹を立てた少年は、強い口調で言い放った。
「おい! リス子!」
「え、……え? り、リス子って……もしかして私の事……?」
「お前以外、ここには誰もいないじゃないか!」
 そう言って、少年は少女に近付く。少女はビクッと身体を揺らした。
「俺はお城にいたんだ。そこで白い幽霊を追いかけていたら、いきなりそいつにおっきな穴に落っことされて、気が付いたらこの山にいた。答えろ、リス子! あの幽霊はどこだ!」
 少年にリス子と呼ばれたその少女は、どうしたらいいのかわからずオロオロする。その態度が、ますます少年の心を苛立たせた。
「おい! 聞いてるのかよ⁉ ちゃんと返事くらいしろよな!」
 少年は少女に詰め寄り、ドンッと肩を押す。少女はその拍子に持っていた白い箱を落としてしまい、中身を思いっきりばら撒いてしまった。
「あっ……!」
「……これって」
 少年は思わず目を見開く。
 そして、その後……少年は何とも言えない複雑な気持ちになった。
 何故なら、少女が持っていた大きな箱の中身が救急箱だったからだ。
 伸縮性の包帯、絆創膏、傷薬、減菌ガーゼなど、沢山の救急用品が土の上に散らばっていた。少女は無言でそれらを集め、箱に戻す。
「これ……もしかして俺の為に?」
 少女は伏し目がちに、小さく頭を下げた。
「……だったら最初からそう言えよな!」
『大体俺は怪我なんてへっちゃらなんだよ!』などとブツブツ呟きながら、少年は土を払い、落ちている物を拾い始めた。
「ご、ごめんなさい……」
 少女は静かに、そして申し訳なさそうに少年に謝る。そんな少女の姿を見て、少年は『あ~、もう!』と、自身の髪を掻き毟りながら……
「俺も……ごめんな」
 とぶっきらぼうに、少し照れ臭そうに謝罪した。

 かなり大きな救急箱だったので、勿論、中身も沢山詰め込まれていたようだ。
 全て集めるのにも、蓋が閉まるように、拾ったそれらを上手くまとめて中にしまうのにも、それなりに時間がかかった。
 少年は落ちている体温計を拾い、渡すと、少女はゆっくりと白い箱の蓋を閉める。どうやら全て回収出来たようだ。
「はー疲れたぁ。やっと終わったぁ」
「あ、ありがとう……拾うの、手伝ってくれて……」
「……お前さぁ、いつもそんな話し方なの?」
「ひ、人と話す事……あまりなれてなくて」
「ふーん。お前、どこの小学校行ってんの?」
「ショウ……ガッコウ……?」
 少女はまるで初めて聞く単語のように、目を丸くした。
「小学校だよ! 遊んだり勉強する場所だよ」
「……ごめんなさい。ショウガッコウ、わからない。勉強は母様が教えてくれているから」
「えー⁉ お前小学校に行ってないの⁉」
 少年はとても驚いた。少年にとって小学校とは、その年齢に達したら誰もが必ず通うものだと思っていたからだ。
「じゃあ……お前、友達は?」
「トモダチ……?」
「いつも一緒に遊んだりするやつの事だよ」
 少女は少し考える素振りを見せてから、ポツリと答えた。
「……母様」
「母様……って、お母さんはお母さんだろ? 友達とはまた別物だろ?」
 少女は悲しそうな顔をしながら黙り込む。少年の言っている事がよくわからないのだ。
 少年は、友がいない少女の事を少し不憫に思った。
「……ま、いーや。俺は森野一人! お前、名前はなんて言うんだ?」
 少年は、このしんみりとした空気を吹き飛ばすかの如く、元気に自己紹介を始めた。
「……わ、私はスズ。……世白……鈴」
「スズ? リスの方がぴったりなのにな」
 少年が笑いながらそんな事を言うと、少女は再び目を丸くする。
「そんな事、初めて言われた……ありがとう」
「いや、褒めてないんだけどな」
「あ、そうなんだ……ごめんなさい」
 少し抜けてる少女の独特なテンポに合わせるのは結構大変だ。しかし、ここは男である俺が引っ張ってやらないと。
 変なところでかっこつけな少年は、少し考える素振りを見せながら、少女の姿を上から下までじっくり観察をし始めた。
「あ、あの……何……?」
 少女は少年の行動の真意を窺い知れず、あたふたとうろたえる。
「ん~……やっぱりリス子の方がピンとくる。よし、今日からお前の名前はリス子だ! わかったか、リス子⁉ 返事!」
「え……?」
「返事!」
 少女は少年の大きな声に驚き、思わず自分が出せる精一杯の声で返事をした。
「は、はい!」
「よし、リス子! 俺がお前を俺の子分にしてやる! これからは俺の事はボスと呼べ! 幽霊を一緒に探すぞ!」
 そう言って少年は拳を作ると、腕を高く上げた。

「……ふふ、何とも威勢の良い少年であろう」
 いきなり背後から聞こえた声に驚き、少年は急いで後ろを振り返った。
「母様!」
 目の前にいる小動物のような少女は、パッと目を輝かせ、その『母様』と口にした白い着物の【幽霊】に飛びついた。
「お前……そいつは幽霊だぞ⁉ 離れろ、リス子!」
「母様は幽霊じゃないよ? 母様だもの……」
 少年は、自分の指示に従わない少女に対し怒りを感じ、思わず声を張り上げた。
「ボスの言う事が聞けないのか⁉」
「聞けない! ボスの言う事……聞けない!」
 少女は、そんな少年に対して必死に反論をする。
 そんな二人の姿を見ていた白い着物の女は、ケラケラと大声を出して笑った。
「スズ、お前はいつからリス子という名前になったんだい? なかなかのネーミングセンスではないか! 森に住む栗鼠達も、お前が仲間に加わり、さぞかし喜ぶ事であろうよ。……そして、そこの少年。私は幽霊などではない。そのような低俗なものと、私を一緒にするでないぞ」
「じゃあ何だよ⁉ 皆に見えてなかったんだぞ、お前の姿! それって、お前が幽霊だからじゃないか!」
「私は、この世界の神だよ」
「かみ?」
「……見よ、少年。あの山のてっぺんに咲く見事な桜を」
 女が指をさす方向には、目を見張るくらいに大きく、それでいて儚くも美しい桜の樹が見える。少年は、思わず感銘を覚えた。
「あれは山桜。その名の通り、山に咲く桜の事じゃ。私の分身でもある。……どうだ? 美しいであろう。お前は今まで、あれ以上に美しい桜を見た事があるか?」
 少年は、気付くと無意識に口を動かしていた。
「――見た事ないよ。俺は今まで、あんなに大きくて綺麗な桜を見た事がなかった」
「ふっ、素直な子じゃ。見たものを見たままに感じられる美しい心。大きくなっても忘れるでないぞ?」
「――うん。忘れない。……あっ! でもお前、何で俺をこんなところに連れてきたんだよ⁉ 俺、穴に落っこちて怪我したんだぞ⁉」
 我に返った少年は、女に抗議した。女は呆れたように溜息を吐いた。
「その程度の擦り傷でゴチャゴチャ言うな。女々しい男だ、まったく」
 少年は女の意見に納得がいかなかったが、女々しいと言われた事に対し、少しばかり恥ずかしさを覚え、言葉を詰まらせた。
 女々しいという意味はちゃんとわかっている。普段から兄によく言われ、意味を尋ねた事があったからだ。
「私がお前をここに寄こした理由か。それは、このスズに友達というものを作ってやりたいと思ったからだよ。お前はきっと、スズの良き友になれよう」
「おい、勝手に決めるなよな! それにこいつは、俺の子分になったんだよ!」
「子分? この山桜の娘が、か?」
「ああ!」
 それを聞いた女は、下品なくらいに大口を開けて笑った。
「良い、良い! やはりお前は良いわ! 私が見込んだ通りの男じゃ! 子分とは、何とも愉快な話ではないか。良いだろう、スズや。お前、今日からこやつの子分になるが良いぞ!」
「だから、もうこいつはとっくに俺の子分なんだから、お前が指図するなよな⁉ 子分は親分の言う事だけ聞いとけばいいの!」
 少年は、偉そうにふんぞり返って見せた。
「……のう、少年。この子は確かに学校へも行ってはおらぬし、友もいない。けど、出来る事もある。この子は本当に利発な子じゃからな。お前には、この山の声が、空を飛ぶ鳶の声が、森に住む生き物達の声が聞こえるかな?」
「そんなの聞こえるわけがないだろ? って、リス子! お前、そんな事が出来るの⁉」
 少年に追求された少女は、恥ずかしそうに顔を赤らめながら小さく頷いた。
「リス子すげぇ! 魔法使いみたいだ!」
 多少生意気と言えど、少年はまだ小学一年生。そんな、真実かどうかもわからないような女の言葉を簡単に信用すると、爛々と目を輝かせ、尊敬の眼差しで少女を見つめた。
「そんな、有能な子を子分にしたお前じゃ。親分として子分を何があっても守ってやらねばのう?」
 女は優しく微笑む。
「それに……お前の未来に暗雲が立ち込めている。きっと、うちのスズがお前の助けになろう」
「暗雲? 何だそれ? お前の言う事、難しすぎてよくわかんねぇけど……わかったよ! 俺がリス子の初めての友達になってやる!」
 少女はパァッと目を輝かせて、少年を見た。
「ありがとう、ボス!」
「いや……もうボスじゃなくてもいいから、ちゃんと名前で呼べよ」
「えっと……じゃあ……かーくん!」
「か、かーくん?」
「うん! モリノカズトだから、かーくん!」
 そう言ってニッコリと笑う少女の笑顔は、まるで愛らしい花のように、一瞬にして周りを幸せな気分にさせた。少年は何だか照れ臭くなり、顔を赤らめた。

 ――これが、俺達の出会いだっだ。

 俺と、スズと、山桜の……一生忘れられる筈のない、出逢い。

 子供の頃の俺は、今とは違ってやんちゃで、人の気持ちなんて考えられない人間だった。
 そんな俺は勿論、友の反感を買い、虐められた。
 しかしそれは、小学生特有の流行りのゲームみたいなものだ。暫くするとすぐに標的はかわり、少し前まで俺に攻撃的な態度をとっていた奴らは、まるで何もなかったように俺に話しかけてきた。
 ――俺は、子供ながらに思った。
 自分以外の人間に攻撃的な言葉を突きつけられる度、または無力な相手を目の前にし、マシンガンをぶっ放すように、手を休む事もなく責め続ける同級生達。
 そんな彼らに感情というものがあるとは、幼い俺には到底思えなくて……急に恐ろしくなった。
 そして、気付いたんだ。
 この世で一番恐ろしいのは、人間なのだと。
『もしかして、自分以外の人間は無感情のロボットなのではないか?』などと、真剣に思い込んでいた時期もあった。まったく、馬鹿な話だ。
 ――けど思わないか?
 何故そこまで言えるのか? 本当に感情とやらがあるのなら、そこまでするか? そこまでやれるか?
 ……何で、笑っていられるんだ。
 俺には、どうしても理解が出来なかった。
 今にして思えば、俺はかなり自己中心的な考えをしていた。勿論、他の人間にも自分と同じように感情はある。人間の姿で生きているロボットなんて、いる筈がないんだ。
 感情を持った上でのあの行動……俺はますます、人間そのものに恐怖を感じ始めていた。
 勿論、そういう俺だって同じ人間だ。
 だけど俺は、あの世界に行った事により……どこかで自分は『他の人間とは違う、特別な人間なんだ』って思っていた。思い込んでいた。
 だから、俺は笑顔の仮面をつけ、人気者になる仕草や会話術を学んだに過ぎない。
 揉め事や口論は嫌いだ。寧ろ人間が嫌いだ。
 俺は、スズ……君に、人間の醜さなんて見せたくなかった。

 今でもふと、頭によぎるんだ。
 君が俺にしてくれたように、俺は君に何かしてあげられただろうか?
 君の世界に、何らかの色をつけてあげる事が出来たのだろうか?
 ――君と交わした沢山の約束。
 果たされたものと果たされなかったものの比率はどのくらいだろうか?
 君は約束がとても好きで、何かある度に『じゃあ、約束ね』なんて言って、笑って小指を絡めたっけ。
 そんな君の笑顔が、愛しくてたまらなかった。
 純真無垢な君は、この世界の何よりも美しかった。
 時に幼い赤子のように愛らしく、そして淑女のように気高く美しい。
 そんな君を愛さないでいられる者などいるのだろうか? ……きっと、いないであろう。
 それはあの世界が証明している。
 君に優しく愛でられた花は、君に喜んでもらう為だけに早く成長し、美しく咲き誇る。自ら寿命を短くしてしまう事に何の抵抗もないのだろう。
 ――君はとても自然に愛されていた。
 君が触れると、水は更に透明度を増し、やがて宝石が散らばったかのように、キラキラと輝き始めるだろう。
 木登りが好きな君を、優しい大樹がしっかりと支える。
 美しい君の歌声は風に乗り、山にいる動物達の子守唄となる。
 そして、そんな君は日に日に美しくなり、俺の心を激しくときめかせた。
 触れてしまえば簡単に壊れてしまうほど繊細な君の心を、『自分だけのものに出来たら』と……そんな事を思った俺は罪だろうか?
 けど、思うくらいは自由だろう? 俺なんかが君を手に入れるだなんて……出来るわけがない。そんな事は嫌ってくらいに理解していたのだから。

 山桜の神は彼女を見守り、深く愛していた。
 人間でも神でもない君は、とても不安定な存在だったけれど一際輝いて見えた。健気に強く咲き誇る桜のような君は……間違いなく、この世界の姫。山桜の姫だったよ。
 そんな君に、俺は相応しくない。……そう思っていたのに。
 彼女は、こんなどうしようもない俺の事を……誰よりも深く、愛してくれたんだ。

 今日も慌ただしい雑踏の中を、俺はまるで透明人間のようにすり抜ける。
 勿論、通りすがりに声をかけられる事もしばしばある。そして、それが誰であろうと、偽りの仮面をつけて笑顔を振りまくんだ。
 人は俺の事を親切だの、要領がいいだの言うけれど……そうじゃない。
 俺は前にも言った通り、人間が嫌いだし、ただ面倒な事が苦手なだけだ。
 ただ笑ってさえいれば、いざこざに巻き込まれないで済む。
 だから……無駄に愛想よく、無駄に優しく、偽りの自分を演じ続ける。
 本当の俺を知っているのは、君だけで良かったから。
 けれど、その君がいなくなって……屍のように、この一年を生きてきたけれど……もう疲れたんだ。
 無理に笑う事も、我慢する事も。
 今日は兄さんに、夜まで帰ってこないように言っておいた。
 兄さんなら大丈夫。きっとあの子が……兄を暗闇の中から救い出してくれる筈だ。
「あいあい、兄さんの事……頼むね。君ならきっと――」
 兄さんの、光の道標となる筈だから。

 今度生まれ変わる時は、人間や生き物なんかじゃなく、自然の一部になりたい。
 本当に、人間だけはお断りだ。あの世で閻魔大王や神に抗議してやる。
 まぁ、そんな存在がいればの話だけど。

 ――君との最後の約束は、やっぱり果たせないみ
たいだ。……ごめんな、スズ。
 遠く、遥か先で約束が果たされる日をただ待ち続ける君を想うと……胸が苦しい。
 温情深い風よ。どうか、この想いを……俺を待つ彼女の元へと届けてくれないか?
「……いつまでもずっと、俺の心は君のものだ」

 君に出会えて、本当に良かった。

「さようなら……リス子」

 優しい君の笑顔を思い出すと、自然と笑みがこぼれる。
 今日、俺はようやく……全てから解放される。

八 消えない想い

「……♪~」
 俺は河原に寝そべると……口笛を吹きながら、じっと空を見上げていた。
 空は優しい橙色に包まれ、河原の水流は穏やかに流れている。ひぐらしの鳴く声が、懐かしくもどこか切なく、少し物悲しい気持ちにさせた。
「……無事に、元の世界に帰れただろうか?」
 返答などない事はわかっているが、つい声に出してしまう。本当に、滑稽だとしか言いようがない。
 ――斎藤愛子。
 君は、本当に不思議な人だったね。
 とても弱く……そして、とても強い女性だった。
 いつの間にか、俺の心の中には君がいて……俺の汚れた醜い心も、卑怯でズル賢い想いも、全て受け入れ癒してくれていた。
 俺は、君の言葉に何度救われてきただろう?
 そして……どれだけ君の心を傷つけてきたのだろう?
 もう二度と会う事のない彼女の、涙で濡れた笑顔は……とても美しかった。
 ――馬鹿だな、俺。
 さっき別れたばかりなのに、もう君に会いたいだなんて思ってる。
 二人の道は……もう二度と、交わらないのに。
 俺はこの世界で、君は元の世界で……生きていくと、決めた筈なのに。
「おやおや。何だか浮かない顔ですね?」
「……神童」
 どこから現れたのだろうか? 神童は俺の隣に腰を下ろす。膝を三角に曲げて座る神童に、何故だかとても愛着が湧き、少しだけ口元が緩んだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。彼女はちゃんと、元の世界に帰っていきましたから」
「……そうか、良かった」
 神童の言葉に、俺は安堵の笑みをこぼした。しかしそれと同時に、チクリと胸を刺すような痛みと不快感を感じた。
「本当は、帰って欲しくなかったんじゃないですか?」
「……ばーか。そんなわけねぇよ」
 俺は狐面に向かって、軽くデコピンをかます。
「俺は、彼女に幸せになってもらえたら……それでいいんだよ」
 俺は緩やかな河の流れを目で追いながら、ゆっくりとそう呟いた。
「――神童、もうそろそろかな? 俺が元の、影の姿
に戻るのは……」
「……えぇ。恐らくあと十数分、といったところでしょうか」
「そっか。じゃあ……あと少しで、この身体ともおさらばなんだな。最後にしっかりと、目に焼き付けておかなきゃいけねぇな」
 俺は、今の俺にできる精一杯の笑顔を神童に向けた。神童の声が、何故かとても寂しそうに聞こえたからだ。
「貴方の、その泣いてるように笑う姿は……もはや癖のようなものなのでしょうね」
「……アイコもよく言ってたな、それ。おっかしいなぁ? ちゃんと笑ってるつもりなのに」
「カズトさんなら完璧な笑顔を作りきった筈でしょうに……やはり貴方は、カズトさんではなくカズキさんですね。貴方の代わりはどこにもいないのですよ」
「……俺の代わりはいない、か」
「えぇ。貴方とカズトさんはまったくの別人なのです。それを何故、敢えて他の人物になろうとするのか……理解に苦しみます。カズトさんにはカズトさんの、貴方には貴方にしかない、魅力というものがあるというのに」
 俺は横に座る神童の頭を片手で鷲掴み、わしゃわしゃと掻き回した。
「……何をするんですか? いきなり」
 神童のサラサラの髪は、俺の手によって、ぐしゃぐしゃと見るも無残に乱される。
 こんなのが神の使いだなんてお笑いぐさだ。……けど。
「……お前、いい奴だな。俺さ、結構お前の事好きだよ。色々ありがとな?」
 俺はそう言うと、今度は優しく頭の上に手を置いた。神童は少し戸惑ったのか、暫く無言で俯き……やがてゆっくりと頭を上げると、俺をじっと見据えた。
「そんな事を言われたのは生まれて初めてなのですよ。それはどうも……ありがとうございます」
 神童は『まったく、このような時……一体どう答え
れば良いのかわかりません』と小さな声で呟くと、立ち上がり、河原の水にゆっくりと足を沈めていく。
 神の子とされる神童の水遊びは、とても優雅で美しく感じられた。
 まるで水達が個々に意識を持つように、生命を持つように、華麗に水の上を跳ねる。
「……なぁ、神童! この世界は、あとどのくらい持ちそうなんだ⁉」
 俺が大声で尋ねると、神童は水達と戯れるのを止め……振り返り、俺に向かって言った。
「まだまだ……と言いたいところですが、どうでしょうね。今は神樹も落ち着きを取り戻してはおりますが、すぐにまた辛抱出来ずに暴走するでしょう。アレは少々知識が足らないのですよ」
「何か、いい方法はないのか?」
「……あるにはあります。しかし、すみませんが言いたくはありません」
「おい、なんだよそれ⁉ 言えよ! このままじゃ、この世界は消えてしまうかもしれないんだろ? お前……それでいいのかよ?」
「……それでも、私は貴方にだけは言いたくないのですよ」
 俺は『ふーん』と軽く返事をすると、ズボンの裾を捲り上げ、浅い水底を歩いて神童の前に立つ。そして神童から無理矢理狐面を奪うと、急いで自分に装着した。
「どうだ? 似合うか?」
「……ちっとも」
「俺もこれ被ったら、お前みたいに不思議な力を使えるようになるのかな?」
「ならないです」
「……なぁ、神童。さっき、俺にだけは言いたくないって言ったって事は……俺なら何とか出来るかもしれないって思ったって事だろ? 言ってみな、この狐面のお兄さんに」
「……誰がお兄さんですか。私の方が貴方よりも遥かに永く生きているのですよ?」
「そんなちっこい身体で、俺よりお兄さんだってか! ……それとも何か? お前、おじさんか? それともおじいさんか? くっ……ぷははは!」
 神童は呆れたように、溜息を吐く。
「悪りぃ悪りぃ! とにかく言ってみろよ? どうせ俺は影になって、このままここで寿命が来るまで、穏やかに暮らしていくだけの存在でしかねぇ」
「――では、貴方が肉体だけでなく精神まで……魂まで失うとしても、ですか?」
 神童の穏やかではない言葉に、俺は一瞬息を飲んだが……それでも、俺の気持ちは揺るがない。
「……今までお前に何度も助けられたんだ。今度は俺が力になってやるよ」
 俺は膝に手を置き、腰を屈めると、目線を神童の高さまで合わせる。
 神童の光のない瞳が、少しだけ揺れたような気がした。
「一生……私達と共に生き続けなければならないとしてもですか?」
「――上等だ! 俺がお前の家族になってやるよ。どうせ俺には、もう家族なんていない。ここでずっと一人で生きていくのもいいが、お前と一緒に生きていくってのも悪くない」
 俺は狐面を頭にずらし、神童の目をちゃんと見ながらそう強く言い切ると……華奢で儚げな少年は言葉を失いながらも、しっかりと俺の目を見つめた。
「……俺が、お前の父ちゃんでも、兄ちゃんでも、弟でも、子供にでも、何にだってなってやるよ。お前、ずっと一人だったんだろう? これからは俺がいる」
「愚かな人だ。……本当に」
 感情など持たない少年が、右眼から一筋だけ流した透明な雫。……さっき俺が狐面をかぶった時、狐面が少しだけ俺に、神童の記憶らしきものを見せてきた。
 ――あぁ、お前もずっと孤独だったんだな。
 これからは、俺が傍にいてやる。
 お前に色んな事を教えて、お前に……生きる喜びを与えてやる。
 カズトとアイコが俺に教えてくれたように。
「このままここで寿命を終えたなら……来世で再びアイコさんに巡り会えるかもしれないのですよ?」
「……いーんだよ。俺は今、自分が後悔しないように生きたいんだ。それに……アイコもきっと、わかってくれるよ」
 ――なぁ、アイコ。いいだろう?
 俺は……この世界が大好きだ。
 奇妙で不思議な、影達の世界。恐ろしくも美しい黄昏の街。
 俺、この世界に来て……本当に良かった。
 だから俺は、この世界と共に生きようと思う。

***

 影の姿に戻った俺は、神童と共に神樹の元へ向かった。
 巨大な神樹は静かに、堂々とした態度で、その場にいる俺と神童を見据えていた。
「では、カズキさん。この着物を上から羽織って頂けますか?」
「服ノ上かラでいイのカ?」
「えぇ、大丈夫です」
 俺が白い着物を羽織っている間に、神童は神樹に注連縄を張り、神樹の前にあの光り輝く棒を突き立て、準備に入る。
 神童の話を簡単にまとめてみると、こうだ。
 俺自身が神樹の依巫になり、神霊を宿す。
 そして、招代となった神樹に、神霊となった俺は再び迎えられる。
 要するに俺は神樹の守り神というか、精霊みたいなもんになるって事か?
 何だか……イマイチ実感が湧かないのだが。
 とにかく俺は神樹と一体化をし、神樹の暴走を抑え込む。

 ――そして俺は今日、人ではなくなるのだ。

「……カズキさん。アイコさんから返して貰った手帳、ちゃんと目を通されましたか?」
 手帳……? どうしたんだ、いきなり。
「もし目を通されてなかったら、最後にもう一度……読んでみてはどうでしょう? 私は、ここで準備をしておりますので」
 ……そうか。実体を持たなくなるのだから読めるのはこれが最後になるのか。
 そうだな、最後にもう一度読んでみよう。

 俺は森の隅の方に座り込み、手帳を開く。
 ほとんどの内容を暗記しているほど、読み込んだカズトの手帳。
 夢と希望と優しさが詰め込まれた、真っ白なファンタジーが広がる。
 カズト亡き後、手帳は憐れな男が引き継ぎ……絶望と苦悩を書き綴った、黒い日記帳となった。
 ――カズト。お前の想いを穢して、ごめんな。
 俺は一枚一枚、ゆっくりとページを開いた。

 …………
 …………?

 あれ? ――何だこれ?
 身に覚えのないページが目に入る。
 小さく少し丸みのある文字。

 …………アイコだ。

***

 黄昏の街。

 私はある日、彼と二人で……とても不思議な街に迷い込みました。
 そこは、優しい影達が穏やかに暮らす街。
 朝も昼も夜もこない……ただ、空一面に美しい夕焼けが広がる奇妙な世界でした。
 異世界なんて存在を信じていなかった私は、あっという間にその世界に魅了されてしまっていました。

 黄昏の街は、まるで実体を持たない夢の中のような世界でした。夢に、良い夢と悪い夢があるように……黄昏の街にも、美しい顔と恐ろしい顔が存在する。
 おかしな事ばかりが起こる不思議な世界だけれど、彼と一緒だと全てが輝いて見えました。
 どうして……私はこんなにも、彼の事が好きなのでしょうか? 考えてみても、よくわかりません。
 けれど、私には彼しか見えなくて……彼と見る素晴らしい情景も、彼と聴く生き物達の息吹も、彼と香る甘い草花の香りも、彼と感じる優しく柔らかな風も……私には、とても大切でかけがえのない宝物でした。
 たとえ私が、彼の事を何一つ知らなかったと言えど、その気持ちだけは本当に嘘ではありません。

 ――彼はとても優しく、勇敢でした。
 けれど同時に、とても弱い人でもありました。
 私はそんな彼を救ってあげる事が出来ませんでした。信じてあげる事も出来ませんでした。
 結局、私は一人……元の世界に戻って来てしまったのです。
 狐面を被った優しい少年は、そんな私を憐れに思い……もう一度、黄昏の街に行くチャンスを与えてくれました。
 けれど……それには五年もの年月が必要。
 彼はもう、私の事なんて忘れてしまっているでしょうか?

 夕焼けの空を見上げれば、彼の事を思い出す。
 黄昏の街の夕焼け空とは少し違う茜空だけど、それでもやはり思い出してしまいます。
 彼が手帳に『人生の終わりを【黄昏】と表現することもある』と書いてあったのを見て、あの黄昏の街にぴったりだと感じました。
 彼は今、どうしているのでしょうか?
 そう考える度、涙が無意識に溢れ出します。

 会いたい。……会いたいです。

 今すぐ彼に触れたいのに、彼は今……ここにはいません。
 彼とまたあの美しい空を眺めたい。
 彼とどこまでも広がる綺麗な海を眺めたい。

 ――黄昏の街に今すぐ戻りたい。

***

 一樹くん。
 今日で早くも五年の月日が流れました。
 ようやく貴方に会いにいけるのですね。この日が来るのを、ずっと待っていました。
 けれど今、とても悩んでいます。
 貴方に逢えば、私はきっと……離れたくなくなるから。
 私ね、黄昏の街に残りたい。……貴方と一緒に残りたいよ。
 ずっとずっと、貴方とあの地で暮らしていきたい。もう二度と……離れたくなんかない。

 ――けれど、本当にそれでいいのかな?
 迷いが私を苦しめ、頭の中に問いかけてくる。
 本当は、わかっているの。
 私はきっと……この世界に帰ってくる。
 どれだけ辛くても、苦しくても、悲しくても、私は貴方のいないこの世界で……生きていかなくてはいけないの。
 だから……最後に気持ちを伝える事だけでも許してください。
 本人を目の前にしちゃうと、また勇気が出なくて言えないままかもしれないから。

 一樹くん。
 私は本当に、貴方を愛しています。
 軽く聞こえるのが嫌だから、愛なんて言葉を簡単には使いたくはないのだけれど……それ以上に、貴方に想いを伝える言葉がどうしても見つからないの。ごめんなさい。
 貴方に出会って、私の人生は本当に大きく変わった。貴方は気付いてくれていたかな?

 もしも時間を戻す事が出来たなら、私は貴方を黄昏の街に行かせなかっただろうか?
 ううん、貴方と私には黄昏の街はきっと必要な場所だったんだ。

 過去は変えられない。
 今も変えられない。
 そしてきっと……二人の未来も変えられない。

 私達はきっと、何があっても結ばれない運命なんだって思う。……けどいいの。そんな運命でも愛おしい。
 貴方と巡り合わせてくれた神様に感謝します。本当にありがとうございます。

 一樹くん。
 その名の通り、地に根を強く張り、どんな事にも負けずに挫けない。そして、穏やかに柔らかく……この世に生きる全ての生き物達に生命の恵みを与える。そんな、この世界にたった一つしか存在しない樹のように、温かくて優しい貴方でいて下さい。
 貴方が作り出すその樹は……きっと緑が豊かで美しく、飛ぶ小鳥は貴方のその優しい身体に身を寄せ、羽根を休め、心地良いさえずりを聴かせる事でしょうね。何だか想像出来てしまいます。
 神樹もそうであれば、ガンさんのような哀しい人間を生み出さずにすんだのかもしれないのにね。

 長くなりましたが、そろそろ終わります!
 大切な手帳に、勝手にこんな事を書いてしまって……本当にごめんなさい。

 さよなら。一樹くん。
 ありがとう。一樹くん。
 貴方の事……ずっと、ずっと忘れないから。
 この想いはきっと、永遠に消えたりしない。
 大好きだよ。いつまでも。

 斎藤愛子

***

「馬鹿アイコ……」
 違う、本当に馬鹿なのは俺の方だ。
 本当はとっくの昔に気付いていたくせに。
 ……わからないだと? そんな筈ないじゃないか。
 俺はずっと、逃げていたんだ。誰かと本気で向き合う事が怖くて。
 失って初めて、本当に大切なものに気付く。
 一度失ってしまえば、どれ程悔やんでも……もう取り戻す事は出来ないのだ。
 結局俺はカズトにもアイコにも、本当に伝えたい言葉を伝える事が出来ないまま……もう二度と会えなくなってしまった。
 けれど、出来る事はきっとある。

 見てろよ、アイコ。
 お前が言うような【樹】になってやる。
 自分の名に恥じない、世界一の神樹になってやるよ。
 そして、ここからずっと……お前を見守っててやるから。
 お前がオバちゃんになって、ばあさんになって寿命を全うして、またこの世に生を受けて、赤ん坊になって、子供になって、大人になって……それを何度も繰り返し、何十年、何百年、何千年経っても……
 ずっとずっと、お前を見守ってる。
 願わくばお前に、この先最上級の幸せが訪れますように。
 俺だって……ずっと忘れないよ。
 お前と過ごした、お前と笑いあった……あの優しい時間を。

 ――愛してる。

「……カズキさん」
 神童が俺に優しく声をかける。……時間か。
 俺はそっと手帳を閉じ、立ち上がった。
「準備は出来ましたが、本当によろしいのですか? 今からでも遅くありませんよ……?」
 俺は首を横に振る。……後悔なんてしないさ。
「……神童、一ツ頼みガあるンだ。コノ手帳ヲ俺のスグ側に埋メテくレなイカ?」
 俺は神童に手帳を託す。
 これはカズトと俺と……アイコの想いが詰まった大切な手帳だ。こいつに託すのが一番安心出来る。
「わかりました……この手帳は私が責任を持って貴方のお側に」
「アリがトう」
「では……参りましょうか」
 神童の鈴がちりんと揺れる。俺は神童に手を引かれながら、ゆっくりと前へ進む。
 不思議と、晴れやかな気持ちだった。

***

 チュンチュンと、雀の鳴く声で目が覚める。
 随分と懐かしい夢を見ていたようだ。
 俺は、青く澄んだ大空を見上げる。
 大きな綿菓子のような雲は、千切れたり繋がったりを繰り返し、今では巨大な要塞のようにも見えた。
 そよ風が優しく木々を揺らし、いつものように花の蜜の香りをこちらまで運んでくる。
 一面に広がる草原は、まるで草のベッドのように全てを柔らかく包み込むであろう。
 太陽が眩しい。葉が光を全身に浴びて、とても喜んでいるのがわかる。
 ……いい空気だ。気持ちが良い。
 ここからだと街全体を見渡せるが、今日も皆は幸せそうに過ごしている。
 人が影の姿ではなく、人の姿のまま生活できるようになったので、今ではこの世界に影の姿は見つからない。
 ただ、ここに住んでる者達は【神樹】に罪と生命を吸い取られているわけなので……肉体があるとはいえ、やはり生きているとは言えないのだが。
 相変わらず夕暮れ時には、美しい夕焼けが見られるものの……【黄昏の街】と呼ばれた世界はもう、どこにも存在しない。
 何故なら今、この世界には……朝も、昼も、夜もちゃんと存在しているからだ。
 本当はほんの少しだけ、寂しく思える。
 俺にとって【黄昏の街】は、とても特別なものだったから。
 けれど……きっと、これで良いのだろう。
 俺は、そう思った。

 あの頃の【神樹】は、更に長い年月を重ね……その成長は誰もが目を見張る事であろう。
 ――なぁ、愛子。俺は世界でたった一つしかない、最高の樹になれたかな?
 消えない想いは巡り巡って、この世界を深い愛で包み込む。

 暖かな命の息吹が芽吹く中。俺は今日も、この世界と共に生きていく。

夜宴の島

2019年4月26日 発行 初版

著  者:夢空詩
発  行:夢空詩出版

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