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三界火宅
川崎の小さなマンションの一室に蟄居している。目の前に競馬場がある。通いつめている。貧乏なので少額の馬券を注ぎ込んでいる。当たらない。益々貧乏になる。承知の上だ。競馬をして小説を書いている。
「読んでみるかい。麻子を書いたのだよ」
「厭。嫌いなの。読みたくないわ」
「良い小説だよ」
恋人の麻子は知能が低いので小説は読まない。日常生活には困らないが物を知らなすぎる。知能が低いというのはあんまりの言い方だが仕方が無い。
私の子供の頃IQテストと言うものがはやったようだ。おおらかな時代だったのか。中学の時、学校で張り出された。私は勿論一番良かったと記憶している。記憶力には自信が無いから本当のところは解らない。学業成績とIQを関係づけて生徒たちを励ますという趣旨なのだったろう。
私は頭の良し悪しで人を評価したことは無い。詰らないことだと考える。頭が悪いと麻子に言っても悪口とは考えない。
世の中は二通りあって本を多く読む人間と読まない人間が居る。麻子は読まない。麻子は音楽が好きだ。クラッシック音楽の名演奏に涙する。私は音楽を聴いて泣くという事は無い。嫌いではないが心を奪われて聞き入るという事はまずない。
人間の頭脳活動は何によって行われるものなのか。子供のころから心理学の本を読み散らしているが少しも解らない。解らないから小説を書くのかもしれない。
自分の性格すら解らない。心理学の分類法をあてはめる。はっきりしない。フロイドやユングを読んでも人間の本質は解らない。中学の時フロイドに夢中になり文庫の「夢判断」や「精神分析」を読んだ。小説を書き出すと、小説と学問は違うものの様で人間の性格ひとつ捕えるのも容易ではないことを知った。
本を読む人間と読まない人間のどちらが好きかと言えば読む人間だろう。
私が読む人間だからだろうがお互いの読書経験を話すのは好きではない。
島尾敏雄の「死の棘」は優れた作品だ。島尾は好きな作家だ。死の棘は何だか辛い作品だった。辛いのは麻子が居るからだ。作家の島尾と私の精神の違いを考えさせられた。精神の違いと言うよりも状況や環境の違いといってもよい。島尾の作品を妻が清書したという。情熱的な南国の女だ。麻子は南国の女ではないが情熱的だ。
夫婦の事は良く分からない。島尾の場合も治め方のひとつという事かも知れない。疲れる小説であった。良い小説と言う証拠かもしれない。
もう一冊は壇一雄の「火宅の人」だ。島尾に比べれば、壇は楽天的な性格に違いない。料理作りが趣味だったと聞いたことがある。食うという事は楽天的なことだ。利己的ことである。
仏教の世界観では世界は「欲界」「色界」「無色界」に分けられるという。
川崎大師までは徒歩一時間ほどである。途中競馬場がある。開催されていると大勢の人と入れ混じる。
大師道の広い道の途中にヨーカドーがある。店に入りトイレを拝借し外に出てまた歩き始める。轟音を立ててトラックや乗用車の群れが走り抜ける。
川崎大師の近くにある貨物の積み替え場に大型トレーラーが入っていく。巨大な車体が私に近づく。身の危険を感じて気持ちが悪い。
駅前から大師に向かう道に入る。商店がぎっしりと軒を連ねている。葛餅を商う店が多い。久寿餅と記されている。飴を切る俎板を包丁で空叩きしている甲高い音がする。飴屋の客寄せだ。二月の寒空に音は景気づけと言うよりも、むしろ寂しい。正月の賑わいと比べるからなのだろう。
線香の煙が舞う境内に入る。
私は会館の「三界火宅」と題された日本画の前に立った。三界ともに火宅と言う意味なのだろうか。仏教では人間の世界は欲界のさらに下にあるという。
仏教もヒンズー教などの宗教の影響を受けているものか世界の構造を上下関係に位置づけているようだ。
私は火宅の中に居るのだろうか。壇や島尾の小説風に言えばそうなのだろうが人間は一人ひとり違う。愛されたいと願っている。愛されていると錯覚している。錯覚にすがりついている。人は三界にあって愛されたい。愛なしでは生きていけないと思っているからだ。愛なしで生きていけなければ生きなくていい。生きていなければいけないという法は無い。
少しぼうっとして気持ちが不安になっている。甘いものが食べたいような酒が飲みたいような気がしてきた。
昼から酒を飲むのは良くない。行儀が悪いし体にもよくないだろう。昔アル中は少なかったという。アル中の概念も現代とは違っていたのだろう。故郷の親戚には大酒飲みが多く若くして死んでいるものが多い。彼らも日中は飲んでいなかったようだ。祭りごとが有れば茶碗酒をガブ飲みしていた。幼い私を捕まえて酒を勧める。私は酔って走り回っていたこと覚えている。酒はその頃から大好物だ。
蕎麦屋に入り酒を注文した。一二本なら構わないだろう。蒲鉾を肴に飲み始める。
退屈なので小説の事を考える。手元に紙もペンもないので文章は書けないが後で思い出せば良い。
正月に麻子と川崎大師に来た事を書こうか。お参りをしたというだけでは面白く無い。
夢の話にしようと考えた。以前「狂乱のストレンジャー」で書いた方法だ。
日常的な平凡なことでも夢の話にすれば少しは面白くなる。夢は作品を「異化」するひとつの方法だと考えている。単純に私は夢の話が好きなのだ。何故、好きなのか心理分析すれば色々出てくるだろうが誰が教えてくれるというのでもない。作家の渋澤龍彦の著書でフランスの思想家であるエルヴェの「夢および夢を支配する法」という著書が紹介されているなかで自在に夢を見る方法が紹介されている。
私も経験で夢はある程度は覚醒時の意識で変えられる事を知っている。睡眠前の体験が夢の中にあらわれることもある。睡眠時の生理的な欲求や寝室が暑いなどの感覚が夢を構成している場合もある。尿意を感じてトイレを探している夢。服を着たまま温かい水に入る不快な夢の場合もある。
夢を多く見ようとしたら眠りを浅くすることだ。眠りを浅くするには長時間眠ることだ。睡眠時間の長い人間は多く夢を見る。間違い無い。
銚子を二本ばかり飲んだところで止めにした。酔っぱらってはみっともない。勘定を済ませて外に出る。
どうしたことか外は真っ暗だ。もう夜になってしまったのか。そんなに長い時間飲んでいたはずはない。雨も降っていない。町の様子が変だ。先ほど開いていた店はすべてしまっていてシャッターが下りている。人通りもないし飴屋の包丁の音もない。静まり返っていて動くものは何もない。動いているといえば、細長く伸びた私の影ぐらいのものだ。街灯の明かりに私の身体は寂しい。
どうなっているのか。少し気味が悪くなり出たばかりの蕎麦屋に戻ろうと思った。時間を確かめたかった。電車はあるだろうか。最終電車が終わったら大変だ。タクシーを探さなくてはならない。商店街は自動車一台通っていない。
今出てきたばかりの蕎麦屋の灯は消えている。暖簾も出ていない。硝子戸の裏側は真っ暗だ。ものの一分もたっていないはずだ。私が立つのを見計らって急いで明かりを落としてしまったのか。店には確かに私一人ではあった。誰が何時の間に暖簾をしまい込んだのだ。人の気配はしなかった。戸の隙間から腕だけを長くのばして暖簾を外したものか。
私はしかたなく歩き出した。駅の方に急いだ。何かに追われている気がする。
不安で恐ろしいような寂しくてたまらないような気持ちにせかされていた。
人影のない空っぽな商店街を一人で歩くのは気持ちの悪いものだ。街灯があるが足元が危ない。閉まった店の前に段ボールなどの箱が置かれたりしている。ゴミ箱もある。
ポケットのお金を考える。蕎麦屋では僅かの支払いだ。散歩なので金は少ししか所持していない。電車が終わっていたらタクシーで帰らなければならない。
歩いて帰る気はしない。
駅は明るかった。終電は未だなのだろう。改札を入って小さなホームに立った。夜の暗闇が深くホームだけが薄く浮き上がっている。終電は上りの方が遅いだろう。
ホームには人影はない。何時まで待たなければならないのか。私は腕時計を持たないので携帯で時間を確かめようとした。電池切れで解らない。
電車が来た。鉄路を走る車輪の音だが静かに感じられる。宙に浮いているわけではなさそうだ。
電車の中も私一人に違いないと思っていたが違った。男が一人と女が一人寄り添って座席の隅に座っていた。
私は二人に注意を払いたかったけれど我慢した。なるべく二人を見ないようにした。理由は特にない。二人が変わっていたとも思わない。私は二人から一番遠い二人が見えにくい席に座った。普通電車なので三駅に止まるけれどすぐに京浜川崎駅に着く。
駅は真夜中のはずだが大勢の人が右往左往していた。普段と変わった様子はない。急に夜になったのは不思議だ。私は蕎麦屋に永くいたのだろう。
少し酔って眠ってしまったのだろう。静かで居心地の良い店だった。辺りには客はいなかった。蕎麦屋の主人は親切な人物なので年寄りが転寝をしているのをそっとしておいてくれたのだろう。幸い客も入ってこなかったろう。幸いなのは誰にとってなのか。眠りを破られなかった私は幸いだった。
眠っていた時間があまり長すぎる気がする。私は夢遊病的なところがあって、眠りながら動き回るらしい。動いている時の事は覚えていない。ある時などは額が傷んで目が覚める。眠りながら柱に頭をぶつけていたらしい。またある時は指に怪我をしている。夢を見ていた。色々な魑魅魍魎と戦っていた。
頭上から葉が降り注ぐ。葉の一枚一枚に鋭い歯が付いている。細く白い歯が並んでいる。歯のついた葉が顔めがけて落ちて来る。防ごうと手を振り回した途端ベッドの端にしたたかぶつけたのだ。
夢を麻子に話したがちっとも同情してくれない。それでも指に絆創膏を貼ってくれた。
駅を出て飲食店が並ぶ見知った通りを抜け神社を通り近道をして私の家に帰った。家は大きなマンションの小さな部屋で蜂の巣の様な所だ。
何だか安心してエントランスのエレベーターボタンを押す。私の部屋は三階にある。麻子に何といい訳をしようか。こんな時間までうろつきまわっていたのだから。心配しているだろうか。案外平気かもしれない。携帯電話もなかった。
私は人に心配されるのが嫌いだ。子供の頃身体が弱くて母親に心配をかけることが心配の種だった。心配の種子は私自身だった。
エレベーターが止まると同時に明かりが消えた。計画停電が始まったのか。
そう言えばつい最近巨大な地震と津波が東北関東を襲い数万人の死者が出た。
仕方が無いのでエレベーターの壁にもたれて眠った。
隠し絵の女
絵の中に隠れている絵がある。普通に見たのでは解らない。眺めていると突然見えてくるものがある。隠されたものが見えてくる。
虫や獣の擬態がある。体が木の葉の形状になっている。虫が葉の茂りでは茂りに紛れて見えなくなる。雪原の白い雷鳥は発見されにくい。夏季に雷鳥の羽は茶褐色に変わる。
幾何学図形を見ていると白と黒の立体が突然逆転して見えてくることがある。図形自体はもちろん変化はない。私の意識が突然ひっくり返ったらしい。一度発見すると自在に見方を変えることが出来る。
ひとつの絵にもうひとつの絵を探した場合も同じだ。次からは何の苦労もなく見つける事が出来る。
少し抽象的な言い方になるが人は人の中に愛を発見する。人間模様の中にと言ってもいい。今しがたまで何も気づかなかった男や女の中に愛を発見するのだ。一度気がついてみれば最早消し難く見詰めないではいられない。私は麻子に愛を発見したのだった。
私の周りに居る奇怪な人間の一人は叔母だ。
叔母の性格は常道を逸しているので気違いだとも言える。膨大な資産家らしい。親戚は皆遠巻きにして触らないようにしている。
自ら設計したという奇妙な家に住んでいる。一人暮らしで若い女をひとり雇って家事をさせている。
「あんた未だひとりなの。今度いらっしゃい。良い女を紹介してあげるから」
「はあ有難いのですが私はまだ・・・」
「何を言っているの。そのうち男でなくなるよ」
叔母は大きな口を開けて笑った。私の嫌いな真っ赤な口を大きく開いて。
寒くどんよりとした日だった。私の気まぐれな心が動いた。私は叔母の家を訪ねようと思った。実を言えば、金に困っていて借金を申し込む下心があった。数年ぶりに私は叔母の家の門をくぐった。
若い女は初対面だったが叔母から聞いていたらしく柔らかい表情で私を迎えてくれた。常識的で優しい感じの女だ。感心なことに異常な叔母のそばに居てくれる。
家の中には貝や水があった。桜や幾重ものカーテンがあった。カーテンは半透明な布だ。外観はさほど奇妙だとも思わないが内部は眩暈がしそうな家である。
私は奥の部屋に通された。
茶室だった。茶室には先客が居てそれぞれが華やかな着物姿の若い女たちだ。若い女たちのひとりを叔母は私にひき逢わせるつもりなのか。興味は無いのだ。叔母の言葉を忌避していた。
どの女なのかと私は思わず意識してしまった。女たちの誰もが美しかったからだ。お茶の作法に不案内な私だが何とかたしなむ事が出来た。時々叔母の鋭い視線が私に注がれている気がした。私は何とか落ち着こうとした。
若い女達の中で私は神妙にしていた。
茶菓子を手に取ると中から虫に見える童子が出てきて笑ったらしかった。
「若い女達の一人が麻子だったのだ」と私は麻子に話した。
「また夢の話」
「生活には変化が無いのでね」
麻子は商事会社の事務職に就いている。初対面の客に応対することがあった。仕事の説明をする麻子の顔ばかりを客は眺めていた。何故見詰められているのか分からなくて居心地が悪かった。商談が終わって帰り際、客は言った。
「結婚しているのですか」
「はい」
「どちらにお住まいですか」
「赤坂です」
「お仕事は何時に終わりますか」
「六時です」
客は失礼しましたと帰った。ぼんやりと酒でも呑んだように赤い顔をしていた。同僚の営業マンが麻子をからかう。「一目ぼれされちゃいましたね」
「それは凄いね」と私も揶揄する。
「子供にも話した。気をつけなさいと言われたわ」
「ストーカーになられたら困るね」
何故叔母と麻子を同じ夢の中に見たのか。叔母と麻子は現実には接点は無い。叔母はお茶をやっていた。弟子も大勢居た。
茶会で私は麻子に出会った。夢の中での事だが。繰り返しになるが、人は多くの人の中から愛する者を探す。一度、気がつけば見逃すことは無い。何故今まで気がつかなかったのか探し出せなかったのか不思議なほどだ。愛の存在は自明なことなのだ。
一瞬前までは理解できなかった。発見できなかった。姿を隠していた。姿を隠していたわけではなかった。気付かなかったのだ。気付かなかったのは相手の所為ではない。
「暇そうだから見ていなさい」と麻子は言った。
数冊の絵本らしきものを渡される。
「どうしたんだい」と私は訝る。
「叔母さんが来たのよ。頂いたのよ」
叔母とは誰の事だろう。麻子の叔母には出会ったことは無い。私の叔母を思い出した。まさか叔母ではないだろうに。気持ちが少し混乱した。
麻子は遅刻を気にしながら勤めに出かけて行った。
退屈で少しさみしい朝の時間が始まった。私はベランダの藤椅子で朝日を浴びることにした。暫くしたら日課の散歩に出かける積りだ。公営のジムでストレッチをしようか。
子供の絵本ではない。
間違い探し。迷路さがし。隠し絵探し。などなどゲームの本である。
私は童話をあまり読む方ではない。ルイス・キャロルの童話は時々読むことがある。「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」など奇想に溢れた物語だ。
二枚の同じ絵がある。正確には同じではなく数か所細部を違えて描かれている。間違い探しは得意だ。帽子の模様が違う毬栗の数が違う等など苦もなく探し出すことができる。制限時間がある。時間を計るには砂時計が似合っている。砂時計が無いので目覚し時計を取りだす。
絵本の謎はなかなか難しい。
隠し絵の獲物を見つける要領は絵の細部に騙されないことだ。ひとつの線、ひとつの点がふたつの意味を持っているのを発見すれば後は簡単だ。連想する事だ。隠し絵と騙し絵は同じである、とも言える。騙し絵は空間を利用している場合が多い。遠い近いや上下の感覚が乱される。水が下から上に流れたり遠い階段が手前につながっていたりする。
騙し絵の中には隠し絵の要素の物もある。小部分の集積が大きな形を構成している事もある。
子供の頃の私の遊びのひとつは雲を眺めることだった。空の上で刻々と変わる流れる雲の形からいろいろなものを想像する。顔だったり獣だったりする。雲はゆっくりと形状を変えていく。子供の私は雲の形から連想した物語を作っていく。心に語り聞かせる。
形を変えてゆく雲を眺めて想像を働かせて遊ぶ。しまいには眠ってしまう。眠りの中でも雲が流れる。
子供の頃の家は天井が高かった。冬はひどく寒かったのを覚えている。厚い布団にもぐりこんでも寒かった。両親は一緒に寝てはくれなかった。教育方針だったのだろう。広い座敷に一人で寝た。怖いので明かりは点けさせていた。
板張りの天井板の節や木目の線がいろいろに見えてくる。大きな鼠や烏にみえたり絵本で見た天女に思えたりする。怖くなったり、うっとりしたりするが堪えられなくなると母親の布団に暗い廊下を駆けた。
幽霊と言うものや霊魂と言うものは子供のころから信じない。巷には心霊写真と言うものがある。写真に写っているはずのない人物が映っている事がある。私流に解釈すれば見間違いや連想である。
人は人に強く興味があり顔の識別能力は高いのだ。偶然の濃淡から顔の形を作り上げてしまう。隠し絵と逆の作用だと思う。隠された顔を探しだすのではなく、もともと無い顔を想像するのだ。
木の葉の茂りの濃淡や水面の光の揺らめきの中に顔の影を作りだす。偶然にも細部まで明瞭に似る事もあろう。心霊写真の正体である。
人に対する愛情も似たようなものかもしれない。自分の気持ちを相手に投影させて出来あがった影に恋するのだ。初めはそうなのだが恋愛には相手が居るから相手の影も自分に映ることになる。向かい合わせの鏡である。無限の反射作用が愛の眩暈を作りだすのだ。
本を広げて陽光の中ぼんやりしている。埒もない考えが浮かんだり消えたりする。コーヒーを飲みたいと思った。
麻子は出かけてしまっている。仕方が無いので私は立ち上がる。何の拍子か眩暈に襲われた気がする。軽いものだった。眩暈なのか眩暈の錯覚なのかもはっきりしない。
ベランダのガラス窓に私の影が映っている。立ち上がりながら、影を見たせいだろう。私が動いているのだから、当然影も動いている。立ち上がるのだ。私は身体を動かしている肉体的な感覚とガラス戸に映っている視覚的な感覚の両方を感じている。ふたつの感覚に微妙なずれがあったのだろう。ずれを眩暈として感じたのかもしれない。
ガラス戸を開けて部屋に戻る。
目の前に桜の花がびっしりと広がっている。桜ばかりではない色彩が多くて、そのうえ遠い近いがはっきりしない。変な具合だな、と思っているが何だが面倒くさくもある。状況を理解するのが億劫だ。さっきまで騙し絵を眺め過ぎたため感覚が変になったのだろうか。おまけに今まで眠っていた。
覚醒直後である。ベランダで眠ったので、体調が狂ったのかもしれない。気にする程の事ではないだろう。
「遅かったのね」と、叔母の声がする。
「遅くなりまして申しわけありません」と私は思わず返事していた。
「みなさんお待ちかねよ」
叔母は座敷の奥に居るらしい。あるいは既に茶室におさまっているかもしれない。声は家中に響き渡っているが姿は見えない。
勝手知った家である。私は構わずに声に向かって進んだ。襖をいくつも開けて奥へと進んでいく。襖絵の鷺だか鶴だかが飛び立つ。何処か天井の方に飛ぶらしい。睡蓮の花が揺れる。風もないが私が乱暴に襖をあけるたびに鳥たちは立ち騒ぐ。睡蓮も奇声を上げるようだ。「不思議の国のアリス」の東洋版かもしれない。いちいち気にはしていられない。私は叔母の声のする方に急ぐ。叔母は時間にうるさいのだ。
「途中、一寸した事故がありまして」
私は言い訳しながら叔母の前にかしこまった。普段なら言い分けなどしない。詰らない嘘などはつかないのだが今日ばかりは勝手が違う。華やかな和服姿の娘たちが茶室にびっしりと詰っている。
「皆さんご紹介いたしますわ。私の馬鹿息子です」
違う。違いますよ。息子ではなく私は貴女の可愛い甥っ子でしょうと言おうとしたが何だか腹が立ってきて黙っていた。
娘たちは私を注目しているらしいし興味ありげである。私を見詰めている。一挙手一投足も見逃すまいと構えている。私は緊張して叔母の言葉にうまうまと乗ってしまった事を後悔しながら固まっていた。
お茶は嫌いだし叔母も苦手である。叔母が私を養子にとかねがね狙っている事は知っていた。叔母に近づかないようにしている理由のひとつだ。うかうかと誘いに乗ってしまった事を後悔している。賭けごとは止さなければならない。地道な生活をしなくてはと考えている。騙し絵の中に何かを探し当てたとしても所詮だまし絵である。騙し絵は誰かが意図して作ったものだ。運命は神が作ったものだろうか。神の関与なき偶然なのか。
娘たちの一人が麻子なのである。
死を想え
死を思う事がある。気が付くと死ぬ事を考えている。
自殺しようとしているのではない。誰か他人の死を思っているのでもない。私自身の死を考えている。
子供のころから私は死を考えていた。子供は死を恐怖する。不思議な程、優美で畏怖するものと感じる。
私が子供の頃、死の概念に囚われていた。病弱だったからだ。肺結核に冒されていた。今では肺結核は死の病ではない。私の子供時代はかなり危険な病だったのだろう。ストレプトマイシンなどの特効薬はあったから死病というものではなかったかも知れない。戦後の物資不足の時代だったから農家といえども食料に不自由もしていたろう。子供の栄養状態はどうだったのか。
病気といってもどこが痛いわけではない。咳も出なかった。夕方になると発熱してだるさを感じたが私は活動的な子供だった。母が私の行動を厳しく制限した。私は家の周りを走り回りたかった。家には家畜が居た。馬、山羊、鶏、犬、猫、を飼っていた。私は山羊の背中に乗るのが好きだった。山羊は嫌がったが私はしがみ付いた。本当は馬に乗りたかったが無理だ。祖父が乗せてくれた事がある。一度だけだ。母は泣いた。
「死を想え」とはキリスト教者の言葉だったか。死を深く感じることに依って現世を生きよ、ということなのだろか。違う気もする。
私が死を思うのは恋をしているからだ。私は既に老人だ。恋人は若い。私は恋人を残して死ぬ。死ぬ運命にある。だからといって、どうということも無い。当然な事だし自然な事でもある。
人の死を私は悲しいと思ったことは無い。両親は既にいない。父の死や母の死が悲しいというより来るものが来たと言う気持だった。諦めの心地なのだ。高齢だったからだろう。人間は何時までも生きられるわけではない。
私の友人に亡くなった母の話をする時必ず泣く男がいる。大男が死後数十年の母を思い泣くのだ。子供の頃の死ではない。悲劇的な死でもない。男の涙は悲しみの涙ではない。母親に対する愛情が涙を流させるのだ。
人のあらゆる死は悲劇だ。他人の死は人間の存在が隠れ永久に現われない事を知る事である。自己の死は自己を含めた全てが消える事である。消えるのは自己だけで世界は残る。死は他人の死で知っている。
全てが消える。全てが残る。同じ出来事なのだ。
現世に未練を残す。愛するものがいる場合は特にそうなのだろう。古今東西の物語にも多く物語られている。自分が死んでも愛する相手から愛され続けていたい。私には恋人の麻子がいる。二十歳ほど年下だ。私は年金暮らしの年寄りだ。普通に考えれば私が先に死ぬ。死に別れる事は辛い。
私が死んだら麻子は如何するだろう。新しい恋人を見つけるだろうか。私を愛し続けて新しい恋はしないだろうか。私には分からない。
永遠の愛を誓った男女が相手の死により新しい恋人や妻を得るという話は多い。昔の恋人が亡霊となって現われ残った者の心変わりに復讐すると言う話も多い。
私は魂の存在を信じていないので私が望んでも亡霊となり現われる事はないだろう。麻子の行く末が心配だ。健康で魅力的だから元気に生きていくだろう。一時は悲しむだろうが子供も両親もいる。寂しさは紛れるし新しい恋も生まれるだろう。恋人と幸福な船旅を楽しむかも知れない。
私は嫉妬心の強い人間ではないが想像すれば悔しく苦しい。寂しさがこみ上げる。
「あなた。何か、言った」と麻子は男を振り返る。
振り返ったとたん雲間から姿を現した陽光が目に入った。男の姿は見えなくなる。先ほどまで小雨が降っていたのでデッキは濡れていた。雨が上がり海面に日が降り注ぎ周囲は明るい青に満ちていた。潮の香りの中に微かに雨の香りが残っている。
「如何したのだい」と男は麻子の真っ白に輝いている顔を見詰める。髪が一筋、潮風に乱れている。
「声が聞こえたの」
麻子は確かに声を聴いたと思った。側にいる恋人の声ではない。声は頭上の空の方から白い雲の中から降りてきた。
何と言ったのか意味は分からなかった。野太いような優しい声だった。
数年前に亡くなった昔の恋人の声らしかった。不思議とも怖いとも思わなかった。錯覚なのだと知っていた。デッキに出ている客の誰かの声が風に流れて聞こえてきた。似た声を聞き間違えたのだ。周りを見回したが誰もいない。
男は笑いながら麻子の肩を抱いた。麻子は少し安心して海面を眺めた。
船旅に出てから、しばしば空耳や影のようなものを感じた。
ゆったりした時間をすごしている所為だと納得していた。普段は家事や仕事で目まぐるしい毎日だ。船旅の時間が何時もは感じないものを気付かせるのだ。
食べて遊んで恋人と抱き合って海の上の時間を過ごしている。不思議な錯覚を抱いたりするのか。神を信じているわけではない。霊魂を信じているわけでもない。自分の中の何が感じさせているものやら、はっきりはしない。麻子は無口になっている自分に気が付いた。何でもないことなのにと思い直した。それでも何かが残っているらしく少し苦しかった。思い出が突如として蘇ったのではない。十年以前の感情は消えている。懐かしい思いとして眠っている。
別れたのだ。既に存在していない人だ。亡くなっていたとしても麻子にとって何の変化もない。現実に存在していても、していなくても何の違いがあるものでもない。
船の底の方から微かに伝わってくるものがある。船のエンジン音などではない。もっと静かで深いものだ。海のけはいのようなもの波のけはいのようなものだ。じっとしていると、ときどき時間が止まるような気がする。止まっては動き出し動き出しては止まる。
どうして船の妄想を抱いたのだろう。私が死んで麻子に新しい男が出来る。麻子と男は船旅をする。
私と麻子は船旅をした事がない。願いがかなう前に私は死ぬのか。願いがかなって旅をするのか。分からないが妄想は生まれた。私は麻子の新しい男の体に入り込んで旅をしているのか。分からない事だからどのようにも想像が出来る。想像してもかまわない気がする。
私が麻子を好きになったのも死者の誰かの霊魂が私の中に入り込んだとも考えられる。輪廻転生の思想に近い。らちもない事を考えている。
私が死んだら麻子は恋をするだろうか。私が死ななくても麻子は誰かと恋をするかも知れない。私は捨てられて悲しむのか、ほっとするのか。ほっとするとは思えないから悲しむだろう。
恋に苦しむ嫉妬した男が峨に変身して夜の闇を飛び女の家に飛んでゆくという話を書いた。女の家の屋根を見つけると変身した男は隙間から家に忍び込む。行燈の明りの中に恋する女と男が睦みあっている。男は思わず明りの中に飛び出す。蛾の男はあっさりと潰されてしまうのだ。
眠っていると魂が飛び出すという。二十日鼠に変身して夜中に水を飲みに体を抜け出す。水を飲み終えると人の体に戻り口から入っていく。魂が戻り損ねると眠ったまま死んでしまう。
眠ったまま死んでしまうという考えは良い考えだ。死んだ人の話を聞いた事が無いから眠ったまま死ぬという事はどういうことか分からない。
一時期、臨死体験に興味があり本を読んだり人の話を聞いたりした。臨死体験とは瀕死の状態から生還した一種の幻覚体験だと考えている。母が手術に失敗して死にかけた時、最後に息子の私の顔が浮かんだという。私に対する愛情の深さだったろうが、あまり聞きたくなかった。
人は死について思うが死について語る事は出来ない。自分の死は体験できないのだ。体験とは生きた体が経験する事だろう。だから体験という。死ねば生きていないのだから人は死を体験できない。
魂が体から抜けて自分の死体を眺めるというのは、なかなか風情があることのように思う。思いつきに過ぎないとしても面白い。錯覚や幻覚だとしても興味深い。
夢の中で私が私の体から抜け出て麻子に会いに行かないものかと思う。眠る前に念じているが一向にそういうことは起こらない。生きている間にも起こらないのだから死んでから起こるとは考えにくい。
霊魂は願望なのだろう。願望を持つ事は人間の権利だから霊魂を信じるのは良い事だ。私には信じられない。
麻子は目を覚ます。窓の外に光は無い。暗くはっきりしないものが広がっている。眠っていたのだろうか。読み止しのスタイル雑誌が床に落ちている。夕食のワインを飲みすぎた所為か。満足して充実して快適な船室にいる。広くは無いが個室は白とグリーンで統一されていて落ち着く。
私の死後、麻子が新しい男と船旅をする、という物語を書いている。
麻子は船内で私の気配を感じるのだ。霊魂となった私は幽霊となり麻子の前に現われる。麻子は恐れるだろうか。懐かしむだろうか。
私は霊魂を信じていない。幽霊にも出遭った事が無い。物語は真に迫らない。迫らなくても良いが書いていても面白くない。面白くないからやめるというのも面白くない。
何とかならないものかと考えている。面白くなくても誰が読むものでもない。すこしもかまわないだろう。
内田百閒は幽霊を信じていたらしいと読んだ事がある。幽霊は出てこないが幽霊の気配のする作品は多い。化け狐の話は多い。信じていれば表現も真実味を帯びてくるのだろう。
アイディアだけでは無理があるのだ。幽霊を信じていない私が死後に幽霊となる話は上手くかけない。麻子を愛しているので、あるいは実現するかも知れない。幽霊になれるかも知れない。
麻子は喜ばないだろう。案外あっさりした女だ。反対のようにも思う。愛している女の性質がわからないというのは変な話だが私にはわからない。分からなくともかまわない。分からなくとも愛せる。
「一ヶ月も私をほって置くなんて。別の男に行ってもおかしくない」と麻子からメールが来る。
「愛して合っているのだから、待てるね。映画などでは何年も、だよ。麻子は浮気っぽいの?」と、返信する。
生き返ってこないのなら別の男を愛してもおかしくない。私の死後に麻子は考えるだろうか。私は麻子を責めることは出来ない。
2017年6月20日 発行 初版
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