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方舟と虹ー心の栄養と休息のために

吉川宣行 平川博達 吉野万菜

yoshikawa-shimon-nobuyuki出版



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方舟と虹

 


  もくじ

    はじめの「ことば」    平川博達
    詩と賛美         吉野万菜
    世界平和のための「提言」 シモン
    日本人の反省点      吉川宣行



 

<はじめのことば>

 暑中お見舞い申し上げます。
 天候も政治も、どこか「おかしい」ことになっていますが、お変わりありませんか。
 せめて、みなさまの心、魂の平安と平和を祈りつつ、近況報告をすることにしました。

 パソコン、スマホに慣れておられる方は、「平川博達」で、検索してみてください。

 一 「ひとりぼっちの魂へ」  全五巻
 二 「知っておきたい、第一巻 キリストの愛」から全七巻
 三 「天国の扉 第一巻 「日本人」のカギ」から 全十巻

 これらのほかにも、私の本がでてきますが、これらは、電子書籍(インターネット上の本)で、有料としてネット上で発売されていますが、無料の「タチヨミ」コーナーもあります。

「知っておきたい」シリーズは、
 第一巻 キリストの愛  第二巻 キリストの信仰 三 キリストの希望
 四 キリストの真理 五 キリストの栄光 六 キリストの最後の審判
 七 天国のキリストの仕事
などなどに分かれています。
 
 「天国の扉」シリーズでは、
 その扉を開くための、それぞれの「カギ」を用意しています。
 第一巻「日本人」のカギ。 第二巻「神仏」のカギ。 三「ユダヤ人」のカギ。
 四「善人」のカギ。 五「良識人」のカギ。 六「詩人」のカギ。
 七「聖人」のカギ。 八 「賢人」のカギ
 九 「預言者」のカギ 十 「キリスト」のカギ
 等々を用意していますので、参考にしてみてください。

 天国に入る鉄則としてキリストは。
  1 「狭き門」から入りなさい。
  2 「ひとりだけの戦い」をしておきなさい。
  3 自分の犯してきた「罪に死になさい」
 という三つをあげています。

 つまり、この世にあっては、集団による、政治的、社会的運動もときには必要であるように、宗教宗派による集団礼拝も、ときには、必要ですが、「天国の扉」は、「狭き門」の扉を開けるためには、つまり、それぞれが用意した「カギ」が必要になります。
 集団による宗派の伝道ではなく、信仰があろうがなかろうが、どういう魂と良心による「ひとりだけの戦い」をしてきたか、ということで天国の居場所も決まります。
 そして、なんといっても、あの世にいって、神に「裁かれる」前に、この世に生きているうちに、「自分の罪」に死んでおけば、裁かれることはなくなります。
 「罪に死ぬ:」ということは、キリストのように、十字架を背負って、殺すよりも殺されることを選ぶこと。
もっとも「弱っているひと」の重荷を背負って、いっしょに生きることを意味していました。
それゆえに、その一例として、十個のカギを用意してみました。
参考にしながら、もっとも自分にふさわしい「カギ」を用意してみてください。

いよいよこれから、日本も大変ですが、どうか、魂が、いつまでも、自由に、成長するような、そういう人生を選んでみてください。 

この世は、競争社会によって、生きる値打ちまで、決まるようです、
 しかし、人間には、心もあり、魂の世界もあります。
 優劣をきめる世界ではなく、あふれるばかりの、個性の世界、魂の輝きによって、生きがいも感じる。
 そういう世界もあります。
 最も自分らしい世界。
 おもえば、そういう世界のなかで、新しい自分を造って新しい自分を発見する。
 そういう世界に生きることを覚えると、人生はかなり楽しくなります。
 キリストは、いわれました。
 「神の国は、実に、あなた方の<ただなか>にあります」 (平川博達)

 つまり、「方舟と虹」の世界とは、そういう神の国の世界です。
 その紹介をしていきますので、当然、新しい記事も用意していきますので、参考にしてくてください。

詩   ノアの旅立ち 

 
 

    ノアは、天地創造の神、エホバにいわれた。
    
     もうすぐ、大地が水でおおわれる
     あなたは、洪水にも耐えらえる
     箱舟をつくりなさい。

    そうしてノアは、大洪水にそなえて
    箱舟を造った
    それは すべてのいきもののなかで
    けがれを知らない、いのちを、残すためであった。

     「はじめに 
      ことばがあった
      その「ことば」は、神とともにあった。
     「ことば」は、神であった」(創世記)

    ノアは、その「ことば」にしたがって 箱舟を造った。

                          (吉野万菜)




    

<世界平和のための提言> 
    -日々「新しい命」に生きる方法-


1 先に生まれた「いのち」の義務

 不思議といえばふしぎ。
 ごく当たり前といえばあたりまえ。
 人間の「いのち」も、一粒の麦の「いのち」も、その原理はひとつです。
 イエスさまはそのあたりのことを次のように言われました。

 「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。
  しかし、死ねば、何十倍もの豊かな実を結びます」(ヨハネ十二―二四)

 おもえば、これほどわかりやすい説教のことばがあるでしょうか。
 麦の種をまいたこともない人にはたしかに難しいかもしれませんが、農民にとっては、これほどわかりやすいことばはありません。
 麦の種でなくても、花の種でもいいわけです
 その種があまりにも貴重なものだとおもって、いつまでも一粒のまま手元においておけば、その種は一粒のままですが、それをいい畑にまけば、美しい花が咲くだけではなく、もっとたくさんの種を手にいれることになります。
 それとどうように、人間のいのちも、結婚することもなく、自分だけのために生きて、自分を美しく飾り、自分だけの幸せだけを後生大事に生きてきたものは、そのいのちは、それだけで終わるが、わが子を生かすために、あるいはだれかのために使うなら、そのいのちは、死んだあとも数倍数百倍となってのこる、というわけです。
 
さあどうでしょうか
いまは結婚さえ避ける傾向があります。
 子供などいらない。
 自分の人生を大事にしたい。
 ということで、パソコンの出会い系サイトに夢中になって、幼児を死なせた事件もあります。
 困ったことです。
しかもいまは幼児虐待だけでなく、高齢者虐待も多くなっています。
またいまは、ヨメに捨てられるのではなく、息子に捨てられる親も普通になりました。

 老後になってわが子に捨てられる親というものは、ほんとうは、いのちの本質が愛であることを教えずに、競争に勝つためのしつけをし、自分の栄光のために、わが子を育ててきたはずです。
 わが子の魂の成長のことなど、あまり考えなかったはずです。
 ひたすら競争に勝つためのしつけとか、神を信じていても、受験のときだけの神社参りが関の山ではなかったでしょうか。目先の利益を優先した、つまり、ご利益しか求めてこなかったのではなかったでしょうか。
 それゆえに、わが子もまた、自分の生活を優先させて、邪魔になった親を捨てるわけです。
 老人ホームにすてられるのはまだいいほうで、在宅看護などすれば、ヨメではなく、息子にいじめられます。
 そういうときもまだ、問題の多い親は、ヨメがそのように「仕向けている」としか考えない。
 
実の息子にいじめられても、ヨメがわるいことにしたいわけです。
それが親の愛だと思っているわけです。
哀しいことに、そういう親の愛が、わが子にためになっていないことさえ、親というものは認めないのです。
どこのヨメでも、はじめは夫の母親だということで、大事にするわけですが、姑のなかに、わが子しか眼中にないことが判明すると、ヨメは、そういう姑の狭い心に失望して、みぎりをつけるわけです。
あたりまえです。
そういう閉鎖的な親の愛などは、まったくもって汚れた愛なのです。
どこが「汚れている」か。
そういう親の愛は、ムスコでさえ、一人前に育ててはいないはずです。

 
2 仕えるということ

 かつてのヨメは、舅、姑に仕えていました。
 仕える、などと言えば、いかにも封建的なにおいがします。
 たしかに、仕えるほうは、卑屈になり、屈辱感に耐えねばならない。

 しかし、どうでしょうか。
たとえば天皇にお仕えしているようなひとは、天皇のそばにいれば、ほかのものに対しては優越感がもてますので、むしろほこりをもっています。
そういうことです。
ヨメにしても、名家のヨメなら、ほこりをもって仕えるが、一般庶民の夫の両親などに「仕えて」も、だれに自慢できるものでもないわけです。

イエスさまも、そういう人間の心理を察知していたのか、次のようにいわれました。

 「わたしに仕えるというのなら、
  そういう人は、わたしについてきなさい。
もしわたしに仕えるなら、
わたしの父(全知全能の神)がその人に報いてくれます」
                           (十二―二六)
 いかがでしょうか。
 そういうことです。
普通は、仕えたものは、自分が仕えている主人に、何かをもらえると期待しているのではないでしょうか。
 しかしイエスさまは、
 「わたしについてきたものには、神がその人に報いてくれる」
 というのです。
 ここが、一般の王に仕える人の報酬と違うところです。
 普通の場合は、こっそりいいことをしても、それほど評価してもらえません。
 それゆえに、主人の目のまえで、目立つようないいことしかしなくなります。
 かつて天皇陛下のために殉死したひとのなかにも、そういう人がいました。天皇のためなら、平然と庶民など殺せるわけです。
 
 しかしイエスさまに仕えるものは、そういうことをしてはならない、というのです。
 イエスさまは、もっとも弱いひとりのためにも死ぬことができる方でした。
 そういう主人に仕えるということは、仕える人もまた同じように、もっともよわいひとのために死ぬことを意味していました。
 そういう死に方をしたものだけが、神から褒美をもらえ、その褒美こそが、永遠のいのちである、というのです。
昭和天皇は、だれにもやさしかったのに、そういう昭和天皇に仕えたひとは、天皇の意に反して、第二次世界大戦まで引き起こし、多くの国民を戦場に送って、天皇のために死ぬようにいいました。
つまりそういうひとは、ほんとうは、天皇に仕えてはいなかったわけです。
天皇でさえ、自分のたちの権力を守るために、利用していたのです。
それゆえに、惨めな戦いを一日も早くやめようとする天皇の心を無視して、最後は、
「一億総玉砕」
を国民に命じたわけです。
かれらは、自分は死んでいいから、天皇制を守りたかった。
などといいますが、そういう祖国愛ほど恐ろしいものはありません。
わが子のためには何でもする母親の愛とまったく同類の危険な愛なのです。
そういう人に愛されれば、国だって滅びます。

昨今でもそうです。
天皇陛下を神様として尊崇しているひとのなかにも、一般庶民を軽蔑しているような言動を繰り返すような文化人とか政治家をみることがあります。
そういう意味からも、陛下は孤独だろう、と、いつもおもうばかりです。
 そこでイエスさまもいわれます。
 「もっともよわいものにする親切は、わたしにしてくれたものでもある」
 そういうことです。
 天地創造の神に仕えたいものは、もっとも弱いものを助けなさい、というのです。

しかし誤解のないように、はっきりいいます。
「仕える」といえば、いかにも目先まっくら、自分の自由がなくなるようにおもわれそうですが、ひとを不自由にするものに仕えるから、そうなるのであって、イエスさまはいわれました。
わたしに仕えるものは、真理を知る。
 「真理があなたがたを自由にする」
 「わたしが真理であり、いのちであるから」
 というわけです。
 またその真理とは
「神と隣人を愛せよ」
ということばだったのです。
神だけに仕えてはならない。
隣人を大事にすることが、神に仕えたことになる。
そういうことだったのです。
 イエスさまの「ことば」は、ほんとうに「ふしぎ」です。
 しかし「真実」そのものでした。
 
 
3 光の子とはどういうものか

東北大震災のあと、真っ先にこまったことは、停電でした。
光がなければ、人間は生きてはいけません。
闇夜のドロボーにしても、まっくらでは仕事?になりません。
しかしなぜか、人間というものは、太陽のもとで、公明正大に生きるよりも、夜の世界を好むようです。

ネオンのなかでしか生きられないような、そういう人間が増えています。
太陽の下での語らいよりも、バーのようなくらい所の語らいを好むようです。
太陽のもとの健康よりも、演劇の世界とか密室の行為に、平安を求めるようになりました。
人間とはおろかなもので、太陽の光のもとで健全に生きることをしないで、わざわざネオンの「光」を求めます。
ごく普通の日常のなかで神を求めないで、修道院の中とか、巡礼地で神を求めようとします。
どうしてでしょうか。
どこかやましいところがあるのだ。
とイエスさまは言われます。

イエスさまの「目」からみれば、そのころのユダヤ教徒もそうでした。ほんものの光よりも「言い伝え」の光の「下」で生きていました。
かれらの律法は光そのものでしたが、その律法の真意をさけて、人間が解釈した律法に従っていました。
それゆえに、イエスさまは、ほんものの光としてこの世にきたのに、そのイエスさまを殺しにかかってきました。
そこでイエスさまは次のように警告を発しました。

「光のあるうちに、歩きなさい。
 闇のなかを歩くものは、自分がどこに行くのかわからない。
あなたがたは光のいる間に光の子となるために、
光を信じなさ」(十二―三五~三六)
  
 なんということばでしょうか。
 イエスさまは
 「光がなくなったらこまるから、光の子になっておけ」
 といっています。
 たしかにそうです。
 蛍のような光でも、自家発電できれば、光に不自由することはありません。
 たとえ地獄におちても、闇のなかに突き落とされても、光の子となっていれば、地獄もまた地獄でなくなります。
 そういう光の子こそが、永遠のいのちを持つといいます。
なぜなら光を自家発電するということは、いつでもいのちの再生が可能だということを意味するからで、それゆえに永遠のいのちをもちたいものは、光の子になればいい、というわけです。

光の下で生きるのではなく、光の子となりなさい。
真理について知るのではなく、真理そのものとなりなさい。
そうすれば真理があなたがたを自由にする。
そのようにイエスさまは言われました。
それゆえにイエスさまは当時のユダヤ教徒に殺されたのです。
人間を光の子にする、神の子にする、永遠のいのちをもてるようにする。
などとイエスさまが約束したからでした。
それこそ神の領域を侵す悪魔でしかない、と思われたのです。
しかしはっきり言います。
イエスさまに仕えるということは、光の子になることを意味していました。
イエスさまという光に照らされて生きる存在ではなく、光の子になることを意味していました。
月は太陽に照らされて月光を放っています。
そういう光でも人類のためにはなりますが、イエスさまは、光の子になるようにいわれました。
自家発電できる人間。
そういう光の子になりなさい。
そのためには、いつも自家発電していて、永遠に光り続けている「わたしイエス」についてきなさい。
そうすれば、そういう自家発電できる人間になるために、「お助けマン」を送る。
といったのです。
 その「お助けマン」こそが、聖霊という光でした。
 つまりその聖霊がひとりひとりの心のなかに住むから、その時点で、光を放つようになる、ということでした。


4 「永遠のいのち」の原理

 しかし現実はどうでしょうか。
 どういう宗教宗派でも、信じているものは、おそらく、宗派の光の下で生きているだけ、ではないでしょうか。
 それゆえにかれらは、光を奪い合って宗教戦争までしてきたのではなかったでしょうか。
イエスをキリストだと信じて、キリストの奪い合いまでする。
そういうことがないようにイエスさまは
「光のあるうちに光の子になりなさい」
といわれたのです。
充電が切れれば光に不自由します。
それゆえにけっして充電が切れない光の子になりなさい。
光を自家発電する存在に。
つまり聖霊を心に宿せばその聖霊が光を放つ。
それ以外に救いはない。
ということです。
それ以外に、光の子になる道はない、というそれが意味でした。
光のあるうちに光の子になれ。
そういうことです。
  
もちろん、そういう自家発電できる光の「子」であれば、宗派などはつくりません。

 宗派を作った先人たちは、自分たちの光が「消える」ことを心配して、そのように寄り集まったはずです。
 しかし光の子となってしまえば、ほかのものから守ってもらう必要はなくなります。
 いつでもどこでもあたりを、自分のほうから照らすだけです。
 どういう闇の世界でも、光が現れれば闇のほうが消えます。
 それゆえに死ぬこともありません。
 光の子とは、永遠に消えることのない光の子、つまり永遠のいのちを意味していました。
 そういうことです。
 
おもえばどうでしょうか。
だれが考えても、みずから輝く光に、どういう宗派が必要でしょうか。
 イエスさまは次のように言われました。

 「わたしは世を裁くために
  この世に来たのではありません。
裁くためではなく
救うためにきたのです」(四七)

 そういうことです。
 イエスさまは、自家発電できる聖霊という「永遠のいのち」を下さるためにこの世にこられたのです。
それゆえに宗教宗派のなかの、密室の信仰生活などしてはいけないのです。
困ったことですが、なぜか そういう宗教宗派が多いのです。
 自分たちがいちばん正しいのだ、ということで、宗派をつくります。
 ほんとうに正しいものとは、隣人を愛すひとのことですが、宗教宗派の正しさとは、自分たちの信じる宗派のために、ほかの宗教宗派を迫害し、最後は、あとかたもなく撲滅する。
 そういう宗教戦争が、聖戦だと錯覚するようになるわけです。
 昨今ではカトリックもプロテスタントもかなり歩みよってきて、礼拝に共同で訳した聖書を使うようになりましたが、それでも本質はあまり変わっていません。
 宗派がある間は、いくらおなじ聖書訳をつかっても同じです。
 双方とも、光の子とならないで、光をまだそとに求めているはずです。
 光の子になれば、宗派などいらなくなります。
魂の奥から輝く光のあるものに、どういう宗教宗派が必要でしょうか。
消えることのない光。
それが、信じる者の約束したキリストからのプレゼントでもある「聖霊」という真理なのです。

 イエスさまはそういう光を自家発電していたのです。
 それゆえに
 「わたしには死ぬ力もあれば、復活する力もある」
 と言われました。
 それこそが光である証拠でした。
 しかしたいていの宗教宗派には、そういう力はありません。
 ひっしに教祖とか宗派にすがりついています。
 光の子は、光にしがみついたりはしません。
 光の子もまたみずから光ります。
 イエスさまは父なる神にしがみついたりはしません。
 ご自身がすでに光であったから。
永遠のいのちをもつ、ということは、光そのものを意味していました。
 イエスさまに仕えるとは、 いつもイエスさまのそばにいるのではなく、光となることを意味していました。
 その光とはどういうものか。
聖書記者はいつも、
「聖霊に充たされなさい」
といいます。
それは、聖霊がうちからあふれ出るようになりなさい、という意味だったのです。
そうなれば、奪うより与える喜びを知るようになるからです。

<日本人の反省> 
    -「自爆テロ」は日本人の発明-

1 「イスラム」国の恐怖

 昨今の「イスラム国」の自爆テロに、ほとんどの国が「困っています」。
ところが、日本人は、第二次世界大戦の末期に、いわゆる「特攻」というものを、公安して、敵国に怖れられていました。

「特攻」とは、かえりの燃料を積み込まないで、一端日本の飛行場を飛び立ったら、敵の「戦艦」に体当たりすることが、究極の目的だったのです。
それもまた、「天皇陛下」の「名誉」と「栄光」を守るためでした。
それゆえに、海上で敵艦を発見したら、迷うことなく、
「天皇陛下バンザイ」
といって、敵艦に体当たりしていった、といわれています。
ところが、現実は、
「おかあさーん」
だったと証言する人もいます。

しかし「イスラム」国の場合は、
「アラーは偉大なり」
と前もって宣言して、自爆しています。
かれらは、以前は時にアメリカ人を標的にしていました。
その理由にひとつが、アメリカ人の信じているキリストは神ではない。
ということをはっきりさせるためでした。

イスラムのひとは、天地創造の神を、アラーと呼び、キリスト教徒は、その神を、「エホバ」と呼んでいます。
その「エホバ」神をキリストは、
「わたしの天の父よ」
と呼んでいたのです。
つまりアラーもエホバも、同じ神であったのです。

おかしなもので、一神教の国では、同じ無限の神を信じても、その無限の神を信じる信仰によって、自分たちの信仰の優位を誇示しているわけですが、神そのものは同じ神でした。
 同じ神を双方とも信じているのに、「イスラム」国のひとは、その神を紹介したマホメットのほうが、同じ神を紹介しているキリストよりは、偉大である、といいたいわけです。
そうして、キリスト教徒のアメリカ人に対して、敵意をむき出しにするわけです。
しかし今では、同じイスラム教の国も、「イスラム国」に狙われています。

そういうことです。
同じ神を信じてはいるが、その信仰が違えば、もう許せなくなるわけです。
日本の場合は、すでに天皇ご自身は、
「わたしは神ではない」
といわれていますが、それでも日本国内にはまだ、天皇陛下が神に戻ってほしい、という願いをもつひとが多くいます。
そういう政治家になると、天王陛下のために戦争だっていつでもする、というような人が多いようです。
日本を天皇の国、つまり再び「神国日本」にして、敵国を滅ぼしたい、というわけです。

 
2  「キリストの平和」造り

 しかし、キリストはいうのです。

 「どこの民族も、味方を愛して敵は憎めというけれど、
わたしはあなたがたにいいます。
あなたがたは、敵をも愛しなさい」

そういうことです。
キリストの真理のことばとは、
「味方だけでなく
敵を愛しなさい」
という「ことば」だったのです。
「真理のことば」とは、
「敵をも愛しなさい」
という「ことば」だったわけです。
そしてそのときの愛とは。
「自分を愛しているような愛で、
隣人を愛すること」
という隣人愛でした。


3 「自殺」も「戦争」も平和を造らない

そこで、こんどは、人はなぜうまれたのか。
という疑問に答えることになります。
「人はなぜ生まれたのか」
という設問と、
「人は何のために生まれたか」
という設問は違います。
「なぜ」?とは、生まれた原因とか理由を問う「ことば」ですが。「何のために」ということばは、人生の「目的」を問うことばです。

しかし、このふたつの設問は、切っても切れない関係にあるようです。
それゆえに、なぜ生まれたのか。
と聞かれると、
「幸せになるために」
答えてしまう有識者も多いわけです。
しかし、厳密にいえば、
「自分はなぜ生まれたのか」
ということを知りたいひとは、自分という「いのち」の源を知りたいわけです。
「自分は何のために生まれたのか」
と自問する人は、親を糾弾したいわけです。
まったく意味のない人生しか送ってこなかったとき、そうなってしまうはずです。
いずれにしても、そういう自問、設問をするということは、すでに自分の人生に絶望しているはずです。
生きる意味を失っているわけです。
自分ほど大事なものはないはずでしたが、そこにその偉大さ、尊さがあるのか、疑問におもえてきたわけです。
しかもその答えがないので、心も精神もその思いまでもが、「不自由」を感じているわけです。

そこでキリストはいいます。
「真理が、あなた方を自由にします」
と。

ここでいう「自由」とは、
「なぜ生まれたのか」
「何のために生きているのか」
そういう、もろもろの「疑問」から、すべて解放される、という意味だったのです。
生まれながらの盲人を前にして、あるとき、学問があるだけの有識者が、キリストに質問したことがあります。
「先生。
このひとが盲人にはなぜですか。
先祖の罪によるのでしょうか。
それとも、
先祖に罪によるのでしょうか」

よくある質問です。
キリストの答えはこうでした。

「本人の罪でもない。
 先祖の罪によるのでもない。
「この人に、神の栄光があらわれるためである」

そういうことでした。
もちろん何事にも原因があります。
また目的もあります。
ところが、キリストは、盲人に生まれたのは、人の人生の邪魔をするためではない。
罪のせいでもない。
このひともまた、
「神の栄光を現すために、
 神によって生まれたのである」
というわけです。

人間の「いのち」の出所、つまり源はだれも、天地創造の神であり、その神の栄光をあらわすために、この地上の人として生まれている。
ということです。
だから。自殺は当然いけない。
他殺する権利も人間にはない。
なぜなら、どの人のいのちも、神から出て、神の栄光を現すために、いまという「時」のなかで存在しているのだから。
ということです。


4 「いじめ」が諸悪の根源 

 もうお気づきのこととおもいます。
 一神教の神はこわいとはいうけれど、天地創造の神が、
 「わたしのほかに神としてはならない」
 と戒めたのは、人間というものは、そういう神の子であるから、だれひとり犠牲にしてはならない。
差別してもいけない。
 知的障害者を「邪魔者」として、隔離してはならない。
 そういうことをするものは、「親」でも「先進国」でも、許されることはない。
 人間はみな平等である。
「いのち」に優劣はない。
すべての「いのち」には、それぞれに「神の栄光」を現す「使命」があるだけである。
「その使命」にも優劣はない、
というそれは、世界の平和のための「ことば」でもあったわけで、そういう神の「ことば」を、キリストは、真理と呼び、
「真理が、あなたがたを、自由にします」
といったわけです。

そういうことです。
真理にも、自爆を勧め、敵を殺すための真理もあれば、わが身を引いて、敵でも助ける真理もある、ということです。
同じく「ひとりぼっち」のひとでも、世界の平和のために、「ひとりだけの戦い」をしているひともいれば、ただ「引きこもっている」だけの人もいる、ということです。

しかし、天地創造の神は、そのどちらにも、平和を用意しています。
ひとりぼっちで、人に害を与えるひとは「いないからです」
殺してみたかったので殺した、などという犯人や、自爆テロを肯定するものは、ほんとうは、「ひとりぼっち」ではありません。
だれかの目を気にしています。
目立ちたいだけのひとが多いのです。
しかし、人間は、目立つ必要など、まったくありません。
天地創造の平和の神に出会うことだけが、人間には必要なだけだ、とキリストは言います。
そのために、キリストもまた、人間として生まれた、ということです。

しかし、はっきりいいます。
日本人はなぜか、誰かをいじめることで、平和を造ってきたのです。
いわゆる「特攻」を発明してきた日本人は、今も反省はしていないのです。
「イスラム国」は、日本人の真似をして、テロ行為を肯定しています。
キリストは、殺すよりも殺されることで、世界の平和を造ってきましたが、日本の政治は、どうでしょうか。
長生きしている高齢者に、どういう平安があるでしょうか。
日本人の長生きは、魂の成長のない人生で終わっています。
つまり、日本人は、元気な時には、最も弱いものをいじめるることで、平和を造り、長きをすることで、こんどは、「自分の魂」をいじめているわけです。         (つづく)








方舟と虹ー心の栄養と休息のために

2017年7月5日 発行 初版

著  者:吉川宣行 平川博達 吉野万菜
発  行:yoshikawa-shimon-nobuyuki出版

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yoshikawa-shimon-nobuyuki

現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

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