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「私はきっと、きっかけを探していた。それには協力者が必要だった。けれど、それは見ず知らずの人間でなければならなかった。私は私の人生を捨てて、誰も知らない自分になりたい……ずっとそう思っていたの」
私がそう言うと、誘拐犯は悲しそうに笑いながら、私の頭にそっと手を置いた。
何故だか、涙が溢れた。
1
これは私の独白だ。惨めで情けない自分の全てを、このノートに綴ろう。
いつか誰かの目に止まるかもしれないし、その時の為に、私は真実だけを話そうと思うのです。
私の名前は……まぁ、それは後にしようかな。名前がどうであれ、ここではあまり意味を持たないと思うから。
とにかく本当の私を知ってもらう事が大事なので、偽りのない自分を勇気を出して書いてみます。殴り書きになってしまう事もあるでしょうが、許して欲しい。
私はいつだって、許される理由、仕方のない事態、逃げられない選択を求めていたのかもしれない。
他人任せな事はわかっているけれど、私にはこの日常を壊してしまう事は怖くて出来なかった。
誰よりもそれを望んでいたというのに……おかしな話だ。
あの頃の私には長く付き合ってる彼氏だっていたし、仕事もちゃんとしていた。
大事な友達だっていたし、優しい両親だって、勿論今も健在だ。
けれど、私はいつだって無理をしていた。そして、何一つ信用出来ずにいた。信用を口にしていたって、いつだって疑心暗鬼がまとわりついていたの。だってその言葉、絶対ではないでしょう?
人の考えは移ろいやすく、きっかけ一つで簡単に壊れてしまうものだ。
だから私は……私に愛を囁いてくれる彼氏から逃げたかった。
ストレスばかりが蓄積される意地の悪い職場から逃げたかった。
楽しさを求めて遊びに誘ってくれる友人達から逃げたかった。
そして、誰よりも自分の事を心配してくれる両親から逃げたかった。
けれど何故それをしないか。それは、その逃げるという行為が非道徳的な事だと認識していたから。理解していたからだ。
私はいつでも正しい人間でありたかった。良い子でいたかったのだ。だから、間違いだとわかっている行為に走る事は決してなかった。
だけど次第に……彼氏の前で見せる顔、職場で見せる顔、友人の前で見せる顔、親の前で見せる顔。それが誰なのかがわからなくなってきたのだ。
実際の私はいつだって無気力で、悪人ではないだろうけど善人でもない。けれど、偽善者であるとは思う。
作り物の私はいつだって、その場にあった仮面をつけ、笑う。
笑って。笑って。嗤い続けるのだ。
私は間違いなく疲れていた。
消えてしまいたいと思っていたのは日常茶飯事だけれど、今は『消えたい』ではなく、『私は死ななければいけないんだ』と思うようになってきていた。
皆と同じように普通に生きられない。当たり前の事が私には出来ない。今にも心と身体が分離しそうな気持ち。見事な程に滑稽な私の心理など、誰も知る事はない。
私はこの世界での失敗作。決して良作にはなり得ない。それならせめて、私の人生を、全てを無くしてしまいたい。
そんな時、私は彼に出逢ったのだ。
私に全てを捨てさせ、新たな命を吹き込んだ哀れで優しい犯罪者。
……いいえ、救世主に。
彼の名前は知らない。だから私は、彼の事をテントウと呼ぶ事にした。
彼の携帯につけられていたストラップが、悪趣味な色をしたてんとう虫だったから。
そして彼の髪が、お天道様のように明るくて綺麗だったから。
彼はきっと、私の名を知っている。
けれど、彼は私の名を呼ばずに、新しい名前を与えてくれた。
「ハナ、今日からそう呼ぶ事にする。俺がてんとう虫ならお前は花だ。疲れた時は遠慮なく寄りかからせて貰うよ。だからお前も綺麗に咲き続けろよ?」
テントウは「なぁんてな」と言って笑うと、ベッドに横になり、すぐに眠ってしまった。
……不思議。私はこの男に誘拐された筈なのに、自由に動き回れる。
窓の外に目を向けると、一面の草原が広がっていた。青い空が綿菓子のように膨らんだ白い雲を運ぶ。風に揺れた草花は、まるで踊っているかのように見えた。
私の名前はハナ。ここは、元いた場所からかなり遠い。私を知る人は誰一人としていない。
ここにいるのは、私とテントウだけだ。
悪い子になった気分だった。ううん、私はずっと偽りの良い子を捨てて、悪い子になりたかったのだ。
私はテントウに我儘を言った。テントウはぶつぶつと文句を言いながらも、「仕方がないな」と困ったように笑った。
私はテントウに、まるで幼子のように甘えた。テントウはいつだって優しく私を包み込んでくれた。
テントウの事は信じられた。だってこれって犯罪でしょう? 彼は犯罪者になってまで、私をここに連れ去ってくれた。
だから私は、彼がそれ程までに私の事を愛してくれているのだと信じる事が出来たのだ。歪んでいたって構わない。私には彼の愛情が、とても心地良かったから。
そうやって私は彼の世界の住人となり、彼は私の世界の唯一の住人となっていった。
彼と身体の関係を持ったのは三日後。私の方から誘ったと言っても過言ではない。
触れられたかったから。
温もりを感じたかったから。
目の前の男の反応を見てみたかったから。
結果、私は異常なまでに興奮した。キスが、交じり合う感覚が、こんなに気持ちの良いものだとは思いもしなかった。
私は、まるでいけない事をしてるような気持ちになりながらも、何度も何度も達してしまった。
彼氏がいるのに、淫乱で下品な女だと思われるかもしれない。彼氏が可哀想だと思われるかもしれない。
けれど、良い子を捨てた私にはどうでもいい話だった。
それに私は、元々彼氏を愛してはいなかったのだと思う。だって本当に愛していたなら、私は何としてでも私の日常に戻っただろうから。
私はテントウの事を好きになり始めていた。けれど、愛しているかどうかはわからなかった。
ここに連れてこられた時、確かに不安な気持ちはあった。皆が私を捜しているかもしれない。仕事先ではもうクビになっている事だろう。私はこの一瞬で全てを失った。全てを無くしてしまったのだ。
けれどそれ以上に、ようやく全てから解放されたという安心感に包まれていた事など……テントウは当時、気付いてもいなかっただろう。
普通なら、理由もわからないまま、突然腹部を殴られ、目が覚めたら知らない場所にいた……だなんて、怖くて発狂してもおかしくはない。
しかし、私は至って冷静だった。私はいつだって心の中で望んでいたからだ。
今までの生活の全てを捨てざるを得ない事態が起こる事を。
そして、そのきっかけを……
――季節は夏。手にかけられたひんやりとした手錠は、火照った身体を冷ますのに適していた。
テントウは優しくて、よく笑う人だった。
読書をしている時にだけかける、おしゃれな黒縁眼鏡がとても良く似合っていた。
読んでる本はSFだったり、ミステリーだったり。私はその隣で、感情移入をしきれない、ありきたりな恋愛小説を読んでいた。
天気の良い日は草原でバドミントンをしたり、二人で作ったサンドウィッチを、風が吹き抜ける緑豊かな丘の上で一緒に食べた。
テントウが作るナナホシサンドは天下一品で、私の大好物になってしまった。
雨の日は二人で寄り添い合って眠った。静かに空から落ちてくる小さな粒は、儚げで繊細で……まるで、テントウの代わりに泣いているかのように思えた。
気付けば一年が経とうとしていた。ここにはテレビは置いていなかったから、私がいなくなった事が事件になっていたかどうかはわからない。テントウが持っていた携帯は、とうの昔に彼が壊してしまったし、もしそれが壊される事なく手元にあったとしても、わざわざ確かめようとは思わなかった。
周りから見たら、単に同居してる二人組にしか見えないだろうから、こういうのをストックホルム症候群と言ってよいものかはわからないけれど……私にはテントウの存在が、とても大切な宝物のように思えた。
――私は彼の事を、本当に愛していた。
それなのに、私達の間に事件が起きてしまった。
初めて……ほんの少しだけ、恐怖を感じた。
けれどすぐに忘れた。受け入れられた。
しかし、彼がそれを許さなかった。
彼は私を拒絶し、突然私の目の前からいなくなってしまった。
テントウはこの一年の間……どれ程悩み、苦しんできたのだろう? 私は彼の気持ちに寄り添ってあげる事が出来なかった。
何も知らなかった。知ろうともしなかった。
――彼は何故、私を誘拐したのだろう?
優しいてんとう虫は、一体どこに飛んでいってしまったのだろうか? 彼がいなくなってから、食事も喉を通らない。窓から見える美しい景色は、まるで古びた写真のように色褪せていく。彼がはめてくれたリングは油断すると簡単にカツンと地面を弾いた。仕方がないので親指につける事にする。涙はもう出ない。
有り余る程の時間を私は一人、ぼんやりと過ごしていた。かつては求めていた筈の自由な時間も、あり過ぎてしまえばただただ窮屈なだけだ。
やりたい事も、やる事も、やれる事もない私は、ただひたすらに空を仰ぐ。
「脳が青をインプットし過ぎて、このまま空と同化出来たらいいのに」
馬鹿みたいだけれど、そんな事を思っていた。
だって彼は同じ空の下にいるのだから、私が空になりさえすれば彼がどこにいようと一発で見つけてしまえるでしょう?
ねぇ、てんとう虫が止まる筈の花は……このままだと枯れてしまうよ。
枯れちゃうんだよ。
貴方の罪を、貴方や世間が許さなくても私だけは許しているのに……それどころか、私は貴方にとても感謝している。
貴方に出逢えていなかったら、私は既に死んでしまっていたかもしれない。
貴方が私にハナという名前をくれたから、私はこうして再び生きていく事が出来た。
生き辛い今の時代に。理不尽な世の中に。
弱過ぎた私の心に。
救いがあったなら、それは貴方でしかない。
ありがとう。
ありがとう。
私を連れ出してくれて、ありがとう。
貴方が隣にいてくれるなら、私はもう二度と逃げたりしない。消えたいだなんて思ったりしない。
だから、お願い。私を孤独にしないで。
もう一度だけ……私の前に現れて。
……あのね、テントウ。実は私、貴方に隠していた事があるんだ。
隠していたと言うよりは、知っていたけど知らないふりをしていた、と言った方が正しいかな?
一つ目は、貴方の本当の名前。
二つ目は、貴方の正体。
そして三つ目は……今、貴方がいる居場所。
貴方は私の身体を誘拐したけれど、私はきっと、貴方の心を誘拐してしまった。
それなのに、それでも幸せだと感じてしまった私は、自分勝手で醜くて、どうしようもなく惨めな大馬鹿者だ。
私の世界から、たとえ貴方がいなくなってしまったとしても……貴方の世界から、私は何があってもいなくなりはしない。
ずっと、ずっと、一緒にいるから。必ず一人にしないから。
だから……またナナホシサンドを食べさせてね。
***
「……約束だよ」
私はノートを閉じると、キュッと口角を上げて笑った。鏡に映った私の顔は酷いもので、思わず目を背けたくなるくらいだ。
私は引き出しの一番上にノートをしまうと、外に繋がる扉に手をかけた。
――風が、悪戯に私の髪を揺らした。青臭いけれど、懐かしくも心地良い草の匂いが鼻腔をくすぐる。
眩し過ぎる陽射しに思わず目が眩んだけれど、私は大きめの帽子を深く被り、ゆっくりと前に進んだ。
行き先は決まっている。行く末も決まっている。
今まで待たせて、本当にごめんね。
てんとう虫と花。貴方と私。
誘拐犯と被害者。貴方と私。
白い雲と青い空。貴方と私。
弱虫と泣き虫。貴方と私。
――運命と奇跡。貴方と私。
「ねぇ、テントウ。私ね独占欲が強いから、貴方を手放したくはないし、どうやら既に依存してしまってるみたいだから、貴方がいないとうまく息を吸う事も、吐く事も出来ないんだよ。ずっと、息苦しいんだよ」
私の口から勝手に飛び出した独り言に、思わず笑いが込み上げてくる。これ以上言葉が一人歩きする前に、貴方の唇で私を黙らせて欲しかった。蕩けるような熱情に身を委ねていたかった。
貴方とするキスが、貴方とする行為が、とても好きだったから。
私は野花を摘み取る。出来るだけ沢山。てんとう虫には花を、でしょ? 色んな色の花を集めてみたけれど、綺麗どころか不揃いで、滑稽で……まるで今の私のようだ。
私はふと、本当の名を思い出していた。
季節と色、貴方と私。
摘み取った花を一つにまとめ、私は目的地に向かう。……大丈夫、そう遠くはない。
薬指から親指につけ直したリングは、今ではネックレスの装飾品として首元で光っていた。この痩せ細った醜い親指では、リングの輝きを曇らせてしまうだけだから。
「……ごめんね。ごめんね、テントウ」
私が傍にいたところで、私は貴方を救う事が出来なかった。それはある意味、安定した日常を過ごせていながらもその全てを捨てて、逃げ出してしまいたかった私と同じだね。
だから、貴方は何も悪くない。
現実と真実から目を逸らしてしまい、貴方をずっと一人にしてしまった私を許して。
「今から逢いに行くから、待っててね」
私達の物語は、他の誰も関与しない。関与出来ない。私達二人だけの物語だ。他は必要ないし、どうだっていい。だだ、私達の邪魔だけはしないで欲しい。
毒に侵されたてんとう虫は、毒を含んだ花を愛し続けた。
優しく、尊く、まるで宝物のように扱ってくれた。
ありがとう。私だって愛してる。
ずっと、ずっと……愛してる。
これは、人生に生き辛さや限界を感じている二人の若者の、決して許されない……憐れで哀しく、純粋で美しい夢物語だ。
たとえそれが倫理に反していたとしても、最大の罪だとしても……
私は――
2
「……また、泣いてんの?」
そう呆れたように話しかけてくるのは、付き合って五年になる彼氏。名は榊英慈という。
英慈は会社の同僚でもあった。入社当時、私達は同じ年齢という事もあってとても気が合ったし、仲も良かった。
ある日の飲み会で、突然好きだと言われ、それからずっと付き合っているのだが……時間というものは、良くも悪くも人を変えてしまう。
外は雨が降っていた。古びた二階建てのアパートの二〇三号室に住んでいた私は、雨の粒が屋根に落ちて弾かれる音がとても好きだった。
規則正しく奏でる優しい音が、私の心を穏やかにしてくれる。
今の私には目の前にいる男の言葉よりも、止まない雨音の方が聞いていて余程、気が楽になれるというもの。
英慈は大きく溜息を吐いた。
「お前さぁ、多分病気だよ。病気。普通じゃないもん。毎日毎日ぼんやりしては、急に泣き出したりしてさぁ。やっぱ変だって。一度病院に行ってみれば?」
行為を終えた後の男というものは、途端に熱が冷め、素っ気なくなる……というのはよく聞く話だが、私達には五年の付き合いから生まれる慣れというものが上乗せされていた分、更に酷いものだった。
「……そんな時間ない。あっても、病院に行く時間が勿体無い」
英慈は小さく舌打ちしてから、前髪を雑に掻き上げると、吐き捨てるように私に言った。
「なら泣かない努力しろよ……辛気臭くて、見てるこっちが嫌んなるって! 大体さ、もういい年なのに……そういうのメンヘラっていうの? 所謂構ってちゃんってやつじゃないの?」
無神経な言葉が刃物のように突き刺さる。私は苛立ちを覚えていた。それでも英慈の小言は続く。聞いているだけで気が滅入っていくのがよくわかった。
「……ねぇ、私がいつ死にたいだなんて言った? 自傷行為をしたり、それをあんたに見せつけた事が今までに一度だってあった? ネット知識で何でも一括りにしないで。わかんないんだよ、英慈には。わかるわけないよ。私にだってわからないんだもん。どうしてこんなに涙が出るのか、何がそんなに悲しいのか……それなのに、英慈はいつだって」
「あ~、もうわかったから。そんな怒んなって。あっ、何ならもっかいする? そしたら気分も晴れるかも」
「帰って。一人になりたいの」
「……何だよ、心配してやってるのに」
そう言うと、英慈は服を着て、さっさと出て行ってしまった。
私の目からは相変わらず涙が流れたまま。外の雨と同じで、まだまだ止んでくれそうもない。
「……心配してやってる、か」
よく言ったものだ。本心はそうじゃないという事くらい、英慈の態度を見ていれば簡単にわかってしまうのに。
英慈の視線が面倒臭いと言っている。
英慈の溜息が疲れると言っている。
英慈の全てが私自身を否定している。
勿論、私だってわかっているのだ。このままの状態でいる事は、決してプラスにはならない。
私がちゃんとしないと、二人の関係もいつか終わりを迎えるだろう。
英慈は至って正常だ。おかしいのは間違いなく私自身……
私は、異常なのは自分の方なのだと、充分に理解していた。
私がこうなってしまった事に、特に何があったというわけではない。そう、理由など全然見当たらないのだ。それなのに私は、毎日が苦しくて、辛くて、どうしようもない不安に襲われる。
思い返してみたら、私は昔からこんな性格だったような気がする。何をするにも、誰かの顔色を伺いながら、他人重視で生きてきた私は……毎日、心の奥にある不安に押し潰されそうになっていた。
この世は弱肉強食とはよく言ったものだ。その中での私は、間違いなく弱者。強者に睨まれる事が嫌で、したくもない事を笑顔で引き受け、懸命にこなしてきた。嫌な事も我慢した。理不尽な事も受け入れた。そうした後、決まって悲しくなり、家で一人で泣いた。
そんな私を見て、両親は過剰に心配した。下らない事で心配をかけてしまう自分が、惨めで、情けなくて、恥ずかしく思えた反面……心配を口にする両親を、とても重く感じた。
私の中で、誰かに相談するという選択肢は存在しなかった。数回、友人に悩みを話してしまった事もあったが、その後が悲惨だった。その友人が誰かに口外してはいないかと、不安で眠れなくなってしまったのだ。
私は悩みを話した事を後悔した。そして、自分を心配して話を聞いてくれた友人を信用しきれない自分自身に、心底嫌気がさした。
それから私は、自分の想いや気持ちに蓋をする事にした。
実際、私は英慈に何も伝えてはいない。心の中に渦巻く不安や悲しみ。違和感。葛藤。何一つ、口にしてはいないのだ。
英慈が知っているのは、私が気付くと、いつも泣いているという事。たったそれだけ。
それだけであの言われようなのだから、わざわざ英慈に私の胸の内を明かしたりはしない。上手く説明出来る自信もなかったし、余計に傷付きたくなかったから。
ただ、流れ出す涙だけはどうにも自分でコントロールが出来なかった。これをコントロールする事が出来たならば、私は絶対、英慈の前で涙を流しはしなかっただろう。
私は本当に、英慈を信頼しているのだろうか? ただ、少しでも寂しさを紛らわせる為だけに一緒にいるだけのような気がした。
気付けば一人、眠れない夜を過ごす事が多くなっていった。何かに時間を費やしているわけではない。単に眠りたくても眠れないだけだ。
家族や友人に連絡しようとは思わなかった。勿論、英慈にも。
晴れの日は、ベランダで夜空の星を見上げながら泣いていた。雨の日は、ベッドの隅で三角座りをして泣いていた。静か過ぎる孤独な時間は徐々に私の心を蝕んでいった。
やはり、涙のわけはわからない。
やがて日が昇り、いつものように朝が来る。私は洗面所で、隈の出来ている腫れ上がった目を何とかメイクで隠そうとするのだが、あまり効果はなかったようだ。
英慈は、こんな顔をした私と話すのが恥ずかしいのか、職場では一切声をかけてこなくなった。
いつの間にか、私の腫れ上がった目と隈の理由は、英慈に振られたからだという噂が流れていた。
「……どこか遠くに行けたらなぁ。もう疲れたよ。人に気を使い過ぎるのも、自分を隠して、わざと明るく振る舞うのも……けど、全てを捨てる覚悟も勇気も持てない。人の道から外れるのが怖い。皆と一緒じゃなきゃ安心出来ない」
汚点、欠陥、出来損ない、不良品……私は自分自身に価値を見出せない。本当に情けない話だ。勿論、甘えでしかないのはわかっている。全て、私の心が弱過ぎるのが悪いのだ。その事で、私は更に私を責めてしまっていた。
なら、どうすればいい? どうすれば、私は普通になれるの? 強くなれるの? 将来に対して前向きになれて、この世界に希望を見出せるというの?
どこにいたって人はいる。私達は、法律や制度、規則、社会によって生かされている。生まれてから死ぬまで、一度たりとも自由を手にする事なんて出来やしないのだ。
それなのに、どうして人は生かされているのだろう? 生きていかなければならないのだろう?
……死にたくない。死ぬのは怖い。
けれど、この歪んだ現代社会を生きていくには、私はきっと弱過ぎたのだ。
要するに私は物事を深く、大きく捉えすぎなのだと思う。もっと楽観的に生きられたらと思うけれど、性格的にそれが出来ない。真面目な性格が災いして、モラルに欠ける行いは悪、皆と同じように生きるのが善と、無意識に自分を縛り付けているのだ。
そして抑えつけた結果、脳と心が別の方向を向き始めた。
苦しい、悲しいと、子供のように叫ぶ心。
逃げる事は許されないと、大人のように諭す脳。
自分では、もう収集がつかないようになってしまっていた。
行き場のない感情が生み出した唯一の抵抗が、止まらない涙だったのかもしれない。
しかし、その涙ですら……私の身体から逃げたがっている。
いたたまれなくなった私は、傘も持たずに、無我夢中で雨の中に飛び出した。
言葉に出来ない想いが、いつか私を殺してしまうだろう。
今は梅雨の真っ只中。私は雨の中、ずぶ濡れになりながら夜道を歩いた。水分を含んだ髪や衣類は、重い身体を更に重くする。けれどそれ以上に、心はもっと重かった。
行き先なんてなかったけれど、とにかく雨に濡れていたかった。徐々に激しくなる雨と同様に、目から流れ落ちる涙も勢いを増す。
気が狂ったかのように叫びたくなった。異常者のように喚きたかった。けれど、良い子の理論を振りかざす愚かな私は、隣人の迷惑になると考え、静かに泣いた。
先程英慈に言った言葉だが、私は決して死にたいとは思っていないし、今まで自傷行為等をした事がない。
けれど、心のどこかで……『いっそ死んでしまった方が楽になれるのではないか』と、いつも考えていた。
そうしなければならないと思えるくらいに、私の心は悲鳴を上げていたから。
だから、そうする事で苦しみから解放されるなら、それでもいいと思っていたんだ。
……大丈夫。思っているだけだ。私はきっと死ねない。だって私が死んでしまうと両親が悲しむから。仕事先も、引き継ぎやら後処理等でとても困るだろう。仲の良い友人達も、きっと泣いてくれると思う。
そして、彼女が自殺なんてしたら、英慈にも迷惑をかける事になってしまう。
その事に罪悪感を覚え、行動に移せない。私はどこまで良い子ぶるつもりなんだろう。
いっそ、誰かが私を殺してくれたら……
そしたら私は、全ての責任から逃れる事が出来るし、楽になれる。間違いを犯して悪人になる前に、善人のまま全てを放棄出来るのだ。
そんな最高な事はない。
……どれくらいの時間が経過しただろう?
暫くフラフラと歩き続けてしまったが、今頃になって、鍵もかけずに外に飛び出してしまった事を思い出す。
仕方がないから家に戻る事にした。それに明日も仕事だ。こんなに濡れてしまって、風邪でも引いてしまったらどうしよう。
自業自得ではあるのだが、急に不安になってきた。涙は今も、止まる事なく滴り落ちている。
アパートの近くにある、公園の入り口付近。紫陽花が咲いている花壇の前に、誰かが座り込んでいるのが目に入った。
大きめのグレーのレインコートを着ている、おそらく男性だと思う。暗い上にフードを深く被っているので、顔はよくわからない。
そういえば、最近この辺りによく不審者が出ると噂で聞いた。時間も時間だし……もしかして、この男がそうなのかもしれない。
精神的に不安定だった私は、『この男が本当に不審者なら、私を今すぐここで殺してくれないかな』などと、集中し切れない頭の中で、ぼんやりと考え込んでいた。
私はゆっくりと、その男の前を通り過ぎる。男は俯き、座ったまま、動こうとはしない。
……そりゃ、そうだよね。
見ず知らずの男を犯罪者扱いし、更に『殺してくれたら』などと願った事を、少しばかり反省した。
しかし、この人……こんな所で一体、何をしているのだろう? そんな事を一瞬だけ思ってみたものの、すぐに頭から消え去った。人の事を心配する余裕など、私にはなかったから。
私は再び帰路を目指し、歩き始めた。
「お前さ、何でそんなに生き急いでんの?」
背後から聞こえてきた不躾で無礼な言葉に、私は思わず足を止めた。
「なに、貴方……いきなり失礼じゃない? 生き急いでるって何が?」
私がそう言うと、男は「よっ!」と立ち上がり、 更に言葉を続けた。
「あ、悪りぃ悪りぃ。『生き急いでる』じゃないな。お前、死に急いでんだわ」
「……はぁ?」
男の口元がにんまりと笑ってる。酷く感じが悪い。いきなり話しかけてきたと思えば、この失礼な物言い……やはり、この男が噂で聞いた不審者ではないのだろうか?
私は咄嗟に警戒するが、男は私との距離を保ったまま近付こうとはしない。
不審者らしき男は、再び口の形を変えた。
「あーあ。そんな死人みたいな顔しやがって。しかも全身ずぶ濡れ。……お前、誰かに心配して欲しかったの? それとも、誰かに同情してもらいたいのか? けど、あいにく今は夜。しかもこの大雨だ。人なんていやしないし、濡れる事をわかっていて、わざわざ外に出る物好きもいない。だから、お前を心配する人間も同情する人間もここにはいない。残念だがな、お前は独りだ」
何故、見ず知らずの男にここまで言われなければならないのか? 無性に苛つき、言い返してやりたい衝動に駆られたが、雨に打たれすぎたせいか少し気分が悪くなってきた。ここは相手にしているだけ時間の無駄だ。受け流そう。どうせ、もう二度と会う事もないのだし。
「……そうね。ここには誰もいない。でも、貴方がいるじゃない? 貴方は雨に濡れてまで外に出ている物好きではないの? じゃあ、貴方が私を心配してよ? 同情してよ? そしたら私は、独りではなくなるんでしょう?」
そう言うと男は急に黙り込んだ。私はふぅと、軽く息を吐く。
「どこの誰だか知らないけど、私、貴方に構ってる暇はないの。貴方も早く帰ったら? 風邪引くわよ」
私はくるりと方向転換すると、アパートまでの第一歩を踏み出そうとした。その時――
「いいよ」
「……え?」
「確かに俺は、『こんな雨の中、わざわざ外に濡れに出てきている物好き』だもんな。よし、わかった! 俺がお前の心配をしてやるよ。俺がお前に同情してやる。そしてその涙のワケを、俺がお前に教えてやるよ」
「な、に、間に受けてるのよ……冗談に決まってるでしょ? 馬鹿じゃないの」
私は戸惑いを隠せなかった。心臓がドクンと大きな音を鳴らす。
私の涙の理由……それを、この男ならわかるというの?
きっといつもなら、馬鹿馬鹿しいと一掃し、聞く耳すら持たない筈。
けれどこの出会いが、今までの何かを変えてくれるような気がした。しかし、不信感はまだまだ拭えない。
「貴方……一体何なのよ。私の事なんて知りもしないくせに、貴方に私の何がわかるって言うの? それに私、別に泣いてなんかいないし」
「泣いてるし」
「泣いてない」
「泣いてる」
「泣いてない!」
馬鹿みたいな口論を続けている私達は、まるで自己主張の激しい、融通のきかない子供達のようだ。
何故私は、こんなところで大声を出しているのだろう? どうして私は、こうも自分の感情を吐き出せているのだろう? 心の中がモヤモヤする。
この男は一体、何がしたいというのだ? 私は口を噤み、男の姿をじっと見つめた。
男は私の視線など御構い無しに、真っ直ぐと右手を伸ばす。雨は男の手に反発しながらも、やがてその小さな器に、小さな泉を作り始めていく。
男は、空を見上げて言った。
「泣きたい時に泣いて何が悪い? ほら、こんなに雨が降ってんのに、利用しない手はないだろ? 泣いてる事を気付かれたくないのなら、これは涙じゃなく雨だと口にすればいいだけの話じゃないか」
いちいち男の言葉に心が揺さぶられていくのがわかる。けれど、それを素直に受け入れられない。
だって私は、目の前の男の事など何も知らない。男が私に話しかけてきた意図すらわからない。この男には、怪しさしか感じられない。
表情を隠すそのレインコートが、ますます私の警戒心や猜疑心を高めた。
「……馬鹿みたい。関係ないでしょう、貴方には。私に関わらないで。もうほっといてよ」
「おー、関係ないな。全く関係ない。けどお前が俺に、心配してくれ、同情してくれって言ったんじゃねぇの。それに俺が応えた。その瞬間に、お前の世界と俺の世界は繋がった。もう知らない間柄でもないってわけだ」
「……は? 意味わかんない。貴方、頭がおかしいんじゃないの? 普通の人は初対面の人間にそんな事は言わない。下手なナンパでも、もう少しまともな会話をするわよ」
「ははっ! 頭がおかしい? そりゃ、あながち間違いでもないかもしれねぇな。けど、そんな事を言いながらお前、本当は俺に興味が湧いたんじゃねぇの?」
「呆れた。随分自信があるみたいね?」
「ああ。お前の近くに俺みたいな男がいれば、お前はそんな風になってはいなかったと思うからな? だから俺は、お前の周りにはいないタイプの人間だという事だ。そして人は、誰しも好奇心や探究心を心の中に秘めている。知らないものに興味が湧いても、おかしくはないだろ?」
確かに男の言う通りだ。私は初対面の相手に対し、いきなり「お前」呼ばわりするような非常識な男に、今まで会った事がない。傲慢で自信過剰な態度が鼻につく。本当に嫌な男だ。
けれど、私は気付いてしまった。気付きたくはなかったが、気付かざるを得なかった。
突然、私の中の雨が――止んだ。
どうして? 苛立つ気持ちが、不安や悲しみを凌駕したとでもいうの? ……残念ながら、それが不正解だという事は私が一番よくわかっている。
認めたくはない。認めたくはないけれど……先程から私の心が、精神が、安定しているのは明確だ。
長く付き合ってきた彼氏といるよりも、気心の知れた友人達といるよりも、心配性で優しい両親といる時よりも、この男と話している方が余程、気が休まるのだ。
息をするのが苦痛だった。誰もが当たり前のように出来てしまう事が、私には難しかった。
酸素が足りないと息苦しいし、頻繁に多く取り過ぎると過換気症候群を引き起こし、余計に辛い思いをする事になる。
私は呼吸をする事に意識し過ぎて、どう息をすればいいのかわからなくなっていたんだ。
それなのに今は、上手く呼吸が出来ている。可哀想な想いをさせていた私の肺の中に、至って自然に酸素を運ぶ事が出来るのだ。
見ず知らずの人間で全くの赤の他人だから、二度と会わない人だから、私はありのままの自分でいられるのだろうか?
気付けば私は男に興味を抱き始めていた。確かに男の言う通り、私の中にも好奇心と探究心は眠っていたみたいだ。もう少しこの男と話がしてみたい。
そんな事を思った……その時だった。
「あ、れ……?」
突然、目の前の世界がグラリと揺れた。しっかりと立っていられなくなった私は、地面に膝をつける。雨に打たれすぎた身体は、流石に冷え切ってしまっていて、眩暈や頭痛を引き起こした。
寒い……あぁ、やはり風邪を引いてしまったみたいだ。
そもそも今は何時だろう? 早く帰らないと明日の仕事にも差し支える。明日は大事な会議があるのだ。休むわけにはいかない。
でも……
でも、まだここに……
「おいおい。ずっと黙ってると思ったら、お前大丈夫かよ? 馬鹿みたいに雨ん中ずっと外をウロついてるからだ」
男はそうは言いながらも、こちらに来ようとはしない。
私は、私の心を掻き乱す言葉を口にしながらも、心配や同情をしてやると私に言っておきながらも、距離を取ったまま、決して手を貸そうともせず、素性を隠したままでいる男に不満を感じていた。
勝手かもしれない。我儘かもしれない。そもそも私は、この癪に触る男に何を求めているのだろう?
私に対し、全く好意を持っていないとわかる相手に、何かを期待しているとでもいうのか? ……浅ましく卑しい女だ。恥ずかしくて顔から火が出そうになる。
男との距離はおよそ十数メートル。近いのに遠いと感じるこの距離は……多分、私達と同じようなもの。
相容れない空間。踏み込ませない壁。結局、この距離が私達の、限界ギリギリのラインなのだと思う。
知りたい、話したいだなんて……少しでも思ってしまった私が馬鹿みたい。
からかわれているだけだというのに、真に受けてしまうほど私は子供ではない筈でしょう?
私はゆっくりと立ち上がり、男に言った。
「別に何もないわよ。ちょっとフラついただけ。……私、もう行くわ。明日も仕事があるし、貴方と話すのもこれが最後。もう二度と会う事もないわ」
「……ふーん」
つまらなそうに話す男は、突然レインコートの中に手を入れると、「ジャジャーン!」と叫びながら、折り畳み傘を取り出した。
一体どこに隠し持っていたんだ、そのレインコートは四次元ポケットか? などと、規則正しい痛みが続く頭の中で思わずつっこんでしまったが、馬鹿馬鹿しいのでわざわざ口にはしなかった。
しかし、男はレインコートを着ているのに、何故傘まで持っていたのだろう? ……用意していた?
何の為に? 誰の為に?
……ま、レインコートを着ながら、傘を差す人間も中にはいるだろう。気にする事もない。
男は、パンッと気持ちの良い音を鳴らしながら、手にしていた傘を開く。黒と白のチェックの模様は、男に相応しいように思えた。
「帰りたいならさっさと帰れ。けど」
「けど……何よ?」
「お前がまだ帰りたくねぇって思ってるなら」
「え……?」
「俺とまだ、話していたいって思ってるなら」
男は開いた傘を左手に持ち変えると、そのまま頭上まで運ぶ。右手の人差し指はピンと上を指していた。
「入れてやるよ。今更あろうがなかろうが対して変わんねぇとは思うけどよ。入りたいならお前から来い。自分の足で歩いて来い。俺は一歩もここから動くつもりはないから」
「な、何よ、それ……」
「ん? どうした? お前が決めていいんだぜ? 本能の赴くまま、お前のしたいようにしてみろよ。帰りたいなら帰る、帰りたくないなら帰らない。至ってシンプルで簡単な事だろ?」
男の言葉に私は下唇をきゅっと噛む。けれど、私の足は迷う事なく行き先を決めたようだ。
爪先が示す方向には、やはり男の姿があった。
戸惑いながらも一歩ずつ前に進む度、私の脳内では自問自答を繰り返していた。
何故男のいう通りにしてしまうのだろう? 酷く腹立たしいのにも関わらず、何故近付こうとするのだろう?
――答えは全て、『わからない』。
それなのに、まるで糸を引かれた操り人形のようにスルスルと引き寄せられる。糸を切る事は勿論出来る。けれど私は、その糸を引っ張ってもらいたかった。
千切れないように優しく、けれども強引に。
「お……邪魔します……」
私はゆっくりと男の傘の中に入った。視線を少し上に向けると、男の唇がすぐ目の前にあった。何故だか胸が執拗に音を鳴らしていた。
不安ではあるけど、心地の良い音を鳴らす心臓。謎の高揚感に、少しの恐怖。私はいつだって矛盾だらけだ。
――男の顔が見たい。そう思った私は、ほんの少しだけ背を伸ばし、男が被っていたレインコートのフードに手をかけた。
その時、鈍い音と共に腹部に痛みが走る。まるで、全てがスローモーションのように見えた。
男の拳を受け、前のめりになった状態の私は、膝からガクッと崩れ落ちる。
……やはり、この男は危険な男だった。信じてはいけなかったのだ。
今頃そんな事を考えても遅い。男との言葉の駆け引きに、私は負けてしまったのだ。自ら距離を詰めた結果がこれだ。自業自得というもの。自己責任を負えない年齢でもない。
……潔く敗者は眠ろうか。どうせ私は頭がおかしいし、このまま生きていくのも辛いだけだ。この男が不審者どころか恐ろしい犯罪者だったとしても、もはやどうでもいい。
薄れゆく意識の一歩手前。私は初めて、男と目があったような気がした。
信憑性のないあやふやな記憶の中の男は……私と同じように、泣いていたような気がした。
3
鳥が、楽しそうに会話をしている。
柔らかな風が優しく肌に触れる。水が、下流に向かって流れる音が聞こえてくる。
私はゆっくりと目を覚ました。――もう、朝なのか? 身体がほんの少しだるい……
暫くしてぼんやりとした頭が冴えてきた時、ようやく私は自分が置かれている状況に気が付いた。
「あれ……ここ、どこ……?」
私の目に最初に入ってきたもの。それは、私の手首を拘束する禍々しい銀。
――あぁ、そうか……私、あの男に殴られたのか。
そのままどこかに連れてこられたみたいだ。ここは一体、どこなんだろう?
人の声や車の走る音が一切聞こえてこない。いつもの騒がしい朝の始まりではないようだ。
優しい薄紅色のカーテンがふわりと浮き上がり、清々しい風を運んでくる。窓から眩い光が射し込み、室内を更に明るく照らしていた。
私は拘束された手に力を入れ、ベッドから身体を起こすと、開いている窓からそっと顔を覗かせた。
「うわぁ…………!」
私は感動していた。写真や本でしか見た事がなかったような美しい風景が、目の前にあったから。
青すぎるほど青い空。その中を泳ぐ大きなくじら雲。黄色や桃色の花が、風に踊らされて嬉しそうに揺れている。
それ以上に私の目を引いたのは……やはり、どこまでも続く緑の大海原だ。
爽快な風が、草の上を足早に駆けていく。それはまるで、海を揺らす大きな波を連想させた。
何故だかわからないけど、再び私の瞳に涙が溢れた。けれど、何となくだが……いつものものとは違うような気がする。私の胸は穏やかな心地良さを感じていたから。
周りには建物一つ見当たらず、建っているのはこの二階建てのログハウスだけだった。私はその二階から、この素晴らしい絶景を眺めていた。
下には黒いワンボックスカーが停めてあった。あの車に乗せられてここまで来たのだとしたら、あの男も今……この中に?
私は咄嗟に身構えた。その時ようやく、今自分が身に纏っているものが、気を失う前に着ていたものと違う事に気が付いた。
穢れのない真っ白なワンピース。シンプルだが、とても可愛らしいデザインだ。
あの男が着替えさせたの? あり得ない……私、何もされてないよね?
そんな事を考えていると、突然背後からコンコンと軽やかな音が聞こえてきた。一瞬にして背筋に戦慄が走る。
カチャリとノブを回す音。ミシッと床を鳴らす足音。時計の秒針のように慌ただしい私の心音。緊張感が漂う。
覚悟を決めてゆっくり後ろに振り返ると、そこには見知らぬ一人の男が立っていた。
「よ。起きてたのかよ。って、お前……また泣いてんの? 起きて早々お仕事とは、お前の目もそりゃご苦労な事で」
この声……間違いない。あのレインコートの男だ。
しかし目の前の男は、私が想像していた男像とは随分異なっていた。もっと陰気な感じを予想していたのだが、その風貌はそれを全く感じさせない。
男は明るい金色の髪に、無地の黒いTシャツ、膝下くらいの白い短パンを穿いていた。
そして薄っすらと無精髭が生えている。それが一見、男を中年男性のように思わせたが、髭を剃り落とすとかなり幼く見える顔立ちをしていたので、今時の若者のようにも思えた。男は眠そうに欠伸を繰り返す。
年齢不詳。現時点では、年齢はわからない。
「何だよ? そんなじっと見つめられても困るんだけど」
「なっ!」
見つめているだなんて言われた事にカーッとなった私は、男に向かって激しく捲し立てた。
「どうしたじゃないわよ! ここどこよ⁉ 言っとくけどね、これ誘拐よ⁉ 犯罪よ⁉ わかってんの⁉ この馬鹿髭男!」
男は私の剣幕に、呆れたように大きく溜息を吐いた。
「ぎゃあぎゃあうるせーな。昨日……いや、今日か。ここについたのが朝だったから、髭剃る暇がなかったんだよ。つーか、お前重てぇんだよ。ちったぁダイエットでもしろ」
「は、はぁ⁉ 誰がここに連れてきてって頼んだ? 貴方が勝手にここまで連れてきたんでしょう? それを重いとか……信じられない! っていうか私のお腹殴ったし、本当にあり得ない!」
「あれ? お前が俺と一緒にいたかったから傘に入ってきたんじゃねぇの? じゃあお前も少なからずこういう展開を望んで……」
「ないわよ!」
「あっそ。そりゃ失礼」
悪びれる様子もなく、男はベッドに腰を下ろした。
「で、調子はどうだ?」
「……まだちょっと、喉は痛むけど」
「ん、薬持ってきた。飲めよ」
ペットボトルに入った水と、瓶に入った市販の風邪薬。男はそれを、すぐ側にある棚の上に並べた。
しかし……
「どうやって飲めって言うのよ」
「そうだなぁ……じゃあ、飲ませて下さいってお願いしてみな?」
「……はっ?」
思わず間の抜けた声が出る。それを聞いた男は私の顔を見て、大きな声で笑った。
「ばーか。嘘だよ」
すると、男はポケットから小さな鍵を取り出した。――何の鍵だろう? そう思っていると、男は背後で拘束されている私の手首に手を重ね、カチリと手錠の鍵を外した。
「え?」
「好きにしろよ。逃げるなら勝手に逃げればいいし、警察にでもどこにでも行きたきゃ行けばいい。車のナビを使えば、お前でも元いたとこに帰れんだろ」
この男は一体何を言っているの? ここまで私をさらってきたのに、今度は逃げろですって?
ひんやりとした拘束具は簡単に外されてしまった。この男の目的が何なのか、私には見当もつかない。
「何なら電話で助けを求めたっていい。あ、けどお前、携帯置いてきたんだっけ? じゃあ、俺の携帯使ってもいいぞ」
男は「ほれっ」と、ベッドの上に携帯電話を放り投げた。それにはストラップが付けられていて、落ちた拍子にチリンと音を鳴らす。悪趣味で派手な色をしたてんとう虫が、じっとこちらを見つめていた。
「今なら仕事も遅刻で済むかもな。どうする? 戻るか? 俺は送ってやんねぇけど」
「……貴方、一体どうして私をここに連れてきたの? あんな風にいきなり殴ったりして、気を失った私をわざわざここまで運んだのに、今度は好きにしろって……意味がわかんないよ」
「じゃあ何て言って欲しい? お前の事が好きになったからとでも言えば満足なのか?」
そう言って、男は悪戯っぽく笑う。
私は、「馬鹿じゃないの?」と言って、男から目を逸らした。
……私はどうしたいのだろう。決めろと言われても決められない。心の中の本音に忠実になる事が、正しい選択だとは到底思えないから。
わかっている。結局私は、決められたレールの上でしか生きる事が出来ないのだ。
私は俯きながら、そっと呟いた。
「……帰りたくない。でも、帰らなきゃ」
「何で?」
あっけらかんとした男の言葉に、私はわかりやすく溜息を吐いた。
「こんなの普通じゃないからよ。枠から外れた人間は、この世界では生きていけないの。社会からはみ出してしまうと、人は人を非難する。いくら不満があっても、納得出来ない事だらけでも、人は皆それに耐えて生きてる。だから、私だけがそこから逃げる事は出来ない。私は……普通でいたいから」
「生きていけない? 普通? そんな事、誰が決めたんだ?」
男は『くだらない』と言ったように目を細めた。
「誰がとかじゃなくて、それが当たり前の事なの! 皆が出来ている事は、私だってこなさなきゃならない。一生懸命頑張らなきゃ駄目なの! そうしないと私、独りぼっちになってしまう」
「……阿保くさ」
男は突然、棚の上に置いてあった錠剤と水を手に取り、それらを一気に口に含むと……
「何して………………っ⁉」
私の口内に無理矢理流し込んだ。
ごくん……
男は唇を離すと、再び水を含んで、私に与える。
ごくん……
それを、もう一度繰り返した。
――ごくん。
「っ……はぁっ、はぁ」
「お前に薬を飲ませる事は、俺自身が決めた事だ。社会が決めた事じゃない。他の誰かが決めた事じゃない。俺は俺のしたいようにする。周りの指図は受けない」
男の手のひらが私の頬を包み、視線が絡み合う。
どうしようもなく、胸がドキドキして堪らなかった。
「なぁ……俺がお前を飼ってやってもいいぞ。ただし、お前が変わるって言うならな」
「え……?」
「今までの自分の生活を、名を……全てを捨ててみろ。大体、馬鹿馬鹿しくねぇか? お前、誰の為に生きてんだよ? 泣くぐらい辛いなら、んな人生捨てちまえ」
男の指が私の涙をすくい取る。私はずっと、男から目を離せずにいた。
……この男は、何て自由なんだろう。
世間は認めないであろう男の言葉を、私だけは肯定したいと思ってしまった。この異常な男の発言は、少なからず私に衝撃を与えたから。
「ここには食料もあるし、生活する上で必要な物は大体揃ってる。金だってあるしな。不自由な事は何もない。だから、お前が本当に帰りたくねぇなら、ここにいればいい」
「私、が……ここに? 本当に私……ここにいてもいいの?」
「あぁ。俺の前でならいつでも泣いていーぞ。その度に、『また泣いてんのかよ』って言って笑ってやるよ」
そう言うと、男は初めて私に笑顔を見せた。――まるで太陽みたいだ。そう思えてしまうほど、男の笑顔は温かくて優しくて……私には、眩し過ぎるくらいだった。
男と私の関係は、紛れもなく誘拐犯と被害者だ。突然、私という一人の人間が消えた。部屋は開けっ放しで、携帯も置いたまま。仕事は無断欠勤、誰かが警察に連絡を入れる事は間違いない。なら、目の前の男は犯罪者という事になる。
どうして……? どうして赤の他人の私の為に、罪を犯そうとするの? 今私を帰してしまえば、全てなかった事に出来るのに……ねぇ、どうして?
私達、もしかしてどこかで会った事があるのかもしれない。そうでなければおかしい。
「ねぇ……貴方、一体誰なの? もしかして私の事、前から知ってたりする?」
「……さぁな。忘れた」
忘れた、男はそう言った。
やはり男は私の事を知っているのだと思う。出なければ、忘れたなどという答えは返ってこないだろう。
……しかし、それが何だ?
ここで暮らすなら、私は私を捨てなくてはならない。男と以前どこかで会った事があるかもしれないなど、どうでも良い事だ。
確かに今までの、意気地なしで弱い私のままでは、ここでは暮らせそうもない。きっと罪悪感に押し潰されそうになるから。今すぐ消えてなくなりたいと思うくらいに、自分を責めてしまう筈だから。
しかし、今までの自分自身を捨てるなど……簡単に口には出来ても実行するのは難しい。というか不可能な事のように思える。
けれど、このまま無気力な廃人のように暮らしていかなければならないのなら、一層の事……
「私……ここにいる。彼氏からも、友達からも、親からも、ずっと逃げたいって思ってた。全てを捨ててでも私は……自分勝手に、自由になりたいって思っていたの」
でも、私一人では無理だった。何か強いきっかけが必要だった。
私の運命を狂わす大事件……
それがきっと、――今だ。
「だから私、貴方に飼われてあげる。私達は共犯者で、共に罪人。こんな子供のお遊びのようなノリでも、それで心が救われるのなら私……貴方を利用するだけ利用させてもらう。その代わり、貴方は私を好きにしていい。それでこそギブアンドテイクってものでしょ?」
「何だよそれ。……かっこいいじゃん」
「人の目や周りの評価ばかりを気にするのは、もう疲れた。どうせすぐに捕まるでしょうけど、それまでは違う自分を知ってみたいの。本当の自分で生きてみたいの。私やっぱり頭がおかしいのかもしれないね」
私がそう言って笑うと、男は何も言わず私の頭にポンと大きな手を置いた。
「じゃあ、俺達の呼び名を決めておかないとな? 名前がないと不便だろ」
「呼び名を決める? やっぱり貴方の名前は教えてくれないわけ?」
「あいにく俺も、お前とは違った理由で色んなもん捨てちまいてぇと思っているもんでね。だから、自分の今までの名前もいらねぇんだわ。……お前、俺に新しい名前つけてくれねぇ?」
「え? 私が?」
「おう。かっこいいのつけろよな?」
突然の男の発言に、私はわかりやすく頭を悩ませた。名前をつけろだなんて、犬や猫につけるものじゃあるまいし……あ、でも呼び名って言ってたし、ニックネームみたいな感じでいいのかもしれない。
私は「うーん」と唸りながらも、考える事に集中してみた。男は眠そうに欠伸を繰り返している。
「……テントウ」
「ふぁああ~…………は?」
「それ」
そう言うと、私は男の携帯電話を指指した。相変わらず、派手でケバケバしいてんとう虫がこちらを見つめている。
「ははっ! 俺、てんとう虫かよ! なんつーネーミングセンス!」
「それだけじゃないよ。髪、お日様みたいに明るいから……ほら、お日様ってお天道様っていうじゃない?」
「なるほど。まぁ、悪くないんじゃね? じゃあ、お前は……」
テントウは、私の上から下までをじっくりと凝視する。何となく気まずくなった私は、咄嗟に俯いた。
「……よし、決めた!」
「え? もう?」
私が顔を上げると、テントウは自信たっぷりの態度で、誇らしげに答えた。
「ハナ、今日からそう呼ぶ事にする。俺がてんとう虫ならお前は花だ。疲れた時は遠慮なく寄りかからせて貰うよ」
――だからお前も綺麗に咲き続けろよ?
「なぁんてな」
そう言って、テントウが急に大人っぽく笑うものだから、何だかくすぐったいような恥ずかしいような気持ちになり、再び俯かずにはいられなかった。
けれど……何だか不思議な感覚だ。
新たな名を手に入れた事で、私の心と身体をがんじがらめにしていた見えない鎖が腐って、音もなく地面に落ちていくような気がした。
最初から、私の名前は【ハナ】だった。そう思えば思うほど……今まで抑え付けてきた願望や、我慢し聞き入れてきた事への不満、そして満たされない欲求が膨れ上がり、私が私じゃない別の誰かに変わってしまうような、そんな錯覚に陥るのだ。……いや、これこそが本来の私なのだろう。気分が妙に高揚していた。
「じゃあ早速……俺もう眠いの限界なんだわ。寝る。ちょっとそこどけ」
テントウは「シッシッ」と手を払うと、ドカッとベッドの上に横になった。
「え? ここで寝るの⁉」
「……うるせぇなぁ。昨日から寝てねぇんだよ。重い誰かさんをここまで運んできたんだ。俺は疲れたの、疲れてんの!」
そんな自分勝手で自己中心的な言葉に心底呆れたが、脚をバタつかせ駄々をこねているテントウの姿が何だかとても可笑しくて、すっかり空気が緩みきってしまった。
「お前暇ならさ、外にでも出てみろよ? 気持ちいいぞー。あ、何なら今からでも別に逃げたって構わ……」
「逃げません!」
「あそ。おやすみ~」
そう言うと、テントウは一瞬のうちに眠ってしまった。小さな寝息が私の耳まで届く。
「本当に寝たよ」と、苦笑いを浮かべながら、私は眠ったばかりのテントウを起こさないように、再び窓枠に手をかけた。
――本当に綺麗。心が洗われるようだ。
私にはこの地が、まるでユートピアのように思えた。きっと人は大袈裟だと嗤うだろう。けれど私にはここが、日常から切り離されたパラレル世界のように思えてならないのだ。
そしてこの地で暮らす事に決めた私は、人生の敗北者。負け犬。そう後ろ指を指されてもおかしくはない。実際にはみ出してしまったのだから仕方のない話だ。
けれど、私は初めて幸せを感じていた。安堵していた。ここは私が、私らしく生きられる場所。全てをリセット出来るサンクチュアリなのだ。
太陽の洗礼を受け、森の鼓動を感じた私は、生き物の生命を尊ぶ。
風と共に踊る花の香りに癒された私は、緑の息吹を肌で感じとる。
「もっと近くで見てみたい」
私はゆっくり、ゆっくりと、足音を気にしながら部屋を出た。木目の壁に手を付きながらそっと階段を下りていくと、右手奥にダイニングテーブルが見えた。左手には個室が三つ並んでいる。
けれど、今は部屋中を探索するよりも、早く外に出てあの美しい景色を身近で感じたい。
私は真っ直ぐ進んだ先の玄関から、テントウの物であろうサンダルを勝手に拝借すると、勢いよく扉を開いた。
4
「何これ可愛い! んっ、しかも美味しい」
「どうだ、俺特製ナナホシサンドは! 色、味、形、全てがパーフェクト。絶品だろ?」
「うん本当に美味しい! けどナナホシって、寄せるねぇ~。実は結構気に入ってるんでしょ? その名前」
「ん? まぁな! 俺てんとう虫好きだし。小さな身体で自由に飛んでいけるところが、すっげぇかっこいいじゃん」
私がここに連れてこられてから、既に二日が経過していた。ようするに今日は三日目の朝だ。私は今、テントウの作ったナナホシサンドなるものを食べている。
この数日で彼とも大分打ち解けてきたし、うまく生活していけてると思う。それに、一緒に暮らしていく内にテントウの事が少しずつわかってきた。
まずは、動物や虫、生き物が好きな事。草原を抜けて森に入ると、リスやイタチ、小鳥などが沢山いた。テントウは子供のようにはしゃぎながら、それらをとても可愛がっていた。
時には蛇を手で掴んだり、カブト虫を私の顔面に押し付けてくる事もあった。私はその度に叫びながら逃げ、テントウはそれを見て笑う。彼はとても悪戯好きな性格なのだろう。
口は悪いが、意外と良い人なのかもしれない。「生命あるものは皆好きだ」と言って笑った彼の顔が、とても優しかったから。
あと、テントウは電気を点けたままじゃないと眠れない。理由はわからないけど、一階のテントウの部屋に顔を出した時、消し忘れかと思って電気を消したらすごい剣幕で怒られた。急いで電気を点け、顔を見ると真っ青で……何かトラウマでもあるのかな、なんて思った。
他には酸っぱいものが嫌いで、読書が趣味。バトミントンは下手。料理は得意。それと、とにかくモノマネが上手すぎて、私はそれを聞く度、ゲラゲラと腹を抱えて笑った。
この短期間で、私はテントウの事を沢山知れた。それはきっと彼も同じ事だろう。
だけどお互い、自分の素性は語ろうとしなかった。私自身、テントウの過去にあまり興味はない。
テントウとハナ。名前さえあれば、そこに存在理由が生まれる。――彼はテントウ。私はハナ。想い出は、これから沢山作っていけばよいのだ。
今までの生活の後始末も何もしないまま、ここに逃げてしまった事……気にならないと言えば、それはやはり嘘になる。油断すると、罪悪感や不安に押し潰されそうになって苦しい。
そんな時テントウは、私の手をギュッと強く握ってくれた。それが私の安定剤となり、特効薬となっていったのだ。
私の中でテントウの存在が大きくなっている事には勿論気が付いていた。よくテレビや本で見るアレかな?
誘拐犯に監禁された事で、全てを失ってしまった被害者の世界は狭まり、やがてそこの住人は犯人だけとなる。
そうなると、まるでマインドコントロールでもされたかのように、被害者は犯人に好意を抱き、依存してしまう。――ストックホルム症候群だっけ?
……馬鹿馬鹿しい。私は監禁なんてされていないし、帰るつもりはないが、帰ろうと思えばいつでも帰れると思う。大体『彼に好意を抱いているのか?』なんて聞かれると、少女漫画じゃあるまいし、あるわけがないと即答出来てしまう。
けれど、一つだけ当てはまるというならば、私の世界の住人は今、テントウ一人だけだという事だ。
それはきっと、彼と私は共犯者だから。恋愛感情は生まれなくても仲間意識は強い。
きっと、そういう事だ。
「ねぇ、今日は何しよっか⁉ バドミントンやキャッチボールはもう飽きちゃったよねぇ。そうだ、鬼ごっこでもする?」
「あー……今日は外に出るの勘弁な。昨日も一昨日も一日中遊んでやっただろ? 俺は疲れたの! だから今日は家でゆっくりしますので、行くなら一人でどうぞ」
「えー! 一人じゃつまんないよ」
「知るかよ。外は暑いし俺は筋肉痛なの。とにかく、今日はパスな」
テントウは後ろの本棚から本を一冊手に取ると、机の上に置いてあった眼鏡をかけた。
「じゃあ、今日は私も本を読む!」
そう言って、本棚の方に足を向かわせる私。その姿を見たテントウは、意地悪そうにニンマリと笑った。
「おいおい、お前本とか読めんの? あいにくだが、ここには漫画や挿絵入りの小説なんかはねーぞ?」
「読めるわよ! 失礼ね」
ケラケラ笑うテントウを無視し、私は本棚の前に立った。
沢山の本が並ぶ大きな本棚。――さて、どれを読もう? ざっとそれらを目で追っていくと、見覚えのあるタイトルを見つける。私は少し考えた末にそれを取り出した。
「うわぁ、ベタな恋愛小説……」と、テントウは苦い顔をしながら舌を出す。
好きじゃないなら何故ここにあるのか? それは聞くだけ無駄な話だ。この小説は映像化され、多くの反響を呼んだ作品。テントウが最初からこの手の小説を購入していたとは思えないので、恐らく『有名な作品だし取り敢えず買ってみたが気に入らなかった』、そんな所だろう。
私は椅子ではなく、床の隅っこの方に座り込んだ。こっちの方が何だか落ち着くからだ。
表紙を開いてみると、窓から吹き込む柔らかな風が、まだ読み始めてもいない本のページをペラペラと捲る。
私はクスリと笑うと、そっとそれを閉じた。
「これ映画で観たんだよね。けど、ヒロインの気持ちに何の共感も出来なかった。内容もわざと泣かせようとしてるのが、逆に白けてしまうというか」
「ははっ、正論。同意見だわ。じゃあ、何でそれを選んだんだよ?」
「うーん、何でだろう? ……何となく?」
「ふーん。ま、読んでみれば? 本と映画じゃ、やっぱり全然違うしな」
「もしかして共感出来る部分が見つかるかもしんねーし」、テントウはそう言うと椅子から立ち上がり、私と同じように床に座り込んだ。遠くも近くもない、中途半端な距離。
心地の良い、穏やかな時間が流れていく。
私は、せっかちな風に先を追い越されないよう気を付けながら、再び本を開いた。
――読み始めて半時間が経過していた。私は思った、やはりつまらないと。
映画に比べたら幾分マシだとは思えたが、だからといって、面白くないものは面白くない。
私はチラッとテントウの方を見た。彼は熱中しているのか、私の視線に気付く事なく、真剣な表情で次々とページを読み進めていく。
あの大きな手が包む小説の内容がどんなものなのかは、読んだ事がない私にはわからないけど、何だか難しそうなタイトルだったので、私なら数分足らずで夢の世界にいってしまえるだろう。
私は時折口元を緩ませる彼を見て、『あんな表情も出来るんだ』と静かに笑った。
……せっかく読み始めたのだから、ちゃんと最後まで読み切ろう。私は再び恋愛小説に目を向けると、続きの文章を頭の中で朗読した。
私はこの小説を読みながら、何となく英慈の事を思い出していた。
恋愛小説といえば、困難を乗り越えた先に迎える【ハッピーエンド】が定番だ。しかし私は、それを読む度に興醒めしてしまう。両想いになった二人に、これからなんてものはないのだから。私のような読者はきっと、その先を求めてはいない。
男女の恋愛は成就してしまった時点で最高に達してしまう。それからは減る事はあっても増える事は決してない。だから私は、片想いをしている時が一番幸せな時なのだと思っていた。
一度、恋に狂った女を見た。女には愛している男がいた。けれど男には本命の彼女がいて、女はただの浮気相手でしかなかった。
女の恨みは女に向く。本命の彼女は、女から数々の嫌がらせを受ける事となる。
男は謝る。反省していると言う。彼女の目の前で女に電話をし、酷い言葉で罵り非難する。男はそれで許されたと思い、簡単に記憶の中から、女の存在と不貞を犯した事実を消去する。
女は泣く。毎日毎日辛くて悲しくて涙を流す。男を深く愛しているから。
――そう、あの人は英慈の事を愛していた。
きっとあの人は、私なんかよりもずっと、英慈の事を想っていた。私は確かに傷付いた。別れる事も頭に入れた。けれど、別れなかった。
英慈の事を愛しているからじゃない。今までの時間が無駄になってしまう事が許せなかったから。周りから、浮気されて捨てられた可哀想な女と思われるのが嫌だったから。
そして、急に独りになってしまう事が寂しかったから。
私は英慈が好きだから付き合っていたわけではない。私は私の為に、英慈と付き合っていたのだ。
そんな私が、幸せな恋愛小説に共感を覚える事などきっとない。感情移入なんて一生出来ないだろう。
英慈の浮気相手が、ほんの少しだけ羨ましかった。私も狂わされる程に、誰かを愛してみたいと思ってしまったから。けれどそれを口にしてしまえば、彼女が更に壊れてしまう事を知っていたから……私は全てを忘れ、口を閉ざす事にした。
それから私は、英慈と本心で向き合う事が出来なくなってしまったのだ。
「――ハナ」
突然聞こえてきた声に、私は思わず顔を上げる。そこには私を見つめるテントウの姿があった。
柱時計を確認すると、私達が読書を始めてから、もう二時間が経過している。
私は読了済の本を膝の上に置いたまま、少々物思いにふけっていたようだ。
「また泣いてる」
「え? ……本当だ。気付かなかった」
自分が泣いてる事にすら気付けないだなんて、呆れを通り越して笑ってしまう。
私はいつから、自分の感情に疎くなってしまったのだろうか。
「何か悲しい事でも思い出したのか?」
悲しい事? ……あぁ、そうか。私、悲しかったのか。
じゃあ、私は一体……何が悲しいのだろう?
彼氏が浮気をしたから? ――違う。
浮気相手が泣いていたから? ――違う。
私の心が傷付いたから? ――違う。
――違う、違う。そうではないのだ。
けれど言葉が出ない。答えが見つからない。どう話せばいいのかわからない。どう伝えればいいのか見当もつかない。
私は込み上げる嗚咽に抗う事も出来ず、首を左右に振りながら心の中で懸命に叫び続けていた。
誰か助けて。
誰か助けて。
誰か助けて。
誰か助けて――
誰でもいいから、この世界でたった一人だけでもいいから、私の事を理解して欲しい。
認めて欲しい。受け入れて欲しいんだ。
「……ハナ」
それが叶わないのなら、余計な事ばかり考えてしまう頭も、人一倍傷付きやすい心も、全部、全部……
「ハナ」
私と一緒に、消えてなくなってしまえばいいんだ――
「ハナ!」
テントウは急に声を張り上げた。その声に導かれるかのように、私は正気を取り戻す。
「あ……」
「お前さ、ちょっと落ちつけ」
テントウは私の前にしゃがみ込むと、パッと両腕を広げた。
「ほら、来いよ。ハナが泣き止むまで抱きしめててやるから」
私はテントウの腕の中に、無我夢中で飛び込んだ。そのあまりの勢いにテントウは笑いながら私の頭に手を添える。
「テントウ、やっぱり私……頭がおかしいのかな? 突然目の前が真っ暗になって、何をしていても満たされなくて……まるで心が悲鳴でもあげているかのように、痛くて苦しいの。いっそ何も考えずに済むように、記憶喪失にでもなってしまいたい」
「……大丈夫だよ。お前はまともだ。どこもおかしくなんてない。ただ、ちょっとばかし壊れちまってるだけだ」
まともだけど壊れている……か。私は既に人ですらないのかもしれない。
きっと、今の私は壊れたおもちゃのようなもの……治せはしないけど、直す事なら出来るかもしれない。
けれど、人は壊れてしまったおもちゃなど簡単に捨ててしまうだろう。どうしてもそれが欲しかったら、沢山量産されている新しいものを買えばいいだけの話だ。手間をかけて直す必要などない。
だからきっと、私はこの先もずっと……壊れたままなのだろう。
「私……もう直らないのかな?」
「そうだなぁ……『直す』っつーよりも、一度バラバラに壊して別の形に組み立てちまえば、少しは楽になれるんじゃねぇの?」
「別の形に? ……それ、もう私じゃないよ」
「ばーか。お前はお前だよ」
そう言って笑うテントウ。しかし、それなら矛盾が生じてしまうではないか。私が私のままなら、形が変わったとしても何の意味もない。
テントウはそんな私の思考を読み取ったかのように、ゆっくりと口を開いた。
「器が変わっても、確かに中身はお前のままだ。本質的には何も変わらない。だったら、壊れたお前を組み立てる際に、接着剤がわりにあるものを足してやればいい。そしたらきっとお前は変われる。俺がそれを、お前に足してやるよ」
「私に、足りていないもの……?」
「――愛情」
「……えっ?」
「お前はまるで、愛に飢えているガキそのものだ。身体だけ成長しても、心が追いついてきてねーんだよ」
「私が、愛情を求めてる?」
「……榊英慈、だったっけ? お前の【元】彼氏。そのやっすい恋愛小説を読んで、そいつの事でも思い出したか?」
テントウの口から飛び出した男の名前に、私は驚かずにはいられなかった。まさかここで英慈の名前が出るとは思いもよらなかったから。
「テントウ、何で英慈の事を知ってるの?」
「ははっ、俺はお前の事なら何でも知ってるよ。お前……アレを本気で好きだったわけじゃないだろう? 常に周りと同じ、普通とやらを求めていたお前だ。皆と同じように普通に恋をして、普通に結婚して、子を産み、歳を取り、やがて寿命で死ぬ。お前の頭の中ではそれが最善だった筈だ。だからこそ、お前には榊英慈が必要だった。そしてその結果、お前は間違った依存に苦しむ事となる」
テントウは私の手首を思いっきり強く掴んだ。私は思わず、「痛っ!」と顔を歪めた。
「……なぁ、そうじゃないだろ? 一人の女だけを愛しきれねぇ屑なんて、さっさと捨てちまえば良かったんだ」
そう言うとテントウは、私の手首にそっと唇を落とした。そのまま血管に沿って、ねっとりとした舌を這わせていく。
私はびくんと、わかりやすいくらいに反応してしまった。
「や、やだ、ちょっとテントウ、やめて……」
小さな音が何度も何度も耳に届いては、私の心をあっという間に支配していく。
今まで生きてきた中で、これ以上の事は当然何度も経験してきた筈なのに、たったこれだけの行為が、今までのそれらとは比べものにならないくらいに官能的に思えた。
「お前はさ、物分かりのいい良い子を演じるのが癖になっちまってんだよ。自己犠牲精神っつーのか、ただの馬鹿とでも言えばいいのか。例えば今、俺がお前を殺しちまっても……お前は納得し、全てを受け入れてしまうんだろうな」
「こ、殺? ちょっとテントウ、何言って……」
突然物騒な事を言い出したテントウの顔は、今にも泣き出してしまいそうなくらいに寂しげで、悲しげで……私は思わず目を見張った。
急にどうしたんだろう……? こんなテントウを見るのは初めてだ。
快楽や興奮なんかよりも、心配で堪らない気持ちの方が遥かに上回った私は、すぐさま冷静さを取り戻した。
「……ハナ。悪い子になれよ。少しぐらい自分勝手に生きてみろよ? 人なんてもんはな、いつ死ぬかもわかんねぇんだぞ? なのに、わざわざ死に急いでんじゃねぇよ馬鹿たれが。俺がお前の事、ちゃんと愛してやるから」
「テントウ……」
テントウは何を苦しんでいるのだろう? 私は黙り込んだまま座っている彼を見て、そんな事を思っていた。
何も考えていないような人間が、わざわざ私をこんなところまで連れてきたりはしない。テントウはきっと、何か考えや理由があって私をここに連れてきたのだ。
それに、彼は英慈の浮気の事まで知っていた。これが小説やドラマの中の話なら、テントウの正体は浮気相手の彼氏、または兄弟で、英慈に復讐する為に私に近付いたという線も考えられよう。……あくまで、ありきたりの展開ならばの話だ。
しかしきっと、それは違う。何故だかわからないけど、私は確信めいたものを感じていた。
『俺がお前の事、ちゃんと愛してやるから』
このやり取りにデジャヴのようなものを感じてしまうのは、果たして気のせいだろうか?
思い出せない、思い出せないけれど……やはり私はテントウの事を知っている。
しかし、一度会った事があるならば、私は必ず覚えている筈だ。たとえ忘れていたとしても、顔を見れば流石に思い出せるだろう。
――会った事はない。けれど知っている。何だかあやふや過ぎて要領を得ない話である。
だけど……テントウが私との繋がりを口にしない限り、私からは彼に何も聞くつもりはなかった。もし全てを知ってしまえば、今のこの夢のような生活は終わりを迎え、私の前からテントウが消えてなくなってしまうような、そんな気がしたから。
「テントウ、抱っこして」
「……ん」
テントウが手を差し伸べたので、私は再び彼の腕の中にすっぽりとおさまった。テントウは無言で、私の肩にゆっくりと頭を落とす。
「……そっちこそ、今日は何だかおかしいね。何か嫌な事でもあった?」
「別に」
素っ気ない返事をするテントウに、私は小さく笑いながら、抱きしめる腕に力を足した。
これでは先程までと正反対だ。どちらが慰めているのか、慰められているのか、よくわからない。
「……私の事、本当に愛してくれる?」
そう問いかけると、私の肩に更に重みが増した。
そんな風に小さく頷くテントウが可愛らしくて、愛おしくて……本当に愛情を求めているのは、私ではなく、テントウの方なのではないかと思った。
けれど私は、『私も貴方を愛してあげる』なんて事は言えなかった。根拠や確信のない事は出来るだけ口にしたくなかったから。
だけど、『この人を愛したい』という想いは、私の中で少しずつ芽生え始めていたのかもしれない。
テントウの腕の中はとても温かかった。彼の優しい心音と言葉が、先程までパニックを起こしかけていた私の心を、徐々に落ち着かせてくれた。今ではテントウの方が落ち込んでいるようにも見えなくはないが、私は確かにテントウと話していて楽になれた。
だから……
「テントウ」
「ん?」
「ありがとう」
顔を上げたテントウと私の視線が重なり合う。何だか照れ臭くなった私は、思わず「べーッ」と舌を出した。その顔を見たテントウは頭を掻き毟りながら、「どういたしまして」と優しく笑った。
このログハウスで暮らし始めてから、テントウは私にとても優しい。初めて逢った時の印象とあまりに違いすぎて、少々戸惑ってしまうくらいだ。
やな奴かと思えば優しいし、嫌味くさくてデリカシーの欠片もないなと思えば、意外と親切だったりする。偉そうで自己中な反面、こんな風に何かを考えてはふさぎ込んでしまう弱々しい部分も垣間見えて、何だかほっとけない気持ちにさせられる。
確かにテントウは口が悪いし、誤解されそうなタイプではあるけれど、いつだって私の事を心配してくれていた。それがもの凄く伝わってくるからこそ、たちが悪い。
けど、私……テントウに……
「――よし、読書タイム終了! あれだ、そう鬼ごっこ。お前確か鬼ごっこがしたかったんだよな? じゃあ今からやろうぜ。まずはハナが鬼な。捕まった回数が多かった方が、今日の夕飯担当って事で!」
「……へ? いきなり何⁉」
「じゃあ、お先~!」
そう言うとテントウは一目散に走り出した。
「ちょ……ちょっと待ってよ! 何なのよ、もう! ほんと、わけわかんないんだから!」
私もその後を追って、急いでリビングを飛び出す。視線の先に見えるのは、既に靴を履いた状態で私を待つ彼の姿……
「ほら、早くしろ。置いてくぞ?」
「待って、待ってってば! もう、置いていかないでよ!」
私達は馬鹿みたいに戯れながら、同時に外へと飛び出していった。
***
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。先程までの澄み渡るように青かった空が、今では色鮮やかなオレンジ色に染まる。赤や紫、橙や黄色が混ざり合った美しい空。
黄昏が、二人の影を伸ばしていった。
「……綺麗だね」
「あぁ、そうだな」
街並みの中から見る夕焼けも勿論美しいが、草原から見るこの風景とそれとでは、まるで比べ物にならない。心に染み渡っていくような美しいグラデーションに、私は感嘆の息を漏らしていた。
――もうすぐ今日が終わる。静かに光る月と散りばめられた星を連れてくる夜。植物や動物達は、心地良い眠りにつくだろう。
ここに来てからずっと、私はこの夕焼けを見る度……何だか寂しい気持ちになっていた。
いつまでこの暮らしは続くのだろう?
いつまで、私はここにいられるのだろう?
知らない間にタイムリミットは近付いてきているのかもしれない。そう考えるだけで、私は怖くて堪らなくなった。
テントウとも、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。そう思えば思うほど、まるで針でも刺されたかのように、チクリと胸が痛む。彼と過ごす時間が増えていく度に、その針は本数を増やし、私にしつこい痛みを与えてくるのだ。
しかし私は、当たり前に不快でしかないその痛みが、実のところ嫌いではなかった。
針には、中毒性のある何かが塗られていたのかもしれない。
「……このまま時間が止まってしまえばいいのにね」
「そしたらずっと、テントウとこうして一緒にいられるでしょう?」、そう言って笑う私に彼は、「そう言うのは好きな奴相手に言え」と、さらりと交わす。
「あー! さっき私の事、愛してくれるって言ったのに! テントウの嘘吐き」
子供のように喚く私を見て、テントウはやれやれといったように、緑のカーペットの上に座り込んだ。
「別に嘘じゃないし」
「どーだか」
「……おいブス、拗ねるなよ。見苦しいぞ」
「はぁ⁉ もうテントウなんて知らない」
私はふて腐れながらも、彼の横にちょこんと腰を下ろす。テントウはそのまま後ろに倒れると、まるで独り言でも言うように小さく呟いた。
「お前が俺の空に雨を降らしたあの日から、俺は空ばかりを見上げるようになったんだ」
「……え? それって、どういう意味?」
私はそう尋ねたが、彼は返事をする事なく、真っ直ぐ空を見上げていた。
ひんやりとした風が、草を揺らし、花を揺らし、木の葉を揺らす。そしてそれは、目の前にいる男の前髪を揺らしては、男を見つめる女の心までをも揺らしていった。
寝転んでいるテントウの右手が、座ってる私の左手に触れる。それはまるで、小さなてんとう虫が、咲いている花の上にそっと止まるかのように、何の違和感も感じられなかった。けれど、温もりだけは確かにそこに残していく。
その温もりは私に……優しさではなく、切なさだけを染み込ませていった。
「透き通るような青よりも、どこか儚くて物哀しい橙よりも、静寂と共に孤独を運んでくる紺よりも……俺はいつだって中途半端な灰色を欲していたよ。黒でも白でもない、馬鹿みたいに不器用な色をな」
「テントウ……一体、どうしちゃったの?」
「……ははっ、お前にはわかんねぇだろーな。きっと、一生かかったってわかりゃしねぇよ」
テントウはそう言って笑うと、スッと立ち上がり、背筋を伸ばした。
「……今夜あたり大降りになりそうだなぁ」
「え? こんなに晴れてるのに?」
「俺の予報は当たるの。絶対」
「そろそろ帰るぞ」と、私の手を引く彼。こんなにも近くにいるのに、何だかとても遠くに感じる。
自由に空を飛び回れるてんとう虫と、地面に根を張り、その場から動けない花とでは、距離なんてあって当然なのかもしれない。
けど……
私はテントウの背中を見ながら、先程彼が口にした言葉の意味を……ただただ考え続けていた。
5
「テントウ、遅いなぁ~」
私達は夕食を終えると、オセロやトランプをしては、楽しい時を過ごしていた。
現在テントウはお風呂で、その間に洗い物を済ませた私は、「退屈だなぁ」なんて口にしながら、ダイニングテーブルの上に顔をうつ伏せていた。
戸板に当たる雫の音。一つのものから生まれる複数の音楽。
とんとん。
ぱらぱら。
ざぁざぁ。
――ぽとん。
しとしと。
どんどん。
ぽたぽた。
――ぴちょん。
私はその音に導かれるように、窓の方に目を向けた。
「テントウの言ってた通りだったなぁ……外、凄い雨だ」
雨が奏でるシンフォニーは、私の心を穏やかにし、優しい睡魔を運んでくる。
私はゆっくり目を閉じると、色んな思想を頭の中に巡らせていた。
今日も楽しかったなぁ。――幸せだった。
テントウと初めて逢った夜も、雨が降っていたっけ。あの時はまだ、私は彼の事を最低な男だって思っていた。
けれど……今は違う。テントウといると、今まで見てきた世界は、なんてちっぽけなものだったんだろうと思えるのだ。彼といる事で、私の世界は無限に広がり続けていく。
――ねぇ、テントウ?
もしかして私、貴方に騙されているのかもしれないね。テントウの手の中で私は、上手く転がされているだけなのかもしれない。けれど、そんな事は別にどうだっていいの。たとえテントウに騙されていたとしても、私はそれ以上に彼に救われているのだから。
テントウは、今の私の大切な家族だ。だから私も、彼が悩んでいるのなら……力になってあげたい。
そんな事をぼんやり考えていると、無機質なコール音とバイブ音が、突然ダイニングルームに響き渡った。
私はパチリと目を開く。
「あ……テントウの携帯が鳴ってる……」
――珍しい。ここに来てから、私は初めて、テントウの携帯が鳴っているの耳にした。
誰からだろう? テントウに知らせた方がいいのかな? ずっと鳴り続けているし……もしかして大事な用があるのかもしれない。
私はテーブルの端に置きっ放しにされていたテントウの携帯に手を伸ばした。
「えっ……」
……見るつもりなんてなかった。
けれど私は、画面に表示されていた名前から目を離せずにいた。
「『律子』……?」
私は即座に携帯から手を離した。モヤモヤとした感情が一瞬の内に、身体全体を駆け巡ったからだ。
害虫が、身体の中を這いずり回っているかのような不快感。頭のてっぺんから足の爪の先まで、まるで墨汁でも垂らされたかのように黒くなっていく感覚。
……何なの、これ? 私、何だか変だ。
室内はいつの間にか静寂を取り戻している。それなのに私の心は、嵐に飲まれた海原のように、今でも激しく荒れ続けていた。
「律子さんって、誰……?」
別にテントウが何かしたというわけではないのに、電話の相手が誰かも知らないのに、私は苛々していた。
目尻にじんわりと涙が浮かび始める。ただの友達や知り合いかもしれない。家族という可能性だってある。なのに……なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう?
裏切られてなんかいないのに、裏切られたような気持ちになる。不安の波が、自分勝手な私を仄暗い水の底へと誘い、そのまま深く沈めていくのだ。
たった今、私達だけしかいなかった世界に、大きな亀裂が入ってしまったような気がした。
「何なのよ、もう……私には何の関係もない話なのに、何でこんなに嫌な気持ちになるの」
私とテントウは、別に好き合っている関係などではない。だから、その歪んだ気持ちをテントウにぶつけられる筈もないのだ。だって、私達は何の関係もない赤の他人。嫌われるとわかっていて、わざわざ重い言葉を口にする必要もないだろう。
何より私はテントウに……こんな黒くて醜い自分を知られるのが嫌だった。惨めでみっともなくて、情けない程に自己中心的な想い。
こんな感情に気付きたくなんてなかった。
欲しくもなかった感情が、私の心を支配していく。
「……テントウが欲しい。彼を、私だけのものにしたい」
私は既に、狂い始めていたのかもしれない。悪い子になり始めていたのかもしれない。テントウの事を、まだ本当に好きかどうかもわからないのに……それでも、彼の全てを手に入れたいと、心の底から願っていた。
黒い嫉妬から生まれる独占欲。
……ねぇ、テントウ。
電話の相手は……貴方の、大切な人?
***
「おー。悪りぃ悪りぃ! 洗面所にな、虫がいたんだよ、虫。お前虫駄目だろ? だから、取っ捕まえんのに苦労してさ」
「いっその事、そのまま置いといても良かったけどな~」と、悪戯っ子のように笑うテントウは、タオルで髪を拭きながら、私の顔をそっと覗き込んだ。
「あれ……? お前、また泣いてんの?」
テントウの髪から落ちた雫が、そのまま私の頬を流れ落ちる。冷たい雫が温かな雫と混ざり合い、私の口角の上を、一直線に通過した。
「髪くらい……ちゃんと乾かしてきなさいよ」
「……あらら? ハナさん、何だかご立腹ですねぇ。何だよ、何怒ってんだよ? 俺が先に風呂に入ったから? それ、お前がジャンケンに負けたからじゃん」
「違うし! 何でそんな事で怒らなきゃなんないのよ?」
「じゃあ、何で怒ってんだよ」
「怒ってなんかない」
そう、別に怒っているわけではない。不安なんだよ、悲しいんだよ。それなのに……やっぱりテントウは何もわかってくれない。
実際、何も口にしていないのだから、わかる筈なんてないのに……それでもわかって欲しいなどと思ってしまう自分に、ほとほと嫌気がさしてくる。
我儘で自己中で、本当に救えない女だ。
私は止まらない涙を懸命に拭い取った。
「お前……マジで何かあった? いつもと様子が違うんだけど」
そう言うと、彼は隣の椅子に腰を下ろす。
それと同時に、私は椅子から腰を上げた。
「別に何でもないよ。ごめん。昔の事とか色々考えてたらさ、何だかちょっと悲しくなっただけ。……もう平気だから」
「……ったく。今までの事は、全部忘れろって言っただろーが?」
「ん。そうだね。悩むだけ無駄だって事はちゃんとわかってるよ。けど、何でかな? さっきからずっと、涙が止まってくれなくてさ」
「……いつかきっと、俺がお前の涙を止めてやるよ。辛い事や悲しい事は、全部忘れちまえばいーんだ。俺がずっと、お前の傍にいてやるから」
何も知らないテントウは、何も知らないからこそ、無神経な言葉を口にする。今、私を悩ませているのはテントウ自身だというのに。
この涙は、貴方にはきっと止められない。
「……お風呂に行ってくるね」
そう言うと、私は静かに部屋から出た。
湯船に浸かりながら、私はぼんやりと天井を眺めていた。私の心と比例するかのように、雨音は激しさを増していく。浴室まで響いてくるこの音は、まるで私の気持ちに同調してくれているかのように思えた。
「今頃テントウは、律子さんに電話でもしてるのかな……嫌だな。すごく嫌だ」
急に悲しくなって、苦しくなって……それを紛らわせる為に熱いお湯の中に顔を沈めると、途端に雨は音を失った。
お湯の中から見た世界は、不安定な私の心と同じように、中途半端に揺らめいて見えた。
私は「ぷはっ!」と顔を出すと、火照った顔に冷たいシャワーをぶっかける。そんな無駄な事を数回繰り返しては、小さく溜息を吐いた。
「何だか三日目にして、ここにも居辛くなっちゃった……」
――嘘だよ。嘘。
ずっとここにいたいよ、帰りたくないよ……けれど、私とテントウだけの世界に、他の誰かが加わるのは嫌なの。
テントウには今でも、こことは違う自分の世界がある。その時点でやはり、独りぼっちなのは私だけなのだ。
今頃、私のもう一つの世界はどうなっているのだろうか? 私の事を、今でも必死に探してる? それとも、もう既に忘れちゃってるのかな?
後者であって欲しい。あの世界はきっと、いつの日か私を殺してしまっていた。そんなところに戻りたいとは思わない。
びっくりしてしまうくらいに、私はこの状況を受け入れていた。あの日テントウは、私が頑なに閉じ切っていた心の扉を、暴言を吐きながら暴力で無理やりこじ開けた。それなのに……今度は私を傷つけないように靴を脱いで、そっと中に上がる。ゆっくり、ゆっくりと長い廊下を抜けて、その先で蹲って泣いている小さな子供のような私に、甘い飴と、心地良い安らぎを与えてくれるのだ。
テントウは優しい。口は悪いし、馬鹿だし、よくわからない部分も沢山あるけど……それでも、テントウは優しいの。
テントウは私の事を……一体、どう思っているんだろう?
『お前が俺の空に雨を降らせたあの日から、俺は空ばかりを見上げるようになったんだ』
多分、テントウが初めて口にした本音。ずっと意味を考えていたけれど、やはり答えは見つからなかった。……けど、どこか引っかかる。何か大切な事を忘れてしまっているような、そんな感覚。しかしそれを聞いたところで、テントウは絶対に口を割らないだろう。
「テントウの馬鹿。私の中には平気で入ってくるのに……どうして貴方の中に、私を入れてはくれないの?」
自分でも嫌になるくらい、テントウの事ばかり考えてしまう。
今日はここで暮らし始めて三日目の夜。私達が出逢ったのは四日前。そんな短期間なのに、私はどうして、こんなにも貴方の事を考えては苦しんでいるのだろう? どうしようもなく、寂しくて堪らない。
「私にはもう……テントウしかいないのに」
――ガシャン!
私がお風呂から上がるのとほぼ同時に、何かが割れる音が聞こえてきた。
「な、何? 今の音……まさか、泥棒⁉」
バスタオルを巻いたままの状態の私は咄嗟に身構える。すると、ドタバタ走る派手な足音と、玄関のドアが乱暴に開け放たれる音が聞こえた。
「……テントウ?」
私は下着とルームウェアに手を伸ばし、急いでそれらを身に纏うと、廊下へと続く扉に手をかけた。
玄関ドアがきちんと閉められていなかったせいで、風が大胆な開閉を繰り返している。大きな雨粒が、置きっ放しにしていた靴や玄関マットを著しく濡らしていた。
そして、いつもならそこにある筈のテントウの靴が見当たらない……
何かが割れる音の正体が、リビングに飾られていた花瓶なのだという事はすぐにわかった。この位置からでも、はっきり確認出来たからだ。床に落ちている破片の間に、悲しそうに横たわる白い花……散ってしまった数枚の花弁は、濡れて床に張り付いていた。
「これ、テントウが割ったの……?」
昼間……二人で詰んだ、小さくて可愛らしい花。『花を飾るだけで部屋が華やかになるね』という私に、『悪くないな』なんて言って、笑っていたテントウが……一体、どうして?
……今は考えるより、彼を捜す方が先だ。
私は急いで靴を履くと、飛び出していったテントウを追って、外に出た。
***
「――テントウ! どこにいるの⁉ ねぇ、テントウ!」
雨が酷い上に、風も強い。更に外は草原、辺りに外灯のようなものは一切なかった。なので、この視界の悪い暗闇の中、闇雲に捜すよりほかはない。
テントウ、どうしたの? どこに行っちゃったのよ……一体、何があったの?
胸騒ぎが止まらない。不安が襲いかかる。
とにかく私は、大声でテントウの名を呼びながら、真っ暗な草原の中を走り続けた。
――テントウは、思いの外早く見つかった。
彼の明るい髪が、闇を照らす光のように、私をその場に導いてくれたから。
その弱々しい輝きは、私に……自分はここにいるよと伝えているかのようだった。
私は、吹き荒れる風と止まぬ雨の音に負けないくらいの声で、テントウに呼びかけた。
「テントウ! 何やってるのよ⁉ 今そっちに行くから!」
「――来るな!」
テントウの怒鳴り声に、私は思わず足を止める。……こんな彼を見たのは初めてだ。私は比較的優しめの声で、再び彼に話しかけた。
「テントウ、どうしたの……? 折角お風呂に入ったのに、そんなに濡れちゃったら意味ないじゃない。……ほら、一緒に帰ろう?」
「俺の事はほっといてくれよ、暫く一人にしてくれ。落ち着いたら、ちゃんと帰るから……」
「ほっとけないよ! ほっとける筈がないでしょう⁉ 逆の立場ならテントウは私を放っておくの? おかないよね⁉」
私は一歩ずつ、テントウに近付いていく。彼はそれを止める事なく、黙り込んだまま俯いていた。
「テントウ……一体、何があったの?」
「……なぁ、ハナ。この世界は、何でこんなにも異常なんだろうな。本当はさ、いかれちまってるのはお前じゃないんだよ。周りの人間の方なんだ。周りがおかしいから、お前は息が出来なくなる。周りがおかしいから、お前は死に急ぐようになる。……そうやって結局はさ、悪くない奴らが死んで、下らない奴らが笑って生きていくんだ」
「だから俺は……」、そう言うと彼は、顔を酷く歪めたまま、自嘲めいた笑みを浮かべた。
笑っているけど、泣いている。
泣いているけど……笑ってる。
――彼は、私とは逆だ。
テントウはいつだって……涙を流さずに一人で泣いていたのだ。
「……あー、もう。こんなもんいらねぇや」
そう言うとテントウは、携帯電話を地面に強く叩きつけた。そしてそれを、何度も何度も足で踏みつける……
「ハナがいれば、それでいーや」
テントウは眉を下げながら笑った。いっそ泣いてしまえばいいのに、それでも泣かないのは……彼がもう大人だから。
そして泣けないのは、彼はもう……子供ではないから。
雨に濡れ、土で汚れたてんとう虫は、自分を足蹴にする男を悲しそうに見つめていた。
「俺さ……壊れるのはいいけど、壊されんのは嫌なんだ。勝手に色んな事を決められんのも嫌だ。だから……色々と決断したかったんだよ。ははっ、わけわかんねぇよな。けど……それでいーんだ。お前は何も知らないまま、俺の傍にいてくれればいいんだよ」
着衣に大量の雨を含んだテントウの身体は、とても重たかった。……けれど、私はもうわかっている。
それ以上に、彼の抱えているものは重いのだという事を。
テントウ。泣かないで。
テントウ。泣かないで。
そんな風に涙を隠したまま……誰よりも悲しそうに泣かないで。
お願いだから……
「……テントウ、行こう。風邪引いちゃうよ」
私はテントウの手を引き、ゆっくりと歩き始める。彼は、一言も口を開く事なく沈黙していた。
……きっと、あの律子という人のせいだ。だからテントウは、携帯を壊した。あんな風に取り乱した。――許せない。テントウを傷付ける人なんて、いなくなってしまえばいい。
私は怒っていた。悲しんでいた。けれど……どこかで喜んでいた。本当のテントウの知れたような気がして、嬉しかったのかもしれない。
忘れてしまえばいい。私以外の人間を、見放してしまえばいい。捨ててしまえばいい。私だけは、何があってもテントウの傍にいるから。
ずっとずっと、傍にいるから。
私はしっかりと施錠し、一階にあるテントウの部屋に一緒に入ると、べッドの上に彼を座らせた。
そして、何も話そうとしないテントウをそのまま押し倒すと……彼の上に跨り、キスをする。
テントウは一瞬、驚いたように目を見開いたけど、すぐに私の後頭部に手を添え、舌を絡ませてきた。
ヌチャヌチャと卑猥な音を鳴らしながら、私達は何度も何度もキスをした。唇が少しでも離れようとすれば、どちらからともなくそれを阻止する。
私達はまるで、引力に引き寄せられるS極とN極。離れることなど許されない。……このまま溶け合って、一つになれたらいいのに。
――漏れる息が熱い。紅潮した顔が熱い。そして、快楽に身を委ねようとする身体が熱い。
「テントウ……しよ?」
そう言うと私は、テントウの大きな手のひらを自分の胸に当てる。潤んだ瞳で見下ろす私を、彼は何も言わずに見上げていた。
「私ね、恥ずかしいんだけど……不感症かもしれない」
「……不感症?」
「うん……昔からそうだったわけじゃないんだけど、その……英慈としても全然感じなくて。だから私、テントウの事を悦ばせてあげる事は出来ないかもしれない。でも……」
私は何を言っているのだろう? なんて恥知らずな女なのだろう? そうは思っているものの……この高ぶり過ぎた感情は、言葉にしてしまわないと収拾がつかない。
もはや、手遅れなのだ……
「私ね、テントウに抱かれたいの。貴方に触れたいし、触れられたい。こんな事を口にしてしまう自分が信じられない。本当に、恥ずかしくて堪らないよ。けどね、テントウにだけは正直でいたいの。私の全てを見て、知ってもらいたい」
私の心臓が生きている間に鳴らさなければならない回数を、たった今超越してしまったような気がした。この音はきっと、テントウにだって聞こえているだろう。
手が緊張のあまりに震えているのがわかる。それに気付いたテントウは、ゆっくり上半身を起こすと、自分の手を私の手の上に重ね、力を込めた。
「ばぁか……」
テントウの唇が再び私の口を塞ぐ。絡み合う舌が唾液の糸を引き、呼吸が荒くなっていく。けれどテントウは、何度も方向を変えては、私に深いキスを落としてきた。
このままでは酸欠になってしまいそうだ……虚ろになっていく瞳は、しっかりとテントウの姿だけをとらえていた。
「……悦ばせてやるのは、男の役目だろ」
彼はそう言いながら、今度は私の首筋に唇を這わせていく。……身体がびくりと反応した。同時に異常なまでに興奮してしまっている自分に気付き、言い知れぬ羞恥の情に駆られる。
テントウは慣れたように私の着衣を脱がすと、自分の着ていたTシャツをベッドの下に脱ぎ捨てた。その仕草や彼の表情が妙に色っぽくて、私の頬はますます熱を帯びていく。それなのに……その上を熱いのか冷たいのかよくわからない温度の水滴が流れ落ちた。
「……ハナ、泣いてる。やっぱやめる?」
「やだっ……やめないで、お願いだから」
気付けばまた、私は泣いてしまっていたようだ。テントウはその涙を舌ですくい取ると、そのまま私に口付けた。
……しょっぱい。思わず口角が緩む。少しだけ緊張がほぐれたかのように思えた。
テントウ、私ね……テントウの事を愛しているかどうかはわからない。けど、急スピードで惹かれていっている事くらいはわかっているつもり。
貴方が私を好きじゃなくたっていい。彼女がいたって別にいい。今は私だけを見て欲しい。……愛して欲しいの。
きっと、私はいつか罰されるでしょう。強欲で身勝手な私は……底のない沼にはまり、身動きが取れなくなる事でしょう。
それでも、貴方に抱かれたかった。それは、罪でしょうか? 惨めで、憐れでしょうか?
それとも――
雨の音。止めようとしても止めようがない女の声。
雨の匂い。鼻孔を掠める男と女の香り。
「テントウ、駄目っ……私……また……」
「……はっ、何が不感症だよ。正常じゃん。単にその男が下手だっただけだろ?」
彼は……火照る身体が潤わせているそれを、わざとらしく指先で光らせながら、私に見せつけてきた。
「あれ? ここ、何かすっげぇ事になってるけど? 大丈夫~? ……なぁ、変態」
そう言って妖しく笑うテントウに、私は身体だけではなく、心までも奪われてしまいそうになる。……抗えない。争う気力も持てないくらいに、私は彼に忠実だった。
「ん、だって……すごく気持ちいいんだもん。そうさせたのはテントウでしょ? だったら、もっと私を感じさせてよ。まだ足りない……もっと、もっと欲しいの」
「了解。……後悔すんなよ?」
「――んんっ! っはぁ……っ……」
テントウとの行為は、まるでいけない事でもしているかのような気分にさせた。犯罪だと言ってしまえば大袈裟だが、私はそれに近いものを感じていた。
背徳感、罪悪感等が一気に押し寄せてくるものの、それが逆に……私を淫らな女に変えていってしまう。
親や先生に『してはいけない』と注意されたら、更に興味が湧いてしまうのと同じ。駄目だと言われる度に、好奇心は膨れ上がるものだ。要はその後、苦しむか開き直るかの話。
――良い子なら前者。悪い子なら後者。
そして私は、良い子ではなかった。いや、そもそも私が良い子であったなら、私達はこんな関係にはならなかっただろう。自制心、道徳心が上回り……過ちを犯さずに済んだ筈だ。
けれど、テントウに抱かれなかった未来を生きていくくらいなら……私は悪人でいい。テントウを欲したこの気持ちに、嘘偽りなどないのだから。
抜ける事の出来ないループにはまり込んでしまった私は……この先、深く堕ちていくだけだろう。
きっと私は、テントウなしでは生きていけなくなる……
それをちゃんと、理解していたから――
6
――夜明け。雨はいつの間にか止んでいたけれど、屋根に溜まった大きな雫が、ぽとん、ぽとん……と、名残惜しそうに悲しい音を鳴らしていた。
私はテントウの身体にひっついたまま、離れようとはしなかった。彼はそんな私を優しく包み込みながら、消え入りそうな小さな声で鼻歌を口ずさんでいた。
ずっと昔、音楽の時間に習った事がある曲。ベートベンの喜びの歌。テントウはゆっくりと弱々しく、そして不器用に、そのメロディを奏でていく……
それはまるで子守唄のように穏やかで、心地良くて、私には聖歌のように思えたんだ。
「テントウ……私ね、ずっとこんな風に甘えてみたかったんだ。だから今、すごく幸せな気持ちなの」
「ははっ! お前、何だかガキみてぇ」
「そう。子供なんだよ。だから、本当は誰かに甘えたくて、優しくされたくて、我儘言いたくて、それに……溺れてしまうくらいに、誰かに愛されてみたかった」
「……今日は、えらく素直だな」
「テントウの前だからだよ」
私はテントウの手を取ると、そっとそれを自分の頭の上に置いた。
「……こんな風に、『よしよし』してもらったり、『良い子、良い子』って言ってもらいたかったの。決して良い子じゃない私の事を、良い子だと言って褒めて欲しかった……子供扱いされたかったの。それって、おかしい事かな?」
「いや、いーんじゃねぇの? きっと心が成長に追いついていってねぇんだよ。本当のハナは甘えん坊なんだな。……やる時は乱れまくるくせに」
「……テントウにだけだよ、そうなるのは」
「やっぱ変態」
「いいよ、テントウの前だけだから」
私がそう言うと、彼は何も言わずに私の頭を撫でてくれた。
「……ハナは良い子だよ。すっげぇ良い子だ。だから、あんま自分を責めんな」
そうやって……いつもテントウは、キラキラした優しい笑顔を私に見せてくれる。この短期間の間、その笑顔にどれだけ私が救われてきたか、彼はきっと知らないだろう。
「ほ~ら、また泣いてる」
「……あ。ふふっ、本当だね。けど、いいの。この涙は、前までのものとは全然違うような気がするから」
テントウの事を想い、溢れ出る涙は……私の頑なで情けなく、みっともない心を溶かしていくようだった。
私……好きなんだ。きっと、彼の事が。
身体が交わってしまったせいで、私の中のテントウの存在が、より深く心に刻み込まれてしまった。
けれど、彼に好きだと伝える事がどうしても出来ない。
だって、本気で人を好きになると……その内きっとうまくいかなくなると思う。相手に嫌われたくないあまりに我慢してしまう事が増えるし、酷く臆病になる。そのくせ独占欲ばかりが膨れ上がり、身動きが取れなくなってしまう事は目に見えているのだ。……現に私は、律子という女性の事を何一つ聞けずにいるのだから。
しかもテントウは、私を誘拐してここに連れてきた張本人で、その真意も未だにわかってはいない。
時折悲しそうな顔をしたり、意味深な事を口走ったり、我を忘れてしまうくらいに取り乱してしまうその理由を……私は何一つとして知らないのだ。
「……ねぇ、テントウ。キスして?」
私がそう言うと、テントウはすかさず私の唇にキスをした。一瞬触れるだけの軽いキス……何だか物足りなくて、更におねだりしてみる。
「違う、もっと深いのを頂戴」
「ったく、我儘なお子様だなぁ。……ほら、舌出せ。気ぃ失ってもしらねぇからな」
貪るように噛み合うように……このまま、息が止まってしまってもいいと思った。
私の中にある幸せは、テントウの傍にいる事なのかもしれない。飼い主に首輪と鎖で繋がれたような関係かもしれないけれど、それでいいの。
私の事をもっともっと甘やかして。その分、貴方から離れられなくなるから。甘い蜜を落として、私の全てを支配して欲しいの。
私の中で、唐突にショパンの幻想即興曲が流れ出し始めた。先程テントウが口ずさんでいた喜びの歌とは違い、どこか不安を感じさせる哀しい曲だ。
不安で苦しくて、切ない。こんな気持ちになったのは、何年振りだろう?
『――ハナは良い子だよ。すっげぇ良い子だ。だから、あんま自分を責めんな』
テントウのその言葉だけが、涙の海に沈んだ私を、力強く引っ張りあげてくれるのだ。その手を離してしまうと、その手を離されてしまうと……私は深い海の底に沈み、瞬く間に溺死してしまうだろう。
だからね、絶対にこの手を離したくはないんだ。
私は、初めて私の全てを理解し、受け止めてくれる人に出逢った。けれど、それはきっと不幸の前兆で……この先の二人がどうなってしまうのかは、誰にもわからない。
あの後すぐに、テントウが眠ってしまったので、私は服を着て外に飛び出した。
草は露をため、花は瑞々しさを増す。私は伸び切った草の間を駆け抜けて、昨夜テントウがいた場所へと向かった。
「あ……あった!」
水溜りの中に半身を沈める、テントウの携帯電話。液晶部分は割れ、本体も原形をとどめてはいなかった。
けれど、私が探しにきたのはこれではない。
私は近くに落ちていたてんとう虫のストラップをそっと拾い上げる。上に乗っていた小さなバッタはぴょんぴょん跳ねると、やがて見えなくなった。
私はこれを拾いにきたのだ。勿論、これはただの小さな飾り物に過ぎない。けれど、こんな所で独りぼっちにはしたくなかった。
これは、彼に【テントウ】という名を与えるきっかけとなった大切なものだから。
「汚れ、落ちるといいけど……」
私は汚れたままのてんとう虫を、構う事なくポケットの中に眠らせた。
携帯電話からほんの少し離れた場所に、黒い携帯ケースを見つけた。手帳型ケース等ではなく、柔らかい素材のTPUケースで出来ていたそれは、薄汚れ以外のダメージは見当たらない。
その内部には、一枚のプリクラが貼られていた。
その中に写っていたのは、スーツを着た数人の男女の姿。私の視線は、その中の一人だけに注がれていた。
「この、髪が黒いの……テントウだ」
私は、プリクラに写るテントウを見た時……気付いてしまったかもしれない。
髪の色一つで、人はここまで印象が変わるのか。金髪のテントウには見覚えはなかったけれど……目の前の真面目そうな黒髪眼鏡の青年には、ほんの少しだけ見覚えがあった。
「もしかして、テントウって……」
プリクラには、それぞれの名前が書かれてある。そして、彼の身体に重なる部分に……青色の縁取りペンで書かれてた名前。
「これが……テントウの本当の名前……?」
思わぬところで、私は彼の下の名前を知ってしまった。そして、私の記憶が正しければ……きっと、彼の苗字は――
私は目を瞑り、首を左右に振ると、その携帯ケースを茶色い水溜りの中に放り込んだ。
――これで大丈夫。テントウがこのプリクラの存在を思い出し、急いでここに来たとしても……汚れた水をふんだんに含んだプリクラは、すぐに顔も名前も確認出来なくなるだろう。そうして、テントウは安心する筈だ。ハナに、自分の正体を知られずに済んだと。
「これでいい。私は何も知らないまま……ハナとして、テントウの傍にいられたらいいの」
私は雨上がりの空を見上げた。昨日の土砂降りが、まるで嘘かのように……青く澄み渡っていた。
2019年4月26日 発行 初版
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