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夜叉が眠る森

夢空詩



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夜叉が眠る森



 女は男と一緒に暮らしていた。とても仲が良く、周りからも評判の良い二人だった。年頃の男女という事もあり、そろそろ結婚の話もちらほらと出始めていて正に幸せの絶頂期だったとも言える。

 季節は夏。それも既に後半に差し掛かり、何だか少し物悲しく感じる季節へと変わる。夏の終わりは、虫が重なり合うように音楽を奏でる静かな秋を連れてくるだろう。……とは言え、まだまだ暑い。感傷に浸るにはどうやら少し早いようだ。
「少し飲みすぎたかな……? 気持ち悪っ」
 女は仕事が終わると、同僚との付き合いで駅の近くにある店に飲みに行っていた。
 フワフワとした頭で若干フラつきながら歩く。そうして、愛しい男が待つ家へと帰るのだ。
 外灯の灯りに照らされたアパートの前につくと、ドアの前に小さく黒いモノが落ちている事に気が付いた。
 せみが死んでいる。その蝉の身体には大量のありが群がっていた。自然の摂理とはいえ、見ていて気分の良いものではない。
 しかし疲れていた女は、気持ち悪く思いながらもそれを避けて家に入る。中には男の姿はなかった。
 どうせすぐに帰ってくるだろうとベッドに倒れ込むと、女はいつの間にか眠ってしまっていた。

 鳥のさえずりで目が覚める。女は目を擦りながら辺りを見回してみたが、男はまだ帰ってきていないようだった。
 今日はお互い休みだから、一緒に映画を見る約束をしていたのに……
 女はゆっくりと玄関のドアを開けると、表にそっと顔を覗かせた。
 相変わらず蝉の死に蟻が群がっている。女は深く溜息を吐く。けれどそのまま放置しておくには見栄えも悪いだろうし、愉快でもない。
 女はそれをスコップですくい、土の方に移動させようとした。その瞬間、蝉は羽を広げ、懸命に飛び立った。
 ――生きていたのか。その事実に大変驚かされたものだが、それよりも、生きていた蝉に大量の蟻が群がっていた事に、身体がひんやりとさせられた。
 生きている状態で蟻に襲われていた蝉は……どのような気持ちだったのだろう?
 そんな事を考えていると、自宅の電話が鳴り響いた……


***

 心臓に針金がグルグルと巻かれているように、チクチクと傷む。向きを変える度に食い込んでいくものだから、ナイフよりよほどタチが悪い。
 その針金はこの命までは奪いはしないものの、色んな方向から女の心を傷つけ、苦しめ続けるのだ。
 解決策などない。解放される他ないのだ。けれど『解放されたいのか?』と問われると、女は首を横に振る事しか出来なかった。
 何故なら、痛みを感じる事でこの想いが本物なのだと実感する事が出来るから。もう既にこの世からいなくなってしまった男が、今も女の中で生きていると。
 けれどやはり、きついものはきつい。
 記憶を手繰り寄せ、男との想い出に浸るも虚しいだけ。月日が流れれば記憶は劣化していき、次第に『あれ? 本当にそんな事があったのだっけ?』などと、確証の持てないものへと変化していく。女はそうなってしまうのが嫌だった。怖かったのだ。かと言って、このままの状態で過ごしていける程強いわけでもない。
 忘れていく事が出来るからこそ人は生きていけるものなのだけれど、『彼を忘れてしまうイコール私の存在もこの世にないのと同じ』。女はそう考えた。
 もう既に限界は近い。いないものだと言い聞かせるには、男の存在は大き過ぎたのだ。
 女の中での男のスペースは大部分を占めている。男が不在となった今、そこから流れ出るドロドロとした醜悪なものは、近い内に女を真っ黒な泉の中に引き摺り込み溺死させてしまうだろう。……いや、窒息死か?
 ――肉体の死が先か、精神の死が先か。

「見てらんないわね。ほんっと馬鹿な女」
(……ああ、またか)
 女の身体から出た液状の黒いものは、女の身体から離れると、いつものように形を作っていく。
 それはまるで、影のようだった。
 かといって、女と同じ姿で同じように動くわけではないので、影人間とでも言えば良いのだろうか? 
 ちなみに今日の影の形は女性のシルエットのように思えた。影の髪はとても長く、腰付近でユラユラと揺れていたから。
 昨日は男性だった。一昨日はさそりだった。その前は確か……蜥蜴とかげだったっけな。
 とにかく女は、目の前に立ちはだかるいつもの【幻覚】に対し、苛立ちを隠せないように大きな溜息を吐く。
 影はクスクスと笑いながら女に言った。
「惨めで哀れで救いようのない女ね。何をそんなに悩む必要があるの? 貴女の悩みなんて本当にしょうもなくって薄っぺらい。コピー用紙のようにぺらっぺらだわ」
 影は女を一瞥すると、更に言葉を続けた。
「辛くて苦しいと嘆くなら、自分の胸にナイフを突き立ててみれば良い。――ほら、それでお終い。貴女はその苦しみとやらから一瞬で解放されるでしょうよ?」
 そう言った影の手から、真っ黒な刃物が生み出される。
 ――これで胸を突き刺せと? 馬鹿馬鹿しい。誰かに言われて命を落とすなど馬鹿げている。それも、人ではないバケモノのような存在の言葉だ。耳を貸す必要もないだろう。
「あら? 使わないの、それ? ま、良いけど。その歪んだ醜いものを全て外に出さないと、普通の死なんかよりも恐ろしい死が貴女に襲いかかるわよ? 自分の顔、よく見てみたら? ……酷い顔。幽霊にでも取り憑かれてんじゃないの」
「……幻覚なら黙っててよ。あんたなんかに用はないの。悪いけど、一人にしてくれない?」
「あらそう。なら良いわ。けど私、忠告してあげたから。後は勝手にどうぞ。では、御機嫌よう」
 影は再び液状に姿を変え、蛞蝓なめくじのようにノロノロと自分が存在した跡のみを残して、何処かに行ってしまった。
 女は深い溜息を吐くと、たった一人の観客が立ち去った後のこの部屋で、小さく呟いた。
「……もう限界。きっと、いつまで経っても私の心は貴方に囚われたまま。まるで、首に見えない鎖をかけられ、飼いならされた犬も同然。……逢いたいよ。千明」
 女はふらりと立ち上がると、裸足のまま表に飛び出した。夏の陽射しがとても眩しく、アスファルトの熱が女の足に暑さと痛みを与えた。灼熱の太陽の下、空っぽになった女の身体は、ただひたすらに願う。
 ――溶かしてしまえ。――消してしまえ。
 幻覚など見えてしまう私の頭はとうにおかしい。気でも狂っているに違いない。生きていようが、死んでいるも同然だ。
 女はふと一週間前に見た蝉の事を思い出した。生きたまま身体を弄ばれた蝉。
 痛かったでしょう?
 気持ち悪かったでしょう?
 恐ろしかったでしょう?
「あんなに苦しい思いをしてまで、あの蝉は生きたいと思ったのかな? ……きっと、死ぬ方がよっぽど楽だよね」
『あの蝉は、まさしく私自身だ』、女はそう思いながら、近くにある陸橋の階段を登り、手摺りに手をかける。美容院に行く気力も湧かず、無造作に伸び切った黒髪は向かい風に揺らされ、視界を狭めた。
「……もういいや。疲れた。バケモノの思い通りになるくらいなら、いっそのこと」
 そう呟くと女は、流れるように走り続ける車達の中へとその身を投げた。



 風の通り道を行けば……もう一度、彼の元へ辿り着けるだろうか?
 そんな事を考えながら、私は柔らかく生暖かい風に包まれ、まだ明けたばかりの空を一人ぼんやりと眺めていた。
「……綺麗」
 誰に言うでもなく、無意識に口から出た言葉に、小さな溜息を吐く。
『溜息を吐くと幸せが逃げていってしまう』というのが真実ならば、私は一生不幸のままだろう。
 いつからこんなに自虐的になってしまったのだろうか? まぁ、答えは言わずともわかっているのだが。

 私には、とても好きな人がいた。
 多分この先、私の前に彼以上の人は現れないだろう。そう断言出来てしまうくらいに、私は彼の事が好きだった。
『何故、好きか?』と尋ねられても、恐らくちゃんとした理由を答える事など出来ないし、『どこが好きなの?』と聞かれ、『全部』だなんて……それこそ適当にも聞こえるような言葉で簡単にまとめてしまえるような、単純な気持ちでもなかった。
 私にとって彼の存在は、この世で生きていける理由そのものだったのだから。
 まぁ、今更私がどう思おうが……やはり無意味で無価値な事に変わりはないのだけれど。

 私は再び朝焼けの空に目を向け、思った。
 彼と共に朝を迎え、この空を二人で見上げる事が出来ればいいのに……
 きっと彼は優しく笑いながら、色んな話を私に聞かせてくれる事だろう。私はその声に耳を傾ける……それだけで私は、この先一生分の幸せを手にする事が出来るんだ。……そう思えてならなかった。
 彼の話を聞くのが好きだった。どんな話も私の中にはない、新鮮かつ魅力的なものばかりだったから。
 小さくて狭い私の世界は、本当にちっぽけで……『外に出たい』と叫んでみても周りの壁が邪魔をして身動き一つ取れやしない。
 押しても引いても意味はなく、壊せるような道具は一切見当たらない。私はいつものようにヒッソリとその場にしゃがみ込み、一人涙を流すだけだった。
 彼は、そんな私の小さな箱をノックして……広くて美しい草原へと、私を連れ出してくれたのだ。
 どこまでも続く青い空が、『この世界は果てしないのだ』と教えてくれる。
 私はいつも思っていた。目の前にいる彼の世界は、どれ程までに広いのだろう?
 とにかく、好きで好きでたまらなかった。けれど、どれだけ想っていても……叶わない事もある。
 だから私は、『たとえ想いが繋がらなくとも別に良い。この想いは永遠に、あの狭い箱の中に』。そう思っていたのだ。
 それなのに、彼は死んでしまった。誰にも何も告げず。たった一人で、ひっそりと……
 私が彼の死を知ったのは、手紙が届いたからだった。

 差出人、穂積仙。
 宛先、逢坂未奈都。

「……本当に、一生逢えなくなっちゃったんだね」
 私はそっと呟いた。

 彼は雲のようにのんびりとした性格で、太陽のようにいつも眩しく輝いていた。
 広い海や空、山のように寛大で、大らかだった。人々の心を魅了する美しい花のように、社交的で魅力的でもあった。
 彼の言葉は、美しく穢れのない水のようだった。私はこれ程までに、美しく……心の奥にまで染み渡っていくような言葉を知らない。私は彼といる時だけは、素直に、無邪気に笑う事が出来たんだ。
 しかし、そんな彼は……時に冷静な月のように物静かに思考を巡らしては、遠くを見つめている事が多かった。

『自分が、何処に立っているのかわからなくなる』

 そう呟いた彼に、私は気の利いた言葉一つかけられずにいた。
 この時から既に、彼が何処か遠くに行ってしまうんじゃないかと不安に思っていたのだが……いくら何でも遠すぎやしないか?
 もはや別世界、意思の持たない拒絶だ。
 ようするに私は二度と、彼には逢えない。

 今、彼がいるであろう世界。真実だけを見据える彼の、その瞳に映る世界は……一体何色をしているのだろうか?
 私は思った。彼のいる世界に行きたいと。彼が見ている世界の住人になりたいと。今まで、何度そう願っただろう。
 この世界の汚さも醜さも、綺麗さも美しさも、彼となら全て知っていける。そんな気がしていた。
「……わかっているよ。いくら思っても無駄だって事くらい」
 だって全ては、儚く消え去る夢まぼろし。見えないものに縋り付き、信じていたって……彼がそこにいないと意味がない。
「でも、じゃあ……私のこの想いは、一体どうすればいいの? どうして、いつもいつも私を置いてどこかに言っちゃうの? 貴方にとって私の存在ってなんなの……」
 私は決して賢くはない。けれど、そこまで馬鹿でもないと思う。とんでもなく優秀か、とんでもなく大馬鹿者なら、これ程までに苦しまずにすんだのだろうか? 中途半端が一番厄介でタチが悪い。立ち直る為の知恵を見出す事も出来ず……かと言って、全てを簡単に忘れてしまえるくらいに楽観的にだってなれる筈がないのだから。
「忘れられるなら、全部忘れてしまいたい」
『そんな事は到底無理だ』そう理解していながらも……私の口より勝手に飛び出ていった言葉は、自由気ままに宙を浮遊した。
 叶わない恋心に、『忘れなさい』と時間が語りかけてきて……もう二度と逢えない距離に、『諦めなさい』と心が諭す。
 そのせいか、彼を想って泣く事も少なくなった。……単に涙が枯れ果ててしまっただけかもしれないけれど。
 私は決して強くない。かと言って……全てを投げ出して逃げてしまう程、弱くもなかった。しかしそれは、あくまで彼が傍にいてくれたからだ。
 彼のいないこの世界は、完全に色を失った。
 私は今すぐ全てを捨て、この地より消えてしまいたいと思い始めていた。
「……私がどれだけ救われてきたか、貴方にはわからないでしょう? 貴方が何気なく発した、特に意味など持たないであろう言葉も……私には、いつだって特別だった。貴方が忘れてしまっているような、些細な内容でも……私の中にはしっかりと刻み込まれていたんだよ。それなのに貴方は、伝えたくても伝えられない……そんな遠くに行ってしまった」
 ――もう二度と、逢えない。

「ねぇ、仙くん」
 貴方は今でも、旅をしていますか?
 この地から離れた今、何に囚われる事なく、貴方は貴方らしく過ごせていますか?
 貴方が今いる世界は、貴方が望んだ通りのものでしたか?
 そこでは、貴方を苦しめるものはありませんか?
 ……出来る事なら、貴方のいる場所まで行って貴方に触れたい。思いっきり貴方を抱きしめたい。
 仙くん。貴方に出逢うまで、私はきっと……愛する意味をはき違えていたの。
 今まで沢山の恋をしてきたし、愛するという言葉の意味だって、自分なりにわかっていたつもりでいたけれど……それは全て間違い。勘違いだった。
 貴方と出逢い、私は初めて愛を知ったのだから――
 馬鹿みたいだけど、私ね……貴方に逢う為に生きてきたんだって思うの。
 毎日が精一杯だった私は、ただ美しいものを美しいと思う事すら出来ずにいた。何もかも、そこに有るのが当たり前だったから。
 けれど貴方に出逢ってから……空も、雲も、星も、山も、海も、全てが美しく見える。
 雨も、虹も、花も、草木も、月も、太陽も、涙が出るくらいに美しくて、朝も、昼も、夕方も、夜も……この世界は、沢山の美しさで溢れていたんだ。
 ――それなのに。
「どうして……死んじゃったの?」
 止められなかった。いや……知っていたとしても、私はきっと止めなかっただろう。
 彼が決めた事に口を出す権利など、私にはない。
 どれ程悲しくても、どれだけ辛くても……彼が悩み、苦しんだ末に選んだ道を、私は受け入れる事しか出来ないのだから。
 それに逆の立場なら、私は必ずこう思う。
 いくら周りの人達を泣かせてしまう事になろうが……止めないでいて欲しい。
『生きていけるなら生きていた』、……ただそれだけの話。

「――やぁ、調子はどうだい?」
 突然背後から聴こえてきた声に、私は構う事なく空を見つめ続ける。
「なんだい、つれないなぁ~」
 その黒い影は、素早く私の膝の上に飛び乗ると、ゆっくりくつろぎ始めた。
「今日は……猫、なのね」
 私の膝で、影はわざとらしく「ごろにゃん」と喉を鳴らす。
 昨日は老婆だった。その前は大きな蛙。その前は鳶だ。この影の正体を勿論、私は知らない。けれど、あまり気にとめてはいなかった。こうやって、突然現れては話しかけてくるけれど、特に不快な気持ちになる事もない。
 流石に最初は驚いたが、次第に私は『もしかしてこれが、イマジナリーフレンドというものなのか』などと考え始めていた。悲しみに耐えられなかった私自身が、自分を慰める為に空想の友人を作り出したのだと。それならば、この影は紛れもなく自分自身。拒絶するのも、あまりに素っ気ない話だ。
 しかし、この【友人】は……あいにく、私を慰めたりはしない。寧ろ、死を勧めるような言動がとても多く見られた。
「愛しい男に会いに行かないのかにゃ? 酷くやつれた、醜い顔をしているにゃ」
「……そのわざとらしい話し方やめない?」
 私は深く溜息を吐く。影猫は膝からピョンと飛び降りると、振り返りこう言った。
「ミナトは逢いたくないの? 誰よりも愛しくて堪らないヒトに」
「そんなの、会いたいに決まってる」

 私はいつも思っていた。
 風になれば、彼の元に行けるだろうか?
 あの高い山を越え、どこまでも続く広い海を渡り、空中を泳ぐように進んでいけたなら。
 途中、美しい花に目を奪われたりもするだろう。大きな樹の上で昼寝をしたりするかもしれない。
 そして目が覚めた後、一面に広がる美しい黄昏に激しく心を揺さぶられながら……私は星降る夜空を、まるでピーターパンのように自由に飛び回るんだ。
 そして、最後にはきっと……彼を見つけ出してみせる。

「無理無理無理」
 私の思考を読み取ったのか、影猫は呆れたように言った。
「ミナトは本当に夢を見過ぎだね。この世界はそんなに美しくない。君が風になろうが、彼の元には辿り着けない。君が彼に逢う為には、僕の言う通りにして死ぬか、自分自身で死ぬか。どちらしかないんだよ」
「結局のところ、どっちも自殺じゃない」
「いや、全然違う」
「……意味がわからない」
「要するに希望を抱いて死ぬか、絶望のままに死ぬか、って事さ」
 影猫は私に向かって何かを投げてきた。私はそれを上手くキャッチする。開いた手の中には……歪な形をした錠剤が、一粒転がっていた。
「何これ……毒薬?」
「……あぁ、そうさ。ほら、ロマンチストな姫君。ロミオとジュリエットのように愛する者の為、毒薬を飲み干してごらんよ? あ、毒薬を飲んだのはロミオだっけ? ……いや、待てよ? 最初に飲んだのはやっぱりジュリエットだ。……まぁ、そんな事はどうでもいいや。じゃあね、ミナト。――幸運を祈るよ」
 影猫はそう言うと、開いていた窓から飛び降りた。未奈都は急いで窓の下を覗き込んだが、影猫はもういなかった。
「希望と絶望……か」
 白雪姫が食べた毒林檎が本当にあると言うのなら、今すぐ私の手に。
 その実の一欠片たりとも残す事なく、飲み込んでみせるから。
「そうしたら、私はもう一度……貴方に会えるのかな?」
 もしかしたら、貴方はもう……何処にも存在していないのかもしれない。
 それならば、愛を知ってしまったばかりに消えてしまった人魚姫のように……今すぐ私を泡の姿に変えて欲しい。
 もしそれが可能なら、これ以上悲しみの涙に溺れる事なく……私はこの世界から、簡単に消えてしまう事が出来るのに。
 私はぼんやりとそんな事を思い浮かべながら、小さく口を開いた。
「本当に貴方は、いつだって罪作りな男です」
 窓から入り込む風がふわりとカーテンを揺らし……私の髪まで、巻き込むようにしては優しくさらっていく。
「せめて、夢の中だけでも貴方に逢う事が出来たら……私は貴方にとびっきり熱い珈琲を淹れてあげて、貴方には私に、とびっきり甘いココアを淹れてもらうのに」
 私は、スカイブルーのペンキが一面に塗りたくられ、白い絵の具で綿菓子が描かれたアーティスティックな空を見上げながら……そう呟いた。
「そもそも……貴方に出逢えた事自体、夢のまた夢。はたまた奇跡か。私はずっと、幸せな夢を見続けていただけなのかもしれないね」
 そんな戯言を一人、口にしながら……私は、この壮大な空に彼への想いを乗せた。

 ――強がっているだけで本当は弱い彼と、弱いけど本当は強い私の最後の繋がり。
 この世界はきっと、ファンタジーな展開など望めない。夢を見すぎる人々にとって、この世界は残酷過ぎるまでに正直だから。
 ――ならどうする? 答えは一つだ。
「……飲んでやろうじゃない。林檎じゃなくても私にはこの毒薬がある。騙されたっていい。どうせこのままじゃ、私は生きていけない」
 私は私の手の中で握られていた、毒と名の付いた錠剤をジッと見つめた。
 ……いつか、届くだろうか?
 私のこの想いが、貴方に届くだろうか?
 机の上に置かれた彼からの手紙に目を向けると、嫌でも内容を思い出してしまい、胸が鈍器で殴られたように痛む。きっと今の私は、苦虫を潰したような苦渋の表情を見せているだろう。
「あの得体の知れない幻覚の言う通りにしてしまう私を、皆が馬鹿だと口にするでしょうね。でも……ただ無駄に死んでしまうよりは、一つくらい縋れるものがあったっていいでしょう? 可能性が万に一つでもあるのなら、私はそれにかけてみる……」
 私はそっと目を閉じると、勢いのままに錠剤を口の中に放り込んだ。



「う……ん…………あ……れ、此処……は?」
 仰向けで倒れていた私の視界を支配していたのは辺り一面の霧だった。
 ゆっくりと身体を起こしてみるも、まだはっきりとしない頭と、焦点が定まらず安定しない視野は……その白い世界以外に、私に何の情報も与えてはくれなかった。
「此処は……どこ……?」
 ようやく、全ての機能が活動を再開し始めたようだ。よく目を凝らして辺りを見てみると、私が今いる場所は、何処かの商店街のように見えた。薄暗く静まり返っているその商店街は、既に廃墟となったもののように思える。
 瓦礫や木板で出入口が雑に封鎖されていた。
「……地元にある商店街とは何だか違う。かなり古びているようだし」
 空は薄暗く、散らばる霧と飛び散る灰のようなものが……まるで粉雪のようにも、天から落ちて来た白い羽のようにも見えた。
 ――此処は一体、何処だ?
「私……確か、毒薬を飲んだ、よね……? けど、生きてる。今まで眠っていたところをみると……あれって単なる睡眠薬だったって事かな? それとも――」
 普段、こうも一人でブツブツ喋っていると、決まって周りに変人扱いされてしまうだろうが……そんな事はどうでもいい。私は自問自答を繰り返し、何とか今のこの現状をまとめてみる事にした。
「睡眠薬だったって事は……眠っている間に私は此処に連れてこられた? あの、わけのわからない影に……?」
 私が「う~ん」と唸っていると、微かに物音が聴こえたような気がした。耳を澄ませてみると、規則正しいリズムで土を蹴る音がする。
 音がした方に目を向けてみると、少し遠くの方に薄っすらと人影が見えた。
 それも数名、いや数十名か……もしかしたら軽く百をも超えているかもしれない。
 私は即座に立ち上がり、ゆっくりその人影に近付くと……近くの電柱の後ろに身を隠しながら、そっと様子を伺った。
 霧の中から次々と人が現れては、一列に並んで歩いていく。その姿からは全く生気を感じられない……まるで、幽霊の行進だ。
「人……? でも、何だか様子がおかしい」
 真っ直ぐに前だけを見て歩いていく人達は、しきりに涙を流していた。大人も子供も老人も、男性も女性も。
 それらは皆、無表情ではあったものの、私にはとても苦しそうに……悲しそうに見えた。
「……あれ? あの人、どこかで見た事がある。どこで見たんだっけ……?」
 ここまで出てる。最近見た。絶対に見た。でもどこで……? 
 白髪交じりの灰色の髪。レンズの厚さが目立つ細いフレームの眼鏡。首の真ん中にある大きな黒子。
「――そっか! 朝の、テレビに出てる人だ。間違いない。けど……確か事故で亡くなったって、こないだニュースで」
 その男は、いつもテレビで楽しそうに笑っていた。優しそうな笑顔がとても印象的だった。……だから、男がテレビの男と同一人物だと気付くのに少々時間がかかってしまった。今の男からは、絶望しか感じられない。
 男は青白い顔をしながら、ヒョロヒョロと、脚を引きずるようにして歩いていた。

 次々と続く行列の中には、見た事のある顔が少なからず存在した。それも、決まって既に亡くなっている顔触ればかりだった。それを見て、私は悟る。
「……此処は、本当に死後の世界なんだ。やっぱり死後の世界は存在したんだ! ……なら、きっといる。絶対にいる! 彼がこんな非現実的な事に対面しておきながら、さっさと成仏しているわけがない!」
 不思議と恐怖などはなかった。それよりも彼にもう一度会う事が出来るかもしれない。その事に胸が高鳴り、恐怖など二の次、三の次へと追いやられた。
 どうか、彼に会えますように。いや……きっと会える。
 でなければ、毒を飲んでまで此処に来た意味がないではないか。私は彼に逢うまで、決して諦めない。
 勿論、此処が死後の世界だとするならば……普通なら、彼はもう既に成仏とやらをしているだろう。あの列の終着点は、俗にいう天国や地獄かもしれないし。
 けれど、彼はまだこの世界に存在している。そんな気がした。……ただの勘だが、予感とも言えなくはない。
 とにかく不謹慎だが、私は……『どうか彼がまだ成仏していませんように!』などと、心の中で願いながら足を進めた。

 少し距離を保ちながら、見つからないようにゆっくりと死人の後について行く。念の為に隠れているわけだが、はたして隠れる意味などあるのだろうか?
 そもそも此処にいるという事は、私も死んでいるという事。ならば、堂々と行列に加わり、ついていけば良い話だ。
 しかし、それをしないのは……自分の中で死んでいるという概念がなかったからだと思う。開いた手のひらはとても血色が良く、当たり前のように生を実感させた。

(……? あれ? あれって、もしかして)
 亡者から離れているこの位置から、何となく確認が出来た横顔……それは私の、古くからの友人に酷似していた。
 しかし、その男は高校を卒業したと同時に関西の方に越して行き、暫く続いていた連絡も途絶え、それっきり。百パーセント本人だと断言するには少々時間が経過し過ぎている。
 高校時代、短期間だけ交際をしていた事もある相手なのだが、結局は互いに友人関係に落ち着いた。その頃は金色のサラサラした髪だったが、視線の先にいる男は黒髪でパーマ。単に顔が似てるだけでは判断のしようがなかった。
 ただ、共通の友人が『こっちであいつに似た男を見た』と言っていたのを聞いた事があるので、もしかすると……知らない間にこちらに戻ってきていたのかもしれない。
 だとしても、あいつが死んでいるなんて有り得ない。人類が滅亡しても、一人生き残っていそうな人種だ。きっと、他人の空似であろう。
「あいつの筈がないよね。あいつが、死ぬわけないもの……」
 私は自分にそう言い聞かせると、尾行を再開した。知人に似た男の姿は、いつの間にか見えなくなっていた。

 白い靄に包まれた道をひたすら歩き続けると、突然目の前に建物が現れた。
 ここは、工場……跡?
 商店街といい、工場といい……想像していた死後の世界とはまったく違う。
 きっと、全国のオカルトや超常現象等の懐疑論者達も驚く事だろう。
 この世界は、現実世界とほとんど何も変わらない。
 歩く亡者達は工場横をすり抜けて、角を曲がっていった。私も急いでその後を追おうとしたのだが、突然誰かに左腕を引かれたので、驚いて後ろに振り返った。
「やぁ。来たんだね」
 大きく真っ黒なローブを着た少年は、にこりと笑う。目線を下の方にずらすと、素足がひょっこりと顔を覗かせていた。色素の薄い肌の色は、土や泥のせいで少し薄汚れている。
「でも、ここから先は行かないで。今すぐルートを変えて欲しいんだ。この先には森があり、そこには夜叉が住んでいるから」
「夜叉……?」
「そう。僕らは彼女の事を、『アヤメ』と呼んでいる。殺すに女と書いて、『殺女』。憐れで哀しい女さ。森に入れば、君も彼女に殺されてしまうかもしれないよ」
 少年は手を口元に運び、クスクスと笑った。
 突然現れた少年の姿に少しだけ警戒してみるが、今すぐ取って食おうという感じでもない。
 それに、どこか懐かしさを感じさせるその声は、『もしかしたら彼に会えるかも』と喜んだ反面、どうしようもない不安と話し相手が誰もいないという孤独が渦巻いていた私の心を、ほんの少しだけ落ち着かせた。
 私は少年に問いかける。
「……殺す、って。私達はもう既に死んでいるんでしょう?」
「あははっ! 人にはね、実は二つの生命があるんだ。現世で死を迎えた後は、この世界での生が始まる。その二つを失って初めて、人は真の死を体験するって事! ちなみに」
 少年はゆっくりと行列を指差すと、再び口を開いた。
「あの人達はね、もう二度生命を失ったんだ。だからああやってこの世界をぐるっと一周してから、森の奥にある沼に沈むんだよ。この世界に来て早々、アヤメに殺された者も沢山いる。まぁ、森に近付かない限り大丈夫だよ。……多分、だけどね」
 少年の揃った前髪がさらりと揺れる。アッシュグリーンの髪色がこの灰色の世界で美しく際立ってみえた。
「人は二度死ぬと全てを失う。そうして……この世界からも消えるんだよ。いつか、全員が、ね?」
「貴方……私のところに来ていた影でしょう?」
「あれれ? 鋭いね。どうしてわかったの?」
 そういって少年は、別段驚いた素振りも見せず口角を上げる。行列の最後尾は既に角を曲がっていて見えなくなっていた。
 私は少年の瞳を見つめながら口を開く。光を持たない漆黒の眼孔は少しも揺れる事のないまま、じっと私を見返した。
「貴方、どんな姿の時でも笑う時に絶対左手で口元を隠すもの。そして右腕はいつもダランと下がったまま。……その右腕、動かないの?」
「……へぇ。よく見てるんだね。愛しい男の事しか見えていないと思っていたけれど、観察力は申し分ない。そう、僕のこの右腕は単なる飾りでガラクタでしかない。別に困りはしないけどね」
 少年はちらりと右腕に目をやるが、すぐに逸らして再び私を見つめた。
「ようこそ、ミナト。人の云う死後の世界へ。僕らはこの地をセカンドと呼んでいるけどね」
「セカンド……? 二番目だから? 随分と短絡的な発想ね」
「そうかなぁ? シンプルでわかりやすいでしょ? ミナトが数時間前まで居た世界がファースト。孤独の世界さ」
「孤独の……世界」
「そう。あの世界で生きている全ての者は皆、孤独に苛まれてる。そしてそれは、あの世界にいる限りどうしようもない事なんだ。誰もが決して救われない。独りで生まれ、独りで死ぬ。人に殺され、人を殺す。勿論、肉体的にというわけじゃない。それよりもずっと厄介な精神的に、ってやつだね」
「なら、このセカンドは……一体、何の世界なの?」
 私が少年に問いかけると、少年は眉を下げ、半ば呆れたように口を開いた。
「……馬鹿だなぁ、ミナトは。少し考えればわかる筈なのに。そう、セカンドは解放の世界さ。此処にいる限りは皆が自由に、全てのしがらみを捨て、おもうがまま生きられる。もう誰かの顔色を伺う事もない。我慢なんてする必要はない。何かに怯える事もないんだ。此処には筆頭者なんていないし、代表者なんて存在しないからね。此処は、皆が平等に暮らせる……とても優しい世界だよ」
「全ての人間が、何の我慢もせずに生きるだなんて……それじゃあさっき貴方が言ってた『人を殺し、殺される』にも充分該当するわよね。……勿論、肉体的に」
「そう、その通りだよ。君は賢いね、ミナト。けれど、人が人を裁くのは認めない。人を裁く事が出来るのはこの世界でたった一人……夜叉だけだ。夜叉だけが自由に殺生を行える。自由に好きな者を殺し、生かす。歯向かったり、他者を殺めた者は夜叉が罰する。それ以外の事なら自由にすればいい。けれど、いつかは皆……夜叉に『殺されたい』と願い、『殺してくれ』と懇願するだろう。なんだかんだ言って人は、孤独を愛する生き物だから」
 私には少年のいう事がよくわからなかった。言っている事がイマイチ要領を得ないし、矛盾だらけのように感じられたからだ。そもそも、何故人が二度目の死を求めるのか? まぁ……自ら生命を断ち、此処に来た人達ならわからなくもない。死んだ筈が、目覚めるとこんな場所にいて、『二度目の生命が始まる』なんて言わた日には『ふざけるな』と憤慨する人も中にはいるだろう。しかし、それなら殺されるのを待つよりも、自分で死ぬ方が断然早いし、死ぬと殺されるとでは恐怖心も違うだろう。それなのに……何故、わざわざ頼むというのか。
 夜叉とは、一体……

「僕、そろそろ行くよ。夜叉……殺女が寂しがってるといけないからね。そうだ、ミナト。君の想い人は随分とユニークな男だね」
「! 仙くんに会ったの⁉」
「彼はとてもこの世界を気に入ったようだ。それに、まだ夜叉にも殺されてはいない。そのうちにきっと会えるよ」
 少年はそう言うと私に背を向け、左手を上げた。
「じゃあね、ミナト。精々、二度目の生を楽しんで」
「ちょ……ちょっと待って!」
 私の声に振り返った少年は、目を丸くしながらこちらを見た。
「貴方……名前は? 名前は、何て言うの?」
 そう尋ねると、少年は小さく笑いながら優しい笑顔を私に向けた。
「僕の名前は影丸。名前なんてものは本来持ち合わせていなかったんだけど、気が付けば皆が僕をそう呼んでいた。ふふっ、実は結構気に入ってるんだよ。どんな生き物も名を持ち、初めて生命を得る。特別なものとなる。誰でもない自分になる事が出来るんだ。……逆に己をその肉体に縛り付けてしまうのも、悲しいかな名というものなんだけどね」
「カゲマル……くん」
「影丸でいいよ、ミナト。じゃあ、今度こそ行くね。――バイバイ。どうせまたすぐに会う事になると思うけど」
 影丸はそう言い残して、ゆっくり角を曲がっていった。きっと森に行くのだろう。『夜叉が寂しがっている』と言っていたし。
 けれど……
「夜叉……? 何それ、わけわかんない。そんな者の存在を認めろっていうの……?」

 ――夜叉は人の生命を奪う。

 その言葉が、私の耳から離れてくれない。彼は、仙くんは……本当に無事なのだろうか?
 しかし、今の私には何の手がかりもない。この世界がどれ程の広さなのかも、検討すらつかない。
 とにかく、何が起こるかわからないこの状態で闇雲に歩くのは得策じゃないと思った。
 私は大きく深呼吸をした。死人の世界だというのに、空気が美味しいだなんて何だかおかしな話だ。

 ――雨の香りがする。気付けばポツポツと雨が降り出していた。静かな世界で唯一音を鳴らす雨粒は、何故か私の心を深く落ちつかせた。
 ひんやりとした空気が、少し肌寒い。死んでいるのに寒いという概念があるのが不思議でたまらなかった。本当なら、死んでしまった私の身体は体温を失い、氷のようになっていてもおかしくないのに。
 私は確かに、この世界で生きている。
 この、セカンドと呼ばれる世界で。
「……仙くん、濡れてないといいけど」

 とりあえず私は工場の中に入り、すぐ側にあった階段を登ってみた。そこら中の窓は割れていて外は丸見えだが、降り出した雨に打たれるよりはずっといい。
 窓の外の灰色の空はどんよりとしていて、今の私の心境を物語っているようだった。私はカンカンと甲高い音を立てながら上を目指した。
「追ってきたはいいんだけど……これからどうしようかな。何の手がかりもないんだもの。雨だって降ってきたし、暫くここで雨宿りして時間を潰すしかなさそう」
 私は、窓枠のすぐ側で三角座りをしながら、そこから見える景色を見ていた。ここは三階。目の前には真四角の穴が空いた空間。
「ここから落ちたら死ぬよね……多分」
 そんな事を思いながらも、私はその空間に脚を放り出し、振り子のように揺らしてみる。あいにく脚はズンッと長く伸びていた屋根に守られていたので、少しも濡れずに済んだ。
 空を舞っていた灰は、少し勢いが出てきた雨に掻き消され、その跡すら残す事はない。
 此処は天国なのだろうか? それともやはり地獄なのだろうか? 私には、此処が地獄には思えない。けれど、天国だとも思えない。
 此処は一体、何なのだろう? 
「静か……何だかとても哀しくて寂しい世界。そりゃそうか。楽しい世界の筈がないよね」
 彼は、この世界の事をどう思っただろうか?
 この世界と彼は、何だかとても似ている。まるで、彼自身がこの世界を作り出したかのようにそっくりだ。そのせいか、この空を見ていると胸が苦しくて悲しくなる。
 きっと、あの頃の彼の心はこの世界のように灰色で……ずっと、雨が降り続けていたに違いない。
 それなのに、彼はいつでも本心を見せてはくれなかった。私も無理に聞き出そうとはしなかった。
 雨に凍えて泣いているであろう彼に、傘を渡す事も出来ずにいたんだ。……いや、きっと私が傘を渡せたとしても、彼はそれを受け取りはしなかっただろうけど。
「結局、生命ってこんなに呆気なく終わっちゃうものなんだね。やろうと思えば誰でも簡単に死ねるし、人の記憶からもすぐに忘れ去られる。今まで生きてきた証なんて何も残らない。かろうじて残っていたとしても、それも長くは続かない。だって、それ以上にあの世界には人がいるのだから」
 降り出した雨は、いつか止むだろうけど……この灰色の世界は、以前いた世界のような青々とした美しい空を生み出すのだろうか?
 今の私には、この曇り空のような灰色の空が妙に心地良い。真っ黒なくらいに後ろ向きでなければ、真っ白なくらいに前向きでもない。
 此処がどのような世界なのか、私にはまだわからないけれど……彼を失って、死人のように息をしていた世界より、よっぽどマシだと思えた。

 私が彼と出会ったのは、もうすぐ冬も終ろうとしている頃。彼の最初のイメージは、優しくて、 親切で、明るく聡明な人。
 でも蓋を開けてみたら、とても子供っぽい一面を持っている人だった。
 私はすぐに彼を好きになった。私にはないものを沢山持っていた彼が、とても魅力的に思えたからだ。

『ミナトがそう思うのは、君が俺の事を好きだからだよ』

 彼は私にそう言った。よく考えてみたら、単なる冗談だったのかもしれない。ノリだったのかもしれない。けれど私は自分の心の中をいとも簡単に見破られてしまったような気がして、思わず『そう。私、仙くんの事が好きだよ』。……そう返したんだ。
 だからと言って何も変わりはしない。彼と私の道はいつだって平行線で交わる事も絡み合う事もない。
 ただ互いにわかっているのは、私は彼が好きで、彼は私の事をそういう目で見てはいないという事だ。
 それでも良かった。彼を好きになった事に後悔はなかったから。
 彼は、他の誰よりも一生懸命生きている人だった。後悔のないように生きたいから、自分がしたい事、やれる事は何でも挑戦する。何を犠牲にしても、自分自身を犠牲にしても、頑張りすぎてしまう彼がとても痛々しく見える事があった。

 イタイ。

 彼はとても優しかったけど、私は彼のその優しさが好きではなかった。外から見ると羨ましく感じるその優しさも、中から見ると少々残酷なものだと感じる事が多々あったから。

 クルシイ。

 ――そう、私は欲張りだ。とても。
 好きでいられるだけで幸せ、と口に出してはみるものの、本当は彼の全てが欲しくてたまらなかった。

 アイサレタイ。

 言えない気持ちが膨らんで、醜い自分が顔を出す。卑しい。みっともない。……愚かだ。

 ミジメダ。

 こんな所まで追いかけてきた私を、彼は気持ち悪いと思うかもしれない。怖いと思うかもしれない。
 ううん、彼はそんな人ではない。……けど、きっと困る筈だ。

 キエテシマエタラ――

「……ははっ。何やってるんだろ、私。もういっそ、彼に会う前に夜叉に殺されちゃってもいいかも」
 ――おかしい。何かがおかしい。その事に気付いているのにネガティヴな感情を抑え込む事が出来ない。
 気持ちが下降して闇に飲まれてしまう感覚。急に涙がポロポロと溢れ出した。思わず口を真一文字に噤む。うまく自分をコントロール出来ない。
 ああ、どうしていつも私はこうなんだろう。
 こんなんじゃ私、彼に嫌われてしまう。
 こんな私なんて……

 イナクナッテシマエバイイノニ。

 そんな事を考えた時、突然後頭部に鈍い痛みが走った。どうやら背後から思いっきり頭をはたかれたようだ。
 手加減なしで与えられた痛みは、私の隠していた本音、ネガティヴな思考を無理矢理停止させた。すぐ後ろから、少々訛りのきつい言葉が聞こえてくる。
「姉さん、あんた影に憑かれとるわ」

 ――影に、憑かれてる?

「うだうだ悩んどったらその身体、一瞬で奪われてまうで? 此処では弱い奴はすぐ闇に喰われてまうからな。どこぞのアホが、呑気に雨宿りしとるなぁって下から見えたから上がってきたけど、正解やったみたいやな。あんた、この世界に来たばっかりやろ? 何も知らんのやったらとりあえず警戒せぇよ。隙ありまくりなんやって、自分」
 その不躾な男は、頭を押さえる私に気を使う事なくベラベラと話を続ける。確かにモヤッとした嫌な気持ちは一瞬にして晴れてしまったが、今度はこの言われっぱなしに対する苛立ちをどうも抑えきれそうにない。
「それはどうも、ご忠告ありがとうございました!」
 私はキッと睨みつけながら、男の顔を見た。
「え……?」
 そこにいたのは、先程行列で見かけた知人によく似た顔の男だった。よく似た、というか……目の前で見てみると、似てるどころの問題じゃない。
 そこにいたのは間違いなく、正真正銘【世白千明】本人であった。
「……千明?  あんた、千明でしょ⁉ 私の事わかる⁉」
 私の言葉に、目の前の男は目を丸くした。
「……お前、もしかして未奈都か?」
「そうだよ、未奈都だよ! 逢坂未奈都!」
 千明は、思わず耳を塞ぎたくなるような大声を上げながら、私の両肩を強く掴んだ。
「おーっ! おまっ、めちゃくちゃ久しぶりやんか! 元気にしてたんか⁉ 何や、めっちゃ地味になりよるからわからんかったわ」
「いやいや、あんた今まで何してたのよ⁉ 引っ越してから、いきなり連絡通じなくなるし……皆心配してたんだよ?」
「あー……ちょっと色々あってな。和歌山の方で暮らしとったんやけど、実は二年前にこっちに戻ってきとってん」
 そういうと千明はにへらっと笑った。この、思わず力が抜けてしまうような笑顔はちっとも変わっていない。
 突然の再会に張り詰めていた空気や心が緩んだような気がした。目の前には懐かしい顔。この静かな世界で、それがどれ程心強いかわかるまい。
「しかし、影に取り込まれそうになっとる馬鹿女がお前やとはなぁ。気ぃつけなあかんで? 此処ではいつ何時も油断は禁物やからな」
 千明の大阪弁とは少し違うそれは、私の知っている千明とは異なっていて、何だかとても新鮮だった。
 口の悪さは言葉遣いが変わろうが以前のままに違いないが。
「……そんな事より、何で千明がこんなところにいるのよ?」
「いやいや、それはこっちの台詞やって。お前何でこんなとこにおんの? 何で死んでもたん?」
 千明の鋭い眼光が私に向けられる。私はふぅっと溜息を吐くと、すぐ隣の床をトントンと叩いた。
「とりあえず座りなよ。ちゃんと説明する。私だって聞きたい事は沢山あるんだから」
 私がそう言うと、千明は何も言わず豪快に地べたに座り込んだ。



「気持ち悪」
「……うるさいな」
 私の話を黙って聞いていた千明が、呆れたような声でそう言った。……まぁ、それが普通の反応だろう。
「だってお前、彼氏とかやったらともかく……自分を好きになってくれやん男の為にこんなとこまで来たって事やろ? あほやん! 頭おかしいやん!」
「……それくらい好きなんだから仕方ないでしょう。彼がいなくなった後、何だか空っぽになった。生きていく理由を失った。千明には、私の気持ちなんてわかんないよ」
「わからん。だって俺、異性にそれ程の感情抱いた事ないもん」
「……千明、今彼女は?」
「おるよ?」
 私は大きく溜息を吐いた。
「千明っては、昔からそうだよね。彼女さんに同情しちゃう」
「俺やってその男に同情してまうわ。自分の為に自殺なんかされたら迷惑でしかないやろ」
 千明の言葉に悪気がない事はわかっていた。それにきっと、千明の意見が正しい。
 私の勝手な行動に彼はどう思うだろう? 今更ながら、知るのが怖くてたまらない。
 俯き、言葉を失っていると、私の後頭部に暖かくて大きな手のひらが触れた。
「……あほ。何もお前が死ぬ事はなかったやろうに」
 千明はそう言うと、そのまま私の前髪にそっと触れた。二人の視線がぶつかり合うと、千明は少し眉を下げながら優しく笑う。
「灰。ついとったで」
「……ありがとう」
 千明はそのまま後ろに倒れた。千明の目線の先にあったのは薄汚れた天井だった。
 そういえば……千明はどうして此処にいるのだろう? 
「ねぇ」
「ん?」
「千明はどうしてこの世界にいるの……? どうして死んでしまったの?」
「んー……内緒」
「はぁ? 何で⁉︎ 私全部話したのに」
「そんなん知らんわ。秘密や、秘密。男は多少ミステリアスな方がかっこええやろ? ま、俺は普通にしててもかっこいいけどな」
 そう言うと千明はケラケラと笑った。
 まぁ……自分の死因など、人に話したくない気持ちもわからなくはない。
 とにかく、これ以上追求しても無駄だろうと思った私は小さく溜息を吐きながら、そっと立ち上がった。
「未奈都? 何処行くん?」
「雨、止んだみたいだから彼を捜しに行く。千明の言うように引かれるかもしれないし、煙たがられるかもしれないけど、私……彼にもう一度会う為にこの世界に来たの。だから、行ってくる! それに此処には夜叉とかいう、人の生命を奪う存在がいるらしいから早く彼を見つけないと」
「……お前、それ誰に聞いた? あ、そうか。お前が言うとった影に聞いたんか。そのお前が見た影っていうんは、髪が肩までの青味がかった色しとる影音って女か?」
「ううん。私がさっき会ったのは、影丸っていう男の子だよ?」
「影丸……?」
 千明は少し考える素振りを見せながら、ゆっくりと口を開いた。
「急いでるんはわかるけど、ちょっと俺の話聞いていけ。情報があるんとないんやったら全然違うぞ?」
 千明の表情が何やら神妙だったので、私は何も言わず再び千明の横に腰を下ろす。それを見て、その場に寝転がっていた千明も即座に身体を起こした。
「説明するとな、影らは肉体が欲しいんや。ほやから、元の世界から死を望んでる奴を上手い事言って連れてこようとするねん」
「え? それじゃあ……影丸は私の身体を奪う為に私を此処に連れてきたって事? いや、でもあの子は既に身体を持っていた……じゃあ、他の影達の為に私を此処に? ……うーん。そんな風には見えなかったけど」
「ちなみに、お前どうやって死んだ?」
「……だから自殺だって。さっき全部話したじゃない」
「そうやない! 影の言う通りにして死んだんか、影の言う事聞かんと自殺したんか、や」
「……影丸が渡してきた毒薬を飲んで此処に」
 それを聞いた千明は、安心したように大きく息を吐いた。
「影の言う通りにして死を選ぶのは良し。影の言う事に耳を貸さんと頑張って生きるのも良し。ただ、絶対にしたらあかん事があるんや。それはな、影が勧めてくる死に方をせんと自分自身で死を選ぶ事や」
 千明が真剣な表情を私に向けた」
「ちょっ……意味がわからない」
「本来ならわけのわからん影の言う事なんか聞かんし、抗うやろうけど……ここは従う、受け入れるが正解や。死に取り憑かれとる奴は余程の理由がない限り、結局は高い確率で自分から死ぬ。どうせ死ぬなら影の言う通りに死ぬんが最善。未奈都、お前は賢い選択をしたっちゅー事や。それにな、まだ確信はないけど……俺の予想やと」
「俺の予想やと……?」
 私がそう聞き返すと、千明は少しの間黙り込んだが、すぐにニカッと歯を見せて笑った。
「やっぱ、まだ言わんとく。確信がない以上、余計な情報は頭に入れん方がいいわ。混乱を招くかもしれやんしな」
「はぁ⁉︎ 何であんたはいつも言いかけてやめちゃうのよ! 気になって仕方ないんだけど!」
「ははっ、悪い悪い。機嫌直せや、せっかくの再会なんやし」
 千明はそう言いながらスッと立ち上がると、不機嫌な私の目の前に手を差し伸べた。
「しゃーないから、俺がお前をその男のおる場所まで連れてったるわ! お前も一人やと心細いやろ? 心配すんな、見つかったら俺もとっとと消えるし。お前らの邪魔らせぇへんよ。俺もほんまは色々と忙しいねん。ちょっとこの世界で調べてる事があるしな」
「……どうせ何を調べてるかを聞いても答えてくれないんでしょう?」
「ん。御名答!」
 死後の世界にいても何ら変わりない千明に私は呆れながらも、ゆっくりとその手を取った。
 確かに千明の存在は心強い。私が知らない事も色々と知ってそうだし頼りになる。
 何よりこの死後の世界で一人でいると、何だか不安で……私の場合、また影に取り込まれてしまい、すぐに二度目の死を迎えてしまいそうな気がした。
「……千明。私を仙くんに逢わせて」
「よっしゃ、任しとき。絶対に逢わせたる」
 千明が強く手を引き、私は立ち上がる。
 ――その時、私はふと思った。千明は死んでしまった側なのだろうか? それとも、誰かを追ってきた側? しかし、千明は死因を明かさなかった。という事は追ってきた側とは考えにくい……よね? だって私のように追ってきたのなら、自殺しかないわけだし、隠す必要もない筈。まぁ、聞いてみたとしても千明はきっと答えないだろうけど。
「行こう、千明! お互い死んじゃったけど、同じ死人同士仲良くやろうじゃない」
「……死人、ねぇ。ま、俺に任しとけばすぐ逢えるわ。だって俺お前の好きな男に何となく心当たりあるもん。多分、あの男やと思うんよなぁ」
「え⁉︎ 何それ、どういう事⁉︎ 千明……仙くんの事を知ってるの?」
「実はな俺、此処に来てもう半年くらい経つねん」
「えっ? 千明、そんなに前からこの世界にいるの⁉︎」
 私が驚いたようにそう尋ねると、千明は「おう!」と目を細めて笑った。
「その間、色んな人間が此処に送り込まれてくるんを見てきたんやけど、皆とにかくギャーギャーわめき散らすねん。泣いたり怒ったり、色々な。まぁ、多分それが普通の反応なんやろうけど」
「うん、まぁ……そうだよね。普通は」
「そん中にな、一際目を引く男がおった。派手とか騒がしかったとか目立ってたとかやないねん。寧ろ静かで大人しく、一人冷静やったわ。けどな、とにかくめっちゃ変な男なんよー」

***

『なぁなぁ、さっきから何してんの? 自分』
『ん? いや、この世界には虫とかって存在するのかなって思って。この世界の水は普通に飲めるのだろうか? 火は使えるのだろうか? 食料等はどうなっているのか? 色々考えると何だか楽しくなってきてしまって! あ、君はどう思います? この世界は俺達がいた世界とまったく同じなのか、それともそうではないのか?』
『……おかしな事言うなぁ~。怖くないの、あんた。他の連中は皆パニック起こしてんのに』
『怖い? どうして?』
『ははっ、どうしてって言われてもなぁ~』
『俺には此処がとても魅力的に思えるんですよ。この世界に来られた、それだけで……死んだ甲斐すらあると思えるくらいに。それに、冷静なのは君も同じでしょう? きっと、俺達よりもずっと前から此処にいるんでしょうね。他の人達と違って、随分と余裕があるように見えますから』
『鋭いなぁ。確かに俺は、あんたらよりは多少長くこの世界におるよ。まぁ、あんま大差はないけどな。あ、ちなみにさっき自分が悩んどった答え、教えたろか? えと……何やっけ? そうや、この世界は俺らがおった世界と同じかどうか』
『うわぁ! ちょっと待って! やっぱり何も言わないで下さい!』
『えー! 何でー? さっき俺にどう思います? って聞いたやん』
『ダメダメダメダメ! やっぱり何か知ってても絶対に俺には言わないで下さい! 謎は、自分で調べるからこそ面白いんです』 


***

「そいつは何の恐怖も感じてないように穏やかな顔して笑いよった。まるで好奇心旺盛な子供みたいに、とにかく楽しそうやねん。何かそれが逆に不気味で、異質に感じたんやけど……お前の言うその仙って男、そいつちゃう? さっきお前から仙って奴の事色々聞いた時、俺絶対そいつや思ったんやけど」
 千明の言葉を聞いて、私も十中八九、その男の人は私の捜している【穂積仙】に間違いないと思った。
 他の人とは違う独特な雰囲気、優しそうな笑顔の奥に隠されている野心、そして情熱。それは私が恋い焦がれてやまない相手にぴたりと当てはまる。
「そうだね……私もそれ仙くんだと思う」
 どうしてだろう。会いたくて会いたくてたまらない人の目撃証言を聞いたのだ。もっとテンションが上がってもおかしくないのに、私の心は急速に下降していった。
 理由なんて、本当はわかってる。彼の頭の中には私なんて存在していない。きっと、目の前の事に夢中で私のことなんて忘れてしまっている。……それが、悲しいんだ。
「ほんまお前はわかりやすい奴やなぁ。うじうじうじうじと……おい、未奈都」
「……何?」
「あいつと俺、どっちがいい男や?」
「仙くん」
 千明は額に手を当て大袈裟に溜息を吐くと、呆れたように言い放った。
「お前は好きになったら一直線過ぎるねん。一つ忠告しといたるわ。異性は百パーセント好きになるな。精々八十くらいにしとき。百よりメーターが上がらんのやから逃げ場失ってパンクするで? 好きなままおるんも、好きなんやめるんもしんどなる」
 千明は未奈都の頭にポンっと手を置いた。

 雨は止んだはずなのに、私の心に降り続いている雨はいつになれば止んでくれるのだろう?
 実際に、自分を見てくれない人を想い続けるのはそれ相当の痛みが生じる事だと、とうの昔から気付いていたのに。
「じゃあ……千明は彼女の事、百パーセント好きじゃないわけ?」
「気になる?」
「はぁ……? ならないわよ。ただ、やっぱり女としては百パーセント、好きな人に愛してもらいたいんじゃないかと思っただけ」
「女は感情的な生き物やからなぁ。めんどくさいわ、そんなの」
 そう言うと、千明は胸ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。大きく煙を吸い込んで、それをうまそうに吐き出す千明を見て、『まだやめてなかったんだ』と思いながらも、それを口にする事はなかった。
「俺は何にも染まらへん。社会にも環境にも、ましてや女になんて有り得へん事や。時間の無駄やとさえ思っとる」
「話し方は充分染まってるけどね。何だか違和感ありありで、知らない人と話してるみたい」
「あほ。お前知ってるか? この喋り方の方が周りにウケるんやぞ? 俺別に、女にら本気にならんけど、普通にモテたいもん」
「相変わらず馬鹿だね、あんた」
 とにかく、ここでこうしていてもらちがあかない。
 私は工場の階段を、来た時と同じようにカンカンと高い音を鳴らしながら駆け下りる。千明はその後を、大きな欠伸をしながらゆっくりと降りて来た。
「……誰もいないね」
「そうですねぇ」
「で、今からどこにいくの?」
「まぁ、とにかくついて来い。あ、森には近付くなよ。あと、影音と~……何やっけ?」
「影丸?」
「そや。それそれ!」
 千明はスッキリしたようにそう言うと、「そいつらには気をつけろよ」と付け足し、スタスタと歩いていった。私はその後を小走りで追った。

 森に面する畦道を暫く歩き続けると、時折小さな悲鳴のような声が聞こえた気がした。私の心臓はドクンと音を立てる。
「……夜叉や、夜叉。こればっかりは慣れやんと仕方ないわ。ちょっと怖いやろうけど、最初だけ。嫌でもすぐに慣れる」
「夜叉……」
 夜叉という、眉唾な存在を未だに信じきれていない私は、先程工場で『此処には夜叉とかいう、人の生命を奪う存在がいるらしいから早く彼を見つけないと』などと口にはしてみたものの、いまいち釈然としないのが本音だ。なら、先程の悲鳴は? と尋ねられたら、野犬の群れに襲われただとか、或いは少し物騒だけれど……この世界にいる者同士で殺し合いが行われているのだろうと、私の中でまとまってしまう。そっちの方が、充分有り得る話だからだ。
 実際殺し合いなんて行われていたら、恐怖でしかないのだが……夜叉が人を殺す、というものよりは納得出来てしまったりする。
 それとも夜叉というのは、単に殺人鬼の名称なのかもしれない。……うん、それが一番しっくりくる。
 夜叉と呼ばれる殺人鬼が、この世界を支配している。きっとそれが正解なのだろう。
 しかし、影丸は夜叉を女だと言っていた。男性の力を以ってしても、女一人に敵わないという事があるのだろうか? ……束になっても?
 とにかく、触らぬ神に祟りなし! 森には近付かない事にしよう。
 一人で「うんうん」と頷いていると、突然千明が立ち止まり、私の方に振り返った。
「何や、ぶつぶつうるさいなぁ。……ほら、見てみ。この丘を登ったとこにな、噴水場があるねん。いつも結構人が集まってる。もしかしてそこに、お前の仙くんおらんかな? おるかどうか保証は出来やんけど、行ってみる価値はあるやろ」
「お前の、って言うのは余計だけど……そうだね、可能性がある場所は、しらみ潰しに捜していかないと。行ってみよう!」
「了解。あ、ここちょっと坂きついし危ないから、こけやんように気ぃつけろよ?」
 そう言って再び歩き始めた千明の背中を、私はひたすら追いかけた。確かに坂はきついし、足場は悪い。苔の生えた沢山の大きな石が、まるで通せんぼをするかのようにゴロゴロと転がっている。
 ……気を付けないと。ゆっくり、慎重に。

  空からは、再びパラパラと灰が舞い降りてきた。私は思わず立ち止まり、それを手のひらですくう。
 私は手の中におさまったそれを、何となく人刺し指でつついてみた。
 不安定な灰の塊は簡単に崩れ落ちて、風に攫われる。私は、目を凝らしても見えない灰の残骸が空へと消えていくのを、ただずっと眺めていた。
「……まるで、私みたいだ」
「あ? 何か言うた?」
 私がついてこないからか、元来た道を引き返してきた千明が、間の抜けた声で私に尋ねる。
 私はにっこり笑顔を作ると、即座に口を開いた。
「……何でもない。急ごう!」



「うわぁ……!」
 大きなステーションの前にある噴水の中心部には、二人の幼い天使が向かい合うような形で手を取り合い、水の中からは小さな鳥が顔を覗かせていた。
 非常に精巧に作られた石像だ。思わず見惚れてしまう程に……
 あれは、幸せの青い鳥をモチーフにして作られたのだろうか? 天使に、青い鳥……薄暗く廃れた景色の中、唯一その噴水だけがこの世界で生命を宿しているような、そんな気がした。
 しかし……
「誰もいないね」
「あれぇ? おかしいなぁ。確かにここには人がめっちゃおったんやけど……」
 千明は首を傾げながら、「う~ん」と唸る。ここに人がいない事は、千明にとってかなり予想外だったようだ。
 普段なら、この場所には沢山の人達が集まっていて、賑わいを見せていたのだろうか? ……いや、賑わっているという事はないか。何故なら此処は死後の世界なのだから。元の世界の広場などとは違うのだ。
「……ここ、駅だよね。電車には乗れるの?」
「封鎖されてるし無理やろな。あったとしても既に壊れてるやろ」
 確かに千明の言うように、駅の入り口は派手なバリケードで封鎖されている。これを突破するのは、かなり至難のように思えた。……それに見た感じ、杭で打ちつけられた木板を外し、置かれている重機を退け、有刺鉄線を全て除去したところで、内部に何か重要なものがあるとは思えないし、彼が中にいる可能性はゼロに等しい。骨折り損のくたびれもうけなのは目に見えている。
「は~、また振り出しかぁ。そう簡単にはいかない事ぐらい、わかってはいるけど……やっぱりダメージ大き――」
 私がそう口にしようとした瞬間、突然大きな手が私の口を塞ぎ、無理矢理その場に座らされた。
「シッ、静かにしろ。……影音がおる」
(影音……?)
 千明の手から解放された私は、千明の視線の先にいる一人の少女に目を向ける。
 そこにいたのは肩にかかるかどうかの長さでアッシュブルーの髪色をした少女だった。影丸と同じように黒いローブを着ているが、影丸とは違い、腕は両方とも機能しているようだ。その証拠に、その両腕は……幼い少女には不釣り合いな、大きくて斬れ味の良さそうな鎌をしっかりと握りしめていた。
「なに、なに、なに! あれ何なの⁉」
 私は焦りながらも小声で話す。
「あいつ頭イかれてんねん。しつこく俺の事付け狙うんよなぁ。モテる男は辛いわ」
「はぁ⁉ そんな事聞いてないんだけど!」
「言ってないもん」
 思いっきりぶん殴りたい衝動に駆られたが、今はそんな事を言っている場合でもなさそうだ。私はしゃがんだまま千明の袖を引き、ゆっくりと元来た道を引き返そうとした。
「戻るん?」
「あっち行くと見つかっちゃうでしょうが! あの子、明らかにあの鎌凶器として使ってるよね⁉ ほら、ブンブン振り回してるもん……見つかったら殺されちゃうよ!」
「大丈夫やって。この世界で人を殺せるんは夜叉だけや。このままやり過ごしたらい――」
「チアキ、そこにいるんでしょう? ワタシ、追いかけっこもそろそろ飽きてきちゃった」
 聞こえてきた可愛らしい声に対し、私の背筋はぞくりとした。何故ならば、少し遠くに離れていた筈の少女の声が、私達が背を向け隠れている壁のすぐ後ろから聞こえてきたから。
 千明は「はぁ……」と溜息を吐くと、立ち上がり、少女の前に姿を現した。私も千明について壁から顔を出す。
 とても美しい少女が目の前にいた。少女はまるで人形のように……その美しい表情を一切崩す事なく、私達をじっと見つめている。
「影音~、お前ほんましつこいわー。何でそこまで俺に執着すんねん? 他の奴らは自由に行動してるやん! 申し訳ないけど、俺も見境がないわけやなくてなぁ、あいにくお前は俺の許容範囲外やねん。だからもうちょっと大人になってから出直してきぃ……」
 千明がそんな軽口を叩いたと同時に、千明を目がけて容赦無く鎌が振り落とされる。千明は寸前のところでそれを避けると、即座に私の後ろに隠れた。……男の風上にも置けない奴だと心の中で思いながらも、私は少女の攻撃にすっかりびびってしまい、今にも腰が抜けそうだ。声など出る筈もない。
 少女は再び口を開く。
「……馬鹿なの? ねぇ、馬鹿なの? ワタシ、貴方みたいな男が一番嫌いなの。自惚れないでくれるかしら? 何度も言うけれど、夜叉が貴方を呼んでいる……早く来なさい。抵抗するなら、これで貴方の脚を斬り落とす」
「かーっ。小さいのに言う事もやる事も怖いわぁ。悪いけど俺な、捜してる人がおるねん。そいつは残念ながら森にはおらんのや。だから森には用がないの。あ! あと、こいつも人を捜しとってな。お前知らんか? 仙っちゅー男や!」
 千明はいきなり、私の背をぐいっと前に突き出した。
「貴女……確か影丸のとこの新入りね」
 そう言うと、少女はじっと私を見つめる。
「あ、あの……」
「……貴女はまだ要らないわ。どこへでも好きな所に行くといい。けど、チアキ。貴方は絶対に逃さない。四肢を切り裂いてでも夜叉の元に連れて行く。貴方は危険……生かしておくわけにはいかない。早急に二度目の死を迎えるがいいわ」
 千明が私の後ろから更に一歩、後ろに下がった。……こいつ、絶対私を置いて逃げるつもりだ。目に見えている。
 だって千明は昔から、自分が一番大切なんだから。
「ちょお待って。マジ待って。一旦落ち着かん? お互い勘違いや思い違いもあると思うんよなぁ、俺」
「待たない。時間がない。本当にふざけた男ね。馬鹿なフリをしているけれど……一体その頭の中ではどれ程の事を考え、計算しているのかしら? 本当に恐ろしい男……」
「いや、買いかぶりすぎやって! 俺はただのアホや! ……すまん、未奈都! 俺まだ死ぬわけにはいかんねん! あとは自力でその男を捜してくれ」
 そう言って千明は一人走り出す。『この、最低男!』と罵ってやりたいところだが、千明は生命を狙われている立場だ。見逃してもらえた私とはわけが違う。
 影音と呼ばれた少女は、一瞬顔を歪ませると私の目の前から突然消えた。そしてすぐに少し離れた場所から、「ひゃあ」と情けない男の声が聞こえてきた。
 影音がいなくなった事で、まるで金縛りが解けたかのように動きを取り戻した私は……取り敢えず千明が走っていった方角に急いで向かった。

「千明!」
 声がした方に走って行くと、霧の中に三つのシルエットが見えた。尻餅をついている影、鎌らしき物を振り上げている小さな影、そして、その鎌の柄の部分に手を伸ばし掴んでいる、背の高い影。
 私はその霧の中へと一歩踏み出す。すると、穏やかな声が耳まで届いてきた。
「こんなの持ってちゃあ危ないよ~。これは人を傷付ける道具だ。君には似合わない」
「――貴方は」
 少女は、突然現れた青年の顔をじっと見つめた。茶色の猫っ毛で優しそうな顔をした青年は、その視線にとびっきりの笑顔で応える。
「ねぇねぇ、君! 俺ね、夜叉に用があるんだ。良かったら、そこまで俺を案内してくれないかな? 森を行くにも話し相手がいる方が楽しいし! この人を追い回すのは別に後でもいいでしょ? ――ねっ?」
 この暗い世界に差し込んだ、お日様のような光。そんな印象を持つ青年は鎌からそっと手を離すと、無邪気に笑いながらそう言った。暫く黙って青年を見ていた少女は、小さな溜息を吐きながら……ゆっくりと口を開く。
「……いいわ。チアキ、命拾いしたわね。この人に感謝なさい。取り敢えず今は見逃してあげる」
 そう言って影音は鎌を引っ込めた。あれだけ執拗に千明の生命を奪いたがっていたのに……彼は一体、何者なのだろう?
「わっ、ありがとう! ――あのさ、ついでに図々しい事言っちゃうけど、少し彼らと話がしたいんだ。悪いけど、もうちょっとだけそこで待っていてくれるかな?」
「……ワタシね、この男の顔を見ているだけで殺したくなるの。だから、先に森の入り口で待っているわ」
 少女はそう言うと、重そうな鎌を地面に引きずりながら歩いていく。その姿はやがて霧に隠されてしまい、あっという間に見えなくなった。
 影音がいなくなった事でようやく緊張が解けたのか、一気に力が抜けた私は……「ふぅ~」と深くて長い溜息を吐いてから、その青年の元に駆け寄った。
「あ、あの! 助けてくれてありがとうございます!」
「んー? いや、いいよ。困った時はお互い様ってね! へへっ」
「……聞いた~? そんなところで無様にへたり込んでる千明くん。本っ当~に素晴らしいよね! どっかの誰かさんとは違って」
「……お前、絶対根に持ってるやろ? あの場合しゃあないやん! 俺殺されるとこやったんやぞ⁉」
「呆れた! あんた、自分が良けりゃあそれでいいわけ⁉ 最低っ!」
「ふはっ! 仲良いんだね、二人共。あっ、手を貸すよ。起き上がれそう?」
「……あぁ、悪いな。サンキュー」
 その太陽のような青年は千明に手を差し伸べる。千明は青年の力を借り、ゆっくりと立ち上がった。
「君……千明くん、って言うんだ。いやね、君がどことなく俺の知ってる女性に似ててね。……うん、雰囲気が瓜二つだ。だから、何だか他人には思えなかったんだよ」
「ふ~ん? それって兄さんの女かなんか? 女に似てるって言われるんも中々微妙な感じやけど……まぁええわ! 助けられたわけやし。ほんまありがとうな!」
「あの……貴方、名前は? 貴方も死んでしまったんだよね」
「うん、交通事故でね。えっと、名前は……うん! もう死んじゃってるしね。名前なんてなくていいや! 正義の味方Kとでも呼んで」
「あ、あはは。K……くんね」
「何か……兄さんも相当の変わりもんやなぁ。変な奴しかおらんのか、この世界は」
 目の前でケラケラと笑う青年は、確かに少し変わっている。けれど、何故か憎めない。その優しい笑顔から人柄の良さが滲み出ているから。そしてそれは、どこか仙くんに近いものを感じた。……まぁ、彼はここまで爽やかではないのだけれど。
「……じゃあ、そろそろ行こうかな。多分、俺はもうこの世界にはいないから、次に何かあっても助けてあげられないからね? くれぐれも気をつけて」
「えっ、じゃあ……貴方もしかして、夜叉に殺されにいくの⁉」
「ん~。そう何回も死ぬのは嫌だなぁ。夜叉さんに、殺さずこの世界から出してもらえるように頼んでみるよ。俺ね、人を捜しているんだ! やっと逢えると思っていたんだけど、そう簡単にはいかないようでさ。ははっ。けど……これでいい。再び彼女を見つけ出すまで、俺の物語は終わらないのだから。とにかくここにはいないみたいだし、もっと色んな世界を回ってみるよ」
「そっか、貴方も人を捜して――」
 その時……急に私の頭の中で、先程の千明の姿と言葉が思い浮かんできた。

『悪いけど俺な、捜してる人がおるねん。そいつは残念ながら森にはおらんのや。だから森には用がないの』

 ……そういえば、さっき千明も人を捜してると言っていた。ならばやはり、千明の死因は自殺? けど、何だろう……違和感を感じる。

「そっか、君も誰かを捜しているんだ。無事に逢えるといいね」
 そう言って、青年は優しく笑った。――不思議。これから夜叉に会いにいくのに、怖くないのだろうか? 寧ろ、何だか嬉しそう見える。青年はまるで、この世界そのものを楽しんでいるように見えた。
「……君も、何かの目的があるからあの少女に付け回されているんだろうけど……油断は禁物だよ? ――ね、世白千明くん?」
「――え? あんた、何で俺の苗字……あれ? 俺言ったっけ?」
「やっぱり、ね。ははっ、何という運命の巡り合わせかな? きっと全ては最初から繋がっているんだ。この狭い箱庭の中で沢山の物語が行き交い、混ざり合っている。これは始まりなのか? それとも終盤なのか? 過去、現在、そして未来が繋がって……新たな最終章が始まる。あ~! もう! その場に立ち会えなくて本当に残念だよ」
「? ……貴方、何言って?」
「そうだ! ねぇ、君の名前は何ていうの?」
「お、逢坂……未奈都……ですけど」
「じゃあ、みぃちゃんだね! 実はさ、君も凄く知り合いの子に似てるんだ。たった一度、落し物を拾ってくれただけで、その子は俺の事を知らなかったけれど……繋がりはとても深くてさ。出逢うべくして出逢った存在だった。一見弱々しくみえるけど、本当は誰よりも芯の強い女性だ。優しく愛情深く、人の闇を溶かす……俺はね、この世界では君もそうであって欲しいんだ。……みぃちゃん。強い心を持ち続けて。この世界は、君が思っている以上に悲しくて、残酷な世界だ。そして君達は、多分まだ……」
「――おいっ! 兄さん!」
 千明が大声を出して、青年の言葉を遮る。その千明の表情から、焦りと怒りが見て取れた。
「ふははっ、ちょっと余計な事を言い過ぎちゃったみたいだね。ごめんごめん! そんなに警戒しなくても大丈夫だよ、千明くん。俺、もう行くしさ! ……みぃちゃんも、頑張るんだよ?」
 そう言うと、青年は私の頭にポンッと手を置いた。
「え……?」
 ――冷たい。まるで氷のように冷たい。
 ……あれ? またしても違和感が、だって……え? でも、それじゃあ……
 私は咄嗟に千明の方を見るが、千明はそっと私から目を逸らした。
「最後にもう一つだけ……千明くん。音だけでなく蟲には気をつけるんだよ? 君からは蟲の存在が色濃く感じるからさ。あれに取り込まれてしまうと本当に厄介だからね? ちゃんとわかっていると思うけど。――さようなら。今日ここで君達に会えて、本当に良かった」
 そんな意味深な言葉を残し、青年は霧の中へと消えていった。
「何やねん、あいつ……一体、どこまで知ってるんや」
「……ねぇ、千明」
 苛立ちを隠せないように、前髪を乱暴にかき上げる千明に声をかけた私は、スッと右手を前に差し出した。
「手、貸してくれない?」
「はぁ? 何で?」
「繋ぎたいから」
「あほか。気持ち悪い事言うなよ。うわぁ……俺、今鳥肌立ったわ」
 そう話す千明の事など無視し、私は無理矢理千明の手を思いっきり引っ張った。不意を突かれた千明は、余程驚いたのか……「うわぁ!」などと大袈裟な声を出す。
「……やっぱり。千明、どうして隠すの?」
「何が⁉ いや、俺マジで意味わからんのやけど」
「じゃあ、質問を変える。 ……私達って、本当に死んでいるんだよね?」
 私がそう言うと、明らかに千明の顔色が変わった。やはり、千明は何かを隠している。
「さっきの人の手……まるで氷みたいに冷たかった。けど、私の手も千明の手も温かい。まるで生きていた時と変わらない」
「……それで?」
「私ね……それについて少し考えてみたの。私の手が温かいのは、まだこのセカンドに来たばかりだからなのかなって。けれど……それだとずっと前からここに来ている千明の手が温かいのはおかしいよね」
 私がじっと千明を見つめると、千明は……今度は逸らす事なく、目を少しだけ細めて私を見返した。
「もしかして、私達の手が温かいのは何か理由があるのかもしれない……けど、今の私にはそれがわからない。だから、どうしてもその考えに行き着いてしまう。私達はまだ生きて――」
「死んどるよ」
 興味がなさそうに……吐き捨てるように……千明が私に言う。横を向くその瞳は、この灰色の世界よりもずっと暗く、淀んで見えた。
「俺らは間違いなく死んどる。手が温かい理由は、別に大した事やない。温度に差がある事をわざわざ言わんかったんは、ただ単にお前に変な期待を持たせたくなかったからや。ほら? 現にお前は今、この世界には生きてる人間と死んでる人間がおるっちゅー仮説を立てたやろ? 期待したやろが? お前の意中の相手も、もしかしてまだ生きてるかもしれんってな。淡い期待や望みはさっさと捨てる方がいい。余計辛い想いをする事になるで?」
 千明の言いたい事は何となくわかる。だって私は、この考えが頭をよぎった時……確かに期待してしまっていたから。私が仙くんに逢って彼に触れた時、彼の温もりを感じる事が出来たなら……私は彼の死自体を疑い、彼が死んでいるという事実を正面から受け止められなくなるだろう。一緒に、もう一度一緒に……元の世界に戻りたいと願う筈。
 私が彼と生きていきたいのはこんな哀しい世界じゃない。こんなに寂しい世界じゃない。
 元いた、緑の美しい……青い空の下なのだ。
 ……しかし、千明ははっきりと断言した。私達は間違いなく死んでいると。ならば、次に千明に聞きたい事は……
「千明……あんたは一体、誰を捜す為にここに来たの? 誰に……逢いたいの?」
 千明は、「やれやれ」と言ったように溜息を吐くと、ゆっくり口を開いた。
「彩芽っていう女や。俺の……一応彼女。いや、婚約者とでもいった方がいいんかな?」
「――アヤメって、もしかして夜叉の事⁉ 確か影丸が夜叉の名前は殺めると書いて女……殺女だって!」
「……違う。夜叉はまったくの別人や。偶然おんなじ名前なだけ」
「別人……ただ、同じ名前なだけ……?」
「おう。こっちは彩るに芽って書いてアヤメや。同じでもおかしくないくらい、そこら中にありふれた名前やろ? 珍しくも何ともないわ」
 まぁ……確かにアヤメという名前自体、そう珍しくはない。それに、さっき千明を襲った影音という少女……夜叉が千明の彼女なら、千明の生命を奪おうとする少女の事を、きっと止める筈だ。
 そして、千明がわざわざ私に嘘を吐く必要なんてない。……やはり、夜叉と彼女はただ名前が同じだけ。何の関係もない赤の他人なのだろう。
 ……しかし、人の生命を奪うといわれている夜叉と同じ名前だなんて、彼女もあまり良い気分ではないだろうな。
 彩芽さん……千明の婚約者、か。

「納得したか?」
「うん、まぁ……一応ね。それにしても、あの千明がまさか婚約してたなんてね」
「……ああ、婚約っていっても、ただの名ばかりやと思うけどな。てか、【あの】は余計」
 千明は頭を掻きながら、不満を私に漏らす。でも、これでようやく納得がいった。
「じゃあ千明は、その彩芽さんに逢う為にこの世界に来たんだね。……なんだ、それじゃあ私と一緒じゃない! いや、違うか。二人は既に両想いだし、婚約までしてるんだもんね」
 私が「ウンウン」と頷きながら千明の肩を叩くと、千明は気怠そうな顔で、小さく溜息を吐いた。
「……けど、千明も大切な人を失ったんだ。辛かったよね。私が言うのも何だけど……こんな世界まで追ってきてしまうだなんて、並大抵の想いじゃ無理だよ」
 私がそう言うと、千明はゲラゲラと声を上げて笑った。
「千明……?」
「ははっ! ほんまお前の頭ん中はお天道さんやな! 誰が後を追ってきたって言うた? 俺の方が彩芽より先に死んだかもしれやんって、そうは思わんの?」
「……え? じゃあ、彩芽さんが千明を追ってここまできたって事? でも、探してるのは千明の方なんだよね?」
「さて、それはどうでしょう? 最初に言った通り、そこはまだ内緒って事で! ……ほら、男はミステリアスな方がかっこいいって、俺言うたやろ?」
「……意味わかんない。あんたと話してるとほんと疲れる」
 私は呆れながらも近くにあったベンチに腰を下ろす。臀部から伝わるひんやりとした冷たい温度に、私の身体はブルッと震えた。
 この世界の【もの】は、どうしてこんなにも冷たいのだろう? 元の世界では、そろそろ夏も終わりに近付き、ようやく冷房を使わずとも良い季節になってきたというのに。
 しかし、だからといって真冬のように寒いというわけでもない。私が触れた人や物が、まるで氷のように冷たいというだけで、気温がそこまで低いというわけではないのだ。
 ……でも、嫌でも頭をよぎる。いつか、私のこの身体も体温を失い、歩く屍のようになってしまうのだろうか?
 黙り込む私の横で、千明は鼠色の空に目を向けたまま、そっと口を開いた。
「……なぁ? 俺が昔、何でお前と別れたか知ってる?」
「はい? 何でいきなりそんな昔の話を……」
「ええやん。ちょっと昔話に付き合えよ?」
 千明がにへらと無邪気に笑うので、私は仕方なく千明の昔話とやらに付き合う事にした。
「……確かあの時は、千明が他の女の子と浮気したからだよ。きっと千明は最初から私の事なんて好きじゃなくて、やっぱり友達の方がいいと思ったから別れたんじゃないの?」
 私はそう言いながら、隣に座っている千明の腕に軽く肘打ちを食らわす。けれど千明は、特にリアクションを取る事もなく話を続けた。
「俺な、友達の事は絶対に裏切らんって決めてんの。何があってもピンチの時は助けちゃる。守ったる。……お前をこのまま俺の女にしとくんは惜しいと思ったから、俺わざと浮気して別れたんやって」
「あの……意味がわかんない。ようするに千明にとっては、彼女より友達の方が上って事?」
「そ。女の事は俺、簡単に裏切れるよ? だって信用してへんもん。……けど、友達の事は絶対に裏切らん。お前の事をこの先裏切りたないから、俺お前と別れたんやし」
「……いや、浮気した時点で充分裏切ってるよね、それ」
「でも、お前もそれに納得したから、俺らは別れて友達に戻ったんやろ? ほならお前も、俺にそこまで本気やなかったって事やん」
「う、う~ん……」
 ――千明の事は確かに好きだった。一番気が合ったし、一緒にいると楽しくて楽だったから。……けど、千明に浮気されて一番最初に頭に浮かんだ言葉は、怒りや悲しみの言葉などではなく、『またか』の一言だった。
 だって、千明は昔からそうだった。女の子大好き人間だったけれど、決して誰にも本気にならない。
 好きだけど疲れる。好きだけどしんどい。それなら……友達でいる方が全然いい。
 だって千明は、友達にはいつも優しかったから。

「……あとな、俺が彩芽を捜してる理由は、お前みたいにお綺麗なもんやないねん。俺はこんな奴やから、誰かへの想いなんてもんでこんなとこに来たりはしやん。俺は俺のしたい事をする為にここに来たんや。お前もよう知ってるように、俺ってほんま自分勝手な人間やから」
 千明は私の頭をくしゃりと撫でる。そんな千明の顔は、少しだけ哀しそうに見えた。

「ちょっと失礼しますよ。お二方」
 突然背後から聞こえてきた声に、私達は急いで振り返る。そこには中性的な顔立ちをした美しい男の人が立っていた。黒の着物の上には紅色の羽織。赤い紐で、高い位置に括られた亜麻色の長い髪。現在では、あまり見かけないような風貌をしている。
 そのあまりの美しさに、思わず目を奪われていると、千明が小さく口を開いた。
「影蟲……」
「捜しましたよ、千明さん。本当に貴方って人は……目を離すとすぐにいなくなってしまうんですから。三度の鈴が鳴り終える程度の時間ですら、じっとしていられない。行動的なのは良いのですが、貴方の場合、あまり動きまくると殺されちゃいますよ? 私の可愛い子供達にね。――初めまして。未奈都さん、でしたよね?」
「えっ? どうして私の名前を……」
「あぁ、私一応ここの管理を任されておりましてね……取締役みたいなものでしょうか? 影蟲と申します。以後お見知りおきを」
「影、蟲……さん……」
 ――【蟲】。先程青年が言っていた、音と蟲。それって、もしかして……影音と、この影蟲という名の男の事ではないのだろうか?

『最後にもう一つだけ……千明くん。音だけでなく蟲には気をつけるんだよ? 君からは蟲の存在が色濃く感じるからさ。あれに取り込まれてしまうと本当に厄介だからね? ちゃんとわかっていると思うけど』

 あの青年の言葉を信じるなら、この影蟲と呼ばれる男は危険な筈。……けれど、あまり恐怖を感じられない。寧ろ、とても優しそうで……影丸や影音に比べると、一番話が通じそうな相手に思えた。

「何やねん、お前今までどこに行ってたん?」
「色々と準備をしていたのですよ。でも、それももう終わりました。……さぁ、千明さん。私と一緒に行きましょう。貴方がいないと何も始まらない。アレの愚痴も、私一人では手に余るのですよ」
「は? ちょっと待ってや。俺、こいつの捜してる奴を見つけたらなあかんねん。まだええやろ?」
「捜し人、ですか。ふむ……」
 影蟲はそう言うと、背後から私の目の前に、スッと移動をした。そして暫くの間、私の目を逸らす事なく見つめると……やがて、狐のように目を細めてニコリと笑う。
「……あぁ、成る程。わかりました。では、私が彼女を彼の元へと送って差し上げましょう」
 影蟲は私に左手をかざし、何やらまじないのようなものを唱え始めた。……すると、建物の後ろやベンチの裏側、草の中などからザワザワと小さな黒い影達が集まり、私の足をすくいにかかる。
 私はバランスを崩して、その塊の上に尻餅をついた。
 ニュルッと伸びた細い尾、ふわふわの毛の感触……間違いない、これは鼠だ。
「おい! 乱暴な事はすんなよ⁉」
「ふふっ、千明さん。私が女性に危害を加えるだなんて、そんな事をするわけがないでしょう? 男性はいつだって、女性には紳士的に振る舞うものですよ?」
「……どーだか。鼠の形をした影共に、女を担がせて運ばせるやなんて……紳士どころか野蛮人もいいところや」
 呆れた顔をした千明の横で、影蟲は愉快そうにクスクスと笑った。
「……では、これでどうでしょう? ファーストでは、確かこんな物語が存在しましたよね? 魔法の力で、かぼちゃを食べていた鼠は馬となり、そのかぼちゃは馬車となった。――さぁ、この世界での灰被り姫? それらが貴女を、必ずや王子の元へと連れて行ってくれるでしょう」
 影蟲がパチンと指を鳴らすと、その小さな影達は一瞬にして形を変える。座り心地のよい座席に、小さな窓。私は窓から顔を出し、外から自分を乗せているものの確認をした。……これは、カボチャの形をした馬車か? 前方には黒いシルエットの馬らしき生き物がいて、砂を脚で蹴っている。
 千明は大きく溜息を吐きながら、私の元にゆっくり歩いてきた。
「――未奈都。影蟲が送るって言うなら間違いないわ。仙って奴にもすぐに会えるやろ。なんか、何の役にも立てんくて悪かったな」
 柄にもなくそんな事を言う千明に、私は妙な違和感を覚えた。千明は、一度した約束は必ず守る。こんな風に誰かに任せて、中途半端に終わらせてしまうような男ではなかった筈だ。

***

「千明、もういいよ……こんなの絶対に見つかんないって。これで見つかったら奇跡だよ」
「馬~鹿。男はな、いや……俺は一度した約束は絶対に破らねぇの。これ、当たり前の事な。自分の言葉に責任持てねぇようなら、簡単に約束なんてすんじゃねぇよって話だろ? 俺、そんな無責任な男にはなりたくねーんだわ」
「そうじゃなくてさ! 私がもう、寒いし恥ずかしいし、早く帰りたいんだって~……ほら、歩いてる人皆クスクス笑ってるし!」
「はぁ~? んなの勝手に笑わせとけばいいじゃん? 周りの目なんて関係ねぇだろうが。ほら、無駄口叩いてる暇があるなら、とっとと手を動かす! 見つかるまで帰らねぇからな? 覚悟しとけ」
「そんなぁ~」

***

 当時お気に入りだったストラップを、川の中に落としてしまい……しかも、それがかなりレアな物だったから、中々諦めがつかなくて……仕方なく私は、靴と靴下を脱いで、水の中を探す事にした。
 秋も終わり、冬が始まろうとしていた季節。冷たい水の温度は、私の身体だけでなく、心までひんやりとさせた。それに加え、周りからの容赦ない笑い声が胸に突き刺さる。まるで見世物にでもなったような気分だった。
 そんな時……偶然そこを通りがかった千明が橋の上から、『おーい。手伝ってやろうか? 清水のおばちゃんのとこの焼きそばパン三つで手を打ってやるよ』とか言って、探すのを手伝ってくれたんだっけ。
 あの時、私がどれだけ止めても、見つけるまでは絶対に諦めなかった。……思い出してみれば、他にもそんな出来事が多々あったような気がする。
 暫く会っていない内に、千明は変わってしまったのだろうか? それとも……
「ねぇ、千明……千明も一緒にいこうよ。仙くんの事、紹介するよ」
 私のその言葉に、千明は首を横に振った。
「……悪い。俺、やらなあかん事があるから、お前と一緒には行けやんわ。それと……出来ればお前とは、もうこの世界で顔を合わせたくないから、最後に言っとく。こんな世界でやけど、俺な……久し振りにお前に会えて良かったわ! 助言しといたる。お前、もうすぐ最大の幸せを味わえるわ」
 千明はにししと歯を見せて笑うと、わしゃわしゃと私の頭を掻き回した。
 ――最大の……幸せ……?
「じゃっ、達者でな! ほな、影蟲。俺らも行こか」
「はい。では、未奈都さん……お気を付けて」
 影蟲がそう言うと、黒い馬はヒヒーンと声を上げ、一目散に走り出した。……千明と影蟲の姿が、私からどんどん遠く離れていく。
 最大の幸せ、か――
 きっと……もうすぐ仙くんに逢えるから、その事を言っているんだよね? 
「そうだよね? 千明……」
 馬は休む事もなく走り続ける。灰被り姫……シンデレラは、王子に逢う為に城へと向かう。深夜0時までというタイムリミットを迎えるまで、魔法はかかったままだ。
 ――このセカンドでは、魔法が解けてしまえばどうなってしまうのだろう?
 私は不安定な馬車に揺られながら……ただひたすら、そんな事を考えていた。



「ーーねぇ、未奈都。もしも変えられるとしたら……君は、過去と今と未来。どれを変えたいと願う?」
 緑の海原に寝転んだ私達は、互いに淡いブルーの空を見上げながら、ひとときの会話を楽しんでいた。ふわふわとした緑のベッドに暖かい気候。草は悪戯に頬をくすぐり、柔らかな風は優しく髪を揺らしていった。
 私は彼からの質問に「うーん……」と頭を捻らせながら、ゆっくりと口を開く。
「やっぱり……過去、かな?」
「それは、どうして?」
「だって過去を変えてしまえば、今だって……未来だって変わるでしょ? 一石二鳥からの、一石三鳥!」
 私は寝転んだ状態のまま、Vサインから指を一本追加したスリーピースを作る。そしてそれを、空に向かって高く上げながら「へへっ」と笑ってみせた。
「……そうかなぁ? 過去が変われば、今の君はいなくなってしまうかもしれない。そうしたら、君と俺は……今こうして、こんな会話すらしていないのかもしれないよ?」
「う~……それは困る」
「素直でよろしい」
 彼はゆっくり身体を起こすと、しょぼくれる私の顔を見て、クスクスと笑った。その笑顔があまりに眩しすぎて、私の胸は大きな高鳴りをみせた。
 見上げると、彼の優しい笑顔……
 見下ろす彼の瞳には、きっとトマトのように顔を真っ赤にした私の姿が映っているに違いない。
 私は何だか気恥ずかしくて、素早く身を起こした。
「じゃあ、仙くんは? 仙くんは、過去と今と未来……どれを変えたいと思うの?」
「俺? 俺は……そうだなぁ。――未来、かな?」
「どうして未来?」
「……それは秘密」
 彼は口元に一本だけ指を立てると、柔らかく朗らかに笑ってみせた。
 ――私が彼とこうしていられるようになってから、もう一年が経とうとしていた。彼とこんな風に話している時間だけが、私にとっての至福の時で……この世界に存在する苦しみや悲しみ、沢山のしがらみから解放される、唯一の時でもあった。
「あ。未奈都、これ……すっごいいい曲」
 いつの間につけていたのだろう? 彼はイヤホンの片方を外して私の左耳につけると、小さな声で口ずさんだ。耳に流れる大音量の音楽より、彼の口からこぼれるその小さな歌声を拾ってしまうのは何故だろう?
 イヤホンから聴こえてくるその曲も、彼の歌声も……とても優しく、美しくて大好きだった。
 ――恋とは不思議だ。彼の言葉一つで、私は簡単に一喜一憂してしまう。笑ったり、不貞腐れたり、悲しんだり……しかしその全てが、私にとって幸せな事のように思える。
 ……けれど、やはり苦しい。
 未来で彼とこうして過ごしているのは、私じゃないかもしれないから。そんな未来なら……私、要らない。
 私は自分に自信などないのだ。それに永遠に続く想いなんて、この世界にはきっと存在しないと思う。
 ならば、私のこの気持ちは永遠ではないの? と聞かれると……答えは『NO』だけれど。
 だって私は彼の事を考えただけで、この場に涙の泉を作ってしまうくらいに彼の事を愛しているもの。
 これが所謂、矛盾というわけだ。昔の人達は、本当に上手い言葉を作ったと思う。
「――仙くん。大好きだよ」
 私は彼の首元に手を回し、ギュッと強く彼を抱きしめる。……ちょうど曲は、素敵な恋の歌。けれどそれは、悲しくも報われない恋の歌でもあった。
 彼に、私の想いが届いてたかはわからないけれど……彼は私を優しく包み込むかのように、そっと抱きしめ返した。
「……知ってる」
 何だか泣きそうになった。

 突然、私の目の前に現れた彼。
 突然、彼の目の前に現れた私。
 彼と出逢えた奇跡が、運命などではないとしたら……きっとこの世界に、運命なんて言葉は存在しない。
 それ程までに彼は、私の深い部分にまでその存在を残し、一瞬にしてこの心を奪っていった。
 私の事を好きでなくてもいい。……だからお願い。私から離れないで。このまま離さないでいて欲しいの。
 たとえ彼の気持ちがどうであれ、私は彼がいないと……きっと駄目になってしまうから。
「……ふふ! 仙くんに抱きしめられるの、私凄く好き。何だか凄く安心するの」
 泣きそうになるのを懸命に堪えながら……私は彼の、少し癖のある髪を優しく撫でる。彼はその手を取り、私を見つめながら、そっと呟くように言った。
「うん。じゃあ、ずっと抱きしめていてあげるよ。それで君が壊れてしまったとしても、ずっと」
 ……ああ、とても好き。
 彼のこの温度も、言葉の使い方も……全てが大好きだ。
 今まで沢山の恋をしてきたけれど、これ程までに人を好きになったのは初めてだった。
 もしこの世の中に惚れ薬なんてものがあったとして、他の人を好きになるよう操作されようとも、私には何の効果も持たないだろう。
 それほどまでに、私は穂積仙が好き。
「……ずっと一緒にいてね?」
 その言葉に彼は答える事なく、私を抱きしめる腕に更に力が込められた。
 ……いつもの事だ。
 わかっているのに同じ事を聞き続ける私は、きっと性格が悪いのだろう。
 答えないのが、その答え……
 きっと彼は、いつか私の前からいなくなってしまうのでしょう。

 ――初めて出逢ったあの日。貴方はこの草原で、気持ち良さそうに眠っていましたね。私が現れた事にも気付かず、ぐっすり熟睡していたっけ。
 空が、とても似合う人だと思った。
 緑の木々が、とても似合う人だと思った。
 そうやって彼は、私の人生の中に……いとも簡単に侵入しては、そこに居場所を作っていったんだ。
 彼は私に、陽だまりのような温もりを与えてくれた。
 なのに……私は彼に、何かしてあげる事が出来たのだろうか?


***

「ん……あれ……私、寝ちゃってた……? 馬車も馬も見当たらない……どこからが、夢だったんだろ……」
 目が覚めると、私はバス停のベンチの上で横になっていた。目の前には海が広がっている。
 荒い波の音に誘われるように身体を起こした私は、ゆっくりとそちらに足を運んだ。
 大きな波が、テトラポットにその身を激しく打ち寄せては、またひっそりと小さくなって戻っていく……
 白いような黒いような空。灰色のような墨のような海。まるでモノクロ写真でも見ているかのように、色を感じられない。
「……哀しい海。そして、寂しい世界。ここにいたら、いやでも気分が沈んでしまう」
 暗くて底の見えない……哀愁を漂わせる海面は、まるで私達の終わってしまった生命そのものだ。
「セカンドなんて世界……どうして存在するんだろう。人の生命なんて一つで充分。二度も苦しみを与える必要なんてないのに」
 ……けれど、その世界のお陰で私は彼に逢う事が出来るのだから、何だか皮肉な話だ。

 私はゆっくりと沿岸を歩いた。海が見えるといっても砂浜があるわけではない。停泊している漁船が見える。どれもこれも薄汚れていて、ガタがきているのが一目でわかった。使われる事のない幽霊船の集まり。……ここは港だ。
 コンクリートの上でカツンカツンと音を鳴らす。船一号、二号、三号の横を覗き込むが誰もいない。四号、五号、六号の近くにも誰もいない。
 ……けれど、十一号の付近で物音が聞こえたような気がした。次第に小さな鼻歌が聞こえてくる。それはどこか懐かしい、儚くて美しいメロディー。

 私の心臓が、止まってしまうんじゃないかと思った。

 私の終着点に今、辿り着いたような気がしたから。
 私の足は、その声に誘われるように動き始める。
 私の唇が、無意識に同じ音色を奏でる。
 行き着いた先に見える後ろ姿。鼻歌がピタリと止んだ。それと同時に、私の口からも音が消えた。
 大きな背中は海面から目を逸らし、ゆっくりとこちらに振り返る。私はそれと同時に声をかけた。
「仙くん、久し振り」
「……未奈都?」
 振り返った彼の姿は、以前とまったく変わりない。
 彼は私の姿を視界に入れると、ほんの少しだけ気まずそうに笑った。
「どうしてここに? ……駄目でしょ? こんなとこまで追いかけて来ちゃ、まったく君は」
 一歩ずつ、彼と私の距離が狭まる。
「まぁ来てしまった事は、今更何を言ったって変えられないか。……久し振りだね、未奈都。また君に会えるだなんて思いもしなかったよ」
 彼が私の頭にそっと触れる。冷たすぎるその手に、涙がじんわりと込み上げてきた。私はそれを隠すように、彼に強く言い放った。
「『駄目でしょ?』じゃないよ! 久しぶりに逢えたのに、どうして仙くんはそんなに普通なの! 人の気も知らないで」
「え~⁉ そんな事言われても……」
「感動の再会とかないわけ⁉ 『逢いたかったよ、ハニー』くらい言ってもよくない!?」
「『あいたかったよ、はにー』」
「……もういいです。っていうか、一体ここで何してたの? 仙くん、一人?」
「あ~、それは……ここでの生とはどんなものなのかとても興味深くて、色々と調べてるうちに他の人達は皆どこかに行っちゃったみたいで、俺だけここに置き去り。ま、それでもいいか~なんて思って魚の生態でも調べようと思ったんだけど、海真っ黒でしょ? 全然見えなくてさ。しかも俺泳げないし。で、これからどうしようかなぁ~なんて思ってたとこ」
 そう言うと、彼は子供のようにケラケラと笑った。……生きていようが死んでいようが、何ら変わる事なく彼は彼のままだ。私は呆れたように笑う。随分と久し振りに交わされる会話の筈が、まるで昨日の事のように思えた。
「……で、結局仙くんから見たこの世界は、一体どんな世界だったの?」
「それがね、元の世界とあんまり何も変わらないんだよなぁ。正直もっと凄いの想像してたんだけど、大した事なくて拍子抜け。何だかあんまり面白くもないし、一言文句でも言ってやりたい気分」
 明らかにがっかりして項垂れている彼を見ていると、何だか昔に戻ったような気持ちになれた。あったかくて、愛おしくて、どうしようもない。
 けど……
「仙くん。私、ここに来て……その、迷惑じゃなかったかな?」
 彼は私の問いに、頭を押さえながら「ん~」と唸ると、やがてゆっくりと口を開いた。
「馬鹿だなぁ~とは思うけど、迷惑なんかじゃないよ。しかし……本当に馬鹿だなぁ、君は。何も俺の為に自分の生命を犠牲にする事はないのに。何て言えばいいのかわからないけれど、申し訳ない気持ちになるよ」
 そう言った彼の顔を何となく直視する事が出来ず、私は視線を地面に向けた。……申し訳ないのはこちらの台詞だ。
 私が暫く黙っていると、頭上から彼の優しい声が降り注いだ。
「未奈都。少し話をしようか? 自らの意思で生命を絶った俺とは違い、君は俺に逢う為、自分の生命を棄ててまでこの世界にやってきた。なら、君と俺には何らかの違いがあってもおかしくはない。色々と知りたいんだ。だから……君が見てきた事、感じた事を教えて欲しいんだよ」
「仙くん。……うん、わかった!」

 私は彼に、今までこの世界で起きた事の全てを話した。彼は興味深そうに私の言葉に耳を傾ける。影丸の事、影音の事、千明の事、不思議な青年の事、そして……影蟲の事。
 しかし夜叉の事だけは、実際まだ会った事がないので……取り敢えず周りから聞いた事だけを口にした。
「影丸と影音……知らないなぁ。けど、影蟲は知ってる。ちょっと色々あってね、別に大した事じゃないんだけど。あ、あと! あの癖のある関西弁の青年は君の友人だったんだね。世間は狭いというか、何というか……けれど、何故か運命めいたものを感じさせられるなぁ。ここで君達が出逢った事に、何か特別な意味があるのかも」
「特別な意味、かぁ……」
「まぁ、夜叉については少し誤解がありそうだけどねー」
「夜叉⁉ もしかして仙くん、夜叉に会った事があるの?」
「うん、会った。とても穏やかで優しい人だったよ。それに美人だし。俺には彼女が恐ろしい存在には思えなかったよ」
 美人という言葉にチクリと胸が痛んだが、私は何も気にしていない素振りで会話を続けた。
「そうなんだ。私この世界にきてから、夜叉について物騒な話しか聞いてこなかったから、何となく恐怖の対象として見ていたんだけど」
「それは良くないね。まずは何でも知ってみないと。何なら今から会いに行ってみる?」
「夜叉に⁉ ……けど、夜叉の森はここから随分離れてるよ? かなり長い時間馬車に乗っていたような気がするもの」
「夜叉の森は全ての森と繋がっているんだよ。だから、夜叉に会いたいと願いながら歩くと、やがて向こうの方から顔を出すだろう」
 パラパラと舞い散る灰が、突然の潮風に吹かれてふわりと奥に飛ばされる。目で追ったその先に見える森林。……近くはないが、そう遠くもないようだ。
 私は振り返り、彼を見る。彼は私を見てにんまり笑うと「面白くなってきた」と、まるで子供のようにはしゃいでみせた。
「……そうだね。仙くんを捜すのに必死で、すっかり頭から抜けちゃってたけど、私もこの世界の主に会ってみたいかもしれない。ちょっと怖いけど」
「大丈夫。何も怖くない」
「うん。仙くんがいるし、平気」
 ――そう。不思議な話だが、彼が傍にいてくれるだけで、私はどんな困難にだって立ち向かえるような気がするのだ。こうやって、冷静に話してはいるものの、私の心臓は生きている時と同じように、大きく音を鳴らす。けれど、とても穏やかな気持ちだ。
 この灰色の世界に、薄っすらと色がつき始めたような気がした。
「それと……もう一つ気になる事が」
「ん?」
 彼は私の頬にそっと手を添えた。
「……本当だね、温かい。その千明くんも、こんな風に温かかったんだよね? これが何らかの理由で死んでしまった側と、死者を追いかけてきた側の差というのなら、千明くんもまた君と同じで、後から来た者なのかも」
「どうだろ……? 正直、千明の事はよくわからないんだ。彼女を追って生命を落とすほど、情熱的に誰かを愛せるような人間には思えないんだよね。現にそれっぽい事も言っていたし。それに千明の話を聞いてると、どうも追いかけてきた側ではないような気がする。けど……それだと仙くんの言う、後から来た者の体温が高い説は成り立たない」
「うーん」
「先にこっち側にきた俺を彼女が追いかけてきたとは思わないんだ、みたいな意味深な事も言ってたし……けど、彼女を捜してるのは千明の方なんだよ。そこがわけわかんないんだよね。それだと普通、彼女が千明を捜してる筈でしょ? それに、先にこの世界に来たのが千明なら……どうして死んでしまったんだろう? わかっているのは、あいつは自分で死ぬような奴ではないって事くらい」
「なら、自殺ではなく不慮の事故。……あるいは、誰かに殺されたとか? 例えば、そう……その彼女に」
「なっ……! 殺された⁉」
「うーん、それでも辻褄が合わない。先に死んでしまった彼が、彼女に復讐する為にここに来るのは不可能だ。先に死んじゃってるわけだしね。では、彼女が先に死んでいたら? それじゃあ彼女に殺されたという説が成り立たない。しかし彼の体温が高かった事から、シンプルに後から来たと考えるのが自然。ならやはり純粋に、何らかの形で生命を落としてしまった彼女に会う為、影達のいう通りにし、この世界にやって来た…………いや、どうも腑に落ちない。彼の言葉から、どうしても良い意味での再会を願っているようには思えないし……」
 彼はブツブツと一人呟きながら、グルグルと周囲を歩き回る。……そうか。彼に言われるまで思いもしなかったが、死には、事故死、病死、自死の他にも、【殺人】というのも含まれるのだ。
 けど……
「千明が、誰かに殺された……?」
 衝撃を受けずにはいられなかった。だって、あの千明が……? 昔からよく知ってる友人が、殺された? しかも彼の推理では、千明を殺したのが彼女……? それはいくらなんでも、話が飛躍しすぎてはいないか?
「……辻褄を合わせる事が出来る一つの可能性は見出せたかも。けど、まぁ……この話は少し置いておこうか。真実がどうかなんて、俺達が今どれだけ仮説を立てたところで、本人に聞かなきゃわからない話だ。……未奈都、大丈夫?」
「大丈夫……ちょっとびっくりしてしまっただけ。私ではその考えに至らなかったから。千明が誰かに殺されただなんて」
「あくまで仮説に過ぎないからね? だから、そんなに気にする事でもないよ」
「うん……そうだよね。何にせよ、本人に聞かなきゃわからない事だもんね」
 そうは言っても、気になってしまうのは仕方のない事だ。だって千明は大切な友達だから。しかし、今……私がこの場でどれだけ悩んでいても無意味でしかないという事はちゃんと理解していた。わからない事をグダグダと考えているよりも、本人の口から聞く方が断然早いし、正確なのだから。
「……ねぇ、未奈都。千明くんって不思議な人だね」
「えっ?」
「ノリが良く場を和ませてしまう雰囲気を持ちながらも、一線先には決して踏み込ませない圧力を感じる。あの笑顔の裏で、一体どれ程の思考を巡らせているのだろう。実に興味深いよ」
 彼は新しいオモチャを貰って喜ぶ子供のように、無邪気に笑った。……確か、影音も同じような事を言っていたっけ?
 けれど、私から見た千明は、そんなに難しい事を考えているような人間には思えなかった。二人とも、少々千明を買い被りすぎているのではないのだろうか? ……それとも、私が浅はかなだけなのだろうか?
「……あ、そうだ! 私からも、一つ質問していい?」
「ん? どうぞ?」
「仙くんは影蟲に会った事があるんだよね? 彼を見てどう思った? さっき話した不思議な青年は千明に、『蟲には気をつけて』と言っていた。けれど私が見た限りでは、特に嫌な感じはしなかったし、寧ろ話のわかる良い人のように思えたから」
「ようは、『彼は悪か?』って事?」
「……うん」
「ん~……それは俺には答えられそうもないなぁ。俺には、君にとっての悪というものがどのようなものなのかがわからないから」
 彼はそう言うと、苦笑いを浮かべた。
「君の思う悪と俺の思う悪が同じとは限らないだろ? 例えば君にとっては悪だとしても、俺にとっては悪ではないかもしれない。勿論、逆も然り。……でも、どうだろう? 俺から見た彼の印象は素直で無垢、そして強欲でもある。だからこそ簡単に悪になり得るのかもしれないね」
「素直で無垢なのに……悪?」
「純粋なものほど、たちが悪かったりするものだよ。ほら、子供と同じさ。悪気や悪意がない分、とても厄介じゃない? それに、まわりが悪だと認識していても、自分自身は悪だとは思っていない。いや、それどころか自分を正義だと信じて疑わない。正義と悪は、いつだって表裏一体なんだよ」

 ――黒よりも白の方が恐ろしい。

 昔、彼が言った言葉を思い出した。

『人のイメージとは恐ろしいもので、白は潔白、黒は邪悪の象徴だと思いがちだけど……実は違う。この世界で一番恐ろしいのは白なんだ。元々白だったものが黒に染まってしまった時……それが一番恐ろしいんだよ』

 元々黒だったものは、白を混ぜると灰色になり、黒以外の色を持つ事が出来る。まだ取り返しがつく。しかし、白を拒絶し黒を受け入れた白は、深い闇のような漆黒を生み出し、やがてそれは取り返しのつかない惨劇を引き起こすだろう……か。彼の言う正義と悪もまた、同じ事なのだろう。
「そもそも、人が生きる世界に悪ではない者なんて存在しないと思うんだ。それに……君にとっての俺も、もしかしたらとんでもない悪人なのかもしれないしね」
 彼はそう言うとニコリと笑った。……確かに私にとって彼は悪人なのかもしれない。私の気持ちを知っていながら、決して振り向いてはくれないもの。
 やはり貴方は風のような人だ。近付こうとすると逃げていき、触れようとするとすり抜けていってしまう……
「行こう、未奈都。こうしてる間も惜しい。俺達が動かなければ、いつまでたっても話は進まないのだから」
 そう言って、手を差し伸べる彼。私はそっとその上に手を置く。触れる指先はまるで氷を掴んでいるように冷たいけれど、私の体温は確かに上昇していた。



 ――私は初めて、足元に恐怖を感じた。
 今、私を支えているものは不確かで、どうにも安定が悪い。いくつか例を挙げてみるとしたら、私は床の代わりにある薄っぺらいガラスの上で仰向けになって眠っている。そのガラスが割れてしまえば、私の身体は一瞬の内に真っ逆さまだ。粉々になってしまったガラスは勿論、私の身体を傷付けるだろう。
 私は海の上でプカプカと浮かんでいる。不思議な事に沈まない。浮かぶというよりは、水によって浮かされているのだ。水が私を見捨ててしまえば、私はそのまま海の中に落とされる。息も出来ずに深く沈んでいく私を見て、魚達は嗤うだろう。
 或いは、雲。 泡。土。風船。
 雲はちぎれ、泡は消え、土は崩れ、風船は割れ、この私を奈落の底へと堕とすだろう。それも這い上がれない程に深く。
 とにかく不安定なのだ。そんな私の身体を、ギリギリだが支えてくれているものはなんなのだろう?
 ――人か? ――存在か?
 それとも、私の想いなのだろうか?
 とにかく私は今……不確かで不安定、不透明なものに、辛うじてしがみついているだけだ。
 堕ちてしまえば最後……二度と戻れないような、そんな気がするから。
「千明……どこにいるの? 私もう、疲れちゃったよ」
 千明に逢いたい。今すぐ逢いたい。
 お願いだから……私を一人にしないで。
 貴方の大きな手で、私の手をしっかり繋いでいて欲しいの。……もういないだなんて、絶対に認めない。私を置いて死んでしまうだなんて許せない。
 ねぇ、千明……私ね、死ぬ前の記憶があやふやで、実はちゃんと思い出せないの。
 あの日、電話が鳴った。……誰からの電話だったんだっけ? そんなの決まってる。千明の死を知らせる、病院からの電話。
 ……あれ? 本当にそうだっけ? ううん、そうに決まってる。だって、他に誰から電話がかかってくると言うの?
 とにかく私は、その電話で生きる気力を失った。悲しみに打ちひしがれた。……あれ? そうだったっけ? 私の中で生まれた感情は確か……怒りや憎しみじゃなかった?
 いいえ、そんなわけないじゃない! 好きな人を失って、何故私が怒ると言うの? 一体、誰に?
 ……あれ?
 そもそも、私……【何を】失ったんだっけ?

 よく、思い……出せない……


***

 ……どうやら、少し眠ってしまっていたようだ。私はゆっくりと身体を起こした。
 一面に広がる沢山の花が、いつものように私の視界に入り込む。花と言ってもラベンダーやコスモス、向日葵などではなく、全てが血液のように赤い色をした、彼岸花であった。想像してみれば、不気味な事この上ないだろう。灰色の世界で赤々と咲く不吉な花……しかし私は、何故かこの場所が非常に心地良かった。
 だからずっと、この場所にいるのだ。……ここに来て、もうどれくらいの月日が流れただろう?
「……はぁ。また、わけのわからない夢を見ちゃった。夢なんて本当に下らない。脳内で勝手に作られるものだから、内容だってめちゃくちゃだし。どうせなら夢の中だけでも、千明に逢わせてくれればいいのに」
 ……それはそれで、目覚めた時のショックは計り知れないけどね。
 私は大きく溜息を吐いた。
 私が覚えてる、最後の記憶。それは……千明がいなくなった事に耐え切れず、陸橋から飛び降りたものだ。
 影……いいえ、影音の差し出したナイフを使わず、自らから死を選んだ。
 そして目が覚めたら、私はこの【セカンド】と呼ばれる不思議な世界にいた。暗くてジメジメした世界。……辛気臭くて嫌いだ。こんな場所に来る為に、私は死を選んだわけではないのに。
 驚いた事に、ここには沢山の人達がいた。けれど私は、今までこの世界で、一度も誰かと話をした事はなかった。ここがセカンドと呼ばれる世界なのだと知ったのも、誰かに教えてもらったからではない。勝手に人の会話を盗み聞きして得た情報なのだ。
 不思議な事に、私の姿は誰からも見えていないようだった。不気味な場所に、姿を認識されない私。これじゃあまるで幽霊のようだ。幽霊なんて非科学的なものの存在など、まったく信じてはいないが……ならば、この世界の事はどう説明する、という話なので、取り敢えず、この世界の私の立ち位置は幽霊のようなものだと判断するよりほかはなかった。
 この世界に千明がいてくれたら……なんて思い、辺りをうろついてみたものの、そう都合良く見つかる筈もなく、私はただこの場所で……ひたすら無駄で無意味な時間を過ごしてきた。
「この空から降ってくる灰って、一体どこから生まれたんだろう? ……ほんと、汚らしい」
 どうせ降るなら雪にすればいいのに。鑑賞するなら、まだ雪の方が美しく、見応えもあるだろう。そしてこの薄暗い闇の世界を、真っ白に塗り替えてしまえばいい。
 私の肉体は、雪どころか氷のように冷たい。だから雪が降っても、これ以上寒くなる事はないし、そもそも幽霊なのだから、雪は私の身体に触れる事すら出来ない。
 ……人肌が恋しい。温もりが恋しい。あぁ、千明に触れたい。千明の体温を感じたい。
 けど、もしこの世界に千明がいたとしても、彼は他の連中と同じように、私を認識する事が出来ないかもしれない。

 身体が欲しい。肉体が欲しい。

 私はいつまで、ここにいなくてはならないのだろう? これでは、生きているとも死んでいるとも言えないではないか。
 ……ねぇ、見えない誰かさん? いつまで私を苦しめるつもりなの? この世界に千明がいないのなら、あの時ちゃんと死なせてくれていたら良かったのに。
「どうしてこうなっちゃったんだろ……どうして私ばっかりこんな……私が一体、何をしたっていうのよ。私はただ、千明のいない世界に耐えられなかっただけ。ただ死んでしまいたかっただけ。悲しみの全てを、忘れてしまいたかっただけなのに……どうして未だに生かされ、独りぼっちでいなきゃいけないの? ……ふざけんじゃないわよ。何がセカンド? 長くて下らない夢を私に見せてるってだけならさっさと起こしてよ。目覚めた瞬間に、今度こそちゃんと死んでやるんだから」
 乱暴に口にした独り言は、誰の耳にも届く事なく消えていく。
 私は返事を欲していた。出来れば千明の、と言いたいところだが……この際もう、誰だっていい。
 ――誰か応えて。私を見て。私の存在に気付いて。私はここにいるの。お願いだから……誰も私の存在を否定しないでよ。
 涙が出た。情けない話だけど、不安で心細くて……こんなにも簡単に涙を流すような女ではなかった筈なのに、千明との出会いが良くも悪くも私を変えてしまったのだ。
「ずっと一緒にいてくれるって言ってくれたのに。嘘吐き……」
 私はガリッと親指の爪を噛んだ。嫌な癖だが小さい頃から治る気配もない。千明にも、みっともないからやめろって言われてたっけ。
「……きったない爪。深爪にも程があるよね。噛みすぎて指の先端がジンジン痛むし。……けど、やめられないんだよね」
 私は小さく溜息を吐くと、ジッと自分の指先を見つめた。
 私は爪を噛む事が出来る。それによって痛みを感じる事が出来る。寂しくて涙を流す事が出来る。氷のような自分の体温を感じる事が出来る。要するに、私は私に干渉する事が出来るという事だ。……なら、幽霊というよりも透明人間と言った方が正しいか?
 ……どうでもいいや、そんな事。別にどちらにしたって、私の存在はないものと同じなのだから。
 私は立ち上がると、一歩前に踏み出した。
 海が見たい。海を見に行こう。確か、この近くに漁港があったっけ。本当は白い砂浜から見える、青くて壮大な海が見たいのだけれど……どうせ海の色なんて黒にしか見えないんだし、漁港でも何でもいい。
「っていうか、今の私の状態で海に飛び込んだらどうなるんだろ? やっぱり死ぬのかな? ……別に試してみたっていいんだけどね。どうせ私には何もないんだし」
 千明がいなくなり、私は空っぽになった。一瞬で全てをなくしてしまったのだから。千明だけが、私に生命を吹き込む事が出来る唯一の人で、誰よりも愛しい人。

 ――千明。
 ――千明。
 ――千明。

 …………

「絶対にユルサナイ」

 思わず出た言葉にハッとした私は、咄嗟に口を手で塞いだ。
「……今の何? 私がそう言ったんだよね? えっ、でも……何で? 私が、千明を、許さない? 私一体……何を言っているんだろう?」
 自分で言っておきながら、まったく意味がわからない。私を置いて死んでしまったから許さないって事? ……でも事故だったんだし、千明が悪いわけじゃない。
 私は左右に頭を振った。
「馬鹿馬鹿しい……忘れよう。疲れてるんだ。もしかして、精神に異常をきたし始めてるのかも。こんな場所にいるんだもの。そうなったって、おかしくないしね」
 まるで、言い聞かせるように小さく呟いた私は、振り返り、背後一面に咲き乱れる彼岸花に目を向けた。
「――彼岸花。別名、死人花に地獄花……そして、幽霊花。赤い彼岸花の花言葉は、情熱、独立、再会、諦め、悲しい思い出、思うはあなた一人……また会う日を楽しみに。悲しい、思い出……」
 頭がガンガンと痛む。目の奥の方から感じる耐え難い痛みに、思わず立っていられないくらいだ。
 ――千明はいない。千明は私を愛していないのかもしれない。私がどれだけ彼を捜しても、彼は見つからない。彼は、私を捜したりはしない。……結局は、私の独りよがりな想いなのではないだろうか? 

 千明は、本当に私を愛してくれていたのだろうか?

 ブワッと負の感情に襲われる。――またか。もう何度、このドス黒い闇に支配されかけてしまっただろう。私は耳を押さえながら叫んだ。
「千明、千明、千明、もうやだぁあああ! 千明、私はここだよ! もしもこの世界にいるなら、返事くらいしてよ! 私を見つけてよ……私は……私は、ここにいるんだよ……」
 もう嫌。私の周りを影達が囲む。生憎だが、こいつらに渡す肉体を、私は持っていない。
 さっさと散れ。お前達に渡す身体はここにはない。だから、早く他所へ行け。いつまでも私を苦しめるな。
 何度も何度もしつこい……さっさと消えろ!

 私がそう念じたと同時に、私の周辺を囲っていた影達は消えた。先程まで私を苦しめていた頭痛の波も、ゆるやかに引き始めた。
「……はっ。影達だけには私の姿が見えるだなんて、何だか皮肉な話」
 ――灰色の世界。影達が、器を求めて蠢く暗闇の世界。その中で私はふらふら、ゆらゆら、不透明に、存在しているのかしていないのかさえわからないまま、虚しい時間を死んでいるように生きる。時計の針が止まったかのように、私の時間は動き出さない。ずっとこのままだ。それならせめて、誰か息の根を止めて。
「……夜叉。セカンドは夜叉が支配する世界。ここにいる者達は皆いつか、夜叉に殺してくれと懇願する……か」
 殺される? ふざけるな。……なんて思っていたけれど、もういいかもしれない。寧ろ殺してくれるなら本望だ。
 ……最後に海を見てから、あの呪われた森に入ろう。夜叉ならば、私の姿が見えるかもしれない。
 孤独には飽きた。このまま無意味に生きるくらいなら、無慈悲に死んだ方がマシ……
 私はゆっくりと、海を目指し歩き始めた。

 身体が重い。心も重い。見えない足枷でもあるかのように、私はズルズルと地面を這いずるようにして歩く。亀、或いは蛞蝓なめくじのように我が道をいくならまだしも、はっきりとした行き先も決められず、適当な場所を選んで向かおうとしても、思うように素早く動けない自分に苛立ちながら……私は前髪を乱暴に掻き上げた。
 姿を持たないのだから、せめてその分身体を軽くしてくれよ……なんて思いながら。

 ……磯の香りだ。それもそうか。海だもの。
 岩場に沢山のフジツボがついている。私は何となく、あの下らないフジツボの都市伝説を思い浮かべながら苦笑した。……ほら、アレだ。人間の体内に繁殖するとか言うアレ。
 このようなグロテスクなものが自分の体内に付着し、増殖を続けるなどと……想像しただけであまり気分が良いものではないが、都市伝説だとふまえて考えてみると、意外に面白いかもしれない。それによって、人はフジツボを見つけると無意識に近寄らないようになり、海で足を切る等の怪我をしないように気をつけるだろう。
 まるで、人が人を貶める為に流す噂話と同じだ。
 正しくもない知識で周りを翻弄し、いつの間にか人の中でそれが真実であるかのように認識される。人は、その悪意の対象となった者に近付こうとはしないし、巻き込まれる事を恐れ、最大限に注意するだろう。
 そうして、イジメという名の【見世物ショウ】が始まる……
 かつて私もその対象であった。人に嫌われ、不愉快とされるフジツボは私。そんな私を人間として扱ってくれたのは、千明だけだった。
 そう……千明だけだったの。

 少し強めの荒波が岩にぶち当たる。私はその場にしゃがみ込むと、手を伸ばしてそれをすくい取ってみた。
 全体を見ると黒く見えるこの海だが、私の手の中で揺れる水は美しく透明だ。それだけで、何だか安心した。
 海は好き。哀愁を漂わせる波音も香りも。この世界では見る事は叶わないが、私は日が沈みかけている黄昏の海が一番好きだった。いや、夜の海も捨てがたい。静かで、まるでこの世界には私しか存在していないのではないかと思わせられるような空間。紺色の中に沢山の星が散りばめられた、私だけの小さな箱庭。
「夜の海……か」
 私はふと、以前読んだ小説の内容を思い出していた。海というよりも、正確には湖の物語なのだが……思い出してしまったのだからしょうがない。
「……君はもう、俺の事を忘れてしまっただろうか? 俺はずっと、君を忘れられそうにないのに。湖の底を華麗に泳ぐ、美しくも哀しき人魚よ。手を伸ばせば、簡単に触れられるくらいに近くにいる君が、まるで別世界にいるかのように遠い。……遠いのだ。お願いだから、俺を置いていかないで」
 夜科蛍よしなけいという著者の、確か……【鏡花水月】という本だったと思う。あまり有名な作家ではないのだが、千明の部屋に置いてあったのを読んだ事があった。最初は千明が小説を読むような人には思えなかったので少し驚いたけれど、彼は見かけによらず、かなりの読書家だった。その鏡花水月は、千明が読むには少々違和感を感じてしまうような悲恋の物語だったが……そのギャップが、何だか可愛らしくて愛おしかった。
「今なら主人公、ソウジロウの気持ちがわかるような気がする。……ねぇ千明、私を置いていかないで」
 そんな事を口にしながら小さく溜息を吐いていると、どこからか人の声が聞こえてきた。私はすぐさま声がした方へと視線を移す。するとそこには、こちらに向かって歩いてきている二人の男女の姿があった。
 恋人同士だろうか? ……まったく、いい気なもんだ。こんな世界に来てまで、幸せそうな自分達を周りに見せつけたいのかしら?
 こんな風に思うだなんて、我ながら性格の悪さは天下一品だと言えよう。しかし……こんな場所でずっと一人でいたのだから、少しばかり性格が歪んだとしても仕方ないと思う。それに他人をどう評価しようと私の勝手でしょう? わざわざ公言しなければいいだけの話なのだから。
 ただ、海ばかり見ていても退屈だし……私は暇潰しの材料になるかもと、じっと二人の動向を監察していた。
「……どうせ見えないんだし、何か悪戯でもしてやろうかしら? 今男女のペアを見つけると、何だか凄く腹が立つのよねぇ。私だって千明と一緒にいられたなら、そんな風に思いもしないのに。あ~あ……本当に私って、嫌な女」
 私は思わず爪を囓った。
 二人は歩いている途中で立ち止まると、森の方を指差し、何やら話をしている。この位置からだと、ちょうど後ろ姿だけしか見えず、二人の顔などはよくわからなかった。けれど別に構わない。しいて興味もなかったし、私も私で近付く事はせず、ただぼんやりと二人の背中を見つめているだけ。
 ……しかし、退屈だ。面白くも何ともない。何が悲しくてカップルのストーカーみたいな真似をしなきゃならないんだ。あ~、つまらない! 
 それにしても、あの二人……何だかものすごくよそよそしいなぁ。もしかしてカップルではないのだろうか? 考えてみれば、ただの友人って可能性もあるもんね。ま、どうでもいい事だけど……あっ、振り返った。
 男の方が急に振り返り、その後、女もこちらに振り返った。そろそろここから移動でもするのかしら? ……あれ? でも、何だかおかしい。いつもと違う。
 だって確かに、あの男と私の視線が交じり合っている。じっと見つめる鋭い視線……もしかして、あの男には私の姿が見えているの?
 隣にいる女には、やはり私の姿は見えていないようだった。けれどあの子、何だか見覚えがあるような……どこかで会った事があったかしら?
 ……そんな事より、今はあの男の事だ。
 黒に近い暗い茶色の髪。どこにでもいそうな感じの青年だが、顔は悪くない。華やかというよりも地味。スポーツよりも読書が好きという印象。これといって目立つようなタイプでもないし、どこかパッとしない風貌だ。
 けれど、この世界で初めて私を認識した男に違いはない。これはとても興味深い事だし、何かが起こる前触れなのかもしれない。明らかに今までとは違う展開なのだ。
 突然、私の世界に現れたこの男は……一体何者なのだろう? 影達の刺客? それとも、救世主?
 そんな事を思っていると、私が歩み寄るよりも先に、男が私の方に向かって走ってくるのが目に入った。
 私の胸は妙な高まりを見せた。――緊張感からか? 好奇心からか? とにかく、ようやく時間が動き出したような気がする。男の第一声が待ち遠しい。
 そうこう考えているうちに、息を切らしながら私の前に立った男は、呼吸を整えながらこう言った。

「こんにちは。ねぇ……君は一体、何者?」



 俺はずっと生きている意味がわからなかった。だから、いつ死んだって別にいいって思ってた。別にそれを隠してはいなかったけれど、わざわざ口外する事もなかった。時期がきたら、納得したら、そう思いながら、ただこの世界で生きていた。息をしていた。息をしないと、当たり前に生きる事さえ出来ないから。
 きっと俺のこの考えは誰に止められても、説得されようとも、変わる事はない。ただ、自分の事で誰かが悲しむのが嫌だった。だから、独りでいい。孤独でいい。そう思っていたんだ。……けど、たまに寂しくなる。俺だって人間だから、それなりに感情はある。でも俺は、誰かに相談するよりも自分の中で解決してしまう性分なので、昔の彼女から、冷たい男だと罵られた事も少なくはない。
 ……逢坂、未奈都。彼女が俺の事を好きなのはちゃんとわかっていた。彼女はとてもわかりやすい性格でもあるからね。けど、気持ちには応えられない。俺はいつまでこの世にいるかわからないし、何より自分の事で精一杯な俺は、誰かを幸せに出来るとは思えなかったから。
 だから、一言……俺は死ぬ前に一言だけ書いた手紙を彼女に送った。気休めにしかならないような、たった一言。何の確信もない、夢のような絵空事。あてにならない約束。それでも、彼女ならきっと喜ぶような気がした。しょうもない言葉だけど……きっと、嘘にしかならない言葉だけれど……俺にはそうする事でしか、彼女の傷を最小限にとどめる術を持たなかった。
 それなのに、まさか追ってくるとは思わなかった。困ったような……少し、ほんの少しだけ嬉しいような……そんな不思議な感覚だ。
 彼女に会えた事で、俺はふと色を思い出していた。空の色。山の色。海の色。街の色。この世界に暫くいたせいで、俺は色を忘れかけていたのだろう。
 だけど、元の美しい色彩を恋しいとは思っても、生き返りたいとは微塵も思わない。
 寧ろセカンドは、何故存在するのだろう? 折角色んな葛藤を乗り越え、死を迎えたというのに、俺はまだこのようなわけのわからない世界で生かされている。……まさか、サードやフォースなんて世界もあるんじゃないだろうな? それは流石にないか。
 それにしても……死んだ先にある死の世界。正に負のスパイラルだ。けれど、何故か心が踊る。
 此処では生きていてもいいかもしれないと思った。生きていけるかもしれないと思った。なんだかんだ言って、此処は居心地が良い。静かだし、他の人間は自分の事で手がいっぱいで、他人には無関心。それが妙に俺の心を楽にさせた。
 今は未奈都が傍にいるけれど、彼女はきっと近いうちにいなくなるだろう。それまでは、この世界で彼女と過ごす最後の時間を、ただ純粋に楽しもうと思った。
「仙くん、そろそろ森に向かう?」
 彼女は足を止め、森の方を指差しながらそう言った。
「そうだね。時間は有意義に使わなきゃ。これから先に何が起きるかわかんないし」
 その時……俺はふと、誰かに見られているような感覚に陥った。……いや、今が初めてというわけではないか。先程から誰かの視線を感じる。ぞくりと悪寒を感じてしまうような、蛇のように執念深い視線。
 そしてそれは背後から感じ取れた。俺は咄嗟に後ろに振り返る。視線の先には一人の女性の姿があった。さっきからの視線は、あの女性のものなのだろうか?
「……ねぇ。あそこに人がいる」
「人……? え、どこ?」
「あそこだよ。ほら、髪の長い女の人」
「……仙くん、何言ってるの? 冗談ならやめてよね。ただでさえシャレにならない世界にいるんだから」
 彼女はそう言って怪訝な表情を浮かべる。彼女には、あの女性の姿が見えていないのだろうか?
「……未奈都、ちょっとここで待ってて」
「え? 仙くん!」
 俺は彼女の言葉を無視し、視線の先にいる女性の元へと走った。俺達と同じで単にこの世界に招かれた者だったとしても、一応話は聞いておきたいものだが……未奈都には女性の事が見えていないみたいだった。それだけで、つい子供のように浮かれた気分になってしまうのも仕方がないだろう? あの女性は一体……そう考えるだけで、好奇心が膨れ上がるのが良くわかる。
 ウェーブがかかった長い黒髪に、ぱっちりとした猫目が印象的だった。美人には変わりないが、見た感じ、少々きつそうな性格だろうなと無意識に分析を始めてしまう。俺の悪い癖だ。
 警戒しているのだろうか? 近付く度に好奇心と警戒心が入り混じったかのような表情を見せる。しかし女性は、さっきから頻繁に爪を噛みながらも、俺から目を離そうとはしない。
 全力疾走した俺は、浅く呼吸を吐きながら女性の前に立つと、ゆっくり口を開いた。

「こんにちは。ねぇ……君は一体、何者?」

 俺のその言葉に、女性はわかりやすく顔を歪める。……しまった、言葉を選び間違えてしまったかな? 女は言葉の意味を、必要以上に深く解釈したがる。なので、言葉は慎重に選ばなければならない。非常に厄介かつ面倒な生き物だ。
「……あんた、いきなり失礼じゃない? 何者だなんて、あんたには私が幽霊にでも見えるってわけ?」
「あれ、違うの? 俺と一緒にいた子には君の姿が見えていないようだったからさ。じゃあもしかして、誰かの身体を奪った後の影、だったり……」
「はぁあ⁉ 誰が影よ、誰が! 私は浦木彩芽! あんたと同じ、ファーストからきた人間よ!」

 浦木……【彩芽】? 

 俺は先程、彼女からその名を聞いたばかりだった。夜叉と同じ名前の【アヤメ】。

 この人、千明くんの婚約者か……?

 俺は考えをまとめようと暫く口を閉ざした。その態度にイラついたのか、彩芽は更に爪を噛んでいた。
 爪を噛む癖がある人間の特徴は様々だ。爪を噛むというのはある種自傷行為と言えよう。ストレスで噛む事もあるが、愛情を欲していたり、恐怖心を無くす為に噛む事もあるようだ。
 しかし、彼女はもういい大人。大人になっても噛むのをやめられないのは自制心が欠如している可能性があると、以前何かの本で読んだ事がある。
 自分をコントロール出来ない、自分の思い通りにことを運ぶ事が出来ない。それがストレスとなり爪を噛むという行為に及ぶ……感情の起伏が激しそうなのは、一目見ただけで充分理解出来るしね。

 ――千明くんの名前を出すべきか、否か。

「……ちょっと! あんたさっきから私の事無視しすぎじゃないの⁉ ……もしかして、馬鹿にしてる?」
「ああ、ごめん! ちょっと考え事をしてたんだ。ちなみに俺は【あんた】じゃないよ。仙、穂積仙っていうんだ。仙人の仙でセンね」
「仙? 変な名前。 ……ま、いいわ。ねぇ、仙。あんたに何故私の姿が見えるのかはわかんないんだけど、見えたんだから責任持って色々と協力しなさいよね?」
 彩芽のあまりの自分勝手さに、俺は思わず「ぷはっ」と吹き出した。本来、我儘な女はあまり得意ではないのだが、彩芽の表情から困惑と必死さを感じ取れたから、それが何だか可笑しくて、つい笑ってしまった。……少しの同情もあったのかもしれない。
 今までずっと一人だったのだろうか? こんな世界でたった一人……誰にも気付かれず、過ごしてきたのだろうか? だとしたらきっと、辛かっただろうに。
「もう、仙くん! いきなり走ってどうしちゃったの⁉」
 未奈都は俺の前まで駆けつけると、背中を丸め、呼吸を荒くしながら膝に手を置いた。
「未奈都! 待っててって言ったのに……大丈夫?」
「気になって待ってらんないよ! 仙くん、全然戻ってこないし……」
「ごめんごめん、ちょっと色々あってさ。しかし……何から、どういう風に説明したらいいだろう?」
 少々困り果てた俺は「うーん……」と唸りながら、彩芽の方に目を向けた。
「……ミナト?」
 突然彼女の名を口にした彩芽は、俯き……何やら考え込んでいるようだった。
 ……どうしたのだろう? そう思い、声をかけてみたが返事はない。考え事をしていると、周りの声や音が耳に入ってこないタイプのようだ。
 俺はその隙に未奈都の腕を引き、彩芽からほんの少しだけ距離を取ると、彼女に小さく耳打ちをした。
「……未奈都、【彩芽】だ。君には姿が見えていないようだけど、ここに……多分、千明くんの彼女の彩芽がいる。自ら浦木彩芽と名乗ったんだ。俺には同名の赤の他人のようには思えない。それに、こんなに偶然【アヤメ】ばかりが現れたりするかな? 俺は千明くんの彼女に間違いないと思うんだけど……」
「えっ? 仙くん、それ……本気で言ってるの?」
「うん。ここに、確かに女の人がいるんだよ。信じられないかもしれないけど……」
 俺がそう言うと、彼女はオーバーなくらい、首を横に振った。
「……信じる。信じるよ! 私、仙くんの言葉は何があっても信用するって決めてるんだから! それにこんな世界じゃ、もう何が起きても驚かないよ」
 彼女は「へへっ」と可愛らしく微笑んだ。つられて俺の口角もキュッと上がる。
 彼女のわかりやすい愛情表現は、どこか俺の心を穏やかにした。
 素直に向けられる好意を迷惑だとは思わないし、嬉しいものに変わりはない。ただ、それらを受け止められるだけの器が、俺にはないだけなんだ。たとえその煮え切らない態度で彼女を傷つけてしまったとしても、俺にはどうする事も出来ない。俺には、彼女よりも何よりも……大切なものがあるのだから。
 突然風が、森の方から強く吹き荒れた。
 空を見上げるといつもより暗く、薄鈍色が消炭色に、空をより濃く染めていった。黒のインクが空より高い場所から垂らされていくかのように、じんわりと汚れた範囲を広げていく……

 ――不吉。その言葉が不意に頭をよぎった。
 ――混沌。その言葉が不意に頭に浮かんだ。

 不安そうな彼女の横で、俺は柄にもなく、胸騒ぎを覚えつつあった。
「……ねぇ、仙」
 いつの間にか、俺の真後ろで彩芽が睨みつけるように俺を見つめていた。眉間に深い皺を刻みながら、彩芽は吐き捨てるように言葉を放った。
「私、その女嫌。よそにやってくれない?」
「……え? いきなり何?」
「仙くん……?」
 何が起こっているか、全く理解出来ていない未奈都は、困ったように首を傾ける。俺はそんな彼女を安心させるために肩にポンッと手を置くと、振り返り彩芽に尋ねた。
「それは何故?」
「……その女の傍にいると、何だかわからないけど苛々するの」
「意味がわからない」
 俺は冷静に思ったままを口にした。彩芽はますます苛立ったように表情を歪める。……正直、美人が台無しだ。
「気に入らなければ君がここから去ればいい。俺は決して善人ではないからね。悪いけど君の指図は受けないよ。確かに君の存在はかなり気になるし色々と話を聞いてみたいとは思うけど、そう敵意を剥き出しにされてまで、君と一緒にいる意味を見出せない。誰か俺の代わりに君の姿が見える人間を捜すことだね。行こう、未奈都」
 俺はそう言うと未奈都の手を引き、森に向かって足を進めた。
「は、はぁ⁉ ちょっとあんた、待ちなさいよ! ふざけんじゃないわよ! 私の姿はあんたにしか見えないのよ⁉ だからあんたは私に協力しなきゃ駄目なの! 決定事項なんだから!」
 彩芽の怒涛の声が響き渡る。俺は大きく溜息を吐いた。いくらなんでも自己中心的すぎるだろう? あんなに我儘で自分勝手な女性が、本当に千明くんの彼女なのか……正直、自信が持てなくなってきた。非常に面倒臭い。
 急に繋いだ手に力が込められたので、立ち止まり振り返ると未奈都が心配そうな顔で俺を見ていた。事情を把握出来てない彼女を、少々不安にさせてしまったかもしれない。……しかし、未奈都をよそにやれなどとよく言えたものだ。彼女に彩芽の姿が見えていなくて、本当に良かった。
「あっははは!  よく言ったねぇ! 僕、笑っちゃったよ!」
 手を叩く音の聞こえた方に素早く視線を移すと、そこには一人の少年が立っていた。
 未奈都が驚いたように「影丸!」と叫ぶと、影丸と呼ばれたその少年は、「久しぶり」と、目を細めて妖しげに笑った。
 烏のような漆黒色のローブに身を包んだ、中性的な美しい少年。年は、十代前半といったところだろうか……まぁ、あくまで【人】として見たらの話だ。実際は五百や千をとうに超えている可能性もある。
「アヤメ、駄目だよ~。そんなに怒りの感情を露わにしちゃあ。森が騒めき出したから、きっと君が原因だろうなって思って来てみたんだ」
 少年はケラケラと面白おかしそうに笑った。彩芽は少年を睨みつけ、未奈都は困ったように俺と少年の顔を見比べている。
 先程から動きを見せない、彼のだらりと垂れた腕。そして普通に機能しているもう片方の腕。その先を下りていくと、小さな手にしっかりと握られた黒い物体が目に入った。物騒で歪な形をした、映画等でよく目にするもの……拳銃だ。
 俺も本物を見るのは初めてだが、不思議と恐怖などは感じなかった。
「やぁ。初めまして、セン。僕の名前は影丸。そして、ミナトをこの世界に連れてきてあげたのはこの僕。どう? またミナトに逢えて嬉しかった?」
「君が影丸……噂はかねがね聞いているよ」
「うわぁ、光栄だなぁ。その噂が良いものだといいんだけど♪」
 そう言うと、一瞬で俺の目の前に移動した影丸は俺の額に銃口を向けた。
「か、影丸! 何するの⁉ そんな物騒なもの、早く下ろして!」
「ねぇ、セン。君さぁ……影蟲に会ったでしょう? 君からアイツの気配がぷんぷんするんだよ。実に不愉快だ。どうやら君にアヤメの姿が見えるのは、影蟲と接近したからのようだねぇ。影蟲に何をされたの? あ~、もしかしてアイツに抱かれちゃった?」
「馬鹿馬鹿しい。話にならないな」
 俺は影丸のあまりに馬鹿らしい発言を軽くかわす。しかし、少年の突然の言葉は……目の前にいる二人の女性には効果抜群だったようだ。
 彩芽は目を点にしてから俺に視線を移すと、まるで穢らわしい者を見るかのように蔑みの表情を作り、未奈都は真っ青になりながら、慌てふためいていた。
「あは! 冗談だよ~。勿論知っているさ。影からの報告でちゃんと把握してるからね。君、溺れたんだって? 黒海に。この世界の海はファーストにあるそれとはまったくの別物。黒海には沢山の影達がいてねぇ、奴等はヒトの身体を奪う為、海の底に引きずり込もうとするんだよ」
 そう言ってケラケラと笑う影丸だが、銃口は今も俺を標的にしたままだ。
 理由は定かではないが……影蟲と影丸は、どうやらかなり不仲のようだ。先程からビンビン感じる影丸の殺意が、それを物語っている。
「影丸、銃を下ろして。仙くんに手を出したら私……貴方の事、絶対に許さないから」
「ん~? 許さないって、どうやって? 無力で弱虫のミナトが、この僕に敵うとでもいうのぉ? ははっ、それは見ものだなぁ。けど……ま、いいや。ミナトはまだ必要だからねぇ~。一応、言う事を聞いといてあげるよ。……今はね」
 そう言うと、影丸は銃を下ろす。その銃は即座に蛇のような形を変わると、草の中をクネクネと、素早く掻き分けていった。
「さてと……じゃあアヤメは、僕と一緒にきてもらおっかな~!」
「……はっ、何で私があんたと一緒に行かなきゃなんないのよ? 私は――」
「チアキなら、僕がすぐに連れてきてあげるよ。今、影音の奴と一緒に捜してる所なんだよねぇ~」
 影丸がそう口にした瞬間、彩芽の言葉と動きがわかりやすいくらいにピタリと止まった。
 ……やはり、この【彩芽】が千明くんの彼女で間違いなさそうだ。
「アヤメさぁ、チアキに逢いたいでしょ? 同じ世界にいて……これ程まで逢えない二人も珍しいよねぇ? 誰かが逢わないように操作してるのかも! あはっ! 可哀想なアヤメ~」
「……あんたについて行けば、本当に千明に逢えるわけ?」
「そうだねぇ。僕について来たら、アヤメはチアキに逢えると思うよ。影音がチアキを先に見つけて殺してなかったら、の話だけどね!」
 彩芽の表情が明らかに変わった。
 影丸は恐ろしい形相をした彩芽を視界に入れながらも、まったく笑顔を崩さない。
「そんな事、絶対にさせない。千明に手を出したら、私がこの手で……あんた達全員、皆殺しにしてやる」
「お〜怖い。怖いなぁ、アヤメは。君のその猟奇的で狂気的な愛情は、まるで大蛇のようにチアキの全てを飲み込んでしまいそうだねぇ。けど、大蛇は君だけじゃないから、きっと共喰いは避けられない」
 影丸の瞳がほんの一瞬だけ曇った。俺はそれを見逃さなかった。
 後ろにいる未奈都がギュッと俺の腕を掴む。未奈都には彩芽が見えていないから、影丸の言葉だけで会話を推理しなければならない。けれど、大体は理解出来ているように思えた。
「チアキとアヤメ……君達は本当によく似てるよ。野心家で残酷で強欲なところがそっくりだ」
 影丸は小さくそう呟くと、手を前に差し出した。
「とにかく、僕と一緒に行こうよ! ねっ? こんなところにいても君の存在は邪魔なだけ! ねぇ、ミナト。君は苦労した末にセンと再び出逢えたんだ。二人でいたいよねぇ」
「私は、そんな!」
 彩芽はチラリと未奈都に視線を送ると、俺の腕を強く自分の方へと引っ張った。同時に未奈都が掴んでいた方の腕がするりと抜ける。
「……影丸、私はあんたと一緒には行かない。千明は私が必ず見つけ出してみせる。あんた達影共は信用出来ない。私は仙と千明を捜すわ」

夜叉が眠る森

2019年4月26日 発行 初版

著  者:夢空詩
発  行:夢空詩出版

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