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この本はタチヨミ版です。
『リリアンヌの赤毛は、お母さん譲りね』
そう言ってもらえる事が、何よりも嬉しかった。
大好きな母。
優しい掌で頬を包んでもらえれば、それだけでリリアンヌは幸せだった。
『流行り病とはいえ、まだ若いのに』
『こんなに小さい子を遺してなんて』
唯一の寄り辺を失えば、小舟は波間にたゆたうだけ。
暗闇に染まったリリアンヌの世界に現れたのは、若い修道女だった。
これから先、どうなるのかもわからないまま、リリアンヌは差し伸べられた手に縋るしかなかった。
エリカと名乗った修道女に連れて来られたのは、町の中心にある大きな広場。
今日は旅の曲馬団(サーカス団)がやって来る日だった。
そんな事すら忘れていた程、幼いリリアンヌの心は疲弊していた。
舞い散る花びら。駆けていく人々。そして、沸きあがる歓声。
あまりの明るさに、まるで生まれ育った地を離れる事になってしまった自分への最後の思い出となるために、訪れてくれたのではないかと思えてしまう。
何を見ても悲しい。息をするのも苦しい。
赤毛の美しかった母は、もういない。
唇を結び、視線を落とした先に落ちる陰。
顔を上げなくても苦悩が伝わってしまったのか、繋いだ指先をエリカに握り返された。
陽気な道化師の案内に従い、天幕の下に設けられた観客席に座る。
リリアンヌの心の内と同じような闇の中、その時を待った。
やがて一筋の明かりが射し込むと、うっすらと円形の舞台が浮かんで見える。
その中心で深々と頭を下げていた老年の紳士は、髭を蓄えた顔を上げると同時に、手にしていたシルクハットをくるくると回しながら被ってみせた。
おどけた仕草から、ひとつ咳払いをすると、高らかに開催を告げる。
盛大な音楽が鳴り響き、一気に場は明るくなった。
次々と現れる団員達。
人形のように美しい男女は、ほぼ揃いの衣装に身を包んでいる。身軽そうな体つきから、ブランコ乗りではないかと誰かが囁いた。
続いて現れた大男が鞭を手にしていたのには驚いたが、その後に続く仔犬達の従順さが愛らしく、会場は再び笑顔に包まれる。
次に登場したのは、この曲馬団の団長とは対照的な真っ白なタキシード姿の青年。ふと目が合うと、彼は一直線にリリアンヌの元へと進んで来た。
驚いたリリアンヌが動けずにいると、すっと手を差し出される。不思議に思い、じっと見つめると、絹の手袋をした指先が華麗に踊った。
ぽんと現れたのは、可愛らしい一輪の白い花。
「どうぞ」
「いいの? ありがとう!」
奇術師の青年は目を細めると、手を振りながら去っていく。
最後に躍り出たのは、色とりどりの風船を携えた道化師。会場にいる子供達に、手にした風船を渡していく。
リリアンヌの前に来ると、どれがいいかなと動きだけで尋ねた。リリアンヌがおずおずと指差すと、道化師は何度も頷きながら、リリアンヌの希望した赤い風船を手渡してくれた。
観客への挨拶を終え、一番に現れたのは奇術師だった。
颯爽と登壇すると、カードを使った簡単そうな手品から、徐々に予測不能なものへと進化させていき、観客の心を一気に鷲掴みにする。
そして広げたマントに全身を包むと突如姿を消し、皆を呆然とさせた。
次に現れた動物使いは強面の猛獣を子猫のように扱ったかと思えば、愛らしい小動物達に翻弄されるという落差で笑いを誘ってみせる。
そんな動物使いを煽りながら退場させた道化師は、取り出した複数のボールを使い、幾つもの放物線を描いては吸い込まれるように手元に返らせていく。
目に映る何もかもが辛い現実を忘れさせ、いつしかリリアンヌは夢中になって見ていた。
そして、思い始めていた。いつか自分も曲馬団に入り、色々な国を旅してみたい。
やがて最後にして最大の演目が始まった。
設置された二つの高台から、それぞれブランコが前後する。
磨き上げられたブランコ乗りの動きに緊張が高まり、目が離せない。
見事に成功し、彼らの無事を認めれば、大歓声が上がる。
会場は興奮の坩堝と化していた。
*
「リリーッ!」
名前を呼ばれ、遠い日の思い出に浸っていたリリアンヌ=ハートレイは、はっと我に返った。
仕立屋で働く少女は、仕上げ段階に入っている注文の品を丁寧に木製のテーブルの上に置くと、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
腰まである母譲りの赤毛が、ふわりと揺れる。同じ色をした瞳は、真っ直ぐに外の世界へと繋がる場所へと向けられた。
再度自分の名を呼ぶ声は、部屋を閉めきっていても辺りに響き渡るかのようだ。
窓辺に近付き、両開きの戸を慎重に開ける。古い建物なので、こうしなければ鍵の調子が悪くなってしまうのだ。
「どうしたの? ジェド」
同じ孤児院に住む少年は息を弾ませながら、リリアンヌを見上げている。窓枠に手を置き、身を乗り出すと、ジェドの瞳が一層輝いたのがわかった。
「明日、来るって!」
「来る?」
「曲馬団だよ!」
曲馬団。その言葉を耳にして、リリアンヌの胸が高鳴っていく。
忘れられない。忘れられるはずがない。
真っ白な花。真っ赤な風船。
リリアンヌの脳裏には、幼い頃の記憶が色鮮やかに甦っていた。
翌日、小さな村は大騒ぎだった。
ここアルスターは、ユミルテル王国の西に位置する。のどかさが長所でもあり、また短所でもあるため、旅の曲馬団が立ち寄るともなれば、村をあげての大歓迎となってしまうのも無理はない。
仕立屋の女主人・マーレイの計らいで、今日の仕事は休みとなったリリアンヌだったが、育った孤児院の手伝いをしている間に、周りから完全に後れを取ってしまったという状況に陥っている。
「リリ。ここはもういいですから、あなたもいってらっしゃい」
併設する教会に仕えるエリカに微笑まれ、リリアンヌは躊躇う。
「エリカ様は行かれないのですか?」
「私には祈りの時間がありますから」
にっこりと、しかし決して譲らぬという厳かな笑み。こうなってしまっては、リリアンヌは白旗を上げるしかない。
やはりジェドに待っていてもらうべきだったと後悔したのは、リリアンヌが極度の方向音痴であったからだ。
「えっと……たしか森の側の……川の近くの……」
ジェドの説明を反芻しながら、探り探り歩いていく。
人の気配がしたような気がして、リリアンヌは方向転換をした。
「もーっ! どうするのよー!」
突如あがった声に、歩を進めていた足は止まる。
「ジュリアーノ、めっ!」
「ウキキ? キー、キー!」
「めっ! じゃないでしょう、エミリオ! 大事な衣装がこれじゃあ、公演に間に合わないじゃない!」
盗み聞きしてはいけないと、リリアンヌは身を潜めつつ、来た道を戻ろうとした。その時、木立の合間に佇む一人の青年に気付き、リリアンヌは一瞬で目を奪われてしまう。
漆黒の髪は短く、同色の瞳は憂いを帯びている。隠そうとしても漂う品は独特の存在感を醸し出し、その凛々しさがリリアンヌの心を捉えて離さない。
「ちょっと、レオ! これを見てよ!」
レオと呼ばれた青年とリリアンヌとを結ぶ直線上に、先程の声の主が割って入る。リリアンヌには気付いていないようだが、リリアンヌは前進も後退も出来ず、その場に待機するしかなかった。
「今から直せないか」
青年の低く響く声は心地よく、ついリリアンヌは耳を澄ませてしまう。
「さすがにこれは無理よ。ああ、今日の舞台、どうしよう」
舞台と聞いて、リリアンヌは彼らが村へ来てくれた曲馬団の一行だと理解した。
「ジュリアーノも悪気はなかったんだ……って、あれ?」
エミリオと呼ばれていた体格の立派な男性が、慌てたように辺りを見回している。
リリアンヌはふと、足元に何かを感じた。そのまま視線を落とせば、つぶらな瞳と目が合う。
「お、お猿さん?」
「ウキキ?」
驚いたリリアンヌが身を引くと、低木の緑に肩が触れ、葉擦れの音を立ててしまった。
「誰?」
リリアンヌが顔を上げた瞬間、金色の髪が美しく舞った。緑の瞳は宝石のように輝き、彼女の美貌を確固たるものにしている。均整のとれた体つき。異国の地の民族衣装にも負けぬ曲線美。
なんて美しい女性だろうと、リリアンヌは呆然と見入るしかなかった。
「あら。あらあらあら!」
リリアンヌを見た女性は、口元に右手を添え、大きく目を見開いた。
「これはこれは、可愛らしい赤毛のお嬢さん。こんな所で一体何を?」
「あの、その……私、アルスター村のリリアンヌと申します。曲馬団の公演に……」
「あら、そうなの? 丁度よかったわ、会場に御案内するわね。ああ、でも困ったわ」
女性の手には胸元が引き裂かれた衣装があった。どうやらジュリアーノという小猿が、破いてしまったようだ。
ひどい状態だが、仕立ての技術を持つ自分ならば直せるかもしれない。
女性に肩を優しく押されながら、リリアンヌは勇気を振り絞った。
「よろしければ、それ……私に任せていただけないでしょうか」
リリアンヌは走った。
今日は曲馬団を観に行くからと、仕立屋も休みになっている。
孤児院の子供達も、村中の皆も楽しみにしている。
自分が何かの役に立てるのならば、誠心誠意を尽くしたい。
やがて通い慣れた店が見えて来る。
裏口に回ると肩から下げていたポシェットから鍵を取り出し、扉を開けた。
*
「まぁ……すてき!」
リリアンヌが修復した衣装を目にして、金髪の女性は感嘆の吐息を洩らした。
元は白を基調としたシンプルなドレスだったが、破けてしまった部分に薄手の生地を加え、ドレープをあしらう事で華やかに仕上げられている。
「すごい」
ぼそりと呟いた道化師に、隣にいた動物使いも頷く。
「どうやら間に合いそうだな」
黒髪の青年の言葉に、団員達の士気が高まる。
「行くわよ!」
「おう!」
「おー」
急ぎ去って行く三人を見送ると、リリアンヌは胸を撫で下ろした。
「君」
青年の声にどきりと心臓が鳴り、リリアンヌはゆっくりと振り返る。
「ありがとう。何か御礼を」
「い、いえ! お気持ちだけで」
深々と一礼し、リリアンヌは踵を返す。
後方で何かを言われていたようにも感じたが、振り返れなかった。
「リリ! こっち、こっち!」
開演が近い会場。
観客席に座る少年に手招きされ、リリアンヌは身を屈めながら近付いた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年7月21日 発行 第3版
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千葉在住、3月29日生。
無音状態でチョコパイさえあれば執筆可能な情熱の牡羊座。
満月すてらという名前は「月」と「星」を意味しています。
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共幻文庫所属イラストレーター
アプリゲームや電子書籍などのキャラクターイラストを中心に活動中。
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