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この本はタチヨミ版です。
軽やかに床を蹴り、中空に自分を投げ出す。
手のひらで床を叩き、舞い上がる。
そして、大地から天へ、伸び伸びと枝葉を広げる樹木のように、両腕を広げて着地する。
人の体というものは、なんて美しいのだろう。
山岡光星は、床の演技の練習をしている、生徒の姿に目を細めた。
中高生の若々しい肢体が、伸びやかに、わずかな緊張を孕んで、美しい躍動を見せている。
光星は卵型の、柔和な顔に羨望に似た笑みを浮かべた。
「山岡先生」
振り向くと、長い髪をピッチリと隙なくまとめた、リーダー講師の飯塚真奈美が手を振っていた。
「はい」
返事をしながら近寄る。
「前にインストラクターとして、大学生の男の子が入るって、言っていたでしょう?」
「体育大学を、もうすぐ卒業するっていう……」
「そうそう。その子が大学を卒業するまで、しばらく研修として来ることになったの。その子の教育係をお願いしたいのよ」
「教育係……、ですか」
光星は困惑顔で、わずかに首をかたむけた。やわらかなベリーショートの髪が、さらりと動く。
「そう。とりあえず、初心者向けの幼児から小学生の部を見てもらおうと思ってね。大会を目指している子ども達に、いきなり新人をつけるわけにはいかないでしょう」
「まあ、そうですね」
「それに、なかなかのイケメンだから。これから新規会員獲得のために、山岡先生と彼が子どもを受け持つって知ったら、お母様方が乗ってきそうなのよねぇ」
ふふふ、と飯塚が怪しげな笑みを浮かべる。光星は頬をひきつらせ、愛想笑いを返した。
「山岡先生と対照的なイケメンだから、可愛い系が好きな人と、たくましい系が好きな人の両方にアピールできるわ」
「……そう、ですか」
光星は心の中で、そっとため息をついた。身長166センチの光星は、体操選手としては標準だが、一般男性とすれば低いほうだ。柔和な雰囲気、卵型の顔。やわらかなベリーショート。もともと色素が薄いので、肌は白く、髪は茶色がかっている。現役の体操選手として活躍していたときは、床の王子様などと呼ばれ、アイドルのようにもてはやされた。今でも教室に子どもを通わせている保護者から、そのような扱いをされるときもある。
光星が好まなくとも、自然と教室の宣伝や勧誘の材料になっていた。
「で。その彼がいま、事務所に挨拶にきているから、顔合わせをして欲しいんだけど」
言いながら、ちらりと飯塚が光星の背後を見る。光星が担当しているクラスの子ども達は、マットの上で前転の練習をしていた。人数が少ないので、指導はもうひとりの講師だけで充分だった。だから光星は、床の演技を行っている中高生の姿を眺めていたのだ。
「手が空いているようだから、いいわね」
断る理由はない。
「かまいません」
光星はうなずき、子ども達を見ている講師に離れると声をかけ、飯塚とともに事務所へ向かった。
「おまたせ」
飯塚が扉を開けると、そこにいたのは見るからにスポーツマンといった、筋肉質で長身の青年だった。漆黒の髪。キリリと引き締まった眉。意思の強そうな目。通った鼻筋に、頑固そうな唇。しっかりとしたアゴのラインの精悍な顔つきに、光星はなるほどとうなずいた。
飯塚の言う通り、自分とは対照的な容姿をしている。
「彼が、大学を卒業したら正式にウチのインストラクターになる、川島和也くんよ」
川島和也が軽く頭を下げる。指先まで神経の行き届いた、きれいな会釈だ。光星の唇がほころんだ。
「僕は山岡光星です。これから、君の指導にあたることになるから。……ええと、川島くん、でいいかな」
光星が右手を差し出すと、和也はぎこちなく握手に応じた。緊張をしているのだろう。初々しいなと、光星は好意的な目で和也を見上げた。
「あの、和也と呼び捨てでも……、大丈夫です。俺が後輩なんで、口調も普通にしてください」
声も固い。相当、緊張しているらしい。光星はますます、和也を好ましく感じた。
「呼び捨て、いいわね」
飯塚が楽しそうに口を挟む。
「たくましい後輩を呼び捨てにする、小柄な先輩って、なんだか王子様と騎士みたいで、保護者ウケもよさそうだわ」
「講師らしくないとか、クレームがきたらたらどうするんです」
「あらっ。最近は、そういうのユルいのよ。学校の先生が、生徒にあだ名で呼ばれたがる時代なんだから。固いこと言わないの。――ねぇ」
飯塚が光星の肩を叩き、和也に同意を求める。
「……はあ」
和也が、よくわからないというふうに、返事をした。
「最近は、子どもの運動不足だとかなんだとか、スポーツジムなんかに通わせるのが流行っているんだけど、どこも生徒獲得に、やっきになっているでしょう? 大手のジムと比べたら、こういう個人経営のところって、宣伝費とかかけられないじゃない。となると、口コミを利用するしかないのよね」
「だからって、そういう妙な設定を飯塚さんの頭の中で決めても、それが広まるとは思えませんし、広まったとしても功を奏するとは限りませんよ」
「あら。大丈夫よ! そういうの、好きな女子は多いから」
自信満々で、飯塚がニッコリとする。
飯塚さんが好きなだけでしょう、と目顔でつぶやいて、やれやれとため息をついた光星は、握手のポーズのまま、和也と手を繋ぎっぱなしだったことに気づいた。
「あ、ごめん」
慌てて離す。
「いえ」
和也がわずかに、残念そうに見えたのは気のせいだろうか。
「まあでも。これから仲良くしてもらわなきゃいけないから、下の名前で呼びあうっていうの、いいと思うの。私の思惑とは、別にね」
飯塚の言葉に、そういうことならと光星は納得した。
「それじゃあ、和也って呼ばせてもらうけど、いいかな。生徒達の前では、和也先生ってことで」
「はい。……俺は、どう呼べば」
和也が目を迷わせる。
「光星でいいよ」
「そんなわけには……。それじゃあ、光星先輩、でも、いいですか」
おずおずと言う和也に、光星はうなずいた。満足そうに、飯塚が笑みを深める。
「それじゃあ、さっそく授業風景を見学してもらおうかな。よろしくね、山岡くん」
「はい。それじゃあ、和也。あらためてよろしく」
「よろしくお願いします」
礼儀正しくもぎこちなく、和也は軽く頭を下げた。
それから数日。
和也は大学できっちりと勉強をしていたらしく、光星が教えることは、ほとんどなかった。精悍な顔つきは、笑み崩れると人好きのする、やさしげなものになる。子ども達からのウケもよく、休憩時間には、よじのぼられていた。そんな姿に、思わず光星が吹き出すと、和也はバツの悪そうな顔をして、ふいと顔をそらしてしまう。
どうして、と光星は不思議に思う。
和也はとても人当たりがいい。子ども達には慕われているし、保護者のウケもいい。職員達ともすぐに打ち解け、親しく会話を交わしている。
それなのに、彼は光星に対して妙にぎこちない。はじめの緊張がそのまま、継続しているのだろうか。
(僕、何かしたか――?)
そういぶかってしまうほど、和也は光星に対して、一歩引いているように見えた。
「飯塚さん。和也って、なんか僕に対してだけ、ぎこちなく感じません?」
気のせいかもしれないと飯塚に声をかけてみると、彼女はウーンと腕を組み、「そうねぇ」と言った。
「たしかに。ちょっと、そうかもね。まあでも、気にするほどのことじゃないわよ。指導してくれている相手と、そうじゃない相手とは、接する意識が変わるものでしょう? 生徒達だって、試験の先生と、そうじゃない先生だと、気安さが違っていたりするじゃない」
「そういう、ものでしょうか」
「そういうものよ。彼、すごく真面目そうだから。そういうところで、妙な気をつかっているのかもね」
なるほどそうかと、光星は納得をした。それでも和也のぎこちなさに、気まずさを感じないわけではない。
ふと時計を見れば、次のクラスの開始時間が迫っていた。
「和也先生。そっちのマット、運んでください」
「わかりました」
指示には素直なのに、どうしてなじんでくれないのだろう。
光星は悩みというほど深くはない疑問を持ちながら、和也と接していた。
小学校が春休みに入ってすぐの日曜日。
光星らが所属している体育教室では、勧誘のための体験入学が行われていた。
「去年より、ずっと人数が多いですね」
光星が飯塚に耳打ちをすると、飯塚は得意そうに返した。
「私の見立て通りだわ。言ったでしょう? 山岡くんと川島くんが並んでいたら、お母様方が口コミしてくれるって」
光星は苦笑いをした。女性の心理は女性がよくわかっている、ということか。
体験教室の最中、保護者達は自分の子どもが和也に指導されると、うれしそうにする。別の講師がつくと、あからさまに残念がる保護者もいた。
飯塚の傍から離れ、光星も子ども達の指導に戻る。
このうちの何人が、この教室に通ってくれるだろう。
駅前にある大手のスポーツジムが、水泳やダンスも習える子ども向けの教室を開いてから、入会者が減っている。子どもが何を求めているかにもよるが、なるべくならこちらへ入会してもらいたい。
楽しそうにマット運動をしている子ども達に、光星はていねいに接した。
「それでは、これで体験教室は終わります」
飯塚が声を響かせると、最後に先生の演技を見せて欲しい、という声が上がった。
「そこの山岡先生は、有名な選手だったんでしょう? ぜひ、見せて欲しいわ」
飯塚は困ったように眉を下げて、光星を見た。この教室に通う生徒や親の中には、現役時代の光星を知っている人間がいる。いまはインターネットで簡単に、過去の演技の動画を検索して観ることもできる。誰かに光星の話を聞いて、動画を観た保護者もいるのだろう。どの顔も、光星の演技が見られて当然という顔をしていた。
「どう。山岡くん」
飯塚が小声で問う。光星は答えあぐねた。
演技はできる。今でも教室が終わった後、己の技を落とさないために体を鍛え、感覚を保つために演技の練習をしている。しかし、ピーク時ほどじゃない。現役時代にやっていた難しい技は、披露できない。
光星は保護者の顔を見回した。誰もが期待の目をしている。
(どれだけの人が、僕の演技を観たことがあるんだろう)
本気で体操に打ち込んでいた親が子どもに習わせるため、世界選手権の候補に上がったこともある、光星がいる教室を選んで来ることも少なくない。そんな人の目に、故障のため引退をした自分の演技が、どう映るのか。
光星は、それが怖かった。
「無理強いはしないわ」
飯塚は、光星の葛藤を知っている。彼女もまた、選手だった。光星のように、故障を理由に引退をしたのではなく、伸び悩んで指導者の道へ転向した人だが、ピーク時の演技ができない苦しみを理解してくれている。
光星は唇を引き結び、自分の右肩に無意識に触れていた。肩の脱臼がクセになったことが原因で、現役を引退した。今でも全力の演技をすれば、故障する可能性が高い。しかし、手を抜いたものを、自分のピークを知っている可能性のある相手に、見せるわけにはいかない。
肩をかばいながら、どこまでの演技ができるか。
インナーマッスルを鍛え、そこそこの演技は問題なくできるようになってはいるが――。
「俺が、やります」
光星の逡巡を突き破るように、和也が通る声を出した。驚く光星の前に和也が出る。
「俺くらいデカイと、床の演技は不利に見えますが、それはそれで見せ方があるんですよ」
保護者に向けてニッコリとしながら、和也は移動する。保護者の視線が和也に合わせて移動し、光星も呆然と彼を見送った。
12×12メートルの正方形の端に、和也が立つ。体操選手は小柄な者が多い。それは、限られた範囲で、ダイナミックに、伸び伸びと演技がしやすいからだ。跳躍ひとつ取っても、身長から生まれる距離の差のために、大柄な人間はどうしても、狭い場所で動き回っている、という感じが否めなくなる。
光星よりも20センチほど長身な和也には、不利な競技だ。
それをわかっているらしい保護者の表情が、引き締まる。無知な保護者は、たくましく長身な彼が、どのような演技を見せるのかとワクワクしている。
(困っている僕を、かばって――?)
光星は和也を見つめた。都合のいい考えだとは思うが、それ以外に、彼が名乗り出た理由を思いつけない。
光星は自分が演技をするような心地で、和也を見つめた。
和也の腕が上がる。
その瞬間、光星の心臓は緊張から解き放たれた。
(なんて……)
美しいのだろう。
タチヨミ版はここまでとなります。
2017年7月21日 発行 第2版
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2013年―プランタン出版
第三回プラチナ文庫小説大賞
「ビターラブ賞」受賞
2014年10月10日―同出版社よりデビュー
現在はBL/TL小説を執筆中
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美しい筋肉はいつでも愛でたい。
人と楽しく飲む酒が好き。
猫たちと暮らすことが直近の夢。
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